音がした。  古い、たてつけが悪くて蝶〈番〉《つがい》も錆びて無闇に重い、土蔵の扉が開く音がした。  暗かった土蔵に光が差し込んでくる。   「――――」    意識が眠りから覚めていく。 「先輩、起きてますか?」  近づいてくる足音が誰なのかは、確かめるまでもない。    ―――ああ、もうそんな時間なのか。    ほう、と息をついて目蓋を開けた。 「おはようございます先輩。そろそろ時間ですよ」 「ん―――そうみたいだ。おはよう桜。起こしにきてくれてサンキューな」 「いえ、お礼を言われる事じゃありません。先輩ならきちんと起きてくれるって判ってましたから、わたしは余計な事をしただけなんです」 「そっか。……けど、ならなんでわざわざ起こしに来てくれたんだ?」 「わざわざじゃありません。今朝は先輩を起こしたくなって、いつもより三十分も早起きしたんです。今日は特別な日ですから」 「――――あ」  それで気が付いた。  そうだ。今日は特別な日だったんだ。 「桜。訊くまでもないと思うんだが、藤ねえはまだ来てないよな?」 「はい、藤村先生はまだ。あ、でもイリヤちゃんは先に来てます」  ――――やっぱり。  イリヤだけ来ているというコトは、つまりはそういうコトなのだ。 「―――まずい。桜、すまないんだけど朝食の支度を頼む。俺、ひとっ走りして藤ねえをたたき起こしてくる」 「あ、はい。ごくろうさまです、先輩」  幸い、昨夜も遅くまで作業していたんで作業服のままだ。  着替えなくとも外に飛び出せるのは有り難い。 「十分で戻るから、後はよろしく頼む」 「はい、まかせちゃってください」 「あれ、シロウ起きてる」 「ああ、いま起きた。ちょっと藤ねえ起こしてくるから、桜の手伝いをしてやってくれ」  ぽん、とイリヤの肩に手を置いて、そのまま玄関へ向かっていく。 「―――やられた。もう、シロウはわたしが起こしに行くって言ったでしょ、サクラー!」    イリヤは怒鳴りながら土蔵へ走っていく。  そんな光景も、今ではそう珍しくない。  イリヤが〈国〉《いえ》には帰らないと言いだしたんで、ならうちで預かろうと藤ねえに相談した。  藤ねえは猛反対しつつ、それなら〈藤村〉《わたし》のうちのがいい、とイリヤを預かってくれたのだ。  以来、イリヤは藤村の家で居候しながら、藤ねえと一緒に朝夕と襲撃にくる。    言うまでもなく、狙いは朝飯と晩飯だ。  同居を初めて二ヶ月、二人は既に一心同体っぽい。  土蔵の裏側を通りかかると、塀の向こうから声が聞こえてきた。  桜とイリヤの話し声だ。  イリヤはああいう遠慮のない性格だから桜とは合わないと思ったが、これがそうでもないらしい。  でこぼこコンビというか、きびきびしたイリヤとのんびりした桜は、騒がしいながらも仲がいいみたいだ。  実際、イリヤのおかげで桜は元気を取り戻しつつある。    ……桜の兄、間桐慎二が姿を消し、行方不明扱いになってから桜は笑わなくなった。  例の学校での集団昏睡事件との関わりを、桜も薄々感じていたのだろう。  桜は行方の知れない慎二を気に病んで、長いこと塞ぎ込んでいた。  そんな桜を強引に立ち直らせたのがイリヤで、イリヤがいると桜も明るさを取り戻す。   「―――うん。桜、笑えるようになったよな」    それが純粋に嬉しい。  やっぱり桜には、ああいうふんわりとした笑顔が似合うんだから。 「うう、酷いよぅイリヤちゃん。何があっても起こしてって臨時ボーナスまであげたのにあげたのに」    よよよ、と泣き崩れながら朝食をかっこむ藤ねえ。 「当然よ。タイガを待ってたらわたしまで遅れるし、給金分は義理を果たしたわ。あれ以上の働きを要求するなら、臨時じゃなくて基本給をアップさせるコトね」 「……むむ。わたしだけじゃなくお爺さまからも貰ってるクセに、どうしてこうこの子は守銭奴なのかしら。  若い頃からお金にうるさいとまわりの子に嫌われちゃうぞー」 「嫌われて結構よ。好きな人以外なら何を思われても関係ないもの。それよりタイガ、貸したお金ちゃんと返してよね。給料日、五日前だったんでしょ」 「―――え。な、なんでそんなコト知ってるのよあなた!」 「ライガに聞いたわ。お望みなら明細まで話してあげてよ」  にやり、と不敵な笑みをうかべるイリヤ。  桜とは正反対で、イリヤと藤ねえの相性は最悪だ。  加えて、イリヤは藤ねえ相手だととんでもなく意地悪になる。今の笑い方なんてどこかの誰かさんそっくりだし。 「返済は明日までね。出来なかったらタイガのおこづかいから引いていくから」 「……! お、お爺さま、そんなコトまであなたに話したの!?」 「ええ、お昼はずっと一緒だもん。ライガね、タイガより可愛いって褒めてくれたわ」 「あわわわ……! どうしてくれるのよ士郎、この子とんだ悪魔っ娘じゃない! このままじゃ藤村組が乗っ取られるわ!」 「――――――――」  いや、そんな事より。  その歳になってまだ爺さんからこづかい貰ってたのか、アンタは……。 「行ってらっしゃいシロウ。今日は早いんでしょ? ならここで待ってるから、すぐに帰ってきてね」 「ん、努力する。留守番よろしくな、イリヤ」 「……ふん。いっそのコトここの子になっちゃえ、ばか」  俺の背中に隠れつつ、拗ねる藤ねえ。 「はいはい。タイガも気を引き締めなさいよね。外でシロウに迷惑かけちゃダメなんだから」  あっさりと受け流すイリヤ。  力関係は、もはや藤ねえでは押し返せない位置にあるらしい。 「じゃあ先に行ってるけど、のんびり歩いて遅刻しちゃダメよ士郎」    ぶろろろぎゃいーん、と排気音をまき散らし、藤ねえは弾丸のように消えていった。  藤ねえが免許をとったのが一ヶ月前。  以来、遅刻は革命的に減ったものの、ロケットタイガー、もとい、ロケットダイバーというあだ名が追加された事を、本人だけ知らなかったりする。 「ふう」    大きく背を伸ばして、深呼吸をする。  桜は一足先に登校している。  ごはんを大盛りにしていたところを見ると、たいそう気合いが入っているようだった。  弓道部にとって今日は天王山。  桜も副主将として頑張る、と張り切っているのだろう。 「――――さて、それじゃ」    学校に行こう。  今日は四月七日。  学校では入学式があって、季節は寒い冬を越えて春になっている。    あれから二ヶ月。  彼女がいなくなってから随分と変わった気がするが、変化なんて些細なものなのだと思う。    冬が終わって、春になった。  変わったものはそれだけ。  少しは成長した気になったものの、そんな事で、見違える自分に成れた訳でもない。    だから変わった物などそうないのだ。  衛宮士郎は相変わらず、不器用に切嗣の後を目指して走っている。 「おはよう衛宮くん。朝から顔を合わせるなんて奇遇ね」 「おっす。今日もいい天気だな、遠坂」  手をあげて挨拶をする。 「けど奇遇か? ここ最近よくニアミスするだろ。  ああいや、そりゃあ今までこう頻繁に出くわす事はなかったけど」 「……出くわすって、貴方ね」  いたく気に入らないのか、じろりと半眼で睨み付けてくる遠坂。  朝っぱらから、ここで会ったが百年目、なんてオーラをちらつかせるのはよくないと思う。 「遠坂、もしかして登校時間変えたのか? 前はもうちょっと遅かっただろ。早すぎず遅すぎずって時間だった」 「そんな事ないわよ。今まで顔を合わせなかったのは偶然でしょ。  知ってる? 衛宮くんとわたしの家、きっかり正反対の位置にあるの。だから、普通に起きて普通に坂を下りれば、ここで顔を合わせるのは当然ってワケ」 「―――へえ。  それは初耳だ。そうか、それなら確かに―――」    ……いや、ちょっと待て。  それは生活サイクルが同じだったら、という場合じゃないか。  遠坂がこの時間に交差点に下りてくるには、朝の六時には起きてなくてはいけない。  が、それは…… 「遠坂。おまえ、眠くない?」  単刀直入に訊いた。 「……なによその言い分。わたしは眠くもないし無理もしてないわ。  なんだってそんなコト訊くわけ、貴方」 「いや、おまえ朝弱かったから。  寝不足で学校に行くと化けの皮が剥がれるぞ。授業中に居眠りなんかしたら大変だ。  下手に起こそうものなら、寝起きの悪魔みたいな顔した遠坂が暴れるんだからな」  こう、我が眠りヲ妨げる者ニぶっ殺す、みたいな。 「そ、そんなコトしないわよっ! たかだか三十分の早起きで不覚なんて取るものですかっ!」 「ほら。早起きしてるじゃないか、やっぱり」 「――――っ。  もう、人の起床時間なんてどうでもいいでしょう。つまんない詮索をしてる暇があるなら、さっさと学校に行きなさいっ」    ふい、と顔を逸らして怒る遠坂。  その言い分はもっともなので、挨拶はこのヘンにして登校を再開した。  坂道を上っていく。  眼下に広がる町並みは、すっかり春の趣きに変わっていた。  風は心地よく、時折、高台にある校舎から桜の葉が舞い散ってくる。  目に映るもの、肌に感じるもの全てが微笑ましい。 「なに、今週はほとんどバイトなの?  ……まあ衛宮くんの時間だから文句はないけど、そんなんで体壊さない?」 「え―――? いや、今日ぐらいは休みをもらったよ。  弓道部で新入部員の歓迎会をやるっていうから、イリヤを連れて遊びに行こうかなと」 「うわ。なんか、さりげに凄い度胸してるわよね、貴方って。平気な顔してイリヤを学校に連れていくあたり大物だわ」 「? なんかまずいか? イリヤだって暇つぶしになるって喜ぶと思うんだが」 「まずいわよ。まずいけど、そういう事ならわたしもお邪魔しようかな。イリヤがいるなら退屈しないし、なにより危なっかしくて放っておけない」  そう言ってくれるのは有り難い。  イリヤを一番良く分かってやれるのは俺でも桜でもなく遠坂なのだ。  イリヤの体を定期的に看てくれている、という事もあるが、なによりイリヤと遠坂は生粋の魔術師である。  魔術師である事を隠して生きていく、という事をいまいち実感していないイリヤにとって、遠坂はいい先生になると思うのだ。 「――――――――」  こうして、事はそれぞれの形に収まりつつあった。  聖杯戦争によって起きた被害は、教会に派遣された新しい神父によって元の形に戻りつつあるし、俺たちの日常もこうして問題なく帰ってきた。    失ったもの、戻らないものは確かにある。  それでも傷痕は少しずつ塞がり、後悔が薄れていくのは喜ぶべき事だろう。   「――――けど、意外だったな」    と。  眼下に広がる町を見下ろして、どこか深刻な声で、遠坂は呟いた。 「? 意外だったって、何が」 「……うん。わたし、士郎はもっと落ち込むと思ってた。  しばらくは立ち直れないだろうなって思ってたのよ」    それは、もういない彼女の事だった。  あれから二ヶ月―――それだけの月日が経って初めて口にした、金の髪をした少女の話。 「そうだな。俺もそうなるだろうって思ってた。その後の事なんて、考えるだけでどうかしそうだった」 「―――けどフタを開けてみれば、士郎ったら今まで通りだったでしょ。落ち込むどころの話じゃなくて、次の日にはもうケロリとしてた」 「……その時にね、こいつ大丈夫かなー、とも思ったのよ。うまく言えないんだけど、次の日にはあっさり事故で死んじゃうような雰囲気だった」 「なんだそりゃ。なんで平気なのにあっさり死ぬんだよ」 「そういう事もあるの。人間ってのはね、何かの手違いで一生涯の目標を叶えちゃうと、それでぽっくり逝くものなのよ。  もう生きるのはいいやー、と思った途端、赤信号なのに車がつっこんできたり、あっさりと階段から落ちたりするんだから」  ……はあ。  遠坂の喩えは難解だ。  大往生とか成仏とか、そういうコトを言いたいのかも知れない。 「だから、わたしはそれが心配だった。ああいう時はね、いっそ派手に落ち込んでくれた方が周りは安心するものなの」 「なんだ。じゃあ落ち込んでたら慰めてくれたのか、遠坂」 「―――まさか。背中に蹴り入れて一日で立ち直らせてやったわよ。それが出来なくて残念だって話」  ふん、と不機嫌そうにそっぽを向く。  その様子がおかしくて、つい吹き出してしまった。 「なによ、おかしい?」 「いや、とにかく遠坂らしい厳しい台詞だったんで、安心した」  お互い、春の陽射しを見上げながら歩く。  坂道は長く、このまま果てのない青空に続いていそうだ。  そうして、なんでもない事を言うように、   「じゃあもう未練はないんだ。セイバーが、いなくなってもさ」    空を見上げたまま、遠坂は呟いた。   「―――ああ。未練なんて、きっと無い」    強がりでもなく、自分でも驚くぐらい穏やかな心で告げた。    後悔なんてないし、言い残した事もなかった。  あの別れには、全てがあった。  俺がしたかった事。  あいつが夢見たもの。  それは意地の張り合いで、本当はあいつの手を掴まえて、少女の夢を叶えるべきだったのかもしれない。    それでも―――お互いが美しいと感じたものがあって、それを必死に、最後まで守り通した。  悔いる事はない。  あいつが自分の時間をきちんと終えたように。  俺も、この思い出に留まっている訳にはいかないんだから。 「……ふうん。士郎の中では決着をつけたってコトね。  だから落ち込む事もなく、思い出に浸る事もないってわけ」 「ああ。けど、今も夢に見る。これから先も、ずっとあいつの事を思い出すよ。  いつか記憶が薄れて、あいつの声もあいつの仕草も忘れていく。  それでも―――こんな事があったと、セイバーっていうヤツが好きだったって事だけは、ずっとずっと覚えてる」  遠坂は何も言わない。  ただ、訳もなく上機嫌な体で、弾むような足取りをし始める。 「どうしたんだよ遠坂。そんなに急いで、何かあったのか?」 「別に。ただ早く学校に着きたいなって。  さ、そういうワケだから士郎も急ぐ! のんびりしてると置いてくわよ!」    くるり、と身を翻して坂道を駆け上がっていく。   「――――なんだあいつ。朝弱いクセに無理して」    ぼやきながら、鞄を背負って走り出した。  時刻はまだ七時半。  部活をやっていないぐうたら生徒には早すぎる時刻だが、まあ、早く着く分には悪いことはないと思う。    空に登っていくような坂道を走って、いつもより早く校舎へと辿り着く。    今日は新しい一年の始まる日だ。  それを祝う気持ちがあるのなら、古い思い出を振りきって急がないと。    名残は尽きず。  胸を打つ空虚に、〈泪〉《なみだ》しそうになったとしても。              ―――遠くには青い空。       こんなにも近くに感じるのに、       手を伸ばしても掴めない。    いつか、星を眺めた。  手の届かない星と、叶う事のない願いを。  共に残せた物など無く、  故に、面影も記憶もいつかは消える。 「――――――――」  それでも。  届かなくとも、胸に残る物はあるだろう。    手に残る物はないけれど、同じ時間にいて、同じ物を見上げた。  それを覚えているのなら―――遠く離れていても、共に有ると信じられる。    なくなる物があるように、なくならない物だってあると頷けるのだ。    だから、今は走り続ける。  遠くを目指していれば、いつかは、目指していたものに、手が届く日が来るだろう。            ―――冬を越えた始まりの春。  いつか彼女も見ただろう青空の下、坂道を上っていく。            ――――戦いは終わった。  彼女の最後の戦場、国を二つに分けて行われた戦いは、王の勝利で幕を下ろした。 「ハァ、ハァ、ハァ、ハ――――!」    騎士は走っていた。  戦いは終わり、血のように赤かった夕日も沈み、今では夜の闇が戦場を支配していた。  亡骸で埋め尽くされた丘は呪いに満ち、生き残った者を連れて行こうと〈怨嗟〉《えんさ》をあげる。    その中を、騎士は息を切らして走っていた。    騎士の手には手綱が握られ、傷ついた白馬が懸命に付いていく。    生き残ったものは騎士と白馬。  そして白馬の背に倒れ伏した、一人の王だけだった。   「王……! アーサー王、こちらに――――!」    自身も傷を負っているであろうに、騎士は全力で戦場を駆けていく。  〈騎士〉《かれ》が仕える王は、死に捕らわれていた。  敵軍の王を一騎打ちの末破ったものの、王自身も致命傷を負っていたのだ。  その傷は、騎士の目から見ても絶望的な物だ。  彼らが仕えた王は、まもなく死を迎えるだろう。   「お気を確かに……! あの森まで辿り着けば、必ず……!」    必死に呼びかける。    ―――或いは、騎士は真実思っていたのかもしれない。    彼らの王は不滅だと。  聖剣の導きがある限り、王は決して滅びないと。 「ハッ――――ハア、ハア、ハア、ハ――――!」    息を切らし、屍の山を越え、騎士は血に濡れていない森を目指す。  彼は王の不死身性を知っていた。  故に、この呪われた戦場を抜け、どこか清らかな場まで辿り着けたのなら、王の傷は癒えるのではと信じたのだ。    否―――そう信じるしか、出来なかった。    彼は他の騎士たちと違い、自らの王を信じていた。  宮廷では孤立し、騎士からは疎まれ、民からは恐れられた。  その窮地において私情を見せず、常に理想であり続けた若い王を誇りにさえ思った。    彼は国に仕えたのではない。    彼はこの王だからこそ剣を預け、力になろうと邁進し、若輩の身でありながら王の近衛にまで上り詰めたのだ。    素顔の見えない王。  私情を挟まず、公平無私であろうとした少年。  或いは、身近にまで行けば、王の素顔が見られるのではと期待した。    彼はただ、王の素顔が見たかったのだ。  王城や戦場で見せる顔ではなく、素顔の、人間としての笑い顔が見たかった。  それは宮廷の中、王がその責務から解放される時に表れるだろう。  いかに完璧な王とて、四六時中気を張っている事はできないのだから。    だが、その考えは間違っていた。  彼が知ったのは、期待とは裏腹の事実だけ。  近衛を任され、王の身辺を守るに至った。  他のどの騎士よりも身近に控え、その振る舞いを見続けてきた。    だというのに、一度もなかった。    彼の王が笑った事など、ただの一度もなかったのだ。 「ハッ――――ハア、ハア、ハア、ハ――――!」    それに怒りを覚えたのはいつからだろう。  これだけの偉業を成し遂げ、栄光の中にいる筈の王が。  その実、一時も安らかな顔を見せなかったのだ。    許せなかった。  そんな事はあってはならないと信じたかった。    だからこそ、いつか―――この王のかんばせに、光が与えられる事を願ったのだ。    それはまだ成し得ていない。  王はまだ孤独のまま。  故に、騎士は王の死を拒み続けた。    ここで終わらせる事は出来ない。  それではあまりにも、この偉大な王が報われないではないか、と。 「王、今はこちらに。すぐに兵を呼んでまいります」    辿り着いた森で、騎士は王の体を大樹に預けた。  事態は一刻を争う。  港に残してきた自軍まで、どれほど馬を速めようと半日。  王の命が明け方まで保つかどうかなど、目のある者ならば一目で看破しえるだろう。   「どうかそれまで辛抱を。必ず兵を連れて戻ります」    もはや意識のない王に礼をし、騎士は白馬へとって返す。     「――――ベディヴィエール」      その前に。  意識のない筈の王が、騎士の名を口にした。 「王!? 意識が戻られましたか……!?」 「……うむ。少し、夢を見ていた」    朦朧とした声。  ただ、その声がひどく―――騎士には、温かな物に聞こえた。   「夢、ですか……?」    探るように声をかける。  王の意識は確かではない。こうして聞き返さねば、また闇の中へ落ちるだろう。   「そうだ。あまり見た事がないのでな。貴重な体験をした」   「……それは。では、どうぞお気遣いなくお休みください。私はその間に兵を呼んで参ります」   「――――」    息を呑む気配。  騎士の言葉に、何か意外なものでもあったかのように。   「……王? 何かご無礼な点でも……?」 「―――いや。そなたの言い分に驚いた。夢とは、目を覚ました後でも見れるものなのか。違う夢ではなく、目を瞑れば、また同じものが現れると……?」    今度は騎士が驚く番である。  彼は言葉に詰まった後、それが偽りと知りながらも返答する。   「―――はい。強く思えば、同じ夢を見続ける事も出来るでしょう。私にも経験があります」    そのような事はない。  夢とは元々、一度きりで連続しないものを言う。  それでも騎士は偽った。  これが最初で最後の、王に対する不正と詫びて。   「そうか。そなたは博識だな、ベディヴィエール」    王は感心するように呟く。  その顔は伏せたままで、騎士を見上げる事もしない。  王は、もはやしている事さえ判らないほど小さな息遣いのまま、静かに、   「ベディヴィエール。我が名剣をもて」    掠れた声で、最後の命を口にした。   「よいか。この森を抜け、あの血塗られた丘を越えるのだ。その先には深い湖がある。そこに、我が剣を投げ入れよ」 「―――! 王、それは……!」    それがどういう事なのか、騎士には判っていた。  湖の剣。  今まで王を守り、王の証であった剣を手放すという事は、彼が仕えた王の終わりを意味するのだから。   「―――行くのだ。事を成し得たのならばここに戻り、そなたが見た事を伝えてほしい」    王の言葉は変わらない。  騎士は聖剣を手にし、迷いを断ち切れぬまま丘を越えた。    ―――そうして。  騎士は三度に渡り、剣の返還を〈躊躇〉《ためら》った。    湖は確かにあった。  だが剣を投げ入れる事ができなかった。  剣を投げ入れれば、王はいなくなる。  騎士は王を惜しむあまり剣を捨てられず、踵を返し、王の元へと立ち帰る。    王は騎士に繰り返す。  剣を捨てたと嘘述する騎士に、“命を守るがいい”とだけ返答する。    王の命を破る、という事は騎士にとっては大罪に等しい。    それでも彼は二度に渡り命に背いた。  湖を前にする度に、王の命を惜しんだのだ。    ―――だがそれも終わり。  もはや王の意思を変えられぬと悟った騎士は、三度目にして、剣を湖へと投げ入れた。    聖剣は湖に還る。    水面より現れた〈皓〉《しろ》い腕が剣を受け止め、三度空を巡ったあと、聖剣はこの世界から消失した。   「――――――――」    そうして、騎士は受け入れた。  王の終わり。  その、あまりに長かった責務が、ここにこうして終わったのだと。    三度に渡り丘を越えた頃、森は朝日に煙っていた。    戦場跡は遠く。  血塗られた戦いの面影などない、清らかな〈薄靄〉《うすもや》の中。   「―――湖に剣を投げ入れてまいりました。剣は湖の婦人の手に、確かに」    騎士の言葉に、王は瞑っていた目蓋を開けた。   「……そうか。ならば胸を張るがよい。そなたは、そなたの王の命を守ったのだ」    死を迎えたその声に、騎士は静かに頷いた。    ―――全ては終わったと。  この先、彼らの国の動乱は続くだろう。戦いは終わらず、遠からず滅びの日がやってくる。    だが、王の戦いはこれで終わりだ。  彼―――いや、彼女はその役目を、最後まで果たしたのだから。    ……光が消える。  事を為し遂げ、彼女を保っていた最後の力が失われたのか。     「―――すまないなベディヴィエール。     今度の眠りは、少し、永く――――」      ゆっくりと眠るように。  彼女は、その瞳を閉じていった。    ……朝焼けの陽射しが零れる。  森は静かに佇み、彼の王は眠りについた。   「――――――――」    騎士はその姿を見守り続ける。  彼が望んだ王の姿。  たった一人の騎士に看取られた孤独な王。    だが―――その顔は、彼が望んだものだった。    穏やかな眠り。  王は最期に、今まで得られなかった安らぎを得られたのだ。    それが、ただひたすらに嬉しかった。  騎士はその安らぎを与えてくれた誰かに感謝し、誇らしい気持ちのまま王を見守る。                   天は遠く、晴れかかった空は青い。       戦いは、これで本当に終わったのだ。   「――――見ているのですか、アーサー王」      呟いた言葉は風に乗る。  眠りに落ちた王は、果てのない青に沈むように。     「夢の、続きを――――」      遠い、遠い夢を見た。                ―――――気が付けば、焼け野原にいた。      大きな火事が起きたのだろう。  見慣れた町は一面の廃墟に変わっていて、映画で見る戦場跡のようだった。    ―――それも、長くは続かない。    夜が明けた頃、火の勢いは弱くなった。  あれほど高かった炎の壁は低くなって、建物はほとんどが崩れ落ちた。      ……その中で、原形を留めているのが自分だけ、というのは不思議な気分だった。      この周辺で、生きているのは自分だけ。      よほど運が良かったのか、それとも運の良い場所に家が建っていたのか。  どちらかは判らないけれど、ともかく、自分だけが生きていた。      生きのびたからには生きなくちゃ、と思った。  いつまでもココにいては危ないからと、あてもなく歩き出した。  まわりに転がっている人たちのように、黒こげになるのがイヤだった訳じゃない。      ……きっと、ああはなりたくない、という気持ちより。  もっと強い気持ちで、心がくくられていたからだろう。        それでも、希望なんて持たなかった。  ここまで生きていた事が不思議だったのだから、このまま助かるなんて思えなかった。    まず助からない。  何をしたって、この赤い世界から出られまい。  幼い子供がそう理解できるほど、それは、絶対的な地獄だったのだ。          そうして倒れた。  酸素がなかったのか、酸素を取り入れるだけの機能が失われていたのか。  とにかく倒れて、曇り始めた空を見つめていた。          まわりには、黒こげになって動かなくなってしまった人たちの姿がある。  暗い雲は空をおおって、じき雨がふるのだと教えてくれた。    ……それならいい。雨がふれば火事も終わる。            最後に、深く息をはいて、雨雲を見上げた。  息もできないくせに、ただ、苦しいなあ、と。  もうそんな言葉さえこぼせない人たちの代わりに、素直な気持ちを口にした。    ――――それが十年前の話だ。    その後、俺は奇跡的に助けられた。  体はそうして生き延びた。  けれど他の部分は黒こげになって、みんな燃え尽きてしまった。      両親とか家とか、そのあたりが無くなってしまえば、小さな子供には何もない。  だから体以外はゼロになった。  要約すれば単純な話だと思う。    つまり、体を生き延びらせた代償に。    心の方が、死んだのだ。              ―――――――――夢を見ている。   「――――っ」    はじめての白い光に目を細めた。  まぶしい、と思った。  目を覚まして光が目に入ってきただけだったが、そんな状況に慣れていなかった。  きっと眩しいという事がなんなのか、そもそも解っていなかったのだ。   「ぁ――――え?」    目が慣れてびっくりした。  見たこともない部屋で、見たこともないベッドに寝かされていた。  それには心底驚いたけど、その部屋は白くて、清浄な感じがして安心できた。   「……どこだろ、ここ」    ぼんやりと周りを見る。  部屋は広く、ベッドがいくつも並んでいる。  どのベッドにも人がいて、みんなケガをしているようだった。    ただ、この部屋には不吉な影はない。  ケガをしているみんなは、もう助かった人たちだ。 「――――」  気が抜けて、ぼんやりと視線を泳がす。              ――――窓の外。      晴れ渡った青空が、たまらなくキレイだった。    それから何日か経って、ようやく物事が呑み込めた。  ここ数日なにがあったのか問題なく思い出せた。  それでも、この時の自分は生まれたばかりの赤ん坊と変わらなかった。    それは揶揄ではなく、わりと真実に近い。    とにかく、ひどい火事だったのだ。  火事場から助け出されて、気が付いたら病室にいて、両親は消えていて、体中は包帯だらけ。  状況は判らなかったが、自分が独りになったんだ、という事だけは漠然と分かった。    納得するのは早かったと思う。  ……その、周りには似たような子供しかいなかったから、受け入れる事しか出来なかっただけなのだが。            ―――で、そのあと。  子供心にこれからどうなるのかな、なんて不安に思っていた時に、そいつはひょっこりやってきた。      包帯がとれて自分でご飯が食べられるようになった日に、その男はやってきた。    しわくちゃの背広にボサボサの頭。  病院の先生よりちょっとだけ若そうなそいつは、お父さんというよりお兄さんという感じだった。   「こんにちは。君が士郎くんだね」    白い陽射しにとけ込むような笑顔。  それはたまらなく胡散臭くて、とんでもなく優しい声だったと思う。   「率直に訊くけど。孤児院に預けられるのと、初めて会ったおじさんに引き取られるの、君はどっちがいいかな」    そいつは自分を引き取ってもいい、と言う。  親戚なのか、と訊いてみれば、紛れもなく赤の他人だよ、なんて返答した。  ……それは、とにかくうだつのあがらない、頼りなさそうなヤツだった。  けど孤児院とそいつ、どっちも知らないコトに変わりはない。  それなら、とそいつのところに行こうと決めた。   「そうか、良かった。なら早く身支度をすませよう。新しい家に、一日でも早く慣れなくっちゃいけないからね」    そいつは慌ただしく荷物をまとめだす。  その手際は、子供だった自分から見てもいいものじゃなかった。  で、さんざん散らかして荷物をまとめた後。   「おっと、大切なコトを言い忘れた。  うちに来る前に、一つだけ教えなくちゃいけないコトがある」    いいかな、と。  これから何処に行く? なんて気軽さで振り向いて、    「――――うん。  初めに言っておくとね、僕は魔法使いなんだ」    ホントに本気で、仰々しくそいつは言った。    一瞬のコトである。  今にして思うと自分も子供だったのだ。  俺はその、冗談とも本気ともとれない言葉を当たり前のように信じて、   「――――うわ、爺さんすごいな」    目を輝かせて、そんな言葉を返したらしい。  以来、俺はそいつの子供になった。  その時のやりとりなんて、実はよく覚えていない。    ただ事あるごとに、親父はその思い出を口にしていた。  照れた素振りで何度も何度も繰り返した。    だから父親―――〈衛宮切嗣〉《えみやきりつぐ》という人間にとって、そんなコトが、人生で一番嬉しかった事なのかも知れなかった。  ……で。  事故で両親と家を失った子供に、自分は魔法使いなんだ、なんて言葉を投げかけた〈切嗣〉《オヤジ》も〈切嗣〉《オヤジ》だけど、  それが羨ましくって目を輝かせた俺も俺だと思う。    そうして俺は親父の養子になって、衛宮の名字を貰った。  〈衛宮士郎〉《えみやしろう》。  そう自分の名前を口にした時、切嗣と同じ名字だという事が、たまらなく誇らしかった。              ………夢を見ている。    幼い頃の話。  ちょうど親父を言い負かして弟子にしてもらった頃だから、今から八年ぐらい前だろう。    俺が一人で留守番できるようになると、切嗣は頻繁に家を空けるようになった。  切嗣はいつもの調子で「今日から世界中を冒険するのだ」なんて子供みたいな事を言い、本当に実行した。    それからはずっとその調子だった。  一ヶ月いないなんてコトはザラで、酷い時は半年に一度しか帰ってこなかったコトもある。  衛宮の家は広い武家屋敷で、住んでいたのは自分と切嗣だけだ。  子供だった自分には衛宮の屋敷は広すぎて、途方にくれた事もある。    それでも、その生活が好きだった。  旅に出ては帰ってきて、子供のように自慢話をする衛宮切嗣。  その話を楽しみに待っていた、彼と同じ苗字の子供。  いつも屋敷で一人きりだったが、そんな寂しさは切嗣の土産話で帳消しだった。    ―――いつまでも少年のように夢を追っていた父親。    呆れていたけど、その姿はずっと眩しかったのだ。  だから自分も、いつかはそうなりたいと願ったのかもしれない。          ………まあついでに言うと。    あんまりにも夢見がちな父親に、こりゃあ自分がしっかりしなくちゃいけないな、なんて、子供心に思った訳だが――――  ……音がした。  古い、たてつけが悪くて蝶〈番〉《つがい》も錆びて無闇に重い、扉が開く音がした。  暗かった土蔵に光が差し込んでくる。 「――――っ」  眠りから目覚めようとする意識が、   「先輩、起きてますか?」    近づいてくる足音と、冬の外気を感じ取った。 「……ん。おはよう、桜」 「はい。おはようございます、先輩」 「先輩、朝ですよ。まだ時間はありますけど、ここで眠っていたら藤村先生に怒られます」 「と……そうだな。よく起こしに来てくれた。いつもすまない」 「そんな事ありません。先輩、いつも朝は早いですから。  こんなふうに起こしに来れるなんて、たまにしかありません」  ……?  何が嬉しいのか、桜はいつもより元気がある。 「……そうかな。けっこう桜には起こされてるぞ、俺。  けど藤ねえにはたたき起こされるから、桜の方が助かる。……うん、これに懲りずに次は頑張る」  ……寝起きの頭で返答する。  あんまり頭を使っていないんで、自分でも何を言っているか判らなかった。 「はい、わかりました。でも頑張ってもらわない方が嬉しいです、わたし」  桜はクスクスと笑っている。  ……いけない。まだ寝ぼけていて、マトモな台詞を口にしなかったようだ。 「―――ちょっと待ってくれ。すぐ起きるから」  冬の冷たい空気は、こういう時に役に立つ。  寒気は寝不足で呆っとした思考を、容赦なくたたき起こしてくれた。          ……目の前には後輩である〈間桐桜〉《まとうさくら》がいる。  ここは家の土蔵で、時刻は午前六時になったばかり、というところ。 「……先輩?」 「ああ、目が覚めた。ごめんな桜、またやっちまった。  朝の支度、手伝わないといけないのに」 「そんなのいいんです。先輩、昨夜も遅かったんでしょう? なら朝はゆっくりしてください。朝食の支度はわたしがしておきますから」  弾むような声で桜は言う。  ……珍しい。本当に、今朝の桜は元気があって嬉しそうだ。 「ばか、そういう訳にいくか。今起きるから、一緒にキッチンに行こう」 「よし、準備完了。それじゃ行こう、桜」 「あ……いえ、その、先輩」 「? なんだよ、他に何かあるのか」 「いえ、そういうコトではないんですけど……その、先輩。家に戻る前に着替えた方がいいと思います」 「――――あ」  言われて、自分の格好を見下ろした。  昨日は作業中に眠ったもんだから、体はツナギのままだった。  作業着であるツナギは所々汚れている。こんな格好のまま家に入ったら、それこそ藤ねえになんて言われるか。 「う……まだ目が覚めてないみたいだ。なんか普段にまして抜けてるな、俺」 「ええ、そうかもしれませんね。ですから朝食の支度はわたしに任せて、先輩はもう少しゆっくりしていてください。それにほら、ここを散らかしっぱなしにしていたら藤村先生に怒られるでしょう?」 「……そうだな。それじゃ着替えてから行くから、桜は先に戻っていてくれ」 「はい。お待ちしてますね、先輩」  桜は早足で立ち去っていった。  さて。  まずは制服に着替えて、散乱している部品を集めなくては。  この土蔵は庭の隅に建てられた、見ての通り、ガラクタを押し込んでいる倉庫である。  といっても、子供の頃から物いじりが好きだった自分にとって、ここは宝の倉そのものだ。  親父は土蔵に入る事を禁じていたが、俺は言いつけを破って毎日のように忍び込み、結果として自分の基地にしてしまった。    俺―――衛宮士郎にとっては、この場所こそが自分の部屋と言えるかもしれない。    だだっ広い衛宮の屋敷は性に合わないし、なにより、こういうガラクタに囲まれた空間はひどく落ち着く。 「……そもそも勿体ないじゃないか。ガラクタって言ってもまだ使えるし」  土蔵に仕舞われたモノは、大半が使えなくなった日用品だ。  この場所が気に入ったからガラクタを持ち込んだのか、ガラクタが山ほどあるからここが気に入ったのか。  ともかく毎日のように土蔵に忍び込んでいた俺は、ここにあるような故障品の修理が趣味になった。  特別、物に愛着を持つ性格ではない。  ただ使える物を使わないのが納得いかないというか、気になってしまうだけだと思う。  そんなこんなで、昨夜は一晩中壊れたストーブを修理していた。 「……完成は明日か。途中で寝るなんて、集中力が足りない証拠だ」  軽い自己嫌悪を振り払う。  とりあえずストーブの部品を集めて、修理待ち用の棚にしまった。  修理待ち用の棚に空きはない。このストーブを直したら、次は時代遅れのビデオデッキが待っている。  ……そのどちらも藤ねえによって破壊された、という事実はこの際無視する事にしよう。 「……よっと」  作業着から制服に着替える。  土蔵は自分の部屋みたいなものなので、着替えも生活用具も揃っていた。  あとはそう、所々に打ち捨てられた書き殴りの設計図と、修練の失敗作ともいえるガラクタが大半だ。  もともとは何かの祭壇だったのか、土蔵の床には何やら紋様が刻まれていたりもする。 「―――さて。今日も一日、頑張って精進しよう」    ぱん、と土蔵に手を合わせ、屋敷へと足を向けた。  土蔵から屋敷に向かう。  この衛宮邸は、町外れにある武家屋敷だ。  〈切嗣〉《オヤジ》は町の名士だった訳でもないのに、こんな広い家を持っていやがった。  それだけでも謎なのに、衛宮切嗣には日本に親戚がいないらしい。  だから親父が死んだ後、この広い屋敷は誰に譲られる事もなく、なし崩し的に養子である自分の物になってしまった。  だがまあ、実際の話、俺にそんな管理能力はない。  相続税とか資産税だとか、そういった難しい話は全て藤村の爺さんが受け持ってくれている。  藤村の爺さんは近所に住んでいる大地主だ。  〈切嗣〉《オヤジ》曰く、“極道の親分みたいなじじい”。  無論偏見だ。  藤村の爺さんは極道の親分みたいな人ではなく、ずばり極道の親分なんだから。 「…………」  それはそれで多大に問題があるが、あえて追及しない方針でいきたい。  ともかく、そんな訳でこの広い屋敷に住んでいるのは自分だけだ。  〈切嗣〉《オヤジ》が死んでからもう五年。  月日が経つのは本当に早い。  その五年の間、自分がどれだけ成長できたのか考えるとため息が出る。  切嗣のようになるのだと日々修練してきたけど、現実はうまくいかない。  初めから素質がなかったから当然と言えば当然なのだが、それでも五年間まったく進歩がない、というのは考え物だろう。    現状を一言で表すなら、理想が高すぎてスタート地点にさえ立てていない、といったところ。 「―――――――」  いや、焦ってもいい事はないか。  とりあえず、今は出来る事を確実にこなしていくだけだ。  さて。  とりあえず、今やるべき事といったら――――      ―――そうだな、桜の手伝いをしないと。    後輩に頼りっきりというのは決まりが悪いし、こんな早くから来てくれている桜に申し訳がない。  が、時すでに遅し。  朝食はもう出来上がっているようだ。  桜らしい、上品な〈朝餉〉《あさげ》の匂いがキッチンから伝わってくる。  桜は調理を終えて、あとはテーブルに並べるだけと食器棚を覗いていた。 「面目ない。せめて食器の用意ぐらいはやるから、桜は座っててくれ」 「え……? あ、もう来ちゃったんですか先輩?」 「もうじゃないぞ。六時十分っていったら朝飯を食ってる時間じゃないか。完全に寝坊だよ」 「そんな事はないと思いますよ。先輩は部活をしていないんですから、この時間は十分に早起きです」 「部活は関係ない。それを言ったら、朝練がある桜がうちに来てくれるのも問題じゃないか」 「ぁ……いえ、わたしは好きでしている事ですから、部活の事は気にしないでください」 「ああ、それは何度も聞いた。だから俺も部活に関係なく早起きしてるんだ。桜が来てくれるなら、その時間には起きてないと失礼だろ」  自分にとって早起きとは桜がやってくる前に起きる事で、寝坊っていうのは今朝みたいに桜一人に朝食の支度をさせてしまう事だ。  もっとも、それも一年半前からの習慣にすぎないのだが。 「ともかく桜は休んでろよ。あとは並べるだけなんだから、それぐらい俺にやらせてくれ」  桜の横に並んで、棚から食器を取り出す。  桜は妙に意固地な所があって、こういう時は強引にやらないと休んでくれないのだ。 「あ、ならわたしもお手伝いします。お皿にはわたしが盛りますから、先輩はお茶碗を出してください」 「いや、だから全部こっちでやるからいいってば」 「いけませんっ。先輩はおうちの主人なんですから、朝ぐらいはどーんと構えていてください」 「どーんと構えろって、桜一人に働かせてのんびりしてる主人なんて家主失格だぞ。いいから、桜は居間に行ってろって」 「はい、ぜひ失格してください。これ、いつもおいしいご飯を食べさせて貰っているお返しなんです。だから出来れば、先輩にはゆっくりしていてほしいです」 「む。食費だったら折半なんだから、桜が気にする事じゃない。感謝なんて言ったら俺がしたいぐらいだ。桜が来てくれるようになってから、メシが豪勢になったからな」 「やっぱり。先輩、分かってなかったんですね。先輩のおうちのご飯がおいしいのは、そういうコトじゃないんです」 「? そういうコトじゃないって、どういうコトだ」 「いえ、なんでもありません。けど責任とってくださいね。わたし、先輩の家じゃないとご飯をおいしくいただけなくなっちゃったんですから」 「ば―――ばか、おかしなコト言うなっ。  藤ねえに聞かれたらどうするんだ、あの人には冗談なんて通じないんだから」 「そうですね。藤村先生に聞かれたらタイヘンです」 「まったくだ。あんまりおかしなコト言うな」 「はい、言いません。言いませんからお手伝いしていいですよね、先輩?」 「…………」  桜はあくまで自然に、慌てた風もなくこっちを見上げている。 「いいよ、好きにしろ。そんなにやりたきゃ桜に任せる」 「はい。好きにします、わたし」 「……まったく。ホントに最近言うこと聞かなくなったよな、桜」 「ですね。藤村先生に似てきたのかもしれません」  柔らかに言って、桜はとなりの棚に手を伸ばした。  さらり、と落ちる黒髪と、滑らかそうな体が目に付く。 「――――っ」  ……なんていうか、困る。  成長期なのか、ここ最近の桜は妙に女っぽい。  なにげない仕草や、こういった横顔がキレイに見えてつい顔を逸らしてしまう。 「先輩? どうかしましたか?」 「―――いや、どうもしてない。どうもしてないから気にしないでくれ」 「?」  ……ほんと、まいる。  友人の妹相手に何を緊張してるんだ俺は。  桜はあくまで出来のいい後輩であり、面倒をみなくちゃいけない年下だ。  桜は親しくしていた友人の妹だが、一学年下だったため特別親しかった訳でもない。  それがこういった協力関係になったのは一年半前からだ。  俺がケガをした時に桜が食事を作りに来てくれて、あとはそのまま、こんな感じになってしまった気がする。  ……俺のケガが治るまで、と決めていたように思えるのだが、なにかほんっとーに些細な出来事があって、なんとなーく家事手伝いを続けてもらう事になったような。  ともあれ、桜の料理はうまいし、洗濯掃除も完璧だ。  こうして朝も早くから手伝いに来てくれてとても助かるのだが、最近はちょっと微妙だ。  問題は桜にあるんじゃなくて、あくまで自分にある。 「――――」  友人の妹にドキマギしてしまう、という後ろめたさもあるんだろう。  普段はどうという事もないのに、時折さっきみたいな不意打ちをくらうと赤面しちまうのは、先輩として問題があるのではなかろうか……?  衛宮邸には立派な道場がある。  家を建てる時、ついでだからと建てられたものだ。  道楽以外の何物でもない。 「――――さて」  朝食の前に軽く体を動かしておこう。  別に武術をやっているワケではないのだが、 『僕の真似事をするんなら、まず身体を頑丈にしとかないと』  なんて〈切嗣〉《オヤジ》に言われて以来、こうして体を鍛えるのが日課になったのだ。 「……九十九っ、百、と……」    定番の腹筋運動を切り上げて、道着から制服に着替える。  今朝は寝坊したんで、気持ち分だけ体を動かす時間を少なくした。  柔軟を省略して、腹筋だけ切りのいい回数までこなせば充分だ。  自分はそう筋肉が付いてくれる骨格じゃないし、いくら体が資本といっても、殴り合いをしたいワケじゃない。  身体能力は突然の事故に対応できる程度、自分の無茶がイメージ通りに実現できるだけで充分だ。  そもそも自分のなりたいモノは、スポーツマンとは正反対なモノのワケだし。 「……と、もうこんな時間か」  汗を吸った道着を洗濯籠に入れる。  時刻は六時二十分。  朝が早い衛宮邸では、この時間帯でもやや遅い朝食になってしまう。  朝食の支度は完全に整っていた。  桜らしい、上品な〈朝餉〉《あさげ》の匂いが食卓から伝わってくる。 「お疲れさまでした。こっちも朝食の支度、終わりましたよ」 「ん、サンキュ。……すまん、俺が寝過ごした分、桜に無理させちまって」 「そんな、ぜんぜん無理なんかじゃないですよー。それに寝坊なんかじゃありません。先輩は部活をしていないんですから、この時間は十分に早起きです」 「部活は関係ないよ。それを言ったら、朝練がある桜がうちに来てくれるのって、凄い早起きじゃないか」 「ぁ……いえ、わたしは好きでしている事ですから、部活の事は気にしないでください」 「ん、それは何度も聞いた。  ……まあ、だから俺も部活に関係なく早起きしたいんだ。桜が来てくれるなら、その時間には起きてないと失礼だろ」  自分にとって早起きとは桜がやってくる前に起きる事で、寝坊っていうのは今朝みたいに桜一人に朝食の支度をさせてしまう事だ。 「ふふ。先輩、そういうところこだわりますよね。〈美綴〉《みつづり》先輩、衛宮は粗雑なクセに律儀すぎてうるさいって」  美綴というのは桜が所属する弓道部の女主将で、なにかと因縁のある女生徒だったりする。 「…む。〈美綴〉《あいつ》、まだ俺への文句を桜にこぼしてんのか?」 「はい。先輩が卒業するまでになんとしても射でうならせてやるって、毎日がんばってます」 「……はあ。今じゃ〈美綴〉《あいつ》のが段位高いだろうに。アレかな、思い出は無敵ってヤツかな。美化されてるのは悪い気分じゃないけど、それも人によりけりって言うか」 「美綴先輩、すっごく負けず嫌いですから。きっと心の中で先輩をライバルみたいに思ってますよ」  言いつつ、桜はお茶碗にごはんを盛っていく。  時刻は六時半になろうとしている。  弓道部の朝練は七時からだ。  自主参加制とはいえ、あまりのんびりしてはいられない。 「藤ねえ……はそろそろか。ま、この時間に来ない方が悪いんだし。桜、先に食べていよう」 「そうですね。はい、どうぞ先輩」  にっこりと笑ってお茶碗を差し出してくる桜。 「――――――――、っ」  ……と。  毎朝慣れているコトなのに、つい、その白い指に目を奪われた。 「――――っ」  ……なんていうか、困る。  成長期なのか、ここ最近の桜は妙に色っぽい。  なにげない仕草がキレイに見えて、息を呑むコトが多くなった。  今まで桜に異性を感じていなかった反動か、余計に女性らしさを意識してしまうのだろうが――― 「先輩? どうかしましたか?」 「―――いや、どうもしてない。どうもしてないから気にしないでくれ」 「?」  ……ほんと、まいる。  友人の妹相手に何を緊張してるんだ俺は。  桜はあくまで出来のいい後輩であり、面倒をみなくちゃいけない年下だ。  桜は友人の妹だが、一学年下だったため特別親しかった訳でもない。  それがこういった協力関係になったのは一年半前からだ。  確か俺がケガをした時に桜が食事を作りに来てくれて、あとはそのままこんな感じになってしまった気がする。  俺のケガが治るまで、と決めていたように思えるのだが、なにかほんっとーに些細な出来事があって、なんとなーく家事手伝いを続けてもらう事になったような。  ともあれ、桜の料理はうまいし、洗濯掃除も完璧だ。  こうして手伝いに来てくれてとても助かるのだが、最近はちょっと微妙だ。  問題は桜にあるんじゃなくて、あくまで自分にある。 「――――」  ……友人の妹にドキマギしてしまう、という後ろめたさもあるんだろう。  普段はどうという事もないのに、時折さっきみたいな不意打ちをくらうと赤面しちまうのは、先輩として問題があるのではなかろうか……? 「〈一成〉《いっせい》、いるか?」 「いるぞ。今朝は少し遅かったな、衛宮」  予習でもしていたのか、ペーパーらしきものに目を通していた男子生徒が顔をあげる。 「一成だけか。他の連中はどうしたんだ。この時間なら登校しててもおかしくないだろ」 「いや、生憎とうちのメンバーはビジネスライクでね。  働く時間帯はきっかり決まっていて、早出と残業はしたくないのだそうだ」 「それで生徒会長自らが雑用か。ここはここで大変そうだな」 「なに、好きでしている苦労だ。〈衛宮〉《えみや》に同情してもらうのは筋が違う」 「? いや、一成に同情なんてしてないぞ?」 「うむ、それはそれで無念だが聞き流すとしよう。情が移っているという事では同じだからな」  トントン、と読んでいたペーパーを整える一成は、この生徒会室の大ボスだ。  緩みきっている生徒会を根本から改革しようと躍起になっているヤツで、自分とは一年の頃からの友人である。  フルネームを〈柳洞一成〉《りゅうどういっせい》。  古くさい名前とは裏腹に優雅な顔立ちをしていて、実際女生徒に絶大な人気がある。  しかも生徒会長だっていうんだから、まさに鬼に金棒、虎に翼といったところなのだが、 「うむ、やはり朝は舌がしびれる程の熱湯がよい」    なんて言いながら番茶をすすっているもんだから、いまいち締まらない。  この通り、一成はとことん地味な性格だ。  誤解されやすいのだが、本人は色恋沙汰には手を出さないし、学生らしい遊びもしない。  なにしろコイツはお山にある〈柳洞寺〉《りゅうどうじ》の跡取り息子だ。  本人も寺を継ぐのを良しとしているので、卒業したら潔く丸坊主にする可能性も大である。 「それで。今日は何をするんだ」 「ん? ああ、まあともかく座って一服―――と言いたいのだが時間がないな。移動がてら説明をする故、いつもの道具を持って付いてきてくれ」 「率直に言うとな。うちの学校、金のバランスが極端なんだよ」 「知ってる。運動系が〈贔屓〉《ひいき》されてるもんで、他に予算がいかないんだろ」 「うむ。結果、文化系の部員はたえず不遇の扱いでな。  今年から文化系に予算がいくよう尽力しているのだが、予算の流れが不鮮明でうまく回っていない。おかげで未だ文化系の部室は不遇でな。  とくに冬のストーブ不足に関しては打開策がまるでない」 「そうか。―――あ、マイナスドライバーくれ。一番おっきいヤツな。あと導線も。……うん、これぐらいならなんとか」 「導線? ……えっと、これか? すまん、よく判らん。  間違っていたら叱ってくれ」 「あたってるからいいよ。で、ストーブ不足がどうしたって? ここ以外にも故障してんのがあんのか」 「ある。第二視聴覚室と美術部の暖房器具が怪しいそうだ。新品購入願いの嘆願書が刻一刻と増えている」 「けど予算にそんな余裕はない、と。……やっぱり劣化してるだけだな。中がイカレてなくて助かった」 「……ふむ。直りそうか、衛宮?」 「直るよ。こういう時、古いヤツは判りやすくていい。  配線系のショートだから新しいのに替えれば、とりあえず今年いっぱいは頑張ってくれる」 「そうか! やるな衛宮、おまえが頼りになると極めて嬉しいぞ」 「おかしな日本語使うね、一成。  ……っと、もう少しで済むから、ちょっと外に出ててくれ」 「うむ、衛宮の邪魔はせん」  静かに教室から出ていく一成。  ……どうも、ここから先はデリケートな作業だと勘違いしたみたいだ。 「……いや、デリケートと言えばデリケートなんだけど……」  古びた電気ストーブに手を触れる。  普通、この手の修理に慣れているからと言って、見るだけでは故障箇所は判断できない。  それが判るという事は、俺のやっている事は普通じゃないってことだ。  視覚を閉じて、触覚でストーブの中身を視る。  ―――途端。  頭の中に湧き上がってくる一つのイメージ。 「……電熱線が断線しかかってるのが二つと……電熱管はまだ保つな……電源コードの方は絶縁テープでなんとかなる……」  ……良かった、手持ちの工具だけで修理できる破損内容だ。  電熱管がイカレていたら素人の手には負えない。  その時は素人じゃない方法で“強化”しなくてはいけなかったが、これなら内部を視るだけで十分だ。    それが切嗣に教わった、衛宮士郎の“魔術”である。 「――――よし、始めるか」  カバーを外して内部線の修理に取りかかる。  破損箇所はもう判っているんだから、あとの作業は簡単だ。 「……はあ。これだけは得意なんだけどな、俺」    そう。衛宮士郎に魔術の才能はまったく無かった。  その代わりといってはなんだが、物の構造、さっきみたいに設計図を連想する事だけはバカみたいに巧いと思う。  実際、設計図を連想して再現した時なんて、親父は目を丸くして驚いた後、「なんて無駄な才能だ」なんて嘆いていたっけ。    俺の得意分野は、あまり意味のある才能ではないそうだ。  親父曰く、物の構造を視覚で捉えている時点で無駄が多い。  本来の魔術師なら、先ほどのようにわざわざ隅々まで構造を把握する、なんていう必要はない。    物事の核である中心を即座に読みとり、誰よりも速く変化させるのが魔術師たちの戦いだと言う。  だから設計図なんてものを読みとるのは無駄な手間だし、読みとったところで出来る事といったら魔力の通りやすい箇所が判る程度の話。    そんなこんなで、自分の得意な分野はこういった故障品の修理だったりする訳だ。  なにしろ解体して患部を探し出す必要がない。  すみやかに故障箇所を探し出せるなら、あとは直す技術を持っていれば大抵の物は直せるだろう。    ま、それもこういった『ちょっとした素人知識』で直せてしまうガラクタに限るのだが。 「―――よし終わり。次に行くか」    使った導線をしまって、ドライバーとスパナを手にして廊下に出る。 「一成、修理終わったぞ」  ――――と。  廊下には、一成の他にもう一人、女生徒の姿があった。 「――――」  少しだけ驚いた。  一成と話していたのは2年A組の〈遠坂凛〉《とおさかりん》だ。  坂の上にある一際大きな洋館に住んでいるというお嬢様で、これでもかっていうぐらいの優等生。  美人で成績優秀、運動神経も抜群で欠点知らず。  性格は理知的で礼儀正しく、美人だという事を鼻にかけない、まさに男の理想みたいなヤツなんだとか。  そんなヤツだから、言うまでもなく男子生徒にとってはアイドル扱いだ。  ただ遠坂の場合、あまりにも出来すぎていて高嶺の花になっている。  遠坂と話が出来るのは一成と先生たちぐらいなもの、というのが男どもの通説だ。  ……まあ、正直に言えば、俺だって男だし。  ご多分に漏れず、自分も遠坂凛に憧れている男子生徒の一人である。 「……………」  遠坂は不機嫌そうに俺たちを見ている。  一成と遠坂の仲が悪い、というのはどうやら本当らしい。 「と、悪い。頼んだのはこっちなのに、衛宮に任せっきりにしてしまった。許せ」  おお。  あの遠坂をまるっきり無視して話し始めるあたり、一成は大物だ。 「そんなコト気にするな。で、次は何処だよ。あんまり時間ないぞ」 「ああ、次は視聴覚室だ。前から調子が悪かったそうなんだが、この度ついに天寿を全うされた」 「天寿、全うしてたら直せないだろ。買い直した方が早いぞ」 「……そうなんだが、一応見てくれると助かる。俺から見れば臨終だが、おまえから見れば仮病かもしれん」 「そうか。なら試そう」  朝のホームルームまであと三十分ほどしかない。  直すのなら急がないと間に合わないだろう。  一成に促されて視聴覚室に向かう。  ただ、顔を合わせたのにまるっきり無視する、というのは失礼だ。  ぼう、と立ったままの遠坂に振り返る。 「朝早いんだな、遠坂」  素直な感想を口にして、一成の後に付いていった。 「ギリギリ間にあったか。すまんな衛宮、また苦労をかけた。頼み事をした上に遅刻させては友人失格だ」 「別に気にするな。俺が遅刻する分には大した事じゃないだろ。まあ、一成が遅刻するのは問題だけど」 「もっともだ。いや、間に合ってよかった」  一成はほう、と胸を撫でおろして自分の席に向かう。  時刻は八時ジャスト。  ホームルーム開始前の予鈴が鳴ったから、あと五分もすれば藤ねえがやってくる。 「―――ふう」  視聴覚室から走ってきたんで、少し息があがっている。  軽く深呼吸をしてから自分の席に向かう。 「朝から騒がしいね衛宮。部活を辞めてから何をしてるかと思えば〈柳洞〉《りゅうどう》の太鼓持ち? 僕には関係ないけどさ、うちの評判を落とすような事はしないでよね。君、なんていうか節操ないからさ」  と。  席の前には、中学時代からの友人である〈間桐慎二〉《まとうしんじ》が立っていた。  間桐、という姓で判る通り、桜の一つ上の兄貴である。 「よ。弓道部は落ち着いてるか、慎二」 「と、当然だろう……! 部外者に話してもしょうがないけど、目立ちたがり屋が一人減ったんで平和になったんだ。次の大会だっていいところまで行くさ!」 「そうか。美綴も頑張ってるんだな」 「はあ? なに見当違いなコト言ってんの? 弓道部が記録を伸ばしてるのは僕がいるからに決まってるじゃんか。衛宮さ、とっくに部外者なんだから、知ったような口をたたくと恥をかくよ?」 「そうか、気をつけよう。もっとも弓道部に用はないから関わるコトはないけどな」  鞄を机に置いて椅子を引く。 「なにそれ。僕の弓道部には興味がないってコト?」 「興味じゃなくて用だよ。部外者なんだからおいそれと道場に行くの、ヘンだろ。  けど何かあったら言ってくれ。手伝える事があったら手伝う。弦張りとか弓の直し、慎二は苦手だったろ」 「そう、サンキュ。何か雑用があったら声をかけるよ。  ま、そんなコトはないだろうけどさ」 「ああ、それがいい。雑用を残しているようなヤツは主将失格だからな。あんまり藤村先生を困らせるなよ。あの人、怒ると本気で怖いぞ」 「っ……! ふん、余計なお世話だ。ともかく、おまえはもう部外者なんだから道場に近づくなよ!」  慎二はいつもの調子で自分の席に戻っていく。  ……はて。今日はとくにカリカリしてたな、あいつ。 「ふざけたヤツだ。自分から衛宮を追い出しておいて、よくもあんな口がきける」 「なんだ一成、居たのか」 「なんだとはなんだ! 気を利かして聞き耳を立てていた友人に向かって、なんと冷淡な男だオマエは!」 「? なんで気を利かすのさ。俺、一成に心配されるような事してないぞ」 「たわけ、心配もするわ。衛宮はカッとなりやすいからな。慎二に殴りかかれば皆は喝采を送るが、女どもからは非難の嵐だ。友人をそんな微妙な立場に置くのはよろしくない」 「そっか。うん、言われてみればそうだ。ありがとう一成。そんなコトにはならないだろうけど、今の心配はありがたい」 「うむ、分かればよろしい。……だが意外だったぞ。衛宮は怒りやすいクセに、間桐には寛大なんだな」 「ああ、アレは慎二の味だからな。つきあいが長いと慣れてくる」 「ふむ、そんな物か」 「そんな物です。ほら、納得したら席に戻れよ。そろそろ藤村先生がスッ飛んでくるぞ」 「ははは。あの方は飛んでくるというより浮いてくるという感じだがな」  ホームルーム開始の鐘が鳴る。  通常、クラス担任は五分前に来るものだが、このクラスの担任はそういう人ではない。  2年C組にとってホームルームの開始は今のベルから一分ほど経過したあと、つまり、   「遅刻、遅刻、遅刻、遅刻、遅刻~~~!」    なんて叫びながら、ダダダダダー、と突進してくる藤ねえを迎え入れる所から始まるのだ。 「よし間に合ったーあ! みんな、おは――――」  ぎごん、と。  生物的にヤバイ音をたてて、藤ねえはスッ転んだ。 「――――――――」  さっきまでの慌ただしさから一転、教室はなんともいえない静寂に包まれる。  この唐突なまでの場面転換。  さすが藤ねえ、人間ジェットコースターの名は伊達じゃない。  ……にしても、今のはシャレにならない角度だった。  藤ねえは教壇に頭をぶつけたまま倒れている。  俯せになって顔が見えないところがまた、否応無しに嫌な想像をかき立てる。 「……おい、前の席のヤツ、先生起こしてやれよ」 「……えー、やだよー……近づいた途端、パクッって食べられたら怖いもん……」 「……ミミックじゃあるまいし、さすがに藤村でもそこまでやらねえだろ」 「アンタね、そういうんなら自分で起こしてあげなさいよ」 「うわ、俺パス。こういうの苦手」 「あたしだって苦手よ! だいたいなんで女の子にやらせるわけ!? 男子やりなさいよね、男子!」  最前列はなにやら荒れ始めている。  席が真ん中あたりにある我々としては、いまいち藤ねえがどんな惨状になっているか判らない。    判らないんで、みんなで席を立ってのぞき込む。 「ちょっと、先生動いてないぞ。気絶してんじゃないのか」  もっともな意見を誰かが言った。  ただ問題は、その場合どうやって藤ねえを保健室まで連れて行くかだ。  みんなも、ここ一年藤ねえとつき合ってきた猛者たちだ。  いい加減、担任を保健室に連れて行く、なんて慣習は打破したいと思っているのではなかろうか。 「ふじむらセンセー……? あのー、大丈夫ですかー?」    勇気ある女生徒が声をかける。  藤ねえはピクリとも動かない。  動揺はますます広がっていく。 「……まずいって今の転び方。こう頭から直角に教壇に突っ込んだじゃないか。アレで無傷だったら藤村無敵っぽいって」 「んー、いっそのこと野球部にスカウトするのはどうだろう」 「や、やめろよなそういう脅しは……! タイガーが顧問になった日にゃ、オレたち甲子園いっちまうぞ!?」 「藤村センセ、藤村センセー……! だめ、なんか反応ないよぅ……!」 「おい、おまえ目の前なんだから起こしてやれよ」 「ええ!? イヤだよオレ、もし死んでたら殺されかねねえ!」 「でもぉ、だからってほっといたら後が怖いと思うしぃ」 「でも誰も近づきたくない、と」 「……仕方ねえなあ。こうなったらアレしかないか」 「うん、アレだね」  みんなの心が一つになる。  ……ああ、例外として俺と慎二だけは、そんな恐ろしいコトはできないので黙っていた。 「せーのっ、起きろー、タイガー」    全員が声を合わせたわりには、呟くような大きさだった。  とくに『タイガー』の発音は聞こえないぐらい小さい。  だというのに。    ……ぴくっ。  と、沈黙していた藤ねえの体が反応する。 「うお、動いた!? 効き目ありだぞみんな!」 「よし続けろ! ガコロウトンの計じゃ!」  期末試験が迫ってきているんで、みんなてんぱっていたんだろう。  よせばいいのに、ブンブンと腕を振り回して藤ねえのあだ名を連呼する。 「起きろータイガー。朝だぞー」 「先生、起きないとタイガーです!」 「負けるなタイガー! 立ち上がれタイガー!」 「よーし、起きろ先生! それでこそタイガーだぜ!」 「ターイーガー! ターイーガー!」         「がぁ―――!  タイガーって言うな―――っ!」  轟雷一閃。  あれほどの打撃をうけてノーダメージだったのか、雄々しく大地に立つ藤ねえ。 「……あれ? みんな何してるの? だめよ、ホームルーム中に席を立っちゃ。ほらほら、始めるから座りなさい」    藤ねえはいつもの調子で教壇に立つ。  ……どうも、教室に飛び込んできてから立ち上がるまでの記憶が、ポッカリ抜け落ちているようだ。 「……おい、タイガー覚えてないみたいだぞ」 「……ラッキー、朝からついてるな、俺たち」 「……いや、ついてるっていうのかな、こういうの……」  ガヤガヤとそれぞれの席に戻る生徒たち。 「むっ。いま誰か、先生のことバカにしなかった?」 「いえ、してないっすよ。気のせいじゃないっすか」 「そっか、ならよし。じゃあ今朝のホームルームをはじめるから、みんな大人しく聞くように」  藤ねえはのんびりとホームルームを始める。  ちょっとした連絡事項の合間合間に雑談をするもんだからちっとも進まない。 「そういう訳だから、みんなも下校時刻を守るように。  門限は六時だから、部活の子たちも長居しちゃだめよ」 「えー、六時っていったらすぐじゃんかー。大河センセー、それって運動系は免除されないの?」 「されませんっ。それと後藤くん、先生のことは藤村先生って言わなくちゃダメなんだから。次に名前で呼んだら怒るからね?」 「はーい、以後注意しまーす」  後藤くんは全然注意しないよーな素振りで着席した。  ……なんて甘い。  藤ねえは怒るといったら怒る人だ。相手が生徒だろうが自分が教師だろうが関係ない。  今のは限りなく本気に近い最後通牒なんだって、後藤のヤツ気づいていない。 「それじゃ今日のホームルームはここまで。みんな、三時限目の英語で会おうねー!」  手のひらをヒラヒラさせて去っていく藤ねえ。  2年C組担任、〈藤村大河〉《ふじむらたいが》。  あだ名はタイガー。  いやもう本気かってあだ名だけど、本当なんだから仕方がない。  大河なんて名前がついているからそう親しまれているのだが、藤ねえ本人はタイガーというあだ名を嫌がっている。  藤ねえ曰く、女の子らしくない、とかなんとか。  けど本人がああいう人なんで、あだ名が女の子らしくないのは当然というか自業自得だろう。 「授業を始める。日直、礼を」  そうして、藤ねえと入れ違いで一時限目の先生が入ってくる。  藤ねえが時間ギリギリまでホームルームをするせいで、うちのクラスの朝はいつもこんな感じだった。  そうして、いつも通り一日の授業が終了した。  部活動にいそしむ生徒、早足で帰宅する生徒、用もなく教室に残る生徒、そのあり方は様々だ。  自分はと言うと、その三つのどれにも該当しそうにない。 「すまない、ちょっといいか衛宮。今朝の続きなんだが、今日は時間あるか?」 「いや、予定はあると言えばあるけど」  俺だって遊んでいる訳じゃない。  そもそも弓道部を辞めた一番の理由は、アルバイトを優先したからだ。  親父が他界した後、生活費ぐらいは自分で出すとアルバイトを始めてもう五年。  それだけ色んな仕事をしていると、断れない付き合いというのも出てきてしまう。  とくに今日のはそういう物だ。  飲み屋の〈棚卸〉《たなおろ》しで、とにかく男手は多いほどいいから手伝いに来られるのなら来てほしい、という物だった。  ただ、自分が行かなければいけない、という手伝いでないのも確か。アレは単に、仕事が終わった後で騒ぎたいから知り合いを集めている類だし。 「――――」  選択肢は二つ。  俺は――――    やりかけた仕事だしな。  朝の続きを済ませてしまおう。 「予定変更。朝の続きだろ、任せろ。試験が始まる前に備品の修理なんて済ませちまおうぜ」 「助かる。それでは美術部の患者を見に行くとするか」 「あいよ。……っと、人払いはちゃんとしてくれよ。人目があると集中できない」 「無論だ。他の連中に邪魔はさせぬ」  早足で廊下に向かう一成に倣って、こちらも早足で教室を後にした。  校舎を出るともう完全に日は落ちていた。  学校の門は閉ざされている。  時刻は七時、門限は完全にオーバーしているが、一成のとりなしでお咎めはまったくなかった。 「いや、今日は助かった。必ずこの礼はするから、何かあったら遠慮なく言ってくれ」 「そうだな、何かあったら言うよ。まあ、とりわけ何もないとは思うけど」  別に礼がほしくて手伝いをした訳でもなし、一成に無理を言うような頼み事はないだろう。 「……まったく、人が良いのも考え物だな。衛宮がいてくれると助かるが、他の連中にいいように使われるのは我慢ならん。人助けはいい事だが、もう少し相手を選ぶべきではないか。衛宮の場合、来る人拒まず過ぎる」 「? そんなに節操ないか、俺」 「うむ。これでは心ないバカどもがいいように利用しようというものだ。衛宮も忙しい身なのだから、たまには他人の頼みなど断ってもよかろう」 「――――」  いまいち判断がつかないが、つまり一成は俺の心配をしているらしい。  衛宮は頼み事を持ちかけられると断らない。それでいて見返りは求めないから助かる、というのは中学の頃から言われてきたコトだ。  それを一成は危うく思っているのだろう。  もっとも、こっちは好きでやってる事だし、自分じゃ無理だな、と判断した事はきっぱりと断っているから問題はない。 「それは一成がするような心配じゃない。自分の事は自分が一番分かってるさ。それに、人助けは善行だろ。寺の息子が咎めるような事じゃあるまい」 「しかしな、衛宮のは度が過ぎるというか、このままいくと潰れるというか」 「忠告は受けとっとく。それじゃまた明日、学校でな」 「……うむ。それではまた明日」  納得いかない顔つきのまま一成は去っていく。  一成の家である柳洞寺はここからお山に向かわなければならない。当然、帰り道は別々という事だ。    一成には悪いが、やはりバイトを優先しよう。    顔を出すと確約した訳じゃないが、出来るかぎり善処すると言ったからには守らないと。 「いや、悪い一成。先約があるんで、今朝の続きはまたにしてくれないか」 「先約……? ああ、例のアルバイトか。そうか、それは困らせたな。こちらは今日明日で進退が決まるものでもない。俺の頼みなど気にせず労働に励んでくれ」 「すまん。明日の朝一で続きをするから、それでチャラにしてくれ」 「ん? そこまで深刻な話でもないと言っただろう。急を要していた物は今朝で片付いた。残った修理品は衛宮の手が空いた時で構わんさ」 「そっか。じゃ、バイトの休みが取れたら続きをするってコトでいいかな?」 「仔細ない。その時はまた頼りにするぞ、衛宮」  ではな、と堅苦しい挨拶をして教室を後にする一成。 「――――さて」  こっちもグズグズしてはいられない。  時間指定こそないものの、バイトに行くと決めたのなら急いで隣町に行かないと。 「……まいったな。ほんの手伝いのつもりだったのに、三万円も貰ってしまった」  棚から牡丹餅というか、瓢箪から駒というか。  今日のバイト先のコペンハーゲンは飲み屋兼お酒のスーパーマーケットみたいな所で、棚卸しには何人もの人手が必要になる。  少なくとも五人、あとはいればいるだけ楽になるという一大作業だ。  だと言うのにおやじさんはいつもの調子で、   『手伝える人は手伝ってねーん』    なんて、バイト全員に声をかけて安心しきっていたらしい。  で、フタを開けてみれば手伝いにきたアルバイトは俺一人で、あとは〈店長〉《おやじ》さんと娘のネコさんだけという地獄ぶりだった。 「バカだねアンタ、そりゃ誰も来るわけないじゃん」    おやじさんをなじるネコさんだったのだが、その予想に反して顔を出した生贄一人。 “おおー”と二人は緊張感のない拍手をして俺を迎えてくれて、仕方ないから出来る範囲で倉庫を整理しよう、という運びになった。    ――――で。  気が付けば二時間後、棚卸しは予定通り終わっていた。 「驚いたなあ。士郎くんはアレかな、ブラウニーか何かかな?」  作業後の一服、こげ茶色のケーキを食べながらおやじさんは感心していた。 「違いますっ。力仕事には慣れてるし、ここのバイトも長いし、倉庫の何処に何があるかぐらいは把握してるからですっ! 伊達にガキの頃からここで働かせてもらってません!」 「そっかー。あれ、士郎くんってもう五年だっけ?」 「そのぐらいですね。〈切嗣〉《オヤジ》が亡くなってからすぐに雇ってくれたの、おやじさんのトコだけだったし」 「ありゃりゃ。うわー、ボクも歳を取るワケだ」  もむもむとラム酒入りのケーキを頬ばるおやじさん。  ネコさんはとなりで熱燗をやっている。  ここの一家は店長が甘党で娘さんが辛党という、バランスのいい嗜好をしていらっしゃる。  で。   「んー、けど助かったわー。こんだけやってもらって、お駄賃が〈現物支給〉《ケーキ》だけっていうのもアレだし、はい、これボクからの気持ち」    ピラピラと渡されたのが万札三枚。  一週間フルに働いても届かない、三時間程度の労働には見合わない報酬だった。 「あ、ども」  さすがに戸惑ったが、貰えるからには貰っておいた。  そうしてコペンハーゲンを後にしようとしたおり、   「……んー、ちょい待ち。エミヤん、今日の話誰から聞いた?」    疲れたー、とストーブの前で丸まっていたネコさんに呼び止められた。 「えーと、たしか古海さんですけど」 「……はあ、学生に自分の仕事おしつけるんじゃないってのよ、あのバカ。まあそれはいいとして……なに、じゃあ今日の棚卸し、また聞きだったのに来たんだ」 「あー……まあ、暇だったら手伝ってくれって感じで」 「――――古海もバカだけど、エミヤんもお馬鹿さん?  まあいいけど。キミさあ、人の頼みを断ったコトないでしょ。前にアタシと父が風邪で寝込んだ時も店番してくれたし」 「? 別にそんな事はないですけど。俺、無理な注文は受けませんもん。自分で出来る事で、出来る場合だけ引き受けますから」 「……ふうん。あん時、キミも風邪引いてたんだけどね。  まあいいけど。えーと、アタシが何を言いたいかって言うとですね、エミヤんはいいヤツで、ちょっとバカで、そのあたりアタシは心配なので今度藤村にちょっとは顔出せやコラと伝えておいてほしいのです」  くい、と熱燗を飲みながらネコさんはクルクルと指を回す。  俺をトンボか何かと勘違いしているっぽい。 「はあ。……えーと、とにかく藤ねえに伝言?」 「そ。じゃね、あんまし頑張りすぎんなよ少年」 「……と、いつのまにか橋越えてら」    隣町の新都から深山町まで、ぼんやりしているうちに着いてしまっていた。  テーブルに朝食が並んでいく。  鶏ささみと三つ葉のサラダ、鮭の照り焼き、ほうれん草のおひたし、大根とにんじんのみそ汁、ついでにとろろ汁まで完備、という文句なしの献立だ。  桜と二人、きちんと座っておじぎをして、静かに食事を始める。  カチャカチャと箸の音だけが響く。  基本的に桜はお喋りではないし、こっちもメシ時に話をするほど多芸じゃない。  自然、食事時は静かになる。  普段はもうちょっと〈喧〉《やかま》しいのだが、今朝に限ってその喧しい人は、    昨夜スパイ映画でも見たのか、新聞紙で顔を隠しながら、俺たちの様子を窺っていた。 「藤村先生、ご飯時に新聞は見ない方がいいと思いますよ?」 「…………………」  遠慮がちに話しかける桜を無視する藤ねえ。  あまりにも怪しいが、朝の食卓で藤ねえが挙動不審なのはいつものコトだ。  桜も慣れているのか、とりわけ気にした風もなくご飯を食べている。  桜は、どちらかというと洋風の食事を作る。  和風の料理を覚えたのはうちに手伝いに来てからだ。  俺と藤ねえがとことん和風な舌だったから、桜もせめて朝ぐらいは、と軽い和風料理を覚えてくれたのだ。  今では師匠である俺を上回るほど桜の腕前は上がっている。  みそ汁の味も上品だし、最近では山芋を擦ってとろろ汁を作るまでの余裕を見せている。  というか、とろろ汁は今日が初出ではなかろうか。 「わるい。桜、醤油とって」 「はい―――って、大変です先輩。先輩のお醤油は昨日で切れてます」 「んじゃ藤ねえのでいいや。とって」 「藤村先生、いいですか?」  ん、と頷く藤ねえ。  ガサリ、と新聞紙が揺れる。 「はいどうぞ。とろろ汁に使うんですか?」 「ああ。とろろには醤油だろ、普通」  つー、と白いとろろに醤油をかける。  ぐりぐりとかき回した後、ごはんにかけて一口。  うむ、このすり下ろされた山芋の粘つき加減と、自己主張の激し過ぎる強烈な醤油の辛さがまた――――   「ごぶっ……! うわまず、これソースだぞソース! しかもオイスター!」   「くく、あはははははは!」    ばさり、と勢いよく新聞紙を投げ捨てる藤ねえ。 「どうだ、朝のうちにソースとお醤油のラベルを取り替えておく作戦なのだー!」  わーい、と手をあげて喜ぶ謎の女スパイ。 「あ、朝っぱらから何考えてんだアンタはっ! 今年で二十五のクセにいつまでたっても藤ねえは藤ねえだな!」 「ふふーんだ、昨日の恨み思い知ったかっ。  みんなと一緒になってお姉ちゃんをいじめるヤツには、当然の天罰ってところかしら?」 「天罰ってのは人為的なモンじゃないだろ! なんか大人しいと思ったら昨日からこんなコト考えてやがったのか、この暇人っ!」 「そうだよー。おかげでこれから急いでテストの採点しなくちゃいけないんだから。うん、そーゆーワケで急がないとヤバイのだ」  しゅた、と座り直すなり、ガババー、と凄い勢いで朝食を平らげる藤ねえ。 「はい、ごちそうさま。朝ごはん、今日もおいしかったよ桜ちゃん」 「ぁ……はい。おそまつさまでした、先生」 「それじゃあ先に行くわね。二人とも、遅刻したら怒るわよー」  んでもって、だだだだだー、と走り去っていく。  ……アレでうちの学校の教師だっていうんだから、世の中ほんと間違っている。 「……あの、先輩?」 「すまない。せっかくの朝食だっていうのに、藤ねえのヤツろくに味わいもしないで」 「いえ、そういうのではなくて……あの、昨日藤村先生に何かしたんですか? 食べ物に細工するなんて、藤村先生にしてはやりすぎですから」 「ん……いや、それがさ。昨日、ついアダ名で呼んじまった」 「それじゃあ仕方ありませんね。先輩、藤村先生に謝らなかったんでしょう?」 「面目ない。いつものコトなんで忘れてた」 「だめですよ。藤村先生、先輩にあだ名を言われるのだけは嫌がるんですから。また泣かせちゃったんでしょう」 「……泣かした上に脱兎の如く走り去らせた。おかげで昨日の英語は自習だった」  そして俺はみんなからルーズリーフで作られた学生名誉賞を受賞したが、そんなものは当然ゴミ箱に捨てた。 「もう。それじゃ今朝のは先輩が悪いです」  桜にとっても藤ねえは姉貴みたいなもんだから、基本的に藤ねえの味方なのだ。  それはそれで嬉しいのだが、藤ねえの相手を四六時中しているこっちの身にもなってほしい。  もともと藤ねえは〈切嗣〉《オヤジ》の知り合いで、俺が養子に貰われた頃からこの家に入り浸っていた人だ。  親父が他界してからも頻繁に顔を出すようになって、今では朝飯と晩飯をうちで食べていく、という見事なまでの居候ぶりを示している。    ―――いや。  そんな藤ねえがいたから、親父が死んでからも一人でやってこれたのかもしれない。  今では俺と藤ねえと桜、この三人が衛宮家の住人だった。  ……とは言っても、親父が魔術師だったのを知っているのは俺だけだ。    曰く、魔術師はその正体を隠すもの。    だから親父に弟子入りした俺も、魔術を学んでいる事は隠している。  ただ、学んでいると言っても満足な〈魔術〉《モノ》は何一つも使えない半人前だ。  そんな俺が魔術を隠そうが隠すまいが大差はないだろうが、一応遺言でもあるし、こうして隠しながら日々鍛練を続けてきた訳である。  朝食を済ませて、登校の支度をする。  テレビから流れるニュースを聞きながら、桜と一緒に食器を片づける。 「―――」  桜はぼんやりとテレビを眺めていた。  画面には“ガス漏れ事故、連続”と大げさなテロップが打ち出されている。  隣町である〈新都〉《しんと》で大きな事故が起きたようだ。  現場はオフィス街のビルで、フロアにいた人間が全員酸欠になり、意識不明の重体に陥ってしまったらしい。  ガス漏れによる事故とされているが、同じような事故がここのところ頻発している。 「今のニュース、気になるのか桜」 「え――いえ、別に。ただ事故が新都で起きているなら近いなあって。……先輩、新都の方でアルバイトしていますよね?」 「してるけど、別にそんな大きな店じゃないよ。今のニュースみたいな事故は起きないと思う」  ……とは言っても、あまり他人事ではない事件だった。  ガス漏れならどんな建物でも起きるものだし、なにより数百人もの人間が被害にあっている、というのは胸に痛い。  同じような事故が頻発しているのは、新都を急開発した時に欠陥工事をしたからだ、なんて話もあがっているとか。    真偽はどうであれ、これ以上の犠牲者は出てほしくないというのが正直な気持ちだが――― 「……物騒な話だ。俺たちも気をつけないと」 「あ、それならご心配なく先輩。ガスの元栓はいつも二回チェックしてますから安心です」  えっへん、と胸をはる桜。   「いや、そういう話でなくて」    ……うん。前から思っていたけど、桜も微妙にズレてるな。 「先輩、裏手の戸締まりはしました?」 「したよ。閂かけたけど、問題あるか?」 「ありません。それじゃあ鍵、かけますね。先輩、今日のお帰りは何時ですか?」 「少し遅くなると思う。桜は?」 「わたしはいつも通りです。たぶんわたしの方が早いと思いますから、夕食の下準備は済ませておきますね」 「……ん、助かる。俺も出来るだけ早く帰るよ」  がちゃり、と門に鍵をかける。  桜と藤ねえはうちの合い鍵を持っていて、戸締りは最後に出る人間がする決まりだ。 「行こうか。急がないと朝練に間に合わない」 「はい。それじゃ少しだけ急ぎましょうか、先輩」  桜と一緒に町へ歩き出す。  長い塀を抜けて下り坂に出れば、あとは〈人気〉《ひとけ》の多い住宅地に出るだけだ。  衛宮の家は坂の上にあって、町の中心地とは離れている。  こうして坂を下りていけば住宅地に出て、さらに下りていくと、  町の中心地である交差点に出る。  ここから隣町に通じる大橋、  柳洞寺に続く坂道、  うちとは反対側にある住宅地、  いつも桜と自分がお世話になってる商店街、  最後にこれから向かう学校と、様々な分岐がある。  寄り道をせず学校へ向かう。  まだ七時になったばかり、という事で通学路に人気はない。  自分たちの他には、朝の部活動をする生徒たちがのんびりと歩いているぐらいだった。 「それじゃまたな。部活、がんばれよ」  校門で桜と別れるのもいつも通り。  桜は弓道部に所属しているので、朝はここで別れる事になる。 「………………」  というのに。  今朝にかぎって、桜は弓道場へ向かおうとはしなかった。 「桜? 体の調子、悪いのか」 「……いえ、そういう事じゃなくて……その、先輩。たまには道場の方に寄っていきませんか?」 「いや、別に道場に用はないぞ。それに今日は〈一成〉《いっせい》に頼まれてるから、生徒会室に行かないとまずい」 「……そ、そうですよね。ごめんなさい、余計なことを言っちゃって」  ぺこり、と頭をさげる桜。 「?」 「それじゃあ失礼します。晩ご飯、楽しみにしていてくださいね」  桜は申し訳なさそうに道場へ走り去っていった。 「……?」  はて。今のは一体どんな意味があったんだろう……?  夜の町並みを行く。  時刻は七時半頃だろう。  この時間ならぽつぽつと人通りがあってもいいのに、外には〈人気〉《ひとけ》というものがなかった。 「……そういえば、たしか」  つい先日、この深山町の方でも何か事件が起きたんだったっけ。  押し入り強盗による殺人事件、だったろうか。  人通りが無いのも、学校の下校時刻が六時になったのも、そのあたりが原因か。 「……ガス漏れに強盗か。物騒な事になってきたな」  これじゃあ夜に出歩こう、なんて人が減るのも当然だ。  桜を一人で帰らせるのも危なくなってきた。  藤ねえはともかく、桜の家は反対側の住宅地にある。  今日からでも夜は送っていかなくては――― 「……ん?」  一瞬、我が目を疑った。  人気がない、と言ったばかりの坂道に人影がある。  坂の途中、上っているこっちを見下ろすように、その人影は立ち止まっていた。 「―――――――」  知らず息を呑む。  銀の髪をした少女はニコリと笑うと、足音もたてず坂道を下りてくる。  その、途中。           「早く呼び出さないと死んじゃうよ、お兄ちゃん」  おかしな言葉を、口にしていた。  坂を上がりきって我が家に到着する。  家の明かりが点いているのを見ると、桜と藤ねえはもう帰ってきているようだ。  居間に入るなり、旨そうなメシの匂い。  テーブルには夕食中の桜と藤ねえの姿がある。  今晩の主菜はチキンのクリーム煮らしく、ホワイトソース系が大好きな藤ねえはご機嫌だ。 「お帰りなさい先輩。お先に失礼していますね」 「ただいま。遅くなってごめんな。もうちょっと早く帰って来ればよかったんだけど」 「いいです、ちゃんと間に合いましたから。ちょっと待っててくださいね、すぐ用意しますから」 「うん、頼む。手を洗ってくるから、人のおかずを食べないように藤ねえを見張っといてくれ」 「はい、きちんと見張っています」  自分の部屋に戻る。  土蔵に比べればあんまりにも物がない部屋だが、そもそも趣味がないからこれでも飾ってある方だ。  大半は藤ねえがポイポイと置いていった用途不明の品物ばっかりなんだけど。  手を洗い、着替えを済ませて戻ってくると、テーブルには夕食が用意されていた。 「いただきます」 「はい、お口にあえばいいんですけど……」  桜はあくまで奥ゆかしい。  ここ一年で桜の料理の腕は飛躍的に向上している。  洋風では完敗、和風ならまだなんとか勝てそう、中華はお互いノータッチ、という状況だ。  教え子が上達するのは嬉しいのだが、弟子に上回られる師匠っていうのもなんとなく寂しい。 「――――む」  やはり巧い。  鶏肉はじっくり煮込めば煮込むほど硬くなってしまう。  故に、面倒でも煮る前に表面をこんがりと焼いておくと旨味を損なわずジューシーな仕上がりになる。  そのあたりの加減が絶妙で、不器用な藤ねえには決して真似できない匠の技だ。 「どうでしょうか先輩……? その、今日のはうまくいったと思うんですけど……」 「文句なし。ホワイトソースも絶妙だ。もう洋物じゃ桜には敵わないな」 「うんうん、桜ちゃんがご飯作ってくれるようになってから、お肉関係がおいしくなった」  と。  今までもぐもぐと食事に専念していた藤ねえが顔を上げた。 「あ。だめよー、士郎。学生がこんな夜更けに帰って来ちゃいけないんだからっ」  ……あちゃ。  桜の夕食でご機嫌かと思われていたが、俺の顔を見たとたんご機嫌ななめになった模様。 「もう、また誰かの手伝いをしてたんでしょ。それはそれでいい事だけど、こんな時ぐらいは早く帰ってきなさい。最近物騒だぞってホームルームで言ったじゃない。  アレ、士郎に対して言ったんだからね」 「……あのさ。わざわざホームルームで言わなくても、うちで言えばいいんじゃないの?」 「ここで言っても聞かないもの。学校でがつーんと言った方が士郎には効果的なんだもん」 「……先生、それは職権濫用というか、公私混同だと思います」 「ううん、それぐらいしないと士郎はダメなのよ。  いつも人の手伝いばっかりして損してるからさ。たまにはまっすぐ帰ってきてのんびりしててもいいじゃない、ばかちん」 「むっ。バカチンとはなんだよバカチンとは。いいじゃないか、誰かの手伝いをして、それでその人が助かるなら損なんかしてないぞ」 「……はあ、切嗣さんに似たのかなぁ。士郎がそんなんじゃお姉ちゃん心配だよ」  どのあたりが心配なのか、もぐもぐと元気よくご飯を食べる藤ねえ。 「……あの、藤村先生。今の話からすると、先輩って昔からそうなんですか?」 「うん、昔からそうなの。なんか困ってる人がいたら自分から手を出しちゃうタイプ。けどお節介ってわけじゃなくて、士郎はね、単におませさんなのだ」  ふふふ、となにやら不穏な笑みをこぼす藤ねえ。 「藤ねえ。余計なコト言ったら怒るぞ。桜もつまんないこと訊くなよな」  じろり、と二人を睨む。  藤ねえはちぇっ、と舌打ちして引っ込んでくれたが、「藤村先生、お話を続けてください」  むん、とマジメに授業を受ける桜がいた。 「じゃあ話しちゃおう。これがねー、士郎は困った人を放っておけない性格なのよ。弱きを助け強きをくじくってヤツ。子供の頃の作文なんてね、ボクの夢は正義の味方になる事です、だったんだから」 「――――」  ……また昔の話をするな、藤ねえも。  けど全部本当の事なので口は挟めない。  そもそも、正義の味方になるって事は今でも破っちゃいけない目標だ。 「うわあ。すごい子供だったんですね、先輩」 「うん、すごかったよー。うーんと年上の男の子にいじめられてる女の子がいたら助けに入ってくれたし、切嗣さんが無精だったから家事だって一生懸命こなしてたし」 「あーあ、あの頃は可愛くて純真だったのに、それがどうしてこんな捻くれた子になっちゃったんだろうなー」 「そりゃあ藤ねえがいたからだろ。ダメな大人を見てると子供は色々考えるんだよ。悔しかったらちゃんと自分でメシ作ってみろ」 「――――――な」  がーん、と打ち崩れる藤ねえ。  そのままうなだれて反省するかと思えば、 「うう、お姉ちゃんは悲しいよう。桜ちゃん、おかわり」  ずい、と三杯目のお茶碗を差し出していた。  夕食を終えてのんびりしていると、時計は九時にさしかかろうとしていた。 「さて、何をしたもんか」  夜の鍛錬まで時間がある。  ここは――――    ……あー、食後の軽い運動がてらに藤ねえの様子を見るのも一興かな。   「―――だな。桜につまんない話しやがって、隙あらば仕返ししてやる」 「ん? なに、お風呂入ってたんじゃないのー?」  食後のデザートのつもりか、藤ねえはもくもくとミカンを剥いていた。  テーブルには水中花じみたミカンの皮が二つほど転がっている。 「………………」  リンゴの皮剥きは出来ないクセに、ミカンの皮剥きだけが芸術的なのは何かの呪いなんだろーか。 「風呂は後にした。さっきの話でケチついたんで、風呂の前に文句言っとこうと思って」 「えー? 別にいいじゃん、もう昔のコトなんだし、桜ちゃんも喜んでたし。それよりはい、今日のノルマ。士郎は一日一個だからね」  ひょい、と籠から小さなミカンを手にとって投げつけてくる。 「うわっと……って、ミカンぐらいで懐柔されないぞ。  桜だったからいいようなものの、学校であんな話するなよ。一成あたりがヘンな心配するから」 「美綴さんは大笑いしそうだけどねー。……なーんて、言われなくてもわかってるわよ。士郎の子供の頃の話なんて、桜ちゃん以外にはしないから」 「だーかーらー、桜にもするなって言ってるの。あんなつまんない話されたら桜だっていい迷惑だろ。……もうないと思うけど、今度やったら怒るからな」  本気だぞっ、と気合をこめて藤ねえを睨む。 「ははーん。なあんだー、そっかー、そういうわけ、つまり士郎はそうなのようー」  だっていうのに、にんまりと口元をにやけさせて藤ねえご満悦。 「……あ。なんかこう、カチンときたかも。なに納得してんだよ、ばか虎っ」  むむー、と藤ねえの間抜け顔を睨む。 「虎でもいいよーだ。ようするにアレでしょ、士郎は桜ちゃんに知られるのがイヤだったのよ。  他の人に“正義の味方になりたい”なんて知られても気にしないけど、桜ちゃんに知られるのは恥ずかしかったワケね」 「な――――」  そ、そんなコトは、ないと思う、けど。 「うんうん、そういうコトならどんどん話しちゃうから。  そっかー、士郎もようやく桜ちゃんを意識しだしたかー。  教師としてちょっと心配だけど、保護者としてはちょっと安心したかな。けどお姉ちゃんはちょっと寂しいかな」  なにやら感慨深げに言って、はむ、とミカンを丸ごと口に含む。  藤ねえは拳大ぐらいの食べ物なら一口で口に放り込める。  サバンナあたりならわりとズキューンとくる仕草だと思うのだが、成熟した女の人にそんなワイルドな魅力は必要ないと思う。 「あれ? 先輩、お風呂入ってたんじゃないんですか?」    と。  洗い物を済ませた桜が居間にやってきた。 「ああ、藤ねえに話があってちょっと後回し。桜、ミカン食べるか?」  籠に載せられた大量のミカンに手をやる。  予想外の展開だが、三人で食後の一服をするのもいいだろう。 「あ、それならさっき藤村先生に戴きました。わたし用にとっておいてくれたおミカンで、おいしかったです」 「桜ちゃんは生の果物はダメだからねー。  調理したヤツか、アイスみたいに冷やしてないと食べてくれないのだ―――って、桜ちゃんそろそろ時間?」 「はい。後片付けも済みましたから、今日はもう帰ります」 「そっか。じゃわたしもおいとまするわ。桜ちゃん、いこ。最近は物騒だから近くまで送っていってあげる」  ミカンの大量摂取を止め、潔く立ち上がる藤ねえ。  その立ち姿は責任感のある年長者のようだ。 「え……いいんですか、先生?」 「当然でしょ。桜ちゃんも士郎もわたしが預かってるんだから、ちゃんと家まで送り届けないと。士郎もそれでいいでしょ? わたしたちが帰ったら、ちゃんと戸締りして寝るのよ」 「――――了解。藤ねえなら痴漢が出ようがクマが出ようが安心だ」 「そうでもないわよー。さすがにクマは無理でしょ。うん、無理だからここまで逃げ帰ってくるね。そしたら二人でやっつけて、明日はクマ鍋かな」  余裕げに微笑む藤ねえ。  ……うん。  藤ねえは普段はマイペースすぎてまわりをとんでもスペースに巻き込むのだが、教師である藤ねえは惚れ惚れするぐらい責任感溢れる人なのだ。 「行こっか桜ちゃん。それじゃまた明日ね士郎」 「はい。それじゃあおやすみなさい、先輩」 「ん」  屋敷を後にする二人。  それを玄関まで見送って、藤ねえの言いつけ通り戸締りを終わらせた。    ―――そうだな。  夜の鍛練に備えて小休止をとっておこう。 「風呂も沸いてるし。桜を家まで送るのは藤ねえにお願いすればいっか」  そうと決まれば効率良く済ませよう。  まずは居間で寝転んでいる藤ねえを起こして、桜に夕食のお礼を言って、帰路につく二人を見送って、風呂に入って一休みだ――――    夕食を作ってもらったお礼もまだだし、桜に挨拶してこよう。 「そうだな。夜も遅いし、家まで送っていってやらないと」  居間では後片づけを済ませ、帰り支度をしている桜がいた。 「あれ、先輩。お風呂に入ってたんじゃないんですか?」 「いや、風呂は後回し。桜を送ってから入る」 「え……送るって、わたしをですか?」 「ああ。最近物騒だから家まで送る。桜ん家、けっこう遠いだろう。わざわざ来て貰ってるんだから、それぐらいはさせてくれ」 「………………」  桜は気まずそうに口を閉ざす。  ……なにかまずい事でも口にしたんだろうか、俺。 「……ごめんなさい。気持ちは嬉しいんですけど、先輩は休んでいてください。家までだったら慣れてますし、一人でも大丈夫ですから」 「いや、それはそうだろうけど、最近物騒だろう。しばらくは家まで送っていくよ」 「……でも、その……兄さんに見つかると、先輩にまで迷惑がかかります」 「ぁ――――」  ……そうだった。  桜の兄貴である慎二は、桜がうちに来ている事をよく思っていない。  表向きは藤ねえの家に行く事になっているから慎二は強くでられないが、ここで俺が送って行ったりしたら何かと問題になる。    ――その、俺が言いがかりをつけられるのはどうでもいいが、慎二が桜にあたるのは良くない。 「けど途中までならいいだろ。交差点あたりまでなら慎二と会う事もないし」 「………………」  桜は気まずそうに黙っている。  桜の事だから、俺が送っていく、という事自体に嘘がつけないのかもしれない。 「ああ、それじゃ――――」 「わたしが送っていこっか?」  ぴょこ、と突如顔をだす虎ガラの英語教師。 「だめだよ、そんなの本末転倒じゃないか。女の子が夜出歩くから危ないっていうのに、さらに女の子を増やして―――」  ……否。  目の前の藤ねえを女の子と呼ぶのは語弊がある。  なにより藤ねえは伊達に弓道部の顧問をしていない。  藤村の爺さんに鍛えられた剣道五段の腕前はシャレじゃすまない。いや、色んな意味で。 「――藤ねえなら大丈夫か。痴漢がでても撃退できるだろうし」 「できるよー? だから桜ちゃんを送っていくのも問題なし。それでいい、桜ちゃん?」 「はい、藤村先生がよろしいのでしたら」 「決まりだね。それじゃ行こっか。わたしも今日はそろそろ帰ろうかなって思ってたんだ」  桜の手を取って歩き出す藤ねえ。 「あ、ちょっと待った。桜」 「? なんですか、先輩?」 「晩飯、うまかったよ。いつもありがとうな」 「――――――――」 「はい。ご迷惑でなかったら次も頑張りますね、先輩」  満面の笑顔でそう言って、桜は居間を後にした。 「――――――――」  自分の頬が赤くなっているのが判る。  ……本当に、最近の桜は不意打ちが多くて困る。  月日の経つのは早いもので、ちょっと前まで後輩だったのに、今では後輩の女の子、になってしまった。  ……情けないな、俺。  今まで桜を家族みたいに思っていただけに、この変化を素直に受け入れられないんだから。    夕食を作ってもらったお礼もまだだし、桜に挨拶してこよう。 「そうだな。夜も遅いし、家まで送っていってやらないと」  居間では後片づけを済ませ、帰り支度をしている桜がいた。 「あれ、先輩。お風呂に入ってたんじゃないんですか?」 「いや、風呂は後回し。桜を送ってから入る」 「え……送るって、わたしをですか?」 「ああ。最近物騒だから家まで送る。桜ん家、けっこう遠いだろう。わざわざ来て貰ってるんだから、それぐらいはさせてくれ」 「………………」  桜は気まずそうに口を閉ざす。  ……なにかまずい事でも口にしたんだろうか、俺。 「……ごめんなさい。気持ちは嬉しいんですけど、先輩は休んでいてください。家までだったら慣れてますし、一人でも大丈夫ですから」 「いや、それはそうだろうけど、今日は特別だ。しばらくは家まで送っていくよ」 「……でも、その……兄さんに見つかると、先輩にまで迷惑がかかります」 「む――――」  いや、慎二がなんと言おうが、こんな物騒な時に桜を一人で帰らせる方が問題じゃないか。 「俺にかかる迷惑なんていい。ともかく最近は物騒なんだから送ってく」 「あの、でも、やっぱり先輩に悪いですから、その」 「悪くない。日頃世話になってるんだから、送るぐらいさせてくれ。それとも一人で帰りたいのか桜は」 「え……いえ、そういうコトではなくて、ですね」 「ならいいだろ。これでも腕には自信があるんだ。たいていの暴漢は返り討ちに出来るから、こんな時ぐらいは使ってやってくれ。なんか出てきてもちゃんと桜を守るから」  ほら、と視線で桜を廊下へ促す。 「先輩……? ホントにいいんですか? また兄さんとケンカ、しちゃうかもしれませんよ」 「構わないよ。男同士でケンカしないほうがヘンだし、慎二とはそれぐらい素直に言いあった方がいいんだ。  あいつ、ああ見えて隠し事とか嫌いだから。文句があるならすっぱりと言い合った方がスッキリする」  と。  なぜか、桜は驚いた顔をする。 「どした? なんかヘンなコト言ったか、俺」 「いえ、言ってませんよ。先輩が兄さんと仲良くしてくれるのが嬉しいだけです」 「? いや、仲良くってのは難しいぞ。スッキリするのは俺だけで、慎二は逆かもしれないし」 「そうですね。けど兄さん、何度ケンカしても先輩に話しかけるでしょう? 兄さん、きっと先輩が苦手なんです。けど他の人よりずっと好きだから、いつも先輩を気にしてるんですよ。素直じゃない人だから、嫌いな人が好きなんです、兄さん」 「……えっと。それは、返答に困る意見だな」 「はい。先輩が羨ましかったから、少しだけ困らせてみました」  にっこりと笑う桜。 「ぁ――――ぅ」  その笑顔に、知らず息を呑んでいた。  満面の笑顔というのか。  あんなふうに桜が笑うの、初めて見た気がする。 「と、とにかく送っていくからな。慎二に見つかったら見つかったでいい。妹を送り届けたんだから、あいつだって文句は言わないだろ」 「そうですね。隠すよりはそうした方がいいかもしれません。それじゃお言葉に甘えていいですか、先輩」 「あいよ。たまには先輩らしいトコ見せてやる」  とん、と胸を叩く。  任せとけ、という意思表示に、桜は温かそうな笑顔で頷いていた。  坂道を下りて、交差点に到着する。  あたりに人影はなく、見慣れた住宅地はひどく寂しく感じられた。 「――――――――」  まだ十時前だというのに、町は完全に眠りについている。  ……その静けさは、どこか異常だ。  物騒な事件が続いているとは言え、夜というものはここまで活気を奪うものだったか。 「先輩……? あの、わたしの家こっちですけど」 「え? ああ、悪い、ちょっとぼうっとしてた。桜の家はあっち側の一番上だもんな」 「いえ、一番上にあるのは遠坂先輩のお家ですよ。間桐の家も高いところにありますけど、一番上じゃないんです」 「あれ、そうだったか? ……って、遠坂ってあの遠坂……?」 「はい、二年生の遠坂凛さんです。先輩、苦手なんですか?」  こっちの心情を察したのか、桜は的確なつっこみをする。  むむ……そんなに苦い顔してたのか、俺。 「いや、苦手ってワケじゃない。話した事もないし、よく知らない相手だ。ただ有名な優等生だろ、あいつ。何処にいても目立つから、人並みに知ってるだけ」 「………………」 「そういう桜は? 同じ洋館だし、もしかして近所づきあいとかあるのか?」 「ないですよ。たしかに近所ではありますけど、遠坂先輩のお家は坂の上ですから。  けど、遠坂先輩のお家が洋館だって知ってるんですね、先輩」  ぼそり、とした声で桜は言う。 「ああ、ちょっと小耳に挟んだんだ。遠坂んところは幽霊屋敷だとかなんとか。幽霊屋敷っていったら洋館と相場が決まってるだろ」 「そうですね。遠坂先輩は一人が好きみたいですから。わたしも子供の頃、坂の上には怖い魔法使いが住んでるって言われてました」 「へえ、怖い魔法使いか。俺もそんなふうな噂は聞いたな。まあ、それ言ったら〈洋館側〉《あっち》の家はみんな魔法使いが住んでいそうだけど。で、桜は信じたのか、その話?」 「信じました。だって子供だったんです。だから、坂の上には行っちゃいけないって、いつも思ってました」  と。  面白半分で聞いたコトに、桜は真剣な顔で答えていた。  坂道を上っていく。  うちの方とは正反対の住宅地だが、その在り方は変わらない。  坂道は上って行けば行くほど建物が少なくなり、人の手が入っていない雑木林が多くなる。  町としての機能は坂の下に集まっているのだから、上に行けば行くほど家が少なくなるのは自明の理だ。  その中で、頂上に近い位置にある数少ない建物が桜の家、間桐邸だ。 「あ」  不意に桜が立ち止まった。 「ん? なんだ、忘れ物か?」 「ぁ……いえ、忘れ物じゃないんですけど……先輩、うちの近くに誰かいませんか?」  不安そうにあたりの様子を窺う桜。 「?」  あたりを見回すが、俺たち以外の人影はなかった。 「別に誰もいないけど、何かあったのか」 「あ……いえ、いないならいいんです。なんか最近、家の近くで見慣れない人をよく見かけるから、今日もいるのかなって」 「――――なんだそれ。なんか危なくないか、そいつ。  どんなヤツなんだよ」 「えっと……あの、金髪の、カッコイイ人でした。モデルさんみたいだから、先輩も見たらびっくりすると思います」  思い出して照れているのか、桜は気恥ずかしそうに言う。 「…………」  ……桜。  それ、俺が心配していいコトなのか、どうなのか。 「なんだ。不審な奴ってワケじゃないんだ」 「……判りません。ただ、最近は引っ越してきた人なんていないから、おかしいなって」 「……ふぅん。ま、とにかく怪しいって言えば怪しいよな。よし、もしまた家のあたりをうろついているようだったら、俺か慎二に言ってくれ。捕まえて何してるのか白状させるから」 「はい、頼りにしてます。けど手荒なことはしないでくださいね。わたし、先輩にケンカされると困ります」  言って、桜はまっすぐに微笑んできた。 「……う。だ、大丈夫だよ。ちゃんと話し合いから始めるから、桜が心配するコトない」  桜の笑顔から視線を逸らして、締まらない返答をする。 「…………」  ……まいったな。  なんか最近、桜の仕草に目を奪われる事が多くなった。  ちょっと前まではなんでもなかったのに、自分でもどうかしてると思う。  桜が成長したからなのか、自分が今更になって気付いたからなのか。  ……その、桜は本当に美人になったと思う。  それは喜ばしいんだけど、こうして目のやり場に困るのは、先輩としてカッコがつかないと思うのだ。 「それじゃあおやすみなさい先輩。送ってもらえて嬉しかったです」 「ば、ばか、礼なんて言うな。晩飯作ってもらってるんだから、お礼を言うのはこっちの方だ」  桜は満足げに微笑むだけだ。 「……ったく。こんなんでいいんなら明日から日課にするからな」 「はい。先輩の気が向いた時、たまにでいいですから送ってください。兄さんに怒られるけど、わたしはやっぱり、先輩と一緒がいいです」 「先輩、また明日ですね! 今日はありがとうございましたー!」  元気いっぱいに言って、桜は間桐邸に消えていく。 「―――――さて」  俺も帰るか。  藤ねえに留守を任せてきたけど、それも正直心配だし。 「…………あれ?」  なんか、いま聞こえなかったか?  ……聞こえる。  キイキイという、ブランコが軋む音。  それが虫の鳴き声だと気付くのに、わりと時間がかかったと思う。 「……どんな虫かな。なんにせよ、季節外れもいいところだ」  冬の寒空の中、闇に潜むカミキリ虫を想像する。  ――――と。 「………あれ。明かりが三つある」  いま明かりがついた部屋は桜の部屋だ。  ……一階の明かりは慎二の部屋だから、そうなると……あの、三つ目の部屋の明かりはなんだろう? 「……? 慎二んとこは桜と慎二しかいない筈だけど……」  お客さんか、それとも単に慎二があの部屋にいるだけなのか。  ともあれ、今まで何度か間桐邸には足を運んだが、あの部屋に明かりが点いているのは初めて見た。 「………………………」  まあ、あれだけ広い家だ。  どこに明かりがつこうと不思議じゃない。  不思議じゃないんだが、こう、 「…………なんだろう。なんか、胸がざわつくな」  〈厭〉《いや》な予感というか、気配がした。  シン、と凍りつく夜空に、季節外れの音がする。  虫の報せ、というものがあるのなら。  草場の陰に潜む虫は、〈三尸〉《ふくちゅう》の虫めいた不吉さがあった。  そうして一日が終わる。  深夜零時前、衛宮士郎は日課になっている“魔術”を行わなくてはならない。 「――――――――」  〈結跏趺坐〉《けっかふざ》に姿勢をとり、呼吸を整える。  頭の中はできるだけ白紙に。  外界との接触はさけ、意識は全て内界に向ける。 「――――〈同調〉《トレース》、〈開始〉《オン》」    自己に暗示をかけるよう、言い慣れた呪文を呟く。  否、それは本当に自己暗示にすぎない。  魔術刻印とやらがなく、魔道の知識もない自分にとって、呪文は自分を変革させる為だけの物だ。  ……本来、人間の体に魔力を通す〈神経〉《ライン》はない。  それを擬似的に作り、一時的に変革させるからには、自身の肉体、神経全てを統括しうる集中力が必要になる。  魔術は自己との戦いだ。  例えば、この瞬間、背骨に焼けた鉄の棒を突き刺していく。  その鉄の棒こそ、たった一本だけ用意できる自分の“魔術回路”だ。  これを体の奥まで通し、他の神経と繋げられた時、ようやく自分は魔術使いとなる。  それは比喩ではない。  実際、衛宮士郎の背骨には、目に見えず手に触れられない“火箸に似たモノ”が、ズブズブと差し込まれている。    ――――僕は魔法使いなんだ。    そう言った衛宮切嗣は、本当に魔術師だった。  数々の神秘を学び、世界の構造とやらに肉薄し、奇跡を実行する生粋の魔術師。  その切嗣に憧れて、とにかく魔術を教えてくれとねだった幼い自分。  だが、魔術師というのはなろうとしてなれる物ではない。持って生まれた才能が必要だし、相応の知識も必要になってくる。  で、もちろん俺には持って生まれた才能なんてないし、切嗣は魔道の知識なんて教えてはくれなかった。  なんでも、そんなモノは君には必要ない、とかなんとか。  今でもその言葉の意味は判らない。  それでも、子供だった自分にはどうでも良かったのだろう。  ともかく魔術さえ使えれば、切嗣のようになれると思ったのだ。  しかし、持って生まれた才能―――魔術回路とやらの多さも、代々積み重ねてきた魔術の業も俺にはなかった。  切嗣の持っていた魔術の業……衛宮の家に伝わっていた魔術刻印とやらは、肉親にしか移植できないモノなのだそうだ。  魔術師の証である魔術刻印は、血の繋がっていない人間には拒否反応が出る。  だから養子である俺には、衛宮家の刻印は受け取れなかった。  いやまあ。  実際、魔術刻印っていう物がなんなのか知らない俺から見れば、そんなのが有ろうが無かろうがこれっぽっちも関係ない話ではある。  で、そうなるとあとはもう出たトコ勝負。  魔術師になりたいのなら、俺自身が持っている特質に応じた魔術を習うしかない。  魔術とは、極端に言って魔力を放出する技術なのだという。  魔力とは生命力と言い換えてもいい。  〈魔力〉《それ》は世界に満ちている〈大源〉《マナ》と、生物の中で生成される〈小源〉《オド》に分かれる。  大源、小源というからには、小より大のが優れているのは言うまでもない。  人間一人が作る魔力である〈小源〉《オド》と、世界に満ちている魔力である〈大源〉《マナ》では力の度合いが段違いだ。  どのような魔術であれ、〈大源〉《マナ》をもちいる魔術は個人で行う魔術をたやすく凌駕する。  そういったワケで、優れた魔術師は世界から魔力を汲み上げる術に長けている。  それは〈濾過器〉《ろかき》のイメージに近い。  魔術師は自身の体を変換回路にして、外界から〈魔力〉《マナ》を汲み上げて人間でも使えるモノ、にするのだ。    この変換回路を、魔術師は〈魔術回路〉《マジックサーキット》と呼ぶ。  これこそが生まれつきの才能というヤツで、魔術回路の数は生まれた瞬間に決まっている。  通常、人間に魔術回路はほとんどない。  それは本来少ないモノなのだ。  だから魔術師は何代も血を重ね、生まれてくる子孫たちを、より魔術に適した肉体にする。    いきすぎた家系は品種改良じみた真似までして、生まれてくる子供の魔術回路を増やすのだとか。  ……まあ、そんな訳で普通の家庭に育った俺には、多くの魔術回路を望むべくもなかった。  そうなると残された手段は一つ。  切嗣曰く、どんな人間にも一つぐらいは適性のある魔術系統があるらしい。  その人間の“起源”に従って魔力を引き出す、と言っていたけど、そのあたりの話はちんぷんかんぷんだ。  確かな事は、俺みたいなヤツでも一つぐらいは使える魔術があって、それを鍛えていけば、いつか切嗣のようになれるかもしれない、という事だけだった。    だから、ただその魔術だけを教わった。  それが八年前の話。  切嗣はさんざん迷った後、厳しい顔で俺を弟子と認めてくれた。            ―――いいかい士郎。魔術を習う、という事は常識からかけ離れるという事だ。死ぬ時は死に、殺す時は殺す。  僕たちの本質は生ではなく死だからね。魔術とは、自らを滅ぼす道に他ならない―――  幼い心は恐れを知らなかったのだろう。  強く頷く衛宮士郎の頭に、切嗣は仕方なげに手を置いて苦笑していた。        ―――君に教えるのは、そういった争いを呼ぶ類の物だ。  だから人前で使ってはいけないし、難しい物だから鍛錬を怠ってもいけない。  でもまあ、それは破ったって構わない。  一番大事な事はね、魔術は自分の為じゃなくて他人の為だけに使う、という事だよ。そうすれば士郎は魔術使いではあるけど、魔術師ではなくなるからね―――  ……切嗣は、衛宮士郎に魔術師になってほしくなかったのだろう。  それは構わないと思う。  俺が憧れていたのは切嗣であって魔術師じゃない。  ただ切嗣のように、あの赤い日のように、誰かの為になれるなら、それは―――― 「――――――――っ」  ……雑念が入った。  ぎしり、と、背骨に突き刺さった鉄の棒が、入ってはいけないところにズレていく感覚。 「っ、ぐ、う――――!」  ここで呼吸を乱せば、それこそ取り返しがつかない。  擬似的に作られた〈魔術回路〉《しんけい》は肉体を侵食し、体内をズタズタにする。  そうなれば終わりだ。  衛宮士郎は、こんな初歩の手法に失敗して命を落とした半人前という事になる――― 「―――、――――、――――――――――――」  かみ砕きかねないほど歯を食いしばり、接続を再開する。  針の山を歩く〈鬩〉《せめ》ぎ合いの末、鉄の棒は身体の奥まで到達し、ようやく肉体の一部として融解した。  ……ここまでで、一時間弱。  それだけの時間をかけ、ようやく一本だけ擬似神経を作り、自らを、魔力を生成する回路と成す。 「――――基本骨子、解明」    あとはただ、自然に魔力を流すだけの作業となる。  衛宮士郎は魔術師じゃない。  こうやって体内で魔力を生成できて、それをモノに流す事だけしかできない魔術使いだ。  だからその魔術もたった一つの事しかできない。  それが―――― 「――――構成材質、解明」    物体の強化。  対象となるモノの構造を把握し、魔力を通す事で一時的に能力を補強する“強化”の魔術だけである。 「――――、基本骨子、変更」    目前にあるのは折れた鉄パイプ。  これに魔力を通し、もっとも単純な硬度強化の魔術を成し得る。  そもそも、自分以外のモノに自分の魔力を通す、という事は毒物を混入させるに等しい。  衛宮士郎の血は、鉄パイプにとって血ではないのと同じ事。異なる血を通せば強化どころか崩壊を早めるだけだろう。  それを防ぎ、毒物を薬物とする為には対象の構造を正確に把握し、“空いている透き間”に魔力を通さなければならない。 「――、――っ、構成材質、補強」    ……熟練した魔術師ならば容易いのだろうが、魔力の生成さえ満足にいかない自分にとって、それは何百メートル先の標的を射抜くぐらいの難易度だ。    ちなみに、弓道における一射は二十八メートル。  その何十倍という難易度と言えば、それがどのくらい困難であるかは言うまでもない―――― 「っ、くっ……!」  体内の熱が急速に冷めていく。  背骨に通っていた火の柱が消え、限界まで絞られていた肺が、貪欲に酸素を求める。   「は―――ぁ、はぁ、はぁ、はぁ、あ――――!」    そのまま気を失いかねない目眩に、体をくの字に曲げて耐えた。 「ぁ――――あ、くそ、また失敗、か――――」    鉄パイプに変化はない。通した魔力は外に霧散してしまったようだ。 「……元からカタチが有る物に手を加えるのは、きつい」    俺がやっている事は、完成した芸術品に筆を加える事に似ている。  完成している物に手を加える、という事は完成度をおとしめる、という危険性をも孕んでいる。  補強する筈の筆が、芸術品そのものの価値を下げる事もある、という事だ。  だから“強化”の魔術というのは単純でありながら難易度が高く、好んで使用する魔術師は少ないらしい。  ……いや、俺だって好んでいるワケじゃないけど、これしか能がないんだから仕方がない。  いっそ形のない粘土をこねて代用品を作っていいなら楽なんだが、そうやってカタチだけ再現した代用品は、外見ばっかりで中身がともなわない。  まわりに転がっているガラクタがそうだ。  強化の魔術に失敗すると、練習がてらに代用品を作って気を落ち着けるのだが、これがそろいもそろって中身がない。  物の設計図を明確にイメージできるが故に、外見だけはそっくりに再現できるのだが中身は空洞、もちろん機能もまったくない。 「――――――――」  びちゃり、と汗ばんだ額をぬぐう。  気が付けば全身、水をかけられたように汗まみれだ。  ……だが、この程度で済んだのは〈僥倖〉《ぎょうこう》だ。  さっきのは本当にまずかった。  持ち直すのが一呼吸遅れていたら、内臓をほとんど壊していただろう。 「……死にかけた分上達するんなら、まだ見込みがあるんだけどな」    そんな都合のいい話はない。  もっとも、死を怖がっていては魔術の上達がないのも道理だ。  魔術を学ぶ以上、死は常に身近にある。  毎日のようにこなしているなんでもない魔術でも、ほんの少しのミスで暴発し、術者の命を奪う。  魔術師にとって一番初めの覚悟とは、死を容認する事だ。    ―――切嗣はそれを悲しげに言っていた。    それは、俺にはそんな覚悟なんてしないでほしい、という意味だったのかもしれない。 「……誰かを助けるという事は、誰かを助けないという事。……正義の味方っていうのは、とんでもないエゴイストなんだ、か……」    切嗣みたいになるよ、と言った子供の俺に、切嗣はそんな言葉を繰り返していた。  その意味は知らない。  ただ、衛宮士郎は、衛宮切嗣のように誰かを助けて回る、正義の味方にならなくてはいけないだけ。 「……その割に、こんな初歩がうまくいかないんだもんな。なんでいざって時に雑念が入るんだ、ばか」    物の構造を視覚で捉えているようでは甘い。  優れた魔術師は患部だけを捉え、無駄なく魔力を流し込む。            ――――ボクの夢は正義の味方になる事です。  夕食の時、藤ねえが言った台詞を思い出す。  それを恥ずかしいとも、無理だとも思わない。  それは絶対に決まっている事だ。衛宮士郎は衛宮切嗣の後を継ぐと。  だから未熟なままでも、出来るかぎりの事をしてきた。  正義の味方っていうのが何者なのかは分からない。  分からないから、今はただ自分の出来る範囲で、誰かの為になる事でしか近づけない。  そうして五年間、ずっと前だけを見てきたつもりだけど、こう上手くいかないと迷ってしまう。   「……ああもう、てんで分からないよ〈切嗣〉《オヤジ》。  一体さ、何をすれば正義の味方になれるんだ」    窓ごしに空を見る。  闇雲に、誰かの為になればいいってワケでもない。  人助けと正義の味方っていうのは違うと思う。  それが分かっているのに、どうすれば違ったモノになれるのか、と。  その肝心な部分が、この五年間、ずっと掴めないままだった。            ―――出来れば、誰も悲しまない方がいい。  自分程度の力添えで周りが幸せなら、それはこの上なく住みやすい世界だと思うんだ。    それが切嗣の口癖だった。  俺にとって正義の味方だった男は、そいつ自身の中では、なり損ねた落第者なのだと語っていた。    説明されるまでもない。  幼かった自分の世界と大人だった切嗣の世界は違いすぎて、正義の味方っていうヤツの合格点が違っていたのだ。  子供だった自分にとって、この家だけが世界だった。  だから〈切嗣〉《オヤジ》と藤ねえと自分と、お気に入りの土蔵をずっと守っていければ十分だった。    俺は目に見えるモノだけを守ろうとした。  だが、切嗣は目に見えない部分までなんとかしたかったのかもしれない。            ―――若い頃は向こう見ずでね。  世の非情を呪う事で、自らを育んでいた。  世界が非情ならば―――それ以上に非情になる事を武器にして、自分の理想を貫こうとしたんだよ。    救われぬモノは必ずある。  全てを救うことなどできない。  千を得ようとして五百をこぼすのなら。  百を見捨てて、九百を生かしきろう。  それが最も優れた手段。  つまり理想だと、切嗣は一度だけぼやいた事がある。    もちろん怒った。  ものすごく頭にきた。  だって、そんなコト言われなくても判っていた。  他の誰でもない、自分自身がそうやって助けられたヤツなんだ。    そんな当たり前の事なんて言われるまでもない。  けど、それでも―――それを踏まえた上でみんなを助けるのが正義の味方なんだって信じていた。  理想論でも、叶わない絵空事でも、それを叶えようとするのが正義の味方なんだから。            ―――そうだね士郎。  結果は一番大事だ。けどそれとは別に、そうであろうとする心が――――    ―――心が、なんて言ったんだっけ、切嗣のヤツは。  ………よく思い出せない。  そもそもこんな昔のコトを思い出すなんて珍しいんだ。  よっぽど深い眠りにいるんだろう。  そうでもなけりゃ、ユメを見る事は無いんだから。              ――――シロウ、起きてください。そろそろ朝食ではないですか?    ほら。  その証拠に、セイバーに起こされるなんて、情けないコトになってるじゃないか――― 「――――なに?」  がばり、と布団から体を起こす。  時刻は六時半。外からは清々しい日の光。   「シロウ、朝です。朝食の支度はいいのですか?」    で、目の前にはセイバーの顔があった。 「―――寝過ごした。すまん、すぐに起きる」 「……私に謝る必要はないと思いますが、ゆっくりしている余裕がないのは事実です。先ほど桜と凛が揉めていた様ですから」 「桜と遠坂が揉めていたぁ……?」  なんだそれ。  ちょっと待て、起き抜けから訳の分からない状況に追い込まないでくれ。 「それって遠坂の部屋でか?」 「いえ、居間です。私も通りかかっただけですから詳しくは知りませんが」 「分かった。とにかく急ぐ」  ――――と。    その前に忘れ物。 「? なんでしょうか、シロウ」 「おはようセイバー。起こしてくれて助かった」  朝の挨拶をして、今度こそ廊下に出る。  ……しっかし、桜と揉めてるなんて何やらかしたんだ遠坂のヤツは―――! 「遠坂!」  ……と。  居間には桜の姿はなく、遠坂一人がのんびりと天気予報を眺めていた。 「おはよ。朝っぱらから人の名前を叫ぶなんて穏やかじゃないわね」  何かあった? なんて素振りで振り向く。 「……?」  おかしいな。とてもじゃないけど、桜と揉めていたような素振りじゃないぞ……? 「ああ、おはよう。……って、遠坂。なんでも桜と揉めたって聞いたんだが、ホントか?」 「え? ……そっか、セイバーから聞いたのか。  ええ、客観的に見ればそういうコトになるけど、別に大したコトじゃないわよ? 単に、しばらくここには来るなって言いつけただけだから」 「――――!」  さ、さらりと言いやがって、ようするに桜を出入り禁止にしたって事じゃないか! 「バカな。その話、桜は前にも断ってるじゃないか。それを繰り返したところで桜が承諾する筈が――――」 「ないけど、交換条件を出したら帰ってくれたわよ?  桜が一週間ここに来なければ、わたしは大人しく家に戻るって言ったの。それで交渉成立。渋々だけど帰っていったわ。ああそうそう、士郎によろしくだって」 「よろしくって、おまえ――――」  そんな勝手な事を、人に黙って―――― 「――――――――」  ……いや、それは違うか。  遠坂は、俺がやらなくちゃいけない事をやってくれただけだ。 「―――そうだった。悪い、朝から面倒を押しつけちまった。気分悪くしただろう、遠坂」 「? いえ、別に面倒でも嫌でもなかったけど。なんだってそんなコト言うわけ、士郎?」 「いや。遠坂、桜と仲が良かっただろう。なのに面と向かって出ていけなんて、二回も言うのは嫌だった筈だ。  だから悪かったって。しっかりしなくちゃいけないのに、また遠坂に負担をかけた」 「――――い、いいけど、そんなの。わたしだって自分の安全第一で桜を追い出したんだし。士郎にそう謝られる筋合いなんてないわ」 「……? 自分の安全第一って、なんでさ」 「だって慎二がマスターだったんでしょう?  アイツの事だから、士郎んとこに桜がいるって判ったら目の仇にするに決まってるもの。だから慎二との決着がつくまでは、桜はここに居させないほうがいいのよ」 「あ――――」  ……そうか。  言われてみればその通りだ。  慎二は、桜には何も話さないと言った。あの言葉に嘘はないと思う。  だが、妹である桜が俺たちのところに居るという事は、何かとよくない想像を抱かせてしまうだろう。 「……だよな。慎二から見れば、桜を人質にとったように見えるもんな」 「そういう事。もっともそんな事は別にして、ここが危険な事に変わりはないでしょ。  あんまり頻繁に夜出歩かせるのも何だし、しばらくは遠慮してもらった方がいいのよ。それが桜のタメだし、わたしたちのタメでもある」 「……ああ、そうだな。桜には悪いけど、後で謝って許してもらおう」  もっとも、その時が来たとしても事情を話せないのは変わりがない。 「――――――――はあ」  本当にまいる。  今までずっと手伝いにきてくれていた桜を、一時的にせよ、こういう形で断ってしまうというのは気が重い。 「あら、随分と元気がないこと。さっき人を怒鳴りつけてくれた威勢は何処にいったのかしらね。衛宮くんはそんなに桜がいないと寂しいのかなぁ?」  ふふん、と意地の悪い顔をする遠坂。  ……しまった。コイツの前で弱みを見せるとつっつかれるって判ってきてたのに、ついやっちまった。 「……ふん、ほっといてくれ。桜はうちの平和のシンボルだったんだよ。藤ねえと俺だけじゃ足りない所を補ってくれてたんだ。それをこっちの都合で追い返したんだから、気だって沈む」 「なんだ、よく判ってるじゃない。それだけ言えれば合格よ。少しは勝ち気ってのが出てきたみたいね」 「? な、何が言いたいんだよ、遠坂は」 「判らない? つまりね、戦いが終われば桜は戻って来るでしょう?  士郎は聖杯なんて要らないっていうけど、それなら今まであってくれた平穏の為に戦えばいい。ほら、目的がハッキリしていいじゃない」  極上の笑顔で遠坂は言う。 「――――――――」  そんな風に言われたら納得するしかない。  ……くそ、なんていうか。  コイツは本当に、底なしに意地が悪くて、とんでもなく凄いヤツだと再確認してしまった。 「えー、じゃあしばらく桜ちゃんは来ないの?」 「ああ。そういう事だから、藤ねえもたまには家で親孝行したらどうだ? 爺さん、娘にかまってもらえないって嘆いてたぞ」 「お父さんなんかほっといてもいいのっ。わたしがいなくたって死にゃしないんだから。  それにね、桜ちゃんがいないんなら余計わたしがしっかりしなくちゃダメじゃないっ。士郎だって男の子だもん、万が一があったら懲戒免職よ? そうなったら責任とってくれる、士郎?」 「んなコトな――――」    い、とは言い切れないのが男の性というか。 「……衛宮くん? 何かしらね、今の止めは」  じろりと。  横から入ってくる遠坂の視線が痛い。   「―――ない、と思う。これはただの下宿じゃないんだ。  俺だって、判ってる」 「そう。良かった、やっぱり衛宮くんは信用できますね、先生」 「当然です。士郎はわたしでもちょっと趣味に走りすぎたかっていうぐらい落ち着いてるんだから」 「………………」  そんな二人を無言で眺め、黙々と箸を進めるセイバー。  ……今日で二日目だが、この雰囲気に慣れる事なんて永遠に来ないと思う。 「あ、そうそう士郎。弓道部の事なんだけどね、〈美綴〉《みつづり》さんが怪我したっていう話、知ってる?」 「美綴が? なんだ、また他の部のヤツとケンカでもしたのかアイツ? まったく、もうすぐ三年なんだから少しは落ち着けってんだ。  ……で。怪我の方はどうなんだよ。わりと深いのか?」 「ん、それは大丈夫。軽い捻挫だって。学校の帰り道に怪しいヤツに襲われたそうよ。  あの子って俊足でしょ? スパーッと勢いよく逃げたんだけど、最後に転んで怪我したみたい」 「……そうか。大事がなくて良かった。けどよりによってアイツにね……命知らずというか、何というか。  どちらにせよ間抜けな犯人だったな。俺はてっきり」 「てっきり、逃げたんじゃなくてノックアウトしたって思ったんでしょ?」  にんまり、と楽しげに笑う藤ねえ。  うむ、さすが美綴綾子をよく判っている人だ。 「うん。あいつが逃げるなんて滅多にないから。  しかし……そうか、美綴のヤツも〈賊〉《ゾク》には弱かったのか。 ま、いいんじゃないか。それぐらいのイベントが起きないと、あいつに女らしさを教えるのは不可能だ」  結構結構、とよく炊けたごはんを食べる。 「ねえねえ衛宮くん」  と。  にんまりとした顔で肩を叩いてくる遠坂凛。 「わたしからもちょっと耳よりな話、してあげよっか」 「? なんだよ、今の話以上に耳よりな話は難しいぞ、本気で」 「うん。今まで黙ってたけどね、わたしと〈綾子〉《あやこ》って仲良しなの。休みの日は二人で遊びに行くぐらいの仲って知ってた?」    ――――待て。  なんで、おまえと、美綴が、仲良しなのか。 「――――はい?」 「今の話、一言一句間違えずに伝えてあげるから安心して。衛宮くんも喜んでたって言ったら、綾子ったらそりゃあもう瓦十枚はぶち抜くぐらいに喜ぶんじゃないかな」 「―――訂正したい。今のは言葉のあやだ。あまり人様に話すような発言じゃないんで、黙っていてくれると、とても助かる」 「そうなの? なら黙っていてもいいけど、それなりの条件がないときついかな。ほら、ついポロッと口に出る事ってあるじゃない?」 「……おまえな。謙虚な台詞を言ってんのに、にんまり笑ってるってのは良くないぞ」 「あら、ごめんなさい。別に楽しい訳じゃないから誤解しないでね?」  ああ、誤解なんてしないって。  おまえ、間違いなく楽しんでるもん。 「……分かった。これから朝食は洋風にする。  ……さっきおまえが言ってた、朝飯作るならパンにしろ、という提案も受け入れていい気になったり」 「――――上出来ね。マーマレイドだけじゃなくて、イチゴのジャムも忘れないでくれると嬉しいわ」 「………………はあ。ったく、日本の朝をなんだと思ってやがる、この外国かぶれ。おまえ一人の趣味で朝飯を変えやがって、この暴君」 「―――いいえ、それは違います。朝食がパンになるのは私も嬉しい。加えて半熟の玉子を用意していただければ、文句はないのですが」  ……そしてしっかりと自分の意見を挟むセイバー。 「ああそうですか。分かったよ、洋食にすればいいんだろ、くそ。桜が洋食にしたからって調子づきやがって。  お望みどおり明日から朝はパンにするから、それで文句はないな? ならさっきの話は他言無用、絶対に美綴にはバラすなよ」  ふん、と二人から顔を逸らしてメシをかっこむ。  ……と。   「なんでそんな無駄な事するのかなぁ?」    俺と遠坂のやりとりを不思議そうに眺めていた藤ねえは、ぼんやりとそんな事を呟いた。 「……なんだよ。無駄ってなんだよ藤ねえ」 「だって遠坂さんが話さなくても、わたしが美綴さんに話しちゃうじゃん。こんな面白い話、黙ってられないよー、わたし」  こまったもんだ、と頷いてごはんを食べる藤ねえ。 「………………」  ……いや。  そろそろ対抗策を敷かないと、本気で立場がなくなるなぁ、これ……。  朝食が終わって、時刻は七時半。  藤ねえは珍しくうちに残っていて、三人で一緒に登校しよう、と笑顔で口にする。 「――――」  ……けど、それは出来ない。  昨夜の決着。  セイバーに頼らず、自分で戦うと口にした以上、もう悠長な真似はしていられない。 「それじゃ行こっか。戸締まりはいい、士郎?」 「いや、戸締まりはいいよ。俺、今日学校休むから」  じゃあな、と手をあげて藤ねえと遠坂を見送る。  藤ねえはぽかん、と数秒固まったあと、   「ちょっと、学校休むってどういうコトよ!」 「え、お?」    遠坂に、言いたいコトを言われてしまったみたいだ。 「そ、そうよ士郎。学校休むって、士郎どこも悪くないでしょ?」 「いや、傷が痛んでるんだ。気温が下がると古傷って痛むだろ。そんな感じ」 「むっ……それ、嘘でしょ士郎」 「嘘だけど、それで勘弁してくれ藤ねえ。何も学校がイヤって訳じゃないんだ。やる事があって、そっちのが今は重要なだけなんだ。だからさ、それで許してくれないか」 「………………もう。そんな言い方されたらわたしの負けじゃない。士郎が事情を話さない時っていっつもそうなんだもん。むかしっからそうだよね」  藤ねえは文句を言いつつ、とりあえず納得してくれたようだ。 「そういう訳だ。学校の方は遠坂に任せる。」 「……そ。まあ、衛宮くんが居ようが居なかろうがこっちには支障はないし。確かに悪くない選択よ、それ」 「ああ、留守は任せてくれ。しばらくはバイトも休むから、家はそう空けないよ」 「……わかった。それじゃ行ってくるね、士郎。ケガで学校を休むんだから、あんまり外に出ちゃだめよ」 「それじゃあね。……今回はいいけど、次からは事前に相談してよね、こういう事は」  ―――夕食が終わった。  俺以外は概ねいつも通りの夕食だったと思う。  こっちはと言うと、脱衣場での一件がちらついてメシの味さえ分からなかった。 「……さむ」  縁側の窓を開け、外の風で頭を冷やしていたがそれもここまでだ。  いつまでもこんなコトしていたら風邪を引いちまう。 「シロウ、ここにいたのですか」 「セ、セイバー……!? な、なんだよ、俺になんか用か」 「私ではなくシロウにあるかと。いいのですか? 夜は凛に魔術を教わる、という約束だった筈ですが」 「あ」  ぱし、と頭を叩く。 「すっかり忘れてた。さんきゅ、今すぐ行ってくる!」  別棟に駆け込んで、二階にあがる。  遠坂が占拠した客間のドアをノックすると、   「士郎? いいわよ、ちょっと今手が放せないから、勝手に入って」    なんて、どこか余裕のない遠坂の声が返ってきた。  遠坂は宝石らしきものを手のひらに置いて、もう一方の手には注射器、口にはハンカチらしきものを咥えている。 「質問していいかな、遠坂」 「ひょっひまっへ。きょふののるまはこれへおはりだから」  言って、遠坂は注射器を自分の腕に刺す。  ……カラの注射器に血が吸い上げられていく。  そうして摘出した血を今度は一滴一滴宝石に零したかと思うと、血に濡れたそれを握りしめた。  かつん、と〈目眩〉《めまい》らしきものが通り過ぎた。  それが魔力の光だと言うコトだけ、かろうじて理解できたのだが―――― 「……はあ。これだけやってもまだ三割か。やっぱり手持ちの九つだけでやっていかなくちゃダメみたいね」  遠坂はがっくりと肩を落とし、宝石箱らしきものに石を戻す。 「遠坂。約束通り、教えを乞いに来たんだけど」  その前に、今の行為がとても気になるのだがどうしたものか。 「ええ、待ってたわ。昼間はセイバーと体の方を鍛えてたんでしょ? なら夜は中身を鍛えないとね」  教える気まんまんなのか、遠坂はなにやら嬉しそうだ。  ……ふむ。セイバーは人に教えるのは苦手だと言ってたけど、こいつは絶対逆のタイプだろうな。    いや、向いてるか向いてないかは別にして。 「さて、それじゃあ何から行こうか。たしか士郎は強化の魔術しか使えないって言ってたけど――――」 「いや、その前にちょっといいか。やっぱり気になる。  遠坂さ、さっき何してたんだよ。注射器を自分に刺すなんて危ないだろ」 「え、あれ? あれは魔弾を作ってただけよ。〈遠坂〉《うち》の魔術は力の流動と転換だからね。こうやって余裕がある時は、自分の魔力を余所に移しておくのよ」 「待ってくれ。その魔弾とか、魔力を移しておくってなんだよ」 「魔弾は魔弾よ。魔力の籠った弾。  宝石は人の念が宿りやすいって聞いたコトない? 実際、宝石は魔力を溜めやすい物なんだけど、うちの家系はさらに相性がいいみたいなのよね」 「魔力を込めるっていうのは、たとえば今日一日なにもしなかったら体力は余ってるでしょ? その余った分の力を宝石にため込んでおくの。  これを何日、何ヶ月、何年と続けて、宝石自体を“魔術”にするのよ」 「もっとも宝石自体にだってキャパはあるし、自分から離れた魔力なんてものは操れない。  宝石に込めた魔力っていうのは、あくまで大魔術を瞬間的に発動させる為だけのイグニッションにすぎないけどね」 「……む? えーと、ようするに自分の魔力を宝石に込めて、バックアップをとるってコトか?」 「〈後方支援〉《バックアップ》……? んー、近いけど違うっていうか、使い捨てのリュックサックの中身をつめてるだけよ」 「じゃあ一時的にハードディスクを増設してるってコトか。……すごいな、それなら魔術なんて使いたい放題じゃないか」 「はーどでぃすく……? アンタの言ってるコトはよく判らないけど、そこまで便利なものじゃないわよ。魔力は宝石に込めた時点で、その宝石の属性に染まるから用途は限られてしまうわけだし」 「……ふーん。それにしても驚いたな。魔力っていうのは、そういうふうに貯めておくコトもできるものなんだ。  そんな便利なコト、なんで他の魔術師はしないんだろう」 「自分以外の物に魔力を貯めるっていうのは特殊なのよ。  士郎の強化だって、物に魔力を込めているってコトでしょ? 通常ね、魔力の通った物は何らかの変化をして、その魔力を使い切ってしまうものなの。魔術の効果は瞬間であって永続じゃないでしょ」 「で、うちの家系はそうならないように、うまく宝石に魔力を流動させて永続的な物にしているんだけど……他の魔術師だって、自分の体になら同じような事はできるわ。  それが魔術刻印―――あらゆる魔術師が持ってる、魔術のバックアップじゃない」 「魔術刻印……ああ、親が子供に譲るっていう秘伝の話だな。俺、それはないからどうもピンとこないな」 「ちょっと。アンタ、今なんて言ったの?」 「えっ……いや、魔術刻印はないって言ったんだが。親父は持ってたみたいだけど、譲られはしなかった」 「――――――――」  遠坂は息を呑んだかと思うと、なるほど、なんて納得していた。 「どうりで素人同然の訳だ。……じゃあホントに一からやってるのね……うん、なら確かにしょうがないか」 「……遠坂。俺に魔術刻印がないって、随分前に気が付いてたんじゃないのか?」 「そんな訳ないでしょ。知ってたら一人でなんか行動させなかったわよ。……そりゃあ半人前だなって思ってたけど、魔術刻印がないならそもそも魔術師じゃないじゃない、士郎は」  ふん、と文句ありげな目を向けてくる。  ただ、なんだろう。  今の言葉は、どこかホッとしたような、俺が魔術師じゃなくて羨ましがっているような、そんな温かみがあった。 「――――まあいいわ。そういう事なら一から説明してあげる。魔術刻印がなんなのかを知るって事は、魔術師ってものを知るって事だから。  はい、士郎はそこに座って。大事な話だからちゃんと腰を落ち着かせて聞くこと」 「ここでいいのか? ……よし、始めてくれ」  ぐっ、と気合いをいれて遠坂の目を見る。  こっちの真剣ぶりが伝わったのか、遠坂は満足げに頷いた。 「じゃあ簡単な話から入るけど。  魔術を使うのに必要なものが魔力だって事は知ってるわよね? 魔術さえ発動させられるなら、それらは全て魔力と言い換えても差し支えはないわ。  魔力の種類は千差万別。  自分だけの精神力をもって魔術を使用する者もいれば、 自分以外の代価をもって魔術を使用する者もいる。  ここまでは知ってるでしょ?」 「ああ。〈大源〉《マナ》と〈小源〉《オド》の事だろ。大源が自然、世界に満ちてる魔力。小源が個人が生成できる魔力だ」 「そうそう、よくできました。じゃあその〈大源〉《マナ》を用いた魔術から順に説明しましょう」 「いい士郎? 積み重ねた歴史が浅い魔術師……ようするに士郎の事ね……は、“すでに〈形式〉《カタチ》あるもの”を以って魔力と成すの。  これは古くからシステムとして確立している儀式、供物をもって神秘と接触する方法よ」 「自身の力だけでは足りないから、代価を用意して取り引きする、という〈魔術形式。〉《フォーマルクラフト》  これなら術者の魔力が希薄でも魔術は作用する。なにしろ使用する魔力は自分からではなく〈他所〉《マナ》から借り受けるものだから、術者はただ儀式を行うだけでいい」 「……けどまあ、こういうのは知識がないと出来ないからね。士郎にはまだ無理だし、そもそもこういう血生臭いのは向いてないわ、貴方には」 「……だな。俺も鶏の生け贄とか、魔法陣を敷いて一晩中祈るとか、そういうのはやりたくない」 「でしょ。  じゃあこれは置いといて、次は小源、つまり魔術師個人の力で行う魔術の事。  もう言うまでもないと思うけど、これがわたしや貴方の基本的な魔術行使よ。  士郎の“強化”は他者の力を借りないでする、自身の魔術回路だけを頼りにした魔術でしょう?」  こくん、と頷く。  どうやら話が本題に入ったようだ。 「その、自分だけの魔力を生成する機能―――“魔術回路”っていうのは、先祖代々受け継がれる遺伝体質なの。 “魔術回路”は何代も重ねて鍛え上げられ、より強さを増して子孫に継承されるわ。  魔術師の家系の子供は、それだけで魔術に適した人間ってわけ。フェアじゃないけど、わたしと士郎はスタート地点からして違うって事よ」 「それは知ってる。気にしてないから、話を続けていいぞ遠坂」 「……別に気にしてなんかないけど。  ま、いいわ。それでね、そういった魔術回路とは別に、その家系が代々鍛え上げてきた秘伝の魔術っていうのがあるのよ」 「さっきの宝石と似てるかな。一つの魔術を極めるとね、魔術師にはその魔術が“手に取れる”ようになるの。  本来ならカタチのない、ただの公式にすぎない魔術を“手に取れる”感覚ってわかる?」 「―――判らないが、体の一部になったようなものなんだろうな、手に取れるっていう事は」 「ご名答。  扱われる式という域を超えて、もはや自分自身となった魔術っていうのはカタチに残せるのよ。  それは不安定な魔術を確立させる偉業であり、同時にその魔術師が生きた証でもある」 「で、魔術師は死ぬ間際に、自分が成し得た偉業を刻印として後継者に譲るのよ。これをやるから、自分が成し得なかった地点に到達しろ。もしかしたらワシが残した刻印が何かの役に立つかもしれん、ってね。  ……ま、残した方も残された方も、そんな刻印が何の役にも立たないって判ってるんだけどさ」 「……? なんだよ、それだけ凄い刻印なのに何の役にも立たないのか?」 「立つわよ! 普通に魔術師やってれば、刻印一つで左うちわっていうぐらい役に立つわ!  ……まあけど、それは自動車をもらったようなものなのよ。どんなに地上を速く走れても、月には辿り着けないんだから」 「……?」 「いいから、話の続き。  もう判ったと思うけど、その刻印っていうのが魔術刻印なの」 「その家柄の当主が一生をかけて完成させた魔術を刻印にして子孫に譲り、子孫はさらに次の魔術を完成させて刻印を増やし、また子孫に継承する。  そうして複雑さを増し、深い歴史を刻んだものが魔術刻印――――魔術師にとって、逃れようのない縛りってこと」 「…………。つまり魔術刻印には、その家系の全てが記録されているって事か?」 「あ、それは違う。家系の記録はちゃんと書物で残してるわよ。魔術刻印にあるのは、単純に魔術だけなの。  勝手に呪文詠唱をしてくれたり、自分が修得していない魔術も使えたりするだけ。  判りやすく言えば自分の体に魔法陣を刻んでいるようなものかな」 「…………ふむ。それじゃあさ、別に刻印は誰に刻んでもいいって事にならないか? 魔法陣なら、カタチさえ知っていれば幾つでも描けるじゃないか」 「それがそういう訳にもいかないのよ。  魔術刻印っていうのはね、生き物みたいなものなの。臓器を移植する事に近いわ。  臓器は一つしかないモノだから、何人かに分け与えるとか写本するとか、そういったコトは出来ないの。 心臓を二つに分けても意味ないでしょ? 結局、分けても機能しなくなるだけなんだから」 「あ……む。そうか、たしかに。それじゃ遠坂にも、その刻印は移植されてるのか?」 「……移植ってのは、我ながら後ろ向きな例えだったわね。  わたしの場合は左腕。肩から手までびっしりね。ただ魔術刻印は使わなければ浮かび上がらないから、令呪と違って隠す必要はないわ」 「……ま、そんな訳だから、魔術師の家系っていうのは一子相伝だったりするの。  その家に兄弟がいた場合、どちらかは魔術を教えられずに一般人として暮らすのが常なのよ。だって、魔術刻印を渡せないんだから、魔術師として大成されてもあまり意味がないもの」 「ああ、それは慎二も言ってた。……そうか、そういう理由で桜は教えられなかったんだ」 「ええ。……けど間桐の家は、何代か前から刻印の継承自体が止まってるわ。だから慎二に教えられたのは魔道の知識だけなんでしょう。  ……ほんと、そういう手合いが一番厄介なのよね。魔術ってものを実感できないクセに、魔術を使おうっていうんだから」  やれやれと悪態をついて、遠坂は軽く深呼吸をする。 「さて、魔術を教えるって事だったけど、ちょっと予定が変わったわ。士郎に魔術刻印がないんなら違った方針を立てないといけないし。  ……うん、今夜はここでお開きにしましょ。明日までには色々と用意しておくから、それまで待ってちょうだい」 「? 遠坂がそう言うんなら頷くしかないんだが……なんだよ、その色々用意しておくって」 「だから色々よ。刻印がないって事は、貴方スイッチできないんでしょ? 体の中身をいじるんだから、お薬とか矯正器具とか必要じゃない」 「――――――――」  うわ。なんか、いま本気でぶるっときたんだがっ。 「なに? イヤだって言うんなら止めるけど。その場合、わたしが教えてあげられる事はなくなるわよ?」 「あ……いや、イヤだけど、頼む。遠坂の言い分は、たぶん正しい」 「じゃあ明日はそれで決まりね。  ……と、そうだ。貴方、明日もセイバーと剣の鍛錬をするつもり?」 「? ああ、そうだけど。学校の結界も気がかりだけど、発動するまでまだ時間がある。それまで少しは戦えるようになっていたいんだ」 「そ。まあいいけど。その割にはセイバーとはうまくいってないようじゃない?」 「うっ……それは、その」 「夕食前までは普通に話せてたのに、夕食から妙に黙り込んでたし。  念の為に聞くけど、貴方たちうまくいってるんでしょうね? いざ戦闘って時に仲違いされたら、わたしたちまで被害を受けるんだから」  ……う。  それは単に、夕食前にトラブルがあっただけで、今はただ気まずいだけだ。  だけなのだが……本当に、俺とセイバーはうまくいってるんだろうか?  そりゃあ今日一日打ち合って、セイバーがどんなヤツかは少しは判ったとは思う。  協力者として、セイバーは信頼できる。  それは絶対だ。  ただそれ以外の部分でセイバーをどう思っているかと言われると、返答に困ってしまう。  そもそも、俺は。    あの瞬間に、まっとうな感情を奪われていた。 「……難しいな。そう言う遠坂はどうなんだよ。セイバーの事、好きなのか」 「好きよ。だって嫌いになる要素がないじゃない。  強いし、礼儀正しいし、綺麗だし。うちの皮肉屋とは大違いだわ」 「ふーん。そうか、遠坂はセイバーが好きなのか」 「っ―――! なによ、素直に好きな部類だって言っただけでしょ。あ、貴方ね、そのストレートな物言いは直しなさい。いろいろ敵を作りやすいから」 「お断りだ。もともと口べたなんだよ、俺は」 「……そうでしょうよ。嫌味とか皮肉とか口にしなさそうだものね、士郎は。ええ、どうせわたしのコトなんて口うるさい嫌味なヤツだとか思ってるでしょ」 「? なんでさ。俺、遠坂が言う分には好きだぞ。なんかさ、そうじゃないと遠坂じゃない気がするし」 「――――――――!」  あ。  癇に障ったのか、遠坂は不機嫌そうに顔を逸らしてしまった。 「…………」  まあ、それより今は、遠坂がセイバーを好きだと言ってくれたコトが、なんとなく嬉しかった。 「さて、雑巾がけぐらいしとかないとな」    セイバーには少ししてから来るように伝えてある。  いつも最低限の掃除はしているが、こうして誰かと手合わせするのは何年かぶりだ。  雑巾がけの一つもしておかないと道場にもセイバーにも失礼だろう。 「……しっかしあれだな。剣の修行って言っても何をやらされるのやら」  切嗣と何度か竹刀で打ち合った事もあるが、自分も切嗣も型を重視しない、素人のたたき合いみたいなものだった。  俺は本気で剣道をしようという気もなく、ただ相手が長物を持っていた場合はどうするか、なんていう対応をたたき込まれただけである。 「……そもそも道具を使ってケンカするのは苦手だったな。作ったり直したりする方にしか関心がないんだから」  そういった意味で言えば、まともに剣というものを教わるのは初めてだ。  セイバーの剣は剣道とは大きく違うようだが、それでも通じるところはありそうだし、ついていけなくなるほど突拍子もない物じゃないだろう。  扉の音がする。  時間通りセイバーがやってきたのだろう。  こっちも雑巾がけが終わったところだし丁度いい。 「待たせたな。今日からここで手ほどきをしてもらう訳だけど――――」 「? どうかしましたかシロウ。何か意外なものを見るような顔をしていますが」 「あ―――いや、セイバーの服がそのままだったから、驚いた。てっきりあっちの格好で来るのかと思ってたから」  剣の修行なんだし、セイバーが戦う姿といったらあの鎧姿という事もあって、勝手にそんなイメージをもっていたのだが。 「はあ。武装している方がいい、というのでしたら着替えますが。……そうですね、私がどうかしていました。  たとえ試合とは言え、鎧をまとわないのはシロウに失礼です。申し訳ありません、すぐに着替えてきます」 「あ―――いや、別にそういう訳じゃない。ただの思い違いだからいいんだ。俺もどっちかっていうと、鎧姿より今の方がいい」 「は……? ですが、この服装ではシロウの気が済まないのではないのですか?」 「気が済まないって……確かに今から試合するぞー、って感じじゃないけど、セイバーが動きやすいっていうんなら問題ないだろ。昼間っから鎧を着込んでたら、セイバーだって疲れるしな」 「それはそうですが―――この服装で剣を振るうのはおかしくはないでしょうか?」 「なんでさ。似合ってるんだからおかしくなんかないぞ。  俺、セイバーは鎧姿より今の方がいいと思う」 「……? 理解しかねます。この服装は確かに気軽なのですが、戦闘には耐えられないでしょう。セイバーとしては不向きな姿だと思うのですが」 「その格好で戦うな、ばか。セイバーは女の子だろ。女の子にはそういう服のが似合うんだから、それでいいんだ」  さて。  使っていた雑巾をバケツに戻して、壁際にある竹刀を二本持ってくる。 「さて。それでどういった鍛錬をするんだセイバー。方針は全部セイバーに任せるから、無茶でもなんでも言ってくれ」  竹刀をセイバーに投げる。  セイバーは心ここにあらず、といった体で竹刀を受け取って、まじまじとこちらを見つめていた。 「? なんだよ、竹刀じゃダメか?  ま、まさか木刀―――いや真剣を使えってんじゃないだろうな!」  なんてスパルタ! そりゃ流石に想像以上だ。 「ぁ―――いえ、そのような事はありません。せっかく優れた試合用の模造刀があるのですから、こちらを使う事にしましょう」  すう、と何やら静かに深呼吸をするセイバー。  それきり、彼女はいつものセイバーに戻っていた。 「良かった。さすがに木刀で試合をするのは物騒すぎる。  ……で、ほんとに何をやればいいんだ? まず素振り五百回とか、走り込みとか、そういう体力作りからか?」 「その必要はないでしょう。私から見ても、シロウの運動能力は水準に達しています。これ以上肉体面を鍛えるのであれば、それは一日や二日で出来る事ではありません」 「シロウは魔術師としては未熟ですが、戦士としては悲観したものではないと思います。幼い頃から、よほど懸命に鍛えてきたのですね」 「う―――まあ、それぐらいしか取り柄がなかったからな。体を鍛えるのだけは、魔術の才能がなくても出来た事だし」 「それが幸いしたのでしょう。ランサーに襲われて死に至らなかったのは、シロウのそういう努力のたまものですから」 「ですが、それは武器になるほどの物ではありません。  人間には限界がある。シロウの体はその限界の域にはほど遠いし、突破する事も難しいでしょう。  ですから私が教える事は、ただ戦う事だけです」 「……? 戦う事だけってどういう事だ。今の口振りからして、戦う方法を教えてくれる……って訳じゃなさそうだけど」 「当然です。一朝一夕で戦闘技術など身に付く筈がないでしょう。私に出来る事は、マスターに一回でも多く戦いを味わってもらう事だけです。  そもそも人に物を教える事は苦手なのですから、私に師事されても困ります」 「――――――――もしもし?」  そういう事を胸張って言われても、教え子としては答えに窮するというか。 「……えっと、つまり。ようするに、ただ試合をするだけってコトかな、セイバー」 「―――ええ。ただそれだけです、マスター。  寸止めはなし、お互い相手を殺すつもりで打ち合いましょう。  ……そうですね、一時間もすればどういう事なのか、理解してもらえると思います」  では、とセイバーは竹刀を軽く握り込む。 「……?」  その言葉に首をかしげつつ、こちらもセイバーに倣って竹刀を握る。  途端。    ものの見事に、世界が暗転した。    要するに、セイバーが教えようとしているコトはただ一つ。  どんなコトをやっても、  どんな奇策を用いても、  敵わないヤツには絶対に敵わない、という事実だけだった。 「―――ぁ――――はあ、はあ、はあ、あ―――あいたたた、いたい、これホントに折れてるって、間違いなく……!」 「折れているのならもっと逞しい腕になっています。重度の打ち身ですが、今のシロウならじきに回復するでしょう」 「……つ、そうか。よし、なら、もう少し続けるか」 「え……まだ続けるのですか、シロウ?  確かに打ち身ではありますが、すぐに動いていいものではありません」 「容赦なく人の腕に打ち込んできてなに言ってんだ。  ―――いいぜ、セイバーが乗り気じゃないんなら、その隙――――」  もらった!  ……わけないよな、そりゃ。 「人の話を聞いてください。明らかにシロウは疲労しています。そんな体ではせっかくの修練も無駄になるのですから、休憩をいれるべきです」 「――――いや、でもな。こう、明らかに手加減されてるのに打たれっぱなしっていうのは情けない。  せめて一太刀、セイバーの眉ぐらいは動かさなきゃ悔しくて倒れられん」 「驚くというのでしたら、もう十分驚いています。強情だとは思っていましたが、まさかこれほどとは思っていなかった」 「悪かったな。根本的に負けず嫌いなんだ、俺」 「ええ、それは嫌というほど思い知りましたので結構です。ともかく休憩にしますから、シロウも竹刀を置いてください。  床も汗で滑りやすくなっている。極限状態での模擬戦でもなし、疲労困憊して足場も不確か―――などという状態では意味がありません」 「……なんでさ。普通、戦闘訓練ってのは最悪の状態を想定してやるもんだろ。なら」 「それこそ無意味です。  いいですかシロウ。貴方がサーヴァントと戦う、というのでしたら、体力は万全、足場は完全、逃走経路は確保済み、という状況以外での戦闘は無意味です。  貴方は全てが充実した状態でなければ、サーヴァントと戦いにさえならない。最悪の状態で戦う、という時点で、貴方は選択を間違えているのです」 「……う。つまりこういう状態では、間違っても戦うなってコトか」 「そういうコトです。そうなってはどのような奇蹟もシロウを救いはしないでしょう。  貴方の戦いは、まず自身を万全にし、的確な状況を模索する事から始まるのです」 「…………納得。それじゃ、申し訳ないけど、休ませてくれ」  ばたん、と壁にもたれかかって、そのままずるずると腰を下ろす。 「――――――――ふう」  肺にたまったモノを吐き出す。  ただの空気の筈のそれは、火傷しそうに熱かった。 「……………………いた」  体中がズキズキと痛む中、ちらりと壁の時計を見る。  時刻は十一時過ぎ。  はじめたのが九時頃だから、都合二時間打ち合っていた訳か。  初めの一時間は、一方的に叩かれただけだった。  いきなりセイバーの一撃がとんできて、軽い失神。  目が覚めて、次は気を付けるぞと思った矢先に失神。  ともかく何度も何度も打ちのめされ、体の方が慣れたのか、怒りで馬鹿力が出たのか、一撃目はなんとか受けられるようになった。  問題はその後。  さて、それだけの戦力差を見せつけられて、人間ってのはおいそれと襲いかかれるものなのか。 「………………鬼」  正解は、ひるんだ瞬間に失神だった。  あとはもう、猫に追い詰められたネズミみたいなもんだ。  どう防いでも致命傷を食らって倒れるなら、もう自棄になって攻め込むしかない。  そんなものは当然のようにあしらわれてまた倒される訳だが、それに慣れてくると、なんていうか、 『あ、しまった』  と思える余裕が出てくるというか、次の瞬間に自分が殺されるな、と理解できる勘が冴えてきた訳だ。    こういうのを、俗に乗ってきた、という。  そうなると、後は必死に受けに回った。  とにかく、アレを食らったら失神する、なんて直感がビシバシ来るわけで、生き物としちゃそんなのは避けるのが道理。  雨のように繰り出されるセイバーの竹刀をなんとか受け流して、反撃の隙をじっと待っているうちに致命傷を食らってしまう。  で、立ち上がって次はなんとかもうちょっと持ち堪えるか、いやいやどうせ持ち堪えられないんだからやられる前にやれ、とばかりに攻め込んだりもする。    この二時間は、その繰り返しだった。    ……こんな事をして強くなれるかなんて判らない。  これはただ、戦いっていうものに慣れさせるだけの打ち合いにすぎないと思う。  敵を目の前にしても混乱せず、かといって冷静すぎず。  いつでも、一歩違いで死ぬだけだっていう熱を帯びているのだと、何より自分自身に教え込ませているだけなんだろう。  それでも―――それは無意味かと言われると、そうでもない。  なんの武器もない自分にとって、この緊張感こそが、最も大事にしなければならないモノだと思うのだ。 「お疲れさまでした。どこか痛むところはありますか、シロウ」  気が付けば、傍らにはセイバーがやってきていた。  こっちは床に飛び散らせるほど汗だくだっていうのに、セイバーは汗一つかいていない。 「痛まないところのが珍しいぐらいだ。  ……ほんと、容赦なくやってくれたなセイバー。こうまで一方的だと逆に清々しい」    白状しよう。100%負け惜しみである。 「はい。シロウに合わせて加減はしましたが、容赦はしないよう心がけました。手心を加えては戦いにはなりませんから」 「そうだな。おかげで、今なら首輪が外れたドーベルマンが走ってきても冷静に対処できる。  ……って、ドーベルマンぐらいじゃまだまだか。俺も全然修行が足りなかった」  素直に反省。  体だけは人並み以上に鍛えてきたつもりだったが、二時間セイバーと打ち合っただけでギブアップとは情けない。 「いいえ、そのような事はありません。シロウの打ち込みは一心で、力がありました。時に、あまりの熱心さに対応を忘れたほどです」 「っ――――」  途端、気恥ずかしさが戻ってくる。  今までは竹刀をもった同士、男も女もなく打ち合っていたけど、これはその――――不意打ち、ではないか。 「いや、ちょっと待った。水飲んでくる、俺」 「水ですか? それでしたら私が汲んできますから、シロウは休んでいてください」  セイバーは水を汲みにいってくれた。 「は――――はあ、助かった」  ……だから。  助かったって、何が助かったっていうんだろう……?  セイバーが汲んできてくれた水を飲む。  まだ休憩時間なのか、セイバーは行儀良く道場に正座している。    ……ああしているセイバーは、本当に綺麗だと思う。  男として異性を美しい、と感じるのではなく、人間として綺麗と思うのだ。    そんな彼女がセイバーのサーヴァントであり、戦いを肯とする事には、やはり違和感がある。 「――――――――」  今、ここには自分とセイバーしかいない。  何か話すにはいい機会だし、ここは――――      ――――一日が終わる。    またぞろ、セイバーが隣で眠っているのが気になって土蔵まで逃げてきた。 「………………」  足を止めて、冬の空を眺める。  別段、夜空が綺麗だった訳でもない。  ただぼんやりと、何をするでもなく冬の冷たさを感じていると落ち着いたからだ。  そうしてどのくらいの時間が経ったろうか。  ふと、夜の闇から足音が聞こえた気がした。   「――――誰だ」    返事はない。  刺々しい気配と共に足音が近づいてくる。 「………………!」  腰を落として、すぐさま跳び退けるように身を構える。 「おい。誰だって訊いてるんだ」  ……返事はない。  足音の主は、一度も立ち止まる事なく、堂々と俺の前に現れた。 「――――――――」 「おまえ、たしか――――」  あの日。夜の学校でランサーと戦っていたサーヴァント。  塀を飛び越えていったセイバーに倒された、赤い鎧姿の騎士―――― 「遠坂のサーヴァント、アーチャーか……?」  男はわずかに口元を歪めた。  笑った―――という事は、認めた、と解釈していいのだろう。 「――――――――」  ……なにか、癇に障る。  理由もなく胸がむかつくというか、どうしても好きになれない。  俺はコイツと話した事もないし、コイツから襲われた事もない。  だというのに、こうして顔を合わせた瞬間に理解できた。  ―――俺は、コイツを認められない。  理由はないが、とにかく肌に合わない。  それは俺だけじゃなく、アーチャー自身も同じ筈だ。  ここまで性が合わない相手っていうのは、世界中捜しても三人といまい。  自分にとってそれだけの相手なんだから、アイツのほうだって俺に苛立ちを覚えていてもおかしくない 「……何の用だ。傷が治るまで見張りに徹するんじゃないのかよ」 「無論そのつもりだ。私の傷が治り次第、この下らん協定も終わらせる。故に、おまえと話す事などないと、今まで傍観していたのだがな」 「なんだ、遠慮しないで傍観してろ。俺もおまえと話す事なんてない」 「そうしたいのは山々だが、見逃せない事があってな。  おまえ、セイバーには戦わせないらしいな」 「悪いかよ」  反射的に言い返す。 「――――――――」  じろりと。  確かな敵意を感じさせて、アーチャーは俺を射抜いた。 「……やはりな。小僧の考えそうな事だ。  他人の助けはいらない。出来る事は全て自分でやる。  加えて犠牲者は一人も出したくない、か―――虫酸が走るな、その思考」 「なっ……! おまえに言われる筋合いなんかないぞ!  俺は俺が正しいと思う事をするだけだ、文句を言われる謂われはないっ……!」 「筋合いはある。同じサーヴァントとして、セイバーの苦労は理解できるからな。おまえのようなマスターでは、セイバーの負担も大きかろう」 「っ…………!」  それが真実だからという事もある。  だがそれ以上に、この相手にそれを言われるのだけは、ひどく我慢ができなかった。 「ふざけるな……! 俺はセイバーに負担なんてかけていないっ! あいつの代わりに俺が戦うんだから、それでいいじゃないか!」 「ふん、戦わなければ傷つかないとでも? サーヴァントは戦う為だけの存在だ。それから戦いを奪う事こそ冒涜だが―――まあ、おまえに言っても始まるまい」  言うだけ言って、アーチャーは口を閉ざした。    ―――数分。  俺とアーチャーは無言のまま対峙した。   「――――――――」  ごくり、と喉が動く。  その、こちらの内面を探るような、冷たい視線。  そうして、唐突に。   「それで。どうなのだ、セイバーのマスターよ」    赤い騎士は、落ち着いた声で答えを求めた。 「どうって、なにが」 「おまえは本気で、戦わずにこの争いを終わらせるつもりか。誰とも争わず、誰も殺さず、誰をも殺させないと?」 「……争わないとは言ってないだろ。戦う時は戦う」 「なるほど。それで戦っても誰も殺さない、と」 「そうだよ。なんか文句あるか」 「おまえの甘ったるい考えに邪魔などせんよ。そんな余裕はないし、そこまで酔狂ではない」  背を向けるアーチャー。 「だが間違えるな。おまえが気取る正義の味方とは、ただの掃除屋だ。その方法で救えるものは、生き残った者だけと知れ」 「――――――――」  ……どうしてなのか。  その言葉に、理由もなく全身を打ちのめされたような気が、した。 「……待てよ。正義の味方の、どこが掃除屋だって言うんだ」 「……おまえも気が付いている筈だがな。  いいか、その方法では悲しい出来事、悲惨な死を元に戻す事は出来ない。  ―――もともと、それが限界なのだ。  正義の味方なんてものは、起きた出来事を効率よく片づけるだけの存在だ。おまえは、おまえが救いたいと思う者をこそ、絶対に救えない」 「―――――――」  そんなコトは、ない。  誰かを救おうと手を伸ばして、その手が、その“誰か”だけ救えないなんて、絶対にあるものか―――― 「理想論はあくまで理想にすぎない。おまえが理想を抱き続ける限り、現実との摩擦は増え続ける。おまえが取ろうとしている道はそういうものだ。  ならばいつか現実に直面し、その折り合いのツケを支払う時がくる。おまえのその選択が、多くの命を奪う事もあるだろうよ」 「な――――」 「覚悟ぐらいはしておけ。己の〈矮小〉《わいしょう》さを実感した時、まず何を正し、誰を罰するかと。  それが出来ぬようなら、その夢もその魔術も、今すぐ捨てるのだな」  闇に消えていく背中。 「いいか。誰が何をしようと、救われぬ者というのは確固として存在する。おまえの理想で救えるものは、おまえの理想だけだ。人間に出来る事などあまりにも少ない。  それでも―――」 「おい、待てよ! おまえ、何を言いたいんだ……!」  問いかけは闇に溶ける。  アーチャーの気配はとうになく、俺の声だけが空を切っていた。 「……なんだアイツ。言いたいだけ嫌味を言って消えやがって」  要約すれば、俺の考えは甘くて、そんなんじゃ近いうちに痛い目を見るぞって事だろう。  そんな事、やってもみないうちに間違っていたなんて結論を下せるものか。   「―――覚悟は出来てる。俺が間違っていた時は、この命を差し出すだけだ」    それが魔術師としての覚悟だ。  アーチャーに言われなくても、そんなのとっくに判っているんだから。 「ふん。本当にあいつとは肌が合わないな」  ……ただ。  だっていうのに、一つだけ気がかりな事がある。        誰が何をしようと、救われぬ者というのは確固として存在する。  人間に出来る事などあまりにも少ない。  それでも――――   「……それでも。一度も振り返らず、その理想を追っていけるか」    一人呟く。  あの台詞の最後には、なぜか、そんな言葉が紡がれている気がしたのだ。    ……彼女が何故あそこまで戦いを望むのか。  聖杯戦争の報酬である聖杯を求める理由が分かれば、セイバーの心情も少しは見えてくるかもしない。    けど、それは―――本当に、問いただしていい事なのか。 「……セイバー。一つ訊くんだけど、いいかな」 「はい。なんでしょう、シロウ」 「その、聞き忘れていた事なんだけど。  セイバーが俺に力を貸してくれるのは、セイバー自身も聖杯が欲しいからなんだろ。  なら―――一体、セイバーは聖杯に何を求めているんだよ」 「聖杯を求める理由、ですか? ただ欲しいから、ではいけないのでしょうか。聖杯は万能の器です。手に入れれば、叶わない願いはない。それを求める事に理由などありません」 「――――違う。そういう事を訊いてるんじゃないんだ。  セイバー、わざと誤魔化しているだろ、それ」 「ぁ――――シロウ、それは」 「求める理由じゃない。その、叶えたい願いっていうのが何なのか知りたいんだ。  ……けどセイバーが言いたくないんなら言わなくていい。自分の願いなんて、人に聞かせられる物ばかりじゃないからな」 「――――――――」  セイバーは気まずそうに口を閉ざした。  ……まあ、当然か。  セイバーは俺を助ける為に契約したんじゃない。  あくまで聖杯を手に入れられるのはマスターだから、その手伝いとして俺を助けてくれているだけだ。  だから、その第一である望みを口にするのは〈憚〉《はばか》られるのだろうし、なにより―――俺自身、セイバーの口から、身勝手な願いなんて聞きたくはなかった。    ……だから、止めるべきだったんだ。  そもそも明確な願いのない俺が、人の願いを聞こうだなんて冒涜だろう。 「―――シロウ。それはマスターとしての命令ですか?」  不意に。  真剣な眼差しで、彼女はそう告げてきた。 「え……いや、違う。そういうつもりじゃない。  ただセイバーの事が気になっただけなんだ。つまらない事を訊いてすまなかった」 「……いえ。確かにサーヴァントとして、マスターには己が望みを口にしておかねばなりません。  シロウ、私が聖杯を求める理由は、ある責務を果たす為です。私は生前に果たせなかった責任を果たす為、聖杯の力を欲している」    まっすぐに。  嘘偽りのない瞳で、彼女は確かにそう言った。 「……責任を果たす……? 生前って、サーヴァントになる前のか……?」 「……はい。ですが、私にも本当のところは分からない。  私はただ、やり直しがしたいだけなのかもしれません」  静かに目を伏せるセイバー。  それが。  一瞬だけ、懺悔をする〈迷〉《まよ》い〈子〉《ご》のように見えた。 「―――そ、そうか。ともかく、それで安心した。  セイバーがさ、遠坂みたいに夢は世界征服よー、なんて言いだしたらどうしようかって心配したぞ」 「……ふふ。凛が聞いたら怒りますね。彼女はそういう事を口にする人間ではありません。彼女ならば聖杯を自分の為だけに使うでしょうが、それは決して世を混乱に陥れるものではないでしょう」 「そうかあ? 俺は違った意味で、あいつにだけは聖杯を渡しちゃいかんと思ってるが」  うんうん、と頷く。  そんな俺を、セイバーは穏やかな顔で見つめていた。  話はそれで終わりだ。  今のは立ち入ってはいけない話だった。  遠坂の話で雰囲気も和んだことだし、これ以上この話題を続けるのは止めにしよう。 「――――――――」  ただ、胸に小さな棘は残った。  セイバーの望みが俗物的な物でない事に胸を撫で下ろしながら、なにか―――彼女の望みとやらが、どこか間違っていると思ったのだ。    ……彼女がサーヴァントになる前。  人間として生きていた頃のセイバーはどんな風だったんだろう。    セイバーはあれだけ美人なんだし、すごく人に好かれたと思う。  そもそも〈剣士〉《セイバー》だなんて呼ぶから勘違いしてしまうが、セイバーだって昔は、剣なんて持たない普通の子だったのではないか。 「……だな。セイバー、以前はどんなヤツだったんだろ」    興味が湧いてしまい、つい思いが口に出た。 「―――はい? 何か言いましたか、シロウ?」 「え? いや、セイバーはどんなヤツだったのか想像してただけだ。別にセイバーの真名を知りたいんじゃなくて、どういう生活を送ってたのかなって」 「はあ。私がどういう人間だったか、ですか……?  おかしな事に関心を持つのですね、シロウは」 「迷惑だったら聞き流してくれ。単に思いついただけなんだ。  セイバーはセイバーのサーヴァントだけど、サーヴァントになる前はもっと違った人間だったんじゃないかって」    ―――そう。  可憐な少女に相応しい、穏やかな生活があったんじゃないかと思ってしまう。 「―――それはありえないと思います。  サーヴァントになったからといって性格が変わる訳ではないし、私は生まれた時から剣を与えられた騎士ですから。貴方の言うような、違った私は存在しなかった」 「うわ。じゃあ昔っからそんなにきつい性格してたのかセイバー。  ……そりゃタイヘンだ。俺、まわりの人たちに同情するかも」 「……それはどういう意味でしょうか。  私は厳しくはありますが、周りに強要した覚えなどありません」 「うそつけ。今日の特訓ぶりでな、セイバーが情け容赦ないヤツだって思い知った。  見ろ、このミミズ腫れ。人がちょっと間違えただけで喜々として打ち込んでくるんだから、この鬼教官」 「わ、私は喜んでなどいませんっ。  シ、シロウには申し訳ありませんが、厳しくしなければ鍛錬にならないでしょう!」 「――――――――」  ……珍しい。  セイバーがこんな顔をするなんて、すごく意外だ。 「な、なんですかその目は。いきなり黙り込むのは卑怯だと思います」 「ああいや―――セイバーがそういうふうに怒るのが意外で、びっくりした」 「え―――そ、そうですか? 私としては、思った事を主張しただけなのですが」 「ああ。セイバー、あんまり自分の感情で話さないじゃないか。だから、今のは新鮮だった」 「そ、そうでしょうか? 私は自分の信念に基づいて行動しているつもりですが」 「だから、それはセイバーの気持ちじゃなくて考えだろ。  そうじゃなくて、素直に思ったままのことをあんまり話さないじゃないか、セイバーは」 「それは当然です。私に求められるものは個人としての意見ではなく、立場としての意見ですから。それは今も昔も変わらない。  私はセイバーのサーヴァントとしてシロウを守る。  そのため以外のことを口にするべきではないし、  考える必要もないでしょう」 「―――それはそうだけど、それじゃあセイバーがつまらないだろ。  セイバーには役割があるんだろうけど、それにかかりきる事はないんじゃないか。セイバーにだって、自分のやりたい事があるんだから」 「ですから、私のやるべき事はシロウを守る事です。ただでさえマスターとして未熟だというのに、私の言うコトも聞かず戦おうとする貴方を、こうして鍛えているのではありませんかっ」 「―――いや、そういう事じゃないんだけど……まあ、セイバーがそういうならいいか」    なんか、どことなく今のセイバーは棘が取れていて明るい感じがするし、これ以上この話を続けて、せっかくの和みムードを壊すのも忍びないし。  ………その、別に訓練に音を上げている訳ではないのだが。    なんかこう、それを覚えるだけでやっていけそうな必殺技とかあると、セイバーとの試合にも気合が入りそうな気がしたり。 「セイバー、相談があるんだが」 「え、なんでしょうシロウ……? 心なしか、とても期待に満ちた目を向けられている気がするのですが」 「そうかな? んー、まあ頼みゴトって言えば頼みゴトだし、期待してるって言えば期待してて、率直に言って教えてもらいたいコトがあるんだけど」 「……はあ。その、シロウの言いたい事はよく分かりませんが、私に出来る事でしたら伝授しますが」  真剣な話だと思ったのか、セイバーは居を正して俺の前に正座する。 「それで、どのような事を知りたいのです? やはりサーヴァントの事ですか?」  ずい、と真面目に見つめてくるセイバー。 「―――――――む」  なんか、十秒後の展開が読めてしまった気もするが、ダメで元々、一応訊いてみよう、うん。 「ええっと。別にふざけているワケじゃないんで、怒らないで聞いてほしいんだが」 「ええ、ですから真剣に聞いています。どうぞ、遠慮せず訊ねてください」 「それじゃお言葉に甘えて訊くぞ。  ―――その、な。俺でもサーヴァントを倒せるような、簡単な必殺剣とかあったら教えてくれないか? 使えばセイバーも倒せるようなのなら文句なしなんだけど」 「――――――――」  ピタリ、とセイバーの呼吸が止まる。 「――――――――」  セイバーは眉一つ動かさない。 「―――や、やっぱりそんな都合のいいモノなんてないよな……!  悪い、悪かった、悪すぎた……! 今のは冗談で本気にあらず聞かなかったコトにしてもらえると個人的に助かるんだ、けど――――」  ―――って。  にたり、なんて擬音が似合いそうな笑みを浮かべるセイバーさん。 「セ、セイバー……? 気のせいかもしれないけど、その、なんかえらくおまえに似合わない邪悪な笑みをしてるぞ、今」 「気のせいではありません。今の私の心境は、凛に匹敵するほど邪悪に染まっていますから」 「っ…………!!!!」  ぞ、ぞわってきた、ぞわって……! 「う、わ、う」 「何を慌てているのですシロウ。私はまだ質問に答えていません。たしか、私の聞き違いでなければ、サーヴァントを一撃で倒せる必殺剣を所望とか?」  思わず後じさるも、セイバーはずい、と身を乗り出して逃がしてくれない。 「あ――――いや、その、ですね…………セイバー、怒ってるだろ?」 「はい、とても」    ―――死んだ。  これが実戦なら、間違いなくセイバーに殺されてる。 「ぅ――――落ち着け、落ち着こうセイバー。  反省してる。セイバーが怒った理由だって、なんとなく分かってます」 「そうですか。では、そこに正座してください。シロウにはキチンと説明して差し上げねば気がすみません」  立ち上がるセイバー。  はい、と迅速に、セイバーみたいに背筋を正して覚悟を決める。 「――――――――」  すう、と大きく深呼吸をするセイバー。  で。     「―――ふざけているのですか貴方は……! そんな必殺剣など、欲しがってどうするのですっっっっっ!!!!」 「あ――――う」  三半規管が大パニック。  よもや、怒声だけで足腰立たなくなるとは思わなかった。  今のは人間のレベルを超えている。  猛獣に迫るというか、ライオンなみの発声量ではあるまいか。 「す、すまん……だから、反省してるって。  セイバー、俺より強いだろ。もしかしたら、素人でも使える剣の技とか知っていると、思ったんだ」 「そのような都合のいい物などありませんっ!  意表を突く技など互角の相手に使うものであって、シロウのような初心者は丁寧に下地を整えるべきなのですっ!」 「そも、相手を倒す、など考えないよう言ったではないですかっ! シロウは身を守る事を第一に考えてくださいっ! シロウにとって必殺剣があるとしたら、それは“自分が戦わないで済む状況”に戦局を導く判断力でしょう!」 「う……わかった、わかってる、から―――もうちょっと声、落としてくれ」  うう、反省してますと手を合わせてジェスチャーする。 「……まったく、見込みがあるかと思えば不安定なんですから。これでは危なかしくて、貴方を一人にするなど出来ないではないですか」  セイバーのお叱りは続く。 「………………はあ」  ライオンの尾っぽを踏んだのは自分だし。  ここは大人しく、セイバーの気が済むまでお小言に付き合うとしよう……。  ……さて。  話していたら体の熱も下がった事だし、そろそろ打ち合いを再開するか。 「セイバー、始めよう。休憩はもういいよ」 「……そうなのですか? 見たところ体の熱は下がったようですが、痛みの方はまだ治まっていないでしょう?」 「構わないよ、そんなの。ただの打ち身なんだから、多少の痛みは我慢する。今の俺はほっとけば治るんだから」 「しかし、それで悪化しては鍛錬の意味がない。もうしばらくは様子を見るべきだと思いますが」 「いいからいいから。遠坂が帰ってくるまでにやっときたいんだ。アイツにはこんな姿見せられないだろ」 「……ふう。分かりました、確かにいずれ敵となる凛に、シロウの腕前を知られるのはよくありませんね。  多少無茶とは思いますが、そういう事でしたらペースをあげていきましょう」  ひょい、と落ちていた竹刀を拾うセイバー。  と。  間の抜けた音が道場に響き渡った。 「セイバー……?」  その、今のはセイバーの、腹の音だと思うのだが。 「空腹のようです。鍛錬に夢中で気が付きませんでした」 「あ―――うん。そう言えばもう昼か」  そりゃお腹の虫ぐらい鳴るよな。  俺はまだそうでもないけど、セイバーがそんなに空腹なら昼飯にしておこう。  その間にこっちの体も完治してくれれば御の字だし。 「いいや、ちょうどいいし昼にしよう。ささっと材料買ってくるから、セイバーは居間で休んでいてくれ」 「シロウ。外出するなら私も付き添いますが」 「大丈夫、すぐ近くの商店街だ。真っ昼間から襲いかかってくるヤツはいないし、セイバーがいたら逆に目立つよ」 「…………本当に、危険はないのですね?」 「ないって。すぐに帰ってくるから待っててくれ」  財布を持って外に出る。  ここから商店街まで、自転車でざっと十分もかからない。  ちなみにいま車庫から持ち出したのは二号機で、一号機は柳洞寺前に路駐したままである。  坂道を下っていく。  平日の昼間に商店街に行くなんて、子供の頃のお使い以来かもしれない。  さすがに昼間という事もあり、交差点には買い物帰りの主婦さんが多い。  奥さんたちが歩いてくる深山町の中心が、俺や桜が愛用しているご近所の商店街である。  とりあえず、一通り買い物を済ませてきた。  二人分の昼食の材料と、軽い和菓子。  今日の夕食は遠坂の担当だからいいにしても、明日の朝用の食パンを四人分。  イチゴのジャムの作り方なんて知らないので、一番安い……のは何かと物議を醸しそうだから、それなりに値の張った物を買った。 「……くそ、ひどい出費だ。なんだってこんな甘ったるいモンの為に千円も払わなくちゃいけないんだ」  文句を言いつつ自転車の籠に荷物を押し込む。  ―――と。  くいくい、と後ろから服を引っ張られる感じがした。 「?」  なんだろ、と振り返る。    そこには。  銀の髪をした、幼い少女の姿があった。 「な、おまえは―――!」  がらがっしょん、と自転車を倒しながら後じさる。  〈咄嗟〉《とっさ》に身構える俺と、にこやかにこちらを見つめる少女。 「……?」  少女からは殺気というか、敵意がまったく感じられない。  あまつさえ少女は、   「よかった。生きてたんだね、お兄ちゃん」    なんて、嬉しげな笑みをうかべてきやがった。 「っ――――」  ……少女は間違いなくバーサーカーのマスターだ。  あの夜、俺を一刀のもとに斬り伏せた怪物の主。  それと、事もあろうにご近所の商店街で、しかも真昼間から遭遇するなんて誰が思おう。 「まさか―――ここで、やる気か」 「? おかしなコトを言うんだね。お日さまが出ているうちに戦っちゃダメなんだから」  むー、と不満そうに口をとがらす。  それは、どう見ても年相応の、幼い少女の仕草だった。 「――――――――」  なんのつもりかは判らない。  なんのつもりかは判らないが、目の前にいる少女が無害だという事ぐらいは、俺にでも感じ取れた。 「お、おまえ―――たしか、えっと」 「イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。長いからイリヤでいいよ。それで、お兄ちゃんはなんて名前?」 「俺……? 俺は衛宮士郎だけど」 「エミヤシロ? なんか言いにくい名前だね、それ」 「……俺もそんな発音で言われたのは初めてだ。いいよ、覚えにくかったら士郎でいい。そっちが名前だ」 「シロウ? なんだ、思ってたよりカンタンな名前なんだね。そうか、シロウか。……うん、響きは合格ね。単純だけど、孤高な感じがするわ」  つ、と何やら思わせぶりな視線を投げてくるイリヤスフィール。 「っ……!」  思わず体が反応して、いつでも動けるように腰を落とした。  ……なにしろ相手はバーサーカーのマスターだ。  その気になれば、お隣の花屋さんもろとも俺を吹っ飛ばせるだろう。 「あ、そう身構えなくていいよシロウ。今日はバーサーカーも置いてきたの。お兄ちゃんだってセイバーを連れてないから、おあいこ」  イリヤスフィールは楽しげにこっちの顔を覗き込んでくる。 「……いや。おあいこって、おまえ」 「ね、お話ししよ。わたしね、話したいコトいっぱいあったんだから」 「な――――!」  少女は、それこそ父親の手をとるような自然さで俺の腕に抱きついてきた。 「ま、待て待て待て待て……! いきなり何しやがるおまえ! あ、ああ新手の策略かこいつは!」 「なにって、だからお話しだよ。フツウの子供って、仲良くお話しするものなんでしょ?」 「いや、それはそうなんだが俺とおまえは違うだろ! マスター同士だし、一度戦った仲じゃないか! むしろ敵だ、敵!」 「それは違うよ。わたしに敵なんていないもん。他のマスターはただの害虫。けど、いい子にしてたらシロウは見逃してあげてもいいよ?」  笑顔で、さりげなくとんでもないコト言ってるし! 「ああもう、とにかく離れろ! おまえメチャクチャだぞ、なんか!」  ぶん、と手をふってイリヤスフィールをはがす。 「きゃ……!」  とて、と。  俺に振り払われた反動で、少女は背中から地面に倒れそうになる。 「しま、イリヤ―――!」    ……なんだってこの時、そんな事したんだろうか。    気が付けば、俺は咄嗟にイリヤスフィール――ああもうめんどくさい、イリヤの腰に手を伸ばして、倒れかけた彼女の体を支えていた―――  とん、と無言でイリヤを地面に降ろす。 「………………」  イリヤは黙っている。  俺も何を言っていいものか判らず、立ち往生してイリヤの姿を見下ろしていた。  ……気まずい。  気まずいので、このままそっと帰ってしまおうとした時。   「―――なに。お兄ちゃん、わたしのこと嫌いなの?」    あの夜。  バーサーカーを連れていた時と同じに、赤い瞳を灯らせて彼女は言った。 「――――っ」  背筋が凍る。  つい危機感が薄れてしまったが、彼女は間違いなくバーサーカーのマスターだ。  下手に逆らえば命はない。  こんなところで犬死にしたらセイバーに会わせる顔がないし、何より商店街に集まった人たちまで巻き込んでしまう。  ……そう、賭けてもいい。  この少女は、場所がどこであろうと、容赦なくマスターとしてその力を行使すると。 「……分かった。話をすればいいんだろ。大人しくするから、それでいいかイリヤ」 「うん! それじゃあっちの公園に行こっ。さっき見てきたんだけどね、ちょうど誰もいなかったんだ」  たん、と弾むようなステップで走り出すイリヤ。 「ほら、早く早く! 急がないとおいてっちゃうからね、シロウ――――!」  くるくると回りながら、イリヤは商店街を駆けていく。 「……あいつ。ホントに先行っちまったぞ」    呆れを通り越して、少し感動してしまった。  あのイリヤという少女にとって、一度でも約束したコトは絶対の真実なのだ。  だからあんなに嬉しそうに駆けていった。  こうして一人になった俺が、今がチャンスとばかりに逃げだす可能性を考えない。  一度でも俺が話をすると言ったから、あの少女はそれを信じて駆けていった。 「…………なんなんだ、あいつ」  とんでもないアンバランスさだ。    ……だが、まあ。  そんな真っ白な信頼を裏切れるほど、俺も大人になれている訳じゃなかった。  商店街から離れた小さな公園には、俺とイリヤしかいなかった。  この時間、子供たちは学校に行っているのか、それともこんな小さな公園はもう流行らないのか。  誰もいない冬の公園で、なんとも言えない緊張感に包まれたまま話を始めた。 「……って。話をしようって、なに話せっていうんだ。  セイバーの事とか知りたいのか?」 「え? セイバーの事って、どうして?」 「だって俺たちマスターだろ。敵のサーヴァントの情報は、知りたいと思うだろ」 「なによ、そんな話はイヤよ。もっと面白い話じゃないとつまんない」 「いや、つまんないって言われてもな。……ならイリヤは何が面白いっていうんだよ」 「そんなの分かんないよ。  わたし、あんまり人と話したコトってないんだ。だからなに話していいか分かんない」 「……おまえな。そんなんで話をしようだなんて連れ出したのか。物事はよく考えてから行動しろって教わんなかったか? なかっただろ。なら今からちゃんと思慮深い大人になるんだぞ」 「……む。いいよーだ、そういうのはシロウに任せるわ。  レディをエスコートするのは男の人の責任なんでしょ?  ならわたしはシロウに付いてけばいいだけだもん」  えへへ、とばかりに笑って、イリヤは肩を寄せてきた。  それは馴れ馴れしいというレベルじゃなくて、なんていうか、ただ寒くて身を寄せてくる小動物みたいな自然さだ。  ……と。  よく見ればホントに寒そうだな、この子。 「イリヤ。もしかして、寒いのか」 「え? うん、寒い。わたし、寒いの苦手なの」  はあ、と白い息を吐く。  苦手と言いながら、イリヤはその白い息を楽しそうに眺めていた。 「そうか。いつもはそうでもないんだけど、今日は妙に寒いからな。寒いのが苦手なら堪えるだろうけど……その、イリヤはどっから来たんだ? なんか、随分と貴族っぽい名前だけど」 「貴族っぽいんじゃなくて貴族だよ。  わたしはアインツベルンのね、古いお城で生まれたの。  いっつも寒くて雪が降ってたんだ。だからこれぐらいの寒さは平気かな」 「……? 寒い国に生まれたのか。なら寒さには慣れてるもんじゃないのか、普通」 「慣れてるけど、寒いのはイヤなの。わたし、冷たいのよりあったかいほうが好きだもん。シロウだってあったかいほうがいいんじゃない?」 「ああ、そりゃそうだ。冷たいよりは、温かい方がいい」 「だよね! うん、だから寒い日は部屋の中であったまってるの。でも雪は好きよ。白くて、わたしの髪とおんなじだって父さまが言ってたから」 「――――」  ぽん、と手を打つ。  言われてみればその通りだ。  イリヤを見て何かを連想していたが、雪の妖精ってヤツがいたとしたら、それはこんな姿なのではなかろうか。 「うまいこと言うな、イリヤの親父さんは。確かにイリヤの髪は雪みたいだ。白くて、なんだか柔らかそうだし」 「えへへ、でしょ? この髪はね、イリヤの自慢なんだから。わたしの中で唯一女の子らしい、母さま譲りの髪なんだ」  嬉しそうにイリヤは笑う。  そういう仕草を見ていると、本当に麻痺してくる。  この子があのバーサーカーのマスターだなんて、実際に見ていなければ到底信じられない。 「ね、シロウは? シロウはお父さんから譲ってもらったものってあるの? あ、魔術刻印っていうのはなしよ。  マスターとしてじゃなくて、お父さんとして譲ってもらったものだよ」 「え、俺? ……うーん……最後にもらったのは家かな。  その前は名字。で、最初にもらったのは」    死にかけていたこの命、だったか。  十年前の火事で、俺だけが切嗣に助けられたんだから。 「……そうだな、イリヤみたいな、両親から受け継いだ肉体的な特徴はないよ。けどそれに負けないぐらい多くの物をもらってきたと思う」  イリヤはそれを、我が事のように喜ぶ。  そんな笑顔を向けられて、嬉しくならないヤツはいないだろう。 「でも今の話だと、シロウは魔術刻印を受け取らなかったんだ。おかしいなあ。じゃあシロウはマスターじゃないの?」 「? いや、魔術刻印のない半人前の魔術師だけど、マスターだぞ。  そういうイリヤは、その―――マスターなんだから魔術師なんだよな」 「え? わたし、魔術師なんかじゃなくてマスターだよ?  普通の魔術なんて教わらなかったもの」 「はあ……!? じゃあ親から魔術刻印を受け取らなかったのか? ……その、お城を持ってるぐらいの名門なんだろ、イリヤの家は」 「そうだけど……魔術刻印ってマスターになる為のものじゃないの? だからマスターだよ、わたし」  はてな、と首をかしげるイリヤ。 「…………?」  こっちも同じく首をかしげる。  どうも、イリヤの言動はさっきから微妙にズレてるというか、いまいち会話のキャッチボールができていない。 「……なあイリヤ。ひとつ訊くけど、イリヤは何処に住んでるんだ? どうも聖杯戦争の為だけにこの町に来たみたいだけど、それじゃ今はホテル暮らしとか?」  いや、そもそも保護者がいなかったらまずいだろう、イリヤは。  こんな子供を一人で日本に来させるなんてあり得ない話だし。 「ホテル……? それって別荘のこと?」 「ああ、似たようなもんだ。家じゃないけど、泊まれるところ」 「それならあるよ! ほら、あっちにおっきな森があるよね。そこの奥に、お爺さまのお爺さまが建てた洋館があるの。アインツベルンのマスターはね、聖杯戦争の時はそこに住むんだって」  イリヤは西の方角を指さしている。  ……たしかにそっちには、まだ開発が進んでいない深い山林が広がっているが……。 「あの森って、車で一時間もかかるだろ。そこから一人で来てるのか、イリヤは?」 「うん、今日は抜け出してきたの。セラもリーゼリットもメイドのクセにうるさいんだもん。  せっかくニホンに来たんだから、その間ぐらいは外に出てもいいと思うの。欲しい物はなんだって手に入ったけど、いつも部屋に閉じこもってたんだから、これくらいはご褒美なの」 「……? 部屋に閉じこもってたって、イリヤがか?」 「うん。雪が降るとね、体に悪いから外に出してもらえなかったの。だからたいていは部屋の中で遊んでたんだ。  あ、でも大丈夫だよ? こっちはお城ほど寒くないから、一人でも平気だもん」  にぱり、と満面の笑顔でイリヤは言う。  彼女はぶらぶらと足をふって、こうしているだけで楽しそうだった。 「…………」  なんとなく、ガソゴソ、と買い物袋に手を入れる。  セイバーと食べる筈だったどら焼きを袋から出して、これまたなんとなく、イリヤへと差し出した。 「食べるか。安物だけど」 「え? なにそれ、食べ物?」 「そうだよ。甘いのは好きじゃないけど、これだけは別だ。うちは親子共々、お茶請けはコイツなんだ」 「……えっと。……その、くれるの?」 「やる。一人で食っても旨くないから、二人で食おう」  ほら、とどら焼きを差し出す。  イリヤは戸惑ってから、初めて見るであろう東洋の和菓子を手に取った。 「えへ。うん、ありがとう!」  嬉しそうにどら焼きを食べる。  その仕草は、ほおばるという表現がぴったり来るほど元気いっぱいだった。 「――――――――」  もぐり、とこっちもどら焼きを食べて、後頭部を襲ったショックに耐える。  ……まいった。  なんていうか、こういう妹がいたらいいな、なんて本気で思ってしまったのはどういう事か。 「……けど、本当に……」    イリヤは無邪気すぎると思う。  この子は、もしかしたら本当に善悪の区別を知る前の子供なのかもしれない。  魔術師の家系に生まれた子供がどんな風に育てられるか、俺はおぼろげにしか想像できない。  それでも―――イリヤの生まれた環境が普通でないのは感じ取れる。  遠坂はああいうヤツだけど、その芯は根っからの魔術師だ。聖杯戦争も、マスター同士の殺し合いもきちんと“殺人”として受け入れている。  けどこの子は、人を殺すっていう意味を知らないままマスターになってしまったのではないか。  まだ少ししか話してないけど、イリヤは自分から人を殺すような子じゃないと思う。    なら、それは―――― 「イリヤ。真面目な話なんだが」  と。  何かに呼ばれたように、唐突にイリヤは顔をあげた。 「……イリヤ? どうした、何かあったのか」 「うん。もう帰らないと。バーサーカーが起きちゃった」  トン、とベンチから飛び跳ねる。  イリヤはそのまま、さよならも言わずに公園から駆けだし、あっというまに走り去っていってしまった。 「行ってくるね士郎。今日はおみやげ買ってきてあげるから、おとなしくしてるのよ」  じゃあねー、と手を振って藤ねえは出勤していった。 「わたしも行くわ。今日はうちに寄ってくるから遅くなるけど、夕飯までには戻るから。留守中、軽率な事はしないようにね」 「――――さて」  時刻は七時半を過ぎたところだ。  今朝も滞りなく二人を送り出せた事だし、次にやるべき事は決まっている。 「さ、昨日の続きだ。道場に行こう、セイバー」 「え、すぐに鍛錬を始めるのですか? 朝食を摂ったばかりですし、少し間を取るべきではないでしょうか」 「心配は無用だよ。メシの後すぐ動けるぐらいには鍛えてあるし、今朝はパン食だっただろ。あんなんで胃がもたれるほど不健康な生活は送ってないぞ」 「……はあ。シロウがいいというのでしたら、私は構いませんが」 「なら問題なし。いいから行こう。どうやったらセイバーに一太刀あびせられるか、一晩考えた成果を見せてやるから」 「っ…………!」  セイバーの反撃をかわしきれず、受けにまわった竹刀ごと地面に弾き飛ばされた。 「ハッ――――く、っ…………」  竹刀を握っていた指が痺れている。  こうなったら力押しだ、とばかりに全力で踏み込んで食らったカウンターだ。  そりゃあ竹刀も落とすし、床に尻餅もつく。 「―――くそ。今のはうまくいったと思ったんだけどな」 「シロウはその判断が甘い。  いいですか、シロウが捨て身になったところでサーヴァントは倒せません。勝ち気なのはいいですが、それも相手を見てください」 「……む。そうは言うけど、受けに回ってたらいつかはやられるだろう。チャンスがあるならこっちから攻め込まないと」 「その通りですが、シロウはそのチャンスの生かし方を理解していません。捨て身でしかけるのならば、それに相応しい好機を待つべきです」 「言われるまでもない。セイバー、さっき少しだけよそ見をしただろ。セイバーがそんなヘマをやるなんて一日で一回あるかないかだから、ここが勝負所だって踏んだんだが」 「咄嗟にその判断が出来たのは評価しますが、今のはあえて作った隙です。  この程度では動じないだろう、と期待して視線を逸らしたのですが、まさか一直線に踏み込んでくるとは思いませんでした」 「――――う。なんか人が悪いぞセイバー。素人をからかってもいいコトないぞ」 「からかってなどいません。こちらで仕掛けた策であれ、隙である以上は多少のリスクを負います。  もっとも視線を逸らした程度のリスクと、捨て身で突進してくるシロウのリスクは〈秤〉《はかり》にかけるまでもありませんが」 「……む。ようするに、小さな隙は静かにつけってコトか? 大振りだとせっかくのチャンスを逃す……んじゃなくて、隙の度合いに見合った行動を取れって言いたいのか、セイバー」 「はい。ですから、好機の大小の読み分けをしっかりしてください」 「ですが昨日よりは格段に、生き死にの境界線には鋭敏になっていますね。危険を察知する感覚が身に付いてくれば、誰と戦い何を打つべきかは自ずと絞られてきますから」  セイバーはどこか嬉しげに言う。  こっちの思い上がりじゃなければ、教え子が少しだけ上達したものと喜んでくれているのかもしれない。 「そろそろ休憩時間ですね。水を汲んできましょうか、シロウ?」 「あ、水ならいいよ。やかんもってきたから、それで飲む」  疲れきった体をひきずって壁際に移動する。  用意しておいたタオルで汗を拭きつつ、やかんに口をつけて水を飲んだ。 「――――はあ」    大きく息を吐く。  ……遠坂と藤ねえを見送ってから三時間近く、ただセイバーと打ち合ってた。    相変わらずセイバーは何を指摘するでもなく、こっちも何を訊くでもなく竹刀を交す。  自分の勝つ見込みが希薄な試合ではあるが、それでもセイバーと打ち合う度に体はよく動いてくれる。    戦闘技術の向上なんて期待していない。  これはただ、頭ではなく体に戦いを慣れさせているだけだ。  それでもやらないよりはマシだし、何もないからこそ、この一点だけは鍛えておかなければ話にならない。  いざ敵マスターと対峙した時、どうやって戦うのか、なんて頭で考えていたら、それこそ致命的だろう。 「……セイバーは……やっぱり汗一つかいてないか」    さすがにガックリくるが、一日や二日で彼女に追いつける筈もない。  セイバーは昨日と同じように、正座をして体を休めている。 「――――――――ふむ」  このままぼんやりとしているのもなんだし。  せっかくの休憩時間なんだから話をしよう。  よし、それじゃあ――――      ……彼女がサーヴァントになる前。  人間として生きていた頃のセイバーはどんな風だったんだろう。    セイバーはあれだけ美人なんだし、すごく人に好かれたと思う。  そもそも〈剣士〉《セイバー》だなんて呼ぶから勘違いしてしまうが、セイバーだって昔は、剣なんて持たない普通の子だったのではないか。 「……だな。セイバー、以前はどんなヤツだったんだろ」    興味が湧いてしまい、つい思いが口に出た。 「―――はい? 何か言いましたか、シロウ?」 「え? いや、セイバーはどんなヤツだったのか想像してただけだ。別にセイバーの真名を知りたいんじゃなくて、どういう生活を送ってたのかなって」 「はあ。私がどういう人間だったか、ですか……?  おかしな事に関心を持つのですね、シロウは」 「迷惑だったら聞き流してくれ。単に思いついただけなんだ。  セイバーはセイバーのサーヴァントだけど、サーヴァントになる前はもっと違った人間だったんじゃないかって」    ―――そう。  可憐な少女に相応しい、穏やかな生活があったんじゃないかと思ってしまう。 「―――それはありえないと思います。  サーヴァントになったからといって性格が変わる訳ではないし、私は生まれた時から剣を与えられた騎士ですから。貴方の言うような、違った私は存在しなかった」 「うわ。じゃあ昔っからそんなにきつい性格してたのかセイバー。  ……そりゃタイヘンだ。俺、まわりの人たちに同情するかも」 「……それはどういう意味でしょうか。  私は厳しくはありますが、周りに強要した覚えなどありません」 「うそつけ。今日の特訓ぶりでな、セイバーが情け容赦ないヤツだって思い知った。  見ろ、このミミズ腫れ。人がちょっと間違えただけで喜々として打ち込んでくるんだから、この鬼教官」 「わ、私は喜んでなどいませんっ。  シ、シロウには申し訳ありませんが、厳しくしなければ鍛錬にならないでしょう!」 「――――――――」  ……珍しい。  セイバーがこんな顔をするなんて、すごく意外だ。 「な、なんですかその目は。いきなり黙り込むのは卑怯だと思います」 「ああいや―――セイバーがそういうふうに怒るのが意外で、びっくりした」 「え―――そ、そうですか? 私としては、思った事を主張しただけなのですが」 「だからかな。セイバー、あんまり自分の感情で話さないじゃないか。だから、今のは新鮮だった」 「そ、そうでしょうか? 私は自分の信念に基づいて行動しているつもりですが」 「だから、それはセイバーの気持ちじゃなくて考えだろ。  そうじゃなくて、素直に思ったままのことをあんまり話さないじゃないか、セイバーは」 「それは当然です。私に求められるものは個人としての意見ではなく、立場としての意見ですから。それは今も昔も変わらない。  私はセイバーのサーヴァントとしてシロウを守る。  そのため以外のことを口にするべきではないし、  考える必要もないでしょう」 「―――それはそうだけど、それじゃあセイバーがつまらないだろ。  セイバーには役割があるんだろうけど、それにかかりきる事はないんじゃないか。セイバーにだって、自分のやりたい事があるんだから」 「ですから、私のやるべき事はシロウを守る事です。ただでさえマスターとして未熟だというのに、私の言うコトも聞かず戦おうとする貴方を、こうして鍛えているのではありませんかっ」 「―――いや、そういう事じゃないんだけど……まあ、セイバーがそういうならいいか」    なんか、どことなく今のセイバーは棘が取れていて明るい感じがするし、これ以上この話を続けて、せっかくの和みムードを壊すのも忍びないし。  ………その、別に訓練に音を上げている訳ではないのだが。    なんかこう、それを覚えるだけでやっていけそうな必殺技とかあると、セイバーとの試合にも気合が入りそうな気がしたり。 「セイバー、相談があるんだが」 「え、なんでしょうシロウ……? 心なしか、とても期待に満ちた目を向けられている気がするのですが」 「そうかな? んー、まあ頼みゴトって言えば頼みゴトだし、期待してるって言えば期待してて、率直に言って教えてもらいたいコトがあるんだけど」 「……はあ。その、シロウの言いたい事はよく分かりませんが、私に出来る事でしたら伝授しますが」  真剣な話だと思ったのか、セイバーは居を正して俺の前に正座する。 「それで、どのような事を知りたいのです? やはりサーヴァントの事ですか?」  ずい、と真面目に見つめてくるセイバー。 「―――――――む」  なんか、十秒後の展開が読めてしまった気もするが、ダメで元々、一応訊いてみよう、うん。 「ええっと。別にふざけているワケじゃないんで、怒らないで聞いてほしいんだが」 「ええ、ですから真剣に聞いています。どうぞ、遠慮せず訊ねてください」 「それじゃお言葉に甘えて訊くぞ。  ―――その、な。俺でもサーヴァントを倒せるような、簡単な必殺剣とかあったら教えてくれないか? 使えばセイバーも倒せるようなのなら文句なしなんだけど」 「――――――――」  ピタリ、とセイバーの呼吸が止まる。 「――――――――」  セイバーは眉一つ動かさない。 「―――や、やっぱりそんな都合のいいモノなんてないよな……!  悪い、悪かった、悪すぎた……! 今のは冗談で本気にあらず聞かなかったコトにしてもらえると個人的に助かるんだ、けど――――」  ―――って。  にたり、なんて擬音が似合いそうな笑みを浮かべるセイバーさん。 「セ、セイバー……? 気のせいかもしれないけど、その、なんかえらくおまえに似合わない邪悪な笑みをしてるぞ、今」 「気のせいではありません。今の私の心境は、凛に匹敵するほど邪悪に染まっていますから」 「っ…………!!!!」  ぞ、ぞわってきた、ぞわって……! 「う、わ、う」 「何を慌てているのですシロウ。私はまだ質問に答えていません。たしか、私の聞き違いでなければ、サーヴァントを一撃で倒せる必殺剣を所望とか?」  思わず後じさるも、セイバーはずい、と身を乗り出して逃がしてくれない。 「あ――――いや、その、ですね…………セイバー、怒ってるだろ?」 「はい、とても」    ―――死んだ。  これが実戦なら、間違いなくセイバーに殺されてる。 「ぅ――――落ち着け、落ち着こうセイバー。  反省してる。セイバーが怒った理由だって、なんとなく分かってます」 「そうですか。では、そこに正座してください。シロウにはキチンと説明して差し上げねば気がすみません」  立ち上がるセイバー。  はい、と迅速に、セイバーみたいに背筋を正して覚悟を決める。 「――――――――」  すう、と大きく深呼吸をするセイバー。  で。     「―――ふざけているのですか貴方は……! そんな必殺剣など、欲しがってどうするのですっっっっっ!!!!」 「あ――――う」  三半規管が大パニック。  よもや、怒声だけで足腰立たなくなるとは思わなかった。  今のは人間のレベルを超えている。  猛獣に迫るというか、ライオンなみの発声量ではあるまいか。 「す、すまん……だから、反省してるって。  セイバー、俺より強いだろ。もしかしたら、素人でも使える剣の技とか知っていると、思ったんだ」 「そのような都合のいい物などありませんっ!  意表を突く技など互角の相手に使うものであって、シロウのような初心者は丁寧に下地を整えるべきなのですっ!」 「そも、相手を倒す、などと考えないよう言ったではないですかっ! シロウは身を守る事を第一に考えてくださいっ! シロウにとって必殺剣があるとしたら、それは“自分が戦わないで済む状況”に戦局を導く判断力でしょう!」 「う……わかった、わかってる、から―――もうちょっと声、落としてくれ」  うう、反省してますと手を合わせてジェスチャーする。 「……まったく、見込みがあるかと思えば不安定なんですから。これでは危なかしくて、貴方を一人にするなど出来ないではないですか」  セイバーのお叱りは続く。 「………………はあ」  ライオンの尾っぽを踏んだのは自分だし。  ここは大人しく、セイバーの気が済むまでお小言に付き合うとしよう……。    ……彼女が何故あそこまで戦いを望むのか。  聖杯戦争の報酬である聖杯を求める理由が分かれば、セイバーの心情も少しは見えてくるかもしない。    けど、それは―――本当に、問いただしていい事なのか。 「……セイバー。一つ訊くんだけど、いいかな」 「はい。なんでしょう、シロウ」 「その、聞き忘れていた事なんだけど。  セイバーが俺に力を貸してくれるのは、セイバー自身も聖杯が欲しいからなんだろ。  なら―――一体、セイバーは聖杯に何を求めているんだよ」 「聖杯を求める理由、ですか? ただ欲しいから、ではいけないのでしょうか。聖杯は万能の器です。手に入れれば、叶わない願いはない。それを求める事に理由などありません」 「――――違う。そういう事を訊いてるんじゃないんだ。  セイバー、わざと誤魔化しているだろ、それ」 「ぁ――――シロウ、それは」 「求める理由じゃない。その、叶えたい願いっていうのが何なのか知りたいんだ。  ……けどセイバーが言いたくないんなら言わなくていい。自分の願いなんて、人に聞かせられる物ばかりじゃないからな」 「――――――――」  セイバーは気まずそうに口を閉ざした。  ……まあ、当然か。  セイバーは俺を助ける為に契約したんじゃない。  あくまで聖杯を手に入れられるのはマスターだから、その手伝いとして俺を助けてくれているだけだ。  だから、その第一である望みを口にするのは〈憚〉《はばか》られるのだろうし、なにより―――俺自身、セイバーの口から、身勝手な願いなんて聞きたくはなかった。    ……だから、止めるべきだったんだ。  そもそも明確な願いのない俺が、人の願いを聞こうだなんて冒涜だろう。 「―――シロウ。それはマスターとしての命令ですか?」  不意に。  真剣な眼差しで、彼女はそう告げてきた。 「え……いや、違う。そういうつもりじゃない。  ただセイバーの事が気になっただけなんだ。つまらない事を訊いてすまなかった」 「……いえ。確かにサーヴァントとして、マスターには己が望みを口にしておかねばなりません。  シロウ、私が聖杯を求める理由は、ある責務を果たす為です。私は生前に果たせなかった責任を果たす為、聖杯の力を欲している」    まっすぐに。  嘘偽りのない瞳で、彼女は確かにそう言った。 「……責任を果たす……? 生前って、サーヴァントになる前のか……?」 「……はい。ですが、私にも本当のところは分からない。  私はただ、やり直しがしたいだけなのかもしれません」  静かに目を伏せるセイバー。  それが。  一瞬だけ、懺悔をする〈迷〉《まよ》い〈子〉《ご》のように見えた。 「―――そ、そうか。ともかく、それで安心した。  セイバーがさ、遠坂みたいに夢は世界征服よー、なんて言いだしたらどうしようかって心配したぞ」 「……ふふ。凛が聞いたら怒りますね。彼女はそういう事を口にする人間ではありません。彼女ならば聖杯を自分の為だけに使うでしょうが、それは決して世を混乱に陥れるものではないでしょう」 「そうかあ? 俺は違った意味で、あいつにだけは聖杯を渡しちゃいかんと思ってるが」  うんうん、と頷く。  そんな俺を、セイバーは穏やかな顔で見つめていた。  話はそれで終わりだ。  今のは立ち入ってはいけない話だった。  遠坂の話で雰囲気も和んだことだし、これ以上この話題を続けるのは止めにしよう。 「――――――――」  ただ、胸に小さな棘は残った。  セイバーの望みが俗物的な物でない事に胸を撫で下ろしながら、なにか―――彼女の望みとやらが、どこか間違っていると思ったのだ。  ………その、別に訓練に音を上げている訳ではないのだが。    なんかこう、それを覚えるだけでやっていけそうな必殺技とかあると、セイバーとの試合にも気合が入りそうな気がしたり。 「セイバー、相談があるんだが」 「え、なんでしょうシロウ……? 心なしか、とても期待に満ちた目を向けられている気がするのですが」 「そうかな? んー、まあ頼みゴトって言えば頼みゴトだし、期待してるって言えば期待してて、率直に言って教えてもらいたいコトがあるんだけど」 「……はあ。その、シロウの言いたい事はよく分かりませんが、私に出来る事でしたら伝授しますが」  真剣な話だと思ったのか、セイバーは居を正して俺の前に正座する。 「それで、どのような事を知りたいのです? やはりサーヴァントの事ですか?」  ずい、と真面目に見つめてくるセイバー。 「―――――――む」  なんか、十秒後の展開が読めてしまった気もするが、ダメで元々、一応訊いてみよう、うん。 「ええっと。別にふざけているワケじゃないんで、怒らないで聞いてほしいんだが」 「ええ、ですから真剣に聞いています。どうぞ、遠慮せず訊ねてください」 「それじゃお言葉に甘えて訊くぞ。  ―――その、な。俺でもサーヴァントを倒せるような、簡単な必殺剣とかあったら教えてくれないか? 使えばセイバーも倒せるようなのなら文句なしなんだけど」 「――――――――」  ピタリ、とセイバーの呼吸が止まる。 「――――――――」  セイバーは眉一つ動かさない。 「―――や、やっぱりそんな都合のいいモノなんてないよな……!  悪い、悪かった、悪すぎた……! 今のは冗談で本気にあらず聞かなかったコトにしてもらえると個人的に助かるんだ、けど――――」  ―――って。  にたり、なんて擬音が似合いそうな笑みを浮かべるセイバーさん。 「セ、セイバー……? 気のせいかもしれないけど、その、なんかえらくおまえに似合わない邪悪な笑みをしてるぞ、今」 「気のせいではありません。今の私の心境は、凛に匹敵するほど邪悪に染まっていますから」 「っ…………!!!!」  ぞ、ぞわってきた、ぞわって……! 「う、わ、う」 「何を慌てているのですシロウ。私はまだ質問に答えていません。たしか、私の聞き違いでなければ、サーヴァントを一撃で倒せる必殺剣を所望とか?」  思わず後じさるも、セイバーはずい、と身を乗り出して逃がしてくれない。 「あ――――いや、その、ですね…………セイバー、怒ってるだろ?」 「はい、とても」    ―――死んだ。  これが実戦なら、間違いなくセイバーに殺されてる。 「ぅ――――落ち着け、落ち着こうセイバー。  反省してる。セイバーが怒った理由だって、なんとなく分かってます」 「そうですか。では、そこに正座してください。シロウにはキチンと説明して差し上げねば気がすみません」  立ち上がるセイバー。  はい、と迅速に、セイバーみたいに背筋を正して覚悟を決める。 「――――――――」  すう、と大きく深呼吸をするセイバー。  で。     「―――ふざけているのですか貴方は……! そんな必殺剣など、欲しがってどうするのですっっっっっ!!!!」 「あ――――う」  三半規管が大パニック。  よもや、怒声だけで足腰立たなくなるとは思わなかった。  今のは人間のレベルを超えている。  猛獣に迫るというか、ライオンなみの発声量ではあるまいか。 「す、すまん……だから、反省してるって。  セイバー、俺より強いだろ。もしかしたら、素人でも使える剣の技とか知っていると、思ったんだ」 「そのような都合のいい物などありませんっ!  意表を突く技など互角の相手に使うものであって、シロウのような初心者は丁寧に下地を整えるべきなのですっ!」 「そも、相手を倒す、などと考えないよう言ったではないですかっ! シロウは身を守る事を第一に考えてくださいっ! シロウにとって必殺剣があるとしたら、それは“自分が戦わないで済む状況”に戦局を導く判断力でしょう!」 「う……わかった、わかってる、から―――もうちょっと声、落としてくれ」  うう、反省してますと手を合わせてジェスチャーする。 「……まったく、見込みがあるかと思えば不安定なんですから。これでは危なかしくて、貴方を一人にするなど出来ないではないですか」  セイバーのお叱りは続く。 「………………はあ」  ライオンの尾っぽを踏んだのは自分だし。  ここは大人しく、セイバーの気が済むまでお小言に付き合うとしよう……。    ……彼女が何故あそこまで戦いを望むのか。  聖杯戦争の報酬である聖杯を求める理由が分かれば、セイバーの心情も少しは見えてくるかもしない。    けど、それは―――本当に、問いただしていい事なのか。 「……セイバー。一つ訊くんだけど、いいかな」 「はい。なんでしょう、シロウ」 「その、聞き忘れていた事なんだけど。  セイバーが俺に力を貸してくれるのは、セイバー自身も聖杯が欲しいからなんだろ。  なら―――一体、セイバーは聖杯に何を求めているんだよ」 「聖杯を求める理由、ですか? ただ欲しいから、ではいけないのでしょうか。聖杯は万能の器です。手に入れれば、叶わない願いはない。それを求める事に理由などありません」 「――――違う。そういう事を訊いてるんじゃないんだ。  セイバー、わざと誤魔化しているだろ、それ」 「ぁ――――シロウ、それは」 「求める理由じゃない。その、叶えたい願いっていうのが何なのか知りたいんだ。  ……けどセイバーが言いたくないんなら言わなくていい。自分の願いなんて、人に聞かせられる物ばかりじゃないからな」 「――――――――」  セイバーは気まずそうに口を閉ざした。  ……まあ、当然か。  セイバーは俺を助ける為に契約したんじゃない。  あくまで聖杯を手に入れられるのはマスターだから、その手伝いとして俺を助けてくれているだけだ。  だから、その第一である望みを口にするのは〈憚〉《はばか》られるのだろうし、なにより―――俺自身、セイバーの口から、そんな身勝手な願いなんて聞きたくはなかった。    ……だから、止めるべきだったんだ。  そもそも明確な願いのない俺が、人の願いを聞こうだなんて冒涜だろう。 「―――シロウ。それはマスターとしての命令ですか?」  不意に。  真剣な眼差しで、彼女はそう告げてきた。 「え……いや、違う。そういうつもりじゃない。  ただセイバーの事が気になっただけなんだ。つまらない事を訊いてすまなかった」 「……いえ。確かにサーヴァントとして、マスターには己が望みを口にしておかねばなりません。  シロウ、私が聖杯を求める理由は、ある責務を果たす為です。私は生前に果たせなかった責任を果たす為、聖杯の力を欲している」    まっすぐに。  嘘偽りのない瞳で、彼女は確かにそう言った。 「……責任を果たす……? 生前って、サーヴァントになる前のか……?」 「……はい。ですが、私にも本当のところは分からない。  私はただ、やり直しがしたいだけなのかもしれません」  静かに目を伏せるセイバー。  それが。  一瞬だけ、懺悔をする〈迷〉《まよ》い〈子〉《ご》のように見えた。 「―――そ、そうか。ともかく、それで安心した。  セイバーがさ、遠坂みたいに夢は世界征服よー、なんて言いだしたらどうしようかって心配したぞ」 「……ふふ。凛が聞いたら怒りますね。彼女はそういう事を口にする人間ではありません。彼女ならば聖杯を自分の為だけに使うでしょうが、それは決して世を混乱に陥れるものではないでしょう」 「そうかあ? 俺は違った意味で、あいつにだけは聖杯を渡しちゃいかんと思ってるが」  うんうん、と頷く。  そんな俺を、セイバーは穏やかな顔で見つめていた。  話はそれで終わりだ。  今のは立ち入ってはいけない話だった。  遠坂の話で雰囲気も和んだことだし、これ以上この話題を続けるのは止めにしよう。 「――――――――」  ただ、胸に小さな棘は残った。  セイバーの望みが俗物的な物でない事に胸を撫で下ろしながら、なにか―――彼女の望みとやらが、どこか間違っていると思ったのだ。    ……彼女がサーヴァントになる前。  人間として生きていた頃のセイバーはどんな風だったんだろう。    セイバーはあれだけ美人なんだし、すごく人に好かれたと思う。  そもそも〈剣士〉《セイバー》だなんて呼ぶから勘違いしてしまうが、セイバーだって昔は、剣なんて持たない普通の子だったのではないか。 「……だな。セイバー、以前はどんなヤツだったんだろ」    興味が湧いてしまい、つい思いが口に出た。 「―――はい? 何か言いましたか、シロウ?」 「え? いや、セイバーはどんなヤツだったのか想像してただけだ。別にセイバーの真名を知りたいんじゃなくて、どういう生活を送ってたのかなって」 「はあ。私がどういう人間だったか、ですか……?  おかしな事に関心を持つのですね、シロウは」 「迷惑だったら聞き流してくれ。単に思いついただけなんだ。  セイバーはセイバーのサーヴァントだけど、サーヴァントになる前はもっと違った人間だったんじゃないかって」    ―――そう。  可憐な少女に相応しい、穏やかな生活があったんじゃないかと思ってしまう。 「―――それはありえないと思います。  サーヴァントになったからといって性格が変わる訳ではないし、私は生まれた時から剣を与えられた騎士ですから。貴方の言うような、違った私は存在しなかった」 「うわ。じゃあ昔っからそんなにきつい性格してたのかセイバー。  ……そりゃタイヘンだ。俺、まわりの人たちに同情するかも」 「……それはどういう意味でしょうか。  私は厳しくはありますが、周りに強要した覚えなどありません」 「うそつけ。今日の特訓ぶりでな、セイバーが情け容赦ないヤツだって思い知った。  見ろ、このミミズ腫れ。人がちょっと間違えただけで喜々として打ち込んでくるんだから、この鬼教官」 「わ、私は喜んでなどいませんっ。  シ、シロウには申し訳ありませんが、厳しくしなければ鍛錬にならないでしょう!」 「――――――――」  ……珍しい。  セイバーがこんな顔をするなんて、すごく意外だ。 「な、なんですかその目は。いきなり黙り込むのは卑怯だと思います」 「ああいや―――セイバーがそういうふうに怒るのが意外で、びっくりした」 「え―――そ、そうですか? 私としては、思った事を主張しただけなのですが」 「だからかな。セイバー、あんまり自分の感情で話さないじゃないか。だから、今のは新鮮だった」 「そ、そうでしょうか? 私は自分の信念に基づいて行動しているつもりですが」 「だから、それはセイバーの気持ちじゃなくて考えだろ。  そうじゃなくて、素直に思ったままのことをあんまり話さないじゃないか、セイバーは」 「それは当然です。私に求められるものは個人としての意見ではなく、立場としての意見ですから。それは今も昔も変わらない。  私はセイバーのサーヴァントとしてシロウを守る。  そのため以外のことを口にするべきではないし、  考える必要もないでしょう」 「―――それはそうだけど、それじゃあセイバーがつまらないだろ。  セイバーには役割があるんだろうけど、それにかかりきる事はないんじゃないか。セイバーにだって、自分のやりたい事があるんだから」 「ですから、私のやるべき事はシロウを守る事です。ただでさえマスターとして未熟だというのに、私の言うコトも聞かず戦おうとする貴方を、こうして鍛えているのではありませんかっ」 「―――いや、そういう事じゃないんだけど……まあ、セイバーがそういうならいいか」    なんか、どことなく今のセイバーは棘が取れていて明るい感じがするし、これ以上この話を続けて、せっかくの和みムードを壊すのも忍びないし。  気が付けば正午になっていた。 「お昼時ですね、シロウ」 「ああ、昼時だな」  などと確認しあう俺とセイバーは、仲良く腹の虫を鳴らしていたりする。 「―――メシにしよう。セイバーは何か食べたい物はあるか?」 「私は特に。シロウが用意してくれる食事なら、概ね満足しています」  セイバーの言い回しはどこかおかしい。  ……まあ、とりあえず遠坂みたいに口うるさくないのは助かる。 「じゃあ買い出しに行ってくる。昨日と同じぐらいに帰ってくるから、居間に行っててくれ」 「はい。期待しています、シロウ」  昼は以前から試してみたかったエビ団子に挑戦する事にした。  たこ焼きを一回りほど大きくした、中身がほくほくでエビがあつあつの一品だ。 「……マスタードも買ったし、三時のお茶請けもオッケー、と……」  自転車の籠に荷物を押し込む。    ―――そう言えば。  昨日はここでイリヤと出逢ったんだっけ。 「―――あいつ、いないな」  いや、毎日ここにいられても困るが、いなければいないで拍子抜けというか、残念というか。  ……昨日イリヤと会った事はセイバーにも遠坂にも話していない。  敵として現れた訳でもなかったし、なんとなくイリヤの事を二人に話すのは躊躇われたからだ。 「………………まさかな。昨日いたからって、今日もいるって話でもない」  だから、あとは自転車に乗って―――    まっすぐ家に帰ろう。  セイバーも昼食を楽しみにしてくれてるし、寄り道できるほど余裕のある身分じゃないしな。  そんなワケで、得意のエビ団子を作ってみました。  どっちかって言うとごはんのおかずではなく、お酒のおつまみに最適、そもそもバイト先の居酒屋で覚えた料理である。 「シロウ。これは、とても熱い」    ゴルフボールより大きくテニスボールより小さい、まんまるの揚げ物を口に含むセイバー。 「ん。セイバー、猫舌だっけ? それともこうゆう大雑把な料理ダメとか?」 「いいえ、どちらも問題ありません。この熱さは面白いですし、味付けも粗雑でありながら、きめ細かい気配りが感じられる」 「そっか。セイバーが気に入ってくれて良かった」 「はい。凛や大河に分けてあげられないのが残念です」  黙々と箸を進めるセイバー。  午前中の稽古で汗を流したからか、いつもより食べる量が多い気がする。 「――――――――」  ……その、男として自分でもどうかと思うのだが、料理を食べてもらえるのは嬉しい。それが美味しいと思ってもらえるなら尚更だ。  俺はマスターとして力不足なんだし、こんなコトでセイバーに喜んでもらえるなら、もっともっと腕を凝らしてごはんを作って……って、あれ?  ……なんか、セイバーが厳しい顔して、カラになった皿を見つめている。 「セイバー……? 足りないのならお代わり作るけど?」 「え……? い、いえ、もう十分に堪能しました。たた、足りないなど、そのような事はありませんっ」 「ふうん。じゃあ食後のお茶にしようか。すぐに淹れてくるから待っててくれ」  カラになった食器をまとめて台所へ。  洗い物を流しに置いておいて、ヤカンを火にかけてお茶の用意をする。 「そうだ。セイバーたまには違ったお茶も……」  ひょい、と台所から顔を出す。  ……と。 「……しかし、これは問題だ。シロウの料理は美味しい。  彼に、今から食事を断たれてしまったら、私は間違いなく戦闘意欲を削がれてしまう。  ……私もまだ甘い。何度か経験した筈なのですが、兵糧攻めとはかくも恐ろしいものだったのですね」 「―――――ええっと、なんだ」  ……前言撤回、必要以上に料理に手を入れるのはやめておこう。  この勢いで日に日に手を凝らしていったら、最後にはお抱えの料理人にでもされかねない。    うむ。  人間、何事もやりすぎはよろしくないのだ。  ―――少し遠回りして帰ろう。    時間にすれば五分程度の回り道だ。  その程度、ただの気紛れみたいなものなんだから、言い訳をする必要なんてないだろうし―――― 「――――――――」  自転車を止める。  買い物袋を籠にいれたまま公園に足を踏み入れる。 「――――なんで」  こんな事になっているのか。  ただの気紛れ。  ただ、会えたらいいなという程度の思いつきで寄り道した公園には、    ぼんやりと立ちつくす、銀髪の少女の姿があった。  こちらに気が付いている様子はない。  立ち去ろうとすれば今からでも立ち去れる。  だが―――そんな事をするぐらいなら、初めからこの公園には寄っていない。 「イリヤ」 「――――誰!?」 「いや。誰もなにも士郎だけど」 「え……シロウ、ほんとに……?」 「なんだよ、驚く事か?  ここは商店街の近くなんだから、通りかかることだってあるだろ。イリヤの方こそ、なんだって今日も公園にいるんだよ。昨日もそうだけど、暇なのかイリヤって」 「うん、実はそうなの。あんまりやるコトがないから遊びに来たんだけど、セラはシロウには会っちゃダメだって。どうせもうすぐ殺しちゃうんだから、シロウと遊んでも楽しくないって言うのよ」 「あ――――いや、それは」  ……うわ。  なんと返答したものか、本気で困る台詞をさらっと言われたぞ、今……。 「けどわたし、それは違うと思うわ。だってシロウといると楽しいもの。だからね、ここにいたらシロウに会えるかなって思って、ずっと待ってたの。  ―――うん。シロウが来てくれてよかった」 「……ちょっと待て。まさかとは思ったけど、本当に俺を待ってたのか、イリヤ?」 「そうだよ。  ずっと前からね、シロウが来たらいいなーって思ってたんだから」 「……ばか。寒いのは苦手なんだろ。俺に用があるならうちまで―――はまずいか。セイバーと鉢合わせたら問答無用で戦いになる。  いや、それにしたって他に色々あるだろ。昨日みたいに商店街にいれば俺を見つけられただろうし」 「ううん、それはダメなんだ。わたしから会っちゃダメなんだもん。昨日のは一回だけの反則なの。  だから、今日はシロウが来てくれそうな場所で待つコトにして、こうして見事成功したのでありました」  嬉しげに言って、イリヤはくるり、と踊るようにステップを踏んだ。  なびく銀髪は、本当に冬の妖精のようである。 「……それは判ったけどな。なんだって俺に会いに来たんだよ。いや、昨日程度の話でいいんなら付き合うけど」 「ううん、別に今日はなんでもないよ。シロウに会えればいいなって思っただけだし、わたしたちは敵同士だもの。聖杯戦争が終わりそうになったら殺しに来てあげるから、その時いっしょにお話しよ」  無邪気に言う。  ……その違和感は、やはり耐え難い。  自分が殺されようとしているからじゃなく、純粋に、この子にマスターなんてものは似合わないと思うのだ。 「……イリヤ。それは、本当におまえがしたい事なのか?  おまえは本当に、自分から聖杯戦争なんてものに首をつっこんだのか」 「むっ。そうだよ、お爺さまの言いつけだもの。  わたしはアインツベルンの中で一番マスターに向いてる、おっきな聖杯の持ち主なんだから」 「……それはお爺さまってヤツの言いなりってコトじゃないのか。イリヤは自分の意志でマスターになったんじゃないだろ」 「んー……そうだったかなぁ……よく思い出せないけど、わたしは生まれた時からマスターだったよ? だから戦うのは当たり前なんだって」 「―――それは違う。人から言われて戦うんなら止めろ。  そもそもイリヤには、こんな殺し合いは似合わない」 「……ふぅん。命乞いをしてるってワケじゃなさそうね。  お兄ちゃんったら、本気でわたしのコト心配してるんだ」 「……そうだよ。他のヤツはともかく、おまえみたいなのが戦うのはイヤなんだ。出来るなら、マスターを辞めて大人しくしていてほしい」 「くす。そうね、シロウがわたしのサーヴァントになってくれるならやめてもいいよ。そうすれば、シロウを殺さなくてよくなるもの」 「ば―――なな、なに言ってんだおまえ! サーヴァントになれって、意味わかって言ってるのか……!?」  ……いや、そもそも俺にバーサーカーの代わりなんか出来るかってーの! 「俺は戦いを止めろって言ってるんだっ。サーヴァントを捨てろって言ってるのに、なんだって俺までイリヤの使い魔にならなくちゃいけないんだよっ」 「使い魔じゃないよ、サーヴァントだってば。  いつもいっしょに居てくれるのがサーヴァントなんでしょ? だから、シロウは側にいてくれるだけでいいんだよ」 「え――――む?」  ……ちょっと待て。  もしかして、イリヤ―――― 「一つ訊くが。サーヴァントってなんだ、イリヤ」 「わたしのものなんでしょ? いつも側にいてくれて、イリヤを守ってくれる人だってお爺さまは言ってたよ?」 「――――」  ……やっぱり。  イリヤにとって、サーヴァントってのはそういうモノなんだ。  令呪もマスターもない。  ただ自分を守ってくれる存在が、彼女にとってはサーヴァントなのだ。 「……そうか。けど、やっぱりダメだ。その条件は飲めないから別のにしてくれ」 「な、なによぅ。  シロウ、わたしじゃ不服だって言うの……?」 「いや、不服とかそういう問題じゃなくて……えっと、なんて言うか――――」    イリヤを心配しているけど、そんな四六時中側にいるような相手にはなれないというか――― 「―――イリヤ、俺にはセイバーがいるんだ。  それにマスターとして、他のマスターを止めなくちゃいけない。その、悪いけどイリヤのサーヴァントにはなれないよ」 「っ……! シロウだから譲歩してあげたのに、そんなコト言うんならもう知らないんだから……!」 「ちょっ……ちょっとイリヤ、まだ話が――――」 「シロウのばかー! 女の子に恥をかかせるなんてひどいんだからー!」 「あ……行っちまった……」  止める声も聞かず、イリヤは公園から駆けだしていった。  急いで後を追ったものの、イリヤの姿は見つけられない。 「……まいったな。これじゃ昨日と同じだ」  溜息をついて自転車まで戻る。  ……まあ、それでもあの調子なら、初めて会った夜のようにいきなり襲いかかってくる、なんて事はないだろう。  彼女を説得できる機会は、最低あと一度はあるという事だ。  日が沈みはじめたところで、今日の鍛錬は終了した。  体力の限界が近かったし、夜は遠坂に魔術を教わらなくてはならない。  セイバーに一太刀あびせるという目標は叶えられなかったが、夜に備えて多少の余力は残しておくべきだろう。  そんなわけで、夕飯は俺の当番だ。  セイバーは俺と入れ替わりで汗を流しに行ったので、しばらくは戻ってきそうにない。 「ただいまー。お、ちゃんと晩ご飯作ってるな士郎。  えらいえらい、感心感心」  元気よく居間に入って来るなり、すぱーんとまっすぐ座布団に腰を下ろす藤ねえ。  一日の半分は眠っていなければならないセイバーと違って、この人は二十四時間こんな感じだ。  おそらく、眠っている時ですらそうに違いない。 「ねー、士郎―。このりんご、食べていいのー?」  テーブルの上にある、大量のリンゴを手に取りながら言う。 「かまわないぞ。ごらんの通り余ってるからな、一人、一日三個がノルマだ」 「そうなの? じゃあアップルパイでも作ろうかー? おもに士郎がなんだけどー」  お気楽な事を言いつつ、かぷり、とそのままリンゴに噛みつく藤ねえ。  ……ちゃんと洗ったものをテーブルに置いておいたんだが、あの人はそのあたり気にしない人なんだろう。 「……まったく、せっかくの見舞い品を……」  勘違いとは言え、俺の体を気遣ってやって来てくれた友人の土産をなんだと思っているのか。  ここは一つ、きちんと言ってやらねばなるまい。    ……夕食の下ごしらえを中断して、エプロンを脱ぐ。  手を洗って居間に出ると、藤ねえの手にリンゴはなかった。 「――――藤ねえ、リンゴ食ったか?」 「うん、食べたよ。甘酸っぱくておいしかった」 「そうか。なら次は藤ねえの番だ。いいから、今食った分の土産を出せ」 「? 土産って、ミカン?」 「……どうしてそういう結論になるのかは聞かないぞ。  俺はただ、藤ねえの用意した土産を出せと言ってるんだ。朝、出かけ際に言った台詞を忘れたワケじゃあるまいな」 「失礼ね、忘れてなんかないですよーだ。ほら、ここにちゃんと用意してあるんだから」  どん、と怪しげな紙袋をテーブルに置くと、どざざー、とその中身をぶちまける藤ねえ。 「――――――――」  意外だ。  自分の言った台詞を覚えているなんて、藤ねえとは思えない。   「……けどそれなんだよ。俺には、その」    どう控えめに見ても、景品レベルのぬいぐるみの廃棄場―――もとい、ぬいぐるみの山にしか見えないのだが。 「士郎にはね、このアステカの石仮面。士郎の部屋って殺風景でしょ? これがあったら少しは温度があがるよ、きっと」  はい、と太陽を模したハートフル&サスペリアな仮面を渡される。  中身にふわふわの綿がつまっているだけの、大きさハンドボールほどの物である。 「……藤ねえ。これ、一回百円か?」 「そうよ、取るの苦労したんだから。二時間もねばって、最後には店員さんに出してもらっちゃった」  えへ、なんて照れ笑いしているが、それがどれほど血に濡れたエピソードなのか、考えるだに恐ろしい。 「えーっと、あとはチャイニーズドラゴンとコウモリとカニとウシとサイとヘビとトツゲキホヘイと……」  藤ねえは山とつまれたぬいぐるみを楽しげに分けている。  ごろごろとテーブルから何体かのぬいぐるみが落ちていって、居間はあっというまに散らかっていく。  ……いくのだが、まあ、藤ねえは楽しそうなので水をさすのもなんだろうし。 「―――まあ、もらっとく。藤ねえも整理し終わったら片づけろよ」 「はーい、わかってまーす」  ぬいぐるみを持ったまま台所に〈踵〉《きびす》を返す。  ―――と。  ちょうど通りかかったのか、居間の入り口でとんでもなく不機嫌そうなセイバーと目があった。 「……………………」  セイバーは何も言わず、ただ居間を睨んでいる。 「セイバー……? もうお風呂から上がったのか?」 「はい、いい湯でした」  などといつもの調子で即答しつつ、ふらふらと夢遊病のように居間に入ってくる。  セイバーはそのままテーブルまで歩いていき、一体のぬいぐるみが落ちているあたりでピタリと立ち止まった。 「大河。この人形は、獅子を模しているのですか」 「え? うん、そうみたいね。ライオンの子供だよ、それ」 「…………………………」  セイバーはじっと足下に落ちているぬいぐるみを見つめている。 「この散らばった人形は大河の物なのですか?  その、そこにある人形たちと同じで」 「そうだけど、セイバーちゃん欲しい? ほしいならあげよっか?」  なんて、気軽に声をかける藤ねえ。 「――――!」  うわ、なに考えてんだ藤ねえ……!  セイバーが不機嫌だって見て判るだろうに、なにそんな素っ頓狂な言動してんだよぅ!  っていうか、そもそもセイバーがそんなの欲しがるとでも―――― 「どう、いらない? わたしが持っててもしょうがないし、セイバーちゃんにあげてもいいよ」  セイバーが嫌がっていると気付かず、ライオンのぬいぐるみを持ち上げる藤ねえ。  セイバーはそれを、   「――――是非」    ずい、と真剣に身を乗り出して受け取った。 「……え?」    思考がフリーズする。  それは、どんな目の錯覚か。  あのセイバーが、あんな無駄の塊みたいなぬいぐるみを、大切そうに抱きかかえてるなんて。 「感謝します。ありがとう、大河」 「別にいいよ。それ、虎じゃないんだもん」  ……いや。今の発言はなにやら問題あるぞ藤ねえ。 「けど意外かな。こういうの好きなんだ、セイバーちゃんって」 「はい。小さくて可愛らしいものには憧れていました。  あまり、そういったものを手にする機会がなかったもので」  言って、セイバーは手に持ったぬいぐるみへと視線を下ろす。  その顔は、なんていうか――――   「――――?」  ……なんだ。  今、なにかおかしな光景が、見えた気がした。 「ん? もしかしてセイバーちゃん、ライオンが好きなの? ライバル?」  セイバーははい、と。ぬいぐるみに向けた笑顔のまま静かに頷いた。 「好き、という訳ではありませんが、縁があるのです。  昔、ライオンの仔を預かっていた事があって、その仔が私によく懐いてくれたのが嬉しかった。  ですから、それ以来獅子には思い入れがあるのです。  本来なら、私は竜を背にする者なのですが」 「ふうん、ライオンの子供かあ……そういえば猫っぽいんだっけ、ライオンの仔って。なに、もしかして噛んだり裂いたり飛んだりする?」 「ええ、それぐらい元気はありましたね。  預かっていたのは一ヶ月だけでしたが、出来ることなら最期まで共にいたかった」 「なるほどなるほど。でも難しいよね、ライオンってすっごく大きくなるじゃない。普通の家じゃ飼えないし、そりゃ手放すしかないか」  うんうん、と一人納得する藤ねえ。  セイバーは一人、まだライオンのぬいぐるみを見つめていた。 「――――――――」  それが、どんな魔法を持っていたのか。    知るはずのない光景が、意味もなく脳裏に浮かんだ。 「――――――――」  ……目眩のような物なのだと、自分でも判っている。  それでも、この目眩を振り払う事は出来なかった。    ……たった今話していた彼女の思い出。  昔、実際にあった出来事。  幼いライオンの仔と頬を合わせるセイバーは、年相応の少女だった。    それがその時だけの物なのか、俺には判らない。  判るのは、この目眩を振り払うのを惜しいと思う自分がいる、という事だけだ。 「――――――――」    おかしな幻はすぐに消えた。  ……ただ、胸がざわつく。  垣間見た幻は、癒えない傷痕のように、脳裏に残った気がした。 「藤ねえ。リンゴ食うのもいいけど、ちゃんとノルマは果たせよな。藤ねえが買い込んだミカン、まだダンボール一箱分残ってんだぞ」 「あう、イヤなコト思い出しちゃった。……うう、もうミカンは食べ飽きたよぅ」  かぷかぷとリンゴに牙、もとい歯を立てながらフザケタ事をほざく藤ねえ。 「なにが食べ飽きた、だ。言っとくけど俺は反対したんだからな。俺と桜と藤ねえしかいないっていうのに、餅は十枚近く頼むわ、ダンボール三箱ものミカンは持ってくるわ。  正月だからって買い込みすぎだ。もう二月だっていうのにあと一箱余ってるじゃんか。あのまま腐らせたら藤ねえに全額払ってもらうからな」 「う。……つかぬ事を訊くけど、ミカンってどのくらいで傷むのかな?」 「ああ、常温で二週間から一ヶ月。そろそろアウトだ」  いやまあ、ちゃんと氷室に保存してるんでもうちょっとは保つとは思うけど。 「げげ。じゃあ今まさに食べごろ腐りごろ?」 「…………藤ねえ。間違っても一人暮らしなんかするなよな。最近の食中毒、本気で怖いんだから。食べ物はちゃんと賞味期限をチェックして、夏場の魚料理も気をつけるコト」 「大丈夫、そん時は士郎んとこにお邪魔するから平気。  あまりものでいいから頂戴ね」 「…………あまり物なんかやるか、ばか。  藤ねえは大食いだからな。メシ食いに来るならちゃんと藤ねえの分も用意しとく」  ふん、と顔を逸らして夕食の支度をする。 「ん。じゃあわたし、いっぱい稼いで食費いれたげる。  士郎は切嗣さんと同じで甲斐性なしだから、いつもお金に困ってそうだし」 「言ってろ。……それよりさ、なんであんなにいっぱいミカン買ったんだよ。桜はああいう果物嫌いだし、俺だって食べる方じゃないって知ってるだろ」  いい機会なんで、正月からずっと疑問に思っていたコトを口にする。 「んー、べつにー。あ、けどオレンジペコって響きいいよねー」 「――――――――」  ……いや、まあ。  藤ねえに論理的回答を求めた俺がバカだった。  ―――うむ。    このままでは本気でアップルパイを作らされかねない。  夕食の支度はほぼ出来てるし、ちょっと席を外してしまおう。 「ん? 士郎、エプロンつけたままで何処いくの?」 「いや、ちょっと玄関まで。遠坂のヤツ、まだ帰ってきてないから様子でも見てこようかなって」 「へえ、気が利くのね士郎。うんうん、遠坂さんも女の子だし、士郎に出迎えられたら喜ぶわよきっと」  何が嬉しいのか、藤ねえは上機嫌で俺を送り出す。 「………………」  ……まいったな。  これじゃホントに外の様子を見てこないとカッコがつかない。 「ま、一回りだけしてくるか」    エプロンを外して玄関に向かう。  ―――と。  かちゃりと音をたてて、風呂場のドアが開かれた。 「シロウ? 夕飯の支度はいいのですか?」 「―――――――――――――――――――――――― ―――――――――――――――――――――――――」    しばし、沈黙。  それが誰であるか言うまでもないのに、その名前を口にする事が、ひどく難しかった。 「どうしました、呆然として。まさかとは思うのですが、夕食の準備で何か問題でも?」   「―――――――いや。そんなコトは、ないんだが」    自分でも呆然とした声で、なんとか返答する。 「?」  首を傾げる。  肩口までかかる髪が揺れる。  金の髪は濡れていて、いつもとは違っていた。  いや、違うのは髪だけじゃない。  いま目の前にいる彼女は、本当に年相応の、誰が見てもか弱くて可憐な少女だった。 「―――そっか。風呂入ってたんだ、セイバー」 「? シロウが私に勧めてくれたのですが?」 「―――そうだった。……もしかしてセイバー、風呂好きか」 「ええ、私もサーヴァントになって知りました。以前は周囲の目があって、湯浴みなど出来ませんでしたから」  まるっきり少女の顔で、セイバーは言う。  髪を編んでいないせいか。  そこに、少年らしい凛々しさは影も形もない。 「シロウも体を洗うのでしたらどうぞ。今夜は冷えますから、お湯が体に沁み入りますよ」    それでは、とセイバーは居間へ向かっていった。 「――――――」  ……言葉がない。  セイバーが女の子なんだって、そんな事は初めから判ってた。  ただ、それでも―――彼女は剣が似合っていたし、俺もそれをなんだかんだと認めていた。  ―――だっていうのに、今のは反則だ。    ……昨日、うかつにも入浴中のセイバーと出くわしてしまった。  あの時はただビックリして実感できなかったが、今のは違う。 「……女の子、じゃないか」    ごん、と後頭部が壁に当たる。  自分が何をしたいのかも分からず、呆然と天井を見上げる。 「―――――まずい。それは、やばいと思う」    壁に背中を預けて、ぼんやりと口にする。  廊下の冷たさが思考を洗浄していって、段々といつもの自分が戻ってきた。    で、そのあと。  いったい何がまずくて、何がやばいのか。やっぱりちっとも、これっぽっちも分からなかった。  夕飯の支度も終わって、時刻は七時を過ぎた。  居間にはセイバーと藤ねえがおり、この時間にいる筈の遠坂の姿だけがない。 「……あいつ。外で何かあったんじゃないだろうな」  遠坂に限ってそんなヘマはしないと思うが、アイツは時々とんでもないポカをするようだし。 「―――ちょっと見てくるか」  屋敷の周りを見てくるぐらいなら一人でも大丈夫だろう。  廊下に出る。  玄関から外に出ようとした矢先、ガラガラと玄関が開いて、コート姿の遠坂が帰ってきた。 「遠坂」 「ただいま。なに、エプロン姿でお出迎え? わりと似合ってるじゃない、そういうの」  眉一つ動かさず、遠坂は冗談めいた事を言う。  ……怖い。  人間、冗談を口にしているクセに顔が真顔っていうのが、一番怖い。 「遠坂、おまえ――――」    何かあったのか、と訊ねようとして、彼女の手についた血の跡に気が付いた。  ……わずかな血の跡と、腫れている人差し指。  それって、もしかして。 「遠坂。とてつもなく悪い予感を口にするんだが」 「なによ。つまんない事なら聞かないわよ」 「いや。おまえさ、もしかして誰か殴ってきたんじゃないのか」 「ご名答。何かとやかましい慎二にナックルパートお見舞いしてきたわ」  ふん、と鼻を鳴らして通り過ぎていく遠坂。 「………………」  そっか。慎二にナックルパートか。  それなら手についている血の跡も、指の痣も納得がいく―――って、ちょっと待てーーーーーっっっ!!! 「待て待て待て待て! 慎二を殴ったってどういう事だ遠坂!?」 「うるさいわね。気にくわなかったからギッタンギッタンにしてやっただけよ」 「ぎったんぎったんって……ナックルパートってベアか?」 「ベアもベア、グリズリー級にベアよ」  ふん、とまたも鼻を鳴らす遠坂。 「………………」 「………………」  しばし、沈黙。  なんと言ったものか口を閉ざしてしまい、妙な間を作ってしまった。 「……話を戻そう。  慎二を殴ったって言うけど、どうしてそんな事になったんだよ」 「殴って当然じゃない。わたしに自分と組めだの、士郎は使えないヤツだから見限れだの言うからよ。  人を呼びつけておいてつまんないこと言うから、殴りつけて黙らせたの」 「…………………」  いや。いくらなんでも、それは短慮すぎないか遠坂。  ……いや、それとも。  普段冷静な遠坂が頭にきちまうほど、慎二はバカなコトを言ったのだろうか? 「……なによその目。いっとくけど、被害者はわたしの方よ?」 「いや、それは両成敗だろう。  ……にしても、なんで慎二が遠坂にそんな話をするんだ。あいつ、俺に協力しないかって持ち出してきたんだぞ」 「さあ。アイツ、士郎にライバル意識でもあるんじゃない? わたしと士郎が一緒に住んでるって教えてから、かなりおかしくなってたし」 「ええ!? 住んでること教えたって、遠坂、慎二に俺たちのコトを話したのか!?」 「ええ、話したわよ? 昨日の朝だったかな。慎二のヤツ、わたしを呼びつけて僕もマスターになったから遠坂と同じさ、なんて偉そうに言ってくるんだもの。なんか頭に来てね、それじゃあ士郎も同じよって言ってやったの。  それで身の程を知ったかなって思ったのに、ついさっきうちの前で待ち伏せしてたってワケ」 「で、悪いけどもう衛宮くんの家で暮らしているから、アンタみたいな半端なマスターと協力する気はないって言ったんだけど……なに、もしかしてまずかった?」 「――――――」  それはまずいだろう、フツー。  ただでさえ慎二は遠坂を意識していたのに、これじゃあ火に油をそそぐようなものだ。  ……まあ、それにしても……そうか、それで合点がいった。  慎二が遠坂だけを敵視していた理由と、執拗に遠坂に協力を求めた理由。    ようするに、あいつは――― 「けど不思議よね。慎二のヤツ、何だってわたしに〈拘〉《こだわ》るのかしら。アイツの性格からいって、誰かと協力するなんて考えは浮かばないと思うんだけど」    ―――いや。  だからそれは、間桐慎二にとって、遠坂凛が特別だからだ。 「不思議でもなんでもない。慎二にとって遠坂は特別なんだと思う。  あいつ、元々魔術師の家系だったんだろ。  なら―――同じ魔術師の家系で、まだちゃんと血を残している遠坂に憧れていたんじゃないかな」  だから遠坂に固執している。  あいつにとっては、聖杯戦争なんてものが始まる前から、遠坂凛は求愛の対象だったのではないだろうか。 「ええー!? ……ちょっと、そりゃあ好意を持たれるのは嬉しい、けど―――」  よっぽど意外だったのか、うーん、と考え込む遠坂。 「……あ、思い出した。そういえば一年の頃、慎二に告白されてたわ、わたし」  あっちゃあ、忘れてたー、なんて、とんでもないリアクションをする。  ……うう。今だけは慎二に同情しよう。 「うわ、どうりで懲りずに話しかけてくる筈だ。納得したわ」 「……まあいいけど。それ、返事はどうしたんだよ」 「ああ、断ったんじゃない?  わたし、勝負ごとは先出しじゃないと気が済まないの。  やるなら自分からっていうか、相手から勝負をしかけられても乗れないっていうか」  よく覚えていないのか、うーん、と遠坂は考え込む。  ―――呆れた。  こいつ、ほんとは感性だけで生きてる生物なのかもしれぬ。 「遠坂。おまえじゃんけん弱いだろう」 「え!? うそ、なんでアンタがそんなコト知ってるのよ!?」  ……やっぱりそうだったか。  そりゃあ先出しが好きなら、さぞ後出しには弱かろうってもんだ。 「それには醤油を使ってくれセイバー。間違ってもマヨネーズなんてかけてくれるな」 「―――そうでしたか。いえ、大河がそちらをかけているので、私もそうするべきなのかと」 「………………」 「藤ねえは単に遊んでるだけだ。あんまり参考にならないから、以後気を付けるように」 「……そうでしたか。以前は桜を参考にしていたので、シロウに注意されるコトはなかったのですが」 「いや、別に怒ってるわけじゃない。せっかく作ったんだから、おいしく食べてほしいだけだ。で、さっきの話に戻るんだけど」 「………………………………」 「士郎、おかわり。おみそ汁は具だくさんね」 「あいよ。セイバーは? 今日は昨日よりハードだったから、お腹減ってるんじゃないか?」 「私は特に。ですが念のため、もう一杯いただいておきます」 「ああ、そうしろそうしろ。夜中に腹が減って眠れず、あげくに冷蔵庫を漁るなんて暴挙に出る、なんて真似をセイバーまでしだしたらショック死しかねない」 「………………………………」 「あ、ひっどーい。アレはわたしじゃないよぅ。見知らぬ泥棒さんが冷蔵庫を荒らしていっただけだい」 「じゃあその泥棒にいっとけ。肉ばっかり食うんじゃなくて野菜もとれってな。それと狙いすましたように冷蔵庫のデザートを平らげるなと。まったく、飢えた獣じゃあるまいし」 「なにい!? ええーい、わたしを虎と呼ぶなー!」 「うわ、呼んでねーって! あつ、熱した大根を投げるなと言うんだこのバカもの!」 「………………………………」 「シロウ。台所の方で鍋が沸騰しているようですが」 「え? あ、藤ねえちょっとたんま、火を止めてくる」 「よろしい。鶏肉とゆでたまごのしょうゆ煮を早くもってくるのだ」 「了解。んじゃ藤ねえの相手よろしくな、セイバー」 「はい。どうぞ慌てずに調理をしてください、シロウ」 「………………………………」  席を立つ。  ……と、そういえば。  なんで遠坂のヤツ、さっきからずっと黙ってるんだろう……? 「遠坂? 今日の飯、まずいか?」 「別に。なんでもないから話しかけないで」  ふい、と不機嫌そうに顔を逸らす。  ……ふむ。慎二の件をここまで引っぱってくるようなヤツじゃなし、なんか気に障るコトでもあったんだろうか。  夕食がいつも通り終わって、藤ねえは満足して帰っていった。  居間にはセイバーと遠坂がいる。  以前までは気まずい雰囲気ではあったが、ここ二日セイバーと鍛錬していただけあって、居づらい空気ではなくなっている。 「セイバー、もう眠っていていいぞ。後はこっちでやっとくから」 「いいえ、シロウが眠るまでは私も起きています。シロウの魔術がどれほどの腕なのか、凛から聞きたいところでもありますから」 「そうか。なら今日は早めに遠坂の部屋に行こう。かまわないよな、遠坂?」 「ええ、構わないけど。随分とセイバーと仲良くなったのね、貴方」  ……?  なぜか、食事時と同じ不機嫌さで遠坂はそんなコトを言った。 「部屋で待ってるから、後片づけが終わったら来て。  ……それと、明日からはわたしも学校を休むから。午後はわたしのところに来なさいよね」 「シロウ、凛に何かしたのですか? 彼女は怒っているように見えましたが」 「セイバーにもそう見えたか?  ……分からないな。俺、あいつを怒らせるようなコトはしてないけど」  セイバーと二人、顔を合わせて首を傾げる。  遠坂が怒っている理由なんて、てんで見当がつかなかった。 「それじゃ、手始めにこのランプを“強化”してみて。  まわりのガラスの強度だけあげればいいから」  はい、と時代がかったランプを手渡された。 「――――――――」  床に座する。  ランプを両手に持って大きく深呼吸をする。  遠坂は簡単に言うが、こっちは緊張で全身がかたまっている。  毎晩やっている事とはいえ、成功率は実にれーてんいちパーセントを切っているのが現状なのである。  遠坂は俺の腕前を計るために“強化”の度合いを見るというが、そもそも強化が成功しなかったら腕前を計るも何もない。 「――――――――」  いかん、と雑念を振り払う。  まずはランプに意識を集中させる。  浮かび上がってくるのはランプの設計図だ。  ガラスの材質とカタチ、力の流れ、人間でいうところの血管まで図面にできる。  なら、あとはその血管に自身の魔力を注ぎ込むだけだ。  ……いつもの要領でやればいい。  背骨に焼けた鉄の棒を入れていく感覚。  決して人の体とは相容れない、焼けた神経を一本だけ体に突き刺し、自分の体になじませるだけ。    それさえうまく行けば、あとはこのガラスに見合った量の魔力を注ぎ込むだけで―――― 「――――あ」    割った。  コントロールできなかったのか、適量を超えて魔力を注ぎ込んだ結果、ガラスはあっけなく割れてしまった。 「……………………」  恐る恐る遠坂を見上げてみる。 「……やっぱり。そうじゃないかって思ってたんだけど、本当にそうだったか」 「ん? そうじゃないかって、何がだよ遠坂」 「そんなの決まってるでしょ、アンタの才能のなさに呆れたのよ……! そもそも基本がなってない。まったく、よくもそんなデタラメな方法で魔力を生成できるもんだって感心するわよ!」 「……遠坂。その、もしかして怒ってる?」 「当たり前じゃない! こんな基本的な問題を抱えたまま鍛錬してきたアンタにも呆れてるし、間違いをたださなかったアンタの師には殺意さえ覚えるわ。  なんだってアンタは、こんな遠回りなコトになってるのよ……!」 「……む。言っているコトは判らないが、親父の悪口はよせ。俺に才能がないのは俺の責任なんだから、親父は関係ないだろ」 「関係あるわよ。仮にも弟子にしたんなら、教え子の道を正すのが師匠じゃない。  ……そりゃあもういない人にあたっても仕方がないけど、それにしたってアンタの師匠は初めの手順を間違えてるわ」  ぷんすかと怒りながら、遠坂は荷物から缶のような物を取り出した。  その、外国の子供が愛用していそうな、色とりどりのドロップが入った缶だ。  日本でも類似品をよく見かける。  何種類かのあめ玉が入っていて、白色をしたドロップはハッカ味っていうアレだ。 「士郎、手、出して」 「?」  とりあえず手を出す。  遠坂は缶をふって、赤っぽいドロップを出した。 「はい、それ飲んで」 「???」  とりあえず、言われた通りに口に運ぶ。 「……甘くない」  いや、むしろ味なんてない。  それにこの舌触り、飴っていうより石なんじゃないだろうか。 「……ん……」  ごくん、と無理やり飲み込む。 「うわ、いたっ。食道がヒリヒリするけど、今のはなんなんだよ遠坂」 「なにって宝石に決まってるじゃない。見て判らなかった?」  しれっと。  遠坂はとんでもないコトを口にする。 「な、宝石って、なんで……!?」 「仕方ないでしょ。薬も用意してきたんだけど、士郎を矯正するにはそんな物じゃ効かないの。だから一番強いのでスイッチを開くしかないなって」 「いや、そういうコトじゃなくてだな……! なんだって宝石なんか飲ますんだよ、おまえは! そんなん消化できるか!」 「……あのね。不安がるならもっと別のコトを不安がりなさい、ただの宝石じゃないんだから。  今のは、まだ判ってない貴方に、無理矢理判らせる為の強制装置。そろそろ溶け始める頃だから、気合い入れてないと気絶するわよ」 「気絶するわよ、ってなにさわやかに物騒なコ―――」  そう言いかけた矢先、    その異状はやってきた。 「――――――――!?」    体が熱い。  手足の感覚が麻痺していく。  背中には痛みとしか思えない熱さがかたまっている。  意識を眉間に集めて、ぎゅっと絞っていなければ立っていられない。 「っ――――おまえ、これ、は」    知っている。  この感覚を知っている。  これは、失敗だ。  魔術回路を自分に組み込もうとして、失敗した時に起こる、体の反発そのものじゃないか―――! 「大丈夫、苦しいでしょうけど今の状態を維持していれば少しずつ楽になるわ。もっとも、体の熱さだけは二三週間続くだろうけど」    ……なんか言い返してやりたいのだが、そんな余裕はない。  今はただ、体が倒れないように全力でバランスを整えるしかできない。 「いい? 魔術師と人間の違いっていうのは、スイッチがあるかないかなの。  このスイッチっていうのは魔術回路のオンオフだってのは判るでしょ。  ほら、そこにお湯を沸かせる電気ポットがあるじゃない。魔術師っていうのはソレなの。で、普通の人はお湯は沸かせないけどお湯を保温できるポットってワケ」 「似たようで違うモノなのよ、私たちは。  お湯を沸かすスイッチの有る無しは、もう個人ではどうしようもない問題でしょ。  生まれつき―――いえ、作られる時に電気ポットか保温瓶か分けられるんだもの。スイッチがない人には、一生魔術なんて体験できない」 「いい? 貴方は素人だけど、魔術回路は確かにある。  つまり適性はあるのよ。だから一度でも魔術回路を体内に作ってしまえば、あとは切り替えるだけでいい。  スイッチを押して、自分の中でオンとオフを切り替えるだけで魔力は成るわ」    ……呼吸を落ち着ける。  遠坂の言うとおり、自分を抑えてさえいれば、状態が悪化する事はないようだ。 「魔術回路を作るのは一度だけでいいのよ。 だっていうのに、貴方は毎回一から魔術回路を作って、自分の中に組み込もうとしている」 「それは無駄なの。一度でも体内に確立したものなら、あとは切り替えるだけでいいんだから。  ……本来ね、魔術回路を成し得た者は、次にいつでも切り替えられる鍛錬を受けるのよ。  けど貴方の師はそれをしなかった。だから毎回、死の危険性を負って魔術回路を作る、なんて真似をしてる。  ……いえ、もしかしたら貴方の父親も、同じ勘違いをしていたのかもしれないけど」    息を吐く。  手足の神経が、少しずつ感覚を取り戻していく。 「〈長年〉《ずっと》間違って鍛錬してきた貴方のスイッチは閉じている。こうなっちゃうと力技でこじ開けて、士郎の体に“スイッチ”があるって分からせなくちゃいけないでしょ」 「いい、今の宝石はね、そのスイッチを強制的にオンにするものよ。だから士郎はずっとそのまま。もとの状態に戻りたかったら、士郎自身の力でオフにするしかない。  それが出来たのなら、あとは宝石の助けなんていらないわ。以後は比較的簡単な精神の作用で、貴方は魔術回路を操れるようになる」 「っ……それは、判った、けど」    この体の熱さは、なんとかならないものか。  それにスイッチのオフだなんて言われても、そんなものどうしろっていうのか。 「え、もう喋れるの!?  ……ふうん、自身のコントロールは上手いんだ。なら思ったより早く元に戻れるかもね。  スイッチそのものは、今の状態を落ち着けよう、早く楽になろうって体の方で勝手にオフにしてくれるから。  あとはそのスピードを自分の意志で速くするだけ。ね、簡単でしょ?」 「……いや……だから、全然判らない。  スイッチだなんて言われても実感湧かないぞ、俺」 「今はそうだけど、そのうち明確にイメージできるようになるわ。頭の中にぽんってボタンが浮かぶようになるから。あとはそれを切り替えるだけで、とりあえず魔術回路は簡単に開けるようになるわよ」 「………だといいけどな。いまは、ともかく気持ち悪い……」 「でしょうね。士郎、今まで強化の魔術を使ったらすぐに魔術回路を閉じてたでしょ?  今はその逆で、ずっと魔術回路が開いている状態だもの。いつでも全力疾走しているようなものだから、苦しいのは当たり前よ。  けど、魔術師ならそれぐらいは必須条件なんだから。マスターとして戦うっていうんなら、スイッチのオンオフはきっと士郎の助けになる」 「…………判ってる。不意打ちだったけど、遠坂には感謝してる。たしかに、スイッチなんて物が実感できるようになるなら、それはプラスだからな」 「……判ってるじゃない。けど感謝されるいわれなんてないわよ。わたしは、協力者であるアンタが弱いままだと困るから手助けしてるだけなんだから」  ふん、と顔を背ける遠坂。  体が熱いせいだろうか。  照れている遠坂をいいヤツだな、とぼんやりと思ってしまった。 「……なによ。人の顔じろじろ見て」 「いや。遠坂は素直じゃないなって思っただけだ」 「……そう。そんな軽口を叩けるなんて、余裕あるじゃない衛宮くん。そんなに元気なら続けて教えても大丈夫よねぇ?」  遠坂はにやり、と笑って詰め寄ってくる。 「…………う」    ちょっと、待て。  まだ体が全然動かないっていうのに、おい。 「それじゃもう一度“強化”をしてみて。  今の貴方じゃ魔力のコントロールもできないだろうけど、その状態に慣れてもらわないと戦力にならないわ。  大丈夫、ランプは山ほど持ってきたし。何十回失敗するか判らないけど、強化が成功するまで休ませてなんてあげないから」  にっこりと笑って、ろくに動けない俺にランプを手渡してくる。   「…………う」    うわあ……それって四十度の熱がある男に、長い長い綱渡りをしろと言っているのと大差ないぞ、遠坂……。 「……まいったわ。まさか、こっちが先に音を上げる事になるなんてね」  じろり、と。  なんともいえない玄妙な目で、遠坂は俺を非難している。 「………………いや。面目ない」 「わたしの見通しが甘かった。まさか三十個全部壊されるなんて思いもしなかったから。  ……悪いけど、今日の鍛錬はこれでおしまいよ。士郎の強化を計れる道具がないから」 「……う」  いや、俺だって努力はしたぞ。  こんな、釜茹されて煮上がったような体で頑張った。  頑張ったが、結局、一回も“強化”が成功しなかっただけではないか。 「……あのさ。ガラスが割れただけなら、遠坂直せるだろ。以前うちの窓ガラスを直してくれたじゃないか」 「無理。アレは普通に破損したものでしょ。こっちは士郎の魔力に耐えきれなくなって割れたものだもの。他人の魔力を帯びた物に干渉するのは難しいって、覚えておいて」 「――――む。そうですか」 「そうよ。……いいから、士郎は休んでいいわ。今日はスイッチを呼び起こしただけでよしとしましょう。  コントロールできるようになったら、この続きを教えるから」 「……ふう。休んでいいのは有り難いけど。この続きって、何を教えてくれるんだ?」 「士郎、強化しかできないんでしょ? 前にそれしか使えないって言ってたけど、それならもう少し上級の“変化”ぐらいまで持っていけるかもしれない。  強化と変化、それに投影の魔術について教わった事はない?」 「――――――――む」  ……それなら、少しはある。  強化とは文字通り、物を強化することだ。  強化はおもに物を硬くする事と思われがちだが、実際は物の効果を強化させる。  刃物ならより切れやすく、ランプならより明るく、という風に。  変化もそう説明するまでもないだろう。  たとえば、刃物で火を起こす事はできない。  そういった本来の効果以外の能力を付属させるのが変化だという。  で、投影っていうのは、たしか―――― 「……? 投影ってなんだっけ、遠坂。よく親父が言ってた覚えはあるんだけど」 「強化と変化は知ってるんでしょ? なら投影も自ずと想像はつくと思うけど。  ま、ようするに物を複製するって魔術よ。  強化や変化みたいに、もとからある物に手を加える魔術じゃないわ。  基本的には無から、一から十を全て自分の魔力で構成するものだから、難易度的には最高ね」 「あー……けど、魔力ってのは使い捨てでしょ?  “投影”で作り上げた物はすぐに消えてしまうのよ。  十の魔力を使って作り上げた“投影”の剣と、一の魔力で“強化”させた剣とでは、“強化”の剣の方が強くなる。  強化は手を加えるだけでいいから効率がいいってわけ。  その点、投影は魔力を使いすぎるからメジャーに使われる魔術じゃないわ」 「……あ、思い出した。そういえば親父もそんな事言ってたな。割が合わないから止めろ、みたいな」 「そういう事。さ、質問が済んだのなら終わりにしましょう。……足下もおぼつかないようだし、部屋の前までぐらいは送っていってあげるから」  部屋の前まで送ってもらう。  と、縁側でセイバーが俺の帰りを待っていた。 「お疲れさまでした、二人とも」 「…………」  返事をする気力もない。  さんきゅ、と頷きだけで答えて、とりあえず部屋へ移動する。 「シロウはどうですか、凛」 「だめ。すっごくだめ。あいつ才能ないわ」  遠坂らしい、容赦ない一言だった。    ……そうして、気が付けば夜空を見上げていた。  今夜はセイバーが気になって逃げてきたワケじゃない。  遠坂に教えられた事と、まだ熱いままの体を持て余して、こうして夜風を浴びているだけだった。 「……しかし。スイッチとやらが本当に使いこなせるようになったら、あとは手順の問題だ。  一番簡単な強化をあんなに失敗するようじゃ、先が思いやられるな……」    呟きながら、土蔵から持ち出した角材に魔力を込める。    ――――ぱきん、という音。    やはり強化はうまくいかず、角材には〈罅〉《ヒビ》が入っただけだった。 「……中の構造まで見えてるのに。どうして、こう魔力の制御ができないんだろう」    遠坂は力みすぎている、と言っていた。  もっと小さな魔力でいいから、物の弱い箇所を補強する事だけを考えろとも。  ……ようするに、今よりもっと手を抜け、という事だろうか。 「……そんな事、言われなくても分ってるけどな」  問題はその力みをほぐす手段がない、という事。  肩の力を抜くいい方法があったらいいんだが―――   「…………」    闇に染み込んでいくような足音。  無遠慮に近づいてくるこの気配は、これで二度目だ。 「……なんだよ。おまえに用なんてないぞ、俺は」 「それは私も同じだ。だが、凛が気に病んでいるようなのでな。見るに見かねた、というヤツだ」 「………………」  アーチャーを睨みながら、手にした角材を放り投げる。  と、興味深そうにアーチャーは角材を拾い上げていた。 「強化の魔術か。にしてもひどい出来だ」 「っ……! ふん、どうせ半人前だよ。おまえのマスターの手を煩わせて悪かったなってんだ」 「いや、そうではない。これに関しては凛も間違えている」 「え……? それは、どういう―――」 「ふん、元から有るものに手を加える? それは高望みしすぎだ。そんな事ができるほど、おまえは器用ではあるまい」 「な……!」  言わしておけば言いたい放題……! ……なのだが、その通りなんで反論しようがない。  俺が不器用なのは事実だし、魔術がうまくいかないのも自分自身の責任だ。  それを、こいつに当たってもしょうがないだろう。 「――――どうした。昨夜ほどの元気はないか」 「うるさい。おまえの言うとおりだから黙っただけだ。  俺が未熟なのが、一方的に悪いんだからな」  ふん、と顔を背ける。  それをどうとったのか、   「……ふむ。おまえはある意味、師に恵まれていないのかもしれないな」    感心したような声で、アーチャーはそう言った。 「え……? そんな事ないぞ。親父も遠坂も教え方はうまいんだから。覚えが悪いのは俺の方だろ」 「―――だからだ。おまえ相手にはな、何も判っていない魔術師の方がうまく作用する。  天才には凡人の悩みは判らない。  凛は優等生すぎるから、落ちこぼれであるおまえの間違いに気がつかないのだ」 「?」  アーチャーの言いたい事はよく分からない。  分からないが、単純に言葉尻を捉えてみると。 「よく判んないけど。つまりおまえ、俺に喧嘩売ってるのか」  今なら買うぞ、二束三文で。 「―――それも間違いだ。衛宮士郎は格闘には向かない。  おまえの戦いは精神の戦い、己との戦いであるべきだからだ」 「む……魔術師の戦いは精神戦だって言うんだろ。そんなの判ってる。それでも、戦うなら殴り合うしかないじゃないか」 「―――まったく。これではセイバーも苦労しよう」  心底こちらを見下げるアーチャー。  その目には今までになかった、本気の落胆と怒りが混ざっていた。 「一度しか言わんからよく聞け。  いいか、戦いになれば衛宮士郎に勝ち目などない。  おまえのスキルでは、何をやってもサーヴァントには通じない」 「…………っ」  それは、セイバーにも言われた事だ。  戦いになっては勝てない。  どんな奇策を用いようと、戦いになっては衛宮士郎に勝機などない、と。 「ならば、せめてイメージしろ。現実で敵わない相手なら、想像の中で勝て。  自身が勝てないのなら、〈勝てるモノを幻想しろ〉《・・・・・・・・・・》。  ―――所詮。おまえに出来る事など、それぐらいしかないのだから」 「な――――」    なぜかは分からない。  ただアーチャーの言葉は、どうしようもなく素直に、この胸に落ちた気がした。          忘れるな、と。  この男の言っている事は、決して忘れてはならない事だと、誰より俺自身が思っている――― 「……どうかしているな、殺すべき相手に助言をするなど。どうやら私にも、凛の甘さが移ったようだ」    唐突にアーチャーは消えた。  本来、アーチャーは見張り役だ。  見張りに適した屋根まで、跳んで戻っていったのだろう。 「……なんだ、あいつ」    居なくなった相手に向かって、ぼそりと文句を言う。    答えなど返ってこない。  やけに頭に残るアーチャーの台詞を反芻しながら、火照った体で、冷たい冬の空気を感じていた。    屋敷に戻る。    イリヤと出会った事は黙っている事にした。  本来なら真っ先に報せるべきだと分っているが、それでも話したくはなかったのだ。  公園で出会ったイリヤはマスターじゃなかった。  俺とイリヤはなんでもない話をして、なんでもない別れ方をした。  だから、今日の事を人に話すのは躊躇われる。  ……隠し事をするようで後ろめたいが、今日のイリヤを敵と思いたくなかったのだ。  セイバーと昼食を摂ったあと、道場で鍛錬を続け、気が付けば夕食時になっていた。  セイバーとの打ち合いで疲れ切った体を休めて、風呂に入って汗を流す。  そうして居間に行くと、夕食の支度が整っていた。 「――――――――」  ちょっと感動した。  風呂からあがって、自分が何もしていないのにご飯が出来ているというのは、やはりいい。 「衛宮くん、夕食だけど―――なによ、馬鹿みたいに立ちつくして」  だというのに。  どうしてこう、コイツはピンポイントで感動をぶち壊す発言をしてくるのか。 「なんでもない。夕食だろ、ありがたくいただくよ。セイバーは?」 「んー? セイバーさんなら士郎の部屋に行ったみたいだけど、会わなかった? おかしいなあ、さっきまでここにいたけど」 「旅館みたいに入り組んだ家だからすれ違ったんじゃない? いいわ、セイバーはわたしが呼んでくるから、衛宮くんはもう一度洗面所に行ってきなさい。髪、よく乾いてないわよ」 「あ、ほんとだ。悪い、それじゃセイバーは任せた」  遠坂に手を振って廊下に戻る。  遠坂の言うとおり、衛宮邸は無節操な改築によってあちこちに通路がある。  その中でも最たるものが洗面所へのルートで、俺の部屋からでも居間からでも行けてしまうあたり、本当に旅館じみた作りをしていた。  洗面所に入る。  ドライヤーは好みではないので、さっき使ったタオルで髪を拭こう。   「――――――――」    瞬間。  今日一日起きたことを、ぜんぶ忘れた。 「シロウ」 「二度湯のようですが、今は私が使っています。出来れば遠慮してもらえると助かるのですが」 「あ、あ、あう、あ」  弁明を。  これは事故だって弁明しなければならないのに、頭の中は真っ白だった。  なにしろ今日一日分の記憶が抜け落ちるぐらいのインパクトなんだから。 「す、すす、すすすすす」 「シロウ、湯にのぼせたのですか? 耳まで真っ赤ですが、体を冷やすのなら縁側に出るべきです」 「あ、いや、そうする、けど。その前に、謝らないと、まずい」  セイバーから視線を逸らして、ばっくんばっくん言っている心臓を落ち着かせる。 「これは、事故なんだ。いや、こうして出くわしちまった時点で釈明の余地はないんで、セイバーは、俺に怒っていい」 「?」  できるだけ下を見ながら、なんとか気持ちを落ち着けて言った。  セイバーは何やら考え込んだ後。 「シロウ、顔をあげてください」 「あ……ああ」  言われた通りに顔をあげる。 「って、なんでそのままなんだ……!?」 「シロウが謝るほどの事ではありませんから。このような場面を見たところで、気にする必要はないと言いたいのです」 「あ――――はい?」 「以前にも言ったでしょう。サーヴァントにとって、性別など些末な事だと。  シロウは私の体を見て慌てているようですが、私は女性である前にサーヴァントです。ですから、そのような気遣いは不要かと」 「な――――」  なにを言ってるんだ、セイバーは。  いや、いくらセイバー本人がそんなコト言っても、セイバーが女の子だって事は変わらない。  ……いや、それとも。  もしかしてとは思うんだけど、セイバー、まさか。 「……訊くけど。着替え中を見られても恥ずかしくないっていうんじゃないだろうな、セイバー」 「? なぜ恥じ入る必要があるのです?」 「――――――――」  やっぱりそうか。  ……が、セイバーがどうでも、俺が正気でいられなくなるのには間違いはない。 「……悪かった。とにかく謝る。次にこんなコトがあったら、セイバーの好きにしていい」  くるん、と百八十度回転して、ぎくしゃくと脱衣場から脱出する。 「?」  そんな俺を、セイバーは最後まで普段通りに見送っていた。  昼食を終えて、午後になってもやる事に変わりはない。  飽きることなく、セイバーと一心不乱に竹刀を交わらせる。  遠坂か藤ねえが帰ってくるまで続くその鍛錬は、    来客を告げるチャイムで中断させられた。 「シロウ。来客のようですが」 「ああ、ちゃんと聞こえた。ちょっと出てくるから、セイバーはここにいてくれ」 「……いえ。招かれざる客という事もありえます。万が一に備えて同行しましょう」 「――――む」  セイバーの言う事はもっともだ。  ……もっともだが、来客がたまたまご近所の人だった場合、セイバーの事を怪しまれる可能性もある。  なにしろ衛宮さん家は士郎くんが一人で暮らしている事になっているのだから。  しかし……。 「ま、そん時はそん時か」    桜や藤ねえが出入りしてるんだから、今更ご近所の目を気にしても始まるまい。 「よし、付いてきてくれセイバー。ただし、お客さんが普通の人だったら大人しくしててくれよ」 「解っています。私はシロウの遠い親戚、という事ですね?」 「そうそう、それでよろしく」   「はい、いま出ますー!」    何度目かのチャイムに急がされて、玄関の扉を開ける。 「お邪魔する。具合が悪いというから様子を見に来たぞ、衛宮」  と。  やってきたのは敵でもご近所の奥さんでもなく、見知った学校の友人だった。 「なんだ、一成か」 「なんだとは失礼だな。見舞いにきた知人に対してとる態度か、それが」  喝、などと文句を言いながら、一成は手にした紙袋を差し出してくる。 「ん? なんだよこれ。りんご?」 「見舞い品だ。普段風邪一つひかぬ衛宮が病欠しているのだから、それぐらいは持参する」 「――――む」    その心遣いは嬉しいのだが、あいにくこっちは病気で休んでいるワケじゃない。  ……それに学校を休んでいる友人に対して、紙袋いっぱいにリンゴを買ってくるのも、年若い学生としてはどうかと思う。 「どうした衛宮。果物は苦手だったか?」 「いや、好きだよ。そうだな。色々複雑だが、気持ちはありがたく」  感謝、とお辞儀をする。 「……衛宮。つかぬ事を訊くのだが、おまえの後ろにいる女性は何者だ?」 「え?」  そこには当然、付いてきていたセイバーの姿があった。 「あ――――」    そうか。一成のヤツ、俺がお辞儀をした時にセイバーと目があったのか。 「……見たことのない御仁だが。なぜ、かような女性が衛宮の家にいるのだ?」  無遠慮な視線をセイバーに向ける一成。  こいつは人見知りが激しく、初対面の相手や気に入らない相手にはとことん冷たくなる。 「あ、いや、彼女はセイバーって言って、その」 「シロウの遠い親戚です。この家の主人だった切嗣が外国にいたおり、懇意にさせていただきました。  先日こちらに観光に来たのですが、縁を頼りに宿を借りているのです」 「―――――――え?」  セイバーはスラスラと、もっともな説明をする。 「衛宮のお父さんのお知り合いでしたか。聞けばかなりの旅行好きと聞いています。貴方のような人と知り合いになる事もあるでしょう」 「―――――――ええ!?」  一方、あっさりと納得する、人見知りが激しい筈の柳洞一成。 「なるほど、事情は判ったぞ衛宮。  病欠というのは口実で、観光に来た彼女の案内をしていたのだな?」 「あ―――ああ。まあ、そういう事になる」  ……うん。とりあえず、大きな目で見れば嘘は付いていないと思うぞ。 「ならお邪魔してもかまうまい。ここまで運んできた礼として茶でも振る舞ってくれ。ここ二日ばかり学校で起きた出来事でも世間話にしよう」  失礼、と靴を脱いであがってくる一成。 「……? なんだよ礼って。いちおう忙しいんだぞ、俺。  世間話はまたの機会にしてくれ」 「何を言っている。オマエ、うちの前に自転車を乗り捨てていっただろう」 「あ……そうか、柳洞寺に自転車置きっぱなしだった」 「だろう。それを持ってきてやったのだ。  俺とて忙しい中、生徒会に行かずまっすぐ家に帰り、ここまで戻ってきたのだ。それでも茶の一つも出せないというのかオマエは」 「――――う」    それは、確かにありがたい。  自転車は三台あるといっても、柳洞寺に乗り捨てた自転車は一番お金がかかっている愛車なのだ。 「……悪いセイバー。少し休憩ってコトでいいか?」  こくん、と無言で頷くセイバー。 「すまない。それじゃセイバーと一成は居間に行っててくれ。俺は、お茶淹れてくるから。一成は日本茶、セイバーは紅茶でいいんだよな」 「な……わ、私も同席するのですか!? そ、それはどうかと思います。私がいてはご学友と気軽な話などできないでしょう」 「そんなコトないぞ。だろ、一成」 「うむ。女は喧しいが、セイバーさんなら構わぬ。つつましい女性は文化遺産だ」 「だってさ。んじゃ、先行っててくれ」 「あ……はい。それは分かりましたが、シロウ」 「なんだ、他になにかあるのか?」 「飲み物でしたら、私も日本茶を。緑茶は嫌いではありません」    なぜかきっぱりと言うセイバー。  いつもの調子でそんな言葉を言われたのが、妙におかしく感じられた。  一時間ほどバカな話をして、一成が帰るコトになった。  居間でした世間話の大半が学校での事で、なにか異状は起きていないかと注意深く聞いてみたが、学校はいつも通りのようだった。 「それではな。明日も休むのか、衛宮は」 「ああ、今週は学校には行かない。明日もセイバーに付き合ってもらわないといけないからな」 「ふむ。まあ、あの御仁と一緒なら問題はなかろう。なにかと不審な所はあるが、問いただすまでもない」    うむ、と一人納得して頷く一成。  ……そう言えば、この人見知りの激しい男がよくセイバーを嫌がらなかったもんだ。 「なあ一成。おまえ、セイバーとは初対面だったのに機嫌が良かったけど、どういう風の吹き回しだよ」 「何を言うか。これでも寺の飯で育った身だぞ。人の善し悪しぐらい見抜けなくてどうする。素性は知らぬが、あの子の霊気は澄んでいたからな。悪い人間の筈がない」 「へえ。一成、そういう事判るんだ。ちょっと見直した」 「……まあ、普通は判らん。だがあれぐらい飛び抜けていると未熟者でも見て取れるのだ。  見習い坊主でも、傍らに神仏がおられれば神気ぐらいは感じられる。つまり、それぐらいセイバーさんの佇まいは美しい」  ……これまた、珍しい。  一成が、女の子を褒めている。 「そうか。一成もセイバーの事を気に入ってくれたのか」  それは良かった。  セイバーは黙って話を聞いているだけだったから、一成はよく思っていないのでは、と心配だったのだ。 「当然だろう。彼女はいい子じゃないか。嫌うのは難しい」 「うんうん。けどなあ、いいヤツなのは分かるんだけど、ちょっと無愛想だろ。セイバーはいつもああだから、別に一成を嫌ってるって訳じゃないぞ」 「え? 無愛想か、あの子?」 「無愛想だよ。まだ笑った事もないし。俺たちがバカ笑いしていた時だって、ムスッとしたままだったじゃないか」 「いや、けっこう笑っていたが?」 「――――え?」  そんな馬鹿な。  そりゃセイバーだって少しは穏やかな顔をする時もある。  けど、そんな目に見えて笑うなんてコト、今まで一度もなかったっていうのにか……!? 「うそだあ。セイバーがハラを抱えて笑ってる姿なんて想像できないぞ、俺」 「……いや、そういうのではなくてだな。  おまえが笑ってるのを見て笑っていたのだが、なんだ、気が付いてなかったのか」  ――――?  俺が笑ってるのを見て、笑っていた……? 「……あのさ。それ、俺の事をばかにしてるって事なんだろうか……?」 「――――なるほど、また珍妙な解釈をする。  ま、そのあたりは己で悩め。何事も自問する事より始まるのだ、喝」  いつもの決まり文句を口にして、あはははは、と笑いながら寺の息子は去っていった。   「む――――なんだアイツ」    思わせぶりなコトを言って帰っていきやがって。  じゃあなの一言ぐらいちゃんと言えってんだ、ばかものめっ。 「――――」  まさか、と思うより早かった。  騎士風の少女は、ためらう事なく土蔵の外へと身を躍らせる。 「!」  体の痛みも忘れ、立ち上がって少女の後を追った。  あの娘があの男に敵う筈がない。  いくらあんな物騒な格好をしていようと、少女は俺より小さな女の子なんだ。 「やめ――――!」  ろ、と叫ぼうとした声は、その音で封じられた。 「な――――」  我が目を疑う。  今度こそ、何も考えられないぐらい頭の中が空っぽになる。 「なんだ、あいつ――――」  響く〈剣戟〉《けんげき》。  月は雲に隠れ、庭はもとの闇に戻っている。  その中で火花を散らす鋼と鋼。  土蔵から飛び出した少女に、槍の男は無言で襲いかかった。  少女は槍を一撃で払いのけ、更に繰り出される槍を弾き返し、その〈度〉《つど》、男は後退を余儀なくされる。 「――――」  信じ、られない。  セイバーと名乗った少女は、間違いなくあの男を圧倒していた。    ―――戦いが、始まった。    先ほどの俺と男のやりとりは戦闘ではない。  戦闘とは、互いを仕留める事ができる能力者同士の争いである。  それがどのような戦力差であろうとも、相手を打倒しうる術があるのなら、それは戦闘と呼べるだろう。  そういった意味でも、二人の争いは戦闘だった。  俺では視認する事さえ出来なかった男の槍は、さらに勢いを増して少女へと繰り出される。  それを、  手にした“何か”で確実に弾き逸らし、間髪いれずに間合いへと踏み込む少女。 「チィ――――!」  憎々しげに舌打ちをこぼし、男は僅かに後退する。  手にした槍を縦に構え、狙われたであろう脇腹を防ぎに入る――――! 「ぐっ……!」  一瞬、男の槍に光が灯った。  爆薬を叩き付けるような一撃は、真実その通りなのだろう。  少女が振るう“何か”を受けた瞬間、男の槍は感電したかのように光を帯びる。  それがなんであるか、男はおろか俺にだって見て取れた。  アレは、視覚できる程の魔力の猛りだ。  少女の何気ない一撃一撃には、とんでもない程の魔力が籠もっている。  そのあまりにも強い魔力が、触れ合っただけで相手の武具に浸透しているのだ。  あんなもの、受けるだけでも相当な衝撃になる。  男の槍が正確無比な狙撃銃だとしたら、少女の一撃は火力に物を言わせた散弾銃だ。  少女の一撃が振るわれる度に、庭は閃光に包まれる。  だが。  男が圧倒されているのは、そんな二次的な事ではない。 「卑怯者め、自らの武器を隠すとは何事か……!」    少女の猛攻を捌きながら、男は呪いじみた悪態をつく。 「――――――――」  少女は答えず、更に手にした“何か”を打ち込む……! 「テメェ……!」  男は反撃もままならず後退する。  なにしろ少女が持つ武器は〈視〉《み》えないのだ。  相手の間合いが判らない以上、無闇に攻め込むのは迂闊すぎる。  そう、見えない。  少女は確かに“何か”を持っている。  だがそれがどのような形状なのか、どれほどの長さなのか判明しないのでは、一切が不可視のままだ。  もとから透明なのか、少女の振るう武器は火花を散らせようと形が浮かび上がらない。 「チ――――」  よほど戦いづらいのか、男には先ほどまでの切れがない。 「――――」  それに、初めて少女は声を漏らした。  手にした“何か”を振るう腕が激しさを増す。  絶え間ない、豪雨じみた剣の舞。  飛び散る火花は鍛冶場の錬鉄を思わせる。  ―――それを舌打ちしながら防ぎきる槍の男。    正直、殺されかけた相手だとしても感嘆せずにはいられない。  槍の男は見えない武器を相手に、少女の腕の動きと足運びだけを頼りに確実に防いでいく―――! 「ふ――――っ!」  だがそれもそこまで。  守りに回った相手は、斬り伏せるのではなく叩き伏せるのみ。そう言わんばかりに少女はより深く男へと踏み込み、  叩き下ろすように、渾身の一撃を食らわせる……!! 「調子に乗るな、たわけ――――!」  ここが勝機と読んだか、男は消えた。  否、消えるように後ろに跳んだ。  ゴウン、と空を切って地面を砕き、土塊を巻き上げる少女の一撃。    槍の男を追い詰め、トドメとばかりに振るわれた一撃はあっけなく〈躱〉《かわ》された――――! 「バカ、なにやってんだアイツ……!」  遠くから見ても判る。  今までのような無駄のない一撃ならいざ知らず、勝負を決めにかかった大振りでは男を捉える事はできない。  男とて、何度も少女の猛攻を受けて体が軋んでいただろう。  それを圧して、この一瞬の為に両足に鞭をうって跳んだのだ。    今の一撃こそ、勝敗を決する隙と読み取って――――! 「ハ――――!」  数メートルも跳び退いた男は、着地と同時に弾けた。  三角跳びとでもいうのか、自らの跳躍を巻き戻すように少女へと跳びかかる。  対して―――少女は、地面に剣を打ち付けてしまったまま。 「――――!」  その隙は、もはや取り返しがつかない。  一秒とかからず舞い戻ってくる赤い槍と、  ぐるん、と。  地面に剣を下ろしたまま、コマのように体を反転させる少女。 「!」  故に、その攻防は一秒以内だ。  己の失態に気が付き踏みとどまろうとする男と、  一秒もかけず、体ごとなぎ払う少女の一撃――――! 「ぐっ――――!!」 「――――――――」  弾き飛ばされた男と、弾き飛ばした少女は互いに不満の色を表した。  お互いがお互いを仕留めようと放った必殺の手だ。  たとえ窮地を〈凌〉《しの》いだとしても、そんな物には一片の価値もあるまい。  間合いは大きく離れた。  今の攻防は互いに負担が大きかったのか、両者は静かに睨み合っている。 「―――どうしたランサー。  止まっていては槍兵の名が泣こう。そちらが来ないのなら、私が行くが」 「……は、わざわざ死にに来るか。それは構わんが、その前に一つだけ訊かせろ。  貴様の宝具――――それは剣か?」    ぎらり、と。  相手の心を射抜く視線を向ける。 「―――さあどうかな。  戦斧かも知れぬし、槍剣かも知れぬ。いや、もしや弓かも知れんぞ、ランサー?」 「く、ぬかせ〈剣使い〉《セイバー》」    それが本当におかしかったのか。  男……ランサーと呼ばれた男は槍を僅かに下げた。  それは戦闘を止める意思表示のようでもある。 「?」  少女はランサーの態度に戸惑っている。  だが―――俺は、あの構えを知っている。  数時間前、夜の校庭で行われた戦い。  その最後を飾る筈だった、必殺の一撃を。 「……ついでにもう一つ訊くがな。お互い初見だしよ、ここらで分けって気はないか?」 「――――――――」 「悪い話じゃないだろう? そら、あそこで惚けているオマエのマスターは使い物にならんし、オレのマスターとて姿をさらせねえ大腑抜けときた。  ここはお互い、万全の状態になるまで勝負を持ち越した方が好ましいんだが――――」 「―――断る。貴方はここで倒れろ、ランサー」 「そうかよ。ったく、こっちは元々様子見が目的だったんだぜ? サーヴァントが出たとあっちゃ長居する気は無かったんだが――――」  ぐらり、と。  二人の周囲が、歪んで見えた。  ランサーの姿勢が低くなる。  同時に巻き起こる冷気。    ―――あの時と同じだ。あの槍を中心に、魔力が渦となって鳴動している―――― 「宝具――――!」  少女は剣らしき物を構え、目前の敵を見据える。  俺が口を出すまでもない。  敵がどれほど危険なのかなど、対峙している彼女がより感じ取っている。 「……じゃあな。その心臓、貰い受ける――――!」  獣が地を蹴る。  まるでコマ飛び、ランサーはそれこそ瞬間移動のように少女の目前に現れ、    その槍を、彼女の足下めがけて繰り出した。 「――――」  それは、俺から見てもあまりに下策だった。  あからさまに下段に下げた槍で、さらに足下を狙うなど少女に通じる筈がない。  事実、彼女はそれを飛び越えながらランサーを斬り伏せようと前に踏み出す。    その、瞬間。   「“――――〈刺し穿つ〉《ゲイ》”」    それ自体が強力な魔力を帯びる言葉と共に、   「“――――〈死棘の槍〉《ボルク》――――!”」    下段に放たれた槍は、少女の心臓に迸っていた。 「――――!?」  浮く体。  少女は槍によって弾き飛ばされ、大きく放物線を描いて地面へと落下――――いや、着地した。 「は―――っ、く……!」  ……血が流れている。  今まで掠り傷一つ負わなかった少女は、その胸を貫かれ、〈夥〉《おびただ》しいまでの血を流していた。 「呪詛……いや、今のは因果の逆転か――――!」  ……驚きはこちらも同じだ。  いや、遠くから見ていた分、彼女以上に今の一撃が奇怪な物だったと判る。  槍は、確かに少女の足下を狙っていた。  それが突如軌道を変え、あり得ない形、あり得ない方向に伸び、少女の心臓を貫いた。  だが槍自体は伸びてもいないし方向を変えてもいない。    その有様は、まるで初めから少女の胸に槍が突き刺さっていたと錯覚するほど、あまりにも自然で、それ故に奇怪だった。          軌跡を変えて心臓を貫く、などと生易しい物ではない。  槍は軌跡を変えたのではなく、そうなるように〈過程〉《じじつ》を変えたのだ。    ……あの〈名称〉《ことば》と共に放たれた槍は、大前提として既に“心臓を貫いている”という“結果”を持ってしまう。    つまり、過程と結果が逆という事。  心臓を貫いている、という結果がある以上、槍の軌跡は事実を立証する為の後付でしかない。    あらゆる防御を突破する魔の棘。  狙われた時点で運命を決定付ける、使えば『必ず心臓を貫く』槍。  そんな出鱈目な一撃、誰に防ぐ事が出来よう。  敵がどのような回避行動をとろうと、槍は必ず心臓に到達する。    ―――故に必殺。  解き放たれれば、確実に敵を貫く呪いの槍―――    が。  それを、少女は紙一重で〈躱〉《かわ》していた。  貫かれはしたものの、致命傷は避けている。  ある意味、槍の一撃より少女の行動は不可思議だった。  彼女は槍が放たれた瞬間、まるでこうなる事を知ったかのように体を反転させ、全力で後退したのだ。  よほどの幸運か、槍の呪いを緩和するだけの加護があったのか。  とにかく少女は致命傷を避け、必殺の名を地に落としたのだが―――― 「は――――ぁ、は――――」  少女は乱れた呼吸を整えている。  あれだけ流れていた血は止まって、穿たれた傷口さえ塞がっていく――― 「――――」  桁違いとはああいうモノか。  彼女が普通じゃないのは判っていたが、それにしても並外れている。  ランサーと斬り合う技量といい、一撃ごとに叩きつけられる膨大な魔力量といい、こうしてひとりでに傷を治してしまう体といい、少女は明らかにランサーを上回っている。  ……しかし、それも先ほどまでの話。  再生中といえど、少女の傷は深い。  ここでランサーに攻め込まれれば、それこそ防ぐ事も出来ず倒されるだろう。  だが。  圧倒的に有利な状況にあって、ランサーは動かなかった。  ぎり、と。  ここまで聞こえるほどの歯ぎしりを立てて少女を睨む。   「―――躱したなセイバー。我が必殺の〈一撃〉《ゲイ・ボルク》を」    地の底から響く声。 「っ……!? ゲイ・ボルク……御身はアイルランドの光の御子か――!」  ランサーの顔が曇る。  先ほどまでの敵意は薄れ、ランサーは忌々しげに舌打ちをした。 「……ドジったぜ。こいつを出すからには必殺でなけりゃヤバイってのにな。まったく、有名すぎるのも考え物だ」  重圧が薄れていく。  ランサーは傷ついた少女に追い打ちをかける事もせず、あっさりと背中を見せ、庭の隅へ移動した。 「己の正体を知られた以上、どちらかが消えるまでやりあうのがサーヴァントのセオリーだが……あいにくうちの雇い主は臆病者でな。槍が〈躱〉《かわ》されたのなら帰ってこい、なんてぬかしやがる」 「――逃げるのか、ランサー」 「ああ。追って来るのなら構わんぞセイバー。  ただし―――その時は、決死の覚悟を抱いて来い」  トン、という跳躍。  どこまで身が軽いのか、ランサーは苦もなく塀を飛び越え、止める間もなく消え去った。 「待て、ランサー……!」  胸に傷を負った少女は、逃げた敵を追おうとして走り出す。 「バ、バカかアイツ……!」  全力で庭を横断する。  急いで止めなければ少女は飛び出していってしまう。    ……が、その必要はなかった。  塀を飛び越えようとした少女は、跳ぼうと腰を落とした途端、苦しげに胸を押さえて立ち止まった。 「く――――」  傍らまで走り寄って、その姿を観察する。  いや、声をかけようと近寄ったのだが、そんな事は彼女に近づいた途端に忘れた。 「――――――――」    ……とにかく、何もかもが嘘みたいなヤツだった。  銀の光沢を放つ防具は、間近で見ると紛れもなく重い鎧なのだと判る。  時代がかった服も見たことがないぐらい滑らかで鮮やかな青色。  ……いや、そんな事で見とれているんじゃない。  俺より何歳か年下のような少女は、その―――とんでもない美人だった。  月光に照らされた金の髪は、砂金をこぼしたようにきめ細かく。  まだあどけなさを残した顔は気品があり、白い肌は目に見えて柔らかそうだった。 「――――――――」    声をかけられないのは、そんな相手の美しさに息を呑んでいるのともう一つ。 「――――なんで」    この少女が戦って傷を負っているのかが、ひどく癇に障ったからだ。  ぼんやりと見とれている間、少女は黙って胸に手を当てていた。  それもすぐに終わった。  痛みが引いたのか、少女は胸から手を離して顔を上げる。  まっすぐにこちらを見据える瞳。  それになんて答えるべきか、と戸惑って、彼女の姿に気が付いた。 「……傷が、なくなってる……?」    心臓を外したとはいえ、あの槍で胸を貫かれたというのに、まったく外傷がない。  ……治療の魔術がある、とは聞いているけど、魔術が行われた気配はなかった。  つまりコイツは、傷を受けようが勝手に治るという事か―――― 「――――っ」  それで頭が切り替わった。  見とれている場合じゃない、コイツは何かとんでもないヤツだ。正体が判らないまま気を許していい相手じゃない。 「―――おまえ、何者だ」    半歩だけ後ろに下がって問う。 「? 何者もなにも、セイバーのサーヴァントです。  ……貴方が私を呼び出したのですから、確認をするまでもないでしょう」 「セイバーのサーヴァント……?」 「はい。ですから私の事はセイバーと」  さらりと言う。  その口調は〈慇懃〉《いんぎん》なくせに穏やかで、なんていうか、耳にするだけで頭ん中が白く―――   「――――っ」    ……って、なにを動揺してんだ俺は……! 「そ、そうか。ヘンな名前だな」    熱くなっている頬を手で隠して、なにかとんでもなくバカな返答をした。けどそれ以外なんて言えばいいのか。  そんなの判る筈もないし、そもそもこっちが何者かって訊いたんだから名前を言うのは当たり前で―――って、ならいつまでも黙っているのは失礼ではないかとか。 「……俺は士郎。衛宮士郎っていって、この家の人間だ」    ―――どうかしてる。  なんか、さらに間抜けな返答をしてないか俺。  いやでも、名前を言われたんだからともかく名乗り返さないと。  我ながら混乱しているのは分かっているが、どんな相手にだって筋は通さないとダメなのだ。 「――――――――」  少女……セイバーは変わらず、やっぱり眉一つ動かさないで、混乱している俺を見つめている。 「いや、違う。今のはナシだ、訊きたいのはそういう事でなくて、つまりだな」 「解っています。貴方は正規のマスターではないのですね」 「え……?」 「しかし、それでも貴方は私のマスターです。契約を交わした以上、貴方を裏切りはしない。そのように警戒する必要はありません」 「う……?」  やばい。  彼女が何を言っているのか聞き取れているクセにちんぷんかんぷんだ。  判っているのは、彼女が俺の事を〈主人〉《マスター》なんて、とんでもない言葉で呼んでいる事ぐらい。 「それは違う。俺、マスターなんて名前じゃないぞ」 「それではシロウと。ええ、私としては、この発音の方が好ましい」 「っ…………!」  彼女にシロウと口にされた途端、顔から火が出るかと思った。  だって初対面の相手なら名前じゃなくて名字で呼ばないかフツー……!? 「ちょっと待て、なんだってそっちの方を――――」 「痛っ……!」  突然、左手に痺れが走った。 「あ、熱っ……!」  手の甲が熱い。  左手には入れ墨のような、おかしな紋様が刻まれていた。 「な――――」 「それは令呪と呼ばれるものですシロウ。  私たちサーヴァントを律する三つの命令権であり、マスターとしての命でもある。無闇な使用は避けるように」 「お、おまえ――――」 「―――シロウ、傷の治療を」  冷たい声で言う。  その意識は俺にではなく、遠く―――塀の向こうに向けられているようだった。 「待て、まさか俺に言ってるのか? 悪いけどそんな難しい魔術は知らないし、それにもう治ってるじゃないか、それ」  セイバーは僅かに眉を寄せる。  ……なんか、とんでもない間違いを口にした気がする。 「……ではこのままで臨みます。自動修復は外面を覆っただけですが、あと一度の戦闘ならば支障はないでしょう」 「……? あと一度って、何を」 「外の敵は二人。この程度の重圧なら、数秒で倒しうる相手です」  言って、セイバーは軽やかに跳躍した。  ランサーと同じ、塀を飛び越えて外に出る。  あとに残ったのは、庭に取り残された俺だけだった。 「……外に、敵?」  口にした途端、それがどんな事なのか理解した。 「ちょっと待て、まだ戦うっていうのかおまえ……!」  体が動く。  後先考えず、全力で門へと走り出した。 「はっ、はっ、は――――!」  門まで走って、慌てる指で閂を外して飛び出る。 「セイバー、何処だ……!?」  闇夜に目を凝らす。  こんな時に限って月は隠れ、あたりは闇に閉ざされている。  だが――――  すぐ近くで物音がした。 「そこか……!」  人気のない小道に走り寄る。    ―――それは、一瞬の出来事だった。    見覚えのある赤い男とセイバーが対峙している。  セイバーはためらう事なく赤い男へと突進し、一撃で相手の体勢を崩して―――  部活がある桜と別れて校舎に向かう。  校庭には走り込みをしている運動部の部員たちがいて、朝から活気が溢れている。 「…………」  にも関わらず、酷い違和感があった。  学校はいつも通りだ。  朝練に励む生徒たちは生気に溢れ、真新しい校舎には汚れ一つない。 「……気のせいか、これ」  なのに、目を閉じると雰囲気が一変する。  校舎には粘膜のような汚れが張り付き、校庭を走る生徒たちはどこか虚ろな人形みたいに感じられる。 「……疲れてるのかな、俺」  軽く頭をふって、校舎へ足を向けた。  土曜日の学校は早く終わる。  午前中で授業は終わり、一成の手伝いを終えた頃には、日は地平線に没しかけていた。 「さて、そろそろ帰るか」  荷物をまとめて教室を後にする。  と。 「なんだ。まだ学校にいたんだ、衛宮」  ばったりと慎二と顔を合わせた。  慎二の後ろには何人かの女生徒がいて、なにやら騒がしい。 「やる事もないクセにまだ残ってたの? ああそうか、また生徒会にごますってたワケね。いいねえ衛宮は、部活なんてやんなくても内申稼げるんだからさ」 「生徒会の手伝いじゃないぞ。学校の備品を直すのは生徒として当たり前だろ。使ってるのは俺たちなんだから」 「ハ、よく言うよ。衛宮に言わせれば何だって当たり前だからね。そういういい子ぶりが癇に障るって前に言わなかったっけ?」 「む? ……すまん、よく覚えていない。それ、慎二の口癖だと思ってたから、どうも聞き流してたみたいだ」 「っ――――!  フン、そうかい。それじゃ学校にある物ならなんでも直してくれるんだ、衛宮は」 「何でも直すなんて無理だ。せいぜい面倒見るぐらいだが」 「よし、なら頼まれてくれよ。うちの弓道場さ、今わりと散らかってるんだよね。弦も巻いてないのが溜まってるし、〈安土〉《あづち》の掃除もできてない。  暇ならさ、そっちの方もよろしくやってくれないかな。  元弓道部員だろ? 生徒会になんか尻尾ふってないで、たまには僕たちの役にたってくれ」 「えー? ちょっとせんぱーい、それって先輩が藤村先生に言われてたコトじゃなかったー?」 「そうですよう、ちゃんとやっておかないと明日怒られますよー?」 「でもさー、今から片づけしてたら店閉まるじゃん。そこの人がやってくれるんならそれでいいんじゃないの?」 「悪いよー。それに部外者に後片づけなんか出来るワケないし……」 「そうでもないんじゃない? あの人、元弓道部員だって慎二が言ってるしさぁ、任せちゃえばいいのよ」  慎二の後ろが騒がしい。  弓道部員のようだが、見知った顔がないという事は最近慎二が勧誘しているという部員たちだろうか。 「じゃ、あとはよろしく。鍵の場所は変わってないから、かってにやっといてよ。文句ないよね、衛宮?」 「ああ、かまわないよ。どうせ暇だったから、たまにはこういうのも悪くない」 「はは、サンキュ! それじゃ行こうぜみんな、つまんない雑用はアイツがやっといてくれるってさ!」 「あ、待ってよせんぱーい! あ、じゃ後はよろしくお願いしますねぇ、先輩」  勝手知ったるなんとやら、弓道場の整理は苦もなく終わった。  これだけ広いと時間がかかったが、一年半前まで使っていた道場を綺麗にするのは楽しかった。  途中、一度ぐらいならいいかな、と弓を手に取ったが、人の弓に弦を張るのも失礼なので止めておいた。  弓が引きたくなったのなら、自分の弓を持ってお邪魔すればいいだけの話だ。  時計を見れば、とうに門限は過ぎている。  時刻は七時を過ぎたあたり。この分じゃ校門は閉められてるだろうから、無理して早く帰る必要はなくなってしまった。  ……それにしても。  この道場ってこんなに汚れていたっけ。弓置きの裏とか部室とか、細かいところに汚れが目立つ。 「……ま、ここまできたら一時間も二時間も変わらないか」  乗りかかった船だ。どうせだからとことん掃除してしまおう―――  風が出ていた。  あまりの冷たさに頬がかじかむ。  ……冬でもそう寒くない冬木の夜は、今日に限って冷え込んでいた。 「――――――――」  はあ、とこぼした吐息が白く残留している。 「……なんだ。暗いと思ったら月が隠れてるのか」  見上げた空に白い光はない。  強い風のせいか、空には雲が流れている。  門限が過ぎ、人気の絶えた学校には熱気というものがない。  物音一つしないこの敷地は、町のどの場所より冷気に覆われているようだ。 「…………?」  何か、いま。  物音が、聞こえたような。 「―――確かに聞こえる。校庭の方か……?」  この夜。  凍てついた空の下、静寂を破る音が気になったのか。    真偽を確かめる為に、俺は、その場所へと向かってしまった。  ―――校庭にまわる。   「…………人?」    初め、遠くから見た時はそうとしか見えなかった。  暗い夜、明かりのない闇の中だ。  それ以上の事を知りたければ、とにかく校庭に近づくしかない。  音は大きく、より勢いを増して聞こえてきた。  これは鉄と鉄がぶつかり合う音だ。  となれば、あそこでは何者かが刃物で斬り合っている、という事だろう。 「……馬鹿馬鹿しい。なに考えてるんだ、俺……」    頭の中に浮かんだイメージを苦笑で否定して、さらに足を進めていく。    ―――この時。  本能が危険を察知していたのか、隠れながら進んでいた事が、ついていたのかそうでないのか。  ともかく身を隠せる程度の木によりそって、より近くから音の発信源を見――――    そこで、完全に意識が凍り付いた。 「――――――――な」    何か、よく分からないモノがいた。  赤い男と青い男。  時代錯誤を通り越し、もはや冗談とすら思えないほど物々しい武装をした両者は、不吉なイメージ通り、〈本当に斬り合っていた〉《・・・・・・・・・・》。  理解できない。  視覚で追えない。  あまりにも現実感のない動きに、脳が正常に働かない。  ただ凶器の弾けあう音だけが、あの二人は殺し合っているのだと、否応なしに知らせてくる。 「――――――――」  ただ、見た瞬間に判った。  アレは人間ではない。おそらくは人間に似た別の何かだ。  自分が魔術を習っているから判ったんじゃない。  あんなの、誰が見たってヒトじゃないって判るだろう。  そもそも人間はあんな風に動ける生物ではない。  だからアレは、関わってはいけないモノだ。 「――――――――」  離れていても伝わってくる殺気。  ……死ぬ。  ここにいては間違いなく生きてはいられないと、心より先に体の方が理解していた。  鼓動が激しいのもそういう事だ。  同じ生き物として、アレは殺す為だけの生き物なのだと感じている。 「――――――――」  ……ソレらは包丁やナイフなんて足下にも及ばない、確実に人を殺す為の凶器を繰り出している。  ふと、昨日の殺人事件が頭をよぎった。  犠牲になった家族は、刀のような凶器で惨殺されたという。 「っ―――――――」  これ以上直視していてはダメだ。  だというのに体はピクリとも動かず、呼吸をする事もできない。  逃げなければと思う心と、  逃げ出せばそれだけで見つかるという判断。  ……その〈鬩〉《せめ》ぎ合い以上に、手足が麻痺して動かない。    四十メートル以上も離れているのに、真後ろからあの槍を突きつけられているような気がして、満足に息も出来ない。 「――――――――」  音が止まった。  二つのソレは、距離をとって向かい合ったまま立ち止まる。  それで殺し合いが終わったのかと安堵した瞬間、いっそう強い殺気が伝わってきた。 「っ………………!」  心臓が萎縮する。  手足の痺れは痙攣に変わって、歯を食いしばって、震えだしたくなる体を押さえつけた。 「うそだ――――なんだ、アイツ――――!?」  青い方のソレに、吐き気がするほどの魔力が流れていく。  周囲から魔力を吸い上げる、という行為は切嗣に見せてもらった事がある。  それは半人前の俺から見ても感心させられる、一種美しさを伴った魔術だった。  だがアレは違う。  水を飲む、という単純な行為も、度を過ぎれば醜悪に見えるように。  ヤツがしている事は、魔力を持つ者なら嫌悪を覚えるほど暴食で、絶大だった。 「――――――――」  殺される。  あの赤いヤツは殺される。  あれだけの魔力を使って放たれる一撃だ。それが防げる筈がない。      死ぬ。  ヒトではないけれど、ヒトの形をしたモノが死ぬ。  それは。              それは。                  それは、見過ごして、いい事なのか。  その迷いのおかげで、意識がソレから外れてくれた。  金縛りが解け、はあ、と大きく呼吸をした瞬間。   「誰だ――――!」    青い男が、じろりと、隠れている俺を凝視した。 「………っっ!!」  青い男の体が沈む。  それだけで、ソレの標的は自分に切り替わったと理解できた。 「―――…………!!」  足が勝手に走り出す。  それが死を回避する為とようやく気づいて、体の全てを、逃走する事に注ぎ込んだ。  どこをどう走ったのか、気が付けば校舎の中に逃げ込んでいた。 「何を――――バカな」  はあはあと喘ぎながら、自分の行動に舌打ちする。  逃げるなら町中だ。  こんな、自分から人気のない場所に逃げるなんてどうかしてる。  それも学校。同じ隠れるのでも、もっと隠れやすい場所があるんじゃないのか。  そもそもなんだって俺はこんな、走らなければ殺されるなんて、物騒な錯覚に囚われてしまっている――― 「ハァ――――ハァ、ハァ、ハ――――ァ」    限界以上に走りづめだった心臓が〈軋〉《きし》む。  振り向けば、追いかけてくる気配はない。  カンカンと響く足音は自分だけの物だ。 「ァ――――ハァ、ハァ、ハァ」    なら、これでようやく止まれる。  もう一歩だって動かない足を止めて、壊れそうな心臓に酸素を送って、はあ、と大きくあごをあげて、助かったのだと実感できた。 「……ハァ……ぁ……なんだったんだ、今の……」    乱れた呼吸を整えながら、先ほどの光景を思い返す。  とにかく、見てはいけないモノだったのは確かな事だ。  夜の校庭で人間に似たモノ同士が争っていた。  思い返せるのはそれだけだ。  ただ、もう一つ視界の隅にあったのは、   「……もう一人、誰かいた気がするけど……」    それがどんな姿をしていたかまでは思い出せない。  正直、あの二人以外に意識をさいている余裕などなかった。 「けど、これでともかく――――」   「追いかけっこは終わり、だろ」    その声は、目の前から、した。 「よぅ。わりと遠くまで走ったな、オマエ」 「――――」  息ができない。  思考が止まり、何も考えられないというのに。    ――――漠然と、これで死ぬのだな、と実感した。 「逃げられないってのは、オマエ自身が誰よりも判ってたんだろ? なに、やられる側ってのは得てしてそういうもんだ。別に恥じ入る事じゃない」  フッ、と。  無造作に槍が持ち上げられ、そのまま。 「運がわるかったな坊主。ま、見られたからには死んでくれや」    容赦も情緒もなく、男の槍は、衛宮士郎の心臓を貫いた。  よける間などなかった。  今まで鍛えてきた成果なんて一片も通じなかった。  殺されると。  槍で貫かれると判っていながら、動く事さえできなかった。 「ぁ――――ぁ」  世界が歪む。  体が冷めていく。  指先、末端から感覚が消えていく。 「こ――――ふ」  一度だけ、口から血を吐き出した。  本来ならなお〈零〉《こぼ》れるはずの吐血は、ただ一度きりだった。  男の槍は特別製だったのかもしれない。  血液はゆっくりと淀んでいて、壊れて血をまき散らす筈の〈心臓〉《ポンプ》は、ただの一刺しで綺麗に活動を停止していた。 「――――――――」  よく見えない。  感覚がない。  暗い夜の海に浮かんでいる〈海月〉《クラゲ》のよう。  痛みすらとうに感じない。    世界は白く、自分だけが黒い。    だから自分が死んだというより、  まわりの全てがなくなったような感じ。  知っている。  十年前にも一度味わった。  これが、死んでいく人間の感覚だ。 「死人に口なしってな。弱いヤツがくたばるのは当然と言えば当然だが―――」    意識が視力にいかない。 「―――まったく嫌な仕事をさせてくれる。この様で英雄とは笑いぐさだ」    声だけが聞こえてくる。 「解っている、文句はないさ。女のサーヴァントは見たんだ。大人しく戻ってやるよ」    苛立ちを含んだ声。  その後に、廊下を駆けてくる足音が。 「―――アーチャーか。ケリをつけておきたいところだが、マスターの方針を破る訳にもいくまい。……まったく、いけすかねえマスターだこと」    唐突に声は消えた。  窓から飛び降りたのだろう。  その後に。  やってきた足音が止まった。    その、奇妙な間。    ……また足音。    もう、よく聞き取れ、ない。   「追って、アーチャー。ランサーはマスターの所に戻るはず。せめて相手の顔ぐらい把握しないと」  ……それは誰の声だったか。  かすんでいく意識を総動員して思い出そうとしたが、やはり、何も考えつかなかった。  今はただ、呼吸だけがうるさい。  肺はまだ生きているのか。  ひゅーひゅーと口から漏れる音が、台風みたいに、喧しかった。   「そのわりにはまだ死んでないってのは、凄いな」  覗き込まれる気配。  そいつも俺の呼吸がうるさかったのか、この口を閉じようと指を伸ばして――――   「……やめてよね。なんだって、アンタが」    ぎり、と。  悔しげに歯を噛む音が聞こえた途端、そいつは、ためらう事なく、血に濡れた俺に触れてきた。   「……破損した臓器を偽造して代用、その間に心臓一つまるまる修復か……こんなの、成功したら時計塔に一発合格ってレベルじゃない……」    苦しげな声。  それを境に、薄れていくだけの意識がピタリと止まった。 「――――――――」    体に感覚が戻ってくる。  ゆっくりと、少しずつ、葉についた水滴が〈零〉《こぼ》れるぐらいゆっくりと、体の機能が戻っていく。 「――――――――」    ……ぽたり、ぽたり。  何をしているのか。  寄り添ったそいつは額から汗を流して、一心不乱に、俺の胸に手を当てている。 「――――――――」    気が付けば、手のひらを置かれた箇所が酷く熱い。  きっと、それが死んでいた体を驚かせるぐらい熱かったから、凍っていた血潮が流れだしてくれたのだ。 「――――――――ふぅ」    大きく息を吐いて座り込む気配。   「っかれたぁ……」    カラン、と何かが落ちる音。   「……ま、仕方ないか。ごめんなさい父さん。貴方の娘は、とんでもなく薄情者です」  それが最後。  自嘲ぎみに呟いて、誰かの気配はあっさりと遠ざかっていった。   「――――――――」    心臓が活動を再開する。  そうして、今度こそ意識が途切れた。    ……それは死に行く為の眠りではなく。  再び目覚める為に必要な、休息の眠りだった。  夜の町を歩く。  深夜一時過ぎ、外に出ている人影は皆無だ。  家々の明かりも消えて、今は街灯だけが寝静まった町を照らしている。 「なあ遠坂。つかぬ事を訊くけど、歩いて隣町まで行く気なのか」 「そうよ? だって電車もバスも終わってるでしょ。いいんじゃない、たまには夜の散歩っていうのも」 「そうか。一応訊くけど、隣町までどのくらいかかるか知ってるか?」 「えっと、歩いてだと一時間ぐらいかしらね。ま、遅くなったら帰りはタクシーでも拾えばいいでしょ」 「そんな余分な金は使わないし、俺が言いたいのは女の子が夜出歩くのはどうかって事だ。最近物騒なのは知ってるだろ。もしもの事があったら責任持てないぞ、俺」 「安心しなさい、相手がどんなヤツだろうとちょっかいなんて出してこないわ。衛宮くんは忘れてるみたいだけど、そこにいるセイバーはとんでもなくお強いんだから」 「あ」  そう言えばそうだ。  通り魔だろうがなんだろうが、セイバーに手を出したらそれこそ返り討ちだろう。 「凛。シロウは今なにを言いたかったのでしょう。私には理解できなかったのですが」 「え? いえ、大した勘違いっぷりって言うか、大間抜けっていうか。なんでもわたしたちが痴漢に襲われたら衛宮くんが助けてくれるんだって」 「そんな、シロウは私のマスターだ。それでは立場が逆ではないですか」 「そういうの考えてないんじゃない? 魔術師とかサーヴァントとかどうでもいいって感じ。あいつの頭の中、一度見てみたくなったわねー」 「………………」  知らぬ間に、遠坂とセイバーは話をするぐらいの仲になっている。  セイバーはと言えば、あの姿のまま出ようとしたのを止めた時から無言だ。  どうしても鎧は脱がない、というので仕方なく雨合羽を着せたら、ますます無言になってしまった。  今ではツカツカと俺の後を付いてきて、遠坂とだけ話をしている。 「あれ? どっちに行くのよ衛宮くん。そっち、道が違うんじゃない?」 「橋に出ればいいんだろ。ならこっちのが近道だ」  二人と肩を並べて歩くのは非常に抵抗があったので、早足で横道に入った。  川縁の公園に出た。  あの橋を渡って、隣町である新都へ行くのだが――― 「へえ、こんな道あったんだ。そっか、橋には公園からでも行けるんだから、公園を目指せばいいのね」  夜の公園、という場所のせいだろうか。  橋を見上げる遠坂の横顔は、学校で見かける時よりキレイに見えて、まいる。 「いいから行くぞ。別に遊びに来たわけじゃないんだから」  公園で立ち止まっている遠坂を促して階段を上る。  橋の横の歩道にさえ辿り着けば、あとは新都まで一直線だ。  歩道橋に人影はない。  それも当然、昼間でさえここを使う人は少ないのだ。  隣町まではバスか電車で行くのが普通で、この歩道橋はあまり使われない。  なにしろ距離があまりにも長いし、どうも作りが頑丈でないというか、いつ崩れてもおかしくないのでは、なんて不安を呼び起こす。  ロケーション的には文句無しなのにデートコースに使われないのも、そのあたりが原因だろう。 「……馬鹿らしい。なに考えてんだ、俺」  無言で後を付いてくるセイバーと、すぐ横で肩を並べている遠坂。  その二人を意識しないようにと努めて、とにかく少しでも早く橋を渡ろうと歩を速めた。  橋を渡ると、遠坂は郊外へ案内しだした。  新都と言えば駅前のオフィス街しか頭に浮かばないが、駅から外れれば昔ながらの街並みが残っている。  郊外はその中でも最たるものだ。  なだらかに続く坂道と、海を臨む高台。  坂道を上っていく程に建物の棟は減っていき、丘の斜面に建てられた外人墓地が目に入ってくる。 「この上が教会よ。衛宮くんも一度ぐらいは行った事があるんじゃない?」 「いや、ない。あそこが孤児院だったって事ぐらいは知ってるけど」 「そう、なら今日が初めてか。じゃ、少し気を引き締めた方がいいわ。あそこの神父は一筋縄じゃいかないから」  ……見上げれば、坂の上には建物らしき影が見えた。  高台の教会。  今まで寄りつきもしなかった神の家に、こんな目的で足を運ぶ事になろうとは。 「うわ―――すごいな、これ」  教会はとんでもない豪勢さだった。  高台のほとんどを敷地にしているのか、坂を上がりきった途端、まったいらな広場が出迎えてくれる。  その奥に建てられた教会は、そう大きくはないというのに、〈聳〉《そび》えるように来た者を威圧していた。 「シロウ、私はここに残ります」 「え? なんでだよ、ここまで来たのにセイバーだけ置いてけぼりなんて出来ないだろ」 「私は教会に来たのではなく、シロウを守る為についてきたのです。シロウの目的地が教会であるのなら、これ以上遠くには行かないでしょう。ですから、ここで帰りを待つ事にします」  きっぱりと言うセイバー。  どうもテコでも動きそうにないので、ここは彼女の意思を尊重することにした。 「分かった。それじゃ行ってくる」 「はい。誰であろうと気を許さないように、マスター」  広い、荘厳な礼拝堂だった。  これだけの席があるという事は、日中に訪れる人も多いという事だろう。  これほどの教会を任されているのだから、ここの神父はよほどの人格者と見える。 「遠坂。ここの神父さんっていうのはどんな人なんだ」 「どんな人かって、説明するのは難しいわね。十年来の知人だけど、わたしだって未だにアイツの性格は掴めないもの」 「十年来の知人……? それはまた、随分と年季が入った関係だな。もしかして親戚か何かか?」 「親戚じゃないけど、わたしの後見人よ。ついでに言うと兄弟子にして第二の師っていうところ」 「え……兄弟子って、魔術師としての兄弟子!?」 「そうだけど。なんで驚くのよ、そこで」 「だって神父さんなんだろ!? 神父さんが魔術なんて、そんなの御法度じゃないか!」  そう、魔術師と教会は本来相容れないものだ。  魔術師が所属する大規模な組織を魔術協会と言い、  一大宗教の裏側、普通に生きていれば一生見ないですむこちら側の教会を、仮に聖堂教会と言う。  この二つは似て非なる者、形の上では手を結んでいるが、隙あらばいつでも殺し合いをする物騒な関係だ。  教会は異端を嫌う。  人ではないヒトを徹底的に排除する彼らの標的には、魔術を扱う人間も含まれる。  教会において、奇跡は選ばれた聖人だけが取得するもの。それ以外の人間が扱う奇跡は全て異端なのだ。  それは教会に属する人間であろうと例外ではない。  教会では位が高くなればなるほど魔術の汚れを禁じている。  こういった教会を任されている信徒なら言わずもがな、神の加護が厚ければ厚いほど魔術とは遠ざかっていく物なのだが―――― 「……いや。そもそもここの神父さんってこっち側の人だったのか」 「ええ。聖杯戦争の監督役を任されたヤツだもの、バリッバリの代行者よ。……ま、もっとも神のご加護があるかどうかは疑問だけど」  かつん、かつん、と足音をたてて祭壇へと歩いていく遠坂。  神父さんがいないというのにお邪魔するのもなんだが、そもそもこんな夜更けなのだ。  礼拝堂にいる訳もなし、訪ねるのなら奥にあるであろう私室だろう。 「……ふうん。で、その神父さんはなんていうんだ? さっきは〈言峰〉《ことみね》とかなんとか言ってたけど」 「名前は〈言峰綺礼〉《ことみねきれい》。父さんの教え子でね、もう十年以上顔を合わせてる腐れ縁よ。……ま、できれば知り合いたくなかったけど」   「―――同感だ。私も、師を敬わぬ弟子など持ちたくはなかった」  かつん、という足音。  俺たちが来た事に気が付いていたのか、その人物は祭壇の裏側からゆっくりと現れた。 「再三の呼び出しにも応じぬと思えば、変わった客を連れてきたな。……ふむ、彼が七人目という訳か、凛」 「そう。一応魔術師だけど、中身はてんで素人だから見てられなくって。  ……たしかマスターになった者はここに届けを出すのが決まりだったわよね。アンタたちが勝手に決めたルールだけど、今回は守ってあげる」 「それは結構。なるほど、ではその少年には感謝しなくてはな」  言峰という名の神父は、ゆっくりとこちらに視線を向ける。 「――――」  ……知らず、足が退いていた。  ……何が恐ろしい訳でもない。  ……言峰という男に敵意を感じる訳でもない。  だというのに、肩にかかる空気が重くなるような威圧感を、この神父は持っていた。 「私はこの教会を任されている言峰綺礼という者だが。  君の名はなんというのかな、七人目のマスターよ」 「―――衛宮士郎。けど、俺はまだマスターなんて物になった覚えはないからな」  腹に力をいれて、重圧に負けまいと神父を睨む。 「衛宮――――――士郎」 「え――――」  背中の重圧が悪寒に変わる。  神父は静かに、何か喜ばしいモノに出会ったように笑った。    ――――その笑みが。  俺には、例えようもなく―――― 「礼を言う、衛宮。よく凛を連れてきてくれた。君がいなければ、アレは最後までここには訪れなかったろう」  神父は祭壇へと歩み寄る。  遠坂は退屈そうな顔つきで祭壇から離れ、俺の横まで下がってきた。 「では始めよう。衛宮士郎、君はセイバーのマスターで間違いはないか?」 「それは違う。確かに俺はセイバーと契約した。けどマスターとか聖杯戦争とか、そんな事を言われても俺にはてんで判らない。  マスターっていうのがちゃんとした魔術師がなるモノなら、他にマスターを選び直した方がいい」 「……なるほど、これは重症だ。彼は本当に何も知らないのか、凛」 「だから素人だって言ったじゃない。そのあたりからしつけてあげて。……そういう追い込み得意でしょ、アンタ」  遠坂は気が乗らない素振りで神父を促す。 「――――ほう。これはこれは、そういう事か。  よかろう、おまえが私を頼ったのはこれが初めてだ。  衛宮士郎には感謝をしてもし足りないな」  なんていうか、聞いてるこっちがますます不安になっていくような会話だ。 「まず君の勘違いを正そう。  いいか衛宮士郎。マスターという物は他人に譲れる物ではないし、なってしまった以上辞められる物でもない。  その腕に令呪を刻まれた者は、たとえ何者であろうとマスターを辞める事はできん。まずはその事実を受け入れろ」 「っ―――辞める事はできないって、どうしてだよ」 「令呪とは〈聖痕〉《せいこん》でもある。マスターとは与えられた試練だ。都合が悪いからといって放棄する事はできん。  その痛みからは、聖杯を手に入れるまでは解放されない」 「おまえがマスターを辞めたいと言うのであれば、聖杯を手に入れ己が望みを叶えるより他はあるまい。そうなれば何もかもが元通りだぞ、衛宮士郎。  おまえの望み、その〈裡〉《うち》に溜まった泥を全て掻き出す事もできる。―――そうだ、初めからやり直す事とて可能だろうよ」 「故に望むがいい。  もしその時が来るのなら、君はマスターに選ばれた幸運に感謝するのだからな。その、目に見えぬ火傷の跡を消したいのならば、聖痕を受け入れるだけでいい」 「な――――」  目眩がした。  神父の言葉はまるで要領を得ない。  聞けば聞くほど俺を混乱させるだけだ。    ……にも関わらず、コイツの言葉は〈厭〉《イヤ》に胸に浸透して、どろりと、血のように粘り着く――― 「綺礼、回りくどい真似はしないで。わたしは彼にルールを説明してあげてって言ったのよ。誰も傷を開けなんて言ってない」  神父の言葉を遮る声。 「――――と、遠坂?」  それで、混乱しかけた頭がハッキリとしてくれた。 「そうか。こういった手合いには何を言っても無駄だからな、せめて勘違いしたまま道徳をぬぐい去ってやろうと思ったのだが。  ……ふん、情けは人の為ならず、とはよく言ったものだ。つい、私自身も楽しんでしまったか」 「なによ。彼を助けるといい事あるっていうの、アンタに」 「あるとも。人を助けるという事は、いずれ自身を救うという事だからな。……と、今更おまえに説いても始まるまい」 「では本題に戻ろうか、衛宮士郎。  君が巻き込まれたこの戦いは『〈聖杯〉《せいはい》戦争』と呼ばれるものだ。  七人のマスターが七人のサーヴァントを用いて繰り広げる争奪戦―――という事ぐらいは凛から聞いているか?」 「……聞いてる。七人のマスターで殺し合うっていう、ふざけた話だろ」 「そうだ。だが我らとて好きでこのような非道を行っている訳ではない。  全ては聖杯を得るに相応しい者を選抜する為の儀式だ。  なにしろ物が物だからな、所有者の選定には幾つかの試練が必要だ」  ……何が試練だ。  賭けてもいいが、この神父は聖杯戦争とやらをこれっぽっちも“試練”だなんて思っていない。 「待てよ。さっきから聖杯聖杯って繰り返してるけど、それって一体なんなんだ。まさか本当にあの聖杯だって言うんじゃないだろうな」        聖杯。  聖者の血を受けたという杯。  数ある聖遺物の中でも最高位とされるソレは、様々な奇蹟を行うという。        その中でも広く伝わるのが、聖杯を持つ者は世界を手にする、というものである。  ……もっとも、そんなのは眉唾だ。なにしろ聖杯の存在自体が“有るが無い物”に近い。        確かに、“望みを叶える聖なる杯”は世界各地に散らばる伝説・伝承に顔を出す。  だがそれだけだ。  実在したとも、再現できたとも聞かない架空の技術、それが聖杯なのだから。 「どうなんだ言峰綺礼。アンタの言う聖杯は、本当に聖杯なのか」 「勿論だとも。この町に現れる聖杯は本物だ。その証拠の一つとして、サーヴァントなどという法外な奇蹟が起きているだろう」 「過去の英霊を呼び出し、使役する。否、既に死者の蘇生に近いこの奇蹟は魔法と言える。  これだけの力を持つ聖杯ならば、持ち主に無限の力を与えよう。物の〈真贋〉《しんがん》など、その事実の前には無価値だ」 「――――――――」  つまり。  偽物であろうが本物以上の力があれば、真偽など問わないと言いたいのか。 「……いいぜ。仮に聖杯があるとする。けど、ならなんだって聖杯戦争なんてものをさせるんだ。聖杯があるんなら殺し合う事なんてない。それだけ凄い物なら、みんなで分ければいいだろう」 「もっともな意見だが、そんな自由は我々にはない。  聖杯を手にする者はただ一人。  それは私たちが決めたのではなく、聖杯自体が決めた事だ」 「七人のマスターを選ぶのも、七人のサーヴァントを呼び出すのも、全ては聖杯自体が行う事。  これは儀式だと言っただろう。聖杯は自らを持つに相応しい人間を選び、彼らを競わせてただ一人の持ち主を選定する。  それが聖杯戦争―――聖杯に選ばれ、手に入れる為に殺し合う降霊儀式という訳だ」 「――――――――」  淡々と神父は語る。  反論する言葉もなく、左手に視線を落とす。  ……そこにあるのは連中が令呪と呼ぶ刻印だ。  この刻印がある以上、マスターを放棄する事はできないとでも言いたいのか。 「……納得いかないな。一人だけしか選ばれないにしたって、他のマスターを殺すしかないっていうのは、気にくわない」 「? ちょっと待って。殺すしかない、っていうのは誤解よ衛宮くん。別にマスターを殺す必要はないんだから」 「はあ? だって殺し合いだって言ったじゃないか。言峰もそう言ってたぞ」 「殺し合いだ」 「綺礼は黙ってて。あのね、この町に伝わる聖杯っていうのは霊体なの。だから物として有る訳じゃなくて、特別な儀式で呼び出す―――つまり降霊するしかないって訳」 「で、呼び出す事はわたしたち魔術師だけでも出来るんだけど、これが霊体である以上わたしたちには触れられない。この意味、分かる?」 「分かる。霊体には霊体しか触れられないんだろ。  ―――ああ、だからサーヴァントが必要なのか……!」 「そういう事。ぶっちゃけた話、聖杯戦争っていうのは自分のサーヴァント以外のサーヴァントを撤去させるってコトよ。だからマスターを殺さなければならない、という決まりはないの」 「――――――――」  なんだ、それならそうと早く言ってくれればいいのに!  まったく、遠坂もこの神父も人が悪いったらありゃしない。  ……とにかく、それで安心した。  それなら聖杯戦争に参加しても、遠坂が死ぬような事はないんだから。 「なるほど、そういう考えもできるか。  では衛宮士郎、一つ訊ねるが君は自分のサーヴァントを倒せると思うか?」 「?」  セイバーを倒す?  そんなの無理に決まってるじゃないか。  そもそもアイツに魔術は通用しないし、剣術だってデタラメに強いんだから。 「ではもう一つ訊ねよう。つまらぬ問いだが、君は自分がサーヴァントより優れていると思えるか?」 「??」  なに言ってるんだ、こいつ。  俺はセイバーを倒せないんだから、俺がセイバーより優れてるなんて事ありえない。  今の質問はどっちにしたって、マスターである俺の方がサーヴァントより弱いって答え、に―――― 「――――あ」 「そういう事だ。サーヴァントはサーヴァントをもってしても破りがたい。ならばどうするか。  そら、実に単純な話だろう? サーヴァントはマスターがいなければ存在できぬ。いかにサーヴァントが強力であろうと、マスターが潰されればそのサーヴァントも消滅する。ならば」  そう、それはしごく当然の行為。  誰もわざわざ困難な道は選ばない。  確実に勝ち残りたいのなら、サーヴァントではなくマスターを殺す事が、サーヴァントを殺す最も効率的な手段となる―――― 「……ああ、サーヴァントを消す為にはマスターを倒した方が早いってのは解った。  けど、それじゃあ逆にサーヴァントが先にやられたら、マスターはマスターでなくなるのか? 聖杯に触れられるのはサーヴァントだけなんだろ。なら、サーヴァントを失ったマスターには価値がない」 「いや、令呪がある限りマスターの権利は残る。マスターとはサーヴァントと契約できる魔術師の事だ。令呪があるうちは幾らでもサーヴァントと契約できる」 「マスターを失ったサーヴァントはすぐに消える訳ではない。彼らは体内の魔力が尽きるまでは現世にとどまれる。そういった、“マスターを失ったサーヴァント”がいれば、“サーヴァントを失ったマスター”とて再契約が可能となる。戦線復帰が出来るという訳だ。  だからこそマスターはマスターを殺すのだ。下手に生かしておけば、新たな障害になる可能性があるからな」 「……じゃあ令呪を使い切ったら? そうすれば他のサーヴァントと契約できないし、自由になったサーヴァントも他のマスターとくっつくだろ」 「待って、それは――――」 「ふむ、それはその通りだ。令呪さえ使い切ってしまえば、マスターの責務からは解放されるな」 「……もっとも、強力な魔術を行える令呪を無駄に使う、などという魔術師がいるとは思えないが。  いたとしたらそいつは半人前どころか、ただの腑抜けという事だろう?」  ふふ、とこっちの考えを見透かしたように神父は笑う。 「…………っ」  なんか、癪だ。  神父の口調は挑発めいている。 「納得がいったか。ならばルールの説明はここまでだ。  ―――さて、それでは始めに戻ろう衛宮士郎。  君はマスターになったつもりはないと言ったが、それは今でも同じなのか」 「マスターを放棄するというのなら、それもよかろう。  君が今考えた通り、令呪を使い切ってセイバーとの契約を断てばよい。その場合、聖杯戦争が終わるまで君の安全は私が保証する」 「……? ちょっと待った。なんだってアンタに安全を保証されなくちゃいけないんだ。自分の身ぐらい自分で守る」 「私とておまえに構うほど暇ではない。だがこれも決まりでな。  私は繰り返される聖杯戦争を監督する為に派遣された。  故に、聖杯戦争による犠牲は最小限にとどめなくてはならないのだ。  マスターでなくなった魔術師を保護するのは、監督役として最優先事項なのだよ」 「――――繰り返される聖杯戦争……?」  ちょっと待て。  繰り返されるって、こんな戦いが今まで何度もあったってのか……? 「それ、どういう事だよ。聖杯戦争っていうのは今に始まった事じゃないのか」 「無論だ。でなければ監督役、などという者が派遣されると思うか?  この教会は聖遺物を回収する任を帯びる、特務局の末端でな。本来は正十字の調査、回収を旨とするが、ここでは“聖杯”の査定の任を帯びている。  極東の地に観測された第七百二十六聖杯を調査し、これが正しいモノであるのなら回収し、そうでなければ否定しろ、とな」 「七百二十六って……聖杯ってのはそんなに沢山あるのか」 「さあ? 少なくとも、らしき物ならばそれだけの数があったという事だろう」 「そしてその中の一つがこの町で観測される聖杯であり、聖杯戦争だ。  記録では二百年ほど前が一度目の戦いになっている。  以後、約五十年周期でマスターたちの戦いは繰り返されている。  聖杯戦争はこれで五度目。前回が十年前であるから、今までで最短のサイクルという事になるが」 「な―――正気かおまえら、こんな事を今まで四度も続けてきたって……!?」 「まったく同感だ。おまえの言うとおり、連中はこんな事を何度も繰り返してきたのだよ。  ―――そう。  過去、繰り返された聖杯戦争はことごとく苛烈を極めてきた。マスターたちは己が欲望に突き動かされ、魔術師としての教えを忘れ、ただ無差別に殺し合いを行った」 「君も知っていると思うが、魔術師にとって魔術を一般社会で使用する事は第一の罪悪だ。魔術師は己が正体を人々に知られてはならないのだからな。  だが、過去のマスターたちはそれを破った。  魔術協会は彼らを戒める為に監督役を派遣したが、それが間に合ったのは三度目の聖杯戦争でな。その時に派遣されたのが私の父という訳だが、納得がいったか少年」 「……ああ、監督役が必要な理由は分かった。  けど今の話からすると、この聖杯戦争っていうのはとんでもなく〈性質〉《たち》が悪いモノなんじゃないのか」 「ほう。〈性質〉《たち》が悪いとはどのあたりだ」 「だって以前のマスターたちは魔術師のルールを破るような奴らだったんだろ。  なら、仮に聖杯があるとして、最後まで勝ち残ったヤツが、聖杯を私利私欲で使うようなヤツだったらどうする。平気で人を殺すようなヤツにそんなモノが渡ったらまずいだろう。  魔術師を監視するのが協会の仕事なら、アンタはそういうヤツを罰するべきじゃないのか」  微かな期待をこめて問う。  だが言峰綺礼は、予想通り、慇懃な仕草でおかしそうに笑った。 「まさか。私利私欲で動かぬ魔術師などおるまい。我々が管理するのは聖杯戦争の決まりだけだ。その後の事など知らん。どのような人格が聖杯を手に入れようが、協会は関与しない」 「そんなバカな……! じゃあ聖杯を手に入れたマスターが最悪なヤツだったらどうするんだよ!」 「困るな。だが私たちではどうしようもない。持ち主を選ぶのは聖杯だ。そして聖杯に選ばれたマスターを止める力など私たちにはない。  なにしろ望みを叶える杯だ。手に入れた者はやりたい放題だろうさ。  ―――しかし、それが嫌だというのならおまえが勝ち残ればいい。他人を当てにするよりは、その方が何よりも確実だろう?」  言峰は笑いをかみ殺している。  マスターである事を受け入れられない俺の無様さを愉しむように。 「どうした少年。今のはいいアイデアだと思うのだが、参考にする気はないのかな」 「……そんなの余計なお世話だ。第一、俺には戦う理由がない。聖杯なんて物に興味はないし、マスターなんて言われても実感が湧かない」 「ほう。では聖杯を手に入れた人間が何をするか、それによって災厄が起きたとしても興味はないのだな」 「それは――――」  ……それを言われると反論できない。  くそ、こいつの言葉は暴力みたいだ。  こっちの心情などおかまいなし、ただ事実だけを容赦なく押しつけてくる――― 「理由がないのならそれも結構。ならば十年前の出来事にも、おまえは関心を持たないのだな?」 「――――十年、前……?」 「そうだ。前回の聖杯戦争の最後にな、相応しくないマスターが聖杯に触れた。そのマスターが何を望んでいたかは知らん。我々に判るのは、その時に残された災害の爪痕だけだ」 「――――――――」                一瞬。      あの地獄が、脳裏に浮かんだ。 「―――待ってくれ。まさか、それは」 「そうだ、この街に住む者なら誰もが知っている出来事だよ衛宮士郎。  死傷者五百名、焼け落ちた建物は実に百三十四棟。未だ以て原因不明とされるあの火災こそが、聖杯戦争による爪痕だ」 「――――――――」    ――――吐き気がする。    視界がぼやける。    焦点を失って、視点が定まらなくなる。    ぐらりと体が崩れ落ちる。  だが、その前にしっかりと踏みとどまった。  歯を噛みしめて意識を保つ。  倒れかねない吐き気を、ただ、沸き立つ怒りだけで押し殺した。 「衛宮くん? どうしたのよ、いきなり顔面真っ白にしちゃって。……そりゃああんまり気持ちのいい話じゃなかったけど、その―――ほら、なんなら少し休んだりする?」  よほど蒼い顔をしていたのだろう。  なんていうか、遠坂がこういった心配をしてくれるなんて、とんでもなくレアな気がした。 「心配無用だ。遠坂のヘンな顔を見たら治った」 「……ちょっと。それ、どういう意味よ」 「いや、他意はないんだ。言葉通りの意味だから気にするな」 「ならいいけど……って、余計に悪いじゃないこの唐変木っ!」  すかん、容赦なく頭をはたく学園一の優等生・遠坂凛。  それがトドメ。  本当にそれだけで、さっきまでの吐き気も怒りも、キレイさっぱり消えてくれた。 「……サンキュ。本当に助かったから、あんまりいじめないでくれ遠坂。今はもう少し、訊かなくちゃいけない事がある」  むっ、と叩きたりない顔のまま、遠坂は一応場を譲ってくれる。 「ほう、まだ質問があるのか。いいぞ、言いたい事は全て言ってしまえ」  俺が訊きたい事なんて見抜いているだろうに、神父は愉快そうに促してくる。  上等だ。  衛宮士郎は、おまえになんて負けるものか。 「じゃあ訊く。アンタ、聖杯戦争は今回が五回目だって言ったな。なら、今まで聖杯を手に入れたヤツはいるのか」 「当然だろう。そう毎回全滅などという憂き目は起きん」 「じゃあ―――」 「早まるな。手に入れるだけならば簡単だ。なにしろ聖杯自体はこの教会で管理している。手に取るだけならば私は毎日触れているぞ」 「え――――?」  せ、聖杯がこの教会にある――――? 「もっとも、それは器だけだ。中身が空なのだよ。先ほど凛が言っただろう、聖杯とは霊体だと。  この教会に保管してあるのは、極めて精巧に作られた聖杯のレプリカだ。これを触媒にして本物の聖杯を降霊させ、願いを叶える杯にする。そうだな、マスターとサーヴァントの関係に近いか。……ああ。そうやって一時的に本物となった聖杯を手にした男は、確かにいた」 「じゃあ聖杯は本物だったのか。いや、手にしたっていうそいつは一体どうなったんだ」 「どうにもならん。その聖杯は完成には至らなかった。馬鹿な男が、つまらぬ感傷に流された結果だよ」  ……?  先ほどまでの高圧的な態度はどこにいったのか、神父は悔いるように視線を細めている。 「……どういう事だ。聖杯は現れたんじゃないのか」 「聖杯を現すだけならば簡単だ。七人のサーヴァントが揃い、時間が経てば聖杯は現れる。凛の言う通り、確かに他のマスターを殺める必要などないのだ。  だが、それでは聖杯は完成しない。アレは自らを得るに相応しい持ち主を選ぶ。故に、戦いを回避した男には、聖杯など手に入らなかった」 「ふん。ようするに、他のマスターと決着を付けずに聖杯を手に入れても無意味って事でしょ。  前回、一番はじめに聖杯を手に入れたマスターは甘ちゃんだったのよ。敵のマスターとは戦いたくない、なんて言って聖杯から逃げたんだから」  吐き捨てるように言って、遠坂は言峰から視線を逸らす。 「――――うそ」  それはつまり、言峰は前回のマスターの一人で、聖杯を手に入れたものの、戦いを拒否して脱落したって事なのか……!? 「……言峰。あんた、戦わなかったのか」 「途中まで戦いはした。だが判断を間違えた。結果として私はカラの聖杯を手にしただけだ。  もっとも、私ではそれが限界だったろう。なにしろ他のマスターたちはどいつもこいつも化け物揃いだったからな。わたしは真っ先にサーヴァントを失い、そのまま父に保護されたよ」 「……思えば、監督役の息子がマスターに選ばれるなど、その時点であってはならぬ事だったのだ。  父はその折に亡くなった。以後、私は監督役を引き継ぎ、この教会で聖杯を守っている」  そう言って、言峰綺礼という名の神父は背中を向けた。  その視線の先には、礼拝されるべき象徴が聳えている。 「話はここまでだ。  聖杯を手にする資格がある者はサーヴァントを従えたマスターのみ。君たち七人が最後の一人となった時、聖杯は自ずと勝者の下に現れよう。  その戦い―――聖杯戦争に参加するかの意思をここで決めよ」  高みから見下ろして、神父は最後の決断を問う。 「――――――――」  言葉がつまる。  戦う理由がなかったのはさっきまでの話だ。  今は確実に戦う理由も意思も生まれている。  けれどそれは、本当に、認めていいものなのかどうか。 「まだ迷っているのか。  いいか、マスターというものはなろうとしてなれる物ではない。そこにいる凛は長く魔術師として修練してきたが、だからといってマスターになるのが決定されていた訳ではないのだ。  決定されていた物があるとすれば、それは心構えが出来ていたかいないかだけだろう」 「マスターに選ばれるのは魔術師だけだ。魔術師ならばとうに覚悟などできていよう。  それが無い、というのならば仕方があるまい。  おまえも、おまえを育てた師も出来損ないだ。そんな魔術師に戦われても迷惑だからな、今ここで令呪を消してしまえ」 「――――――!」  言われるまでもない。  俺は――――      ……賛同できない。  そんな泥仕合みたいな殺し合いは間違っている。 「どうした? 戦うか戦わないのか、ここで明言しろ衛宮士郎」  ……ああ、言われるまでもない。  俺は――――   「――――戦わない。マスターの権利とやらをここで棄てる」    神父を見据え、はっきりと返答した。 「そうか。残念ではあるが、マスター本人の意思では仕方がない。衛宮士郎はマスターである権利を放棄し、聖杯戦争から離脱した。――――それでいいな凛?」 「……?」  神父は俺にではなく遠坂に語りかける。 「構わないわ。それが衛宮くんの選択なら、わたしがどうこう言える事じゃないでしょう」 「……ふむ。その罪悪感だけでも収穫だったとするか。  では早速とりかかろう衛宮士郎。左腕を出したまえ」 「……いいけど。何をする気だよ、アンタ」 「なに、すぐに終わる。おまえの左腕に宿った令呪を消去するだけだ。  マスターをマスターたらしめている要因は二つある。  一つはサーヴァントとの契約であり、一つは腕に宿った令呪だ。  この二つを失えば、おまえは聖杯戦争から解放される」  神父は差し出した左腕を手に取ると、   「―――痛むぞ。できるだけ力を抜け」    ズブリと。  その五指を、容赦なく俺の腕にめり込ませ―――― 「ぎっ――――!!!!?」  激痛で全身が跳ねる。  ずる、と音をたてて、腕の〈内部〉《なか》に他人の指が潜り込んでくる。 「ぐ、づっ――――!?」  それは錯覚などではない。  錯覚があったとしたら、それは腕を壊された、という認識だけ。  実際、俺の腕には傷一つ付いていない。  ぞぶぞぶと肉をかきわける他人の指。  これは、そう――――単に、神父の指が幽霊みたいに透明になって、俺の肉に食い込んでいるだけだった。 「―――完了だ。手術は無事終了した」 「っ――――、え――――?」  神父に掴まれた左腕を見る。  ……腕にはやはり傷一つなく、打ち身のような痛みが残るだけだ。  その不快感と引き換えに、  左手の甲にあった刻印は、そのカタチを変えていた。 「――――形が変わってる……いや、〈画数〉《かず》が減ってる、のか……?」 「ええ。令呪の〈画数〉《かず》は三つ。綺礼はそのうち二つを貴方から摘出したのよ。体を傷つけずに患部を取り除く霊媒医師みたいにね」 「霊媒医師……?」  たしか霊体を繕う事で肉体を治療する、特殊な魔術師だったか。  その魔術は患者の体にメス一つ入れず、手品みたいに腫瘍を取り除く“呪術”だと言う話だが……。 「……驚いたな。霊媒治療ってのは未開の地で使われる外法だろう。教会の人間が身につけていいものじゃない」 「そう言うな。何らかの魔術を会得している時点で神父としては失格なのだ。  ならば、どのような魔術を好もうと神父失格である事は変わるまい。魔術の貴賎など気にするな」 「今のは私の唯一の取り得でな。色々と魔術を習ったが、性に合ったのはコレだけだった。  私の魔術特性は、良くも悪くも“傷を開く”事に特化している。おかげで他の魔術の腕は、そこの弟子にさえ後れをとる始末だよ」 「良くも悪くもって、良いに決まってるじゃない。  綺礼ほどの霊媒医師は協会にも少ないし、教会の秘蹟使いだって、貴方ほど霊体を繕える人はごく一部なんだから」 「さてな。いかに優れた治療法と言え、霊媒は肉体に依存する接触治療にすぎない。  肉体に依存しない存在証明である“魂”そのものに触れられる奇跡にはほど遠いが―――  ―――ともかく、令呪の摘出は完了した。  後の始末は君の役割だ、衛宮士郎。最後に残った令呪を用い、サーヴァントとの契約を断つがいい」 「……? サーヴァントとの契約を断つ……?」 「ええ。外で待ってるセイバーの前で契約破棄を申し出るの。……けど、きっとセイバーは契約破棄なんて認めてくれない。それを力ずくで執行する為に令呪を一つだけ残したのよ、綺礼は」 「そういう事だ。令呪を使いきり、且つサーヴァントとの契約を断って自分が“無害”である事を他のマスターに提示する。  それで君は晴れて自由の身だ。正常なマスターならば、無力化したマスターを襲おうとは考えまい。  君は偶然手に入れた力を手放す事で、素晴らしい平穏を取り戻せるというワケだ」 「………………」  セイバーとの契約を、俺の判断だけで白紙に戻す。  ……それは彼女に対する裏切りだ。  たとえ偶然であっても、俺は彼女を呼び寄せ、彼女は俺を守ってくれた。 「…………………」  ……俺は、選択を誤ったのか。  マスター同士の殺し合いなんてものには賛同できない。  賛同できないが、それを見過ごす事も、やはり自分には出来ないとしたら―――― 「何をしている? 令呪の発動に呪文は要らん。令呪に意識を載せてサーヴァントに命令すればいいだけだ。  セイバーに直接言いつけるか、ここで一方的に契約を断つか。好きな方を選べ」 「………………」  ―――いや。  だとしても、もう決めた事だ。  今更引き返す事はできないし、この神父はそんな真似は許さないだろう。 「……セイバーと話をつけてくる。それで俺はマスターじゃなくなるんだな?」 「セイバーに直接って……衛宮くん、それは」 「ああ、保証しよう。―――己がサーヴァントに別れを告げて来るがいい。その後、君を保護対象として教会に迎え入れよう」  どこまで本気なのか、神父は俺を歓迎する。  ……が、こんなところの世話になるつもりはない。  俺はマスターの権利を棄てるだけだ。その後、こいつの手を借りるなんて願い下げだ。 「それもお断りだ。アンタの世話にはならない。セイバーと話をつけて、令呪を使い切ったら家に帰る。  それで終わりだ。アンタとは二度と会わない」 「そうか。……なるほど、それはそうだろうな。確かに私たちは二度とは会わない。  ―――さようなら衛宮士郎。自ら選んだ道だ、胸を張って進みたまえ」 「――――」  言われるまでもない。  神父に背を向けて教会を後にした。  ……教会を出る。  高い空の下、石畳の広場に彼女はいた。 「話は済みましたか、マスター」 「ああ、聖杯戦争がどんなものか確かめてきた。  ……その上で決めたんだ、セイバー。俺はマスターを降りる」 「――――――――」  セイバーは眉一つ動かさない。  緑色の瞳は、さも当然のように俺の決断を聞き入れていた。 「――――それは、私との契約を取り辞めるという事ですか」 「そうだ。俺にはマスターは務まらない。……それにセイバーだって、俺みたいな半人前より、まっとうなマスターと契約した方がいいだろう」 「――――はい。戦闘面での充実を図るのなら、貴方以外の魔術師と契約するべきでしょう。アーチャーのマスターなら、私の能力を完全に引き出せる」 「………そうか。なら、ここで契約を切ってもいいな。  令呪は契約解除に使うから、それでセイバーは自由だ」 「――――――シロウ。一度だけ訊きます。  マスターを降りる、という意思は変わりませんか?」 「変わらない。俺は殺し合いをする気はない」  セイバーを正面から見据えて断言する。  ……と、その時。  ゆらり、とセイバーが被っていたカッパが揺れた。 「あ――――」  呆然と、目前の死を見つめる。  セイバーは、本当に俺が瞬きをした隙に走りこんで、「え――――?」  俺の両足をなぎ払って、地面に転倒させていた。 「あ、っ――――!?」  遅れて両足に痛みが走る。  血、血は出ていない。膝から下だってちゃんとある。 「ぁ――――…………、っ」  自分の両足が“有る”事に安堵する。  ……良かった。鉄の棒で両足を払われただけだ。  骨には亀裂が入って、今も足が千切れそうなほど痛むが、両足が切断されるよりずっといい―――― 「シロウ。マスターでなくなった魔術師は、そのサーヴァントに殺される。いかに未熟だろうと、私を喚び寄せた貴方には、私をこの世に留める力がある。  ……サーヴァントにはマスターが必要だ。  貴方が契約を断つのなら、私は貴方を殺して〈魔力回路〉《そのからだ》を貰い受ける。  それでも貴方はマスターを降りると?」 「………………」  痛みで朦朧とする意識をしぼってセイバーを見上げる。  セイバーには敵意も殺気もない。  息を吸う事が当然のように。  セイバーはこの世に留まる為、何の感慨もなく俺の息の根を止めるだろう。    それでも―――― 「―――そうだ。仮に、今から考えを改めたところで俺には出来ない。令呪が残り一つだからじゃない。  ……俺は、戦いを拒絶した。一度でもマスターである事を否定したんだ。……そんなヤツをマスターにしたところで、待っているのは敗北だけだ」  ……どんな形であれ、俺の心は折れた。  一度でも戦いを拒んだのなら、必ず二度目が訪れる。  窮地に陥る度に“戦わなければ良かった”と後悔する。  そんな男をマスターにしたら、俺だけでなくセイバーさえ、取り返しのつかない事になるだろう。 「では、ここで私に殺されても構わないのですね。  ……私は霊体にはなれない。貴方の魂を取り込めない以上、貴方は肉体の痛みをもって死を迎える。それをみすみす受け入れると……?」 「っ……まさか。戦うのはご免だが、殺されるのはもっとご免だ。……ダメで元々、最後まで抵抗して逃げ切ってやる」  セイバーの視線に呑まれないよう、自分を奮い立たせて睨み返す。  ……と。 「セイバー……?」 「――――いいでしょう。令呪を使いなさいシロウ。貴方の決断だ、私が口を挟む権利はない」 「――――え」 「気にする事はありません。私は今回のマスターとも信頼を築けなかっただけだ。貴方が令呪で契約を断てば私は自由になる。……この体を保てるのは二時間程度でしょうが、その間に新しい〈寄り代〉《マスター》を見つけるだけです」  淡々としたセイバーの言葉。  その覚悟に背中を押され、  左手の令呪に、セイバーとの契約破棄を念じていた。 「これで貴方は自由だ。わずかな間の共闘でしたが、貴方の魔力は好ましかった。  ……再び会う事はないでしょうが、無事この戦いを切り抜けられるよう祈りましょう」  銀色の甲冑が遠退いていく。 「――――――――っ」  知らず、彼女を呼び止めようとして、その愚行を抑え込んだ。  彼女の名を口にする事は許されない。  ……一方的に契約を破棄した俺を咎めず、最後にこの身まで案じてくれた。  そんな彼女の手を払って聖杯戦争から身を引いた以上、呼び止める事など出来ない筈だ―――  無音の月夜だった。  午前零時を過ぎているとはいえ、町の静けさはいささか行き過ぎている。 「………………」  率直に言ってしまえば不気味だった。  それは言い過ぎでもなく、的を射た表現だと思う。 「―――はあ。いつからこんな様子になっちまったのかな」  言うまでもない。  聖杯戦争。この町にいる六人の魔術師たちの暗躍が、冬木の町から活気を奪っているのだ。 「…………っ」  じくり、と胸が痛んだ。  たった数時間前、ランサーに貫かれた胸が疼く。 「――――帰ろう。今更、教会に戻って何になる」  胸の疼きを抑え込みながら帰路につく。  これからの事は戻ってから考えればいい。  家に帰って風呂に入って、とりあえず一息つけば少しは冷静になれるだろう――――      だが。   “―――これからの事は戻ってから考えればいい”    その考えそのものが、何かの間違いだったのだ。 「え――――――――?」  ソレは、悪い夢のように、この先に道などないと告げていた。     「なあんだ。一人になっちゃったんだね、お兄ちゃん」    くすぐるような少女の声に顔をあげる。  青い月下。  帰り道である筈の坂の上には、  一人の少女と、一つの異形が、 「ぎ――――、」  爆ぜた。  視認する時間も、言葉を交わす猶予も、背中を見せて走り出す機会さえなかった。  黒い巨人はその場に留まったまま凶器を振り上げ、その剣圧だけで、持っていかレ――――   「――――――――ゃあああああああああああああああああああ!?」 「あ、ああああ、あ、あ――――!」  とんだ。トンだ。どこが。根元から――――?  背後の坂道はまるでどしゃぶり跡みたいに赤く染まっているのにめくれあがってささくれだった場所は薄いピンク色のままゆっくり滲みだしてくる血と、激しいうずきと恐ろしさ、 「バーサーカー。追いかけっこの気分じゃないから、ペシャンコにしてあげなさい」  転がる。  両足が正座するように跪いている。  ただし方向は前。足は膝だった部分から前に、直角に正座している。 「は――――ぁ、あ――――!?」  思考が追いつかない。  痛みで思考が追いつかない。  ―――バーサーカー。  確かにそんな響きが聞こえた。  なら、目の前にいる怪物は、は―――― 「ふふ、行儀いいんだねお兄ちゃん。知ってるよ、それってカイシャクって言うんでしょう? お爺さまは言ってたわ。ニホンジンはお行儀よく正座して、死ぬヒトたちなんだって」    ―――気が遠くなる。  少女の、その無邪気な声は、この場にはあまりにも不釣合い。 「ぁ――――、や」  視線をあげる。  呼吸が出来ない。  胸の片方、穴が開いて俺の後ろに吹き飛んでいる。  背中から路面に倒れる。  両足はキャタピラみたいになってしまった。しかも壊れて動かない。  だから、動く手でアスファルトをつかんで、ずるずると坂道を後退し、         「あ、まだ動けるんだ。けど残念ね、貴方はもう逃げられない。逃げたところで意味なんてないわ。  ―――だって。ここでわたしから逃げられたとしても、その体はあと数秒で死んじゃうもの」 「は――――」  体が軽い。  血液はもう半分以上流出している。  意識があるのがおかしい。  脳は酸欠でとっくに、とっくに機能を停止、している筈なのに、     「けど安心して。そんな簡単に死なれたらつまらないでしょう? だからぁ、わたしがちょっとだけ手を貸してあげましたぁ!  お兄ちゃんは、どんなに痛くても壊れても、頭を潰すまでは意識がちゃあんと残ってるの。  だから―――こんなコトをしても、まだ生き物としてのたうちまわれるわ」 「ぎ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!」  潰された。  プレス機みたいな剣圧に潰された。  体の下が二次元になってしまって、見ても信じられない程に平たくなった。 「あ、ああ、あ」  死ねない。  血液はもう頭にしか残っておらず、肉体も機能せず、神経は死を迎え入れて楽になりたがっているのに、意識がどうしても消えてくれない。 「………………」  喉が笛のように鳴る。  キンキンと〈頭蓋〉《ずがい》の中に反響する。  ―――思考はいまだ混乱したまま。  ただ、この苦痛から逃れたくて、   「あ――――違う、俺はもう、マスターじゃ、ない」    助けを求めるように、少女に訴える。    ……一瞬の希望。  少女は、驚いたように息を呑んだあと。   「―――ええ、だからなに?」    天使のような笑顔で、そう言った。 「あ――――、ハ」  理性が凍結する。  どうあっても助からない。  自分はここで殺されると完全に理解した。 「ん、わたしでも抱き上げられるくらいになったかな。  それじゃお兄ちゃん、わたしのお城に招待してあげる。  お城に帰ればいっぱい道具があるから、そこでゆっくりと続きをしよう」 「――――――――」  どれほど傷つけられても意識は死んでくれない。  死んでくれないので、理性を凍結したのだ。  あとどのくらい頭が無事かはわからないが。    衛宮士郎は、ここで〈思考〉《きぼう》を持つ事を放棄した。  外に出た途端、肩に圧し掛かっていた重圧が消え去った。  あの神父から離れた、という事もあるが、  遠くからでも目立つ制服の遠坂と、  雨合羽を着込んだ金髪の少女が立っている、なんて光景が妙に味があって気が抜けたらしい。 「――――――――」  セイバーは相変わらず無言だ。  じっとこっちを見ているあたり、俺がどんな選択をしたのか気になっているようだ。 「行きましょう。町に戻るまでは一緒でしょ、わたしたち」  さっさと歩き出す遠坂。  それに続いて、俺たちも教会を後にした。  三人で坂を下りていく。  来た時もそう話した方じゃないが、帰りは一段と会話がない。  その理由ぐらい、鈍感な俺でも分かっていた。  教会での一件で、俺は本当にマスターになったのだ。  遠坂が俺とセイバーから離れて歩いているのは、きっとそういう理由だろう。 「――――」  それは理解してる。  理解しているけど、そんなふうに遠坂を区別するのは嫌だった。 「遠坂。おまえのサーヴァント、大丈夫なのか」 「え……?」 「あ、うん。アーチャーなら無事よ。……ま、セイバーにやられたダメージは簡単に消えそうにないから、しばらく実体化はさせられないだろうけど」 「じゃあ側にはいないのか」 「ええ、わたしの家で匿ってる状態。いま他のサーヴァントに襲われたら不利だから、傷が治るまでは有利な場所で敵に備えさせてるの」  なるほど。  うちはともかく、遠坂の家なら敵に対する備えは万全なんだろう。  魔術師にとって自分の家は要塞のような物だ。そこにいる限り、まず負ける事などない。  逆を言えば、ホームグランドにいる限り、敵は簡単には襲いかかってこないという事か。  ……うむ。  うちの結界は侵入者に対する警報だけだが、それだけでも有ると無いとでは大違いだし。 「そういえば遠坂。さっきヤツ、聖杯戦争の監督役って言ってたけどさ。アイツ、おまえのサーヴァントを知ってるのか」 「知らない筈よ。わたし、教えてないもの」 「そうなのか。おまえとアイツ、仲がいいからそうだと思ってたけど」 「……あのね衛宮くん。忠告しておくけど、自分のサーヴァントの正体は誰にも教えちゃ駄目よ。たとえ信用できる相手でも黙っておきなさい。そうでないと早々に消える事になるから」 「……? セイバーの正体って、なにさ」 「だから、サーヴァントが何処の英雄かっていう事よ。  いくら強いからって戦力を明かしてちゃ、いつか寝首をかかれるに決まってるでしょ。……いいから、後でセイバーから真名を教えてもらいなさい。  そうすればわたしの言ってる事が判る……けど、ちょっとたんま。衛宮くんはアレだから、いっそ教えてもらわない方がいいわね」 「なんでさ」 「衛宮くん、隠し事できないもの。なら知らない方が秘密にできるじゃない」 「……あのな、人をなんだと思ってるんだ。それぐらいの駆け引きはできるぞ、俺」 「そう? じゃあわたしに隠している事とかある?」 「え……遠坂に隠してる事って、それは」  口にして、ぼっと顔が熱くなった。  別に後ろめたい事なんてないけど、なんとなく憧れていた、なんて事は隠し事に入るんだろうか……? 「ほら見なさい。何を隠してるか知らないけど、動揺が顔に出るようじゃ向いてないわ。  貴方は他にいいところがあるんだから、駆け引きなんて考えるのは止めなさい」 「……む。それじゃ遠坂はどうなんだよ。あの神父にも黙ってるって事は、アイツも信用してないって事か?」 「綺礼? まさか。私、アイツを信用するほどおめでたくないわ。アイツはね、教会から魔術協会に鞍替えしたくせに、まだ教会に在籍している食わせ者なのよ。人の情報を他のマスターに売るぐらいはやりかねないわ」  ふんだ、と忌々しげに言い捨てる遠坂。  遠坂は本気であの神父を信用してないようだ。  それはそれでホッとしたけど、それでも、なんとなく今の台詞には、神父への親しみが含まれている気がした。    ―――そうして橋を渡る。    もうお互いに会話はない。  冷たい冬の空気と、吐きだされる白い吐息。  水の流れる小さな音と、橋を照らす目映い街灯。  そういった様々なものが、今はひどく記憶に残る。  不思議と、遠坂の顔を見ようと思わなかった。  今は遠坂の顔を見るより、こうして一緒に歩いている事の方が得難いと思う。  俺と、遠坂と、まだ何も知らないセイバーという少女。  この三人で、何をするでもなく、帰るべき場所へと歩いていく。  交差点に着いた。  それぞれの家に続く坂道の交差点、衛宮士郎と遠坂凛が別れる場所。 「ここでお別れね。義理は果たしたし、これ以上一緒にいると何かと面倒でしょ。きっぱり別れて、明日からは敵同士にならないと」  今までの曖昧な位置づけに区切りをつける為だろう。  遠坂は何の前置きもなく喋りだして、唐突に話を切った。  それで分かった。  彼女は義務感から俺にルールを説明したんじゃない。  あくまで公平に、何も知らない衛宮士郎の立場になって肩入れしただけなのだ。  だから説明さえ終われば元通り。  あとはマスターとして、争うだけの対象になる。 「……む?」  けど、だとしたら今のはヘンだろう。  遠坂は感情移入をすると戦いにくくなる、と言いたかったに違いない。  遠坂から見れば今夜の事は全て余分。  “これ以上一緒にいると何かと面倒”  そんな台詞を口にするのなら、遠坂は初めから一緒にいなければ良かったのだ。  聡明な遠坂の事だから、それは判りきっている筈。  それでも損得勘定を秤にもかけないで、遠坂凛は衛宮士郎の手を取った。  だから今夜の件は何の思惑もない、本当にただの善意。  目の前にいる遠坂は、学校で見る彼女とはあまりにも違う。  控えめにいっても性格はきついし、ツンケンしていて近寄りがたいし、学校での振る舞いはなんなんだー、と言いたくなるぐらいの変わり様だ。  いやもう、こんなのほとんどサギだと思う。  ……だが、まあそれでも。  遠坂凛は、みんなが思っていた通りの彼女でもあったのだ。 「なんだ。遠坂っていいヤツなんだな」 「は? なによ突然。おだてたって手は抜かないわよ」  そんな事は判ってる。  コイツは手を抜かないからこそ、情が移ると面倒だって言い切ったんだから。 「知ってる。けど出来れば敵同士にはなりたくない。俺、おまえみたいなヤツは好きだ」 「な――――」  遠坂の家は俺とは反対方向にある、洋風の住宅地だって聞いている。  一応ここまで面倒を見てくれたんだから、こっちは遠坂を見送ってから戻りたいんだが。 「と、とにかく、サーヴァントがやられたら迷わずさっきの教会に逃げ込みなさいよ。そうすれば命だけは助かるんだから」 「それは気が引けるけど、一応聞いておく。けどそんな事にはならないだろ。どう考えてもセイバーより俺のほうが短命だ」  冷静に現状を述べる。 「――――ふう」  またもや謎のリアクションを見せる遠坂。  彼女は呆れた風に溜息をこぼした後、ちらり、とセイバーを流し見た。 「いいわ、これ以上の忠告は本当に感情移入になっちゃうから言わない。  せいぜい気を付けなさい。いくらセイバーが優れているからって、マスターである貴方がやられちゃったらそれまでなんだから」  くるり、と背を向けて歩き出す遠坂。 「――――」  だが。  幽霊でも見たかのような唐突さで、彼女の足はピタリと止まった。 「遠坂?」  そう声をかけた時、左手がズキリと痛んだ。               「――――ねえ、お話は終わり?」    幼い声が夜に響く。  歌うようなそれは、紛れもなく少女の物だ。  視線が坂の上に引き寄せられる。  いつのまに雲は去ったのか、空には煌々と輝く月。    ――――そこには。          伸びる影。  仄暗く青ざめた影絵の町に、それは、在ってはならない異形だった。 「―――バーサーカー」    聞き慣れない言葉を漏らす遠坂。  ……訊ねる必要などない。  アレは紛れもなくサーヴァントであり、  同時に―――十年前の火事をなお上回る、圧倒的なまでの死の気配だった。 「こんばんはお兄ちゃん。こうして会うのは二度目だね」    微笑みながら少女は言った。  その無邪気さに、背筋が寒くなる。 「――――――――」    いや、背筋なんて生やさしいものじゃない。  体はおろか意識まで完全に凍っている。  アレは、化け物だ。  視線さえ合っていないのに、ただ、そこに在るだけで身動きがとれなくなる。  少しでも動けばその瞬間に死んでいるだろう、と当然のように納得できた。  むき出しの腹に、ピタリと包丁を押し当てられている感覚。 「――――やば。あいつ、桁違いだ」    麻痺している俺とは違い、遠坂には身構えるだけの余裕がある。  ……しかし、それも僅かな物だろう。  背中越しだというのに、彼女が抱いている絶望を感じ取れるんだから。 「あれ? なんだ、あなたのサーヴァントはお休みなんだ。つまんないなぁ、二匹いっしょに潰してあげようって思ったのに」  坂の上、俺たちを見下ろしながら、少女は不満そうに言う。  ……ますますやばい。  あの少女には、遠坂のサーヴァントが不在だという事も見抜かれている。  ―――と。  少女は行儀良く、この場に不釣り合いなお辞儀をした。 「はじめまして、リン。わたしはイリヤ。  イリヤスフィール・フォン・アインツベルンって言えばわかるでしょ?」 「アインツベルン――――」  その名前に聞き覚えでもあるのか、遠坂の体がかすかに揺れた。  そんな遠坂の反応が気に入ったのか、少女は嬉しそうに笑みをこぼし、   「じゃあいくね。やっちゃえ、バーサーカー」    歌うように、背後の異形に命令した。  巨体が飛ぶ。  バーサーカーと呼ばれたモノが、坂の上からここまで、何十メートルという距離を一息で落下してくる――――! 「――――シロウ、下がって……!」  セイバーが駆ける。雨合羽がほどけ、一瞬、視界が閉ざされた。  バーサーカーの落下地点まで駆けるセイバーと、  旋風を伴って落下してきたバーサーカーとは、まったくの同時だった。 「っ…………!」  空気が震える。  〈岩塊〉《がんかい》そのものとも言えるバーサーカーの大剣を、セイバーは視えない剣で受け止めていた。 「っ――――」  口元を歪めるセイバー。  そこへ 旋風じみたバーサーカーの大剣が一閃する―――!  轟音。  大気を裂きかねない鋼と鋼のぶつかり合いは、セイバーの敗北で終わった。  ざざざざ、という音。  バーサーカーの大剣を受けたものの、セイバーは受け止めた剣ごと押し戻される。 「くっ……」  セイバーの姿勢が崩れる。  追撃する鉛色のサーヴァント。  灰色の異形は、それしか知らぬかのように大剣を叩きつける。  避ける間もなく剣で受けるセイバー。  彼女の剣が見えなかろうと関係ない。  バーサーカーの一撃は全身で受け止めなければ防ぎきれない即死の風だ。  故に、セイバーは受けに回るしかない。  彼女にとって、勝機とはバーサーカーの〈剣戟〉《けんげき》の合間に活路を見いだす事。    だが。  それも、バーサーカーに隙があればの話。  黒い岩盤の剣は、それこそ嵐のようだった。  あれほどの巨体。  あれほどの大剣を以ってして、バーサーカーの速度はセイバーを上回っている。  繰り出される剣戟は、ただ叩きつけるだけの、何の工夫もない駄剣だ。  だがそれで十分。  圧倒的なまでの力と速度が有るのなら、技の介入する余地などない。  技巧とは、人間が欠点を補うために編み出すもの。    そんな〈弱点〉《もの》、あの巨獣には存在しない。 「――――逃げろ」    凍り付いた体で、ただ、そう呟いた。  アレには勝てない。  このままではセイバーが殺される。  だからセイバーは逃げるべきだ。  彼女だけなら簡単に逃げられる。  そんな事、他でもない彼女自身がよく判っているだろうに…………! 「あ――――」  あれは、まずい。  体は麻痺しているクセに、頭だけは冷静に働くのか。  絶え間なく繰り出される死の嵐。  〈捌〉《さば》ききれず後退したセイバーに、今度こそ、    防ぎ切れぬ、終りの一撃が繰り出された。  セイバーの体が浮く。  バーサーカーの大剣を、無理な体勢ながらもセイバーは防ぎきる。  それは致命傷を避けるだけの行為だ。  満足に踏み込めなかったため大剣を殺しきれず、衝撃はそのままセイバーを吹き飛ばす。    ―――大きく弧を描いて落ちていく。  背中から地面に叩きつけられる前に、セイバーは身を翻して着地する。 「……ぅ、っ……!」  なんとか持ち直すセイバー。  だが。その胸には、赤い血が滲んでいた。 「――――あれ、は」  ……なんて、バカだ。  俺は大事な事を失念していた。  サーヴァントが一日にどれくらい戦えるかは知らないが、セイバーはこれで三戦目だ。  加えて彼女の胸には、ランサーによって穿たれた傷がある―――― 「つ、う――――」  胸をかばうように構えるセイバー。  バーサーカーは暴風のように、傷ついたセイバーへと斬りかかり――――    その背中に、幾条もの衝撃を受けていた。   「―――Vier Stil Erschießung……!」    いかなる魔術か、遠坂の呪文と共にバーサーカーの体が弾ける。  〈迸〉《ほとばし》る魔力量から、バーサーカーに直撃しているのは大口径の拳銃に近い衝撃だろう。  だがそれも無意味。  バーサーカーの体には傷一つ付かない。  セイバーのように魔力を無効化しているのではない。  あれは、ただ純粋に効いていないだけ。 「っ……!? く、なんてデタラメな体してんのよ、こいつ……!」  それでも遠坂は手を緩めず、  バーサーカーも、遠坂の魔術を意に介さずセイバーへ突進する。 「…………っ」  苦しげに顔をあげるセイバー。  彼女はまだ戦おうと剣を構える。    ―――それで、固まっていた体は解けた。 「だめだ、逃げろセイバー……!」    満身の力で叫ぶ。  それを聞いて、    彼女は、敵うはずのない敵へと立ち向かった。  バーサーカーの剣戟に終わりはない。  一合受ける度にセイバーの体は沈み、刻一刻と最後の瞬間を迎えようとする。    ―――それでも、あんな小さな体の、どこにそんな力があったのか。  セイバーは決して後退しない。  怒濤と繰り出される大剣を全て受け止め、気力でバーサーカーを押し返そうとする。  勝ち目などない。  そのまま戦えば敗れると判っていながら踏み止まる彼女の姿は、どこか異常だった。  その姿に何を感じたのか。   「――――!」    絶えず無言だった異形が吠えた。  防ぎようのない剣戟。  完璧に防ぎに入ったセイバーもろともなぎ払う一撃は、今度こそ彼女を吹き飛ばした。    だん、と。  遠くに、何かが落ちる音。  ……鮮血が散っていく。  その中で、もはや立ち上がる事など出来ない体で。 「っ、あ…………」  彼女は、意識のないまま立ち上がった。  そうしなければ、残された俺が、殺されるのだと言うかのように。 「――――――――――――――――――――――――」    それで。  自分がどれほど愚かな選択をしたか、思い知った。  セイバーを斬り伏せたバーサーカーは動きを止めている。  立ちつくす俺と遠坂に目もくれず、坂の上にいる主の命令を待つ。 「あは、勝てるわけないじゃない。わたしのバーサーカーはね、ギリシャ最大の英雄なんだから」 「……!? ギリシャ最大の英雄って、まさか――――」 「そうよ。そこにいるのはヘラクレスっていう魔物。  あなたたち程度が使役できる英雄とは格が違う、最凶の怪物なんだから」  イリヤと名乗った少女は、愉しげに瞳を細める。  それは敵にトドメを刺そうとする愉悦の目だ。    ―――倒されるのが誰かは言うまでもない。    彼女はここで殺される。  ならどうするというのか。  彼女に代わってあの怪物と戦えというのか。  それは出来ない。  半端な覚悟でアレに近づけば、それだけで心臓が止まるだろう。  俺は――――        ――――この場から離れる。    セイバーではあの怪物には勝てない。  このまま戦わせれば間違いなく殺されてしまう。  なら―――― 「遠坂、こっちだ……!」 「っ……!?」  遠坂の手を取って走り出す。    あの少女の狙いが俺たちなら、必ず追って来る。    そうなればセイバーは助かるし、俺たちだって、人気のある場所まで逃げ込めば助かる見込みがある……! 「ちょっ、あいつ相手に背中を向けるなんて――――!」 「え……?」  掴んだ手が振り払われる。  ついで閃光。  遠坂は無防備な俺の背中を守るように“その間”に割って入り、 「は――――、つ…………」  その胸で、巨人の大剣を受けていた。 「――――――――とおさ、」  振り向いた顔が、ひきつっていくのが判る。  ごほ、と。  口から咳き込むみたいに赤いものを吐き出して、遠坂は胸につきたった大剣を、不思議そうに見下ろした。 「あれ――――なにやってんだろ、わた、し」  ……俺を守ろうとした事か、バーサーカーを迎撃した事か。  そんな事、初めから無駄だと判っていたのにと、遠坂は首をかしげ、   「――――教会。綺礼の、ところに」    そう残して、ずるり、と地面に投げ捨てられた。 「――――――――、ア」    考えるより先に体が反応した。  目前に立ち塞がる黒い巨人。  その右脇、たった今遠坂を地面に棄てた隙をついて、    「ああああああああああああ――――!」    火の輪をくぐる動物みたいに、死に物狂いで走り抜けた。 「あ、逃げた。くす、かわいいねお兄ちゃん。バーサーカーから逃げられると思えるなんて」  ――――走る。  頭の中には遠坂の言葉しかない。  教会。この坂道の上、教会まで行かなければ。  教会にいって、言峰神父に助けを求める。  そうしなければいけない。  そうしなければ遠坂が死ぬ。  そうしなければセイバーも死ぬ。  そうしなければ二人を助けられず、俺も―――!  背後に一撃。  剣じゃない。  巨人は〈玄翁〉《げんのう》じみた素手で、俺の背中を打ち上げた。    ――――あ、   「もう、この役立たず……! 簡単に殺すなって言ったのにそんなコトも出来ないの……!? 力だけの出来そこない、今度わたしの言い付けを守れなかったら最後の一回になるまで殺すからね……!」    ――――あ、が   「え……? 生き、てる……? ここまで吹き飛ばされたのに、まだ生きてる、の……?」    ――――いき、が。背骨が粉々になって、息、が。   「そう。生きてるんだ、お兄ちゃん。何の魔術も使えないようだけど、マスターに選ばれる理由はあったみたいね。  ―――いいわ。それぐらいじゃないと、わたしもニホンに来た意味がないもの」   「っ――――、――――」    ……からだが動かない。  生きているなど気休めだ。  俺は、もう。 「いいえ、簡単には死なせないわ。貴方にはもっと傷ついてもらって、今までの時間がどれだけ恵まれていたのか、教えてあげるんだから」    銀色の髪をした少女が、俺の頭を押さえつける。  白い、冷たい指先が〈頭蓋〉《ずがい》を凍らせていく。    その、もう元の自分に戻れなくなる中、         「―――ふふ。自分じゃ決して死ねない、醜い人形にしてあげる。お兄ちゃんは今日から、キリツグの代わりになるの」    遠坂とセイバーが無事であるようにと、最後の理性で祈っていた。    俺は―――倒れている誰かを、見捨てる事はできない。  衛宮士郎はそういう生き方を選んだ筈だし、  なにより―――自分を守る為に戦ってくれたあの少女を、あんな姿にしておけない。 「いいわよバーサーカー。そいつ、再生するから一撃で仕留めなさい」  バーサーカーの活動が再開する。  俺は――――   「こ―――のぉおお…………!!」    全力で駆けだしていた。  あの怪物をどうにかできる筈がない。  だからせめて、倒れているセイバーを突き飛ばして、バーサーカーの一撃から助け―――― 「――――え?」    どたん、と倒れた。  なんで……?  俺はセイバーを突き飛ばして、バーサーカーからセイバーを引き離して、その後はその後で何か考えようって思ったのに、なんで。 「が――――は」    なんで、こんな。  地面に倒れて。息が、できなくなっているのか。 「!?」    ……驚く声が聞こえた。  まず、もう目の前にいるセイバー。  ついでに遠くで愕然としている遠坂。  それとなぜか、呆然と俺を見下ろしている、イリヤという少女から。 「……あ、れ」  胸から下の自分の身体が、ない。  地面に倒れている。  アスファルトに、傷のわりには少ない体液とか柔らかそうなあれとか乾いた枝みたいに細かく折れたコレとか痛そうだなオイまあそういったモノがこぼれている。   「……そうか。なんて、間抜け」    ようするに、間に合わなかったのだ。  だからそう―――突き飛ばすのは無理だから、そのまま盾になってみたのか。  そうしてあの鉈のお化けみたいな剣で、ごっそりと腹をもっていかれてしまった。 「――――こふっ」    ああもう、こんな時まで失敗するなんて呆れてしまう。  正義の味方になるんだって頑張ってきたけど、こういう大一番にかぎってドジばっかりだ。 「――――なんで?」    ぼんやりと、銀髪の少女が呟く。  少女はしばらく呆然とした後、   「……もういい。こんなの、つまんない」    セイバーにトドメをささず、バーサーカーを呼び戻した。 「―――リン。次に会ったら殺すから」  立ち去っていく少女。  それを見届けた後、視界が完全に失われた。    意識が途絶える。  今度ばかりは取り返しがつかない。  ランサーに殺された時は知らないうちに助かったが、仏の顔も三度までだ。  こんな、腹をごっそりなくした人間を助ける魔術なんてないだろう。           「……あ、あんた何考えてるのよ! わかってるの、もう助けるなんて出来ないっていうのに……!」    叱咤する声が聞こえた。  ……きっと遠坂だ。なんだか本気で怒っているようで、申し訳ない気がする。    でも仕方ないだろ。  俺は遠坂みたいに何でもできる訳じゃないし、自由に出来るのはこの体ぐらいなもんだ。    ……だから、そう。  こうやって体を張る事ぐらいしか、俺には、出来る事がなかったんだから――――      炎の中にいた。  崩れ落ちる家と焼けこげていく人たち。  走っても走っても風景はみな〈赤色〉《せきしょく》。  これは十年前の光景だ。  長く、思い出す事のなかった過去の記憶。  その中を、再現するように走った。      悪い夢だと知りながら出口はない。    走って走って、どこまでも走って。    行き着く先は結局、力尽きて助けられる、幼い頃の自分だった。 「――――――――」  嫌な気分のまま目が覚めた。  額に触れると、冬だと言うのにひどく汗をかいていた。 「……ああ、もうこんな時間か」  時計は六時を過ぎていた。  耳を澄ませば、台所からはトントンと包丁の音が聞こえてくる。 「桜、今朝も早いな」  感心している場合じゃない。  こっちもさっさと支度をして、朝食の手伝いをしなければ。 「士郎、今日どうするのよ。土曜日だから午後はアルバイト?」 「いや、バイトは入ってないよ。一成のところでなんかやってると思うけど、それがどうかしたか?」 「んー、べつに。暇だったら道場の方に遊びにきてくんないかなーって。わたし、今月ピンチなのだ」 「? ピンチって、何がさ」 「お財布事情がピンチなの。誰かがお弁当作ってくれると嬉しいんだけどなー」 「断る。自業自得だ、たまには一食ぐらい抜いたほうがいい」 「ふーんだ、士郎には期待してないもん。わたしが頼りにしてるのは桜ちゃんだけなんだから。ね、桜ちゃん?」 「はい。わたしと同じ物でよろしければ用意しておきますね、先生」 「うん、おっけーおっけー。じゃあ今日は一緒にお昼を食べましょう」  いつも通りに朝食は進んでいく。  今朝のメニューは定番の他、主菜でレンコンとこんにゃくのいり鶏が用意されていた。  朝っぱらからこんな手の込んだ物を作らなくとも、と思うのだが、きっと大量に作って昼の弁当に使うのだろう。  桜は弓道部員だし、藤ねえは弓道部の顧問だ。  二人が弁当で結ばれるのも至極当然の流れと言える。 「そう言えば士郎。今朝は遅かったけど、何かあった?」  みそ汁を飲みながらこっちに視線を向ける藤ねえ。  ……ったく。普段は抜けているクセに、こういう時だけ鋭いんだから。 「昔の夢を見た。寝覚めがすっげー悪かっただけで、あとはなんともない」 「なんだ、いつもの事か。なら安心かな」    とりわけ興味なさそうに会話を切る藤ねえ。  こっちもホントに気にしていないので、ムキになる話でもない。  十年前。  まだあの火事の記憶を忘れられない頃は、頻繁に夢にうなされていた。  それも月日が経つごとになくなって、今では夢を見てもさらりと流せるぐらいには立ち直れている。  ……ただ、当時はわりと酷かったらしく、その時からうちにいた藤ねえは、俺のそういった変化には敏感なのだ。 「士郎、食欲はある? 今朝にかぎってないとかない?」 「ない。なんともないんだから、人の夢にかこつけてメシを横取りするな」 「ちぇっ。士郎が強くなってくれて嬉しいけど、もちょっと繊細でいてくれたほうがいいな、お姉ちゃんは」 「そりゃこっちの台詞だ。もちっと可憐になってくれたほうがいいぞ、弟分としては」  ふん、とお互い視線を交わさないで罵りあう。  それが元気な証拠となって、藤ねえは安心したように笑った。 「――――ふん」  正直、その心遣いは嬉しい。  ま、感謝すると付け上がるので、いつも通り不満そうに鼻を鳴らす。 「??」  そんな俺たちを見て、事情を知らない桜が不思議そうに首をかしげていた。  藤ねえが家を出た後、俺たちも戸締まりをして家を出た。 「先輩。今日の夜から月曜日までお手伝いに来れませんけど、よろしいですか?」 「? 別にいいよ。だって土日だろ、桜だって付き合いがあるんだから、気にする事ないぞ」 「え―――そんな、違います……! そういうんじゃないです、本当に個人的な用事で、ちゃんと部活にだって出るんですから! だ、だからなにかあったら道場に来てくれればなんとかします!  別に土日だからって遊びに行くわけじゃないです、だから、あの……ヘンな勘違いはしないでもらえると、助かります」 「???」  桜は挙動不審というか、えらく緊張しているようだ。  理由は不明だが、とにかく土日は来られないという事だろう。 「判った。何かあったら道場に行くよ」 「はい、そうしてもらえれば嬉しいです」  ほう、と胸をなで下ろす桜。  そうして視線を下げた桜の顔が、一転して強ばった。 「先輩、手―――」 「?」  桜の視線の先にあるのは俺の左手だ。  見ると―――ぽたり、と赤い血が零れていた。 「あれ?」  学生服の裾をたくし上げる。  そこには確かに血が滲んでいた。 「なんだこれ。昨日の夜、ガラクタいじってて切ったかな」  にしては痛みがない。  傷だって、腕にミミズ腫れのような〈痣〉《あざ》があるだけだ。  痣は肩から手の甲まで一直線に伸びていて、小さな蛇が、肩口から手のひらを目指しているようにも見えた。 「ま、痛みもないしすぐに引くだろ。大丈夫、気にするほどじゃない」 「……はい。先輩がそう言うのでしたら、気にしません」  血を見て気分を悪くしたのか、桜はうつむいたまま黙ってしまった。  藤ねえが家を出た後、俺たちも戸締まりをして家を出た。 「……………………」 「桜? なんだよ、元気がないな。もしかしてまた体調が悪くなったのか?」 「え……? あ、いえ、体の調子はいいです。先輩の方こそ大事はありませんか? 今朝もどこか気分が悪そうでしたし、その、昨日の傷も悪化してるかもしれません」  昨日の傷……?  ああ、左手の〈痣〉《あざ》の事か。 「いや、痣はあれっきりだけどな。ただの腫れだからしばらくすれば治るだろ」 「………………」  何が心配なのか、桜はじっとこっちを見つめてくる。 「あー……いや、ほんとに大丈夫だって。たいした事ないぞ、ほんと」 「……………………」 「なんだよ、昨日からおかしいぞ桜。こんなのただの痣だろ。それとも何か、俺が寝てる間に桜が踏んづけて出来た痣だとか?」 「せ先輩っ、わたしそんなに重くありませんっ! わたしはただ、その」 「ただ、その?」 「…………その。間違いだったら、いいって」 「???」  桜の言動はどうも判り辛い。  桜は無口だけど、言うべき事ははっきりと言う子だ。  こんなふうに、奥歯に物が挟まったような口調じゃないんだけど。 「……先輩。お願いがあるんですけど、いいですか」 「うん? ああ、出来る範囲でなら聞くけど、なんだ」 「……はい。わたし、明日の夜までお手伝いに来られないんです。その間、出来るだけ家の中にいて貰えませんか?」 「……? それ、日曜のバイトは休めって事か?」 「はい。出来る限り家にいてほしいんです。あの、わたしも用事が終わればお手伝いに来ますから」 「ふーん……まあ、一日ぐらい休んでもいいか。  よし、んじゃ休日は家でのんびりしてる。それでいいか、桜」 「はい。そうしてもらえると助かります」  たまにはぼんやり休日を過ごすのもいい。  ここ最近バイトづけで生活費にも余裕があるし、今週の土日はたまったガラクタを片付けてしまおう。  こんにちはー! みんな元気にしてるかな? ゲームは一日一時間、さくっと死亡した君に体罰直撃、悩みを即時解決するお助けコーナー・タイガー道場でーす! さて。早速だが本編の雰囲気ぶち壊しのこのコーナーの趣旨を問いたいと思う!  答えよ、弟子一号! 押忍! この道場は、にぶちんでばかちんなシロウを救う舞台裏で、いうなれば『Fate』を支える大黒柱でありまーす! いわば『Fate』本編そのものと言ってもカゴンではないのではないでしょーかー! マーベェラス! ベラボー! おおベラボー! はい、よく出来ました。みんなも薄々感づいてると思うけど、この道場こそが『Fate』の肝なのよ? みんな、本編でおっきな顔してる偽ヒロインたちに騙されないよう、少しでも危なげな選択肢が出てきたら迷わずそっちを選んでねー。 さて。今回の士郎は…… あっちゃー、ぺっちゃんこで小さくなっちゃったかー。  こんなコトするのはよっぽど残酷な人でなしなんだろうなー。そこんとこどうなのよ、弟子。 問題ありませーん! これはぁ、愛情の裏返しによるキュートでポップなジェノサイドなのだー! 不許可! あいたたた……ま、間違えました、これは、うだつのあがらないお兄ちゃんが、あるヒロインのご機嫌を損ねちゃった結末です。 その通り。いわば士道不覚悟、背中を見せたら切腹よ。 今後、このような後ろ向きな選択はじゃんじゃん選びなさい。死ねるから。 でもまあ、ここは名目上Q&Aコーナーなので、一応悩みに答えておきましょう。  弟子一号、今回の対策は? 押忍、選択肢に戻って違う方を選べばいいのでありますっ。 はい、よくできました。  今回のような突発死はいたるところに仕掛けられてるから、選択肢でのセーブは基本よ?  それじゃあ今回はここまで! 次の稽古で君を待つ! はーい、まったねー!   ずるずると音がする。  それが鳴き声なのか、粘体を引きずる音なのか、爛れていく音なのか、判別する事は難しい。  音は、その全てだった。  ここには腐蝕するモノしかない。  石壁は朽ちた大木のように脆く、  空気は蜜のように甘い。  地に這う生き物は熟れた果実さながらに溶ろけており、流れる時間さえ、ここでは重ねる意味もなく腐っていた。    長い年月をかけて磨耗しきった空間。  ある血脈の執念の果て、地上に〈弔〉《とむら》われる事のなかったモノたちの墓標が、この闇だった。             「――――七人、揃ったようだな」    その闇の中心に、一際巨大な腐蝕が蠢いていた。  虫の声と不快な臭い。  地下室の主は生きながらに崩れ落ち、この世ならざる虫に〈集〉《たか》られている。  じぶじぶと足元から這い上がる虫は〈踝〉《くるぶし》から皮膚に吸いつき吸盤じみた〈吻〉《ふん》で肉壁を食いすすみ骨にたどり着くや〈神経〉《なか》に潜り、なおじぶじぶと這い上がっていく。    這い寄る虫の数は百や二百ではない。  この黒い絨毯に〈集〉《たか》られたのなら、生物など分を待たず崩れ落ちるだろう。  肉体の外見は手付かずのまま、その中身という中身を“〈蟲〉《むし》”にとって代わられる。             「足りぬ。この蟲どもも、じき替え時か」    だというのに、ソレは崩れ落ちる事などなかった。  否、むしろ蟲が〈踝〉《くるぶし》から体内に侵入するたびに、ソレの身体は出来上がっていく。  ――――ソレは蟲に食われているのではない。  この、〈夥〉《おびただ》しいまでに地下室に生息する蟲こそが、ソレに食われるだけのモノだった。  貯蔵量にしておよそ百年分。  ソレが蟲を食うモノだとするのなら、それだけの余命が、すでに約束されている事になる。             「まだ先はある。〈此度〉《こたび》が最後という訳でもない。万全でなければ静観に徹するべきなのだが」    さて、とソレは口元を歪める。  今回の“場”は万全と言えるものではない。  前回の戦いから十年足らずで開こうとする孔。  監督役である神父は二体のサーヴァントを有し、柳洞寺に根を張るサーヴァントは自らサーヴァントを召喚した。  条件は良くはない。  このような不安定な戦いで満ちる杯など完全には程遠い。  門は開けようが、中にあるモノにまで手は届くまい――――             「ならば静観するべきなのだが。困った事に持ち駒だけは適しておる」    聖杯を奪い合う場としての条件は最悪である。  だが一点――――今まで手をかけて作り上げた“モノ”の仕上がりだけは万全だった。  〈開放〉《だ》せば到達する。  手順さえ間違えなければ必ずや聖杯に手が届くだろう。  なにしろ聖杯の中身を植え付けられたモノだ。  十年間、神経の至るところまで聖杯の欠片に侵食された細胞具である。  ならば元が同じモノ同士、引き合うのは当然だろう。             「……ふん。ワシには次があるが、アレはそう長く保つまい。胎盤として貰いうけたものだが、よもやあれほどの出来になろうとはの」    実験として用意したモノは、ほぼ完全と言えるまで適合している。  このまま使い捨てる予定だったが、使えるのならば使うべきだ。  どちらにせよ廃棄する予定だったもの。  戦いに敗れ破壊されようが不能になろうが、棄てるという結末には違いない。             「――――となると、問題は一つ。      アレを、どうやってその気にさせてやるかだが」    用意した“適合作”は、あろうことか戦いを嫌っている。  自由意志を奪えばいいだけの話だが、存外に“適合作”の精神防壁は強固だった。  ……まあ、優れた魔術回路を持つ胎盤を望んだのだ。  ならば、自我を侵そうとする毒に強いのは道理と言える。  従順な人形を取るか、優れた弟子を取るか。  後者を良しとした以上、洗脳は諦めねばならぬ。             「――――一度でよい。僅かな隙間さえ開けば、後は自ら聖杯を求めるのであろうが、さて」    その隙間を開ける事が困難だった。  アレは他者からの強制で崩れる精神ではない。  そのように壊れるものなら、十一年前にとうに砕け散っている。  アレは反撃する刃を持たぬだけの、この世で最も堅固な要塞だ。  ならば、壊れるのならば〈内側〉《おのれ》から。  自身の昏い感情こそが、アレを変貌させる鍵となろう。             「――――来たか。さて、では隙間を作ってやるとするか」    暗闇に足音が落ちてくる。  現れた何者かは、腐敗の中心である蟲へと歩み寄り、  “マスターは、全員殺さなくてはならないのか”   などと、予想通りの問いかけをした。             「――――――――」    無論、そのような事は返答するまでもない。  マスターは全員殺す。  サーヴァントは全て奪う。  それがこの地下室に渦巻く執念だ。  だが、それを押し殺して             「おまえがそう言うのであれば仕方あるまい。では、今回も傍観に徹しよう」    ソレは言った。  安堵の声と、弛緩する空気。  もはや戦いの意思などない、とソレは優しく笑みを浮かべたあと。             「しかし、そうなると少しばかり癪だのう。今回の依り代の中では、〈遠坂〉《きゃつ》の娘は中々に良く出来ておる。勝者が出るとすれば、おそらくはあやつであろう」    そう、残念そうに囁いた。   “――――――――”   ……緩んだ空気が戻る。  僅かな変化――――見逃してしまうほどの小さな負の感情が地下室に灯る。  戦いを嫌ったモノは、その一言で天秤を揺らしてしまった。  揺れてしまえば出来てしまう。  僅かな軋み。  本人さえ気がつかない、開けてはならない筈の隙間。             「――――ク」    ソレが笑う。  蟲に集られ、今もなお朽ちゆくソレは、人の形を保ったままクツクツと笑っていた。 「あ…………つ」  呆然と目が覚めた。  のど元には吐き気。体はところどころがズキズキと痛んで、心臓が鼓動する度に、刺すような頭痛がする。 「何が――――起きた?」    頭痛が激しくて思い出せない。  長いこと廊下で眠っていたせいか、震えがくるほど体は冷え切っている。  唯一確かな事は、胸の破れた制服と、べったりと廊下に染みついた自分の血だけ。 「…………っ」    朦朧とする頭を抱えて立ち上がった。  自分が倒れていた場所は、殺人現場のように酷い有様だ。 「……くそ、ほんとに……」    ――――この胸を、貫かれたのか。 「……はぁ……はぁ……ぐ……」    こみ上げてくる物を堪えながら、手近な教室に入る。  おぼつかない足取りのままロッカーを開けて、雑巾とバケツを取り出した。 「……あれ……なにしてんだろ、俺……」    まだ頭が混乱してる。  とんでもないモノに出会って、いきなり殺されたっていうのに、なんだってこんな時まで、後片づけをしなくちゃいけないんだ、馬鹿。 「……はぁ……はぁ……くそ、落ちない……」    ……雑巾で床を拭く。  手足に力が入らないまま、なんとかこびりついた血を拭き取って、床に落ちていたゴミを拾い集めてポケットに入れた。  ……証拠隠滅、というヤツかもしれない。  朦朧とした頭だからこそ、そんなバカな事をしたのだろう。 「……あ……はぁ……はぁ……はぁ……」    雑巾とバケツを片づけて、ゾンビのような足取りで学校を後にした。  ……歩く度に体の熱が上がる。  外はこんなにも冷たいのに、自分の体だけ、燃えているようだった。  ……家に帰る頃には、とうに日付が変わっていた。  屋敷には誰もいない。  桜はもとより、藤ねえもとっくに帰った後だ。 「……あ……はあ、はあ、は―――あ」  どすん、と床に腰を下ろした。  そのまま床に寝転がって、ようやく気持ちが落ち着いてくれた。 「……………………」  深く息を吸い込む。  大きく胸を膨らますと、〈罅〉《ひび》が入るかのように心臓が痛んだ。  ……いや、それは逆だ。  実際ひび割れていたどころじゃない。  穴の開いていた心臓が塞がれて、治ったばかりだから、膨張させると傷が開きかけるのだ。 「……殺されかけたのは本当か」  それも違う。  殺されかけたのではなく、殺された。  それがこうして生きているのは、誰かが助けてくれたからだ。 「……誰だったんだ、アレ。礼ぐらい言わせてほしいもんだけど」  あの場に居合わせた、という事はアイツらの関係者かもしれない。  それでも助けてくれた事に変わりはない。いつか、ちゃんと礼を言わなくては。 「あ……ぐ……!」  気を抜いた途端、痛みが戻ってきた。  同時にせり上がってくる嘔吐感。 「あ……は、ぐっ……!」  体を起こして、なんとか吐き気を堪える。 「っ……ふ、っ……」  制服の破れた箇所、むき出しになっている胸に手を触れた。  助けられたとはいえ、胸に穴が開いたのだ。  あの感覚。  あんな、包丁みたいな槍の穂先がずっぷりと胸に刺さった不快感は、ちょっとやそっとじゃ忘れられない。 「……くそ。しばらく夢に見るぞ、これ」    目を瞑れば、まだ胸に槍が刺さっている気がする。  そんな錯覚を振り払って、ともかく冷静になろうと努めた。 「……よし。落ち着いてきた」  毎晩の鍛錬の賜物。  深呼吸を数回するだけで思考はクリアになり、体の熱も嘔吐感も下がっていく。 「それで、アレの事だけど」    青い男と赤い男。  見た目は人間だったが、アレは人ではないと思う。  幽霊の類だろうか。  だが実体を持ち、生きている人間に直接干渉できる幽霊なんて聞いたことがない。  しかもアレは喋っていた。自分の意志もあるって事は、ますます幽霊とは思いにくい。  ……それに肉を持つ霊は精霊の類だけと聞くが、精霊っていうのは人の形をしていないんじゃなかったっけ……? 「……いや。問題はそんなじゃなくて」    他に、もっと根本的な問題がある筈だ。          ……殺し合いをしていた二人。  ……近所の家に押し入ったという強盗殺人。  ……何かと不吉な事件が続く冬木の町。 「………………」  それだけ考えて、判ったのは自分の手には負えない、という事だけだ。 「……こんな時、親父が生きてれば」    胸の傷があまりに生々しかったからか、口にするべきじゃない弱音を吐いていた。 「―――間抜け。判らなくても、自分に出来る事をやるって決めてるじゃないか」    弱音を吐くのはその後だ。  まずは、そう―――関わるのか関わらないのか、その選択をしなくては―――   「――――!?」  屋敷の天井につけられていた鐘が鳴る。  ここは腐っても魔術師の家だ。  敷地に見知らぬ人間が入ってくれば警鐘が鳴る、ぐらいの結界は張ってある。 「こんな時に泥棒か――――」    呟いて、自らの愚かさに舌を打つ。  そんな筈はない。  このタイミング、あの異常な出来事の後で、そんな筈はない。  侵入者は確かにいる。  それは泥棒なんかじゃなく、物ではなく命を奪りにきた暗殺者だ。  だって、あの男は言っていたじゃないか。    『見られたからには殺すだけだ』、と。 「―――――」  屋敷は静まりかえっている。  物音一つしない闇の中、確かに―――あの校庭で感じた殺気が、少しずつ近づいてくる。 「――――っ」  ごくり、と喉が鳴った。  背中には針のような悪寒。  幻でもなんでもなく、この部屋から出れば、即座に串刺しにされる。 「っ――――」  漏れだしそうな悲鳴を懸命に抑えた。  そんな物をこぼした瞬間、暗殺者は歓喜のていで俺を殺しに飛び込んでくるだろう。  ……そうなれば、あとは先ほどの繰り返しだ。  何の準備もできていない自分は、またあの槍に貫かれる。 「――――ぁ――――はぁ、ぁ――――」    そう思った途端、呼吸が無様に乱れ出した。  頭にくる。  恐怖を感じている自分と、助けてもらった命を簡単に放棄しようとしている自分が、情けない。 「っ――――く」    歯をかみ合わせ、貫かれた胸を掻きむしって、つまらない自分を抑えつける。  いい加減、慣れるべきだ。  これで二度目。  殺されようとしているのはこれで二度目。  それだけでもさっきのような無様は見せられないっていうのに、衛宮士郎は魔術師ではないのか。  なら、こんな時に自分さえ守れなくて、この八年何を学んできたという―――! 「……いいぜ。やってやろうじゃないか」    難しい事を悩むのは止めだ。  今はただ、来たヤツを叩き出すだけ。 「……まずは、武器をどうにかしないと」    魔術師といっても、俺に出来る事は武器になりそうな物を“強化”する事だけだ。  戦うには武器がいる。  土蔵なら武器になりそうな物は山ほどあるが、ここから土蔵までは遠い。  このまま居間を出た時に襲われるとしたら、丸腰ではさっきの繰り返しになる。  ……難しいが、武器はここで調達しなければならない。  出来れば細長い棒状の物が望ましい。相手の得物は槍だ。ナイフや包丁では話にならない。  木刀なんてものがあれば言うことはないのだが、そんなものは当然ない。  この居間で武器になりそうな物と言えば――――   「うわ……藤ねえが置いてったポスターしかねえ……」    がくり、と肩の力が抜ける。  が、この絶対的にどうしようもない状況に、むしろ腹が据わった。  ここまで最悪の状況なら、これ以下に落ちる事はない。  なら―――後はもう、力尽きるまで前進するだけだ。 「――――〈同調〉《トレース》、〈開始〉《オン》」    自己を作り替える暗示の言葉とともに、長さ六十センチ程度のポスターに魔力を通す。  あの槍をどうにかしようというモノに仕上げるのだから、ポスター全てに魔力を通し、固定化させなければ武器としては使えないだろう。 「――――構成材質、解明」    意識を細く。  皮膚ごしに、自らの血をポスターに染み込ませていくように、魔力という触覚を浸透させる。 「――――構成材質、補強」    こん、と底に当たる感触。  ポスターの隅々まで魔力が行き渡り、溢れる直前、   「――――〈全〉《トレース》工程、〈完了〉《オフ》」    ザン、とポスターと自身の接触を断ち、成功の感触に身震いした。  ポスターの硬度は、今では鉄並になっている。  それでいて軽さは元のままで、急造の剣としては文句なしの出来栄えだ。 「巧く、いった―――」    強化の魔術が成功したのは何年ぶりだろう。  切嗣が亡くなってから一度も形にならなかった魔術が、こんな状況で巧くいくとは皮肉な話だ。 「ともあれ、これで――――」    なんとかなるかもしれない。  剣を扱う事なら、こっちだってそれなりに心得はある。  両手でポスターを握り締め、居間のただ中に立った。  どのみちここに留まっても殺されるし、屋敷から出たところで逃げきれるとも思えない。  なら、あとは一直線に土蔵に向かって、もっと強い武器を作るだけだ―――― 「――――――ふう」    来るなら来やがれ、さっきのようにはいくもんか、と身構えた瞬間。   「―――――――!」    ぞくん、と背筋が総毛立った。  何時の間にやってきていたのか。  天井から現れたソレは、一直線に俺へと落下した。 「な………え――――?」  頭上から滑り落ちてくる銀光。  天井から透けて来たとしか思えないソイツは、脳天から俺を串刺しにせんと降下し―――   「こ――――のぉ……!!」    ただ夢中で、転がるように前へと身を躱した。  たん、という軽い着地音と、ごろごろとだらしなく転がる自分。  それもすぐさま止めて、急造の剣を持ったまま立ち上がる。 「――――」  ソイツは退屈そうな素振りで、ゆらりと俺へと振り返る。 「……余計な手間を。見えていれば痛かろうと、オレなりの配慮だったのだがな」  ソイツは気だるそうに槍を持ちかえる。 「――――」  どういう事情かは知らないが、今のアイツには校庭にいた時ほどの覇気がない。  それなら、本当に―――このまま、なんとか出し抜く事ができる……! 「……まったく、一日に同じ人間を二度殺すハメになるとはな。いつになろうと、人の世は血生臭いという事か」  男はこちらの事など眼中にない、という素振りで悪態をついている。 「――――」  じり、と少しずつ後ろに下がる。  窓まであと三メートルほど。  そこまで走り、庭に出てしまえば土蔵まで二十メートルあるかないかだ。  それなら、今すぐにでも―――― 「じゃあな。今度こそ迷うなよ、坊主」  ぼんやりと。  ため息をつくように、男は言った。 「っぁ――――!?」  右腕に痛みが走る。 「……?」  それは一瞬の出来事だった。  あまりに無造作に、反応する間もなく男の槍が突き出された。  ……本来なら、それで俺は二度目の死を迎えていただろう。  それを阻んだのは、身構えていた急造の剣である。  アイツはただの紙だとでも思ったのだろう。  ポスターなど無いかのように突き出された槍は、その紙の剣に弾かれ、こちらの右腕を掠めるに留まったのだ。 「……ほう。変わった芸風だな、おい」    男の顔から表情が消えた。  先ほどまでの油断は微塵と消え、獣じみた眼光で、こちらの動きを観察している。 「ぁ――――」  しくじった。なんとかなる、なんて度し難い慢心だった。    ―――今目の前にいるのは、常識から外れた悪鬼だ。    そいつを前にして少しでも気を緩ませた自分の愚かさを痛感する。  ……そう。  本当に死に物狂いだったのなら、頭上からの一撃を奇跡的にやりすごせた後、脇目も振らずに窓へ走っておくべきだったのだ……! 「ただの坊主かと思ったが、なるほど……微弱だが魔力を感じる。心臓を穿たれて生きている、ってのはそういう事か」  槍の穂先がこちらに向けられる。 「――――――――」  防げない。  あんな、閃光めいた一撃は防げない。  この男の得物がせめて剣なら、どんなに速くても身構える程度はできただろう。  だがアレは槍だ。  軌跡が線である剣と、点である槍。  初動さえ見切れない点の一撃を、どう防げというのか。 「いいぜ―――少しは楽しめそうじゃないか」  男の体が沈み込む。  刹那――――    正面からではなく、横殴りに槍が振るわれた。  顔の側面へと振るわれた槍を、条件反射だけで受け止める。 「ぐっ――――!?」 「いい子だ、ほら次行くぞ……!」  ブン、という旋風。  この狭い室内でどんな扱いをしているのか、槍は壁につかえる事もなく美しい弧を描き、   「っ……!!!!!」    今度は逆側から、フルスイングでこちらの胴を払いに来る……! 「がっ――――!!!??」  止めに入った急造の剣が折れ曲がる。  化け物―――アイツが持ってんのはハンマーか!  くそ、構えていた両腕の骨がひしゃげたんじゃないのかこの痺れ―――! 「ぐ、この――――!」 「ふん?」  反射的に剣を振るう。  こちらを舐めているのだろう、未だ戻しに入っていない槍の〈柄〉《え》を剣で弾きあげる―――! 「ぐっ……!」  叩きにいった両腕が痺れる。  急造の剣はますます折れ曲がり、男の槍はわずかだけ軌道を逸らした。 「……使えねえな。機会をくれてやったのに無駄な真似しやがって。まあ、魔術師に斬り合いを望んでも仕方ねえんだろうが―――」  男の今の行動はただの遊びだ。  二つ受けたらご褒美に打ち込んでこさせてやる、という余裕。  ……その唯一にして絶対の機会を、俺はその場しのぎに使ってしまった。    故に―――この男は、俺に斬り合うだけの価値を見いださない。 「―――拍子抜けだ。やはりすぐに死ねよ、坊主」    男は打ち上げられた槍を構え直す。   「勝手に――――」    その、あるかないかの余分な〈動作〉《スキ》に。   「言ってろ間抜け――――!」  後ろも見ず、背中から窓へと跳び退いた。 「はっ、はぁ、は――――」  背中で窓をブチ割って庭へと転がり出る。  そのまま、数回転がった後、立ち上がりざま――――   「は、あ――――!」    何の確証もなく、  体ごとひねって背後へと一撃する―――! 「ぬ――――!」  突きだした槍を弾かれ、わずかに躊躇する男。  ―――予想通りだ。  窓から飛び出せば、アイツは必ず追撃してくる。  それもこっちが起きあがる前に追いついて、確実に殺しにかかる。  だからこそ―――必殺の一撃がくると信じて、満身の力で剣を横に払った。  少しでも遅ければ即死、早くても空振りした隙に殺されかねない無謀な策だが、ヤツとの実力差を見てこちらが早すぎる、なんて事はない。  だからこっちがする事は、全身全霊の力で一刻も早く起き上がり、背後へと一撃する事だけだったのだ。  結果はドンピシャ、賭けそのものだった一撃は見事に男の槍をはじき返した……! 「は、っ……!」  即座に体勢を立て直す。  あとは男が怯んでいる隙に、なんとか土蔵まで走り抜ければ―――! 「――――飛べ」 「え……?」  槍を弾かれた筈の男は、槍など持たず、空手のまま俺へと肉薄し、    くるりと背中を向けて、回し蹴りを放ってきた。 「――――――――」  景色が流れていく。  蹴り上げられた胸が痺れ、呼吸ができない。  いや、それより驚くべき事は、自分が空を飛んでいるという事だ。  ただの回し蹴りで、自分の体がボールみたいに蹴り飛ばされるなんて、夢にも思―――― 「ぐっ――――!」  背中から地面に落ちた。  壁にぶつかり、背中が折れる程の衝撃を受けて、ずるりと地面に落ちたのだ。 「ごほ――――っ、あ…………!」  息ができない。  視界が霞む。  壁―――目的地だった土蔵の壁に手をついて、なんとか体を奮い立たせる。 「は――――はあ、は」  霞む視界で男を追った。  ……本当に、二十メートル近く蹴り飛ばされたのか。  男は槍を持ち直して、一直線に突進してくる。 「ぐ――――!」  殺される。  間違いなく殺される。  男はすぐさまやってくるだろう。  それまで―――死にたくないのなら、立ち上がって、迎え撃た、なけれ、ば―――― 「――――」  〈迸〉《ほとばし》る槍の穂先。  男に振り返る事もできず、崩れ落ちそうだった体が槍を迎える。 「チィ、男だったらシャンと立ってろ……!」  なんて悪運。  体を支えきれず、膝を折ったのが幸いした。  槍は俺の頭上、土蔵の扉を強打し、重い扉を弾き開けた。 「あ――――」  だから、それが最後のチャンス。  土蔵の中に入れば、何か―――武器になるようなもの、が。 「ぐっ――――!」  四つん這いになって土蔵へ滑り込む。  そこへ――――   「そら、これで終いだ―――!」    避けようのない、必殺の槍が放たれた。 「こ――――のぉぉおおおおお!」  それを防いだ。  棒状だったポスターを広げ、一度きりの盾にする。 「ぬ……!?」  ゴン、という衝撃。  広げきったポスターでは強度もままならなかったのか。  槍こそ防いだが、ポスターは貫通され、途端に元の紙へと戻っていく。 「あ、ぐっ……!」  突き出された槍の衝撃に吹き飛ばされ、壁まで弾き飛ばされる。 「ぁ――――、づ――――」  床に尻餅をついて、止まりそうな心臓に喝を入れる。  そうして、武器になりそうな物を掴もうと顔を上げた時。   「詰めだ。今のはわりと驚かされたぜ、坊主」    目前には、槍を突きだした男の姿があった。 「―――――――――――」  もはや、この先などない。  男の槍はぴったりと心臓に向けられている。  それは知ってる。  つい数時間前に味わった痛み、容赦なく押しつけられた死の匂いだ。 「……しかし、分からねえな。機転は利くくせに魔術はからっきしときた。筋はいいようだが、まだ若すぎたか」  ……男の声は聞こえない。  意識はただ、目の前の凶器に収束してしまっている。  当然だ。  だって、アレが突き出されれば自分は死ぬ。  〈事此処〉《ことここ》にいたり、今更他の何が考えられる。 「もしやとは思うが、おまえが七人目だったのかもな。  ま、だとしてもこれで終わりなんだが」  男の腕が動いた。  今まで一度も見えなかった動きが、今はスローモーションのように見える。  走る銀光。  俺の心臓に吸い込まれるように進む穂先。  一秒後には血が出るだろう。  それを知っている。  体に埋まる鉄の感触も、  喉にせり上がってくる血の味も、  世界が消えていく感覚も、  つい先ほど味わった。  ……それをもう一度? 本当に?  理解できない。なんでそんな目に遭わなくてはいけないのか。  ……ふざけてる。  そんなのは認められない。こんな所で意味もなく死ぬ訳にはいかない。  助けて貰ったのだ。なら、助けてもらったからには簡単には死ねない。  俺は生きて義務を果たさなければいけないのに、死んでは義務が果たせない。  それでも、槍が胸に刺さる。  穂先は肉を裂き、そのまま〈肋〉《あばら》を破り心臓を穿つだろう。 「――――」  頭にきた。  そんな簡単に人を殺すなんてふざけてる。  そんな簡単に俺が死ぬなんてふざけてる。  一日に二度も殺されるなんて、そんなバカな話もふざけてる。  ああもう、本当に何もかもふざけていて、大人しく怯えてさえいられず、   「ふざけるな、俺は――――」    こんなところで意味もなく、  おまえみたいなヤツに、  殺されてやるものか――――!!!!!! 「え―――――?」    それは、本当に。   「なに………!?」    魔法のように、現れた。  目映い光の中、それは、俺の背後から現れた。    思考が停止している。  現れたそれが、少女の姿をしている事しか判らない。  ぎいいいん、という音。  それは現れるなり、俺の胸を貫こうとした槍を打ち弾き、躊躇う事なく男へと踏み込んだ。   「―――本気か、七人目のサーヴァントだと……!?」    弾かれた槍を構える男と、手にした“何か”を一閃する少女。  二度火花が散った。  剛剣一閃。  現れた少女の一撃を受けて、たたらをふむ槍の男。 「く――――!」  不利と悟ったのか、男は獣のような俊敏さで土蔵の外へ飛び出し―――  退避する男を体で威嚇しながら、それは静かに、こちらへ振り返った。  風の強い日だ。  雲が流れ、わずかな時間だけ月が出ていた。  土蔵に差し込む銀色の月光が、騎士の姿をした少女を照らしあげる。 「――――」  声が出ない。  突然の出来事に混乱していた訳でもない。  ただ、目前の少女の姿があまりにも綺麗すぎて、言葉を失った。 「――――――――」  少女は宝石のような瞳で、何の感情もなく俺を見据えた後。   「―――問おう。貴方が、私のマスターか」    凛とした声で、そう言った。 「え……マス……ター……?」  問われた言葉を口にするだけ。  彼女が何を言っているのか、何者なのかも判らない。  今の自分に判る事と言えば―――この小さな、華奢な体をした少女も、外の男と同じ存在という事だけ。 「……………………」  少女は何も言わず、静かに俺を見つめてくる。    ―――その姿を、なんと言えばいいのか。    この状況、外ではあの男が隙あらば襲いかかってくる状況を忘れてしまうほど、目の前の相手は特別だった。  自分だけ時間が止まったかのよう。  先ほどまで体を占めていた死の恐怖はどこぞに消え、今はただ、目前の少女だけが視界にある――― 「サーヴァント・セイバー、召喚に従い参上した。  マスター、指示を」    二度目の声。  その、マスターという言葉と、セイバーという響きを耳にした瞬間、 「――――っ」  左手に痛みが走った。  熱い、焼きごてを押されたような、そんな痛み。  思わず左手の甲を押さえつける。  それが合図だったのか、少女は静かに、可憐な顔を頷かせた。         「―――これより我が剣は貴方と共にあり、貴方の運命は私と共にある。  ――――ここに、契約は完了した」 「な、契約って、なんの――――!?」  俺だって魔術師の端くれだ。その言葉がどんな物かは理解できる。  だが少女は俺の問いになど答えず、頷いた時と同じ優雅さで顔を背けた。            ――――向いた先は外への扉。      その奥には、未だ槍を構えた男の姿がある。  たやすく赤い男を斬り伏せた。  トドメとばかりに腕を振り上げるセイバー。  が、赤い男は首を落とされる前、強力な魔術の発動と共に消失した。  セイバーは止まらない。  そのまま、男の奥にいた相手へと疾走し、  そして―――敵が放った大魔術を、事もなげに消滅させた。 「な――――」  強いとは知っていたが、圧倒的すぎる。  今の魔術は、俺なんかじゃ足下にも及ばないほどの干渉魔術だ。  威力だけなら〈切嗣〉《オヤジ》だって負けてはいないが、あれだけの自然干渉をノータイムで行うなど、一流の魔術師でも可能かどうか。  だが、そんな達人クラスの魔術でさえ、セイバーはあっけなく無効化させた。  敵は魔術師なのか、それで勝負はついた。  魔術師の攻撃はセイバーには通用せず、セイバーは容赦なく魔術師に襲いかかる。  どん、と尻餅をつく音。  奇跡的にセイバーの一撃を躱したものの、敵はそれで動けなくなった。  セイバーは敵を追いつめ、その視えない剣を突きつける。 「――――」  意識が凍る。  一瞬、月が出てくれたからだろう。  セイバーが追いつめている相手が人間なのだと見てとれた。  それが誰であるかまでは判らないが、人を殺して返り血を浴びているセイバーの姿だけが、〈咄嗟〉《とっさ》に脳裏に描かれた。 「――――」  セイバーの体が動く。  その手にした“何か”で、相手の喉を貫こうと―――   「止めろセイバーーーーーーーー!!!!!!」    精一杯、力の限り叫んだ。  ピタリと止まる剣。  ……視えないという事は、精神的に良かったのかもしれない。  彼女の視えない剣の切っ先は、未だ相手の血で濡れてはいなかった。 「……止めろ。頼むから止めてくれ、セイバー」    セイバーを睨みつけながら言った。  彼女を止めるのなら全力で挑まなければ止められまい、と覚悟して。 「何故止めるのですシロウ。彼女はアーチャーのマスターです。ここで仕留めておかなければ」    違う、セイバーはやっぱり止める気なんてない。  俺が言っているから止めているだけで、すぐにでも剣を振るおうとしている……! 「だ、だから待てって……! 人のことをマスターだとか言ってるけど、こっちはてんで解らないんだ。俺をそんな風に呼ぶんなら、少しは説明するのが筋ってもんだろう……!」 「………」  セイバーは答えない。  静かに俺を見据えて佇むだけだ。 「順番が違うだろ、セイバー。俺はまだおまえがなんなのか知らない。けど話してくれるなら聞くから、そんな事は止めてくれ」 「…………」  セイバーは黙っている。  倒れ込んだ相手に剣を突きつけたまま、納得いかなげに俺を見据える。 「そんな事、とはどのような事か。  貴方は無闇に人を傷つけるな、などという理想論をあげるのですか」 「え……?」  無闇に人を傷つけるなって……?  いや、そりゃあ出来るかぎり争いは避けるべきだけど、襲ってきた相手に情を移すほどお人好しじゃないぞ、俺。 「つまり貴方は、敵であれ命を絶つなと言いたいのでしょう? そのような言葉には従いません。敵は倒すものです。それでも止めろと言うのであれば、令呪を以って私を律しなさい」 「? いや、そんな事っていうのはおまえの事だ。女の子が剣なんて振り回すもんじゃない。怪我をしてるなら尚更だろ。  ……って、そっか、ホントに剣を持ってるかどうかは判らないんだっけ―――ああいや、とにかくそういうのはダメだっ!」 「――――――――」  途端。毒気を抜かれたように、ぽかんとセイバーは口を開けた。  そんな状態のまま、どれくらいの時間が過ぎただろう。   「………で? 何時になったら剣を下げてくれるのかしらね、セイバーさんは」    不意に、尻餅をついていた誰かが言った。 「――――!」  とっさに剣に力を込めるセイバー。 「諦めなさい。敵を前にして下げる剣は有りません」 「貴女のマスターは下げろって言っているのに?  へえ、セイバーともあろうサーヴァントが主に逆らうっていうんだ」 「――――――――」  ぎり、と歯を噛んだ後。  セイバーは剣を下げ、手の平から力を抜いた。  それで剣は仕舞われたのか、セイバーから殺気が消える。 「そ。なら立ってもいいのよね、わたし」  尻餅をついていた誰かが立ち上がる。  ぱんぱん、とお尻を叩いているあたり、なんていうかふてぶてしい。  ……って、ちょっと、待て。  あーあ、とばかりにふてくされているのは、その、間違いなく――― 「お、おまえ遠坂……!?」 「ええ。こんばんは、衛宮くん」  にっこり、と極上の笑みで返してくる遠坂凛。 「あ――――う?」  それは、参った。  そんな何気なく挨拶をされたら、今までの異常な出来事が嘘みたいな気がして、何が何やら分からなくなる―― 「ああ、いや、だから、さっきの魔術は遠坂が使ったって事だから、つまり――――」 「魔術師って事でしょ? ま、お互い似たようなもんだし隠す必要もないわよね」 「ぐ――――」  だから、そうもはっきり言われると訊いてるこっちが間抜けみたいじゃないか――― 「いいから話は中でしましょ。どうせ何も解ってないんでしょ、衛宮くんは」  さらりと言って、遠坂はずんずん門へと歩いていく。 「え―――待て遠坂、なに考えてんだおまえ……!」  と―――  振り向いた遠坂の顔は、さっきまでの笑顔とは別物だった。 「バカね、いろいろ考えてるわよ。だから話をしようって言ってるんじゃない。  衛宮くん、突然の事態に驚くのもいいけど、素直に認めないと命取りって時もあるのよ。ちなみに今がその時だとわかって?」  じろり、と敵意を込めて睨まれる。 「――――っ」 「分かればよろしい。それじゃ行こっか、衛宮くんのおうちにね」  遠坂は衛宮の門をくぐっていく。 「……なんかすげえ怒ってるぞ、あいつ……」  いや、考えてみれば当然だ。  なにしろついさっきまで剣を突きつけられ、命を奪われるところだったんだから。 「いや、それにしたって」  なんか、学校の遠坂とはイメージが百八十度違うのは気のせいなんだろうか……。  で、なんでか不思議な状況になってしまった。  目の前にはずんずんと歩いていく学校のアイドル、一応憧れていた遠坂凛がいて、  背後には無言で付いてくる金髪の少女、自らをサーヴァントと名乗るセイバーがいる。 「………………」  あ。  なんか、廊下が異次元空間のような気がしてきた。  が、いつまでも腑抜けのままではいられない。  俺だって半人前と言えど魔術師だ。  同じく魔術師であるらしい遠坂がここまで堂々としているのだから、俺だってしっかりしなければ馬鹿にされる。  ……と言っても、俺に考えつくのは僅かな事だ。  まず、後ろに付いてきているセイバー。  彼女が俺をマスターと呼び、契約したというからには使い魔の類であるのは間違いない。  使い魔とは、魔術師を助けるお手伝い的なモノだと聞く。  たいていは魔術師の体の一部を他者に移植し、分身として使役されるモノを言うのだとか。  このおり、分身とする他者は小動物が基本とされる。  単純に、猫や犬ならば意識を支配するのが容易い為だ。  中には人間を使い魔とする魔術師もいるが、その為には人間一人を絶えず束縛するだけの魔力を持たなければならない。  が、人間一人を支配する魔力なんて常時使っていたら、その魔術師は魔力の大半を使い魔の維持に費やす事になる。  それでは本末転倒である。  使い魔とは魔術師の助けとなるモノ。  できるだけ魔術師に負担をかけないよう、使役するのにあまり力を使わない小動物が適任とされる。    ……確かにそう教わりはしたけど、しかし。 「? 何かあるのですか、シロウ」 「……ああいや、なんでもない」  ……セイバーはどう見ても人間だ。しかも明らかに主である俺より優れている。  そんな相手を縛り付ける魔力なんて俺にはないし、そもそも使い魔を使役するだけの魔術回路もない。 「…………」  だから、きっとセイバーは使い魔とは似て非なるモノの筈だ。  彼女は自分をサーヴァントと言っていた。  それがどんなモノかは知らないが、あのランサーという男も、遠坂が連れていた赤い男も同じモノなのだと思う。  となると、遠坂もマスターと呼ばれる者の筈だ。  あいつの魔術の冴えは先ほど垣間見た。  俺が半人前だとしたら、遠坂は三人前……というか、強化の魔術しか使えない俺と他の魔術師を比べても仕方がない。  ともかく、遠坂凛はとんでもない魔術師だ。  霊的に優れた土地には、その土地を管理する魔術師の家系がある。  衛宮家は切嗣の代からこの町にやってきたから、いうなれば〈他所者〉《よそもの》だ。  だから遠坂の家が魔術師だと知らなかったし、遠坂の方も、衛宮の家が魔術師の家系だと知らなかったのだと思う。  ……この町には、俺の知らない魔術師が複数いる。  ランサーとやらも他の魔術師の使い魔だとしたら、俺はつまり、魔術師同士の争いに足を突っ込んだという事だろうか―――― 「へえ、けっこう広いのね。和風っていうのも新鮮だなぁ。  あ、衛宮くん、そこが居間?」 「………………」  考えるのはここまでだ。  とにかく遠坂に話を聞こう。  電気をつける。  時計は午前一時を回っていた。 「うわ寒っ! なによ、窓ガラス全壊してるじゃない」 「仕方ないだろ、ランサーってヤツに襲われたんだ。なりふり構ってられなかったんだよ」 「あ、そういう事。じゃあセイバーを呼び出すまで、一人でアイツとやり合ってたの?」 「やりあってなんかない。ただ一方的にやられただけだ」 「ふうん、ヘンな見栄はらないんだ。……そっかそっか、ホント見た目通りなんだ、衛宮くんって」  何が嬉しいのか、遠坂は割れた窓ガラスまで歩いていく。 「?」  遠坂はガラスの破片を手に取ると、ほんの少しだけまじまじと観察し―――   「――――Minuten vor Schweißen」    ぷつり、と指先を切って、窓ガラスに血を零した。 「!?」  それはどんな魔術か。  粉々に砕けていた窓ガラスはひとりでに組み合わさり、数秒とかからず元通りになってしまった。 「遠坂、今の――――」 「ちょっとしたデモンストレーションよ。助けて貰ったお礼にはならないけど、一応筋は通しておかないとね」 「……ま、わたしがやらなくともそっちで直したんだろうけど、こんなの魔力の無駄遣いでしょ? ホントなら窓ガラスなんて取り替えれば済むけど、こんな寒い中で話すのもなんだし」    当たり前のように言う。  が、言うまでもなく、彼女の腕前は俺の理解の外だった。 「―――いや、凄いぞ遠坂。俺はそんな事できないからな。直してくれて感謝してる」 「? 出来ないって、そんな事ないでしょ?  ガラスの扱いなんて初歩の初歩だもの。たった数分前に割れたガラスの修復なんて、どこの学派でも入門試験みたいなものでしょ?」 「そうなのか。俺は親父にしか教わった事がないから、そういう基本とか初歩とか知らないんだ」 「――――はあ?」  ピタリ、と動きを止める遠坂。  ……しまった。なんか、言ってはいけない事を口にしたようだ。 「……ちょっと待って。じゃあなに、衛宮くんは自分の工房の管理もできない半人前ってこと?」 「……? いや、工房なんて持ってないぞ俺」  ……あー、まあ鍛練場所として土蔵があるが、アレを工房なんて言ったら遠坂のヤツ本気で怒りそうだし。 「…………まさかとは思うけど、確認しとく。もしかして貴方、五大要素の扱いとか、パスの作り方も知らない?」  おう、と素直に頷いた。 「………………」  うわ、こわっ。  なまじ美人なだけ、黙り込むと迫力あるぞ、こいつ。 「なに。じゃあ貴方、素人?」 「そんな事ないぞ。一応、強化の魔術ぐらいは使える」 「強化って……また、なんとも半端なのを使うのね。で、それ以外はからっきしってワケ?」  じろり、と睨んでくる遠坂。 「……まあ、端的に言えば、たぶん」  さすがに視線が痛くて、なんとも煮え切らない返答をしてしまった。 「――――はあ。なんだってこんなヤツにセイバーが呼び出されるのよ、まったく」  がっかり、とため息をつく。 「…………む」  なんか、腹が立つ。  俺だって遊んでたワケじゃない。  こっちが未熟なのは事実だけど、それとこれとは話が別だと思う。 「ま、いいわ。もう決まった事に不平をこぼしても始まらない。そんな事より、今は借りを返さないと」  ふう、と一息つく遠坂。 「それじゃ話を始めるけど。  衛宮くん、自分がどんな立場にあるのか判ってないでしょ」 「――――」  こくん、と頷く。 「やっぱり。ま、一目で判ったけど、一応確認しとかないとね。知ってる相手に説明するなんて心の贅肉だし」 「?」  なんか、今ヘンな言い回しを聞いた気がするけど、ここで茶々を入れたら殴られそうなので黙った。 「率直に言うと、衛宮くんはマスターに選ばれたの。  どちらかの手に聖痕があるでしょ? 手の甲とか腕とか、個人差はあるけど三つの〈令呪〉《れいじゅ》が刻まれている筈。それがマスターとしての証よ」 「手の甲って……ああ、これか」 「そ。それはサーヴァントを律する呪文でもあるから大切にね。令呪っていうんだけど、それがある限りはサーヴァントを従えていられるわ」 「……? ある限りって、どういう事だよ」 「令呪は絶対命令権なの。サーヴァントには自由意思があるって気づいていると思うけど、それをねじ曲げて絶対に言いつけを守らせる呪文がその刻印」 「発動に呪文は必要なくて、貴方が令呪を使用するって思えば発動するから。  ただし一回使う度に一つずつ減っていくから、使うのなら二回だけに留めなさい。  で、その令呪がなくなったら衛宮くんは殺されるだろうから、せいぜい注意して」 「え……俺が、殺される――――?」 「そうよ。マスターが他のマスターを倒すのが〈聖杯〉《せいはい》戦争の基本だから。そうして他の六人を倒したマスターには、望みを叶える聖杯が与えられるの」 「な――――に?」  ちょっ、ちょっと待て。  遠坂のヤツが何を言っているのかまったく理解できない。  マスターはマスターを倒す、とか。  そうして最後には聖杯が手に入るとか……って、聖杯って、そもそもあの聖杯の事か……!? 「まだ解らない? ようするにね、貴方はあるゲームに巻き込まれたのよ。  聖杯戦争っていう、七人のマスターの生存競争。他のマスターを一人残らず倒すまで終わらない、魔術師同士の殺し合いに」  それがなんでもない事のように、遠坂凛は言い切った。 「――――――――」  頭の中で、聞いたばかりの単語が回る。  マスターに選ばれた自分。  マスターだという遠坂。  サーヴァントという使い魔。    ―――それと。  聖杯戦争という、他の魔術師との殺し合い―――― 「待て。なんだそれ、いきなり何言ってんだおまえ」 「気持ちは解るけど、わたしは事実を口にするだけよ。  ……それに貴方だって、心の底では理解してるんじゃない? 一度ならず二度までもサーヴァントに殺されかけて、自分はもう逃げられない立場なんだって」 「――――――――」  それは。  確かに、俺はランサーとかいうヤツに殺されかけた、けど。 「あ、違うわね。殺されかけたんじゃなくて殺されたんだっけ。よく生き返ったわね、衛宮くん」 「――――」  遠坂の追い打ちは、ある意味トドメだった。  ……確かにその通りだ。  アイツは俺を殺し、俺は確かに殺された。  そこには何のいいわけも話し合いも通じず、俺は殺されるだけの存在だったのだ。  だから。  その、訳のわからない殺し合いを否定したところで、 他の連中が手を引いてくれるなんて事はない。 「――――」 「納得した? ならもう少しだけ話をしてあげる。  聖杯戦争というのが何であるかわたしもよくは知らない。  ただ何十年に一度、七人のマスターが選ばれ、マスターにはそれぞれサーヴァントが与えられるって事だけは確かよ」 「わたしもマスターに選ばれた一人。だからサーヴァントと契約したし、貴方だってセイバーと契約した。  サーヴァントは聖杯戦争を勝ち残る為に聖杯が与えた使い魔と考えなさい。  で、マスターであるわたしたちは自分のサーヴァントと協力して、他のマスターを始末していくわけね」 「…………」  遠坂の説明は簡潔すぎて、実感を得るには遠すぎた。  それでも一つだけ、先ほどから疑問に思っていた事がある。 「……ちょっと待ってくれ。遠坂はセイバーを使い魔だっていうけど、俺にはそうは思えない。  だって使い魔っていうのは猫とか鳥だろ。そりゃ人の幽霊を扱うヤツもいるって言うけど、セイバーはちゃんと体がある。それに、その―――とても、使い魔なんかに見えない」  ちらりとセイバーを盗み見る。  セイバーは俺たちの話を黙って聞いていた。  ……その姿は人間そのものだ。  正体は判らないが、自分とそう歳の違わない女の子だ。 「使い魔ね―――ま、サーヴァントはその分類ではあるけど、位置づけは段違いよ。何しろそこにいる彼女はね、使い魔としては最強とされるゴーストライナーなんだから」 「ゴーストライナー……? じゃあその、やっぱり幽霊って事か?」  とうの昔に死んでいる人間の霊。  死した後もこの世に姿を残す、卓越した能力者の残留思念。  だが、それはおかしい。  幽霊は体を持たない。霊が傷つけられるのは霊だけだ。  故に、肉を持つ人間である俺が、霊に直接殺されるなんてあり得ない。 「幽霊……似たようなものだけど、そんなモンと一緒にしたらセイバーに殺されるわよ。  サーヴァントは受肉した過去の英雄、精霊に近い人間以上の存在なんだから」 「――――はあ? 受肉した過去の英雄?」 「そうよ。過去だろうが現代だろうが、とにかく死亡した伝説上の英雄をこう引っ張ってきてね、実体化させるのよ」 「ま、呼び出すまでがマスターの役割で、あとの実体化は聖杯がしてくれるんだけどね。  魂をカタチにするなんてのは一介の魔術師には不可能だもの。ここは強力なアーティファクトの力におんぶしてもらうってわけ」 「ちょっと待て。過去の英雄って、ええ……!?」  セイバーを見る。  なら彼女も英雄だった人間なのか。  いや、そりゃ確かに、あんな格好をした人間は現代にはいないけど、それにしたって――― 「そんなの不可能だ。そんな魔術、聞いた事がない」 「当然よ、これは魔術じゃないもの。あくまで聖杯による現象と考えなさい。そうでなければ魂を再現して固定化するなんて出来る筈がない」 「……魂の再現って……じゃあその、サーヴァントは幽霊とは違うのか……?」 「違うわ。人間であれ動物であれ機械であれ、偉大な功績を残すと輪廻の輪から外されて、一段階上に昇華するって話、聞いたことない?  英霊っていうのはそういう連中よ。  ようするに〈崇〉《あが》め〈奉〉《たてまつ》られて、擬似的な神さまになったモノたちなんでしょうね」 「降霊術とか口寄せとか、そういう一般的な“霊を扱う魔術”は〈英霊〉《かれら》の力の一部を借り受けて奇蹟を起こすでしょ。  けどこのサーヴァントっていうのは英霊本体を直接連れてきて使い魔にする。  だから基本的には霊体として側にいるけど、必要とあらば実体化させて戦わせられるってワケ」 「……む。その、霊体と実体を使い分けられるって事か。  ……遠坂のサーヴァントは姿が見えないけど、今は霊体って事か?」 「いえ、アイツはうちの召喚陣で傷を癒してる最中よ。  さっきセイバーにやられたでしょ。あれだって、あと少し強制撤去が遅かったら一撃で消滅してたわ」 「いい、サーヴァントを倒せるのは同じ霊体であるサーヴァントだけ。そりゃあ相手が実体化していればこっちの攻撃も当たるから、うまくすれば倒せるかもしれない。  けど、サーヴァントはみんな怪物じみてるでしょ? だから怪物の相手は怪物に任せて、マスターは後方支援をするっていうのがセオリーね」 「…………む」  遠坂の説明は、なんか癇に障る。  怪物怪物って、他のサーヴァントがどうだか知らないけど、セイバーにそんな形容は不釣り合いではなかろうか。 「とにかくマスターになった人間は、召喚したサーヴァントを使って他のマスターを倒さなければならない。  そのあたりは理解できた?」 「……言葉の上でなら。けど、納得なんていってないぞ。  そもそもそんな悪趣味な事を誰が、何の為に始めたんだ」 「それはわたしが知るべき事でもないし、答えてあげる事でもない。そのあたりはいずれ、ちゃんと聖杯戦争を監督しているヤツに聞きなさい。  わたしが教えてあげられるのはね、貴方はもう戦うしかなくて、サーヴァントは強力な使い魔だからうまく使えって事だけよ」  遠坂はそれだけ言うと、今度はセイバーへ視線を向ける。 「さて。衛宮くんから話を聞いた限りじゃ貴女は不完全な状態みたいね、セイバー。マスターとしての心得がない魔術師見習いに呼び出されたんだから」 「……ええ。貴方の言う通り、私は万全ではありません。  シロウには私を実体化させる魔力がない為、霊体に戻る事も、魔力の回復も難しいでしょう」 「……驚いたわ。そこまで酷かった事もだけど、貴女が正直に話してくれるなんて思わなかった。どうやって弱みを聞き出そうかなって程度だったのに」 「敵に弱点を見抜かれるのは不本意ですが、貴女の目は欺けそうにない。こちらの手札を隠しても意味はないでしょう。  それならば貴方に知ってもらう事で、シロウにより深く現状を理解してもらった方がいい」 「正解。風格も十分、と。……ああもう、ますます惜しいっ。わたしがセイバーのマスターだったら、こんな戦い勝ったも同然だったのに!」 「む。遠坂、それ俺が相応しくないって事か」 「当然でしょ、へっぽこ」  うわ。心ある人なら言いにくいコトを平然といったぞ、今。 「なに? まだなんか質問があるの?」  しかも自覚なし。  学校での優等生然としたイメージがガラガラと崩れていく。  ……さすがだ一成。たしかに遠坂は、鬼みたいに容赦がない。 「さて。話がまとまったところでそろそろ行きましょっか」  と。  遠坂はいきなり、ワケの分からないコトを言いだした。 「? 行くって何処へ?」 「だから、貴方が巻き込まれたこのゲーム……“聖杯戦争”をよく知っているヤツに会いに行くの。衛宮くん、聖杯戦争の理由について知りたいんでしょ?」 「―――それは当然だ。けどそれって何処だよ。もうこんな時間なんだし、あんまり遠いのは」 「大丈夫、隣町だから急げば夜明けまでには帰ってこれるわ。それに明日は日曜なんだから、別に夜更かししてもいいじゃない」 「いや、そういう問題じゃなくて」  単に今日は色々あって疲れてるから、少し休んでから物事を整理したいだけなのだが。 「なに、行かないの? ……まあ衛宮くんがそう言うんならいいけど、セイバーは?」  なぜかセイバーに意見を求める遠坂。 「ちょっと待て、セイバーは関係ないだろ。あんまり無理強いするな」 「おっ、もうマスターとしての自覚はあるんだ。わたしがセイバーと話すのはイヤ?」 「そ、そんなコトあるかっ! ただ遠坂の言うのがホントなら、セイバーは昔の英雄なんだろ。ならこんな現代に呼び出されて右も左も分からない筈だ。  だから―――」 「シロウ、それは違う。サーヴァントは人間の世であるのなら、あらゆる時代に適応します。ですからこの時代の事もよく知っている」 「え――――知ってるって、ほんとに?」 「勿論。この時代に呼び出されたのも一度ではありませんから」 「な――――」 「うそ、どんな確率よそれ……!?」  あ、遠坂も驚いてる。  ……という事は、セイバーの言ってる事はとんでもない事なのか。 「シロウ、私は彼女に賛成です。貴方はマスターとして知識がなさすぎる。貴方と契約したサーヴァントとして、シロウには強くなってもらわなければ困ります」  セイバーは静かに見据えてくる。  ……それはセイバー自身ではなく、俺の身を案じている、穏やかな視線だった。 「……分かった。行けばいいんだろ、行けば。  で、それって何処なんだ遠坂。ちゃんと帰ってこれる場所なんだろうな」 「もちろん。行き先は隣町の言峰教会。そこがこの戦いを監督してる、エセ神父の居所よ」  にやり、と意地の悪い笑みをこぼす遠坂。  アレは何も知らない俺を振り回して楽しんでいる顔だ。 「………………」  偏見だけど。  あいつの性格、どこか問題ある気がしてきたぞ……。  俺は逃げない。  正直、マスターとか聖杯戦争とか、そんな事を言われても実感が湧かない。  それでも、戦うか逃げるかしかないのなら、逃げる事だけはしない。    神父は言った。  魔術師ならば覚悟は出来ている筈だと。  だから決めないと。  たとえ半人前でも、衛宮士郎は魔術師なんだ。  憧れ続けた衛宮切嗣の後を追って、必ず正義の味方になると決めたのなら―――― 「―――マスターとして戦う。  十年前の火事の原因が聖杯戦争だっていうんなら、俺は、あんな出来事を二度も起こさせる訳にはいかない」    俺の答えが気に入ったのか、神父は満足そうに笑みを浮かべた。 「――――」  深く呼吸をする。  迷いは断ち切った。  男が一度、戦うと口にしたんだ。  なら、ここから先はその言葉に恥じないよう、胸を張って進むだけだ。 「それでは君をセイバーのマスターと認めよう。  この瞬間に今回の聖杯戦争は受理された。  ―――これよりマスターが残り一人になるまで、この街における魔術戦を許可する。各々が自身の誇りに従い、存分に競い合え」  重苦しく、神父の言葉が礼拝堂に響いた。  その宣言に意味などあるまい。  神父の言葉を聞き届けたのは自分と遠坂だけだ。  この男はただ、この教会の神父として始まりの鐘を鳴らしたにすぎない。 「決まりね。それじゃ帰るけど、わたしも一つぐらい質問していい綺礼?」 「かまわんよ。これが最後かもしれんのだ、大抵の疑問には答えよう」 「それじゃ遠慮なく。綺礼、あんた見届け役なんだから、他のマスターの情報ぐらいは知ってるんでしょ。こっちは協会のルールに従ってあげたんだから、それぐらい教えなさい」 「それは困ったな。教えてやりたいのは山々だが、私も詳しくは知らんのだ。  衛宮士郎も含め、今回は正規の魔術師が少ない。私が知りうるマスターは二人だけだ。衛宮士郎を加えれば三人か」 「あ、そう。なら呼び出された順番なら判るでしょう。  仮にも監視役なんだから」 「……ふむ。一番手はバーサーカー。二番手はキャスターだな。あとはそう大差はない。先日にアーチャー、そして数時間前にセイバーが呼び出された」 「―――そう。それじゃこれで」 「正式に聖杯戦争が開始されたという事だ。  凛。聖杯戦争が終わるまで、この教会に足を運ぶ事は許されない。許されるとしたら、それは」 「自分のサーヴァントを失って保護を願う場合のみ、でしょ。それ以外にアンタを頼ったら減点ってコトね」 「そうだ。おそらく君が勝者になるだろうが、減点が付いては教会が黙っていない。連中はつまらない論議の末、君から聖杯を奪い取るだろう。私としては最悪の展開だ」 「エセ神父。教会の人間が魔術協会の肩を持つのね」 「私は神に仕える身だ。教会に仕えている訳ではない」 「よく言うわ。だからエセなのよ、アンタは」  そうして、遠坂は言峰神父に背を向ける。  あとはそのまま、別れの挨拶もなしに出口へと歩き出した。 「おい、そんなんでいいのか遠坂。あいつ、おまえの兄弟子なんだろ。なら―――」  もっとこう、ちゃんとした言葉を交わしておくべきではないのだろうか。 「いいわよそんなの。むしろ縁が切れて清々するぐらいだもの。そんな事より貴方も外に出なさい。もうこの教会に用はないから」  遠坂は立ち止まる事なく礼拝堂を横切り、本当に出ていってしまった。  はあ、とため息をもらして遠坂の後に続く。  と。 「っ――――!」  背後に気配を感じて、たまらずに振り返った。  いつのまに背後にいたのか、神父は何を言うのでもなく俺を見下ろしていた。 「な、なんだよ。まだなんかあるっていうのか」  言いつつ、足は勝手に後ずさる。  ……やはり、こいつは苦手だ。  相性が悪いというか、肌に合わないというか、ともかく好きになれそうにない。 「話がないなら帰るからなっ!」  神父の視線を振り払おうと出口に向かう。  その途中。     「――――喜べ少年。君の願いは、ようやく叶う」      そう、神託を下すように神父は言った。          その言葉は。  自分でも気づいていなかった、衛宮士郎の本心ではなかったか。 「―――なにを、いきなり」 「判っていた筈だ。明確な悪がいなければ君の望みは叶わない。たとえそれが君にとって容認しえぬモノであろうと、正義の味方には倒すべき悪が必要だ」 「っ――――――――」  目の前が、真っ暗になりそう、だった。  神父は言う。  衛宮士郎という人間が持つ最も崇高な願いと、最も醜悪な望みは同意であると。    ……そう。何かを守ろうという願いは、    同時に、何かを侵そうとするモノを、望む事に他ならない―――― 「―――おま、え」    けど、そんな事を望む筈がない。  望んだ覚えなんてない。  あまりにも不安定なその願望は、  ただ、目指す理想が矛盾しているだけの話。  だというのに神父は言う。  この胸を刺すように、“敵が出来て良かったな”と。 「なに、取り繕う事はない。君の葛藤は、人間としてとても正しい」 「っ――――――」  神父の言葉を振り払って、出口へと歩き出す。 「さらばだ衛宮士郎。  最後の忠告になるが、帰り道には気をつけたまえ。  これより君の世界は一変する。  君は殺し、殺される側の人間になった。その身は既にマスターなのだからな」  こんにちはー! サクっと死んだ貴方を一から鍛え直す夢のレスキューコーナー、タイガー道場師範、藤村大河でーす。 はーい。ホントはこんなところに出る必要なんてないけど、お情けでタイガに付き合ってあげてるイリヤでーす。 だりゃぁぁぁああああ! 弟子一号! この道場では貴様の名称は弟子一号! いたた……こ、このわたしを吹き飛ばすなんて……妖刀虎竹刀、恐るべし……。      武器辞典に『虎竹刀』が加わりました。 ??? いまヘンな音しなかった? 別にしなかったけど? それよりタイガ、今回のテーマはなんなの? うむ、今回のテーマはバッドエンドについて。  いきなりだけど、『Fate』は油断イコール敗北と心得るよーに。 基本的にみんな容赦ないので、選択肢になったらセーブするのは常道よ? 士郎の日常は、赤信号だらけのスクランブルってなもんなんだから。 ええ、お兄ちゃんったら隙だらけだからねー。やっぱり、わたしが守ってあげないとダメなんだから。 ちぇすと。 いったぁーい! 師しょー、その竹刀ほんとに痛いでありまーす! もっと優しい竹刀にしてくださーい! 却下。愛情転じて殺人にいたるようなちびっ子は道場三周! きりきり走れぃ。 えー。疲れるの反対ー。 虎スタンプがほしくないのか! ちぇ。わかったわ、走ってきまーす。 さて。今回の死因は、あの最凶ちびっ子相手に逃げよう、なんて思ったコトよ? あの子にあったら、もう倒すか倒されるかだけ。  半端な選択は死を招くから気をつけなさい。 タイガー? なんか、道場の隅に猫がいるよー? 尻尾踏んで追い返しなさい。  あとわたしを虎と呼ぶな。 はーい。ヘンな猫を追い返しましたー。 よろしい。では今回はここまで。 物語はまだ始まったばかり。この山場を乗り越えたら、ようやくマスターとしての戦いが……始まる……ような……始まらない……ような……。 どっちなのよ? んー……もうちょっと、修行編、かな……?   竹刀の音が響く。  立ち会いの内容は相変わらずだ。  躍起になって攻める俺と、それを軽くいなして倍の鋭さで反撃してくるセイバー。  それをなんとか凌いで、懲りずに打ち込んであえなく敗退―――なんていう試合を繰り返している。 「は――――はぁ、はぁ、は」  足を止めて、肩で大きく呼吸をとった。  額に流れる汗を腕でぬぐって、ほう、と呼吸をとる。 「何を休んでいるのですか。昨日までのシロウなら、そこで諦めるような事はなかった筈です。さあ、早く打ち込んできてください」 「いや―――ちょっと、待った。これ以上は息が続かない。少し、休憩」 「何をらしくない事を。シロウが来ないというのでしたら、私から攻め込むだけですが。それでも構わないのですね」  む、と出来の悪い教え子を見据えるセイバー。  だが、そんな顔されたって体は満足に動かないのだ。 「……はあ。一体どうしたのですシロウ。今朝の貴方は今までとは別人のようです。  まっすぐに打ち込んでくる太刀だけは目を見張るモノがあったというのに、今朝のシロウには力強さを感じません」 「……それは自分でも判ってるんだけどな……どうも上手くいかない」    その、昨日とは状況が違いすぎて。 「体の熱がまだ取れないのですか? ですが、そんな理由で体のキレが落ちるようでは話になりません。少し頭を冷やして、気持ちを入れ替えてください」 「―――いや。そうするんだったら、まずアレをなんとかしてくれ」    くい、と壁際に立っている傍観者を指さす。 「なに? わたしに構わなくていいから、訓練を続けていいわよ?」 「………………」  遠坂はぜんぜん分かってない。  そこでぼーっと眺められていると、気になってセイバーと真剣に打ち合えないんだって事を。 「凛が気になるのですか。それこそ修行不足ですね。  ……いいでしょう。それでしたら、見学者の事など気にならないようにしてさしあげます」 「うわ、待てセイバー、こっちはまだ息が――――」 「問題はありません。そのようなものは、戦いの最中に整えるものです」  セイバーが視界から消える。 「――――!」  まずい、と〈咄嗟〉《とっさ》に竹刀で顔を守った瞬間、スパーン、とセイバーの竹刀が脳天に直撃していた。  ……そんなワケで、今朝の鍛錬は苛烈を極めた。  一度気絶させられてからは遠坂の視線は気にならなくなり、セイバーの打ち込みを防ぐことだけに没頭し、あっという間に昼になっていた次第である。 「けどアレよね、セイバーってほんとに冷静よね。  三時間も士郎と試合してて、眉一つ動かさないんだから。普段も無口だけど、戦闘時はさらに磨きがかかるっていうか。なに、もう無機質? みたいな感じ」  俺がぼてくりまわされた姿がそんなに気に入ったのか、遠坂はともかく上機嫌だ。  二人は居間で休んでいる。  俺はというと、今朝の不真面目さの罰として一人で昼飯の当番中だ。  ……ったく。  手を抜いて素麺あたりでパパーッと済ませたい。 「無機質、ですか……? そうですね、そう意識した事はありませんが、剣を握っている時は感情を止めているのかもしれません。それは試合と言えども変わりはないのでしょう」 「ふうん。なに、それって女の身で剣を持つ為の心構えってヤツ? 体格で劣っているから、心だけは負けないようにって」 「それは違います、凛。冷静であるのは戦う時の心構えですが、それは男も女も変わりのない事でしょう。  凛とて戦闘時には情を捨てる筈です。貴方はそれが出来る人ですから」 「む……言ってくれるじゃない。まあ、そりゃあ事実だけどさ。  けどセイバーのはわたしとは違うわよ、絶対。わたしは捨ててるのは甘さだけだもの。貴女ほど達観はできないわ」 「そのようですね。だから貴方は華やかなのでしょう。  戦いの中でも女性のしなやかさを保っていられる」 「なによ、嫌味? 華やかさで言ったら貴女には敵わないわ。……士郎があっちにいるから白状するけどね、わたし、初めて貴女を見た瞬間にすっごい美人だなって見とれたんだから」  ……いや。聞こえてるぞ遠坂。 「―――それは凛の思い違いでしょう。この身が華やかに見えたのなら、それは私ではなくセイバーという〈役割〉《クラス》が華やかなだけではないでしょうか」 「そんなんじゃないってば。純粋にね、同じ女として負けたって思ったんだもの。……そうでもなければあそこまでショックは受けなかったわよ」 「……ですから、それが間違いです。私は一度も自身を女性だと思った事はないし、一度も女性として扱われた事はありません。  その私が、華やかである筈がない」  セイバーのそんな言葉で、二人の会話は途切れてしまった。 「――――――――」  包丁を振るいながら、セイバーの言い分に苛立ちを覚えた。 「……前から思ってたけど、自分のコトをなんだと思ってんだろうな、あいつ」  ダン! と大げさに包丁を振るって鶏肉を捌く。  なんか、無性に腹が立ってきた。            ―――私は、自分を女性だと思った事はありません。 「―――ふん。まあ、俺には関係のない話だけどっ……!」    ダンダン! とまな板に包丁を突き立てる。  が、そんな事をしても腹の虫は一向に収まってはくれなかった。 「今日の課題はそれね。  昨日より数は増やしたし、そっちの体も落ち着いてるみたいだから、今度こそ成功するでしょ」  どうやってうちまで持ってきたのか、遠坂は四十個ばかりのランプを持ち出してきた。 「わたしはちょっと外に出てるわ。しばらくたったら戻ってくるから、それまでに終わらせておきなさい」    それじゃあね、と遠坂は部屋から出ていく。 「――――はあ」    さて。  昨夜が昨夜だったし、今度はせめて一、二個は成功させなくてはなるまい。 「…………ふう。とりあえず、半分済んだか」    一時間かけて二十個ばかりのランプに“強化”を試みた。  その半数は割れ、半分は変化なし。  それでも、変化しなかったうちの五つのランプにはうまく魔力が通っていた。あとは残った二十個にチャレンジするだけなのだが――― 「……待てよ。五つもあればテストとしては十分なんじゃないか?」  なんか全部が全部、年代物のランプっぽいし。  これ以上いたずらに破壊してしまうのも遠坂に悪いだろうし。 「…………む」    そうだな、こうなったら―――      ―――遠坂を呼びに行こう。    いくらなんでもこれ以上ランプを破壊する訳にはいかない。  ……いや、すでに四十個壊した未熟者の言い分ではないとは思うのだが。 「おーい、遠坂―」    声をかけども返事はなし。  ……おかしいな、家の中にはいないのか。  あと遠坂が寄りつきそうな所と言えば――― 「……土蔵の中に誰かいる」  どうやら遠坂とセイバーが、中で話をしているようだ。   「おい、遠さ――――」    そう声をかけようと手をあげた時。  ぞわり、と背筋に悪寒が走った。  ……それは土蔵から漏れてきた、敵意に満ちた遠坂の魔力の波だったと思う。 「っ――――」  呼びかけた声が止まる。  ……ここからでも判るほど、遠坂は苛立っているようだった。  二人の話し声だけが耳に入ってくる。  知らず、二人の話を盗み聞きするような立場になっていた。 「――――何者よ、アイツ」    怒りとも、畏れとも取れない、遠坂の呟き。  セイバーは無言で遠坂の背後に立っている。 「信じられない。セイバー、貴女この事に気が付いてたわね……?」 「……いえ、私には判らなかった。私は騎士であって魔術師ではない。ここには違和感があっただけで、凛ほど状況を把握している訳ではありません」 「―――そう。なら教えてあげる。アイツは魔術師なんかじゃないわ」 「……凛。それはどういう意味でしょうか」 「言葉通りの意味よ。  魔術っていうのはね、結局は等価交換なの。どんな神秘だって、余所にあるものを此処に持ってきて使っているだけ」 「……けどコレは違う。アイツは何処にもないモノを此処に持ってきてしまっている。此処には在ってはならないモノをカタチにしている。  それは現実を侵食する想念に他ならない。  アイツの魔術は、きっと、ある魔術が劣化しただけのモノなんだわ」 「…………」    遠坂が何を言っていたのかは判らない。  だが、今のは俺が聞いてはいけない話だ。  ……土蔵から離れる。  遠坂に嘘をつく事になるが、今は部屋に戻って遠坂の帰りを待っていたフリをするべきだろう――――    いや、大人しく待っていよう。  遠坂も何か考えがあって外出したんだろうし、俺は俺に与えられた役割をこなさなければ。 「……だよな。昨日の失敗もあるし、今日は出来るだけ多く成功させとかないと」    気合を入れなおしてランプに向かう。  残るは二十個、遠坂が帰ってくるまでに片付けてしまおう。  二時になった。  遠坂が戻ってくる気配はなく、与えられた課題をせっせとこなす。 「あれ、電話だ」  遠くで電話が鳴っている。 「……居間か。遠坂は―――って、うちの電話なんだから出るワケにはいかないよな」  大した電話ではないと思うが、知らないフリもできない。  床から腰をあげて、居間へ電話を取りに行く。  居間には誰もいなかった。  セイバーと遠坂は庭の方にでもいるのだろうか。 「はい、衛宮ですが」   『よう衛宮。今日も休んでいるようだけど、体の調子が悪いのかい?』    とたん。  くぐもった笑いが混ざった、慎二の声が聞こえてきた。 「慎二か? 何か用か、話す事なんて、お互いないと思うが」 『なんだよ、つれないな。こっちは衛宮に一つ教えてやろうと思って電話をしたのに』 「……俺に教える……?」 『ああ。どうしても話しておきたい事があったんだけど、おまえ学校に来ないじゃないか。  これ以上長引くのもなんだし、もう我慢できないから連絡を入れたんだ。……それで、そっちに遠坂はいるのか?』  ……慎二の口調は、どこかおかしい。  声だけではなんとも言えないが、ひどく興奮しているような、それとも切迫しているような、そんな声だ。  受話器の向こうから生徒の声が聞こえるところを見ると、まだ学校に居るらしい。  時刻は二時過ぎ。五時限目が終わって、ちょうど休憩時間というところか。 『おい、訊いてるんだよ衛宮。遠坂はそこにいるの、いないの?』 「……今はいない。少し席を外している」 『そうか、ちょうどいい。二人だけで話がしたかったんだ。―――いいコト教えてやるからさ、今から学校に来いよ衛宮。もちろん遠坂には内緒でね』 「―――――――」  答えに窮する。  慎二の様子はどこかおかしいし、なにより話なら今している。  わざわざ学校まで足を運ぶ必要はないし、遠坂に黙って行動するのは遠坂を裏切る事にもなる。 「―――いや、悪いが学校には行けない。用があるなら来週まで待てよ。休み明けには登校するから」 『……はあ? なに勝手なコト言ってんだよおまえ。  それじゃ遅いんだよ、我慢できないって言ったじゃないか、今……!』  怒鳴る慎二。  興奮しているのか、受話器ごしでも荒い息づかいが聞こえてくる。 『……ふん。少しは考えてるじゃないか。そうだよね、さすがに今更一人でやってくるワケがないか。どう見ても怪しいもんなあこの電話。衛宮でもヤバイって感じたワケだ』  一転しておかしげに笑う。 「ちょっと待て。落ち着け、おまえヘンだぞ慎二。何があったか知らないが――――」 『あはははは! ウソをつくなよ衛宮、遠坂の事だ、おまえに全部話したんだろ? いいよ隠さなくて。そうだよね、衛宮はセイバーのマスターだもの。僕よりずっとずっと、いっぱしな人殺しってワケだ……!』  慎二はあくまで楽しげだ。  ……こいつとは五年の付き合いになるが、ここまでハイな様子はお目にかかったコトがない。 「慎二、おまえ」 『いいから学校で待ってるよ。急げよ衛宮。今からなら六時限目には間に合う。ちょうど藤村の授業だし、遅刻しても問題ないだろ』 「いや、いくら藤ねえでも遅刻したら怒るぞ。それに六時限目だけ出るなんて、欠席するより文句を言われそうだが」 『そんなのは自業自得じゃないか。ああ、それと遠坂にバラしたら本当に絶交するからな。今まで桜のコトは目を瞑ってやってたんだ。最後ぐらいは、友人として義理を果たしてもいいだろ?』  話はそれで終わった。  受話器は味気のない電子音を繰り返している。 「――――なんだ、あいつ」    ……だがどうしたものか。  さっきまで家にいた筈の遠坂は見当たらないし、学校に行くのならセイバーを連れて行く事もできない。  かといって、慎二の誘いを断ったらあいつが何をするか不安ではある。  昨日、遠坂にこっぴどく断られて落ち着きがないようだし、放っておいたらまた桜に手をあげかねない。 「……そうだな。まだ明るいし、問題ないだろ」    そうと決まれば急ごう。  走っていけば六時限目には間に合うだろう。  校門に人影はない。  授業中という事もあって、外から見れば学校は無人ともとれる。  体育の授業もないのか、校庭にも生徒の姿は見られない。  まあ、それもあと数十分もすれば一変する。  六時限目が終われば放課後だ。  校庭も校門も、生徒たちの姿ですぐに賑わう事になるだろう。  三階にあがる。  当然のように廊下も無人だ。  教室はみんな授業中で、この中をC組まで歩いていくのは気まずいものがある。 「……ま、丸見えって訳でもなし、さっさと教室に行くか」  C組は廊下の先。  ここが階段脇のH組だから、実に五クラス分歩かなくてはいけない事になるのだが―――― 「え――――?」    その目眩は、唐突に。  吐き気をともなって、全身を打ちのめした。 「は――――ぐ」    胃が〈蠕動〉《ぜんどう》する。  感覚が〈逆〉《さか》しまになる。  視界は赤く。  眼球に血が染み込んだかの如く、見るもの全てが赤色に反転した。 「は――――あ、ぐ―――………………!!」  気温は何も変わっていないのに、体だけが異様に熱い。 「っ――――なんだ、これ――――!?」  足がもつれる。  体に力が入らない。  砂時計のように、止める手段もなく衰弱していく。 「く―――、っ…………!」    息苦しい。  喉が痛い。  廊下、いや、校舎中の酸素がなくなったとでもいうのか。  あえぐ肺に促されるように、無意識に壁までもたれかかって窓を開けた。 「な――――」    意識が凍る。  あまりの事態に混乱さえ消えた。  ――――窓の外。    校舎のまわりは、一面の赤だった。  この学校だけがポッカリと切り取られたように、赤い世界に覆われている。    校舎は、赤い天蓋に仕舞われた祭壇だった。  それで、ようやく。  これが“そういうもの”だと受け入れた。 「――――!」  窓から離れる。  ふらつく足を、理性だけで抑えつけて目の前の教室に入る。  それが、結果だった。  机に座っている生徒は一人もいない。  生徒はみな床に倒れ、教壇にいたであろう教師も床に伏している。  ―――まだ息はある。    誰もが救いを求めるように痙攣している。  まだ死者はいない。  彼らは立ち上がれず、このまま朽ち果てていくだけの話。  その、無惨に倒れ込んだ彼らの有様を、    いつかの残骸に、重ねてしまった。 「あ――――ぐ――――」    吐き気が強くなる。  それでも、冷静に対応した。  倒れている生徒たちを観察する。  息が苦しい、といっても呼吸ができない訳じゃない。  体が衰弱しているだけなら、急げばまだ助けられる。    そうして身近な生徒の顔を確認した矢先、カチン、と頭の奥で音が鳴った。 「―――肌、が」    蝋みたいに、かたい。  全員という訳ではない。  個人差があるのだろう。衰弱が激しい生徒は、すっかり血の気を失い、指の関節から凝固しはじめていた。            てらてらと。  蝋細工みたいな腕と、光のない眼。 「――――――――」    知っている。  こういう光景は知っている。 「――――――――やめろ」    これはただの地獄絵図だ。  そんなものは昔から知っている。 「――――――――だから、やめろ」    故に、恐れの前に。  怒りだけが、この体を支配した。 「っ……!」  左腕が疼く。  手の甲に刻まれた令呪が、すぐ近くに“敵”がいるのだと知らせてくる。 「は、あ…………!」  乱れた呼吸のまま走った。  頭は、とっくに正気じゃなかった。 「いよう衛宮。思ったより元気そうで何よりだ。  どう、気に入ったかいこの趣向は」    廊下の先。  C組の教室の前に、間桐慎二は立っていた。  腕が疼く。  あそこで立っている男が元凶だと、令呪が訴えかけてくる。 「――――これはおまえの仕業か、慎二」    満足に呼吸もできず、立ち止まって離れた慎二を睨んだ。  ……その様がよほど気に入ったのか。  慎二は大げさに両手を広げて、赤い廊下で笑い声をあげた。 「そうだとも。おまえがやってきたのが判ったんでね、すぐに結界を発動させたんだ。タイミングには苦労したんだぜ? なにしろあんまり早すぎると逃げられるし、遅すぎると顔を合わせるからさ。  僕としちゃあ衛宮が顔面蒼白になるのを見たかったワケだし、単純に事を起こすのだけは避けたかったんだ」 「―――そうか。話があるっていうのは、嘘か」 「話? 話はこれからさ。僕とオマエ、どちらが優れているか遠坂に思い知らせないといけないし、衛宮には嘘の謝罪をしないといけないからね。  ほら。衛宮には黙ってたけど、学校に結界を敷いたのは僕なんだ」  あははは、とおかしそうに慎二は笑う。 「――――――――」  それで。  こっちも、心底思い知らされた。 「あれ? 思ったより驚かないな。なんだ、この結界は僕じゃないって言ったのに、衛宮は信じてくれてなかったんだ。……あは、いいねいいね、おまえでも人を信じないなんてコトがあったワケだ!」    楽しげに笑う声が、〈錐〉《きり》になって〈頭蓋〉《ずがい》を刺す。 「――――――――」    言っておくが、十分に驚いている。  俺はただ、結界を張っているマスターは慎二かもう一人のどちらかだろう、と覚悟していただけだ。    ただそれだけ。  その甘い希望がこの結果だ。  あの時―――慎二がマスターと判った時点で、話を付けるべきだった。    だからこれは、俺の犯した間違いだ。 「……慎二、なんでこんなモノを仕掛けた。戦う気がないって言ったのも嘘だったのか」 「いいやあ、それは本当なんじゃない? 僕だってこんなモノを発動させる気はなかったんだ。コレはあくまで交渉材料だったんだよ。  爆弾をしかけておけば遠坂だっておいそれと僕を襲わなくなるし、万が一の切り札にもなるからね」 「……そうか。だが結界の発動にはまだ数日必要だと遠坂は言ってた。それはあいつの読み違いか?」 「ふん、遠坂らしい意見だ。けどさ、結界は完成していないだけでカタチはとっくに出来ているんだぜ? 単純に発動させる分には支障はないんだ。  ま、おかげで効果は薄いけどね。この分じゃ一人殺すのにあと数分はかかるんじゃないかな」 「―――――〈止〉《と》めろ」  吐き気はとうに収まっている。  はっきりと慎二を見据えて、それだけを口にした。 「止めろ? 何をだい? まさかこの結界を止めろ、だなんて言ってるんじゃないだろうな? 一度起こしたものを止めるなんて、そんな勿体ないコトできないな、僕は」 「止めろ。おまえ、自分が何をしているか分かってるのか」 「……苛つくな。おまえ、なに僕に命令してるわけ?  だいたいさ、これは僕の力じゃないか。止めるかどうかを決められるのは僕だけだし、止めてほしかったら土下座ぐらいするのが筋ってもんじゃないの? まったく藤村といいおまえといい、自分の立場が判ってないな」 「―――おい。藤ねえが、どうしたって」 「え? ああ、藤村ね。この結界が出来てからさ、あいつ結構動けたんだよ。他の連中がバタバタ倒れてるっていうのに、一人でよろよろしてるんだぜ?  でさ、倒れずにいた僕のところまでやってきて、救急車を呼んでとか言ってきたんだ。すごいよね、教育者の鑑ってヤツ?」 「けどそんな物呼ぶワケにはいかないし、呼ぶ気もないじゃない。藤村のヤツ、それでもしがみついてくるもんだからうざくなってさ、蹴り飛ばしてやったらピクリとも動かねえでやんの!  ははは、あの分じゃまっさきに死んだんじゃねえのアイツ!」 「――――――――」    完全に切り替わった。  遠坂は頭の中のスイッチを押すだなんて言っていたが、そんなモンじゃない。  ガギン、と。  頭の中で撃鉄が落ちて、完全に、体の中身が入れ替わった。 「――――最後だ。結界を止めろ、慎二」 「分からないヤツだね。おまえに頼まれれば頼まれるほど止めたくなんてなくなる。そんなに気にくわないんなら力ずくでやってみろよ、衛宮」 「―――そうか。なら、話は簡単だ」    つまり。  この結界を止める前に、おまえ自身を止めてやる。    体が弾けた。  体は火のように熱い。  慎二までの距離は二十メートルもない。  今の自分ならそれこそ一瞬だ。  体には、魔術回路を通した時とは比較にならない程の活力が〈漲〉《みなぎ》っている―――― 「ハッ、本当にバカだねおまえ――――!」    影が蠢く。  廊下の隅に沈殿していた影が、カタチをもって蠢き出す。  黒一色で出来た刃。  慎二へと近づく物を斬り伏せる、断頭台のような物。 「――――――――」    それがどんな魔術によるものかは知らない。  沸き立った影の数は三つ。  その程度なら――――      ――――止まる必要などない。  それがどのような威力を持っていようとも、当たらなければ意味がない。  ブン、と風を切って迫ってくる三つの刃。   「――――、バカはおまえだ慎二……!」    そんな物、セイバーの一撃に比べれば簡単に〈躱〉《かわ》しきれる―――! 「な……!?」    折り重なる三つの影の隙間を抜ける。  今の影には、なんら驚異は感じなかった。  なら問題はない。  直感的に死を予感させる物でなければ躊躇うな、とセイバーは教えてくれた。    ―――俺では防げない。    いや、躱すだけならなんとかなる。  だが確実に〈躱〉《かわ》し、かつ慎二に飛びかかるとしたら、うまく体が動いてくれるか分からない――――  迫り来る三つの刃。   「っ、ふ……!」    足を止め、慎二を見据えたまま、身を躱す事だけに専念する。  腹を刺そうと跳ね上がる一刃を左ステップで躱す。  ついで二刃、避けた左方向から回り込んで胸を狙う一撃に上体を逸らし、無防備なこめかみに伸び上がる三刃を、前に走りこむ事でやり過ごす……! 「――――問題ない、ちゃんと見えてる……!」    こんな物、セイバーの一撃に比べればドッジボールのようなものだ。 「チ……! この、生意気なんだよおまえ……!」    再度放たれる三つの影。    ―――今度は様子を見るまでもない。  一度目で速度と間合いは読めた、これなら問題なく回避できる――――!  折り重なる三つの影の隙間を抜ける。  危なげなものなど何処にもない。  今の影にはなんら驚異は感じなかった。  直感的に死を危惧させる物でなければ躊躇うな、とセイバーは教えてくれた。 「慎二――――!」    踏み込む。  慎二を守る影はない。  あと数歩、三メートルも踏み込めばそれで――― 「っ、やめろ、来るな……!」  逃げる慎二。  その背中に腕を伸ばした刹那。   「――――!」    全身に悪寒を感じて、〈咄嗟〉《とっさ》に腕を引っ込めた。    空を切る軌跡。  さっきまで俺がいた空間を断つ、黒い刃物。 「っ……!」  足が止まる。  何処から現れたのか、目の前には、  この毒々しい赤色さえ薄れるほど、禍々しい黒色の女性がいた。 「あ――――」  理性が恐れで停止した。  殺される。  考えたくないのに、無惨に殺されている自分の姿が脳裏に浮かぶ。    ―――それは。  先ほどの影なんて比較にもならないほど、明確な死の気配だった。 「い、いいぞライダー……! 遠慮するな、そいつはおまえの好きにしていい……!」  ライダーの姿が霞む。  俺は――――      ―――サーヴァント相手に勝ち目などない。    戦えば必ず殺される。  なら、その前に慎二を倒してライダーを撤退させるだけだ……! 「ハ…………!」    ライダーの威圧に臆する事なく廊下を蹴った。  慎二まではたった六メートル。  目前のライダーを一度でもやり過ごせれば、後は駆け寄って慎二を捉える事ができる……!  立ち塞がる黒いサーヴァント。  その一挙一動、あらゆる攻撃に対処できるよう神経を研ぎ澄ます。    ―――狙いは左側。  僅かに反応した拳は左。その初撃をなんとか躱して、壁とライダーの隙間を抜けて慎二へと走りぬける。    その姿が、掻き消えた。 「――――、え……?」    隙間を抜けるも何もない。  ライダーの姿は一瞬で視界から消え、目の前には、あまりにも容易く開けた路がある。  ――――まずい。    足を止めろ。  間違えた、アレほどセイバーが教えてくれたのに俺は解っていなかった。  前進など出来ない、  ライダーと対峙してはいけない、  たとえ一撃だけでも、躱す事を前提にした作戦など練ってはいけなかった……!    衝撃は背後から。  蜘蛛のように天井に張り付いたライダーは、三日月めいた軌跡を描いて、俺の延髄を串刺しにした。 「ひゅ――――、ぶ」    首から空気が漏れていく。  ライダーの腕のしなりは、本当にキレイだった。  水仙を愛でるような優雅さ。  水面に波紋一つ立てないような指の動きで、あっけなく、俺の命を摘み取ったのだ。 「ふん、手慣れたもんだね。  後ろから一突きなんて、まるで標本だ」 「加減はしてあります。この段階なら、治療を施せばまだ助かると思いますが」 「……おまえ、なに勝手に仕切ってんだよ。手加減しろなんて誰が言った? ……ったく。サーヴァントのクセに、ご主人様に意見なんかしてんじゃない」    ―――血が流れる。    どんなに肺を動かしても空気は吸えず、喉はヒューヒューと震えるだけ。 「では、この少年を助ける気はないのですね」 「ないさ。だいたい僕は治療魔術なんて使えない。そいつはもう死ぬだけなんだから、いい加減楽にしてやれよライダー」 「――――了解しました。私の結界で蝕むのではなく、直接喉を〈潤〉《うるお》すとしましょう」    じゃらり、と重い鎖の音が響いた。  ……体が少しだけ持ち上げられる。   「………………、あ」    ……血まみれの首に向けられる視線。  黒いサーヴァントはあくまで上品に唇を開き、  口付けるように、俺の首筋に歯を立てた。        ――――血が吸われていく。  ただでさえ少ない血が、一滴残らずライダーに奪われる。   「――――――――」    意識が遠退く。  ……吸血は安楽死に似ていた。  俺は痛みを感じる事なく、ゆっくりと、蜘蛛の毒に溶かされるように―――― 「っ――――!」    〈咄嗟〉《とっさ》に後退する。  今はまずい。  まずは態勢を立て直して、その後に結界を止めさせなければ―――― 「がっ……!?」  何が起きたのかさえ理解できず、ただ必死に後退する。 「は、あ、あ…………!」  恐怖で、目の前が真っ白になる。  何を恐れているのかさえ判らない。  それでも、判らないまま必死に腕をあげて、首筋だけを庇いきった。 「ずっ……!」    腕に刃物が突き刺さる。  骨を削るギチ、という鈍い音が、次は殺すと告げていた。 「は、く――――っ!」    逃げる。  背中を向ける余裕もない。  両手で急所だけを庇って、必死に後ろへ後ろへと逃げていく。 「ひ―――ぎ…………!!!!!」  ギチ。ギチギチギチギチ。  耳障りな音をたてて、刃物が体中を斬り裂いていく。  視界は、自分の体から巻き起こる血煙で塞がれていた。  その合間に。    視認さえ出来ぬ速さで迫る、ライダーの姿があった。 「ぎっ…………!」    斬りつけられる度に、自分とは思えない声がこぼれる。  それでも懸命に、何十回と死に至る一撃から命を拾って、必死に後ろへと逃げ続けた。 「は――――はあ、はあ、あ――――!」    自分が何をしているのか判らない。  ライダーの短剣を受けているのは俺の腕だ。  服はやぶれ、肉はとうにズタズタになっている。  それでも盾にはなるのか、首、眉間、心臓へと放たれる一撃を必死に受ける。  そこに自分の意志などありえない。  体は死にたくない一心で、必死にライダーの一撃に反応する。 「あ――――あ、は――――」    とうに息はあがっている。  目の前に迫る死の気配に急かされ、走っているだけのモノにすぎない。  いずれ力尽き、追いつかれて死ぬだけだ。 「ぐ――――あ、っ――――!」    だから彼女は言っていたのに。  サーヴァントと戦うな。衛宮士郎では戦闘にすらならないと。  それを聞いていながら、なぜ――――こんな事をしているのか俺は。今は一刻も早く慎二を捕まえて、このくそったれな結界を解かせなくちゃいけないっていうのに、なにを――――! 「なにしてるんだライダー。  もういいだろ、さっさと斬り殺しちゃえよ。どうせ何もできないんだからさ、そいつは」    勝ち誇った慎二の声。  それに頷いて、ライダーは一際大きく短剣を振り上げた。    ―――確実に脳天を狙った一撃。    避ける事などできない。  俺にできる精一杯の事は、せめて急所を外す程度だ。 「っ…………!」    肩口―――鎖骨の下に、短剣が突き刺さる。  一際高い金属音と、チィ、という舌打ち。   「え……?」    なんだ……? ライダーの短剣の先が、ボロボロと刃こぼれしている――― 「……驚いた。私の刃物では殺せない」  ライダーの動きが止まる。  その、ただ一つ生じた隙をどう生かすかと思考した刹那。   「――――なら、落ちて死になさい」    ハンマーで叩かれたような衝撃を受けて、窓から外にたたき出された。 「が――――」  腹に一撃、回し蹴りを食らっただけ。  それだけで体は大きく弾けて、窓を突き破って空中へと投げ出された。  地上三階。  もう放っておいても出血多量で死ぬだろうに、この高さからたたき落とされたらトドメになる。  否、すでに人間を数十メートル吹っ飛ばす一撃を受けた時点で、通常なら死に至ろう。   「ぁ――――あ」    腕を伸ばす。  まだ落下していないのか、それとも死の間際の錯覚なのか。  体は、未だ空に留まっている。 「ぁ――――なん、て」  何かにすがるように、懸命に腕を伸ばす。  空は赤く。  校舎はどくどくと脈打ち、生き物の胃のようだ。    ―――それを。    それを見過ごしたまま、このまま死ぬのか。    このまま。  このまま。  このまま。  このまま――――誰一人救えず、自分勝手に死ぬっていうのか――――! 「なん、て――――」    悔しさに歯を噛んだ。  勝てない。戦いにすらならない。それを、判っていた筈なのに間違えた。    体中の痛みなんて知らない。  ただ、怒りで内側からバラけそうなだけ。    ―――自分一人で出来ると。    セイバーには戦わせないといった結果が、コレだった。 「っ――――」    俺が馬鹿だった。  俺一人では誰も救えない。  本当にこの戦いを終わらせるのなら、初めからやるべきコトは決まっていたのだ。    ヤツは言った。  誰とも争わず、誰も殺さず、誰も殺させないのか、と。  自身が間違っていたと気づいたのなら、まず何を正し、誰を罰するかを決すべきだと。    ―――そして。    天を掴むように伸ばした俺の腕には、下すべき命を待つ令呪がある―――   「―――――来てくれ」    祈るように呟く。  俺の命なんてどうでもいい。  ただ、今はこの凶行を止める為に、   「いや―――来い、セイバァァァアアア!!!!」    渾身の力を込めて、自らの剣を呼んだ。    令呪が消えていく。  同時に出現する、空間のうねり。    文字通り、それは魔法だったのだろう。  空間に現れた波紋をぶち破るように、銀の甲冑に身を包んだセイバーが飛び出してきたのだから。 「がは…………!」  背中から地面に落ちた。 「あ――――は、あ―――…………!」  呼吸が止まる。  落下の衝撃でのきなみ内臓がイカレてしまう。  〈肋〉《あばら》の数本は折れたか、いいとこ〈罅〉《ひび》が入っただろう。 「あ――――っ――――」  それでも。  俺の体はちぎれる事はなく、血まみれだった両腕も、いまだもげずにくっついていた。 「シロウ……!」  ……セイバーが駆け寄ってくる。  感覚のない手足に鞭をうって、なんとか立ち上がり、無事だと見せる為に胸を張った。 「説明している暇はない。状況は判るなセイバー」 「待ってくださいシロウ。それは判りますが、その前に貴方の体を――――」 「ライダーを頼む。アイツは、おまえでしか倒せない」 「いけません、シロウの治療が先です。このままでは貴方が死ぬ」 「―――それは違う。先にやるべき事があるだろう」  俺の事なんかより、今は一秒でも早くライダーと慎二を倒す。  それ以外に優先すべき事なんてない。 「ですが、それでは」  セイバーはあくまでこちらの身を案じている。  ……嬉しくないと言えば嘘になる。  だが口論している暇はない。  セイバーが嫌がるのなら、二つ目の令呪を使うだけだ。 「っ…………」  こちらの決意が伝わったのか。  セイバーは仕方なげに言葉を飲んでくれた。 「判りました。マスター、指示を」 「ライダーを倒せ。俺は慎二を叩く」  そうなればセイバーに躊躇いなどない。  彼女は無言で頷き、そのまま、突風のように校舎へと走り出した。   「――――セイ、バー」    助けを求める。  空と地上の狭間、時が止まったかのような思考の海で、左手の刻印に望みをかける。    ―――落下まであと一秒。  常識の秤では逃れられぬ死を、あいつなら、必ず覆してくれると信じ、   「っ―――頼む、来てくれセイバー……!」    渾身の力を込めて、自らの剣を呼んだ。  令呪が消えていく。  同時に出現する、空間のうねり。    文字通り、それは魔法だったのだろう。  空間に現れた波紋をぶち破るように、銀の甲冑に身を包んだセイバーが飛び出してきたのだから。 「マスター――――!?」  銀の甲冑が駆け抜ける。  突如校庭に現れたセイバーは、この事態に驚くより早く落下する俺を認め、 「っ、ふ……!」  地面に叩き付けられる直前で、俺の体を受け止めてくれた。 「ぁ……ぐ……すまんセイバー、助かっ、た」  血まみれのまま、なんとか地面に降りる。  落下を免れたとは言え、ライダーに切り刻まれた体はとっくに限界を迎えている。 「は――――、あ―――、っ……!」  だが倒れてなどいられない。  感覚のない手足に鞭をうって、無事と見せる為に胸を張った。 「―――説明している暇はない。状況は判るなセイバー」 「待ってくださいシロウ。それは判りますが、その前に貴方の体を――――」 「ライダーを頼む。アイツは、おまえでしか倒せない」 「いけません、シロウの治療が先です。このままでは貴方が死ぬ」 「―――それは違う。先にやるべき事があるだろう」  俺の事なんかより、今は一秒でも早くライダーと慎二を倒す。  それ以外に優先すべき事なんてない。 「ですが、それでは」  セイバーはあくまでこちらの身を案じている。  ……嬉しくないと言えば嘘になる。  だが口論している暇はない。  セイバーが嫌がるのなら、二つ目の令呪を使うだけだ。 「っ…………」  こちらの決意が伝わったのか。  セイバーは仕方なげに言葉を飲んでくれた。 「判りました。マスター、指示を」 「ライダーを倒せ。俺は慎二を叩く」  そうなればセイバーに躊躇いなどない。  彼女は無言で頷き、そのまま、突風のように校舎へと走り出した。    ―――ダメだ、ここで令呪は使えない。  そう、一瞬だけ心が躊躇した。  マスターとして未熟な自分にとって、令呪は三回しか使えない切り札だ。  それを考えなしに使う訳にはいかない、と冷静に思考した直後。 「―――――――?」    背中から落ちた。  三階から蹴り落とされ、地面に落下した。  ―――致命傷か、と言えば致命傷になるだろう。  受身を取って頭からぶつかるのは避けたが、全身の骨が砕けてもおかしくはなかった筈だ。 「――――なん、で?」    血が流れている。  だがそれは胸からだ。  背中はまったくの無傷で、俺の体は落下の衝撃に耐え切ったはずなのに、どうして、      空を仰いだ胸から、                   こんな、                    奇怪なモノが飛び出しているのか。 「ハ――――、ず」    胸が展開している。  剣の刃らしきものが、胸の中から外に向けて咲いている。  まるで体内に爆弾がしかけられていて、落下の衝撃でスイッチが入ってしまった感じ。   「セ――――セイ、バー――――」    説明がつかない。  風穴の開いた胸。  ささくれだったアバラ骨のように、俺の〈腹〉《なか》から突き出した剣の群。  それを呆然と見つめながら、体は少しずつ溶けていく。   「ぁ―――、あ。早く、止め、なく、ちゃ――――」    体が動かない。  バーサーカーの一撃さえ治癒してくれた奇跡は、この剣の群には効果を成さないようだ。    思考が切り裂かれていく。  令呪を使おうにも、既にそこに何があるかも判らなくなっていた。 「……………………」    一度だけ、大きく呼吸をする。  吸い込んだ空気は痛く。  逆流した血を吐いて、鉛の心臓は停止した。  ―――階段を駆け上がる。    ライダーと慎二がいるのは三階だ。  慎二が三階に留まっているのは令呪の反応で判る。  三階の廊下にあがった瞬間、火花が散った。   「ライダーか……!?」    俺には見えなかったが、セイバーは頭上から奇襲してきたライダーを捉え、その攻撃を弾き返したようだ。 「―――シロウ、ライダーはここで倒します。  貴方はライダーのマスターを……!」  言われるまでもない。  セイバーならライダーに後れを取る事はない。  それはライダーと戦って、彼女の力量を僅かでも感じ取った故の確信だ。  セイバーの戦闘能力は、ライダーのそれを大きく上回っている。 「任せた……! だが深追いはするな、慎二を止めればそれで終わる……!」    セイバーの脇をすり抜けて走る。  すかさず俺を仕留めにくるライダーの短剣と、それをライダーごと弾き返すセイバーの一撃―――!  廊下を走る。  視線の先にはうろたえる慎二の姿。   「……さすがに手ぶらじゃ不利か――――!」    武器になるとしたら長柄のモノ、例えば―――このロッカーに入っているモップぐらい……! 「――――〈同調〉《トレース》、〈開始〉《オン》」    走りながら魔力を通す。  雑念が無い為か、それとも余分な事をするだけの体力がないのか。  まるで息をするような自然さで、プラスチック製のモップを“強化”する――――  影が沸き立つ。  あれほど傷つけられたというのに、体に鈍さは感じない。  加えて、今は武器すらある。  ならば。  もはや躱す必要さえない。  襲いかかってきた影をすべてモップで叩き斬る。  モップはそれで折れたが、急造の武器では仕方ないだろう。  それに、ここまでくればそんな物も必要ない―――! 「慎二――――!」 「ひ――――!」  真っ正面から殴りつけた。  ズタズタに裂かれた腕は、それだけで失神しかねない痛みを生んだ。  慎二の腹を殴って、そのまま壁に押しつける。 「く、この……!」  俺の腕を振り解こうと手を伸ばす慎二。  その腕を、ノータイムで蹴り飛ばした。  ―――自分でも、自分がコントロールできない。  蹴った腕を壁に押しつけ、そのまま折った。 「あ―――つあ、いああああああ……!!」  慎二の悲鳴もよく聞こえない。 「――――っ、――――」  ……まずい。  気を抜けばこっちが意識を失いそうだ。  まだ手足が動くうちに、早く―――― 「ひっ……!」  慎二の髪をつかみ、そのまま壁に押しつける。 「―――悲鳴は後だ。いますぐ結界を止めろ、慎二」 「ふ―――ふざ、ふざけるな、誰がおまえなんか、の」  まだ動く腕で慎二の喉を掴む。  ぽたり、と。  服に染み込んだ血が、慎二の体を汚していく。 「なら結界の前におまえの息の根を止めるだけだ。どっちでもいいぞ、俺は。早く決めろ」    喉を握った腕に力を込める。  ―――体内に巡った魔力のおかげだろう。  この程度の首なら、なんとか折るぐらいは出来そうだ。 「は―――デタラメだ。おまえにそんなコトできるもんか。そ、それに僕はまだ誰も殺してないぞ。ただみんなから少しだけ命を分けてもらっただけ――――」 「―――わかった。じゃあな、慎二」  腕に力を込める。  躊躇いはしない。  だが、わずかだけ同情があった。  相手が同じ魔術師なら、殺す事に抵抗なんてないのだと―――そんな魔術師の初歩さえ、慎二は教われなかったのだから。 「ま――――待て! 待ってくれ、わかった、僕の負けだ衛宮……! 結界はすぐに止める、止めるから……!」 「………………」  喉に込めた力を緩める。 「っ―――はぁ、はぁ、はぁ……くそ、ばか力出しやがって。……おいライダー! ブラッドフォートを止めろ!  マスターの命が危ないんだぞ……!」 「――――――――」  ライダーからの返事はない。  ただ、今の言葉でセイバーはライダーから一歩引いている。  ライダーは短剣を下げ、かすかに唇を動かす。 「……これでいいんだろう。この結界は特殊らしくてね、一度張った場所にはそう簡単に張り直せないらしい。  ……もうここに結界を張る事はないんだから、その手を離せよ」 「そうはいくか。勝った以上はこっちの言い分に従ってもらう。―――慎二、令呪を捨てろ。そうすれば二度と争う事もない」 「な―――ふざけるな、そんな真似ができるもんか!  令呪がなくなったらライダーを従えられない。そうなったら、僕は―――」 「マスターでなくなるんだろ。なら新都の教会に行けばいい。戦いから下りたマスターを保護してくれるそうだからな。  ……それともなにか。身を守る為に結界を張ったっていうのは嘘か?」 「っ……別にそんなコト言ってないだろ。僕はただ、マスターになって、サーヴァントを従えていれば」    魔術師になれる、と思ったのか。  ……けどそんなもの、なったところで何の意味があるっていうんだ。 「―――ここまでだ慎二。令呪を捨てないのなら、俺が剥ぎ取る」 「え……? 剥ぎ取る……?」  慎二は心底不思議そうに首を傾げる。  それは芝居なんかじゃなく、慎二は本当に俺の言っているコトが判らないようだった。 「いや、だから――――」 「シロウ、離れて……!」  セイバーの声。  道場でさんざん教え込まれた賜物か、セイバーの叱咤に、脳より体が先に反応した。  慎二から手を放して後ろに跳ぶ。  同時に、俺がいた場所にライダーの短剣が振るわれる。 「ラ、ライダー……!?」 「―――下がりなさいマスター。この場から離脱します」 「シロウ、下がって……! ライダーは結界維持に使っていた魔力を全て解放するつもりです……!」 「……!? 魔力を解放する……!?」  見れば、確かにライダーの様子はおかしい。  セイバーと対峙していた筈の彼女が突如ここに現れた事といい、全身から放たれる冷気といい、今までのライダーとは威圧感が段違いだ。 「ラ、ライダー……!? なに考えてんだおまえ、衛宮のサーヴァントにさえ勝てないクセに勝手なコトしてんじゃない……!」 「はい。確かに私ではセイバーに及びません。  ですがご安心を。我が宝具は他のサーヴァントを凌駕しています。たとえ相手が何者であろうと、我が疾走を妨げるコトはできない」  ライダーの短剣が上がる。 「な――――」  居合わせた者、全てが驚きで声を漏らした。  あろうことか、ライダーは自らの首筋に短剣を押し当て――――    それを、一気に切り裂いた。  ……飛び散る赤い液体。  黒い装束に身を包んだライダーの白い首筋から、血が噴き出していく。 「な――――なに、を」  マスターである慎二でさえ、ライダーの行動に息を呑んでいた。  サーヴァントが人並み外れていると言っても、アレでは致命傷だ。  ライダーは大量の血を失い、自ら消滅するだけではないのか。 「っ……!?」    まき散らされた血液は空中に留まり、ゆっくりと陣を描く。    それは、血で描かれた魔法陣だった。  見たこともない紋様。  たとえようもなく禍々しい、生き物のような図形。  ……ライダーが生み出した、強大な魔力の塊。  さきほどの結界など、この魔法陣に比べれば子供騙しとさえ思える。 「な……!? か、体が押し戻され、る――――」    あまりに強大な魔力が漏れているのか。  強い風に押されるように、体がじりじりと下がっていく。 「シロウ、離れて……! ライダーは宝具を使う気です、そこにいては巻き込まれる……!」    言って、セイバーは俺を強引に引っ張った。  彼女は俺を庇いながら、ライダーの魔法陣と対峙する。 「―――逃げるつもりかライダー。  自身のマスターをも巻き込むというのなら、ここで引導を渡すだけだ。そのような宝具を使わせはしない」 「……ふふ。まさか、マスターを守るのがサーヴァントの役割でしょう。私はマスターを連れて逃げるだけよ。  それが気にくわないのなら追ってきなさいセイバー」 「もっとも―――これを見た後でも、貴方に戦う気迫が残っていればの話ですが」    ―――鼓動が聞こえる。  ぎちり、と肉をこじ開けるような音と共に、ライダーの髪が舞い上がり―――   「っ…………!」 「シロウ、屈んで……!」  セイバーに手を引かれ、地面に倒れ込む。  轟音と閃光。  吹き荒れる烈風に目を閉じる。  だが、目を閉じていようと否応なしに感じさせられた。  通り過ぎていった白い何か。  巨大な光の矢じみたものが、とてつもないスピードで廊下を駆け抜けていったのだと―――― 「――――――――」    そこにあるのは無惨な破壊の跡だった。  慎二とライダーの姿はない。  ……今の光は俺たちを狙ったものではなく、あくまでここから離脱する為だけの物だったらしい。 「っ―――――――」    傷が痛む。  カチン、と頭の中で打ち付けられていた撃鉄が戻っていく。  体を〈奔〉《はし》らせていた熱が、急速に冷めていく。   「シロウ……?」    セイバーの問いかけも、もう聞こえない。  意識は、そのまま白い闇に落ちていった。          ……その夢を見る。  これが自分にとっての『死』のイメージなのか。  死に近づけば近づくほど、見る気のない光景が蘇る。      動かなくなり崩れて消えていく人々。  誰もが助けを求め、助けなどなかった時間。  あれは苦しかった。  苦しくて苦しくて、生きている事さえ苦しくて、いっそ消えてしまえば楽になれるとさえ思った。    朦朧とした意識で、意味もなく手を伸ばした。  助けを求めて手を伸ばしたのではない。    ただ、空が遠いなあ、と。    最期に、そんな事を思っただけ。    そうして意識は消えかけ、持ち上げた手はパタリと地面に落ちた。    ……いや。  落ちる、筈だった。    力無く沈む手を握る、大きな手。  そいつはあの火事の中、誰でもいいから誰かを助けようとやってきて、この俺を見つけたのだ。    ……その顔を覚えている。  目に涙を溜めて、生きている人間を見つけ出せたと、心の底から喜んでいる男の姿。    ―――それが、あまりにも嬉しそうだったから。    まるで、救われたのは俺ではなく、男の方ではないかと思ったほど。    そうして。  死の直前にいる自分が羨ましく思えるほど、男は何かに感謝するように、見知らぬ子供を助け出した。  ―――それが転機。    死を受け入れていた弱さは、生きたいという強さに変わった。  何も考えつかなかった心は、助かったという喜びだけで埋め尽くされた。  俺は男の手を離さないよう、出来る限りの力を込めて指を動かし、そのまま意識を失った。    その後、気が付けば病院にいて、自分を救った男の面会を受ける事になる。    それが十年前の話。  それからの衛宮士郎はただ切嗣の後を追っていた。  あいつのようになるのだとしか思えなかった。  助けられたから、という事じゃない。  あの時の顔が忘れられず、その幻影を〈被〉《かぶ》ろうとした。    そうなれる事を目標にして走ってきた。  心の何処かで、気づかないようにと夢見ていたんだ。          そう―――いつかは、自分も。  あの時の切嗣のように笑えるのなら、それはどんなに、救われるのかと希望を抱いて―――― 「――――――――」    ……目を開けると、そこは見慣れた居間だった。  時計の音が、やけにうるさい。  床に寝かされているらしく、腕をあげてみると、両腕は包帯でグルグル巻きにされていた。 「――――外、暗いな」    体を起こす。  時計は夜の十時を回っていた。 「外、暗いな―――じゃないわよ、この恩知らず。目が覚めたらまず言うべき事があるんじゃない?」 「―――遠坂。なんだ、いたのか」 「いたのか、じゃないわよ。  アンタの真横でずっと看病してやってたのに、随分な態度じゃない」    ……そうだったのか。  それは、悪い事をしてしまった。 「すまない。どうも頭が固まってる。うまく物事を考えられないんだが……とにかくありがとう、遠坂。またおまえの世話になっちまった」 「っ――――ま、まあ別に大した事じゃないからいいけど。士郎もあれだけの怪我だったんだから、意識が朦朧としてるのも当然だしさ」 「……で、痛いところはないの? とりあえず外傷は塞がってるけど、中身までは判らないから。異状があるんなら手当しないとまずいでしょ?」 「――――いや。だるいだけで、痛むところはない。  ただ、なんだか―――」  宙に浮いている感じがする。  自分がここに居る経緯が判らない。  今日一日、何をしていたのか思い出せな―――― 「――――! 遠坂、学校は!? 俺はあの後どうなったんだ……!?」 「大丈夫、みんなの事は安心なさい。学校には綺礼がフォローにいったから。  廊下の補修とか事後処理はあいつがするから考えなくていいわ。あれでも神職なんだし、これぐらいさせなきゃバチがあたるでしょ」 「―――あいつが? それじゃあ、学校の方は」 「大事にはなってないわ。病院に運び込まれた生徒は多いけど、命に別状はないみたい。みんな栄養失調って事で、二、三日病院で休む程度だって」 「――――そうか、それは」  良かった。  結界を解くのは遅くなったが、間に合わなかった訳ではなかったんだ。  安心した途端、全身から力が抜けた。  ほう、と大きく息を吐いて、壁に背中を預ける。 「……じゃあ俺の体の方も、言峰が治してくれたのか?  いくら遠坂でも、あれだけの傷は治せないだろ」 「なに言ってるのよ。それはアンタが勝手に治したの。  バーサーカーの時と一緒。とりあえず傷を塞ぐだけなら超がつくほどの回復力だけど……貴方の方には覚えはないのよね?」 「あるわけないだろ。俺だって訳が判らないんだ。セイバーと契約するまでは、普通の体だったよ」 「……ふーん。もしかして自分が知らないだけで、祖先がトカゲだったとかない?」 「…………あのな。真剣な顔でそういう怖い冗談は言わないでくれ。俺だって気持ち悪いんだぞ。自分の体が、自分の知らない物になってるようなものなんだから」 「いいんじゃない? 何はどうあれ、それで何度も命を長らえてるんだから。  もう二回も助けられた事だし、トカゲになるぐらいは妥協できる交換条件だと思うけど?」 「……遠坂。重病人をいじめて楽しいのか」 「さっきまで重病人だった人、でしょ。  ま、ともかくセイバーに感謝しなさいよね。理屈は判らないけど、士郎の体がそうなったのはセイバーのおかげなんだし」 「――――あ」  それで、粗雑になっていた頭にようやく喝が入った。  いま自分がやるべき事。  彼女に助けられ、彼女を必要とした自分が、一秒でも早く告げなくてはいけない言葉がある。 「くっ――――」  すぐに立ち上がる。  さすがに動くと体の節々が痛んだが、そんな事を気にしていられない。 「遠坂、セイバーは?」 「道場にいるわ。わたしは部屋に荷物取りに行ってくるわね」  遠坂は軽い足取りで別棟へ向かっていった。 「痛っ……」  きしきしと関節が痛む。  歯を食いしばって我慢して、とにかく道場へと歩を速めた。  道場に辿り着く。  セイバーは一人、瞑想するように正座をしていた。 「シロウ……!? 目が覚めたのですか!?」  入ってきた俺に気が付いたセイバーは、すぐさま立ち上がってズンズンと大股で近づいてきた。 「すまない、いま気が付いたんだ。それで、セイバー」 「すまない、ではありません! 貴方には言いたい事が山ほどある……! 私を置いて敵の誘いに乗った事、一人で戦おうとした事、自身の体を気遣おうともしなかった事……!」 「解っているのですか、そのどれもが死に直結する愚行です! いや、実際貴方は死にかけていた。こうして私を追いつめて何が楽しいのです……!」 「あ――――いや、その」 「なんですか! 生半可な弁明では引き下がりません。  今日という今日は、とことん貴方の考えを聞かせていただきますから!」  があー、と食ってかかってくるセイバー。  それは確かに迫力があったのだが、なんていうか、ここまで感情をむき出しにしたセイバーを見るのは、嬉しかった。 「……分かってる、ちゃんと話す。  だから話をしよう、セイバー。体の方はこの通り大丈夫だからさ」 「え……シロウ、持ち直したのです、か?」 「ああ、そうみたいだ。とりあえず、生き延びてる」 「そうですか―――それは、良かった」  さっきまでの剣幕は何処にいったのか。  セイバーは心底安心したように息をついて、俺の無事を祝うように、柔らかに笑った。 「――――――――」  ……痛感する。あの無表情なセイバーにそんな顔をさせるほど、俺は彼女を不安にさせていたんだ。  俺は彼女に頼ろうとしていなかった。  それでも彼女は、そんな俺を共に戦う者だと受け入れていた。 「――――――――っ」    ……俺が、バカだった。  こんな純粋な信頼に気づかず、  彼女に戦わせるという単純な信頼さえ、おけなかったのだから。 「セイバー」  自然に声が出る。  今まで目を合わせる事も照れくさかった相手を、本当に自然に、真っ正面から見つめられた。 「……はい? なんですか、シロウ?」 「――――すまない。俺が、バカだった」  頭を下げる。 「な……シロウ、やめてください。先ほどのは言葉のあやです。怒っていたのは確かですが、貴方に謝ってもらう必要は――――」 「ある。パートナーとして、セイバーに謝るのは当然だ。  心配させてすまなかった。セイバーといる限り、俺は二度と一人では戦わない」 「――――シロウ、それは」 「ああ。セイバー、おまえの力を貸してくれ。  俺一人じゃ他のマスターには勝てない。俺には、おまえの助けが必要だ」 「……それでは、今までの行動が間違いだったと認めるのですね? シロウはマスターとして後方支援に徹し、戦うのは私の役割だと」 「―――――――」  いや、今だって、セイバーの傷つく姿は見たくない。  その為に彼女が戦うのを禁じてきた。  ……間違えていたのはそこだ。  彼女と共に戦うと決めたのなら、俺は全力で、彼女の力になれば良かったんだから―――― 「……いや。俺は自分が間違っていたとは思わない。  セイバーが俺を守るなら、俺もセイバーを守る。セイバーだけを戦わせるなんて事は、出来ない」 「――――――――」  ……セイバーは答えない。  道場には冷たい空気だけが流れていく。 「――――――――」  ……それでも、これだけは譲れないのだ。  こうなったらセイバーに許して貰えるまで頼み込むだけだ、と顔を上げる。  と。 「……はあ。その頑なさは、実に貴方らしい」 「え……? その、セイバー?」 「まったく、いまさら答えるまでもないでしょう。  私は貴方の剣です。私以外の誰が、貴方の力になるのですか、シロウ」  そう言って、セイバーは左手を差し出してきた。 「――――――――」  気の利いた言葉も浮かばず、左手を握り返す。  ……握り合う確かな感触。  出逢ってから数日経って、ようやく―――本当の契約というヤツを、俺たちは交わしていた。 「? なに握手なんてしてるの、二人とも?」  って。  なんでこのタイミングで現れるのだ、おまえというヤツはっ……! 「――――っ」  セイバーと二人、あわてて手を離す。 「? なんか怪しいわね。まさか、わたしに内緒で作戦会議をしてたとか?」 「いえ、そういう訳ではないのです。その、マスターの体が健康かどうか、脈を計っていただけですので」 「――――」  呆然。  セイバーが、すっごく怪しい嘘をついてる。  ……いや、そもそもなんでセイバーまで慌ててるんだ。 「へえ。変わった脈の取り方をするのね」  不思議そうにセイバーを見る遠坂。  慣れない嘘をついた為か、セイバーはますます挙動不審になっていく。  ……これは助け船を出さないと、おかしな事態になりかねない。 「おい、何の用だよ遠坂。部屋まで荷物を取りに行くとか言ってなかったか、さっき」 「あ、それそれ。はいセイバー、これ」 「ありがとう。凛には迷惑をかける」  遠坂は手提げ袋をセイバーに渡した。  ……受け取るセイバーは、これまた珍しく嬉しげな顔をしている。 「それが最後だから気を付けなさいよね。いくら強制召喚だからって、力ずくで武装したら服なんて消し飛ぶんだから」 「申し訳ありません。突然の事だったので、そこまで考えが回らなかったのです。それでも、凛が同じ服を持っていてくれて助かりました」 「まあね。単純なデザインだし、制服みたいなものだし。  綺礼のヤツ、地味な服ばっかりわたしに押しつけるんだもの。……ま、わたしには似合わない服だからいいけどさ。なんだってその服にこだわるのよ、セイバー」 「―――ええ。シロウが似合うと言いましたから」  事情はよく掴めないが、セイバーの服はあれで三着目らしい。  うちには女物なんてないし、セイバーは遠坂に衣服を借りている訳だ。 「…………」  しかし、その。  そういう女っぽい話は、俺のいないところでしてくれるとタイヘン有り難い。  俺だって男だし。  せっかく真面目な話をしていたのに、そんな話をされたら気が抜けて仕方がないじゃないか―――  そうしてこれといった出来事もなく、遠坂とセイバーによって強引に寝かされた。  意識が戻ったとはいえ、俺の体は重傷のままだ。    ライダーに切り刻まれた両腕は、本当なら動かなくなる事を覚悟しなければならないほどの傷であり、三階から落下した〈体〉《ほね》は〈罅〉《ひび》と歪みだらけだ。    考える事は山ほどあるだろうが、今は眠って体を治せ、というのが二人の共通見解らしい。 「………………」    だが、取り逃がした慎二との決着は一日でも早くつけなくてはならない。  慎二は躊躇もなくあの結界を発動させた。  そんなマスターを野放しにする事がどれほど危険かは、俺にだって判っている。 「…………くそ……眠ってる場合じゃない……ん……だけど」    目眩のような空白。  ……元に戻ったのは頭だけだ。  横になった途端、癒えきっていない体は貪欲に眠りを求めてくる。 「っ……明日……明日に、なったら――――」    ……こうして休んでなどいられない。  たとえ体が治りきっていなくとも、逃げていった慎二を捕まえなければ――――          ……夢を見ている。  血が熱をおびて、体中が脈動しているせいだろう。  思い出す必要のない光景を、また、こんなふうに繰り返している。    それは今の〈衛宮士郎〉《じぶん》にとって、一番古い記憶だった。  同時に、一生切り離せない記憶でもある。  普段は思い返す事もないクセに、決して消し去れない十年前の光景。  忘れていた訳でもない。  忘れたい訳でもない。  自分にとって、それは起きてしまった出来事にすぎなかった。    だから特別、痛いと思う事もなく。  それは殊更、怒りに震える事でもない。    過ぎ去ってしまった事は、もうそれだけの話だ。  やり直す事は出来ないし、引き返す事だって出来ない。  この光景から抜け出して、衛宮士郎は今もこうして続いている。  そんな自分に出来る事は、ただ前を見る事だけだ。    ……誰に教えられた訳でもない。  ただ漠然と、幼い頃から思っていた。    過去を忘れず、否定せず。  ただ肯定する事でしか、失ったモノを生かす事などできないのだと―――― 「あ―――つ」    自分の体の熱さで目が覚めた。  結局、部屋に戻らず夜風を浴びているうちに眠ってしまったのだろう。    薄暗い土蔵には俺と―――― 「っ、セイバー……!?」 「目が覚めましたかシロウ。部屋を抜け出すのはかまいませんが、ここで眠るのはだらしがないのではありませんか」 「あ、おはよう。いや、昨夜は体が熱くて、外に出ていたらつい眠くなっちまったんだ」 「見れば判ります。説明はいいですから、次からは気を付けてください。マスターにこのような場所で休息を取られては、私の立場がありませんから」 「う……すまん、今後は出来るだけ部屋で休む」 「分かっていただければ助かります。  ところでシロウ。先ほどから大河が呼んでいるのですが」 「藤ねえが……? 呼んでるって、なんでさ」 「朝食の問題ではないでしょうか。朝食の時間はとうに過ぎていますから」 「え―――うわ、もう七時過ぎてるのか……!? やばい、寝過ごした……!」 「そうですね。シロウが最後に起きるのは珍しい。よほど昨夜の凛との鍛錬が堪えたのでしょう」  冷静に事態を分析するセイバー。  が、こっちにそんな余裕はない。 「起こしに来てくれて悪いが、先に戻っていてくれ。俺もすぐに着替えて台所に行くから」 「はい。それでは、できるかぎり大河をなだめているとしましょう」  セイバーは落ち着いた足取りで去っていった。    しかし藤ねえをなだめてるって……セイバーも随分とうちの朝に順応したなぁ……。  台所に駆け込む。  背中に浴びせられる藤ねえのバリゾーゴンを聞き流しながら、ざっと五分足らずで朝食の用意をした。 「お待たせ。学校の門限まで時間がないからな、手早く食べちゃってくれ」  ことん、とテーブルに朝食を置く。 「な――――」  と。   「なんじゃこりゃーーーっ!!」    ずがーん、と気炎をあげる藤ねえが一人。 「なにこれ、焼いたトーストだけじゃない! 士郎、なんで今日の朝ごはんこれだけなのよぅ……!」 「……あのな、仕方ないだろ寝坊したんだから。他のもの作ってる余裕なんてないし、だいたいパン食なんてこんなもんじゃないか。たんにサラダと卵焼きがないだけなんだから、そう大差ないぞ」 「大差なんてありますっ!  ね、みんなもそう思うでしょ!?」  無言で朝食を摂っているセイバーと遠坂に声をかける藤ねえ。  だが甘い。  二人とも藤ねえほど食い意地は張ってないんだ。同意なんてとれるもんか。 「……そうね。藤村先生じゃないけど、こんな手抜きは容認できないかな。パン食を舐めてるとしか思えないわ」  ……って、ちょっと待て。  おまえ、もとから朝食は摂らないスタイルじゃなかったっけ。 「……………………ふう」  うわ、なんだその、あからさまに失望したような溜息は!? セイバー、なんかキャラ違ってないか!? 「ほら、みんな士郎が悪いって。多数決で決定したから、反省した〈後〉《のち》ちゃんとした朝ごはんを提供すること」 「そんな出来レースに従えるかっ! そもそもな、今からおかずなんて作ってたら遅刻するぞ藤ねえ。もう七時半なんだから、パンかじりながら走ってかないと間に合わないから諦めろと提案するっ!」 「いいよ。わたし、遅刻か空腹かの選択なら、朝ごはんを尊重するから」 「するな! そんな教師が何処にいる……! いいからさっさと食べて学校に行けっての。言っとくけど、俺は意地でもこれ以上のメシは用意しないからなっ」 「むー。もう、士郎ったらヘンなところで真面目なんだから。そんな爺くさいコトいってると、すぐお爺さんになっちゃうんだからね」 「言われるまでもない。藤ねえのおかげで俺はすっかり爺さん趣味だよ」  ふん、と言い返してトーストをかじる。  ……いや、まあ実際。  これだけの人数が顔を合わせているっていうのに、朝食がパンだけというのは寂しいものがあるんだけど。  こんばんはー! 即死大好きな貴方の味方、ヒントコーナー・タイガー道場でーす! 一番弟子のイリヤでーす! 本編もそろそろ中盤。士郎も戦う気になってくれてお姉ちゃん嬉しいな。 けどこの選択は困りものだぞ? ちゃーんとセイバーちゃんのアドバイスを聞いてたかな? 聞いてるワケなーい! セイバーとかリンとか、いちいち説明が多いんだもの。わたし、面倒だから修行シーンはスキップしてたわ。 このバカ弟子。 いたたた……も、申し訳ありませーん、ちょっとウソですー。 まったく。いい、よっぽどの窮地でないかぎりサーヴァントとの直接対決は避けるコト。 耐えていればチャンスはあるわ。今は我慢に徹して、しばらく相手の好きにさせるべし。 押忍、分かりました。  ところで師しょー。道場に来るたびにスタンプ押してるけど、これってなんなの? それはタイガースタンプよ。集めるとそれなりにいい気分になり、自分がどれだけシナリオをこなしたかが分かるいい目安ってところかな。 で、それを全部集めると……。 集めると? なんと、画面が肉球でいっぱいになります!  怖っ! きゃー! パーフェクトワールド! そんなワケなので、あんまり無理して集めても責任はもてません。  それじゃあまた、次のタイガー道場で待ってるよー! 待ってるっすー! 待ちなさいタイガー! 貴方、冷蔵庫に隠しといたフルールのケーキ食べたでしょう! へーんだ、大事にとっておく方が悪いんでーす!  賞味期限って日本語知ってるか弟子一号ー! 知るかー! いいからケーキ返せおおとらー! ふははは、すでに消化したものは返せないのだ。 つーかイリヤちゃん、あの真っ赤なパンケーキにラズベリーをたっぷりのせた、なんか人体解剖っぽいケーキは趣味悪いと思うの。 あれ、ホントにフルールのケーキ? そうよ? 商品名ラフレシアアンブレラ。  世界最大の花・ラフレシアをモチーフにしたモンスターでデッドリーな新製品なんだって。 なんでも腐った香りを出すために、バラの花びらじゃなくて直接ラフレシアの花を使ってるとか。 げ。どうりで食感がステーキ似だと思った。  ……フルールの経営も行き詰まってるわね。甘味処が新製品を乱造するようじゃ末期だわ。 あれ? あのケーキおいしくなかった? 見た目真っ赤で、すごくキレイだったんだけど。 あー……イリヤちゃんは、まずその美的感覚をなんとかしないとね。 と、ケーキの話はここまで!  不条理な三択の前に屈した貴方を救うQ&Aコーナー、タイガー道場はじめるわよ! 押忍、じゅんびばんぜんであります、師しょー! うむ。それでは今回の死亡状況は…… あー、転落死かあ。いくら怪しげな自然治癒能力が備わったからって、三階から落ちれば死ぬかな? くす。ついでにいうと、フツーだったらライダーの回し蹴りでお腹突き破られて即死かな。 うーん、つくづくダイハード。 士郎はいつ殺されてもおかしくないんだから、選択肢で『令呪を使う』なんてものが出てきたら、迷わず使っといた方がいいわよ? そんなワケで、直前の選択肢に戻ってやり直し!  さっさとセイバーちゃんを呼び出して、あのセクシー戦闘お姉さんをやっつけてあげなさい!(セクシー……!?)   ……目覚めは暗い。  夢は見ない性質なのか、よほどの事がないかぎり、見るユメはいつも同じだった。  ……イメージするものは常に〈剣〉《つるぎ》。  何の因果か知らないが、脳裏に浮かぶものはこれだけだ。  そこに意味はなく、さしたる理由もない。  ならばそれが、衛宮士郎を構成する因子なのかもしれなかった。  見る夢などない。  眠りに落ちて思い返すものなど、昔、誰かに教わった事柄だけだ。  たとえば魔術師について。  半人前と言えど魔術師であるのならば、自分がいる世界を把握するのは当然だろう。  端的に言って、魔術師とは文明社会から逸脱した例外者だ。  だが例外者と言えど、〈群〉《むれ》を成さねば存在していられない。  〈切嗣〉《オヤジ》はその群、魔術師たちの組織を“魔術協会”と教えてくれた。  ……加えて、連中には関わらない方がいい、とも言っていたっけ。  魔術協会は魔術を隠匿し魔術師たちを管理するのだという。  ようするに魔術師が魔術によって現代社会に影響を及ぼさないように見張っているのだが、魔術の悪用を禁ず、という事でないのが曲者だ。  切嗣曰く、魔術協会はただ神秘の隠匿だけを考えている。  ある魔術師が自らの研究を好き勝手に進め、その結果、一般人を何人犠牲にしようと協会は罰しない。  彼らが優先するのは魔術の存在が公にならない事であって、魔術の禁止ではないのだ。  ようはバレなければ何をしてもいいのだという、とんでもない連中である。  ともあれ、魔術協会の監視は絶対だ。  たいていの魔術研究は一般人を犠牲にし、結果として魔術の存在が表立ってしまう。  故に、一般社会に害をなす研究は魔術協会が許さない。  かくして魔術師たちは自分の住みかで黙々と研究するだけにとどまり、世は全て事もなし――――という訳である。  魔術師が自身を隠そうとするのは、〈偏〉《ひとえ》に協会の粛清から逃れる為なのだとか。  ……だから、本当は俺が知らないだけで、この町にだって魔術師がいる可能性はある。  なんでも、冬木の町は霊的に優れた土地なのだそうだ。  そういった土地には、必ず歴史のある名門魔術師が陣取っている。  〈 管理者、〉《セカンドオーナー》と呼ばれる彼らは、協会からその土地を任されたエリートだ。  同じ土地に根を張る魔術師は、まず彼らに挨拶にいき、工房建設の許可を貰わねばならないらしい。  ……その点で言うと、〈衛宮〉《うち》は大家に内緒で住んでいる盗人、という事になる。  〈切嗣〉《オヤジ》は協会から手を切ったアウトローで、冬木の管理者に断りもなく移り住んできた。  〈管理者〉《オーナー》とやらは衛宮切嗣が魔術師である事を知らない。  そういった事もあって、〈衛宮〉《うち》の位置付けというのは物凄く曖昧なのだと思う。  真っ当な魔術師であった〈切嗣〉《オヤジ》は他界し、  その息子であり弟子である俺は、魔術協会も知らないし魔術師としての知識もない。  ……協会の定義から言えば、俺みたいな半端ものはさっさと捕まえてどうにかするんだろうが、今のところそんな物騒な気配はない。  いや、日本は比較的魔術協会の目が届かない土地だそうだから、実際見つかっていないんだろう。  ―――と言っても、気を緩めていい訳じゃない。    魔術協会の目はどこにでも光っているという話だし、くわえて、魔術で事件を起こせば異端狩りである教会も黙ってはいないという。  ……魔術を何に使うのであれ、安易に使えばよからぬ敵を作るという事。  それを踏まえて、衛宮士郎は独学で魔術師になればいいだけの話なのだが―――― 「…………、ん」  窓から差し込む陽射しで目が覚めた。  日はまだ昇ったばかりなのか、外はまだ〈仄〉《ほの》かに薄暗い。 「……さむ。さすがに朝は辛いな」  朝の冷気に負けじと起きあがって、手早く布団をたたむ。  時刻は五時半。  どんなに夜更かしをしても、この時間に起きるのが自分の長所だ。昨日のような失態を犯すこともあるが、おおむね自分は早起きである。 「それじゃ朝飯、朝飯っと―――」  昨日は桜に任せきりだった分、今朝はこっちがお返しをしないと申し訳が立つまい。  桜がやってくる前にササッと支度を済ませてしまおう。  ごはんを炊いて、みそ汁を作っておく。  昨日は大根とにんじんだったので、今日は玉ねぎとじゃが芋のみそ汁にした。  同時に定番のだし巻たまごをやっつけて、余り物のこんにゃくをおかか煮にして、準備完了。  主菜の秋刀魚は包丁をいれて塩をまぶし、あとは火を入れるだけ、というところでストップ。 「よし、こんなんでいいか」    そろそろ六時。  思ったより早く終わったんで時間を持て余してしまった。  さて、余った時間で何をしたものか。  新都と違い、深山町に人影はない。  夜の八時を過ぎれば通りを行く人もなく、町は静まり返っている。  交差点には、朝方見かけた一軒家がある。  〈人気〉《ひとけ》はなく、玄関には立ち入り禁止の札がかけられているだけだった。  ……たった一日で、家は廃墟のように閑散としていた。  押し入り強盗によって殺された両親と姉。  一人残された子供にはこの先どんな生活が待っているのか。 「――――」  無力さに唇を噛んだ。  切嗣のようになるのだと誓いながら、こんな身近で起きた出来事にさえ何もできない。  誰かの役に立ちたいと思いながらも、結局、今の自分に出来る事がなんなのかさえ判っていない。  坂を上りきって衛宮の家に着く。  明かりがついているので、藤ねえか桜がまだ残っているのだろう。 「ただいま―――あれ、藤ねえだけか?」 「ん? あ、お帰り士郎~」  ぱりぱりとお煎餅を食べながら振り向く藤ねえ。  テレビはガチャガチャと賑やかなバラエティ番組を映している。 「もう、またこんな時間に帰ってきて。冬は日が暮れるのが早いんだから、もっと早くに帰ってきなさいって言ったでしょ」 「だから早く帰ってきてるだろ。八時までのバイトを選んでるんだから、これ以上無茶言わないでくれ。  ……で、桜はどうしたんだよ。なんか、晩飯の支度だけはできてるみたいだけど」 「桜ちゃんなら早めに帰ったわよ? 今日は用事があるからって、晩ごはんだけ作ってくれたの」  嬉しそうに語る藤ねえ。  この人にとって、ごはんを作ってくれる人はみんないい人なんだろう。 「そっか。確かにしばらくはその方がいいかもしれないな。最近は物騒だし、いっそ新学期まで晩飯は俺が作ろうか」 「えー、はんたーい! 士郎、帰ってくるの遅いじゃない。それからごはん作ってたら、食べるの十時過ぎになっちゃうよぅ」 「……あのね。そこに自分ん家で食べる、という選択肢はないのかアンタは」 「だから、ここがわたしのうちだよ?」  はてな、と首をかしげる藤ねえ。  正直、嬉しいんだか悲しいんだか判断がつきかねる。 「ったく、分かったよ。藤ねえにメシを作れ、なんて無理難題を言ってもしょうがねえ。  ……それはいいけど、足下のソレ、なんだよ。また余計なモノ持ってきたんじゃないだろうな」  藤ねえはいらないガラクタをうちに置いていく、という度し難い悪癖がある。  ファミレスでもらってきた使い道のない巨大なドンブリとか、商店街でひきとってきたやたら重い土瓶とか、ひとりでに演奏しだす怪しいギターとか、とにかく、ひとんちを都合のいい倉庫だと思っている節がある。 「ちょっと見せてみろ。ゴミだったら捨てるから」 「これ? えーと、うちで余ったポスターだけど」  はい、とポスターを手渡してくる藤ねえ。  おおかた売れない演歌歌手のポスターか何かだろう。 「どれどれ」  ほら見ろ、ハリボテっぽい青空をバックに、笑顔で親指を出している軍服姿の青年。  血文字っぽい見出しはズバリ、       『恋のラブリーレンジャーランド。      いいから来てくれ自衛会』    ―――って、これ青年団の団員募集だろっ……! 「それ、いらないからあげるね」 「うわあ、俺だっていらねえよこんなの!」  広げたポスターを高速で巻き戻し、ぽかん、と藤ねえの頭を叩く。 「へへーん、はずれー」  が。  藤ねえめ、隠し持ってたもう一本のポスターで上段斬りを払うやいなや、容赦なく反撃してきた。  ぽかん、と。  軽やかにポスターが直撃す―――― 「ぐはぁ!?」  星だ! いま星が見えたスター! 「ふっふっふ。士郎の腕でわたしに当てようなんて甘いわよ。悔しかったらもうちょっと腕を磨きなさいね」 「ぐっ……そ、そんな問題じゃないだろ、今の。な、何故に紙のポスターがかような破壊音を……」  もしや、割り箸の袋で割り箸を断つという達人の技なのか……!? 「え? あ、ごめんごめん。こっちのポスター、初回特典版なんで豪華鉄板仕様だった。  ……士郎、頭大丈夫……?」 「……藤ねえ、いつか絶対に人を殺すぞ、その性格……」 「えへへー。その時は士郎がお嫁にもらってくれるから安心かなー」 「ふん、全速でお断りです。そんな天然殺人鬼を相方にもらう気はないやい」 「むっ。わたし、そんな物騒なのじゃないと思う」 「やっぱり。得てしてそういう連中は自覚がないっていうのはホントだったのか」  なんまいだぶ、なんまいだぶ。  俺もいつ殺られないかと注意して暮らさないと。 「ふんだ、言ってなさい。そんな事より士郎、わたしお腹へった。今まで待ってたんだから、早くごはんの用意しよ」  よいしょ、と立ち上がる藤ねえ。  ……珍しい。藤ねえが(たとえ食器の準備だけとはいえ)手伝ってくれるなんて、よっぽど腹ペコなのに違いない。 「はいはい。んじゃ藤ねえは皿と茶碗な。ごはんぐらいつげるだろ」 「つげるよー? ねえ士郎、わたしドンブリでいいかな」 「いいんじゃないか。今日は桜もいないし、どうせメシは余るし」 「よしよし。それじゃ士郎もおそろいね」  せっせと二つのドンブリにごはんをよそう藤ねえ。 「………………」  まあいいか。どうせおかわりするんだし、藤ねえのやる事に口だしなんてしたら、それこそ夕食がなくなっちまう。  それに、まあ。  こういったメチャクチャな夕食こそ、ここ何年も続いてきた当たり前の風景なんだから。  ……一日が終わる。    騒がしい夕食を終え、藤ねえを玄関まで見送って、風呂に入る。  あとは土蔵にこもって日課の鍛錬。  それらをいつも通り終わらせて眠りにつく。  午前一時。  一日は何事もなく、穏やかに終わりを告げた。 「そうだな。時間もあるし、箸休めになんか作っとこう」  ばこん、と冷蔵庫を開ける。  余っているのはキュウリとジャガイモぐらいか。 「……うーん。キュウリをスティック状に切って塩漬けにしてもいいし、ジャガイモを千切りにして酢の物にしてもいいんだけど……」  どっちにしても数分足らずで片づいてしまう小物で、この手の一品は新鮮な方が美味しい。  藤ねえと桜がやってくるまであと三十分。どうせなら直前でサラッと仕上げた方がいいだろう。 「…………む」  そうなると、なんとも扱いの難しい空き時間になってしまった。  あと三十分で出来るものといったら、 「夕飯用に鶏のささ身があったから、えーと」  野菜を肉で巻いた一口サイズの焼き物とか、その辺か。  鶏肉を観音開きに切って、肉たたきで平らにする。  この肉たたきはパッと見、とんでもなく極悪だ。ようするにトンカチなのだが、叩く面積は四角く広く、表面にはトゲじみた突起物がびっしりと突き出ている。  これでサイズが大きければ、間違いなく拷問道具として活躍できるだろう。  そんな物騒なモンでささ身を平らにして、ニンジンとさやインゲンを乗せて、巻いて、表面をフライパンで焼いて、酒をいれて蒸し焼きにする。 「――――はっ!? ちょっと待て、なにしてんだ俺……!?」  そこまで進めて、はた、と正気に返った。  作ろうとしたのは箸休めになる一品で、メインにはとっくに〈秋刀魚〉《さんま》さまが鎮座ましましている。  だっていうのにささ身の野菜巻き焼きなんて作って、主役クラスを二品も用意するなんて……! 「……なんてこった。暇つぶしで余計な料理をするなんて、気が抜けてる」 「え? 暇つぶしで作ってたんですか、先輩?」 「うん。でも誤解のないように説明すると、ホントは惣菜を追加しようとしたんだ。それが気が付いたら包丁を持ってた。いや、習慣っていうのは怖い。もちろんただの言い訳だけど」 「でもいいと思いますよ? 朝ごはんにしては豪勢ですけど、先輩の料理なら余らないと思います」 「そうかな。いや、そういう問題じゃないだろ、これは。  一つの空に二つの太陽は要らないんだ。どっちかにはご退場を願わなくちゃいけない」 「ええ!? 先輩、せっかく作ったのに食べないんですか?」 「食べる。予定にはなかったけど、今日の昼は弁当にする。そうすれば余った方も無駄にはならないだろ」 「うわ。先輩、今からお弁当作るんですか?」 「ギリギリかな。まあ、俺一人分ぐらいなら飯もなんとか――――」  と。  そこで、ようやく背後の人物に気がいった。 「おはようございます先輩。今日もお邪魔しますね」  笑顔で挨拶をする桜。  この時間、桜が台所にやってくるのは不思議な事じゃない。  桜はいつもチャイムを鳴らして入ってくるが、今朝のようにぼんやりして気が付かない時もある。 「お、おはよう桜。朝飯の支度はできてるから居間で休んでていいぞ。お茶の用意してあるから」  フライパンの番をしながら声を返す。  テーブルにはお湯を入れたポットと急須、お茶受け等が用意されている。 「あ、はい。今朝も完璧ですねっ、先輩」  何が嬉しいのか、桜の声は弾んでいる。  ……と。  桜は上機嫌なまま、テーブルではなく台所にやってきた。 「先輩、お弁当作るんですよね」 「ん? ああ、そういう流れになった。ちょうど弁当向きだし、もう少しおかずを用意しようかなって」 「あの、それならわたしもいいですか? ちゃんと自分で作りますから」 「いや、待った。おかず、俺のと同じのでいいなら分けられるけど」 「―――はい。さっきから見ていて、先輩の焼き物が食べたいなって思ってたんです」 「了解。んじゃ桜はご飯炊いてくれ。二人分の弁当となると飯が足りなくなる。そっちに早炊きができる炊飯ジャー、あるだろ」 「はい、任されました。それじゃお手伝いさせていただきますね」  パタパタという足音と、きゅっとエプロンの紐を縛る音。 「せんぱーい。ご飯は二合でいいですよねー」 「んー、十分なんじゃないかな」  慌てず急がず、それでいてテキパキとした動きで、桜は厨房に参戦してきた。 「おはよー! 今朝もいい匂いさせてて結構結構!」    六時半をちょっと過ぎたころ。  桜に遅れること三十分、いつも通り藤ねえがやってきた。 「おはようございます先生。朝ご飯、もうちょっと待ってくださいね」 「うん待つ待つ。……って、あれ? 桜ちゃん、士郎といっしょに朝ご飯作ってるの?」 「いえ、朝食の支度は先輩が一人でやっつけちゃってました。今は先輩とお弁当を作ってるんです」  桜の声は妙に弾んでいる。  別段面白いコトをやってるわけでもなし、何が楽しいのかは分からない。 「そっかそっか、そりゃあ朝からご機嫌にもなるか。お料理と士郎、楽しいことだらけだもんね。よしよし、時間は余裕ないけどゆっくりしてていいわよー」  あははは、と笑いながらテーブルに陣取ってお茶を淹れる藤ねえ。 「……ったく、朝から寝ぼけやがって。学校前に台所に立つコトのどこが楽しいってんだ」  フライパンを棚に戻す。  弁当のおかずも作り終わったし、あとは弁当箱に詰めるだけだ。 「悪いな桜。部活前だっていうのに無駄な体力使わせて。  昨日世話になった分、今朝はゆっくりしてもらおうと思ってたんだが」 「え? いえ、そんなコトありませんよ? 藤村先生の言う通り、台所に立つのは楽しいです」  にっこりと笑う。  そりゃ桜が料理好きなのは知ってるけど、それにしたって朝五時に起きて弁当を作るのは辛かろう。  しかも、桜には頻繁に夕食を作ってもらっている。  だっていうのに朝まで料理づけにしてしまっては、桜の自由時間がなくなりかねない。 「……ふう。手伝ってくれるのは助かるけど、もう少し楽にしろよ桜。朝はもちっと眠ったり、放課後だって遊びにいくもんだろ。何も好き好んでうちの手伝いをしなくていいんだ」 「はい、ですから楽にしています。今日も先輩に朝ご飯を作ってもらいました。お弁当のおかずだって、先輩に分けてもらいましたし」  にっこりと笑う。  …………はあ。  桜が手伝ってくれるようになってから早一年半、今じゃあ何を言ってもこんな風に返されてしまう。 「それとこれは別だろ。桜だって自分の生活があるんだから、俺や藤ねえの世話にかまけてたら大変だぞ。俺を甘やかしてると、そのうち自分の好きなコトができなくなるんだからな」 「あはは、それも大丈夫です。わたし、趣味はお料理と弓だけですから。ちなみに将来の目標は先輩の味を超えるコトで、もうすぐ射程距離だったりします」  えっへん、と胸を張る桜。  ……く。  悔しいが、それは紛れもない事実で狙われているのか俺。 「ですから気にしないでください。わたし、ここでお料理するのが嬉しいし、上手くなるのが楽しいんです。  この楽しさを教えてくれた恩返しと、自分の実益を兼ねてお手伝いをしているのです」 「……む。それはつまり、日々俺の技術を盗んでいるというコトなのか、桜」 「はい。先輩のお手伝いをするだけで、好きなコトがメキメキ上達しちゃいます。ですから覚悟しててくださいね。いまに先輩にまいったって言ってもらうんですから」  うわ。  信じられねえ、いま言い切ったぞ桜のヤツ! 「……はあ。まったく、こんなことなら料理なんて教えなければ良かった。うちにくるまでサラダ油の存在さえ知らなかったクセに、今じゃ虎視眈々と師の首を狙ってやがる。なんだってそんなに目の仇にすんだよ、ほんと。  飯なんて普通に作れればいいじゃんか」 「そんなの目の仇にしますっ。先輩の方がおいしいなんてダメなんですから」 「……?」  何がダメなのかは不明だが、それはともかく、そろそろ朝食を並べないとまずかろう。 「よっと」  火にかけていた秋刀魚の様子を見る。  いい色に焼けた腹に箸をあてて、焼き加減を確認する。 「上出来かな。ほい桜、パス。先に食卓に持っていってくれ」 「はい、お疲れさまです先輩」  秋刀魚を載せた皿を桜に手渡す。  ……と。  何か重大な事でも思い出したように、桜は動きを止めていた。 「桜? どうした、忘れ物か?」  桜はしっかりしているようでよく物忘れをする。  こんな風に突然思い出してハッとする、というのはそう珍しい事じゃない。  が―――どうも、今朝のはそんな類の事ではないみたいだ。 「……桜?」 「…………………………」  桜は答えない。  呆然と俺の手を見つめて、桜本人も意識していないという素振りで、 「先輩。その手の痣、なんですか」  なんて、おかしなコトを訊いてきた。 「は?」  言われて手を引っ込める。 「あれ……? ほんとだ、手の甲に痣ができてる。おかしいな、ぶつけた覚えはないんだけど」  どうしたことか、左手の甲に大きな痣が出来ている。  痣は切り傷のようで、派手なミミズ腫れを残していた。  自分の手ながら、正直かなり気味が悪い。  気分が優れないのか、桜は押し黙っている。 「わるい、あとは任せた。湿布か何か貼ってくる」  桜に台所を任せて道場に向かう。  寝ている時に傷つけたのかは知らないが、ともかく手当てぐらいはしておかないと。 「――――――――」  ただ、どうしてか。  台所を後にする時、気まずそうに俯いていた桜の姿が気にかかった。 「それじゃ先に行ってますね」 「桜、ほんとにいいのか。体調が悪いなら部活ぐらい休んでいいんだぞ?」 「いえ、大丈夫です。ちょっと頭痛がするだけですから心配にはおよびません。体調が悪そうに見えるのは先輩の気のせいですよ。わたし、すごく元気です」  はい、と笑顔で切り返してくるが、強がりなのは一目でわかる。 「―――すごく元気、か。朝飯、一口も食べられなかったのにか?」 「ぁ…………」  気まずそうに視線を逸らす。  結局、桜は視線をあげず、 「……失礼します。先輩のほうこそ、休んでください」  玄関を後にした。  食卓はキレイに片付いている。  が、台所にあげられた食器にはまるまる一人分の朝飯が残っていた。 「まったく。いきなりどうしたんだよ、桜のヤツ」    俺の傷を見てからというもの、あれだけ上機嫌だった桜はとたんに無口になり、やることなすこと失敗だらけになった。  お茶は淹れすぎる、卵焼きは醤油で真っ黒にする、エプロンを着たまま食卓につく。  んで、あげくの果てに朝食は一口も喉を通らず、青い顔のまま登校していったのだ。 「風邪でも引いたのかな、桜」    後片付けをしながらぼやく。  ともあれ、あんな桜を見るのは初めてだ。  桜と知り合ったのは四年前の夏ごろで、うちに家事手伝いをしにきてくれるようになったのは一年半ほど前。  その間、あれだけ体調の悪そうな桜を見たことはない。 「――――――――」  ……弓道場には藤ねえがいるし、大事はないと思うが、放課後あたりに様子を見に行くべきだろう。  学校からバスに乗る事二十分。  橋を渡って隣町である新都に到着した。 「……なんだ、まだ五時前か。少し時間があるな」    住宅地である深山町にアルバイトのタネはないが、開発地区である新都なら仕事に事欠かない。  うちの学校は生徒のアルバイトを認めている事もあり、簡単な仕事を請け負っている。  自分が好む仕事は力仕事で、ハードで、出来る限り短時間で終わる、というものだ。  体を鍛えられてお金を貰えるんだから、一挙両得というものだろう。  今日のバイトは五時から八時までの、簡単な荷物運びだ。  三時間だけとはいえ、その内容は六時間ほどの濃さがある。なにしろ一分の休憩もなしで走り回らされるようなものなのだ。  なので、十分程度と言え休める時は休んでおくべきだろう。  時間までブラブラしているのも体力の無駄遣いだし、公園に入って時間まで休んでいよう。  ビル街のただ中にある公園は、木々と芝生に覆われた大きな広場、という趣だ。  休日であるなら親子連れや恋人たちで賑わう公園も、この時間だと人気はない。  いや―――もともと、ここだけは何時であろうと人気はないのだ。 「相変わらずだな、ここは」  少し呆れた。  荒れ放題の地面は、きちんと整地された周囲に比べてあまりにも〈見窄〉《みすぼ》らしい。  荒涼とした地面に引きずられているのか、吹く風も冷たかった。    ここは十年前の大火災の跡で、そのまま焼け死ぬ筈だった自分が助けられた場所でもある。 「なんで芝生とか植えないんだろ。いつまでもこのままってのは勿体ない」    これだけ広い土地なんだから、ちゃんと整地すれば公園は一段と広くなるだろうに。  ぼんやりとそんな事を思いながら、適当なベンチに座った。 「――――――――」  時間潰しに焼け跡の大地を眺める。  かつてここで起きた出来事を、思い出す事はない。  覚えているのは熱かった事と、息が出来なかった事。  それと、誰かを助けようとして、誰かが死んでしまっていた事。 「どうして、そうなのかな」  例えば、焼け落ちる家から子供を助けようとした大人は、子供を助けるかわりに死んでしまった。    例えば、喉が焼けた人たちがいて、なけなしの水を一人に飲ませたものの、他の人たちはみんな息絶えてしまった。    例えば、一刻も早く火事場から抜け出そうと一人で走り抜いて、抜き去っていった人たちは例外なく逃げられなかった。          それと、例えば。  何の関係もない誰かを助ける為に、自分を助けていたモノを与えてしまい力尽きてしまった人とか。 「――――――」  そういうのは嫌だった。  頑張った人が犠牲になるような出来事は頭にくる。  誰もが助かって、幸福で、笑いあえるような結末を望むのは欲張りなのか。  ただ普通に、穏やかに息がつける人たちが見たかっただけなのに、どうしてそんな事さえ、成し遂げられなかったのか。             “それは難しい。士郎の言っている事は、誰も彼も救うという事だからね”  幼い自分の疑問に、切嗣はそう答えた。  当然、幼い自分はくってかかった。  だって切嗣は俺を助けてくれた。なんでもできる魔法使いなんだって知っていた。  無償で、ただ苦しんでいる人を放っておけず手を出した正義の味方なんだって分かっていた。    だから―――切嗣ならあの時だって、みんなを助ける事ができたんじゃないかって信じていた。  そうぶちまけた俺に、切嗣は余計に困った顔をして、一度きり、けれど未だに強く残っている言葉を口にした。           “士郎。誰かを救うという事は、誰かを助けないという事なんだ。いいかい、正義の味方に助けられるのはね、正義の味方が助けたモノだけなんだよ。当たり前の事だけど、これが正義の味方の定義なんだ”  そりゃあ分かる。  言われてみれば当たり前だ。  ここに強盗と人質がいて、強盗は人質を殺すつもりでいるとする。  通常の方法では人質の大半は殺されてしまうだろう。  それを、人質全員を助ける、なんて奇跡みたいな手腕で解決したとしても、救われない存在は出てくるのだ。    つまり、人質を助けられてしまった強盗である。    正義の味方が助けるのは、助けると決めたモノだけ。  だから全てを救うなんて事は、たとえ神様でも叶わない。 「……それが天災なら尚更だ。誰であろうと、全てを助けるなんて出来なかった」  十年前の火事はそういうモノだ。  今更、奇跡的に助けられた自分がどうこう言える話でもない。 「けど、イヤだ」  そういうのは、イヤだった。  初めから定員が決まっている救いなどご免だ。  どんなに不可能でも手を出さなくてはいけない。  あの時のように、まわりで見知らぬ誰かが死んでいくのには耐えられない。  だから、もし十年前に今の自分がいたのなら、たとえ無理でも炎の中に飛び込んで――――   「そのまま無駄死にしてたろうな、間違いなく」    それは絶対だ。  まったく、我ながら夢がない。 「っと、しまった。ぼんやりしてたら五時になっちまった」  五時を告げる鐘が鳴り響く。  ベンチから立ち上がり、急いでバイト先へと向かっていった。  バイトが終わった頃、日は沈みきっていた。  時刻は八時前。  予定より十分ほど早く終わったのは、単に頑張りすぎたせいだ。  仕事前にあんな場所に寄ってしまったからか、がむしゃらに働いてしまったらしい。  駅前という事もあり、夜は始まったばかりだ。  人波は多く、道を行く自動車も途切れることがない。 「藤ねえにおみやげ―――はいいか」  明かりのついたビルを見上げながら歩く。  新都で一番大きいビルなので、さすがに上の方はよく見えない。  ただ夜景を楽しむ為にビルを見上げていると、 「――――?」  なにか、不釣り合いなモノが見えた気がした。 「なんだ、今の」  立ち止まって最上階を見上げる。  両目に意識を集中させて、米粒程度にしか見えないソレを、ぼんやりと視界に捉える。 「――――――」    それは、知っている誰かに似ていた。    何の意味があって、  何をする為にあんな場所にいるのか。  長い髪をたなびかせ、何をするでもなく、彼女は街を見下ろしている。 「――――」  こちらに気が付いている様子はない。  いや、見えている訳がない。  人並み外れて目のいい自分が、魔力で視力を水増ししてようやく判る高さだ。  あんなところで一人きりで立っているから見分けられるが、地上で人波に紛れている自分になど気が付く筈もないだろう。  彼女はただ街を見下ろしている。  何かを捜しているのか、こんなに遠くからでも鋭い視線が感じられた。 「――――――――」  時間を忘れて、虚空に立つ少女を見上げる。  それは高い塔の上。  月を背に下界を見下ろす、魔法使いのようだった。 「あ」  と。  用が済んだのか、あっさりと彼女は身を翻していった。  屋上から人影は消え、綺麗なだけの夜景に戻る。 「今のは、遠坂だったのかな」  確証は持てないが、まず間違いはあるまい。  あれだけ目立つ容姿の女の子はそういないし、なにより、ひそかに憧れているヤツを見間違えるほど間抜けじゃない。 「……そうか。に、しても」    なんていうか、その。  ヘンな趣味してるんだな、遠坂。 「―――そうだな。これだけ時間があれば一汗流せるか」    朝の運動は日課だし、軽く体を動かしてこよう。  衛宮邸には立派な道場がある。  家を建てる時、ついでだからと道楽で建てられたものだ。  そんな訳で、この道場は何かが目的で作られた物ではない。 「ま、藤ねえが好き勝手使ってるけどな」  俺が衛宮の家に来る前から、ここは藤ねえの遊び場だったらしい。  が、俺が切嗣に弟子入りしてからはこっちが頻繁に使うようになって、当時は藤ねえに嫌われたものだ。 「……さて」  ここに来たらやる事は一つだけ。  魔術師と言えど身体の鍛錬を怠る事は出来ない。  優れた身体能力を持つ、という事も魔術師の条件の一つだ。  切嗣が生きていた頃はここで何度も手合わせをした。  と言っても一方的に痛めつけられただけだったから、戦いに勝つ術なんて身に付かなかった。  ……それでもケンカと戦闘の違いぐらいは身に付いたと思う。  ようするに、相手を倒すか殺すかの違い、その加減を知る事を教わったのだ。  知識と経験は違う。  あらかじめ知っておかないと、自分がケンカに巻き込まれたのか、殺し合いに巻き込まれたのかの判断をつけにくい。  ……単純な話だ。  魔術を習う以上は自滅する事もあるのだし、何かと争わなければならない時もある。  魔術師にとって争いは殺し合いだ。  だから切嗣が衛宮士郎に教えたかった事は、死地に面した時すみやかに覚悟できる心構えだったのだろう。  しかし、それも教えてくれる相手がいなくなって久しい。  一人になった自分に出来る事と言えば、単純な運動だけだった。  腕立て伏せとか腹筋運動とか柔軟とか、やってる事は弓道部の朝練と変わらない。  単に、運動量にハードかソフトかの違いがあるだけだ。 「―――そうだな。これだけ時間があれば一汗流せるか」    朝の運動は日課だし、軽く体を動かしてこよう。  人のいない道場は、それだけで気持ちを引き締める静けさがある。  それが朝方、まだ日が昇ったばかりとなると静謐は神聖ささえ持って、訪れる者を魅了する。 「……さて」  ここに来たらやる事は一つだけ。  〈切嗣〉《おやじ》が亡くなってからこっち、道場は身体を鍛えるだけの運動場と化していた。  魔術師と言えど身体の鍛錬を怠る事は出来ない。  優れた身体能力を持つ、という事も魔術師の条件の一つだ。  切嗣が生きていた頃はここで何度も手合わせをした。  と言っても一方的に痛めつけられただけだったから、戦いに勝つ術なんて身に付かなかった。  ……それでもケンカと戦闘の違いぐらいは身に付いたと思う。  ようするに、相手を倒すか殺すかの違い、その加減を知る事を教わったのだ。  知識と経験は違う。  あらかじめ知っておかないと、自分がケンカに巻き込まれたのか、殺し合いに巻き込まれたのかの判断をつけにくい。  ……単純な話だ。  魔術を習う以上は自滅する事もあるのだし、何かと争わなければならない時もある。  魔術師にとって争いは殺し合いだ。だから切嗣が衛宮士郎に教えたかった事は、死地に面した時すみやかに覚悟できる心構えだったのだろう。  けれど、それを教えてくれる切嗣はもういない。  一人になった自分に考えられて出来る事と言えば、こんな誰にでもできるトレーニングだけだった。 「んじゃあまあ、本格的にやっておくか」  柔軟運動で筋肉をほぐした後、体内に意識を向けながら運動を開始する。  肉体を鍛えながら魔術回路―――血の流れ、骨格の軋み、肉体疲労時における思考の狂いを把握する。 「―――百二十―――百五十―――百七十――――」    ただの腕立て伏せも、〈鉄の重り〉《ウェイト》ではなく〈心の枷〉《ハードル》をつけて行えば魔術回路の鍛練になる。  明確な魔術の師がいない自分にとって、こんな部活の朝練と変わらない運動も、重要な鍛練だった。  時刻は七時半になろうとしている。  朝の部活動がある桜と藤ねえはとっくに家を出た。  昨日は一成に呼ばれていたから早めに登校したが、今朝は普通の時間に家を出る。  交差点まで下りてくると、見慣れない光景に出くわした。  一軒家の前に数台のパトカーが止まっている。  なにか騒ぎでもあったのか、周囲の雰囲気は慌ただしく、集まった人だかりは十人や二十人ではきかないようだ。 「?」  興味はあったが、人だかりが邪魔で何が起きたのか判らない。  時間もないし、今は学校を優先すべきだろう。  予鈴の十分ほど前に到着。  いつも通り余裕を持って正門をくぐると、 「や、おはよう衛宮」  見知った女生徒とバッタリ会った。 「なんだ、まだ着替えてないのか美綴。もうすぐホームルームだぞ。俺に挨拶なんかしてる場合じゃないだろ」 「あはははは! いや、ごもっとも。相変わらずつれない野郎だねぇ、衛宮は!」  何が楽しいのか、人目も気にせず豪快に笑う。  〈美綴〉《みつづり》〈綾子〉《あやこ》。  一年生の頃クラスメイトだったヤツで、今は弓道部の主将をしている。  学生とは思えないほど達観したヤツで、一年の頃から次期主将を期待されていた女丈夫だ。  ……まあ、要するに実年齢よりいくぶん精神年齢が上で、一年の頃からみんなに頼りにされていたお姉さんタイプである。  もっとも、本人はそれを言われると怒る。あたしはそんなに老けてないっ! というのが本人の弁だ。 「あん? 今アンタ、よからぬ感想を漏らさなかったかもし?」 「そんな物は漏らさない。あくまで客観的な事実を連想しただけだ。それで気を悪くするのは美綴の勝手だが」 「お、言うじゃん。いいね、正直に答えるくせに、何をどう考えてたかは口にしないんだもの。  衛宮、慎二と違って隙がないな」 「慎二? なんでそこに慎二が出てくるんだ?」 「なんでもなにも、アンタと慎二って友人じゃない。  慎二の男友達ってアンタだけでしょ? それにお忘れでしょうが、あたしこれでも弓道部の主将なの。うちの問題児と、辞めちまった問題児をくっつけるのは自然な流れだと思わない?」 「ああ、たしかに自然だ。弓道部ってのは関係ないけど、俺とアイツは腐れ縁だからな」 「あ、カチンと来た。アンタね、弓道部の話になると急に冷たくなるでしょ。  いいご身分よね、慎二をほっぽっといて自分はさっさと退場しちゃうんだから。後に残されたあたしとか桜の気持ちとか、少しは考えてくれてもいいんじゃない?」 「む。慎二のヤツ、またなんかやったのか」 「アイツが何もやらない日なんてないけど。  ……ま、それにしても昨日のはちょっとやりすぎか。  一年の男子が一人辞めたぐらいだから」  はあ、と深刻そうにため息をつく美綴。  こいつがそんな顔をするのも珍しいけど、それ以上に今の話は聞き捨てならない。 「なんだよそれ。部員が辞めたって、なんで」 「慎二のヤツが八つ当たりしたのよ。わざわざ女子を集めてね、弓を持ったばかりの子に射をさせて、的中するまで笑い物にしたとか」 「はあ!? おまえ、そんなバカげた事を見過ごしてたってのか!?」 「見過ごすかっ! けどさ、主将ってのは色々と忙しいんだ。いつも道場にいる訳じゃないって、衛宮だって知ってるでしょ」 「……それは、そうだが。にしても、なに考えてんだ慎二のヤツ。必要以上に厳しく教える事はあっても、素人を見せ物にするようなヤツじゃないだろ」 「――――呆れた。衛宮ってば、ほんとにアレだ」 「む。アレってなんだ。いまおまえ、よからぬ感想を漏らさなかったか?」 「あーら、あたしはあくまで客観的な事実を連想しただけさ。それで気を悪くするのは衛宮の勝手だね」 「……この、ついさっき聞いたような返答をしやがって。  いいよ、それより慎二はどうしたんだよ。なんだってそんな真似をしたんだ」 「んー、聞いた話じゃ遠坂にこっぴどくふられたとかなんとか」 「え……遠坂って、あの遠坂か?」 「うちの学校にアレ以外の遠坂なんていないでしょ。  2年A組の優等生、ミスパーフェクトこと遠坂凛よ」 「……いや、そんなあだ名は初めて聞いたけど」  聞いたけど、それなら、と納得できてしまった。  相手が遠坂凛なら、慎二が振られる事もあるだろうし、なにより―――  あの遠坂なら、交際を断る時も容赦ない台詞を口にしそうだし。 「ともかく、慎二のヤツは昨日からずっとその調子よ。  おかげであたしもこんな時間まで道場で目を光らせてたって訳」 「……慎二のヤツ、ヘンに堪えがきかない時があるからな。美綴、たいへんだろうけど頑張ってくれ」 「はいはい。けどねー、慎二って懲りないでしょ? また遠坂に声をかけて振られた日には、今度こそ遠坂本人に何かしそうでさー」 「いや、いくら慎二でも振られた相手には近寄らないだろ。アイツ、そのあたりはちゃんとしてるぞ」 「けど相手が近寄ってくるんだからしょうがないじゃない。遠坂さ、なんか知らないけどうちの道場をよく見学に来るのよ。衛宮は辞めちゃったから知らないだろうけどね」 「?」  それは初耳だ。  遠坂凛は家の事情だとかで、一切部活動はやっていない。生徒会も同じ理由で推薦を拒否したぐらいだから、放課後はすんなりと帰宅していると思っていた。 「ま、たまにはそれもいいか。アイツもお高くとまってるし、一度ぐらいは痛い目にあうのもいいかもねー。お気の毒さまっていうか、ご愁傷さまっていうか」  なにやら物騒な事を口にする美綴。  ……そういえば、遠坂凛はああ見えて敵が多いというけど、美綴もその一人なんだろうか? 「おい美綴、いくらなんでもそれは」 「あ、そろそろ時間だ。じゃあね衛宮、今度あたしの弓の調子見に来てよ」  慌ただしく走っていく美綴。 「―――相変わらずだな、あいつ」  けど、アイツのああいうスッパリしたところは昔から気に入ってる。  なんとなく穏やかな気持ちになって、教室へ足を向けた。  昼休み。  うちの学校には立派な食堂があり、たいていの生徒は食堂でランチをとる。  が、中には弁当持参という古くさい連中もいて、その中の一人が自分と、目の前にいる生徒会長だった。 「衛宮、その唐揚げを一つくれないか。俺の弁当には圧倒的に肉分が不足している」 「……いいけど。なんだっておまえの弁当ってそう質素なんだ一成。いくら寺だからって、酒も肉も摂らない、なんて教えがあるわけでもないだろう」 「何を時代錯誤なことを。これは単に親父殿の趣味だ。  小坊主に食わす贅沢はない、悔しいのなら己でなんとかせよ、などと言う。いっそ今からでも〈典座〉《てんぞ》になるか、俺も考えどころだ」 「あー、あの爺さんなら確かに」  一成の親父は柳洞寺の住職で、藤ねえの爺さんとは旧知の仲という豪傑だ。  藤村の爺さんと気が合う、という時点でまともな人格を期待してはいけない。 「それはそれは。んじゃ、いつか恩返しを期待して一つ」  ほい、と弁当箱を差し出す。 「やや、ありがたく。これも托鉢の修行なり」  深々とおじぎをする一成。  ……なんていうか、こんなコトで一成がお寺の息子なのだと再認識させられるのはどうかと思う。 「ああ、そういえば衛宮。朝方、二丁目の方で騒ぎがあったのを知っているか? ちょうど衛宮と別れるあたりの交差点だが」 「交差点……?」  朝方の交差点と言えば、パトカーが何台も止まっていた騒ぎだろうか。 「なんでもな、殺人があったそうだ。詳細は知らないが、一家四人中、助かったのは子供だけらしい。両親と姉は刺殺されたというが、その凶器が包丁やナイフではなく〈長物〉《ながもの》だというのが普通じゃない」 「――――――――」  長物? つまり日本刀、というコトだろうか。  殺人事件という事は、それに両親と姉を殺されたという事か。  ……想像をしてしまう。  深夜、押し入ってきた誰か。不当な暴力。交通事故めいた一方通行の略奪。斬り殺される両親。訳も分からず次の犠牲になった姉。その陰で、家族の血に濡れた子供の姿。 「一成。それ、犯人は捕まったのか」 「捕まってはいないようだな。新都の方では欠陥工事による事故、こちらでは辻斬りめいた殺人事件だ。学校の門限が早まるのも当然―――どうした衛宮? 喉にメシでもつまったか?」 「? 別に何もないけど、なんだよいきなり」 「いや……衛宮が厳しい顔をしていたのでな、少し驚いた。すまん、食事時の話ではなかったな」  一成はすまなそうに場を和ます。  ……いや、本当にどうというコトもなかったのだが、そんなに厳しい顔をしていたんだろうか、俺。  と、静かに生徒会室のドアがノックされた。 「失礼。柳洞はいるか」 「え? あ、はい。なんですか先生」  一成はやってきた〈葛木〉《くずき》となにやら話し込む。  生徒会の簡単な打ち合わせなのだろうが、一成はわりと力を抜いているようだ。 「………へえ」  それは、ちょっとお目にかかれない光景だ。  ああ見えて、一成は人見知りが激しい。クラスメイトにも教師にも線を引くあの男が、生徒会顧問の葛木に対しては気を許している。 「……真面目なとこで気が合うのかも」  2年A組の担任である〈葛木宗一郎〉《くずきそういちろう》は、とにかく真面目で堅物だ。  おそらく、そのあたりが規律を重んじる一成と波長があうのだろう。 「――――――――」  二人の話し合いは続いていく。  それを眺めながら、なぜか、先ほど聞いた殺人事件のことが頭から離れなかった。  朝の話が気になったのか、気が付けば弓道場に来てしまった。   「―――ああもう、何やってんだ俺」    美綴の話では、遠坂凛は頻繁にここに来るらしい。  それは、まあ―――気にするコトなんてないけど、慎二が遠坂に手をあげるのは問題だと思う。 「……慎二のヤツ、カッとなると止まらないからな……」  遠坂にふられて慎二が暴力をふるうのはダメだ。  ……いや、何がダメなのかは分からないけど、とにかくダメだ。 「って―――なんだ、遠坂、いないじゃないか」  道場の周りに遠坂の姿はない。  美綴の心配はただの杞憂だ。 「へえ、誰がいないって?」 「っ!」   「だーかーらー、誰がいないって?」    と。ついさっき別れたばかりの一成がいた。 「お、おまえか一成。あんまり驚かすなよな」 「いや、衛宮が挙動不審げに道場を眺めていたからつい。  ―――で、誰がいないって?」 「誰って、遠坂だよ。なんでも昨日、慎二と一悶着あったらしいんだ。それで一応、様子を見に来ただけだ」 「ほうほう。挙動不審だな、訊かれてもいないのに理由まで話すなど。俺は誰がいないかと訊いただけなのだが?」 「――――! な、なんだよ。別にいいだろ、俺が何しようが俺の勝手だっ」 「うむ、それはしかり。だが無駄だぞ衛宮。遠坂はここにはいない。何故なら、あいつは今日ズル休みだ」 「なに?」  ズル休みって、つまり欠席? 「そうか、欠席か……って、待て一成。なんで遠坂がズル休みなんだよ。あいつがそんなのするわけないだろ」 「するとも、あいつが風邪など引くものか。俺が見たところアイツは悪いヤツだ。外見に騙されるとパクッと食われるぞ、衛宮」 「――――む」  なぜか、一成の言葉が癇に障る。  たしかに俺は遠坂を知らないが、あいつが悪い人間とは思えない。 「言い過ぎだぞ、一成。遠坂はそんなヤツじゃないだろう」 「むむ? なんだ、衛宮も遠坂狙いなのか。ああ、それはすまない、今のは流してくれ」 「――――!」  と、遠坂狙いって、誰がそんなコトを―――! 「か、勝手に決めつけるな! 俺はただ、慎二がもめ事を起こしたらたいへんだから―――」 「慎二が遠坂に殴りかかろうとしたら止める為か。また損な役回りをするな。……別に俺は気にしないが、わりと趣味が悪いのだな衛宮は」 「してないから損じゃない。けど一成。おまえ、いまヘンなコト言わなかった?」 「うん? 遠坂狙いは趣味が悪いって事かい」 「そう。遠坂は人気あるじゃないか。俺もあいつの悪い噂は聞かないぞ」 「ああ、聞かないね。それがまた気にくわない」 「気にくわないって、どのヘンがだよ」 「だから全部だよ。アレは女狐だ。〈女生〉《にょしょう》だ。妖怪だ。とにかく生理的に気にくわない。悪いことは言わないから、衛宮も気に入らないようにしろ」 「一成。人の陰口は良くないって、おまえの口癖じゃなかったか」 「たわけ。これが陰口に入るか。俺は聞こえるように喋っている」  ああ、どうりで弓道場から視線を感じる訳だ。  ……良かった。  今日、遠坂が欠席で本当に良かった。 「頼む一成。悪いが、早速陰口にしてくれ」 「うむ、衛宮がそう言うのなら了解した。  が、とりわけ中傷をしていた訳ではないぞ。単に柳洞一成が遠坂凛を警戒している、と言っただけだ。あくまで個人の趣味趣向の範囲だろう」 「そのわりには妖怪だとか女狐だとか言ってたけど」  ……というか、女生というのはあきらかに差別用語ではあるまいか。 「なに、褒め言葉だ。女狐にも妖怪にも善いモノはいる。  あくまで遠坂を表現する値として採用しただけである。  喝」  かんらかんらと笑う一成。 「それではな。俺は生徒会室に戻るが、衛宮はバイトだろう? こんなところで道草を食っている暇はなかろう」  言いたい事を言ってすっきりしたのか、泰然とした後ろ姿で去っていく一成。  知り合って二年になるが、正直、あの男の性格はいまいち掴めない。  学校からバスに乗る事二十分。  橋を渡って隣町である新都に到着した。 「……なんだ、まだ五時前か。少し時間があるな」    住宅地である深山町にアルバイトのタネはないが、開発地区である新都なら仕事に事欠かない。  うちの学校は生徒のアルバイトを認めている事もあり、簡単な仕事を請け負っている。  自分が好む仕事は力仕事で、ハードで、出来る限り短時間で終わる、というものだ。  体を鍛えられてお金を貰えるんだから、一挙両得というものだろう。  今日のバイトは五時から八時までの、簡単な荷物運びだ。  三時間だけとはいえ、その内容は六時間ほどの濃さがある。なにしろ一分の休憩もなしで走り回されるようなものなのだ。  なので、十分程度と言え休める時は休んでおくべきだろう。  時間までブラブラしているのも体力の無駄遣いだし、公園に入って時間まで休んでいよう。  ビル街のただ中にある公園は、木々と芝生に覆われた大きな広場、という趣だ。  休日であるなら親子連れや恋人たちで賑わう公園も、この時間だと人気はない。  いや―――もともと、ここだけは何時であろうと人気はないのだ。 「相変わらずだな、ここは」  少し呆れた。  荒れ放題の地面は、きちんと整地された周囲に比べてあまりにも〈見窄〉《みすぼ》らしい。  荒涼とした地面に引きずられているのか、吹く風も冷たかった。    ここは十年前の大火災の跡で、そのまま焼け死ぬ筈だった自分が助けられた場所でもある。 「なんで芝生とか植えないんだろ。いつまでもこのままってのは勿体ない」    これだけ広い土地なんだから、ちゃんと整地すれば公園は一段と広くなるだろうに。  ぼんやりとそんな事を思いながら、適当なベンチに座った。 「――――――――」  時間潰しに焼け跡の大地を眺める。  かつてここで起きた出来事を、思い出す事はない。  覚えているのは熱かった事と、息が出来なかった事。  それと、誰かを助けようとして、誰かが死んでしまっていた事。 「どうして、そうなのかな」  例えば、焼け落ちる家から子供を助けようとした大人は、子供を助けるかわりに死んでしまった。    例えば、喉が焼けた人たちがいて、なけなしの水を一人に飲ませたものの、他の人たちはみんな息絶えてしまった。    例えば、一刻も早く火事場から抜け出そうと一人で走り抜いて、抜き去っていった人たちは例外なく逃げられなかった。          それと、例えば。  何の関係もない誰かを助ける為に、自分を助けていたモノを与えてしまい力尽きてしまった人とか。 「――――――」  そういうのは嫌だった。  頑張った人が犠牲になるような出来事は頭にくる。  誰もが助かって、幸福で、笑いあえるような結末を望むのは欲張りなのか。  ただ普通に、穏やかに息がつける人たちが見たかっただけなのに、どうしてそんな事さえ、成し遂げられなかったのか。             “それは難しい。士郎の言っている事は、誰も彼も救うという事だからね”  幼い自分の疑問に、切嗣はそう答えた。  当然、幼い自分はくってかかった。  だって切嗣は俺を助けてくれた。なんでもできる魔法使いなんだって知っていた。  無償で、ただ苦しんでいる人を放っておけず手を出した正義の味方なんだって分かっていた。    だから―――切嗣ならあの時だって、みんなを助ける事ができたんじゃないかって信じていた。  そうぶちまけた俺に、切嗣は余計に困った顔をして、一度きり、けれど未だに強く残っている言葉を口にした。           “士郎。誰かを救うという事は、誰かを助けないという事なんだ。いいかい、正義の味方に助けられるのはね、正義の味方が助けたモノだけなんだよ。当たり前の事だけど、これが正義の味方の定義なんだ”  そりゃあ分かる。  言われてみれば当たり前だ。  ここに強盗と人質がいて、強盗は人質を殺すつもりでいるとする。  通常の方法では人質の大半は殺されてしまうだろう。  それを、人質全員を助ける、なんて奇跡みたいな手腕で解決したとしても、救われない存在は出てくるのだ。    つまり、人質を助けられてしまった強盗である。    正義の味方が助けるのは、助けると決めたモノだけ。  だから全てを救うなんて事は、たとえ神様でも叶わない。 「……それが天災なら尚更だ。誰であろうと、全てを助けるなんて出来なかった」  十年前の火事はそういうモノだ。  今更、奇跡的に助けられた自分がどうこう言える話でもない。 「けど、イヤだ」  そういうのは、イヤだった。  初めから定員が決まっている救いなどご免だ。  どんなに不可能でも手を出さなくてはいけない。  あの時のように、まわりで見知らぬ誰かが死んでいくのには耐えられない。  だから、もし十年前に今の自分がいたのなら、たとえ無理でも炎の中に飛び込んで――――   「そのまま無駄死にしてたろうな、間違いなく」    それは絶対だ。  まったく、我ながら夢がない。 「っと、しまった。ぼんやりしてたら五時になっちまった」  五時を告げる鐘が鳴り響く。  ベンチから立ち上がり、急いでバイト先へと向かっていった。  バイトが終わった頃、日は沈みきっていた。  時刻は八時前。  予定より十分ほど早く終わったのは、単に頑張りすぎたせいだ。  仕事前にあんな場所に寄ってしまったからか、がむしゃらに働いてしまったらしい。  駅前という事もあり、夜は始まったばかりだ。  人波は多く、道を行く自動車も途切れることがない。 「藤ねえにおみやげ―――はいいか」  明かりのついたビルを見上げながら歩く。  新都で一番大きいビルなので、さすがに上の方はよく見えない。  ただ夜景を楽しむ為にビルを見上げていると、 「――――?」  なにか、不釣り合いなモノが見えた気がした。 「なんだ、今の」  立ち止まって最上階を見上げる。  両目に意識を集中させて、米粒程度にしか見えないソレを、ぼんやりと視界に捉える。 「――――――」    それは、知っている誰かに似ていた。    何の意味があって、  何をする為にあんな場所にいるのか。  長い髪をたなびかせ、何をするでもなく、彼女は街を見下ろしている。 「――――」  こちらに気が付いている様子はない。  いや、見えている訳がない。  人並み外れて目のいい自分が、魔力で視力を水増ししてようやく判る高さだ。  あんなところで一人きりで立っているから見分けられるが、地上で人波に紛れている自分になど気が付く筈もないだろう。  彼女はただ街を見下ろしている。  何かを捜しているのか、こんなに遠くからでも鋭い視線が感じられた。 「――――――――」  時間を忘れて、虚空に立つ少女を見上げる。  それは高い塔の上。  月を背に下界を見下ろす、魔法使いのようだった。 「あ」  と。  用が済んだのか、あっさりと彼女は身を翻していった。  屋上から人影は消え、綺麗なだけの夜景に戻る。 「今の、遠坂だったのかな」  確証は持てないが、まず間違いはあるまい。  あれだけ目立つ容姿の女の子はそういないし、なにより、ひそかに憧れているヤツを見間違えるほど間抜けじゃない。 「……そうか。に、しても」    なんていうか、その。  ヘンな趣味してるんだな、遠坂。  授業が終わり、下校時刻になった。  今日はバイトが入っているので寄り道はできない。  学校に残るコトはせず、まっすぐに隣町に行かなくてはいけないのだが―――  ……桜の事が気になる。  俺が心配したところでどうなる訳でもないが、元気になったかどうか、様子を見るぐらいはいいだろう―――  四階、一年の廊下を歩く。  廊下に生徒の姿はなく、教室に残っている生徒も少なかった。  一年はみんな部活か、早々に下校したあとのようだ。 「……失敗したな。これじゃ桜も部活に行ってる」  まあ、それでもここまで来たのだ。  桜のクラスを覗いて、誰もいない事を確認したらバイトに向かえばいい。 「どれ」  ひょい、と一年B組の教室を覗く。  赤い陽射しに染め上げられた教室は静まり返っていて、人の気配を感じさせない。  教室には誰もいない。  生徒たちはみな、それぞれ望む場所へと出払ったあとだ。 「――――――――」  そんな赤い教室に、一人、取り残された影があった。 「桜」  赤い世界に踏み入って声をかける。 「……先輩?」  長い髪に隠れた顔は、朝より一段と元気がなかった。 「どうしたんですか? うちのクラスに何か用事でも」 「いや、桜のクラスに用事はない。単に桜の様子が気になっただけだ。朝から体調悪そうだったから」 「…………」  桜はますます顔を暗くする。  明らかに元気がない。 「桜、気分が悪いなら帰らないか。交差点までなら送れるから、いっしょに帰ろう」 「……いえ、いいです。わたしどこも悪くありません。  いつもどおり部活に出て、終わったら先輩のところで夕飯をご馳走になるんです。  ……悪くなんてないんです。だから気にしないでください」  鞄を手にとって、逃げるように歩き出す。 「ばか、そんな顔でなに言ってんだ。いいから部活は休め。だいたいな、そんなんで弓を引いても返ってくるもんなんかないだろ」  通り過ぎようとする桜の手を掴む。 「――――あ」  がたん、という音。  俺に手を掴まれただけで桜は倒れそうになった。 「ちょっ……!」  あわてて桜の腕を引く。  力任せに引いた桜の体は、驚くぐらい軽かった。 「び、びっくりしたあ……桜、ほんとに大丈夫か?  足、ぜんぜんふんばりきいてないじゃないか」 「……………………」  桜は申し訳なさそうに視線を逸らす。  まったく、今日に限ってどうしたってんだ、桜は。 「とにかく部活は休みだ。俺もバイト休むから、今日はおとなしく家に帰ろう」 「……………………」  桜は押し黙ったまま答えない。  俺の手を解きもしないが、おとなしく帰ってくれる様子でもない。 「どうしたんだよ桜。そんなんじゃ部活に出ても意味ないって分かってるだろ」 「……それは、先輩の言うとおりです。けど、兄さんが呼んでるから」  だから行かないと、と桜は小さく呟いた。 「――――――――」  ……っ。  そんな顔でそんな風に言われたら、言い返す事もできなくなる。  間桐家の事情は複雑らしく、慎二と桜の関係に口出しすることはできない。  ……どんなに桜を家族だと思っても、桜の本当の家族は間桐家の人間だ。  他人である俺がどうこう言ったところで、部外者の無責任な言葉にすぎないんだから。 「……部活には顔を出すだけか、桜」 「え……? あ、はい。わたしだって今は弓を引けないって判ってます」 「そうか。ようするに慎二の顔をたてるだけって事だな」  がたん、と椅子を引いて座る。  続いてすぐ隣の机からも椅子を引く。 「あの…………先輩?」 「いいから座れ。部活に行くのはもう止めない。そのかわりもうちょっと休んでいけ。慎二には俺から誘われて、断るのに時間がかかったって言えばいい」 「そ、そんなコト言えません……! そんなコト言ったら、兄さん、また先輩に、その」 「慎二がちょっかい出してくるのはいつものコトだよ。  いいじゃんか、毎日会話のネタがあってあいつも楽だろ。  それに、この話は嘘でもなんでもない真っ白な真実なんだから、後ろめたい事もない」  ほら、と桜に着席を促す。 「…………」  桜はしずしずと椅子に座った。 「よしよし。んじゃちょっと待っててくれ。生徒会室からお茶くすねてくるからな。俺が戻ってくるまで席を立つのは禁止だぞ」 「え……? 先輩、お茶をくすねてくるって、そんなコトしたら怒られるんじゃ……」 「先生に見つかったらな。なに、この手のコトには慣れてる。廊下でばったり会わないかぎり問題ないから、桜は椅子でふんぞり返っててくれ」 「で、できませんっ。先輩が危ないコトしてるときに休んでるなんてもってのほかですっ。先輩、わたしお茶なんていいですから――――」 「だから危なくないって。いいから座ってろよ。教室で茶を飲むってのも一度ぐらいはいいもんだ」 「あ」  廊下に飛び出る。  生徒会室はそう遠くない。  ササッとお茶一式を拝借して、桜をびっくりさせてやろう。  ……時間が過ぎる。  桜と二人、教室でお茶を飲む、なんて間の抜けたコトをしながら、何をするでもなく外を眺めた。  窓の外は一面の夕暮れで、少し目に痛い。 「……………………」  桜はぼんやりと夕焼けを見つめていた。  俺も話すコトはないし、桜に倣って口を閉ざした。  ―――会話がない為か、時間はゆるやかに過ぎていく。  桜はお喋りな方じゃないし、こうして風景を眺めている事も多い。  一人の方が落ち着くんだろう。  思えば、桜はよく一人になりたがる。  雑踏から外れる、というのではなく、周りに人がいる中で孤立したがるというか、こうやって中ではなく外を眺める事が多いのだ。  教室に一人で残っていたのもそれだろう。  桜は積極的に人と関わろうとしない。  俺や藤ねえは特例だ。  その俺だって慎二と知り合っていなければ、桜が衛宮士郎という先輩を持つ事もなかった訳だし。 「――――――――」  桜の横顔を盗み見る。  四年前、慎二から紹介された時はまだ少女というより女の子の趣が強かった桜。  それがいつのまにか後輩になって、家に家事手伝いをしにきてくれる事になって、幼い面影もなくなろうとしている。  桜は綺麗になった。  ……いや、前々から美人だったけど、ここんところは異性として綺麗になりすぎだと思う。  くわえてよく気が利いて、性格も穏やかだ。  それだけ美点があれば、一年生でありながら遠坂凛と並び称される美人っていうのも頷ける。 「………………………」  けど、それがおかしいというか、腑に落ちない。  桜は一人でいる事が多い。  弓道部でも友人はいないようだし、教室に一人で残っていた事からして、クラスにも友人はいないのかもしれない。  ……考えてみれば、俺は弓道部にいる桜と、うちにいる桜しか知らない。  学校にいる時の桜、間桐邸での桜がどう過ごしているのかを、俺はまったく知らない。 「……………………」  そんな事を今更になって、赤い空を見ながら思った時。   「――――先輩、覚えてますか?」    窓の外を見つめたまま、桜は言った。 「……? 覚えてるかって、なにを」 「ずっと昔の話です。わたしがまだ、先輩を知らなかったころの話」 「えっと、つまり桜と知り合う前の話か……?」 「はい。四年前、わたしが進学したばかりの頃です。  まだ新しい学校に慣れてなくて、あてもなく廊下を歩いている時、わたし、不思議なものを見たんですよ?」 「……うん。あれはいったいどういう経緯だったんでしょうね。  もう放課後で、グランドには陸上部の人もいないっていうのに、誰かが一人だけで走ってたんです。何をしてるのかなって見てみると、その人、一人で走り高跳びをしてました」  くすり、という音。  それは微笑ましい記憶なのか、桜は幸せそうに笑っていた。 「真っ赤な夕焼けだったんです。校庭も廊下もみんな真っ赤で、キレイだけど寂しかった。  そんな中でですね、一人でずっと走ってるんです。走って、跳んで、棒を落として、また繰り返して。まわりには誰もいなくて、その高さは越えられないって判ってるのに、ずっと試し続けてました」 「頑張ればなんとかなるって問題じゃないんですよ? だってその棒、その人の身長よりずっと高かったんです。  わたしから見ても無理だって判るんだから、その人だってとっくに跳べないって判ってたと思うんです」 「……?」  話はわかったけど、それがどうしたっていうんだろうか。  放課後、居残りでしごかれるヤツなんて珍しくもないと思うんだが。 「わたし、その時よくない子だったんです。イヤなことがあって、誰かに八つ当たりしたかった。失敗しちゃえ、諦めちゃえって、その人が〈挫〉《くじ》ける瞬間が見たくなって、ずっと見てたんです。  けど、なかなか諦めてくれないんですよ、その人。  何度も何度も、見ているこっちが怖くなるぐらいできっこないコトを繰り返して、ぜんぜん泣き言を言わなかったんです」 「……はあ。そりゃよっぽど切羽詰ってたんじゃないのか? 明日がレギュラー選定で、その高さを跳べないと選ばれないとか」 「いいえ、それは違います。だってその人、陸上部でもなんでもない人でしたから」  ありゃ、そうなのか。  ……それはいいけど、なんでそこで笑うんだ、桜は。 「それでですね。わたし、見ているうちに気が付いたんです。その人、別になんでもいいんだなって。今日たまたま自分の出来ない事にぶつかって、なら負けないぞって意地を張ってただけなんです。  そうして日が落ちて、その人は一人で片付けをして帰っちゃいました。すごく疲れてるのに、なんでもなかったみたいに平然とどっか行っちゃったんです」 「……わかんないヤツだな。けどやめたってコトは跳べたんだろ、そいつ。それ、何メートルぐらいの高さだったんだ?」 「あはは。これがですね、結局跳べなかったんです。その人、三時間もずーっと走って、どうやっても自分じゃ跳べないって納得しただけなんです」 「うわ。オチてないな、その話」 「はい。あんまりにも真っ直ぐすぎて、その人の心配をしちゃったぐらいです。  その人はきっと、すごく頼りがいのある人なんです。  けどそこが不安で、寂しかった」  そう呟く桜の声こそが寂しそうで、教室の赤色に飲み込まれそうだった。 「……はあ、話は分かったけど。それがなんだってんだよ、桜」 「いえ、分からないのならいいんです。わたしにはそう見えただけで、その人自身にとっては日常茶飯事だったということで」  さっきの暗さとは一転して、桜は柔らかな笑みを浮かべる。 「…………」  ……と。  いくら鈍感な俺でも、そこまで言われれば判る。  俺自身そんな記憶はないけど、まあ、四年前っていったら親父が亡くなってからそう日が経っていない時だ。  毎日無茶なコトをやってた時期だし、そういうコトもあったんだろう。 「……あー、桜。つまり、それは」 「はい、いまわたしの前にいる上級生さんでした。  あの頃は小柄だったから、同じ学年かなって勘違いしちゃったんです」  ……う。  昔の背に関しては言わないでほしい。  そりゃ今だって高い方じゃないけど、おもいっきり成長したんだぞ、これでも。 「そういうコトです。わたし、その時から先輩のことは知ってたんですよ」 「そ、そっか。それは、初耳」  つまんないモン見られたなあ、と目を逸らす。  と。   「はい。わたしたち、おなじものを見てたんです」    祈るような仕草で、おかしなコトを桜は言った。 「え……?」  気にかかって声をかける。  が、それを遮るように、聞きなれた鐘の音が校庭に鳴り響いた。 「――――あ。鐘、なっちまったな」  桜を引き止めてから三十分。時計は四時半を指していた。 「さすがにこれ以上の遅刻はやばいよな。片付けはやっとくから、桜は先に行っていいぞ。体、少しは良くなっただろ?」 「はい、おかげさまで元気いっぱいです。今日の夕飯は楽しみにしててください」  席を立つ桜。  強がりにも見えないし、本当に体調は良さそうだ。 「ああ……って、わるい桜。俺、これからバイトだ。今日は遅くなるから、無理してうちに来なくていい」 「はい、わかりました。ならお夕飯だけ作って置いていきますね」  桜はぺこりとお辞儀をして去っていった。 「――――ま、いっか」  家には藤ねえがいるし、桜が帰る時は藤ねえが送ってくれるだろう。  こっちも生活がかかってるコトだし、さっさとバイトに行くとしよう――――    ……目覚めは暗い。  夢は見ない性質なのか、よほどの事がないかぎり、見るユメはいつも同じだった。  ……イメージするものは常に〈剣〉《つるぎ》。  何の因果か知らないが、脳裏に浮かぶものはこれだけだ。  そこに意味はなく、さしたる理由もない。  ならばそれが、衛宮士郎を構成する因子なのかもしれなかった。  見る夢などない。  眠りに落ちて思い返すものなど、昔、誰かに教わった事柄だけだ。  たとえば魔術師について。  半人前と言えど魔術師であるのならば、自分がいる世界を把握するのは当然だろう。  端的に言って、魔術師とは文明社会から逸脱した例外者だ。  だが例外者と言えど、〈群〉《むれ》を成さねば存在していられない。  〈切嗣〉《オヤジ》はその群、魔術師たちの組織を“魔術協会”と教えてくれた。  ……加えて、連中には関わらない方がいい、とも言っていたっけ。  魔術協会は魔術を隠匿し魔術師たちを管理するのだという。  ようするに魔術師が魔術によって現代社会に影響を及ぼさないように見張っているのだが、魔術の悪用を禁ず、という事でないのが曲者だ。  切嗣曰く、魔術協会はただ神秘の隠匿だけを考えている。  ある魔術師が自らの研究を好き勝手に進め、その結果、一般人を何人犠牲にしようと協会は罰しない。  彼らが優先するのは魔術の存在が公にならない事であって、魔術の禁止ではないのだ。  ようはバレなければ何をしてもいいのだという、とんでもない連中である。  ともあれ、魔術協会の監視は絶対だ。  たいていの魔術研究は一般人を犠牲にし、結果として魔術の存在が表立ってしまう。  故に、一般社会に害をなす研究は魔術協会が許さない。  かくして魔術師たちは自分の住みかで黙々と研究するだけにとどまり、世は全て事もなし――――という訳である。  魔術師が自身を隠そうとするのは、〈偏〉《ひとえ》に協会の粛清から逃れる為なのだとか。  ……だから、本当は俺が知らないだけで、この町にだって魔術師がいる可能性はある。  なんでも、冬木の町は霊的に優れた土地なのだそうだ。  そういった土地には、必ず歴史のある名門魔術師が陣取っている。  〈管理者〉《セカンドオーナー》、と呼ばれる彼らは、協会からその土地を任されたエリートだ。  同じ土地に根を張る魔術師は、まず彼らに挨拶にいき、工房建設の許可を貰わねばならないらしい。  ……その点で言うと、〈衛宮〉《うち》は大家に内緒で住んでいる盗人、という事になる。  〈切嗣〉《オヤジ》は協会から手を切ったアウトローで、冬木の管理者に断りもなく移り住んできた。  〈管理者〉《オーナー》とやらは衛宮切嗣が魔術師である事を知らない。  そういった事もあって、〈衛宮〉《うち》の位置付けというのは物凄く曖昧なのだと思う。  真っ当な魔術師であった〈切嗣〉《オヤジ》は他界し、  その息子であり弟子である俺は、魔術協会も知らないし魔術師としての知識もない。  ……協会の定義から言えば、俺みたいな半端ものはさっさと捕まえてどうにかするんだろうが、今のところそんな物騒な気配はない。  いや、日本は比較的魔術協会の目が届かない土地だそうだから、実際見つかっていないんだろう。  ―――と言っても、気を緩めていい訳じゃない。    魔術協会の目はどこにでも光っているという話だし、くわえて、魔術で事件を起こせば異端狩りである教会も黙ってはいないという。  ……魔術を何に使うのであれ、安易に使えばよからぬ敵を作るという事。  それを踏まえて、衛宮士郎は独学で魔術師になればいいだけの話なのだが―――― 「…………、ん」  窓から差し込む陽射しで目が覚めた。  日はまだ昇ったばかりなのか、外はまだ〈仄〉《ほの》かに薄暗い。 「……さむ。さすがに朝は辛いな」  朝の冷気に負けじと起きあがって、手早く布団をたたむ。  時刻は五時半。  どんなに夜更かしをしても、この時間に起きるのが自分の長所だ。昨日のような失態を犯すこともあるが、おおむね自分は早起きである。 「それじゃ朝飯、朝飯っと―――」  昨日は桜に任せきりだった分、今朝はこっちがお返しをしないと申し訳が立つまい。  桜がやってくる前にササッと支度を済ませてしまおう。  ごはんを炊いて、みそ汁を作っておく。  昨日は大根とにんじんだったので、今日は玉ねぎとじゃが芋のみそ汁にした。  同時に定番のだし巻たまごをやっつけて、余り物のこんにゃくをおかか煮にして、準備完了。  主菜の秋刀魚は包丁をいれて塩をまぶし、あとは火を入れるだけ、というところでストップ。 「よし、こんなんでいいか」    そろそろ六時。  思ったより早く終わったんで、時間を持て余してしまったが――――  深山町に帰ってくる。  新都とは違い、こっちは深夜と間違えるほど静かだった。 「……桜、大丈夫かな」  体調は良くなっていたようだが、あれからうちで夕飯を作って帰ったかと思うと、また無理をさせてしまったな、と反省する。 「……ちょっと、様子見てくるか」  いまから間桐邸に行ってどうなるわけでもないけど、何もしないよりは安心できるか。  間桐の家に異状はない。  桜が言っていたような“不審な外国人”の姿はないし、電気だっていつも通り、桜の部屋と慎二の部屋にしか点いていない。 「――――え?」  ……と、ちょっと待った。  となると、昨夜の明かりはなんだったんだろう。  桜でも慎二でもない第三者が間桐の家にいたんだろうか……? 「もし。なにか、この家に用があるのかね」 「……!?」  咄嗟に振り返る。  ……夜の暗がり。  虫の鳴き声に紛れるように、その人物は立っていた。  それは、見慣れない老人だった。  よほどの高齢だろうに凛とした眼と、小さな体には不釣合いな威圧感。  生きてきた年月の差なのか、こうして向き合っているだけで気圧される威厳がある。 「どうした若いの、なぜ答えん。答えねばこちらで極め付けてしまうぞ? ふむ、では桜が言っておった不審なよそ者がおまえさんだ、という事でよいかな」  桜……?  ……ってコトは、この人、もしかして―――― 「まいったのう。孫の頼みだ、見過ごしておく訳にもいくまい。見ず知らずのおまえさんには申し訳ないが、少し痛い目にあってもらわねばならん。  念の為聞いておくが、潔く公僕の厄介になる気はないか?」  正体不明の老人は快活に、物騒なコトを言ってくる。  ―――ま、間違いない。  初めて会うけど、この人、桜の―――― 「ぁ……いや、違いますっ……! 俺は慎二の同級生で、桜とは知り合いで散歩がてらに様子を見にきた衛宮士郎という者です……!」 「ほう。そうか、慎二と桜の知り合いか。それは邪魔をしたな。どれ、二人を呼んでこよう。それとも夕飯を馳走されるかね」 「い、いえ、ちょっと寄っただけですから、すぐ帰ります。それよりお爺さん、桜はもうちゃんと帰ってきてますか?」 「〈臓硯〉《ぞうけん》じゃ」  と。  老人は、不愉快そうに意味不明な単語を口にした。 「え?」 「〈間桐臓硯〉《まとうぞうけん》。おまえさんが名乗ったというのに、ワシが名乗らんままではおかしかろう」  間桐臓硯氏はそれだけ言うと、玄関に向かって歩き出した。  俺の事など興味はない、といった風である。 「………………」  なんというか、圧倒されて言葉もなく見送ってみる。  ―――と。 「桜ならば帰ってきておる。  それより衛宮士郎。アインツベルンの娘は壮健かね?」 「……は? アインツ、なんですか?」 「とぼけるでない。アインツベルンの娘が衛宮を訪ねるは道理。此度の座の出来はどうか、と問うておる」 「?????」  あー、ますます分からない。  ……失礼だけど、桜。  おまえのお爺ちゃんは、なかなかの難物だ。 「……………ふむ。どうやら本当に知らんらしいな、これは」  ため息をつく臓硯氏。  なんというか、ものすごくガッカリしているように見えて申し訳なくなる。 「……はあ。よく分かりませんけど、すみません」 「いやいや、おぬしが気に病む事はない。ワシの勘違いじゃ、つまらぬ事を言ってすまなかった。  そら、孫たちに用があるのなら遠慮する事はない。年寄りは隠居しておるでな、気兼ねなく訪ねるがよい」 「あ、いや、今日は本当に寄っただけです。……けど、その。お爺さん、この家に住んでいるんですか?」 「住んでおるとも。もっとも見ての通りの老体でな。日がな一日、奥座敷でくたびれておる」 「………………」  ……そうなのか。  一年前までは何度か間桐邸に上がっていたけど、慎二と桜以外の人間がいるようには思えなかったが。 「では失礼するぞ、衛宮士郎君。うちの孫たちと善くしてやってくれ」  見かけとは裏腹に、軽い足取りで老人は去っていった。  間桐邸に変化はない。  虫の鳴き声だけが、唐突に止んでいた。  ……一日が終わる。    騒がしい夕食を終え、藤ねえを玄関まで見送って、風呂に入る。  あとは土蔵にこもって日課の鍛錬。  それらをいつも通り終わらせて眠りにつく。  午前一時。  一日は何事もなく、穏やかに終わりを告げた。 「おはようございます先輩。今朝はもう済んでしまいましたか?」 「ああ、朝食の支度なら済んでる。あとは食器の支度と、魚に火を通すだけ」 「あ、それならお手伝いします。食器の支度は任せてください」  むん、とはりきる桜。  そんな健気な後輩の後ろを、 「あ、この匂いは士郎の卵焼きね。そっか、今朝は士郎の朝ごはんなんだー」  藤ねえがのんびりと食卓へ移動していく。 「……まあ、アレは放っておいて」  下ごしらえしておいた魚に火を通さなければ。 「桜、皿は真ん中のヤツ使ってくれ。その方が旨く見えるから」 「え……? あの、この表面がブツブツのですか?」 「そうそれ。焼き物は皿にも気を配らないと手抜かりになるからな。で、大根はもうすってあるから―――」  よいしょ、と棚の奥に手を伸ばして皿を取り出す桜。 「――――」  身を乗り出す桜の手首に、うすい痣が見えた気がした。 「桜、ちょっと待った」 「はい? なんですか先輩」 「その手首の痣、なんだ」 「あ――――」  気まずそうに視線を逸らす。  それで、その痣が誰につけられた物か判ってしまった。 「また慎二か。アイツ、妹に手をあげるなんて何考えてやがる……!」 「ち、違います先輩……! あの、その……これは転んでぶつけちゃったんです。ほら、わたし鈍いでしょう?  だからよく転んで、ケガばっかりしてるんです」 「ばか、転んだぐらいでそんな痣がつくか。慎二のヤツ、どうやらまだ殴られ足りないみたいだな……!」 「だ、だめです先輩っ……! これ、本当に兄さんは関係ないんです。わたしが一人でケガをしただけなんですから、先輩に怒ってもらう資格なんてありません」 「――――」  それきり桜は押し黙ってしまった。  ……大人しそうに見えて、桜はわりと意固地なところがある。こうなっては何を言っても逆効果だろう。 「……わかった。桜がそう言うんならそういう事にしておく」 「……はい。ごめんなさい、先輩」 「だから、どうしてそこで桜が謝るんだ。悪いのは慎二だろう」 「………………」  慎二の名前を口にした途端、桜は気まずそうに視線を逸らした。  つまり、それが桜の手首に痣がある理由だ。  間桐慎二。桜の兄貴であるアイツは、妹である桜に辛くあたる悪癖がある。  俺がそれに気が付いたのは一年ほど前だった。  桜は時々ケガをしている事があって、どうしたのかと訊ねても誤魔化してばかりだった。  それが気になって慎二に相談したら、あろう事かあの野郎、桜を殴ったのは自分だなんて言い出しやがった。  なんで殴ったんだ、と問いつめれば、気にくわないから殴っただけ、と答えた。  ―――そのあとカッとなった俺は、慎二とまったく同じ事を慎二本人に仕返した。  それ以来、慎二とは〈疎遠〉《そえん》になった。 「……先輩。兄さんとはその、仲直りしてくれましたか?」 「え? ああ、したよ。別にはじめからケンカなんてしてないから、仲直りも何もないけどな」 「……えっと、先輩にとってはそうでしょうけど、兄さんにとってはケンカをした事になるんです。だから、その……気をつけて、ください」 「?」  桜はおかしな事を言ってくる。 「気をつけろって慎二を?」 「……はい。兄さん、先輩を目の仇にしてるって聞きました。……その、先輩が退部するようになったのも兄さんのせいだって―――」 「それは違う。部活を辞めたのは慎二とは関係ない。いや、そりゃあ多少はあったかもしれないけど、そんなのは桜が気に病むコトじゃないぞ。たしかに慎二の言うとおり、ちょっと見苦しいからなコレは」  くい、と左肩を指さす。  そこにはちょっとした傷跡がある。  一年半前の話だ。  バイト中に荷物が崩れてきて、左肩を痛めてしまった事があった。怪我自体は骨折で済んだのだが、落ちてきた荷物が厄介なもので、肌にちょっとした焼き跡がついてしまったのだ。  その事故の後、俺は弓道部を辞めた。  うちの学校の弓道部は格式を重んじるのか、学生ながらに射礼をやらせてくれる。  男子の射礼は左肩だけ服をはだけさせ、肌を露わにして的を射る。  肩に火傷の跡があるヤツが射礼をするのは見苦しいのでは、と慎二の指摘があり、俺もちょうどアルバイトも忙しい時期だったので部活を辞めたという訳だ。 「あの、先輩。しつこいようですけど、本当にもう弓は引かないんですか? 藤村先生も怪我なんて支障はないって言ってるのに」 「なにを平和な! 藤ねえは全身骨折しようが支障ないって言うヤツだぞ、桜」 「先輩、わたし真面目な話をしているんですっ」 「……む」  こうなるとこっちも真面目に答えなくちゃいけないんだが、生憎と桜の望む返答は出来ない。 「当分は部活をしている余裕はないよ。弓は好きだけど優先するべき事じゃないし、しばらくは間を取ろうと思う」 「……しばらくって、どのくらいですか」 「気が向いた頃かな。ま、桜が卒業するぐらいまでにはなんとか。その時はよろしくな、桜」  ぽん、と桜の肩を叩く。 「あ、はいっ……! わたし、その時をお待ちしています!」  なんて、食器を落としかねない勢いで頷いていた。  授業が終わり、下校時刻になった。  今日はバイトが入っているので寄り道はできない。  学校に残るコトはせず、まっすぐに隣町に行かなくてはいけないのだが―――  白い陽射しを感じた。  隙間風だろう、冷たい外気が頬にあたって、ぼんやりと目が覚めた。 「あれ……土蔵だ、ここ――――」  体を起こして、目覚めたばかりの頭を二三回振る。 「そうか。昨日、そのまま眠っちまったんだ」  夜の日課―――自分の体にもう一つの感覚を付属させる鍛錬の後、部屋に戻るのが面倒になったのだろう。 「外の様子だと六時前ってところか。……いかん、朝飯の支度しなきゃ」  毛布を折り畳み、昨日も失敗に終わった“強化”の破片を片づけて、顔を洗いに屋敷へ向かう。 「――――さむ」  土蔵から出れば、外の気温は輪をかけて低かった。  冬でも暖かい深山町だが、こっち側の山の上だけはまっとうな冬の寒さを持っている。  で。  氷水めいた水道水で顔を洗って、とりあえずスッパリと覚醒する。 「――――――――よし」  完全に目が覚めた。  そうなってみると、自分がどんな状況に置かれているのかなんて、考えたくない事が浮かんでくる。 「……そうだ。のんきに顔洗ってる場合じゃなかったっけ……」  時刻は朝の五時五十五分。  やるべき事は山ほどあるが、まずは部屋に戻ってセイバーの様子を見なくては。 「……だよな。黙って部屋を出た事になるんだし、一言説明しておかないと」  セイバーに変な勘違いをされるのも困る。  ……深夜、眠る前に土蔵に行くのは日課なんだし、説明すれば納得してくれるだろう。 「セイバーにちゃんと説明したら、その後は朝飯の支度だろ。……遠坂は食べないらしいから、セイバーの分を足せばいいだけか」  あ。そっか、それなら増えた人数分の材料を買い込んでおかないと。忘れないうちにメモをとっておくべきだな。 「……む? 忘れ物……?」  なんだろ。  なにか一つ、とんでもなく重要なコトを忘れている気がするのだが――― 「やば、六時だ。急がないと間に合わない」  ま、思い出せないのなら大したコトじゃあるまい、うん。 「――――――――」  そーっと扉を開ける。  部屋の様子は昨夜のままだった。  夜のうちにセイバーが目を覚まし、こっちの部屋を捜した形跡はない。  部屋を抜け出した事は気づかれなかったようだ。 「……なんか拍子抜けだな。セイバーならそれぐらいは気が付くと思った」  それとも、今の彼女はそんな事に気が付かないほど、深い眠りを必要としているのか。 「……そうか。体を維持する為に頻繁に眠るって言ってたのは、そういう事かもしれない」  だからこそ出来るだけ身近で眠って、何かあったときすぐに駆けつけられるようにしているのだ。 「…………」  どちらにせよ、屋敷の中にいる限りは何処にいようと大差はない。  敵の侵入は結界で感知できる。  それなら俺でも一分ぐらいはなんとか身を守れるだろうし、一分もあれば屋敷のどこからでもセイバーは駆けつけられる。 「……そうだよな。それに土蔵だったら隠れる場所には事欠かないし」  とりあえず、昨夜の行動はそう怒られるような事ではないだろう。  セイバーに事情を説明しようと思ったが、その必要はなさそうだ。眠っているのなら無理に起こすのもアレだし。 「セイバー、朝飯の支度をしてくる。セイバーの分も用意しとくけど、眠かったら無理に起きなくていいからな。  また後で来るから、それまで休んでてくれ」  一応きちんと声をかけて、静かに部屋を後にした。  居間には誰もいない。  とりあえず冷蔵庫を開けて、今朝は何にしようかと案を練る。  と。 「―――おはよ。朝早いのね、アンタ」  思いっきり機嫌が悪そうな顔で、遠坂がやってきた。 「と、遠坂……? どうした、何かあったのか……!?」 「別に。朝はいつもこんなだから気にしないで」  遠坂はゆらゆらと、幽鬼のような足取りで居間を横切っていく。 「おい、大丈夫かおまえ。なんか目つきが尋常じゃないぞ」 「だから気にしないでって言ってるでしょ。顔でも洗えば目が覚めるわ。……えっと、ここからだとどう行くんだっけ、脱衣所って」 「そっちの廊下からのが近い。顔を洗うだけなら、玄関側の廊下に洗面所がある」 「あー、そういえばあったわね、そんなのが」  どこまで聞こえているのか、遠坂は手を振りながら去っていった。  と。  来客を告げる呼び鈴が聞こえた。 「士郎―――? 誰か来たけど―――?」  廊下から遠坂の声。 「ああ、気にしないでいいー! この時間に来るのは身内だからー!」  この時間に来るのなら桜だろう。  桜なら合い鍵を持っているし、玄関まで出る必要はない。 「……まったく。チャイムなんて押さなくていいって何度言ってもきかないんだからな、桜は」  桜は家族みたいなもんなんだから、チャイムなんか押さずにドカドカと入っていいのだ。  なのに桜は礼儀正しく、必ずチャイムを押して『お邪魔します』と一声かける。  それが桜の美点なんだろうが、そんなにいつも気を遣ってたらいつか参って―――― 「――――――」  って、ちょっと待った。  桜が、うちに、やってきた……? 「っっっっっっ…………!!!」  廊下を走る。  自分の間抜けさを叱るのは後だ。  とにかく玄関に急いで、遠坂と顔を合わす前に帰ってもらわないと――――! 「ハッ……ハッ……!」  が、時すでに遅い。  玄関には、 「――――――――」  頼まれもしないクセに客を出迎えている遠坂と、 「――――――え?」  ぽかん、と驚いている桜の姿があった。  桜は玄関の土間、遠坂は廊下。  二人はなんともいえない緊張感を持って、お互いを見つめていた。 「おはよう間桐さん。こんなところで顔を会わせるなんて、意外だった?」  廊下から、桜を見下ろすように遠坂は言う。 「――――遠坂、先輩」  どうして、という顔。  桜は怯えを含んだ目で遠坂を見上げている。 「――――」  まいった。  声がかけられない。  二人は駆けつけた俺を無視して、お互いだけを観察している。  そこに俺が口を挟む余地なんてない。  出来る事といったら桜にどう説明しようか考える事ぐらいなんだが、うまい説明を考えつく前に、     「先輩……あの、これはどういう……」    助けを求めるように、桜がこちらに視線を逸らした。 「ああ。それが、話すと長くなるんだけど―――」 「長くならないわよ。単に、わたしがここに下宿する事になっただけだもの」  きっぱりと。  人の言葉を遮って、遠坂のヤツ、要点だけを言いやがった。 「……先輩、本当なんですか」 「要点だけ言えばな。ちょっとした事情があって、遠坂にはしばらくうちに居てもらう事になった。  ……ごめん、連絡を入れ忘れた。朝から驚かせてすまなかった」 「あ、謝らないでください先輩っ。……その、たしかに驚きましたけど、そんなのはいいんです。それより今の話、本当に―――」 「ええ、これはわたしと士郎で決めた事よ。家主である士郎が同意したんだから、もう決定事項なの。  この意味、わかるでしょう? 間桐さん」 「……わかるって、何がですか」 「今まで士郎の世話をしていたみたいだけど、しばらくは必要ないって事よ。来られても迷惑だし、来ない方が貴女の為だし」 「――――――――」  桜は〈俯〉《うつむ》いて口を閉ざしてしまう。  そのまま凍り付いたような静寂が続いたあと。 「…………わかりません」 「え――――はい?」 「…………わたしには、遠坂先輩のおっしゃる事がわからないと言いました」 「ちょっ、ちょっと桜、アンタ――――」 「お邪魔します。先輩、お台所お借りしますね」  桜はぺこりとお辞儀をして家に上がると、遠坂を無視して居間へと行ってしまった。 「な―――――――」  呆然と立ちつくす遠坂。  それはこっちも同じだ。あんな桜を見たのは初めてで、なんて言ったものか判断がつかない。  ……いや、それも驚きだけど、今はもう一つ意外な事がある。 「おい遠坂。おまえ、どうして桜が俺んちに来てるって知ってたんだよ。今まで桜が俺の世話をしてたなんて、おまえに言ったおぼえはないぞ」 「え――――? ああ、それなら前にちょっと小耳に挟んだだけよ。ただの偶然。  それより驚いたわ。あの子、ここじゃあんなに元気なの? 学校とじゃ大違いじゃない」  よっぽど意外だったのか、遠坂は不機嫌そうに言い捨てる。  という事は、遠坂は学校での桜をそれなりに知っているのだろう。  桜の方も遠坂とは顔見知りだったみたいだし、知らない所で二人はいい先輩といい後輩だったのかも知れない。  ……まあ、それはいいとして。 「いや、俺も驚いてる。あんなに刺々しい桜は初めて見た。うちに手伝いに来てくれてる時と、学校での桜は変わらないよ。今のは鬼の霍乱ってのに票を投じる」 「―――ふうん、そうなんだ。……まずったわね、桜があんなに意固地だとは知らなかったわ。こうなるんなら士郎の口から説明させればよかった」  そりゃそうだ。  遠坂の容赦ない説明に比べれば、俺の方が幾分ましだろう。 「……済んだことは仕方がないだろ。それよりまずいって何がだよ」 「そりゃまずいでしょう。これからこの家は戦場になるかもしれないのよ? だからわたしたち以外の人間を寄せ付けないようにって桜を〈窘〉《たしな》めたのに、あれじゃ逆に追い出すのが難しくなったじゃない」 「あれで窘めてたのか。俺はてっきり〈虐〉《いじ》めてるのかと思った」 「そこ! なんかつまんないコト言った、いま!?」 「率直な感想だよ。それより桜の事だ。どうする、あの分じゃ帰ってくれそうにないぞ」 「そんなのなんとかするしかないでしょ。で、桜が来るのは朝だけ? それとも夕食もこき使ってるの?」 「誤解を招くような言い方するなよな。朝は毎日だけど、夕飯はそう多くないぞ」 「そう。それじゃ、これからは毎日になりそうね」 「?? 毎日って、何がさ」  首をかしげて質問する俺に、遠坂はこれみよがしに、はあ、なんて溜息をこぼしていた。  その後。  遠坂は居間に残り、桜は無言で朝飯の支度を始めてしまった。  居間で遠坂と桜をふたりきりにするのは不安があったが、こっちもセイバーの事を忘れるほど間抜けじゃない。  どうも桜は遠坂がいる事に怒っているみたいだし、ここでセイバーが出てきては話が更にこじれる。  こじれるので、セイバーには事情を説明する事にした。 「……という訳なんだ。  桜―――あ、いまうちに来てくれてる子は桜って言うんだが、桜は魔術師でもなんでもない普通の子で、聖杯戦争なんかに巻き込むわけにはいかないだろ。できれば知らないままで、しばらくうちから離れていてほしいんだが―――」    違うっ、どうしたら離れてくれるだろうなんて相談しにきた訳じゃないっ! 「だからだな、今朝の桜はどうもおかしいんだ。  遠坂が原因なんだが、そこに追い打ちをかけるのもどうかと思う。ああいや、だから桜は見知らぬ他人がうちにいる事に驚いてるんだ。そこにセイバーが出てくるとさらにおかしくなりそうなんだが、まて、俺なんかセイバーに失礼なコト言ってないか……?」 「いいえ、シロウの言いたい事は判ります。つまり、私はここで待機していれば良いのですね?」 「――――! そう、そうしてくれると助かる! 桜を送り出したらすぐに戻ってくるから、朝食はその時で」  ええ、と静かに頷くセイバー。  いや、セイバーが物わかりのいいヤツでもの凄く助かった。  よし。  居間の様子も気にかかるし、急いで戻ることにしよう。 「――――シロウ」 「ん? 何だ、セイバー」 「はい。そのような事を私に説明する必要はありませんが、もう少し落ち着くべきです。先ほどからシロウの言動は破綻しているかと」 「え――――慌ててるか、俺?」 「とても。居間に戻るのでしたら、その前に気を落ち着けることです」  セイバーは静かに、いつもの調子でそんな助言を口にした。    で。  何事もなかったかのように、いつもの朝食が始まった。 「どうぞ先輩。遠坂先輩もいかがですか?」  ごはんを盛ったお茶碗を差し出す桜は、いつも通りの桜だった。  俺がいない間に何があったかは知らないが、二人の間にあった緊張感は薄れている。  いやまあ、とりあえず表面上は。 「……ん。じゃ、お言葉に甘えて」  遠坂は少し戸惑ったあと、桜からお茶碗を受け取った。  桜はにっこりと笑ってみそ汁、卵焼き等のおかず軍団を並べていく。  目の前に並べられていくそれを、遠坂は複雑そうな顔で見下ろしていた。 「遠坂。おまえ、朝飯は食べない主義じゃなかったっけ」 「用意されたものは食べるわ。当然の礼儀でしょう、それって」 「……ま、いいならいいか。それじゃいただきます。それと、結局支度を任せてすまなかったな桜」 「いえ、これがわたしの仕事ですから気にしないでください。じゃあわたしもいただきますね」 「まったく良い身分だこと。後輩に朝食作らせるなんてどこの王侯貴族なんだか。ま、それは追々問いつめるとしていただきます」  三者三様のていでお辞儀をして、いざ朝食。  ……。  …………。  ………………。  ……………………いかんな。どうも会話がない。 「――――――――」  まあ険悪なムードではないし、そもそもうちの朝食はこんなもんだ。  俺も桜もお喋りな方でなし、飯時が静かなのはいたって道理なのだ。  にも関わらず、どうして衛宮邸の朝食はいつも騒々しいんだろう。 「…………?」  いや、まて。  なんか、また頭にひっかかったぞ……? 「先輩? あの、お魚の味付け濃かったですか……?」 「いや、そんな事はないけどな。どうも、さっきから何か忘れてる気がする」  なんだろう?  思い出せないコトなら大した事じゃない、と割り切ろうとしたが、それはとんでもない思い違いな気がしてきた。  放っておいたら死に至る病巣を抱えてしまっているような、そんな不安がよぎる。 「―――ま、いっか。どうせ大したコトじゃないんだろ」  うん、と無理矢理納得して飯をかっこむ。    ――――と。   「おはよー。いやー、寝坊しちゃった寝坊しちゃった」  パタパタと音をたてて、藤ねえがやってきた。 「――――――――」  そうか。  思い出せないコトじゃなかったんだ。  ようするに、思い出さないコトで問題を先送りにしたかった訳なのだ。 「士郎、ごはん」  行儀良くいつもの席に正座する藤ねえ。  おそろしいほどユニゾンする二人の挨拶。 「はい、どうぞ先生。大したものではありませんけど、召し上がってください」  そして、いつも通りの笑顔でお茶碗を渡す桜。 「?」  お茶碗を受け取って首を傾げる藤ねえ。  何か不思議なのだが、どうして不思議なのか分からない。  そんな藤ねえは、まにょまにょと物静かにご飯を食べる。  かくしてきっかり一杯分の飯を平らげてから、ぼそぼそと俺に耳打ちをしてきた。 「……ね、士郎。どうして遠坂さんがいるの?」 「それは、今日からうちに下宿する事になったからかな」  淡々と事実だけを説明する。 「あ、そうなの。遠坂さんも変わったコトするのね」 「うん。あいつ、けっこう変わり者だ。学校じゃ猫被ってる」 「そっかー、今日からここに下宿するのかー」  なるほどなるほど、と納得してぐぐーっ、とみそ汁を飲み干す藤ねえ。         「って、下宿ってなによ士郎ーーーーーー!!!!」  どっかーん、とひっくり返るテーブル。  幸運なことに桜は風上、遠坂は当然のように予め移動していて、被害は俺だけに集中した模様。 「あちーーーー! ななななにすんだよ藤ねえ! みそ汁だぞ炊きたてのご飯だぞつくね煮込んだ鍋ものだぞ!?こんなもんかけられたら熱いだろうっ―――て、何故に朝っぱらから鍋物なぞ……!?」 「うるさーい! アンタこそなに考えてるのよ士郎! 同い年の女の子を下宿させるなんてどこのラブコメだい、ええいわたしゃそんな質の悪い冗談じゃ笑ってやらないんだから!」 「笑いをとるつもりなんかねーってば……! っていうか熱! 熱い、火傷する、桜タオルくれタオル!」 「はい。冷やしたタオルでしたら用意しておきました、先輩」 「サンキュ、助かる……! うわ、襟元からつくねが、必要以上に加熱されたつくねがあ―――!?」 「タオルはあと! そんなコトより申し開きしなさい士郎、アンタ本気でそんなコト言ってるの!?」 「おう、そんなの当たり前だ。俺がこの手の冗談苦手だって知ってるだろ。  とにかく遠坂はうちに泊めるんだ。文句は聞くけど変更はしないから、言うだけ無駄だぞ」 「そんなの大却下! な、なんのつもりか知らないけどダメに決まってるでしょう! お、同い年の女の子と一緒に暮らすなんて、そんなのお姉ちゃん許しません!」  があー、と吠える藤ねえ。  ……そりゃあ、まあそうだよなぁ。  藤ねえは俺の保護者だし、かつ学校の先生だし。  こんな状況、竹刀百叩きどころか真剣百回斬りでも済まされるかどうかだし。  それでも無理を通さなくちゃいけないあたりが我が身の不幸というかなんというか。 「いや、そこをなんとか。別にやましい気持ちなんてないし、遠坂とはそういう関係でもないんだ。ただ、たまたま事故に遭ったっていうか、成り行きで部屋を貸すコトになっただけなんだってば」 「うるさーい! ダメなものはダメなのーーーー!  わたしは下宿なんて許しません! 遠坂さんの事情は知らないけど、ちゃっちゃと帰ってもらいなさい!」  うわあ、聞く耳もたねー!  ダメだ、やっぱり俺なんかの説得が通じるほど生やさしい人じゃないのかっ……! 「先生。下宿は許しません、とおっしゃいますけど、わたしはすでに一泊してしまったのですが」  と。  藤ねえの頭に冷水ぶっかけるような台詞を、さらりと遠坂は口にした。 「――――え?」 「ですから、昨日泊めさせていただいたんです。  いえ、正確には土曜の夜からお邪魔していますから二泊でした。今は別棟の客間を借りて、荷物も運んであります。  どうでしょう先生。客観的に見て、わたしはもう下宿している状況なのですが」 「――――――――」  さあー、と藤ねえの顔が青くなっていく。 「し、し、士郎、アンタなんてコトするのよぅ……!  こんなコト切嗣さんが知ったらどうなるか分かってるの!?」 「どうなるかって、親父だったら間違いなく喜ぶぞ。男の甲斐性、とかなんとか言って」 「う……同感。切嗣さん、女の子にはとことん甘い人だったからなぁ……そっか、それが遺伝してるんでしょ士郎のばかー!」  がくがく、と人の襟を掴んで体を揺さぶる藤ねえ。  ……まあ、遺伝はともかくとして、女の子は守ってあげなくちゃいけないよ、というのが親父の信念だった。  俺も親父ほど振りかざす訳じゃないけど、まったくその通りだって思ってる。  だが、しかし。 「なに? 助け船、出してほしいの?」  あの冷血漢まで女の子と認識しなくちゃいけないあたり、男っていうのは辛い生き物だと思う。 「……頼む。俺じゃあ現状を打破できない。遠坂の政治手腕に期待する」  ガクガクと頭を振られながら呟く。 「オッケー。それじゃサクっと解決しますか」 「藤村先生。衛宮くんを振っても出るのは悲鳴だけですから、そのあたりで止めてあげてください。それに、下手をすると朝ご飯まで出てきかねません」 「む……なによ遠坂さん、そんな真面目な顔したって怖くないんだから。教師として、なにより士郎の教育係として、遠坂さんの下宿は認めませんっ」  藤ねえは俺から手を離して遠坂と対峙する。  野生の勘というヤツだろう。  俺にかまっていては遠坂に寝首をかかれる、と察したに違いない。 「それは何故でしょうか。うちの学校には下宿している生徒も少なくありません。生徒の自主性を伸ばすのが我が校の方針ではありませんでしたか?」 「なによ、難しいコト言ったってダメなんだからっ。だいたいですね、こんなところに下宿したって自主性なんて芽生えません。  ご飯はかってに出てくる、いつもキレイ、お風呂はかってに沸いてるっていう夢のようなおうちなんだから、ここ。こんなところに居候してたら堕落しきっちゃうわよ、遠坂さん」 「…………藤ねえ」  その発言は、教師としてあまりにも問題が。 「それにね、原則として下宿していい生徒は家が遠い生徒だけよ? 遠坂さんのおうち、たしかにここより遠いけど登校できない場所じゃないでしょ。桜ちゃんだってあっちから通ってるんだから、下宿する必要なんてありません」 「それが、今うちは全面的な改装を行っているんです。  古い建物ですから、そこかしこにガタがきてしまっていて。改装が終わるまではホテルで暮らそう、と考えていたのですが、偶然通りかかった衛宮くんに相談したところ、それはお金が勿体ないからうちを使えばいい、と言ってくれたんです」 「むっ……それは、確かに士郎っぽい発言ね」 「はい。あまり面識のない衛宮くんからの提案には驚いたのですが、確かにホテル暮らしなんて勿体ないし、なにより学生らしくありません。それなら学友である衛宮くんのおうちにご厄介になった方が勉強になる、と思ったのです」 「む……むむむ、む」  うなる藤ねえ。  遠坂の返答と態度があんまりにも優等生な為、仮にも教師な藤ねえは反論できないようだった。 「は、話は判りました。けど、それでも問題はあるでしょう? 遠坂さんと士郎は女の子と男の子なんだから、一つ屋根の下で暮らす、というのはどうかと思うわ」 「どうか、とはどんな事でしょうか、先生」 「え……えっと、だからね、遠坂さん美人だし、士郎もなんだかんだって男の子だし、間違いがあったらイヤだなって」 「何も間違いはありません。わたしの部屋は別棟の隅、衛宮くんの部屋は蔵の近くにある和室です。距離にしてみれば二十メートル以上離れているじゃないですか。ここまで離れていれば何も問題はないと思いますが」 「う……うん、別棟には鍵もかかるし、違う家みたいなものだけど……」 「でしょう。それとも藤村先生は衛宮くんを信用していないとでも? 先程、先生は衛宮くんの教育係だと仰いました。なら衛宮くんがどのような性格かは、わたしより藤村先生の方がご存じだと思います。彼がそのような間違いを犯すというのでしたら、わたしも下宿先には選びませんが?」 「失礼ね、士郎はちゃんとしてるもん! ぜったい女の子を泣かせるような子じゃないんだから!」 「なら安心でしょう。わたしも衛宮くんを信用していますから。ここなら、安心して下宿できると思ったのです」 「むーーーーーーーー」  藤ねえから迫力が消えていく。  ……勝負あったな、こりゃ。  まだ色々とつっこみどころはあるけど、遠坂なら全部論破できるだろうし。  とりあえず、これで遠坂は晴れてうちの市民権を獲得できたって訳か……。    ―――そうして朝食は終わった。    こっちの予想通り、藤ねえは遠坂にことごとく言い負かされて撃沈。  結論としては、学校では極力秘密にして、家では藤ねえが監督するって事で決着。  そうと決まれば人数が増えて嬉しいのか、藤ねえは上機嫌で学校に行ってしまった。  朝食を終えて、学校に行く前にセイバーに声をかける。  セイバーはやはり冷静に、   「学校では凛の指示に従うように。  危険が迫った時は私を必要としてください。それでマスターの異状は感じ取れますから」    と、実にあっさり部屋に戻っていった。    そんなこんなで登校時間。 「それじゃ行きましょうか。このあたりの道は不慣れなんだから、学校までの近道ぐらい教えてよね」  となりには制服姿の遠坂凛。  ……もう薄れつつはあるが、それでも制服を着た遠坂は優等生然としていて緊張する。  学校一の美人と一緒に登校するっていうだけでも冷静でいられないのに、くわえて 「先輩。戸締まり、できました」    今日は桜まで一緒だった。  弓道部員の桜は、本来なら藤ねえと一緒に登校する。  が、今朝は何を言うでもなく居間に残り、朝食の後片づけをして俺が登校するのを待っていた。 「え、なに? 桜に鍵持たせてるの、士郎ってば?」 「持たせてるよ。桜は悪いコトなんてしないし、ずっと世話になってるからな。……ああ、その分でいくと遠坂にはやれないが、別にかまわないだろ」 「……それは構わないけど。どういう意味よ、それ」 「悪いコト、するだろ。それにおまえ、鍵なんかなくても困らないんじゃないのか? 必要ないモノを作るほど酔狂じゃないぞ、俺」 「―――あっそうですかっ。ええ、士郎の言うとおりこれっぽっちも要らないわよそんな物!」  ふん、と顔を逸らす遠坂。  慣れてきたのか、遠坂のこういう仕草も味があるなー、と素直に思う。 「………………」 「? どうした桜、戸締まりが出来たのなら行こう。  今朝は遠坂もいるし、出来るだけ早めに行きたいんだ」 「はい、そうですね。先輩がそう言うのなら、そうします」  元気のない声で言って、桜は俺たちの後に付いてくる。  ……まいったな。  藤ねえが遠坂に言い負けてから、桜は妙に元気がない。  藤ねえは納得しても桜は納得してないのだろう。 「……ちゃんと話さないとダメかな……」  そうだな。出来るだけ早くに機会を作って、桜にも遠坂と仲良くしてもらわないといけないか―――  坂道は生徒たちで賑わっている。  時刻は朝の七時半過ぎ、登校する生徒が一番多い時間帯だ。  そんな中、  こんな目立つ面子と歩いていようものなら、そりゃあ周りから奇異の目で見られまくる。 「………………」  何か忘れ物でもしたのか。  遠坂はさっきからこんな調子で黙っている。 「どうした遠坂。なんか坂道あたりから様子が変だぞ、おまえ」 「え……? やっぱりヘン、今朝のわたし?」 「いや、別に変じゃないが、その反応が変だ」 「先輩、その説明は矛盾してます。遠坂先輩が訊いているのはそういうコトじゃないと思いますけど……」 「? 何を訊きたがってるっていうんだよ、遠坂は」 「ですから、遠坂先輩は周りから見られているから、どこか自分の姿がおかしいのでは、と思ってるんですよね?」 「そ、そうだけど、やっぱり桜から見てもヘン?  おかしいな、今朝は眠いながらもちゃんとブローしたし、制服だって皺一つないと思うんだけど……やっぱり慣れない家で寝たもんだから目にクマでもできてるってワケ!?」 「なんでそこで俺に怒鳴る。  遠坂が寝なれないのは俺の所為じゃないし、仮にそのせいで遠坂の目にクマが出来ていたとしても大したコトじゃない。気にするな」 「なに失礼なコト言ってるのよ。女ってのは生まれた時から自分の身だしなみを気にするものなの!  ああもう、今まで外見だけは完璧でいようって繕ってきたのに、それも今日でおしまいってコトかしらね……!」 「だから、なんで俺を見て怒鳴るんだよ遠坂は。  なんで遠坂が変なのかは知らないが、間違いなくそれは俺のせいじゃない。八つ当たりは余所でやってくれ」 「違いますよ遠坂先輩。先輩は今日も綺麗です。  みんなが遠坂先輩を見ているのは、わたしたちと一緒だからです。先輩、今まで誰かと登校した事なんてなかったから」 「え……? なに、その程度の事でこんな扱い受けるわけ? ……侮れないわね。十年も通ってれば学校なんてマスターしたつもりでいたけど、謎はまだ残ってたわけか」  ふーん、と真剣に考え込む遠坂。  つーか、今日も綺麗ですっていう賛美を当然のようにスルーするおまえは何者か。 「……わかんないヤツだな。遠坂が誰かと登校すれば騒ぎになるのは当然じゃないか。それが男子生徒なら尚更だ」 「ですね。けど遠坂先輩、そういうの気にしない人なんです。だから今まで浮いた話ひとつなかったんですよ」 「へえ……そりゃ良かった。外見に騙されて泣きを見た犠牲者は、いまのところ一人だけってコトだからな」  なんて、桜と小声で秘密会議をしながら、不思議そうな顔で歩いていく遠坂の後に続く。  周囲の視線にさらされながら校門をくぐる。  校舎に入ってしまえばそれぞれ別行動だから、周りの目もそれまでの辛抱だろう。 「……ふん。朝から頭痛いのがやってきちゃってまあ」  ぼそり、と遠坂が呟く。  遠坂の視線の先には、登校する生徒たちを邪魔そうに押しのけてくる顔見知りの姿があった。 「桜!」 「あ……兄、さん」  びくり、と体を震わせる桜。  慎二は俺たちの事など目に入っていないのか、早足で一直線に桜まで近寄った。 「どうして道場に来ないんだ! おまえ、僕に断りもなく休むなんて何様なわけ!?」  慎二の手があがる。  それを、   「よ、慎二。朝練ご苦労さまだな」  掴んで止めて挨拶をした。 「え、衛宮……!?  おまえ―――そうか、また衛宮の家に行ってたのか、桜!」 「……はい。先輩の所にお手伝いに行っていました。けど、それは」 「後輩としての義務だって? まったく泥臭いなおまえは。勝手に怪我したヤツなんてかまうコトないだろ。いいから、おまえは僕の言う通りにしてればいいんだよ」  ふん、と掴まれた腕を戻す慎二。  ……桜に手をあげなければ握っている理由もないし、こっちも何もせずに手を放した。 「しかしなんだね、そこまでうちの邪魔して楽しいわけ衛宮? 桜は弓道部の部員なんだからさ、無理矢理朝練をサボらせるような真似しないでくれないかな」 「――――む」  それを言われるとこっちは反論できない。  桜がうちに朝食を作りに来てくれるのを止めていない時点で、俺は桜の朝を拘束しているコトになる。 「そんなコトありませんっ……! わたしは好きで先輩のお手伝いをしているだけです。兄さん、今のは言い過ぎなんじゃないですか」 「は、言い過ぎだって? それはおまえの方だよ桜。衛宮が独り住まいだからなんだって言うんだ。別に一人でいいっていうんだからさ、一人にしてやればいいんだよ。衛宮みたいなのはそっちの方が居心地がいいんだからさ」 「兄さん……! ……やだ、今のはひどい、よ……」 「―――ふん。まあいい、今日で衛宮の家に行くのは止めろよ桜。僕が来いって言ったのに部活に来なかったんだ。そのくらいの罰は受ける覚悟があったんだろ?」 「――――――――」  桜は息を呑んで固まってしまった。  慎二はそんな桜を強引に連れて行こうとし、 「おはよう間桐くん。黙って聞いていたんだけど、なかなか面白い話だったわ、今の」 「え――――遠、坂? おまえ、なんで桜といるんだよ」 「別に意外でもなんでもないでしょう。  桜さんは衛宮くんと知り合い、わたしは衛宮くんと知り合い。だから今朝は三人で一緒に登校してきたんだけど、気づかなかった?」 「な――――え、衛宮と、知り合い……!?」 「ええ。きっとこれからも一緒に学校に来て、一緒に下校するぐらいの知り合い。だから桜さんとも付き合っていこうかなって思ってるわ」 「衛宮と、だって…………!!!!!」  ぎっ、とこっちを睨む慎二。  ……そこに、敵意を通り越した殺意を感じたのは気のせいか。  そりゃここんところ慎二とはうまくいってなかったけど、そこまで一方的に恨まれるコトはしてないぞ、俺。 「は、そんなバカな。冗談がきついな遠坂は。君が衛宮なんかとつき合う訳ないじゃないか。  ……ああ、そうか。君勘違いしてるんだろ。そりゃあたしかにちょっと前まで衛宮とは友達だったけど、今は違うんだ。もう衛宮と僕は無関係だから、あまりメリットはないんだぜ?」 「そうなの? 良かった、それを聞いて安心したわ。貴方の事なんて、ちっとも興味がなかったから」 「――――うわ」  慎二に同情する。  俺だったら、しばらく立ち直れないトラウマになるぞ、今の。 「――――おまえ」 「それと間桐くん? さっきの話だけど、弓道部の朝練は自主参加の筈よ。欠席の許可が必要だなんて話は聞いてないわ。そんな規則、わたしはもちろん綾子や藤村先生も聞いてないでしょうねぇ」 「う―――うるさいな、兄貴が妹に何をしようが勝手だろう! いちいち人の家の事情に首をつっこむな!」 「ええ、それは同感ね。だから貴方も―――衛宮くんの家の事をあれこれ言うのは筋違いじゃない? まったく、こんな朝から校庭で騒がしいわよ、間桐くん」 「っ――――――――!」  じり、と慎二は後退すると、忌々しそうに俺と桜を睨み付ける。 「―――分かった、今朝の件は許してやる。  けど桜、次はないからな。今度なにかあったら、その時は自分の立場ってヤツをよく思い知らせてやる」  言いたい放題言って、慎二は早足で校舎へ逃げていった。  うん。アレはどう見ても、遠坂に貫禄負けして撤退したのだ。 「……ごめんなさい、先輩。兄さんがその……失礼な事を言ってしまって」  桜は俺だけではなく、遠坂にも謝っているのだろう。 「ううん、朝からいい運動になったわ。頭のギアがスパッと上がったし、ようやく調子が出てきたもの。口喧嘩好きなのよねー、わたし」 「それに謝るのはわたしの方だし。ちょっとやりすぎだったわよね、今の。あいつだって立場があるんだし、ほら、みんなの前でああいうのってしちゃ駄目だって言うじゃない。  間桐くんが落ち込んでたら後でフォローしてあげて。  これに懲りずに、またつっかかってきてもいいって」 「あ―――はい。兄さんが懲りていなければまたお相手をしてあげて下さい、先輩」  安心したのか、嬉しそうに微笑む桜。  遠坂は照れくさそうにそっぽを向いていたりする。 「先輩も。あの、出来れば怒らないであげてください。  兄さん、先輩しか友達いないから」 「分かってるよ。怒るなっていうのは無理だけど、慎二はああいうヤツだってのは知り合った時から知ってる。  ま、何かの拍子でまた付き合いが深くなるのは目に見えてるしさ。気長にやっていくよ、アイツとは」 「はい――――よろしくお願いします、先輩」  ぺこり、と一礼する桜。  ……そうだな。  俺が慎二に対して本気で怒るっていったら、こんないい妹がいるのに何が不満なんだってコトぐらいだ。 「それじゃあ先輩、今日も一日頑張りましょうね」  桜は一年の廊下へ移動する。  俺たちは階段を上がって二年の廊下に出て、   「はうわ!?」    ばったりと、生徒会長と出くわした。 「な、何故に遠坂と一緒にいるのか衛宮士郎!」 「あら。おはよう柳洞くん。朝からハウワ、とはご挨拶ね」 「く、目覚めから嫌な予感がしたが、まさか暗剣殺とはな―――! ええい、いいからこっちに来い衛宮! 遠坂の近くにいたら毒がうつる、毒が!」  ぐい、と強引に人の手を引く一成。  遠坂は何も言わず俺と一成を眺めた後、何事もなかったように二年A組の教室へ向かう。 「ふん、行くがいい。誰も止めはしないからな」 「………………」  遠坂は無言で俺たちの横を通り過ぎる。  と。   「士郎、昼休みに屋上」    一瞬。一成に聞こえないように、そんな言葉を囁いてきた。    ――――昼休みになった。    朝の一件以来、一成は“裏切り者”扱いして近寄ってこない。 「……さっきのは悪ノリしすぎたか」  ちょっと反省。  朝、どうして遠坂と一緒にいたのか、と詰問され、 「休みの間に親密になったんだ」  と答えたのがまずかった。  問題はどんなふうに親密になったかだと思うのだが、そこまで説明できる筈もなく、一成はクラクラと目眩を起こしながら去っていった次第である。 「……まあちょうどいいか。しばらくは一人で色々やらなくちゃいけないからな」  関わる人間は少ないに越した事はない。  さて、とりあえずやるべき事といったら――――    遠坂との約束がある。  一方的な発言だったが、呼び出すからには話があるのだろう。  昼飯を買って屋上へ。  夏場なら生徒たちで賑わう屋上も、冬の寒さの前には閑古鳥を鳴かさざるを得ない。  いくら冬木の冬が暖かいと言っても、屋上の寒さは我慢できるものじゃない。  冷たい風にさらされた屋上にいるのは自分と、   「遅いっ! 何のんびりしてるのよ士郎!」    寒そうに、物陰で縮こまっている遠坂だけである。 「遅れたのは悪かったと思ってる。思ってるんで差し入れを持ってきたんだが、その様子じゃ要らないか」  売店で買ってきたホットの缶コーヒーをポケットに仕舞う。 「う……アンタ、〈木訥〉《ぼくとつ》な顔してけっこう気が利くのね」 「ただの気紛れだよ。ほら、もうちょっとそっち行けよ。  ここだと風が当たるし、人目につくだろ」  ほら、と缶コーヒーを渡しながら物陰に入っていく。  ここなら人がやって来てもすぐには見つからないし、校舎の四階から見える事もない。 「ありがと。次は紅茶にしてね。わたし、インスタントならミルクティーだから。それ以外はありがたみがランクダウンするから注意するべし」 「あいよ、次まで覚えていたらな。それよりなんだよ、こんなところに呼び出して。〈人気〉《ひとけ》がない場所を選ぶあたり、そっちの話だと思うけど」 「と、当然でしょ。わたしと士郎の間で、他にどっちの話があるっていうのよ」 「ああ、それはそうだな。で、どんな話なんだ」 「……なによ。随分クールじゃない、貴方」 「? まあ、寒いからな。できるだけ手短に済ませたい。  遠坂はそうでもないのか?」 「―――! そんな訳ないでしょう、わたしだってさっさと用件だけ済ませるつもりに決まってるじゃない!」  うん、そうだと思った。  別に判りきってる事なんだから、怒鳴らなくてもいいのに。 「―――まあいいわ。  それじゃ単刀直入に訊くけど、士郎。貴方、放課後はどうするつもり?」 「放課後? いや、別にこれといって予定はないよ。生徒会の手伝い事があったら手伝うし、なかったらバイトに出るし」 「――――――――」 「……なんだよ、その露骨に呆れた顔は。言いたい事があるならはっきり言ってくれ。出来るだけ直すから」 「……まったく。貴方がどうなろうとわたしは構わないんだけど、ま、一つだけ忠告してあげるか。今は協力関係なんだし、士郎は魔術師として未熟すぎるから」 「またそれか。魔術師として未熟だっていうのはもう耳にタコだ。気にしてるんだからあまり苛めないでくれ」 「苛めてなんていないわよ。ただ士郎が学校の結界に気づいてないようだから未熟だって言ってるの」 「――――?」  学校の結界……? 「待て。学校の結界って、それはまさか」 「まさかも何も、他のマスターが張った結界だってば。  かなり広範囲に仕組まれた結界でね、発動すれば学校の敷地をほぼ包み込む」 「種別は結界内にいる人間から血肉を奪うタイプ。まだ準備段階のようだけど、それでもみんなに元気がないって気づかなかった?」 「――――――――」  そう言えば……二日前の土曜日、なんとも言えない違和感を感じたが、アレがそうだったっていうのか?  だが、という事は―――― 「つまり―――学校に、マスターがいる……?」 「そう、確実に敵が潜んでいるってわけ。分かった衛宮くん? そのあたり覚悟しておかないと、死ぬわよ貴方」 「――――――――」  弛緩していた意識が引き締まる。 「……それで。そのマスターが誰かは判っているのか、遠坂は」 「いいえ。あたりは付いてるけど、まだ確証が取れてない。……まあ、うちの学校にはもう一人魔術師がいるって事は知ってたけど、魔術師イコールマスターって訳じゃないから。  貴方みたいな素人がマスターになる場合もあるんだし、断定はできないわ」 「む。俺は素人じゃない、ちゃんとした魔術師だ……って、待った遠坂、魔術師ならもう一人いるってうちの学校にか……!?」 「そうよ。けどそいつからマスターとしての気配は感じないのよね。真っ先に調べにいったけど、令呪も無ければサーヴァントの気配もなかった。  よっぽど巧く気配を隠しているなら別だけど、まずそいつはマスターじゃないわ」 「だからこの学園に潜んでいるマスターは、士郎みたいに半端に魔術を知ってる人間だと思う。  ここのところさ、微量だけどわたしたち以外の魔力を校舎に感じるのよ。それが敵マスターの気配って訳なんだけど……」    あまりに微量すぎて逆探知が難しい、というところだろう。 「魔術師ではないマスターか。遠坂が断定するからには相当な確信があるんだろう。  それは信じるけど、そうか……うちの学校、そんなに魔術師がいたのか」 「そんなにってわたしとその子だけだって。  魔術師ってのは家柄を大事にするでしょ? こんな狭い地域に二つの家系が根を張った場合、どうしても懇意になるものなのよ」 「そうなのか? けど俺は遠坂の家のこと、知らなかったけどな」 「衛宮くんちは特別。衛宮くんのお父さん、協会から離反した一匹狼だったんでしょうね。たまたまこの町が気に入って根を下ろしたんだろうけど、冬木の町は〈遠坂〉《うち》の管轄だからさ。  わたしたちにバレたら貰うもの貰う事になるし、それが嫌で隠れてたんじゃないかな」 「な――――なんだよ、その貰うもの貰うって不穏な発言は」 「ふふーん、気になる? それは将来、士郎が一人前になったら取り立てにいくから期待してて」 「……まったく。ほんっとに猫被ってやがったんだな、おまえってヤツは。  何が学校一の優等生だ、この詐欺師」 「あら、いけない? 外見を飾るのだって魔術師としての義務でしょ。  ほら、わたしは遠坂家の跡取りだし、非の打ち所のない優等生じゃないと天国の父さんに顔を合わせられないのよ」 「?―――父さんって、遠坂」 「ええ、わたしが子供のころ死んじゃった。ま、十分長生きしたから天寿は全うしたんだし、別に哀しんだりはしてないけど」 「――――――――」  遠坂は、それが魔術師を父に持つ子供の在り方だ、とばかりに微笑む。    だが、それは。 「―――それは嘘だ。人が死んだら哀しいだろ。それが肉親なら尚更だ。魔術師だから仕方がない、なんて言葉で誤魔化せるものじゃない」 「…………………………ま、そうね。  衛宮くんの意見は、反論できないぐらい正しいわ」  言って、遠坂は湯たんぽ代わりにしていた缶コーヒーを開けた。  ……ちびちびとコーヒーを口にする。  遠坂の事だから、男勝りにぐいっと一気飲みするかと思ったが、こういうところは本当に女の子だった。 「話を戻すけど。  ともかく、冬木の町に魔術師は二人しかいないの。  他のマスターは外からやってきた連中か、魔術をかじった程度でマスターに選ばれたっていう変わり種でしょうね」  そうですか。  遠坂に言わせると、俺も立派な変わり種という事らしい。 「それは判った。けどさ、半端に魔術をかじっただけのマスターなら、こんな結界は張れないんじゃないのか」 「マスターが張ったんじゃなくて、サーヴァントが張ったのかもね。  サーヴァントは自分のマスターを選べないもの。士郎みたいなマスターに当たってしまった場合、サーヴァント自身が色々策を練るしか勝機はないでしょ?」 「だろうな。気に障るけど、反論しようがないんで頷いとくよ」 「はい、素直で結構。  で、結界の話に戻すけど、この結界はすごく高度よ。  ほとんど魔法の領域だし、こんなの張れる魔術師だったら、まず自分の〈気配〉《まりょく》を隠しきれない。だから間違いなく、この結界はサーヴァントの仕業だと思う」 「……サーヴァントの仕業か。なら、マスター自身はそう物騒なヤツじゃないのかな」 「まさか。魔術師にしろ一般人にしろ、そいつはルールが解ってない奴よ。マスターを見つければ、まずまっすぐに殺しに来るタイプの人間ね」 「? ルールが解らないって、聖杯戦争のルールをか?」 「違う。人間としてのルール。こんな結界を作らせる時点で、そいつは自分ってものが判ってない」 「いい士郎? この結界はね、発動したら最後、結界内の人間を一人残らず“溶解”して吸収する代物よ。  わたしたちは生き物の胃の中にいるようなものなの。  ……ううん、魔力で自分自身を守っているわたしたちには効果はないだろうけど、魔力を持たない人間なら訳も分からないうちに衰弱死しかねない」 「一般人を巻き込む、どころの話じゃないわ。  この結界が起動したら、学校中の人間は皆殺しにされるのよ。分かる? こういうふざけた結界を準備させるヤツが、この学校にいるマスターなの」 「―――――――――」  一瞬だけ視界が歪んだ。  遠坂の言葉を、出来るだけ明確にイメージしようとして、一度だけ深呼吸をする。  ―――それで終わり。  不出来なイメージながらも最悪の状況というものを想像し、それを胸に刻みつけて、自分の置かれた立場を受け入れる。 「話は解った。  ―――それで、遠坂。その結界とやらは壊せないのか」 「試したけど無理だった。結界の基点は全部捜したんだけど、それを消去できないのよ。わたしにできるのは一時的に基点を弱めて、結界の発動を先延ばしにするだけよ」 「ん……じゃあ遠坂がいるかぎり結界は張られない?」 「……そう願いたいけど、それも都合のいい願いでしょうね。もう結界は張られていて、発動の為の魔力は少しずつ溜まってきている。アーチャーの見立てだとあと八日程度で準備が整うとか」 「そうなったらマスターか、サーヴァントか―――どちらかがその気になれば、この学校は地獄になる」 「――――じゃあ、それまでに」 「この学校に潜んでいるマスターを倒すしかない。  けど捜すのは難しいでしょうね。この結界を張られた時点でそいつの勝ちみたいなものだもの。あとは黙ってても結界は発動するんだから、その時まで表には出てこない。だから、チャンスがあるとしたら」 「……表に出てくる、その時だけって事か」 「ご名答。ま、そういう訳だから今は大人しくしてなさい。その時になったら嫌でも戦う事になるんだし、自分から探し回って敵に知られるのもバカらしいでしょ」  凍えた屋上に、無機質な予鈴が鳴り響く。  昼休みが終わったのだ。 「話はそれだけ。わたしは寄るところがあるから、家には一人で帰って。寄り道は控えなさいよ」  じゃあね、と気軽に告げて、遠坂は去っていった。 「――――――――」  気分がいい訳がない。  マスターはマスターだけを襲う、なんて話が気休めにもならない事を知って、まっとうな気持ちでいられる筈がない。 「学校に結界、だと――――?」  何も知らない、無関係な人間を巻き込むつもりなのか。  そんなのはマスターでもなんでもない、ただの大量殺戮者だ。  そいつが結界とやらを起動させる前に見つけて、見つけて―――完膚無きまでに、倒さなければ。   “――――喜べ衛宮士郎。君の願いは”   「っ――――」  頭を振って、脳裏によぎった言葉を否定する。  そんな願いはしていない。  倒していい“悪者”を求めていたなんて、そんな願いは、衛宮士郎の物ではないんだから―――  帰りのホームルームが終わって、教室から生徒たちの姿が減っていく。  いつもなら生徒会室に顔を出すところだが、遠坂に早く帰れと言われた手前、寄り道せず屋敷に戻るべきだろう。  ……そうだな。  朝はゴタゴタしていてちゃんと話せなかったから、早いうちに桜に説明しておくべきだろう。  四階、一年生の教室にやってくる。  廊下から教室を窺うと、桜はすぐに気が付いてくれた。 「あの、何かあったんですか先輩?」  廊下に出てくるなり、不思議そうに首をかしげる。  慎二との一件から気落ちしていると思っていたが、桜は思ったより元気そうだ。 「いや、何かあったってわけじゃなくて、遠坂の事を桜に許してもらおうと思って。朝はちゃんと話せなかったから、帰る前に謝っておきたかったんだ」 「……? あの、遠坂先輩を許すって、なにをですか?」 「いや。だから、あいつがしばらく下宿する事だよ。  前もって桜に相談するべきだったのに、俺一人で決めちまってごめん。  けど遠坂の下宿はちゃんとワケがあって、やましいコトなんか微塵もないんだ。その、桜は許してくれないだろうけど、それだけは言っておきたくて」  すまん、と頭を下げる。 「や、やめてください先輩。そんなふうに先輩が謝るコトなんてありません」 「……たしかに遠坂先輩が下宿する事は驚きました。けど藤村先生も許可したんだし、何の問題もないと思います。  あの家は先輩のお家なんですから先輩の好きにしていいんだし、わたしが意見していいコトなんてありません」 「ばか、なに言ってるんだ桜。あの家は俺と藤ねえと桜のだろ。俺一人で勝手をしていいコトじゃない」 「え―――――先輩」 「だから俺が謝るのも当然なんだ。桜は遠坂より俺に怒ってくれ。……その、家族に黙って遠坂を呼んだのは俺なんだから。  下宿の件だって、桜がイヤだっていうならすぐ取りやめる。それで許してもらえるコトじゃないけど、桜がイヤな事は続けられない」  取り繕いの言葉じゃなく、本心から口にする。  遠坂と協力する〈=〉《イコール》一緒に住む、なんて訳でもない。  効率よく共闘する方法は他にもまだある筈なんだから。 「えっと、じゃあ許します。遠坂先輩の下宿も許可するし、先輩の勝手も許しちゃいます。  それでいいですか、先輩?」 「え……い、いいのか桜……?」 「はい。どんな事情があるのかも訊きません。わたしは、先輩がそう言ってくれただけで十分です」  まっすぐに俺を見返して、桜は微笑んでいる。  その顔に嘘はない。  桜は本心から、遠坂の下宿を認めてくれていた。 「―――ありがとう桜。その、すごく嬉しい」 「いえ、すごく嬉しいのはこっちの方ですから。  あ、けど先輩。もしですよ? もしわたしがイヤだって言ったら、先輩はどうしたんですか?」 「ん? そうだな、もしかしたら俺の方から出向いてたかもしれない。しばらくは遠坂と一緒にいなくちゃいけないんだから」 「え……先輩が出向くって、あの」 「ああ、遠坂が下宿するんじゃなくて、遠坂んところに下宿してたと思う。それなら桜にも藤ねえにも迷惑かけないし」  憧れの、否、憧れていた女の子の家に泊まりこむなんて考えるだに恐ろしいが、背に腹は変えられない。 「……いや、でも助かった。そうなったらアイツ、今よりもっと俺をからかいそうだし」  良かった。  桜が許してくれて本当に良かった……って、あれ? 「桜? なんだよ、なんか顔色悪いぞ?」  どうしたー、と声をかける。  なんか、桜は深く物思いにふけっていて、   「―――い、言わなくて良かったぁ―――」    なんて、よく判らない溜息をついていた。  そうして放課後。  生徒を解放するチャイムが鳴り響く中、自分もみんなに倣って帰り支度をする。  家ではセイバーが待っているし、今日は寄り道せずに帰らなければ。  廊下にはちらほらと生徒が残っていた。  これから部活に出る生徒、  暇つぶしに校舎に残っている生徒、  十メートルほど先から怒り顔でこっちに突進してくる生徒、と様々だ。 「……?」  なんか、おかしなのが交ざっていた気がして、くるりと全力で階段に足を運ぶ。 「―――そうだ。  唐突に思い出したけど、朝方なんか言われてたな、俺」    言われていたが、ここまで来たら忘れたフリを張り通そう。  いや、それだと弁明しようがないんで聞こえなかったコトにする、とか。   「そこまでよ。人の顔見て逃げ出すなんていい度胸してるじゃない」 「―――――――う」  やっぱり捕まってしまった。  というか、家に帰ったところで逃げ場を無くすだけだし、ここで捕まっておいた方がダメージが少なそうなので足を止めた。 「………………」  ゆっくりと振り返る。  ……うむ、怒っている怒っている。  とても学園一の優等生とは思えない不機嫌っぷりだ。 「よう。奇遇だな遠坂。帰るなら一緒に帰るか?  どうせ行き先はおな――――」 「帰るか、じゃないわよバカ士郎っ……! アンタ、自分の立場わかってるの!? せっかく忠告してあげようと思ったのに、どうして屋上に来なかったのよ!」 「――――う」  この剣幕。  もはやどのような申し開きも通じなさそうだが、何らかの釈明をしなければ収まりそうもない。 「……すまん。昼は桜のトコに行ってたんで、屋上には行けなかった」  収まりそうもないので、正直に告白する。  ……と。  お化けでも見たように、遠坂は呆然と俺を見た。 「桜のところって……もしかして、わたしが衛宮邸に下宿する件で?」 「ああ。朝はうやむやになっただろ。だからちゃんと、桜に遠坂の下宿を許してもらったんだ」 「…………………………………………………………  ……そう。ま、そういうコトなら仕方ないか」 「?」  遠坂はあっさりと矛を納め、あろうことか 「いいわ。昼間の件はチャラにしてあげる。桜のコト、余計な心配かけたわね」  しおらしい顔で謝られてしまった。 「あ―――いや、遠坂が謝るコトなんてない、けど。  そ、それより屋上に呼びつけた用件ってなんだったんだ? 大事な話だったんだろ、なんか」 「ま、まあね。呼びつけたのはマスターとしての話があったからよ。学校に結界が張られているから注意しろって言いたかったの」 「え……? ちょっ、ちょっと待った。結界って、この学校にか……!?」 「ええ。士郎は気付いてないようだけど、厄介なモノが仕掛けられてるのよ。  〈刻印〉《サイン》はかなりの範囲に仕組まれていて、発動すれば学校の敷地をほぼ包み込むわ。  種別は結界内にいる人間から血肉を奪うタイプ。まだ準備段階のようだけど、それでもいつもよりみんなに元気がないって気づかなかった?」 「あ――――」  そう言えば……二日前の土曜日、なんとも言えない違和感を感じたが、アレがそうだったっていうのか?  だが、という事は―――― 「つまり―――学校に、マスターがいる……?」 「そう、確実に敵が潜んでいるってわけ。分かった衛宮くん? まさか学校で仕掛けてくるとは思えないけど、いつ戦いになってもいいように気を配っておけって言いたかったの」 「――――――――」  ……遠坂が本気で怒るワケだ。  俺はそんな事も知らず、一日を安穏と過ごしてしまったんだから。 「……すまん。やっぱり昼間は俺が悪かった、遠坂」 「そうね。セイバーに士郎を任されたって事もあるし、つまんない理由だったら〈強制〉《ギアス》の一つもかけてたところよ。  けど、今回は大目に見てあげる。結果論だけど、今日一日何も起きなかったし」  終わり良ければ全て良し、という事か。  そう言ってもらえると少しは気が楽になる。 「遠坂。それで、結界を張ったマスターが誰かは判っているのか? ……やっぱり学校内の誰か、とか」 「いいえ、それはまだ判らない。  ……学校にはわたし以外に魔術師らしき気配はないから部外者かもしれないけど、貴方みたいに素人がマスターになる場合もあるでしょ?  だから断定はできないんだけど……ま、十中八九〈学校〉《うち》の人間の仕業でしょうね。  学校に結界を張る以上、ここに紛れ込んでいても不審に思われない人間だろうから」 「――――――――」  ……校舎にいても不審に思われない人物。  生徒か教師か、どちらにせよ俺たち以外のマスターがここに陣取っている――――。 「問題はそれだけじゃないわ。  士郎。この結界はね、発動したら最後、結界内の人間を一人残らず“溶解”して吸収する代物よ。わたしたちは生き物の胃の中にいるようなものなの」 「……ううん、魔力で自分自身を守っているわたしたちには効果はないだろうけど、魔力を持たない人間なら訳も分からないうちに衰弱死しかねない。  一般人を巻き込む、どころの話じゃないわ。この結界が起動したら、学校中の人間は皆殺しにされるのよ。  分かる? こういうふざけた結界を準備させるヤツが、この学校にいるマスターなの」 「な―――――――」  一瞬だけ視界が歪んだ。  遠坂の言葉を、出来るだけ明確にイメージしようとして、一度だけ深呼吸をする。  ―――それで終わり。  不出来なイメージながらも最悪の状況というものを想像し、それを胸に刻みつけて、自分の置かれた立場を受け入れる。 「話は解った。  ―――それで、遠坂。その結界とやらは壊せないのか」 「試したけど無理だった。  結界の基点は全部捜したんだけど、それを消去できないのよ。わたしに出来るのは一時的に基点を弱めて、結界の発動を先延ばしにするだけよ」 「発動を先延ばしにする……? じゃあ遠坂がいるかぎりは結界は張られないのか?」 「そう願いたいけど、それも都合のいい願いでしょうね。  もう結界は張られていて、発動の為の魔力は少しずつ溜まってきている。アーチャーの見立てだとあと八日程度で準備が整うとか。  そうなったらマスターか、サーヴァントか―――どちらかがその気になれば、この学校は地獄になる」 「――――じゃあ、それまでに」 「この学校に潜んでるマスターを倒すしかない。けど捜すのは難しいでしょうね。  この結界を張られた時点でそいつの勝ちみたいなものだもの。あとは黙ってても結界は発動するんだから、その時まで表には出てこない。だから、チャンスがあるとしたら」 「……表に出てくる、その時だけって事か」 「ご名答。ま、そういう訳だから今は大人しくしてなさい。その時になったら嫌でも戦う事になるんだし、自分から探し回って敵に知られるのもバカらしいでしょ」  ……話は解った。  そんな結界を張るヤツは野放しにしておけないが、正体が掴めない以上、今は下手に動いて刺激するのも逆効果かもしれない。 「そういうコト。今日のうちに出来る結界への対処は済ませたから、後はまた明日よ。  これ以上校舎に残っていてもやる事ないし、士郎は先に帰っていて」 「? 先に帰るのはいいけど、遠坂は?」 「わたしのコトはいいでしょ。士郎はセイバーを待たせてるんだから、早く帰らないと怒られるわよ」 「――――む」  そうだった。  セイバーは学校に行くのを反対していて、日が落ちるまでに家に帰る、という条件付きで単独行動を許可してもらったのだった。 「それじゃあ後で。寄り道せずに帰りなさいよ」  体育館に用事があるのか、遠坂は校舎の裏手へ向かっていく。  その後ろ姿をしばらく見送ってから、早足で校庭を後にした。  門には鍵がかかったままだった。 「……そうか。こんなに早く帰ってきたのなんて久しぶりだ」  学校が終われば、大抵はちょっとした手伝いかバイトに精を出して、まっすぐ帰る事なんて珍しかった。  いつもは帰ってくれば門が開いていて、中では桜が夕食の支度をしてくれていた。  この一年それが当たり前になっていて、大切なコトが薄れかけていたのか。  門の鍵を自分で開ける、なんて些細な事で、桜が来てくれている有り難みを実感した。 「ただいまー」  声をかけて廊下にあがる。  とりあえず居間に行こうとした矢先、金髪の少女が現れた。 「帰ったのですね、マスター」 「――――――――」  一瞬。  現実感というものが、キレイさっぱり崩れてしまった。 「シロウ? いま帰ってきたのではないのですか?」    静かな声が自分の名前を呼ぶ。  それで、ようやく現実感が戻ってくれた。 「あ……セ、セイバーだよな。わるい、いきなりなんで驚いた」  その、一瞬だけだったが、彼女をセイバーではなく普通の少女だと錯覚してしまって。 「? 私はマスターの指示に従ってここに待機していたのですが、間違っていましたか?」 「あ……いや、こっちの勘違いだから気にしないでくれ。  そ、それより体の方はいいのかセイバー。頻繁に眠るって言ってたけど、今は、その」 「起きていても支障はありません。  ―――いえ、可能なかぎり戦闘時以外は眠っていた方がいいのですが、それでは勘が鈍りますから。  定期的に目覚めて体を動かしていなければ、いざという時に動きが鈍ります」 「……そっか。言われてみればその通りだ。人間、一日中寝てたら頭が痛くなるし、セイバーだって眠くて眠ってる訳じゃないんだし」 「そうですね。眠りを必要とする疲れはありません。  ですがシロウ、貴方は眠りすぎると頭を痛くするのですか?」 「痛くなるだろ、そりゃ。普通、一日の半分も寝てたら体の調子を悪くするって。俺の場合は頭が痛くなって目が覚めるから、半日も眠ってられないけどさ」 「……不思議な話ですね。私はそのような事はありませんでした。今も昔も、眠ろうと思えばいくらでも眠れますし」 「―――む。それはなんか、生き物として間違ってると思うぞセイバー。一日中寝てるなんて勿体ない。眠気がとれたら起きて遊んでいた方が楽しいだろ」 「……そうですね。確かに、その方が無駄はありません」 「だろ。今は俺のせいでそうなっちまったけど、俺から縁が切れたら普通の生活サイクルに戻れよ。  俺が言える事じゃないけどさ、これがクセになって一日中寝てたらぐうたらなヤツだ、なんて思われるから」 「それは、すでに手遅れかもしれません。私は〈皆〉《みな》にそう思われていたかもしれない」  む、とわずかに眉を寄せて考え込む。  ……軽口のつもりだったのだが、セイバーに生半可な冗談は通用しないようだ。  居間に移動する。  セイバーは今日の出来事を教えてほしいらしく、遠坂から聞いた“学校の結界”の事を話すことにした。 「……そうですか。学校に集まる人間を生け贄にするつもりなのですね、そのマスターは」 「―――率直に言えばそういう事だろう。遠坂はまだまだ時間がかかる、とは言っていたけど」 「同感です。それほど大規模な結界の完成には時間がかかる。学校の校舎というものは封鎖しやすい建物ですから、おそらく神殿に見立てた祭壇なのでしょう。  それだけの規模の結界を完璧に起動させるには、早くて十日は必要です」 「十日……俺が異状を感じたのが二日前の土曜日だから、まだ八日は猶予があるって事か。遠坂の見込みと同じだな……」 「はい。その結界が生け贄を集めるものであれ守りを固めるものであれ、完成させては厄介です。それまでに結界を張ったマスターを見つけだせればよいのですが」 「―――そうだな。遠坂は難しいって言ってたけど、学校に潜んでいる以上は特定しやすい筈だ。なんとか見つけだして、結界を止めさせよう」  学校に結界を張る、という発想をする時点で、十中八九そのマスターは学校関係者だろう。  生徒か教師。  明日からはできるだけ昼間のうちに学校を見て回って、怪しいヤツを捜し出さなければ。 「あとは……そうか、そいつがどんなサーヴァントを連れているか、っていう問題か」  いや、そればかりは実際遭ってみないと判らないか。  それなら、考えるべきは既に遭遇しているサーヴァントについてだろう。  今はセイバーも起きているし、訊いてみるには丁度いい。  よし、それじゃあ――――      アイツ――――    俺が初めて遭遇したサーヴァント、ランサーについて訊いてみよう。  セイバーはアイツと戦ったし、その正体に気が付いた節もあるし。 「なあセイバー。ランサーの事なんだけど、アイツは何者なのか判るか?」 「は? ランサーの事、ですか?」 「ああ。セイバーがアイツを追い返してくれた時、なにか言っていたじゃないか。アイルランドのなんとかとか。  だからもしかして、セイバーはアイツの正体に気づいているのかなって」 「ああ、そういう事ですか。……驚きました、シロウが他のサーヴァントの正体を知りたがるとは思っていなかったもので」 「知らなくちゃやっていけないって話だからな。……けど、なんでそこで嬉しそうなんだよ、セイバーは」 「シロウが戦う気になっているからです。正体を知った相手ならば対策が立てられる。まず弱点が判った相手から仕留めるのは、戦いの常道ですから」 「………………む」  何もしてこないヤツにこっちから戦いに行く気なんてないが、ここで注意しても話の腰を折るだけだ。 「いいから、ランサーの正体。今の口振りだと知ってるんだな、セイバー」 「はい。あの紅槍と全身に帯びたルーンの守り、くわえて戦いではなく“生き延びる”事に特化した能力からいって間違いはないでしょう。  彼の真名はクーフーリン。魔槍ゲイボルクを繰る、アイルランドの大英雄です」 「……クーフーリン……?」  聞いた事のない名前だ。  ……って、アイルランドの神話自体あまり知らないんだから仕方がないか。 「……で。強いのか、そのクーフーリンってヤツは」 「この国では知名度が低いですから存在が劣化していますが、それでも十分すぎる能力です。  こと敏捷性に関してならば他の追随を許さないでしょうし、彼の宝具はこの戦いに最も適した武器だと思います」 「宝具……? ああ、あの槍か。そういえばアイツの槍、最後にヘンな動きを見せたけど、アレがゲイボルクってヤツなのか?」 「……おそらくは。ゲイボルクの伝承は諸説あります。  曰く、足で投擲する呪いの槍だとか、貫いた瞬間に内部から千の棘を生やして相手を絶命させる魔槍だとか」 「……? なんか、まったく違う言い伝えじゃないのか今のは。そんなんで伝説の武器だなんて言えるのか?」 「ですから、続きがあるのです。ゲイボルクの能力は様々な形で伝えられていますが、その全てに“心臓を穿つ”という一節が残っている。  ……それは武器としての能力ではなく、あくまで持ち主の技量だと思っていましたが、間違いだったようですね。  魔槍の正体――――ランサーのゲイボルクの能力は、文字通り心臓を穿つモノです」 「あ――――」  言われて、鮮明に思い出した。  あの夜。  セイバーの足下へと突き出された槍は、あり得ない方向に切っ先を変えて、彼女の心臓へと走ったのだ。 「つまり、アイツの槍は――――」 「ええ。使えば必ず敵の心臓を穿つ魔槍なのでしょう。  空間をねじ曲げているのか、因果律を変えているのか。  ともあれ、槍自体の呪いとランサー自身の技量でしょうね。こと一対一の戦闘において、これほど効率的な武器もありません。なにしろまったく無駄がない」 「無駄がない……? 無駄がないって、どういう意味だよ」 「分かりませんか。ランサーの槍は城を破壊する事はできませんが、人間一人を殺すだけなら十分です。  宝具というものは、その規模によって消費する魔力が変わります。  Aランクの宝具を持つ者は、その使用に大量の魔力を消費する。一度使ってしまえば、失った分の魔力補充には時間がかかるのです」 「ですが人を一人―――いえ、サーヴァントを倒すのにそれほど強大な破壊力など要りません。ランサーのように一撃で仕留められるのであれば、それ以上の戦果はないでしょう」 「……? つまりなんだ。大砲一発分より、弓矢一本の方が、コストが低い?」 「はい。ですが、サーヴァントには弓矢など当たりません。結果としてサーヴァント同士の戦いは大砲の撃ち合いになるのですが―――」 「……ランサーのゲイボルクは、その弓矢を命中させられる槍って事か。しかも掠り傷じゃなく、確実に命を奪う心臓に当ててくる?」 「そういう事です。加えて、使う為の魔力量もそう多くない。あの程度の魔力消費なら、七回使っても魔力の補充は必要ないでしょう。  ですから、彼の魔槍はこの戦いに適しているのです。  通常のサーヴァントは数回戦闘をすれば休まざるをえません。ですがランサーならば六人を続けて相手にする事もできる。……まあ、一対一である事が条件になってきますが」 「…………ふむ」  つまり派手さはないが、堅実に勝利を収められるサーヴァントという訳か。 「その割には本人無駄が多かったぞ。俺を相手にして遊んでいたしな」 「ですね。ランサー自身、むらっけのある人物のようです。非情な人物ではありましたが、どこか憎めない一面がありました」  それは同感だが、油断は禁物だ。  アイツは草を刈るような気軽さで俺の心臓を貫いた。  バーサーカーにしろランサーにしろ、その手に持った武器を振るう事に、なんの躊躇も持たない奴らなんだから。    あいつ――――    遠坂のサーヴァント、アーチャーについて訊いてみよう。  セイバーは一撃であいつを倒したが、アレは不意打ちで実力の程は確かじゃないし。 「なあセイバー。アーチャーの事だけど、あいつの事で何か気付いた事ってないか?」 「アーチャーですか?  ……いえ、シロウが把握できている以上の事は何も。  単純な戦闘能力では私が上回っているようですが、彼の宝具も戦闘技術も体験していません。  一度勝利しているからといって、楽観していい相手ではないでしょう」 「……そうか。ま、ホントに一瞬だったからな。  それにあいつ、なんていうか」  ……あの時。  セイバーが戦いを仕掛けた時、何かおかしな違和感があった。  不意打ちならぬ不意打ちというか。  あの赤い騎士は〈敵〉《セイバー》を事前に感知していたように思える。  なのにセイバーを見た途端に硬直して、セイバーの奇襲に対応できなかったのだ。 「……なあセイバー。あいつ、セイバーの事知ってるんじゃないかな。あの時セイバーの剣を受けたのは、敵襲じゃなくてセイバー自体に驚いたからだって感じるんだけど」 「―――なるほど。そう考えると私も納得できる。  弓使いである以上、接近戦で私に劣るのは当然です。  ですがそれにしても、あの時のアーチャーは脆すぎた。  何か外的要因で実力を発揮できなかったのでは、と考えていたのですが――――」 「だろ。それに俺、あいつとランサーの戦いを見ているんだよ。アーチャーは攻めこそしなかったけど、防御は神業じみてた。なのにセイバーの一撃を受けるなんて、どうかしていたとしか思えない」 「……私は手を抜かれた、という事ですか」  難なく倒せた理由より手加減された事が気に食わないのか、セイバーはここにいない敵を睨む。 「―――いいでしょう。凛との共闘が解けた後、私を侮辱した事を後悔させるだけです」 「っ……! あ、いや、あいつだって好きで手を抜いたってワケじゃないだろうし、そんな目の仇にする必要はないんじゃないか……?」  なんて、ついアーチャーの弁護をしてみたり。 「? シロウはアーチャーの行為が許せるというのですか? いえ、むしろ好意というか擁護しているように聞こえる。……まさかとは思うのですが、サーヴァントとしてアーチャーの方が好ましいと……?」 「そ、それこそまさかだっ……! 俺、言っとくけどあいつは気に食わないぞ。話した事はないけど、遠めから見ただけで気が合わないって直感したんだからな」 「それは良かった。余計な杞憂でしたが、安心しましたシロウ」 「…………はあ。ビックリしたのはこっちだ。けど、なんだってそんなコトで安心するんだよセイバーは。俺がアーチャーを嫌ってるって、そんなにいいコトか?」 「……そうですね。確かにおかしな話です。  ああ、おそらく戦闘面での相性の問題でしょう。私は白兵戦を主体とするサーヴァントで、アーチャーは砲撃戦を主体とするサーヴァントだ。  もしシロウがアーチャーと相性がいい、というのであれば、私とは相性が悪い事になる。それでは互いに実力を発揮できない」  だから安心したのでしょう、なんてセイバーは頷く。 「……ふーん。そんなもんか……」  ともあれ、アーチャーの情報はまったくなしだ。  あいつがどの時代の英雄で、どんな宝具を隠し持っているか、まだまだ不明という事である。    あの巨人――――    セイバーを圧倒したサーヴァント、バーサーカーについて訊いてみよう。  セイバーと遠坂曰く、こと戦闘だけなら最強という事だが―――― 「セイバー、もう一度バーサーカーと戦ったらその時はどうなる? ……その、俺がマスターである限り、セイバーはあいつに勝てないのか……?」    セイバー最大の重荷。  俺という未熟なマスターと契約した為、本来の力を出せない欠点を問いただす。 「それは違う、シロウ。  たとえ貴方が成熟したマスターであろうと、バーサーカーが強敵である事は変わりません。この問題で、貴方が自らの未熟を責める事はない」 「……ん。そうかもしれないけど、実際セイバーは多くの制約を負ってるんだろう。  なら、もしセイバーが本来のセイバーだったら」 「いいえ。私が万全であろうとバーサーカーを倒す事は難しい。……いえ、どのようなサーヴァントであれ、あの巨人を追い詰める事は不可能かもしれない」 「シロウ、あの夜の戦いを覚えていますか? バーサーカーは凛の魔術をなんなく弾きました。彼には私のような対魔力は備わっていない。  アレはただ、肉体の強度のみで凛の魔術を無効化したのです」 「む……それは見たけど、そんなに驚くような事か?  単にバーサーカーの体が硬いって事だろ?」 「違います。バーサーカーは凛の魔術に耐えたのではなく、弾いたのです。この違いは大きい。  攻撃に耐えた、というのなら、その個所を執拗に狙えばいつか鎧は砕け散るでしょう。ですが弾いたのなら別だ。凛の魔術は、そもそもバーサーカーに届いていなかった」 「届いていなかった……? つまり、セイバーみたいに魔術を無効化したって事か?」 「はい。ですが先ほど言ったように、バーサーカーは対魔力のスキルを持っていない。となると、彼の宝具が魔術を弾いたとしか思えない」 「……これは憶測ですが、バーサーカーの宝具は“鎧”です。それも単純な鎧ではなく、概念武装と呼ばれる魔術理論に近い。  おそらく―――バーサーカーには、一定の水準に達していない攻撃を全て無効化する能力がある。私の剣、凛の魔術が通じなかったのはその為でしょう」 「バーサーカーの正体がギリシャの大英雄であるのなら、その能力はほぼAランクです。彼に傷を負わせたいのなら、少なくとも彼と同じランクの攻撃数値を用いなければならないと思います」 「……同じランクの攻撃数値……? つまり、それって」 「……はい。言いにくいのですが、通常攻撃であろうと宝具であろうと、Aランクに届かない攻撃は全て無効化されるでしょう。  あの巨人を倒したいのなら、少なくともAランクの通常攻撃力と、それを上回る宝具が必要になってきます」 「――――――――」  目を瞑って、セイバーの能力を思い返す。  セイバーの筋力……通常攻撃はBランク、その宝具はCランクだ。  ……なんて事だ。  セイバーの言う通りなら、俺たちにはバーサーカーを倒すどころか、傷つける手段さえない事になる……! 「ちょっ、ちょっと待った……! ええっと、筋力と宝具の基準は違うんじゃないのか?  いくらランクが低いからって、宝具ってのは強力な武器なんだろ? なら、筋力に置き換えればAランクに届くんじゃないのか?」 「はい。宝具と通常攻撃では比べるべくもない。宝具のCランクは、通常能力に変換すればA、ないしA〈+〉《プラス》に該当します。  ……ですが、バーサーカーを守る“〈理〉《ことわり》”は物理的な法則外のものです」 「アレは、たとえ世界を滅ぼせる宝具であれ、それがAランクに届いていないものならば無力化する、という概念です」 「っ――――じゃあ、次に襲われた時が」    俺たちの最期、なのか。 「いいえ。どのような英霊であろうと、必ず弱点が存在します。少なくともバーサーカーは対城レベルの攻撃手段を持っていない。襲われたところで一撃で全滅する、という事態は避けられる。  私の傷が完治すれば、対等の一騎打ちが可能です。その間にシロウは撤退できますし、何らかの援護をしてもらう事で勝算が見えるかもしれない」 「……結局、撤退が大前提なんだな。それまでになんとかバーサーカーの弱点を探さなくちゃいけないってコトか……。  で。セイバー、対城レベルの攻撃方法ってのはなんなんだ?」 「宝具の攻撃力の事です。  一騎打ちで真価を発揮する対人宝具、  団体戦闘で猛威を振るう対軍宝具、  そして一撃で全てを決する対城宝具。  宝具は大きくこの三つに分類されます」  なるほど。  その名の通り対軍やら対城やら、そんなミサイルみたいな攻撃をされたら俺も遠坂も一撃で吹き飛んでしまう。  不幸中の幸いか、バーサーカーにはそういった広域を粉砕する攻撃手段がないという事だ。 「……ですが、その欠点を補うのがマスターです。  イリヤスフィールは膨大な魔力の塊だった。彼女が卓越した魔術師であり、バーサーカーが彼女の守護に徹するのなら――――私はシロウを守りきる事ができないでしょう」 「――――――――」  ……そうか。  不安要素はバーサーカーだけじゃない。  マスターとサーヴァントは二人で一つだ。  その点においても、俺はセイバーの重荷になってしまっている―――― 「それじゃあ他のヤツの事だけど」 「待ってくださいシロウ。屋敷の門を人がくぐりました」 「え、そんなコト判るのか……?  ってもうこんな時間!? まずい、きっと桜が帰ってきたんだ!」  呼び鈴の音。玄関から、   「お邪魔します」    という、桜の声が聞こえてくる。 「セイバー、悪いんだが、その」 「判っています。部屋に戻っていますから、私の事は気にせずに」  セイバーが部屋へと去っていく。  それと入れ替わりになる形で、 「ただいま。感心感心、ちゃんと先に帰ってたわね」  買い物袋を手にした遠坂と、 「お邪魔します先輩。珍しいですね、先輩がこんな早くから帰ってきてくれるのって」  嬉しそうに笑う桜が入ってきた。 「よし、準備は完璧っと。それじゃあ始めるとしましょっか」  むん、と気合いをいれて台所に向かう遠坂。 「先輩……? あの、お夕飯の支度なんですけど……」 「ああ、今日は遠坂の番だからいい。桜は朝作ってくれたんだから、夜は任せてくれ。遠坂が居るうちは俺とアイツで夕飯を作るから」 「あ……は、はい。先輩がそう言うのなら、そうします」  桜は大人しく座布団に座る。  台所ではジャージャーと派手な音がしているが、遠坂の後ろ姿に危なげなところはまったくない。 「……あれなら任せても大丈夫だな……」  セイバーの事もあるし、できるまで部屋に戻っていよう。 「ちょっと部屋で休んでくる。藤ねえがやってきたら、たまには風呂沸かすように言っといてくれ」 「あ、はい。どうぞごゆっくり先輩。ご飯の支度ができたら呼びに行きますね」 「ああ。……と、そうだ。部屋に来る時はノックを忘れないでくれ」  時刻は六時前。この分だと、夕食にありつけるのは七時頃になりそうだ。  部屋に戻ると、セイバーは隣の部屋で眠ってしまっていた。 「なんだ。なんか話そうと思ったのに」  ちぇ、と舌打ちして座布団に腰を下ろす。 「……って、何いってんだか。聖杯戦争のこと以外、なに話していいかも判らないくせに」  第一、自分はセイバーが苦手ではなかったのか。 「ま、いいけどさ。眠ってるなら、それで」  ぼんやりと口にして、ただ時計の針だけを眺めた。  昨日の夕食は自分とセイバー、それに遠坂の三人だけだった。  それが今日では桜と藤ねえを加えて五人だ。 「……あ、いや……セイバーはダメなのか」  藤ねえと桜がいる限り、セイバーは部屋から出せない。 「―――セイバー、朝飯食ったのかな」  昨夜、セイバーはこくこくと頷きながら夕飯を食べていた。  あの様子からして食事は要らない、という訳でもないだろう。 「……昼飯は用意しなかったし。腹減ってるよな、そりゃ」  藤ねえと桜が帰ったら、夕飯を温めてセイバーに作ってやらないと。  一人で食べてもらう事になるけど、それはそれで仕方がない―――とか。 「………………」  なんか。  一人で食事をしているセイバーを想像したら、無性に腹が立ってきた。 「士郎、起きてる?」  ドアをノックして、ひょい、と遠坂が顔を出してきた。 「遠坂? なんだ、何か用か」 「なにって、夕食なんだけど。出来たから、来て」  ―――もうそんな時間だったのか。  よいしょと重い腰をあげ、セイバーの眠っている部屋に視線を投げてから廊下に出た。 「あ、来た来た。ほら、見てよこの料理! なんと遠坂さんは、長らく不在だった中華料理ができる人だったのだ~!」  テーブルに並べられた料理を前にしてはしゃぐ藤ねえ。  言われてみれば、確かに今日の夕食は中華風だ。  四つの大皿にはかに玉、青椒牛肉絲、なんか見たこともないような上品そうな肉と野菜の炒めもの、何を考えているのか皿一杯のシューマイ軍団、と色鮮やかなことこの上ない。  小皿には口休めのサラダ等が用意されており、細かいフォローも行き届いている。  一言でいって、藤ねえ好みのゴージャスな夕食ぶりだった。 「……驚いたな。遠坂の事だから洋風でくると思ったのに」 「あ、ほんとは洋風を考えてたそうですよ。けど中華料理は誰も作らないって言ったら、ならわたしが作るって」 「―――なんでそう隙間を突くような人生しか送れないのかアイツは。……ん? なあ桜、遠坂と一緒に帰ってきたけど、アレは一緒に買い物に行ってたのか?」 「はい。遠坂先輩、弓道部が終わるまで待っててくれたんです。それで帰り道がてら、二人で買い出しに行ってました」 「……そうなのか。なんだ、思ったより仲がいいじゃないか、二人とも」 「そうですね。遠坂先輩とは学校でもよく話してましたから。わたしの何処が気に入られたか判らないんですけど、入学した頃から親切にしてもらってます」  へえ。  学校じゃほんとに親切な先輩なんだな、アイツも。 「お喋りはいいから早く食べよ。わたしもうお腹ペコペコだよぅ」  わーい、と腰を下ろす藤ねえ。 「だってさ。二人も早く座ったら? 中華ものって冷めると犯罪的に不味いんだから」  そっけなく言って、遠坂も食卓についた。 「――――――――」  無言で席に座る。  全員がいただきます、とお辞儀をして料理を口にした。 「っ――――!」  ……悔しいが、旨い。  中華を作らない理由が“みんな味が一緒だろう”という考えからだったのだが、それが偏見だったと反省するほど、旨い。 「うわ、すごいすごい! こんなにごはんをおいしくさせる料理は久しぶりだよぅ。うん、遠坂さんに百点をあげましょう!」 「ありがとうございます。先生のように素直に感想を言ってもらえると、わたしも嬉しいです」 「はい、わたしも中華を見直しましたっ。辛いのって苦手なんですけど、すごくおいしいです!」  桜も心底おいしそうに喜んでいる。  それを笑顔で見届けたあと。 「――――ふふん」  なんて、勝ち誇った顔を向けてくる性根の曲がった遠坂凛。 「なんだよ。何か言いたそうだな、遠坂」 「べっつにー。みんなに気に入ってもらえて良かったなって。ま、若干一名素直じゃないのがいるけど、それはそれで楽しいから良しとしましょう。得意分野で負けちゃった気持ちは分かるし」 「くっ―――そうか、さてはおまえ、昨日俺に飯作らせたのはこっちの戦力分析か!」 「ふふふふふ。はい、今日の教訓は、手の内は常に隠しておく、でしたー」  などと心底楽しそうに言って、遠坂は自分の作った料理に箸を進めるのだった。  夕食は、思っていたより賑やかに進んだ。  桜と遠坂はいい先輩と後輩だし、藤ねえも今ではすっかり遠坂の味方だし。 「――――――――」  ま、楽しい食事である事に文句はない。  文句はないのだが、こうしてみんなで飯を食っていると、何か間違っている気がする。 「………………」  席を立つ。 「? なに士郎、トイレ?」 「いや、忘れ物をした。連れてくるから、待っててくれ」 「――――――――」  居間を出る時。  無言で俺を見る、遠坂の視線があった。  単に、納得がいかなかっただけだ。  理由なんてそれだけ。  同じ家にいて、一人だけでいさせるなんて、俺はイヤだった。    だから、後先を考えるより先に、彼女の手を取った。 「シ、シロウ!? 突然何をするのです……!?」 「いいから来てくれ。みんなにセイバーを紹介するから」 「正気ですか!? 待ってください、それは」 「正気だから連れて行くんだ。ほら、いいから行こう。  後の事なんて成るようになる」 「ちょっ、シロウ……!?」  セイバーの手を強引に引っ張ったまま居間についた。 「悪いな遠坂。もう一人分、いいかな」  遠坂は何も反論しない。  ただ、不意打ちを食らった桜と藤ねえだけがぽかん、とセイバーを見つめていた。 「遅くなったけど紹介する。  この子はセイバーって言って、しばらく面倒を見る事になったから。見ての通り外国人さんだから、日本の暮らしには慣れてないんで、そのあたり助けてやってくれ」 「――――――――」  二人から反応がない。  それも当然だろうが、かまってる余裕はない。 「ほら、そこに座れよセイバー。飯はみんなで食べた方がいいだろ」 「それは……確かに効率的だとは思いますが、私は」 「遠慮なんてするな。だいたいな、これからはセイバーも一緒に住むんだぞ? 同じ家に住んでるんだから、一緒に飯を食うのは当然だ」 「………はい。シロウがそう言うのでしたら、私は従うだけですが」     「そんなのダ――――」   「そんなのダメーーーー!」 「…………っぅ~~~~!!!!」  耳!  耳がキーンとする、キーンと! 「一体どうしちゃったのよ士郎ってば! 遠坂さんだけじゃなくこんな子まで連れ込んじゃって、いつからここは旅館みたいになっちゃったのよぅ!」 「な、なんだよ。いいじゃないか、旅館みたいに広いんだから一人や二人部屋を貸しても。遠坂がいいんならセイバーだっていいだろ、下宿ぐらい」 「いいワケないでしょう! 遠坂さんは認めるけど、そんな得体の知れない子なんて知らないもん! いったいどこの子なのよ、その子は!」 「どこの子って―――遠い親戚の子だよ。よく分からない事情があって、親父を頼ってやってきたとか」 「そんな作り話信じられないっ。だいたいね、仮にそうだとしてもどうして衛宮の家に来たのよ。切嗣さんに外国の知り合いなんている筈な――――」  い、とは言い切れまい。  なにしろ親父は年がら年中外国に行っていたひょうろく玉だ。むしろ日本より外国に知人が多いってもんだろうし。 「―――ないとは言い切れないけど、それにしたっておかしいわ。あなた、何の為にここに来たのよ」 「いや、だからそれは」 「士郎は黙ってなさい。えっと、セイバーさん? わたしはあなたに訊いてるんだけど」  セイバーは黙っている。  それはそうだろう、セイバーに事情なんてないし、俺の嘘に合わせてくれるような器用さは―――   「さあ。私は切嗣の言葉に従っただけですから」    ――――あった、みたいだ。 「――――む。切嗣さんが士郎を頼むって?」 「はい。あらゆる敵からシロウを守るように、と」  静かに。  これ以上ない潔白さで、セイバーはそう言った。  ……反論する事など誰に出来よう。  たとえそれが嘘でも―――そう口にするセイバー自身の心には、それが絶対の真実だった。 「………………」  さすがの藤ねえも今の言葉には反論できない。  ―――が。  不満そうに顔をしかめたまま立ち上がると、キッと正面からセイバーを睨んで、   「……いいわ。そこまで言うんなら、腕前を見せてもらうんだから」    なんて、よく分からない言葉を口にした。  で。  風雲急を告げるような効果音を背負って、藤ねえは俺たちを連れ出した。 「………………」  んでもって、壁にたてかけてある竹刀を手に取って、セイバーを睨み付ける。    ……さて。  僕らの藤ねえは、一体なにを考えているのだろう? 「あなた。士郎を守るって言ったわね。なら少しは覚えがあるんでしょ」 「――――私に剣を持て、というのですか」 「そうよ。あなたがわたしより強かったら許してあげます。けど弱かったら家に帰ってもらうからね」 「……構いませんが。それはどういった理屈でしょうか」 「士郎を守るのはわたしだもん! 士郎が一人前になるまで、わたしがずっと側にいるんだから!」 「――――――――」  藤ねえが何を言いたいのか、セイバーにはよく分かっていないようだ。  もちろん、周りのみんなもよく分からない。 「だーかーらー、わたしより弱いヤツはいらないの!  あなたがわたしより強いっていうんなら、わたしより頼りになるでしょ。それなら少しは士郎を任せてもいいわよーだ」  拗ねたように竹刀を弄ぶ藤ねえ。 「―――解りました。貴方を納得させれば良いのですね」 「そうよ。けど、わたしを納得させるのは大変なんだから!」  言うが早いか、ダンッ!と大きく踏み込んで、藤ねえはセイバーへと竹刀をたたき込む……! 「うわあ、藤ねえメチャクチャだー!」  不意打ちどころかセイバーには竹刀すら与えられてないじゃんか、それでも教師かタイガー! 「?」  藤ねえの奇襲に面食らったのか、セイバーはぼんやりと立ちつくしている。  そこに炸裂する、藤ねえの小手先胴――――! 「あれ?」  不思議そうに首をかしげる藤ねえ。  ……そりゃそうだ。  端から見てるこっちでさえ不思議なんだから、当事者の藤ねえなんてバビロンの空中庭園なみに不思議だろう。 「――――――――」  セイバーは突っ立ったままだ。  違うといったら、さっきまで藤ねえが持っていた竹刀を持っているという事か。 「あ…………ほんと?」  何がほんとなのかは知らないが、間違いなく真実です。  セイバーは奪った竹刀を構えてさえいない。  あくまで構えをとらないセイバーを前に、藤ねえは固まったように動かない。  藤ねえだって敵無しとまで言われた剣道家である。  その経験が、目の前の相手が次元違いだと悟らせてしまったんだろう。 「……構えろというのでしたら構えますが。そこまでしなければ判らない腕ではないでしょう」 「ぅ――――うう、はうはう、はう~~……」  藤ねえはよろよろと後退し、へなへなと膝をついた。 「勝負はつきました。認めてもらえましたか」 「――――う。う、ぐすっ」  がくり、と肩をおとしてうなだれる藤ねえ。  それで大人しくなってくれたな、と思った瞬間。       「うわぁぁぁぁぁあああん!  ヘンなのに士郎とられちゃったーーーー!」    周りにいる俺たちが目眩を起こすぐらいの大声で、わんわんと泣き出してしまった。  ……結局、藤ねえを説得できたのはそれから二時間後の事だった。  藤ねえが「ちょっとだけ話がしたい」とセイバーと親父の部屋に閉じこもって二時間が経ち、出てきた頃には納得のいかない顔で「なんか、認めるしかないみたい」  と頷いてくれたのだ。  一方、桜は終始無言。  夜も遅いので藤ねえが桜を送る事になったのだが、桜は最後まで何も言わず、ただお辞儀だけして帰っていった。 「それじゃわたしも別棟に戻るわね」  ……と。  そういえば、遠坂も遠坂でずっとこの調子だし。 「……悪かったな。どうせバカな真似してって思ってるんだろ」 「別に。ただ、貴方のしている事は心の贅肉よ。そんな余分な事ばっかりしてたら、いつか身動きがとれなくなるわ」  おやすみ、と手を振って別棟へ去っていく。 「――――はあ」  なんだか疲れた。  こっちも、今日は早めに休むとしよう。 「待ってくださいシロウ。私も貴方に訊くべき事がある」 「ん? いいけど、なに」 「なぜ私を皆に紹介したのですか。私も凛の言う通り、シロウの行為は不必要だと思います」 「なぜも何もない。単に嫌だったから紹介しただけだ」 「シロウ、それは答えになっていません。何が嫌だったのか言ってもらわなければ」  詰め寄ってくるセイバー。  ……彼女にとって今夜の一件は、そんなに不思議だったのだろうか? 「そんなの知るか。ただメシ食ってて、セイバーは一人でいるのかって思ったら嫌になっただけだ。  しいて言うなら、藤ねえと桜にもセイバーを知ってもらっておけば、隠し事も減ると思ったぐらいだよ」 「それはあまり意味のある事ではありません。  むしろ彼女たちに私の存在を知らせるのはマイナスです。この屋敷なら私の存在は隠し通せるのですから、私は待機していた方が良かった」 「――――」  良いって、なにが。  大勢で食事をしている時に、一人でのけものになっているのがいいっていうのか、こいつは。 「―――そんな事はない。  セイバーが良くても俺がイヤだったんだからしょうがないだろ。こういうの、理屈じゃないと思う」  そう言い切って、セイバーから視線を逸らした。 「土蔵に行ってくるから、先に部屋に戻っていてくれ」 「――――――――」  返事はない。  納得いかなそうなセイバーに背を向けて、土蔵に向かう事にした。  外に出る。  青ざめた月光に照らされた静寂の庭。  見上げる冬の夜空は高く、星座がはっきりと見渡せた。 「――――はあ」  知れず、溜息がこぼれる。  遠坂は正しい。  確かに、俺は矛盾している。  セイバーの眠る部屋を避けて、土蔵に行こうとしている自分。  反面、セイバーを一人にしておくのがたまらなくイヤだったさっきの自分。  異性としてセイバーは苦手なクセに、人間としては放っておけないっていうのか。    ……こんな矛盾した自分じゃ、遠坂に呆れられるのも当然だ。 「……まいったな。未熟なのは魔術だけだと思ってたけど、精神修行もなってないじゃないか」    ぼんやりと、夜空を見上げながら呟いた。    ―――夜は更ける。    未熟な自分だからこそ、鍛錬は休めない。  努力を重ねていけばいつか何かに届くと信じて、小さな自分を積んでいく事しか出来なかった。  昼休みになった。  一時的にせよ授業から解放された生徒たちは、忙しなく校舎を行き来している。 「……よし。今なら歩き回ってもヘンに思われない」  昼飯を数分で済ませて廊下に出る。  やった事がない、なんて言っている場合じゃない。  とっくに戦いは始まっているのだ。  なら、遠坂が言っていた『不審な場所』とやらを、俺なりの手段で探し出さなくてはいけない。 「……まずは人気のないところが基本かな……」    ―――さて。  昼休みが終わるまでの一時間、無駄なく成果が出せるといいのだが―――  一通り校舎を回った後、念の為に外に出た。  グラウンドや校舎裏に異状はなかったが、この一帯は毛色が違いすぎる。 「―――――まさか、ここもか」  ……校舎の中にもおかしな場所は多々あった。  それは階段の裏や廊下の行き止まり、空き教室とあまり人目につかない場所だった。  けれどここは違う。  人目につかないどころか、毎日人が集まる場所だ。 「……どうして気が付かなかったんだ。  異常って言えば、ここが一番異常じゃないか―――」  胸を押さえながら呟く。  ……ここは妙に息苦しい。  濃密な風、湿った空気は違和感では済まされない。  いや、一度この匂いに気づいてしまうと、吐き気さえこみ上げてくる。 「……結界には基点がある、と遠坂は言ってたな。  何カ所あるか知らないが、最初の基点がこのあたりにあるって事か……」  なら、どこかにそれらしい〈刻印〉《サイン》がある筈なのだが……。  ……。  …………。  ………………。  ……………………だめか。  魔力の感知に〈疎〉《うと》い俺では、結界を括っているサインなんて見える筈がない。 「…………ふう」  しょうがないな。とりあえず遠坂にここの事を報告して――――   「なんだ。捜し物かい、衛宮」   「――――!」  突然の声に振り向く。昼休み、人気の絶えた弓道場の前に立っていたのは―――― 「――――慎二」 「やあ。奇遇だね、僕もそのあたりに用があって来たんだけど……君、もしかして見た?」  にやり、と。  心底嬉しそうに、間桐慎二はそう言った。 「……見たって、何を。別にここには何もないぞ」 「ああ、やっぱり見たのか。……なるほどね、君が遠坂と一緒にいた理由はそれか。そうだよねぇ、マスター同士、手を組んだ方が効率がいいもの」 「――――! 慎二、おまえ」 「そう警戒するなよ衛宮。僕と君の仲だろ。お互い、隠し事は無しにしようじゃないか。  君が何を連れているかは知らない。けど、君もマスターなんていう酷い役目を押しつけられたんだろ?」  何をはばかる事もなく、慎二はきっぱりと口にした。  〈間桐慎二〉《じぶん》が、マスターだという事を。 「……まさか。おまえがマスターなのか、慎二」 「だからそうだって言ってるだろ。  ああ、でも勘違いはしないでくれ。僕は誰とも争う気はない。そりゃあ襲われたら殺し返すけど、手を出されないうちは黙ってるさ。ほら、このあたり衛宮っぽいだろ、僕も」  クスクスと慎二は笑う。  その物言いからして、アイツがマスターだっていう事に間違いなさそうではあるが―――― 「ま、こっちも衛宮がマスターだって知って驚いてるんだ。意外なのはお互いさまって事で、少し話し合わないか」 「話し合う……それは構わないが、何を話し合うっていうんだ」 「そりゃ今後のことさ。  さっきも言ったけど、僕は戦うつもりはない。けど他はそうでもないんだろ? ならさ、いつか来る災難に備えておかないと不安じゃないか。一人じゃ不安だけど、二人ならなんとかなると思わない?」  …………。  つまり、協力しようと言っているのか、慎二は。 「ま、こんな所で話をするのもなんだろ。誰に聞かれるとも判らないし、場所を変えよう。  ん……そうだね、僕の家がいい。あそこなら遠坂の目も届かないし、襲われても安心だ」 「場所を変えるって、なに言ってんだ。昼休みももう終わるし、話があるなら――――」 「馬鹿? 授業なんてさぼればいいじゃん。ほら、いいから行こう。衛宮がマスターって知って嬉しいんだから、あまり水を注さないでよね」 「そんな訳にいくか。授業を抜け出したら不審に思われるだろ」 「チッ、融通がきかないヤツだな……って、ああそうか!  それはそうだよね、普通は警戒する!」 「けど安心しなよ、何があってもこっちから仕掛ける事はないさ。ほら、僕がだまし討ちなんかするように見えるかい?」 「? ああ―――そうか。確かに、おいそれとは付いていけないな、それは」 「…………。まあいいさ。そっちだってサーヴァントを連れてるんだろ。そんな危ない相手にケンカなんてしかけないよ」  ……?  慎二には、俺がセイバーを連れているように見えるのか?  ああ、いや違う―――慎二のヤツ、霊体になっているサーヴァントが見えないんだ。  だから俺が今もセイバーを連れている、と勘違いしているのか。 「いいから行くよ。遠坂に見つかったら僕も君も只じゃ済まないんだから」  それだけ言って、慎二は歩き出してしまった。 「―――――――」  ……付いて行くしかないか。  慎二の話にも興味はあるし、午後の授業は諦めよう。  坂道を上がっていく。  うちとは正反対にある洋風の住宅地。  なんでもここのてっぺんには遠坂の家があるそうなのだが、それよりやや下、人目を避けるようにあるのが間桐家の洋館だと記憶している。 「――――――――」  相変わらず、すごい建物だ。  中学の頃は何度か遊びに来た事があったが、最近は近寄る事さえなかった。  慎二と疎遠になってからは呼ばれる事もなかったし、なにより桜自身が、この家に俺が近づくのを嫌がっていたからだ。  ……昼だというのに、屋敷の中は薄暗い。  この家は陽射しが入らない作りの上、電灯が少ない。  大げさだが、慣れていないと壁にぶつかる事だってある。 「衛宮、こっちだ。居間にいるから早く来いよ」  いつの間にそこまで行ったのか、屋敷の奥から慎二の声がする。  一年経っても体は覚えているもので、迷うことなく間桐邸の居間へ足を運んだ。  居間にも明かりらしき物はなかった。  カーテンは閉められ、日の光は遮断されている。  人工の明かりはなく、居間は暗く闇に沈んでいた。 「衛宮、こっちだ」  声がする方向に視線を投げる。  そこには椅子に座った慎二と――――    黒い、闇が結晶したような、女性の姿があった。 「紹介しよう。僕のサーヴァント、ライダーだ」 「――――――――」  悪寒が走る。  あまりの寒気に、首の後ろが斬りつけられたみたいに痛む。 「……二人だけで話をするんじゃなかったのか、慎二」  わずかに後退して、なんとかそう口にした。 「やだな、用心だよ。衛宮が襲いかかってきたら怖いからね。ライダーにはすぐ近くにいてもらわないと」  手を伸ばして黒いサーヴァント―――ライダーに触れる慎二。  横腹から太ももまで、撫でるようになぞっていく。 「―――――――」  ライダーはピクリとも動かない。  彫像のように佇み、閉ざされた目でこちらの様子を監視している。  ……それが〈指先〉《こっち》の震えまで捉えている気がするのは、錯覚じゃないだろう。 「人を連れて来てそれか。用心深いにも程があるんじゃないのか、慎二」 「冗談だってば。衛宮はそういうのが出来るヤツじゃないって判ってるよ。  ま、けどおまえのサーヴァントは別だからね。僕だってこいつを躾るのには苦労したんだ。サーヴァントがマスターの命令に従わない、ってのは珍しい事じゃないだろ。だからさ、これはちょっとした牽制だと思ってくれ」  ……マスターの命令に従わないサーヴァント?  たしかに目の前にいるライダーは、セイバーとは違う。  セイバーは静かではあるが、冷たくはない。  だがライダーから感じ取れるのは冷たさだけだ。  ひどく人間味の欠けた人間。  血が変色したように見える黒い姿。  彼女は英霊であるサーヴァントとは思えないほど、無機質で、光というものを感じさせない―――― 「……ライダーは俺のサーヴァントへの牽制か。あんまりいい気分じゃないな」 「ゴメンゴメン。何分こっちは素人だからさ、衛宮みたいに慣れてるって訳じゃないんだ。そのあたりは勘弁してくれ」 「……ふん。俺だって慣れている訳じゃないけどな」 「そうなのか? なんだ、なら君も呼び出せばいいじゃないか。その方がお互い理解しあえるし、すごく公平だ。  ああ、うんうん、それがいいそれがいい! ねえ衛宮、僕のも見せたんだからさ、君のサーヴァントも見せてくれない?」  ……やはり慎二はセイバーがいるものと勘違いしている。  その勘違いは、そのままにしておくべきだ。 「断る。そっちが牽制してくれるならそれでいいだろ。  話し合いならそれで十分だ」 「……なにそれ。あのさ、僕が見たいって言ってるんだよ? なに気取ってるか知らないけど、言うこと聞いといた方がいいんじゃないの?」 「なら話はここまでだ。別にサーヴァントの見せ合いをしにきたんじゃない。そんな事が目的だったんなら、ここで帰る」 「チ―――そうかよ。使えないヤツだな、相変わらず」  あーあ、と不満そうに声をあげて、慎二は椅子にもたれかかった。 「いいよ、本題に入ろう。と言っても話すべき事なんて一つだけだけどね。  ……うん。さっきも言ったけど、僕と協力しないか衛宮。マスターになったものの、聖杯戦争っていうのがどんな物か知らなくてさ。一人でいるよりは信用できるヤツと手を組みたいんだ」 「待った。その前に俺も訊きたい事がある。返事をするのはそれからだ」 「なに、僕がどうしてマスターになったかって事?」  ああ、と頷く。  知る限りでは慎二は魔術師じゃない。  その慎二がマスターになった経緯を知らなくては、協力するも何もない。 「マスターは魔術師である事が大前提だと聞いた。俺も未熟ながら魔術をかじっていて、偶然サーヴァントと契約してマスターになったんだが……慎二も偶然サーヴァントを呼び出して、聖杯戦争に巻き込まれたのか?」  だとしたら、俺たちは似たもの同士だ。  協力しよう、という提案を無碍には断れなくなってしまうのだが――― 「へえ、衛宮は偶然マスターになったのか。……ふうん。  そうなんだ。良かった、それなら納得できる」  くすり、と愉快そうに笑う慎二。 「ま、僕も似たようなものかな。本人の意思に反してマスターになってしまった、という点では同じだ。  ―――けど勘違いするなよ。  僕はマスターがなんであるか知っていたし、聖杯戦争の事だって前から知っていた。間桐の家はね、おまえの家なんかとは違う、〈歴〉《れっき》とした魔術師の家系なんだからさ」 「――――!?」  間桐が魔術師の家系……!?   「な、聞いてないぞそんなの……!?  待てよ、それじゃあ慎二と―――」    妹である桜も、魔術を習ってるっていうのか……!? 「落ち着けよ衛宮。間桐家はね、魔術師の家系ではあるけどもう枯れてしまった一族なんだ。  間桐の先祖は遠坂の家と一緒にこの土地にやってきたらしいが、日本の土が合わなかったんだってさ。  代を重ねる毎に、ええっと、魔術回路ってやつ? それが減っていって、僕が生まれた時にはもう、間桐の血筋は一般人に戻ってしまったそうだ。  だから間桐の人間は魔術師じゃない。昔、魔術師であった家系なだけなんだ」 「昔は魔術師だった……それじゃあ、今は知識だけが残っているのか?」 「ああ、残念ながらね。けど魔術回路がなくなったって、魔術を学ぶ事に変わりはない。マスターの事も聖杯戦争の事も、調べればすぐに判った。突然マスターに選ばれてこうやって落ち着けるのも、先代の教えがあったからなのさ」 「――――――――」  ……そうか。  俺はマスターになって、遠坂がいたから聖杯戦争ってものを理解できた。  それと同じように、慎二は間桐の家に伝わる文献で置かれた状況を把握したのか。 「つまり、慎二は魔術の知識だけを教えられてきたんだな。……なら、桜も同じように魔術を習ってきたのか?」 「はあ? ああもう、本当に何も知らないんだな、君。  いいかい。古い家柄の魔術師は一人にしか秘術を伝えないんだ。子供が二人いたら跡取りにするのは長男だけだよ」 「一つの物を二つに分けたら力が薄まるだろ?  十の魔術を一つの結晶にして遺していき、血をより濃くしていくのが魔術師だ。いくら肉親だからって安売りはしないのさ」 「だから魔術師の家系はね、跡取り以外に魔術は教えない。後継者に選ばれなかった子供は自分の家が魔術を学ぶモノだと知らずに育てられるか、養子に出すっていうのがセオリーなのさ」 「そうか――――それなら、良かった」    胸を撫で下ろす。  桜は魔術とは無縁の、穏やかな日常にいなくちゃいけない子だ。  こんな、訳も分からず戦いを強制される揉め事に関わらせてたまるものか。 「さ、これで判っただろ衛宮。  僕はマスターになったものの、魔術には疎い。  君は……そうだね、少しは使えるって言うけど、知識の方は素人同然だ。  ほら、ちょうどいいと思わないか? 勝手にマスターにさせられた者同士、協力しようよ」 「……それは構わないが。確認するけど、それは身を守る為なんだな、慎二」 「いや、それもあるけど、まずは当面の敵を叩かないとまずいんじゃない。僕、なんか彼女から目の仇にされてるみたいだしさ」 「……目の仇にされてる……? まさかおまえ、それ遠坂のコト言ってるのか」 「そんなの決まってるじゃないか! そうでもなければ僕を邪険にするものか……!  ……いいか、アイツは他のマスターを許さないヤツだぞ。そんなの一緒にいる衛宮だって判るだろ?  けどさ、なんの物好きか知らないけど、遠坂は君に気を許している。あの隙のない女がだぜ?  ―――ほら、倒すには絶好の機会だと思わない?」  そう言って、慎二は握手を求めるように手を出してきた。 「――――――――」  ……俺は、そんな話には乗らない。  いや、乗れない。  慎二が本気で身を守りたいと思うのなら、俺だけじゃなく遠坂にも声をかけるべきだ。    それに――― 「慎二。聖杯戦争を管理しているヤツがいるのは知ってるか」 「ああ、教会の神父だってね。前回の生き残りだっていうけど、うるさそうだから会ってないよ。  僕は魔術師じゃないんだから、魔術師としてのルールなんて押しつけられるのは面倒じゃない」 「――――――――」  それは矛盾している。  戦いを〈止〉《や》めたいと思うのなら、まず何より言峰神父を訪ねるべきではないのか。 「――――慎二。学校に結界が張ってある事は知っているのか」 「知ってるよ。僕には判らないけど、ライダーが教えてくれた。それがどうしたっていうのさ」 「……アレはおまえじゃないのか。遠坂は学校にいるマスターの仕業だと言っていたけど」 「ああ、アレは僕じゃないよ。たしかにあの学園にはもう一人マスターがいるから、そいつの仕事じゃないの」 「? 遠坂は一人しかいない、と言っていたぞ」 「遠坂を信用しすぎるのもなんだけどね。ま、それは別にしてもあいつは間違ってるよ。  遠坂が探っている気配は魔術回路ってヤツなんだろう?  なら僕は彼女が感知できるマスターじゃない。だって、元から魔術回路なんてないんだから。  初めからさ、僕は普通のマスターたちのレーダーに映らない存在なんだよ」  ……なるほど。  魔術師の気配だろうが令呪の気配だろうが、それは結局魔力によって作動するものだ。  なら―――魔力を持たない人間がマスターになったのなら、識別する方法は実際に見て確かめるしかない。  魔力を帯びた人間を探る、という遠坂の方法では、慎二というマスターを見つけるどころか気づく事さえできないのだ。  なぜなら、遠坂が追っている〈魔力〉《マスター》の気配そのものを、慎二は持っていないのだから。 「……そうか。そうなるといま遠坂が感知しているマスターっていうのは、他にいるんだろう」    帰って遠坂に忠告してやるべきだろう。  そうと決まれば、もうここに残る必要もない。 「……! おい衛宮、協力の話はどうなんだよ」 「それは断る。遠坂を倒す、なんて相談にはのらない。  第一、あいつは何もしていないだろ。  あいつとは……いずれ戦う事になるけど、今は信頼できるし、していたいんだ」 「……ふん。何かあってからじゃ遅いと思うけどね。まあそう言うならいい。僕も君と同じく様子を見るさ」  意外な事に、慎二はそれで諦めてくれたらしい。  帰ろうとする俺を引き留める事もしないし、ライダーをけしかけてくる事もなかった。  ……ほんと、難しいヤツだな慎二は。  態度はアレだけど、あいつはあいつなりにフェアであろうと心がけているみたいなんだから。 「……なあ慎二。しつこいようだけど、桜はおまえの事を知ってるのか?」 「知らないし、教えてやるつもりもない。間桐の跡取りは僕だからね。桜には何も知らないまま、僕の妹でいさせてやるさ」 「―――助かる。桜には、あのままでいてほしい」 「は――――。  そうか、そこまで桜の心配をされちゃ兄貴として礼をしないとね。……よし、一ついい事を教えてやるよ衛宮。  誰だかは知らないけど、マスターの一人は寺に巣を張ってるよ」 「――――!? 寺って、まさか柳洞寺にか!?」 「ああ。僕のサーヴァントが言うには、山には魔女が潜んでいるそうだ。大規模に魂を集めているそうだから、早めに叩かないと厄介らしい」 「な――――」  それが本当なら、これで五人目だ。  それに大規模に魂を集めているという事は、今朝のニュースの元凶である可能性が高い。 「話はそれだけだよ。  それじゃあライダー、送ってやってよ。いいかい、衛宮は味方だから傷つけるんじゃないぞ」  慎二に命じられ、ライダーが近寄ってくる。 「っ……いや、それは」 「遠慮するなって。家を出るまでは僕の責任なんだから、怪我をされたら困る。  ああライダー、送るのは玄関まででいいからな。外にさえ出てくれたら僕とは無関係だから、それまでは丁重に送ってやれ」  慎二は奥の部屋へと引っ込んでしまった。 「………………」  無言でライダーに視線を送る。 「………………」  黒い衣に包まれたライダーは何も言わない。  ただ意外な事に―――近くで見ると、彼女は清楚な顔立ちをしていた。  長い、地面にまで伸びている紫の髪は血の臭いしか感じさせないのに、同時にとんでもなく美しいものと判る。  ……いや、格好が格好だからまともに見るのは恥ずかしいんだけど、この服と彼女の顔立ちは、まったく合っていないんじゃないだろうか。  一言で言うのなら、血に濡れた巫女。  邪悪でありながら神聖、なんていう矛盾に満ちた姿が、ライダーというサーヴァントだった。 「………というか」    英霊っていうのは、こう美人ぞろいなんだろうか。  怖い物見たさでライダーの顔を見上げていると、ついそう思ってしま―――って、女性にしては背が高い。  百七十センチは優にあるんじゃないだろうか、ライダー。 「…………む」  冷静に観察している場合じゃなかった。  ライダーと二人きり、というのも問題あるし、さっさと間桐邸から出なければ。  本当にライダーは玄関まで付いてきた。  ……どうだろう。  生きているという感じがしない彼女だが、話しかければ何か答えてくれるかもしれない。   「……ライダー。さっきの慎二の話は本当なのか」  駄目もとで声をかける。 「――――――――」  ライダーに変化はない。ただ、その長い髪が風に揺れているだけだった。 「……だよな。悪かった、敵同士なのにつまんない事訊いちまって」  見送りサンキュ、と手をあげて玄関を出る。    ――――と。 「嘘ではありません。あの山に魔女が棲んでいるのは真実です」 「え……ライダー?」 「挑むのならば気をつけなさい。あの魔女は、男性というものを知り尽くしていますから」  淡々と語るライダー。  それに聞き惚れてしまっている自分に気づいて、ぶんぶんと頭を振った。 「あ、その……忠告、ありがとう。  ―――それと慎二の事をよろしく頼む。アイツはああいうヤツだからさ、アンタが守ってやってくれ」    面くらいつつ、なんとか言葉を返す。  それがおかしかったのか。 「……人が好いのですね、貴方は。シンジが懐柔しようというのも解ります」  くすりと小さく笑って、ライダーは間桐邸へと消えていった。  君子危うきに近寄らず。  どんなにキレイな顔をしていようと、ライダーからは血の臭いがする。  ……それだけでも警戒するべき相手だろう。  ……まあ、それに。  なんていうか、目のやり場に困って、話しかけるどころの話じゃないし。 「――――何か?」 「っ……!」  慌てて目を逸らす。 「な、なんでもないっ……! み、見送りどうも……!」    だあーっ、と逃げるように走り出す。  坂道を駆け下りる。  黒いサーヴァントは、そんな隙だらけの俺を静かに見送っていた。  二人を送り出して居間に戻る。  夕食の後に話がある、と言っておいたおかげか、居間では遠坂とセイバーが真剣な面もちで待っていた。 「お疲れさま。―――それで話っていうのは何?」 「他のマスターの話だ。聞いてほしい事がある」  わずかにセイバーの眉が上がる。  ……サーヴァントである以上、彼女が優先するのは安穏とした日常ではなく、剣を振るう戦いなんだろう。  だが、彼女の傷はまだ癒えていない筈だ。  ランサーの“宝具”によって穿たれた胸の傷は、セイバーであっても易々と治癒できる物ではない。 「――――――――」  そう思うと、慎二の話をするのは躊躇われた。  俺だって慎二と同じだ。  自分から戦う事は極力避けたいし、それに―――目の前の少女が剣を振るうのは、どう考えても不釣り合いだと思うのだ。 「シロウ。話があるのではないのですか」 「あ―――ああ。そうだな……率直に言うとだな。今日、ライダーとそのマスターに会ってきた」 「な、ライダーのマスターに会ってきたって、いつの話よそれ!?」 「そんな馬鹿な! 一人で敵のマスターに会うなどと、自分の身をなんと考えているのですか!」 「うわ、待て、落ち着けってば……! 大丈夫、怪我なんてしていないから、そう怒らないでくれ」 「怒るななどと―――いえ、私は怒ってなどいませんっ。  シロウの行動に呆れているだけです」 「……右に同じ。ま、すんだ事を言っても始まらないわ。  それで、どういう事なのよ士郎」  明らかに怒っている目でこちらを睨んでくる遠坂とセイバー。  ……まいった。  軽率だー、なんて言われるとは思っていたが、まさかここまで本気で怒られるとは思っていなかった。 「……会ったのは今日の午後だ。  話し合いをするっていうから付き合っただけで、別に戦った訳じゃない」 「見れば判るわ。で、ライダーのマスターはどんなヤツだったの」 「どんなヤツかって、慎二だよ。  学校で結界を探っていたら声をかけられてな。話があるから付いてこいって、間桐の家まで行ったんだ」 「な――――慎二って、本当にあの慎二!?」 「ああ。ライダーも慎二に従ってたし、聖杯戦争も知ってたぞ。なんでも間桐は由緒正しい魔術師の家系なんだって?」 「え―――ああ、うん、それはそうだけど……そんな筈はないのよ。間桐の家は先代でもう枯渇している筈だもの。何があろうと間桐の子供に魔術回路はつかない。これは絶対よ」  断言する遠坂。  こいつがそこまで言うからには、慎二と桜には本当に魔術回路はないのだろう。 「ああ、慎二もそう言っていた。けど知識だけは残ってたんだと。長男である慎二にしか教えなかったそうだから桜は知らないとか。  ……ようするにさ、俺と似たタイプのマスターなんだよ、あいつ。自分には魔力がないから、遠坂の感知にもひっかからないとか言ってたぞ」 「……そう。まずったわね、たしかにそういうケースだってあるか……。魔道書が残っているんならマスターになるぐらいはできるだろうし、ああもう、それじゃわたしの行動ってアイツに筒抜けだったんだ、ばか」  遠坂はぶつぶつと反省している。  ……ふむ。遠坂はほぼ完璧なんだけど、どこか抜けている部分があると見た。  問題は、それがけっこう致命的な物ばかり、という事だろう。 「わたしのミスだわ。慎二の事はしっかりマークしておくべきだった。知っていたら結界を張らせるなんて事もなかったのに」 「ああ、いや。学校の結界は慎二じゃないって言ってたぞ。学校にはもう一人マスターがいるんだとさ」 「ええ、それはそうでしょうね。学校にはまだ一人、わたしたちの知らないマスターがいるのは明白よ。  けど士郎。貴方まさか、結界を張ってないっていう慎二の言葉を信じてるの?」 「……いや、そこまでお人好しじゃない。慎二が学校にいる以上、半分の割合で慎二の仕業だと思う。あとの半分は、まだ正体が知れないマスターだろ」 「半分ねえ……その時点で大したお人好しだと思うけど。  ま、それはそれでいいわ。そういう余分なところが貴方の味だし、だからこそ慎二は正体を明かしたんだろうしさ」 「?」 「まあいいわ。それで慎二と何を話したのよ、貴方」 「手を組まないか、だとさ。慎二も戦うつもりはないらしい。だから顔見知りとなら協力したいって風だったけど」 「え―――士郎、あなたまさか慎二と」 「いや、断るだろ普通。俺、もう遠坂と手を組んでるし。  返事をするにしたって、ちゃんと遠坂に話を通さないとダメじゃないか」 「あ……うん。それは、そうだけど。でも断ったって、言った?」 「ああ。さっきはああ言ったけど、慎二への返答は俺の独断でやっちまった。遠坂の耳に入れるような話でもなかったし。……あ、それともやっぱり早まったのか、俺?」 「……別に。士郎の判断は正しいんじゃない? まあ、アンタ個人にお呼びがかかったんなら、わたしが文句を言う筋合いでもないけどさ」  ごにょごにょと言う姿は、なんか実に遠坂らしくない。 「慎二からの話はそれだけだよ。  俺の見た限りじゃライダーもそう強力なサーヴァントでもなかった。バーサーカーは言うに及ばず、ランサーより威圧感はなかったと思う。ライダー本人も思ったよりまともだった」 「……マスターがそう実感したのなら確かでしょう。ですが、サーヴァントの真価は手にした宝具に左右されます。ライダーが何者であるか判明するまでは油断はしないように、シロウ」 「……ああ。ライダーがどこの英雄かはまったく判らなかった。ほら、ランサーとかバーサーカーはいかにも英雄って感じじゃないか。ライダーにはそれがなくて、どこか普通のサーヴァントとは違う気がした」 「―――普通のサーヴァントとは違う、ですか。  私には分かりませんが、凛ならシロウの違和感が説明できますか?」 「え……? あ、うん、理屈だけなら判るわよ。  えっとね、サーヴァントがどんな英霊かは呼び出されたマスターに左右されるって話。けっこう似たもの同士になるのよ、マスターとサーヴァントは」 「つまり高潔な人物がマスターなら、それに近い霊殻をした英霊が召喚される。逆に言えば心に深い傷を持った人間が英霊を呼び出せば、同じように傷を負った英霊が現れるわ。  士郎がライダーに感じた違和感はそれでしょうね。  〈歪〉《いびつ》な心を持つマスターは、時として英雄ではなく英霊に近いだけの怨霊を呼び出してしまうのよ」 「英霊に近い怨霊……それってまさか、前に遠坂が言っていた――――」 「ええ。血を見るのが大好き、人殺しなんてなんとも思わないような暴虐者よ。  実際、残忍さだけが伝承に残っている英雄だっているんだから、そういうヤツがサーヴァントになってもおかしくはないわ」 「――――――――」  そう、なのだろうか。  たしかにライダーからは血の臭いしかしなかったが、彼女にはそんな、血に飢えた殺人鬼のようなイメージはなかったのだが……。 「……まあライダーの事はそれだけだ。  最後にもう一つあるんだけど、これが一番重要かも知れない。  なんでもさ、ライダーの話じゃ柳洞寺にもマスターがいるらしい。そいつは町中の人間から魔力を集めているそうなんだけど、この話、二人はどう思う」 「柳洞寺……? 柳洞寺って、あの山のてっぺんにある寺のこと?」 「だからそうだって。なんだ、思い当たる節でもあるのか遠坂」 「まさか、その逆よ。柳洞寺なんて行った事ないもの。  どんなマスターか知らないけど、そんな〈辺鄙〉《へんぴ》なところに陣取ろうなんて思わないわよ、普通」 「だよな。俺も柳洞寺にいるって聞いた時は驚いた。  いくら人目につかないっていっても、寺には大勢の坊さんが生活しているんだ。怪しい真似をしたらすぐに騒ぎになると思う」 「ふーん……いまいち信用できないわね、その話。  仮にそうだとしても、柳洞寺って郊外のさらに郊外にあるんでしょ?  そこから深山と新都、両方に手を伸ばすなんて、大魔術っていうより魔力の無駄遣いよ。集めた魔力を使っても、そんな大規模な術は不可能だもの」  と、なにやら難しそうな顔で考え込む遠坂。  こっちは遠坂の意見を頼りにしているので、こいつが顔をあげない事には何も言えない。 「―――いえ、シロウの話は信憑性が高い。  あの寺院を押さえたのなら、その程度の魔術は自然に行えるのですから」 「? セイバー、あの寺院って―――柳洞寺のこと知ってるのか? まだ連れて行った事ないぞ、俺」 「忘れたのですかシロウ。私は前回も聖杯戦争に参加しています。この町の事は熟知していますし、あの寺院が落ちた霊脈という事も知っています」 「―――落ちた霊脈!? ちょっと待って、それって〈遠坂〉《うち》邸の事よ!? なんだって一つの土地に、地脈の中心点が二つもあるっていうのよ!」 「それは私にも判りませんが、とにかくあの寺は魔術師にとって神殿とも言える土地です。  この地域の命脈が流れ落ちる場所と聞きますから、魂を集めるには絶好の拠点となるでしょう。魔術師は自然の流れに手を加えるだけで、町中から生命力を回収できる」 「……そんな話、初めて聞いたわ。  けど、確かにそれなら町の人間から生命力を掠め取っていく事もできるわよね……」 「ようするに霊的に優れた土地ってコトだろ? そんなの当然じゃないか。そうでもないところに寺なんて建てないぞ」 「うっ――――そ、そんなの当たり前じゃない。言われなくても分かってるわよ」 「だよな。昔から寺とか神社ってのは神がかる場所に建てて町を守るものだ。坊さんは神仏に祈って幸を与えるんじゃなくて、鬼門を封じて禍を退ける。その線で言えば、柳洞寺のあるお山が特別な場所ってのは当然だろ」 「っ――――」 「おい―――まさかとは思うが。おまえ、柳洞寺をお飾りの寺だとでも思ってたのか?」 「ええ、そうよ悪い!? 今まであるだけの寺だと思ってたわよ、あの寺には実践派の法術師がいないんだから!」 「実践派の法術師……? なんだそれ」 「読経や信心、祈願以外で霊を成仏させる連中のこと。  覚者は神仏の力だけで事を成すそうだけど、修行が浅い僧侶は神仏に届かないから、わたしたちみたいに自身の力を上乗せして術を成すの。  そういう連中が集まって組織みたいになってるのがあるのよ、この国には。〈魔術協〉《わたしたち》会とは相容れない連中だから詳しくは知らないけどさ」 「ううん、そんな事より寺の事よ。  あの寺が霊脈だとしたら、まず真っ先に押さえようとするのがマスターでしょう? おかしいじゃない、なんで他の連中はそんな場所を見逃しているのよ」 「いや、だから柳洞寺があるからだろ。悪用されないように見張ってるんだって」 「柳洞寺の僧侶はみんな純粋な修行僧じゃない。  わたしたちみたいに外れた連中じゃないんだから、そんな人たちを丸め込むぐらいマスターなら造作もないわ」 「いいえ凛、それは違う。たしかにマスターならばあの寺院を制圧するのは容易いでしょう。しかし、あの山にはマスターにとって都合の悪い結界が張られているのです」 「? わたしたちに都合の悪い結界……?」 「はい。あの山には自然霊以外を排除しようとする法術が働いている。生身の人間に影響はありませんが、私たちサーヴァントには文字通り鬼門なのです」 「自然霊以外を排除する―――それじゃサーヴァントはあの山には入れないって事!?」 「入れない事はありませんが、能力は低下するでしょう。  足を踏み入れる度に近づいてはならない、という令呪を受けるようなものですから」 「―――それじゃ、どうやって柳洞寺のマスターはサーヴァントを維持しているのよ」 「いえ、寺院の中に入ってしまえば結界はありません。  もとより結界とは寺院を守る境界線と聞きます。結界は外来者を拒むだけの物ですから、それ以上の能力はありません」 「……じゃあなんとか中に入ってしまえば、サーヴァントを律する法術はないって事?  ……けどおかしいな。そんなふうに寺院を密閉させたら地脈そのものが止まるじゃない。せめて一本ぐらい道を開けておかないと、地脈の中心点には成り得ないんじゃない?」 「はい。寺院の道理で言えば、正しい門から来訪した者は拒めません。その教えに従っているのか、寺に続く参道にだけは結界が張れないと聞きました。  あの寺院は正門のみ、わたしたちサーヴァントを律する力が働いていないのです」 「……なるほど。そりゃそうよね、全ての門を閉じたら中の空気が〈淀〉《よど》むもの。……ふうん、ただ一つだけ作られた正門か……」 「私が教えられる事はそれだけです。  ―――では結論を。マスターがいると判明したのですから、とるべき手段は一つだけだと思いますが」 「――――――――」  セイバーの言いたい事は分かっている。  敵の居場所が判明したのなら攻め込むだけだ、と彼女の目が言っている。  しかし―――― 「わたしはパス。  どうにも罠くさいし、正直それだけの情報じゃ動けないわ。相手のホームグラウンドに行くんなら、せめてどんなサーヴァントを連れているのか判明するまで待つべきよ」 「……意外ですね。凛ならば戦いに赴くと思ったのですが」 「侮ってもらって結構よ。こっちはアーチャーがまだ本調子じゃないし、しばらくは傍観するわ」 「わかりました。それではシロウ、私たちだけで寺院に赴きましょう」 「――――――――」  セイバーは当然のように言う。  だが、それは。      ―――打って出る。    柳洞寺にマスターがいて、町の人間から魔力を吸い上げているのなら一刻も早く止めるべきだ。 「セイバーに賛成だ。こっちから打って出るのは気が進まないが、それも相手による。  柳洞寺のマスターがどんなヤツか確かめる為にも、すぐに柳洞寺に行くべきだ」 「では出陣ですね、シロウ。貴方が積極的になってくれたのは喜ばしい」 「……そ。貴方がそう決めたのなら、わたしに言う事はないけど。せいぜい気をつける事ね」 「遠坂?」 「先に休むわ。わたし、勝算のない戦いに興味はないから。明日になって貴方が帰ってこなかったら、協力者のよしみで骨ぐらい拾いに行ってあげる」 「なんだあいつ。縁起でもないコト言いやがって」 「今のは凛なりの忠告でしょう。  柳洞寺には外敵への備えがある筈です。私たちは敵の罠を潜り抜け、城主たるマスターを倒さねばならないのですから」 「……む。いや、それはそうだけど」  何も俺は絶対にマスターを倒す、と意気込んでいる訳じゃない。  柳洞寺のマスターの正体と、その真意を見極めるだけだ。  うまくすれば戦闘は避けられるかもしれないし、危うくなったら撤退する。      ……そうだ。二度とあんな姿にはさせない。  危険だと判断したら即座に撤退するだけだ――――    雲の流れが速い。  遥か上空で、強い風が吹いている。 「マスター。じき零時ですが」 「……ああ。町も眠りについた。出向くにはいい頃合だ」  竹刀袋を手にして頷く。  中には土蔵から見繕った木刀が一本。  サーヴァントと戦うには心細すぎる装備だが、強化がうまくいけば一撃ぐらいは耐え切ってくれるだろう。 「セイバー。柳洞寺に行くのはあくまで様子見だ。  マスターがどんなヤツなのか、そのサーヴァントがどのクラスなのかを確認できればいい。こっちから仕掛ける必要はないからな」 「……解りました。ですが敵が戦いを望み、シロウの身に危険が及ぶと判断した時はその限りではありません。  敵地に赴く以上、どちらかの死は覚悟してほしい」  どちらかの死。  それは柳洞寺に潜むマスターと、その陣地に挑む俺に振り分けられた運命の秤だ。  今のところ水平に保たれたバランスは、数時間後にはどちらかに傾いているかもしれない――――  交差点から西へ、閑散とした道を走る。  開発の進んだ新都とは正反対の方角、緩やかな山道の終わりに柳洞寺は建てられている。 「――――――――」  長い階段。  冬木市でも一際高い山の中腹へ続く〈路〉《みち》は、不吉な闇に包まれている。 「……セイバー。  サーヴァントの気配、感知できるか……?」 「―――はい。正確には把握できませんが、確かにサーヴァントの気配がします」  柳洞寺に張られた結界の影響か、セイバーの感知能力は低下しているようだ。 「―――よくない風です。……シロウ、片時も私の傍を離れないように」 「…………」  頷きだけで答えて、石の階段を登り始める。  張り詰めた空気。  夜の闇に沈んだ林が、ギチギチと音を立てて揺れている。 「――――――――」  一歩ごと、嫌な予感が背中に沈殿していく。    ……山門が見えてきた。  ここまで何の動きもない。  敵の気配はせず、山門は俺たちを招くように開け放たれている。 「シロウ、止まって」 「っ……敵か、セイバー」 「はい。ですがサーヴァントではありません。気配が微弱すぎる。おそらく監視役の使い魔でしょう。無視しても構わないのですが、しかし――――」  何か、その監視役とやらに思うところがあるのか。  セイバーは顔を曇らせて、あと数歩足らずの山門を睨んでいる。 「……セイバー? 何かひっかかるものがあるのか……?」 「……分かりません。この悪寒が監視の使い魔のものなのか、この山門を守るモノの気配なのか。  門番らしきモノはいたようなのですが、今は不在のようです。  ……認めたくはないのですが、私はそれを幸運と思っている。この門を守るモノと対峙しなくて良かった、と」 「―――門の番人がいたって事か。けど今はいない……?」 「はい。私たちがやってきた事は既に知られています。  その上で門番を下げた意味は二つ。シロウはどちらだと思いますか」 「――――――――」  ……俺たちから隠れる為に門番を下げたか、それとも中に入れて逃がさないようにする為か。  ……どちらにせよ、中に入らなければこれ以上の進展はないだろう。 「……間違いなく罠だと思う。セイバー、ここから中の様子は判るか?」 「いいえ。サーヴァントの気配がする、という情報しか掴めない」 「……そうか。結局、中に入るまで何も判らないみたいだな」  こくん、と頷くセイバー。 「―――行こう。何を仕掛けてくるにしろ、相手の顔を見ない事には始まらない」  セイバーと共に山門に向かう。    一瞬、月が雲に呑まれた。  ―――視界が闇に落ちる。   「……え?」  その中で、なにか―――木々の間に潜む、美しい蛇を見た気がした。 「―――待て。セイバー、今」  山門をくぐろうとするセイバーを呼び止める。 「シロウ?」  振り返る金の髪。  だが、それは。 「強制転移……!? 馬鹿な、この時代において転移魔術だと―――そうか、キャスター……!」  セイバーの姿が歪んでいく。  それはいかなる魔術か。  セイバーは蜃気楼のように歪み、そのまま―――― 「まずい、下がれセイバー……! なんか、体が消えてるぞ……!」 「違いますシロウ……! 転移を受けているのは貴方の方だ……! 早く私の手を……!」 「っ……!?」  な、転移って瞬間移動か……!? 「シロウ、手を伸ばして……! そのままでは中に引き込まれ――――」  地を蹴って俺の腕を掴むセイバー。  それを、 「くっ、つ――――!?」  横合いから弾く、黒いサーヴァントの姿があった。 「不覚を取りましたねセイバー。魔術に対する強力な〈抵抗〉《レジスト》が仇になった。  貴方がそこまで強力でなければ、彼を守りきれたものを」 「な―――貴様、サーヴァント……!」  銀の甲冑と黒い装束がぶつかり合う。  セイバーとライダー。  両者は石畳の上で対峙し、 「な――――セイバー、セイバー……!」  俺の存在は三次元から引き上げられ、多次元を経由して、もとの〈世界〉《じげん》に落とされた。 「あ――――う、げっ…………!」  全身の血が逆流する。  一瞬、内臓という内臓が裏返り、別の生物になったような嘔吐感だけが―――― 「あら。竜を釣ろうと思ったのに、網にかかったのは雑魚だけなんて」 「……!」  背後の気配に振り返る。 「っ、ぐ……!」  相手を確認する余裕なんてない。  竹刀袋に入れたまま、木刀を背後へと振り払う。 「Αερο」 「あ―――、…………」  ―――吹き飛んだ。  右胸を撃たれ、体ごと水面に没する。 「あ――――、れ?」  ……水面が、赤い色に染まっていく。  体―――――俺の右胸は、ごっそりと、巨大な扇風機に呑みこまれたように削られていた。 「馬鹿な子。そんな紙クズみたいな魔術抵抗で私の神殿にやってくるなんて、セイバーもマスターに恵まれなかったようね」 「――――――――」  ……紫のローブが嘲笑う。  目眩―――俺は、すぐにでも立ち上がってセイバーの手を取らないといけないのに、目眩がして、体が、 「セイバーが気になる……? 安心なさい、彼女は私が貰ってあげる。バーサーカーを倒すには彼女の宝具が必要ですからね。貴方はここで死に絶えるけれど、彼女は私の奴隷として生き続けるわ」 「――――、――――――――ぁ」  ―――力が、入らない。  ゆ、びが。  凍え、るみたいに冷たくて暗く暗くどろりと、〈脳動〉《いしき》が保てなく―――― 「さようなら坊や。そんな低能では奴隷にする価値もないけど―――貴方の令呪は、私が有効に使ってあげる」        歪な短刀が令呪を切り取っていく。  ……黒い水の中。  月を呑む雲の流れだけが、停止した眼球に焼きついていた――― 「―――いや、俺も遠坂と同じだ。まだあそこには手を出さない方がいい」 「な……貴方まで戦わないと言うのですか……!?  バカな、今まで体を休めていたのは何の為です!  敵の所在が判明した以上、打って出るのが戦いというものでしょう!」 「―――それは分かってる。けど待つんだセイバー。  柳洞寺にいるマスターがそこまで用意周到なヤツなら、絶対に罠を張っている。そこに何の策もなしで飛び込むのは自殺行為だ。  遠坂の言う通り、せめてアーチャーが回復するまで待つべきだと思う」 「そのような危険は当然です。初めから無傷で勝利を得ようなどと思ってはいません。  敵の罠が体を貫こうと、この首を渡さなければ戦える。  どのような深手を負おうと、マスターさえ倒せればいいのではないのですか!」 「な――――バカ言うな、怪我をしてもいいなんて、そんな話があるか!  危険を承知で行くのはいい。けどそんな特攻は馬鹿げてる。……俺はマスターとして、セイバーにそんな危険な真似をさせられない」  そう、間違いなく柳洞寺に行くのは特攻だ。  寺に続くただ一本の道には、何かしらかの障害があってしかるべきだ。  それを承知で行くのはいいが、打開策もなしで挑むのは自殺行為に他ならない。  いくらセイバーが強いっていっても、彼女には俺というハンデがある。    無理をして戦って、その結果が――――            あの再現になるのなら、俺は絶対に頷けない。 「……何を言うかと思えば。  いいですかマスター、サーヴァントは傷を負う者です。  それを恐れて戦いを避けるなど、私のマスターには許しません」 「―――ああ、許されなくてけっこうだ。セイバーが無茶をするんなら何度だって止めるからな。  ……それが嫌ならさっさと体を治せっていうんだ。まだ傷が治りきってないんだろ、おまえは」 「戦闘に支障はありません。傷を理由に戦いを先延ばしにするなどと、そのような気遣いは不要です」  セイバーは戦う意思を崩さない。 「っ――――」  ああもう、どうしてこんなに言っているのに分からないんだこいつは……! 「ああそうかよ。けどな、そう簡単に頷けるか。  以前だってそれでセイバーはバーサーカーにやられちまったんだろう!? 無理を通して戦って、また俺もおまえも共倒れ、なんて真似を繰り返すつもりか!?  冗談じゃない、俺はあんな、無残に殺されるなんて二度とご免だ……!」 「――――――――」  そうして。  すぐに言い返してくるだろうと思っていた彼女は、わずかに息を呑んで、   「……それを言うのは卑怯ではないですか、シロウ」    謝罪するように、そんな言葉を口にしていた。 「…………卑怯で悪かったな。  とにかく、こっちから仕掛ける事はまだしないぞ。  俺だって柳洞寺にいるマスターは放っておけない。けど俺たちは戦える状態じゃない。こんなんで戦ってやられちまったら、それこそ誰が柳洞寺のマスターを止めるんだ」 「いいか、こっちから打って出るのはおまえの傷が治って、万全の状態になってからだ。それに文句があるんなら、さっさと他のマスターを見つけてくれ」 「―――分かりました。マスターが、そう言うのでしたら」  静かな声で答えて、それきりセイバーは黙り込んだ。    ……話は終わった。  遠坂は部屋に戻り、セイバーも部屋に戻った。  一人居間に残って、ひどく後悔する。  いや、悔やんでも後の祭りだ。  他に言いようがあっただろうに、なんだって俺はあんな、    あんな顔をさせるような言葉でしか、彼女を説得できなかったのか―――    風の無い、静かな夜だった。  時刻は零時を過ぎている。  沈殿した闇。  町は、垣間見える月の明かりだけを〈寄〉《よ》る〈辺〉《べ》にした、暗い深海のようだった。    雲が流れている。  地上は無風。  されど遙か上空では轟々と大気がうなり、幾重にも連なる雲を泳がせていた。   「――――風が出るな」    聞こえる筈のない風が聞こえるのか。  わずかに耳朶を震わせる上空の風を仰いで、小さく、彼女は呟いた。    空を睨み、音もなく庭に佇むのはセイバーと呼ばれる少女である。  金の髪は闇夜においてなお美しく、澄んだ緑の瞳は見え隠れする月を捉えていた。   「――――――――」    一度だけ、庭の隅に視線を送る。    そこには古い土蔵があり、彼女の主が眠っている。   「――――貴方が戦わないというのなら、いい」    かちゃり、という音。  鉄の響きは誰に届くこともなく闇に溶ける。  月が隠れ、現れる。  上空の雲が流れ去る一瞬で、少女の姿は一変していた。    重く硬い銀の甲冑。  青い衣に身を包んだその姿は、もはや少女と呼べるものではない。  他を圧倒する魔力で編み上げられた鉄壁の守りと、  人を凌駕する魔力で隠し通された視えざる剣。  戦場において不敗とされたその姿は、現代においてなお、彼女の在り方を決定づける。    剣は見えずとも、彼女が卓越した剣士である事はその威風が証明していた。  故にセイバー。  七人のサーヴァント中、最高の能力を持つという剣の英雄。    礼節を〈弁〉《わきま》え、主の意思を代行する騎士の中の騎士。  他の英霊がどのような者であれ、彼女だけは決して主に逆らわない理想の剣士。   「――――――――」  だが、それも今宵で終わった。  彼女は主の命に背いてこの場にいる。  否―――真実、主に逆らう訳ではない。  彼女なりに主を勝たせようと思案し、決意した結果がこれである。   「―――彼は甘い。それでは他のマスターに殺されるだけだ」    だが今回のマスターは、その甘さを捨てきれないだろう。  ならば、非情に徹するのは己の役割。  マスターが戦わないというのなら、剣である自身が戦うだけである。   「傷は癒えていない。マスターからの魔力供給も期待できない」    だが、それでも戦闘に支障はない。  自身の性能を確認して、視線を月に移した。  もはや主の眠る土蔵に関心はない。  武装した以上、彼女にあるものは敵を屠る意思だけである。            月が〈翳〉《かげ》る。  一際大きな雲塊が夜空を覆ったのと同時に、セイバーは屋敷の塀を飛び越えていた。    ――――闇を駆ける。    寝静まった町並みを、銀色の剣士が駆け抜けていく。    向かうべき場所はただ一つ、町の郊外に〈聳〉《そび》える霊山、その中腹に位置する柳洞寺だ。  寺に潜むマスターを単独で斬り伏せる事がどれほど困難か、セイバーとて理解している。  士郎の言う通り、一人で挑んでは深手を負う事は目に見えている。最悪、返り討ちにあう事もあるだろう。    だが、その程度の無理を通せなくて何がサーヴァントか。  サーヴァントを支えるものは卓越した能力と、培ってきた絶対の誇りである。    ―――彼らには英雄の誇りがあり、幾多の戦場を戦い抜いてきた最強の自負がある。    古来、人々に伝えられ敬われてきた英霊である以上、敵が何者であれ負ける事など許されない。  否、敗北など想像する事さえ許されまい。    それは未だ幼さが残る彼女とて例外ではない。  セイバーの名を冠する彼女だからこそ、自身に対する誇りは譲れないものだ。  敵を前にして傍観するなど、その誇りが許さない。    故に、例えどのような罠があろうと怯まず、単独であろうと挑むだけ。  勝機がないというのなら己が剣で切り開こう。  手にする剣は幾多の敵をうち破ってきた名剣である。  この風王結界を持つ以上、彼女に恐れるものなど何もない。    峠道を越え、寺院へと続く参道を駆け抜ける。  山道を抜けた先に待っていたものは、物々しい石の階段だった。   「…………確かに、これは」  それは、彼女が記憶していた柳洞寺とは別物だった。  空気が淀んでいる。  風が死んでいる。  土地の命脈が、とうの昔に汚されている。    ―――ここは死地だ。  足を踏み入れれば、生きて帰る事は叶うまい。   「――――」  それでも躊躇う事などない。  セイバーの速度はわずかも落ちず長い階段を駆け上がる。    駆け抜ける景色。  石段を蹴っていく足音が反響し、山はざわざわと蠢きだす。    それは、長い階段だった。  矢のように駆け上がるセイバーでさえ山門は遠い。  これほどの長距離、敵に感知されず山門をくぐるなど不可能だ。  必ず奇襲がある。    山門には容易に辿り着けまい。    だが、どのような策略があろうと蹴散らして進むだけだ。    今の自分を止められるものなどいない。    〈仮令〉《たとえ》バーサーカーが現れようと、今の自分ならば突破してみせよう―――    それが彼女の決意であり、セイバーとしての自信だった。    そうして頂上。  あと僅かで山門に至るという時に、その障害は現れた。   「――――!」  セイバーの足が止まる。  いかなる敵であろうと突破する、と決意した彼女でさえ、その“敵”には意表を突かれた。    さらり、という音さえする程の自然体。  〈颯爽〉《さっそう》と現れた男の姿はあまりにも敵意がなく、信じがたいほど隙がなかった。   「貴様――――」    立ち止まり、視えざる剣を構えるセイバー。  月を背にした男はセイバーの殺気を、涼風のように受け流している。   「――――侍、か」    聞いた事はあるが、見た事はなかった種別の相手に戸惑ったのだろう。  今回で二度目の聖杯戦争。  多くの英霊を見てきた彼女とて、あのような出で立ちをしたサーヴァントは初めてだった。   「――――――――」    セイバーの額に汗が滲む。  恐れているのではなく、あまりに合点がいかない為に。    過去、この男のように奇怪なサーヴァントがいなかった訳ではない。  奇怪さ、得体の知れなさでは前回のアーチャーを上回る者はいないだろう。  それに比べれば、目前のサーヴァントには恐れるべき箇所も、驚異を感じるほどの武装もない。            ……故に、それが異常だった。  目前の男からは何も感じない。  サーヴァントには違いないのだが、英霊特有の宝具も魔力も持ち得ない。    ならば倒すのは容易だ。  勝負が一撃で決するは道理。  にも関わらず、彼女の直感はこう告げていた。    ―――侮るな。  このサーヴァントには、自分を必殺する手段がある、と。   「――――――――」    間合いがつめられない。  男の武器――――日本刀にしては長すぎる刀の間合いが掴めない事もあるが、それ以上にセイバーの位置はあまりに不利だ。    階段の下と上。  男との距離は約五メートル。  駆け上がり、踏み込む前に一度、あの長刀による洗礼を受けよう。    ……しかし、あの刀からは何も感じない。  受け流す事は容易の筈。  ならば臆さず踏み込むべきなのだが、不用意に近づく事は出来ないとセイバーは直感した。    わずかに剣を構え直し、目前の敵を睨むセイバー。  正体は不明だが、せめてこの侍がどのようなクラスなのかは知らねばならない。   「……訊こう。その身は如何なるサーヴァントか」    答えなど期待せずに問うセイバー。    それに、にやりと笑ったあと。               「――――アサシンのサーヴァント、佐々木小次郎」    歌うように、そのサーヴァントは口にした。   「な――――」  セイバーが驚くのも当然だろう。  サーヴァントは正体を隠すもの。  それを自ら、堂々と告げるサーヴァントが何処にいる―――!   「貴様、何を――――」   「何を、とは無粋だな。立ち会いの前に名を明かすのは当然であろう? それがそなたのように見目麗しい相手ならば尚のこと。だというのに、そのような顔をされるとは心外であった」    アサシン―――佐々木小次郎と名乗ったソレは、セイバーの狼狽を楽しむように続ける。    セイバーは知るまい。  このサーヴァントこそ物干し竿と呼ばれる長刀を持ち、慶長の世に並ぶ者なしと噂され続けてきた剣士だと。    ―――否、知っていたところで何が変わろう。    出生も不明、実在したかどうかさえ不明瞭。  ただ人々の〈口端〉《くちはし》にのみ〈上〉《のぼ》り、希代の剣豪の好敵手として祭り上げられた剣士を知る者など、この世でおそらくただ一人。佐々木小次郎と呼ばれるモノを討ち果たした、史実に残らぬ宿敵のみ。    それを英雄と呼ぶ事など出来まい。  アサシンのサーヴァント―――佐々木小次郎というソレは、セイバーとはあまりにかけ離れた存在だ。  本来ならば英霊として扱われぬ剣士の実力なぞ、英霊であるサーヴァントたちの誰が知ろうか。   「―――だが」    事実としてあるものは二つだけ。  目の前の男が敵である事と、自ら名乗りを上げられた事のみ。   「……まいりました。名乗られたからには、こちらも名乗り返すのが騎士の礼です」    答えるセイバーの声は重い。  彼女にとって、真名を語るのはあまりにもリスクが大きい。  どのような責め苦を負おうと真名を語る事などできないし、明かす気もなかった。    ―――しかし、それはあくまで勝利する為のもの。  そんなもので騎士の信念を汚す事など、彼女に出来よう筈がない。   「小次郎、と言いましたね。  ――――アサシンのサーヴァントよ、私は」   「よい。名乗れば名乗り返さねばならぬ相手であったか。  いや、無粋な真似をしたのは私であった」    かつん、と。  あくまで優雅に石段を下り、アサシンはセイバーと対峙する。   「そのような事で敵を知ろうとは思わぬ。我らにとって、敵を知るにはこの刀だけで十分であろう。  違うか、セイバーのサーヴァントよ」 「な――――――」   「そう驚く事もあるまい? 貴様の持つソレがなんであるかは判らぬが、身に纏った殺気は剣士の物。  ……ふん、目が眩むほどの美しい剣気―――その貴様がセイバー以外の何者であろうか」    さらに一歩。  アサシンは石段を下り、長刀の切っ先をセイバーへと突きつける。   「真名など知らずともよい。ただセイバーというサーヴァントが、この刃に破れるだけの話だ。  言葉で語るべき事など皆無。―――もとより、サーヴァントとはそういうモノであろう?」    剣士は楽しげに笑う。   「―――なるほど。それは、確かにその通りです」    答えて、セイバーは深く剣を構え直す。   「それで良い。  ―――では果たし合おうぞセイバー。  サーヴァント随一と言われるその剣技、しかと見せてもらわねばな――――」            銀光が跳ねる。  剛と柔。  あまりに異なる剣士の戦いは、月光の下で口火を切った。 「っ、………………!」  胸が焼けるような痛みで目を覚ました。  ……何か、不吉な夢を見た気がする。 「……なんだ……胸が、痛い――――」  心臓が加熱された感じ。  いや、どちらかというと、外側から強引に熱を送り込まれているのに近い。 「――――外側、から……?」  かすかな疑問。  そのひっかかりが何なのか考えるより先に、体は外へ走り出していた。 「セイバー、いるか……!?」  襖を開けて、セイバーの部屋に駆け込む。 「――――いない。アイツ、まさか」  いや、まさかも何もあるもんか。  ここにいないって事は、アイツ―――一人で柳洞寺に行ったのか……! 「バカ野郎、なんで……! 体だって治りきってないのに、どうしてわざわざ――――!」  あまりの怒りに頭痛がする。  戦うのがイヤだなんて言っていない。  俺はただ、    あんな風に、あいつを傷つけたくなかっただけだっていうのに……! 「くっ――――!」  腐っていても始まらない。  今からでも柳洞寺に急がないと。  セイバーを一人で戦わせるなんて出来ない。  いや、俺が行ったところで役に立てるか分からないが、それでも何か出来る筈なんだから……! 「ああもう、アイツめ―――女の子なんだからもうちょっと大人しくしてろってんだ……!」  走る。  着替えもせずに外に飛び出して、玄関近くにあった自転車を担ぎ出して、全速力でこぎ出した。  ノーブレーキで坂道を駆け下りる。    ――――柳洞寺まで、急いでも四十分。  セイバーがいつ出ていったかは判らないが、とにかく一分でも早くセイバーに追いつかないと――――! 「なんだアレ――――!?」  柳洞寺に着いた俺を迎えたのは、台風じみた風の音だった。 「セイバー―――だよな、あそこにいるの」  階段の上、山門の前にはセイバーらしき鎧姿と、着物姿の何者かが対峙していた。  風はセイバーを中心に渦巻いており、木々はセイバーに押されるようにぎしぎしと軋んでいる。 「ちょっ……くそ、近づけるのかよこれ……!」  あまりの突風に目を開けていられない。  俯いたままなんとか階段まで近寄ったものの、風は更に強くなっていく。 「だめだ、これじゃ――――」    セイバーに近づけない。  遙か上空、セイバーと何者かが戦っているのが見えてるっていうのに、何もできない。  いや、そもそもこんな風の中でセイバーの近くまで行っても、足手まといになるだけ――― 「っ…………!」  また左手が痛んだ。  手の甲に刻まれた令呪が疼いている。  ……それがなんなのかは判らない。    ただ、この手が疼く度に、    あの光景を思い返しちまうんだから、しょうがないじゃないか――――! 「……くそ、こうなったらヤケだ……!」  目を瞑って階段に手を伸ばす。  風に飛ばされないよう身を伏せて、石段に足をかけた。 「っ…………!」  風は強くなる一方だ。  上では何が起きているのか、魔術師として未熟な自分が感じ取れるほど、とんでもなく強大な魔力が溢れ出そうとしている。  令呪が疼く。  風の唸り、頭上で起きようとしている“何か”に警戒を発するように。 「……待て。もしかして、これ……」  セイバーの魔力なのか。  だが、だとしたら―――― 「あいつ、あんな体で何を無茶な――――!」  いや、それ以前にそんな事をしていいのか。  セイバーは魔力の回復ができない。  なら、おいそれと魔力を使ってはいけない筈だ。  戦いは俺が受け持ち、セイバーは手を貸してくれるぐらいに留めないと、いつか魔力が切れて―――― 「――――っ」  立ち上がって、階段を駆け上がる。  這って進んでる場合じゃない。  セイバーが何をするつもりかは知らないが、とにかく止めないと――――! 「――――!?」  それを避けられたのは偶然か。  山門へと駆け上ろうとした俺の目の前を、何か、短剣のような物が通り過ぎていった。 「――――誰だ!?」  階段の外、木々が茂る山中へ視線を向ける。  ……間違いない。  この強風で気が付かなかったが、誰かもう一人、この近くに潜んでいる……! 「ふざけやがって―――こそこそと隠れてないで出てこい……!」  声をあげる。  強風にかき消されて聞こえない筈のそれは、    言った俺自身が驚くぐらい、大きく階段に響いていた。 「――――風が……止んだ?」  山門を見上げる。  そこには―――  長刀を持った着物姿の男と、セイバーの後ろ姿があった。 「そこまでにしておけセイバー。その秘剣、盗み見ようとする輩がいる」  薄笑みをうかべながら着物の男は言った。  その視線は俺と同じ、木々の茂った山中に向けられている。 「このまま続ければ我らだけの勝負にはなるまい。  生き残った者に、そこに潜んだ恥知らずが襲いかかるか、それともおまえの秘剣を盗み見るだけが目的なのか。  ……どちらにせよ、あまり気乗りのする話ではないな」  男はつまらなげに言って階段を上り始める。 「――――待て……! 決着をつけないつもりか、アサシン……!」 「おまえがこの山門を越える、というのであらば決着はつけよう。何者であれ、この門をくぐる事は私が許さん。  だが―――生憎と私の役目はそれだけでな。  帰る、というのであらば止める気はない。まあ、そこに隠れている戯けは別だが。気に入らぬ相手であれば死んでも通さんし、生きても帰さん」  アサシン、と呼ばれた男はかつかつと石段を上がっていく。 「踊らされたなセイバー。だがもう一人の気配に気が付かなかった私も同じだ。あのままでおけば秘剣の全てを味わえたであろうが……よい所で邪魔が入った。そなたにとっては僥倖であったか」 「っ――――――――」  セイバーは無念そうに俯いている。  ……薄れていく殺気。  アサシンの言葉ではないが、セイバー自身、ここで戦う事の不利を感じているのだろう。 「そら、迎えも来ている。そこにいる小僧はおまえのマスターであろう。盗み見をする戯けがその小僧に標的を変える前に立ち去るがいい」  そうしてアサシンの姿は消えた。  進まなければ手は出さないという意思表示か。 「――――――――」  セイバーは何も言わない。  ただこちらに背中を見せて、ぼう、と立ち尽くしているだけだ。 「……おい、セイバー……?」  声をかけても返答はない。 「……?」  流石におかしい、と階段を上がった時。 「な……」  唐突に、セイバーを守っていた鎧が消えた。  無防備な、青い衣だけになった彼女はこちらに振り返る事なく、ゆらり、と体を揺らす。 「――――!」    背中から階段に倒れ込むセイバーを抱き止める。  セイバーはぴくりとも動かず、苦しげに目蓋を閉じて、意識を失っていた。 「……はあ……はあ……はあ……はあ……」    ………………やっと帰ってきた。  柳洞寺からセイバーを抱えてここまで二時間。  色々と不安はあったが、ともかく無事に帰って来れた。 「……はあ……はあ……あ」  よいしょ、とセイバーを廊下に降ろす。  セイバーは本当に軽かった。四十キロぐらいしかなかったから、本来ならここまで疲れる事はなかったのだ。  が、それは動かない荷物の場合である。  眠っている人間―――それも女の子―――を抱いて歩く、というのがこんなに重労働だとは知らなかった。  とくに肉体面ではなく、精神面での疲労が大きい。  抱きかかえた時の肌の柔らかさとか、とんでもない近さですぅすぅと寝息を立てられる事とか、気が散って仕方がなかった。 「……まったく……なんだって気を失うんだよ、いきなり」  眠っているセイバーを見つめる。  ……完全に気絶している訳ではないのだろう。  死んだように眠っていても、名前を呼べば今すぐにパチリと目を開けそうだし。 「……………………」  …………くそ。  家を飛び出した時は言いたい事が山ほどあったのに、こんな寝顔をされたら何も言えなくなっちまうじゃないか。 「……いいさ。目を覚ましたらとっちめてやるからな、セイバー」  ぼそりと呟く。  で、もう一度セイバーを抱えようと腕を伸ばした瞬間。 「……ま、いいけど。士郎がどんな趣味してて、何をしてるかなんてわたしには関係ないから」  なぜか。  午前二時を過ぎているというのに、廊下には遠坂の姿があった。 「と、とととととと遠坂…………!?」 「なによ、お化けでも見たような顔しちゃって。別に文句はないから続けていいわよ。わたしは水飲みに起きただけだし」 「え―――あ、いや違う! これは違う、すごく違う!  その、話せば長くなるんだが、つまりセイバーを部屋に連れて行こうとしただけなんだが俺の言っているコト判ってくれるか……!?」 「ええ。まあ、それなりに」 「う、嘘つけ! ぜんぜん判ってない口振りだぞ、今の!」 「だから判ってるってば。セイバーが一人で戦いに行って、士郎はそれを止めてきたんでしょ?  で、何らかのトラブルがあってセイバーが気絶して戻ってきた。どう、これでいい?」 「あ……う、うん。すごい、全問正解だ。けどなんだってそこまで判るんだよ、おまえ」 「判るわよ。セイバーが単独で戦いを仕掛ける可能性は高かったし、サーヴァントが戦いを始めればマスターにだって伝わるわ。だからこういう展開も十分予測範囲なわけ」 「――――そうか。それは、いいけど」    ……その、遠坂にはセイバーが戦いに行くコトはお見通しだったってコトか。 「で、どうするの? セイバーを部屋に連れて行くんじゃないの? ここに寝かしてたら幾らサーヴァントでも風邪ひくと思うけど」 「いや、だから部屋に連れて行こうと思って今――――」  抱きあげようとしていたんだけど。  ……その。  そうじろじろ見られていると、やりづらい。 「……遠坂。悪いけど、セイバーを運んでくれないか」 「わたしが? まあいいけど。じゃあお茶でも淹れてくれる? 少し二人の話に興味があるから」  よいしょ、と遠坂はセイバーを抱きあげる。  ……なんだかやけに物わかりがいいのが気になるが、頼んでしまった以上、こっちもお茶を淹れなくてはなるまい。  遠坂はセイバーを連れて俺の部屋へ向かった。  こっちはというと、台所でお茶の準備をしていたりする。 「―――お茶って日本茶じゃないよな。……紅茶っていってもティーバッグの紅茶しかないぞ、うち」  ま、ないものは仕方がなかろう。  文句を言いたければ幾らでも言うがいい、と開き直ってティーバッグの紅茶を淹れる。 「士郎、ちょっといい?」  おっ、遠坂が戻ってきた。 「ああ、ちょっと待ってくれ。すぐに行く」  二人分のティーカップを盆に乗せて、居間へ移動する。    ――――と。  遠坂の隣には、洋服に着替えたセイバーの姿があった。 「セ、セイバー……!? どうして、眠ってたんじゃなかったのか……!?」 「眠ってたわよ? けどそういつまでも続く眠りじゃないし、ついさっき目が覚めたの。  どうも一気に膨大な魔力を使おうとして、体の方から一方的に機能を停止させられたみたいね。ほら、電気のブレーカーと同じよ。そのままじゃショートするから強制的に電源を切るってヤツ」 「…………………………」  遠坂の説明を余所に、セイバーは黙っている。 「お、おまえ――――」  そのいつも通りの姿を見て、途端、山ほどあった文句が蘇ってきた。 「セイバー、おまえな……! 自分が何をしたのか判ってるのか!?」 「―――判らない訳はないでしょう。  私は柳洞寺に赴き、アサシンのサーヴァントと戦いました。そのおり、私たちの戦いを監視していた第三のサーヴァントに気が付き、戦いを中断しましたが」 「っ……! 違う、そんなコトを言ってるんじゃない!  俺が言いたいのは、どうして戦ったのかってコトだ!」 「またそれですか。サーヴァントが戦うのは当然の事です。シロウこそ―――マスターである貴方が、何故私に戦うなと言うのです」 「いや、それ、は――――」  ……そりゃあマスターとして戦うと決めた以上、戦闘は避けられない。  セイバーに戦うな、という俺が矛盾しているのは判っている。  だが、そうだとしても、    あんな光景だけは、繰り返す事はできない。 「私の方こそ訊きたい。シロウは戦いを嫌っているようですが、そんな事で聖杯戦争に生き残る気があるのかと。  貴方の方針に従っていては、他のマスターに倒されるだけではないのですか」  ―――まさか。  降りかかる火の粉なら躊躇わずに振り払うし、みすみす殺されてやるつもりもない。  ただ、それとは別の話で、セイバーには戦ってほしくない。 「違う。  戦うのを嫌ってるんじゃない、俺は、その――――」    それはきっと、もっと単純な話。  ようするに、俺は。 「―――その、女の子が傷つくのはダメだ。そんなの男として見過ごせない。だから、おまえに戦わせるぐらいなら、俺が自分で戦う」 「な―――私が女だから戦わせない、だと……!?」 「正気ですか貴方は!? サーヴァントはマスターを守る者です。私たちが傷つくのは当然であり、私たちはその為に呼び出されたモノにすぎない……!  サーヴァントに性別なぞ関係ないし、そもそも武人である私を女扱いするつもりですか!  今の言葉は訂正してください、シロウ……!」  目尻をあげて俺に詰め寄ってくるセイバー。  が、そんな剣幕に押される事なんかない。    なにが―――この身は女である前に騎士だ、だ。    あんなか細い、俺でも抱きかかえられる体のクセに無茶なコト言いやがって……! 「誰が訂正なんてするか! そりゃあセイバーは強いかもしれないけど、それでも女の子だろ! つまんないコトにこだわるなバカ!」 「っ……! つまらない事に拘っているのは貴方ではないですか……! まさか、女性に守護されるのがイヤだとでも言うつもりですか!? この身は既に英霊、そのような些末事など忘れなさい!」 「些末なもんかっ! ああもう、とにかくセイバーが良くても俺は嫌だ! だいたい、自分の代わりに戦ってもらうなんて間違いだったんだ。俺はそんな――――」        無力な自分を守って。  その代わりに“誰か”が傷つくのは許せない。  救うのは自分の役割だ。  親父のように誰かの為になれる人間になろうって、今までやってきたんだから――― 「……くそ。いいな、とにかくセイバーは戦うな。  戦いは俺がする。それなら文句はないだろ、セイバーの望み通り戦うって言ってるんだから」 「な――無茶を言う人ですね貴方は……! 人間がサーヴァントと戦えると思っているのですか!? シロウでは戦いにすらならないと実感しているでしょう!  ランサーに襲われた時を思い出してください。  あの時、私が現れなければ間違いなくシロウは殺されていた。それはどのようなサーヴァントが相手でも同じです!」 「そ、そんなのやってみなくちゃ判らない! あの時は何の準備もなかっただけだ。けど今なら対策なんていくらでも立てられるんだから、やりようによっては寝首をかく事ぐらいできる!」 「笑止な。シロウの立てた守りなど紙も同然です」 「うわ、いま凄いコト言ったなセイバー!」 「貴方こそサーヴァントを侮っている。人の身で英霊を打倒しようなどと、何を思い上がっているのですか」 「っ~~~~~~!」  むー、と睨み合う俺とセイバー。  話は平行線で、一向に交わる気配さえない。 「違うわセイバー。士郎はサーヴァントを侮ってる訳じゃない。そのあたりを誤解しちゃうと話が進まないから、口を挟ませてもらうけど」 「凛……? それはどういう事ですか……?」 「うん。ようするにね、そいつ、純粋に貴女が傷を負うのを嫌がってるのよ。どうしてか知らないけど、士郎は献身と善意の塊だもの。  ね? 自分のコトよりセイバーの方が大切なんでしょ、アンタは」 「っ――――そ、そんなコトないぞ……! 俺は別にセイバーが大切なんて言ってないっ」 「うそうそ。そうでもなければ自分で戦う、なんて言えないわ。  だって貴方、自分じゃサーヴァントに勝てないって判ってるんでしょ。それでも戦うって言うのは、自分よりセイバーのが大事ってコトじゃない」 「え――――――――?」  あ……う?  いや、確かに、そう言われてみれば、そういう事になるんだけど―――― 「だから無茶でも戦う。勝てないって判っていながら勝とうとする。その結果が自分の死でも構わない。  何故ならアンタの中では、どうしてか知らないけど、自分より他人の方が大切だからよ」 「――――」    ――――いや。  決して、そんなつもりはない、けど。 「そういうことよ。判るでしょセイバー。あのバーサーカー相手に貴方を庇うような罵迦なのよ、そいつ。だから本気で、自分が戦うって言ってるの」  遠坂の言葉がどれだけ通じたのか。  セイバーは深く息を吸って、つい、とこっちへ向き直った。 「―――シロウ」 「な、なんだよセイバー」 「貴方が戦う事は認めます。ですが、それならば私にも考えがある」 「――――だ、だから何さ」 「剣の鍛錬です。シロウの時間が許す限り、私は貴方に剣を教える。それを認めるのなら、私もシロウの意見を認めますが」 「な――――」  それはつまり、セイバーが俺に剣の稽古をつけるって事か……?  今後は俺が戦うっていう事を認めたから……? 「待った。それは心の贅肉よセイバー。  士郎に剣を教える? やめてよ、そんな気休めでサーヴァントに太刀打ちできる訳ないじゃない」 「それは当然です。ですが知らないよりはましでしょう。  少なくとも戦闘時の迷いは薄れます。  あとはシロウ本人の決意に賭けるだけですが、実戦とは得てしてそういう物ではないですか。向かない者には、何を教えても身に付く事などありません」 「……ふーん……ま、言われてみればそっか。  殴り合う覚悟ってのは、一度殴り合ってみないと一生つかないものね」 「はい。ですから一度、いえ一度と言わず時間の許す限り、シロウには“戦闘の結果としての死”を体験させ、戦いに慣れてもらわなければ」    などと、なにやら物騒な物言いをするお二人さん。 「ちょっと待て。俺はいいなんて一言も――――」 「じゃあわたしは魔術講座にしとく。  セイバーが体を鍛えるんなら、わたしは知識を育てるわね。……ま、初めからそういう約束だったし、明日から本格的に鍛え直してやりますか」 「お願いします。凛がそうしてくれるなら、私も剣のみに集中できる」 「いいっていいって。じゃ、話も決まった事だし解散しましょ。明日は色々と忙しそうだから」  ばいばい、と手を振って別棟へ消えていく遠坂。 「私も休みます。シロウも休憩をとってください。明日は道場で汗を流してもらいますから」  では、と軽くお辞儀をして部屋に戻っていくセイバー。 「――――――――」  居間には一度も口をつけられなかった紅茶と、ぼんやりと立ち尽くす男が一人。   「―――いや、だから俺は一言もさ」    呟いた言葉は当然却下。    ―――さて。  ただでさえ混線していた状況が、さらにおかしな雲行きになってきた。  明日からの生活がどうなるか考えるも、そんなの考えつく筈もなし。 「……寝よう。とにかく、体力だけは温存しなくちゃ」    何事も体が資本。  ……その、なんだ。  俺に出来る事といったら、どんな責め苦だろうと体さえしっかりしていれば乗り切れるといいな、なんて、儚い望みに〈縋〉《すが》るしかないワケだった。    一夜明けた後。    いつも通りの朝を過ごして居間に行くと、食卓はかつてないほど複雑な状況だった。 「あ、ごめん桜。わたしバターだめなの。そこのマーマレイドちょうだい」 「そうなんですか? 遠坂先輩、甘いものは好きじゃないような口振りでしたけど」 「まさか、そんな女の子はいないわよ。糖分は嫌いじゃなくて取れないだけだってば。油断すると見えないところが増えるの。甘味どころは週に一回にしなくちゃね」 「? なのにマーマレイドなんですか、先輩?」 「朝は糖分とるの。それにね、少しぐらいは甘いものを口にしておかないと後のカウンターが怖いでしょ」 「そっか。食事を二食に減らしても、食べる量が倍になったらタイヘンですからね」 「そういうコト。……って、黙ってればよく食べるわねセイバー。ちっこい体のくせに桜なみの量じゃない」 「そうでしょうか。私は平均だと思いますし、桜が口にしたパンは私を大きく上回っていると思いますが」 「そ、そんなコトないです……! 遠坂先輩もセイバーさんもわたしも、みんな仲良くトースト二枚じゃないですかっ」 「いえ、厚さが違う。一センチに対して二センチですから、桜はよく食べています。成長期ですし、栄養を摂るのはいい。凛も一枚だけと言わず、残さず食べてはどうですか」 「だから駄目だって言ってるじゃない。桜と違って胸に栄養がいくワケじゃなし、朝からそんなに食べたら増えるっていうの。ただでさえ朝は食べない主義なんだから、これでも譲歩してるのよ」 「……遠坂先輩、その、先輩の前でそういうコトは」 「……ふむ。増える増えると言っていますが、なぜ具体的な表現を避けるのですか、凛」 「だから目に見えないところの話。あ、桜は目に見えるから除外だけど」 「だ、だからそういう話はしないでくださーい!」 「――――――――」  カリ、とよく焼けたトーストをかじる。  目の前の展開に脳がついていっていないのか、会話に参加せずトーストを食べていた。  ……いやまあ、口を挟む余地なんてないだけであるが。 「……どうも、杞憂だったのかな」  とりあえず、三人の仲は悪いようには見えない。  遠坂は相変わらずだし、セイバーも昨夜よりうち解けている。  桜は……まだセイバーに対しては抵抗があるようだけど、それでも嫌っている様子はない。 「……藤ねえが来なかったのが気になるけど、まあ夜になったら来るだろ……」  さすがに昨夜のショックが大きかったんだろう。  夕飯は食べに来るだろうし、その頃には機嫌も直っていると思うのだが。  朝食が済んで、後片づけに入る。 「先輩、本当にいいんですか? 後片づけ、任せてしまって」 「ああ、それぐらいはやっとく。それより桜は部活だろ。  昨日の今日だし、顔を出しておいた方がいい」 「……はい。それじゃお先に失礼しますね、先輩」  桜は遠坂にもお辞儀をしてから、早足で居間を後にした。  これで残るは三人。  桜がいなくなれば、秘密を共有する面子になる訳か。 「それでは私も失礼します。何かありましたら声をかけてください」 「じゃあねセイバー。士郎は任されたから、こっちの留守をよろしく」 「はい。シロウを頼みます、凛」  遠坂に軽く頭を下げて、セイバーは部屋へ戻ってしまった。  ……まあ、ここに居てもやる事がないし。  それなら少しでも眠っておいて、体力を温存したいのだろうが……。 「……まったく。本当に戦う事しか考えてないのか、アイツは」 「当たり前じゃない。士郎もね、そろそろやる気見せないとセイバーに愛想を尽かされるわよ。  まだ傷が完治してないとはいえ、いつまでも大人しくしているような子じゃないでしょ」  ぱちん、という音。  物騒な事を言いながら、遠坂はテレビの電源を入れる。 「――――ふん? またこのニュースやってるんだ」  テレビからは朝の報道が流れてくる。  台所で食器を洗いながら音だけを聞き取る。  ……と。  その内容は、少し前に聞いたニュースと同じだった。 「新都の方でガス漏れによる事故だって。  ……バカな話。そんなのあっちだけじゃなくて、こっちの町にだって起きてるのに」 「――――?」  今。  何か、とんでもなく不穏な事を口にしなかったか、遠坂は。 「遠坂。それ、どういう意味だ」 「だから原因不明の衰弱でしょ? 何の前触れもなく意識を失った人間が、そのまま昏睡状態になって病院に運ばれてるって話。  もうけっこうな数になってるんじゃないかな。今のところ命に別状はないらしいけど、この先どうなるかは仕掛けたヤツの気分次第でしょうね」 「な――――」  待て。待て待て待て待て待て待て。  隣町だけじゃなくて、こっちにまでそんな事件が起きてたっていうのか?  原因不明の昏睡?  けっこうな数の犠牲者?  いや、問題はそれよりも―――― 「遠坂、まさかそれも他のマスターの仕業だっていうのか」 「じゃあ他の誰の仕業だっていうのよ。いい加減慣れてよね、貴方だってマスターなんだから」 「それは―――そうだけど。……なんで今まで教えてくれなかったんだよ、遠坂は」 「こっちの件はそれほど簡単じゃないから。  学校で結界を張ってるマスターは三流だけど、こっちのマスターは一流よ。相手を死に至らしめる事はせず、命の半分だけを吸収して力を蓄えている」 「……そりゃあ集めるスピードは遅いけど、その代わりに魔術師としてのルールにはひっかからないし、無理をする必要がない。このマスターは遠く離れた場所で、町の人たちから“生命力”っていう、最も単純な魔力を掠め取っているわけ」 「遠く離れた場所からって……そんな所から町中の魔力を集められるっていうのか、そいつは」 「よっぽど腕の立つ魔術師なんでしょうね。  新都と深山、二つの町をフォローする広範囲の“吸引”なんて、大がつく魔術師の業だもの」 「……いや、それともよっぽど優れた霊地を確保したのかな。冬木の町には龍脈らしきものがあるって父さんも言ってたし、そこに陣を布けば生命力の搾取ぐらいは簡単か……」 「? ちょっと、遠坂」 「父さんの書庫にそれらしい資料はなかったし、あるなら大師父の書庫か……いやだなあ、あそこ今でも人外魔境だし、出来れば遠慮したいのに。  ……となると綺礼に訊くしかないか……いや、だめだめ、あいつに借りを作るなんてもっての他だわ」 「遠坂、おい――――」  呼びかけても返事はない。  ……だめだ。遠坂のヤツ、ぶつぶつと独り言に没頭してしまった。  気乗りがしないまま、遠坂と二人で学校に着く。  正門には登校する生徒たちの姿があり、学校はいつも通りの日常を迎えている。 「――――」  にも関わらず、確かに違和感があった。  昨日は気づかずに校門をくぐったが、注意していれば確実に気が付く違和感。  ……なんというか、穏やかすぎて本能さえ麻痺する感覚。 「……本当だ。外と中じゃ空気が違う。甘い蜜みたいな空気じゃないか」 「へえ、士郎にはそう感じられるんだ。……貴方、魔力感知は下手だけど、世界の異状には敏感なのかもしれないわね」  ふうん、と遠坂は何やら考え込む。 「にしても甘い蜜、か。例えるならウツボカズラとか。  うん、なかなか言い得て妙じゃない」 「……ウツボカズラって、おまえ。そのイメージ、とんでもなく凶悪だぞ」 「そう? 士郎の直感は外れてないと思うけど? だってこの学校、結界っていうフタがしまったら中の生き物はみんな食べられるんだし」 「っ――――」  黙っていた本音を見抜かれて、つい息を呑む。 「やっぱりね。判りやすいから楽しいわ、貴方って」 「ああそうですか。俺はちっとも楽しくない」 「怒らない怒らない。士郎の言いたい事だって分かってるから安心なさい。貴方は学校の生徒を巻き込みたくないと思ってるし、わたしだってここを戦場にするのは願い下げ。なら、やるコトは一つよね?」 「…………………」  それは、俺を試す言葉だった。  遠坂は言っている。  聖杯戦争―――衛宮士郎が戦うと言った“相手”、勝つ為に無関係な人間を巻き込むマスターが、他でもない俺たちの学校にいるのだと。 「……分かってる。この結界を張ったマスターを捜し出して、なんとかしなくちゃいけない。そうして、そいつが結界を解かないっていうんなら、倒すだけだ」 「そういうこと。ちゃんと理解していてくれて安心したわ」 「じゃ、わたしは結界を張ったヤツを捜してみるから、士郎は不審な場所をチェックしといて。  わたしも一通り回ったけど、見落としがあったかもしれない。士郎はそういう特異点を捜すのに向いてそうだし、餅は餅屋ってね」  ばいばーい、と手を振って校舎へ走っていく遠坂。 「ちょっ―――そんなコト言われても困る……! 不審な場所ってどういう所だよ、遠坂っ!」 「だーかーら、貴方風に言えば空気が甘いところよー!  蜜がべったべたに甘いところを捜せばいいのー!」  遠ざかりながら大声で返してくる。  そのまま、遠坂はあっという間に校舎へと消えていった。 「……なんだあいつ。いきなり走り出すなんて、やっぱりなに考えてるか分からな――――」 「あ」  きんこんかんこーん、とホームルーム開始の予鈴が鳴り響く。 「そ、そういう事か―――って、気づいてるならなんで教えないんだあいつは……!」    鞄を抱えて全速力で走り出す。  昨日の今日だ、遅刻なんてしたら藤ねえにどんな嫌味を言われるか。  坂道を下って交差点まで戻ってきた。  ここから反対側の住宅地へ上がっていけば、家に帰る事になるのだが――― 「……柳洞寺にマスターがいる、か」  ここから山に向かって歩くこと一時間。  人家の少ない山あいの道路を行けば、柳洞寺に続く山門に辿り着ける。  柳洞寺は山にある大きな寺で、その敷地は学校ほどもある。  墓地も広大だが、なにより五十人からなる修行僧が生活している小世界だ。  町の人々は柳洞寺の世話になりつつも、おいそれとは足を踏み入れられない聖域として敬っている。 「……そういえばここ最近、柳洞寺には行ってないな」    去年の夏、精神修行という事で合宿させてもらって以来か。  寺の生活が本当に厳しいのは冬だろうから、冬休みにはまたお邪魔しようと思っていたのだが――― 「む? 午後の授業をボイコットした男が、こんなところで何をしている」  噂をすれば影というか。  柳洞寺の跡取り息子、柳洞一成とばったり出くわしてしまった。 「よ。学校、もう終わったのか?」 「終わったとも。生徒会でやる事もないので帰ってきたのだが、何かあったのか。見たところ、お山を眺めていたようだが」 「ああ、別に何かあった訳じゃない。なんとなく家に帰りたくなっただけだ」 「ふん。なんとなくで授業を休まれては、教師は商売あがったりだ。―――で。何故お山なんぞを拝んでおったのかと訊いているのだが」 「…………ちょっとな。一成、一つ訊くけど。最近さ、何か変わった事、ないか?」 「ふむ。変動など茶飯事だが、さりとて劇的な境地に至る事もなし。お山は日々これ平穏、しかるに平穏こそ日常よ」 「わるい一成。真面目な話をしているんだ」 「し、失礼な! こっちだって真面目だぞ!」 「みたいだな。ならいいんだ、取り越し苦労だった」 「うむ、解ればよい。俺が衛宮相手にふざけるものか」  コホン、と咳払いして落ち着く一成。 「……だが、うむ。変化があるといえばあるのだが、どうしたものかな」 「え……? 変化って、寺にか……!?」 「ああ。お山ではなく〈寺〉《うち》の空気がうわついている。親父殿の知り合いらしいのだが、少しばかり厄介な客人を迎えていてな。これが結構な美人であるから始末が悪い。  まったく、〈皆〉《みな》も女一人に何を騒いでいるのやら」 「女って―――柳洞寺って、尼さんいたっけ?」 「おらぬ。訳ありでな、祝言まで部屋を貸し与えているのだが――――いや、これが確かに美しい人でな、井戸から水を汲む姿など、俺でも目を奪われるほどだ」 「訳ありってどういう訳だよ……って、一成? おーい、俺の話聞こえてるかー?」 「むっ、いかん。だから女生はいけないんだ、女生は。  色欲断つべし、落ち着け一成」  ぶつぶつとお経を唱える生徒会長。 「もしもーし、大丈夫か一成」 「問題ない。修行不足なので、より精進したいと思う」  やっぱりこっちの話など聞こえていなかったのか、  喝、などと言い残して、町の奥地へと消えていく一成だった。  屋敷に戻ってくる頃には、日は沈みかけていた。  昨日と同じく、今日も一番乗りで帰宅した訳だ。  そのうち桜と藤ねえもやってくるだろうし、遠坂も帰ってくるだろう。 「……慎二から聞いた話は、桜と藤ねえが帰ってからだな……」  二人がいる時に内緒話をしても仕方がないし。  さ、そうと決まれば夕食の支度をしなければ。  昨日は遠坂のヤツにやられたし、藤ねえのご機嫌もとらなくてはいけない。  料理は愛情の前にまず手間暇である。  必勝を期すのなら、いつもの二倍は時間をかけなくてはなるまい。          ――――で。      結局、何がどうなったかと言うと。 「ふーんだ! なによ、負けてないんだから! 遠坂さんのばか、いじめっこー!」 「ですから、わたしが言っているのは料理の味じゃありません。その、藤村先生曰く今までで一番おいしい夕食なんですから、みんなに分け与えた方がいいんじゃないかって話です」 「……むー……言ってるコトが違うと思う。  遠坂さん、士郎の作ったご飯はあんまり食べたくないって言ったじゃない」 「それは朝だけの話です。夕飯はきちんと摂りますし、そもそも夕食はわたしと衛宮くんとの交代制なんですから、わたしが食べるのは当然の権利じゃないですか。  それが嫌だというのでしたら、明日からは藤村先生が代わってください」 「う―――的確に急所をついてくるその性格。くそう、こんなひどい教え子だとは思わなかったよう」  抱きかかえていたおひつを渋々と食卓に戻す藤ねえ。  こうして、五人分の特製炊き込みご飯が無事食卓に返還された。 「……あのなあ藤ねえ。今日は山ほど飯作ったんだから、別にがっつく必要なんかないぞ。ちゃんと飯もおかずも人数分作ったんだし」  もしゃもしゃ。 「そ、そうですね……でも先輩、これはちょっと作りすぎかなー、とか」  かちゃかちゃ。 「ええ。四人分の樽を二段重ね、というのはあきらかに重量過多です」  もぐもぐ。 「樽じゃない、おひつ。いいんだよ、今日のメインはごはんなんだから多めに作っても。余ったらおにぎりにするから、明日の昼飯にもなるし」  もしゃもしゃ。 「あ、それわたしの分もいい? わたし炒飯は好きじゃないんだけど、これは別格。ねえねえ、なんか色々入ってるけど何入れたわけ?」  ぱくぱく。 「基本的にはきのこの炊き込みご飯ですよね。油物を混ぜるかわりに柚子で香りをとってるあたり、細かいです」  かしゃかしゃ。 「…………いいもん! こうなったらわたし一人でカラにするんだから、みてなさいよー!」  おひつを奪うのは諦めたのか、もの凄い勢いでごはんをかっこむ藤ねえ。  すぐさま茶碗をカラにすると、そのまま間髪入れずにおかわりを要求してくる。 「……いいけど。そんなに急がなくてもなくならないぞ、藤ねえ」 「いいのっ! 士郎のごはんはわたしが食べるんだから、昨日今日やってきた人にはあげないもん!」  がばちょ、とお茶碗をひったくる藤ねえ。 「――――?」  いやもう、訳が分からない。  桜は気まずそうに笑ってるし、遠坂は呆れて藤ねえを無視しているし、セイバーは我関せずで飯食ってるし。  ……せっかく気合いを入れて作ったのに、逆効果だったのか。  遠坂にまいった、と言わせる筈の夕食は、藤ねえの奇行によって騒々しく終わってしまった。 「それじゃ先輩、失礼しますね」 「おう。藤ねえ、桜をよろしくな。ちゃんと家まで送ってやってくれよ」 「はいはい。わかってるから安心なさい」  軽い足取りで桜の手を握る藤ねえ。 「なに? 士郎、なんか不思議そうな顔してるけど」 「そりゃ不思議だ。普通、人間はあれだけ食うと身動きがとれなくなる」 「そうかな? 苦しかったけど、飲み込んじゃえばなんとかなるものよ?」  だから、問題はそれに際限がないというコトだと気付けタイガー。  さすがは野生の虎、出来れば人間社会に間違って乱入してこないでほしい。 「じゃあまた明日な。夜更かしするなよ、二人とも」 「はい。おやすみなさい、先輩」 「うん、おやすみ士郎」    切っ先が交差する。  幾度にも振るわれる剣線、  幾重もの太刀筋。  弾け、火花を散らしあう剣と刀。    ―――数十合を越える立ち会いは、しかし、一向に両者の立場を変動させない。    上段に位置したアサシンは一歩も引く事なく、  石段を駆け上がろうとするセイバーは一歩も詰め寄る事が出来ず、〈徒〉《いたずら》に時間と気力を削っていた。   「は――――!」  数十回目となるセイバーの踏み込み。  五尺余もの長刀を苦もなく振るい、セイバーの進撃を防ぎきるアサシン。    いや、それは防ぎきる、などという生易しいものではない。  セイバーの剣戟が稲妻ならば、アサシンの長刀は疾風だった。  速さ、重さではセイバーに及ばないものの、しなやかな軌跡はセイバーの一撃を〈悉〉《ことごと》く受け流す。    そうして返される刃は速度を増し、突風となってセイバーの首に〈翻〉《ひるがえ》る。    ―――その一撃を紙一重で〈躱〉《かわ》して踏み込むセイバーへ、〈躱〉《かわ》した筈の長刀が間髪入れずに返ってくるのだ。    直線的なセイバーの剣筋に対し、アサシンの剣筋は曲線を描く。  アサシンの切っ先は優雅ではあるが、弧を描く為に最短距離ではない。  ならば直線であるセイバーの剣筋に間に合う筈がないというのに、その差を〈無〉《ゼロ》にするだけの何かがアサシンにはあった。   「くっ――――!」  踏み込む足が止まる。  切り返す長刀に剣が間に合わない。  避ける為には引くしかない、と咄嗟に後退する。    見惚れるほど美しいアサシンの剣筋は、同時に、見届ける事が困難なほどの速度だった。    その矛盾はアサシンの技量によるものなのか、頭上の敵に挑む己の不利な状況ゆえなのか。  確たる分析もつかないまま、追撃してくるアサシンの長刀を避け、首を突きに来る切っ先を剣で弾く。   「っ――――」  気が付けば、さらに数段後退している。  あれほどの長刀だ。  一度捌いてしまえば懐に入るのは容易いというのに、どうしてもそれができない。    卓越した敵の技量と、絶対的に不利な足場。    ここが平地であったのなら、あの長刀にこれほど苦戦する事もない、とセイバーは唇を噛む。   「―――さすがにやりにくいな。視えない剣というものがこれほど厄介とは思わなんだ」    アサシンは不動である。  彼にとって、これは守りの戦いにすぎない。  後退するセイバーを無理に追撃する必要もなし、上に位置するという有利を捨てる筈がない。   「……ふむ。見れば刀を見る事さえ初めてであろう?  私の剣筋は邪道でな、並の者ならばまず一撃で首を落とす。それをここまで防ぐとは、嬉しいぞセイバー」   「加えて、打ち込みも素晴らしい。その小躯でこれほどの剣戟を行うからには、さぞ鍛え抜かれた全身であろう」    追撃する必要がない為か、アサシンは余裕げにセイバーを観察する。    力を失い、ゆらぐ切っ先。  それを隙と見て踏み込む事など出来ない。  あの男には構えなどないのだ。  いかなる体勢からでも刀を振るえないようでは、あれほどの長刀は扱えまい。   「どうした? これで終わりという訳ではあるまい。その不可視の剣、見かけ倒しではなかろうに」   「ふん、いつまでも減らず口を――――!」    激突する剣と刀。   「―――いよし、当たりだ……!」    ぎぃん、と何もない空中で止まる長刀。  アサシンは視えない剣を止めた刀をにやりと見つめ、そのまま剣を受け流し――――    セイバーは、首を払いに来る一閃を受けきった。   「っ……!」  セイバーとて判っている。  今まで見慣れないアサシンの剣戟を防げたのは、偏にこの剣のおかげなのだと。  不可視の剣は攻め込むにも受けに回るにも、相手の感覚を狂わせる。    故にアサシンは深く追撃をしない。  セイバーの武器の長さが判らない以上、アサシンから攻め込むのは危険すぎる。  アサシンがセイバーを仕留めにかかる時があるとすれば、それは――――   「ハッ…………!」  アサシンの額をうち砕きにかかるセイバー。  その一撃を、    アサシンはわずかに後退しただけで、完全に躱しきった。   「……よし、これで目測はついたな。刀身三尺余、幅は四寸といったところか。形状は……ふむ、セイバーの名の通り、典型的な西洋の剣だな」    涼しげに語るものの、それがどれほど卓絶した目利きなのか言うまでもない。  セイバーの一撃は、たとえ剣が見えていようと捉える事が困難な速さなのだ。  にも関わらず、視えない剣を防ぎきり、かつ全容すら把握するとは―――   「……信じられない。何の魔術も使わず、満足に打ち合ってもいないというのに私の剣を計ったのですか、貴方は」   「ほう、驚いたか? だがこんなものは大道芸であろうよ。邪剣使い故、このような技ばかり上手くなる」   「―――なるほど。私の一撃をまともに受けず、ただ払うだけが貴方の戦いだった。邪剣使いとは、その逃げ腰からきた俗称ですか」   「ハ―――いやいや、まともに打ち合わぬ無礼は許せ。  なにしろこの長刀だ、打ち合えば折れるは必定。おぬしとしては力勝負こそが基本なのだろうが、こちらはそうはいかぬ。その剣と組み合い、力を競い合う事はできん」   「―――――――」 「もとより、刀というものはそういうものだ。  西洋の剣は、その重さと力で物を叩き切る。  だが、我らの刀は速さと技で物を断ち斬るのだ。  戦いが噛み合わぬのは道理であろう?」   「まあしかし……これでは些か興がそがれる。  もうよい頃合だぞセイバー? いい加減、手の内を隠すのは止めにしろ」   「っ――――アサシン。私が貴方に手加減しているとでも」   「していないとでも言うのか? 何のつもりかは知らんが、剣を鞘に納めたまま戦とは舐められたものだ。私程度では、本気を出すまでもないという事か?」   「―――――――」 「ほう。それでも応じないという顔だな。  ―――よかろう、ならばここまでだ。おまえが出し惜しみをするのなら、先に我が秘剣をお見せしよう」    そう告げて。  長刀の剣士はゆらりと、セイバーの真横へと下りていった。   「な――――」    アサシンにとって、頭上の有利を放棄するという事は負けに等しい。  アサシンは確かに優れた剣士ではあるが、それはこの地形条件であったからこそ。    同じ足場で戦うのなら、セイバーは一撃でアサシンの長刀を弾き、そのまま首を落とす事さえ可能なのである。  それはアサシンとて承知の筈。    だというのに、何故――――   「構えよ。でなければ死ぬぞ、セイバー」    さらりとしたその声に、セイバーの直感が反応した。    ――――それは事実だ。    アサシンが下りて来た事は、自分にとって有利な事などではない。  幾多の戦いを駆け抜けてきた直感が、自らの過ちを警告する。   「く――――!」  咄嗟に視えざる剣を構える。  躊躇している暇などない。  アサシンがその長刀を振るう前に、己が剣を打ち込めばいいだけの話――――!   「ふ――――」  両者の間合いは三メートル弱。    それは。  この戦いが始まって以来、見せた事もない剣士の構え。   「秘剣―――――――」    セイバーが踏み込む。  もはや長刀は意味をなさない。  懐に入られた以上、その長さが仇になる。  だが。   「――――――燕返し」    そんな常道など、この剣士の前にありはしなかった。    稲妻が落ちる。  セイバーの剣戟を上回る速度で、一直線に打ち落とされる魔の一撃―――!   「っ――――!」  だがその程度の一撃、防げないセイバーではない。  振り上げた剣を咄嗟に防御に回し、アサシン渾身の一撃を弾き返す……!   「もらった……!」  いかにアサシンと言えど、今の一撃を弾かれては立て直しに隙が生じる。  その秒にも満たぬ合間に、アサシンの腹を薙ぎ払おうとした瞬間。   「――――――――あ」    咄嗟に、直感だけに任せて、セイバーは石段を転がり落ちた。    逃げるように転がり落ちる。  受け身も何もない。  セイバーはただ必死に体を倒し、勢いを殺さず階段を転がり落ちた。   「く――――!」  落下を止め、体を起こすセイバー。  その視線の先には、悠然と佇む長刀の剣士だけがある。   「ほう。躱したか我が秘剣。さすがはセイバー、燕などとは格が違う」   「―――信じられない。今のは、まさか」   「なに、そう大した芸ではない。〈偶〉《たま》さか燕を斬ろうと思いつき、身に付いただけのものだからな」    長刀が僅かに上げられる。  先の一撃―――セイバーを戦慄させた魔剣の動きをなぞるように。   「見えるかセイバー。  燕はな、風を受けて刀を避ける。速かろうが遅かろうが関係はない。どのような刀であろうと、大気を震わさずには振れぬであろう? 連中はその震えを感じ取り、飛ぶ方向を変えるのだ。  故に、どのような一撃であれ燕を断つ事はできなかった。所詮刀など一本線にすぎぬ。縦横に空を行く燕を捕らえられぬは道理よな」   「ならば逃げ道を囲めばいいだけのこと。  一の太刀で燕を襲い、風を読んで避ける燕の逃げ道を続く二の太刀で取り囲む。  しかし連中は素早くてな。この長刀ではまず二の太刀が間に合わん。事を成したければ一息の内、ほぼ同時に行わなければならなかったが、そのような真似は人の業ではない。  叶う事などあるまいと承知したものだが――――」   「――――生憎と、他にやる事もなかったのでな。  一念鬼神に通じると言うが、気が付けばこの通りよ。  燕を断つという下らぬ思いつきは、複数の太刀筋で牢獄を作り上げる秘剣となった」    淡々とした語りに、セイバーは内心首を振る。  違う。  今の剣はそんな簡単なモノではない。  ほぼ同時? まさか。  二つの刃はまったくの同時だった。    アサシン―――佐々木小次郎の長刀は、あの瞬間のみ、確かに二本存在したのだ。   「……〈多重次元屈折現象〉《キシュア・ゼルレッチ》……なんの魔術も使わず、ただ剣技だけで、宝具の域に達したサーヴァント――――」    驚嘆すべきはまさにそれだ。  今の一撃ではっきりと判った。  佐々木小次郎には、英霊が持つ“宝具”などない。  有るのはただ、神域に達した力量による魔剣のみ。    あろうことか―――この男は人の身でありながら、宝具で武装した英霊と互角なのだ―――!   「だが足場が悪かったな。燕返しの軌跡は本来三つ。もうわずかに広ければ、横の一撃も加えられたのだが」 「……そうでしょうね。そうでなければ不完全です。  全てが同時であるなら、〈円の軌跡〉《二の太刀》はどうしても遅くなる。それを補うために、横方向への離脱を阻む〈払い〉《三の太刀》がある筈だ」   「いい呑みこみの早さだ。だからこそ我が秘剣を躱したか。  ―――く、素晴らしいぞセイバー……!  このような俗世に呼び出された我が身を呪ったが、それも今宵まで。生前では叶わなかった立ち会い、我が秘剣を存分に振舞える殺し合いが出来るのならば、呼び出された甲斐があるというもの――――」    長刀を構え直し、石段を下るアサシン。  狙うはセイバーの首か。  今一度あの秘剣を躱す自信など、セイバーにはない。  ランサーのゲイボルク同様、アサシンの燕返しは出させてはいけないモノだ。    いや、必ず心臓を狙いにくる、という正体さえ知っていれば対応できるゲイボルクと違い、知っていてなお回避できないアサシンの秘剣は対応策がほとんどない。    あるとすれば、出させない事それ一点。    打ち勝つには、アサシンがあの秘剣を繰り出す前に最強の一撃を見舞うのみか――――   「……なるほど。確かに、手加減など許される相手ではなかったようだ」    両手を下段に。  視えない剣を地に突きつけるように下げ、セイバーは歩み寄るアサシンを睨む。   「ほう……? そうか、ようやくその気になったかセイバー」    階段を下りる体を止め、今一度必殺の構えをとるアサシン。  それを凛と見据え、   「――――不満がないのはこちらも同じだ。  我が一撃、受けきれるかアサシンのサーヴァント……!」    セイバーは自らの枷を解いた。    大気が震える。  剣は彼女の意思に呼応するかのように、大量の風を吐き出した。   「ぬ――――!」  わずかに後退するアサシン。  セイバーから放たれる風圧は尋常ではない。  アサシンばかりか、太く堅固な山門の木々さえも震え、軋んでいる。    それは、爆発に近い風の流れだった。  密閉されていた大気が解放され、四方に吹き荒ぶ。  人間の一人や二人などたやすく吹き飛ばす烈風は、セイバーの剣から放出されている。    それが彼女の剣の力。  風王結界とは、その名の通り風を封じた剣である。  圧縮された風を纏う剣は、光の屈折角度を変貌させ剣を透明に見せていた。  その風を解放すればこのような現象が起こる。  解き放たれた空気は逃げ場を求め、無秩序に周囲に発散する。    ―――その合間。  吹き荒ぶ風を自在に操る事が、彼女の剣にかけられた戒めの魔術である。  膨大な魔力を持つセイバーならば、おそらくは数分は結界を維持し得るだろう。  その証拠に、これだけの風を解放していながら、未だ彼女の剣は透明のままだった。   「……ふん。さながら台風と言ったところだが、しかし―――」    吹き荒ぶ風の勢いは収まらない。  セイバーの剣から放たれる風は、今まさにアサシンを呑みこもうと鎌首をもたげていた。   「―――この程度の筈がない。その奥にある物、見せてもらうぞセイバー……!」    目を潰す烈風の中、アサシンは間合いを詰める。   「――――――――」    セイバーの腕が動く。  前進を許さぬ強風の中、悠然と歩を進めるアサシンを迎撃しようと、風を巻いた剣が唸りをあげ――――  そこつものが! ソコツモノがー! 傷も癒えていないというのになんばしよっとか。  士郎はまだマスターになったばっかりなんだから、もうちょっと自分を鍛えなくっちゃダメでしょう! そうよ。わたしにやられるならしょうがないけど、あんな女狐にやられちゃうなんてカッコ悪いんだから。早く直前の選択肢に戻って、今夜は大人しくしてなさい。 そうそう。次はよーく考えて行動するコト。 ―――さて。些細な選択ミスでスカーンとデッドエンドを迎えるみんなの味方、タイガー道場も今回で三回目。 みんなもそろそろこの道場に慣れてきたと思いますが、 思いますが? なによタイガ、思わせぶりなコト言って。なにか思うところがあるの? …………ある。というか、みんなもそろそろ気になってる頃だと思うんだけど、 思うんだけど? んー、じゃあ言うけど―――― 正直、ブルマは直球すぎではないだろうかっっっっ!!!!! え? だって道場でしょここ? 運動するんだから、体操服に着替えてるだけだけど? ……なるほど。そういう理由でしたか。いちおう筋は通ってるわね。わたしの数少ない見せ場を奪おうという、悪魔っ娘の策略かと思っちゃった。 考えすぎよタイガ。そもそも、貴女とわたしとじゃ格が違うもの。わざわざ勝負服に着替えて戦うまでもないわ。 そうだよねー! わたしとイリヤちゃんとじゃ扱いが違うし、争うまでもなかったわ。 良かった良かった、わたしたちは永遠のマブダチだよぅ。  体操服は元気の証だし、イリヤちゃんにはその格好を許可しましょう! 当然よ。ま、メイド服やスクール水着でないだけ感謝してよね。ホントなら、ワタシは毎回違うカッコウで登場する予定だったんだから。 げ。あからさまに違うこの扱い。  ふーんだ、悔しくないもんねー。所詮ボツになったんだから、わたしと扱い同じだもんねー。 ……けどミニマム気になる。  他にはどんな服を着る予定だったのかな? えーと、ガクランとか、カマクラとか、成長バージョンとか、雪だるまとか、エプロンとか、着物とか、ジャーマンな国の将校軍服とか、 なんと40種ものバリエーションだったのでしたー! ぐわああああ! もうよろしい! その恵まれた愛情が憎すぎる!  けど将校服はちょっと見たかったので残念です。 だよねー。大人のクセに、一度きった仕様書を無しにするのはよくないと思うわ。 まったくもって! わたしのシナリオを削るなんて何を考えているのか上層部は! 勝つ気があるのか勝つ気が! アンタのシナリオなんて最初から無いわよ。 にゃにおう! 狼藉者、そこになおれぃ!   きゃーーーーたーーすーーけーーてーー。 あ、先輩。ちわっす。 ま、楽にな。 行っちゃった……タイガものびちゃったし、わたしもそろそろ戻ろうかな。 スタンプ押して、っと……それじゃあ、またデッドエンド後に会いましょう!         アルトリア。  成人の儀を迎えたばかりの少女は、その日を境に、そう呼ばれる事になった。    戦乱の時代だった。  発端は、一つの帝国の終焉である。  不滅であった筈の帝国は、数多くの異民族の侵攻によって死を待つばかりとなったのだ。  異民族との戦いに備える為、帝国はその島国から守りの兵力を剥いでしまった。    それが始まりだ。  帝国の庇護を失い、独立せざるを得なくなった彼女の国は、時をかけず様々な小王国に分かれてしまった。    異民族たちの侵攻。  自殺行為とも言える部族間の内紛。  後に、“夜のように暗い日々”と言われる、長い戦いの時代。    そこに、王の後継ぎとして彼女は生を受けた。    長い、戦乱の時代だったのだ。  王は魔術師の予言を信じ、相応しい後継者の誕生を待ちこがれた。  だが生まれた子供は、王の望んでいた者ではなかった。  子は、男子ではなかったのだ。  たとえ王の宿命を持っていようと、男子でないものを後継ぎにする事は出来ない。    少女は王の家臣に預けられ、一介の騎士の子供として育てられた。  王は嘆いたが、魔術師は喜んだ。  もとより、王となる者に性別など関係はない。  それ以上に、少女が予言の日まで城から離れる事こそ、王の証だと確信していた。    素朴で賢明な老騎士の下、少女はその跡取りとして成長していった。    老騎士は魔術師の予言を信じていた訳ではない。  少女に己が主君と同じ物を感じたからこそ、騎士として育てなければならぬと信じ、その成長を願ったのだ。    だが騎士が願うまでもなく、少女は誰よりも強くあろうと鍛練の日々を重ねた。    崩壊し、死に行くだけの国を救えるのが王だけならば。    誰に言われるまでもなく、少女はその為だけに剣を振るうと誓っていたのだ。    そうして、予言の日がやってきた。  王を選び出す為に、国中の領主と騎士が集まった。  最も優れた者が王になるのならば、と誰もが馬上戦による選定を予想していた。  だが、選定の場に用意されていたのは岩に突き刺さった抜き身の剣だけだった。    剣の柄には黄金の銘。   “この剣を岩から引き出した者は、ブリテンの王たるべき者である―――”    その銘に従い、数多くの騎士が剣を掴んだ。  だが抜ける者はおらず、騎士たちは予め用意していた、馬上戦による王の選定を始めてしまった。    まだ騎士見習いだった少女には、馬上戦の資格などない。  少女は人気の絶えた選定の岩に近づくと、ためらう事なく剣の柄に手を伸ばした。           「いやいや。それを手に取る前に、きちんと考えたほうがいい」    振り向くと、この国で最も恐れられていた魔術師がいた。  魔術師は語る。  それを手にしたが最後、おまえは人間ではなくなるのだと。    その言葉に、少女は頷くだけで返した。  王になるという事は、人ではなくなるという事。  そんな覚悟は、生まれた時から抱いていた。  王とはつまり、みんなを守るために、一番多くみんなを殺す存在なのだ。  幼い彼女は毎夜それを思い、朝になるまで震え続けた。  一日たりとも恐れなかった日はない。    だがそれも、今日で終わりだと少女は告げた。    剣は当然のように引き抜かれ、周囲は光に包まれた。    ―――その瞬間、彼女は人ではなくなった。    王に性別など関係はない。  ただ王として機能さえすれば、王の風貌など誰も気にかけず、一顧だにされまい。    仮に王が女性だと気が付く人間がいようと、王として優れているのなら問題になる筈がなかった。    剣の魔力か、彼女の成長もそこで止まった。    不気味と恐れる騎士も多かったが、大半の騎士たちは主君の不死性を神秘と讃えあげた。            ―――そうして。  後に伝説にまで称えられる、王の時代が始まった。    新たな王の戦いは、まさに軍神の業だった。  王は常に先陣に立つ。  彼女の行く手をふさげる敵など存在しなかった。    〈戦いの神〉《アルトリア》。  竜の化身とまで謳われたその身に、敗北などありえない。    十の年月、十二もの会戦を、彼女は勝利だけで終わらせた。  それはただ一心に、王として駆け抜けた日々だったのだろう。    一度も振り返らず、一度も汚れず。    彼女は王として育ち、その責務を全うしたのだ。    だから、こんな姿を幻視したのか。    その魂は、いまも戦場にいるのだろう。  夜明け前。  藍色の空の下、風に身を任せて、彼女はただ遠くを見つめている。    空は高く、流れる雲は早い。  澄み切った大気の下、彼女は剣を手に、迎え撃つべき大軍を見つめていた。    ―――その姿が、焼き付いて離れない。    彼女とその剣は、一心同体だった。  王を選定した岩の剣。  彼女の運命を決定した剣の輝きは、彼女の輝きそのものだと思う。    だが、と夢の中で首を傾げた。  あの剣は、彼女が持っていた物とは違う。  似ているが違うモノだ。  昨夜彼女が振るった剣と、この剣は別の物。          ……なら。  これだけの名剣を、彼女は何処に、失ってしまったというのだろう……?  夢から覚めると、そこは自分の部屋だった。  外は明るい。  昨夜、決断を下せないまま部屋に戻って、セイバーを看ながら眠ってしまったらしい。 「……今の、夢……」    おかしな夢だった。  俺が知るよしもない出来事、俺が知らないセイバーの姿。  そんなものを、夢に見るなんて事があるのだろうか。 「……でも確かに、あれはセイバーの持ってた剣とは違ったよな……」    ぼんやりと思考を巡らす。  不確かだったセイバーの正体。  ……正直、自分はまだ彼女が何者だったのか、なんて事を受け入れられない。  セイバーはセイバーだ。  態度を変える事なんて出来ないし、セイバーだってそんなコトは望んでいないと思う。 「……けど。似合ってたな、セイバー」    昨夜の剣も似合っていたが、夢で見たあの剣も似合っていた。    いや、見惚れたと言っていい。  昨夜の剣といい夢の剣といい、自分は剣に弱いみたいだ。  ランサーの槍を見た時も美しいと思ったが、剣に対しては関心の度合いが違う。  どうも、自分は『剣』という物に惚れやすい性格をしているらしい。 「ああまあ……そんなの、今に始まった事じゃなかったか」  はあ、と大きく息を吐いて、汗まみれの額に手を伸ばした。 「……それにしても、なんか熱いな」  額の汗を拭う。  冬だというのに体は火照っていた。  なんというか、流れている血の温度が上がっているようで落ち着かない。 「……なんだろう……セイバーの剣を見てから、なんか」  妙に体が熱い。  令呪が刻まれた左手はカイロを握っているかのようだ。 「……遠坂に宝石を飲まされた時に似てるな……痒いっていうか、走り出したくなるっていうか」  深呼吸をして心を落ち着かせる。 「……セイバーはまだ、眠ったままか……」  昨夜からセイバーは一度も目を覚まさない。  それでも状況は良くなっているようだ。  今は寝息も落ち着いていて、苦しげに喘いでいた面影はない。  セイバーは安らかに眠っている。  それは、今までと何も変わらない朝の光景だった。 「―――もしかしたら、このまま」  眠らせておけば、セイバーは元通りになるかもしれない。  そうすればセイバーに人を殺させる必要なんてない。  セイバーはこのまま今まで通り俺と一緒に――― 「―――何を、都合のいい事を―――!」    壁を叩く。  自分の弱さに吐き気がする。 「―――セイバーをこんなにしたのは俺だ。  その俺が、何を―――」  ……物音を立てないように立ち上がる。  セイバーがいつ目覚めるかは判らない。  それまでに、俺はどちらを取るか決断しなくてはならない――――  まだ遠坂は起きていないのか。  家には活気がなく、廊下は廃墟のようだった。  いや、単に俺が沈み込んでいるだけだ。  どちらも選べず、灰色のまま〈彷徨〉《さまよ》うから世界がハッキリしないだけ。 「……?」    今、なにか空気を切るような音がした。 「まただ……庭の方からだけど、今のは――――」    今の音には聞き覚えがある。  ……そうだな。  朝食を作る気分でもなし、散歩がてらに様子を見に行こう。  外はいつもより数段冷え込んでいた。  体が火照っている俺がそう感じるのだから、本当に寒いのだろう。  ともすれば、このまま雪でも降りかねない寒空である。 「……蔵の方からだな、あれ」    風切り音は定期的に起きているようだ。  白い息を吐きながら庭を横断する。  蔵の前にはアイツがいた。  ……驚かなかったあたり、自分でもなんとなく、コイツがここにいる気がしていたのだろう。  先ほどまで弓を引いていたのか。  アーチャーは俺の姿を見るなり、不快そうに弓を下ろした。 「物騒だな。人ん家の庭で弓なんて引くな。矢が当たったらどうするつもりだ」 「どうするつもりもない。もとより矢など使っていないのだ。射ていないモノが当たる道理はなかろう」 「…………」  そんなこと、言われなくても判っている。  さっきの風切り音は、弓の弦が空を裂く音だ。  アーチャーは何のつもりか矢を使わず、ただ弓を引いていたにすぎない。 「……いい弓だな。今まで納得いかなかったけど、おまえ本当にアーチャーだったんだ」 「さて。私はおまえが知っている弓使いとは違うからな、弓道など訊かれても答えられんぞ。  おまえたちの弓は己に当てる射であり、私のは敵に当てる矢だ。おまえの言うアーチャーというのは、礼節を重んじる者の事だろう」  嫌味に口元をつりあげる。  やはり、コイツとは肌が合わない。 「誰もおまえに弓の事を訊こうだなんて思ってないよ。  ただ何をしているか気になっただけだ」 「見ての通り、調子を計っているのだが?  セイバーに付けられた傷も癒えた。いつまでも見張り役という訳にもいくまい」 「――――――――」  ……そうか。  コイツの傷は癒えたのか。なら遠坂も、本格的に戦いを再開するだろう。  〈踵〉《きびす》を返す。  遠坂とアーチャーが本格的に復帰する以上、こっちも決断をしなければならない。  どこか一人になれる場所で、真剣に考えをまとめないと。 「―――〈残心〉《ざんしん》、という言葉があるな」 「え?」 「事を済ませた後に保つ間の事だ。  私の弓術とおまえの弓道で、唯一共通しているモノがそれだと思うのだが」 「……なんだよ。おまえなんかに八節を説かれるおぼえはないぞ」 「まあ聞け。矢を放った後、体は自然と場に止まるという。それを残心と言うそうだな」 「…………」  確かに、弓道には射礼八節と呼ばれる八つの動作がある。  その中の最後、矢を放った後にくる境地の事を残心と言うのだが―――― 「……ああ。それがどうしたって言うんだ、おまえ」 「心構えの話だ。残心とは己の行為、放った矢が的中するかを確かめる物ではない。  矢とは、放つ前に既に的中しているものだ。射手は自らのイメージ通りに指を放す。  ならば当たるか当たらぬかなど、確認する必要はない。  射の前に当たらぬと思えば当たらぬし、当たると思えば当たっているのだから」 「―――そんな事あるか。どんなに当たるって思っても当たらない射はある。思うだけで当たるっていうんなら、誰だって百発百中だ」 「そうかな。少なくとも、おまえは百発百中だろう」 「な――――」  言われて、ドキリとした。  それは、確かに―――― 「まあ、そんな話はどうでもいい。言いたい事は一つだけだ。残心とは矢が当たるかどうかを見極めるものではない。放った矢がどのような結果になるかなど判りきった事だからな。  ならば、残心とはその結果を受け入れる為の心構えではなかったか」 「―――判ってる。ようするに、最後まで見届けろって言いたいんだろ、おまえは」 「そういう事だ。セイバーの事は聞いた。彼女がこのような状態になるのは初めから判っていた事だろう。魔力の提供もなしで戦っていれば、いつかは消える。  それはもう決まっていた事だ。ならば――――」  ……後は、その結果を受け入れるだけ。  俺の選択でセイバーがどうなろうと、俺には見届けるしか出来ないとでも言うのか。 「――――――――」  アーチャーに背を向ける。  今度こそ完全に、コイツの前から立ち去ってやる。 「……ああ、それともう一つ。気が付いていないようだから教えておこう」  背中越しに聞こえる声。 「セイバーはな、宝具を使えば自分が消えると判っていた筈だ。彼女はおそらく、最後まで宝具を使う気はなかったのだろう」    声にはいつもの嫌味な響きはなく。 「にも拘わらず宝具を使った理由は一つ。  セイバーは自身が消える事より、おまえを守る事を選んだのだ。  それを、決して忘れるな」    ただ、事実を告げる誠実さだけが込められていた。 「っ…………」    イリヤがどこまで本気なのかは分からない。  サーヴァントになれ、なんてのは何かの比喩だろうし、仮に俺を使い魔にしたところで、何がどうなる訳でもないだろう。  俺は何の役にも立たないし、イリヤにはバーサーカーがいる。  イリヤには衛宮士郎なんて半端な魔術師は要らない筈だ。 「さあ答えて。  シロウはわたしといっしょにいてくれる……?」  期待に満ちたイリヤの声。  それに、   「…………わかった。イリヤの使い魔になる」    偽りの、その場凌ぎの返答をした。 「うん……! よかった、これでずっといっしょだねお兄ちゃん!」 「な…………」  よっぽど嬉しかったのか、イリヤは飛び跳ねて喜んでいる。 「………………」  ……胸が痛む。  囚われの身では仕方ない、と本心ではない言葉でイリヤを騙してしまった。  それにここまで喜ばれると申し訳なくなって、その、少しぐらいならイリヤのわがままを聞いてあげてもいいのでは、なんて――――   「え――――?」    目眩がした。  何か、目に見えない重りが背中に圧し掛かった、ような。 「イリヤ」  得も知れぬ不安に押されて呼び止める。 「ん、なにシロウ? あ、手首の縄ならすぐにとってあげるね」   「ぁ……そうじゃ、なくて――――少し、気分が悪くて」    唐突に吐き出しそうで、必死に呼吸を整える。 「なに? 気分が悪くなって、体が重くて、不安で不安でしょうがないの?」    ―――その笑み。  俺の体の異状を知り尽くした、酷薄な唇を見て、 「――――イリヤ」 「そ、シロウのコトならもうなんでも分かるよ。だってわたしと契約したんだもの。  シロウはね、もうわたしに隠し事なんて出来ないの」 「っ――――!」  まずい。  今までの直接的な〈恐怖〉《もの》とは違う、得体の知れない焦燥に駆られて立ち上がる。  だが体は動かない。  イリヤの魔力に毒されているから、ではなく。  俺の体が、思う通りに動かなくなっている……!? 「イリヤ、何を……!」 「何かしたのはシロウ自身よ。気分が悪いのはわたしにウソをついたから。シロウは優しいから、自分で自分を傷つけたの」 「……けど、そうね。さっきのは少ししか気持ちが入ってなかったから、もう一度聞いてあげる。  ね、お兄ちゃん。お兄ちゃんは、わたしのものになったのよね?」 「――――」    背中に圧し掛かる重みが、肌を貫通して内部にまで浸透してくる。 「ほら、認めてシロウ。貴方の魂は、もうわたしのものになったんだって」 「ぁ――――――、が…………!」  喉が喘ぐ。  口はひとりでに開き、舌が、浅慮すぎた言葉を繰り返す。   「わかっ、た―――イリヤの使い魔に、な、る―――」 「ええ。イリヤスフィールの名において、エミヤシロウを受け入れたわ。  ふふ。シロウの魂、ちゃあんと捕まえたんだから」 「――――、イリヤ」    立ち上がって、こんな縄なんて引き千切って、今すぐ逃げ出さないといけない。  邪魔をするならイリヤを殴り倒してでも外に出るだけだ。  そうしなければ取り返しのつかない事になる。  そう、取り返しのつかない事になるっていうのに、どうして―――― 「体が、動かない……」    この体の主人はおまえではない、と手足は反応さえしない。 「あ、心配しなくていいよシロウ。今のシロウは、体に送る命令を全部シャットアウトされてるだけだから。  その体はシロウの魂を機能させるだけのものにして、すぐに新しい〈容器〉《からだ》を用意させるわ。  人間の体は壊れやすいから、壊れてもいいモノに意識を転送してあげるの」 「あ、けどシロウに言ってもわからないか。  んー、説明しても実感湧かないだろうし、習うより慣れろね。  セラ、リーゼリット。今から〈転送〉《アボート》をするから、適当な〈容れ物〉《にんぎょう》を持ってきて」 「―――――、―――」    もう声さえ出せない。  自分はここにいるというのに、カメラ越しの映像を見ているような気分。 「お待たせいたしましたお嬢様。アポートを行う、との事ですが」 「ええ。ホントは着たくないけど、万が一にも失敗したくないから天衣を使うわ。リズ、用意はできてる?」 「…………できてる、けど。本当にいいの、イリヤ……?」 「な、なによ、出来そこないのクセに意見するのリーゼリット……! わ、わたしは悪くないもん! シ、シロウが自分で言ったんだから、使い魔にしてもいいんだもんっ……!」 「はい、お嬢様に落ち度などありません。  リーゼリット、言葉が過ぎますよ。このような人間一人、どうなろうと構いません。いえ、むしろお嬢様の奇跡に触れられるのですから、身に余る至福でしょう」 「…………セラ、イリヤに甘い。そうゆうの、逆効果だってわかってる……?」 「リーゼリット! お嬢様をそのようにお呼びするのは止めなさい……! イリヤスフィール様はアインツベルンの奇跡を後継するお方、私たちのような失敗作とは違うのですよ……!」 「……はあ。イリヤ、始めよう。セラってうるさいよね」 「リーゼリットっ!」 「――――――――」  召し使いらしい二人のうち、大人しい方が近づいてくる。  リズ―――リーゼリットと呼ばれた女性は、   「……ごめんね。キミ、もうその容れ物には戻れないよ」    スイッチをオフにするように、俺の視界を闇に落とした。   「それとお嬢様。森に何者かが侵入したようですが、いかがいたしましょう? バーサーカーを向かわせますか?」    声だけが耳に届く。  ……おかしな話だ。  俺の意識は手足と繋がっておらず、五感はとうに断たれている。  俺は〈聴覚〉《からだ》と繋がっていないというのに、一体なにが、彼女たちの声を聞いているのか。   「まさか。せっかく来てくれたんだから、ちゃんともてなしてあげないと失礼でしょう? バーサーカーはもちろん、貴女たちも姿を隠してなさい。  リンとセイバーには、わたしのものになったシロウを見てもらうの。それが済んだら、後はバーサーカーの好きにさせるわ」    ……クスクスと笑う。  感覚がないクセに、腕を掴まれた気がした。          ―――気が遠くなる。  数分の〈後〉《のち》、自分がどうなるかは判らないが―――俺の戦いが、終わった事だけは理解できた。    ―――考えるまでもない。    それにいい加減、我慢の限度ってものがある。  どいつもこいつもセイバーを消えるものとして考えやがって。  セイバーは消えないし、俺は最後まで彼女と戦う。  その誓いを、こんな事で覆す訳にはいかない。 「……イリヤ、おまえの言う事は聞けない。俺にはセイバーがいる。セイバーが残っている限り、マスターとして戦うだけだ」 「―――――――」    息を呑む音。  一瞬、赤い瞳が、死後硬直のように見開かれた。   「……そう。あなたまでわたしを裏切るのね、シロウ」    イリヤの体が離れる。  少女は取り乱す事なく、平然と俺を見下ろした。 「いいわ。シロウがわたしの言うことをきかないんなら、わたしもシロウの言うことなんてきかない。  今まで見逃してあげたけど、それもこれでおしまいなんだから」  イリヤの声には殺気しかない。  そこに―――酷く、不吉な物を感じた。 「待っていなさい。すぐに用を済ませてくるから」 「待て……! なにをするつもりだ、イリヤ……!」 「なにって、セイバーとリンを殺しに行くの。二人を殺してくれば、シロウも少しは後悔するでしょ?」 「な―――バカな事を言うな……! セイバーも遠坂も関係ない、俺は自分だけの都合でイリヤとはいられないって言ってるんだ……!」 「そうなの? けど二人は殺すわ。それが終わったら次はシロウの番よ。わたしの物にならないのなら、シロウなんていらないもの」  遠ざかっていく足音。  イリヤは本気だ。  本気でセイバーと遠坂を殺しに行く。 「止めろイリヤ……! セイバーも遠坂も関係ないだろう……! 捕まってるのは俺なんだから、憎いっていうんなら俺だけにしろ……! 二人を殺す理由なんてない……!」 「理由はあるわ。わたし以外のマスターは生かしておけないもの。それが聖杯戦争でしょう?」 「ばか、簡単に人を殺すなんて言うな……! おまえにはそんなの似合わない。イリヤはまだ子供なんだから、そんな真似だけはしちゃダメだ……!」  イリヤは呆然と俺を見つめた後。   「残念ね。わたしはもうマスターを殺してるんだよ、お兄ちゃん」    ひどく愉しそうな顔で、そんな言葉を返してきた。 「もっとも、それは昨日の話だけど。予想外と言えば予想外だったかな。わたし、アイツはお兄ちゃんが手を下すって思ってたのに」 「な――――に?」    瞬間。  自分でも驚くほど、事の次第が飲み込めた。  ……昨夜、イリヤはビルの中にいたという。  なら。  彼女の目の前で逃げ出したマスターは、格好の獲物ではなかったのか。 「イリヤ――――おまえ」 「ごめんね。シロウがやらないからわたしがやっちゃった。ほんとは横取りって好きじゃないんだけど」  悪びれた様子などない。  イリヤにとってそれは、本当に大した出来事ではなかったのだろう。 「――――――――」    ……思い知った。  いや、以前会った時から判っていた筈だ。  この白い少女には善悪の観念がない。  無邪気に笑うのもイリヤなら、無慈悲に笑うのもイリヤなのだ。  ……この少女には天使と悪魔が同居している訳じゃない。  ただ、天使という悪魔がイリヤなだけ―――― 「それじゃ行ってくるわ。  帰ってきたらシロウの番なんだから、せいぜい逃げ出す努力でもしていなさい」 「もっとも、カゴから逃げ出せないから小鳥は小鳥なの。  お兄ちゃんじゃ、この鳥カゴからは出られないでしょうけど」  ……イリヤは出ていった。  あいつが口にした事は本当だ。  脅しや駆け引きなんて知らない少女にとって、口にした事は全て真実なんだから。  なら、いつまでもこんな所にはいられない。  イリヤがセイバーを襲う前に、なんとか抜け出して合流しなければ。 「く―――この……!」  体を揺すって、手首の縄を解きにかかる。  俺が逃げられないと本気で思っているのか、部屋には誰もいない。  監視の目がなければ、この程度の縄ぐらい一人でも解ける、のだが―――― 「っ――――くそ、まだ体、が――――」  満足に言うコトをきいてくれない。  手足は動くものの鉛のように重く、動かすだけで息が上がりそうだ。 「……イリヤのヤツ……これを見越して逃げられないなんて、言ってたの、か」  ……確かにこんなんじゃ動けない。  なんとか縄を解いたところで、満足に動けないようでは、部屋から出られたところで逃げ切れない。 「……体が重いのは、疲れてるからじゃないよな……そっか、イリヤの目を見て、それで動かなくなったんだっけ……」  魔眼、というヤツだろうか。  優れた魔術師は、目を合わせるだけで対象に何らかの魔術干渉を行えるという。  平均的な魔眼は“束縛”だというから、この金縛りもその類なのだろう。  視覚情報を得る眼球は、同時に暗示を受けやすいのが弱点だ。  故に、魔術師はある程度眼にプロテクトを張って相手の魔力を遮断するのだとか。 「……呪文もなしの、暗示じみた金縛りにやられるなんて、遠坂が聞いたらなんて言うか……」  ……まあ、それはあくまで魔術によって付けた後天的な魔眼にすぎない。  それとは別に、生まれつき、つまり先天的に魔眼を持つ化け物は、相手と目を合わせる、なんて事はしなくていいらしい。  連中はただ“見る”だけで特有の能力を発揮すると言うが、そういった保持者は世界でも希だという。  で。  幸い、イリヤの魔眼はそういった特別なものじゃないようだ。これはあくまで、相手に魔力を送り込むだけの魔力干渉にすぎない。    それなら解呪する方法もある。  体が動かないのはイリヤの魔力がこっちの神経を侵しているからだ。  なら、その魔力さえ消してしまえば金縛りは解けてくれる。   「―――単純な話だ。泥が溜まってるなら、水を流して洗えばいい」  目を閉じて、意識を体の内だけに向ける。  ……俺には自身を侵している他人の魔力を感知する事も、取り出す事もできない。  だが、体内に根付いた〈呪詛〉《びょうそう》になっていない魔力なら、そんな技術は必要ない。  体内にイリヤの魔力が淀んでいるのなら、強い魔力を流して吐きだしてやるだけだ。 「……悪いな。乱暴なやり方だけど、生憎そんな事しかできないんだ」  気休め程度に、自分の体に謝っておく。  あとは、いつもの日課を行うだけだ。    背中に異なる神経を打ち込む儀式。  ……いや、今はそうじゃない。  もう新しいソレを作る必要はない。  頭の中にあるスイッチを押すだけでいい。  体内に魔術回路を作るのではなく、神経を魔術回路に切り替えるだけの話。 「――――〈同調〉《トレース》〈開始〉《オン》」    自らを暗示する〈言葉〉《スペル》を呟く。  〈呪文〉《スペル》は世界に働きかけるものではない。  世界に働きかける自分に対して唱えるモノだ。  魔術師にとって、最も自己の変革を促しやすい言葉。  自分だけの神秘を行うための、自分にしか効果のない命令こそが、呪文と呼ばれる最初の魔術。 「――――基本骨子、解明」    血の流れが速くなる。  血液に力が宿る。  自身が、魔力を回すだけの装置に変わる。  ……遠坂に飲まされた宝石の恩恵だろう。  いつもなら一時間はかかる魔力の生成が、こんな短時間で出来るようになっている。 「――――構成材質、解明」    ……これならスイッチとやらを押す必要もない。  このまま魔力を回転させていって、あとは手を離すだけでいい筈だ。  ……もっとも。  スイッチを押すも何も、スイッチ自体が見つかってはいなかったが。    ――――熱が〈奔〉《はし》る。  早まっていく鼓動を冷静に抑えながら、振り回し続けた紐から手を放した。 「ごぶ……!」    びしゃり、と口元から血が漏れた。  どこぞの血管が切れたのか、中身が破れたのだろう。  体を侵した泥を押し流すだけの魔力を流したんだ。吐血ぐらいですめば御の字だし、幸い痛みもない。 「……痛みがないのは、アレかな……また例の自然治癒かな……」    未だ正体がはっきりしない異常だが、こういう時は純粋にありがたい。  即死でなければ傷が治ってくれるのは、今の自分にとって最大にして唯一の強みだ。    ……注意すべきなのは、それに頼ってはいけないという事。  なにしろ原因が不明なのだ。自然治癒を頼りにして怪我をしても、一秒後にはなくなっている可能性もある。    故に、こんな不確かな奇蹟に頼ってはいけない。 「―――よし、あとは縄だけだ」    縄を解く。  手首は痣になっていたが、血が止まるほど締められていた訳でもない。  ……締めたのはイリヤではないだろうが、それでもそう強く縛られたものではなかった。  そもそもイリヤでは俺をここまで運べないだろう。  イリヤ以外の誰か、それもあまり力の無い人間がいるのだろうか。 「……バーサーカーは論外だ。あいつが縄をしめたら、その時点で俺の手首なんてヘシ折られてる」    軽口を叩きつつ、椅子から立ち上がる。 「っ――――」  ……体の自由が戻ったのはいいが、やはり乱暴すぎたらしい。  傷こそないが、体の中は未だ魔力が荒れ狂っていた。  動けば、それだけで体の中身が打ちのめされる。  ……痛みのせいだろう。  吐き気と目眩が襲ってくるし、手足の末端は感覚がない。    これではイリヤより早く家に戻る事なんて、とてもじゃないけど出来やしない―――― 「―――何を弱気な。そんなコト、言ってる場合じゃない」  ぱん、と頬を叩いて歩き出す。 「……?」  壁に手をついて、なんとかドアへ向かおうとした時。  壁の向こうで物音がした。  ……足音がする。  それも複数。なにやら話をしながら近づいてくるソレは、扉の前で足を止めた。 「……見回り……!? くそ、なんだってこのタイミングで……!」  隠れている時間はない。  ここは――――      ……先手必勝、戦うしかない。  いまから隠れている時間なんてないし、なによりそんな暇はない。  俺は一刻も早くここを出て、セイバーのところに帰らなければならないんだ。    ―――扉が開く。    扉の真横の壁に背中を押しつけて、入ってくる見回りに備える。 「――――――――?」  見回りは扉を開けただけで、中に入ってこようとはしなかった。  ……待てよ。  入り口からなら、扉を開けただけで椅子が見える。  縛られていた筈の俺がいないんだから、それだけで状況が判ってしまわないか――――!? 「…………!」  まずい。  ここで人を呼ばれたら、逃げ出すのは困難になる。  こうなったらこっちから外に出て、見回りをぶちのめすだけだ――――!  壁からドアへと身を乗り出す。    ―――と。  見回りはとっくに俺が隠れている事を察知していたのか、飛び出した瞬間に部屋へと入ってきた。 「くっ、この……!」  もう止まれない。  相手が何者であろうが、このまま殴り倒して外に出るだけ――――   「動くな……! 大人しくしていれば命までは……え、シロウ……?」 「――――――――」  ぴたり、と体が止まる。  ……頭の中が真っ白になった。  助けに行かなければならない相手が、目の前にいる。 「セ、セイバー……? どうして、ここに?」 「ど、どうしてなんて、そんな事は言うまでもないでしょう。サーヴァントがマスターを守るのに理由はいりません。シロウが捕らわれたのなら、助けに来るのは当然ではないですか」 「あ……いや、だから。どうして俺が捕まったって知ってるんだよ。  いや、そんな事よりどうしてここにいるんだセイバー。  ここはイリヤの隠れ家だぞ。今のセイバーが近寄っていい場所じゃない」 「っ――――!」    迷っている時間はない。  こんな体じゃ戦っても勝ち目はないんだ、今は体が持ち直すまで荒事は避けなければ……! 「と、よっ……!」  両腕を合わせて、なんとか縄で縛られているように偽装する。 「っ……!」  扉が開く。  イリヤか、城の人間か。  ともかくそいつが部屋に入ってくる直前、ギリギリで椅子に座って腕を後ろ、に―――― 「―――無事ですか、シロウ……!」 「――――」  目が点になる。  本気で、自分にとって都合のいい幻を見ているのかと、思った。 「縛られているのですね。  すぐに解きますからそのまま――――」 「あ、いや。縄は、解けてるん、だけど」  ほら、と後ろに回した腕を差し出す。 「……話が見えないのですが。シロウは、ここで囚われていたのでは……?」 「……いや、その。なんとか自由になって、逃げ出そうとしたところで誰か来たから、とりあえず捕まったフリをしてたんだ、けど」 「―――なるほど。敵を油断させて、脱出を確かなものにしようとしたのですね?」  おお、と感心するセイバー。  ……まあ、その後のコトは何も考えてなかった、というのは黙っておこう。 「それよりセイバー、セイバーだよな!? 幻じゃない、本物のセイバー……?」  立ち上がってセイバーの体に触る。 「! シ、シロウ、待ってください、そのように触られては」 「うん、本物だ―――あ、けどどうしてここに?」 「ど、どうしてなんて、そんな事は言うまでもないでしょう。サーヴァントがマスターを守るのに理由はいりません。シロウが捕らわれたのなら、助けに来るのは当然ではないですか」 「あ……いや、だから。どうして俺が捕まったって知ってるんだよ。いや、そんな事よりどうしてここにいるんだセイバー。ここはイリヤの隠れ家だぞ。今のセイバーが近寄っていい場所じゃない」 「っ――――!」  迷っている時間はない。  こんな体じゃ戦っても勝ち目はないし、今は見つからないコトを最優先にするべきだ。  とりあえず、あのベッドなぞいかがなものかー!  ベッドに飛び込み、シーツを被って身を隠す。  間髪いれずに響く扉の音。  ……イリヤが戻ってきたのか、それとも城の住人か。  ともかく、俺の監視に現れた何者かは突如消失した囚人に驚愕し、困惑し、呆然とカラになった椅子を見つめている。 「――――――――」 「――――――――」  フ、ふわふわで完璧だ。  この完全なる密室トリックを前に、来訪者は言葉もなく立ち尽くし、   「……何を遊んでいるのですか、シロウ」    呆れきった声で、ベッドに横たわる俺に声をかけた。 「え?」  ひょこ、とふかふかのベッドから顔を出す。 「そこで何をしているのです、と訊いたのです。  まさかとは思いますが、それで身を隠しているつもりではないでしょうね?」 「あ――――いや、その」  もそもそとベッドから出る。 「一応、隠れていたんだが」  甘かっただろうか、と視線で問いただす。 「大甘です。私が敵であったのなら、一片の情けもかけず両断します」 「あ、う」  二の句も継げず縮こまる。  ……なんというか、物凄く恥ずかしいところを見られたのではないか。 「えっと、その……セイバー、どうしてここに……?」 「言うまでもないでしょう。サーヴァントがマスターを守るのに理由はいりません。シロウが捕らわれたのなら、助けに来るのは当然ではないですか」 「あ……いや、だから。どうして俺が捕まったって知ってるんだよ。いや、そんな事よりどうしてここにいるんだセイバー。ここはイリヤの隠れ家だぞ。今のセイバーが近寄っていい場所じゃない」    そうして、両者の戦いは終わった。  殺し尽くし、殲滅しあった彼らの戦いは、赤い騎士の消滅で幕を閉じたのだ。    〈絢爛〉《けんらん》を誇っていた広間は一変していた。  床は千々にひび割れている。  壁は何重と穿たれている。  階段は陥没し、砕かれた大理石は砂礫となって風に散った。    空間は破壊し尽くされ、広間にかつての面影は無い。  ならば、時間さえかしいでいると言えるだろう。  夥しい破壊の跡は、つい二時間前の風景すら思い出させないと言うのだから。   「――――――――」  その廃墟の中心に、相応しい彫像が建っていた。  二メートルを優に超すそれは、巨岩を荒々しく削って作った人の像に見える。  言うまでもない。  イリヤスフィールのサーヴァント、バーサーカーである。    巨像は不動だった。  その全身は赤く、体の所々に穴が開いている。  傷のない箇所など、巨人には存在しなかった。    一、両足は崩壊しかけている。  二、首には切断された跡がある。  三、腕はかろうじて肘に付いている。  四、肩から股下までを貫かれている。  五、胸からは大量に血が流れている。  六、腹には空洞が穿たれている。    バーサーカーは動かない。    当然だろう。  それは、どう見ても死体だった。    戦い自体は、半刻で決着がついていた。  ただあまりにも意外すぎる結果に、バーサーカーのマスターは我を忘れた。  本来ならすぐさま獲物を狩りたてに行かねばならないというのに、呆然とこの惨状を見つめていたのだ。   「―――信じられない。なんだったのよ、アイツ」    忌々しげに呟く。  ここで行われた戦いは、少女にとって屈辱以外の何物でもなかった。    少女のサーヴァントは最強である。  数いる英霊の中でも最高の知名度を誇るヘラクレスに対抗できるモノなど、それこそ一人か二人のみだろう。  それを、どこの英雄とも知らぬ正体不明のアーチャーが打倒した。  あの赤い騎士はバーサーカーと互角に渡り合い、結果、今まで誰も成し得なかったバーサーカー殺しを成功させたのだ。    ―――そんな事は許されない。    少女にとってみれば、道ばたの虫に心臓を刺されたようなものである。  本来踏みつぶし、情けを乞わせるだけの相手に追い詰められるなど、最強を自負する少女の自尊心が許さない。   「ああもう、頭にくる!  あんなヤツに六回もやられるなんて、手を抜いてたんじゃないでしょうねバーサーカー!」 「――――――」    彫像は答えない。  答える余裕などないのか、その必要性を感じないのか。  バーサーカーは佇み、体の復元に専念する。    ……彼にしてみても、今回の戦いはあまりにも異常だった。  彼の“宝具”は、あらゆる攻撃を無効化する。  超一流の攻撃でなければ、どのようなモノであろうと彼の肉体には通用しない。    故に、傷を負う事など希だった。  神話の時代、偉業を為しえた後の彼に傷を負わせた者はいない。    にも拘わらず、それを六度。  アーチャーは致命傷に近い純度の一撃を、実に〈六度〉《ろくたび》行ってきた。    その全てが異なる手段だったのは言うまでもない。  たとえ最高純度の攻撃であろうと、バーサーカーには一度行った攻撃は二度と通じないからだ。    ……異常だというのなら、それこそが異常だった。    それほど多彩な能力を持つ英雄であるのなら、まず正体は掴める筈である。  だがアーチャーの正体は、結局、その体を粉砕しても判らずじまいだった。  真に驚くべきは、サーヴァントとして矛盾したその有り方であろう。   「――――――――」    ……バーサーカーの眼孔に、わずかな光がともる。  彼がまっとうなサーヴァントとして召喚されていたのなら、この戦いを“惜しい”と嘆いただろう。    正体はどうあれ、アーチャーは得難い難敵だった。  彼の理性が奪われていなければ、心ゆくまで剣技を競い合い、充実した時間を過ごせたものを。   「……許さない。許さないんだから。よくもここまでわたしを侮辱してくれたわね……!」    主の声が響く。  わずかに灯った理性の光は、それでかき消えた。  今の彼はバーサーカーにすぎない。  主の望み通り、敵を圧倒し、粉砕するだけがその役割。   「傷は治ったのバーサーカー!」 「――――――――」  答えるまでもない。  死に至らぬ傷ならば、あと数分で完治しよう。  だが―――全てを元に戻すには三日を要する。 「そんなに待てない! もういいわ、いますぐアイツらを殺しにいくわよ!」 「――――――――」    巨人は無言で抗議する。  それは本能に近い。  こと戦いに関して、バーサーカーにはセイバーと似た直感がある。    敵は確かに容易に薙ぎ払える戦力だ。  だが、セイバーのサーヴァントがあの〈聖剣〉《ほうぐ》を使えるほど回復したのなら話は別だ。  たかだか聖剣ごときに屈するバーサーカーではないが、万が一という事もある。  あのサーヴァントと戦うのならば、こちらも万全の態勢で挑むべきだと本能が告げていた。   「……なによ、五つもあれば十分じゃない。あんなヤツら、ゴッドハンドなんかなくたって敵じゃないもの。  それともなに? ここまでわたしたちをバカにしたヤツらを見逃してやるっていうの、バーサーカー?」 「…………………」 「そうでしょ? 誰一人としてわたしの森からは逃がさないわ。うん、リンとセイバーはバーサーカーにあげるね。殺すなり弄ぶなり好きにしていいわ」    少女は階段から飛び降りた。  瓦礫の中、血まみれのバーサーカーを意に介さず出口へと歩いていく。    そのおり。  少女は思い出したように、一度だけ足を止めた。   「さあ、狩りを始めましょうバーサーカー。  だけどセイバーのマスターは簡単に殺しちゃダメだよ?  シロウには、いちばんひどい死に方をさせてあげるんだから」    くすり、と愉しげに笑って、少女は城を後にする。            ―――じき日が昇る。  彼女にとってこの森は庭と同じだ。  獲物が何処に隠れていようが、見つける事など造作もない。  標的である彼らの余命は、あと数分足らずしか許されていなかった。  で。  なんでか知らないが、廃墟から追い出された。    その後の調整とか着替えとか、とにかく女の子には色々あるのだー、なんて遠坂に追い出されたのだ。 「―――くそ、なに言ってんだ、男だって色々ある」  壁に背中を預けてぼやく。  なんだか負け惜しみのような気がするのは、やっぱり負け惜しみだからだ。 「………………………………」 「――――――――う」    思い出して、必死に煩悩を振り払った。  今は忘れないといけない。  セイバーの記憶に浸っていたら命がない。なにより、そんなのはセイバーに失礼だ。  そもそも俺はセイバーを助ける為に触れ合ったんだ。  なら、それ以外の感情を持つ筈なんてない。 「っ――――――――」    おおうそつきだ。  そんな言い訳で誤魔化せるものじゃない。  セイバーの中で見た〈光景〉《もの》が忘れられない。  けど、今は忘れないといけない。  ……まったく、こんなコトでやきもきしている余裕はないんだ。  いま俺たちが悩む事は、どうやってバーサーカーを迎え撃つかという事だけ―――― 「……そうだ。自分に出来る事をやらないと。あいつだって、最後にそう言ってたじゃないか」    アーチャーの背中を思い出す。  ……とことん好きになれなかったヤツだけど、あいつの言葉はどれも頭にひっかかっている。 「…………………」  木の枝を眺める。  ……自分に出来る事といったら、それこそ数えるほどしかない。  今は微力だとしても、それを全力でこなすだけだ。  形として手頃な枝をもぐ。  あとはできるだけ直線の枝を数本見繕った。   「士郎―! 終わったから入ってきてー!」    遠坂の声がする。  もぎ取った枝を抱えて廃墟へ戻る。    ……まあ、あとの問題と言えば。  一瞬だけとは言えセイバーの心を垣間見た自分に、自然な素振りができるかなのだが、   「こちらですシロウ。凛から話があるそうです」      ―――その心配は、とりあえず自分だけの物みたいだ。  セイバーは今まで通り毅然としている。  未熟な俺と違って、彼女はきちんと割り切っているのだろう。 「あ―――ああ、いま行く」  ……くそ、負けるもんか。  俺一人で赤面してるのもバカらしいし、全力で平静を装ってやるっ。 「来たわね。それじゃ作戦会議を始めるけど、会議っていっても口論しあう暇はないわ。  バーサーカーを倒す方法も限られているし、とりあえずわたしの話を聞いてもらえる?」  こくん、と頷く俺とセイバー。 「作戦としては単純よ。  まともな方法じゃバーサーカーとは勝負にならない。  勝つ為には奇襲、仕掛けたのなら反撃させずに一撃で首を落とすのが絶対条件だと思う」 「……同感です。バーサーカーと打ち合ったところで、アレには致命傷を与えられません。倒すのならば打ち合いの外から決すべきでしょう」 「……打ち合いの外からって、バーサーカーが俺たちに気づく前に先回りして襲うって事か……?  そりゃあ、あいつと正面から戦うのは無謀だけど、そっちの方はもっと無謀だ。あいつが奇襲なんてさせるタマか」 「ええ、バーサーカーに気づかれずに近寄る、なんて都合のいい作戦はやらないわよ。  あっちにはイリヤスフィールがいるんだもの。少なくともセイバーと士郎の気配は簡単に感知されるわ。わたしは気配を隠せるから大丈夫だけど」  ……む。  どんな理屈か知らないが、イリヤは俺とセイバーの気配が判るのか。  姿を隠せるのは遠坂だけって事は―――― 「……まさか。奇襲をするのは遠坂だって言うんじゃないだろうな」 「当然でしょ。一番に狙われてるのは士郎なんだし、この中で一番動きやすいのはわたしだもの。隙をついて後ろからバッサリやるのは任せなさい」 「後ろからバッサリって、バーサーカーがそんな甘いわけないだろ」 「そりゃそうよ。だからセイバーに隙を作ってもらうの。  セイバー、体はどのくらい回復した?」 「通常戦闘ならば問題はありません。ですが、宝具の使用は避けるべきです。  今の魔力では、おそらく使った瞬間に体を維持できなくなる。たとえ使ったとしても純度は落ちていますから、バーサーカーを倒せるとは思えません」 「ええ、それで十分よ。セイバーにはバーサーカーと打ち合って貰うわ。もちろん士郎も一緒。  で、わたしは隠れて様子を見る。イリヤスフィールから見ればわたしはおまけみたいなものだし、いなければ二人を見捨てて逃げた、とか思うんじゃないかしら」 「……はあ。それは……まあ、可能性はなくはありませんが」 「可能性が低いならあげて。  士郎はイリヤスフィールと仲がいいみたいだし、うまく話せば騙せるんじゃない?」  ふふん、と意味ありげな流し目をする遠坂。 「……反論はあるけど、引き受けた。  遠坂は逃げたって言えば、イリヤはまず信じるよ。あの子は、人の言葉を疑わないと思う」 「だとしても問題はあります。  私がバーサーカーと対峙するのはいい。ですが、シロウに同じ事はさせられません。シロウではバーサーカーの一撃に耐えられない」 「誰も士郎に殴り合え、なんて言ってないわ。  士郎はセイバーから離れて後方支援。セイバーだけじゃバーサーカーを押し切るのは難しいから、危なくなったら助けてあげて」 「ばかな。シロウは凛のように魔術に長けてはいない。  援護といっても何を」 「それは士郎が考えて。  ……もっとも、バーサーカー相手だとマスターが介入する余裕なんてないわ。士郎だけじゃなくて、わたしだって手を出せばセイバーの足をひっぱるもの」 「それでも一人だって遊ばせる余裕はないの。  士郎が殺されればセイバーもおしまいっていうのは判ってるけど、ここはそうしてもらうわ。……はじめから賭け事みたいな戦いなんだから」 「それは………………そう、ですが」  セイバーは難しい顔をして黙り込む。  遠坂も黙っているところを見ると、自分でも無茶を言っていると承知しているのだろう。  二人の憂慮はもっともだ。  セイバーと出逢った夜。  バーサーカーに襲われた時、俺は体を張るしか出来なかった。  今度だって、あの夜を再現する可能性は高い。  なら俺は戦場から離れた方がいいのだろうが、言われなくてもそんな気は毛頭なかった。 「判ってる。遠くからの援護はなんとかしよう」 「え?」  いや、そんなに意外なコトなのか、今のって。 「離れたところからセイバーを援護すればいいんだろう。  それならなんとかなると思う」  言って、先ほどもいできた木の枝を手に取る。  長さ的には丁度いい。しなりもなんとか。  ……こういう“強化”は初めてだ。  けど原理は間違っていないと思う。  要は補強に補強を重ねて、きちんとしたモノに仕上げればいいだけの話。  それにコレだったら、あいつが持ってたから参考になる。  くわえて、魔力ならさっきから体に流れっぱなしだ。  あとはいつもの工程を繰り返せばいい。    基本骨子を解明し変更する。  構成材質を解明し補強する。    ……だが、もとが枝で完成形があいつの弓となると足りない。  想うべきは創造された理念から。  少しでも本物に近づけるなら、せめて頭の中だけでも、あらゆる想定をしなければならないだろう。    ……目を開ける。  しなっていた枝は、とりあえず形にはなっていたが、なんというか、その―――― 「うわ。似ても似つかねえ」    不細工というか、歪というか。  それでも弓として問題ない事は実感できる。  あとは同じ要領で矢を調達すればいいだけだ。 「―――士郎、今の」 「ああ。慎二との一件でなんとなくコツが判った。遠坂も言ってただろ。力みすぎるなって」 「…………そう。ま、手段が出来たのはいいことだし、今はいいわ」 「話を戻すけど。  とにかく、二人にはバーサーカーと戦ってもらう。わたしは予め木に登って、上から様子を観察してるから。  で、セイバーがなんとかバーサーカーに隙を作ったら、死角である頭上からとっておきの宝石を使い切ってバーサーカーを串刺しにする。  作戦としてはそれだけの、単純な物だけど」    質問はある? と視線で訴える遠坂。 「……宝石、というのは凛の魔術ですか?  だとしても生半可な魔術ではバーサーカーの体には届きません。彼を傷つけるには、最大純度の攻撃でなければならないのですから」 「判ってる。ようするにA判定の攻撃でないとダメなんでしょ?」  言いつつ、遠坂はポケットから宝石を取り出した。 「―――その宝石は?」 「わたしが物心ついた時から貯めに貯めた貯金みたいなものよ。これ一つでA判定の大魔術を即座に発生させられる。十個あったんだけどね、一つは貴女に使っちゃったわ」 「そうか―――あの時の魔術ならば、確かにバーサーカーは防げない。  彼には私のような対魔力はありません。魔術であっても、それがA判定ならば問題なく貫通する――――」 「そういうことよ。ホントは小出ししていこうと思ったけど、悠長な事は言ってられないわ。バーサーカーには特別に二つか三つは叩き込んでやるんだから」    ふふん、と遠坂は自信ありげに胸を張る。  ……が。 「……おい。なんか半端にせこくないか、おまえ」 「……同感です。私が言える事ではありませんが、せめて半分使い切る、ぐらいの気前の良さが必要だと思うのですが」 「うっ……な、なによ、そんなの人の勝手でしょう!   貴方たちね、わたしがどれほど苦労してここまで貯めたって思ってるのよ!」 「……………………」 「……………………」  セイバーと二人して、とにかく無言の抗議をする。  なにしろ事は遠坂の命もかかっている。つまんない出し惜しみをして失敗したら笑うに笑えない。 「……わかったわよ。半分使えばいいんでしょ、使えば!  ……なによ、言ってみただけじゃない。わたしだってそれくらい判ってるんだから」 「―――とにかく、作戦はそれだけよ。  あとは私が隠れられて、士郎がセイバーの援護をしやすい場所を探さなくちゃ。イリヤスフィールが来る前にいい場所を見つけましょう」  ……ああ、たしかにもうこの廃墟にはいられない。  後は遠坂の言う通り、バーサーカーを待ちかまえる場所を探すだけだ。  だが、その前に――――    ……セイバーは、本当に大丈夫だろうか。    戦闘に支障はないというが、あれだけ弱っていた後、いきなりバーサーカーと打ち合うのは辛いのではないか。  いや、それより気になるのは宝具の事だ。   『使えば、その瞬間に体を維持できなくなる』    セイバーはそう言った。  それはすなわち、あの剣を振るった瞬間、セイバーが消えるという事だ。 「―――セイバー」 「はい。なんでしょうか、シロウ」 「……ああ。戦う前に、一つ約束してくれないか」 「……? ええ、それが私に出来る事ならば構いませんが」 「……うん。その、さ。どんな状況になっても、あの宝具は使わないでほしいんだ。  地上であんな物を使ったら〈大事〉《おおごと》だし、それに―――バーサーカーを倒せても、セイバーが死ぬなんていうのはイヤだ」 「ええ、分かっています。私も宝具を使う気はありません。今の魔力でバーサーカーを倒せるとは限りませんし、なにより消えてしまっては聖杯を手に入れられない」  セイバーはきっぱりと言い切る。  今は、それがひどく嬉しい。 「よし、いつものセイバーだ。うんざりするほど冷静で安心した」 「……む。それはどういう意味でしょうか、シロウ」 「いや、他意はないよ。いいから外に出よう。遠坂を待たせると、また文句を言われるからな」 「そうですね。凛はシロウに文句を言うのが趣味のようですから」  ……なんかとんでもない感想を口にして、セイバーは出口へ向かう。  ―――と。  瓦礫につまずいたのか、セイバーの体がつんのめった。 「っ!」  慌てて後ろから手を引っ張る。 「ほら、足下危ないぞ。散らかってるんだから気を付けないと――――」 「………………」  ……って。  セイバーは気まずそうに、顔を真っ赤にしていた。 「セイバー……? どうした、何かあったのか」 「………いえ、そういう訳ではないのですが……手を握られていると、その」  セイバーの顔はますます赤くなっていく。  ……その姿は、なんだかついさっきまでの自分を見ているようでもあった。 「ぁ――――――――」  つられて赤面する。  握った手のひら。……セイバーの感触を鮮明に思い返してしまって、とっさに手を引いた。 「――――――――」 「――――――――」  二人して、何も言えずに硬直してしまう。 「っ……そ、外に出よう。早く行かないと、時間がない」 「そ、そうですね。急ぎましょう、シロウ」  なんて、無理矢理な会話で足を速めた。    ……外に出れば、ここに戻ってくる事などはないだろう。  最後にもう一度だけ廃屋に視線を返し、戦場へ向かっていった。    ……まさかとは思うんだが。  遠坂、宝石を出し惜しんだりしないだろうな……? 「ちょい待ち。繰り返すけど、本当に出し惜しみはなしだぞ遠坂。そりゃ宝石は高価な物だけど、おまえの命には代えられないんだから」 「ふん。うちの財政を知らないからそんな無責任なコトが言えるのよ。士郎だって、これ一つがどのくらいするか知ったら腰が抜けるに決まってるんだから」 「―――む。金の話で腰なんか抜けるかっ!  ……いいぜ、そこまで言うんなら責任もってやる。使った分の宝石、俺と遠坂で折半にすればいいんだろ」 「ほんと? 男に二言はない?」 「ない。俺だって少しは貯金あるし、足りなかったら稼いで返す。遠坂が溜め込んだ武器を使ってもらうワケだし、俺だって少しは誠意見せないとな」  ……いや、誠意というか意地っぱりというか。  なんだかんだと、俺は遠坂にいい格好をしたいらしい。 「……って、なんだよ。口元、いびつに捻じ曲がってるぞ、遠坂」 「ええ。嬉しいのはホントだし、愉しみが出来たのもホントだから。  ところで衛宮くん。この宝石、一つどれくらいするのか聞かなくていいのかしら?」 「―――まあ、十万円ぐらい、なんてコトはないよな」 「ないわね。使い捨ての宝石ならそれぐらいでいいんだけど」 「……じゃあ二十万えん、ぐらいとか」 「半端な上がり方ね? でもないわよ?」 「……じゃ、じゃあ二十五まんえんじゃないかと」 「あのさ。普通こういう時って、次の桁に移行しない?  なんでいつまでも六の桁から上にいかないのよ」 「ぐっ……言いたくないけど、三十まんえん、とか」 「だーかーらー、なんで七桁にいかないの?」 「あぅ……もしかして、ひゃくまんえん、ですか」  清水の舞台から飛び降りる。 「近い、もう一桁」    が、落下した先は地獄に直通の落とし穴だった。  ぐんにゃり天文学。  そんな破滅的な数値は計算できないって言うか、ダメージに換算したらどんなボスだってイチコロです。 「どうしたの? 顔青いわよ、衛宮くん?」 「あ――――いや、大丈夫。ちゃんと計算ぐらいできる」  出来るのだが、今はそれがアダになっている。 「そ? じゃあ一応訊いておくけど、宝石使っていいのよね? 出し惜しみなしで、清々しいぐらい派手にやるわよ、わたし?」  ……っ。  出来れば出し惜しんで下さい、という言葉を飲み込む。 「―――遠坂。借金、いいかな」  精一杯の強がりを口にする。 「もちろん。利子はつけないであげるから、一生かけて返してね」  なんの冗談もなし、限りなく本気で即答する遠坂さん。  というか、そんな大金一生かけても返せないだろ。    ……はあ。  あんまり考えたくないけど、俺の人生、遠坂に手綱握られちまった気がする……。  一際開けた森の広場に出た。  日は昇りかけ、森は〈朝靄〉《あさもや》に包まれて白くくすんでいる。  木々が乱立した森の中に比べれば、ここは随分と見晴らしがいい。 「遠坂。ここ、悪くないんじゃないのか」 「……そうね。条件はいくらかクリアしてるけど、見晴らしが良すぎるのがどうもね。これじゃわたしはともかく、セイバーと士郎の逃げ道がないもの」 「……む」  逃げ道まで考慮するあたり、遠坂は完璧主義者というかなんというか。 「他をあたりましょう。大丈夫、まだ時間はあるわ」  森へと引き返す遠坂。 「……………………」  が。セイバーは遠くを見たまま、一歩も動こうとしなかった。 「セイバー? 何してるのよ、早くしないとイリヤスフィールに――――」    悪寒が走った。  一度味わったのなら忘れようがない。  姿さえ見えず、気配さえまだ感じない。    にも拘わらず体を襲う重圧は、間違いなくヤツの物だ。               ――――ふふ、見ぃーつけた――――    森に響く少女の声。  霧の向こう。  遠く離れた森から、何か黒いモノが一直線に向かってくる。            ―――待ってて。いますぐ殺してあげるから―――    ……空が見える広場にいるからだろうか。  まるで空から覗き込んだイリヤが語りかけてくるような、そんな錯覚に捕らわれた。 「やば、アイツもう士郎を見つけたの……!?  まずい、ここじゃ視界が広すぎる―――って、なによこのスピード、これじゃ二分かからない……!」 「ちょっと、何のんびりしてるのよ二人とも……!  ここじゃまずいって言ってるでしょ、早く場所を変えないと……!」    遠坂は俺たちの手を握る。  ―――だが、それはもう間に合うまい。 「―――いや。ここでいい、遠坂。  三人で戦えるだけでも〈僥倖〉《ぎょうこう》なんだ。これ以上は求められない」 「ばか、それがまずいんだってば……! ここじゃ横幅がありすぎるの……! セイバーだけじゃバーサーカーを止められないし、いくら離れてたってアンタも間合いに入っちゃうじゃない……!」 「遠坂が心配してくれてるのは判ってる。けど危険なのはみんな一緒だ。それに、こうなっちゃ逃げ道なんかないんじゃないのか」 「う……それは、そう、だけど」 「セイバーもいいな。ここでバーサーカーを迎え撃つ」  セイバーは静かに頷く。 「も、もう……! わかったわよ、簡単にやられたら怒るからね……!」  納得してくれたのか、遠坂は霧に身を溶け込ませた。  行動に移ると、あいつは本当に素早い。  広場から離れ、森に隠れてから手際よく木の上へ登り始めた。 「―――来るぞセイバー。準備はいいか?」 「……貴方も。戦いが始まったら、決してここから前には出ないように。何があろうと、バーサーカーをここには近づけさせません」  ……霧がゆらめく。  〈朝靄〉《あさもや》の中。  黒い闇が滲み出るように、狂戦士が白い少女に率いられて出現した。 「意外ね、てっきり最期まで逃げまわるとばかり思ってたのに。それとももう観念したの、お兄ちゃん?」    ……イリヤとの距離は四十メートルほどだろう。  俺たちは広場の端と端で対峙している形になる。 「……ふうん、セイバーは治ったんだ。そっか、だから逃げまわるのは止めにしたのね。  ……おしいなあ。そんなことでわたしに勝てると思うのはかわいいんだけど―――  ―――残念ね。シロウはここで死ぬんだもの」    くすくすという笑い声が森に響く。  それが気にくわないのか。  傍らのセイバーは、今にも飛び出しかねないほど殺気立っていた。 「もう。つまんないなあ、ずいぶん無口になっちゃったのね。もしかして殺されるのは怖いの? そんなのもったいないよ? いま命乞いをすれば、わたしも許してあげないコトもないんだから」    ……遠坂は木を登りきったか。  仮にあいつが陣取るとしたら、広場の中心付近だろう。  ちょうど木々の枝が重なり合っているそこなら、人一人が乗っても折れないし気づかれない。 「……そう。あくまでそういう態度なんだ。ならもうお喋りはここまでだね。リンともども殺してあげ―――  ―――待ちなさい。リンはどうしたの、シロウ」    ……流石はバーサーカーのマスターというところか。  見逃せない事、見逃してはいけない事ってのを心得ている。 「―――遠坂はここにはいない。あいつと俺たちはとうに別れた」 「別行動をとったの? そっか、セイバーを連れてるシロウは足手まといだものね。リン一人なら、もっと遠くに逃げられる」 「……そういう事だ。もうとっくに森を出てるだろう。今から追っても間に合わないぞ」 「―――そうかしら。この森はアインツベルンの結界よ。  誰が入ってきて、誰が出ていったかぐらいは判るんだから。あれから外に出た人間は一人もいない。リンはまだ森にいるわ。捜し出すのはこの後でも十分よ」 「――――――――」  ……助かった。  イリヤに判るのが森への出入りだけなら、遠坂の事はバレていない。  というより、本当にあっさりとこっちの言い分を信じ込んでしまっている。  ……たしかにイリヤは冷酷なマスターだ。  だがそれでも―――それは、やり直せる冷酷さなのではないか。 「……イリヤ、戦う前にもう一度だけ訊くぞ。  マスターを辞めて、こんな戦いを止める事はできないのか」 「できないよ、お爺さまの言いつけだもの。  バーサーカーがいるかぎり、わたしはアインツベルンのマスターなの。イリヤは他のマスターたちを殺して、聖杯を持ち帰らなくちゃいけないんだから」 「……それに、もう一度だけ訊くのはこっちだよ。  わたしはアインツベルンの当主だから、あんな言葉二度は言わないわ。……けどシロウが答え直すっていうんなら、ちゃんと聞いてあげてもいいんだよ……?」    ……それは、かすかに期待の籠もった声だった。  だが傍らにセイバーがいる以上、俺はイリヤの言葉には頷けない。 「―――答えは変わらない。俺はセイバーのマスターだ。  おまえがマスターを辞めないっていうんなら、バーサーカーを倒して辞めさせる」    イリヤとバーサーカーを見据えて断言する。  途端。  広場の空気が、キチリと音をたてて凍り付いた。 「……そう。なら本気で殺してあげる。  その思い上がりと一緒に、粉々に砕いてあげるわシロウ……!」 「な――――」    ……なんだ、アレは。  イリヤの顔に刻印が浮かんでいる。  ―――いや、顔だけじゃない。  アレは体全体―――離れていても判るほどの、俺たちとは比較にならない巨大な令呪だった。   「―――遊びは終わりよ。蹴散らしなさい、ヘラクレス」    昏い声。  それに呼応するように、少女の背後にいた巨人が吠えた。   「」    地を揺るがす絶叫。  巨人は正気を失ったように叫び悶え―――そのありとあらゆる能力が、異形の塊となって増大していく。 「―――そんな。理性を奪っていただけで、凶暴化させていなかったというのか……!?」    セイバーが戦慄するのも当然だ。  戦士の力量など量れない俺ですら、アレが触れてはならないモノだと判るのだから。 「行け……! 近寄るモノはみんな殺しちゃえ、バーサーカー……!」 「――――!!」    それは爆音だった。  もはや哭き声ですらない咆吼をあげ、黒い巨人が弾け跳ぶ。 「っ―――、セイバー……!」    応じて駆け抜ける銀の光。  バーサーカーは広場の中心に着地する。    ―――大地が振動する。    落下する隕石を押し止めるように、セイバーはバーサーカーを迎え撃った。    ―――それは、神話の再現だった。    〈朝靄〉《あさもや》に包まれた森の中、二つの影は絶え間なく交差する。  バーサーカーは、ただ圧倒的だった。    薙ぎ払う一撃が旋風なら、振り下ろす一撃は瀑布のそれだ。まともに受ければセイバーとて致命傷に成り得るだろう。    それを正面から、怯む事なく最大の力で弾き返すセイバー。  嵐のように振るわれる一撃に対し、全身全霊の一撃をもって弾き返す。    そうでなければ剣ごと両断される。  間断なく繰り広げられる無数の剣戟は、その実、セイバーにとって一撃一撃が渾身の剣だった。    絶え間ない剣戟の音。  間合いが違う。  速度が違う。  残された体力が違いすぎる。    セイバーに許されるのは、避けきれない剣風に剣をうち立て、威力を相殺する事で、鎧ごと両断されないようにするだけだった。    喩えるのなら、バーサーカーは壊れた削岩機だ。  四方八方に回転する刃物は、近づくモノ全てを容赦なく粉砕する。  少しでも手を伸ばせばそれで終わりだ。  逃げる事など出来ず、刃物の回転に巻き込まれて砂利のように微塵になるだろう。    ……そんなモノに生身の人間は立ち向かえない。  近づけば死ぬだけなら逃げるしかない。  だがセイバーは回転の内に身を置き、退く事をしなかった。    ならば削られる。  剣が火花を散らし、鎧の破片が零れていくのは当然だ。  彼女は常に、一秒後には即死しかねない渦に身を置いている。 「――――――――」    それに、ただ息を呑んだ。  太古の昔。  竜という魔獣に立ち向かった英雄たちは、誰もが彼女のようだったに違いない。          戦力が違うのなど百も承知。  それでも、彼らは千載一遇の機会に賭けた。    人間を凌駕する巨大な暴力。  唯一の隙が生まれるまでただ防ぎ、そして―――そんな奇蹟など起きず、当然のように息絶えた多くの戦士。    二人の戦いはまさにそれだ。  目を奪うほど〈絢爛〉《けんらん》な戦いは、しかし。  一撃毎に傷ついていくセイバーの敗北しか、結末を用意していなかった――― 「」    雄叫びが大地を揺らす。  バーサーカーの旋風は大気を裂き、受け流すセイバーを弾き飛ばす。  その度にセイバーの鎧は欠け、地面に叩きつけられようとして―――地に膝をつける事なく、勇猛にバーサーカーへと突進する。    ……それも既に限界だ。  セイバーの呼吸は乱れて、体の動きも目に見えて衰え始めている。  バーサーカーに隙を作る、どころの話じゃない。  おそらくあと数撃で、セイバーはあの斧剣の前に両断される―――― 「っ――――――――」    握り締めた手には弓がある。  俺は――――     「ふ――――!」  セイバーが弾かれた瞬間、バーサーカーへ撃ち放つ。  こんなもの効きはしない。  だが、それでも注意を逸らすぐらいには――――! 「な――――」    バーサーカーのこめかみに的中した矢は、〈塵芥〉《ちりあくた》の効果もなかった。  注意など逸らせない。  巨人は放たれた矢を防ぐ事も、否、意に介する事もしなかったのだ。 「そうよバーサーカー、シロウなんか放っておきなさい。  セイバーを殺したあとで、いくらでも料理できるんだから」  イリヤの笑い声が森に響く。 「っ、く、そ………………!」  何も出来ない。  目の前でセイバーが力尽きようとしているのに何もできない。  ―――力が足りなすぎる。  俺が何をしようとバーサーカーには通じず、逆にセイバーの集中を妨げるだけじゃないか――――!  判っている。それは、無駄だ。  こんな弓でどうにかなる相手じゃない。  射ったところでバーサーカーは避けもしないし、傷を負わせる事など不可能だ。  むしろそんな邪魔、セイバーをますます苦しめる事になる。  何も出来ない。  目の前でセイバーが力尽きようとしているのに何もできない。  走って。  このまま走り寄って、背中を向けているバーサーカーに殴りかかればセイバーが助かるっていうんならとっくにしている。    だがそれも無駄だ。  俺が何をしようと、それはセイバーにとって邪魔でしかない――――    ―――斬撃。  一撃を受け流すセイバーの足が、〈踝〉《くるぶし》まで地面に沈む。  返す刃は〈疾〉《と》く重く。  頭上に踊った斧剣が落とされる。  咄嗟に身をひねったセイバーの鎧を削りながら地を断つ剛剣。 「っっっ…………!」    歯が砕けそうだ。  結局、俺は何も出来ないのか。  セイバーを守る事も、共に戦う事も出来ない。  俺に出来る事などない。  俺に出来る事など、所詮――――           『―――ならば、せめてイメージしろ。  おまえに出来る事など、所詮その程度でしかないのだから』 「――――――――」    そんなコトを。あの男は、言っていた。              ―――外敵など要らぬ。おまえにとって戦う相手とは、自身のイメージに他ならない。    ……そうだ。アイツは何を言っていたのか。いつもの嫌がらせじゃない。あの言葉には、今ここで理解しなければならない重みがあった。    ―――否、それを言うのなら。  アイツの言葉の全てが、無視してはならない警鐘だったのではないか。    セイバーの体が弾け飛ぶ。  今のは受け流しによる跳躍じゃない。  まともに受けた。  あの烈風じみた斬撃が、セイバーの横腹に直撃した。    たたらを踏むセイバー。  痺れる指に力を込め、咳き込みながらもバーサーカーへと向き直る。  その、セイバーがようやく見せた隙を、巨人が見逃す筈がない。 「――――やめ、ろ」    声なんて届かない。  そんなコトをしても無駄だし、アーチャーの真似事をして弓なんか持っても無駄だ。    まだ判らないのか。  自分に何ができるのか。  この手は何をすべきなのか。    そう。  一体何があれば、自分はセイバーを助けられるのか。    弓ではだめだ。槍でも貫けはしまい。敵と同じ武器だからいいという訳でもない。  あの巨人を。  あの岩の山を切り崩すには剣だ。  鋭利で絢爛、刃こぼれなど知らず、ただ一撃で敵を断つ王の剣。  例えばそう。  夢に見た、彼女に相応しい黄金の剣のような。 「く――――」    ―――頭が痛い。  吐き気を堪えながら、それでもセイバーから目は離さない。  だが皮肉な事に、セイバーが倒れる瞬間を見れば見るほど、言いようのない不快に包まれる。    セイバーとバーサーカーの動きは、スローモーションのように感じられた。          スイッチが横にズラリと並んでいる。  咳き込み、一瞬だけ体をくの字に曲げるセイバー。  満身の力を込めて斧剣を振り下ろすバーサーカー。          列を成すように次々と撃鉄が上がり。  それは、ドミノ倒しのようでもあり――――              一斉に、引き金が引かれた。   「セイバー…………!」    バーサーカーの斧剣がセイバーを薙ぎ払う。  それは致命傷だ。  セイバーの体は腰から両断され、その肉片が宙に舞った。 「いや―――違う……!?」    宙に舞っているのは銀の鎧だけだ。  バーサーカーが薙ぎ払ったのはセイバーの鎧のみ。  セイバーはあえて隙を作り、バーサーカーに大振りをさせ―――温存した全ての力で、最速の踏み込みを見せたのだ……! 「――――!」    迸る黒い咆吼。  だが、完全に懐に入ったセイバーから逃れる術はない。  彼女は両手で剣を持ち直し、なお深く巨人に踏み込み、渾身の力でバーサーカーを斬り払う―――!   「」    ―――信じられない。  地面に根を生やしていたかのような巨人が、セイバーの一撃で数メートルも弾け飛ぶ。    そうして、そのまま。     「引いて、セイバー……!」      間髪入れず、本命の攻撃が繰り出された。    ―――できるだけ至近距離で放つつもりなのか。    遠坂は遙か頭上の枝から飛び降り、落下しながら、宝石をバーサーカーへと投げつけ―――           「〈Neun〉《九番》,〈Acht〉《八番》,〈Sieben〉《七番》――――!  Stil,schießt ErschieSsung――――!」    舞い落ちる氷の雨。  中でも三つ、槍となった巨大な氷塊には、屋敷一つ軽く吹き飛ばす程の魔力が圧縮されている――――!   「だめ、避けなさいバーサーカー……!」    静観していたイリヤが叫ぶ。  それがどれほどの危機か悟ったのだろうが、既に遅い。  氷の槍は落下しているのではない。  打ち出されたソレは、バーサーカーを串刺しにせんと“加速”しているのだ。    避けられる筈がない。  千載一遇、セイバーの決死の一撃と完全に息のあった氷の散弾。    その威力たるや、バーサーカーを十二分に殺しきる魔力がある――――!  が。   「、――――!!!!!!」    上空を薙ぎ払う斧剣の軌跡。  バーサーカーはセイバーに圧されながら、咄嗟に片手に構え直した斧剣で、三つの氷塊を砕いていた。    ―――零れる鮮血。  片腕で払った故か、氷塊は壊しきれず、バーサーカーの片腕を切り裂いた。  そればかりではない。  氷は巨人の片腕で再凍結し、その動きを完全に封じていた。    しかし、それでも潰したのは腕一本のみ。   「な――――」    セイバーが声をあげる。  ―――当然だ。  もう一本のバーサーカーの腕は、そのまま、落下してきた遠坂の体を握り止めたのだから。 「っ……!」  遠坂の顔が苦痛に歪む。  バーサーカーの力ならば、遠坂を握り潰すコトなど容易だろう。 「と、遠坂――――!!!」    駆けた。  足手まといでもいい。  何が出来なくとも関係ない。  このまま、遠坂を握り潰すなんてさせるものか―――! 「凛……!」  もう立つ力もないだろうに、セイバーも体を起こす。 「………………」  腹を圧迫されて苦しいのか、遠坂は俯いたまま腕を伸ばす。  ―――と。   「―――ふん。そんなコトだろうと思ったわ」    にやりと、不敵に言い捨てた。 「!」  誰もが息を呑んだ。  俺も、セイバーも、おそらくはバーサーカーすら凍り付いたに違いない。  ―――人が悪いにもほどがある。  あいつ、初めからこうなるコトを予測して、それを黙っていやがったのか――――! 「――――!」    バーサーカーが力を込める。  だが、それは一秒の差で遅すぎた。   「取った……!」    放たれる光弾。  使った宝石の数は四つ。  これ以上は望めないという至近距離からのつるべ打ちは、今度こそ本当に、黒い狂戦士の息の根を止めた。    いや。  それは豪快に、文句のつけようもなく、命を〈弾き飛ばしていた〉《・・・・・・・・》。  バーサーカーの首が跳んだのか。  びちゃり、と、まだ十メートルは離れたここまで血が飛んできた。  あきらかに血でないものまで混ざっているが、やりすぎという事はないだろう。  相手はあの化け物だ。  一撃で首を跳ばさなければ、それこそ遠坂は潰されていたに違いない。 「――――ふう」    走り寄っていた足を緩める。  遠坂はバーサーカーに握られたままだが、勝負はついた。  バーサーカーの顔は未だ白煙に包まれている。  ぶすぶすという燻った音からして、よほどの爆発だったのだろうが―――― 「――――うそ」    遠坂の声が聞こえた。  彼女は呆然と、白煙を眺めている。  ――――待て。    気のせい、なのか。  遠坂を握りしめたバーサーカーの指が、さっきより深く食い込んでいる気がする、のは。 「――――――――」  遠坂は白煙を見つめている。  ……それも長くは続かない。  目を覆うほどの白煙は次第に薄れる。  その後には。    確かに首を吹き飛ばされた筈の、バーサーカーの〈貌〉《かお》があった。 「―――――――あ」  悪鬼のような視線に竦められ、遠坂は言葉を失っている。 「……ふふ。うふふ、あははははははは!」  笑い声が響く。  広場の端からバーサーカーを操っていた、銀のマスターが笑っている。 「見直したわリン。まさか一回だけでもバーサーカーを殺すなんてね。  でも残念でしたー。バーサーカーはそれぐらいじゃ消えないんだ。だってね、ソイツは〈十二回殺されなくちゃ死ねない〉《・・・・・・・・・・・・・・》体なんだから」 「……十二回、殺される……?」    イリヤの言葉に重大な秘密を読んだのか。  愕然としていた遠坂の眼が、微かな悔いに歪んでいた。 「……そう、か。  真名が判った時点で、思い当たるべきだった。ヘラクレスっていったらヒドラの弓なのに、持ってるのはただの岩だった。  ……だから、コイツの宝具はモノじゃないんだ。英雄ヘラクレスのシンボルは、その――――」 「そう、肉体そのものがヘラクレスの宝具なのよ。  あなたも知っているでしょう、ヘラクレスの十二の難行を。ギリシャの英雄ヘラクレスは、己が罪を償う為に十二もの冒険を乗り越え、そのご褒美として“不死”になった。  この意味、あなたなら判るでしょう?」 「………命のストック……蘇生魔術の重ねがけ、ね」 「ええ。だからソイツは簡単には死ねないの。かつて自分が乗り越えた分の〈死〉《しれん》は生き延びてしまう、神々にかけられた不死の呪い。  それがわたしのバーサーカーの宝具、“〈十二の試練〉《ゴッド・ハンド》”なんだから」 「わかった? バーサーカーは今ので死んでしまったけど、あと五つの命があるの。  ふふ、惜しかったわねリン。今のが五倍の宝石だったら、バーサーカーは消えていたのに」    イリヤの声は、よく聞き取れない。  視界の端には、バーサーカーへと駆け込むセイバーの姿があった。 「―――凛、逃げて!」    駆け寄るセイバー。  遠坂もなんとかバーサーカーの指を引きはがそうと試みるが、一向に解けない。  そこへ。           「いいよバーサーカー。そいつ、潰しちゃえ」  焼けた眼球が遠坂を睨む。   「っあ―――くあ…………!」    遠坂の悲鳴。  深く、はらわたを抉るように食い込んでいく巨人の指。  その先にあるものは、逃れようのない、  無惨に握り潰される、遠坂の姿だった。 「――――――――」    走った。  相手がなんであるか、ここが何処であるかなど吐き捨てた。  思考は、とっくに焼き切れていた。 「―――させるか……!!」    バーサーカーへ斬りかかるセイバー。  視えない剣は大根でも切るように、無防備なバーサーカーの腕に振り下ろされる。  だが効果はない。  剣は弾かれ、バーサーカーの腕は傷つくどころか、遠坂を潰そうとする力さえ緩まない。 「っ――――!」  動くだけで苦しいのか。  セイバーは唇から血をこぼしながら、必死になって剣を振るう。 「な――――シロウ……!?」    その顔が、ヤツに駆け寄った俺を見て凍り付く。 「放しやがれ、テメェ――――――――!」  ただ夢中で、弓で背中を叩きつける。  巨人はぴくりともしない。  背後に駆け寄った俺など、初めから眼中になかったのか。 「っ……!」  指が痺れる。  殴りつけたこっちの手がおかしくなるなんて、こいつ、なんて体、を――――! 「逃げて、シロウ――――!」    ……え?  セイバーの声で顔をあげる。  瞬間。  体が、木の葉のように飛んでいた。 「――――、が」    ゴミのように落ち転がった。  ―――バーサーカーは凍り付いていた剣で、俺を払ったのだ。  咄嗟に防ぎに入った弓は容易く砕かれ、こんなところまで、弾き飛ば、さ、れ―――― 「が――――あ、は――――!!!」    激痛にのたうつ。  折れたのは、弓の音じゃなかったのか。  片腕がクモみたいに曲がっている。  息を吸うと、肺がぶち壊したくなるほど痛みやがる。 「は……あ、ごっ……!」  こみ上げてくる血のせいで、うまく呼吸ができない。  ああ、だが関係ない。  どうせ息をすればオチかけるんだ。  呼吸なんて、今はしない方がいい。 「はっ――――はあ、は――――!」  起きあがる。  今は少しでも早く、あいつ、あいつを――――  走った。  今度はこっちの番だ。あいつの腕を折って、遠坂を助けるだけ。  背中に眼でもあるのか、敵は虫を払うように剣を振るう。  躱せる。  そんな凍り付いた腕で振るったモノ、おいそれと当たるものか――――! 「は――――」  くそ、体が沈む……!  片足にかすったのか。ふざけやがって、触れてもいやがらないクセに、人の足を折るんじゃねえ――――! 「バカな―――もういい、離れなさいマスター……!」    そんな事は出来ない。  こんな事で遠坂は殺させない。  その為には何が必要だろう。  武器。出来れば刃物がいい。足下には破壊された弓の残骸。頭上にはバーサーカーの剣が迫っている。破片を拾った。落ちる剣。考えている暇などない。魔力を流す。  強化は容易く成功した。だが剣が落ちた。破片は今度こそ木っ端微塵になって、躱したつもりの体は地面に倒れ込む。だからこんな破片を強化したところで意味なんてなかったのだ。やるならもう一から全て。  出来ない事はないはずだ。手本があるのなら誰にだって真似は出来る。つまりは基本と構成と制作と経験と年月を繰り返し―――― 「」    巨人が振り向く。  遠坂の前にうるさい邪魔を潰す気になったのか。 「――――」    倒れた体を起こして巨人を睨む。  恐怖はない。思考はとっくに焼き切れている。  ただ、その背後で。    自らの消滅も覚悟の上で。  あの聖剣を使うと決意した姿が、網膜に焼き付いた。    ―――セイバーの手に、光の剣が現れる。    バーサーカーの手が遠坂を圧迫する。  俺には何の力もなく、このままでは三人とも殺される。 「―――――――、く」    ……それしか、ないのか。  残り少ないセイバーの魔力、彼女の存在を危うくする“宝具”を揮うしか、もう勝利する術はないと――――!   「“〈約束された〉《エクス》”――――」   「」  巨人は遠坂から手を離し、正面からセイバーへ斬りかかり、   「“〈勝利の剣〉《カリバー》”――――!!!!!」    大地をなぎ払う聖剣を、真っ向から受け止めた。 「っ――――、あ」    ……銀の甲冑が崩れこむ。  残った魔力の全てを光に変換し、セイバーは膝を屈した。  その目前には、いまだ原型を留める〈巨人〉《バーサーカー》の姿がある。 「そこまでねセイバー。せっかくの聖剣も、そんな魔力じゃ不十分よ」    ……セイバーの姿が薄れていく。  もう立つ事もできないのか、セイバーは地に伏したまま巨人を見据えている。         「ふふ、オマエも残念だったでしょうバーサーカー?  セイバーの魔力が万全だったのなら、オマエも死にきれたでしょうに!」    大剣が下される。  セイバーが消滅するのを待たず、巨人は彼女の体を粉砕する。 「――――セイ、バー」    ……セイバーは消えた。  判っていた事だ。  今のセイバーが聖剣を使えば、勝敗に拘わらず消えてしまう。  それを知っていて、俺はセイバーを止めなかった。       「これでおしまい。さ、どうするのお兄ちゃん? このまま逃げてみるか、大人しくわたしに殺されるか。  あ、そうだ! 自分からわたしに殺されるって言うんなら、リンは見逃してあげてもいいわ」 「――――――――」    考える機能が欠如している。  目の前には土塊と一体になった、セイバーの亡骸があった。    ―――逃げられない。  もう、何をしたって逃げられないのなら、せめて。         「―――クス、いい子ねシロウ。  じゃあ連れて来てバーサーカー。まずはぁ、もう逃げ出せないようにしてあげちゃって」    旋風が腰から下を攫っていく。  激痛と絶望で理性が焼き切れた。          ―――遠ざかっていく。  広場には、とっくに動かなくなって横たわる、遠坂だけが残っていた。    風が解けていく。  セイバーの手には黄金の剣が見え始める。    ―――使うなと。  決して使わないでほしいと言った、あの剣。 「――――――――」  切れた。  それで、かろうじて自分をつなぎ止めていた最後の線がぶち切れた。   「〈使うな〉《・・・》セイバー――――!!!!!」    左手が焼ける。  令呪が一つ消えていく。 「な―――どうして、もうこれしかないではないですか、シロウ……!」  知らない。  そんな事は知らない。  俺に判るのは、それを使えばおまえが消えるという事だけだ。 「くっ……」  ……剣を解放しただけでそれなんだ。  今のおまえにその剣は使えない。  だから待ってろ。  おまえがその剣を使えないのなら、俺が、使える剣を用意してやる――――!             ―――現実で敵わない相手なら、想像の中で勝て。    自身が勝てないのなら、勝てるモノを幻想しろ。    言われてみれば、そんなのは当たり前だ。  俺に出来るのはそんなことしかない。  ならば作れ。  誰にも負けないモノを作れ、常に最強のイメージを想え、誰をも騙し、自分さえ騙しうる、最強の模造品を想像しろ。                   難しい筈はない。                  不可能な事でもない。                   もとよりこの身は、               ただそれだけに特化した魔術回路――――! 「ぉ―――」    跳ね起きる。  全身は発火したように熱く、左手はそれこそ紅蓮。 「な―――あの剣は、私の……!?」    呆然としたセイバーの声。  その視線の先には、この手が握るあり得ないモノ。 「お――――」    俺ではなく、剣そのものに意思があるのか。   「オオオオオオオオオォオ――――!」    黄金の剣は吸い込まれるように、止まる事なく、巨人の腕を切断した。    捕まれた腕ごと遠坂は落下し、振り抜いた剣はガラスのように砕け散った。    全身の血が逆流する。  だがそんなもの、なんの関心も持ち得ない。  剣は折れた。  それはあり得ない。あの剣を模造したのなら、砕ける筈などあり得ないのだ。  砕けたのは足りないからだ。  俺自身のイメージが、あの剣に及ばなかった。 「」    向けられる眼光。  今度こそ俺を両断せんと、剛剣が振るわれる。    ―――そんなコトはどうでもいい。  俺の相手はおまえじゃない。  衛宮士郎にとって、戦うべき相手はただ一人。  今のは完璧ではなかった。  砕けない筈の剣が砕けたのは想定に綻びがあった故。  複製するのなら形だけではなく、その制作者さえ再現する――――! 「――――」    まわりで息を呑む音がした。  目前では嵐のように振るわれる斧剣と、それを防ぎきる出来かけの剣が見えた。  無我夢中なのか、手にした剣で剣戟を合わせている。  ―――そんな事は他人事だ。  今すべき事は、これを本物に仕上げるだけ。            『―――それも間違いだ。   衛宮士郎は格闘には向かない。   おまえの戦いは精神の戦い、己との戦いでしかない』    言われなくても判っている。  やるべき事など単純だ。   「――――〈投影〉《・・》、開始」    精神を引き絞る。  挑むべきは自分自身。ただ一つの狂いも妥協も許されない。 「ぎ―――くう、う、あああ、あ―――」    創造の理念を鑑定し、  基本となる骨子を想定し、  構成された材質を複製し、  制作に及ぶ技術を模倣し、  成長に至る経験に共感し、  蓄積された年月を再現し、  あらゆる工程を凌駕し尽くし――――   「く―――あ、あああああああ…………!!!!」               ここに、幻想を結び剣と成す――――! 「――――!」    巨人が吠える。  狂ったように叩きつけられる無数の剣風を、〈剣〉《つるぎ》はことごとく防ぎきる……! 「っ…………!」  だがそこまでだ。  吹き飛ばされる。  意識が戻った途端、剣は全てを俺に委ねたのか。  今まで防ぎきっていた剣戟に、あっさりと弾き飛ばされた。 「は――――あ」  腕の感覚などない。手首は赤くめくれ、まだ握れているのが不思議なほど。 「っ――――くっ…………!」  足腰も動かない。筋肉すべてが断線しているとしか思えない。  ―――立ち上がれない。  ヤツを――――バーサーカーを上回る剣は作った。  だがそれだけだ。  作るモノにすぎない自分には、せっかくの剣を使いこなす事が出来ない――――!    影に覆われる。  今、誰を殺すべきか判っているのだろう。  弾き飛んだ俺を、バーサーカーは突風のように追撃し、   その剛剣を振り落とした。    弾かれる剛剣。   「え――――?」    呆然とする俺の手には、誰かの手が添えられていた。 「――――!!!!」    烈震する大気。  巨人は全てを〈灰燼〉《かいじん》にせんと、最大の一撃を放ってくる。  その、直前。   「シロウ、手を―――!」    誰より近く、彼女の声が聞こえていた。    バーサーカーが突風となって俺を襲ったのなら、  セイバーは疾風となって俺へと駆け寄ったのか。    駆け寄ったセイバーは、ぐるん、と俺を巻き込むように身を返し――――――    砕け散る岩の剣。  黄金の一閃は巨人の斧剣を叩き折り、衰える事なく岩の体へと切り込み、そして――――    ……形が似ていたのなら、その能力も似ていたのか。  バーサーカーの体深くに食い込んだ黄金の剣は、巨人の体を、内側から閃光に包み込んだ。    ――――それも一瞬。  光が消え、森は静寂に包まれる。   「は――――あ」    体の力が抜けていく。  あれだけ熱かった体が冷めていく。  剣は、刀身から砂となって消えようとしていた。 「――――――――」    それをぼんやりと見つめる。  完全に消え去るまで、寄り添ったまま一本の剣を握っていた。    ―――森の広場に、風が吹き抜けていく。  地を震わせる雄叫びも、大気を切っていた剣風も既にない。   「それが貴様の〈剣〉《つるぎ》か、セイバー」    不沈だった巨人は不動となり、己を倒した騎士を見据え、重い声でそう言った。 「これは“〈勝利すべき黄金の剣〉《カリバーン》”……王を選定する岩の剣。永遠に失われた私の剣。  ですが―――」 「今のは貴様の剣ではなかろう。ソレはその男が作り上げた幻想にすぎん」  セイバーは静かに頷く。   「所詮はまがい物。二度とは存在せぬ剣だ。  だが、しかし―――」    バーサーカーの胸が開く。  ざらりと。  光に切り裂かれた傷から、砂礫のように崩れていく。   「―――その幻想も侮れぬ。よもやただの一撃で、この身を七度滅ぼすとはな」    滅びの言葉に、感情を乗せる事もない。  狂戦士は最期まで自らの役割に殉じ、白い大気に霞むように、その存在を霧散させた。    目眩がした。  度を超えた魔術の代償だろう。暴走した血液が脳を圧迫し、過酸素状態になっている。  ……加えて、頭蓋を開くかのような頭痛。  敵が消え、痛みを麻痺させていたものが消えたからだ。  目眩と頭痛は、今まで溜まっていたツケを払うかのように垂れ流される。 「――――っ」 「シロウ……!?」  倒れかけた体を、セイバーが支えてくれる。  が、セイバーだって俺に構っていられる余裕なんてない筈だ。 「っ……いや、大丈夫だ。ところどころ骨が折れてるけど、命には別状はない。例の自然治癒も働いてるし、なんとかなる」 「―――何を言うのです。あれだけの投影魔術を使ったのですから、今は休息を取らないと」 「……いや、けど」  その前に、話をしなくちゃいけない相手がいる。 「…………」 「イリヤスフィール……!」    身構えるセイバー。  イリヤは虚ろな目つきで、バーサーカーが立っていた地面を見下ろしている。 「……丁度いい。何のつもりかは知りませんが、追う手間が省けました。潔く、ここで――――」 「っ……! だめだ、セイバー―――イリヤには、手を出さないで、くれ。バーサーカーがいなくなったんなら、イリヤは」  残った力でセイバーを止める。  俺たちに気が付いていないのか。  イリヤはじっと地面を見つめたあと、   「……うそ。バーサーカー、死んじゃったの……?」    置いていかれた子供のように、そう呟いた。 「…………イリヤ」  イリヤはぼんやりと顔をあげ、 「ぁ――――ん、ぁ………………!」  唐突に。  糸が切れた人形のように、地面に倒れ込んでいた。 「な――――」  訳が判らず、倒れた少女を見つめる。 「っ……は、つはっ、ごふっ……!」  それと入れ替わるように、遠坂が体を起こす。  バーサーカーの腕が消えて、自由になったらしい。 「――――――――」    遠坂の無事を確認して気が緩んだのか。  くらり、と意識が倒れかける。    だがそんな弱音を吐いてはいられない。  バーサーカーを倒したとはいえ、ここはまだ森の中だ。  俺たちはこれから、満身創痍の体を押して森を抜けなくてはならない。    ……明け方の空を仰ぐ。  街は遠く、無事な仲間も、無事な個所も見当たらない。  それでも、朝を迎えていた。    ―――越えられぬと覚悟した夜。    最大の敵を退けて、冬の森を後にする。  公園は相変わらず無人だった。  今日がいつもより冷え込んでいる、という事もあるのだろう。  あたりに人気はなく、出歩いている人間は自分ぐらいのものだった。 「――――――――」    力なくベンチに腰をかける。  ……望み通り、誰もいない場所に来た。  ここまで来たからには、取るべき道を決めなくてはならない。  これ以上、先延ばしに出来る道などない。  他のマスターを倒して聖杯戦争を終わらせるのなら、セイバーには居続けてもらわなければならない。  いや、そんな理由なんて関係なしに、セイバーに消えてほしくない。    だがそれは。  ライダーのように、セイバーに人を襲わせるという事だ。 「――――っ」    出来る訳がない。  セイバーにそんな事をさせるなんて、それこそ死ねと言うようなものだ。  そもそも、セイバー本人が頑なに拒むだろう。  ――――だが。  うなだれた視線の先に左手が見えた。    残った令呪は二つ。  これを使えば、セイバーが拒んだところで命令を実行させられる。 「――――――――」    唇を噛んで、つまらない考えを振り払った。  そうして、どのくらいの間ベンチにうなだれていたのか。  いい加減寒さで指先が震えだしたころ、 「あー!  もう、いないと思ったらこんなところにいるー!」    突然、そんな声をかけられた。 「あは、やっぱりそうだ。こんにちはシロウ。浮かない顔してるけど、何かあったの?」 「イリヤ……? おまえ、また一人でこんな所までやってきたのか。  危ないぞ、何処にマスターの目が光ってるか―――」  知れないんだから、と言いかけて、何をしているのかと呆れてしまった。  イリヤだってマスターなんだ。  俺が心配する事でもないし、そもそも俺たちは敵同士ではなかったか。 「……悪い。今はイリヤと話をする余裕がないんだ。せっかく会えたけど、話し相手になってやれない。今日は冷えるし、帰ったほうがいいぞ」  ベンチに座ったままイリヤを拒絶した。  ……この子にはもっと話をしなくちゃいけない事があったが、今はセイバーの事で頭が一杯だ。 「――――――――」  ……?  どうしたんだろう。  イリヤは何も言わず、他人を見るような目で俺を見ていた。 「……イリヤ……?  いや、別におまえを邪険にしてるんじゃないんだ。今はちょっと、色々とたてこんでいて――――」 「知ってるわ。セイバーが消えかけてるんでしょ。  それでシロウはどうしようかって考えてるのよね」    突然。  別人のような冷たさで、目前の少女は言った。 「イリヤ……?」 「そんなコトで悩むなんてバカみたい。シロウがそんなだから、ライダーのマスターにも逃げられたのよ。負けたヤツなんて殺しちゃえばいいだけなのに」  足が動く。  座っていてはまずい、と立ち上がろうと力を入れる。    ―――だが。  体は、イリヤに魅入られたように動かなかった。 「イリヤ、おまえ―――なんで、そんな事、を」 「言うまでもないでしょ。昨日の夜ね、わたしもあのビルにいただけよ。  もっとも、さすがにビルの中で様子を見てるしかなかったけど」 「――――!」  手足に力を入れるが、一向に動かない。  いや、むしろ入れれば入れるほど固まっていく気がする。    ―――あの目だ。  イリヤの赤い目を見ていると、体が麻痺して――― 「あ、もう金縛りになったんだ。  シロウったら守りも何もないんだもの。一人でいれば簡単に捕まえられるって思ったけど、こんなに簡単にいくなんてかわいいなあ」 「イリヤ、おま、え――――」 「無駄だよお兄ちゃん。そうなったらもう動けないわ。  もうじき声もでなくなるけど、心配しなくていいよ。  ―――わたしもね、今日はお話をしにきたワケじゃないもの」    イリヤの視線に殺気が灯る。  それはあの夜と同じ、バーサーカーのマスターとしてのイリヤだった。 「くっ……! 俺をここで殺す、つもりか……!」    歯を食いしばって、とにかく全身に力を込める。  それでも、指先はぴくりとも動かない。  もはや神経という神経が、がっちりとイリヤの視線に絡め取られている。 「うん。だって、もうマスターでいてもしょうがないでしょ? セイバーが消えたらシロウは一人きりだもの、いつまでもマスターにさせてられないわ。  戦う手段がなくなったシロウなんて、簡単に殺せるんだから」  イリヤの手が上がる。  白く華奢な指が、ひたり、と俺の胸に触れた。 「他の人に殺される前に見つけられて良かった。  それじゃ、おやすみなさいお兄ちゃん。どうせセイバーも消えるんだから、早いほうがスッキリするでしょ?」  視界が途切れた。  手足の感覚はとうに無く、視覚さえ無くなった。    ……完全な闇に落ちて、どのくらい経ったのだろう。  自分が生きているのか死んでいるのか判らないうちに、ようやく、意識もブツリと途切れてくれた。    …………体が熱い。    意識は闇に落ちても、火照った体は変わらずに生を訴えている。  ―――そうか。なら、自分は生きているらしい。  だが、仮にそうだとしても今だけの話だ。  イリヤが言っていたじゃないか。             『戦う手段のないシロウなんて、簡単に殺させるんだから』    ……本当にその通りだ。  セイバーがいなければ、俺はまともに戦えない。  聖杯戦争とはサーヴァントとの戦いだ。  そのサーヴァントを相手にする事が、俺には到底出来はしない。  それはもう、何度も実証された事だ。    滅多刺しだった。  セイバーの言う通り、俺にとってサーヴァントと戦うという事は、いかに生き延びるかという事だ。    それさえ俺は出来なかった。  体中切り刻まれ、あげくに三階から地上にたたき落とされたのだ。  命が助かったのは、自分でも判らない体の異常のおかげだろう。    それが、怒りを覚えるほど悔しかった。  どんなに敵わない相手だからといって、目の前の惨事を止められなかった。  戦うと決めたのに。  マスターとして戦って、誰も傷つけないようにと決めたのに、守れなかった。    ―――頭にくる。    幼い頃から憧れていた正義の味方ってのは、いつだって勝たなければ意味がない。    ………体が熱い。  勝たなければいけない、と全身が震えている。  だが自分には勝つ手段はおろか、戦う手段さえない。  どうすればこの身だけで戦えるのか。    セイバーに負担をかけず、彼女を助けながら戦うだけの技量が自分には無い。            ―――それも間違いだ。衛宮士郎は格闘には向かない。     おまえの戦いは精神の戦い、     己との戦いであるべきだからだ―――    ふと。  そんなコトを言った、男の背中を思い出した。            ―――戦いになれば衛宮士郎に勝ち目などない。     おまえのスキルでは、     何をやってもサーヴァントには通じない―――    判っている。  それは嫌というほど思い知らされた。            ―――ならば、せめてイメージしろ。     現実で敵わない相手なら、想像の中で勝て。     自身が勝てないのなら、勝てるモノを幻想しろ。    ……そんな事、言われなくても判っている。  勝てるとしたら、それはこの頭の中でだけだろう。  だが、何を思えば勝てるのか。  俺は、〈衛宮士郎〉《じぶん》がサーヴァントを倒している姿なんて想像できない。  そこまで器用に自分を騙せないし、自分を騙して作ったイメージなんて所々にボロが出る。  そんな三流の想像で、一流の幻想であるサーヴァントに太刀打ち出来る筈がない。    ―――だから。    俺は何に勝ち、    何で勝つのか。      その答えを、今もこうして探して――――    ――――探して、いるのか。    黄金の剣。  それは彼女の為だけの剣だ。  それが欲しい訳じゃない。    ただ、美しい、と。  許されるのならば、それを手にしたいと思っただけ。      ……まったく、見習い魔術師の悪い癖だ。    中身を見るコトしか能がないから、そんな分不相応な夢を見る。  だが―――夢であるのなら、思うぐらいは許されるだろう。    まずは基本骨子を想定して、構成材質を再現する。  ……ああ、“強化”を行う時の基本だけじゃやっぱりダメか。  有るモノに手を加えるのが強化なのだから、もとより無いモノに意味はない。  だから、あの剣を思い出すのなら手間を増やさないと。        ―――それは、基本よりもっと前。    “強化”の手順を教わる前の技法、切嗣に教わる前、自分なりに考えた無駄だらけの魔術工程。            ええと、それは確か――――どうやって、カタチにすればいいんだっけ…………?  …………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………気が付くと、何かとんでもない場所にいた。 「――――なんだ、ここ――――」    見知らぬ部屋、どころの話じゃない。  豪華な天蓋つきのベッドに、足首まで埋まりそうな毛足の長い絨毯。  装飾ではなく、今も暖房として使われている石作りの暖炉。  壁の紋様は壁紙などではなく、直に刻み込まれている。  慎二の家で洋館には慣れていたが、これはそういうレベルの部屋じゃない。  ……こういう感想を口にするのは面はゆいが、まるで昔話に出てくるお城のようだった。 「っ…………」  意識が消えかける。  体が異様に重かった。  血の巡りが悪いのか。少しでも油断すると、また眠りに落ちてしまいそうだ。 「―――ええと……何が、どうなったんだっけ」  朦朧とした頭で思い出す。  俺は……そうだ、イリヤに身動きを封じられて、そのまま意識を失ったのだ。 「……イリヤに捕まった……ってコトか」  部屋には誰もいない。  体は重いが、さっきみたいに指先すら動かない、という事はなさそうだ。  力を込めれば、片腕をあげるぐらいは出来そうなのだが―――― 「うわっ、縛られてるぞ俺――――!?」  惚けていた頭が、途端に覚醒した。  危機を察して、まず自分の状態を確認する。 「……椅子に座らされて、手を後ろに回されてるのか……これは手錠……じゃないよな。縄で手首を縛ってるだけか」  思ったより酷い状況ではないが、動けない事に変わりはない。  体はまだ痺れているし、腕が縛られていては立ち上がる事もできない。 「……あれからどれくらい経ってるんだ……時計は……ないか、やっぱり」  部屋に時計らしき物はない。  窓は―――後ろか。  出来るかぎり振り向いたが、カーテンがかかっているので外の様子はよく判らない。  ただ、外は既に日が落ちていた。  朝方にイリヤと遭った訳だから、少なくとも半日は経過しているという事だ。 「………………」    こんな事をしている場合じゃない。  ここが何処だか知らないが、今は一刻も早くセイバーの下に帰らなければ。  ……セイバーは弱ってるんだ。  俺が〈攫〉《さら》われたなんて、そんな事で負担をかける訳にはいかない。 「ん――――!」  座ったまま、後ろに回された腕に力を込める。  逃げ出すにしても、まずは手首を絞めた縄をなんとかしなければ―――― 「!?」  扉が開く。  咄嗟に力を緩めたのと、彼女が部屋に入ってくるのとは同時だった。 「あ、やっと起きたんだ! おはようお兄ちゃん、体は大丈夫?」    イリヤの様子は、先程とは一変している。  冷淡な眼差しはなく、目の前にいるイリヤは公園で俺と話していた、あの白い少女だ。 「ん、どうしたの? なんか元気ないけど、まだ体は動かない? ……おかしいなあ、そろそろ声ぐらいは出せる筈なんだけど」  はて、と首をかしげて俺の顔を覗き込む。  ……その目は、純粋にこちらの身を案じているようだった。 「……大丈夫だ。声は出るし、頭の方も、自分が捕まってるって判る程度にはハッキリしてる」 「なによ、不満なの? 捕まえた敵はね、ホントは地下牢にいれておくものなんだよ。  けど、それじゃシロウがかわいそうだから、特別にわたしの部屋に連れてきてあげたのに」  それは有り難いのか、そうでないのか。  ……ともかく、少しは状況が掴めてきた。 「……なんとなく状況は判った。俺は捕まって、ここはイリヤの住処って訳か」  感情を押し殺して声を尖らす。  状況が判らない以上、今は話を聞くしかない。 「そうだよ。前に言ったでしょ、わたしは森のお城に住んでるんだって」 「ここは樹海の中の城で、周りには何もないわ。シロウが住んでる街まで、車で何時間もかかるんだもの。助けになんて来る筈もないし、絶対に邪魔も入らない」 「―――そうか。  それは判ったけど、なんだってそんな事をしたんだ。  俺を殺すんなら、あの公園で出来たじゃないか」 「なんで? わたし、シロウを殺す気なんてないよ? シロウはわたしのだもん。他のマスターは殺すけど、シロウは特別。  だから誰も邪魔が入らないように、シロウをここに閉じこめたの」 「っ――――!」    思わず仰け反る。  イリヤは俺の動揺なんて知らない、とばかりに、いっそう顔を近づけてきた。 「イ、イリヤ、ちょっと……!」    ふ、不謹慎だとは判っているんだけど、足の上に乗ったイリヤの感触に心臓が動悸している。  重くはないイリヤの体重でも、こうあからさまに膝にのっかると妙に生々しくい。 「うん、やっぱりシロウは特別。  ……ね、わたしのサーヴァントになってみない? シロウがわたしのサーヴァントになってくれるなら、もう殺さなくてすむわ。シロウがうんって言ってくれれば、それでシロウだけは助けてあげるよ」  イリヤの言葉は、一度でも頷けば取り返しがつかなくなるほど純粋だ。    ……そうして、逆らえばその純粋さが全て憎悪に変わるのだろう。  イリヤを間近にして、慌てていた意識が凍る。  これは好意を向けられている、なんて生やさしいものじゃない。  イリヤの問いは、死ぬか生きるかを問う審問に等しい。 「考えるまでもないでしょう? シロウにはもうセイバーはいないんだもの。戦う手段なんてないわ。  なら、マスターでいてもしょうがないじゃない」 「―――違う。セイバーはまだ消えていない。そんなコト、させるもんか」 「ふうん。けどそんな状態じゃ簡単に殺されちゃうよ?  いいから、シロウはここにいればいいの。シロウがずっと側にいてくれるなら、わたしもずっとシロウを守ってあげる」  イリヤは体をすり寄せてくる。    ……逆らえばどうなるかは判らない。  それでも、今はイリヤの言葉には頷けない。 「……駄目だ。離れるんだ、イリヤ。どんなに言われても、俺は」  言いかけた唇に、イリヤの指が触れた。  クスリと愉快そうに笑って、戸惑う俺を見上げてくる。 「もう、判ってないんだから。  いい、今のシロウは籠の中の小鳥なのよ? 生かすも殺すもわたしの自由なんだから、あんまりわたしを怒らせるようなコトは言っちゃダメ。  ……十年も待ったんだもの。ここでシロウを簡単に殺しちゃうなんて、そんなのつまらないでしょう?」 「な――――――――」    玩具をせがむような少女の声。  そこに、背筋が凍るほどの残酷さを感じて、ただ息を飲んだ。 「これで最後だよお兄ちゃん。もう一度だけ訊いてあげる」  期待に満ちた目。   「シロウ――――わたしの物になりなさい」    拒否を許さない妖艶さで、イリヤは言った。 「そ、それは私の台詞です! 貴方こそ何をやっていたのですかっ。  一人で行動するなとあれほど言っていたのに、易々とイリヤスフィールに拉致され、このような場所に監禁されるなんて……!」 「シロウはマスター失格です。この件については、何らかの謝罪をしてもらわなければ気が済みません」 「う……たしかにそれは軽率だった。けど、どうしてセイバーがここにいるんだっ。  セイバー、満足に動けないんだろ。だっていうのにイリヤの本拠地に来るなんて、なに考えてるんだ!」 「貴方こそ何を考えているのです。  サーヴァントはマスターを守るもの。シロウが捕らわれたのですから、イリヤスフィールの本拠地だろうと関係はありません」 「――――――――」  セイバーはきっぱりと言い放つ。  ……その姿は、以前のままのセイバーだ。  弱り切って、苦しげに眠っていた彼女とは違う。 「……シロウ? どうしたのです、急に黙り込んで。や、やはり捕まっている間に傷を負ったのですか……!?」 「あ……いや、そうじゃない。俺の事はいいんだ。それよりセイバーこそ、元気そうで良かった」  ……本当に、胸が落ち着いた。  ここにセイバーがいる事には驚いたけど、それより、彼女がいつも通りな事が嬉しい。    勝手な思いこみなんだが。  やっぱり、セイバーはこうでなくちゃいけないと思うのだ。 「……すまなかったな、セイバー。事情はよく判らないけど、俺を助けに来てくれたんだろ」 「あ……はい。サーヴァントとしてマスターを救うのは当然ですから」 「ありがとう。おまえが来てくれて、本当に助かった」    ―――良かった。  これで問題はなくなった。  あとはセイバーとここから外に出るだけ――――    ……って。  なんで、遠坂の姿が見えるのだろう……? 「と、遠坂……?」    ええっと。  本当に実像として、そこにいらっしゃるのでしょうか……? 「思ったより元気そうじゃない。これじゃわたしたちが出向く必要もなかったかしら」 「だからそう言っただろう、凛。衛宮士郎など放っておけと。  この手の男はな、まわりに迷惑をかけるだけかけて自分だけは生き延びるのだ。今回のはいい機会だった。見捨てておけば勝手に死んでくれたものを」 「……聞き捨てなりませんアーチャー。  助力を頼んだのは私ですが、貴方にシロウを侮辱する権利など無いはずです」 「―――ふん、いざ主が助かればそれか。マスターもマスターならサーヴァントもサーヴァントだ。協力者に対する有り難みなどないようだな。  ……まあ、いずれ戦う身だ。情など持たれない方がやりやすくはあるが」 「…………」  痛いところをつかれたのか、セイバーは黙り込む。  ……〈アーチャー〉《こいつ》。  俺だけじゃなく、セイバーとも仲が悪いのか。 「そこまでよ。今がどんな状況なのか忘れてる訳じゃないでしょうねアーチャー。  お喋りなんてしてる暇はないわ。イリヤスフィールが戻ってくる前に撤退しないと」 「……? ちょっと待ってくれ。  遠坂たちは、ここがイリヤの住処だって知ってて来たのか? いや、そもそも――――」  イリヤは遠坂たちを殺す、と宣言して出ていった。  すると……イリヤと遠坂は行き違いになった、という事か。 「――――助かった。今頃イリヤはうちに向かってると思う。遠坂たちがここに来てくれなかったら、イリヤと戦うハメになってた」 「ええ、そうみたいね。イリヤとバーサーカーが外に出たのは確認したわ。……まあ、そうでもなければこんなところまで忍び込まないけど」  ……そうか。イリヤが外に出ていったのを確認したから、遠坂たちはこんな強硬策に出たんだ。  あいかわらず強気だな、とは思ったが、今回はその強気が幸いしたというか。 「とにかく話は後よ。ここがアインツベルンのアジトって判った時は覚悟してきたけど、遭わないんならそれに越したことはないでしょ。  セイバーがそんな調子じゃバーサーカーには太刀打ちできないしね」  ほらほら離れて、と遠坂は俺とセイバーを引き離した。 「……遠坂。セイバーがそんな調子って、どこがだよ。  顔色もいいし、もう以前のセイバーじゃないか」 「貴方ね。そんな都合のいい話がある訳ないでしょう。  セイバーはまったく回復してないわ。立っているだけが精一杯って、見て判らない?」 「凛……! それは黙っていると約束した筈です……!」 「悪いわね、そんなの破棄よ。黙っていてもマイナスなだけだし、そもそも隠し通せる問題じゃないわ」 「……それはそうですが、しかし――――」    辛そうに言い淀む。  それで、彼女の状態は何一つ解決していないと判ってしまった 「―――セイバー。今の話は、本当なのか」 「……はい。凛の言うことは正しい。恥ずかしい話ですが、今の私ではセイバーとして戦う事はできません。出来る事といえば、シロウの盾になる事ぐらいでしょうか」 「ふん、そんな事だろうと思ったわ。武装も出来ないぐらい弱ってるクセに、一緒に行くってきかないんだもの。  戦えない代わりにマスターを庇おうとでも思ったんでしょ」 「な――――」  武装できないぐらい弱ってるとか、  戦えない代わりに盾になるとか、なにを馬鹿げたコトを言っているのか。 「……すまないシロウ。このような体ではサーヴァント失格だとは判っていますが、それでも盾の役割はできます。不服だとは思いますが、今はそれで――――」    ―――だから。  どうしてそう、損なコトばっかり考えるんだ、セイバーは――――! 「ふざけんな、そんなの不服に決まってるだろう……!  遠坂、おまえなんだってセイバーを連れてきたんだ!  今は俺の事より、セイバーの方がずっと大事だって判ってたんじゃないのか……!」 「な、なによ、わたしだって反対したわよ! けどセイバーはどうしてもってきかないし、そもそもセイバーじゃないとアンタの居場所は判らなかったわ。危険なのは百も承知だけど、それでもセイバーは必要だったのっ!」 「おまえ、それでも――――」    連れてくるべきじゃなかった、と怒鳴ろうとして、止めた。  ……俺に遠坂を非難する資格はない。  そもそも俺が捕まった事が元凶だ。  遠坂もセイバーも、正しいと信じた行動をしたにすぎない。 「……口喧嘩も結構だがな、今はそこまでにしておけ凛。  マスターならば自分の住処の異状には敏感だろう。悠長に説明している暇はないぞ」 「……そうね。イリヤスフィールのヤツ、今頃あわてて戻ってきている頃だものね。  ―――いいわ、話は後にしてあげる。今はこの城から出る事が先決よ。それでいいわね、士郎」 「シロウ、私たちも」 「―――いや、けど」  セイバーが昨夜のままだと言うのなら、歩く事さえ苦しいのではないか。  そんなセイバーにこれ以上無理なんてさせられない。 「……まったく。どうやら私も甘く見られたものですね」 「え、セイバー……?」 「いくら魔力が尽きているとは言え、今でもシロウよりは戦えます。私から見れば、シロウの方こそ消えてしまいそうで怖い。  ……凛は気が付いていないようですが、体内の魔力が乱れているのではないですか?」 「あ……いや、けどこんなのは大した事じゃない。我慢すれば持ちこたえられる程度だ。  俺は、その―――ぜんぜん大丈夫だぞ、ほんと」 「では、私もシロウと同じです。苦しいですが我慢しきれないものではありません。  突然の事で状況が掴めないと思いますが、今は凛に従いましょう。話をするのなら、それは家に帰ってからです」  さあ、とセイバーは俺を促す。 「――――――――」  ……まいった。  そんな顔で言われたら、心配する事さえできなくなる。 「……そうだな。話したい事は山ほどあるけど、それは無事に帰ってからにする」  ……そう、セイバーの体の事や、助けに来てくれた礼とか。    ―――あの夢がなんだったのかは、いま問いかける事じゃない。   「――――よし。行こう、セイバー」    頷きで返して、懸命に体を動かした。    ……一歩進む度に額に汗が浮かぶが、弱音を吐く訳にはいかない。  セイバーだって、弱った体でここまで来てくれたのだ。 「――――――――うわ」    これは廊下……だろうか。  美術館じみた通路からして、この建物はとんでもなく大きいと見える。 「ちょっと、見とれてる場合じゃないわよ。この城から出ても、外は一面樹海なんだから。急がないと朝になるわ」 「一面の樹海―――? じゃあここ、本当に山の中なのか? 深山町から車で何時間っていう、あの樹海?」 「そう、アインツベルンの隠し城よ。  この城から出たあと、何時間もかけて森を抜けなくちゃならないの。今は夜だし、朝日が昇るまでには森を抜けるわよ」  遠坂は迷いなく廊下を走っていく。  おそらく忍び込んだ裏口にでも向かっているのだろう。 「……今が夜なのは知ってたけど……一体どのくらい捕まってたんだ、俺は」  半日と思っていたが、実際はもっと日数が経っていたのかもしれない。 「シロウがイリヤスフィールに捕らわれたのは朝方でしょう。それから半日が経過しています。  ……日付は変わってしまいましたから、形の上ではまる一日捕らわれていた事になりますね」 「う……そうか、面目ない」 「いえ、そのような事はありません。イリヤスフィールに捕まってこれだけの時間が過ぎたというのに、シロウは無事でした。体は囚われの身でも、心では負けなかった証ではないですか」 「――――それは、そうかもしれないけど」 「ええ。イリヤスフィールは少女に見えてもアインツベルンの魔術師です。もし彼女に屈していたのなら、シロウはシロウではなくなっていたでしょう」 「……私とて、その可能性を考慮しなかった訳ではありません。最悪、貴方は死んでいるものと覚悟して、この城に足を踏み入れたのです」 「―――――――」 「だから、ここでシロウと再会できて良かった。  マスターが無事な姿を見せているのですから、私も負ける訳にはいきません」  そんなの、こっちだっておんなじだ。  セイバーが無事なのかどうか、考えると気が気でなかったんだから。 「ちょっと、やる気あるのかって言うのよーーーー!  もたもたしてると本気で先に行くからねっっっ…………!!」  廊下の先、曲がり角から顔を出して怒る遠坂。 「やば、話してる場合じゃなかった。急ごうセイバー」    セイバーを促して走り出す。  …………っ。  体は痛むが、歯を食いしばればなんとか走れる。  痛む体を無理矢理動かして、遠坂の後を追う。  騙し騙し走る後ろでは、病人に付きそうようにセイバーが走っていた。  ……やはり苦しいのだろう。  気丈なふりをしているが、セイバーは満足に動ける状態じゃない。 「セイバー、苦しかったら――――」    肩を貸そうか、と言いかけて止めた。  そんな事を言ったら、セイバーは意地でも一人で走ろうとする。  今はまだ様子を見るのだ。  セイバーが目に見えて疲れだし、言い訳できないぐらいになったら抱きかかえて走ればいい。    ……ほんと、セイバーにも困りものだ。  この気丈な女の子は、それぐらい強引にやらないと休んではくれないって言うんだから。    ―――そうして。  遠坂の案内に従って、城の出口とやらに辿り着いた。 「で、出口ってここ入り口じゃないのか遠坂―――!?」 「? なに当たり前のこと言ってるのよ。玄関っていうのはそういうものでしょう。入る時も出る時もここが一番てっとり早いんだから」  ほらほら、と階段を下りていく遠坂。 「…………………」  ……まあ、こっちも文句を言える立場じゃない。  セイバーと二人、階段を下りて広間に出る。  ここはロビーらしい。  なら、あとは通路の先にある大きな扉を抜ければ外に出られる、というコトだろう。 「よし、ここまで来たら大丈夫。問題は森に出てからだけど、まあ夜だし、闇に乗じて国道まで出られるかな。  イリヤスフィールが戻ってきて、士郎がいないって気づいたところで後の祭りよ。  アイツが帰ってくる頃には朝になっちゃってるしね……って、何よ士郎、その顔。いかにも不服そうだけど」 「……いや、別に。遠坂は大物だなって再確認してただけだ」 「? ヘンなところでおかしな確認するのね、貴方」    ……いや、だから敵の本拠地に玄関から侵入するところとか、そういう風に堂々としているあたりが。 「ま、いいわ。とにかく外に出ましょう。帰り道は覚えているから迷う事もないしね」    玄関へ足を向ける。  ロビーからは細長い通路が伸びていて、その先に巨大な扉が見えた。  呆れた事に、通路は三十メートルほどもある。  ……なんていうか、本当に城なんだな、と思い知りながら歩き出した瞬間。           「―――なぁんだ、もう帰っちゃうの? せっかく来たのに残念ね」    くすくすという忍び笑いと共に、いない筈の少女の声が響き渡った。 「――――!?」  咄嗟に振り向く。  全員が足を止めた。  振り向き、そこに“敵”の姿を認めた瞬間、背中を向ければ殺される、と理解できたのだから。 「イリヤ……スフィール――――」    遠坂の声は震えている。  ロビーの先。  俺たちが下りてきた階段に、いてはならないモノがいた。  ―――奇しくも、状況は前回と似ている。    頭上に佇むイリヤと、その背後に控えるバーサーカー。  バーサーカーの存在感は圧倒的だ。  サーヴァントの力が判る今なら、アレがどれほどの化け物か理解できる。  ……なんて間違いだ。  アレは、セイバーが本調子なら太刀打ちできる、なんてレベルじゃない。    ……きっと、戦いになどならない。  アレは戦って勝てる相手ではない。  バーサーカーに勝つという事は、戦わずにアレを消し去る方法を探すという事。    つまり。  死にたくなければ、アレとは決して出遭うべきではなかったのだ。   「こんばんは。あなたの方から来てくれて嬉しいわ、リン」  イリヤの声は愉しげに弾んでいる。  その笑みは八〈日〉《あ》前の夜と同じものだ。捕まえた昆虫を串刺しにする、無邪気で無慈悲な裸の感情。    ―――それで悟った。    自分たちは、どうあっても逃げられない。  俺が何をしようが、イリヤは止められない。  なんとかイリヤの注意を引き寄せたところで、それで遠坂たちが逃げられる訳でもない。 「どうしたの? 黙っていちゃつまらないわ。せっかく時間をあげてるんだから、遺言ぐらい残した方がいいと思うな」    くすくすという笑い声。  ……だが、こっちにそんな余裕はない。  隙があれば玄関まで走る。  そんな〈隙〉《モノ》、絶対にあり得ないと知りながらも、その機会を待つしかない。 「…………じゃ、一つ訊いてあげる」    だというのに。  遠坂はあえて一歩、イリヤに向かって踏み込んだ。 「イリヤスフィール。アンタが戻ってきた気配はなかったけど、もしかしてずっと隠れてたのかしら」 「そうよ、わたしは何処にも行っていないわ。わたしはね、ここからあなたたちの道化ぶりを眺めていただけ」 「―――そう。外に出ていったのは偽物ってわけ?」 「ええ、あなたたちが来るコトは判ってたもの。  わたしは主人なんだから、お客さまのおもてなしをしないといけないでしょう?」  途端、巨体が消えた。  跳んだのか、ただそこに移動しただけなのか。  ゴウン、という旋風を巻いて、バーサーカーはロビーの中心に現れていた。  ……これで詰めだ。  退路―――玄関へと向かえば、背中を見せた順にあの斧剣で両断される。  かといって、このままでいても殺される。  残された道は、無駄死にと知りながらも、あの死の塊に挑むだけ。 「お喋りはおしまい? それじゃ始めよっか、バーサーカー」  白い少女は何かの儀式のように片手をあげ、眼下にいる俺たちを見下ろして、   「――――誓うわ。今日は、一人も逃がさない」    殺意と歓喜の入り交じった宣言をした。    バーサーカーの眼に光がともる。  ……今までイリヤに従っていただけだったサーヴァントは、その理性を一時的に解放され、目前の敵を認めたのだ。 「――――――――」  ぎり、という音。 「……遠坂……?」  一歩前に出た遠坂は、まるで悔いるように、強く歯を鳴らした。 「……アーチャー、聞こえる?」  静かな声で、振り向かずにそう呟き。   「―――少しでいいわ。一人でアイツの足止めをして」    自らのサーヴァントに“死ね”と言った。 「――――――」  アーチャーは答えない。 「馬鹿な……! 正気ですか凛、アーチャー一人ではバーサーカーには敵わない……!」 「わたしたちはその隙に逃げる。アーチャーには、わたしたちが逃げきるまで時間を稼いでもらうわ」  セイバーの意見に耳を貸さず、遠坂は指示を続ける。  それは冷徹な、感情を殺した声だった。 「――――――――」  バーサーカーを見据えたまま、何かを思案するように黙っていたアーチャーは僅かに頷くと、   「賢明だ。凛たちが先に逃げてくれれば私も逃げられる。  単独行動は弓兵の得意分野だからな」    一歩、遠坂を庇うように前に出た。    バーサーカーは動かない。  頭上からは、クスクスとイリヤの笑い声だけが聞こえてくる。   「へえ、びっくり。そんな誰とも知らないサーヴァントでわたしのヘラクレスを止めるって言うんだ。  なーんだ、あんがいかわいいトコあるのね、リン」 「――――――――」  遠坂にもアーチャーにも反論する余裕はない。  そんな事は、誰より遠坂とアーチャー自身が判っている。  ずい、と前に出るアーチャー。  その姿は、相変わらずの徒手空拳。 「………………」  遠坂はアーチャーの背中を見つめている。  ……かける言葉などないのだろう。  遠坂も、自分の命令が無茶だと解っている筈だ。  自分たちを逃がすために、アーチャーに死ね、と言ったのだから。 「……………アーチャー、わたし」  何かを言いかける遠坂。  それを。   「ところで凛。一つ確認していいかな」    場違いなほど平然とした声で、アーチャーが遮った。 「………いいわ。なに」    伏目でアーチャーを見る遠坂。  アーチャーはバーサーカーを見据えたまま、   「ああ。時間を稼ぐのはいいが―――  別に、アレを倒してしまっても構わんのだろう?」    そんな、とんでもない事を口にした。 「アーチャー、アンタ――――」 「―――ええ、遠慮はいらないわ。  がつんと痛い目にあわせてやって、アーチャー」   「そうか。ならば、期待に応えるとしよう」    アーチャーが前に出る。  バーサーカーまでの距離はわずか十メートル。  その程度の距離、アレは即座に詰めてくるだろう。 「っ、バカにして……! いいわ、やりなさいバーサーカー! そんな生意気なヤツ、バラバラにして構わないんだから……!」    ヒステリックなイリヤの声。  意にも介さず、遠坂は背中を向けた。 「―――行くわ。外に出れば、それでわたしたちの勝ちになる」  遠坂は俺とセイバーの手を握って走り始める。 「――――――――」  セイバーは反論せず遠坂に従う。  ……俺も、背後にアーチャーを残したまま玄関へと走り始めた。  その背中に。   「衛宮士郎」    背を向けたまま、アイツは呼び止めた。 「――――――――」  遠坂の手を解いて振り返る。  もう、今では手の届かない場所になったロビーには、バーサーカーと対峙する男の背中があった。   「―――いいか。おまえは戦う者ではなく、生み出す者にすぎん」    バーサーカーが迫る。  アーチャーは素手のまま、一歩も引かず迫り来る敵を見据え―――   「余分な事など考えるな。おまえに出来る事は一つだけだろう。ならば、その一つを極めてみろ」    アーチャーの片手があがる。  その手には、いつの間にか短剣が握られていた。   「―――忘れるな。イメージするものは常に最強の自分だ。外敵など要らぬ。おまえにとって戦う相手とは、自身のイメージに他ならない」    赤い背中が沈む。  バーサーカーの剣風が奔る。    その衝突を、見届ける事なく走り出した。  遠坂とセイバーは玄関に辿り着いている。      ―――振り向く事なく走る。      赤い背中が、ただ、行けと告げていた。  ひときわ高い木々の合間を抜けると、目の前には予想外のモノが佇んでいた。 「……廃、墟……?」 「ここならしばらく身を隠せるでしょ?  来る時にね、アーチャーが見つけておいたのよ。万が一の時の隠れ家にしようって」    ……廃墟は木々に浸食されていた。  部屋として使えるのは二階の一部分だけ。  窓は奇跡的に残っており、どういう造りなのか、強い月光が室内を照らしていた。 「ふーん。割合キレイじゃない。もしかしたら、最近まで誰かが寝泊まりしてたのかもね」  ……ほんと、どういう神経をしているのか。  遠坂は瓦礫をピシパシと踏みつけながら、壁際にあるベッドをパンパンとはたいている。 「士郎、こっち。セイバーを寝かせないとまずいでしょ。人に抱かれているのって、結構体力使うのよ」 「あ――――ああ、いま行く」  古びたベッドにセイバーを下ろす。 「どう、苦しいセイバー? まだ体を動かすのには問題ない?」 「……ええ、士郎がここまで運んでくれましたから。まだ体を保っていられるようです」 「そう。なら後はこっちの問題だけか。  あれから一時間……イリヤスフィールが追ってくるにしても、もう少し時間はかかるわ。ううん、捜すのに手間取れば朝方くらいまでは隠れていられる」 「あ――――」  その呟きで思い立った。  俺たちはこうして廃墟まで逃げ込んだが、バーサーカーとアーチャーはどうなったのか。  アイツはバーサーカーの足止めの為、城に残った。  ……もう一時間以上〈経〉《た》っている。なら、アーチャーも城から撤退している筈なのだが―― 「遠坂、アイツは――」 「――――」  遠坂は答えない。  ただ大事なモノを抱く様に、右手を胸に当てているだけだ。  ……それで、アーチャーの運命は判ってしまった。  遠坂の令呪は右腕にある。  マスターとサーヴァントは繋がっている。  セイバーが俺の危機を察したように、マスターはサーヴァントの生死が判るのだとしたら、それは。 「……遠坂、アイツは」 「まあね、足止めだけで良いって言ったのにさ。  アイツ―――最後まで、キザだったな」  ……沈黙が落ちる。  永遠に続くかと思われたそれは、しかし。 「―――けど、無駄になんかしない。アーチャーを失った以上、バーサーカーはここで倒す」  ぱん、と左手を右拳に打ち付ける音で破られた。 「悔やむのはここまでよ。悩んでいる暇があったら行動するのが私の信条。――ここまで来たら、貴方にも覚悟を決めて貰うからね」 「……? 覚悟って、なんのだよ」 「決まってるじゃない。イリヤスフィール……バーサーカーを倒す覚悟よ。  セイバーを連れてたらこの森からは出られないし、彼女を自然に回復させるにしたって時間がかかる。どのみちイリヤに追いつかれるわ」 「判る? わたしたち三人揃って森を出るには、バーサーカーを倒すしかない。  それが出来なければ、私たちもアーチャーの後を追うだけよ」 「――――バーサーカーを、倒す、だって……?」    あの怪物を?  あらゆる攻撃を無効化し、触れる者全てを一撃で粉砕する、あの死の旋風を倒す……? 「――――――」    そんなもの、想像できない。  戦えば死ぬ。  それは遠坂だって理解しているはずだ。  それを思い知らされた上で倒すというのか。 「――――――いや、違う」    何を寝ぼけたことを。  遠坂は倒せる、と言ってるんじゃない。  そんな希望、初めからこいつは持っていない。 「ああ――――そう、か」  そう、勝つために倒す、ではないんだ。  ……こんなコト、一番初めに気が付くべきだった。   「倒すしか、ないんだな」    これは、ただそれだけの話。  ―――ここで死にたくないのなら。  俺たちは、あの怪物を倒すしかないだけなんだと。 「そういうコトよ、けどそれほど絶望的な状況って訳でもないわ。  いくらバーサーカーだって、アーチャーと戦った後なら何らかの傷を負っているはずよ。私だってとっておきの宝石を全部持ってきてるし、セイバーさえ回復すれば打開策の一つや二つは作り出せるわ」 「―――逆に言えばね。  バーサーカーが傷を負っている今こそ、イリヤスフィールを倒せる最大の機会だと思わない?」 「……けど、肝心のセイバーを回復させる方法があるのか。こんな場所じゃ満足な治療もできないんじゃ」 「ううん、セイバーの治療に場所は関係ないわ。  セイバーは単に魔力切れで弱っているだけだもの。一定量の魔力さえ補充してあげれば、あとは以前通りの能力を発揮してくれる」  遠坂の説明に、昨日の深夜を思い出す。  セイバーの魔力はほとんど空っぽだったと遠坂は言っていた。  だから、セイバーの魔力を補充するために……   『いい。セイバーを助けたいなら、セイバー自身に人を襲わせて、魂を食べさせるしかない』   『なら答えは一つよ。  ―――令呪を使いなさい、衛宮くん。それで最悪の事態は避けられるわ』  ……残る令呪はあと二つ。  これを使ってセイバーに人を襲わせ、その魂を食べさせて魔力を補充する。  セイバーが回復しなければ、俺たちはバーサーカーを倒せない。倒せなければこちらが倒されるだけだ。  横たわるセイバーを盗み見る。  ……このままではセイバーを苦しめるだけだ。しかし、それは。 「……いや、遠坂。それでも、セイバーに人を襲わせるのは反対だ」 「ええ。今回は私も同意よ」 「え?」 「これが他の場所だったらその提案をしたでしょうけどね。  でもここはイリヤスフィールの庭の中、人の魂なんかどこにもない―――あの城の中にはバーサーカーとイリヤスフィール以外の誰かが居るかもしれないけど、それを探しに行くのはみすみす死地に赴くようなものよ」 「……食べさせるためには、外に出ないといけない。本末転倒になるってことか」  そう、と頷く遠坂。  セイバーに人を襲わせなくて済むのは有り難いのだが、一体どこからセイバーの魔力を補充するというのだろうか。 「でも、どうするんだ遠坂。そもそも俺がセイバーに魔力を補充できないから困ってるんだよな?」 「方法はあるわよ。その昨日……ってもう一昨日に、説明したでしょ?  サーヴァントに魔力を分け与える方法は、共有の魔術と、それ以外にわずかな方法しかないって。あの時はまあ……こんな状況になるとは思わなかったから言わなかったんだけど」 「む――――?」  昨夜の会話を思い出す。  そう言えば、確かに――   『……まあ、召喚時にセイバーとパスが通ってるはずだから、まだ方法があるかも知れないけど――』  なんて事を、遠坂は言っていた様な。 「……思い出した。パスは通ってるから、魔術以外の方法があるとか何とか」  ………?  いや、なんか間違えたこと言ったか?  あのときはセイバーに人を襲わせる事にショックを受けていて、聞き間違えたかもしれないのだが。 「遠坂。何か方法があるのか?」 「……まあね。わたしがサポートできる範囲で二つ。この状況だと荒っぽい方になるわ」 「いい? セイバーの魔力不足は、士郎とのパスが不完全だからよ。彼女を回復させるには、このパスを完全な形に通し直すしかない」 「確かにそうできれば一番なんだろうが、俺はパスの通し方なんて分からない」  そもそもセイバーの召喚の時からその問題はあったのだ。魔力供給のラインが通せるのだったら、こんな苦境に陥る筈はない。 「……話自体は簡単よ。士郎とセイバーを共感状態にして、霊的なパスを繋ぎ直すだけ。契約破棄や再召喚以外にパスを修復する為にはそれしかない。  その為に、セイバーに士郎の魔術回路を移植するの」 「?」  ……俺の魔術回路を、セイバーに移植する? 「セイバーと士郎のパスを新しくするには、霊的に重要な器官を移植するしかないわ。  サーヴァントとマスターが聖杯の力を借りているのなら、それに匹敵する強い結合を生み出さないとパスは通らない。  その為には、マスターの魔術回路をサーヴァントに移植する、それくらいやらないと士郎の力がセイバーには届かないから」  魔術回路。  小源を持って大源に作用させる、魔術師になくてはならない仕組み。それは魔術師の存在の芯であり、これがなくては魔術の源である魔力を生み出せない。  魔術師にとっては自己の寿命より上位のものだ。自身の存在価値そのものと言っていい。 「サーヴァントの回路をマスターに移植するのは危険すぎるわ。ゴーストライナー、それも英霊の回路は死にいく人の体に移しても強烈な拒絶反応しかもたらさない。  そうなると、残された手は士郎の回路をセイバーに移植するしかないってコト」 「でも、それは張り巡らされた神経を引きちぎられる事と同じよ。そうなればその負担は……」    移植する側の体にかかる。  神経を引きちぎる、という言葉は、指や腕を引きちぎる、という言葉と同義だ。 「…………待ってください凛。  それはあまりにもシロウに―――」 「そうしないと誰も生き残ることは出来ない。貴方なら判っている筈よ、セイバー」 「………………」  気づかれないよう、わずかに喉を鳴らす。  ……優先順序を間違えないように。  やるべき事、出来る事がはっきりとしているのなら、迷っている余裕はない。 「遠坂。それは、成功するのか?」 「……成功させるわ。でも、成功させる事はそのまま安全に繋がる訳じゃない。  失敗させるつもりはさらさらないけど、成功すれば士郎の魔術回路はセイバーに奪われる。むしろ失敗した方がいいんじゃないかって思えるほどの喪失感と苦痛を生むでしょうね」 「――――――」 「もし魔術回路を奪われれば、それは士郎が――」  引き抜かれる第二の神経、欠けた魔術回路、それは精神の一部を〈剔〉《えぐ》り、霊的な身体の完全性を損ない、魔術師としては致命的な欠陥を意味する。  欠けたモノは一生“完成”する事はできない。未熟でも経験をつめば一人前になれる、という希望はここで消える。  基盤となる魔術回路を失った衛宮士郎は、どうあがこうと半人前のままという事だ。 「――――――」    ああ、と自分自身に頷いた。  なんだ。  それなら、セイバーを助けられる方がいい。 「よし、やろう遠坂」 「早っ! あ、ううん、決断が早いのはいいけど、ホントにどういうコトなのか判ってるの!?」 「分かってる。遠坂、教えてくれただろ」 「判ってるワケないじゃない!  いい? セイバーを救うために私は士郎に魔術師として死ねと言ってる様なものなのよ? なのにどうして、そんなに反論もしないで頷いて―――」 「だから反論はないんだって。  遠坂の考えた最上の計画だから頷くんだ。もっと自分の計画に自信を持てよ遠坂。そんな風に慌てるとこっちが不安だ。  それに、そうしないとセイバーはバーサーカーと戦えないんだろう?」 「……そうよ。そうだって言ってるじゃない」 「だろ。それに、俺たちには犠牲がない訳じゃない。アイツが稼いでくれた時間のためにも戦って勝たなきゃいけない」  ヤツの背中が、行けと告げたのだ。  いけ好かないヤツだったけど、アイツが体を張って〈遠坂〉《あるじ》を守ったのなら、俺もここで怖じ気づいてなんていられない。 「……いいわ。始めましょう、士郎」 「ああ。セイバーもいいか……?  俺の魔術回路を移植するって事なんだが」 「―――はい。それが、マスターの判断なら」  声には肯定も否定もない。  ……ただ。伏し目がちの瞳が、後悔に沈んでいるように見えた。  移植の準備は遠坂が調えてくれるそうだ。  もとよりそんな魔術式を知らないので、下準備は遠坂に任せるしかない。 「まずはセイバーからね。士郎は魔術回路をオンにしたまま、できるだけ心を乱さないように待機していて」  ……目を閉じて体の中の疑似神経を裏返す。  遠坂の指導のおかげで回路のオンオフは淀みなく出来るようになったのだが――― 「っ―――」  白い花に赤い華が絡む。  遠坂は動けないセイバーにのしかかり、無造作に、無遠慮に、細い体に指を這わせていた。 「……待て遠坂。おまえ、セイバーに何をする気だ」 「何って、セイバーにもリラックスしてもらおうと思って。セイバーが力を抜いてくれないと成功率が下がっちゃうし」 「あ……ああ、そういう事か。悪い、続けてくれ」 「ええ、どうも。  それじゃ服を脱ぎましょうか、セイバー」 「はあ……!?」 「なっ……!?」 「いちいち驚かないの。脱ぐっていっても一部だけよ。魔術回路の移植は精神と体の融合よ。出来るだけ接触を多くして、遮蔽を少なくしなきゃいけないでしょ」  遠坂はいたって真面目で、冷静だ。  取り乱しているのは俺と、襟元に手をかけられたセイバーだけである。 「……待ってください凛。それでしたら自分で出来……」 「腕を上げるのも辛いくせに強がらないで。あ、それとも衛宮くん、マスターの責務としてセイバーを自分で脱がせたいとか?」 「ば――――」  馬鹿と言いかけて口を塞ぐ。  冗談は抜きにしても、俺には向かない作業だ。  ……そんな事を任されたら、とてもじゃないが落ち着いていられない。 「……すまない。そっち、任せた」 「よろしい。そういうわけだから士郎も脱ぎなさい。  あ、上着脱ぐだけで良いから? 下まで全部脱いだら殺すからね」  洒落なのか本気なのか、いまいち判りかねる。  ともかく、俺もできるだけ服を脱いでセイバーに接しないといけないらしい。 「シロウ……お願いです、しばらく背を向けていて頂けないでしょうか」 「あ―――わ、わかった。準備ができたら言ってくれ」  後ろを向いてシャツを脱いで折りたたむ。  袖まできっちり折って、箪笥にしまえるぐらい整えて、緊張を誤魔化した。 「ん……大丈夫? セイバー?」 「はい、大分楽になりました、が―――」  ……落ち着かないと。  魔術回路の移植がどれほどの損失と痛みを伴い、その成否がどれだけ難しい事か、踏まえた上で恐れを押さえつける。  これはあくまで通過点。  真に恐れ抗うべきは、この後に控えるバーサーカーの打倒――― 「いいわよ、士郎」 「―――ああ」 「――――――――」  ……息を忘れる。  前にも肌を見たことはあったというのに、ベッドに横たわったセイバーは、今まで見てきたどのセイバーとも違っていた。 「………………」 「――――――」  ……妙な緊張感のせいだ。  俺はともかくセイバーまで様子がおかしい。  以前は―――たしか、素肌を見られても、いつも通りだったのに。 「士郎、こっち。  ここに上がってセイバーに覆い被さって」  ……借り物の体を動かしているみたいだ。  ベッドまで歩いていくのに、瓦礫を踏んでいる現実感がない。 「セイバー、同調までは私がやるわ。  ……それから後は貴女にお願いするけど、持っていきすぎない様に注意して。少なければ少ないほど士郎の負担は減るから」 「……判りました。お願いします、凛」  二人の話し声が、あまり頭に入ってこない。  今は、呼吸を整える事で精一杯だ。 「………………」  さらに近く。肌が触れあうほど接近する。  セイバーの弱い息がかかる。  腕で体を支え、あまりに近く覆い被さっている。 『―――Auftrag〈 〉《変》〈w〉《革》〈i〉《準》〈r〉《備》〈d〉《。》 ersetzt.  Das dritte 〈E〉《自》〈l〉《失》〈e〉《。》ment wird als das 〈e〉《忘》〈r〉《我》〈s〉《。》te gekennzeichnet, das Fleisch 〈g〉《接》〈e〉《続》〈h〉《、》t einmal zum 〈T〉《開》〈e〉《始》〈i〉《。》l des Sternes zurück.』  ……詠唱が始まる。  雑念を払う。セイバーに同調する為に、意識を束ねて心を〈平坦〉《クリア》にする。 『Sie flie〈g〉《小》〈e〉《さ》〈n〉《く》〈 〉《。》hoch〈,〉《小》〈 〉《さ》〈s〉《く》〈c〉《。》hnel〈l〉《小》〈,〉《さ》〈 〉《く》〈w〉《。》eit,〈 〉《小》〈z〉《さ》〈u〉《く》〈 〉《。》 morgen.  N〈i〉《円》〈e〉《環》〈 〉《航》〈z〉《路》〈u〉《、》rück 〈s〉《開》〈c〉《示》〈h〉《。》auen.』  見えるのはセイバーの顔だけ。  彼女は既に瞑想に入っている。  ……いつまでも目を開けてはいられない。  名残惜しく目蓋を閉じる。 『Es gibt n〈i〉《大》〈e〉《き》〈d〉《く》〈r〉《。》ig, ist 〈l〉《大》〈a〉《き》〈n〉《く》〈g〉《。》sam, ist 〈n〉《大》〈a〉《き》〈h〉《く》〈 〉《。》 und in die Ver〈g〉《大》〈a〉《き》〈n〉《く》〈g〉《。》enheit.  Nie vo〈r〉《隘》〈h〉《路》〈e〉《港》〈r〉《道》〈 〉《、》〈b〉《連》〈e〉《続》〈t〉《閉》〈r〉《鎖》〈a〉《。》chten.』  五感が曖昧になっていく。  毎夜、魔術回路を作り上げていた時に到来する浮遊感。自我が体を抜けて放り出される感覚。  が、今回は方向が正反対だ。  いつもは背中から外に抜ける。  今は胸から前に自我が抜け落ちようとしている。 「………………」  五感は肉体に付随する機能だ。  体から離脱した時点で聴覚も失われる。  ……なのに。  耳は以前より鋭敏にセイバーの息づかいを聴いていた。  先ほどまで穏やかだった息が弾み始めている。  どくどく胸の中で早鐘を打つ心臓の音。  血管を流れる血液の響き。  衛宮士郎の殻から抜け落ちた“俺”は、そのまま彼女の体にスライドしていく。 「――――――」  ……意識はより深く沈んでいく。  自我は収束し、渦流し、より細く小さく、だが強固な結晶となって侵入する。    鼓動、体温、吐息。  体ではなく心と触れる。 「――――――シロウ」    鈴を鳴らすような声が響く。  その声に応じて。  自我は完全に、〈肉体〉《おのれ》から離脱した。    ―――感覚が全変する。  手も足も己もなく、むき出しのまま走り抜ける。  時を逆行するかのような速度。  〈翔〉《か》けているのではなく、置き去りにされているかのような錯覚。    ―――加速する。  肉体、人格、秩序、摂理。  我は〈鏃〉《やじり》となって、個々を隔てる境界を、幾重もの防壁を突破する。  回路を〈奔〉《はし》る火花。  人の〈位〉《み》で光速に至る快感に凍りつく。    ―――人の一生を、秒節で通り過ぎていくよう。    濃縮された走馬燈は重いが故に酷薄だ。どのような人生も、瞬きの間に過ぎ去っていく。正視に堪えない。故に、感情は麻酔をして凍りつく。    これが精神のみで旅をするという事。  肉体という〈錘〉《おもり》がいかに優れた保険だったかを思い知る。    視覚化された魔術基盤。  数値化された人体運営。  幾百の機関を、幾億の接合が輪を作る。    果てのない複雑な紋様は、その実、単純な繰り返しによって形成された〈高速道路〉《ハイウェイ》だ。  いずれ在る遙か未来。  生命の絶えた、電飾の都市を行く乗り物のよう。    ―――ここでは、光の速度で〈思考〉《いま》が過ぎる。    永劫は一瞬に。  最後の境界を通過する。  これより先は彼女の内部。  衛宮士郎ではない、アルトリアという存在が持つ魔術回路を垣間見る―――   “――――――、―――”    変化はあまりにも対極だった。  速く、光に満ちていた〈認識〉《せかい》は一瞬で切断された。  ここは暗く、重い。  〈輪郭〉《ひふ》を圧迫する重圧。空気は密度がありすぎて、水中にいるようだ。  体はゆっくりと、万力で締められる苦しみを伴って、ぐつぐつと沈んでいく。    ……〈路〉《みち》は深く、底は見えない。  質量のある暗闇の中を、より密集した闇へ落ちていく感覚。  万里を瞬きの間に過ぎたのが嘘のようだ。  今はたった一里の距離を、永遠をかけて下る苦行。  この先には光も希望も感じられない。 “――――――”    これは、本当にセイバーの魔術回路なのか。  衛〈宮士〉《じぶん》郎の物とは大きく異なる。  魔術回路のカタチ、パスの数は人それぞれといっても、これは違うのではないか。  規模や才能の話ではなく。  そもそも根本的な部分、魔術師の物とセイバーの魔術回路は異なっているような―――    通路が鳴動する。  その度にちっぽけな自我が砕けそうになる。  ……セイバーの魔術回路がどのようなものであるかは分からないが、同調の魔術が正しく機能している事は分かる。    ……失敗ではない。セイバーの内面とは思えない闇と重圧だが、ここは穢れた場所ではない。  こんなにも生命に満ちている。  流れる空気は血液であり、魔力の渦だった。 “―――、――――――”    気がつけば呼吸を忘れていた。する必要がなかったからだろう。  沈んでいく行為は苦しくはあるが、生命を脅かすものではない。  ……落ちてきた闇を見上げれば、もう戻れない遙かを〈経〉《へ》たようだ。  もとより前後の見えない闇。  緩やかな沈下といえど、その距離は無限に等しい。    空気の重さが変わる。  落下の速度が一段と緩やかになる。  闇の眩しさに目を細める。  無限に思えたこの路にも終わりがあった。  セイバーの体温、彼女の息遣いを身近に感じる。    ……あれが終点。  セイバーの魔術回路の大元にして、彼女の中心にあたる心象世界に辿り着―――    ―――だが。  光景は、理解の範疇を超えていた。  星の中核。  地の底に息づく、灼熱の具現が此処にある。  赤い湖面は渦を巻きながらも飛沫一つあげず、泥のように黙している。  その底に、巨大な影がうずくまっている。  炎の目がちっぽけな侵入者を捉えている。  たとえ主人の許しを得て訪れようと異物は異物。  この炉心において。  〈己〉《わ》が意識は機能を乱す塵芥か、火を〈灯〉《とも》す為の木屑にすぎまい。 “――――――”    必要のない息を呑む。  全容を俯瞰する。  これが、セイバーの魔術回路。  線や回路でイメージされる俺たちとは根本から異なる、人を凌駕する心臓部分。  ……これは炉心だ。魔術師の体が魔力を生み出す機械とするなら、ここは魔力を生み出す工場と言っていい。  しかし、その炉心は活動していない。  炉心を回転させる為の始まりの鍵。一度目の回転をさせるだけの動力源が途絶えている。  これだけの膨大な魔力、魔術炉心を持ちながら、炉心を起動させるだけの魔力がない。  ―――浮上する。    静止したガソリンの海。  いかな膨大な魔力の原液だろうと、それだけでは意味がない。燃やすには火が必要だ。どんなに小さな火でも構わない。魔力を送る路さえ繋がれば、この炉心は活動を再開する。    ―――その為に。  人智を超越したモノが目を覚ます。  湖面に走る幾重もの〈路〉《みち》が渦を巻く。  赤い大気が柱となって乱立する。  あるいは、雷雲の〈最中〉《さなか》とはこういったものなのか。  荒れ狂う波音はあまりに重く巨大な為、とうに聴覚では知覚できない。  大きすぎるものが見えないように、その咆哮は無音に等しく。  灼熱の炉心から現れたソレは、およそ人間が抱く、あらゆる脅威の具現だった。    ―――曰く。  〈彼〉《か》の王はブリテンを象徴する赤き竜。  人の身でありながら幻想の血を宿す、貴き星の落とし子であると。    〈竜〉《ドラゴン》。  数ある幻想種たちの象徴であり畏怖である君臨者。  時に魔となり時に神として現れる万獣の頂点。    それがセイバーの無意識に在るもの。  最優のサーヴァントの名に相応しい、規格外の“正体”だった。  大釜が開かれる。  あまりにも凶悪な牙が視界を埋める。  抵抗は無意味だ。  防ぐ事など人間程度の虫には出来ず。  逃げる事など、人間程度の知恵では思いもつかない。 「―――、あ」    それほどに飢えていたのか。  本来なら取るに足りない、塵ほどの餌を、ソレは血走った目で噛み砕き―――                   言語、を、絶、した。    ―――思うに。  何故、〈食卓〉《テーブル》の料理は生きていないのか。  言うまでもない。  〈生きていては耐えられない〉《・・・・・・・・・・・・》。  新鮮な方が美味だと判っていながら命がないのは、一重に、〈痛覚〉《いしき》があってはあまりにも惨い為。  つまり。  食用の肉は、あれはあれで、生命の尊厳を守っている。    湧き上がる悲鳴と憤怒。  自分が何者かも忘れ〈獣〉《けもの》のように咆哮する。  苦しみを訴える。  憎しみを募らせる。  むき出しの感覚で抵抗する。  かみ砕かれたまま、〈磔〉《はりつけ》の罪人のように慈悲を請う。  意識は霧散した。  あらゆる目的と意味を手から落とした。  正気を保つなど、遠い創世の出来事のよう。   「―――――――――」    あまりに強大な痛みと重圧。  ……そうして。  この〈偉形〉《いぎょう》を怪物としか捉えられなくなった瞬間。    ……この地獄を知りながら。  耐えられると信じて、頭を垂れた、彼女の姿が甦った。 「――――――、」    苦痛の意味を思い出した。    苦悶の意義に奮い立った。    己は何の為にこの場に来たのか、文字通り痛感した。 「――――――」  大きく息を吐いて、抗いを放棄する。  戦うべきは竜の牙ではなく、内側で爆ぜる痛みである。  痛みから逃れる為に来たのではない。  おまえは、彼女を痛みから救う為に、幾度となく守られた信頼に応える為に、    ―――こうして。  戦う術のない自分に出来る、最大の返答をしに来たのだ。  ……もはや形容できる痛みはない。  砕かれる意識に手を伸ばす事もない。  眠るように静かに、しかし刃のように意識を研ぎ澄ませる。  ここでは永遠は一瞬だ。  ……なら。いかな痛みとてわずかでも耐えられたのなら、決して、この意識が消え去る事はない。    よし―――それでは。                  私は、一欠片の恐れもなく。      この痛みを、戦う貴方に捧げましょう。    ―――痛みは瞬く間に消え去った。  赤い竜の姿はなく、意識は段々と浮上していく。  失った分、軽くなったのか。  水面に戻るように、意志に反して、この炉心から離れていく。  でも待ってほしい。  その前に、確かめなくてはいけない事が――― 「――――――、ああ」    なんて温かい。  炉心は低い響きを帯び、黄金に燃えあがる。  緻密な魔術回路は七色の輝きを帯び、循環を開始した。  炎は灯った。  未熟な魔術師でも、彼女の主として、きちんと役目を果たせたのだ。    舞い上がる風に身を委ね、流されていく。    遠い記憶を垣間見る。    剣を持つ姿と、草原に踊る姿。    そのどちらを、己は懐かしいと思ったのか────   「………………」  目蓋に陽射しを感じて、ゆっくりと目を開ける。 「――――――」  おぼつかない意識のまま身体を確認する。  手足は健在。体にもこれといった傷はない。  ……耐えられた、という時点で痛みそのものも消えたのか。  肉体は当然で、〈後遺症〉《トラウマ》になりかねなかった精神の傷も癒えている。 「……ぁ……シロウ」  弱々しい声が下から聞こえた。 「……?」  それが誰のもので、今がどんな状態なのか、しっとりした肌触りで一気に氷解した。 「っ、て―――!」  ベッドの上にはしどけない姿のセイバーと、膝を抱いて眠る遠坂。  遠坂の方は……問題ないとしても、セイバーはあの格好のまま、俺の身体の下敷きになっていたのだ。 「お、おはよう、セイバー」 「はい。おはようございます、シロウ」  ぎこちない挨拶。  セイバーはゆっくりと体を起こし、ブラウスの前を直している。  ……まいった。お互い妙に意識してしまって、視線を合わせられない。 「も、もう起きられるようになったんだ、セイバー」 「はい、魔力の供給を受けられるようになりましたので」  ……いつものセイバーに戻ったようだ。  背負って来た時の、今にも消えそうな弱々しさはない。 「そうか、よかった……成功したんだ、魔術回路の移植は」 「はい、ですからその……服を着て頂けませんかシロウ。その格好のままだと、私もなぜか話しづらい」  自分の格好、と言われて、視線を下ろす。 「あ―――そうか、そうだよな、そうだった!」  慌てて、丹念に畳まれた上着に手をかける。  こんなにちゃんと折りたたんでくれたのか、遠坂は……って、違う、自分でやったんだ。  なんでこんなに念入りに――― 「…………ぁ」  昨夜の儀式を、鮮明に思い返す。  セイバーに同調して、その奥底に魔術回路を移植した。  セイバーの体調は元通りのようだが、こちらの体はどうなっているんだろうか。 「――――――」  遠坂は魔術回路を失えば身体も精神も保たないかも、と言っていた。が、それほどのダメージはないし、大きな喪失感もない。  ……少しばかり怖かったが、直接自分の魔術回路を確かめてみる。  どれほど失われているか直視するのは恐ろしいが、バーサーカーとの戦いが控えているんだ。  現状は正しく確認しておかないと。 「…………あれ?」  ……なんというか。  なんとなく魔術回路全般の動きは重くなっているのだが、目に見える部分での損傷はなかった。  あれだけかみ砕かれたというのに、俺の魔術回路はまったく健在。  とりあえず、“強化”を使う程度なら何のマイナスもなさそうだ。 「……そうか、これって」  恐らくだが、普段使わない〈回路〉《もの》からごっそりなくなったのではないか。  俺が強化の為に起動させる回路は一から四つ程度。もともと大がかりな魔術を使えない俺は、回路をフル稼働させた事はない。  今回セイバーに移植した回路は、その滅多に使わない回路であったらしい。 「…………シロウ?」    目を閉じて状況を把握する。  ……強化の魔術行使には何の支障もない。  だが体全体を襲うこの気怠さ、水の中にいるような不自由さは、明らかに“全体としての能力”が落ちたせいだ。    その代わりに、体の奥底で大事なモノに繋がっている感触がある。  何処から何処にと明確に言えないが、セイバーに繋がる微かなライン。  それが失われた回路の代わりに得た、温かく大きなモノだった。 「―――申し訳ありません、シロウ」    背中にセイバーのすまなそうな声を聞く。 「シロウの回路を得る際に、必要最小限に〈止〉《とど》める様努力はしました。  ですが、その最低限の量ですら人から得るには多すぎた。もしやシロウに消せない傷跡を残してしまったかと思うと謝罪の言葉も見あたりません。  これは私の不覚です。私がかくも力足らずでなければ、シロウには―――」 「そんな事はない。セイバーは謝らなくていいんだ。  そもそもの原因は、俺が魔力の供給を出来ないでいて、セイバーに迷惑をかけていたからだろ。  でも、それもこれで解決した。これからはちゃんと魔力の供給が出来る。  ……ああ。これで本当に、胸を張ってセイバーのマスターだって口にできる」 「ですが、シロウ……」 「俺の魔術回路の事は気にしなくていいよ。どうせ使わないものみたいだし、むしろ無い方がスッキリする」 「………………」  セイバーの顔色は明るくない。  ……まいったな。こうなってしまうと、なんて言ったらいいのか判らない。  セイバーが回復したこと、俺が魔術回路を失ったけども生き延びたこと。  セイバーの中の魔術回路、光の風と幼い日のセイバーの夢。そして、あんな露わな格好で接して、二人して朝まで――― 「――――――」  落ち着け、落ち着け。  さっきまでのは生き延びる為の儀式だったんだ。  ……心を静めないと。こんなんじゃ、これから向かう戦いに不覚を取りかねない。 「…………ん………」    寝息のリズムが途切れ、声が上がる。  遠坂も目を覚ました様だ。 「お、おはようございます、凛」 「よ、よう。遠坂、おはよう」  髪がごそごそ動いて、顔が上がる。  寝覚めが悪い遠坂はぼんやりと、別人みたいにぱりっとしない。 「さんきゅ、遠坂。ちゃんと成功したぞ」 「はい、私の魔力の補充は出来ました。ですがその代わりシロウに……」 「いや、なくなったのは三割ぐらいだと思うから大丈夫、これくらいならなんとか」 「さ、三割ですか……!?  なんとか最小に〈止〉《とど》めたというのに、それでも三割とは……く、我が事ながらなんと強欲な―――」 「強欲かあ。そうだな、はらぺこだったにしても、もうすこし行儀良くしてほしかったなあ」 「っ―――!」  遠坂が加わったおかげか、よそよそしかった雰囲気がなくなっていく。  ……ああ。これで、本当に元通りだ。 「そう、じゃあ――いいわね」    ふぁ、と遠坂はあくび一つして立ち上がってた。    決戦の時は近い。  物言わぬ木々の向こうには、バーサーカーとイリヤスフィールが控えている。  あの死の旋風を打ち破らなければ、この夜に交わした多くの意味さえ失うだろう。  ……胸の奥に出来たセイバーとの繋がり。  これを守り抜く為にも、俺たちは、最強の敵を打ち破らなければ―――  長い廊下を抜け、門をくぐり抜ける。  ―――信じがたい事に、ここは本当に城だった。  深い森の中に隠れた古城。  周囲は見渡すかぎりの森で、遠くにはビルはおろか空さえ見えない。 「こっちよ。三時間もすれば国道に出られるから、それまで走って」 「――――」  ……三時間か。正直、体はそれほど保つかどうか。  疲れはないが、痛みは動けば動くほど強くなっていく。  せめて休めれば熱も引くのだろうが、今はそんな余裕はない。 「士郎、早く」  遠坂の声にも余裕はなかった。  アーチャーにあんな指示を下したのは遠坂だ。  冷静に見えるが、あいつの心は後悔に満ちている。 「分かってる、すぐに追い付く。セイバー、急ごう」 「ぁ……はい。急ぎましょう、シロウ」  俯きながら答えて、セイバーも走り出した。    木々の合間をすり抜けて遠坂に続く。  隣りで走っているセイバーの息遣いは、目に見えて乱れていた。  闇で隠れて見えないが、よほど苦しいのだろう。    ……これ以上はもう、放っておく訳にはいかない。 「ぁ――――」    がくん、とセイバーがバランスを崩す。  そのまま地面に倒れそうになる彼女の体を、横から強引に引き留めた。 「ここまでだ。これ以上は無理だぞ、セイバー」 「な……何を言うのです、シロウ。  この程度の苦境、今まで何度も経験してきました。私はまだ、十分に走れます」 「なに言ってんだ。何度経験していようが、苦しいものは苦しいだろ。いいから、少しは弱音を吐けってんだ」  引き留めた腕を引く。  セイバーが軽い、という事もあるのだろう。  思っていたよりあっさりと、セイバーを両手に抱きあげる事が出来た。 「え―――な、何をするのですシロウ……!」 「なにって、しばらく休んでろ。そんな顔で走られてちゃ、こっちが先にまいっちまう」 「っ……! 無礼な、離しなさい! この程度で私が倒れるとでも思っているのですか……!」  抱き上げられた状態で暴れるセイバー。  だが、その抵抗は微弱すぎた。  こっちの胸を突き放そうとする手はか細く、あまりにも力がない。  ……それで、彼女がどれほど弱っていたかを痛感した。  あのセイバーが、抱き上げた人間を突き放せないなんて、思ってもみなかった。 「何を考えているのですか、シロウ! このような事、いくらマスターと言えど許しません……!」  顔を真っ赤にしながらセイバーは暴れている。  ……まあ、確かに。  騎士として今の格好は恥ずかしいのだろうが、今はそんな体面を気にしている場合じゃない。 「うそつけ。俺を振りほどけないぐらい弱ってるくせに、大丈夫な訳がないだろ。いいから大人しくしてろ、マスターとしての命令だ。  それでもきかないっていうんなら、令呪を使うしかなくなるぞ」 「な――――ひ、卑怯な。こんな事で令呪を使うなど、そんな無意を容認できる筈がない」 「なら大人しくしてろ。急がないと遠坂に置いていかれる」 「……………………」  観念したのか、セイバーはしぶしぶと黙り込んだ。    ――――今はそれでいい。  暴れてさえくれなければ、なんとかセイバーを抱えたまま走って行ける。    視界が点滅する。  走れば走るほど血の流れが加速するのか。  のど元までせり上がる吐き気を抑えながら、歯を食いしばって森を抜ける。 「は――――はあ、はあ、は――――」    呼吸が乱れるが、出来るだけ苦痛は押し殺した。  何故って、理由は一つだけだ。 「シロウ、降ろしてください。  やはり私も走りますから――――」    なんて、少しでも辛そうにすれば、セイバーが不安げに見上げてくるのだ。  ここで足を止める事はできない。 「ふん、甘く見るな。セイバー一人どうって事ないぞ。  壊れたストーブに比べれば、女の子一人分なんて空気みたいなもんだ」 「ですが――――」 「いいから黙っててくれ。ギブアンドテイクって言葉知ってるか? 今まで助けてもらったんだから、これぐらいしないと釣り合わないんだよ。  ここらで借りを返しておかないと、明日から守って貰えないだろ」 「いえ、そんなコトは、ないのですが……私の方こそ、これでは釣り合いが取れなく、なる」 「そりゃ良かった。んじゃ、きついのは今回限りだな。  俄然やる気が湧いてきた」  はあ、と大きく息を吐いて地面を蹴る。  遠坂のヤツ、こっちがセイバーを抱き上げてるって知ってるクセに、狭い道ばかり選んでいきやがる。  セイバーが軽いからいいけど、これじゃ付いていくだけで精一杯だ。 「ほら、喋ると舌を噛むぞ。黙っていてくれた方が俺も助かるんだから、大人しくしていてくれ」 「――――はい。それでは、マスターの指示に従います」  言って、セイバーは全身の力を抜いてくれた。  今まで遠慮していたから抱きづらかったが、これなら少しは楽になる。  あとの問題は―――セイバーの体と、俺の体が保つかという事ぐらいだ。    ……もうどのくらい走ったのか。  三十分程度の気もするし、一時間近く走っている気もする。   「はぁ―――はぁ、はぁ、は――――」    いや、走るのは辛くない。  そんな柔な鍛え方はしていないし、セイバーは本当に軽いんだ。    ただ、今は――――    体の中身が、どうかしてる。  動けば動くほど目眩がして、吐きそうになる。  場所も森だし、蛇に咬まれて毒が回っている―――というのなら、少しは納得がいくのだが。 「く――――この、程度、で――――」    こんなもの、死に至る痛みじゃない。  胸が重くて、何かを吐き出しそうになっているだけだ。  そんなもの、この手に抱いた熱さに比べれば問題にもならない。    ……セイバーは眠るように瞳を閉じている。  安心して休んでいるからじゃない。  セイバーの体は、刻一刻と熱くなっている。  真冬だというのに服は汗に濡れて、俺に見つかるまいと、俯いて乱れた呼吸を隠している。 「まずい――――これじゃ、ほんとに」    あの夜の繰り返しだ。  ライダーに宝具を振るった後、衰弱して倒れ込んだセイバー。  ……セイバーはあの夜から何も変わっていない。  今まで話せていたのは、それこそ消える前の、一瞬の煌めきではなかったのか。 「は――――はぁ、はぁ、はぁ、は――――!」    それを否定するように走った。  自分の体などどうでもいい。  家に帰ればなんとかなるのだと信じて、懸命に足を動かし――――    倒れそうになって、咄嗟に木に背中をぶつけて踏みとどまった。 「っ――――――――」    ……血の味がする。  吐き気の正体はこれだったのか。  わずかな量だったからセイバーにはかからなかったが、胸にはまだ吐き気の元が渦巻いていた。 「……ま、考えようによっちゃマシだけど……」    胃の中のモノを嘔吐した日には、セイバーには別の意味で怒られそうだ。  というか、セイバーなら本気で斬り殺しにかかってくるかもしれない。 「は――――」    ……うん、それはおかしい。  愉快な想像をしたら、少しだけ元気が出てきた。  よし、それじゃあ休憩おしまい、と。 「いいえ。無茶をするのはここで終わりです、シロウ」 「セイバー……?」  眠っていなかったのか。  セイバーは俺に抱かれたまま、そんな事を口にした。 「……なんだよ。終わりって、何が」 「ですから、シロウは一人で逃げるべきです。その体では、私を連れて行く事はできません」 「な――――そんな事あるかっ……! 今のはただ転んだだけだ。こんなの、別にどうってコト――――」 「あるわよ。そんな死人みたいな顔でなに言ってるんだか」  ―――って。  何を思ったのか、今まで先行していた遠坂が戻ってきていた。 「ふん、強がるのは勝手だけどね。いくら夜の森だからって、口元の血ぐらい隠しなさい。それじゃセイバーに心配されるのも当然よ」 「……良かった。凛がいるのなら話が早い」 「でしょうね。セイバーの言いたい事は分かるわ。時間もないコトだし、そこの大馬鹿にも判るようにさっさと言ってやって」  遠坂の言葉に頷くセイバー。 「……はい。凛、私をここに置いていってほしい。  私を連れていては逃げ切れないし、なにより―――もう、長くは保ちません」 「――――――――」    何を馬鹿な、とは言えなかった。  彼女の状態が悪化している事だけは、嫌というほど判っていたのだ。    セイバーは、長くは保たない。  このままでいれば朝は迎えられないと、漠然と気づいていた―――― 「そう。で、士郎は? このままセイバーと心中する?」 「―――まさか。そんな気はないし、セイバーは消えさせない。セイバーが消えるっていうんなら、令呪でもなんでも使って――――」 「オーケー、それならいいわ。じゃあ両方とも解決しましょ。  セイバーを助けて、ついでに三人でこの森から脱出する。今後の方針はそれで決まりね」 「…………は?」  あたまのなかがとうふになる。  遠坂はときおり、とんでもなく難しいコトを、さりげなく簡単に言う。 「ちょっと待て……! そ、そりゃたしかにそうしたいけど、それが出来ないから――――」 「いいからこっちに来て。言っとくけど、わたしも簡単にセイバーを死なせる気はないわ。  ……ええ、この機会は逃さない。貴女にはその責務を果たしてもらう。士郎もいいって言ったし、そうしても構わないわよね、セイバー?」  遠坂はセイバーに、意味ありげな視線を向ける。   「………………………………」    セイバーは答えず、気まずそうに目を伏せるだけだった。  はぁい。いまさら言うまでもないと思うけど、バッドエンドで苦しむ貴方を慰める砂漠の一滴、タイガー道場よ。 今回は記念すべきラッキーナンバー第七回。 なんと、シロウがわたしのものになった記念日なのでしたー!  はい、皆さん拍手で迎えて迎えてー! わーい。おめでとうイリヤちゃーん。 って、迎えるかこの悪魔っ子――! まったく貴女って子は! 前回、士郎ヘルめぐりの案内人役ばかりで落ち込んでるって話はどうなったのよう! えー? べっつにぃ、今回はシロウが自分でうんって言ったんだもの、わたしのせいじゃないわ。 それにシロウも幸せに決まってるわ。これからはぁ、わたしとセラとリズと、四人で仲良く暮らしていくんだもの。 む。言われてみればそこはかとなくパライソ。  年端もいかぬお姫さまに囲われるっていうのも耽美でいい感じ? ええ。タイガやリンやサクラにはどうあっても出来ない、わたしだけの特権よ。 そういう訳でぇ、シロウはわたしと堕落した蜜月を過ごすのでしたー! ま、早い話、没になったが。 う……先輩、きついっす。それは言わない約束っす。 思い上がるなブルマ。 あ。こらそこ、一番弟子をいじめない! く、また逃げられた……どうでもいいけど何者なんだ、一体。  あ、イリヤちゃん大丈夫? 押忍、気合入ったっす。先輩の言葉はいつも深いっす。 ……なんか師匠以上に信頼関係を築かれているような。  あー、ところで弟子一号。よく人形にするとか言うけど、まさか、その、その人形って、違うわよね……? あら。タイガ、怪談話は嫌いなの? 生き人形の話とかとても好きかしら? それじゃみんな、今回のタイガー道場はおしまいでーす! 今回も選択肢間違いだから、直前に戻ってやり直してねー! あ、誤魔化してる。師しょー、弟子の話は聞くべきだと思いまーす! きかぬ! 怖い話と競馬の話はだいっ嫌いでござる! もう。大丈夫よ、これはただのぬいぐるみだから。 人形に関してはずっと後の話で出てくるから、その時にちゃーんと説明してあげる。 みんな、それまでは我慢して、セイバーやリンに付き合ってねー! 押忍! 些細な選択ミスでねこ地獄にまっしぐらな貴方を救う修練場、タイガー道場である! 押ー忍、まさに絶好調、今ノリにノってる弟子一号でーす! キャットアンドヘブン! あぅぅぅう……! なんでフルスイングするのよぅタイガー!  わたしなんか悪いコトした!? だまらっしゃい! タイガー道場も八回目ですが、今までイリヤちゃんが士郎を殺めた数、実に五回!  大量殺人にも程があるでしょ実際! えー。こんなの可愛い方だよー。  だって最終的に、一番シロウを殺す回数が多いのはぁ、 てい、ネタバレ禁止剣。 ふーんだ、当たらないよーだ。  だいたいね、リストじゃわたしは最下位なんだから。  ほら、ちゃんと見なさいよこの手帳。 うわ、こんなキラーリストが出回ってたのね。  ……って、ほんとだ。ちょっと、なによこのウソ記録。  なんでイリヤちゃんに"いい子で賞"なんてついてるの? それはわたしの立ち回りが優雅だからよ。  暇な人は、わたしがシロウをやっつけるエンドを残らずチェックしてみてね。 最殺賞さんナンカとは微妙に違うコトに気がつくから。 微妙な違い……? ま、細かいコトはどうでもいいか。  考えると疲れるし。 さて、今回のタイガー道場ですがっ。  選択自体は間違えたものではないと思うけど、どうしてこんな結果になっちゃったのよ弟子一号。 純粋な魔力不足よ。  セイバーはエクスカリバーを使えるほどには回復したけど、宝具に注ぎ込むだけの魔力がなかったのね。 あんなへっぽこなエクスカリバーじゃ、バーサーカーの命二回分も怪しいわ。 なるほど。今回は賢明であったが故に負けてしまった、と。 押忍。受けに回っても死、攻めに回っても死の無情なタイトロープっす。 相変わらず微妙なバランスね。 微妙っていうか、キャラ性能的に詰んでる感じね。 にゃるぺそ。じゃ、今回の道場はここまで。  直前の選択肢に戻って、若さ故に無謀溢れる選択肢を選んでみてねー! 日が落ちて夜になった頃、雨はすっかり止んでいた。  朝の話通りなら、夕食を済ませた後は町に出てマスターを捜す事になるのだが――― 「その前に、確かめておかないと」    セイバーの意思。  彼女が何を目的にして戦っているのかを。 「……と言っても、正面から訊いてもダメだな……出来るだけさりげなく聞き出さないと」    ―――よし、と気合いを入れて立ち上がる。  とにかく居間に向かおう。  夕食前の穏やかな空気を盾に、セイバーの牙城をうち破れればいいのだが―――   「例えばの話だけど。  もし聖杯戦争に勝ち残れたとしたら、どうしようか」    と。  色々考えてもいい案が浮かばなかったんで、単刀直入に切り出してみた。 「え?」 「は?」 「ん?」    三者三様、異なる仕草でおんなじような反応をする。 「―――だから勝った後の事だよ。聖杯を手に入れたらどうするかって話」 「そんなの説明されなくても分かるけど……どういう風の吹き回しよ。アンタがそんなコト言い出すなんて」  頷きこそしないものの、セイバーとイリヤも同意見っぽい顔をしている。  ……やっぱりいきなり切り出すのは不自然だったか。  けど、それでも今回はしらを切り通さなければ。 「ああ、いや―――ただの思い付きだ。  ほら、残ったサーヴァントはあと三人なんだから、そういうコト考えてもおかしくないだろ。数が減って、明白に終わりが見えてきたんだから」 「ふーん……ま、言われてみればそうよね。  いくら士郎だって、この状況ならそれぐらいは考えるか。好きで始めたコトじゃないって言っても、命を張ってる以上は報酬ぐらい気になるだろうし」 「そ、そうそう。一応それぐらいは考える」  ……遠坂が理屈好きで助かった。  話に筋が通っていれば、それも可能性の一つとして考慮するのが遠坂のいいトコロだと思う。  とりあえず、この瞬間だけの話だが。 「それで、遠坂はどうなんだよ。もし聖杯が手に入ったらどうするんだ?」  出来るだけ自然に問いかける。 「……そうね。わたしは勝つ事しか考えてなかったから、聖杯に叶えて貰うような目的はないわ。  とりあえず聖杯を手に入れるけど、その後のコトは考えてなかったな」 「――――――――」  負けたくないから戦うってコトか。  ……いや、まあ、そんなコトだろうとは思ってはいたが、まさか本当にそうだとは。 「呆れた。いちばん物を考えていそうで、実はいちばん考えてないのよね、リンは」 「ふん、言うじゃない。じゃあそういうアンタはどうなのよ、イリヤスフィール」 「そんなの知らない。聖杯はわたしのだから、誰にも渡すなって言われただけよ。  もともとわたしの物なんだから、そんなものに興味あるわけないじゃない」 「……ふうん。ようするに聖杯より聖杯戦争の方が楽しいってコト?」 「当然よ。わたしは勝つためだけに来たんだもの。聖杯の使い道なんてどうでもいいわ」  ……似たもの同士、というのか。  二人は何を言うでもなく、むむ、とお互いを睨み、なんともいえないシンパシーを得ているようだ。 「……………………」  セイバーは何も言わない。  彼女には、この話に参加する意思はないのだろう。  だが―――どんなにセイバーが嫌がろうとも、この問いだけは、今しておかなければならない事だ。 「二人の目的はなんとなく判った」    出来るだけ自然に頷いて、   「じゃあ、セイバーは?」    口を閉ざしているセイバーに声をかけた。 「…………………………」  セイバーは答えない。  ……その様子がただ事ではないと気づいたのか、言い合っていた二人もセイバーへ視線を向ける。  時間に数えるのなら、それは一分ほどの沈黙だったろう。 「今更語るまでもありませんが、聖杯を手に入れるのは私の義務です。  聖杯がどれほどの許容範囲を持っているかは知らない。  ですがそれが聖杯である限り、私は聖杯を手に入れなくてはなりません。  ……そして無論、聖杯が私の望みを叶えられるなら、望みを叶えるだけですが」    ―――言った。  確かに、セイバーは自分の望みがあると言った―――! 「そうか。で、その望みってなんなんだ?」  高鳴る心臓を抑えつけて、平然と質問する。 「――――――――」  セイバーは答えない。  ……それならそれでいい。  答えられない、というのなら、それは利己的なコトっていう可能性が高い。  セイバーの性格から言って、自分の為だけの願いを口にするのは憚られるのだろう。  だから―――ふざけた願いを言われるよりは、いっそ黙っていてくれた方がいい、と。    そんな弱音が、脳裏を占めた。 「なに、それってそんなにむずかしいコト?  サーヴァントの望みは現世に蘇る事だってお爺さまは言ってたわ。英霊たちは二度目の生を得るために聖杯を求めるんだって。セイバーだってそうじゃないの?」  その言葉に、思わず顔をあげた。  それがセイバーの望みなら、なんの問題もない。  だが、それは。 「―――いいえ、二度目の生に関心はありません。  私の目的は聖杯を手に入れる事のみです。  もともとこの身は、聖杯を手に入れる代償として、サーヴァントになったのですから」    ――――きっと、そうだろうと分かっていた。  あの〈聖剣〉《ちかい》を手にした彼女が、二度目の生などを求めるワケがないのだと。 「……ちょっと待って、聖杯を手に入れる事と引き替えにサーヴァントになった……? それって英霊になる時の契約の事?」 「はい。この身をサーヴァントとする交換条件として、私は聖杯を求めたのです」 「ええー!?  じゃあなに、貴方って聖杯を手に入れる為に呼び出されたサーヴァントじゃなくて、聖杯を手に入れる為に、自分からサーヴァントになったっていうの……!?」  よほど驚いたのか、遠坂はそうまくしたてた後、む?  と自分の言葉に首を傾げた。 「……つまりセイバーは英霊だから呼び出されたんじゃなくて、自分からこの戦いに参加したってコト?」 「けどサーヴァントである以上、英霊として奉られているんだから、自分からこっちの世界に関わるなんて出来っこないわよね……じゃあセイバーはサーヴァントのルールから大きく外れて……るってワケでもないし。  ああもう、ちょっと待ってね、いま整理するから」 「いいえ、整理するまでもありません。凛が言った事は正しい。  私は他のサーヴァントとは違います。  私はまだ、完全にサーヴァントになった訳ではないのですから」 「完全に、サーヴァントになっていない――――?」  完全にサーヴァントになっていない、とはどういう事か。  いや、そもそも―――サーヴァントになる、とはどういう事なのか。  セイバーは言った。  聖杯を手に入れる代償として、サーヴァントになる事を受け入れたのだと。    つまり、それは―――― 「……ちょっと待ってくれ。  サーヴァントっていうのは、まさか―――何かを手に入れた代償として、無理矢理戦わされてるっていうのか……?」 「いいえ、それは違います。もともとサーヴァントというのは、この聖杯戦争だけの特別な使い魔です。  サーヴァントとは英霊の特性を利用した召喚魔術。  もとは英霊なのですから、サーヴァントに『パンを得た代わりに労働をする』という決まりはありません」 「……そうね。サーヴァントシステムってのは、もともと守護精霊である英霊を利用したものだもの。  もとから有るものを使ってるワケだから、サーヴァント側にもマスター側にも、代償として支払う物はない」 「けどサーヴァントになる前―――人間から“英霊”になるには代償行為が必要だって聞いた事がある。  英霊っていうのは人間の守護者でしょ。  彼らは死した後も人間の為に働いて、人の世の滅亡を水面下で防ぐのだとか」 「で、そういった守護者になるには、生前、まだ英雄として現役だった頃に、何かと取引をしなくてはならない。  それが英霊の契約―――世界に、死後の自分を明け渡す儀式」 「交換条件によって財を得た者が英雄となり、英雄としてやりたい事をやった後、死後は〈英霊〉《サーヴァント》として貰った財を返す。  つまり英雄になる為に借金をして、死んだ後は英霊になることで借金を返すってコト。  サーヴァントっていうのは、その返済金額を横から〈マスター〉《わたしたち》に掠め取られて使役されてるってワケ」 「む―――つまり何かとの取引で人間は英雄になって、英雄にして貰ったお返しとして、死後は〈英霊〉《つかいま》として使役されるのか。  じゃあセイバーが英霊になった交換条件が―――」  聖杯、なのか。  生前に聖杯を手に入れたセイバーは、その代償として、死後も英霊として守護者なんてモノを続けている―――? 「……それこそおかしい。セイバーは聖杯が目的だって言った。けど、それはとっくに手に入れてる筈だ。セイバーは聖杯と引き換えに英雄になったんだから」 「―――いいえシロウ。私はまだ聖杯を手にしてはいないのです。  アルトリア―――アーサー王の望みは、生きているうちに聖杯を手に入れる事だった。  私は死ぬ前に聖杯を手に入れなければならなかった。  その為に、もし聖杯が手に入るなら、死後は守護者になってもよい、と条件を飲んだのです」 「凛の言う通り、人間は英雄になる為に世界と契約をし、人間以上の力を授かり、その代償として死後の自分を売り渡します。  ……ですが私は、英雄になる時に世界の後ろ盾を必要としなかった。幸いな事に、アーサー王は英雄になる為の支援を必要としなかったのです」    ……英雄になる為の支援を必要としなかった。  つまりセイバーは、セイバー自身の力で、人々から英雄と呼ばれる存在になったのか。 「……ふーん。けど貴方は英霊としてここにいる。  アーサー王は英雄になった後で、世界に違う交換条件を求めたってコト?」 「……はい。私は最期の時に、どうしても聖杯が必要になった。聖杯がなければ我慢できなかった。叶えなくてはいけない願いが出来てしまった。  だから―――英霊の契約をしたのです。  私の手に聖杯が握られるなら、死後は英霊となってあらゆるモノの為に剣を執ろう、と」 「――――――――」    最期の時に、聖杯の奇蹟を願った。  ……今ならその気持ちが分かる。  血塗られた丘。  何十という剣の墓と騎士の亡骸。  誰も看取る者のいない、裏切りで終わった王。  ……その最期は、あまりにも報われなかった。  それまでどんなに自分の願いを持たなかった彼女でも、あの時ばかりは思った筈だ。          ここでは死ねない。  こんな終わりを望んだ訳じゃない。  だから―――聖杯の力で、自らの延命を望んでしまっても、それは恥ずべき事じゃない――― 「……そう。つまり死後の自分を売り払ってまで、聖杯を手に入れられる手段をとったのね。  けどセイバー、貴方の出した条件っていうのは生きているうちに聖杯を手に入れる、でしょう?  なら――――」 「はい。私が生きている内に、聖杯探索は為し得なかった。私は―――アーサー王は、最期まで聖杯を手に入れる事が出来なかったのです。  ですが、それでは契約が成り立ちません。  世界が私を〈英霊〉《サーヴァント》にするには、アーサー王が生きているうちに聖杯を与えねばならない。  ですから―――」 「――――アーサー王は、聖杯を手に入れるまで死なない。いいえ、死ぬ事ができない。  それじゃ、貴女」 「……はい。アーサー王と呼ばれていた私は、死を迎える一瞬で止まっている筈です。  時間軸から見れば私はとうに滅びているでしょう。ですがそれでは契約が果たせない。  アーサー王は死の直前でサーヴァントとして召喚され、聖杯を手に入れた後、死ななければならないのです」 「―――時間が止まってるんじゃなくて、時間に止まってる状態か。  ……貴女がサーヴァントとして何度戦いを繰り返してもかまわない。最終的には聖杯を手に入れて契約を果たす事は決まっているんだから、その……」 「そうです。いつかは聖杯を手に入れ、私は契約を果たす。だからこそ、英霊になる前から“いずれ英霊化が決定している”という条件で、あらゆる時代に召喚される」 「それはこの町の聖杯だけではありません。  聖杯が手に入る可能性があるならば、私はどの戦場にも召喚される。  そうしていつかは聖杯を手に入れ、私の望みを叶えた時こそ、死の直前で止まっていた私の時間は進みます。  アーサー王は最期の時を迎え、聖杯を手に入れた代償として、こうして英霊となるのでしょう」 「……死の直前で醒めない夢を見ているようなものか。  今回の聖杯戦争もセイバーにとっては夢の一つ。  そして、夢から醒めるのは聖杯を手に入れた時だけ」 「凛はシロウが未熟だから私を霊体化できない、と言いましたね。けれどそれは違う。私は未だ死者ではないから、霊体にはなれないのです。  半端な扱いですが、これでも位置づけは生者ですから。  ……前回の聖杯戦争でも私はそうだった」  ……謝るようにセイバーは言う。  霊体化できないのは俺が未熟だから、と嘘をついていた為だろう。 「――――――――」  そんな事、本当にどうでもいい。  それより聞かなくちゃいけない事がある。 「セイバー。未だ死者じゃないってどういう事だ。聖杯を手に入れるまで死なないってのは判った。  ……話の流れからいって、アーサー王の時代からずっと生き続けている訳じゃないってのも解る。  けど、そうでなかったら今のセイバーはなんなんだ。  本体の分身……って訳でもないんだろう?」 「はい。こちらに呼び出される『英霊』というのは、すべて“本体”の分身のような物ですが、私はまだその位置に達していません。  聖杯を手に入れるまでは、〈自〉《死》分の〈時代〉《直前》に止まったままで呼び出されている」 「凛の言った通り、アーサー王は時間という大河の上で停止している。  私はその位置から前か後ろかに跳んで、聖杯を求めた後、止まっている場所に戻っているのでしょう」  頭の中で図面を引く。  ……なるほど、図にしてしまえば簡単な話だ。  アーサー王は死の前で止まっている。  時間の流れは彼女が止まっていようが関係ない。  ただ流れ、こうして現在に至っている。  彼女は必要に応じて各時代に跳び、役目を果たして、止まっている自分に戻るだけだ。  この時、もし呼び出された時代で聖杯を手に入れてしまえば、彼女の時間は流れ、俺たちが知っている歴史通りに“死”を迎える。  ……となると、英霊というのはこういう存在なのかもしれない。  死亡した時点で時間の流れから外れた“倉庫”のような場所に移される。  そうして、求める声に応じあらゆる時間上に呼び出され、戻る事なくその場で消滅する。  こちらに出てくる英霊が“分身”というのもそういう意味だろう。    言うなれば細胞から作ったクローンだ。  生前の能力・記憶を完全にもった“英霊”は現世に現れ、そこで様々な知識を学ぶだろう。だがそれは無駄な事だ。    彼らには“本体”に帰る手段はなく、そこで消滅するのみ。  故に、あらゆる時代に同時に呼び出されようと、英霊の記憶に矛盾が生じる事もない。    “英霊”になった存在は、もうそこから変化する事はないのだろう。  新しい知識を覚えたところで、覚えた“自分”は役割を終えれば、帰れずに消滅するだけなんだから。    ……そういった意味で、セイバーは完全なサーヴァントではない。  なにしろ彼女は、呼び出された後も自分の時間に戻るのだ。  ――あの赤く染まった剣の丘、今にも息絶える直前の自分に。 「ちょっと待った。  じゃあなに、今回聖杯を手に入れたら元の時代に戻って、その時代で聖杯を使うってコト!?  それって過去の改竄じゃない! 時間旅行にしても並行世界の運営にしても、それは魔法の領域よ。そんなの出来るワケがないわ」 「それを可能とするのが聖杯でしょう。  そうして聖杯さえ使えるならば、私は〈英霊〉《サーヴァント》となってもいいと契約したのです。  聖杯を使う事でアルトリアという人物が消え去ろうとも、今の私が英霊となる事を代償として」  淡々とセイバーは語る。  だが、今のはヘンだ。  聖杯を使って望みを叶えるのはいい。  けど、なんだってその結果に、アルトリアが消え去るなんて言葉が出てくるのか。 「……なんだよそれ。聖杯を使う事でアルトリアが消える……? ふざけるなよ、そんなの。  セイバー。おまえは自分を―――」    あの丘で、独り静かに死を迎えようとしている少女を。   「―――自分を救う為に、聖杯を使うんじゃないのかよ」 「……? 何故そのような事を言うのです、シロウ。  私の望みは、国を滅びから救う事だけなのですが……」 「な――――――――――」    自分の顔が凍り付いていくのが判る。  セイバーの願いなんて判っていたクセに―――愕然と意識が白くなって、吐きそうになる。   「なん、で?」    それでも。  喉を絞って、ようやく、それだけ口にできた。 「何故も何もないでしょう。  私は国を守れなかった。国を守る為に王となったのに、その責務を果たせなかった。  その時に思ったのです。  ―――岩の剣は、間違えて私を選んでしまったのではないかと」 「ば――――」    バカな。  なんだって、そんな。 「……いえ、その迷いは常に私の中にありました。  私は王に相応しくないのではないか。  本当に選ばれるべき英雄は他にいたのではないのかと。  あの時―――聖剣を抜いてしまった時、国を救えなかった私より、国を救えた筈の相応しい王がいた筈です。  ……だから、もし聖杯の力で王の選定をやり直す事が出来るなら、その時に戻ればきっと―――」    ……その時に戻れれば、きっと。  彼女の国は、滅びなかったとでも言いたいのか。 「――――――――」    気が遠くなる。  そんなバカげたコトを本気で願ったセイバーに怒りを覚えて、そんなもの、一瞬にして通り越した。  たぶん、自分は呆然としている。  だってそうだろう。  セイバーの望みは自分の為ではなく、加えて、彼女の望みとは自分自身の消滅に他ならない。  あの聖剣があって、聖剣を抜いた王さまがいて、初めて目の前の少女は存在するのだ。    ―――それを無かった事にする、という事は、いま目の前にいる彼女が存在しないという事になる。    聖杯を使って彼女の望みを叶えたとする。  王になる前の少女、アルトリアという少女は一人の騎士として、その後の時間軸に生きるだろう。    けど、目の前のセイバーは?    仮と言えど、既に英霊として存在している彼女はその願いを叶えた後、ただ戦うだけの現象となって使役され続ける。    それを代償にして聖杯を手に入れたのだから、たとえアルトリアが王にならずとも、目の前のセイバーはこうして有り続ける。    過去や未来から切り離され。  あの丘で死に絶えるだけの、独りの孤独な王のまま、この先ずっと。 「――――――――馬鹿、か」    そんなのは許せない。  だって、そこには何の救いもない。  やり直して、本当に彼女以上に相応しい王がいて、そいつのおかげで彼女の国が長らえて、その事によって、誰より彼女自身が救われるとしても。    ――――それは嘘だ。    それで周りが幸福になったところで、戦い抜いた彼女の十年間を、嘘にする事だけはできない。 「違う―――そんな事は出来ない。  やり直しなんて出来ないし、しても意味はないんだ、セイバー」 「……シロウ?」 「―――そんな事に聖杯を使うな。  聖杯はセイバーが戦って手に入れるんだろう。なら、セイバーは自分の為にその奇蹟を使うべきだ」 「な……ですから、私は自分の為に使うと言っているではありませんか。  私―――アルトリアは、王としての責務を果たさなければ」 「っ……!」  だから、なんだってそんな事に、おまえだけが気づいていない――――! 「そんなの、おまえはもう十分すぎるぐらいに果たしてるじゃないかっ……! セイバーはあんなにも戦ってきた。裏切られても怖がられても負けなかった。あの丘で、最期まで剣から手を離さなかった。  だっていうのに、なんで―――死んじまった後もおまえだけが、そんな誓いを守らなくちゃいけないんだ……!」 「――――」  愕然としたセイバーの顔。 「あ…………」  ―――後悔しても遅い。  セイバーの過去を、俺が夢で見ている事は、口にしてはいけない事だ。 「――――――――」    ……重苦しい沈黙。  かける言葉も、返す言葉もない。  今は何を言っても逆効果だって、そんな空気ぐらい読みとれる。  それでも―――黙っている事はできなかった。 「……セイバー。俺、頑張ったヤツが報われないのはイヤなんだ」  そうでなければ意味がないし、あまりにも報われない。  ガキくさい理想論だって分かっているけど、人間ってのは頑張れば頑張るほど、幸せになれるのだと信じていたい。 「……他のマスターには負けない。  聖杯は必ず手に入れる。  ……だから、セイバーは自分の望みを叶えてくれ。  それなら俺は―――このバカげた戦いに、初めて意味を見いだせる」 「――――――――」  それが、今の自分の結論だった。  聖杯がなんなのかは判らないし、聖杯を得る事が正しいのかも判らない。    ただ、勝ち残る事で少しでもセイバーが救われるのなら、俺は全力でこの戦いに―――― 「!?」    重い鈴の音が響くのと、屋敷が闇に落ちたのは同時だった。  場の空気が一変する。  突然電気が落ちたというのに、俺もセイバーも遠坂も一言も漏らさず、感覚だけで周囲の気配を察していた。  重い鈴の音は止んで、居間はひたすらに無音だった。  だが。  何か、軽い物がこすれ合うような音が、さざ波のように響いてくる。 「……今の警告音、この屋敷の結界……?」    無言で頷く。  今の音はランサーが侵入してきた時と同じだ。  ならば、これは言うまでもなく―――― 「――――!」  音は多く、近くなってきている。  ……ガシャガシャという音。  誘蛾灯に群がる虫を想像させる。    音がしていないのはこの居間だけだ。  電気が落ちてから一分と経たず、居間は正体不明の音に取り囲まれていた。 「―――敵か。けどサーヴァントにしては、これは」    数が多すぎる。  俺だって魔術師の端くれだ。  周りを取り囲んでいる魔力が、複数の人間によるモノだってのは感じ取れる。    ざっと感じ取れるだけでも二十。  ……しかし、それにしたっておかしな軽さだ。  人の意思を感じない。  カシャカシャと音をたてているソレは、がらんどうの人形じみている。 「なぁんだ、やっぱり来たんだ。  いままでさんざんわたしから逃げ回ってたクセに、バーサーカーがいなくなったら飛んでくるんだもの。  ほんと、現金なサーヴァントね」    ―――と。  緊迫した俺たちとは裏腹に、イリヤはやけに落ち着き払っていた。 「イリヤ、判るのか!?」 「当然でしょ。わたしに判らないサーヴァントなんていないわ。外にいるのはキャスターで、なにかいっぱい引き連れてきてる。―――なんだ、竜の歯でくくった〈安物〉《ゴーレム》みたい」  あっさりと告げるイリヤ。  と―――同時に、耳障りだった音が止んだ。 「――――――――」  居間に置いておいた木刀を手に取る。  ……セイバーも遠坂も、こっちの出方を待っているようだ。  俺は――――      ―――キャスターはセイバーに任せよう。    今のセイバーを倒せるサーヴァントはいないし、なによりセイバーとキャスターの相性は抜群だ。  魔術師であるキャスターにとって、最高の対魔力を持つセイバーは天敵なのだから。 「セイバー、行ってもらえるか」 「はい。キャスターならば私一人で行くべきでしょう。  シロウの判断は正しい」 「―――よし。ここは俺たちだけで持ち堪える。セイバーはキャスターを倒す事だけに専念してくれ」    ―――奇怪な音がする。  廊下へ飛び出したセイバーが、キャスターの使い魔を打ち倒す音だろうか。 「……まだ増える。二十、三十、四十――――ちょっと、いくら雑魚だって言ってもこれじゃ」 「問題ないわ。竜牙兵なんて模造品で、竜の化身であるセイバーを倒せる筈がないもの。こんなの何百体いようとセイバーの敵じゃないわ」    ……音が遠ざかっていく。  セイバーによって打ち倒されたのか、屋敷を取り囲んでいた気配も少なくなっていた。 「………………」    イリヤの言う通り、キャスターの使い魔ではセイバーを止める事はできないようだ。  使い魔たちが居間に押し入ってこないのは、セイバーを食い止める事で精一杯だからだろう。 「―――さすがね。セイバー、キャスターを見つけたわ。  キャスターのヤツ、急いで使い魔を引き戻してるけどこれで終わりかな」  イリヤの言葉が本当なら、じき戦いは終わる。  一対一ならセイバーは負けない。  俺たちを守る必要のないセイバーは、容易くキャスターを斬り伏せる筈だ。 「浮かない顔ね。すぐに決着がつくっていうのに、納得いかない顔してるけど」 「そう言う遠坂だって、どこか気にくわないって顔だけどな」 「まあね。……ちょっと、上手く行き過ぎてるから。  セイバーの強さがキャスターの予想以上だったにしろ、なんの用心もなしに自分から仕掛けてくるかなって」 「……………………」    ……そうだ。  キャスターは自分からこの屋敷にやってきた。  ここにマスターがいる事を知っていたのなら、どのサーヴァントがいるのかも調査済みだろう。  ここにはキャスターの天敵たるセイバーがいる。  ……それを知っていながら攻め込んできたのは、つまり―――― 「音が止んだ……イリヤ、キャスターの気配は?」 「消えたわ。使い魔はまだ残ってるけど、残っているサーヴァントはセイバーだけよ」 「使い魔が残ってる……?  ……!? 士郎、腕……!」 「え?」  言われて左腕を見る。  それは、どういう事なのか。  契約の証である令呪が消えた。 「士郎、令呪使った……!?」 「いや。俺は令呪なんて使ってない」 「………………」  どういう事だ。  セイバーは問題なくキャスターを倒した筈だ。  なのにどうして令呪が消える。  ……いや、令呪が消えたところで契約が切れた訳じゃないから、それほど取り乱す事でもない。  令呪はマスターの言いつけを守らないサーヴァントを律する為のもの。  そんなもの、初めからセイバーには必要がなかった。  だから無くなったところで、俺とセイバーは今まで通りやっていける。 「……セイバー、帰ってきたわ。もうすぐここにやってくる」 「………………」    ……二人とも何をしているのか。  セイバーが戻ってくるというのに、なんだってそう、刺々しく警戒してなくちゃいけない。  ……扉が開く。  廊下から入ってきたセイバーは、   「っ……、ぐ……」    苦しげに胸を押さえて、ここに戻ってきた。 「セイバー……!」  駆け寄る。 「っ……! 待って士郎……!」  遠坂の制止が聞こえない。  傷ついたセイバーしか目に入らない。 「大丈夫かセイバー、どこを――――」 「な―――ダメ、逃げて士郎……!  セイバー、止め――――!」 「――――――――」    ―――一撃で、肩から下まで真っ二つにされた。  鮮やかな剣筋は痛みを遅らせ、あの不可思議な自然治癒は、セイバーの剣にだけは適応されない。   「…………セイ、バー」    意識が遠退く。  ……死に行く前。  死への恐れより、セイバーに倒された疑問が、最期まで脳髄を支配していた――――    敵が何者であるかははっきりしている。  敵のサーヴァント……キャスターが手勢を連れて襲撃してきたのなら、やるべき事は一つだけだ。 「……ここにいても始まらない。セイバー、一緒に来てくれ。遠坂はイリヤを」 「ええー、なんでー!? やだ、わたしリンのおもりなんておことわりよ!」 「そんなのわたしだって願い下げよ。けどアンタ、士郎の言うコトなら聞くって言ったでしょう。あいつがああ言ってるんだから、大人しく従いなさい」 「そんなの知らない!  セイバーなんかよりわたしの方が役にた――――」  駄々をこねるイリヤを、遠坂は後ろから羽交い締めにして口を塞ぐ。 「……! ……!!!! …………!!!!!」  もがもがと、なにやら聞くに堪えない罵詈雑言を繰り出すイリヤ。 「判ってる、イリヤはわたしが守りきるわ。その間に貴方はキャスターを倒しなさい」 「頼む。けど、出来るだけ無理はするなよ。敵を倒す事より逃げる事を考えろ」  言われるまでもない、と遠坂は頷いてくれた。  遠坂に背を向けて、縁側に通じる廊下へと急ぐ。 「セイバー」 「分かっています。シロウは私が」  遠坂に頷きを返して、セイバーは俺の後に付いてきた。    瞬間。  我が目を疑った。  剣が振り下ろされる。  呆然と立ちつくした俺の脳天めがけて、容赦のない、避けようのない凶撃が炸裂した。 「っ――――――――!」  それを、咄嗟に体をひねりつつ木刀で弾いた。  自分でも信じられない。  ただ自然に、死んだ、と思った瞬間、体の方で反応していた。  ソレは躊躇うことなく次弾を放ってきた。  なめらかな機械のような動作。  無駄のない的確な剣戟。  ―――だがそれだけ。  的確なだけで洗練されてもいなければ、必殺を思わせる激しさもない。  セイバーに比べれば愚鈍すぎる一撃、バーサーカーに比べれば羽毛のそれだ。 「――――」  壁に背を付けながら弾く。  その、こちらが身を退けて空いた空間に、    稲妻のような、セイバーの一撃が叩き下ろされた。 「シロウ、無事ですか」 「見ての通りだ。肝を冷やしたけどなんとかなった」 「なんとかなった、ではありません。このような時は私の後ろについて来なければ駄目です。今後は気をつけてください」  むっ、と俺の軽率さを叱るセイバー。  それはセイバーの言う通りなんだが、後ろに付いていくっていうのはイヤだったのだ。 「シロウ? 私の話を聞いていますか?」 「ちゃんと聞いてる。……それよりセイバー、今のヤツは――――」  廊下には何もない。  セイバーの一撃でバラバラに吹き飛ばされたさっきの異形は、幻のように消えていた。 「今のはイリヤスフィールの言っていた通り、魔物の体を触媒にして象った兵士です。〈自動人形〉《オートマタ》というよりゴーレムのようですが、質は低いですね。今のゴーレム程度なら、取り囲まれても問題はありませんが――――」 「…………!」    どこに隠れていたのか、いや、いつのまにここまで〈侵〉《はい》り込んでいたのか。  なにか、出来の悪い積み木じみたソレは、蜘蛛を思わせる動作で集まりだしていた。  くわえて、質の悪い事に気配はこれだけではない。  目の前にいる何倍もの骨が、この屋敷を取り囲んでいる―――― 「シロウ、横です!」 「――――!」  咄嗟に壁から離れる。   「くっ、この――――!」    にじりよってくる骨を木刀で払う。  その直後、隙だらけの俺の背中を守って、セイバーはにじり寄ってきた骨を薙ぎ払う……!  骨どもは散漫な動きで俺たちににじり寄り、どいつもこいつも同じような動作で襲いかかってくる。  捌くのは難しい事ではないが、その度に屋敷のあちこちが壊されていく。  セイバーはともかく、こっちはただの木刀だ。  咄嗟に“強化”を施したところで、そう長くは保たない。    ……それに、まさかとは思うのだが、骨の数はそれこそ限りがないのかもしれない。  下手をすればこちらが倒れるまで、こんな小競り合いを続ける事に―――― 「チッ、どっから湧いてやがるんだコイツら……!」    セイバーに背中を預けながら毒づく。  俺に寄ってくる骨は少ない。  ヤツらは室内にも湧いているようだが、だいたい庭から侵入してきている。  セイバーは庭から侵入してくる骨を次から次へと薙ぎ払っていた。    ……連中の目的は居間だ。  居間にイリヤと遠坂がいる以上、セイバーもそちらの対処に追われているのだが―――― 「――――」  剣を構え直すセイバー。  隠す必要がなくなったのか、黄金の剣はその真の力を発揮しようとしていた。 「―――ま、待てセイバー! だめだ、エクスカリバーは使うな! うちが吹っ飛ぶ分には構わな……ああいや、構うけど、それでも周りは住宅地だ。ここでそんなものを使われたらどうなるか判るだろう……!」    目前ににじりよった骨を払いながら叫ぶ。 「……マスターの指示ならば従いますが―――これだけの数をまともに相手にするのは面倒です。一掃しなければ、いずれ窮地に立たされます」 「分かってる。ようするにアレは使い魔の類だろう。なら操り手を叩けば一網打尽だ。セイバー、キャスターの気配は探れるか?」 「探るまでもありません。キャスターは庭にいます。  ……気配を隠しもしない、という事は、私たちを誘っているようですが」 「構わない、誘いに乗ろう。どっちにしたって、こんなコトを続けてたらこっちが先にまいっちまう」 「私は一向に構わないのですが。では、このままキャスターを?」 「――――」  ここからなら庭は目の前だ。  キャスターが庭にいるのなら、辿り着くのはそう難しい事じゃない。  ただ、それはここの守りを無くすという事。  今はセイバーがいるからいいが、セイバーが庭に行ってしまえば、骨どもを止める壁がなくなってしまう。    ここは――――          薄墨に染まった空と、亡骸に覆われた朱の丘。  重く立ちこめた雲は去り、戦いの終わりを告げていた。    ……この光景は知っている。今まで何度か見た景色だ。  これはセイバーが経験した戦場の一つ。  常勝であった彼女にとっては、もう当たり前となった戦争跡の風景だ。  この後、彼女は城に戻り、勝利を祝う人々から多くの喝采を受け、次の戦に備えるのだろう。      これは日常だ。  彼女が駆け抜けた十二の大戦の一つにすぎない。  だから彼女には勝利の余韻もなく、ただ平然と結果を受け入れているのだろう、と。      呆れるほど見当違いなコトを、思っていた。            ―――それは夢ではなく。     もう変えようのない、冷たい〈過去〉《げんじつ》に他ならない。    岩の剣を抜いた時から、彼女は人ではなくなった。  父に代わって領主となった後、多くの騎士たちを従える王となったからだ。  そうして彼女はアーサー王ともアルトリアとも呼ばれ、騎士を目指していた少女は、その人生を一変させた。    ―――いや。  終わらされた、という表現の方が正しかった。  まだ幼さを残していた少女はその瞬間に消え去り、騎士王としてのみ、存在を許されたのだから。    彼女は王の息子として振る舞った。  多くの領土を治め、騎士たちを統べる身は男でなくてはならなかったからだ。  王が少女と知る者は、彼女の父親と魔術師しかいなかった。  彼女は文字通り鉄で自身を覆い、生涯、その事実を封印した。    ……それがどういう事なのか、何故気が付かなかったのか。  最も多くの視線にさらされる人間が、その正体を偽り通したのだ。  そこにどれほどの苦悩があったのかなど、遠くから見ている自分では知るよしもない。    ……時間が流れていく。  彼女が王として勤めた十年間の記憶だろう。  その中で共通するものは一つだけ。  玉座にいる時も、  なにげない通路でも、  戦場においてさえも、  彼女に話しかける人間などいなかった。  騎士たちが各々に武勇を語る華やかな円卓でさえ、王が現れた瞬間に沈黙に変わっていた。    つまりはそういう事だ。  彼女はただ、偶像として容認されただけだった。    多くの騎士たちは少年の姿であるアルトリアを卑下し、己が剣を預けるのを良としなかった。    だが自分が抜けなかった聖剣を抜いた以上、形の上だけでも従わなくてはならない。  彼らはその屈辱を、一時の事だろうと受け入れたにすぎない。    聖剣を抜いたとはいえ、所詮は子供。  〈魔術師〉《マーリン》の補佐があるとは言え、すぐに失態を晒すに違いない。  そうなれば聖剣を取り上げ、もう一度王の選定を行えばいい―――    それが多くの騎士たちの思惑だった。    だが結果は違った。  成人したばかりの騎士は、非の打ち所のない王だったのだ。  争い合っていた領主たちをまとめ上げ、即座に侵攻してくる異民族を撃退した。    無論、それは聖剣の力による物ではない。  聖剣は王を守る為だけのもの。  国を守るのは、あくまで王の力に依るものだ。    そうして、彼女は常に結果で騎士たちを押さえつけてきた。    聖剣の守りは敵の剣に対してのみ。  人の心を治める助けにはならない。  彼女は文字通り身を粉にして、誰もが理想とする王であり続けた。    そうなっては騎士たちも従うしかない。  彼らは少年のままの王への不満を、完璧であるのならばと抑えこんだ。    彼女が目指したものは理想の王。  彼らが支持する条件も理想の王。    ―――そこに、人間としてのアルトリアなどいなかった。    王として定められた少女。  聖剣を抜き、その時から年を取らず、十二の大戦を勝ち抜いた偉大な騎士。  完璧であればあるほど敬遠され、  長く続ければ続けただけ孤立するしかなかった王。    ―――それが、彼女の正体だった。    それでも彼女はよくやった。  否、よくやりすぎた。  効率よく敵を〈殲〉《たお》し、戦の犠牲となる民は最小限に抑えた。  どのような戦であれ、それが戦いであるのなら犠牲は出る。  ならば前もって犠牲を払い軍備を整え、無駄なく敵を討つべきだと考えたのだ。    戦いの前にひとつの村を枯れさせ、軍備を整え、異民族に領土が荒らされる前にこれを討ち、十の村を守る。  それが王として彼女の出した結論であり、事実、当時においてそれは最善の政策だった。    だが騎士たちは不満だったのだろう。  彼らにとって死んでいいのは異民族だけであり、戦いになれば犠牲など出さずに勝利するのが常道だ。  戦いの前から己が領土を手放す必要などない。  自分たちは勝利するのだから犠牲など出ない。  犠牲など出ないのだから、王の行為はただの徒労だと考えた。    もちろん、それは彼らの夢物語である。  いざ戦いが始まれば、騎士たちは小さな村の事など考えない。それらは蹂躙されて当然のものであり、彼らが守るべき対象には入っていないのだから。    騎士たちは、敵に滅ぼされるのは当然だと言い、自分たちで干上がらせるのは大罪だと言う。    無論、そんな事は彼女にも分かっていた。  だが王にそのような私情は挟めない。  彼女は私情を殺して決断を下し、彼らは私情を圧して従う。  そうして犠牲を払い、連勝を続けていく内に国は安定した。    その代償は王への反感だった。   “アーサー王は、人の気持ちが分からない”と。    ある騎士はそう残し、王城から去っていった。  ……おかしな話だ。  誰も人としてなど望まなかったというのに、人としての感情がなければ反感を持ったのだから。    戦乱の時代は続く。  かねてから王に不満を抱いていた騎士たちは、かの騎士が去った事によって、更に反感を強めていった。  あらゆる外敵と自国の問題を押しつけ、彼女を追い詰めていったのだ。    破綻は見えていた。  度重なる問題が解決できなければ死。  全ての問題を解決したところで、その先にあるものも同じだろう。    だが、それは王には関係のない些末事だ。    離れられ、恐れられ、裏切られようと、彼女の心は変わらない。    ……それは、もうとっくに決めていたからだろう。  あの剣を手にしようと決意した時から、彼女は自らの感情など捨てたのだ。    ―――もう何年も昔になった光景。    国中の騎士が集まり、岩に刺さった剣を抜こうと試みた。  だが一人たりとも抜けた者はおらず、騎士たちは馬上の腕を競い、最も優れた者を王にすると躍起になっていた。  騎士たちはこぞって闘技場に赴き、その外にあった岩の剣など忘れていた。    ……それは、外から祭りを見る感覚に似ていた。    遠くからは勇ましい騎兵の音。  騎士たちの喧噪は遠く、岩の周囲には誰もいない。    それを前にして、少女は何を思ったのか。    気が付けば、後ろには見知らぬ魔術師が立っていた。           「それを手に取る前に、きちんと考えたほうがいい」    悪い事は言わないから止めておけ、と彼は言い。           「それを手にしたが最後、君は人間ではなくなるよ」    手にすればあらゆる人間に恨まれ、惨たらしい死を迎えるとも言った。    恐れなかった筈がない。  なにしろ、魔術師はちゃんと見せていたのだ。  その剣を取れば、彼女がどのような最期を迎えるのかという事を。           「―――いいえ」    だが、それが少女を決意させた。  自身の未来を見せられても、力強く頷いた。  いいのかい、と魔術師は問いただす。           「―――多くの人が笑っていました。     それはきっと、間違いではないと思います」    剣に手をかける。  魔術師は困ったように顔を背け、     「奇蹟には代償が必要だ。君は、その一番大切なものを引き替えにするだろう」      その、予言じみた言葉を残した。    そう。  少女はただ、みんなを守りたかった。  けれど、それを成し遂げる為には“人々を守りたい”という感情を捨てねばならなかった。    ……人の心を持っていては、王として国を守る事など出来ぬのだから。    それを承知で剣を抜いた。  それを承知で、王として生きると誓ったのだ。    だから何度離れられ、恐れられ、裏切られようと、彼女の心は変わらない。    人としての心は捨てた。  幼い少女はそれを引き替えにして、守る事を望んだのだから。    その気高い誓いを、誰が知ろう。    ―――――戦うと決めた。    何があろうと、たとえ、その先に、    ―――――それでも、戦うと決めたのだ。    避けえない、孤独な破滅が待っていても。    その終わりが、これだった。  カムランの戦い。  アーサー王が遠征に出立した後、一人の騎士が玉座を〈簒奪〉《さんだつ》し、彼女の国は二つに分かれて殺し合った。    伝説ではこの戦いで、騎士も騎士道も、全てが華と散ったと言う。    かつて自身が従えていた騎士をことごとく斬り伏せ、 自身が守ってきた土地に攻め入った。    かろうじて自分に付き従ってくれた騎士たちも散り、 自身の体も、傷ついて動かなかった。    周囲には誰もいない。  今まで通り、なにも変わらない。  胸にあるのは王としての誇りだけ。    彼女は、この結末を知っていた。    それでも得るものがあると信じたからこそ、ただ一点の汚れも出さず走り続けたのだ。    後悔などしていない。  無念があるとしたら、それはこの、荒れ果てた国の姿だけだった。    ふと視線をあげる。  この丘からなら、遠く離れた城が見えるかもしれない。  だが、あるものは戦場の跡と深い森、そして、帰るべき湖が見えるだけだった。          ―――そう。  駆け抜けるだけだった丘は、もはや越えられぬ壁となっていたのだ。    肩の力が抜ける。  そうして、初めて自分の意志で、少女は聖剣から指を離した。          ―――それで終わった。  この夢がここで終わるのは当然だった。  彼女の記憶には、この先などないのだから。    ……だから、これはもう変えられない一つの結末。  頑張って頑張って、恨まれて、裏切られて。  国よりも人を愛していた事も知られず、無慈悲な王としてあり続け。    報われる事はなく、理解される事もなく。  孤立し、裏切られ続けた彼女が死を迎えようとしている、赤く染まった剣の丘――――  雨の音で目が覚めた。 「………朝になってる」  ぐらぐらと揺れる頭を抱えて、体を起こす。  時計は六時前。  外から入り込んでくる雨音は、そう大きくはない。 「……今の、夢は――――」    いや、確認するまでもない。  アレはセイバーの過去だ。  とうの昔に起きて、もう変える事の出来ない、あいつの人生の〈顛末〉《てんまつ》だった。 「――――――――」  気が付くと、奥歯を噛みしめていた。  ギリギリという音。  どうしてか無性に頭にきている。 「―――くそ。なんだよ、それ」  思い返すだけで気がヘンになる。  あいつの過去も、それをなんとも思っていないあいつにも、今までなんでもない夢だと思って眺めていた自分にも。 「…………………っ」  気にくわない。  何が気にくわないのか判らないけど、とにかく気にくわない。  ……イヤだ。  そんなのは、イヤなんだ。  あれは誰が見ても不当な人生だった。  そんなのは間違ってる。  望んだものは他人の事だけ。自らに返るものなど、あいつは望みもしなかった。  それなのに、あんなにも頑張ったのに、最後まで理解されなかったなんて、そんなのは頭にくる。  そんなのは、あまりにも報われないじゃないか――― 「――――――――」  ……そうだ。  誰よりも頑張ったのなら、誰よりも報われなければ嘘だ。  あいつは、ちゃんと―――自分がやった事の報酬を、受け取らなくてはいけない筈だ。 「――――――――」  ……けど、そんなコト。  今更、どうやって叶えられるのか。  良くやった、なんて声をかければいいのか。  おまえは立派だったって讃えてやれというのか。    まさか。  そんな簡単な言葉で、埋められる物などない。 「……分かってる。答えなんて一つだけだ」    ……そうだ。  彼女が報われるとしたら、その人生を清算させるだけではないのか。  アルトリアという少女は、かつて戦い抜いた分だけ、きちんと幸せにならなければ間違っている。 「―――――けど、それで何を」    思考はそこで停止する。  人を幸せにするなんて、そんな方法は知らない。    ……こんな事で、自らの歪さを思い知った。  今まで正義の味方になると生きてきたクセに、やってきたのは手を貸すだけ。  そうやって誰かの為になっていれば、いつかは周りが幸福になれるのだと信じていた。  いや。  それを信じて走らなければ、胸を張って進めなかった。 「――――――――っ」    ……人を助ける事と救う事は本質が異なる。  その違いが分からない俺に、セイバーに報いてやれる手段なんて、思いつく筈がなかったのだ――― 「――――!」  ガラスの割れる音。  居間から、激しく争う物音が聞こえてくる。 「シロウ、指示を。迷っている時間はありません」  分かっている。  どちらにしたって、遅れた分だけ取り返しのつかない事になるだけだ。 「―――キャスターを叩く。イリヤは遠坂に任せると言ったんだ」 「では行きましょう。マスター、私の背中を任せます」  群がる骨どもを薙ぎ払いながら疾走する。  骨の兵士はセイバーに近寄る事も出来ず霧散していく。  雪花とはこの事か。  散らばっていく骨があまりにも多すぎて、まるで吹雪の中にいるようだった。 「――――――はあ」  背中を任せるとは言われたが、これでは守る必要もない。  今更ながら、セイバーがどれだけ優れた剣士なのか思い知らされた。  セイバーは迷いなく突き進む。  この骨どもの大本。  屋敷に侵入した、未だ見ぬ六人目のサーヴァントをうち倒す為に。  セイバーが足を止める。  あれだけ群がってきた兵士たちの姿もない。  ここが終着なのか、目前には何かが立っていた。  歪な人影。  ローブか何かを羽織ったソイツは、そこだけ黒く塗り潰されたように、姿というものが見えなかった。    ……黒い影。  それを見た瞬間、なんともいえない不安に襲われた。 「貴女がセイバー? ……なるほど、確かにこれなら〈あの怪物〉《バーサーカー》を倒し得るわね。私の雑兵では足止めにもならないでしょう」  クスクスという忍び笑い。  黒く塗り潰されたアレが骨どもの主……キャスターのサーヴァントらしい。  だが―――― 「マスターがいない……」    近くにマスターらしき姿はない。  こいつもランサーと同じで、マスターから離れて行動するタイプなのだろうか……? 「―――貴様。契約が、切れているのか」    不快そうにセイバーが問う。   「ええ。彼は私の主に相応しくなかった。だから消えてもらったし、消えてしまったわ」    黒いローブはどんな表情をしているか判らない。  それでも、ひどく冷たい声で、キャスターはそう答えた。 「マスター殺し―――では、貴様のマスターは」 「とっくに死んだわ。けれど問題はないのよセイバー。  私たちは魂喰いでしょう? 魔力の供給源なんていくらでも溢れている。  あとは、そう――――聖杯さえ手に入れてしまえば、心配は何もなくなるでしょうね」 「……貴様も現世への復活を望むのか。どこの英霊かは知らぬが、その為にかつての誇りを捨てたのか」 「あら。人間風情に使われるのは、誇りを捨てるとは言わないのかしら。  私はそれが我慢ならなかっただけよ。今も昔も、誰かの手足になるのはこりごりなの。だから使う側に回っただけ。貴女に非難される謂われはないわ」 「―――だろうな。私も、貴様の非業になど興味はない」    セイバーの体が、わずかに傾く。  ―――キャスターまでの距離は十メートルほど。  それなら、セイバーは一息で間合いをつめ、キャスターを仕留めるだろう。 「物騒ね、せっかく話し合いに来たのに問答無用だなんて。これでも手加減はしたつもりなのですよ?」 「貴様と話す事などない。潔くここで散れ」  セイバーは倒す気になっている。  ……反対はしない。  キャスターには血の匂いしかしない。  自らの手でマスターを殺したというが、それは間違いなく真実だろう。  この襲撃だって、屋敷にいる人間を皆殺しにしようとしたものだ。 「…………」  故に、セイバーを止める理由はない。  そもそもセイバーとキャスターでは勝負にならない。  キャスターの能力ぐらい感じ取れる。  アレは一対一では最弱のサーヴァントだ。  この状況になってしまえば、もはやセイバーに倒される以外にない。 「…………だめだ、セイバー」    だが、言いようのない不安を振り払えない。  バーサーカーが持っていた、絶望的な死の予感でもない。  生理的な嫌悪感か、よくないモノへの警鐘か。  俺はともかく、セイバーはアレに近寄ってはならないと、この左手が疼いている―――― 「!」    その迷いが余分だった。  セイバーは地を蹴って黒い影へと疾走する。  歪な影が微笑する。  キャスターは走り寄るセイバーに慌てた風もなく、   「―――Ατλας―――」   『〈圧迫〉《アトラス》』と。  俺たちには聞き取れない言語で、言葉以上に脳に訴える呪文を呟いた。  途端、世界が歪んだ。  いや、セイバーの周囲だけ、空気の密度が変化した。   「な――――!」    ドン、という衝撃。  地面は沈み、何か巨大なモノが、セイバーめがけて落下したとしか思えない。 「そんな―――なんの動作もなしで魔術を――――!?」    いや、詠唱らしき呟きはあった。  確かに詠唱は短縮できる。簡単な魔術であればあるほど、自己を変革させる呪文は少なくできる。  だが、目の前で起きているモノは大魔術に属するものだ。  それを一言で発現させるなんて魔術師はいない。  可能だとしても、遠坂のように予め触媒を作っておく以外にないだろう。  にも関わらず、キャスターは呟くだけで大魔術を発動させた。  ……桁違い、どころの話じゃない。  今のがキャスターの魔術だとすると、アイツは魔術師なんて簡単な〈役割〉《クラス》ではない―――― 「セイバー……!」    セイバーは固まっている。  その足は地面を蹴ったままだ。  今、彼女は空間に縫いつけられている。  いや、セイバーの周囲の空気が透明なゼラチンのように変化している。 「――――!」  近寄りたくても、ぶにゃりとした見えない膜に弾かれる。  この濁りはセイバーの周りだけのようだが、地に足がついていない以上、セイバーは動けない。 「侮ったようねセイバー。貴女の時代の魔術師がどれほどだったかは知らないけど、この指は神代に生きたもの。  こんな末世の魔術師たちから見れば、私の業は魔法のそれでしょう」  黒いローブから嘲笑が漏れる。  セイバーは空間に縫い止められたまま、           「―――なんだ。本当にこの程度ですか、〈魔術師〉《キャスター》」    そう、つまらなそうに言い捨てた。 「対魔力……!? そんな、私の魔術すら弾くというのか――――!?」    黒いローブが後じさる。  一息でキャスターの魔術を〈無効化〉《キャンセル》したセイバーは、今度こそ、稲妻めいた速度で間合いを詰める。 「――――――――」  だが、俺は、      ―――セイバー一人に頼るのは申し訳ないが、ここはそうするしかない。    一緒に出てきたものの、俺は足手まといだ。  セイバー一人なら難なく骨どもを突破して、キャスターへ辿り着けるだろう。 「―――セイバー、頼めるか?」 「はい。では、シロウは凛の所に戻ってください。凛とイリヤスフィールの力があれば、数分は持ち堪えられる」 「わかった。居間で待ってるからな、セイバー」 「すぐに戻ります。  ……その、先ほど宝具を使おうとした私が言える事ではないのですが、ここはシロウの家だ。  これ以上、このような者達になど荒らさせません」  タン、と軽やかに庭へ飛び出すセイバー。  セイバーは苦も無く、群がってくる骨どもを蹴散らしていく。   「―――――よし」    急いで居間に戻ろう。  ここでのんびりしていたら、骨どもに囲まれてセイバーを困らせかねない。 「士郎!? どうしたの、セイバーに何かあった…!?」 「え? ああ、いや違うんだ。キャスターの使い魔……骨の人形なんだが、異様に数が多い。  このままじゃ数で押されかねないから、セイバーは元凶であるキャスターを倒しにいった。  俺は足手まといになるから、セイバーが決着をつけるまでここで篭城」 「そう。……なるほどね、確かに凄い数の使い魔だもの。  イリヤは心配するコトないって言うけど、セイバーにだって限度があるし。疲労しきる前に大本を叩きにいったんだ」 「そうみたいね。ここを見張ってた竜牙兵たちも庭に移動してるし、キャスターのヤツ、セイバーに追い詰められて必死みたい。  けどこれで詰めね。キャスターじゃどうあってもセイバーには勝てないもの」 「―――ほんとだ。周りの音、聞こえなくなってる」    周囲に敵の気配はない。  ここから外に出ない限り、骨どもに襲われる事はないだろう。  ……それに、イリヤの言葉が本当なら、じき戦いは終わる。  一対一ならセイバーは負けない。  俺たちを守る必要のないセイバーは、容易くキャスターを斬り伏せる筈だ。 「浮かない顔ね。すぐに決着がつくっていうのに、納得いかない顔してるけど」 「そう言う遠坂だって、どこか気にくわないって顔だけどな」 「まあね。……ちょっと、上手く行き過ぎてるから。  セイバーの強さがキャスターの予想以上だったにしろ、なんの用心もなしに自分から仕掛けてくるかなって」 「……………………」    ……そうだ。  キャスターは自分からこの屋敷にやってきた。  ここにマスターがいる事を知っていたのなら、どのサーヴァントがいるのかも調査済みだろう。  ここにはキャスターの天敵たるセイバーがいる。  ……それを知っていながら攻め込んできたのは、つまり―――― 「音が止んだ……イリヤ、キャスターの気配は?」 「消えたわ。使い魔はまだ残ってるけど、残っているサーヴァントはセイバーだけよ」 「使い魔が残ってる……?  ……!? 士郎、腕……!」 「え?」  言われて左腕を見る。  それは、どういう事なのか。  契約の証である令呪が消えた。 「士郎、令呪使った……!?」 「いや。俺は令呪なんて使ってない」 「………………」  どういう事だ。  セイバーは問題なくキャスターを倒した筈だ。  なのにどうして令呪が消える。  ……いや、令呪が消えたところで契約が切れた訳じゃないから、それほど取り乱す事でもない。  令呪はマスターの言いつけを守らないサーヴァントを律する為のもの。  そんなもの、初めからセイバーには必要がなかった。  だから無くなったところで、俺とセイバーは今まで通りやっていける。 「……セイバー、帰ってきたわ。もうすぐここにやってくる」 「………………」    ……二人とも何をしているのか。  セイバーが戻ってくるというのに、なんだってそう、刺々しく警戒してなくちゃいけない。  ……扉が開く。  廊下から入ってきたセイバーは、   「っ……、ぐ……」    苦しげに胸を押さえて、ここに戻ってきた。 「セイバー……!」  駆け寄る。 「っ……! 待って士郎……!」  遠坂の制止が聞こえない。  傷ついたセイバーしか目に入らない。 「大丈夫かセイバー、どこを――――」 「な―――ダメ、逃げて士郎……!  セイバー、止め――――!」 「――――――――」    ―――一撃で、肩から下まで真っ二つにされた。  鮮やかな剣筋は痛みを遅らせ、あの不可思議な自然治癒は、セイバーの剣にだけは適応されない。   「…………セイ、バー」    意識が遠退く。  ……死に行く前。  死への恐れより、セイバーに倒された疑問が、最期まで脳髄を支配していた―――― 「どうしました、食べないのですかイリヤスフィール?  昨日に比べると、まだ三割にも届いていませんが」 「違うよ、こっちのは食べられないの。わたし辛いのはダメなんだ」 「……はあ。そう辛いとは思えませんが。この香辛料は鶏肉に合っています」 「マスタードは嫌いなんだってば。いいから食べて! そのかわり、そっちのイチゴの食べてあげる」 「っ……! な、なにをするのですイリヤスフィール!  こら、戻しなさい! それは駄目です、甘いものが欲しいならリンゴのパイがあるでしょう!」 「………………」  隣り合って座る二人は、なんだか仲のいい姉妹のように言い争っている。  時刻は正午過ぎ。  俺たちは三人で向かい合って、昨日と同じく昼食を摂っていた。    ……っと、昨日と同じなのは昼食だけじゃなかった。  さっきまで行っていた鍛錬は、昨日の焼き直しだったのだから。    いや、ぎこちなさで言うのなら今日は輪をかけてぎくしゃくしていただろう。  ……なんていうか、セイバーと向き合っていると訳もなく胸がもやもやして、いつものように死にものぐるいで突進できなくなってしまったのだ。    セイバーもセイバーで、今までならそんな隙は見逃さなかったのに俺の出方を待ち、二人して向かい合ったままだった。   「二人ともどうしたの? 見ててあんまり面白くないよ?」    なんていうイリヤの叱責で気合いを入れ直し、なんとかセイバーに挑んだものの結果は同じだった。    こちらの半端な打ち込みを軽くいなした後、セイバーは反撃せずに俺を見逃す。  見逃された俺はすぐにセイバーに向き直って、また突進して、見逃される。  そんなかみ合わない時間が終わったのが、ほんの十分前。    またもセイバーからの提案によって昼食休みになり、こうして恒例の昼食タイムとなっている。  一応、メニューは昨日と同じサンドイッチだ。  ただ昨日と同じでは芸がないので、今回は色々と具に凝ってみたのだが、これが目に見えて好評だった。    色とりどりのサンドイッチにイリヤははしゃぎ、セイバーも正座をし直して、すう、と呼吸を整えていたり。    ……推測だが、アレはセイバーなりに気合いを入れていたのだろう。    ともかく、昨日に比べて今日は一段と騒がしい。  外はあいにくの雨で、床は冷たい板張りではあるが、これはこれでピクニックに似ていると思う。 「ああもう、そこまでですイリヤスフィール。  それでは服が汚れてしまう。まったく、シロウの真似をして一口で食べるからそうなるのです。貴女の口は小さいのですから、もう少し大人しく食べるべきでしょう」 「ふーんだ、わかってないのはセイバーの方よ。こういうお弁当はね、お行儀を気にするほうが失礼なのよ。  これはピクニックなんだから、こーゆー風にするのがホントなんだよね、シロウ!」  もきゅもきゅ、と嬉しそうにサンドイッチをほおばるイリヤ。  その口元を、セイバーは仕方なげにナプキンで拭く。 「きゃ―――あは、くすぐったいってばセイバー」 「………………」  ……ちょっと意外だ。  セイバーもセイバーだが、イリヤもイリヤで、昨日よりセイバーに心を許している。 「……驚いた。拒否しないのですか、イリヤスフィール」 「なんで? わたし、優しくされるの好きだよ?  うん、他のヤツがわたしに触れたら殺すけど、セイバーはキレイだから許してあげる。  それに今は同じお弁当を食べる仲間だもの。セイバーがわたしのコト好きなら、わたしもセイバーのコトは好きよ」  あっけらかんとイリヤは言う。 「――――――――」  さすがに毒気が抜かれたのか、セイバーは呆然とイリヤを見つめていた。  端から見ている俺でさえ、イリヤの笑顔は不意打ちじみていたんだから。 「なに? セイバーは楽しくないの?」 「あ―――いえ、それは」 「わたしは楽しいよ。外は雨で、ここはこんな殺風景な場所で、欲しかった物は何もない。  けど、こうしていると嬉しいの。一人でいるよりずっとずっとあったかいでしょ? なのにセイバーは楽しくないの?」 「――――」  イリヤの笑顔に何か感じ入る物でもあったのか。  セイバーはああ、と深く吐息を漏らして白い少女を見つめた。 「―――そうですね。私も、こうしているのはとても楽しい」    晴れやかな声。  それは今まで見たことのない、セイバーの笑顔だった。 「――――――――」  どうしてだか、胸が熱くなる。  今の笑顔は良かった。  今のはセイバーがセイバーの為にこぼした物だ。    いつもの、誰かの無事を見守るような笑顔ではなく。    ただ嬉しいからこぼれた、彼女自身にあてた笑顔。 「シロウ? どうしました、そんな顔をして。何かいいコトでもあったのですか?」 「え? いや、別に何も……って、いまヘンな顔してたか、俺?」 「うん、してたわ。お父さんみたいな顔。遠くからこっちを見守ってますってふうなの。  わたし、そういう顔はきらいよ」 「……?」  イリヤの言い分は分からないが、ともかく笑っていた、というコトだろうか。 「そうか……ま、いいコトがあったからな。ついニヤけちまったのかもしれない」 「はあ。いいコト、ですか?」 「そうだよ。セイバーは今みたいな笑顔のがいい。それが見れて良かったって」 「……難しいですね。そんな事が嬉しいのですか、シロウは」 「だな。俺、セイバーのそういう顔を見るのが好きみたいだ」  はあ、と納得いかなげに頷くセイバー。  ―――と。  何を思い立ったのか、彼女は小さく笑って顔を上げて。 「そうですか。それでは逆ですね、シロウ」 「? 逆って何が」 「私は、貴方が笑顔でいてくれた方が嬉しい。貴方が笑っていられるなら、私はそれで十分です」 「――――――――」  セイバーとまともに顔を合わせらない。  あんな笑顔を向けられたら、誰だって頭ん中がグラグラするに決まってる。 「――――――――」  なんとか気持ちを落ち着けて、セイバーの横顔を盗み見る。  セイバーは穏やかな面もちのまま、ピクニックのような昼食を再開していた。    そこに不安はない。  不安な要素などないのに、何かが胸にひっかかる。            ―――私は、貴方が笑顔でいてくれた方が嬉しい。    そう、初めて見るその笑顔で。  彼女は何か、ひどく矛盾した言葉を口にしていた。  居間に布団を敷いて、気絶したイリヤを寝かしつける。  気を失っているとはいえ、イリヤの寝顔は穏やかそうで、問題はないように見えた。 「ほら、よそ見しない! 包帯がズレるじゃない」  パン、と背中を叩かれる。 「痛っ……! 遠坂、おまえ怪我人になんてコトしやがるんだっ!」 「うるさい、人がせっかく手当してあげてるんだから、少しは大人しくしてなさいっての。  ほら、右手あげて。もう必要ないとは思うけど、一応こっちにも薬塗っとくから」 「っ――――冷たいって、それ」 「触覚があるってコトは平気な証拠よ。はい、つぎ包帯ね」  ぐるぐると右肩から器用に包帯を巻いていく。  時刻は十時過ぎ。  キャスターとの一件の後、居間に戻るなり遠坂は俺の傷の治療を始めた。  始めたのだが、傷はもう大部分が塞がっており、あとは形だけの処置を施すだけだった。 「はいおしまい。にしても、ほんとデタラメな体ね。それだけの治癒能力をもってるのは吸血鬼ぐらいなものよ。  貴方、本当に人間?」  ……なんか、似たようなコトを前にも言わなかったか、おまえ。 「あのな、オレはまっとうな人間だよ。  オレだってどうしてこんななのか知らないんだから、訊かれたって判るもんか」 「冗談、まっとうな人間が脊髄切られてピンシャンしてるかっていうのよ。  便利だからあえて追及しなかったけど、いい加減不気味になってきたわ。もしかしてアンタ、首を切られないかぎり死なない土地の出だったりしない?」 「………………」  何が厄介かって、遠坂がわりと本気で疑っているのが恐ろしい。  こやつ、いつか手斧を持って俺の首を狙ってくるやもしれぬ。 「ね、セイバーだってそう思うでしょ。  原因はセイバーだとは思うんだけど、それにしたって不死身すぎるっていうか」 「は……? シロウの治癒能力はシロウの物ではないのですか?」 「そんなワケないじゃない。“強化”の一つ覚えの士郎が、そんな高等技術をマスターしてると思う?  こいつのデタラメぶりは、間違いなく貴女と繋がってるからよ。セイバーの自己回復能力が、そのまま士郎に流れてるんじゃない?」 「……そう、なのでしょうか。今までそのような繋がりは感じませんでしたが。それならば今も私の魔力はシロウに流れていなければおかしいですし、第一、私の自然治癒はシロウほど強くはありま――――」 「セイバー? どうしたの、いきなり青ざめた顔しちゃって」 「――――」  遠坂の声が耳に入っていないのか、セイバーは虚空を見つめている。 「……まさか、そんな筈は」  軽く首を振って、セイバーは視線を下げた。 「?」 「?」  思わず遠坂と顔を合わせる。  セイバーの態度は、さっきからどこかおかしい。  ……いや、その原因は判っている。  あの黄金の騎士が現れてから、セイバーにはいつもの覇気が薄れているのだ。 「……ま、士郎の事は保留にしておきましょう。  それよりセイバー、貴女さっきのヤツと顔見知りだったの? あの金ピカ、セイバーが自分の物だとか言ってたけど」 「………………」  セイバーは答えない。  それが言いにくい事であるのは、もはや火を見るより明らかだろう。  それでも、その答えが知りたかった。  遠坂の問いは、そのまま俺の問いでもある。 「―――セイバー。知っているなら教えてくれ。さっきのあいつは何だったんだ。セイバーは、あいつの事をアーチャーと言っていただろ」 「………はい。認めたくはありませんが、私は彼を知っています。ですがそれは有り得ない。サーヴァントは七人だけです。彼が召喚される筈がない」 「サーヴァント―――やっぱり、あいつサーヴァントなのか」    いや、そんなのは一目で判る事だ。  ただその場合、大きな問題が出てきてしまう。 「彼のクラスはアーチャーです。もちろん凛が契約したアーチャーとはまったく別の英霊で、その能力も、英雄としての気質もあまりに違いますが」    ……それも判ってる。  ほんの少しだったが、アレがどんな化け物なのかは十分すぎるほど感じ取れたんだから。 「ちょっと待って。おかしいわよ、それ。  アイツがアーチャーのサーヴァントなら、それで八人目よ。  一つの期間で召喚できるサーヴァントは七人が限度の筈でしょ。数が減ったから補充する、なんて事は絶対にない。そもそも七人以上の召喚は聖杯だって魔力が持たないわ」 「サーヴァントが七人っていうのは、それが一度に呼び出せる限度数だからでしょ。なら八人目はどうしたって呼び出せ――――って、待った。  セイバー。貴女、前回の戦いでアイツと出会ったの?」 「……その通りです、凛。前回の聖杯戦争における最後の一日、火の海の中で、私は彼と戦った」 「――――」  一瞬、体が強ばった。  セイバーが、火の海の中で戦った……?  ……何を、今更。  あの火事が聖杯戦争による物だなんて、とっくに言峰神父から聞いていた。    なら驚く事はない。  何故なら―――今までそれを考えないよう、無意識に努めていたのだから。 「決着は? 貴女、アイツをきちんと倒したの?」 「倒してはいません。……いいえ、倒す事はできなかった。何故なら、私は」 「―――逆にアイツに負かされた。  〈士郎〉《こんかい》とは違う、きちんと召喚されて敵なしだった貴女が勝てなかった相手ね?」  セイバーは俯いたまま答えない。  それは肯定の意に他ならなかった。 「セイバーが――――勝てなかった?」  今の不完全なセイバーではなく、なんの足枷もないセイバーが?  ……そんな事があり得るのか。  確かに剣士としての強さを問うのならば、セイバーとて敵無しというワケじゃない。  事実、バーサーカー相手ならセイバーは劣っていた。  だがセイバーにはあの宝具がある。  他のサーヴァントたちの宝具も強力だが、セイバーの宝具はそれらを遙かに上回る。  その聖剣を持ってして倒せない英雄など、この世界にいるとは思えない―――― 「それじゃ決まりよ。  アイツ、今回の戦いで呼ばれたサーヴァントじゃなくて、〈前回から〉《・・・・》そのまま残ったサーヴァントなんじゃない?  そうでなければ辻褄が合わないもの」 「――――!」  思考が中断される。  遠坂の言い分に納得したワケじゃない。  ただ今のは、俺が昨日から思い描いていた希望のカタチだった。 「……ですが、それは」 「ですがも何もないわ。それ以外に説明がつかないんだから。一度の聖杯戦争で呼び出せるのは七人だけ。それ以外のサーヴァントがいるとしたら、それは前回生き残った『勝者』だけじゃなくて?」  ……重苦しい沈黙。  だというのに、  こいつは、どうしてこうご機嫌なのか。 「遠坂。なにが嬉しいんだよ、おまえ」 「当然じゃない。だって前例がいてくれたのよ?  アイツが何者か知らないけど、ようするに前回の戦いで最後まで勝ち残ったサーヴァントなんでしょう?  ならアイツは聖杯を手に入れたのよ。で、その恩恵でずっと世界に残ってる」 「――――」 「つまり聖杯さえ手に入れれば、サーヴァントを世界に留めておけるっていう見本じゃない。アイツをとっ捕まえて詳しい話を聞きたいぐらいよ」  ――――ああ、その通りだ遠坂。  あいつが何者なのかは判らないが、あいつはサーヴァントで、前回の戦いから今まで残っている。  なら、セイバーだって同じように、こっちに残れる方法があるって事だ。 「とまあ、アイツが何者で何が目的かは不明だけど、倒すべき敵には変わりなさそうね。  セイバー、それでアイツの正体はなんなの?」 「……それが判らないのです。前回の戦いでも、私は最後まで彼の正体が掴めなかった。  あの英雄には、シンボルとなる宝具が存在しなかった」 「シンボルとなる宝具が存在しない……? そんな馬鹿な話があるもんか。宝具がないサーヴァントなんてサーヴァントじゃないだろ。  なによりあいつは、さっき―――」 「そうよ、さっき山ほど使ってたじゃない。あれだけあれば正体を探るなんて造作もないでしょう? 宝具の形状から、該当する英雄を探せばいいんだから」 「では訊きますが。凛は先程の宝具に、一つでも見覚えはありましたか」 「そんなの当然じゃない。えっと……」  どれどれ、と考え込む遠坂。  腕を組んで物思いにふけること一分。  あれ? と遠坂は首をかしげた。 「――――嘘。そんな筈、ない」 「? どうした遠坂。何が嘘なんだ?」 「―――信じられない。あの血に濡れてたのはたぶんダインスレフで、鎌っぽいのはハルペーよね。  なんか中華っぽいヤツもあったし、お不動さんのアレもあったような―――」  一人呟く遠坂は、目に見えてやばい。  考えれば考えるほど深みに嵌る、というのはこういう事ではあるまいか。 「ええっと、あれなんかセイバーの剣に似てたけど別物の筈よ。ああゆう素朴なデザインは北欧っぽかったし、そういえばたいていの魔剣の原型って北欧だって話だけど――――」  ギリギリと歯ぎしりまでしだしやがった。 「おい、遠坂」  放っておいても百害あって一利なし。  ここらで止めておかなければ、間違いなく被害をこうむる事になるだろう。    言うまでもないが、主に俺が。 「遠坂、遠坂ー。いいから戻ってこーい」 「ああもう、黙っててよ士郎! アンタが茶々いれるから頭が混乱してきたじゃないっ!」 「いや、茶々をいれるつもりはない。あいつの宝具の事だろ?  形状だけで言うなら、ダインスレフとハルペー、デュランダルにヴァジュラにカラドボルグ、ああ、あとゲイボルクもあったか。  なんか中華っぽかったのは流石に判らないけど、有名どころはそんな物じゃなかったか?」 「う……それ、あってる」  そんな顔をされると困るというか、申し訳ないというか。  俺だって詳しいワケじゃなくて、なんとなく頭に浮かんだだけなんだから。 「けど、それってどういう事よ!?  そんなデタラメな数の宝具を持ってる英雄なんていないわ。いえ、そもそも出典がごちゃまぜで、もう何がなんだか――――」 「ええ。ですから私も彼の正体は判らなかった。  英雄の証となる宝具を、あの男は湯水のように持っているのです。あまりにも数がありすぎる為、アーチャーの正体を絞り込む事はできなかった」  うーん、と悩みこむ二人。  まあ、たしかにあれだけ持ち出されちゃ確かめようがない。  木の葉を隠すなら森の葉の中、というヤツだろうか。 「士郎。アンタ、何かないの」  キッ、と腹だたしげに睨んでくる。うん、間違いなく八つ当たりだ。 「何かないのって、何だよ」 「だから、気づいた事とか推理とか、とにかく瞬間的な閃きよ。  わたしたちに必要なものは意外性のある意見なの。行き詰まった事態を解決するのは偶然だけなんだから」  ふむ。そりゃ確かにそうかもしれないけどな。 「ははは、なるほど。―――おまえ、俺のコト馬鹿にしてるだろ」 「失礼ね、戦力外だと思ってるだけよ。で、どうなの」 「お手上げ」  素直にばんざいをする。  うー、と無念げにうなる遠坂。 「……となると結論は一つね。セイバー、あいつが使ってた宝具はみんな偽物だと思わない? そうでもなければ説明がつかないでしょ」 「同意見です。ですが――――」 「? いや、あれ偽物じゃないぞ」    なんだってそんな結論に達するんだ。  そもそも偽物の宝具でキャスターの魔術を貫通できるワケないじゃないか。 「ふうん。衛宮くん、その根拠は?」 「だからアレは本物だって。むしろ他のが偽物っぽい」 「はあ?」 「いや、あくまで直感なんだ。……その、うまく説明できないんだけど、アレは全部本物だぞ。  ランサーの持ってるゲイボルクはもちろん本物だけど、さっきのヤツが使った槍もゲイボルクの本物だと思う」 「???」  うわ、そんな顔されると益々説明しづらくなる。  いや、そもそもなんでそんな事を思ったのか。  ただ、あいつの使っていた宝具はみんな本物なんだ。  それだけは実感できる。    ……バーサーカーとの戦いで“投影”を行ったからだろうか。  あの、山のような宝具を見て、それぞれが間違いなく本物だと読みとれた。  優れた武器には想念が宿り、形だけ真似た物には何かが欠けている。  それはセイバーの剣を模造した時に思い知った事だ。  その例で言えば、あのサーヴァントの宝具は全て完璧なカタチを持っていたと思うのだが―――― 「……ま、士郎の発言はとりあえず置いておいて。  アイツの正体が判らない以上、次は目的なんだけど」  ちらり、と遠坂はセイバーを盗み見る。 「アイツも聖杯を狙ってるのは当然として、気になる点がもう一つあるのよね。  セイバー、はっきり訊いていいかしら?」    うわ。どうしてそう、この手の話になるとそういう邪悪な笑みをうかべるのかコイツは。 「……それはどういう意味でしょうか、凛。  訊ねたい事があるのならば、遠慮をする事はありませんが」 「そ? なら訊くけど、セイバーはアイツをどう思ってるの? アイツの言いぶりからすると、どうもセイバーにお熱のようだったけど」 「…………」  ……遠坂に倣うワケじゃないが、セイバーの顔を盗み見た。  遠坂の言い方は微妙に間違っていると思うが、あいつがセイバーに執着していたのは確かな事だ。  いや、あれは執着なんてものじゃない。  あいつは初めから、セイバーを自分の物としか見ていなかった。 「彼が何を考えているかなど、私の知るところではありません。……ですが前回の戦いのおり、求婚された覚えはあります。無論、剣と共に斬って捨てましたが」    きゅ、求婚って、あの求婚―――!?   「な―――――――」  なに考えてんだあのサーヴァント―――! 「うわ。この場合喜ぶべきか微妙だけど、それなりに悪い気はしないんじゃない?  サーヴァントになってからも求愛されるなんて、女冥利につきるってもんじゃない」 「そのような事はありません。もとより私にそんな自由はない。私の目的は聖杯を手に入れる事です。  ―――正直、あのような〈戯言〉《ざれごと》は癇に障ります」 「そう? セイバーはそうでもアイツはかなりご執心だったじゃない。あの手のタイプはね、相手が断っても一向に堪えないんだから。  セイバーも頑固だし、いっそああいうヤツの方がお似合いかもよ?」  何が楽しいのか、遠坂は無責任なコトを言う。  遠坂はセイバーとそういう話が出来て嬉しいらしく、セイバーも興味なさそうなクセに、   「ですからそのような事に関心はないと言っているでしょう。彼は確かに優れた英霊ですが、私とは考え方が違いすぎる」    なんて、真面目に答えているし。 「へえー、だってさ士郎。セイバーは男なんて関心がないんだってー。安心した?」 「凛、今のはシロウには関係のない話だと思います。  今の発言は、どこかおかしい」 「でしょうねー。今のは私の失言だったわ。けど何がおかしいのかって、おかしい事がおかしいわけ」    ふふふふふ、と意地の悪い忍び笑いを漏らす遠坂。  その目はセイバーだけじゃなく、黙ってる俺まで肴にしている気がする。 「――――――――」  どうしてか癇に障って、無言で席を立った。 「あれ? ちょっと、どこ行くのよ士郎」 「お茶。喉が渇いたから。ついでだから人数分淹れてくる」  ふん、と言い捨てて台所に向かう。  理由は判らないが気にくわないんで、遠坂には思いっきり渋いお茶をくらわせてやろうと思ったのだ。 「それじゃ、とりあえず部屋に戻るわ。込み入った話は明日、イリヤが起きてからにしましょう」    散々セイバーに絡んだ後、遠坂は渋めのお茶を一気飲みして立ち上がった。 「ああ、さっさと寝ちまえ。間違っても戻ってくるなよ」 「はいはい。それじゃあとはよろしくね」  何が楽しいのか、最後まで上機嫌の体で遠坂は別棟へ去っていった。 「――シロウはどうするのです。  傷が癒えたといっても無理は禁物ですから、今夜は休むべきではないでしょうか」 「ああ、そのつもりだ。けどもう少しイリヤを看ている。  問題がないようだったら和室に移して、そしたら寝るよ」 「そうですか。それでは、それまで私も付き添います」  それきり、会話は途絶えてしまった。  遠坂が騒がしかった事もあって、こうして静かになると途端に居づらくなる。  ……いや、居づらい、というのは違うか。  気になっている事、言わなくてはいけない事があるから、こう心が焦るのだ。  思えば、セイバーにするべき話はまったく出来ていない。  聖杯の事。  未だ死んでいないという彼女。  ……聖杯を手に入れたところで、アルトリアという少女にはなんの救いもない。    その理由は言うまでもない。  彼女はここに至ってまだ、自分の願いを持ち得ていないのだ―――― 「……セイバー、さっきの話なんだが」  セイバーと視線がぶつかる。  気まずそうな目は、俺の言いたい事を察しているようだった。 「はい。なんでしょうか、シロウ」  静かな声で、俺の言い分を牽制する。  ……それでも、口にしない訳にはいかない。 「だからさっきの話だ。  遠坂も言っていたけど、聖杯を手に入れればサーヴァントはこっちに残れるんだろ。なら――――」 「いいえ、私は残るつもりはありません。聖杯を手に入れれば元の私に戻るだけです」 「それで王の選定をやり直すっていうのか。死にかけた〈王〉《じぶん》を救わずに、初めからやり直すのか」 「はい。国を守るのは王の責務です。私の力が及ばなかったのですから、せめて、相応しい王を選び直さなければなりません」  まるで遠い他人事のように彼女は断言する。 「――――」  その言葉の、何が頭にきたのか。 「っ―――このバカ、いい加減目を覚ませ……!  王の責務なんて関係ないっ、セイバーはこうしてここにいるんだから、あとは自分のやりたい事だけやってればいいんだ――――!」 「――――」 「セイバーは強いんだろ!? ならさっさと戦いを終わらせて、聖杯を手に入れて、サーヴァントなんて辞めればいい……!  願い事があるんなら、昔に戻ってやり直しなんかするな。自分を変えたいんなら、昔じゃなくて今から取り戻す方法を取れってんだ―――!」  ……セイバーは答えない。  彼女は小さく溜息をついた後、   「シロウ、しつこいです。その話は、もう止めてほしい」    きっぱりと、俺の言葉を拒絶した。 「それに、聖杯があればこの時代に残れる、という訳でもありません。  アーチャー……あのサーヴァントは聖杯を手に入れたから残っている訳ではない。なぜなら、前回の戦いで聖杯を得られる筈がないのですから」 「……? セイバー、それはどういう――――」 「無いものは手に入れようがないでしょう。あの日。街が炎に包まれた時、聖杯は破壊されたのです。  ―――私を裏切ったマスター、衛宮切嗣によって」 「―――――」  視界が狭まる。  がたん、と後ろに倒れそうになる体を、手をついて押さえつけた。 「衛宮、切嗣、だって……?」 「はい。十年前、前回の聖杯戦争における私のマスターは彼でした。私と切嗣は最後まで勝ち残り、聖杯は切嗣の手に渡った。  アーチャーとそのマスターはまだ残っていましたから、あとは彼らを倒すだけで聖杯戦争は終了する筈だった」 「ですが、切嗣は聖杯を捨てたのです。  その結果、町は火に包まれました。  ……あの男は私に命じて聖杯を破壊させた。聖杯に触れられるのはサーヴァントだけですから。  切嗣は最後の令呪を使って、私の手で強制的に聖杯を破壊させたのです」 「聖杯が失われてはサーヴァントはこの世に留まれない。  切嗣も私を留めようとは思わなかった。  私の記憶はそこまでです。あの〈黄金の騎士〉《アーチャー》との決着も、私を裏切った切嗣を問いただす事も出来なかった」 「――――――――」    そりゃあ、少しは考えなかったワケでもない。  親父だって魔術師だ。ずっとこの町に住んでいたのなら、聖杯戦争に関わっていない筈がない。  にしたって、これは―――― 「なんでそれを言わなかったんだ、セイバー。〈切嗣〉《オヤジ》が、前のマスターだったって」 「……通常、サーヴァントというのは以前の記憶など持ちませんし、同じ英霊がサーヴァントとして召喚される事もない。  私はサーヴァントとしては異例です。ですから、この件に関しては口に出すべきではないと判断したのです。  ……それにシロウには、切嗣がどんなマスターだったのかを語るのは、気が進まなかった」 「……? 気が進まなかったって、どうして」 「シロウ。貴方が私の過去を夢見たように、私も貴方の過去を見てしまった。  ……貴方の事にも驚きましたが、切嗣の変わり様も、私には信じられなかった。  シロウの記憶にいる衛宮切嗣は立派な人物です。ですが、私の記憶にある彼はそのような人物ではなかった」 「……一言で言ってしまえば、彼は典型的な魔術師だった。己が目的にしか興味はなく、阻むモノは何であろうと排除する。およそ人間らしい感情など、彼には見あたらなかった。  私が戦いを通して話しかけられたのは三度だけです。  ……それがなんであるかは、言うまでもないとは思いますが」 「――――――――」 「残忍という訳ではなかったし、殺人鬼という訳でもなかった。  けれど、彼には情というものが存在しなかった。  切嗣が私を道具として扱ったように、彼本人もまた、自身を道具としてしか見ていなかった」 「……切嗣はあらゆる感情を殺し、あらゆる敵を殺した。  そこまでして信じたモノがなんであったのかは、私には判らない。ただ、その目的であった聖杯を前にして、彼は私に破壊を命じた。  ……告白すれば。  あの時ほど令呪の存在を呪った事も、私を裏切った相手を呪った事もありません」  ―――セイバーの言葉には真実がある。  いや、真実しかないのだろう。  思えば、切嗣がどんな人間だったのかなんて、俺は十年前のあの時からしか知らない。  その前の切嗣がどんな人間だったのか知る事はできなかったし―――そんなもの、知る必要さえない。    衛宮切嗣が冷酷な男でも変わらない。  衛宮士郎を引き取ってくれた男は、ほんとうにバカみたいに子供だった。  だから、俺にとってはそれだけが真実だ。    ただ、わずかに胸が痛むのは。  切嗣が本当に冷酷な人間だったのなら、あの最期は、あまりにも空しすぎるという事だけで――― 「……そうか。じゃあ俺がセイバーを呼び出せたのも、切嗣の息子だったからなのか」 「……判りません。切嗣は正規の手順で私を呼び寄せました。マスターとしての適正が高かった切嗣は、歴史のある魔術師の家系に雇われ、聖杯戦争に参加した。  マスターとしての準備は、その家系が全て揃えたといいます」 「彼らは〈アーサー王〉《わたし》の遺品をコーンウォールから発掘し、切嗣に委ねて聖杯戦争に臨ませた。切嗣はそれを触媒にして〈アーサー王〉《わたし》を召喚したのです。  ですから切嗣本人には私を呼び寄せる因子もなければ、属性が近いという訳でもありません。シロウが私を引き寄せたのは、何か別の力が働いたからでしょう」  ……話は判った。  〈切嗣〉《オヤジ》がマスターだった事は、そう驚く事じゃなかった。  意外だったのは、その時のサーヴァントがアーサー王……今こうして目の前にいるセイバーだったという事だけだ。    それともう一つ。  聖杯は破壊された、とセイバーは言った。  なら―――この戦いは、初めから無意味だったのではないか。 「……分からないな。聖杯がもうないって、セイバーは初めから知っていたんだろう。なら、どうしてこんな馬鹿げた戦いをする気になったんだよ」 「……確かに聖杯の有無は私には判りません。けれど私が呼ばれた以上、聖杯はなければおかしい。  忘れたのですかシロウ。私は聖杯を手に入れる為にサーヴァントになった。逆に言えば、聖杯がない場所に私は呼ばれないのです」 「あ――――いや、でも。  じゃあ聖杯ってのは壊れても直ってるものなのか」 「いいえ。聖杯はそう簡単に代えがきく物ではない。  一度壊れた聖杯が直る事などないでしょう」 「なら――――」 「ですが有る筈です。サーヴァントは聖杯の磁力に引かれて現れる。聖杯がなければサーヴァントは現れない。  それはあの神父も語っていたのではありませんか」 「神父――――そうか、あいつ」    教会に住む、聖杯戦争の監督役。  聖杯を管理しているというあの男なら、全ての疑問に答えられる筈だ。    前回の戦いの終わり。  破壊された聖杯の行方と、未だ残っているアーチャーのサーヴァント。  それと、そう―――切嗣が戦いの果てに何を見て、聖杯を破壊したかを。    ―――弱気になるな。  俺たちはキャスターを追い詰めている。  ここで引けば、それこそキャスターに逆転の機会を与えかねない。  セイバーの剣が〈迅〉《はし》る。  すでに彼女はキャスターに肉薄し、瞬きの後、キャスターは一撃のもと両断されるだろう。  ―――が。   「っ…………!」    不意にセイバーが止まった。  キャスターの反撃ではなく、セイバー自身の判断で敵に踏み込むのを押し止めたのだ。 「貴様、それは――――」  咄嗟に身を翻そうとするセイバー。  だが間に合わない。  セイバーは何かに掴まれたようにたたらを踏み、瞬間、 セイバーの胸に、歪な短刀が突き刺さった。 「キャ、スター――――今の、は…………!」 「そう。これが私の宝具よセイバー。  サーヴァントはおろか人間一人殺せない、何も生み出せない最弱の武器。けれどある事柄に対しては全てを許された神代の免罪符」 「は――――シロ、ウ――――逃げ、」  傷一つ負っていないのに、セイバーは膝をつく。 「セイバー――――」  その不可解さに考えを巡らす前に、  左手から、最後の令呪が消えていった。 「―――え?」 「予定通りよ坊や。後は中にいる魔術師と器を回収すれば、私の勝利は揺るがない」  キャスターの腕が上がる。  〈詠唱なし〉《ノーアクション》で放たれた大気のうねりが、無防備な俺をなぎ払う。 「は――――」    ……立てない。  今の一撃で、両足はクラゲのように折れ曲がり、動かなくなった。 「―――そろそろね。  さあ立ちなさいセイバー。たとえ神が罰しようと、私が貴女を許してあげる」    クスクスという忍び笑い。  ……セイバーが立ち上がる。  彼女は、群がる骨どものような足取りで、ゆっくりとクラゲになった俺へと歩みより、            まるで、ワルイユメに脅かされているような瞳で、その剣を振り下ろした。 「ふふ、ふ、あはははは……!  素敵よセイバー、これで貴女も私と同じ、主殺しの罪を負った……! ええ、これからは罪人同士、仲良くこの地上を呪い殺しましょう……!」    ……キャスターの笑い声が鼓膜を裂く。  ……不理解を抱えたまま身体はモノになっていく。    ……赤いゼリーのような夜。  血まみれの俺を、涙しながら見つめるセイバーの姿だけが――――    セイバーが剣を振り上げる。  既に彼女はキャスターに肉薄していた。   「――――違う。だめだ、セイバー」    それでも、胸の動悸に促されるように、必死にセイバーへと走り出し、   「なに?」    不意に、セイバーの動きが止まった。  キャスターが何かをした訳ではない。  セイバー自身、キャスターに“何か”を感じて強張ったのだ。 「貴様、それは――――」  咄嗟に身を翻そうとするセイバー。  が。  地中に潜ませていたのか、後退しようとするセイバーの両足に、骨の腕が絡みつく――――! 「―――ふん、予知直感まで持っているとは予想外だったけれど、これで詰みねセイバー!」  キャスターの黒いローブから刃物が飛び出る。    それはおかしな形の短刀だった。  細く、脆く、およそ人を殺すには不適切な刃物。  セイバーはそれを嫌悪し、キャスターは勝機とばかりに振りかぶる。  地中から足を取られた、という驚きもあったのか。  セイバーは振り下ろされる短刀を弾く事もせず、呆然とそれを受け入れ――――   「こ――――のぉぉぉおお…………!」 「な―――」    背中で、キャスターの声を聞く。  ヤツがどんな顔をしているかは見えない。  俺に出来る事といったら、セイバーの前に立って、代わりに刃を受ける事ぐらいしかなかった。 「ぐ――――痛ぅ…………!!!!」  ……っ、それにしても巧くない。  俺には正面からキャスターの短刀を捉える自信がなかった。  だから短刀を受けるより、セイバーを庇った方が確実だと判断して、セイバーを隠すように抱きしめた。  結果として、キャスターの短刀は俺の背中――――とりわけとんでもなく痛い、背骨をスッパリと抉り切ったのだ。 「っ、が………………!!!!」    あまりの痛みに泣きそうになるのを堪えて、セイバーを抱く腕に力を込める。 「シロ、ウ……?」    耳元の声も、今はなんと言っているか判らない。   「はな、れろ――――セイバー、後ろ、に」    声を絞って、跳べ、と言うより先に、セイバーはこちらの意を汲んでくれたらしい。  ひゅん、と大きく体が泳ぐ。  セイバーは両足を掴んだ骨を振り払って後ろに跳躍し、セイバーを抱いていた俺も一緒に運ばれた。 「シロウ、傷を――――!」  切迫したセイバーの声。  優しく地面におろされたものの、背中の痛みは増すばかりだ。  こう、背骨をハサミでジョキジョキと切られて、むりやり鉛をつっこまれている。  ゴリゴリとした痛みからして、そうそう、ちょうど携帯電話を押し込まれているような感じ―――― 「シロウ、しっかりしてください、シロウ――――!」    ……取り乱している訳ではない、のだろう。  それにしても、セイバーにしては珍しいぐらいの大声で、逆にこっちが冷静になる。 「―――ばか、そんな大声出さなくても聞こえてる。  こんなの、痛いだけでどうってコトない。今は俺より、キャスター、を」  顔を下げたまま、キャスターがいるであろう場所を指さす。 「――――はい。すぐに決着をつけます。少しのあいだだけ辛抱をしてください」  ……セイバーはキャスターへと向き直る。 「今のが貴様の宝具か、キャスター」  険のあるセイバーの声。  黒い影は忌々しげに舌を鳴らし、手にした歪な短刀を持ち上げた。 「……ええ。見ての通りナマクラで、人間一人殺せない物ですけどね。貴女が直感した通り、ある事柄に関してのみ万能とされる魔法の札よ。  ……触れたくないのなら、私には近寄らないことねセイバー」  そうは言うものの、キャスターには先ほどまでの余裕は感じられない。  キャスターほどの魔術師であろうと、魔術である限りセイバーには傷をつけられない。  あの短刀がどんな宝具であれ、もはや奇襲をもってしてもセイバーには通用しないだろう。 「おまえなら、あとは問題なく倒せ、るハズ、だ」  歯を食いしばって指示を送る。 「あら、それでいいのセイバー? 確かに貴女なら私を追い詰められるわ。けど、その間に誰がそこの男を守るのかしらねぇ。  言うまでもないでしょうけど、私の魔術が通じないのはあくまで貴女だけ。貴女がそこの坊やから離れれば、追い詰められた私が何をするか、予想がつくのではなくて?」 「――――貴様」  肺から絞り出すような、セイバーの声。    ―――骨どもの音が増えていく。  地面に膝をついた俺と、俺を守るように剣を構えるセイバーを取り囲んでいく。 「く――――そ」    ……失敗した。  幾らセイバーを助けられても、俺がこの様では意味がない。  こんな満足に動けない状態じゃ、セイバーの足を引っ張るだけだ。  事実、セイバーだけならキャスターは敵でさえないという、のに―――― 「……話し合いにきた、と言ったなキャスター」 「な―――セイ、バー」 「マスターは黙っていてください。今は、これが正しい選択です」  セイバーが剣を下げる。  周囲を取り囲む骨の音にまじって、キャスターの忍び笑いが聞こえた気がした。 「話を聞こうキャスター。条件によっては見逃してやってもいい」 「正気? 貴女たちの命は私が握っているのですよ?  そんな強気な態度に出られると、つい握りつぶしてしまいそうだわ」 「間違えるな。貴様が握っているのは私ではなく、私のマスターの命だけだ。  ―――だが、それを潰すというのなら私も容赦はしない。この身が消え去る前に、我が剣の全てを以って貴様を焼き尽くす」  場が凍り付く。  セイバーの言葉の前に、キャスターばかりか周囲の骨どもさえ威圧された。 「……いいわ、そこの坊やには手を出さない。もともと私の目的は貴女だもの。一人ぐらいマスターを見逃しても支障はないわ」 「? 初めから私が目的……?」 「そうよ。バーサーカーを倒したほどの英霊を見逃す手はないわ。残るサーヴァントは私と貴女、それにランサーだけ。貴女を味方に引き入れれば、ランサーなど敵ではないもの」 「―――残り三人? では、アサシンは既に倒されたのか」 「さあ? もういないのだから倒されたのでしょう。主も守れないサーヴァントは消えて当然よ」 「――――――――っ」  アサシンが倒された……?  じゃあ柳洞寺にいたマスターはもういないのか。  直接戦うどころか正体を知る事もなかったが、これでまた一人、マスターが消えた事になる。  残るサーヴァントはセイバーとキャスター、それと、あの夜から姿を見せないランサーだけという事だ――― 「……ふん。くだらない無駄話はそこまでよ。  私が欲しいのは貴女のその宝具だけ。マスターを殺されたくなければ、大人しくその剣を渡しなさい」 「―――それこそ無意味な。この剣を扱えるのは私だけだ。  宝具はその持ち主でなければ使えないと、英霊ならば判っていよう」 「ああ、そうだったわね。けど、それなら貴女ごといただくまでの話よセイバー。  どんなに優れた騎士でも、捕えてしまえばどうとでも懐柔できるし……なにより、貴女は私の好みですからね。  躾るのは楽しそうだわ」  心底愉しげな声。 「っ……!」  切れ切れになっていた意識が沸騰する。  背中の痛みを端に蹴っ飛ばして、感覚のない足で立ち上がる。 「ふざけ、やがって――――」    俺のせいでセイバーを囚われの身になどさせられない。  セイバーを守ると決めたんだから、この程度の傷で倒れてなんていられるか――――!  木刀を握り直し、俺たちを取り囲む骨どもに斬りかかる。 「いけない、シロウ……!」  切迫したセイバーの声。   「そう。自殺したいのなら、止めはしないわ」  嘲笑うキャスターの声。    カシャカシャと蠢く無数の骨たちの音。  それらを、一斉にかき消すように。    豪雨じみた弓矢によって、瞬きの間に、骨どもは一掃されていた。 「な――――」    呆然と立ち尽くす。  雨のように降り注いだ弓矢は、幻だったかのように消え去っていた。  だが、それが幻の訳がない。  数え切れぬほど群がっていた骨どもは、一匹たりとも存在してはいないのだから。 「く、誰だ――――!?」  キャスターが視線をあげる。 「――――――――」  セイバーは既に気が付いていたのか。  彼女はキャスターより早く、塀の上にいる“ソレ”を、呆然と見上げていた。 「――――――――」    そこに、予想外のモノがいた。  月を背にした姿は黄金。  金色の甲冑で武装したその男は、酷薄な笑みを浮かべて庭を見下ろしていた―――― 「な、何者――――」  アレが自らの手勢を一掃したのだと直感したのか、キャスターは声を上げる。 「――――――――」  男は答えない。いや、初めからキャスターを見ていない。  アイツが見据えているのはただ一人。  俺の傍らにいる、銀の騎士だけだった。 「答えなさい、何者かと訊いているのです……!」    感情の昂ぶったキャスターの声。  それで、男はようやくキャスターへと視線を向けた。 「っ――――――」  赤い瞳に見据えられ、キャスターは息を呑む。  男の視線は、どうしようもなく冷たかった。    ―――アレは、キャスターを人間扱いしていない。    離れた俺ですらそう判るのだ。  直視してしまったキャスターが、あまりの威圧に心を裂かれても不思議ではない。 「あ、貴方は、なぜ私の邪魔を――――」    震える声で問う。  そうしなければ呑まれる、と判っていたのだろう。  ―――だが。   「雑種に名乗る謂われはない。失せるがいい、道化」    男は、死の宣告でそれに応えた。  パチン、という音。  それが指を鳴らしたものだと気づいた時には、もう、惨劇は始まっていた。    突如空中に現れた無数の凶器は、それこそ機関銃のようにキャスターへと叩き込まれる。 「―――Μαρδοξ―――!」    キャスターが腕を上げる。 『盾』の概念。  黒いローブの上空に、ガラスのような膜が作り上げられる。  ―――おそらく、あの守りはバーサーカーの肉体のそれに匹敵するだろう。    だが、ガラスというのが不味かったのか。  水晶で展開されたソレは、降りそそぐ武具の一撃すら防げず、粉々に砕け散った。 「え――――?」    呆然とした声。  哀れに首を傾げるキャスターなどお構いなしで、それらは黒いローブを貫いた。  容赦など初めからない。  槍に貫かれ、吹き飛ばされるローブをさらに槍が刺し貫く。  倒れそうになる体を剣が、地に落ちようとする腕を矢が、苛酷な痛みを訴えようとする首を斧が、それぞれ酸鼻の極地へとみちびく。    生き残れる可能性など皆無だ。    混沌多様な武具にとめどなく攻め打たれたキャスターは、もはや人のかたちを残してはいなかった。  ……風が吹いた。  主を失った黒いローブが散っていく。    ふわり、ふわり。    ズタズタに引き裂かれたローブは、それでもかろうじて原型を留めている。  ……今では、そんな物だけが、キャスターだったものの名残だった。 「――――――――」  あまりの光景に言葉がない。  張りつめた意識は、ただ哀れに散っていく黒いローブだけを見つめていた。  その時。   「―――無礼者。〈我〉《オレ》が失せろと言ったのだ。〈疾〉《と》く自害するが礼であろう!」    侮蔑の籠もった声で、金色の男が吠えた。 「な―――」    目の錯覚、ではない。  黒いローブは蛇のようにうねったかと思うと、黒い翼を生やして飛び去ろうとする。  だが遅い。  男が何をしたかは判らない。  ただ、夜空に亀裂が走っただけ。  海が割れるように、空に出来た断層は黒いローブを巻き込んでいく。  その様は、ローラーに巻き込まれていく人間を連想させた。 「あ――――あ…………!」    黒いローブが落ちる。  その下には傷ひとつないキャスターの姿がある。  そこへ。  今度こそ、魔剣の嵐が降り注いだ。 「ひ、あ、あああああああああああああ!」    ……絶叫が響く。  絶叫に呼応して剣は数を増し、その数に応じて絶叫は高く大きくなっていく。 「あ、は、いた、ぬいて、いたい、ぬいて、おねが、い…………!!!」    キャスターにはセイバーと同じく、自己再生の力があるのか。  剣に貫かれようと死に至れない分、その様は無惨すぎた。  ……雨は止まない。  凶器はそれぞれ形が違い、同じ物など何もない。  そして、認めたくないのだが――――その一本一本が、サーヴァントたちの“宝具”に匹敵する魔剣、魔槍の類だった。 「うそ、こんなコト、あるハズ、ない―――こんなバカげた数、ある、ワケ――――」    無尽蔵とも言える宝具の雨。  その下でもがくキャスターは、あまりに―――― 「くっ、あう、死、ぬ……? 私、死んじゃう? こんな、こんな、デタラメで、死ぬなんて、そんな、あは、おかし、ひ、おかしくて、こんなの、うそ、あは、あははは、あははは、あははははははははははははははははあははははははははははははははははははははははははははははははははははははあああああああああああああああああああああああああ――――――――!!!!!」  ……それで終わった。  キャスターの姿を隠していた黒い霧と共に、魔術師のサーヴァントは消え去った。  際限なく続くと思われた無限循環の責め苦は、真実、わずか十秒足らず。  その間。  セイバーはただ、塀の上に立つ黄金の騎士を睨んでいた。 「ふん。魔術師風情が騎士王を捕えるなどと、口にするのも大罪よ。  アレは王である〈我〉《オレ》の物だ。王の宝に手を出す輩には、かような串刺しが似合っていよう」 「さて、久しいなセイバー。覚えているか、〈我〉《オレ》が下した決定を」  親しげに男は言う。 「――――――」  セイバーは答えない。  ただ、男を睨むその気迫は、今までの比ではなかった。 「なんだその顔は。未だ覚悟が出来ていないと言うのか?  あれから十年だぞ。  既に心を決めてもよい頃だが―――ああ、もっともそれは〈我〉《オレ》だけの話なのか。おまえにとってはつい先日の話であった。  ……まったく、男を待たせるとはたわけた女だ」  愉快そうに男は笑う。  ……胸が軋む。  今の惨劇を見せられた、という事もあるだろう。  だがそれ以上に、あんなふざけた目でセイバーを見下ろすアイツに吐き気がする―――― 「――――。まだ雑種が残っていたか」    不愉快げに言って、男は屋敷へと視線を向ける。 「?」  その先―――居間に続く縁側には、イリヤと遠坂の姿があった。 「…………なに、あれ」  お化けでも見るように、イリヤは男を見上げている。  イリヤは必死に目を凝らした後、信じられない、とかぶりを振った。 「うそ―――あなた、誰なの」 「ふん? たわけ、見て判らぬか。この身はおまえがよく知る英霊の一人であろう」 「――――うそ!」  イリヤは縁側から飛び出すと、挑むように男を睨む。 「知らない。わたし、あなたなんて知らない。わたしが知らないサーヴァントなんて、存在しちゃいけないんだから……………!」 「な――――待て、イリヤ……!」    制止の声も間に合わない。  イリヤから放たれた魔力の塊は、一直線に男へと炸裂した。  きぃん、という音。  男は何をした訳でもない。  ヤツの目前には鏡のような盾が出現し、イリヤの放った魔力の塊を反射しただけだ。 「え――――?」  魔力を放ったのが無我夢中だったのなら、その出来事に反応できる筈がない。  イリヤは自ら放った魔力の塊を前にして、呆然と立ちつくし――――   「っ――――効いたぁ…………」    咄嗟に割って入った遠坂に助けられた。 「……ふむ。なるほど、今回はまた変わり種だな。  前回の〈轍〉《てつ》を踏まぬよう、少しは工夫したという事か」    男は舐めるようにイリヤを見つめる。  セイバーに向けるものと同じ、自らの所有物を愛玩するだけの冷たい視線。 「……やだ。やだ、やだ、やだやだ……! わたし、わたしはアナタなんて嫌いなんだから……!」  遠坂に羽交い締めにされながら、イリヤはまだ男を睨み付けている。 「貴様の事情なぞ知らん。いいから早く開け。そら、せっかくの五人目なのだからな」  淡々とした男の声。  それにどんな効果があったのか。   「あ――――や、んっ――――」    イリヤは大きく震えた後、がくりと頭を垂れて意識を失った。  それで終わり。  これ以上、起きる事など何もない。  俺と遠坂は、男を見上げている事しか出来ない。    ……俺も、遠坂も判っている。    アイツは俺たちを見ていない。  ここで俺か遠坂が声をあげれば、その瞬間にキャスターと同じ運命を辿るだけだ。 「――――――――」  ただ、セイバーだけは違う。  彼女は俺たちとは違った沈黙をもって、黄金の騎士を見据えていた。 「なぜ―――貴方が現界しているのです、〈アーチャー〉《・・・・・》」  押し殺したセイバーの声。  それに、俺と遠坂は驚く事しか出来なかった。 「何故も何もなかろう。聖杯は〈我〉《オレ》の物だ。自らの持ち物を取りに来て何が悪い」 「ふざけた事を。貴方はそのような英雄ではない。いや、そもそも――――」 「やめておけ。その先を口にしては、戦わざるを得なくなるぞ騎士王よ。  ―――いや、もとよりそのつもりであったが、興が削がれた。再会を祝すにしては、此処はみすぼらしすぎるからな」  言って、男は踵を返す。  堂々と、俺たちなど歯牙にもかけぬと背中を見せて。   「いずれ会うぞセイバー。  あの時から〈我〉《オレ》の決定は変わらぬ。次に出向くまでに、心を決めておくがいい」  男の姿が消える。  張りつめていた空気は解け、庭はいつもの静寂を取り戻した。    ……だが、戻ったのはそれだけだ。  衛宮邸は荒らされ、イリヤは気を失い。  無言で俺たちに背を向けるセイバーは、重苦しい沈黙を背負ったままだった。  一人、目を覚ました。  体調が回復しても、セイバーは定期的に睡眠を取らなくてはならない。  あれから部屋に戻ってすぐにセイバーは眠り、俺も彼女を安心させる為に床についた。  それが一時間前の話だ。  時刻は十二時過ぎ。……この時間なら、セイバーと遠坂に見つかる事なく外に出られる。  物音を立てないように外に出た。  自転車を使おうとも思ったが、それで二人を起こしては面倒だ。  ここは歩いて向かう事にしよう。  人の気配がしない。  いくら深夜だからといって、この静けさは異常だった。  空気は凍り付き、建物には生気というものが感じられない。  反面、足の下、地面の中では、何か黒々としたものが渦巻いているような、矛盾した熱を感じる。  ……イリヤに捕まっていた数日の間に、町はどうかしてしまったのか。  なにか、よくない事が起こる兆しが、そこかしこに溢れている気がした。 「………………気のせい、じゃないよな」    ふと、遠くのお山を見上げる。  町から離れた柳洞寺は、ここから見れば黒い塊にしか見えなかった。    ただ、それが。  夜気にゆられて、どくん、と鳴動するように見えた。  暗い川を渡って、新都へ歩いていく。   「――――そうか。あれから、もう十日経ってるのか」    あの日。  初めてセイバーと出逢った夜、遠坂と三人でこの橋を歩いた事が、随分と昔に感じられた。  ―――教会が見える。   『今まで、一度も行った事はない』    そう遠坂に答えたものの、あの教会とは少なからず縁があった。  なにしろ、本当なら俺はあの教会に預けられ、どこぞの養子縁組に組み込まれた筈なんだから。 「……衛宮の家か、あの教会か。思えば、とんでもない分かれ道だったんだな」  十年前。  あの病室にいた子供たちはみんな孤児で、一時的に教会に預けられた。  俺はそんな孤児たちの中でただ一人、病室から養子として貰われた。  だからだろう。  なんだか申し訳なくって、無意識にあの教会を避け続けたのは。  十一日前の夜、教会に行くのは初めてだ、と遠坂に答えたのはそういう訳だった。  教会に明かりは点いていた。  ……あの神父は苦手だが、あいつには訊かなければならない事がある。   「――――さあ、行くぞ」    ふう、と軽く深呼吸をして、重苦しい扉に手をかけた。 「言峰神父、いるか」    声をかけながら歩を進める。  礼拝堂に人の気配はない。  明かりは点いているものの、こう無闇に広くて静かだと、下手な暗闇より緊張する。 「おい。誰かいないのか」  ……返事はない。  これ以上奥に行くわけにもいかないし、今夜は諦めて帰るべきなのか―――― 「っ……!」  咄嗟に物音へと振り返る。 「衛宮士郎か。こんな時間に何の用だ」 「――――――――」  突然の対面で、うまい言葉が見つからない。 「夜も更けた。後は眠るだけだったのだが―――その顔では懺悔の真似事でもしたかったと見えるな、衛宮士郎」  言峰はつまらなげに言って、やってきた扉へと踵を返す。 「あ―――いや、待ってくれ。その、アンタに訊きたい事があって来た」 「そんな事は判っている。時間外だからといって、訪れた者を追い返す事などせん」  言って、言峰は奥に通じる扉を開けた。 「ついてこい。話といっても聖杯戦争の件だろう。そんな血生臭い話をここでする訳にもいかん」  こっちの返事も待たず、言峰は奥へ消えていった。 「――――っ」  ここまで来たんだ、何もせずには帰れない。  言峰の雰囲気に威圧されないよう気合いを入れ直して、教会の奥へと向かった。 「わ――外も凄かったけど、中も凝ってるっていうか……」  中庭、だろうか。  言峰一人が住むにはあまりにも立派な庭園と渡り廊下が広がっている。 「なにをしている。話をするのならこちらに来い」  神父は何個めかの曲がり角を進んでいく。 「……くそ、ホントにまったなしなんだな、アイツ」  愚痴をこぼしつつ、言峰の後を追う。  教会はちょっとした迷路で、今は大人しく言峰に従うしかなかった。 「――――――――」    質素な石造りの部屋だった。  あの礼拝堂や中庭の優雅さとはかけ離れたここが、言峰神父の私室らしい。 「持てなす物のひとつもないが、許せ」  ずっしりとソファーに身を預けながら、神父はそんな事を言う。 「――――――――」  ……微かに匂うのはワインか何かの香りか。  匂いが部屋に染みついているぐらいなんだから、相当の好き者なのだろう。 「どうした、話があるのではなかったか。そこで惚けられていても迷惑だが」 「―――だ、誰も惚けてなんかいないっ! この部屋が意外だったから驚いていただけで、すぐに用件を済ませて帰る……!」 「それはなにより。私も子供に付き合うほど暇ではない。  質問は手短かにして貰おう」 「っ…………」  ……やはりこの男は苦手だ。  心を見透かされているようで、正面から対峙すると気圧されてしまう。 「それで、話はなんだ衛宮士郎。一応、教えられる事は全て教えたつもりだが」 「……嘘つけ、アンタは知ってた筈だ。  親父がセイバーのマスターだったこと、最後に聖杯を壊しちまったことを。アンタは聖杯を管理している監督役なんだからな……!」 「ほう。セイバー自身がそう言ったのか」 「あ……ああ、前回の聖杯戦争はそうして終わったって、聞いた」 「――――――――」  神父は思案するように黙り込む。 「サーヴァントが前回の記憶を受け継いでいる、というのは異常だ。セイバーは故障しているのか、それともあのセイバーそのものが異常なのか。  なんにせよ、通常のサーヴァントとは言えないな」 「英霊は記憶など持たない。  過去、現在、未来、いかなる時代にも呼び出される連中に、記憶があっては矛盾が生じる。  奴らにあるものは生前の記録だけだ。死後、英霊となってからの出来事は一切記憶されない筈だが――――」  納得がいかないのか、神父は思案している。  ……そうか。  セイバーがまだ英霊になりきっていないと知らないから、その問題から抜けきれないのか。 「いや、それが違うんだ。セイバーは他のサーヴァントとは事情が違うらしい」 「事情が違う? ……なるほど、わざわざ訪れた用件はそれか。いいだろう、話してみろ」 「――――――――」  尊大な態度が鼻につくが、今は反発している場合じゃない。  気にくわないが、この神父なら何か明確な答えを出してくれるかもしれない。 「それが、セイバーは死んでないらしいんだ。  あいつはまだ英霊になる契約をしていない。死の淵であいつが願ったのが聖杯を手に入れる事で、その代償として英霊になる事を認めたとか。  だからあいつはまだ死んだ訳じゃないんだ。聖杯を手に入れるまでは死なず、手に入れてしまえば完全な〈英霊〉《サーヴァント》になるって言ってた」 「死んでいない……ではセイバーはまだ輪廻の枠に留まっているという事か。他の英霊のように時間から外れた訳ではないと?」 「ああ、そういう事だと思う。遠坂は、セイバーは一人で時間に止まっているとも言ってた」 「―――そうか。英霊のように事が済めば消えるのではなく、聖杯を手に入れるまでは英霊として駆り出されるという事か」 「だが、アレはいまだ聖杯を手に入れていない為、失敗する度に死の直前にいる自身に戻ってしまう。そうして前回の記憶を持ったまま、今回も呼び出された。  ―――ふん。わざわざ死ぬ為に聖杯を求めるとは、英雄というのは分からぬな。  そうして手に入れたところで、待っているのはサーヴァントとして使役される事だけだろうに」 「……そうだ。たとえ聖杯を手に入れて、あいつが望みを叶えたところで―――あいつは他の〈連中〉《サーヴァント》と同じになっちまうんだろ。  ……俺にはそれが納得いかない。そもそもサーヴァントってなんなんだ。英霊を使い魔にするっていうが、セイバーみたいに矛盾した英霊もあり得るのか」 「さあ、そのあたりのシステムなど知らんよ。  ……魂の永続。その秘法を真似て作られたのがサーヴァントシステムだ。こればかりは立案者であった当時の人間しか知るまい」 「?―――魂の、永続……?」 「いや、元々はそういうモノだっただけ、という話だ。  関係のない事だ、忘れろ」 「それで衛宮士郎。  つまるところ、おまえはあのセイバーをサーヴァントではなくしたい、というのだな?」 「――――」  図星、なのだろうか。  そりゃあセイバーの状況はおかしいと思う。  聖杯を手に入れようとするのはいい。  けど、その後に待っているものは自己の消滅だ。  アーサー王ではない王が選ばれて、アーサー王がこの歴史から消え去った時。  それでもアーサー王という英雄として、彼女が使役されるなんていうのは、ひどく間違っていると思うのだ。  だから―――彼女がサーヴァントでなくなって、普通の人間として生きていけるとしたら――― 「それは不可能だ。  死者は蘇らない。いかに時間に止まっていようと、私たちにとってセイバーは死んだ者だ。  彼女を現世に呼びだしているのは聖杯の力であり、彼女が英霊になる交換条件を呑んだからだろう。  聖杯を求めない彼女は、サーヴァントとして召喚される事はない。そして聖杯を求める以上、遅かれ早かれ彼女は完全なサーヴァントになるだろう」 「……たとえ今回が失敗に終わっても、彼女にはチャンスなど無限にある。  セイバーは未だ時間軸に留まっている為、“聖杯を手に入れる機会”を同時に行えるという訳でもないし、一度失敗した試練をやり直す、という事もできない。  一度失敗した試練は、何度やり直そうと失敗する。結果を体験しているからといって、決定した結果は変えられないからな」 「だがそれでも、聖杯を手に入れるのは時間の問題だろう。聖杯を手に入れる機会は、この聖杯戦争だけではない。  “聖杯”に関する試練はあらゆる時代に存在する。  その全てを虱潰しに続けていけば、いずれ聖杯は手に入れられる」 「……そもそも彼女は『結果として聖杯を手に入れる』からこそ、英霊として召喚されているのだ。  おまえのセイバーをサーヴァントでなくす方法など、アレがおまえの前に現れた時点で存在しまいよ」 「――――」  ……やはり、そうか。  セイバーが聖杯を求める以上、サーヴァントでなくす手段はない。  結局、セイバー自身が聖杯を自分の為に使わないかぎり、あいつは一生あのままなんだ。    この聖杯戦争が終わって、戦う必要がなくなっても。  聖杯が手に入らなければ次の機会に赴くだけだし、  手に入ってしまえば、英霊なんて得体の知れないモノになって、あらゆる時代に駆り出される――― 「……じゃあ。聖杯を手に入れようが手に入れまいが、あいつはずっとサーヴァントのままなのか」 「いや、そうとは限らんだろう。聖杯が本当に万能の杯であるのなら、セイバーを救う事はできる」 「え―――?  けど、アンタはさっき、それは不可能だと―――」 「ああ、セイバーをサーヴァントでなくすのは不可能だ。  だがおまえが望んでいるのは、セイバーを人としてこの世に留まらせる事だろう。  ならばそう難しい事ではない。  聖杯戦争が終わった後、サーヴァントを人として生かす事もできる。もっとも、死んでしまえば死の直前にいる彼女に戻る事になるが」 「―――それは、どうやって」 「英霊とサーヴァントは似て非なるモノ、という事だ。  通常、英霊として召喚されるモノには意思などない。  連中はただ、目的を果たす為だけの道具として召喚され、消え去っていく」 「だがサーヴァントは別だ。  アレは聖杯によって呼びだされた“本体”だからな。  それならば、世界に留めておくだけで人として生きていこう」 「そんな事、できるのか。  前回、セイバーは聖杯が壊れた時点で消えたと言っていた。聖杯がなくなってしまえば、サーヴァントは残っていられないんじゃないのか」 「無論だ。サーヴァントを呼び出すのは聖杯であり、その後に彼らを維持させるのがマスターの役割だ。  だが、それも聖杯がマスターの後押しをしているからでね。本来、魔術師一人程度の魔力ではサーヴァントを維持できない。聖杯という強大な魔力提供源がなければ、サーヴァントは消えてしまう」 「……だろうな。なら」 「いや。足りないのなら補えばいいだけの話だろう。  サーヴァントにとって、魔力提供など代償行為にすぎない。連中の本質は魂喰いだ。存在濃度が薄れ始めたのなら、他人の魂で補充すればよい」 「な――――」  それは慎二のように、無差別に人を襲えという事か。 「ふざけるな、そんな事できるものか……!  だいたいな、セイバー自身そこまでして残ろうと思ってない……!」 「そうか。ならば、あとは聖杯の中身を使うしかあるまい。―――簡単な話だ。おまえが真実セイバーを人として生かしたいのなら、聖杯をセイバーに飲ませればいい」  俺の反発など予測していたのか。  神父の目は、初めからこの結論に達したかった、と告げていた。 「―――それは、聖杯で俺の願いを、叶えろってコトか」 「いいや。それはおまえの願いとは関係がない。聖杯の中身はそういうモノだ。  凛から聞かなかったか? サーヴァントは杯に満ちた水を飲むコトによって、現世で二度目の生を授けられるのだと。  もっとも、それはこの時代の使い魔として立場を確立したにすぎぬがな。肉体は依然サーヴァントのままだが、マスターさえ存命ならばこの世界に留まれるようになる」 「――――けど、それは」    結局、なんの解決にもなってないんじゃないのか。  いくらこの世に留まれるようになったからって、サーヴァントのままじゃ意味がない。  マスターからの魔力提供がなければ存在できず、そうして長くこの世に留まっても、死んでしまえばまたあの丘に戻るだけだ。    ……それに、セイバーがそんな事をする筈がない。  あいつは二度目の生になんて関心はないし、聖杯を別の事に使うと言うのだから。  ああ、いや、そもそも―――全ての鍵となる聖杯は、まだこの世に残っているのか。 「……話は判った。結局、聖杯を手に入れるしかないって事だろう。けど、聖杯はあるのか。親父が壊したんなら、もう」 「もう、なにかね」 「……聖杯がないのなら、戦う理由がない。こんな馬鹿げた殺し合いは無意味だ」 「戦う理由はない、か。何を今更。  ――――もとより、君に理由などない」    言われて。  ピタリ、と時間が止まった。    ―――戦う理由などない。    それは以前、この神父が口にした事だ。  あの時―――あの時は、まだマスターになったばかりで、戦う理由が希薄だった。    だから聞き流した。ただの皮肉と無視していた。    だが、今はどうだ。  戦う理由はある。もし聖杯があるのなら、こんな戦いは終わらせて、それで、出来るのなら、セイバーに聖杯を渡してやるんだ。    戦う理由はある。  ちゃんと理由はある。  なのに、どうして――――こんな何でもない言葉で、胸の中のモノを吐き出しそうなほど、体が震えてしまうのか――― 「―――まあよかろう。今は衛宮士郎の傷を切開する時ではない」    ……声がした。  あまり聞きたくない男の声。  だが、今はそれで、正体不明の吐き気が収まってくれた。 「聖杯は有る。もとより聖杯は受け皿にすぎぬからな。  なくなれば、用意した者が新しい聖杯を用意する」 「?……用意した者が新しい聖杯を用意するって……聖杯ってそんな簡単に作れるものなのか」 「器を作るだけならば、な。  無論、相応の技術が必要となってくるが、もとよりその技術なくして聖杯戦争は成り立たなかった」 「……元々、聖杯とは神の血を受け継いだ杯ではなく、古より伝わる魔法の釜が原形なのだ。  おまえも魔術師のはしくれならば知っていよう。  〈理想郷〉《ユートピア》。ギリシャ語で“たどり着けない場所”という意味を持つそこには、願いを叶える“万能の釜”があるとされた。  この、あらゆる神話の根底にある“万能の釜”を再現しようとした魔術師たちがいた」 「それがアインツベルン、マキリ、遠坂の三家だ。  連中は何代かに渡って“万能の釜”を再現する儀式を模索し、二百年前にそれを完成させた。  それが一度目の聖杯戦争―――人工物に過ぎない聖杯に“万能の釜”を降霊させ、道を開こうとした儀式だった」 「アインツベルン……? それって、イリヤの家の事か?」 「そうだ。アインツベルンはラインの黄金とやらの伝承に長けていてな。こと、聖杯の模造品を作る技術は神業だった。  だがそれだけでは聖杯を呼び出す事はできん。  相応しい土地と、強力な呪縛が必要となる。  それらを提供したのが遠坂とマキリだ」 「当時、教会と魔術協会は係争の真っ最中だったからな。 儀式には教会の目が届かない極東の地が選ばれた。  アインツベルンはそれを見越して遠坂を仲間に引き入れたのだろう。遠坂はここ一帯の霊地の持ち主であり、その師は降霊術の大家だった。  アインツベルンとしては、遠坂なくして聖杯召喚は不可能だった」 「だが、二つの家だけでは容易に裏切りが起きてしまう。  事は三すくみにすべきだ、と考えたのか、遠坂はマキリの家系にもこの話を持ち込んだ。  マキリも長い年月を持つ名門でな。  こと使い魔に関しては優れた技法を持っていた。サーヴァントを縛る令呪を作り上げたのもマキリだ」 「……そうして連中は聖杯召喚に一致団結した訳だが、いざ成功してみれば残ったのは潰し合いだ。  一度目の聖杯の降霊は、連中が戦っている間に終わってしまったらしいな。  そうして代を重ね、聖杯戦争というルールを作り、カタチだけはもとの協力関係に戻った」 「遠坂はこの土地とサーヴァントを形作るシステムを提供し、マキリはサーヴァントを縛る令呪を提供した。  そしてアインツベルンは聖杯が宿る器を用意する。  それが彼らの敷いた協力関係という訳だ」  ……何が愉しいのか、神父は嬉しそうに続ける。  しかし、そうか……聖杯戦争は儀式だって言っていたが、その発案者がイリヤや遠坂の家だったのか。 「聖杯を用意したのはアインツベルンだからな。  前回切嗣に裏切られた彼等は、最強の切り札を投入してきた。おそらくアインツベルンの娘が聖杯を持っているのだろう」 「――――?」    イリヤが聖杯を持っている……?  ……おかしいな、そんな荷物はなかった筈だが……。 「さて、これで気は済んだか。おまえが何を悩むのかは私には知り得ない。  だが、解決する手段は聖杯のみだ。それが解ったのなら早々に帰るがいい。  戦いはまだ終わっていない。セイバーもつけずに出歩くのは正気の沙汰ではないぞ」 「余計なお世話だ。まだランサーのマスターが残っている事ぐらい――――」  と、待て。  まだ一つ、訊かなければならない事があった。 「―――言峰。聖杯が消えればサーヴァントも消える。  アンタはそう言ったな」 「言ったが。何か問題でも?」 「大ありだ。何者かは知らないが、八人目のサーヴァントがいた。セイバーの話じゃ、あいつは前回からずっとこの場に残ってるって話だぞ」 「な、に――――?」  よほど意外だったのか。  言峰は目を見張ったまま、何を馬鹿な、と呟いた。 「どういう事だ言峰。アンタなら少しは判ると思って来たんだぞ」 「…………。消えなかったサーヴァントがいる、という事だな。  そう不思議ではあるまい。前回の戦いは、セイバーが聖杯を破壊する事で終わったのだ。  つまりセイバーの他にもう一人、サーヴァントは残っていた」 「セイバーは潔く消えたが、そのサーヴァントが現界する事を望んだのなら話は容易い。  ソレは魂を喰らう事で魔力を補い、この十年間生き続けたのだろう」 「―――そんなバカな。あいつの気配は異常だった。  あんなのが十年間もいたら、親父だってアンタだって気が付くはずだ」 「……分かっている。おそらく匿っている者がいたのだろう。そのサーヴァントのマスターか、もしくは……」 「もしくは、なんだよ」 「聖杯戦争を知りながら、マスターの資格を持ち得なかった魔術師だ。  そういった人物には一人心当たりがあるのだが、それもないな。マキリのご老体はとうに隠居している」  納得がいったのか、言峰はソファーから立ち上がる。 「話はここまでだ。今の話を聞いては、監督役として放ってはおけん。  そのサーヴァントに関しては私が調べよう。おまえは残るランサーとの戦いに専念するがいい」  これ以上話すことはない、と言峰は出口へと歩いていく。 「――――――――」  ……確かに、これ以上ここにいても得る物はない。  無言で出口へ案内する言峰を追って、この暗い石室を後にした。  教会を後にする。  その背中に、   「聖杯を手に入れればセイバーは死ぬ。その意味が解っているのだろうな、衛宮士郎」    確認するように、そんな言葉が投げられた。 「――――」  神父は扉の前から、地上にいる俺を見下ろしていた。  ……聖杯を手に入れればセイバーは死ぬ。  そんな事、言われるまでもなく解っている。  セイバーの目的は聖杯を手に入れる事だけで、聖杯の力を欲していない。  そうして聖杯さえ手に入れば、セイバーを縛るモノはなくなる。  彼女は死の直前で此処にいる、という立場から解放され、そして―――あの丘で、報われない死を迎えるだろう。 「どういう風の吹き回しだ。アンタがそんな忠告をする玉か」 「なに、おまえがセイバーに肩入れしている様は喜ばしいのでな。私なりの厚意として忠告しているのだよ。  聖杯を手に入れてしまえばセイバーは消える。  彼女と共にいたいのならば、聖杯は諦めるべきだろう、とな」 「……それこそ矛盾してる。聖杯がなかったらセイバーを留めておけない」 「聖杯に頼る事はあるまい。先ほどのサーヴァントの話もある。セイバーを存命させたいのなら、魂を与え続ければいいだけではないか?」 「――――ふざけるな。そんな事、できるもんか」  神父を睨む。 「そうか。それは残念だ」  俺の凝視など堪えていないのか、神父は愉快そうに笑っていた。 「ならば聖杯の中身に期待するしかないな。  おまえのサーヴァントが望まないにしても、令呪を一つ残しておけばそれでいい。おまえの望みは、それで叶う」    ―――神父は言う。  セイバーが嫌がろうと構わない。  マスターであるのなら、令呪の力で無理矢理聖杯を飲ませてしまえばいいと。 「――――――――」 「おや、失言だったか。そう睨むな、あくまで今のは忠告にすぎぬ。  まあセイバーの意思を尊重するのもよかろう。彼女の人生だ、我々が口を出す権利はない」 「例のサーヴァントに関しては明日中に調べ上げよう。  気が向いたのならもう一度訪れるがいい」    教会の扉が閉まる。  〈聳〉《そび》える〈伽藍〉《がらん》を見上げながら、教会を後にした。  朝の食卓はいつも通りだった。  セイバーも遠坂も順応性が高いのか、もう異分子であったイリヤに馴れている感がある。 「で、アンタはどうするのよ士郎。  残るマスターは三人。聖杯戦争だって期限がないって訳じゃないんだから、そろそろ行動に移らないとまずいわよ。いつも後手を踏むってのも情けないし」  遠坂の言う通りではある。  体も問題ないし、セイバーだって回復しきっている。  休日は、昨日で終わりにしなければならない。 「……そうだな。けど行動を起こすにしても、それは夜からだ。日が昇っているうちは今まで通りにする」 「本気? ……まあ、相手の情報がないんだから闇雲に出歩いても仕方がないけどさ。じゃあ士郎は今日もセイバーにいじめられるわけ?」  セイバーと剣の鍛錬をする。  それは今まで通りの行動だし、マスターとして戦いに備えるのは当然だろう。 「凛。私とシロウが行っているのは鍛錬です。今の発言は人聞きが悪すぎます」 「いや――まあ、そうだな。午前中は、今まで通りセイバーにしごかれるよ」 「……シロウ。貴方までそのように言われては、私の立場がないのですが」 「え―――? いや、悪いセイバー。ぼうっとしてて聞いてなかった」 「ですから、凛の言いぶりは乱暴すぎるという件です。  ……まったく、どうしたのですシロウ。今朝は覇気が感じられません。朝食もどことなく色どりに欠けますし、昨日も遅くまで蔵にいたのですか」  そう言うものの、セイバーの声には非難の色はなかった。  セイバーが俺を信用してくれているのは、それだけで感じ取れる。  だから今は余計、彼女と視線が合わせられない。  目を合わせれば、どうしてもあの丘の光景が浮かんでしまう。 「……ふう。分かりました、後ほど活を入れてさしあげます。それでは今日も道場で鍛錬をする、でいいのですね、シロウ?」 「ああ、頼む。イリヤはどうするんだ?」 「わたし? わたしも昨日と同じだよ。雨に濡れるのは嫌いだから、外に出たくないわ」 「そうか。そうしてくれると助かる。出来ればイリヤには家にいてほしいからな。外に出るのは危ない」 「うん。昨日みたいにお弁当作ってくれるなら、いっしょにいてあげてもいいよ」  ……ふむ。  どうも、イリヤは昨日のお弁当が気に入ったらしい。  あれぐらいで喜ばれると恐縮だが、イリヤが喜んでくれる分にはこっちも嬉しかった。 「なんだ、それじゃ昨日と同じってコトね。  わたしも調べ物があるから部屋に籠もるけど、午後になったら顔を出しなさい。ちょっと話があるから」 「……調べ物、ですか?」 「そ。セイバーなら判ってると思うけど、昨日から柳洞寺の様子がおかしいのよ。  あれだけ精力的にやってた魔力集めも止まってるし、何か動きがあったのは明白でしょ。  ま、残ったマスターの中で一番厄介そうなのは柳洞寺のヤツだしね。使い魔でもこしらえて、中の様子を探ってみるわ」 「それでしたら探索に専念した方がいいのではないですか? 無理に時間をさいて、シロウに教授する必要はないと思いますが」 「ま、そこはそれ、悪いけど我慢してちょうだい。わたしもね、まだ危なっかしくて放っておけないのよ。  敵に殺されるのならいいけど、魔術をしくじって自滅でもされたら師として面目がないでしょ」 「―――はい、凛の言う通りです。  ……私はどうかしていました。凛の授業が必要ないなんて、どうして思ってしまったのか」 「その理由は簡単だけど、まあ知らぬが華ってコトで。  それじゃあ午前中の鍛錬、頑張ってね。そいつ頑丈だから、死なない程度にいためつけるぐらいが最適よ」  とんでもないコトを言って、遠坂は居間を後にする。 「……セイバー。言っとくけど、遠坂の言い分なんて本気にするなよ。あいつはセイバーの打ち込みを受けてないからあんなコト言えるんだからな」  いちおう、釘を刺しておく。  セイバーは何が嬉しいのか、 「はい、分かっています。シロウの体に関してなら、私の方が熟知していますから」    穏やかに、そんな言葉を返してきた。  遠坂の部屋で雨音を聞く。  今日も魔術講座とは名ばかりの健康診断もどきで、遠坂の用意した薬を飲んで、全身の魔術回路のチェックをしただけだ。  ……それは構わないのだが、こうして何もしないというのも所在がない。  結果を見る為しばらく動くな、と言われているが、まさか話もするな、というコトでもあるまい。 「遠坂、ちょっといいかな」  座禅を組んだまま声をかける。 「ん? いいけど、何よ」 「セイバーの事なんだけど。  なんて言ったらいいか分からないんだが……」  口にして、自分の考えがまったく纏まっていない事に気づく。  セイバーの為に何ができるのか、どころの話じゃない。  俺はセイバーをどうしたいのかってコトさえ、まだ考えてもいなかった。 「……その、あいつ、何がしたいのかなって。  考えてみれば、あいつが自分から何かやるって今までなかっただろ。だから―――」 「セイバーが何を考えているか分からない?」 「―――いや、そういう訳じゃないんだ。ただ、あんまりにも無欲すぎるのが分からない。  ……そう、そこがどうするべきなのか分からないんだ」 「ふーん……ま、そうよね。セイバーが自発的にやった事って、アンタを守る事だけだもの。サーヴァントとしては当たり前だけど、あそこまで徹底していると分からなくもなるわ。  でも、だからと言って無欲ってワケはないでしょう。  セイバーだって自分の目的の為に、貴方を守っているんだから」 「――――あ」  そうだ、彼女がサーヴァントになった理由を失念していた。 「……そうか。セイバーの目的は聖杯を手に入れる事だもんな。目的がないってワケじゃないんだ」  そして、その聖杯は持ち主の望みを叶えるモノだ。  なら、少なくともセイバーには叶えたい『望み』がある。  それが何なのかは知らないが、サーヴァントになってまで叶えようとする望みだ。  それが彼女自身を救う『望み』でないワケがない。  そう、例えば。  こうしてこの時代にいるんだから、聖杯の力でここに留まって、二度目の生を送る事だって出来る。    いや、むしろそれぐらいして貰わないと、あいつの最期に報いる事なんて出来ない筈だ―――― 「なんだ―――話は簡単じゃないか!」 「……? 気持ち悪いわね、いきなり元気になっちゃって。今の話、そんなに面白かった?」 「ああ、元気が出た。そうだよな、そうでなくちゃあそこまで懸命に戦うもんか。  セイバーは、何より自分の望みの為に戦わなくちゃいけないんだから!」  うんうん、と思わず頷いてしまう。  そんな俺の態度に呆れたのか。 「―――衛宮くん。喜んでるところ悪いけど、それは貴方の早とちりよ。セイバーは、自分の為になんか戦わないわ」 「貴方だって判ってるんじゃない? セイバーはそういうタイプじゃないわ。彼女が聖杯を求める理由は、決して自分の為じゃないって」 「な――――何を、根拠に」  しているのか、なんて言えなかった。  ……そうだ。  自分の為の望みなんて何一つ持たなかったから、あいつは独りきりの最期を迎えた。    そんなセイバーが―――今更、自分の救いなんて求めている筈がない。 「…………っ」  ただ、それでも。  そうであって欲しいと思って、わずか一瞬でも、彼女の姿を、ねじ曲げた。 「――――――――」 「……………………」  会話が途切れる。  ……あとはこのまま、重苦しい沈黙が続くだけだと思った矢先。 「つまんない話だけどね。アーチャーも、アンタと似たような事を言ってたわ」 「……は? アーチャーって、あのアーチャー?」 「そ。わたしもね、あいつに訊いたのよ。アンタの望みはなんなのかって。  そうしたらアイツ、なんて言ったと思う?」 「え……う、アイツの望みって言われても、困る」  俺はアイツの事は何も知らない。  いずれ敵になる、と公言していたアーチャーは、努めて俺やセイバーとは接触しなかった。  ……ただ、それでも。  アイツは皮肉ばっかり口にしていたけど、馬鹿げた目的を持つヤツじゃなかった。 「これがね、聞いたら笑うわよ。望みはなによ、と訊いたら、アイツったらこう言ったの。 “そうだな。恒久的な世界平和というのはどうだ?”  もう呆れを通り越して爆笑したわけ。  そしたらアイツ、“やはり笑われたか。まあ他人の手による救いなど意味はない。今のは笑い話にしておこう”なんて言っていじけちゃってさ」 「……なんかね、ああいうヤツだから英霊になんてなっちゃって、わたしみたいな小娘に使役されちゃうんだなー、とか思ったわ」 「――――――――」  ……そうか。  とてもそうは見えなかったけど、アイツはアイツで立派な騎士だったんだ。 「けどね、間違わないで。聖杯が本当に全ての願いを叶えるのなら、恒久的な世界平和なんて最悪の願いよ。  ようするにそれって〈何もない〉《・・・・》って事でしょ? 争いのない世界なんて死んでるだけよ。物事は動いてないと腐るだけなんだから」 「……はあ。それ、アーチャーにも言ったのか」 「言ったわよ。そしたらアイツ、“それが賢者の考えだ。  私も同意見だが―――今でもこれだけは、愚者の夢を守っているのだ”だってさ」 「ま、それはいいから、それじゃ他の望みはあるのかって言ったら、“有るには有るが、聖杯で叶えるほどの物でもなし、私の分は君に譲ろう”とかなんとか。  キザでしょ? あいつ、きっと生前は女ったらしだったに違いないわ」 「ふうん。なんかそんなイメージは無かったけどな。けど、その話がどうかしたのか遠坂」 「別に? サーヴァントにも色々いるってコトを話しただけ」  あ、そうですか。  ……まあ、参考になったような気もするから、為になったと言えばなったけど。 「じゃ、次はこっちの番ね。  ま、わたしもセイバーに関するコトなんだけど」 「? そう言えば朝方言ってたな。話したいコトがあるとかなんとか」 「ええ、大した事じゃないんだけど少し気になって。  今更になるんだけど、衛宮くんはアーサー王の伝説を知ってる?」    ―――アーサー王の伝説。  それはここ数日、嫌でも思い知らされている。 「人並みには知ってる。……まあ、アーサー王が女の子だった、なんて事は知らなかったが」 「そうね。けど性別に関してはどうでもいいのよ。  別にアーサー王が女の子だったとしても、伝説そのものに変更を加える必要はないでしょ。アーサー王が周りの人間を騙し通していれば、女性であっても男性として扱われるんだから」 「幸い、アーサー王にはマーリンっていう魔術師がついてたしね。インキュバスとの混血だっていう悪魔じみたヤツだから、アーサー王の性別を偽装したり、生まれない筈の子供を用意するってのもお手の物だったんでしょう」 「……ああ、そうだろうな。それで?」 「だから、わたしが問題にしているのは伝説と今のセイバーの食い違いよ。  ねえ衛宮くん。貴方はエクスカリバーがどういう物か知っていて?」 「なんだよいまさら。エクスカリバーって言ったら、アーサー王の代名詞だろ。妖精に授かった剣で、斬れない物はなく刃こぼれもしないっていう名剣だ」 「やっぱり。そんな事だろうと思ったわ」  ふふん、となぜか勝ち誇る遠坂。 「……む。俺、なんかおかしなこと言ったか」 「言ったわよ。貴方もアーサー王と同じ間違いをしたってコト。マーリンがいたら未熟者ってどやされてるわ」 「だからなんでさ。  ……ええっと、岩に刺さった剣ってのはエクスカリバーじゃないんだよな。あっちの剣は途中で折れてしまって、その後に湖の妖精から譲り受けた剣があって、それがエクスカリバーなんだろ?」 「そうそう。エクスカリバーをアーサー王が受け取った時にね、マーリンはこう問いかけるの。 “王よ、貴方がお気に召したのはどちらの方ですかな?  剣か、それとも鞘ですか”」 「アーサー王はためらいもなく剣の方だ、と答えるんだけど、マーリンは叱責するの。 “お間違えめさるな。剣は敵を討つ物ですが、鞘は貴方を守る物。その鞘を身につけているかぎり、貴方は血を流す事もなく負傷する事もない。真に大事とすべきは剣ではなく鞘なのです”」 「…………」  遠坂は器用に、アーサー王とマーリンの演技をする。 「ふうん。気合い入ってるな遠坂。  ―――それで、おまえ何が言いたいんだ?」 「な、なにってここまで聞いて判らない!? つまりアーサー王は不死者なの! エクスカリバーっていうのは攻守ともに無敵の宝具なのよ。  だから、本当ならセイバーは、傷を負ってもすぐに治る筈だってコト!」 「……遠坂。実際、セイバーは傷を負っても治ってるんだが」 「……それはそうだけど……セイバーの自己回復は、セイバーのバカみたいに膨大な魔力を使った力技にしか見えないっていうか……ともかく、伝説のエクスカリバーの鞘とは違う気がするのよ」 「―――なるほど。遠坂がそう言うんなら、それは正しいんだろう。  ならこっちから質問。  アーサー王は不死者だっていうけど、それならどうしてアーサー王は死んだんだよ。伝説の最後はアーサー王の死じゃないか」 「へ?」  ぽかん、と口を開ける遠坂。  そのまま数秒固まった後、ぎり、と歯を鳴らして視線を逸らす。 「……そうだった……エクスカリバーの鞘は、途中で敵に盗まれたんだ……」    うん、初歩的なミスだ。  俺もその事は忘れてたけど、伝説では無くしてはならないと言われていた鞘を失い、そこからアーサー王の転落が始まるのだ。 「で。納得いったか遠坂」 「……いったわよ。笑い物にしたいんならすればいいわ」  嘘つけ。  笑った瞬間にカカト落とし等を仕掛けてくる雰囲気がみえみえのくせに。 「納得いったんならいい。けど、どうしてそんな事を気にしたんだよ。セイバーが傷つかないかどうかなんて、おまえには関係ないだろ」 「う、うるさいわねっ! なによ、ちょっとそうだったら無敵だなー、なんて舞い上がっただけじゃない。  わたしだってね、たまには間違えるコトぐらいあるわよ」 「………………」  ……難しいな。  この場合、たまにはではなく頻繁に間違える、と訂正してやった方が本人の為なんだろうか?  夜の橋を渡る。  いつかセイバーと歩いた場所。  あの時は何も考えず、ただ、この夜景を眺めていた。         “聖杯を手に入れればセイバーは死ぬ。  その意味が解っているのだろうな、衛宮士郎―――” 「っ――――」  解ってる。  そんなコト、言われるまでもなく理解してる。  ……なのに、なんでこんなにこんがらがっちまってるのか。  セイバーは聖杯を手に入れてはいけない。  だというのに、あいつを救えるのは聖杯の力だけときた。         “彼女と共にいたいのならば聖杯は諦めるべきだろう。  それでも存命させたいのなら、彼女に魂を与え続ければいい――――”  ……出来るか、そんなコト。  仮に―――もし俺が望んでも、セイバーは望まない。  そんな事をするぐらいなら、あいつは自分から消える。  自分から消えて、それで―――また、〈聖杯戦争〉《こんなこと》を繰り返すのか。         “ならば、令呪を一つ残しておけばそれでいい。  ―――おまえの望みは、それで叶う” 「っ……! この、黙りやがれ……!」    足を止めて、呪縛を振り払うように手すりを殴りつけた。  きいーん、という音が夜に響く。  ……周囲の物音はそれだけ。  通りには人の気配も、道を通る自動車もない。 「くそ……何をその気になってんだ、一体」    手すりに体を預けて、吐き出すように呟いた。  言峰の言い分なんて無視すべき物だって分かってる。  だが、あいつの言葉には否定できない魔力があった。  ……俺は何がしたくて、何の為に戦おうとしたのか。  初めは聖杯戦争を終わらせる為だった。  それが薄れていって、二の次になったのはいつからだろう。  自分だけで戦おうと意地を張っていた時からか。  己の無力さを痛感して、セイバーと手を重ねた時からか。      それとも。  廃墟の夜、心を重ねた後、彼女の為に剣を作り上げた時からか。    ―――そんなもの、全て誤魔化しだ。    考えるまでもない。  俺は、あの時。  あの土蔵で、月の光に照らされたあいつと出逢った時から、とっくに心が決まっていた――― 「――――」    ただ、それだけなら良かった。  夢に落ちて、知らなければ、おそらく気が付かぬうちに終わっていただろう。  だが知ってしまった。  放っておけないと思って、失いたくないと願ってしまった。      まだ、こうしていたいと。  あの笑顔を、まだ見ていたいのだと願っている――― 「―――痛」    剣の丘で独り、夕日を見つめていた少女。  その姿を思い返すと胸が痛い。  彼女には自分の時間は一つもなかった。  ……俺は、それがたまらなくイヤだったのだ。  女の子は泣かせるな、と切嗣は言った。    俺も泣き顔より笑顔の方が格段にいいと思う。  だから笑わないセイバーには苛々していた。  なのに、彼女は言っていた。  笑えと言う自分に、笑っている俺を見ている方がいいと。    ―――それは。  望遠鏡から覗く、届かない星と同じ。   「―――――――くそ」    夜空を見上げる。  決して手の届かない星を見て、  ぽたり、と。  頬に、正体の掴めない涙が落ちた。   「――――俺、あいつが好きだ」    誰に言うでもなく、そう口にした。  いくら鈍感な自分でも、こうなっては認めるしかない。  もうどうしようもない。  俺は訳もなく泣けてしまうぐらい、あいつのコトが好きなのだと。 「お帰り。随分と遅かったわね」    ――――と。  玄関には、遠坂が立っていた。 「と、遠坂……? おまえ、なんで――――」 「玄関で立ち話もなんでしょう。疲れてるみたいだし、こっち来なさいよ」  むんず、と問答無用で人の腕を引っ張って、遠坂はずんずんと歩き出して、    自分の部屋まで連れてきてしまった。 「はいお茶。外寒かったでしょ」  ぶっきらぼうに言いながらも、なにかと気が利いている。 「……ああ、サンキュ」  正直、熱いお茶は嬉しかった。  隣町からここまで一時間強。  ゆっくり歩いてきたため、体は芯から冷え切っていた。 「で。綺礼のとこに行ってたの?」  単刀直入に訊いてくる。  ……そうか。遠坂のヤツ、初めから気づいていたワケか。  なのに止めもせず、帰ってくるのを待って、こうしてお茶を淹れてくれている。  ……気持ちが固まった事もあったし、遠坂の屈折した心遣いも嬉しい。  だからだろう。   「ああ、行ってきた。訊きたい事があったから」    隠し事はせず、素直に返答した。 「そっか。じゃ、何をしてきたかは訊かない。士郎もそれでいいでしょ?」 「そうだな。それに、あんまり実のある話じゃなかった。  ただ今の状況を確認しただけだったし」 「そ。でも驚いたな、セイバーがまだサーヴァントになりきってないだなんて。最強のサーヴァントが、その実一番半端なサーヴァントだったなんて悪い冗談じゃない」 「そうだな。セイバーはサーヴァントになんてならなければ良かったんだ」  素直に頷く。 「意外ね。士郎とアーチャー、もしかしたら気があったのかもしれないな。アイツもね、士郎と同じこと言ってたから」 「……え。アーチャーって、あいつが?」 「そ。アーチャーも言ってたわ、自分は後悔してるから、セイバーにはそうなってほしくないって」 「……? なんであいつがセイバーの心配をするんだよ。  あいつ、セイバーを嫌ってたじゃないか」 「そうなんだけどねー。やっぱりさ、アイツってセイバーに〈縁〉《ゆかり》の騎士だったんじゃないかな。  初めてセイバーと戦った時、アイツ明らかに手を抜いてたでしょ。あの時から怪しいと思ってたんだ」 「そうなのか。けど、セイバーはアーチャーに見覚えはないようだったぞ」 「そうなの? けどセイバーは王様だったんでしょ?  なら国民を全て把握していた訳でもないし、忘れてる事だってあるんじゃない?」 「……あのな。そういうコト言い出したらそれこそキリがない。顔を見て思い出せないようなヤツなら、それは知らないって事だと思うけど」 「そうでもないわよ。伝説だとさ、アーサー王の臣下には運が悪くて〈王都〉《カメロット》を追われた騎士も多いでしょ。アイツ、その一人だったのかもしれないわ。  アイツが正体を隠していたのはわたしにじゃなくてセイバーに対してだった――っていうんなら、わりと納得がいくんだけど」  遠坂はいつになく積極的に話しかけてくる。 「――――――――」  これもこいつ流の気の使い方なんだろうか。  あんまり効果はないと思うけど、遠坂はいいヤツだ。  普段は容赦ないクセに、弱ってるヤツを見ると助けようとするあたり、生粋の姉御肌というか。  ……そうして、二人でお茶を飲むこと数十分。  ついに根負けしたのか、遠坂は真顔で向き直ってきた。 「で。貴方はどうしたいの、士郎」 「うん。とりあえず明日はデートする」    それ以外考えつかないし、帰り道に決めたんだから当たり前だ。  ……と。  さっきまでのしんみり度は何処にいったのか、遠坂はとんでもなく失礼な顔をしたあと。   「ぷっ―――はは、あはははははははは!」    さらにとんでもなさ上乗せで大笑いしはじめやがった。 「ひひ、ちょっと待って、こころ、心の準備が、あは、あははは、すごいってば、すごいワガママぶりよ士郎!」    ……くそ、冷静に考えればこうなるって判ってたのに俺のバカっ……! 「う、うるさいっ! わがままで悪いかっ。そんな場合じゃないってわかってるけど、絶対に邪魔はさせないからなっ!」 「ち、ちがうちがう、士郎、士郎がおかしくて、ひー」  お腹を抱えながら、バンバンと人の背中を叩く遠坂。 「くっ…………」  なんか、これって今までで一番ひどい扱いではなかろうか。 「ひ、ひひ、は――――あー、心底笑ったわー」 「……そりゃ良かったな。こっちは全然笑えなかったけど」 「デート、がんばんなさい。わたし、貴方たちのこと好きよ」    さっきまでの態度とは一変した穏やかさで、遠坂はそんな事を口にした。 「あ……う。おう、がんばる」    ……まったく、今のは不意打ちだ。  あんな顔でそんな事を言われたら、こっちは頷くぐらいしかできないじゃないか――――  部屋に戻る。  セイバーは眠ったままで、屋敷は何事もなかったように平穏だった。    今日はあいにくの雨だったが、明日はどうなるだろう。  ゆっくりと流れていく雲を見上げながら、明日は晴れますように、なんて、ガラにもない事を口にした。  ……………………。 ……………………。 み、みんなこんばんはー!  選択ミスでザッパリやられちゃった士郎を助けるQ&A、タイガー道場でーす! さて、今回の死因は―――― えー、どんなに優勢だろうと、油断しちゃいけないっていうコトかな? 士郎はマスターなんだから、セイバーちゃんの猪突猛進なところを諌めてあげないとダメダゾ! え? 違うわ、今回悪いのはセイバーでしょう?  キャスターなんかの罠にかかっちゃって、気が抜けてる証拠だわ。 大方シロウを意識して、一人でいいところを見せようとしたんでしょうね。なのにシロウを殺しちゃうなんて、セイバーのクラスも落ちたものだわ。 あ。あわわ、あわわわわ。 それにぃ、やれ最強って言うけど勝ち星は少ないし、体は小さいし、レディとしての魅力も足りないしぃ。 なーんか、セイバーって大食らいなだけのパワーキャラって感じ? あー、イリヤちゃん、ストップストップ。  セイバーちゃんも反省してるし、こう、傷口に塩塗りたくるのはまずいでござるよ。武士として。 む。そっか、ブシドーは色無し恋無し情け有りだっけ。  ……仕方ない、今回の不手際は大目に見てあげるわ。 けど、セイバーに首輪をつけなきゃいけないのはホントだよ? だって、そうでもしないと他のデッドルートでも、こう。 ご免! あいたたたたた……師しょー、なんで体罰するんですかー? だーかーらー、そういう話は禁止! ネタバレはよくないし、セイバーちゃんを怒らせちゃだめ! あの子、怒ると本気で怖いわよ? ちょっと前、セイバーちゃんをからかって臨死体験した子もいるんだから。 あ、それって十三日目のコトだよねー?  あれは楽しかった…… って、タイガ? なんか今、ぐるる、とか聞こえなかった? ? 別に聞こえない―――― ぎゃわーーーー!  ラララライバル出現の巻! きゃーーーーーーーーー!  なにあれ、ヘンなのがヘンなのに乗ってきたーー!? ……よし。どうやら敵は去ったようね。 ……うう。あたま、あたまに歯型がかっぷりと残っちゃったよぅ……。 ……えー、それでは気を取り直しまして。  ちょっとしたわき道から谷底へまっしぐら、 このままじゃ現世復帰が無理めな士郎を助けるレスキューコーナー、タイガー道場始まり始まり~。 はーい。けどタイガ、今回のデッドエンド、さっきのデッドとあまり変わらないわ。 こっちもセイバーが暴走して、シロウがばっさり殺されたエンドよね? そうねー。けどさっきのとは少し違うっていうか、今回は士郎が頑張れば防げたデッドエンドだからなー。責任はセイバーちゃん一人にないような。 あ。そう言えばセイバー、いないね。 うむ。責任が半々なら落ち込むコトはないみたい。  そんなワケで、今回は安心してタイガー道場を運営できます。 そうね。けど今回は言うべき事はないかな。 こういう微妙な選択肢はこれでおしまい。物語もいよいよ山場だから、しっかりしないと正しいエンディングにいけなくなるよシロウ? キャスターさえ倒せば、いよいよ敵はあと一人。  勝って兜の緒を締めよ、ピンチの次にチャンスあり、気を抜かずに戦うべしっす、押忍! はい、よくできました。  それじゃあまた、次のタイガー道場で待ってるよ~。 はーい。まったねー、シロウー! ぺったんぺったん。  玉ねぎパン粉酒たまご塩、をこねくりまわした物と、挽肉四百グラムをこれまたコネコネとこねくり回す。  今朝のメニューは、大胆にも和風煮込みハンバーグに決定しました。 「凛? 目が覚めたのですか?」  居間からセイバーの声が聞こえる。 「遠坂?」  調理をしながら振り返る。 「……おはよ。ごめん、牛乳飲ませて士郎」    遠坂は不機嫌そうな顔でやってきて、冷蔵庫から牛乳を取り出した。 「あー、寝過ぎて頭いたい……って、あれ? なに、朝から凝ってるじゃない」  さっきまでの不機嫌っぷりは何処にいったのか、こっちを見るなり目を輝かす。 「へえ、おいしそう。うん、ちょうどお腹も減ってたし、助かったわ」  そうですか。だが助かったのはそっちで、助からなかったのはこっちだ。  〈切嗣〉《オヤジ》の言っていた、どっちかが得をするとどっちかが損をする、とはこういうコトなのかもしれない。 「……前から思ってたんだが。おまえ、わりと目ざといよな」 「あら、人並みに目端が利くだけよ。それじゃわたしの分もよろしくね」  ひらひらと手を振って居間に戻る。  遠坂は牛乳をついだグラスを片手に、テーブルにどかーっと陣取った。  ……いや。  なんというか、すごい王様ぶりというか、気の抜けっぷりというか。 「だらけていますね、凛」  よし、さすがセイバーだ。言いにくい事を実にハッキリと言ってくれる。  が。  セイバーの非難の目もどこ吹く風、まあねー、なんてやる気なさげに受け流していた。 「そりゃあだらけもするわよ。  バーサーカーがいなくなった今、あとはキャスターとランサーとアサシンでしょ? バーサーカーに比べたら大した敵じゃないし、今のセイバーなら余裕で撃退できるじゃない」 「―――それは判りません。ランサーもアサシンも一筋縄でいく相手ではない。  キャスターに至ってはまだ出会ってもいないではないですか」 「謙遜謙遜。アーサー王の手にかかっちゃそんじょそこらの英霊なんて〈十把一絡〉《じゅっぱひとから》げでしょ。  今までは魔力不足で嘆いてたけどそれも解決したし。  今のセイバーに対抗できるサーヴァントなんて一人もいないわ」 「――――」  遠坂の言葉に、セイバーは目を細める。  ……その気持ちは俺も同じだ。  今の遠坂の台詞は、さらりと聞き流せるものじゃない。 「―――遠坂。おまえ、セイバーが誰かって気づいてたのか」 「薄々ね。確信が持てたのは昨日よ。あれだけの聖剣を扱える英雄なんて一人しかいないもの。  ……ま、伝説のアーサー王が女の子っていうのには驚いたけど、目の前にいるんじゃ信じるしかないじゃない」 「それに伝説なんて都合よく〈改竄〉《かいざん》されたものでしょ?  セイバーが隠したのか周囲が隠したのか知らないけど、確かに中世の王様が女の子ってのは都合が悪いものね。  そりゃあ誰がなんと言おうと男として扱うわよ」  遠坂の口調はいつもと同じだ。  それを聞くセイバーも、特別気にした様子もない。  むしろ遠坂の意見に賛同し、否定しようとする気配もなかった。 「………………」  それは、彼女がはっきりと認めたという事だ。  セイバーのサーヴァントには、剣に関する英雄が選ばれる。その点で言えば、彼女はまさに最高のセイバーだろう。    英国における英雄の代名詞。  遠く離れたこの国でさえ名を知らぬ者のいない聖剣の担い手。    ……だが、だとするとどうなるのか。  アーサー王伝説の最後は、王の死で幕を閉じる。  いや、英雄であろうと人間だ。  その最期が死で終わるのは当然だが―――まっとうな死を迎えた英雄などいない。    それはアーサー王とて例外ではなかった筈だ。    アーサー王の最期は、たしか戦争による終わりだと記憶している。  カムランで起きた一大決戦。  ブリテンを統一し、倒すべき外敵がいなくなった筈のアーサー王は、その最後に思いもかけぬ『敵』と戦う事になる。    それは守るべき自国の軍―――腹心の裏切りによって、アーサー王は共に戦場を駆けてきた騎士たちに襲われ、これを殲滅したという。    アーサー王は敵の頭を倒すものの致命傷を負い、ただ一人生き残った騎士であるベディヴィエールに聖剣の返上を託す。   “この血塗られた戦場を越え、丘を越えてくれ。  そこに深い湖がある。そこに、この剣を沈めるのだ”    しかしベディヴィエールはその言いつけを守れなかった。  一度目も二度目も、剣の損失を恐れたベディヴィエールは「剣は湖に捨てた」と偽りの報告をした。    その度にアーサー王はベディヴィエールに剣の放棄を命じ、三度目にして王の命は守られた。  そうして、聖剣の返上が成った事を確かめたアーサー王は、その場で息を引きとったという。 「それより士郎。アンタ、これからどうする気よ」    ―――と。  唐突に、遠坂はこちらを睨んできた。 「え……どうするって―――何をだよ」 「だから、和室で寝てる物騒な子供の事よ。  放っておけって言ったのに、ここまで連れてきたのはアンタじゃない」 「それについては私も言いたい。バーサーカーを失ったとはいえ、イリヤスフィールは危険なマスターだ。それを保護するなど、シロウはどうかしています」 「そうそう、あんなのは綺礼に預けちまえばいいのよ」 「う――――」    二人はここぞとばかりに息を合わせて俺を睨む。  ……そうなのだ。  バーサーカーが消えて、イリヤは気を失った。  目覚める様子がない彼女を放っておけず、〈家〉《うち》まで連れてきたのは自分だ。  もちろん遠坂もセイバーも反対したので、一人でイリヤを背負ってきた。  サーヴァントを失ったマスターは、他のマスターに殺される前に逃げるか、教会で保護されるしかない。  遠坂は言峰神父に預けろと言うが、あの神父がイリヤの面倒を見てくれるとは思えず、今は和室で眠らせているのだが―――― 「シロウ。貴方の考えは立派ですが、イリヤスフィールに関わるのは危険です。今ならまだ間に合う。早々に教会に預けるか、その令呪を剥奪するべきだ」  ……む。  セイバー、本気で言ってるぞ、アレ。  言い伏せるのは、とんでもなく困難そうだ。 「な、なんだよ、だってほっとくわけにはいかないだろっ。  イリヤはまだ子供なんだし、様子もおかしかった。言峰に預けるのは、なんかかわいそうだし」 「かわいそう? アンタね、あの子にあんな目にあわされてまだそんな寝ぼけたコト言うわけ!?」 「同感です。シロウはイリヤスフィールに感情移入しすぎています。彼女は何度もシロウを殺そうとしたではないですか」  二人はますます結束を強めてくる。  だが、ここで言い負かされるワケにはいかない。 「たしかにイリヤは敵だった。けどあいつに邪気はなかった。ちゃんと言いつけてやるヤツがいれば、イリヤはもうあんな事はしない。  それに一番始めに言った筈だ。  俺はマスターを殺す為に戦うんじゃない。戦いを終わらせる為に戦うだけだって」 「それは――――分かっては、いますが」  む、と納得がいかないまでも声を和らげてくれるセイバー。  しかし。 「そう。それじゃイリヤスフィールのした事を全部許すっていうの? 言っとくけど、あの子はわたしたち以外のマスターも襲っている。もしかしたらもう何人かマスターを殺しているかもしれない。それでも貴方は助けてやるっていうのね」 「―――――それ、は」  ……そうだ。  イリヤは言った。俺が逃がした慎二をその手で殺めたと。  慎二はライダーを使い、学校の生徒たちを殺そうとした。それがマスターとしての行為だったのなら、倒し倒されるのは、仕方がない事だと判っている。    ……それでも、慎二とは何年も付き合ってきた友人であり、桜のことを思うと、イリヤの行いを帳消しにする事はできない。 「――――けど、それじゃあ終わりがないだろう。  イリヤがマスターでなくなって、自分のした事を悔やめるようになるのなら、俺は助けるべきだと思う」 「……そうね、それは正しい。  けど士郎、わたしはアーチャーの事を帳消しにする気はないの。わたしのアーチャーは、アイツに殺されたんだから」  ……場が固まる。  俺たちは互いの顔を見据えたまま硬直する。  そこへ、 「なによ、サーヴァントなんて最後にはみんな消えちゃうじゃない。そんなコト気にしてるなんてマスター失格ね、リン」    和室で眠っている筈の、問題の少女が現れた。 「―――イリヤスフィール……!」 「待ちなさい、あなたたちに用はないわ。戦う気もないからそんなにいきりたたないでくれない?  ……ほんと、おなじレディとしてはずかしいわ。わたしよりずっと年上なのに、たしなみってものがないんだから」  心底呆れたようにイリヤは肩をすくめる。 「な、なんですって……!?」  またもや仲良くいきりたつセイバーと遠坂。  二人はさっきとは違った意味で、一段と迫力があった。 「まあ、それも怒らないであげる。今はあなたたちにかまってる場合じゃないもの」  言って、イリヤはくるりとこっちへ振り向いた。 「え――――イリ、ヤ?」 「礼を言います、セイバーのマスター。敵であった我が身まで気遣うその心遣い、心より感謝いたしますわ」 「あ――――う?」  呆然とイリヤを見つめる。  あまりに予想外だったのか、セイバーも同じように黙り込んでいる。  遠坂はと言うと、いかにも胡散臭そうにイリヤを眺めながら牛乳を飲んでいる。  ―――と。  イリヤはにっこりといつもの笑顔をすると、   「なーんてね。  うん、やっぱりシロウはお兄ちゃんだー!」    一直線に、俺の首ったまに抱きついてきた。 「ごふっ……!?」 「な、なにものーーーーーーーーーー!?」  ぶっ、と飲んだ牛乳にむせている遠坂。 「――――――――――――――――!」  びきり、と真顔でこめかみのあたりに効果音を鳴らすセイバー。 「は、離れなさいこの無礼者……っ!」  だー、と駆け寄るセイバー。  が、イリヤもさるもの、俺の首を支点にして、ぐるっと背中に回り込む。 「ふん、無礼者はどっちよ。サーヴァントのクセにわたしに意見しようなんて百年早いわ」 「貴方に従う義務もなければ意思もありません……! 減らず口を言う暇があるなら、今すぐシロウから離れなさい……!」 「そんなの聞かないよーだ。ね、シロウ、昨日みたいにしよ。アレ、おんぶっていうんだよね!」    ぐるぐる回るイリヤ。  それを捕まえようと回るセイバー。 「――――――――」  まずい。  何がまずいって、まずい。  二人のにらみ合いは終わらない。  ……遠くから眺めていたからだろう。  遠坂は何事もなかったように口元の牛乳を拭いて、 「どうでもいいんだけどね二人とも。そのままだと、そいつ死ぬわよ」 「え……?」  はてな? と俺の顔を覗き込む二人。    さもありなん。  こっちはいい感じで首を極められて、ただいまライブで大ピンチ―――    さて、状況を確認しよう。    ぺたぺたと挽き肉をこねて作っていたハンバーグはとりあえず冷蔵庫に放り込んだ。  まず、比較的大人しくしているのが遠坂。  ポーカーフェイスで事の成り行きを見守ろうとしているらしいが、内心では何を考えているか判ったもんじゃない。 「ん? なに、シロウ?」    イリヤは俺の横に座って、わけもなくご機嫌の様子。  そわそわと物珍しそうに居間を眺めているが、セイバーや遠坂は初めから眼中に入っていなさそうだ。  おそらく、二人が何を言っても右から左に通過するだけだろう。  で、中でも一番対応に困るのが、 「――――――――」  落ち着きなく俺とイリヤを睨んでいるセイバーだった。  妙にそわそわしていて落ち着きがないのは、実に彼女らしくない。  おかげで、なんだか針の〈筵〉《むしろ》に座っている気分になる。  ……なので、いつまでもこうしてはいられない。  何が飛び出すか判らないが、そろそろ意を決して現状を打破しなくてはなるまい。 「―――話をつけよう。  いつまでもこうしてちゃ昼になっちまう」 「そうね。結論は決まっているし、問題は早めに片づけた方がいいわ。そうでしょ、セイバー」 「そうですね。私と凛の意見は同じですから、あとはシロウに納得してもらうだけですが」  セイバーは徹底抗戦の構えだ。 「? ね、シロウ。リンとセイバーは何を話したがってるの?」 「あ……いや。その、イリヤをどうするかっていう話、なんだが。イリヤはサーヴァントを無くしただろう。だから、この後どうしたものかなって」 「そんなの決まってるでしょ。教会に保護させるか、森の城に追い返すのよ。どちらにしたってここに居させる選択肢はないからね」 「……。シロウも、そう思ってるの?」  イリヤは感情のない目で見上げてくる。  俺は――――    女の子は守ってやるものだってのは切嗣の口癖だったし、なにより、自分より小さい子供を辛い目にあわせるのが嫌いなだけだ。 「―――いや。俺は、イリヤはここにいるべきだと思う。  聖杯戦争は終わってないんだ。残りのマスターと決着がつくまで、イリヤはうちで匿いたい」 「うん! シロウがそう言うんなら、わたしもここにいてあげるね!」 「っ……! イリヤ、苦しい、苦しいって……!」  抱きついてくるイリヤを引き離す―――のだが、俺がするまでもなく、セイバーが引き離してくれていた。 「なによ、さっきから邪魔ばっかりして。あなた、わたしに恨みでもあるの?」 「当然でしょう! その身がシロウに何をしたか、私は忘れる事などない……! シロウもシロウです! イリヤスフィールを匿うなど百害あって一利なしと判らないのですか!」 「む、なんでだよ。イリヤにはもうサーヴァントはいないんだから、危険ってことはないだろう。マスターじゃなくなったんだから。  それより、下手に放り出して襲われたらどうするんだ。イリヤの命だって危ないし、他のマスターに力を付けさせる事になるぞ」 「う……それはそうですが、しかし――――」    言い淀むセイバー。  なんだかんだと、彼女もイリヤを一人にすれば他のマスターに襲われる、と判ってくれているのだ。    ……教会に引き取ってもらった方がいい。  イリヤの事を思うのなら、それが一番安全な選択だ。 「決まりね。ま、考えるまでもない話だったけど」 「え……?」 「当然です。ここでイリヤスフィールを受け入れる事など有り得ません」 「シロウ……?」  不安げに見つめてくる瞳。 「やだ―――違うよね、シロウ。シロウはわたしを棄てたりしない、よね……?」 「――――」  ぎしり、と締め付けられる胸を手で押さえる。 「……いや。イリヤは教会に行った方がいい。  あそこはうちなんかよりずっと安全だ」    せめて、まっすぐに目を見て告げる。  ……イリヤは呆然と、凍りついたように息を呑む。 「……イリヤスフィール。シロウが貴女を助けた以上、私もこれ以上の追撃はしない。その長らえた命を大事に ―――」 「やだぁーーーーーーーっ! シロウのばかシロウのばかシロウのばかぁーーーーーーー!  わたしヤダよぅ、教会なんてイヤ、ほかのところもイヤ、ひとりになるのはもっとやだぁ……! わた、わたしは、シロウのところがいいんだもんっ……!!!!」 「―――――――」  イリヤは小さな子供のように泣きじゃくる。  ……いや、それは違う。  イリヤは本当に小さな子供なんだ。  それを俺はちゃんと知っていた筈なのに、肝心な所で忘れてしまった。    ――――そうだ。  本当にイリヤの身を案じるなら、〈他人〉《ひと》任せにしていい訳がない―――― 「他の所って、あんな立派な城があるのに……? こんなの、アインツベルンからすれば猫額の土地ってもんじゃない」 「失礼ね、そんなコトないわ……! ここなんて鼠の爪ぐらいの狭さだもん……!  だ、だからリンは無駄におっきいけど、わたしならちゃんとシロウと住んであげられるんだから……!」  ……あー。  それはどっちに失礼なんだイリヤ。 「そうだよねシロウ? わたし、ここにいてもいいよね……?」  すがるように見つめてくる。  ……それで、もうずいぶん昔のコトを思い出した。  女の子は守ってやるものなんだって、うちの放蕩親父は言っていたっけ。 「―――ああ、さっきのは撤回する。  ごめんなイリヤ。イリヤを連れてきたのは俺だ。聖杯戦争が終わるまで―――残りのマスターと決着がつくまで、イリヤはうちで匿うよ」 「なっ、シロウ……!?」 「あは……! シロウ、ホントにアメチャンだー!」 「ごふっ……!? イリヤ苦しい、苦しいって……!」 「っ、私のマスターに触れるなイリヤスフィール……!  それとアメチャンとはなんですか!」 「そりゃ甘いってコトでしょ。もう大甘」 「あ……! もう、さっきから邪魔ばっかりして……!  あなた、わたしに恨みでもあるの?」 「当然でしょう! その身がシロウに何をしたか、私は忘れる事などない……! シロウもシロウです! イリヤスフィールを匿うなど百害あって一利なしと判らないのですか!」 「それは違うだろセイバー。イリヤにはもうサーヴァントはいないんだから、危険って事はない。もうマスターじゃないんだから、俺たちと戦う理由もないし。  それより、下手に放り出して襲われたらどうするんだ。イリヤの命だって危ないし、他のマスターに力を付けさせる事になるぞ」 「う……それはそうですが、しかし――――」  言い淀むセイバー。  なんだかんだと、彼女もイリヤを一人にすれば他のマスターに襲われる、と判ってくれているのだ。 「―――じゃ、次はこっちの番ね。  セイバーを陥落したところ悪いけど、わたしはまだ説得されてないわ。  いい士郎、そいつはまだマスターなのよ。サーヴァントを失っても、令呪がある限りマスターはマスターだって教えたでしょう」  ……と。  優雅に紅茶を飲みながら、遠坂は横やりを入れてきた。 「え? おい、それどういう意味だよ遠坂」 「だから、令呪さえ残っていればサーヴァントとは何人でも契約できるのよ。  主のいない『はぐれサーヴァント』がいて、かつマスターにその『はぐれサーヴァント』を許容できるキャパシティさえあれば、何人とだって契約はできるわ」 「な―――なんだよそれ。  じゃあ優れたマスターなら、何人でもサーヴァントと契約できるって事か?」 「何人でもって訳じゃないわ。聖杯の力で呼び出せる英霊は七人が限度だから、最大でも七人ね。  ……もっとも、どんなに優れた魔術師だって複数のサーヴァントを具現化させる魔力なんてないわ」 「あるとしても、その場合は十の魔力を五に分けて二人のサーヴァントを使役する事になる。そうなるとサーヴァントの能力は下がるから、複数のサーヴァントと契約する旨味はないけどね」  ……なるほど。  つまり俺がセイバーとバーサーカーと契約したところで、俺一人分の魔力をセイバーとバーサーカーが分け合って存在する訳だから、二人の能力は極端に下がってしまう。  それならどちらか一人に絞って魔力を提供した方がより効率的という訳か。 「……そう言えば前に言ってたっけ。サーヴァントってマスターを変えられるって。あれってこの事だったんだな」 「あら、珍しく勘がいいじゃない。  士郎の言う通り、サーヴァントがマスターを変えるっていうのはそういう事よ。  マスターを失ったサーヴァントは、消えるまで幾らか猶予がある。で、その間に他にサーヴァントを欲しがっているマスターを探して契約すれば元通りってわけ」 「ええ、だからリンに気を許しちゃダメよシロウ。そいつだってまだマスターなんだから。シロウを殺してセイバーを奪うかもしれないし、まだ生きてるサーヴァントと再契約するかもしれないわ」 「そう。それはアンタにそっくりお返しするわ、イリヤ」 「ふんだ、そんなコトないもん。  ……わたし、他のサーヴァントとなんて組まない。イリヤのサーヴァントは、ずっとバーサーカーだけなんだから」  イリヤとバーサーカーがどんな関係だったかは知らない。  それでも、イリヤスフィールという少女にとって、あのサーヴァントがただ一人きりの存在だった事は判った。    ―――それが意外であり、嬉しかった。  マスターとしてのイリヤは冷酷だったが、それでも、自らの相棒を大切に思っていたのだから。 「あ、でもシロウが負けちゃったら、セイバーはわたしが貰うわ。  わたしはシロウ以外のマスターが勝つのは認めない。  でも、もしシロウが負けちゃったら、わたしが代わりに勝ってあげるんだから」  イリヤはえっへんと、感心しかけていたセイバーと遠坂に胸を張る。 「馬鹿な事を言わないでほしい。私はシロウのサーヴァントです。貴女のサーヴァントになるつもりはありませんっ」 「ふうん。ええ、別にそれでも構わないわ。  わたしはシロウに勝って貰えればそれでいい。わたしが勝つのもセイバーがシロウを守ってくれるのも、どうせ最後は同じだもの」 「――――?」  イリヤはおかしな言い回しをする。  ……いや、俺が勝てばいいと思ってくれているのだが、どうしてそんな事を思うのだろう……?  ……と。  遠坂も不思議に思ったのか、なにやら考え込み始めた。 「私は構いますっ! ともかく私は認めません。  凛、貴方からもシロウに忠告してくださいっ」 「え? ごめんなさい、聞いてなかったわ。もう一度言ってセイバー」 「ですから、イリヤスフィールをここに匿うのは反対だという事ですっ」 「あ、それ? いいんじゃない、別に匿うぐらいなら」 「は――――?」  凍り付くセイバー。  そりゃあ擁護派だった俺が驚いてるんだから、反対派であるセイバーなら凍り付きもするだろう。 「り、凛……! 貴方、正気ですか!?」 「ええ。冷静に考えてみればリスクはどっちも同じなのよ。イリヤを一人にするのも、ここで匿うのも、教会に預けるのも変わらない。  いえ、むしろイリヤ目当てでマスターが来てくれた方が助かるわ」 「今のセイバーなら、他のサーヴァントが束になっても負けっこない。聖杯戦争を終わらせるならその方がてっとり早いし、それは貴方だって望むところでしょうセイバー。  ま、貴方が他のサーヴァントに負けるって言うんなら話は変わるけど」 「まさか。今の私がどのような状態か、凛なら判っているでしょう。シロウが私のマスターである限り、私に敗北などあり得ません」 「でしょ。ならイリヤを匿うのも問題ない。  ……それに気になる事もある。シロウの選択は、もしかしたらとんでもない妙手だったのかもしれないわ」  遠坂はそれきり黙り込む。  それでセイバーも認めたのか、仕方なげにイリヤから離れてくれた。  朝食を済ませて道場に移る。  遠坂は自室に戻り、セイバーは俺に付いて来ている。  で、イリヤはと言うと。   「ね。ホントに剣の鍛錬なんかするの?」    ぴったりと俺の横に張り付いて、一緒に道場まで来てしまった。 「わたし、今日はシロウと遊べると思って楽しみにしてたんだよ? なのにセイバーなんて邪魔者はいるし、ここ寒いし、つまんないよ」 「…………………」  まあ、イリヤから見てつまらないのは当然だ。  そもそも剣の修行なんて、見ていて面白いものでもない。 「ね、居間に戻ろ。強くなりたいんなら、わたしがシロウの力になってあげる」  こっちの手に両手を絡めて、イリヤは道場から立ち去ろうとする。  だが、これに関してはイリヤを甘えさせる訳にはいかない。 「いや、だめだイリヤ。剣の鍛錬は日課だからきちんとこなす。俺は魔術師として未熟なんだから、少しぐらいは戦えるようになっていないと。  それに、鍛えておけばイリヤを守れるだろ。  イリヤをうちに匿うって決めたのは俺なんだから、これぐらいはしないとしまらない」 「え……うん、それはそうかも。  けどわたし、シロウに守られなくてもいいんだけどなあ。シロウはお兄ちゃんなんだから、いっしょにいてくれるだけでいいんだもん」  ……だめだ、説得失敗。  イリヤはぐいぐいと俺の手を引っ張る。  そんな俺たちを、セイバーは無言で眺めている。  どうも視線が痛い。  セイバーはまだイリヤを認めていないのか、さっきから無愛想すぎると思うのだが――――    と、目があった。  ちょうどいい、ここはセイバーに言い聞かせてもらおう。 「だからダメだって。  セイバー、おまえからも言ってくれ。午前中にセイバーと鍛錬をするのは日課なんだって」 「私に言うべき事などありません。  イリヤスフィールを連れてきたのはシロウです。  彼女に言い聞かせるのはシロウの役割で、私の責務には含まれていませんから」 「――――う」  何か知らないが、アレはもの凄く怒っているのではなかろうか。 「なんだ、セイバーもよくわかってるじゃない。  剣の鍛錬なんてしなくていいのよ。残ってるのは雑魚ばっかりなんだから、そんなの必要ないもの。  ね、シロウ。他のマスターなんてセイバーに任せて、わたしたちは外で遊ぼ」 「うわ、と、とと、と」  思わず足が持っていかれ、道場の出口へと体が泳ぐ。 「ちょっ―――ダメだ、離せイリヤ! こればっかりはワガママ言っても聞かないぞ。剣の鍛錬は休まないし、これからもずっと続ける。  ……そりゃあイリヤにはつまらないだろうけど、俺はこれが好きなんだ。文句があるなら居間の方で休んでいてくれ」  乱暴に腕を払う。 「きゃ……!?」  振り払われるなんて思ってもいなかったのか。  イリヤは驚いて離れた後、不安そうに俺を見た。 「――――――――」  しまった。  振り払うにしたって、もっと優しい方法は幾らでもあった筈だ。 「……すまんイリヤ、今のは乱暴すぎた。けど剣の鍛錬は止められない。しばらく一人にして悪いんだが、居間で大人しくしていてくれるか?」 「……………………」  イリヤはトボトボと入り口まで歩いていって、その横の壁際で立ち止まった。 「?」 「いいわ、ならここで見てる。  それなら文句ないんでしょ!?」  くわー、と。  駄々をこねて睨みつけてくる。 「え―――いや、それは構わないけど、〈道場〉《ここ》寒いぞ? 居間だったらお茶もあるし、お茶請けも完備してるんだが……」 「わたしがいいって言ってるんだからいいの! ふんだ、シロウとセイバーを二人きりになんてさせないんだから!」  おかしなコトを言って、イリヤはぷいと顔を背けた。 「……………まあ、いいけど。飽きたら居間に戻ってても構わないから」    とりあえず、場は収まってくれたようだ。  壁に立てかけた二本の竹刀を取って、セイバーに振り向く。 「じゃあ始めよう。三日ぶりだから、どうも勘が鈍ってそうだけどな……って、セイバー? どうした、ぼうっとしちまって。熱でもあるのか?」 「え―――あ、いえ、別にそういうコトでは、ないのですが」  セイバーはイリヤから顔を背けて、ぶんぶんと首を横に振っていたり。 「体は万全なんだな? なら始めるぞ。ほら、竹刀」 「あ……いえ、投げていただければ結構です! その、あまり不用意に近づかれては困ります。わ、私たちは剣の鍛錬をするのですから!」 「だからそうだって。なに言ってんだ、セイバー」  呆れつつ竹刀を投げる。  だいたい、セイバーに一本入れた事なんて今まで一回もないのだ。  セイバーの懐に入れた試しなんてないんだから、不用意に近づくなも何もないと思う。 「――――――――」  放り投げた竹刀をぎこちない手つきで受け止めると、セイバーははあ、と大げさに深呼吸をした。 「それでは始めましょう。今までとは勝手が違いますが、平静を保つように、シロウ」  ちらりとイリヤに視線を向けて、セイバーはそんな事を言う。 「大丈夫だ。誰が見ていようと、始まれば気にならない」    竹刀を構えてセイバーを見据える。  目の前には竹刀を手にした金髪の少女がいる。  それだけで、この視界には彼女しかいなくなった。  二時間に渡った鍛錬が終わって、いつもの休憩時間になった。 「はあ―――は―――改めて、実感した―――やっぱり、セイバーは、凄い」    うんうんと頷きながら、水を入れたヤカンを口にする。  乾いた喉を潤し、汗まみれの首をタオルで拭いて、ようやく体は落ち着いてくれた。 「ね、今のが鍛錬なの? なんか、シロウが一方的にやられてたようにしか見えなかったけど」 「う――――」  言いにくい事を、イリヤはスパーンと言ってくる。 「それは違うイリヤ。今でこそやられっぱなしだけど、以前はもっと酷かったんだ。  むしろ一度も気絶しなかったあたり、今日は上出来だったと言っていい」 「そうなんだ。けどそれってシロウの腕前なのかな?  セイバー、シロウが何度もバランス崩してたのに、わざと見逃してたような気がするんだけど……」  んー、と考え込むイリヤ。  ……鋭い。  それに関しては、こっちもおかしいと感じていたのだ。  こっちの体を気遣ってか、それともセイバー自身の体がまだ本調子ではないのか。  どちらにせよ、セイバーは本気ではなかった。  いや、鍛錬に関してならいつも本気ではないのだが、それでも隙を見せたら容赦なくオトしにかかるのがセイバーだ。  が、今日のセイバーは押しに欠けた。  いつもなら即座に踏み込んできて、スパン!と意識を刈り取っていく剣捌きが皆無だったのだ。 「……イリヤもそう思うのか。やっぱりセイバーに見逃されてたのかな、俺」 「んー、不思議とそんな感じはしなかったよ。  セイバー、ちゃんとシロウに追い打ちしようって竹刀を構え直すんだけど、とっさに止めて下がっちゃうのよ。  あれ、なんだったのかなあ。見逃してるっていうより、こわがってるっていうか、遠慮してるっていうか」 「はあ? まさか、セイバーが遠慮なんかするもんか。  そんな情けがあったら、俺は初日であそこまで痛めつけられなかったぞ」  そう、こと鍛錬に関してセイバーは遠慮などしない。  それが判っているからこそ、こっちは死にものぐるいでセイバーの竹刀に集中できたのだ。 「……はあ。一体どうしたんだよセイバー。こんなんじゃ鍛錬にならない。まさかとは思うけど、手を抜いてたんじゃないだろうな?」 「いえ、手を抜いていた、などという事はありません。  私は普段通り、シロウより一段階上の剣士を想定して相手をしていたのですが……」    どうも歯切れが悪い。  セイバー本人も、今日の鍛錬がどこかおかしいと感じているからだろうか。 「……ああ。そりゃあセイバーが手を抜くなんて思えないし、真剣にやってくれてたのも判ってる。  けど、いまのは消極的すぎなかったか? もっとこう、がつーんと正面から打ち合ってくれないと為にならないってば」 「しょ、正面からですか……? ですが、そうなるとマスターに近づきすぎです。それでは、展開によっては体がぶつかってしまうというか―――」 「……? そりゃ打ち合ってるんだから肩ぐらいぶつかるだろ。そもそもセイバー、密着戦になったら甘いとばかりに体当たりしてきて、よく俺を吹っ飛ばしてたじゃないか。密着戦はセイバーの得意とするところじゃないのか?」 「え――私、そんな事をしていたのでしょうか……!?」 「していたのかって…………まあ、わりと頻繁に。  ほら、初めて竹刀を合わせた時も派手に壁まで叩きつけてくれただろ。  女の子なのに力持ちだなって言ったら、剣士としてこの程度は当然だー、ってセイバーは言ったじゃないか」 「ぁ――――――――」  セイバーは呆然と立ちつくしている。 「……?」  今日のセイバーは本当に妙だ。  セイバーの体調が崩れていたら大変だし、後で遠坂に相談してみるべきか――――  今までと勝手が違うまま、セイバーとの鍛錬が再開された。  再開されたのだが、数本も取らないうちにセイバーは竹刀を下げてしまった。 「?」  新手の特訓方法だろうか?  油断させておいて、近づいたところをぽっかーんと打ち返してくるつもりやもしれぬ。 「―――はぁ―――はぁ、ぁ――――」  肩で呼吸をしながら、注意深くセイバーを見据える。  セイバーは少しだけ真剣に目を細めて、一歩踏み出してくると、   「シロウ、昼食にしましょう」    などと、セイバーらしからぬ事を言ってきた。 「は――――?」  竹刀を下げる。 「昼食にするって、もうそんな時間か?」  時計は十二時少し前だ。  昼飯時には違いないけど、セイバーがそんな提案をしてくるなんて初めてだ。  道場で打ち合っている時は、俺もセイバーも時間なんて気にしていなかった。  一息ついて、そういえば腹が減ったなあ、と時計を見たら昼になっていた、というのが日課だったのに。 「――――ふむ」  正しい提案だし、素直に頷いてもいいんだけど―――   「そうだな。ちょっと早いけど準備しようか」 「早いのですか? もうじき正午ですし、調理には時間がかかるのですから、丁度いいと思うのですが」 「ん? ああ、今日は弁当作っといたんだ。  ものは出来てるんで、居間から持ってくるだけですぐ食べられる」 「素晴らしい。それならなんとか我慢できそうです」  ほう、と胸を撫で下ろすセイバー。 「……?? 我慢って何が?」 「い、いえ、特に意味はありませんっ! 取るに足りない独り言ですので、早速昼食に致しましょう!」 「致しましょうって、セイバー……なんか、微妙に言葉遣い違くないか? ……試合中もおかしかったし、体調が悪いなら言ってくれないと困る。  セイバーの調子が悪いなら弁当は止めて、消化しやすい料理を作り直すから」 「え―――い、いえ、そのようなコトはありません!  いまから調理しては時間がかかりますし、今すぐ昼食を取らなければならないし、とにかく昼食にしましょうシロウ!」 「………………」  ……明らかに挙動不審だ。  けど元気がないって感じじゃないし、昼食を別のものに変えるコトもなさそうだ。 「わかった。んじゃ弁当とお茶持ってくるから、二人はここで待っててくれ。せっかくの弁当だし、たまには道場でお昼にしよう」 「はいっ。期待しています、シロウ」  ぶんぶんと手を振って送り出すセイバー。  ……慌てたり怒ったり、ホント、今日はいったいどうしたんだろう……。 「そうだな。イリヤもいる事だし、今日は早めに飯にしようか」  竹刀を置いて、セイバーの意見に賛成する。  ―――と。  セイバーはホッとしたように両肩を下げていたり。 「????」  ますます怪しい。  これは少し、理由ぐらいは訊くべきかもしれない。 「良かった。それでは居間に向かいましょう。  シロウの作ってくれる食事は美味しいのですが、準備に時間がかかってしまいますから」 「? 昼飯を作る時間がもったいないのか?  ああ、それなら毎日弁当にすれば良かった。そっちのが手間がかからなくて楽だし。いちいち台所に戻る必要もないしな」  昼食に気合いを入れていたのはちょっとした感謝の気持ちだったのだが、セイバーがそう言うのなら仕方がない。 「シロウ……? 何をしているのです。早く居間に向かいましょう」 「?? いや、だから昼飯だろ」  竹刀を壁に置いて、三人分のざぶとんを置く。 「ええ、昼食です! 一息入れるのはその後なのですから、早く厨房に立ってもらわなければ困ります!」 「なんでさ。居間に戻ることはないし、急ぐ必要もないだろ。―――ところで。困るって、なにが?」 「あ―――」  背中にぜんまいがあるかのように、セイバーはピタリと止まった。 「それに、どうして今日に限って時間ぴったりなんだ?  何か急ぐ理由でもあるのか?」 「い、いえ、別に急いでいる、という訳ではないのですが……」 「急いでないんならゆっくりでいいじゃないか。時間は十分にあるし」 「あの、いえ、それはそうなの、ですが……」 「い、いいですから居間に行きましょう! 昼食を摂らなければ午後の鍛錬に支障をきたします!」 「だからその準備をしてるんだって。暇なら居間に行って、朝作っておいた弁当を持ってきてくれ」 「は……? お弁当、ですか……?」  そうだよ、と頷きながら窓を開けて換気をする。  と。  お腹が減ったぞ、と言わんばかりの音が鳴った。 「ああ、そうか。いつもはどっちかの腹の虫で時間を確かめてたんだっけ。どうりでおかしいと思った」  セイバーに振り返る。 「? どうしたんだセイバー。窓開けたら寒いか?」  いや、でも昼飯にするんだから換気しないと空気が悪いし。 「い、いえ、なんでもありません……っ! い、居間に昼食が用意してあるのですね……!」  セイバーは脱兎の如く道場を後にした。 「…………?」  消極的な打ち合いといい、今の様子といい、今日のセイバーは熱でもあるんだろうか……? 「だめでござる。今日は断食するでござる」    兵糧既に尽き背水の河氾濫せり。  シークタイムゼロ、脊髄反射で返答したよ。 「シロウ……? その、今のはどのような意味なのでしょう……?」 「分かりにくかったか。  今のは、今日は昼飯抜きだって意思表示。朝はハンバーグだったし、昼抜いてもいいかなって」  どうしてそんな気分になったのかは俺にも判らないが、まあ、あんまりハラ減ってないし。  せっかくセイバーと竹刀を合わせるんだから、もう少し鍛練を続けたいし。 「そんな訳で試合を続けよう。ほら、竹刀構えてくれセイバー」  竹刀の切っ先をセイバーに向ける。 「ま、待ってくださいシロウ、話はまったく、一手たりとも進んでいません!  朝食を十分に摂ったから昼食はいらない、というのはあまりに浅慮ではありませんか!?」 「え、うわ……! な、なにすんだよセイバー! 竹刀返せ!」 「返せませんっ。もう時間がない、私はサーヴァントとしてマスターに速やかな食事の準備を要求します……!」 「………………」  ……ちょっと待て。  幾らなんでもセイバーのヤツ、おかしすぎるぞ? 「セイバー。時間がないって、何か予定でもあるのか?」 「特にありません。ですから昼食にしましょう、と言っているのです」 「いや。だから昼食は抜きにするって」 「バカな、これだけ言っても分からないのですかっ……!  これが最後ですシロウ、今すぐ昼食にしてください!」 「う、っ――――?」  掴みかからんばかりの迫力で抗議するセイバー。  その、あまりにも不自然な言動に思わず頷きそうになった時。 「あ、腹の虫」    きゅるる、とセイバーのおなかが空腹を訴えた。 「いまのセイバー? なに、そんなにお腹減ってたの?」 「い、いえ、とくに空腹は感じていないのですが、体は栄養を必要としているようです」 「ふーん……ずっと動いてたから仕方ないかもしれないけど、はしたないわよセイバー? サーヴァントだからって嗜みを忘れてたら、シロウに嫌われちゃうんだから」 「そ、そのようなコトはありませんっ! わたしはサーヴァントなのですから、シロウが落胆する事柄はわたしの敗北だけですっ!」 「えっと……別に負けたからガッカリするとかしないし、負けなければ何しても驚かないってワケじゃないぞ、セイバー」 「そ・れ・だ・け・です! だいたい、空腹時に腹部が鳴るのは正しい身体機能です! それが気に障るというのでしたら、私に食事を与えないシロウが悪いっ」  イリヤを睨み、ついで、セイバー曰く一番悪い俺が睨まれた。    ちなみに、腹の虫は飢餓収縮と呼ばれる胃腸の動きが原因である。  胃はたえず伸縮しているのだが、空腹時にはこの運動が激しくなる。で、胃の収縮によって内部にたまっていた空気が圧縮され、唸るような音が響くワケなのだ。  ……で、逆説的ではあるが、腹の虫は自律神経の影響も受けている。    そもそも胃の運動は絶えず行われているワケであって、空腹時にしか鳴らない、なんてコトはない。  胃の運動……音を大きく鳴らす原因は、 “お腹が減った、音が鳴りそうだ、鳴ったら空腹だと知られてしまう、だから我慢しないと”  なんて、自分で緊張を高めてしまい、余計に胃を激しく運動させてしまうからだとか。    ―――ふむ。  つまり、要するに。 「ははーん。さてはセイバー、ハラ減ってるんで気が立ってるんだな? イライラしてんのはそのせいか。まったく、朝あんなに食べてたのに燃費悪いぞ」 「なっ」 「ふーん。そういえば、静かだから目立たなかったけどリンの二倍は食べてたよね。セイバーって食いしん坊だったんだ」 「それは違う、私が大食漢なのではなくリンが小食なのです! シロウだって判って―――」 「んー、そうみたいだな。セイバー、ほっといたら最後までごはん食べてるし。本気になったら藤ねえと同じぐらい食べるんじゃないか?」 「そのようなコトはありませんっ! いったい何を見ていたのですかシロウは!」 「え……? いや、素直な感想なんだが。  それにほら、いつもこの時間になるとハラの虫鳴らしてるじゃんか。食いしん坊かどうかは別にして、セイバー、お腹減るの早いと思うぞ?」 「――――――――」 「ほーらやっぱり。セイバーったらはしたなーい」  セイバーを遣り込めたのが嬉しいのか、イリヤは嬉しそうに飛び跳ねる。  一方、さっきまで珍しく取り乱していたセイバーは――  ―――何事もなかったように、いつものセイバーに戻っていた。 「……セイバー?  その、怒ってないのか?」 「怒ってなどいません。イリヤスフィールの言う通り、私は多く食事を摂っていますから。  体力――いえ、魔力を少しでも多く蓄えて、シロウへの負担を減らそうと無理をしていたのかもしれません」 「あ――――」  ……そうか。  セイバーは自分で魔力を補充するしかない。  睡眠をとる事で魔力消費を抑え、  食事をとる事で少しでも活力を蓄えておきたかったのだろう。 「……すまん、考えがいかなかった。  いくらラインが出来たからって、余裕がある訳じゃなかった」  それも俺の持つ魔力の、何十倍もの量をだ。  サーヴァントは存在しているだけで大量の魔力を消費する。  しかし、セイバーが一日で作れる魔力は、一日の存在に必要な量に満たないのだ。 「いいえ。理解してもらえたのならいいのです。それよりシロウ」 「ああ、わかってる。昼食なら作ってあるんだ。今日は弁当だから、今すぐにでも――――」 「いいえ。せっかくですから、もう少し鍛練を続けましょう」  ―――と。  セイバーは竹刀を俺に返して、試合開始の間合いをとった。 「セイバー……? いや、だからメシに」 「必要ありません。シロウは、こちらの方が好きだという事ですので」 「っ…………!」  ま、待て、なんかすごく寒気が走ったぞ今のー! 「待った、待ってくれ、少し落ち着こう。  ……セイバー、ホントはすごく怒ってるだろ?」  恐る恐る声をかける。 「まさか。私に何か、変わったところがありますか?」 「全然違ってますよね、それーーーー!?」    鎧!?  鎧で竹刀!?  明らかに完全武装!? 「では。いつも通り、軽く流していきます」 「ほ、本気かおまえ、いくらなんでも大人げないぞソレーーーー!」  こっちの言い分なんて聞きやしない。  稲妻のような衝撃。  教育係という枷を解いたセイバーは、なんか容赦なく、その牙を突きたてた。  はい、こんにちはー!  ちょっとした手違いで命を終えた貴方を昇天させる心霊ワールド、タイガー道場でーす! 助手の死後の天使一号でーす。 しっかし、人生注意一秒怪我一生。  冗談の通じない相手をからかう時は、死を覚悟してからかうべきなんですねぇ。 そうみたいね。けどシロウ、セイバーの一突きで魂吐き出すなんて可愛いんだから、もう。 ……美的感覚が壊れたちびっ子……。  と、それはいいとして、今回のホトケさんはわりかしキレイよねー。原形残ってるなんて珍しいんじゃない? そうね。なんか物足りない感じ。 …………いじるか? …………いじろっか? よし、これより改造手術を行う! 何かの手違いで蘇らないように、まずは両手をガトリング砲に改造するのだ! サー、イエッサー! よし、インスタントにオペ終了! どうかね! 全身を改造された気分は!  だが君の意思を尊重し、最後の改造、脳手術は止めておいた! おいた! さあ、このまま自主的に我ら虎ッカーの一員となるか、洗脳されてマシンとなるか! 君の意思で決めたまえ! た、たいへんです総統! 実験体が改造されたパワーを使って、拘束を引き千切りました! きゃー、おお暴れです! 基地が破壊されます!  わ、我々は自らの手で最強の敵を生んでしまったのではないでしょーか!  しまったぁーーーーー!  まずは脳改造からしておくべきだったかー! きゃー! フツーはまず脳改造から始めると思いまーす! 「はっ……!?」  なんか、すごいユメを見たっていうか、今のはまさか死後の世界……!? 「気がつきましたかシロウ。初撃も躱せないとは情けない。  ―――では、次はうまく躱してください。剣道にあわせているのですから、死ぬ気になれば少しは耐えられるでしょう」 「っ……! ややや、まだやる気満々なのですかー!?」 「当然です。昼食まであと十分。いつも通り、限界まで打ち込みましょう」  ぱあーん、と炸裂するセイバー怒りの竹刀。 「あ――――う」  またも意識が断たれていく。  ……気をつけよう。  セイバーは、怒るととことんまでやり返してくるヤツだった……。         「じゃあレクチャーを始めるけど、その前に訊いておくわ。アンタ、体で壊れちゃったところとかない?」    などと。  部屋に入るなり、遠坂はおかしなコトを訊いてきた。 「―――? 壊れたって、何が」 「だから、動かない箇所はないかって訊いてるの。  あれだけメチャクチャしたんだから、神経が焼き切れるのは判ってるのよ。  ……まあ、そんなのはどうでもいいんだけど。体のどこに異状があるのかぐらい、知っておかないと授業にならないから」  ……どうも、遠坂の話では俺の体はどこかしら麻痺しているらしい。  それが遠坂の勘違いである事は、当事者である俺が一番判っているのだが。 「―――いや、動かないところはないぞ。  一晩寝たら頭痛も熱もなくなったし、俺はいたって健康だが」 「はあ? そんな訳ないでしょ、セイバーの剣を投影したのよ? あんなの、腕一本壊死してもおかしくない芸当じゃない!」 「だから動くって。  だいたい、体が動かなかったらイリヤをおんぶして帰ってこれるワケないだろ。あの時おかしかったのは頭痛と熱だけだって」 「うそよそんなの! 士郎、ちょっと腕見せてみなさい!」  こっちの返答も待たず、腕を取ってまじまじと見つめる遠坂。 「っ――――――――」  それで、息が止まってしまった。  ……いくら慣れてきたとはいえ、こんなに近いと緊張してしまう。 「……本当に異状はないみたいね。  焼き付いた跡かな、痣みたいに黒くなってるところはあるけど、他は完全に修復されてる……いえ、治ったというより、ようやく生え替わったってとこかしら……」    ぶつぶつと呟く遠坂の吐息が腕にかかる。 「―――――――ちょっ」  それだけでも顔が真っ赤になるっていうのに、あまつさえ。 「ふざけた体ね。これ、例の自然治癒による回復じゃないわよ。士郎の自然治癒は明らかに外部からの働きかけだけど、こっちは貴方自身の治癒能力だと思う」    袖をまくしあげ、人の腕にペタペタと手を当てながら、そんな事を言ってきた。 「ちょっ、ストップ……! も、もういいだろ遠坂、用が済んだら椅子に戻れ……!」 「? なによ、こっちはアンタの体を看てあげてるっていうのに……って、ははあ」  ずい、と遠坂は体を寄せてくる。 「熱は下がったっていうけど、まだじゅうぶんありそうじゃない? 士郎、顔が真っ赤よ」 「そ、そんなの俺の勝手だろう! おまえ関係ないんだから気にするな!」 「そうなんだ。関係ないんなら、わたしがこんなコトしても影響はないわけよねー」 「ひゃっ……! ひ、額に手なんてあてるな……!  熱なんてないんだから、そんなコトしても意味ないぞ……!」 「ええ、そうみたいね。今度は耳まで真っ赤だもの。熱っていうより酔っぱらってるみたい」  ……わざとだ。  こいつ、絶対わざとやってる。 「……遠坂。おまえ、判っててやってるだろ」 「あ、バレた? 士郎があんまりにもベタな反応するから、ついからかっちゃった」 「………………」  ……ふん。男の純情を弄ぶようなヤツは地獄に堕ちて反省しろっ。 「ま、冗談はこの程度にしといてあげる。あんまりからかうとミイラ取りがミイラになりかねないしね」  ……問題だ。  遠坂のヤツ、日増しに俺をからかう率が高くなってないか? 「……遠坂。いまさら言うのもなんだけど、俺は真面目に授業を受けに来たんだが」 「あら、失礼ね。わたしだってそのつもりよ。いまのだって教え子の状態を確認しただけだもの」 「そうかよ。じゃ、そろそろ本題に入ってくれるんだな」 「……そうね。本題と言ってもわたしの専門外だからアドバイスぐらいしかできないけど、しないよりはましだから」 「正直に言ってしまえばね、わたしが貴方の力になってあげられたのは前回でおしまいなのよ。  こんな短期間の授業で魔術は身に付かない。  わたしはただ、貴方が使ってなかったスイッチを取り付けただけ。それは判る?」 「あの宝石だろ。たしかにアレを呑んでから、魔術回路は作るんじゃなくて切り替える物になってくれた」 「そ。一朝一夕で教えてあげられたのはそれぐらい。  けど、それだって今まで鍛えてきたものを表に出したにすぎないわ。  わたしは貴方が体で覚えた魔術を後押しする事しかできないし、他の魔術を教える気もない。  だって才能ないもの、貴方」 「……うん。そこまでズバッと言われると、ある意味さっぱりした。  けど遠坂、俺が使える魔術ならアドバイスしてくれるんだろ。なら、あの時に使った魔術が何だったのか教えてくれ」 「――――――――」  遠坂は答えない。  ただ、敵を見るように俺を睨んでくるだけだった。 「遠坂? その、レクチャーだよな、これって。黙っていられると俺も困るんだが」 「――――――――」  難しい顔をして視線を逸らす。  が、それも一瞬。 「―――無理よ。  わたし、投影魔術なんて使えないもの。自分が知らないものを教えられるワケないじゃない」 「? ……遠坂が使えない……?」  バーサーカー戦でのアレは、言うなれば魔術師としての基本ではないのか。  物の構造を想定し、そこに必要な魔力を通す。  それは“強化”の魔術と変わらない。  ただ、元からカタチのある物に、異分子である自身の魔力を浸透させるのは難しい。  赤い色をより濃くするために“自分が赤いと思う絵の具”を混ぜて、結局違う色にしてしまうような物だからだ。  それに比べれば、一から十まで自分の絵の具で描き上げるコトなんて容易い。  自分の思うがまま落書きをしているようなものなんだから。 「そんな筈あるか。遠坂ならあれぐらい出来るだろ。強化より簡単だぞ、アレ」 「アンタね。今のを他の魔術師に言ったら、間違いなく殺されるわよ。アンタがやったのは投影で、かつ宝具を完全に複製していた。あそこまで出来る〈複製者〉《フェイカー》なんて、わたしは知らない」 「――――――――」    背筋に悪寒が走る。  ―――気のせいじゃない。  遠坂は確かに、俺に対して敵意を持っている――― 「―――ふん、どうってコトないわ。  そんな事、アンタの蔵を見た時から薄々感づいてたんだから。今更、衛宮士郎に殺意を抱いても仕方ない」 「勘違いしてるようだから言ってあげるとね、貴方がやったのは“投影”の魔術なの。  実在する美術品とか名剣とか、そういった物を自身の魔力でイメージとして再現するっていう半端な魔術よ。  たいていは儀式の際に使用する、一時凌ぎの代用品として使われる。イメージで編んだソレは、当然“架空の物”として認識されるから、すぐに消えてしまうものなんだけどね」 「……?」    イメージで編み上げる複製品、というのは判る。  実際、俺は夢でセイバーの剣を見ていたから、それを手本にして黄金の剣をイメージしたのだし。 「……よく判らないな。魔力ってのは粘土だろ。たとえイメージでも、一度カタチになったものなら消えるコトなんてないんじゃないのか」 「そんな訳ないじゃない……! 魔力ってのは自分の体の中でしか存在できない物でしょ!?  だから物に魔力を通したり、魔力をスターターにして自然干渉を行うんじゃない!」 「そりゃあわたしだって魔力を飴のようにこねて、短剣ぐらい作れるわ。  けどそれで終わり。それは短剣のカタチをした飴にすぎないし、外に出した魔力は気化していくからすぐに消えてしまう」 「いい? 魔力だけで作り上げた物は長続きしないものだし、あくまでカタチだけのものよ。  ……まあ、そのカタチだけの物を、外見も性能もオリジナルに近づけるのが投影魔術らしいんだけど」 「――――ふむ」    確かに、魔力なんてカタチのないものだ。  体の中で巡っている時は感じられるが、外に出てしまえば薄れていき、次第に消えてしまう。    なら、いくら頭の中で設計図を作って魔力で作り上げたとしても、構成しているのは魔力なんだから次第に薄れていくのは当然だろう。    ……そういえば。  切嗣に魔術を教わる時、まず投影じみた事をやったら、それは効率が悪いから強化にしなさい、と言われたっけ。 「―――そうか。投影って魔力の消費が激しいんだ。使ってもすぐに消えてしまうから、作っても意味がない」 「そういう事。  例えば、十の魔力を使って剣を“投影”するでしょ?  その場合、その剣の力はせいぜい三か四なのよ。人間のイメージなんて穴だらけだから、本物通りの複製なんて出来ないんだもの。  対して、十の魔力を使って剣を“強化”した場合、その剣の力は二十にも三十にも跳ね上がる。加えてその持続時間は“投影”の何百倍よ」 「判った? 投影魔術っていうのは、今じゃ儀式の時にしか使われないものなの。  道具が揃えられなかった時の代用品として、すぐに消える複製品を用意する為の魔術にすぎない。  士郎の父親が“強化”を教えたのは適切よ。  ただでさえ魔術回路が少ないんだから、“投影”なんて無駄な魔術を教えたら一般人と変わらないもの」 「―――――――」  それは判った。  けど、だとしたらアレはなんだったのか。  頭の中でイメージし、現実に複製した黄金の剣は、確かに本来の力を持っていたようだが……。 「……ふうん。じゃあセイバーの剣を投影したのはまぐれだったのかな。  ……考えてみれば、あの剣に蓄えられていた魔力はケタ違いだった。自分の何百倍っていう魔力を模倣するなんて、どう見てもおかしいよな」 「……それは、その……きっと、士郎は“剣”と相性がいいのよ。魔術師はそれぞれ属性を持ってるでしょ?  貴方はそれが“剣”なんだと思う」 「属性……? 火とか水とか、各元素に当てはまるものか?」 「そ。普通は世界を構成する一元素を背負うものなんだけどね。魔術協会でも火はノーマル、風はノーブルって言われてるじゃない。  地水火風空でもいいし、木火土金水でもいい。  このうちどれか一つを魔術師は持っているんだけど、中にはさらに分化した属性もあるわ。  ……大抵そういう魔術師は中央には入れず、突出した専門家として名を馳せるらしいけど」 「それで言うなら士郎は“剣”よ。  多様性はないけど、こと剣に関しては頂点を狙えるって事」 「なるほど。それは、確かに」    こと剣に関してなら、昔から関心が強かった。  ……となると、遠坂の属性ってなんだろう。  こいつの事だから火とか風とか、そういう偉そうなヤツなのは目に見えているが、一応訊いておきたいっていうか、興味があるっていうか。 「なあ遠坂。参考までに訊くけど、おまえの属性ってなんだ?」 「わたし?  わたしは“五大元素”っていう属性だけど?」 「――――――――」  ……あの。  それはつまり、全部持ってらっしゃるっというコトでしょうか……? 「ともかく、わたしが言えるコトなんてそんなものよ。  投影は虚影って言われるぐらい意味のないモノだから、あまり多用はしないこと」 「それにね、セイバーの剣を模造するなんて、そんなのは自殺行為よ。あの時は上手くいったからいいものの、本来なら自滅していてもおかしくなかった。  アンタも言ってたけど、セイバーの剣の魔力は、士郎の魔力のキャパシティを超えているのよ。それを複製するって事は、自分の魔術回路の限界を軽くオーバーしてるって判るでしょ?」 「……判ってる。けど自分の限界なんて、そう簡単に超えられないだろ。いや、そもそも限界なんだから、それ以上なんて行けないんじゃないのか」 「―――行けるわ。だからこそ、魔術師は死と隣り合わせなんじゃない」 「魔術が形式にそったモノなら、知識さえあればどんな魔術だって行えるのは道理でしょう。  たとえ自分では再現不可能の奇蹟だって判っていても、それにチャレンジする事は誰にでも出来る。  魔術師なんて動力源にすぎない。  小さなエンジンでも、アクセルを踏み続けていれば規定以上のスピードは出る。けど、その先にあるのは自滅しかない」 「それと同じよ。魔術師っていうのはね、自滅さえ覚悟するなら限界なんて簡単に超えられる。  魔術回路を焼き切らせて、神経をズタズタにして、それでも魔力を回転させていけば奇蹟に手は届くわ」 「貴方の投影はまさにそれよ。  戦いの後、ずっと体が熱かったのは神経が焼き切れていたからだもの。それが分不相応な魔術の代償よ。  ……手足の一本や二本、壊れて当然の事を貴方はしたの」  叱咤する声。  だがそれは、同時に。 「……だから、覚えておきなさい衛宮くん。  自分の限界を超えた魔術は、術者を廃人にするわ。  セイバーの剣を投影するなんて、もう二度とやらないで」    真剣に、俺の体を危惧しての物だった。  忠告の後、遠坂はよく判らない薬を処方してくれた。 「……ま、無理するなって言っても無駄だろうしね。  気休めだろうけど、もしもの時の痛み止めぐらいは飲んどきなさい。うまくいけば、痣で変色した肌も治るかもしれないし」    なんて言って、薄い緑色の粉薬を用意してくれたのだ。  薬をお茶で飲み下す。  遠坂は荷物をかきわけて、まだ違う薬を処方しようとしている。 「………………」  さて。  荷物をあさっている遠坂には悪いけど、こうして座っているのも手持ちぶさただし、ここは――――      ……そうだな。  投影魔術がどんな物かは判ったけど、もう少しつっこんで知りたい気がする。    とくにイメージをカタチにする、といったあたり。 「なあ遠坂。忙しいとこ悪いんだけど」 「なによ、早くしろってんなら蹴っ飛ばすわよ。  捜し物が見つからなくてイライラしてるのはこっちなんだからっ。……って、どうしてこう、仕舞った筈の物がなくなってるのよ、この家は!」  ぶつぶつと文句を言う。  こういうところは実に遠坂らしい。  やるコトは完璧なクセに、その準備がうまく行かないところとか、特に。 「ああ、そのままそのまま。捜しながらでいいから、さっきの話の続きをしてくれないか。  その、投影がイメージから作る模造品だとか、そういう事」 「……ふん。まあいいわ。話しておくことは、アンタの為になるかもしれないし」  不機嫌極まっているな。  散々ひっかき回したボストンバックを放り投げ、どすん、と椅子に座り直している。 「じゃ、手短に説明するわね。  投影っていうのは手持ちにない物を、その時だけ使う為のものよ。逆に言えばこの世にない物、とっくに失われた物さえ復元する事ができる。  本物を寸分違わず想像出来れば、あとは魔力で一時的に編み上げられるってコト」 「この投影した“物”は、魔力の気化に応じて消えていくのは話したわよね。  どんなに強い魔力でも、イメージで編み上げた物体は段々と薄れていく。……いいえ、それだけじゃないわ。  そんな幻想は、世界そのものが許さない。  だから投影によって編み上げられた物は、一日だって世界には留まれない」 「? 世界そのものが許さないって、どうして」 「幻想は幻想だからなんでもありなの。それがもしカタチを得てしまったら、それはもう現実でしょ?  けど現実にはそんな物は存在しない。その矛盾を解消する為にね、現実が幻想を潰しにかかるのよ」 「いい? 魔術ってのは元からあるモノに手を加えて、違うモノに切り替える現象を言うの。言うなれば変化、等価交換よ。  けど幻想に等価交換も何もない。イメージで作られたモノが世界の何処にもない場合、それは絶対の矛盾になる」 「だから―――この時代にあり得ないセイバーの剣なんて投影したら、世界そのものが、その幻想を破壊する。  世界と繋がって奇蹟を起こすのはいいけど、世界にない奇蹟を起こすのは御法度だから。  通常の魔術ってのは、世界のどこかにある実物を目の前に持ってきて使うことよ。けど投影魔術は人間のイメージを彩色する」 「……いかに魔術と言えど、〈世界〉《ここ》にないモノを作り上げてはいけない。  それは〈世界〉《げんじつ》を侵食する幻想に他ならないから。  生物が自己防衛を最優先するように、世界だって自己防衛を最優先する。  世界にとっての命は秩序でしょ。だから秩序を乱す矛盾、現実を侵食する幻想は、世界そのものに握りつぶされるのよ」  だあー、と一気に遠坂はまくし立てる。  もちろん、こっちは話の半分も理解できていない。 「……そうか。つまり、俺がした事は、衛宮士郎の限界を超えているって事なんだな」 「だからそう言ったじゃない!  投影は貴方の命を削る魔術だから、セイバーにねだられても使っちゃダメよ」  遠坂は荷物捜しを再開する。  その姿をぼんやりと眺めながら、バーサーカーに勝利できたのは本当に奇蹟だったんだ、と再確認してしまった。    そう言えば解せないコトがある。  バーサーカーとの戦いで、遠坂は簡単に握り潰されなかった。  アレは一体どういうカラクリなんだろうか? 「なあ遠坂。昨日の話なんだけど、ちょっといいか」 「なに? 忙しいんだから手短にして」 「ん。遠坂、バーサーカーに掴まれただろ。あの状態でよく持ちこたえたなって。……そうは見えないけど、腹筋すげえ鍛えてあるのか?」 「あはは。鍛えてあるだけでバーサーカーの腕力に耐えられるなんて、わたしのお腹は鉄以上ってコト?」 「――――悪い、訊き方が悪かった。  悪かったから、笑顔で殺気をみなぎらせるのは止めてくれ」 「そっちこそ無駄に挑発しないでよね」 「……で、どうやって持ち堪えたかだけど、事前にお腹に宝石を仕込んでおいたのよ。服の内側に貼り付けて防護膜を張ってたワケ。納得いった?」 「そっか。遠坂は初めからバーサーカーに掴まれる気だったもんな。そりゃ予め体を守っておくか。  ……けど遠坂。そうなると、おまえの宝石って」 「もう品切れよ。セイバーに一個、バーサーカーの注意を逸らすのに三個、顔を吹っ飛ばすのに五個。で、体を守らせてたのが一個。  十年以上蓄えたものだけど、使うときはあっという間だったわ。……しかも、そのほとんどを使ったのにバーサーカーは倒せなかったし」  なんだかね、なんて溜息をつくも、遠坂は宝石を惜しんでいない。  使ったものは使ったもの。  大事なのは失った物ではなくこれから得る物だと、コイツは知っているのだ。 「そっか。残念だったな、遠坂」 「ありがと。ま、この教訓を生かして、次はわたし一人で倒せるような〈宝石〉《もの》を作ってみせるわ」  あっさりと言う。  それと同じように、遠坂の言葉はあっさりと実現するに違いない。  ……それで、改めて思い知った。  バーサーカーとの戦いは、遠坂がいて初めて実現した勝利だったのだと。    ……そうだな、大人しく座っていよう。  遠坂はピリピリしてるし、ヘンなコト言って邪魔したら手酷いカウンターが飛んできそうだ。  で。  何種類かの薬を飲まされた後は、体の様子を見るから、と簡単な“強化”の練習をさせられた。  身体に魔力を通して支障がないか調べるとかなんとか。  ほんと、今日の遠坂は教師というよりお医者さんだ。 「―――よし、問題はないみたいね。この分なら明日はもう来なくていいわ」 「え――――?」  言われて愕然とする。  明日は来なくていいって事は、つまり――― 「当然じゃない。今の状況で、わたしが貴方に教える事なんてないもの。本気で魔術を習いたいんなら、この戦いが終わってからにするべきよ。  それにもうアーチャーはいないでしょ。士郎との協力関係は、もうとっくに終わってたのよ」 「な――――」  言われて、その事に気が付いた。  そもそも俺たちはバーサーカーに対抗する為に手を組んだのだ。  そのバーサーカーも既に無く、遠坂にはサーヴァントがいなくなった。  なら―――この生活は、昨日でとっくに終わっていなくてはならなかったのだ。 「――――それじゃ、遠坂はこれからどうするんだ。言峰のところに行くのか」    ……それが当然か。  遠坂は言峰神父と師弟関係だし、保護を求めるのに問題はない。 「なんで? 行くわけないじゃない、まだ負けてもいないのに。サーヴァントがいなくなったから戦えない、なんて事はないでしょ。  それに、やり逃げってのも趣味じゃないしね。一度戦うと決めたからには、最後まで事の顛末を確かめるのが責任でしょ」  さも当然のように。  胸を張って、遠坂は言い切った。 「――――――――」  目が点になる。  ……いや、驚かされたワケではない。  遠坂はそういうヤツだって事は、もうとっくに判ってる。  こいつは呆れるぐらい強気で、  とんでもないほどワガママで、  見とれるぐらい、鮮やかなヤツだったのだ。 「けど、それじゃあどうするんだ。一人でやってくのか。  まだサーヴァントとマスターは残ってるんだぞ」 「そうね。だから、しばらくはここで情報を集めるわ。  柳洞寺の調査も再開しないといけないし」 「しばらくはここに残る―――い、いいのか!?  そうして貰えると助かるけど、もう協力関係は終わったんだろ。なら――――」 「なに言ってるのよ。バーサーカーに勝てたのはアーチャーのおかげでしょ。協力関係は終わったけど、その借りはまだ貸したままよ。返済が終わるまでここを提供するのは当然じゃない」 「……それに、責任は最後まで取るって言ったでしょ。  ちょっとの間だったけど師弟になったしね。貴方を一人にしたら頼りなくって心配で、聖杯戦争どころじゃなくなるわ」 「――――――――」  ……そう。  もう今では随分昔のような気がするけど、衛宮士郎が憧れていた遠坂凛っていうのは、つまりこういう女の子だったのだ。    だから、正直嬉しかった。  遠坂はこうでなくちゃいけない。  そもそもこんなに強情なヤツが簡単に諦めた日には、明日から何を信じていいか分からなくなるってもんだ。 「―――ああ。これからもよろしく頼む、遠坂。  なんだかんだいって、おまえがいないと右も左も判らない。俺とセイバーには、遠坂が必要なんだ」 「……いいけど。アンタ、その言い回しは止めなさいってば。バカ正直なのはいいけど、気を付けないと誤解を招くわよ」 「……?」  どうしてそこで遠坂が怒るのか、どうも事情が掴めない。 「遠坂。誤解を招くって、何を招くってんだ?」 「あのね、今のは失言なの。訊くなって態度で表してるんだから、追及するのはルール違反よ」  む。  どうも、遠坂は俺の知らないルールを知っている模様。 「呆れた。これじゃセイバーも大変だわ。  ……まあ、それともアンタたちはそれで丁度いいのかもね。少しぐらい麻痺してないと、貴方もセイバーも駄目なのかもしんないし」 「……むむむ。よく判らないけど、その、セイバーが大変だってのは聞き捨てならないぞ。なんだってセイバーが大変なんだよ、遠坂」 「だから、アンタのそういうところが大変だって言ってるの。その分じゃセイバーの変化になんて気が付いてないんでしょ、衛宮くんは」 「セイバーの変化……?」  それって外見上のコト……じゃないよな。  セイバーに変わったところと言えば、それは―――― 「……ああ。そう言えば朝から様子が変だったな。  いや、イリヤがいたから不機嫌だったとは思うんだけど、それにしたって黙って正座してるわ、どうしたんだって訊けば夢を見たとか言って立ち去っちまうし」  ……イリヤの事でゴタゴタしていたんで忘れていた。  言われてみれば、朝のセイバーは夢うつつ、といった風で普通じゃなかったと思う。 「―――――セイバーが、夢を見た?」 「え? なに、それって驚くところか遠坂?」 「……………………」  あ、無視された。 「おい。黙ってないで何か言ってくれ。そんな顔されると、こっちまで不安になってくる」 「え……? ああ、別にそんな大した事じゃないわ。  単に、サーヴァントは夢を見ないってだけだから」 「――――?」  サーヴァントは、夢を見ない……? 「そうよ。サーヴァントは夢なんて見ないわ。  それでも見たっていうんなら、それは夢じゃない。単に、誰かの記憶を垣間見ただけの話よ」    ……遠坂にもそんな経験があったのか。  さっきまでの明るさとはうって変わった冷淡さで、そんな事を言っていた。  で、夕食の支度となった。  ここ数日のごたごたで当番制は崩壊したかと思われたが、 「今日の夕食、お願いね。  今夜もまた冷えそうだし、イリヤもいるし、シチューとかいいんじゃない?」    と、去り際に言われてしまったのだ。 「……まあ、たしかにイリヤはシチューってイメージだけどな」  帽子を被ったコート姿のせいだろうか。  ともあれ、夕食をシチューにするのに反論はない。  洋食は苦手だが、シチューなら致命的な間違いは犯さないし。 「―――っと、その前に……」  時刻は六時前。  調理の前に少しだけ時間がある。  汗もかいたし、手を洗うついでに風呂を済ませてしまおう。  夕飯前に風呂に入るのも忙しいが、食後は遠坂とセイバーが風呂を使うから、こっちが使える時間が遅くなるし。  冷えた廊下。  部屋は暖房で暖かいが、廊下に出ると冬の冷たさがまじまじと感じられる。  暖かいはずの冬木の気候は、ここ数日微妙に狂っているようだ。  寒いと言えば、知らない間に雪が降っていたそうだ。  時間にして一時間もなく、降った量も少なかったので気が付かなかったのだろう。  まあ、雪が降れば降ったで庭に大量の雪だるま軍団が出現し、後片づけに困るので助かったと言えば助かったか。  もちろん、雪だるま軍団を作るのは一人だけだ。  去年雪が降った時、しもやけで真っ赤になった手で教壇に立っていたのが懐かしい。    ――――?  シャワーでも使おうと思ったのに、風呂場は既に暖かい。   「シロウ――――?」    ちゃぽん、という音。  はてな、と湯船に視線を移した途端。            ―――――湯気より、頭の中が真っ白になった。 「――――――――な」    喉が麻痺してうまく声が出ない。  体が動かないのは何も考えられないせいだ。  だっていうのに、頭の隅っこで“以前にもこんなコトがあったな”なんて考えてしまっている。  いや、以前と同じなんかじゃない。  あの時、セイバーは肌も露わな姿だったけど、こっちは服を着ていた。  が、今回はそれどころの話じゃない。 「あ―――――セイ、バー」    ごくり、と息を呑む音だけが響いた。  どうしていいか分からず混乱している俺を、セイバーは凍り付いたように見つめている。  今回ばっかりはセイバーも怒る。  絶対怒る。  間違いなく怒る。  その証拠に、柔らかそうな唇は今にも怒鳴り出しそうにわなわなと震えているし……! 「すまん、悪かった。シャワーを使おうと思って、いや、こんな時間に誰か入っているとは思っていなかったんだけど、普通気が付くだろそんなコトって言われるのはもっともなんだが――――」  じりじりと脱衣場に下がりながら弁明をする。  だ、断じてセイバーに見惚れていたからじゃない。  その、なぜかダッシュで脱衣場まで後退したら、余計セイバーを怒らせるような雰囲気だったのだ。  ……いや。それでも、目が離せないのに変わりはない。  ―――廃墟の夜を思い出す。    あまりにも身近にあった、セイバーの温かさが蘇る。  弱々しく、華奢だったセイバーの体。  重ね合った体温と鼓動。  ……あの時は、それどころではなかったけど。  今はその全てに、抗いがたいものを感じている。 「と、とにかく、話は後で――――」    手探りで背後の出口を探る。  ……と。 「……申し訳ありません、シロウ。  その、勝手な申し出なのですが、今は席を外してもらえない、でしょうか」  視線を逸らして、消え入りそうな声で、セイバーはそう言った。 「――――え」    今度こそ、本当に頭が漂白された。  セイバーがなんで怒らないのか、とか。  その、恥じ入るような顔つきに、全身の血がカアっと脳天に集まった。 「え―――と。なん、で?」    反射的に呟く。  セイバーはますます申し訳なさそうに俯いて、 「……ですから、シャワーを使うのはもう少し後にして、ください。その、この場を一人で使う事を、今だけは許してほしい」  セイバーは体を隠すように身を縮める。    それで、唐突に思いだした。  以前、脱衣場でセイバーとニアミスしてしまった時、彼女は何も言わなかった。   “サーヴァントに性別は関係ない”    そう言って、みてくれをまったく気にしていなかったのは、彼女の方だ。 「あ――――えっと、つまり。まて、頭がぐるぐるしててうまく言えないんだが」    ええい、きちっと働け頭!   「ようするに、セイバー、怒ってないのか?」 「……シロウが体を洗うのは当然でしょう。私はそこまで、マスターの行動を制限しません」 「――――」  納得。  ようするに、セイバーは自分の格好や、服の有無なんてなんとも思っていないのだ。  だからここに俺がいるのも当然。  風呂場は体を洗うところなんだから、俺がやってきてもおかしくはない。  そこにセイバーがいるいないは、どうにも関係ないらしい。  ……それはその、助かった反面、何か違うと思う。 「……けど。なら、いま俺がシャワーを使ってもいいって事、になるん、だけど」 「――――ですから、それは、その」 「……見られる事は、問題ではないのです。ただ、私の体は凛のように、少女のものではありません。  ですから―――」    彼女は頬をより赤くして、辿々しく、 「……シロウには、あまり見てほしくない。このように筋肉のついた体では、殿方には見苦しいでしょう」    そんなコトを、口にした。 「――――――――」  色々な意味で、意識が遠のきかけた。 「ば、ばか、そんなコト――――」  ある筈がない。  セイバーの体は見苦しくなんかない。  体が硬いっていうけど、そんなの気になったコトなんてない。  そりゃあ遠坂と比べれば鍛えあげられた体をしているけど、それでも―――言葉もないほど、セイバーの体は女の子だと思う。 「……シロウ。その、そういう理由だから、一人にして、ほしいのですが」 「――――――――」  なんて答えられたか、自分でも判らない。  ただ微かに頷いて、扉を閉めた事ぐらいしかはっきりと認識できなかった。    空は薄墨に染まっていた。  黎明なのか、黄昏なのか。  外から眺めている自分には、どちらかは判別がつかない。    広い空で、高い野原だった。  手を伸ばしても届きそうにない空と、  手を伸ばせば掴めそうな雲。    そこは、かつて彼女が駆け抜けた戦場の一つだった。          今は従える騎兵もない。  見渡すかぎり黄金だった草原もない。    鈍色に染まった空の下、広がっているのは、              とうに見慣れた、戦場跡にすぎなかった。    感情が湧き立たない。  彼女にとって、こんな光景は日常だったのだろう。  独り残った心には何もない。  黄金の剣に身を預けた彼女は、一度だけ大きく息を吐いて、ゆっくりと肩の力を抜いた。    戦いが終わったのだろう。  彼女は討ち滅ぼした兵士の骸を流し見た後、自陣へと足を運ぶ。  それが彼女の経験してきた戦いだった。  冷静な態度は今とまったく変わっていない。  彼女は、どのような苦境であろうと、俺の知っている彼女だった。               ――――そうして、王の夢を見る。    その剣を抜いた時から、彼女は人ではなくなった。  父に代わって領主となった後、多くの騎士を従える王となったからだ。  彼女はアーサー王ともアルトリアとも呼ばれ、騎士を目指していた少女は、その人生を一変させた。    彼女は王の息子として振る舞った。  多くの領土を治め、騎士たちを統べる身は男でなくてはならなかったからだ。  王が少女と知る者は、彼女の父親と魔術師しかいなかった。    彼女は文字通り鉄で自身を覆い、生涯、その事実を封印した。    無論、不審に思う者がいなかった訳ではない。  だが聖剣を持つ騎士王は傷つかず、歳を取る事もない。  〈聖剣〉《エクスカリバー》には妖精の守りがあり、持ち主を不老不死にする。  それ故、騎士としては小柄すぎる体を追及する者もいなく、少女としか思えない顔つきも、見目麗しい王として騎士たちの誉れとなった。    事実、王は無敵だった。  そこに体格や容姿など付け入る隙はない。  蛮族の侵攻に怯える民が求めたものは強い王であり、 戦場を駆ける騎士が従うものは優れた統率者だけである。    王はその条件を全て備えていた。  故に―――真実、王が何者であるかなど追及する者はいなかった。  女であろうと子供であろうと関係はない。  ようは、ソレが『王』として国を守ればそれでよいのだ。    新しい王は公平無私であり、戦場では常に先陣に立って敵を駆逐した。  多くの敵、多くの民が死んでいったが、王の選択は常に正しく、誰よりも上手く『王』をこなしていたのだ。  そこに疑う余地はないし、そもそも、王が正しいうちは疑う意味もないだろう。    戦場では負け知らずだった。  失われていた〈騎馬形式〉《カラフラクティ》を再構成した彼女の軍は、文字通り自由に戦場を駆け抜け、異民族の歩兵を破り、幾つもの城壁を突破した。    常に先陣に立っていたのは、その背に国があったからなのか。    戦いに出る為には、多くの民を切り捨てねばならなかった。    戦いに出たからには、全ての敵を切り捨てねばならなかった。    国を守る戦いの為に、自国の村を干上がらせて軍備を整えるのは常道だった。    そういった意味で、彼女ほど多くの人間を殺めた騎士はいなかっただろう。    それを重いと、感じた事があったのかは知らない。  こんな夢では知るよしもない話だ。    ただ、戦場を駆ける姿に迷いはなかった。  玉座に身を預ける時も、憂いに眼を細める事さえない。            王とは人ではない。  人間の感情を持っていては、人間は守れない。    その誓いを、彼女は厳格に守り続けた。  あらゆる問題を解決し、誰もが舌を巻くほど政務に励んだ。  一寸の狂いもなく国を計り、寸分の過ちもなく人を罰した。    そうして、何度目かの戦いを勝利で収め、幾つもの部族を乱れなく統率し、何百という罪人を処罰したあと。     “アーサー王は、人の気持ちが分からない”と。      そう、側近の騎士が呟いた。    誰もがその不安を抱いていたのか。  王として完璧であれば完璧であるほど、彼らは自らの君主に疑問を抱いた。    人の感情がないものに、人を治められる筈がない。    何人かの名のある騎士は白い〈王城〉《カメロット》を離れるようになり、それすらも王は当然の出来事として受け入れ、統治の一部として組み込んだ。    見目麗しく、騎士たちの誉れであった王は、そうして孤立していった。    だが、それは王には関係のない些末事だ。  離れられ、恐れられ、裏切られようと、彼女の心は変わらない。    是非もない。  あの剣を手にすると決意した時から、彼女は感情など捨てたのだから。           ―――そうして、彼女にとって最後の戦いが始まった。    バドンの丘での戦いは大勝で終わり、そのあまりに圧倒的な戦果から、蛮族たちは和睦を申し入れてきた。  もはや滅亡を待つだけだった国は、そうして束の間の平和を得た。    絶対的な英雄に頼る戦乱は終わった。  ブリテンはようやく、彼女が夢見ていた国に戻りつつあったのだ。    ……風景が薄れていく。  夢が終わって目が覚めるのだ、と頭のどこかで考える。  あとは数えるまでもなく意識が落ち、また目覚めるのだろう。    ただ、その前に、ひどく頭にきた事があった。  ……あいつはバカだ。  確かにあいつは強くて、戦いが巧かったかもしれない。  けど、だからって〈戦い〉《それ》に向いているかどうかは別物じゃないか。    あいつのまわりにいたヤツラにも腹が立つ。  あいつがそれに気づかないのなら、せめてまわりにいるヤツが教えてやらなくちゃ一生間違ったままになる。    ……まったく。あんなに雁首そろえておいて、どうして誰一人として、その事実を、あいつに教えてやらなかったのか―――― 「――――――――」    目を覚ます。  ―――イリヤの森から出て、うちに帰ってきたのが昨日の午後。  遠坂は腹の傷が痛むといって部屋に戻り、俺も激しい頭痛が続いていて、とにかくすぐに眠りたかった。  重い荷物を運んできた、という事もあったろう。  部屋に戻って横になったら、あとは起きあがる事さえできなかった。  平気だったのはセイバーぐらいのもので、俺と遠坂はセイバーに家の警護を任せるように眠ってしまい、そうして―――― 「……半日眠ってたワケか。……ん、さすがに頭痛は治まってるな」  ほう、と胸を撫で下ろす。  バーサーカーとの一件。  セイバーの剣を模造してから起きた頭痛は半端ではなかった。  あれがあのまま続いていたら、体より先に頭がいかれていただろう。  ――――と。   「え――――?」    枕元にはセイバーが正座していた。 「……セイ、バー……? なんだよ、朝から辛気くさい顔して。俺が眠ってる間になにかあったのか?」 「……………いえ。ただ、夢を見てしまったもので」 「?」 「……いえ、何でもありません。それより朝食にしましょう、シロウ。もう起きる時間です」  セイバーは立ち上がり、静かに部屋を後にする。 「……?」  セイバーの態度が妙な理由は分からない。  分からないが、その―――― 「……枕元に正座してたって事は、看病しててくれたのかな――――」  そう思った途端、あの光景が蘇った。 「ば、なに考えてんだ……!」  顔を振って雑念を払う。  ……あの夜、セイバーと触れあったのはあくまでマスターとしてだ。  そう思わないと、とてもじゃないけどセイバーの顔なんて見られない。 「――――平常心、平常心。  昨日、帰ってくる時はいつも通りだったじゃないか。  それでいいんだ、それで」  いや、昨日は疲れきっていただけだが、ともかく平常心だ。  ……そもそも、俺がこんなんじゃセイバーだって迷惑するに決まってる。 「―――よし。とにかく落ち着いて、朝飯作らないと」    深呼吸をしながら着替える。  時刻は朝の九時過ぎ。  昨日の昼から何も食べていないセイバーは、さぞお腹をすかしているだろう。  九時を過ぎてはもう朝とは言えない。  セイバーの事も考えて、朝食はわりとがっしりとしたメニューに決めた。 「シロウ。今朝は私と貴方だけですが、凛を起こさなくていいのですか?」 「ああ、みんなまだ寝てるんだろ。昨日が昨日だし、無理に起こすコトもない。メシは作っておけば勝手に食べるだろうし」 「そうですか。それでは早めに支度をしてもらえると助かります。もうこんな時間になってしまいましたから」 「わかってる。体の調子もいいし、食べ終わったら道場に行こう」 「え……道場に行く、とは、まだ私と剣の鍛錬を続けるのですか……!?」 「なんで? 日課じゃないか、あれ」 「どうしたセイバー? なんかヘンなコト言ったか、俺」 「あ、いえ……その、もう鍛錬はしないのだろう、と勝手に思いこんでいました。  バーサーカーが倒れた今、シロウがそこまで必死になる理由はなくなったのではないか、と……」 「―――そっか。言われてみれば、そうかもしれない」    俺とセイバーと遠坂、三人の共通の敵だったバーサーカーはもういない。  自分たち以上の敵に狙われていたからこそ俺たちは協力しあい、付け焼き刃の鍛錬を続けてきたんだった。 「んー、でも鍛錬は続けるぞ。俺はまだ半人前だし、セイバーは剣を持つと本音を出すからな。その方が、俺も話してて楽だ」  いやまあ、楽ってのは楽しいの楽なんだけど。 「……はあ。道場での私は本音を出している、のでしょうか」 「出してるよ。少なくとも気兼ねはしてないだろ。  俺もその方が楽だし、セイバーも肩の力が抜けていいんじゃないか。ともかく午前中はセイバーと剣を合わせるのが日課なんだ。数少ない俺の楽しみをとらないでくれ」  冷蔵庫から合い挽き肉とねぎ、しめじ玉ねぎ卵を取り出して台所に向かう。  あとはパン粉と酒とサラダ油と…… 「…………はあ。そういう事でしたら、私も反論はありませんが」 「?」  居間の方でセイバーが何か呟く。  こっちは台所に移動してしまったので、生憎と聞き取れはしなかったが。  正午になって、三人で昼飯を食べ始めた。  今日は朝からちゃんとした料理を作ったので、その余り物で弁当を作ったのだ。 「これは……なるほど、朝の料理をパンに挟んだのですね」  こくこくと感心しながらサンドイッチを食べるセイバー。  紙ナプキンを上手に使って手を汚さないあたり、こんな弁当でも気品を感じさせる。 「うんうん。朝も思ったけど、シロウはお料理上手よね。  わたしね、ごはんがおいしいのはいいコトだと思うの」  一方、イリヤは元気いっぱいにサンドイッチをほおばっていく。  ハメを外しているのか、単に俺の真似をしているのか。  セイバー以上に行儀正しそうなイリヤだが、食事のマナーに拘ってはいないようだ。 「待ちなさいイリヤスフィール。それでは髪が汚れてしまいます」  バターでも付いていたのだろう。セイバーは仕方なげにイリヤの口周りを拭いてあげている。 「……ありがと。けどどういうつもり。セイバーはわたしのコト嫌いなんでしょう」 「ええ、今でも警戒はしています。ですが私とて人の心は分かる。  貴女には敵意がなく、シロウは客人として迎えました。  ですから私も最低限の礼は尽くしますし、それに―――」 「それに?」 「その髪は美しい。目の前で汚れてしまうのは、いささか心苦しいというものでしょう」 「――――――――」 「……ふん、そんなコト言ったってシロウはわたしのものだけど。  ま、少しはセイバーのコト考えてあげてもいいわ。シロウを勝たせてあげるコトは出来るけど、わたしじゃ守ってあげられないものね」  肩をすくめながら言って、イリヤはサンドイッチをほおばる。 「言われるまでもありません。マスターの盾となるのはサーヴァントの責務ですから」  淡々とイリヤに返答するセイバー。  そのやりとりは今まで通りの物だったが、二人の声には穏やかな響きがあった。  昼食を済ませてのんびりしていると、遠坂がやってきた。 「士郎、いる? こっちの準備は出来たから、早めに顔を出してよね」  簡潔に用件だけ言って、遠坂は別棟に戻っていく。 「……そうか、忘れてた。午後は遠坂に魔術を教えてもらうんだった」  確たる師がいなかった自分にとって、遠坂の魔術講座は役に立つどころの話じゃない。  遠坂はまだ教えてくれる気があるようだし、早々に片づけて別棟に行かなければ。 「悪い、遠坂の部屋に行ってくる。  どのくらいかかるか判らないから、セイバーとイリヤは部屋で休んでいてくれ」 「いいよ。わたしもなんだか眠いし、少しお昼寝する」  眠そうに瞼をこすりながらイリヤは道場から出ていった。  ……良かった。  イリヤが大人しく眠ってくれるなら、遠坂の部屋に行っても問題はないだろう。 「シロウ。凛の部屋に行くのですか?」 「ん? ああ、そう言っただろ。遠坂には魔術の基本を教わらなくちゃいけない」 「……その必要はあるのでしょうか。バーサーカーは倒れましたし、私たちが協力して挑む敵は存在しなくなった。  ならば、シロウが凛に教わる事はなくなったのではないですか」  ……む、確かにそうかもしれない。  そもそも遠坂が俺に教えてくれるのは、バーサーカーに対抗する為だった。  それがなくなった今、遠坂に師事する必要はなくなったのだが―――― 「いや、バーサーカーとは関係なしで教わりたいんだ。  俺は未熟だから、少しでも早く一人前にならないと」 「……そうですか。シロウがそう言うのでしたら、私に止める権利はありません」 「……?」  セイバーは沈んだ顔で、そんなコトを呟いていた。  そうして一日が終わった。  夕食は慌ただしかった。  朝食よりも昼食、昼食よりも夕食、とイリヤはお喋りになっていて、遠坂とはケンカしているんだか意気投合しているんだか微妙な関係になっていた。  セイバーはイリヤを認めているものの、やはり油断ならないのか、イリヤが俺の側にくると眉間に皺を寄せたりする。 「――――――――」  ここ数日が荒々しすぎたのだ。  こんな、ちょっと前までは当たり前だった一日が、どうも落ち着かなくなっている。  物音を立てないように庭に出た。  時間は、まだギリギリ今日のままだ。  冴え凍える月の下、白い息と蒼い影を残して歩く。  ……そうして、気が付けばいつもの日課をこなしていた。  最近は遠坂に教え込まれているんだから、なにもこんな時間、こんな場所で鍛錬をする必要はない。  それでもこうして冷たい地面に座し、自身の内に巡るモノを確かめる。  別に自分の腕前が不安だから、という訳でもない。  単にジンクスだ。  もう何年もこうしてやってきたから、ここで一日を終えないと気が済まないだけだろう。 「――――〈投影〉《トレース》、〈開始〉《オン》」    それでも、今夜の鍛錬は普段より熱が籠もった。  ……遠坂はもう使うな、と言っていたが、素直には頷けない。  “投影”とやらがモノになるのなら強力な武器になるし、セイバーをもっと楽にしてやれる。    それに、あの時の熱が、まだ体に残っているのだ。  廃墟の夜。  〈朝靄〉《あさもや》の森での戦い。  成しあげた黄金の剣。  その余熱がまだ手のひらに残っていて、挑めば、もう一度それを燃やせるのではないかと、心の底で望んでいる―――― 「――――創造理念、鑑定」    再現するのは容易い。  あの時は無我夢中だったから思考が乱れていたが、今なら必要な手順だけを呪文にできる。    ―――否。  もとより、衛宮士郎への暗示など一つだけだ。  発音は同じ。  ただ、それを口にする自身の認識を変えるだけで、それは〈独自〉《オリジナル》の〈呪文〉《スペル》になるだろう。 「――――基本骨子、想定」    ……それがどれほど危険な事かは、遠坂に言われるまでもなく理解している。  魔術師として、衛宮士郎は“投影”に手を出してはならない。    度がすぎている。  分をわきまえない冒険は、いずれ死をもって報いられるだろう。 「―――仮定終了。是、即無也」    描いていた設計図をかき消す。  扉の向こう。  蒼い月を隠すように、セイバーがやってきていた。 「……良かった。ここにいたのですねシロウ。姿が見えないので何かあったのかと」 「? いや、別に何があった訳じゃない。寝付けないから頭の体操をしていただけだ。一通りこなしたら部屋に戻るから、心配はいらない」 「……そうですか。なら、いいのですが」  言って、俺の額を見る。  隠しようがないというか、例によって俺の体は汗まみれだった。 「ああ、これもいつもの事だから気にしないでくれ。  魔術の練習なんて、魔術師として当然のたしなみだろ。  ……いやまあ、半人前なんで失敗はつきものなんだけど」  ぐい、と額の汗を拭う。 「お?」  ……驚いた。  拭った汗は、それこそ氷のように冷たい。  寒い寒いとは思っていたけど、蔵の中はそんなに寒かったのか。 「―――シロウ。一日も欠かさずそれを?」 「いやまあ、出来る限りは。親父に言われた日課だし、これぐらいはやらないと」  答えて、強がっているな、と反省した。  こんなのは日課だと。  そう言い返す事で、セイバーに胸を張りたかっただけだ。  確かに一日の終わりの鍛錬は苦ではなかった。    だが、決して楽でもなかった筈だ。 「……………………」  セイバーは何も言わない。  背には月。  蒼い闇に沈んだ蔵には、銀の斜光が差し込んでいる。 「――――――――」  それは、彼女と出会った時の焼き直しのようだった。   「セイバー。遠坂が言ってたことなんだけど」    まるで夢を見ているようだ、と思った途端。   「サーヴァントは夢を見ないっていうのは本当なのか」    そんな言葉を、口にしていた。 「ええ。私たちは夢を見ない。もともと幽体であるサーヴァントは眠りません。  私は幽体化ができない為眠らざるを得ませんが、それでも夢は見れません」 「でも、朝は見たって」 「…………………………」  微かな沈黙。  彼女は一度だけ目を閉じて、何かを決意したように。 「私が見たものは貴方の夢です、シロウ。  ……マスターとサーヴァントは精神的にも繋がっている。結びつきが強くなれば、相手の過去を垣間見る事もあるでしょう」 「夢に見たって―――俺の、過去をか……?」 「……はい。貴方の心に踏み入る行為だとは分かっていたのですが、私には拒む事ができなかった。  ……それを、どうか許してください、シロウ」 「ば――――」  そんなの、俺だって一緒だ。  セイバーの過去。  彼女がまだサーヴァントになる前の光景を、何度も何度も見てきたんだから。 「ばか、そんなのセイバーのせいじゃないだろ。夢に見ちまうなら仕方がないじゃないか。  ……それに、謝るのはこっちの方だ。  俺の昔なんて、つまんない事ばかりだろ。そんなもん見せられたら、おちおち眠ってられやしない」 「いえ、夢を見たのは今朝だけです。それも最近の事ではありませんから、シロウの男性としてのプライベートを侵害するような事は決してありませんっ……!」  むっ、と真面目に注釈してくれるセイバー。  けどプライベートって……いやまあ、確かに俺も人並みにバカなコトをやってきたけど。 「……それは助かるけど。最近の事じゃないって、じゃあいつ頃の事なんだ?」 「……大きな火事でした。私が見たものは、その光景だけです」    静かな声。  その穏やかな目が、何を見てきたのかを語っていた。      なんだ。      あれを夢に見たのか。 「―――そうか。それは、なんていうか」  災難だった、と言うべきだろうか。  見慣れた映画を見に行ったら、劇場を間違えて、まったく別物を観てしまったようなものなんだから。 「……それで判りました。いえ、前から思ってはいたのです。貴方には、ひどく危ういところがあると」 「? 危ういところってなんだよ。そりゃセイバーから見ればいたるところ危なげだろうけど」 「そんな意味ではありません。  貴方は―――シロウは、私と似ています。だから貴方の間違いも判る。このまま進めばどうなってしまうかも、同じだから判ってしまう」 「……いや、間違ってなんかないけどな。  そりゃ失敗は数え切れないけど、俺は親父みたいな正義の味方になるんだ。間違った事なんて出来ないだろ」 「だから、それが間違いなのです。  ……シロウ。あの事故は貴方のせいでもないし、その責任は貴方が負うべき物でもない。  ―――貴方には、償うべき物などないのです」  そんなのは当然だ。  アレはただの事故だし、俺はただの被害者だ。  そりゃあ自分だけ生き残った幸運を、後ろめたいと思った事ぐらいはあったけど―――― 「以前、凛が言っていました。シロウの自己犠牲と献身ぶりは異常だと。それは私も同感です。  貴方は自らの命を代価として〈他人〉《ひと》を助けようとするのではない。  貴方は単に―――初めから〈自分の命が〉《・・・・・》、〈勘定に入っていないのではないですか〉《・・・・・・・・・・・・・・・・・》」 「――――――――」  瞳孔が開いたのか。  なぜか、うまくセイバーの顔を見ることが出来なかった。 「……あの事故を忘れる事は、貴方には出来ないでしょう。ですが、覚えているかぎりシロウは変わらない。それは苦しいのではないですか」 「苦しい―――? 俺が?」  いや、そりゃあ苦しいだろ。  そんなコト、セイバーに言われるまでもない。  だって、そんなのは当たり前だ。  あれだけの人が死んで、あれだけの地獄だったんだ。  それが苦しかったり辛かったりするのは当然のコトだと思う。    それに、そうでなければ。  あまりにも、意味がないのではないか。 「―――うん。たしかにこうして思い出すと辛い。  けどそれは終わった事だ。今更どうにか出来る事じゃないだろ」  セイバーは答えない。  苛だたしげに、自分の手で、自分の腕をひっかいていた。 「……私は聖杯を手に入れなければならない。  けれど、それはシロウにも当てはまる」 「え……セイバー……?」 「シロウには聖杯が必要だ。  私が貴方に呼び出されたのは必然だったのです、マスター」 「――――――――」  それに、どう返答すれば良かったのか。   「……先に眠ります。シロウもあまり無茶はしないように」    セイバーは去っていった。 「―――――――――――――む」    ふむ、と腕を組んで考え込む。  ……俺は聖杯が必要、なんだろうか。  持ち主の望みを叶える杯。  不可能はないとされる、魔力を無尽蔵に秘めた器。  たしかにそんな物があれば、俺の願いなんて簡単に叶うだろうけど―――― 「いや、違う。どう考えても聖杯なんていらないぞ、俺」    うん、間違いなく要らない。  だって叶わない願いもなければ、不可能な望みもないんだ。  自分の手で掴めない〈理想〉《ユメ》なら、そもそも夢に見る事なんてしないんだから。    ……夜が更けていく。    月明かりだけを頼りに、過ごし慣れた土蔵で、遠い風鳴りを聞いていた。  目を覚ますと、日は昇りきっていた。  部屋は薄暗い。  まだ昨夜の続きにいるような気がして、ぶん、と勢いよく首を振った。 「……外は曇りか。どうりで目が覚めない筈だ」  寝不足だった体は、部屋の暗さを幸いにと十分睡眠をとったらしい。  見れば時計は午後一時を過ぎている。  ここまで寝過ごすと、もはや寝坊ですらない。 「セイバー、起きてるか……?」 「――――――――――――」  返事はない。  セイバーは俺の傍らで、わずかに背を丸めて眠っていた。  こっちは眠気さえ取れれば目を覚ますが、セイバーには魔力の回復もある。今までの睡眠時間からいって、夕方になるまでは起きないだろう。  セイバーを起こさないよう部屋を出た。  今は無理に起こす必要はない。  勝負は夜になってからだ。  ランサーにしろギルガメッシュにしろ、日が昇っているうちに現れる事はないだろう。 「…………」  だから、対策を立てなければ。  ランサーはともかく、ギルガメッシュは必ず今夜も現れる。  去り際に見せたあの殺気と、ヤツの性格からすれば考えるまでもない。  ……だがどうする。  無限とも言える数の宝具を持ち、その中の一つはセイバーのエクスカリバーをも上回っている。  例えば、確かにバーサーカーは倒すのが困難な強敵だったが、たとえ劣勢でも戦いにはなったのだ。  徐々に圧されていく戦況で、逆転の可能性を追い求める事もできた。  だがヤツは違う。  今の俺たちでは戦いにさえならない。  あのエアという宝具を真っ向から使われたら、それだけで全滅だ。 「――――手を考えないと。日没まで時間がない」    一人で悩んでいても出口はない。  俺にもセイバーにも遠坂にも対抗策がないというのなら、後は―――― 「……教会。監督役である〈神父〉《アイツ》なら、何か」  現状を打開する策を持っているのではないか。    英雄王ギルガメッシュ。  前回の聖杯戦争の生き残りであるあのサーヴァントに関して、言峰綺礼は対策を立てると言った。  俺たちでは対抗策が見つからないが、あの神父なら、既に何らかの手段を講じているかもしれない。  ……坂道を上っていく。  空は灰色の雲に覆われていた。 「――――――――」  ……丘の上には、教会しかなかった。  人の姿はなく、鳥の〈囀〉《さえず》りも聞こえない。  仄かに暗い空のせいか。  ソレは神聖なものではなく、何か不吉なものに見えた。  喩えるのなら処刑場。  あの長い坂を上り、この広い広場を越えて、神前に罪を告発され地獄に落ちる。 「なんだ。たとえ話になってないな、それ」    もとより教会は人が死ぬところだ。  病院は人を生かす所だが、同時に人が死を迎える所でもある。  教会も同じだ。  そういった意味で言えば、ここほど死に浸された場所もあるまい。 「――――――――」    風が冷たい。  襟元を締めて、教会の階段を上っていった。 「言峰、話があって来た」    礼拝堂に足を踏み入れる。  広場と同じく、ここにも人の姿がない。 「――――言峰?」    また奥にいるのだろうか。  椅子の合間を抜けて、祭壇へと歩いていく。    かつん、かつん。かつん、かつん。    乾いた音が礼拝堂に木霊する。  音が響きやすい作りになっているのか、たった一人分の足音が、恐ろしいほど空間を占めていく。 「……言峰。いないのか」    声を潜めて神父の名を呼ぶ。  ……おかしな話だ。  人を呼ぶのなら大声でなければならない。  相手は奥にいるのだろうから、大声でなければ聞こえないのも判っている。  なのに声は出ず、足音も小さく、気配も押し殺して進んでいた。  ……この礼拝堂があまりにも厳かだからなのか。  自分の存在を明らかにした途端、何かよく判らないモノに取り囲まれ、神を汚した罪か何かで首を斬られてしまいそうな――――  礼拝堂を抜けて中庭に出た。 「……たしか、言峰の部屋は――――」  足音を殺しながら通路を行く。  教会の内部は入り組んでいて、言峰の部屋が何処にあるかなど判らない。  一度だけの記憶は曖昧で、正直、自分でも辿り着けないと分かっていた。 「――――――――」                   なにか、  呼吸を整える。  喉はカラカラに乾いて、息苦しい。                  どうして、  通路は冷えているというのに、額には汗が浮かぶ。  声を殺し、全身で周囲の気配を探る。                  こんなにも、  ……理由が分からない。  なぜ声を殺して歩いているのか、なぜこんなにも心臓が動悸するのか。なぜ――――          ここで、厭な予感などしているのか。 「――――――――」    頭の中では、さっきから同じ言葉がループしている。  戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。  言峰は留守だ。ならばここに用はない。一人なんだから家に帰れ。おまえの選択は間違いだ。おまえの行動は間違いだ。おまえの悪寒は間違いだ。戻れ。戻れ。戻れ。  戻れ。悪いことは言わない。悪いことは何もない。ここには、〈教会には何もない〉《・・・・・・・・》から家に帰れ――――! 「っ――――、は――――」    気持ちが悪い。  吐き気がする。  こういう時、自分の悪寒は正しい。 “身の危険”を察する感覚は、半人前の魔術師としては上出来だ。    だから、足が止まらない。  心拍数をあげていく心臓を押さえながら、言峰の部屋を探す。  そうして、その闇に突き当たった。   「――――地下…………?」    闇に見えたのは階段だった。  壁と壁の間、建物の影になっていて、普通なら見落としてしまうくぼみに、細い細い階段がある。 「――――――――」  下りてはならない。  賭けてもいい。  そこに言峰はいない。  そこには誰もいない。  そこに―――などない。  そこにシ――などない。  そこに――イなどない。  そこに―タ―などない。    そこに踏み入ってはいけない――――! 「――――ッ」  首筋が引きつる。  俺は――――   「は…………、あ――――!」    地下に落ちる闇から目を背ける。  荒れ狂う心音、狂いそうな動悸を抑えて走り出す。  一秒だっていられない。  一刻も早くこの建物から出たい。  ここは善くない。  昔からそうだった。  衛宮士郎にとってこの教会は鬼門だ。  俺は、決してこの建物と、あの神父に会ってはならなかったのだ。  礼拝堂に戻る。  人気のない神の家は例えようもなく不吉。   「は――――はあ、はあ、は――――」    後ろを気にしながら走る。  出口まであと少しだ。  背後には誰もいない。  背後には誰もいない。  背後には誰もいない。  教会を出る。  振り返る事なく広場を駆けていく。    何を恐れ、何から目を背けようとしたのか。    背中に張り付いた不安は、まだ剥がれない。 「シロウ! 一人で何処に行っていたのですか!」 「――――――」    帰ってきた途端、目が点になった。  セイバーが、玄関で仁王立ちしている。 「あ、ああ。ただいま、セイバー」 「ただいま、ではありませんっ! 一人で外に出るなと何度言ったらわかるのです、貴方は!」 「あ……うん。そうだった、ごめん。次は気をつける」 「次などありませんっ! 今度という今度は本気で怒りました。シロウ、外出の理由を教えてください。  昨日の傷も癒えきっていない、いつギルガメッシュが襲ってくるかも判らない状況で、どうして私を困らせるのですっ!」  キッ、とセイバーは鋭く見据えてくる。  ……が、なんていうか。 「えっと、教会に行ってきたんだ。あの神父からギルガメッシュの弱点でも聞ければいいと思って」 「え……教会、ですか……? しかし、どうして今になって?」 「前に相談したんだ。監督役のあいつなら、前回から残ってるサーヴァントをどうにかできるかもしれないって。  けど無駄だったし、失敗した。  ……確かに怒られて当然だ。俺にはセイバーがいるんだから、ちゃんと二人で教会に行けばよかったんだ」  すまない、ともう一度頭を下げる。 「え、い、いえ、わかってもらえれば、私は、別に」  途端、さっきまでの剣幕を引っ込めるセイバー。  ……そうなのだ。  セイバーは本気で俺のバカさ加減に怒っていたが、同時に許してくれる柔らかさがあった。  その、自惚れでなければ、俺が帰ってきただけで、一人で残された憤りを帳消しにしてくれたような。 「そ、そうですね。シロウが反省しているのなら、この件は不問に処します。私も少々大人げなかったようです」 「そんな事ないけど。セイバー、俺のこと待っててくれたんだろ。……正直、それで助かった。玄関で怒鳴られた時、ようやく不安が取れてくれて」 「……? 私に怒鳴られて助かったのですか?」 「ああ。セイバーのところに帰ってきて良かったって、心底ホッとした」 「な」  ……そう、帰ってきて良かった。  またこうして、セイバーの顔が見れた。  もしあのまま地下に下りていってたら、自分は決して戻ってこれなかった気がする。  それを思えば、あの時の選択は正しかったのだと信じられた。 「シロウ。ランサーと協力するのはどうでしょうか」 「え? セイバー、今なんて言った?」  午後二時過ぎ、遅くなった昼食の席で、ぱちくりとセイバーを見つめる。 「ですから、ランサーと協力するのです。ギルガメッシュは聖杯戦争のルール外の存在だ。ランサーにとっても見過ごせない相手でしょうから、条件さえそろえば問題なく共闘してくれる」 「……うーん。敵の敵は味方ってコトか?」 「はい。見返りがあるのなら、一時的に味方になってくれるでしょう」  ……ランサーと手を組む、か。  確かに、もうそれ以外に道はないのかもしれない。  俺たちだけではギルガメッシュには敵わない。  だがセイバーとランサーがうまく連携できるのなら、活路の一つや二つは見出せるだろう。 「―――そうだな。ランサーが協力してくれるかは判らないが、話を持ちかけてみる分にはタダだし。  ……となると、問題は――――」 「はい。いかにランサーと接触するか、ですね。  ランサーはあの夜以来現れませんし、彼のマスターも未だ不明です。残り二人となったこの状況で、いつまでも静観しているとは思えないのですが……」 「だよな。なのに出てこないってコトは、セイバーとの一騎打ちに怖気づいてるとか」 「まさか。ランサーは気持ちのいい英霊です。私との一騎打ちを喜びこそすれ、嫌がるとは思えない。  にも関わらず現れない、という事は何か事情があるのかもしれませんね」  うーん、と二人して腕組みして思案する。 「朝から妙に息が合ってるのね、二人とも」 「と、遠坂っ!?」 「凛、いつからそこに……!?」  で、これまた二人して同時にビクッと震えてみたり。 「さっきからずっと。  セイバーは士郎、士郎はセイバーしか見てないもんだからさ、バカらしくなって黙ってたの。  いい判断でしょ? せっかくいい雰囲気なんだから、二人の仲を邪魔しちゃ悪いし」 「なっ――――! り、凛、私とシロウはサーヴァントとマスターであって、決してそのような……!」 「はいはい、そういうコトにしといてあげる。  それよりさっきの話だけど、ランサーと協力するっていうのはわたしも賛成よ。あの金ピカが彼の英雄王なら、それぐらいしないと勝算なんてないし」  ……うわ。  一体どのあたりから話を聞いていたのか、遠坂は現状を把握していた。  アーチャーの正体がギルガメッシュである事も、セイバーの宝具を上回る宝具を持つ事も、俺たちが昼メシ食ってる間に聞いていたようだ。 「そんなワケなんで、一旦家に戻るわ。わたし用の武器とランサーをおびき出す準備、それにイリヤの薬も調合してこないといけないから」 「イリヤの薬……?  遠坂、イリヤがどうかしたのか……!?」 「別に、昨日から変わってないわ。呼吸は安定してるし、熱も下がってる。今のところはただ元気がないだけよ。  ま、お腹が減ったら起きてくるだろうから、そうしたら美味しいものでも作ってあげて」  かたん、とカラのお茶碗をテーブルに置く。  ……遠坂のヤツ、さりげに昼食まで食べてたのか……。 「じゃあね。夕食までに戻るから、それまで大人しくしてるのよ」  遠坂が家に戻った後、セイバーと何をするでもなく時計なぞを眺めてみる。 「………………」 「………………」  ……なんというか、居間は微妙に張り詰めていた。 「あの、シロウ」 「お、お茶のお代わりいるかセイバー?」  同時に顔をあげて、目が合った途端硬直する。 「な、なにかなセイバー。用があるなら言ってくれ」 「い、いえ、その―――そう、お茶のお代わりをお願いします」 「わ、わかった。すぐ淹れてくる」  こんな感じでもう一時間経ってしまった。  何もしないのなら道場で剣を教わるか、体を横にして休んでいた方がいい。  が、そのアイデアは俺もセイバーも口にしなかった。  ……自分でもどうかしていると分かっている。  分かっているが、今はこうしてセイバーと一緒にいたい。  どんなに気まずくて緊張して、もうお茶なんて十杯目だけどとにかく顔を見ていたいのだ。 「?」  ……と。  台所に立った時、玄関の呼び鈴が鳴った。 「客……? こんな時に……?」    ……〈衛宮〉《うち》邸を訪ねてくるヤツはそういない。  〈呼び鈴〉《チャイム》を鳴らすのは桜ぐらいだが、桜は遠坂との共闘が終わるまで帰ってこない筈だ。  藤ねえも自宅療養中だし、うちはそこまで近所付き合いがある訳でもない。 「シロウ」 「……ああ。一緒に来てくれセイバー。何かあったら、対処を頼む」 「はい。シロウの身は、私が必ず」 「はい、どなたですか」  玄関を閉めたまま呼びかける。 「教会の者だが。頼まれていた調査の結果を報せに来た」 「――――――――」  一瞬、呼吸が止まった。  玄関の向こうにいる男は、朝方、俺が会いに行った人物だ。 「……シロウ? どうしたのです、顔色が悪いようですが」 「―――いや、大丈夫だ。セイバー、開けていいか。セイバーがイヤなら、こいつには帰ってもらう」  初めて会った夜、セイバーは教会に入るのを嫌っていた。  それを思い返して確認をとる。 「構いません。シロウの判断に従います」  頷きだけで返し、玄関を開ける。 「随分と時間を取ったな。何か、私に会いたくない理由でもあったかね、衛宮士郎」 「……別にない。わざわざ出向いてくれるとは思ってなかったんで驚いただけだ。……話があるんだろ。とりあえず上がってくれ」  身を引いて、言峰を居間へ案内しようとする。  が。 「いや、立ち話でよかろう。判った事は僅かでな、話はすぐに済む」  神父は身を引いて玄関から出ようとする。 「ちょっ、何処行くんだ言峰」 「言っただろう、立ち話をすると。……だがそこのサーヴァントがいては出来ん。そのように殺気を放たれては、私も命が惜しくなる」 「?」  後ろのセイバーに振り返る。 「セイバー……!?」  言峰の言う通りだ。  セイバーは俺でも青褪めるほどの、峻烈な殺気を放っていた。 「……前回のマスターが何の用です。貴方は切嗣に撃ち殺された、と記憶していますが」 「確かにな。マスターを放棄し、両手を上げたところで背後から撃ち抜かれた。私に神の加護がなければあのまま死んでいただろう。  だがそれがどうしたのだ。おまえにとっては先日の話だろうが、私にとっては十年前の過去にすぎん。既に終わった戦いを、ここで蒸し返すとでも言うのか」 「――――――――」  セイバーの殺気は少しも衰えない。 「セイバー、言峰の言う通りだ。今は前回の戦いを忘れてくれ」 「―――シロウ。ですが、この男は油断なりません。切嗣は真っ先にこの神父を標的にした。それは、この男が何より優先して倒すべき敵だったからです」 「光栄だな。最後まで残ったおまえたちにそう謂わしめたのなら、私も捨てたものではない」 「―――っ。そのような減らず口を、よくも」    ギリギリと絞り込まれていく空気。  ……まずい。  このままだと、本当にセイバーを止められなくなる。 「待ってくれセイバー、言峰にはギルガメッシュについて調べてもらっていたんだ。……もうあいつの正体は判明したけど、それ以外は謎のままだろう。  今は少しでも、あいつを知る必要があるんじゃないのか」 「そ……それはそうですが、しかし――――」 「私はどちらでもいいぞ。そう役に立つ話ではないかもしれん。  ……それに、私とて思うところがない訳ではない。  かつてこの胸を撃ち抜いた男のサーヴァントに、ここまで不躾な殺気を向けられては気分が悪い。まだ未熟故、神父として振舞う事ができなくなりそうだ」 「それは私とて同じだ。かつての敵に心を許す事などない」  睨みあう二人。  ……だめだ、このままだとラチがあかない。 「セイバー、下がっていてくれ。言峰の話を聞く」 「シロウ……!? いけない、この男は危険だ、話を聞くのなら私も、」 「ああ。けど、気持ちは分かるが俺だってマスターの端くれだ。もし何かあってもすぐにはやられないし、セイバーだって何かあったらすぐ来てくれるだろう? 危ない事なんて起こらないよ」 「当然だ。人の身でサーヴァントを出し抜けるものか。  衛宮士郎。おまえのサーヴァントは、どうも過保護すぎるようだな」 「……アンタもあんまり挑発しないでくれ。  とにかく話を聞く。セイバーは奥に下がってもらうから、それでいいだろ」 「いや、ここでは気が乗らん。セイバーに襲われた時、逃げ道がないからな。  ……たしか中庭があった筈だ。あそこなら、セイバーが乱心しても数秒は逃げられる。それだけの間があれば、おまえとて令呪でセイバーを止められる」 「いいぜ。けど、そんな事は絶対に起こらない。  ……セイバー、縁側で待機していてくれ。何かあったらすぐに呼ぶ」 「…………はい。マスターが、そう言うのなら」 「ふむ、ここなら良しだ。見晴らしもいい、屋敷の造りも把握できる」 「………………」  二メートルほど距離を取る。  小声で話されては聞き取りにくいが、これだけ離れていれば何が起きても対応できるからだ。 「――――で。判った事ってなんなんだ、言峰」 「ん? ああ、その前に一つ確認したい事があるのだが」  深い、慈悲に満ちたような笑み。  神父は一歩、ゆっくりと俺に近づき、   「朝は留守にしてすまなかった。そら、〈コレはおまえの忘れ物〉《・・・・・・・・・・》だ」    どさり、と。  芝生の上に、何か、得体の知れないモノを投げた。 「っ、結界の音……!?」    警報が鳴り響く。  〈切嗣〉《オヤジ》の張った結界、害意を持つ侵入者に反応する警報が、屋敷中で鳴り響いている……!? 「騒ぎの元はランサーだ。目的があって屋敷に押し入ったのだろう」    ……神父の声は、よく聞こえない。  あいつが俺の足元に投げ捨てたもの。  その、どう見ても、幼い抜け殻にしか見えないものから、どうしても意識が離せない。 「……セイバーが迎え撃ったか。室内ではアレの本領は発揮できん。イリヤスフィールを攫うには、もう一手必要だろうに」    ……幼い抜け殻に見えたモノは、抜け殻ではなかった。  生きている。  目を背けたくなるほど無残なその子供は――――生きている。その、誰かも見分けられない顔を、どうして   「――――、なん、で」    背後から、鋭くて重いものが、心臓を貫いた。 「人の身でサーヴァントを出し抜く事はできない。  当然だな。サーヴァントを出し抜くのは、やはりサーヴァントのみだろうよ」  神父の冷笑なんてどうでもいい。  心臓を破壊され、口から溢れるように血を吐いているのも気にならない。   「――――なんで、こんな」    体を支配していたのは疑問だけだった。  どうして、俺はこんな。  もう人間とは呼べない子供の亡骸に、見覚えなんてものが、あったのだろう――――    その闇に、足を踏み入れた。  石造りの部屋だった。  明かりは消されているのに、部屋はそれ自体が生き物のように、薄青い燐光を帯びている。   「―――地下の……聖堂……?」    頻繁に使われているのか、聖堂には埃や黴といった汚れがない。  ……どのくらいの深さなのか。  下りてきた階段を見上げる。  階段は壁づたいに作られていて、ぐるりと弧を描いていた。  ちょうど半月を描いているのか、正面のシンボルの真上―――高さにして十メートルほどの位置に、降りてきた階段の入り口が見えた。 「――――――――」  明かりがないからか。  なだらかに弧を描いて地上と地下を繋ぐ階段は、この聖堂を這いずるムカデか何かを連想させる。 「…………ん?」  そうして、その扉に気が付いた。  階段の下。  正面のシンボル。その正反対の壁に、黒い闇が〈穿〉《あ》いている――――  引き寄せられるように、その闇に近づいた。  入り口らしきモノをくぐり、その室内に足を置く。  湿っているのか。  床はぬたりとした感触で、ひどく歩きづらい。  以前、学校でプール掃除をした時に似ている。  水苔が床いっぱいにこびりついていて、歩くたびに、踝まで腐っていくような感覚。 「――――――――っ」  踏み入れた足が止まる。  床の気色悪さに怖じ気付いた事もあるが、それ以上に、強い刺激臭がしたからだ。  思わず鼻を塞ぐ。  匂いは瞬間的なものでなく、永続的な物のようだ。  ……生臭い匂いではない。  かといって火薬でもない。  これは―――ホルマリン、だろうか。  ともすれば酔ってしまうほどの薬品の匂いが、この部屋には泥のように沈殿している―――― 「―――――――」  地下に足を運んだ時点で、感覚などとっくに麻痺していた。  緊張も悪寒も、とっくに感じなくなっている。  ―――だというのに。  心臓は休みなく拡縮を繰り返し、 手足の感覚は粉々に砕けていきそうなほど〈蠕動〉《ぜんどう》している。  そして、もっと最悪な事は。  この闇に、目が慣れてしまったという事だった。    ―――闇が薄れる。  ぽたり、とどこかで水滴が落ちる。  それが開幕の合図だったのか。  今まで見えなかったソレが、一瞬にして、網膜に焼き付いた。 「あ――――――――――――――――――」    それは。  どこか見覚えのある、生きて見る地獄だった。  死が、並んでいる。  前後左右、あらゆるところに残骸が並んでいる。  たちこめる死臭を、幾重もの薬香が塗り潰す。 「あ――――――――あ」    嘘だ、と思った。  こんなものは嘘なのだと思いたかった。  だが自分を騙せない。  そんなコト、一目で気づいた。  これほどの亡骸があるというのに。  ここには、死者など一人もいないというコトに。 「――――――――生き、てる」    生きていた。  死体にしか見えないソレら、かつてヒトのカタチをしていたソレらは、今も、立派に〈生きていた〉《・・・・・》。 「―――――――――――、あ」  どうして生きているのか。  横たわる身体を一つ一つ眼で追う。  そのどれもが、あまりにも、形を止めていない。  それぞれに何があったのか、想像するのもおぞましく、 冒涜じみていて―――死体というより、枯れ木のようだった。  すり潰され石畳の床の隙間に落ち込んだもの、  壁に打ち付けられ虫たちの苗床になったもの。  その経緯はどうあれ、彼らには胴と頭しか存在せず、それすらも枯れ木のようにボロボロだった。 「――――――――――――」  〈理由〉《ワケ》を〈調〉《ミ》るまでもない。  死体は、あの棺に喰われている。  どのような仕組みなのかは知らない。  死体は棺に溶接され、棺は死体から養分を吸い上げているだけだ。  ―――命の流れ。  魔力、いや魂に近いものを棺は搾取している。  少しずつ少しずつ。  寄生したモノを殺さぬよう、寄生したモノを生かさぬように。  ……すすり泣くような風の音。  それは死体の口から漏れている悲鳴らしい。  彼らの喉はとっくに退化し、声をあげるだけの機能はない。それは既に、生きながらえるだけの気管になり下がっている。  それでも、死体は泣き叫んでいた。  蚊の泣くような声で、精一杯の絶叫をあげ続ける。  ―――痛みと不安か。  生きながらにして体を咀嚼され、少しずつ自分のカタチを失っていく事に耐えられず、彼らは断末魔をあげ続ける。 「█████████」  音がした。  手前の棺が喘ぐ。  どろり、と。  首をこちらに向けた頭から、滑ったモノがこぼれ落ちる。 「――――――――――――」  ふやけきった唇が、かすかに揺れる。  ソレは、声にならない声で、      ここは どこ      と訊いてきた。 「―――――――――――――――」  叫び出す一歩手前。  いや、叫ぶ事さえ、とっくに出来ない。    此処は何処。    痛いでもなく、助けてでもなく、ソレは、なぜ自分がこんな場所にいるか判らない、と訊いてきた。  つまり、あれか。  あの子は、気が付いたらああだったのか。  普通に生きてきて、当たり前のように眠って、目が覚めたらこんな場所で喘いでいた。  あんな棺に収納され、動く事もできず末端から腐って――――こんなコトは悪い夢なのだと、信じるしかない質問。 「――――――――――――」  心が、壊れそうだ。  この光景にも、この惨状にも。  ただ、どうして。    見覚えが、あるのだろう。  見た事もないのに、死体の顔はどれも見覚えがある。  初めて見るのに。  知るはずもない相手なのに。  自分とは関わりのない人間なのに、何故。  みんな、俺を知っているかのように、 (俺が知っているかのように)  見つめてくるのか―――― 「あ――――――――あ、あ――――」    それと、疑問はもう一つある。  ただの偶然なのか、それが共通項なのか、生け贄はそうでなくてはならないのか。    どうして、ここにある死体は、みな同い年の子供なのか――――    ――――と。   「いや――――よく来てくれた、衛宮士郎」    突然。  背後から、親しい友人に挨拶をするかのように、バン、と両肩を叩かれた。 「―――――――!」  あまりのコトに体が硬直し、振り向く事さえできない。  だが、背後に立つ男が何者なのかは見るまでもなかった。    言峰綺礼。    この教会の神父、目の前の地獄を作った男、  そして――――今、最も出会ってはいけない悪魔。 「まったく間が悪い。そろそろおまえが来る頃だと思ってな、食事の準備をしに行ったのが拙かった。  そら、前回はろくなもてなしが出来なかっただろう?  私なりに気を遣ったのだが、入れ違いになってしまったか」 「――――――――」  声が出ない。  両肩にはずっしりと重く、神父の手が置かれている。 「だが不法侵入は感心しないな。そのような事をすると、見なければいいものを見てしまうハメになる。  例えば、そう。お互いの関係を白紙に戻さざるを得ない真実を知ってしまうとか」  神父の声は、聞いた事もないほど愉しげだった。  背後に立ち、俺の両肩に手を置いた言峰綺礼は、間違いなく笑っている。 「――――――――」  だから。  それが、喩えようもなく恐ろしかった。 「どうした衛宮士郎。話をしに来たのだろう、黙っていては意味がないぞ。拍子抜けだな。それほどこの光景は奇怪かね」  神父は親しげな声で、人間味のない言葉を口にした。  この男は、この光景を前にして何も感じていないというか。 「う――――――――」  これが奇怪かなんて、そんなコトは言うまでもないだろうに――――! 「なんだ、それは冷たいな。おまえにとっては不快でも、そんな事はないと言ってやるのが情けだろう。  そもそも、彼等とおまえは兄弟のような物だ。おまえがそのような態度では、彼等も救われないと思うのだが」 「――――――――え?」    今。  この男は、愉しげに何を、口にしたのか。 「――――おまえ。今、なんて」 「〈この死体たちとおまえは仲間だった〉《・・・・・・・・・・・・・・・・》、と言ったのだ。  カタチはどうあれ、おまえたちはあの地獄から生還した者達だ。血肉の繋がりはなくとも、その絆は兄弟のそれに近いと思うのだが、どうかな」 「――――――――」  そうか。見覚えがあると思ったのは、そういう事か。    これは十年前の続きで、    ここは、あの病室の続きだった。  ――――頭が回る。    家も両親も失った子供達。  引き取り手が見つかるまで孤児院に預けられるという話。  その前に俺は衛宮切嗣に引き取られ、その後、彼らがどうなったのかは知らなかった。  知ることも避けていた。  孤児院は丘の上にある教会で、その気になればいつでも様子を見に行く事はできる。  それでも足を運ぶのは躊躇われた。  引き取り手がいる自分が、引き取り手のいない子供に会うのはフェアではない気がした。  だから、出会うのなら町中でだ。  偶然町中で出会って、当たり前のように話せて、火事の事など振り切れている。  そういう再会を楽しみにして、狭い町だからいつか顔を合わす事もあるだろうと思い――――なぜ今まで、ただの一人とも出会わなかったのか。 「――――――――言、峰」   「そうだ衛宮士郎。衛宮切嗣に引き取られていなければ、おまえも彼らの一員となっていた。  解るか? おまえはまたも〈一人だけで助かった〉《・・・・・・・・・》のだ。  まわりの誰もが平等に死んでいくというのに、おまえだけが和を乱して生きのびた。どうかね。自分自身、大した不平等だとは思わないか」    ―――鼓動が戻る。  凍っていた体が、瞬時にして解凍される。 「いや、私は責めている訳ではないぞ。むしろおまえのソレは喜ばしい。衛宮士郎の生き延びる才能は大したものだ。実際、私もおまえが最後まで残るとは思ってもいなかった。  だからこそ―――最期は、こうして兄弟たちに再会させてやったのだ」 「――――――テ」 「おまえは本当に運がいい。ここは今日かぎりで閉める予定だったのだが、ギリギリで間に合ったな。  ―――今まで十年間。サーヴァントのエサにするために彼等を生かし続けたが、それも終わりだ。やり始めた時ほどの濃い〈苦痛〉《たましい》の摘出は望めぬし、もはやエサの必要もない。あとはおまえと、おまえのサーヴァントを仕留めるだけになったのだからな」 「――――テメエ…………っ!!!!!」  その言葉で、全ての戒めを吹き飛ばした。  金縛りにあっていた体を動かす。  両肩に置かれた腕を振り払い、前へ跳び退き、すぐさま神父へと振り返る――――! 「言峰、おまえが――――!」  十分な距離をとって対峙する。  瞬間。  なにか、後ろから、強い衝撃を受けた。 「あ………………ぐ?」  ……ヘンだ。  息が出来ない。  胸から鋭い角が生えている。  角は、どう見ても槍の穂先だった。  ……おかしな話だ。  一体どんなカラクリで、俺の胸から槍なんかが、生えて、く―――― 「ああ、そういえば言っていなかったな。  改めて紹介しよう。彼が、私のサーヴァントだ」   「――――、――――」    後ろに振り返る。  そこには、  俺の胸を串刺しにする、青い槍兵の姿があった。  胸に刺さった槍が引き抜かれる。  同時に。  脳髄を焼き切らんとばかりに、激しい痛みが駆けめぐった。 「あ――――が、ご…………!」    ……床が真っ赤になっていく。  水苔でぬるぬるした地面に倒れている。  立ち上がろうと腕を立てるが、自分の体が重すぎて持ち上げられなかった。  ……動けない。  金縛りではなく、もう、人間として活動するのに、必要なモノが欠けているのだ。 「ぎ―――! つ、は――――!」    出血による意識の喪失よりも、胸の痛みの方が強い。  気絶などできない。  今まで、死に至る傷は何度か負った。  それらはみな痛覚さえ麻痺させる物だったと思う。  だが、これは違う。  死に至る傷だというのに、あまりにも痛みがリアルすぎた。 「はっ――――あ、は、づ、ぅ――――!」  視界が歪む。  痛みによって意識が真っ白になった途端、次の痛みで目が覚める。  手足の感覚がない。  自分がどこにいるのかさえ掴めない。  あるのは吐き気と痛みと、いっそ、このまま消えてしまえばどれほど楽かという誘惑だけ―――― 「殺してはいないだろうなランサー。それでは今まで残していた甲斐がない」  声だけしか聞こえない。  目は、開けているのに何も見えない。 「―――命令は守るさ。たとえ、それがいけ好かねえ物でもな」  感情を殺したランサーの声。  それも、今ではよく聞こえない。 「よろしい。では支度をするぞランサー。マスターの窮地はサーヴァントに伝わる。セイバーが到着するまで、およそ半時というところか」 「言峰。このガキ、そこまでは持たねえよ。死なせたくねえんなら血止めぐらいはしとけ」 「不要だ。死ぬのならそれでかまわん」  ……意識が遠のく。  痛みはついに脳の許容量を超え、失神する事を許してくれる。 「づ、あ――――!」    それを、胸の傷をえぐる事で、止めた。  ―――痛みがぶり返す。  消えかけようとした意識が、また灼熱の世界に戻ってくる。    死にたい。  こんな痛みが続くのならすぐに死にたい。  そんな事は分かってる。  分かっているが、ここで意識を失えば、もう目覚める事はないとも判っていた。  もう、自分が何をしているかさえ思い出せない。  ただ真っ白い、黒こげになりそうな痛みの中で浮遊しているだけの気がする。   「は――――セイ、バー――――」    それでも、歯を食いしばって痛みに耐え、消えかける意識を押さえた。  ―――ここで終わる訳にはいかない。  こんな簡単に、自分からリタイアする事なんて出来ない。  まだ果たしていない約束がある。  あいつが何よりも大切だと思うのならば。  〈衛宮士郎〉《オレ》は、こんなところで、消える訳にはいかない筈だ――――      ―――それは、誰に責められる事でもない。   「――――、え?」    呆然と、彼女は足元に転がるモノを見た。  両指の感触がなく、自分が何を感じているかも定かではない。  認識できる現実は唯一つ。    彼女の主だった少年は、守ろうとした彼女自身の手で、その命を終えていた。   「――――シロウ?」    思っただけ。  ほんの一瞬、聖杯を求めただけ。  その願いはすぐに消え、彼女は何より少年の命を優先させた。    それでも、魔が入り込む隙があった。    一度思うだけで十分だった。  長く、長く疲労し磨り減っていた彼女の心は、爪の先ほどの弱さに負けてしまった。   「違う―――うそだ、シロウ」    息絶えた主に手を伸ばす。  その亡骸を抱き上げる少女に、かつての気高さは何処にもない。   「―――よくやったセイバー。その慟哭、聖杯を受け取るに相応しい」    暗闇に声が響く。  彼岸からの招きに応じるように、自失したまま、彼女は聖杯を受け入れた。    ……それは、有名と言えばあまりにも有名な短剣だ。  戦闘用ではなく儀式用の短剣で、魔法陣の形成や固体化した神秘への介入などに使われるという、剣の形をした魔杖。    柄にはめ込まれた宝玉には、ただAZOTHと彫られている。  刃渡りは遠坂の趣味らしく、通常の物よりやや短い。  ちょっとした昔、わりと一世を風靡した神秘学者が愛用していたというそれは、アゾット剣と呼ばれている。  魔術師にとっては一人前の証というか、入学祝いに買って貰えるご褒美的な物だというが―――― 「遠坂、これは……?」 「見れば判るでしょ、わたしの短剣よ。……宝石に比べれば微々たる物だけど、それでも気が向いた時には魔力を込めてた。“läßt”って叫んで、ありったけの魔力を流し込めば発動するから」  ……渡された短剣は、ずしりと重い。  それは物質的な重さじゃなく、この剣に込められた遠坂の思い出の深さだった。 「―――遠坂。いいのか、これを預かって」 「……いいのよ。綺礼に勝てないって判って、最後まで隠し通したんだから。このまま使わないのも癪だし、アンタが使って」 「……わかった。遠慮なく貰っとく。正直、武器は多いに越した事はない」 「なんだ、判ってるじゃない。なら……もう、いいかな。  いいかげん、もう眠くて眠くて」  はは、と照れくさそうに笑う。  ……気が付けば。  背後にはセイバーがいて、遠坂の手当をしようと待っていた。 「ああ、寝ろ寝ろ。朝になったら起こしてやるから。そしたら腹一杯メシ食わせてやる」 「――――そうする。  ……と、最後に、これは忠告じゃなくて命令。  士郎。やるからには死んでも勝ちなさい。わたしが起きた時、アンタがくたばってたら許さないから」  そう、言うだけ言って満足したのか。  遠坂はもうごうごうと、遠慮も容赦もなく寝入ってしまった。  その様は健康そのもので、心配したこっちが馬鹿みたいに思えるほどだ。  ……だが、まあ。  それが遠坂流の応援で、勇気を分けて貰ったのは確かなこと。   「――――ああ。まかせとけ、遠坂」    眠りに入った遠坂に声をかける。  ……お膳立ては全て整った。  あとはこの傷が癒えるまでの数時間を、悔いなく過ごす事だけだ――――    ―――日付が変わった。    遠坂の手当をして、部屋に休ませて、夕食を作って、セイバーと会話のないままそれを済ませた。 「……あと、少し」  傷は八割方癒えている。  残された時間は、あと一時間か二時間といったところだろう。  その時間を、俺は―――      残り少ない時間をどう過ごすか。  色々考えてみたものの、結局、最後はここに行き着いてしまった。 「ここは変わりませんね。居間の穏やかさもいいのですが、やはり私にはこちらの方が合っている」 「そうだな。セイバーは騎士のクセに正座好きだし、竹刀を持つ姿も様になってたし。一度ぐらい、防具をつけて試合をしても良かったかも」 「防具をつけて、ですか? それなら言ってくれればよかったのに。私は甲冑を着込みますから、シロウが鎧を着るだけで模擬戦は出来ました。  ……そうですね。本当にそうすればよかった。  もっと早く言ってくれたら、シロウと本気で打ち合えたのに」 「げ…………」  不満そうに口をとがらせるセイバーは、とんでもなく可愛い。  可愛いんだけど、発言は限りなく物騒だ。 「本気でって、それこそ本気かセイバー。まともに打ち合ったら一週間は寝たきりになるぞ、俺」 「いいえ、そのような事は決して。  シロウは自分を過小評価しています。この数日で貴方は本当に成長した。今のシロウなら、私から一本とる事もユメではありません」 「え――――ほんと?」  うわ、お世辞だとしても、それは本気で嬉しい。  こと剣に関して、俺は真剣にセイバーを尊敬している。  そのお師匠様から一本とれるなんて、皆伝を与えられたようなもんなんだから。 「ほんとにほんとか……? その、うまく虚をつけば、セイバーから一本とれる……?」 「はい。シロウは強くなりました。それは誇っていい事ですし、私もたまらなく嬉しいです」 「――――――――」    偽りのない笑顔で、セイバーは応えてくれた。  ……その顔を見ると、決心が鈍る。  この後。  もう戻れない、勝算のない戦いに挑むより、このまま二人で逃げ出してしまえば、それはどんなに―――― 「シロウ? どうしたのです、急に黙り込んで。  ……やはり傷が痛むのですか? それでしたら部屋で休んで―――」 「―――いや、もう大丈夫だ。痛むところなんてない」  ―――迷いを断ち切る。  逃げる事など出来ないし、なにより、セイバーとの最後の時間をこんな気持ちで終わらせたくない。 「なあセイバー。せっかく道場に来たんだから、軽く手合わせしないか。真剣じゃなくて、遊ぶぐらいの気持ちで軽く」  自分の気持ちを隠して、精一杯の強がりをする。 「いいでしょう。  なら、私は剣道ではなく自己流で交えさせていただきます。シロウも自由に、思うままに剣を振るってください」  こっちの気持ちを汲んでくれたのか、セイバーは快く提案を呑んでくれた。  ……そう、話をするより竹刀を合わせた方が俺たちらしい。    ほんのひと時、俺たちは全てを忘れて、互いの竹刀だけを感じていた。    ……これが最後になるかもしれない。  十年前の火災。  その生き残りであり、聖杯を破壊した衛宮切嗣の後を継ぐというのなら、ちゃんと、一言告げておくべきだ。                “じいさんのユメは、俺が”    ……昔、そう口にした子供がいた。  あの時は男が残した想いも知らず、自分が目指したがっているモノの正体さえ知らなかった。    十年間。  自分が目指し続けたモノの正体、  あの光景から一人生き延びた意味が、もうじきカタチになろうとしている。   「……今までありがとう。行ってくるよ、〈切嗣〉《オヤジ》」    恐れと迷いは、それで断ち切れた。  ―――勝算はない。  それでも、俺が衛宮士郎を名乗るのなら、胸を張って決着をつけなくてはいけなかった。    ――――ああ、そうだ。  やるべき事なんて一つだけ。  俺たちはいつだってそうしてきたんだ。  なら、最後までそれを守ろう。  色気もなく風情もなく、顔をつき合わせてああだこうだと作戦会議をした方が、よっぽど俺とセイバーらしいじゃないか―――― 「シロウ、対策を練るのはいいのですが……何もここでなくともよいのではないですか?」 「いや、ここじゃないと調子が出ない。いいから中に入ろう。考え無しってワケじゃないんだ」 「……はあ。シロウがそう言うのでしたら、従いますが」  セイバーは渋々と土蔵へ入っていく。    ――――さて。  セイバーを蔵に案内したのは、それなりに理由がある。  今の俺たちにギルガメッシュを打倒する手段はない。  プラスアルファが必要なのは、もう言うまでもないだろう。  だから――――      今までなかったモノ、新しい武器を用意しよう。  セイバーだってエクスカリバー以外の武器があれば助かるだろうし、俺だって武器が多い事に越した事はない。 「シロウ? 考えとはなんですか?」 「ああ、なんとか手持ちの武器を増やそうと思って。ここ、もともとは〈切嗣〉《オヤジ》の倉庫なんだ。もしかしたら、探せば役立つものが見つかるかもしれない」 「役に立つもの、ですか……?  ……そうですね、切嗣が使っていた魔術品が残っていれば、確かにシロウの力になります。彼の礼装は銃でした。あれなら、シロウでもすぐに扱える筈です」    礼装というのは一人前の魔術師なら必ず身につける、魔術行使をサポートする武装の事である。  セイバー曰く、〈切嗣〉《オヤジ》の礼装は拳銃だったらしい。 「……む。物騒な〈武器〉《もの》だけど、それぐらいの方が頼もしいか」 「はい。私は下を探しますから、シロウは天井裏を。  有るとすれば、魔力を抑える封印がなされている筈です。魔力を感知するのではなく、虱潰しに荷物を調べてください」 「――――ないな、セイバー」 「ありませんね。銃はおろか、覚書の一枚すらありません」 「…………まあ、そうだよな。〈切嗣〉《オヤジ》がそんなの残してたら、とっくに見つけ出してる」  はあ、と力なく肩を落とす。  ……ま、ダメで元々だったんだし、当初の予定通り自分たちのベストを尽くすとしよう――――  ……セイバーを呼び出したこの場所で、セイバーを強化する。  出来るかどうかは判らないが、今は〈一縷〉《いちる》の望みに賭けるべきだ。 「私に強化をかける、ですか……?」 「ああ。人間、しかも自分以外の人体に魔力を通すのがどれほど難しいかは知っている。けど、今はこれしか思いつかない。俺に出来る事は、セイバーを強くする事だけだから」  ……そうだ。 “投影”で新しい武器を作ったところで、エクスカリバー以上の武器を作る事はできない。  ギルガメッシュの宝具が聖剣を上回る以上、セイバーに武器を与えたところで意味はない。  となると、後はセイバー自身を強くする以外に活路はないのだ。 「成功率は低いし、セイバーには不快な思いをさせると思う。それでもこの方法に賭けてみたいんだ。  ……頼む。強化なんて、セイバーを物みたいに扱う事を、今だけは許してくれ」 「何を言うのです。私は不快な思いなどしません。  シロウがそう言ってくれるのなら、喜んでこの身を差し出しましょう」  ……セイバーは自分から俺の手を握って、俺の思いつきに賛同してくれた。 「マスターを信頼しています。私の対魔力を一時的に弱めますから、その間にシロウの魔術を流してください」  手を握ったまま、セイバーは体を預けてくる。 「―――ああ。少しだけ我慢してくれセイバー」    意識を集中して、セイバーの体、設計図を読み取る。  ……成功率は一割以下。  迷いを振り切って、かつてない鮮やかさで強化の魔術を起動させた。    ―――魔術が終わる。  俺に残された魔力、その大半をつぎ込んでセイバーという存在を“強化”した、のだが―――― 「……どうかなセイバー。何か、手ごたえとかあるか?  ちゃんと魔力は通ったから、強くなってるとは思うん、だが」 「え……? シロウにも成否は判らないのですか? その、外見的に鋭さが増したとか、破壊力が向上したとか伝わっていませんか……?」 「あ……いや、よく判らない。  強化って言っても、結局試してみるまでは判らないから。魔力が通ったところで、あとは強化したモノで結果を出すしかないっていうか」 「ああ、なるほど。強化された木刀が“強くなったぞ”と宣言する事はありませんし、外見も変わらないのですよね。  ……ええっと。恥ずかしながら、私も実感が持てないというか。正直、以前とあまり変化はありません」 「――――そうか。無駄な時間をとらせたのかな、俺」 「いいえ、決して無駄ではありません。  シロウの魔術は正しく作用しました。体は強くならずとも、今は心が温かい。  ……この熱がある限り、私は決して倒れません。シロウは私を強くしてくれました」  祈るように、セイバーは俺の魔術を受け入れてくれた。  ……強くしてもらったのは俺の方だ。  今の言葉だけで、心にあった恐れと迷いが消えてくれた。  心が温かいのはセイバーだけじゃない。  この気持ちがある限り、この後の戦いに臆する事はないだろう――――    ―――相応しい持ち主に、この鞘を返そう。    出来るかどうかはやってみないと判らない。  ただ、セイバーは俺の体に手を入れて“鞘”の存在を確かめていた。  なら、それを取り出すという事もあながち不可能ではない筈だ。 「な――――それは本気ですか、シロウ」 「本気だよ。もともとアレはセイバーの物だろ。ならセイバーに返すのは当然だし、この鞘があれば、あいつにだって勝てるかもしれない」 「……たしかに、鞘が戻れば私の魔力もあがります。  ですが、それでもギルガメッシュに勝てる保証はありません。それに―――鞘を摘出してしまったら、シロウはどうするのです。  鞘を取ってしまえば、もう――――」    傷を負っても、回復する事はないだろう。  けどそれが普通なんだ。  今まで自分でも気づかないうちに、この体に頼りすぎてた。  人は殺されれば死ぬんだ。  そんな当たり前の事から、ここにきて守られる訳にはいかない。 「鞘を取ってくれ、セイバー。これは、俺たちが勝つ為の、絶対の条件だ」 「――――――――」  苦しげに唇を噛んだまま、セイバーは答えない。  ……それがどれほど続いただろう。  空を覆っていた雲が流れ、窓から月光が差し込みだした頃。 「……分かりましたマスター。貴方の心を、お借りします」  迷いを断って、セイバーは頷いてくれた。 「……それでは始めます。準備はいいですか、シロウ」 「―――いいぞ。遠慮なく始めてくれ」  では、という声。  そのままセイバーの手が俺の胸に触れ――――   「っ――――」    ずぶり、と俺の体に沈み込んだ。    ……俺がする事は簡単な事だ。  鞘の摘出は、“投影”の工程に似ている。  聖剣の鞘は、いまや俺の体に溶け込んでいる。  それを一つの場所に集め、以前と変わらぬ姿に戻すだけ。    もちろん、それはイメージだけの話だ。  かつての姿になるといっても、それは魔力という波がそういった輪郭を作るだけ。    それに形を与えるのはセイバー自身だ。  形のない、しかし原型に戻った魔力の束は、持ち主であるセイバーが手に取る事で具現化する。  俺がするべき事は、その手伝いに他ならない。  無から有を作るように。  バラバラに散らばった聖剣の鞘を、精密に丹念に、一片の間違いなく再現する―――― 「――――――――っ」    ……体が熱い。  投影は、それだけで俺の手に余る。  使えば確実に身体を侵していく魔術。  神経を破壊し、肌を焼き、その都度、脳を圧迫して廃人に追い込む力。    だが、今はそれが衛宮士郎にとって唯一の武器であり、セイバーに報いる方法でもある。    ……イメージする。  夢で見た彼女の姿を。          戦場を行く騎士王に相応しい黄金の鞘。  主を守り、幾たびもの勝利をもたらした証を、鮮明に、狂いもなく、あの時の美しさのままで。          ―――たとえ、この先。  どんな終わりが待っていようと忘れぬように、永遠に、この心に焼き付ける―――― 「っ――――!」  セイバーの声が聞こえた。  ……体からは、何か、長く自分を縛っていた物が抜けていく。 「凄い……見事ですシロウ! ここまで完璧に戻せるなんて、他の誰にも出来ません……!」  会心の手応えだったのか、セイバーはこっちがびっくりするぐらい喜んでいる。 「――――――――」  体の余熱にのぼせて、ぺたん、と地面に座り込む。 「うわ、シロウ……! すごい汗です、いま拭く物を持ってきます……!」    ……セイバーが屋敷へと駆けていく。  その足音を聞きながら、ほう、と大きく息を吐いた。  会心の手応えはこっちも同じだ。  今のは、完璧だった。  この先どんなに投影を行おうと、これを越える複製はできないだろう。 「……じゃあな。いままで、ありがとう」  自分の半身だった物に別れを告げる。    ――――彼女を守り続けた黄金の鞘。    忘れる事など永劫にない。  この体から失われても、その姿は、この胸に刻み込まれたのだから。    ―――月が遠い。    雲は晴れ、夜の闇は青みを帯びる。  じき黎明。  長かった夜は、これで終わろうとしていた。    ―――それが最後。  闇夜を越えて、セイバーと共に、この場所に辿り着いた。 「――――シロウ、これは」  セイバーの声に緊張が混じる。  ……それは俺も同じだ。  無言で頷いた首筋に、冷たい汗が流れている。  ……山は、それ自体が生き物のようだった。  一歩踏み出す度に走る悪寒と、息苦しいまでの圧迫感。  いや―――実際、大気は濃く湿っている。 「……〈魔力〉《マナ》の密度が高い。十年前と同じです。おそらく、上ではもう」  ……聖杯の召喚が始まっているか、終わったか。  どちらにせよ、ランサーはギルガメッシュに敗れたという事か。 「―――確認するぞ、セイバー。  上に着いたら、あとは戦うだけだ。セイバーはギルガメッシュの相手を頼む。俺はマスター―――言峰を討つ。  お互いの戦いには手を出さない。……どちらかが相手を倒せば、それで終わりだ」 「ええ。今回だけは、私は自分の戦いに専念します。それに、コトミネは貴方が倒すべき敵だ」 「……そうだな。よし、任せとけ。セイバーの方こそ、あんなヤツにやられるんじゃないぞ」 「……はい。誇りにかけて、彼には負ける訳にはいかない。サーヴァントとしてではなく、英霊として〈彼〉《か》の王に膝を屈する事はできません」  強く断言するセイバーに、迷いや憂いはなかった。  なら、もう言うべき事は何もない。  俺たちは戦いに赴き、最後のマスターとして雌雄を決する。    ―――その過程。  どちらかが命を落としても、残った一方が敵を討つだけ。  俺が倒れてもセイバーがギルガメッシュさえ倒せば、言峰は聖杯を手に入れられない。  同時に、もしセイバーが倒れたとしても―――俺が言峰を倒せば、ギルガメッシュも現界していられない。    ……だから、お互いを庇う必要はない。  この戦いはもう、それぞれの物に別れているのだから。    ……そうして、石段を登っていく。  山門に近づけば近づくほど、空気の密度はあがっていった。  背筋に伝わる汗。  肌を刺す不吉な予感。  この石段の終わりには、お互いにとって最強の敵が待ち受けている。    ―――だが。  そんなもの、本当はどうでも良かった。  階段を上っていく。  山門が近づいてくる。  ……そうすれば、それで終わりだ。  この戦いがどちらの勝利に終わろうと、セイバーは消える。    長く、一瞬だった戦いの日々は終わって、セイバーはこの世界から消滅する。  彼女は本来あるべき、正しい時間に帰るのだ。    ――――それに。  悔いがないなんて、言えるはずがない。  セイバーを失う。  守ると。幸せになってほしいと思った相手を失う。  それがどれほど辛い事か、俺はまだ知らない。  こうして共に歩いて、まだ傍らに彼女を感じられる。  失う覚悟なんて、出来ている筈がなかった。    何日も前に。  彼女と出会ったその日から、最後には別れがあるのだと知らされていたとしても。 「――――――――」    思い返せば、数え切れない思い出があった。  共に歩いた夜もあったし、共に戦った時もあった。  初めは女の子であるセイバーに戦わせられるかと勝手に奮戦したし、道場でさんざんしごかれた。  隣りの部屋で眠るのが苦手で土蔵で眠った事もあったし、一緒に昼飯だって食べた。    セイバーは風呂が好きだったり、メシが旨いと満足そうだったり、遠坂が用意した服を気に入ったり、藤ねえとテンポの合わない会話をしてた。    無理をして、自分だけで苦労を背負いこんで、あげくに倒れて―――くすんだ廃墟で、心を重ねた。    ……もう、その段階でどうかしてた。  セイバーの事しか考えられなくなって、戦う目的が変わって、どうしようもなく好きなんだと気が付いた。    そんな相手を――――どうやって、失えるというのだろう。 「――――――――」    セイバーは何も語らない。  俺も、声をかける事ができない。  この階段が終わって、  このまま登り切ってしまえば、お互い言葉を交わす事はない。    セイバーを失い、別れるのはまだ先だ。  けれど。  俺たちに許された別れの時間は、この瞬間しか与えられていなかった。 「――――――――」    ……階段を登っていく。  別れを告げるのが嫌なら、なんでもないコトを、今まで通りに話せばいい。  たとえば、そう。  帰ったらもう一度町に行こう、とか。  明日の朝食は何がいい、とか。  そんな、なんでもない、コトを。 「――――――――」    ……そんなコトさえ、口に出来ない。  何か言葉にすれば、それが別れの言葉になる。  明確な終わり。  明確なさよならを、俺もセイバーも、口にする事が出来なかった。    ―――そうして、山門に辿り着いた。    これが最後の選択。  進めば終わる。  だが戻れば―――まだ、彼女を失わないで済む方法が見つかるかもしれない。 「――――セイバー」    立ち止まって、セイバーへ振り向いた。  セイバーはいつも通りだ。  平気そうな顔で、何かを堪えているような、張りつめた瞳。  それを見た瞬間、ありとあらゆる誘惑が駆けめぐった。  逃げてしまえ、と。  失いたくないのなら引き返していいと。  彼女なら、おまえがそうしたいと言えば受け入れてくれると。 「――――――――」  意思が揺らぐ。  のど元まで、その誘惑がせり上がる。  それをかみ殺して、   「―――――行こう。これが最後の戦いだ」    今まで通りに、マスターとして告げていた。    セイバーは無言で頷く。  それは今まで通りの、強い意志を持ったセイバーの瞳だった。 「――――――――」  なら、後悔などしない。  彼女が俺を信じたように。  俺も、自らの選択が正しいと信じよう。    山門へと足を進める。  もう戻れない戦いに向かっていく。    何も言えず、本当に言いたい事も言えなかった。  それでも、このもどかしかった沈黙は、深く気持ちを伝えられたと信じたい。      ―――二人で登り詰めた、長い長い石の階段。    それが彼女と共に過ごした、〈地上〉《ここ》で最後の思い出だった。  赤い光が、山頂を包み込んでいる。  吹き荒ぶ風は勢いを増し、その源はあの光―――境内の奥のようだ。  淀んだ空気と充満した死の気配。    ―――それは。  まるで、遠い日の火事のように。 「――――――――」  だが、これはそんなモノではない。  赤い光に混じって、今にもあふれ出そうとしているモノがある。  ……建物の向こう。  鮮やかな赤色に滲む、粘液のような黒い闇。  この境内が清らかな湖だとすると、あの泥はばらまかれた重油のようだ。  広がり、地面を汚染し、呑み込まれたモノを殺さずにはおかない泥。  それは視覚できる程の呪いに他ならない。  俺とて魔術師のはしくれだ。  アレが、人の精神にのみ作用し、人間の体だけを飲み込むモノだと直感できる。 「―――来たか。待ちわびたぞ、セイバー」    その極彩色の中に、ヤツがいた。  血のような赤色も、死を帯びた黒色も知らぬと。  〈金色〉《こんじき》に武装したサーヴァントは、境内のただ中で俺たち―――いや、セイバーを待ち受けていた。 「頃合いも良い。聖杯もようやく重い腰をあげ、孔が開いたところだ。  この呪いこそが聖杯の中身。我らサーヴァントをこの世に留める第三要素。  ―――十年前、おまえが〈我〉《オレ》に浴びせたモノだ」  ギルガメッシュはセイバーしか見ていない。  セイバーもそれは同じ。  彼女は一歩踏み込み、その剣を、目前の騎士へと向ける。 「ギルガメッシュ。貴方の目的はなんだ。  あの呪い―――聖杯と偽っていたモノを使って、何を望む」 「望みなどないと言っただろう。言峰が聖杯をどう扱おうと〈我〉《オレ》は知らん。  今のところ、〈我〉《オレ》の関心はおまえだけだ」  セイバーに応えるように、黄金の騎士が片腕をあげる。    ―――同時に、ヤツの背後が陽炎と揺らぐ。  王の財宝、百を超える“宝具”が、弾丸として装填される。 「……ああ、ようやくこの時が来たか。今までずっと考えていたぞセイバー。  嫌がるおまえをどう組み伏せアレを飲ませるか。  泣き噎ぶ顔を踏み付けその体を染め抜くほどの泥を飲ませ、悶え死ぬに耐えきれず〈我〉《オレ》の足下にすがりつく、その〈穢〉《けが》れきった姿をな―――!」 「―――よく言った。ならば、その身が同じ末路を辿ろうと異論はないな、英雄王」    さらに一歩。  無数の宝具の射程距離へと踏み込んでいくセイバー。  ……それはもう、俺がどうこう出来る戦いじゃない。  セイバーとギルガメッシュの戦いは、人の身で立ち入れる物ではないのだから。 「―――ふん、それでこそセイバーよ。  〈我〉《オレ》には勝てないと知った上でなおその気概。宴の終わりを飾るに相応しいが――――」 「邪魔は要らぬ。そこの雑種、言峰に用があるのなら早々に消えろ。ヤツは祭壇で貴様を待っている」 「――――!」  言峰が、待っている。  ……セイバーに視線を投げる。  彼女はギルガメッシュを見据えながら、わずかに頷いた。    無事を祈る、と。  その後ろ姿が告げていた。    ―――背を向ける。  俺が向かう相手は他にいる。    その背後。  駆けていく背中に、死闘の開始を聞いていた。    境内の奥。  柳洞寺の本堂の裏には、大きな池があった。  人の手は入れられず、神聖な趣きをした、龍神でも棲んでいそうな池だ。  澄んだ青色の水質は清らかで、濁りのない綺麗な池だった。    だが、それは昨日までの話。  池は、もはや見る影もない。    目前に広がるのは赤い燐光。  黒く濁ったタールの海。    ――――そして――――             中空に穿たれた『孔』と、捧げられた少女の姿。 「――――言、峰…………!」  冷静を演じてきた思考が、一瞬にして〈通常値〉《レート》を振り切る。  駆けてきた足を止め敵を凝視する。   「よく来たな衛宮士郎。最後まで残った、ただ一人のマスターよ」    皮肉げに口元を歪め、ヤツは両手を広げて出迎える。  ……ここが、決着の場所。  今回の聖杯戦争における、召喚の祭壇だった。 「―――イリヤを降ろせ。おまえをぶちのめすのはその後だ」    ……ヤツまでの距離は十メートルほど。  これ以上先に踏み込めば戦いが始まる。  言峰がどんな魔術師かは知らないが、おそらくは遠坂と同じ飛び道具を扱うに違いない。  対して、こっちはぶん殴るだけだ。  背中には遠坂から預かった短剣を隠しているといっても、やはり近寄らなければ話にならない。  ……戦いになれば、最短距離でヤツへと走り、その胸を断つしかない。  その前に、イリヤをなんとかしてやらないと―――― 「おい。聞こえなかったのか。イリヤを降ろせって言ったんだ。いい歳して、子供をいじめて何が楽しい」 「気持ちは分かるが、それは出来ない相談だな。聖杯は現れたが、その『孔』は未だ不安定だ。  接点である彼女には命の続く限り耐えてもらわねば、私の願いは叶わない」    命の続く限り――――じゃあ、イリヤはまだ生きている……! 「……そうか。おまえに降ろす気がないってんなら、力ずくで降ろすだけだ。  おまえの願い―――その黒い泥を、今すぐに止めてやる」 「……ほう。なるほど、おまえにはコレが私の望みに見える訳か。―――流石は切嗣の息子だな。  よもや、二代に渡って思い違いを続けるとは」 「な―――んだと?」 「この泥は私の手による物ではない。  これは聖杯より溢れる力、本来は万能である筈の“無色の力”だ。  それを黒く染めるなど人の力では出来ん。  この聖杯はな、初めからこうなのだ。開けてしまえば最後、際限なく溢れ出し災厄を巻き起こす」 「それがこの聖杯の正体だ。  この中にはあらゆる悪性、人の世を分け隔てなく呪うモノが詰まっている。  それを操る事など、誰にも出来ん」 「――――――――」  ……何を、言っているのかあの男は。  もしそれが本当だとしたら、あいつは自分の望みの為じゃなくて―――コレを開ける為だけにマスターになったっていうのか……!? 「…………言峰。おまえの望みはなんだ」  奥歯を噛んで、黒い神父を睨む。  ヤツはさて、と口元を吊り上げたあと。     「そうだな。しいていうならば娯楽だよ」      あまりにも単純な答えを、当然のように返してきた。 「な……んだって……?」 「―――解らないのか。例えば音楽だ。歌を楽しいと思うのは何故だと思う、衛宮士郎」 「え――――な、なんだって、そんな」 「では本はどうだ。物語が人を惹きつけるのは何故だと思う」  何故かって、そんな事―――考えた事も、ないけど。 「そう、考えるまでもない。あらゆる娯楽。人間を悦ばせるモノ。それらが愉しいのは、単に人間が作った物だからだ」 「よいか。あらゆる創造物は人間の内より生じる物。つまるところ、この世でもっとも愉快なモノとは人間に他ならない。〈剥き出しの人間こそが最高の娯楽となる〉《・・・・・・・・・・・・・・・・・・》」 「それに比べれば、〈人間〉《かれら》が生み出す娯楽など二次的なものだ。  ……そう、音楽も物語も、愛憎も憐憫も信頼も裏切りも道徳も背徳も幻想も真実も……! 全て、全て唾棄すべき不純物にすぎん。  そのようなもの、所詮は残り〈殻〉《カス》にすぎぬ二流の娯楽。  私が楽しみたいのは人間そのものでな。そのような余分なモノなど、もはや口にあわん」 「その為には、営みなどという贅肉は削ぎ落とさなければならない。  走馬燈というものがあるだろう? それと同じだ。人間は死の瞬間にのみ価値がある。生存という助走距離を以って高く跳び、〈宙〉《ソラ》に届き〈尊〉《とうと》く輝くもの。その瞬きこそが私の望みだ」 「それがおまえの求めた質問の答えだ。  おまえたちが平穏を糧にするように。  ―――この身は、星の光を食べて生きている」 「――――――――」    両手を広げて演説する神父の姿は、異常だった。  寒気がするのは、ヤツの発言にではない。  人間を愉しみたいと語るヤツそのものが、神聖な存在に見えて寒気がしたのだ。 「つまり、おまえは――――」 「ああ、十年前の火災は悪くなかった。小規模ではあったが、通常ではありえない刺激に満ちていたからな。  ……そう、私が望むものなどその程度だ。  あのような地獄にこそ魂の炸裂、ヒトにおける最高の煌めきがある。それはおまえ自身も体験した事ではないかな衛宮士郎。  どうだ。〈無念のまま朽ちる人間の叫びは〉《・・・・・・・・・・・・・・》、〈胸に迫るものがあっただろう〉《・・・・・・・・・・・・・》?」 「て――――」    ふざ、けるな。  あの時間が。  あの地獄が、そんな一言で。 「理解してくれたか。歪なカタチではあるが、私ほど人間を愛しているモノはいない。故に、私ほど聖杯に相応しい人間もいまい」    そうして、神父は満足そうに笑った。  あの出来事を。  為す術もなく死んでいった人たちの姿を、心の底から素晴らしいと言うかのように――――! 「――――ああ、そういうコトか」    つま先に意識を集中する。  地を蹴ろうとする足に力を込める。   「――――つまり、殺していいんだな、テメェ……!」  全力で地面を蹴った。  ヤツまでは十メートル弱、このまま一直線に間合いをつめて、そのまま―――― 「――――――――」  真横に跳んだ。  それはアイツを殺してやる、という理性より、  死にたくないという本能が勝った結果だった。 「っ――――!」  横っ滑りで地面に転がり、すぐさま顔を上げる。 「っ、今、の――――!」    さっきまで自分が走っていたルートを見据える。  地面を焼く音。  じゅうじゅうと湯気を立てているのは、池から伸びてきた黒い泥だった。  ……まるで黒い絨毯だ。  泥は鞭のようにしなり、言峰に迫った俺を迎撃し、そのままだらしなく大地に跡を残している。 「言い忘れていたが、既におまえは私の射程に入っている。加えてコレは生き物に敏感でな。  ―――動き回るのは勝手だが、不用意に動くと死ぬぞ」 「――――っ!」  容赦なく伸びてくる黒い泥を跳んで躱す。  不用意に動くもクソもない、あの野郎、殺る気満々なんじゃないか……! 「く―――このエセ神父……!」    池に気を配りつつ態勢を立て直す。  ……言峰までの距離は依然変わらない。  この十メートルが、あいつにとって近寄らせたくないラインって事だ。  ……だが、あの泥の触手は際限なく伸びる。  その気になれば何処まで退いても追ってくるだろうし、その数だって、一本だけという事もあるまい―――― 「ほう、やる気か。それは喜ばしい。  このまま立ち去るのなら殺しようがなかったが、おまえ本人が争うのであれば問題はない。  なにしろこれでも神に仕える身だ。助けを求める者を殺める訳にもいかなくてな」 「―――よく言う。人を背中から襲ったヤツがな、そんな言葉を吐くんじゃない」    言われて、ランサーの一件を思い出したのか。  言峰は感心したように笑いやがった。 「そうだったな。おまえには、アレで愛想がつきていた。  これ以上先延ばしにする必要はない」 「……正直に言うとな、衛宮士郎。私はおまえに期待していたのだ。凛がおまえを教会に導いた夜、運命すら感じた。おまえがあの〈切嗣〉《おとこ》の息子と判り、内面まで似通っていると知った時の喜びなど判るまい。  十年前に叶わなかった望み。衛宮切嗣という男に、こうしてもう一度引導を渡せるとは思わなかった」    ……触手がうねる。  池から鎌首をあげて揺らめくそれは、黒い蛇そのものだ。 「――――――――」  ……唇を噛む。  思った通り、最悪の状態になった。  蛇の数は際限なく増えていく。  これでは言峰に近づくどころか、どのくらい生き延びられるかさえ定かじゃない―――― 「勝機がないのは当然だ。  おまえの生きた年数と、私の生きた年数では大きく開きがある。何かで掛け算でもしないかぎり、埋められる〈数値〉《さ》ではあるまい」  神父の両手が上がる。  ヤツは、それこそ楽団を率いる指揮者のように天を睨み。           「―――命をかけろ。     或いは、この身に届くかもしれん―――!」      一斉に、黒い蛇たちを解放した。    奔る火花。  かつてない気迫で打ち込まれる連撃を前に、黄金の騎士が後退する。  それを好機と取ったか。  セイバーは振るわれた剣をくぐり抜け、一歩深く敵の間合いへと侵入する――――!   「いゃああああ―――――!」    気合いが〈裂帛〉《れっぱく》ならば、叩き込まれた剣は彗星の如く。  敵を甲冑ごと圧し、たたらを踏む黄金の騎士へ、彼女は更に追撃する。  繰り出される剣の舞。  いかな大岩でも砕き散らし、いかな城壁であろうと突破してきたそれは、しかし。   「チイ――――!」    敵の背後から現れた無数の凶器に、悉くを防がれた。   「ええい、しつこい――――!」    窮地を脱した黄金の騎士――――ギルガメッシュの手には、またぞろ新たな剣が握られている。   「っ――――!」    それを弾く事など彼女には容易い。  だが、真っ正直には受けられぬ。  敵の武器はどれもが未知の能力を秘めている。  それを知らずに受けるなど、それこそ自殺行為だろう。   「はぁ――――はぁ――――はぁ――――」    追い詰めた敵から一足で間合いを外し、呼吸を整えるセイバー。  対して、ギルガメッシュは慌てた風もなく、倒れかけた体を起こす。   「懲りぬ女よ。何度やっても無駄だと判らぬか」    ギルガメッシュに疲労の影はない。  彼にとってみれば、この戦いはあくまで余興だ。  初めから勝つと判りきったものに、緊張も疲労もある筈がない。   「はあ――――はあ――――は――――」    だがセイバーは違う。  彼女にとって、勝利の可能性は今しかあり得ない。  敵が本気になる前。  ギルガメッシュがエアを取り出す前に斬り伏せなければ、倒されるのは自分の方だ。    故に無理を承知で、余力など考えずに猛攻を続けてきた。  今のように敵を追い詰めたのも一度や二度ではない。  だが、それでも―――あの男が持つ宝具の壁を、突破する事は叶わなかった。   「まだ続けるのか。主に忠誠を誓うのはいいが、それも限度があろう。今頃あの雑種は言峰に殺されている。もはや、おまえが戦う理由はなかろうよ」 「……私の主は健在だ。あのようなマスター相手に、シロウが膝を屈するなどありえない」   「それも時間の問題だ。おまえは聖杯を知らぬ。アレの相手は〈我〉《オレ》でも手こずるのだぞ? おまえならいざ知らず、あのような小僧が一分と持つものか」 「―――――――」 「おまえは〈我〉《オレ》には勝てぬし、あやつでは言峰に勝てん。  配役を誤ったな。おまえが聖杯に挑んでいれば、この戦いはおまえの勝利だったろうに」    黄金の騎士の目は笑っていない。  彼は存外本気で言っているのだろう。    ―――だが、それは否だ。  セイバーにとって、その選択こそが間違いである。   「―――まさか。これが正しい選択だ。私は貴様になど負けぬし、シロウはあのような死者には負けない。  まだ出てもいない結果を期待するとは、英雄王の名も地に落ちたというものだ」 「――――ほう。減らず口を言うだけの体力は残っていたか」    ―――空間が歪む。  ギルガメッシュの背後に点在する宝具の数が、目に見えて増していく。   “――――――――来るか”    聖剣を握り直す。  ……実を言えば、手はあるのだ。  一つだけだが、あの黄金の騎士を打倒する手段はある。   “――――――だが、それには”    幾つかの条件が揃わなければ成功しない。    いかにエアを破ったところで敵に余力があれば防がれ、肝心のエアを破る手段も、もう一度直撃を受けてみなければ判らない。   “――――エアを受ける……? まさか。いかに鞘が戻ろうと、アレを受けては立ち上がれない”    しかし、それ以外に勝利する手段はない。  その細い糸をどう引き寄せ、どう紡ぐか。    普段ならば最も優れた選択を“直感”し、そのイメージ通りに行動するだけだ。  だが、今はその直感さえ湧かない。  勝利の確率があまりにも薄く、逆転の可能性が今はまだ有り得ないからだろう。   「――――――――っ」    それでも戦わなければ。  自らの守りを捨て、鞘を返還した士郎の為にも―――ここで、この男に膝を屈する事はできない。   「……そうか。どうやら決定的な敗北でなければ納得がいかぬと見える」    増えていく武装。  それはギルガメッシュが触れずとも動きだし、次々とその姿をセイバーへと向けていた。  今まで柄しか見えなかった物が、刃を露わにして主の命を待っている。    それが、この騎士の本来の戦い方である。  元々ギルガメッシュは剣士ではない。  この無数の宝具は、空間に“展開”され、主の命によって自らが弾丸となる。    故にアーチャー。  このサーヴァントは、最強の魔弾の射手なのだ。   「〈巧〉《うま》く避けろ。  なに、運が良ければ手足を串刺す程度であろう―――!」   「――――!」  号令一下、神速を以って放たれる剣の雨。  それぞれが必殺の威力を秘めるそれを、   「っ…………!」  舞い散る木の葉のように、〈悉〉《ことごと》くを受け流す――――!    正面からの剣、  左翼からの槍、  下方、および頭上同時によるポールウエポン、    弧を描いて後方から奇襲する三枚刃、    彼女を上回るほど巨大な鉄槌の薙ぎ払い――――!    受け、弾き、躱し、最後に迫った一撃から身をひねる……!   「は――――ぁ、ア――――!」    呼吸を乱しながら、無理矢理に崩した体勢を立て直すセイバー。  ―――その瞬間。  彼女は、敵の背後にあるソレを見た。    ギルガメッシュの背後、  既に展開した宝具、その数〈実〉《じつ》に四十七―――!   「く――――、はっ…………!」    全力で跳ぶ。  推進剤でも使ったかのような跳躍を逃がすまいと、無数の宝具が大地に突き刺さっていく。    宝具の雨の中、次々と被弾していく。  鎧は砕かれ、籠手を貫かれ、足下を守る衣服さえ串刺しになっていく。  その窮地においてなお致命傷を避けるセイバーの目に、最悪の光景が飛び込んでくる。    宝具の雨の向こう。  逃げ惑う獲物に〈王手〉《トドメ》を刺すように、英雄王は己が愛剣を引き抜いている――――!     “〈乖離剣〉《エア》――――!”      跳躍を止める。  即座に着地し、聖剣に魔力を叩き込む。    だが間に合うか。  風が鳴る。光と化した刀身を露わにし、風が解けきるのも待たずに剣を振り上げる。   「“〈約束された〉《エクス》――――”」    降り注ぐ宝具の雨を払いもせず、全速で聖剣を振り下ろす。   「“〈天地乖離す〉《エヌマ》、〈開闢の星〉《エリシュ》――――!”」    だが遅い。  自らの宝具を蹴散らして、ギルガメッシュは〈乖離剣〉《かいりけん》を一閃した――― 「ぐっ――――!」    足首に粘り着いた粘液を払う。  じゅう、と音をたてて焼ける服と、むき出しになった肌。 「っ――――ぐ、う――――!」  振り下ろされる触手から跳び退く。  粘液が張り付いた右の足首は感覚がなく、カカトから先がくっついているかさえ判らなかったが、ともかく目前の空き地へ飛び込んだ。 「た――――は、はぁ、は、あ――――!」  転がりながら自分の体を確認する。  足首。よし、足首はついてる。単に感覚がなくなっただけだ。くっついているのなら、なんとか走る事もできるだろう。 「あ――――はあ、はあ、あ――――!」  幾重にも重なって落ちてくる泥を、転がっていた別方向へ跳び退いて躱す。  すぐ真横でべちゃり、という音。  地面を焼く匂いで目眩を起こす頭をしぼって、立ち上がって、それから―――― 「っ――――!!!!!!」  背中に灼熱が走る。 「は、こ、こ、の――――!」  振り払って、何もない場所へ跳び退いた。  それで追撃は止んだのか。  あれだけ周囲で蠢いていた黒い泥は、とりあえず視界にはなく―――― 「は――――あ…………あ」    ……唇を噛む。  あれだけ走り回って、結局、  ここに追い返されちまったのか。 「は――――はあ、はあ、は――――」    呼吸を整えて、せめて気勢だけは負けないようにヤツを見据える。  ……言峰はあの場所から一歩も動かず、逃げ回る俺の姿を観察していた。 「はあ……はあ、はあ、はあ、はあ――――」    ……どれだけ深呼吸をしても、心臓は落ち着いてくれなかった。  もう限界だ、休ませろ、おまえが休ませないなら俺が出ていくとばかりに、喉から這い上がってきそうな勢い。 「く――――は、はあ、は、あ――――」    どうしようも、ない。  言峰に近づく事も出来なければ、あの黒い泥を黙らせる事も出来ない。  ……頼みの綱の“投影”も、出し惜しみなんてしていない。  ここから先に進めないんなら、セイバーの剣をもう一度複製すればいい。  アレならあんな黒い泥なんて斬り裂いて、まっすぐに言峰まで突き進んでいけるだろう。 「ん? なんだ、それで終わりか。諦めたのならそうと言え」  そう、ヤツの声がした瞬間   「は――――あ、は、っ――――!?」    止まる事など許さない、と無数の泥が振り下ろされた。 「くっ――――!」    アゴをあげて、ギリギリで泥を躱す。  ……泥自体は、そう、大したものじゃない。  セイバーの竹刀に比べたら遅いし、バカ正直に狙った場所にしかやってこないんで、躱すのは簡単だ。    だがそれも一本だけの話。  何十という泥、躱した瞬間に背中に落ちてくるものまでは対処しきれない。  結果として動き回るしかなく、その間にも少しずつ体は泥で汚れていく。 「は、っ、こぉのぉ――――!」  休む暇がない。  こんな状態じゃ投影なんて出来ない。  一から武器をイメージする“投影”は、最短でも一分近い精神集中が必要だ。  そんな隙を見せれば、俺はとっくに骨になっている。 「はっ――――はっ、はっ、はっ、あ――――!」  体の節々、避けられずに泥を浴びた箇所は、感覚が失われていた。  痛みもないのが唯一の救いだが、これが全身に渡った時、俺は自分が生きているか死んでいるかさえ判らなくなるだろう。  そうなったら終わりだし、なにより――――その頃にはアレに溶かされ、骨さえ残っていない筈だ。 「はっ――――はっ、はっ、はっ、あ――――!」  走るしかない。  そうしていても力尽きるのは時間の問題だと判っているが、今は走るしかない。  黒い泥を避けているうちに言峰に近づける、なんて幸運は絶対にない。  逆に、今は近づけない。ヤツの背後にはそれこそ泥が滝になっているのだ。  ヤツに近づくチャンスが来るとしたら、それはこの泥に対して、何らかの対策を――――   「て――――つ、あ――――!?」 「――――――――!」    し、信じられない……! ここ、この状況で転ぶかフツー!? 「――――――――」  無様に倒れ込んだ俺を、言峰はゴミのように見下げる。  その指が倒れた俺へと差し向けられ、無数の蛇が鎌首をもたげた。 「っ………………!」  起きあがる。  起きあがろうとして、また転んだ。 「――――え?」  転ぶ。  転ぶ。  蛇たちが迫ってくる。  でも転ぶ。  なんで?  なんで?  なんで?  首筋に黒い泥が。  なんで?  なんだ、よく見れば。    右足が、信じられないぐらい真っ黒だった―――― 「―――そこまでか。  少しは愉しめると期待したが、所詮は切嗣の息子。つくづく益にならぬ連中だ」 「な――――」  ……顔を上げる。  ……意識はまだ有る。  手首や首筋に鎖めいた泥がまとわりついているが、体はまだ感覚が残っている。 「っ……なんで、とどめを刺さない」 「無論、すぐに終わらせるとも。だがそれでは芸がなかろう。おまえは切嗣の贋作だからな。ヤツに受けた十年前の負債は、おまえの死で返してもらう」 「――――――――」  ……泥のついた肌が熱い。  じくり、と毛穴から少しずつ硫酸を流されているようだ。  それに歯を食いしばって耐えて、右足の状態を確認した。  ……結果は黒。  感覚もなければ動きもしない。体を黒く染めた泥を体外に出すか、魔力を流し込んで、凝固した血液をぶちまけるしかない。  ……どちらにせよ、動かした途端右足の筋肉は全て断線するだろう。 「そうかよ。そりゃ構わないが―――おまえ、なんだってそこまで切嗣を目の仇にするんだ。切嗣に聖杯を壊された事がよっぽど悔しかったのか」 「なに、近親憎悪というヤツだ。私と切嗣は似ていたからな。ヤツの行為は全てが癇に障ったよ。ちょうど、おまえが私に嫌悪を抱くのと変わらない」 「な―――ふざけるな……! 切嗣とおまえが似ているなんて、間違っても口にするな……!」 「なるほど、おまえにとってはそうだろう。  なにしろヤツは私を見逃すほどの善人だったからな。  あの大火災を引き起こした私を倒しただけで、命までは獲らなかった。  それが間違いだった事を、おまえは知っている筈だ。  切嗣さえ私を殺しておけば、あの孤児たちは穏やかな日常を送れたのだろうからな」 「――――テ、」 「反論できまい。だが私にとっても、それは不快な事実だった。私がではない。  あれほど冷酷な魔術師だった男が、敵を助けたという事実こそが不快だった」  ……またその話。  セイバーも言っていた。切嗣は魔術師として一流で、目的の為にはどんな手段もとる男だったと。    けど、それは―――― 「だが、ヤツの過ちはそんな事ではない。  ヤツが犯した過ちはな、聖杯を壊しただけでこの戦いが終わったと思いこんだ事だ。  故に、ヤツはおまえに何も伝えず、聖杯戦争は終わったのだと楽観し、この呪いに侵されたまま人生を終えた」 「道化と言えば道化だな。ヤツは自身を呪った私を見逃し、その果てに数年足らずで命を落とした。  自分は事を成したと。聖杯戦争を終わらせたのだと、勘違いの達成感を得たままでな」 「――――――――テ」    待て。  じゃあ何か。  切嗣が死んだのはコイツのせいで。  最期の夜、安心したと浮かべたあの穏やかな顔は。 「そうだ、最後に訊いておこう。  切嗣の最期はどうだったのだ衛宮士郎? 息子であるおまえに後を託し、なにやら満足して逝った訳か?  ふ、なんという道化ぶりだ。  何一つとして成せず、息子であるおまえに責任を押しつけ、さぞ滑稽に消えたのであろうな……!」 「――――テメエ――――!」  地を蹴った。  動かない片足に魔力をブチこんで、強引に活動させた。 「ギ――――!」  ブチブチと断線していく筋肉を無視して、両手両足で、獣のように駆ける――――! 「―――そうだ。  その程度の気概がなくては話にならん」  言峰は、背後の滝に手をかざした。 「――――――――」  何を考えているのか。  アレは、目に見えるほど濃密な『呪い』だ。  人間を壊す事だけに特化した魔力の束と言っていい。  そこには手を加える余地はなく、形を変える事もできない。  あの泥に触れた人間は全身を『呪い』という魔力に汚染され、消化されるように溶けていく。  その過程。  死に至る中での苦痛と恐怖は魔力として残留し、次の『呪い』となって生きている人間を求め続ける。    つまり、触れれば死ぬ。  体内に浸食したあの泥を掻き出さない限り、触れた者は死に至る。  ……そんな毒の源たるあの滝に手を触れて、なお神父は笑みを絶やさない。   「褒美だ。切嗣と同じ末路を辿れ」    手にした黒い闇。  それが今までの物とは種別が違う、と直感し―――  世界に、激しい閃光が襲いかかった。  それが境内から届いたセイバーの宝具の光だと理解した時――――              「―――“〈この世、全ての悪〉《アンリマユ》”―――」    神父の言葉が、世界を一瞬にして黒に染め変えた。    ―――月が遠い。    雲は晴れ、夜の闇は青みを帯びる。  じき黎明。  長かった夜は、これで終わろうとしていた。    ―――それが最後。  闇夜を越えて、セイバーと共に、この場所に辿り着いた。 「――――シロウ、これは」  セイバーの声に緊張が混じる。  ……それは俺も同じだ。  無言で頷いた首筋に、冷たい汗が流れている。  ……山は、それ自体が生き物のようだった。  一歩踏み出す度に走る悪寒と、息苦しいまでの圧迫感。  いや―――実際、大気は濃く湿っている。 「……〈魔力〉《マナ》の密度が高い。十年前と同じです。おそらく、上ではもう」  ……聖杯の召喚が始まっているか、終わったか。  どちらにせよ、ランサーはギルガメッシュに敗れたという事か。 「―――確認するぞ、セイバー。  上に着いたら、あとは戦うだけだ。セイバーはギルガメッシュの相手を頼む。俺はマスター―――言峰を討つ。  お互いの戦いには手を出さない。……どちらかが相手を倒せば、それで終わりだ」 「ええ。今回だけは、私は自分の戦いに専念します。それに、コトミネは貴方が倒すべき敵だ」 「……そうだな。よし、任せとけ。セイバーの方こそ、あんなヤツにやられるんじゃないぞ」 「……はい。誇りにかけて、彼には負ける訳にはいかない。サーヴァントとしてではなく、英霊として〈彼〉《か》の王に膝を屈する事はできません」  強く断言するセイバーに、迷いや憂いはなかった。  なら、もう言うべき事は何もない。  俺たちは戦いに赴き、最後のマスターとして雌雄を決する。    ―――その過程。  どちらかが命を落としても、残った一方が敵を討つだけ。  俺が倒れてもセイバーがギルガメッシュさえ倒せば、言峰は聖杯を手に入れられない。  同時に、もしセイバーが倒れたとしても―――俺が言峰を倒せば、ギルガメッシュも現界していられない。    ……だから、お互いを庇う必要はない。  この戦いはもう、それぞれの物に別れているのだから。  赤い光が、山頂を包み込んでいる。  吹き荒ぶ風は勢いを増し、その源はあの光―――境内の奥のようだ。  赤い燐光は風に乗って舞い散り、境内は夜だというのに明るすぎる。  淀んだ空気と充満した死の気配。    ―――それは。  まるで、遠い日の火事のように。 「――――――――」  だが、これはそんなモノではない。  赤い光に混じって、今にもあふれ出そうとしているモノがある。  ……建物の向こう。  鮮やかな赤色に滲む、粘液のような黒い闇。  この境内が清らかな湖だとすると、あの泥はばらまかれた重油のようだ。 「―――来たか。待ちわびたぞ、セイバー」    その極彩色の中に、ヤツがいた。  血のような赤色も、死を帯びた黒色も知らぬと。  〈金色〉《こんじき》に武装したサーヴァントは、境内のただ中で俺たち―――いや、セイバーを待ち受けていた。 「頃合いも良い。聖杯もようやく重い腰をあげ、孔が開いたところだ。  この呪いこそが聖杯の中身。我らサーヴァントをこの世に留める第三要素。  ―――十年前、おまえが〈我〉《オレ》に浴びせたモノだ」  ギルガメッシュはセイバーしか見ていない。  セイバーもそれは同じ。  彼女は一歩踏み込み、その剣を、目前の騎士へと向ける。 「―――いい気概だ。  〈我〉《オレ》には勝てないと知った上でなおその闘志。宴の終わりを飾るに相応しいが――――」 「邪魔は要らぬ。そこの雑種、言峰に用があるのなら早々に消えろ。ヤツは祭壇で貴様を待っている」 「――――!」  言峰が、待っている。  ……セイバーに視線を投げる。  彼女はギルガメッシュを見据えながら、わずかに頷いた。    無事を祈る、と。  その後ろ姿が告げていた。    ―――背を向ける。  俺が向かう相手は他にいる。    その背後。  駆けていく背中に、死闘の開始を聞いていた。    境内の奥。  柳洞寺の本堂の裏には、大きな池があった。  人の手は入れられず、神聖な趣きをした、龍神でも棲んでいそうな池だ。  澄んだ青色の水質は清らかで、濁りのない綺麗な池だった。    だが、それは昨日までの話。  池は、もはや見る影もない。    目前に広がるのは赤い燐光。  黒く濁ったタールの海。    ――――そして――――             中空に穿たれた『孔』と、捧げられた少女の姿。 「――――言、峰…………!」  冷静を演じてきた思考が、一瞬にして〈通常値〉《レート》を振り切る。  駆けてきた足を止め敵を凝視する。   「よく来たな衛宮士郎。最後まで残った、ただ一人のマスターよ」    皮肉げに口元を歪め、ヤツは両手を広げて俺を出迎える。  ……ここが、決着の場所。  今回の聖杯戦争における、召喚の祭壇だった。 「―――イリヤを降ろせ。おまえをぶちのめすのはその後だ」    目前の言峰を睨む。  ……ヤツまでの距離は十メートルほど。  これ以上先に踏み込めば戦いが始まる。  戦いになれば、最短距離でヤツへと走り、その胸を断つしかない。  その前に、イリヤをなんとかしてやらないと―――― 「おい。聞こえなかったのか。イリヤを降ろせって言ったんだ。いい歳して、子供をいじめて何が楽しい」 「気持ちは分かるが、それは出来ない相談だな。聖杯は現れたが、その『孔』は未だ不安定だ。  接点である彼女には命の続く限り耐えてもらわねば、私の願いは叶わない」    命の続く限り――――じゃあ、イリヤはまだ生きている……! 「……そうか。おまえに降ろす気がないってんなら、力ずくで降ろすだけだ。  おまえの願い―――その黒い泥を、今すぐに止めてやる」 「……ほう。なるほど、おまえにはコレが私の望みに見える訳か。―――流石は切嗣の息子だな。  よもや、二代に渡って思い違いを続けるとは」 「な―――んだと?」 「聖杯を理解し得ぬ者に、わざわざ説いてやる真理はない。その思い違いを抱いたまま、最後のマスターとして責務を果たすがいい」 「っ――――!」  咄嗟で地面を蹴った。  ヤツまでは十メートル弱、その距離を保ったまま、瞬発力だけで真横に跳ぶ。 「――――――――」  それはアイツを倒す、という理性より、  死にたくないという本能が勝った結果だった。 「っ――――!」  横っ滑りで地面に転がる。  それもすぐに止めて、すぐさま顔を上げた。 「っ、今、の――――!」    さっきまで自分が走っていたルートを見据える。  地面を焼く音。  じゅうじゅうと湯気を立てているのは、池から伸びてきた黒い泥だった。  ……まるで黒い絨毯だ。  泥は鞭のようにしなり、言峰に迫った俺を迎撃し、そのままだらしなく大地に跡を残している。 「言い忘れていたが、既におまえは私の射程に入っている。加えてコレは生き物に敏感でな。  ―――動き回るのは勝手だが、不用意に動くと死ぬぞ」 「――――っ!」  容赦なく伸びてくる黒い泥を跳んで躱す。  不用意に動くもクソもない、あの野郎、殺る気満々なんじゃないか……! 「く―――このエセ神父……!」    池に気を配りつつ態勢を立て直す。  ……言峰までの距離は依然変わらない。  この十メートルが、あいつにとって近寄らせたくないラインって事だ。  ……だが、あの泥の触手は際限なく伸びる。  その気になれば何処まで退いても追ってくるだろうし、その数だって、一本だけという事もあるまい―――― 「ほう、やる気か。それは喜ばしい。  このまま立ち去るのなら殺しようがなかったが、おまえ本人が争うのであれば問題はない。  なにしろこれでも神に仕える身だ。助けを求める者を殺める訳にもいかなくてな」    ……触手がうねる。  池から鎌首をあげて揺らめくそれは、黒い蛇そのものだ。 「――――――――」  ……唇を噛む。  思った通り、最悪の状態になった。  蛇の数は際限なく増えていく。  これでは言峰に近づくどころか、どのくらい生き延びられるかさえ定かじゃない―――― 「勝機がないのは当然だ。  おまえの生きた年数と、私の生きた年数では大きく開きがある。何かで掛け算でもしないかぎり、埋められる〈数値〉《さ》ではあるまい」  神父の両手が上がる。  ヤツは、それこそ楽団を率いる指揮者のように天を睨み。           「―――命をかけろ。     或いは、この身に届くかもしれん―――!」      一斉に、黒い蛇たちを解放した。 「ぐっ――――!」    足首に粘り着いた粘液を払う。  じゅう、と音をたてて焼ける服と、むき出しになった肌。 「っ――――ぐ、う――――!」  振り下ろされる触手から跳び退く。  粘液が張り付いた右の足首は感覚がなく、カカトから先がくっついているかさえ判らなかったが、ともかく目前の空き地へ飛び込んだ。 「た――――は、はぁ、は、あ――――!」  転がりながら自分の体を確認する。  足首。よし、足首はついてる。単に感覚がなくなっただけだ。くっついているのなら、なんとか走る事もできるだろう。 「あ――――はあ、はあ、あ――――!」  幾重にも重なって落ちてくる泥を、転がっていた別方向へ跳び退いて躱す。  すぐ真横でべちゃり、という音。  地面を焼く匂いで目眩を起こす頭をしぼって、立ち上がって、それから―――― 「っ――――!!!!!!」  背中に灼熱が走る。 「は、こ、こ、の――――!」  振り払って、何もない場所へ跳び退いた。  それで追撃は止んだのか。  あれだけ周囲で蠢いていた黒い泥は、とりあえず視界にはなく―――― 「は――――あ…………あ」    ……唇を噛む。  あれだけ走り回って、結局、  ここに追い返されちまったのか。 「は――――はあ、はあ、は――――」    呼吸を整えて、せめて気勢だけは負けないようにヤツを見据える。  ……言峰はあの場所から一歩も動かず、逃げ回る俺の姿を観察していた。 「はあ……はあ、はあ、はあ、はあ――――」    ……どれだけ深呼吸をしても、心臓は落ち着いてくれなかった。  もう限界だ、休ませろ、おまえが休ませないなら俺が出ていくとばかりに、喉から這い上がってきそうな勢い。 「く――――は、はあ、は、あ――――」    どうしようも、ない。  言峰に近づく事も出来なければ、あの黒い泥を黙らせる事も出来ない。  ……頼みの綱の“投影”も、出し惜しみなんてしていない。  ここから先に進めないんなら、セイバーの剣をもう一度複製すればいい。  アレならあんな黒い泥なんて斬り裂いて、まっすぐに言峰まで突き進んでいけるだろう。 「ん? なんだ、それで終わりか。諦めたのならそうと言え」  そう、ヤツの声がした瞬間、   「は――――あ、は、っ――――!?」    止まる事など許さない、と無数の泥が振り下ろされた。 「くっ――――!」    アゴをあげて、ギリギリで泥を躱す。  ……泥自体は、そう、大したものじゃない。  セイバーの竹刀に比べたら遅いし、バカ正直に狙った場所にしかやってこないんで、躱すのは簡単だ。    だがそれも一本だけの話。  何十という泥、躱した瞬間に背中に落ちてくるものまでは対処しきれない。  結果として動き回るしかなく、その間にも少しずつ体は泥で汚れていく。 「は、っ、こぉのぉ――――!」  休む暇がない。  こんな状態じゃ投影なんて出来ない。  一から武器をイメージする“投影”は、最短でも一分近い精神集中が必要だ。  そんな隙を見せれば、俺はとっくに骨になっている。 「はっ――――はっ、はっ、はっ、あ――――!」  体の節々、避けられずに泥を浴びた箇所は、感覚が失われていた。  痛みもないのが唯一の救いだが、これが全身に渡った時、俺は自分が生きているか死んでいるかさえ判らなくなるだろう。  そうなったら終わりだし、なにより――――その頃にはアレに溶かされ、骨さえ残っていない筈だ。 「はっ――――はっ、はっ、はっ、あ――――!」  今は走るしかない。  ヤツに近づくチャンスが来るとしたら、それはこの泥に対して、何らかの対策を――――   「て――――つ、あ――――!?」 「――――――――!」    し、信じられない……! ここ、この状況で転ぶかフツー!? 「――――――――」  無様に倒れ込んだ俺を、言峰はゴミのように見下げる。  その指が倒れた俺へと差し向けられ、無数の蛇が鎌首をもたげた。 「っ………………!」  起きあがる。  起きあがろうとして、また転んだ。 「――――え?」  転ぶ。  転ぶ。  蛇たちが迫ってくる。  でも転ぶ。  なんで?  なんで?  なんで?  首筋に黒い泥が。  なんで?  なんだ、よく見れば。    右足が、信じられないぐらい真っ黒だった―――― 「――――あ」    降りしきる黒い泥。  それは豪雨のように、バランスを欠いた肉体を濡らし、梳かし、絶望に渇いたオレを潤した―――    ―――光で眩んでいた視界が闇に埋れた。  もし彼女の意識があったのなら、それが黒い極光だと見て取れただろう。   「――――――――」    闇は一瞬だった。  だがそれは闇などではなく、小さな、砂の粒ほどの呪文の群れだ。  闇は彼女の体をくまなく〈浚〉《さら》っていき、その不快感で、彼女の意識は覚醒した。   「あ――――」    吐息が漏れる。  意識が戻って、始めに感じたものは痛み。  鎧で守られていなかった肌は焼かれ、体のあちこちは貫かれ斬り裂かれ、無惨な姿を晒している。   “そう、か――――私、は――――”    エアの前に、破れたのだ。  ギルガメッシュの宝具に追い詰められ、防ぎきる事も出来ず、エアによる追い打ちを受けた。    エクスカリバーでかろうじて相殺したものの、体の損傷は激しすぎる。  魔力を動員せずとも傷は塞がっていくが、聖剣の鞘の加護とて、今すぐ彼女を復帰させられまい。    ―――そこへ。   「ここまでだセイバー。よもやその体で、まだ敗北を認めぬなどと言わぬだろうな」    傷一つない甲冑と共に、ギルガメッシュが歩み寄る。   「………………」    倒れたまま、セイバーは敵を見上げた。  今の彼女には何も出来ない。  この男が望めば望むだけ、彼女の身は玩弄されるだろう。   「……ギルガメッシュ。今の、光は」    にも関わらず、彼女には〈それ〉《・・》が気になった。  今の極光。  境内の奥から一瞬だけ世界を覆った、あの黒い闇。  ……考えたくはないが。あの闇は、士郎を襲った物だったのかと。   「今の光か。おまえならば判ろう。アレは極大の呪いだ。  言峰が聖杯から直接呼び出したのだろうな。聖杯の中にはこの世の全てを呪う、などというモノがあるのだそうだ。  先ほどから見えているあの汚濁はな、聖杯から漏れている残りカスにすぎん。  その本体を出されたのだ。おまえのマスターとて、もはやこの世にはおるまい」   「――――そんな。そんな、事、は」    倒れた体に力を込める。  ……動く体でない事は、セイバーも判っていた。  だが、ここで倒れている事など、彼女に出来よう筈がない。   「嘘だ―――シロウは生きている。まだ、ちゃんと―――」    確かに、マスターとの繋がりを感じている。  とても弱く、今にも消え去りそうな火ではあるけれど、衛宮士郎は生きている。    なら行かなければ。  相手がそんな、考えもしていなかったモノだとしたら、士郎だけでは太刀打ちできない――――   「く――――っ――――!」    その温かみだけを頼りに、彼女は四肢に力を込める。   「あ――――く、あ…………」    それも無意味に終わった。  いかに聖剣の鞘とは言え、彼女を復元するにはまだ数分の時間を要する。 「もはや手遅れだ。大人しくしていろよセイバー。  おまえが何をしようが、じき聖杯は溢れ出す。十年前の再来だ。ただし、〈此度〉《こたび》の儀は〈我〉《オレ》ではなくおまえに与えられたものだがな」    赤く燃える空を見上げ、黄金の騎士は口元を吊り上げる。   「喜べセイバー。アレを浴びれば、おまえも〈我〉《オレ》と同じになれる。この世で肉を持ち、第二の生を謳歌できよう。  まあ〈尤〉《もっと》も―――〈我〉《オレ》のように自我を保てるとは限らんが」 「な――――」    セイバーは呆然と敵を見上げる。  アレが極大の呪いである事はセイバーにも判る。  確かに魔力の束としては破格であり、あれだけの貯蔵があればどのような魔術でも扱える。……おそらくキャスターであれば、それこそ不可能はなくなるだろう。    だが、それは諸刃の剣だ。  アレは人を呪うだけのもの。  あんなものを浴びれば、いかに英霊とて自分が自分でなくなってしまう。   「…………」    それで、気づいた。  目前のサーヴァント。  人類最古の英雄王と言われるこの騎士は、十年前あの汚濁に呑まれている。  ならば――――   「ギルガメッシュ、貴方は――――」    彼は、既に正気ではない――――   「――――ほう。そう思うか、騎士王」    愉快げに笑い、セイバーを見下ろすギルガメッシュ。  その顔は常軌を逸しているようでもあり―――この上なく、この男に相応しい貌だった。   「侮るな。あの程度の呪い、飲み干せなくて何が英雄か。  この世全ての悪? は、〈我〉《オレ》を染めたければその三倍は持ってこい!  よいかセイバー。英雄とはな、己が視界に入る全ての人間を背負うもの。  ―――この世の全てなぞ、とうの昔に背負っている」   「――――――――」    その答えに、セイバーは微かに息を呑んだ。    ……彼女は、この英霊とは絶対に相容れない。  傍若無人な考え、天地には我のみという強大な自我、他者を省みぬ無慈悲な選定。  それは彼女の信じた王の道とは別の物、交わる事さえない信念だ。    それでも、この男は王だった。  セイバーとて断言できる。  いかなサーヴァントと言えど、あの極大の呪いを浴びて自我を保てる者は、この男以外にはおるまいと。   「―――うむ。そうだな、泥を飲ませるのはいいが、それで自我を失われては愉しみがない。どれ、今のうちに婚姻を決めておくか」 「っ――――!」   「ギルガメッシュ、貴様――――!」 「なんだ、手荒く扱われるのは趣味ではないか?  ならば慣れておけ。女と食事に出し惜しみはしない主義でな。気の向くままに奪い、食らうだけだ」 「っ――――!」    逆さ吊りにされたまま、セイバーはギルガメッシュを凝視する。   「……ふん。サーヴァントとしてマスターに義理を立てているワケか。くだらんな。たかが令呪の縛りで、この体をくれてやっていたとは」 「―――それは違う。勘違いをするなギルガメッシュ。  私は誰にも従わない。初めから、この体にそんな自由はないのだ」   「……ほう。では、どうあっても〈我〉《オレ》の物にはならないと言うのか」    赤い瞳がセイバーを射抜く。  そこに、人間らしい感情は一切ない。  逆らえば殺す。どれほど執着した物であろうと、従わぬのなら殺すだけ。  それがこの英霊の本心、ギルガメッシュという男の真実だ。   「――――――――」  その視線から逃れる事なく、セイバーはギルガメッシュを敵視する。   「―――ギルガメッシュ。私は誰のモノにもならない。  私は既に国の物だ。この身は、女である前に王なのだから」      誰に言い聞かせるでもなく。  ただ、まだ胸に灯っている小さな温かさを抱きながら、彼女は言った。   「は、何を言うかと思えば!  笑わせるなセイバー。王にとって、国とは己の物にすぎない。何もかも支配できぬのならば、王などという超越者は不要なのだ。  まったく――――アーサー王よ。そんなだから、オマエは国によって滅ぼされたのだ」    未熟さを嘲笑う黄金の騎士。 「――――――――」  ……それで、彼女の心は固まった。   「ああ、その通りだ。―――だが英雄王よ。  そんなだから、貴様は自らの国を滅ぼしたのだ―――!」    猛る気合。  セイバーは全身をバネにして、残った自由な足でギルガメシュの顔面を蹴り飛ばす―――!   「な――――!?」    ギルガメッシュの指が離れる。  セイバーは逆立ちのまま体を反転させ、腕の力だけで大きく跳んだ。   「男子を足蹴に!? おのれ、どうやら本格的に躾られたいらしいなセイバァァァァア…………!!」    彼女は目を閉じて、心を見る。   “そんなだから、自らの国に滅ぼされた”    ……そんな事、今更だった。  セイバーとして召喚され、同じ言葉を何度も何度も聞いてきた。  だが、それはあの男とは違う。  自分の事のように怒りながら、それでも―――それが誇れる事なのだと、思ってくれた。    ならばやるべき事は一つだけ。  万に一つほどの勝算がなくとも、ここで立ち止まる事はできない。    この胸に、まだ温かさが残っているうちに。  一刻も早く、主の下に駆けつけなくてはならないのだから。   「――――っ」 「――――――――」    ギルガメッシュから八メートルほどの距離。  先ほど身をもって体験した、最も迎撃に適した間合いに体を置く。    ……体の自由は利かないも同然。  両足の機能とて本来の十分の一ほどもなく、剣を振るう両腕は力さえ籠もらない。  打ち込まれれば、どんな凡庸な一撃でさえ受けきれずに倒されるだろう。    されど―――セイバーには一分の隙もなく、迷いさえ見いだせなかった。   「………………。  一言、訊いておくが」    ギルガメッシュとて、それを前にして構えられぬ筈がない。  黄金の騎士は〈愛剣〉《エア》を携え、目前の敵へと向き直る。   「それは、正気か?」 「――――――――」    セイバーは答えず。  その瞳だけが、決死の覚悟を告げていた。   「――――よかろう。ならば加減はなしだ」    大気が吠える。  〈乖離剣〉《かいりけん》エア――――古代メソポタミアにおいて、天地を斬り裂き世界を創造したとされる〈剣〉《つるぎ》。    英雄王ギルガメッシュが覇王剣は、今度こそ敵を霧散させようと唸りをあげる。  その大気の渦、収束する魔力の量は、セイバーのエクスカリバーを遙かに上回っている。   「――――消えろ。目障りだ、女」    エアが振り上げられる。  合わせるよう、セイバーは剣を振り上げた。   「――――――――」 「――――――――」  絡み合った視線は一瞬。   「――――“〈天地乖離す〉《エヌマ》〈開闢の星〉《エリシュ》”――――」    ギルガメッシュの剣が振るわれる。   「っ、く――――!?」    だがセイバーの剣は力無く落ち、“宝具”としての発動さえままならない。              ――――全てを切断する光が走る。      為す術もなく、彼女は光の中に呑みこまれた。    闇に呑まれた瞬間。  脳裏に、地獄が印刷された。         始まりの刑罰は五種、生命刑、身体刑、自由刑、名誉刑、財産刑、様々な罪と泥と闇と悪意が回り周り続ける刑罰を与えよ『断首、追放、弾圧による人権排除』『肉体を呵責し嗜虐する事の溜飲降下』『名誉栄誉を没収する群       体総意による抹殺』『資産財産を凍結する我欲と裁決による嘲笑』死刑懲役禁固拘留罰金科料、私怨による罪、私欲による罪、無意識を被る罪、自意識を謳う罪、内乱、勧誘、詐称、窃盗、強盗、誘拐、自傷、暴虐、放火、爆破、侵害、過失致死、集団暴力、業務致死、過信による     事故、飲酒による事故、隠蔽。益を得る為に冒す。己を得る為に冒す。愛を得る為に冒す。徳を得る為に冒す 自分の為に冒す。窃盗罪横領罪詐欺罪隠蔽罪殺人罪器物犯罪犯罪犯罪私怨による攻撃攻撃攻撃攻撃汚い汚い汚い汚いおまえは汚い償え償え償え償え償えあらゆる暴力あらゆる罪状あらゆる被害者から償え償え『この世は、人でない人に支配されている』 罪を正す為の良心を知れ     罪を正す為の刑罰を知れ。人の良性は此処にあり、余りにも多く有り触れるが故にその総量に気付かない。罪を隠す為の暴力を知れ。罪を隠す為の権力を知れ。人の悪性は此処にあり、余りにも少なく有り辛いが故に、その存在が浮き彫りになる。百の良性と一の悪性。バランスをとる為に悪性は強く輝き有象無象の良性と拮抗する為強大で凶悪な『悪』として君臨する。始まりの刑罰は五   に―す自分の為に―す自分の為に―す自分の為に―す自分の為に―す自分の為に―す自分の為に―す自分の為に―す自分の為に―す自分の為に―す自分の為に―す自分の為に―す自分の為に―す自分の為に―す自分の為に―す自分の為に―す自分の為に―す自分の為に―す自分の為に―す自分の為に―す勧誘、詐称、窃盗、強盗、誘拐、自傷、暴虐、放火、侵害、汚い汚い汚い汚いおまえは汚い償え償え償え償え償えあらゆる暴力あらゆる罪状あらゆる被害者から償え償え『死んで』償え!!!!!!   「――――、ア」    脳が、破裂する。  全身に食らいついた泥は剥がれず、容赦なく体温を奪っていく。  五感すべてから注ぎ込まれるモノで潰されていく。  正視できない闇。  認められない醜さ。  逃げ出してしまいたい罪。  この世全てにある、人の罪業と呼べるもの。  だから死ぬ。  この闇に捕らわれた者は、苦痛と嫌悪によって自分自身を食い潰す。    ――――だが。    言峰は言ったのだ。  この呪いは、切嗣を殺したものだと。  その事実が、あらゆる闇を吹き飛ばした。    ―――全身に熱が戻る。    満身創痍だった体に、立ち上がる為の血が巡る。  だってそうだろう。  こんなものを。  衛宮切嗣はこんなものを、何年間も背負わされてたっていうのか。  あんな償いの声に圧され続けて、自分の思いを果たせずに死んだというのか。    正義の味方になりたかったと。  誰かの為になりたかったとバカみたいに走り回って、結局そんな許しなど誰からも得られず、それでも自分に出来る事を、諦めていた理想を追い求めた。  その果てに、つまらない〈子供〉《ガキ》が答えたなんでもない言葉に安心して、最期に、良かったなんて頷いたんだ。 「あ――――あ、あ――――」    なら立たないと。  俺がなるって言って、切嗣を安心させた。    衛宮士郎が、本当に〈衛宮切嗣〉《せいぎのみかた》の息子なら、なにがあっても、悪い奴には負けられない。    ―――遠坂は言っていた。  死んでも勝てと。    ――――セイバーは言った。  コイツは俺が倒すべき敵だと。    ―――言峰さえ言いやがった。  戦うのなら命をかけろと。    その通りだ。命を賭けないで何を賭ける。  もとより俺には、それ以外に上乗せする物がないんだから――――! 「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!」    黒い塊、濃密な泥の中から、ただ必死に跳び退いた。   「っ――――!?」  ヤツの戸惑いが聞こえる。  喉が焼けている。  呼吸をする度に気管が裂け、ガラスの破片でも飲んでいるかのよう。 「ひぎ――――ぎ、あぶ、あ――――」    そんなもの、知らない。  悔しくて涙が滲む。  呪いに引き裂かれる前に、この怒りでバラけそうだ。 「――――馬鹿な。アレを振り払ったというのか、おまえが――――!?」 「――――!」    全身に喝を入れて、ただ走った。  片手は背中に。  最後まで隠し持った短剣を握りしめる。 「―――呆れたな、アレから逃れたかと思えばその短絡思考、もはや万策尽きたというところか――――」 「うるさい、初めから万策なんて持ってねえ……!」  走る。  言峰は背後の黒い滝に手を伸ばし、ずる、と音をたてて黒い塊を摘出する。 「ではサーヴァントの後を追うがいい。先の光はセイバーが敗れた物だ。おまえには、もはや誰の助けもない」 「――――――――」  一切の迷いが消えた。  もしこの後、俺が言峰に届いたとしたら、ヤツの最大の間違いは今の台詞に違いない。  だって、左手には令呪がある。  ほとんど死に体で、自分が生きているかさえ判らない俺が感じられる、ただ一つの証がそれだ。    令呪がある限り、セイバーはちゃんといる。  あいつがいるなら―――今頃はギルガメッシュなんてやっつけて、こっちに向かっている筈だ。  その時に手をあげて迎えてやらないと、セイバーが怒ると思う。    ―――だから、ここでおまえを倒す。  あいつと取り決めた、最後の約束を守るために。  闇が迫る。  言峰の腕から、極大の呪いが放たれる。  ……体が、先端から、崩れていく。 「――――――――!」  目を逸らさない。  これが俺の役割なら――――まだ、出来る事が残っている――――!   「“〈天地乖離す〉《エヌマ》〈開闢の星〉《エリシュ》”――――!」    空間に断層が走る。  目を潰す閃光、耳を覆う暴風を伴って、エアの作り出す破壊の渦が放たれる。   「っ、く――――!」    それを前にして、セイバーは自らの“〈宝具〉《つるぎ》”を使う事さえままならなかった。  振り上げた剣を下げ、倒れ込むように前方へと体を倒す。    ――――閃光が迫る。  傷ついた足では避ける事も出来ず、エアを防ぐ盾などこの世には存在しない。  巻き込まれれば跡形もなく消滅する光と風の乱舞。  エアの真名に対抗する手段などない。  それは両者に共通した確信だった。    ―――そう。     たった、数時間前までは。   「――――!?」    驚愕を漏らしたのはセイバーではなく、エアの担い手たる黄金の騎士だった。  エアは未だ魔力を放ち続け、容赦ない破壊を行っている。  だというのに、セイバーは光の奔流の中へ、自ら足を踏み入れていた。   「――――!」    銀の鎧が悲鳴をあげる。  彼女を守るありとあらゆる魔力防壁に亀裂が走る。  一秒すら保つまいというその合間、彼女はギルガメッシュへと間合いを詰め、   「“〈約束された〉《エクス》〈勝利の剣〉《カリバー》”――――!」    許された最大出力で、エアの破壊に対抗する――――!    荒れ狂う閃光と灼熱。  頂点に位置する剣の激突は、互いを力のみで押し合い、空間に境界線を作り上げる。  だが―――それは無駄ではないのか。  エクスカリバーではエアには敵わない。  いかに捨て身で間合いを詰めたところで、押し返せるのはわずか一足。  天秤は容易くエアへと傾き、エクスカリバーの光はセイバーもろとも弾き返される。   「――――そうか、血迷ったかセイバー……!」    エアを振り抜き、無謀にも走り寄ろうとした敵を見据え、黄金の騎士はなおエアに魔力を込める。  もはやこの後はない。  ここで完全に、全ての力を以ってセイバーを消滅させるのみ。  エアの回転が臨界に達し、セイバーを包む閃光はエクスカリバーを薙ぎ伏せる。    ――――その直前。    セイバーの体が駆けた。  エクスカリバーによってわずかに圧した空間、もう一足だけ踏み込める位置。  そこに、セイバーが到達した瞬間。    彼女の宝具が、その姿を現した。    闇は吹き抜ける風となって衛宮士郎を包み込んだ。  避ける事は出来ず、空間そのものを塗り潰していく呪いには『防ぐ』という概念は通用しない。  呑みこまれた者は、塗り潰された空間同様、この闇に食われ同化していくのみ。   「っ、あ――――!」    指先から、朽ち果てていく。  前へと進む足は宙を泳ぎ、伸ばした腕は黒い泥に呑まれ、とうに視えなくなっていた。  外側からまるごと消されていくのか。  体が縮んでいくような感覚に襲われながら、それでも、衛宮士郎は死を受け入れようとはしなかった。   「は――――――あ、ぐ――――!」    目を逸らさず、全力で拒み続ける。  体を覆う闇にも、体を溶かそうとする痛みにも、心を融かそうとする呪いにも。   「つ――――っ、――――――――」    それも叶わぬ試みだった。  人の身でこの汚濁に抗う術はない。  体はまだ動いている。  何かを掴もうと突き出された腕も上がったまま。    だが、既に心が壊れていた。  思考は闇に塗り潰され、じき、その肉体も闇に消えるだろう。  その、刹那。           “――――貴方が、私の”      その声が、なぜ思い出されたのか。   「――――――――」  暗闇に光が灯る。  それが“あの光”なのだと眼球が捉えた時、全てが逆転した。   「――――――――」    撃鉄が落ちる。  思考は円還状に速度を増し、火花を散らし軋みをあげて、そのカタチを、悪魔めいた速度で作り上げていく。   「――――〈投影〉《トレース》、〈開始〉《オン》」    投影開始の呪文を口にする。  瞬間。    それは、あらゆる工程を省いて完成した。    ……そう、一から作る必要などなかったのだ。  何故ならこのカタチだけは胸に刻み込んだもの、完全に記憶し、一身となった、衛宮士郎の半身故。               “――――貴方が、私の鞘だったのですね―――”    懸命に伸ばした指先が、まだ動く。  精神集中も呪文詠唱もすっ飛ばして作り上げたそのカタチを握りしめる。    世界は一転し、闇は黄金の光に駆逐され、そして―――衛宮士郎の手には、完全に複製された、彼女の鞘が握られていた。    ――――そうして。  エアの断層を前にして、彼女の“宝具”が展開された。   「な――――に――――!?」    彼女の目前に放たれ、四散したものは、紛れもなく聖剣の鞘だった。    如何なる神秘で編まれたものか、鞘はエアの光を悉く弾き返す。  否、防御などというレベルではない。    それは遮断。  外界の汚れを寄せ付けない妖精郷の壁、この世とは隔離された、辿り着けぬ一つの世界。  聖剣の鞘に守られたセイバーは、この一瞬のみ、この世の全ての〈理〉《ことわり》から断絶される。  この世界における最強の守り。  五つの魔法すら寄せ付けぬ、何者にも侵害されぬ究極の一。            故に、〈鞘〉《そ》の名は“〈全て遠き理想郷〉《アヴァロン》”。  アーサー王が死後に辿り着くとされる、〈彼〉《か》の王が夢見た、はや辿り着けぬ理想郷――――   「――――――――」  背筋に走る死神を、ギルガメッシュは確かに見た。  だが間に合わない。  振り下げたエアは回転を止めず、ギルガメッシュ自身、跳び退く事すらままならない。  当然である。  よもや―――よもやこれほどの全力、これほどの魔力を放った一撃が防がれようなど誰が思おう……!   「ぬぅぅぅ……!! おのれ、そのような小細工で―――!」 「――――――――」    駆け抜ける青い衣。  セイバーの体に防具はない。  己を守る鎧を解除し、その分の魔力を彼女は手にした剣に籠め――――   「“〈約束された〉《エクス》――――”」 「セイバーァァアアアアアアア――――!!!!!」     「“〈勝利の剣〉《カリバー》”――――!」    その鞘を手にした瞬間、闇は全て払われた。  衛宮士郎を取り囲んでいた闇も、彼の体内を汚染していた闇も、その全てが霧散した。 「な――――に?」    だが驚くに値しない。  聖剣の鞘は持ち主を守る物。  彼女が追い求めた理想郷の具現が、こんな薄汚い泥に遅れを取る筈がない――――!  駆ける。  闇から解放された分、そのスピードは流星すら思わせた。   「投影魔術――――貴様、何者――――!」    己の力を過信していた者と、過信する余裕などなかった者。  その差はわずか一瞬、だが命運を分ける一刹那。 「言峰綺礼――――!」    地面に倒れかけながら、両腕で地を弾いて、衛宮士郎は疾走した。  片手には短剣。  地を這う姿勢のまま黒い神父へと走り、 「っ――――!」    立ち止まる事なく、報いの剣を胸に突き立てた。 「っ――――」    ゆらり、と神父が振り向く。  その前に。  片足で地面に杭を打ち、走り抜いた勢いのまま身を翻し―――  独楽のように反転させた体と、左手に籠めたありったけの魔力。  それを、旋風の如く、   「“läßt”――――!」    解放の意味を持つ言葉と共に、アゾット剣へと流し込んだ。          振り抜かれた黄金の剣。  体勢を立て直す力も、今は無いのか。  セイバーは剣を下げたまま顔を上げず、  男は斬り裂かれたまま、自身を打倒した騎士の姿だけを見た。   「――――――――」  風の音だけが、境内に響いている。  洪水のようだった光の波は、その面影さえない。  二人の騎士は何の言霊も口はしに乗せず、ただ、決着という別離に身を置いた。   「――――――――、」  そうして、男は息を漏らした。  だらりと下げた腕をあげ、目前の騎士を確かめるように、彼女の頬を指でなぞる。   「―――憎らしい女だ。最後まで、この〈我〉《オレ》に刃向かうか」    黄金の甲冑が薄れていく。  血を流し、肉の感触を持っていた英雄王の存在が消えていく。   「だが許そう。手に入らぬからこそ、美しいものもある」    指が滑る。  上がっていた腕が、力無く地に落ちる。   「ふん―――ならばこそ、〈我〉《オレ》がおまえに敗れるは必定だったか」    不機嫌に舌を鳴らす。  そうして、最後に。   「ではな騎士王。―――いや、中々に愉しかったぞ」    口元に皮肉げな笑みを作り、黄金の騎士はかき消えた。    青白い火花が、黒い神父服に咲き散った。  胸に刺さった短剣と、そこから四方に散った火花。  肉片は跳ばず、出血らしき物もない。  それでも―――ここに、戦いは終わっていた。 「――――――――」  ヤツは俺になど目もくれない。  ただ不思議そうに、自身の胸に刺さった短剣を見下ろすのみだ。 「――――――――」  風が吹いていた。  頭上の『孔』から吐き出される烈風が、鼓膜を打って周囲の音を消していく。  その、轟々とした静寂の中で。   「――――なぜ、おまえがこの剣を持っている」    何より耳に届く声で、言峰綺礼は呟いた。 「それは俺のじゃない。遠坂から預かったものだ」 「――――――――」  思案は、どれほどの時をかけたのだろう。  ヤツは深く息をつき、ようやく―――対峙してから一歩も動かなかった体を、ぐらりと揺らした。 「そうか。以前、気紛れでどこぞの娘にくれてやった事があった。あれはたしか十年前か。  ―――なるほど。私も、衰える筈だ」    言峰綺礼という神父の体が、力なく倒れていく。 「―――――――」  ……それを、最後まで見届けた。  死の淵でさえ、他人事のように自らのカタチを語り。  今まで使役していたモノ、自らが望んだモノの中へ神父は沈んでいく。               それが言峰綺礼という男の最期であり。            ―――長かった戦いの、本当の終わりだった。  セイバーに肩を借りて、なんとかここまで戻ってきた。  胸の傷はまだ完治しない。  セイバー曰く、あと数時間は大人しくしていろとの事だ。 「―――――――」  唇を噛む。  やるべき事が決まったっていうのに、言うことをきかない体が恨めしい。 「……シロウ。何かいま、よからぬ事を考えませんでしたか?」 「え――――? い、いや、別に何も考えてないぞ、うん」 「まったく、あまり無茶を言うと怒りますからね。  戦いは傷が完治してからです。―――最後の戦いになるのですから、お互い万全の態勢で臨みましょう」 「……そうだな。焦るより、今は準備を整えないと」    ―――消えた言峰の行き先。  ギルガメッシュを破る手段。  考えるべき事は山ほどある。  今は体を休めて、夜が深まるのを待たなければ。    瞬間、意識が凍り付いた。 「え――――?」    人の気配がない。  空気が違う。  焦げた匂いに混じって、強い香水のような、赤い赤い血の薫りがする―――― 「――――」  走った。  胸の傷もおかまいなしで、背中に走る悪寒を振り払うように走った。  廊下を抜けて、曲がり角をまがって、見慣れたのれんをくぐる。  ――――そうして。    目の前に広がる景色は、見慣れた居間とはかけ離れていた。 「遠――――坂」    声が震える。  ここで何が起きたのかなんて知らない。  判るのは、今にも消えそうな息遣いで、こっちを見据えている遠坂だけだった。 「……あ、やっと帰ってきた……まったく、もうちょっとで寝ちゃうところだったじゃない、ばか」    ―――何のつもりか。  話す事さえ出来なさそうな体で、遠坂は、いつも通りの言葉を返して、きた。 「な――――喋るなばかっ……! くそ、とにかく血を止めないと……! セイバー、風呂場からタオルとお湯と洗面器……!」  セイバーは無言で頷き、すぐさま脱衣場へと走っていく。 「―――包帯。包帯と血止め―――血止めだけですむかバカ、医者、医者を呼んでどうにかしないと―――!」  混乱した頭で救急箱を引っ張り出す。 「……いい。手当は自分でしたから、医者はいらない。  それより、もっと大事なことが、あるでしょ」 「な――――」  はあはあと息をこぼしながら、遠坂はじっと俺を見つめてくる。 「―――――――遠坂?」  ……あいつが何を訴えているのか、俺には判らない。  判らないけど、今はあいつの言う通りにするべきだと頷いた。 「……本当に傷はいいのか、遠坂。  おまえ、これは――――」 「いいの。血止めぐらい自分で出来る。  それより―――ごめん。留守を任されてたのに、わたし、イリヤを守れなかった」 「え――――?」  それで、ようやく冷静になれた。  ……傷ついた遠坂。  ……ズタズタにされている居間。  それと。  いるべき筈の、イリヤの姿がない事に。 「…………やってきたのは言峰か?」 「―――――――」  こくん、と頷く。  ……残った敵はヤツだけなんだから、訊くまでもない事だ。  それでも、言峰が敵だと知っているのは俺とセイバーだけだった。  遠坂にして見れば、これは完全な不意打ちだったのだろう。  師弟であり後見人だった男が、七人目のマスターだったというのだから。 「……謝るな。いくらおまえでも、騙し討ちされたらどうしようもないだろ。……おまえ、なんだかんだいって言峰を信頼してたしさ」 「―――そうね。正直、甘く見てた。自分一人でもなんとかなるって、自惚れてた、みたい」    ごふ、と咳き込む。  ……まずい。やっぱり喋らせる訳にはいかない。 「……話は後にしよう。今は動くな。すぐに手当をして、休ませてやるから」 「―――うん、お願い。けどその前に、伝えておかないとダメっぽい。  ……いい士郎。これが最後の助言だから、きちんと聞きなさい」 「――――――――」  縁起でもない事を言う。  だが、黙ってそれに頷いた。  こんな体で、こんな真剣な目をされているのだ。  一体どこの誰に、今のこいつを黙らせられるっていうのか。 「……まず一つ目。言峰の目的はイリヤよ。あの娘が今回の聖杯の器だって、あいつは初めから知ってたんでしょうね」 「な――――イリヤが、聖杯……!?」 「……正確には、あの子の心臓ね。魔術師っていうのは魔術回路を持った人間だけど、イリヤは魔術回路を人間にした子なの。  サーヴァントが残り一人になった時、あの子自体が聖杯を降ろす器になると思う」 「―――――じゃあ、イリヤは言峰に……?」 「連れて行かれたわ。でも……ぐっ……! セイバーがまだ健在なら、道は開かない。言峰だって、器になるイリヤをどうにかしようなんて、考えない、はず」 「――――――――」  ……今は、それを願うしかない。  ランサーだって一筋縄ではいかないサーヴァントだ。  ギルガメッシュに敵わないまでも、逃げ出す事は出来ているのではないか。  ……今はそれに賭けるしかなく、そんな事、今の遠坂に言える筈もなかった。 「わかった。イリヤは俺が助け出すから、安心しろ」 「……そう。じゃあ二つ目。  言峰の居場所だけど、きっと柳洞寺だと思う。  聖杯の降霊場所として、あそこ以上の場所はないもの。  教会はもう引き払ってるだろうし、隠れてるとしたらあの寺だから」 「――――ああ。言峰がいるのは柳洞寺だな」    ……もう首を動かす事さえ出来ないのか。  それでも確かに、遠坂は頷いた。 「じゃあ最後。―――貴方じゃ綺礼には敵わない。それでも、戦う?」  それは。  友人としての遠坂凛ではなく、純粋に状況を判断する、魔術師としての問いだった。   「――――――――」    答えは決まっている。  勝算はなく、事態は最悪だ。  それでも―――― 「―――戦う。ヤツには借りが山ほどある。  何があろうと引く事はできない。言峰綺礼は、衛宮士郎が倒すべき敵だからな」  俺は、あいつと決着をつけなくてはいけない。  十年前の生き残りとして。  あの孤児たちの一人として。  そして、衛宮切嗣の息子として。 「……そう。なら、これあげる。護身用の物だけど、何もないより役に立つわ」  言って、遠坂は背中に手を伸ばし、気だるそうに一振りの短剣を取り出した。 「……手はあるのか、遠坂」    ……ヤツとは絶対に決着をつける。  今の自分たちに勝算がなくとも逃げる事はできない。  その中で、遠坂に策があるというのなら、それがどんな物であろうと聞き届ける。 「……残念ながら。けど、餞別をあげる。護身用の物だけど、何もないより役に立つわ」  言って、遠坂は背中に手を伸ばし、気だるそうに一振りの短剣を取り出した。    明確な敵がいなくなり、ようやく、最後の大仕事と対面した。  頭上に穿いた黒い『孔』。  あの泥こそ止まったものの、不気味な空洞は今も胎動を続けている。    ―――アレが聖杯。  この戦いの勝者に与えられると言われた物、あらゆる願いを叶える万能の杯――――。  風が吹いている。  言峰が消えて、イリヤを縛っていた力がなくなったのか。  イリヤはあの『孔』から解放され、今は俺のすぐ傍で眠っている。  命に別状はなさそうだ。  家に帰って、遠坂に看てもらえばきっと目を覚ますだろう。    ……戦いは、終わったのだ。  もう誰も傷つく事はないし、誰も失う事もない。  マスターはいなくなり、サーヴァントもその役目を終え、この世界から姿を消す。    既に判っていた事だ。  長い階段を、彼女と一緒に歩いてきた。  別れはもう済んでいる。  あとはただ、最後の幕を下ろすだけだ。 「――――――――」 『孔』を見上げながら、何もないからっぽの心で待ち続ける。    ……そうして、彼女はやってきた。    出会った時と何も変わらない姿で、まっすぐに、俺の下へと歩いてくる―――― 「――――――――」    手が触れあえる距離で、彼女は立ち止まった。  無事を確かめる言葉も、勝利を祝う言葉もない。    これはもう決めていた事。  ならば、やるべき事も一つだけ。 「……聖杯を破壊します。それが、私の役割です」    そう告げて、彼女は歩き出した。 『孔』から吹き付ける強風を物ともせず、一歩一歩進んでいく。 「――――――――」    間合いになったのか。  彼女は静かに剣を構え、黒い『孔』へと視線を向ける。  ……その背中を、眺めていた。  血が滲むほど拳を握りしめ、唇を噛んで、口からこぼれてしまいそうな気持ちを殺して、彼女の姿を焼き付ける。  そうして。   「マスター、命令を。貴方の命がなければ、アレは破壊できない」    背を向けたままで、彼女は、最後の令呪を使えと言った。  聖杯を破壊すればセイバーは消える。  いや―――聖杯を自らの手で破壊したセイバーは、もうサーヴァントになる事もない。  セイバーは、聖杯に固執したからこそサーヴァントとなった。  その彼女が自らの意思で聖杯を壊すという事は、契約を断つという事。    ―――ここで聖杯を破壊してしまえば。  彼女は永遠に王のまま、その生涯を終えるのだ。   「――――シロウ。貴方の声で聞かせてほしい」    セイバーの声。  それを聞く度に叫び出しそうになる。  ―――行くな、と。  ここに残ってくれと、剥き出しの心を叫びたくなる。 「――――――――」    だが。  それは、死んでもしてはいけない事だ。    セイバーを愛している。  誰よりも幸せになってほしいと思うし、一緒に居続けたいと願っている。  けれど、本当に彼女を愛しているのなら、それは違う。  傷つき、それでも戦い抜いたセイバーを愛した。  全てを捨てて、傷だらけになりながらも、それを守り抜いた少女がいた。    ―――それを美しいと感じ、守りたいと思ったのなら。    彼女の人生を、俺のわがままで台無しにする事は、できない。    王として生まれ、王として生きてきた。  何がなくなろうとそれは変わらず、剣を持つと誓った時から、少女は王以外の何者でもなくなった。    それが彼女の誇り。  最期に、己の信じた道が間違いではなかったと迎える為に、戦場を走り続けた。    アルトリアという少女の夢。  自らの人生を捨てて王を選んだ心。  戦うと。  その最期が報われない物だと知らされても、なお剣を執り、王の誓いを守ったのだ。    ―――何年も。  おそらくは死ぬ時まで続いたその誇りを、汚す事だけは、してはならない。   「――――セイバー。その責務を、果たしてくれ」    万感の思いを籠めて告げた。      ―――溢れる光。    空に穿たれた『孔』は光の線に両断され、跡形もなく消滅した。    あたりには何もない。  何もかも吹き飛んだ山頂は、まったいらな荒野に変わっていた。    遠くには夜明け。  地平線には、うっすらと黄金が射している。 「――――っ」    左手が痛む。  最後の令呪が消えていく。    ―――それで。  本当に、幕は下りたのだと受け入れた。 「――――これで、終わったのですね」 「……ああ。これで終わりだ。もう、何も残ってない」 「そうですか。では私たちの契約もここまでですね。貴方の剣となり、敵を討ち、御身を守った。  ……この約束を、果たせて良かった」 「……そうだな。セイバーはよくやってくれた」    それで、口に出せる言葉がなくなった。  セイバーは遠く、俺は彼女に駆け寄ることもしない。    朝日が昇る。  止んでいた風が立ち始める。  永遠とも思える黄金。  その中で、   「最後に、一つだけ伝えないと」    強く、意思の籠もった声で彼女は言った。 「……ああ、どんな?」    精一杯の強がりで、いつも通りに聞き返す。  セイバーの体が揺れる。  振り向いた姿。  彼女はまっすぐな瞳で、後悔のない声で、          「シロウ――――貴方を、愛している」      そんな言葉を、口にした。    風が吹いた。  朝日で眩んでいた目をわずかに閉じて、開く。 「――――――――」  驚きはなかったと思う。  そんな気がしていたのだ。  別れは。  消える時は、きっとこうじゃないかと思っていた。  視界に広がるのは一面の荒野だけ。  駆け抜けた風と共に、騎士の姿はかき消えていた。    現れた時と同じ。  ただ潔く、面影さえ残さない。   「ああ――――本当に、おまえらしい」    呟く声に悔いはない。  失ったもの、残ったものを胸に抱いて、ただ、昇る光に目を細める。    忘れえぬよう、どうか長く色褪せぬよう、強く願って地平線を見つめ続けた。            ――――遠い、朝焼けの大地。      彼女が駆け抜けた、黄金の草原に似た。    目を覚ますと衛宮士郎の姿はなかった。  遅れた昼食の支度でもしているのかと居間に向かったが、士郎の姿はおろか昼食さえ発見できなかった。   「……また一人で出歩いて。出かけるのなら声をかけてと言ったのに、どうしてシロウは人の話を聞かないのか」  ひとりごちて、縁側に腰を下ろす。   「……まったく。一人で出歩くのが好きなのは判りますが、これでは協力している意味がないではありませんか」  所在なげに足をぶらつかせる。  それもいつしか飽きて、物思いにふけるように視線をあげた。    空は一面の灰色だった。  天蓋めいた雲はゆっくりと流れており、遠くの空には切れ間が見えた。  この分なら、夜になれば晴れるだろう。  星が見えるようになったのなら、明日の事を占える。  昔、自分付きの魔術師に教わった星読みを、彼女はまだ覚えていた。    今まで自分の道が正しいか、などと堅苦しい事にしか使っていなかったが、今夜ぐらいは、特定された人物の明日を占いたいと思ったのだ。    それも、出来れば輝く明日を。    群がる危険を察しておいて、最も善き道を進ませるのだ。  彼女が心配する相手はともかく危なっかしいので、それぐらいはしないと安心して眠れないのである。   「―――さて。問題はこの町から観測できる星の位置ですが」    思えば、この日まで夜空を見上げた事はなかった。  彼女にとって優先すべきは聖杯戦争に勝ち残る事であり、誰かの為に星を読む事ではなかったからだ。  自分らしくないとは彼女だって分かっている。  それでも、それを知った上で星読みをしようとして、夜の〈帳〉《とばり》を今か今かと待っている。    ……まったく、凄まじいまでの心境の変化と言えよう。  これではまるで、物語に聞く恋する少女ではないかと苦笑し、遠くの空を眺め続ける。   「あ、セイバー。士郎が何処に行ったか知らない?」   「り、凛……!」  がばり、とゼンマイ仕掛けのように立ち上がる。 「な、なんでしょう、私は別に、シロウの軍門に下ったワケではありませんがっ……!」  顔を真っ赤にして言い立てる。   「あれ? もしかしてお邪魔だった?」    にやり、と意地悪く笑う凛。    同じ屋根の下に住んでいる事もあるのだが、衛宮士郎とセイバーの反応はとにかく判りやすい。  他人の事に関してのみ勘のいい彼女は、二人が色々と立て込んでいる事などお見通しだ。  そういう訳なので、無論、昨夜の出来事もそれとなく気が付いている。   「――ま、からかうのは後にしておいて。冗談抜きで士郎知らない? イリヤの熱が上がってるみたいだから、ちょっと手伝って貰おうと思ったんだけど」 「イリヤスフィールが……? 彼女の容態は落ち着いたのではないのですか?」   「……それがどうにもね。士郎には黙ってたけど、あの子そろそろ限界よ。聖杯戦争っていう儀式が終わらないかぎり元には戻らない。あの子のキャパは破格だけど、それでももう一杯なの。  今はまだかろうじて容量が空いてるから、余分な機能が働いている。けど、満ちてしまえば一番不要な“人間としての機能”を棄てるしかない。イリヤスフィールはね、聖杯戦争が進めば進むほど壊れていくように作られているのよ」    忌々しげに凛は語るが、セイバーには彼女の言わんとするところが掴めなかった。   「あ、いいのよ、今のは判らないように言ったんだから。イリヤの事は置いておきましょ。それよりランサーの事だけどね。あいつのマスター、誰だか判ったんだけど」 「! ランサーのマスターが判明したのですか?」 「うん、まあ……判ったっていうか、前から判ってたっていうか。  実はね、ランサーのマスターは魔術協会から派遣された外来のマスターなのよ。それ自体はとっくに判ってて、ついさっきそいつのねぐらを見つけてきたんだけど……」   「凛。そのような危険な事は避けるべきです。敵の陣地が判ったのなら、私に言ってくれればいい」 「私だってそのつもりだったわよ。けどさ、外から様子を探ってたらどうもおかしいのよ。で、留守っぽいなって中に入ってみたら、あったのは血の跡と、令呪がなくなった左腕だった。  それ以外は何もなかった。身体ごと令呪を奪われ、しかもあの出血量じゃ生存は絶望的でしょうね。……ランサーのマスターは、とっくにやられてたのよ」   「―――? ではランサーは既にいないのですか? 十日前、シロウを襲った後に他のサーヴァントに倒されたと……?」 「……だったらいいんだけどね。血痕はもっと前のものだった。これ、どういう事か判る……?」   「―――サーヴァントを倒さず、先にマスターを倒した。  そうしてマスターから令呪を奪い、ランサーと契約したマスターがいる、という事ですか?  ですが――――」   「残っているマスターは私と士郎だけでしょ。けどランサーはまだ残っている。  って事は、マスターじゃない魔術師が令呪を奪ってマスターになってるって事だけど……セイバー、そういうのって出来るものなの?」 「いいえ。令呪の移植はマスターかサーヴァント、そのどちらかによるものだけです。いかに優れた魔術師と言えど、令呪を奪ったところでマスターにはなれません」   「……そう。じゃあもう一つ。マスターっていうのはさ、聖杯が消えてなくなっても令呪が残っていて、かつ、サーヴァントさえ残っていればいつまでもマスターなの?」 「え……そ、そうですね、凛の言う通りです。令呪とサーヴァントさえ残っていれば、聖杯戦争が終わったとしても、その魔術師はマスターとしての権利を――――」    凛の質問の意図に気づいて、セイバーは言葉を飲む。   「では、凛は……ランサーのマスターを殺し、ランサーと再契約したのは、その」 「……ええ。それ以外ないと思う。そう思うとランサーの行動にも納得がいくのよ。  あいつさ、他のサーヴァントの様子を探るのが役割みたいだったじゃない。戦えば自分の正体を明かしてしまうっていうのに、あいつは自分の正体を隠すでもなく他のサーヴァントにちょっかいだしてた。  それってつまり、あいつは諜報専門だったって事でしょ」   「―――同感です。私と戦った時も、彼は最後まで戦わなかった。宝具を使った以上、見せた相手は倒すのが私たちの定石だというのに」   「そう。だからランサーのマスターには、もう一人サーヴァントがいたのよ。ランサーに敵の正体を探らせておいて、その後に正体不明の戦闘専用のサーヴァントをぶつける。これって必勝法でしょ。  ……ま、ランサーにして見ればいい迷惑だったろうけど。六人のサーヴァント全員と戦って、その手口を調べあげた上で主の下に帰るんだもの。  六人全てと引き分けなんて、ある意味とんでもないヤツよね、あいつ」    凛は口を閉ざして思案にふける。  その重い表情につられたのか。 「――――――――」  理由もなく、セイバーは寒気を覚えた。  既に殺されていたランサーのマスター。  あれだけの英霊を諜報活動だけに使う、正体不明のマスター。    ……そして思惑通り、残ったサーヴァントは自分とランサーだけとなった。  そんな相手が敵だというのならば、たとえ昼間であっても士郎を一人にさせるのは危険ではないのか。    今まで、敵は複数いた。  だが今では、もう他に倒すべき相手がいない。  あと一人、自分と士郎を倒すだけという状況なら、敵は今までのような“規定通り”の戦いなど守らないのでは――――   「凛。シロウは何処に行ったのか、知りませんか」    一度思ってしまえば、あとはもう止まらなかった。  士郎を一人にしてはおけない。  こうしている間にも、彼女のマスターは取り返しの付かない状況に陥っているかもしれないのだ。   「……え? ……んー、どうだろう。知らないから訊いたんだけど、もしかしたら綺礼のトコかな。あいつ、このあいだも綺礼なんかに相談しに行ったんだし」 「あの教会に――――?」 「ん? なによセイバー、怖い顔して。言峰教会に含むところでもあるの?」 「……いえ。そういう訳ではないのですが」    あの教会は、決して聖なる場所などではない。  死の淀み、空気が淀んでいるという点で言えば、あの柳洞寺と同格だ。  そんなところに士郎が一人でいるのか、と悔やんだ瞬間。    彼女の脳裏に、ここではない映像が浮かび上がった。   「―――――――」  ―――虚空を睨む。  方角はただ一点、丘の上に〈聳〉《そび》える言峰教会。  余裕などない。  庭に飛び出したセイバーはそのまま庭を駆け、塀の上へと飛び乗った。   「ちょっ、ちょっとセイバー! いきなり何よ……!?」 「―――教会に向かいます。あとの事は任せました、凛」    駆けつけてくる凛に振り返りもせず、塀から跳躍する。  一瞬にして駆け抜けていった少女の姿は、それこそ弾丸のようだった。   「――――」  一度たりとも立ち止まらず、失速さえなくこの場所まで辿り着いた。  見た者がいたとすれば、彼女の姿は突風にしか見えなかっただろう。  その突風は、既に銀と青の甲冑に包まれている。  坂を上りきり、目指す敵地を視界に納めた途端、セイバーは武装していた。   「――――――――」    彼女に武装するつもりなどなかった。  鎧を纏うのは教会に入ってからだと決めていたのだ。  しかし歯止めがきかなかった。  教会を視界に納めた途端、理性が白熱し全身を武装していた。    ―――胸が熱い。    先ほどからこみ上げてくる吐き気は、決して彼女自身の物ではない。  それは彼女のマスターから伝わってくる悪寒であり、もはや絶望的なまでの死の匂いだった。    何が起きているかなど判らない。  確かな事は、衛宮士郎が死にかけているという事だけだ。    それも猶予などまったくない。  一秒後には絶命していてもおかしくない傷。  その痛みと悪寒は、いまや耐えきれない吐き気となって彼女の全身を駆けめぐっている。    それは衛宮士郎が受けている苦痛の何千分の一にも満たない物だ。    ……助からない。  こればかりは、たとえ神速で駆けつけようと間に合わない。    こうしている間にも彼は息絶え、自分は目の前でマスターを失う事になるのではないか――――    その光景を想像した瞬間、彼女の理性はかき消えた。  今はただ全力で主の下に駆けつけるだけ。  神速で間に合わぬのであらば、神の道理を斬り伏せるのみ。   「――――――――――――」    怒りを押し殺した瞳が教会を射抜く。  固く閉ざされた扉を吹き飛ばし、礼拝堂に突入した。  椅子など見えない。  道を無視して礼拝堂を突っ切り、中庭を越え、地下へ通じる階段を駆け抜ける。    ―――その後に残ったものは、デタラメに破壊された教会の壁や床だった。    断っておくが、彼女とてそこまで乱暴ではない。  扉は冷静に開けたつもりだし、地を駆ける足にそこまで魔力を込めた覚えはない。  ただ、それが制御できなかっただけの話だ。  階段を転がり落ちるように抜け、地下聖堂に辿り着く。    ―――死の気配が近い。  そうして、視界にソレを捉えて、怒りは限度を超えてしまった。  自身に対する怒りと、ソレをした敵に対する怒り。   「―――よう。悪いがそこまでだ、セイバー」    立ち塞がる槍兵の声も聞こえない。  手足の〈力〉《りき》みは最高潮に達し、どうやっても、力の加減など出来そうになかった。    彼女の主は、闇の中に沈んでいた。  奥の部屋。  生きた死体が安置された部屋のただ中で、うつぶせになって倒れている。  ……その下は赤い血で濡れ、必死に喘ぐ息遣いは、この聖堂にまで届いていた。  ……生きている。  そう安堵した反面、あれだけの傷を受け、今まで放置させてしまったのかと身を震わす。   「シロウ――――――――」    奥の部屋へと踏み出すセイバー。  だが、部屋の前には番人がいる。  長槍を背後に携え、青い槍兵は不敵な眼差しでセイバーを見据えていた。   「よう。悪いがそこまでだ、セイバー」 「―――――――」    声など聞こえない。  故に、彼女は止まらなかった。   「っ……! テメエ、いきなり見境なしか……!」    罵倒しつつ、受けたのは流石というべきか。  セイバーの奇襲を槍で防いだランサーは、その威力を殺しきれず壁際まで後退していた。   「――――――――」    だが、それで邪魔は〈退〉《の》いた。  今はランサーの相手をしている暇はない。  彼女は一秒でも早く、死に直面した主を救わねばならないのだ。   「ハッ、そんなに坊主が大事か。  それは構わねえが―――なら尚のこと、オレを放っておく訳にはいかないぜセイバー?」    奥の部屋へ向かうセイバーの足が止まる。   「――――それは、どういう意味ですかランサー」 「いや、なにな。そいつの胸を串刺しにしたのはオレなんだが、実はこれは二度目でね。以前は確かに殺したってのに生きてやがったもんだからな、今回は念を入れて“刺して”やったワケだ」   「貴様―――シロウにゲイボルクを使ったのか……!」 「安心しろ、心臓は外してやった。だが呪いはそのままだぞ。  ―――セイバー、貴様とてこの槍の呪いは知っていよう。因果を逆転させる“原因の槍”。コイツの呪いを受けた者は、よっぽどの幸運がないかぎり運命を変えられない」   「まあ単純に言ってしまえば、ゲイボルクによってつけられた傷は癒される事はない。  呪いを受けたものは決して回復できず、死に至るまで傷を背負う事になる。―――この世に、この槍がある限りな」    それで、場の空気は一変した。  主以外は何物も許さぬという彼女の瞳に、理知の光が戻る。   「―――フン、ようやく理解できたか。そこの坊主を助けたいんだろ? ならまず、オレとの決着をつけなくっちゃあな」    獣じみたランサーの殺気が、セイバーの圏内に侵入する。  ランサーが本気である事は明白だ。  だが――――   「正気ですかランサー。この狭い室内で、槍兵である貴方が剣士である私と戦うと? そのような愚考、貴方の考えとは思えない。  ……今ならば見逃します。その槍を置いて去りなさい。  このような不本意な戦いで、貴方の首を獲る気はない」   「それこそ愚考じゃねえのか? いったいどこの英霊が自分の相棒を置いてくってんだよ。  オレは何も取引をする為にそいつを刺したワケじゃない。  ―――オレはな、おまえと殺し合いをする為に此処にいる」    その言葉に偽りはない。  ランサーには二人を生かして帰す気はない。  彼にとって、これが最初にして最後の“本気”の戦いなのだ。    ランサーの望みは聖杯にあらず。  彼の望みは、ただ英雄として相応しい戦いのみ。  そんな単純な、サーヴァントならば当然のように与えられるべき望みが、彼には今まで叶えられなかった。    故に―――その機会、おそらくは最後であろうこの瞬間を逃がす気など微塵もない。  それがたとえ、彼にとってこの上なく不利な状況であったとしても。   「―――いいでしょう。ならばその槍、御身ごと叩き斬って捨てるだけだ」    セイバーは風王結界を構え、青い騎士と向かい合う。   「よく言った。白状するとな、貴様が最後に残ってくれて嬉しいぜセイバー……!」    ランサーの槍が閃光となって迸る。  それに正面から立ち向かうセイバー。    再戦は、互いに必殺の一撃を以って開始された。                     『痛い 痛い 痛い 痛い』   「あ――――はあ、はあ、はあ、あ――――」    もう、自分の呼吸音しか聞こえない。  人を黒こげにするほどの熱病にでもかかったのか、頭の中はとっくに溶けて、耳から流れ出したかのよう。                   『止めて 止めて 止めて 止めて』   「は――――はあ、あ、はあ、は、あ――――」    どうかしている。もう脳みそはないみたいなのに、体は痛みを訴え続け、空っぽの頭は律儀にそれを受け入れている。                   『助けて 助けて 助けて 助けて』   「あ――――はは、あ、はあ、は、は――――」    空洞なのは頭だけじゃない。  胃も心臓も所在は不明。  堪えきれない吐き気、吐く物など残っておらず、吐き気は際限なく増していく。  その無限循環に、歯を噛んで耐え続ける。  ……意識は保てる。自分だけの痛みなら、自分だけが耐えればいいだけ。そんな事なら、問題はない。                   『返して 返して 返して 返して』   「は――――あ、あ、はあ、は、あ――――」    だから、問題はこの声だった。  聞こえるのは己の呼吸だけで、頭の中は空になって久しいのに、声はずっと響いてくる。  それが誰の声なのか、考えるまでもなかった。                   『痛いの 痛いの 痛いの 痛いの』   「は――――ああ、はあ、あ、あ――――」    気が狂う。  彼らの声を聞く度に胸が深く〈抉〉《えぐ》られる。  恐ろしくはない。  俺には、ただ、〈贖〉《あがな》う術が足り無すぎた。                    『ねえ ねえ ねえ ねえ』   「ああ―――あ、はあ、はあ、あ――――」    どんなに助けを求められても、どんなに助けたいと思っても、俺には助ける事などできない。  呼びかけるのは止めろなんて言わない。  ただ、どれほど請われたところで、応えてやる事ができないだけ。  ―――だから。  このまま続けば、心が壊れると思った。                   『戻して 戻して 戻して 戻して』   「っ―――……はあ、あ、あ、ぐっ――――!」    いくら請われても、頷く事などできない。  俺に出来る事は、せめて終わらせる事だけだ。  生かされている死体という矛盾を、正循に戻すだけ。  この地獄を作り上げた原因に、償いをさせるだけ。    俺には。  悲しい出来事、悲惨な死を、元に戻す事は出来ない。    ―――それが限界。  正義の味方なんてものは、起きた出来事を効率よく片づけるだけの存在だ。    ……そう言っていたのは誰だったか。  それを否定した自分に、こうして追い詰められている。  正直、逃げ出したかった。  俺には彼らに報いる術がない。  こうして声を聞くだけで、叶えてやれる奇蹟など持たない。  正義の味方なんてそんなものだと、吐き捨てたあいつを否定する力もない。    ……なら、仮に。  もし彼らを助けてやれる“奇蹟”があるとしたら、俺はそれを、使うのだろうか―――― 「―――来たか。そら、目を覚ませ衛宮士郎。おまえのサーヴァントがやって来たぞ」    ……声が聞こえた。  頭の真後ろから聞こえた声。  だが、それが何を言ってるのか、よく聞き取れない。    ……視界が霞む。  目前には何もない。  あるのはただ、助けを求める彼らの声と、とうに死体となっている、彼らの姿だけだった。 「……ふむ。よくやっているが、やはりセイバーには敵わぬか。どちらにせよあと一人分のサーヴァントは必要なのだ。それがセイバーであろうとランサーであろうと構わないのだが―――その前に、選定をしなくてはなるまい」  ……何も聞こえない。  だというのに、何故、この男の声は俺の頭に響いてくるのか。 「さて、出番だ。もう少し前に行こうか、衛宮士郎」    ―――頭があがる。  男は俺の頭を掴み、ずるずると引っ張っていく。    ―――それで、背後の人間が何物なのか感じ取れた。    男は、黒い汚濁を飲み込んでいた。  心臓は黒く、何か、得体の知れない闇に包まれている。  黒い汚濁は外界から伸びていて、男を戒める鎖のようでもあった。 「――――――――」    それが何を意味しているのかは判らない。  はっきりしている事は一つだけ。  男―――言峰綺礼は、〈衛宮士郎〉《じぶん》と同じだった。  ヤツの体にはひどい致命傷があって、それを、得体の知れない“何か”で補っている。  衛宮士郎がセイバーの力で傷を治すように、  言峰綺礼は、死体に近い肉体を、黒い汚濁によって維持している―――― 「そこまでだセイバー。己が主を救いたいのならば、その剣を納めるがいい」    ……何が起きているのか。  視界はいまだ朦朧として、顔をあげる事さえできない。 「ランサーも引け。もともと私たちは聖杯を求める同志ではないか。そう無闇に殺し合いなどするものではないぞ。セイバーがこの男を引き取りに来ただけというのならば、喜んで引き渡そう」    陰鬱な笑い声。 「―――それを信じろというのですか。ランサーのマスターを殺し、今また私のマスターを手にかけようとする、貴様の言葉を信じろと」    ……その相手は誰なのか。  声こそ聞こえないものの、その音は、朦朧とした意識の中で、鈴のように響いてくる。 「信じたまえ。私はおまえたちと争う気はない。期せずしてこのような形になってしまったが、おまえたちが聖杯を獲ろうというのなら邪魔はしない。  もとより、私の役割は聖杯の持ち主を見極める事だ。  ここまで残ったおまえたちには十分すぎるほど資格がある。故に―――望むのならば、今ここで聖杯を与えてやってもよいのだが」 「―――! ここに聖杯が有るというのか、貴様は」 「有るとも。聖杯は何処にでもある。  聖杯とは、もとよりカタチのない器だ。いつ、どこで、何に呼び出すかによって完成度が変わるのだが、呼び出すだけならばこの〈教会〉《とち》にも資格はある」 「無論、サーヴァントが残り一人にならなければ聖杯は未完成だが、その出来でも大抵の願いは叶えられるだろう。それで満足がいかぬのならば、その時こそ最後の殺し合いを始めればよい。  いや、私としては気乗りがしないが、おまえたちが望むのならば付き合おう。決着をつけるのはその時でいいのではないかな、ランサー」 「……よくはねえ。そんな回りくどい事をする必要はない。白黒つけるなら今すぐ出来るだろう」 「この状況でか? 室内ではおまえには不利だろうし、セイバーとて主が気になって戦えまい。これではおまえにとって満足のいく戦いとは言えないが」  チッ、と唾を吐く音。  不承不承に、その男は頷いたようだ。 「……いいさ、なら一つ訊かせろ。聖杯ってのはなんだ。  アレは残り一人にならなければ現れない物じゃなかったのか。オレたちを呼んだ連中は、初めからペテンにかけてたって事か?」 「いや、事実ではある。聖杯はサーヴァントが残り一人にならなければ現れない。  だが―――聖杯を降ろす器は別だ。  アレは初めからカタチある物として用意され、聖杯召喚の時まで力を流し込まれていく」 「残るサーヴァントがあと二人だけという状況ならば、すでに聖杯としての力を持ち始めていよう。  そうであろうセイバー? おまえとて前回最後まで残ったサーヴァントだ。アインツベルンの用意した“聖杯”がどんなものか、薄々判っているのではないか?」 「――――――――」 「そう、聖杯は常に此処にあり、生け贄の血で満つる時を待つ。  だが、それは空しいとは思わないか。何も残り一人になるまで付き合う事はない。おまえたちの“望み”を叶えるだけならば、今の状態でも可能だろう。  ならば、ここで意味のない殺生をする事もあるまい」 「……そうですね。確かに貴様の言い分は正しい。  だが、だとしたら貴様は何者だ。貴様の目的は、聖杯を手に入れる事ではないのか」 「私は選定役だと言っただろう。相応しい人間がいるのならば、喜んで聖杯は譲る。  その為に――――まずはおまえの言葉を聞きたいのだ、衛宮士郎」  体が動く。  後ろから頭を掴まれて、体を持ち上げられたのか。    いた、い。    胸の傷が開く。  痛みで、かろうじて生きていた視界が真白に戻る。 「貴様――――!」 「案ずるな。ただ返事を聞くだけだ。  聖杯は求める者にのみ応える。己れのマスターが聖杯に相応しいかどうか、おまえとて興味はあろう」 「―――それは、無駄だ。シロウは聖杯を欲しがらない。  私のマスターは、おまえのような下衆ではない」 「ああ、この男は初めからそう言っていたな。  ―――だがそれは本心ではあるまい。あらゆる人間に闇があるよう、この男にも影はある。  例えば、そう。十年前のあの日、この少年は本当に何も恨まなかったのか。その先にあったものを、忘れる事で振り払っているのではないか」  ――――。    待て。  何を言っているんだ、こいつ。  十年前の火事なんて関係ない。  そんな事をしても意味がない。    その先にあるものなんて、有るはずがない。              「その傷を切開する。     さあ―――懺悔の時だ、衛宮士郎」    がくん、と体が反れる。  首の後ろに電流を流されたように、意識が裏返る。  ―――消える意識と、入れ替わりで赤い映像がやってくる。  止めろ。  止めろ。  止めろ。  止めろ。止めろ。止めろ。  止めろ、止めろ、止めろ、止めろ、止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ止めろ……………!!!!  そんな事、本当に意味はない。  今さら―――今さら思い返したところで、誰が救われる訳でもないんだから――――!    みな死んだ。  みな死んでいた。  炎の中、〈彷徨〉《さまよ》っていたのは自分だけ。  家々は燃え尽き、瓦礫の下には黒こげになってしまった死体があり、いたるところから泣き声が聞こえていた。                      ―――――――。                     『痛い 痛い 痛い 痛い』    一人で歩いた。  助けを求めて、誰でもいいから助けてほしくて、脇目も振らずに歩き続けた。                  ――――止めろ。  そのあいだ。  どうして、そうやって動ける自分に、助けを求める声がなかったと思えるのか。                  ――――止めろ。                   『助けて 助けて 助けて 助けて』    ああ気づいていた。  気づかない筈がなかった……!  その中を歩いたんだ。    痛い、とすすり泣く声も無視して、    出してくれ、と咆える音も無視して、    死にたくない、という絶叫も無視して、    この子も一緒に連れて行ってほしいという母親の懇願も無視して、    助けを求める事さえできない死に逝く瞳さえ無視して、   ただ、ただ自分だけが助けを求めて歩き続けた―――!                   『待って 待って 待って 待って』    死体なんて見飽きている。  苦しんで死んでいく人間なんて見飽きている。  どうせ自分には助けられないと思った。  何をしてもみんな死ぬと思った。  だから、立ち止まる事もしなかった。                        ――――止めろ。                   『返して 返して 返して 返して』    そこまでしたからには、一秒でも長く生きていなければ嘘だと思った。    為す術もなく死んだ人間がいるのならば。  為す術がある限り、自分は生きていなければ嘘だと思った。                      ――――止めろ。    でも、挫けそうだった。  涙を堪えながら出口を探して歩き回った。  助けを求める声を無視して、生きているのが辛かった。  ごめんなさいと。  謝ってしまえば心が楽になると知っていたから、謝る事だけはしなかった。    それが。  何もできなかった自分の、唯一の誠意だと信じて歩き続けた。                            ――――止めろ。                   『痛いの 痛いの 痛いの 痛いの』    ……そうして、望み通り、一人だけ助かった。  病室にいたのは火事が起きた周りの家、飛び火を受けて不幸にあった家の子供たちだ。  知りたくはなかったのに、白衣の男が教えてくれた。  あの地区で。  生きていたのは、君だけだと。                   ――――もう、止めろ。    苦しんで死んだ人々も見た。  それと同じぐらい、哀しんでいた人々も見た。  大きな建物で、死んでしまった人たちの葬式が行われたからだ。    あらゆる悲しみ、喪われた者への未練。  その全てを。              ―――いいから、止めてくれ。                     『ねえ ねえ ねえ ねえ』    自分は、記憶しなくちゃいけないと思った。  だってそうだろう。  あれだけの人間が助けを願って、誰一人叶えられなかった。  なら―――その願いを叶えられた自分が、彼らの死を受け持つのは当然だと思ったのだ。    否。  そう思わなければ、とても、顔をあげてなどいられなかった。                            ―――それ以上。                   『帰して 帰して 帰して 帰して』    だから必死に切嗣の後を追った。  出来なかった事の為に、救えなかった物の為に、“誰かを救う”という正義の味方に憧れた。  自分だったものなど、助けを求める声を無視するたびに削れていって、跡形もなくなっていた。  空っぽになった心で、それでも前に進まなければ許されないと。                   ―――それ以上は。                  『お願い お願い お願い お願い……!』               救わなかった、多くの死に教えられた。    ……その影で、なくなった物はなんだっただろう。  死んでいった人たちの代わりに、胸を張って前に進む事だけを考えていた。  他の事なんて思い返す余裕もなかった。  だから、ただの一度も考えないようにと、それ以前の記憶を閉じた。    誰よりも優しかった誰か。  誰よりも近いところにいた、両親だったひとたちの記憶。  それを思い返して後戻りしないように。  自分は死んだようなものだからと、固く固くフタをした。                      ―――開けるな。    それは辛いことじゃない。  衛宮切嗣に引き取られて、衛宮士郎は幸福だった。  だから、もう――――           「―――それを。  間違いだと思った事が、一度もなかったというのかね?」                        その窓を、開けるなと言っているだろう――――! 「つっ――――!」    痛み。  胸に開いた傷の痛みで、現実に引き戻された。 「は――――あ、づ――――!」    吐き気が止まらない。  手足は痺れて、頭は沸騰しそうなほど熱い。  呼吸はだらしなく途切れ、                   『戻して 戻して 戻して 戻して』    彼らの声が、頭の中で反響している。 「は――――ご、ふ…………!」  ……血を吐いた。  体が死にかけているのか、あの声に耐えきれないのか。  胸が痛い。  胸が痛い。  胸が痛い。  だが、塞いでも塞げない。  痛むのは中の傷だ。  あの記憶がある限り痛み続け、腫れ上がり、癒える事などありえない。 「――――――――」  幻覚か。  一瞬、いるはずのない彼女の姿が見えた。   「つ――――、ぐ――――」    なら、耐えないと。  いっそ死にたいなんて思うものか。  たとえ幻覚でもあいつがいるんなら――――大丈夫だって、胸を、張らないと―――― 「―――深い傷だ。これでは、癒されぬままでは苦しかろう。衛宮士郎。おまえは、そのままで一生を終えるべきではない」    神父の声。  それはヤツらしくない、慈悲に満ちた声だった。 「おまえは聖杯など要らぬと言ったな。  ……だがどうだ。仮に、十年前の出来事をやり直せるとしたら、おまえは聖杯を欲するのではないか。  あの出来事で失われたもの全てを救うのだ。  あの事故を無くし、衛宮切嗣などに関わらず、本来の自分に戻れる。  それこそが――――おまえ自身を救う、唯一の方法ではないのかな」    十年前の出来事をやり直す……?  誰一人救わずに生き延びた自分をやり直す?  いやそもそも、そんな目にあわないよう、誰一人として死なないように、あの地獄を無かった事に出来るとしたら―――― 「――――――――なんで、そんな」    頭を振り払う。  加熱した頭で、何も考えられなくなった思考で、その光景を否定した。  自分の弱さに唾を吐く。    だって、それは――――                   『痛いの 痛いの 痛いの 痛いの』    ……声が聞こえる。  痛みに耐える指が、びちゃりと湿った床に触れる。    ……助けて、と。    死んでいる筈の彼らは、声を揃えて、あの日に戻りたいと願っている。 「――――――――」    ……ああ。おまえたちにはおよびもしないだろうけど、俺だって、それを夢見なかった事はない。  切嗣に引き取られたあと。  何度も何度も焼け野原に足を運んで、ずっと景色を眺めていた。  何もなくなった場所にいって、有りもしない玄関を開けて、誰もいない廊下を歩いて、姿のない母親に笑いかけた。    ……あの日の前に戻れて。  何もかも悪い夢だったのだと、そう目が覚める日を待ち続けた。    それも叶わず、現実を受け入れたけど。  誰も傷つかず、何も起きなかった世界が掴めるのなら、それはどんなに――――   「さあ答えよ。おまえが望むのならば、聖杯を与えよう」    聖杯を司る神父が言う。                   『戻して 戻して 戻して 戻して』    俺が望めば、この声も消えてなくなる。  自分と同じ孤児たち。少し運命が違っていれば、俺もそうであった死者の海。    ならば考えるまでもない。  考えるまでも、ない、のに。             「―――いらない。そんな事は、望めない」    まっすぐに〈死者〉《かれら》を見て。  歯を食いしばって、否定した。    ―――それが答えだ。  聖杯がなんであろうとも変わらない。  死者を蘇らせる事も、過去を変える事も、そんな事は望めない。 「……そうだ。やりなおしなんか、できない。  死者は蘇らない。起きた事は戻せない。そんなおかしな望みなんて、持てない」    頬が熱い。  奇蹟などあり得ないと口にする度に、ただ悔しくて涙がこぼれた。  そんな、当たり前の幸せを望む“奇蹟”は、どうして、人の手にはあまるのかと。 「―――それを可能とするのが聖杯だ。万物全て、君の望むままとなる」    神父は言う。  けど、そんな言葉には頷けない。    たとえ過去をやり直せたとしても―――それでも、起きた事を戻してはならないんだ。  だって、そうなったら嘘になる。  あの涙も。  あの痛みも。  あの記憶も。    ―――胸を抉った、あの、現実の冷たさも。    苦しみながら死んでいった人がいた。  誰かを助ける為に命を賭した人がいた。  彼らの死を悼み、長い日々を越えてきた人がいた。  だというのに、何もかもが無かった事になってしまったら、一体それらは何処に行けばいいと言うのか。    死者は戻らない。  現実は覆らない。  その痛みと重さを抱えて進む事が、失われたモノを残すという事ではないのか。    ……人はいつか死ぬし、死はそれだけで悲しい。  けれど、残るものは痛みだけの筈がない。  死は悲しく、同時に、輝かしいまでの思い出を残していく。  俺が彼らの死に縛られているように。  俺が、衛宮切嗣という人間の思い出に守られているように。  だから思い出は礎となって、今を生きている人間を変えていくのだと信じている。    ……たとえそれが。  いつかは、忘れ去られる記憶だとしても。 「―――その道が。今までの自分が、間違ってなかったって信じている」   「―――そうか。つまり、おまえは」   「聖杯なんて要らない。俺は―――置き去りにしてきた物の為にも、自分を曲げる事なんて、出来ない」    痛みを堪えて告げた。  消え去り、倒れそうになる意識を必死に押さえて、なんとか地面に〈蹲〉《うずくま》る。    そこで、ようやく気が付いた。    ……声が聞こえない。    彼らの声は、もう響かない。    ……今の答えをどうとったのかは知らない。    ただ、最期まで俺に恨み言を遺さず、目を閉じてくれた事が、悲しいと言えば悲しかった。      ――――それが。  彼女のマスターが出した、傷だらけの答えだった。   「――――――――」    先ほどまで全身を支配していた怒りは消えていた。  彼女は言葉を失い、ただ己の主を見つめている。               “―――その道が。    今までの自分が、間違ってなかったって信じている”    血まみれの体で。  ろくに目も見えず、呼吸もままならず。  流れる涙を懸命にかみ殺して。             “―――置き去りにしてきた物の為にも、自分を曲げる事なんて出来ない”    自分が踏みつけてきたもの全てに頭を下げて、それでも、彼は道を曲げないと言い切った。   「――――――――」  視界が歪む。  満足に息ができないのは彼女も同じだ。  彼女は、彼の過去を知っていた。  衛宮士郎がセイバーの過去を共有したように、彼女も彼の過去を共有したからだ。    だから、必ず頷くと思った。  いや、頷かなければいけないと思った。  アレは貴方のせいではないと。  衛宮士郎が背負うべきものではないと、聞こえているのなら言ってやりたかった。            だというのに、彼は否定した。  どんなに苦しい過去でも。  それは、やり直す事などできないのだと。   「――――――――」    ぐらり、と体が倒れかかる。  ……その言葉が、今はあまりにも重い。  自身に誓いをたて、その達成に全てをかける。  そんな在り方が似ている、と彼女は感じていた。  だがそんなものは自惚れだった。    ―――似ていると思ったのは自分だけ。    似ている筈などなかったのだ。  あの少年の心は強く。  彼の言葉を否定するだけだった自分こそが、その道を間違えていた――――   「―――自らの救いではなく、自らの願いを取ったか」    神父は少年から手を離す。  彼は忌々しげに少年を見下ろした後、もはや興味は尽きたと、その横を通り過ぎた。   「―――では、おまえはどうだセイバー。  小僧は聖杯などいらぬと言う。だがおまえは違うのではないか。おまえの目的は聖杯による世界の救罪だ。よもや英霊であるおまえまで、小僧のようにエゴはかざすまい?」    その問いに、彼女の理性は揺さぶられた。  神父は聖杯を譲るという。  その目的、叶えるべき願いがあるのならば、聖杯を譲り渡すと。   「そ―――それ、は」    拒む理由などない。  その為だけに戦ってきた。  その為だけにサーヴァントになったのだ。  ならば――――シロウが何を言おうと、私には関係ない。      聖杯が手に入るのなら、私は――――     「では交換条件だ。  セイバー。己が目的の為、その手で自らのマスターを殺せ。そのあかつきには聖杯を与えよう」      ―――私は、どんな事だってやると決めたのだから。   「え――――――――?」    それは、あまりにも予想外の言葉だった。  正直、理解できなかったといっていい。  神父の言葉が理解できないのではなく、彼女の中には、そんな選択肢は存在すらしていなかったのだ。   「どうした? 迷う事はあるまい。今の小僧ならば、死んだという事にも気が付かないうちに殺せるぞ。  ……第一、もはや助からない命だ。ここでおまえが引導を渡してやるのも情けではないかな」    神父が道を開ける。  彼女の前には、地下墓地に通じる扉と、その奥で〈蹲〉《うずくま》る少年の姿がある。   「あ――――あ」    吸い込まれるように歩く。  神父の横を通りすぎ、湿った室内に入っていく。   「――――――――」    ……室内は、地獄だった。  この中でのたうちまわり、自己の闇を見せつけられ、   なお――――彼は、神父の言葉をはね除けた。   「――――――――」    剣に手をかける。  足下には、苦しげに呼吸をする、彼女の主が倒れている。   「――――――――」    長かった旅の終わり。  自らを代償にして願った聖杯。  それが、ただ剣を振り落とすだけで叶う。  もとより、マスターとサーヴァントは聖杯を手に入れるまでの協力関係だ。    ここでそれが終わっても、それは――――   「どうした、何を〈躊躇〉《ためら》う。聖杯と引き替えなのだぞ? 交換条件としては破格だと思うのだが」    神父の言葉はもっともだ。  ここで躊躇する事はおかしい。  ただ、それでも。   “―――その道が。今までの自分が、間違ってなかったって信じている”    その言葉が、頭から離れない。   「私―――私は」    ……悔しいけれど、シロウとは違う。  彼女はなかった事にしたい。  あの日。岩から剣を抜く人物、自分より王に相応しい人物は他にいて、  その人物ならば、平和な国を長く築けたのではないか―――    それは国を思う彼女の心。  剣を手にする前の、アルトリアという少女の迷い。  あの日。  剣を引き抜いた岩の前に、永遠に置き去りにしてきた自分の心。   「――――――――」    ……それに、どうして気が付かなかったのか。             “――置き去りにしてきた物の為にも、自分を曲げる事は――”    それは国を想う彼女の心。王になる前の、一人の少女だった頃の心だ。  けれど、それは王である彼女の心ではない。  王である彼女が信じるモノは、王であった自分のみ。  それを否定する事は、彼女が奪った多くのモノを否定する事になる。    ―――無くした物は戻らない、と。    痛みにのたうちまわりながら、彼女の主は訴え続けた。   「――――――――」    その姿が、こんなにも胸に痛い。  そんな彼に自分はなんと言っていたのか。  新しい生活など出来ない、と。  自分には王としての責務があると、頑なに拒み続けた。    それはなんだ。  滅びた国を蘇らせる事か。  自分より相応しい王を選び直す事か。  それとも―――私はただ、あの滅びを無かった事にしたいだけなのか。   「―――それは、違う」    そう、それは違う。  王として育ち、王として生きてきた。  そこに間違いなどなかった。  だから―――その結果が滅びであったのなら、何故、それを受け入れられなかったのか。    後悔などないと。  己の一生を誇れるのならば、やり直しなど求めてはならないのに。   「―――そういう事なのですね、シロウ」    士郎の慟哭が胸に響く。  あの涙も消えると。  あの痛みも消えると。  胸を抉った、残酷な重さも消える、と。    それはこの上ない赦し、消去による自己の救罪だ。    けれど。  何もかもが無かった事になってしまったら、一体、奪われた全ての想いは、何処に行ってしまうのだろう。    私は多くの物を奪い、多くの死を重ねてきた。  その痛みに耐え、悔いる事が、失われたものへの鎮魂に他ならない。  故に、もしやり直しを求めるのならば、それは過去ではなく今からだろう。    やり残した事があるのならば。  それは過去に戻ってやり直すのではなく、この瞬間から、成し得なかった願いを、築いていかなければならないのだ。   「――――――――」    けれど国を失った彼女には、もはや王としての資格はない。  なら、これから叶える願いは、彼の言う通り自分の為に――    ――――否。    それは、有ってはならない願いだ。  王となったのは自身の意思。  それが苦しかった事などない。  たとえ誰にも理解されず、受け入れられる事などなくとも。  自ら望んだその行為は、決して、顔を伏せるものではなかったと信じている。    少なくとも。  それを承知で、あの少女は剣を執ったのだから。              ―――それが答え。     彼と同じ、胸を張れる、ただ一つの答えだった。   「ああ――――」    ……遠い誓いを思い出した。  胸に抉られた一つの言葉。  ……戦うと決めた。  何もかも失って、みんなにきらわれることになったとしても。   「――――私が、愚かだった」    それでも、戦うと決めた王の誓い。    王は国を守った。  けれど国は王を守らなかった。  ただそれだけ。結果は無残だったけれど、その過程に一点の曇りもないのなら、それは―――   「――――求める必要など、なかった」    彼女は王としての責務をまっとうすると誓った。  たとえ結末が滅びであろうとも、その誓いは最後まで守られたのだ。    なら―――自分には、それ以上必要なモノなどない。    ―――そうだ。  私は全てが欲しかった訳じゃない。  初めから欲しかったものは一つだけ。  それを手に入れる為に多くのモノをこぼしてきて、それでも、最後まで守ったモノがある。    それを胸に納めたまま、せめて。  叶わなかったこの夢を、最後まで見続けよう。   「―――聖杯は欲しい。けれど、シロウは殺せない」    剣を敵に向けて、偽りのない心で言った。   「なんだと――――?」 「判らぬか、下郎。そのような物より、私はシロウが欲しいと言ったのだ」    ……だから、私の役割は決まっている。  彼の剣となり、その盾となる。  故に――――もう、迷いなど抱いていられない。   「―――聖杯は要らぬというのか、セイバー」 「聖杯が私を汚す物ならば要らない。私が欲しかったものは、もう、全て揃っていたのだから」            ……そう、全て揃っていた。  騎士としての誇りも、王としての誓いも。  アルトリアという少女が見た、ただ一度のとうといユメも。    その言葉を、確かに聞いた。  聖杯を求めていた彼女の告白。  そんな物は必要ないのだと告げた、迷いのないその言葉を。 「――――セイ、バー――――」  乱れた呼吸を押さえて、彼女の名を口にする。  ……姿は見えなくても、セイバーが傍にいる事だけは判っていた。  傷の痛みは治まってきている。  セイバーが近くにいるからなのか、あれほど塞がらなかった傷は徐々に小さくなっていた。 「……立てますか、シロウ。動けるのなら、私の手に触れてください」 「っ――――ああ、なん、とか――――」  囁く声に応えて、セイバーの手を握る。  ――――っ。  視界が回復していく。  失血で朦朧としていた頭に、段々と活力が戻ってくる。 「っ―――セイバー、これ、は」 「はい。いかにゲイボルクの呪いと言えど、今のシロウには通じません。私の傍にいてくれればじき完治するでしょう。  それより、今は」  セイバーは視線を聖堂へと向ける。  ……扉の向こう。  この地下室の出口には最後のマスター―――言峰綺礼とランサーの姿があった。 「そうか」    ヤツは何か、初めて見るように俺とセイバーを観察した後。   「おまえたちは、つまらない」    そう、何の感情もない声で言い捨てた。 「これではやはり、聖杯は私が預かるしかないな。  ―――だが、そうなると少々手荒い話になる。  私の望みを叶えるのであらば、聖杯は完全でなければならない。衛宮士郎。悪いが、おまえたちにはここで死んで貰わなくてはならなくなった」 「――――っ」  咄嗟に身構えるが、体はまだ言うことをきかない。  セイバーの手を握っていればなんとか立ち上がれる程度だ。  これじゃあ戦えないし、なによりセイバーの足手まといになってしまう―――― 「その心配は無用です、シロウ。貴方はここにいてください。あのマスターとランサーは、私一人で十分です」 「ほう。それは大きく出たな。これは逃げた方が懸命かな、ランサー」 「――――――――」  ランサーは答えない。  そもそも、言峰の言葉には危機感などまるでない。  ヤツが俺たちを恐れているなんて口だけだ。 「コトミネ、と言いましたね。倒す前に訊いておきましょう。貴方の目的は何なのです。聖杯の選定役である身で、何を望むと言うのですか」 「―――さて。言ってしまえば“娯楽”の為だが、それほど急を要している訳ではなくてね。  実を言うとなセイバー。私も、聖杯にはそう関心はないのだ。ただ、アレは私の趣味にあっている。私以外に相応しい持ち主がいないのであれば、貰い受けてやるのが世の為だろう」 「戯れ言を。マスターを殺し、自らマスターになった男が何を。貴様は初めから聖杯を手にするつもりだった筈だ」 「――――なに、ただの拾い物だよ。ランサーのマスターを始末したのは、外からの魔術師は何かと厄介だったからだ。聖杯がああいうモノなのだと〈協会〉《がいぶ》には知られたくないのでね。早めに退場して貰ったのだが、せっかくのサーヴァントを消してしまうのも巧くない。  円滑に殺し合いを進めさせる手駒が入り用だった事もあり、少しばかりランサーのマスター権を拝借しただけだが」  な――――じゃあ言峰は、ランサーのマスターを殺してマスターになったっていうのか……!? 「―――そうか。貴様が何者であるかはもう訊かない。  だが、選定役として責務は果たしてもらうぞ。今回の器、魂の杯は何処にある」 「なに? まさか、知らずに匿っていたというのか」  意表をつかれたのか、言峰は息を呑む。  だがそれも一瞬だ。  ヤツは愉快げに俺たちを一瞥した後、パチンと指を鳴らして、最後の登場人物を招き入れた。 「な――――」    二人の体が強ばる。  頭上からは、かつん、かつん、という固い足音が下りてくる。 「―――さて。おまえたちには不要だろうが、紹介ぐらいはしておこう。彼はアーチャーのサーヴァント。前回の聖杯戦争で、私のパートナーだった英霊だよ」    ……現れる黄金の騎士。  それは紛れもなく、ギルガメッシュという英雄王だった。  ――――空気が一変する。    悠然と現れたギルガメッシュは、何事もなかったかのように聖堂を横切り、言峰の真横についた。 「―――で? これからどうするのだ言峰。このような場所で、しかも邪魔者を交えて決着をつけるのか?  おまえにしては、あまりいい演出とは言えないが」 「それを言うな。私とて予想外なのだ。文句は後で聞いてやるから、許せ」 「なんだ、承知しているのならばいい。  だが、その〈野卑〉《やひ》な男はどうにかならんのか。あまり睨まれると殺してしまいそうになるぞ」 「――――どういう事だ、言峰。その男がおまえのサーヴァントだと……?」 「ああ、おまえには説明していなかったな。彼は前回の私のサーヴァントだ。聖杯戦争が終結した後、意見を同じくしてな。  彼は私に従い、私も彼が留まるに相応しい食事を用意する事で、こうして協力関係になったという訳だ」 「……それが、あのいけすかねえ部屋ってワケか。それはいいが、何故オレに黙っていた」 「言う必要があるとでも? それとも何か、彼と共同戦線を張りたかったのか、おまえは」 「―――冗談。そんな野郎と手を組むなんざ、死んでもお断りだ」 「――――――――」  ……これで、三人。  地上へ続く階段にはランサーが、聖堂にはギルガメッシュが立ち塞がった。 「っ―――――――」  勝ち目などどこにもない。  ギルガメッシュ一人にさえ敵わないというのに、ランサーまで加わっては逃げる事さえ出来ない。 「言峰、おまえ――――ヤツの事は、知らないって」 「人聞きが悪いな。私はこれでも神父だぞ? 虚言など口に出来ぬよ」 「っ……! そんな事あるか! おまえは確かに、前回から残ったサーヴァントは放っておけないって……!」 「ああ、私とて驚いたのだ。アーチャーには待機を命じていたというのに、指示を破っておまえたちを襲ったのだからな。  アーチャーを調べればいずれ私に突き当たるのは道理だ。故に、今後の対策を練らねばならなかった。どうだ、何一つとしておまえを謀ってはいまい?」 「っ……!」  あ、頭にくる……!  こんなヤツの口車に乗せられて、自分から敵の本拠地に乗り込んでしまったなんて……! 「―――貴様が、アーチャーのマスターだというのか」 「そうだ。十年前の再現になったなセイバー。  もっとも、あの時私は既に切嗣に倒され、最後の場面には立ち会えなかった。おまえと顔を合わせるのはこれが二度目で、そして最後になる」 「―――答えろ。アーチャーはなぜ残っている。あの火事は何故起きた。切嗣に倒されたというおまえは、なぜ今も生きている……!」  憎しみの籠もった声で、セイバーはそう檄昂していた。  ……長年の疑問。  十年前の惨事の罪を問うように。 「そのような事、言うまでもなかろう。  十年前―――不完全ながらも聖杯は満ち、手に取る事が可能だった。  私はそれに触れただけだ。切嗣とおまえは強力だったのでな、分断させる為の〈目眩〉《めくら》ましが欲しいと願ったのだが、あのような目眩ましが起きるとは私も驚いた」 「――――――――」  待て。  それは、まさか。 「―――では。あの火災は、貴様が聖杯の力で起こした物だと言うのか……!」 「さあな。思うのだが、私でなくとも聖杯は同じ事をしただろう。アレはそういう物だ。万能の杯と言うが、その中に満ちたモノは血と闇と呪いでしかない。  おまえも見たのだろう? 聖杯を破壊したおり、そこから溢れ出した闇を。アーチャーはそれを浴びてしまっただけだ。おまえが聖杯さえ壊さなければ、アーチャーとてこのように迷いはしなかっただろうよ」 「……世迷い事を。聖杯は持ち主の願いを叶える魔法の釜だ。ならば、あの火災はおまえの願望ではなかったのか……!」 「結果だけはな。だがその過程は私が想像していたものとは違う。私はただ、あの土地から人がいなくなればいい、と思っただけだ。  そもそもおまえたちは想像力が貧困だぞ。  願いが叶う? それはいいが、では願いとはどうやって叶えるのだ? まさか願った瞬間に世界が変わるとでも思っていたのではあるまいな?」 「――――」 「元の聖杯はどうあれ、今の聖杯は“力の渦”にすぎぬ。  精密な計算、相互作用による矛盾の修正など論外だ。アレはな、ただ純粋な力に過ぎない。  巨大な兵器と同じだ。持ち主が富を願えば、周囲の人間を〈悉〉《ことごと》く殺害し、主人に幸福を与える」 「判るか。あの底なしの魔力の釜はな、持ち主の願いを『破壊』という手段でしか叶えられぬ欠陥品なのだ」 「な―――それでは話が違う……!  万能の力、持ち主の望み通りに世界を変革するのが聖杯ではなかったのか……!」 「違うものか。聖杯の手段は実に理に適っている。  人を生かすという事は、人を殺すという事だろう。  この世は全て等価交換によって成り立っている。その中で特出した出来事を望むのならば、何かを食いつぶして飛び上がるしかあるまい。  調和など気にしていては願いなど叶わぬ。  つまりは弱者からの略奪による変動だ。それこそが、最も効率のよい変革だろう」 「――――――――」  ……セイバーが息を呑むのも分かる。  言峰の言葉が真実だとするなら、それは彼女が求めていた聖杯とはかけ離れすぎている。  持ち主の望みだけを叶える力。  持ち主の望みを、他の全てを犠牲にして現実とする〈簒奪者〉《さんだつしゃ》。  それが―――マスターとサーヴァントに与えられる、万能の力の正体か。 「ならば――――聖杯と、いうのは」 「持ち主以外のモノを排除する、この上ない毒の壺だ。  おまえも見れば判る。アレはな、際限のない呪いの塊だ」 「―――そしてそれは、私にとっても喜ばしい。  聖杯に触れるのは聖職者の夢だがね。人を殺す為だけの聖杯が存在し、ましてそれを扱えるなど―――まさに、天上の夢でも見ているかのようだ」  そう言って、神父は笑った。  今までのような慇懃な笑みではない。  心からの感謝を表す、邪気のない聖者の笑み。  ―――その笑顔を向けられて、悟った。  この男は、人間じゃない。  他の誰よりも、この男に聖杯など与えてはならないと。 「―――ではお別れだ。  ゴミを始末しろ。ランサーは小僧を、アーチャーはセイバーだ」  神父は背を向け、一度たりとも振り返らずに階段を上っていく。  ……残されたのは二人のサーヴァントと、傷ついて満足に動けない自分。  そして、俺を庇うように立ち、決死の面持ちで敵を見据えるセイバーだけだった。  ―――時間が過ぎていく。    地上に戻る為には、ランサーとギルガメッシュを振り払わなければならない。  二人を倒す事など端から度外視だ。  ここは何とか突破し、態勢を立て直さなければ―――― 「――――――シロウ」  敵を見据えたままセイバーが呟く。 「無理を承知で言います。決して、私の傍から離れないでください」    わずかに強く、握った手に力を込めてくる。  ―――それで、彼女が覚悟を決めたのだと理解できた。 「―――分かった。意地でも付いていくから、俺の事は気にかけるなよ」  頷きで返す。  ……今の俺は、歩くので精一杯だ。  それは俺も、セイバーも承知している。  その上で―――彼女は、ここを突破すると言ったのだ。  なら俺が頷かなくてどうするってんだ。 「…………はい。信頼、しています」  小さな声でそう応えて。   「――――いざ――――!」    繋いだ手を離して、セイバーは聖堂へと躍り出た。  飛び出してきたセイバーに反応する二つの影。 「っ――――!?」 「な――――!?」  驚きは、俺とセイバーの物だけ。    ―――何が起きたのか。    俺を襲うはずだったランサーの槍はギルガメッシュに、 それに続く筈だったギルガメッシュの長剣は、読んでいたかのようにランサーの槍を弾いていた――― 「悪いな。手元が狂った」 「そうか。随分と軽い槍なのだな、貴様のそれは」    敵意も感じさせないまま、二人はわずかに間合いを外す。 「言っておくが、貴様の標的はあの雑種だ。セイバーは〈我〉《オレ》に任された物だと覚えているか?」 「ああ、それね―――悪いが、気が変わった。令呪で命令されたワケじゃねえしな、オレは降ろさせてもらうぜ」    そう言って。  ランサーは、俺たちを庇うようにギルガメッシュと対峙した。 「な――――ランサー、貴方は」 「くだらねえコトなら口にするなよ。別に貴様に肩入れしている訳じゃねえ。オレは、オレの信条に肩入れしてるだけなんだからよ」    ランサーの槍がギルガメッシュに向けられる。  あいつ、本気で―――俺たちを、逃がすつもりだ。 「ま、いい加減我慢の限界でもあったしな。ここまで舐められて、おいそれと命令を聞くほど良くできた人間じゃねえってコトだ。〈言峰〉《ヤツ》とは、ここで縁切りだな」 「ほう―――では契約を切るという事か。聖杯は目の前だというのに。貴様は、このまま消えても構わないのか」 「テメェと一緒にするな。もとよりな、オレは二度目の生なんぞに興味はない。……いや。英雄なんて連中はな、どいつもこいつもそんな物に興味はねえんだよ。  オレたちはこの世に固執してるんじゃない。果たせなかった未練に固執するのみだ。  まあ、テメェみてえに欲の皮がつっぱった怨霊には分からないだろうがな」 「―――なるほど。死に際が鮮やかだった男は言う事が違う。この裏切りも、英雄の誇りとやらに沿った物か。  まったく、〈己〉《おの》が信念を貫くのは厳しいな、ランサー」    ……ヤツの背後が歪む。  何もない空間に、次々と無数の武器が現れていく―― 「――――」 「……ランサー。アレはあらゆる宝具の原型を持つ者、我らの中で最も古い歴史を持つ英雄王です。いくら貴方でも一対一では――――」 「……チッ、そうかよ。なるほど、どうりで偉そうなワケだ。やりたい放題やって国を滅ぼしたって野郎だからな、そりゃ性根が腐ってる」 「ランサー、強がりを言っている場合では―――!」 「いいからさっさと失せろ。助言なんざしやがって何様のつもりだ、庇った程度で仲間意識持ちやがって。  ……ったく、これだから育ちのいい騎士さまってのは気にくわねえ」  セイバーに脱出を促すランサー。 「――――――――」  セイバーは苦しげに俯いたあと、   「……ご武運を。この恩は、必ず」    俺の手をとって、階段へと走り出した。 「――――しまった。逃がしてしまったか」    追う気配も見せず、ギルガメッシュは逃げていく俺たちを傍観する。 「……なんだ。セイバーはテメェの獲物じゃなかったのかよ」 「いや。実はな、〈我〉《オレ》もこのような決着は好みではなかったのだ。貴様がやらなければ、〈我が同じ事をしていただろう〉《・・・・・・・・・・・・・》」  階段を上がっていく。  ……ろくに走れない俺を気遣って、セイバーの歩みはそう速くはない。  ゆっくりと地上へ上がっていく俺たちを余所に、地下の両者は対峙を止めなかった。    聖堂に満ちていく殺気は、際限なく濃く深くなっていく。 「―――どういう事だ、そりゃあ。テメェもセイバーを逃がすつもりだったのか」 「当然だろう。〈我〉《オレ》にセイバーを殺す気はない。アレは〈我〉《オレ》の物だ。  だが―――聖杯を呼ぶ為にはそういう訳にもいかん。  儀式の完成には、〈あと一人〉《・・・・》サーヴァントに死んで貰わなければならぬからな」    千の剣が現れる。  黄金の騎士の口元が歪に歪む。  それがランサーの不意打ちを防げた理由だ。  仲間である筈の相手を狙ったのは、ランサーだけではなかったのだ。 「チィ―――初めからそのつもりかよ、テメエ」 「言ったであろう? 貴様がしなければ〈我〉《オレ》がそうするつもりだったと。  褒めてやるぞクーフーリン。これは、〈我〉《オレ》にとって理想の展開だ」    両者の間合いが狭まる。  その激突を見届ける前に、俺たちは階段を上りきった。 「っ――――あ」  足が止まる。  教会からこっち、なんとか続いていた体力が、もう限界だと訴える。 「シロウ、ここで休みましょう。これ以上は、貴方の体が保たない」 「っ――――そう、だな。悔しいけど、これじゃセイバーに迷惑をかける、一方だ」  セイバーに借りていた肩から離れて、草むらに腰を下ろす。 「っ――――」  胸の傷はいまだ健在だ。  出血が止まったものの、胸には穴が開いている。 「……気持ち、悪い……」    痛みこそ薄れているものの、体に穴が開いているのだ。  見ているだけで気持ちが悪くなるし、なにより、それでも生きているという自分に疑問を持ってしまう。 「シロウ、傷を見せてください」 「あ――――いや、いい、けど」 「では失礼します―――少し痛みますが、耐えてください」    セイバーの指が胸を滑る。  ―――と。  なんのつもりか、セイバーは胸の傷に手をあてて、体の中に手を―――― 「あ――――っ――――!」    体が跳ねる。  セイバーの手は容赦なく、体の中をまさ、ぐ――― 「ば、なに、を――――!?」  素手で内臓に触れられているのだ。  痛くない筈がない。  痛くない筈がないのだ、が――――   「あ――――れ?」    痛みはまったくない。  逆に、セイバーに触れられているところを中心にして、痛みが和らいでいくような―――― 「終わりました、シロウ。鞘に魔力を補充しましたから、半日もすれば傷は癒えるでしょう」  胸から手を離して、セイバーはホッと胸を撫でおろしている。 「鞘――――?」  が、こっちは判らない事だらけだ。 「セイバー。鞘って何だ。前もそんな事を言ってた気がするけど……もしかして、その。鞘って、おまえの鞘の事か?」  セイバーの鞘。  それはエクスカリバーの鞘に他ならない。  彼女の剣の鞘は、風王結界などではない。  伝説で言うエクスカリバーの鞘は、持ち主を不死にするという守りの宝具だ。  だがそれは彼女の手にはない筈のもの。  アーサー王はその鞘を失ったからこそ、カムランの戦いで命を落とした。  今のセイバーがエクスカリバーの鞘を持っている筈がないのだが―――― 「はい。私の鞘は、貴方の体の中にあります。それを確信したのは昨夜というのは、私の落ち度でしたが」 「俺の体の中に……? 馬鹿な。そんな突拍子もない話が」 「そうでしょうか。思えば簡単な事だったのです。シロウは私を召喚した。今までそれを偶然だと考えた事が愚かでした」 「英霊を呼ぶには、英霊に縁があるシンボルがなければならない。マスターとしての知識もなく、魔術師としても未熟だったシロウが私を呼ぶには、それを補ってあまりある“接点”がなければならない。  それが私の鞘―――失われたエクスカリバーの鞘だったのです」 「あ――――いや、それはそうかもしれないけど。  だから、なんだってそんな物が俺の中にあるんだ」 「……それは、おそらく切嗣が行った事でしょう。  前回の戦いで、衛宮切嗣は〈聖剣〉《エクスカリバー》の鞘を触媒にして私を召喚した。聖剣の鞘は持ち主の傷を癒す宝具です。切嗣はそれを私に返すより、自身が持っていた方が有利と判断したのでしょう」 「私には治癒能力があるし、死ににくい。  それより死にやすいマスターが鞘を持つ方が、戦いには勝ち残れる」 「……。じゃあ〈切嗣〉《オヤジ》も、今の俺と同じような状態で戦いを勝ち残ったって訳か……?」 「おそらくは。そして戦いが終わり、私が消えた後。  切嗣は焼け跡の中を彷徨い、死にかけている子供を見つけた。切嗣には治療の力はありませんでしたし、あったところで手の施しようがなかったのでしょう。  ……だから、その子供を助ける手段は、彼には一つしかなかったと思うのです」 「――――――――」  知らず、胸に手を当てていた。  ……十年前のあの日。  曇った空を見上げながら死を受け入れた。  体中火傷だらけで、もしかしたら、本当に黒こげだったのかもしれない。  それでもかろうじて息のある子供を見つけた時、切嗣はその手にある物に頼るしかなかった。    持ち主の命を守る聖剣の鞘。  それを植え付ける事で―――彼は、死にかけた命を救ったのか。 「……じゃあ、本当に……?」 「はい。分解され、原型を留めてはいませんが、確かにシロウの中には鞘があります。それが貴方の治癒能力の源です」 「――――け、けど。俺、一度死にかけたぞ。学校でランサーに刺されて、それで――――」  ……そうだ。  あの時、誰かに助けられた。  気が付いた時には誰もいなく、廊下には石ころだけが落ちていた。  何か大切な物のような気がして石は持ち帰ったが、アレはまだ家にあるだろうか……? 「それは私と契約する前の話でしょう。  鞘は私の宝具です。私が現界し、魔力を注がなければ“宝具”として能力を発揮しない。シロウは私というサーヴァントと契約しなければ、その不死身性を得られないのです」 「……まあ多少は、魔力さえ注げば持ち主の命を保護するでしょう。ですが、それも微弱なものです。死にかけた人間を救うには、鞘そのものと同化させるしかなかった筈です」 「…………そうか。その、すまんセイバー。おまえの鞘を、こんな事で使っちまって」 「何を言うのです。シロウは私のマスターなのですから、私の物を使うのは当然ではないですか。  それに―――シロウがそうなのだと知って、私は嬉しかった。何も守れなかった私でも、貴方の命を救えていたのですから」 「――――――――っ」  その笑顔があんまりにも眩しくて、思わず顔を逸らしてしまった。 「――――シロウ? あの、傷が痛むのですか?」 「いや、そうじゃない! いいんだ、気にしないでくれ、セイバーは何も悪くないっ」  赤面する顔を手で隠して、とにかく黙り込む。  …………気まずい。  黙っていた方が痛みもないんで楽なのだが、とにかく気まずい。  ……そうして、どのくらいの時間が過ぎただろう。  こっちの気持ちもようやく落ち着いてきた時。  セイバーは静かに、   「切嗣は正しかった。彼は、私を裏切ってなどいなかったのですね」    自身の過去を悔いるように、呟いた。 「……セイバー?」 「あの聖杯は、私の求める物ではなかった。……いえ、もとより聖杯など必要ではなかったのです。切嗣は、それに気が付いていたのでしょう」  ……その呟きは、懺悔に似ていた。  セイバーはもう謝れない相手に言葉をかけ、  ずっと抱いていた思いと決別する為に、こうして自らを見つめている。  それは言葉にしなくても。  こうして傍にいるだけで、確かに心に響いてくる。  ……聖杯を求めたアルトリア。  聖杯さえあれば滅びなどなかったと信じるしかなかった孤独な王。    ―――もし。  あの、剣を引き抜く時からやり直せたのなら、と願った一人の少女。 「セイバー、それは」 「……解っていました。やり直しなんてできないのだと。  私はそれを知りながら、必死に自身を偽り続けてきたのです」    ……それも終わり。  長かった彼女の戦いは、これで本当に――― 「ありがとう、シロウ。貴方のおかげで、ようやくとるべき道が分かりました。  ……ええ。あの聖杯もこの私も、有り得てはいけない夢だったのです」    それでも―――どうか許してほしい、と彼女は呟く。  間違えた望み、叶えられない日々ではあったけれど。    この弱さは、ある少女が見た、〈一時〉《いっとき》の〈理想〉《ユメ》郷だったのだと―――― 「――――――――」    それを、どんな気持ちで聞けただろう。  セイバーの答えは、綺麗だった。  彼女らしい潔癖さと尊厳に満ちた決断。  自らの過去を誇り、その先にある結末を受け入れた。    ―――そうして、セイバーは。  自身が立てた誓いを、最後まで守り通すと頷いたのだ。 「――――――――」  それがどんな意味を持つのかなんて、言われるまでもない。  彼女はもう迷わない。  そして俺は、その姿を美しいと感じたのだ。    暗い夜。月明かりの下で出会い、その姿に見惚れた時から―――今のセイバーを愛した。    なら。  この先にあるものが何であれ、するべき事は決まっている――――   「―――セイバー。聖杯を壊そう」    未練を断って、自分の我が儘を蹴飛ばして、断言した。 「―――はい。貴方ならそう決断すると信じていました、マスター」    力強く頷くセイバー。  ……今は笑顔でなんて返せない。  嫌だ、と崩れそうになるまなじりを、懸命に抑えるコトで精一杯だ。    それでも―――向けられたこの信頼を、いつか誇れる日が来るだろう。 「――――――――」  立ち上がる。  そうと決まれば休んでいる暇はない。  やるべき事ははっきりしているし、倒すべき相手も判っている。    回り道はなしだ。  今日一日。明日を迎える前に、長かった戦いに決着をつけてやる――――  はーい、みんな元気かなー?  人間誰しも怖いコトはイヤだよね? だからちょーっと日和っただけなのに、何の因果か地獄の虜。 気がつけば騙し討ちされている貴方を慰めるQ&Aコーナー、タイガー道場の時間です! えー、ただいま、屋敷ではセイバーちゃんとランサーが戦っております。 弟子一号はとっつかまったみたいだし、士郎は庭で死んでるし、もうこの屋敷の風紀はどうなっているのか! 昨今の若者はルールがなっていなくて、お姉ちゃん悲しいなあ。 さて、クライマックスを直前にしてデッドしちゃったキミ! 君子危うきに近寄らずはいい言葉だけど、世の中避けてばかりじゃゴールには辿り着けないのだ。  選択肢に戻って、自爆覚悟で教会の闇に挑むべし! 物語はほんっとーにクライマックス直前。  長かった夜ももうじき明けようとしています。 セイバーちゃんの願いは果たされるのか?  士郎が隠し持つ心の歪みとはなんなのか?  そして立ちはだかる英雄王を倒す手段は……!? 次回最終話『utopia』。  ここまできたらノンブレーキでエンディングまで駆け抜けちゃってほしいなー! 押忍! 迷える子羊に反省を促す楽屋落ちコーナー、タイガー道場である! えー、道場もなんと十三回目。  そろそろこのコーナーが   何の意味もない。 という事に気付いてきた方も多いと思われる!  そこんところどうなのよ弟子一号! 押忍、では率直に意見するであります!  ずばり無意味です! なんか突然死ばっかりで、単に選択肢を戻ればすむだけの問題―――― 正直者が憎すぎる!  そんなデマカセウソ広告紛らわしい!  ふーんだ、この道場はそんな簡単なモンじゃないもんね! 見なさい、その証拠に今回は念願の、 げげ。もしかして恋愛ゲームの大王道、選択肢とは関係なしのバッドルート、たった1ポイントでも足りなければ初めからやり直しという、あのっ。 そう! 誰もが嫌がるドキドキシステム、あの好感度チェックによるバッドルートなのであるっっっ! やったー! これでようやくマトモなアドバイスができるわねタイガ! かんらかんら! それじゃさっそく素振り開始!  弟子一号、今回のバッドエンドの原因はなに!? 押忍、セイバーの好感度が一定値に達していなかった為、シロウがセイバーに見限られたからでありますっ! うむ! アドバイスは以下の三点! 一つ、十二日目からはどんな選択肢を選ぼうとセイバーに好感度はプラスされない!  やり直すならもっと前からやり直せ! ……うっわぁ……なにそれ、それなら十二日目の時点でバッドエンドさせとけばいいのに。こうぞう的けっかん? 二つ! つまんないとは思うけど、選択は常にセイバーを基本におくこと! 遠坂さんとの両天秤はこのエンドに直行よ! ふーん、リンはホントにお邪魔キャラだったのね。  ま、リンと仲良くなりたかったら、まずセイバールートをクリアしなくちゃダメってコトね。 三つ! 普通にやってれば好感度条件は満たされている筈である! どうせやり直すなら、七日目あたりからやり直すが吉!  最短なら八日目で条件クリアよ! んー、でも八日目のお昼は外に出るとわたしに会えるよー。家に残るとセイバー好感度+1されるけど、マトモにやっていけばそこの好感度は要らないかな。 以上である!  ―――ああ、なんかすっごく気持ちいいっ!  ようやく自分の存在意義を果たせたよう! そうね、ようやく胸が張れるよぅ……! ……あ。  けどタイガ? 大抵の人は、セイバー好感度条件をクリアしてるのよね? ええ。士郎はセイバーちゃんをないがしろにするような子じゃないもの。  普通なら、こんな結末は迎えないわ。 ……タイガ。その、言いにくいんだけど。そんなにレアなら、この道場に来る人ってすっごく少ないってコトにならない……? あ。 だ、だいじょうぶよきっと。  その為のスキップ機能、その為のタイガースタンプだもんっ。 きっと、みんな死に物狂いでヘンなプレイしてこの道場に辿り着いてくれるわよぅ。 ……ええ。その頃にはみんな、こんなヘンな条件のバッドエンドを憎んでるわ。 つまり、みんなに喜ばれようとしたタイガの道場は、コンプリートにおいてプレイヤーを苦しめるものになってるの。 ア―――アイデンティティークライシス! っ!? もうバカぁ、爆発オチなんてサイテー……! ここぞという時に武器がない。  そんな貴方を助けるタイガー道場開幕です。 さて。勝敗とは戦いを始める前に決定している、っていうのが一般論よね。  はい、その心は弟子一号! うーんと。何の策も武器もなしに、戦いに挑んじゃダメってコトかな。 うむ! 敵は金にあかして最強部隊を揃えている反則サーヴァント。なら、こっちも一つぐらいは逆転可能な武器を用意しておくべきです。 んー。じゃあタイガ、決戦前夜からやり直して、なんか新しい武装を用意しろっていうの?  そんな一朝一夕で何ができるっていうのよ。 これができるのだ。  セイバーちゃんの宝具はもともと三つ。その最後の一つを用意してあげれば、あとはなんとかなるってもんよ。 そっか、返せばいいんだね。 うむ。カエサルのものはカエサルへ。  無くすには惜しいモノだったけど、やっぱり拾い物は持ち主に返さないとねー。 あら、タイガにしてはいいコト言うのね。  腐っても学校の先生ってところかしら。 あっはっはっは! 誉めて誉めてー! はいはい。それじゃ、タイガがいい気分なうちに嬉しいお報せをしちゃいます。 えっと、本編のはじっこで慎ましく続いていたこのコーナーだけど、なんと今回で最終回! 次回からは装いも新たに、『タイガー道場第二部・タイガ負債一億円編』が始まるよー! 次は舞台をわたしのお城に移して、立ち絵も音楽も発売ハードも一新! 制作費も倍になって、オマケコーナーとは思えない充実ぶりになるんだから! がっはっは、なんか重ねてめでたいなあ!  よく分からないけど、ウォーズからメタルスにCGが変わるようなものかしらねー! そうっす師しょー! 次からはこんな、いかにもやっつけ仕事な立ち絵から解放されるのです、押忍! 素晴らしい! そうと決まれば、さっさとこんな道場ともおさらばしましょう! じゃあみんな、心機一転したタイガー道場で待ってるよ~~♪ 舞い上がっていた意識が、一瞬にして凍り付いた。  全身には鳥肌が立ち、喉は呼吸を忘れたように動かない。 「…………シロ、ウ」  それは後ろにいるセイバーも同じなのか。  重ねた指が強く握られる。  ―――俺が逃れようのない死を感じているように。  セイバーもまた、覆しようのない絶望を、その身に感じ取っていた。 「待たせたなセイバー。  約束通り、こうして迎えに来てやったぞ」 「アー、チャー――――――――」    ―――黄金のサーヴァント。  昨夜、キャスターの骨どもを一掃し、逃げようとするキャスターすら、事も無げに始末した正体不明の英霊。  その怪物が、俺たちの前にいる。  こんなにも近く。  その気になればすぐにでも斬り合いを始められる距離に、バーサーカー以上の“死”が立っていた。 「どうしたセイバー。〈我〉《オレ》がわざわざ出向いてやったのだ。  いつまでも黙っているのは無礼であろう?  それとも―――〈我〉《オレ》の物になる前に少しばかり遊ぶつもりか、騎士王よ」  愉しげに笑いをかみ殺すアーチャー。  その目は俺を見ていない。  あいつはセイバーだけを見ている。  あの無遠慮な赤い目で、気に入った美術品の品定めをするように。  セイバーの気配が変わる。  ……覚悟を決めたのか。  まだ指一本動かせない俺とは違い、彼女は既に、あのサーヴァントを敵として凝視していた。 「……シロウ、なんとしても初撃だけは防ぎます。その隙に、貴方だけは離脱してください。  ……それがどれほど困難かは判っていますが、あのサーヴァント相手ではそれが精一杯なのです」  それを許してほしい、と彼女の背中が言っていた。  ……彼女を以ってしても、防げるのは初撃のみ。  そんな相手から逃げるなんて、あまりにも成功率が低すぎる。  その不明を、セイバーは許せと言った。  ……おそらく。  彼女自身、あのサーヴァントを打倒する手段がないと判っているが故に。 「―――――――」    それは、だめだ。  バーサーカーの時とは違う。  あのサーヴァントとセイバーを戦わせるのはまずい、と確証もなく思った。  ……いや、確証はあったのか。  昨夜、あいつの宝具を見て直感したのだ。    ―――今のセイバーでは、決してあの男に勝てない。    それは騎士としての実力云々の話ではない。  そもそも前提が間違っている。  英霊である以上、全ての英霊は、ヤツを超える事は出来ないと判ってしまった――― 「―――違う。逃げるのはおまえの方だ、セイバー」 「な、シロウ……!?」  セイバーを庇って、アーチャーと対峙する。 「ほう―――そうか、マスターがいたのだったな。あまりの見窄らしさ故、犬か何かだと思ったぞ」    愉快げに言って。  男は片手をあげ、ゆっくりと指を合わせた。 「――――」  ―――吐き気がする。  今すぐ退かなければ殺される。    理由も理屈もない。  ただ、あいつの正面にいては殺されると直感し――― 「―――行けセイバー……!  ここからなら教会が近い。あいつなら、アレが相手でもおまえを匿ってくれる筈だ――――!」  セイバーを突き飛ばして、全身を刺す死の予感を振り払うように走った。    狙いは一つ。  いちかばちか懐まで走り込んで、バーサーカー戦と同じように、もう一度セイバーの剣を“投影”し―――― 「――――」  体が吹き飛ぶ。    ―――何が起きたのか。    ヤツが指を鳴らした瞬間、真横から何かが現れた。 「あ――――つ」    それが巨大な鉄槌であり、自分がゴミのように吹き飛ばされ、地面に落ちた事だけ、判る。 「は――――あ」    体は動かない。  全身の骨がバラバラになったような虚無感。  手足の感覚はとっくになく、痛みも鈍くて、自分が生きているかさえ、よく判らない。 「殺しはせん。今ここで貴様を潰せばセイバーも消えてしまうからな。不本意ではあるが、聖杯を呼ぶまでは生かしておいてやろう」    男が笑う。 「あ――――く――――」    立ち上がろうと手を動かすが、体は何一つ言うことを聞かなかった。 「だが思い上がるなよ雑種。貴様なぞいなくともサーヴァントを存命させる方法はある。単に今の状態が最も手が掛からぬだけだ。それ以上さえずるのなら殺すぞ?」 「ぁ――――」    それで、心が死んだ。  ヤツは殺す。  俺がこれ以上動けば、それこそなんの苦労もかけずに実行するだろう。 「――――――――」  そんな事実を見せつけられて、どうして、これ以上体が動くというのだろう―――― 「シロウ――――!」  倒れた俺へ駆けつけようとするセイバー。 「何処に行く。邪魔者はいなくなったのだ。おまえが向かうべきは、そのような屑ではなかろう」    だが、男はそれを許さない。  倒れた俺の前に立ち、駆け寄ろうとするセイバーを待ち受ける。 「っ――――」    足を止め、男を睨むセイバー。  ……両者の距離は十メートルほど。  アーチャーはともかく、セイバーならば一息で詰められる間合いだが―――― 「……ふん。その様子ではまだ〈我〉《オレ》に下る気はないようだな。理解に苦しむ。おまえほどの英霊ならば、〈我〉《オレ》に選ばれる事がどれほどの価値か判ろうに」 「―――世迷い事を。英霊になろうと私は王だ。貴様の軍門になど下らぬ」 「そうか? いかに王であろうと、おまえは女だ。  主の前に頭を垂れ、仕え、尽くすが女の幸せであろう。だというのに何を拒む。まさか物も判らぬ小娘でもあるまいし、〈我〉《オレ》の女になるのは恐ろしいか?」 「貴様―――」 「そう憤るな。〈我〉《オレ》は奪うだけではない。等しく歓びも与えよう。〈我〉《オレ》の物になるというのならば、文字通りこの世の全てを与えてやる。  誇るがいい、おまえにはそれだけの価値があると認めたのだ」  ……男が動く。  両手を広げ、セイバーを迎えるように歩き出す。 「そう、守護者になどなる事もなく、死に逝く運命に戻る事もない。  もう一度だけ言うぞセイバー。このまま〈我〉《オレ》の物になれ。  この世界で、共に二度目の生を謳歌しようではないか」 「―――断る。  そのような事に興味はないし、なにより―――貴様と共に生きるなど、まかり間違ってもありえません」    頷かず、後退する事もせず。  セイバーは正面からアーチャーを見据えている。 「く――――ふ、はは、はははははははは!」  足が止まる。  何が愉しいのか、男は腹を抱えて笑い出した。 「いいぞ、それでこそ〈我〉《オレ》の見こんだ女よ!  ああ、この世に一つ程度は、〈我〉《オレ》に従わぬモノがいなければな……!」 「よし、では力ずくだ。聖杯を手に入れた後、その身に中身をぶちまけてやろう」 「―――喜べよセイバー、そうなればマスターなど不要となる。  万能の器である聖杯、その力全てを飲み干すのだからな。サーヴァントなどと、人間の使い魔に甘んじる事もなくなるだろう」  満足げに男は言う。  それに。 「……アーチャー。貴様の目的はなんだ」    もはや戦うだけと踏み切ったのか。  セイバーは最後に、敵の理由を問いただす。 「目的か。さあ、なんだったか。生憎この世の財は全て手に入れた身でな。望むモノなどとうにない」 「な―――聖杯を、求めてはいないというのか」 「聖杯? ああ、不老不死か。ふん、そんなものは蛇にくれてやった」 「――――不老不死を、蛇に譲った……?」    セイバーの気迫が凍り付く。  ……今のやりとりに何があったのか。  セイバーは僅かに首を振って、呟いた言葉を否定した。 「―――だが、この世界は面白いぞ。  根本は変わらぬが、装飾もここまで凝れば別物だ。これならば、再びこの世で君臨するのも悪くない。  ……そうだな、〈我〉《オレ》の目的といえばそんなところか。それを効率よく進めるというのであらば、聖杯の力も悪くはないな」 「……支配欲か。見下げ果てたな、アーチャー。そんな事の為に聖杯を欲するとは」 「欲するのではない。世の財は全て我の物。自分の物を他人に使われるのが我慢ならんだけよ。  おまえとて、その聖剣を人に使われては腹立たしいだろう、騎士王よ」 「――――――――」  ―――セイバーの体が霞む。  一瞬の閃光のあと、セイバーは銀の鎧に包まれていた。 「ほう――――」    男は微動だにしない。  間髪入れず、セイバーの体が〈奔〉《はし》った。  わずか一息の合間に男へと踏み込み、必殺の速度で不可視の剣を叩き込む――――! 「っ――――!」  弾かれ、大きく後方に跳ぶセイバー。  セイバーの鎧が魔力による具現ならば、ヤツの鎧も同意なのか。  一瞬の攻防の合間に、敵は武装を済ませていた。 「――――――――」  構えたまま、セイバーは冷静にアーチャーを見据える。  その視線を受け止めてなお嘲笑を崩さず、 「―――よいぞ。刃向かう事を許す、セイバー」    敵は、愉しげに死闘の開幕を告げていた。  白光が奔る。  黄金の騎士へ跳びこんだセイバーの剣が、雷光を帯びて打ち下ろされる――――  一撃。二撃。三撃。四撃――――!  セイバーの剣が敵を捉える度、目を潰すほどの光が炸裂する。  〈閃光装置〉《ストロボ》を見るかのような連撃。  初めてセイバーを見たあの夜、ランサーを相手にした時と同じ。  セイバーは有り余る魔力を剣に載せ、稲妻そのものとも言える剣戟を繰り出している。  剣と鎧がぶつかる音。  男は帯剣していない。セイバーの剣を前にして、その両手でかろうじて頭を守っているだけだ。  あの男には、セイバーの剣を受けきるだけの技量はない。  剣技で言うのならば、セイバーは圧倒的に男より優れている。  加えて、セイバーの剣は不可視だ。  たとえ男が帯剣していたところで、あの視えない剣を防ぐ事など出来ないだろう。  不可視の剣は、面白いように、男の鎧に直撃する。  剣は鎧の表面を叩き、削り、雷光めいた火花を散らす。  男に出来る事は、セイバーの剣から両手で顔を守る事だけだ。  勝負にさえなっていない。  これでは一方的な殲滅戦に他ならない。    ―――だが。  にも関わらず、黄金の甲冑は未だ原型を留めている。  セイバーの剣戟をあれほど受け、なお無傷だというのなら。  ヤツの“宝具”は、あの黄金の甲冑に他ならないのではないか――― 「……ふん。流石にこれ以上はまずいか。相変わらず底なしの魔力よな。〈我〉《オレ》の鎧が軋みをあげるなど、そうあり得る事ではないのだが――――」    防戦一方だった敵が片腕をあげる。  それはセイバーにではなく。  何の真似か、男は何もない、ただ夜が広がるだけの空間に腕を伸ばし―― 「戯れは終わりだ。その身、ここで〈我〉《オレ》に捧げるがいい」    ―――目の錯覚か。  その腕に、何か。  手のひらに収まる程度の、鍵のような短剣が握られていた。 「っ――――!」    一際大きく構えをとり、セイバーは渾身の一撃を放つ。  それを、    敵は、赤黒い剣で弾き返した。 「っ―――今のは、復讐の呪詛を含んだ宝具か―――!」    二度間合いを離し、敵が手にした剣を睨むセイバー。  ……敵が帯剣した事は、確かに脅威だ。  だが同時に手の内が見えた事でもある。  ヤツの宝具が鎧であろうと剣であろうと、そのカタチさえ見えていれば対処のしようがあるからだ。  セイバーが構えを正す。  ……男が言った通り、ヤツの鎧も限界が近い。  もう一度セイバーが今の猛攻を繰り出せば、鎧ごとヤツを両断するだろう。  いかに宝具を持ち出したところで、次の一撃で勝敗が決する事に変わりはない。 「―――最後だ。前回つけられなかった決着をつけよう、アーチャー」    手にした剣は不可視のまま。  風で封印した聖剣を構え、セイバーは敵を見据える。  ……セイバーはあの“宝具”の正体を知っているようだ。  故に咄嗟に間合いを外したのだし、対処する術を知っているからこそ、正面から敵と対峙している。    お互いの宝具が剣であり、その能力が互角ならば、あとは剣技のみの勝負だ。    その法則に従うのなら、セイバーの勝利は動かない。 「よかろう―――では来るがいいセイバー。  その剣に免じ、〈我〉《オレ》の全てを見せてやる」  男が笑う。 「ならば―――!」  臆する事なく駆けるセイバー。    ―――今度こそセイバーの剣が鎧を断つ。    そう確信した瞬間。                 「――――〈“王の財宝”〉《ゲート・オブ・バビロン》」    男の背後で、何か、目に視えない“扉”が開いた。 「な―――に…………!?」    セイバーの体がズレる。  敵が手にしたソレは、赤黒い剣とは違うモノだった。  一個目はセイバーと同じ、透明の剣。  それをセイバーが防いだ途端、男の手には違う剣が握られていた。  繰り出された剣は氷。  身をひねって躱すが、振るわれた空間そのものが固まっている。  氷に覆われながらも咄嗟に後退するセイバー。  張り付いた氷が砕け散っていく中、敵の手には、死神の鎌めいた凶器が握られていた。 「――――――!」  首にせまる凶器を、咄嗟に片腕の籠手で防ぎに入る。  だが無意味。  鎌はセイバーの籠手などないように貫通し、ぞぶり、と、魔力を奪い去っていった。  ……血や肉ではなく、狙った箇所の骨そのものを抜き取るかのように。 「ぁ―――く……!」    たたらを踏みながら、なんとか持ちこたえるセイバー。  ……それは今までの後退とは違った。  間合いを離し、次の攻撃に備える為の行為ではなく。  ただ、敵から逃れる為だけの必死の後退―――― 「そんな―――馬鹿な」    麻痺した片腕に魔力を通しながら、セイバーは敵を睨む。  ……男の周囲には、無数の柄が浮かんでいた。  それがキャスターを屠ったモノの正体であり、  セイバーを追い詰めた、黄金の騎士の“宝具”だった。    それは、離れてみている俺でさえ、目を疑いたくなる光景だった。  男の背後に浮かぶ物は、間違いなく“宝具”の柄だ。  十や二十ではきかない。  いや、視えてはいないものの、その数はそれこそ底なしなのだと実感できる。    古今東西。  ありとあらゆる伝承に潜む神秘の全てを、あのサーヴァントは持っているとでも言うように―――― 「アーチャー。貴方は、何者だ」    セイバーの声は震えていた。  サーヴァントが真名を問われ、答える筈がない。  それでも問わずにはいられないほど、あの敵の宝具は異常だった。 「答えなさいアーチャー……! 英霊が持つ宝具は一つだけの筈。いえ、中には複数の宝具を持っている者もいますが、だとしても二つが限度だ。  ―――そのように、際限なく宝具を持つ英霊など存在する筈がない……!」 「存在する筈がない……? それは早計だなセイバー。  英霊は生前持ち得た武器を宝具とする。ならば単純な話ではないか。この宝具は全て、〈我〉《オレ》が生前に集めたものという事ではないか?」 「――――私を侮っているのかアーチャー。それこそ絶対にあり得ない。  貴方が何者であろうと、他の英霊たちのシンボルたる宝具を揃えられる筈がない。そのような英霊は、この世界に存在しない」    セイバーの言う通りだ。  ヤツが持つ宝具はその全てが本物である。  北欧に伝わる魔剣があれば、南米あたりに伝わる魔剣もある。  そんな広範囲に渡って活躍した英雄などいないし、そもそも―――ゲイボルクを持つのはランサーだけだ。    英霊は、生前愛用した武器を宝具とする。  そのルールで言うのならば、ゲイボルクを持っている時点で、ヤツは〈槍の持ち主〉《クーフーリン》でなければならない。    だがアイツはクーフーリンではない。  となるとあの槍はゲイボルクでは有りえないのだが、厄介な事に間違いなく本物のゲイボルクなのだ。  仮に、あの宝具が全て偽物であったのならまだ説明はつく。だがオリジナルである以上、この矛盾は……………………………………………………………いや、待て。    オリジナル――――原型の、武器……? 「――――まさか。いや、けど」    そういう事もある。  伝承、神話っていうのはゼロから生まれた訳じゃない。  あらゆる神話に共通項があるのは、モデルとなった大本があるからだ。  信仰として完成する伝承は、その土地に帰順した物だけだ。魔剣、聖剣の類が能力を発揮するのもそのあたりからだと思う。    だから、仮にその前。  あらゆる神話で宝具と呼ばれるモノが、そう呼ばれる前のカタチがあるのだとしたら―――? 「ほう。おまえのマスターも捨てたものではないな。どうやら〈我〉《オレ》の正体に心当たりがあるらしい」 「え――――?」  セイバーがこちらに視線を向ける。  ……遠い。  こう距離があると助けに入る事もできない。  手足。体はようやく、歯を食いしばって指が動く程度にしか回復していない。 「逃げ、ろ、セイバー――――そいつの、宝具は」 「本物だと言うのだろう?  そう、単純な話だセイバー。  最も古い時代、まだ世界が一つだった頃の話をしよう。  その国は栄え、王はあらゆる財宝を収集した。  集められぬ物などなく、足りぬ物などなかった。  王は完璧な宝物庫を持ち、その中にある有象無象の武器は使われる事なく、王と共に眠りについた」 「―――要はそれだけの話だ。  王の死後、宝物庫の中身は世界に散らばり、名剣であるが故に重宝され活躍し、いずれ宝具として扱われた。  ……ふん、わかるか騎士王よ。  おまえたちの扱う宝具とやらは、元々はその王の持ち物にすぎないのだと」    ……それは、遺産のような物だ。  系譜、時代を遡っていけば必ず“原型”は存在する。  ならば各国に伝わる神話、伝承、宝具の〈原型〉《ほったん》があるのは道理だ。  そして―――遙かな過去、それらの原型を集める事が可能だったのなら、全ての宝具を所有した事になる。    それに該当する英雄は一人だけ。  〈セイバー〉《アーサー》や〈バーサーカー〉《ヘラクレス》より古い伝説を起源とする者。  かつて古代メソポタミアに君臨したという魔人。  己が欲望のまま財宝を集め、その果てに不老不死を求めた半神半人の王の名は、たしか―――― 「ギルガメッシュ―――人類最古の英雄王――――」    恐れをかみ殺す声。  黄金の騎士―――ギルガメッシュは、その響きを満足げに受け止める。 「――――いかにも。この身は貴様らでは敵うべくもない、最強の英霊だ」  ―――もはや語るべき事はない。  残ったものは、その有り余る宝具を以って敵を粉砕するのみである。 「ほう? 我の名を知った上でまだ抗うか。今度こそ勝ち目がないと悟った筈だが」 「――――やってみなければ判りません。  いかに英雄王と言えど、超えられぬ物がある筈だ」  セイバーの周囲が揺れる。  吹き始めた風は渦を巻き、旋風となって彼女を守る。  同時に現れる黄金の剣。   「――――だめだ、セイバー」    ……なんて事だ。  セイバーのヤツ、エクスカリバーを使う気か……!?  ギルガメッシュの足が止まる。  ヤツもセイバーの聖剣の力は知っているのか、目に見えて余裕が消えていった。  セイバーはギルガメッシュを見据えたまま、一度だけこちらに視線を投げる。 「………………」    今のうちに逃げろ、と言うのか。  ギルガメッシュは川を背にしている。  対してセイバーはこちら側。  先ほどの剣戟の間だろう。  気が付けば、セイバーは俺を守るようにギルガメッシュと対峙していた。 「――――違う。だめだ、こんなところで――――」    体に力を込める。  麻痺しきった体に鞭をうっても、動くのは片腕だけだった。  それでも、その片腕で体を起こそうと全身の魔力を動員する――― 「つ――――こ、の――――!」    感覚などなかったクセに、いざ動こうとすると骨という骨が軋んだ。  その痛みは警告だ。  体中にはしった〈罅〉《ひび》が、これ以上動けば砕けてしまうと訴えている。 「―――――っ…………!」  無視して、なんとか上体を起こす。 「あ――――はあ、は――――あ……!」  痛みをかみ殺す。  構っている暇はない。  今は一秒でも早く立ち上がって、セイバーを守らないと。    ―――だって、悪寒がするんだ。    あの敵と対峙した時に感じた予感。  何をしても勝てないと。  アイツとだけはセイバーを戦わせてはいけないという直感が、どうしても離れない―――― 「――――ふん。音に聞こえし聖剣か。いいだろう」    渦巻く風は、すでに暴風と化していた。  その中で輝く聖剣を前にしても、黄金の騎士は怯まない。  あまつさえ。   「では、こちらも相応しい物を出さなければな」    ひどく異質な“剣”を、背後の門から引き出した。    ――――それが、悪寒の正体だった。    現れた剣は、どんな伝承にも存在しない。  ヤツの背後にあった宝具、その全ての形状を看破できる自分でさえ、あの剣がなんなのか判らない。 「〈我〉《オレ》は全ての宝具の原形を持つ。だがそれらは全て無名であり、〈我〉《オレ》しか持ち得ぬ武具という訳ではない」    円柱のような剣。  三つのパーツで作られた刃は、それぞれ別方向にゆっくりと回転している。  その様は、固い岩盤を貫いていく削岩機のようでもあった。 「だがこれは違う。正真正銘、この英雄王しか持ち得ぬ剣だ。  ―――銘などないのでな。〈我〉《オレ》はエアとだけ呼んでいるが」 「っ――――純粋に宝具の力比べをする、と……?」  収束する光。  二人の距離はたった十メートル程度。  その間合いならば、ギルガメッシュは避ける事さえできはしまい。 「そうだ。なに、遠慮する事はないぞ。最強と呼ばれるその剣、一度味わってみたくもあったからな」  押し殺した笑いが響く。  それを挑発と受け止めたのか。 「―――いいだろう。  ならば我が剣、見事受けきってみるがいい……!」    セイバーの剣が動く。  その唇が、聖剣の真名を紡ぎだす。  もはや逃げ道はない。  所有者によって名を解放された宝具は、その力を容赦なくギルガメッシュへと叩きつける。 「出番だ。起きるがいい、エア」    円柱の剣、エアが吠える。  ギルガメッシュの言葉に呼応して、三つの刃が音を立てて回転する。  セイバーのエクスカリバーが、風を払う事によって旋風を呼ぶのなら。  ギルガメッシュのエアは、風を巻き込む事によって暴風を作り出す――――   「“〈約束された〉《エクス》――――”」  だが、こと対城宝具の扱いならばセイバーに一日の長がある。  エアの咆哮よりなお迅い。  セイバーはわずか数秒で魔力を臨界まで注ぎ込み、最大の力で――――   「“〈勝利の剣〉《カリバー》―――――!”」    そこに躊躇いなどない。  一振りで大河を断つ聖剣を、セイバーは気合いと共に解放する――――!    直前。              「“〈天地乖離す〉《エヌマ》、〈開闢の星〉《エリシュ》――――”」    まったく同位の光が、エクスカリバーの一閃を受け止めた。  その、凄まじいまでの衝突。    吹き荒れる烈風は木々をなぎ払い、ぶつかりあう閃光は爆発する太陽となって目蓋を焼く。   「は………そんな、体、が――――」    倒れた体が、風に吹き飛ばされかける。  片腕でなんとか地面にへばりつきながら、光と熱の洪水の中で、必死に耐えた。    ―――衝突はどれほど続くのか。    世界を二つに割るのではないか、と危惧するほど拮抗した両者の奔流は、しかし。   「く――――あ…………!」    白い光に包まれていく彼女の姿で、唐突に終わりを告げた。  がしゃん、と。  すぐ近くで、何かが落ちる音がした。   「―――――セイ、バー……?」    それが何であるか。  光で鈍った目であっても、見間違う事はなかった。  ――――死んでいる、と思った。  そう思ってしまったほど、セイバーはズタズタだった。   「ふ――――はは、くははははははははははは!」    遠くでは。  傷一つない黄金の騎士が、狂ったように笑っていた。 「く、人類最強の聖剣とやらもその程度か! 人間の幻想など所詮子供だましよな!」  〈哄笑〉《こうしょう》は高く、焦げた大気を超えて、天に届くかのよう。    ―――それほどに愉しいのか。    ヤツは倒れ伏したセイバーを見ようともせず、ただ、己の為に笑っていた。 「セイ、バー――――」    ……返事はない。  ただ、喘ぐように開いた口から、こほっ、と赤いものが吐き出された。 「――――――――」    目の前が、真っ赤になる。  ――――何をしていたのか、俺は。  こうなる事は判っていた。  セイバーではギルガメッシュに勝てないのだと判っていたクセに、どうして―――令呪を使ってでも、セイバーを止めなかったのか。   「しかし味気ない、完全にこちらの圧勝か!  相殺する事も出来ぬとは拍子抜けだぞセイバー。ああ、そうか、少しは手加減してやるべきだった。なにしろ相手は女子供だったのだ!」    耳障りな笑い声。  その責任は俺にある。  ……勝てる、と思った。  いくら悪い予感がしようと、セイバーのエクスカリバーなら勝てると思った。  だから口では止めろと言っても、令呪は反応しなかった。    ―――本気では、なかったのだ。    本気で守りたかったのなら、令呪でセイバーだけでも逃がせば良かったのだし―――俺だけで戦う方法なんて、幾らでも、あった筈だ。   「さて、では頂くとするか。汚れてしまったが、なに、いずれ同じ目に遭うのだ。ここで傷つこうと問題はあるまいよ」    笑い声が近づいてくる。 「――――」  それで気が付いたのか、セイバーはうっすらと目を開けた。 「! セイバー、無事か……!?」    こうしてあいつの息遣いまで見えるというのに、手を伸ばしても届かない距離。  体は依然動かず、駆け寄る事さえできない。  だから、必死になって声をかけるしかなかった。 「セイバー……! セイバー、セイバー……!」 「…………ぁ…………っ」  セイバーの唇が開く。  救いを求めるように息を吸って、それも苦しいと、小さく咳き込んだあと。 「……シロウ……? そこに、いるのですか……?」    目の前にいる俺が判らないと、弱々しく声をあげた。 「っ――――待ってろ。すぐに――――」    手を貸してやる、とは言えなかった。  倒れているのは俺も同じで、体は腕しか動かない。  セイバーを元気づける言葉さえかけられない。  ……そんな、俺の無様な姿が見えないのか。 「……ああ、そうか。負けたのですね、私は」    ぼんやりとした声で、光のない目で俺を見て。   「―――申し訳ありません……どうか、貴方だけでも逃げてください、マスター」    血を吐きながら、ふざけた事を言いやがった。 「――――――――」    怒りで、視界が真っ赤になった。  無意識にセイバーに頼りきり、その結果がこれか。  不用意に一撃を受けて、まだ立ち上がる事も出来ないのか。    ―――ガチリ、と唯一動く片腕で、自らの頭を掴む。    本気で、自分を殺したくなって。  握り潰す気で、力を込めた。    撃鉄が下りる。  自身を魔術師へと切り替えるスイッチを、指ではなくハンマーで叩き変えた。   “―――二度と使わないようにね。投影は、アンタの手に余るから―――”    遠坂の言葉。  度を過ぎた魔術は、術者の回路と神経を破壊するという。    それがなんだ。  そんな事よりあいつの方が大切で、それさえ守れないっていうんなら、こんな頭なんてなくていい。  今まで数え切れないほど助けられてきた。  今までこれほど放っておけないヤツはいなかった。    なら。  あいつを守れないのなら、衛宮士郎はここで死んでしまえばいい――――!    ……鉄の音がする。  体中の骨、砕けた箇所を、鉄製の魔力が補強していく。  出し惜しみはなしだ。  ギアはトップに、始めから最高速で、限界など無視してありったけの魔力を生成し回転させる……! 「――――――――、ギ」    背骨に火が点いて、体中が赤熱する。  その、まず脳から溶けちまいそうな感覚に、舌を咬んで耐えた。  ピンク色の肉を噛み潰す。  舌に穴が開く程度で意識が保てるのなら、問題なんて一つもない―――― 「――――なに」    足音が止まる。  あれだけ愉快そうだった男の哄笑が止まる。 「な―――シロウ……?  な、なにをしているのです……!? だめだ、そんな事をしたら、体が……!」    見えずとも感じるのか。  必死に体を起こそうとしながら、セイバーが叫んでいる。    ―――それで、最後の力が灯った。    立ち上がる。  言うことを聞かない体は、限界以上に注がれた魔力によって動き出す。  それは火をつけられ、生き延びる為に水源へ走ろうとする行為に近い。    それでも構わない。  あんなセイバーの姿を見続けるよりはましだ。  ……ああ、そうだ。  燃え尽きようとする思考で、こんなにも強く思い知った。    もとから俺は。  あいつが傷つくのがイヤで、剣を握ると誓ったのだ。 「な――――逃げてと言っているのに、どうして……!」    敵を阻む。  背後には倒れたセイバーがいる。  もはや。  ここから、一歩たりとも引き下がる訳にはいかない。 「――――〈投影〉《トレース》、〈開始〉《オン》」    ……火が点いて転がり回る脳髄を押さえつけ、意識を束ねる。  イメージするものはただ一つ。  投影を八節に分け、失われた剣を複製する――――  左手に固い感触。  ……肉眼で確かめるまでもない。  二度目の剣製は、ただ一度の減速もなく成功した。 「私の、剣――――い、いえ、それでも駄目だ。シロウも判っている筈です、それでは彼には勝てないと……!  動けるのなら、今は逃げるのが――――」 「逃げない。セイバーを迎えに来たんだ。なのに、一人で帰る事なんて出来るもんか」  剣を構える。  竹刀より遙かに重い〈剣〉《てつ》を両手に握り、目前の敵を睨む。 「ば―――止めてシロウ、この男はそんな――――」    セイバーの声を振り払って、一歩前に出る。  ……間合いは〈四間〉《九メートル》。  全力で踏み込めばヤツに斬りかかれる距離。  敵は動かなかった。  ギルガメッシュはわずかに目を見張った後、くっ、と愉快げに笑い。   「――――殺すか」    感情のない声でそう言った。 「――――!」  うち下ろされた一撃を咄嗟に防ぐ――――! 「っ――――この――――!」  体を横に泳がして奇襲から逃れる。 「――――っっっっ!」  だがそれも間に合わない。  初撃が突風だったのなら、続く連撃は暴風だった。   「はっ――――く、つ、ぐ…………!」    弾くだけで精一杯。  いや、俺だけならば初撃さえ防げなかっただろう。    剣を複製する際、その記憶まで再現したのが幸いした。  長く戦い抜いた剣には意思と経験が宿る。  この名剣は、この程度の剣舞はとうに熟知しているらしい。  俺にはギルガメッシュの剣筋など判らないが、この剣は既に把握していた。    故に、俺が腕を振るう前に、剣の切っ先がヤツの一撃に呼応する。  その先見に遅れぬよう必死に剣を振るい、結果として、剣はギルガメッシュの猛攻を払っていた。 「は――――はあ、つ――――!」    だが長くは続かない。  剣を払う度に指先が痺れ、段々と剣の先見に間に合わなくなる。   「――――雑種。見苦しいにも程がある」    一時の抵抗すら許せないのか。  ヤツは腹ただしげに俺を睨み、わずかに後退した。 「あ……はあ、はあ、は――――」    ……助かった。  あのまま続けられていたら、あと数秒と持たなかっただろう。  大きく息を吐いて、なんとか呼吸を整える。  ――――と。 「薄汚い偽物め。それほどソレが気に入ったのならば、本物を見せてやろう」    ヤツは、一振りの剣を持ち出した。 「な――――」  それは、見覚えのある剣だった。  装飾は違う。  だが物の本質、作られた理念、その魂が、あまりにもこの剣と似すぎている―――― 「まさか――――この剣の、原型」 「そうだ。だが、宝具としての精度は比べるまでもないぞ。  おまえが持つ“王を選定する岩に刺さった剣”は、北欧に伝わる“支配を与える樹に刺さった剣”が流れた物だが―――これはその原型、王を選定するという“聖権”の大本だ」  支配を与える樹に刺さった剣―――北欧の英雄シグムントの魔剣グラム―――その原型、だと……? 「子は親には勝てん。転輪を続ける毎に劣化する複製は、原型には敵わぬという事だ――――!」    光が走る。  それがバーサーカーを一撃の下に葬り去ったあの一撃と同じなのだと、何よりこの剣自体が理解した。 「――――っ!」  主を守る為か。  手にした剣はかつてないほどの力で、自ら敵の剣へ奔る。  宝具の名は“〈勝利すべき黄金の剣〉《カリバーン》”。だがそれは、    〈原罪〉《メロダック》と言う剣の前に、跡形もなく砕け散った。  地面を滑っていく音がする。  ざざざざざ。  まっ平らな公園はよく滑るのか。  風に飛ばされたゴミのように路面を転がり、止まった。   「シロウ―――シロウ、シロウ…………っ!!!!」    その声のおかげで、自分がまだ生きていると気が付いた。 「なんだ。セイバー、わりと近くに」    いるんだ、なんて気軽に思って、安心した。  なんだか吹き飛ばされた感じだが、セイバーが近くにいるならいい。  それなら立ち上がれば、すぐにセイバーまで駆け寄る事が出来る―――― 「あ――――れ」    倒れたまま腕を見てみる。  真っ赤だった。  ねっとりとした赤い粘膜に包まれた腕は、それ自体に出血はない。 「動くな……! もういい、いいから動かないでくれ、シロウ……!」    ……セイバーの声が聞こえる。  傷を負ったのは胴体らしい。  さっきの一撃。  ギルガメッシュの剣を受けて吹っ飛ばされたのは確かだ。    なら傷は―――ああ、なるほど。    これなら、セイバーが、あそこまで取り乱すのも、判る気がする。  動くのは右手だけだった。  左手は動かない。  そもそも、左手がどうなっているのかも判らない。 「――――――――は」    息も出来ない。  左肩から斜めにばっさり。  袈裟に斬られた体は、かみ合わない積み木のように分かれていた。  銀杏の葉っぱに似ている。  肩口から腰まで斬られたのだ。  これで生きているというのは、我ながら不気味なぐらい。  ……だが、その奇蹟もいいかげん打ち止めだろう。  今はかろうじて意識があるが、段々と視界が狭まっている。  そもそも、少しでも動けば中身がごっそりこぼれ落ちるのだ。  実はとっくに死んでいて、意識だけが、幽霊のように残っているだけかもしれない。 「ふ、ははははははは! なんだ、見事に散らばったと思ったが存外にしぶといのだな! なるほど、生き汚さだけが雑種の取り柄というワケか!」  ヤツが笑う。  ―――正直、有り難い。  それが耳障りであればあるほど、消えていく意識が、しっかりと体にしがみつく。 「だがそこまでだ。貴様に獅子は似合わん。その女は〈我〉《オレ》が貰う」    足音。  今度こそセイバーを手に入れようと、ヤツが歩き出した音。 「――――――――」    ……笑い声が近づいてくる。  立ち上がろうと地面に手をついた途端、背骨に稲妻が落ちた。  痛みで、繊維という繊維、細胞という細胞が戦闘不能を訴える。 「――――――――」    ……立ち上がれない。  こんな体で立ち上がったところで、あの男を倒せない。  そう認めた瞬間、必死に生き延びようとする体が停止した。    ……今まで衛宮士郎を守護していた力が消えていく。            ……混濁していく意識。  朽ち果てる心と共に、俺の生命も消えていった。 「は…………あ――――!」    右腕に力を込める。  ずるり、と滑る腕で地面を掴み、切断しかけた体を起こす。 「――――!」  一瞬、セイバーの顔が見えた。  その、泣きそうな顔で。  彼女に惚れたことは間違いではないと、自分自身に胸を張れた。 「――――待て。まだ終わっていない」    片腕で体を起こす。  両足は動かない。  むりやり体を動かしていた魔力も切れた。  残ったものはかすかな心臓の鼓動と、ギチギチと音をたてる、傷ついた内臓だけ。 「ほう、未練か。だろうな、アレはおまえには過ぎた宝だ。その気持ちは分からんでもない。ならばこそ他の男の手に奪われるのは悔しかろう」    それで切れた。  これ以上、その口上は我慢ならない―――― 「だから―――奪うとか奪われるとか、セイバーを、物みたい、に――――」    右腕に力を込める。  鉄でも入っているのか。  体は鈍い音をたてながら、それでも、俺の意思に応えてくれた。 「は――――あ、ぐ――――!」  片膝をつく。 「く――――この、言うこと、を――――」  力を込める。  その度に傷口から、何か生きていくのに必要なものがごっそりとこぼれ落ちていく。   「――――なぜ。もう無理だと、どうして判らないのです……!」  セイバーの声は、罵倒に近かった。  彼女は、遠く。  離れたところから、悔しげに俺を見ている。 「は――――ぐ、つ――――!」  無視をして力を込める。  セイバーの声は邪魔だ。  こんな体より、俺のあがきを嘲笑っているギルガメッシュより、今はセイバーが最大の敵だった。  だって、あんな顔で文句を言われたら、この心が折れて、しまう。  ようやく。  ようやく片膝に力が入って、あとは立ち上がるだけだっていうのに――――   「……いらない。貴方の助けなどいりません。敗北した以上、私は既に貴方の剣ではないんです……!  このまま―――このまま消えるのが、サーヴァントとして当然の結末ではないですか……!」  セイバーの声。  ……くそ。  これ以上邪魔をしたら、おまえでも怒るからな……!   「やだ―――止めてくださいシロウ、それ以上はダメだ……! 本当に、本当に死んでしまう。こんな、こんな事で貴方に死なれたら、私は―――」  ――――っ。  この、人の気も知らずに、よくも言いたい放題……! 「―――うるさい、いいから少しは黙ってろ……! こういう時ぐらい頼っていいんだよ、おまえは……!」 「それは違う、シロウ、優先順位を間違えないでほしい。  私の身などどうでもいい。そんな物より、貴方は自身の命を第一にするべきだ―――」  懇願するような声。  ……そんな声を俺が出させているのかと思うと、本当に、心が折れそうになった。  それでも―――― 「―――断る。俺には、セイバー以上に欲しいものなんて、ない」    その言葉には、頷いてやる訳にはいかなかった。 「な――――」  呆然と、セイバーは俺を見つめている。  ……どうしてそんな顔をするのかは分からない。  ただ、思い出した。  彼女は俺に、自分の命の重みを知らない大馬鹿者と言った。    それは真実だと思う。  自分の事さえ考えられないようなヤツが、他人に手を差し出すなんて思い上がりだ。  そんなものは独りよがりの幸せで、相手からしてみれば不安定な喜びでしかない。    一番大事なものは自分自身。  そういう人間が、きっと迷うことなく幸せになれて、その幸せを分けられる。 「……ああ。俺は確かに、自分の命を勘定にいれてない大馬鹿だ」    俺は、一番大事なものを間違えている。  ―――あの日から。  その席が、ぽっかりと空いている。    ……でも、その〈歪〉《いびつ》さに感謝している。    今はその空席に。  心の底から救いたいと思えるヤツが、ちゃんと居座っているんだから。 「けどな、セイバー。もし俺が、自分の命が一番大事だったとしても変わらない。  きっとそれ以上に、セイバーはキレイなんだ。おまえに代わるモノなんて、俺の中には一つもない」    ―――それで、気が付いた。  俺はあいつに同情していた訳じゃない。  夢で見た一人の少女。  独りで戦い抜き、独りきりで死んでいった彼女を報われないと思いつつも、俺は見とれていた。    ただ綺麗だと。  剣を手に取り、一度も振り返らず駆け抜けた彼女の生き方そのものが、憧れるほど鮮やかだった。 「――――そうだ。だから」    だから、守らないと。  孤独のままだったおまえが、最期に、その闇に囚われないよう。          ……そう。全てが終わって、その死の際で。  己の人生は誇れるものだったのだと、胸を張って眠れるように――――    ―――迷いは消えた。  俺のやるべき事は、こんなにもはっきりしている。 「―――ごめんな。俺、セイバーが一番好きだ。  だから、あんなヤツにおまえは渡さない」    そう呟いて、謝っちまったな、と後悔した。  だが口にしたかったのだ。  この時。なんの不純物も混ざらない今だからこそ、言葉にしておきたかった。 「―――――――」    息を呑む気配だけがした。  振り返って見たかったが、セイバーがどんな顔をしているか、もうよく見えないんで止めておこう。  立ち上がる。  心臓の鼓動があるのならまだ戦える。  魔力とは、すなわち命だ。  鼓動があるかぎり、何度でも彼女の剣を作り上げる。 「よく立った。―――で? その後は何があるのだ?」    ―――右手に灼熱を感じる。  死が身近にあるからか、十年前を思い出した。  ……ひどい錯覚だ。  この身が、今もあの火事の中で、生を求めて手を伸ばしているかのよう。 「失せろ。おまえに、セイバーは任せられない」  右手を掲げて告げる。 「たわけ。誰が貴様の許しを得るか」  敵が剣を振り上げる。 「伏せろ、シロウ――――!」  背後からはセイバーの声。  それに逆らって、残った全ての魔力で、もう一度剣を“投影”し――――  その光に、阻まれた。  エクスカリバーには及ばないものの、触れるモノを焼き払う光の渦が繰り出される。   「――――――――」    体に灼熱を感じながら、思った事は自身の死ではなく、背後にいるセイバーの事だった。 「――――――――」    これではあいつも巻き込まれる。  なら、せめて守らないと。  セイバーを守ると言った。そう、俺はセイバーを守りたかった。    ……あいつは強いけど、同時にいつ折れてもおかしくはなかったのだ。  だから俺がしっかりしないと。  いつも抜き身の剣のような彼女が傷つかないよう、彼女の為にならなければ――――    ―――と。  気が付けば、右手には、剣のようなものが握られていた。 「な――――に?」    それは誰の声だったか。  躊躇は一瞬。  絶対の勝利者である黄金の騎士がわずかに後退したのと同時に、   「シロウ、それを――――!」    セイバーが、俺の手を取っていた。  ―――巻き起こった光が止む。    傍らには寄り添ったセイバーの姿。  目前には目を見開き、わずかに血を流すギルガメッシュの姿があった。 「――――――――」  何が起きたのかは判らない。  ただ、これがバーサーカー戦の焼き直しだという事だけは気づいていた。  俺が作り出した何かをセイバーが使い、ギルガメッシュの〈剣〉《グラム》をうち破ったのだ。  光は光を押し返し、今まで無傷だったヤツに深手を負わせたのか。 「――――――――」  ―――恐ろしいまでの殺意。  目に見える物、その全てを殺さねば気が済まぬという殺気を放ったまま、    黄金の騎士は、無言でこの場から立ち去った。 「……え?」  驚く暇もない。  なぜヤツが立ち去ったかなど知らない。  ただ、戦いが終わってくれた事だけは、薄れかけた意識でも実感できた――――  膝が落ちる。  緊張の糸が切れて、体が地面に倒れ込む。   「と、シロウ……!」  咄嗟にセイバーが支えてくれた。  尻餅をついた状態で、セイバーに背中を支えられながら、ぼんやりと自分の体を見下す。 「は――――」    思わず声が漏れた。  傷はもう、どうしようもない状態だった。   「ぁ――――はぁ、はぁ、は――――」    左肩からバッサリと斬られた体は、本来なら即死の傷だ。 「つ――――あ。こいつは、さすがに」    それが曲がりなりにも生きているのは例の治癒のおかげだが、それにも限度があるだろう。  ほとんど二つになりかけている体。  ここまで壊れた体を治す事などできまい。  ……もう自分が呼吸をしているかさえ判らないし、意識も段々と細くなっていっている。  ―――終わりが近い。    ただ、幸いなのはセイバーの事だ。  俺は致命傷だが、セイバーは疲労だけらしい。  今では武装を解いていて、傷も完全に治っている。  なら―――あとは、ここで俺がリタイアしても、遠坂がなんとかしてくれるだろう――――  また、この音だ。  骨が軋むような音は、俺の体から発している。  気になって傷口を見下ろす。 「―――――――な」    それは、無数の剣だった。  いや、剣の刀身のようなものが幾重にも重なり合い、ひしめき合い、ギチギチと音をたてて、分かれた体をつなぎ合わせようとしている。    目眩がした。  体中の骨という骨、筋肉という筋肉が、剣で出来ているような錯覚―――― 「――――え?」  そんなものはなかった。  さっきのは幻か、体はいたってノーマルだ。  その証拠に分かれていた肉は繋がりはじめ、傷口はみるみるうちに塞がっていく。  治癒というよりは復元に近い。  その様は、不思議を通り越して不気味だった。 「な――――」  どうやら助かるようだ。  が、いくらなんでもこれは――――   「――――良かった。この分なら死ぬ事はなさそうですね、マスター」    耳元でセイバーの声がした。  その、すごく近い。 「いや……それは、助かる、けど――――俺の体、いったい」  どうなっているんだろう、と言いかけて、目眩に襲われた。  ―――と。  体は、ふわりと柔らかな腕に包まれていた。 「え――――セイ、バー……?」 「いいえ。私には判りました。傷が癒やされるのは当然です」  ……意識が持たない。  魔力を生成しすぎた為だ。摩耗しつくした精神は、いますぐに眠りを欲している。  ……それは、どのくらいの強さだったのか。  セイバーはより深く腕を回して、ぎゅっと、俺の体を抱きしめ。   「―――やっと気づいた。シロウは、私の鞘だったのですね」    ……そう、深く染みいるような声で、彼女は言った。    その感触が心地よくて、残っていた意識が閉じる。  とにかく助かったと安心して、眠りに身を委ねる。    ……と、その前に。  この立場が逆だったら文句はないのに、なんて、つまらないグチをこぼしていた――――    ―――で。    気が付けば、もう朝になっていた。 「……なさけない。けっきょく一睡もできなかった」    溜息をつきながら目覚まし時計を止める。  今日は、セイバーがなんと言おうがデートなのだ。  今まで行かなかった場所、色々な遊び場に連れ回して楽しませるのが最優先事項なのだ。  そのために無い知恵しぼってデートコースなんぞを考えていたのに、気が付けば目覚まし時計が鳴っていた。 「…………」    目覚まし時計は、万が一の為セットしていた。  昨夜、いくら考えてもこれといった具体案が浮かばず、これは長丁場になるな、と遠坂から借り受けたものだ。  まったく役には立たなかったが。 「……考えてみれば。俺、デートなんてしたコトなかったっけ」    はあ、ともう一度溜息をつく。  ようするにそういうコトなのだ。  緊張して一睡もできなかった事より、一晩考えて女の子が喜びそうなデートコースが思いつかなかったのがショックなのだ。 「―――いい。こうなったら出たトコ勝負だ。手当たり次第連れ回して、あいつに楽しみってヤツを思い知らせてやる……!」    ともかく可愛らしい店をハシゴしていけば楽しくないワケがない。  いや、どこかこの作戦には欠点があるような気がするが、ともかくそうと決めたらそうなのだ。  他に案があるワケでもなし、今日はセイバーが音を上げるまで娯楽まみれにしてやろう。 「では、イリヤスフィールはまだ目を覚ましていないのですか?」 「ええ、まだ眠ったままよ。あの様子なら目を覚ますのにもうしばらくかかりそうだけど、今日はそれが幸いしたわね。  イリヤ、起きてれば士郎の後について回って邪魔してただろうし」 「そうですね。今までのようにシロウに同行されてはたまらない。  昨夜はああなってしまいましたが、今日からは本気で残るマスターを捜すのです。シロウにはイリヤスフィールに構っている余裕はありません」 「ああ、そっちの邪魔じゃないんだけど……ま、いっか。  わたしが言っても仕方ないし、これは士郎とセイバーの問題だし」  きしし、と笑いを抑える遠坂。 「は? 私とシロウの問題、ですか……?」 「――――――――」  朝食は済んだし、時間としては頃合いだ。  セイバーはマスターを捜す気満々だが、こっちだって気力なら負けていない。  ここはもうスッパリと、男らしく切り出すだけである。 「その事だけどな、セイバー。  今日は隣町に出るから、支度があるなら今のうちに済ませておいてくれ」 「マスター捜しですか? それでしたら隣町ではなく郊外の方が確実だと思いますが―――」 「そんなんじゃない。二人で遊びに行くんだから、郊外になんて行っても仕方がないだろ」 「は――――?」  セイバーが固まる。    ……後ろの方で笑いを堪えているヤツには、あとで絶対仕返ししてやらねばなるまい。 「あの、シロウ……それはどういう意味でしょうか。遊びに行く、とはシロウと凛ではなく、その」 「俺が行くんだから、付いてくるのはセイバー以外いないだろ。遠坂はうちでイリヤの面倒を見て貰うから関係ない」 「―――何を馬鹿な。私とシロウが隣町を探索したところで成果は薄い。そのような事をしても意味がない。一体何をしようというのですか、貴方は」  まっすぐに不満をぶつけてくるセイバー。  ……予想通りと言えば予想通りだが、これだけハッキリ言っても“マスターを捜す為に町に出る”と思っているあたり、前途は多難だ。 「……まいった。ここまで言っても判らないんだなセイバーは。ようするに、俺はデートしようって言ってるんだけど、どうかな」  遠坂の視線を無視しながら告げる。  どこまで判ってくれたのか、セイバーは、 「そのような言い方では判りません。具体的な内容を提示してくれませんか、シロウ」  ますます不機嫌そうに訊いてくる。 「――――――――」  それで、カチン、とスイッチが入った。  ……こういう事に関して、気を遣うのは逆効果だ。  セイバーにはきっちりかっちり、判りやすく言った方がお互いの為っぽい。 「シロウ。町に出るというのなら従いますが、デートをしようとはどういう事なのか、説明してください。  いくらこの時代に慣れているといっても、私にも知らない単語はあります。あまり専門的な略語は使わないでほしい」 「別に専門的な単語じゃないぞ。  知らないなら教えてやるけど、デートってのは、女の子と遊びに行くって意味だ」 「は――――?」  ぴたり、と固まるセイバー。 「……? 女の子、とは、私の事を言っているのでしょうか……?」  呆然としたまま呟く。  もちろん、と頷くと、セイバーはますます不思議そうに顔をしかめた。 「……言葉の意味は判りましたが、意図がまったく判りません。そんな事をする理由はなんですか」 「――――む」    そう来るとは予想外だった。  デートの意図なんて判りきっているのだが、面と向かってセイバーに言うのは憚られるというか―――― 「ああもう、そんならしくない単語を使うから勘違いさせるのよ。デートなんて言わずに、もっと判りやすい言葉で説明すればいいのに」 「いいセイバー? デートってのはね、ようするに逢い引きのコトなの。  士郎は遊びに行くって言うけど、つまるところ、男の子が好きな女の子にアピールするチャンスってワケ」 「っ――――!」  思わず咳き込む。  そりゃ遠坂の言い分は正しいが、デートと逢い引きとでは激しく違う気がする。 「――――――――」  ……けど、口だしするまでもない。  あの様子からして、セイバーもデートの意味をようやく理解してくれたようだし。 「―――そういうコトだセイバー。  今日一日は戦わないで町に行く。そもそも、昼間は人目につくから戦えないだろ。ならどう過ごしてもいいはずだ」 「―――それはそうですが……しかし、あまりに意味がありません。そのような事をしても、シロウには何ら得るものがないのではありませんか」 「そんな事はないけど、別にそうでも構わないぞ。  今日はセイバーの為に使うって決めたんだから、俺の事は気にするな。  とにかく、今日は絶対に町に行く。こればっかりは何を言われても変えないからな、セイバー」  キッ、と正面からセイバーを見つめる。 「――――――――」  セイバーは難しい顔で思案したあと。 「……では、私が反対した場合でも、シロウは一人で町に出ると?」 「ああ、絶対に行く。そうでなきゃ一晩考え抜いたのがバカみたいだ」 「…………それでは、私が付き添わない訳にはいきません。サーヴァントとして、マスターを一人にする事はできないのですから」  はあ、と深呼吸をした後。  いつもの調子で、セイバーはそう答えていた。 「――――――――」  ……よし。色々問題はあるが、とにかくセイバーを連れ出す事には成功した。  後は細かいコトを考えず、セイバーを連れ回してやろうじゃないか――― 「行ってらっしゃい。お土産よろしくねー」    などと、最後まで人を肴にして楽しむ遠坂に“地獄へ堕ちろ”とジェスチャーして外に出る。 「―――それで。  具体的にはこれからどうするのですか、シロウ」 「どうするって、とりあえず隣町に出る。交差点からバスが出てるから、それに乗って行こう」  坂道は妙に静かだった。  平日の朝九時過ぎ、町は段々と活気づいてきているが、出かけるには些か早いのだろう。  道に人影はなく、通りは貸し切り状態だ。 「……そういえば、学校を休むのに抵抗がなくなってるな。ここんところずっと家にこもってたし」 「当然でしょう。シロウはマスターなのですから、おいそれと出歩く方がおかしいのです」  ぴしゃり、とつっこんでくる。  ……無言で背後に控えている、というのはいつもの事だけど、今日は様子が違う。  控えめに言って、背中にピリピリと威圧を感じるというか。  ともかく、セイバーは手強さを増している。    バスに乗る。  ほんの一時間前までなら乗客でぎゅうぎゅう詰めなのだが、この時間の利用者は数えるほどしかいない。  椅子に座っているのは子供連れのおばあさんぐらいで、ここもほとんど貸し切り状態だった。 「セイバー、一番後ろに座ろう」    なぜか一番前に座ろうとするセイバーに声をかけて、後ろの大きな座席に座る。   「…………」  セイバーは黙ったまま、流れていく景色を挑むように見つめている。    ……その姿を盗み見て、今更ながらに、自分がどれだけとんでもないコトを実行しているのか思い知った。  隣町に向かうバスっていうのは、自分にとって当たり前の日常だ。  その日常の中に、あり得る筈のない非日常が混入している。    ……まあその、つまり。  有り体に言えば、これからホントにデートなんてするのかー! と頭ん中がガシガシと六面体パズルのように変形し始めたというか。 「――――――――」    ―――あ。  やば、ちょっと、本格的に、手のつけられないぐらい緊張してきたぞ。 「――――――――」  すう、とセイバーに気づかれないように深呼吸をする。  で。よせばいいのに、もう一度セイバーの横顔を盗み見る。 「っ――――」    どくん、と一際高く心臓が鳴る。    ……座席に座ったセイバーは、俺の知らないセイバーだった。いや、セイバー自身はいつも通りで、状況が今までと違うだけ。  それだけで否応なしに、彼女が『別物』なのだと再確認してしまった。    衛宮の家では気が付かなかった事。  こんな、自分にとって当たり前の日常は、セイバーがいるだけで別世界のように思える。    金砂のような髪も、緑の瞳も、それだけで他を圧倒する美しさだと思う。  今まで比較するモノが少なかったから、そんなコトも忘れていた。    ……セイバーと出会ったばかりの頃を思い出す。  セイバーが苦手で避けていたのは、きっと、セイバーに見とれてしまうのが恥ずかしかったからだ。    セイバーがなんて言おうと、俺にとってはセイバーは剣士である前に女の子だったのだし。    そんな彼女にどう接していいのか判らず、自分の気持ちにも気づかなかった。   「……………………」    我ながらバカな話だ。  もう後戻りできないところまでセイバーを信じるようになって、その後にデートをすると決めた。  それだけでも順番が逆だっていうのに、このバスから下りたら一日が始まるっていう段階で、ようやく、好きな女の子とデートをするってコトがどれほど大事件なのか気づいたのだから。    けど、それでもいい。  もともと出来る事を全力でやるしか能がないんだから、いまさら怖じ気づいてなんていられない。 「――――――――」    心を落ち着かせて、くだらない弱気を振り払う。  バスは橋を渡りきって、ビルの立ち並ぶ開発地区に入っていく。  よし、と笛のように息を吐いて覚悟を決める。      聞き慣れたアナウンスが、次は新都駅前と告げていた。  午後になってもやる事は変わらない。  こっちは思いつくかぎりの店に向かって、セイバーは黙って付いてくる。  ただ、それは午前中に比べるとそう辛くなかった。  俺が慣れてきたのか、セイバーも観念してくれたのか。  セイバーは相変わらず無口だが、よく見れば怒っていない顔と怒っている顔とで微妙に違っていたりする。  店から出た時にセイバーの足取りが軽かったりすると達成感があるというか、純粋に嬉しかった。    ―――で。    様々な角度からセイバーが気に入りそうな要因を検証した結果。  自分でも半信半疑ではあるのだが、ここが一番セイバー受けしそうな店だと判断した。 「なっ――――」    ががーん、と立ちつくすセイバー。  その肩がふるふると震えているのは、怒っているからなのか感動しているからなのか、やっぱり俺じゃ判別がつかない。 「シ、シロウ、ここは」 「町で一番品揃えのいいぬいぐるみ屋だってさ。男子禁制らしいんで、立ち寄った事はなかったけど」  勿論、男子禁制などという規則はない。  ただ利用客が女の子ばっかりな為、そんな暗黙の了解が出来ているのだった。  事実、こうしている今もまわりには年頃の女の子しかいない。  金髪であるセイバーもじろじろと見られているが、男である俺はギロギロと睨まれている。  あたしたちの聖域に入ってくるなー! と言いたいんだろう。    ……まったく同感だ。  俺も、こんなトコに足を踏み入れるヤツは男として認めない。 「ま、せっかく来たんだからまわりは気にせず見て回ろう。セイバー、好きな動物っているか?」 「え……その、おもに獅子や豹などは、愛らしいと思っているのですが……おかしいでしょうか?」 「っ――――」  咄嗟に顔を逸らして笑いを堪える。  何がおかしいって、ライオンが可愛いと思っている自分がおかしいと思っているセイバーがおかしい。 「……シロウ、今の行為は不自然です。なにか、いわれのない怒りを覚えるのですが、私の気のせいでしょうか?」 「あ、いや、わるいわるい。ライオンってのがあんまりにもセイバーらしかったんで、つい笑っちまった」 「っ……! ひ、人の趣味を笑うのはよくないコトです、シロウ! それにライオンも悪くありません!」 「だからすまなかったって。お詫びにいいトコに連れていくから、それで機嫌をなおしてくれ」  笑いをかみ殺しながら店の中に入っていく。  ええっと、見た感じ動物系のぬいぐるみはあっちの方か。  で。  店の最深部から入り口まで戻ってくるのに一時間弱。  セイバーとぬいぐるみの睨めっこを無言で見守ったり、いったいどこからやってくるんだっていうぐらいの女の子の数に神経をすり減らしたり、とにかく今までで一番疲れた一時間だった。  だが恐ろしいコトに、これで店の半分しか回っていない。  セイバーが頻繁に金縛り……ぬいぐるみと睨めっこ状態である……にあうんで、たった半分見て回るだけでこれだけかかったのだ。    セイバーは残った半分に興味津々のようだし、まあ、付き合うしかない訳だけど。 「シロウ……? どうしたのです、溜息をついて。歩き通して疲れてしまったとか……?」 「ん……? ああ、ちょっと疲れた。こんな程度で音を上げるほどやわじゃないんだけどな、ここは特別だ。やっぱり慣れない事はするもんじゃないのか」  はあ、と大きく溜息をつく。  セイバーと歩いて人にじろじろ見られるのは構わないが、こういう女の子だけの店というのはやはり落ち着かない。  気疲れっていうのは、時に足にくるものなのだ。 「そういうセイバーは大丈夫か? こういう店、初めてだろ。疲れたんなら言ってくれ」 「たしかに私も落ち着きませんが、シロウの方が居心地が悪そうです。ここだけではなく、先ほどの店もその前の店でもそうでした。  ……まさかとは思うのですが、シロウは自分で行きたくない場所を選んでいるのではないですか?」 「――――――――」  俺にとっては。  その言葉だけで、気苦労なんて吹っ飛んでしまった。 「そうだな。正直に言えば、あえて苦手なところを選んでるけど」 「……やはり。どうかしています、シロウ。慣れないと判っていて、なぜこのような場所ばかり選ぶのです。それでは貴方が」 「いや、だって女の子にはこういう場所のが似合うだろ。  遊びに行こうって連れ出したのは俺なんだから、今日はセイバーの日な訳だし」 「――――」 「それに、そう居心地悪くないぞ。セイバーがいるから大丈夫。となりにこれだけ美人がいるんだから、妬まれるコトはあれ、場違いだって思われるコトもないし」 「な……なにを、馬鹿な。武装していなくても、私はサーヴァントです。いかに非戦闘時だからといって、私を女性扱いする必要はありません。普段通り、サーヴァントとして扱ってください」 「バカはそっちだ。普段通りもなにも、セイバーははじめっから女の子じゃないか。別に今日だけ気を遣ってるワケじゃないし、今日の俺っていつもと違うか?」 「ぁ――――」  呆然と。  今更何かに気づいたように、セイバーは口を開けた。 「いえ、同じです。  貴方は、いつも通りの、シロウでした」 「だろ。だから俺に気を遣う必要なんてないぞ。  ほら、それじゃあ行こう。一番気に入った物を買うんだから、あと半分も見ないとダメだろう」  セイバーの手を取る。  セイバーは黙ったまま俺に腕を引かれて、   「……そうでした。初めからそうだったのに、今になって、気が付くなんて」    ぼうっとしたまま、そんなコトを呟いた。  まだ午前九時の中頃だというのに、駅前のパークには人の姿が多かった。  大抵の店は十時開店なのだが、カフェテラスやちょっとした本屋などはもう店を開けている。  それだけでも人の数は深山町とは比べ物にならず、パークの賑わいは休日のそれと同じだった。 「……………………」  バスから降りて、セイバーは不機嫌そうにパークを眺めている。  ……それも当然。  セイバーはデートには賛成していなかったし、なおかつ、通り過ぎていく連中はそろってセイバーを物珍しげに眺めていくのだ。  セイバーだって気分がいい筈がない。 「…………まずったな。考えてみれば、朝からセイバーを連れてくれば当然こうなる」    だが、そんなのは今日一日ついて回るコトだ。  和らげる方法があるとしたら、人の視線が気にならないぐらいセイバーを楽しませるしかない。 「――――よし」  ぱん、と拳を打ってセイバーに振り返る。 「セイバー。初めに聞いておくけど、どこか行ってみたい所はあるか? せっかく来たんだから、今日ぐらいは好きなコトをしてもいいだろ」 「さあ。別に、これといって興味のある場所はありませんから。そもそも、私にそのような選択をする知識はありません」 「ほんとか? ……そりゃ参ったな。じゃあホントに、ここからは出たトコ勝負な訳か。セイバーに行きたいトコロがなくて、こっちもドコに行っていいか判らないんじゃ前途多難だ」 「……まさかとは思うのですが、何の計画も立てていないのですか、シロウ?」 「ん? いや、少しはあるけど、中身はガラガラ。とりあえず手当たり次第に店をハシゴしよう」  いやまあ、それも難しいと言えば難しい。  俺が入って退屈しない場所なら知っているのだが、女の子が喜ぶ店なんて想像もつかないし。  ……まったく、こんなコトなら一度ぐらいはクラスの女子に付き合っておくんだった。 「……まったく。反論する訳ではありませんが、シロウはどうかしています。休憩をとろうという考えはまだいい。ですが、その休憩すら明確な予定を立てていないとは何事ですか」  あ。セイバーが説教モードに入った。  ……道場以外でセイバーがこう〈連々〉《つらつら》と文句を言いだすのはこれが初めてだ。  もとから気乗りのしなかったコトにくわえ、道行く人々の好奇の目でピリピリしているとは思ったが、まさかこれほどとは。 「かねてから貴方の見積もりの甘さには一言したかったのです。貴方は周りの事は目に入ってるクセに、どうも自身に対する扱いがぞんざいです。  結果、〈齟齬〉《そご》を埋める為に貴方自身が代価を払わなくてはならなくなる。  ―――と、聞いているのですかシロウ!」 「聞いてるよ。ようするに今こうしているのが納得いかないんだろ、セイバー。  まあ俺に連れ回されてもつまらないのは目に見えてるし、嫌がるのは当然だろうけど」 「え―――いえ、そういう事ではなく、私は―――今は、このような事をしている場合ではないと」 「それも判ってる。けどきかない。俺は今日一日、セイバーに付き合ってもらうって決めたんだ。  こればっかりはなんて言われようと曲げない。絶対だ」  正面からセイバーを見据える。  セイバーは呆然とこっちを見返してくるだけだった。 「―――ただ、言いたい事があるなら聞く。  文句もあるだろうし、そういうのは今のうちに言っておいてくれ。その方がお互い気兼ねしなくて済む。  セイバーが俺とデートするのが嫌だっていうんなら、別の方法だって考える」 「ぁ……いえ、なにもそこまでする必要はないと言いますか……私は、その」  らしくなく、視線を泳がせて言葉を濁すセイバー。 「なら文句はないんだな。じゃあ行くぞ。  セイバーにリクエストがないんだから、どこ行ったって怒るなよ」    まずは水族館とか、そういったよく聞く定番だろう。  よし、と意を決してセイバーの手を握る。 「あ、あの、シロウ! も、文句はありませんが、何も手を掴む必要はないのではありませんかっ」 「? いや、時間も勿体ないし、少し走るからな。案内するから、はぐれないように付いてこい」 「え……いえ、こんな状態では、その……!」    セイバーの答えを待たずに走り出した。  セイバーにタンカをきった以上、もう情けないところは見せられない。  あとは思いつくかぎりのエスコートをするだけだ。  セイバーの手を握ったまま、人混みを避けて走っていく。  観念したのか、なにやら色々と文句を言っていたセイバーも大人しくなってくれた。    さて、時刻は午前十時前。  正午の昼飯時までの二時間、有意義に使ってセイバーの度肝を抜いてやろう――――      一言で表すと、嵐のような二時間だった。    普段いかないブティックにも足を運んだし、ルールを教えながらボウリングを嗜んだりもした。  水族館は見つからなかったが公園で鳥に餌をやったりもした。  趣味で骨董品屋に立ち寄ったのはご愛敬だし、映画を避けたのは賢明だったと今でも確信している。  ともかく、とことん女の子が喜ぶような場所へアタックを繰り返し、撃沈したり玉砕したりした二時間だった。    これは間違っても世間一般でいうデートじゃないと思う。  どっちかっていうと真剣勝負で、音を上げた方が負けっていうデスマッチだ。    セイバーはどこに連れて行ってもいつもの調子だし、時には本気で怒っているのでは、と不安になるほど黙り込む事もあった。  お世辞にも楽しんでいた、と説明するのは憚られるぐらいの無反応ぶりに対して、こっちは次こそは次こそはと躍起になる。    結果、セイバーを笑わせようと意地になってあちこち駆け回ったワケだが、さしたる成果も得られずに正午になってしまった。    で。  セイバーの『シロウ、お昼の時間です』というつっこみで昼飯時なのだと思い至り、とりあえず小休止をとる事にしたのだが。 「…………なんだ、ここ」    テーブルに案内されて、思わずごちた。   “昼食なら川沿いの喫茶店がお薦めよ”    それが昨夜、遠坂が俺にした唯一のアドバイスである。  それに従って店を選んだものの、まさかこんな気難しそうな店とは思ってもみなかった。 「……………………」    とりあえずメニューを手に取る。  幸い、お品書きには日本語訳も入っていたんで読み上げる分には困らない。  困るのは聞いた事のない料理名ばかりという事と、値段が法外だという事だけだ。 「……火星かここは。なにを頼んでいいのかまったく判らないぞ、本気で……」  むー、とメニューを見てうなる。 「シロウ……? ここには昼食を摂るために立ち寄ったのではないのですか?」  対面の席から妙に弱々しい声が一つ。 「そうなんだが、いかんせん勝手が違うというか」  顔をあげる。  と。  そこには、追い詰められたウサギのようなセイバーの顔があった。 「セイバー……?」 「落ち着かないのなら、今だけでも屋敷に戻りましょう。シロウが用意してくれる物の方が、私は好みです」 「え……それは家に帰りたいって事か?」 「いえ、屋敷に帰りたいわけではなくですね、その……今日はひどく緊張したので、普段より疲れてしまったのです」 「ほんとか? ……そっか、ここで飯にして一息ついたら、また町を出歩こうと思ったんだけど……セイバーが疲れたんなら、しばらくここで休憩しようか」 「まさか、そのような事はありません! 疲れたというのは語弊がありました。その、正しくはですね」  セイバーの口が止まる。  きゅう、という小さな音は、幸い俺の耳にしか届かなかったようだ。  なんだ、お腹が減ってたんなら減ってたって言えばいいのに。 「申し訳ありません。つまり、昼食は早めにしてもらえると助かる、という事です」 「了解。そうだな、面白みがないけど無難なところを頼んでみて、さっさと飯にありつこうか」  軽食でいいんなら話は早い。  ランチメニューらしき物を二つ選んで、てっとり早く昼食を摂る事にした。  食後のコーヒーを飲みながら、午後の予定を考えてみる。  午前中で学んだのは、ボウリングだのなんだのという、体を動かす遊びはあまりよろしくない、という事だ。  セイバー本人は勝負事になると途端に真面目になる。  それはそれで嬉しいのだが、只でさえ目立つセイバーが余計に目立ってしまうのだ。  で、一ゲーム終えた後、人目につくのを避けたがっていたセイバーは、周囲からの注目の眼差しにむーっとヘソを曲げてしまった。 「そんなワケで体を動かすのは避ける、と……。  なあセイバー。二度目になるけど、どこか行きたい所ってあるか?」 「私にですか? いえ、特にはありません。私では分かりませんから、このままシロウにお任せします」  言って、セイバーはティーカップを手に取った。  セイバーが食後に頼んだのは紅茶で、味の方も随分と気に入ったらしい。  うちでは紅茶は滅多に出さないし、出したところでインスタントだ。  どうも紅茶党らしいセイバーからみれば、こと飲み物に関して不満があったみたいだ。  いや、今晩からは気をつけよう。 「――――――――」    セイバーは何をするでもなく、ただ紅茶を飲んでいる。  嬉しそうという訳でもないし、退屈そうという訳でもない。  一言でいうなら自然、だろうか。  窓から差し込む陽射しの陰で、凛とした姿勢でティーカップを口に運ぶ。  その姿は初めて見るクセに違和感がなく、以前から知っているようにさえ思えた。    ……何故そんな錯覚を覚えたのか。  俺が知っているセイバーは、常に剣を持って戦う、張りつめた少女だというのに。 「――――――ああ、そうか」    けど、当然と言えば当然だ。  俺が知っているのは、剣を手にした後の彼女でしかない。  剣から手を離せば、セイバーはいつだって穏やかだった。    この光景が新鮮に映らず、自然に感じられるのは、それが彼女の本質だからだろう。  いくら剣士として優れていようが、セイバーはこうしているのが普通なんだ。  むしろ剣を持っている方が、この少女には異常な事なのかもしれない。    ……いつか、彼女は戦いになど向いていない、と夢に思った。    それは間違いではないと思う。  どんなに優れた剣技を持とうと、どれほどの戦場を駆け抜けてこようと。  彼女が彼女である限り、それは、決して居心地のいい場所ではなかった筈だ。    ……だから、これは当然のこと。  剣を持たず、緊張を解いて体を休めるセイバー。  その穏やかな風景こそ、彼女がいるべき場所なんだから。  慣れない一日は慌ただしく過ぎていった。  セイバーは最後まで声をあげて笑わず、俺も心から笑えるコトなどなかった。  印象に残るほど楽しい出来事があった訳ではないし、 後悔するほどつまらない時間ではなかった。    言ってしまえば、なんでもないコトだったのだ。  これなら屋敷に残って、道場でセイバーと剣の鍛錬をしていた方がセイバーは喜んだかもしれない。  それでも、この一日は悪くなかった。  つまらなくとも面白くなくとも、セイバーをこうして連れ回した事を、俺は最後に誇れる筈だ。    ……戦いが終わって、何もかも元通りになった後。  セイバーと過ごした時間が戦いだけだったなんて、そんなのは空しすぎる。  たとえ愚かな行為でも、戦い以外の時間を重ねなくては彼女がここにいる意味がない。  だから、今は胸を張っていい。    ……終わりは近い。  全てが終わって、もう戦う必要がなくなった時。  こんなコトもあった、とセイバーが思い出してくれるなら、それは十分に誇れる事なんだから――――  帰り道は徒歩だった。  バスで帰ろうとした矢先、   「帰りは歩いていきましょう」    とセイバーが提案した為である。  風が出ていた。  鮮やかな夕日が橋を赤く照らしている。   「――――あ」    セイバーは何かに気が付いたのか、足を止めて川の中程を見つめていた。  その視線の先にあるのは、ちょっとした瓦礫の山だ。    瓦礫の山、といっても高さはない。  水面より少し低い程度に積み重なった鉄骨やら何やらが、川の流れをわずかだけ歪めている。  事情は知らないが、ずいぶん昔に停泊していた船が沈没したとかで破片が流れ、溜まって山になったのだそうだ。  美観を損ねるので撤去してほしい、という近隣住民の要望が、もう長いコト続いているらしい。 「? なんだよセイバー。アレが気になったのか?」 「いえ、まだ残っていたのかと。アレの原因は私ですから。前回の戦いで水上戦を余儀なくされ、ここで宝具を使ってしまった。  被害は川を干上がらせただけでしたが、運悪く停泊していた船を巻き込んでしまったのです」 「はあ――――? 巻き込んだって、まさかエクスカリバーにか!?」 「そ、そうなのですが、幸い乗客はいませんでしたし、被害も大きくなかったんです。川だって今では元通りですし、そう怒らなくともいいではありませんか。  ……私だって、その、反省しているのですから」 「………………」  ……気をつけよう。  エクスカリバーを使う時は、せめてこれぐらい広いところじゃないとシャレにならない。 「シロウ……? まだ怒っていますか?」 「え? いや、別に怒ってない。ただびっくりしただけだ。あとはまあ、前回の名残ってけっこうあるんだなって。  中央公園の荒れ野に比べたら、川の瓦礫なんて問題じゃないだろ。ま、船の持ち主は災難だったとは思うが」 「それはご安心を。船の持ち主には保険が下りたと切嗣が言っていましたし、もともと緩衝材にするつもりで船を止めさせたのですから。船体を壁にみたてて、宝具の威力を削いだのですね」 「……なんだ。じゃあ初めから承知で船を壊したってコトか」 「承知していた訳ではありませんっ。アレは切嗣が私に黙って用意していた物です。  ……そうですね。切嗣には戦いの流れが読めていたのでしょう。船を用意する前もその後も、一言も口にしなかったので気が付きませんでしたが」  そうして、懐かしそうにセイバーは川を見下ろした。  キラキラと夕日を反射させる水面。  川から吹き上がってくる風はやや強く、セイバーの髪を揺らしていた。  ……その姿が、あまりにも綺麗だったからか。   「セイバー。今日は楽しかったか」    このままセイバーが消えてしまいそうな不安に駆られて、訊かなくてもいい事を訊いていた。 「はい? なにか言いましたか、シロウ?」 「言った。今日は楽しかったか、訊いた」  ……息を呑む。  セイバーはきょとん、と目を開いたあと。 「そうですね。新鮮でないと言えば嘘になります」    もう、それが起き得ない事のように。  憧れを含んだ声で、そう言った。 「――――」  ……だから、答えなど分かっていたのだ。  あと出来る事といえば、そうか、と頷いて帰るだけ。  それだけなら、まだ―――取り返しがつく筈だ。 「そうか」    セイバーの目を見据えたまま頷いて。   「ならまた行こう。こんなの、別に今回限りってワケじゃないんだから」    おそらく、取り返しのつかなくなる言葉を口にした。 「――――――――」  セイバーの表情が固まる。  ……俺の言いたい事が分かったのだろう。  彼女は俺をはっきりと見据えたまま、静かに首を横に振った。  二度目はない、と。  これは、今日だけの間違いだと言うかのように。 「―――それは、何故」    セイバーの返答なんて分かっている。  それでも、思った通りのセイバーの答えに納得がいかなくて聞き返した。 「何故も何もない。サーヴァントは戦う為に存在する者です。今日のような行為は、自らの存在を否定する事になる。  シロウが休憩すべきだと判断したから従いましたが、もうこの先は、体を休める必要はないでしょう。  残る敵は少ない。シロウが命じるなら、今すぐにでもランサーを捜し出したいほどですが」  闘志の籠もった目で見つめてくる。  命令さえあればこの場で戦いに赴くのに、とセイバーは言っている。  それが。  今まで納得のいかなかった部分に、火をつけてしまった。 「―――なんだよそれ。そんなに戦いたいのか、おまえは」 「当然でしょう。戦えば戦うほど聖杯に近づくのです。  私にとって、戦闘は何よりも優先すべき事です。それはシロウとて判っている筈ですが」 「ああ、判ってる。だからおかしいんだ。  前から言いたかったんだけどな、矛盾してるぞおまえ。  セイバーは戦いが大事だっていうわりに、自分から戦いたいなんて思ってないだろ。他に手段がないから、嫌々戦ってるにすぎないんじゃないのか」 「な……そんな事はありません。私は戦闘を躊躇わない。  勝利する為ならば、手段は選ばないと言ったでしょう」    ああ、たしかに言った。  けどそんな物、戦闘を好む理由にさえなりはしない。 「出来る範囲でだろ。……いいかセイバー。  単純に他のマスターを倒して聖杯を手に入れるっていうんならさ、ライダーみたいに人を襲って力を得ればいい。だけどセイバーはそれがイヤなんだろう」 「―――それは」 「無関係な人間を巻き込みたくないんじゃない。いざ戦いになれば人は死ぬものだとおまえはよく解っている。  そう、だからこそおまえは戦闘を最小限に抑えたがっていた。戦えば死者は出る。だから早く終わらせたいって。―――つまりさ。おまえは、犠牲者が出る戦いってヤツが、たまらなく怖いんだ」 「――――――――」  セイバーは幽霊でも見るかのように目を見開いた後、キッ、と歯を噛んで視線を正した。 「違います。私は、戦いを怖がってなどいません」 「……そうだな。確かにおまえは初めから怖がってなんていなかったと思う。そんな個人の恐怖なんて、王の使命とやらで塗り潰されていたんだろうから」 「っ――――」 「だけど、それでもおまえは戦いを嫌ってる。  おまえは、単に強くて、戦いが巧かっただけだ。けど、それはおまえが望んだ才能じゃないだろう。  ―――ハッキリ言うぞ。おまえは戦いになんて向いていない。本当は剣を取る事さえ嫌だった筈だ。  戦う事だけが目的だっていうのは、おまえ自身が、おまえを誤魔化すための言い分にすぎない」    ―――そんなことに。  どうして周りのヤツらも、おまえ自身も、最後まで気づいてやれなかったのか。 「―――シロウ。いくら貴方でも、それ以上の侮辱は許しません」 「図星だから我慢できないんだろ。認めたら戦えなくなるからな」  ぎり、という音。  セイバーは怒りをかみ殺して俺を睨む。 「――――――――」  それでも引き下がる訳にはいかない。  自分が正しいと信じるのなら、ここで逃げる訳にはいかない。 「……だから、止めろよ。おまえだって止めたがってるんだろ。剣なんて自分に向いてないって分かってるんだろ。なら止めてしまえばいい。  サーヴァントなんて止めて、もっと自分に向いた事をしろ」    本来掴むはずだった人間らしい幸福ってヤツを、今からでも取り戻せばいい。    その為だったら、俺は―――― 「―――馬鹿な事を。私に戦う以外の選択肢などありません。この私は聖杯を手に入れる為だけのモノです。  王の誓いを守る為にこの身を差し出した。それ以外の自分の使い道など、私には許されない」 「ば――――」  聖杯を手に入れるだけのモノ。  何が頭にきたって、それが一番頭にきた。  なんだってそう、自分自身に言い聞かせるように下らない事を言うのか。  そんなコトばっかり言うから―――周りだって、その言葉を鵜呑みにしてしまったんだ。 「ばか、そんなコトあるか……! 道なんていくらでもある! おまえはここにいるんだ、昔のおまえとは違う……!  なら―――これからは自分の為に生きなきゃダメだ。  間違っても。間違っても、聖杯を」    ―――その、最後に許された自分の望みを。 「……どうでもいい、他人の為なんかには使うな。  ここにいるなら、セイバーはここで幸せにならなきゃダメだ」  風の音が耳に響く。  セイバーは答えない。  頷きもしない。  ただ、まっすぐに俺の目を見返して、 「―――その言葉には頷けない。  私は貴方に従うと契約した。だが心まで預けた訳ではありません、マスター」    そう、強い声で返答した。 「王の誓いは破れない。私には王として果たさなければならない責務がある。  アーサー王の目的は聖杯の入手です。それが叶おうとも、私はアルトリアに戻る事はないでしょう。  私の望みは初めから一つだけ。―――剣を手にした時から、この誓いは永遠に変わらないのですから」 「……なんでだよ。セイバーがやらなくちゃいけない事はそんなんじゃないだろ。  そんな―――最後まで報われないなんて間違ってる。  おまえには聖杯なんて必要ない。それに」  ……それに、セイバーの願いは叶わない。  起きてしまった事を帳消しにするなんて、そんな事はできっこないんだから。 「セイバー。起きてしまった事をやり直すなんて出来ないんだ。……いや。それは、やってはいけない事だと思う。そんな事ぐらい、おまえだって気づいているんじゃないのか」 「……いいえ。決して、そんな事は」 「―――なら言ってやる。  たとえどんなに酷い結末だろうと、起きてしまった事を変えるなんて出来ない。  出来なかったからやり直しがしたいなんて、そんなのは子供の我が儘と同じじゃないか……!」  ……そこで言葉は途切れた。  セイバーは何も言わず、俺も、言うべき言葉はない。  耳に響く風の音も止んだ。    いや。  風は止んでなどいなく、少しの間止まっただけだ。  ひゅう、という音。  頬に風を感じたその時。     「―――シロウなら、解ってくれると思っていた」      それは、向かい風に変わっていた。 「今日一日無為に過ごし、言いたかった事はそれだけですか」    冷たい声。  そこには、もう拒絶しか残っていない。 「思い上がらないでほしい。貴方程度の人間に、私の何が解るというのです。  貴方に、私に踏み入る権利などない。  戦うな、ですか? 私に守られなければならない未熟なマスターが何を。そのような世迷い言を吐くのは一人で戦えるようになってからにしてください。  ―――ふん。まあ、そんな事は永遠に有り得ないでしょうが」 「ちが――――世迷言って、俺は……!」 「ですから世迷い言でしょう。自分の事を考えろ、ですって? それはシロウとて同じではありませんか。  貴方は自分の命が勘定に入っていない。  貴方は私が間違っていると言いますが、貴方の方こそ何かを間違えている。  ……自身より他人を優先するなど死者の考えだ。  自身の命の重みも知らない大馬鹿者が、よくもそんな事を言えたものです」 「――――セイバー、おまえ」 「癇に障りましたか。なら、いっそのこと契約を解除しても構いません。どうせ貴方は聖杯を必要としていない。  あとは私一人でマスターを破り、聖杯を手に入れるだけですから。  ……そんなに戦うのが嫌ならば、貴方は遠くで隠れていればいいでしょう」 「セイバー。おまえ、それ本気で言ってるのか」  震える声で問う。  ガチガチと歯が鳴っているのは、自分でも驚くほど、感情を押し殺している為だった。 「当然です。私の目的は聖杯だけ。それ以外の事など余計だ。  ―――シロウ。それは貴方も例外ではありません」    息が止まる。  目の前が真っ白になるのを堪えて、停止していた心臓を、なんとかたたき起こした。 「この分からず屋……! いい、そんなに戦いたいってんなら勝手にしろ! もう俺は知らないからな!」  ただ、感情だけは抑えられなかった。  逃げ口上めいたコトを怒鳴って、そのままセイバーから駆けだした。  離れていく姿。  ただ、一瞬だけ、    ぼんやりと立ちつくすセイバーの姿が、見えた気がした。 「くそ、くそ、くそ……!」  ただ走った。  何が悔しいのか、何が頭にきているのか分からないまま、激情に任せて走った。            “それ以外の事など余計だ。シロウ、それは貴方も” 「っ……!」  歯を噛む。  正直、思い出すだけで目の前がクラクラして、このまま電柱か何かに体当たりしかねない。  ……いや、今はそうできたらどんなに楽か。  単純にセイバーが頭にきたってだけなら、バカみたいに八つ当たりをして終わりでいい。  だが、この激情の正体はそんなんじゃない。  頭にきているのはセイバーにじゃない。  こんなに悔しくて、走って走って、息継ぎさえ許さないほど走り続けるのは、自分自身が不甲斐ないからだ。  ……ぼんやりと立ちつくすセイバーの姿。  風向きが変わる合間、一度だけこぼした言葉。             “シロウなら、解ってくれると思っていた―――” 「っ……! くそ、そんなの解るか、ばか……!」  吐き出して、あまりの後悔に転びそうになった。  ……あれは、どんな吐露だったのか。  決別するような声は、同時に泣きそうな響きでもあった。  振り返って見れば、あの言葉だけが真実だったのではないか。    顔を伏せて呟かれた言葉。  期待と失望と、懇願の混じった声。    ―――なら。  裏切ったのはどっちで、裏切られたのはどちらだったのか。  部屋に駆け込んで、ピシャリ、と障子を閉める。  そのまま大の字に倒れた。  立っているのももどかしい。  今はただ、寝っ転がって眠ってしまいたい。 「ハア――――ハア、ハア、ハ――――」    が、横になったところで体は熱いままだ。  心臓は張り裂けそうで、肺は死にものぐるいで酸素を求めている。  橋からここまで、休む事なく全力疾走だ。体がまいらない筈がない。  感情的にはまだ走り足りないが、体の方が、いい加減落ち着けと訴えている。 「ハア……ハア、ハア、ハ――――あ」    少しずつ落ち着いていく。  大きく息を吸って、吐いた。 「はあ……はあ……は、あ」    そうして呼吸が整ったあと。  頭の中を占めるのは、自分が何に憤っていたのかという事だけだった。 「――――――――」  ……そんなもの、考えるまでもない。  何かを振り払うように走ったのは、自分があまりにも無力だったからだ。  ……俺では、セイバーを助けられない。  それが悔しくて、自分自身に腹がたった。  何も出来ない自分。  あいつを笑わせてやると。  セイバーを守ると決めたクセに、何も出来ない自分が、ひたすらに腹立たしかった。 「……けど、どうしろってんだ。セイバー自身が自分の幸せを求めていないかぎり、他人がどうこう言っても無駄だってのに」    だからセイバー自身が、自分の幸せってヤツを見つけられるようにと、似合わない努力をしてみた。  それも無意味だと言われて、あげくの果てに大馬鹿扱いだ。 「自身の命の重みも知らない大馬鹿者、か――――」    ……そんなコトを言われてもどうしろってんだ。  俺だって自分の命は大切だし、自分から死ぬような真似はしたくない。  それとセイバーの事は別問題だ。  あそこで俺の事を言いだすのは反則だと思う。  俺がどんなにバカでも、セイバーが間違っている事だけは確かなんだ。  それをあんな風に否定されたら、もう手の施しようがないじゃないか―――― 「……くそ。ああもう勝手にしろ……!」    ばたん、と仰向けから俯せになる。  視界が畳だけになったんで、いっそ目を閉じて頭の中も真っ暗にする。 「………………」  もうセイバーのコトなんて知るものか。  そんなに聖杯が大事だっていうんなら聖杯と結婚しろって言うのだ。  こんなに言っても分からない頑固者に、これ以上関わっていたら火傷する。  いや、火傷どころか、取り返しのつかないぐらいのダメージを―――― 「――――っ」  そんなの、とうに負っていた。  火傷どころの話じゃない。  あいつと出会って、なんども衝突して、生き残る為に心の深部を重ね見た。    ……あの熱さ。あいつの深層にあった光を思い出す。  なんだってこんな時に思い返してしまうのか。  遠い草原。置き去りにしていった少女の記憶。  ……あの美しさを思い返してしまったら、セイバーが何を言おうと関係なくなってしまう。 「……何が戦うだけのモノだ。それなら半端に弱い部分なんて見せるなって言うんだ」    ……とにかく、セイバーは卑怯だ。  何が卑怯かは知らないが、分からないあたり反則だと思うのだ。  これだけ頭にきてるっていうのに憎めず、放っておこうと思えば思うほど放っておけなくなるなんて、そんなの矛盾している。 「―――ちくしょう、惚れた方が負けってこういうコトか」    ……けど仕方がないじゃないか。  どんなに無駄だって言われても諦めきれないのなら、最後まで貫き通すだけだ。             “シロウなら、解ってくれると思っていた―――” 「……っ」  泣きそうだった顔を思い出す。  この先。  俺が繰り返す度に、あいつはあんな顔をするのだろうか。 「……それでもだ。どんな事になっても、頷く訳にはいかない」    ……俺が間違えていて、セイバーが正しかったとしても。  あいつが本当に大切なら、絶対に、謝ってなんてやれないんだ――――  物音が聞こえた気がした。  ……いつのまに日が落ちたのか、部屋は闇に落ちている。  寸分も狂わずに響く秒針の音が、やけに耳障りだ。   「ちょっと、いつまで寝ぼけてるのよ。いいかげん起きてもらわないと困るんだけど」 「――――?」   「だから起きなさいって。もう十時過ぎよ。ご飯を食べさせろってイリヤがうるさいんだから、起きて相手をしてあげなさい」    不機嫌そうな声。  それで、完全に目が覚めた。 「じゅ、十時過ぎ――――!?」  ガバッ、と体を起こす。 「そ、正確には二十二時十七分。夕飯の時間にしては論外ね」  で、目の前にはあきれ顔をした遠坂がいた。 「っ……すまん、寝てた。すぐに行くから、居間で待っててくれ」 「それはいいけど。士郎、セイバーは?」 「? いや、ここにいないんなら道場か居間じゃないのか?」 「士郎。わたしはセイバーがいないから訊いてるの」 「――――」  遠坂の目は真剣だ。  それで――――それがどういう事なのか、一瞬で把握した。 「まさか―――あいつ、帰ってきてないのか……!?」 「ちょっと士郎! 帰ってきてないってどういうコトよ……!」  遅れて部屋から飛び出してくる遠坂。  が、説明する余裕なんてない。  背中で遠坂の怒鳴り声を受け流しながら、脇目もふらずに外へ向かった。  町は静かだった。  昨日と同じ、人の気配というものが完全に絶えた世界。  それを不審に思う余裕も、今はない。  セイバーが帰ってこない。  ……考えてみれば、それは当然だ。  あれだけの言い合いをした。  一人でも戦うと言った。  なら―――あいつの性格から言って、本当に一人で戦うだろう。  セイバーは何処にもいない。  捜し出す事は出来ず、今頃、最後のサーヴァントであるランサーと戦っている可能性だってある。  ……だというのに、真っ先にここに来た。  川縁の空気は冷たい。  一段と冷え込む夜、公園は霜を敷き詰めたように冷たかった。  息は真白で、頬や耳は引きつって痛い。  ここでさえそうなのだから、川からの風が吹く橋は、どれほど凍えているだろう。  そこに、彼女の姿があった。  俺が走り去った時と同じ。  橋の手すりに寄って、セイバーは何をするでもなく川を見つめている。  ……とうに沈んだ夕日を追っているのか。  遠くに向けられた視線は、有りもしない赤い地平を見ているようだった。 「――――――――」  それで、思い知った。  強いクセに、こんなにも弱い。  凛とした姿は、誰の手も借りずに生きていける証だろう。  それなのに、手を伸ばせばすり抜けてしまいそうなほど儚い。  一人でなんかやっていけないクセに、おそらくは最後まで、その誇りを守り続ける。    ―――だから。  届かない星を見ているのは、こっちだって同じだったのだ。  ……それしか知らないとでも言うかのように、遠い落日を見つめている。    その姿を、放っておけない。  負けと言うのなら、とっくに完全敗北していた。  何があろうと―――あんな顔はさせないと、決意させられたんだから。  橋を渡っていく。  足音を立てているのにセイバーは気が付かない。 「――――――――」  無言で歩いていって、さっきと同じ場所、セイバーの傍らで立ち止まった。 「セイバー。体、冷えるぞ」  びくん、と震える体。  ……そこまでしてようやく気が付いたのか。 「―――シロウ?」  問うように、セイバーは振り返った。 「なにしてんだよ、こんな時間まで。  いつまでも帰って来ないから、遠坂が心配してたぞ」 「―――そうですか。それは、悪いことをした」 「……別にいいけどな。けど、なんだってこんなところにいたんだ、おまえは。……いやまあ、捜すの楽だったからいいけどさ」 「……はい。ここにいたのは、まだ行き先が決まっていなかったからです。  シロウは勝手にしろと言ったでしょう。ですから勝手にしようと思ったのです。  けれど何をするべきか、何をしたいのか、何処に行きたいのか思い浮かばず、ずっと、どこに行くべきかを考えていました」  迷い子のように呟く。  負い目があるのか、セイバーは俺から視線を逸らしてばかりだ。  ……たしかに、あれだけの口喧嘩をしたんだ。  俺が怒っていると思うのは当然だろう。 「……申し訳ありません。凛には世話になったと伝えてください。  ランサーを倒し、聖杯を手に入れたのならシロウの下に戻ります。ですから、それまで――――」    一人で、帰る場所もなく彷徨っているとでも言うのか、ばか。 「なに言ってるんだ。おまえが帰るところは俺んちだろ。  メシだって布団だって、ちゃんとセイバーの分を用意してんだから」 「―――ですが、シロウはもう私の事など知らない、と」 「そうだよ。セイバーがなに考えてるか、俺には分からない」  言って。  ほら、とセイバーの手を握った。 「ぁ――――シロウ」 「うちに帰るぞ。いくらサーヴァントだからって、こんなに冷えたら風邪を引く。早く戻って、あったかい物でも食べよう」 「――――あ、あの、ですが、私は」 「それと、言っとくけど俺は謝らないからな。  文句があるなら今の内に言っとけよ」    ぶしつけに、出来るだけセイバーから目を逸らして言った。 「――――――――」  呆然と見つめてくる。  セイバーはいかにも謝りたがっている顔だったが、そんなものは知らないと無視をする。  ……それが、少しはプラスになったのか。  セイバーは何も言わず、俺に手を握られたまま大人しく付いてきてくれた。  橋を下りて、公園に出る。  ……時刻は十一時。  公園には人気などまったくないのに、噴水やら街灯やら、必要以上に飾った物が多かった。 「――――――――」 「――――――――」  ずかずかと歩く。  セイバーの歩みは緩慢だ。  ……思えば五時間以上、あの橋の上で立ち続けていたのだ。  体は冷え切っているだろうし、疲れもたまっているのかもしれない。  手を引いて歩いていると、ときおり転びそうにつんのめったりしているし。 「セイバー、もう少しゆっくり歩こうか? なんか調子がよくなさそうだし」  振り返って様子を見る。 「い、いえ、体はとても元気です……!  ただ、その……凛の言葉に踊らされるワケではありませんが、こうして手を繋いでいると本当に逢い引きのようだな、と」 「え――――?」  で。  言われた俺自身、その言葉で一気に頬が熱くなった。 「そ、そうだな。……その、手、離そうか? えっと、セイバーが迷惑だったらの話、だけど」 「いいえ、私もこうしているほうがいいです。シロウの手は温かくて、安心します」  ……会話はそれきり途切れてしまった。  こっちは気恥ずかしさを誤魔化すように歩いて、  セイバーは黙って俺に付き合ってくれる。  屋敷まで、あとこれからどのくらいあるだろう。  繋いだ手の温かさに頬を掻きつつ、公園を後にする。    ……今日一日、色々と波乱が続いた。  けれどその終わりがこの温かさであるなら、今日から宗旨変えしてあの神父に祈ってもいい、なんて感謝した時。   「―――何処に行く。  勝手に人の物を持っていくな、小僧」    ―――決して出会ってはならないモノに、俺たちは出遭ってしまった。    ――――最後に。    もう一度、あの赤い丘を見る。    赤い記憶。  以前より深く彼女の記憶に沈んで、同時に、これが最後なのだと感じていた。    それはもう何度も見てきた、ある騎士の記憶。  国王となり、自分の意思を殺して国の意思となり、信頼できる〈騎士〉《とも》たちから疎まれるようになった日々。    戦に勝利する度に、望まぬ戦いを望まれたアルトリア。  女性である事を隠し続け、不審を買い、孤立した彼女に待っていたものは、肉親による謀反だった。    遠征に出た王の留守を狙い、国を乗っ取った若い騎士。    男の名はモードレッド。    騎士王の姉モルガンの息子であるその騎士は、その実、騎士王の息子だった。    ―――結論から言えば、女性であるアルトリアに子を作る事は出来ない。    だが、確かにモードレッドはアルトリアの血を受け継いではいたのだ。  アルトリアの姉であるモルガン―――妹でありながら王となったアルトリアを恨む彼女の妄念が、どのような手を尽くしたのか定かではない。    彼女の分身として作られたモードレッドは、父を明かせぬ騎士として王に仕え、その座を〈簒奪〉《さんだつ》する日を待ち、ついに反旗を翻した。            ―――後にカムランの戦いと呼ばれる、     アーサー王最後の戦いである。    遠征先でモードレッドの裏切りを知ったアーサー王は、疲れきった兵を連れて国に戻り、自らの領土へ侵攻した。    かつて従えていた騎士をことごとく斬り伏せ、  自身が守っていた土地に攻め入った。    かろうじて自分に付き従ってくれた騎士たちも散っていき、最後に残ったのは、自身と、息子であ〈る騎士だ〉《モードレット》けだった。    両者の一騎打ちは、王の勝利で幕を下ろした。  ……だが、無傷だったという訳ではない。  強い呪いでくくられたモードレッドは死してなお剣を振るい、王に、もはや癒せない傷を残したからだ。    それがこの戦いの終わり。  騎士王と言われた彼女の、最後の姿だった。    ―――辛くなかった筈はない。    思えば、彼女の戦いで辛くないものなどなかった。  十二もの戦いはそのどれもが身を〈削〉《さ》くような戦いであり、これは、その最後に相応しい、もっとも大きな傷跡に他ならない。    領地に戻り、自国の軍を蹴散らし。  臣下であった騎士を自らの手で処罰し、従ってくれた騎士たちを皆死なせ。  その果てに、カタチの上であれ、息子であった騎士を倒さねばならなかった。    ……その胸に去来したものが何であるか、俺には知るよしもない。    ただ、願ってしまった。    最後まで王として在り続けようとした、一人の騎士。  その死の直前に見た夢が、せめて―――アルトリアという少女が望んだ、当たり前の夢であるようにと。 「ん……」  目蓋を開ける。  いつの間にか帰ってきたのか。自分の部屋にいて、布団の上に寝かされていた。 「――――ああ。気が付いたのですね、シロウ」 「……セイバー、俺は、どうして」 「あれから今まで眠っていたのです。身体の方はほぼ完治してますから、心配には及びません」 「……そうか。それは、いいけど」    セイバーの方はどうなのか。  今はエクスカリバーを使った後だ。自然治癒の為の魔力も不足しているのではないだろうか。 「セイバー、ずっと俺の手当を?」 「手当といっても汗を拭く程度です。私は凛の様に、人の傷を〈診〉《み》る事はできませんから」 「―――ばか。そんなことしなくていいんだ。  今は俺より、セイバーの方が辛いだろう」 「そのような事はありません。シロウに比べれば、私は軽傷です。  しかし、今のは聞き捨てなりませんね。いくら傷が塞がったといっても、シロウは死んでもおかしくない傷だったのです。今は自分の身体を案じてください」  セイバーは近くの洗面器に手を伸ばす。  洗面器の中には冷やしたタオルが一つ。セイバーはタオルを絞ってから、汗をかいた体を拭いてくれる。 「――――――――っ」  それが、とんでもなく照れくさかった。 「? シロウ、傷が痛むのですか? また熱が出て来たようですが――――」 「ね、熱なんか出てないっ……! いや、そうじゃなくて、いいからセイバーも休んでくれ。  今は元気かもしれないけど、エクスカリバーを使ったんだ。セイバーの方こそ休んでなくちゃダメじゃないか。そんなんじゃまた倒れちまうだろう」 「え……まぁ、それは、そうなのですが……」 「今は私の方が元気ですから。マスターの傷が癒えるまで、私が守るのが当然でしょう」 「う……それは、もっともな話、だよな」  ……まいった。  そんな顔でそんなコトを言われたら、納得するしかないじゃないか。 「わかったよ。俺もしっかりと休むから、セイバーもちゃんと休んでくれ。セイバーが休んでくれないと、俺も落ち着いて眠れない」 「それは……そうですね。私とて睡眠を取らねばならぬ身ですから」  セイバーはあっさりと頷いて、最後にタオルを絞ると洗面器に掛けた。  ……そうして。照れくささを堪えながら、セイバーの看病を見守った。 「それでは、私も先に休ませて頂きます。  御身、くれぐれもお大事に、シロウ」 「あ、ああ」 「―――おやすみなさい。  言いそびれましたが、礼を言いますシロウ。  貴方が助かって、本当に良かった」  セイバーが月明かりの中で、笑っていた。  微かに儚げに見えたのは、消え入りそうな月明かりの陰影のせいか。  それを確かめるまでもなく、コトリ、と襖は閉じた。 「……………ふぅ」    セイバーが寝室に消えて、安堵したのか、寂しいのか。  あのまま枕頭にいて貰いたかった未練もあるが、それだとセイバーに負担を掛けてしまう。  ……それに、こんな状況でセイバーと一緒にいると、まるであの夜のようで―――  ……浮かんだ映像を振り払う。  今日は色々あり過ぎた。一日に過ぎない筈なのに、一週間ほどに長く感じる。  セイバーとのデートは楽しかったと言うより大変だった。最後には言い争いになって、セイバーを一人きりにしてしまった。  そうして――― 「――――――」  ……いや、今は休んで体力を回復しなければ。考えるのはその後だ。  ギルガメッシュだけでなく、まだランサーとそのマスターの正体も判っていない。  眠りから覚めた後、万全の状態で仕切り直さなければ勝ち残れない。 「――――――っ」  それは、数時間前の出来事だ。  ……たしか、俺がセイバーの鞘だとか。  ボロボロで今にも眠りに落ちそうだったから、なぜ鞘なのかは訊けなかったが。 「……ええい、もう」  うまく眠りにつけない。  ……セイバーの夢。死の前でもなお毅然とした彼女の顔と、看病をしてくれていたセイバーの姿が重なる。  おやすみなさい、と。  〈微笑〉《わら》いかけてくれた横顔の儚さが、目蓋から離れない。 「………………」  夢で見た少女の顔には決して浮かばなかった微笑み。  俺が笑ってくれる方が嬉しいと彼女は言う。  ……それが、ひどく悔しい。  なぜ悲しいではなく悔しいのか。  怒りにも似た苛立ちの理由が分からない。  どん、と布団を叩く。  正体の掴めない苛立ちで暴れ出しそうになる。   「………シロウ? 体の具合が悪いのですか?」    襖の向こうから、心配そうな声がした。  息は乱れていたし、苦しくて寝返りを打ったように聞こえたのだろう。 「……いや、大丈夫。それよりも、まだセイバーは起きてるのか?」 「はい、ですが……ほんとうにシロウの方はよろしいのですか? まだ苦しいのでしたらそちらに行きますが」  それより俺がそっちに行った方が―――いや、それこそまずい。  いまセイバーの姿を見たら、止めていた何かが氾濫してしまう。 「……セイバー。少しだけ、話、いいか?」 「? はい、このままでよろしければ……」  襖越しに話し始める。  セイバーの姿が見えないせいか、最後に見た彼女の笑顔が思い浮かんだ。  ……嬉しそうに笑っていたセイバー。  それを思うと、苛立ちは静まるどころか増していく一方だった。  どうしてこれほど体が熱くなっているのか、判らない。  ただ、セイバーと話さないと。  それは違うと。俺は本当に正しい事を知らずとも、その事だけは、間違っていないと伝えないと。  喉と舌が震える。  その言葉を口にすれば引き返せなくなる。  それを、十分に承知した上で、   「―――もういい。いいから、おまえは自分のために、笑わないと」    何か、自分では分からない衝動に押されて、噛むように口にした。 「―――シロ、ウ? そんな、どうして」    どうしても何もない。  俺は、その事だけは、おまえが気付いてくれるまで、何度だって繰り返す。 「……セイバー、もう十分なんじゃないのか。おまえは頑張ったんだろう。一人で戦い抜いたんだろう。  なら―――セイバーが幸せにならないなんて嘘だ。  おまえは立派に誓いを果たした。なら、このままアルトリアに戻ってもいい筈だ」 「な―――何を言うかと思えば、まだ、そんな事を言うのですか貴方は」 「ああ、ずっと言い続ける……! そんなの惚れちまったんだから仕方ないだろう! だからセイバーは、いやおまえはアルトリアに―――」  唐突に湧いた激情を抑えつける。  決壊は目の前だ。  その前に、セイバーが一言、言ってくれさえすれば。   「……シロウ。私を困らせないで欲しい。  そのような事を言われても私は―――私は」    ―――彼女の答えは変わらない。  その決意の固さに、胸が苦しくなる。 「シロウは私の過去を知って、私の中に何度も入ってきた。私の答えなど貴方は知っている筈なのに、どうして ―――そこまで私に構うのです。  ……私が、どれほどの罪を重ねてきたのか、貴方は見てきた筈なのに」  ―――ああ、見てきた。  王の名の下に、多くの人間を犠牲にして、多くの敵を殺してきた事を。  それを見過ごす事も、無かった事にする気もない。  それでも、それを知った上でなお、アルトリアという少女に、幸せになってほしい。 「―――それがどうした、この感情が何かはしらない。俺はただ、セイバーをこのままにしておけないだけだ。  ……セイバーは笑ってくれ。俺はもっと、ずっとセイバーと一緒にいたい」    子供じみた一方的な告白。  沈黙の中で答えを待つ。  あの襖の向こうで、セイバーはどうしているのか。  この言葉が、彼女まで届いているのか――― 「…………私の答えは変わりません。  王の誓いは破れない。相応しくなかったとはいえ、私は王として国を任せられた。  その責務を果たせなかったというのに、そんな……そんな自由は許されない」  その声が哀しかったから、堪える事ができなかった。  アルトリアという少女の言葉ではなく、王であろうと決意した孤独な誓いを聞きたくはなかった。  そんな事は、もう知ってる。  そんな悲鳴を聞く為に、こんなに悔しがったわけじゃない。  布団を蹴る。  目の前にあるのは、この部屋とセイバーの部屋を隔てる襖。 「シロウ―――」    襖の音が、ひどく遠いものに聞こえた。 「………………」  頭の中がまっ白になる。  なんでこんなに怒り狂っていたのか、なんでこんなに哀しかったのか。  泣き出しそうに震える瞳。  華奢な首筋と、折れそうに細い肩。  初めて出会った時と同じ、月光に濡れる金の髪。 「――――――」    ……知らず、抱きしめていた。  折れそうなほど強く抱きしめても、その身体は抗わない。  ……あの夜とは違う。  あの時はこんな気持ちはなかった。  ……なんてバカげた話だ。 “正義の味方”なんてものを目指しておきながら。  俺は何かを愛しいと。誰かを離したくないと、思う事さえなかったのか。 「………………セイバー」  抱きしめていないと消えてしまう気がした。  どれくらい抱きしめていたのか、彼女が消えない事を知ってようやく力を緩め――― 「……シロウ、突然に何を……これは一体、どういうことですか。こんなことをされても、私は」  腕の中で、僅かに身動ぎする彼女。  震えながら、違う言葉を漏らそうとする唇を、   「……………、ぁ………」    そっと、触れる様に塞いでいた。  抱き寄せられた身体は微かに震えている。  セイバーを見ていながら、瞳には何も映っていない。  その代わりに、唇だけは鋭敏なほど、セイバーの優しさを感じていた。  唇が離れる。  胸に置かれたセイバーの手が、少し、距離を作る。 「…………………シロウ、今の口付けは」  間違いです、と言いたいのか。  セイバーは泣きそうな顔で見上げてくる。 「間違いなんかじゃない。何度だって言うぞ、セイバーが好きで、このまま離す事なんて出来ない。  それが嫌なら言ってくれ。  俺とはマスターとサーヴァントの関係に過ぎないと断言して、否定してくれていい」 「……卑怯な。そのような事を口にしろと言うのですか、貴方は」 「ああ。セイバーがはっきり言わない限り、もう我慢しないからな。  セイバーが拒まないんなら、俺はやりたいようにやるだけだ」  たとえそれが、王であろうとした少女の決意を、一時でも忘れさせる事になろうとも。 「――――――――――――」    ……長い沈黙。  セイバーを抱きしめ、その身体のたおやかさを感じ続けていた。  まだ、こうして抱かれる事を良しとしない硬さが残っている。  聞くのはお互いの吐息と、触れ合った肌越しの鼓動だけ。  どれほどの鼓動と吐息の数が刻まれたのか。  胸に触れたセイバーの手に、微かに力が籠もった。 「……貴方の気持ちには応えられない。貴方がその正しさを変えられないように、私にも変えられないものがある。  …………できるのは。せめて、許されるとしたら、それは」  止められた言葉に、胸が苦しくなる。  この夜でさえ許されない事だと、唇を噛みながら、体を震わせながら、懺悔するように彼女は言った。  ……それでも。  抗わない体と、ゆれる瞳が告げている。  ―――この一夜だけ。  夜が明けるまではこのままでいたいと、叶わない望みを告げている。 「―――セイバー、俺は」  抱きしめようと手を挙げる。  それを、 「…………宝具を、使いましたから。シロウから力を貰わないと、私は戦えません」  密やかな声が、許すように、押し止めた 「――――――」  ……言葉にならない。  そんな理由付けが、彼女にとって精一杯の赦し、精一杯の、ささやかな願いだった。 「…………ああ。そうだったな。けど、ちゃんと動いてるのか、あれ」 「……はい、今でもシロウからの供給は続いています。  ……ですから。回復する為には、こうして―――」  体を寄せ合っていなければいけない。  ……それが限界。  誓いに縛られた彼女と、それを破ってやれない自分に出来る、触れあうだけの距離だった。  ……抱きしめた腕の中でセイバーが身動ぎする。  腕が熱さに動揺する。  抱いているセイバーの体の柔らかさとか、細さとか、そういうものが心をせき立てる。  ……動揺する自分が情けない。  セイバーの頬も紅く、恥ずかしがっているように見える。 「……ですのでシロウ、お願いです。  今晩は共に―――貴方と眠らせてください。剣と鞘は共に在ればその力を取り戻しやすい。それに、あの儀式と同じようにより心身を近づければ―――」 「――――――」  無言で頷く。  気恥ずかしさより、嬉しさが勝った。  セイバーと寄り添ったまま朝を迎える。体はこれ以上触れあえないかわりに、心の方で近づけるのだから。 「……よかった。では、シロウ。  今夜は私が支度をしますので、先に部屋に戻っていただけませんか?」  セイバーが体を起こした。  離すのは名残惜しかったが、このままでいる訳にもいかず、開け放たれた襖に向かう。  後ろ手に閉める合間に、ちらっと肩越しにセイバーを振り返った。  何か不純な気がして、慌てて襖を閉める。 「………………………」    布団の上で、どうしてか正座で待った。  セイバーと添い寝する、その事だけが頭の中で踊っている。それはセイバーを助ける為で、彼女のささやかな願いを叶える事でもある。  こんな願いを積み重ねていけば、いつかセイバーも笑えるのかも知れない。  ……だが戦いは大詰めに迫っている。そんな時間は、一体どこに残されているのか。 「―――失礼します、シロウ」    すっと、襖が滑った。  胸の中に浮かんだ邪念を払い、セイバーを迎える。  振り返って仰ぎ見た、彼女の姿は――― 「……………」  静かに息を呑む。    闇の中に浮かぶ、白い姿。  それを前にして、浮き足立っていた感情はなくなった。  ……きっと綺麗すぎたのだ。  浮き足だっていた心は、それで、醒めるように澄みきってくれた。 「おかしいでしょうか? この格好は………」 「い、いや、そんなこと、ない。ただ眩しくて、困ったんだ、きっと」  ……女の子が綺麗すぎて困る、なんて意味不明な事を呟く。  こんな事を言ってもセイバーに判る訳でもないのに、言わないと精神が焼き付いてしまって動かない。 「そちらに行ってもよろしいですか?シロウ」 「あ、ああ、うん」    小さく揃った足の指が綺麗だとか、初めて気が付いた。  セイバーが畳を踏んでこっちに来る間に、俺も布団から退いて広げる。  一緒に寝るのに枕が足りないな、などと気が付いたがもう遅かった。  並んで俺とセイバーが布団の横に正座している。  部屋が一つで布団も一つ、それなのにセイバーが一緒にいる。  不純な気持ちはない筈なのに、顔から火が出そうでセイバーの顔も盗み見れない。 「……お先にどうぞ、シロウ」 「いや、セイバーこそ先に……」  ……いや、こんな調子だと埒があかない。  先に布団の中に潜り込んで、セイバーの場所を空ける。  枕もセイバーに預けようと思ったのだが、そっと押し戻しされた。 「これはシロウに。  私はその……腕を枕にさせてください」    そんな、胸が痛くなるようなコトを、囁いてきた。  腕の中に収まったセイバーは、驚くほど穏やかだった。  抱いているんじゃなくて、収まっている。  ―――鞘と剣。    そんなセイバーの言葉を思い出す。  俺の腕を枕にして眠りにつこうとするセイバーは、鞘の中に納められた美しい剣のようだった。  その温もりと仄かな香りは胸を高鳴らせるより、安らかに鎮めていく。 「…………」  セイバーが手を差し伸べてくる。  それを、布団の中で取って、指を握り合わせた。    静かに、眠りにつく。  ―――けれど、その前に。 「……セイバー」    共に眠る少女に声を掛ける。  最後に聞きたかった。  俺が彼女が欲しいと求めた、その答えを聞く為に。 「感じますかシロウ? これなら朝までには魔力の補充が出来る。……これで、明日から貴方のサーヴァントとして戦えます」 「セイバー」 「……今はそれだけです、シロウ。  私の役割は貴方の身を守りきり、聖杯を手にする事だけです。戦いを終わらせるまで、それ以外の事など考えられない」 「―――それは」 「……そうでしょう、シロウ」               この戦いを終わらせる為に、戦うと決めたのだから。「………………」  それは、反論しようのない一言だった。  俺たちの問題を何とかしたければ、その前に、この戦いを終わらせなければならない。  第一、セイバーを狙うあの男を倒さなければ、セイバーを守るも何もない。  ―――だが。  あの英雄王を倒す手段が、俺たちにあるというのか。 「―――――――――」 「―――――――――」  ……互いに口を閉ざしながら、静まり返る闇を見つめる。  ……そうして、どのくらいの時間が経ったのか。  疲れきった体が休息を欲して、瞼が重くなる。  でも、握り合わせた指先だけは温かい。 「セイバー……?」 「はい、考えるのは明日にしましょう、シロウ。  明日になれば、良い案が浮かぶかも知れませんし、それに」    ―――今は、こうして共に眠りにつきたいと。    繋がった手に優しく力を込め、彼女は言った。 「―――そうだな。俺もそうしたかった」 「……ええ、おやすみなさいシロウ。……目を覚ましたら、またいつもの私たちに戻りましょう」    すぐ近く、顔を合わせて目蓋を閉じる。    ……最後に映ったセイバーは、温かく微笑んでいた。  それが一時の、この夜だけの弱さであっても構わない。  今は、握った掌の感触が温かい。    それだけで、今はそれだけで十分すぎて、満ち足りた眠りに落ちる。    ―――戦いの終わり。  全てが終わった後、この手を繋いでいられるかどうかも分からないまま、静かに。  ――――もう、   シロウのお馬鹿カンターレーーーーーー! 信じられないでありますっ! まさか、このタイガー道場にやってくるヘビーゲーマーがいるなんて、押忍! っていうか、こんなトコに来ちゃダメなんだからっ!  早くあの金ピカをやっつけて、セイバーをちゃんと守ってあげないと怒っちゃうんだからっ! それでいいのかブルマ。 あ、ちっす先輩。  ……ま、ホントは悔しいけど。 ここまできたら、ちゃんとカッコイイとこ見せてほしいかなって、そんなトコです。 ふ。 さ、道場はここでおしまい!  早く選択肢に戻って、ぱっぱーと決着つけちゃいなさいシロウ!                  悪い夢を見ている。    傷を負った体は、深い眠りを欲している。  だが心は未だあの光景の中にいて、泥のような眠りには至らない。  治りきらない体は熱く、悔やみきれない心は燻ったままだ。    うなされているのか。  まどろみの中、はっきりとしない意識で夢を見る。    ……どれだけの人間が犠牲になったのか。  死傷者はいないと遠坂は言っていたが、それは表面だけの話だ。  強引に命を吸い出すような真似をされて、後遺症が出ない筈がない。  長期に渡る身体不良、酸欠による記憶障害。  肌に重傷を負った生徒もいた。  その傷痕は、たとえ完治しようと一生涯残るものだ。    ……体が痛む。  殺されかけた―――否、間違いなく死んでいた体が痙攣する。  巻き込まれたみんなも災難だったが、それでもおまえはよくやった。  本来なら死に至る傷と引き替えに災害を止められたのだ。  なら悔やむ事も恥じる事もない。  大人しく今は眠りに落ちてしまえ、とその痛みが訴えている。    否。  そんな理由で、誤魔化すコトなどできない。    惨劇は起きて、自分はそこに居合わせて、何も出来なかった事に変わりはない。  俺は命を救ったというが。  同時に、誰一人として助けられなかった。  いっそアレが何かの間違いで、無かった事になるのなら―――心も大人しく眠ってくれるだろうに。    ……頭にきた。  体が弱って、心までそんな世迷い事をクチにするなんて、ふざけてる。                    そんな奇蹟はない。    都合の悪い事だから、目の当てられない惨状だったから、その前に戻ってやり直せればなんて、ひどい侮辱だ。  起きてしまった事を『無かった事』になど出来ない。  それは不可能な事だし、それ以前に、やってはいけない事ではないのか。    ……だから、あの出来事を無かった事になんて出来ない。  俺に出来る事はただ一つ―――今も見続けているこの光景を憎むなら、二度と起こさせないように行動するだけだ。        眠りはここまで。  自分の〈体〉《こと》は後回しだ。  体が動くのなら起きて走れ。  誰も傷つかない事が目指した理想だと言うのなら、死の淵まで、その―――    目を開けた。  深く呼吸をして、肺に空気を送り込む。 「――――はあ」  冷たい冬の大気は、眠気と不安を削ぎ落としてくれた。  習慣というのは大したもので、時刻はまだ六時になったばかりだ。  起床の時間にきっかり目を覚ますあたり、体はわりと回復しているのではなかろうか。 「――――よし」  体を起こして布団を畳む。  そんな何でもない作業の途中、びしり、と。  〈亀裂〉《ヒビ》でも入ったかのように、左肩が痛んだ。 「っ……まあ、そりゃそうだよな。さすがにまだ治りきってないか」  それでもあるのは『痛み』だけだ。  何日か前、バーサーカーに腹を斬られた時に比べれば幾分ましだろう。  あの時は体中がドロドロで、痛みより吐き気の方が酷かったんだから。  廊下に出る。  陽射しは陰鬱として、力強さがなかった。  天気は一雨きそうなほど曇っている。 「シロウ、目が覚めたのですか……?」 「ああ、いま目が覚めた。そういうセイバーこそ今朝は早いんだな。いつもならまだ眠ってる時間じゃないか」    うん、朝飯が出来てもいないのに、セイバーが起きているのは珍しい。 「……シロウ。私とて好きで眠っている訳ではありません。私が朝食まで眠っているのは、単に魔力を温存する為だと言った筈です。  その、いかにも普段から寝過ごしている、という物言いは止めてほしい」 「? なんでさ。別にそんなつもりで言ってないぞ、俺。  単にこんな早起きしていいのかって思っただけだ」 「……ほう、そうですか。私が早起きするのはおかしい、と」  セイバーはやけにつんけんとした物言いをする。  ……気のせいだろうか。  今朝のセイバーはどこか、いつもより厳しいというか、遠慮がないように見えた。 「いや、おかしいとかじゃなくて、いいのかなって。  セイバーが頻繁に眠らなくちゃいけないのは俺のせいだ。だから今朝もできる限り眠っていないといけないんじゃないのか」 「当然です。ですが、それはあくまで待機状態にすぎません。私が眠っていたのは緊急時に備えてのもの。今の状態で眠るのは道理にかなわないではないですか」 「? 道理にかなわないって、なんで。別に今は誰とも戦ってないし、襲われてもいないぞ」 「え……いえ、ですから、それは」  何か言いにくい事でもあるのか、セイバーは言葉を濁す。 「まあいいけど。今は緊急って訳じゃないんだし、出かけるまで眠っていたほうがいい。  朝飯が出来たら呼びに行くから、それまで力を温存しといてくれ。今日一日、セイバーの力を借りる事になるんだから」  それじゃ、と台所へ向かう。 「―――待ってください、シロウ」 「? なんだよセイバー、他に何か――――」  「貴方は今、何をすると言いましたか」 「――――――――」  思わず息を呑む。  質問しているクセに、セイバーは俺に答えなど言わせない、とばかりに睨んでくる。 「そもそも貴方は安静にしなければいけない体でしょう。  朝食の支度など凛がします。シロウが優先すべき事は部屋で休み、体を癒す事です。それが解っていないとは言わせません」 「……セイバー」  セイバーの口調が厳しいのは、真剣に俺の体を気遣っての事だ。 「部屋に戻ってくださいシロウ。眠りが必要なのは、私ではなく貴方の方です」  ……こっちの考えが読めるのか。セイバーは一段と視線を厳しくする。  それでも―――俺は、慎二を放っておく事はできない。 「いや、部屋には戻らない。もう十分休んだし、やらなくちゃいけない事があるだろう。準備が出来たら街に出よう、セイバー。今日中に慎二を捕まえるんだ」 「何故ですか。今日中にライダーのマスターを捕える理由などありません。戦うのならシロウの傷が癒えてからにするべきです。それからでも遅くはないでしょう」 「―――それは違う、セイバー。順番で言うなら、俺の体なんて後回しだ」 「――――」 「そんな暇はないんだ。慎二のヤツが何をするかはおまえだって判るだろう。またあんな結界を張られる前に、あいつからライダーを切り離す。サーヴァントがいなくなれば慎二は何もできない筈だ」 「……昨日のような犠牲者を出したくない、と言うのですか。ライダーのマスターを倒すのではなく、ただそれだけの為に戦うと?」 「そんな事はない。慎二には責任をとらせる。その為にはライダーを倒さなくちゃいけないだけだ。  それに犠牲者を出さないために行動する、なんていうのは当たり前だろ。そんなコト、戦う理由以前の問題だ」 「………………そうですか。  マスターがそう言うのなら、私は従うだけですが」 「慎二を捜す……? 別に文句はないけど、ちゃんと勝ち目があって言ってるんでしょうね、士郎」    朝食の後。  慎二を放っておけないと提案した途端、遠坂はそんな反応をした。 「え……勝ち目って、慎二に対してか……?」 「そうよ。前もって言っとくけど、勝算もないクセに他のマスターに手を出す気だった、なんて言ったら笑うわよ?」 「あ――――む」  ……しまった。  言われてみれば、俺は慎二を止める事ばっかりで、その方法を考えていなかった。 「……ちょっと。衛宮くん、本気?」 「う――――すまん、笑ってくれ」 「……うわ。悪いけど笑えないわ、今の冗談」  ……う。そういうリアクションをされるとホントにこっちがバカだったと思い知らされて、小さくなるっていうか。 「セイバー。アンタのマスターはこんなんだけど、貴女自身はどうなの? ライダーと戦うことに異論はないわけ?」 「ライダーと戦うだけならば問題はありません。彼女の能力は確認済みです。  それはシロウ本人も判っていると思います。なにしろライダーと直接対峙したのですから」 「あ、そうだっけ。なら士郎にもライダーがどの程度かは判っているんだ」  どうなの? と視線だけで問いかけてくる遠坂。  それは勿論、ライダーの強さの程を訊いているんだろう。  確かに、その程度なら把握している。  サーヴァントと契約しているからか、それとも令呪の力か。  他マスターのサーヴァントと言えど、戦闘を見たのなら能力は数値化できる。  ライダー自体はさして優れたサーヴァントではなかった。 「ライダーはセイバーほど強くない。一対一の戦いなら、まず負けはしないと思う」 「そうなんだ。ならちゃんと勝算はあるんじゃない。  慎二は魔術師じゃないから、ライダーはマスターからの支援を受けられない。必然的にセイバーとライダーの一騎打ちになるものね」 「………………」  遠坂の言うとおりではある。  慎二がマスターである以上、ライダーは一人で戦うしかない。  セイバーに不利な点はないのだが―――― 「なによ、気の乗らない顔して。何か問題でもあるっていうの?」 「……ああ。いいか遠坂、それだけ戦力的に上回ったセイバーに追い詰められていたのに、ライダーは慎二を連れて逃げ延びたんだ。  あれはライダーの宝具だったと思うんだが……」  廊下を蹂躙した光の矢。  セイバーが体を倒してくれなかったら、俺の体なんて塵一つ残らずに四散していたであろう破壊の波。  アレがライダーの奥の手だとしたら、ライダー自身の能力が低くても楽観はできない。 「……ふうん。つまりライダーはライダー本人より、所有する宝具の方が優れてるタイプってワケね」 「で、セイバー。士郎はともかく、貴女ならライダーの宝具がなんであるか判ったんじゃない? 目の前で使われたんだから、見当ぐらいはついてるんでしょう」 「……面目ありません。シロウを守る事に精一杯で、私もアレがなんであるか確認する事はできなかった。  そんな事に気を割いていたら、私もシロウもあの一撃に巻き込まれていたでしょう」 「巻き込まれてたって……なに、ライダーの宝具って飛び道具なの?」 「それに近いモノでした。分類的には凛の使う魔術に近い。アレは私の剣やランサーの槍のような、対人宝具ではないのでしょう」 「わたしの魔術に近いって、それこそ変よ。  セイバーの対魔術は神業じゃない。現代の魔術じゃまず貴女に傷を負わせる事はできない。その貴女が〈躱〉《かわ》さなくちゃいけない魔術なんて、それは」 「―――はい。神秘はより強い神秘の前に無効化される。  私の鎧を通る事ができる神秘は、貴女たちの言う“魔法”か、神域に棲む幻想種だけです」 「魔法使い―――ライダーは魔術師だって言うのセイバー……!?」 「いえ、それほどの魔力は感じませんでした。  彼女はライダーです。魔法使いがいるとすれば、それはキャスターだけでしょう。ライダーの宝具は、おそらく別のモノだと思います」  セイバーの答えに、ほっと胸をなで下ろす遠坂。  が、こっちはいまいち話が掴めない。 「セイバー。おまえの鎧っていうのはそんなに硬いものなのか? 魔法でなければ通らない、なんて言うけど、それならランサーのゲイボルクは魔法って事になるが」 「え……? ええ、確かにランサーのゲイボルクは魔法に近い“呪い”ですが……凛、シロウに説明してあげてくれますか」 「わたし? ……まあいいけど。ようするに士郎はセイバーは魔法じゃないと傷つかない、と勘違いしてるわけね?」 「あ、いや……別にそういう訳じゃないけど。  ただ、そんなに頑丈な鎧なら凄いなって思っただけだ」 「そりゃ凄いわよ。セイバーに限らず、サーヴァントってのはみんな英霊なのよ? 霊体って事もあるけど、まっとうな手段じゃ傷一つつけられない。サーヴァントはそれ自体が神秘だから」 「物理的な手段でサーヴァントを傷つけられるのは、同じ英霊であるサーヴァントだけ。逆に言えばサーヴァント同士なら、ただのペーパーナイフでもセイバーを傷つける事はできる」 「……相手がサーヴァントなら、セイバーの鎧もそう鉄壁って訳じゃない……ってコトか?」 「そうね。けどセイバー自身、接近戦の技量が優れているから、白兵戦ではまずセイバーに傷は負わせられない。  残った手段は遠距離からの攻撃、魔術っていう飛び道具になる訳だけど、セイバーは騎士のクセにとんでもない対魔力を持ってるから、たいていの魔術は弾かれてしまうのよ」 「〈不運〉《バッドラック》に代表される呪いなんてまず届かないし、魔力を矢として放つ直接干渉も効かない。  セイバーを倒したかったら真っ正面からの斬り合いで、彼女を負かさなくちゃダメってワケ」  遠坂の説明を、セイバーは黙って聞いている。  口を挟まないのは、それが真実だからだろう。 「なんだよ、そんなのインチキだ。  剣技で敵わないから魔術で勝負するっていうのに、魔術そのものがセイバーに効かないならどうしろっていうんだ。  なんか不公平だぞ、その話」 「そうね。けどそのセイバーだって、白兵戦で絶対に負けない、というワケでもないでしょ?  バーサーカーは力だけならセイバーを上回ってるし、ランサーだって白兵戦において必殺の槍を持ってる。  いま話しているライダーだってセイバーを出し抜くほどの宝具を持ってたんだから、セイバーも完璧ってワケじゃないわ」 「わたしたちだってセイバーを倒す方法はあるもの。  単にセイバーの対魔力を上回る魔術を持ってくるか、サーヴァントが使ってる武器を借りて、寝ている間に首を切るとか。サーヴァントの武器ならサーヴァント自身と同じ霊格なんだから、傷を付ける事は可能なはずよ」 「………………むむ」  物騒なたとえ話だけど、納得できる。  ―――って、待て遠坂。  そういう話は、本人の前でしてはいけない。 「そ、そうなんだ。  じゃあライダーの宝具が特別優れてるってワケじゃなくて、サーヴァントの攻撃だからセイバーも守りに徹したって事なのか」 「ワケないでしょ。セイバーが守りに徹するのなら、ライダー自身じゃ何をしたって追い詰める事なんて不可能よ。ライダー本人がそう優れた英霊じゃないのなら、彼女が宝具を使ったところでタカが知れているし。  そうでしょ、セイバー? ライダーの宝具は、ライダー自身の能力とは“関係のない”武器なのよね?」 「おそらく。ライダーの技や魔力に頼らない自動的な武装、宝具そのものに効果がある物だと思います。  魔術か幻想種か。  どちらにせよ、あの魔法陣から放たれたモノは圧倒的でした。直撃を受けた場合、生き延びられるサーヴァントなどいないでしょう」 「そうなの? 数値的にどれくらい?」 「貴方たち風に言うのならA+といったところでしょうか。私個人の推測にすぎないので、断定はできませんが」 「A+!? なにそれ、魔法一歩手前じゃない……!  うわ、そんなの使われてよく学校が吹っ飛ばなかったってもんだわ」 「単純に破壊するだけの宝具、という訳ではないのでしょう。元々は他の用途がある宝具なのではないでしょうか」 「……そう。だとしても厄介ね。セイバーの話じゃA判定どころじゃないし、瞬間的な攻撃力ならサーヴァント中最高って事になるのかしら」 「………………ふん。まあ、確かに攻守共に優れた宝具のようでしたが……それより私の宝具の方が……」    ぼんやりと考え込む遠坂に、なんとも言えない顔つきで相づちをうつセイバー。 「……?」  なんだろう。  セイバー、なんか妙に面白くなさそうな様子だけど。 「……セイバー? 遠坂の意見、何かひっかかるところでもあるのか?」 「え……? あ、いえ、別にそういう訳ではないと言うか……ええ、本当はどちらが強いかなど、追究するのは騎士にあるまじき行いというか……」 「?」  挙動不審。  セイバーは自分の態度を恥じるように、ごにょごにょと言葉を濁す。 「……まあいいけど。それよりさ、さっき妙なコトを言ってなかったか? セイバーとランサーのは対人宝具とかなんとか」 「対人宝具、ですか……? いえ、言葉通りの意味ですが。私の風王結界やランサーのゲイボルクは、あくまで“人を倒す”為の武装です。  いかに強力な魔力、呪いを帯びていたところで、その用途は対人の域を出るモノではありません」  ……まあ、それはその通りか。  刀身が見えないセイバーの剣は、確かに戦いにおいて有利だ。  だがそれはあくまで人対人に限る。  薪をたくさん割ろうという時、剣が見えようと見えまいと割るスピードに変化はないだろう。  ランサーのゲイボルクも同様だ。  必ず心臓を貫く、という呪いの槍とて、相手が岩や家ならただの頑丈な槍にすぎない。 「……なるほど、だから対人の宝具って事なのか。  ならライダーの宝具は――――」 「対軍宝具って事になるわね。そう言えば父さんに聞いた事があったわ。宝具には対人に優れたもの、対軍に優れたものがあるって」 「簡単に言って、対人宝具は弾数制限のない拳銃で、対軍宝具ってのは一発かぎりのミサイルって事ね。  ライダーの宝具は強力だけど、その分使用にかなりの制限があるんじゃないかしら。少なくとも、セイバーの剣みたいに“いつも視えない”なんて永続的な宝具じゃない」 「な――――」    ちょっと待て。  拳銃とミサイルなんて、そんなのは勝負にならない。  そりゃあセイバーの“視えない剣”だって凄い剣だけど、そんなデタラメな宝具の前じゃ剣を振るう前に吹き飛ばされる―――― 「……つまり。ライダーと戦うのなら、宝具を使われる前に倒せってコトか」 「でしょうね。宝具の打ち合いになったら勝ち目はない。  ライダーと慎二を捜すっていうんなら、それだけは頭に入れておきなさい。  大前提として、ライダーが宝具を使う前に倒すコト。  戦いを長引かせれば長引かせるだけこっちが不利になるから」 「もしくは私が戦っている間にライダーのマスターを倒せばいい。あのマスターに戦闘手段はないのだから、そちらの方が確実かもしれません」  それが結論だ。  対抗策がない以上、使われる前に倒すしかない。  他のサーヴァントの宝具がなんであれ、ライダーとだけは宝具の競い合いをしてはいけない、という事か。 「……忠告助かったよ、遠坂。  俺たちは慎二を捜しに行くけど、遠坂はどうする。留守番していてくれるか?」 「……そうね、貴方たちがそう言うなら、わたしたちも慎二を捜してもいいんだけど―――ま、止めとくわ。  敵はライダーだけじゃないし、わたしたちは元々バーサーカーを倒す為に手を組んだんだしね。  士郎が慎二を追っている間、わたしはわたしでやる事があるから」  どこか冷たい笑みをこぼして、遠坂は席を立つ。 「それじゃあね。いい結果を期待しているわ」 「―――――――」  このまま見ている訳にはいかない。  足場のない戦いのせいか、セイバーは以前ほどライダーを押し切れていない。  二人の激突は少しずつ上空へ、ビルの屋上を目指して移動している。 「そうか、屋上――――!」    ライダーが屋上から落ちてきたのなら、慎二がそこにいる可能性は高い……!  ライダーと戦う条件は二つ。  ライダーが宝具を出す前に倒すか、マスターである慎二を先に叩くか。  セイバーがライダーと戦っている以上、俺がするべき事は一つだけだ――――!          駆け上がる二つの影。  既に地上は遠く、激突は際限なく高度を増していく。  両者は足場など必要とせず、壁を蹴る反動だけでより高みへと〈翔〉《のぼ》っていく。    その過程。  頂点を目指すまでの一瞬に、幾度となく衝突する。  地上から見上げる者がいたとしたらピンボールを連想しただろう。  〈尤〉《もっと》も、ぶつかり合う両者は肉眼で捉えられるものではない。    それはかろうじて衝突が判る程度の、人の身では不可視の〈死の遊技〉《デスサーカス》。   「――――っ」    その遊技はセイバーの望んだものではない。  いかにサーヴァントと言えど、生身で空を行く事はできない。  ビルの壁を駆け上がる事はできるが、結局はそれ止まりだ。    こんな事は自由落下と変わらない。  勢いを失うまで昇り続けるか、勢いを失って落ちるかだけの話。  空に落ちている、という表現は間違いではないだろう。  始まったからには終着である屋上を目指すしかない。  その過程、この瞬間に相手の一撃を受ければ、無惨に地上へ墜落するのみだ。    ―――だが。    セイバーが倒すべき敵である彼女にだけは、そのルールは適用されてはいなかった。    ビルの側面を駆け、ただ上を目指すだけのセイバーを狩りたてる、紫の軌跡。  縦横無尽、上下左右から弧を描いてセイバーを襲うライダーに重力の縛りはない。  長い髪は彗星のように流れ、その姿は大木に巻き付く蛇そのもの。   「っ……!」    セイバーの足が壁に触れる。  体を横に傾け、ビルの端を目指して壁を蹴る。    垂直に屋上を目指していたセイバーの軌跡が、直角に変化する。  ―――流れるような追撃が離れていく。  瞬間的な爆発力では、ライダーはセイバーには及ばない。  セイバーは一蹴りで大きくライダーを振りきり、ビルという足場の果て、ギリギリの角まで跳躍し、さらに跳んだ。    次は上へ。  ライダーがビルに巻き付く蛇ならば、セイバーは炸裂する火花に近い。    だが、それも読まれているのか。  両者の間合いは変わらない。  ライダーはセイバーに引き離される事なくビルの側面を駆け、セイバーが跳躍を必要とする隙に牙をむく――――!   「くっ……!」    ライダーを剣で弾き飛ばし、開いた空間へと跳躍するセイバー。  巻き付くようなライダーの追撃を防ぎきるも、宙に浮いた状態では限界がある。    以前は勝負にさえならなかった剣の技術は、この戦場において対等になった。  二人の戦いに決定打はない。  否、なによりライダー自身が決定打を避けている。  意を決してセイバーがライダーへと跳躍すれば、ライダーは受けるだけで反撃する様子さえ見せない。  ライダーはただ、屋上へと上っていくセイバーの隙をついて牽制するのみである。   「く―――戦う気がないのですか、ライダー……!」    逃げ腰の敵を罵倒する。  騎士である彼女にとって、このような戦いは屈辱だ。  戦いとは全力で打ち合い、勝敗を決するもの。  その信念で言えば、ライダーの振る舞いは侮辱以外の何物でもない。   「ふふ―――高いところは苦手のようですね、セイバー」    涼しげな声で返すライダー。  ライダーの言うとおり、空中戦などセイバーは不慣れだ。  このような戦いは今夜が初めてだと言っていい。    そもそも、騎士は地を駆ける者だ。  目前の女のように、壁に張りつく類ではない。   「自慢の剣もここでは形無しでしょう? けど安心なさい、もうじき楽にしてあげるから」    誘うように高度を増していくライダー。  彼女は意図的にこの状況を作っている。   「―――――――」    セイバーとて承知している。  この遊戯の終着点。  そこに待ち受けるモノは、ライダーにとって必殺の状況に違いない。    〈彼女〉《ライダー》の切り札は、そうおいそれと使えるモノではない。  故に何の邪魔も入らない場所に獲物をおびき寄せ、最強の一撃で決着をつけるつもりなのだ。    このまま屋上に上がれば窮地に追い込まれる。  ライダーの宝具がセイバーの考えている通りのモノだとしたら、防ぐ手段など有り得ない。    だが、いまさら引き返す事はできない。  ライダーはもとより、ライダーのマスターを放っておく事はできないのだ。    敵を倒すのが聖杯戦争の定石だから、ではない。    彼女は、彼女のマスターを守る為に、ライダーをこの場で倒さなければならない。    ……だって仕方がないではないか。  彼女本人も呆れてはいるのだが。  あの愚直なマスターに、これ以上無理をさせたくないと、一度でも思ってしまったのだから。            ―――両者の高度は上がっていく。  刹那の攻防を続けながら、戦いは〈終着駅〉《おくじょう》に着こうとしていた。   「くそ、なんだって四十階までしか動いてないんだ……!」    悪態をつきながら階段を駆け上がる。  裏口からビルに入ったものの、エレベーターは屋上まで動いていなかった。  屋上までの残る十階分は、自分の足で走るしかない。 「は――――はあ、はあ、は――――!」    全力で階段を上がっていく。  セイバーと別れてからどのくらい時間が経ったのか。  十分―――は経っていないと思うが、それでも時間としては長すぎる。  戦いなんて、どんな弾みで終わるか判らない。  セイバーだって完璧って訳じゃないんだ。  なにか、とんでもないミスをして窮地に立つ事だってある。  だからその前に―――慎二を見つけて令呪を使わせてしまえば、ライダーと戦う必要はなくなる筈だ。 「くっ――――は、は…………!」    ……病み上がりの体は、階段を駆け上がれば駆け上がるほどキリキリと痛んでくる。  ビルの裏口を探して、階段まで走った事で息もあがっている。  それでもスピードは緩まず、逆に上がっていく一方だ。  イヤな予感がする。  どうしてそんな気がするのかは分からないが、心臓が苦しい。  それは体の痛みではなく、危険を報せる類のものだ。          ……セイバーは勝てない。  屋上には、相手にしてはならないモノがある。    不吉な予感を振り払うように、懸命に階段を駆け上がる。  ―――風が強い。    扉を開けた途端、街の夜景が視界に飛び込んでくる。  コンクリートの地面は、所々が焼け焦げていた。    その中心。  焦げ付き、削られている屋上の真ん中に、膝をつく彼女の姿があった。 「セイバー…………!」 「シロウ……!? どうしてここに――――!」  肩を上下させているセイバーに余裕はない。  そこに駆け寄ろうとした瞬間――――何か異質なモノが浮いている事に気が付いた。    否。  それは圧倒的なまでの魔力をもって、認識を強制したのだ。 「な――――」    視線が空を仰ぐ。  翼のはばたく音。  白い、おぼろげな月の姿より白すぎる何かがいる。          ……それは。  神話の中でしか聞いた事のない、伝説上の『神秘』だった。    ―――夜の街を歩く。    時刻は夜の八時過ぎ。  駅前がもっとも賑わう時間、セイバーと二人で街の地図を眺めている。 「主立った建物は廻りましたね。他に行くべき場所はありますか?」 「そうだな、少し離れたところに工場がある。あそこも人が集まる場所だから調べておかないと。ま、工場っていうのは慎二の趣味じゃないと思うんだが」  ……そんな受け答えをしながらも、セイバーとは顔を会わせづらい。  さっきの会話が尾を引いているせいだろう。  セイバーはあんな会話なんてなかったように振る舞っているから、余計こっちが気にしてしまう。 「そう言うセイバーの方はどうだ? ライダーの気配は掴めるか?」 「……いえ、感じません。彼女とは一度戦っていますから、近くにいれば知覚できるのですが――――」  肌を刺す違和感。  俺でさえ感じ取れるほどの魔力の波だ。  セイバーが感知できない筈がない。 「……シロウ。言うまでもないと思うのですが」 「解ってる。……近くにいるのかセイバー」 「いえ、まだそこまでの距離ではないようです。ですが確実に見られている。……この魔力は、私たちに対する挑発でしょう」  見られている……という事は、ようやく囮に引っかかってくれた訳か。  あからさまに魔力を放っているところを見ると、俺たちを誘っているのだろう。 「――――で。この気配、ライダーなのか」  意識が切り替わる。  先ほどまでのぎこちなさなんて、もう遠くに消えていった。 「魔力を辿ります。注意してください、マスター」  声を出さず、無言で頷く。  針のように肌を刺す殺気は、人通りが消えかけているオフィス街から放たれていた。  今日に限って残業をする人間はいないのか。  新都のシンボルとも言えるビルの明かりは、そのほとんどが消えていた。  歩道を歩く人影はまばらで、見通しは悪くない。  不審な人影はなく、慎二がいるとしたらこの先……さっきまで自分たちがいた公園だろうか。  ……肌を刺す殺気は一段と強くなっている。  この近くに“敵”がいる事に間違いはない。  いや、むしろ。 「――――――――っ」  背筋に悪寒が走る。  俺でも感じ取れる殺気からして、俺たちはとっくに“敵”の間合いに入っているのではないか。 「……セイバー、気を付けろ。なにか、ヘンだ」 「……ええ、シロウの感覚は正しい。このように人目のある場所で仕掛けてくるとは思えませんが、相手が相手です。用心に越した事はありません」  無言で頷いて、公園へと向かう。  のど元にナイフを突きつけられているような圧迫感は、この際無視しよう。    オフィス街には慎二の姿もライダーの姿もない。  しかけてくるとしたら、人目がない公園の筈―――― 「シロウ――――!」 「セイバー?」  セイバーへと振り返る。  彼女は稲妻のように跳びかかり、    俺の頭上で、その一撃を弾き返していた。 「!?」    頭上を仰ぐ。  視界には天を衝くほどの巨大なビルが〈聳〉《そび》え。  その側面には、蜘蛛のように張り付いた“敵”の姿があった。 「な――――」    全身を覆うほどの長髪と、しなやかな白い四肢。  顔をマスクで隠したソレは、間違いなくライダーのサーヴァント…………!! 「――――フ」    ビルの五階付近に張り付いたソレは、ぬらりと舌なめずりをして、俺を見た。  ……背筋が凍る。  間違いない。  アレはビルの屋上から落下し、頭上という死角から俺の首を断ちにきたのか――――!  セイバーが着地する。  俺の頭上まで跳躍し、ライダーの攻撃を弾いたセイバーは、一瞬で武装していた。 「セイバー、アイツは……!」 「追います! シロウはここにいてください……!」 「え―――追うって、どうやって!?」  地面を蹴る。  銀の鎧は、一瞬にして視界からかき消えた。 「な――――!?」    ビルの屋上から落下してきたライダーもデタラメなら、跳躍だけでライダーを追撃したセイバーもデタラメだ。  否、もともとサーヴァントである彼女たちには、常識など当てはまらないのか。  セイバーはライダー同様、ビルの側面を蹴って、稲妻のようにライダーへ襲いかかった――――!  目まぐるしく交差する二つの影。  頭上で衝突しては離れ、ビルを蹴ってまた衝突しあう様は、戦闘機の空戦を見ているようだ。  それを、俺は――――   「――――――――」    ……悔しいが、ここに留まるしかない。  俺にはビルの側面を駆け上がるなんて真似はできないし、セイバーの後を追ったところで援護らしい援護も出来ないだろう。 「――――セイバー」    人間ではサーヴァント同士の戦いに関われない。  俺に出来る事はなく、ここでセイバーの言葉を信じて待ち続けるしかなかった。    ―――肌に張り付くような六十秒。  空白の後、遥か頭上で交差する火花を見た。 「屋上……!? 二人とも、ビルの屋上まで上がったのか……!?」  目を凝らしてセイバーの姿を追う。  銀と黒の光は一度も止まる事なく、地上百メートルもの高みへ消えていった。 「―――――――っ」  どうする。  今からビルに忍び込んで屋上に駆けつけるべきか。  ビルの側面ならいざ知らず、確かな足場のある屋上なら俺でも―――― 「なんだぁ―――!?」    屋上で何か、とんでもなく強い光が放たれた。  それは一回限りではなく、    〈矢継〉《やつ》ぎ〈早〉《ばや》に、振り子のように繰り返される。 「――――アレは、まさか」    ライダーの宝具……!?  だとしたらセイバーに勝ち目はない。  ライダーに宝具を使わせないこと。それがセイバーが勝つ為の大前提ではなかったか。 「くっ、セイバー……!」    迷っている暇はない。  自分の不甲斐なさに歯噛みしながらビルへと走り出した。 「は、はぁ、はぁ、は――――!」    階段を駆け上る。  ビル内に入り込むのは〈容易〉《たやす》かったが、屋上への道のりは簡単にはいかなかった。  エレベーターは四十階から上には行かず、そこからは階段を使うしかなかったからだ。 「は、ぁ――――! こんなコトで、時間をとってられない、ってのに……!」    電灯の消えた暗闇の中、屋上に続く階段を上がり続ける。  ―――忍び込んでから既に五分。  まっとうな戦闘なら、とうに結果が出ている時間。 「……!?」  地面が揺れる。  五十階建ての高層ビルが、爆撃を受けたかのように振動した。 「――――なん、だ。  今の、ライダーの宝具じゃないぞ……!?」    屋上まであと一階分。  不吉な予感を振り払いながら、暗い階段を駆け上った。 「―――――――」  扉を開けた瞬間、熱した空気が頬に触れた。  じゅっ、と音をたてて肌を焦がすほどの熱風が吹きこんでくる。 「…………一体、何が」  起きたっていうのか。  コンクリートの地面はところどころ焦げ付いている。  生きている者など存在しない、乾いた空気。   「――――セイバー……?」    その中で、セイバーは力尽きたように倒れていた。 「ッ……! セイバー、しっかりしろセイバー……!」  倒れ伏したセイバーに駆け寄って抱き起こす。 「…………ぁ―――――、――――」    ……息はある。  セイバーは意識を失い、深手を負ったかのように呼吸を乱していた。 「セイバー―――」    ……セイバーは残り、ライダーの姿はない。  なら、過程はともかく結果は明白だ。  ライダーが健在なら、ここまで弱ったセイバーを見逃す筈がない。  生き残ったのは―――勝利したのはセイバーだ。  ライダーは倒され、セイバーはその代償として意識を失ったのだろう。 「―――我慢しててくれ。すぐに連れて帰って、遠坂に診てもらうからな……!」    セイバーを抱き上げる。  ……その軽さに、愕然とする。  苦しげに吐息をもらすセイバーは、幻のように重さという物がなかったからだ。 「終わったわよ。  和室に寝かせてきたけど、あの分じゃしばらく目を覚まさないでしょうね」 「……すまん、助かった。俺には、セイバーを手当てするなんて出来ないからな」 「……。まあ鎧を脱がせて楽にさせただけだから、お礼を言われるほどじゃないわ。セイバーの体も良くならないし、わたしは何もしてないもの」  ……それでも、遠坂がいてくれて助かった。  俺に抱きかかえられたセイバーを見て、遠坂は一目で状態を把握してくれた。  遠坂はすぐにセイバーの武装を解いて、傷ついたセイバーの体を診てくれたのだ。 「それで、何があったの。  慎二を捜しにいって、帰ってきたと思ったらセイバーがアレでしょう。一波乱あったのは判るけど、説明してくれないかしら」 「……それが、俺にも判らない。セイバーとライダーが戦って、生き残ったのはセイバーだって事しか」 「……ふうん。詳しく知りたいところだけど、追及するのは勘弁してあげるわ。今の貴方たちはそれどころじゃないものね」 「? それどころじゃないって、どういう事だ」 「言葉通りの意味よ。……貴方だって薄々は気づいているんでしょう。このままじゃセイバーが消えるって事ぐらい」 「な――――」  さらりと。  考えないようにしていた結末を、遠坂は口にした。 「……消えるって。セイバーが消えるっていうのか、おまえは」 「ええ。どんな戦いをしたのか知らないけど、セイバーの魔力、ほとんど空っぽなのよ。  いま彼女が苦しんでいるのはね、魔力不足で消えようとしている自分を必死に留めているからなの」 「な……魔力がないから、セイバーが消える……?」 「ええ。霊体であるサーヴァントがこの世に留まる為の魔力が足りていない。  こんな時普通のマスターだったら自分の魔力を送るんだけど、貴方はそれが出来ないでしょ? 簡単に言って、今のセイバーは酸素不足で喘いでいる魚みたいなものなのよ」 「酸素不足って、バカな。  だって今までは大丈夫だったじゃないか。セイバーだって、眠っていれば持ち直すって――――」 「それはセイバーの魔力量が桁外れだったからよ。  けどそれもここまで。魔力を使い切ったサーヴァントを元に戻す方法は二つだけ。  マスターがサーヴァントに魔力を提供するか、サーヴァントが自分で魔力を補充するかよ」  サーヴァントが自分で補充する。  それはライダーのように、無関係な人たちを殺す、という事か。 「……まさか。セイバーはそんな事はしない。セイバー自身が、そんな事はしないと言ったんだ」 「でしょうね。けど方法はそれしかない。マスターが魔力を与えられない以上、サーヴァント自身が〈栄養〉《まりょく》を補充するしかないわ。  ……これは貴方が決める事だけど。  セイバーを助けたいのなら、セイバーに人を襲わせて、魂を食べさせなさい」 「――――――――」  それがもっとも現実的な手段だ。  だが、それは―――― 「もちろんセイバーは嫌がるでしょう。けど放っておけば遅かれ早かれセイバーは消えて、貴方は他のマスターから狙われる事になる」 「――――――――」  セイバーが消える……?  そんな事、考える事なんて出来ない。  この手には、さっきまで抱いていた彼女の体温が残っている。 「―――決断は貴方に任せるわ。  セイバーは眠らせておけば落ち着くだろうけど、それでも限界は近いでしょうね。決断をするなら、明日の朝がリミットよ」  遠坂は居間から立ち去っていく。    ……目眩がする。  顔をあげる事もできず、ただ、遠ざかる足音だけを聞いていた。 「―――――朝、だ」    眠りにつけないまま日が昇った。  セイバーは目を覚まさない。  彼女は横になったまま、死んだように眠っている。 「でも、顔色は良くなった」    状況はそう悲観したものじゃない。  セイバーの寝息は落ち着いていて、苦しげに喘いでいた面影はない。    セイバーは安らかに眠っている。  それは、今までと何も変わらない朝の光景だった。 「―――もしかしたら、このまま」    眠らせておけば、セイバーは元通りになるかもしれない。  そうすればセイバーに人を殺させる必要なんてない。  セイバーはこのまま今まで通り俺と一緒に――― 「―――何を、都合のいい事を―――」    壁を叩く。  自分の弱さに吐き気がする。  このまま決断を先送りにすれば、セイバーは間違いなく消えてしまう。 「―――く、そ」    ……物音を立てないように立ち上がる。  セイバーがいつ目覚めるかは判らない。  それまでに、俺はどちらを取るか決断しなくてはならない――――    外に出た。  何か考えがあっての事じゃない。  決断をする為に何かきっかけがほしくて、あてもなく足を進めた。    公園は相変わらず無人だった。  今日がいつもより冷え込んでいる、という事もあるのだろう。  あたりに人気はなく、出歩いている人間は自分ぐらいのものだった。 「――――――――」  ベンチに腰をかけて、出口のない問答を繰り返す。  ……そうして、どのくらいの間ベンチにうなだれていたのか。  いい加減寒さで指先が震えだしたころ、   「あー!  もう、いないと思ったらこんなところにいるー!」    突然、そんな声をかけられた。 「あは、やっぱりそうだ。こんにちはシロウ。浮かない顔してるけど、何かあったの?」 「イリヤ……? おまえ、また一人でこんな所までやってきたのか。危ないぞ、何処にマスターの目が光ってるか――――」  知れないんだから、と言いかけて、何をしているのかと呆れてしまった。  イリヤだってマスターなんだ。  俺が心配する事でもないし、そもそも俺たちは敵同士ではなかったか。 「……悪いな。今はイリヤと話をする余裕がないんだ。  せっかく会えたところだけど、話し相手になってやれない。今日は冷えるし、帰ったほうがいいぞ」  ベンチに座ったままイリヤを拒絶した。  ……この子にはもっと話をしなくちゃいけない事があったが、今はセイバーの事で頭が一杯だ。 「――――――――」  ……?  どうしたんだろう。  イリヤは何も言わず、他人を見るような目で俺を見ていた。 「……イリヤ……? いや、別におまえを邪険にしてるんじゃないんだ。  今はちょっと、色々とたてこんでいて――――」 「知ってるわ。セイバーが消えかけてるんでしょ。  それでシロウはどうしようかって考えてるのよね」    突然。  まるで別人のような冷たさで、目前の少女は言った。 「イリヤ、おまえ―――なんで、そんな事、を」 「言うまでもないでしょ。昨日の夜ね、わたしもあのビルにいただけよ。  もっとも、さすがにビルの中で様子を見てるしかなかったけど」 「――――!」    手足に力を入れるが、一向に動かない。  いや、むしろ入れれば入れるほど固まっていく気がする。  ―――あの目だ。  イリヤの赤い目を見ていると、感覚が麻痺して――― 「あ、もう金縛りになったんだ。シロウったら守りも何もないんだもの。  一人でいれば簡単に捕まえられるって思ったけど、こんなに簡単にいくなんてかわいいなあ」 「イリヤ、おま、え――――」 「無駄だよお兄ちゃん。そうなったらもう動けないわ。  もうじき声もでなくなるけど、心配しなくていいよ。  ―――わたしもね、今日はお話をしにきたワケじゃないもの」    イリヤの視線に殺気が灯る。  それはあの夜と同じ、バーサーカーのマスターとしてのイリヤだった。   「くっ……! おまえ、俺をここで殺す、つもりか……!」    歯を食いしばって、とにかく全身に力を込める。  それでも、指先はぴくりとも動かない。  もはや神経という神経が、がっちりとイリヤの視線に絡め取られている。   「うん。だって、もうマスターでいてもしょうがないでしょ? セイバーが消えたらシロウは一人きりだもの、いつまでもマスターにさせてられないわ。  戦う手段がなくなったシロウなんて、簡単に殺せるんだから」    イリヤの手が上がる。  白く華奢な指が、ひたり、と俺の胸に触れた。   「他の人に殺される前に見つけられて良かった。  それじゃ、おやすみなさいお兄ちゃん。どうせセイバーも消えるんだから、早いほうがスッキリするでしょ?」    視界が途切れた。  手足の感覚はとうに無く、視覚さえ無くなった。    ……完全な闇に落ちて、どのくらい経ったのだろう。  自分が生きているのか死んでいるのか判らないうちに、ようやく、意識もブツリと途切れてくれた。    ――――あ、れ。  まだ、生きてる、みたい、だけど――――。 「……いいのイリヤ? この子、イリヤの敵じゃないよ……?」 「そ、そんなのリズには関係ないわ。そ、それにこれは当然の権利なんだから。  十年間、ずっとこの時を待ってたんだから、今更、逃がしてなんかあげられない」    ――――イリ、ヤ――――?    ……なんだ……体が、動かない。  いや、そもそも体の感覚がない。  一体なにがどうなっているのか。  俺は本当に、ここに、いるんだろうか……? 「控えなさいリーゼリット。お嬢様、素体の受け入れ準備が終わりました。後は転移を行うだけですが」 「ん……始めるわ。二人とも下がってなさい」    視界が閉ざされた。  一点の光明もないそこで、    紅い、イリヤの令呪だけが――――            ―――意識が、違うところに連れて行かれる。        感覚がないクセに、腕を掴まれた気がした。          ―――気が遠くなる。  数分の〈後〉《のち》、自分がどうなるかは判らないが―――俺の戦いは、既に終わっているようだ。            そうして、屋上に辿り着いた瞬間。  彼女は、敵である相手の“正体”と対峙した。   「ハァ―――、ハァ、ア―――」    倒れそうな体を剣で支え、顔を上げる。  休みなく迫る白い光。  剣に纏った風を前方に展開し、見えない壁を作る。  吹き飛ぶ体。  本来ならあらゆる衝撃を削減する筈のソレは、天馬の速度を緩める事さえ出来なかった。   「ぐっ…………!」    吹き飛ばされ、受け身もとれずに地面に転がる。    ―――倒れている暇などない。    天馬は空中で旋回し、息つく間もなく滑空を再開する。   「ふっ……!」    受け止める事は出来ない。  許されるのは跳躍による回避のみ。  だが避けたところで、その余波だけで彼女の守りは削られていく。  このままではいずれ正面から、何の守りもなく直撃を食らうだろう。    舞い降りる白い光。  天馬は遙かな頭上より滑空し、屋上に衝突する事なく彼女をなぎ払い、上空へと去っていく。    追撃など出来る筈がない。  駆け上がる壁もなく、あったところで、あの天馬を捉える事など誰にできよう。   「ハァ……ハア、ハア、ハ――――」    その劣勢において、〈彼女〉《セイバー》は反撃の機会を待つ。  天馬と言えど、生きている以上は殺せる相手だ。  彼女に残された勝機は、ライダーがその手綱を誤るかどうかの一点のみ。   「驚きました。見かけに寄らず頑丈ですね、貴女は」    頭上からの声。  彼女は剣を構えたまま空を仰ぐ。   「ですが、それに意味はありますか? 貴女には勝ち目などない。散るしかないのなら、潔く消えなさい」    ライダーの声は冷静だ。  その陰にはかすかな愉悦が感じられる。   「……ふん。幻想種だとは睨んでいましたが。まさかそんなモノを持ち出してくるとは思いませんでした、ライダー」    ―――幻想種。  それは文字通り、幻想の中にのみ生存するモノを指す。  妖精や巨人と言われる亜人、  鬼や竜と言われる魔獣。  その在り方そのものが『神秘』である彼らは、それだけで魔術を凌駕する存在とされる。    神秘は、より強い神秘にうち消されるのが〈理〉《ことわり》だ。    魔術が知識として力を蓄えてきたように、  幻想種はその長い寿命で力を蓄えている。    人の身で魔術を極めようと、そんなものはせいぜい五百年。  遙かな太古より生きてきた彼らにとって、五百年程度の神秘など争うに値しない。    だが人と幻想種が同じ世界にいたのは、過去の話だ。  長く生きた幻想種であればあるほど、この世界から遠ざかっていく。  現在、世界に留まっている幻想種など百年単位のモノでしかない。    故に、ライダーの駆る幻想種は百年単位のモノだと読んでいたのだが――――   「……神代のモノを持ち出すとは。随分と業が深いようですね、ライダー」 「ええ、私は貴女たちとは違う。むしろ貴女たちの敵だったモノにすぎない。故に、私が操るのは貴女たちが駆逐してきた、可哀想な仔たちだけよ」   「―――なるほど。歪んでいるとは思いましたが、英霊ではなく悪鬼の類でしたか、貴方は」 「……ふん、せいぜい呪いなさい。貴方では、私の仔に触れる事さえ出来ないのだから」    上空で翼を休める天馬。  隙あらば彼女を貫こうとする巨大な矢。   「――――」    それを睨みながら、彼女は思う。  天馬自体はそう強力な幻想種ではない。  普通の天馬は成長したところで魔獣クラスの幻想種にすぎない。  それならば彼女の“風王結界”だけで打倒しうる相手だ。    だが、アレは違う。  神代から存在し続けてきたあの天馬は、すでに幻獣の域に達している。  幻想種の中でも頂点と言われる『竜種』に、あの天馬は近づきつつあるのだ。    ……いや、こと護りに関しては既に竜種に達している。  なにしろ最高の対魔力を誇る〈彼女〉《セイバー》を上回る加護が、あの天馬には備わっている。  膨大な魔力を放出しながらの滑空は、巨大な城壁が突進して来るようなものだ。    ―――そんなもの、防ぐ事も躱す事も出来はしまい。    だが、驚くべきは別にある。    あの天馬はライダーが呼び出したモノにすぎず、真名など持ち得ない。  ライダーにとって、あの天馬は愛用する短剣とほぼ同位。    つまり―――あの黒い騎兵は、未だ己が〈宝具を使ってはいない〉《・・・・・・・・・・》のだ。   「――――――――」    その窮地において、セイバーは自身の敗北など考えてはいなかった。  むしろライダーがその気になった後にこそ、勝機があると踏まえている。  ライダーの宝具がなんであれ、この〈建物〉《ビル》を破壊する程度なら問題はない。  守りに徹して凌ぎきり、その直後、無防備になったライダーを斬り伏せるのみである。      ―――そう。  この場に、彼女の主さえ現れなければ。 「な――――」    空を仰ぐ。  翼のはばたく音。  白い、おぼろげな月の姿より白すぎる何かがいる。    それは。  神話の中でしか聞いた事のない、伝説上の『神秘』だった。 「――――――天、馬……?」    ライダーの宝具の正体。  屋上を焼き付かせ、セイバーに膝をつかせているモノの正体がソレだというのか。  ライダーはそのクラスどおり、天かける馬に騎乗していた―――― 「!?」  ライダーから意識を放す。  今、確かに物音がした――――   「慎二か……! いるんだろう、出てこい……!」    天馬を駆るライダーがどれほどの実力なのか、もう自分では判断できない。  あの白い魔物が、魔術師数百人分の魔力で編まれたものだとしか判らない。    屋上が焼き付いているのは当然だ。  アレはただ、走るだけで周囲を破壊する。  それが空から滑空してくるのだとしたら、セイバーでも凌ぐコトなど出来ないだろう。 「隠れるな……! やってきてやったんだ、顔ぐらい見せやがれ……!」  事は一刻を争う。  マスターである慎二を倒して、ライダーを消すしかない……!   「――――は。はは、あはは、あははははは!」    笑い声がする。  慎二は―――どこの物陰に隠れているのか。 「慎二……!」 「見たか衛宮! これが僕とおまえの力の差だ!」  声だけが響く。 「くっ……!」  あせる心を押さえつけて、笑い声に耳を澄ませる。  ……くそ、風が強い……!  笑い声がどこからするのか識別できない……!   「残念だったな、カッコウつけて余裕ぶってるからこういう目に遭うんだ間抜け……! 殺す時はさ、さっさと殺さなきゃダメだって理解できたかい……!?」 「慎二…………!」  焦るな。  今は好きにさせろ、ヤツが喋れば喋るほど位置が限定されていく筈だ―――!   「けど僕は違うよ。おまえもあのサーヴァントもここで終わりだ。なに、これでも知らない仲じゃない。  昨日の借りもあるしさ、せめて苦しまないように一瞬で死んじゃえよ―――!」 「――――!」    ――――まずい。  上空で待機していた天馬の頭が、ゆらりとセイバーへと下げられる。  限界などないかのように回転数を増していく魔力の渦。  アレが高速で飛翔してくるのなら、こんな屋上なんて跡形もなく吹き飛ばされる――――!   「なぁに、安心しろ衛宮。おまえに邪魔されたけどさ、学校のバカどももすぐに後を追わせてやるよ。おまえが寂しいってんなら、くそ〈鬱陶〉《うっとう》しい桜も付き合わせてやろうじゃないか!」 「慎二、おまえ――――!」 「やれライダー!  まずはその女だ、跡形も残すなよ……!」 「っ、セイバー……!」    頭上から、白いほうき星が落ちてくる。  瞬間。    ―――嵐が、目の前で巻き起こった。   「セイバー……!」 「な――――――」    彼女は初めて、戦いの中で敵を忘れた。  このような死地にやってきた主への怒りもある。  このような展開になるのは当然だと、思い至らなかった自身への怒りもある。    だが、それらは思考の隅に追いやられた。  他に何があろう。  この死地において、彼の瞳はただ、彼女の身を案じているだけだったのだから。   「シロウ―――――――」    ―――思えば、彼は初めからそうだった。    彼女が優れた騎士であると理解しながら、  ただの一度も、騎士として扱わなかったその視線。   「どうやら余興はここまでのようね、セイバー」    くすり、という笑い声。  ライダーは天馬の首筋に両手をあて、一際大きく、その翼を〈羽撃〉《はばた》かせる。   「私の宝具は強力故、地上で使うには適していない。使えばどうしても人目につく。まだ他にマスターがいる以上、おいそれと使う訳にはいかなかった。  けれど、ここなら覗き見される恐れはない。  貴女を誘い出したのは、ここでなら都合がいいからと分かりましたか?」    ライダーの手に、今まで足りなかったモノが形成されていく。  それは本当にちっぽけな、どうという事のない、黄金に輝く縄。   「―――それが貴様の宝具か、ライダー」   「ええ、私の趣味ではありませんが。  この仔は優しすぎて戦いには向いていない。だからこんな物でも使わないと、その気になってくれないのよ」    天馬の首が下がる。  天馬の意思ではなく、ライダーの〈意思〉《ゆび》によって猛る獣性。   「―――消えなさいセイバー。  たとえ貴女が生き延びようと、貴女のマスターは私からは逃げられない。マスターさえ死ねば、頑丈な貴女もそれまででしょう?」    ―――それは絶対の真実だ。    ライダーの宝具は、確実にこの屋上を吹き飛ばす。  急げば〈士郎〉《あるじ》を抱えて屋上からは逃げられるだろうが、ライダーの一撃は屋上を破壊するだけにはとどまるまい。  倒壊する建物の中で生き延びられるほど、彼女のマスターは強くはないのだ。    故に、彼女が主を守る為には。  あの敵を、その天馬ごと斬り伏せるしかない。   「――――――――」    それが正しいのか、彼女には考える時間などなかった。  もう一度だけ、遠く離れた主に視線を送る。  彼は彼の役割をこなそうと、懸命に歯を食いしばっていた。   「――――風よ」    それで迷いは消えた。  先の事など忘れた。  今はただ、主の剣となって、その敵を討ち滅ぼすのみ。   「やれライダー! まずはその女だ、跡形も残すなよ……!」    耳障りな声が聞こえてくる。  同時に、天馬はなお上空へと舞い上がる。    一瞬で視界から消失する。  遙か上空まで舞い上がった天馬は、既に原形を留めてはいなかった。    月を射抜けとばかりに上昇したソレは、そのまま弧を描いて地上へと翼を返す。    舞い降りてくる彗星。  光の矢となりながら、なおライダーは天馬を奔らせる。    狙うは一つ。    あの天空に孤立した庭園ごと、己が敵を殲滅する――――!   「“〈騎英の〉《ベルレ》――――」    名が紡がれる。  宝具とは、真名を以て放たれる奇蹟であるのなら、     「――――〈手綱〉《フォーン》…………!!!!!”」    それはまさしく、神なる雷そのものだった。    〈閃〉《ひらめ》く落雷。  見据える彼女の目には、もはや何の感情もない。   「―――この場所ならば人目につかないと言ったな、ライダー」    風が解かれていく。  彼女を中心に巻き起こる風は、〈疾〉《と》く嵐へと化けていく。   「同感だ。ここならば、地上を焼き払う憂いもない―――!」            封が解かれる。  幾重もの風を払い。  彼女の剣は、その姿を現した。    ―――嵐が、目の前で巻き起こっていた。    落下してくる白い光。  その標的にされながらもセイバーは動かない。 「セイ、バー――――?」    吹き荒れる風は、彼女から発していた。  いや、セイバーからではなく、彼女が持つ剣からだ。 「――――え?」    我が目を疑う。  視えない筈のその姿が、確かに見える。  少しずつ、包帯を解いていくかのように、彼女の剣が現れ始める――――   「黄金の――――剣?」    吹き荒ぶ風。  箱を開けるかのように展開していく幾重もの封印。    風の帯は大気に溶け。  露わになった剣を構え、彼女は舞い落ちる天馬へと向き直る。    光の奔流となったライダーが迫る。  屋上を包み込むほどに成長した“〈騎英の手〉《ベルレフォーン》綱”は、俺たちはおろかビルそのものを破壊しようと速度を増す。   “騎英の手綱”の白光が屋上を照らし上げる。 「――――――――」  ……時間が止まる。  逃れられない破滅を前にして、思考が停止する。  だが、それは。  決して、“騎英の手綱”による物ではなかった。    収束する光。  その純度は、巨大なだけのライダーの騎影とは比べるべくもない。    彼女の手にあるモノは。  星の光を集めた、最強の聖剣である。           「――――〈約束された〉《エクス》〈勝利の剣〉《カリバー》――――!!!」    ―――それは、文字通り光の線だった。    触れる物を例外なく切断する光の刃。  ライダーを一刀のもとに両断し、夜空を翔け、雲を断ち切って消えていく。    ……おそらく。  アレが地上で使われたのなら、街には永遠に消えない大断層が残っただろう。    彼女の剣は“視えない”のではない。  あれは単に“視せない”だけだったのだ。  見る者の心さえ奪う黄金の剣、あまりにも有名すぎるその真名。    ――――〈約束された勝利の剣〉《エクスカリバー》。    イングランドにかつて存在したとされ、騎士の代名詞として知れ渡る王の剣。  幾重もの結界に封印された、サーヴァント中最強の宝具。    それがセイバーの持つ、英雄の証だった。    屋上は静まり返っている。  風は既になく、物音をたてる者もいない。 「――――――――」    セイバーに近づく事もできず、体は立ち尽くしたままだった。  混乱しているのか、それともまだあの剣に心を奪われているのか。  思考はとりとめもなく、おかしなコトばかり脳裏に浮かぶ。    何故彼女があの剣を持っているのか。  あの黄金の剣は、誰もが知る騎士の王が持つ物だ。  それを彼女が持つに至った経緯を考えようとして、自分が必死に、簡単な結論を否定したがっていると気が付いた。    ……余分な推測をする必要はない。  アレは、初めから彼女の持ち物にすぎない。    だから彼女の真名もおのずと知れる。  そこにどんな手違いがあるのかは知らないが、あの聖剣を持つ以上、彼女の名は一つしかない。 「………………」    セイバーは剣を振るった姿勢のまま動かない。  ……駆け寄るべきなのに、体がどうしても前に進まない。    ……自分は今まで、セイバーが英霊だという事を言葉でしか理解していなかった。  それを目の前で、はっきりと過去の英雄なのだと知らされ―――近づく事を、ためらったのか。 「ひっ……!」    悲鳴が聞こえた。  物陰で何かが燃えている。  視線を移す。  そこには火が点き、今にも灰になっていく本と、   「あ―――あ、あああ……! 燃える、令呪が燃えちまう……!」    ひきつりながら、それを見つめている慎二がいた。 「――――慎二」 「ひ……! は、あは――――」  ライダーが倒され、自分の不利が判ったのか。  慎二は俺の目から逃れるように背を向け、そのまま屋上の出口へと走り出した。 「……!」  慎二は下の階に続くドアへと飛び込んでいく。 「待て、慎二――――!」  ここで逃がす訳にはいかない。  だが、急いで慎二の後を追おうとした瞬間。  視界の隅で。  崩れ落ちるように、セイバーが倒れ込んだ。 「――――」  思考が止まる。  逃げた慎二と、力なく倒れたセイバー。  俺は――――      ――――慎二が先だ。  セイバーがライダーを倒したのなら、俺は慎二を捕まえてマスターを辞めさせなければ……!   「は、はぁ、はぁ、は――――!」    甲高い足音が闇に響く。  電灯の消えたフロアを、間桐慎二は逃げるように走っていく。   「くそ――――なんだよ、なんなんだよあの女、あんなデタラメあっていいのかよ……! ライダーの宝具は一番強いんだろう、なのにどうして負けるんだよ……! セイバーのクセにあんな宝具もちやがって、不公平だ、不公平だ、不公平だ……!」    階段を転がり落ち、壁に衝突し、地面を這いながら間桐慎二は地上を目指す。  彼の脳裏には、ライダーを両断した光が焼きついて離れない。    彼が罵倒するように、あの宝具は規格外の存在だ。  味方になら神々しく映るであろう聖剣は、敵対する者から見れば悪魔の産物に他ならない。   「ふ、ふあ、あ――――!」    故に、暗闇であろうと走る。  立ち止まればあの光がやってくる。  振り返ればライダーのように影も形もなく蒸発させられる。  立ち止まっている余裕などない。  サーヴァントを失った事より、令呪を失いマスターでなくなった事より、彼は自分の命を優先する。   「はっ――――くそ、くそくそくそくそ……!  何が私の宝具は無敵です、だ……! あの口だけ女、よくも僕を騙してくれたな……! 余裕ぶっていたぶってるから寝首をかかれるんだよ間抜けがっ……!」    もっとも、それは間桐慎二が命じた事だ。  簡単には殺すな、と。  宝具を使用するからには一撃で仕留めるべきだ、というライダーの忠告を蹴りつけて、彼はセイバーを追い詰めたのである。   「は――――あ、ひゃあ…………!?」    何度目かの転倒。  もうすぐこの暗闇から抜けるというのに、何か大きな壁にぶつかった。   「っ、こんなところに壁なんか作りやがって……!」    ガン、と激情に任せて殴りつける。   「――――は?」    有り得ない音がした。  間桐慎二は、壁と思ってしまったモノと、知恵の輪のように折れ曲がった腕を見比べて、   「――――――――」    あまりの恐怖に、断末魔さえ忘れてしまった。             「ダメよ、マキリの〈蛆虫〉《うじむし》さん。敗者には逃げ道なんてないんだから」    楽しげな笑い声がこぼれる。  張り詰めた闇の中、白い少女の銀髪が克明に浮かび上がる。   「ま――――――」    その認識。  目前に“在る”モノがなんであるかを理解した瞬間、間桐慎二は消滅した。    明かりの途絶えた通路を走る。  視界は塞がっているが、慎二を追う事は出来る。  なにしろ他に雑音がない。  慎二の足音は通路に反響し、追いかける事は〈容易〉《たやす》かった。 「……? 足音が途絶えた……?」    それは唐突な変化だった。  聞こえていた音は近かったし、エレベーターまではまだ距離がある。  覚えているかぎり、この通路の途中で慎二が足を止める要因はない筈だ。 「…………慎二?」    足音を消して、慎重に進んでいく。  ……変化はすぐに確認できた。  慎二の足音が途絶えた地点。    屋上に向かう時は何もなかった通路に、赤い水溜りが出来ている。 「――――――――」    感覚が凍る。  ここで何が起きたのか考える前に、体が先に反応した。    ―――ここにいてはいけない。  命が惜しいのなら、一秒でも早く屋上に戻れと、セイバーに鍛えられた感覚が告げていた。   「すまん、遅くなった。大丈夫かセイバー」    吐き気を押し殺してセイバーに駆け寄る。 「え……?」  セイバーの様子は尋常じゃなかった。  額には玉のような汗が浮かび、呼吸は弱々しいクセに激しく、熱病に魘されているようだ。 「……そんな。おい、セイバー―――何が、どうしたって言うんだ」    恐る恐る声をかけるが、セイバーは何も答えない。  ……単純に、意識がないのだ。 「――――セイ、バー……?」  彼女の額に手を触れる。 「熱っ……!」  思わず手を引っ込める。  じ、尋常な熱さじゃない……!  熱だとしたら四十度を超えているぞ、これ……!? 「セイバー! おい、しっかりしろ……!」  声をかけても、返ってくるのは苦しげな呼吸だけだ。 「――――っ」  何がなんだか判らない。  判らないが、このままでいい筈がない。 「うちに連れて行くからな……! 文句があるなら後にしてくれ……!」    倒れたセイバーを抱き上げる。  ……軽い。  以前も軽かったけど、今はそれ以上に軽い。  いや、それ以上に、なんていうか―――― 「……熱い。ちゃんと、生きてる」    セイバーは、やっぱりセイバーだ。  戸惑っていた自分が頭にくる。  ……くそ、英雄だからなんだって言うんだ。  セイバーが何であれ、彼女はここにいて、こんなにも体温を感じさせている。  なのに壁を感じるなんて、なんて愚かだったのか。   「―――すぐに帰るからな。それまで大人しくしてろよセイバー……!」    セイバーを抱きかかえたまま走り出す。  勝利の余韻など何処にもない。  有るのは俺の腕に抱かれ、苦しげに吐息を漏らすセイバーの姿だけだった。    ―――セイバーを放っておけない。    ライダーは消え、慎二の令呪だった本も焼けた。  慎二にはもうサーヴァントはおらず、令呪も失われたのだ。  決着はついたと見ていい。  なら今は、倒れたセイバーを優先しなければ……! 「セイバー……!」    駆け寄る。  セイバーの手には、もう黄金の剣は握られていない。  剣はかき消え、残ったものは倒れ伏したセイバーだけなのだが―――― 「え……?」  セイバーの様子は尋常じゃなかった。  額には玉のような汗が浮かび、呼吸は弱々しいクセに激しく、熱病に魘されているようだ。 「……そんな。おい、セイバー―――何が、どうしたって言うんだ」    恐る恐る声をかけるが、セイバーは何も答えない。  ……単純に、意識がないのだ。 「――――セイ、バー……?」  彼女の額に手を触れる。 「熱っ……!」  思わず手を引っ込める。  じ、尋常な熱さじゃない……!  熱だとしたら四十度を超えているぞ、これ……!? 「セイバー! おい、しっかりしろ……!」  声をかけても、返ってくるのは苦しげな呼吸だけだ。 「――――っ」  何がなんだか判らない。  判らないが、このままでいい筈がない。 「うちに連れて行くからな……! 文句があるなら後にしてくれ……!」    倒れたセイバーを抱き上げる。  ……軽い。  以前も軽かったけど、今はそれ以上に軽い。  いや、それ以上に、なんていうか―――― 「……熱い。ちゃんと、生きてる」    セイバーは、やっぱりセイバーだ。  戸惑っていた自分が頭にくる。  ……くそ、英雄だからなんだって言うんだ。  セイバーが何であれ、彼女はここにいて、こんなにも体温を感じさせている。  なのに壁を感じるなんて、なんて愚かだったのか。   「―――すぐに帰るからな。それまで大人しくしてろよセイバー……!」    セイバーを抱きかかえたまま走り出す。  勝利の余韻など何処にもない。  有るのは俺の腕に抱かれ、苦しげに吐息を漏らすセイバーの姿だけだった。 「終わったわよ。  和室に寝かせてきたけど、あの分じゃしばらく目を覚まさないでしょうね」 「……そうか。遠坂がいてくれて助かった。  俺じゃ、その、セイバーの手当てなんて出来ないからな」 「……。まあ鎧を脱がせて楽にさせただけだから、お礼を言われるほどじゃないわ。セイバーの体も良くならないし、わたしは何もしてないもの」  ……それでも、遠坂がいてくれたのは助かる。  遠坂は一目でセイバーがどんな状態なのか看破して、とりあえず武装を解かせて横にさせよう、と提案してくれた。  それから一時間。  意識のないセイバーになんとか言葉を伝えて、遠坂はセイバーの鎧を脱がしてくれた。 「それで、何があったの。  慎二を捜しにいって、帰ってきたと思ったらセイバーがアレでしょう。一波乱あったのは判るけど、説明してくれないかしら」 「――――」  言葉につまる。  ……セイバーの宝具の正体。  彼女の真名を明かすのだけは避けるべきだ。  それは俺の判断だけで語っていい事じゃない。 「……ライダーを倒した。慎二は令呪を失ってリタイヤしたよ。ただ、その時にセイバーが宝具を使って、そのあとに倒れたんだ」 「……ふーん。セイバーの宝具ねえ……」 「ま、追及するのは勘弁してあげるわ。今の貴方たちはそれどころじゃないものね」 「? それどころじゃないって、どういう事だ」 「言葉通りの意味よ。……貴方だって薄々は気づいているんでしょう。このままじゃセイバーが消えるって事ぐらい」 「な――――」  さらりと。  考えないようにしていた結末を、遠坂は口にした。 「……消えるって。セイバーが消えるっていうのか、おまえは」 「当然でしょう。セイバーの魔力はほとんど空っぽなのよ。セイバーの宝具がどんなモノだったかは知らないけど、よっぽど魔力を使う物だったんでしょうね。  セイバーは自分の中の魔力をほぼ消費してしまった。  今彼女が苦しんでいるのはね、消えようとしている自分を必死に留めているからよ」 「魔力がないから消える……セイバーは傷を負ってもいないのに、消えるっていうのか」 「ええ。サーヴァントにとっては外的ダメージより、魔力切れの方が深刻な問題よ。  霊体であるサーヴァントに肉体を与えているのは魔力だもの。それがなくなれば消えるしかない」 「……もっとも、そんな事にならないようにマスターはサーヴァントに魔力を送るんだけど、貴方はそれが出来ないでしょ。  だからセイバーは自分の魔力だけで戦うしかない。切れたらそれまでよ。こんなコト、一番始めに説明したでしょ」    ――――それは。  確かに、セイバーから言われた事だ。 「―――けど、今までは大丈夫だったじゃないか。セイバーだって、眠っていれば持ち直すって――――」 「それはセイバーの魔力量が桁外れだったからよ。  ……そうね、確かにセイバーの魔力はまだ残ってる。  彼女ならまだ消えずに、肉体を保つぐらいの魔力は回復できるとは思う」 「けど、結局はそこどまりよ。セイバーはずっと今の状態で戦う事になる。  宝具を使うなんてもってのほか。次に宝具を使えば、セイバーは間違いなく消え去るでしょうね」 「……次に、宝具を使えば消える……」    いや、そもそもあんな状態のセイバーを戦わせるなんて出来ない。  苦しげに背中を丸めたセイバーの姿なんて、二度と見たくない。 「理解できた? 結局、セイバーを以前の状態に戻す方法は二つだけよ。  マスターがサーヴァントに魔力を提供するか、サーヴァントが自分で魔力を補充するか」    ……サーヴァントが自分で補充する。  ……ライダーのように、無関係な人たちを殺す、という事か。 「……まさか。セイバーはそんな事はしない。セイバー自身が、そんな事はしないと言ったんだ」 「でしょうね。一般人を犠牲にするぐらいなら、セイバーは潔く消えるでしょう。  なら方法は一つだけよ。セイバーを消したくないのなら、貴方が魔力を提供するしかないわ」 「それは―――出来るならとっくにそうしてるさ。  けど俺は魔力を提供する方法なんて知らない。あいにく、遠坂みたいに何でも出来るって訳じゃないんだ」 「……まあね。共有の魔術を教えてあげても間に合わない。士郎は魔術師に向いてないから覚えるのに一年ぐらいかかるだろうし、覚えたところで使えないわ。  ……まあ、召喚時にセイバーとパスは通っている筈だから、まだ他に方法があるかもしれないけど――――」 「いい。セイバーを助けたいのなら、彼女自身に人を襲わせて、魂を食べさせるしかない。  それは貴方にも判ってると思うけど」 「――――――――」  それがもっとも現実的な手段だ。  だが、それは―――― 「もちろんセイバーは嫌がるでしょう。  けど放っておけば遅かれ早かれセイバーは消えて、貴方は他のマスターから狙われる事になる」 「――――――――」    セイバーが消える……?  そんな事、考える事なんて出来ない。  この手には、さっきまで抱いていた彼女の体温が残っている。 「なら答えは一つよ。  ―――令呪を使いなさい衛宮くん。それで最悪の事態は避けられる」          それはつまり。  無関係な人間を殺せと、セイバーに命じろという事か。 「――――――――」    何も言えない。  遠坂が言っている事に憤りを覚える反面、それがただ一つの打開策なのだと認めている自分がいる。 「決断は貴方に任せるわ。セイバーは眠らせておけば落ち着くだろうけど、それでも限界は近いでしょうね」    遠坂は居間から立ち去っていく。    ……顔をあげる事もできず、ただ、遠ざかる足音だけを聞いていた。  家に遠坂を残して、セイバーと外に出る。  朝の七時半。  坂道はひどく静かだ。  この時間、いつもは生徒たちが登校しているというのに、今日に限って人影はまばらだった。 「学校は休校だそうですね。  死者が出なかったとはいえ、大半の生徒はいまだ立ち上がれる体ではないという事ですか」 「……重度の栄養失調みたいなもんだからな。まともに動けるようになるまで何日かはかかるだろ」  だが、それは比較的軽い被害だ。  一生残る傷を負った者もいた。 「……大河も病院に運ばれたと聞きます。見舞いに行かずともいいのですか、シロウ?」 「ああ、藤ねえのはただの疲労だと。心配しなくてもいいから、真面目に家で勉強してろとさ」  出かける際、藤村の家に電話を入れて、藤ねえの無事は確かめた。  見舞いに行きたいが、今はそれだけで我慢しなくてはいけない。 「では探索に専念するのですね。それはいいのですが、シロウに当てはあるのですか?  私はサーヴァントの気配を読みとれますが、それも近づかなければ判りません。何か手がかりがなければ、捜し出すのは難しいのではないでしょうか」 「ああ。たしかに慎二が何もせずに隠れていた場合、捜し出すのは難しいだろ。けどあいつの性格から言って、昨日の今日で大人しくしているとは思えない」  慎二はやられっ放しで黙ってるタイプじゃない。 「……では、ライダーのマスターは再び結界を張ろうとする、と……?」 「間違いなくな。俺と同じで、あいつはサーヴァントに魔力を提供できない。俺たちに復讐しようとするなら、まず魔力を貯めないといけないだろ。  なら、見つけだすのはそう難しくはないんじゃないか」 「―――ライダーのマスターを捜すのではなく、結界を捜すのですね」 「ああ。マスターの感知はできなくても、あれだけの結界なら近づけば判る。それに場所も特定できるだろ。  大きな建物で、人が沢山集まるところを当たっていけばいい」 「驚いた。やりますね、シロウ」 「俺だって考えなしって訳じゃないぞ。捜し出せる自信がなかったら、こんな事は言いださないよ」  ……そう、自信はある。  結界の事もあるが、それより俺たちが歩き回る事の方に意味がある。  俺が慎二を放っておけないように、おそらくはあいつも、俺をこのまま放っておく気はないだろうから。  念の為、慎二の家に足を運んだ。  セイバーにライダーの気配を読みとってもらう。  結果は反応なし。  ……まあ、自分の家に潜伏するほど落ち着いた男でもあるまい。 「行こう。慎二が結界を張るとしたらこっちの町じゃなくて、新都の方だ。オフィス街のビルを総当たりしていこう」  セイバーに声をかけて、間桐邸を後にする。 「いいのですかシロウ? ここは桜の家なのでしょう。  立ち寄ったのですから、声をかけては? それぐらいは余裕があると思いますが」 「――――――――」  たしかに桜の事は心配だ。  遠坂の話じゃ桜は体調不良だけで、幸い外傷はなかったという。  それでも、出来れば顔を見て、いつも世話になっているんだから看病ぐらいはしてやりたい。    だが―――― 「やめておく。この戦いが終わるまでは、桜と会って戦いに巻き込む訳にはいかないからな」  ……それに、なにより。  これから桜の兄貴と戦う自分が、桜に会える訳がない。  慎二を殺してしまうような最悪の結果になったなら、これから先も、桜に会う事はできなくなるだろう。  ……なら、そんな未練は残さないほうがいい。  それは俺がするべき最善の方法で、きっと、桜にとっても最善の方法だと思うのだ――――  手当たり次第にビルを回る。  比較的大きな建物から見て回ってはいるが、今のところコレといった手応えはない。 「――――――――」  額に浮かんだ汗をぬぐって、鉛のような手足を動かす。  乱れている呼吸を整えようと、少しだけ立ち止まって深呼吸をする。 「? シロウ、何か異状でもあり――――」 「シロウ、こちらへ」 「え……ちょっと待った、そっちは公園だぞ。こっちにはまだ見てない建物が残って――――」 「それは後にしてください。今はこちらが最優先です」  何か気にかかる物でも発見したのか。  きつい口調で言って、セイバーは俺を公園へと引っぱっていく。 「ちょっ、セイバー……! どうしたんだよ、こんなところまでやってきて。ここには何もない。そんなの、セイバーにだって判るだろ!?」 「いいですから、そこのベンチに座ってください。話はその後で聞きます」 「む――――」  セイバーの視線に圧されて、渋々とベンチに座る。  と――――    一瞬だけ、意識を失いかけた。 「あ――――れ」    片手で頭を押さえる。  額には汗が滲んでいて、座っているのに呼吸は妙に荒い。  ……って、ちょっと待て。  こんな真冬に、なんで汗なんてかいてるんだろう、俺は。 「……おかしいな。こんなに疲れてたのか、俺」    そう口にした途端、ようやく自分の体調に気が付いた。  疲れている訳じゃない。  これは単に、治りきってない傷が疼いているだけの話だ。 「――――、っ」  ……なんて事だ。どんなに深呼吸をしても呼吸が正せない。  ベンチに降ろした腰は重く、足は立ち上がる事を拒否している。 「ようやく自分の体に気が付いたようですね、シロウ」  セイバーは怒っている。  ……それも当然か。慎二を捜すと言いだした俺が、ベンチで休んでいては話にならない。 「―――すまん。すぐ動けるようにするから、しばらく待ってくれ」 「私が注意しているのはそんな事ではありません。  どうやら、貴方には何を言っても無駄のようですね」 「――――?」  セイバーが怒っているのは判る。  判るのだが、彼女が俺の何に怒っているのか、それがいまいち分からなかった。 「ちょっとセイバー。きちんと言ってくれないと、何が言いたいのか判らないんだが」 「判らないのなら語る必要はないでしょう。  いいですから、シロウはそこで休んでいてください。  一人で休むのが嫌なら、私もお付き合いしますから」  言って、セイバーは隣りに座る。 「え――――」  ベンチは、そう大きい物じゃない。  隣りに座ったセイバーとは、少し体を傾ければ肩が触れるほどの近さだった。 「ちょっ――――いや、待てってセイバー。  休んでる暇なんてないだろ。俺たちは遊びに来たんじゃなくて――――」 「遊びになど来ていません。休憩も戦いの内です。文句を言うのでしたら、まずその呼吸を整えてからにしてください」 「う……いや、呼吸を整えろって、おまえ」  そりゃあ体はやけに疲れていてうまく息ができないけど、それ以上にこんな近くにいられると心臓が暴れるっていうか―――― 「シロウ、人の話を聞いていますか? 今まで体に無理をさせてきたのですから、まずは肩の力を抜いて落ち着いてください。気が散っていては体が休まらないのですから」 「いや、だから」  落ち着いてほしいんなら、もうちょっと離れてくれないものか。  セイバーがどう思っているかは知らないが、こっちにとっちゃセイバーは同い年くらいの女の子だ。  いや、実際には年下だろうけど、とにかく女の子なのだ。  ……ついでに、その、現実離れした美人でもある。  そんな子にこんな近くにいられて落ち着けるのは、男としてどうかと思う。 「……シロウ? 気のせいでしょうか、先ほどより顔色が悪くなってきた気がするのですが」 「そ、そんなコトないっ……! ど、動揺なんてしてないぞ、こっちは!」 「……それならいいのですが……やはり横になった方がいいのでしょうか。このあたりで休めるところといったら―――」  きょろきょろとあたりを見るセイバー。  ……って。  なんでこんな寂しい公園に、恋人に膝枕してもらって寝っ転がっている野郎がいるのか。 「……………………」  で。  セイバーは、その〈二人組〉《カップル》を見つめながら、何やら考え込んでいる模様。 「シロウ。気分が悪いのでしたら横に――――」 「大丈夫! 大人しくしてればすぐに落ち着くから、余計な心配はしなくていい! しなくていいから当分ほっといてくれ!」  セイバーから顔を背けて、視線が合わないようにと目を閉じる。 「…………………………」  ……気分を平らに。  あとはもう、出来るだけ隣にいるセイバーを意識しないよう、懸命に深呼吸を繰り返して――――。    ―――一夜明けて、火の手は弱まっていた。    ごうごうと燃えさかっていた赤い壁も、いまはない。  あたりは一面の焼け野原で、黒こげになった材木が、パチパチと音をたて〈燻〉《くすぶ》っている。  倒れたまま、線香花火の音に似ているな、なんてコトを思っていた。          空が曇っていく。  じき雨が降って、火事は終わるだろう。  息をする事さえままならない体で、ぼんやりと空を眺めていた。      まわりには焼け焦げた残骸。  自分の肌はところどころが火傷していて、胸には一際鋭い、熱い感触があった。    〈抉〉《えぐ》れた胸。  指で触れると、じかに中身を掴めそう。    ―――ああ、そういえばそうだった。    疲れきったから倒れたんじゃなかった。  麻痺しきった体は、疲れたぐらいで休めるほど優しくはなかった筈だ。  自分が倒れたのは、単に。  何をどうしようと、もう、手足が動かなくなる傷を負ってしまったからだと思う。    だから潔く、取り乱す事もなかった。  もう助からないな、と判ったし、まわりの人たちもそうやって息絶えたのだから、怖くはなかった。  曇っていく空を見上げて、薄れていく自分を眺めるだけ。    ただ、それでも。  朦朧とする意識で、生きているうちは最後まで、助けを求めようと思って――――            ……と、なにかおかしい。  一際熱い胸の感触なんて、俺は覚えてはいない筈だ。 「―――――――」    がばっ、と勢いよく体を起こす。  シャツの襟元を開けて、自分の体を確認する。 「―――だよな。傷なんてないし」    胸に傷痕なんてない。  そもそも俺は火傷による呼吸困難で死にかけたのであって、致命傷らしき物なんてなかった。  そんなものがあったら、いくら切嗣でも俺を助ける事なんて出来なかっただろう。    いや、今はそんな事より―――― 「うわ、夜になってる……! 俺、寝ちまってたのかセイバー!?」 「はい。よく眠っているようでしたので起こしませんでしたが、その甲斐はあったようですね。先ほどに比べて、シロウの顔色は良くなっていますから」 「……人が悪いな。居眠りした俺が悪いにしても、起こしてくれても良かったじゃないか。休んでいる暇はないって言っただろ」 「休息は必要な行為です。それにシロウが眠っていたのは一時間程度ですから、そう問題はないでしょう」 「む、そりゃ結果論だ。俺が起きなかったらどうするつもりだったんだよ、一体」 「そうですね、あまり変わりはないでしょう。日が落ちて寒くなってきましたから、そろそろ声をかけようと思っていたところです」 「……まあ、たしかに体の調子はすごくいいけど」    ベンチから立ち上がって、野原をとつとつと歩く。  野原にかつての面影はない。  住宅地だった頃の面影も、あの、赤い世界だった頃の面影も。  それなのに、ここで眠っただけでつまらない残像を見たのは、なんとなく癪に障った。 「シロウ……? 何か問題でもあるのですか……?」 「ああ、いや。どうせ休むなら、別の場所にするべきだったなって。ここはどうも、嫌な思い出がありすぎる」 「嫌な思い出……? シロウはこの場所に縁があったのですか?」 「え……? そっか、話してなかったっけ。俺、昔はこのあたりに住んでたんだ。十年前の話だけどな。大きな火事が起きて、両親も家も焼け落ちた。そん時に〈切嗣〉《オヤジ》に助けられて、そのまま養子になったんだよ」 「な……では、貴方は」 「ああ、切嗣の実の子供って訳じゃない。それに聖杯戦争と無関係って訳でもないのかな。  ここが前回の戦いの、最後の場所だってのは聞いてるよ。そこで生き残った俺がマスターになるんだから、皮肉というか、縁があるっていうか」    野原を歩く。  あれから十年は経つというのに、ここの土は草の生えが悪いようだ。  ……死んでいった人たちの無念が、この土地に染み込んでいるせいかもしれない。 「シロウ。貴方が犠牲者を出すまいとするのは、それが理由ですか?  貴方自身が聖杯戦争の犠牲者だからこそ、自分のような犠牲者は出したくないと……?」 「え――――いや、それは」  言われてみれば、確かにそういう考えにはなるのかもしれない。  だが、不思議とそう思った事は一度もなかった気がする。 「……どうだろう。セイバーの言うことはもっともだけど、俺はもっと単純だと思うよ。  十年前さ、ここで切嗣に助けられた時はただ嬉しかった。それ以外になかったから、自分もそうなれたらいいと憧れたんじゃないかな」    そう、ただ嬉しかった。  助けを求めて、それが叶えられた時の感情は言葉では言い表せない。    だが、同時に。  嬉しければ嬉しいほど、後ろめたさもあったのだ。 「けど、自分だけ願いが叶えられたってのは居心地が悪かった。俺は親父に助けられたけど。他の人たちは、助けられずにずっとこのままだ」    誰もが救いを求め、その中でただ一人、俺は願いを叶えられた。    ただ一人助かって、  他の全員を犠牲にして救われた。    だから―――衛宮士郎は、その責任をとらなければ。 「けどまあ、起きてしまった事は戻しようがないからな。  死んでいった人たちに報いたいなら、せめてこれからの事を防ぐべきだ。  十年前のような惨事は起こさせない。またあんな事になったら、それこそ犠牲になった人たちに会わせる顔がないだろ。  まあ、俺の理由なんてその程度のものだと思う」    そんな事より慎二捜しを再開しないと。  体調も良くなったし、まだ調べていないビルを急いで回らなければ。  それに、夜になれば人目も少なくなる。  慎二が俺たちを襲いたいのなら絶好の機会だろう。  自分たちを囮にするのなら、ここからが本番だ。 「行こうかセイバー。とりあえずオフィス街に戻ろう」 「…………」 「セイバー……? どうした、忘れ物でもあるのか?」 「いえ。ただ、今朝の事を思い出していました。  体の傷を治してからライダーのマスターを捜すべきだと言った私に、シロウは順番が違うと言いました」 「?」 「シロウは昨日も同じ言葉を口にした。以前から感じてはいましたが、その時に確信したのです。  ―――貴方には、自分を助けようとする気がないのだと」    まるで。  それが罪だと言うかのように、俺を見据えて断言した。 「貴方は自身より他人を優先している。それは立派ですが、それでは貴方はいつかきっと後悔する。  ……シロウはもっと、自分を大切にするべきだ」  セイバーは俺の真横を通り過ぎていく。 「行きましょう。確かに、ここにいては貴方に負担をかける」    オフィス街に向かって歩き出すセイバー。  その背中に声をかけようとして、結局、彼女を止める事は出来なかった。 「――――なにを」    言ってるのか、と喉がつまる。  自分を助けようとする気がないなんて、そんなコトある筈がない。  ある筈がないのに、なぜか―――否定する言葉が、ただの一つも浮かばなかった。  押忍! 理不尽な死に苦しむみんなを助ける憩いの場、タイガー道場です! ………………リズ。 きゃーーー! 誰だ貴様、メイドなんてお呼びじゃねえ!  さっさと弟子一号を連れてきてー! ………………ダメ、イリヤはお休み。いま、ちょっと落ち込んでるみたい。 むむむ。かってに殺しといてかってに落ち込むとはなんたる理不尽。 だがそれがいい。わたしも豪勢なお城とか行ってみたいにゃー。 ま、それはともかく。  アンタ、ホントに誰? なんか、わたしたちと塗りが全然違うんだけど? ……リーゼリット。イリヤのともだち。今日は代理。 ふーん。イリヤちゃんにも友達がいたのね。  で、どんな関係なの? ボケとツッコミ? 罪と罰? ………………まあ…………イリヤの世話、とか。 げげ。いいとこのお嬢さんだとは思ってたけど、そこまでお金持ちだったのかあのちびっ子。 だあー! そんなのお姉ちゃん許しません!  ええいなんたるコト、そもそもこんなバッドエンドになったのは士郎が怖気づいたからよ! 直前の選択肢に戻って、ちゃっちゃっと戦いの行方を見極めるコト! ………………そうね。この終わり方じゃ、イリヤも嬉しくないと思う。 お、無愛想かと思えばなにげに話がわかると見た。よしよし、いい子にはタイガースタンプをあげましょう! ……………あ、ティーゲル……………ありがと。 いえいえ、ダンケいたしまして。  それじゃあまた、次はもっとマシなデッドエンドで会おうねー!                 それは、五年前の冬の話。    月の綺麗な夜だった。  自分は何をするでもなく、父である衛宮切嗣と月見をしている。  冬だというのに、気温はそう低くはなかった。  縁側はわずかに肌寒いだけで、月を肴にするにはいい夜だった。    この頃、切嗣は外出が少なくなっていた。  あまり外に出ず、家にこもってのんびりとしている事が多くなった。    ……今でも、思い出せば後悔する。  それが死期を悟った動物に似ていたのだと、どうして気が付かなかったのか。   「子供の頃、僕は正義の味方に憧れてた」  ふと。  自分から見たら正義の味方そのものの父は、懐かしむように、そんな事を呟いた。   「なんだよそれ。憧れてたって、諦めたのかよ」  むっとして言い返す。  切嗣はすまなそうに笑って、遠い月を仰いだ。   「うん、残念ながらね。ヒーローは期間限定で、オトナになると名乗るのが難しくなるんだ。そんなコト、もっと早くに気が付けば良かった」  言われて納得した。  なんでそうなのかは分からなかったが、切嗣の言うことだから間違いないと思ったのだ。   「そっか。それじゃしょうがないな」 「そうだね。本当に、しょうがない」  相づちをうつ切嗣。  だから当然、俺の台詞なんて決まっていた。 「うん、しょうがないから俺が代わりになってやるよ。  爺さんはオトナだからもう無理だけど、俺なら大丈夫だろ。まかせろって、爺さんの夢は」           “――――俺が、ちゃんと形にしてやるから”    そう言い切る前に、父は〈微笑〉《わら》った。  続きなんて聞くまでもないっていう顔だった。  衛宮切嗣はそうか、と長く息を吸って、   「ああ――――安心した」    静かに目蓋を閉じて、その人生を終えていた。    それが、朝になれば目覚めるような穏やかさだったから、幼い自分は騒ぎ立てなかった。  死というものを見慣れていた事もあったのだろう。  何をするでもなく、冬の月と、長い眠りに入った、父親だった人を見上げていた。    庭には虫の声もなく、あたりは静かだった。  明るい〈夜〉《やみ》の中、両目だけが熱かったのを覚えている。  泣き声もあげず、悲しいと思う事もない。  月が落ちるまで、ただ、涙だけが止まらなかった。    それが五年前の冬の話。  むこう十年分ぐらい泣いたおかげか、その後はサッパリしたものだった。    藤ねえの親父さんに葬儀の段取りをしてもらって、衛宮の屋敷に一人で住むようになった。  切嗣がいなくなっても変わらない。  衛宮士郎は〈切嗣〉《オヤジ》のような正義の味方になるのだから、のんびりしている暇などありはしない。    ――――そう。  口にはしなかったけど、ちゃんと覚えていたんだ。  十年前、火事場に残されていた自分を救い出してくれた男の姿を。  意識もなく、全身に火傷を負って死にかけていた子供を抱き上げて、目に涙をためるぐらい喜んで、外に連れ出してくれた。    その時から、彼は俺の憧れになった。  誰も助けてくれなかった。  誰も助けてやれなかった。  その中でただ一人助けられた自分と、ただ一人助けてくれた人がいた。    ―――だから、そういう人間になろうと思ったのだ。    彼のように誰かを助けて、誰も死なせないようにする正義の味方に。  その彼こそが“そういうモノ”に成りたかったと遺して、自分の前で穏やかに幕を閉じた。    子が父の跡を継ぐのは当然のこと。  衛宮士郎は正義の味方になって、かつての自分のような誰かを助けなくてはいけない。    幼い頃にそう誓った。  誰よりも憧れたあの男の代わりに、彼の夢を果たすのだと。    ……だが、正直よく分からない。  切嗣の言っていた正義の味方ってどんなモノなのかとか、早く一人前になる方法とか、切嗣の口癖だったみんなが幸せでいられればいい、なんて魔法みたいな夢の実現方法とか、それと、マスターなんてモノになっちまって、一緒に付いてきた金髪の女の子とか頭んなかがゴチャゴチャだ、ホント―――― 「……………………っ」  目を覚ますと見慣れた部屋にいた。 「……う……口ん中、まずい……」  濁った血の味がする。  口内に血が溜まっていたのか、呼吸をするだけでどろっとした空気が流れ込んできた。 「――――」  なんでこんな事になっているのか、いまいち不明。  ただ猛烈な吐き気がするんで、ともかく洗面所に行って顔を洗いたかった。 「――――よっと」  体を起こす。  目眩がした。  思わず倒れそうになって、なんとか壁に手を突く。 「……う」  動くと吐き気が増す。  ……いや、吐き気というよりは苦痛だ。  体は重いし、動く度に腹ん中がぐるんぐるんと回るよう。きっと胃に焼けた鉛を流し込んだら、こんな気分になるのではないだろうか。   「……あつ……ヘンな想像したら熱でてきた」    額に滲んだ汗を拭って、よたよたと壁づたいに部屋を出る。   「……よし、少しは落ち着いた」  顔を洗って、ついでに汗ばんでいた体を拭く。 「……?」  なぜか腹には包帯が巻かれていた。  思い当たる節がないので、とりあえず保留にしておく。 「……ハラ減ったな。なんか作り置きでもあったっけ……」  胃の中は相変わらずぐるんぐるんに気持ち悪いのに、体は栄養を欲している。 「くっ……」  ええい、と気合いをいれて壁づたいに歩き出す。  目眩は相変わらず起きるし、なにより体が鈍い。 「いた―――いたたた――――」  情けない声を出しながら前進する。  ……ほんと、寝る前に何をしたんだろう、俺。  こんな、体中が筋肉痛になるような鍛錬なんてした覚えはないんだけどな。  居間に到着。  桜も藤ねえも今日は学校なのだろう。  居間には朝食の支度もなければ、騒がしい藤ねえの暴れっぷりもない。  静かな居間は、いつもの日曜日といった風景―――   「おはよう。勝手にあがらせてもらってるわ、衛宮くん」    ―――なんかじゃねえ。 「な、え――――!?」  座布団に座っているのは遠坂凛だ。  その落ち着きようといったら、まるでこっちがお客さまなのでは、と勘違いさせられるほど。 「……………」  なんと返答していいか分からず、とりあえず座布団に座る。  で、深呼吸をして一言。 「遠坂、おまえどうして」   「待った。その前に謝ってくれない? 昨夜の一件についての謝罪を聞かないと落ち着けないわ」   “うちに居るんでしょうか?”なんて言う暇もない。  遠坂はいかにも怒ってます、という視線でこっちを睨んでいる。  どうも昨夜の一件とやらに腹を立てているらしいが、昨夜の一件って一体―――― 「――――待て」  思い出した。  そうだ、何をのんびり朝の空気に浸っているのか。  俺はセイバーを助けようとして、それで―――バーサーカーに、腹を斬り捨てられたのだ。 「……う」  ……吐き気が戻ってくる。  あの、体がぽっかりとなくなった感覚を思い出して寒気がした。  って、おかしいぞこれ。  俺、ほぼ即死だった筈じゃないか? 「―――ヘンだ。なんだって生きてるんだ、俺」 「思い出した? 昨夜、自分がどんなバカをしでかしたかって。なら少しは反省しなさい」  ふん、と鼻を鳴らして非難してくる遠坂。  ……むっ、なんかカチンときた。  遠坂がうちにいる不思議さで固まっていた頭に、ようやくエンジンがかかる。 「なに言ってんだ、あの時はあれ以外する事なんてなかっただろっ! あ……いや、そりゃあ結果だけ見ればバカだったけど、本当はもっと上手くやるつもりだったんだ。  だから、アレは間違いなんかじゃない」  バカじゃないぞ、と視線で抗議する。 「……む」  な、なんだよ。  はあ、なんて、これ見よがしに疲れた溜息なんてこぼしやがって。 「マスターが死んだらサーヴァントは消えるって言ったでしょう? だっていうのにサーヴァントを庇うなんてどうかしてるわ」 「いい、貴方が死んでしまえばセイバーだって消えてしまう。セイバーを救いたかったのなら、もっと安全な場所からできる手段を考えなさい。  ……まったく、身を挺してサーヴァントを守る、なんて行為は無駄以外の何物でもないって解ってるの?」 「庇った訳じゃない。助けようとしたらああなっちまっただけだ。俺だってあんな目にあうなんて思わなかった」  あんな怪物に近寄れば死ぬだろうな、ぐらいは考えてはいたが、それはそれだ。 「……そう。勘違いしているみたいね、貴方」  そんなこっちの考えを見抜いたのか、遠坂はますます不機嫌になっていく。 「あのね衛宮くん。きっちりと言っておくけど、教会まで連れて行ったのは貴方に勝たせる為じゃないわ。  あれはね、何も知らない貴方が一人でも生き残れるようにって考えた結果なの。どうも、そのあたりを解ってなかったみたいね」 「俺が生き残れるように……?」 「そうよ。負ける事がそのまま死に繋がるって知れば、そう簡単に博打は打たなくなる。衛宮くん、こういう状況でも一人で夜出歩きそうだから。  脅しをかけておけば火中の栗を拾うこともなし、上手くいけば最後までやり過ごせるかもって思ったの」 「そうか。それは気づかなかった」 「……? けどどうして遠坂が怒るんだよ。俺がヘマをやらかしたのは遠坂には関係ないだろ」 「関係あるわよ、このわたしを一晩も心配させたんだから!」  ああもう、と〈癇癪〉《かんしゃく》を起こす遠坂。  ……けど、そうか。  心配してくれたのは素直に嬉しい。  この分からすると、手当をしてくれたのも遠坂のようだ。 「そうか。遠坂には世話になったんだな。ありがとう」  感謝と謝罪をこめて頭をさげる。 「――――」 「ふん、分かればいいのよ。これに懲りたら、次はもっと頭のいい行動をしてよね」  ぷい、と視線を逸らす遠坂。  仕草そのものは刺々しいままだが、なんとなく機嫌は良くなったような気がする。 「じゃあこれで昨日の事はおしまいね。  本題に入るけど、真面目な話と昨日の話、どっちにする?」 「?」  遠坂は当たり前のように話をふってくる。  そのスッパリさ加減に面食らったが、考えてみれば話があるから遠坂はここにいるのだ。  衛宮士郎に用がなければ、遠坂凛はとっくに自分の棲家に帰っているだろう。  敵である遠坂が、敵の陣地に居座ってまで話したがる本題とは何なのか。  その思惑にも興味はあるし、昨日あれからどうなったかも知りたい。  聞かない訳にもいかないだろうし、ここは――――    話を聞くにしたって、まずは自分の置かれた状況を確認してからじゃないと意味がない。  目的地に向かう前に、まず現在地を把握する。  旅の基本はそういう事だ。 「まずは昨日の話からのがいい」 「そうね。まずは状況を知るのが先。なんだ、まともに頭が働くじゃない、貴方」  満足げに微笑んで、遠坂は手短に昨夜の事を説明した。  なんでも俺が気を失った後、バーサーカーは立ち去ってしまったらしい。  その後、よく見れば俺の体は勝手に治りはじめ、十分もしたら外見は元通りになった。  傷は治ったものの意識が戻らない俺をここまで運んで、あとは今に至るという訳だとか。 「ここで重要なのは、貴方は貴方一人で生ききったっていう事実よ。確かにわたしは手助けしたけど、あの傷を完治させたのは貴方自身の力だった。そこ、勘違いしないでよね」 「話を聞くとそうみたいだけど。なんだ、遠坂が治してくれたんじゃないのか?」 「まさか。死にかけてる人間を蘇生させる、なんて芸当は、もうわたしには出来ない。衛宮士郎は自分でぶっ飛んだ中身をどうにかしたのよ」 「――――む」  そんな事を言われてもどうしろと。  確かに俺の腹は元通りになっているけど、正直遠坂の話には半信半疑だ。  俺には蘇生はおろか治療の魔術さえ使えないんだから。 「そうなると原因はサーヴァントね。  貴方のサーヴァントはよっぽど強力なのか、それとも召喚の時に何か手違いが生じたのか。……ま、両方だと思うけど、何らかのラインが繋がったんでしょうね」 「ライン? ラインって、使い魔と魔術師を結ぶ因果線の事?」 「あら、ちゃんと使い魔の知識はあるじゃない。  なら話は早いわ。ようするに衛宮くんとセイバーの関係は、普通の主人と使い魔の関係じゃないってコト」 「見たところセイバーには自然治癒の力もあるみたいだから、それが貴方に流れてるんじゃないかな。  普通は魔術師の能力が使い魔に付与されるんだけど、貴方の場合は使い魔の特殊能力が主人を助けてるってワケ」 「……む。簡単に言って、川の水が下から上に流れているようなもんか?」 「上手い喩えね。本来ならあり得ないだろうけど、セイバーの魔力ってのは川の流れを変えるほど膨大なんでしょう。そうでなければあの体格でバーサーカーとまともに打ち合うなんて考えられない」 「本来ならあり得ない……じゃあ遠坂とアーチャーは普通の魔術師と使い魔の関係なのか」 「そうよ。人の言うことぜんっぜん聞かないヤツだけど、一応そういう関係」 「マスターとサーヴァントの繋がりなんて、ガソリンとエンジンみたいなものだもの。こっちが魔力を提供して、あっちがそれを食べるだけ。  ……まあ中には肉体面でもサーヴァントと共融して擬似的な“不死”を得たマスターもいたそうよ。サーヴァントが死なない限り自分も死なない、なんていうヤツなんだけど……衛宮くん、人の話聞いてる?」 「え……? ああ、聞いてる。  じゃあ遠坂、俺の体って多少の傷はほっといても治るって事か?」 「貴方のサーヴァントの魔力を消費してね。理屈は解らないけど、原因がセイバーの実体化にある事は間違いないわ。貴方が自然治癒の呪いなんて修得している筈はないから」 「当たり前だ。そんな難しいこと、親父から教えて貰った事ないからな」 「そうじゃなくて、そうだったらわたしが悩む必要はなかったっていう事よ。いいわ、貴方には関係のない話だから」 「……?」  なんだろう。  遠坂の言葉は婉曲で分かりづらいと思う。 「まあいいわ。とにかくあまり無茶はしない事。  今回は助かったからいいけど、次にあんな傷を負ったらまず助からない筈だから。多少の傷なら治る、なんていう甘い考えは捨てた方がいいでしょうね」 「分かってる。俺がかってにケガして、それでセイバーから何かを貰ってる、なんていうのは申し訳ない」 「バカね、そんな理由じゃないわよ。断言してもいいけど、貴方の傷を治すと減るのはセイバーの魔力だけじゃない。  ―――貴方、それ絶対なんか使ってるわ。  寿命とか勝負運とか預金残高とか、ともかく何かが減りまくってるに違いないんだから」  ふん、とまたも鼻を鳴らす遠坂。  それには確かに同感なのだが。 「遠坂。預金残高は関係ないのでは」 「関係あるわよ! 魔術ってのは金食い虫なんだから、使ってればどんどんどんどんお金は減っていくものなの!  そうでなければ許さないんだから、とくにわたしが!」  ガアー! と私怨の炎を噴き上げる遠坂凛。  不思議だ。  話せば話すほど、こっちの遠坂が地で、学校での遠坂がよそ行きだと判ってしまう。  ……ああ、いやまあ、そんなのは昨日の段階で判りきっていた事だったか。 「……まあ、お金の話は置いとくとして。  次は真面目な話だけど、いいかしら衛宮くん」 「遠坂がここに残った本題ってヤツだろ。いいよ、聞こう」 「じゃあ率直に訊くけど。衛宮くん、貴方これからどうするつもり?」  本当に率直に、遠坂は一番訊いてほしくないコトを訊いてくる。  ……いや、それは違うか。  訊いてほしくないんじゃなくて、ただ考えがおよばないだけ。  これからどうするかなんて、それこそこっちが訊きたい問題だ。 「……正直、判らない。聖杯を競い合うって言うけど、魔術師同士の戦いなんてした事がない。  第一、俺は――――」    殺し合いは出来れば避けたいし、何より――― 「聖杯なんていう得体の知れないモノに興味はないんだ。  欲しくないモノの為に命を張るのは、どうかと思う」 「言うと思った。貴方ね、そんなこと言ったらサーヴァントに殺されるわよ」 「な……殺されるって、どうして!?」 「サーヴァントの目的も聖杯だから。  彼等は聖杯を手に入れる、という条件だからこそ〈人間〉《マスター》の召喚に応じてるのよ」 「サーヴァントにとって最も重要なのは聖杯なの。  彼らは聖杯を手に入れる可能性があるからマスターに従い、時にマスターの為に命を落とす。  だっていうのに聖杯なんていらないよ、なんて言ってみなさい。裏切り者、と斬り殺されても文句は言えないでしょ」 「……なんだそれ。おかしいじゃないか、サーヴァントっていうのはマスターが呼び出した者なんだろ。  なら――――」 「サーヴァントが無償で人間に従うなんて思ってたの?  聖杯は手に入れた者の望みを叶える。それはマスターの守護者であるサーヴァントも例外じゃない。  サーヴァントたちにもね、それぞれ何らかの欲望があるのよ。だからこそ彼等は本来有り得ない召喚に応じている」 「聖杯を手に入れる為にマスターがサーヴァントを呼び出す、じゃない。  聖杯が手に入るからサーヴァントはマスターの呼びだしに応じるのよ」 「――――――――」    サーヴァントにも欲望がある……?  ならあのセイバーも、聖杯を手に入れて叶えようとする願いがある、という事なのか。 「だからサーヴァントはマスターが命令しなくとも他のマスターを消しにかかる。聖杯を手に入れるのは一人だけ。自分のマスター以外に聖杯が渡るのは彼らだって承知できないのよ。  マスターと違って、サーヴァントには令呪を奪う、なんてコトはできない。彼らが他のマスターを無力化するには、殺す以外に方法がない」 「だからね、たとえマスター本人に戦う意思がないとしても戦いは避けられないのよ。  サーヴァントに襲われたマスターは、自分のサーヴァントでこれを撃退する。それが聖杯戦争なんだって、綺礼から嫌っていうほど聞かされたでしょう?」 「――――ああ。それは昨日の夜教えられた。  けど――――」  それはつまり、サーヴァントとサーヴァントを殺し合わせる、という事だ。  マスター同士で和解して、お互いに聖杯を諦めれば話は済むと思っていたけれど、サーヴァントが聖杯を求めて召喚に応じて現れたモノで、けして聖杯を諦めないのならば、それじゃあ結局、サーヴァント同士の戦いは避けられない。  ……なら。  自分を守るために戦い抜いてくれたあの少女も、聖杯を巡って争い、殺し、殺される立場だというのか。 「……なんてことだ。英霊だかなんだか知らないけど、セイバーは人間だ。昨日だってあんなに血を流してた」 「あ、その点は安心して。サーヴァントに生死はないから。サーヴァントは絶命しても本来の場所に帰るだけだもの。英霊っていうのはもう死んでも死なない現象だからね。戦いに敗れて殺されるのは、当事者であるマスターだけよ」 「いや、だから。それは」  たとえ仮初めの死だとしても。  この世界で、人の姿をしたモノが息絶えるという事に変わりはない。 「なに、人殺しだっていうの? 魔術師のクセにまだそんな正義感振り回してるわけ、貴方?」 「――――――――」  遠坂の言うことはもっともだ。  魔術師である以上、死は身近に存在する。  そんな事はとっくに覚悟しているし、理解している。  それでも俺は―――人の生き死にに善悪を計れるほど強くはない。 「―――当然だろう。相手を殺すための戦いなんて、俺は付き合わない」 「へえ。それじゃあみすみす殺されるのを待つだけなんだ。で、勝ちを他のマスターに譲るのね」 「そうじゃない。要は最後まで残っていればいいんだろう。自分から殺し合いをする気はないけど、身を守るための戦いなら容赦はしないさ。  ……人を殺しに来る相手なら、逆に殺されても文句は言えないだろ」 「ふーん、受けに回るんだ。それじゃあ他のマスターが何をしようが傍観するのね。例えば昨日のアイツが暴れ回って、町の人間を皆殺しにしても無視するってワケ」  昨日のアイツ……?  それは、あの人とも思えぬ異形の鬼の事か。 「――――――――」  一撃で家の一軒や二軒、いとも容易く崩す怪力。  ……たしかにアレがその気になれば、こんな小さな町なんて一晩で壊滅する。  くわえて、なにより厄介なのはサーヴァントというのは基本的に霊体だという事だ。  霊感のない人間には姿さえ観測できない。  にも関わらず実体を持つかのように現世に干渉できるという時点で、サーヴァントは最強の兵器と言えるだろう。  なにしろ今の科学では、霊体に効果のある兵器など存在しない。  こちらの攻撃は通じず、あちらの攻撃は通じる。  これではワンサイドゲームどころの話じゃない。  サーヴァントによる殺害は、一般人から見れば自然災害のようなものなのだ。  姿のない殺戮者に襲われた人間の死は、事故死か自殺としか扱われまい。 「なんだよそれ。サーヴァント―――いや、マスターとサーヴァントは、他のマスターしか襲わないんじゃないのか。町の人たちは無関係だろう」 「ええ、そうだったらどんなに平和な事か。けど、それなら見届け役の綺礼なんていらないでしょ?」 「一つ言い忘れていたけど、サーヴァントっていうのは霊なの。彼等はもう完成したものだから、今以上の成長はない。  けど燃料である魔力は別よ。  蓄えた魔力が多ければ多いほど、サーヴァントは生前の特殊能力を自由に行使できるわ。  そのあたりはわたしたち魔術師と一緒なんだけど……貴方、この意味解る?」 「解る。魔術を連発できるって事だろ」  魔力というのは弾丸に籠める火薬で、魔術師というのは銃と見ればいい。  銃の種類は短銃、ライフル銃、マシンガン、ショットガンと、魔術師ごとに性能が異なる。  その例で言えば、サーヴァントって連中は銃ではなく大砲だ。  火薬を大量に消費することで、巨大な弾を撃ち放つ。 「そうよ。けどサーヴァント達は私たちみたいに自然から〈魔力〉《マナ》を提供されてる訳じゃない。基本的に、彼らは自分の中だけの魔力で活動する。  それを補充するのがわたしたちマスターで、サーヴァントは自分の魔力プラス、主であるマスターの魔力分しか生前の力を発揮できないの」 「けど、それだと貴方みたいに半人前のマスターじゃ優れたマスターには敵わないって事になるでしょ?  その抜け道っていうか、当たり前って言えば当たり前の方法なんだけれど、サーヴァントは他から魔力を補充できる。  サーヴァントは霊体だから。同じモノを食べてしまえば栄養はとれるってこと」 「――――む?」    同じモノを食べれば栄養になる……?   「同じモノって、霊体のコトか? けどなんの霊を食べるっていうんだよ」 「簡単でしょ。自然霊は自然そのものから力を汲み取る。  なら人間霊であるサーヴァントは、一体何から力を汲み取ると思う?」 「――――あ」  簡単な話だ。  俺たちが肉を食べるように、人の霊である彼らはつまり―――― 「ご名答。まあ魔力の補充なんて、聖杯に補助されたマスターからの提供だけで、大抵は事足りる。  けど一人より大勢の方が大量摂取できるのは当然でしょ?  はっきり言ってしまえばね、実力のないマスターは、サーヴァントに人を食わせるのよ」 「――――」 「サーヴァントは人間の原感情や魂を魔力に変換する。  自分のサーヴァントを強くしたいのならそれが一番効率がいい。人間を殺してサーヴァントへの生贄にするマスターは、けっして少なくないわ」 「生贄にするって……それじゃ手段を選ばないヤツがマスターなら、サーヴァントを強くする為に人を殺しまくるってコトなのか」 「そうね。けど頭のいいヤツならそんな無駄な事はしないんじゃないかな」 「いい、サーヴァントがいくら強力でも、魔力の器そのものには限界がある。能力値以上の貯蔵はできないんだから、殺して回るにしても限度があるわ。  それにあからさまに殺人を犯せば協会が黙ってないし、なによりその死因からサーヴァントの能力と正体が、他のマスターたちにバレかねない。もちろんマスター自身の正体もね。  聖杯戦争は自分の正体を隠していた方が圧倒的に有利だから、普通のマスターならサーヴァントを出し惜しみする筈よ」  ……そうか。  確かに自分がマスターである事を知られなければ、他のマスターに襲われる事はない。  逆に誰がマスターかを知っていれば、確実に奇襲ができる。  その理論でいけば、サーヴァントに人を襲わせて自分たちの正体を暴露させてしまう、なんてヤツはそう出てこない事になる――― 「……良かった。なら問題はないじゃないか。マスターが命令しなければ、サーヴァントは無差別に人を襲わないんだから」 「でしょうね。仮にも英雄だもの、自分から人を殺してまわる奴は、そもそも英雄だなんて呼ばれないだろうけど―――ま、断言はできないか。  暴虐者だからこそ英雄になった例なんて幾らでもあるんだし」 「――――――」  さらりと不吉なコトを言う遠坂。  それが嫌味でも皮肉でもなく本心っぽいあたり、かすかな性格の歪みを表しているのではなかろーか。 「――――――――」  どちらかと言えば、遠坂がここに残っている理由の方が気になる。 「それじゃ真面目な方の話を。遠坂がここに残った理由が知りたい」 「――――そ。じゃあ先に結論から訊くわ」 「……?」  ……なんだろ。  遠坂のヤツ、一瞬呆れたように見えたけど……? 「率直に訊くけど。衛宮くん、貴方これからどうするつもり?」  本当に率直に、遠坂は一番訊いてほしくないコトを訊いてくる。  ……いや、それは違うか。  訊いてほしくないんじゃなくて、ただ考えがおよばないだけ。  これからどうするかなんて、それこそこっちが訊きたい問題だ。 「……正直、判らない。聖杯を競い合うって言うけど、魔術師同士の戦いなんてした事がない。  第一、俺は――――」    殺し合いは出来れば避けたいし、何より――― 「聖杯なんていう得体の知れないモノに興味はないんだ。  欲しくないモノの為に命を張るのは、どうかと思う」 「言うと思った。貴方ね、そんなこと言ったらサーヴァントに殺されるわよ」 「な……殺されるって、どうして!?」 「サーヴァントの目的も聖杯だから。  彼等は聖杯を手に入れる、という条件だからこそ〈人間〉《マスター》の召喚に応じてるのよ」 「サーヴァントにとって最も重要なのは聖杯なの。  彼らは聖杯を手に入れる可能性があるからマスターに従い、時にマスターの為に命を落とす。  だっていうのに聖杯なんていらないよ、なんて言ってみなさい。裏切り者、と斬り殺されても文句は言えないでしょ」 「……なんだそれ。おかしいじゃないか、サーヴァントっていうのはマスターが呼び出した者なんだろ。  なら――――」 「サーヴァントが無償で人間に従うなんて思ってたの?  聖杯は手に入れた者の望みを叶える。それはマスターの守護者であるサーヴァントも例外じゃない。  サーヴァントたちにもね、それぞれ何らかの欲望があるのよ。だからこそ彼等は本来有り得ない召喚に応じている」 「聖杯を手に入れる為にマスターがサーヴァントを呼び出す、じゃない。  聖杯が手に入るからサーヴァントはマスターの呼びだしに応じるのよ」 「――――――――」    サーヴァントにも欲望がある……?  ならあのセイバーも、聖杯を手に入れて叶えようとする願いがある、という事なのか。 「だからサーヴァントはマスターが命令しなくとも他のマスターを消しにかかる。聖杯を手に入れるのは一人だけ。自分のマスター以外に聖杯が渡るのは彼らだって承知できないのよ。  マスターと違って、サーヴァントには令呪を奪う、なんてコトはできない。彼らが他のマスターを無力化するには殺す以外に方法がない」 「だからね、たとえマスター本人に戦う意思がないとしても戦いは避けられないのよ。  サーヴァントに襲われたマスターは、自分のサーヴァントでこれを撃退する。それが聖杯戦争なんだって、綺礼から嫌っていうほど聞かされたでしょう?」 「――――ああ。それは昨日の夜教えられた。  けど――――」  それはつまり、サーヴァントとサーヴァントを殺し合わせる、という事だ。  マスター同士で和解して、お互いに聖杯を諦めれば話は済むと思っていたけれど、サーヴァントが聖杯を求めて召喚に応じて現れたモノで、けして聖杯を諦めないのならば、それじゃあ結局、サーヴァント同士の戦いは避けられない。  ……なら。  自分を守るために戦い抜いてくれたあの少女も、聖杯を巡って争い、殺し、殺される立場だというのか。 「……なんてことだ。英霊だかなんだか知らないけど、セイバーは人間だ。昨日だってあんなに血を流してた」 「あ、その点は安心して。サーヴァントに生死はないから。サーヴァントは絶命しても本来の場所に帰るだけだもの。英霊っていうのはもう死んでも死なない現象だからね。戦いに敗れて殺されるのは、当事者であるマスターだけよ」 「いや、だから。それは」  たとえ仮初めの死だとしても。  この世界で、人の姿をしたモノが息絶えるという事に変わりはない。 「なに、人殺しだっていうの? 魔術師のクセにまだそんな正義感振り回してるわけ、貴方?」 「――――――――」  遠坂の言うことはもっともだ。  魔術師である以上、死は身近に存在する。  そんな事はとっくに覚悟しているし、理解している。  それでも俺は―――人の生き死にに善悪を計れるほど強くはない。 「―――当然だろう。相手を殺すための戦いなんて、俺は付き合わない」 「へえ。それじゃあみすみす殺されるのを待つだけなんだ。で、勝ちを他のマスターに譲るのね」 「そうじゃない。要は最後まで残っていればいいんだろう。自分から殺し合いをする気はないけど、身を守るための戦いなら容赦はしないさ。  ……人を殺しに来る相手なら、逆に殺されても文句は言えないだろ」 「ふーん、受けに回るんだ。それじゃあ他のマスターが何をしようが傍観するのね。例えば昨日のアイツが暴れ回って、町の人間を皆殺しにしても無視するってワケ」  昨日のアイツ……?  それは、あの人とも思えぬ異形の鬼の事か。 「――――――――」  一撃で家の一軒や二軒、いとも容易く崩す怪力。  ……たしかにアレがその気になれば、こんな小さな町なんて一晩で壊滅する。  くわえて、なにより厄介なのはサーヴァントというのは基本的に霊体だという事だ。  霊感のない人間には姿さえ観測できない。  にも関わらず実体を持つかのように現世に干渉できるという時点で、サーヴァントは最強の兵器と言えるだろう。  なにしろ今の科学では、霊体に効果のある兵器など存在しない。  こちらの攻撃は通じず、あちらの攻撃は通じる。  これではワンサイドゲームどころの話じゃない。  サーヴァントによる殺害は、一般人から見れば自然災害のようなものなのだ。  姿のない殺戮者に襲われた人間の死は、事故死か自殺としか扱われまい。 「なんだよそれ。サーヴァント―――いや、マスターとサーヴァントは、他のマスターしか襲わないんじゃないのか。町の人たちは無関係だろう」 「ええ、そうだったらどんなに平和な事か。けど、それなら見届け役の綺礼なんていらないでしょ?」 「一つ言い忘れていたけど、サーヴァントっていうのは霊なの。彼等はもう完成したものだから、今以上の成長はない。  けど燃料である魔力は別よ。  蓄えた魔力が多ければ多いほど、サーヴァントは生前の特殊能力を自由に行使できるわ。  そのあたりはわたしたち魔術師と一緒なんだけど……貴方、この意味解る?」 「解る。魔術を連発できるって事だろ」  魔力というのは弾丸に籠める火薬で、魔術師というのは銃と見ればいい。  銃の種類は短銃、ライフル銃、マシンガン、ショットガンと、魔術師ごとに性能が異なる。  その例で言えば、サーヴァントって連中は銃ではなく大砲だ。  火薬を大量に消費することで、巨大な弾を撃ち放つ。 「そうよ。けどサーヴァント達は私たちみたいに自然から〈魔力〉《マナ》を提供されてる訳じゃない。基本的に、彼らは自分の中だけの魔力で活動する。  それを補充するのがわたしたちマスターで、サーヴァントは自分の魔力プラス、主であるマスターの魔力分しか生前の力を発揮できないの」 「けど、それだと貴方みたいに半人前のマスターじゃ優れたマスターには敵わないって事になるでしょ?  その抜け道っていうか、当たり前って言えば当たり前の方法なんだけれど、サーヴァントは他から魔力を補充できる。  サーヴァントは霊体だから。同じモノを食べてしまえば栄養はとれるってこと」 「――――む?」    同じモノを食べれば栄養になる……?   「同じモノって、霊体のコトか? けどなんの霊を食べるっていうんだよ」 「簡単でしょ。自然霊は自然そのものから力を汲み取る。  なら人間霊であるサーヴァントは、一体何から力を汲み取ると思う?」 「――――あ」  簡単な話だ。  俺たちが肉を食べるように、人の霊である彼らはつまり―――― 「ご名答。まあ魔力の補充なんて、聖杯に補助されたマスターからの提供だけで、大抵は事足りる。  けど一人より大勢の方が大量摂取できるのは当然でしょ?  はっきり言ってしまえばね、実力のないマスターは、サーヴァントに人を食わせるのよ」 「――――」 「サーヴァントは人間の原感情や魂を魔力に変換する。  自分のサーヴァントを強くしたいのならそれが一番効率がいい。人間を殺してサーヴァントへの生贄にするマスターは、けっして少なくないわ」 「生贄にするって……それじゃ手段を選ばないヤツがマスターなら、サーヴァントを強くする為に人を殺しまくるってコトなのか」 「そうね。けど頭のいいヤツならそんな無駄な事はしないんじゃないかな」 「いい、サーヴァントがいくら強力でも、魔力の器そのものには限界がある。能力値以上の貯蔵はできないんだから、殺して回るにしても限度があるわ。  それにあからさまに殺人を犯せば協会が黙ってないし、なによりその死因からサーヴァントの能力と正体が、他のマスターたちにバレかねない。もちろんマスター自身の正体もね。  聖杯戦争は自分の正体を隠していた方が圧倒的に有利だから、普通のマスターならサーヴァントを出し惜しみする筈よ」  ……そうか。  確かに自分がマスターである事を知られなければ、他のマスターに襲われる事はない。  逆に誰がマスターかを知っていれば、確実に奇襲ができる。  その理論でいけば、サーヴァントに人を襲わせて自分たちの正体を暴露させてしまう、なんてヤツはそう出てこない事になる――― 「……良かった。なら問題はないじゃないか。マスターが命令しなければ、サーヴァントは無差別に人を襲わないんだから」 「でしょうね。仮にも英雄だもの、自分から人を殺してまわる奴は、そもそも英雄だなんて呼ばれないだろうけど―――ま、断言はできないか。  暴虐者だからこそ英雄になった例なんて幾らでもあるんだし」 「――――――」  さらりと不吉なコトを言う遠坂。  それが嫌味でも皮肉でもないあたり、遠坂は徹底した〈現実主義者〉《リアリスト》らしい。 「とりあえず、確認しておきたかった事はそういうコト。  サーヴァントがどんなモノかは判ったでしょ?  聖杯戦争に勝ち残ろうとしているのはマスターだけじゃない。この戦いに参加した以上、衛宮くんは自分のサーヴァントを律する義務がある」 「――――――――」  ……サーヴァントを律する義務。  他のサーヴァントだけでなく、自分のサーヴァントに人を襲わせてはならないという事か―――― 「少しは自分の立場が理解できた?  なら次は貴方の体の事ね。衛宮くん、あれから自分に何が起きたのか覚えている?」 「――――いや、覚えてるも何も、俺は」  セイバーに駆け寄って、バーサーカーに腹をごっそり持っていかれた。  俺の意識はそこで消えてしまって、昨夜の事はおろか、どうして自分が生きているかも判らない。 「……ふん、そんなコトだろうと思ったわ。本題の続きに入る前に、そこんところだけ説明してあげる」  不愉快げにため息をこぼして、遠坂は手短に昨夜の事を説明しだした。  なんでも俺が気を失った後、バーサーカーは立ち去ってしまったらしい。  その後、よく見れば俺の体は勝手に治りはじめ、十分もしたら外見は元通りになった。  傷は治ったものの意識が戻らない俺をここまで運んで、あとは今に至るという訳だとか。 「ここで重要なのは、貴方は貴方一人で生ききったっていう事実よ。確かにわたしは手助けしたけど、あの傷を完治させたのは貴方自身の力だった。そこ、勘違いしないでよね」 「話を聞くとそうみたいだけど。  ……なんだ、遠坂が治してくれたんじゃないのか?」 「まさか。死にかけてる人間を蘇生させる、なんて芸当は、もうわたしには出来ない。衛宮士郎は自分でぶっ飛んだ中身をどうにかしたのよ」 「――――む」  そんな事を言われてもどうしろと。  確かに俺の腹は元通りになっているけど、正直遠坂の話には半信半疑だ。  俺には蘇生はおろか治療の魔術さえ使えないんだから。 「そうなると原因はサーヴァントね。  貴方のサーヴァントはよっぽど強力なのか、それとも召喚の時に何か手違いが生じたのか。……ま、両方だと思うけど、何らかのラインが繋がったんでしょうね」 「ライン? ラインって、使い魔と魔術師を結ぶ因果線の事?」 「あら、ちゃんと使い魔の知識はあるじゃない。  なら話は早いわ。ようするに衛宮くんとセイバーの関係は、普通の主人と使い魔の関係じゃないってコト」 「見たところセイバーには自然治癒の力もあるみたいだから、それが貴方に流れてるんじゃないかな。  普通は魔術師の能力が使い魔に付与されるんだけど、貴方の場合は使い魔の特殊能力が主人を助けてるってワケ」 「……む。簡単に言って、川の水が下から上に流れているようなもんか?」 「上手い喩えね。本来ならあり得ないだろうけど、セイバーの魔力ってのは川の流れを変えるほど膨大なんでしょう。そうでなければあの体格でバーサーカーとまともに打ち合うなんて考えられない」 「本来ならあり得ない……じゃあ遠坂とアーチャーは普通の魔術師と使い魔の関係なのか」 「そうよ。人の言うことぜんっぜん聞かないヤツだけど、一応そういう関係」 「マスターとサーヴァントの繋がりなんて、ガソリンとエンジンみたいなものだもの。こっちが魔力を提供して、あっちがそれを食べるだけ。  ……まあ中には肉体面でもサーヴァントと共融して擬似的な“不死”を得たマスターもいたそうよ。サーヴァントが死なない限り自分も死なない、なんていうヤツなんだけど……衛宮くん、人の話聞いてる?」 「え……? ああ、聞いてる。  じゃあ遠坂、俺の体って多少の傷はほっといても治るって事か?」 「貴方のサーヴァントの魔力を消費してね。理屈は解らないけど、原因がセイバーの実体化にある事は間違いないわ。貴方が自然治癒の呪いなんて修得している筈はないから」 「当たり前だ。そんな難しいこと、親父から教えて貰った事ないからな」 「そうじゃなくて、そうだったらわたしが悩む必要はなかったっていう事よ。いいわ、貴方には関係のない話だから」 「……?」  なんだろう。  遠坂の言葉は婉曲で分かりづらいと思う。 「まあいいわ。とにかくあまり無茶はしない事。  今回は助かったからいいけど、次にあんな傷を負ったらまず助からない筈だから。多少の傷なら治る、なんていう甘い考えは捨てた方がいいでしょうね」 「分かってる。俺がかってにケガして、それでセイバーから何かを貰ってる、なんていうのは申し訳ない」 「バカね、そんな理由じゃないわよ。断言してもいいけど、貴方の傷を治すと減るのはセイバーの魔力だけじゃない。  ―――貴方、それ絶対なんか使ってるわ。  寿命とか勝負運とか預金残高とか、ともかく何かが減りまくってるに違いないんだから」  ふん、とまたも鼻を鳴らす遠坂。  それには確かに同感なのだが。 「遠坂。預金残高は関係ないのでは」 「関係あるわよ! 魔術ってのは金食い虫なんだから、使ってればどんどんどんどんお金は減っていくものなの!  そうでなければ許さないんだから、とくにわたしが!」  ガアー! と私怨の炎を噴き上げる遠坂凛。  不思議だ。  話せば話すほど、こっちの遠坂が地で、学校での遠坂がよそ行きだと判ってしまう。  ……ああ、いやまあ、そんなのは昨日の段階で判りきっていた事だったか。 「………………」  うーん……なんか、どっちもあまりいい話には思えないというかなんというか。 「? なによ黙りこんで。そんなに悩むほどの事じゃないでしょう」 「そうかな。なんか、どっちにしても遠坂に怒られる気がするんで、話自体聞きたくない」  うん、と腕を組んで素直な気持ちを口にする。 「――――――――」  あ。  まずい、なんか竜の顎の下を突っついてしまったようなこの危機感。 「……と、遠坂……? な、なんか凄い顔してないか、おまえ……?」  なんていうか、逆鱗……? 「あら。凄い顔ってどんな顔かしら。一応訊いておくけど、衛宮くんにはわたしが怒ってるように見えたとか?」    な、なんかますますヤバイ気がするんですけど……! 「あ、いや……心なしか、遠坂のこめかみに青筋が立ったように見えたような、見間違いにしたいような」    物凄く迫力のある笑顔に圧されて、しどろもどろで返答する。 「へえー。そんな風に見えたんだ。じゃ、衛宮くんはわたしが怒ってる、なんて思ってるワケね?」   「ぅ……その、怒ってるのか、遠坂……?」       「あったりまえよ!!!!!!!  言うに事欠いて、どっちも聞きたくないですって!?  アンタね、自分の立場ホントに判ってるのかってのよこの考え無し――――!」  があーっ、と怪獣のように咆哮する遠坂。 「う、む――――」  その迫力、威圧にクルクルと尻尾を巻いて後退するのだが、 「逃げるなっ! アンタはそこで正座!」 「――――!」  こう、思わず背筋を伸ばして正座してしまった。 「あ。いや遠坂、正座ってなんでさ」 「決まってるでしょう、一方的に話をするのよっ!  衛宮くんはまだ寝ぼけてるようだから、目が覚めるまでそうしてなさい!」 「…………」  遠坂は本気で怒っている。  ここで逆らったらアタマから食われそうなんで、了解、と頷いた。  なにしろ相手は怪獣だ。  アタマに血が上っている動物の前では、死んだフリが一番とかなんとか。 「ふん。まずは状況の確認よ。昨日、あれからどうなったのかを話してあげる」  で、手短に昨夜の事を説明された。  なんでも俺が気を失った後、バーサーカーは立ち去ってしまったらしい。  その後、よく見れば俺の体は勝手に治りはじめ、十分もしたら外見は元通りになった。  傷は治ったものの意識が戻らない俺をここまで運んで、あとは今に至るという訳だとか。 「ここで重要なのは、貴方は貴方一人で生ききったっていう事実よ。確かにわたしは手助けしたけど、あの傷を完治させたのは貴方自身の力だった。そこ、勘違いしないでよね」 「話を聞くとそうみたいだけど。なんだ、遠坂が治してくれたんじゃないのか?」 「まさか。死にかけてる人間を蘇生させる、なんて芸当は、もうわたしには出来ない。衛宮士郎は自分でぶっ飛んだ中身をどうにかしたのよ」 「――――む」  そんな事を言われてもどうしろと。  確かに俺の腹は元通りになっているけど、正直遠坂の話には半信半疑だ。  俺には蘇生はおろか治療の魔術さえ使えないんだから。 「そうなると原因はサーヴァントね。  貴方のサーヴァントはよっぽど強力なのか、それとも召喚の時に何か手違いが生じたのか。……ま、両方だと思うけど、何らかのラインが繋がったんでしょうね」 「ライン? ラインって、使い魔と魔術師を結ぶ因果線の事?」 「あら、ちゃんと使い魔の知識はあるじゃない。  なら話は早いわ。ようするに衛宮くんとセイバーの関係は、普通の主人と使い魔の関係じゃないってコト」 「見たところセイバーには自然治癒の力もあるみたいだから、それが貴方に流れてるんじゃないかな。  普通は魔術師の能力が使い魔に付与されるんだけど、貴方の場合は使い魔の特殊能力が主人を助けてるってワケ」 「……む。簡単に言って、川の水が下から上に流れているようなもんか?」 「上手い喩えね。本来ならあり得ないだろうけど、セイバーの魔力ってのは川の流れを変えるほど膨大なんでしょう。そうでなければあの体格でバーサーカーとまともに打ち合うなんて考えられない」 「本来ならあり得ない……じゃあ遠坂とアーチャーは普通の魔術師と使い魔の関係なのか」 「そうよ。人の言うことぜんっぜん聞かないヤツだけど、一応そういう関係」 「マスターとサーヴァントの繋がりなんて、ガソリンとエンジンみたいなものだもの。こっちが魔力を提供して、あっちがそれを食べるだけ。  ……まあ中には肉体面でもサーヴァントと共融して擬似的な“不死”を得たマスターもいたそうよ。サーヴァントが死なない限り自分も死なない、なんていうヤツなんだけど……衛宮くん、人の話聞いてる?」 「え……? ああ、聞いてる。  じゃあ遠坂、俺の体って多少の傷はほっといても治るって事か?」 「貴方のサーヴァントの魔力を消費してね。理屈は解らないけど、原因がセイバーの実体化にある事は間違いないわ。貴方が自然治癒の呪いなんて修得している筈はないから」 「当たり前だ。そんな難しいこと、親父から教えて貰った事ないからな」 「そうじゃなくて、そうだったらわたしが悩む必要はなかったっていう事よ。いいわ、貴方には関係のない話だから」 「……?」  なんだろう。  遠坂の言葉は婉曲で分かりづらいと思う。 「まあいいわ。とにかくあまり無茶はしない事。  今回は助かったからいいけど、次にあんな傷を負ったらまず助からない筈だから。多少の傷なら治る、なんていう甘い考えは捨てた方がいいでしょうね」 「分かってる。俺がかってにケガして、それでセイバーから何かを貰ってる、なんていうのは申し訳ない」 「バカね、そんな理由じゃないわよ。断言してもいいけど、貴方の傷を治すと減るのはセイバーの魔力だけじゃない。  ―――貴方、それ絶対なんか使ってるわ。  寿命とか勝負運とか預金残高とか、ともかく何かが減りまくってるに違いないんだから」  ふん、とまたも鼻を鳴らす遠坂。  それには確かに同感なのだが。 「遠坂。預金残高は関係ないのでは」 「関係あるわよ! 魔術ってのは金食い虫なんだから、使ってればどんどんどんどんお金は減っていくものなの!  そうでなければ許さないんだから、とくにわたしが!」  ガアー! と私怨の炎を噴き上げる遠坂凛。  不思議だ。  話せば話すほど、こっちの遠坂が地で、学校での遠坂がよそ行きだと判ってしまう。  ……ああ、いやまあ、そんなのは昨日の段階で判りきっていた事だったか。 「……まあ、お金の話は置いとくとして。  次は真面目な話だけど、いいかしら衛宮くん」 「遠坂がここに残った本題ってヤツだろ。いいよ、聞こう」 「じゃあ率直に訊くけど。衛宮くん、貴方これからどうするつもり?」  本当に率直に、遠坂は一番訊いてほしくないコトを訊いてくる。  ……いや、それは違うか。  訊いてほしくないんじゃなくて、ただ考えがおよばないだけ。  これからどうするかなんて、それこそこっちが訊きたい問題だ。 「……正直、判らない。聖杯を競い合うって言うけど、魔術師同士の戦いなんてした事がない。  第一、俺は――――」    殺し合いは出来れば避けたいし、何より――― 「聖杯なんていう得体の知れないモノに興味はないんだ。  欲しくないモノの為に命を張るのは、どうかと思う」 「言うと思った。貴方ね、そんなこと言ったらサーヴァントに殺されるわよ」 「な……殺されるって、どうして!?」 「サーヴァントの目的も聖杯だから。  彼等は聖杯を手に入れる、という条件だからこそ〈人間〉《マスター》の召喚に応じているのよ」 「サーヴァントにとって最も重要なのは聖杯なの。  彼らは聖杯を手に入れる可能性があるからマスターに従い、時にマスターの為に命を落とす。  だっていうのに聖杯なんていらないよ、なんて言ってみなさい。裏切り者、と斬り殺されても文句は言えないでしょ」 「……なんだそれ。おかしいじゃないか、サーヴァントっていうのはマスターが呼び出した者なんだろ。  なら――――」 「サーヴァントが無償で人間に従うなんて思ってたの?  聖杯は手に入れた者の望みを叶える。それはマスターの守護者であるサーヴァントも例外じゃない。  サーヴァントたちにもね、それぞれ何らかの欲望があるのよ。だからこそ彼等は本来有り得ない召喚に応じている」 「聖杯を手に入れる為にマスターがサーヴァントを呼び出す、じゃない。  聖杯が手に入るからサーヴァントはマスターの呼びだしに応じるのよ」 「――――――――」    サーヴァントにも欲望がある……?  ならあのセイバーも、聖杯を手に入れて叶えようとする願いがある、という事なのか。 「だからサーヴァントはマスターが命令しなくとも他のマスターを消しにかかる。聖杯を手に入れるのは一人だけ。自分のマスター以外に聖杯が渡るのは彼らだって承知できないのよ。  マスターと違って、サーヴァントには令呪を奪う、なんてコトはできない。彼らが他のマスターを無力化するには殺す以外に方法がない」 「だからね、たとえマスター本人に戦う意思がないとしても戦いは避けられないのよ。  サーヴァントに襲われたマスターは、自分のサーヴァントでこれを撃退する。それが聖杯戦争なんだって、綺礼から嫌っていうほど聞かされたでしょう?」 「――――ああ。それは昨日の夜教えられた。  けど――――」  それはつまり、サーヴァントとサーヴァントを殺し合わせる、という事だ。  マスター同士で和解して、お互いに聖杯を諦めれば話は済むと思っていたけれど、サーヴァントが聖杯を求めて召喚に応じて現れたモノで、けして聖杯を諦めないのならば、それじゃあ結局、サーヴァント同士の戦いは避けられない。  ……なら。  自分を守るために戦い抜いてくれたあの少女も、聖杯を巡って争い、殺し、殺される立場だというのか。 「……なんてことだ。英霊だかなんだか知らないけど、セイバーは人間だ。昨日だってあんなに血を流してた」 「あ、その点は安心して。サーヴァントに生死はないから。サーヴァントは絶命しても本来の場所に帰るだけだもの。英霊っていうのはもう死んでも死なない現象だからね。戦いに敗れて殺されるのは、当事者であるマスターだけよ」 「いや、だから。それは」  たとえ仮初めの死だとしても。  この世界で、人の姿をしたモノが息絶えるという事に変わりはない。 「なに、人殺しだっていうの? 魔術師のクセにまだそんな正義感振り回してるわけ、貴方?」 「――――――――」  遠坂の言うことはもっともだ。  魔術師である以上、死は身近に存在する。  そんな事はとっくに覚悟しているし、理解している。  それでも俺は―――人の生き死にに善悪を計れるほど強くはない。 「―――当然だろう。相手を殺すための戦いなんて、俺は付き合わない」 「へえ。それじゃあみすみす殺されるのを待つだけなんだ。で、勝ちを他のマスターに譲るのね」 「そうじゃない。要は最後まで残っていればいいんだろう。自分から殺し合いをする気はないけど、身を守るための戦いなら容赦はしないさ。  ……人を殺しに来る相手なら、逆に殺されても文句は言えないだろ」 「ふーん、受けに回るんだ。それじゃあ他のマスターが何をしようが傍観するのね。例えば昨日のアイツが暴れ回って、町の人間を皆殺しにしても無視するってワケ」  昨日のアイツ……?  それは、あの人とも思えぬ異形の鬼の事か。 「――――――――」  一撃で家の一軒や二軒、いとも容易く崩す怪力。  ……たしかにアレがその気になれば、こんな小さな町なんて一晩で壊滅する。  くわえて、なにより厄介なのはサーヴァントというのは基本的に霊体だという事だ。  霊感のない人間には姿さえ観測できない。  にも関わらず実体を持つかのように現世に干渉できるという時点で、サーヴァントは最強の兵器と言えるだろう。  なにしろ今の科学では、霊体に効果のある兵器など存在しない。  こちらの攻撃は通じず、あちらの攻撃は通じる。  これではワンサイドゲームどころの話じゃない。  サーヴァントによる殺害は、一般人から見れば自然災害のようなものなのだ。  姿のない殺戮者に襲われた人間の死は、事故死か自殺としか扱われまい。 「なんだよそれ。サーヴァント―――いや、マスターとサーヴァントは、他のマスターしか襲わないんじゃないのか。町の人たちは無関係だろう」 「ええ、そうだったらどんなに平和な事か。けど、それなら見届け役の綺礼なんていらないでしょ?」 「一つ言い忘れていたけど、サーヴァントっていうのは霊なの。彼等はもう完成したものだから、今以上の成長はない。  けど燃料である魔力は別よ。  蓄えた魔力が多ければ多いほど、サーヴァントは生前の特殊能力を自由に行使できるわ。  そのあたりはわたしたち魔術師と一緒なんだけど……貴方、この意味解る?」 「解る。魔術を連発できるって事だろ」  魔力というのは弾丸に籠める火薬で、魔術師というのは銃と見ればいい。  銃の種類は短銃、ライフル銃、マシンガン、ショットガンと、魔術師ごとに性能が異なる。  その例で言えば、サーヴァントって連中は銃ではなく大砲だ。  火薬を大量に消費することで、巨大な弾を撃ち放つ。 「そうよ。けどサーヴァント達は私たちみたいに自然から〈魔力〉《マナ》を提供されてる訳じゃない。基本的に、彼らは自分の中だけの魔力で活動する。  それを補充するのがわたしたちマスターで、サーヴァントは自分の魔力プラス、主であるマスターの魔力分しか生前の力を発揮できないの」 「けど、それだと貴方みたいに半人前のマスターじゃ優れたマスターには敵わないって事になるでしょ?  その抜け道っていうか、当たり前って言えば当たり前の方法なんだけれど、サーヴァントは他から魔力を補充できる。  サーヴァントは霊体だから。同じモノを食べてしまえば栄養はとれるってこと」 「――――む?」    同じモノを食べれば栄養になる……?   「同じモノって、霊体のコトか? けどなんの霊を食べるっていうんだよ」 「簡単でしょ。自然霊は自然そのものから力を汲み取る。  なら人間霊であるサーヴァントは、一体何から力を汲み取ると思う?」 「――――あ」  簡単な話だ。  俺たちが肉を食べるように、人の霊である彼らはつまり―――― 「ご名答。まあ魔力の補充なんて、聖杯に補助されたマスターからの提供だけで、大抵は事足りる。  けど一人より大勢の方が大量摂取できるのは当然でしょ?  はっきり言ってしまえばね、実力のないマスターは、サーヴァントに人を食わせるのよ」 「――――」 「サーヴァントは人間の原感情や魂を魔力に変換する。  自分のサーヴァントを強くしたいのならそれが一番効率がいい。人間を殺してサーヴァントへの生贄にするマスターは、けっして少なくないわ」 「生贄にするって……それじゃ手段を選ばないヤツがマスターなら、サーヴァントを強くする為に人を殺しまくるってコトなのか」 「そうね。けど頭のいいヤツならそんな無駄な事はしないんじゃないかな」 「いい、サーヴァントがいくら強力でも、魔力の器そのものには限界がある。能力値以上の貯蔵はできないんだから、殺して回るにしても限度があるわ。  それにあからさまに殺人を犯せば協会が黙ってないし、なによりその死因からサーヴァントの能力と正体が、他のマスターたちにバレかねない。もちろんマスター自身の正体もね。  聖杯戦争は自分の正体を隠していた方が圧倒的に有利だから、普通のマスターならサーヴァントを出し惜しみする筈よ」  ……そうか。  確かに自分がマスターである事を知られなければ、他のマスターに襲われる事はない。  逆に誰がマスターかを知っていれば、確実に奇襲ができる。  その理論でいけば、サーヴァントに人を襲わせて自分たちの正体を暴露させてしまう、なんてヤツはそう出てこない事になる――― 「……良かった。なら問題はないじゃないか。マスターが命令しなければ、サーヴァントは無差別に人を襲わないんだから」 「でしょうね。仮にも英雄だもの、自分から人を殺してまわる奴は、そもそも英雄だなんて呼ばれないだろうけど―――ま、断言はできないか。  暴虐者だからこそ英雄になった例なんて幾らでもあるんだし」 「――――――」  さらりと不吉なコトを言う遠坂。  それが嫌味でも皮肉でもなく本心っぽいあたり、かすかな性格の歪みを表しているのではなかろーか。 「話を戻しましょうか。で、どうするの。  人殺しはしないっていう衛宮くんは、他のマスターが何をしようが傍観するんでしたっけ?」  ……前言撤回。  こいつ、かすかじゃなくてはっきりと性格が歪曲してる。ここまで人を追いつめておいて、笑顔でそんなコトを言うあたり、とんでもなくいじめっこだ。 「そうなったら止めるだけだ。サーヴァントさえ倒せば、マスターだって大人しくなるんだろう」 「呆れた。自分からマスターは倒さない、けど他のマスターが悪事を働いたら倒すっていうんだ。  衛宮くん、自分が矛盾してるって解ってる?」 「ああ、都合がいいのは分かってる。けど、それ以外の方針は考えつかない。こればっかりはどんなに論破されても変えないからな」 「ふーん。問題点が一つあるけど、言っていいかしら」    企んでる。あの顔は絶対なにか企んでる。  が、男が断言した以上、聞かない訳にもいかないのだ。 「い、いいけど、なんだよ」 「昨日のマスターを覚えてる? 衛宮くんとわたしを簡単に殺せ、とか言ってた子だけど」 「――――」  忘れるもんか。帰り道、問答無用で襲いかかってきた相手なんだから。 「あの子、必ずわたしたちを殺しに来る。それは衛宮くんにも判ってると思うけど」 「――――」  そう、か。  あの娘だってマスターなんだ。  俺と遠坂がマスターだって知ってるんだから、いつかは襲いかかってくるだろう。  今日か明日かは判らないが、それが死刑宣告である事は間違いない。  少なくとも、俺ではあんな怪物を止められない。 「あの子のサーヴァント、バーサーカーは桁違いよ。  マスターとして未熟な貴方にアレは撃退できない。自分からは何もしないで身を守るって言うけど、貴方は身を守る事さえ出来ないわ」 「―――悪かったな。けど、そういう遠坂だってアイツには勝てないんじゃないのか」 「正面からじゃ勝てないでしょうね。白兵戦ならアレは最強のサーヴァントよ。きっと歴代のサーヴァントの中でも、アレと並ぶヤツはいないと思う。わたしもバーサーカーに襲われたら逃げ延びる手段はないわ」 「……それは俺だって同じだ。今度襲われたら、きっと次はないと思う」  無意識に腹に手を当てた。  今は塞がっている腹の傷。  いや、傷なんて言えるレベルじゃなかった、即死に近い大剣の跡。  アレをまた味わうかと思うと、逃れようのない吐き気が戻ってくる。 「そういうこと。解った? 何もしないままで聖杯戦争の終わりを待つ、なんて選択肢はないってコトが」 「……ああ、それは解った。けど遠坂。おまえ、さっきから何を言いたいんだよ。ちょっと理解不能だぞ。  死刑宣告された俺を見るのが楽しいってワケでもないだろ……って、もしかして楽しいのか?」 「そこまで悪趣味じゃないっ。  もう、ここまで言ってるのに分からない? ようするに、わたしと手を組まないかって言ってるの」 「?」  む? むむむむ、む?  それ、額面通りに受け取ると、その。 「―――て、手を組むって、俺と遠坂が!?」 「そう。わたしのアーチャーは致命傷を受けて目下治療中。完全に回復するまで時間がかかるけど、それでも半人前ぐらいの活躍はできる筈よ。  で、そっちはサーヴァントは申し分ないけど、マスターが足ひっぱってやっぱり半人前。ほら、合わせれば丁度いいわ」 「むっ。俺、そこまで半人前なんかじゃないぞ」 「わたしが知る限りでもう三回も死にそうになったのに?一日で三回も殺されかける人間なんて初めて見たけど?」 「ぐ――――けど、それは」 「同盟の代価ぐらいは払うわ。アーチャーを倒されたコトはチャラにしてあげて、マスターとしての知識も教えてあげる。ああ、あと暇があれば衛宮くんの魔術の腕を見てあげてもいいけど、どう?」  ……う。  それは、確かに魅力的な提案だと思う。  右も左も分からない俺にとって、遠坂は頼りになる先輩だ。  それに出来る事なら、遠坂とは争いたくない。 「衛宮くん? 答え、聞かせてほしいんだけど?」  返答を急かされる。    俺は――――   「…………………………………………」    本来なら悩むまでもない問題だ。  俺は素人で、遠坂は魔術師としてもマスターとしても一人前。  昨夜の事もあるし、ここは遠坂と手を組む方が賢明だろう。  だが―――― 「衛宮くん。返事、聞きたいんだけど」 「……………………」  ここで協力関係を結ぶのは早計な気がする。  遠坂が俺を騙すなんて事はないだろうが、まずは自分だけで状況を把握するべきだ。  そうしなければ、何が正しくて何が間違っているのか、判断がつかなくなる。 「――――すまん、遠坂。  心配してくれるのはありがたいけど、いい返事はできない。事が事だからな。簡単に方針を決めちゃいけない気がする」  まっすぐに見返して返答する。  遠坂は少しだけ目を細めて、そう、と感情のない声で頷いた。 「それじゃ交渉は決裂ね。……ま、確かに衛宮くんの言い分も正しいわ。本当に勝つ気があるなら誰も信用できないもの」 「そんな事ないぞ。俺、遠坂は信用してる。ただ一人で決められる事じゃないだけだ。俺がセイバーのマスターなら、あいつに無断で約束はできない」 「なるほど、確かにそうね。貴方はもう〈歴〉《れっき》としたマスターなんだから」  納得したように頷いて、遠坂はあっさりと背を向けた。  長い髪をなびかせて去っていく。  そうして、味方になるかも知れなかった少女は一度だけ振り返って、   「それじゃあね。次に出会ったら敵同士だから」    あのイリヤという少女と同じように、冷たい警告を残していった。 「――――さて」    軽く息を吸って、状況を把握する。  昨夜の事件―――夜の学校でランサーとアーチャーの戦いを目撃してからこっち、まともに考える時間がなかった為だ。  夜の学校でランサーに胸を貫かれ、なんでか助かって家に戻り、再びランサーに襲われ――――   「セイバーに助けられて、マスターになった」    教会で聞いた事。  聖杯戦争という殺し合い。  勝者に与えられる、あらゆる望みを叶えるという聖杯。  分からない事だらけだが、俺には確かな案内役がいる。   「―――そうだな。まずはセイバーに話を聞かないと」    屋敷をまわる。  人がいそうなところ―――客間をすべて見てまわったが、セイバーの姿はなかった。 「おかしいな……あの格好なんだ、いればすぐに判りそうなもんだけど」  そうは言いつつも、屋敷のどこにもセイバーの鎧姿は見あたらなかった。  サーヴァントは霊体になれるらしいが、生憎俺にはそんな芸当はさせられない。  いや、そもそも―――― 「マスターだなんて言うけど、俺、あいつの事をなんにも知らないんだよな」  セイバーが何者なのか、サーヴァントがどんな理屈で居るモノなのか、俺にはてんで判らない。  ただ判る事と言えば、それは。    どんなに優れた存在であろうと、戦えば傷を負い、斬られれば血を流すという事だった。 「――――あ」  静まりかえった道場にセイバーはいた。  その姿は昨日までの彼女とは違う。  板張りの床に正座したセイバーは、鎧を纏ってはいなかった。  セイバーは彼女らしい上品な洋服に着替えていて、無言で床に座していた。 「――――――――」  ……その姿に、言葉を忘れた。  凛と背筋を伸ばし、目を閉じて正座をするセイバーは、綺麗だった。  静寂に溶け込む彼女の有り様は、清らかな水を思わせる。 「――――――――」  それで、最後に残っていた棘が取れた。  サーヴァントだろうとなんだろうと、彼女は聖なるものだと思う。  なら―――この先、自分が間違った道を進む事はないだろう。 「セイバー」  声をかける。  セイバーは慌てた風もなく目蓋を開けて、ゆっくりと視線を返す。 「目が覚めたのですね、シロウ」  落ち着いた声。  染みいるように響く彼女の声は、ひどくこの道場にあっていた。 「―――ああ。ついさっき目が覚めた。セイバーはここで何を?」 「体を休めていました。私にはシロウの手当ては出来ませんから、今はせめて自身を万全にしておこうと思いまして」 「っ――――」  まっすぐにこっちを見ながら、淡々とセイバーは言う。  ……それは、その。  遠坂とはまた違った緊張があるというか。 「シロウ? どうしました、やはり体がまだ……?」 「っ――――い、いやこっちも問題ない……! かってに戸惑ってるだけだから気にしないでくれ……!」  ばっと一歩引いて、ぶるぶると首を振る。 「?」  不思議そうに首をかしげる彼女から目を逸らして、ともかくバクバクいってる心臓を落ち着かせた。 「……落ち着け、なに緊張してんだ俺は――――!」    ふう、と深呼吸を一度する。  ……けど、すぐには収まりそうにないというか、収まりなんかつかない気がする。   「……ああもう、なんだって着替えてるんだよあいつ……」  思わずごちる。  セイバーの服装はあまりにも現実感がありすぎて、否応なしに異性を意識してしまうのだ。  ……とにかく、彼女はとんでもない美人だ。  それは昨日で知っていたつもりだったが、今さらに思い知らされた。  こうして、ああいう女の子らしい格好をされると、健全な男子としてとにかく困る。 「シロウ」  目があった途端、緊張する。  かといって、黙り込む為に彼女を捜していた訳じゃない。彼女は苦手だが、だからといって黙っていたら一生このままだ。 「―――よし。  いいかなセイバー。こうやって落ち着いて話すのは初めてだけど―――」  意を決して話しかける。  ――――と。 「シロウ。話の前に、昨夜の件について言っておきたい事があります」    さっきまでの穏やかさが嘘みたいな不機嫌さで、俺の言葉を遮った。 「―――? いいけど、なんだよ話って」 「ですから昨夜の件です。  シロウは私のマスターでしょう。その貴方があのような行動をしては困る。戦闘は私の領分なのですから、シロウは自分の役割に徹してください。自分から無駄死にをされては、私でも守りようがない」  きっぱりと言うセイバー。  ―――それで、さっきまでの緊張はキレイさっぱりなくなった。 「な、なんだよそれ! あの時はああでもしなけりゃおまえが斬られてたじゃないか!」 「その時は私が死ぬだけでしょう。シロウが傷つく事ではなかった。  繰り返しますが、今後あのような行動はしないように。  マスターである貴方が私を庇う必要はありませんし、そんな理由もないでしょう」 「な―――バカ言ってんな、女の子を助けるのに理由なんているもんか……!」  怒鳴られて驚いたのか、セイバーは意表を突かれたように固まったあと。  まじまじと、なんともいえない威厳でこっちを見つめてくる。 「うっ……」  真面目に見つめられて、わずかに後退する。  なんか、自分がすごく場違いな台詞を言ったな、と思い知らされて恥ずかしくなってしまった。 「と、ともかくうちまで運んでくれたのは助かった。それに関しては礼を言う」  ありがとうな、とそっぽを向きながら礼を言った。  ……ただでさえ礼を言うのなんて気恥ずかしいのに、この状況じゃなおさら気まずい。  それでもやっぱり、助けられた礼はまっさきに口にしないと。 「それはどうも。サーヴァントがマスターを守護するのは当たり前ですが、感謝をされるのは嬉しい。シロウは礼儀正しいのですね」 「いや。別に礼儀正しくなんかないぞ、俺」  だから、今はそんな事よりはっきりさせなくちゃいけない事がある。 「話を戻すぞセイバー。  ……あ、いや、改めて訊くけど、おまえの事はセイバーって呼んでいいのか?」 「はい。サーヴァントとして契約を交わした以上、私はシロウの剣です。その命に従い、敵を討ち、貴方を守る」  セイバーはわずかな躊躇いもなく口にする。  彼女の意思には疑問を挟む余地などない。 「俺の剣になる、か。それは聖杯戦争とやらに勝つためにか」 「? シロウはその為に私を呼び出したのではないのですか」 「違う。俺がおまえを呼び出したのはただの偶然だ。  セイバーも知ってる通り、俺は半人前の魔術師だからな。セイバーには悪いが、俺にはマスターとしての知識も力もない。  けど、戦うと決めたからには戦う。未熟なマスターだけど、セイバーはそれでいいのか」 「もちろん。私のマスターは貴方です、シロウ。  これはどうあっても変わらない。サーヴァントにマスターを選ぶ自由はないのですから」 「――――――――」  ……そうなのか。  なら俺は、自分に出来る範囲でセイバーに応えるしかない。 「……分かった。それじゃ俺はおまえのマスターでいいんだな、セイバー」 「ええ。ですがシロウ、私のマスターに敗北は許さない。  貴方に勝算がなければ私が作る。可能である全ての手段を用いて、貴方には聖杯を手に入れて貰います。  私たちサーヴァントは無償で貴方たちマスターに仕えるのではない。私たちも聖杯を欲するが故に、貴方たちに仕えるのだから」 「――――え。ちょっと待った、聖杯が欲しいって、セイバーもそうなのか……!?」 「当然でしょう。もとより、霊体である聖杯に触れられるのは同じ霊格を持つサーヴァントだけです。  聖杯戦争に勝利したマスターは、サーヴァントを介して聖杯を手に入れる。その後、サーヴァントは見返りとして望みを叶える。  ―――それがサーヴァントとマスターの関係です、シロウ」 「――――――――」  ……そうか。  言われてみれば、“英霊”なんてとんでもない連中が人間の言うことなんか聞く筈がないんだ。  彼らにも目的があるから、交換条件としてマスターに仕えている。  ……そうなるとセイバーにも“叶えるべき願い”があるって事だ。  だからこそセイバーには迷いがなく、俺のような半人前がマスターでも戦うと断言するのだろう。 「……よし。それじゃあもう一つ訊いていいか。  マスターっていうのはサーヴァントを召喚する魔術師の事だよな。  それはいいんだけど、セイバーたちの事が俺にはまだよく判らない。セイバーとかランサーとか、どうも本名じゃないのは分かるんだが」 「ええ、私たちの呼び名は役割毎につけられた呼称にすぎません。……そうですね、この際ですから大まかに説明してしまいましょう」 「私たちサーヴァントは英霊です。  それぞれが“自分の生きた時代”で名を馳せたか、或いは人の身に余る偉業を成し遂げた者たち。  どのような手段であれ、一個人の力だけで神域まで上り詰めた存在です」    言われるまでもない。  英霊とは、生前に卓越した能力を持った英雄が死後に祭り上げられ、幽霊ではなく精霊の域に昇格したモノを言う。 「ですが、それは同時に短所でもあります。私たちは英霊であるが故に、その弱点を記録に残している。  名を明かす―――正体を明かすという事は、その弱点をさらけ出す事になります」 「……そうか。英雄ってのはたいてい、なんらかの苦手な相手があるもんな。だからセイバー、なんて呼び名で本当の名前を隠しているのか」 「はい。もっとも、私がセイバーと呼ばれるのはその為だけではありません。  聖杯に招かれたサーヴァントは七人いますが、その全てがそれぞれの“〈役割〉《クラス》”に応じて選ばれているのです」 「クラス……? その、〈剣士〉《セイバー》とか〈弓兵〉《アーチャー》とか?」 「そうです。もとより英霊をまるごと召喚する、という事自体が奇蹟に近い。それを七人分、というのは聖杯でも手に余る。  その解決の為、聖杯は予め七つの器を用意し、その器に適合する英霊だけを呼び寄せた。この世界に我々が存在できる依り代を用意したのです。  それが七つの役割、  セイバー、  ランサー、  アーチャー、  ライダー、  キャスター、  アサシン、  バーサーカー。 「聖杯は役割に該当する能力を持った英霊を、あらゆる時代から招き寄せる。  そうして〈役割〉《クラス》という殻を被ったモノが、サーヴァントと呼ばれるのです」 「……なるほど。じゃあセイバーは剣に優れた英霊だから、セイバーとして呼ばれたって事か」 「はい。属性を複数持つ英霊もいますが、こと剣に関しては私の右に出る者はいない、と自負しています」 「もっとも、それがセイバーの欠点でもある。  私は魔術師ではありませんから、マスターの剣となって敵を討つ事しかできない」 「権謀術数には向かないって事だな。いや、それは欠点じゃないと思うけど。セイバーはあんなに強いんだから、もうそれだけで十分だろ」 「シロウ、戦闘で強いだけではこの戦いは勝ち抜けません。  例えばの話ですが、敵が自身より白兵戦で優れている場合、貴方ならどうしますか?」 「え? いや、そうだな……正面から戦っても勝てないって判ってるなら、戦わずになんとかするしかな――――」    そこまで口にして、そうか、と納得した。  相手が強いのなら、まっとうな戦いなんて仕掛けない。  なにも剣でうち倒すだけが戦いじゃないんだ。  剣で敵わない相手なら、剣以外で敵の息の根を絶つだけの話じゃないか。 「そういう事です。白兵戦で優れている、と相手に知られた場合、相手はまず白兵戦など仕掛けてこないでしょう。……そういった意味で言うと、能力に劣ったサーヴァントはあらゆる手を尽くしてくる」 「アサシンのサーヴァントは能力こそ低いですが気配を隠すという能力がありますし、キャスターのサーヴァントはこの時代にはない魔術に精通している。  単純な戦力差だけで楽観はできません。加えて、私たちには“宝具”がある。どのようなサーヴァントであれ、英霊である以上は必殺の機会を持っているのです」 「宝具――――?」    それも聞き慣れない単語だ。  いやまあ、ニュアンス的になんとなく意味は判るんだけど。 「宝具とは、サーヴァントが持つ特別な武具の事です。  ランサーの槍や、アーチャーの弓、それに私の剣などが該当します。  英雄とは、それ単体で英雄とは呼ばれません。彼らはシンボルとなる武具を持つが故に、〈英雄〉《ヒーロー》として特化している」 「英雄とその武装は一つなのです。故に、英霊となった者たちはそれぞれが強力な武具を携えています。  それが“宝具”――――サーヴァントたちの切り札であり、私たちが最も警戒すべき物です」 「――――――――」  ……宝具とは、その英霊が生前に持っていた武具だとセイバーは言う。    あの青い騎士の槍を思い出す。  大気中の魔力を吸い上げ、あり得ない軌跡でセイバーの胸を貫いたあの槍。  あれは、確かに人の手におえる物ではない。  あの槍自体も強い呪いを帯びていたが、あの時ランサーが発した言葉にも桁違いの魔力を感じた。    なら、もしかしてそれは。 「セイバー。宝具ってのは魔術なのか?  たしかにランサーの槍は曰くありげな槍だったけど、それ自体は槍っていう領域から出てなかっただろ。  けどあいつの言葉で、あの槍は武器の領域から逸脱した。それって魔術の類じゃないのか?」 「ええ、確かに宝具は魔術に近い。  たとえばランサーの槍です。彼の槍はそれ自体が宝具ではありますが、その真価を発揮するのは魔力を注ぎ込み、その真名を口にした時だけです」 「宝具とは、ある意味カタチになった神秘ですから。  魔術の発現に詠唱が必要なように、宝具の発動にも詠唱―――〈真名〉《しんめい》による覚醒が必要になる。  ですが、これにも危険はあります。宝具の真名を口にすれば、そのサーヴァントの正体が判ってしまう」 「……そっか。英雄と武器はセットだもんな。持ってる武器の名前が判れば、おのずと持ち主の正体も知れる」  こくん、と無言で頷くセイバー。    だからこそ宝具は切り札なんだ。  正体を明かすかわりに、避けきれぬ必殺の一撃を炸裂させる。    だがそれが不発に終わった時――――そのサーヴァントは、自らの欠点をもさらけ出す事になる。 「それじゃあセイバー。おまえの宝具は、あの視えない剣なのか?」 「……そうですね。ですが、あれはまだ正体を明かしていません。今の状態で私の真名を知るサーヴァントはいないでしょう」  言って、一瞬だけセイバーは気まずそうに目を伏せた。 「シロウ。その件についてお願いがあります」 「え? お願いって、どんな」 「私の真名の事です。本来、サーヴァントはマスターにのみ真名を明かし、今後の対策を練ります。  ですがシロウは魔術師として未熟です。  優れた魔術師ならば、シロウの思考を読む事も可能でしょう。ですから――――」 「ああ、名前は明かせないって事か。……そうだな、たしかにその通りだ。催眠とか暗示とか、いないとは思うけど他のマスターに魔眼持ちがいたらベラベラ秘密を喋りかねないし。  ―――よし、そうしよう。セイバーの“宝具”の使いどころは、セイバー自身の判断に任せる」 「ぁ――――その、本当に、そんなにあっさりと?」 「あっさりじゃないぞ。ちゃんと考えて納得したんだ。  考えた末の合意だから、気にすんな」 「――――――――」    ……さて。  だいたいの話は判ったものの、状況は未だに掴めない。 「なあセイバー。マスターやサーヴァントって何か目印はないのか? このままじゃどうも勝手が分からないんだが」 「いいえ。残念ながら、明確な判別方法はありません。  ただ、近くにいるのならサーヴァントはサーヴァントの気配を察知できます。それが実体化しているのなら尚更です。サーヴァントはそれ自体が強力な魔力ですから。  シロウもバーサーカーの気配は感じ取れたでしょう?」 「う―――それはそうだけどな。襲われて初めて判る、なんていうのはまずいだろう。せめて近づかれる前に気づかないと対応できない」 「では、マスターの気配を辿るのはどうですか。マスターとて魔術師です。魔術を生業とする以上、魔力は必ず漏れています。それを探れば、この町にいるマスターは特定できるのでは」 「……悪い。生憎、そんな器用な真似はできない」  そもそも同じ学校にいた遠坂の正体にも気づかなかったんだぞ、俺は。  二年間も同じ建物にいて、あまつさえ何度も見かけているっていうのにだ。 「――――参ったな。これじゃ確かに半人前ってバカにされるワケだ。マスターとしての証も令呪だけだし、前途は多難か」  はあ、と肩で息をつく。    ―――と。 「シロウ。少し目を閉じて貰えますか」  真剣な面もちで、セイバーはそんな事を言ってきた。 「……? 目を閉じるって、なんで」 「貴方がマスターだと証明する為です。いいですから、目を閉じて呼吸を整えてください」 「…………………………」  ……目を閉じる。  ついで、額に触れる微かな感触。    ――――って、妙にチクチクするけど、これってまさか刃物の先か――――!? 「――――セイバー? ちょっと待て、なんかヘンな事してないか、おまえ?」 「……。マスター、黙って私の指先に意識を集中してください。貴方も魔術師なら、それでこちらの魔力を感じ取れるでしょう」 「――――む」  そうか、触れてるのはセイバーの指か。  それでは、と気を取り直して意識を静める。    ――――と。  なんだ、これ。 「セイバー、今の、なんだ?」 「なんだ、ではありません。貴方と私は契約によって繋がっているのですから、私の状態は把握できて当然です」 「――――把握って、今のが?」 「どのようなカタチで把握したのかは知りません。サーヴァントの能力を測るのは、あくまでシロウが見る基準です。単純に色で識別するマスターもいれば、獣に喩えて見分けるマスターもいます」 「つまり、個人差はあれど本人にとって最も判別しやすい捉え方をする、という事です。  これはマスターとしての基本ですから、今後は頻繁に確かめてください。私と同様、一度見た相手ならばその詳細が理解出来ている筈ですから」  ……そうか。  いきなりで驚かされたが、これなら少しはマスターとして振る舞えるかもしれない。 「―――マスター。簡略しましたが、私にできる説明は以上です」 「ああ。駆け足だけど合点がいった。すまなかったな、セイバー」 「……すまなかった、ではありません。  状況が判ったのなら、これからどうするかを決めるべきではないですか」  ずい、と身を乗り出して問いただしてくる。  ……そうか。  セイバーも遠坂と同じで、やられる前にやるタイプなのか。 「いや、どうするもなにも、別段変わった事はしないぞ。  遠坂みたいに自分から他のマスターを倒しにいく、なんて気はないからな」 「―――シロウ、それでは話が違う。貴方はマスターとして聖杯を手に入れる気がないのですか」  ……セイバーの目が細まる。  それは否定を許さない、冷徹な剣士の目だ。 「――――――――」  それに気圧されまいと視線を返して、きっぱりと今後の方針とやらを口にする。 「ああ、ある。けどそれは悪いヤツに渡らないようにしたいからだ。俺には、自分から聖杯が欲しいっていう理由はない」 「っ――――」 「けど、それは戦わないって意味じゃないぞ。  見習いだけど俺は魔術師だ。自分が後戻りできない場所にいる事ぐらい理解してる。無傷で、何もしないままじゃ生き残れないって事は判ってる」 「では魔術師として避けられない戦い―――つまり聖杯を手に入れる為ではなく、聖杯による争いを防ぐ為に戦うというのですか、貴方は」 「? ……ああ、そういう事になるのか。そうだな、きっとそういう事だ。うまく言葉にできないけど、そういう戦いになら価値があるだろ」  そうだ。  正直、聖杯なんて言われても実感が湧かない。  けどそういった事の為なら、俺は本気で、胸を張って戦う事が出来ると思う。 「……わからない。シロウは魔術師だと言う。ならば万能である聖杯を欲する筈です。自分では叶えられない望みがあるからこそ、魔術師は魔術を極めるのではないのですか」 「なに言ってるんだ。叶えられない望みなんて持ってないぞ、俺。やらなくちゃいけない事は山ほどあるけどな」  うん。  だから今は、その為に無関係な人を巻き込まないように手を尽くすだけだ。 「―――それではシロウは聖杯が要らないというのですか。聖杯の為には戦わないと」 「そうは言ってないだろ。戦うからには聖杯は手に入れるつもりだぞ」 「それこそ矛盾している。貴方には必要がない物を、何故戦ってまで欲するというのです」 「?」  いや、だって。  勝ち残るって事は聖杯を手に入れるって事だし、なにより。 「セイバーには必要なんだろ。なら必ず手に入れなくちゃ」 「――――――――」 「ああ、他のマスターがどんなヤツかは知らない。  もしかすると、中にはすごくいいヤツだっているかもしれない。  けど、俺はセイバーの味方をするって決めたんだ。そのセイバーが聖杯を手に入れたいって言うなら、最大限手を貸すのは当たり前だろう」 「――――――――」 「……その、〈切嗣〉《オヤジ》の受け売りなんだけどな、正義の味方になるんだったらエゴイストになれって。  誰にも彼にも味方なんてしてたら意味がないんだから、自分が信用できる、自分が好きな相手だけの味方をしなくちゃダメだって」 「今までそうは思えなかったけど、今はそう考えるべきだと思う。  俺は自分の為に戦う、なんてのは出来ない。  けどセイバーの為に戦うんなら、それがいい」  それに、正直に言えば。  この少女がこんなにも真剣に欲しがるのなら、是が非でも手に入れてやりたくなるってのが人情だろう。    ……その、俺だって男なんだから。 「では、私が聖杯を諦めれば戦わないと言うのですか、貴方は」 「――――む」  それは困る。  セイバーにそんな事を言われたら、今までの前提が全て崩れてしまうのだが―――― 「……いや、それでも同じだ。一度戦うと言ったんだ。  だから逃げない。これは絶対だぞ、セイバー」  きっぱりと、セイバーの目を見て断言した。  セイバーはすぐには答えず、深く息を吐いてから俺を見上げる。 「解りました。マスターである貴方がそう言うのなら、私は従うだけです。私の目的は聖杯であり、貴方の目的が争いの調停であっても、行き着く場所は同じですから。  ――――ですが、シロウ」  言葉が止まる。  セイバーは遠くを見るような瞳で、   「私にはうまく言えないのですが、それではシロウは後悔する。……きっと、後悔する事になる」    そんな言葉を、口にした。  遠坂が去って、緊張の糸が切れた為か。  熱を持っていた体がだるく感じられて、そのまま居間に寝転がってしまった。 「――――」  ぶり返してきた吐き気を、横になってやり過ごす。  こつこつと、静かな居間に時計の秒針が刻まれていく。 「……マスター同士の戦い、か」  それが一体どういうものなのか、自分にはまだ判らない。  はっきりしているのはこの手に余る、という事だけだ。  少しでも聖杯に興味があるのなら、もう少し実感が湧くのだろうが―――― 「何故だろう。聖杯には、嫌悪感しか湧かない」  望みを叶えるという杯。  それがどんなモノかは知らないが、サーヴァントなんていうモノを呼び出せる程の聖遺物だ。  どんな望みも叶える、とまではいかないまでも、魔術師としては十分すぎる程価値のある物だ。  それでも―――俺はそんなモノに興味はない。  実感が湧かず半信半疑という事もあるのだが、結局のところ、そんな近道はなんか卑怯だと思うのだ。 「それに、選定方法が戦いだっていうのも質が悪い」  ……だが、これは椅子取りゲームだ。  どのような思惑だろうと、参加したからには相手を押し退けないと生き残れない。  その、押し退ける方法によっては、無関係な人々にまで危害を加える事になる。  だから、    ―――喜べ衛宮士郎。    俺の戦う理由は聖杯戦争に勝ち残る為じゃなくて、    ―――君の望みは、ようやく叶う。    どんな手を使っても勝ち残ろうとするヤツを、なんとしてでも止める事。 「―――――――っ」  また目眩がした。  当然だ。  いくら外見が元通りになったといっても、数時間前まで体が二つになりかけていたんだ。  この体調不良がすぐに治る訳がない。むしろ一生このままっていう方が納得できる。  なにしろ一日に三度も殺されかけた。  力のない者が戦いに参加すれば、傷つくのは当然だ。  俺は己の力量不足の代償として体を失いかけ、    彼女は、そんな俺を守るために傷を負った。 「――――!」  横になっていた体を起こす。 「そうだ、アイツ……!」  何をしているのか、俺は。  遠坂が居間に居座っていた事ですっかり失念していた。  いや、無意識に考えるのを避けていた。  ――――卑怯者。  自分の為に傷ついた誰か、  無惨に血を流す少女の姿を、思い返す事を避けていた。 「遠坂のヤツ、肝心なコトは外しやがって……!」  休んでいた体に喝を入れて立ち上がる。  遠坂はセイバーについて何も語らなかった。  俺をセイバーと二人で運んだ、なんて言いながら、それ以上の説明はしなかった。  一番に聞かなくてはいけない事、バーサーカーの手で負傷した彼女が、無事なのかと言う事を。 「く――――」  目眩を堪えながら屋敷をまわる。  人がいそうなところ―――客間をすべて見てまわったがセイバーの姿はない。 「あの格好なんだ、いればすぐに判るってのに――――」  屋敷のどこにも、あの勇ましい鎧姿のセイバーの気配はない。  遠坂はサーヴァントは霊体にもさせられる、とか言っていたが、生憎俺にはそんな芸当はさせられない。  いや、そもそも―――― 「……マスターだなんて言うけど、俺のどこがアイツのマスターだって言うんだ」  セイバーが何者なのか、サーヴァントがどんな理屈で居るモノなのか、俺にはてんで判らない。  こんなの、新兵がいきなり戦車を与えられたようなもんだ。  いや、それでも幸いなのは、この戦車にはオートパイロット機能がついている事か。新兵がヘボでも、戦車は勝手に戦ってくれる。 「――――」  自分の考えが頭にきて、柱に頭を打ち付けた。 「……なに腐ってるんだ、バカ。今のは、とんでもなく失礼な弱音だった」  心の中で金髪の少女に頭を下げる。  なんか、そうなったら一刻も早く彼女を見つけて、無事を確認しなければ気が済まなくなってきた。 「ここにもいない――――」  屋敷はすべてまわった。  旅館みたいに広い屋敷だが、子供の頃藤ねえと隠れんぼをしていたのは伊達じゃない。効率のいい屋敷の探索は心得ている。  ここまで探していないとなると、後は――― 「庭か、蔵か、それとも――――」  彼女は俺を守護すると言った。  なら、この屋敷から外に出るなんて、そんな事はないと思う。 「――――もしかして」  唐突に思いついた事がある。  屋敷でもなく庭でもなく、初めて出会った土蔵でもない。  そういえば、この屋敷にはもう一つ大きな建物があるじゃないか。 「間違いない。きっとあそこだ」  急ぎ足で歩き出す。  向かう先は離れにある剣道場。 「――――」  わずかに緊張する。  そこにいなかったら、その時こそは彼女が消えてしまったと認めるしかない。 「……?」  それで気づいた。  彼女の事なんて何一つ知らないというのに、そんな相手に居て欲しいと思っている自身の矛盾に。  余分なものが何一つない、板張りの空間。  生活する為ではなく、己を鍛える為だけに作られた道場。  淡い陽射しを受け入れ、音もなく佇むその場所に、            彼女は、ただ自然にそこにいた。     「――――――――」  静謐とした空間。  差し込む陽射しは白く、一点の汚れもなく彼女と道場を一つにしている。      月の下、俺がランサーに殺される寸前に現れ、ためらう事なく剣を振るった少女。  青い月光を含んでいた金砂の髪が、今は穏やかな陽射しに同化している。     「――――――――」  それで、本当に思いだした。  初めて彼女を見た時の感情は、こういうモノだった。  鎧に身を包み、剣を振るい、無言で敵を圧倒していた彼女。      そんな非日常的な光景に驚いたんじゃない。  彼女がどんな姿をしていても関係ない。おそらく泥にまみれていても決して変わりはしないだろう。    俺が感動したモノは、今もこうして目の前にいる。     「――――――――」  だから呼吸さえ忘れて、その姿を眺め続けた。  マスターも聖杯戦争もない。  この一瞬だけで、本当に―――自分は、セイバーという少女の全てを認めてしまっていた。  それがどれほどの時間だったのか。  セイバーは眠りから覚めるように目蓋を開く。   「――――あ」    残念そうな俺の声は、やけに大きく道場に響いた。  それに気が付いたのか、セイバーは音もなく立ち上がる。 「…………」  何を言うべきか考えつかないまま、彼女へと歩み寄る。 「目が覚めたのですね、シロウ」  落ち着いた声。  染みいるように響く彼女の声は、この道場にあっている。 「あ―――ああ。ついさっき、目が覚めた」  うまく働かない頭で答える。 「シロウ? 顔色が優れないようですが、やはり体調は悪いのですか?」 「あ、ち、違う……! 体調はいい、すごくいい……!」  慌てて身を引いて、セイバーから離れる。 「?」  不思議そうに首をかしげる彼女から目を逸らして、ともかくバクバクいってる心臓を落ち着かせた。 「……落ち着け、なに緊張してんだ俺は――――!」  深呼吸する。  ……けど、すぐには収まりそうにないというか、収まりなんかつかない気がする。 「……ああもう、なんだって着替えてるんだよ、アイツ……」  セイバーの姿は昨日とは一変していた。  あの鎧姿とは正反対の、いたって普通の服装だ。  それが意外というか、あんまりにも現実感がありすぎて、困る。  ……とにかく、彼女はとんでもない美人だ。  それは昨日で知っていたつもりだったが、今さらに思い知らされた。 「シロウ」  目があった途端、緊張する自分がわかる。  が、黙り込む為に捜していた訳じゃない。  彼女は苦手だが、だからといって黙っていたら一生このままだ。 「セイバー、だったよな。こうやって落ち着いて話すのは初めてだけど―――」  意を決して話しかける。    ――――と。 「シロウ。話の前に、昨夜の件について言っておきたい事があります」  さっきまでの穏やかさが嘘みたいな不機嫌さで、俺の言葉を遮った。 「―――? いいけど、なんだよ話って」 「ですから昨夜の件です。  シロウは私のマスターでしょう。その貴方があのような行動をしては困る。戦闘は私の領分なのですから、シロウは自分の役割に徹してください。自分から無駄死にをされては、私でも守りようがない」  きっぱりと言うセイバー。  ―――それで、さっきまでの緊張はキレイさっぱりなくなった。 「な、なんだよそれ! あの時はああでもしなけりゃおまえが斬られてたじゃないか!」 「その時は私が死ぬだけでしょう。シロウが傷つく事ではなかった。繰り返しますが、今後あのような行動はしないように。マスターである貴方が私を庇う必要はありませんし、そんな理由もないでしょう」  淡々と語る少女。  その姿があんまりにも事務的で、 「な―――バカ言ってんな、女の子を助けるのに理由なんているもんか……!」  知らず、そんな条件反射をしてしまった。  怒鳴られて驚いたのか、セイバーは意表を突かれたように固まったあとまじまじと、なんともいえない威厳でこっちを見つめてくる。 「うっ……」  真面目に見つめられて、わずかに後退する。  なんか、自分がすごく場違いな台詞を言ったな、と思い知らされて恥ずかしくなってしまった。 「と、ともかくうちまで運んでくれたのは助かった。それに関しては礼を言う」 「それはどうも。サーヴァントがマスターを守護するのは当たり前ですが、感謝をされるのは嬉しい。シロウは礼儀正しいのですね」 「いや。別に礼儀正しくなんかないぞ、俺」    そんな事より、今ははっきりさせなくちゃいけない事がある。  本当なら昨日、帰ってから訊くべきだった事。  彼女は本当に俺なんかのサーヴァントで、  本当に―――この戦いに参加するのかということを。 「話を戻すぞセイバー。……あ、いや、改めて訊くけど、おまえの事はセイバーって呼んでいいのか?」 「はい。サーヴァントとして契約を交わした以上、私はシロウの剣です。その命に従い、敵を討ち、貴方を守る」  セイバーはわずかな躊躇いもなく口にする。  彼女の意思には疑問を挟む余地などない。 「俺の剣になる、か。それは聖杯戦争とやらに勝つ為にか」 「? シロウはその為に私を呼びだしたのではないのですか」 「違う。俺がおまえを呼びだしたのは――――」  ただの偶然なんだ、とは言えなかった。  いや、そもそも自分は呼び出してさえいない。  セイバーは俺のピンチに勝手に現れ、そして、勝手に救ってくれただけだ。  その結果が今の状況。  セイバーのマスターになって、聖杯戦争という殺し合いに巻き込まれた。  そこには一つだって、俺の意思は挟まれていない。  俺はただ分不相応の戦いに巻き込まれた、半人前の魔術師で―――― 「―――っ、それがどうした。  ……どのみち戦うしかないって覚悟はしたんだ。今更、泣き言なんて言ってられるか」  かすかに頭を振って、つまらない弱音を殺す。  ―――これで終わりだ。  一度でも戦うと口にしたんだ。  なら逃げる事なんて出来ない。  弱音を口にするのも思うのもこれで最後。  どのような形であれ、俺は戦うと決めたんだから。 「シロウ?」 「―――いや、なんでもない。  けどセイバー、俺についても勝ち目は薄いぞ。俺は遠坂みたいに知識も力もないから、明日にでも昨日みたいな事になりかねない。それでもいいのか」 「それは戦う意思がない、という事ですか」 「戦う意思はある。ただ勝算がないから、そんな俺に付いていいのかって言いたいんだ。  経過はどうあれ、これは俺が始めると決めた戦いだ。  だから――――」  俺の代わりに誰かが傷つくのは、違うと思う。  いくら力不足だからってセイバーに戦わせて、  あんな――――    あんな光景を繰り返させるなんて、我慢できない。 「私のマスターは貴方です、シロウ。これはどうあっても変わらない。サーヴァントにマスターを選ぶ自由はないのですから」 「――――――――」  それはそうだ。  だからこそ、セイバーは俺のサーヴァントになっている。  なら俺は、自分に出来る範囲でセイバーに負担をかけないようにするしかない。 「……分かった。それじゃ俺はおまえのマスターでいいんだな、セイバー」 「ええ。ですがシロウ、私のマスターに敗北は許さない。  貴方に勝算がなければ私が作る。  可能である全ての手段を用いて、貴方には聖杯を手に入れて貰います」  聖杯を手に入れる為、か。  遠坂はサーヴァントにも叶えたい願いがあると言った。  それはこのセイバーだって例外ではないんだろう。  だからこそここまで迷いがない。  だが、それは。 「……待ったセイバー。  可能である全ての手段、と言ったな。それは勝つ為には手段を選ばないって事か。たとえば、力を得る為に人を襲うと、か――――」  最後まで、口にできない。  セイバーは敵を見るかのように俺を見つめている。 「シロウ。それは可能である手段ではありません。  私は私が許す行為しか出来ない。自分を裏切る事は、私には不可能です。剣を持たぬ人間に傷を負わせる事など、騎士の誓いに反します」 「ですが、マスターが命じるのであれば従うしかありません。その場合、私に踏みいる代償として、その刻印を一つ頂く事になりますが」  怒りさえ籠もった声に圧倒される。 「――――――――」  それでも、嬉しくて胸をなで下ろした。  あまりの強さと迷いのなさに戦闘機械のようなイメージがあったけど、セイバーは冷酷な殺人者ではないと判って。 「―――ああ、そんな事は絶対にさせない。  セイバーの言う通り、俺たちは出来る範囲でなんとかするしかないからな。……本当にすまなかった。知らずに、おまえを侮辱しちまった」 「ぁ……いえ、私もマスターの意図が掴めずに早合点してしまいました。シロウは悪くないのですから、頭をあげてくれませんか……?」 「え? ああ、思わず謝ってた」  顔をあげる。 「――――――――」  セイバーは何がおかしかったのか、わずかに口元を緩めていた。 「?」  まあ、笑ってくれるのは嬉しいんで追及するのはやめておこう。 「……っと、言い忘れていた。  出来る範囲でなんとかするって言っただろ。その一環として、しばらく遠坂と協力する事になったんだ。ほら、昨日一緒にいた、アーチャーのマスター」 「凛ですか? ……そうですね、確かにそれは賢明な判断です。シロウがマスターとして成熟するまで、彼女には教わるものがあるでしょう」  ……良かった。  セイバーが同意してくれれば、大手を振って遠坂と協力できる。  あと、どうしても今ここで訊かなきゃ気が済まないっていう事は――――      あれだけの傷を負ったセイバーの体が気にかかる。 「それよりセイバー。  ……その、体は大丈夫か? バーサーカーにやられた傷、深かっただろ」 「……? 私の体は見ての通りですが。  確かにあの傷は敗北に至るものでしたが、致命的ではなかった。バーサーカーが立ち去った後、一時間ほどで治療を済ませました」 「え……じゃあセイバーはもう完全に元通りなのか……?」 「無論です。ですが本調子、という訳でもありません。  バーサーカーの一撃は単純なものだったので治療できましたが、ランサーの宝具による傷は別です。  あの槍は特殊な呪いを帯びているのでしょう。彼につけられた傷は、まだ完全に治りきっていません」 「――――――――」  ……治りきっていない、か。  とてもそうは見えないが、セイバーは見ての通り痛みを口にするヤツじゃない。  セイバーと戦っていく以上、よく気を配って彼女の体を気遣わないといけないみたいだ。    ―――やはり、セイバーの本当の名前についてだろう。 「セイバー。遠坂に教えて貰ったんだが、サーヴァントは英霊を召喚して使役する魔術なんだろ。  なら―――セイバーは“セイバー”っていうクラス名じゃない、本当の名前があるんだよな?」 「はい。セイバーというのはこの時代における私の存在意義を表すものです。シロウのような、個人を示す名称ではありません」 「そっか。ならセイバーはホントはなんて言うんだ?  遠坂は自分のサーヴァントが何処の英雄なのか、知っておかないと戦いにならないって言ってたんだが」  サーヴァントは英霊だ。  その正体はあらゆる時代で名を馳せた英雄である。  彼らはクラス名で正体を隠し、自らの手の内をも隠している。  サーヴァントの真の名はおいそれと知られてはならないもの。  だが、同時にマスターだけは知っておかなければならない事でもあるのだ。  何故なら、英霊の正体が判らなければ正確な戦力が判らない。  マスターとサーヴァントは一心同体。  どちらかが隠し事なんてしていたら、まともに戦える筈がない。    戦える筈がないのだが―――― 「―――シロウ。その件なのですが、どうか無礼を許してほしい。  召喚されたサーヴァントは、まずマスターに真名を告げなくてはならない。……その誓約を、私は果たす事ができません」 「セイバー……? 誓約を果たせないって、どうして?」 「私なりに考えた結果です。いかにシロウが私の真名を隠そうとしても、シロウから知識を奪う術は多くあるでしょう。  シロウの魔術抵抗はそう高くありませんから、敵が優れた術者ならば精神介入も容易い。敵の魔術にかかれば、貴方の意思に反して私の真名が明かされてしまう。  それを警戒して、シロウの知識に私の名を入れておきたくないのです」 「あ、そういうコトか。そうだよな、暗示をかけられたら俺なんて一発だもんな」  それに、真名を明かすのは普通のマスターとサーヴァントの関係だ。  セイバーの真名を知ったところで俺には有効な作戦は思いつかないだろうし、なによりあまり興味がなかった。 「ああ、そういう事なら秘密にしておこう。俺が未熟な分、注意深くやっていかないとな」 「そういって貰えると助かります。……もっとも、私自身はそう高名な者ではありません。バーサーカーに比べれば数段ランクは落ちるでしょうし、知られたところでどうという事はないでしょうが」  無念そうに呟くセイバー。  ……ちょっと意外だ。セイバーも人間らしいところがあるというか、英雄としてバーサーカーに劣っている事を悔しがってる。 「いいんじゃないか? 切り札は隠しておいてこそ切り札だろ。マスターがこんなだからさ、セイバーが工夫しようとしているのは判るよ。  ……それとバーサーカーだけど、アレは反則だろ。  セイバーが落ち込む事はないし、それに―――俺から見たら、セイバーは全然負けてない。あんな傷を負ってたのに真っ正面から打ち合ってたじゃないか」 「そうですね。昨夜は不覚をとりましたが、傷が癒えれば違った結果になるでしょう」 「え―――――あ、ああ。だと、いいんだけど」  カラ返事をして、思わず視線を逸らす。  ……今のは、不意打ちだった。  セイバーのヤツ、笑うと、その――――    と。  入り口の方で、何か重い荷物が落ちる音がした。 「どすん?」  はてな、と振り返る。  そこには、  大きなボストンバックをおいた遠坂の姿があった。 「はい―――?」  思考が停止する。  帰った筈の遠坂が道場にやってきて、しかも私服で、なんであんな荷物を持っているのだ―――? 「……むむむ? 何しにきたんだ遠坂?」 「何って、家に戻って荷物取ってきたんじゃない。今日からこの家に住むんだから当然でしょ」 「っ……!!!!?  す、住むって遠坂が俺の家に…………!!!?」 「協力するってそういう事じゃない。……貴方ね、さっきの話って一体なんだったと思ったわけ?」 「あ―――――――う」  びっくりして声が出ない。  何か。何か反論しないと、とんでもないコトになっちまうっていうのに、頭がうまく働いてくれない。 「私の部屋、どこ? 用意してないんなら自分で選ぶけど」  容赦なく話を進めていくトンデモ〈侵略者〉《インベーダー》。 「あ――――いや、待った、それは――――」  道徳上まずいのではなかろうか。  いいか、遠坂は学校のアイドルだぞ? そんなのがうちにいるだけでもパニックなのに、泊ったり住まわれたりしたら気が気じゃないっていうか藤ねえに殺されるっていうか、まさかアイツ俺を混乱させてマスターを一人減らそうと画策してるんじゃなかろうな……!? 「あ、ついでに彼女の部屋も用意したら? 私のアーチャーと違って士郎のサーヴァントはかさばるんだから、ちゃんと寝る場所を与えておかないと。ま、布団一組あればノープロブレムって言うんなら別にいいけど」  なっ……それって……一緒の布団で休むって……ことか!? 「す、するかバカッ! 人が黙ってると思ってなに言いだすんだよおまえ! んなコトするわけないだろう、セイバーは女の子じゃないかっ……!」 「―――論点が違うけど、ま、いっか。ですってセイバー。  士郎は女の子と同じ部屋は嫌だってさ」 「……………………」  じっ、と。  すぐ隣で、なにやら難しい顔をするセイバー。 「困ります、シロウ。サーヴァントはマスターを守護する者。睡眠時は最も警護すべき対象なのですから、同じ部屋でなければ守れない」 「そんなこと言われてもこっちはもっと困る! なに考えてんだおまえら、それでも女か!」 「………………」 「………………」  だから。  なんでそこで黙って俺を見るわけ、二人とも。 「……ふうん。サーヴァントはサーヴァント、人間扱いする必要はないけどね。士郎にそんなこと言っても無駄か」 「――――」  反論しようとした口が止まる。  さっき、居間で遠坂と話していた時の違和感が蘇る。    ―――っていうか。  違和感の正体がはっきりと理解できた。 「……ちょっと待て遠坂。おまえ、いつのまに俺を名前で呼び捨てるようになってんだよ」 「あれ、そうだった? 意識してなかったから、わりと前からそうなってたんじゃない?」 「………なってた。けっこう前から、そんな気がする」 「そう。イヤなら気をつけるけど、士郎はイヤなの?」  こっちの気も知らずに、遠坂はごく平然と言いやがる。  ……まったく、おまえの言う通りだ一成。  遠坂凛っていうのは、なんかとんでもなく魔性の女な気がする。 「……いい、好きにしろ。遠坂の呼びやすい方で構わない」 「そ? ならそういうコトで」 「凛、話を切らないでほしい。私とシロウの部屋について、まだ結論が出ていない」 「あ、そうだったそうだった。けど士郎がこの様子だと相部屋は難しいわね。サーヴァントを人間扱いしてもいいことなんてないけど、士郎が嫌だって言うんだから諦めたら?」 「それは違う。シロウは困ると言っただけで、嫌だとは言っていない」 「だってさ。そのあたりどうなの、士郎?」 「――――――――」  ちょっと待ってくれ。  なんだってこう、たった一日で人のことを士郎シロウと拾ってきた猫みたいに連呼するのか。  ……ああいや、問題はそんなコトじゃなくて、セイバーの部屋のコトだ。 「シロウ、もう一度訊きます。睡眠中の警護はサーヴァントの役割です。マスターとして、自分の立場は判っていると思いますが」  う……そんな睨まれても、ダメなもんはダメなんだってば。 「……駄目だ。セイバーには別の部屋を用意する。その、出来るだけ近い部屋を用意するから、それで勘弁してくれ」 「――――――――」 「だ、駄目だぞすごんでも! とにかく男としてこればっかりは譲らないからな、セイバーも少しは自分の立場ってものを考えろってんだ……!」 「? ですから、私はサーヴァントとしてマスターを守護しようと――――」 「そうじゃなくて、自分のコトだっての……! ああもう、分からないんならいい! それ以上言うんなら令呪を使ってでも言うコトをきかせるからな……!」  ふー、とうなってセイバーを威嚇する。 「……そのような事で令呪を使われては困る。三つしかない命令権を、自分を守るな、などという事に使われては先が見えない」 「そうね。間違いなく、そんなマスターは士郎が最初で最後でしょう」  バカ言うない。俺だってこんなコトに令呪を使いたくなんかない。 「……わかりました、マスターの方針に従います。ですが敵に襲われた時はどうするのです。アサシンなどは気配なく標的に忍び寄ってくる。そういった時、私が駆けつけるまでにシロウは自分を守れるのですか」 「それは――――」  なんとかする、とは断言できない。  ランサーの時は上手くいったけど、あんな偶然はそれこそ二度とないだろう。 「それはあり得ないわね。この屋敷には外敵が侵入すると警報が鳴る結界が張ってある。襲撃は避けられないけど、奇襲ならすぐに察知できるわ。それなら士郎が襲われる前に駆けつけられるだろうし、セイバーは好きな部屋に陣取ればいいんじゃない?」 「……それは、たしかにそうですが、しかし」 「なんなら士郎の部屋の隣でいいじゃない。一緒の部屋でなければいいんでしょ、衛宮くんは?」  じと目で、これみよがしに“衛宮くん”なんて発音する遠坂。 「遠坂、そういうの詭弁っていうんだぞ」 「貴方の為に言ってるんだから正論よ。さーて、それじゃわたしの部屋はどこにしよっかなー」  話はここまで、とばかりに荷物を持って屋敷へ歩いていく遠坂。  その背中は、修学旅行で部屋決めをする生徒みたいに楽しげだ。 「……………………」 「――――――――」  ……恐ろしい。あまりの唯我独尊ぶりに、二人して呆然と見送ってしまった。  道場から出て屋敷に戻る。  とりあえず、セイバーに好きな部屋を選んでもらう為にも、屋敷を案内しなければなるまい。 「こっちが和室。裏側にまわると居間とか風呂とか、そういった共通施設に出る。で、縁側をずっと歩いてあっちの別棟に行くと客間がある。……遠坂はどうもそっちに行ったみたいだな」  説明しながら歩く。  聞いているのかいないのか、セイバーは頷きもせずに付いてきていた。 「屋敷の見取りはいいです。それよりシロウの部屋はどこなのですか?」 「俺の部屋はこっち。わりと奥まったところにある」 「ではそちらに案内してください。内密に話があります」 「内密に話……?」  それは遠坂に聞かれたくない、という事か。  遠坂は別棟に行っているからここでも構わないと思うが、アイツだってマスターだ。  壁に耳あり障子に目ありというし、確かに縁側で内緒話もない。 「ほら。ここが俺の部屋」 「な―――これがシロウの部屋、ですか?」 「?」  部屋に入るなり、セイバーは目を丸くして驚いている。 「どうした? セイバーをびっくりさせるような物なんかないと思うけど」 「いえ、びっくりさせるような物がないというより、何もないではないですか。本当にここが貴方の部屋なのですか、シロウ」 「セイバーを騙して俺に得なんかないだろ。ここには寝に帰ってくるだけだし、物がないのは当たり前だ」 「……そうですか。意外でした、シロウはもっと雑多な人となりだと思っていましたから」  セイバーは和室に入って、壁や襖に手をあてて感触を確かめる。  それは物に触れれば、その思い出を感じ取れるかのような優しい仕草だった。 「……良かった。寂しい部屋ですが、無碍に扱われている訳ではない。殺風景ですが、ここはここで温かい場所なのですね」 「温かい? ……ああ、まあそうかな。屋敷の作りなのか、この部屋って夏は涼しく冬は暖かなんだ。親父もいい部屋をとったな、なんて感心してたし」 「ええ。部屋は持ち主の心象ですから。シロウの心の有り方に不安を覚えましたが、これなら今までの印象とそう変わりはしないでしょう」  安心したようにセイバーは言うが、彼女が何を言いたいのか俺には判らない。 「それで? 内緒の話ってなんだよ、セイバー」 「悪い話です。少なくとも、他のマスターには知られたくはない」 「……む」  セイバーの面持ちからするに、悪い話ってのは俺たちの欠点のコトなんだろう。 「……そうか、話の趣旨は判った。真剣に聞くから、言ってくれ」 「ええ、それなのですが……おそらく、これはもう私たちでは解決できない事です。  私たちサーヴァントはマスターからの魔力提供によって体を維持する。だからこそサーヴァントはマスターを必要とするのですが―――」 「……俺が半端なマスターだから、セイバーが体を維持するのに必要なだけの魔力がないって事か?」 「違います。たとえ少量でもマスターから魔力が流れてくるのなら問題はないのです。ですが、シロウからはまったく魔力の提供がありません。本来繋がっている筈の霊脈が断線しているのです」 「――――」  えっと、それはつまり。  ガソリン役である俺が、エンジン役であるセイバーに燃料を送っていない、という事なのか。 「セイバー、それは」 「シロウ自身の欠点ではありません。おそらく召喚時に問題が起きたのでしょう。何らかの不手際があって、本来繋がる筈のラインが繋がらなかったようです」 「――――召喚時の不手際って」  セイバーが呼び出されたアレは、召喚なんていうもんじゃなかった。  アレはただの事故だ。  たしかにあんな召喚をしたんだから、セイバーに異状がない方がおかしいだろう。 「……待て。それじゃあどうなるんだ。魔力を回復できないって事は、セイバーはすぐに消えてしまうのか」 「ええ。私が持つ魔力を使い切れば、この世界に留まる事はできなくなるでしょう」 「召喚されてから既に三回の戦闘を行いました。  私の治癒能力も蘇生魔術ですから、傷を負えば魔力の消費も早くなる。……そうですね、昨夜までで成熟した魔術師十人分の魔力は消費したでしょう」 「――――」  愕然とした。  戦うたびに魔力は失われ、セイバーにはそれを回復する手段がない。  既にそれだけの魔力を消費したのなら、あとどのくらい、セイバーはこうしていられるのか――― 「判ってもらえましたか、マスター。  その為、私は少しでも魔力の消費を抑えなければならない。供給がないのなら、あとは睡眠する事で魔力の消費を抑えるしかありません」 「睡眠……眠れば魔力は回復するのか?」 「……判りません。ですが最低でも、眠っている間は魔力を使わない。  ですから、これから出来る限りの睡眠を許してほしいのです。常にシロウを守る事はできなくなりますが、それも勝利の為と受け入れてほしい」 「はあ――――」  大きく胸を撫で下ろす。  ……良かった。そんな事でいいんなら、いくらでも受け入れる。 「そんなのいいに決まってるだろ。辛くなったらセイバーは休んでいいんだ。それで少しでも長くいられるんだったら、その方がずっといい」 「では、今後は頻繁に眠りに入りますが、その間は決して屋敷から離れないように。遠く離れた場所でシロウが襲われた場合、私はすぐに駆けつけられない」 「空間を跳躍するなら話は別ですが、そんな能力を持つサーヴァントは希です。  もし離れた場所で私を呼ぶのなら、令呪のバックアップが必要になります。ですから、出来るだけ私から離れないようにしてほしい」 「…………む」  そうしたいのは山々だけど、簡単には頷けない。  セイバーといつも一緒にいる、なんて生活が想像できないし、こっちにだって都合ってもんがある。 「……努力はする。けど本当にそれだけでいいんだな?  眠っていれば、その――――」 「問題はないでしょう。このような事はなかったので断言はできませんが、前回も総戦闘数は七回に満たなかった。私が倒さずとも、サーヴァントはサーヴァントによって減っていくのですから」 「そうか。別に全員が全員とやりあわなくちゃいけないって訳じゃないんだ。うまくすれば、簡単にこの戦いを終わらせる事ができる」  俺が戦うのは人としての節度を外したヤツだけだ。  まさか七人全員がそんなヤツな訳がない。  遠坂だってやる気満々だけど、アイツは魔術師としてのルールをきっちりと守りきるだろう。  だからあと五人―――残りの奴らがマトモならこっちから戦う事はないんだ。  セイバーは前回七回に満たなかったっていうし、今回も―――― 「あれ?」  ちょっと待て。  前回、七回に、満たなかった? 「待ってくれセイバー。その、以前もセイバーだったのか? いや、そうじゃなくて前回も聖杯戦争に参加してたっていうのか……!?」 「私がこの聖杯の争いに参加するのは二度目です。  その時も私はセイバーでした。中には複数のクラス属性を持つ英霊もいるようですが、私はセイバーにしか該当しません」 「――――――――」  遠坂は言っていた。  七人のサーヴァントの中で、最も優れたサーヴァントはセイバーだと。  それを二回も連続で、この少女は成り得たという。 「それじゃ以前は、その……最後まで、残ったのか」 「無論です。前回は今のような制約はありませんでしたから、他のサーヴァントに後れを取る事もなかった」  当然のように言うセイバー。  それで、今更ながら思い知らされた。  この手には、あまりにも不相応な剣が与えられたのだという事を。 「……まいったな。それじゃあ不満だろセイバー。俺みたいなのがマスターだと」 「私は与えられた役割をこなすだけです。聖杯さえ手に入るのであれば、マスターに不満はありません」 「そうか。それは助かるけど、それでも――――」  以前は万全だったのに、今回はもう二度も傷を負っている。  魔力を回復できない、という状態において、彼女は魔力の残量を気にしながら戦わなくてはならない。  その不自由な、足かせをつけられた戦いの結果が、    あの、赤い血に染まった姿だった。 「――――――――」  それが脳裏にこびりついている。  この、俺より小さくて華奢な少女が、無惨にも傷ついた映像が。 「シロウ。その後悔は、余分な事です」 「え――――?」  セイバーの声で我に返る。 「私も負け知らずだった訳ではありません。  私は勝ちきれなかったからこそ、こうして貴方のサーヴァントになっている。傷を負う事には慣れていますから、貴方が悔やむ事などない」 「慣れてるって……あんな、死ぬような怪我でもか」 「ええ。剣を取るという事は傷つくという事です。それは貴方も同じでしょう。私だけが傷つかない、という道理はないと思いますが」 「それは―――そうだけど。それじゃ怪我をしても構わないって言うのか、セイバーは」 「それが死に至る傷でなければ。死んでしまってはマスターを守れなくなりますから」 「……なんだそれ。マスターを守る為なら傷を負ってもかまわない、なんて言うのかおまえは」 「それがサーヴァントの役割ですから。  ……確かに凛の言葉は正論ですね。サーヴァントを人間として扱う必要などない。私たちはマスターを守るための道具です。貴方も、それを正しく把握するべきだ」  そう言い切って、セイバーは〈襖〉《ふすま》の方へ歩いていく。  襖の向こうは隣の部屋だ。  俺にはこの広さだけで十分なので、隣の部屋は使っていなかった。 「睡眠をとります。夕食時には起きますので、外出するのなら声をかけてください」  す、と静かに襖が引かれ、閉められる。          ―――私たちはマスターを守るための道具です。  貴方も、それを正しく把握するべきだ―――― 「……なんだ、それ」  なんか無性に頭にくる。  だっていうのに声もかけられず、一人立ちつくしてセイバーの言葉を噛みしめていた。    ――――やはり、あの服装の事だろう。 「ところでセイバー。一つ訊きたい事があるんだけど」 「はい、なにか?」 「その服はどうしたんだ。昨日とはまるで違ったから驚いた」  っていうか、今も驚いているけど。 「凛が用意してくれた物です。私は霊体に戻る事ができませんから、せめて人目につかないようにと」 「――――そうか。そうだったのか」 「それがなにか?」 「いや、うん、だから」  似合ってる、と言おうとして止めた。  そんなこと口にしたら、顔がトマトみたいに真っ赤になる。 「シロウ?」 「あ……いや、その、だからほら、えっと、昨日の鎧!  そう、あの鎧はどうしたのかなって思って!」 「それでしたら心配はいりません。武装の有無は自由なので、この服でいる時は外しているのです。  あの鎧は私の魔力で編まれたもの。必要に応じて呼び出せます」 「――――――――」  へえ、と感心するしかない。  ……まあともかく、ずっと鎧姿でいられても人目につくのは事実だ。  だからセイバーが今の格好なら、〈切嗣〉《オヤジ》の親戚ってコトでご近所の目を誤魔化せるだろう。  ……って、誤魔化し通すしかないんだけど。  と。  入り口の方で、何か重い荷物が落ちる音がした。 「どすん?」  はてな、と振り返る。  そこには、  大きなボストンバックをおいた遠坂の姿があった。 「はい―――?」  思考が停止する。  帰った筈の遠坂が道場にやってきて、しかも私服で、なんであんな荷物を持っているのだ―――? 「……むむむ? 何しにきたんだ遠坂?」 「何って、家に戻って荷物取ってきたんじゃない。今日からこの家に住むんだから当然でしょ」 「なっ……!!!!?  す、住むって遠坂が俺の家に…………!!!?」 「協力するってそういう事じゃない。……貴方ね、さっきの話って一体なんだったと思ったわけ?」 「あ―――――――う」  びっくりして声が出ない。  何か。何か反論しないと、とんでもないコトになっちまうっていうのに、頭がうまく働いてくれない。 「私の部屋、どこ? 用意してないんなら自分で選ぶけど」  容赦なく話を進めていくトンデモ〈侵略者〉《インベーダー》。 「あ――――いや、待った、それは――――」  道徳上まずいのではなかろうか。  いいか、遠坂は学校のアイドルだぞ? そんなのがうちにいるだけでもパニックなのに、泊ったり住まわれたりしたら気が気じゃないっていうか藤ねえに殺されるっていうか、まさかアイツ俺を混乱させてマスターを一人減らそうと画策してるんじゃなかろうな……!? 「あ、ついでに彼女の部屋も用意したら? 私のアーチャーと違って士郎のサーヴァントはかさばるんだから、ちゃんと寝る場所を与えておかないと。ま、布団一組あればノープロブレムって言うんなら別にいいけど」  なっ……それって……一緒の布団で休むって……ことか!? 「す、するかバカッ! 人が黙ってると思ってなに言いだすんだよおまえ! んなコトするわけないだろう、セイバーは女の子じゃないかっ……!」 「―――論点が違うけど、ま、いっか。ですってセイバー。  士郎は女の子と同じ部屋は嫌だってさ」 「……………………」  じっ、と。  すぐ隣で、なにやら難しい顔をするセイバー。 「困ります、シロウ。サーヴァントはマスターを守護する者。睡眠時は最も警護すべき対象なのですから、同じ部屋でなければ守れない」 「そんなこと言われてもこっちはもっと困る! なに考えてんだおまえら、それでも女か!」 「………………」 「………………」  だから。  なんでそこで黙って俺を見るわけ、二人とも。 「……ふうん。サーヴァントはサーヴァント、人間扱いする必要はないけどね。士郎にそんなこと言っても無駄か」 「――――」  反論しようとした口が止まる。  さっき、居間で遠坂と話していた時の違和感が蘇る。    ―――っていうか。  違和感の正体がはっきりと理解できた。 「……ちょっと待て遠坂。おまえ、いつのまに俺を名前で呼び捨てるようになってんだよ」 「あれ、そうだった? 意識してなかったから、わりと前からそうなってたんじゃない?」 「………なってた。けっこう前から、そんな気がする」 「そう。イヤなら気をつけるけど、士郎はイヤなの?」  こっちの気も知らずに、遠坂はごく平然と言いやがる。  ……まったく、おまえの言う通りだ一成。  遠坂凛っていうのは、なんかとんでもなく魔性の女な気がする。 「……いい、好きにしろ。遠坂の呼びやすい方で構わない」 「そ? ならそういうコトで」 「凛、話を切らないでほしい。私とシロウの部屋について、まだ結論が出ていない」 「あ、そうだったそうだった。けど士郎がこの様子だと相部屋は難しいわね。サーヴァントを人間扱いしてもいいことなんてないけど、士郎が嫌だって言うんだから諦めたら?」 「それは違う。シロウは困ると言っただけで、嫌だとは言っていない」 「だってさ。そのあたりどうなの、士郎?」 「――――――――」  ちょっと待ってくれ。  なんだってこう、たった一日で人のことを士郎シロウと拾ってきた猫みたいに連呼するのか。  ……ああいや、問題はそんなコトじゃなくて、セイバーの部屋のコトだ。 「シロウ、もう一度訊きます。睡眠中の警護はサーヴァントの役割です。マスターとして、自分の立場は判っていると思いますが」  う……そんな睨まれても、ダメなもんはダメなんだってば。 「……駄目だ。セイバーには別の部屋を用意する。その、出来るだけ近い部屋を用意するから、それで勘弁してくれ」 「――――――――」 「だ、駄目だぞすごんでも! とにかく男としてこればっかりは譲らないからな、セイバーも少しは自分の立場ってものを考えろってんだ……!」 「? ですから、私はサーヴァントとしてマスターを守護しようと――――」 「そうじゃなくて、自分のコトだっての……! ああもう、分からないんならいい! それ以上言うんなら令呪を使ってでも言うコトきかせるからな……!」  ふー、とうなってセイバーを威嚇する。 「……そのような事で令呪を使われては困る。三つしかない命令権を、自分を守るな、などという事に使われては先が見えない」 「そうね。間違いなく、そんなマスターは士郎が最初で最後でしょう」  バカ言うない。俺だってこんなコトに令呪を使いたくなんかない。 「……わかりました、マスターの方針に従います。ですが敵に襲われた時はどうするのです。アサシンなどは気配なく標的に忍び寄ってくる。そういった時、私が駆けつけるまでにシロウは自分を守れるのですか」 「それは――――」  なんとかする、とは断言できない。  ランサーの時は上手くいったけど、あんな偶然はそれこそ二度とないだろう。 「それはあり得ないわね。この屋敷には外敵が侵入すると警報が鳴る結界が張ってある。襲撃は避けられないけど、奇襲ならすぐに察知できるわ。それなら士郎が襲われる前に駆けつけられるだろうし、セイバーは好きな部屋に陣取ればいいんじゃない?」 「……それは、たしかにそうですが、しかし」 「なんなら士郎の部屋の隣でいいじゃない。一緒の部屋でなければいいんでしょ、衛宮くんは?」  じと目で、これみよがしに“衛宮くん”なんて発音する遠坂。 「遠坂、そういうの詭弁っていうんだぞ」 「貴方の為に言ってるんだから正論よ。さーて、それじゃわたしの部屋はどこにしよっかなー」  話はここまで、とばかりに荷物を持って屋敷へ歩いていく遠坂。  その背中は、修学旅行で部屋決めをする生徒みたいに楽しげだ。 「……………………」 「――――――――」  ……恐ろしい。あまりの唯我独尊ぶりに、二人して呆然と見送ってしまった。  道場から出て屋敷に戻る。  とりあえず、セイバーに好きな部屋を選んでもらう為にも、屋敷を案内しなければなるまい。 「こっちが和室。裏側にまわると居間とか風呂とか、そういった共通施設に出る。で、縁側をずっと歩いてあっちの別棟に行くと客間がある。……遠坂はどうもそっちに行ったみたいだな」  説明しながら歩く。  聞いているのかいないのか、セイバーは頷きもせずに付いてきていた。 「屋敷の見取りはいいです。それよりシロウの部屋はどこなのですか?」 「俺の部屋はこっち。わりと奥まったところにある」 「ではそちらに案内してください。内密に話があります」 「内密に話……?」  それは遠坂に聞かれたくない、という事か。  遠坂は別棟に行っているからここでも構わないと思うが、アイツだってマスターだ。  壁に耳あり障子に目ありというし、確かに縁側で内緒話もない。 「ほら。ここが俺の部屋」 「な―――これがシロウの部屋、ですか?」 「?」  部屋に入るなり、セイバーは目を丸くして驚いている。 「どうした? セイバーをびっくりさせるような物なんかないと思うけど」 「いえ、びっくりさせるような物がないというより、何もないではないですか。本当にここが貴方の部屋なのですか、シロウ」 「セイバーを騙して俺に得なんかないだろ。ここには寝に帰ってくるだけだし、物がないのは当たり前だ」 「……そうですか。意外でした、シロウはもっと雑多な人となりだと思っていましたから」  セイバーは和室に入って、壁や襖に手をあてて感触を確かめる。  それは物に触れれば、その思い出を感じ取れるかのような優しい仕草だった。 「……良かった。寂しい部屋ですが、無碍に扱われている訳ではない。殺風景ですが、ここはここで温かい場所なのですね」 「温かい? ……ああ、まあそうかな。屋敷の作りなのか、この部屋って夏は涼しく冬は暖かなんだ。親父もいい部屋をとったな、なんて感心してたし」 「ええ。部屋は持ち主の心象ですから。シロウの心の有り方に不安を覚えましたが、これなら今までの印象とそう変わりはしないでしょう」  安心したようにセイバーは言うが、彼女が何を言いたいのか俺には判らない。 「それで? 内緒の話ってなんだよ、セイバー」 「二つあります。そのどちらもシロウと私だけの隠し事にしたいのですが、いいですね?」 「? いや、セイバーがそうしたいっていうんなら構わないけど、できれば先に内容を言ってくれ。いい話か悪い話か判断がつかない」 「どちらも悪い話です。少なくとも、他のマスターには知られたくはない」 「……む」  セイバーの面持ちからするに、悪い話ってのは俺たちの欠点のコトなんだろう。 「……そうか、話の趣旨は判った。真剣に聞くから、言ってくれ」 「はい。まず一つめ、召喚されたサーヴァントの最初の義務なのですが、これを果たせない事を許してほしい」 「? サーヴァントの最初の義務?」 「自身が何者であるかをマスターに告げる、という物です。凛から聞いてはいませんか?」 「何者であるか告げる――――ああ、セイバーの本当の名前の事か」  サーヴァントは英霊だ。  その正体はあらゆる時代で名を馳せた英雄である。  彼らはクラス名で正体を隠し、自らの手の内をも隠している。  サーヴァントの真の名はおいそれと知られてはならないもの。  だが、同時にマスターだけは知っておかなければならない事でもあるのだ。  何故なら、英霊の正体が判らなければ正確な戦力が判らない。  マスターとサーヴァントは一心同体。  どちらかが隠し事なんてしていたら、まともに戦える筈がない。  ――――とまあ、それは普通のマスターの事情だ。  セイバーの真名を知ったところで俺には彼女を扱えないし、なによりあまり興味がなかった。 「ふうん。いいけど、どうして?」 「私なりに考えた結果です。いかにシロウが私の真名を隠そうとしても、シロウから知識を奪う術は多くあるでしょう。  シロウの魔術抵抗はそう高くありませんから、敵が優れた術者ならば精神介入も容易い。敵の魔術にかかれば、貴方の意思に反して私の真名が明かされてしまう」 「なるほど、そりゃそうだ。暗示をかけられたら一発だもんな。いいよ、そういう事なら秘密にしておいてくれ」 「そういって貰えると助かります。……もっとも、私自身はそう高名な者ではありません。バーサーカーに比べれば数段ランクは落ちるでしょうし、知られたところでどうという事はないでしょうが」  無念そうに呟くセイバー。  ……ちょっと意外だ。セイバーも人間らしいところがあるというか、英雄としてバーサーカーに劣っている事に悔しがってる。 「いいんじゃないか? 切り札は隠しておいてこそ切り札だろ。マスターがこんなだからさ、セイバーが工夫しようとしているのは判るよ。  ……それとバーサーカーだけど、アレは反則だろ。  セイバーが落ち込む事はないし、それに―――俺から見たら、セイバーは全然負けてない。あんな傷を負ってたのに真っ正面から打ち合ってたじゃないか」 「そうですね。昨夜不覚をとりましたが、傷が癒えれば違った結果になるでしょう」 「だろ。よし、一つ目の話はこれで終わり。  二つ目の話っていうのは?」 「ええ、それなのですが……おそらく、これはもう私たちでは解決できない事です。  私たちサーヴァントはマスターからの魔力提供によって体を維持する。だからこそサーヴァントはマスターを必要とするのですが」 「……俺が半端なマスターだから、セイバーが体を維持するのに必要なだけの魔力がないって事か?」 「違います。たとえ少量でもマスターから魔力が流れてくるのなら問題はないのです。ですが、シロウからはまったく魔力の提供がありません。本来繋がっている筈の霊脈が断線しているのです」 「――――」  えっと、それはつまり。  ガソリン役である俺が、エンジン役であるセイバーに燃料を送っていない、という事なのか。 「セイバー、それは」 「シロウ自身の欠点ではありません。おそらく召喚時に問題が起きたのでしょう。何らかの不手際があって、本来繋がる筈のラインが繋がらなかったようです」 「――――召喚時の不手際って」  セイバーが呼び出されたアレは、召喚なんていうもんじゃなかった。  アレはただの事故だ。  たしかにあんな召喚をしたんだから、セイバーに異状がない方がおかしいだろう。 「……待て。それじゃあどうなるんだ。魔力を回復できないって事は、セイバーはすぐに消えてしまうのか」 「ええ。私が持つ魔力を使い切れば、この世界に留まる事はできなくなるでしょう」 「召喚されてから既に三回の戦闘を行いました。  私の治癒能力も蘇生魔術ですから、傷を負えば魔力の消費も早くなる。……そうですね、昨夜までで成熟した魔術師十人分の魔力は消費したでしょう」 「――――」  愕然とした。  戦う度に魔力は失われ、セイバーにはそれを回復する手段がない。  既にそれだけの魔力を消費したのなら、あとどのくらい、セイバーはこうしていられるのか――― 「判ってもらえましたか、マスター。  その為、私は少しでも魔力の消費を抑えなければならない。供給がないのなら、あとは睡眠する事で魔力の消費を抑えるしかありません」 「睡眠……眠れば魔力は回復するのか?」 「……判りません。ですが最低でも、眠っている間は魔力を使わない。  ですから、これから出来る限りの睡眠を許してほしいのです。常にシロウを守ることはできなくなりますが、それも勝利の為と受け入れてほしい」 「はあ――――」  大きく胸を撫で下ろす。  ……良かった。そんな事でいいんなら、いくらでも受け入れる。 「そんなのいいに決まってるだろ。辛くなったらセイバーは休んでいいんだ。それで少しでも長くいられるんだったら、その方がずっといい」 「では、今後は頻繁に眠りに入りますが、その間は決して屋敷から離れないように。遠く離れた場所でシロウが襲われた場合、私はすぐに駆けつけられない」 「空間を跳躍するなら話は別ですが、そんな能力を持つサーヴァントは希です。  もし離れた場所で私を呼ぶのなら、令呪のバックアップが必要になります。ですから、出来るだけ私から離れないようにしてほしい」 「…………む」  そうしたいのは山々だけど、簡単には頷けない。  セイバーといつも一緒にいる、なんて生活が想像できないし、こっちにだって都合ってもんがある。 「……努力はする。けど本当にそれだけでいいんだな?  眠っていれば、その――――」 「問題はないでしょう。このような事はなかったので断言はできませんが、前回も総戦闘数は七回に満たなかった。私が倒さずとも、サーヴァントはサーヴァントによって減っていくのですから」 「そうか。別に全員が全員とやりあわなくちゃいけないって訳じゃないんだ。うまくすれば、簡単にこの戦いを終わらせる事ができる」  俺が戦うのは人としての節度を外したヤツだけだ。  まさか七人全員がそんなヤツな訳がない。  遠坂だってやる気満々だけど、アイツは魔術師としてのルールをきっちりと守りきるだろう。  だからあと五人―――残りの奴らがマトモならこっちから戦う事はないんだ。  セイバーは前回七回に満たなかったっていうし、今回も―――― 「あれ?」  ちょっと待て。  前回、七回に、満たなかった? 「待ってくれセイバー。その、以前もセイバーだったのか? いや、そうじゃなくて前回も聖杯戦争に参加してたっていうのか……!?」 「私がこの聖杯の争いに参加するのは二度目です。  その時も私はセイバーでした。中には複数のクラス属性を持つ英霊もいるようですが、私はセイバーにしか該当しません」 「――――――――」  遠坂は言っていた。  七人のサーヴァントの中で、最も優れたサーヴァントはセイバーだと。  それを二回も連続で、この少女は成り得たという。 「それじゃ以前は、その……最後まで、残ったのか」 「無論です。前回は今のような制約はありませんでしたから、他のサーヴァントに後れを取る事もなかった」  当然のように言うセイバー。  それで、今更ながら思い知らされた。  この手には、あまりにも不相応な剣が与えられたのだという事を。 「……まいったな。それじゃあ不満だろセイバー。俺みたいなのがマスターだと」 「私は与えられた役割をこなすだけです。聖杯さえ手に入るのであれば、マスターに不満はありません」 「そうか。それは助かるけど、それでも――――」  以前は万全だったのに、今回はもう二度も傷を負っている。  魔力を回復できない、という状態において、彼女は魔力の残量を気にしながら戦わなくてはならない。  その不自由な、足かせをつけられた戦いの結果が、    あの、赤い血に染まった姿だった。 「――――――――」  それが脳裏にこびりついている。  この、俺より小さくて華奢な少女が、無惨にも傷ついた映像が。 「シロウ。その後悔は、余分な事です」 「え――――?」  セイバーの声で我に返る。 「私も負け知らずだった訳ではありません。  私は勝ちきれなかったからこそ、こうして貴方のサーヴァントになっている。傷を負う事には慣れていますから、貴方が悔やむ事などない」 「慣れてるって……あんな、死ぬような怪我でもか」 「ええ。剣を取るという事は傷つくという事です。それは貴方も同じでしょう。私だけが傷つかない、という道理はないと思いますが」 「それは―――そうだけど。それじゃ怪我をしても構わないって言うのか、セイバーは」 「それが死に至る傷でなければ。死んでしまってはマスターを守れなくなりますから」 「……なんだそれ。マスターを守る為なら傷を負ってもかまわない、なんて言うのかおまえは」 「それがサーヴァントの役割ですから。  ……確かに凛の言葉は正論ですね。サーヴァントを人間として扱う必要などない。私たちはマスターを守るための道具です。貴方も、それを正しく把握するべきだ」  そう言い切って、セイバーは〈襖〉《ふすま》の方へ歩いていく。  襖の向こうは隣の部屋だ。  俺にはこの広さだけで十分なので、隣の部屋は使っていなかった。 「睡眠をとります。夕食時には起きますので、外出するのなら声をかけてください」  す、と静かに襖が引かれ、閉められる。          ―――私たちはマスターを守るための道具です。  貴方も、それを正しく把握するべきだ―――― 「……なんだ、それ」  なんか無性に頭にくる。  だっていうのに声もかけられず、一人立ちつくしてセイバーの言葉を噛みしめていた。  縁側に腰をかけて、ぼんやりと青空を見上げる。  昼間っから眠ってしまったセイバーではないが、こっちも休憩が必要だった。  ……吐き気は治まったものの、体の具合は依然最悪。  おまけに、次から次へと予期せぬ展開を押しつけられて両肩がぐっと重い。 「―――――――ふう」  深呼吸をして、ぼんやりと庭を眺める。  とりあえず訊くべき事は訊いたが、右も左も判らない状況は変わっていない。  魔術師として先輩というか、ちゃんとした正規のマスターである遠坂はと言うと、 「ね、余ってるクッションとかない? あとビーカーと分度器」    こんな感じで、うちの家具の物色に余念がない。 「……クッションならとなりの客間のを持ってけ。  けどビーカーと分度器なんて、普通の家には置いてない」 「はあ? 信じられない、魔術師なら実験用具ぐらい置いておくものよ?」  文句だけ言って、忙しそうに別棟に戻っていく。 「……本当に本気みたいだな、遠坂のヤツ」  遠坂がうちに泊まる、というのはもう確定らしい。  さっき別棟の客室に行ったら、一番いい部屋に      “ただいま改装中につき、立ち入り禁止”    なんてふざけた札がかかっていたし。 「……うん。別棟なら遠いし、問題はないよな」  セイバーだけでも緊張するっていうのに、遠坂まで身近に居られたら気の休まる所がなくなってしまう。  別棟なら距離があるし、いくら廊下で繋がっているといっても隣の家みたいなものだ。こっちが近寄らなければ間違いなんて起こらないだろう。  ……あ、けど飯時は顔を合わせるよな。  それに風呂だってこっちにしかないんだから、ちゃんと話し合って使わないと。いや、それを言うならセイバーだって女の子なんだから――――   「ってバカ、なに考えてんだ俺は……!」    ぶんぶんと頭をふって、ばたん、と縁側に倒れ込んだ。 「――――はあ」  本日何度目かの深呼吸をして、ぼんやりと空を眺める。  疲れている為か、こうしているとすぐに眠気がやってくる。   「ああ、もうどうにでも――――」    なりやがれ、なんて捨て鉢になって目を閉じる。  ……捨て台詞が効いたのか。  目を閉じた途端、あっさりと眠りに落ちた。  気が付けば日は落ちていて、居間には俺とセイバー、遠坂が集まっていた。  俺はついさっき目が覚めて、  セイバーは何時の間にか居間にいて、  遠坂はついさっき部屋の改装が終わったらしい。  ちなみに、  これがたった数時間前までのうちの客間。  で、 「士郎、あのエアコンどう使うのー?」  そんな藤ねえでも訊かないような用件で呼び出されて見た光景が、  これである。 「………………はあ」  なんていうか、俺はとんでもないヤツと協定を結んでしまったのかもしれぬ。 「………………」  ……落ち着かない。  この二人は完全なまでの異分子だ。  この家に客が来る事なんて滅多にないので、よけい違和感があるのだろう。  いや、そもそも。  この二人、和風の建物にとけ込める外見をしていない。 「………………」  そんなこんなで時刻は夜の七時前。  全員で居間に集まったものの、何をするでもなく黙りこくっているのは、精神衛生上よろしくない。 「二人とも、少しいいか。今後の事で話をしておきたいんだけど」 「ちょっと待って。その前に一つ決めておきたいんだけど、いいかしら」 「う―――いいけど、何だよ」 「何って夕食のことよ。士郎、ずっと一人暮らしだったのよね?」 「……? まあそういう事になるけど」 「なら食事は自分で作ってきたのよね?」 「そりゃ作るだろ。食べなくちゃ腹減るんだから」 「そう。なら提案なんだけど、夕食の当番は交代制にしない? これからしばらく一緒に暮らすんだし、その方が助かるでしょ?」 「……ふむ。確かにそうだな。ついいつもの調子で考えてたけど、遠坂がうちで暮らすなら家族と同じだ。飯ぐらい作るのは当たり前だし、俺も楽でいいや」 「決まりね。じゃあ、今日は士郎が当番ってコトで。  もうこんな時間だし、作戦会議は食べてからにしよ」 「?? いや、夕飯が交代制なのはいいけど、朝飯はどうするんだ。朝飯も交代制か?」 「あ、朝はいいのよ。わたし食べないから」 「―――なんだそりゃ。勝手なコトいうな、朝飯ぐらい食べないと大きくなれないぞ」 「余計なお世話よ、人の生活スタイルに口を挟まないでちょうだい。  ……とにかく今日の夕食は士郎が作るの! ちゃんとした食べ物を出さないと話なんてしないからね」  何が気にくわなかったのか、遠坂は不機嫌そうにこっちを睨んでいる。 「……分かったよ。かってに作るけど、セイバーも飯は食うんだろ?」 「用意してもらえるのでしたら、是非。食事は重要な活力源ですから」 「了解。それじゃ大人しくしてろよ、二人とも」  エプロンを手にして台所に移動する。  幸い、冷蔵庫には三人分程度の食材が残っていた。  米はさっき起きた時に炊いておいたので、あと三十分もすれば出来るだろう。  台所からセイバーと遠坂を盗み見る。 「…………む」  どう見ても和食より洋食という顔ぶれだ。  遠坂はともかく、セイバーに豆腐と納豆の味が判るかどうか疑問すぎる。 「いや、そもそも箸を持てないんじゃないかな、セイバー」  などと少しだけ迷ったが、気にしても仕方がない。  どうせこの材料だと作れるものなんて限られてる。  とにかく豆腐が余っていた。  ザッと考えて、まず揚げ出し豆腐。汁物は簡単な豆腐とわかめのみそ汁に。  下ごしらえが済んでいる鶏肉があるので、こいつは照り焼きにして主菜にしよう。  豆腐の水切り、鶏肉の下味つけ、その間に大根をザザーと縦切りにしてシャキッとしたサラダにする。大根をおろしてかけ汁を作ってししとうを炒めて―――― 「今後の方針は決まっているのですか、凛」 「さあ? 情報がないからなんとも言えないけど、とりあえずは他のマスターを捜し出すコトが先決かな。  残るマスターはあと四人。こっちがマスターだって知られずに捜し出したいけど、さすがに上手くはいかないわよね」  ……む。  おとなしくしてろって言ったのに、なんで物騒な話をしているんだおまえたちはっ。  こっちは三人分の飯の支度でかかりきりだって見て判らな―――つーか見てもいねえ。 「遠坂! 四人じゃないぞ、五人だろ! マスターだって判っているのは俺とおまえしかいないじゃないか!」  揚げ出し豆腐用の、大鍋を持ち出しながら声をあげる。 「なに言ってるのよ。わたしと士郎、それにイリヤスフィールで三人でしょ。貴方、バーサーカーの事もう忘れたの?」 「――――あ」  ……そうか、あの娘もマスターなんだっけ。  あまりにもバーサーカーが強烈だったから忘れていたが、それにしても―――あんな小さな娘がマスターで、容赦なく俺たちを殺そうとするなんて。 「どうせね。貴方のことだから、イリヤスフィールを敵だって認識してなかったんでしょ。それはいいから調理に専念しなさいってば。士郎の実力が判らないとわたしが困るんだから」 「?」  俺の料理の腕がどう遠坂を困らせるか不明だが、言うことはもっともだ。  下ごしらえもそろそろ終わるし、ここからはガーッと一気に仕上げなければ。 「イリヤスフィール……バーサーカーのマスターですね。  凛は彼女を知っているようでしたが」 「……まあね、名前ぐらいは知ってる。アインツベルンは何回か聖杯に届きそうになったっていう魔術師の家系だから」 「……聖杯戦争には慣れている、という事ですね」 「でしょうね。他の連中がどうだか知らないけど、イリヤスフィールは最大の障害と見て間違いないわ。本来バーサーカーっていう〈役割〉《クラス》は力の弱い英雄を強化するものよ。  理性を代償にして英霊を強くするんだけど、そういった“凶暴化した英雄”の制御には莫大な魔力を必要とする。  たとえば貴女がバーサーカーになったら――――」 「このように話をする事もできませんね。協力者としての機能を一切排除し、戦闘能力だけを特化させたのがバーサーカーです。ですがそれは手負いの獅子を従えるようなもの。並の魔術師ではまず操れません」 「でしょうね。そこいらのマイナーな英霊がバーサーカーになった程度でも、並のマスターじゃ制御しきれない。  だっていうのにイリヤスフィールは超一流の英霊を召喚して、そいつをバーサーカーにして完全に支配してた。  ……悔しいけど、マスターとしての能力は次元違いよ、あの娘」 「……同感です。私たちの当面の問題は、その次元違いの相手に狙われている、という現状ですか」 「うん。わたしのアーチャーはまだ戦線に出られるほど回復してない。セイバーはどう? もう傷はいいの?」 「……通常の戦闘ならば支障はありませんが、バーサーカーを相手に出来るほど回復はしていません。  バーサーカー戦の傷は完治しているのですが、ランサーから受けた傷には時間がかかるようです」 「そう。それじゃあやっぱり、当面は様子見をするしかないかな」 「それについては提案が。アーチャーの目は鷹のそれと聞きます。彼には屋敷の周囲を見張って貰う、というのはどうでしょうか」 「そのつもりよ。アイツには屋根で見張りをさせるから、怪しいヤツが近寄ってきたらすぐに判るわ。この屋敷だって侵入者用の結界が張ってあるんだし、守りは万全でしょうね。  ……ま、バーサーカーに攻め込まれたら逃げるしかないけど」  二人は当然のように話を進めている。 「――――」  なんか、気にくわない。  人が真面目に飯作っているっていうのに、人をそっちのけで話をするなんてどういうつもりだ。  だいたい遠坂のヤツ、セイバーに気安すぎる。  ……いや、そりゃあ俺はあんな気軽に話しかけられないから、遠坂がセイバーと相談してくれるのなら話は早いんだが―――― 「――――ん?」  食器棚のガラスに映った顔は、むっと眉を寄せていた。  ……ヘンだな。なんで怒ってるんだろ、俺。 「――――よっと」  三人分の食器を用意して、出来上がった夕飯を盆にのせる。  その居間に移動して、   「まったく。夕飯時に物騒な話するなよな」    どん、と遠坂の前に盆を置いた。 「? なに怒ってるのよ士郎。あ、料理出しぐらいは手伝うべきだった?」 「別に怒ってなんかないけど。遠坂、馴れ合いはしないんじゃなかったのかよ」  じろ、と横目で睨む。  遠坂はへ? なんて目を点にしたあと、  なんか、とんでもなくゾッとする笑顔をしやがった。 「協力体制を決めていただけよ。安心なさい、別に貴方のセイバーをとったりしないから」 「―――――!」  カア、と顔が赤くなるのが判る。  遠坂に言われて、自分が何に怒っていたのかに気づいてしまった。 「お、おま、おまえ――――」 「あら違った? ならごめんなさいね、衛宮くん」 「く、この…………勝手に言ってろ!」  だっ、と残りの料理を取りに台所まで撤退する。  ……うぅ、完全に負かされた。  遠坂はにやにやと笑ったままだし、セイバーは相変わらず無表情だし。  ……はあ。この先、この面子でやっていけるのか本気で不安になってきた……。  そんなこんなで夕食が始まった。 「――――――――」  こっちは無言で通している。  さっきの事もあって、ここで遠坂と話をするのも癪に障るし、セイバーの顔を見るのも気恥ずかしかった。 「………………」  セイバーは黙々と食事を進めている。  その仕草は上品で、とても剣を振るっていた少女とは思えない。  それに、なんていうか。   「……ふむ。……ふむ、ふむ」    手をつけていない料理を口に運ぶたび、こくこくと頷いたりする。  その仕草が妙におかしい。  おそらくは美味しいという意思表示なのだろう。  ちなみに、きちんと箸を持てた。  一方遠坂はと言うと、 「よし、これなら勝った……!」  なんて、一口食べただけで握り拳をする始末だ。 「ふふ、明日を見てなさいよ衛宮士郎……!」  ふるふる、と握った拳を震わせる遠坂。   「――――――――」    ゴッド。  俺、なんか悪いコトしましたか。 「あのな、さっきの話だけど」 「?」  二人同時に顔をあげる。 「――――――――」  待て。待て待て待て待て待て。  一人でさえ緊張するっていうのに、二人同時に反応するなっていうんだ。 「さっきの話って、なんのことよ」 「……だから今後の方針ってヤツ。人が飯作ってる時に話してただろ」 「まずは他のマスターを捜す、という事ですか?」 「そうそれ。具体的にはどうするのかなって思って」 「どうするも何も、地道に捜すしかないでしょ。  あ、そうだ。士郎、魔術師の気配ぐらいは判る? なら話は早いんだけど」 「判らない。二年近く学校にいて、遠坂が魔術師だったなんて知らなかったんだぞ、俺」 「やっぱりそうなのね。……ま、それはいいわ。どうせ他の連中はみんな気配を絶ってるだろうし、魔術師の気配から辿る線は無理っぽいもの。  セイバーはどう? サーヴァントはサーヴァントを感知できるっていうけど」 「多少はできますが、あくまで身近で能力を行使している場合だけです。私では半径二百メートルほどしか捉えられません」 「なるほどね。じゃあますます相手の出方を待つか、どこかおかしな場所を探すしかない。マスターが何か行動すれば、その痕跡は残るもの。わたしたちはそれを探り当てるってわけ」 「―――つまり、町中を調べろって事か?」 「いいえ、それは止めた方がいいわ。あっちも網を張ってるから、そんなことしたら一発でマスターだってバレるわよ」 「とりあえずは、こっちの態勢が整うまでは後手に回りましょ。  今まで通りに生活してマスターだと悟られないこと。  腕の令呪は他人に見られないように隠しておくこと。  できるだけ人気のない所には行かないこと。  日が落ちたらすぐに戻ってくること。  えっと、あとは……」 「外出する時はサーヴァントを連れて行くようにしてください。アーチャーは凛の護衛ができますか?」 「それぐらいなら出来るみたいね。霊体にして待機させておくからわたしは大丈夫よ。問題は―――」 「私のマスターですね」 「そ。ちょっと、聞いてる士郎? 外出する時はちゃんとセイバーを連れて行きなさいよ。人目につかないようにするのがわたしたちのルールだけど、中には昼間っから襲いかかってくるバカがいるかもしれない。  そういう時に備えて、セイバーとは一緒にいなさいよね」 「――――わかった、努力はする」  気乗りのしない返事を返す。  言っている事は分かるけど、セイバーといつも一緒にいる、というのは抵抗がある。  遠坂を相手にするのも緊張するけど、セイバーはそれ以上に緊張する。  ……いや、緊張というのは違うか。  セイバーと話をするのは、ともかく苦手なのだ。 「なにか?」 「――――なんでもない。おかわりならつぐから、茶碗よこせよ」 「いえ、結構です。実に見事な味付けでした、シロウ」 「っ――――」  思わず視線を逸らす。  ……こんな風にまともに顔を合わせられないんだから、いつも一緒になんていられるもんか。 「あ、でもダメか。セイバーは霊体になれないんだから、学校まで付いて来られない」 「学校……? シロウは学生なのですか?」 「そうだけど……あ、そうか。セイバーは生徒じゃないんだから、学校には入れない。……学校に行っている間は、うちで待機してもらうしかないかな」 「……学校に行かない、という事はできないのですか、シロウ」 「できないよ。普段通り生活しろってんなら、学校には行かなくちゃ。それに学校に危険はない。あれだけ人がいる場所ってのもそうはないぞ」 「ですが」 「大丈夫よセイバー。学校にはわたしだっているんだから、もしもの時はフォローするわ」 「だから、もしもの時なんてないって」 「……分かりました。マスターがそう言うのでしたら従います」  セイバーは納得のいかない様子で、とりあえずは頷いてくれた。  夜が更けていく。  遠坂はこっちが後片づけをしている隙に、勝手に風呂を沸かして入っていたようだ。  まったく、初日から随分なやりたい放題だと思う。 「……今後の為にも、早いうちに主導権を握っておくべきだろうな……」  などと分かってはいるのだが、アイツからイニシアチブを奪うのはとんでもなく困難な気がする。 「……はあ。困難ついでに言えば、頭が痛いのがもう一人いるんだよな……」  いや、むしろそっちのが本命だろう。  遠坂は話せば分かってくれるが、そっちは話しても分かってくれそうにない。 「……セイバー、か。悪いヤツじゃないっていうのだけは分かるんだけど」  セイバーは部屋に戻っている。  遠坂も今頃は別棟の客間で休んでいるだろう。  居間にいるのは自分だけだ。  就寝までまだ時間があるし、今は少しでもセイバーと話をするべきだろう。  ……正直、少しでも苦手意識を克服しておかないと、先行きが不安で仕方がない。  だいたい、サーヴァントだろうが何だろうが相手は年下の女の子だ。  話せば色々と見えてくる事もあるだろうし、なにより、 「……早いとこ慣れないと、いつまでたっても遠坂に冷やかされる……」  うん、それは困る。  困るので、できればもう少し気軽に話せるようにならなくては。  自分の部屋に戻ってきた。  この部屋の隣、襖一枚隔てた向こうがセイバーの部屋である。 「……セイバー、起きてるか?」 「起きています。何かありましたか、マスター」  音もなく襖を開けて、セイバーが現れる。 「――――う」  実際目の前にして、どくん、と高鳴る心臓を抑えつける。  ……落ち着け。俺は別に、マスターとして彼女に話を聞くだけなんだから。 「シロウ? 顔色が優れませんが、傷が開いたのですか?」 「あ―――いや、そんな事はない。体の方はとっくに大丈夫だ。それを言うならセイバーの方こそいいのか」 「はい、問題はありません。今の状態では完治まで時間はかかりますが、このままでも平均値はクリアしていますから。バーサーカー以外の相手ならば、互角に渡り合えるでしょう」  そこに虚勢は感じられない。  彼女はただ、事実を述べているだけなのだろう。 「―――――――」  返す言葉はなかった。  セイバーの発言はマスターとしては頼もしい限りなんだろうが、俺は―――こんな華奢な少女に、戦って欲しくはない。 「その、一つ訊くけど。セイバーは戦うこと以外に何か目的はないのか? せっかく〈現代〉《ここ》にいるんだから、他にしたい事とかあるだろ」 「他の目的、ですか……? そのような事はありませんが。サーヴァントは戦う為だけに呼び出された者です。  それ以外の目的など余分なだけだ。シロウの発言は、ひどく的が外れています」  だろうな。  今のは戦う為だけに呼び出されたヤツに、戦うなって言ってるようなものなんだから。  俺だって別にそんな事を言いたい訳じゃない。  ただ、なんていうか―――セイバーには人間味が欠けている。  戦う為ならそれでいいんだろうが、彼女はちゃんと人間として目の前にいるのだ。  なら、戦う為だけなんていうのは間違っている。  セイバーはここにいるのなら、ちゃんと自分の楽しみを持たないと嘘だと思う。 「なあセイバー。サーヴァントってのは過去の英雄なんだろ。なら――――」  そうなる前のセイバーはどんなヤツだったのか、と訊こうとして思いとどまった。   “―――私の真名は教えられません”    昼間、セイバーは俺たちだけの秘密と言った。  なら昔の彼女のことを尋ねたところで、セイバーが答えてくれる筈もない。 「シロウ? 言いかけて止めるのはよくありません。必要な質問なら答えますが」 「―――いや、今のは忘れてくれ。バカなコトを口走りそうになっただけだ」  視線を逸らして、そう誤魔化した。  ……本当に馬鹿な話だ。  俺はセイバーの正体になんて興味はなかった筈だし、セイバーは教えられないからこそ断ってきたのだ。  それをここで蒸し返したら、意味のない質問を繰り返す駄目マスターぶりを証明する事になる。 「………………」  けど、それ以外に話す事といったら何があるだろう?  セイバー本人の事が聞けないのなら、残る話題は自分の事ぐらいだ。  ……そんなの、それこそ無意味ではなかろうか。 「―――――――む」  こうなったら〈自棄〉《ヤケ》だ。  セイバーの正体について聞けないんなら、セイバーの好きな物とか、明日の朝飯は何がいいかとか、もうセイバーに白い目で見られるのを覚悟してつまんないコトを話題にしてやる――― 「シロウ。貴方から質問がないのなら、私から訊ねていいでしょうか」 「え―――いいけど、なに」 「昨夜の事です。シロウは私を助けようとしてバーサーカーに打ち倒されました。それは覚えていますね?」 「覚えているけど……なんだよ、朝の続きをしたいのか? 軽率な行動だったってのは判ってるから、あんまり思い出させないでくれ。吐き気がぶり返してくる」 「それは私も同じです。ですがこれは、貴方という人間を知る為に訊いておくべき事だと思う。  シロウ。貴方はなぜバーサーカーに向かったのです。  近寄ればどうなるか、シロウには判らなかったのですか?」 「それは――――」    そんな事は判っていた。  近寄れば絶対に殺されると理解していた。  それでもセイバーを助けようとしたのは、もしかしたら助かるかもしれない、なんて楽観を持っていたからじゃない。    ……あれは、ただセイバーを助けようと思っただけ。    その後の事なんて知らない。  あの時、衛宮士郎にとって最も優先すべき事が、セイバーを助ける事だった。    ……恐らく。  あの瞬間、自分の中にあった“殺される”という恐怖より、セイバーを“救えない”という恐怖の方が、遙かに強かっただけの話。 「…………悪い、忘れた。  一瞬の事だったからな、その時の考えなんて分からない。きっと気が動転していたんだ。そうでもなけりゃあんな特攻はできない」  セイバーの目があまりにも真剣だったからだろうか。  有りのままの心を口にせず、その場しのぎのごまかしを口にしていた。 「……つまり。ただ自然に、私を助けようとしたのですね」 「―――自然じゃない。気が動転してたって言っただろ。  もう一回あんな事になったら、その時はきっとガタガタ震えてる」 「そうですね。それが正常な人間です。自らの命を無視して他人を助けようとする人間などいない。  それは英雄と呼ばれた者たちでさえ例外ではないでしょう」 「ですから―――そんな人間がいるとしたら、その人物の内面はどこか欠落しています。  その欠落を抱えたまま進んでは、待っているのは悲劇だけです」 「――――――――」  深い緑の瞳が何かを訴えている。  ……それを、   「―――しつこいぞセイバー、あれは気の迷いだって言ってるだろ。俺だって死ぬのは怖いんだ、そんな聖人君子になんてなれるもんか。  ……次にあんな事になったら、その時はセイバーより自分を優先させるさ」    心にもない言葉で、懸命にはね除けた。 「それは良かった。私の思い違いなら問題はないでしょう。ええ、たしかにシロウは臆病です。道さえ間違えなければ、きっと正しい魔術師になれる」 「む。なんだよ、臆病に見えるのか、俺」 「ええ、とても。置かれた状況を受け入れる為に努力するあたりが特に。そういった賢明さを、時に臆病と言うのです。恐れを知らない者は賢者になれないのと同じですね」  安心したのか。  僅かに微笑んで、セイバーはそう言った。 「――――――――」  その仕草は可憐で、あまりにも優雅だったからだろう。  それきり何を話すべきかも思いつかず、セイバーと二人、味気ない部屋で時間を過ごす事になった。  ……そうして深夜。  セイバーと何を話すでもなく、別棟にいる遠坂と話すでもなく、なし崩し的に就寝時間となった。  時刻は午後十一時。  屋敷の電灯は消え、床についた住人は明日に備えて眠りに落ちる。  ………。  ………………。  ………………………。   「――――――――眠れん」  ぱちり、と横になったまま目蓋を開く。  眠り慣れた自分の部屋だが、今日は今までとは勝手が違う。 「………くそ。なんだって、こう――――」  静かなクセに、隣の部屋にいるセイバーの寝息が聞こえてくるんだろう。  ああいや分かってます、音がしないぐらい静かだから隣の部屋の音が聞こえるって道理な訳で、音が聞こえるって事はセイバーの寝姿も勝手に妄想されてしまうのだ。 「……ええい、ちくしょう……! こんな状況で眠れるもんか……!」  こんな針のむしろはもうご免だ。  セイバーを起こさないように布団から出て、ところに退避しよう。 「……助かった。セイバー、気づくと思ったけどわりと鈍感なんだな」  それとも眠りが深い性質なのか。  そんなんでマスターを守れるのかとも思ったが、今は危険なんてまったくない。  サーヴァントというものがマスターと繋がっているのなら、マスターが窮地に陥った瞬間に目覚めるのだろう。 「遠坂は……寝てるみたいだな」  別棟の明かりは消えている。  開き直っているのか、もともと順応力が高いのか。  遠坂はわずか一日で、うちの空気に慣れたようだ。 「……まあ、実際助かるんだよな、アイツがいてくれると」  うん、色々厄介だけど助かる。  そのうちの一つが、手のひらに巻かれた包帯である。 「令呪は隠せ、か。言われてみるまで気づかなかった」  マスターが持つ令呪は腕のどこかに現れる。  俺の場合は左手の甲。  服で隠す事もできないので、不自然だが包帯を巻いて隠している。 「……冬だし。長めの長袖を着て誤魔化そう」  遠坂は俺とは逆で、右腕の真ん中あたりにあるとかないとか。  令呪の形はマスター毎に違うというが、遠坂の令呪を見るような事はないだろう。  土蔵は静まり返っている。  昨日俺がランサーに追いつめられた場所であり、  セイバーが現れた場所だ。    入り口は開かれたままで、内部の闇は来る者を拒むように黒々としていた。  それも自分にとっては馴染み深い暗さである。  幼いころからの遊び場、衛宮士郎にとって本当の自室ともいえる古い建物は、冬の夜空の下でひっそりと佇んでいた。  ……中に入る。  扉を閉めて外気を遮断し、おんぼろなストーブに火を入れた。 「そうだな。今日ぐらいは休もうと思ったけど、却下しよう。二日連続でサボったら親父にどやされる」  土蔵の真ん中に腰をおろして、すう、と深く息を吸った。  ……鍛錬は間を置かず続けるもの。  自分にとって魔術とは精神鍛錬に他ならないのだから、ちょっとやそっとの事で怠る訳にはいかない。 「ふぅ――――ふ」  ……呼吸を整えて修練を開始する。  脳裏にはいつもの映像。  空っぽの頭に浮かび上がる剣の姿。 「――――――――」  それを無視して、思考を更にクリアにしていく。  全身に魔力を通したら、あとはお決まりの“強化”の練習。  昨夜、ランサーに襲われて何年かぶりに成功した強化の魔術。  その感覚を忘れないうちに繰り返して、確実にモノにしなければ勿体ない。   「――――〈同調〉《トレース》、〈開始〉《オン》」    目を半眼にして肺の中身を絞り出す。      ――――今はそれだけ。    聖杯戦争の事も、セイバーの事も、遠坂の事も、この工程に没すれば全てなくなる。  未熟な迷いを忘れるほど思考を無にすれば、自ずと、一夜の眠りぐらい訪れてくれるだろう―――    ……そもそも選択の余地はない。  俺は知らない事が多すぎるし、魔術師としても未熟だ。  一時的にせよ遠坂が手を貸してくれるのなら、こんなにいい話はないと思う。 「―――分かった。その話に乗るよ、遠坂。正直、そうして貰えればすごく助かる」 「決まりね。それじゃ握手しましょ。とりあえず、バーサーカーを倒すまでは味方同士ってことで」 「あ……そっか。やっぱりそういう事だよな。仕方ないけど、その方が判りやすいか」  差し出された手を握る。  ……少し戸惑う。  遠坂の手は柔らかくて、握った瞬間に女の子なんだ、なんて実感してしまった。  そんな手に比べると、ガラクタいじりで傷だらけの自分の手はなんとも不釣り合いだ。 「――――」  そう思った途端、気恥ずかしくなって手を慌てて引いた。 「なに、どうしたの? やっぱりわたしと協力するのはイヤ?」 「――――いや、そんなんじゃない。遠坂と協力しあえるのは助かる。今のはそんなんじゃないから、気にするな」  遠坂は不思議そうに俺を見たあと、 「ははーん」  なんて、とんでもなく意地の悪い顔をしやがった。 「な、なんだよ。つまんないコト言ったら契約破棄するからな。するぞ。絶対するからな!」 「貴方、女の子の手を握るの初めてだったんでしょ?  なんだ、顔が広いように見えて士郎ってば奥手なんだ」 「ち、違うっ! そんなんじゃなくて、ただ」  相手が遠坂だったから照れただけだ、なんて言える筈もなく、そりゃあ確かにあんなに強く女の子と触れあったコトも今までなかった。  ……ああいや、藤ねえは除外。  アレは異性の人というより異星の人だから。   「―――って、む?」    なんか、今の遠坂の台詞、微妙におかしなアクセントが混じっていたような……? 「あはは、聞いてた通りほんと顔にでるのね。ま、今のは追及しないであげましょう。ヘンにつっついて意地を張られても困るし」 「じゃ、まずは手付け金。これあげるから、協力の証と思って」  どこに隠し持っていたのか、遠坂はテーブルに一冊の本を持ち出す。  見た目は日記帳そのものだ。  タイトルはなく、表紙はワインレッド。  ……どことなく遠坂っぽいカラーリングである。 「わたしの父さんの持ち物だけど、もう要らないからあげる。一人前のマスターには必要ないものだけど、貴方には必要だと思って」  遠坂はめくってみて、と視線で促してくる。 「……じゃ、ちょっと失礼して」  ぱらり、と適当に頁をめくる。    ――――と。    本には何も書かれていない筈なのに、おかしな映像が脳裏に浮かんできた。 「??? 遠坂、なんだよこれ」 「各サーヴァントの能力表よ。聖杯戦争には決められたルールがあるのはもう判ってるでしょ? それはサーヴァントにも当てはまるの」 「まず、呼び出される英霊は七人だけ。  その七人も聖杯が予め作っておいた“〈役割〉《クラス》”になる事で召喚が可能となる。英霊そのものをひっぱってくるより、その英霊に近い役割を作っておいて、そこに本体を呼び出すっていうやり方ね」 「口寄せとか降霊術は、呼び出した霊を術者の中に入れて、なんらかの助言をさせるでしょ? それと同じ。  時代の違う霊を呼び出すには、予め“〈筐〉《ハコ》”を用意しておいた方がいいのよ」 「〈役割〉《クラス》―――ああ、それでセイバーはセイバーなのか!」 「そういう事。英霊たちは正体を隠すものだって言ったでしょ? だから本名は絶対、口にしない。自然、彼らを表す名称は呼び出されたクラス名になる」 「で、その用意されたクラスは  セイバー、  ランサー、  アーチャー、  ライダー、  キャスター、  アサシン、  バーサーカー、の七つ」 「聖杯戦争のたびに一つや二つはクラスの変更はあるみたいだけど、今回は基本的なラインナップね。通説によると、最も優れたサーヴァントはセイバーだとか。  これらのクラスはそれぞれ特徴があるんだけど、サーヴァント自体の能力は呼び出された英霊の格によって変わるから注意して」 「英霊の格……つまり生前、どれくらい強かったかってコトか?」 「それもあるけど、彼らの能力を支えるのは知名度よ。  生前何をしたか、どんな武器を持っていたか、ってのは不変のものだけど、彼らの基本能力はその時代でどのくらい有名なのかで変わってくるわ。  英霊は神さまみたいなモノだから、人間に崇められるほど強さが増すの」 「存在が濃くなる、とでも言うのかしらね。信仰を失った神霊が精霊に落ちるのと一緒で、人々に忘れ去られた英雄にはそう大きな力はない。  もっとも、忘れられていようが知られていなかろうが、元が強力な英雄だったらある程度の能力は維持できると思うけど」 「……じゃあ多くの人が知っている英雄で、かつその武勇伝も並はずれていたら――――」 「間違いなくAランクのサーヴァントでしょうね。  そういった意味でもバーサーカーは最強かもしれない。  なにしろギリシャ神話における最も有名な英雄だもの。  神代の英雄たちはそれだけで特殊な宝具を持っているっていうのに、英雄自体が強いんじゃ手の打ちようがない」 「……遠坂。その、宝具ってなんだ」 「その〈英霊〉《サーヴァント》が生前使っていたシンボル。英雄と魔剣、聖剣の類はセットでしょ? ようするに彼らの武装の事よ」 「……? 武器って、セイバーの視えない剣とか?」 「まあね。あれがどんな曰くを持っているか知らないけど、セイバーのアレは間違いなく宝具でしょう。  言うまでもないと思うけど、英雄ってのは人名だけじゃ伝説には残れない。  彼らにはそれぞれトレードマークとなった武器がある。  それが奇跡を願う人々の想いの結晶、〈『貴い幻想』〉《ノウブル・ファンタズム》とされる最上級の武装なワケ」 「む……ようするに強力なマジックアイテムって事か」 「そうそう。ぶっちゃけた話、英霊だけでは強力な魔術、神秘には太刀打ちできないわ。  けれどそこに宝具が絡んでくると話は別よ。  宝具を操る英霊は数段格上の精霊さえ討ち滅ぼす。  なにしろ伝説上に現れる聖剣、魔剣は、ほとんど魔法の域に近いんだもの」 「最強の幻想種である竜を殺す剣だの、万里を駆ける靴だの、はては神殺しの魔剣まで。  ……ともかくこれで無敵じゃない筈がないっていうぐらい、英霊たちが持つ武装は桁が違う。  サーヴァントの戦いは、この宝具のぶつかり合いにあると言っても過言じゃないわ」 「……つまり、英霊であるサーヴァントは必ず一つ、その宝具を持ってるってコトだな」 「ええ。原則として、一人の英霊が持てるのは一つの宝具だけとされるわ。  大抵は剣とか槍ね。ほら、中国に破山剣ってあるじゃない。一振りしかできないけど、その一振りで山をも断つっていう魔術品。それと似たようなモノだと思う」 「もっとも、宝具はその真名を呪文にして発動する奇跡だから、そうおいそれと使えるモノじゃないんだけど」 「? 武器の名前を口にするだけで発動するんだろ? なんだってそれでおいそれと使えない、なんてコトになるんだ?」 「あのね。武器の名前を言えば、そのサーヴァントがどこの英雄か判っちゃうじゃない。  英雄と魔剣はセットなんだから、武器の名前が判れば、持ち主の名前も自ずと知れてしまう。そうなったら長所も短所も丸判りでしょ?」 「なるほど。そりゃあ、確かに」  実際、宝具とやらを使ったランサーは、セイバーにその正体を看破されていたっけ。  たしかアイルランドの光の御子だとか、なんとか。 「――――ふむ」  さて、整理すると、  サーヴァントはそれぞれのクラスに分かれており、そのクラスに見合った特性を持つ英霊だという事。  彼らは自分がどのような英雄かを隠しているという事。  そして、持っている武器は奥の手と言える切り札だが、正体を知られてしまうが故においそれとは出せない、という事。 「以上でサーヴァントについての講義は終わり。  詳しい事はその本を見れば判るから、一息ついたら目を通しなさい。慣れてくれば、その本がなくても直感でサーヴァントを判断できるようになるから」  それだけ言って、遠坂は座布団から立ち上がった。 「さて、それじゃわたしは戻るけど」 「え? ああ、お疲れさま」  座布団に座ったまま、帰ろうとする遠坂を見上げる。 「協力関係になったからって間違わないでね。わたしと貴方はいずれ戦う関係にある。最後の日になって他のマスターたちが倒れているにしろ、全員健在であるにしろ、これだけは変わらない。  だから―――わたしを人間と見ないほうが楽よ、衛宮くん」  最後にきっちりとお互いの立場を言葉にして、遠坂は自分の家へと帰っていった。  はーい、おつかれさま。  本編オールクリア&タイガースタンプフルコンプおめでとうございました。 おめでとーございましたー! 長かった『Fate』本編をオールクリアし、タイガースタンプまで制覇した貴方を労うタイガー道場SPにようこそ! ここまで遊び尽くしてくれたのなら、もはや言う事はありません。  ええ、もう何処へなりとも行くがいいサー! そうだねー、これで連打地獄ともお別れだねー。  さて、そんなわたしたちは一足先に慰安旅行としてアインツベルンの秘湯、バルハラ温泉に来ていまーす。 どうタイガ、お湯加減は気に入った? いいよー、いやされるわー。  なんか、あまりの気持ち良さに気を抜くと天国にいっちゃう感じー。 でしょ? この温泉の効能はぁ、疲労回復と霊魂昇天なんだから。  気を抜くとそのまま帰ってこれなくなるわ。 ハッ……!?  なんか、いまバター畑が見えたような……!?  危ない危ない、お風呂で眠っちゃダメだよねー。 さて、今回でタイガー道場もグランドフィナーレ。 『Fate』を締めくくるという事で、今までの反省会などをしてみたいと思います。 えー、最後まで怒られるなんてつまんなーい。  せっかく温泉なんだし、思い出話をするぐらいに留めるべきだと思うわ。 はっ!? 年下のロリっ娘にいさめられるわたし。 けどたしかにそーねー。温泉気持ちいいし、反省会なんてライオンのするコトだぞ❤ うん、わたし反省した。素直に何も考えず、今までのコトを振り返ってみましょう。 で、そういうイリヤちゃんは本編でどこがお気に入りだった? わたし? そうねー、リンルートでわたしが殺されるところかな。ホントはイベント画がなかったんだけど、後から付け足してくれたの。 ああ、あの心臓引き抜かれるヤツねー。たしかにアレにはときめいたなー。 いっそそのまま昇天なさい。  わたしが言ってるのは、バーサーカーとわたしのイベント画よ。 ちなみに、タイガの言ってるイベント画は没候補No1のクセにいつのまにか出来てた謎のイベント画なんだから。 そ、そーだったんだー。 なんかなー。あんな悪趣味なイベント画を残して、わたしがバビロニアの神の力で変身、アンリマユと一騎打ちしてるイベント画を没にするなんてヘンだよねー。 ―――ねえタイガ。どうでもいいんだけど、バビロニアの神の力で変身するヒーローは豹男よ。虎じゃないわ。 え!? うそ、だってかわいいヒゲ生えてるよあの虎マント!? ヒゲが生えてれば虎なら、いまどき起動戦士も虎になるわ。 ショック! お汁粉とぜんざいが違う食べ物だっていうぐらいショック! はあ。……前から疑問だったんだけど、タイガってどうして虎に拘るの? タイガーって呼ばれるの嫌いなクセに、着てる服は虎柄だし。虎、好きなの嫌いなの? うむ。深く憎み、同時に深く愛している。 …………まあ、いいけど。人の趣味はそれぞれだし、追及するのはやめておくわ。  で、そういうタイガは本編のどこがお気に入りなのよ。 んー、そうねー。オープニングムービーとか好きよ?  とくに、藤村大河が映ってるところとか。 訊いたわたしが愚かだったわ。  このままじゃ一生話が進まないから、順序だててやっていきましょう。 じゃ、まずは第一部、セイバールートからね。  ルートタイトルの「Fate」が示す通り、『Fate』を代表するルートでーす! わたしも出番が多いし、タイガもエンディングに出てくるし、とりあえず文句がつけられないルートかなー。 そうねー、この頃はまだわたしもメインヒロイン張ってたのになー。月日は残酷よね、ふふふ。シナリオ書いたヤツ殺しちゃうぞ❤ はいはい、ひがまないひがまない。  セイバールートのコンセプトは、セイバーをメインにおいた聖杯戦争の顛末ね。 初心者マスター向けの、王道的なお話だと思うわ。 イリヤちゃんも中ボス張ってたしねー。  セイバーちゃんとは別れる事になったけど、これで士郎も一皮むけてより逞しく…… ……って、アレ?  となると、このルートのままいくと士郎ってばアー チャーさんになっちゃう危険性大? それはシロウの生き方次第ね。  ま、その可能性は低いとは思うけど。すぐ近くにわたしがいるんだし。 そっかー、この小悪魔がいるなら士郎も悪の道まっしぐらで安心ねー。 って、ちょっと待った。  イリヤちゃん、そんなに長く生きられるの……!? それは内緒。  ま、人間ダレだっていつか死ぬんだし、気にしてたってしょうがないわ。 で、次は凛ルート、『unlimited blade works』だけど。 内容は群像劇というか、お話のメインがよりサーヴァントよりになってたわね。  というか、ズバリ言って、 わたしたちの出番なかったわー。  イリヤちゃんは途中退場だし、わたしの扱いもぞんざいだー。 おまえは常にぞんざいだが。 ぐはっ! 嘘のない真実が胸に突き刺さる! けど遠坂さんも、メインヒロイン張ってるわりには弱いぞー? おいしいトコはみんなアーチャーさんに持っていかれてるんじゃないのかなー? それは仕方ないわ。  『unlimited blade works』のタイトルが示す通り、凛ルートは士郎の話でもあるんだもの『Fate』と『unlimited blade works』は表裏一体。 このお話の主人公はあくまでシロウなんだから、メインはシロウのお話であるべきでしょ。 ヤツも歪んでるからな。 なるほどねー。  そうなると、骨になるテーマは遠坂さんルートで全部終わっちゃったワケか。 そういう事。  ここまでが表の『Fate』、とりあえず一マスターとして出来る事はちゃんとこなしたお話。 で、次の桜ルートが裏の『Fate』。  聖杯戦争の発端から、その終幕までを戦い抜く死闘編なのでしたー! 死闘編かあ。そうよねー、桜ちゃんルートが一番死亡数多いしねー。 一番短くなる筈のルートが一番長くなってたなんて笑えないなー、お姉ちゃん。 このルートがもっと短くなってたら、わたしやイリヤちゃんルートもあったんだけどなー。 おまえのルートなぞプロット段階からないが。 さて、激動の桜ちゃんルートだったけど、イリヤちゃん的にはどうなの?  これ、大団円って言っていいの? もちろん。大聖杯なんてバカげたものも壊れて、わたしとセイバー以外はみんな生きてるんだから。  これ以上を望んだらバチがあたると思うわ。 ふーん。予定では桜ちゃんも遠坂さんもライダーさんもセイバーちゃんも残ってるっていう、とんでもないエンディングがあったそうだけど。 ……………………。えーと、ヘブン? ヘブンっていうよりヘルね。  ま、人生ままならないから楽しいのよ。誰かが欠けてるぐらいがちょうどいいってコト。 おお、貫禄のあるお言葉。  さすが妹にしてお姉さんキャラは違うわねー。 ところでイリヤちゃん的には、士郎は兄貴と弟分どっちなの? それも秘密でーす!  わたしが両属性持っているように、シロウも両属性持っているのでしたー! あー、わかるわかる。 けど一つ間違えて成長するとアーチャーさんっぽくなるかと思うと、お姉ちゃんとしては面白いような悲しいような。 ま、それはこれからの成長次第ってコトで、リンとサクラに期待しましょ。 さっきも言ったけど、『Fate』はシロウの物語なの。セイバーとリンルートで出てきたシロウの在り方の問題。 その一つの解決編がサクラルート『Heavensfeel』ってワケ。 それがどんな解決だったのかは、わたしたちが語るまでもないわよね。 なくした物はいっぱいあるけど、これからまた積み重ねていくワケだ。 そ。だから文句なしの大団円なの。  みんなはこれから、これでもかっていうぐらいハッピーになるんだから。 うう、いい子じゃのう……天に召された後でいいヤツだったと気付くなんて、なんかますます悪のヒロインっぽいわよイリヤちゃん。 ふーんだ。もとからわたしはそういう役回りよ。今さら未練なんてないわ。 あとは残った人たちの戦いだもの。わたしはゆっくり、こうして温泉に入りながら、地上の様子を眺めているんだから。 そっか。  よしよし、それじゃ最後は笑顔で、きれいに締めるとするか弟子一号! 押忍、りょーかいであります師しょー! うむ!  『Fate/stay night』はこれにて終了!  膨大なプレイ時間にめげず、よく戦いぬいてくれた! うん、ここまでプレイしてくれて本当にありがとー!  今までずーっとバッドエンドに付き合ってきたわたしたちの役目もこれでおしまいです。 これが本当のお別れだけど、縁があったらまた本編で再会しましょう! じゃあねー! もう死なないようにね若者ー! ばいばーい! あれ……? ところでイリヤちゃん。さっき、ここから地上の様子を眺める、なんて言ってなかった? 言ったわよ? ここから、地上を見守るって。 ば…………まま、まさか、この温泉って、あの。 えーと…………ヘブン? ぎゃわーーーーーーーーー!  ぜんぜんきれいに終わってなーーーーーい!!   それは、稲妻のような切っ先だった。  心臓を串刺しにせんと繰り出される槍の穂先。  躱そうとする試みは無意味だろう。  それが稲妻である以上、人の目では捉えられない。    だが。  この身を貫こうとする稲妻は、  この身を救おうとする月光に弾かれた。    しゃらん、という華麗な音。    否。目前に降り立った音は、真実鉄よりも重い。  およそ華やかさとは無縁であり、〈纏〉《まと》った鎧の無骨さは凍てついた夜気そのものだ。    華美な響きなど有る筈がない。  本来響いた音は鋼。  ただ、それを鈴の音と変えるだけの美しさを、その騎士が持っていただけ。           「―――問おう。貴方が、私のマスターか」    闇を弾く声で、彼女は言った。           「召喚に従い参上した。  これより我が剣は貴方と共にあり、貴方の運命は私と共にある。―――ここに、契約は完了した」            そう、契約は完了した。  彼女がこの身を主と選んだように。  きっと自分も、彼女の助けになると誓ったのだ。    月光はなお冴え冴えと闇を照らし。  土蔵は騎士の姿に倣うよう、かつての静けさを取り戻す。    時間は止まっていた。  おそらくは一秒すらなかった光景。    されど。  その姿ならば、たとえ地獄に落ちようと、鮮明に思い返す事ができる。            僅かに振り向く横顔。  どこまでも穏やかな聖緑の瞳。  時間はこの瞬間のみ永遠となり、  彼女を象徴する青い衣が風に揺れる。                ――――差し込むのは僅かな蒼光。        金砂のような髪が、月の光に濡れていた。                 それは、今から十年前の話。  ……懐かしい人を見ている。  背が高くて、彫りの深い顔立ちで、わたしが知るかぎり一度も冗談なんて口にしなかった人が、わたしの頭を撫でている。  いや、ちょっと違うか。  力加減が分からないのか、撫でているというより頭を鷲掴みにしてグリグリとまわしている、という表現の方が正しい。  それも当然だと思う。  なにしろ、この人がわたしの頭を撫でたのは、この時が初めてだったのだから。           “それでは行くが。後の事は解っているな”  重い声に、行儀良くはい、と答えた。  わたしの頭を撫でていた人は一度だけ頷くと、手を離して立ち上がった。  ……だから、それだけ。  あの時これが最後だと知っていたのなら、とっておきの冗談で笑わせてやっていたのに。  いつかこの人の仏頂面を崩してやろうと、一人で何度も何度も笑い話を練習していた。  それが結局、一度も披露できなかったのが、悲しいと言えば悲しかった。         “成人するまでは協会に貸しを作っておけ。それ以後の判断はおまえに任せる。おまえならば、独りでもやっていけるだろう”  なんて言いながらも、一応は心配だったのだろう。  家宝の宝石の事とか、大師父が伝えていた宝石の事とか、地下室の管理の仕方とか。  今まで教えてくれなかった事を矢継ぎ早に話す姿を見て、子供心に気づいたのだ。    ―――たぶん。  この人は、もう帰ってはこないだろうと。  ……戦争が起きたのだ。  国と国が戦う戦争ではなく、人と人とが戦う戦争。  といっても、いがみ合っていたのはたったの七人だけだ。  それなら戦争なんてお題目は似合わないのだけれど、その戦う人々が魔術師であるなら話は別である。  派閥の違う七人の魔術師達はよくわからない理由で競い始め、よくわからない方法で殺し合った。  そのうちの一人が、わたしの目の前にいる人だった。  だから、この人も殺し、いつかは殺される立場にある。  その時が近い事は、わたしなんかよりこの人の方がはっきりと感じていたはずだ。         “凛、いずれ〈聖杯〉《せいはい》は現れる。アレを手に入れるのは遠坂の義務であり、何より―――魔術師であろうとするのなら、避けては通れない道だ”  もう一度。  くしゃり、とわたしの頭を撫でて、その人は去っていった。    それが最後。  マスターの一人として聖杯戦争に参加し、帰らぬ人となった、師であり父であった人の最後の姿。               「行ってらっしゃいませ、お父さま」  行儀良く送り出した。  自分が泣きそうな事は判っていたけれど、涙は決して流さなかった。  あの人の事が好きだった。  父親として優れ、魔術師としても優れた人物。  魔術師というのは〈偏屈者〉《へんくつもの》しかいない。  その世界において、あの人ほど優れた人格者はいなかっただろう。  彼は師としてわたしを教え、父として愛してくれた。  だから、決めていたのだ。  あの人が最期に何を〈遺〉《のこ》すかで、わたしは自らの道を決めようと。          ――――凛、いずれ聖杯は現れる。  アレを手に入れるのは遠坂の義務であり、何より―――魔術師であろうとするのなら、避けては通れない道だ  彼は最後の最後で、父親としてではなく魔術師として言葉を遺した。  だから、その瞬間にわたしの往く道は決定した。   「――――よし。それじゃあひとつ、気合い入れて一人前になりますか―――」    弟子が師の言葉に応えるのは当然のコト。  それから色々、紆余曲折あってわたしこと〈遠坂凛〉《とおさかりん》は成長した。  父が戦いに赴いた冬の日から、はや十年。  この時を待ちこがれていた訳ではないけれど、気持ちは知らず逸っている。  それも当然。  十年間片時として忘れなかったそのイベントは、あと少しで始まろうとしているのだから―――― 「………………ん」  何か鳴ってる。  じりり。じりり。 「…………うるさい。止まれ」  音は止まない。  じりりじりりと、まるでわたしが親の仇だと言わんばかりの騒々しさ。 「……なによ、もう……昨日は遅くまでやってたんだから、もうちょっと……」  もうちょっと寝かせてくれてもいいのに。  いや、むしろ寝かせるべきだ。  なにしろ朝方まで父の遺言を解読していたんだし、魔力も派手に使いすぎた。  つまり疲労困憊、心も体もクタクタです。 「……ああ、もう――――融通のきかないヤツ」  じりり。じりり。じりり。じりり。  目覚まし時計に言葉は通じない。  だっていうのに、じりりじりりという音が『遅刻するぞ遅刻するぞ』なんて聞こえるのはどんなカラクリをしてるんだろう。 「……遅刻……遅刻は、まずい……」  けどそれも時と場合。  いくら優等生だからって、今日ぐらいは時間ギリギリで登校してもいいんじゃないかな。 「……そうそう……あらかじめ三十分ズラして目覚ましをセットしたんだから、あと三十分は眠れるはず……」  ――――うん?  なんか、それヘンじゃない? 「……三十分、ズラして……」  ねぼけ眼で目覚まし時計を見る。  時計はきっかり七時を指している。  〈習慣〉《いつも》の起床時刻は六時半だから、三十分の預金はキレイさっぱり使われている。  ……というか、どうしてこう、目覚め時は思考能力が低下するのかわたしは。 「………………む」  目覚まし時計とにらめっこするコト数秒。  ベルを止めて、渋々とベッドから出るコトにした。  冷え切った廊下を渡って、冷え切った居間に移動した。  一月最後の朝七時。  冬木の町は冬でもそれなりに暖かい気候なのに、今朝に限っては他所様の冬並みに寒かった。  家の中にいても吐く息は白いし、なにより〈家〉《うち》には人がいないから余計寒いったらありゃしない。 「……暖房、暖房……」  ヒーターをオンにして、洗面所に向かう。  こういう時、一人暮らしというのは不便だ。  自分より先に起きている人間がいるなら、居間はとっくに暖房が行き届いているだろうに。  洗面所で顔を洗う。  長い髪にブラシを通して、身支度を整える。  寒い朝、冷えた洗面所。  唯一の利点と言ったら、冷たい水が否応なしに眠気をふっ飛ばしてくれるコトぐらい。  きゅっ、と襟元のリボンを結んで準備完了。  あとは朝食を済ませて登校するだけ。  時計を見ればまだ七時を過ぎたばかりで、いささか拍子抜けした。 「なんだ、これなら走っていく必要もないか」  もっとも、走って学校に行く、なんて無様をする気は更々ない。  どんな時でも余裕を持って優雅たれ、というのが遠坂の家訓なのだ。  そんな家訓を本気で持ち続けたあたり、うちの祖先は本当に高貴な出だったのだろう。  こんな時代めいた洋館を持っているのが何よりの証拠だし、くわえて、遠坂の家は“魔術”を伝える魔法使いの血筋なのだ。  古いと言えば、もう文句なく古い歴史を持っている。 「……まあその、自慢できる事でもないんだけど」  というか、臆面もなく吹聴できる話でもないんだけど。    ―――実は〈遠坂凛〉《わたし》、魔法使いなんです―――    なんて、いったい誰に自慢できるっていうんだろう。  魔術っていうのは、読んで字のごとく魔術である。  イメージ的にはちちんぷいぷいでもアブラカタブラでもかまわない。  ようするに、呪文を唱えて不思議なコトをする人と捉えておけばいい。  と言ってもホウキで空を飛ぶ訳でもないし、杖をふって星を出す訳でもない。    ……似たようなコトは出来るけど、あんまり意味がないのでやらない。  基本的にわたしたちは世に隠れ忍ぶ異端者だ。  目立つ事は禁止されているし、そんな事をする余裕があるのなら家にこもって魔術を研鑽している。  ついでに言えば、魔法使いというのも大語弊。  正確に言えば、この世界に魔法使いは五人しかいない。  誰にも真似の出来ない事、現代の科学でも到達できない事、そういった“奇跡”を可能とする存在を、わたしたちは魔法使いと呼ぶ。  どんなに時間と技術をかけても実現できない神秘が魔法であり、  どんなに不思議でも時間と技術をかければ誰でも実現できてしまうモノが魔術。    だからわたしの使う“神秘”も魔法ではなく魔術にすぎない。  ややこしいが、そういう決まりなのだからそういうコトにしておいてほしい。  まっとうな話、魔術師なんていう存在は現代では容認されない。  計測できないモノを信じ、操り、学ぶわたしたちは、現代社会とは相容れない存在だ。  なにしろ、あんまり意味がない。  魔術なんてモノを学ぶなら、まっとうな学校にいってまっとうに大人になった方が何倍も幸せになれる。  人間の技術は偉大だ。  ここ数百年、魔術はつねに文明社会の後追いをしているのが現状である。    人間に不可能な事はなくなった。  かつて魔術にしか成しえなかった奇跡は、とっくの昔に奇跡でもなんでもない「雑貨用具」に成り下がってしまっている。  ―――まあそれでも、魔術には魔術の利点がある。  科学でしか到達できない地点があるように、  神秘でしか到達できない地点があるのだ。  科学が未来に向かって疾走しているのなら、魔術師は過去に向かって疾走しているようなものだ、とは遠坂家における大師父の言葉だったっけ。    過去も未来も行き着く所は結局同じ。ゼロに向かって走り続けよ、とかなんとか。  そのあたりの難しい話は置いておこう。哲学は老後の楽しみにとっておくべきだし。  朝食を済ませて、鞄を手に取る。 「―――そうだ。ペンダント、持っていかないと」  学校にあんなモノを持っていくのは気が引けるけど、置いていくのも勿体ない。 「なにしろ百年物の石だものね。うちにある宝石の中じゃダントツで最強だし」  いや、むしろ次元違い、と言ってもいいだろう。  昨夜父の遺言を解読して手に入れたコレは、今のわたし十年分の魔力を秘めている。  遠坂の家には古くから伝わる家宝があるというけど、あるいはコレがそうなのかも。  変換、力の流動を得意とする遠坂の魔術師は、暇さえあれば宝石に自らの魔力を移し替える。  簡潔に言ってしまえば拳銃が自分で、宝石が弾丸といったところだ。    それ以外に父から継いだ物と言えば、左腕に刻まれた遠坂の魔術刻印ぐらいだ。  魔術刻印は簡単に言って後継者の証で、遠坂家が伝えてきた魔術を凝縮した入れ墨みたいなものである。 「……まだ始まった訳じゃないけど、用心に越したコトはないか」  今となっては父の形見といえるペンダントをポケットに仕舞う。 「切り札だものね。コレに秘められた魔力なら、出来ないコトはないぐらいなんだし」  時刻は七時半。  そろそろ出ないと学校に間に合わない。 「Schl〈i〉《ロック。》eßung. Verfa〈h〉《コード3》ren,Drei」  短く、魔力を込めて言葉を紡ぐ。  魔術師たる者、自分の根城を留守にする時は警戒を怠ってはならない。  たとえ、今まで一度も泥棒とか〈迷〉《まよ》い〈子〉《ご》とか野良猫とか、そういった類の〈闖入者〉《ちんにゅうしゃ》がなかったとしてもだ。  ……否、そればかりかお隣さんが挨拶にきた事もないような。 「……ふん、別にいいけどね。野良猫でさえ入ってこないってどういう事よ」  十何年住み慣れた〈洋館〉《うち》を見上げる。  冬木市はおかしな街で、交差点を挟んで向こう側の住〈宅〉《うち》地には日本風の武家屋敷が多く、こっち側の住宅地には家のような洋館が多い。  ずっと昔、外国から移住してきた家族が多いのが理由らしいけど、そのわりには外国人なんてとんと見ない。  川を挟んだ〈新都〉《しんと》には外国人墓地さえあるけど、そこにある墓だって移住した代の人たちの物だけだ。 「日本の土が合わなかったのかな」  うん、今度教会に行って神父に聞いてみよう。  あの神父ならつまんない事を色々と知っているに違いない。 「――――あれ」  外に出て、何か違和感を感じた。 「なんだろ、思ったより静かなんですけど……」  外は静かで、朝の騒々しさが感じられない。  七時半と言えば、通学する生徒や通勤する人々で賑わっている筈なんだけど。 「……ま、こういう日もあるか」  みんな今朝は寝過ごしたのかな。  今日は珍しく寒いし、誰も彼もベッドでまるまっているに違いない。 「んー……けど、さすがに」  いくらなんでも、ここまで生徒の姿を一人も見ないのはおかしい。  七時半って言ったら、もうちらほらと制服姿が見られる時間帯だ。  なのに校門にいるのはわたしだけで、部活の朝練はまだ始まったばかりの様子。  つまるところ、導き出される結論は―――― 「あれ、遠坂? 今朝は一段と早いのね」 「……やっぱりそうきたか」  はあ、と軽くため息をついて、声をかけてきた女生徒に振り返る。 「おはよ。今日も寒いね、こりゃ」  気さくな口調の彼女は〈美綴綾子〉《みつづりあやこ》。  同じ2年A組のクラスメイトで、色々と曰くのある人物だ。 「おはよう美綴さん。つかぬ事を聞くけど、今何時だか判る?」 「うん? 何時って七時前じゃない。遠坂寝ぼけてる?」  大丈夫? と手のひらをヒラヒラさせる綾子。  彼女はわたしが朝に弱いという事を知っている数少ない友人である。  ……ようするに、わたしがいまだ本調子でないと察しているのだろう。 「うちの時計、一時間早かったみたい。しかも軒並み。  目覚まし時計はおろか、柱時計まできっかり早まってた」  ほんと、いったいどうなってるのか。  父さん、あのペンダントを地下室から出したら時計が狂うように仕向けてたんだろうか。 「遠坂?」 「気にしないで。別に大した事じゃないから。それより、美綴さんは今日も朝練?」 「ええ。弓道部は問題児も多いし、巧いのが一人減ったからね。四月の新入生獲得の為に、少しぐらいは見栄えを良くしとかないと」 「そう。気苦労が絶えないのね、相変わらず」 「他人事だからって言ってくれるわ。あ、ついでだから見ていく? 遠坂が見学する分には男どもも喜ぶけど」 「――――弓道部、か」    弓道部にはちょっとした顔見知りが三人いる。  そのうち一人が目の前にいる綾子で、あとの二人はそう話をする機会のない顔見知りだ。  もっとも、その二人のうち一人は顔見知りなどと一言で片づけられる相手ではない。  わたしが弓道部主将である綾子と友人になったのも、ひとえに弓道場を遠くから眺めていたからなのだし。 「そうね、様子を見るだけならつき合うわ。早く来すぎたからやる事もないし」 「よし。んじゃ善は急げ、さっそく行こう」    うちの学校の特徴の一つに、この豪華な弓道場がある。  理事長が弓道に関心があるのか、弓道場は学生の部活動だけでは勿体ないほど立派である。 「ほらほら。まだ開始まで時間があるし、中でお茶しようぜ遠坂」  何が嬉しいのか、綾子は強引に人の手を引っ張っていく。  本音が入ると男前な口調になるのが彼女の悪癖だ。  綾子の言う通り、道場にはまだ誰もいなかった。  わたしたちは今日の授業の予習などをしつつ、舌が痺れるほど熱い日本茶を飲んでいる。  閑散とした冬の道場には、この熱いお茶が実に美味しい。 「さて。単刀直入に聞くけど、そっちの調子はどうなのよ遠坂。いい加減、頼りになる相棒は見つかった?」  で。  周りに誰もいないのをいい事に、綾子はとんでもないコトを訊いてきた。 「…………ふう。本当、いきなり本題に入るのね貴女は。  その言いぶりだと、そっちはもう見つけたんだ?」 「ノーコメント。遠坂が手を明かすまではこっちも秘密さ。で、どうなのよ。その疲れた顔を見ると脈ありって感じだけど?」 「こっちもノーコメント……って、貴女に隠してもどうせ見抜かれるか。残念ながらこっちはまだよ。  綾子の方は? お互い、のんびりしてる余裕はない筈だけど?」 「そうなんだけど、あたしも雲行きは怪しいわ。とりあえず取り繕う事はできるけど、事が事でしょう? この先の命運がかかってるんだから、妥協するワケにもいかないし」 「ふうん。勝手に決めて、わたしに負けるのもイヤ?」 「もちろん。あたしにとって重要なのはアンタを負かす事だもの。何が手に入るとか、何を手に入れるとかは二の次よ」  ふふん、と不敵に笑う。 「――――はあ。似たもの同士ね、わたしたち」 「ええ。初めて会った時に言ったでしょ。アンタとはそういう関係にあるんだって」  ああ、言った言った。 『アンタとはきっと、殺す殺さないの関係までいきそうだ』  などと、初対面で言われた時はわたしも本気でビックリした。  要するに、綾子は 『とことんまで殴りあわないとおまえとは友情は芽生えないぞ』  と言ったのだ。  それはわたしも同意見で、それから二年、こうして友人なんだか天敵なんだか判らない関係を続けている。 「ところでさ。わたしたち、なんでこんな話してるんだっけ?」 「なんでって、言い出したのは遠坂でしょ。  アンタがいつまでも彼氏がいないのは女としてどうよ、なんてこぼすもんだから、なら三年になる前にどっちが先に男作るかって勝負になったんじゃない」 「……あー、そうだった。売り言葉に買い言葉ってヤツだった。で、後れをとった方が一日言いなりになるんだっけ」 「ええ。今どき子供でも交わさない約束だけど、アンタとあたしにかぎって往生際が悪いってコトはないでしょ。  どんな結果になろうと、負けた方は大人しく勝者に従うコトになる。それを思うと、あたしゃ今から楽しみで楽しみで」  くつくつと愉しげに笑う綾子。  まったく。  まるっきり本気なあたり、美綴綾子という女は始末が悪い。  ……まあ、わたしも綾子を負かした時が楽しみで楽しみで仕方がないので、始末が悪いのはお互い様なワケなのだが。 「そう。けど美綴さん? 楽しむのは結構だけど、目的を違えないよう気をつけなさい。勝負の内容は後先だけじゃないでしょう?」 「わかってるって。遠坂より早く、遠坂が心底羨ましがるような関係にならないと完全勝利とは言えないからね。  ……ま、あたしたちにとってはそれが一番厄介な問題なんだが。どんなにいい男だろうと、好きになれなきゃ意味がない」  はあ、と重苦しく溜息をつく綾子。  わたしが知り得るかぎり、美綴綾子は男嫌いと言われている。  が、人の噂など当てにならないのが常だ。こんな勝負を持ち出すあたり、男嫌いというより、単に今まで興味がなかっただけかもしれない。    ―――いや、それはともかく。 「ちょっと。あたしたちって何よ、あたしたちって。  断っておきますけど、わたしはそっちと違って冷血漢じゃありません。男の子を好きになるなんて、問題でもなんでもないわ」 「ああ、それ嘘。もしくは気付いていないだけ。遠坂が男を気にかけるなんて事は絶対ないもの。  今まで数えきれないぐらい告白されたクセに、一つも色よい返事してないじゃない。少しでも興味があるなら付き合おうって思うでしょ。なのに断り続けるってコトは、アンタは男に興味がないってコトよ」 「発想が貧困ね。その場合、既に好きな相手がいるから断ってるって話もありじゃない?」 「うわ、すごい美談。いいね。そういうの、浪漫だな」  バカにするのでもなく、真剣に綾子は頷く。  本当にそうだったら素敵ね、と溜息で語っている。  ……まいった。  ホントにこいつには隠し事ができないみたい。 「そうね。わたしもそう思う」    ま、綾子の言う通りだ。  わたしだって、自分がどんなに酷薄な人間か判ってる。 「認めるわ。わたし、こと恋愛に関しては素人みたい」 「そうゆうコト。似たもの同士だって言ったの遠坂でしょ。  ……って、もうじき七時か。秘密の話はこのヘンにしとこう。いつ人がやってくるか判らないし、朝になったら学生らしく振舞わないとな」 「まあ。美綴さんにもそういう世間体があったなんて意外だわ。ええ、これだけでも早起きした甲斐があったみたい」 「ふん、アンタほど筋金入ってないけどね。あたしの世間体なんて、遠坂凛に比べたら〈蟷螂〉《とうろう》の〈斧〉《おの》ってもんよ。アンタの猫被りは擬態っていうより別人格のレベルよ、別人格」  大げさに溜息をつく綾子。  淹れてくれた熱いお茶はお互いカラになって、今度はわたしがお茶を淹れる番になった。 「で、遠坂はどうして部活に入らないのよ。運動神経がない、なんて戯言は聞かないからね。あたしゃ、去年の体力測定でことごとくアンタに負けたのまだ恨んでるんだから」 「あら。肺活量では美綴さんに負けたわよ、わたし。あと体重も美綴さんのが上だったけど」 「あはははは! やったー、重さで三キロ上回ったー!  ……って、体重で勝っても嬉しくないってのよこのタヌキ!」  ばーん、と机を強打する綾子。 「危ない。お茶がこぼれるでしょ、美綴さん。主将なんだから道場は大事になさい」 「うるさい、あたしゃ主将である前に遠坂のライバルだ。  部員がいなけりゃアンタに食ってかかるのは当然よ」  ふん、と半眼で流し目をする綾子。  ……この子は独特の美意識を持っていて、 『美人は武道をしていなければならない』  とつねづね口にしている。  そういう本人も武芸百般、たいていの武道に精通した豪傑だ。  その中で唯一心得がない弓道部に進んで籍を置き、今では当然のように主将の座に収まっている。  男女問わず、うちの学校の中で逆らってはいけないリストのトップ3に入るのではないだろうか。 「あら。部員がいなければ主将じゃないなんて、問題発言じゃない、それ?」 「問題発言なもんですか。あたしはお飾りの主将だから、出来る事っていったら不良部員を取り締まる事だけよ。  あたし以上に〈射〉《シャ》が立派なヤツがいるんだから、主将としての面目なんてないわ」 「そうなの? 藤村先生、美綴さんは飛び抜けて巧いって言ってたけど」 「う……あの人がそう言うんなら、そりゃあ少しは自信が持てるけど。まあ、いなくなっちまったヤツの事なんて考えても仕方ないか。そうね、藤村先生がそう言ってくれたんなら、真面目に主将やんないとまずいか」 「そうそう。噂をすれば影、そろそろ部員がやってくる頃でしょ。わたしはおいとまするけど、美綴さんはきちんと主将になりなさい」 「なに、見ていかないの、射?」 「見ても分からないもの。遠くから眺める分にはいいけどね、不心得ものが道場にいる訳にはいかないでしょ」  そうしてわたしが席を立つのと、道場に部員がやってくるのとはほぼ同時だった。 「おはようございます、主将」 「ああ、おはよう〈間桐〉《まとう》。今朝は一人?」 「……はい。力になれず、申し訳ありません」 「ああ、いいっていいって。本人が弓をやらないって言うんなら、無理をさせても仕方がない」  綾子はやってきた部員と話している。 「それじゃ失礼するわ。また後でね、美綴さん」 「ああ。また後でね、遠坂」 「……おつかれさまです、遠坂先輩」 「――――ありがと。桜もしっかりね」  邪魔にならないように道場を後にする。   「やあ遠坂。おはよう、朝から君に会えるなんてついてるな」    ついてない。あまり遭いたくないヤツとばったり遭ってしまった。 「おはよう間桐くん。今日は早いのね」 「当たり前だろ。主将なんだから、早めに来ないと一年に示しがつかないじゃないか」  にっこりと笑う男子生徒は2年C組の〈間桐慎二〉《まとうしんじ》。  弓道部の副主将で、校内では女生徒の人気を二分する優男だ。  そのルックスもさることながら、成績優秀、人なつっこくて女子には優しい、とまさにアイドルとかなんとか。  わたしにはそのあたりがいまいち分からないので、すべてクラスメイトからの受け売りなんだけど。 「そう。ご機嫌なところ悪いんだけど、一文字抜けてるわ間桐くん。大事な字だから忘れない方がいいと思うけど」 「? 一文字抜けてるって、なにがさ?」 「コウフクのフク。字は違うけど響きは一緒でしょ、副主将さん。気をつけなさい。別に主将も副主将も変わらないけど、ヘンに意識すると〈拘〉《こだわ》ってるみたいに聞こえるでしょう?」 「――――。  そうだね、今後は気をつける。ありがとう、遠坂」 「お礼を言われるような事はしてないけど。まあ、間桐くんがそう思ったのならわたしには関係ないか」  それじゃあ、と弓道場を立ち去る。 「ちょっと待てよ。見学に来たんだろう? なら見ていけばいいじゃないか。遠坂なら大歓迎だよ」 「遠慮するわ。練習の邪魔をしたくないもの」 「そんなの構わないよ。他の連中が気に障るんなら締め出すからさ、ちょっと寄っていけって」 「……だから邪魔をする気はないって言ってるでしょう。  それにわたし、別に弓道に興味がある訳じゃないから。  知らないヤツの射を見ても嬉しくないわ」 「? なんだよ遠坂、弓道に興味はなかったのか。  ……へえ。だっていうのに放課後になると遠くから見てたのはそういうワケかな」  ……。  どういうワケかは知らないけど、彼が多大な勘違いをしているのは間違いないな、こりゃ。 「―――なんだ。知ってたの、間桐くん」 「ああ、よく目があったんだぜ、僕と遠坂。射を終えてさ、残心の時にかぎって遠坂は僕を見ていたろ。  声を返したかったけど、一応決まりでね。射場では声をあげちゃいけないんだ」  なにが嬉しいのか、慎二はずい、と身を寄せてきた。  人なつっこい笑顔は、同時に優位に立ったような含みがある。 「勘違いしてたよ。遠坂は弓が好きなんだと思ってたけど、弓道には興味がないんだろ? なら、なんで遠坂は道場を見ていたのかな」 「――――――――」  ああ、そういうコト。  なるほど、確かにそういう風に聞こえる会話だったな、今のって。 「離れてくれないかしら、間桐くん。わたし、あまり人に近寄られるのは好きじゃないし」 「うん? なに、遠坂?」 「呆れた、ここまで言っても分からないのね。  ……趣味じゃないけど仕方ないか。簡単に、貴方にも理解できるように言ってあげる。  いい間桐くん。わたしは弓道に興味がない以上に、貴方に興味はないって言ってるのよ。実際、貴方が射場にいたなんていま初めて知ったぐらいだし、きっとこれからも目に入らないわ」 「―――な、なんだと……!」  癇に障ったのか、乱暴な手が伸びてくる。  それをひょい、と軽くかわして背を向けた。 「それじゃあね間桐くん。自意識過剰なのも結構だけど、程々にしておいた方がいいわよ」 「遠坂、オマエ……!」  何か言いたげな口調のまま、慎二は怒鳴る事もなければ追いすがってくる事もない。  ……まったく、本当に格好だけなんだから。  アイツももうちょっと性根がしっかりすれば、周りが苦労する事もないんだけど。  弓道場がある校舎裏から校内に入る。  朝の七時を過ぎても、まだ廊下には生徒の姿が見られなかった。 「あれ、遠坂さんだー」 「―――。おはようございます、〈藤村〉《ふじむら》先生」 「うん、おはよう遠坂さん。ちゃんと挨拶してくれて先生は嬉しいよぅ」  よよよ、と嬉しそうに泣き崩れるジェスチャーをする謎の女性。  ……信じがたい事だけど、この、常人を遙かに凌駕した親しみと気楽さを兼ね備えた人物は、うちの学校の教師である。 「……あの、先生。ちゃんと挨拶をする、以外にする挨拶があるのでしょうか」 「うん、あるわよ。一年生はちゃんと挨拶してくれるんだけどね、上級生になってくるとわたしの苗字で挨拶しないんだから。遠坂さんはああいう輩の真似しちゃダメだからね」 「―――はあ。よく分かりませんけど、先生に失礼な事はしませんが」 「よしよし。あーあ、みんながみんな遠坂さんみたいだったらいいのになー」  じゃあねー、と手を振って藤村先生は去っていった。  幸い、わたしのクラス担任は藤村先生じゃない。  藤村先生の教科は英語。  あんな朗らかな顔をしておいて剣道は段持ちで、学生時代は「冬木の虎」と慕われたんだそうだ。  ……だいたい、そのあたりからして謎だ。  普通、虎と名の付く者は慕われるんじゃなくて恐れられるんじゃないのだろうか?  ご機嫌なのか、藤村先生は楽しそうに弓道場へ向かっていった。  藤村先生は剣道部ではなく、なぜか弓道部の顧問である。  時刻は七時半前。  校庭には部活動に勤しむ生徒たちの姿が見えるけど、校内にはまったく〈人気〉《ひとけ》がない。  だっていうのに、   「――――げ、遠坂」    人の顔を見るなり、失礼なコトを口走る輩に遭遇した。 「あら生徒会長。こんな朝早くから校舎の見回り? それとも各部室の手入れかしら。どっちでもいいけど、相変わらずマメね、そうゆうトコ」 「ふん―――そういうおまえこそ何を企んでいる。部活動もしていないおまえが、こんな早くに何の用か」 「ただの気紛れよ。〈柳洞〉《りゅうどう》くん家みたいに早起きじゃないもの、わたし」 「………………」  む、と端正な顔を曇らせる生徒会長。  なんでだかは知らないけど、彼はわたしを目の敵にしているみたいだった。  理由は本当に分からない。  ……もしかして、修学旅行の会議で『お寺は辛気くさいからパス』と横やりを入れたのが原因だろうか。 「…………一つ訊いておくが。最近、夜遅くまで校舎にいた事はあるか、遠坂」 「ないわね。わたしが帰宅部だって知ってるでしょう、柳洞くんは」 「当然だ。生徒会長を任された以上、全校生徒の情報は把握している」 「そう。ならわたしに訊くまでもないでしょう。なんだってそんな事を訊くか知らないけど、生徒会の仕事を部外者に押しつけちゃまずいんじゃない?  情報収集は一人でやりなさいよ。わたしみたいな部外者に頼らないで」 「たわけ、おまえのどこが部外者だっ!  うちの会計の首根っこ掴んで悪さをしたのを知らぬと思ったか、この女狐!」 「あら、人聞きが悪いわね。アレは美綴さんに頼まれて、部費の割合を明らかにしただけでしょう?  みんなの予算がどこに使われているか調べるなんて、生徒として当然の行為だと思うけど」 「……なんと。うちの会計を一週間休ませた精神的ダメージが当然の行為なのか。とんでもない倫理観をお持ちのようだな、相変わらず」 「貴方もね。部下の手綱ぐらいちゃんと握ってなさい。  文化系ばかり〈贔屓〉《ひいき》するのはフェアじゃないわ」 「分かっている。だからこそ、俺の手で不正を糾したかったのだが――――」 「〈一成〉《いっせい》、修理終わったぞ」    ――――と。  思ってもいなかったヤツが、いきなり出てきた。 「と、悪い。頼んだのはこっちなのに、〈衛宮〉《えみや》に任せっきりにしてしまった。許せ」 「そんなコト気にするな。で、次は何処だよ。あんまり時間ないぞ」 「ああ、次は視聴覚室だ。前から調子が悪かったそうなんだが、この度ついに天寿を全うされた」 「天寿、全うしてたら直せないだろ。買い直した方が早いぞ」 「……そうなんだが、いちおう見てくれると助かる。俺から見れば臨終だが、おまえから見れば仮病かもしれん」 「そうか。なら試そう」  男子生徒に促されて去っていく生徒会長。 「――――――――」  突然の事で、思考が停止してしまった。  手にスパナやらドライバーやらを持った男子は思い出したように振り返って、 「朝早いんだな、遠坂」    そう、ぶっきらぼうに去っていった。  ……今の、挨拶のつもりなのかな。  生徒会長が衛宮と呼んでいた生徒はスタスタと去っていった。  衛宮といえば、2年C組の〈衛宮士郎〉《えみやしろう》の事だろう。 「……それはいいんだけど、さ」  その、なんというか。  ああもスパナが似合うヤツっていうのは、物騒なんだか便利なんだか分からないな、などと思ってしまった。  朝の七時半、2年A組の教室には誰もいない。  自分の机について、パラパラと数学の問題集を開いてみる。  朝のホームルームまで三十分、クラスメイトが登校してくるまで退屈な予習になりそうだ。  四時限目が終わって、教室は賑やかなお昼休みを迎える。  うちの学校は学食もあるので、教室に残る生徒は半分ほど。  ちなみに、残った生徒の大部分は女子である。  うちの学食は大雑把な味付けなので女子に受けがよろしくなく、結果として、   「あ、あの、遠坂さんっ……! よ、良かったらお昼ごはん一緒に食べませんか……!」    なんて、女の子同士で仲良くお弁当、というコトになる。 「ありがとう〈三枝〉《さえぐさ》さん。けどごめんなさい、わたし今日は学食なんです。今朝は寝過ごしてしまって、お弁当を作る余裕がなかったものですから」 「あ、や、そうなんですか。……ごめんなさい、そうとも知らず呼び止めてしまって。わたし、余計なコトしましたね」  しゅん、と申し訳なさそうにうなだれる三枝さん。  上品で大人しい生徒の多いA組の中でも群を抜いて大人しい生徒で、なぜかわたしに構ってくれる優しい人だ。 「余計なコトだなんて、そんな事はありません。今日はたまたまだから気にしないで。また明日、これに懲りず声をかけてください」  にっこり、と本心からの笑顔で返す。 「あ、はい。でも、遠坂さんでも寝過ごす事があるんですね」  わたしの笑顔にホッとしたのか、三枝さんもほにゃっとした笑顔で切り返してくる。 「――――――――」  その笑顔は可愛い。  三枝由紀香さんはすごい美人ではないけど、笑うと周りにいる人間をあったかくしてくれる。 「ええ、そうなんです。なんとか誤魔化してますけど、本当は寝ぼすけなんですよ、わたし。部活だって、朝起きられないから入ってないんです」  まあ、なんてこれまた上品に驚いてくれる三枝さん。  その反応はすごく安らぐのだが、楽しいからって話を続けるワケにはいかない。  こういう人と話していると、いつのまにか地が出てしまうのがわたしなのだ。 「それじゃあ食堂に行ってきます。三枝さんもごゆっくり」 「はい、遠坂さんも」  ほにゃっと極上の挨拶を交わして、三枝さんは女子の一団へ戻っていった。  三枝さんとお昼を一緒するのは〈蒔寺〉《まきでら》と〈氷室〉《ひむろ》さんか。  そっか、三枝さん陸上部のマネージャーだっけ。  蒔寺と氷室さんは陸上部のホープだ。  蒔寺のヤツとは休日お店を冷やかしにいく悪友で、氷室さんとはあまり面識がない。 「お、フラれたね由紀っち。だから言ったでしょ、遠坂は弁当持ってこないって。釣りたかったらあいつの分もメシ用意しないとねー」 「……蒔。それは、私たちも食堂に移動すればいいだけの話では?」 「だめだめ。食堂は狭いんだから、弁当組が座れるスペースなんてねーっての。それに遠坂と同席してみなさい、男どもの視線がうざいのなんの。  前の休みだってさー、二人で遊びにいったのにあいつだけ得しちゃってさー。やだよねー、美人を鼻にかけた優等生はー」  三枝さんの机を取り囲みつつ、なにやら言いたい放題の蒔寺。  その口の悪さとは裏腹に、こいつは和服の似合う日本美人だったりする。 「……蒔の字。君の陰口は、遠坂嬢に聞こえているようだが」  一方、氷室さんは喧しい蒔寺とは対照的にクールでソリッドな感じである。 「あ、やべ、遠坂に聞かれた? げげ、めっちゃにらんでるじゃんあいつ……!」 「え……べ、別に遠坂さん、蒔ちゃんを睨んでなんかないと思う、けど」 「睨んでんだよアレ。あいつは笑ってる時が一番怖いんだから。なんだよー、いいじゃんかグチぐらい。大目に見ろよー、あたしと遠坂の仲だろー。タイヤキ奢ってやっただろー」  ほっぺたを膨らませて割り箸をブン回す蒔寺楓。  アレで趣味が風鈴集めっていうのは、どうも世の中複雑すぎる。  ……ともあれ、いつまでも三人の様子を眺めていては三枝さんに悪い。  際限なくグチをこぼす蒔寺を前にして、三枝さんはどうしたものかと取り乱しているからだ。 「気にしないでいいのよ三枝さん。  それと蒔寺さん? 奢らされたのはわたしで、品物はタイヤキではなくクレープでした。無意識に事実を〈改竄〉《かいざん》する悪癖、次あたりに直さないと考えますよ?」 「げ。マジ怖えあの笑顔」  ササッとお弁当のフタで顔を隠す蒔寺。  どこから見てもチグハグな三人に挨拶をして、教室を後にする。  がらり、と教室のドアを閉める。  ……と。   「ぶー。なんだよー、大差ないじゃんかタイヤキもクレープもー。どっちも甘いの皮で包んでるんだからさー」    蒔寺による女の子にあるまじき暴言が聞こえてきた。 「……タ、タイヤキとクレープが同じですって……!?」  あいつはホントに女なのか、甘いものならなんでも一緒なのか。  500円もするフルールのベリーベリーベリーが、江戸前屋の一個80円のタイヤキと同位などとある意味うらやましい味覚の持ち主と言えなくもないというか、 おのれ蒔寺楓、それなら初めからタイヤキで済ませておけば420円も得したじゃないっ……! 「…………って、なに本気で悔しがってるんだわたし」  昨夜の疲れがまだ取れていないらしい。  食堂も面倒くさいし、購買でパンと飲み物を買って屋上で済ませよう。  購買でお昼ごはんを調達して、人のいない屋上に移動する。  夏場ならともかく、冬場の屋上は生徒の寄り付かない便利な場所だ。  お昼休みを取るには寒すぎるけど、まわりに気を遣わなくていいのは何事にも代えがたい。 「さて。とりあえずごはんごはん、と」  購買のトマトサンドとホットレモンを口に運ぶ。  簡素な食事だけど、気楽に食べられる屋上だと何割か増しで美味しく感じられた。 「―――――ふう」  サンドを完食して、生暖かいホットレモンで唇を潤す。  ……ちょっと疲れた。  優等生のクセに極力人付き合いを避ける、というのはバランス感覚が難しい。  文武両道、学園一の優等生を守っているのはわたしの見栄というか、信念である。  どうせ学生でいるなら一番でいたいし、遠坂の名を〈貶〉《おとし》めるなんてもってのほかだからだ。  そんなワケで遠坂凛は完璧な、誰から見ても隙のない女生徒をやってるワケである。  が、同時にわたしは魔術師なんて物騒な生業をしていて、あんまり普通の人と関わるのはよろしくない。  一般人に正体を知られた魔術師は、目撃者を消す事でしか自分を守れない。  ……そんなのは御免だ。  だから必然、わたしの人付き合いは簡素で表向きなものになる。  遊び友達の蒔寺だって休日にしか会わないし、三枝さんのように人懐っこい子の誘いも断る。  わたしは学園で一番の優等生でありながら、誰かの一番にならないように波風立てずに生活している。  それが、まあ、こんな風に疲労している時、なんとなーくつまんないなあ、と思ってしまうワケなのだ。 「っと、もう時間か」  ホットレモンを飲みきって立ち上がる。  感傷にひたるのはこれぐらいにして、階段を下りたらいつもの遠坂凛に戻るとしよう―――― 「ではHRを終了する。日直は日誌と戸締まりの確認を。  部活動のない生徒は速やかに帰宅するように」  おきまりの台詞を残して、2年A組の担任が退場する。  わたしが知る限り、今の台詞はこの一年間で一言一句違った例がない。 「遠坂、今日はもうお帰り?」 「ええ。朝方間桐くんと一件あったし、面倒になる前に帰るわ」 「はは、やっぱりそうか。間桐のヤツ、今朝はとくに荒れてたからさ。遠坂に手ひどく扱われたんだろうなって思ってた」 「そう。迷惑をかけてしまったかしら、美綴さん」 「別に。間桐が下級生をいびるのはいつもの事だし。アレはアレでいい精神鍛錬になるよ」 「そう、よかった。じゃあこの埋め合わせは、また今度」 「はいはい。これに懲りずまた寄っていってちょうだい」  寄り道をせず帰路につく。  学校から出れば、学生である遠坂凛の時間は終わりだ。    残りの半日は学生ではない自分、  遠坂の魔術師としての自分に切り替わらなくてはいけない―――  〈屋敷〉《うち》に帰ってきたわたしを出迎えたのは、点滅する留守番電話のランプだった。   「―――留守電なんて珍しいな。相手は……やっぱりアンタか、〈綺礼〉《きれい》」    何を言われているか予想はつくけど、一応聞いておかないと後が怖い。  再生のボタンを押すと、聞き慣れた男の声がした。   『私だ。解っていると思うが、期限は明日までだぞ凛。  あまり悠長に構えられては困る。残る席はあと二つだ。  早々にマスターを揃えねばならん』    いきなり本題を口にするあたり、この神父は容赦がない。   『マスターの権利を放棄するというのなら今日中に連絡しろ。予備の魔術師を派遣するにも時間がかかる』    嘘つけ。予備の魔術師ぐらい、アンタならすぐに準備できるくせに。   『おまえにはすでに令呪の兆しが現れているのだ。さっさとサーヴァントを召喚し令呪を開け。  もっとも、聖杯戦争に参加しないというのならば話は別だ。命が惜しいのなら早々に教会に駆け込むがいい』  留守電はそこで切れた。  ……簡潔と言ってはあんまりにも簡潔な言葉。  戦うなら今日中に支度しろ、戦わないのなら目障りだから早くリタイアしろ、か。 「……ふん。言われなくても分かってるわよ」  まあ、こうなっちゃしょうがない。  引き延ばしも今日が限界だ。  幸い、昨日は父さんの遺言を解読できた。  戦う準備はとうに整っている。    あとは、そう―――文字通り、この戦いに参加する資格を得るだけなのだが―――― 「聖杯戦争……たった一つきりの聖杯を奪い合う殺し合い。何百年も前から伝わってきた聖杯の儀式、か……」    聖杯戦争に参加する魔術師はマスターと呼ばれる。  これは階級を表す呼称ではなく、単純に“主”としての役割を意味する。  聖杯戦争に参加する条件。  それはサーヴァントと呼ばれる使い魔を召喚し、契約する事のみだ。  いくら魔術師として優れていようが、サーヴァントを従えなくてはマスターとは認められない。  サーヴァントは通常の使い魔とは一線を画す存在だ。  その召喚、使役方法も通常の使い魔とは異なる。  聖杯戦争に参加する魔術師はこの日に備えて召喚用の触媒を用意するものなのだが…… 「……ほんと。父さんもセイバーに縁の物を遺してくれれば良かったのに」    わたしには“縁”を示す品物がない。  サーヴァントは呼び出せる。  その気になれば今すぐに呼び出して契約できる。  この街の霊地は遠坂の管轄だ。  代々土地を守ってきた遠坂の跡取り娘として、他所からやってきた魔術師になんて後れはとらない。  とらないんだけど……流石にコンパスなしで航海には出れないというか、無計画にも程があるっていうか。 「……サーヴァントはシンボルによって引き寄せられる。  強力なサーヴァントを呼び出したいのなら、そのサーヴァントに縁のあるモノが必要不可欠なのだ、かぁ……」  つまり、そのサーヴァントが持っていた剣とか鎧とか、紋章とか骨とか、そういうとんでもない値打ち物だ。 「……父さんの遺言に期待してたんだけどなあ……ううん、これはこれでもの凄い切り札なんだけど」  昨夜地下室で発見したペンダントは、〈古代遺物〉《アーティファクト》としては最上級の代物だ。  これはこれで凄い。  凄いんだけど、サーヴァント召喚の役には立たない。 「……ふん。いいわよ、そんな物に頼らなくたってなんとかなるわ。そもそも、わたし以外にセイバーを扱えるマスターなんている筈ないし」  ―――よし、決めた。  これ以上延ばして綺礼に嫌みを言われるのもご免だし、ギリギリまで待つなんて性に合わない。    こうなったら本番勝負。  今夜万全の態勢でサーヴァント召喚に臨んで、力ずくでセイバーを手に入れてやるんだから……!  深夜。  時計の針はじき午前二時を指そうとしている。  わたしにとって最も波長のいい時間帯。  その中でもピークになるのが午前二時ジャスト。  制限的にもこれが最初にして最後のチャンスだから、わずかでもミスをする訳にはいかない。 「―――消去の中に退去、退去の陣を四つ刻んで召喚の陣で囲む、と」    地下室の床に陣を刻む。  ……実際、サーヴァント召喚にはさして大がかりな降霊は必要ない。  サーヴァントは聖杯によって招かれるモノ。  マスターは彼らをつなぎ止め、実体化に必要な魔力を提供する事が第一なのだから、召喚はあちらが勝手にやってくれる。       「素に銀と鉄。礎に石と契約の大公。祖には我が大師シュバインオーグ。  降り立つ風には壁を。四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ」    それでも、細心の注意と努力を。  本来なら血液で描く魔法陣を、今回は溶解した宝石で描く。  ……わたしが今までため込んできた宝石のうち半分を使うんだから、財政的にも失敗なんて承知しない。         「〈閉じよ〉《みたせ》。〈閉じよ〉《みたせ》。〈閉じよ〉《みたせ》。〈閉じよ〉《みたせ》。〈閉じよ〉《みたせ》。  繰り返すつどに五度。  ただ、満たされる刻を破却する」    ……じき午前二時。  遠坂の家に伝わる召喚陣を描き終え、全霊をもって対峙する。 「―――――〈Anfang〉《セット》」    わたしの中にある、カタチのないスイッチをオンにする。  かちり、と体の中身が入れ替わるような感覚。  通常の神経が反転して、魔力を伝わらせる回路へと切り替わる。    これより遠坂凛は人ではなく。  ただ、神秘を成し得る為だけの部品となる。  ……指先から溶けていく。  否、指先から満たされていく。  取り込むマナがあまりにも濃密だから、もとからあった肉体の感覚が塗りつぶされていく。    だから、満たされるという事は、同時に破却するという事だ。 「――――――――――――」  全身に行き渡る力は、大気に含まれる純然たる魔力。  これを回路となった自身に取り込み、違う魔力へと変換する。  魔術師の体は回路にすぎない。    幽体と物質を繋げる為の回路。  その結果、成し得た様々な神秘を、我々は魔術と呼ぶ。  ……体が熱い。    額に角が生えるような錯覚。  背に羽が生えるような錯覚。  手に鱗が生えるような錯覚。  踝に水が満ちるような感覚。    ……汗が滲む。  ザクン、ザクン、と体中に剣が突き刺さる。  それは人であるわたしの体が、魔術回路と成っているわたしの体を嫌う聖痕だ。  いかに優れた魔術師であろうと人は人。  この痛みは、人の身で魔術を使うかぎり永劫につきまとう。  それでも循環を緩めない。  この痛みの果て、忘我の淵に“繋げる”為の境地がある。   「――――――――――――」    ……左腕に〈蠢〉《うごめ》く痛み。  魔術刻印は術者であるわたしを補助する為、独自に詠唱を始め、余計、わたしの神経を侵していく。  取り入れた〈外気〉《マナ》は血液に。  それが熱く焼けた鉛なら、  起動した魔術刻印は茨の神経だ。    ガリガリと、牙持つ〈百足〉《むかで》のようにわたしの体内を這いまわる―――― 「――――――――――――」  その痛みで我を忘れて。    同時に、至ったのだと、手応えを得た。    あまりにも過敏になった聴覚が、居間の時計の音を聞き届ける。  午前二時まであと十秒。  全身に満ちる力は、もはや非の打ち所がないほど完全。   「――――――――告げる」    始めよう。  取り入れたマナを“固定化”する為の魔力へと変換する。  あとは、ただ。  この身が空になるまで魔力を注ぎ込み、召喚陣というエンジンを回すだけ――――         「――――告げる。  汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。  聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ」  視覚が閉ざされる。  目前には肉眼では捉えられぬという第五要素。    故に、潰されるのを恐れ、視覚は自ら停止する。       「誓いを此処に。  我は常世総ての善と成る者、  我は常世総ての悪を敷く者。  汝三大の言霊を纏う七天、  抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ―――!」    文句なし……!  手応えなんてもう、釣り竿でクジラをつり上げたってぐらいパーフェクト!    ―――かんっぺき……! 間違いなく最強のカードを引き当てた……!    ああもう、視覚が戻るのがもどかしいっ。  あと数秒で目が回復して、そうすればもう目前には召喚されたサーヴァントの姿が――――  ――――ない。 「はい……?」  ないものはない。  変化なんてこれっぽっちもない。  あんだけ派手にエーテルを乱舞させておいて、実体化しているモノが欠片もない。  加えて。  なんか、居間の方で爆発音がしてるし。 「なんでよーーーーー!?」    走った。  もう頭んなか空っぽにしたまま走った。  地下室の階段を駆け上がって居間へ急ぐ。 「扉、壊れてる!?」    居間の扉はゆがんでいた。  取っ手を回しても意味がない。  押しても引いても開かないので、   「―――ああもう、邪魔だこのおっ……!」    どっかーんと、蹴破って中に入った。 「…………」  で。  居間に入った瞬間、わたしは全てを理解した。  居間はメチャクチャになっていた。  何が天井から落ちてきたのか、部屋は瓦礫にまみれており、偉そうにふんぞり返っている男が一人。 「……………」  アレ、間違いなく下手人だ。 「……………」  けど、そんな事よりもっと大事な事が一つ。  破壊を免れた柱時計は正確に時間を刻んでいる。  ……それで、思い出してしまった。  うん、そうそう。たしかうちの時計、今日にかぎって一時間早かったんだっけ。  つまり今は午前一時。  わたしの絶好調まで、ほんとはあと一時間。 「…………また、やっちゃった」    わたしは大抵のコトは人並みにこなせるんだけど、一つだけ遺伝的な呪いがある。  それはここ一番、もっとも大事な勝負時に、信じられないような大ポカをしでかす事だ――― 「……やっちゃった事は仕方ない。反省」  自分の馬鹿さ加減が腹立たしい。  カリカリとした心のまま、偉そうに横たわっている瓦礫の男を睨み付けた。 「それで。アンタ、なに」 「開口一番それか。これはまた、とんでもないマスターに引き当てられたものだ」  赤い〈外套〉《がいとう》のソイツは、やれやれ、なんて大げさに首をすくめた。  オマケに「これは貧乏クジを引いたかな」なんて呟きやがる。  ……断言しよう。  コイツ、絶対に性格ゆがんでる。 「――――――」  それにしても、これがサーヴァント、なんだろうか。  使い魔っていうからカタチのないモノだと思ってたけど、これじゃまるで人間そのものだ。  ……いや、それは違うか。  こうしているだけで、アレが桁外れの魔力を帯びている事が判る。  外見に惑わされるな。  アレは間違いなく人間以上のモノ、人の身でありながら精霊の域に達した“亡霊”だ。 「――――――」  いつまでも圧倒されている場合じゃない。  アレはわたしの。  なら、ここからはきっちりと頭を切り換えないと。 「―――確認するけど、貴方はわたしのサーヴァントで間違いない?」 「それはこちらが訊きたいな。君こそ私のマスターなのか。ここまで乱暴な召喚は初めてでね、正直状況が掴めない」 「わたしだって初めてよ。そういう質問は却下するわ」 「……そうか。だが私が召喚された時に、君は目の前にいなかった。これはどういう事なのか説明してくれ」 「本気? 雛鳥じゃあるまいし、目を開けた時にしか主を決められない、なんて冗談は止めてよね」  む、と正体不明のサーヴァントは顔をしかめた。  こっちの言い分に腹が立ったのか、それともあんまりにもわたしの言葉が正しかったから感心したのか、ちょっと微妙な反応だ。 「まあいいわ。わたしが訊いてるのはね、貴方が他の誰でもない、このわたしのサーヴァントかって事だけよ。  それをはっきりさせない以上、他の質問に答える義務はないわ」 「……召喚に失敗しておいてそれか。この場合、他に色々と言うべき事があると思うのだが」 「そんなのないわよ。主従関係は一番初めにハッキリさせておくべき物だもの」 「――――む」  ぴくり、とサーヴァントの眉があがる。  中途半端な召喚だったからか、こいつ、わたしへの不満を隠そうともしない。 「ふむ。主従関係はハッキリさせておく、か。やる事は失点だらけだが、口だけは達者らしい。  ―――ああ、確かにその意見には賛成だ。どちらが強者でどちらが弱者なのか、明確にしておかなければお互いやり辛かろう」  瓦礫に寝そべったまま、意味ありげにわたしを見定めるサーヴァント。 「どちらが弱者かですって……?」 「ああ。私もサーヴァントだ、呼ばれたからには主従関係を認めるさ。だが、それはあくまで契約上の話だろう?  どちらがより優れた者か、共に戦うに相応しい相手かを計るのは別になる。  ―――さて。その件で行くと、君は私のマスターに相応しい魔術師なのかな、お嬢さん」  にやにやと笑うサーヴァント。  人の家を壊しておいて、その王様みたいな態度だけでもカチンとくるってのに、言うにコト欠いてマスターに相応しいかですって……!? 「―――貴方の意見なんて聞いてないわ。  わたしが訊いているのは、貴方がわたしのサーヴァントかどうかって事だけよ」  まっすぐに見据える。  こんな、あからさまに見下してくるヤツに負けてたまるか。 「ほう。なるほどなるほど、そんな当たり前の事は答えるまでもない、と? 実に勇ましい。いや、〈気概〉《きがい》だけなら立派なマスターだが―――」 「だ・か・ら、順番を間違えるなっていうのっ……!  一番初めに確認するのは召喚者の務めよ。さあ答えなさい、貴方はわたしのサーヴァントなのね……!?」  返答しだいによっちゃ掴みかかる気合で踏み込む。 「――――はあ。強情なお嬢さんだ、これでは話が進まんな。  ……仕方あるまい。仮に、私が君のサーヴァントだとしよう。で。その場合、君が私のマスターなのか? いやまあ、あくまで仮の話だが」 「あっ、当ったり前じゃない……! 貴方がわたしに呼ばれたサーヴァントなら、貴方のマスターはわたし以外に誰がいるっていうのよ……!」  沸騰しそうな頭をなんとかクールダウンして、この不届きものを睨みつける。 「ほう。そうか、まあ仮の話なんだが、とりあえずそうだとしよう。  それで。君が私のマスターである証は何処にある?」  ニヤニヤと笑いながら戯言を口走るサーヴァント。  こいつ、マスターの証とやらでわたしが慌てふためくと思っているに違いない。 「ここよ。貴方のマスターである証ってコレでしょ」 「む?」  右腕に浮き出た令呪を見せつける。  ふん、何も知らないと思わないでよね。  こっちは父さんからマスターについて散々聞かされてきたんだから、令呪の事ぐらい知ってるわよ。 「納得いった? これでもまだ文句を言うの?」  どうだ、とマスターの証を突きつける。  瓦礫に横たわったサーヴァントは目を白黒させて、 「……はあ。まいったな、本気で言ってるのかお嬢さん」  なんて、ますます不満そうに顔を曇らせた。 「ほ、本気かって、なんでよ」 「その考えがだ。令呪があればマスターなのか? 令呪などサーヴァントを律する道具にすぎないだろう。  まったく、そんな形だけのものでマスターぶるとはな。  私が見たかったのは、君が忠誠を〈揮〉《ふる》うに相応しい人物かどうかだったのだが」 「あ――――う」  そ、それはそうだけど―――マスターの証って言ったら、まず令呪だって思うじゃない、普通。 「……なによ。それじゃあわたしはマスター失格?」 「そう願いたいが、そうはいくまい。令呪がある以上、私の召喚者は君のようだ。……信じがたいが、君は本当に私のマスターらしいな」  やれやれ、なんて大げさに肩をすくめる。 「………………」  ―――まずい。  沸点低すぎて、クールダウンが間に合わなそう。 「まったくもって不満だが認めよう。  とりあえず、君は私のマスターだ。だが私にも条件がある。私は今後、君の言い分には従わない。戦闘方針は私が決めるし、君はそれに従って行動する。  これが最大の譲歩だ。それで構わないなお嬢さん?」 「――――――――」  あー、だめみたい父さん。  わたし、そろそろ臨界です。 「……そう。不満だけど認めるくせに、私の意見には取り合わないって、どういうコトかしら? 貴方はわたしのサーヴァントなんでしょ?」  震える声で一応訊いてみる。  さっきの令呪のコトもあるし、わたし的には思いっきり譲歩した最後通告だ。  それに。 「ああ、カタチの上だけはな。故に形式上は君に従ってやる。だが戦うのは私自身だ。君はこの家の地下にでも隠れて、聖杯戦争が終わるまでじっとしていればいい。  それなら未熟な君でも、命だけは助かるだろう」    わたしには何も望んでいない、と見下しきった目で告げた。 「――――、っ」 「ん、怒ったのか? いや、もちろん君の立場は尊重するよ。私はマスターを勝利させる為に呼ばれたものだからな。  私の勝利は君の物だし、戦いで得た物は全て君にくれてやる。それなら文句はなかろう?」 「――――――――、あ」 「どうせ君に令呪は使えまい。  まあ、後のことは私に任せて、君は自分の身の安全、を……!?」 「あったまきたぁーーーーー!  いいわ、そんなに言うなら使ってやろうじゃない!」 「――――An〈f〉《セット》ang……!」  もう容赦なしだ、こんな捻くれモノ相手にかけてやる情けなんてあるもんかっ……! 「な――――まさか……!?」 「そのまさかよこの礼儀知らず!  Ver〈t〉《令呪に告げる》rag……! Ein ne〈u〉《聖杯の規律に従い、》er Nagel Ein ne〈u〉《この者、我がサーヴァントに》es Gesetz Ein ne〈u〉《戒めの法を重ね給え》es Verbrechen―――!」 「ば…………!? 待て、正気かマスター!? そんなコトで令呪を使うヤツが……!」 「うるさーい!  いい、アンタはわたしのサーヴァント! なら、わたしの言い分には絶対服従ってもんでしょうーーー!?」    ――――右手に刻まれた印が疼く。    三つの令呪。  聖杯戦争の要、サーヴァントを律するという三つの絶対命令権が行使される。 「か、考えなしか君は……! こ、こんな大雑把な事に令呪を使うなど……!」    ふん、怒鳴られても後の祭りよ。  ……だいたい、わたしだって予想外だ。  自己嫌悪で死にたくなる。  まさかこんなコトで、大事な令呪をあっさりと使うハメになるなんて―――!    ――――で。  廃墟みたいになった居間から引き上げて、とりあえず私の部屋に移動した。  目の前にはわたしの令呪で“絶対服従”になったはずのサーヴァントがいる。  いるんだけど―――― 「……なるほど。君の性質はだいたい理解したぞ、マスター」  これの、どこが絶対服従なんだって言うのかっ。 「念のため訊ねるが。君は令呪がどれほど重要か理解しているのか、マスター」 「し、知ってるわよ。サーヴァントを律する三回きりの命令権でしょ。それがなによ」 「……はあ。いいかね、令呪はサーヴァントを強制的に行動させるものだ。  それは“行動を止める”だけでなく、“行動を強化させる”という意味でもある」 「例えば、私はここから遠くの場所まで瞬間的には移動できない。だが令呪で“行け”と命じれば、それが私と君の魔力で届く事ならば可能となる。  強制命令権とはそういう事だ。サーヴァント自身でも制御できない、肉体の限界さえ突破させる大魔術の結晶が三つの令呪なのだ。まあ、今では二つに減ってしまったがな」 「し、知ってるわよそんなコト。いいじゃない、まだ二つあるんだし、貴方に命じた規則は無駄じゃないんだし」 「……ふう。確かに、これは私の誤算だった。  令呪というものは曖昧な命令には効きが弱くなる。 “私を守りとおせ”“この戦いに勝て”などといった、広く長く効果が続くものには令呪の力が弱くなる。〈強制〉《ききめ》は長く続くが、苦痛が小さい為逆らえるサーヴァントも出てくるだろう」 「逆に、“次の一撃を死ぬ気で放て”“あのグラスだけは壊すな”といった単一の命令は絶対で、よほど強力なサーヴァントでも逆らうのは難しくなる。  ……さて。ここまでで私が言いたい事がわかるな、マスター」 「……解るわよ。ようするに、広く長い命令は意味がないんでしょ。  効果も〈戒〉《いまし》めも薄いなら、サーヴァントは令呪に逆らって行動できる。そんな効き目の薄い命令をするなら、絶対的な“単一の命令”をした方がいい」 「そうだ。令呪とは元々、自分たちの能力以上の奇跡を起こす為のもの。それを代用の効く命令などで消費する愚は許されない。  ……君の先ほどの令呪はまさにそれだ。私が君に従うかは話し合いで解決できた事だし、仮に令呪を使ったところで“全ての言動に絶対服従”など、令呪が百あっても実現できない」 「う……じゃあ、わたしのさっきの令呪は無意味って事……?」 「……通常ならそうなのだがな。どうも、君の魔術師としての性能はケタが違ったらしい」 「?」  呆れているのか、嬉しいのか。  サーヴァントは溜息をつきながらも、口元を緩ませている。 「ケタが違ったって――――もしかして。  ちょっと貴方。自分が今どんな状態なのか、正直に話してみなさい」  ピンとくるものがあって、ちょっと強気に訊いてみる。 「ああ。誤算というのはそれだ。  先ほどの〈令呪〉《めいれい》では、“少しはマスターの意見を尊重しよう”という程度の心変わりにしかならない。  だが、今の私は君の言葉に強い強制を感じている。君の意見に異を唱えると、そうだな……ランクが一つばかり落ちるようだ。  つまり、マスターの意向に逆らうと体が重くなって動き辛い、というところか」  困ったものだ、と肩をすくめるサーヴァント。 「――――えっと」  ……って事は、さっきの令呪は無駄じゃなくて、むしろプラスに働いたんだろうか?  けどこいつは相変わらず皮肉ばっかり口にするし、全然弱くなったように見えない。  ううん、仮にこのサーヴァントがわたしに逆らって力が落ちても、わたしなんかじゃ十人いても太刀打ちできないんじゃないだろうか……? 「前言を撤回しよう、マスター。  年齢は若いが、君は卓越した魔術師だ。  子供と侮り、戦いから遠ざけようとしたのは私の過ちだった。無礼ともども謝ろう」  居を正して、礼儀正しく頭を下げる。 「え―――ちょっ、止めてよ、たしかに色々言い合ったけど、そんなのケンカ両成敗っていうか……」 「そうか。いや、話の解るマスターで助かった」 「……なんか、切り返し早いわねアンタ」 「なに、誤算は誤算だったが、嬉しい誤算というヤツだったからな。これほどの才能があるのなら、君を戦いに巻き込むことに異論はない」 「え――――?」  えっと……今のって、強いマスターに巡り合えたって意味、なんだから―――― 「じゃあ令呪抜きで、わたしがマスターだって認めるのね?」 「無論だ。先ほどは召喚されたばかりで馴染んでいなかったが、今では完全に繋がった。魔術師であるのなら、契約による繋がりを感じられるだろう」 「契約……?」  む。言われてみれば、なにか体に違和感がある。  今まで内に閉じていた神経が外に向かっている感じ。  ……ついでに言うと、わたしの魔力の何割かが目の前の男に流れていっている。 「そっか。サーヴァントは聖杯に呼ばれるけど、呼ばれたサーヴァントをこの世に留めるのは」 「そう、マスターの力だ。サーヴァントはマスターからの魔力提供によってこの世に留まる」 「魔力提供量は十分だ。経験的に問題はありそうだが、君の能力はとび抜けている。  普通の魔術師ならば、サーヴァントを召喚した瞬間に意識を失っているだろう。だというのに君は活力に満ちている。  先ほどの令呪といい、この魔力量といい―――マスターとして、君は間違いなく一流だ」 「っ―――ふ、ふん。今さら褒めたって何もでないけど」  気恥ずかしくなって視線を逸らす。  ……ちょっと意外だ。  そりゃ令呪で強制的に従わせてはいるけど、人間以上であるサーヴァントが、素直にわたしをマスターと認めてくれるなんて。 「……で? 貴方、何のサーヴァント?」  気を取り直して、ようやく本題に移る。 「見て判らないか。ああ、それは結構」  …………。  さっきのは気の迷い。  コイツ、やっぱりわたしをバカにしてる。 「……分かったわ、これはマスターとしての質問よ。  ね。貴方、セイバーじゃないの?」 「残念ながら、剣は持っていない」 「――――――――」  ……やっぱりそうか。  そりゃそうよね、時間は間違えるわ、召喚陣はなんの機能も果たさないわ、はては見当違いの場所にサーヴァントを呼びつけたんだもの。  最強のサーヴァントであるセイバーを呼ぶには、あんまりにも不手際すぎる。 「……ドジったわ。あれだけ宝石を使っておいてセイバーじゃないなんて、目も当てられない」 「……む。悪かったな、セイバーでなくて」 「え? あ、うん、そりゃあ痛恨のミスだから残念だけど、悪いのはわたしなんだから―――」 「ああ、どうせアーチャーでは派手さにかけるだろうよ。  いいだろう、後で今の暴言を悔やませてやる。その時になって謝っても聞かないからな」 「……はい?」  ……意外。  わたしがセイバーに固執するのが癇に障ったのか、正体不明のサーヴァントは拗ねているみたいだ。 「なに。癇に障った、アーチャー?」 「障った。見ていろ、必ず自分が幸運だったと思い知らせてやる」  じっ、と半眼で抗議するアーチャー。  雰囲気はすごく嫌みなんだけど、今の素振りはどこか子供じみていて、邪気がなかった。  ――――なんか。  コイツ、けっこうイイ奴かも。 「そうね。それじゃあ必ずわたしを後悔させてアーチャー。  そうなったら素直に謝らせて貰うから」 「ああ、忘れるなよマスター。己が召喚した者がどれほどの者か、知って感謝するがいい。  もっとも、その時になって謝られてもこちらの気は晴れんだろうがな」  ふん、とまたも嫌みな笑みをこぼすアーチャー。  あー、やっぱりコイツ性格悪いかも。 「まあいいわ。それでアンタ、何処の英霊なのよ」 「――――」  アーチャーは答えない。  さっきまでの皮肉屋な素振りは消えて、深刻そうに眉を寄せている。 「アーチャー? マスターであるわたしが、サーヴァントである貴方に訊いているんだけど?」 「――――それは、秘密だ」 「は……?」 「私がどのようなモノだったかは答えられない。何故かと言うと―――」 「あのね。つまんない理由だったら怒るわよ」 「―――――――それは」  あ、またその顔。  本当に困っているのか、アーチャーは言いにくそうに口を開けると、 「―――何故かと言うと、自分でも分からない」  ……ちょっと、なんですって……? 「はぁぁぁ!なによそれ、アンタわたしの事バカにしてるワケ!?」 「……マスターを侮辱するつもりはない。  ただ、これは君の不完全な召喚のツケだぞ。どうも記憶に混乱が見られる。自分が何者であるかは判るのだが、名前や素性がどうも曖昧だ。……まあさして重要な欠落ではないから気にする事はないのだが」 「気にする事はない―――って、気にするわよそんなの!  アンタがどんな英霊か知らなきゃ、どのくらい強いのか判らないじゃない!」 「なんだ、そんな事は問題ではなかろう。些末な問題だよ、それは」 「些末ってアンタね、相棒の強さが判らないんじゃ作戦の立てようがないでしょ!? そんなんで戦っていけるワケないじゃない!」 「何を言う。私は君が呼び出したサーヴァントだ。それが最強でない筈がない」  まっすぐに。  絶対の自信と信頼を込めて、赤い騎士はわたしを見据えた。 「な――――――――」  思考が停止する。  アーチャーの言葉に嘘はない。  彼は、出会ったばかりのわたしを、わたし以上にはっきりと認めていた。 「――――――――」  ……顔が熱い。  ああもう、間違いなく赤面してる。  なんだってこう、不意打ちの出来事に弱いんだろう、わたしは。 「……ま、いっか。誰にも正体が分からないって事には変わりはないんだし……敵を騙すにはまず味方からっていうし……」  照れ隠しに言って、アーチャーから顔を背ける。  まあ、アーチャーがどのくらいのサーヴァントなのかは追々知ればいいだろう。  とりあえず、今はそれより優先すべき事があるのだし。 「分かった、しばらく貴方の正体に関しては不問にしましょう。  ―――それじゃアーチャー、最初の仕事だけど」 「さっそくか。好戦的だな君は。  それで敵は――――」  何処だ、なんて続けるアーチャーの前に、ぽいぽいっとホウキとチリトリを投げつける。 「――――む?」 「下の掃除、お願い。アンタが散らかしたんだから、責任もってキレイにしといてね」 「――――――」  呆然とする事十秒。  ようやく思考を取り戻したアーチャーは、ガッと文句ありげにホウキを握りしめた。 「待て。君はサーヴァントをなんだと思っている」 「使い魔でしょ? ちょっと生意気で扱いに困るけど」 「――――――――」  言葉を飲むアーチャー。  もちろん撤回する気なんて微塵もないし、こっちには切り札がある。 「異議あり。そのような命令はことわ――――」 「いいの? これ、マスターとしての命令よ? マスターの方針に逆らったら体が重くなるんだっけ?」 「む」 「ま、貴方はその程度じゃどうって事ないだろうけど、そのペナルティは居間を掃除するまで続くのよ? そんな状態で、明日から戦っていくのは危ないんじゃない?」 「むむむ」  ホウキを握り締めたまま唸ること数秒。  赤い〈外套〉《がいとう》のサーヴァント―――アーチャーは悔しげに目を閉じて、   「了解した。地獄に落ちろマスター」    潔く、わたしのお願いを聞いてくれた。  さて。  夜も遅いし、今夜はもう休もう。  アイツの扱いをどうするかは目が覚めてから決めればいい。            ―――運命の日が終わりを告げる。  いや、運命はこの夜から回り始めた。          わたしを含めてこれで六人。  最後の一人、未だマスターとして覚醒しない七人目がサーヴァントを召喚した時、〈此度〉《こたび》の聖杯戦争が開始される。          それはもう遠くない未来。  十年間待ち続けたわたしの戦いは、あと少しで始まろうとしているのだ――――    ―――聖杯戦争。  それは何百年も昔から繰り返される大儀式、  参加したからには他の六人を排除しなければならない、生き残りをかけた殺し合い。  この冬木の土地には聖杯が在るとされ、過去何人もの魔術師たちが技を競い合ったという。  目的はただ一つ、聖杯と呼ばれる宝具を手に入れる事だけだ。  しかし、聖杯の由来は定かではない。  神の血を受けた杯でないのは確かだけど、その力の凄まじさは伝説のソレに匹敵する―――    そう。  曰く、聖杯はあらゆる願いを叶えるという。  その所有権は一人のみ。  一つの聖杯が叶える願いは、一人の人間の望みだけ。  けれど、この土地で聖杯を召喚するには七人の魔術師が必要だった。    一つの奇跡と、七人の協力者。    ……ま、ようするに。  聖杯の奪い合いが始まるのは、時間の問題だったのだ。  発端はそんな、よくある利権争いみたいな話だった。  七人の魔術師たちは平等に聖杯の力を使い、それぞれの〈使い魔〉《サーヴァント》を用いて他の魔術師たちと競い合った。  聖杯を手にする魔術師は一人だけ。  結果として、彼らは仲間だった六人を敵とみなし、凄惨な殺し合いが始まった。    それが聖杯戦争と呼ばれる儀式、魔術師たちによる聖杯争奪戦である。  聖杯に選ばれた魔術師はマスターと呼ばれ、  マスターは聖杯の恩恵により強力な〈使い魔〉《サーヴァント》を得る。    ―――マスターの証は二つ。    サーヴァントを召喚し、それを従わせる事と。  サーヴァントを律する、三つの令呪を宿す事だ。  一つ目は言うまでもない。  昨日……いえ、正確にはほんの数時間前……に呼び出したアーチャーが〈遠坂凛〉《わたし》のサーヴァントとなった。  だからあとは二つ目。  サーヴァントを律する令呪を最後まで守り続ける。  これがマスターにとって、最も重要な点だろう。  アーチャーを召喚した事で、右手に刻まれた紋様。  これが令呪。  聖杯によってもたらされた〈聖痕〉《よちょう》が、サーヴァントを召喚する事によって変化したマスターの証である。  強大な魔力が凝縮された刻印は、永続的な物ではなく瞬間的な物だ。  これは使う事によって失われていく物で、形の通り、一画で一回分の意味がある。  つまり、たった三回。  この三回分の令呪を失ったマスターはサーヴァントを従えられなくなり、死を迎える事になる。  ……故に。  令呪とは自身の命と同じぐらい、最後まで慎重に扱うべき物なのだ。  それを開始早々使ってしまったのは頭が痛いが、まったくの無駄でもなかったので良しとする。  なにしろサーヴァントはいつマスターを裏切ってもおかしくない連中だ。  令呪を一つ使って首輪をかけられたのなら〈僥倖〉《ぎょうこう》である。    ……要点をまとめるのはこのあたりにしておこう。    七人のサーヴァントが揃った時、聖杯戦争は開始される。  ゆっくり眠ってはいられない。  最後のマスターがいつ現れるか判らないけど、それはすぐそこまで迫っている筈なんだから―――― 「ん――――もう、朝……?」  ……だるい。  ぼんやりとした意識のまま窓に視線をやると、とっくに日が昇っていた。 「……九時過ぎてる……遅刻どころの話じゃない……」  まどろんだまま時計を確認して、今日は学校をサボろう、と頷いた。 「……体が重い……半分以上もってかれたみたいね、これは」  ベッドから体を起こして、ふう、と大きく深呼吸をする。  ……体がだるいのはわたしが朝に弱いから、という訳じゃない。  アーチャーのヤツが言ってたっけ。  サーヴァントを召喚したばかりのマスターは満足に活動できないって。 「――――そうだった。  わたし、セイバーじゃなくってアーチャーを呼び出したんだ」  ハッキリと思い出した。  そりゃあできれば思い出したくないけど、否定したところでやり直しができる訳でもないし。 「……魔力が戻るまで一日ちょいか。今日はならし運転って事にしよう」  もそもそとベッドから出る。  ……冬にしては暖かな空気と、シーツにくるまりたい欲求と少しだけ格闘した。  で、二度寝の誘惑を開始三秒でノックアウトして、姿見の前で軽く全身をチェック。  とりわけ異状はない。体に流れている魔力が半分ほどしかない以外はすべて正常。 「―――ま、問題なんてあるわけないけど」  とりあえず、今のうちに現状を確認したい。  わたしが呼び出したサーヴァントはアーチャーで、  召喚主であるマスターに礼をとらない無礼者だ。  しかも自分が何者か判らない、なんていうオマケ付き。  ……うわ。なんか、いきなり頭痛くなってきた。 「……あいつの記憶が戻るまで〈宝具〉《きりふだ》は封印か……思い出せないんじゃ使いようがないしね」  サーヴァントはそれだけで強力な使い魔だが、彼らを最強足らしめているのは強力な“奥の手”を必ず一つ持っている事だ。    困ったコトに、その奥の手をアーチャーは思い出せないと言う。 「―――まあ、非はこっちにもあるし、なんとかやっていくしかないか」  そう、こうなった以上わたしたちは〈一蓮托生〉《いちれんたくしょう》。  少しでも早く記憶の混乱とやらが整理される事を祈るけど、あの調子ではいつになる事やら。    ……まったく。  前途はなかなか多難みたいだ―――― 「……うわ。見直したかも、これ」  居間はすっかり元通りだった。  せめて瓦礫ぐらいは片づけさせよう、と思っただけだったから、ここまでされると感心を通り越して感動してしまう。  アイツも居間をメチャクチャにした事を気にしてたんだろう。そうでもなければここまでは出来ない。  殊勝というか、わりといいヤツっていうか―――― 「日はとっくに昇っているぞ。また、随分とだらしがないんだな、君は」 「………………」  前言撤回。  このふてぶてしさ、どこに殊勝な心がけがあるっていうのか。 「―――おはよう。そういうアンタは随分とリラックスしてるようね。居間を好き勝手使ってくれちゃってさ」 「なに、一晩過ごした部屋だからな。どこに何があるかは把握したよ。ああ、ついでだから厨房も片づけておいた。もう少し荒れているかと思ったが、なかなか気の行き届いた厨房だ。一人暮らしの洋館にしては上等だな」 「………………」  頭痛がする。  なんだってサーヴァントに整理整頓ぶりをチェックされなくちゃいけないんだろ。  サーヴァントっていうのは戦う事しか考えていない連中だって言うけど、コイツ、ホントにサーヴァントとして欠陥品なんじゃないだろうか……? 「なるほど、本調子ではなさそうだな。昨夜は元気だったが、睡眠をとって疲れが出たのだろう。  ―――ふむ。紅茶で良ければご馳走しよう」  勝手知ったる人の家。  アーチャーは席を立って、淀みのない仕草で新しいティーカップを持ち出して、上等な赤色をした紅茶を淹れている。 「――――――――」  色々とつっこみどころはあるんだけど、不思議と横やりを入れる気にはなれなかった。  一連の仕草はとても洗練されていて、まあ、気が利くといえば気が利いている訳だし。 「……まあいいけど。疲れてるのは事実だし、飲む」  椅子に腰を下ろす。  ティーカップは一つも音を立てずに差し出されて、とりあえず、一口だけ口をつけた。    ――――あ、おいしい。  そりゃあ中国紅茶の春摘みものだ。お気に入りの葉の一番美味しいところなんだから、不味く作られたら怒る。  っていうか、勝手にわたしのお気に入りを使われたら怒る。  ……うん。  怒るけど、ここまで美味しく淹れられると文句より先に幸福感で満たされてしまった。 「ふむ。ふむふむ」 「……ちょっと。なに笑ってるのよ、アンタ」 「なに、感想が聞きたかったが、その顔では聞くまでもないと思っただけだ」 「――――っ!」  だん、とティーカップをテーブルに置く。 「勿体ない。熱いうちに味わった方がいいぞ。私が気に障るなら消えているが」 「ごちそうさま、結構よ。わたしは茶坊主がほしくてマスターになった訳じゃないわ。貴方もね、頼みもしない事をする必要はないわよ」 「そうか。確かに、私も茶坊主になったり後片づけをする為に契約した訳ではない。君がそう言うのならば、これからは気をつけよう」 「ええ。わたしが求めているのは戦力としての使い魔よ。  家事をこなすサーヴァントなんて聞いた事がないし、する必要も特にないわ」 「? 特にはない、とはどういう意味かな」 「別に。好きなようにとって結構よ。  それより―――貴方、自分の正体は思い出せた?」  いや、と首をふるアーチャー。  ……やっぱり、事態は深刻だ。  一晩で思い出せないって事は、そう簡単に思い出せる事じゃないって事だろう。今日一日、色々と試してみるにしても、これは―――― 「分かった、貴方の記憶に関しては追々対策を考えとく。  じゃ、出かける支度をしてアーチャー。召喚されたばかりで勝手も分からないでしょ? 街を案内してあげるから」 「出かける支度? いや、そんな必要はないだろう。出るのならばすぐに出られるが」 「あのね、そんな格好で出歩くつもり? どう見ても普通じゃないし、他のマスターが見たら一発でサーヴァントって判るじゃない。  わたし、自分からわたしはマスターです、なんて言いふらす気はないんだけど?」 「ああ、そういう事か。  それも問題はない。確かに着替える必要はあるが、それは実体化している時だけでね。  サーヴァントはもともと霊体だ。非戦闘時には霊体になってマスターにかける負担を減らす」 「あ、そっか。召喚されたって英霊は英霊だものね。霊体に肉体を与えるのはマスターの魔力なんだから、わたしが魔力提供をカットすれば」 「自然、我々も霊体に戻る。  そうなったサーヴァントは守護霊のようなものだ。レイラインで繋がっているマスター以外には観測されない。  もっとも、会話程度は出来るから偵察ならば支障はないが」 「うわ、便利。それじゃあ本当に、他のマスターを捜し出すなんて難しいんだ」 「ああ。だが魔術師は魔術師を知覚できるだろう? それと同じでサーヴァントもサーヴァントを感知できる。  優れた魔術を知るサーヴァントならば、遠く離れたサーヴァントの位置さえ把握するだろう」  ……アーチャーの言う通りではある。  マスターっていうのは優れた魔術師がなるモノだ。  強力な魔力を帯びた魔術師は、それだけ魔力感知しやすくはある。  けどわたしの知り得る限り、そこまで強力な魔力を帯びたヤツはこの町には存在しない。 「ふうん……で、アンタはどうなの? 他のサーヴァントの位置、判る?」 「マスター、私のクラスは何か忘れたのか。遠く離れた敵の位置を探るなど、騎士あがりにできるものか」  ……ま、そうだろう。  アーチャーの魔力はそう強力じゃない。  遠く離れた敵を探る、なんて魔力持ちはキャスターのサーヴァントぐらいなものだと思う。 「分かったわ。じゃ、とりあえず後に付いてきてアー チャー。貴方の呼び出された世界を見せてあげるから」 「そう目新しい物ではなさそうだがね。  ―――それよりマスター。君、大切な事を忘れていないか」 「え? 大切な事って、なに?」 「……まったく。君、まだ本調子ではないぞ。契約において最も重要な交換を、私たちはいまだしていない」 「契約において最も重要な交換――――?」  等価交換?  いや、もともとサーヴァントにとっての報酬は聖杯戦争に参加する事だ。  わたしたちに必要な交換なんて、もうない筈なんだけど――― 「……君な。朝は弱いんだな、本当に」  呆れたように言うアーチャー。  その、またも皮肉げな台詞を聞いて、とある事に思い当たった。  ……そういえば。  コイツ、一度もわたしを名前で呼ばないな、とか。 「―――あ。しまった、名前」 「思い当たったか。まあ、今からでも遅くはないさ。それでマスター、君の名前は? これからはなんと呼べばいい」  ふて腐れたように言うアーチャー。  ――――やば。コイツ、いいヤツだ。    うん、それに間違いはない。  だって名前の交換なんて、そんな物に意味はない。  サーヴァントとマスターは、令呪によって作られた力ずくの主従関係だ。  普通の使い魔との契約なら名前の交換は強い意味を持つけれど、マスターとサーヴァントにはそんな親愛の情はいらない。  だっていうのに、アーチャーはそれを大切な事と言った。  それは令呪を別にして、これから共に戦っていこうという信頼の証に他ならない。 「………わたし、〈遠坂凛〉《とおさかりん》よ。貴方の好きなように呼んでいいわ」  素直になれず、ぶっきらぼうに返答する。  ……まあ、それでもマスターとか君とか、そういった他人行儀に呼ばれた方が楽ではあるし、コイツはきっとそう呼ぶだろう。  だっていうのに。  アーチャーは噛みしめるように「遠坂凛」と呟いた後。 「それでは凛と。……ああ、この響きは実に君に似合っている」  なんて、トンデモナイ事を口にした。 「――――――――」 「凛? どうした、なにやら顔色がおかしいが」 「――――う、うるさいっ! いいからさっさと行くわよアーチャー! と、とにかくのんびりしてる暇なんてないんだから……!」  ふん、と顔を背けて歩き出す。  悔しい。なんか知らないけど、とにかく悔しい。  アーチャーのヤツ、もしかしてわたしを悔しがらせる為にあんなコトを言いだしたんだろうか。 「……ありえる。コイツなら絶対そうだ……」  そうだ、そうに違いない。  だから顔が熱いのも動悸がするのもみんなコイツの奸計だ。  気をつけろわたし。  これからはこんな捻くれ者と手を組んでやっていかなくちゃいけないんだからっ。  アーチャーを連れて外に出る。  わたしたちの住んでいる街、冬木市は大きくわけて二つの町で構成される街だ。  昔からの町並みを残したここ〈深山町〉《みやまちょう》と、  川一つ挟んで近代的な開発が進んでいる〈新都〉《しんと》。    わたしの家があるのは、古い町並みである深山町の方である。  その深山町も、これまた大きく二つに分かれている。    外国からの移住民が住んでいた、この洋風の町並みが片一方。  で、反対側、山を背後に広がっている古い和風の住宅地がもう一方。    どちらも坂上にあるので、郊外と言えば郊外だろう。  この、和風と洋風に挟まれた真ん中の町並みは比較的普通である。  どのくらい普通かというと、    これぐらい普通。    ここが深山町の分岐点で、ここからわたしの家がある洋風の住宅地の坂道、  反対側にある和風の住宅地の坂道、  隣町である新都に続く橋、学校、商店街、はては山にある柳洞寺というお寺に通じている。    そうして、これが新都と深山町を繋げる大橋。    〈新都〉《あっち》は数年前に大きな駅が造られ、急速に発展している。  同じ市にあるというのに、深山町と新都はまったく別物と見ていい。  冬木市という名前は、冬季が長いという事からきているそうだ。  言われてみれば、この町の冬は長い。  が、その反面気温は暖かく、冬木の二月は他所でいう十二月程度の気温だったりする。  適当に地面を掘れば、温泉の一つや二つは出るのではなかろうか。  もっとも、こう半端な寒さでは温泉街としては失格だ。  冬木の町は過ごしやすい冬を送り、いつのまにか四月になって春を迎えている、というおかしな気候をしている。  新都の様子はこんな感じ。  急速に発展した町並みは、なにかに急かされるように高いビルばかりを建て、結果として人工的な町になった。  それもここ十年ばかりの話だ。  なんでも十年前に起きた大火事で住宅地はほぼ全焼。  まるっきり人が住まなくなった土地を利用して、こうしたビルが建てられたという。            ―――――――そして。         ここが、その中心。 「ここが新都の公園よ。これで主立った所は歩いてまわった訳だけど、感想は?」  隣にいるアーチャーに話しかける。  アーチャーの姿はもちろん見えない。 「―――広い公園だ。だというのに〈人気〉《ひとけ》がないのは、何か理由でもあるのか」 「やっぱりそう見える? ま、ここはちょっとした曰くがあるから」  ぐるりと公園を見渡す。  これほど広くて整地された公園なら、平日でも子供の遊び場になっているだろう。  けれど、ここには人の姿なんて数える程しかなく、ただ閑散とした空気だけが流れている。 「十年前の話よ。このあたり一帯で大きな火事があったんだって。火は一日燃え続けて、雨が降りだした頃に消えたんだとか。  その後、町は復興したけどここだけはそのままなの。  焼け野原になって、何もなくなったから公園にしたらしいわ」 「――――――――」  アーチャーは何も言わない。  ただ、姿は見えなくとも、彼が特別なモノを感じ取っている事は読みとれた。 「……気づいたみたいね。そうよ、ここが前回の聖杯戦争決着の地。わたしも事情は知らないけど、前回の聖杯戦争はここで終決して、それきり」 「―――なるほど。それでこんなにも、ここは怨念に満ちているという訳か」 「ふうん。判るの、そういうの?」 「サーヴァントというのは霊体だ。その在り方は怨念、〈妄執〉《もうしゅう》に近い。故に同じ“無念”には敏感なのさ。町中でも濃い場所はあるが、ここは別格だ。我らから見れば固有結界のそれに近い」  と。  感情のない声で、アーチャーは珍しい単語を口にした。  ――――〈固有結界〉《こゆうけっかい》。  魔術師にとって到達点の一つとされる魔術で、魔法に限りなく近い魔術、と言われている。  ここ数百年、“結界”は魔術師を守る防御陣と相場が決まっている。  簡単に言ってしまえば、家に付いている防犯装置が極悪になったモノだ。  もとからある土地・建物に手を加え、外敵から自らを守るのが結界。  それはあくまで“すでにあるもの”に手を加えるだけの変化にすぎない。  だが、この固有結界というモノは違う。  固有結界は、現実を侵食するイメージである。  魔術師の心象世界―――心のあり方そのものを形として、現実を塗りつぶす結界を固有結界と呼ぶ。    ようするに魔術師の思い通りに世界を歪める、いや、思い通りに作り変える広範囲の魔術な訳だが―――― 「凛? どうした、考え事か?」 「え……? ううん、ちょっと意外だったから。  固有結界だなんて、アーチャーのくせに珍しい言葉を知ってるなって」 「なんだ、知っていてはおかしいか」 「だってそうじゃない。固有結界っていうのは魔術師にとっては禁忌の中の禁忌、奥義の中の奥義だもの。アーチャーである貴方が知ってるなんて筋違いよ」  でしょ? と視線で問いかける。  すると、隣でははあ、と大きなため息の気配。 「凛。英雄とは剣術、魔術に長けた者を指す。  アーチャーだからといって弓しか使えないと思うのは勝手だが、私以外のサーヴァントにそんな楽観は持たないでくれ」  ……う。  確かに、言われてみればその通りだ。 「わ、わかったわよ。今のは軽率な発言だったわ。次からは気をつけるから、これでいいでしょ」 「……。凛、ズバリ言おう。君は優秀だが、それ故に他人を過小評価する欠点がある。成人するまでには矯正したまえ」 「っ――――! な、なにげに失礼なコト言うわねアンタ……!」    きょ、きょきょ矯正って、ヘンなクセがついた馬をしつけ直す事じゃないっ……! 「いや、失礼。別に凛がじゃじゃ馬だと言った訳ではない。単にイメージ通りの表現を使っただけというか」 「ええい、なおさら悪いわ――――、痛っ……!?」  唐突に、右腕が痛んだ。 「――――凛?」 「…………ちょっと、黙ってアーチャー」  右腕に刻まれた令呪が痛む。  じくり、と。主に注意を呼びかけるような、鈍い警告。 「――――誰かに見られてる」 「む」  ……周囲に意識を伸ばす。  精神で作り上げた糸を敷き詰め、公園中を索敵する。 「……わたしじゃ見つけられない。  アーチャー、貴方は?」 「―――難しいな。私には視線すら感じられん」 「……って事は、見てるのはマスターね」  何者かは知らないけど、アーチャーに判らないのなら相手はマスターだろう。  まだ七人そろっていないが、始めようと思えば、戦いはいつでも始められる。  わたしを監視しているヤツは前哨戦でもやりたいらしいが――― 「……令呪は令呪に反応する。マスターであるのなら、誰がマスターであるかは出会えば感じられる、という事か。だが、それなら凛にも相手が識別できるのではないか?」 「ええ。けど高位の術者なら、自分の魔力ぐらい隠し通せる。いくら令呪同士が反応するって言っても、その令呪だって魔力で発動するものよ。大本であるマスター自身が魔術回路を閉じていれば、見つける事は難しいわ」 「……厄介だな。では、こちらはいいように位置を知らせているという事か」 「でしょうね。ま、私だって家捜しすれば魔力殺しぐらいは見つかるだろうけど―――」 「必要ない、と?」 「そ。だって隠さなければ向こうからやってきてくれるでしょう? こっちから出向く手間が省けるわ」 「――――」  呆れたのか、アーチャーは息をのんで黙ってしまった。 「……なによ。自信過剰はいけないって言いたいの?」  さっきのやりとりを思い出して、なんとなく訊いてみた。  アーチャーはまさか、と短くこぼしたあと。   「君はそのままが一番強い。  ああ、小物には付きまとわせてやるがよかろう」    なんて、笑いを堪えながら口にした。  ……とまあ、アーチャーの言葉が気に入った訳じゃないけど、開き直ってそのまま町中を歩く事にした。  主立った場所を回って、これでもかっていうぐらい付きまとってるヤツを振り回して、ついでに夕食も済ませて、最後の締めに移動する。  さんざん歩き回って時刻は夜の七時過ぎ。  この時間なら、これから向かう場所は最高の景色を見せてくれるだろう。  ごう、という風。  新都で一番高いビル。  その屋上から見下ろす町並みは、今日の締めくくりに相応しい。 「どう? ここなら見通しがいいでしょ、アーチャー」 「……はあ。将来、君とつき合う男に同情するな。よくもまあ、ここまで好き勝手連れ回してくれたものだ」 「え? 何か言った、アーチャー?」 「素直な感想を少し。……と、確かにいい場所だ。初めからここに来れば歩き回る必要もなかったのだが」 「なに言ってるのよ。確かに見晴らしはいいけど、ここから判るのは町の全景だけじゃない。実際にその場に行かないと、町の作りは判らないわ」 「―――そうでもないが。アーチャーのクラスは伊達ではないぞ。弓兵は目がよくなければ務まらん」 「そうなの? それじゃあここから〈遠坂〉《うち》邸が見える、アーチャー?」 「いや、流石に隣町までは見えない。せいぜい橋あたりまでだな。そこまでならタイルの数ぐらいは見てとれる」 「うそ、タイルって橋のタイル……!?」  それって目がいいとか、そういうレベルの話じゃないと思う。よく屋上には望遠鏡があるけど、それと同レベルの視力なんだから。 「びっくり。アーチャーって本当にアーチャーなんだ」 「……凛。まさかとは思うが、君、私を馬鹿にしているんじゃないだろうな」 「そんな訳ないでしょ。たださ、貴方ってアーチャーって言うわりには弓使いっぽくないから、つい勘違いしてただけ」 「それは問題発言だ。帰ってから追及しよう」  アーチャーはここからの風景が気に入ったのか、それきり黙り込んでしまった。  おそらく町の作りを把握しているのだろう。  ……戦場の下調べを邪魔する訳にはいかない。  アーチャーの側を離れてビルの端に移動する。 「――――――――」  わたしの視力で見えるのは、このビルの下の明かりだけだ。  大通りには行き交う車のヘッドライトが流れ、歩道には仕事帰りの人々の姿が見えるだけ。  それがどんな車なのか、どんな人なのかは判らない。  それは見えてはいるけれど、見えていないという状態だ。  ちょうど先ほどまで、わたしは監視されている事に気が付いていたのに、その相手が見えなかったのと同じである。 「――――少なくとも、新都を根城にしているヤツが一人いる」  目を凝らして地上を睨む。  ……マスターは全部で七人。  誰が、どのサーヴァントを連れているかはいまだ不明。  今のところ、全てのマスターが他のマスターの情報を求めて町を徘徊しているのだろう。 「―――?」  ふと、視線を感じた。  令呪には反応なし。  ただ純粋に、わたしに向けられた視線を感じる。 「下――――?」  地上を見つめる。  ……道には行き交う人々がいる。  その中で、一人。  まるで月でも眺めるように、わたしを見上げているヤツがいた。 「………………」  それが誰であるか、はっきりとは判らない。  はっきりとは判らないのだけれど、誰であるかは見て取れた。  ……呆れた。  アイツ、こんな時間に何をしているんだか。 「凛。敵を見つけたのか」  わたしが殺気だっているのに気づいたのか、アーチャーが声をかけてくる。 「―――別に。ただの知り合い。わたしたちには関係のない、一般人よ」  苛立ちを隠せないまま答えて、その場から立ち去った。  地上からわたしが見えた筈がない。  アイツがビルを見上げていたのはただの偶然だろう。  だから姿を見られた、という訳でもない。  ……だっていうのに。  わたしは魔術師として気構えていた〈遠坂凛〉《じぶん》を、アイツに見られた事に気が立ってしまっていた。  深山町に戻ってくる頃には、時刻は九時を回っていた。  深山町は新都と違って、昔ながらの住宅地である。  夜も九時を過ぎれば出歩く人影はなくなり、町は深夜のように静まりかえる。 「こんなところね。町の作りはだいたい判った?」 「……ん? ああ、町の事なら判る。あとは追々掴んでいくさ」 「なら今日はここまでね。わたしもまだ本調子じゃないし、家に戻って休みましょう」  ゆるやかな坂の道を行く。  ……と。  なんか、前を行く人影があった。 「……あれ、桜……?」  まずい。  今は顔を合わせづらい。 「凛。何を隠れている」 「黙ってて! ……あ、うん、あそこにいるの知り合いなのよ。今日は学校を休んだし、あんまり顔を合わせたくないの」  言いつつ、前方の人影を観察する。  道には、  見知った顔の一年生と  知らない外国人がいた。  二人はなにやら話している。  ……違う、外国人の方が言い寄っていて、女生徒は嫌がっているようだ。 「凛、知り合いとは外国人の方か?」 「いいえ、知らない。このあたりは洋館が多いから、どっかよそから遊びに来てるんじゃない?」  と、そこまで口にして、我ながらあの子が絡むと甘くなるな、と反省する。 「……アーチャー。あいつ、人間?」 「さあ。実体はあるから人間なのだろう。少なくともサーヴァントではない」 「……そうよね。マスターでもないし、ただの痴話喧嘩か」  ……もっとも、あの子が男とトラブるような子じゃないって事はわたしだって知ってるけど……。 「二人とも行ったな。女は坂を上っていく。  男は――――」  金髪の男性は、わたしたちがやってきた道を下っていった。 「それじゃ貴方はここを使って。わたしはもう眠るけど、何か質問はある?」 「とりわけ重要な疑問はない。すぐに戦闘をしかけない君の判断は正しいよ。今夜は魔力の回復を行うべきだろう」 「ええ。それじゃ明日、今朝の紅茶をよろしくね」  部屋に帰って来るなり、どっと疲れが押し寄せた。 「―――そうだ。眠る前に綺礼に連絡しないと」  あのうるさい神父の事だ。  今頃予備の魔術師の手配とやらを進めているだろう。  そんなのはわたしの知った事じゃないけど、アレでもわたしの後見人だし。いちおう、筋は通しておかないと。 「電話、電話っと……」  子機のダイヤルをプッシュする。  ほどなくしてエセ神父が電話に出た。 「綺礼? わたしだけど、昨日サーヴァントと契約したから。正式にマスター登録、お願い」 「………………」  微かな沈黙。  受話器ごしでも気分を重くさせるぐらい、綺礼の沈黙は圧力がある。 「……いいだろう。ではどうする。一度こちらに顔を出さないか。君のご両親から預かっている物もある。君がマスターになった場合にのみ、成人前に伝えてほしいと頼まれているのだが」 「ああ、それって父さんの遺言のこと? それならもう解読して手に入れたからいいわ。それじゃ、気が向いたらお邪魔するから、よろしく」 「待て。凛、マスターになったのなら――――」  最後まで聞かずに電話を切った。  疲れている時に綺礼の小言なんて聞いてたら、魔力の回復どころではなくなってしまう。 「―――さて。これで準備は終わり、と……」    あとは眠るだけ。  目が覚めれば今までとは違う朝がある。  ……十年前。  父が魔術師として挑み、敗れ去った聖杯戦争。  その戦いに、わたしも身を投じる事になったのだから。    で。  朝食のあと、今後の方針をきっぱりと口にした。 「なに、学校に行くだと?」 「ええ。何か問題あるかしら、アーチャー」 「……問題はないが、しかし、それは」  アーチャーは言いよどむけど反論はしない。  昨日一日で、遠坂凛という人間は一度決めた事を〈覆〉《くつがえ》す性格ではない、と理解したからだろう。  口にしなくても判るというか、アーチャーは皮肉屋だけど妙に素直なところがあって、認めた事柄に文句をつける事はないみたいだ。  うむ、ようするに不器用な忠義者なのだ。  これ、昨日一日アーチャーを観察した結論というか、直感みたいなものなんだけど。 「凛。マスターになったからには、常に敵マスターを警戒しなくてはならない。学校という場は、不意の襲撃に備えにくい場所だろう」 「そんなことはないけどね。いいアーチャー? わたしはマスターになったからって、今までの生活を変える気はないわ。それにマスター同士の戦いは人目を避けるモノでしょう? それなら人目につく学校にいれば、不意打ちされる事はまずないと思うけど」 「……そうか。凛がそう決めたのなら私は従うだけだ。  だが、霊体化して君の護衛をするぐらいはいいのだろうな。まさか学校に行っている間はここに残れ、などとは言うまい」 「当たり前じゃない。学校に限らず、外に出る時は側にいてもらうからね。マスターを守るのもサーヴァントの役割なんだから、頼りにしてるわ」 「それを聞いて安心した。信頼に応えるのは騎士の勤め、せいぜい期待に添うとしよう」 「だが凛。もしもの話だが、その安全な場所に敵がいたとしたらどうする」 「? なに、学校にマスターがいるかもしれないって仮定?」 「そうだ。確かに〈学舎〉《まなびや》には生徒と教師以外は入りにくいが、すでに内部の者がマスターだとしたら厄介ではないのか」 「それはないんじゃないかな。この町には魔術師の家系は遠坂と、あと一つしかないの。そのあと一つっていう家系は落ちぶれてるし、マスターにもなってないし」 「マスターになっていないと、どうして判る」 「あのね、〈遠坂〉《うち》以外に魔術師の家系がいるんなら、まっさきに確かめるのは当然でしょう。  そいつ、マスターにはなってなかったし、あっちの家系の後継者にはマスターになるだけの魔力がないから無視してかまわないわ」 「そうか。つまり凛の通う学校には、もう一人魔術師がいるのだな。だがマスターになれるほどの魔力を持ち合わせていない、と?」 「そういうこと。だから他のマスターは外からやってくる連中が大半の筈。そんな連中が学校にまでやってくる事はないでしょ」 「……まあ、今の段階ではな。  だが凛、何事にも例外は存在する。もし学校に、君が知らない魔術師がいたとしたらどうする?」 「だからいないってば。魔術師っていうのは他の〈魔術師〉《どうぎょう》に敏感なの。一年も同じ学校にいたらね、どんなに隠してても魔術師の存在は感じ取れる。  断言するけど、うちの学校に魔術師は二人しかいないわ。そのうちの一人がわたしで、もう一人はマスターになるだけの力がない魔術師見習いなの。  分かった? アーチャーの用心はただの〈杞憂〉《きゆう》よ。そんなこと絶対にありえないんだから」 「だからもしもの話だ。物事には常に裏目が存在する。  本来あり得ざる事が起こるのもまた運命だ。  もしそういった事態になった場合、私に八つ当たりをするのだけは思いとどまってほしいと言っているのだ」  ふっ、と乾いた笑みをこぼすアーチャー。  ……その態度だけで八つ当たりしたくなるけど、いちいち相手にしていたら学校に遅れてしまう。 「そんな事あるわけないじゃない。もしもの話っていうのは、起きないからもしもの話なのよ。もしそんな事になったら、その時はわたしの見通しが甘かったってだけなんだから」 「よし、確かに聞いたぞ。それでは行こうか凛。  君の〈学舎〉《まなびや》まで三十分、そろそろ出なければ間に合わない時間帯だ」 「驚いた。もしもの話ってホントにあるのね」 「ああ、私も驚いている。いや、何事もケチをつけておくものだな。思わぬところで役にたった」  正門をくぐるなり、二人してそんな軽口をたたきあう。  周りには教室に向かう生徒たちの姿があって、  時計はじきHR開始の時刻になろうとしている。  そんな、我先にと校舎へ向かっていく人波の中、ガーンと立ちつくすわたしとアーチャー。 「空気が〈淀〉《よど》んでるどころの話じゃない。これ、もう結界が張られてない?」 「完全にではないが、既に準備は始まっているようだな。  ここまで派手にやっているという事はよほどの大物か……」 「とんでもない素人ね。異状を感じさせる結界なんて三流だもの。やるんなら、仕掛ける時まで隠し通しておくのが一流よ」 「―――で。君はどちらだと思う、凛」 「さあ。一流だろうが三流だろうが知った事じゃないわ。  わたしのテリトリーでこんな下衆なモノ仕掛けたヤツなんて、問答無用でぶっ倒すだけよ」  ふん、と鼻をならして校庭を通り抜ける。  魔術師である以上、キレイごとを口にするつもりはないけど。この結界を張ったヤツには、しかるべき報いを与えてやらなきゃ気が済まない。  二時限目が終わって、音楽室から帰る途中。  頼りない足取りで廊下を歩いている一年生を見かけた。  一年生は何かの資料を運んでいるのか、見るからに大変そうだ。 「手伝うわ、桜」 「え――――?」 「あ、遠坂、先輩――――」 「なに、プリント? 世界史っていったらうちの担任じゃない。〈葛木〉《くずき》のヤツ、女生徒に使いをさせるなんてなに考えてんだか。ほら、半分貸して」 「あ…………はい。ありがとうございます、先輩」 「いいっていいって。それじゃコレ、桜のクラスまで?」 「……ううん、葛木先生のところです。誤字があったから回収するって言ってました」 「……納得。葛木は融通きかないからね。ひとつ誤字があったぐらいで試験を中止させるヤツだった」 「……? 試験って、学校の試験をですか?」 「そう、あれは去年の中間試験だったかな。みんながガァーっとマークシートを塗りつぶしてる時にやってきてね、誤字があるので正しい問題ではなかった、よって試験は中止、後日改めて行う、ってあの調子で淡々と言ったのよ。わたしたちも驚いたけど先生方も驚いてね、今でもアレは語り草よ」 「なんか葛木先生らしいですね、それ。先生、物を教える立場に間違いは許されないって人ですから」 「葛木のは度が過ぎてるけどね。桜もそのうち思い知るわよ、葛木の堅物ぶりったら岩か山かって感じなんだから」 「ふふ。遠坂先輩、葛木先生の事が好きなんですね。先輩がそんなふうに言うなんて、珍しいです」 「そう? ……まあ、確かに葛木はもうちょっと柔軟性があればなあって思うけど……」  ……思うけど、あの先生はあのままでいいんじゃないかなー、とも思う。  うちの学校には生徒にとことん親しまれる教師と、とことん恐れられている教師がいる。  そのバランスが絶妙なもんだから、葛木先生はいい規律になっていると思う。飴と鞭でいうところの鞭だ。 「ま、二年になればもっと葛木と顔を合わせるようになるわ。アイツは倫理も受け持ってるし。  ……って、そんな事より桜。ちょっと訊きたい事があるんだけど、いい?」 「え? なんですか、先輩」 「昨日の話なんだけど。桜、見かけない外国人と話してなかった?」 「ぁ……見、見てたんですか、先輩」 「たまたま。それでアレ、なんだったの。知り合い?」 「……いいえ。それがその、よくわからない人だったんです。あの人、道に迷ってたみたいでした。色々訊いてくるんだけど、何を言っているのか聞き取れなくて、その……」  ああ、それで逃げてしまった、と。 「そっか。ごめんなさい、少しだけ気になったから」 「いえ、かまいません。……その、ここまででいいです先輩。あとは届けるだけですから」 「そう。それじゃまたね」  プリントの束を桜に返す。  そのまま自分の教室に戻ろうとして、少しだけ立ち止まった。 「桜、最近はどう?」 「ぁ……はい、大丈夫。元気です、わたし」 「……そう。慎二がまた何かやったら言いなさい。アイツは度ってものを知らないから、黙っていると悪化する一方よ」 「心配いりませんよ先輩。兄さん、この頃は優しいんですから」  ……笑顔でそう言われては何も言えない。  もう一度お別れを言って、顔見知りの後輩に背を向けた。  一日が終わった。  教室から生徒たちの姿が減っていき、校舎は刻一刻と〈昏〉《くら》く〈翳〉《かげ》っていく。  じき日が沈む。  赤い夕日が落ちて夜になれば、学校に残る人間はいなくなるだろう。 「始めるわよアーチャー。まずは結界の下調べ。どんな結界かを調べてから、消すか残すか決めましょう」  見えざる相棒に声をかける。  アーチャーは承知しているのか、頷くような気配を返してきた。  結界とは術者を守るモノを指す。  魔力で編んだ綱を土地に張り、その内部に手を加える地形魔術と言えるだろう。  結界内での効用は千差万別。  結界を張った地域そのものを人目に付かないよう遮断するモノから、結界内での魔術を制限するモノまで多種多様だ。  その中でもっとも攻撃的な物が、結界内における生命活動の圧迫である。  学校に張られている結界はその類だ。  いまだ完成してはいないけれど、ひとたび結界を編み上げれば学校中の人間はことごとく昏倒するだろう。  けどそんな物、わたしには効果はない。  結界は所詮、わたしという個人にではなく、わたしが居る場所にかけるモノだ。  そんな間接的な魔力干渉は、自身の体に魔力を通している魔術師にはなんら効果はない。  大気に漂う程度の弱い電流は、わたしという強い電流には近寄れずに弾かれるだけなんだから。  故に、この結界の意図は他にある。  どんなヤツが学校に結界を張ったかは知らないが、そいつの目的はマスターを倒す事じゃない。  信じがたい事に、そいつは学校内の人間すべてを標的にしているのだ。  ……そんな事をする理由はただ一つ。  まさかとは思うけど、そいつは――――  校内を軒並み調べ、最後の締めとして屋上に出る。  外はすっかり闇に落ちていた。  門限である六時を過ぎて、時刻は八時。  学校に残っているのはわたしと、隣で霊体になっているアーチャーだけだ。 「―――これで七つ目か。とりあえずここが起点みたいね」  屋上には堂々と八画の刻印が描かれている。  魔術師だけに見える赤紫の文字は、見たこともないカタチであり、聞いた事もないモノで刻まれている。 「……まいったな。これ、わたしの手には負えない」    この結界を張ったヤツは何も考えていない。  何も考えていないけど、この結界自体は桁違いの技術でくくられている。  一時的にこの〈呪刻〉《けっかい》から魔力を消す事はできるけど、〈呪刻〉《けっかい》そのものを撤去させる事はできない。  術者が再びここに魔力を通せば、それだけで〈呪刻〉《けっかい》は復活してしまうだろう。 「――――――――」  アーチャーは何も言わない。  ……屋上で呪刻を見た時から口を〈噤〉《つぐ》んでいるのは、彼も結界の正体に気が付いているからだろう。  この結界は体力を奪う、なんてモノじゃない。  一度発動すれば、結界内の人間を文字通り“溶解”させる。  内部の人間から精神力や体力を奪うという結界はある。  けれど、いま学校に張られようとしている結界は別格だ。  これは魂食い。結界内の人間の体を溶かして、滲み出る魂を強引に集める〈血の要塞〉《ブラッドフォート》に他ならない。  古来、魂というものは扱いが難しい。  在るとされ、魔術において必要な要素と言われているが、〈魂〉《それ》を確立させた魔術師は一人しかいない程だ。  魂はあくまで“内容を調べるモノ”“器に移し替えるモノ”に留まる。  それを抜き出すだけでは飽きたらず、一つの箇所に集めるという事は理解不能だ。  だって、そんな変換不可能なエネルギーを集めたところで魔術師には使い道がない。  だから、意味があるとすれば、それは。 「アーチャー。貴方たちってそういうモノ?」  知らず、冷たい声で問いただした。 「……ご推察の通りだ。我々は基本的に霊体だと言っただろう。故に食事は〈魂〉《第二》、ないし〈精神〉《第三》要素となる。  君たちが肉を栄養とするように、サーヴァントは精神と魂を栄養とする。  栄養をとったところで基本的な能力は変わらないが、取り入れれば取り入れるほどタフになる―――つまり魔力の貯蔵量があがっていく、というワケだ」  ……そう。  自らのサーヴァントを強力にする方法が、無差別に人間を襲うこと。 「―――マスターから提供される魔力だけじゃ足りないってコト?」 「足りなくはないが、多いに越した事はない。実力が劣る場合、弱点を物資で補うのが戦争だろう。  周囲の人間からエネルギーを奪うのはマスターとしては基本的な戦略だ。そういった意味で言えば、この結界は効率がいい」 「――――――――」  勝ちたければ人を殺して力をつけろ、とアーチャーは言っている。  なんて単純。  そんな事、わたしだって知っていた。  だから、これから自分がとるべき道もちゃんと判っているつもり。 「それ、癇に障るわ。二度と口にしないでアーチャー」  描かれた呪刻を見つめながら告げる。  アーチャーは、なぜか弾むような声で 「同感だ。私も真似をするつもりはない」  そう、力強く返答してくれた。 「……さて。それじゃあ消そうか。無駄だろうけど、とりあえず邪魔をするぐらいにはなる」  描かれた呪刻に近寄り、左腕を差し出す。  左腕に刻まれたわたしの魔術刻印は、遠坂の家系が伝える“魔道書”だ。  ぱちん、と意識のスイッチをいれる。  魔術刻印に魔力を通して、結界消去が記されている一節を読み込んで、あとは一息で発動させるだけ。 「Ab〈z〉《消去。》ug Bedi〈e〉《摘出手術》nung Mitt〈e〉《第二節》lstand」  左手をつけて、一気に魔力を押し流した。  それで、とりあえずはこの呪刻から色を洗い流せるのだが―――   「なんだよ。消しちまうのか、もったいねえ」    唐突に。  結界消去を阻むように、第三者の声が響き渡った。 「――――!」  咄嗟に立ち上がり、振り返る。  給水塔の上。  十メートルの距離を隔てた上空で、そいつはわたしを見下ろしていた。    夜に溶け込む深い群青。  つりあがった口元は粗暴で、獣臭じみたものが風に乗って伝わってくる。  ……獣の視線は〈涼〉《すず》やかだ。  青身の男は、この異様な状況において、わたしを十年来の友人みたいに見つめている――― 「―――これ、貴方の仕業?」 「いいや。小細工を弄するのは魔術師の役割だ。オレ達はただ命じられたまま戦うのみ。だろう、そこの兄さんよ」 「――――!」  軽々と、しかし殺意に満ちた声。  この男には、アーチャーが見えている……! 「やっぱり、サーヴァント……!」 「そうとも。で、それが判るお嬢ちゃんは、オレの敵ってコトでいいのかな?」 「―――――」  背筋が凍る。  なんという事のない、飄々とした男の声。  そんなものが、今まで聞いたどんな言葉より冷たく、吐き気がするほど恐ろしいなんて――― 「――――――――」  どう動くべきか、何が最善なのかは判らない。  ただ、この男とここで戦う事だけは、絶対にしてはならないと理性が告げている――――! 「……ほう。大したもんだ、何も判らねえようで要点は押さえてやがる。  あーあ、失敗したなこりゃあ。面白がって声をかけるんじゃなかったぜ」  男の腕が上がる。 「――――――――」  事は一瞬。  今まで何一つ握っていなかったその腕には、  紅い、二メートルもの凶器があった。 「は、っ――――――――!」  考えるより早く真横へ跳ぶ。  屋上だから思いっきり跳べない、なんて余裕はない。  とにかく全力で、力の限り、フェンスに体当たりする気で真横へ跳躍する……!  髪を舞い上げる旋風。  ―――間一髪。  ほんの瞬きの間に突進してきたソレは、容赦なくフェンスごと、一秒前までわたしがいた空間を斬り払った。 「は、いい〈脚〉《あし》してるなお嬢ちゃん……!」  ―――青い旋風が追ってくる。  退路なんてない。  背後にはフェンス、左右は―――ダメだ、きっと間に合わない……! 「Es is〈t〉《軽量、》 gros, Es is〈t〉《重圧》 klein…………!!」  反応は早かった。  左腕の魔術刻印を走らせ、一小節で魔術を組み上げる。  身体の軽量化と重力調整。  この一瞬、羽と化した体は軽々と跳び上がり―――― 「凛……!」 「わかってる、任せて……!」  フェンスを飛び越えて、屋上から落下した。 「っ――――」  風圧と重圧が体を絞る。  地上まで約十五メートル、着地まで一.七秒――――じゃ遅い、きっとあいつに追いつかれる……! 「vo〈x〉《戒律引用、》 Gott Es 〈A〉《重葬は地に還る……!》tlas――――!  アーチャー、着地任せた……!」 「――――、は――――!」  着地の衝撃をアーチャーに殺させて、地面に足がついたと同時に走り出す。  ―――とにかく場所を変えないといけない。  屋上なんて狭い場所ではなく、もっと自由に動き回れるところ。  わたしとアーチャーの長所を生かせる、〈遮蔽物〉《しゃへいぶつ》のない〈広い場所〉《フィールド》に移動しないと……! 「はっ、は――――!」  屋上から校庭まで、七秒かからず走り抜ける。  距離にして百メートル以上、常人なら残像しか見えない速度。  けど、そんなものは、   「いや、本気でいい脚だ。ここで仕留めるのは、いささか勿体なさすぎるか」    サーヴァント相手には、何の意味もあり得なかった。 「アーチャー――――!」  わたしが後ろに引くのと同時に、前に出たアーチャーが実体化する。  〈曇天〉《どんてん》の夜。  アーチャーの手には、微かな月光を反射させる一振りの短剣があった。 「―――へえ」  男は、口元を不気味に歪める。 「……いいねぇ、そうこなくっちゃ。話が早いヤツは嫌いじゃあない」  ごう、という旋風。  ……それは屋上で振るわれた凶器、わたしを容赦なく殺しにきた、血のような真紅の槍――― 「ランサーの、サーヴァント――――」 「如何にも。そう言うアンタのサーヴァントはセイバー……って感じじゃねえな。何者だ、テメエ」  先ほどまでの気軽さなど微塵もない。  殺気の固まりとなったランサーに対して、アーチャーはあくまで無言。  ……両者の間合いは五メートル弱。  ランサーが手に持つ凶器は二メートル近い。  獣の臭いがするあの男からすれば、残り三メートルなど意味を成さないように思えた。 「……ふん。真っ当な一騎打ちをするタイプじゃねえなテメエは。って事はアーチャーか」  嘲る声にもアーチャーは答えない。  対峙するは奇しくも〈青赤〉《セイセキ》。  似て非なる二色の騎士は、すでに互いの必殺を計っている。 「……いいぜ、好みじゃねえが出会ったからにはやるだけだ。そら、〈弓〉《エモノ》を出せよアーチャー。  これでも礼は〈弁〉《わきま》えているからな、それぐらいは待ってやる」 「――――――――」  アーチャーは答えない。  倒すべき敵に語るべきことなどないと。  その、〈剣〉《はがね》のような背が語っていた。 「――――」  それで気づいた。  ……わたしはバカだ。アーチャーはただ一言、わたしの言葉を待っているだけだというのに。 「アーチャー」  近寄らずに、その背中に語りかける。 「手助けはしないわ。貴方の力、ここで見せて」   「――――ク」    それは笑い、だったのか。  わたしの言葉に応えるよう口元をつり上げて、赤い騎士は疾走した。  渦巻く突風。  短剣を手に、赤い弾丸が疾走する。   「――――バカが!」    迎え〈撃〉《う》つは青い槍突。  疾駆するアーチャーが突風ならば、迎撃する穂先は神風であったろう。  〈奔〉《はし》る刃、流す一撃。  高速で突き出される槍の一撃を、アーチャーはすんでに短剣で受け流す。 「ッ――――――――!」  赤い〈外套〉《がいとう》が止まる。  敵は、アーチャーの疾走を許さなかった。  槍の間合いまで、わずか二メートルの接近すらさせない。  長柄の武器にとって、距離は常に離すもの。  二メートル近い武器を持つランサーは、自らの射程範囲に入ってくる敵を迎撃するだけでいい。  踏み込んでくる外敵を貫く事は、自ら打って出る事より容易いのだから。  にも関わらず。  ランサーは自ら距離を詰め、アーチャーに前進さえ許さなかった。 「たわけ、弓兵風情が接近戦を挑んだな――――!」  その気性、烈火の如く。  ランサーは一撃ごとに間合いを詰め、停止する事を知らない。    ……長柄の武器にとって、間合いを詰める事は自殺行為だ。  長大な間合いをもって敵を制し、戦いを制するのが槍兵の戦いである。  故に、前進を止めないランサーに勝機はない。 「――――うそ」  けれど、それはただの定石。  喉を、肩を、眉間を、心臓を、間隙なく貫こうとするランサーの槍に、戻りの隙などなかった。    残像さえ霞む高速の打突。  一撃ごとにアーチャーを弾き、押し留め、後退させるランサーの槍は、一刺しでさえ必殺と称されるだろう。    だが、いかに弓兵といえアーチャーとてサーヴァント。  通常の攻め手など、必殺になどなり得ない……! 「ふ――――!」  眉間に迫る穂先を既に弾き、ランサーの槍もかくやという速度で踏み込むアーチャー。      ―――その形容から打突こそ主体と思われるが、槍の基本戦術は払いにある。  長さに物を言わせた広範囲の薙ぎ払いは、もとより身を引いて躱す、などという防御を許さないからだ。      半端な後退では槍の間合いから逃れられず、反撃を試みるような見切りでは腹を裂かれるのみ。  かといって無造作に前に出れば、槍の長い柄に弾かれ、容易く肋骨を粉砕される。  アーチャーとランサーはほぼ同じ体格だ。  重装甲ではないアーチャーにとって槍の間合い―――旋風のように振り回される攻撃範囲に踏み込むのは難しい。      ―――だが、それが打突なら話は別だ。    高速の一刺、確実に急所を貫く突きは確かに恐ろしい。  しかし軌跡が点である以上、見切ってしまえば〈躱〉《かわ》す手段はいくらでもある。  アーチャーのように、急所を貫きに来た槍の柄を打ち、わずかに軌道を逸らせばそれだけで隙になる。  弓兵と甘く見た油断だろう。  長柄の利点は自由度の高い射程と間合いだ。それを自ら狭めた時点で、ランサーの敗北は―――― 「――――」 「ぬっ――――!?」  赤い外套が停止する。    ―――時間が逆行したかのような悪夢。    繰り出された一撃は、先の打突より更に高速……! 「ぐ、っ――――!」  軌道を逸らそうといなしにかかるアーチャーが、短剣ごと弾かれる。  ランサーの槍に戻りの隙などない。  いや、そればかりか鋭さも威力も際限なく上がっていく打突は、もはやサーヴァントをしても必殺の域……!   「――――」  甘く見たのはわたしたちだ。  あのサーヴァント―――ランサーの槍に、槍兵の定石など存在しない。    息もつかせぬ連撃を〈捌〉《さば》く事など誰に出来よう。  アーチャーはかろうじて後退しつつ弾き、結果として、両者の距離はわずかに開く。  その間隙。  離れた間合いをさらに助走とし、さらなる強撃を放つランサー。  嵐のような連撃はその繰り返しにすぎない。  が、それも際だてば神域の技。  すでに〈十合〉《じゅうごう》。  否、実際はその数倍か。  直線的な槍の豪雨は、なお勢いを増してアーチャーを千殺せんと降り続ける。  ……アレは迅いのではなく、ただ、巧い。  ランサーの槍には緩急などなく、〈瀑布〉《ばくふ》のように繰り出される。  守りに入るアーチャーに何の手段があろう。  あんな短い剣では槍を受け流す事しかできない。  後退し続けるアーチャーに、ランサーへ近寄る術はないのだ。 「―――――――」  繰り広げられる鋼の真空。  援護を―――アーチャーの援護をしなくてはいけないというのに、喉がうまく動かない。  わたしの魔術は狙いが甘い。  アーチャーがランサーから大きく離脱しないかぎり、アーチャーごと巻き込んでしまう。  そんな隙、ランサーをますます有利にするだけだ。        ……それに、そう。  正直、わたしは見惚れていた。  これがサーヴァントの戦い。  〈魔術師〉《わたしたち》では手の届かない最高ランクの使い魔――――英霊を使役する、聖杯戦争そのものなのだと。  サーヴァント。  七人のマスターに従う、それぞれ異なった〈役割〉《クラス》の使い魔たち。  それは聖杯自身が招き寄せる、英霊と呼ばれる最高位の使い魔だ。    ―――だが、彼らを使い魔と呼ぶのは語弊がある。    本来、使い魔とは魔術師に代わってお使いをする程度の存在でしかない。  イメージ的には長靴を履いた猫とか、  白くて可憐な小鳥とか、  主人の言うことを聞かない黒犬とか、まあそういったモノだろう。  一介の魔術師が使役できる使い魔はその程度だ。  あくまで使い魔は使い魔。  主人の代わりに雑用をこなすマスコットなのだから、主である魔術師より強力な存在になどなり得ない。    けれどサーヴァントは違う。  彼らは文字通り人類最強の存在だ。  五人しかいないとされる魔法使いであっても、彼らを使役する事など不可能だろう。  それは召喚が難しいからでも、サーヴァントの能力が魔術師以上だからでもない。    サーヴァントとは、それ自体が既に、魔術の上にある〈存在〉《モノ》なのだ。  率直に言おう。  サーヴァントとは、過去の英雄そのものである。  神話、伝説、寓話、歴史。  真偽問わず、伝承の中で活躍し確固たる存在となった“超人”たちを英雄という。  人々の間で永久不変となった英雄は、死後、人間というカテゴリーから除外されて別の存在に昇格する。    ……奇跡を行い、人々を救い、偉業を成し遂げた人間は、生前、ないし死後に英雄として祭り上げられる。  そうして祭り上げられた彼らは、死後に英霊と呼ばれる精霊に昇格し、人間サイドの守護者になる。  これは実在の人物であろうが神話上の人物であろうが構わない。    英雄を作り出すのは人々の想念だ。    こうであってほしい、と想う心が彼らを形取り、彼らを実在のモノとして祭り上げる。  そこに真偽は関係ない。  ただ伝説として確かな知名度と信仰心さえあれば彼らは具現化する。  人間が生み出した究極の理想、人間の中でもっとも優れた人間。    それが英雄であり、英霊である。    そして当然、人間以上である彼らは、決して人間では操れない。  魔術師は彼らの力の一端を借り受け、その真似事をこなす程度に留まるのが常だ。  英霊そのものを呼び出して使役する、なんて事は決して出来はしない。  が、聖杯はその不可能を可能にした。  本来人間の手におえぬ英霊をまるごと召喚し、あまつさえマスターに仕える使い魔に固定した。  そのデタラメさは、まさに聖杯が万能である事の証でもある。  そうして年代を問わず、近くは百年前、遠くは神代の頃から英霊は召喚された。  七人の英霊はそれぞれ七人のマスターに従い、おのがマスターを守護し、敵であるマスターを駆逐する。    ……あらゆる年代、あらゆる国の英雄が現代に蘇り、覇を競い合う殺し合い。    それが、この儀式が聖杯戦争と呼ばれる由縁だろう。  ……もっとも、聖杯にも限界があったらしい。  いかに聖杯といえど、精霊じみた連中を無差別に呼び出す事は出来なかった。  悪魔と呼ばれる第六架空要素の実体化には“人々が創造したカタチ”が必要なように、  英霊たちも、こちらの世界で活動できるカタチが必要なのだ。  それが彼らの仮の名前であり、この世界に許された存在の在り方。  聖杯は英霊たちが形になりやすい“〈器〉《クラス》”を設け、器に該当する英霊のみを召喚させる。  現代へのパスポートと言うか、予め使い魔としての役割を用意しておき、召喚された英霊がその役割に憑依する事で、仮初めの物質化を手助けする。  聖杯に選ばれたマスターが七人ならば、マスターに仕える英霊も七人。  予め振り分けられたクラスは七つ。  剣の騎士、セイバー。  槍の騎士、ランサー。  弓の騎士、アーチャー。  騎乗兵、ライダー。  魔術師、キャスター。  暗殺者、アサシン。  狂戦士、バーサーカー。  この七つのクラスのいずれかの属性を持つ英霊だけが現代に召喚され、マスターに従う使い魔―――サーヴァントとなる。  それがサーヴァントシステム―――  人の手に余る“〈聖杯〉《きせき》”を勝ち取る為に与えられた、人の手に余る、英霊の召喚と契約。    他の聖杯戦争ではありえない、この土地でのみ行われる、最強の競い合い――――! 「――――!」  一際高い剣戟。  ランサーの槍を弾いた短剣は、そのままアーチャーの手から離れた。  ランサーの技だ。  直線だけの打突から、一転してアーチャーの手首を払うなぎ払い。  それはアーチャーにとって、判っていながらも避ける事のできない一撃だった。  剣で槍を受け流す有効手はない。  強く弾けば弾いた以上の鋭さで斬り返され、かといって最小の力で受け流しても隙は一向に生まれない。    剣と槍の戦いとは、つまるところいかに間合外から敵を倒すか、という点に集約される―――― 「―――間抜け」  罵倒するランサーに躊躇はない。  アーチャーを追い詰めようと踏み込んでいた足が止まる。  ―――一瞬で勝敗を決するつもりか。  がっしりと地面に根を下ろしたランサーと、  無刀となったアーチャーの視線がぶつかり合う。    瞬間。  一息のうちに放たれたランサーの槍は、まさに閃光だった。  視認さえ許さない。    眉間、首筋、そして心臓。    穿つは三連、全弾急所――――――!!    だが。  〈視〉《み》る事さえできぬ閃光を、一対の光が弾き返す……! 「――――!?」  アーチャーの手には再び短刀が握られていた。  先ほどの剣と同じ、鉈を思わせる中華風の剣。  しかし、その最大の違いは――――   「チィ、二刀使いか……!」    剣は一対。  両手に握られたそれは、左右対称の双剣だった。 「ハ、弓兵風情が剣士の真似事とはな―――!」  ランサーの槍が奔る。  もはや生かさんとばかりに槍の速度はあがっていく。  耳を打つ剣戟は、よく出来た音楽のようだった。  響き合う二つの鋼。  火花を散らす剣合は絶え間なく、際限なくリズムを上げていく。  両者の戦いは真空に近い。  周囲の空気を巻き込み、近づけばそれだけで切り刻まれそう。 「――――――――」  本当は一瞬。  けれど、見ている自分には、息が詰まるほど長い時間に感じられる。  懐に入れまいとするランサーと、  双剣を盾に間合いを詰めるアーチャー。  両者の撃ち合いは百を超え、その度にアーチャーは武器を失う。  だがそれも一瞬、次の瞬間にはアーチャーの手には剣があり、ランサーはその度わずかに後退する。    〈事此処〉《ことここ》に至り、ランサーは自らの油断を認めたのだ。    目の前の相手が何者かは知らぬ。  だが、これ以上弓兵と侮っては、敗北するのは己なのだと。  間合いが離れる。  仕切り直しをする為か、ランサーは大きく間合いを離した。  ……その速さは尋常じゃない。  アーチャーの突進だって常軌を逸していたけど、ランサーに比べればまだ遅い。  咄嗟に間合いを外したランサーの動きは、豹そのものの速さと〈嫋〉《しな》やかさを持っていたのだから。 「……二十七。それだけ弾き飛ばしてもまだ有るとはな」  苛立ち、呟くランサー。  いや、アレは苛立ちというより困惑だ。  ……その気持ちはわたしも同じ。  父の話では、サーヴァントが持つ武器はただ一つ。  それぞれが絶大な魔力を帯びた彼らの武器は、アーチャーのように次から次へと取り出せる物じゃない。      サーヴァントとは、英雄が死後に霊格を昇華させ、精霊、聖霊と同格になった者を指す。  言いかえれば悪魔、天使の類に近い。  彼らは単体でも強力な使い魔だが、彼らの最も強力な武器は“英雄の証”、すなわち“宝具”と呼ばれるマジックアイテムだ。      “宝具”はサーヴァントが英雄であった頃に愛用した武器や防具であり、文字通り“奥の手”として扱われる。  サーヴァントにとって、“宝具”は唯一無二の武装。  それは宝具そのものが代えのきかない最終兵器だからでもある。      ……ランサーの持っている槍だって、ランサーがその気になれば“宝具”としての能力を発揮するだろう。  宝具とはそれだけで優れた武器だけど、その本領は“真名”を〈以〉《もっ》て力を解放させる事にある。      かつて、竜を殺し神を殺し、万物に君臨してきた英雄の武器。  サーヴァントは自らの魔力を以ってその“宝具”を発動させる。  言うなれば魔術と同じだ。  サーヴァントたちは宝具を触媒にして伝説上の破壊を再現する。      宝具は決して使い捨てにできる物ではない。  アーチャーが何十と持ち出した剣は、たしかにそれぞれが名剣のようだけど、アーチャーの“宝具”ではないのだろう。  彼はアーチャーのサーヴァント。  故に、彼が隠し持つ“宝具”は弓でなければならないのだから。 「どうしたランサー、様子見とは君らしくないな。先ほどの勢いは何処にいった」 「……チィ、狸が。減らず口を叩きやがるか」  ランサーの苛立ちはもっともだ。  ランサーは槍兵として戦ったというのに、アーチャーは剣士として戦い、これを〈凌〉《しの》いだ。  いわばアーチャーとしての手の内をまったく見せていない状態である。  ランサーに鬼気が迫るのも当然だろう。 「……いいぜ、訊いてやるよ。テメエ、何処の英雄だ。  二刀使いの弓兵なぞ聞いた事がない」 「そういう君は判りやすいな。槍兵には最速の英雄が選ばれると言うが、君はその中でも選りすぐりだ。  これほどの槍手は世界に三人といまい。加えて、獣の如き敏捷さと言えば恐らく一人」 「―――ほう。よく言ったアーチャー」  途端。  あまりの殺気に、呼吸を忘れた。  ランサーの腕が動く。  今までとは違う、一分の侮りもないその構え。  槍の穂先は地上を穿つかのように下がり、ただ、ランサーの双眸だけがアーチャーを貫いている―――   「―――ならば食らうか、我が必殺の一撃を」 「止めはしない。いずれ越えねばならぬ敵だ」    クッ、とランサーの体が沈む。  同時に。  茨のような悪寒が、校庭を蹂躙した。    ……空気が凍る。  比喩ではなく、本当に凍っていく。  大気に満ちていたマナは全て凍結。  今この場、呼吸を許されるのはランサーという戦士だけ。    ランサーの手に持つ槍は、紛れもなく魔槍の類だ。  それが今、本当の姿で〈迸〉《ほとばし》る瞬間を待っている―――    ――――まずい    やられる。  アレがどんな“宝具”かは知らないけど、アーチャーはやられる。  こんな直感、初めてで信じがたいけど間違いはない。    あの槍が〈奔〉《はし》ればアーチャーは死ぬ。  それは絶対だ。  文字通り、ランサーの槍は必殺の“意味”を持っている――――   「――――、あ」    アーチャーは敗北する。  ランサーに心臓を貫かれればアーチャーは死ぬ。    ―――なのに。  そこまで予知できているのに、わたしはアーチャーを助ける事さえできない。  わたしが指一本でも動かせば、それが開始の合図となってしまうからだ。    ……だからこの戦い、アーチャーの敗北を止める事ができるとしたら、それは―――   「――――――誰だ…………!!!!」    わたしたちが見逃していた、偶然という第三者の登場に他ならなかった。 「……え?」  ランサーから放たれていた鬼気が消えた。  走り去っていく足音。  ……その後ろ姿は、間違いなく学生服だった。 「生徒……!? まだ学校に残ってたの……!?」 「そのようだな。おかげで命拾いしたが」  冷静に言うアーチャー。  ……いやまあ、それは確かに助かったけど。 「……失敗した、ランサーに気をとられて周りの気配に気づかなかった……って、アーチャー。アンタ、何してんの」 「見て判らないか。手が空いたから休んでいる」 「んな訳ないでしょ、ランサーはどうしたのよ」 「さっきの人影を追ったよ。目撃者だからな、おそらく消しに行ったのだろう」 「――――――――」  一瞬。  あらゆる思考が、停止した。 「……追ってアーチャー! 私もすぐに追いつくから……!」 「――――」  即座にランサーを追うアーチャー。 「……くそ、なんて間抜け……!」  自らのうかつさを呪う。  目撃者は消すのが魔術師のルールだ。  ……だから。それが嫌なら目撃者など出さなければいいんだって、いままでずっと守ってきたのに、なんだって今日に限ってこんな失敗を……!  月明かりも閉ざされた夜。  ひどく冷たい廊下には、床に倒れた生徒と、立ち尽くしているアーチャーの姿があった。 「………………」  彼は無言で生徒を眺めている。  ……鼻をつく匂い。  それが死の匂いなのだと、床に流れる血液を見て、思い知らされた。 「……追って、アーチャー。ランサーはマスターの所に戻るはず。せめて相手の顔ぐらい把握しないと、割が合わない」 「――――」  ランサーを追っていくアーチャー。  残されたのはわたしと、床に倒れ伏した生徒だけだ。 「…………」  直視できない。  けれど、直視しなければ。  これはわたしの責任。  これはわたしの責任。  これはわたしの責任。  ―――幼い頃。  遠坂の後継ぎになると決めた時から、こんなコトは覚悟していた。  魔術師には善も悪もない。  その道にあるのは自分と他人のこぼす血だけなのだと、そんなコトはとっくの昔に覚悟していたんだから――――! 「……ランサーの槍で一突きか。心臓をやられてちゃ助からない」  ランサーがこいつを何秒前に殺したかは知らない。  ただ、貫かれたのが心臓だったのは幸か不幸か。  ランサーの一撃は単純な外傷ではないのか、心臓破裂による血液の逆流は酷くない。  酷くないが、脳に血液がいかなくなればそれで終わりだ。  いや、そもそも心臓が壊されたのなら即死といっても間違いはないだろう。 「……そのわりにはまだ死んでないってのは、凄いな」  ……そう。  断末魔というか、まだ微かに息がある。  けどそれもあと数秒。  こいつには自分で傷を癒すコトもできないし、わたしには、こいつを助けるだけの力はない。 「顔を見ないと。それぐらいは、しなくちゃ」  うつぶせになっている顔に触れようとして、指先が動かない事に気が付いた。  ……震えている。  なんで、だろう。  こんな事には慣れている。  こんな選択は今まで何度もあった。  自分の間違い、自分の〈我侭〉《わがまま》で色々なものを無くしてきた。  だから―――いつだって、いつかこういう日が来るだろうって覚悟してた。  なのにどうして―――わたしはこんなにも、自分自身に腹が立っているんだろう。 「……ごめんね。看取るぐらいはしてあげる」  震える指と、今にも崩れそうな膝を理性で抑えつけて、倒れている生徒の顔を確認した。   「――――――――」    がつーん、という音。  本当に、後頭部をハンマーで叩かれた気が、した。 「……やめてよね。なんだって、アンタが」  ぎり、と歯を噛む。  震えを抑える為じゃない。  わたしは、本当に頭にきている。  なんだってコイツなんだろう。  よりにもよってコイツなんだっての。  まったく完璧に、サーヴァントらしく鮮やかに目撃者を仕留めたランサーに腹は立たない。  ただもう、こんな日、こんな時間に学校に残ってたコイツが、憎たらしくて仕方ない……! 「――――――――」  桜の顔を思い浮かべる。  きっとあの子は泣くだろう。  ついでに、わりと昔の、赤い放課後なんかを思い返してしまう。  ……遠い夕焼け。  一人でいつまでも走っていた誰か。  それを遠くから、ただぼんやりと眺めていたつまらない女の子。    ―――そして、目の前には巻き込まれた誰かの死体。 「――――――――」  ……手はある。  失敗して切り札を失うかもしれないけど、手はある。  ああいや、失敗しようが成功しようがどのみち切り札はなくなるんだから、わたしにとっての結果は変わらないんだけど。 「――――――――」  それは間違ってる。  コイツが死のうとしているのは、ある意味終わった事だ。  周囲の気配に気づかなかったわたしの責任と、  運悪く学校に残っていたコイツの責任。  だから、わたしがそこまでやってやる事はない。  だって、そう、元々コレは、父さんが、わたしに何一つとして遺さなかった父さんが、わたしの為だけに遺しておいてくれた物だ。  この戦いに勝ち残る為に、絶対の切り札となる強力な魔力の固まり。  わたしの為だけの、大切な大切な―――― 「―――だからなんだってのよ、ばか」  振り切って、死体一秒前みたいなヤツの前に〈跪〉《ひざまづ》いた。 「……ああ、やっちゃった」  手にしていたペンダントが軽くなる。  父の形見のペンダントは、もうほとんどスッカラカンになって、とん、と、死体一秒前だったヤツの上に落っこちた。 「――――ま、仕方ないか」  そう、仕方がない。  わたしでは、心臓を破損して、血管という血管が傷ついていて、おまけに脳死寸前なんていう人間を蘇生させる力も技術もなかった。  だからまあ、足りない部分は力ずくでこう、ガァーっとツギハギするしかなかっただけ。 「まだ息があるのが運の尽きだった。完全に死んでいたら、どんなに魔力の蓄えがあっても蘇生なんてできなかったし」  けど、まだ生きていたから。  出来うるだけの事をして、助けただけの話。 「……失敗してたら目も当てられなかったけど、成功したからいっか。……ええ、正直に言えば充実感あるしね、こういう経験も悪くはなかったわ」  なんて、思いっきり強がりを口にする。 「……行こ。済んだ事は済んだ事。コイツが目を覚ます前に帰らないと」  そうだそうだ、こんなところに長居は無用。  アーチャーはランサーを尾行しているだろうし、もう一人で帰ってしまえ。    ――――で、帰り道について思い出した。    魔力を引き出し、ただのペンダントになってしまったソレを、学校に置き忘れたという事を。 「……ま、いっか」  もうあのペンダントに用はない。  そりゃあちょっとは魔力が残ってるかもしれないけど、そんなのはわたしが持っている十個の宝石以下な訳だし。  父さんが遺したかったものは聖杯戦争に勝つための魔力だ。  その魔力を使い果たしたあれは、もう意味のない物になってしまったんだから。  ただいまも言わずに家にあがって、ばふっとソファーに腰を下ろす。  アーチャーはまだ帰ってこない。  はあ、と気の抜けた溜息をついて、ぼんやりと時計の音を聞くこと数分。 「―――って、いいかげん頭を切り替えなくちゃ。  あれだけの戦いを経験しておいて、なに惚けてるんだわたし」  シャキっと立ち上がって、とりあえず紅茶を淹れる。  考えるべき事は山ほどある。  取り立てて重要なのはサーヴァントについて。  わたしはついさっき、知識でしか知らなかったサーヴァント同士の戦いを目の当たりにしたんだから。 「ランサーか……宝具を使われそうになった時は焦ったけど、実際使ってたら正体は判ったのよね……」  敵サーヴァントを打倒するには、その正体を知ることが近道となる。  自分の正体さえ知らないバカものは例外として、サーヴァントにとって最大の弱点はその“本名”なのだ。  サーヴァントの本名――正体さえ知ってしまえば、その英霊が“どんな宝具を所有しているか”は大体推測できる為だ。    言うまでもないが、サーヴァントは英霊である以上、確固たる伝説を持っている。  それを紐解いてしまえば、能力の大部分を解明する事ができる。  サーヴァントがクラス名で呼ばれるのは、要するに“真名”を隠す為なのだ。  なにしろ有名な英雄ほど、隠し持つ武器や弱点が知れ渡っているんだから。    サーヴァントとなった英霊は決して自分の正体を明かさない。  サーヴァントの正体を知るのはそのサーヴァントのマスターのみ。  マスターは自分のサーヴァントの正体を隠しつつ、他のサーヴァントの正体を探らなければならない、なんていう暗黙の了解があるほどだ。    ……聖杯戦争も今回で五回目。  各サーヴァントの優劣は、もちろん呼び出された英霊の格で決まる。  有名な英雄、伝説上優れた武装を持つ英雄ほど強力なのは言うまでもない。    もっとも、そういった英霊を召喚するのは難しい。  英霊召喚には、彼らが生前所有していた武装か、なんらかの縁がなければ召喚できない。  英雄の持ち物なんて、魔術協会でも数えるほどしか保有していないのだ。  だから大抵はわたしのように、数ある英霊の中から自分に合った英霊を召喚する事になる。    サーヴァントの強さは英霊の格で決まる。  が、事はそう簡単にはいかず、どんなに優れた英霊でも与えられたクラスによっては苦戦を強いられる。    それがクラス別の特殊能力、小が大を打ち倒す可能性だ。    七つのクラスはそれぞれ異なる付加能力を持ち、その相性によっては格上の相手に勝利する事もある。  その例で言えば、過去四回、知名度の低い英雄が大英雄をうち負かした事もあるらしい。    わたしが知りうる限り、最も優れたサーヴァントはセイバーだ。  過去四回、セイバーのサーヴァントはことごとく最後まで勝ち残った。  セイバー、ランサー、アーチャーの三クラスは強力な対魔力を持つという。  率直に言って、この連中に魔術は通用しづらい。    なにしろ神話の時代、魔法が当たり前のように跋扈していた世界で戦い抜いた戦士たちだ。  現代の魔術師が使う魔術など、彼らに触れただけで霧散するだろう。  ……まあ、そういった訳でこの三つのクラスは基本にして優秀、と評されている。    それ以外に注意すべきはバーサーカーのサーヴァント。  このクラスになって呼び出された英霊は、正気を失う。  文字通りマスターの操り人形となって活動する狂戦士となるのだが、その恩恵は生前の能力を大きく上回る“強化”だ。    もっとも、サーヴァントが強くなればなるほど、マスターにかかる負担は大きい。  過去、バーサーカーを得たマスターは暴走するサーヴァントを御する事ができず、魔力切れで自滅してきた。  ただ一人の例外もなく。  ―――聖杯戦争の勝敗を決めるのは、十中八九呼び出したサーヴァントの能力である。    そりゃあマスターの努力次第でいくらでも勝ち残る術はあるだろうけど、基本はサーヴァントによる潰し合いだ。  だからこそ、マスターはサーヴァント召喚には細心の注意を払わなくちゃいけないんだけど――― 「――――――――」  一人悶々と、これからの作戦予定表を組み立ててみる。  そうしているうちに時刻は十一時になり……無論、時間は既に直してある……アーチャーが帰ってきた。 「お帰りなさい。成果はどう?」 「……すまない、失敗した。よほど用心深いマスターだったのだろう。少なくともこちら側の町には、ランサーのマスターはいなかった」  やっぱりそうか。  ランサーは一人きりだったし、ランサーのマスターは直接戦いの場に顔を出すタイプではなさそうだ。 「そう。ま、簡単にはいかないわよね」    そう、すべて思い通りに行くなんて事はない。  だから仕方ない。  今夜の事は授業料と思って諦めよう。 「覇気がないなマスター。いつもの威勢はどうした。まさか先の一戦で怖じ気付いた、というのはなしだぞ。君が命じるのなら、今すぐにでもランサーとの再戦に〈赴〉《おもむ》いてもいい」  いや、むしろそうするべきだろう―――なんて無言で抗議するアーチャー。  ……そっか。  わたし、落ち込んでいるように見えるのか。 「そんな訳ないでしょう。わたしが打って出ないのはね、単に無駄手間をしたくないだけなんだから」 「む? 無駄手間をしたくない……?」 「だってまだマスターの数が揃ってないでしょ。今夜のは止むなしだったけど、開戦の合図があるまで戦わないわ。それが聖杯戦争のルールだって父さんは言ってたし」 「……そうか。君の父親もマスターだったのか」  なるほど、と納得するアーチャー。  ―――と。  なんか、難しい顔をして悩むアーチャー。 「なによ。何か言いたいコトでもあるの、アンタ」 「ああ、一つ訊き忘れていた。  凛、君は幼い頃からマスターになるべく育てられ、それに従ってきたのだろう? つまり、初めからマスターになる事を予想していた訳だ」 「当たり前じゃない。そりゃあいきなりマスターに任命される魔術師もいるそうだけど、わたしは別よ。遠坂の人間にとって、聖杯戦争は何代も前からの悲願なんだから」 「そうだろう。なら、目的がとうにある筈だ。  私はそれを聞き忘れていた。主の望みを知らなければ私も剣を預けられない。  ―――凛。それで、君の願いは何だ」 「願い? そんなの、別にないけど」 「――――なに?」  あ、アーチャーがおもしろい顔してる。 「そ、そんな筈はあるまい! 聖杯とは願いを叶える万能の杯だ。マスターになるという事は聖杯を手に入れるという事。だというのに、叶える願いがないとはどういう事だ……!」 「――――――――」  アーチャーは真剣な顔で問いただしてくる。  ……ああ、そうか。  聖杯を手に入れた時、そのマスターが何を望むかはサーヴァントにとっても無関係じゃないんだ。  でもおかしいな。父さんはサーヴァントにも望みがあるって言ってたけど、それはあくまでサーヴァントの望みだ。  わたしに望みがなくったってアーチャーが気にする事はないと思うけど。 「よし、明確な望みがないのであらば、漠然とした願いはどうだ。例えば、世界を手にするといった風な」 「なんで? 世界なんてとっくにわたしの物じゃない」 「――――――――」 「あのね、アーチャー。世界ってのはつまり、自分を中心とした価値観でしょ? そんなものは生まれたときからわたしの物よ。そんな世界を支配しろっていうんなら、わたしはとっくに世界を支配している」 「――――」  難しい顔でわたしを見るアーチャー。  呆れた。こいつ、頭かたいなー。 「馬鹿な。聖杯とは望みを叶える力、現実の世界を手に出来る力だぞ。それを求めるというのに何も望まないというのか、君は」 「だって世界征服も面倒くさいし、そんな無駄な事を願っても仕方がないでしょう。貴方、わりと想像力が貧困ね」 「……。理解に苦しむな。それでは何の為に戦う」 「そこに戦いがあるからよ、アーチャー。ついでに貰える物は貰っておく。聖杯がなんだかは知らないけど、いずれ欲しい物が出来たら使えばいいだけでしょう? 人間、生きていれば欲しい物なんて限りないんだし」 「―――つまり、君は」 「ええ。ただ勝つ為に戦うの、アーチャー」 「――――――――」  ふう、と肩をすくめるアーチャー。  わたしの言い分に呆れまくったのか、ようやく肩の力がとれたようだ。 「……まいった。確かに君は、私のマスターに相応しい」  ―――う。  ……その、そういう言い回しは対処に困るから、やめてくれないものかな、こいつ……。 「……ふん。サーヴァントにマスターを選ぶ権利はないけど、一応訊いとく。なんでわたしが貴方のマスターに相応しいのよ」 「言うまでもない。君は間違いなく最強のマスターだ。  仕える相手としてこれ以上の者はない」 「そ、ありがと。貴方に言われるなら世辞って訳じゃなさそうだし」  ……照れくさいので顔を背ける。  アーチャーは皮肉屋のくせに、こういう言葉をまっすぐに言ってくるから苦手だ。  ……けどまあ、信頼されているのは素直に嬉しい。  わたしもアーチャーを信頼しているし、アーチャーもわたしを信頼している。  この連帯感は、そう悪い物じゃないと思う。 「さて、ならば一息入れようか。七人目のマスターが現れるにせよ、それは今すぐという訳でも……と、ちょっと待て凛。君、あの飾りはどうした」 「飾りって、ペンダントの事? ……ああ、アレなら忘れてきちゃった。もう何の力もない物だし、別に必要ないでしょう?」 「それはそうだが。……君がそう言うならいいが」 「ええ。父さんの形見だけど、別に思い出はアレだけって訳じゃない――――」 「―――よくはない。そこまで強くある事はないだろう、凛」  睨むようにそう言ったあと。  アーチャーは、学校に忘れてきたペンダントを取り出した。 「あ……拾いにいってくれたんだ、アーチャー」 「……もう忘れるな。それは凛にしか似合わない」  照れくさいのか、視線を逸らしてペンダントを手渡してくるアーチャー。 「――――そう。じゃ、ありがとう」  なんとなく受け取る。  正直、照れていいのかクールに流すべきなのか、わたしには分からなかった。  ペンダントは以前のままだ。  ……やっぱり、どう見ても魔力は残っていない。  空になったそれは、高価だけどやっぱりただの宝石で、これといった力はない。  でも、アーチャー風に言うのなら。  このペンダントに力は無くなっても、父がわたしに遺したという意味だけは、まだ残っているのだろう。  それなら―――切り札と引き替えにアイツを助けた事も、本当に良かったと笑い飛ばせるかもしれないな。 「―――って、待った」  ちょっと引っかかる。  後悔があったから頭が回らなかったけど、冷静に考えてみれば不十分だ。  アイツがわたしたちを見た以上、記憶をいじらないと危険だし。  なにより、ランサーはわたしたちとの戦いより目撃者の消去を優先した。  ランサーの考えはマスターの考えである筈。  なら―――そこまでするランサーのマスターが、殺した筈の相手が死に損なったとしたらどうするか。 「―――そんなヤツ、生かしておかない―――」  ソファーから立ち上がる。  ……あれから三時間。  間に合わないかもしれないけど、  あれだけのコトをして助けたんだから、間に合わない訳にはいかないじゃない―――!  夜を走る。  幸い、アイツの家は知っていた。  いや、わたしが調べたわけじゃなくて、たまたま知り合いがよく遊びに行く家だっただけで、今まで一度も行った事はない。 「……まったく。余計な苦労を背負おうとしているぞ、君は」  アーチャーはやる気がない。  わたしが殺されかけたアイツを助けた事も、これから助けに行く事も非難していた。    ――――午前零時。    雲に覆われた夜空の下、わたしたちは武家屋敷に辿り着いた。  住宅地の端、郊外に近いこの屋敷には、人気というものがない。  隣接した家も少なく、もし事が起きたとしても駆けつける人間はいないだろう。 「――――」  吐く息が白い。  風が出てきた。  よほど強いのだろう、雲がごうごうと流れていく。  暖かい筈の冬木の風は背筋を震わせて、ぶるりと、全身が痙攣した。  冬木の町が暖かいと言っても、坂の上はまっとうな冬の気温をしている。  シン、と凍り付いた空気。  あまりにも冷たい大気に耳を澄ませる。  全てが凍気に支配された感覚で、確かに、敵の気配を感じ取った。 「……いる。〈ランサ〉《さっき》ーのサーヴァント……!」  唇を噛む。  気配はこの塀の向こうからだ。  ランサーはとっくに屋敷の中に忍び込んでいて、訳も分からず帰ってきたアイツを、再び殺そうとしている。 「……飛び越えて倒すしかない。その後のことはその時に考える――――!」  アーチャーに突入の指示を送ろうとしたその時。  カア、と。  太陽が落ちたような白光が、屋敷の中から迸った。 「――――」  気配が、気配にうち消される。  ランサーというサーヴァントの力の波が、それを上回る力の波に消されていく。  ……瞬間的に爆発したエーテルは幽体であるソレに肉を与え、  実体化したソレは、ランサーを圧倒するモノとして召喚された。 「うそ――――」  呟くことしかできない。  だが紛れもない事実だ。  その証拠に、ほら―――たった今、塀を飛び越えて出てきたランサーは、屋敷から逃げるように跳び去っていったのだから。 「……ねえアーチャー。これも、もしもの話?」 「さあな。だがこれで七人。ついに数が揃ったぞ、凛」  落ち着いて答えるアーチャー。  わたしは正常な判断力を失っていた。  だから、容易に想像できる筈の次の展開を、考慮する事さえできなかった。  一際強く、風が吹いた。  傘のような雲が空を覆う。  明かりのない郊外は一転して闇に閉ざされ。  そのサーヴァントは塀を飛び越え、魔鳥のように舞い降りてきた――― 「――――!」  アーチャーは反応していた。  けれど、わたしは反応できなかった。  それが失点。  一秒にも満たないその隙で戦いは終わった。    わたしにとっては一秒でも、  あのサーヴァントにとっては度し難い隙だったのだ。  踏み込んでくる剣風。 「え、アーチャー……?」  わたしを突き飛ばすアーチャーと、  アーチャーを斬り伏せるサーヴァント。    本当に一瞬。  ランサーの猛攻をあんなにも華麗に〈捌〉《さば》いていたアーチャーが、ものの一撃で倒されたのか――― 「―――アーチャー、消えて……!」  だが、今度は間に合った。  敵のサーヴァントが返す刃でアーチャーの首を断ち切る瞬間、強制的にアーチャーを撤去させる。  じくん、と右腕に痛み。  あまりにも無茶な命令と行為だったからだろう、右腕にある令呪が一つ減ったのだ。  ……これで残る令呪は一つだけ。  けどこれが最善。  アーチャーに死なれるぐらいなら、令呪の一つや二つなくなっても―――― 「――――」  消失したアーチャーも意に介さず、サーヴァントは襲いかかってくる。 「――――舐めるな!」  ポケットから風呪を織り込んだトパーズを出し、そのまま、なんの加工もせずに魔力をたたき付ける―――!  家の一軒や二軒は跡形もなく吹き飛ばすソレは、日頃から少しずつ蓄えた風の呪文の固まりだ。  十七年間一日も休まずに織り上げた十の宝石、その一つ。  それを使い切るんだから、倒せないまでも足止めぐらいには――――  ……なら、なかった。  どうもこうもない。  巻き込んだ物を一瞬にして八つ裂きにする風の群れは、あのサーヴァントに触れた途端、手品みたいに消滅した。    ――――なんていう強力な対魔力。    このサーヴァントには、魔術師程度の魔力じゃ傷一つつけられない……!?  ―――あ、ダメだ。  魔術は通じず、アーチャーという守りを失ったわたしに、このサーヴァントを止める事はできない。    辛うじて一撃を〈躱〉《かわ》したものの、それでおしまい。    夜空を見上げる。  そこには、無様に倒れこんだわたしに手を下す、冷徹な死神の姿が――――   「――――な」    風が吹く。  曇天の切れ間、螺旋の空に月が覗く。  降りそそぐ月光と、あまりにも可憐な顔立ち。  それがランサーを逃げ帰らせ、  わたしのアーチャーを一撃で倒し、  こともなげに魔術を無効化した、サーヴァントの姿だった。                「今の魔術は見事だった、〈魔術師〉《メイガス》」    鈴のような少女の声。  ああ、今はその声ですら悪夢のよう。              「だが最期だ、アーチャーのマスターよ」            突きつけられた剣が煌めく。            ――――その死の間際で理解した。      確証もなく一目で判った。            これが私の欲しがっていたカード、  サーヴァント中最強と言われる剣の英雄。     「――――――――」  死を覚悟したまま月を見上げる。  命乞いの情も、逃げ出せる隙もない。  私はここで死に、遠坂凛の聖杯戦争は三日で終わる。  そこには屈辱と後悔しかなく、わたしは敵を憎んだまま消え去るだろう。        ―――だと言うのに、わたしは何も感じていない。  本当にどうかしている。  瞬きの後、確実に殺されるというのに、またも見惚れてしまうなんて。  ……そうだ。  悔しいと言えば、それが悔しい。        でも仕方がないとも思う。    ―――わたしを殺す最強のサーヴァント。    その姿はただ無情で、際限なく凛々しくて、その、悔しいぐらい、可愛らしかったんだから――――      しゃらん、という華麗な音。    ……その光。その音だけは一生涯忘れまい。  戦いを告げた鈴の音。  無骨な鎧さえ美しく響かせた、彼女の姿を。        「―――問おう。貴方が、私のマスターか」      言葉は鮮明に。  映像が摩耗していく代わりに、今も、克明に刻んでいる。           「召喚に従い参上した。  これより我が剣は貴方と共にあり、貴方の運命は私と共にある。―――ここに、契約は完了した」                 ……そう、契約は完了した。       彼女が彼を主と選んだように。       彼も彼女の助けになると誓ったのだ。            月光はなお冴え冴えと闇を照らし。  土蔵は騎士の姿に倣うよう、かつての静けさを取り戻す。  今も思い返す度、ひとり、その名を口ずさむ。                ――――今は忘れ去った蒼光の下。        金砂のような髪が、月の光に濡れていた。      晩年の頃。  午睡の間際、ふと、懐かしい剣戟を思い出した。  正しい順番は思い出せない。  記憶は遠く、おぼろになって、あの頃の心の在り方も、今は遠い出来事だ。            昔の話をしよう。  或る聖杯を巡る、たった十五日ほどの、彼と彼女の物語。      「その時は私が死ぬだけでしょう。シロウが傷つく事ではなかった。繰り返しますが、今後あのような行動はしないように。マスターである貴方が私を庇う必要はありませんし、そんな理由もないでしょう」         「ですから―――そんな人間がいるとしたら、その人物の内面はどこか欠落しています。  その欠落を抱えたまま進んでは、待っているのは悲劇だけです」           「――――貴方が戦わないというのなら、いい」         「違うわセイバー。士郎はサーヴァントを侮ってる訳じゃない。そのあたりを誤解しちゃうと話が進まないから、口を挟ませてもらうけど」         「だから無茶でも戦う。勝てないって判っていながら勝とうとする。その結果が自分の死でも構わない。  何故ならアンタの中では、どうしてか知らないけど、自分より他人の方が大切だからよ」    ―――馬鹿だった。  自分一人では誰も救えない。  本当にこの戦いを終わらせるのなら、初めからやるべき事は決まっていたのだ。    ある男は言った。  誰とも争わず、誰も殺さず、誰も殺させないのか、と。  自身が間違っていたと気づいたのなら、まず何を正し、誰を罰するかを決すべきだと。         「いや―――来い、セイバァァァアアア!!!!」    朦朧とした意識で、意味もなく手を伸ばした。  助けを求めて手を伸ばしたのではない。    ただ、空が遠いなあ、と。    最期に、そんな事を思っただけ。           「……はあ。その頑なさは、実に貴方らしい」         「まったく、いまさら答えるまでもないでしょう。  私は貴方の剣です。私以外の誰が、貴方の力になるのですか、シロウ」          彼女とその剣は、一心同体だった。  王を選定した岩の剣。  彼女の運命を決定した剣の輝きは、彼女の輝きそのものであり―――          その魂は今も戦場にいるのだろう。  夜明け前。  藍色の空の下、風に身を任せて、彼女はただ遠くを見つめていた。          王とは人ではない。  人間の感情を持っていては、人間は守れない。         「いいセイバー? デートってのはね、ようするに逢い引きのコトなの。  士郎は遊びに行くって言うけど、つまるところ、男の子が好きな女の子にアピールするチャンスってワケ」      ……ああ。けど、こんな事もあったのだ。    幸い、空は高く風は涼しく。    この思い出は、今も青く澄んだまま、胸の内に生きている。     「王の誓いは破れない。私には王として果たさなければならない責務がある。  アーサー王の目的は聖杯の入手です。それが叶おうとも、私はアルトリアに戻る事はないでしょう。  私の望みは初めから一つだけ。―――剣を手にした時から、この誓いは永遠に変わらないのですから」           「―――シロウなら、解ってくれると思っていた」            ―――もう何年も昔になった光景。           「それを手に取る前に、きちんと考えたほうがいい」       「―――いいえ」    自身の未来を見せられても、力強く頷いた。  いいのかい、と魔術師は問いただす。         「―――多くの人が笑っていました。     それはきっと、間違いではないと思います」      少女はただ、みんなを守りたかった。  けれど、それを成し遂げる為には“人々を守りたい”という感情を捨てねばならなかった。  ……人の心を持っていては、王として国を守る事など出来ぬのだから。    それを承知で剣を抜いた。  それを承知で、王として生きると誓ったのだ。    だから何度離れられ、恐れられ、裏切られようと、彼女の心は変わらない。    人としての心は捨てた。  幼い少女はそれを引き替えにして、守る事を望んだのだから。    その気高い誓いを、誰が知ろう。    ―――――戦うと決めた。    何があろうと、たとえ、その先に、    ―――――それでも、戦うと決めたのだ。    避けえない、孤独な破滅が待っていても。         「私は選定役だと言っただろう。相応しい人間がいるのならば、喜んで聖杯は譲る。  その為に――――まずはおまえの言葉を聞きたいのだ、衛宮士郎」    それは。  どこか見覚えのある、生きて見る地獄だった。        いくら救いを請われても、頷く事はできない。  出来る事があるとすれば、せめて終わらせる事。  生かされている死体という矛盾を正循に戻し。  この地獄を作り上げた原因に、償いをさせるだけ。        神父は語る。  十年前の真相。聖杯に仕掛けられた悪意。  ―――その、救いなど何処にもないという現実を。        悲しい出来事。悲惨な死。過ぎ去ってしまった不幸。  それを元に戻す事など出来ない。  正義の味方なんてものは、起きた出来事を効率よく片づけるだけの存在だ。    直視に耐えない。逃げ出してしまいたい。  自分には彼らに報いる術がない。  こうして声を聞くだけで、叶えてやれる奇蹟など持たない。  正義の味方なんてそんなものだと、吐き捨てた男を否定する力もない。    私には明確な敵はおらず。  私は、己の為の〈願望〉《ねがい》は持たない。          ……でも、仮に。  もし彼らを助けてやれる“奇蹟”があるとしたら、私は、それを使うのだろうか――――             「―――いらない。そんな事は、望めない」          まっすぐに〈死者〉《かれら》を見て。  歯を食いしばって、否定した。      ―――無くした物は戻らない、と。    その姿が、こんなにも胸に痛い。  そんな彼に自分はなんと言っていたのか。  新しい生活など出来ない、と。  自分には王としての責務があると、頑なに拒み続けた。   「ああ――――」    ……遠い誓いを思い出した。  胸に抉られた一つの言葉。  ……戦うと決めた。  何もかも失って、みんなにきらわれる事になったとしても。         「――――私が、愚かだった」    それでも、戦うと決めた王の誓い。         「聖杯が私を汚す物ならば要らない。私が欲しかったものは、もう、全て揃っていたのだから」            ……そう、全て揃っていた。  騎士としての誇りも、王としての誓いも。  アルトリアという少女が見た、ただ一度のとうといユメも。   「“〈約束された〉《エクス》――――”」 「セイバーァァアアアアアアア――――!!!!!」          貴方に揺るぎのない信頼と敬愛を。  王としての私ではなく。  何も守れなかった〈少女〉《わたし》だけど、最後に、全霊をもって貴方の剣になりましょう―――           「“läßt”――――!」           「“〈勝利の剣〉《カリバー》”――――!」    朝日が昇る。  止んでいた風が立ち始める。  永遠とも思える黄金。  その中で、   「最後に、一つだけ伝えないと」    強く、意思の籠もった声で彼女は言った。 「……ああ、どんな?」    精一杯の強がりで、いつも通りに聞き返す。    振り向いた姿。  彼女はまっすぐな瞳で、後悔のない声で、        「シロウ――――貴方を、愛している」      そんな言葉を、口にした。    風が吹いた。  朝日で眩んでいた目をわずかに閉じて、開く。 「――――――――」  驚きはなかった。  そんな気がしていたのだ。  別れは。  消える時は、きっとこうじゃないかと思っていた。    視界に広がるのは、ただ一面の荒野だけ。  駆け抜けた風と共に、騎士の姿はかき消えていた。    現れた時と同じ。  ただ潔く、面影さえ残さない。   「ああ――――本当に、おまえらしい」    呟く声に悔いはない。  失ったもの、残ったものを胸に抱いて、ただ、昇る光に目を細める。    ……忘れえぬよう、どうか長く色褪せぬよう、強く願って地平線を見つめ続けた。            ――――遠い、朝焼けの大地。      彼女が駆け抜けた、黄金の草原に似た。                 それは、誰に聞かせる話でもない。     星にかけられるような、ささやかな願いの話。      長い旅だった。  かけられた時間も、かかげられた理想も、かなえようとした人生も、何かと厄介だったからだろう。  どれほどの道を歩こうと、行程はわずかとも縮まらない。  休まず、諦めず、迷わずに、まなじりを強く絞り。    長い道を、歩いていた。      彼の旅はずっとずっと、いつまでも果てがない。  理由はほんとうに単純だ。  何処に行けば、何をすれば腰を休められるのか。  そんな、一番初めに決めておくべき旅の終わりを、どうにも見つけ損ねたらしい。      ―――永遠不滅の物などない。    いかに隆盛を誇った名機であれ、使えば使うだけ衰えていく。  それは機械も肉体も、精神ですら同じこと。  あらゆるものは摩耗していく。  何かを見るたびに色あせていく。  故に、ある事柄を苦しいとすら思わなかった心も、何年かの繰り返しの末に気付くだろう。      おまえの行為には意味があっても。  おまえ自体は、最後まで無価値だと。    希望と失望は抱き合わせで現れる。  気高い理想はくたびれた義務になり、ついには薄汚れた執着に変わり果てる。  幼い頃に見上げたものはありふれた現実になり、振り返る事はあっても、見上げる事はなくなっていく。  それが人としての正しい心の在り方だ。    けれど、彼は正しくはなかったので。  苦しいと思う心そのものを、大事に大事に、鍵をかけて仕舞いこんだ。          鉄の心はブリキの証。  これなら長い旅も続けていける。  かわりに楽しみも薄くなったけれど、幸い彼は欲張りではなかったので、たまに見返りがあれば嬉しかった。      きれいなものに憧れた。  多くの人と街を見て回った。  きれいなものは何処にでもあった。  ……ただ、あの日に別れた、星の輝きには出会えなかった。  きっと、彼の旅が終わらなかったのは、目的がなかったからではなく。    本当に見つけたいものを、見つけられなかったから。      でも、満足のいく人生でした。      永い夢だった。  かけられた呪いも、ささげられた理想も、残してきた結末も、ひどく重いものだったからだろう。  どれほどの眠りを過ごそうと、目覚めは一向に訪れない。  動かず、拒まず、望まずに、深く呼吸を鎮めて。    永い夢に、眠っていた。      王の責務はいまだ終わらず。  〈彼〉《か》の予言の成就の為、王は死しても剣の〈以前〉《まえ》には戻らない。  時が経って、国が栄えて、人が変わって。  もう、誰も気高い王など望んでいなくても、その誓いは続いている。  ……だって。  彼女はそうである事を引き替えにして、多くの命を預かったのだから。    ―――でも。  でも、こうして垣間見る夢が悲しかった。  眠りの淵から覗く光景。  今はもう遠い彼の、孤独な道行きにせめて、この〈心〉《こえ》を届けたかった。  人間らしさを仕舞い込んで、同じ事を繰り返すだけの機械になっても。  その痛みに、たとえ誰も気付かなくても。    ―――私がここで、貴方の強さを知っている。      けれど、未来永劫の約束がある。  過去は変えられないというのなら、それこそが永遠だ。  かつての誓いと覚悟が、王を永遠に繋ぎ止める。  〈剣〉《それ》以前のカタチに戻る事を、何より本人が許さない。    ……でも、会いたかった。  この先、永劫に眠り続ける事になったとしても。  この声を、彼の耳に聞かせたかった。   「それは難しいな。そもそも君たちの時間は、絶望的なまでにズレている」    魔術師は言う。  その願いはあまりにも無理があると。   「普通にやったらまず出会えない。実現するには、まあなんていうか、二つの奇跡が必要だ。  一方が待ち続けて、一方が追い続ける。  それもあり得ないと確信しながら、酷く長い時間耐え抜かないといけない。それはほら。言いにくいけど、望むべきではない夢物語だろう?」    魔術師は問う。  そんな事は不可能だと。王の責務など関係なしで、単純に叶うかどうか、望むかどうかという話を。   「ああ、勘違いはしないようにね。王の責任を捨てろって話じゃない。そもそも君は骨の髄まで王さまだ。そんな君から誇りをとったら何も残らない。  君はそのままでいいんだよ。  僕が言っているのは正当な褒美の話だ。小娘一人が幸せに生きる権利。それぐらいの働きは、していると思うんだが」    魔術師は語る。  剣を手に取った時と同じように。  あの時は、これから訪れるであろう苦難を嘲笑い。  今は、叶うかもしれない未来に微笑っている。        返答に意味はない。  これは剣を取る前の少女が、望むか望まないかだけの話。  どちらにしたって彼女に叶える力はない。  なら。  星に願いをかける事と、何の違いがあるだろう―――?   「―――でも、それが本当にいい事なのかはまた別の話だ。  アルトリア。時代も人も変わっている。あの頃のままなのは君だけだ。  夢は夢のままの方が美しい。君はこのまま、死んだように眠っている方が楽でいい。  それでも―――」      応えるまでもない。  口にする事はなくとも、その望みだけは消え去らない。  ……逆に言えば、それだけで良かったのだ。    誰も訪れず、ついには誰にも求められず。  人々の幻想から王の姿が消え去るその日まで。    その温かな望みを〈夢〉《かて》にして、彼女は未来永劫、この眠りに耐えていくのだから。            結局。  彼は生き方を変えられなかったし。  彼女が報われる事も、ついぞありはしなかった。            そうして。  彼にとっても、彼女にとっても、長い時間が流れました。      ―――ふと、目が覚めた。    どれほど歩いてきたのだろう。  荒れ果てた大地ばかり選んできたのに、深い森を抜けて、懐かしい草原に立っていた。    その場所は定かではなく。  あれからどれほどの年月が〈経〉《た》ったのか、  それからどれほどの行程が〈存〉《あ》ったのか。    今は、何もかも曖昧だ。 「――――――」    肩から荷物を下ろして、張り詰めていた体を休ませる。  ……ああ。  この歩みは、ずっと続くと思っていたけれど。    旅は、ここで終わりらしい。    視界は澄みきって広い。  あれほど重くからみついた〈枷〉《かせ》は、草を揺らす風によって〈解〉《ほぐ》れていく。    心は穏やかに、一歩ごとにあの頃に帰っていく。 「――――――」    果てのない青空を見て、言葉にはしなかったいつかの約束を思い出す。  あれは幼い故の幻、強がりのような願いだった。  同じ空を見て、同じものを感じたから。  追い続けていれば、きっと、叶う事があるだろうと。    そんな事を、故郷の街で思ったのだ。            そうして。  彼女の夢も、目覚めを迎えた。     「――――――」    空を見上げたまま、望みを持ち続ける。  風の向きが変わった事に気付いて、つい溢れようとする涙を堪えた。  彼女は祈るように、訪れた者を待ち続ける。  ……ただ、さようなら、と。  今まで望むだけだった、小さな望みに礼を言って。    息は軽くあがっていた。  信じられない。呼吸が乱れるなんて何年ぶりだろう。  まるで、半人前だったあの頃に戻ったようだ。  いや、でも―――経験を積んだからって一人前でもなかったな、と彼はひとり笑ってしまう。        ―――思えば、どれだけ空に願っただろう。  会いたかった。  会いたかった。    叶うのならもう一度。その在り方を腕に抱いて、焦がれていたものを確かめたかった―――        ……知らず、鼓動は早まっていく。  それでもここからは動かずに。  だって、歩き続けた彼の役割を台無しにするのは忍びない。  本当はすぐに走り出したいけれど、ここはあの時と同じように、彼の言葉を待っていよう―――    けど、少しの不安もあった。  この望み、この奇跡は、本当に起こしていいものなのかと。  彼はあの頃の彼ではない。心も体も、彼女が憂いたように摩耗してしまった。  この風景とて常に思っていた訳ではない。  執着ではなく、ただ忘却しなかっただけ。  日々薄れていく〈過去〉《きおく》を、ずっと抱き続けてきただけだ。    だから、このまま。  もし夢のままで終わっても、彼には予想通りの絶望と、ほんのわずかな希望があるから―――    ―――いや。  もう、そんな誤魔化しはお終いだ。  言葉でしか覚えていなかったものが、鮮明に甦る。  大事に仕舞っていたものが、もう一度動き出す。 「――――――、ああ」    ブリキの心臓に、懐かしい血が通う。  黄金の大地。  失われて久しい彼女の郷に、ようやく心が追いついた。    湧きあがる想いは山のようにあって、けれど、喉にあがる言葉は一つだけ。  どれだけ会いたかったか、どれだけ待たせていたかは、もう意味のない事だ。    そう。  結局、彼はその生き方を変えられなかった。  同じように、彼女が報われる事はなかった。  ―――けれど。          守り抜いた末に出会えた物があった。  生き抜いた先に、尊いものが残ったのだ。    大事なものが取り出される。  奥に仕舞い込んでいたのが幸いした。  その笑顔は、本来そうであるよう、少年のように木訥で、    ……口にでた言葉は、本当にあの頃のまま。  まるで、ここからあの日の続きが始まるように。 「――――――」    地を踏む足は軽く。  少女はくずれるように微笑んで、               「はい―――おかえりなさい、シロウ」      夢は、こうして終わりを告げた。      ……星を追い、星を巡り。  先立ち行きて、また見送り続け。  多くのものを失い、多くのものを生み出していく。  その果てにあるものは、食い潰した膨大な時間とは比べようもないほど、小さな小さなひとかけら。    ―――なんて、眩しい。  ちっぽけな掌に残った、厳しくも〈収斂〉《しゅうれん》された、目を焼くほどの輝きを見る。      そうして。  長い〈路〉《みち》の末、彼らは出会った。  星に憧れた彼の旅はこれで終わり。  これからはまた別の、長い長い、彼と彼女の物語が続いていく。    その終わりに。  彼もまた誰かにとっての星になるよう、この世界は回り続ける。      語り部は沈黙し、演奏は途絶えても、物語は終わらない。  それが喜劇であっても悲劇であっても、喝采があるかぎり、物語は終わらない。  それは数多の人生のように。  報われなかった私たちと、まだ途中にいる私たちに、温かな祝福を。    ―――私たちの道行きは、これからも続いている。         ―――朝が近い。  閉じた目蓋、眠りについたままの意識で、夜の終わりを感じていた。    残っているのは、心地のいい気怠さだけ。  手は剣を握れないほど疲れきっていて、体には一絞りの魔力も残っていない。  正直に言ってしまえば、衛宮士郎は燃え尽きていた。 「――――――――、あ」    だが、それは悔いの残る終わりじゃない。  とりあえず今の自分で出来る事―――やるべき事をキチンと終わらせた達成感がある。  燃え尽きているのは今だけの話だ。  休息をとった体は少しずつ脈打ち始め、じき、新しい朝を迎えようとウズウズしている。 「――――――――」  意識が鮮明になっていく。  灰色だった頭は微睡みに揺れて、次の瞬間にも目覚めるだろう。    その直前。  最後に、あいつの姿を思い出した。    〈翻〉《ひるがえ》る外套は既にない。  あの、永遠に燃え続けるのだと思っていた空を引き連れて、あの男は去っていった。    振り返らず何も語らず。  自身を恥じなかった背中だけを俺に残して。    その道筋を目で追った。  一つの結末。  同じ理想、同じ道を歩んだ男の姿に手を伸ばす。  勝った以上は、決して逃げない。  いつか必ずおまえに追い付くと、〈空〉《から》のまま、強く手を握り締め――― 「ん――――……む」    朝の陽射しに目を覚ます。  起こした体は微妙に重く、ところどころ傷だらけだった。 「……あれ。ここ、俺の部屋だ」  ぼんやりとした頭で周囲を見渡して、時計を見る。  時刻は朝の十時過ぎで、日付は二月十六日。 「うわ。丸一日経ってるじゃないか」  とりあえず驚いてみたものの、頭は他人事のように冷静だった。  ――――柳洞寺での戦いのあと。  俺は気を失ったまま運ばれ、一日中眠って、ようやく目を覚ましたんだろう。 「……にしては静かだな。遠坂は……もう帰ったよな。  おーい、セイバー。起きて――――」    起きているか、と言いかけて、喉が止まった。   「――――――――」  起きている筈がない。  いや、そもそも、彼女がここに居る筈がない。    聖杯はもう存在しない。  人の手にあまるサーヴァントを繋ぎ止められるモノは、この世から消え失せている。  故に―――あの金の髪をした少女は、もう、この世の何処にもいないのだ。   「ああ――――そうだった」    手のひらで両目を覆って、何かを堪えるように天井を仰いだ。  部屋は、静まり返っていた。  冬の朝は冷たく、吸い込む空気は肺を締め付ける。  ……長いようで短かった時間。  この二週間に起きた出来事と、この部屋に残った彼女の面影が通り過ぎていく。              “――――伝えたい事は、その後で”    そう言って走り去った姿が、彼女の最後だった。  ……走り去る後ろ姿。  その後などないと。  もう触れあう事はなく、  三人で戻ってこれる事はないと気付いていて、  叶わないと知りながら、俺たちは別れを口にしなかった。 「ん…………腹、減ったな」    立ち上がる。  動くと体の節々が痛んで、あの戦いが夢ではなかったと思い知らされた。 「うー、さむ」    廊下は冷え切っている。  ぎしぎしと廊下を軋ませて、早足で居間へ向かう。 「――――さて、と」  台所について、エプロンを装着。  フライパンを火にかけて、トーストを二人分切り出して、賞味期限ぎりぎりの卵を手に取る。 「よっと」  トーストを焼きながら、卵を割ってフライパンへ。  じゅわっ、という油のはじける音を聞きながら皿を用意して、キレイな目玉焼きを二つ作る。 「よし、会心の出来」  目玉焼きを白い皿に載せて、焼き上がったトーストを籠に並べる。  そうして、流し台から居間へ振り返って、   「――――あ」    居間には自分以外、誰もいない事を思い知った。 「――――――――」  はあ、と長く息を吸う。  毎朝、居間で朝食を待っていた少女はもういない。  ここにきて、ようやく実感できた。    ……戦いは、終わったのだ。    聖杯を巡る争いは幕を閉じた。  そんな事を、今更―――彼女のいない朝を迎えて、ようやく気が付くなんて、間が抜けてる。 「――――――分量、間違えちまった」    フライパンを置く。  空腹だったクセに食欲はなくなっていた。  エプロンを脱いで居間を横切る。  外はいい天気だ。  なんとなく、初めて彼女とまともに話をした道場が見たくなって、作りすぎた朝食を置き去りにした。  無人の道場に足を踏み入れる。  陽射しは淡く、板張りの空間を白く照らし上げている。  そこに、            見間違う筈のないヤツが、堂々と鎮座ましましていやがった。 「は――――?」  目が点になる。  まさか、いつのまにか二週間前にタイムスリップしたとかどうとか……!? 「――――シロウ? 目を覚ましたのですか?」 「もう大事はないようですね。  傷そのものは浅いものでしたから、そろそろ目が覚める頃だと思っていました」 「シロウ? どうしたのです、先ほどから口を開けて。  ……まさか、どこか私たちには判らない傷を負っているのですか?」 「え――――あ、いや、そういったワケじゃない、けど」    こっちの混乱は下手な致命傷よりダメージがおっきくて、状態回復に多大な時間を必要としている。 「セ、セイバー」 「はい。なんでしょう、シロウ」 「あ……うん。その、セイバーだよな、セイバー」 「見ての通りですが。……それとも、私がアーチャーやランサーに見えるのですか、貴方は」 「――――まさか。見えない。全然、まったく見えない」  ぶんぶんと首を横に振る。 「ええ、当然です。シロウも傷だらけですが、今まで通りのシロウです」 「――――――――」  それで、パニクッていた頭がようやく落ち着いた。  いや、落ち着いたっていうか、セイバーに見惚れて思考が〈停止〉《ショート》した。 「セイバー。本当に、セイバーなんだな?」 「ですからそうだと言っているでしょう。……む。もしや目の調子がおかしいのですか、シロウ」 「っ……!」  セイバーが手を伸ばしてくる。  俺の目蓋に指をあてる彼女は、紛れもなく実体だ。  白い指は優しく、柔らかく目蓋に触れて、離れていった。 「――――――――」  ここまできたら疑う余地はない。  セイバーはセイバーだ。  聖杯がなくなっても、今まで通りここにいる。 「――――――――」  吐息が漏れる。  ああ、と長く胸にあったものを吐き出して、   「―――おはようセイバー。また会えて、良かった」    そう、まっさきに浮かんだ言葉を口にした。 「おはようシロウ。私も、こうしてシロウと挨拶ができて嬉しい」  華やかに笑う。  そこに、今すぐに消え去る、なんて暗い影は微塵もない。 「ああ。けどセイバー、どうやってここに残っているんだ。その、聖杯はもうないんだろう?  なら――――」    サーヴァントはこの時代に留まっていられないのでは、と言いかけて口をつぐむ。 「セイバー……?」 「シロウ。その件でしたら凛に聞いてください。先ほどから今か今かと、貴方が気付くのを待っているのですから」 「え?」  言われて振り向く。 「あ」 「あ、なんて随分な反応ね。セイバーには愛想ふりまいといて、わたしには『あ』なんだ」 「―――遠坂。おまえ、いたのか」 「いたわよっ! あれからこっち、アンタが目を覚まさないからずっと陣取ってたわよ!」  悪い!? とばかりに睨み付けてくる。 「え―――――陣取ってたって、〈家〉《うち》にか!?」 「そうよ。傷の手当てもあったし、藤村先生と桜を言い含めないといけないじゃない。士郎一人放っておいて帰れるワケないでしょ」 「あ―――そうか、そうだよな。……わるい、遠坂。また迷惑かけちまった」 「……。いいわよ、お礼なんて。迷惑なんかじゃないし、その、一番の大金星は士郎なんだし。いいから報酬として受け取っときなさい。今日ぐらいは大目に見てあげるから」  顔を背けてそんなコトを言う。  その姿は本当に遠坂らしくて、ホッと胸を撫で下ろした。  俺とセイバーが無事だったように、遠坂も大事なく戦いを乗り越えたのだ。 「―――そうか。ご苦労様、遠坂。  色々あったけど、こうして戻ってきたな、俺たち」  感謝と達成の意を込めて手を差し出す。 「ま、そうね。一人も欠けてないし、文句なしに完全勝利だし。おめでとう、っていうのが相応しい締め言葉よね」  笑顔のまま握手をする。 「…………」  握った遠坂の手は柔らかくて、あの夜を思い出してしまって困る。  それでも、顔を真っ赤にしながら、お互いの実感を確かめ合った。 「――――で。それはいいんだけど遠坂。おまえ、セイバーをどうしたんだよ」 「? どうしたって、どうもしてないけど? 単に契約を続行して、わたしの使い魔をやってもらってるんじゃない。セイバーは最強の使い魔なんだから、そう簡単に手放すワケないでしょ」    遠坂はあっさりと返答する。  が、コトはそんな単純な話じゃない。 「おまえな、セイバーは聖杯と引き替えにサーヴァントになったんだぞ。その〈聖杯〉《ほうしゅう》がなくなったんだから、もう自由になっていいはずだ」 「ふーん。だってさセイバー。士郎はぁ、セイバーにさっさと帰れって言ってるけど?」 「む」 「なっ――――ち、違う……! そんなワケないだろ!  俺が言いたいのは、セイバーを使い魔にしておくなんてもう意味がないって―――」 「あるわよ。聖杯がないんだから、セイバーは魔術師と契約してないとこの世に留まれない。その為には、使い魔になって貰うのが一番の方法でしょ」 「だいたい、わたしだって魔力の大部分をセイバーに分けるんだから、その分の働きはして貰わないと。魔術の基本は等価交換なんだから。  んー、それともなに、士郎はセイバーが残ってくれて嬉しくないのかな?」 「ばっ、そんなの嬉しいに決まってる……!  けど、セイバーがサーヴァントのままなんていうのはおかしいだろ。  それに―――聖杯がないのにセイバーを留めておくなんて、出来るのか」  ……そう、それが最大の問題だ。  英霊をそのまま呼び出して使い魔にする、なんてコトは人間の手に余る。  いくら遠坂が天才的な魔術師でも、セイバーを養うのは無理がある。  ……そうなると、手段は一つしかない。  契約者の魔力で養えない使い魔は、契約者以外から魔力を得るしかない。  ライダーのように、町の人間から魂を食らって生きる、そんな怨霊じみた者になるしか―――― 「あのね。そんな暗い顔で何考えてるか知らないけど、話は最後まで聞きなさい。  いい、たしかにわたし一人でセイバーを維持するのは難しいわ。けど、こっちにはもう一人魔術師がいるじゃない。二人で協力すれば、なんとかセイバーを繋ぎ止める事が出来るはずよ」 「な……二人って、もしかして俺のコトか!?」 「当たり前でしょ。貴方以外誰がいるっていうのよ」 「や―――いや、頼りにされるのは嬉しいんだが、協力しろって言われても困る。使い魔との契約なんて知らないし、そんな器用なコト出来ないぞ俺」 「もちろん、そんなのは承知の上よ。  セイバーへの魔力提供はわたし一人でやるから、士郎はわたしのフォローをしてくれればいいの。セイバー程じゃないけど、わたしも何かと不自由になっちゃうから」  何が気に食わないのか、顔を背けながら遠坂は説明する。  何故にそのような態度なのかはこの際おくとして、   「? フォローって、どんな」    一番の疑問点を口にした。 「そ、そりゃあ色々よ。いちいち口にするコトでもないでしょ」 「?? 悪いが遠坂、色々じゃ分からない。面倒くさがらずちゃんと説明してくれ」 「だ、だから色々は色々なのっ! もう、それぐらい察しろ馬鹿っっっっ!!!!」 「っ~~~~――――――――」  き、きーんときた……な、なんだよ遠坂のヤツ、いきなり大声で怒鳴りやがって。 「……ふん。とにかくわたしの使い魔としてならセイバーは現界させられるってコトよ。  衛宮くんはセイバーがいてくれた方がいいんでしょ。  なら、それで文句はないじゃない」 「む」  そりゃセイバーがいてくれるなら、これ以上嬉しいコトはない。  けど、それはセイバーが同意してくれた場合だけだ。  セイバー本人がこの世界に用がないというのなら、無理に留めるのは間違っている。 「シロウ。私が残る事に、何か反対があるのですか?」  こっちの戸惑いを読み取ったのか、セイバーは静かに問うてくる。 「――――――――」  ……反対などない。  反対なんてしたくないが、これは、訊かなくてはいけない事だ。 「セイバー。もうこの町に聖杯はない。ここにいても、おまえの望みが叶う事はないんだ。  ……セイバーは、それでいいのか……?」 「はい。私は私の意思でこの時代に留まります。  ……私は、最後まで貴方を見届けたい。  彼は私が間違えていると言った。……その答えを、いつか、貴方が私に教えてください」  その声は穏やかで、強い意志が感じられた。  あの夜と同じ。  彼女と初めて出会った時と同じ、契約を告げる清純な声。 「――――セイバー」 「はい。貴方には迷惑でしょうが、どうか許してほしい。  その代償として、私は変わらず貴方の力になりましょう」  まっすぐに向けられる視線を、逸らさずに受け止める。  ……彼女の期待に応えられるかは分からない。  ただ、彼女が見届けてくれるのなら、この先何が待っていようと、道を違える事はないだろ―――― 「はいはいそこまで!  見詰め合うのは結構だけど、いつまでもそんなんじゃ話が進まないでしょう!」 「と、遠坂……!? なな、なんだよいきなり大声だしやがって、びっくりしたじゃないか」 「……ふん。そっちがいつまでものろけてるからでしょう。  いい? 話を戻すわよ。  セイバーは私と契約して、士郎は私に協力する。事後承諾になるけど、今後の体制はそういう事でかまわないわね?」 「……ああ、セイバーが承諾してるなら文句はない。  けど遠坂に協力するって結局なんなんだ? さっきの話じゃ全然わからないし、いまいち不安で納得できないんだが」    な、とセイバーに同意を求める。 「そうですね。シロウの立場からすれば、内容の判らない約束は不安でしょう。  凛、色々フォローする、とはどういう事なのですか?」  セイバーに問われて、うっ、と後じさる。  よしよし。  いかに遠坂と言えど、第三者からの冷静な意見の前には膝を折るしかあるまい。 「ほら。セイバーもこう言ってるし、具体的な内容をだな」  ここが勝機と追及する。  が。 「ああもう、ごちゃごちゃ言わないっ!  セイバーはわたしのだし、士郎だってもうわたしのなんだから口答えは禁止っ!  使い魔同士、黙ってマスターの言う事きくのが筋ってもんでしょうっっっ!!!!」    遠坂のヤツ、とんでもない独裁者ぶりを発揮しやがった。 「……む、ちょっと待て。俺、遠坂のものじゃないぞ」 「なによ、士郎、わたしと契約したじゃないっ!  わたしから魔力を引っ張った時点で使い魔みたいなもんなんだから、これぐらい無茶言ってもいいんだからっ……!」 「あ――――う」  いきなりの剣幕に気圧されたというか、あの夜を思い出してフリーズしてしまった。  ……その、遠坂本人も   『うわあ、わたしとんでもない無茶を言ってるー!』    ……などと後悔しているのが分かってしまって、妙に申し訳なくなってしまった。 「―――そりゃ、遠坂の魔力を借りてなんとかなったし、遠坂と契約したのは事実だから、そういう見方も、あると思う、けど」 「ふん。あると思うじゃなくて、事実そうなのっ。  とにかく、話はそういうコトよ。私たちの協力関係はまだ続行中なの」 「……ついでに言っとくと、協力者が未熟なままっていうのもアレだから、士郎には少しでも早く一人前になってもらうわ。  魔術はわたしが教えて、戦闘技術はセイバーが鍛えるからね。今日からビシバシいくから覚悟なさい」 「――――――――」  突然の提案に面食らう。  頼もしいコトこの上ないんだが、それってつまり、その。 「遠坂、俺の魔術の師匠になってくれるのか……?」 「仕方ないでしょ、他に適任者がいないんだから。  そ、それに士郎はわたしのなんだから、他のヤツになんて任せられないわ」 「な――――――――」    ――――反則だ。  そんな台詞、真っ赤になって言われたらこっちまで赤くなる。 「――――――――」 「――――――――」  互いに赤面したまま、何を口にすべきか判らず硬直する。 「――――――――」 「――――――――」  ……修行不足だ。  とんでもなく相手を意識してしまって、うまく口が動かない。  そうして、緊迫しすぎて遠坂が暴れだしそうな一歩手前。 「凛。話がまとまったところで、そろそろ朝食にしませんか」    セイバーが助け舟を出してくれた。 「そ、そうね。いいかげんおなか減ったし。士郎も朝、まだでしょ?」  ぎくしゃくする遠坂。 「あ、ああ。起きてすぐにメシの準備をしたけど、食わずにこっちに来たから、まだ食べてない」  同じく、ぎくしゃくと返答する俺。 「え? なに、じゃあごはん作ってあるの?」 「作ってある。トースト二人分」 「ほんと? なんだ、気が利くじゃない士郎。  善は急げ、さっそく居間に行きましょうセイバー」 「あ」  さっきまでの硬さは何処にいったのか、遠坂はセイバーの手を引いて道場を後にする。    それを呆然と見送ること十秒。           「こらー、なにのんびりしてるのよ士郎ー!  三人そろわないとお茶できないでしょうーーー!」    セイバーの手を引いたまま、声をあげて呼びかける。  道場をとび出した遠坂は、庭に立ち止まって手を振っていた。   「……まいった。ほんとに待ったなしだな、あいつ」    今までさんざん振り回されたが、それはこれからも続くだろう。  あいつとやっていくかぎり、こんなのは日常茶飯事だ。  よっぽどの覚悟がないと遠坂には付いていけない。    けどまあ、遠坂風に言うなら仕方がない。  そんなあいつだからここまで来たんだし、そんなあいつに、俺は惚れちまったんだから。           「ほら、早く早くー! 急がないと先に食べちゃうからねー!」    そう言いながら、遠坂はきちんと足を止めて俺を待っている。  いつも不機嫌で冷徹なクセに、あいつは根っこでとんでもないお人好しなのだ。   「ああ、いま行く―――! ちょっと待ってろー!」    道場を後にして、二人の後に続く。    ―――遠坂がいて、セイバーがいて、  遠坂は一つの場所で大人しくしているヤツじゃなく、 セイバーだってあれで負けん気が強いから何処にだって行くだろう。    この三人でいる限り、〈切嗣〉《オヤジ》でさえ呆れるほど、落ち着かない日々が続くに決まってる。        決定していた未来と、これから踏破していく未来。  いつか、あいつが立っていた場所に追いつける日が来るとしても。  こうして、これから築いていく輝かしい時間があるのなら、違った〈未来〉《じぶん》だってあり得る筈だ。    太陽はとうに昇っている。  一人では変えられない事も、二人なら少しは変えていけると思う。          ―――〈道行〉《みちゆき》は始まったばかり。  自分に出来る精一杯の歩幅で、これから、あの頼もしい相棒と歩いて行こう―――                  ―――時折、その剣戟を思い出す。    打ち合わせた剣の火花、圧し合う〈裂帛〉《れっぱく》の気合。  何十合にも渡る攻防は未熟で、とても剣舞と呼べるものではなかった。  不器用で、引くことを知らなかった剣のぶつかり合い。  デタラメな剣響は耳障りで、ただの一つも覚えていない。    あの時。  答えを失い、同時に答えを得た。  プラスマイナスはゼロだ。  結局、何一つとして変わっていない。  ヤツはヤツのまま、俺は俺のままでこうして惰眠を貪り、薄れていく記憶を夢見ている。              たった一ヶ月。  それだけの期間が、今はこんなにも懐かしい。    もう随分昔の事のようだ。  記憶は日に日に輪郭をなくしていき、今では相手の姿さえ思い出せない。    それも仕方のない事だろう。    あれは、初めから有り得ない出来事だった。  ヤツも俺も、あんな戦いで何か変わると信じていた訳ではない。  ただ自分を確かめる為に、自分の影を叩きのめそうとしただけだ。    だから、勝利したところで得る物などない。  そんなものは初めから、病的なまでに張り付いて離れない。  負ければ終わり、勝ったところで賞品はなし。  まったく、割に合わないコトこの上ない。    それでも、こうして目を閉じれば思い返せる。  無骨な鉄の響き。  引くことを知らなかった、遠く〈眩〉《まばゆ》い剣戟を。    打ち合わせたのは互いの信念。  俺は自らの希望を通す為に、自らの理想と相対した。  結果はまだ出ていない。  どちらが勝ち、どちらが残ったかは、今の自分には分からない。    答えが出るのはずっと先の話だろう。              蜃気楼のような、振り返れば消える幻。  残響だけを頼りに、いつか、この足がその場所に―――― 「こら、起きんかたわけ。  みな集会に向かったぞ、学校に来ていながらボイコットするつもりか貴様」 「――――――――」  ……体がゆすられる。  呼び起こす声に、眠っていた意識を引き戻される。 「……? あれ、なんで一成がいるんだ?」    机につっぷしていた顔をあげて、まじまじとクラスメイトの顔を見る。 「何故などないっ! ここは教室で、今日は二年最後の日で、時刻は終業式十分前だ!  姿が見えぬからもしやと捜しに来れば、本当に居眠りしているとは呆れたぞ!」  慌てているのか怒っているのか、一成は珍しく怒鳴り散らしてくる。 「――――――――」  教室には俺と一成しかいない。  時刻は九時五十分。  終業式は十時からだから、みな体育館に移動したのだろう。 「もし。きちんと目が覚めているか衛宮」 「―――ああ、今ので完全に目が覚めた。サンキュ一成、起しにきてくれて助かった」 「む。……うむ、分かればよろしい。だが礼は後だ、急がねば間に合わん。  おまえと俺が欠席とあっては、藤村先生がどんな暴れっぷりを示すか見当もつかんからな」 「む、了解。明日から休みだって言うのに、無茶な課題だされたらクラスのみんなに顔向けできない。藤ねえを大人しくさせるのは任された」 「うむ、頼むぞ。これ以上宿題が増えれば、みなに顔向けが出来ないどころか、間違いなく呪われる」  物騒な物言いだが、それが真実なのが恐ろしい。  去年の夏、藤ねえを怒らせて増えた課題はとんでもなかった。  なにしろ英語の勉強ですらない。  全国どこでもいいからどっかの大会に出てメダルかっぱいで来い、なんて、どんな神経で言い出せるコトなのか。 「衛宮っ! 急げと言っておろうが!」 「悪い、すぐ行く」  とにかく今は体育館に急ごう。  ここから体育館まで走って三分、先生にさえ見つからなければ五分前には着ける筈だ。 「いや、それはダメだ。廊下を走るのはいかん」    甘かった。  さすが生徒会長。この状況で校則を徹底するあたり、筋金が入っている。 「立派だ一成。けど、歩いてたら間に合わないぞ」 「走らぬ程度に急ごう。なに、一分前だろうがなんだろうが、間に合いさえすれば言い訳は立つ」  そんなもんか、と頷いて歩を速める。    三月中旬、窓から見上げる空はこれでもかっていうほど青い。  冬が長い冬木の町だが、ようやく春の足音が聞こえてきたようだ。    ―――月日はあっという間に過ぎていった。  聖杯戦争から一ヶ月、町はすっかり元の冬木市に戻っている。  聖杯は破壊され、マスターによって引き起こされた事件は、そのほとんどが教会の手で事なきを得た。  言峰神父の代行としてやってきた人物は高齢ながらエネルギッシュな人で、あれよこれよと効率よく物事を収めてくれたのだ。    だが、それでも戦いの爪跡はそこかしこに残っている。  マスターとして戦う事を選んだ葛木宗一郎は、行方不明者として扱われている。  兄と慕った葛木がいなくなった事を一成は悲しんでいたが、   「もとからひょろりと寺に現れた故、去る時もこんなものだろう」    と笑って受け止めていた。    意外だったのは藤ねえで、葛木とはお茶飲み仲間だったらしい。  一度手合わせしたかったのに、なんてこぼしていたあたり、葛木が武術の達人だった事を見抜いてたっぽい。    慎二は遠坂の活躍で一命を取り留め、今は入院中だ。  魔術協会ゆかりの医院らしく、体は回復に向かっている。  桜は慎二が治るまで看病で忙しく、ここ一ヶ月は土日だけ顔を出しに来る。  一度だけ二人の様子を盗み見にいったが、なんだか見違えるぐらい仲が良かった。    慎二のヤツ、あの一件で憑き物が落ちたのか、それとも怪我で元気がないだけなのか。  どちらにせよ、桜の看病を受ける慎二は皮肉屋ながら素直な素振りで、初めて会った時の慎二のようだった。    ――――セイバーはもういない。  彼女は聖杯を破壊した後、サーヴァントとして地上から退場した。  聖杯を自らの手で破壊した時点で、彼女を縛っていた何かが解けたのだろう。    ……別れを告げられなかったのは悔しいが、彼女が聖杯への拘りから解放されたのなら、それは喜ぶべき事だ。  いつか―――本当にいつか、彼女と再会できる事があるのなら、その時は出来る限りの感謝を示したい。            で。  最後に、肝心のあいつはと言うと。   「――――げ、遠坂」    一階に降りて、体育館への渡り廊下へ向かう途中。 「あら生徒会長。こんな時に校舎の見回り? それとも各部室の手入れかしら。毎度の事で言い飽きたけど、そういうところ、本当にマメなのね」  職員室から出てくるなり、生徒会長を差し置いて、生徒代表を任されたヤツに遭遇した。 「……ふん。こちらもその言い回しには飽き飽きだ。たまには違う憶測を立ててみろ。  それとも貴様、よもやわざと繰り返しているのではあるまいな」  じろり、と遠坂を睨む一成。 「え? そんなの当たり前じゃない。なに、今まで気付いてなかったの柳洞くん?」 「……そうなんだ。もう少しユーモアのある人だと思ったけど、本当に堅物だったのね。  ごめんなさい。今まで親愛の情を込めて同じ挨拶をしていたけど、貴方には分かり辛かったんですね」 「っ、何が親愛だ、おまえに向けられる親愛など覚えがないっ! ―――ええい、行くぞ衛宮、女狐に構っていては式に遅れるっ!」  一成のヤツ、ホントに遠坂が苦手なんだな。  ……いやまあ、俺もおんなじ立場だから同情してる余裕はないんだが。  で。  すれ違いざま、遠坂と目が合ったりする。 「――――――――」 「――――――――」  人目がある所では今まで通りに振舞う、というのは二人で決めた事だ。  当然のように遠坂を無視して、一成の後に続く。  だが、しかし。   「おはよう衛宮くん。今朝も元気そうで嬉しいわ」    何が気に食わないのか、遠坂は通り過ぎる俺の腕に手を回して、極上の笑顔を浮かべてきやがった。 「と――――」  あたまんなかが真っ白になる。  遠坂とは毎日のように顔を合わせていたが、こうして触れ合ったのは一ヶ月ぶりだったからだ。 「とおさ、か」  赤面するのを必死に堪えて、遠坂の感触に抵抗する。 「冗談よ。けど嬉しいのは本当よ衛宮くん。  そうだ、式が終わって生徒会の手伝いが済んだら一緒に帰りましょう。わたし、貴方が来るまでずっと教室で待ってるから」    ずっと、という言葉を強調する遠坂。 「な―――なに、何を口にするか貴様、とっととその腕を放さんかっ……!」 「なにって、柳洞くんには関係ないでしょう?  それじゃあ失礼。生徒会長に代わって挨拶をしなくちゃいけないから、わたしも忙しいの」 「ば」  カツカツと勝利者の足音をたてて去っていく遠坂。 「どういう事だ衛宮。  貴様、あの女狐とどういう関係だっ……!」 「……いや。どういう関係って言われても、困る。  だいたい、遠坂と知り合いになったってのは、かなり前に言ったと思うが」 「そんなものは一ヶ月も前の話だろう! 悪い事は言わんから手を切れと忠告したハズだ―――そ、そうか弱みだな!? あいつに弱みを握られたのか衛宮!」 「あー……まあ、弱みといえば弱みは、握られてる」 「チ、やはりそうか……!  くそ、おのれ遠坂、もはや捨て置けん……! さあ相談しろ衛宮、今すぐ白状しろ衛宮、二人で手を合わせて、今日こそあの女狐に仏罰を下してやるのだ……!」  がくがくと肩をゆする一成。 「一成、時間。終業式、始まるぞ」 「―――微塵も構わん。  どうせ初めはきゃつの戯言、少々遅れた方が精神衛生上よかろう……!」  なおもがくがくと肩をゆする生徒会長。  一成は冷静沈着なクセに、遠坂が絡むと人が変わる。  それぐらい遠坂が天敵なんだろうが、しかし。 「……悪い一成。士気が上がっているところすまないが、俺じゃ遠坂をどうにもできない。やっつけにいったら逆にやっつけられる。  ……その、悪いことは言わないから、あいつには近づかない方がいい」 「……む、衛宮にしては後ろ向きな発言。まさか、それほどの弱みを握られているというのか」 「……残念ながら。そんなワケなんで、遠坂退治は一成一人に任せる。辛い戦いだとは思うが、俺の分まで頑張ってくれ」 「―――そうか、分かった。安心しろ衛宮、よりよい学園生活のためだ、なんとしても遠坂の化けの皮を剥いで失脚させる。  女狐め、運動系の部活動を束ねてなにやら企んでいるようだが、あと一年もすれば生徒会も磐石だ。本当の勝負はそれからよ」  ふ、と不敵に笑う生徒会長。  ……あー、けど一成。  あと一年って、その頃には俺たちも遠坂も卒業しちまってるんだが。    終業式が終わって、校舎は緩やかに活気を失っていく。  もう春休みは始まっている。  大部分の生徒たちは笑顔で下校し、運動系の部活は今日からさっそく合宿など始めている。    校舎に残っている生徒は少ない。  教室はどこもからっぽで、廊下には夕暮れの赤しかなかった。   「やっと終わったわね。一成のヤツ、最後まで士郎に手伝わせるんだもの。アレ、絶対嫌がらせよ」    誰もいない教室。  夕焼けに染められた2年A組の教室で、俺の顔を見るなり、微笑みながら遠坂は言った。   「ばか、遠坂がおかしなコトするからだろ。そっちが余計なコト言わなきゃ、もっと早く解放されてたんだ」    文句を言いつつ教室に入る。  教室の作りなんてどれも同じなのに、どうして他所のクラスっていうのはこうも落ち着かないんだろう。   「なによ。わたしのせいだって言うの、士郎は」 「半分は間違いなくな。いいか、いきなり仲良くなるとヘンに思われるから、三年まで知らないフリしようって言ったの遠坂だろ。なのに、なんであんなコトしたんだよ」   「……ふん。今日で二年も終わるんだから、ちょっとぐらいフライングしてもいいじゃない。  だいたいね、無視するにしたって他に方法があるでしょ。  昼休みにすれ違うのならいざ知らず、わたしたちしかいなかったんだから、目配せの一つぐらいするのが筋ってものよ」  何が気に食わないのか、遠坂はそっぽを向いて文句を言う。  ……む。  夕暮れの教室のせいか。  見慣れたその仕草がえらく新鮮というか、その、見惚れるぐらい可愛く、見えてしまった。   「―――まったく。ほら。貰い物だけど、飲むか」    後片付けに参加した生徒に配られる、紙パックのオレンジジュースを差し出す。   「あ、貰う貰う。やった、士郎ってこういうところは気が利くのよね」    紙パックを受け取って、遠慮なくストローを口に含む。  ……窓際の席。  遠坂は眩しいものを見るような目で、校庭を眺めていた。 「………………」 「………………」    遠坂につられて、ストローを咥えながら校庭を眺める。  グラウンドを走っているのは陸上部か。  明日から春休みだって言うのに、うちの運動部は本当に活気がある。   「ね。衛宮くん、昔陸上部にいなかった?」  と。  唐突に、遠坂はおかしなコトを口にする。   「陸上部? いや、俺は昔から弓道部だけど」 「……そっか。まあ、そういう事もあるわよね。夕焼けみてたら思い出しちゃった」    今のは忘れて、なんて言って、遠坂はちゅーちゅーとオレンジジュースを飲む。 「………………」  忘れて、というのなら忘れる。  こいつが『衛宮くん』と口にする時は、半数が嫌味で半数が大切な事だからだ。  今のは、きっと後者に属する。  一ヶ月地獄の魔術講座を受け続けて、ようやく俺も遠坂の癖が分かってきた。   「――――にしても、あっという間だったなあ。  聖杯戦争が終わって、士郎がわたしに弟子入りしてもう一ヶ月かあ。なんか、この分じゃ一年なんてすぐに過ぎ去るわね」 「………………」  少しでも強くなりたくて、遠坂に魔術を基礎から教わり始めて一ヶ月。  ハードワークと遠坂の意地の悪さに翻弄されて、くるくる目が回る日々だったが、過ぎてしまえばあっという間だった。    この一ヶ月は、長かったようで本当に短かった。  なら、確かに―――一年なんて時間は、それこそ春休みみたいなものかもしれない。   「……一年か。その頃にはこの学校ともお別れだな」 「そうね。この教室は今日限りの教室で、四月になったら新しい教室になる。それと同じで、一年後には違う場所に行く事になるんでしょうね」    机の上で膝を抱えて、校庭を見つめたまま、遠坂はぼんやりと口にする。   「違う場所、か」    一年経って、学校から卒業した時、自分は何をしているのか。  ……いや、考えるまでもないか。  するべき事は変わらない。  俺はあいつが信じたように、自分の理想を叶えるだけだ。    ……まあ、それと。  今はあと一つだけ、同じぐらい大きな目標が出来ていたりするのだが、癪なのであまり考えないようにしたい。   「ね。衛宮くんは卒業したらどうするの? やっぱりお父さんの跡を継ぐの?」 「え? ……いや、そうだけど、跡を継ぐっていうより早く一人前になりたい。そうじゃないとかっこつかないだろ」   「へえ。かっこつかないって、誰に?」 「………………」  これだ。  ようするに、もう一つの目標というのは、こいつの鼻を明かしてやるコトなのだ。   「べ、別にいいだろ。とにかく俺の急務は一人前になるコトで、その為に遠坂に弟子入りしたんだ。あと一年、よろしく頼む」 「あら。随分と強気ね、あと一年で一人前になろうだなんて。わたし、十年ぐらいは覚悟して師匠役を引き受けたんだけど、そっか、衛宮くんはあと一年でいいんだ」   「じゅ、十年……!?  う、それは嬉しい、けど―――あ、いや、そうじゃなくて……! え、えらく気の長い話じゃないかそれ、一年ならともかく、十年なんて遠坂も疲れるだろ?」   「別に。衛宮くんの目標が一人前になる事と同じで、わたしのしたいコトも、貴方を早く一人前にするコトだもの。頭の中じゃちゃんと計画立ってるわよ? なんなら紙にして渡そっか?」   「―――――――あ、いや」  それは、その。  願ってもないコト、なんだが。   「けどそれも無理かな。衛宮くん、お父さんの跡を継ぐんでしょ? なら卒業した後も、ずっとこの町にいるって事よね」 「……そうだけど。そう言う遠坂はどうするんだよ。遠坂の家は冬木の管理人なんだろ。遠坂だってこの町から離れられないんじゃないのか」   「わたし? わたしは卒業したらロンドンに行くけど。  今回の件で魔術協会から推薦もとったし、試験なしで入学させてくれるらしいわ」 「な――――ロンドンって、魔術協会の総本山の、あの〈時計塔〉《ロンドン》……!?」   「ええ。冬木の町じゃ限界があるし、五年ぐらいは時計塔で勉強しようかなって。  父さんもそうだったって言うし、魔術師として一人前になりたいなら、最高学府に行くのは当然じゃない?」   「――――」  ……驚いた。  突然のコトで、目が点になって、頭が空っぽになっている。  正統な魔術師である遠坂なら、それぐらいは当然だ。  それを今まで考えなかった遠坂との立場の違いに、今になって気が付いてしまった。   「ロンドン、か。それ、凄いコトなんだよな」 「うーん、それは微妙じゃないかしら。  悔しいけど〈遠坂凛〉《わたし》本人の力を認められての招待じゃないわ。父さんの功績もあるし、今回の件だって、単に最後まで残ったからだし」  しれっと言うが、やっぱり凄いコトなんだろう。  ……けど、ロンドンか……それはちょっと、流石に遠すぎる。  それに魔術協会に属していなかった〈切嗣〉《オヤジ》同様、俺もそういう堅苦しいのは苦手だ。         「―――でも、それを言うなら衛宮くんにだって資格はあるわ。わたしが推薦すれば、入学試験ぐらいは受けさせてもらえると思うけど―――」  ……けど、引っ越すぐらいは出来るかな。  いまからアルバイトを増やして、英語も勉強して、渡英資金と一ヶ月ぐらい暮らせる蓄えがあれば、あとは向こうで職を探して……       「―――衛宮くんにとって協会は敵地だから乗り気はしないだろうけど、時計塔ならちゃんとした道具も揃ってるし、修業にはもってこいよ。  あ、でも固有結界は秘密にしないとダメだから、あくまで基礎力の試験になるのか……うわ、一年で足りるかな、時間―――」  いやいや、仮に向こうでアパートを借りられたとしてもだ。  その時計塔とやらがどんな場所か知らないが、遠坂、ますます忙しくなるんだよな……となると、やっぱり独学で頑張って、一人前になってから会いにいった方がいい。  うん、そうだそうだ。  そもそもロンドンなんて肌に合わない。いざ行ってみて言峰みたいのが溢れてたら卒倒しそうだし――――   「………ちょっと。人の話聞いてる、衛宮くん?」 「え? なんか言ってたのか遠坂?」 「……………………」    むっと顔を曇らせて黙り込む遠坂。  ―――で。  ふう、と大きく深呼吸をしてから、遠坂は真面目な顔で、   「言い忘れてたんだけど、わたしは遠坂の後継者として招かれてるの。つまり、一人前の魔術師としてちゃんとした一人部屋を貰えるってコト」    なんて、よく分からないコトを口にした。   「?」 「だから、一人前の魔術師として認められているの。そうなると弟子の一人や二人はいて当然でしょ?  ほら、向こうじゃ派閥争いもあるっていうし、一人ぐらいは弟子を連れて行ってもいいんだって」    ちらり、と俺の顔を盗み見る遠坂。   「――――えっと、それは」    鈍い俺でも、遠坂が何を言いたいのかぐらい分かる。  つまり、その。   「そうよ。世話係としてなら、身内一人ぐらいは無条件で連れて行けるみたい。それなら試験を受ける事もないし、学費も何もかも免除になるわ。  ……ま、扱いは協会の学徒だけど協会には属さないっていう、損な役回りになっちゃうんだけど」 「――――――――」  真っ白になっていた頭に色が戻る。  いや、無理やりにでも色を戻して総動員させる。  遠坂の言っている事。  一年後のコトと、その選択を秤にかけて、ない知恵しぼって熱をあげる。    そんな俺の狼狽ぶりが楽しいのか、遠坂はくすくすと笑ってやがる。   「な、なんだよ。俺は別に、おまえの言葉に踊らされてるんじゃなくてだな」 「言いたいコトはそれだけ。わたしはロンドンに行くけど」  柔らかな視線。  遠坂はいたずらな顔でこっちを見て、   「ね。士郎はどうするの?」    こっちの心を見透かすように、穏やかに問い掛けた。 「――――――――」  一瞬で真っ赤になる。  その一言、その仕草だけで、つまらない卑下も協会への苦手意識も吹き飛んだ。  ……握られた弱みってのは、つまりこういうコトだ。  惚れた弱みっていうのは、昔っから、本人じゃどうにもならない問題なのだ。   「あら、突然だんまり? わたし、答えを聞いてないんだけどな」    いたずらな微笑みは続く。  俺の答えなんて分かってるクセに、更に追い討ちをかけるなんて本当に容赦がない。 「う……だから、俺は」  ロンドンは正直遠すぎるが、遠坂以外に魔術を教わるのなんて想像もできないし。  それ以上に、遠坂と離れるなんて考えてもいなかったし。  なにより、遠坂と一緒にいたい、し。   「もう。大事なコトなんだからはっきり聞かせなさい。  世話係になっちゃうけど、わたしと一緒に行ってくれる?」 「う、うるさいばかっ……! ばかばかばか! だだ、大事なコトなら、もっとちゃんとした場所で言えってんだ、いきなり言われて口にできるかっ……!!!」    このままじゃホントにどうにかなりそうで、とにかく遠坂から顔を逸らす。  ……背中には変わらぬ気配。  こんな俺の慌てぶりを、遠坂は幸せそうに見つめている。   「ね。士郎、答えは?」    囁くような、穏やかな声。  …………まいった。  たった一言、たった一度素直に頷くのって、こんなに難しかったっけ。 「……………………」  けど、ちゃんと口にしないと遠坂に振り向けない。   「……ばか。そんな判りきったコト、訊くな」    視線だけ遠坂に向けて、精一杯の本心を口にする。    その言葉だけで、微笑みは笑顔になった。   「―――うん。じゃ、これからもよろしくね衛宮くん。  貴方が一人前になるまで、遠慮なく鍛えてあげるから覚悟なさい」   「……そっちこそ。言っとくけど本気にしたぞ。こうなったら一人前になるまで、ちゃんと面倒見てもらうからな」 「もちろん。士郎を真人間にして、思いっきりハッピーにするのがわたしの野望なんだから。ロンドンに連れてくぐらいで音を上げられちゃたまらないわ」  さっきまでの可愛いらしさは何処にいったのか。  いつもの強気な笑顔で言って、遠坂は机から飛び降りた。    ……夕暮れはじき終わる。  春休みが終わって、四月になって、一年はあっという間に過ぎるだろう。  その時までこの風景ともお別れだ。    一年の後。  こうして遠坂と、学生時代最後の時間を過ごす事になる。   「帰りましょ。今夜は衛宮くん家で、賑やかに晩ごはんにするんだから」    未練もなく、教室を後にする。  校庭からは部活動の賑わいが聞こえてくる。  掛け声は遠く、いつかの剣響を思わせた。    いつまでも同じ場所にはいられない。  俺も遠坂も、一年後には違う場所に行く。  それが正しいのか間違いなのか、答えが出るのはずっと先の話だろう。    一度だけ、赤い背中を目蓋に浮かべる。  この教室もあの剣戟も変わらない。    全ては同じ。  蜃気楼のような、振り返れば消える幻だ。    それでも遠くを目指して行けば近づける。  遠坂が手を貸してくれるなら、必ずあの背中に追いつける。      だから、答えを出すのはその時にしよう。            ……遠く響く剣の音。  それを頼りにして、いつか、あの場所に辿り着く。             ―――去来したものは遠い思い出。    彼が忘れ去り、切り捨てた筈の、戻りえない兆しだった。    打ち合わせた剣の火花。  圧し合う裂帛の気合。  何十合にも渡る未熟な攻防。  剣舞と呼ぶべくもない、拙い、否定しあうだけの命のやりとり。    そんなものが何故、磨耗しきった誓いを蘇らせたのか。                 ―――それは、ありえない剣戟だった。    斬りかかる体は満身創痍。  指は折れ、手足は裂かれ、少年は気づいてさえいないが、呼吸はとうに停止している。  踏み込む速度も取るに足りなければ、繰り出す一撃も凡庸だ。  彼の知識を吸収し、戦闘に耐えうる域まであがったというのに、その様は元の姿に戻ってしまっている。            出鱈目に振るわれた、あまりにも凡庸な一撃。  しかし。  その初撃は、今までのどの一撃よりも重かった。          正義の味方などいない。  おまえの理想は偽りだと、誰よりも思い知った心で、その心を叩き伏せた。  歪だった心は耐え切れず崩壊する。  少年が、己が矛盾に食い殺されるのは明白だった。    だが、屈する気配など何処にあるのか。  綻びた肉体、解けようとする精神を抑えつけて剣を握る姿に、一片の偽りもない。    鬩ぎ合う剣戟の激しさは、今までの比ではない。  少年はがむしゃらに剣を振るう。  拮抗する両者の剣戟。  空間は火花に満ち、立ち入るモノは瞬時に切り刻まれる。    それは、反発しあいながらも溶け合う、両者の心の具現だった。          叩き付けられる決死の一撃。  終わりの見えた者が見せる最後の炎にすぎない。  少年は一撃放つ度に息があがり、倒れそうになり、踏みとどまって再び剣を振るう。   「――――――――」    それを見て確信した。  敵に力など残っていない。  目の前の少年は、見たとおりの死に体だ。    だが。  だというのに何故、剣を振るうその手に、際限なく力が宿るのか。    ふと、幻を見た。    無駄と知りながらも剣を振るう姿に飽きたからだろう。    苛立ちが、最も忌むべき衝動を湧き上がらせた。              ……何を美しいと感じ、何を、尊いと信じたのか。    少年は言った。  意味もなく死んでいく人を見たくない。  助けられるのなら、苦しむ人々全てを、助ける事はできないのかと。    論外だ。  それが偽善であり、意味のない幸福である事を、彼は思い知らされている。  自分の事より他人の事が大切なのだと、そんな理屈は、決して抱いていいものではない。            ……だが。  もし、本当にそう生きられたのなら、それはどんなにいいだろうと、憧れた事はなかったのか―――   「……………………!」  敵が何を言っているのかも、彼には聞き取れなかった。  それほど敵の声は弱く、しかし、その剣戟は苛烈だった。  見れば剣を握る両手は、とうに柄と一体化している。  剣を固定する為だろうが、アレでは直接体に衝撃が響く。    血にまみれ、一歩下がるだけで前のめりに倒れ込み、死体となる。  少年にとって、振るう一撃は地獄の苦しみと同意の筈だ。   「……………………!」    聞き取れない声。  瀕死のソレは、一心に目前の障害へと立ち向かう。  少年が何に突き動かされているかなど、彼には語るまでも無い。                  ―――悪い夢だ。         古い鏡を、見せられている。    千切れる腕で、届くまで振るい続ける。  あるのはただ、全力で絞り上げる一声だけ。   「……………………!」    助けられなかった人たちと、助けられなかった自分がいた。  謂われもなく無意味に消えていく思い出を見て、二度と、そんな事は繰り返させないと――――   「…………………!」    胸に去来するのはその一言。    彼が信じるもの。  彼が信じたもの。  かつて何者にも譲らぬと誓った理想。    いまも何者にも譲らぬと誓った、その――――    そうして。  繰り返される剣戟に終わりはないと、彼は悟った。    この敵は止まらない。  決して自分からは止まらない。  渾身の力で打ち込んでくるものの、少年の意識は彼を捉えてなどいない。    少年が斬り伏せようとしているものは、あくまで己を阻む自分自身。    信じてきた物、これからも信じていく物の為に、敵は剣を振るっていた。   「――――――――」    それに気が付いて、彼は忌々しげに歯を噛んだ。  勝てぬと知って、意味がないと知って、なお挑み続けるその姿。  それこそが、彼が憎んだ彼の過ちに他ならない。    ―――しかし、それならば、何故。    この眼は、その姿を直視し続けるのか。    ギン、という音。  一撃は容易く弾かれた。  今まで一度も防ぎきれなかった筈の相手が、渾身の一撃を当然のように弾き返した。    ―――鏡が砕ける。    強くはない。  決して強くなどない。  死を賭して戦う姿は醜く、無様な事この上ない。    だが、その姿を。    この世の誰が、笑い飛ばす事が出来るだろう……?   「――――――――」    息が止まる。  剣を弾き、一際大きく剣を構え直す敵の姿。  もはや最後となる一撃。  傷ついた肉体、薄れいく精神で、これ以上立ち続けることが出来るのか。    当然だろう。  少年はその極限を十度超えてきた。  なら、この一撃を防いだところで、目の前の敵が止まる事は有り得まい。   「……………………!」    崩れ落ちながら剣を揮う。    その目は、やはり。  まっすぐに、自分だけを――――    刹那、懐かしい夢を見た。                アレは誰が想い、誰が、受けついだユメだったか。   「               !!!!」    空白の胸に、少年の声が届いた。  目前に迫る一つの光景。            ―――なんて醜悪な、凝り固まった偽りの善意。       美しい、足掻くような、その理想。    最後の一撃が届く。  胸に突き刺さるであろうソレは、しかし、彼の眼には映らなかった。    少年にあるのはそれだけだ。  その心が偽物でも、信じたモノの美しさは真実だと。      ―――それは偽れず。  それだけは胸を張れる、かつて自分の力だったモノ。    潰れた喉で少年は訴える。  誰もが幸せであってほしいと。  そう。  引き返す道など、初めから存在しない。    何故ならその夢は、決して。    罪はこの手に、数え切れぬほどの過ちを犯してきた。  自分自身を憎み、自分自身を殺さねば償う術など持ち得なかった。  この手は血に汚れ、決して許される事はない。    だが、それでも――――            ―――まっすぐなその視線。     過ちも偽りも、     胸を穿つ全てを振り切って、     立ち止まる事なく走り続けた、その―――    戦いは勝利で終わった。  胸を貫く〈鋼〉《いたみ》は、断罪の赦しにもなりはしない。  己を憎む彼に、赦しが訪れる時など永遠に有り得ない。    ただ、小さな答えを得た。  答えはこの〈召喚〉《とき》だけのもの、次に呼び出された時には忘れ去っている、何の意味もないものだ。    惜しむ事はない。    それは既に築かれたモノ、これから一生をかけて少年が積み上げていくモノなのだから。    胸に去来するものはただ一つ。  後悔はある。  やり直しなど何度望んだか分からない。  この結末を、未来永劫、エミヤは呪い続けるだろう。  だがそれでも――――               それでも―――俺は、間違えてなどいなかった―――               語るべき事などない。     少年は残り、彼は去る。     記憶に留まる物は、交わされた剣戟だけ。                 道は遥かに。     遠い残響を頼りに、少年は荒野を目指す。  一時間遅れで登校する。  休み時間、廊下は生徒たちで賑わっていた。  二年C組もたったいま授業が終わったらしく、教室から知った顔がぞろぞろと出てきている。 「よっ、おつかれ。なんか知らねーけど、タイガー怒ってたぜ。四時限目は覚悟しとけとさ」 「……そうか。今日の授業、英語があったっけ」  廊下で顔を合わすなり、聞きたくもないコトを伝えてくれたクラスメイトに挨拶をする。  まいったなあ、と教室の扉に手をかけて中に入ろうとした矢先、 「ん――――?」  先に、世界史の教師が顔を出した。 「おはようございます先生」 「遅刻か、衛宮。今日の授業は試験範囲を確認したものだ。後で、友人にきちんと聞いておくように」 「は、はい。どうも、遅れてすいません」  うむ、と頷いて葛木は去っていく。  世界史の教師にして生徒会顧問、おまけに倫理も受け持っているという鉄壁の教師、葛木宗一郎。  見た目も言動もあんな感じだが、生徒間では上級生になるほど人望が厚くなるという珍しい先生だ。 「おはよー」  教室中に挨拶をしつつ机に向かう。  覚悟の上とは言え、遅刻はやはりばつが悪いと反省すること数秒。 「やあ。随分と遅い到着だね」 「?」  声をかけられて振り返る。  ―――と。  そこには、妙に愛想のいい慎二がいた。 「……慎二? どうしたんだよ、おまえどっかヘンだぞ。  寝不足か?」  素直な感想を口にする。 「――――――――」  一転して睨んでくる……かと思えば、また笑う。  昨日の慎二もおかしかったが、なんか、今朝の様子はその比じゃないぞ、これ。 「慎二? おまえ、まさか襲われたのか? ばか、だから言っただろ。戦わないんなら家で身を守っているべきだって」 「……。うるさいな、なに偉そうな口きいてるんだよ、おまえ」 「……慎二?」 「なに、それとも遠坂と仲良くやっていい気になってんの? …………勘違いするなよな。遠坂と手を組んだところでおまえが強いってわけじゃない。強いサーヴァントを手に入れて嬉しいのは判るけどさ、思い上がるのはみっともないよ?」  慎二はじろじろと睨め付けてくる。  その様子は、いつもと違ってあまりにも余裕がない。 「まあいい、君が来てくれてよかったよ。ほら、衛宮がこないんじゃさ、面白みにかけるだろう?」  それが言いたかったのか、慎二はクスクスと笑いながら自分の席に戻っていった。  昼休みになって、教室は一段と騒がしくなる。 「―――あれ。一成のやつ、もう出ていきやがった」  またぞろ寝不足とやらで生徒会室に引きあげたのか。  今日も弁当だから、出来れば教室で食べるのは避けたいのだが―――― 「ん?」  なにやら、クラスの男どもが騒がしい。 「おーい。どした、なにかあったのか?」  声をかける。  なにやら固まって秘密会議をしている男子は、挙動不審な目つきのままこっちを見た。 「何かあったではござらん。それ、教室の外を見てみるがよい。ただしこっそり。あくまで隠密」  ……後藤のヤツ、昨日は良からぬ時代劇でも見たんだな、と納得しつつ、言うとおりにした。 「――――な」  と。  教室の外、つまり廊下には、後藤くんたち以上に挙動不審な影ひとつ。 「2Aの遠坂だよな。う、うちのクラスになんか用かな?」 「間違いござらん。先ほどから盗み見ていたが、あちらも同様の草っぷり。さりげなく、しかし大胆に我らが教室を覗いておる。ドアの前を通り過ぎるのも七回目。いや、今ので八回目よ」 「……だよな。こうなると偶然じゃねえ。つうかさあ、なんか目つき悪くねえか? 遠坂さん、もっとこう、普段は涼しげな顔してない?」 「あ、おまえもそう思う? こう、通りがかるたびに目尻があがってんだよなあ。近寄りがたくなってく一方だ。  ありゃイライラしてるね。なんか気にくわないコトでもあったんかな」 「待ち人来たらずというより、待ち人気づかずというところ。こう、誕生日にこっそりプレゼントを仕掛けておいたのに、贈られたヤツは一年経っても気づかないんでもうブチ切れ寸前、といったところであろう」 「……後藤ってさ、時々すごい表現するよな。的確すぎ。  なに、おまえ前世は軍師か何か?」  ……などと、うちの男どもは言いたい放題言っている。 「………………」  恐る恐る、もう一度廊下に視線を送る。  ―――怒ってる。  何に怒っているかは不明だが、なんとなく、後藤くんの考えは正しい気がする。  さて。  どうしよう?    ……半分以上の確率で、遠坂の目的は俺だろう。  ただ、気になるのはあいつの行動だ。  遠坂の性格からいって、俺に用があるなら躊躇う事なく外に連れ出すだろうに、どうしてまた、あんなフツーの女生徒みたいなコトをしてるんだろう? 「……放っておきたいけど、そうはいかないよな……なにより後が怖い」  弁当箱を片手に席を立つ。  後で後藤くんを筆頭にした男どもの詰問を覚悟して廊下に向かった。 「遠坂。なにしてんだよ、こんなところで」 「なっ、なにって散歩に決まってるじゃないっ。お昼なんだから昼食をとるのは当然でしょ」  ……遠坂はあまりにも挙動不審だ。  なにやらモジモジしているというか、俺と視線を合わせようとしない。 「そっか、そりゃ当然だ。じゃあいい場所を探してくれ。  俺は生徒会室で飯を食うから」  じゃあな、とお弁当を掲げて背を向ける。 「ちょっ、ちょっと待ちなさいっ! アンタ、わざとやってるでしょ!」 「?」  はてな、と振り返る。 「あのな遠坂。何があったか知らないが、そんなんじゃわからない。言いたい事があるんならはっきり言えよ」 「――――――――」  遠坂は言いにくそうにこっちを見ているだけだ。  ……むむ。  もしかして、もしかすると…… 「昼飯代、忘れたのか? 弁当はやらないけど、サンドイッチ代ぐらいでいいんなら貸してやるぞ?」   「……っ、んなワケないでしょう、このあんぽんたんっ!!」  があー、と吠える遠坂。    廊下、一斉に静寂。  数秒の後、何事もなかったように喧噪再開。 「――――――――」  ……なるほど、みんな見なかった事にして現実を守ったんだな。  品行方正、眉目秀麗、優等生の鑑、二年のアイドルと言われている遠坂凛が、廊下で大声をあげ、あまつさえ『あんぽんたん』などと口にする筈がない。  よって、彼らの記憶からここ一分間の記憶は削除されたのだ。 「…………………」  ……いいなあ。  俺も四日ぐらい前から記憶を修正したい。 「―――で。昼飯代じゃないんならなんなんだよ、遠坂」 「う……そ、その、お昼ご飯なんでしょ? それだったら付いてくる? 生徒会室よりずっといい場所知ってるんだから」  ちらちらとこっちの様子を見ながら、遠坂は回りくどい事を言う。  ……なんだ。  ようするに、作戦会議をするから顔をかせ、っていう事じゃないか――――  ―――って。  ここが“ずっといい場所”なのか、遠坂。  ここで廊下に出て行ったらどんな目に遭うか分からない。  遠坂本人の悪巧みもさる事ながら、二年A組のアイドルである遠坂凛に話し掛けるところなんて見られたら、クラス中の男子に槍玉にあげられかねないし。 「ん、無視無視。気付かないフリ気付かないフリ」  よいしょ、と机から弁当を出す。  ……教室で弁当を広げるのは危険だが、いま廊下に出て遠坂に捕まる危険性の方がもっと強い。  今日の昼はこのまま、教室から一歩も出ないで篭城しよう。  いかな遠坂とて、昼休みの教室という堅固な城壁を突破する術は持つまいよ。 「あれ? 遠坂さん、A組に戻っていっちゃったぞ?」 「なんだよ、結局理由は分からずじまいか。  ……まー、案外ただの散歩かもな。ほら、遠坂って時々突拍子もない行動するらしいじゃん? 交際しろって迫ってきた三年をフルのに屋上で飛び降り寸前までいったって話、知ってるか?」 「違うって、三年に飛び降りさせる寸前、だろ。フェンス乗り越えてさ、屋上の端で立ったまま一日付き合ってくれたら付き合ってもいいってヤツ。あの三年生、しばらく登校拒否になったんだってな。  ……でもさあ、なんでそんなコトしたんだろうなあ。  イヤならイヤって言うタイプらしいじゃん、遠坂さん」 「あー、それでござるか。遠坂殿曰く、つり橋の上の恋愛理論だとか。とりあえず好きになれそうにないので、緊迫状態で一日過ごせば恋愛感情が芽生えるかもしれない、とのコト。いや、下々の人間には考え至らぬオツムでござる」 「………………」  弁当を開けようとした手が止まる。  ……遠坂のヤツ、そんな武勇伝持ってたのか……よし、これからあいつと屋上に行った時は気をつけよう。 「おお? ラッキー、戻ってきたぜ遠坂さん!」 「……けど、なんかこう違くね? さっきまでは殺気だってたけど、今はこう、寒気がするぐらい涼しげっていうか」 「天使の笑顔でござるな。アレはもう、“アンタがそうでるならこっちも容赦しない、ワタシ開き直ったわ”という覚悟の現れでござろう」 「―――む?」  なにか、尋常じゃない悪寒が走った。  セイバーに鍛えられたおかげか、危険を察する能力が上がっている。 「………………」  ちらり、と廊下を盗み見る。  自分の教室から持ってきたのか、新品の消しゴムを持って微笑む遠坂。  瞬間、    遠坂の投げた消しゴムが、俺の額に直撃した。 「なんだぁーー!? 突如衛宮くんが回ったぞう…!?」 「ありえねぇー! どうしたよ衛宮、椅子にモーターでも仕込んだか!?」 「忍法!? 今のは忍法でござるか衛宮!?」 「あ……いったぁ――――」  白昼の奇行に盛り上がる後藤くんたち。  椅子ごと床に倒れた俺を取り囲み、心配そう……じゃなくてワクワクした目で手を貸してくれる。 「う、さんきゅ……って、後藤、いまの、どう見えた?」 「む? どうって、にゃんと一回転。衛宮が椅子に座ったまま、一人で側転したように見えたが」  是非ご教授願いたい、と申し出る後藤くん。  まあ、授業中先生に指された瞬間、ぐるんと一回転したら大ウケ間違いなしだし、後藤くんが羨ましがるのも頷ける。    が、いまはそういう問題ではない。  もう弾丸としか思えなかった消しゴムを一投したあくまが、廊下で第二弾を放とうとこっちを見据えているからだ。 「すまん後藤、話は後だ。ちょっと用事が出来た」  机は無事だったんで、弁当を持って席を立つ。  ……いたい。  床に打ちつけた腰より、消しゴムが当たったおでこがジンジンしてるぞ、くそ。 「遠坂、おまえな……!」  真っ赤になったおでこを押さえながら、魔弾の射手に食って掛かる。 「ふん、いつまでもぼんやりしてるそっちが悪いのよ。  平和にお弁当食べるのもいいけど、衛宮くんはそういうのが許される立場じゃないでしょ」 「む……いや、だからって人を一回転させるのはやりすぎだ。下手したら死んでるぞ、今の」 「どうだか。あれぐらいで死んじゃうような体じゃないでしょ衛宮くんは。  ……ま、そんなコトどうでもいいわ。ちょっと話があるから付いて来て」 「話があるって……それって作戦会議か?」 「当ったり前でしょ。ほら、急ぐわよ。衛宮くんがのんびりしてたおかげで時間がないんだから。早くしないとお昼休み、終わっちゃうじゃない」  気まずそうに視線を逸らし、遠坂はズカズカと先行する。 「……?」  気のせいだろうか。  遠坂のヤツ、どことなく元気がないように見えるんだが……。  で。  人気のない屋上に連れてこられた。 「ふーん、遠坂も色々人付き合いがあるんだなあ」    誰に用事があって廊下をうろついているかは知らないが、わざわざ声をかけて邪魔しちゃ悪い。  第一、二年A組のアイドルである遠坂凛に話し掛けるところなんて見られたら、クラス中の男子――とくに後藤くん――に槍玉にあげられかねないし。 「それより昼飯だ。放課後に備えて栄養とっとかないと」    よいしょ、と机から弁当を出す。  おかずをたかりに来る遊撃部隊は遠坂ウォッチングで忙しいようだし、今日は安心して教室で弁当をひろげられるってなもんだ。 「あれ? 遠坂さん、A組に戻っていっちゃったぞ?」 「なんだよ、結局理由は分からずじまいか。  ……まー、案外ただの散歩かもな。ほら、遠坂って時々突拍子もない行動するらしいじゃん? 交際しろって迫ってきた三年をフルのに屋上で飛び降り寸前までいったって話、知ってるか?」 「違うって、三年に飛び降りさせる寸前、だろ。フェンス乗り越えてさ、屋上の端で立ったまま一日付き合ってくれたら付き合ってもいいってヤツ。あの三年生、しばらく登校拒否になったんだってな。  ……でもさあ、なんでそんなコトしたんだろうなあ。  イヤならイヤって言うタイプらしいじゃん、遠坂さん」 「あー、それでござるか。遠坂殿曰く、つり橋の上の恋愛理論だとか。とりあえず好きになれそうにないので、緊迫状態で一日過ごせば恋愛感情が芽生えるかもしれない、とのコト。いや、下々の人間には考え至らぬオツムでござる」 「………………」  弁当を開けようとした手が止まる。  ……遠坂のヤツ、そんな武勇伝持ってたのか……よし、これからあいつと屋上に行った時は気をつけよう。 「おお? ラッキー、戻ってきたぜ遠坂さん!」 「……けど、なんかこう違くね? さっきまでは殺気だってたけど、今はこう、寒気がするぐらい涼しげっていうか」 「天使の笑顔でござるな。アレはもう、“アンタがそうでるならこっちも容赦しない、ワタシ開き直ったわ”という覚悟の現れでござろう」 「―――む?」  なにか、尋常じゃない悪寒が走った。  セイバーに鍛えられたおかげか、危険を察する能力が上がっている。 「………………」  ちらり、と廊下を盗み見る。  自分の教室から持ってきたのか、新品の消しゴムを持って微笑む遠坂。  瞬間、    遠坂の投げた消しゴムが、俺の額に直撃した。 「なんだぁーー!? 突如衛宮くんが回ったぞう…!?」 「ありえねぇー! どうしたよ衛宮、椅子にモーターでも仕込んだか!?」 「忍法!? 今のは忍法でござるか衛宮!?」 「あ……いったぁ――――」  白昼の奇行に盛り上がる後藤くんたち。  椅子ごと床に倒れた俺を取り囲み、心配そう……じゃなくてワクワクした目で手を貸してくれる。 「う、さんきゅ……って、後藤、いまの、どう見えた?」 「む? どうって、にゃんと一回転。衛宮が椅子に座ったまま、一人で側転したように見えたが」  是非ご教授願いたい、と申し出る後藤くん。  まあ、授業中先生に指された瞬間、ぐるんと一回転したら大ウケ間違いなしだし、後藤くんが羨ましがるのも頷ける。    が、いまはそういう問題ではない。  もう弾丸としか思えなかった消しゴムを一投したあくまが、廊下で第二弾を放とうとこっちを見据えているからだ。 「すまん後藤、話は後だ。ちょっと用事が出来た」  机は無事だったんで、弁当を持って席を立つ。  ……いたい。  床に打ちつけた腰より、消しゴムが当たったおでこがジンジンしてるぞ、くそ。 「遠坂、おまえな……!」  真っ赤になったおでこを押さえながら、魔弾の射手に食って掛かる。 「ふん、いつまでもぼんやりしてるそっちが悪いのよ。  平和にお弁当食べるのもいいけど、衛宮くんはそういうのが許される立場じゃないでしょ」 「む……いや、だからって人を一回転させるのはやりすぎだ。下手したら死んでるぞ、今の」 「どうだか。あれぐらいで死んじゃうような体じゃないでしょ衛宮くんは。  ……ま、そんなコトどうでもいいわ。ちょっと話があるから付いて来て」 「話があるって……それって作戦会議か?」 「当ったり前でしょ。ほら、急ぐわよ。衛宮くんがのんびりしてたおかげで時間がないんだから。早くしないとお昼休み、終わっちゃうじゃない」  気まずそうに視線を逸らし、遠坂はズカズカと先行する。 「……?」  気のせいだろうか。  遠坂のヤツ、どことなく元気がないように見えるんだが……。  で。  人気のない屋上に連れてこられた。  五時限目も終わりに近い。  遠坂の説明も終わった事だし、魔術師の家系繋がりで、慎二の事を訊いてみるコトにした。 「なあ遠坂。慎二の家―――間桐の家が魔術師の家系だって言うんだけど、知ってたか?」 「ええ、知ってたわ。  けど間桐家はここ数十年で衰退したって父さんが言ってた。今の間桐家には魔術師としての血脈はないって。  それは本当。だから慎二がマスターになったって聞いて驚いたけど」  なんだ、やっぱり知っていたか。  そうだよな、ここ一帯の土地を管理しているんだから、歴史のある魔術師の家系なんて全部知ってるし、慎二がマスターだって事ぐらい――――って、ちょっと待った…………!!!!! 「遠坂! 慎二がマスターだって知ってたのか!?」 「あはは。ごめんごめん、わたしも今朝知ったのよ。慎二がマスターになる訳ないってタカをくくってたのが裏目に出たみたい」  遠坂はなんでもない事のように言う。 「…………?」  なんか、おかしいぞ。  学校にいる三人目のマスターを捜していたクセに、慎二を全然問題視していないような……? 「遠坂? 慎二はその、マスターなんだろ?」 「ええ。けど別にどうって事ないでしょ。慎二自身に魔力はないんだし、そう大それた事はできないわ。  私たちの敵は学校に潜んでいるマスターだもの。慎二はマスターとしての気配もないし、私たちが捜している相手とは別物よ」 「……? じゃあ学校には、都合四人のマスターがいるって事か?」 「そうなるんじゃない? まあ、慎二には大人しくしておけって言ったから、邪魔される事はないでしょうけど」  ……またも気になる発言。  いや、そもそも遠坂は、どうやって慎二がマスターだと知ったんだろう……? 「遠坂。ちょっと、今朝の話を詳しく聞かせてくれ」 「? 詳しくも何も、慎二の方から話しかけてきたのよ。  僕もマスターになったから、二人で手を組まないかって」 「――――――――」  悪い予感がしてきたが、ここで納得する訳にもいかない。 「続き。その続きはどうした」 「続きも何も、当然断ったわ。  ……だっていうのにあいつ、しつこく食い下がってくるんだもの。つい、士郎がいるから間桐くんはいらないって言っちゃった」  あははー、と楽しげな後日談っぽく語る遠坂。 「……………………」  慎二のヤツがどこかおかしかったのは、それが原因だろう。  だが―――― 「……それで遠坂はどうするんだ。慎二を放っておくのか。学校の結界って慎二が張ってるんだろ」 「―――――え?」  遠坂の動きが止まる。  ……やっぱり。こいつ、慎二が結界の主だって気づいてなかったな――――! 「違うんだ遠坂。たしかに慎二は魔術師じゃない。けどあの結界は慎二が張ったものだ。きっと、キャスターみたいにサーヴァントの方が魔術に長けているんじゃないか」  遠坂は見る見る青くなっていく。 「遠坂。おまえ、気づいてなかったのか」 「……ううん。あの結界がサーヴァントによるものだって気が付いてた、けど」  それと慎二が結びつかなかったのか。  ……さっきまでの遠坂を思い出す。  きっと、遠坂の頭の中は昨夜の事件でいっぱいで、慎二の事を考える余裕がなかったんだろう。  遠坂にとっては、まさに一世一代の大ポカだ。 「まずい。下手したら慎二のヤツ―――」  すぐさま立ち上がり、出口を睨む遠坂。  その、瞬間。    まるで計ったかのように、その異常は発現した。 「結界――――!」  赤く染まった空。  学校の敷地を包む赤い空気は、吸い込むだけで意識を麻痺させようとする。  ……体内で魔力を生成できる魔術師ならばそう影響はないが、魔力の少ない人間なら、息をするだけで昏睡し、いずれ死に至るだろう―――― 「遠坂―――!」 「わかってる、急ぐわよ士郎―――!」    校舎は一面の赤だった。  血のように赤い廊下。  血のように赤い空気。  どろりと肌にまとわりつく濃密な空気は、それだけで、これが悪い夢なのではないかと錯覚させる。 「くっ――――」  硬く閉ざしていた口から、嫌悪をこめた息が漏れる。  混乱し、加熱している思考に理性という冷却水をぶっかけて、ともかく現状を把握しようと努力する。  四階、階段に一番近い教室に飛び込む。 「………………!」  一瞬、遠坂は足を止めて、その惨状に踏み入るのを躊躇した。 「――――――――っ」  ……気持ちは分かる。  俺だって、こんな場面には出会いたくない。 「―――息はある。まだ間に合わない訳じゃない」    倒れている生徒に近寄って、脈と呼吸を確認する。  ……教室で起きている人間はいなかった。  椅子に座っていた生徒も教壇にいた先生も、今は例外なく地面に伏している。  生徒たちの大部分が意識を失い、全身を弛緩させて、濁った眼球を覗かせていた。  ……残る数人。  数えるぐらい少数の生徒には、それ以外の異状が現れていた。  ……肌が、凝固している。  冷たい炎にあぶられ、生気をかすめとられた皮膚は、蝋細工のように不気味な光を反射している。  教室の惨状を目の前にして、遠坂は息を殺している。 「――――――――」  考えている余裕はない。  一刻も早くこの事態を収拾するには――――      ―――迷っている猶予はない。    これが慎二のサーヴァントが張った結界なら、一刻も早く元凶を叩いて止めさせるだけだ……! 「遠坂、手分けして校舎を探そう。これ以上犠牲者を出すワケにはいかない……!」  立ち止まっている遠坂の手を引いて走り出す。 「ま、待って衛宮くん、それじゃきっと間に合わない……! 相手がサーヴァントならこっちもサーヴァントを出さないと、慎二を探し出したところで返り討ちになるだけよ」 「っ――――そ、そうか。けど」  セイバーを呼ぶって言ったって、今から呼びつけていたらとてもじゃないけど間に合わない……! 「令呪を使って。わたしもアーチャーを呼ぶわ。令呪を使っての召喚なら、今すぐに呼びつけられる」  ぎり、と唇を噛んで遠坂は言う。  気を取り直したように見えるが、まだ本来の冷静さは戻っていない。 「―――待った。令呪を使うなら俺だけでいい。敵は一人だろ、ならセイバー一人で十分だ」  ……それに。  これが慎二のサーヴァントの仕業なら、相手はあの黒いサーヴァントだ。  あいつとは一昨日戦った。あのサーヴァントが相手なら、セイバーは確実に勝利できる―――― 「衛宮くん、いいの……?」 「ああ。遠坂は昨日令呪を使ったんだろ。なら今度は俺の番だ。セイバーを呼んでもどうにもならないなら、その時はアーチャーを呼べばいい。  ―――それで、令呪の使い方は!?」 「……左手に意識を固めて。目は瞑った方がいい。頭の中で自分の令呪の形をイメージして、するっと紐解くだけでいいわ。もちろん、解く時は命令をしながらよ」  目を瞑る。  時間はかけられない。  最短で〈雑念〉《しこう》をクリアし、  二つ目の画に手をかけ、   「――――頼む。来い、セイバー――――!!!!」    躊躇う事なく、左手の令呪を解放した。 「っ――――」  ぎち、と左手の甲が熱く焼ける。  同時に、すぐ真横に異様な重さを感じ取り―――その重い“歪み”から、銀色の騎士が出現した。 「セイバー……!」 「召喚に応じ参上しました。マスター、状況は……?令呪を使う程の事なのですね?」 「―――見ての通りだ。サーヴァントに結界を張られた。  一秒でも速くこいつを消去したい」 「承知しました。確かに、このフロアにサーヴァントの気配を感じます」 「このフロア……!? 四階にいるっていうの、サーヴァントが!?」 「間違いありません。……凛、それが何か」 「えっ―――ううん、セイバーの感知なら確かだろうけど、それはおかしいのよ。結界の基点は一階から感じられる。サーヴァントの気配を感知するのはサーヴァントであるセイバーのが優れてるでしょうけど、こと魔術の痕跡に関してはわたしだって負けてない」 「……? サーヴァントはこの階にいるのに、結界を張っているのは一階だって事か、遠坂」 「ぅ……断定はできないけど、わたしはそう感じてるわ。  この結界の基点は一階にあるんだって」 「――――――――」  二者択一か。  サーヴァントをこの階に配置したのが慎二だとしたら、間違いなくどちらかが罠だ。  選択を間違えれば、それこそ学校中の人間が犠牲になる―――― 「凛。アーチャーはどうしたのです。彼がいるのなら、もう少し確かな判別ができる」 「それがあいつ、呼んでも応えないのっ! この結界、完全に内と外を遮断してる。令呪を使うか、あいつがこっちの異状を感知して駆けつけてくる以外ないわ」 「――――――――」  睨み合う遠坂とセイバー。  が、今はそんな場合じゃない。  ……考えろ。  遠坂は冷静さを失っている。  俺たちに出来る最善は――――    ―――それが最善だ。  これが慎二のサーヴァントが張った結界なら、こっちもセイバーを呼ぶまでだ―――! 「遠坂、セイバーを呼ぶ……! 令呪の使い方を教えてくれ」 「え―――ちょっ、ちょっと待って、セイバーを呼ぶなら、わたしも――――」 「遠坂は昨日令呪を使ったんだろ。なら次は俺の番だ。  セイバーを呼んでどうにもならないなら、その時はアーチャーを呼べばいい! それで、令呪の使い方は!?」 「――――左手に意識を固めて。目は瞑った方がいい。  頭の中で自分の令呪の形をイメージして、するっと紐解くだけでいいわ。もちろん、解く時は命令をしながらよ」  目を瞑る。  時間はかけられない。  最短で〈雑念〉《しこう》をクリアし、  二つ目の画に手をかけ、   「――――頼む。来い、セイバー――――!!!!」    躊躇う事なく、左手の令呪を解放した。 「っ――――」  ぎち、と左手の甲が熱く焼ける。  同時に、すぐ真横に異様な重さを感じ取り―――その重い“歪み”から、銀色の騎士が出現した。 「セイバー……!」 「召喚に応じ参上しました。  マスター、状況は……? 令呪を使う程の事なのですね?」 「―――見ての通りだ。サーヴァントに結界を張られた。  一秒でも速くこいつを消去したい」 「承知しました。確かに、このフロアにサーヴァントの気配を感じます」 「このフロア……!? 四階にいるっていうの、サーヴァントが!?」 「間違いありません。……凛、それが何か」 「えっ―――ううん、セイバーの感知なら確かだろうけど、それはおかしいのよ。結界の基点は一階から感じられる。サーヴァントの気配を感知するのはサーヴァントであるセイバーのが優れてるでしょうけど、こと魔術の痕跡に関してはわたしだって負けてない」 「……? サーヴァントはこの階にいるのに、結界を張っているのは一階だって事か、遠坂」 「ぅ……断定はできないけど、わたしはそう感じてるわ。  この結界の基点は一階にあるんだって」 「――――――――」  二者択一か。  サーヴァントをこの階に配置したのが慎二だとしたら、間違いなくどちらかが罠だ。  選択を間違えれば、それこそ学校中の人間が犠牲になる―――― 「凛。アーチャーはどうしたのです。彼がいるのなら、もう少し確かな判別ができる」 「それがあいつ、呼んでも応えないのっ! この結界、完全に内と外を遮断してる。令呪を使うか、あいつがこっちの異状を感知して駆けつけてくる以外ないわ」 「――――――――」  睨み合う遠坂とセイバー。  が、今はそんな場合じゃない。  ……考えろ。  遠坂は冷静さを失っている。  俺たちに出来る最善は――――  二人きりの夕食が終わった頃、遠坂から電話があった。  学校の件に関しては、俺たちが思っていたより被害は少なかったそうだ。  結界を張っていたサーヴァント、ライダーがすぐさま倒されたからだろう。  ……ライダーがいた教室の生徒たちは長い入院が必要になるというが、大半の生徒は貧血程度で生活に支障はないという。  学校も休みになる訳でもなく、明日は通常通りの時間割になってくれるそうだ。 「シロウ、凛はなんと言ってきたのですか?」 「ああ、学校はいつも通りだって。だから明日も学校に行って、キャスターのマスターを捜す事になる」 「……そうですか。では、あの建物にいた人々に大事はなかったのですね?」 「一部を除いてはな。あ、藤ねえが帰って来ないのは職員会議か何かで忙しいからだと思う」 「それは良かった。大河の事ですから、明日の朝には何事もなく食卓に座っているでしょう」  うん、それは俺も嬉しい。  ま、人並み外れて体力のある人だから、みんなが無事と聞いた時点で心配はしてなかったが。 「―――ではシロウ。先ほどの話の続きですが」  ずい、と真面目な顔で、テーブルに乗り出してくる。 「……う。やっぱり諦めてなかったのか、セイバー」 「当然です。昨夜のような失態を繰り返さない為にも、私はシロウの部屋で眠ります。それに文句はありませんね?」 「――――――――」  文句なんてあるに決まってる。  セイバーと同じ部屋で眠るなんて、俺に死ねと言っているようなもんだ。 「シロウ。もとはと言えば、あれほど離れた場所からの遠隔催眠にかかる貴方が悪い。  私ではキャスターの魔術からシロウを守る事はできないのですから、せめて同じ部屋にいるのは当然でしょう」 「魔術の感知は近ければ近いほどいい。キャスターがシロウを狙うのなら、私とて離れて眠るなどできません」 「いや、それはまったくもって正論なんだが、セイバー」  一度失敗している以上、キャスターも同じ手は使ってこないと思う。  思うのだが、そんな意見を今のセイバーに言ったら、    「――甘い! 先ほどのデザート、白玉あんみつチョコ饅頭なみに甘い! そのような考えだからこそ、キャスターなどというド外道に〈誑〉《たぶら》かされたあげく、アーチャーのような性根の捻れ曲がった野郎に罵倒されるのです!」    なんて、一刀両断されそうだしなぁ……。 「聞いているのですかシロウ! 私が女性だから、などという言い訳は聞きませんっ。今夜からシロウの部屋で睡眠をとりますから、夜な夜な土蔵などに逃げ出さぬように!」  視線を彷徨わせる俺を睨み付けて、ばーん、とセイバーは言い切った。  ……うう、土蔵に逃げこむ事まで見抜かれてる。  ここはなんとか踏みとどまって、せめてもの妥協案を呑んで貰うしかない。 「―――わかった。セイバーにはすぐ近くで眠ってもらう」 「ようやく承知しましたか。ええ、マスターとしてそれが当然の選択です」 「けど、何も同じ部屋って訳じゃないぞ。俺の部屋、隣りに空き部屋があるの知ってるだろ。襖で締め切った向こう」 「? ええ、知っていますが、それが何か?」 「その、寝込みを守るってんならあそこで十分だろ。いや、そもそも同じ部屋で寝てたら敵だって入ってこない。  むしろすぐ隣りでセイバーが待機しててくれた方が、油断して襲ってきた敵を撃退できるじゃないか」  お、なんかいい感じで筋が通った気がする。 「それで十分だろうセイバー。正直、あの狭い部屋で二人っていうのも無理がある。物理的に眠れない。サーヴァントとして、マスターを寝不足にするのはマイナスだと思うんだが」 「む……今夜はやけに弁が立ちますね、シロウ。  分かりました。多少言い訳じみたものを感じますが、いいでしょう。その案で手を打ちます」 「――――――――ふう」  いや、良かった。  まったく、マスターだけでも大変なんだ。  だっていうのにセイバーと同じ部屋で眠ったりしたら、処理能力がいっぱいになってオーバーヒートしかねないところだった。    ―――そうして、波乱の一日が終わりを告げた。  日課になりつつあるセイバーとの剣の鍛錬を十一時までこなして、土蔵での日課を一時間。  日付が翌日に変わった頃に部屋に戻ると、隣部屋からセイバーの寝息が聞こえてきた。 「――――――――」  それにドキマギしながら、とにかく平常心を保って床につく。  目蓋を閉じ、邪念を振り払いながら、とにかく一分でも早く眠ってしまえ、と言い聞かせる。 「………………って、そう簡単に眠れるか、ばか」    出来るだけセイバーを意識しないように、と今日一日を振り返る。  赤い校舎。  しくじっていたら、多くの犠牲者を出していた血の結界。 「――――――――」  それで、うわついた心などふっとんだ。  赤い教室に倒れていた生徒たち。  倒れていたライダーと、亡骸のような生徒たちを見て、あいつは必死に堪えていた。  ……ああ、思い出した。  あの一瞬、俺はたしかに、あいつの深いところを知ったんだから。            ―――次に会ったら殺すわ。       だって敵同士でしょ、わたしたち。  そうやって一人前の魔術師として振る舞いながら、あいつは最後の一線を越えなかった。  気丈で、したたかで、ほれぼれするぐらい華麗なクセに、あいつはとんでもなくお人好しだ。  だから、その差があいつの重荷なんだろう。  ……ほんと、不器用なヤツ。  魔術師としての自分を貫けば貫くほど、あいつは遠坂凛という自分を端っこに追い込んでいるんだから。 「―――ああ、いや。俺も、人のことは言えないか」    ふう、と息を吐いて布団を被る。  ……まあ、なんというか。  あれだけやる事にそつがないヤツに対して、少しぐらいは支えになってやりたい、なんて。  そんな事を思ってる時点で、俺もどうかしてるんだろう―――― 「―――――――よし」    一階を調べに行こう。  セイバー一人に任せるのは申し訳ないが、彼女なら一人でも応戦できる筈だ。 「―――セイバー、サーヴァントは任せた。一人で戦えるか?」 「無論です。では、シロウは」 「遠坂と一階に急ぐ。俺一人じゃ危なっかしいだろうが、遠坂がいるならなんとかなる。それに魔力感知は遠坂しか出来ない。一緒に行くぞ、遠坂」 「え――――え、ええ、当然よ。言われなくても一人で行くつもりだったわ」  決まりだ。  となると、後は―――― 「ちょっ、なにしてんのよ!? 椅子の脚なんて折って、正気?」 「武器は必要だろ。俺は強化しかできないんだから、元になる得物が必要なんだ」  ブン、と折った椅子の脚を振る。  ―――以前、遠坂に襲われた時の再現か。  強化はすんなりと成功し、ついでだから、ともう一本椅子の脚を頂戴した。 「シロウ。外に微弱な気配がします。どうやら包囲されたようです」 「!? 包囲されたって、何に!?」 「判りかねます。ですが、外に出て確認するだけの話です」 「――――そうだな。先頭、頼めるか」 「無論。貴方の盾となるのが、私の使命ですから」  セイバーは廊下へと飛び出していく。 「行くぞ遠坂――――こっちは一階だ……!」 「――――!」  廊下に出た瞬間、俺たちを包囲していたモノが判明した。  アレは骨、か。  人ではないモノの骨で作られた人形が、廊下の向こうから大挙してやってくる……! 「遠坂、アレは……!?」 「ゴーレム、使い魔の類でしょ! いいからこっち!アイツらはセイバーが引き受けてくれるってば! あんなの、何体いようがセイバーの敵じゃない!」 「っ―――すまん、セイバー!」  階段へ走る。  背後では、セイバーが奇怪な骨人形を蹴散らす音だけが響いていた。  ―――階段を駆け下りる。    四階から一階まで、距離的には遠くない。  だが―――― 「こ、の――――!」    手にした椅子の脚で、立ちはだかる骨人形をうち砕く。 「はっ――――は、は――――!」    これで三体目。  学校中の惨劇を目の当たりにしたからか、こんな化け物と対峙する事がどうでもよくなっていた。  ようするに麻痺しているのだ。  嫌悪、恐怖、悲壮、逃走、なんてまっとうな感情が凍っている。  頭の中にあるのは一階に向かう事だけ。  手にした二つの武器を、ただ見よう見まねで振り続ける――――! 「この、なにそっち行ってんだテメェ――――!」  四体目の骨を薙ぎ払う。  遠坂を真横から襲おうとした骨人形は、今までにないほど砕け、壁に叩きつけられた。 「おい、無事か遠坂――――!」 「――――――――」  良かった、遠坂には傷一つない――――! 「遠坂、結界の基点は!?」 「え―――ええ、すぐそこ! あそこの教室!」  遠坂が指した先は、距離にして十メートル先だ。  階段から俺たちを追ってきた骨人形はあと数体。  が、こいつらに関わっている余裕はない……!  襲いかかってくる剣を、右の武器で弾く。  そのままがら空きの胴体に、左の武器を叩きつけた。  五体目の骨人形を破壊する。  だが数は減らない。  廊下に群がる数は、ざっと見て十体以上……! 「くそ、しつこい……! いい加減品切れになれってんだ、こいつら―――!」  じり、と後退する。  手にした椅子の脚は、もうボロボロだ。  いかに強化したところで、もともとはステンレス材にすぎない。  これじゃああと一回、ヤツラの剣を受けきれるかどうか―――― 「士郎、下がって……!」 「え……?」  驚きつつ、言われた通りに後退する。  瞬間。  俺と入れ替わるように前に出た遠坂は、宝石を骨人形どもへ投げつけ、   「Ein Kö〈r〉《灰》〈p〉《は》〈e〉《灰》〈r〉《に》 ist e〈i〉《塵》〈n〉《は》〈 〉《塵》〈K〉《に》örper―――!」    視界を、一面の白にした。 「――――――――」  今のは何らかの解呪だったのか。  廊下には何の破壊の跡もなく、ただ、バラバラに散らばった骨人形の残骸があった。 「ありがと、助かったわ。トパーズなんて滅多に使わないから、用意するのに時間がかかって。  ……正直、衛宮くんがいなかったら数で押されてた」  ふう、と両肩を下げる。  それも一瞬の事で、遠坂はすぐさま教室を睨み付けた。 「行きましょう。あそこに慎二がいる筈よ」  遠坂は教室へ駆けだしていく。  その後を追って、赤い教室に足を踏み入れた。    ――――そこは、まさしく地獄だった。  教室に充満した空気は、もはや気体とさえ呼べまい。  気化した血液はペンキのように、見る者の眼球を染め上げる。  苦悶の声は四方から聞こえていた。    ―――ここは結界の基点、もっとも“吸収”の激しい場所だ。    床に倒れた生徒たちは、四階の生徒たちとは別物だった。  ……聞こえてくるうめき声は、ただの錯覚。  倒れ伏す生徒たちの顔は青ざめ、〈蝋細工〉《ろうざいく》のように動かない。  遠坂は足を震わせて、ただ、その光景を凝視している。  カチカチという音。  何らかの感情を抑える為か。遠坂は歯を鳴らして、必死にこの光景を見据えていた。 「――――――――」  震える足をあげて遠坂は進んでいく。  机と机の〈間〉《あいだ》。  そこに、生きている人間がいた。  倒れ伏す生徒たちに紛れるように尻餅をつき、間桐慎二は遠坂を見上げている。 「慎二、アンタ……!」  睨み付ける声。  それに反応したのか。  慎二はよく判らない奇声をあげて、遠坂から跳び退いた。 「―――言い訳はきかないわよ。アンタがやった事の代償は、どんな事をしても払わせてやる」  慎二に詰め寄る遠坂。 「ち、違う、違う違う違う違う違う……! 僕じゃない、僕じゃない、僕じゃない、僕じゃない………!!!!!」  ぶるぶると首をふって、慎二は壁際まで後ずさっていく。 「僕じゃない……? よくもそんな事を言えたものね。  いいから、今すぐ結界を解きなさい。解かないっていうんなら、その顔吹っ飛ばしてでも――――」 「あ――――う、うう、ちが、だから違う、僕じゃない、僕じゃないんだ、殺したのは僕じゃない……!!!」 「……?」  おかしい。  慎二は遠坂から逃げているくせに、遠坂を見ていない。  あいつの視線は床―――俺たちの足下に向けられている。 「足下……?」  視線を向ける。  そこにあるのは、やはり倒れ伏した生徒たちの姿だけだ。  それ以外には、なに、も――――   「――――――――遠坂」    声をかけて、その場所を指す。 「え――――?」  間の抜けた声。  慎二への怒りも忘れたのか。  そこに倒れ伏したモノを見た途端、遠坂の殺気は消え去っていた。 「――――――――――――」  呼吸が止まる。  床に倒れ伏したソレは、完全に死んでいた。  紫の長い髪。  黒い装束に身を包んだ女性―――俺を襲ったサーヴァント、ライダー。 「――――死ん、でる」  感情のない遠坂の声。 「だから僕じゃない。僕がやったんじゃない。結界を起こして、誰も動かなくなったのに、ライダー、ライダーは、あいつ、あいつに」  黒いサーヴァント――――ライダーは、一撃で絶命していた。  どのような武器、どのような手段だったのか。  サーヴァントを相手にただの一撃。  首だけを狙い、それを引き千切る事で相手を仕留める。  ……その過程が、あまりにも思いつかない。  よほどの虚を突いた物だったにせよ、首を一撃で断つその手腕。  ……いや、あれは『断つ』と言えるのか。  まるで万力か何かを首にセットして、押し潰す事によって肉と骨をえぐり取ったかのようだ。    ――――ライダーが消滅する。    同時に赤い世界も消えた。  やはり結界はこのサーヴァントが張っていた物だったらしい。  だが―――― 「慎二。これをやったのは誰?」 「ひ――――」  遠坂に詰め寄られ、慎二はじりじりと廊下へと後退していく。 「言ったでしょう。学校にはもう一人マスターがいるって。その忠告を無視して騒ぎを起こしたアンタの落ち度よ。  ……ふん。どうやらサーヴァントを見殺しにして生き残ったみたいだけど、相手の顔を見たんなら次はアンタの番よ。どんなマスターだか知らないけど、必ずアンタを始末しにくるわ」 「っ…………! そ、そんなコトあるもんかっ! 僕にはもうサーヴァントはいないんだ! マスターじゃないんだから、狙われるのはおまえたちだけだろう……!」 「そうね。……まあ、確かにその通りか。アンタにまだ令呪が残っていようと、放っておいても害はないもの。  うろちょろして見苦しいかもしれないけど、羽虫じゃ人間は殺せないし。  ―――そうね。アンタ次第で、ここで息の根を止めるのは待ってあげる」 「は、羽虫――――僕が、羽虫……?」 「害虫に喩えなかっただけでも有り難く思いなさい。  間桐慎二は魔術師でもなければマスターにも相応しくないから、人畜無害だって言ってやったのよ」 「―――で。見たんなら答えなさいよ。今のアンタなんて、その程度の価値しかないんだから」 「っ――――う、う――――!」  遠坂の気迫に押されて後退する慎二。  遠坂が本気なのか脅しなのか、俺にも判別はつかない。  ……ただ。  あいつは本気で怒っている。  この教室の惨状を見て、我を失っている。 「さあ……! アンタのサーヴァントを仕留めたのはどんなサーヴァントだったのよ、慎二!」 「っ――――し、知るもんか間抜け! お、怯えるのはおまえたちの方だぞ遠坂、次あいつに狙われるのはおまえたちなんだからなっ……!!!!」 「このぉ――――!」  廊下へ逃げ去っていく慎二と、それを追いかけようと前に出る遠坂。  ――――が。  遠坂は何かに気づいたように、ピタリと足を止めていた。  ……いや、違う。  何かに気づいた訳じゃない。  遠坂はただ、教室に倒れ込んだ生徒たちを見て、悔しげに歯を噛んでいるだけだった。 「――――――――」  その横顔は、いつもの遠坂凛の物だ。  けれど膝は震えていて、その目は、今にも泣きだしそうなほど揺れている。 「――――――――」  ……悔やんでいるのか、悲しんでいるのかは判らない。  ただ、それで分かってしまった。  こいつは強気で、なんでも出来て、一人前の魔術師だけど。  その中身は本当に、年相応の女の子なんだって事が。 「―――大丈夫だ遠坂。みんな、まだ息はある。まだ終わったワケじゃない」 「え……? 息があるって、みんなに……?」 「ああ。辛いだろうけど、よく見て見ろ。みんなちゃんと生きてる。結界もなくなったし、後はすぐに助けを呼ぶだけだ。  ―――で。この場合は救急車か、それとも違うところか? 魔術による傷なら、教会に連絡をいれるべきなのか」  声を落ち着けて質問する。  それでようやく理性が戻ってくれたのか、遠坂はパン、と両手で自分の頬を叩いていた。 「連絡するのは教会でいいわ。綺礼に状況を説明すれば、あとの手配は全部やってくれる」 「よし。じゃあすぐに連絡しよう」  頷いて、遠坂は廊下へと飛び出していった。  向かう先は事務室だろう。  あそこなら電話があるし、すぐに連絡がとれる筈だ。  連絡を済ませて、とりあえず校舎から出た。  学校の中で無事なのが俺たちだけ、というのは後々厄介なので、とりあえず今日はいなかった事にしろ、という言峰からの指示らしい。 「じゃあセイバー、相手はキャスターだったのか?」 「はい。〈骨人形〉《ゴーレム》を操っていたのはキャスターのサーヴァントでした。校舎に潜んだキャスターを倒しはしましたが、アレは影にすぎないのでしょう」 「――――――――」  ……そうか。  キャスター本人は柳洞寺から骨人形どもを操っていた訳か。  となると、慎二のサーヴァントを襲ったのはキャスターで間違いはない。 「……学校にいる四人目のマスターは、キャスターのマスターって事だな。あいつの事だ、マスターである慎二を使ってライダーを罠にはめたって事もある」 「……そうでしょうね。シロウの話では、ライダーは一撃で首を斬られている。何らかの理由で動きを封じられ、無抵抗なまま倒されたとしか思えない」 「―――厄介だな。でもまあ、なんにせよキャスターのマスターが学校にいるって事は判ったんだ。まったくの無駄だった訳でもない」  な、と遠坂に振り返る。  遠坂は無言で視線を向けてくるだけだ。  教室で別れて以来、遠坂は何か言いたげに俺を見ている。 「遠坂、言いたい事があるなら言えって。おまえに黙ってられると、なんか背中がむずむずする」    その、いつ背後から叩かれるか不安になって。 「――――――――」  遠坂はそれでもじっとこっちの顔を見た後、あくまで真剣な顔で、 「衛宮くん、冷静なのね。意外だった」  なんてコトを口にした。 「……? 冷静じゃないぞ。俺だって目の前が真っ赤になった。怒りで我を忘れたのはお互い様だろ」 「それでもみんなの傷を把握してたじゃない。わたしには、出来なかったけど」 「? ああ、そんな事か。別に大した事じゃない。死体は見慣れてるから判断がついただけだ」 「え―――死体は、見慣れてる……?」  話ながら場所を移す。  救急車の一団がやってきたら、ここも騒がしくなるだろう。  とりあえず、雑木林から裏口に出て、そこから学校を出る事にしよう。  ――――と。   「なんだ。セイバーがいるとは驚いたな」    裏口に向かう途中、バッタリ遅刻野郎と出くわした。 「アーチャー……! アンタ今頃やってきてなんのつもりよ!」 「決まってるだろう、主の異状を察して駆けつけたのだ。もっとも遅すぎたようだがな。セイバーがいて凛が無事なら、事はもう済んでしまったのだろう?」 「っ! ええ、もう済んじまったわよ! アンタがのんびりしてる間に何が起きたのか、一から聞かせてやるからそこに直れっていうの!」 「どうやら最悪の間で到着してしまったか」  などと、二人は俺たちを忘れて言い争う。  ……まあ、遠坂が一方的に怒鳴って、それをアーチャーがやんわりと受け流しているだけなのだが。 「やはり仲がいいのですね、あの二人は。凛が怒っているのはアーチャーを信頼していた裏返しですし、それを黙って聞いているアーチャーも、凛に申し訳がないからでしょう」 「―――言いたい事は判る。けど、どうしてそれをいちいち俺に言うんだセイバー」 「いえ、シロウが難しい顔をしていたものですから。代わりに解説してみただけです」  何が楽しいのか、セイバーは意味ありげに笑ってたりする。 「…………………………」  なにか、ますます気にくわない。 「わかったわかった、次からは体裁など気にしない。それで今回の件は分けという事にしておこう。  ―――で。結局、脱落したのはどのサーヴァントだ?」  アーチャーの目つきが変わる。  いつもの皮肉げな余裕は影を潜め、そこにあるのは冷徹な戦士の趣だった。 「……消えたのはライダーのサーヴァントだ。状況は判らないが、キャスターにやられたんだろう」 「キャスターに? ではキャスターはどうなった。よもや無事という訳ではなかろう」 「それも判らない。ただライダーは一撃で倒されていたから、キャスターは無傷だと思う」  三人を代表して言う。  ……と。 「……ふん。腑抜けめ、所詮口だけの女だったか。  勝ち抜ける器ではないと思ったが、よもやただの一撃で倒されるとは。まったく、敵と相打つぐらいの気迫は見せろというのだ」  いつもの調子に戻って、アーチャーはもういないライダーを罵倒した。 「―――アーチャー。ライダーはマスターを守って死んだ。腑抜けなどと、貴方に言う資格はない」 「は、何を言うかと思えば。腑抜けは腑抜けだろう。英雄を名乗るのなら、最低限一人は殺さなければ面目が立つまい。それが出来ぬのなら、せめて命懸けで相討ちを狙えというのだ」 「―――勝手な事を。それが出来ぬ状態だったからこそ無抵抗で破れたのではないか。その散り様を〈罵〉《ののし》るとは、貴様こそ英雄を名乗る者か」 「く。どのような理由であれ、無様に破れた事に変わりはあるまい。  ……まあ、確かに英雄であるから、というのは失言だったな。英雄であろうがなかろうが、弱ければ死ぬだけだ。  この戦いに相応しくない“英雄”とやらは、早々に消えればいい」 「―――よく言った。ならば私と戦うか、アーチャー」 「おまえと? これは驚いたな。何が癇に障ったかは知らんが、協力関係にある者に戦いを挑むとは。  だが残念。私はおまえたちと戦うな、と令呪を下されている。  いま挑まれては、ライダーと同じく無抵抗で倒されるだけだが―――そんな相手と戦うのが君の騎士道なのか、セイバー」 「ぬ――――――――」  無言で睨み合う二人。 「アーチャー、そこまでよ」  それを止めたのは、遠坂の静かな一喝だった。 「む……」 「セイバーと喧嘩してる場合じゃないでしょう。  ライダーは消えて、マスターも一人脱落した。けど学校にはあと一人、正体不明のマスターが潜んでいる事は間違いない。  私と衛宮くんの協力条件は“学校に潜むマスターを倒すまで”よ。それともなに? あなた、今度はセイバーと戦うな、なんて令呪を使わせたいの?」 「――――そうだな。セイバー殿があまりにも王道ゆえ、からかいに興が乗ってしまった。  すまんなセイバー。私と戦うのは、協力関係が終わってからにしてくれ」 「……いいえ。私も大人げがなかったようです。凛に免じて、今の発言は聞き流します」  アーチャーを睨んだまま一歩引いて、俺の傍らに控えるセイバー。  遠坂もアーチャーを後ろに下げて、とにかく、と場をしきり直す。 「……まあ、話は今の通りよ。  わたしたちの協力関係はまだ続いてる。今日はもう無理だろうけど、明日になれば学校でキャスターのマスターを捜す事だって出来るわ。  ―――つまりは現状維持って訳だけど、衛宮くんはそれでいい?」 「ああ、そのつもりだ。それで、今日はこれからどうするんだ? やっぱり柳洞寺に行ってみるのか?」 「……そんな訳ないでしょう。アーチャーの話じゃ柳洞寺に行くのは自殺行為だって話だし。キャスターを倒すんなら、マスターを捜すのが先決よ。  幸か不幸か、キャスターのマスターは毎日学校に来てる。こっちからつついて警戒されるより、今はそれを続けさせた方がいいわ」 「……む?」  どうしてそういう結論になるのか、と考える。  遠坂は学校にマスターがいる、と前から気づいていた。  それは慎二ではなく、確かに魔力を帯びた人間がいたからだろう。  今回の騒ぎでキャスターが現れた以上、学校に潜んでいたマスターはキャスターのマスター、という事になる。  で、キャスターのマスターは、なぜか毎日学校に足を運んでいる。  キャスターが守りを布いている柳洞寺に篭るのではなく、無防備なままで学校に来ているという事―――― 「……つまり、誰がマスターなのか確かめた後、柳洞寺に戻る前に襲おうってハラか?」 「そういう事。どうもね、キャスターのマスターはわたしと衛宮くんがマスターだって知らないと思うのよ。  だって、知ってたら学校になんか来ないでしょ?」 「あ―――うん、それはそうだ。……じゃあキャスターのマスターは、慎二がマスターだって事も知らなかったのかな」 「……説明はつかないけど、その可能性は高いわ。あれだけ魔術に長けたサーヴァントを連れておいて、そんな間の抜けた話はないと思うんだけど……」  ……だよな。  マスターとしての知識がない俺だって、セイバーのおかげでここまでやってこれているんだ。  キャスターみたいなヤツがサーヴァントなら、それこそ外に出てくるなんて危険な真似はしないんじゃないだろうか。 「それは違う。前提を間違えているんだ、凛」 「アーチャー……?」 「キャスターのマスターに自由意思はあるまい。  ……いや、自由意思があるつもりでいて、やはりキャスターに操られているのだろう。あの女は人の下につく者ではない。マスターなど最初の一手で排除し、都合のいいように扱うだけだ」 「―――キャスターのマスターは傀儡だっていうの?  キャスターに騙されているか、自分がマスターだって忘れさせられてるとか」 「む――――なるほど、本人が意識していない、というのは面白いな。  本来、サーヴァントはマスターには手出しができない。  マスターを殺害すれば、自分が存在できなくなる。  逆に、マスターには令呪がある。サーヴァントが逆らえば、最悪マスターはサーヴァントを殺す事ができる。  ……となると、マスターは排除するより騙す方が安全だ」  なるほど、と考え込む遠坂。  が、どうもそれには納得がいかない。 「そうかな。キャスターはあれだけの悪事を働いてるだろ。それをマスターに隠している、なんて出来るのか。  サーヴァントが強ければ強いほど、マスターだって警戒心を持つんじゃないか?」 「その点は問題ない。絵に描いたようなお人好しがマスターであるなら、都合のいい言い訳などいくらでも出来る。キャスターのマスターも、そういう善人なのかもしれんぞ?」 「―――おい。なんだって俺を見て言うんだよ、おまえ」 「なに、ここに前例があるからな。キャスターのマスターが間の抜けた人間、という可能性とてゼロではない」 「なるほど。たしかに貴方の言い分には一理ありますね、アーチャー」  ……って。  なんでそこで同意するんだよう、セイバー。 「―――オーケー、わかったわ。  キャスターのマスターがどんなヤツであれ、とにかく明日も学校に来る可能性は高いでしょ。  わたしたちは引き続き学校の調査。で、キャスターのマスターを発見次第襲撃、でいいわね」 「……まあ、それが妥当な線だけど。どうやって捜せばいいんだ?」 「それは今日の宿題。各自、家に帰って考えること。  どのみち衛宮くんとセイバーは疲れてるでしょ。ここで無理して倒れられても困るし、今日はここで解散しましょう」 「え―――いや、そこまで疲れてる訳じゃない。  まだこんな時間だし、今からでも――――っ、ちょっ、遠坂っ!?」 「―――いいから言うとおりにしなさい。どのみち今日は学校に入れないし、手がかりもゼロでしょ。ここにいても仕方がないし……なによりアーチャーの様子が変だって気づいてないの……!?  昨日の今日で衛宮くんと顔合わせなんてしたら、纏まるものも纏まらないじゃないっ」 「っ――――わ、わかった。帰る、大人しく帰るから、その」  この至近距離で、ひそひそと内緒話なんてしないでくれ……! 「……じゃ、また明日ね。もうないだろうけど、夜は気を付けなさいよ。またキャスターなんかに連れ出されたりしたら、それこそ承知しないから」 「う――――わかった、わかったから、帰るっ」 「…………ふん。それと、今日はお疲れさま。ちょっとだけだけど、貴方をマスターだって認めてあげたから」  ―――ばっ、と勢いよく離れる遠坂。 「行くわよアーチャー! 帰ったら本気でさっきの不始末を追及するからねっ!」 「ああ、やはりそうきたか。どうもな、凛にしては口汚さが足りないと思っていた」 「――――アンタね。ほんっと、一度とことん白黒つけないとダメなわけ?」  あれこれと文句を言い合いながら、遠坂とアーチャーは去っていく。 「俺たちも帰ろうか。確かに少し疲れたし、今日は早めに夕食にしよう」 「いいですね。その意見には賛成です、シロウ」  人目につかないよう、雑木林を後にする。  ……そうだな。  気を取り直して、とりあえず商店街で夕飯の材料を買っていって、豪華な夕食にして、心身ともに休憩を入れよう。  キャスターとそのマスターの事は、その後に話し合った方がいい。   「あれ?」    気が付くと、とんでもない場所にいた。  一面の荒野に果てはなく、地平の向こうはどうあっても見渡せない。  絶え間なく吹く風は黄砂を運んで目に痛い。 「――――――――」  そのただ中にいて、ぼんやりと立ちつくした。  別に慌てる必要もない。  この風景は知っている。  なにしろ以前、夢で見た覚えがある。  ならこれも夢なのだろうと納得して、目が覚めるのを待つことにした。 「――――?」  不意に、腕に違和感が走った。  かちん、という鉄の音。  袖をめくると、そこには、    剣そのものになった、自分の片腕があった。 「うわあっっっっっ!!!!!」  布団から跳ね起きる。  ここが自分の部屋だと認識するより速く、まず右腕を確認した。 「あ――――え?」  ……大丈夫だ。  右腕はちゃんと右腕をしている。  硬い感触でもなければ、剣になっている訳でもない。 「――――夢、だよな」  胸を撫で下ろす。  どうしてあんな夢を見たかは定かじゃないが、セイバーと契約をした事に関係があるのかもしれない。 「……機会があったら遠坂に訊いてみるか。と、それより朝飯の支度をしないと」  時刻は六時前。  今日から桜がいないとは言え、うちにはセイバーと藤ねえがいる。  三人分の朝食の支度にかかるには、これでも遅いぐらいだろう。  物音を立てないよう居間に向かう。 「…………ん」  ぴたり、と立ち止まって、障子越しに中の様子を窺う。  ……半端に目を覚ましているっぽい藤ねえの寝息と、規則正しいセイバーの寝息が聞こえる。 「――――――――う」  油断したのか、わずか、中の様子を想像してしまった。  赤くなってるっぽい頬を手で隠して、庭から冷たい空気を吸い込む。 「……修行不足だ。朝メシにしよう、朝メシ」  ぶんぶんと顔をふって和室から離れる。  ……にしても。  やはり、一つ屋根の下で女の子が寝ている、というのは精神衛生上よろしくないと思う……。 「それじゃ先に行くけど。一人だからって遅刻しちゃだめよ」 「はいはい。藤ねえこそ朝のお勤め、頑張ってくれ」 「うん。ありがとね。士郎、朝ごはんおいしかったよ」  ぺこり、とお辞儀をして学校に向かう藤ねえ。 「――――さて」  こっちはまだあと三十分ほどある。  朝食の後片づけも済ませたし、昨日の取り決めを実行しよう。  袈裟斬りにされた傷も、階段を転がり落ちた全身打撲も完治していた。  くわえて時間もある事だし、という事で、朝一番でセイバーと竹刀を合わせる。 「は――――つ――――!」  響き渡る竹刀の音。  しなり、弾け合う二つの竹刀は、今までにないほどの快音をあげていた。  見よう見まね、というのも侮れない。  竹刀を握る前にお手本をイメージしただけで、竹刀はいつもより軽く扱い易かった。 「――――――――」  セイバーは相変わらず呼吸を乱さずにこちらの踏み込みを捌いている。  が、今朝はどこか調子が悪いのか。  昨日までなら弾かれた瞬間にこっちの意識が刈り取られてるっていうのに、セイバーの反撃はなんとかやり過ごせる程度の物だった。  ……いや、やり過ごせるというのは目の前が真っ白になる、という最悪の状態を回避できるだけで、セイバーの反撃は立派に有効なわけなのだが。 「――――ふう」  竹刀を置いて、肺にたまった熱を吐き出す。  時計はいつのまにか八時を指している。  セイバーと打ち合いを始めて、気が付けば一時間経っていた。  セイバーの調子が悪い、という事もあったが、思いのほか体がセイバーの竹刀に反応してくれた分、興が乗って時間を忘れてしまったのだ。 「いや、いい汗かいた。……けどセイバー、今朝はどうしたんだ? なんか、昨日に比べて厳しさを感じなかったけど」 「そのような事はありません。私は昨日と同じように打ち合いました。それを軽く感じたのはシロウの技量があがっているからです」 「え? 技量があがってるって、俺の?」  こくん、と頷くセイバー。  ……その、お世辞だったりする様子はないし、セイバーはもともとそういう事は言わないし…… 「それは、本当に?」 「驚きました。シロウの技量は、昨日とは別人です」 「……そうかな。いや、そんな事はないだろ。単にセイバーの調子が悪かっただけだ。昨日の今日で腕前があがったりしたら、師範代は商売あがったりじゃないか」 「それは同感ですが……そうですね、具体的に言うと型に無駄がなくなりました。シロウはもともと体は出来上がっていますから、適した剣筋を身につければそれだけで一段階上の剣士になれるのです」 「型に無駄がなくなった……?」  ……そう言われると、今朝は体がよく動いてくれた。  俺自身が反応できないセイバーの竹刀を、こっちの竹刀が勝手に叩き落としてくれた感じだったし。 「……うーん。単にあいつの真似をしただけなんだけど」 「やはりそうでしたか。私に師事すると言っておいて、アーチャーの剣筋を手本にしたわけですね、シロウは」 「え―――うわ、やっぱり判るのか、そういうの!?」 「当然です。もともとシロウには基本となる型がありませんでしたから。それに筋が一つ通れば、誰が見ても判ります」 「う……いや、セイバーをないがしろにしたわけじゃないんだ。ただ昨日はずっとあいつといたから頭にこびりついたって言うか――――」 「いいえ、私に断らずとも結構です。シロウが強くなる分には、私も文句はありませんから」  ……うそつけ。  なんだその、いかにも不満そうな顔は。 「だから済まなかったって。……それにな、セイバーを手本にするって言っても、俺にはセイバーがどうやって反撃してくるのか見えないんだぞ? 体格も違うし、手本にするのは無理があるだろ」 「中々に正論です。では、私はあくまで貴方の練習相手という事ですね」  ……う。  なんか、底なし沼にはまった気がする。 「―――いい。この件について追及するのは止めよう。  とにかく、少しは俺だって戦えるようになったってのは確かなんだから」 「何を言うのです。確かにシロウの技量はあがりましたが、それはあくまで最低限戦える、というレベルです。  私やアーチャー、バーサーカーと向き合える物ではないのですから、間違っても単独で戦闘など挑まないでください」  ぴしゃりと言い放つセイバー。  それが調子に乗った弟子をいさめる師匠のようで、つい破顔してしまった。  いや、こんな可愛らしい師匠っていうのは、妙に微笑ましいというかなんというか。 「寒い」  屋上は容赦なく寒かった。  夏ならば見晴らしの良さと風通しの良さから生徒で賑わう屋上も、冬場は閑古鳥が鳴くお正月の商店街だ。 「寒い」  もう一度言う。  一応、隣にいる人物への抗議をかねた素直な感想だ。 「な、なによ。男の子でしょ、これぐらい我慢しなさい」  反対意見はすっぱり却下された。 「衛宮くん、こっち。ここなら風もこないし、人目にもつかないわ」  とことん俺と目を合わせる気がないのか、遠坂はそそくさと移動する。 「――――――――」  とにかく昼飯を食べる。  話があるから呼びつけただろうに、遠坂はいっこうに話しかけてこない。  そのくせ、  ちらり、と盗み見てみると、何か言いたげにこっちを見ていたりする。 「――――――――」  とにかく弁当をつつく。  そうしないと、その、まっとうな思考が保てないからだ。  寒いのも会話がないのも、とりわけどうってコトはない。  ただ、  これが、すごく困る。  風よけができる場所は限られているんで、必然、遠坂は俺のすぐ隣りで購買のパンを食べていた。  ちょっと体をズラせば肩が触れ合うほど近い。  つまりそれは、傍目から見れば、一緒に昼食をとっているように見えるのではないだろうか? 「っ――――――――」  赤くなりそうな頬を必死に抑える。  ……くそ。  さっき廊下で誘われた時、なんでそのコトに気が付かなかったのか。  気持ちが落ち着かないのは当たり前だ。  すぐ隣りにいる相手は、今では戦友になったものの、その前までは憧れていた女の子なんだから。  ……ああいや、そんなコトを遠坂に言ったら笑い飛ばされるから口が裂けても言えないが、それにしても、もうちょっと気を遣ってくれないものか。 「――――――――」  かつん、と箸が弁当の底を叩く。  ……飯、食い終わった。  仕方なく弁当を片づける。  遠坂もとっくに食べ終わっていたらしく、所在なげにこっちの様子を窺っていた。  ……まいったな。  あと数分で昼休みも終わってしまう。 「――――――――」  こうなったら、俺の方から放課後どうするのかを問いただしてみるしかないか――――  声がはもる。  ついでに、今日一度も合わなかった目線がばっちり合った。  またも二人そろって言いだし、気恥ずかしさで顔を逸らしてしまった。 「――――――――」 「――――――――」  そうして沈黙。  昼休みの終わりが刻々と近づいてくる。  あ、このままお開きかな、と残念に思いつつ助かった、と安堵する。  ―――と。   「………………その、昨日の夜は、ごめん」    ぽつりと、申し訳なさそうな声で、遠坂は呟いた。 「え?」 「だから昨日のコト。アーチャーには令呪を使っといたから。……そんなんでいまさら済まされないけど、ごめん」 「――――――――」  ぴたり、と浮ついていた意識が止まる。  ……昨夜の出来事。  俺を殺そうとしたアーチャーと、令呪を使ったという遠坂。 「遠坂。それは、つまり」 「……ええ。協力関係にある限り、絶対に衛宮くんを襲うなって令呪で命令したわ。だから、今後は昨日みたいな事は起きないから」 「――――――――」  ……それは助かる。  助かるが、そんな事に三つしかない令呪を使ったのか、遠坂。 「そうか。けど、それは遠坂が謝る事じゃないだろう。  アレは、あいつが勝手にやった事だ。遠坂だってあいつが何をしていたのか知らないんだろ」 「……うん。けど、だからって無関係じゃない。昨日の事は、あいつに自由行動をさせた〈マスタ〉《わたし》ーの責任よ」  俯き加減でそんな事を言う。  その仕草は遠坂らしくない。アーチャーに襲われた事より、俺はそっちの方が気にくわない。 「わかった。遠坂がそう言うんなら、そういう事にする。  けどよくアーチャーが話したな。俺を襲った事なんて、あいつが遠坂に報告するとは思えない」 「……そうね。けど、自分のサーヴァントが傷を負って帰ってきて、しかも魔力が空っぽなら何かあったって思うでしょ。  あいつ、隠し事はするけど嘘はつかないから。何をしてきたのか訊ねたら、あっさり白状しやがったわよ」 「お、調子が戻ってきたな。よかった、そうでなくっちゃ遠坂じゃない」 「むっ……ちょっと、それどういう意味よ」 「いいからいいから。それでアーチャーは?」 「家に置いてきた。なんか昨夜から様子がおかしいし、昨日の今日で衛宮くんに会わせるのもアレでしょ」  確かに、こっちも顔を合わせるのはゴメンだ。  会ったらまた憎まれ口をたたき合うに決まってるんだから。 「……そっか。けど遠坂、あいつが俺を襲った理由はなんだったんだ?」 「……それが、敵は少ない方がいい、だって。  衛宮くんはどうでもいいけど、セイバーは後々厄介になるから、今のうちに潰しておくべきだとかなんとか。  昨日みたいに簡単に他のマスターに操られると迷惑だから、ここで切り捨てた方がいいって判断したんだって」 「――――――――」  くそ、反論できない。  たしかに、あいつからしてみればキャスターの手に落ちかけた俺は足手まといだ。  キャスターに操られた時点で、あいつは俺を厄介者と判断したんだろう。 「納得いった。それじゃ、この話はこれで終わりにしよう。俺だって悪いところはあったし、そもそもあいつがいなかったら今頃どうなってたか判らない。  ほら、あいこって事で帳消しじゃないか。遠坂がそう気に病む事はないぞ」 「………………ん。そう言ってくれると、助かるけど」  気まずそうに顔を逸らす。  責任感が強い分、簡単には納得できないんだろう。 「お。ちょうどよくチャイムが鳴ったな」  昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響く。  飯の味なんてちっとも判らなかった昼食だったが、これはこれで楽しかった。 「中に戻ろう。五時限目、遅れるぞ」  立ち上がって出口に向かう。 「?」  が、遠坂は座ったままだ。 「遠坂? チャイム、鳴ったんだが」 「――――――――」  遠坂は答えず、むっ、と何か言いたげな目でこっちを見たあと、 「少し付き合いなさいよ。一つぐらいサボっても平気でしょ?」  なんて、優等生にあるまじきコトを口にした。  五時限目開始の鐘が鳴る。  だっていうのに、こんなところで、  あったかい缶コーヒーを飲んでいる我々は何者なのか。  ……ああ、ちなみに缶コーヒーはダッシュで買ってきたものだ。 「授業開始まで五分あるでしょ? 一階の購買からここまで、五分もあれば充分じゃないかしら」  なんて、遠坂の悪魔めいた提案が原因である。 「それで、衛宮くんはどうなの?」 「え……? ああ、魔術を習い始めた頃か。たしかそんなもんだよ。二年近く〈切嗣〉《オヤジ》に無理をいって、ようやく教えてもらえたんだ」 「じゃあ足かけ八年か……衛宮くんのお父さんも随分と半端なコトするのね。どうせ教えるんなら、生まれた時から手を加えれば良かったのに。  八年前って言えば、もう二次成長期あとでしょ? そんなに大きくなったら刻印を刻む事もできないし、体もいじれないじゃない」  遠坂は真顔で物騒なコトを言う。  いや、それが魔術師として一人前である遠坂らしさ、という事は判っているが。 「まあな。前にも言ったけど、〈切嗣〉《オヤジ》は俺に魔術を教えるつもりはなかったんだ。だからそういう、遠坂みたいにちゃんとした手順は踏まなかったんだよ。  ……というか。生まれた時から手を加えるって、なにさ」 「……えっと、言葉通りの意味よ。歴史が古くなればなるほど、その家系の魔術刻印は大きくなる。  魔術刻印は形になった魔術回路だから、ほんの少し体に刻むだけで『人間の体』が拒否反応をおこして、もの凄く痛むのよ。  で、それを少しでも和らげる為に、子供の頃から少しずつ移植していくってわけ。ついでに中身も無理が利くように、にっがーい薬草やら怪しげな骨を砕いた粉とか飲み続けて、体に耐性を作っておくの」 「……まあ、魔術使いである衛宮くんには関係のない話だから、あんまり気にする必要はないわ。今から無理して真似されても困るし」 「言われなくてもそんな気はないよ。  けど遠坂は大丈夫なのか。なんか聞くだけで痛々しいんだが、その」  ……うまく言えない。  俺は普通の魔術の師、というものを知らない。  ただ遠坂の家に行った時、なんともいえない重圧を感じた。  古い歴史を伝える家系。  生まれた時から後継を義務づけられ、本人の意思とは無関係に、普通の世界から離されていく子供。  それがどのくらい長くてどのくらい重いものなのか、無責任にも想像して、唇を噛んだ。 「ふーん。そう、そういう心配なんてしてるんだ、衛宮くんは」 「……うっ。な、なんだよその意味ありげな顔は。別に俺、心配なんてしてないからなっ」 「当然よ。心配なんてされる憶えはないもの。私は好きでやってきたんだから、そこに後悔なんてないしね。そのあたり、衛宮くんも同じなんじゃない?」 「……? なんでそこに俺が出て来るんだ?」  というか、同じって、俺と遠坂が? 「……まったく。ほんとに自分の事は判らないのね、アンタって。  いい、確かに私の修行は大変だったわ。けど逃げ出したい、なんて思った事はなかった。それは衛宮くんも同じでしょって言ったの」 「あ―――うん。それはそうだけど、俺は遠坂ほどきつい事は要求されなかったし」 「馬鹿言わないでよ。九年間まっとうに育っておいて、それから魔術を習うなんて正気じゃないわ。  ……衛宮くんの日課がどんな物かは知らないけど、それ、よっぽど危険な鍛錬な筈よ。失敗したら命がないっていうぐらい、ギリギリのライン」 「あ……いや、それは俺が未熟なだけであって、本来ならそういう危険な物じゃないんだ。遠坂と比べる事なんてできない」 「そうね。私だって貴方と比べる事はできないもの。  ……魔術の鍛錬なんてね、結局はそういうものよ。唯一共通なのは命を秤にかけてるって事。  秤には個人差があるけど、要はその秤をどれほど傾けられるかでしょ」 「その点で言えば、貴方は私なんかよりずっと厳しい。  私、死ぬような鍛錬なんてしたことないもの。そもそも失敗する事がないし」 「―――うわ。言い切ったな、いま」  さらりとこっちが傷つく問題発言。  ようするにアレだ、遠坂さんは赤点をとる俺たちの気持ちが判らないと仰ったワケなのだ。 「ほら、そこ拗ねない。今の褒めたんだから」 「ふん。テストでいつも百点とってるヤツに、今回はよくできました、なんて褒められても嬉しかないやい」 「今回は、なんて言ってないわよ。  要するにね、たしかに教えは厳しかったけど、辛くはなかったって事。だから逃げ出さなかったし、今もずっと続けている。それ、衛宮くんも同じでしょ?」 「む――――――――」  厳しかったけれど辛くはなかった、と遠坂は言う。  ……それは、確かに似ていると思う。  衛宮士郎は辛いとも厳しいとも感じなかった。  いや、正直そんな余裕はなかったんだ。  ただ俺は、切嗣に追い付きたかっただけだ。    いつか切嗣のような人間になる。  切嗣がなれなかったという正義の味方になる為に、ただ鍛錬を積み重ねた。  振り返って見れば、日々の思い出の大半は土蔵で鍛錬をした事だけだ。  それを後悔した事はない。  きっと、そうする事が自分にとって一番大切なコトだと信じていたからだ。 「……そうか。言われてみれば、そうだな。俺も、それなりにやってきたって事か」 「そういう事。衛宮くんは独学でここまできたんだから、もっと自信を持ちなさい」  胸を張って、遠坂はそう言った。  ……少し照れる。  そう、我が事のように喜ばれると、こっちは倍も気恥ずかしいというか。 「さて、話がまとまったところで、少しは真面目な話をしよっか。協力者としてお互いの特技は知っておかないとね」 「特技……? ああ、使える魔術の事か。そんなの今更だろ。遠坂は俺の魔術を知ってるじゃないか」 「ええ、衛宮くんの魔術は“強化”だっけ。  珍しい……とまでは言わないけど、メインに据えてる魔術師はそう多くないじゃない。それが不思議だったのよ。貴方、どうして強化にこだわるわけ?」 「いや、単にそれしか使えないんだよ。色々試したけど強化ぐらいしか出来なかった」  あとは設計図作りとか、そういう基本的な事だけだ。  そんなの今更話し合う事じゃないだろうに。 「そう。わたしのところは“転換”かな。  力の蓄積、流動、変化ってところ。そのあたりを基本にして、有名どころの魔術は押さえてある。結界作りも教室ぐらいの広さなら、形だけは整えられるわ」  力の転換―――それって基本にして万能って事だよな。  ようするに、魔力を色んな器に移し替えられて、それを変化させられるっていうんだから。 「そっか。けど遠坂、教えてくれるのは嬉しいけど、自分の魔術をバラしていいのかよ」 「前に衛宮くん、私に教えてくれたでしょ。なのにわたしだけ隠しているのはフェアじゃないから」  そう言って、遠坂は左手を突き出してくる。 「この前見せたけど、これがわたしの魔術刻印。  遠坂の家に伝わるのは転換の技法でね。自分でも他人でも、ともかく力を移し替えたりするのが得意なわけ。  普通、魔力っていうのは体外に出すと消えるでしょ?  魔力だけで神秘は起こせない。外に出して魔力が消えてしまう前に、魔力によって魔術っていう式を発動させる。だから魔術にしていない“純粋な魔力”は移し替えるのが難しいんだけど――――」  そこで話をきって、遠坂はポケットから小さな石を取り出した。  ……宝石、だろうか。  透明な多面体は、万華鏡をイメージさせる。 「例外として、私は他の物に自分の魔力を蓄積できる。  いいえ、自分の魔力だけじゃなくて、他の術者の魔力だって保存できるし、難しいけど、移し替えられるのは魔力だけじゃないわ」 「で、その保存場所に一番相性がいいのが宝石なの。  宝石が想念を貯めやすい『場』、流れを留める牢獄って事は知ってるでしょ。  くわえて、ずっと地中で眠っていた鉱石には強い自然霊が宿っている。そういった宝石は魔力を籠めるだけで、簡易的な『魔術刻印』になるのよ。  ま、宝石である以上、一度でも籠められた魔力を解放すれば壊れちゃうんだけど」  ふう、と肩をせばめて宝石を仕舞う遠坂。 「……なんだ、勿体ない話だな。一度使ったら壊れるって、なくなるって事だろ? 宝石なんて高い物、その度に補充するのか?」 「……そう、そうなのよ。おかげでうちは年中金欠でさ。  遠坂の魔術師は、後継ぎになったらまずお金を稼ぐところから――――」 「そうか。うん、問題ってのは人それぞれなんだな、遠坂」 「――――く」  余計なコトを口走った、とばかりに顔を逸らす。  ……うむ。  会う度に思うのだが、遠坂って根はドジな方なのではなかろうか。    巨体が飛ぶ。  バーサーカーと呼ばれたモノが、坂の上からここまで、何十メートルという距離を一息で落下してくる――――! 「――――シロウ、下がって……!」    月の下。  流星じみた何条もの“弾丸”が、落下してくる〈巨体〉《バーサーカー》をつるべ打ちにする……! 「」    正確無比、とはこの事か。  高速で落下する巨体を射抜いていく銀光は、紛れもなく“矢”による攻撃だった。  否、矢と呼ぶなどおこがましい。  機関銃めいた掃射、一撃一撃が秘めた威力は岩盤すら穿ちかねない。    ―――それを八連。  家の一つや二つは容易く蜂の巣にするだろうそれは、しかし。 「うそ、効いていない――――!?」    黒い巨人には、何ら効果を持たなかった。    激突する剣と剣。   “矢”をその身に受けながらも落下したバーサーカーの大剣と、  その落下地点まで走り寄ったセイバーの剣が火花を散らす……! 「ふっ…………!」 「」  ぶつかり合う剣と剣。  バーサーカーの剣に圧されながらも、セイバーはその剣を緩めない。  ―――闇に走る銀光。    あの小さな体にどれだけの魔力が籠められているのか。  明らかに力負けしている筈のセイバーは、けれど一歩も譲らなかった。  旋風にしか見えない巨人の大剣を受け、弾き、真っ正面から切り崩していく。 「――――――――」    息を呑む音は、俺だけではないだろう。  あの巨人のマスターである少女も、俺の傍らで呆然とセイバーを見つめている遠坂も、その姿に見惚れていた。 「……っ! アーチャー、援護……!」    声に応じて、またも銀の光が放たれる。  銀光は容赦なく巨人のこめかみに直撃する。  大気を穿ちながら飛ぶアーチャーの矢は、戦車の砲撃に匹敵する。  あの巨人が何者であろうと、それをこめかみに受けて無傷であろう筈がない。 「――――取った…………!」    間髪入れず不可視の剣を薙ぎ払うセイバー。  しかし。  それは、あまりにも凶悪な一撃によって、体ごと弾き返された。 「ぐっ……!?」  飛ばされ、アスファルトを滑るセイバー。  それを追撃する黒い旋風と、    追撃を阻止せんと〈奔〉《はし》る幾つもの銀光。    だが効かない。  正確に、一分の狂いもなく額に放たれた三本の矢は、悉く巨人の体に敗れ去った。 「――――!!!!」    巨人は止まらない。  振るわれる大剣を、セイバーは咄嗟に剣で受け止める……! 「セイバー……!」  そんな叫び、何の意味もない。  バーサーカーの一撃を受け止めたセイバーは、それこそボールのように弾き飛ばされ――――だん、と坂の中頃に落下した。 「――――!」  目が眩んでいるのか。  セイバーは地面に膝をついたまま動かない。   「――――トドメね。潰しなさい、バーサーカー」    少女の声が響く。  黒い巨人は、悪夢のようなスピードでセイバーへと突進する。 「アーチャー、続けて……!」    叫びながら遠坂は走り出した。  ―――セイバーに加勢するつもりなのか。  遠坂は石らしき物を取り出しながら坂道を駆け上っていく。   「Gew〈i〉《重》〈c〉《圧》〈h〉《、》t, um 〈z〉《束》〈u〉《縛》〈 〉《、》Ve〈r〉《両》〈d〉《極》〈o〉《硝》ppelung――――!」    黒曜石を中空にばらまく遠坂と、  天空から飛来する無数の銀光。  それを受けてなお、バーサーカーの突進は止まらない。 「――――なんて」    怪物、だ。  ……ここにきて、俺にもその異常性が読みとれた。  あの巨人は“屈強”なんていう〈次元〉《レベル》の頑丈さじゃない。  アレは何か、桁違いの魔力で編まれた『法則』に守られた不死身性なのだと。 「いいよ、うるさいのは無視しなさい。  どうせアーチャーとリンの攻撃じゃ、アナタの宝具を越えられないんだから」    響く少女の声。  薙ぎ払われる巨人の大剣。  それを。    凛々しい視線のまま剣で受け止め、セイバーは二度、大きく弾き飛ばされた。    ―――坂の上、何十メートルと吹き飛んでいく。    セイバーは一直線に、それこそ剛速球のように、坂道から外れた荒れ地へと叩き込まれた。   「――――――――」    それで、死んだと思った。  一撃ならまだいい。  だが、あの巨人の大剣を二度受けて、無事でいられる筈がない。    黒い旋風が移動する。  既に勝敗は決したというのに、まだ飽き足らないのか。  バーサーカーと呼ばれた巨人は、咆哮をあげて坂上の荒れ地へと突進する。 「――――――――」    死ぬ。  もしセイバーが生きていたとしても、これで確実に死ぬ。    ……そして。  ここにいる限り、俺も殺される事に間違いはない。   “出来るのなら、なんとか逃げて”    そう言った遠坂の姿はない。  あいつはバーサーカーを追っていった。  あれだけやって無傷だった相手に、まだ挑む気があるというのか。 「――――――――」  俺は――――    ……ここから動けない。 “できるなら逃げなさい”なんて、そんな言葉に頷けるほど物分りは良くはない。  かといってバーサーカーの後を追う事もできない。  あの怪物と向かい合う事への恐怖もあるが、  何より―――俺が駆けつけたところで、一体何ができるというのか。 「く――――そ」    夜の中、一人立ち尽くす。  ……悔しいが、俺には戦う力が欠けている。  俺ではセイバーを助ける事も、バーサーカーと戦う事も出来ない。  出来る事といったら、今のうちに安全な場所に逃げ出す事だけだ。 「!?」    坂の上―――セイバーが弾き飛ばされた荒れ地から、聞きなれない音が聞こえてくる。  ……あそこは確か、広い外人墓地の筈だ。  セイバーとバーサーカー。  二人の戦いはまだ続いているらしい。 「っ…………」  これが最後の決断だ。  俺は――――    遠坂の言う通りだ。  セイバーは身を挺してバーサーカーを引き離してくれた。    なら、俺は一刻も早く危険地帯から脱出し、セイバーの帰りを待つべきだろう―――― 「は……あ、はあ……はあ、は……、ぁ」    新都から橋を越えて、全速力で屋敷に戻ってきた。  走っている最中、決して後ろには振り向かなかった。  在りもしない追っ手の影に怯えていたのか、それとも、セイバーを置いて逃げ出した事への後ろめたさか。  ……ともかく、必死に前だけを見てここまで走り抜いてきた。 「――――――――」    ……居間はあの時のままだ。  ランサーに襲われ、遠坂を招いたままで止まった空気。  修復された窓ガラスに近寄る。  遠坂の直し忘れなのか、床には細かいガラス片が二欠片ほど発見できた。 「……ガラスに隙間はないか……足りない分はどうやって取り繕ったんだろう、あいつ」    一人呟く。  ……どうしてか、電気を点ける気にはなれない。  俺は暗がりの中、自分の弱さを隠すように闇に紛れている。 「………………」    考えるべき事。  口にするべき事から目を背けている。  ……ほんの数時間前までこの部屋にいた誰か。  ほんの数分前まで俺の傍らにいた誰か。  その二人を置き去りにして本当に良かったのかと、自分に問い詰めなくてはいけないのに、どうしても暗がりから外に出られない。    柱時計が午前三時を指す。  ……あれから三十分は経過している。  勝敗がどうなったにしろ、戦いは終わった頃だ。 「――――――――」    戻るべきか。  そう、自分を奮い立たせる明かりを点けようと顔を上げた時、    左手の甲に、鈍い痺れが走って消えた。 「……令呪が、軽く……?」  令呪から色が消えている。  形こそ残っているものの、セイバーと契約した証とも言うべき赤い輝きが消えてしまった。  それが何を意味するのか直感的に理解し、   「そんな、セイバー……!」    感情に任せて、暗がりから走り出した。  外に出る。  今からでは間に合わない。  間に合う筈がないと分かっているのに、もう一度あの場所へ走り出し、    真正面から、判別のつかないモノに心臓を貫かれた。 「        、      」    ……よく聞き取れない。  目の前にいるモノ、心臓を貫いたモノが、見えているのに見えていない。 「     ―――?    、     」    バカナヤツ、と目の前の何かが嘲笑う。  サーヴァントを失って、おまえが生きていられる道理はないと笑っている。 「あ――――、………………」    ……そうだった。  衛宮士郎は、セイバーを失った時点で殺される。  身を守る術がない俺は、セイバーなくして生き残る術はなかったのだ。    それに気付かないまま、俺は一人になってしまった。  その結果がこれだ。  家の中にいても何処に逃げても同じ事。 「ご――――ふ――――」    ……意識が遠退く。  相手が誰なのか、胸を貫いたのが槍か弓かなどどうでもいい。  ここで死ぬのも、明日死ぬのも変わらない。    なぜなら。    令呪の輝きが消えた時点で、俺の命は終わっていたようなものなんだから―――― 「――――――――」  俺が行ってどうなる物ではないと判っている。  それでも―――この手には、彼女の感触が残っていた。  これからよろしく、と。  差し出した手を、あいつはしっかりと握り返してくれた。    なら―――― 「ああもう、そんなの決まってるじゃないか……っ!!」    坂を登れば、巨人の後を追えば殺される。  その事実に震える背中を押さえつけて、全力で坂道を駆け上がった。 「セイバー――――!」    荒れ地に駆け込む。  ……と。  その光景は、予想を遙かに裏切っていた。  墓石が飛ぶ。  咆哮をあげて巨人が大剣を一閃するたび、冗談のように重い墓石が両断されていく。    ―――その中。    乱舞する墓石の上、勇然と駆け抜ける騎士がいた。    吹き荒れる斧剣の一撃。  ドンドンと音を立てて吹き飛ぶ墓石。  その中で、先ほどと同じ――――いや、それ以上の力で、セイバーはバーサーカーと対峙していた。 「――――――――」 「」  両者の立場は、ここにきて逆転している。  バーサーカーに比べてあまりに小柄な彼女の利点。  障害物に阻まれるバーサーカーと、  障害物などないかのように振る舞うセイバー。    バーサーカーにとって、この程度の障害など些末事だろう。  だが決してゼロではない。  戦場としては些細な違いではあるが、その僅かな差こそが、〈拮抗〉《きっこう》する両者の天秤を傾けている――― 「こっち……! 前に出るととばっちり食らうわよ!」 「えっ、ちょっ……!?」 「なに考えてんのよアンタ……! 逃げろって言ったでしょ!? それともなに、もしかして聞こえなかったワケ!?」  があー、ともの凄い剣幕で怒っている。 「あ―――いや、聞こえてた。けど、そういうワケにもいかないだろ」 「はあ!? なんでそういうワケにもいかない、なんて結論が出るのよ! 衛宮くんは戦う手段がないんだから、いるだけ邪魔って判らない!? 色々やって死ぬんならしょうがないけど、何もせずにやられちゃったら無駄死にってもんじゃないっ!」 「――――?」  ……なんでか知らないが、遠坂は本気で怒っている。  が、不思議な事に、こんなに怒鳴られているのに腹は立たなかった。 「―――なあ。それ、遠坂が怒るコトか? 別に俺が無駄死にしようと遠坂には関係ないだろ」 「関係あるわよ! 今日いっぱいは見逃してあげるって言ったんだから、ちゃんと家に帰ってもらわないと困るの、わたしがっ!」 「………………」  ……ますます不可解だ。  遠坂って、ホントに猫被ってたんだな、学校で。 「―――ったく。とにかくまだ無事なんだから、今のうちに逃げなさい。  ……あのイリヤスフィールってガキ、本気でわたしたちを皆殺しにするつもりだろうから」 「それは判ってる。けど逃げられる訳ないだろう。セイバーがああして戦ってるんだ、俺が離れる訳にはいかない」 「……それは一人前の台詞よ。何の援護も出来ない貴方がいても無駄死にするだけでしょう。  ―――これが最後よ。いいから、早く逃げなさい」 「そんな事あるもんか。体があるかぎり出来る事はある筈だ。それにな、遠坂。自分に出来ない事を人にやらせる気か、おまえ」 「――――――――」  遠坂は真剣な顔でこちらを見据えたあと。 「……そうね。自分に出来ない事を貴方に強制するなんて、恥知らずはこっちだった」  ふい、と顔を逸らす。   「―――まあ、確かに逃げる必要はないかもね。あの調子じゃセイバーは負けないだろうし」    木の陰に隠れながら、遠坂は墓地の様子を覗き見る。    両者の戦いに変化はない。  バーサーカーの一撃は悉く空を切り、台風のように周囲を破壊するだけだ。    その合間。    振るわれる旋風と舞い上がる土塊、  切断されていく墓石の雨の中、  セイバーは鎧さえ汚さず踏み込み、バーサーカーへ一刀を見舞う。 「………………………………」    これ以上はないという神業。  人の身では到底及ばない戦いを見せつけられ、先ほどまでの恐怖は消え去っていた。  いや、正直見惚れてさえいる。    聖杯戦争なんて言われても実感は湧かなかったし、不安もあった。  だが、そんなものは彼女を見て吹き飛んだ。          舞い狂う剣舞。  触れれば一瞬にして肉塊にされる旋風の中、躊躇うことなく敵に挑む騎士の姿。      ……それで全てを受け入れたのかもしれない。  この先、どんな出来事が待ち受けようと。  セイバーと名乗る彼女となら、たとえ相手が鬼神でも戦い抜けると――― 「……やっぱりね。怪しいとは思ったけど、バーサーカーの剣を受けたのはワザとだったわけか」  ぽつりと。  感情のない声で遠坂は呟く。 「……それは、バーサーカーをここに誘い込む為か?」 「わかってるじゃない。〈遮蔽物〉《しゃへいぶつ》のない場所でアレと戦うのは自殺行為よ。だからこそ、セイバーは戦場にこの場所を選んだ。それも自然に、衛宮くんからバーサーカーを遠ざけながら、あくまで追い詰められたフリをしてね」 「――――――――」  ……だとしたら。  セイバーは坂道を歩いている時点で、この場所が戦闘に適した場所だと考えていたワケか。 「もちろん、こんな戦いになったら援護は期待できない。  けど相手はアーチャーの矢さえ無効化する怪物だもの。  援護なんて、始めっから無意味なのよ」  遠坂はぶつぶつと呟きながら、セイバーとバーサーカーの戦いを観察する。 「……アーチャーの、矢……」  ただ、こっちはその言葉が気になった。  ここにアーチャーの姿はない。  あいつがその名の通り弓兵なら、確かに白兵戦はしないのだろうが―――― 「入った――――!」  指を鳴らす遠坂。  彼女の歓声通り、セイバーの剣がバーサーカーに届いたのか、それとも足場を失ったのか。  今まで決して揺るがなかったバーサーカーの体が、ぐらりとバランスを崩す。 「―――――――」    苦し紛れに薙ぎ払われる旋風。  それを大きく後ろに跳んで躱し、セイバーは剣を両手で構え直す。  ――――それで決着だ。    苦し紛れの一撃を躱されたバーサーカーはさらにバランスを崩し、  セイバーは渾身の力を込めて踏み込もうと膝を曲げる。  その時。   「――――え、アーチャー……? 離れろってどういう事……?」    首を傾げる遠坂の声と、遙か遠くから向けられた殺気に気が付いた。 「――――――――」    背後。  何百メートルと離れた場所、屋根の上で弓を構える赤い騎士の姿を見た。 「――――――――」    吐き気か悪寒。  ヤツが構えているものは、弓だ。  今までと何も変わらない弓。  直撃したところでバーサーカーには傷一つ負わせられない物。    なら、そんな物に脅威を感じる必要など―――― 「――――――――」    ―――悪寒がする。  ヤツが弓に添えているものは“矢”ではなく、もっと別の物であり。    その殺気の標的は、バーサーカーだけではない。 「セイ――――」    足が動く。    俺は――――    ―――セイバーの足手まといにはなれない。  追いかけても何も出来ないし、セイバー一人ならバーサーカーから逃げる事も不可能ではないだろう。  ……セイバーは身を挺して俺からバーサーカーを引き離してくれた。  そうやって庇われたのなら、いつまでも危険地帯に留まっている訳にはいかない―――― 「は……あ、はあ……はあ、は……、ぁ」    新都から橋を越えて、全速力で屋敷に戻ってきた。  走っている最中、決して後ろには振り向かなかった。  在りもしない追っ手の影に怯えていたのか、それとも、セイバーを置いて逃げ出した事への後ろめたさか。  ……ともかく、必死に前だけを見てここまで走り抜いてきた。 「――――――――」    ……居間はあの時のままだ。  ランサーに襲われ、遠坂を招いたままで止まった空気。  修復された窓ガラスに近寄る。  遠坂の直し忘れなのか、床には細かいガラス片が二欠片ほど発見できた。 「……ガラスに隙間はないか……足りない分はどうやって取り繕ったんだろう、あいつ」    一人呟く。  ……どうしてか、電気を点ける気にはなれない。  俺は暗がりの中、自分の弱さを隠すように闇に紛れている。 「………………」    考えるべき事。  口にするべき事から目を背けている。  ……ほんの数時間前までこの部屋にいた誰か。  ほんの数分前まで俺の傍らにいた誰か。  その二人を置き去りにして本当に良かったのかと、自分に問い詰めなくてはいけないのに、どうしても暗がりから外に出られない。    柱時計が午前三時を指す。  ……あれから三十分は経過している。  勝敗がどうなったにしろ、戦いは終わった頃だ。 「――――――――」    戻るべきか。  そう、自分を奮い立たせる明かりを点けようと顔を上げた時、    左手の甲に、鈍い痺れが走って消えた。 「……令呪が、軽く……?」  令呪から色が消えている。  形こそ残っているものの、セイバーと契約した証とも言うべき赤い輝きが消えてしまった。  それが何を意味するのか直感的に理解し、   「そんな、セイバー……!」    感情に任せて、暗がりから走り出した。  外に出る。  今からでは間に合わない。  間に合う筈がないと分かっているのに、もう一度あの場所へ走り出し、    真正面から、判別のつかないモノに心臓を貫かれた。 「        、      」    ……よく聞き取れない。  目の前にいるモノ、心臓を貫いたモノが、見えているのに見えていない。 「     ―――?    、     」    バカナヤツ、と目の前の何かが嘲笑う。  サーヴァントを失って、おまえが生きていられる道理はないと笑っている。 「あ――――、………………」    ……そうだった。  衛宮士郎は、セイバーを失った時点で殺される。  身を守る術がない俺は、セイバーなくして生き残る術はなかったのだ。    それに気付かないまま、俺は一人になってしまった。  その結果がこれだ。  家の中にいても何処に逃げても同じ事。 「ご――――ふ――――」    ……意識が遠退く。  相手が誰なのか、胸を貫いたのが槍か弓かなどどうでもいい。  ここで死ぬのも、明日死ぬのも変わらない。    なぜなら。    令呪の輝きが消えた時点で、俺の命は終わっていたようなものなんだから――――  ……戦いは続いている。  セイバーは俺を守る為に戦っている。    なら―――何が出来なくとも、行かないと。    左手に刻まれた二つの令呪。  マスターとして戦うと誓い、セイバーと握手を交わして、俺はここに立っている。 「ああもう――――なにやってんだ俺は……!」    迷いと恐れを断ち切って走り出す。  ―――二人の後を追えば殺される。  震える背中を見栄とか意地とかで押さえつけて、全力で坂道を駆け上がった。 「下がって衛宮くん。それ以上前に出るとセイバーの邪魔になるわ」  肩を掴まれて足を止める。 「聞こえなかった? このままならセイバーが勝つから、大人しく観戦してなさいって言ったの。……ま、そんなのわたしが言わなくても読み取れると思うけど」  木の陰に隠れていたのか、遠坂は落ち着いた声で俺を呼び止める。 「え……セイバーが、勝つ……?」  あの怪物に?  さっきまで戦いにさえならなかったあの巨人相手に、セイバーが勝つっていうのか……!? 「ふん、信じられないって顔ね。  ……いいから良く見たら? こんなコト言いたくないけど、貴方のサーヴァントは心技共に最高よ。このまま邪魔が入らなければ、セイバーはバーサーカーを撃退するわ」  ふん、と鼻を鳴らして木の陰に潜む遠坂。    ――――交差する剣戟。    バーサーカーの一撃は悉く空を切り、台風のように周囲を破壊するだけだ。  その合間。  振るわれる旋風と舞い上がる土塊、切断されていく墓石の雨の中、セイバーは鎧さえ汚さずバーサーカーに肉薄する。 「………………………………」    これ以上はないという神業。  人の身では到底及ばない戦いを見せつけられ、先ほどまでの恐怖は消え去っていた。  いや、正直見惚れてさえいる。    聖杯戦争なんて言われても実感は湧かなかったし、不安もあった。  だが、そんなものは彼女を見て吹き飛んだ。          舞い狂う剣舞。  触れれば一瞬にして肉塊にされる旋風の中、躊躇うことなく敵に挑む騎士の姿。      ……それで全てを受け入れたのかもしれない。  この先、どんな出来事が待ち受けようと。  セイバーと名乗る彼女となら、たとえ相手が鬼神でも戦い抜けると――― 「……やっぱりね。怪しいとは思ったけど、バーサーカーの剣を受けたのはワザとだったわけか」  ぽつりと。  感情のない声で遠坂は呟く。 「……それは、バーサーカーをここに誘い込む為か?」 「わかってるじゃない。〈遮蔽物〉《しゃへいぶつ》のない場所でアレと戦うのは自殺行為よ。だからこそ、セイバーは戦場にこの場所を選んだ。それも自然に、衛宮くんからバーサーカーを遠ざけながら、あくまで追い詰められたフリをしてね」 「――――――――」  ……だとしたら。  セイバーは坂道を歩いている時点で、この場所が戦闘に適した場所だと考えていたワケか。 「もちろん、こんな戦いになったら援護は期待できない。  けど相手はアーチャーの矢さえ無効化する怪物だもの。  援護なんて、始めっから無意味なのよ」  遠坂はぶつぶつと呟きながら、セイバーとバーサーカーの戦いを観察する。 「……アーチャーの、矢……」  ただ、こっちはその言葉が気になった。  ここにアーチャーの姿はない。  あいつがその名の通り弓兵なら、確かに白兵戦はしないのだろうが―――― 「入った――――!」  指を鳴らす遠坂。  彼女の歓声通り、セイバーの剣がバーサーカーに届いたのか、それとも足場を失ったのか。  今まで決して揺るがなかったバーサーカーの体が、ぐらりとバランスを崩す。 「―――――――」    苦し紛れに薙ぎ払われる旋風。  それを大きく後ろに跳んで躱し、セイバーは剣を両手で構え直す。  ――――それで決着だ。    苦し紛れの一撃を躱されたバーサーカーはさらにバランスを崩し、  セイバーは渾身の力を込めて踏み込もうと膝を曲げる。  その時。   「――――え、アーチャー……? 離れろってどういう事……?」    首を傾げる遠坂の声と、遙か遠くから向けられた殺気に気が付いた。 「――――――――」    背後。  何百メートルと離れた場所、屋根の上で弓を構える赤い騎士の姿を見た。 「――――――――」    吐き気か悪寒。  ヤツが構えているものは、弓だ。  今までと何も変わらない弓。  直撃したところでバーサーカーには傷一つ負わせられない物。    なら、そんな物に脅威を感じる必要など―――― 「――――――――」    ―――悪寒がする。  ヤツが弓に添えているものは“矢”ではなく、もっと別の物であり。    その殺気の標的は、バーサーカー一人ではない。 「セイ――――」    足が動く。    俺は―――― 「だめだ、戻れセイバー――――!」    気が付けば、必死に大声を出していた。 「っ、マスター――――?」  制止の声が聞こえたのか、セイバーの踏み込みが遅くなる。  だが足りない、それだけじゃ間に合わない……! 「危険です、もっと後ろに下がって……!」 「バカ、危ないのはそっちだ、とにかくこっちに……!」  身を乗り出してセイバーに手を伸ばす。 「私が……? っ――――!?」  それで察してくれたのか、セイバーはバーサーカーから反転し、全速で戦場からの離脱を試みる。    その離脱から僅かに遅れ。  ヤツから、その“矢”が放たれた。    火花のように跳び退くセイバーと、セイバーを追撃しようとするバーサーカー。  両者の間、戦場の中心にアーチャーの矢が放たれる。  今まで何の効果も出さなかった弓矢。  そのような物、防ぐまでもないとセイバーに迫る巨人。    だが、その刹那。   「」    黒い巨人は俺たちに背を向け、全力で迫り来る“矢”を迎撃し――――              ――――瞬間。        あらゆる音が、失われた。 「――――――――!」    セイバーを地面に組み伏せ、ただ耐えた。  聴覚が麻痺したのか、何も聞こえない。  判るのは体を震わせる大気の振動と、肌を焦がす熱さ。  烈風で弾き飛ばされた様々な破片は四方に跳ね飛ばされ、ごっ、と重い音をたてて、俺の背中にも突き刺さった。 「っ………………!」  歯を食いしばって耐える。  白い閃光は、その実一瞬だったのだろう。  体はなんとか致命傷を受けずに、その破壊をやり過ごせた。 「な――――」    俺の下で、セイバーは呆然とソレを見ていた。  ……それは俺も同じだ。  何が起きたのかは判らない。  ただ、アーチャーが放った“矢”によって墓地が一瞬にして炎上しただけ。  爆心地であったろう地面は抉れ、クレーター状になっている。    それほどの破壊をアーチャーは巻き起こし。    それほどの破壊を以ってしても、あの巨人は健在だった。 「……バーサーカー……ランクAに該当する宝具を受けて、なお無傷なんて――――」    セイバーの声には力がない。  火の粉が夜の闇に溶けていく中。  黒い巨人は微動だにせず炎の中に佇み、居合わせた者は声もなく惨状を見据えている。  火の爆ぜる音だけが耳に入る。  このままでは大きな火事になる、と思った矢先。 「え……?」  カラン、と硬い音をたてて、おかしな物が転がってきた。 「……剣……?」  否、それは“矢”だった。  豪華な柄と、螺旋状に捻れた刀身を持つ矢。  ……たとえそれが剣であったとしても、“矢”として使われたのなら、それは矢だった。 「――――――――」  それが、どうしてそこまで気になったのか。  バーサーカーによって叩き折られた矢は、炎に溶けるように消えていった。  跡形もなく薄れていく様は、熱に溶ける飴のようでもある。  それが――――          ――――理由もなく、吐き気を呼び起こした。 「――――シロウ、今のは」 「……アーチャーの矢だ。それ以外は、判らない」  顔をあげ、遙か遠くのアーチャーに視線を移す。 「っ――――――――」  見える筈がない。  見える筈がないというのに、確かに見た。  やつは口元を歪めていた。  狙ったのはバーサーカーだけではない、と俺に見せつけるように笑ったのだ。 「あいつ――――!」    ……頭痛がする。  背筋に走る悪寒が止まらない。  まるで魔術回路の形成に失敗した時のように、背骨が熱くなって吐きそうになる―――― 「……ふうん。見直したわリン。やるじゃない、アナタのアーチャー」  何処にいるのか、楽しげな少女の声が響く。 「いいわ、戻りなさいバーサーカー。つまらない事は初めに済まそうと思ったけど、少し予定が変わったわ」    ……黒い影が揺らぐ。  炎の中、巨人は少女の声に応えるかのように後退しだした。 「―――なによ。ここまでやって逃げる気?」 「ええ、気が変わったの。セイバーはいらないけど、アナタのアーチャーには興味が湧いたわ。だから、もうしばらくは生かしておいてあげる」  巨人が消える。  白い少女は笑いながら、   「それじゃあバイバイ。また遊ぼうね、お兄ちゃん」    そう言い残して、炎の向こう側へ消えていった。 「………………」  突然の災厄は去ってくれた。  口ではああ言っていたが、遠坂もあの少女を追いかける気はないのだろう。  俺にだって見逃して貰えたと判るのだ。  なら、あの遠坂がわざわざ無謀な戦いを挑むとは思えない。 「―――助かりましたマスター。貴方が声をかけてくれなければ、私もアーチャーの宝具に巻き込まれていた」 「あ――――ああ、それは」  役に立てて良かった、と口にする。 「マスター……?」    ……どう、したんだろうか、俺は。  大した傷も負っていないのに、気分が悪くて、意識が、 「……衛宮くん? なに、顔が真っ青じゃない貴方」 「マスター……? っ、シロウ……!」  ……膝から力が抜ける。  唐突に、目の前が〈真白〉《ましろ》くなった。 「しっかり……! 何があったのです、一体……!?」  ……倒れる体を支えてくれる感触。  それもすぐに消えて、あっけなく、ほとんどの機能が落ちてしまった。      ――――残ったのは、この鼓動だけ。    何が癇に障って、  何が気になっているのか。  ……意識は落ちようとしているのに、熱病めいた頭痛だけが、鼓動のように続いていた。 「セイバー――――っっっっっ!!!!!」    気が付けば、物陰から飛び出していた。 「ちょっ、待――――!」  全力でセイバーへと走る。 「な、シロウ――――?」  セイバーは俺を見て、バーサーカーへと踏み込むのを止めてくれた。 “間に合う――――!”    背後に迫る危機感。   「な、なぜ出てきたのですか、貴方は……!」    セイバーの叱咤も無視して、とにかく全速でセイバーへと駆け寄り、その腕を掴む――――! 「正気ですか、マスター……!」 「話は後……! いいからこっち――――」  セイバーを抱き寄せて、そのまま跳んだ。  ――――“矢”が放たれる。    今まで何の効果も出さなかったアーチャーの矢。  そのような物、防ぐまでもないと向き直る黒い巨人。    だが、その刹那。   「」    黒い巨人は俺たちに背を向け、全力で迫り来る“矢”を迎撃し――――              ――――瞬間。        あらゆる音が、失われた。 「――――――――!」    セイバーを地面に組み伏せ、ただ耐えた。  聴覚が麻痺したのか、何も聞こえない。  判るのは体を震わせる大気の振動と、肌を焦がす熱さ。  烈風で弾き飛ばされた様々な破片は四方に跳ね飛ばされ、ごっ、と重い音をたてて、俺の背中にも突き刺さった。 「っ………………!」  歯を食いしばって耐える。  白い閃光は、その実一瞬だったのだろう。  体はなんとか致命傷を受けずに、その破壊をやり過ごせた。 「な――――」    俺の下で、セイバーは呆然とソレを見ていた。  何が起きたのかは判らない。  ただ、アーチャーが放った“矢”によって墓地が一瞬にして炎上しただけ。  爆心地であったろう地面は抉れ、クレーター状になっている。    それほどの破壊をアーチャーは巻き起こし。    それほどの破壊を以ってしても、あの巨人は健在だった。 「……バーサーカー……ランクAに該当する宝具を受けて、なお無傷なんて――――」    セイバーの声には力がない。  火の粉が夜の闇に溶けていく中。  黒い巨人は微動だにせず炎の中に佇み、居合わせた者は声もなく惨状を見据えている。  火の爆ぜる音だけが耳に入る。  このままでは大きな火事になる、と思った矢先。 「え……?」  カラン、と硬い音をたてて、おかしな物が転がってきた。 「……剣……?」  否、それは“矢”だった。  豪華な柄と、螺旋状に捻れた刀身を持つ矢。  ……たとえそれが剣であったとしても、“矢”として使われたのなら、それは矢だった。 「――――――――」  それが、どうしてそこまで気になったのか。  バーサーカーによって叩き折られた矢は、炎に溶けるように消えていった。  跡形もなく薄れていく様は、熱に溶ける飴のようでもある。  それが――――          ――――理由もなく、吐き気を呼び起こした。 「――――シロウ、今のは」 「……アーチャーの矢だ。それ以外は、判らない」  顔をあげ、遙か遠くのアーチャーに視線を移す。 「っ――――――――」  見える筈がない。  見える筈がないというのに、確かに見た。  やつは口元を歪めていた。  狙ったのはバーサーカーだけではない、と俺に見せつけるように笑ったのだ。 「あいつ――――!」    ……頭痛がする。  背筋に走る悪寒が止まらない。  まるで魔術回路の形成に失敗した時のように、背骨が熱くなって吐きそうになる―――― 「……ふうん。見直したわリン。やるじゃない、アナタのアーチャー」  何処にいるのか、楽しげな少女の声が響く。 「いいわ、戻りなさいバーサーカー。つまらない事は初めに済まそうと思ったけど、少し予定が変わったわ」    ……黒い影が揺らぐ。  炎の中、巨人は少女の声に応えるかのように後退しだした。 「―――なによ。ここまでやって逃げる気?」 「ええ、気が変わったの。セイバーはいらないけど、アナタのアーチャーには興味が湧いたわ。だから、もうしばらくは生かしておいてあげる」  巨人が消える。  白い少女は笑いながら、   「それじゃあバイバイ。また遊ぼうね、お兄ちゃん」    そう言い残して、炎の向こう側へ消えていった。 「………………」  突然の災厄は去ってくれた。  口ではああ言っていたが、遠坂もあの少女を追いかける気はないのだろう。  俺にだって見逃して貰えたと判るのだ。  なら、あの遠坂がわざわざ無謀な戦いを挑むとは思えない。 「……マスター。窮地を救ってもらったのは感謝します。  ですが、そろそろ放してもらえませんか」  ……淡々としたセイバーの声が聞こえる。 「あ――――そうか、すまない」    ぐらぐらする頭のまま、なんとか答える。  セイバーから手を放して、立ち上がろうとした瞬間、みっともなく尻餅をついてしまった。 「シロウ? どうしました、気分でも――――シロウ、その背中は……!」  切迫したセイバーの声。  ……頭痛が強いためか、セイバーの顔がよく見えない。  セイバーは倒れかける俺の体を支えて、そのまま背中に手をやった。 「あ、痛」  ずくん、という痛み。  ……この頭痛ほどじゃないにしろ、わりとハンパじゃない痛みが背中で点滅している。 「……ひどい。このままでは危険です。破片を抜きますが、我慢してください」 「え――――ちょっ、破片って、セイバー」  …………!  躊躇なんてしてくれない。  どうやら背中に刺さった破片とやらを、セイバーは強引に抜いてしまったらしい。 「あ――――つ、この、乱暴、もの――――」    乱れそうになる呼吸を整える。  ……俺だって半人前でも魔術師だ。  これぐらいの痛みならなんとかコントロールできる。 「ふう――――ふう、ふう、ふ――――」    ただ、今の感覚は特殊だった。  背中に羽が生えていて、その羽を抜かれるとしたら、こんな感じだったかもしれない。 「……傷が塞がっていく……なるほど、自身に対する治療法を備えていたのですね」  胸を撫で下ろしながら、セイバーはおかしな事を言った。 「……?」  自身に対する治療法……?  いや、だからそんな高等な魔術、俺が使える訳ないんだが。 「衛宮くん、無事?」  ……遠坂が駆け寄ってくる。  それに、一応無事だ、と手をあげて応えた。 「そう。ならわたし達も行きましょう。これだけハデにやったんだから、騒ぎを聞きつけて人が来るわ」  ほら、と長い髪をなびかせて、遠坂は墓地から坂道へと駆けていく。 「――――――――」  それを追いかけようと地面を蹴った瞬間。  目の前が、唐突に〈真白〉《ましろ》くなった。 「マスター……!?」  ……倒れる体を支えてくれる感触。  それもすぐに消えて、あっけなく、ほとんどの機能が落ちてしまった。    ――――残ったのは、この鼓動だけ。    何が癇に障って、  何が気になっているのか。  ……意識は落ちようとしているのに、熱病めいた頭痛だけが、鼓動のように続いていた。 「――――――――え?」    それは、一瞬の出来事だった。  セイバーの前には赤い外套の男がいる。  赤い男はセイバーに襲われて体勢を崩し、今まさにとどめの一撃を受けようとしている。    その、奥。    赤い男に庇われながらセイバーを見つめる人影は、間違いなく俺の知っている人物だった。 「や――――」    左手を伸ばして、喉を鳴らす。  あの赤い男が何者かは知らない。  だがあの男を倒した後、セイバーは間髪入れずに奥の人物に襲いかかるだろう。  それは、ダメだ。  あいつに斬りかかるなんて、そんな事はさせられない…………!   「止めろ、セイバーーーーーー!!!!!!」 「っ――――!?」    軽い痛みが走った。  左手の甲に刻まれた印が一つだけ消えていく。  それを代償とするかのように、    本来ならば止められない筈の一撃を、セイバーは止めていた。 「っ――――」  一瞬、銀の甲冑が石化したかのように停止する。  その隙をついて、赤い男は即座に間合いを外す。 「あいつ――――さっきの」  間違いない。  あの赤い騎士はランサーと戦っていたヤツだ。 「――――――――」  そうすると、あいつの背後にいる“彼女”は、  その……あまり考えたくないが、そういうコトになるんだろうか……? 「正気ですか、シロウ。今なら確実にアーチャーとそのマスターを倒せた。だというのに、令呪を使ってまでその機会を逃すとは……!」 「――――――――」  いや、そんなコトを言われてもどうしろってんだ。  俺には状況がまるで判らない。  それでもセイバーを止めたのは、俺を助けてくれた少女が〈彼女〉《あいつ》を斬り殺してしまう、なんて光景を見たくなかっただけだ。 「マスター、指示を撤回してください。貴方がそのような態度では、倒せる相手も倒せなくなる」    再び手にした“何か”を構えるセイバー。  その先には、倒し損なった赤い男の姿がある―――― 「……違う。止めてくれ、セイバー。正直、俺には何がなんだか判らない。  それでも―――おまえが襲いかかろうとしているヤツは、俺が知っているヤツなんだ。それを襲わせるなんて、出来ない」 「何を言うのです。彼女はアーチャーのマスターだ。私たちの敵なのですから、ここで仕留めておかなければ」 「――――――――」  敵……?  あの赤い男と、あいつが敵……? 「……そんな事は知らない。  だいたいな、マスターなんて言ってるけど、こっちはてんで解らないんだ。俺の事をマスターなんて呼ぶんなら、少しは説明するのが筋ってもんだろう」 「……それはそうですが、しかし……」  そこへ、   「―――ふうん。つまりそういうコトなワケね、素人のマスターさん?」    丁寧なくせに刺々しい声で、そいつは声をかけてきた。  振り向いた先には赤い男と、それを押しのけて前に出る制服姿の少女がいた。 「――――――――」  思わず息を呑む。  ……やっぱり見間違いじゃなかったのか。  赤い男と一緒にいる人物は、紛れもなく〈あの〉《・・》遠坂凛だった。 「遠坂、凛――――」  なんと言えばいいのか。  遠坂の後ろにいる男が人間でないのは、俺にだって判る。  アレはセイバーと同じ、この世ならざる者だ。    なら―――それを連れている遠坂も、その――― 「え? なに、私のこと知ってるんだ。なんだ、なら話は早いわよね。  とりあえず〈今晩〉《こんばん》は、衛宮くん」  何のつもりなのか。  とんでもなく極上の笑顔で、遠坂は挨拶をしてきやがった。 「あ――――え?」  それは、参った。  そんな何げなく挨拶をされたら、今までの異常な出来事が嘘みたいな気がして、思わず挨拶を返したくなってしまう――― 「ば―――バカかおまえ、今晩はってそんな場合じゃないだろう! 遠坂、おまえは……!」 「ええ、貴方と同じマスターよ。つまりは魔術師って事になるわね。お互い似たようなものだし、隠す必要はないでしょう?」 「魔術師、だって―――? そんな、おまえ魔術師なのか遠坂……!?」 「あ――――」  ……しまった。  なんか知らないが遠坂のヤツ、    いかにも不機嫌そうにこっちを見返してきてるんだけど……。 「あ、いや、違う。言いたいのは、そういうことじゃなくて」 「―――そう。納得いったわ、ようするにそういうコトなワケね、貴方」  遠坂は俺たちを一瞥して、背後の男に振り返る。 「アーチャー、悪いけどしばらく霊体になっててもらえる? わたし、ちょっと頭にきたから」 「それは構わないが……頭にきたとは、どういう意味だ」 「言葉通りよ。腹いせに現状を思い知らせてやらないと気が済まなくなったの。それまで貴方の出番はないから消えていて。貴方がいたらセイバーだって剣を納められないでしょ」 「ふう、また難儀な事を。まあ命令とあらば従うだけだが……一つ忠告すると、君は余分な事をしようとしているぞ」  男は、それこそ幻のように消え去った。 「と、遠坂、いまの……!」 「いいから話は中でしましょ。どうせ何も解ってないんでしょ、衛宮くんは。安心して、イヤだって言っても全部教えてあげるから」  さらりと言って、遠坂はずんずん門へと歩いていく。 「え―――待て遠坂、なに考えてんだおまえ……!」  思わず呼び止める。  と―――  振り向いた遠坂の顔は、さっきの笑顔とは別物だった。 「バカね、いろいろ考えてるわよ。だから話をしようって言ってるんじゃない。  衛宮くん、突然の事態に驚くのもいいけど、素直に認めないと命取りって時もあるのよ。  ちなみに、今がその時だって分かって?」 「っ――――う」 「わかればよろしい。それじゃ行こっか、衛宮くんのおうちにね。貴女もそれでいいでしょうセイバー?  見逃してもらったお礼に、貴女のマスターに色々教えてあげるんだから」 「……いいでしょう。何のつもりかは知りませんが、貴方がマスターの助けになるかぎりは控えます」  遠坂は衛宮邸の門をくぐっていく。 「……なんかすげえ怒ってるぞ、あいつ……」  その理由は判らない。  いやもう、まったくもって判らないのだが……   「それにしたって、あいつ」    なんか、学校の遠坂とは180度イメージが違う気がするんだけど……。    で、なんでか不思議な状況になってしまった。  目の前にはずんずんと歩いていく学校のアイドル、憧れていた遠坂凛がいて、  背後には無言で付いてくる金髪の少女、自らをサーヴァントと名乗るセイバーがいる。 「………………」    あ。  なんか、廊下が異次元空間のような気がしてきた。  が、いつまでも腑抜けのままではいられない。  俺だって半人前と言えど魔術師だ。  同じく魔術師であるらしい遠坂がここまで堂々としているのだから、俺だってしっかりしなければ馬鹿にされる。  ……とは言え、考えつくのは僅かな事だ。  まず、後ろに付いてきているセイバー。  彼女が俺をマスターと呼び、契約したというからには使い魔の類であるのは間違いない。  使い魔とは、魔術師を助けるお手伝い的なモノだと聞く。  たいていは魔術師の体の一部を移植され、分身として使役されるモノを言うのだとか。  使い魔とは魔術師の助けとなるモノ。  故に、できるだけ魔術師に負担をかけないよう、あまり魔力を必要としない小動物が適任とされる。  確かにそう教わりはしたけど、しかし。 「? 何かあるのですか、シロウ」 「……ああいや、なんでもない」  ……セイバーはどう見ても人間だ。しかも明らかに主である俺より優れている。  そんな相手を縛り付ける魔力なんて俺にはないし、そもそも使い魔を使役するだけの魔術回路もない。 「…………」  だから、きっとセイバーは使い魔とは似て非なるモノの筈だ。  彼女は自分をサーヴァントと言っていた。  それがどんなモノかは知らないが、あのランサーという男も、遠坂が連れていた赤い男も同じモノなのだと思う。  セイバーは遠坂もマスターと呼んでいた。  なら、サーヴァントを連れた魔術師をマスターと呼ぶのだろう。  ……遠坂も魔術師らしいが、彼女が何者なのか俺には知る由もない。  衛宮家は〈切嗣〉《オヤジ》の代からこの町にやって来たよそ者だ。  だから遠坂が魔術師だとは知らなかったし、遠坂の方も俺が魔術を習っている、なんて知らなかったに違いない。    ……この町には、俺の知らない魔術師が複数いる。    ランサーとやらも他の魔術師の〈使い魔〉《サーヴァント》だとしたら、俺はつまり、魔術師同士の争いに足を突っ込んだという事だろうか―――― 「へえ、けっこう広いのね。和風っていうのも新鮮だなぁ。あ、衛宮くん、そこが居間?」  なんて言いながら居間に入っていく遠坂。 「………………」  考えるのはここまでだ。  とにかく遠坂に話を聞く為に居間に入る。    電気をつける。  時計は午前一時を回っていた。 「うわ寒っ! なによ、窓ガラス全壊してるじゃない」 「仕方ないだろ、ランサーってヤツに襲われたんだ。なりふりかまってられなかったんだよ」 「あ、そういう事。じゃあセイバーを呼び出すまで、一人でアイツとやり合ってたの?」 「やりあってなんかない。ただ一方的にやられただけだ」 「ふうん、ヘンな見栄張らないんだ。……そっかそっか、ホント見た目通りなんだ、衛宮くんって」  何が嬉しいのか、遠坂は割れた窓ガラスまで歩いていく。 「?」  遠坂はガラスの破片を手に取ると、ほんの少しだけまじまじと観察し―――   「――――Minuten vor Schweißen」    ぷつり、と指先を切って、窓ガラスに血を零した。 「!?」  それはどんな魔術なのか。  粉々に砕けていた窓ガラスはひとりでに組み合わさり、数秒とかからず元通りになってしまった。 「遠坂、今の――――」 「ちょっとしたデモンストレーションよ。助けて貰ったお礼にはならないけど、一応筋は通しておかないとね。  ……ま、わたしがやらなくともそっちで直したんだろうけど、こんなの魔力の無駄遣いでしょ? ホントなら窓ガラスなんて取り替えれば済むけど、こんな寒い中で話すのもなんだし」  遠坂は当たり前のように言う。  が、言うまでもなく、彼女の腕前は俺の理解の外だった。 「―――いや、凄いぞ遠坂。俺はそんな事できないからな。直してくれて感謝してる」 「? 出来ないって、そんな事ないでしょ? ガラスの扱いなんて初歩の初歩だもの。  たった数分前に割れたガラスの修復なんて、どこの学派でも入門試験みたいなものでしょ?」 「そうなのか。俺は親父にしか教わった事がないから、そういう基本とか初歩とか知らないんだ」 「――――はあ?」  ピタリ、と動きを止める遠坂。  ……しまった。なんか、言ってはいけない事を口にしたようだ。 「……ちょっと待って。じゃあなに、衛宮くんは自分の工房の管理もできない半人前ってこと?」 「……? いや、工房なんて持ってないぞ俺」  ……あー、まあ鍛練場所として土蔵があるが、アレを工房なんて言ったら遠坂のヤツ本気で怒りそうだし。 「………まさかとは思うけど、確認しとく。もしかして貴方、五大要素の扱いとか、パスの作り方も知らない?」  おう、と素直に頷いた。 「………………」  うわ、こわっ。  なまじ美人なだけに黙り込むともの凄く迫力あるぞ、こいつ。 「なに。じゃあ貴方、素人?」 「そんな事ないぞ。一応、強化の魔術ぐらいは使える」 「強化って……また、なんとも半端なのを使うのね。で、それ以外はからっきしってワケ?」 「……まあ、端的に言えば、たぶん」  さすがに視線が痛くて、なんとも煮え切らない返答をしてしまった。 「――――はあ。なんだってこんなヤツにセイバーが呼び出されるのよ、まったく」 「…………む」  なんか、腹が立つ。  俺だって遊んでたワケじゃない。  こっちが未熟なのは事実だけど、それとこれとは話が別だと思う。 「ま、いいわ。もう決まった事に不平をこぼしても始まらない。そんな事より、今は借りを返さないと」  ふう、と一息つく遠坂。 「それじゃ話を始めるけど。  衛宮くん、自分がどんな立場にあるのか判ってないでしょ」  こくん、と頷く。 「やっぱり。ま、一目で判ったけど、一応確認しとかないとね。知ってる相手に説明するなんて心の贅肉だし」 「?」  なんか、今ヘンな言い回しを聞いた気がするけど、ここで茶々を入れたら殴られそうなので黙った。 「率直に言うと、衛宮くんはマスターに選ばれたの。  どっちかの手に聖痕があるでしょ? 手の甲とか腕とか、個人差はあるけど三つの令呪が刻まれている筈。それがマスターとしての証よ」 「手の甲って……ああ、これか」 「そ。それはサーヴァントを律する呪文でもあるから大切にね。令呪っていうんだけど、それがある限りはサーヴァントを従えていられるわ」 「……? ある限りって、どういう事だよ」 「令呪は絶対命令権なの。サーヴァントの意思をねじ曲げて、絶対に言いつけを守らせる呪文がその刻印よ。  発動に呪文は必要なくて、貴方が令呪を使用するって思えば発動するから。  で、その令呪がなくなったら衛宮くんは殺されるだろうから、せいぜい注意して」 「え……俺が、殺される――――?」 「そうよ。マスターが他のマスターを倒すのが聖杯戦争の基本だから。そうして他の六人を倒したマスターには、望みを叶える聖杯が与えられるの」 「な――――に?」  ちょっ、ちょっと待て。  遠坂のヤツが何を言っているのかまったく理解できない。  マスターはマスターを倒す、とか。  そうして最後には聖杯が手に入るとか……って、聖杯って、そもそもあの聖杯の事か……!? 「まだ解らない? ようするにね、貴方はあるゲームに巻き込まれたのよ。聖杯戦争っていう、七人のマスターの生存競争。他のマスターを一人残らず倒すまで終わらない、魔術師同士の殺し合いに」  それがなんでもない事のように、遠坂凛は言い切った。 「――――――――」    頭の中で、聞いたばかりの単語が回る。  マスターに選ばれた自分。  マスターだという遠坂。  サーヴァントという使い魔。    ―――それと。  聖杯戦争という、他の魔術師との殺し合い―――― 「待て。なんだそれ、いきなり何言ってんだおまえ」 「気持ちは解るけど、わたしは事実を口にするだけよ。  ……それに貴方だって心の底では理解しているんじゃない? 一度ならず二度までもサーヴァントに殺されかけて、自分はもう逃げられない立場なんだって」 「――――――――」    それは。  確かに、俺はランサーとかいうヤツに殺されかけた、けど。 「あ、違うわね。殺されかけたんじゃなくて殺されたんだっけ。よく生き返ったわね、衛宮くん」 「――――」    殺されかけたのではなく、殺された。    ……そうだ。  俺はあの槍の男に殺された。  今の状況を驚くより先に、俺は自分が生きている、という事に驚かなくてはいけない筈だ。      ……胸に〈穿〉《うが》たれた傷。  ……流れていく血液。  ……薄れていく体温。    そして。  その淵で聞いた、あまりにも潔かった誰かの声――― 「納得いった? とっくに貴方はそういう立場になってるのよ。  何も判ってないからって逃げる事なんて出来ないし、貴方も魔術師なら覚悟ぐらい決まってるでしょ? 殺し、殺されるのがわたしたちだってね」  俺が困惑する姿が愉快なのか、遠坂は上機嫌だ。 「――――――――」  ……ああ、覚悟ぐらいちゃんと知ってる。  だが、その前に。 「……遠坂、俺がランサーに殺された事を知ってるのか……?」    どうしてそれを、彼女が知っているのかが気になった。 「―――チッ。少し調子にのりすぎたか」  なんか、あからさまに怪しい素振りをする。 「今のはただの推測よ。つまんない事だから忘れなさい」 「……つまんない事じゃないぞ。  俺はあの時、誰かに――――」 「いいからっ! そんな事より、もっと自分の置かれた立場を知りなさいっての。  貴方も七人のマスターの一人、聖杯戦争の主役なんだから」 「いい? この町では何十年かに一度、七人のマスターが選ばれて、それぞれサーヴァントが与えられるの。  マスターは己が手足であるサーヴァントを行使して、他のマスターを潰していく。  ―――これが聖杯戦争と呼ばれる儀式のルールよ」 「わたしもマスターに選ばれた一人。  だからサーヴァントと契約したし、貴方だってセイバーと契約した。  衛宮くんは自分でセイバーを呼び出した訳じゃなさそうだけど、もともとサーヴァントってのは聖杯が与えてくれる使い魔だからね。衛宮くんみたいに、何も知らない魔術師がマスターになる事だってありえるわ」 「…………」  遠坂の説明は簡潔すぎて、実感を得るには遠すぎた。  それでも一つだけ、先ほどから疑問に思っていた事がある。 「……ちょっと待ってくれ。遠坂はセイバーを使い魔だっていうけど、俺にはそうは思えない。  だって使い魔っていうのは猫とか鳥だろ。そりゃ人の幽霊を扱うヤツもいるって言うけど、セイバーはちゃんと体がある。それに、その―――とても、使い魔なんかに見えない」  ちらりとセイバーを盗み見る。  セイバーは俺と遠坂の会話を、ただ黙って聞いていた。  ……その姿は本当に人間そのものだ。  正体は判らないが、自分とそう歳の違わない女の子。 「使い魔ね―――ま、サーヴァントはその分類ではあるけど、位置づけは段違いよ。何しろそこにいる彼女はね、使い魔としては最強とされるゴーストライナーなんだから」 「ゴーストライナー……? じゃあその、やっぱり幽霊って事か?」 「幽霊……ま、似たようなものだけど、そんなモンと一緒にしたらセイバーに殺されるわよ。  サーヴァントは受肉した過去の英雄、精霊に近い人間以上の存在なんだから」 「――――はあ? 受肉した過去の英雄?」 「そうよ。過去だろうが現代だろうが、とにかく死亡した伝説上の英雄をこう引っ張ってきてね、実体化させるのよ」 「ま、呼び出すまでがマスターの役割で、あとの実体化は聖杯がしてくれるんだけどね。魂をカタチにするなんてのは一介の魔術師には不可能だもの。ここは強力なアーティファクトの力におんぶしてもらうってわけ」 「ちょっと待て。過去の英雄って、ええ……!?」  セイバーを見る。  なら彼女も英雄だった人間なのか。  いや、そりゃ確かに、あんな格好をした人間は現代にはいないけど、それにしたって――― 「そんなの不可能だ。そんな魔術、聞いた事がない」 「当然よ、これは魔術じゃないもの。あくまで聖杯による現象と考えなさい。そうでなければ魂を再現して固定化するなんて出来る筈がない」 「……魂の再現って……じゃあその、サーヴァントは幽霊とは違うのか……?」 「違うわ。人間であれ動物であれ機械であれ、偉大な功績を残すと輪廻の枠から外されて一段階上に昇華するって話、聞いたことない?  英霊っていうのはそういう連中よ。ようするに崇め奉られて擬似的な神さまになったモノたちなんでしょうね」 「降霊術とか口寄せとか、そういう一般的な『霊を扱う魔術』は〈英霊〉《かれら》の力の一部を借り受けて奇蹟を起こすでしょ。  けどこのサーヴァントっていうのは英霊本体を直接連れてきて使い魔にする。  だから基本的には霊体として側にいるけど、必要とあらば実体化させて戦わせられるってワケ」 「……む。その、霊体と実体を使い分けられるって事か。  ……さっき遠坂に付いてたヤツが消えたのは、霊体になったから?」 「そ。今はここの家の屋根で外を見張ってるわ。  さっきの戦いで判ったと思うけど、サーヴァントを倒せるのは同じ霊体であるサーヴァントだけなの」 「そりゃあ相手が実体化していればこっちの攻撃も当たるから、うまくすれば倒せるかもしれない。  けど、サーヴァントはみんな怪物じみてるでしょ? だから怪物の相手は怪物に任せて、マスターは後方支援をするっていうのがセオリーね」 「…………む」  遠坂の説明は、なんか癇に障る。  怪物怪物って、他のサーヴァントがどうだかは知らないけど、セイバーにはそんな形容を当てはめてほしくない。 「とにかくマスターになった人間は、召喚したサーヴァントを使って他のマスターを倒さなければならない。そのあたりは理解できた?」 「……言葉の上でなら。けど、納得なんていってないぞ。  そもそもそんな悪趣味な事を誰が、何のために始めたんだ」 「それはわたしが知るべき事でもないし、答えてあげる事でもない。そのあたりはいずれ、ちゃんと聖杯戦争を監督しているヤツに聞きなさい。  わたしが教えてあげられるのはね、貴方はもう戦うしかなくて、サーヴァントは強力な使い魔だからうまく使えって事だけよ」  遠坂はそれだけ言うと、今度はセイバーへ視線を向ける。 「さて。衛宮くんから話を聞いた限りじゃ貴女は不完全な状態みたいね、セイバー。マスターとしての心得がない魔術師見習いに呼び出されたんだから」 「……ええ。貴方の言う通り、私は万全ではありません。  シロウには私を実体化させる魔力がない為、霊体に戻る事も、魔力の回復も難しいでしょう」 「……驚いたわ。そこまで酷かった事もだけど、貴女が正直に話してくれるなんて思わなかった。どうやって弱みを聞き出そうかなって程度だったのに」 「敵に弱点を見抜かれるのは不本意ですが、貴女の目は欺けそうにない。こちらの手札を隠しても意味はないでしょう。  それならば貴方に知ってもらう事で、シロウにより深く現状を理解してもらった方がいい」 「正解。風格も十分、と。……ああもう、ますます惜しいっ。わたしがセイバーのマスターだったら、こんな戦い勝ったも同然だったのに!」  悔しそうに拳を握る遠坂。 「む。遠坂、それ俺が相応しくないって事か」 「当然でしょ、へっぽこ」  うわ。心ある人なら言いにくいコトを平然といったぞ、今。 「なに? まだなんか質問があるの?」  しかも自覚なし。  学校での優等生然としたイメージがガラガラと崩れていく。  ……さすがだ一成。たしかに遠坂は、鬼みたいに容赦がない。 「さて。話がまとまったところでそろそろ行きましょっか」  と。  遠坂はいきなり、ワケの分からないコトを言いだした。 「? 行くって何処へ?」 「だから、貴方が巻き込まれたこのゲーム……“聖杯戦争”をよく知ってるヤツに会いに行くの。衛宮くん、聖杯戦争の理由について知りたいんでしょ?」 「―――それは当然だ。けどそれって何処だよ。もうこんな時間なんだし、あんまり遠いのは」 「大丈夫、隣町だから急げば夜明けまでには帰ってこれるわ。それに明日は日曜なんだから、別に夜更かししてもいいじゃない」 「いや、そういう問題じゃなくて」  単に今日は色々あって疲れてるから、少し休んでから物事を整理したいだけなのだが。 「なに、行かないの? ……まあ衛宮くんがそう言うんならいいけど、セイバーは?」  なぜかセイバーに意見を求める遠坂。 「ちょっと待て、セイバーは関係ないだろ。あんまり無理強いするな」 「おっ、もうマスターとしての自覚はあるんだ。わたしがセイバーと話すのはイヤ?」 「そ、そんなコトあるかっ! ただ遠坂の言うのがホントなら、セイバーは昔の英雄なんだろ。ならこんな現代に呼び出されて右も左も分からない筈だ。  だから―――」 「シロウ、それは違う。サーヴァントは人間の世であるのなら、あらゆる時代に適応します。ですからこの時代の事もよく知っている」 「え――――知ってるって、ほんとに?」 「勿論。この時代に呼び出されたのも一度ではありませんから」 「な――――」 「うそ、どんな確率よそれ……!?」  あ、遠坂も驚いてる。  ……という事は、セイバーの言ってる事はとんでもない事なのか。 「シロウ、私は彼女に賛成です。貴方はマスターとして知識がなさすぎる。貴方と契約したサーヴァントとして、シロウには強くなってもらわなければ困ります」  セイバーは静かに見据えてくる。  ……それはセイバー自身ではなく、俺の身を案じている、穏やかな視線だった。 「……分かった。行けばいいんだろ、行けば。  で、それって何処なんだ遠坂。ちゃんと帰ってこれる場所なんだろうな」 「もちろん。行き先は隣町の言峰教会。そこがこの戦いを監督してる、エセ神父の居所よ」  にやり、と意地の悪い笑みをこぼす遠坂。  アレは何も知らない俺を振り回して楽しんでいる顔だ。 「………………」  偏見だけど。  あいつの性格、どこか問題ある気がしてきたぞ……。  夜の町を歩く。  深夜一時過ぎ、外に出ている人影は皆無だ。  家々の明かりも消えて、今は街灯だけが寝静まった町を照らしている。 「なあ遠坂。つかぬ事を訊くけど、歩いて隣町まで行く気なのか」 「そうよ? だって電車もバスも終わってるでしょ。いいんじゃない、たまには夜の散歩っていうのも」 「そうか。一応訊くけど、隣町までどのくらいかかるか知ってるか?」 「えっと、歩いてだと一時間ぐらいかしらね。ま、遅くなったら帰りはタクシーでも拾えばいいでしょ」 「そんな余分な金は使わないし、俺が言いたいのは女の子が夜出歩くのはどうかって事だ。最近物騒なのは知ってるだろ。もしもの事があったら責任持てないぞ、俺」 「安心しなさい、相手がどんなヤツだろうとちょっかいなんて出してこないわ。衛宮くんは忘れてるみたいだけど、そこにいるセイバーはとんでもなくお強いんだから」 「あ」  そう言えばそうだ。  通り魔だろうがなんだろうが、セイバーに手を出したらそれこそ返り討ちだろう。 「凛。シロウは今なにを言いたかったのでしょう。私には理解できなかったのですが」 「え? いえ、大した勘違いっぷりって言うか、大間抜けっていうか。なんでもわたしたちが痴漢に襲われたら衛宮くんが助けてくれるんだって」 「そんな、シロウは私のマスターだ。それでは立場が逆ではないですか」 「そういうの考えてないんじゃない? 魔術師とかサーヴァントとかどうでもいいって感じ。あいつの頭の中、一度見てみたくなったわねー」 「………………」  遠坂とセイバーは知らぬ間に話をするぐらいの仲になっている。  セイバーはと言えば、出かける時にあの姿のままで出ようとしたのを止めた時から無言だ。  どうしても鎧は脱がない、というので仕方なく雨合羽を着せたら、ますます無言になってしまった。  今ではツカツカと俺の後を付いてきて、遠坂とだけ話をしている。 「あれ? どっちに行くのよ衛宮くん。そっち、道が違うんじゃない?」 「橋に出ればいいんだろ。ならこっちのが近道だ」  二人と肩を並べて歩くのは非常に抵抗があったので、早足で横道に入った。  二人は文句一つなく付いてくる。  川縁の公園に出た。  あの橋を渡って、隣町である新都へ行くのだが――― 「へえ、こんな道あったんだ。そっか、橋には公園からでも行けるんだから、公園を目指せばいいのね」  声を弾ませて橋を見上げる遠坂。  夜の公園、という場所のせいだろうか。  橋を見上げる遠坂の横顔は、学校で見かける時よりキレイに見えて、まいる。 「いいから行くぞ。別に遊びに来たわけじゃないんだから」  公園で立ち止まっている遠坂を促して階段を上る。  橋の横の歩道にさえ辿り着けば、あとは新都まで一直線だ。  歩道橋に人影はない。  それも当然、昼間でさえここを使う人は少ないのだ。  隣町まではバスか電車で行くのが普通で、この歩道橋はあまり使われない。  なにしろ距離があまりにも長いし、どうも作りが頑丈でないというか、いつ崩れてもおかしくないのでは、なんて不安を呼び起こす。  ロケーション的には文句無しなのにデートコースに使われないのも、そのあたりが原因だろう。 「……馬鹿らしい。なに考えてんだ、俺」  無言で後を付いてくるセイバーと、すぐ横で肩を並べている遠坂。  その二人を意識しないようにと努めて、とにかく少しでも早く橋を渡ろうと歩を速めた。  橋を渡ると、遠坂は郊外へ案内しだした。  新都と言えば開発が続く駅前のオフィス街しか頭に浮かばないが、駅から外れれば昔ながらの街並みが残っている。  郊外はその中でも最たるものだ。  なだらかに続く坂道と、海を臨む高台。  坂道を上っていく程に建物の棟は減っていき、丘の斜面に建てられた外人墓地が目に入ってくる。 「この上が教会よ。衛宮くんも一度ぐらいは行った事があるんじゃない?」 「いや、ない。あそこが孤児院だったって事ぐらいは知ってるけど」 「そう、なら今日が初めてか。じゃ、少し気を引き締めた方がいいわ。あそこの神父は一筋縄じゃいかないから」  遠坂は先だって坂を上がっていく。  ……見上げれば、高台の上には十字架らしき物が見えた。  高台の教会。  今まで寄りつきもしなかった神の家に、こんな目的で足を運ぶ事になろうとは。 「うわ―――すごいな、これ」  教会はとんでもない豪勢さだった。  高台のほとんどを敷地にしているのか、坂を上がりきった途端、まったいらな広場が出迎えてくれる。  その奥に建てられた教会は、そう大きくはないというのに、〈聳〉《そび》えるように来た者を威圧していた。 「シロウ、私はここに残ります」 「え? なんでだよ、ここまで来たのにセイバーだけ置いてけぼりなんて出来ないだろ」 「私は教会に来たのではなく、シロウを守る為についてきたのです。シロウの目的地が教会であるのなら、これ以上遠くには行かないでしょう。ですから、ここで帰りを待つ事にします」  きっぱりと言うセイバー。  どうもテコでも動きそうになく、ここは彼女の意思を尊重しよう。 「分かった。それじゃ行ってくる」 「はい。誰であろうと気を許さないように、マスター」  広い、荘厳な礼拝堂だった。  これだけの席があるという事は、日中に訪れる人々の数も多いという事だろう。  これほどの教会を任されているのだから、ここの神父はよほどの人格者と見える。 「遠坂。ここの神父さんっていうのはどんな人なんだ」 「どんな人かって、説明するのは難しいわね。十年来の知人だけど、わたしだって未だにアイツの性格は掴めないもの」 「十年来の知人……? それはまた、随分と年季が入った関係だな。もしかして親戚か何かか?」 「親戚じゃないけど、わたしの後見人よ。ついでに言うと兄弟子にして第二の師っていうところ」 「え……兄弟子って、魔術師としての兄弟子!?」 「そうだけど。なんで驚くのよ、そこで」 「だって神父さんなんだろ!? 神父さんが魔術なんて、そんなの御法度じゃないか!」  そう、魔術師と教会は本来相容れないものだ。  魔術師が所属する大規模な組織を魔術協会と言い、  一大宗教の裏側、普通に生きていれば一生見ないですむこちら側の教会を、仮に聖堂教会と言う。  この二つは似て非なる者、形の上では手を結んでいるが隙あらばいつでも殺し合いをしているという物騒な関係だ。  教会は異端を嫌う。  人ではないヒトを徹底的に排除する彼らの標的には、魔術を扱う人間も含まれる。  教会において、奇跡は選ばれた聖人だけが学ぶもの。  それ以外の人間が扱う奇跡は全て異端なのだ。  それは教会に属する人間であろうと例外ではない。  教会では位が高くなればなるほど魔術の汚れを禁じている。  こういった教会を任されている信徒なら言わずもがな、神の加護が厚ければ厚いほど魔術とは遠ざかっていく物なのだが―――― 「……いや。そもそもここの神父さんってこっち側の人だったのか」 「ええ。聖杯戦争の監督役として派遣されたヤツだもの、バリッバリの代行者よ。……ま、もっとも神のご加護があるかどうかは疑問だけど」  かつん、かつん、と足音をたてて祭壇へと歩いていく遠坂。  神父さんがいないというのにお邪魔するのもなんだが、そもそもこんな夜更けなのだ。  礼拝堂にいる訳もなし、訪ねるのなら奥にあるであろう私室だろう。 「……ふうん。で、その神父さんはなんていうんだ? さっきは〈言峰〉《ことみね》とかなんとか言ってたけど」  遠坂の後を追いながら質問する。  遠坂は祭壇の前で立ち止まると、難しい顔で振り向いた。 「名前は〈言峰綺礼〉《ことみねきれい》。父さんの教え子でね、もう十年以上顔を合わせてる腐れ縁よ。……ま、できれば知り合いたくなかったけど」   「同感だ。私も、師を敬わぬ弟子など持ちたくはなかった」  かつん、という足音。  俺たちが来た事に気が付いていたのか、その人物は祭壇の裏側からゆっくりと現れた。 「再三の呼び出しにも応じぬと思えば、変わった客を連れてきたな。……ふむ、彼が七人目という訳か、凛」 「そう。一応魔術師だけど、中身はてんで素人だから見てられなくって。  ……たしかマスターになった者はここに届けを出すのが決まりだったわよね。アンタたちが勝手に決めたルールだけど、今回は守ってあげる」 「それは結構。なるほど、ではその少年には感謝しなくてはな」  言峰という名の神父は、ゆっくりとこちらに視線を向ける。 「――――」  ……知らず、足が退いていた。  ……何が恐ろしい訳でもない。  ……言峰という男に敵意を感じる訳でもない。  だというのに、肩にかかる空気が重くなるような威圧感を、この神父は持っていた。 「私はこの教会を任されている言峰綺礼という者だが。  君の名はなんというのかな、七人目のマスターよ」 「―――衛宮士郎。けど、俺はまだマスターなんて物になった覚えはないからな」  腹に力をいれて、重圧に負けまいと神父を睨む。 「衛宮――――――士郎」 「え――――」  背中の重圧が悪寒に変わる。  神父は静かに、何か喜ばしいモノに出会ったように笑った。    ――――その笑みが。  俺には、例えようもなく―――― 「礼を言う、衛宮。よく凛を連れてきてくれた。君がいなければ、アレは最後までここには訪れなかったろう」  神父が祭壇へと歩み寄る。  遠坂は退屈そうな顔つきで祭壇から離れ、俺の横まで下がってきた。 「では始めよう。衛宮士郎、君はセイバーのマスターで間違いはないか?」 「それは違う。確かに俺はセイバーと契約した。けどマスターとか聖杯戦争とか、そんな事を言われても俺にはてんで判らない。  マスターっていうのがちゃんとした魔術師がなるモノなら、他にマスターを選び直した方がいい」 「……なるほど、これは重症だ。彼は本当に何も知らないのか、凛」 「だから素人だって言ったじゃない。そのあたりからしつけてあげて。……そういう追い込み得意でしょ、アンタ」  遠坂は気が乗らない素振りで神父を促す。 「――――ほう。これはこれは、そういう事か。  よかろう、おまえが私を頼ったのはこれが初めてだ。  衛宮士郎には感謝をしてもし足りないな」  くくく、と愉快そうに笑う言峰神父。  なんていうか、聞いてるこっちがますます不安になっていくような会話だ。 「まず君の勘違いを正そう。  いいか衛宮士郎。マスターという物は他人に譲れる物ではないし、なってしまった以上辞められる物でもない。  その腕に令呪を刻まれた者は、たとえ何者であろうとマスターを辞める事はできん。まずはその事実を受け入れろ」 「っ―――辞める事はできないって、どうしてだよ」 「令呪とは聖痕でもある。マスターとは与えられた試練だ。都合が悪いからといって放棄する事はできん。 その痛みからは、聖杯を手に入れるまでは解放されない」 「おまえがマスターを辞めたいと言うのであれば、聖杯を手に入れ己が望みを叶えるより他はあるまい。そうなれば何もかもが元通りだぞ、衛宮士郎。  おまえの望み、その〈裡〉《うち》に溜まった泥を全て掻き出す事もできる。―――そうだ、初めからやり直す事とて可能だろうよ」 「故に望むがいい。  もしその時が来るのなら、君はマスターに選ばれた幸運に感謝するのだからな。その、目に見えぬ火傷の跡を消したいのならば、聖痕を受け入れるだけでいい」 「な――――」  目眩がした。  神父の言葉はまるで要領を得ない。  聞けば聞くほど俺を混乱させるだけだ。    ……にも関わらず、コイツの言葉は〈厭〉《イヤ》に胸に浸透して、どろりと、血のように粘り付く――― 「綺礼、回りくどい真似はしないで。わたしは彼にルールを説明してあげてって言ったのよ。誰も傷を開けなんて言ってない」  神父の言葉を遮る声。 「――――と、遠坂?」  それで、混乱しかけた頭がハッキリとしてくれた。 「そうか。こういった手合いには何を言っても無駄だからな、せめて勘違いしたまま道徳をぬぐい去ってやろうと思ったのだが。  ……ふん、情けは人の為ならず、とはよく言ったものだ。つい、私自身も楽しんでしまったか」 「なによ。彼を助けるといい事あるっていうの、アンタに」 「あるとも。人を助けるという事は、いずれ自身を救うという事だからな。……と、今更おまえに説いても始まるまい。  では本題に戻ろうか、衛宮士郎。  君が巻き込まれたこの戦いは『聖杯戦争』と呼ばれるものだ。  七人のマスターが七人のサーヴァントを用いて繰り広げる争奪戦―――という事ぐらいは凛から聞いているか?」 「……聞いてる。七人のマスターで殺し合うっていう、ふざけた話だろ」 「そうだ。だが我らとて好きでこのような非道を行っている訳ではない。  全ては聖杯を得るに相応しい者を選抜する為の儀式だ。  なにしろ物が物だからな、所有者の選定には幾つかの試練が必要だ」  ……何が試練だ。  賭けてもいいが、この神父は聖杯戦争とやらをこれっぽっちも“試練”だなんて思っていない。 「待てよ。さっきから聖杯聖杯って繰り返してるけど、それって一体なんなんだ。まさか本当にあの聖杯だって言うんじゃないだろうな」        聖杯。  聖者の血を受けたという杯。  数ある聖遺物の中でも最高位とされるソレは、様々な奇蹟を行うという。        その中でも広く伝わるのが、聖杯を持つ者は世界を手にする、というものである。  ……もっとも、そんなのは眉唾だ。なにしろ聖杯の存在自体が“有るが無い物”に近い。        確かに、“望みを叶える聖なる杯”は世界各地に散らばる伝説・伝承に顔を出す。  だがそれだけだ。  実在したとも、再現できたとも聞かない架空の技術、それが聖杯なのだから。 「どうなんだ言峰綺礼。アンタの言う聖杯は、本当に聖杯なのか」 「勿論だとも。この町に現れる聖杯は本物だ。その証拠の一つとして、サーヴァントなどという法外な奇蹟が起きているだろう」 「過去の英霊を呼び出し、使役する。否、既に死者の蘇生に近いこの奇蹟は魔法と言える。  これだけの力を持つ聖杯ならば、持ち主に無限の力を与えよう。物の真贋など、その事実の前には無価値だ」 「――――――――」  つまり。  偽物であろうが本物以上の力があれば、真偽など問わないと言いたいのか。 「……いいぜ。仮に聖杯があるとする。けど、ならなんだって聖杯戦争なんてものをさせるんだ。聖杯があるんなら殺し合う事なんてない。それだけ凄い物なら、みんなで分ければいいだろう」 「もっともな意見だが、そんな自由は我々にはない。  聖杯を手にする者はただ一人。  それは私たちが決めたのではなく、聖杯自体が決めた事だ」 「七人のマスターを選ぶのも、七人のサーヴァントを呼び出すのも、全ては聖杯自体が行う事。  これは儀式だと言っただろう。聖杯は自らを持つに相応しい人間を選び、彼らを競わせてただ一人の持ち主を選定する。  それが聖杯戦争―――聖杯に選ばれ、手に入れる為に殺し合う降霊儀式という訳だ」 「――――――――」  淡々と神父は語る。  反論する言葉もなく、左手に視線を落とす。  ……そこにあるのは連中が令呪と呼ぶ刻印だ。  ようするに神父は、この刻印がある以上マスターを放棄する事はできないとでも言いたいのか。 「……納得いかないな。一人だけしか選ばれないにしたって、他のマスターを殺すしかないっていうのは、気にくわない」 「? ちょっと待って。殺すしかない、っていうのは誤解よ衛宮くん。別にマスターを殺す必要はないんだから」  ぽん、と俺の肩を叩いて、遠坂は意外なつっこみをしてきた。 「はあ? だって殺し合いだって言ったじゃないか。言峰もそう言ってたぞ」 「殺し合いだ」 「綺礼は黙ってて。あのね、この町に伝わる聖杯っていうのは霊体なの。だから物として有る訳じゃなくて、特別な儀式で呼び出す―――つまり降霊するしかないって訳」 「で、呼び出す事はわたしたち魔術師だけでも出来るんだけど、これが霊体である以上わたしたちには触れられない。この意味、分かる?」 「分かる。霊体には霊体しか触れられないんだろ。  ―――ああ、だからサーヴァントが必要なのか……!」 「そういう事。ぶっちゃけた話、聖杯戦争っていうのは自分のサーヴァント以外のサーヴァントを撤去させるってコトよ。だからマスターを殺さなければならない、という決まりはないの」 「――――――――」  なんだ、それならそうと早く言ってくれればいいのに!  まったく、遠坂もこの神父も人が悪いったらありゃしない。  ……とにかく、それで安心した。  それなら聖杯戦争に参加しても、遠坂が死ぬような事はないんだから。 「なるほど、そういう考えもできるか。  では衛宮士郎、一つ訊ねるが君は自分のサーヴァントを倒せると思うか?」 「?」  セイバーを倒す?  そんなの無理に決まってるじゃないか。  そもそもアイツに魔術は通用しないし、剣術だってデタラメに強いんだから。 「ではもう一つ訊ねよう。つまらぬ問いだが、君は自分がサーヴァントより優れていると思えるか?」 「??」  なに言ってるんだ、こいつ。  俺はセイバーを倒せないんだから、俺がセイバーより優れてるなんて事ありえない。  今の質問はどっちにしたって、マスターである俺の方がサーヴァントより弱いって答え、に―――― 「――――あ」 「そういう事だ。サーヴァントはサーヴァントをもってしても破りがたい。ならばどうするか。  そら、実に単純な話だろう? サーヴァントはマスターがいなければ存在できぬ。いかにサーヴァントが強力であろうと、マスターが潰されればそのサーヴァントも消滅する。ならば」  そう、それはしごく当然の行為。  誰もわざわざ困難な道は選ばない。  確実に勝ち残りたいのなら、サーヴァントではなくマスターを殺す事が、サーヴァントを殺す最も効率的な手段となる―――― 「……ああ、サーヴァントを消す為にはマスターを倒した方が早いってのは解った。  けど、それじゃあ逆にサーヴァントが先にやられたら、マスターはマスターでなくなるのか? 聖杯に触れられるのはサーヴァントだけなんだろ。なら、サーヴァントを失ったマスターには価値がない」 「いや、令呪がある限りマスターの権利は残る。マスターとはサーヴァントと契約できる魔術師の事だ。令呪があるうちは幾らでもサーヴァントと契約できる」 「マスターを失ったサーヴァントはすぐに消える訳ではない。彼らは体内の魔力が尽きるまでは現世にとどまれる。そういった、“マスターを失ったサーヴァント”がいれば、“サーヴァントを失ったマスター”とて再契約が可能となる。戦線復帰が出来るという訳だ。  だからこそマスターはマスターを殺すのだ。下手に生かしておけば、新たな障害になる可能性があるからな」 「……じゃあ令呪を使い切ったら? そうすれば他のサーヴァントと契約できないし、自由になったサーヴァントも他のマスターとくっつくだろ」 「待って、それは――――」 「ふむ、それはその通りだ。令呪さえ使い切ってしまえば、マスターの責務からは解放されるな」 「……もっとも、強力な魔術を行える令呪を無駄に使う、などという魔術師がいるとは思えないが。  いたとしたらそいつは半人前どころか、ただの腑抜けという事だろう?」  ふふ、とこっちの考えを見透かしたように神父は笑う。 「…………っ」  なんか、癪だ。  あの神父、さっきから俺を挑発してるとしか思えないほど、人を小馬鹿にしてやがる。 「納得がいったか。ならばルールの説明はここまでだ。  ―――さて、それでは始めに戻ろう衛宮士郎。  君はマスターになったつもりはないと言ったが、それは今でも同じなのか」 「マスターを放棄するというのなら、それもよかろう。  君が今考えた通り、令呪を使い切ってセイバーとの契約を断てばよい。その場合、聖杯戦争が終わるまで君の安全は私が保証する」 「……? ちょっと待った。なんだってアンタに安全を保証されなくちゃいけないんだ。自分の身ぐらい自分で守る」 「私とておまえに構うほど暇ではない。だがこれも決まりでな。  私は繰り返される聖杯戦争を監督する為に派遣された。  故に、聖杯戦争による犠牲は最小限にとどめなくてはならないのだ。  マスターでなくなった魔術師を保護するのは、監督役として最優先事項なのだよ」 「――――繰り返される聖杯戦争……?」  ちょっと待て。  繰り返されるって、こんな戦いが今まで何度もあったってのか……? 「それ、どういう事だよ。聖杯戦争っていうのは今に始まった事じゃないのか」 「無論だ。でなければ監督役、などという者が派遣されると思うか?  この教会は聖遺物を回収する任を帯びる、特務局の末端でな。本来は正十字の調査、回収を旨とするが、ここでは“聖杯”の査定の任を帯びている。  極東の地に観測された第七百二十六聖杯を調査し、これが正しいモノであるのなら回収し、そうでなければ否定しろ、とな」 「七百二十六って……聖杯ってのはそんなに沢山あるのか」 「さあ? 少なくとも、らしき物ならばそれだけの数があったという事だろう」 「そしてその中の一つがこの町で観測される聖杯であり、聖杯戦争だ。  記録では二百年ほど前が一度目の戦いになっている。  以後、約五十年周期でマスターたちの戦いは繰り返されている。  聖杯戦争はこれで五度目。前回が十年前であるから、今までで最短のサイクルという事になるが」 「な―――正気かおまえら、こんな事を今まで四度も続けてきたって……!?」 「まったく同感だ。おまえの言うとおり、連中はこんな事を何度も繰り返してきたのだよ。  ―――そう。  過去、繰り返された聖杯戦争はことごとく苛烈を極めてきた。マスターたちは己が欲望に突き動かされ、魔術師としての教えを忘れ、ただ無差別に殺し合いを行った」 「君も知っていると思うが、魔術師にとって魔術を一般社会で使用する事は第一の罪悪だ。魔術師は己が正体を人々に知られてはならないのだからな。  だが、過去のマスターたちはそれを破った。  魔術協会は彼らを戒める為に監督役を派遣したが、それが間に合ったのは三度目の聖杯戦争でな。その時に派遣されたのが私の父という訳だが、納得がいったか少年」 「……ああ、監督役が必要な理由は分かった。  けど今の話からすると、この聖杯戦争っていうのはとんでもなく〈性質〉《たち》が悪いモノなんじゃないのか」 「ほう。〈性質〉《たち》が悪いとはどのあたりだ」 「だって以前のマスターたちは魔術師のルールを破るような奴らだったんだろ。  なら、仮に聖杯があるとして、最後まで勝ち残ったヤツが、聖杯を私利私欲で使うようなヤツだったらどうする。平気で人を殺すようなヤツにそんなモノが渡ったらまずいだろう。  魔術師を監視するのが協会の仕事なら、アンタはそういうヤツを罰するべきじゃないのか」  微かな期待をこめて問う。  だが言峰綺礼は、予想通り、慇懃な仕草でおかしそうに笑った。 「まさか。私利私欲で動かぬ魔術師などおるまい。我々が管理するのは聖杯戦争の決まりだけだ。その後の事など知らん。どのような人格が聖杯を手に入れようが、協会は関与しない」 「そんなバカな……! じゃあ聖杯を手に入れたマスターが最悪なヤツだったらどうするんだよ!」 「困るな。だが私たちではどうしようもない。持ち主を選ぶのは聖杯だ。そして聖杯に選ばれたマスターを止める力など私たちにはない。  なにしろ望みを叶える杯だ。手に入れた者はやりたい放題だろうさ。  ―――しかし、それが嫌だというのならおまえが勝ち残ればいい。他人を当てにするよりは、その方が何よりも確実だろう?」  言峰は笑いをかみ殺している。  マスターである事を受け入れられない俺の無様さを愉しむように。 「どうした少年。今のはいいアイデアだと思うのだが、参考にする気はないのかな」 「……そんなの余計なお世話だ。第一、俺には戦う理由がない。聖杯なんて物に興味はないし、マスターなんて言われても実感が湧かない」 「ほう。では聖杯を手に入れた人間が何をするか、それによって災厄が起きたとしても興味はないのだな」 「それは――――」  ……それを言われると反論できない。  くそ、こいつの言葉は暴力みたいだ。  こっちの心情などおかまいなし、ただ事実だけを容赦なく押しつけてくる――― 「理由がないのならそれも結構。ならば十年前の出来事にも、おまえは関心を持たないのだな?」 「――――十年、前……?」 「そうだ。前回の聖杯戦争の最後にな、相応しくないマスターが聖杯に触れた。そのマスターが何を望んでいたかは知らん。我々に判るのは、その時に残された災害の爪痕だけだ」 「――――――――」              一瞬。      あの地獄が、脳裏に浮かんだ。 「―――待ってくれ。まさか、それは」 「そうだ、この街に住む者なら誰もが知っている出来事だよ衛宮士郎。  死傷者五百名、焼け落ちた建物は実に百三十四棟。未だ以て原因不明とされるあの火災こそが、聖杯戦争による爪痕だ」 「――――――――」    ――――吐き気がする。    視界がぼやける。    焦点を失って、視点が定まらなくなる。    ぐらりと体が崩れ落ちる。  だが、その前にしっかりと踏みとどまった。  歯を噛みしめて意識を保つ。  倒れかねない吐き気を、ただ、沸き立つ怒りだけで押し殺した。 「衛宮くん? どうしたのよ、いきなり顔面真っ白にしちゃって。……そりゃああんまり気持ちのいい話じゃなかったけど、その―――ほら、なんなら少し休んだりする?」  よほど蒼い顔をしていたのだろう。  なんていうか、遠坂がこういった心配をしてくれるなんて、とんでもなくレアな気がした。 「心配無用だ。遠坂のヘンな顔を見たら治った」 「……ちょっと。それ、どういう意味よ」 「いや、他意はないんだ。言葉通りの意味だから気にするな」 「ならいいけど……って、余計に悪いじゃないこの唐変木っ!」  すかん、容赦なく頭をはたく学園一の優等生・遠坂凛。  それがトドメ。  本当にそれだけで、さっきまでの吐き気も怒りも、キレイさっぱり消えてくれた。 「……サンキュ。本当に助かったから、あんまりいじめないでくれ遠坂。今はもう少し、訊かなくちゃいけない事がある」  むっ、と叩きたりない顔のまま、遠坂は一応場を譲ってくれる。 「ほう、まだ質問があるのか。いいぞ、言いたい事は全て言ってしまえ」  俺が訊きたい事なんて見抜いているだろうに、神父は愉快そうに促してくる。  上等だ。  衛宮士郎は、おまえになんて負けるものか。 「じゃあ訊く。アンタ、聖杯戦争は今回が五回目だって言ったな。なら、今まで聖杯を手に入れたヤツはいるのか」 「当然だろう。そう毎回全滅などという憂き目は起きん」 「じゃあ―――」 「早まるな。手に入れるだけならば簡単だ。なにしろ聖杯自体はこの教会で管理している。手に取るだけならば私は毎日触れているぞ」 「え――――?」  せ、聖杯がこの教会にある――――? 「もっとも、それは器だけだ。中身が空なのだよ。先ほど凛が言っただろう、聖杯とは霊体だと。  この教会に保管してあるのは、極めて精巧に作られた聖杯のレプリカだ。これを触媒にして本物の聖杯を降霊させ、願いを叶える杯にする。そうだな、マスターとサーヴァントの関係に近いか。……ああ。そうやって一時的に本物となった聖杯を手にした男は、確かにいた」 「じゃあ聖杯は本物だったのか。いや、手にしたっていうそいつは一体どうなったんだ」 「どうにもならん。その聖杯は完成には至らなかった。馬鹿な男が、つまらぬ感傷に流された結果だよ」  ……?  先ほどまでの高圧的な態度はどこにいったのか、神父は悔いるように視線を細めている。 「……どういう事だ。聖杯は現れたんじゃないのか」 「聖杯を現すだけならば簡単だ。七人のサーヴァントが揃い、時間が経てば聖杯は現れる。凛の言う通り、確かに他のマスターを殺める必要などないのだ。  だが、それでは聖杯は完成しない。アレは自らを得るに相応しい持ち主を選ぶ。故に、戦いを回避した男には、聖杯など手に入らなかった」 「ふん。ようするに、他のマスターと決着を付けずに聖杯を手に入れても無意味って事でしょ。  前回、一番はじめに聖杯を手に入れたマスターは甘ちゃんだったのよ。敵のマスターとは戦いたくない、なんて言って聖杯から逃げたんだから」  吐き捨てるように言って、遠坂は言峰から視線を逸らす。 「――――うそ」  それはつまり、言峰は前回のマスターの一人で、聖杯を手に入れたものの戦いを拒否して脱落したって事なのか……!? 「……言峰。あんた、戦わなかったのか」 「途中まで戦いはした。だが判断を間違えた。結果として私はカラの聖杯を手にしただけだ。  もっとも、私ではそれが限界だったろう。なにしろ他のマスターたちはどいつもこいつも化け物揃いだったからな。わたしは真っ先にサーヴァントを失い、そのまま父に保護されたよ」 「……思えば、監督役の息子がマスターに選ばれるなど、その時点であってはならぬ事だったのだ。  父はその折に亡くなった。以後、私は監督役を引き継ぎ、この教会で聖杯を守っている」  そう言って、言峰綺礼という名の神父は背中を向けた。  その視線の先には、礼拝されるべき象徴が聳えている。 「話はここまでだ。  聖杯を手にする資格がある者はサーヴァントを従えたマスターのみ。君たち七人が最後の一人となった時、聖杯は自ずと勝者の下に現れよう。  その戦い―――聖杯戦争に参加するかの意思をここで決めよ」  高みから見下ろして、神父は最後の決断を問う。 「――――――――」  言葉がつまる。  戦う理由がなかったのはさっきまでの話だ。  今は確実に戦う理由も意思も生まれている。  けれどそれは、本当に、認めていいものなのかどうか。 「まだ迷っているのか。  いいか、マスターというものはなろうとしてなれる物ではない。そこにいる凛は長く魔術師として修練してきたが、だからといってマスターになるのが決定されていた訳ではないのだ。  決定されていた物があるとすれば、それは心構えが出来ていたかいないかだけだろう」 「マスターに選ばれるのは魔術師だけだ。魔術師ならばとうに覚悟などできていよう。  それが無い、というのならば仕方があるまい。  おまえも、おまえを育てた師も出来損ないだ。そんな魔術師に戦われても迷惑だからな、今ここで令呪を消してしまえ」 「――――――」  言われるまでもない。  俺は逃げない。  正直、マスターとか聖杯戦争とか、そんな事を言われても実感なんてまるで湧かない。  それでも、戦うか逃げるかしかないのなら、逃げる事だけはしない。    神父は言った。  魔術師ならば覚悟は出来ている筈だと。  だから決めないと。  たとえ半人前でも、衛宮士郎は魔術師なんだ。  憧れ続けた衛宮切嗣の後を追って、必ず正義の味方になると決めたのなら―――― 「―――マスターとして戦う。十年前の火事の原因が聖杯戦争だっていうんなら、俺は、あんな出来事を二度も起こさせる訳にはいかない」    俺の答えが気に入ったのか、神父は満足そうに笑みを浮かべた。 「――――」  ―――迷いは全て断ち切った。  男が一度、戦うと口にしたんだ。  なら、ここから先はその言葉に恥じないよう、胸を張って進むだけだ。 「それでは君をセイバーのマスターと認めよう。  この瞬間に今回の聖杯戦争は受理された。  ―――これよりマスターが残り一人になるまで、この街における魔術戦を許可する。各々が自身の誇りに従い、存分に競い合え」  重苦しく、神父の言葉が礼拝堂に響いた。  その宣言に意味などあるまい。  神父の言葉を聞き届けたのは自分と遠坂だけだ。  この男はただ、この教会の神父として始まりの鐘を鳴らしたにすぎない。 「決まりね。それじゃ帰るけど、わたしも一つぐらい質問していい綺礼?」 「かまわんよ。これが最後かもしれんのだ、大抵の疑問には答えよう」 「それじゃ遠慮なく。綺礼、あんた見届け役なんだから、他のマスターの情報ぐらいは知ってるんでしょ。こっちは協会のルールに従ってあげたんだから、それぐらい教えなさい」 「それは困ったな。教えてやりたいのは山々だが、私も詳しくは知らんのだ。  衛宮士郎も含め、今回は正規の魔術師が少ない。私が知りうるマスターは二人だけだ。衛宮士郎を加えれば三人か」 「あ、そう。なら呼び出された順番なら判るでしょう。  仮にも監視役なんだから」 「……ふむ。一番手はバーサーカー。二番手はキャスターだな。あとはそう大差はない。先日にアーチャー、そして数時間前にセイバーが呼び出された」 「―――そう。それじゃこれで」 「正式に聖杯戦争が開始されたという事だ。凛。聖杯戦争が終わるまではこの教会に足を運ぶ事は許されない。 許されるとしたら、それは」 「自分のサーヴァントを失って保護を願う場合のみ、でしょ。それ以外にアンタを頼ったら減点ってコトね」 「そうだ。おそらく君が勝者になるだろうが、減点が付いては教会が黙っていない。連中はつまらない論議の末、君から聖杯を奪い取るだろう。私としては最悪の展開だ」 「エセ神父。教会の人間が魔術協会の肩を持つのね」 「私は神に仕える身だ。教会に仕えている訳ではない」 「よく言うわ。だからエセなのよ、アンタは」  そうして、遠坂は言峰神父に背を向ける。  あとはそのまま、別れの挨拶もなしにズカズカと出口へと歩き出した。 「おい、そんなんでいいのか遠坂。あいつ、おまえの兄弟子なんだろ。なら―――」  もっとこう、ちゃんとした言葉を交わしておくべきではないのだろうか。 「いいわよそんなの。むしろ縁が切れて清々するぐらいだもの。そんな事より貴方も外に出なさい。もうこの教会に用はないから」  遠坂は立ち止まる事なく礼拝堂を横切り、本当に出ていってしまった。  はあ、とため息をもらして遠坂の後に続く。  と。 「っ――――!」  背後に気配を感じて、たまらずに振り返った。  いつのまに背後にいたのか、神父は何を言うのでもなく俺を見下ろしていた。 「な、なんだよ。まだなんかあるっていうのか」  言いつつ、足は勝手に後ずさる。  ……やはり、こいつは苦手だ。  相性が悪いというか、肌に合わないというか、ともかく好きになれそうにない。 「話がないなら帰るからなっ!」  神父の視線を振り払おうと出口に向かう  その途中。   「――――喜べ少年。君の願いは、ようやく叶う」    そう、神託を下すように神父は言った。          その言葉は。  自分でも気づいていなかった、衛宮士郎の本心ではなかったか。 「―――なにを、いきなり」 「判っていた筈だ。明確な悪がいなければ君の望みは叶わない。たとえそれが君にとって容認しえぬモノであろうと、正義の味方には、倒すべき悪が必要だ」 「っ――――――――」  目の前が、真っ暗になりそう、だった。  神父は言う。  衛宮士郎という人間が持つ最も崇高な願いと、最も醜悪な望みは同意であると。    ……そう。何かを守ろうという願いは、    同時に、何かを犯そうとするモノを望む事に他ならない―――― 「―――おま、え」  けど、そんな事を望む筈がない。  望んだ覚えなんてない。  あまりにも不安定なその願望は、  ただ、目指す理想が矛盾しているだけの話。  だというのに神父は言う。  この胸を刺すように、“敵が出来て良かったな”と。 「なに、取り繕う事はない。君の葛藤は、人間としてとても正しい」  愉しげに笑みをこぼす神父。 「っ――――――」  それを振り払って、出口へと歩き出した。 「さらばだ衛宮士郎。  最後の忠告になるが、帰り道には気をつけたまえ。  これより君の世界は一変する。君は殺し、殺される側の人間になった。その身は既にマスターなのだから」    早足で立ち去る背中に、そんな言葉が投げかけられた。  ……風が出ていた。  丘の上、という事もあるのだろう。  吹く風は地上より強く、頬を刺す冷気も一段と鋭い。 「シロウ。話は終わりましたか」 「……ああ。事情はイヤって言うほど思い知らされた。  聖杯戦争の事も、マスターの事もな」 「それでは――――」  ずい、と身を乗り出して俺の顔を見つめるセイバー。  ……それも当然か。  俺がどんな選択をしたかは、彼女にとって他人事じゃないんだから。 「……ああ。俺に務まるかどうかは判らないけど、マスターとして戦うって決めた。  半人前な男で悪いんだけど、俺がマスターって事に納得してくれるか、セイバー」 「納得するも何もありません。貴方は初めから私のマスターです。この身は、貴方の剣になると誓ったではないですか」  思わず、あの時の光景が蘇った。   「―――そう、だったな。……うん、セイバーがそう言ってくれると、助かる」    ほう、と軽く深呼吸をして、改めてセイバーへと向き直る。 「それじゃ握手しよう。これからよろしく、セイバー」  右手を差し出す。  マスターとサーヴァントの関係なんて知らないし、これから何をするべきかも判らない。  ならせめて、一番初めの挨拶ぐらいはキチンとしておきたかった。 「――――――――」 「セイバー? あれ、もしかして握手はダメか?」 「―――いえ、そんな事はありません。ただ突然だったので、驚きました」  言って、セイバーも右手を重ねてきた。 「今一度誓いましょう。貴方の身に令呪があるかぎり、この身は貴方の剣になると」 「ああ。よく判らないけど、頼む」  セイバーが大真面目なものだから、こっちもつられて頷いてしまった。 「――――――――む」  ……冷静になってみると、おかしな光景ではある。  冬の星空の下。  冷えきった手で出会ったばかりの少女と握手をして、契約じみた言葉を交わしているんだから。 「―――ふぅん。その分じゃ放っておいてもよさそうね、貴方たち」 「――――っ!」  あわてて手を離す。  振り返ると、そこには遠坂と―――あの、赤い外套の騎士が立っていた。 「仲いいじゃない。さっきまでは話もしなかったのに、大した変わり様ね。なに、セイバーの事は完全に信頼したってワケ?」 「え……いや、そういうワケじゃないけど……いや、そういう事になるのか。  まだセイバーの事は何も知らないけど、これから一緒にやってくんだから」 「そ。ならせいぜい気を張りなさい。貴方たちがそうなった以上、わたしたちも容赦しないから」 「?」  言われて、はて、と首を傾げる。  少しの間、言われた意味が解らなかった。 「……あのね。わたしたち、敵同士だって理解してる?  ここまで連れて来てあげたのは、貴方がまだ敵にもなっていなかったからよ。  けどこれで衛宮くんもマスターの一人でしょ? なら、やるべき事は一つしかないと思うけど」 「あ――――む?」    いや、まったくもってその通りなんだが、その。   「なんでさ。俺、遠坂と喧嘩するつもりはないぞ」 「……はあ。やっぱりそうきたか。まいったな、これじゃ連れてきた意味がないじゃない」  がっくりと肩を落とす遠坂。 「凛」 「なに。わたしがいいって言うまで口出しはしない約束でしょ、アーチャー」 「それは承知しているが、このままでは〈埒〉《らち》があくまい。  相手の覚悟など確かめるまでもない。倒し〈易〉《やす》い敵がいるのなら、遠慮なく叩くべきだ」 「む……そんなコト、言われなくても判ってるけど」 「判っているのなら行動に移せ。それとも何か。君はまたその男に情けをかけるのか。  ……ふむ。まさかとは思うが、そういう事情ではあるまいな?」 「そ、そんなワケないでしょう!  ……ただその、コイツには借りがあるじゃない。それを返さないかぎり、気持ちよく戦えないだけよ」 「……ふん、また難儀な。では私は消えるぞ。借りとやらを返したのなら呼んでくれ」  赤い騎士―――アーチャーの姿が消える。  いや、それは姿が見えなくなっただけの話だ。  遠坂曰く、サーヴァントは霊体だという。  セイバーは霊体に戻る事は出来ないと言うが、完全なマスターである遠坂のサーヴァントなら、今のようにあっさりと姿を消す事が出来るのだろう。    ……と、それはそれとして。 「なあ遠坂。借りって、もしかしてさっきの事か?」 「そうよ。カタチはどうあれ、衛宮くんは令呪を使ってセイバーを止めたでしょ。だから、少しは遠慮してあげなくちゃバランスが悪いってコト」 「……バランスって……妙なコトに拘るんだな、遠坂は」 「ええ、判ってるわ。こんなの心の贅肉だって理解してるわよ。けどしょうがないじゃない、わたし、借りっぱなしって嫌いなんだから」  ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向く。 「けど、こんなのは期間限定のサービスなんだから。明日になったら容赦しないから、せいぜいセイバーと作戦でも立てなさい」 「……む。つまり、サービスは今日一杯ってワケか?」 「そうよ。……ま、ここまで連れてきたのはわたしだし。  その、町に戻るぐらいまでは面倒みてあげるわ」  そうして、俺たちと目を合わせないように遠坂は歩き出した。 「行きましょう、シロウ。彼女の言う通り、ここに長居するのは良くない」 「…………」  セイバーの言葉に頷いて、ずんずんと歩いていく遠坂の後を追った。  三人で坂を下りていく。  遠坂が一人で先行していた為か、これといった会話もないまま坂道を下りきった。  ここから先は単純な分かれ道だ。  新都の駅前に続く大通りに行くか、深山町に繋がる大橋へと進むか。 「――――――――」  その交差点の前で、ピタリと遠坂は立ち止まった。 「遠坂? なんだよ、いきなり立ち止まって。帰るなら橋の方だろ」 「ううん。悪いけど、ここからは一人で帰って。  衛宮くんにかまけてて忘れてたけど、わたしだって暇じゃないの。せっかく新都にいるんだから、捜し物の一つもして帰るわ」 「――――捜し物って、他のマスターか?」 「そう。貴方がどう思っているか知らないけど、わたしはこの時をずっと待っていた。七人のマスターが揃って、聖杯戦争っていう殺し合いが始まるこの夜をね。  なら、ここで大人しく帰るなんて選択肢はないでしょう? セイバーを倒せなかった分、他のサーヴァントでも仕留めないと気が済まないわ」 「――――――――」  ……遠坂の目に迷いはない。  それで思い知らされた。  遠坂凛は、一人前の魔術師だ。  その知識も精神も、魔術師として完成されている。 「――――――――」  なのに、どうして。 「だからここでお別れよ。義理は果たしたし、これ以上一緒にいると何かと面倒でしょ。きっぱり別れて、明日からは敵同士にならないと」    こう、魔術師とは正反対の余分を持っているのか。  遠坂は義務感からルールを説明したんじゃない。  あくまで公平に、何も知らない衛宮士郎の立場になって肩入れしただけだ。  だから説明さえ終われば元通り。  あとはマスターとして、争うだけの対象になる。 「………………」  にも拘わらず、遠坂はそんなコトを言う。  遠坂凛から見れば、今夜の事は全て余分だ。 『これ以上一緒にいると何かと面倒』  そんな台詞を口にするのなら、遠坂は初めから一緒になんていなければ良かったのだ。  聡明な彼女の事だから、それは判りきっている筈。  それでも損得勘定を秤にもかけないで、遠坂凛は衛宮士郎の手を取った。  ……目の前にいる遠坂は、学校で見る彼女とはあまりにも違う。  控えめにいっても性格はきついし、ツンケンしていて近寄りがたいし、学校での振る舞いはなんなんだー、と言いたくなるぐらいの変わり様だ。  いやもう、こんなのほとんどサギだと思う。    ……だが、まあそれでも。  遠坂凛は、みんなが思っていた通りの彼女でもあったのだ。 「―――ああ。遠坂、いいヤツなんだな」 「は? なによ突然。おだてたって手は抜かないわよ」  そんな事は判っている。  コイツは手を抜かないからこそ、情が移ると面倒だって言い切ったんだから。 「知ってる。けど出来れば敵同士にはなりたくない。俺、おまえみたいなヤツは好きだ」 「な――――」  何故か、それきり遠坂は黙ってしまった。  人気の絶えた郊外。  遙か頭上にそびえる教会と、丘に広がる外人墓地の静けさが、今は不思議と温かい。 「と、とにかく、サーヴァントがやられたら迷わずさっきの教会に逃げ込みなさいよ。そうすれば命だけは助かるんだから」 「ああ。気が引けるけど、一応聞いておく。けどそんな事にはならないだろ。どう考えてもセイバーより俺のほうが短命だ」 「――――ふう」  またもや謎のリアクションを見せる遠坂。  彼女は呆れた風に溜息をこぼした後、ちらり、とセイバーを流し見た。 「いいわ、これ以上の忠告は本当に感情移入になっちゃうから言わない。  せいぜい気を付けなさい。いくらセイバーが優れているからって、マスターである貴方がやられちゃったらそれまでなんだから」  くるり、と新都に向けて歩き出す遠坂。    が。    幽霊でも見たかのような唐突さで、彼女の足はピタリと止まった。               「――――ねえ、お話は終わり?」    幼い声が夜に響く。  歌うようなそれは、紛れもなく少女の物だろう。  視線が坂の上に引き寄せられる。    そこには――――  いつのまに雲は去っていたのか、空には煌々と輝く月があった。    影は長く、絵本で見る悪魔のように異形。  仄暗く青ざめた影絵の町に、酷く、あってはならぬモノがそこにいた。 「―――バーサーカー」    聞き慣れない言葉を漏らす遠坂。  意味するところは判らないまでも、あの巨人が持つ異質さは嫌というほど感じ取れる。    アレは人間ではない。  ならば―――セイバー達と同じ、サーヴァントと呼ばれる〈存在〉《もの》だ。 「こんばんはお兄ちゃん。こうして会うのは二度目だね」    微笑みながら少女は言った。  その無邪気さに、〈背筋〉《せすじ》が寒くなる。  少女の姿は背後の異形とあまりにも不釣り合いで、悪い夢を見ているようだった。 「――――――――」  いや、背筋なんて生やさしいものじゃない。  体はおろか意識まで完全に凍っている。  アレは化け物だ。  視線さえ合っていないのに、ただ、そこに在るだけで身動きがとれなくなる――― 「―――驚いた。単純な能力だけならセイバー以上じゃない、アレ」    舌打ちをしながら、頭上の怪物を睨む遠坂。  その背中には、俺と同様の絶望と―――それに負けまいとする、確かな気迫が感じられた。 「アーチャー、アレは力押しでなんとかなる相手じゃない。ここは貴方本来の戦い方に徹するべきよ」  呟く声。  それに、姿のない騎士が応答する。 「了解した。だが守りはどうする。凛ではアレの突進は防げまい」 「こっちは三人よ。凌ぐだけならなんとでもなるわ」  それに頷いたのか。  遠坂の背後に控えていた気配は、一瞬にして何処かに消失した。 「―――衛宮くん。逃げるか戦うかは貴方の自由よ。  ……けど、出来るならなんとか逃げなさい」 「相談は済んだ? なら、始めちゃっていい?」    軽やかな笑い声。  少女は行儀良く、この場に不釣り合いなお辞儀をした。 「はじめまして、リン。わたしはイリヤ。  イリヤスフィール・フォン・アインツベルンって言えばわかるでしょ?」 「アインツベルン――――」  その名前に聞き覚えでもあるのか、遠坂の体がかすかに揺れる。  そんな遠坂の反応が気に入ったのか、少女は嬉しそうに笑みをこぼし、   「――――じゃあ殺すね。やっちゃえ、バーサーカー」    歌うように、背後の異形に命令した。  はい、やってきましたタイガー道場!  今回から第二部という事で、装いも新たに生まれかわった…… ……って、あれ? ぜんぜん変わってなーーーーい……!!!! さて、本編も第二ターン。  激動の遠坂さんルートが始まったけど、イリヤちゃん、何かいうコトある? あいたたた……うう、ガセネタつかませてごめんなさいでした……。 うむ、反省するように。  確かにタイトルインは変わったみたいだけど、内容は以前のまま、むしろ――――。 ……第二部になって、連中の跳梁が目立ちはじめたようね。…………テコ入れ? そうね。わたしはともかく、タイガはキャラ的にちょっと弱いもの。 やっぱり、これからはわたしをメインにしてタイガはゲスト扱いにした方が―――。 さて、今回のデッドエンドであるが!  原因はなにかな造反員一号! はぁい、シロウが臆病風に吹かれたからでーす。  あ、〈犯人〉《ほし》は不明なままっす。 屋敷を出た途端、不意打ちで殺されたのよね。 今回はアーチャーが健在なんだから、強気でバーサーカーと戦わないと。以前やられた借りを返しちゃいなさい。 ふぅーん、そううまくいくかしら?  アーチャーが何処の英雄だろうと、まだわたしを倒せるほどの勢力じゃないと思うけどなあ。 む。しょ、勝負はやってみなくちゃ分からないわ。  今回はセイバーちゃんルートとは違うんだから。 そう? なら結果を見てみましょう。  急造のコンビが、わたし相手にどこまで戦えるかどうかをね。 う……本性出し始めたなこの悪魔っ子。  ところで、ずっと疑問だったんだけど訊いていいかなイリヤちゃん。 イリヤちゃんって、魔術師としてのレベルはどうなの?  遠坂さんと同じくらい? わたし? ……んー、厳密に言うと、わたしは魔術師じゃないわ。 どっちかっていうとキャスターに近い存在で、生まれてから魔術を習ったんじゃなくて、生まれつき魔術を知ってるの。この違い、分かる? むむむ? 分かるような分かりたくないような。  ようするにイリヤちゃん、ホントに悪魔? ふふふ。タイガったら、たまに可愛いコト言うのね。  そういう核心つくようなコト言うとコロシちゃうぞ? ぎゃー! なんか怖い顔出たー! たすけてバビロニアの神よーーー! ……まったく。つまんない話聞くんだから。  わたしが何者かなんて、そのうちイヤでも分かるのに。 さ、シロウは続き続き。 新しい戦いは始まったばかりよ。こんなところでつまずいてないで、早くセイバーのところに戻ってあげるコト! 午後七時。  待ち合わせの時間通りに遠坂はやってきた。 「おまたせ。必要な物を揃えてたら時間かかっちゃった。  で、そっちの準備はどう?」 「――――――――」  ん、と手にした竹刀袋を差し出す。  中には木刀が一本。  俺が用意する準備なんてこの程度である。 「……ま、しょうがないか。そもそも白兵戦ならこっちはセイバーがいるんだし、衛宮くんは様子を見ているだけでいいかもね」 「そうだな。セイバーがいる以上、俺はセイバーのフォローをするだけだ」  ……まあ、セイバーの背中を守る、という状況も考えづらいのではあるが。 「凛。なぜアーチャーはいないのですか?」  と。  真剣な顔をして、セイバーはそんな事を口にした。 「え……? 遠坂、アーチャーを連れて来てないのか?」 「―――ええ、アイツなら置いてきた。今夜は奇襲だし、セイバーがいるなら必要ないでしょ。正直なところ、あいつとキャスターを会わせたくないのよ」  行くわよ、と歩き始める遠坂。  ……何を考えているかは知らないが、今回アーチャーの助けはない、という事だ。  ……時間が過ぎていく。  学校から柳洞寺に帰るには、どうしてもこの交差点を通らなければならない。  そんな訳でここに網を張ること一時間。  遠坂によって簡易的な結界―――   「外から見られるのはアウトだけど、防音だけは完璧よ。  ここ一帯、ミサイルが落ちても周りには気づかれないわ」    ―――だそうだ。  周囲はあまりにも静かだ。  遠坂の結界が働いている、というのもあるのだろうが、町にはあまりにも活気がない。    ―――聖杯戦争が始まってから、すでに七日。    町は誰にも気づかれないところで、少しずつその精気を削ぎ落とされているようだった。 「――――来た。衛宮くん、隠れて」 「っ――――」  体を壁ぎわに寄せる。  ……足音も聞こえない。  街灯の下にあるのは、一人分の人影。  長身痩躯。  校舎で見慣れたその姿は、間違いなく葛木宗一郎だ。  葛木先生は普段通り、乱れのない足取りで目の前を通り過ぎていく。 「――――――――」  それがあまりにも無防備すぎるというか。  ここにきて、葛木先生はなんの関係もないのではないか、という不安が蘇ってきた。 「……なあ遠坂、やっぱり葛木は違うんじゃないのか」 「…………。ま、やってみればはっきりするでしょ」  遠坂も半信半疑っぽい。  それでも作戦を決行するのか、トコトコと通り過ぎていく葛木先生に向かって、遠坂は人差し指を向けた。  ――――ガンド。    もっとも単純な魔術とされる、対象の身体活動を低下させる『呪い』である。  遠坂のソレはすでにガンド撃ちというより鉄砲撃ちだが、今回はちゃんと威力を抑える筈だ。 「――――準備はいい、衛宮くん」  ぼそり、という声。 「――――――――」  今ならまだ間に合う。  葛木宗一郎が無関係である可能性。  ガンド以外でマスターかどうかを確かめる手段があるのではないか――――      ―――やっぱりダメだ。  いくらなんでも、この方法は乱暴すぎる……! 「遠坂、待った……! 幾らなんでも軽率すぎる……!」 「いまさら遅いっ、ここまで来て止められるかっ!」 「っ――――!」  遠坂の左手が突き出される。  その直後、耳を刺すような音をたてて、黒いモノが放出された。 「――――――――」  ……焦燥に、歯を噛んで耐えた。  こうなったら腹をくくるしかない。  もし葛木先生が無関係だったのなら、その時は全力でかかった『呪い』を除去するだけだ。 「仕掛けるわよ――――!」    スッ、と短く息を吸う音。  その直後、耳を刺すような音をたてて、黒いモノが放出された。 「――――――――」  その光景を、誰もが呆然と見つめていた。  俺と遠坂だけじゃない。  本来勝ち誇る筈のキャスターでさえ、呆然と自らの主を凝視していた。  セイバーの速攻から葛木の反撃。  悪夢のような首打ちから、敵である俺たちでさえ見惚れるほど、見事すぎた一投まで。 「――――――――」  セイバーは動かない。  首を掴まれたまま投げられ、背中から壁に激突した。  首の傷はおそらく致命傷。  加えて、トドメとばかりにあのスピードで壁に叩きつけられたのだ。  ―――即死、という訳ではなさそうだが、動く事は出来まい。  少なくとも、首の傷と全身の打撲が癒えるまでセイバーは地面に倒れたままだろう―――― 「そんな、ばかな」    知らず声が漏れる。  拳をキャスターの魔術で強化されているといっても、葛木は生身の人間にすぎない。  それがまさか、格闘戦でサーヴァントを圧倒するなど誰が思おう。 「マスターの役割は後方支援などと決めつけるのはいいがな」  振り返る痩躯。 「例外はつねに存在する。私のように、前に出るしか能のないマスターもいるという事だ」  それは、たった今見せつけられた。  つまり、この二人は。  〈後方支援〉《マスター》と〈戦闘担当〉《サーヴァント》、その役割がまったくの逆なのか………! 「何をしているキャスター。事前に言っておいただろう。  後方支援をするのなら、敵の飛び道具は始末しておけと」  敵―――葛木の視線が遠坂を捉える。  ヤツにとって脅威なのはセイバーではなく、遠距離攻撃を可能とする遠坂だ。  だから葛木は俺たちを狙わない。  魔術師の相手は魔術師にさせるのが確実なのだと、あいつは肌で感じ取っている。 「どうしたキャスター。好きにしていい、と言ったが」 「―――いえ、セイバーには私が手を下します。宗一郎、貴方は残ったマスターを」 「―――――――」  キャスターの提案に無言で頷き、葛木は俺たちへと足を向ける。  その背後で、キャスターは倒れ伏したセイバーへと向き直った。 「―――上等。セイバーは面食らってやられたけど、あいつのネタは判ってる。要は近づかれる前に倒せばいいんでしょ」  葛木を睨みつけたまま、遠坂はじりじりと後退していく。  ―――魔術師と戦士の戦いは距離との戦いだ。  いかに化け物じみた格闘技能をもっていようが、葛木に対魔力はない。  故に、放てば勝てる。  近づかれる前に一つでも呪文を編み上げられればこちらの勝ちだ。 「――――――――」  葛木は足先を遠坂に向けたままで動かない。  キャスターはセイバーが放り投げられた壁へと歩いていく。  ……あの行為は失策だろう。  そこに付け入る隙があるが、今は――――      ―――セイバーを守り抜く。    倒せないまでも、逃げる事に専念するなら遠坂に分がある。  距離にして五メートル。  あと一歩でも葛木が近づけば遠坂は即座に反応して、葛木の拳をやり過ごすだろう。  だがセイバーは違う。  ライダーのように首を半分以上削がれ、背中から壁に叩きつけられた。  今のセイバーは死に体だ。  魔術師に対して無敵であろうと、あれでは容易くキャスターに倒されてしまう……! 「遠坂、頼む――――!」  木刀を握り直し、目前の葛木へと突進する。  目的はその向こう、キャスターに襲われようとしているセイバーだ。  走り抜けざまに葛木に木刀を振るう。  当然躱されるだろうが、その隙を、遠坂なら確実に狙い撃ってくれる筈……!  葛木の脇をすり抜けながら木刀を一閃する。 「ぐ、く――――!?」    ―――問題にもならない。  木刀は容易く粉砕され、返す拳は俺の足許を〈奪っていき〉《・・・・・》、    わずか一瞬で、遠坂に踏み込んでいた。    ―――時間が止まる。  愕然としながら、それでも咄嗟に手のひらを葛木に向ける遠坂。    その胸の中心に、ガン、と。  あの、セイバーの首を貫こうとした右手が打たれていた。 「あ――――ぐ…………!」    胸を打たれ、呼吸を止められる遠坂。  そこへ、    城壁を穿つ〈槌〉《つち》めいた一撃が、容赦なく顔面に食い込んだ。 「とお――――さか」  ……その、無残な姿を見て、自分の末路を認めてしまった。  ……そこに遠坂の顔が見えない。  葛木の一撃が穿った跡には、何も残っていなかった。 「キャスター同様、判断を誤ったな衛宮」 「…………」  顔をあげられない。  ……教室で、答えが解らず俯く生徒のように、恐ろしくて葛木を見る事ができない。  歩くことすらできず立ち尽くす。 「――――人を殺したのは、これで二人目だが」    かつん、という足音。  葛木宗一郎という殺人鬼は、ゆっくりと俺へ歩み寄り。   「やはり、何の感慨も浮かばないな」    ガスン、と。  嘘みたいな音をたてて、俺の胸を打ち抜いていた。  ――――遠坂を守る。    セイバーは死んだ訳じゃない。  葛木が予想外の化け物だったとしても、セイバーはまだ負けてはいない。  加えて、セイバーがキャスターなんかにトドメをさされる事もない。 「――――――――」  木刀に力をこめる。  葛木の姿、その瞬きさえ見逃すまいと睨み付ける。  ヤツが遠坂へ体を向けた瞬間、遠坂の前に割ってはいる。  遠坂の事だ、咄嗟に左右に跳んで葛木を狙い撃ちにしてくれるだろ―――― 「きゃっ……!」    そんな余裕など、なかった。  わずか一瞬。  わずかに葛木の体がブレた、と思った瞬間、葛木は遠坂の目の前にいた。  愕然としながら、それでも咄嗟に手のひらを葛木に向ける遠坂。  その胸の中心に、ガン、と。  あの、セイバーの首を貫こうとした右手が打たれていた。 「あ――――ぐ…………!」  遠坂の時間が止まる。  胸の中心を点穴され、呼吸を封じられた。  それで終わりだ。  息、呪文が口にできなければ、魔術師はその大部分の性能をカットされる。  咄嗟に跳び退いたおかげか、胸への一撃は呼吸を奪うに留まった。  だが次弾。  後ろに跳んだといっても一メートル弱。  そんな〈距離〉《モノ》、  葛木にとっては逃げた事にすらならない――――! 「しっ――――!」    両者の間に割って入る。  手にした木刀を盾に、遠坂を追撃する葛木と対峙する。  一転して放たれる拳。 「なっ……!?」  見えない……!?  こんなもの、どうやってセイバーは避け――――   「っ――――、ぐ――――!」    夢中で左側だけを守る。  重い打撃音と、木刀の砕ける音。  目前には次弾を放つ葛木の姿。    ――――死ぬ。    直感した。  強化された木刀は鉄と同じだ。  それを一撃で叩き折るのなら、俺の体など何処を狙っても破壊できる。    ――――止められない。    背後には苦しげに咳き込む遠坂。  葛木の攻撃は見えず、唯一の武器さえ破壊された。    的確にこめかみを狙ってくる拳。  鉄槌めいたソレで、衛宮士郎は死ぬだろう。    ――――止められないと、死ぬ。    武器だ。  俺ではこいつには太刀打ちできない。  あまりにも開いた溝を埋めるには、せめて強い武器が要る。    脳髄に迫る。  直に殺されるイメージ。  それはダメだ。そんな事になったら、そう    ――――止められなければ、死んでしまう。    武器。武器があればいい。  こいつに壊されない武器、木刀なんて急造のものじゃなく鍛え上げられた強い武器がいる。  それも極上、俺には不相応の剣、そうだ、あいつが持っていた武器でなら、きっと――――   「――――〈投影〉《トレース》、〈開始〉《オン》」    なら作る。無理でも作る。どんな犠牲を払ってでも作る。  強化と複製、元からある物と元々ない物、その違いなど僅かだと思い込め。      そうだ、考えている余分はない、なんとしても偽装しろ。  故障してもいい、どこかを失ってもかまわない、偽物だろうと文句はない、急げ、忘れろ、わかっているのか、壊れるのはおまえだけじゃない、ここで止められなければ、後ろにいる遠坂を――――…………!!!!!!!   「え、うそ……!?」    その光景を。  俺のかわりに、遠坂が代弁した。 「ぬっ――――」    くぐもった声。  それは葛木の声だったのか。  耳がどうかしてしまったのか、音がよく聞こえない。  いや、耳だけじゃなく手足の感覚もあまりに希薄。  満足な右目だけが生きている。  繰り出される葛木の拳を見る。    それを防いでいる、他人事を観察する。 「――――――――」    腕が空っぽになったみたい。  感覚はないクセに、ぶつぶつと神経が千切れていく音を聴く。  両の手にはあいつの双剣がある。  〈陽剣干将〉《ようけんかんしょう》、〈陰剣莫耶〉《いんけんばくや》。  剣の名称。  デタラメに複製された剣は、それでも持ち主に、自らの存在を提示する。            ――――けど、わるい。  今の俺では、おまえたちを投影しきる事が出来ない。 「ぐっ――――!」 「―――――――」  間合いが離れる。  三十もの拳を弾いた双剣は、もはや耐えられぬとばかりに砕け散った。  葛木の拳に負けたからじゃない。  双剣はあくまで、剣を維持しきれない俺自身のイメージによって消滅した。 「――――――――」    今の双剣が予想外だったのか、初めて躊躇らしきものを見せる葛木。  その時、    強い風が、交差点に巻き起こった。 「セイバー……!」  壁際に視線を移す。  回復したのか、セイバーは立ち上がっていた。  その前には後じさるキャスターがいる。  ……そう、だから失策だったのだ。  いかに倒されたとはいえ、セイバーはまだ力を失った訳じゃなかった。なら、強力な対魔力を持つセイバーがキャスターに追い詰められる筈がない。  セイバーを倒すのなら、それはあくまで葛木の役割。  にも関わらずキャスターは見誤った。  何か目的があったようだが、その余分が確実な勝機を逸したんだ。 「――――――――」  葛木が退く。  セイバーに気圧されるキャスターを庇うように立ち、   「ここまでだ。退くぞキャスター」    そう、的確な判断を下す。 「マスター……!? いいえ、セイバーは手負いです、貴方なら先ほどのように――――!」 「二度通じる相手ではない。侮ったのは私の方だったな。  あと一芸、手を凝らすべきだった」    ……葛木は正しい。  セイバーが一方的に追い込まれたのは、葛木の技があまりに奇異だったからだ。  だがそれも先ほどまで。  俺では何度受けようが対応できないが、セイバーはすでに慣れてしまっている。    戦法とは形がない事を極意とする。  強力ではあるがあまりにも特殊な形の為、葛木の攻撃は見切られやすい。    初見、故に必殺。    芸術にまで磨き上げられた“技”と、  極限にまで鍛え上げられた“業”の違いが、ここにある。 「……分かりましたわ宗一郎。  ええ、サーヴァントである以上、マスターの命令には従わないといけませんものね」  それは誰にあてつけたものなのか。  忌々しげに吐き捨て、キャスターは大きくローブを翻す。    ……その後には何もない。  紫紺のローブは葛木の体を包み込んだあと、それこそ魔法のように、交差点から消失していた。                 ――――そうして、そいつの夢を見る。              英雄の座に祭り上げられた男の記憶。  最期まで誰にも理解されなかった、或る騎士の物語。    それは簡単な話だった。  ようするに、そいつはどうかしていたのだ。  それなりの力があって、それなりの野心もあった。  なのに力の使いどころを終始間違えて、あっけなく死んだだけ。    それも当然だろう。  力っていうのは、自分自身を叶える為のものだ。  情けは人の為ならず。  綺礼もよく言うけど、あらゆる行為は自身に返ってくるからこそバランスがとれている。  行為はくるっと循環するからこそ元気が戻ってきて、次の活力が生み出されるのだ。    それが無いという事は、補充が無いという事だ。  たとえば自分の為ではなく、誰かの為だけに生きてきたヤツなんて、すぐ力尽きるに決まっている。    使い捨ての紙幣があるとしたらそれだ。  散々他人に使われて、終わってしまえば消えるだけ。  付け入る事は簡単だし、利用するのは既に前提。    そんなんだから、そいつは、結局。  色々なものに色々な裏切りを見せられて、救ったうちの“誰か”の手によって、その生涯を終えていた。    ……とにかく、それが無性にあたまにきた。  どうして、と文句を言いたくなる。  頑張って頑張って、凡人のくせに努力して、血を流しながら成し得た奇蹟があった。  その報酬が裏切られて死んだ、なんて笑い話にもならない事だったのに、そいつは満足して死んだのだ。    他人の人生に口を挟む気はないけど。  わたし、その一点だけは絶対に認められない。          それが今まで何度か見てきた夢の感想。  いつもならここで目が覚めて朝を迎える。    ―――だっていうのに。  今朝に限って、夢には続きがあるようだった。              ――――その地獄に、そいつは立っていた。    おそらくは何かの事故現場で、争いによる惨状じゃない。             “契約しよう。我が死後を預ける。その報酬を、ここに貰い受けたい”    契約の言葉を紡ぐ。  その後、そいつは何かに憑かれたように様変わりして、本来救える筈のない人々を助け出していた。  ……ああ。ようするにコレが、そいつが『英霊』になった事件なワケだ。    ……そうしてみると、なんだ、わりあいあっけない。  そいつが救った命は、きっと百人にも満たないだろう。  そんな数では“英雄”と呼ばれる事もないし、“英霊”として登録される事もない。    けど、重要なのは数じゃない。  要はあれだ、本来〈死ぬべき定めにある命〉《・・・・・・・・・・》を救えるかどうかこそが、英雄、人間を越えたモノの資格なのだ。    それは運命の変更。  規模は小さくとも、もうどのような手段を用いても変えられない災害を打破したのなら、そいつ本人に英雄としての力がなくともかまわない。    否。  もとよりその奇蹟の代償として、世界は“英霊”を手に入れるのだ。    そいつは英雄になって、救えない筈の命を救った。  その結果、死んだ後は英霊となって、生前と同じ事を繰り返している――――    つまりは〈奴隷〉《サーヴァント》。    死んだ後も他人の為に戦い続ける、都合のいい使い捨ての道具になる事が、奇蹟の代償という事らしい。    英霊。  人間から輩出された優れた霊格、人類の守護精霊。  ―――だがそれは、サーヴァントのように自由意思を持つモノではない。    英霊とは、人類の守護者である。  守護者に自由意思などなく、ただ“力”として扱われる。  人の世を守る為、『世界を滅ぼす要因』が発生した場合にのみ呼び出され、これを消滅させる殲滅兵器。  サーヴァントシステムとは、その“守護者”を利用した召喚儀式に他ならない。    守護者はあらゆる時代に呼び出され、人間にとって破滅的な現象を排除した後、この世から消滅する。  ……わたしはそんなのはゴメンだけど、そいつは覚悟の上だったのだろう。    いや、もしかしたら望んでいたのかもしれない。  死んだ後も人々を救えるのなら、それは願ってもない事だと。  生前は力がなく救えなかったが、英霊になればあらゆる悲劇を打破できると。  そんな事を思って、世界との取引に応じて死後の自分を差し出して、百人の命を救ったんだ。    ……その後は。  もっと多くの、何万人という命が救えると信じきって。    ――――なんて、バカ。    そんな事あるはずがない。  だって、英霊が呼び出されるという時点で、そこは死の土地と化しているんだから。    英霊、守護者が現れる場所は地獄でしかない。    彼らは、世界が人の手によって滅びる場合にのみ出現する。  人間は自らの業によって滅びる生き物。  だから、滅びの過程はいつだって同じはずだ。    嫉妬。憎悪。我欲。妄念。    人を愛して、その為になろうとしたそいつは、死んだ後も同じ〈醜さ〉《もの》を見せられ続けた。  その場所に呼び出されて、契約通り守護者として責を果たした。    ―――殺して。    殺して殺して殺して殺して、人間っていう全体を救う為に、呼び出された土地にいる人間をみんな殺した。  それを何度繰り返したのか私には判らないし―――これから何度繰り返していくのかも、わたしには知る術もない。    ……だから、言える事は一つだけ。  そいつはずっと、色々なものに裏切られてきたけど。    結局最後は、唯一信じた理想にさえ、裏切られたという事だ。   「あっちゃあ――――――――」    目が覚めて、とりあえずはそんな言葉しか言えなかった。  体は妙にだるくて、ベッドからピクリとも動かない。  はっきりしているのは意識だけで、意味もなく天井を見つめたりする。   「……薄々そうだろうとは思ってたけど。アレ、やっぱりあいつの記憶だったか」    はあ、と溜息をついて天井を見つめる。  ……やり辛いなぁ。  マスターとサーヴァントは霊的に繋がっているから、睡眠時にあっちの記憶層に迷い込む事だってある、とか教えてくれれば良かったのに。  そうしたら意識をカットして、あんなモノ見ずにいられたのだ。   「――――起きよ。今日もいっぱいやる事あるし」    ベッドから体を起こす。  体は重く、目蓋も石か鉄みたいに重い。  朝に弱い体質を恨みながら、もそもそと寝間着から制服に着替える。   「けど、まあ」    納得したというか、意外だったというか。  あいつ、昔はわりと熱血漢だったんだ。  どんな英雄だったかはまだ判らないけど、昔はもっと素直だったっぽい。   「……ま、それもあんな人生送ったあげく、死後もこんな目にあわされちゃあ、確かに性格歪むわよね」    あはは、と陽気に笑い飛ばす。  姿見に映った顔は笑うどころか泣きそうなぐらい深刻だったけど、それでも笑う事にした。  だって、そうでもしないと〈アーチャ〉《あいつ》ーとまともに顔を合わせられないだろうから。    朝の支度を済ませて、居間で淹れたての紅茶を飲む。  朝食はとらない主義なので簡素なものだ。  登校までの十五分、朝の一杯は寝ぼけている体を覚醒させる為の儀式と言っていい。   「凛、いつまで遊んでいるつもりだ」    だっていうのに、主人の気分を読みとれない無頼が一人。   「いつまでって、七時半までよ。それを過ぎたら遅刻しちゃうじゃない」 「誰が登校時間を言っているか。私が言いたいのは聖杯戦争の事だ。  ……他のマスターと協力する事は悪くない。だが、君の場合は選んだパートナーが悪すぎる」 「――――はあ」    またその話題か。  アーチャーは事あるごとに衛宮士郎との協定を切れ、と提案してくる。   「だからその気はないって言ったでしょう。アーチャーはそう言うけど、わたしは適任だと思う。そりゃ戦力としては不安だけど、協力者としては文句なしでしょ。  ……その、衛宮くんなら何があっても裏切らないと思うしさ」   「本来信頼は駆け引きで築くものだ。理由のない信頼などそれこそ信用ならん。いいか、アレは勝ち残れる人間ではない。協力者を選ぶというのなら、まだキャスターのマスターの方が賢い」 「ふざけないでアーチャー。アンタ、私にあんな外道と志を同じにしろっていうの」    ティーカップを置いてアーチャーを見据える。  皮肉だとしても、今の発言は聞き捨てならない。   「――――――――」 「――――――――」    ……場が凍る。  わたしは本気で怒っていて、アーチャーも発言を訂正する気はない。  わたしたちはそのままの姿勢で、互いの目を見つめていた。   「確かにキャスターは外道だが、アレはアレで実に魔術師らしい。  その点で言えば、凛は戦いには向いていない。魔術師ならば志より結果をとるべきだ」 「皮肉を言っても無駄よ。私は方針を変えないわ」 「……まったく、どうしたのだいったい。衛宮士郎と知り合ってからの君はおかしいぞ。以前の合理性はどこにいった」   「――――――――」    ……ふん。  そんなの、アンタに言われなくっても気づいてる。  けどしょうがないじゃない。  あいつは魔術師のくせになんにもなくて、そのくせ危なっかしいぐらい一本気なんだから。  そーゆう相手に駆け引きとか策略とかをかけても不毛なだけだし、それに――――あいつは、その。   「凛? どうした、ようやく自分の愚かさに気づいたか?」 「―――そうね。ええ、わたしはどうかしてる。  けどアーチャー。それもこれもみんな、アンタがつまんないモノ見せるからじゃない」 「なに?」   「……いいわ、忘れて。とにかくアンタがわたしのサーヴァントである以上、わたしは〈自分〉《わたし》が信じるコトしかやらない。わたしは衛宮士郎ほど甘くはないけど、それでも譲れないものがある。相手が何者であろうと、それを譲る気なんかない」    怒りを込めて言った。    ―――それで、今更ながら気が付いた。    わたしはこいつの過去を知って同情なんてしていない。  ただもう、ひたすらに怒っているだけなんだって。   「……ふんだ。アーチャー、返事は!?」    ヤケになってアーチャーを睨み付ける。  赤い外套の騎士は、はあ、ともう何度も見たおきまりのポーズをして、   「仕方あるまい。主が不調ならば支えるのが臣下の役割だからな。君が本調子になるまで、陰ながら見守るとしよう」    と、イエスなんだかノーなんだか判らない返事をした。 「――――――――」  ……目を覚ます。  目覚めは重く、頭の中に鉛が入っているようだ。 「――――なんだろう。ここんとこ、目覚めが悪いな」  考え事が多いからか、それともおかしな夢でも見ているのか。 「っ――――」  あまり夢を見ない自分が、ここ最近は夢らしきモノを見ている気がする。 「……まあ、綺麗な刀だったけどさ」  夢に見るのは、漠然とした剣のイメージだ。  その中でもあいつの短剣は頻繁に出てきてしまう。 「―――チッ。そうだよ、気に入ってるよ、悪いか」  いもしないアーチャーに悪態をついて、布団から体を起こす。  時刻は朝の六時前。  不確かな夢で一喜一憂している場合じゃない、さっさと朝飯の支度をしよう。  セイバーに見送られて家を出る。  この生活にも慣れたもので、朝はとりわけ何もなく、実にスムーズに過ぎていった。  校門に遠坂の姿はない。  一成が怪しい、という唯一の突破口が消えた今、あいつも情報集めに忙しいんだろう。 「―――って、人ごとじゃない。俺も調査しないと」  ……かといって、どうやって調べればいいものか。  遠坂は学校にいる人間を調べているだろうから、俺は校舎をもう一度調べてみよう――――    ―――とまあ、今まで判らなかったものが都合よく判る筈もない。  午前中の休み時間と昼休みの前半を使って校舎を走り回ったものの、異状がありそうな場所は発見できなかった。 「うむ。なにか知らんが、お疲れ」  既に昼食は済ませたのか、時代がかった詩集を読みながら、一成はねぎらってくれた。 「…………サンキュ。飯食うからお茶貰うぞ。あれ、急須は?」 「ああ、こっちだ。しかしな、今日は昆布茶しかないが、いいか?」 「え? うー、なら白湯でいいや。俺、どうも昆布茶のドロッとした感じ、だめだ」 「そうかそうか。では、明日までに職員室から緑茶でも貰ってこよう」  あっはっは、と明朗に笑う一成をよそに、自分用の湯飲みに白湯を注いで机に陣取る。 「んじゃ、いただきます」  ぱんぱん、と手を叩いて弁当箱を開ける。  重なるようにコンコン、というノックの音。 「あれ? 一成、お客さん」 「む? こんな時間にか?」  一成はのろのろと扉まで歩いていく。  来客は生徒会顧問の葛木先生だった。  葛木先生とはここでよく顔合わせするが、あっちから言わせれば“衛宮はよく生徒会室にいる”になるんだろう。 「――――――――」  もぐもぐ、と無言で鶏そぼろ弁当を食べる。  今日は連絡事項ではないのか、一成と葛木先生は世間話をしていた。 「――――――――」  もぐもぐもぐ。  もぐもぐもぐもぐもぐ、ごっくん。 「先生、そろそろ時間ですが」 「む。そうか、邪魔をしたな。言わずとも承知しているだろうが、戸締まりは忘れないように。下校時間も厳守したまえ」 「はいはい、わかってますって」  葛木先生は立ち去り、一成はわりとご機嫌な〈体〉《てい》で戻ってくる。 「――――――――」  ……いや、珍しいものを見たな。  生徒と世間話をする葛木宗一郎というのは、ものすごくレアだ。  それも人見知りの激しい一成と。  ……ああいや、堅物同士気が合うのかもしれないが、にしても不思議ではある。 「なあ一成」 「ん? なんだ衛宮」 「いや、前から疑問に思っていたんだが。おまえと葛木、仲いいのか?」  あ。驚いてる、驚いてる。 「―――いや、答えられないんならいい。ふとそう思っただけだから、気にするな」 「ああ、違う違う。そういえば衛宮には言ってなかったな、と気が付いてね。仲がいいのは当然なのだ。なにしろ葛木先生は俺の兄貴分みたいなものだからな」 「―――――――は?」  葛木先生が、一成の、兄貴分……? 「ちょっと待て。それどういう事だ」 「だから兄貴分だって。  宗一郎―――葛木先生は三年ほど前からうちに居候をしているんだ。見ての通り〈朴訥〉《ぼくとつ》な人柄だが、裏表のない誠実な心をしている。同じ屋根の下で暮らしていて、人間として尊敬できるのだ。兄として慕うのは当然だろう」 「―――――葛木が、柳洞寺に住んでいる――――?」  ぐわん、と後頭部を叩かれたような感じ。  それでも表面上は平静を取り繕って、話の続きを促した。 「そういえば。最近、見慣れない女がいるって言ったよな。そいつのこと、葛木は知ってるのか?」 「知ってるも何も、あの女は葛木先生の許嫁だ。近々祝言をあげるから、それまで部屋を貸し与えている」 「――――――――」  ごわん、と二度目の衝撃。 「一成。そういうの、見慣れない女って言わないんじゃ、ないのか」  くらくらする頭で、精一杯の抗議をする。 「見慣れない女は見慣れない女だ。葛木先生の許嫁であろうと、名前も知らない女などそれで十分だろう」  不愉快だ、とばかりに会話を切る一成。 「――――――――」  ……と、ともかく。  出所はどうあれ、無視できない話だった。  柳洞寺から通ってきている葛木宗一郎と、柳洞寺にいるという女性。  葛木先生に許嫁が現れたのは一ヶ月ほど前だと言う。  もしそれがキャスターなら、答えは出ているのと同じだが―――― 「と、そういう訳なんだが」 「――――――――」  放課後の教室。  下校時間まであと十分もない、という状況で、とりあえず遠坂に葛木先生の件を伝えてみた。 「どうだろう。一成の事もあるし、柳洞寺に住んでるからって怪しい、と決めつけるのはどうかと思うんだが」 「……葛木先生か……マスターとしての気配っていうより、そもそも魔術師じゃないんだけどな、あの人は」  こっちの話を聞いているのかいないのか、遠坂は納得いかなそうに眉をひそめている。 「魔術師じゃない……? なんだ、良かった。それじゃとりあえず葛木は除外か」 「なんで? そんな怪しいヤツ、マスターに決まってるじゃない」 「――――――――」  ……いや、慣れてきたけど。  やっぱりまだ、〈遠坂〉《こいつ》のスピードにはついていけない。 「今夜にでも仕掛けるわよ。学校に手を回して夜勤になるように仕向けるから、衛宮くんも準備しといて」 「と―――ちょっと待て。いくらなんでもそれはなし。  葛木を夜勤にするって、それじゃあ今夜にでも戦うっていうのかよ」 「当然でしょ。葛木が明日も学校に来る保証はないもの。  機会はまったなし、夜まで学校に残らせて、帰り道であいつがマスターかどうか試すのよ」 「……念のため訊くが。マスターかどうか試すって、どうやって」 「実力行使。衛宮くんの時といっしょ」  いっしょ、というフレーズが妙に甘ったるく聞こえた。  ……こいつ、やっぱり根はいじめっ子だったんだな。  もしかしたらガキの頃、こいつと公園の平和を巡って一戦やらかした事があったやもしれぬ。 「―――俺は反対だ。試すにしても、もっと穏やかな方法がある。わざわざ危険な真似をしなくてもいい」 「危険じゃないわよ。わたしだって見境なしじゃないわ。  陰から軽いガンドを撃つだけよ。もし葛木先生が一般人でも、二日風邪で寝込む程度だし」 「あ――――いや、それも問題だろ。もし葛木が本当にマスターだったら、そのまま戦闘になる。こっちから手を出す以上、話し合いにはならない」 「? わからないわね。それなら余計好都合じゃないの。  一体何が危ないっていうのよ、衛宮くんは」 「そっちこそわからないヤツだなっ。だから、遠坂が危ないって話だろ」 「――――――――」  ようやくそれに気付いてくれたのか、遠坂はピタリと会話を切った。  が、それも一瞬。 「そ。別にいいわよ、それならわたし一人でやるだけだもの」  なんて、あっさり決断しやがった。 「くっ――――!」  ああもう、一度そうと決めた遠坂に何を言っても無駄かっ。 「……わかった、俺も付き合う。遠坂を一人にしたらどんな無茶をするか分からないからな」 「それはこっちの台詞よ。……まったく、何を言いだすかと思えば」 「……下校時間ね。それじゃ待ち合わせは午後七時、橋の下の公園。戦闘になるだろうから、ちゃんと準備してくるのよ」  ふん、と顔を背けて歩き出す。  その背中を追うかたちで、こっちも教室を後にした。 「では、今夜キャスターのマスターに仕掛けると?」 「いや、まだ葛木がマスターだって決まった訳じゃないんだが、おおむねそうだ」  帰宅するなり、セイバーに今日の顛末を報告する。  セイバーも遠坂と同意見なのか、どうにもこう、今からやる気オーラが充ち満ちていた。 「そういう訳だから、今日の鍛錬はなしだ。夕食もすぐに支度するから、待ち合わせに備えよう……って、そっか。セイバー、出陣の前に飯食うのってよくないのか?」 「は……? なぜそのような事を訊くのです。戦闘時に空腹では問題があると思うのですが―――」 「いや、腹がもたれるのかなって。あと一時間もないし、夕飯は帰ってきてからのがいいんじゃないかなって」 「あ、いえ、そのような事はないと思いますよ? 口にしたものを素早く消化するのも戦士の素質です。  その、普段から正しい生活と鍛錬をしていれば、食事はあまり問題ないかと……」 「えーと。それはつまり、夕飯は作ってオッケーって事?」 「はい。そちらの方がたいへん力が出るのでは」  ……そっか。  まあこっちも食った後すぐに動ける程度には鍛えてあるし、問題はないんだろう。  それでもまあ、一応メニューは軽いものでまとめておこう。 「それじゃ居間に行ってるけど、セイバーは?」 「シロウの邪魔をする訳にはいきません。私はもうしばらく気を整えておきます」  気を整える、とは正座しての瞑想の事だろう。 「了解、飯が出来たら呼びに来る」  道場を後にする。  外はすっかり暗くなっていた。  待ち合わせは七時。……となると、葛木先生に仕掛けるのはその一時間後ほどになるのか。 「――――――――」  もし葛木先生がマスターだったら、その時は戦うしかない。  キャスターは用心深いサーヴァントだ。  自らの主が襲われたと知れば、二度と奇襲の機会など与えてはくれまい。  ……となると、仕掛けるのならそれは必殺。  相手を逃がす事もできないし、こちらが逃げる事も許されない。  相手が何者であれ―――町の人間を次々と襲っているキャスターを止めるには、そのマスターを倒すしかない。  うまくいって、令呪を奪う事によりマスターでなくす。  ……だが最悪、それが出来ないのなら命の鬩ぎ合いになるだろう。 「―――そうか。武器の一つも持っていかないとな」  うちにある武器―――魔力を通しやすい得物といえば木刀ぐらいか。  ここのところ“強化”の成功率はあがってきていて、木刀でも立派な武器になる。  が、それは通常の争いの話だ。  サーヴァント、マスターが相手なら、もっと確かな武器が必要になる。 「欲を言えば――――あいつの、剣みたいに」  ……頭の中で、夢に見たモノをイメージする。    白と黒の〈夫婦〉《めおと》剣。  あのぐらいの長さだったら俺でも扱えるし、  何より―――あの刀なら、俺でも一人前に戦える。    セイバーの足を引っ張らずに身を守れて、あいつのマスターとして少しは胸を張れるだろう。 「―――ったく。無い物ねだりをしてもしょうがないだろ、ばか」  はあ、と肩を落として縁側へ向かう。  今は出来る事をするだけだ。  とりわけ、今は夕食に精根をこめよう。  セイバーは仏頂面のようでいて、食事を楽しみにしている節がある。そんなセイバーを喜ばせるのが、最近の密かな楽しみになっているし。    疾走。停止。一撃。  キャスターの神言を全て弾き返し、誰にも対抗する隙を与えず、セイバーは勝負を決した。    踏み込む速度、大地に落とした足捌き、横一文字に振り抜いた剣に是非はない。    彼女の視えない剣は敵マスターを一閃した。  最高の機を窺っての奇襲である。  斬撃は大木を断つほどの会心さで、仕損じる事なく葛木宗一郎を二つに分ける。      いや―――分ける、筈だった。   「な―――――――」    当惑で息が漏れる。  一体どうなっているのか、と。  剣を振るった姿勢のまま、〈彼女〉《セイバー》は呆然と目の前の敵を見た。   「―――――――ばか、な」    彼女でさえ事態が掴めていない。  横一線になぎ払った必殺の一撃。  それが止まっている。  敵の胴体を薙ぎ払う直前に、何かに刀身を挟まれて停止している。   「――――足と、腕?」    そんな奇蹟が起こりえるのか。  彼女の剣は、敵である葛木宗一郎によって止められていた。  膝と肘。  高速で斬り払われるソレを、男は片方の膝と肘で、〈挟み込むように止めていたのだ〉《・・・・・・・・・・・・・・》。   「――――――――」    無論、彼女は知らない。  素手で相手の武器――――刃を受け止める武術がある事も、それを実現する達人の事も。  それでも、これが通常の戦いなら放心する事などなかっただろう。    だが事はサーヴァント戦。  敵はあくまでただの人間だ。  それが必殺の一撃、視えない刀身を捉え、かつ素手で押し止めたなど、もはや正気の沙汰ではない……!   「―――侮ったな、セイバー」    それは、地の底から響いてくるような声だった。   「…………っっっ!!!!」    セイバーの体が流れる。  止められた剣を全力で引き戻そうとする。    その瞬間。   「がっ――――!?」    彼女の後頭部に、正体不明の衝撃が炸裂した。   「は、っ――――!?」    訳が判らない。  素手で剣を止める、などという相手は初めてだ。  いや、となると今のは素手による攻撃か。  つまりは殴られた。この間合い、互いに息のかかる距離で、後頭部を殴られた……?   「っ――――!」    正体が掴めないまま回避する。   「は――――!」    こめかみを掠っていく“何か”。  それが何らかの魔術によって“強化”された拳であると看破し、セイバーは跳んだ。    長柄の武器を持つ以上、素手の相手に対して〈接近戦〉《クロスレンジ》では不利だ。  セイバーは自身の間合い、剣を生かす〈一足一刀の間合〉《ショートレンジ》いまで後退する。    無論、体は敵を見据えたまま。  敵にとって有利な間合いを離そうというのだ。  当然逃がすまいと追ってくる敵を迎え撃つのが定石である。    が、敵は追ってはこなかった。  キャスターのマスター、狙われれば倒されるしかないその男は、その場に踏み留まったまま、    彼女の〈鳩尾〉《みぞおち》を貫いていた。   「っ――――!?」    吐息が漏れる。  貫いたのは衝撃だけだ。  攻撃は鎧に阻まれ、その衝撃だけを伝えてくる。   「は、あ――――!」    続く衝撃。  的確に急所だけを狙ってくるソレは、紛れもなく、人の拳そのものだった。   「――――――――」    息を呑む暇が彼女にあったか。  〈巌〉《いわお》じみたあの指が衝撃の正体だと理解した時、勝敗は決していた。    繰り出される拳の雨。  神鉄で作られたかのような強度と重さをもって、男の拳はセイバーをつるべ撃つ。    それを、どう表現すればいいのか。  鞭のようにしなる腕は、しかしあくまで直角に変動する。  放たれる速度が閃光ならば、そこから更に変化する二の腕は鬼神の業か。   「は――――つ――――!?」    視認する事さえ困難な一撃は、悉く急所のみを標的とする。    反撃など許されない。  剣を振るう腕さえ狙われ、その〈一撃〉《いたみ》は鎧を通して心髄にまで届いていた。    攻撃は常に外から内に。  大きく周りこむ腕は肘を支点に軌道を変え、あらぬ方向からセイバーを打ちのめす。   「は――――、くっ――――!」    鈍重で鋭利。  即死性はなく、だが死に至る毒を帯びた突起物。    それがこの攻撃の全てだった。  拳は躱せないものの、威力はそう大きくない。  だが―――受ける度に、痛みで意識が停止する。  その僅かな隙をつき、根こそぎ意識を刈り取ろうと後頭部に食いつく一撃は、死の鎌を連想させた。   「っ…………!」    それを直感だけで回避する。    ―――腕や胸を狙う一撃はいい。  だが頭――――後頭部を打たれては倒される。    それ故、セイバーはその一撃にだけ神経を集中する。  剣を素手で止める怪人。  初体験とも言える奇怪な攻撃方法を前にして、彼女が頼りにするものは己が直感だけだった。   「―――よく躱す。未だ混乱しているというのにな」    敵の腕が止まる。  その構えは、拳と同じく岩のように不動。   「―――なるほど。眼がいいのではなく、勘がいいという事か」 「――――!」    男の体が動く。  繰り出される一撃は何が違ったのか。  確実に致命傷を避けていたセイバーは、その一撃を躱せなかった。   「あ――――」    意識が落ちる。  後頭部に落ちた衝撃が脳を侵す。   「く――――!」    それでも両腕を上げた。  男の攻撃では彼女の鎧を突破できない。  ならば―――男が狙うのは、剥き出しである彼女の顔だ。    セイバーは両腕をあげ、自らの顔を守る。   「がっ――――!」    抜けてくる衝撃。  それは、密林を這う蛇そのものだった。  顔を覆った腕の合間を、敵の拳は〈容易〉《たやす》くすり抜けた。   「つ――――く…………!」    意識が遠のく。 “蛇”の胴体、左腕の肘が、セイバーの鎖骨へと叩き込まれる。    それをわずかに後退して躱し、セイバーは剣を握りしめた。  その先にある変化。  肘先から変化し、左側面から後頭部を狙ってくる一撃に備えた。    ―――もはや、この相手を侮る事などできない。  相手が意識を刈り〈獲〉《と》るというのなら獲らせる。  だが、その直後に見返りとして両腕を斬り落とそう、と彼女は両目を見開き、    その変化に、愕然とした。   「――――――――」    肘を支点に、真上から垂直に落ちてくる。  今まで円を描いていた軌道が、ここにきて線……!   「っ――――は…………!!!!」    咄嗟に首をずらし、脳天に叩き落とされる一撃を回避する。 「ぐっ……!」  肩口に落ちる衝撃。  左肩は完全に破壊された、と敵を睨んだ瞬間、彼女の背筋は凍り付いた。    ぐるん、と男の体が半身を引く。  今まで一度も使われなかった右腕。  常に彼女の喉の高さにセットされていた〈右拳〉《ソレ》は、それこそ、砲弾のように放たれた。   「――――――――」    今まで線でしかなかった敵の攻撃は、ここにきて点。  正面にいるセイバーに対して、一直線に放たれる打突の拳。    その威力、針の穴ほども通す精密さを持つこの男なら、貫ける。  溜めに溜めた渾身の一撃ならば、セイバーの喉を貫き骨を断ち、完膚無きまでに頭を飛ばすに容易すぎる―――!   「――――!!!!!!」    だがそれも不発。  未来予知に近い直感を持つ彼女に奇襲は通じない。  蛇の拳は彼女の首横を掠っていく。  それを見届け、刃を返そうと踏み込もうとした瞬間。    ガ、と。    彼女の首の真横で、信じがたい音がした。    蛇の牙が突き刺さる。  セイバーの首を掠ったそれは、躱された瞬間、音をたてて彼女の〈首に指を食い込ませた〉《・・・・・・・・・・》。     “――――〈突き刺し針〉《アンカー》………!”      驚愕は戦慄となって駆け巡る。  そう。手というものは、本来殴るものではなく掴むもの。  キャスターの魔力による補助か、敵の指はセイバーの首を容易く握り潰していく……!   「ぐ――――ああああああああ…………!!!!」    セイバーの剣が上がる。  この一瞬、首を握り潰される前に敵の腕を断とうと剣が走る。    だがそれは叶わない。  剣を振るうより速く、彼女の体そのものが剣のように振るわれる。    ―――体が宙に浮く感覚。    投手のようなオーバースイング。  男はセイバーの首を捉えたまま、片腕で彼女を〈放り投げた〉《・・・・・》。    人体を球に見立てた剛速球。  受け身など取れる筈がない。  首の肉を削がれながら投げ飛ばされ、時速200キロのスピードでコンクリートの壁に叩きつけられ、     「ぁ……、っ――――――――――――」      彼女の体は、活動停止を余儀なくされた。  家には誰もいなかった。  廊下はひどく静まりかえっている。  まだ耳がおかしいのか、自分の足音も聞こえない。  手足の麻痺は取れず、地面を踏んでいる感覚がない。 「――――――――」  そんな状態でまっすぐに歩ける事を意外に思いながら、会話もなく部屋へ向かう。 「今日の鍛錬はなしにしよう。セイバーも疲れてるだろ。  あんな酷い傷を負ったんだしさ」  部屋に戻って、付いてきていたセイバーに話しかける。 「……いえ、私の方は問題ありません。回復の為に魔力を消費しましたが、まだ十分に補えるレベルです。  それよりシロウ。貴方の方こそ、体に異状はないのですか」 「? いや、別に大丈夫だぞ。まだ手足が重いけど、筋肉痛みたいなものだし。明日になれば楽になってるさ」 「…………わかりました。ですが、もし体が痛むようでしたら声をかけてください」 「ああ。セイバーこそ何かあったら起こしてくれ。夜分に腹が減ったんなら、夜食でもなんでも作る」  俺はセイバーに魔力を提供できないんだし、できる事といったら飯を作ってセイバーに元気を出してもらうコトぐらいだし。 「……シロウ。くれぐれも無理はしないように」  一言残して、セイバーは隣の部屋へ消えていった。 「…………そうだな。大人しく寝るか」  布団を敷いて、ゴロリと横になる。  手足の感覚が少しだけ鈍い。  慣れない魔術の影響か、気を抜くとすぐに意識が落ちかける。 「……ん……なんだ、ほんとに――――」    疲れてる、らしい。  キーンという耳鳴りが気になるが、今夜は久しぶりに、ぐっすりと眠れそうだ――――             「っ―――、―――ぁ…………」             「ぁ、っ―――、ぐ―――」             「はあ―――は―――、は、ぎ―――」 「ぁ―――ぐ―――っ…………!!!!!」    布団を掻きむしる。  熱く焼けた鉄がこみあげてくるような嘔吐感。  全身の筋肉、骨格という骨格が捩れている。 「ぎっ―――あ、づっ―――!」    ぎちぎち、なんて音が、麻痺していた耳に響く。  体内から生じるソレは、骨が軋んでいる音だ。  何が気にくわないのか。  手足の骨は宿主に抗議するようにささくれだち、外に出たいのか、肋骨あたりがギチギチと胸の肉を突き破ろうと〈蠢動〉《しゅんどう》している。 「な―――は―――…………!」    体中に走る痛み。  巨大な万力で体ごと押し潰されているのに、痛みは体の内から、生じている。  小さく圧縮されているのに、体はより大きく膨張するという矛盾。 「が―――っ…………!!!!」    布団の上。  蛆虫のように這い〈蹲〉《うずくま》って、正体不明の激痛をなんとか堪える。 「はっ―――あ、あ―――」    ……額が熱い。  痛みに耐えきれないのか、脳髄はさっきからサウナ状態だ。  だから、これが無理な魔術の代償なのだとか、俺本人ではなくセイバーが気遣っていた“身体の異状”なのかとか、どうでもよくなってくる。 「ぐ―――ぁ―――………………」    それでも、どうしてかセイバーに助けを求めるのはイヤだった。  そんな事で心配などさせたくないし、自分の責任ぐらいはとる。 「……そんなの……当然だ―――」  汗だくの体で、必死に呻き声を抑えつける。  ……呆然とした意識で見た時計は、まだ午前零時にもなっていなかった。  眠ってしまえば楽になれるのだろうが、この痛みでは眠ったところで起こされるだろう。 「は―――はあ―――づっ―――…………!!!」    ……朦朧としていく。  意識はぐつぐつと白ばんでいく。  夜が明ければ、きっと痛みは引いてくれる。  ただそれまで。  あと七時間近くもこの痛みに耐えなければならないのが、既に、悪い夢のようだった――――    彼にとって、その場所はあまりいい物ではなかった。    挫折と〈妄執〉《もうしゅう》、羨望と嫉妬。    昏い感情が染み付いたそこは、呪いの一室と言っていい。  本来自分の物である筈なのに、ただの一度も自分の為に使われなかった部屋。   「チ――――陰気臭いんだよ、ここ」    舌打ちは、それこそ彼の妄想である。  どうでもいい〈余所〉《たにん》の子供がここで数年を過ごし、長く間桐の血筋を脅かした。  彼が知り得る過去はそれだけだ。  父は何も語らなかったが、祖父はここで起きた事を一部始終教えてくれた。  父は自分を選ばず間桐家を絶やそうと考えたが、祖父は間桐家の再興を願っていた。    だから、彼は父親だった人間になんの感情も抱いていない。    父は存在と落第を。  祖父は優越と権利を教えてくれた。    さて、そうなると母は何を与えてくれたのか、と考え、慎二は笑った。    そもそも間桐の家に女などいらない。  母親はどこぞの〈保菌者〉《キャリアー》だったと言うが、出産した後は用済みになったのだろう。  賭けてもいいが、この部屋を探せば母親だったモノぐらいある。  それを探す気など彼にはない。  そもそも、劣った自分を生んだ胎盤など見たくもない。    地下室は腐敗に満ちている。  暗闇の奥、さらに暗い部分には、得体の知れない蟲どもが地面を覆っている。  もはや吸うべき養分などないだろうに、蟲は飽きずにこの地下修練場に巣くっている。    ……いや。  ここは元より人を育てる場所ではなく蟲を育てる場所。  這い寄る闇に見えるものは、黒い羽をもつ蟲の群れだ。  壁に張りついた影さえ、ヌメヌメと光る黒い粘虫に違いない。    ――――その中に。  この最下層には不釣り合いな、黄金の輝きを放つ男がいた。   「なんだアーチャー、ここにいたのかい」 「―――――」    黄金の男―――アーチャーは下りてきた〈人物〉《あるじ》に目もくれず、ただ深い闇を眺めている。   「聞けよ、朗報だぜ。言峰のヤツ、僕らの行動には目を瞑るってさ。―――く、見所があるヤツだって思ってたけど、ホントに使えるよなアイツ! ようするにさ、僕たちが何をやったってお咎めなしってコトだろ、それ!」    楽しげに話しかけながら、彼はアーチャーへと歩み寄る。   「―――――――――」    そこで、ようやくアーチャーは主に気が付いた。  赤い瞳が無造作に向けられる。   「っ――――あ、いいや、別に文句を言いに来たワケじゃない。君がどこで何をしていようと構わないさ。サーヴァントの自由意思ぐらい尊重するよ。僕は他の連中と違って了見が広いからね」    赤い瞳に気圧されながら、それでも慎二はアーチャーへ近寄っていく。  アーチャーが不気味な存在だとしても、彼にとってソレは〈使い魔〉《サーヴァント》にすぎない。  故に、彼はアーチャーに対して常に増長を保ち続ける。  言葉の上では寛大に、あくまで強いのは自分だと誇示するように。   「―――そうか。言峰は、随分とオマエを買っているようだな」 「ああ。なんでも爺さんには借りがあるんだって。得体の知れない三流魔術師が残るより、僕のように歴史のある血筋が勝利すべきとか言ってたな。  ―――は、そんなの当然じゃないか。何を今更って気はするけど、まあ人を見る目だけはあるよ。いちおう世話になったしさ、聖杯を手に入れたら礼の一つでもやろうかって思案中」    愉快げな忍び笑いが響く。   「―――それじゃあ始めようかアーチャー。もう人目を気にする必要もないんだ、てっとり早く殺しまくってさ、じゃんじゃん魂を食べて強くなってよ。  ……そうしたら次はあいつらだ。目障りなセイバーを潰して、衛宮にお礼参りをしないとね」    さあ、とアーチャーの肩に手をかける。  その手を、何か不快なものに触れた、という眼でアーチャーは観察する。   「なに? ほら、行くって言ってるんだよアーチャー。  何処の英雄だろうが、サーヴァントってのはマスターの命令には絶対服従なんだろ?」  セイバーを屈従させ、友人をもまた這い蹲らせる光景を思い描いたのか。  彼は上機嫌なままアーチャーに命じる。  だが黄金の青年はピクリとも動かず、   「―――シンジ。おまえは聖杯というものを理解していない」    初めて、主の名前を口にした。   「な――――え?」 「聖杯が欲しいのなら他のマスターなど放っておけ。連中は所詮生け贄にすぎん。真に聖杯を手にするというのなら、先に押さえておくべきモノがある」 「先に押さえておくべきモノ……?」    彼―――間桐慎二はおずおずと自らのサーヴァントを見つめる。  その足は知らず後ろに引き、肩にかけた手は、いつの間にか離れていた。   「まずはそれを手に入れようか。〈我〉《オレ》は聖杯を手に入れる為にオマエに力を貸している。我らにとって共通の目的は聖杯だけだからな。  まあ、オマエの気持ちは分からんでもないが。復讐は気持ちが〈良〉《い》い。快楽を求めるのは人の証だ。するべき事を済ませたのなら、オマエの遊びにも付き合おう」    何が楽しいのか、アーチャーの口元が吊りあがる。  ……そこに凶悪なものを感じ、慎二は今更ながら、このサーヴァントの正体に不安を覚えた。    第八のサーヴァント。  いるはずのない英霊。    ―――前回の聖杯戦争から留まり続けているという、最強の英雄王――――   「……そう言えば、聞いてなかったね」    それでも優位を保とうと、慎二は声をかける。   「なんだ。訊けば答えるぞ、マスター」 「おまえの望み。聖杯を手に入れたらさ、おまえはどうしたいんだアーチャー」    それは当然と言えば当然の問いだった。  半ば不老不死となり、この世のあらゆる財宝を持つ英霊。  その男が今更何を望むというのか。   「――――なんだ。そんな事も知らなかったのか」    意外そうにアーチャーは言う。  その顔は、些細な幸福に出会ったように破顔していた。   「我は豪勢な物を許す。装飾華美など最も愛でるべきものだ。だが―――〈余分なモノ〉《・・・・・》に与える意義などない」 「……余分な、モノ……?」 「昔の話なのだがな。十人の奴隷を選び、その中で“いなくともよい”モノを殺そうとした事がある。どうなったと思う、シンジ?」   「はあ? みんな奴隷なんだろ。なら全員殺したんじゃないの」 「いやいや。それがな、一人も殺せなかった。いかな人足とは言え無駄なモノなどいなかったのだ、かつての世界には」    皮肉げに肩をすくめ、アーチャーは一歩前に出た。  ……いっそう深い闇。  暗い影に覆われた床に向けて足を上げる。   「だがこの世界には余分が溢れている。十人どころか千人という人間を選んだところで、殺せない人間など出てきまい。  ―――まったく、おそろしく人間に優しい世界になったものだ」   「? わけわかんないな。結局何が欲しいんだよアーチャー。おまえだって欲しいモノがあるから聖杯を手に入れようっていうんだろ。なら――――」    アーチャーは答えない。  金の青年は主に振り向きさえせず、             「簡単な話だ。多いという事は、それだけで気色が悪い」    上げた片足を、深い闇へと踏み下ろした。    ……ぐちゃり、という音。  踏みしだかれた暗い床には夥しい蟲の死骸と、更に夥しく〈集〉《たか》る、有象無象の群があった。 「――――――――」  おそらく、音をたてたのはワザとだろう。  放たれたガンドのスピードも遅く、黒いモヤはスローボールのように葛木へと飛んでいく。 「――――――――」  受ければ二日は寝込む病の風。  だがマスターにとって、二日の行動不能は致命的だ。  葛木先生がマスターであるのなら、絶対に何らかのリアクションがある筈だが――― 「やば――――!」  遠坂が体を起こす。  ……道を行く葛木は何の反応もしない。遠坂のガンドは容赦なく、葛木宗一郎の頭部に直撃し――――    ――――寸前。  突如中空に現れた布きれによって無効化された。 「――――ほう」  ガンドの直撃を受ける筈だった男は、そう漏らして俺たちを見た。  何者かが物陰に隠れている事など、始めから知っていたと言うかのように。 「遠坂……!」  咄嗟に袋から木刀を抜き、魔力を込める。 “強化”に戸惑っている余裕などない。  葛木の前に舞い降りた布きれは、いまや人の形を成していた。  紫紺のローブから、すらりとした女の手足が出現する。    ―――空間転移。  純粋な〈転移〉《それ》は現代においても魔法とされる。  〈神秘〉《それ》を事も無げに体現し、〈黒い魔女〉《キャスター》は現れていた。 「忠告した筈ですよ宗一郎。このような事になるから、貴方は柳洞寺に留まるべきだと」  俺たちの事など眼中にないのか、キャスターは余裕げに己が主―――葛木に話しかける。 「そうでもない。実際に獲物は釣れた」 「そうね。あまり大きな魚ではなさそうだけど、大漁である事は間違いないわ。―――さあ。そこから出てきなさい、〈莫迦〉《ばか》な魔術師さん」 「――――――――」  ……こうなっては逃げる事は難しい。  いや、目の前にキャスターとそのマスターがいるのなら、ここが町中であろうと戦うだけだ。    だが、その前に―――― 「出てこないの? 残念ね、顔ぐらいは見ておきたかったのですけど」 「ちっ……なによあの狸、こっちの素性なんてもう判ってるクセに―――」  物陰に隠れながら毒づく遠坂。  それが聞こえているのか、   「三秒あげるわお嬢さん。それで、貴女がした事をそのまま返してあげましょう」    そう楽しげに言って、キャスターは手のひらをこちらに向けた。    ―――柳洞寺の光景が蘇る。  あいつは、そんな甘いヤツじゃない。  やるのならここ一帯、俺たちが隠れている壁ごと破壊するだろう。 「衛宮くん、合図をしたら跳んで。セイバー、準備はいい?」  こくん、と背後で頷く気配。  ――――だが。  その前に、確かめなくてはいけない事がある。 「―――すまん。それは後にしてくれ、遠坂」 「え?」  返事を待つまでもない。  俺は木刀を下げたまま、物陰から交差点へと歩き出した。 「ちょっ、士郎――――!」  ……放っておけなくなったのか、遠坂まで一緒に出てきてしまう。 「あら。意外ね、少しは物分かりがよくなったのかしら、坊や」  そんな俺たちを余裕げに眺めるキャスター。  ……その横には葛木がいる。  ここから距離は十メートルほど。  どう考えても、こっちが近づくよりキャスターの指先の方が速すぎる――――。 「――――――――」  それを承知で姿を現した。  戦う前にやらなくちゃいけない事。  それは―――― 「遠坂と衛宮か。間桐だけではなくおまえたちまでマスターとはな。魔術師とはいえ、因果な人生だ」    キャスターが守っている、葛木宗一郎の正体を確かめるという事だ。 「どうした衛宮。話があるのではないのか」  いつもと変わらぬ態度で言う。  葛木先生からは魔術師としての気配を感じない。  いや、聖杯戦争を戦い抜こう、という意思さえ感じない。  なら―――― 「葛木。あんた、キャスターに操られてるのか」    アーチャーの言う通り、葛木先生はキャスターに操られているだけかもしれない。  その疑問を明らかにしないかぎり、葛木先生とは戦えない。 「――――」  キャスターが殺気を帯びる。  それだけで、今の質問はあいつにとって禁句だったと感じ取れる。 「―――うるさい坊や。殺してしまおうかしら」    脅しではない言葉。  それを、 「待て。その質問の〈出所〉《でどころ》はなんだ、衛宮」  教壇と変わらぬ声で葛木先生が止めた。 「疑問には理由がある筈だ。言ってみるがいい」 「――――――――」  ……喉が渇く。  キャスターの殺気だろう。下手な事を言えば殺す、と紫紺のローブが告げている。  それを堪えて、 「―――アンタがどうやってマスターになったかは知らない。けど、アンタはマトモな人間だろ。ならキャスターがやっている事を見逃している筈がない。  だっていうのに見逃してるって事は、アンタは知らないんじゃないかって思っただけだ」    そう、キャスターを睨みながら口にした。 「キャスターがやっている事だと?」 「……ああ。そいつは柳洞寺に巣を張って、町中の人間から魔力を集めてる。ここ最近連続している昏睡事件は全部そいつの仕業だ」 「――――」 「今までも、そしてこれからも犠牲者は増え続ける。キャスターが魔力を吸い上げ続けるかぎり、いずれ死んじまう人間だって出てくるだろう。  ……そいつは、町の人間は生け贄だって言った。取り返しのつかない事になるのは、そう先の事じゃない」 「なるほど、そういう事か。通常、善良な人間ならばキャスターを放置できない。  にも拘わらず、マスターである私がキャスターを放置しているのは、彼女に操られているからだと考えた訳だな」 「……ああ。もしアンタがキャスターの行為を知っていて放っておいているなら、アンタはただの殺人鬼だ。俺も容赦はしない。けどアンタが操られているんなら別だ。  俺たちはキャスターだけを倒す」 「いや。今の話は初耳だ」  確固たる意思で、彼は断言した。  そこに嘘は見られない。葛木宗一郎は、教壇に立つ姿のように潔癖だった。 「――――――ふぅ」  キャスターを警戒しつつ胸を撫でおろす。  キャスターに操られているのなら、葛木先生も犠牲者という事になる。  となれば、後はキャスターを倒すだけ――――   「だが衛宮。キャスターの行いは、そう悪い物なのか」    ―――だと言うのに。  平然と、葛木宗一郎はそう言った。 「なん、だって…………?」 「他人が何人死のうが私には関わりのない事だ。加えてキャスターは命までは取っていない。  ……まったく、随分と半端な事をしているのだなキャスター。そこまでするのなら、一息で根こそぎ奪った方がよいだろうに」 「な――――――――」  それも、いつもと変わらない。  葛木宗一郎は教壇に立つ姿のまま、嘘偽りのない意見を述べる。 「無関係の人間を巻き込むつもりか……!!」 「全ての人間は無関係だが。……まあ、私が何者であるかはそちらで言い当てただろう。  私は魔術師などではない。ただの、そこいらにいる朽ち果てた殺人鬼だよ」  葛木が下がる。  ヤツはキャスターの背後に位置して、その陰から俺たちを流し見た。 「キャスターの傀儡というのは当たっているがな。  私は聖杯戦争など知らん。キャスターが殺し、おまえたちが殺し合うというのなら傍観するだけだ。  もっとも―――」 「私も、自分の命が一番可愛い。キャスターが何を企もうと知らぬ。私はただ、私を阻むモノを殺すだけだ。  ―――では好きにしろキャスター。生かすも殺すもおまえの自由だ」  勝ち誇った笑みを浮かべ、俺たちの前に立ち塞がるキャスター。 「っ―――ああもう、とんだ狸同士じゃない、あいつら……!」  そう舌打ちしながらも遠坂は動かない。  いや、動けないのだ。  魔術師としての技量は、俺たちが束になったところでキャスターには敵わない。  マスターは魔術師である以上、卓越した魔術師であるキャスターには太刀打ちでき――――         「―――そうか。  では、ここで死しても構わんのだな、キャスターのマスターよ」   「……え?」  背後からの声。  それに振り向くより速く、  剣士のサーヴァント、セイバーが疾走していた。 「――――セイバー!?」  声さえも追い付かない。  既に白銀の鎧で武装したセイバーは、疾風となって葛木へと突進する。 「―――お待ちなさいセイバー!」  迎え撃つキャスターの呪言。  詰めるは五間。  十メートルもの距離を一息で完走するセイバーが突風なら、なお速く呪文を紡いだキャスターは雷鳴だろう。  しかも暴風。  一秒に満たぬ間に放った光弾は五指、死の棘となってセイバーを串刺しにする――――! 「対魔力……! いえ、私の魔術を防ぎきる騎士など知らない……!」  キャスターの悲鳴があがる。  アーチャーとて躱すしかなかったキャスターの呪文を、セイバーは睨むだけで無効化する。  その視線の先にあるのはキャスターではない。    彼女の標的。  その剣で両断すべき相手は、マスターである葛木宗一郎に他ならない……!  セイバーはためらう事なく葛木を斬り払った。   「宗一郎――――様」    ……交差点は無音に戻る。  セイバーは剣を振るった姿勢のまま止まっている。  そのあまりの速攻に、場にいた全ての者が、勝敗は決したと見て取った。            ―――そう。     一人冷然と佇む、葛木宗一郎以外の者は。 「……やられた。いくらなんでも、こうなったら葛木は柳洞寺から降りてこない」  キャスターと葛木が消えた後。  打たれた胸を庇いもせず、遠坂は悔しげに歯を鳴らした。  ……遠坂の気持ちは分かる。  こうなった以上、葛木は柳洞寺から出てこない。  キャスターを倒すのなら、今度はこちらから敵の陣地に挑まなければならないのだ。  だが柳洞寺にはアサシンという門番がおり、葛木とキャスターも簡単に倒せる相手じゃない。無闇に攻め込めば返り討ちにあうのがオチだ。  それでもキャスターを倒すには、こちらから柳洞寺に乗り込まなければならなくなった。 「凛。忠告しますが、あの寺は〈我々〉《サーヴァント》にとって鬼門です。  アーチャーを動員したところで、力押しでは勝機は薄い」 「……ふん。わたしだってあの山がどれぐらいヘンかぐらい判ってる。悔しいからってすぐに追いかけたりしないし、貴方のマスターを強攻策になんか巻き込まないわ」 「――――では、キャスターを討つのは諦めると?」 「冗談。やられっぱなしは性に合わないし、なによりキャスターは放っておけない。そのあたり、貴女のマスターも同意見だと思うけど?」  でしょ? と視線で問いかけてくる。 「―――――――――――――」  遠坂に釣られたのか、セイバーまで“そうなのですかシロウ”と言わんばかりの顔つきだ。 「当たり前だ。いつまでもあの二人を放ってはおけない。  キャスターは魔力集めを〈止〉《や》めないだろうし、マスターである葛木も〈止〉《と》めないと言った。なら二人を倒すだけだ。  柳洞寺にはアサシンもいるようだけど、キャスターのマスターである葛木を倒せば事は済む」 「そうね。葛木先生が大人しく令呪を消させてくれるとは思えないけど、とにかく取り押さえればなんとかなる。  ……当面はこっちも作戦を立てるしかない訳だけど……」  ―――と。  何かあったのか、遠坂は突然、 「それより衛宮くん、さっきのは何? 貴方の魔術って強化だけじゃなかったの?」  敵を見据えるような真剣さで、そんな事を訊いてきた。 「――――?」  さっきの魔術って、アーチャーの剣を複製した事か。  いや、自分自身でもやればできるもんだなって驚いている最中だけど、別にそう睨まれる事でもないような。 「黙ってないで答えなさいよ。前に言ったわよね、俺が使える魔術は強化だけだ、って」 「いや、そうだけど。初めに出来たのが投影で、そっちは効率が悪いから強化にしろって教えられたんだ。……あれ、こんなの言わなかったか、俺?」 「―――言ってない。頭にくるぐらい聞いてない」  ぎろり、という視線。  どうしてなのか、遠坂は本気で怒っているようだ。 「じゃあ訊くけど。貴方、投影魔術は今回が初めてじゃないのね?」 「あ……そうなるかな。強化の鍛錬に失敗した時、仕切り直すためによくやってた。でもさっきみたいに役に立つモノを投影できる訳じゃない。  なんていうか、外見は似せられるけど中身は空っぽだったんだ」 「中身は空っぽ? なに、外観だけしか複製しないって事?」 「いや、ちゃんと中身も考えてはいるんだけど、うまくいかなかった。だから自分でも驚いている。  イメージした物は本物には及ばないんだけど、さっきのは真に迫ってたからな」 「じゃあ衛宮くん、貴方は強化より先に投影を修得したってこと?」 「修得っていうより、それしかできなかったんだって。  〈切嗣〉《オヤジ》はそれじゃ何の役にもたたないから目先を変えて強化にしろって」 「―――そうね。わたしでもきっとそうさせたわ。  ……でもおかしな話よね。アーチャーの剣をあれだけ長時間複製できるクセに、普通の物は投影できない。  ……属性が限られているのかな。  汎用性はないけど、ある事柄に関してのみ優れた魔術師ってのもいるし……」  なにやら一人で思案しだす。  それきり遠坂は俺と顔を合わそうとはせず、   「―――とりあえず今日は帰りましょ。  セイバーも自己回復に魔力を使ったようだし、休ませてあげないと」    と、一人で帰路についてしまった。  はーい、みんな元気ー? ちょっとした気の緩みから大惨事、あっけなくデッドしちゃった士郎を救うタイガー道場第十九回! 今回は特別ゲスト、飛頭蛮のRINをお呼びしています。  RINさん、気分はどうですか? シロウ〈殴〉《ぶ》っ〈血〉《ち》K〈IL〉《ぎる》L。(素敵だ……!) あー、気持ちは分かりますが抑えて抑えて。 要はアレよね、RINさんよりセイバーちゃんを優先した士郎の行動が、業務上過失致死になってしまったワケでした。 まあでもしょうがないわよねー!  RINさんは女としての魅力でセイバーちゃんに劣ってたから、ここ一番で守って貰えなかったワケだし! まあ勝負は時の運、次はこうならないように可愛い女の子に徹しなさい! ――――――――。 でも士郎も反省するコト!  あの状況なら、セイバーちゃんより遠坂さんを優先するべきなんだから。 セイバーちゃんを見捨てるのは心苦しいだろうけど、ここは心を鬼にして、遠坂さん〈でも〉《・・》守ってあげなさいねー。 ぎゃっ……!? くくくくクビが動いたぁ!?  R、RINさん、つかぬコトをお聞きしますが、何処にいかれるのでしょう……? ちょっとそこまで、シロウ殺しに。 キャーーーーー…………!!!!!  逃げて、おじいちゃん逃げてーーーーー!(……やっぱり素敵だ……!)                それは、五年前の冬の話。    月の綺麗な夜だった。  自分は何をするでもなく、父である衛宮切嗣と月見をしている。  冬だというのに、気温はそう低くはなかった。  縁側はわずかに肌寒いだけで、月を肴にするにはいい夜だった。    この頃、切嗣は外出が少なくなっていた。  あまり外に出ず、家にこもってのんびりとしている事が多くなった。    ……今でも、思い出せば後悔する。  それが死期を悟った動物に似ていたのだと、どうして気が付かなかったのかと。   「子供の頃、僕は正義の味方に憧れてた」  ふと。  自分から見たら正義の味方そのものの父は、懐かしむように、そんな事を呟いた。   「なんだよそれ。憧れてたって、諦めたのかよ」  むっとして言い返す。  切嗣はすまなそうに笑って、遠い月を仰いだ。   「うん、残念ながらね。ヒーローは期間限定で、オトナになると名乗るのが難しくなるんだ。そんなコト、もっと早くに気が付けば良かった」  言われて納得した。  なんでそうなのかは分からなかったが、切嗣の言うことだから間違いないと思ったのだ。   「そっか。それじゃしょうがないな」 「そうだね。本当に、しょうがない」  相づちをうつ切嗣。  だから当然、俺の台詞なんて決まっていた。 「うん、しょうがないから俺が代わりになってやるよ。  爺さんはオトナだからもう無理だけど、俺なら大丈夫だろ。まかせろって、爺さんの夢は」            “――――俺が、ちゃんと形にしてやるから”    そう言い切る前に、父は〈微笑〉《わら》った。  続きなんて聞くまでもないっていう顔だった。  衛宮切嗣はそうか、と長く息を吸って、   「ああ――――安心した」    静かに目蓋を閉じて、それきり、目覚める事はなくなった。    それが五年前の冬の話。  衛宮士郎の行き先を決めた別れ、  衛宮士郎は正義の味方になると決まった夜の事。    ――――忘れられる筈がない。  口にはしなかったけど、ちゃんと覚えていたんだ。  十年前、火事場に残されていた自分を救い出してくれた男の姿を。    意識もなく、全身に火傷を負って死にかけていた子供を抱き上げて、衛宮切嗣はありがとう、と言った。    見つけられて良かったと。    一人だけでも助けられて救われたと、誰かに感謝するように、これ以上ないという笑顔をこぼした。    ……その時の感情が、知らず胸に焼き付いている。    誰も助けてくれなかった。  誰も助けてやれなかった。  その中でただ一人助けられた自分と、ただ一人助けてくれた人がいた。    だから、そういう人間になろうと思ったのだ。          彼のように誰かを助けて、誰も死なせないようにする正義の味方に。  それが子供じみた空想でも、そうできたらいいと夢見てしまった。        ……そうして。  自分にとってその具現者である切嗣こそが『そういうモノ』に成りたかったと遺して、自分の前で穏やかに幕を閉じた。    子が父の跡を継ぐのは当然のこと。  衛宮士郎は正義の味方になって、かつての自分のような誰かを助けなくてはいけない。    そう、幼い頃に強く誓った。  衛宮士郎は、誰よりも憧れたあの男の代わりに、彼の夢を果たすのだと。      ……だが、正直よく分からない。  自分の考えが正しいのか。  それは何処からくるものなのか。  未熟なままの自分に何が出来るのか、  切嗣の口癖だった、みんなが幸せでいられればいい、なんて魔法みたいな夢の実現方法とか。          ……ああ、それと。  マスターになったいま自分に何が出来るのか、もう色々あって正直あたまがパンクしそうで―――― 「――――――――」  懐かしい夢を見て、目が覚めた。  窓からは鮮やかな朝の光が差し込んでいる。  毛布にくるまった体は微かに冷えているが、風邪をひくほど寒くはなかったらしい。 「……まいった。またここで眠っちまったのか」  軽く頭を振って、〈作業服〉《つなぎ》から学生服に着替える。    ―――時刻は朝の六時前。  桜の事だから、もう起きて朝の支度をしているだろう。  庭に出て、新鮮な空気を胸一杯に吸い込む。  いや、いい朝だ。  これで家に入れば女の子が三人もいる、という事がなければもっと気が楽なのだが。 「……あ、訂正。女の子は二人だけだった」    さすがに藤ねえに子をつけるのは抵抗がある。  何はともあれ、これから――――    まずはセイバーがどうなったのか確認しなくてはなるまい。  セイバーはああ見えて世間慣れしているようだし、うまく藤ねえと桜を誤魔化してくれたとは思うが、それでも気になるものは気になる。 「……セイバー、起きてるよな」  となると、行き先は一つぐらいだ。  居間には桜がいるし、セイバーがいるとしたら―――  予想通り、道場にはセイバーの姿があった。 「シロウ……? どうしたのです、まだ起床には早いと思いますが」 「え? いや、俺はこのぐらいが普通なんだ。飯の支度があるから」 「そうなのですか。……驚いた、随分と早起きなのですね、貴方は」  よっぽど意外だったのか、セイバーはそんな事で驚いている。 「……うーん、まあ早起きの部類には入るかな。  けどおかしなコトを気にするんだな。セイバー、俺が寝坊するタイプだと思ってたのか?」 「ぁ……いえ、その、失言でした。大河がまだ眠っていますし、エミヤの家の者はみな朝に弱いのだろう、と早合点してしまった」 「あー、納得。藤ねえのネボスケっぷりは半端じゃないからな」  うんうん。  考えてみれば、あの寝相の悪いヤツと同じ部屋で眠ったんだ。  桜もセイバーも、昨夜は寝にくかったんじゃないだろうか。 「それよりおはようセイバー。昨日はよく眠れたか?」 「はい、十分に。昨日は戦闘もありませんでしたし、疲労はまったくありません」 「そりゃ良かった。てっきり眠れていないのかと思ってさ。藤ねえ、寝相悪かっただろ。  ……昨日はその、遅くまで騒いでいたようだし。あんまり騒がしいようだったら、俺から言って部屋を別にさせるけど、どうする?」  セイバーの性格上、藤ねえたちと寝床を共にするのは苦痛なのでは、と心配して提案してみる。 「いいえ、その必要はありません。問題がないかぎり、大河の提案を飲みたいと思います」 「そうなのか? いや、そうしてもらえるとこっちも助かるんだけど……」  その、微妙に、セイバーの声には親しみが感じられるというか……。 「セイバー。藤ねえのコト、気に入ったのか?」 「ええ、大河はいい人柄です。あれほど人に偽らず、人に騙されない人間は希です。彼女が監督をしていたと聞いて、シロウの素直さがとても納得できた」 「……うーん。喜んでいいのかどうか、微妙な評価だな、それ」 「褒めているのです。まだ短い時間ですが、彼女の事はよくわかりましたから」  なるほど。  分かりやすい、という点では同意できる。  問題はその後、藤ねえの思考を理解できるかという事になるのだが、それは別の物語である。 「それじゃ桜とも仲良くできただろ。桜は藤ねえに輪をかけて毒がないからな」 「……それはそうなのですが……私には、彼女を把握できません。敵意……というほどではないのですが、まだ警戒されている、という感があります」 「……む。じゃあ桜とはまだ話してないのか?」 「いえ、桜とも和解しました。シロウの言う通り、彼女も大河同様優しい人柄ですから」 「――――なんだ。なら問題ないじゃないか」  ほっと胸をなで下ろす。  ……その、藤ねえたちと和解した、というフレーズはどうも気になるのだが、ともかくセイバーはうち解けてくれたのだ。  とりあえず、衛宮家における問題はこれで解決したという事だろう。  桜の手伝いをしよう。  なにしろ四人分の朝食だ。いつもより時間がかかるだろうし、昨夜の事も聞いておきたい。  セイバーはうまく口裏を合わせてくれたようだけど、一夜明けてセイバーも桜も藤ねえも仲たがいしてしまった、という可能性だって有りえるのだ。 「おはようございます先輩。朝ごはんの支度、はじめちゃってますよ」 「ああ、おはよう桜。朝の支度なら俺も手伝うから、ちょっと席空けてくれ」  自分用のエプロンをつけながら台所に立つ。 「あ、じゃあ焼き物をお願いしますね。えーと、さっきご飯は炊きましたから、わたしはお味噌汁とお惣菜をやっつけちゃいます」  桜はいつも通り、手際よく調理を進めていく。  別に強がっている感もなし、昨日の事などまったく気にしていないという風なのだが……。 「桜。その、昨日の話なんだが」 「はい? 昨日の話って、どの話でしょう先輩?」 「いや、だから昨日の話。……桜と藤ねえとセイバー、三人で寝ただろ。桜、セイバーが住む事を気にしてたみたいだから、どうなのかなって」 「どうなのかな、じゃ分かりませんよ先輩。もっとはっきり言ってくれないと答えてあげません」 「う……だ、だから、仲良くやってくれると嬉しいんだが」 「はあ。セイバーさんとわたしが仲良くすると、先輩は嬉しいんですか?」 「……嬉しいっていうか、助かる。セイバーの住み込みは桜に無断で決めちまっただろ。だから桜が怒るのは当然で、セイバーを嫌うのも仕方がないコトだ。  けど、そのあたりを大目に見てくれて、セイバーに優しくしてもらえると、なんていうか」 「セイバーさんにじゃなくて、わたしに嬉しい……?」 「――――――」  口にするのは恥ずかしいんで、頷くだけで答える。  ……そうだ。  要するに、桜がセイバーの同居を許してくれると、俺が桜に対して嬉しいのだ。  家族同然の桜だからこそ、今回の無茶を認めてもらえるとホッと安心できるというか。 「はい、そういうコトならお答えしちゃいます。  セイバーさんとわたしたちは、昨夜の零時を以って完全に和解しました。  わたしはまだセイバーさんは苦手ですけど、それでも仲良くやっていけると思います。あの人、分かりづらいけど可愛い人ですから」  桜の笑顔は嘘偽りのない本心だった。  それはすごく嬉しい。  すごく嬉しいんだけど―――― 「可愛いって、セイバーが……!?」 「そうですよぉ。藤村先生なんてセイバーちゃんって呼んでますし、セイバーさんも慣れてくれたみたいです。  ホントは監視するための同室だったんですけど、今夜も三人で寝ようってコトになっちゃいました」 「………………」  そ、それは意外な展開だ。  けどセイバーが可愛い、か……確かにビックリするぐらい美人だけど、可愛いっていうのはどうも実感が湧かないな……。    ――――藤ねえを起こしに行こう。    無茶は承知だが、昨夜の顛末が気にかかる。  最悪の場合、桜と藤ねえにいびられたセイバーは怒っているだろうし、桜だってセイバーの事で怒っている筈だ。  セイバーが怒ると手強いのは考えるまでもないし、桜だってアレで機嫌を損ねると中々に手強い。  ここは一つ、昨夜大喧嘩があったとしても朝にはケロッと忘れている藤ねえに問いただすのが良策と見た……!    よし、と腕まくりをして和室の前に立つ。  ……桜とセイバーは既に起床し、居間と道場に向かったようだ。 「―――行くぞ。藤ねえ、朝だぞー!」    ガラッ、と勢いよく障子を開ける。  んで、気合をいれて虎口に踏み込んで、  ものの見事に、場外に投げ飛ばされた。 「あれ、士郎? もうすぐ朝ごはんなのに、そんなところでなにしてるのよ?」  縁側に現れるなり、まったくの第三者を装う藤ねえ。  ほうほう。  さっきの、襟首を掴んでごろんごろんと三回転したあげく放り投げた地獄車の記憶はまったくないとおっしゃるか。 「……好きでこんなところに転がってるワケじゃねえ。  つーか、少しでも記憶に残ってるなら手を貸せこの大トラ」 「む? そういえば夢の中で侵略専用最強ロボ相手にロメロスペシャルを決めた手ごたえが?」  にぎにぎ、と手のひらを開けたり閉じたりする藤ねえ。  ぴょこぴょこ点滅するハテナマークが、たった数分前の記憶を呼び起こしそうで呼び起こさない。 「ま、いっか。それより早くごはんごはん。桜ちゃんとセイバーちゃんを待たせたら悪いものね」  まいっか、などでさっきの三回転を帳消しにされては堪らない。  それはまあ、おいおいキチンと仕返しするとして、今気になるフレーズが聞こえたような。 「おい、待て大トラ。セイバーちゃんってなんだよ」 「ん? セイバーちゃんはセイバーちゃんよ? わたしと桜ちゃんとセイバーちゃんは、一晩ともに明かした仲良し女の子同盟なのだー!」 「〈嘘虚言〉《ウソきょげん》紛らわしい。女の子は二人だけじゃねーか」 「っ……!!!???」    い、いま十歩ぐらい間合いが離れてたのになんで殴られたんだ俺……!? 「女の子同盟。オーバー?」 「お、おーばー……」  ……そ、そうか、一瞬で縁側から庭まで踏み込んできたのか……さすが有段者、時々忘れるけど藤ねえは学生時代名を馳せた剣士なのだった。 「……って、それはいいけど。藤ねえと桜、セイバーと仲良くなったのか? ……藤ねえはともかく、桜は認めてくれないと思ってたんだけど」 「ん? あ、そういうコトか。なあんだ、士郎にしてはちゃんと気が利くじゃない。桜ちゃんとセイバーちゃん、二人が仲たがいしないか心配だったワケね?」 「……そりゃ心配するよ。桜に無断でセイバーの滞在を決めたんだから、桜だってよくは思わないだろ。  ……俺が嫌われるのはイヤだけど、我慢するしかないコトだ。けど桜とセイバーがイヤな思いをするのは、なんか損してると思うし」 「よしよし。大丈夫よ、セイバーちゃんがいい子だっていうのはわたしも桜ちゃんも分かったから。  ま、桜ちゃんはセイバーちゃんみたいな子が苦手だからまだ馴染んでないけど、二人とも和解したようだし、士郎が心配するコトはないって」  何が嬉しかったのか、藤ねえは上機嫌になって縁側へ戻っていく。  ……まあ、衛宮家の問題はなんとか解決してくれたようだから嬉しいっちゃあ嬉しいのだが。 「……藤ねえのヤツ。倒れた弟分を最後まで放置していきやがった」  この、激しく腰を打って立ち上がれない俺はどうしたらいいんだろう……? 「――――――――」  まいった。  まさか生徒会まで休みとは思わなかった。  校舎にはほとんど人が残っていないし、これ以上誰かに話を聞くのは難しいだろう。 「……とりあえず戻ろう。美綴の事なんだから、藤ねえが何か知ってるだろうし」  鞄を手にとって廊下に戻る。  外は茜色に染まっていた。  夕日は地平線に沈みはじめ、あと一時間もすればすっかり暗くなるだろう。  三階の階段に着く。  鞄をぶら下げて帰路につこうとしたその時、かたん、と頭上で物音がした。 「?」  顔をあげる。  と、そこには――――    四階に続く踊り場で仁王立ちしている、遠坂の姿があった。   「あれ。遠坂、まだ残ってたのか?」 「………………………………………」  返答はない。  朝といい今といい、挨拶をする度に、あいつの目つきがきつくなっていくような。   「? なんだよ、話がないんなら行くぞ、俺」  ほら、と鞄を目の前に上げて、今から帰るんだ、というジェスチャーをしてみせる。   「――――――――ハァ」  ……?  何がどうしたのか、遠坂は呆れた風に溜息をこぼしてから、   「呆れた。サーヴァントを連れずに学校に来るなんて、正気?」    そう、感情のない声で呟いた。   「正気かって、そんなの当然だろ。だいたいセイバーは霊体化できないんだから、学校に連れてこれるワケないじゃないか」   「それなら学校なんて休みなさい。マスターがサーヴァント抜きでのこのこ歩いてるなんて、殺してくださいって言っているようなものよ。  ……衛宮くん、自分がどれくらいお馬鹿かわかってる?」   「な―――お馬鹿って、そんな事あるかっ。  遠坂こそ馬鹿なコト言うなよな。マスターは人目のある所じゃ戦わないんだろ。なら日中、とくに学校なんて問題外じゃないか」   「…………ふぅん。じゃあ聞くけど、ここは人目のある所かしら」 「は――――?」  なにいってんだ、人目があるかなんて、そんなのは確かめるまでも―――― 「あれ――――――?」    なぜだろう。  都合がいい事に、周りには誰もいなかった。  三階の廊下には誰もいない。きっと四階も二階も同じようなものだろう。  夕暮れの校舎は静まり返っている。  こうなっては、一階にしか生徒や教師は残っていないのではないだろうか―――― 「ようやく分かったみたいね。  ……ほんと、朝は呆れたのを通り越して頭にきたわ。  あれだけ教えてあげたのに、どうして自分からやられに来るのかって」    棘のある口調で言いながら、遠坂は左手の裾をまくり上げる。 「――――?」    白く細い腕。  女の子らしいその腕に、ぼう、と。  燐光を帯びた、入れ墨のようなモノが浮かび上がった。 「――――な」  令呪じゃない。  アレはもしかして―――俺は持っていないが、魔術師の証と言われる魔術刻印ではないのか。   「―――説明するまでもないわよね?  これがわたしの家に伝わる魔術の結晶よ。ここに刻まれた魔術なら、わたしは魔力を通すだけで発動させる事ができる」      ……そう。  魔術刻印とは、言うなれば魔術師本人の回路とは別の、付属したエンジンである。  複雑な詠唱も手順も必要ない。  ただ回すだけで魔術という車を走らせる、究極の短縮機関。      だがそれ故に、魔術刻印は使用時でなければ浮かび上がらない。  魔術刻印とは、持ち主が魔力を通す事で形成される、もう一つの魔術回路なのだ。   「アーチャーは帰らせたわ。貴方ぐらい、この刻印に刻まれた“ガ〈ン〉《呪》ド〈撃〉《い》ち”で十分だもの」  言い捨てる声に感情はない。 「――――――――」  それで、目の前の相手が本気なのだと、思い知った。   「逃げてもいいけど辛いだけよ。どうせ勝つのはわたしなんだから」    冷淡に言う。  だがこっちの頭はぐちゃぐちゃだ。        ここで、本気で、戦うだって……?  なんだってこんな所で、  なんだってこんな時に、  なんだってよりにもよって、あの遠坂と戦わなくっちゃいけないのか――――?   「ま、待て遠坂! おまえ正気か、ここ学校だぞ!? 下手に騒げば誰がやってくるかわかったもんじゃ―――」   「その時はその時よ。わたしね、目の前のチャンスは逃さない主義なの。衛宮くんには悪いけどここで片づけさせてもらうわ。  ……それに、今日みたいにふらふらされてたらわたしの神経が持ちそうにないし」   「だ、だから待てって……! だいたい俺は遠坂と戦う気なんて―――」 「貴方になくてもわたしにはあるの……! いいから覚悟なさい、士郎―――!」  何か八つ当たりじみた宣戦布告をして、遠坂の腕が動いた。 「――――――――!」  それはどのような魔術なのか。  遠坂が左手を突き出した瞬間、視界が光に潰された。 「っ………………!」  二階に続く階段まで、思いっきり飛び込んで四歩。  廊下に戻るのなら、同じく四歩程度で遠坂の死角に入れる。  戸惑ってる場合じゃない、今は――――    ―――遠坂は本気だ。    廊下に跳び退いたところで逃げ道などない、ここは目の前の階段を飛び降りる……! 「は、づ――――!」  全力で床を蹴る。  階段の踊り場まで一メートル半、その程度の高さなら難なく着地できる……!  ―――高さ一メートル半、階段の幅一メートルほどの走り幅跳び。  着地時に足首をひねる事もなく、行動はイメージどおり行えた。 「ふ――――」  これで遠坂から一階分のアドバンテージがとれた。  あとはこのまま、止まる事なく一階まで降りて校舎の外に出てしまえば―――― 「――――――――、?」  なに、が、起きた、のか。  ほぼ真上。  脳天から、どぶ、と巨大なゼリーが、落ちてきた、ような。  ―――足が動かない。    真上から落ちてきたゼリーの重みが足を止めている。  そう考えて、背中に圧し掛かったモノを振り払う。  大きく動いた途端、吐き気がした。  ……寒い。  肌という肌に鳥肌が立ち、関節が軋み、筋肉は重く、内臓は半分以下に出力を落としていく。 「しまっ――――こ、れ」    足が動かないのはゼリーのせいじゃない。  これは、重度の風邪だ。  遠坂の魔術。  狙った者に病を与えるというガンド撃ちが、俺の体に命中したのだ。    その結果―――衛宮士郎の体は、自分では動けないぐらいの重い熱病にかかってしまった――――           「―――予想通りね。簡単な逃げ道を用意しておけば、まずそこを通ると思ったわ」    ……遠く、まるで月あたりから交信しているような頼りなさで、遠坂の声がする。           「―――先に謝っておくわ。これからする事は、命を取るのと同じぐらい酷いから」    首筋に冷たい指が食い込んでくる。  それが遠坂の指だと判って、なんとか振り払おうとした時、         「―――さよなら。  貴方は知らなかっただろうけど。わたし、けっこう前から貴方のコト知ってたんだ」    バチン、と。  ショートしたように意識が落ちた。 「……あれ……? なんだ、もう朝か」  ぼんやりとした意識を起こして、二度寝したがる根性に活を入れる。  時計はもう朝六時過ぎ、とっくに朝食の準備をしなくてはならない時間だ。 「おはようございます先輩。朝食の支度、もう出来てますよ」 「あ、うん。……悪い、また桜一人に任せちまった。なんか凄く眠くて起きられなくてさ。夜は俺が作るから、それで勘弁してくれ」 「え、ダメですそんなの。今日の夕飯はわたしの番なんですから、先輩は大人しくしててください」 「う。しかしだな、朝も夜も桜に任せっきりってのは甘えすぎだろう。頼むから今夜は譲ってくれ。寝坊の汚名を返上したいんだ」 「うーん、そうですね。じゃあ夕飯は半分コという事で。  わたしもお手伝いしますから、先輩は早めに帰ってきてください」 「すまん。バイト、今日は早めにあがる」  桜に謝りながら食卓につく。  テーブルには朝食が並び、いつも通り時間ギリギリに藤ねえが飛び込んできた。 「おっはよー! みんな今朝も元気だね――――って、あれ……? 士郎、どうしたのこれ?」 「は? どうしたのって何が。藤ねえ、家に忘れ物か?」 「えっ、えっ、えっ……? あれ? おかしいな、なんかおかしいと思ったんだけど、おかしいトコロなんて何処もないや。  ……けどひっかかるな……士郎、アンタ何か忘れ物してない?」 「はあ? 忘れ物、例えばどんなだよ」 「わ、わたしに聞かないでよ。分からないから聞いてるんじゃない。  ね、桜ちゃんはおかしいって思わない? なんか足りないっていうか、何か忘れてるっていうか」 「わたしは特に。藤村先生の気のせいだと思いますよ。  何も忘れてませんし、誰も忘れていないでしょう?」 「んー……まあ、そっか。思い出せないってコトは大したコトじゃないってコトだし」  納得いったのか、藤ねえは座布団に座ってごはんを食べる。  それはまごう事なき、いつも通りの衛宮家の朝だった。  藤ねえ、桜に遅れること三十分。  いつも通り、悠々と家を後にする。  学校に続く坂道を行く。  七時半過ぎ、通学路は同じ制服の生徒の姿で賑わっている。  慣れた風景。  何一つ欠けていない朝の空気を肺に取り込む。  ……と。  なんとなく、通り過ぎる女生徒と目が合った。  視線が合った事が気まずかったのか、女生徒は早足で坂を上っていく。 「なんだ衛宮。いま、遠坂とにらみ合っていたのか?」 「え……? ああ、おはよう一成。  って、今のは別に睨みあってたワケじゃない。ただ目が合っただけだよ」 「そうなのか? ならいいが、くれぐれも遠坂に喧嘩なぞ売るなよ。あいつは倍返しが信条だからな、残る一年の学園生活を棒に振る事になる」  南無観世音菩薩、なんてどこまで本気なのか分からないお経を口にする一成。  が、そんな心配はそもそも無縁だ。 「ばーか。喧嘩を売るも何も、俺、あいつ知らないぞ。  ……いやまあ、凄い美人だったけど、あんなのうちの学校にいたっけ?」 「うむ、それが正しい対応だ。アレは人の手に余る。関わらぬよう過ごすのが人の道というものよ。  いや、一時はどうなるかと思ったが、これにて一件落着!」  一成は坂道を上っていく。 「………………」  その後ろ姿を見送って、ぼんやりと立ち尽くした。            欠けているものなどない朝の光景。  わずかに痛む左手の感覚。 「一件落着って――――何が起きて、何が終わったんだ、一成」  坂の上から予鈴が響いてくる。    ……もう朝の八時。  学校の門が閉まるように、何かに締め出されたような気がする。   「――――俺は、たしか――――」    ……何も思い浮かばない。  カタチのない焦燥に包まれて、何処に向かうべきか、何処に戻るべきかも、思いつかなかった―――― 「っ――――!」  後ろを見ずに、勘だけで跳び退いた。  遠坂の死角、廊下の曲がり角を盾にして、ともかく全力で横っ跳びする――――!  廊下に前のめりに滑り込む。 「チィ――――!」  苛だたしげな遠坂の舌打ちと、何か重い物が壁を乱打する音が聞こえた。 「ちょっ――――あいつ、いま何やった――――!?」  立ち上がりながら後ろを見る。  ……壁。  さっきまで俺がいた後ろの壁から、なにやら煙らしき物が上がっていた。  で。  も少し正確に言うと、壁には三つ、こぶし大ほどの焼き跡があったりする。 「――――――――」  飛び道具――――いや、ありゃ狙った相手を病気にするっていう“呪い”めいた物だ。    遠坂が言っていたガンド撃ちってのは、たしか北欧のルーン魔術に含まれる物で、相手を指差す事で病状を悪化させる間接的な呪いの筈だ。  効用はあくまで体調を悪くするだけで、間違ってもあんな風に、直接ドカーッと効果の出るもんじゃない。    が、遠坂のガンドはあんまりにも濃い魔力で編まれているため、パッと見が弾丸そっくり。  問題は外見だけでなく、威力も効果も弾丸と同じだってコトだ。    いや、さすが遠坂。  本来ゆったりとした呪いを即効性にするなんて、実力行使にも程がある。 「って、殺す気かあいつ――――!」 「この、だからそうだって言ったでしょう!」  背後から駆け下りてくる足音が響く。 「っ――――!」  全速で体勢を立て直す。  ―――考えている暇はない。今はとにかく逃げないとシャレにならない……! 「廊下、廊下はやばい――――!」    何しろまっすぐだ。  遠坂の武器は飛び道具なんだから、単純に廊下を走ってたら背中を撃たれる。 「そこ、動くな――――!」  階段から躍り出てくる遠坂。  それより僅かに早く、    すぐ横の、二年F組の教室に飛び込んだ。  廊下を撃ち抜くガンド。  遠坂のやつ、廊下にでるなり問答無用でぶっ放しやがったらしい……! 「冗談、あんなの相手に出来るか……! 何が戦えだ、そもそも戦力が違うぞ、戦力がっ……!」  大急ぎで教室を見渡す。  防具。  何か、あんなんで撃たれても助かるような盾とか服とか防弾チョッキとかないか……!? 「やば、来た――――!」  遠坂の足音は教室の入り口あたりで止まった。  ……俺がここに飛び込んだのは見えた筈だ。  となると、俺が待ち伏せしていると用心して足を止めた―――― 「なワケあるか、バカ――――!」  走る。  教室の端から端、教室の前の出口へ駆けだすのと同じくして、  容赦なく、廊下から〈弾丸〉《ガンド》が連発された――――!  ああもう、つるべ撃ちもいいところだ……!  弾丸は壁を貫通し、放射状に教室内を狙い撃ちにする。 「っ……! あつ、背中に掠ったぞ、背中に!」  足を止めていたら間違いなく撃ち抜かれていた。 「!? うそ、なんでピンシャンしてんのよアンタは!」  だっ、と教室に飛び込んでくる遠坂凛。  距離は四メートルほど、俺たちは教室の前と後ろの入り口に手をかけて、再度睨みあう――――なんて余裕はないっ……!  廊下に飛び出る。  教室に逃げ込むのは却下だ。  こうなったらもう、あっちの階段に向かって全力疾走するしかない! 「!」  うわ、容赦ねえな本当に!  こめかみに掠っていったぞ、今! ちょっ、脇腹、脇腹にいまじーんときたじーんと! 「あつ、あつつつつ……! くそ、本気かおまえ! そんなん当ったらタダじゃすまないじゃないか!」 「当然、タダで済むほど甘くないわ……!  痛いのがイヤなら止まりなさい、そしたらすぐ楽にしてあげるから―――!」  駆け抜ける銃弾。  というか、なぜにさっきから効果音がリアル銃弾になってますか!? 「待て、おまえガンド撃ってるんじゃないのか!?  殺意以外感じない音だぞそれ!」 「うるさい、ならちょこまか逃げるな! 標的が動きまわるから、狙いに熱が入るんじゃない……!」   一際強く銃声が木霊する。  だが間一髪。  本当にスレスレのタイミングで、二年A組側の階段に辿り着けた。 「はっ――――はぁ、はぁ、は――――!」    階段を駆け下りる。  ここまで来ればこっちの勝ちだ。  階段を駆け下りて、二階の踊り場に着く。  このまま一階まで下りてしまえば、いくら遠坂でもこんな無茶はしな――――    ―――絶句。  遠坂のやつ、階段の手すりを飛び越えて、一階に続く階段まで一気にショートカットしやがった。  ……簡潔に言えば、つまり。  この階段から一階に下りるには、やる気満々でこっちを睨んでいる遠坂を突破しなくてはならないという事だ。 「―――驚いた。身体、軽いんだな遠坂。前は贅肉があるとか言ってたのに」 「――――――――」  あ。  遠坂、青筋たてて睨んできた。    慣れという物は恐ろしい。  来るな、と思った瞬間、足は勝手に廊下へと横っ跳びして、だんだん、と壁に炸裂する銃弾の音を聞いていた。  廊下を逆方向に逃走する。  一歩前進したところは、三階から二階の廊下になったというコトだ。  これでもう一度逃げ切って一階まで降りれば、流石の遠坂ももう―――― 「うわあ、また来たー! しつこいぞ遠坂、いい加減あきらめろー!」 「そっちこそ往生際が悪いっっっ! 命までは取らないんだから大人しくしなさいよね……!」  ―――今度という今度は本気なのか、それとも逃げ回られて頭に血が上ったのか。  遠坂のガンドは、これ以上やったら間違いなく警察に通報されるレベルにまでアップしている。 「ひー……!  そんな心配してる場合じゃないぞ、これ――――!」  威力があがっている、という事は、弾丸も大きくなっているという事だ。  さっきまで掠っても熱いだけだった“呪い”は、触れた箇所をごっそりと焼き削る物となっている。 「――――痛っ…………!」    片足。腿にガンドが触れる。  ―――スピードが落ちる。  階段に着く前に追い付かれる、と判断した瞬間、体は真横、三年の教室に飛び込んでいた。 「――――っ」  教室に飛び込んで、窓際まで移動する。  ……さて、どうするか。  二階ぐらいだったら飛び降りてもなんとかなりそうだ。  廊下に出ても狙い撃ちにされるのなら、いっそここから外に出てしまおうか。 「――――Das Sch〈l〉《   準》〈i〉《   備》〈e〉《   。》ßen.〈V〉《   防》〈o〉《   音》〈g〉《   、》elkäf〈i〉《終  》〈g〉《  了》,Echo」    廊下で遠坂の声が聞こえた。  何か、薄い膜のようなモノが教室を包み込む。 「――――――なんだ、結界……?」    それが、なんらかの防音機能を持った結界だと気づいた瞬間、遠坂が何をするつもりなのか読みとれた。 「!!!!!!!!!」  窓際に頭から飛び込む。            ――――強い魔術の発動を全身で感じ取る。    即座に身を屈め、机を倒してその陰に隠れる。            ――――今までのガンドとは違う。    目を閉じて、手のひらを机の裏側に密着させる。          ――――呪文を。  魔術刻印の助けがありながら、遠坂は呪文を詠唱している。    間に合うか。否、間に合わせるしかない。  あらゆる工程、背骨に第二の神経を作る過程を吹っ飛ばして、机にありったけの魔力を流し込む……!           「Fix〈i〉《狙》〈e〉《え》〈r〉《、》ung,Ei〈l〉《一》〈e〉《斉》〈S〉《射》〈a〉《撃》lve――――!」   「〈同調〉《トレース》、〈開始〉《オン》――――!」    炸裂する音と光。  いつも通りの放課後。何の変哲もない教室は、一瞬にして舞踏場へと変貌した。    ――――踊る机。    廊下から教室に向けて放たれた魔力の束は、拳銃なんて比喩では間に合わない。  絶え間なく放たれ、広範囲にばらまかれるソレは、既に機関銃と同じだった。    魔力に籠められた“呪い”がどんな効果を持っているかは知らないが、それでも目に見えるほどの魔力の塊なのだ。  質量を持ったソレは、触れる物全てを弾き飛ばしていく。  教室に並べられた机は、頭に火をつけられた人間のように荒れ狂う。  響く銃弾と踊る机の音で、鼓膜はとっくにいかれていた。    これじゃ舞踏場というより戦場だ。  にも拘わらず、窓ガラスには〈皹〉《ひび》一つ入っていない。  遠坂が張った結界の力だろう。  いま、この教室は密室になっている。  この密室は侵入する事は出来ても、退出する事は許されないらしい。    放たれる何十という弾丸も例外ではなく、この騒音さえ外には漏れない。  ……まったく。  遠坂のやつ、カッカしてるようで感心するぐらい魔術師然としてるじゃないか――――! 「っ――――!」    盾にした机に、ありったけの魔力を籠める。  俺が使えるただ一つの魔術―――“強化”によって硬度を増した机は、豪雨じみた魔力の弾丸を防いでいた。 「ぐ、っ――――!」    だが、それも一時の事。  俺の強化では、この弾丸の雨を三秒と防げない。  結果として、強化が切れた瞬間さらに強化をかけ、魔力の続く限り繰り返すしかないのだが――――   「くそ、あいつの魔力は底なしか――――!」  雨は一向に緩まない。  ……もしかしたら、遠坂には教室の様子が読みとれているのかもしれない。  あいつは俺がこうして防いでいる事を知っているから、攻撃の手を緩めないのではないか。    そうなると、この雨が止む時は、つまり―――― 「……こっちの魔力が切れた時、か……」  机に神経を集中しながら、はあ、と肩を落とした。  ……こうなれば根比べだ。    あいつと俺、どっちが先に音を上げるか勝負してやろうじゃないか――――! 「――――いや、まいった」    勝負はあっさりと着いた。  なんというか、一ラウンド開始十五秒でノックアウト負けを食らった気分。  こっちは無傷だし、体力だって有り余っているが、魔力が底をついたのではどうしようもない。 「……しかし、またこれは」    机からひょこっと顔を出す。  教室は白煙に包まれてよく見えなかった。  からん、という音。  床に付けていた手が、何か棒のような物に触れた。 「椅子の脚だ。……また派手に壊したもんだよな、あいつ」    ともあれ、何らかの武器にはなるだろう。  二十センチほどの鉄の棒を握って、残った最後の魔力を籠める。 「―――上手くいった。なんだ、本番なら百発百中じゃないか、俺」  ぶん、と景気づけに“強化”した鉄の棒を振ってみる。  ……さて。  ここで煙に巻かれていても事態は好転しないし、もう一度さっきのをやられたら間違いなく蜂の巣にされる。  魔力の使いすぎで足腰をやられたのか、今は立ち上がる事もできない。 「っ――――ごほっ、かはっ」  おまけにこの煙、まともに呼吸させてくれないし。 「燻りだしか、くそ。詰めまで完璧じゃないか、あいつ」    遠坂は戦い慣れている。  ここに留まっていたらいっそう追い詰められるだけだ。  ……どうせ廊下で待ち構えているんだろうが、ヘンな結界のせいで窓からは出られない。 「――――――――」  覚悟を決めて廊下に向かう。  足の痺れは未だ取れず、机の残骸を押し分けながら、〈匍匐〉《ほふく》前進で白煙に突入する。  そうして焦土を抜けた先に、   「―――ふん。ようやく出てきたわね、衛宮くん」    大きく肩を上下させながら、遠坂が待ち受けていた。 「………………」  むっ、と睨み付けながら、なんとか中腰まで立ち上がる。  足の痺れは一時的なもので、動かそうと思えば動かせるようだ。  が、それでどうにかなる話でもない。  遠坂は走り疲れているだけで、魔力はまだまだ残っている。  魔力切れの俺とは逆で、遠坂は体力が先に尽きているだけだ。  このまま戦闘を再開すれば、今度こそ避ける間もなく撃ち抜かれるだろう。 「勝負あったわ。ほら、そのヘンテコな武器を捨てなさいよ。こうなったら衛宮くんに勝ち目なんてないでしょう」  ふふん、と勝ち誇る遠坂凛。 「………………」  カチンときた。  正直、無謀だなって分かってはいるが、なんだかともかくカチンときてしまったのだ。 「……そんなのやってみなくちゃわからないだろ。肩で息してるクセに偉そうなコト言うな、ばか」  てっていこうせんだ、とばかりに椅子の脚を遠坂に突きつける。 「―――ふうん、そう。  わかったわ、大人しくするなら優しくしてあげようって思ったけど、そんなのはいらないお節介だったみたいね。ええ、だから初めに謝っておくわ、衛宮くん」    にたりと。  なにか、とんでもなく不吉な笑みを浮かべるのは止めて欲しい。 「? 謝るって、なんでさ。というか、いまさら謝られてもこの恨みは忘れないぞ」 「ええ、わたしが謝るのはこれからの事よ衛宮くん。  だって下手に抵抗されたら手加減は出来なくなるでしょう? 手元が狂って貴方を殺しちゃったら、もう謝罪はできないじゃない」 「――――…………!」  うわ、こいつ本気だ……!  いや、今までだって本気っぽかったけど、今ので本当に最後のスイッチを入れてしまったというか、自分がまな板の上の鯉だってようやく気が付いた……! 「あ、やっと解ってくれた? 良かった、これだけ言ってまだぼんやりしたコト吐かれたら、それこそどうかしてたから、わたし」 「う――――どうかって、どんなさ」 「――――――――」  ぎり、と睨み付けてくる。  ……なるほど。  つまり、今みたいなコトがぼんやりしたコトな訳か。 「―――これが最後の忠告よ。  そのヘンテコな武器を捨てて、令呪を出しなさい。最悪腕の神経を剥がす事になるけど、命を獲られるよりはいいでしょう?」 「――――――――」  令呪を差し出す……?  いや、令呪は差し出せる物じゃないし、何より――― 「……駄目だ。それは出来ない」 「……ふうん。聞いておくけど、なんでよ」 「令呪は渡せない。それは、俺にセイバーを裏切れって言ってるのと変わらない」 「……そう。三秒あげるわ。自分の命だもの、自分で選びなさい」  左手をかざす遠坂。  俺が断った瞬間、その腕からガンドが放たれるのだろう。  俺は――――このまま、   「三秒―――衛宮くん、返事は」 「――――――!?」  思わず遠坂と顔を見合わせた。  いま、下から悲鳴が聞こえなかったか……!? 「遠坂、いまの」 「悲鳴、だったわよね」  即座に立ち上がって駆けだす。 「ちょっと、場所は判ってるの衛宮くん……!?」 「知るか! 下からって事しか判らなかった!」 「ちょっと待った、いま結界を解くから――――!」  階段を駆け下りる。   「待ってったら! 一人で先走ったら危ないわよ!」 「そんな場合か! さっきの悲鳴、どう聞いても普通じゃなかったぞ!」 「わかってるわよ! だから危ないって言ってるんじゃない、ばか!」  一階に下りる。  廊下には誰もいない。  ただ一つ、女生徒らしき人影が倒れ伏しているだけだ。 「――――!」  女生徒は非常口の前に倒れていた。 「……良かった。気を失ってるだけか」  女生徒の傍まで駆け寄って、無事を確かめる。  一年生だろうか。  意識はないようだが、出血も外傷もなく、とりわけ大事という訳ではなさそうだ。 「そんな訳ないでしょう―――! こんなに顔を青くして、中身が空っぽだって判らない!?」 「え……? 中身が空っぽ……?」 「魔力、もっと極端に言えば生命力よ。……キャスターにやられた人と同じ、いえアレよりもっと質が悪い。  ―――この子、放っておいたら死ぬわ」 「な……死ぬって、傷一つないのにか……!?」 「外が無事でも中が空っぽなら動かなくなるのは当たり前でしょ。血がぜんっぜん足りないのよ。……まってて、これぐらいなら手持ちの石でなんとか――――」  ごそごそとポケットを探る。  ……良かった。  なにか大変な事になっているようだが、遠坂は治療法を知っているようだ。  遠坂はしゃがみ込んで、倒れた女生徒を介抱している。 「――――――――」  その横顔は真剣そのものだ。  額に汗を浮かばせながら、女生徒の安否を気遣う。 「……?」  ……なんだろう。  その、見ている方が痛みを覚えるほどの真剣な顔を、俺は。    つい最近、すごく間近で見た覚えが―――― 「ああもう、気が散るっ……! 衛宮くん、そこのドア閉めてくれる? 風で髪が乱れるのよ」 「え――――ああ、あの非常口だな」  開けっ放しの非常口に視線を送る。 「ん――――?」  開けっ放し……?  そういえば、この子がどうして倒れているのか、俺たちはまだ調べていない。  一人で倒れた訳でもなし、彼女を襲った第三者がいた筈だ。  悲鳴が聞こえて一分と経たずに駆けつけたんだから、犯人が逃げるとしたらその非常口ぐらいしかない。 「――――あ」    その、開けっ放しの非常口を見ていたおかげか。  黒い“何か”が飛んでくるような気がして、咄嗟に、    「遠坂、危ない」    右手で、遠坂の顔を〈庇〉《かば》った。 「え―――な、なによそれ……! 衛宮くん、腕、腕にグサッて……!」 「っ――――――――」  遠坂の言う通り、右腕には黒い短剣が突き刺さっていた。    肘と手の中間に刺さったそれは、釘に似ている。  いや、釘というには鉄塊すぎる。  もはや短剣と呼べるそれは、ものの見事に俺の腕を貫通していた。 「なんで、そんな―――ううん、今はそうじゃなくて、血、血がそんなに出てるのに、いた、痛く、ないの……?」 「――――痛い。とんでもなく痛い」  が、あんまりにも痛すぎて、冷静にパニックできない。  それに、そんな事より。  こんなモノを、遠坂の顔めがけて投げやがったのか。 「――――遠坂、その子任せた」  床を蹴る。  遠坂の返事を聞く余裕はない。  左手に“強化”した鉄の棒を握り直して、非常口を飛び出した。 「ふ――――ふぅ、ふぅ、ふ――――」    右腕をぶら下げながら走る。  肘から下は血で真っ赤になっている。  ……今日は腕に因縁でもあるのか。  遠坂からは腕を差し出せと言われるし、今はこうして、引きちぎれそうな腕を抱えている。 「っ――――このあたりだ、間違いない」    周囲を見渡す。  何に引っ張られているかは判らないが、確かに感じる。  あの女生徒を襲った“誰か”、  遠坂に短剣を放った“何か”は、すぐ近くにいる。  まだ見失っていない。  目を〈瞑〉《つむ》れば、黒い闇めいた魔力が移動していると感じ取れる。 「弓道場の裏――――雑木林か……!」  垣根を跳び越えて、腐葉土の地面を走る。  ――――と。  林の隙間。  木々に隠れるように、見知った顔が、俺を見て笑っていた。 「慎二…………?」  思わず足を止める。  なんで慎二がこんな所にいるのか。  あいつは行方不明で、いや、  そもそも行方不明なのは美綴で、慎二はその美綴と最後に会っていて、そして―――― 「――――!!!!!」  刺されっぱなしの右腕が痛む。  クン、と体が前のめりに倒れそうになった瞬間、    喉もとを狙って、釘のような短剣が突き出された。 「っ…………!」  とっさに躱した。  後ろでも横でもなく、つんのめる体に逆らわず、思いっきり地面に前転してやりすごした。 「は――――づ…………!!!!」  喉。  喉に掠った。皮膚がずるりと裂けている。  それでも幸運と言えるだろう。  一歩遅ければ、皮膚ではなく骨を串刺しにされていたのだから。 「おまえ…………!」  咄嗟に体を起こす。  俺の目前には、  笑みをうかべた、黒一色の女がいた。 「サーヴァント…………!」  確かめるまでもない。  遠坂でさえ霞むほどの、人間離れした魔力の塊。  何のクラスかは知らないが、こいつは紛れもなく人間以上の存在に他ならない―――― 「消えた……!?」  目の前から黒い影が消失する。    ――――殺される、と直感し。    夢中で、左手の武器で、自らの頭上を振り払った。 「ぐっ――――!」    脳天へと落ちてきた“釘”をうち払う。  あの女は蜘蛛か何かなのか、木々に張り付くように雑木林をすり抜けていく。 「――――――――」    走った。  今の奇襲を弾けたのは偶然だ。  次に襲われては防ぎようがないし、もとより、既に逃げられる筈もない。   「つ、は――――!」    手近にあった木まで走り、背中を預ける。  とりあえず背後からの奇襲はこれで防げる。いや、防げると信じるしかない。 「くそ――――あんだけ目立つ格好してるのに、どうして――――」    黒いサーヴァントの姿は何処にもない。  枝から枝に飛び移っているのか、女は一度たりとも地上に降りては来ない。 「――――――――」    汗が滲む。  ジャラジャラという音は、獲物を狙う蛇そのものだ。 「は――――はは、は」    木の下、零れそうになる笑いを必死に堪える。  雑木林に響く鎖の音。  次に襲われたら間違いなく殺される、という状況で、頭のなかは真っ白け。  時間の感覚はまるでなく、〈断頭台〉《ギロチン》の紐は解かれたまま、いつまでたっても落ちてこない。 「は――――はぁ、は」    だから、それが不思議だった。  本来なら、もう戦いは終わっているだろう。    なのに自分は生きている。  それが不思議で不思議で、もしかしたら、自分はさっきの一撃で死んでいて、こうして敵の奇襲に怯えている事自体、死後の夢なのではないかと思いこみたくなるぐらい、真っ白だった。 「――――セイバー」    ……自分ではサーヴァントには太刀打ちできない。  なら彼女に頼るしかない。  令呪。令呪を使ってセイバーを呼べば、この窮地を脱せるだろう。    だが――――いいのか。  この死地には自分から飛び込んだのだ。なら、その責任はこの手で果たすべきだし、なにより――――   「――――俺はまだ、出来る事をやっていない」    そうだ。  〈拙〉《つたな》いけれど、この腕には武器がある。  それに体だってまだ動く。  場所が悪いのなら移動すればいい。  セイバーを呼ぶのはその後でも―――― 「驚いた。令呪を使わないのですね、貴方は」 「――――!」    声が響く。  上――――やはり木の上に潜んでいるのか。 「……ふん。あいにく残りが少なくてな。こんな事で使ってたら、この先やってられないんだよ」  それにまあ、正直使い方が判らないってコトもあるんだが。 「……そう。私のマスターと違って勇敢なのですね、貴方は」    位置を探る。  声の元は何処だ――――? 「では、私もやり方を変えましょう。サーヴァントのいないマスターに本気は出せませんから―――貴方は、優しく殺してあげます」    ……声が止まる。  林には、ジャラジャラという音だけが響いていく。 「――――――――」  ……来るか。  俺のやるべき事はまず、この林から出る事だ。  それにはあのサーヴァントの“釘”を数回受け止めなくてはならない。 「……………………」  その為の道具が椅子の脚を“強化”しただけの物っていうのは、情けなさを通り越して笑い話だ。    せめて、そう――――    この棒が、あいつの武器ぐらい立派だったら、防ぐどころか反撃さえ出来るだろうに。 「―――――――――――――――――――――――― ――――――――――――――――――――――――― ――――――――――――――――――行くぞ」    ……もしもの話をしている暇はない。  雑木林の出口まで、わずか三十メートル程度。  さっきの遠坂との追いかけっこに比べれば、こんなの大した距離じゃない――――!          ――――走る。  耳障りな鎖の音を無視して、一心不乱に外を目指す……! 「ふっ――――!」    頭上から放たれた一撃を弾き返す。    ついで左、地面すれすれに着地したサーヴァントが放った回し蹴りを“武器”で受ける。    次に正面。  二度の襲撃を防がれた苛立ちか、立て続けに放たれた剣戟をことごとく弾き返す――――! 「っ、そんな――――!?」    黒いサーヴァントが後退する。 「――――――――」    それは偶然だ。  始めの奇襲もそうなら、この一連の襲撃も全て偶然で防ぎきった。  俺には敵の姿さえ見えていない。  そんなやつが生き延びられるのは、偶然以外の何物でもない。    ――――だが。  偶然というものは、こんなにも続くものなのか。  いや、そもそもその前提が間違っていたとしたらどうする。  始めの一撃。  脳天への奇襲、  衛宮士郎では躱す事など不可能な一撃は、  決して偶然などでは防げない―――― 「――――貴方」    黒いサーヴァントが呟く。  苛立ちを含んだ声は、同時に、ぞっとするほど綺麗だった。 「は、大した事ないな、他のサーヴァントに比べたら迫力不足だ――――!」  立ち塞がるサーヴァントを薙ぎ払う。 「っ…………!」  黒いサーヴァントは俺の武器を受け止め、長い髪をなびかせて跳び退いた。 「行ける――――!」  もう邪魔はいない。  黒いサーヴァントは離れた。  あと、ほんの数メートルで、このまま――――           「―――いいえ、そこまでです。  貴方は、始めから私に捕われているのですから」 「え――――?」  体が倒れる。  いや、後ろに引っ張られる。  右腕が痛い。  ただでさえ大穴が開いている腕が、何か得体の知れない力に引っ張られている――――!? 「まだ判りませんか? 貴方の腕に刺さったそれは、私の杭だという事に」 「おまえの、杭――――」    それで気づいた。  あの女の武器から伸びているモノ。    耳障りな鉄の音。    ジャラジャラと。    校舎を出る時からしていた、縛めの鎖の音――― 「しまっ――――!」  左手を右手へと伸ばすが、もう遅い。  血に濡れた腕はひとりでに持ち上がり、そのままどこまでも持ち上げられていく。 「ぐっ……!!! あ、っ――――!」    苦痛を無視し、伸びきる。  右腕に刺さった釘。  そこから伸びる鎖は、木の枝を支点にして、俺の体を宙にぶら下げてしまった。 「あ――――ぐ――――…………!」 「……さて。先ほどは何か、興味深い事を言ってらしたようですが」  ……黒いサーヴァントが近寄ってくる。  宙吊りにされたこの状態では、もう逃げる事も殴りつける事もできない。 「この私が他のサーヴァントに劣る、と。  ……困りました。その認識を改めさせなければ、貴方を殺すのは難しい」    ……〈百舌〉《もず》の〈早贄〉《はやにえ》。  まるで、西部劇に出てくる絞首台にかけられたよう。  釘のような短剣が持ち上げられる。  黒いサーヴァントは、ぬらり、とその先端に舌を這わせ、   「そうですね。まずはその誤った目からいただきます。  残った手足は、その後に」    トン、と軽く地を蹴って、地上三メートルに吊るされた俺の前に、現れた。 「――――――――」  釘が振り下ろされる。  体はまだ動く。  俺は――――      ――――俺ではこのサーヴァントには敵わない。    なら、唯一自由になる左手で、こいつに勝てる〈存在〉《セイバー》を呼び寄せるしかない。  使い方なんて解らない。  だが一度は使ったものだ、その気になれば使えない筈がない……!   「っ、来てくれセイバーァァァァア――――!」    視界が光に覆われる。  令呪の作用か、左手には激しい痛み。    ばしゃり、ざばざば。    血が流れるような音と、痛みと、左手から激しい痛み。 「――――、ア」    目を開ければ、そこには   「アアアアァァアアあああああ…………!!??」    令呪の薄れゆく、俺の、腕―――― 「あ、ひあ、あ、あああああああ……………!!!!」  喉が勝手に吠える。  発声器官は俺のモノではなくなったように、耐え難い痛みをひたすらに訴える。 「―――上出来です。左手だけを自由に動かせるようにすれば、必ず令呪に頼る。  先ほど色々と〈囀〉《さえず》っていましたが、追い詰めれば貴方も他のマスターと変わらない。令呪によってサーヴァントを律するだけの人間です」 「あ――――くあ、あ、は…………!」  ……止まらない。  左腕からこぼれる血が止まらない。  こんな、肘の先からまるごと、バケツめいた孔が出来たら止まる筈がない……! 「貴方に令呪を使わせる―――この狩りの中で、私が自身に課した条件は満たしました。  あとはもう一つ、貴方の目をくりぬく事ですが……まあ、それは許してあげましょう。貴方の苦悶の声だけで十分すぎるほど満たされた。これで眼球まで掴み出してしまったら、間違いなく達してしまいますから」 「は……ぁ、ぁ、は――――」    ――――血が、止まらない。  意識がとおくなる。  そのまえ、ほんとうに―出血で――んでしまうマえに、令呪で、セイバー、を 「十分な出血量です。……本来なら胸を抉って息の根を止めますが、それは貴方の健闘を称えて控えましょう。  アーチャーのマスターもじき到着します。運が良ければ助かるでしょうが―――助かったところで、もう脳はまともに機能しないでしょうね」 「…………、………… ………………………………………………………………………… ……………………………………………………………………………………………………………………… …………………………………………………………………」          痛みも感じない。  宙吊りのまま血が流れていく。  セイバー。俺は、セイバーを、呼ばない、と――――    俺にはまだ、残った腕に武器がある――――!  宙吊りにされたまま左手を振るう。  読んでいたのか。  黒いサーヴァントはそれを、中空でひらりと躱した。    くすり、と目の前で死神が笑う。 「っ――――!」  必死に体を揺らして避けようとするが、無駄だ。  サーヴァントの“釘”は、容赦なく俺の目の前へ突き出され――――    横合いから放たれた、無数の光弾の前に弾かれていた。 「いたっ……!」  地面に落下する。  鎖は今の光弾で切れ、どん、と容赦なく地面に尻餅をつく事になった。 「――――――――」  黒いサーヴァントが身を翻す。  木の枝へと跳躍し、そのまま獣のように遠ざかっていった。    なら、右手に刺さった釘を抜けば――――!  剣を捨て、唯一自由になる左手を右腕の釘へと伸ばす。   「―――勇敢ですね。常に痛みを伴う選択をするなんて」    だが、こいつにしてみれば俺の動きなんてスローモーションなのか。  黒いサーヴァントは容易く、今度は俺の左手までも鎖で縛ろうと釘を突き出してくる――――! 「っ――――!」  必死に体を揺らして避けようとするが、無駄だ。  サーヴァントの“釘”は、容赦なく俺の目へ突き出され――――    横合いから放たれた、無数の光弾の前に弾かれていた。 「いたっ……!」  地面に落下する。  鎖は今の光弾で切れ、どん、と容赦なく地面に尻餅をつく事になった。 「――――――――」  黒いサーヴァントが身を翻す。  木の枝へと跳躍し、そのまま獣のように遠ざかっていった。 「衛宮くん、無事……!?」  駆けつけてくるなり、遠坂は座り込んだ俺の手を取った。 「と、とにかく血止めしないと……! 衛宮くん、何か巻く物持ってない……!?」 「ああっと……あ、ハンカチ発見。いつも桜が用意してくれてるんで、きっと清潔」 「う、似たもの同士か。けど無いよりマシよ。わたしのタオルとそれで、なんとか格好ぐらいはつけられる」  脈をとりながらブツブツと呪文らしき物を呟く。  ……血止めと痛み止めだったのか、それで右腕は少しだけ楽になった。  遠坂は熱心に傷口にハンカチをあてて、ぐるぐると右腕をタオルで巻いていく。 「…………」  その横顔を見て、再確認してしまった。  遠坂は美人で、いいヤツだ。  三日前まではただ遠巻きに見ているだけで、優等生というイメージしか持てず、それに憧れていた。  で、箱を開けてみれば遠坂凛はイメージとはかけ離れていたけど、その中身は何が違っていた訳でもない。  ―――動悸が激しい。    心臓が大きく脈打っている。  遠坂はいいヤツで、いま体が触れあうぐらい近くにいて、さっきまでの事を水に流してもいいぐらい綺麗なせいで、まともな考えが浮かばない―――― 「よし、応急処置はこんなところね。  ……それで、あいつ何だったの? 追い付いたらとんでもない事になってたから、とにかく援護してみたけど」 「俺も判らない。ここまで追いかけてきて、襲われた」  簡潔に事情を説明する。  ……それと、森で見かけた慎二の事は秘した。  俺の見間違いかもしれないし、もし慎二だったにしても、さっきのサーヴァントと関わりがあるのかどうかの確証もないからだ。 「―――――」 「そんな顔するな。正体は掴めなかったけど、ともかくあいつもサーヴァントだろ。なら、俺たち以外にマスターがいたって事じゃないか」 「……そうね。学校にわたしたち以外のマスターがいるって事は知ってたけど、ようやく尻尾を出したってワケか」  ふう、と肩を落とす遠坂。  ……ふむ。  どうも、遠坂はとっくに第三のマスターに気が付いていたらしい。 「――――む?」  となると、さっき倒れていた女生徒はそいつの仕業っていう事か……? 「待った遠坂、さっきの子はどうなった……!?」 「持ち直したわ。今は保健室で寝かせてあるから、もう大事はないと思う」 「――――――そうか。それは、良かった」  ほう、と胸をなで下ろす。  ……なら、これで当面の問題はすべて解決したワケだ。  となると、あとは―――― 「えっ? な、なによ、人のコトじーっと見て。い、いっとくけど、わたしはあんなコトしないからねっ!」    どんな勘違いをしたのか。  遠坂はその、時々妙にズレた勘違いをする。 「あのな、そんなのわかってる。遠坂があんな真似するもんか。俺が言ってるのはそうじゃなくて、さっきの続きだよ。どうするんだ。やるのか、やらないのか」 「――――――――」  俺に言われて、はた、と遠坂は動きを止めた。  ……それがどのくらい続いただろう。  遠坂は一度だけ強く睨み付けてきたかと思うと、    なにか、観念するようにうなだれた。 「………………」  それはいいんだけど。  こんなに近くでそんな顔をされると、男としては色々こまる。 「遠坂? その、どうするんだよ」 「やらない。今日はここまでにする。なんだかしらけちゃったし、また借りができちゃったし」  立ち上がって、パンパンと膝を払う。 「じゃ行くわよ。辛いだろうけど、うちに着くまで我慢して」  ほら、と手を差し出してくる遠坂。 「………?」  首を傾げて、遠坂の目を覗き込む。 「だから、わたしの家に行くわよって言ってるの。衛宮くん、自分じゃその傷治せないんだから」 「あ―――いや、それはそうだけど、なんで?」 「なんでもなにもないわよ。  その傷、治療しないと壊死しちゃうじゃない。それで動かなくなったりしたら、わたしの落ち度みたいじゃない」 「え――――え?」  いや。  いきなりそんなコト言われても、こっちだってワケわからないじゃない?    遠坂の家は、同じ深山町の中で、俺の家とは正反対の住宅地にある。  洋風の建物が住宅地の一番上にあるらしいのだが、今まで足を運んだ事はなかった。  俺が知っているのはこのあたりまでで、ここから先は未知の領域と言える。    ―――で。    ここが有名な丘の上の洋館―――由緒正しい魔術師の家系である、遠坂の本拠地である。 「――――――――」  呆然と洋館を見上げる。  ……いや、慎二の家で見慣れていたけど、これはこれで味があるっていうか。 「衛宮くん? 玄関、こっちだけど」 「あ――――うん。わかってる、わかってる」  ごほん、と咳払いして遠坂の後に続く。  ……まいったな。  他のマスターの本拠地に招かれるって事で警戒するんならまだしも、遠坂の家にお邪魔するって事だけで、妙に緊張してきちまったぞ……。    ――――で。  ここが遠坂邸の居間、遠坂凛が毎日暮らしている場所だった。 「それじゃ腕を見せて」  単刀直入、遠坂はまったなしだ。 「…………悪い、頼む」  促された椅子に座って、右腕を差し出す。  しゅるり、と巻かれたタオルが解かれる。  ……なんか、さっきより近い気がする。  右腕を診てくれる遠坂は目の前にいて、さっきは気づかなかった黒髪のキレイさが目に映えて、心拍数があがってしまう。 「……あれ? おかしいな、傷口がさっきより小さくなってる。衛宮くん、自然治癒の〈呪〉《まじな》いでもかけてるの?」 「え――――いや、そ、そんなコトないぞ、断じてっ!」 「そうなの? そのわりには傷、もうほとんど塞がってるんだけど」 「いや、だから別にキレイだとかなんとか―――って、いまなんて言った遠坂?」 「だから、傷はほとんど治ってるって言ったの。わたしがしたのは血止めだけだから、治ってるなんてコトはない筈なんだけど」 「む……そんなコト言われても知らないぞ、俺」 「……ほんと? まあ、言われてみれば衛宮くんは素人同然なんだし、自然治癒なんて呪いをかけられるワケないか……じゃあ、もしかしてセイバーの能力と関係あるのかな……」 「? 俺の傷が治ってるコトと、セイバーの能力が関係あるってどういうコトだよ」 「……ん。これは仮定だけど、セイバーと契約した時、何か手順を間違えて力の流れが逆になったんじゃないかしら。  衛宮くんとセイバーがどんな契約を結んだかは知らないけど、サーヴァントの中には契約者を不死にする者もいるっていうから。  セイバー自身の自然治癒能力が、そのまま衛宮くんにも流れてるのかもしれない」 「……ふうん。なら、セイバーと契約している限りは怪我をしてもなんとかなるって事か?」 「……まあ、そういう事になるけど……それは当てにしない方がいいわよ。結局、貴方の傷を治してるのはセイバーって事になるんだから、セイバーの魔力を消費する事になるし。  なにより貴方のは傷を癒す力であって、生を返すものじゃないわ。死んでしまえばそれまでなんだから、今回みたいな無茶は控えなさい」  ……と。  いつのまに包帯まで巻いてくれたのか、遠坂はすっかり治療を終わらせてくれていた。  ぽん、と俺の右腕を叩いて、遠坂は立ち上がる。    ――――で。  ここが遠坂邸の居間、遠坂凛が毎日暮らしている場所だった。 「それじゃ腕を見せて」  単刀直入、遠坂はまったなしだ。 「…………悪い、頼む」  促された椅子に座って、右腕を差し出す。  しゅるり、と巻かれたタオルが解かれる。  ……なんか、さっきより近い気がする。  右腕を診てくれる遠坂は目の前にいて、さっきは気づかなかった黒髪のキレイさが目に映えて、心拍数があがってしまう。 「……あれ? おかしいな、傷口がさっきより小さくなってる。衛宮くん、自然治癒の〈呪〉《まじな》いでもかけてるの?」 「え――――いや、そ、そんなコトないぞ、断じてっ!」 「そうなの? そのわりには傷、もうほとんど塞がってるんだけど」 「いや、だから別にキレイだとかなんとか―――って、いまなんて言った遠坂?」 「だから、傷はほとんど治ってるって言ったの。わたしがしたのは血止めだけだから、治ってるなんてコトはない筈なんだけど」 「む……そんなコト言われても知らないぞ、俺」 「ほんと? 前にもこんなコトがあったけど、ほんとに心当たりないの?」 「待った、ますます判らない。前もあったって、どのくらい前の事だ」 「前は前よ。  衛宮くん、バーサーカーに襲われたあと背中にザックリ破片が刺さったでしょ。  あの後、わたしが手を加えなくても傷は治ってたし。  ……まあ、あの時は貴方自身の魔術だと思ってたんだけど、そんな器用じゃないものね、貴方」 「はいはい、不器用で悪かったな。……けど、それってどういう事だ? 俺、今までそんな事はなかったけど」 「……そうね。考えられるとしたら、セイバーと契約した事が原因じゃないかな。衛宮くんとセイバーがどんな契約を結んだかは知らないけど、サーヴァントの中には契約者を不死にする者もいるっていうから。  セイバー自身の自然治癒能力が、そのまま衛宮くんにも流れてるのかもしれない」 「……ふうん。なら、セイバーと契約している限りは怪我をしてもなんとかなるって事か?」 「……まあ、そういう事になるけど……それは当てにしない方がいいわよ。結局、貴方の傷を治してるのはセイバーって事になるんだから、セイバーの魔力を消費する事になるし。  なにより貴方のは傷を癒す力であって、生を返すものじゃないわ。死んでしまえばそれまでなんだから、今回みたいな無茶は控えなさい」  ……と。  いつのまに包帯まで巻いてくれたのか、遠坂はすっかり治療を終わらせてくれていた。  ぽん、と俺の右腕を叩いて、遠坂は立ち上がる。    夜が更けていく。  夕食後、目を覚ましたセイバーと道場で体罰―――セイバーは戦闘訓練だと言い張ったが、どう見ても弱いものいじめだった―――を終えた頃、時間は夜の十時を過ぎていた。  今夜も三人で眠るらしく、藤ねえと桜は和室に移動している。 「シロウ……? どうしました。部屋に戻るのではないのですか?」 「ん……? ああ、戻るよ。ただその前に、セイバーに訊いておきたい事があって」 「気になる事、ですか? どうぞ、私に答えられる事であれば構いませんが」 「――――――――」  ……単刀直入に訊くべきか。  アーチャーの言っていた事。  自由のないサーヴァントが自由を得る為に求める聖杯。  それはセイバーとて同じ筈なのに、彼女は自由など求めない、とヤツは言った。 「……セイバー。おまえは、聖杯が必要なんだよな」 「―――はい。私の目的は聖杯です。その為に私は英霊になった。それは以前にも話した筈ですが」 「わかってる。けど、それは何の為なんだ。  聖杯さえ手に入れれば、サーヴァントはマスターがいなくてもこっちに留まってられるんだろ。  なら―――セイバーは聖杯を手に入れて、ここでやりたい事をやるんだよな?」 「―――いいえ。聖杯を手に入れた後、私はこの世界から去るだけです。この時代の人間ではない私がここにいる事は許されませんし、何より、私にはやりたい事などありませんから」  きっぱりと言いきる瞳。  そこには偽りも迷いもなくて、俺が口を挟める余地なんてなかった。 「―――そうか。セイバーの目的がなんなのかは分からないから、強くは言えないけど」    ……その、聖杯で望みを叶えるっていうのは、セイバーのイメージじゃないって、今更ながら思ってしまった。  聖杯が何なのかは知らない。  ただそれは、この金髪の少女には相応しい物ではないと、漠然とそう思った。 「――約束したからな。セイバーに聖杯を手に入れさせるって。……今は、それを信じよう」 「……? 何かあったのですか、シロウ。どうも、帰ってきてからの貴方は覇気がないように思えますが」 「そんな事はないけどな―――って、そうだ。セイバー、今後の方針なんだが」  キリ、と表情を改めるセイバー。  流石というか、どんなに藤ねえたちと仲良くなろうと、セイバーはセイバーだ。  忌々しいが、アーチャーの言う通り彼女の本質は戦う事なんだろう。 「今日学校に行って、そこに三人目のマスターがいるって事が判ったんだ。……その、そこで遠坂と一波乱起きた。色々あって、学校に潜んでいるマスターを捜し出すまで遠坂とは休戦協定を結んだんだが……」  駆け足で今日の出来事を報告する。  始めは真剣な顔で聞いていたセイバーだったが、話が進むにつれ、  なんか、不満そうに見つめてきた。 「……む。セイバー、遠坂と協力するのは反対か?」 「いえ。シロウには知識がないのですから、凛から学ぶのは賛成です。  ですが、そういった大事を決めたのならすぐに伝えてほしい。それと、出来るのなら相談も」  じろっ、と〈窘〉《たしな》めてくるセイバー。  ……まことにもってその通りで、面目ない。 「では、明日からは凛と協力して校舎を探索するのですね?」 「そういう事になる。何か異状を見つけたらセイバーを呼ぶから、それまで待機していてくれ」 「……ふう。方針としては手緩いですが、シロウが戦闘に慣れるまでは丁度良いでしょう。  当面は、学校に結界を張ったマスターを追うのですね」  こくん、と頷く。  セイバーはわずかに思案したあと。 「―――確認しますが。  学校に潜むマスターを倒した後は、凛との休戦協定は白紙に戻り、彼女とは敵同士に戻る。  それに間違いはありませんね?」  念入りに確認をとってくるセイバー。  いや、それは――――      ―――断言はできない。    遠坂には借りがあるし、何より―――俺自身、遠坂とは戦いたくないからだ。 「……だめだ。まだ断言はできない。  学校のマスターを倒しても、まだ先があるかもしれないだろ。……バーサーカーっていう怪物もいるんだ。協力しあえるなら、出来るかぎり協力した方がいい」 「―――そうですか。マスターがそう言うのならば従いますが……それでは、シロウが辛いだけになる。その時になって、自らの選択を悔やまないでください」  それでは、と一礼してセイバーは去っていく。 「――――――――」  ……分かってる。  半端に協力すればするほど、最後に待っているのは避けられない戦いだけだ。  ……辛い思いをしたくないのなら、遠坂とは出来る限り敵同士でいた方がいい。  そうしなければ、残るのは深い傷痕だけ。    俺が勝つにしろ遠坂が勝つにしろ、相手にとどめを刺すのは、生き残った方なんだから――――    ……どんなに取り繕っても、そういう事になるのか。  俺が戦いを拒否したところで遠坂は戦いを挑んでくる。  そうなった時―――無抵抗なまま殺されるのは、なにより遠坂に辛い思いを押し付ける事になる―――― 「……ああ。学校に潜むマスターを倒したら、遠坂とは敵同士に戻る。それでいいんだろ、セイバー」 「はい。それを理解してくれているのなら、私からは何もありません。凛と協力し、シロウの戦闘経験を増やすとしましょう」  それでは、と一礼してセイバーは去っていく。 「――――――――」  マスターである以上、戦いは避けられない。  ……生き延びている限り、いずれ対決の時が来る。    俺はその時―――セイバーに告げた通り、遠坂と戦う事が出来るのだろうか――――  いただきます、という声が重なり合う。  朝の食卓、四人でテーブルを囲むというのは初体験で、こういうのもいいなあ、と和んでしまった。 「ん? あれ、これ微妙に薄味だな。ダシ替えたのか、桜?」 「はい。セイバーさん、おみそ汁に慣れてないと思って。  あんまりお味噌が濃いのもダメかなって」 「そうですね。昨夜の味付けより、今朝の方が美味しいと思う。ですが桜、私も和風の食事には慣れていますから、そう気を遣わず自由に調理してください。その方がお互いの為になる」 「え、そうなんですかっ!? うわ、ちゃんとお箸持ててる。……びっくりしました、セイバーさんって器用なんですね」 「慣れていますから。  ……ですが、正直に言うと箸は疲れます。フォークやナイフより優れた道具だとは思うのですが」 「そうだねー。セイバーちゃんはお箸よりナイフとフォークだよね。って、それ違う違う。かけるのはソースじゃなくて醤油」 「……なるほど。忠告、感謝します」 「よしよし。報酬として海苔を一枚いただきましょう。  はい、士郎おかわり」 「はい。食い過ぎて二度寝するなよ」 「あの、先生? 今日の朝練に参加されるなら、少し控えた方がいいと思いますけど……」 「だいじょうぶだいじょうぶ、これぐらい入れておかないとお昼まで持たないもの。そう言う桜ちゃんだって、朝練の後におにぎり食べてるじゃない」 「――――! 先生、知ってたんですかっ!?」 「むふり。端っこでコソコソやってるから気になって観察してたのよ。だめよー、いい年頃の女の子が朝二食なんて。  悪魔はこっそりと、ある日テロリストのように体重計に舞い降りるんだから。ふふ、わたしの読みでは桜ちゃんの今の体重は――――」 「だめっ! だめです先生、言ったらもうご飯作りに来ませんからっ!」 「ちぇっ」 「そ、それに、間食は時々だけですっ。いつもそんなコトしてるワケじゃありませんっ!」 「あれ、そうなのか? 朝飯、いつも一合多く炊かれてたから、てっきり桜が握り飯でも作ってるんだろうなって思ってたんだけど」 「せせせせ先輩も知ってたんですかっ!?」 「あはは、ダメダメ桜ちゃん。士郎ね、そういう細かいコトには妙に神経質なヤツだから。きっと初めておやつを作った時から気づいてたわよ?」 「初めて? それって去年の夏のこと?」 「っっっっ――――――――!!!!」 「? 桜、空中に埃でもあるのですか? そんなところで手をふって」  ――――そんなこんなで朝食は進んでいく。  いつもより二倍ましで騒がしい朝食。  その中で、不意に   「―――今朝未明に発見された被害者は五十名を超え、現在は最寄の救急病院で治療を受けており――――」    何か、ひどく物騒なニュースが流れていった。 「……え? 新都でまたガス漏れ? うわー、今度は五十人だって」 「なになに、被害者には昨夜から連絡がとれず、何人かの家族は不審に思い会社に連絡、警備員に確認させたところ社内に残っている社員はいなかったとのコト……なにこれ?  夕方からみんなビルの中で倒れてたのに、どうして警備員が気が付かないかなあ。職務怠慢とか、そういうレベルの話じゃないよね」  それで食欲がなくなったのか、藤ねえは三杯目のごはんから手を離した。 「……………………」  セイバーは厳しい顔でニュースを見ている。  ……となると間違いない。  目的こそ定かではないが、この事件はマスターによる物だろう。  今までのガス漏れ事件同様、死者が出ていない事だけは幸いと言えるが―――― 「もう、物騒だなあ。  士郎、しばらく新都でアルバイトするのは禁止だからね。貯金ならたくさんあるんだから、こんな時ぐらいゆっくりしなさい」 「――――――――」  藤ねえの心配は有り難いが、返答はできなかった。  もとより今はアルバイトどころじゃないが、戦いが始まればここに帰ってこれる事も少なくなる。  なら―――藤ねえと桜を心配させないように、帰れない時はアルバイトと偽らなければならないだろう―――。  後片づけを済ませて玄関に出た。  藤ねえと桜は朝練のため、一足先に登校している。  セイバーは昨日と同じように、家を出ようとする俺の後ろに付いてきている。  が、今日はそれを認める訳にはいかない。  休日ならまだしも、平日の学校にセイバーを連れて行ける筈がないからだ。 「セイバー、言っとくけどここまでだぞ。  学校に行っている間はここにいてくれ。セイバーと一緒に学校に行ったら騒ぎが大きくなるし、なにより目立つ。マスターは人目につくのは避けるべきなんだろ」 「――――――」  納得がいかないのか、セイバーは無言で抗議をしてくる。 「だから大丈夫だって。人気があるところでは襲われないんだから、学校は安全だ。それにさ、身を守るだけなら俺一人でもなんとかなる」 「っ――――」  ぴくり、とセイバーの眉が動く。  身を守るだけなら一人でできる、という事に反論があるのだろう。 「一つ訊ねますが。それは、シロウ一人で敵を倒せる、という意味ですか?」 「まさか。昼間なら一人でも危険を回避できるって事だ。  人気のないところには近づかないし、日が落ちる前に帰ってくる。  それならセイバーも納得がいくだろ。おまえだって魔力を温存する為に休んでなくちゃいけないんだから、無理して付いてくる事はない」 「……ふう。解りました、マスターがそう言うのなら、私は信じざるを得ませんね」  ……彼女は真剣に俺の身を案じてくれている。  それをつっぱねるのは、あまり気持ちのいいものではなかった。 「……わるい、セイバー。  けど大丈夫だって。それにさ、俺の身に何かあったらセイバーにも伝わるんだろう? もしそうなったら駆けつけてくれればいいじゃないか」 「いえ、そうはいかないでしょう。私とシロウの繋がりは細い。マスターの危機が私に伝わる時は、シロウの命そのものが危うくなっている時だ。そうなってから駆けつけても遅すぎる」 「む。じゃあ俺の方からセイバーを呼べばいいのか?」 「はい。シロウが私を必要だと思えば、それは貴方のサーヴァントである私に伝わります。……それでも間に合わないと判断した時は令呪を使ってください。令呪の〈助け〉《バックアップ》があるのなら、空間を跳んでシロウの守りとなる事ができるでしょう」  空間を跳んで、だって……?  そんなの、ほとんど魔法じゃないか。  絶対命令権―――令呪ってのは、そこまでとんでもない物なのか。 「……わかった、できるだけそんな事態にならないように立ち回る。日が落ちるまでには帰ってくるから、セイバーは留守を守っていてくれ」  またな、と手をあげて玄関に手をかける。 「……はい。どうか気を付けてください、シロウ。  貴方の学校は異常です。行動には細心の注意を。特に凛には出会わないように」 「? 学校で遠坂が仕掛けてくるっていうのか? まさか、それこそ有り得ないだろ」  あいつはちゃんとした魔術師だ。  無関係な人間を巻き込むな、っていう協会のルールが染みついているヤツだし、なにより優等生っていう猫を被っている。  学校で顔を合わせたら、おはよう、なんてしれっと挨拶してくると思うんだけど。 「……そうだといいのですが。凛は人目を気にして判断を鈍らせるタイプではありません。  それにシロウを敵視しているようですから、気を付けるに越したコトはないでしょう」 「はいはい。取り越し苦労だとは思うけど気を付ける」  時刻は朝の七時過ぎ。  いつもより遅くなってしまったが、この時間なら急がなくとも間に合うだろう。  七時四十分。  余裕を持って正門を通り抜け、校舎へ向かう途中。 「――――――――」  何かおかしな違和感に襲われて、足を止めた。 「……なんだ? 別に何がおかしいってワケじゃないよな……」  誰かに見られているというワケでもないし、いつもと景色が違うワケでもない。  しいて言うのなら、そう―――なんとなく活気がない、というか。  それは校舎に向かう生徒たちだけでなく、木々や校舎そのものも、どこか色あせて見えるような錯覚だった。 「……気のせいかな。色々あって過敏になってるのかもしれない」    目を瞑って、ポキポキと肩を鳴らす。  ……が。  そうやって一呼吸おいて見ても、正体の判らない違和感は消えてはくれなかった。  三階に上がって教室に向かう。  と。    ばったり、遠坂と顔を合わせた。 「よっ」  一応、もう顔見知りなワケだし軽く挨拶をする。 「―――――――――――」  が、遠坂は幽霊でも見たかのように固まっていた。 「遠坂? なんだよ、顔になんかついてるのか?」  制服の裾で頬を拭ってみる。 「―――――――――――」  遠坂はそれでも口を開けず、  ふん、と顔を背けて自分の教室へと戻っていった。 「…………????」  なんだろう、今のリアクションは。  遠坂のやつ、挨拶をされたら無視できる性格じゃないと思うんだけど。 「――――――――」  教室に入るなり、またあの違和感があった。  誰かが菓子でも持ち込んだのか、微かに甘い匂いがする。 「……別に、いつも通りの教室だよな」  男連中に挨拶をしながら席に着く。  ホームルームが始まるまであと十分ほど。  その間にぐるりと教室を見渡して、鞄のない席に気が付いた。 「慎二のヤツ、欠席か」  そういえば昨日も部活を休んでいたっけ。  ああ見えても慎二は几帳面で、神経質なまでに規則を守ろうとするヤツだ。  そんなあいつが二日も学校にいないというのは、なんとなく気になった。  昼休みになった。  弁当を作ってきた日は大抵、こうして生徒会室に移動する。  何故かというと、教室で弁当を広げると男どもにはハシをつつかれ、女どもには茶化されるからである。 「なんだ一成。おまえ、昼は食べないのか」 「ああ、先ほど済ませた。今はともかく眠くてな、昼休みが終わる前に起こしてくれ」  べったりと机に伏したまま、一成はそんな事を言う。 「なんだ、徹夜でもしたのか? お山じゃ十一時には絶対就寝じゃなかったっけ?」 「うむ……そうなのだが、最近寝付きが良くない。いくら眠っても疲れが取れなくてな。おかげで、ここ数日は暇さえあれば眠っている」 「……? なんだそりゃ。暇さえあれば眠ってるんなら、眠気なんてないだろ」 「うぅ、そうなのだがな。いくら眠っても疲れがとれない故、疲れをとる為に眠らざるを得ないのだ。  ……矛盾していると分かってはいるのだが、眠いものは仕方がない」 「―――はあ。春にはまだ早いんだけどな、一成」 「春眠暁を覚えずか。まことに耳が痛い」  一成は机につっぷしたまま起きようともしない。  ……仕方ない。  重症のようだし、昼休みが終わるまで付き合うとするか―――― 「あれ? おい一成、誰か来たぞ」 「……知らん。生徒会は店じまいだと言ってやれ」 「いや、そう言ってもいいんだが……やってきたの、葛木先生っぽいぞ」 「――――。むむ、それはまずい」  のんびりと立ち上がり、ドアを開ける一成。 「柳洞。今朝の弓道部の件だが――――」  と、生徒会室に俺がいる事に気が付いて、葛木は言葉を止めた。  葛木宗一郎は二年A組の担任で、生徒会の顧問でもある。この学校でもっとも厳しい教師で、愛想というものはまったくない。 「え……? それじゃ家にも帰ってないんですか?」 「そのようだ。おそらく刑事事件になるだろう。解っているだろうが、無闇に話す事は避けるように」 「―――それは解っています。ですが、そうなると間桐はどうしたんですか。あいつが昨日会っていたと、弓道部の一年が言っていたじゃないですか」 「それに関しても同じだ。間桐慎二も無断欠席しており、家も留守だそうだ。妹である間桐桜は藤村先生の家に泊まっていたというし、事情は知らされていない」  ……一成と葛木は、なにやら物騒な会話をしていた。  聞こえてしまった内容を吟味すると、昨日から行方不明の生徒がいて、その生徒と最後に会っていたのが慎二だという事だが―――― 「邪魔をしたな。そういった事情もある。また下校時間が早まるだろう」  用件だけ述べて、葛木は生徒会室から去っていった。 「……まったく。なあ衛宮、おまえ慎二を見なかったか?」 「いや、見てない。今朝は弓道場にも行かなかったし、あいつが休んでるコトはおまえも知ってるだろ」 「そうか。それならいいんだが……」  深刻そうに顔を曇らせる一成。  ―――まいったな。  そう無遠慮に訊ける話じゃなさそうだが、どうも事は弓道部に関わる事のようだ。  一成には悪いが、無理にでも詳しい話を聞くべきだろう。 「一成。昨日から家に帰ってないとか言ってたけど、それって誰なんだ? いや、慎二のヤツも捕まらないってのは判ったけど」 「ん……? そうだな、衛宮も部外者という訳ではないし、知っておいてもいいだろう」 「昨日の夜の話だ。  弓道部の練習に出た娘が帰ってこない、という連絡があってな。至急、練習に参加した生徒たちに話を聞いたところ、行方不明になった生徒と最後に話していたのは慎二だと判ったのだ」 「――――」  慎二と、話していた……? 「ちょっと待った。慎二は昨日の練習にはいなかったぞ。  それに、弓道部のみんなとはちゃんと校門で別れたんだが」 「ああ、衛宮もいたらしいな。話はその後だ。忘れ物をした一年生が戻った時、慎二が道場の前にいたらしい。その時にな、慎二とそいつが口喧嘩をしてたそうなんだ」 「――――――――」  嫌な予感がする。  ……あの時、道場に残っている可能性があるとしたら、それは一人しかいないからだ。 「一成、肝心な話をぼかすな。……それで、昨日から行方不明になってる生徒ってのは誰なんだ」 「……うむ。美綴綾子、弓道部の主将だ。  彼女は道場の鍵を職員室に戻した後、弓道場前で見かけられてから一向に行方が知れない」  一成は言いづらそうに、視線を逸らしながらそう言った。  授業が終わった。  例の事件の影響か、放課後の部活動は取りやめになっている。  図書室も閉鎖されたそうで、ホームルームを終えた生徒たちは早足で校舎から去っていく。  特別な用事がない生徒は下校してください、というアナウンス。  二年C組の教室にはもう自分しかいない。  他の教室も似たような物で、急がなければ校舎はじき無人になってしまうだろう。 「――――――――」  その前に話を聞こう。  美綴が家に帰ってない、なんてコトを聞いて、何もせずに帰れる筈がない。  あいつはしっかりしたヤツだし、腕っ節もそんじょそこらの男より立つ。  そんなあいつが行方知れず、というのはただ事ではないし、何より友人として放っておけない。 「……悪いセイバー。少しやる事ができた」  セイバーに謝って、教室を後にする。  まずは二年A組、美綴のクラスで話を聞いてみるべきだろう。 「え? ……あの、綾子ちゃんなら風邪でお休みしてますよ?」   「美綴なら休みだ。弓道部員ならそれぐらい知っているだろう」   「だから欠席だって。鬼の霍乱サ。あいつの無遅刻無欠席もここで終わりだやね、うひゃひゃひゃひゃひゃ」  帰り支度をしている女子の話は、決まってその程度でしかなかった。  二年A組では、美綴はあくまで病欠という事になっている。 「邪魔したな。明日美綴が来たら、このことは黙っててくれ」  片手をあげて教室を去る。  他に何かあるとしたら、もう道場ぐらいしかないのだが―――― 「―――誰もいないか。そうだよな、部活は休みなんだから」    道場の入り口は固く閉ざされている。  中に誰かがいる様子もないし、ここにいても無意味だろう。 「……一成に聞いてみるか。あれから何か判ったかもしれないし」  昼休みから三時間も経っているのだ。  もしかしたらとっくに美綴は見つかっていて、聞いてみればなんでもない話だった、なんて可能性もある。 「さて。それじゃお茶でも淹れようか。衛宮くん、砂糖とミルク、どっちがいい?」 「え―――いや、どっちもいらないけど……遠坂、その前に教えてくれないか」 「? いいけど、なに?」 「さっき言ってた事だよ。学校にもう一人マスターがいて、そいつが何かしてるって」 「あ、そのコト? そっか、衛宮くんじゃ結界には気づかないか。……まあ簡潔に言うとね、学校にはわたしと貴方以外にもう一人マスターがいて、さっきみたいなコトを繰り返してるのよ」 「――――――――」  ……倒れていた女生徒の姿が浮かぶ。  顔を蒼白にした彼女は、遠坂が駆けつけなかったら命を落としていたという。 「……マスターはマスターだけを狙うワケじゃない、か。  あの神父が言ってた事だけど、なんでそんなコトをするんだ」 「聖杯戦争に勝つ為でしょう。サーヴァントは人の精神を食べれば食べるほど魔力を蓄えられる。  学校にいるマスターはね、うちの生徒をみんな生け贄にして、自分のサーヴァントを強くしようって魂胆なんでしょ」 「な―――生徒を生け贄にするって、正気かそいつ!?」 「さあ。けど学校には既に結界が張られてる。  まだ完成してないけど、一度発動すればあの敷地にいる人間はみんな衰弱死するでしょうね。ま、そんなコトはわたしが許さないけど」  遠坂は淡々と説明する。  ……遠坂にとって、今のは何日も前から知っていた事実なのだろう。  だからこそやるべき事が決まっていて、俺には学校に来るなと言っておきながら、自分は学校に来ていたのだ。  危険と知りながら、学校に結界を張ったマスターを阻止する為に。 「――――――――――――」 「?」  ……自分を恥じる。  なんとなく学校に来た衛宮士郎を見て、遠坂が頭にきたのは当然だ。  俺はそんな覚悟もなく、平然と学校という日常に浸っていたんだから。 「ちょっと。どうしたのよ、さっきから落ち込んじゃって。わたし何か言っちゃった……?」  不安そうに覗き込んでくる。  ……遠坂のヤツ、また妙な勘違いをしているんだろう。 「いや、そうじゃないんだ。ただ、おまえには勝てないなって、そう思った」  ごめん、と言うのはどこか間違っている気がするんで、せめてこんな台詞で、精一杯の気持ちを口にした。 「……な、なんだよ。い、いまのはその、別にさっきのコトじゃなくてだな――――」 「わかってるわよ。それより衛宮くん、とりあえず休戦しない?」  ―――と。  ドキッとするぐらい軽やかな笑顔で、とんでもない奇襲をされた。 「休戦って、俺と、遠坂で?」 「そう。学校に潜むマスターは〈性質〉《たち》が悪いし、衛宮くんも、敵に知られちゃったしね。わたしとしては貴方より先にあっちを片づけておきたいの。だからそれまで休戦して、二人でさっきのマスターを捜さない?」 「――――――――」  面くらいながらも、冷静に考える。  いや、考える必要なんてない。  遠坂の言っている事は正しいし、なにより、俺もそのマスターは放っておけない。  そもそも俺は、無関係な人間を巻き込むマスターを止める為に戦うと決めたんだから。 「どう? 悪い条件じゃないと思うけど」 「ああ、遠坂が力を貸してくれるなら頼もしい」 「待った。別にわたしは衛宮くんに力を貸すワケじゃないわ。ただ休戦協定を結んだだけよ」 「……そっか。敵の敵は味方、なんて訳にはいかないか」 「ええ。けどそれまでは信頼して。貴方がわたしを裏切らない限り、わたしは衛宮くんを助けるから」  断言する声。  それが本当に遠坂らしくて、素直に、この幸運に感謝した。 「―――良かった、それなら遠坂はずっと味方だ。これからよろしくな、遠坂」  頷いて、右手を差し出す。 「――――ふ、ふん、短い間だろうけど、せいぜい役に立ってよね」  憎まれ口を叩く遠坂。  が、惑わされるコトはない。  返された手はきちんと右手だったし、なにより遠坂の手は、しっかり俺の手を握り返してきたんだから。 「……なるほどね、どうりでおかしいと思った。つまり衛宮くんは正式な後継者じゃないんだ。魔術刻印を引き継ぐ前にお父さんが死んじゃったんでしょ?」 「どうなのかな。〈切嗣〉《オヤジ》は俺に魔術刻印を引き継がせる気はなかったみたいだし、魔術師になるのには反対してた」 「? けど衛宮くんに魔術は教えたのよね? なんか矛盾してない、それ?」 「かもな。〈切嗣〉《オヤジ》、俺が諦めないから仕方なく教えたって感じだったし。始めに魔術師じゃなく魔術使いになれ、なんて言ってたし」  などと、とりとめのない会話が続く。   「協力関係になった以上、衛宮家の事情が知りたい」    という遠坂の提案で、俺が魔術をどう習っていたのか、という話になったのだ。    衛宮切嗣は、外からやってきた一匹狼の魔術師だった。  対して遠坂の家は、この土地を管理している由緒正しい家系である。  通常、外からやってきた魔術師は地主である魔術師に何らかの誠意を見せなくてはならないのだが、切嗣はそれをやらなかった。  というより、魔術師である事自体隠していたらしい。    遠坂の家を任されている遠坂凛は、この若さにしてここ一帯の管理人なのだそうだ。  その遠坂も、管理を任されたのは十年前。実質的に土地を守れるようになったのはつい最近だという。    そんなワケで、遠坂家は衛宮切嗣の存在を知らないまま現在にいたり、その息子である俺という魔術師の存在を知り得なかったという訳である。 「……魔術使いか……それじゃ衛宮くん、ホントに素人なんだ。自分が扱える魔術以外、魔道の知識はないわけね?」 「ああ、そういう事。俺が使えるのは“強化”だけだからな。他の〈魔術〉《コト》は名称とか概要とか、そんな事しか判らない。さっきだって強化で机を盾にしただけだし、あれにしたって今までで一番上手く出来た魔術だった」 「え―――ちょっ、ちょっと本気!? なんでそんな事までわたしに喋るのよ、アンタは!」  と。  なぜか我がコトのように怒り出す。 「? なんだ遠坂、今のつっこむところか?」 「つ、つっこむところって言うか……あのね、衛宮くん。  わたしたち手を組んだけど、それでも内緒にしなくちゃいけない事ってあるでしょ。  手の内は隠しておくべきだし、第一、魔術師にとって自分の魔術は隠し通すべき物よ」 「そうか? いまさら隠しても仕方がないだろ。そりゃあ人には言えない事だけど、遠坂は魔術師だ。話しても問題ない。それに相手がなんであれ、魔術は必死になって隠す事じゃないって親父は言ってたし」 「―――なにそれ。衛宮くんの父親、本気でそんなコト言ってたの?」 「ああ。あんまり規則に捕らわれるなって言いたかったんじゃないかな、〈切嗣〉《オヤジ》は。魔術なんてものは覚えない方がいいし、止めたければいつでも止めろって口癖だったぞ」 「っ――――――――」  ぎり、という音。  何に苛ついているのか、遠坂は今までにないぐらい敵意を剥き出しにしている。 「―――ふざけないで。  貴方の父親は魔術師じゃないわ。そんなヤツに鍛えられた貴方も、魔術師なんて認めないから」 「遠坂? 落ち着け、なに怒ってるんだよおまえ。いや、確かにおまえに比べたら俺は魔術師なんて名乗れないけど、〈切嗣〉《オヤジ》は立派な魔術師だったぞ?」 「―――そうじゃない。わたしが言いたいのはそういう事じゃない。わたしが許せないのは、その――――」  その、なんだろう。  そこまで言いかけて、遠坂は我に返ったかのように敵意を消した。 「……ごめんなさい。ちょっと、どうかしてた。鍛え方は人それぞれだものね。わたしはわたしに胸を張ってるんだから、衛宮くんをどうこう言える筈がなかった」 「……わからないな。なにか気に障った事でもあったのか。その、〈切嗣〉《オヤジ》の教え方とか、俺の未熟さとか」 「そうね。衛宮くんの未熟っぷりには文句あるわよ。  何年も魔術を鍛えていて強化しか知らないところとか、そういう弱みをわたしに教えちゃうところとか」  にやり、と意味ありげに笑う遠坂。  ……なんか、もの凄く背筋が寒いのは気のせいか。 「う……そうだな、今すっごく後悔してる。けど仕方ないだろ。俺には強化ぐらいしか取り柄がないし、〈切嗣〉《オヤジ》は死んじまったんだから。それ以外の事を教わる方法はなかったんだ」 「ええ、それが独り身の魔術師の限界ね。魔術師なんていつ死ぬか判らないんだから、その為に魔術刻印を残すんだし、協会と手を組むんじゃない」 「……わたしが頭に来たのはね、そのあたりの努力をまったくしなかった貴方の父親によ。  魔術師の『魔術』は、その魔術師だけのものじゃない。  魔術ってのは親から子へ、何代も何代も続けられてきた“命の成果”だもの。その責任は、もう自分だけの物じゃなくなるのよ」 「だからそれを教わるって事は、後の世代にそれを渡すって事が第一条件になる。魔術師の家に生まれた子供は、誕生した瞬間に後継者であり伝承者でもあるの。  ―――わたしたちはその為に生まれて、その為に死ぬ」 「魔術師の子供は、始めから人間じゃない。  ううん、人として生まれたものを、長い年月と厳しい修練によって別の物に変えるのが“魔術師”という家系の義務。  ……だから、衛宮くんのお父さんは魔術師なんかじゃない。貴方の父親は、魔術師である前に親をとったのよ」  俺の目を見ずに語って、遠坂は顔を逸らした。 「……………………」  正直、俺には遠坂が怒った理由は分からない。  遠坂がどんな思いでこの家で育ったのか。  魔術師の娘としてどれだけ修練を積み重ね、どれだけ自分を犠牲にしてきたか。  それを想像したところで、俺が、遠坂になれる訳ではないんだから。 「――――なあ遠坂。もしかして、それで俺を目の仇にしてたのか? 魔術師としての心構えがなってないから」 「……そうよ。貴方の事は嫌いじゃないけど、魔術師としては認められないもの。  ……だからその、つい灸を据えるっていうか、つっつきたくなったのっ! 悪い!?」 「ああいや、悪いけど―――忠告は助かった。  今日の事がなかったら学校のマスターにも気づかなかったし、遠坂とも手を組めなかった」  だろ、と視線で問いかけてみる。  遠坂はむー、とばつが悪そうに唸ったあと、 「ああもう、なんだってこんなのがセイバーのマスターなのよ!」  なんて、よく分からない文句を口にした。  話し込んでいるうちに、外はすっかり日が暮れていた。  時刻は夜の七時前。……流石に、そろそろ帰らないとセイバーが怒り出す。 「じゃあ遠坂、マスター捜しは学校でするんだな?」 「ええ。明日の放課後、廊下で待ち合わせましょう。  あ、それと帰りはアーチャーを付けてあげる。わたしはやる事があるから送ってあげられないけど、アーチャーがいれば問題ないでしょ?」 「え――――?」  言われて、完全に失念していた。  ここは遠坂の家なんだから、アーチャーがいてもおかしくはないんだ。 「――――――――」  赤い外套の騎士、アーチャーが実体化する。 「……………………」  考えてみれば、まともに対面するのはこれが初めてだった。  あの夜、セイバーと打ち合い、その首を斬り落とされかけたサーヴァント。  バーサーカーと戦うセイバーを無視して、もろともに葬り去ろうとした男。 「……………………」  ……そんな事があったからか。  こうして対面し、目を合わせて直感した。  こいつは嫌いだ。  たぶん、どうやっても受け入れる事はできないと。 「――――――――」  それはアーチャーも同じなのか、敵意のまじった目で俺を見据える。  ……ふん、願ったり叶ったりだ。  相手が嫌ってくれるなら、こっちも大手を振って毛嫌いできる。 「よろしくねアーチャー。彼とは協力関係になったから、襲いかかったりしちゃ駄目よ」 「―――解っている。マスターの指示には従うさ」  アーチャーの姿が消える。  あの姿のまま外に出る訳にはいかないだろうから、霊体化して護衛する、という事だろう。  ……夜の住宅地を歩く。  まだ七時前という事もあり、あたりにはちらほらと人影が見えた。  これなら護衛など必要ないと思うのだが、遠坂の好意を無碍にする訳にもいかない。 「――――――――」  だが、やはり断るべきだったかもしれない。  ……神経が歪む。  肌には鳥肌が立ち、油断すれば口から胃液でも吐き出しそうだ。 「――――――――」  背中に突き刺さる敵意。  姿の見えない護衛は、その守るべき対象である俺を、何よりも警戒している。  ……まったく、これのどこが護衛なんだ。  神経をすり減らすほどの敵意は紛れもなく、俺の背後にいる男から放たれているっていうのに。 「このあたりでいい。あんまり近づくと前みたいな事になりかねない」  背後の気配に言い放つ。  アーチャーは答えない。  ただ、こちらの言い分を受け入れて立ち去ろうとする。 「―――待てよ。なんか言いたい事があるんじゃないのか、おまえ」    見えない相手を睨む。  去ろうとする気配は立ち止まり、  敵意を放ったまま実体化した。 「見直したよ。殺気を感じ取れる程度には心得があるらしい。いや、てっきり虫も殺さない平和主義者だと思っていたが」 「―――馬鹿にすんな。これでも魔術師だぞ、俺は。相手がやる気だっていうんなら、幾らでも相手になる」  気圧されないように、全身で赤い騎士と対峙する。  ヤツは人を小馬鹿にするように鼻で笑って、やれやれ、なんて、これ見よがしに肩をすくめた。 「たわけた事を。血の匂いがしない魔術師など半人前だ。  師にそう教わらなかったのか、衛宮士郎」 「な――――」  気合いが削がれる。  ……そう、確かに切嗣は言っていた。  魔術師は血を帯びる。  他者を傷つけようと傷つけまいと関係ない。自身が手を下さずとも、進む道は血に濡れるものなのだと。    だからこそ―――切嗣は、魔術師になどなるなと言っていたのだ。 「……俺からは血の匂いがしないって言うのか、おまえは」 「無論だ。その点においても衛宮士郎はマスターには向いていない。凛とは大違いだな」 「―――なんだそれ。遠坂は血の匂いがするっていうのか」 「するとも。アレはいささか甘すぎるきらいはあるが、それでも手を下す時は容赦すまい。そうでなくては連日、マスターを捜して街を巡回などしないさ」 「――――――」  連日、マスターを捜している……?  それはマスターとの戦闘を意味している。  見つけて終わり、という訳ではないだろう。  なら―――― 「……じゃあ、遠坂は今日みたいな事を毎日してるのか」  学校での一件。  雑木林であった、一瞬の殺し合いと同じ事を……? 「まさか。今日のような体たらくは今回かぎりにしてほしいものだ。あれだけの意思と能力を持った魔術師が、おまえを相手にするとどうも年相応に戻ってしまう」 「だいたい、彼女の能力なら衛宮士郎と協力する必要などないのだ。  にも拘わらず余分な事をしている。私としては協力など反対なのだが―――まあ、仕方があるまい。サーヴァントはマスターに従うモノだ」 「そうだろう衛宮士郎? たとえマスターが役に立たない未熟者でも、サーヴァントは従わなければならないという事だ」  ……それは。  俺とセイバーの事を言っているのか。 「―――そうかよ。遠坂も気の毒だな。おまえみたいな捻くれ者と組まされてな」 「……まったく、呆れる。まだそんな事を口にするのか。  忠告するが、サーヴァントの性格など考慮するな。我らはただ戦う為に呼び出されたもの。所詮サーヴァントは令呪で繋がれた道具にすぎない。支配権はおまえたちにあるのだから、道具の戯れ言など聞き流せ」 「――――――――」  そんな事はない、なんて言葉は吐けない。  令呪に縛られているアーチャー自身が口にしたそれは、紛れもない真実だ。  ……俺はセイバーを道具だなんて思えないが、事実として、セイバーは令呪に縛られているんだから。 「で。呼び止めた用件はなんだ。まさか親睦を深めよう、などとふざけた理由ではあるまい」 「――――っ」  ……う。  理由なんてあるもんか。  ただ気にくわなかったから、一言文句を言わなくちゃ気が済まなかっただけだ。 「その―――そうだ。アーチャー、おまえも聖杯が欲しいのか?」  苦し紛れに、解りきったコトを訊く。    ――――と。 「聖杯―――? ああ、人間の望みを叶えるという悪質な宝箱か。興味は無いな。私の望みは、そんな物では叶えられまい」    赤い騎士は侮蔑をこめて、はっきりと断言した。 「―――なんだって……?」  矛盾している。  サーヴァントは聖杯を欲する。  聖杯を欲するからこそ、魔術師の召喚に応じてサーヴァントになるのではなかったか……? 「待て、おかしいぞおまえ。ならなんでサーヴァントになんてなってんだよ」 「成り行き上仕方なく、だ。  私に自由意思などない。おまえはサーヴァントが自らの意思で呼び出しに応じている、とでも思っているのだろうがな」 「な――――に?」  自由意思はない……?  じゃあその、こいつは聖杯に興味はないっていうのに、無理矢理呼び出されたっていうのか……? 「幸せな男だ。本当に考えた事はなかったのか?  いいか、サーヴァントとは〈呼び出される者〉《・・・・・・・》だ。  否、英霊とは全て自らの意思ではなく、他者の意思によって呼び出される。  過去の功績によって英霊となり、以後は人々の間で語り継がれ、その支えになるもの」 「―――だが。その、当の英霊自身が心の底から、“人間の助けになりたい”などと思っていると?」 「――――いや、それは」  ……どうなんだろう。  英霊と呼ばれるからには、それは高潔な人物の筈だ。  故に人々を守る、というイメージがあるが、俺が出会ってきたサーヴァントの多くはそうではなかった。 「そうだ。元々“英霊”という物に意思などない。  英霊となったモノは、以後、ただ人間を守る力として置かれるだけだ」 「何かこちらで不都合があった場合のみ呼び出され、その後始末をして消えるだけの存在。  在るが無い物。人の世の危機を救おうが、誰にも認識されないもの。  それが英霊―――守護者と呼ばれる都合のいい存在だ。  なってしまったが最後、意思を剥奪され、永遠に人間の為に働き続ける掃除屋にすぎん」 「な――――」  呼び出されて、消えるだけのもの。  意思のない道具が、英霊だと言うのか……? 「そんな筈はない。セイバーもおまえもちゃんと意思があるじゃないか。……そりゃ自分の意志とは無関係に呼び出されたかもしれないけど、それでもこっちに出てきてからの選択肢はあるんじゃないのか。  セイバーだって、やりたくない事はやらないって突っぱねるし」 「当然だろう、我々はサーヴァントだ。誰が作った〈儀式〉《システム》だか知らんが、この戦いはよく出来ている。  本来、本体からの触覚でしかない英霊にカタチを与え、本体そのものとして使役するのだからな。  サーヴァントという殻を与えられた英霊は、その時点で元の人間性を取り戻せる。かつての執念、かつての無念と共にな」 「故にサーヴァントは聖杯を求めるのだろうよ。  聖杯を得れば叶わなかった無念を晴らせるだろうし、短い時間であれ、人間としてこの世界に留まれるのだから」 「人間として留まれる―――」    それはつまり、サーヴァントとしてではなく、あくまで個人として自由になれる、という事か。    ……くわえて、聖杯には願いを叶える力がある。  彼らが生前に叶わなかった願いさえ果たせるというのなら、確かにサーヴァントはマスターに協力する。  英霊という彼らにとっても、聖杯は降って湧いた奇蹟という事か。 「……なんで。そこまでの物を、なんでおまえは要らないって言うんだ。叶えられなかった願いを叶えられるし、サーヴァントでなくなる事だって出来るっていうのに」 「―――単純な話だ。  私には、叶えられない願いなどなかった」 「え――――?」 「他の連中とは違う。私は望みを叶えて死に、英霊となった。  故に叶えたい望みなどないし、人としてここに留まる事にも興味はない。それはおまえのサーヴァントも同じだろうさ」 「なっ、バカ言うな。セイバーは聖杯が必要だって言ったんだ。おまえみたいに、目的がなくてサーヴァントをやってる訳じゃない」 「―――私の、目的?」  呆然と呟くアーチャー。   「――――――――っ」    何故だろう。  どうという事のない呟きだったのに、全身に悪寒が走った。 「……ふん。目的があろうとなかろうと同じだ。  気になるのならば問いただしてみるがいい。セイバーの目的は聖杯でありながら、決して聖杯を自分の為には使わない。そういった意味でアレは典型的な守護者、文字通り“奴隷”なのだ。  ―――その事を。  彼女のマスターであるのなら、決して忘れない事だ」  薄れていく気配。  赤い外套の騎士は、最後まで憎まれ口を叩いて去っていった。 「ただいま」  気乗りしない頭でもきっちりと習慣を口にして玄関にあがる。  居間からは賑やかな気配がこぼれている。  藤ねえがテレビでも見ていて、桜が夕食の支度をしてくれているんだろう。    セイバーは――――居間にいるのだろうか。 「――――――――」  アーチャーの言葉を思い出して、ぶんぶん、と頭を振った。  あいつが何を言いたかったのかなんて、解る筈もないし知ろうとも思わない。  それでも頭にこびりついて、無視する事が出来ない。    サーヴァントという使い魔。  英霊を掃除屋と蔑んでいた、あいつの本意。 「あ。おかえりなさい、先輩」 「ただいま。遅くなってすまない。晩飯、どのくらい進んでる?」 「はい、まだ始めたばかりです。でも先輩のお手を借りるコトはないと思いますよ。今晩のメニュー、藤村先生のリクエストでシチューなんです」 「そうか。そりゃ確かに手伝えないかな」  パッと見、台所には切り刻まれた食材が並んでいた。  手際のいい桜の事だから、あとは煮込むだけなんだろう。 「―――セイバーは? 居間にはいないようだけど」 「セイバーさんでしたら、和室の方で眠っています。先輩が帰ってきたら起こしてほしい、と言っていましたけど……」 「……む。セイバー、もしかして怒ってたか?」 「えっと……そんなコトはなかったと思いますよ? セイバーさん、いつもキッとしてますから」  ……桜が言い淀んでいるってコトは、目に見えて怒ってたってコトだろう。  それも当然、日が落ちるまでに帰るって約束を破っちまったんだから。 「や、お帰り士郎。セイバーちゃん怒ってたよー? 帰ってきたら道場で話があるって」  もぐもぐとミカンを食べながら、呑気に恐ろしげな発言をする藤ねえ。 「―――藤ねえ。なんか、セイバーにヘンなコト吹き込んだりしてないだろうな? ……その、約束を破ったヤツは道場で竹刀打ちの刑だとか、なんとか」 「したよ? うちは体育会系だから、容赦なくやっちゃっていいって」 「――――――――」  そうか。  敵はマスターだけでなく、こんなところにも潜んでいた。 「つかぬ事を訊くけどな。藤ねえ、セイバーを道場に連れて行ったのか? 稽古するなら竹刀を使えって」 「うん、さっき軽く手合わせしたんだけど、あの子とんでもないわよ? 剣道を知らないくせに、わたし以上に剣道家っぽいんだもん。あの子、向こうでフェンシングでもやってたの?」 「いや、フェンシングはやってないと思う。どっちかっていうと、藤ねえとキャラが被る」  ……その、体に似合わず大剣ブン回すところとか、野生の動物みたいに敵に襲いかかるところとか。 「いいや、自業自得として観念しよう。  それより藤ねえ、美綴の事だ。あいつ家に帰ってるのか?」 「え? なんで士郎が知ってるのよ。美綴さんの事は知らされていないはずよ」 「ああ、生徒会室で盗み聞きしたんだ。―――それで、どうなんだよ。美綴、見つかったのか」  じっと藤ねえを見る。  ……藤ねえは、こう見えても教師である。  教師として黙っているべき事は黙っているし、生徒を安心させる為に方便だって使うだろう。  だから少しの変化も見逃さず、美綴がどうなっているのか訊き出さないと。 「どうなんだ藤ねえ。やっぱり一向に変化なしなのか」 「……仕方ないなあ。黙ってたら今すぐ飛び出しそうだし、絶対秘密って話でもないし。  けど士郎、今回は特別だからね。士郎が美綴さんの友人だから教えてあげるのよ?」 「わかってる。恩に着るから、早く」 「じゃ結論から。美綴さん、さっき保護されたわよ。今頃は検査も終わって家に帰ってるんじゃないかしら。  ちょっと意識が混濁してるらしいけど、外傷もないし命に別状もないって。―――それ以上の話はダメ。士郎も友達なら、美綴さん本人から聞きなさい」 「――――そうか。  とにかく大事はなかったんだな、あいつ」  ……良かった。  美綴がどんな目にあったのかはまだ判らないが、それが連続している不穏な事件の一環だって事ぐらい、判っている。  その元凶は、学校に潜むマスターである可能性が高い。  もしそれで美綴がどうにかなっていたら、俺は誰に悔いていいか判らなくなる。 「……そうだ。桜、ちょっといいか」 「――はい? なんですか先輩」 「いや、大した事じゃない。ただその、慎二がどうしているか知らないかなって」 「え……あの、すみません先輩。昨日はこちらに泊めて貰って学校に行ったでしょう? だから家には帰ってないんです。先生にも、兄さんが無断欠席したって聞いたんですけど、その」 「事情は判らない、か。……そうだよな、桜が知ってるワケないし。ごめん、見当違いなコトを訊いちまった」 「いえ、そんな事ありませんっ……! 兄さんの事はわたしが一番よく知っているんですから、兄さんが休んだ理由ぐらい気づかないといけないでしょう?」 「いや、そんな事はないだろ。実際、桜がうちにいてくれて助かったし」  ……雑木林での一件。  あそこにいたのが本当に慎二なら、黒いサーヴァントと無関係なんて事はない。  なら―――最悪、あいつがマスターである可能性だってある。  もしそうなら、このまま桜を間桐の家に帰すのは危険ではないのか。 「? 先輩、それはどういう――――」 「―――桜、今夜もうちに泊まってけ。着替えなら藤ねえの使っていいから」 「え――――せ、先輩、それは、あの――――」 「出来るならしばらく泊まり続けてくれると助かる。  いや、桜が迷惑だって言うんなら帰ってくれていいんだが」  ……あ。  やっぱり無茶だよな、いきなり泊まれって言われても迷惑に決まってる。 「すまん。困らせるようなコト言って、悪かった」  ぺこり、と頭を下げて謝罪する。  ―――と。 「……はい。お言葉に甘えます」  コトコトとシチューを煮込む鍋の音に紛れるように、桜は頷いてくれた。  はい、みんなおめでとー! 遠坂さんルート、トゥルーエンディングです!  士郎も普通の生活に戻れたし、まさにこれこそ大・団・円! じゃあみんな、次は藤村先生ルート『虎なんていらねえよ・冬』でお会いしま、 そんなワケないでしょうばかちーーん! ホントっぽいウソは禁止! Q&Aコーナーで遭難者を出したらダメなんだからっ。 強くなったなブルマ。 あ、先輩! ちっす、今日も素敵っすね! いいから説明しろブルマ。 うっす! このバッドエンドにくるルートは二つあるであります! 一つは単純な選択ミス。安易に前に逃げたら撃ち殺されたってヤツですね。 で、もう一つが少し厄介で、セイバールートからこっちのルートに入った場合かな。 分かりやすく言うと、四日目のルートタイトルが『Fate』だったクセに、五日目が『Unlimited Blade Works』の人は四日目の朝からやり直し。 えーと、もっと分かりやすくいうと――――。 裏切り者に死を。 ち、違うっす先輩。同盟結んでないからこのバッドになったんであって、シロウは裏切ったワケじゃないです。 ……………………。 ああ、行っちゃった……。  ともかく、今回のバッド回避方法は二つ! リンに襲われたら後ろに逃げるか、そもそも逃げる選択肢が出てこなかった人は四日目朝からやり直し! はーい、みんなの味方タイガー道場だよー。  やる気出ないよー。蛇とか蜘蛛って怖いよねー。 ワケわかんない。タイガ、今日はどうしたのよ。 んー、わたし蛇ダメなのよ。蜘蛛もダメ。基本的に壁に這うのはみんなダメ。 へえ。でも蛇はお酒よ? タイガ、お酒好きでしょ? ……その間違った知識は何処からきたのか…… ともかく、蛇はよくないの。しかも鎖で士郎をつるし上げるなんて悪女も悪女、マスターの性根が知れるってもんだわ。 ふ。 ……ちょっと。なんでそこで笑うのよ、貴女たち。 べっつにー。タイガは勇敢だなって。 余命あと七回か。 があー!  なんか仲いいなーおまえたちっ! そして余命あと七回ってどういうコトなのか教えてほしい! さあ、それは第二十五話以降をお楽しみにってコトで。  で、死しょー、いつもの稽古はどうするの? んー、したくないけどする。  えー、では士郎は令呪に頼らずに頑張るコト。以上。 なにそれー。死しょー、前と言ってるコト違うー。令呪はバンバン使えって言ってたじゃない。 仕方ないでしょ、残り二個しかないんだから。それにこの蛇女、士郎を試してる節があるから、安易に逃げ道に走ると危ないのよ。 あと死しょーって呼ぶな。 ……師しょー。わたし、そろそろこの芸風に我慢できなくなってきたかなー。  レディの頭を叩くなんて、普通許されないと思うのー。 そうはいきませんっ。  今まで隠しておりましたが、実はとある嘆願書がこのコーナーには届けられているのです。『本編でやりたい放題している悪行ロリっ娘を、どうか先生のお力で更正させてほしい』 その切実な願いを聞き届けて、わたしは鬼となってイリヤちゃんを鍛える事にしたのです。 え、なにそれ? 嘆願書って、誰からよ。 それは秘密です。というか、『知られたらまたヒドイ目に遭わされるから、ないしょにしてほしい』と士郎から言付かっているのです! なぁーんだ。嘆願書ってシロウからなんだー。 しまった、断じて違う! わたしは秘密工作員ではないっ!  というか、せめて手加減してやってほしい! もっちろん。もう、お兄ちゃんったら今度あったらどうしてやろうかしらー♪ ………………。  うむ、これにて一件落着! では引き続き、この悪魔っ子に捕まらぬよう本編を戦い抜いてほしい! 時刻は朝の七時過ぎ。  いつもより遅くなってしまったが、この時間なら急がなくとも間に合うだろう。  七時四十分。  余裕を持って正門を通り抜け、校舎へ向かう途中。 「――――――――」  何かおかしな違和感に襲われて、足を止めた。 「……なんだ? 別に何がおかしいってワケじゃないよな……」  誰かに見られているというワケでもないし、いつもと景色が違うワケでもない。  しいて言うのなら、そう―――なんとなく活気がない、というか。  それは校舎に向かう生徒たちだけでなく、木々や校舎そのものも、どこか色あせて見えるような錯覚だった。 「……気のせいかな。色々あって過敏になってるのかもしれない」    目を瞑って、ポキポキと肩を鳴らす。  ……が。  そうやって一呼吸おいて見ても、正体の判らない違和感は消えてはくれなかった。  三階に上がって教室に向かう。  と。    ばったり、遠坂と顔を合わせた。 「よっ」  一応、もう顔見知りなワケだし軽く挨拶をする。 「―――――――――――」  が、遠坂は幽霊でも見たかのように固まっていた。 「遠坂? なんだよ、顔になんかついてるのか?」  制服の裾で頬を拭ってみる。 「―――――――――――」  遠坂はそれでも口を開けず、  ふん、と顔を背けて自分の教室へと戻っていった。 「…………????」  なんだろう、今のリアクションは。  遠坂のやつ、挨拶をされたら無視できる性格じゃないと思うんだけど。 「――――――――」  教室に入るなり、またあの違和感があった。  誰かが菓子でも持ち込んだのか、微かに甘い匂いがする。 「……別に、いつも通りの教室だよな」    男連中に挨拶をしながら席に着く。  ホームルームが始まるまであと十分ほど。  その間にぐるりと教室を見渡して、鞄のない席に気が付いた。 「慎二のヤツ、欠席か」    そういえば昨日も部活を休んでいたっけ。  ああ見えても慎二は几帳面で、神経質なまでに規則を守ろうとするヤツだ。  そんなあいつが二日も学校にいないというのは、なんとなく気になった。  何事もなく一日が終わった。  授業は全て終了し、教室には数人の生徒しか残っていない。 「――――」  これといって用事はない。  セイバーとの約束通り、日が沈みきる前に帰らなくてはならないのだが―――― 「……やっぱり気のせいじゃない。朝からなんかヘンだ」    意識を引き絞って周囲の様子を探る。  ……ヒタヒタと背中に張り付く違和感。  マスターになって魔術回路が開きやすくなったのか、背骨に浮き上りかけた回路が微小な悪寒を感知している。 「……時間はある。軽く校舎を回って、何もなければ帰ればいい――――」    セイバーが傍にいないのは不安ではあるが、そもそも校舎にセイバーを連れ歩く訳にはいかない。  俺一人が何気なく巡回するのなら、そう危険はない筈だ。  日が暮れる。  怪しまれないよう校舎を回ってみたが、これといった異状は見つけ出せなかった。 「……俺一人じゃ無理か。夜になったらセイバーと一緒に、もう一度調べにこよう」  鞄を手にして教室を後にする。  外は茜色に染まっていた。  夕日は地平線に沈みはじめ、あと一時間もすればすっかり暗くなるだろう。  三階の階段に着く。  鞄をぶら下げて帰路につこうとしたその時、かたん、頭上で物音がした。 「?」  顔をあげる。  と、そこには――――    四階に続く踊り場で仁王立ちしている、遠坂の姿があった。   「あれ。遠坂、まだ残ってたのか?」 「………………………………………」  返事はない。  朝といい今といい、挨拶をする度に、あいつの目つきがきつくなっているような。   「? なんだよ、話がないんなら行くぞ、俺」  ほら、と鞄を目の前に上げて、今から帰るんだ、というジェスチャーをしてみせる。   「――――――――ハァ」  ……?  何がどうしたのか、遠坂は呆れた風に溜息をこぼしてから、   「呆れた。サーヴァントを連れずに学校に来るなんて、正気?」    そう、感情のない声で呟いた。   「正気かって、そんなの当然だろ。だいたいセイバーは霊体化できないんだから、学校に連れてこれるワケないじゃないか」   「それなら学校なんて休みなさい。マスターがサーヴァント抜きでのこのこ歩いてるなんて、殺してくださいって言っているようなものよ。  ……衛宮くん、自分がどれくらいお馬鹿かわかってる?」   「な―――お馬鹿って、そんな事あるかっ。  遠坂こそ馬鹿なコト言うなよな。マスターは人目のある所じゃ戦わないんだろ。なら日中、とくに学校なんて問題外じゃないか」   「…………ふぅん。じゃあ聞くけど、ここは人目のある所かしら」 「は――――?」  なにいってんだい、人目があるかなんて、そんなのは確かめるまでも―――― 「あれ――――――?」    なぜだろう。  都合がいい事に、周りには誰もいなかった。  三階の廊下には誰もいない。きっと四階も二階も同じようなものだろう。  夕暮れの校舎は静まり返っている。  こうなっては、一階にしか生徒や教師は残っていないのではないだろうか―――― 「ようやく分かったみたいね。  ……ほんと、朝は呆れたのを通り越して頭にきたわ。  あれだけ教えてあげたのに、どうして自分からやられに来るのかって」  棘のある口調で言いながら、遠坂は左手の裾をまくり上げる。 「――――?」    白く細い腕。  女の子らしいその腕に、ぼう、と。  燐光を帯びた、入れ墨のようなモノが浮かび上がった。 「――――な」  令呪じゃない。  アレはもしかして―――俺は持っていないが、魔術師の証と言われる魔術刻印ではないのか。   「―――説明するまでもないわよね?  これがわたしの家に伝わる魔術の結晶よ。ここに刻まれた魔術なら、わたしは魔力を通すだけで発動させる事ができる」      ……そう。  魔術刻印とは、言うなれば魔術師本人の回路とは別の、付属したエンジンである。  複雑な詠唱も手順も必要ない。  ただ回すだけで魔術という車を走らせる、究極の短縮機関。      だがそれ故に、魔術刻印は使用時でなければ浮かび上がらない。  魔術刻印とは、持ち主が魔力を通す事で形成される、もう一つの魔術回路なのだ。   「アーチャーは帰らせたわ。貴方ぐらい、この刻印に刻まれた“ガ〈ン〉《呪》ド〈撃〉《い》ち”で十分だもの」  言い捨てる声に感情はない。 「――――――――」  それで、目の前の相手が本気なのだと、思い知った。   「逃げてもいいけど辛いだけよ。どうせ勝つのはわたしなんだから」    冷淡に言う。  だがこっちの頭はぐちゃぐちゃだ。        ここで、本気で、戦うだって……?  なんだってこんな所で、  なんだってこんな時に、  なんだってよりにもよって、あの遠坂と戦わなくっちゃいけないのか――――?   「ま、待て遠坂! おまえ正気か、ここ学校だぞ!? 下手に騒げば誰がやってくるかわかったもんじゃ―――」   「その時はその時よ。わたしね、目の前のチャンスは逃さない主義なの。衛宮くんには悪いけどここで片づけさせてもらうわ。  ……それに、今日みたいにふらふらされてたらわたしの神経が持ちそうにないし」   「だ、だから待てって……! だいたい俺は遠坂と戦う気なんて―――」 「貴方になくてもわたしにはあるの……! いいから覚悟なさい、士郎―――!」  何か八つ当たりじみた宣戦布告をして、遠坂の腕が動いた。 「――――――――!」  それはどのような魔術なのか。  遠坂が左手を突き出した瞬間、視界が光に潰された。 「っ………………!」  二階に続く階段まで、思いっきり飛び込んで四歩。  戸惑ってる場合じゃない、今は――――  昼休みになって、生徒会室に顔を出す。 「邪魔するぞ」  声をかけて扉を開く。 「お。今日はここで昼食か、衛宮」  中には一成が一人きりで昼食をとっていた。 「――――――――」  ……よし。都合がいいと言えば、都合がいい。 「どうだ調子は。昨日の事件、どんな按配になったんだよ」  机に陣取りながら、さりげなく話を振る。 「それが説明されずじまいだ。一階の空き教室に置かれていた薬品がどうしたとか、そんな当たり障りのない話だよ。昨日の午後から朝まで散々校舎を調べ回って、出た結論がソレだとさ」  不愉快なのか、ガリガリと硬そうなニンジンをかじる。 「しかしおまえも運がいいな。昼休みから珍しくサボリか、と思えば難を逃れたという。うむ、普段の行いがようやく報われたという事か」  今度は愉快げに、〈善哉善哉〉《ぜんざいぜんざい》とお茶をすする。  ……まいったな。  とても確かめられる空気じゃないし、ここはもうちょっと様子を見よう。 「は――――!?」  しまった、気が付けば昼休み終了五分前―――! 「? どうした衛宮。何かひらめいたか?」 「ひらめきはしないが、思い出した。呑気に弁当食ってる場合じゃなかった」 「?」  いそいそと弁当箱を布巾でくるみ、じろり、と一成に向き直る。 「……む、不穏な空気。言っておくが金の無心はするな。  ねだられても無いものは無い」  がたん、と椅子から腰を上げる。  ……時間もない。  はあ、と深呼吸をして、一言。 「一成。何も訊かずに上着を脱げ」  きっぱりと、用件だけを口にした。 「な、なんですとーーーーーー!!!!????」 「だから制服を脱げ。上着だけじゃなくてシャツもだ。  裸じゃないと意味がない」 「っ―――ななななな何を言いだすかと思えば正気か貴様っ!? あれか、新手の押し問答か!? そもさんなのか!?」 「そう、せっぱせっぱ。いいから脱げ、放課後になったら手遅れなんだからっ!」  ええい、と一成に掴みかかる。 「うわあ――――! ええい、止めぬかたわけ、貴様それでも武家の息子かー!」 「――――――――よし」    結論から言うと、一成の体に令呪はなかった。  念には念を入れて調べたが、ともかく令呪らしき物は一切ない。 「良かった。いや、ほんと良かった」  うんうん、と一人頷く。 「何が良いものか……! 貴様、ここまでやっておきながら何もないとはどういうコトだ!」 「? あ、そうか。悪かった一成。事情は話せないんだが、どうしても調べたい事があったんだ。それも済んだから、もう何も問題ない」  頭をさげて謝罪をする。 「むっ――――う、うむ。悪い事をしたと思うのなら、謝罪の一つもするというもの」  一成は難しい顔のまま黙り込む。 「………………」  しかし、そうなると話はまた振り出しに戻ってしまった。  柳洞寺に関係のある一成が白だとすると、キャスターのマスターに該当する人間がいなくなってしまう。 「……なあ一成。最近、寺の方で変わった事はないか?」 「む? 変わったこと、と言うと?」 「わからない。ただ、今までとは違うコトとかないかな」 「……そうだな。最近の話なら、見慣れない女が一人いるぐらいか。だがそれだけだ。親父も兄貴たちも静かなもんだぞ」  ごく平然と一成は言う。 「――――――――」  ……見慣れない女がいる。  それはキャスターの事なのか。……たしかにあのサーヴァントなら、平気な顔をして人間のふりをするだろう。  それとも、その女がキャスターのマスターなのか。 「――――――――」  ……一成に話を聞いてみるべきか。  ここは――――    ……一応、話を聞いてみよう。  寺に住んでいる一成にもボロを出すようなヤツじゃなかったが、もしかしたら手がかりが得られるかもしれない。 「一成。その、見慣れない女ってどんなヤツなんだ?  外国から来たとか、いつもターバンみたいな布で顔を隠しているとか」 「なんだそれは。そのような怪しい女ならばすぐさま放り出している。……どんな思惑で知りたがるのかは聞かないが、彼女はまっとうな客人だ。  ……兄貴などは毒婦だなんだと喜んでおるが、俺は不思議と気に入っていてな。一度しか話した事はないのだが、悪ぶっているように見えるが根は善人だ」 「ありゃ。聞いてみるもんだな、一成が女の人を誉めるなんて。なんだ、もしかして惚れたのか?」 「ばば、バカを言うなたわけっ! 俺が感心したのは、あの女が自分でも気付いていない部分の話だ。だいたいだな、兄と仰ぐ宗一郎の相手に懸想するなど――――」  そう、唐突に話をきって一成は顔を下げた。   「あ――――、――――」    立ち眩みでも起こしたのか、机に突っ伏したまま動かない。 「? どうした一成、貧血か?」 「――――いや、カラダの調子が悪いのではない」  勢いよく顔を上げる。  あんまりにも元気がいいもんだから、ゼンマイ仕掛けの人形みたいだな、とつい笑ってしまった。 「――――――、一成?」    切り裂かれた腹を見るコトもなく、ナイフを持った一成を見る。 「エモノがかかった。ワタシを追及スル者に遭遇シタ場合のみ、このニンゲンに植え付けた命令ガ作動する」  一成の口から、一成のものではない声がする。  それが柳洞寺で出会ったサーヴァントのものだと理解した時、   「この人形モ、もうイラナイ」    ……鏡を見ているようだ。 「――――――――」  ……出血で意識が遠くなる。  傷。内臓まで達した傷の痛みで、意識が消えかけているんじゃない。  出血による死亡より、目の前の光景を否定したがる脳が、意識を急速に凍らせていく。  俺より先に、訳もわからないまま、一成は倒れこんだ。  ……膝から床に落ちる。  俺は自分の傷を押さえる事もせず、呆然と、死体になった友人の顔を見つめていた――――  放課後になった。  昨日の事件の為か、生徒はどのような理由であれ校舎に残る事は禁止されている。  夕暮れまでまだ時間はある。  ここは――――    ……欠席している、という桜が気になる。  慎二の事もあるし、桜の様子を見に行こう――――  一旦家に戻って、鞄を置いてから町に出た。  桜の家は交差点を挟んで向こう側の、住宅地の上部にある。  距離的には交差点から衛宮邸までのものに近い。  和風の住宅地とは趣の違う坂道を上っていく。    と。 「――――え?」  わりと遠く。  俺の目的地である桜の家の前あたりに、見知った人影を発見した。 「――――遠坂」  もう一度確認する。  ……なんか、物凄く派手な赤い服。  それだけで目が奪われるっていうのに、下の方は赤色を強調するような黒一色だった。  自分の黒髪に合わせているのだろう。  活発な遠坂らしく、実にあいつらしい服装と言えた。 「――――――――」  どくん、とどこかで音がする。  うるさい。 「――――――――」  どくん。どくん。今度は二回。  ……くそ、やかましい。いま忙しいんだ静かにしてくれ。 「――――――――――――」    どくん。どくんどくんどくんどくん。    ……ああもう、祭りの太鼓じゃあるまいしドコのドイツだ馬鹿野郎――――! 「――――って、俺だ」    冷静につっこむ。  うるさいのは自分の心臓だ。  さっきまで静かだった心臓の音は、今では破裂しそうなぐらい際だっている。  その原因がなんなのかなんて言うまでもない。  要するに。  衛宮士郎は、遠坂凛の私服ってヤツを、今まで見た事がなかっただけだ。 「―――――――っ」  自分がどんな顔をしているか想像できない。  そもそも、どうしてこんなコトになっているかも説明できない。  遠坂の私服を見た。  不意打ちに、制服姿じゃない遠坂を見ただけじゃないか。 「――――呆れた」    まったく、何なんだ、いったい。  今の自分にそんな余裕はない。  だいたい、遠坂は戦友だ。あいつは俺を信用してくれて、手を結んでくれている。  だから今は、その信用に応えるコトが第一だろう。 「おーい、遠坂」  声をかける。 「!?」  遠坂はこっちを見るなり驚いて、きょろきょろと周りを見渡し始めた。 「遠坂。何してるんだよ、こんなところで」  近寄って声をかける。 「っ――――!」 「え――――?」  逆らう暇なんてない。  遠坂は俺の腕を掴むと、そのまま物陰へと押し込んできやがった――――! 「っ……! いた、背中擦りむいたっ……! 何するんだよ遠坂っ……!」 「黙って……!」 「あ――――う?」  いや。  こう、ふにゃっと。 「――――――――!!!!!?????」  あたまがとぶ。  さっき無理矢理黙らせた鼓動が、ドラムソロとばかりに鳴り響く。 「とととととととと遠坂、ちょっと、ちょっと……!」 「……もう、いいから黙ってて。騒ぐと見つかっちゃうじゃない」 「み、見つかるって、何が……!?」 「だからあいつによ。……ほら、もっと奥に行って。こんなんじゃ隠れきれない」  ぐい、と体を寄せてくる遠坂。 「と、遠坂、き、の、せまっ……………!!!!」  あんまり距離が近すぎて、のぼせて、意味不明なコトを口走っている気がするのだが、自分じゃうまく理解できない。 「だから静かにしてってば……! ほら、見えるでしょ衛宮くん。桜の家の前。なんか、ヘンなヤツが立ってない?」 「――――え?」  ぴたり、と沸騰していた思考が停止する。    桜の家の前に、ヘンなヤツが立っている――――? 「……確かに誰かいるな。金髪……外国人?」 「そう。さっきからもう三十分近く間桐の家を見てる。  監視……ってワケじゃなさそうだけど、なんか癪に障るのよね、あの目つき」  ……残念ながら、ここからではそいつの目つきまでは見られない。 「遠坂、交代しよう。俺も見たい」 「あっ! ばか、ダメだってば、いま出たら見つかるでしょ―――って、来た。あいつこっちに来る……!」 「――――――――!」  隠れよう、と狭いながらも身を屈める。  ……近づいてくる足音。  そいつは一度も立ち止まらず、坂道を下っていった。 「――――――――」  ……なんだろう。  今の男は、普通の人間だったと思う。  現実感のある、肉を持った〈歴〉《れっき》とした人間だ。  だというのに、この違和感。  あいつが何者なのかは判らない。  ただ、ここで追いかけてしまえば、俺と遠坂の命はない。  ……そう断言できるほど、今の男は不吉だった。 「あいつ……以前、桜と話してたヤツかな」  ぽつりと遠坂が呟く。 「な、桜と……!?」 「ええ。桜は道を聞かれたらしいんだけど、何喋ってるか判らなかったとかなんとか―――って、ええーーーーーー!!!!????」 「な、なんだってここにいんのよアンタはっ!」  バッ、とランサーもかくや、という身のこなしで路地裏から跳び出る遠坂。 「―――いや。それはこっちの質問だった。それを遠坂がだな、こう人を荷物か何かのようにそこに押し込めたんだ」  的確に説明する。 「――――――――」  それで納得してくれたのか、遠坂はぴたりと止まってくれた。 「――――――――」  ……止まってくれたのはいいんだが、次は無言で睨んでくる。 「――――――――」  あ。なんか、ムカッときた。  いきなりのコトでパニクったのは俺も同じだ。  だっていうのに、自分だけそーゆー顔をするのは、よくない。  嫌だったんならやんなきゃいいんだ。ドキマギさせられた俺がバカみたいじゃんか、くそう。 「――――遠坂。とりあえず一成は関係ない」  ふん、と顔を背けて言ってやった。 「え……? なに、もう調べたの衛宮くん……!?」 「調べた。一成はマスターじゃない。信用できないんなら、別にいいけど」 「え? ううん、それは大丈夫。衛宮くんは嘘を言える人じゃないから。貴方がそういうなら一成は白でしょ」  あっさりと、遠坂はそんな返答をしやがった。 「……………くそ、負けた」  はあ、と溜息をついてしまう。  そんな風に言われたら、ヘソを曲げてる自分がますますバカになる気がするし……何より、そんな一言だけで気が晴れてしまった自分がいるんだから。 「けど、どうやって確認したの? 一成からはマスターの気配がしなかった。なら、確認の方法なんて襲ってみるしかないと思うんだけど」 「え? いや、令呪があるかどうか確認したんだよ。どんなに気配を殺そうが魔力を抑えようが、こればっかりは隠しようがないだろ」 「あ、そうか。腕を見れば一発だものね」  なるほど、と頷く遠坂。  が、何か疑問点でも見つけたのか、はてな、と首を傾げる。 「ねえ衛宮くん。貴方、どうやって一成の令呪を確認したの?」 「どうやったかって、そんなの脱がせたに決まってるじゃないか。嫌がったけど力ずくで上着をはぎ取ったんだよ」 「――――――」  呆然とこっちを見たまま、遠坂は固まってしまった。 「……?」  ……不思議なヤツだな。  それのどこが疑問点だって言うんだ、まったく。  ……間桐邸は静まりかえっていた。  慎二は不在で、桜の姿もない。  それにどうしたものかと思案している時。 「え、桜が気になってきたの?」  なんて、なんでもない事のように遠坂は声をあげた。 「? 遠坂、間桐桜を知ってるのか?」 「まあ、ちょっと顔見知りなのよ。  それより弓道部の子はみんな病状が酷かったんで、新都の方の総合病院に移されてるわよ? 藤村先生が走り回ってるのだってそれが原因でしょ?」 「――――じゃあ、桜は?」 「いまごろは病室で眠ってるけど……なるほど、そういうコトだったワケ」 「……う。な、なんだよその、邪悪な笑いは」 「べっつにー。けどそうよねえ、私への報告なんかより、いつも手伝いに来てくれる後輩の方が気がかりってなもんよ。ふーん、わたし衛宮くんのコトちょっと分かっちゃったー」  意味ありげに笑う遠坂。  それはすごく屈辱的なのだが、それより。 「遠坂。なんで桜がうちに通ってるって知ってるんだ?」 「あ―――そ、そんなの弓道部に通ってれば判るわよ。  ほら、主将の美綴さんと知り合いだし、わたし」  なんて言いながら、遠坂は坂道を上り始めた。 「遠坂? 帰るのか?」 「ええ。ここにいても仕方がないし、キャスター捜しはまた練り直しだし。明日、学校でアイデアを出し合いましょ」  じゃあねー、とあくまで気軽に立ち去っていく遠坂。  ―――と。    ……距離をとったまま、真剣な顔でこっちを見据えてくる。 「……遠坂?」 「ねえ。ちょっと聞きたい事があるんだけど」 「――? いいけど、なんだよ」 「……その、例えばの話よ。もしさ、本人の意思とは関係なく余所の家に養子にやられたら、その子はどういう気持ちで育つのかな」 「――――――」  それは、どういう意図だったのか。  本人の意思とは無関係に、見知らぬ家に預けられる子供。  それまでの生活を全てなくして、赤の他人に引き取られる人生。  子は親を選べないと言うが。  その後でもう一度、選択の余地もなく知らない他人に育てられる子供の気持ち―――― 「……衛宮くん?」 「―――――――」  我に返る。  ……何を感傷的になっていたのか。  そんな質問、考えるまでもない。 「いや、どういう気持ちもないだろ。貰われた先の家がいいところなら文句ないだろうし、悪いところなら文句があるんじゃないか。子供なんてそんなもんだろ」 「……そっか。そうよね。なに当たり前のこと聞いてるんだろ、わたし」  じゃあね、と手を振って遠坂は坂道を上っていく。  遠坂の家と俺の家は正反対だ。  ……さて。  沈みかけた夕日が消える前に、衛宮の家に戻らなくては。 「だよな。遠坂が一成に襲いかかる前に、ちゃんと潔白だったって言っとかないと」  善は急げ。  一成と遠坂の仲が修復不可能になる前に、血気盛んな相棒をとっ捕まえよう。 「えー? 遠坂さんならとっくに帰ったわよ?」  と。  散々捜しまわったあげく、最後にもう一度立ち寄った2年A組の教室でトドメを刺された。 「あのヤロウ……あんなにやる気満々だったクセに、早々に帰ってやがる……」  ……なんかバカらしくなってきた。  遠坂への報告は、家に帰って電話ですればいいだろう……。  家に帰り着くなり生徒名簿をチェックして、遠坂の家に電話する。  りんりんりん。  コールすること数十回、留守かな、と諦めかけた時に電話が繋がった。 「はい、遠坂ですが」  受話器越しの声は間違いなく遠坂だ。 「もしもし、衛宮だけど。いま時間いいか?」 「はあ? なにふざけてんのよア―――ってあれ? うそ、ほんと……!?」 「……あのな。おまえにイタズラ電話かけるほど余裕ないぞ、俺」 「あ―――ううん、そういうんじゃなくて……ごめん、ちょっとビックリしただけ。それで、何かあったの? 衛宮くんの方から電話してくるなんて」 「何かって、一成の事だよ。朝約束しただろ、今日中にハッキリさせるって。結論から言うと、一成はマスターじゃなかった。体の何処にも令呪はなかったから、間違いない」 「ほんと? ……驚いたわ、ほんとに今日中に調べるなんて。けど一成はシロか……ま、アテはなくなったけどそれならそれでいいか」  ガッカリしたのか安心したのか、電話越しでは遠坂の反応はいまいち掴めない。 「とにかくご苦労様。マスター探しの方針はまた明日考えるとして、用件はそれだけ? なら切るけど」 「………………」  他に用件はない。  が、一つだけ気になる事がある。 「遠坂。さっき驚いてたみたいだけど、そっちでなんかあったのか?」 「――――――――」  受話器越しに、遠坂の戸惑いが伝わってくる。  遠坂は少しだけ沈黙したあと、 「……別に。貴方の声、電話だと少し違って聞こえたから驚いただけよ」  冷たい声で当たり前の事を言って、電話を切った。 「あ。商店街、今日特売だったっけ」  ……ふむ。  セイバーは夕食を楽しみにしているし、今日は奮発して豪勢にいくのもいいかもしれない。  遠坂への報告は家に帰ってからでもいいだろう。           「――――牛フィレを、買ってしまった」  しかも子牛の。なんか高くて稀少なだけで、あんまり味が変わらないフィレ肉を、肉屋のおっちゃんの口車に乗って買ってしまった……!!!! 「まあいいけど。安かったから」  アルバイト一日分がふっとんだと思えばいい。  セイバーは見た目お肉圏の人っぽいし、ここんとこずっと家庭料理だったから西洋料理のフルコースっぽいコトをしたら喜んでくれるハズだ。 「―――これで前菜からデザートとチーズまで用意できたら文句なしなんだが、財布がなぁ。  セイバーはともかく藤ねえまでそんなグルメなマネをさせたら後、で……?」  いま、なんか見慣れないのが視界を掠めた。 「………………」  なんだろ、とケーキ屋フルールに振り返る。  ……ど、どっかの制服かな。  こう、こんな下町の商店街には似つかわしくない格好の女の人が、ケーキ屋のお姉さんを困らせていた。  ……少し気になって立ち止まる。  ざっと盗み聞きした範囲だと、あの白い女の人が出したお金は日本円じゃなくて、ケーキ屋のお姉さんはどう対応したらいいか困っているようだ。  しかもあの女の人、どうも日本語がカタコトらしい。 「………………」  …………まあ、特売で安く済んだし。  通りがかった船ってコトで、お節介を焼いてみよう。 「ありがとうございましたー!」  二重の意味で感謝されてケーキ屋を後にする。 「……ありがとう。ケーキ、たすかった」    で、カタコトながらもこっちの子にも感謝される。  が、別に大したコトはしてないというか。  俺がした事はただの両替で、この子が持ってる外国の紙幣を、手持ちの千円札二枚と交換しただけである。 「……おつり。あまったから、あげる」 「え? いや、さっきので十分だって。10フラン紙幣、ちゃんと二枚もらったから」 「………………」  ナイチンゲールみたいな格好をした女の子は、ぼんやりと視線を漂わせる。 「……買い物、終わったから。さよなら」  ペコリ、とお辞儀をして去っていく。  なんてゆーか、こういう日もあるんだなー、と女の子を見送る。  と。 「ああ、そうだ。ケーキ、好きなの?」  なんとなく聞きたくなって呼び止める。  白い女の子はピタリと立ち止まって、ふわふわと視線を漂わしたあと。 「……うん。セラ、こういう庶民の味、好きだから」  やっぱりふわふわした口調で、よくわからない答えを口にした。  家に帰り着くなり生徒名簿をチェックして、遠坂の家に電話する。  りんりんりん。  コールすること数十回、留守かな、と諦めかけた時に電話が繋がった。 「はい、遠坂ですが」  受話器越しの声は間違いなく遠坂だ。 「もしもし、衛宮だけど。いま時間いいか?」 「はあ? なにふざけてんのよア―――ってあれ? うそ、ほんと……!?」 「……あのな。おまえにイタズラ電話かけるほど余裕ないぞ、俺」 「あ―――ううん、そういうんじゃなくて……ごめん、ちょっとビックリしただけ。それで、何かあったの? 衛宮くんの方から電話してくるなんて」 「何かって、一成の事だよ。朝約束しただろ、今日中にハッキリさせるって。結論から言うと、一成はマスターじゃなかった。体の何処にも令呪はなかったから、間違いない」 「ほんと? ……驚いたわ、ほんとに今日中に調べるなんて。けど一成はシロか……ま、アテはなくなったけどそれならそれでいいか」  ガッカリしたのか安心したのか、電話越しでは遠坂の反応はいまいち掴めない。 「とにかくご苦労様。マスター探しの方針はまた明日考えるとして、用件はそれだけ? なら切るけど」 「………………」  他に用件はない。  が、一つだけ気になる事がある。 「遠坂。さっき驚いてたみたいだけど、そっちでなんかあったのか?」 「――――――――」  受話器越しに、遠坂の戸惑いが伝わってくる。  遠坂は少しだけ沈黙したあと、 「……別に。貴方の声、電話だと少し違って聞こえたから驚いただけよ」  冷たい声で当たり前の事を言って、電話を切った。    ―――と、気が付けば夕食が終わっていた。  家に帰ってきて、セイバーと道場で剣の鍛錬をして、途中で藤ねえが帰ってきて、夕食を作って、三人で食べて、いつのまにか時計は午後八時を過ぎていて、 「セイバーちゃん、もしかして〈外国〉《あっち》じゃ有名な達人さんなの? セイバーちゃんが教えだしてからこっち、士郎ったら別人みたいなんだけど」 「それは私も驚いています。ですが、シロウの師は別にいるようですから。私の手腕ではありません」  こう、食後のお茶を飲んでいる訳である。 「――――――――」  藤ねえとセイバーの仲がいいのは、いいコトだ。  邪魔するのもアレなので、こっちは大人しくお茶を飲みつつ、セイバーにしごかれた体の疲れをとるコトにする。 「師匠が二人? ありゃ、二股かけてるってコトかな、それ」 「本人に自覚はないようですが。ですがまあ、結果が良いので黙認する事にしました。  ……たしかに、シロウは自分に合った戦法を身につけた方がいい。体はとうに出来上がっているのですから、あとは自身を巧く動かす思考を組み込むだけです」 「あ、セイバーちゃんわかってるじゃない。そうそう、士郎はずっと鍛えてきたんだから、体はしっかりしてるのよ。今まではね、本人にやる気がなかっただけなんだから」 「体を鍛える……たしかにあのような道場があったのなら、鍛錬にも身が入りましょう。くわえて大河という良い対戦相手がいたのですから、素質がない筈がない」  感慨深く頷きつつ、湯飲みを口に運ぶセイバー。  それを、 「ううん、あの道場で剣道をするのは久しぶりだよ。セイバーちゃんが来るまで、あそこは剣道場じゃなかったもん」  ぱりん、と煎餅を噛みながら、呑気に藤ねえが訂正した。 「剣道場ではなかった……? シロウは道場で竹刀を持たなかったのですか?」  セイバーは意外そうに見つめてくる。 「え? まあ、そうだけど。親父が死んでからは使わなかったからな」 「そうよおー。士郎、暇さえあれば切嗣さんと試合してたのに、切嗣さんが亡くなったら途端に竹刀を持たなくなってさ。わたしは悲しかったなー」  ぱりん、ぱりん。  テーブルに顔を乗せつつ、がじがじと煎餅をかみ砕く藤村タイガー。 「――――――――」  やな予感がするというか、未来予知というか。  藤ねえがこういう態度をとると、話は決まって――― 「あーあ、どうしてかなー。あの頃は剣道少年だったのに、今じゃプータローだよ。そりゃお世辞にも剣の才能はなかったけど、弓道はちょっと、この子大丈夫なのかなーって思うぐらいだったのに、止めちゃうしさ」 「―――やっぱりそうきたか。藤ねえ、昔の話なんてやめろよな。後ろ向きだぞ、そういうの」  じろっと睨む。  藤ねえはふーんだ、と拗ねながら煎餅を食べる。  ふう。  どうやら、今回はそれで引き下がってくれたらしい。 「ほう。シロウの幼年期の話ですか、大河」 「ぶっ……!」  だっていうのに、どうしてそこで話を蒸し返すんだセイバー! 「なに? 聞きたい、聞きたい?」 「はい、興味があります」 「よーし! ならお姉ちゃん話してあげよっかな!」  ……〈百万の軍勢〉《セイバー》という味方を得て、俄然士気をあげる藤村虎組。 「――――――――」  ……仕方ない。茶々入れるのもなんだし、黙々とお茶を飲んでいよう。  初志貫徹はいい言葉だ、うん。 「それでね、今はこんなに捻くれちゃったけど、子供の頃は可愛かったのよ。人のことを疑わなかったし、お願いすればなんでも二つ返事で引き受けてくれたり」 「ふむふむ」 「でも妙に頑固なところがあってね、一度決めた事はなかなか変えなかったりしたっけ。そのあたり、切嗣さんとは正反対だったかなあ」 「? 切嗣は、シロウとは正反対だったのですか?」 「そだよ。切嗣さんはなんでもオッケーって人だったから。いい事もわるい事も人それぞれ。人生なるようになるさって人だったな」 「――――――――」 「そのくせ、困ってる人を見たらなんとかしちゃうのよね。士郎もそんな切嗣さんの真似ばっかりしてた。  士郎は切嗣さんよりハッキリしてたから、悪いコトはだめだ!って、町のいじめっこをバンバン叩いてたっけ。  うん、その時から士郎は正義の味方だったんだ」  つまらない事を、嬉しそうに藤ねえは言う。  その横で。 「……? なぜシロウは正義の味方なのですか?」  そう、なんでもない疑問を、セイバーは口にした。 「―――いや。なぜって訊かれても困る。単に憧れてるからじゃないか」 「憧れている……その、正義の味方に?」 「……ん……まあ、そうだけど」  そう面と向かって“正義の味方”と言われると照れる。 「それは、どうして?」 「どうしてって、それは」  そこまで口にして、はた、と気が付いた。  ……そんなの、どうしても何もない。  衛宮士郎は子供の頃から正義の味方に憧れている。  誰かの為になれるように、自分の出来る範囲で、悲しんでいる人を助けるのだとやってきた。  それは昔も今も変わらない。  けれどその原因。  俺が、“誰かの為”になろうとした理由はなんだったのか。    ――――爺さんの夢は、俺が 「―――――――――」  それが答えだ。  おそらくは、自分にとって全てだった人の最期。  なんでもない自分の一言で、安心したと遺して逝った。  ……その信頼を、守りたかった。  こうして、彼が消えてしまった後も。  その安らぎが、彼にずっと続くようにと。            ――――けれどそれは。      本当に、正しい理由だったのか。 「……シロウ?」 「――――――」  名前を呼ばれて気が付く。 「いや、悪い。先に戻る」  何か、正体の判らない不安に襲われて席を立った。  逃げるように居間を後にする。 「――――――――」  いや、逃げるようにじゃなくて、逃げた。  今のは、なんでもない疑問だった。  けれどセイバーの瞳で見つめられると、何かが剥がれ落ちそうで怖かった。 「……なんで。何が怖いってんだ、俺は」    自分でも分からない不安。  形のない恐れ、こみ上げてくる吐き気。  頭痛を抑えながら、部屋へ急いだ。  藤ねえは今夜も仕事がある、と帰っていった。  セイバーは昨日と同じく、隣の部屋で眠っている。 「――――――――」  今夜も寝付けずに闇を見ている。  眠れないのはセイバーを意識してじゃない。    ―――どうして、シロウは正義の味方なのですか?    その言葉。  その疑問が、いまだ胸に残っているからだ。 「――――――――」    どうしてと聞かれて、憧れているからだと答えた。  ……そこで逃げた理由は明白だ。  なら―――どうして憧れたのか、と問われた時、俺には返す答えがなかっただけ。 「――――――――」    いや、答えはある。  だが、それは決して口にしてはいけない事なのだと、無意識で縛っている自分がいる。 「――――正義の味方である理由」    ……そんなもの、どうして、今更。  切嗣になろうとして、ただ必死だった子供の頃。  正義の味方に憧れていたのは、そう―――叶えられなかった理想があったからではないのか。  ―――それが発端の筈だ。    今の自分、否、十年前からあった理想の正体。    助けられるのならば。  何もかもを助けられなくては嘘じゃないかと空を睨んだ。 「――――――――」    けれど、嘘なのはどちらなのか。  自分が憧れた、正義の味方という理想。  ……歳をとればとるほど、衛宮士郎は憧れからズレていく。  無知故に限界を知らなかった子供は、知識を学んで有限を知ったのだ。    ―――救えないモノは救えない。     奇蹟は、人の手にあまるモノ。 「――――――――」  それでも、大人になれば切嗣のようになれると信じていた。  なのに手に入れたものは、理想は理想なのだと判断する賢明さだけだ。  自分に出来る事は後始末だけ。  それでも、無駄と思い知らされながらも出来る事をやってきた。  それで一人でも助かるのならと。    ……出来るだけ多くの命を助けるのが目的のくせに、多くの物を落としながらやってきたのは、負けない為だ。  現実に打ちのめされても、〈心〉《じぶん》が負けを認めないのなら、やせ我慢でも立っていられる。    その理想。  誰も傷つけないというカタチこそ、美しいと信じられる。            ――――爺さんの夢は、俺が    そう、誰も成し得ないのなら。  この手で、その思いを引き継ごうと思っただけ。  だから正義の味方にならないといけない。  切嗣の跡を継いで、彼が憧れたものを守る。  犠牲なんて出さず、誰もが今まで通りにやっていければ、それはどんなに――――            “そんなものは、この世の何処にも有りはしない” 「っ……! うるさい、やってみなくちゃわからないだろう……!」    脳裏に浮かんだ言葉を懸命に否定する。    理想を抱いて溺死しろ、とヤツは言った。    その言葉はまるで―――衛宮士郎という人間の結末を、言い当てるかのような不吉さだった―――― 「…………ん」  重い目蓋をこすって体を起こす。  朝の五時半。  体に眠気はないし、なんだかんだと昨夜は安眠できたらしい。 「はあ……単純に出来てるんだな、俺」  ぼやきつつ布団から出て、ササッと学生服に着替えた。 「――――――――」  耳を澄ますと、かすかな寝息が聞こえてくる。  襖一枚隔てた隣の部屋には、たしかなセイバーの気配があった。 「う―――――朝飯だ。朝飯を作ろう」  それがいいそれがいい。  ぶんぶんと頭ん中の妄想を振り払って、忍び足で部屋を後にした。  朝の食卓。  昨日の件もあるし、今朝は静かな朝食になるだろう、というこちら側の予想は、 「そこでそのお医者さん、なんて言ったと思う? 藤村さんはまれに見る健康体ですから、献血でもしていったらどうですかフハハハハ―――だよ!?  ええい、あたしだって病人だって言うのっ。ああもう、次からあんなところ行かないんだからー!」  こう、いつも以上に元気な藤ねえによって覆された。  競馬で言うなら大穴なのだが、よくよく考えてみると本命っぽい気がしないでもない。 「あ、おみそ汁おかわり。たまねぎ抜いてね」 「あいよ―――で、それから? 倒れた生徒は色んな病院に運ばれたって言うけど、みんなすぐに気が付いたのか?」 「そうね、個人差はあるけど昨日中には回復した筈よ。  四階……一年生の子たちはただ眠ってたのと大差なくて、二年生の子たちは記憶がとんでる子もいたみたい。  三年の子は、その……二階の教室にいた子より大事はなかったけど、一階の教室は、ちょっとね」  藤ねえは言い辛そうに下を向く。  ……悪いことをした。  藤ねえは今朝まで、町中の病院をかけまわってきたのだ。  一階の教室―――三年A組とB組の生徒たちがどんな容体なのかも、しっかりと見てきたばかりなんだから。 「ごめん、この話はもう止める。ともかく学校はいつも通りなんだろ」 「うん。けど三年生はもうじき自主登校だし、体調が悪い子は休んでいい事になってる。三年の子たち、ほとんどが休むんじゃないかな」  ……そうか。  となると、登校してくる生徒は一年と二年が中心な訳だな……。 「なあ藤ねえ。うちの学校でさ、柳洞寺の関係者って誰かな」 「一成くんじゃないの? 彼、お寺の跡取りでしょ」 「だよな。いい、なんでもないから忘れてくれ」 「?」  うーん、と天井あたりを眺めながら茶碗を置く。  うちの学校で柳洞寺に関わりがある人間は一成ぐらいだ。  だからって簡単に決めつけるのは早計だし、何よりあいつは違うと思うんだが―――― 「じゃあ行ってくる。留守番よろしくな、セイバー」 「シロウも気を付けて。あの校舎から結界がなくなったとしても、キャスターのマスターがいる以上は油断できません。……令呪はあと一つだけなのですから、行動には細心の注意を」 「わかってる。キャスターのマスターを見つけたら、まずここに帰ってきてセイバーに報告するよ」 「―――はい。期待に添えるよう、私も魔力を回復させておきましょう」  セイバーに見送られて門をくぐる。  藤ねえはまだ事件の後始末が残っているらしく、手早く朝食を済ませ病院に行ってしまった。  あんな事件の後だっていうのに、校門の風景は変わらない。  朝の七時半、校門は生徒たちで賑わっている。  登校してきた生徒は、顔見知りとあった途端昨日の話をしだし、それとなく盛り上がっているようだった。 「――――」  で。  そんな中、校門の前には、            こう、なぜか仁王立ちで立っている遠坂がいた。 「――――――――」  ……嫌な予感がする。  嫌な予感がするのだが、校門の真ん中にいられたら隠れてやり過ごす事もできない。 「よ。おはよう遠坂。今日は遅いんだな」  校舎に向かう途中、足を止めて挨拶をする。   「つまり、一成が怪しいと思うのよ」  ……うわ。  開口一番、いきなり直球を投げてきやがった。 「……怪しいって、何がさ」 「キャスターのマスター。柳洞寺に巣を張ってるキャスターと、柳洞寺から学校に通ってる一成。これで因果関係がない筈ないでしょう」 「ないって、そんなの偶然の一致かもしんないだろ」  一応、一成の立場を擁護してみたりする。 「そんな訳ないじゃない! いい、ここ数週間柳洞寺の山門はずっと閉じられているのよ!?  部外者は入れないし、寺から外に出てきてたのは一成ぐらいのもんなんだから!  これで怪しくなかったら、真犯人は誰でもいいってレベルでしょう!?」 「……あのさ。外に出ないって言うけど、普通、お坊さんは頻繁に寺から出てこないもんじゃないのか」 「莫迦、アンタいつの時代の人間よ。檀家まわりあっての僧門でしょ。山寺に引き籠もってお賽銭だけで食っていけるんだったら明日にでも出家するわよ、ええ!」 「――――――――」  ……意外に本気なのか遠坂は。  ここに一成がいたら、この賽銭泥棒めと罵倒してかかるに違いない。  お寺の実態にも興味が湧くが、問題はそこではなく。  今は周囲を気にしよう。  場所は校門。  周りには登校中の生徒たちがいっぱいいて、彼らは学校のアイドルである遠坂の暴言に凍り付いている。 「なによその目。なに、衛宮くんは一成を庇うってわけ?  ふん、いいわよわたしは。貴方が現実的な推測を無視するっていうんなら、こっちだって勝手にやるんだから!」    だっていうのに、その事に自分だけ気が付いていない学校のアイドルさん。 「…………遠坂、ちょっとこっち来い」 「なによ、逃げる気!?」 「逃げない。いいからこっち」  遠坂の手を引いて歩き出す。 「ちょっ――――ちょっと、衛宮くん……!?」  文句は後だ。  ともかく、今は一秒でも早くここから撤退させてくれ……。  昨日の事件で朝練は休みなのか、弓道場に人気はない。 「――――ふう」  ……良かった。  ここなら人目を引くこともない。  となると、残った問題は―――― 「――――――――――――」    目の前でじぃーーーーーっとこっちを睨んでいる遠坂だけである。 「わかってる。遠坂の言いたい事ぐらい、俺だってわかってる。わかってるから、そんな顔するな。遠坂に拗ねられると、どうしていいかわからない」 「拗ねてなんかないっ!」 「う」  稲妻のような切り返しに、よけい気が動転する。  だが、ここは落ち着いて対応しなければならないのだ。  なにしろ一成の命がかかっている。  遠坂の事だから、なにやら無茶をして一成を試すに決まってるんだから。 「貴方こそ誤魔化さないで。キャスターの本拠地は柳洞寺で、一成は柳洞寺から学校に来ているのよ。だっていうのに、どうしてそれを無視するのよ、貴方はっ」  があー、と怒る遠坂。  ……それはその通りなんだが、そういう理由とは別のところで一成は違うと思うのだが……。 「――――なによ。反論があるっていうの」 「………………」  そんなアヤフヤな意見を口にしたら、一成の前に俺が最期を迎えそうだ。  かといって遠坂をこのままにしてはおけないし、ここはなんとか説得するしかないよなあ……。 「―――よし。どうしても一成が怪しいって言うんだな、遠坂は」 「そうよ。衛宮くんには判らないかもしれないけど、今の柳洞寺はとにかくヘンなの。  キャスターが根城にしているって事もあるんだけど、それにしたって揺らぎが大きすぎるっていうか、集まり易すぎるっていうか―――」 「集まり易すぎる……? それって町から吸い上げてるっていう魔力の事?」 「うっ―――ううん、それは関係ない事だから気にしないで」 「………………」  ……いや。一成よりずっと怪しいぞ、遠坂。 「―――ともかく! そんなところから涼しい顔でやってきている時点でアイツは怪しいのっ。  ええ、前からアイツには一発蹴りいれてやんなきゃなんないって思ってたし、今回の件は丁度いいわ」  遠坂は本気だ。  前から一成と遠坂の仲は悪い、と聞かされていたが、まさかここまでの確執とは。  ……というか。  一成のヤツ、いったい遠坂に何をしたんだろーか。  遠坂をここまで過激かつ好戦的にするあたり、ちょっとだけ興味が出てきた……などと面白がってる場合ではなく。 「―――そうだな。一成の立場が疑わしいってのには、俺も同感だ」 「当然よ。これ以上庇ったりしたら、それこそ同罪なんだから」 「ああ。だから一成の事は俺に任せてくれ。あいつがマスターかどうかは俺がはっきりさせる」 「………………」  うわ。  あからさまに信じてないな、こいつ。 「信じろ。一成が友人だからって手加減はしないし、遠坂にも嘘はつかない。だいたいそんな心配はいらないんだ。一成があんな非道をする訳ないんだから」 「……………………………………」  無言の圧力は続く。  遠坂としては、俺が友人である一成に手心を加えるかどうか心配なんだろう。  その疑いはもっともなんで、ここは黙って耐えるしかない。  なにしろ、こっちは信用して貰うしかないんだから。 「………………わかったわよ。一成の事は貴方に任せる」 「――――遠坂」  良かった、と胸を撫で下ろす。 「けど、どうやって見極めるのよ。衛宮くん、マスターの見分け方を憶えたの?」 「え?」  その、この提案における根本的な欠陥を、遠坂は訊いてきた。 「あ――――えっと」 「……ふうん。まさかいつもの調子で“おい一成、おまえマスターか”なんて問いただす訳じゃないでしょうね?  いくら協力関係でもね、そんなたわけたコトをやろうっていうんなら、ここで貴方との決着をつけてやるわよ?」 「――――――――う」  怒ってる。  アレは、本気で怒ってる。 「待った。大丈夫、訊かなくてもマスターかどうか判る手段はある。一成の件は今日中に白黒つけるから、遠坂は大人しくしていてくれ。結果が判ったら連絡をいれるから」 「―――そうね。協力関係ってこういうコトだし」  納得いかないのが見え見えの仕草で、遠坂は歩き出した。 「信頼してるわ。けど、あんまり馬鹿なことはしないでよ。もし一成がそうだった場合、下手な行動は命取りになるんだから」  それだけ言って、遠坂は校舎へ向かっていった。 「――――――――」  その背中をぼう、と見送ったあと。 「……あれ。今の、もしかして」  ひどい時間差で、遠坂は心配してくれてるのか、なんて気が付いた。              ―――――――夢を見る。              血液が流れるように、繋がった細い回路から、手の届かない記憶を見る。    何のために戦い、何のために走り続けたんだろう。  そいつは誰にも胸の〈裡〉《うち》を明かさなかった。  まわりから見ればとんでもない偏屈か変わり者。  おまけに冷徹で口数も少なかったから、無慈悲な人間とさえ思われただろう。    そいつの目的は分からない。  少なくとも、知っている者は誰もいない。    英雄とかいう位置づけになって、色々なものを背負うようになっても、決して語ることのなかった〈混沌衝動〉《その理由》。    ……だから、周りから見れば、そいつは最後まで正体の掴めないヤツだったのだ。    なにしろ理由が分からない。  都合よく自分たちの窮地を救ってはくれるものの、そいつは何が欲しくてやっているのか誰一人として理解できない。    ほら、そんなの不安にならない筈がない。  だから、何か一つでも持っていれば良かったのだ。    富豪、名声、我欲、復讐、献身。    そんな判りやすい理由なら、あんな結果は、待ってはいなかったんだから。    成功の報酬はいつも裏切り。  すくい上げた物は砂のように、手のひらからこぼれていく。    それも慣れた。  バカみたいに慣れてしまった。  もとより、そいつにとっての報酬は、    救った者から貰えるものではなく、誰かを助ける事こそが見返りだったらしい。    ―――その繰り返しが殴りたくなるぐらい頭にきて、不覚にもこみあげた。      英雄と呼ばれた理由。  そいつの理由は、最後まで人に知られる事はなかった。  まわりの人間は知らなかったし、唯一知っている筈の本人さえ、いつか忘れてしまったから。    ――――だから、不覚にも〈泪〉《なみだ》したのだ。      スタートからゴールまで、長い長い道のりの中。  ……もう何が正しいのかさえ定かではないというのに、ただの一度も、〈原初の心〉《さいしょのみち》を踏み外さなかった、その奇蹟に。    そうして、終わりがやってきた。  傑出した救い手など、救われる者以外には厄介事でしかない。    そいつは自分の器も、世界の広さも〈弁〉《わきま》えている。  救えるもの、救えないものを受け入れている。  だからこそ、せめて目に見えるものだけでも幸福であって欲しかった。    それを偽善と、狭窮な価値観だと蔑む者も多く。  そいつは味方よりも多い敵にかかって、あっけなく死んでしまった。              ………だから、こんな場所なんて何処にもない。    ここはそいつの果て。  死の際に見た幻、絶えず胸の〈裡〉《うち》にあった、唯一の誇りに他ならない。    この光景をこそ〈武器〉《ささえ》にして戦い続けた英雄は、最期に、自らの闇に落ちる。    辿り着いた剣の丘。  担い手のいない錆びた鋼の丘で、そいつの戦いは終わりを告げた。    ―――やはり〈独〉《ひと》り。  それでも、目に映る人々を救えたのなら、悔いる事など何もないと。  そいつは満足げに笑って、崩れ落ちるように剣から手を放した。            ……だから、無念など始めからなかった。  そいつの目的はとうの昔に叶っている。  始めからそいつは、自分ではなくどうでもいい誰かの為に、懸命に走り続けただけなんだから―――― 「――――――――」    いや、下手にこの話題を続けるのは危険だろう。  なにしろ一成は柳洞寺に住んでいるのだ。  俺が“見慣れない女”の事を訊いて不審がらせたら、一成は興味を持って何らかの行動を起こしてしまうかもしれない。  そうして―――その女がマスターだった場合、なにより一成が危険に晒される。 「――――――――」  今日はここまでだ。  一成が聖杯戦争と無関係と判った事でよしとしよう。 「ああ、そういえば衛宮。慎二の妹、今日はいなかったな」 「……え? 桜、今日学校を休んでるのか?」 「慎二も休んでいただろう。二人とも無断欠席、家で何かあったのではないかと職員室で問題になっている」 「――――――――」  忘れていた問題をつきつけられて言葉を失う。 「お、昼休みも終わりだな。教室に戻ろう」  一成に促されて生徒会室を後にする。  ……その間。  学校を休んでいる桜と、ライダーを失った慎二の行方がぐるぐると頭の中で回っていた。    それは、鉄を叩くような音だった。   「はあ―――はあ―――はあ―――はあ―――!」    荒い息遣いのまま、彼はその場所に訪れた。  床を踏む足音は高く、その〈歩幅〉《リズム》は一定しない。  彼は扉を開け放したまま、前のめりに倒れそうになる体に引かれるように、ただ前へ前へと進んでいく。    ぎょろぎょろと周囲を見渡す。  朝の礼拝を終えた教会は無人だった。  明かりは頭上から差し込む陽射しだけである。  静寂は厳粛な空間を作り、静止した空間は洗礼された静寂を生む。  その中で、彼は火を見るように異端だった。   「あ―――はあ……は、あ――――!」    ―――訂正しよう。  訪れた、という表現は的確ではない。  乱れた吐息と定まらない目線。  枯れ木のように震える四肢は、逃走者のそれに近い。  彼はここに避難してきたのだ。  ならばいかようにも合点がいく。  その必死さは、猟犬に襲われる鼠と同じなのだから。   「戦いが始まって六日。ここに足を運んだのは君が初めてだ」 「――――!」  地に這いかけていた体を起こす。  いつのまに現れたのか。  祭壇に立つ神父を、彼は血走った眼で見上げ、何か、よく判らない言葉を口にした。   「――――――――」    神父は眉をひそめる。  完全には理解できなかったが、要約すれば、彼は助けを求めているらしい。  つまりは保護だ。  サーヴァントを失ったマスターは、戦いを放棄するという条件で保護を求められる。  その避難場所、最後の守りがこの教会であり。  その主が、言峰綺礼という神父だった。   「――――では戦いを放棄するのか、少年」    厳かな声に、彼は火花のように反応する。   「あ、あたりまえだ、僕に死ねっていうのか……!?  いいか、サーヴァントがいないんじゃ殺しようがないし、マスターなんてやってられない……! ぼ、僕は普通の人間なんだ。いわば被害者側だろ!? そういうのを狙ってさ、一方的に殺すなんて不公平じゃないか……!」   「――――――――」    神父は答えず、ただ闖入者を見据えている。  その奥。  皮の下、骨の隙間、肉の深部を捉えるように。   「―――なんだよ、何か文句あるのかよ、おまえ」 「意見などない。君は今回一人目の放棄者であり、我が教会始まって以来の使用者だ。管理者としてここに根付いた父に代わり、丁重にもてなそう」 「え? なんだよ、リタイヤしたのは僕だけだっていうのか。……くそ、みっともない。こんなコト爺さんに知られたらなんて言われるか。  ああ、それもこれもおまえたちのせいだぞ……! ライダーなんてカスを掴ませやがって、あんまりにも不公平じゃないか!」    忌々しげに地を叩く。  床を殴りつけた音は鐘のように響き、神父はほう、と興味深そうに口元を緩ませた。   「では、ライダーは役に立たなかった、と?」 「そうだよ! ……ったく、大口たたきやがって。  アイツ、この僕があんなに手を貸してやったのに、あっけなく死にやがった。あれなら他のサーヴァントの方がよっぽど役に立ったんだ!」 「―――――――」   「……ああ。それでも僕はうまくやった。ちゃんと爺さんの言いつけ通りやって、準備は万全だったんだ!  だって言うのにあいつら、そろって邪魔をしやがって……! 二対一だぞ、そんなの勝ち目なんてないじゃないか。  ……そうだ、負けたのは僕のせいじゃない。  単にサーヴァントの質の差なんだ。それをあいつら―――偉そうに勝ち誇った顔しやがって―――!!!」    そうして地面に這った。  彼は忌まわしげに床を叩き、己が不運を嘆き、自らの障害を思い浮かべる。  だが、怨嗟の声もすぐに消える。  彼程度の憎悪では教会の静寂は破れない。   「くそ――――くそ、くそ、くそ、くそ――――!」    繰り返す暗い吐露。  その中で――――    かつん、と。    凍った空気を砕くように、神父の足音が響き渡った。    神父はゆったりと彼の肩に手を置く。   「―――つまり。  君にはまだ、戦う覚悟はあるという事だな」    この上なく優しい声で、そう、訪れた敗者を見下ろした。   「え―――――?」    彼には神父の言葉が理解できない。  黒い聖職者は、口元に〈慇懃〉《いんぎん》な笑みを浮かべたまま、   「君は運がいい。ちょうど一人、手の空いているサーヴァントがいてね」    悦びを押し殺すように、新たな救いを告げていた。  いえーい、ガスバスバスギャース! きゃー、DEATHゥGOTHゥモッコスー! さて、注意一秒怪我一生。誰彼かまわず無闇に訊けばいいってものじゃないのよエンド、どうだったかなー? 押忍、あまりにも理不尽&唐突な死、これぞ『Fate』って感じでサイコーであります師しょー! うむ。だが我々はこの犠牲を忘れてはならない!  さあ、柳洞くんに黙祷三秒! 押っ忍! 三秒というインスタントさが更にサイコーであります師しょー! でさイリヤちゃん。実際、柳洞寺の人たちはどうなっちゃってるワケ? んー、キャスターが作った人工的な令呪を組み込まれていて、 キャスターの“三か条”を破ったり破るヤツに出会ったら、骨人形みたいに一つの命令を実行するだけの人間になるの。 あいつ、道具を作るの上手いから。シロウだって、あいつに捕まったら魔術補佐の限定礼装にされかねないわ。 悪! キャスターは悪認定!  他人を己が意のままにしようなどと、教育者として許しません! …………別に、それだけで悪いっていうのはどうかと思うけど。 キャスターは確かに小物で臆病で狡猾だけど、根はまだ悪人になりきれてないし。 む? なぜかような魔女を庇う弟子一号……?  なにか思うところがあるの? え……? べ、別にそういうワケじゃないよ?  わたしはただ、魔術で誰かを拘束しても、それ自体は悪いコトじゃないって言いたいだけだったり。 あ、思い出した。イリヤちゃん、もっとひどいコト士郎にやってきたじゃなーい! ちきしょー、バレたかこんちくしょーめー! あうう……なぜかその竹刀には勝てませーん。 当然よ、この道場では魔術は一切禁止なんだから。  弟子一号がわたしに勝つには、野生のライオンとか近代兵器を持ってくるしかないんだから。 さ、いい加減反省した? ……はーい、反省してまーす。  もう悪いコトはいたしませーん。 うむ、いい子だ! これで少年の願いも叶ったというもの! 喜べ弟分、このルートではイリヤちゃんはおとなしめだぞー! はいはい、今回は大人しくしてればいいんでしょ。 ……ま、いつも暴れっぱなしっていうのも芸がないしねー。リンルートではいっそシロウを助けてあげて、他のヒロインをくっちゃうのもいいかなー。 な―――そこまで考えていたというの……!?  反則コスだけではあきたらず、本編でそんな美味しいシチュエーションさえ演じるなんて……! イリヤ……こわい子……! 玄関には二人分の靴しかなかった。  藤ねえのパンプスと、セイバーのローファーだけだ。 「――――――――」  気になって、ただいまも言わず居間に向かう。  荒い足音をたてて廊下を突っ切ると、  予想通り、居間に桜の姿はなかった。  あまつさえ、台所では藤ねえらしき人物が何やら調理らしきコトをしている。 「あ、お帰り士郎。ん? なに、驚いた顔しちゃって。  何かあったの?」  小麦粉でも溶いていたのか、しゃこしゃことかき混ぜていたボールをテーブルに置く藤ねえ。 「ああ―――いや、うん。驚いてるって言えば、驚いた。  その、いつもと何もかも違うから」  というか、藤ねえが料理らしきコトをしているのを見るのは、実に何年ぶりだろうか。 「いつもと違う……? あ、そっか、桜ちゃんの事ね。  桜ちゃんなら帰ったわよ。おうちの人から電話があって呼び戻されちゃった」 「……そうか。慎二のヤツ、直接電話してきたのか」  余計なお世話だが、確かに早いに越した事はない。 「慎二くん? んー、まあいっか」  何か納得いかなげに首を傾げた後、藤ねえは厨房に向き直る。 「――――――――」  ……少し気になるな。  まだ日も沈みきってないし、ここは――――      ―――ここは、藤ねえがどんなネタを仕込んでいるか確認しておかねばなるまい。    平和な今夜の夕食の為、ひいては密かに夕食を楽しみにしているセイバーの為にっ! 「ちょっと失礼……なんだ、お好み焼きか。藤ねえ、小腹でも減ったのか?」 「違うよ。桜ちゃんによろしくされちゃったし、今晩はわたしが食事当番。ちゃんと三人分作るから、士郎はセイバーちゃん起こしてきて」 「――――――――」  うわ、びっくり。  お好み焼き、というチョイスが謎ではあるが、藤ねえも女の人だったんだ。 「そうだよな、もういい年なんだからそれぐらい出来なくちゃ。あれ……? 藤ねえ、なんで飯なんて炊いてるんだ? お好み焼きならご飯、いらないだろ」 「いるよ。今夜はかに玉にするんだから、ご飯がないとただの卵焼きになっちゃうじゃない」  言って、ぱかん、と卵を割る。  卵が投入されたボールの中には、先だって溶かされていた小麦粉がどろりと渦巻いていた。 「――――――――」  ……うわ、びっくり。  藤ねえの世界では、かに玉とお好み焼きは同意語であったらしい。 「―――藤ねえ。あと数分もしたら間違いに気づくだろうけど、勇気を持って言うぞ」 「う……な、なによ。いいわ、聞いてあげるから、どうか教えてください」  自分でも何処か間違っている、と思っていたのだろう。  強がりながらも殊勝にこっちを見る藤ねえ。 「うん。それは、かに玉ではない。世にも恐ろしいお好み焼き丼になるだけだから、やり直そう」  きっぱりと言う。 「むっ……お好み焼きを乗っけるのも卵焼きを乗っけるのも似たような物じゃないのですか、こっく長」 「違う。そもそも俺はコック長ではない。このままだとセイバーに間違った日本料理を学習させる事になるんで、やり直そう」  はい、と藤ねえからボールを取り上げる。 「えっ―――だ、だめよ、せっかくかき混ぜたのに勿体なーいっ!」 「却下。後でオヤツにするから、これは冷蔵庫行き。  藤ねえは卵を五つほど割って、卵白が切れるまで混ぜること。お、カニもタケノコも用意できてるんだ。ならこっちはあんを作ってるから、焼きは任せる。  大丈夫、煙が出るまで鍋を空焼きしとけば藤ねえでも出来るから」  さて。  そうと決まれば、かたくり粉としょうが汁、お酢としょう油と砂糖と鶏ガラと―――― 「……? なんだよ、卵だって卵。あんまり乱暴に混ぜちゃダメだぞ。塩を入れて、さい箸でボール全体を使うんだからな」 「――――――――」  聞いているのかいないのか、藤ねえは何か言いたげにこっちを見ている。  と。 「えへへ。士郎、台所だと威厳があるよね」  んなコト言って、冷蔵庫をガチャリと開けた。 「む……」  いや、威厳があると言われるのは嬉しいんだけど、台所限定っていうのは喜んでいいコトなんだろうか?  ……そうだな。  日が沈む前に、桜の様子を見に行こう。 「藤ねえ、ちょっと出てくる。どんな風の吹き回しだか知らないけど、夕飯の準備、任せた」 「はーい、いってらっしゃーい。夕ごはんはおいしいかに玉だからねー」  かに玉か。  まあ、それなら藤ねえでもちゃんと作れるっぽいな。  夕方の坂道を上っていく。  冬の日没は早い。  急いで間桐邸に行って、桜が元気か確かめないと。 「あれ、先輩? どうしたんですか、こんな時間にうちに来るなんて」 「ぁ――――いや、なんとなく。近くまで寄ったから、ついでに」 「ついでですか? わかりました、そういうコトにしておきます」  俺の慌てぶりがおかしかったのか、桜は楽しそうに微笑む。  その顔は本心からのもので、慎二に無理やり連れ戻されたようには見えなかった。 「桜。ほんとに用件はないんだけど、慎二はどうしてる?  いま家にいるのか?」 「兄さんですか? いえ、今日はまだ帰ってきてないみたいですけど?」 「――――帰ってない……? じゃあ誰がうちに電話したんだ? 桜、慎二に呼び戻されたんじゃないのか?」 「え……? さあ、わたしは藤村先生に“お爺さまが待ってるから家に帰りなさい”って言われただけですから、よくは……」 「――――――――」  そうか。  ……けどまあ、慎二のヤツが桜に何も話していないのは本当だった。  慎二だって桜の兄貴なんだ。  こんな良く出来た妹を、マスター同士の戦いに巻き込む筈がない。  ……あとはそう、俺が桜を巻き込まない為に言わなくちゃいけないコトがある。  きょとん、とお互い顔を見合わせる。  間の抜けた見つめ合いが続くこと、十数秒。 「え、えーと……ちょっと残念ですけど、先輩からそう言ってもらえて助かりました。しばらくは家にいて、夜は出歩くなって言われているんです」 「あ、ああ、そうだよな。最近物騒だし、もっと早くにそうするべきだった。……じゃあ、桜」 「はい。しばらく先輩のお家に行くのは遠慮します。  張り合いがなくなっちゃいますけど、我慢すればすぐ元通りですから。それまで、出来れば弓道部の方に顔を出してくださいね、先輩」  最後にペコリ、とお辞儀をして桜は間桐邸に戻っていった。  なんとか夕食前に帰ってこれた。  玄関で怒りながらも俺を待っていたセイバーに今日の出来事―――学校に張ってあった結界の消去と、明日には何らかの反撃がある筈だ、という遠坂の意見を伝える。  ……慎二の事は伏せておいた。  〈慎二〉《あいつ》の思惑がはっきりするまでは、敵と認識する事は避けたかったからだ。 「話は解りました。では夕食にしましょうかシロウ。先ほどから、大河が食事の支度をして待っています」  お腹が減っているのか、セイバーは早足で居間へ向かっていった。 「―――そっか。藤ねえの料理なんてガキの頃以来だな」  不安半分、楽しみ半分で居間に向かう。          ……ああ。  それがあのような惨劇の幕開けになろうとは、誰が予測しえたであろうカ。 「ちょっとセイバーに声かけてくる。藤ねえ、どういう風の吹き回しか知らないけど、夕飯は任せていいのか?」 「いいよー、オッケー。おいしいかに玉作ってあげるから期待してなさいよー」 「………………」  若干不安は残るが、かに玉なら玉子焼きの上級職みたいなもんだし、まあ、藤ねえでもなんとかなるだろう。 「ただいまセイバー、いま帰ってきたぞー」  裸足になって道場に上がる。 「―――おかえりなさいシロウ。その様子では大きな動きはなかったようですね」  この雰囲気が落ち着くのか、セイバーはすっかり道場の住人になっている。  そんなセイバーに合わせるよう、こっちも床に正座して今日の出来事―――学校に張ってあった結界の消去と、明日には何らかの反撃がある筈だ、という遠坂の意見を伝えた。 「……なるほど。敵マスターとの戦いは明日ですか。では今夜は十分に睡眠をとり、力を蓄えねばなりませんね」  そうだな、と相づちを打つ。  ……自分でも甘いとは承知しているが、慎二の事は伏せておいた。  〈慎二〉《あいつ》の思惑がはっきりするまでは、敵と認識する事は避けたかったからだ。 「しかしシロウ。もうじき夕食ですが、ここにいていいのですか?」 「? いや、別にこれといった用事はないし、夕飯まで時間があるからセイバーに報告に来たんじゃないか。  たまにはこうやって、夕飯までゆっくりするのも悪くないしさ」 「な……では、今夜の食事はシロウが作ってくれるのではないのですか……!?」 「え……そ、そうだけど、問題あるかな。ほら、藤ねえも頑張ってるし、邪魔するのも悪いじゃないか」 「……むむむ……確かに、大河の意欲は尊重すべきですが……その、シロウは本当に手を貸さないと……?」 「貸さないよ。大丈夫、藤ねえだってもう大人なんだし、かに玉の一つや二つは作れるさ。  いや、もしかしたら俺より上手いかもしれない。なにしろ意外性A判定の性能だ」  自分でもよく解らないフォローをする。  が、セイバーは眉を〈顰〉《ひそ》めたまま、あまつさえ、   「……分かりました。大河ではなくシロウを信じます。  ……重ねて言いますが、信頼していいのですねシロウ?」    なんか、脅迫めいた迫力で念を押してきた。 「あ、ああ。信頼してくれて、いいけど」 「……確かに聞きました。その誓い、決して忘れぬように」  それで安心したのか、セイバーは肩の力を抜いて体を休める。          ……嗚呼。  これがあのような惨劇の原因になろうとは、誰が予測しえたであろうカ。  待望の夕食になった。  食卓には藤ねえ謹製、かに玉丼が三人分並んでいる。  どんぶりにごはんを盛り、その上に一人分のかに玉を乗せただけの単純料理だ。  どんぶりの上に黄色いフタがかかっているようで、見た目はあまりよろしくない。  が、丼ものというのはそれだけでごはんが美味しく感じられる。  カツ丼しかり、天丼しかり。  おかずの旨味が万遍なくごはんに染み込んでいくんだから、そりゃ不味くなる筈がない。  欠点は味が単純になる事だが、まあ、それは贅沢な悩みだろう。 「ん、じゃいただきます」 「はい、いただきまーす」 「いただきます」  三者三様のお辞儀をしてかに玉丼に口をつける。    ――――と。    こう、かに玉の柔らかさなど微塵もない、むしろメインディッシュを食べてるような異様な食感。 「ば、バカなぁぁーーーーーあ!?  事件発生、かに玉丼が別の料理になってるよおうぅぅぅ……!!!」 「………………」  ……いや、事件でもなんでもないし。  単にこれ、かに玉じゃなくてお好み焼き丼だし。 「ねえ、なんでこうなっちゃったの!? わたし、ちゃんと聞いたとおり作ったよ!?」 「……うわ。もしかして藤ねえにコレ教えたの、藤村組の若衆さん?」 「うん。おっきな玉子焼き作るって言ったら、小麦粉とか色々くれたの」 「……………………」  その時点で間違いに気付いてほしかった。  俺は今まで、玉子焼き作りなんてものは人間に備わった、ごく自然な調理機能と思っていた。  かに玉とは、その玉子焼きの上級職だ。  故に藤ねえと言えど仕損じまい、と納得したのが間違いだった。    そう、藤ねえはそもそも玉子焼きさえできなかったのである……! 「シロウ」  ……と。  なんか、真横からひどく落ち込んだ声が一つ。 「セイバー……?」  ギリギリギリ、と首を動かす。 「――――シロウ。いくら私でも、さすがにこれは食べにくい」    ……うわあ……判りづらいけど、セイバーはセイバーでなにやらご立腹のようですよ……?  ……悪夢のような夕食が終わって、夜の作戦会議となった。  といっても、今日一日の報告は済んでいる。  明日にでも動きがある可能性が高い以上、今夜は明日の戦いに備えるべきだろう。 「それでは、今夜も外に出る事はないのですか。シロウ」 「……ああ。セイバーには歯がゆいだろうけど、今はそれで我慢してくれ。無闇に戦う気はないし、なによりめったやたらに戦えるほど余裕がある状況じゃないだろ、俺たちは」  俺はマスターとして未熟であり、セイバーだって魔力供給がない為、戦闘回数に限りがある。  そんな状況において、いたずらにマスター捜しをする、というのは巧くない。 「……解りました。確かにシロウの言い分には一理あります。積極的ではありませんが、勝利する為には細心の注意も必要ですから」 「―――ですが。戦う意思があるというのなら、無駄な時間は使えません。今夜はここに留まるというのであらば、その時間を鍛錬に使うべきです」  きりっ、と俺を見据えるセイバー。  言われるまでもない。  俺だってそのつもりだから、セイバーを道場に連れ出したのだ。 「わかってる。セイバー、昨日のこと覚えてるか?  俺が夜遅く帰ってきたら、たるんでるってコトで手合わせしただろ。  ……あれ、いい教訓になったんだ。勝てないヤツには何をやっても勝てない。そんな初歩的なコト、セイバーと向き合うまで気づかなかった」 「そういった心構えの意味も含めて、セイバーと手合わせするのは大切だと思う。  どのくらい効果があるか判らないけど、セイバーがその気になって相手をしてくれれば、俺も少しは生き延びる事ができるだろ」 「では、シロウ」 「ああ。これからは時間に余裕がある限り鍛えてくれ。  さしあたっては、これから寝るまで」  壁に立てかけてある竹刀を手に取る。  ……時刻はまだ夜の八時。  眠りにつくまでの四時間、たっぷり稽古を付けて貰お、う――――!? 「セ、セイバー、ちょっと待ったーーーーー!」  命の危険を感じて待ったをかける。  何故なら、俺へと振り返るセイバーは、   「なにか? 戦う心構えを鍛えたい、という事ですので、私もシロウの意気込みに応えてみたのですが」    一目でわかるほど、〈殺〉《や》る気満々の格好をしていらした。 「さあ、鍛練を始めましょうシロウ。  まずは貴方の不明を打ちます。たしかにシロウはたるんでいますからね。今後、今夜のような事がないよう、気を引き締めてもらわなければ」    って、やっぱりお好み焼き丼がお気に召さなかったのかっ……! 「な、なんだそりゃ、あれは藤ねえが悪いんだろ!  そ、それにセイバーだって文句いいながらちゃんと全部平らげて――――」 「――――問答無用。  それにシロウ? 意識を失う前に言っておきますが、アレはやむなくです。今後、それを忘れぬように」 「あ――――」  ……セイバーの姿が消える。  ああ。  これから四時間、情け容赦ない責め苦を食らうのか……………………………………食べ物の恨みって怖いなあ。  夕食後。  後片づけを済ませて、道場でセイバーと向き合う。  今日の出来事―――学校に張ってあった結界の消去と、明日には何らかの反撃がある筈だ、という遠坂の意見をセイバーに伝える。  ……慎二の事は伏せておいた。  〈慎二〉《あいつ》の思惑がはっきりするまでは、敵と認識する事は避けたかったからだ。 「それでは、今夜も外に出る事はないのですか。シロウ」 「……ああ。セイバーには歯がゆいだろうけど、今はそれで我慢してくれ。無闇に戦う気はないし、なによりめったやたらに戦えるほど余裕がある状況じゃないだろ、俺たちは」  俺はマスターとして未熟であり、セイバーだって魔力供給がない為、戦闘回数に限りがある。  そんな状況において、いたずらにマスター捜しをする、というのは巧くない。 「……解りました。確かにシロウの言い分には一理あります。積極的ではありませんが、勝利する為には細心の注意も必要ですから。  ―――ですが。戦う意思があるというのなら、無駄な時間は使えません。今夜はここに留まるというのであらば、その時間を鍛錬に使うべきです」  きりっ、と俺を見据えるセイバー。  言われるまでもない。  俺だってそのつもりだから、セイバーを道場に連れ出したのだ。 「わかってる。セイバー、昨日のこと覚えてるか?  俺が夜遅く帰ってきたら、たるんでるってコトで手合わせしただろ。……いや、手合わせって言うよりは一方的なタコ殴りだったワケだが」 「っ……! いえ、あれは大河がですね、それぐらいしないとシロウは忠告を聞いてくれない、と教えてくれたからであって、べ、別にわたしの気が立っていたからではなく――――」 「いや、別にいいってば。昨日の手合わせはいい教訓になったんだから。  ……勝てないヤツには何をやっても勝てない。  そんな初歩的なコト、セイバーと向き合うまで気づかなかった」 「――――」 「そういった心構えの意味も含めて、セイバーと手合わせするのは大切だと思う。どのくらい効果があるか判らないけど、セイバーがその気になって相手をしてくれれば、俺も少しは生き延びる事ができるだろ」 「では、シロウ」 「ああ。これからは時間に余裕がある限り鍛えてくれ。  さしあたっては、これから寝るまで」  壁に立てかけてある竹刀を手に取る。  ……時刻はまだ夜の八時。  眠りにつくまでの四時間、たっぷり稽古を付けて貰おう。 「痛っ……セイバーのやつ、やるとなったら本気で手加減なしでやんの……」    布団に入る。  打ち身だらけの体は湿布でベタベタで、明日になれば筋肉痛の追い打ちがあるだろう。 「――――疲れた」    ほう、と息をつく。  セイバーとの鍛錬の後、日課である“強化”の鍛錬をして、心身共に消耗している。  少し離れた和室でセイバーと藤ねえが眠っているが、今はそれも気にならない。    とにかく、疲れた。  今は眠って、明日に備える事にしよう――――    ……夢を見ている、のか。    意識は微睡み。  体は眠りについたまま指一本も動かない。    なら――――こんな事は、やはり夢だ。    ……暗い夜だった。  おかしな耳鳴り。  足は眠ったままで、しっかりと坂道を下っていく。    冷たい。  風は頬を刺して、寝間着のまま外に出た体はとっくに冷え切っている。    ……冬木の町とは思えない寒さだ。  もしこれが夢なら、とっくに目が覚めるぐらいの悪寒。    誰もいない、無人の街を行く。  耳障りな音は止まない。  寒さに震える体を無視して、足はしっかりと何処かを目指している。   「――――あ」    叫ぼうとして、喉が固まっている事に気がついた。  夢ではない。  夢の筈がない。  だというのに意識は眠ったまま。  手足は俺―――衛宮士郎の言う事を聞かず、操られるように歩いている。   「あ――――」    ここが終着なのか。  足は速度を増して石段を登り始め――――      ――――耳鳴りは確かな声に変化した。   「つ――――」    否、それは違う。  耳鳴りは変化などしていない。  これは始めから、同じ言葉を繰り返していただけだ。    ―――おいで、と。  さあ、ここまでいらっしゃい、坊や    頭蓋の中を埋め尽くす、魔力の籠もった女の声。    山門が見える。  その奥に何かがいる。    ――――そして。  あの門を潜れば、自分は生きては帰れまい。   「っ――――」    何か判らないが、今すぐ逃げろと微睡んだ意識が叫ぶ。  引き返せ。  引き返せ。  引き返せ。  足を止めろ。まだ間に合う。引き返せ。今すぐ目を覚まして引き返せ、目を覚ませ、目を覚ませ、目を覚ませ、いいから、その声を聞くんじゃない…………!!!! 「っ…………あ――――!」    意識だけが覚醒する。  微睡んでいた頭はクリアになって、ようやく自分の意志が戻ってきた。    だが遅い。  手足は依然として俺の言うことを聞かず、山門をくぐっていく。    ―――確かなものはこの頭だけ。    〈衛宮士郎〉《からだ》は俺の意思とは無関係に、声の主に逆らわず、柳洞寺の境内へと入ってしまった。          ―――闇に沈む境内。  その中心に、人ならざる魔力を持った『何か』が立っていた。    陽炎のように揺らぐ姿。  死神を思わせる暗い影は、段々と闇を剥ぎ――――    古い、童話に現れるような、魔法使いの姿となった。 「―――そこで止まりなさい坊や。  それ以上近づかれると殺してしまうでしょう?」    嘲りを含んだ微笑。  ……俺の体はあいつの意のままらしい。  あれだけ止まれと念じた両足は、今の一言でピタリと止まっていた。 「――――――――」  意識が軋む。  手足は一向に動かず、目の前には正体不明の“敵”がいる。  ……そう、アレは敵だ。  迷う事も間違える事もない。  アレはサーヴァント―――七人のサーヴァント中、最も魔術に長けた英霊―――   「……キャスターの、サーヴァント……!」    固まった喉を懸命に動かして、なんとか敵を睨み付ける。 「ええ、その通りよ坊や。ようこそ私の神殿へ。歓迎するわ、セイバーのマスターさん」  涼しげな声は、同時に俺を嘲笑っている。 「っ――――!」  両足に力を込めるが、体はまったく動かない。    ―――くそ、何をしてるんだ俺は……!    ここまでまんまとおびき寄せられて、そのあげく体がまったく動かないなんて……! 「ぁ―――、く、っ――――!」  全力で手足に意識を集中させる。  どんなカラクリか知らないが、体の自由を奪っているのはキャスターの魔術だ。  なら、体内に入った〈他人〉《キャスター》の〈魔力〉《どく》さえ排出すれば……! 「自由になれる、と思って? ふふ、可愛いこと。そんな方法で私の呪縛を解こうだなんて、随分と優しいのね貴方」 「な――――んだ、と――――」    唯一自由になる意識を総動員して体内を探る。  キャスターの魔力。  手足の自由を奪うため体内に浸食した、外から混ざった敵の魔力を。    ……目を開けたまま、自分の体だけを視る。  大丈夫、落ち着けばそう難しい事じゃない。  魔力の流れ、回路の把握なら毎晩やっている事だ。  今はそれを繰り返して、体の中にあるキャスターの毒を読みとればいい。  体外に出す事は出来なくとも、一カ所に集中させてしまえば四肢のうち三肢は動くようになる―――― 「――――え?」    それは、どういう事なのか。  俺の体内に〈他者〉《キャスター》の魔力なんて混ざっていない。  毒素らしき物はただ一点、胸についた小さな点だけだ。  だというのに、体の全てが異常だった。 「――――――――」    流れる血に異常があるんじゃない。  血液ではなく、血脈そのものが全て異常。  喩えるなら心臓を〈固定〉《ロック》されているようなものだ。  胸についた赤い点はキャスターの魔力なのか。  この体はたった一言の呪いで、完全に命令権を剥奪されている―――― 「そん、な―――バカ、な」    なら、俺は眠っている時からキャスターに呪われていたという事になる。  眠っていたとは言え、こんな遠くから放たれた魔術に囚われるなんてあり得ない。    魔術師には抗魔力というものがある。  催眠、呪縛、強制といった、術者の行動を抑制する『魔術』を弾き返す力だ。  魔術師である以上、おいそれと他の術者に操られる、なんて事は起こり得ない。  ―――基礎的な話だ。    魔術師とは魔術回路を有する者。  体内に走る回路は魔力の生成だけでなく、外部からの魔力を弾く特性を持つ。    故に、魔術回路が働いている〈内部〉《しんたい》への干渉は難しく、数ランク下の魔術師が相手でも操るのは難しいとされる。  魔術回路が外部からの魔力を弾こうと躍起になる為、魔術という式が、完成する前に乱されてしまうのだ。    その為、催眠や束縛といった間接的な干渉魔術はとにかく成功率が悪い。  相手が魔術師でなくとも、魔術回路があるのなら無意識に弾かれてしまう事もある。    その点、魔力をぶつけるだけの干渉―――遠坂がやるような、まず外界に〈要因〉《ぶき》をつくって、その結果として相手を傷つける、という魔術はてっとり早い。    物理的な衝撃は万物共通だ。  体内に魔術回路があろうがなかろうが、ナイフで切られれば血を流すのが人間である。 「――――――――」    だからこそ、この状況はどうかしていた。  ……ごく間近、密着されての魔術行使なら何らかのペナルティを受けもするだろう。  以前、どこかでキャスターに出会い、“強制”の呪いでも受けていれば、遠く離れていようが操られる事もある。  ―――だが、俺はキャスターと出会った事もなければ呪いを受けた覚えもない。    ……つまりこれが初見。  キャスターはこの場所から一歩も動かず、遠く離れた衛宮の家まで呪いを放ち、衛宮士郎の体を捉えたのだ。    ―――魔女、という言葉が脳裏に浮かぶ。    魔術師同士ならば成功する筈のない肉体の乗っ取りを、数キロメートル以上の遠距離から成し得るというのなら。    キャスターはここに留まったまま、町中の人間を意のままに操れるという事ではないのか―――― 「――――――――っ」    ……気迫が削がれる。  既に魔術として完成してしまった以上、俺ではどうあっても解呪する事が出来ない。  キャスター自身が縛めを解くか、外部からの助けがない限り、もはや手の打ちようがない―――! 「理解できて? 貴方を縛っているのは私の魔力ではなく魔術そのもの。  一度成立した魔術は、魔力という水では洗い流せない。  液体と固体のようなものよ。形を得たモノに水をかけても、そのカタチは崩れないでしょう?」    ……影が近づいてくる。  闇に溶ける紫紺の衣が、冷笑を浮かべている。 「けれど例外もあるわ。  例えば、そうね。貴方たちが編み上げた魔術など、私にしてみれば泥の建造物にすぎない。  そんなもの、かける水流が多く激しければ、カタチになっていようと簡単に洗い流せる。  理解できて? 私と貴方たちの違いは、そういう次元の話なのよ」 「そう―――かよ。それでわざわざ、こんなところまで、呼びつけたワケ、か」 「ええ。マスター達はみな小物だけど、その中でも貴方はとび抜けて力不足でしたから。  なにしろ街の人間たちと変わらない抗魔力ですもの。  そんなマスターを見つけたら、こうして話をしたくなるのは当然でしょう?」  クスリ、という笑い声。  そこには獲物を前にした優越感しかない。 「っ――――――――」  ……悪寒が走る。  何が話をしたくなった、だ。  こいつ、俺を殺す気満々じゃないか――――! 「ほら、また誤解。安心なさい、殺してしまっては魔力を吸い上げられないわ。  この町の人間はみな私の物ですからね。  殺さない程度に生かし続けて、最後の一滴まで差し出してもらわないと」    冷笑が〈耳朶〉《じだ》に響く。 「な――――に?」    開いていた場所に、かちり、と断片がはまる感覚。  こいつは今、町中の人間から魔力を吸い上げると言ったのか――――!? 「キャスター……! おまえ、無関係な人間に手を出したな……!」 「あら、知らなかったの? あの小娘と手を組んだのだから、当然知っているものと思っていたけど―――そう。  まだ知らなかったのね、貴方」    キャスターの唇が、さらに愉快げにつり上がる。  捕まえた獲物をどう料理しようか思案するように。 「なら教えてあげる。私―――キャスターのサーヴァントには『陣地』を作る権利があるのよ。  魔術師は工房を持つ者でしょう? それと同じよ。  私はこの場所に神殿を造って、貴方たちから身を守る。  幸いこの土地はサーヴァントにとって鬼門ですからね。  陣地としては優れているし、なにより魔力を集めやすい」 「始めはあまりにも貴方たちの魔力が少なくて加減がつかなかったけれど、今はほどよく集められるわ。  ほら、見えるでしょう? この土地に溜まった数百人分の魔力の貯蔵、有象無象の人の欠片が」 「じゃあ―――町で起きてる事件は、おまえが」 「ええ。ここは私の神殿だと言ったでしょう?  なら、〈供物〉《くもつ》を捧げるのは、下界で〈蠢〉《うごめ》く人間たちの使命ではなくて?」 「っ――――!」    町で起きている原因不明の昏睡事件。  そう多くはないと思っていたが、こいつは数百人と口にした。    ―――そうして、目を凝らして見れば。    この境内に満ちた魔力の渦は、千にいたる人の〈輝き〉《たましい》で出来ているように見えた。 「キャスター…………!!!!!」    手足に力を込める。  だが一向に変化はなく、目の前にはそんな俺を嘲笑うキャスターの姿があるだけだ。 「さあ、それでは話を済ませてしまいましょうか。  貴方も、ずっとそうしているのは退屈でしょう?」    耳元で囁かれる声。  同時に―――今まで見えなかった敵の姿が、視界を覆っていた。 「セイバーのマスター。貴方からはその令呪を貰ってあげるわ。  ……セイバーは消すには惜しいサーヴァントですもの。  彼女には、あの目障りなバーサーカーを倒してもらうとしましょう」 「――――――――」    キャスターの腕があがる。  その指は、確実に俺の腕を狙っている―――― 「令呪を、奪う、だと――――」  そんな事が出来るのか。  たしか遠坂は、令呪を剥がすには腕から神経ごと剥がすしかないと言っていたが―――― 「そうよ。まずはその皮を剥いで、それから令呪を私のマスターに移植する。  けれど令呪は所有者の魔術回路と一体化しているでしょう? 令呪を剥奪する、という事は貴方から〈魔術回路〉《しんけい》を引き抜く、という事でもあるわ」    さらりと。  なんでもない事のように、キャスターは言った。 「な――――」  神経を引き抜く?  体の中に張り巡らされた神経を持っていくっていうのか。    そんな事をされたら、俺は―――― 「ええ、正常ではいられなくなるでしょうね。けれど安心なさい、命までとりはしないから」 「――――っっっっ!」    必死に、手足がバラバラになってもいいと力を込めるが変化はない。  手足は動かず、俺は死刑台にかけられた囚人のように、          ―――艶やかな冷笑。  禍々しい光を帯びた指が、這い寄る蜘蛛のように、ゆっくりと俺の左手に伸びて―――― 「――――――――――――」  体が重い。  目覚めは快適な物ではなく、わずかに頭痛を伴っていた。 「……昨日の傷のせいかな。右腕、まだ微かに痛むし」  ぼんやりと呟きながら体を起こす。  時刻は午前六時を過ぎていた。 「まず、今日くらい朝飯作らないと……!」  布団から飛び出し、パパッと着替えを済ませる。  藤ねえと桜には朝練がある。  二人は六時半には家を出るから、急いで支度にかからないと間に合わない。  二人を送り出して、セイバーと食後のお茶を飲む。  朝は慌ただしく過ぎていって、気が付けば七時をとっくに過ぎていた。 「それじゃ行ってくる。留守番よろしくな、セイバー」 「はい。シロウも気を付けて。凛の助力があるとは言え、無茶はしないように」 「ああ、昨日で懲りてる。敵を追いかける時はセイバーの力を借りるよ」  セイバーに片手をあげて玄関を後にする。  朝の空気はいたって平穏。  だがこれから向かう学校は、今までとは違うモノだ。 「――――よし」  気を引き締めて坂道を下りる。  遠坂がマスターとして行動しているのなら、俺もあいつに恥じない成果を出さないと。  思い思いに雑談をしているクラスメイトに挨拶しながら自分の席に―――。 「――――え?」  その途中。  意外なヤツと目があって、一瞬言葉を忘れてしまった。 「――――!」  何を考えるまでもない。  カッとなった頭で、一直線に慎二へと駆け寄った。 「慎二、おまえ――――!」 「やあ衛宮。どうしたんだよ、今朝は随分と物騒じゃないか。なに、僕が休んでる時に何かあったの?」 「何かあったじゃない。おまえ、美綴に何をした」 「美綴――? ああ、綾子ね。なんでも家出してたらしいじゃん。僕も今朝道場で聞いたよ。昨日、新都の方で見つかったんだってね」  何がおかしいのか、慎二はクスクスと笑う。  その目は、美綴を嘲笑っているようにしか見えなかった。 「……とぼけるな。美綴と最後に会ったのはおまえだろう。その時、あいつに何をしたかって訊いてるんだよ、俺は」 「はあ? 何をしたかって、ただの世間話だけど?  それよりさ、聞いたかい衛宮! 綾子のヤツ、そこいらの路地裏に転がってたんだぜ? フラフラでさ、制服もボロボロだったって話さ。  いや、何があったかしらないけどさ、ちょっと聞き捨てならないよな。普段から偉ぶってるあいつがさ、どんな風に捨てられてたか興味あるよね」 「――――――――」 「どうしたんだよそんな怖い顔して。冗談だよ冗談、本気にするなって。それに綾子は保護されたんだろ? 家で療養中だっけ。ま、あいつが帰ってくる頃には噂話も広まってるだろうから、何かとやりづらくなるだろうけど」 「―――おまえ。今の話、弓道部のみんなに話したっていうのか」 「さあね。けどもう一年の間じゃ有名だぜ? 伝言ゲームじゃないけど、昨日の内からくるくる回ってたらしいからさ」 「――――――――」  ……握りしめた拳を堪える。  こいつは、そんな話を言いふらしたのか。  美綴は女の子だ。あいつはああいうヤツだし、周りもそう思っているけど、気丈そうに見えても女の子なんだ。  なら、どんなに強くたって、こんな話を広められたら立っているのが難しくなる。  それを承知の上で言いふらしたのか。  昨日のうちから、保護した人間しか知らない筈の出来事を、無責任な噂話として面白おかしく――――! 「―――慎二、おまえ!」  肩を掴む。 「そう睨むなよ。僕は知らないって言ってるだろ? 身勝手な思い付きで言いがかりをつけると後悔するよ、衛宮」  掴んだ手を振りほどいて慎二は席につく。  ホームルーム開始の鐘が鳴る。 「―――――――っ」  みんなが席につく中、立っている訳にもいかない。  慎二に一瞥をくれて、今は大人しく席に戻るしかなかった。  一日が終わる。  放課後になって、生徒たちは波が引くように下校していった。 「――――――――」  慎二を詰問する事も出来たが、今は何も材料がない。  雑木林での一件も、たまたまそこにいたと言われたらそれまでだ。 「……先に、確証をとらないと」  あいつがマスターなのかどうかは定かじゃない。  ただ美綴が行方不明になった件だけは、間違いなくあいつが絡んでいる。 「マスターを識別する方法……服を脱がして令呪を見つけるしかないのか」  もっとも、そんな事をさせるマスターはいないだろう。 「―――そろそろか。遠坂ならいい方法を知ってるかもな」  席を立つ。  放課後の廊下で待ち合わせ、というのが遠坂との約束だ。  ―――遠坂と合流して、学校中を歩いて回る。    遠坂曰く、学校には何カ所か結界を張る為の支えとなる“呪刻”があるらしい。  遠坂は何日も前から見つけては消しているのだが、その度に新しい呪刻が作られたり、数日前に消した呪刻が再度浮かび上がったりで、完全に結界を消すには至らないそうだ。 「結界自体はもう張られちゃってるから。  わたしがやってる事は効力を弱めているだけよ。それでもやらないよりはマシだし、不完全なうちは相手だって結界を発動させないでしょ?」  なんだそうだ。 「遠坂。訊きたい事があるんだけど、いいか」    屋上に隠された呪刻を消去した後、遠坂を呼び止める。 「え、なに? まだ屋上に違和感を感じるの?」 「あ―――いや、それとは別件。ここにはもうおかしな所はない。俺の方はここで打ち止めだ」 「そう、なら生きている呪刻はほとんど消せたかな。  衛宮くん、魔力感知はできないクセに場所の異状には敏感なんだもの。まさかこんなに早く、校舎内の呪刻を消せるとは思わなかった」  遠坂は上機嫌だ。  いや、こっちも役に立てて嬉しいんだが、今はそういう気分じゃない。 「なあ遠坂。マスターってのはマスターが判るのか。その、サーヴァントは隠していても、ただいるだけで気配が変わるとか」 「え、別にそんな事はないけど……そうね、何も細工をしなければ、マスターの識別は出来るでしょうね」 「マスターはもともと魔術師がなる物だから、魔力を探っていけば魔術師は見つけられる。加えてサーヴァントなんていう破格の使い魔と契約してるんだから、隠したって魔力は漏れるわ」 「衛宮くんは鈍感だから気が付かないけど、わたしだって魔力を残して歩いてる。魔術師が見たら一目でわたしがマスターだって判るだろうし、わたしだってマスターを見れば識別できるんじゃないかな」 「そうなのか……!? けど遠坂、俺が魔術師だって知らなかっただろ。それはどういう事だよ」 「なに? それ、言っていいの?」  途端、いじわるな口調になる。  ……なんか、まことに嫌な予感がしてきたな。 「いや、いい。だいたい想像ついた、いま」 「賢明ね。ま、そういう事よ。魔術師じゃなくても微力な魔力を持つ人はいる。魔術師はね、一定以上の魔力を帯びた者しか魔術師って認めないの」 「はいはい、そんなコトだろうと思ったよ。  ……あ、けどそれじゃあ、今の俺はどうなんだ?」 「うーん、それが全然変わらないのよね。  まあ不完全な召喚だったって言うし、傷を治す以外はセイバーとの繋がりは薄いんでしょうね。  ま、衛宮くんは特例だからそういう事もありでしょ」  ……ふむ。  それじゃあ慎二はマスターじゃないな。  俺には判らなくても、遠坂は見ただけでマスターの判別がつく。  もし慎二がマスターでサーヴァントと契約しているなら、その漏れた魔力を遠坂は感知できる筈なんだから。 「なんだ。マスター捜しだなんて言うけど、その気になればすぐにでも見つけられるんじゃないか。強い魔力の残り香を辿っていけばいいんだから」 「そうでもないわよ。例えばの話、魔力を隠してしまう道具を持っていれば敵には悟られないもの。  ……まあ、サーヴァントのデタラメな魔力を消せる道具なんて少ないでしょうから、そんなマスターはいないと思うけど」 「じゃあ、もし遠坂の身近にいる人間がマスターでも、そんな道具を持っていたら判らないってコトか?」 「どうかな。物によるけど、どんなに隠しても近くにいれば判ると思う。サーヴァントと契約している以上、どうしても世界との摩擦は起きるから」 「身近にいてもマスターかどうか判らないってコトは、そのマスターはサーヴァントを使っていないってコトよ。  ま、例外はあるかもしれないけど、九割方はそう考えて間違いないと思うわ」  教室に戻る。  マスターの手がかりは掴めなかったものの、大部分の呪刻を消せて遠坂は満足のようだった。  なんでも、これだけハデに邪魔をされたら向こうも黙ってられないんで、近いうちに必ずボロを出す、とかなんとか。 「気が長いな。近いうちって言っても、どのくらい先か判らないだろ」 「そう? こんな結界を張るヤツだもの、邪魔されて我慢できる性格じゃないわ。わたしの見立てでは明日よ。  二度目は黙ってられない性格でしょ、こいつ」 「ふうん。そんなもんなのか」 「そんなもんよ。―――さて、わたしは用事があるから先に帰るわ。明日の決戦に備えて色々買わなくちゃいけないし」 「それじゃあまた明日。それと、今日は早めに帰りなさい。寄り道なんてしたら駄目だからね」 「む? なんだ、心配してくれるんだ、遠坂」 「っ……! ち、違うわよ、協力関係になったんだから、かってに脱落されちゃ予定が狂うじゃないっ! 今のはそれだけの、ちょっとした確認事項っ!」  があー、とまくし立てる。  が、その慌てぶりは遠坂らしくなく、照れ隠しをしているのは一目瞭然だった。    ―――なるほど。  普段クールな分判りやすいというか、少しずつ遠坂のコトが読めてきた。 「ともかく! 衛宮くんは無防備すぎるんだから、あんまり軽率な行動はしない事! わたしは例外で、他の連中は即命を奪いにくるんだからねっ」  ふん、と顔を背けて立ち去ろうとする遠坂。 「ぁ――――――――」  その、遠ざかっていく背中を見て不意に。   「遠坂。今もアーチャーは側にいるのか」    そんな、意味のない事を訊いていた。 「いるけど、なに? アイツに話でもあるの?」 「……いや、別に。遠坂はうまくやってるのかなと思って」  突然の質問に、遠坂ははあ? と目を見開いて俺を見る。  ―――と。 「ははあん、そういうコト。  ええ、心配無用よ。アイツ捻くれてるけどいいヤツだもの。ああ見えても子供っぽいし、付き合っていく分には楽しいわ」    楽しげにそう言って、遠坂は一足先に階段へ消えていった。  美綴の件が尾を引いているのか、気が付けば弓道場に足を運んでいた。  校門から離れた道場に人気はない。  部活も終わっているし、ここに来ても得られる物などないだろう。 「…………帰るか」  道場に背を向けて校門へと歩き出す。  ―――その先、校門に続く路に、    立ち塞がるように、間桐慎二の姿があった。 「や、今ごろお帰りかい? 最近は物騒だから、生徒は速やかに下校するんじゃなかったっけ」 「――――――――」  この場所で、慎二を前にして冷静でいられる自信はない。  慎二を無視してその横を通り抜ける。 「ふうん。友人に挨拶もできないぐらい疲れてるわけか。  まったく、呪刻潰しなんて地味なコトしてるからそうなるんだよ」  にやついた声。 「――――!」  それに、咄嗟に後ろに跳んで身構えた。 「呪刻潰し―――そんな事を言えるって事は、おまえ」  身構えながら慎二を睨む。 「ああ、そういう事。おまえが〈虱〉《しらみ》潰しにしてくれた結界はさ、僕が仕掛けた保険なんだぜ?  それをあんな風に消されちゃあ、こっちは怖くて学校に来れなくなるじゃないか」 「――――――――」  ……そうか。  これが俺の甘さだ。  雑木林で慎二を見た時、ヤツがそうなのだと判っていながら認めようとしなかった俺の不覚悟。 「待てって。そう構えないでよ衛宮。うるさい遠坂もいなくなったし、男同士ゆっくり話し合おうじゃない。知っての通り喧嘩は嫌いなんだよ、僕は」 「話し合う……? 俺とやりあう気はないっていうのか?」 「そんなのあるもんか。  見たところ、衛宮もマスターなんてものに無理矢理させられたんだろう?  僕もそれと同じでね、魔術師でもなければ戦う気もないっていうのにマスターにさせられたんだ」 「で、目下のところ誰とも戦わないで済む方法を探してる最中ってワケ。だからここで衛宮と争う気なんてないんだ」 「……そうかよ。じゃああの結界はなんだ。あんなものを仕掛けておいて、戦う気はないっていうのか」 「バカだな、アレは保身だよ。学校には遠坂っていう根っからの魔術師がいるだろ。  あいつはマスター同士の戦いに躊躇なんてしない。となると、魔術師じゃないマスターとしては防護策を持っておかないとやっていけないじゃないか。  あの結界はそれだけの物だよ。誰かに襲われない限り、発動させる事はない」 「――――――――」  ……話の筋は通っている。  慎二が本当にマスターなのかどうか、どういう経緯でマスターになったのかは判らない。  それでも今の話は信じていい。  慎二がそう言うのなら、そうなのだと頷くべきだ。  だが、その前に――――   「慎二。昨日、女生徒を襲ったのはおまえか」    この問題を、片づけておかないと。 「……昨日の事か。アレは、仕方がなかったんだ。  僕のサーヴァントはじゃじゃ馬でね、放っておくと人を襲う。  僕はマスターに選ばれただけの人間だ。遠坂みたいな本業じゃないんだから、言いつけをきかせる事も大変なんだよ」 「―――じゃあ昨日の件はあくまで事故なんだな? おまえのサーヴァントが勝手にやった事だと」 「ああ、これからは気を付けるよ。ボクも自分の住処で事件なんて起こしたくない。あいつには、僕を守ることだけ徹底させるさ」 「―――それは本当だな、慎二」 「ああ。嘘を言ってもしょうがないだろ。隠しておく事もできたのに、こうしてわざわざ告白してやったんだ。  衛宮、僕の事を疑ってただろ? 無闇に襲われたら行き着く所までいくしかなくなるからさ、先にこうやって正体を明かしたんだ。  ――――僕は、誰とも戦いたくはないからね」  ……その言葉を鵜呑みにする事はできない。  ただ、本当に慎二がそう思っているのなら―――それは、俺にとっても願ってもない事だ。 「わかった、信じる。おまえが何もしないんなら、俺も手は出さない。それでいいんだな、慎二」 「いいね、衛宮にしては物分かりがいい。  けどそれじゃあ困るんだ。こうやって話し合いに来た事を、もう少し理解してくれないかな」  握手を求めるように手を差し出す慎二。  それは、つまり。 「僕に協力しないか衛宮。おまえは知らないだろうけど、もともと間桐の家は魔術師の家系なんだ。  ……まあ父の代で魔道は絶えていたけど、知識だけはまだ残っている。どうかな、素人のくせにマスターになった君にとっては頼りになる存在だろう?」 「――――――――」  間桐が魔術師の家系……?  そんな事、遠坂は言わなかった。  いや、慎二の言う通り血が絶えていたから、部外者として除外していたのか。 「どう? 遠坂に頼らなくても、僕たちが手を組めば聖杯戦争ぐらい生き残れる。こんなの考えるまでもないと思うけど?」 「――――――――」  差し出された手。  ……慎二の提案は、間違いではない。  筋は通っているし、一つの選択ではあるだろう。  だが―――― 「……慎二。おまえがマスターだって事を、桜は知ってるのか」 「はあ? なんだ、本当に素人なんだな衛宮。  いいかい、魔術師の家系は長男にしか秘儀を伝えないんだ。長男以外の子供なんてただの予備にすぎない。  そんなのに魔術を伝える意味はないし、手間も惜しいんだよ。  ……ったく。あんなトロい女に魔道を伝えるもんか。  間桐の秘儀を継いだのは僕だけだ」 「――――――――」  そうか。  それは、本当に良かった。  桜はこっち側にいるべき子じゃない。  あいつはいつも、幸せそうに笑っていてくれなきゃ、いやだ。 「―――慎二。おまえが何もしないんなら、俺もおまえには何もしない。それで文句はないだろう」 「……そう。協力はできないってコト?」 「する必要なんかないだろ。お互い戦わないんなら、協力するもしないもない。  自分の身を守りたいだけなら、聖杯戦争が終わるまで教会に保護して貰えばいい。それぐらいの事は知ってるんだろ」 「……へえ。なんだよ衛宮。君、もしかしてこの殺し合いに勝とうだなんて思ってるの?」 「――――――――」  ……殺し合いをするつもりはない。  ただ、降りかかる火の粉は払うし、街に火を付けようとするヤツは放っておけないだけだ。    それに―――― 「……殺し合いなんてするか。ただ俺は、聖杯ってヤツの正体を見極めなくちゃいけない。その為には、最後まで残るしかないだろ」  慎二に背を向ける。 「そうかい。あくまで戦うつもりか。  まあ僕には関係のない事だけど、それなら桜を巻き込むような真似はしないよなあ、衛宮?」 「―――そんなの当たり前だ。おまえこそ桜には隠し通すんだろうな」 「勿論。けど兄貴としてさ、これから殺し合いを続けるってヤツの家に妹は置いておけない。  おまえが戦うっていうんなら、聖杯戦争が終わるまで桜は家から出さない。それでいいよな、衛宮?」 「――――――――」  ……確かに、慎二の言い分には一理ある。  俺がセイバーと一緒に戦う以上、衛宮の家だって危険なんだから。 「わかった。桜には俺の方から言っておく。それでいいな、慎二」 「オーケー、後輩思いの先輩で助かった。  正直、おまえがいつ桜を人質にするか冷や冷やしてたからね。いや、これで当面の悩み事は解消されたよ」 「……話はこれで終わりだな。なら帰るぞ」 「ああ、ご自由に。けどわかってるよな衛宮。ここで話した事は僕たちだけの秘密だぜ。こっちは衛宮を友人とみこんで秘密を打ち明けたんだ。それを人に話すような事になったら、僕だって何をするかわからない」  それは、慎二の事を遠坂に話せば結界を発動させる、という事だろう。 「――ああ、黙ってる。けど遠坂が自分で見つける分には別だぞ。俺は遠坂に出来る限り協力する。あいつがおまえの正体を知ったら、戦う事を止めない。  ……そういう訳だから、見つけられたくなかったら大人しくしてるんだな」  今度こそ正門に向かって歩き出す。  夕暮れの校舎。  立ち去る俺を、慎二は何も言わず見送った。    ――――キャスターの指が伸びる。 「く―――そ―――…………!」    抵抗しようにも体が動かない。  手足の自由は無く、感覚も奪われていき、消えていくのだろう。 「さよなら坊や。悔やむのなら、その程度の力量でマスターになった事を悔やみなさい」    体は一向に動かないまま、死の指先を受け入れる。 「っ――――!」  瞑りたくなってしまう目蓋を堪えて、全力でキャスターを睨み付ける。 「あら。いい子ね、そういう頑張りは嫌いではありませんよ」  こっちの精一杯の抵抗を嘲笑いながら、キャスターは令呪に指をあてた。 「あ――――――――」  ……自由だった意識さえ麻痺していく。  ……遠くなっていく思考のなか。    きぃーーーん、と。    背後の山門から、剣と剣が打ち合うような音だけが聞こえていた―――― 「――――!」    それは、どんな奇蹟だったのか。  何十という空を切る音と、目の前の地面を串刺しにしていく無数の矢。  キャスターはとっさに後退し、黒いローブは〈独楽〉《コマ》のように〈翻〉《ひるがえ》っていく。 「な――――」    キャスターの足下には矢が突き刺さっている。  上空、山門の上から放たれた矢は十三本。  おそらく一息で放ったであろうそれは、あと一本多ければ、間違いなくキャスターの胸を貫いていた。  矢の主は、山門の上に立っていた。  赤い外套の騎士は、徒手空拳のまま地面に降りる。 「ふん。とうに命はないと思ったが、存外にしぶといのだな」  男―――アーチャーはキャスターを阻むように、俺の目の前で、そんな言葉を口にした。 「おまえ―――なんで」 「なに、ただの通りがかりだ。あまり気にするな。  ……で、体はどうだ。キャスターの糸なら、今ので断った筈だが」 「え――――」  言われて、自分の手を確認する。  ……動く。  あれだけ動かなかった手足は、今の攻防だけで自由を取り戻していた。 「動く。キャスターの呪縛は解けた、けど―――」 「それは結構。あとは好きにしろ、と言いたいところだが―――アレに殺されたくなければ、しばらくそこから動かぬ事だ。あまり考え無しに動くと」 「く、アーチャーですって……!? ええい、アサシンめ何をしていたの……!」 「そら、見ての通り八つ当たりを食らう事になる。  女の激情というのは中々に御しがたい。……まったく、少しばかり手荒い事になりそうだ」  どこまで本気なのか、アーチャーは口元を緩めて笑っていた。 「―――さて。そう怒るなキャスター。  アサシンならばセイバーと対峙している。あの侍、何者かは知らんがセイバーを押し留めるとは大した剣豪だ。  むしろ褒めてやるべきではないか?」  敵と対峙しているというのに、アーチャーには緊張感というものがまるでない。  それに気づいたのか、キャスターは冷静さを取り戻す。 「―――ふん、ふざけた事を。アナタを止められないようでは英雄などとは呼べない。あの男、剣豪を名乗らせるには実力不足です」 「ほう。その言いぶり、アサシンが自分の仲間だとでも言いたげだが―――やはり協力しあっているのか、君たちのマスターは。  そうでなくてはこの状況に説明がつかん。一つの場所に、二人のサーヴァントが居を構えるなどとな」  キャスターは無言のままアーチャーを見据えている。  ローブに隠れて表情は判らないが、動揺しているように見えた。 「―――アーチャー、今の本当か……!? アサシンとキャスターのマスターが協力しあってるって……!?」 「ああ。門の外を守るアサシンと、門の内に潜むキャスター。この両者が協力関係なのは明白だろう。  マスター同士が協力しあうのも珍しい事ではない。現におまえと凛とて手を結んでいる」 「あ」  そう言えばそうだった。    ―――じゃあ、この柳洞寺にはマスターが二人いるっていう事か……!? 「ふ――――。  ふふ、あはははははは! 何を言いだすかと思えば、随分と的外れな事を言うのねアーチャー!」 「む? なんだ、違ったか? ……まいったな、君たちが仲間だというのは確信だったのだが」 「ええ、見当違いも甚だしいわ。  仲間ですって―――? 私があの〈狗〉《いぬ》と協力しあう? 私の手駒にすぎないあの男と?」  それはあまりにも場違いな笑い声で、緊迫していた境内の空気が霧散していく。  そんな中。  アーチャーの背中が、ぎり、と強く歯を噛んでいた。 「―――――――」  今までなかったものが現れる。  キャスターの敵意でもなければ、境内を包んでいた魔力の渦でもない。  ここに現れて初めて。  アーチャーは、むき出しの敵意を表していた。 「そう、アナタの予感は正しいですよアーチャー。  私のマスターは誰とも手を組んでなどいないし、アサシンのマスターも同じ。  いいえ、そもそも〈あの狗〉《アサシン》に〈マスターなど存在しない〉《・・・・・・・・・・・》のですからね……!」 「な――――に?」  アサシンにマスターはいない……?  それはどういう事なのか。  サーヴァントはマスターがいなければ存在できない。  魔力の供給源がなければ消えてしまうのではなかったか――――? 「―――キャスター。貴様、ルールを破ったな」 「まさか。ルールを破ってなどいませんわ。だってサーヴァントを呼び出すのは魔術師でしょう?  なら―――〈魔術師〉《キャスター》である私が、サーヴァントを呼び出して何の不都合があるのです!」  冷笑を浮かべたまま、黒いローブの魔女が告げる。 「――――――――」  ……つまり。  山門にいるアサシンのサーヴァントは、キャスターによって呼び出された“英霊”なのか――――! 「……サーヴァントを操るサーヴァントか―――なるほど、ならばこその架空の英雄か。  まっとうなマスターに呼び出されなかったアサシンは、本来呼ばれるべき“暗殺者”以外のモノをアサシンにしてしまった。……それは構わん。元となる英霊が誰であろうと敵は倒すのみ。  だが、それは貴様の独断ではないのか、キャスター」 「っ……! ……聞きましょう。なぜそのような結論が出せるのです、アーチャー」 「なに、ただの直感だよ。マスターとは魔術師だ。  その魔術師が、自分より優れた魔術師を使い魔にした場合―――そこにあるのはただの主従関係ではあるまい。  〈魔術師〉《マスター》が自身より優れた〈魔術師〉《キャスター》を警戒するのは当然だ。  ……私が貴様のマスターであるのなら、魔女に自由など与えない。マスター本人ではなく、貴様だけの手足となるサーヴァントの召喚など許可する筈がない」 「……ふ。それなりの知恵は働くようですねアーチャー。  いいわ、その賢さに免じて、今の暴言は聞き流しましょう」    くつくつと笑いながら、キャスターはアーチャーを見据える。  ……両者の間にあるのは、もはや敵意だけだ。  離れた間合いは七メートルほど。  夜の校舎で見せたアーチャーの突進ならば、キャスターが呪文の詠唱を終える前に斬り伏せられる―――― 「納得がいった。セイバーやランサー、ライダーは強力な対魔力を持っている。ここの男の抗魔力など比べ物にならない、次元違いの対魔力だ。  彼らにはあらゆる魔術が効きづらい。故に、魔術師である君では彼等に太刀打ちできない」 「となれば策略に走るのは当然だったな。  ルールを破り、自らの手でアサシンのサーヴァントを呼ぶ。  この土地に居を構え、町の人間から魂を収集する。  自らは戦わず、町中に張った“眼”で戦況を把握する。  これだけの事をするのだ。当然、自分のマスターは拘束しているのだろうな? ここの間抜けなマスターのように、とっくに操り人形という訳だ」  物言わぬ笑い。  それを見て、心底背筋が寒くなった。  町中の人間から魔力を集めているだけじゃない。  あいつは自らのマスターさえ、さっきまでの俺のように“道具”として扱っている―――― 「――――――――」    ……キャスターは、危険だ。  バーサーカーのような純粋な脅威ではなく、姿を見せずに状況を悪化させていくヤツこそが、乱戦において最も厄介な敵になる。 「ええ、貴方は正しいわアーチャー。  けれど私が貴方たちに敵わない、というのは間違いよ。  聖杯戦争に勝つ事なんて簡単ですもの。  私が手をつくしているのは、単にその後を考えているだけ。貴方たちを恐れて策を〈弄〉《ろう》している訳ではないわ」 「―――ほう。〈我々〉《サーヴァント》を倒すのは容易い、と言ったなキャスター。逃げ回るだけが取り柄の魔女が、よく言った」 「言ったわ。ここなら私は誰よりも強いもの。バーサーカーやセイバーならいざ知らず、〈貴方〉《アーチャー》程度では掠り傷さえ負わせられないでしょう」 「それより、貴方の方こそ逃げる算段を立てなさい。  一度目は許した。けれど二度目はなくてよ。  私を“魔女”と呼んだ者には、相応の罰を与えます」  キャスターのローブが歪む。  大気に満ちた魔力は濃霧となって、キャスターの体を覆っていく。  それを前にして、   「――――面白い。掠り傷さえ負わぬ、と言ったな」    本当に愉快そうに、アーチャーは呟いた。 「ええ。貴方では、私に触れる事さえ出来ないでしょう」  黒い影が応える。  赤い外套の騎士はそうか、と笑い。 「では一撃だけ。それで無理なら、あとはセイバーに任せよう」    突風のように、〈黒い影〉《キャスター》へと疾走した。  赤い影が走る。  いつのまに握られていたのか、アーチャーの両手にはあの武器――――対で作られた双剣があった。 「――――!」  呪文の詠唱など許さない。  キャスターが片腕を突き出すより早くアーチャーは間合いを詰め、    その双剣で、キャスターを両断していた。  はらり、と真っ二つにされたローブが舞い散る。 「む――――――」  苦もなく斬り倒した相手の亡骸を前に、アーチャーは納得いかなげに立ちつくす。  あまりにも拍子抜けだったからだろう。  あれだけの大口を叩いておいて、一度も反撃せずに敗れ去ったのだ。  アーチャーでなくとも、気が削がれるのは当然と言えた。 「……………………」  アーチャーは双剣を握ったままだ。 「……………………」  赤い外套。  黒と白の短剣は美しく、ひどく、こちらの心を奪う。  ……おかしい。  もしかして見惚れているのか、俺は。    ……あの双剣。  〈曰〉《いわ》くのある名剣なのだろうが、あいつの持つ双剣には何の邪気も感じられなかった。  宝具は優れた武器であるから、美しいのは当然だ。  セイバーの剣だって、もし見えるのならさぞ〈豪奢〉《ごうしゃ》な物に違いない。    が、あれはそういった物じゃない。  他者を倒す事を目的とする戦意。  後世に名を残そうとする我欲。  誰かが作り上げた武器を越えようとする競争心。  何か、絶対的な偉業を成そうとする信仰。  そういった名剣、魔剣にはなくてはならない創造理念が、アレにはない。    ……しいていうのなら、ただ作りたいから作った。  対なる剣、鍛冶師としての自身の意義を問うかのように、無心で作り上げた無骨な剣。  それがアレなのだと思う。    虚栄のない鏡の剣。  白と黒、陰と陽を体現した不器用な鍛冶の剣。            ――――見とれたのは、そう。      その在り方が美しく見えただけ。  斬り倒されたキャスターの体が消えていく。 「――――――――」  それを見届け、アーチャーが剣を納めようとした瞬間。           「……残念ねアーチャー。貴方が、本当にその程度だったなんて」    荒涼とした境内に、キャスターの声が響き渡った。 「づっ…………!」  アーチャーが跳ねる。  先ほどの攻防の焼き直しだ。  天空から飛来した光弾はアーチャーを貫こうとし、  アーチャーは双剣で弾き落とす。    ―――いや。  それは、決して焼き直しなどではない。 「な――――」    地面が、赤く焦げていた。  小さな光に籠められた魔力は、実に俺という容器を満タンにして三倍強というところ。  アーチャーとて直撃を受ければ体の半分を持っていかれ、今頃さきほどの〈黒い影〉《キャスター》と同じ末路を辿っていただろう。    空を見る。  月は無く、夜空には黒々とした雲海が流れ。    その〈真中〉《まなか》、まるで空を統べるように、黒い魔術師が君臨していた。 「―――空間転移か固有時制御か。どちらにせよこの境内ならば魔法の真似事さえ可能という事か。  ……見直したよキャスター。いや、大口を叩くだけはある」  上空のキャスターを見上げながら、アーチャーは双剣を握り直す。 「そうですか? 私は見下げ果てたわアーチャー。  使えると思って試してみたけど、結果がこれではアサシン以下よ」 「耳に痛いな。次があるのならもう少し気を利かせるが」 「――――まさか。愚か者に次などありません。  貴方はここで消えなさい、アーチャー」 「チッ――――!」    アーチャーの体が流れる。  キャスターの視界から逃れようと、境内から脱出しようと疾走する。 「ふん、逃げ切れると思って……!」    キャスターの杖が動く。  杖がアーチャーに狙いを定めた後。  何か、悪い冗談のような光景が、目の前で繰り広げられた。 「ば――――」    馬鹿な、と漏らす声さえ聞こえない。    キャスターの攻撃は際限のない雨だった。  降り注ぐ光弾は爆撃と何が違おう。  その一撃一撃が必殺の威力を持つ魔術を、キャスターは矢継ぎ早に、それこそ雨のように繰り出していく。  それがどれほど桁外れの“魔術”なのか、魔術師である以上俺にだって理解できる。    アレは大魔術に属する物だ。  その発動には簡易的な魔法陣と、〈瞬間契約〉《テンカウント》、すなわち十以上の単語を含んだ魔術詠唱をしなければならない。    大魔術は強力であるが故に、その詠唱には時間を要する。  あれほどの魔術なら、一人前の魔術師でも一分。  高速詠唱を用いる魔術師でさえ三十秒はかかるレベルだ。    それを一瞬。  詠唱さえ必要とせず、ただ杖を向けただけで、しかもあれほどの連続使用となると、もう比較対象など思いつかない――――! 「っ……! 女狐め、Aランクの魔術をここまで連発するとは、よほど魔力をため込んだな――――!」  もはや避け切れぬと判断したのか、アーチャーは双剣で弾きながら疾走する。    ―――境内の外を目指すアーチャーは、途中、何かに気がついたようにルートを変えた。 「間抜け……!  貴様、いつまでそこに突っ立っている……!」  アーチャーが血相を変えて突っ込んでくる。 「え?」    それで気がついた。  ここは、とうに安全じゃない。  降り注ぐ光弾は、既に俺の頭上まで攻撃範囲として捉えている――――! 「クソ、なんだってこんな手間を――――!」    つっこんでくるアーチャー。   「っ――――!」    避けようと跳び退こうとした瞬間、    体は、ふわりと空中を飛んでいた。 「え?」    思わず足をバタつかせる。  ……信じられない。  アーチャーのヤツ、俺を抱えて走っている―――!? 「……! 降ろせバカ、なに考えてんだおまえ!」 「知るものか! いいから黙っていろ、おまえに言われると自分の馬鹿さ加減に頭を痛めるわ、馬鹿が!」 「馬鹿!? おまえ、自分が馬鹿だって判ってるのに人のこと馬鹿呼ばわりするのかよ、このバカ!」 「っ……! ええい、ガキか貴様! 馬鹿でガキとはもはや手が付けられん、せめてどちらかに決めておけたわけめ!」  アーチャーも余裕がないのか、言動が支離滅裂だ。  が、助けてもらったというのに、とにかく無性にその事実が納得できないっ。 「このっ――――いいから放せ、これぐらい一人でなんとかする! おまえの手なんて借りない!」  いや、それより足手まといになる事が耐えられない。  アーチャー一人なら、とっくに境内から逃げられていた筈だ。  だが俺を庇ったせいで出口は遠のいてしまった。  境内を旋回するアーチャーは、頭上のキャスターからすれば格好の的だろう。 「アーチャー! 聞いてるのか、おまえ……!」 「―――そうか。なら遠慮は要らんな」  と。  アーチャーは唐突に、俺の体を蹴り飛ばした。 「がっ――――!?」    地面に叩きつけられる。  よほど強く蹴り飛ばしやがったのか、間違いなく五メートルは吹っ飛ばされた。 「てめ――――」    痛みを堪えて起きあがる。   「――――え?」    アーチャーは、ピタリと立ち止まっていた。  降り注ぐ光弾も止んでいる。  あるのは、ただ耳を振るわせる冷たさだけ。 「――――あいつ」    それで、ようやく気がついた。  アーチャーの周囲が、それこそ凍結したように固まっている事に。 「気分はどうかしらアーチャー。いかに三騎士と言えど、空間そのものを固定化されていては動けないのではなくて?」    勝ち誇ったキャスターの声。  アーチャーは口もきけないのか、時間が止まったかのように動かない。 「どうやらこれで詰めのようね。外にはセイバーもいる事ですし、これ以上貴方にかける時間はないわ。  何処の英雄だったかは知らないけど、これでお別れよ、アーチャー」  キャスターの左手が向けられる。  その手から、即死の光弾が落とされる。    ただ、その直前。    なにか、アーチャーは呟いていた。 「―――? なにかしらアーチャー。命乞いなら聞いてあげても――――」   「―――――、と言ったのだ、キャスター」  苛立ちをこめた呟き。  それに、俺とキャスターが耳を澄ませた時――――   「―――たわけ、躱せと言ったのだキャスター!」    そう叫んで、アーチャーは跳んでいた。  空間の固定化とやらを力ずくで砕いたのか。  硝子が砕けるような音をまき散らしながら、アーチャーは俺たちの視界から消失する。 「な、何をバカな――――」    アーチャーの怒号に気をとられ、戸惑うキャスター。  ―――その、左右に。  弧を描いてキャスターを狙う、白と黒の光があった。 「――――!!!!!!」    キャスターのローブが裂ける。  アーチャーの叱咤に反応した故か、キャスターは間一髪で二つの凶器を避けた。  左右より襲いかかったソレは、言うまでもなくアーチャーの双剣である。  ―――あの瞬間。  俺を蹴飛ばし、キャスターの術中に落ちる直前、アーチャーは双剣を左右に投擲していたのだ。  放たれた剣は這うように地面を飛び、時間をおいて空中にいるキャスターへと襲いかかった―――― 「さすが〈弓兵〉《アーチャー》ってところか……って、あいつ何処に―― ――……っ!?」  今度こそ絶句した。  それはキャスターとて同じだろう。  境内に跳び退いた赤い騎士は、すでに〈詰め〉《チェック》に入っていた。  地面に膝をたてて、弓を上空へと構えている。  狙いはキャスター。  そして、弓にあてがわれた“矢”こそ、バーサーカーを狙撃したあの魔剣――――! 「――――〈I〉《我》〈 〉《が》〈a〉《骨》〈m〉《子》 the 〈b〉《   は》o〈n〉《   捻》〈e〉《   じ》〈 〉《   れ》of my 〈s〉《   狂》〈w〉《   う》〈o〉《   。》rd.」    アーチャーの声が大気を揺らす。   「―――Tροψα……!」    切迫したキャスターの詠唱。  それをはっきりと見越した上で、           「――――“〈偽・螺旋剣〉《カラド、ボルグ》”」    アーチャーは、その矢から手を放した。    それがヤツの宝具なのか。  放たれた矢は大気を根こそぎねじ曲げていった。 「は―――――あ…………!」    上空ではキャスターの喘ぎ声がこぼれていた。  竜巻めいた矢は、キャスターの守りを容易く貫通したのだ。  おそらく―――あの大気の捻れようからして、キャスターが空間転移をしたところで、その空間ごとねじ切られていたに違いない。 「あ――――あ――――」    ……それでも、キャスターは生きていた。  黒いローブは飛び散り、ローブの下の肉体はズタズタに引き裂かれている。  キャスターは魔力を全て自己再生に回しているが、直撃であったのなら、再生する余裕などなく霧散していただろう。    ……そう。  アーチャーの矢は直撃ではなかった。  矢はキャスターから離れた虚空に放たれ、キャスターはその余波で守りの壁を砕かれたにすぎない。  矢は外れた。  ……いや、それは違うか。    矢は外れたのではなく外したのだ。    一体なんのつもりなのか。  必殺の機会だったというのに、アーチャーは自分から射を外していた。    ……境内は静寂に戻る。  目前にはアーチャーと、呆然とアーチャーを睨むキャスターの姿がある。  今の一撃はさすがに堪えたのか、アーチャーから感じる魔力は微弱な物になっていた。  それはキャスターも同様だ。  外したとは言え、アーチャーの一撃はキャスターの体と魔力、その大部分を削いでいった。  この境内には膨大の魔力がプールしてあるとは言え、それを汲み取るべきキャスターの機能が破損していては意味がない。 「く………ぁ………」    地に降りてきたキャスターに覇気はない。  辛うじて骨肉の器を〈象〉《かたど》ったものの、中身は空っぽ。  戦闘の続行など不可能だろう。 「ふ、う――――くっ……!」    乱れた呼吸のまま、キャスターはこちらを見据える。  彼女は自らを地に降ろしたサーヴァントと、なぜか、どうでもいい俺を見比べていた。 「……アーチャー。今の一撃、なぜ外したのです」    覇気のない声で問う。  アーチャーはその問いこそ不思議だ、と言わんばかりに肩をすくめ、 「いや、試すのは一撃だけと言っただろう。  初めの一撃は躱されたからな。その後はただのおまけだ。なんだ。それともまさか、約束を違えても〈中〉《あて》てほしかったのか?」  なんて、〈巫山戯〉《ふざけ》た事を言いやがった。 「―――――――。では、私を殺す気はなかったと?」 「つい挑発に乗っただけだ。私の目的はそこの男にあったからな。他のサーヴァントと戦うなど予定にはなかった」  ……む。  確かにあいつ、始めっからやる気がないというか、敵意らしき物を持っていなかったっけ。 「……そう。どうやら私と戦いに来た、という訳ではなかったようねアーチャー」 「ああ、そこの男が腰抜けなのと同じでね。不必要な戦いは避けるのが主義だ。  剣を〈執〉《と》る時は必勝の好機であり、必殺を誓った時のみだ。意味のない殺生は苦手でな」  ……何がおかしいのか。  キャスターは口元を緩ませて、本当に愉快そうに微笑した。 「そう。なら、アナタたちは似たもの同士という事?」   「「は?」」    声がはもる。  似たもの同士って、俺とアーチャーが?  その、一体どんな理由で? 「違うのかしら。貴方たちは無益な殺生が嫌なのでしょう? そこの坊やは私のような無関係な人間を糧にするサーヴァントが許せない。  貴方は無意味な殺戮は好まない。  ほら、まったく同じじゃない。だから手を組んでいるのではなくて?」 「ばっ……! どうしてそんなふざけた結論になる! おまえ目が腐ってるぞ、誰がこんなヤツと一緒なもんか!」 「―――同感だ。平和主義者なのは同じだが、根本が大きく異なる。厄介事は早めに片づけるのが私の方針だ。  この男のように、いつまでも悩んだりはしない」 「っ、何が平和主義者だ! 俺は忘れてないぞ。おまえはバーサーカーと一緒にセイバーを狙ったんだ。  セイバー一人に戦わせて、自分は安全なところにいたクセに……!」 「仕方なかろう。あの時はまだ共闘関係ではなかった。 セイバーの安全よりバーサーカーを倒す事が優先されただけだ。  それともなにか、目に映る物全てを助けろなどと言うのではあるまいな? ならばバーサーカーとて倒す対象にはならないが」 「っ~~~~…………!」  むーっ、と睨み合う。  ああもう、こいつとは本当に馬が合わない!  なんだってこう、こいつの台詞はことごとく癇に障りやがるのか……! 「ふ―――」  ……と。  そんな俺たちを見て、キャスターはますます楽しげに笑ってやがる。 「気に入ったわ。貴方たちは力も、その在り方も稀少よ。  敵に回してしまうのは惜しい」 「?」  はあ、と首をかしげる。  アーチャーは俺から目を逸らし、一転して真剣にキャスターを睨み付けた。 「……ちょっと待て。何が言いたいんだ、おまえ」 「判らない? 私と手を組みなさい、と言っているのよ。  私なら今のパートナーより優れたモノを用意できるわ。  坊やにはセイバー以上のサーヴァントを。  〈貴方〉《アーチャー》は今のマスターより優れた魔術師と契約できる」    ―――思考が停止する。  正直、この女が本気で言っているのか、その正気のほどを疑った。 「悪い話ではない筈よ。私にはこの戦いを終わらせる用意がある。言ったでしょう、勝つ事なんて容易いと。  どう? 生き残りたいのなら、私に従うべきじゃなくて?」 「―――――――」  そんなこと、考えるまでもない。  俺は無関係な人間を巻き込むヤツを止める為に戦うと決めた。  なら、こんなヤツには絶対に頷けない。 「――――断る。俺は、おまえみたいな魔女とは手を組まない」    断言する。  それは当然の答えだ。  このサーヴァントとは手を組めないし、なにより俺たちは互いのパートナーを裏切らない。  俺はセイバーと共に戦っていくんだし、アーチャーだって、遠坂を裏切るような真似はしない。 「――――――――」  ……と。  こいつ、どうしてさっきから黙っているんだ。 「……おい。アーチャー、おまえ―――!」 「―――拒否する。君の力を借りる理由がない。  それ以前に、君の陣営はいささか戦力不足だ。いかに勢力を伸ばそうとバーサーカー一人に及ばない。まだ与するほどの条件ではないな」 「――――――――」  ……ほう、と胸を撫で下ろす。  何か嫌な予感がしたが、こいつはそんなヤツじゃない。  気にくわないヤツではあるけど、きっかりと筋の通ったヤツなんだから。 「そう。交渉は決裂、という事?」 「そうだ。だがここで君と戦う気はない。この場に居合わせたのは私の独断でね。マスターの命令ではないから君を討つ理由はない。ここは痛み分けという事で手を打たないか」 「え――――?」  その言動に、耳を疑った。  今、キャスターを見逃すと言ったのか……? 「……意外ね。アナタのマスターは私を追っていたでしょう? なのにアナタは私を見逃すというの?」 「ああ。おまえがここで何人殺そうが知らん。それは私には与り知らぬ事だ」 「―――あら。ひどい男、毒は使いようということ?」 「私のマスターはマスター殺しに精力的でなくてね。  その分、おまえが他のマスターを潰してくれるのなら何かと助かる。この戦いの決着は、その後でも遅くはあるまい」  アーチャーの提案を受け入れたのか、キャスターは黒衣を翻す。 「っ、待てキャスター……!」  消えようとするキャスターへと走り寄る。  が、それはアーチャーの手によって阻まれた。 「馬鹿か貴様。追えば確実に死ぬぞ」  冷淡な一言。  それは怒りで吐き気がするぐらい、真実味を帯びた言葉だった。 「っ――――」  足を止める。  キャスターの黒衣はゆらりと風に乗り、そのまま、手品のように消えていった。  キャスターは消えた。  境内には自分と、悠然と佇むアーチャーだけがいる。 「……………………」  その姿が癇に障る。  アーチャーには二度も助けられた。  こいつがいなかったらキャスターに令呪を奪われていたし、その後だってあの光弾の雨を躱せずバラバラになっていただろう。  けど、それとこれは別だ。  俺にはどうしても、キャスターを容認したこいつの言動が許せない―――― 「アーチャー。なんでキャスターを逃がした」 「戦う時ではなかったからだ。ここで斬り伏せたところで、アレはすぐさま逃げおおせただろう。今の空間転移、見逃した訳ではあるまい?」 「――――――――」  ……それは、確かにその通りだ。  キャスターが本気で逃げにまわったら、俺たちでは捕まえられない。  加えて、この境内はキャスターの庭である。  あの魔女の事だ。  弱っていたとしても、ここなら切り札の一つや二つはあっただろう。 「理解できたらしいな。キャスターを倒すのならマスターが先なのだ。いかに空間を跳んで逃れようが、依り代であるマスターが倒されれば、キャスターとて消えざるをえないからな」  ……サーヴァントよりマスターを狙う。  それが聖杯戦争における正攻法であり、もっとも危険のない選択だ。 「……それは判ってる。けど、だからって見逃すのか。  街で起きてる事件は全部あいつの仕業なんだろ。キャスターを止めないかぎり犠牲者は出続ける。俺は、そんなのを放っておくなんて出来ない」 「何故? おまえ自身が傷つくコトではあるまい。むしろヤツにはこのまま続けて貰いたいぐらいだ。  キャスターは人々から生気を吸い上げ、その力でバーサーカーを倒す。私たちはその後でキャスターを倒せばいい。  私と凛はキャスターは倒せるが、バーサーカーには及ばないのでな。バーサーカーを倒すまで、キャスターには好きにさせておくさ」 「――――――――」  カア、と顔が熱くなった。  頭に血が上って、アーチャーを殴りつけたくなる。 「―――ふざけるな。遠坂は、そんな方針はとらない」 「そうだな。だからこそキャスターには手早く事を済ませてほしいものだ。凛がキャスターに追いつけば対決は避けられない。その前にキャスターがバーサーカーを退治してくれれば理想的だ」 「なに、何人犠牲になるかは知らんが、それでバーサーカーが倒せるのならば安い物だろう。  人間など結局は死ぬ生き物。誰にどう殺されようが、結果的には変わるまい」 「っ……………!」 「キャスターも手緩い。いっそ魔力だけでなく命まで奪ってしまえばよいものを。町中の人間が死に絶えれば少しは戦いやすくなる。私のマスターも根は甘いからな。そうなれば、もはや〈形振〉《なりふ》りなどに構ってはいられまい」  乾いた笑みをうかべながら、赤い騎士はそう言った。    それも愉快げに。  ここに住んでいる人々は邪魔だと、    本気で、キャスターと同じ事を、その口で―――! 「お――――」 「ああ、おまえも知っての通り、凛は形式に拘るタイプでね。魔術師としては申し分ないが、マスターとしては汚さに欠ける。  そうだな、彼女がキャスターのようになってくれれば、私もここまで苦労はしないのだが―――」 「おまえ――――!」  アーチャーの顔面を殴りつける。  そんな物は当たる筈もなく、アーチャーは苦もなく躱していた。 「何をする。私たちは協力関係ではなかったか?」 「ふざけるな……!  俺はおまえとは違う、勝つ為に―――結果の為に周りを犠牲にするなんて、そんな事、絶対にするものか……!」 「それは私も同じだ、衛宮士郎。だが全ての人間を救う事はできまい。  例えば、キャスターが聖杯を手に入れてしまえば被害はこの町だけに留まるまい。それはイリヤスフィールも他のマスターも同じだ。  聖杯を私利私欲で使わぬマスターは、私が知る限りおまえと凛だけだからな。故に、私たちが勝利しなければ被害はさらに大きくなる」 「ならば―――この町の人間には犠牲になってもらい、私たちの役に立ってもらうしかあるまい。  その結果で被害を抑えられるのなら、おまえの方針と同じだろうさ」 「――――――――」    頭が麻痺している。  そんな事は、今更こいつに言われるまでもない。    全てを救う事はできない。    それは切嗣の口癖だった。  だから、こうして言われたところで何の衝撃も受けない筈なのに―――こいつの言い分だけは、頭に来て仕方がない……! 「無関係な人間を巻き込みたくない、と言ったな。  ならば認めろ。一人も殺さない、などという方法では、結局誰も救えない。  キャスターの言う通り、残念ながら私たちは似たもの同士だ。犠牲者を出したくないというのなら、協力しあうしかあるまい」 「違うっ……! 俺はおまえなんかとは組まない。おまえなんて、絶対に認めない……!」 「―――そうか。おまえが信じたものは凛だけだったな」  アーチャーに背を向ける。  俺はこいつとは違う。  キャスターを放っておけないのなら、やるべき事は一つだけだ。 「まさか、キャスターを追うつもりか?」 「――――――」  無視して歩く。  行き先は寺の中だ。  ここがキャスターの陣地である以上、寺の中にあいつの工房がある筈なんだから。 「信じられんな。おまえ一人ではキャスターに敵うべくもない。命が惜しいのなら止めておけ」 「――――――」  まだ文句を言い足りないのか、アーチャーはぴったりと付いてくる。 「まったく、せっかく助けてやった命を無駄にするのか。  それは構わんが、せめて感謝の一言でも残したらどうだ。  先程の助勢は私なりの厚意だったのだがね。命の恩人とまではいかないが、死線を共にくぐり抜けた友人、ぐらいには有り難がってほしいものだ」 「っ……!」    ああもう、ホントに癇に障るなこいつはっ!   「―――うるさい、誰がおまえなんかに友情を感じるもんか! いいからさっさと遠坂の所に帰れっ。頼まれたっておまえの手助けなんていらないんだからっ」  ふん、と顔を背けて、今度こそ振り返らずに柳洞寺へと向かっていく。  そこへ。   「――――そうか。〈懐〉《なつ》かれなくて何よりだ」    氷のような殺気が、真後ろから放たれた。 「――――なに?」  振り向きざまに跳び退くのと、  アーチャーの短剣が一閃したのは、まったくの同時だった。 「ぁ――――ぐっ………?」    肩口から袈裟に斬られた感触。  ドボドボと流れ落ちる血と、気を抜けば一瞬にして消えそうな意識。  痛みはあまりに鋭利で、肌と肉が焼かれているかのよう。 「は――――あ」    よろよろと後退する。  逃げよう、としての事じゃない。  ただ力が入らず、倒れようとする体をこらえようと、足が後ろに流れるだけ。 「お、おま、え――――」 「外したか。殺気を抑えきれなかった私の落ち度か、咄嗟に反応したおまえの機転か。―――まあ、どちらでも構わないが」  俺の血に濡れた短剣を手に、アーチャーが歩み寄ってくる。 「ぁ―――――ぐっ――――!」    殺される。  殺されると直感して、懸命に足を動かした。  ―――境内の出口。  階段に至る山門を目指して、後ろ歩きのまま、よろよろと後退していく。 「――――――――――――」    ……これが致命傷だと判っているのか。  ヤツは慌てた風もなく、ゆっくりと歩いてくる。 「はっ――――あ、あ――――!」    気が、遠くなる。  自分が何をしているのか分からない。  何を思って山門を目指しているのか、どうして自分が斬られたのか、そのあたりの意思が、血液と一緒にだらだらと流れていく。      ……その中で、まだ意識があったのは、ヤツが持っている刀のおかげだったのかもしれない。  白い短剣。  飾り気のないソレが不思議と目に焼き付いて、閉じてしまいそうな目蓋を留めていた。 「あ――――つ」    だがそれも終わり。  気が付けば背後は山門。  すぐ近くに石段があるというのに、振り向く事さえできない。  何故なら、背中を向けたその時こそ、アーチャーは衛宮士郎を両断するからだ―――― 「最期だ。戦う意義のない衛宮士郎はここで死ね」    刀があがる。  白い陰剣が、断頭台のように掲げられる。 「な…………戦う―――意義、だって……?」 「そうだ。自分の為ではなく誰かの為に戦うなど、ただの偽善だ。おまえが望むものは勝利ではなく平和だろう。  ―――そんなもの。この世の何処にも、有りはしないというのにな」 「な―――んだ、と」    消えかける意識で、アーチャーの言葉に抵抗する。  だがもう、体も心も消えかけていた。           「――――さらばだ。理想を抱いて溺死しろ」    憎しみの籠もった声。  翻る〈陰剣莫耶〉《いんけんばくや》。  もう一度袈裟に振り落とされた刀は、完全にこの体を断とうとする。    ―――その、直前。  ヤツの言葉に反発したい一心で、後先考えず後ろに跳んだ。 「ぬっ――――!?」  空を切る短剣と、宙に躍り出る体。  背後は底なしの闇だ。  ガン、という衝撃。  その後、体は硬い石段を転がり落ちていった。 「む、何事」  すぐ近くで聞き覚えのない声がする。 「シロウ……!?」  ついで、聞き間違えようのない声がした。 「――――セイ、バー―――…………?」    視界はほぼ死んでいる。  ぬるり、と血に濡れた体を起こそうとして、そのまま石段に倒れ込んだ。 「シロウ、しっかり……! おのれ、ここまでの傷を負わせて、なお階段から叩き落としたのか……!」    ……セイバー、なのか。  彼女らしからぬ切迫した声で、セイバーは俺の体を支え起こす。 「あ――――つ」  けど、それはまずい。  誰かは判らないが、セイバーのすぐ近くにはもう一人、正体不明のサーヴァントがいる。  俺にかまっていたら、無防備の背中を襲われてしまうじゃないか―――― 「い、い――――いいから、セイ、バー」 「黙って……! まだ間に合います、シロウの回復量ならこのまますぐに帰還すれば――――」  ……そこまで口にして気が付いたのだろう。  セイバーは俺を支えたまま、背後のサーヴァントに振り返る。 「―――アサシン。なぜ私を討たなかった」 「それこそ無粋。刹那の花を摘むことなど誰にも出来ぬ」 「――――?」  敵の真意を掴めず、首を傾げるセイバー。 「なに、その横顔に見とれただけよ。果たし合う顔も良かったが、今の張り詰めようも捨てがたくてな。つい愛でてしまったのだ」  ……着物、だろうか。  とんでもなく時代錯誤な格好をしたサーヴァントはそう言い流して、あっさり俺たちに背を向けた。 「今宵はこれで十分。立ち去るがいいセイバー」 「な――――私たちを見逃すというのか、アサシン」 「そうだ。この続き、いずれ果たすと言うのなら見逃そう。  今のおまえでは満足な戦いは望めまい。私とてそれは惜しい」  ……アサシンを睨むセイバーと、  あくまで涼しげにセイバーを見据えるアサシン。  息が詰まるような視線の交差は、その実、十秒にも満たなかった。 「……わかりましたアサシン。貴方との決着は、必ず」 「よい返事だ。期待しているぞ、騎士王よ」  俺を抱えたまま階段を下りるセイバー。  だが――――    山門から、俺を逃がすまいと駆け下りてくる赤い騎士の姿が見えた。 「アーチャー……?」  不思議そうに声をあげるセイバー。    ―――ヤツは言っていた。  殺す時は必殺の心構えで手を下す、と。    ならばアーチャーにとって、ここで俺を生きて帰す道理などあり得ない。  殺すべくして刀を振ったのならば。  ヤツは、どうあってもここで俺を仕留めるだろう。  羽のように赤い外套がはためく。  セイバーがいようといなかろうと関係ない。  アーチャーは眼下の俺めがけて石段から跳びおり、そのまま刀を振り下ろす……!  激突する刃と刃。    ―――閃光のような迎撃。    割って入った刃はアーチャーの刀を受け流し、そのまま宙に跳んだアーチャーの首を断ちにいく……! 「っ――――! アサシン、貴様――――!」    身をひねって石段に着地するアーチャー。  赤い外套の騎士は着物姿のサーヴァントに阻まれ、階段を下りる事が出来ないでいた。 「邪魔をするつもりか、侍」  アーチャーは双剣を構え、アサシンのサーヴァントと対峙する。  それを前にして、アサシンは何事もなかったかのように切っ先を僅かに上げた。 「それはこちらの台詞だ。貴様こそ、見逃すと言った私の邪魔をするつもりか?」  愉快げに言う。  どういうつもりなのかは知らないが、あのサーヴァントは本気で俺たちを逃がす気らしい―――― 「加えて、私の役割はここの門番だ。生きては通さんし、生きては帰さん。  ―――行きは見逃したが、帰りは別だ。いささか雅さにかける首だが、今宵はそれで納めるとしよう」  ……殺気が漏れる。  アサシンの〈殺気〉《それ》は、手にした長刀に似て鋭利だった。  アーチャーやセイバーのように全身に叩きつけてくる威圧感はない。  ただ、極限まで研ぎ澄まされた針のような敵意が、相手の首だけを狙っている―――― 「―――よく言った。セイバーに傷一つつけられなかったキャスターの手駒風情が、この〈オレ〉《・・》と戦うと?」 「貴様こそ。あの女狐を驚かせようと送ったというのに、我が身可愛さで逃げ帰るとは失望したぞ」    向かい合ったのはほんの一瞬。  両者の間には、目を見張るほどの剣戟が繰り広げられていた。 「――――――――」  その光景に目を奪われる。  アサシンの剣筋は、正直理解さえできない。  多少は心得がある程度の俺の目では、もはや速いだの鋭いだのといった次元の問題ではなかった。    だが―――だからこそ、ヤツの剣舞に見惚れたのだ。  舞うような双剣の軌跡。  俺では理解できないアサシンの太刀筋を、俺でもなんとか届きそうな技量で、アーチャーは対抗していた。    ……白状すれば、憧れたと言っていい。  才能や天賦の物に左右されない、鉄の意思で鍛え上げられた技量だけで、ヤツはアサシンの魔剣と〈鬩〉《せめ》ぎあっている。    ……くそ、あいつが強いのは当たり前だ。  遠坂やセイバーとは違う強さ。  非凡ではないからこそ積み重ねてきた鍛錬の数。  きっと―――あいつには何もなかった。  だから限られた物だけを、自分が持っているわずかな物だけを、あの領域まで、一心に鍛え上げた―――― 「……シロウ、今のうちに。どちらにせよ、貴方の体を早く休ませなければ」    セイバーの声で我に返る。  セイバーに抱えられる形で、柳洞寺を後にする。  背後には止む事のない、アサシンとアーチャーの剣戟が響いていた。  家に戻ってくる頃には、傷はほとんど塞がっていた。 “セイバーと繋がってるから、セイバーの治癒能力が付いてきているんじゃない?”  という遠坂の意見は正しいのか、セイバーと触れていると傷の治りは目に見えて速かった。 「それで、一体なにがあったのですか、シロウ」  傷の手当てを終え、藤ねえを起こさないように着替えも済ませて道場に移った途端、セイバーは説明を求めてきた。 「――――――――」  出来るだけ要点をまとめて話す。  キャスターに操られて境内まで足を運んだ事。  町で起きている昏睡事件とキャスターの関係。  ……令呪を奪われる時に助けに入ったアーチャー。  そうしてそのアーチャーが、最後に俺を殺そうとした事を。  セイバーは何やら考え込んでいる。  一晩でこれだけの事が起きたんだから、そりゃあ考えも纏めたくなるだろう。 「……なるほど。では、アーチャーはキャスターを見逃したのですか」 「ああ見逃したさ。……あいつは最低だ。いくら勝つ為でもキャスターみたいなヤツを利用するだなんて、それじゃあキャスターと何も変わらないじゃないか……!」  思い返すとまた頭に血が上ってしまう。  くそ、やっぱりあの時、あいつの顔を殴っておけば良かったっ……!  ……と。  セイバーが、ヘンな顔してる。 「……セイバー。なんでそこで笑うんだよ」 「いえ、シロウが人の悪口を言うなんて珍しい、と思いまして。まだ数日ほどしかシロウを見ていませんが、貴方はそんなふうに陰口を言う人ではないと判っていましたから」 「む――――――――」  ……言われて、たしかにグチを言うなんて子供っぽかったな、と反省する。 「……けどしょうがないだろ。アーチャーはそれだけの事を言ったんだ。あいつは何より、相棒の遠坂を馬鹿にしたんだぞ」 「そうですね。―――ですがシロウ。一つ訊ねますが、シロウはアーチャーの裏切りが許せないのですか?  どうも、貴方は彼に斬りつけられた事を怒っているようには見えない」 「え?」  ―――あ、そうか。  アーチャーが俺を殺そうとしたのは、その、一応『裏切った』事になるんだ。  ………いや、けどそれは。 「……それは違う。あいつは俺を裏切った訳じゃない。  始めからあいつとは何も約束していなかった。だからアーチャーが俺を襲っても、それはアリなんだと思う」 「それはそうですが……まったく、シロウは不思議ですね」  けど、心なしかセイバーの口調には親しみが籠もっていたような。 「結論から言うと、私もシロウと同じです。キャスターは放置できませんが、アーチャーは非道ではないのでしょう」 「え……? ちょっと待て、人の話の何処らへんを聞いてたんだよセイバー」 「全てです。それを踏まえた上で、私もシロウと同意見だと言っています。  加えて彼の剣技は清流でした。心に〈邪〉《よこしま》な物がないのでしょう。舞うような剣戟は、彼の人格を物語っていると思う」 「―――――――」  なんか、ますます気にくわない。  あんなヤツの事を褒めるなんて、セイバーはどうかしてる。  だいたい、剣技でいったらアーチャーなんて―――― 「あ――――――――」  違う、さっきのは気の迷いだっ!  あんなの、セイバーに比べたら賞味期限寸前のヨーグルトみたいなモンなんだからっ。 「ふん、なに言ってんだ、あいつの剣なんて大したコトない。不意打ちしたクセに俺一人殺し損ねたんだぞ? そんなんでよくサーヴァントを名乗れるってもんだ」 「ええ。ですからシロウも筋がいいのです。長く鍛えればアーチャーに届く技量になりましょう」 「んくっ――――」  穏やかな顔でそう言われたら、もう反論のしようがない。  ……とにかく、セイバーがアーチャーの剣を認めているのは確かなようだ。  それはなんか、とても、自分でも判らないぐらい気にくわない。 「――――セイバー。俺、筋がいいって言ったな」 「はい。長ずればよい使い手となるでしょう」 「……決めた。なら、傷が治り次第剣を教えてくれ。  今までみたいな生き残る為の鍛錬じゃなくて、戦う方法を教えてほしい」  ぐっ、とセイバーの手を握って、まっすぐに目を合わせる。 「え――――あ、はい。シロウがそう言うのでしたら、構いませんが」  よし、セイバーに師事できるなら文句なしだ。  今夜のような失態は繰り返せないし、逃げるだけというのも性に合わない。  ……それに、なにより。  犠牲者を少なくする為に犠牲者を出せ、なんて言ったあいつにだけは、負ける事は許されない――――              ―――――――夢を見る。              血液が流れるように、繋がった細い回路から、手の届かない記憶を見る。    それは、そいつの思い出だった。  少なくとも自分の物ではない。    これは他人の物語だ。  思い出す事もないほど昔の、  思い出そうとする事もないほど遠い、  思い出す事さえできなくなった古い記憶。    ―――もう。  今更変える事の出来ない、決定してしまった契約の重い枷。    そいつは、何が欲しかった訳でもなかった。  しいていうのなら、我慢がならない質の人間だったのだろう。    まわりに泣いている人がいると我慢ならない。  まわりに傷ついている人がいると我慢ならない。  まわりに死に行く人がいるとしたら我慢ならない。    理由としては、ただそれだけ。  それだけの理由で、そいつは、目に見える全ての人を助けようとした。    それは不器用で、見ていてハラハラするほどだ。  けれど最後にはきちんと成し遂げて、その度に多くの人たちの運命を変えたと思う。  控えめに言っても、それは幸福よりだったろう。    不器用な戦いは無駄ではなかった。  傷ついた分、死に直面した分だけきっちりと、そいつは人々を救えていたんだから。    ……けれど、そこに落とし穴が一つある。  目に見える全ての人、と言うけれど。  人は決して、自分を見る事だけはできない。    だから結局。  そいつは一番肝心な自分自身というやつを、最後まで救えなかった。    ―――どうしてそうなったのかは判らない。    いや、本当は逆だろう。  どうしてそうならなかったのか、今まで不思議なぐらいだったのだ。  とにかく、ひどい災害だった。  多くの人が死に、多くの人が死を迎えようとしていた。  そいつ一人ではどうしようもない出来事。  多くの死を前にして、そいつは。             “契約しよう。我が死後を預ける。その報酬を、ここに貰い受けたい”      そう、世界などという得体の知れないモノと契約した。      ――――己が身を捨てて〈衆生〉《しゅじょう》を救う。      英雄の、誕生である。    それで終わり。  そこから先などない。  英雄と呼ばれようと、そいつのやる事は変わらない。  もとより、そいつの目的は英雄になんてなる事ではなかった。  ただその過程で、どうしても英雄とやらの力が必要だっただけの話。    だっていうのに、終わりは速やかにやってきた。  傑出した救い手など、救われる者以外には厄介事でしかない。    そいつは自分の器も、世界の広さも弁えている。  救えるもの、救えないものを受け入れている。  だからこそ、せめて目に見えるものだけでも幸福であって欲しかったのだ。    それを偽善と。  狭窮な価値観だと蔑む者も多かったけど。    それでも、無言で理想を追い続けたその姿は、胸を張っていいものだったのに。    そいつは結局。  契約通り、報われない最期を迎えた。              ――――その場所に辿り着く。    そいつには仲間らしきモノもいたし、恋人らしきモノもいた。  その全てを失って、追い求めた筈の理想に追い詰められた。    行き場もなく。  多くの怨嗟の声を背負いながら、それでも、そいつは戦い続けた。  死に行く運命を知っていながら、それを〈代償〉《ささえ》に、己が手に余る“奇蹟”を成し遂げようとするように。    ……けど、それも終わりだ。  辿り着いたのは剣の丘。  担い手のいない錆びた鋼の丘で、そいつの戦いは終わりを告げた。    ―――やはり〈独〉《ひと》り。    それでも、目に映る人々を救えたのなら、悔いる事など何もないと。  そいつは満足げに笑って、崩れ落ちるように、剣から手を放した。    その異状に気がついたのは、どれほどの時が経ってからか。    眠りの中、蜘蛛の糸ほどの違和感に目を覚まして、彼女は廊下へと足を運ぶ。   「………シロウ?」    始め、それは彼女の主による物だと考えた。  異状は衛宮士郎の部屋から、外に放たれた物であったからだ。   「……まったく。まだ魔術の鍛錬をしているのですか」    ふう、と金の髪の少女―――セイバーは溜息をつく。  熱心なのはいいが、休む時には休んで貰わなければ体が保つまい。  そうして注意しに行こうと足を向けた時、彼女は自らの過ちに気がついた。   「――――――――」    それを確かめて、彼女は息を呑んだ。  異状は士郎の部屋から放たれた物ではない。    月光の下。  彼女の髪と同じく、闇に輝く細い糸が張られている。    ただ一本のみの糸は屋敷の外から、士郎の部屋へと放たれたものだった。  屋敷に張られた結界でさえ見逃すほどの細い糸。   「――――――――」    思考の余地などない。  少女の姿は一瞬にして騎士の姿となり、即座に外へと飛び出した。    無人の町を駆ける。  地を蹴るセイバーに迷いはない。  行くべき場所は判っている。  この糸が続く先、〈士郎〉《あるじ》の鼓動を追うだけでいい。    彼女がするべき事は、ただ最速で駆けつけるのみ。  その先が敵地であり、〈顎〉《あぎと》の如く罠が張り巡らされた死地であっても変わりはない。  主を守ると誓ったのだ。  ならば己が身にかかる火の粉など、顧みるにも値しまい。   「――――――――」    そこは、夥しい魔力に汚染された山だった。    上空には死霊が〈鴉〉《からす》の様に旋回し、  木々に育った葉は視えない血に濡れている。    集められた魔力、剥離された精神が残留し、山は禿げ山の如く訪れたモノを食らうだろう。  世に死地があるというのなら、ここは紛れもなく最低の極上品。   「――――――――」    それに、躊躇する事なく踏み込んだ。  もとより止まる意思などない。  この場所が地獄であるのならば、尚のこと己が主を救わねばならないのだから。    石の階段を駆け上がる。  予想されていた妨害はまったくない。  山門は既に視界に収まっており、あと一段、魔力を籠めた足で石段を蹴り抜けば山門に達しよう。   「――――――――」    だが、そこで彼女の進撃は止まった。  否―――その“敵”に、止められた。    山門に至る階段。  そこに一人のサーヴァントが立っていた。    名を佐々木小次郎。    アサシンのサーヴァント、長刀物干し竿を操る、柳洞寺の守り手である。   「――――――――」    風王結界を構えるセイバーの心境は、ここにきて乱れていた。  彼女のマスターはあの山門の向こうにいる。  だが目の前に立ちはだかるサーヴァントは、あまりにも正体が不明だった。    惜しげもなく名を明かす心胆。  構えなどなく、涼やかな敵意はあまりに透明。   「――――――――」    その、逸脱した無心に力量が掴めない。  サーヴァントとして相手の格は見抜けてはいる。  アサシンはそう優れたサーヴァントではない。ならば御しやすいと下す反面、彼女の直感が告げているのだ。    剣の勝負―――単純な剣の試合では、この相手には勝ちえないと。   「――――貴様に用はない。そこを退けアサシン」    正体の掴めない不安を押し留め、セイバーはアサシンを睨む。  ……一足一刀の間合いまで石段一つ。    下りるか上るか。  どちらかが足を踏み出せば、その瞬間に必殺の剣が繰り出されるに違いない。   「聞こえなかったのか。退けと言ったのだ、アサシン」    最後の問答。  それを、長刀の剣士は愉しげに受け止める。   「―――そうか。この門を通りたいのだな、セイバー」   「――――――――」  愚問、と聖緑の瞳がアサシンを射抜く。  それを良しとしたのか。  長刀は、弧を描くように夜に跳ねる。   「ならば押し通れ。急がねば、おまえの主人とやらの命はないぞ」    涼しげに笑う声。   「アサシン――――――!」    応と言わんばかりに石段に踏み込むセイバー。  同時に振り下ろされる長刀は、彼女の不可視の剣によって弾かれる。    ―――風巻く山頂に、剣戟の火花が木霊する。    繰り広げられる攻防は互角。  だが、それは彼女にとって有利という訳ではない。 「くっ――――」  気が焦る。  すぐさま倒さねばならない敵は、その実倒すこと自体が困難な難敵である。   “シロウ、どうか――――!”       歯をかみ殺しながら懸命に祈る。  その隙、その余分こそが彼女の体を浸食していく。      ―――決着はつかず。  山門に至る道は、あまりにも遠かった。               ――――何の為に、何を求めたのか。    助けられなかった人たちがいて、  助けられなかった自分がいた。  きっと、それが理由の筈だ。  それから何があって、何に成ろうと思ったのか。    ……灰色の空を覚えている。  泣き出す一歩手前の暗い空。  そこで、生きようともがいていた意思も消えかけた。  意思がなくなれば死ぬだけだ。  多くの人たちを見捨てて歩いて、ほんの数分だけみんなより長生きした。    その過程で、色々なものが死んだのだ。  だからほとんど空っぽだった。  生きていたい、という願いさえ折れれば、それで無になる。  何も無いのなら、あとは死ぬ事しか残っていない。          そうして死んだ。  考えるのも難しくなって、目を閉じて―――完全に真っ暗になる一歩手前で、空に伸ばしていた手を掴まれた。    ――――それが全てだ。    何にもなくなった。  何もなかったから、それしかなかった。  自分には出来なかったから、痛烈に憧れた。    ……そう。  助けられなかった人たちの代わりに、これから、多くの人たちの為になろうと思ったのだ。    ―――なのに。  それが偽りだと、あいつは言った。          借り物の理想。  巡る金貨のような救い。  報われる事などないという、その末路。           「――――――――」            何の為に、何に成ろうとしたのか。                “正義の味方になりたかった”            そう言い残したのは俺ではなく、たしか―――― 「――――つ」  目を覚ます。  陽射しは強く、昨日とうってかわって、今日が晴天だと告げていた。 「―――くそ。だっていうのに頭痛がする」  昨夜の出来事が原因か、寝覚めはいいものじゃなかった。  よほど〈魘〉《うな》されたのか、こめかみがズキズキする。 「あー……顔、洗ってこよ」 「いや、見事に晴れてるな」  まだ六時半だっていうのに、空は惚れ惚れするほど青かった。  気温も冬の朝にしては温かく、庭に積もった雪は綺麗さっぱりなくなっている。  脱衣場で顔を洗って歯を磨くと、眠気は完全になくなった。 「そっか。今日は日曜だから、無理して藤ねえを起こすコトもないんだ」  朝食の支度も遅めでいいし、食事もゆっくりできる。  居間には誰もいない。 「……俺が一番だったんだ。藤ねえとセイバーはわかるにしても、遠坂がまだ寝てるってのは意外だな」  ま、ともかく朝食の支度だ。  いくら休日とは言え、今朝は四人もいるんだ。  下準備ぐらいはそろそろ始めても―――― 「あれ。食パンないぞ?」  昨日一斤買っておいた筈なんだが、袋ごと消失している。 「その代わりに百円玉が三枚あるのは、誠意と見るべきなのか否か」  ……この手の犯罪は初めてだ。  第一容疑者である藤ねえは、こんな手の込んだ事はしない。  となると、もう犯人は一人しかいないのだが。  さて、どうしよう。  食パンがないぐらいどうってコトはないんだが、今朝は遠坂っていう余計な食い扶ちがいるし。 「……七時前。豆腐屋さんなら開いてるな」   「―――朝は卵焼きとみそ汁で決定。甘やかすのはよくない、うん」  それより問題は、夜中に台所を襲った侵入者の処遇だろう。 「遠坂。起きてるか、遠坂」  客間のドアをノックするも、返事はない。  時刻はじき朝の七時。  藤ねえならいざ知らず、優等生の典型である遠坂がこの時間に起きていない、なんて事はないだろう。 「遠坂。とおさかー。とおさかー!」  ……おかしいな。  これだけ呼んでも返事がないって事は、どこかに行ってるんだろうか? 「……ちょっとヘンだぞ、これ」  ……不安になる。  あいつ、もしかして一人で街に出て、それきり帰ってきてない、なんて事はないよな―――― 「…………む」  ええい、ここは――――    ……まあ、犯人が誰かは判明している事だし。  貴重な朝の時間を、誰かさんとの問答で消費するのは料理当番として容認できない。   「もっともだ。んなヒマがあるなら豆腐買ってくるべし」 「………………よし」  中の様子を見よう。  消えた食パンの行方も突き止めなければならないし、遠坂がいなければ捜しに出ないといけないし。  なぜか緊張して中に入った。 「あー、もしもし……?」  小声で中の様子を窺うも、一向に返事はなし。 「――――なんだ。やっぱりいないじゃんか」  いやもう、客間は客間だった。  変わった様子は一つもない。  ある物と言えば、テーブルの上に置かれた謎の正方形だけだ。 「……なんだろ、これ」  大きさ、縦横ともに十五センチ弱、厚さにして六センチ強。プラスチック製で、パッと見弁当箱に見えない事もない。 「じゃなくて、弁当箱だろこれ」  それが三段重ねられている。  用途も意図もてんで不明だ。 「遠坂のやつ、なんだってこんなものを」  気になって手を伸ばす。  ――――と。   「え?」    ごろん、と背後で物音がした。 「ん…………」  小さな吐息。  朝日が眩しいのか、寝苦しそうに身をよじって、それは、こっちに体を向けてきた。 「―――――――――――――――――――――――― ――――――――――――――――――――――――― ―――――――――――――――――――――――――」  一瞬で思考が漂白した。  もう真っ白。  呼吸なんざ速攻で止まったし、眼球は固定されたままピクリとも動かない。 「っ、――――、っ」  ごくり、と喉が動く。  音を立てたらまずい、なんて思わなかった。  うるさいっていうんなら、心臓の音の方がうるさい。 「――――っ」  いや落ち着け。  冷静に、冷静に。  今回ばかりは失敗は許されない。  今後の協力関係を円滑にする為には、何事もなかったように部屋を立ち去るのみだ。  ここで遠坂に目を覚まされたら命はないっぽいし、これ以上、その―――遠坂を見ていたら、協力関係なんて、続けられなくなる。 「ん……ちょっと、ごめん……もうすこし、かかるってば……」 「っ…………!」  びくん、と体が後じさる。  ……遠坂はまだ眠っている。  眠りは深い方なのか、放っておけばずっと眠っていそうな感じだ。 「――――ふう」  胸を撫でおろして、少しずつ後退する。  ……その間。  見るべきじゃないって分かっているのに、視線は遠坂から離れなかった。  ……そこにあるのは、本当に、ただの女の子の眠りだった。  魔術師とかマスターとか、そんな肩書きは嘘だったんじゃないかっていうぐらい、遠坂は女の子だった。  寝苦しげにこぼれる吐息と、乱れた寝間着。  こんな姿を見たら、もう、今までのように自然に話すことなんて出来なく―――― 「あ……ん、まぶ、し ……」 「――――――――っ」  無防備な寝顔。  視線を外せないまま、じりじりとドアまで後退する。  ……一体、どのくらいの時間がかかったのか。  たった二メートルの距離はとんでもなく長く、破裂寸前の心臓を押さえたまま廊下に滑り出る。 「ハア――――――――は」    そうして深呼吸。  止めに止めていた呼吸を再開する。  膝から力がなくなって、ぺたん、と床に座り込んだ。 「―――ああもう。なんだよ、いったい」  ……いや、なんだよも何も、全面的に俺が悪い。  俺が悪いんだけど、少しは情状酌量の余地ってもんがあるんではなかろうか。 「――――――――――――悪い、遠坂」  心底から呟いた途端、どっと疲れた。 「……はあ」  まあ、ともかく。  窒息死する前に外に出られて、本当に助かった……。  ……とにかく、朝食を作る事にした。  細かく手の込んだ料理を作っていれば高ぶった気持ちも落ち着くし、朝飯が美味ければ遠坂も喜ぶだろうし、一石二鳥だ。 「おはようございます、シロウ。今朝は随分とゆっくりなのですね」 「ん? ああ、おはようセイバー。今日は日曜で学校がないから、その分ゆっくりしていられるんだ。体の調子もいいから、朝飯が終わったら道場に行こう」  ジャガイモの皮を剥きながら挨拶をする。 「ええ、望むところです。ではシロウ、半身の麻痺は完治したのですね」 「あ、そう言えばそうだった。寝てたら治ってた。まだかすかに重いけど、この分なら明日には治ってるさ」 「それは良かった。〈貴方〉《マスター》が傷を負ったままでは私も立つ瀬がない。シロウがいつも通り厨房に立っていると、私も安心できます」  セイバーはテーブルの横、自分の定位置に腰を下ろす。  時刻は八時半。  藤ねえと遠坂が起きてこないのは寝坊と言わざるを得ないが、今日に限っては強く言えない。 「―――そうだよな。おかげでようやく忘れてきたし」  さっきまで頭にちらついていた遠坂の寝顔も、今はじゃがいもと玉ねぎによって薄れているし。  これならいつ遠坂がやってきてもオッケーだ。  冷静に普段通りに、何もなかったように対応できるに違いな―――― 「おはよう凛。昨夜はゆっくり眠れたようですね」 「っっっっっっっっっ!」  がっちーん、と背中が凝固する。  こ、こわくて居間に振り向けない。 「……おはよ。別にそうでもなかったんだけどね。陽射しは眩しいし、零時過ぎてもごそごそやってるヤツラはいたし」  ……セイバーに答えながら、遠坂は居間に入ってくる。 「――――――――」  さあ、正念場だ。  落ち着け、落ち着け。  やる事は簡単、とりあえず三人分のお茶を汲んで、おはようと挨拶しながら顔を合わせればいいだけじゃないか。 「――――――――よし」  盆に湯飲みを乗せて、最後の深呼吸をする。  台所から居間へ。  団欒するテーブルにお盆をおいて、 「よ、よう。今朝はじゃがいもと玉ねぎさ、遠坂」  ――――息が止まる。    遠坂が、また見慣れない服装をしていた。 「っ――――」  だから落ち着け。  大丈夫、遠坂の私服なんて昨日も見た。耐性はそれなりに出来てる筈だ。 「違う。訂正すると、今朝は和食って事なんだ。  もう少しかかるから、とりあえずお茶でも飲んでろ」    どん、と湯飲みを遠坂とセイバーの前に置く。  ―――と。 「なにのんびりしてるのよ。今日は出かけるんだから、早く用意しなさい」  朝食なんて後回しだ、と遠坂は睨んできた。 「は―――? えっと、出かけるって、何処に」 「隣街までよ。ほんとは遠出したいけどさすがにそこまでの余裕はないでしょ。だから妥協案ってコトで」 「……?」  新手の先制攻撃か。  遠坂の意図が、俺にはどうも掴めない。 「はあ。妥協案はわかったけど、何しに?」 「何って、遊びに行くに決まってるじゃない。デートよ、デート」 「デートって―――誰が、誰と」 「わたしと、士郎が」  きっぱりと言う。 「――――――――?」  それにはてな?と首をかしげたあと。 「デ―――デートって、俺と遠坂があああああああ!?」 「それ以外に誰がいるのよ。昨日の夜そう言ったでしょ」 「が――――」  目がくらくらする。  何か言い返したいところなんだが、当の遠坂があんまりにも堂々としているもんだから反論なんて出来やしない。 「ほら、いいから行くわよ。どうせこんなコトだろうと思ってたし、お弁当作っておいたから。はい、士郎はこのトートバッグを持ってついてくる」  緑色のトートバッグを押しつけ、遠坂は居間を後にする。 「――――――――」  それを呆然と見送る俺。 「シロウ……? 凛の後を追わなくていいのですか?」 「あ――――ああ、ちょっと待て遠坂――――!」 「う――――」  バスから降りた瞬間、人込みに圧倒された。  駅前は賑わっている。  こんな天気のいい休日、おまけに時刻は十時前なんだから、賑わっていない方がおかしい。 「―――驚いた。休日ともなればこれほど人が集まるのですね」  戸惑いながらも街を眺めるセイバー。  今まで昼間の街を見ていなかったのだから、その反応は当然だろう。 「……………………」  かく言う俺も、この人込みにあてられていたりする。 「さて、どこから行こうかしらね。二人ともリクエストある?」  が。  そんな俺たちとは別次元に、遠坂は元気いっぱいだ。 「う……リクエストって言われても困る。遊び場なんて知らないぞ、俺」 「でしょうね。じゃあセイバーは? どこか行ってみたい所とかない?」 「私ですか……? いえ、特に関心のある場所はありません。そもそも私はシロウの護衛です。  これが凛とシロウの休日ならば、私はいないものとして扱ってください」 「な」 「そう? じゃあわたしの好みでいいのね。  ふふーん。二人とも意見がないんだから、わたしの方針には絶対服従ってコトでオッケー?」 「ななな」  ぶるっ、と背中が震える。  にやりと俺たちを見つめる遠坂の目は、なんか怖い。 「ちょ、ちょっと待て、物騒な言い方するなっ。  だいたいな、遠坂に付き合うとは言ったけど、デ、デートするとは言ってないぞっ。これはあくまで、たまには息抜きをしようって三人でだな――――」 「はい残念、世間じゃそういうのをデートって言うの。  ほら、ここまで来たんだからいいかげん観念なさい。あんまり往生際が悪いと女の子に嫌われるわよ?」 「なっ――――き、嫌われるって、誰にっ」 「さあ誰でしょう? でもまあ、しぶといってのは長所かな。ね、セイバー」 「はい。シロウは負けず嫌いですから。戦闘において不屈の精神は心強い」 「だってさ。良かったわね士郎」 「くっ――――」  にんまりと笑う遠坂。  ああもう、さっきから人をからかいやがって何が楽しいってんだこいつはっ! 「さーて、それじゃあ手始めにヴェルデに行きましょうか。二人とも朝食はまだでしょう? 軽くお茶した後で店荒らしでもして、とりあえず体をあっためよ」  ずんずんと歩き出す遠坂。  ヴェルデってのは確か、つい最近出来た新しいデパートの名前だったっけ。 「ほら、のんびりしてると置いてくわよ? モーニングは十時までなんだから、急がないと終わっちゃうじゃない」 「ちょっ――――――――」  呼び止めても止まらない。  遠坂は待ったなしで、こっちに落ち着く余裕もくれないようだ。 「シロウ。凛が行ってしまいますが」 「く―――ああもう、分かった! こうなったら何処へだって付き合ってやるっ!」  ぱん、と自分の両頬を叩いて気合いを入れる。 「行くぞセイバー、はぐれるなよ!」 「はい。シロウこそ凛を見失わないように」  二人して走り出す。  人込みで賑わう街の中、遠坂は振り返りもしない。  その背中は、俺たちが追いかけてくるのを信じ切っているかのようだった。  で。  気が付くと、ますますのっぴきならない状況に陥っていた。 「始めによった店とは違った雰囲気ですね。  凛、ここには何が?」 「単なる小休憩よ。ふたりとも疲れてると思ってね。このへんで一服しとかないとゼンマイが切れちゃいそうだから」 「? たしかに目まぐるしい二時間でしたが、休憩をとるほどの運動量では―――」 「そりゃセイバーはね。けど、見えないところですっごくすり減ってるものもあるワケ。  わたしたちにとってはフツーの床でも、人によっては毒の沼地って事もあるんだから」 「あ、わたしこっちのバナナパフェね。セイバーはこっちのデビルズサンデーにしときなさい。  衛宮くんは? 甘いの、食べる?」 「朝からそんなの食べるか。ブレンドでいい」 「あら男の子。でもいいの? HP、回復しとかないとタイヘンよ?」 「…………」  言われるまでもないのだが、ここで一緒になってアイスなんて食べたらそれこそ異次元空間だし、そもそも物を食べる余裕なんてない。  あと、デジタルオンチのくせになんでそーゆー知識だけはあるのかコイツは。 「強情強情っと。ま、それはそれで楽しいからいいけどねー」  何が楽しいのか、ニヤニヤ笑う赤いあくま。デビルズサンデーはむしろ貴様が食え。 「シロウ、糖分を軽んじてはいけません。凛の言うとおり体力を消耗しているのなら、このマンゴーラッシュ&クリームなどいかがでしょう」  そしてさりげなくメニューを薦めてくるセイバー。 「……ええ。大きな声では言えませんが、連日行軍の時などみなに隠れて甘い果物を口にしたものです。もともとはチョコレートなども、錬金術から発生したものだとか」 「そりゃ初耳だ。  ……で。セイバー、マンゴーラッシュも試してみたいんだな?」 「はい。一口ほどいただければ幸いです」 「――――――」  ……なんて、孤独。  セイバーは緊張しまくっている俺を置いて、はやくも遠坂の毒牙にかかってしまっていた。 「あら、遠慮しなくていいのよセイバー。せっかくだから両方頼んじゃいましょ」 「む……そうしたいのは山々ですが、それでは支払いに無駄が生じる。空腹ならいざ知らず、興味本位で余分な注文をする訳には……」 「だから、その負担がデートの醍醐味なの。  こういう場合、衛宮くんは笑顔でおごってくれて、わたしたちは衛宮くんの器の広さを実感するっていう仕組みなんだから」 「なるほど、素晴らしい。あいかわらず、凛の采配には驚嘆するばかりです」 「――――――」  毒牙どころではなかった。  セイバーはもはや遠坂陣営の敵なのだった。 「じゃ、そうゆう事で注文確認します。  バナナパフェ、デビルズサンデー、マンゴーラッシュとブレンドでよろしいでしょうか、お客さま?」 「……なんで俺に聞く。いいよ、好きにしろよ。どうせ拒否権ないんだろ。  あと、頼むならマンゴーラッシュよりスポンジオレンジの方がいいぞ」  そっちの方が遠坂とセイバーの好みに合うだろうし。 「ではご助言にあずかりまして、そのように。  衛宮くんのそういうところ、大事にしてね」  そんなこんなでちっとも気の休まらない一服が始まった。  ……そう。白状すれば、最初の一時間はひたすら緊張していたと思う。  なにしろ遠坂だけでも目立つ。  目を引く鮮烈な赤色の服と、長くしなやかな黒髪。  その色彩だけで目立つって言うのに、遠坂自体も隙のない美人ときた。  そんな遠坂の隣にセイバーがいるんだから、どのくらい華やかな二人組かは言うまでもない。 「ん? なに、人の顔ジロジロ見て。  あ、さては緊張解けた?」 「―――ふん。まあ、これだけ好き放題連れ回されれば、そりゃあな」  ……くそ。ほんっとーに悔しいが、一服しようと言った遠坂は憎たらしいまでに正しい。 「オッケー。じゃ、ここからはもうちょいグレードあげていいってコトね」  にんまりと〈微笑〉《わら》う最強の敵。  ほんとう、自分でも自分が分からない。  マスターとしてなら背中を合わせて戦えるっていうのに、今は見慣れた仕草でさえ心臓が跳ね上がる。  ……きっと、なまじ近づきすぎてしまったから、今更普通に接する事が難しかったんだろう。 「あ、そうだ。せっかくの機会だし、次はアレいってみよっと。  セイバー、アクセサリーに興味ある?」 「装飾品、ですか?  収集家ではありませんが、見ていてつまらない、という事はありませんが」 「なら次はそっち方面のお店に行きましょ。わたし、セイバーにいろいろかけさせてみたかったのよ」 「――――――――」  緊張が解ける事なんてない。晴れやかな笑顔は、それだけで目が眩む。  正体の分からない焦りだか動揺だかで、少しだけ胸が苦しい。  だからデートなんかより早く帰って作戦を練った方がいいと思っていたのだ。  ――――それが。  その、こんな風になったのは、一体どんな魔法だったんだろう? 「いやー、笑った笑った。久しぶりにいいもの見せてもらったわ、ほんと」 「そうでしょうか。私は判断しかねます。どうも、先ほどのシロウはあまりイメージではありません」 「それがいいんじゃない。まさかメガネ一つであんなにお坊ちゃん風になるとは思わなかったなあ。士郎、あのメガネ買えば良かったのに」  よほど気に入ったのか、遠坂はまだ笑っている。  ……事は十分ほど前に遡る。  何を思ったのか遠坂はメガネ屋に寄って、伊達メガネをセイバーにかけさせて遊んでいた。  そのとばっちりを受けて俺もメガネをかける事になって、そのうちの一つが遠坂にヒットしたという訳だ。  ちなみに、縁の太い堅っくるしいデザインをした伊達メガネだった。 「……ったく、余計なお世話だ。いいか、金輪際メガネなんてかけないからな。ただでさえ童顔なんだから、これ以上ガキに見られてたまるか」 「え? あー、そっか、自覚はあったんだ。けど心配いらないんじゃない? 衛宮くん、今のままでも問題ないし」 「ば、今のままなんて問題あるっ! 顔は仕方ないけど、もう少しぐらい背が高くならないと困るっ」 「あら。衛宮くんの身長、平均だと思うけど?」 「平均なもんか。それに、背が高いとふんばりが利くだろ。せめて一成ぐらいは背丈がないとダメだ」 「だから心配ないってば。まだまだ大きくなるもの、貴方」 「……それは嬉しいけど。遠坂、その根拠はなんだよ」 「え―――あ、うん。だって骨格はしっかりしてるんだから、ちゃんと栄養をとれば育つでしょ? しっかり光合成してれば士郎も大きくなれるかなー、とか」 「どこの葉っぱの話だよそれ。人をそこいらの花と一緒にすんな」 「あ。衛宮くん、もしかして怒っちゃった……?」 「別に。話半分に聞いとくよ。……まあ、遠坂のお墨付きならわりと期待してよさそうだし」 「――――ええ。背のことは保証できないけど、きっととびっきりのいい男になるわ。それだけはわたしの保証付きよ、士郎」 「な――――」  ど、どうしてそう、顔が沸騰するようなコト言うんだおまえはっ! 「あは、照れてる照れてる。衛宮くん、すぐ顔に出るから好きよ」 「っ――――」  あ、遊ばれてる。  俺は、間違いなくこいつに遊ばれてる。 「くっ、この性悪っ! 同学年の男からかって楽しいのかおまえはっ!」 「もちろん。人によるけど、士郎の反応は極上だしね」  …………神さま。  どうか、こいつに天罰か何かを落としてやってください。  俺の為ではなく、学校の男連中みんなの為に。 「っと、士郎で遊ぶのはこのへんにして本命に行きましょうか。お昼ご飯前に、こうがっきーんってストレス解消していかない?」  両手を合わせて、ぶん、と振る遠坂。 「……がっきーんって……それ、まさか」    まさかも何も、今のジェスチャーは間違いなくアレだ。  いや、しかし、女の子がデートコースで、しかも自分から言いだすなんてあるだろうか……? 「なにって、バッティングに決まってるじゃない、士郎。もしかして知らない?」  本気? と真剣に訊いてくる学園の(元)アイドル。 「んなワケあるかっ!  いや、俺が言いたいのはだな、バッティングセンターは女の子向けじゃないっていうか――――」  そこまで言って、遠坂が打席に立つ姿を想像する。 「………………………………」  ……やばい。違和感こそあれ、頼りなさがまったくないのはどういうコトか。 「なによ、それなら水族館にでも行く? たしかペンギン軍団VS北海の巨大アザラシ、炎の冷凍三番勝負がやってた筈だけど、見せ物としちゃ三流よ?」 「――――――――」  いや。その見せ物はわりと二流だと思うのだが、この青空の下で水族館というのもどうかと。 「凛。そのバッティングとはなんなのですか」 「え? あ、そうね、セイバーの得意分野よ。時に特訓の一つに挙げられる、総合的な身体運動とも言えるわ」  うわ。  遠坂のヤツ、またとんでもない表現を。 「―――む。それは聞き捨てなりませんね」 「そうそう、気持ちいいからやってみなさい。セイバーなら店の景品を根こそぎ獲得できるってもんよ」  無責任にセイバーを煽りつつ、遠坂はまたもやずんずんと歩き出す。 「――――はあ」  その後ろ姿を眺めながら、ま、仕方ないかと走り出した。  遠坂の元気さは問答無用だ。  止めるコトなんて出来ないし、こうやって振り回されるのも、そう悪い気分じゃないワケだし。    だから、つまりはそういうコトだ。  緊張が解けたのは、単に楽しかっただけ。  息つく暇もないほどあちこちに連れ回され、気が付けば緊張なんてなくなっていた。  次に行こう、と手を伸ばしてくる遠坂と、不承不承ながらも応える自分と、そんな俺たちを静かに見守っているセイバー。    ……それが、本当に楽しかった。  今まで通り過ぎるだけだった街の〈趣〉《おもむき》。  関わるまいとしてきたもの全てが、これほど意味のあるモノだとは知らなかった。     「――――――――」  そう思った反面、何か〈澱〉《おり》のようなモノが落ちてきて、ああ、と納得した。    ようするに分不相応。  こんなもの、おまえには勿体なさすぎる、と。  どこか、深いところにいる自分が告げていた。    ――――つ、つかれた。    一回三十球を五回、都合百五十回もバットを振るはめになるとは思わなかった。  それというのもすべて、 「な、なんでしょうかシロウ。そのような目で見られると困ります」    こいつが、ヘンに負けず嫌いだったからである。 「誤算だったわ……あそこまでセイバーが勝負に拘るなんて思わなかった」  はあ、と傍らで嘆息する遠坂。  こいつはこいつで、 「あら、わたしは一ゲームだけよ? そんなにバット握ってたら手の皮が荒れちゃうもの」    なんて言っておいて、セイバーにつられてもう一ゲームし、後になって肩がだるいだの手が痛いだの言う始末。 「なに言ってんだ。遠坂は二回だけやって、奥でハンドル握ってたじゃないか。俺なんて五回だぞ五回、しかも最高速度!  ……あーもう、手を抜くとセイバーが怒るし、差を付けると拗ねるんだからな。地獄のような一時間だった」 「す、拗ねてなどいませんっ! シロウに対して闘志を燃やしていただけではないですか。そもそも道場での打ち合いに比べれば遊びのようなもの、そこまで疲労する方が悪いのです」 「……納得。セイバー、遊びに負けると怒るタイプだったんだ」  はあ、と溜息をついてよろよろと進んでいく。  ともかく今回判明した事は、セイバーと賭け事はするなということ。  ヒット級のあたりを十本分差をつけた方が勝ち、というルールは、実力が伯仲すると無限地獄になるということ。  それと、魔力使用を制限したセイバーは俺たちより筋力がなかった、ということ。  ……いや、120キロをポンポン打ち返していたあたり、遠坂が異常なのか。  セイバーは一番小柄なんだから当然といえば当然で、むしろ遠坂が女の子にしては力持ちと言わざるをえない。 「失礼ね、バッティングはイコール腕力じゃないわ。  スイングスピードと命中角度さえ合ってれば女の子でも打ち返せるわよ」 「そりゃ一球や二球はな。問題はその後。普通は腕の筋肉がひきつるって。おまえ、寝る前に腕立て伏せでもしてんじゃないのか? いや、あれはそうとしか思えないバッティングだったぞ」  ふふん、と今までのお返しとばかりに皮肉を言う。  が。 「……し、してるわよ。なによ、悪い?」 「―――――あ、いや。……うん、ナイス」  時にこういう切り返しをするもんだから、全然反撃になっていなかった。 「と、ともかく昼にしよう。もう二時過ぎだろ。いいかげん何か食べないと目眩がしてきた」  このあたりなら橋ぞいのファミリーレストランが手頃だろう。  メニューも多いし、セイバーも文句はなさそうだし。 「遠坂もそれでいいよな。別に目当ての店があるってワケじゃないだろ」  行こう、と遠坂に呼びかける。 「あ、あるわよ。目当ての店ってわけじゃないけど、予定はちゃんと組んであるんだから」 「なんだ、そうだったんだ。で、それってどこだよ」 「…………ここ」 「は? ここって、どこさ」 「だから、ここ。天気もいいし、公園でお昼にするの」  ……きょろきょろと辺りを見渡す。  食事処はおろか出店のホットドッグ屋もない。 「遠坂、まさか出前でもとるつもりか」 「……アンタね。その、朝からずっと持ってるわたしのトートバッグはなんだと思ってるのよ」 「え――――?」  あ。  そう言えば朝方、荷物持ちだとばかりに持たされたバッグが一つ。 「……む。そこはかとなくマスタードの匂い。つまり、これは」 「お弁当に決まってるでしょ。それぐらい用意したって言わなかったかしらね、わたし」  じろり、と抗議の視線を向けてくる。  ……そういえば、確かにそんなコトを言ってたっけ。 「うわ、驚いた。まさかそこまで手が込んでるとは思わなかった」 「そんなの当然でしょ。わたしから誘ったんだから、それなりの準備はしてるわよ」 「ああ、これで謎も解けた。遠坂、この為に食パンを使ったんだな。  いや、てっきり夜中に腹が減ったんでモシャモシャ食っちまったのかと思ってた。一斤まるごと食うなんて無茶っぽいけど、遠坂ならアリかなって」  いや、納得納得。  これで胸の支えも取れた、と頷くこと二回。 「あ」  顔をあげると、遠坂がこわい顔をしていたりした。 「衛宮くん?」 「う、うん。なんだろう、遠坂」 「お喋りはそれぐらいにして、お昼ご飯の準備をしてくれない? 道具一式、トートバッグの中に全部入ってるから。それと、あんまりモタモタしてると殺すわよ?」 「あ――――はい。努力します」  いそいそと芝生に陣取る。  ……いや、怖かった。  極上の笑顔で、冗談に聞こえない冗談を言われるのは心臓に悪い……。    で。  二時間遅れの昼食が開始されたワケなのだが。 「あれ、どうしたの士郎? 唐突にぼーっとしちゃって。  ……あー、もしかして辛いの苦手だった?」  すぐ隣。  手を伸ばせば触れる位置に座った遠坂は、そんなコトを言ってくる。 「え――――あ、いや、大丈夫。強烈な味付けだけど、美味いぞ、これ」  正直な感想を口にし、さらにサンドイッチを口にする。 「そ? 良かった、サンドイッチをまずく作るのって一種の才能でしょ? もしかして、そういういらないもんまで持っちゃったかと思ったわ」  遠坂は楽しげに笑う。 「――――――――」  俺がぼーっとしているように見えたとしたら、その姿が眩しかったからだろう。  澄んだ青空の下、芝生の上で昼食をとる。  それだけでも平和すぎて十分なのに、そこに遠坂がいたら許容量を超えてしまって、朝の緊張が戻ってきたというか。 「あ。口元にトマトが残ってる。とったげよっか?」 「ぶっ……! と、とととと突然なに言いだすんだよおまえっ、それぐらい自分でとる!」  ぐい、と服の裾で口元を拭う。 「あ」  ……しまった。  服にこう、不吉な赤いシミがベッタリと。 「あちゃ、ちょい悪ふざけがすぎたか。ごめんね、士郎があまりにも予想通りの反応するから、つい面白くって」  謝っているのか笑いを堪えているのか、遠坂は腹を押さえながらナプキンをとってよこす。 「――――ふん。いいよ、どうせ今日は一日中こんなもんなんだ。気にしない」  ナプキンを受け取って、こしこしと袖を拭く。  赤い汚れはなかなか取れない。  ……ぬぬ。遠坂のヤツ、〈特別〉《オリジナル》のソースを使ってるな。  油汚れはかなり頑固で、そう簡単にとれそうにない。 「けど今に見てろよ。今日の教訓を生かして、明日からはちょっとやそっとじゃ動じなくなってやる。いいか、いつまでも思い通りになると思うなよ」 「へえ。じゃあ明日からは手加減なしで出来るわけね。  良かった、いいかげん猫をかぶるのにも飽きてたところだったんだ」  ふふん、と余裕ありげに返してくる赤いあくま。 「……あ、いや、今の取り消し。もうちょっと時間がかかるから、しばらく今のレベルで抑えてくれると助かる」 「そう? 士郎がそう言うならいいけど、レベルアップしたくなったら教えてね。遠慮なく叩きのめしてあげるから」 「――――くそ。いつか返り討ちにしてやる」  負け惜しみじゃないんだが、負け惜しみにしか聞こえない文句を言う。  ……なにか、異様に悔しいんで目の前のサンドイッチに八つ当たりする事にした。  ばくばくとサンドイッチを平らげていく。  腹も減っていたし、せっかくの遠坂の手料理だし、こうなったら一人で食べ尽くしてやるのだ。  ……いやまあ、すでに三分の一はセイバーが平らげてしまったのだが。  そんなこんなでセイバーと二人してサンドイッチを食べる。  遠坂はもう満腹なのか、そんな俺たちをのんびりと眺めているかと思えば、 「体の調子、良さそうじゃない。これなら午後は遠慮なく引っ張り回してもよさそうね」  なんて、またもや意地の悪い笑みをこぼしやがった。  アレは、アレだ。  午後の遊びが楽しみっていうより、連れ回されてへばる俺を見るのが楽しみな笑みだ。 「ふん、甘く見るな。この程度引っ張り回されたぐらいで音を上げるもんか。昨日ならいざ知らず、今日はずっと調子がいいんだから」 「そうなんだ。うん、ならもう大丈夫かな」    よかった、と遠坂はサンドイッチに手を伸ばした。  まるで肩の荷がおりた、とでも言うように。 「……?」  なんでそんなコトを言うんだろう、と首を傾げた瞬間。 「あ」  ピタリと、何もかもが符合した。 「――――――――」  考えてみれば、とにかく不自然だったのだ。  遠坂がわざわざうちに来た理由。  アーチャーは俺の異状を知っていた。  俺があいつの剣を投影したと聞いて、体に異状がある筈だと看破したんだろう。  それはいい。  だが、あの場にいなかったあいつが投影を知っていたのは、遠坂が教えたからだ。    なら。  遠坂がアーチャーにキャスターとの戦いを報せたように、アーチャーも、俺が何らかのペナルティを負っていると遠坂に報せたのではないか―――― 「遠坂」 「え、なに?」 「おまえ、なんだって昨日うちに来たんだ。しかも泊まっていくなんておかしいぞ。昨日は藤ねえにかき回されて気が付かなかったけど」 「――――――――」  一瞬の間。  けど、たしかに遠坂は息を呑んだ。 「なんでって、別に理由はないけど。昨日のはただの気紛れよ。たまにはああいうのもいいかなって」 「そうか。確かに昨日は賑やかで楽しかった」 「でしょ」 「うん。何もなかったけど、ありがとう」 「――――――!」  おー。  すごい、一気に真っ赤になった。 「な、なななに勘違いしてんのよ……! わた、わたしは別に士郎を気遣ったワケじゃなくて―――!」 「ああ、協力者が減るのはマイナスだもんな。だから様子を見に来たんだろ」 「う……そ、そうよ。よくわかってるじゃない」 「ああ。けど、たとえそうでも感謝してる。  遠坂が何企んでいたかは知らないけど、気を遣ってくれた事だけは絶対なんだからな」 「…………………」  むー、と顔を赤くしたまま不満そうにうなる。  その姿はとんでもなく愛らしくて、つい頬が緩んでしまう。 「――――――なるほど、そっか」    なんとなく納得する。  種別は違うだろうけど、好きな相手を照れさせるっていうのは、すごく幸福な感じがした。  昼食が終わった頃から天気が怪しくなってきた。  あれほど澄んでいた空は見る影もなく曇り、今ではいつ一雨きてもおかしくない空模様になっている。 「……仕方ないか。傘もないし、今日はもう帰りましょう」    反対意見はなし。  もともと遠坂が始めた事だし、終わりを告げるのも遠坂の役目だったのだ。 「――――――――」    頷いた。  傍らに立つ、僅かに目を伏せて俺を見つめる遠坂に心の中で詫びて、キャスターの言葉に従った。 「っ―――――――」  迷ったまま、俺の選択に目を伏せるセイバー。 「……………………」  遠坂は何も言わない。  キャスターを共に倒すと約束したのに、俺をなじる事もせず唇を噛んでいる。 「賢い選択ね坊や。ええ、それでこそ聖杯に選ばれたマスターよ。初めから勝ち目の無い戦いですもの、大人しく私に従うことが最善なのですからね」  ……キャスターの腕が上がる。  藤ねえの首もとを掴んでいた指が、俺の心臓へと向けられる。 「――――待て。おまえの言いなりになる前に、一つ約束させろ」 「…………いいわ。立場が分かっていないようですけど、聞くだけは聞いてあげる。どんな見返りがほしいの、坊や」 「……遠坂の事だ。おまえの口ぶりじゃ遠坂を殺したがってるみたいだからな。こいつが自分の家に戻るまで、決して手出ししないと約束しろ」 「士郎」  ―――キャスターは答えない。  紫のローブは身じろぎもせず、無関心そうに俺を眺め、 「ふ―――ふふ、あはははははははははは!  なぁに、どんな売り込みをするかと思えば、そんなどうでもいいコトで私に従うなんて! あは、ステキよ坊や、こんなに笑ったのは何年ぶりかしらねぇ……!」 「……何がそんなにおかしいのキャスター。  確かにバカみたいな条件だけど、アンタに士郎を笑いものにする資格なんてないわ」 「ええ、そうねお嬢さん、坊やを笑いものにできるのは貴女だけよ。だからこそ、今の条件は受け入れる価値がある。  ―――良くてよ。ここで殺してしまうつもりだったけど、特別に生かしてあげる。私の協力者のたっての願いですもの、聞き届けてあげなくては可哀相だわ」  クスクスと笑う魔術師。  それを睨みながら、遠坂は慎重に後退していく。 「――――」 「さよなら。もとからこうなる予定だったし。次に会う時は敵同士ね、衛宮くん」  ……去っていく足音。  それを最後まで聞き届ける事なく、   「さあ―――茶番はここまでよ、坊や」    魔術師の指が、俺の意識を刈り取った。    ……深い闇の中にいる。    あれから何時間経過したのかわからない。    目が覚めているうちに秒を刻んで時間を計ろうとしているのだが、どうも十から先の数が思いつかない。    ……全てが朦朧としている。    ふわふわと手足の実感がなく、水に浮いているような穏やかさ。    〈頭蓋〉《ずがい》のなかに〈藻〉《も》が詰まったとしか思えなく、つい笑い出したくなるような闇。 「……………………」    ここのところ、セイバーは会う度に視線を背ける。  たしか、聖杯は随分前に手に入った筈だ。    なのに少しも幸せそうじゃないセイバーは、俺に会いに来る度に「スマナイ」と繰り返す。 「気分はどうシロウ? 貴方のおかげで手に入った聖杯ですもの、欲しいものがあったら言って頂戴。セイバーでもあの子でも、好きなモノを作ってあげるわ」    ……欲しいもの、欲しいもの。  そう言われても思いつくものはないし、昔から欲しいものはなかったし、今の自分にほしいものがあったところでどうにもならない。          しいて言うのならもっと寒い場所がほしい。  頭蓋のなかの藻が凍りついてくれるような、つい踊りだしたくなる痛い闇。   「久しぶりね衛宮くん。ようやく見つけてあげられた」    ――――随分と懐かしい声が聞こえた。   「キャスターの言った通りね。貴方はわたしを逃がす為にそうなった。だから、今の貴方を見て笑ってあげられるのはわたしだけよ」    ――――よう、と手を挙げる。できなかった。    ホルマリン漬けの標本を思い出す。  水のなかに浮いている。  手足の感覚はそっくり消えている。   「――――笑い飛ばしてあげる。      悪い夢はここで終わりよ、士郎」        ああ、水がこぼれていく。  ふわふわと浮いていたカラダが転がっていく。  頭蓋のなかの藻がようやくこぼれていくような、笑いだしたくなる〈温〉《ぬる》い闇。 「――――断る。おまえの話には乗らない」    目を逸らさず、黒い魔術師に言い放った。 「なっ……!?」  息を呑む気配は三人分。  この場にいる誰もが、この選択を予想していなかった。 「あ、貴方正気――――? 自分がどんな立場にいるか判っていて?」 「ああ。おまえの言い分は解った。確かに正しい事を言ってると思う」  戦いを避けられるなら避けるべきだし、分けられるのなら分ければいい。    ――――だが。 「けど、人を無差別に襲っている魔女には協力しない。  おまえの言い分は正しいけど、その手段は間違ってる。  ……それにもう一つ。俺は無理やり魔術師になったんじゃない。自分から進んで〈切嗣〉《オヤジ》の跡を継いだんだ。  ―――それを、おまえにとやかく言われる筋合いはない」 「―――そう。なら貴方はいらないわ。ここで消えてしまいなさい」  キャスターの声に殺気が籠もる。 「貴様――――」  同時にセイバーの腰が沈む。  それを、   「動くなセイバー―――!」    渾身の声で制止させた。 「……頼む。動かないでくれセイバー。遠坂もだ。今は、動く訳にはいかない」  動けば殺される。  この屋敷で。  今までずっと一緒にいた、姉であってくれた人を、この居間で失うのだ。 「……シロウ、ですが」 「……バカ。ならどうして断ったりしたのよ」  それでも二人は踏みとどまってくれた。 「………………」  二人を隠すように、一歩だけキャスターへと歩み寄る。 「あら。まったくの考え無しかと思ったけど、自分の立場ぐらいは理解していたようね」    キャスターの唇に笑みが戻る。  ……その腕。  藤ねえを抱きかかえた左手が、ゆっくりと俺に向けられる。 「……! 卑怯者、無抵抗の士郎を殺すつもり!?」 「まさか。命まで獲りはしませんよ。坊やにはマスターでなくなってもらうだけ。一つしか残っていないようだけど、その令呪を渡しなさい。  私の仲間にはならない、けれどこの娘は救いたい。  そう言うのなら、それぐらいの覚悟はあったのでしょう?」 「――――――!」  セイバーの息が止まる。 「……………………」  すまない、と心の中で頭を下げて、もう一歩だけキャスターへ歩み寄る。 「―――わかった。けどどうやって令呪を渡せばいい。  人に渡す方法なんて、俺は知らない」 「シロウ……! 駄目だ、そんな事をしても……!」 「そうね。邪魔が入らなければ移植は出来るのだけど、ここでは望めそうにない。落ち着ける場所に移動しないと移植は無理でしょう。だから」            ――――皮ごと剥ぎ取りなさい。ここで。 「――――――――」  艶やかに笑いながら、黒い魔女はそう言った。 「―――ここまでです。  シロウ、大河の事は諦めてください。これ以上キャスターの思い通りにはさせられない……!」 「わたしも同意見よ。だいたい、アイツが人質を解放するタマかっていうの。一度言いなりになったら最後まで利用されるだけよ」 「――――――――」  二人の言い分は正しい。  だから、今はせめて、心の中で謝るしかない。 「――――持っていけ。これでいいんだろ」  左腕を上げる。  キャスターなら、一言呟くだけで綺麗に肉ごと令呪を持っていってくれるだろう。 「―――シロウ、だめだ……!」 「なんだってのよアンタは……! そこまでして他人を助ける必要はないでしょう!」 「ある。この程度で藤ねえが助かるなら、そんなの考えるまでもない」  左腕をキャスターに向ける。 「……いいわ。こちらに来なさい、衛宮士郎。  何を企んでいるかは知らないけど、どんな奇襲より私の指の方が早いのだから」  キャスターは俺を信じていないのか、まだ用心深く間合いをとっていた。 「………………………」  歩み寄る。  ……キャスターの目の前、二人から離れた場所。  もう、俺ではどうあがいても逃げられない所まで歩いて、片腕を差し出した。 「は――――――――」    黒い魔女は呆然と俺を見る。 「はは。あはは、あはははははは…………!!  驚いたわ、たいした善人ね坊や! いいわ、貴方の誠意に免じてこの女は返してあげる!」    〈翻〉《ひるがえ》るローブ。  キャスターは左手で藤ねえの首を掴んだまま、残った右手で、奇怪な刃物を取り出した。 「お笑いぐさね、これなら手間をかける必要もなかった!  本当に馬鹿な子。目障りだから、貴方みたいなお人好しは死んでしまいなさい……!」  短刀が振るわれる。  それは俺の腕ではなく、心臓を奪うかのように胸へと叩き落とされ―――― 「キャスター――――!」  爆ぜた。  そうとしか思えない速さで、セイバーが踏み込んできた。 「――――っ!?」  その速度は予想以上だったのか、キャスターは反応できずに短刀を弾かれる。  後退するキャスターと、それを追うセイバー。  逃げ切れない、と悟ったのか。 「そう、なら――――」    嬉しげに唇を歪めて、キャスターは右腕に力を―――   「―――だめだ、止めてくれセイバー……!!!!」    心からそう願って、上げていた左腕を伸ばしてしまった。 「な――――シロウ、令呪を――――」    セイバーの動きが止まる。  令呪という絶対命令権によって行動を封じられたセイバー。  そこへ、    とすん、と。  雪に足跡をつけるような〈容易〉《たやす》さで、短刀が突き立てられた。 「な――――」  時間が止まったような錯覚。  セイバーは呆然と自らの胸を見下ろしている。 「キャスター、貴様」 「そう。これが私の宝具よセイバー。なんの殺傷能力もない、儀礼用の鍵にすぎない。  けれど―――これはね、あらゆる契約を覆す裏切りの刃。貴女もこれで私と同じ。  主を裏切り、その剣を私に預けなさい」 「っ――――!?」  赤い光が漏れる。  禍々しい魔力の〈奔流〉《ほんりゅう》。  それはセイバーの全身に行き渡り、彼女を律していたあらゆる〈法式〉《ルール》を破壊し尽くし――――    俺と、セイバーとの繋がりを完全に断っていた。 「は、あ――――!」    床に崩れ落ちるセイバー。  ……その額には何か、痣のような刻印が浮かび上がっている。    傍らに立つキャスターには三つの刻印が浮かんでいた。  サーヴァントを縛る令呪。  今まで俺にあった、セイバーのマスターである証が、あいつの腕に宿っている―――― 「な――――」 「驚いたかしら。これが私の宝具、“〈破戒すべき全ての〉《ルールブレイカー》符”。  この世界にかけられたあらゆる魔術を無効化する、裏切りと否定の剣」 「ぁ――――――――く」  床に伏したセイバーが喘いでいる。  まるで、体内に侵入した毒と戦うように。 「アンタ――――サーヴァントのくせに、サーヴァントを――――」 「ええ、使い魔にしたのよお嬢さん。これで計画通り。  衛宮士郎はマスターではなくなり、セイバーは私のモノになった。  この娘さえ手中に収めてしまえば恐れるものは何もない。そうよ、あの〈野蛮人〉《バーサーカー》が私を襲おうと関係ない。今度は私から攻め入ってあげましょう……!」  高らかに笑い、キャスターは倒れた藤ねえを抱きかかえる。 「ほら、返してあげるわお馬鹿さん。大事な人なんでしょう? なら死んでしまわないように、最期まで頑張らないとダメよ」  藤ねえの体が浮く。  視えない腕に引かれ、藤ねえの体は宙に舞った。 「っ、藤ねえ……!」  咄嗟に受け止める。 「藤ねえ……! 大丈夫か藤ねえ……!」  呼びかけても返事はない。  ただ、抱いた腕が温かかった。  藤ねえは意識こそないものの、きちんと息をしていて、傷一つないままだ。 「――――――――」  安堵で吐息が漏れる。 「満足したかしら。約束だものね、その娘は助けてあげる。それに……そうね、貴方も見逃してあげましょう。  先ほどの見せ物、頭にくるぐらい素敵だったから。  けれど――――」 「……そう。ま、そういう流れになるわよね、普通」 「ええ、戯れはここまでよお嬢さん。  さあセイバー、アーチャーのマスターを仕留めなさい。  邪魔をするようなら、貴方のマスターだった子も殺していいわ」 「ぐっ……ふざけるな、誰が貴様などに……!」    跪いたままキャスターを睨むセイバー。 「いいえ、従うのよセイバー。貴女はもう私のモノ。この令呪がある限り、身も心も私には逆らえない」 「あ――――、ぐ――――!」    セイバーの声はいっそう苦痛を帯びる。  ……だが、その反面。  セイバーの意思とは別に、彼女の体はゆっくりと起きあがった。 「あ――――は、あ――――!」    セイバーの体が流れる。  彼女は、以前の速度のまま遠坂へと突進し、  そして――――    その剣を、突き入れた。 「あ……く――――っ…………!」    肩に鈍痛。  深々と肩に刺さる鉄の感触。  視えない筈のセイバーの剣は、俺の血でうっすらと浮かび上がっていた。 「馬鹿、なんで――――」    すぐ後ろから、遠坂の声がする。  ……が、そんなコト言われても、どうしようもない。  体が勝手に動いただけだし、なにより―――セイバーが遠坂に斬りかかるなんて、見たくなかった。  見たくなかったから、二人の間に割って入っただけ。 「ぐっ――――!」    体が跳ねる。  セイバーの剣はまだ勢いを止めていない。  俺の肉を裂き、鎖骨を削る。  刃はいずれ首の血管を破り、あとはそのまま死ぬだけだ。 「は、あ――――!!!!!」    それは、まずい。  俺はまだ藤ねえを抱いたままだし。  後ろには遠坂が、いるんだから――――! 「……残念。勿体ないわね。その子には興味があったのだけれど」  遠くで。  キャスターが、何かを言っている。 「令呪に従いなさいセイバー。そのままもろとも斬り落とせば二人減るわ」  冷酷な命令。  それに抗うような音をたてて。  セイバーの腕は、震えながら止まってくれた。 「――――! 馬鹿な、セイバーの対魔力は令呪の縛りにさえ抗うというの……!?」  驚愕するキャスター。  セイバーは俯いたまま、ただ必死に唇を噛みながら剣を引いていく。   「―――げ、て」    絞り出される囁き。  ぽたり、と。  俯いた頬から涙を流して   「―――逃げて、シロウ……!!!!」    血を吐くような懸命さで、セイバーは訴えた。 「士郎、来なさい……!」 「ぁ――――待て、遠坂――――」  遠坂に手を引かれて走り出す。  ……肩の傷が熱くて、まともに頭が働かない。  それでも俺の腕には藤ねえがいて、今は逃げるしかないと受け入れている。    ……いや。  受け入れるしか、なかった。 「セイ、バー」    ……なんて、矛盾。  剣士としての誇りをかなぐり捨てて、彼女は逃げろと言った。  その懇願を受け入れる事が、今の彼女にとって最大の救いになる。    ……けれど、反面。  あの涙を見捨てて逃げる事自体が、彼女を失うという事だったのだ――――  バスから降りる。  いつもの交差点に着いた時、空は泣き出す一歩手前だった。 「今日は楽しかった?」    バスから降りて坂道に向かおう、という時。  唐突に、遠坂はそんなコトを訊いてきた。 「え――――」  返すまでもない。  楽しかったと言えば、問答無用で楽しかった。  とびきりの力技というか、洗濯機につっこまれてグルグル回されたようなもんだ。  緊張も戸惑いも、汚れと一緒に洗い流された感がある。    ただ、それは。 「どうなの。楽しかった、士郎?」 「ああ、まいった。こんなに遊んだのは久しぶりだ。よくもあそこまで振り回してくれたな」    その、楽しければ楽しいほど。  〈衛宮士郎〉《おれ》には、そんな出来事は勿体ない気がして、気まずくなる。 「……そう。士郎が何を考えているか知らないけど、楽しいんなら素直に楽しいって言いなさいよ。ここまでエスコートしたわたしに失礼じゃない」 「え……? いや、そんなつもりじゃなくてだな」 「あるわよ。アンタ、無意識にブレーキかけちゃってるもの。……ふん。前に何があったか知らないけど。そんなに辛い事だったら、いっそ忘れた方が楽じゃないの」 「――――――」  ……喉が詰まる。  こっちが驚くぐらいの鋭さで、深い〈患部〉《ところ》に〈棘〉《メス》を入れられた、ような。 「遠坂、それは」 「さあ、わたしの知った事じゃないわ。……ま、当初の目的は果たしたし、あとはそっちの問題か」  髪をなびかせて、遠坂は坂道に向かっていった。  洋風の家々が並ぶ方角ではなく、和風の家々が並ぶ坂道へ。 「………………」  ぼんやりと立ちつくす。 「シロウ、家に帰らないのですか。じき雨が降ってきますが」 「あ、ああ。そうだな、行こう」  セイバーに促されて、坂道に足を向けた。 「――――――――な」    屋敷に帰ってきた途端、激しい違和感に襲われた。  何一つ欠けていないのに、何一つとして満足ではない消失感。  二人の顔が強ばる。それは俺とて同じだ。  この感覚の正体。  今まで通りなのに、何か大きなモノを剥がされた建物。  屋敷から失われているもの、それは―――― 「結界がなくなってる――――」    〈切嗣〉《オヤジ》が張った結界。  敵意あるモノの侵入を報せる結界が、強引に断ち切られている―――― 「……誰かが留守中に押し入ったみたいね……出かけてたのは幸いか」 「シロウ、大河は――――!?」 「――――――――」  愕然とした後、走り出した。  考える余裕などない。 「ば、待ちなさい……! 中にまだ敵がいるかもしれないじゃない……!」  ――――ぞぶり、と音がした。    玄関を開けた途端、空気の〈淀〉《よど》みが感じられる。  何者かが侵入した後。  結界に守られていた分、空気はわずかな汚れだけで真綿のように重くなっている。  土足で走る。  靴を脱いでいる暇はないし、そんなコトさえ考えられなかった。  居間に入る。  電気はついていない。  灰色の空、薄暗い室内には、   「あら。このまま連れ去ろうと思ったのに、いいタイミングで現れるのねぇ、坊や」    意識を失った藤ねえと、キャスターとかいう敵がいた。 「キャスター……!」  背後でセイバーの声がした。  駆けつけた二人は、キャスターを見るなり足を止めた。  藤ねえが人質に取られているからだろう。  少しでもセイバーと遠坂がしかけようとすれば、キャスターは呪文を呟く。  それは誰よりも速い。  セイバーが突進しようと、  遠坂が魔術を放とうと、  それより先にキャスターの指先が灯る。  あの位置関係だ。  そうすれば、きっと、トマトみたいに―――の顔が飛び散る。 「――――――――」    思考が止まった。  怒っている。  怒りで視界が真っ赤になりそうなぐらい、血が沸きだっている。  だっていうのに頭はひどく客観的だった。  怒りが限度を超えると冷静になるなんて、今まで知らなかった。 「不用心よ坊や。魔術師であるのなら、結界にはもっと力を入れないと」    くすくすと笑う。  それさえも、他人事のように受け止めるだけ。 「殊勝な心がけねキャスター。自分からこっちの陣営にやってくるなんて、降伏宣言のつもり?」 「ええ、似たような用件よ。もっとも、許しを請うのは貴方たちの方でしょうけど」  声だけで火花が散る。  遠坂はキャスターを睨み付けたまま何もしない。  動けば―――の命はない。  万が一にも動くっていうんなら、キャスターより先に俺が遠坂を――――いる。 「―――で。人質をとって何をするっていうのよ、アンタ」 「貴女に用はないわ。関心があるのはそこの坊やよ」 「ねえ、私が持ちかけた話をまだ覚えていて?」    境内での一件。  キャスターは俺とアーチャーに、自分の下につけと言った。 「っ……! アンタ、まだ懲りずにそんな事を……!」  遠坂の怒気は強い。  ……意外だ。アーチャーのヤツ、遠坂にきちんと報告していたのか。 「懲りる? そうね、本来なら一度断った人間に関心なんて持たない。けれど、それも相手によるのよお嬢さん」  キャスターはこちらだけを見つめている。 「貴方は面白いわ坊や。聖杯戦争は今回で五回目。そのいずれも貴方のようなケースはなかったでしょう。  殺してしまうのは簡単。けれど折角の貴重なサンプルだもの、出来れば殺さずに手に入れたい。  わかって? こんな無粋な真似をするのも、貴方を生きたまま仲間にしたいからなのよ」          それは。  断れば、―――を殺―という事だ。 「私は主の命に背いてここまで来た。そこまで貴方を評価しているのだから、こちらの熱意も信用できるのではなくて?」 「なに勝手なコト言ってんのよ……! マスターに黙って好き勝手やってるヤツが―――!」 「あら、嫉妬? でも残念、悪いけど貴女に興味はないの。魔術師としては優秀みたいだけど、私には到底及ばないわ。私が欲しいのは完成した万能ではなく、不完全な特異能力だけ。  ……その点、そこの坊やは理想的よ。魔術師として未熟だもの、御するのは〈容易〉《たやす》いですし」          艶めく冷笑。  キャスターは―――の首筋に指を食い込ませながら、さあ、と返答を迫ってきた。 「……困った子ね。悩む事などないでしょうに。  聖杯を手に入れるのは私以外にない。この街はとっくに私の物だもの。いくら貴方のセイバーが優れていようと、無尽蔵の魔力を持つ私を倒す事はできないわ」 「――――」  セイバーの気配が動く。  彼女は臨戦状態だ。キャスターに隙さえあれば、即座に突進しているだろう。 「―――ふん。だから無駄なのよセイバー。  いいこと、ここでこうしている私でさえ影にすぎない。  私の力の供給源は街に住む全ての人間、千人単位でマスターを持っているようなものよ。  それがどういう事かわかって?」 「っ――――貴様、まさか」 「そう、魔力のない人間でも魂そのものは別でしょう?  私たちはもともと〈魂喰い〉《ソウルイーター》だもの。マスターから“命”という魔力を奪えば、いくらでも魔力は引き出せる。  ……貴方のその怪物じみた宝具も、今の私なら何度だって扱えるわ」    ほぼ無尽蔵の供給源。  街中の人間から吸い出す魔力。  ……それがあるから勝つというのか。  ―――と同じ、無関係の人間をいいように使って、それで無敵だと誇るのか。  あの時と同じ。  誰かの犠牲の上で、なお笑い続けると―――― 「――――――――」    撃鉄があがる。  客観的になりすぎて冷えきった思考に熱が戻る。 「さあ、答えを聞かせて衛宮士郎。  貴方に勝ち目はないわ。セイバーと共に私に従ってくれるかしら」 「――――藤ねえを放せ」 「……話を聞いてなかったのかしら。私に降りなさい、と言ったのよ」 「うるさい。藤ねえを放せ」  それ以外には何もない。  俺がこいつに渡すものは、何一つだってありはしない。 「――――――――」  ぎり、という音。  キャスターは忌々しげに歯を鳴らした後、気を静めるように嘆息した。 「…………解ったわ。交渉は決裂というわけね。聖杯を手に入れられるマスターは一人だけだもの。他のマスターと手を組む気はないということ?」 「違う、聖杯とかそういうのは関係ない。俺はおまえとは組まないだけだ」 「そう。嫌われたものね、私も」  静かな声に冷笑はない。  代わりに含まれたのは怒りだけだ。 「……本当に残念。貴方を気に入っていた、という気持ちに嘘はなかっただけにね。  もし貴方が私に協力してくれたなら、聖杯を分けてあげても良かったのに」 「それこそ余計なお世話だ。俺はおまえみたいなヤツを止める為に戦うって決めたんだ。聖杯なんて関係ない。  そんな事より藤ねえを放せ」  キャスターを睨む。  敵意を込めた視線を受けて、キャスターは―――   「ふふ――――あはは、あはははははは!」    何故か、おかしそうに笑っていた。 「――――おまえ」 「あら、気に障った? けど貴方も悪いのよ、心にもない事を口にするから」 「――――――――」  心にもない事なんて、俺は。 「聖杯なんて関係ない? ふふ、本当にそうなのかしらね。貴方は聖杯の犠牲者ですもの。  聖杯なんて関係ない―――そう言葉にする時点で、貴方は聖杯を憎んでいるのではなくて?」 「――――――――」  瞬間。  心が、ギチリと凍り付いた。 「……士郎?」  凍り付いて、よく分からない。  心配そうに俺を見る遠坂の目も、辛そうに目を伏せるセイバーの顔も、 「――――――――」  喉元までせり上がってきた、気色の悪い嘔吐感も。 「知ってるわよ、衛宮士郎。前回の戦いは十年前だったんですって? その時に貴方は全てを失った。炎の中に一人取り残され、死を待つだけだった貴方は衛宮切嗣に拾われた。  だから本当はこの家の子供じゃないのよ、貴方は。  にも関わらず、なりたくもない魔術師にさせられて、今まで苦しんできたんでしょう?」 「――――――――」 「……うそ。衛宮くん、今の、話」 「そう。貴方にとって聖杯は憎むべき敵だった。そんな貴方がこの戦いに参加するなんて皮肉な話ね」 「――――――――」 「貴方の気持ちは分かるわ。誰だって不当に自身の幸福を奪われては恨まずにはいられない。  ……ええ。私が気に入ったのは、そういう衛宮士郎の過去よ」 「――――――――」 「貴方には復讐の資格がある。聖杯を手に入れて、十年前の清算をする権利がある。だから貴方を仲間にしてあげてもいいと思った」 「――――――――」 「―――さあ、考え直しなさい坊や。  私だって戦いを望んではいない。だって殺し合いなんて馬鹿らしいでしょう? 聖杯に無限の富があるのなら、幾ら分けても底はつきない筈。  なら、信用に足る者たちなら聖杯を共有してもいいのではなくて?」 「――――――――」    その言葉に、嘘はない。  おそらく、キャスターは本気でそう思っている。 「復讐なさい、衛宮士郎。  聖杯は私の手にあるも同然。貴方の願いを叶えてあげる事ぐらい造作もないわ」 「世迷い事だキャスター……! サーヴァントが最後の一人になるまで聖杯は現れない。そのような〈寧言〉《ねいげん》で、私の〈主〉《マスター》を侮辱するな……!」 「いいえ、戦わなくとも聖杯が手に入る方法はあるのよセイバー。他のサーヴァントには無理でも、キャスターである私には聖杯のカラクリは読みとれる。  そうね、膨大な魔力出力を誇る貴女が手を貸してくれるなら、今からでも聖杯を呼び出す事は可能でしょう」 「な――――」  セイバーの気迫に〈罅〉《ひび》が入る。  それは、セイバー自身もキャスターの言葉に嘘はないと感じ取っているからだ。 「さあ、これが最後よ坊や。  無益な戦いは避けたいのでしょう? なら私に従いなさい。セイバーを私に渡し、貴方が私に協力するというのなら、聖杯は貴方たちに預けるわ」    最後の交渉。  セイバーは迷っている。  避けられるのなら戦いは避けるべきであり、それで聖杯が手に入るのならば非の打ちどころがないからだ。  それに、敵の手には―――の命が握られている。  答えは一つしかない。  遠坂ですら、諦めたように唇を噛んでいる。    ――――俺は。    まるっきり反応がないのは気になるが、遠坂は耳栓をして寝る珍しい人種なのかもしれない。  ……まああいつの事だ、俺では理解できない理由で徹夜して寝ぼけてるのかもしれないし、放っておいてもいいだろう。 「あー……そもそもだな、女の子の部屋に無断で入れるか、ばか」  カリカリと額を掻いて、禁断の扉から間合いをとる。  ……なんか無駄なコトしたな。  今からでも遅くないし、商店街に行って豆腐三丁買ってこよう。  抜けるような青空の下、朝一番で豆腐屋にて買い物をする。  テーブルに置かれた三百円で絹ごし豆腐を三丁購入し、「お、士郎くん日曜だってのに偉いねえ!」  豆腐屋の二代目がサービスでくれた豆乳パックを飲みながら帰還する。 「――――うん、満たされてる」  完璧だ。  シチュエーション的に、文句のつけどころのない気持ちいい朝である。 「……なんだけど、なんか損したような……?」    はて、と首をかしげながら青空を仰ぐ。  大きめに切ってもらった豆腐、六十円の豆乳パック。  この幸せに匹敵するモノなんて、そう簡単には転がっていないと思うんだが。  散歩がてらにゆっくりと戻ってきて、豆腐をどう使うか悩むコト二十分。  気が付けば時計の針は八時半を指していた。 「おはようございます、シロウ。今朝は随分とゆっくりなのですね」 「ん? ああ、おはようセイバー。今日は日曜で学校がないから、その分ゆっくりしていられるんだ。体の調子もいいから、朝飯が終わったら道場に行こう」 「ええ、望むところです。ではシロウ、半身の麻痺は完治したのですね」 「あ、そう言えばそうだった。  商店街から気持ちよく散歩できたし、もうほとんど治ってるみたいだ。……ま、まだかすかに重いけど、この分なら明日には治ってる」 「それは良かった。〈貴方〉《マスター》が傷を負ったままでは私も立つ瀬がない。シロウがいつも通り厨房に立っていると、私も安心できます」  セイバーはテーブルの横、自分の定位置に腰を下ろす。  藤ねえと遠坂が起きてこないのは寝坊と言わざるを得ないが、休日なんだし、朝食が出来るまで寝かしておいてやろう。 「おはよう凛。昨夜はゆっくり眠れたようですね」  お。  なんて言ってる間に、遠坂が起きてきたみたいだ。 「……おはよ。別にそうでもなかったんだけどね。陽射しは眩しいし、零時過ぎてもごそごそやってるヤツラはいたし」  セイバーに答えながら、遠坂は居間に入ってくる。  ―――さて。  朝から小言なんて言いたくないが、食パンを全滅させた理由ぐらいは問いたださねば。 「おはよう遠坂。早速だが今朝の――――」    ――――息が止まる。  遠坂のヤツ、朝っぱらから、また見慣れない服装をしてる。 「ぁ――――、と」    どくん、と唐突に心拍数が上昇する。  ……あの真っ赤な服のせいだ。  あんまりにも目に痛いから、言いたかったコトが、頭の中から綺麗さっぱり蹴っ飛ばされた。 「―――朝メシ、作ってる途中。出来るまでお茶でも飲んでろ」  平静を取り繕って二人分のお茶をテーブルに置く。  が。 「なにのんびりしてるのよ。今日は出かけるんだから、早く用意しなさい」  朝食なんて後回しだ、と遠坂は睨んできた。 「は―――? えっと、出かけるって何処に」 「隣街までよ。ほんとは遠出したいけどさすがにそこまでの余裕はないでしょ。だから妥協案ってコトで」 「……?」  新手の先制攻撃か。  遠坂の意図が、俺にはどうも掴めない。 「はあ。妥協案はわかったけど、何しに?」 「何って、遊びに行くに決まってるじゃない。デートよ、デート」 「デートって―――誰が、誰と」 「わたしと、士郎が」  きっぱりと言う。 「――――――――?」  それにはてな?と首をかしげたあと。 「デ―――デートって、俺と遠坂があああああああ!?」 「それ以外に誰がいるのよ。昨日の夜そう言ったでしょ」 「――――」  ちょっと待て。  なんだそれ、幾らなんでも急すぎて頭の処理速度が追いつかないっ……! 「ほら、いいから行くわよ。どうせこんなコトだろうと思ってたし、お弁当作っておいたから。はい、士郎はこのトートバッグを持ってついてくる」  緑色のトートバッグを押しつけ、遠坂は居間を後にする。 「――――――――」  それを呆然と見送る俺。 「シロウ……? 凛の後を追わなくていいのですか?」 「あ――――ああ、ちょっと待て遠坂――――!」  慌てて走る。  足音は二人分。  後ろにはセイバーもついてきている。 「遅い。女の子を待たせるなんて、随分余裕があるのね」    余裕も何もねえ。  こっちの言い分も聞かず、もう、デートに行くっていうのは決定事項になっているらしい。 「いや、だから待てってば……! 遊びに行くって、その、どうして!?」 「そういう気分だから。別に構わないでしょ、どうせ昼間は何もしないんだし。今更逃げるなんて言わせないわよ」 「っ―――たしかに構わないだろうけど、ほら―――そうだ、アーチャーはどうするんだよ! あいつだって反対だろ、こういうのっ!」 「アーチャーは置いてきたわ。今頃わたしの家で寝てるんじゃないかしら」 「――――――――」  ……勝てない。  俺だけじゃ遠坂を言い負かせられない。  こいつを止められるとしたら、ええっと―――― 「そうだ、セイバー! セイバーはどうするんだ」 「セイバーならいいわよ、同伴しても」  玉砕。  わずか一言で、こっちのカードは全て粉砕された。 「いい加減観念した? なら急ぎましょ。今日はマスターの義務なんて忘れて、思いっきり遊ぶんだから」 「え―――ちょっ、待てったらばかっ……!」  戸惑っている余裕なんてない。  こっちの手を掴むやいなや、遠坂は玄関から飛び出した。 「っ―――…………!」  ……なんか、観念するしかないみたいだ。  今朝の遠坂はやけに元気でちっとも敵いそうにないし、抗議したところで論破されるのは目に見えているし、何のつもりかセイバーも文句一つなく付いてくるし。    ……いやまあ、それになにより。    ほら。なんか、今日はすごくいい天気だし。    ……息があがる。  どこをどう走ったのか、気が付けば、目の前には見覚えのある洋館が聳えていた。           「士郎、こっち……! 意識はある? まだ歩ける?」    ……誰かに手を引かれて走る。  体は異様に軽かった。  中身をぶちまけて身軽になったのか、感覚がなくなったのか。  重さを感じるものは、片腕でしっかりと抱き留めている藤ねえの体だけだ。    よく見えない。  どこを歩いていて、なにをしているのか曖昧になっていく。         「藤村先生はそこに寝かせて。……ちょっと、聞いてるの士郎!? いいから、ここなら安全だから手を放しなさいっての……!」    誰かが、抱いていた誰かを奪っていった。    ――――大切な重さが消える。    それと入れ替わりで重くなった。  あんなに軽かった体は鉄になって、立つ事もできず倒れ込む。           「っ……! アーチャー、急いで! 手当てをするからわたしの部屋に……!」    誰かの声が聞こえる。  体は重く、熱かった。  ……赤化するイメージ。  刃を鍛える時、鋼に火を当てるとこれぐらい熱くなるんだろうか、と。  益体もなく時間をさまよっている間に、段々と熱は下がっていってくれた。 「――――――――――――」    知らない部屋。  ゆだった頭で天井を見る。  ……それしか出来ない。  ベッドに寝かされているらしい。 「わたしじゃ治せない。この傷じゃこれ以上は戦えないでしょうけど―――もうマスターじゃないんだから、戦う理由もないか」  ……さっきとは違う、落ち着きを取り戻した声。  ここまで連れてきてくれて、傷の手当てをしてくれた誰かは、     「―――ここまでね。士郎はもう戦わなくていいわ」      そんなコトバを、口にした。 「――――――――」  何か言おうとして、目の前が真っ暗になった。  目蓋が落ちる。  麻酔が体を眠らせていく。  遠ざかっていく誰かの気配と、閉められる扉の音。   「――――――――」    意識は、そこで途切れた。    ――――静かな夜だった。    山林に吹く風は穏やかで、木々のざわめきは囁きほど〈幽〉《かす》か。  冬を謳う鳥もおらず、月に吠える獣もない。  柳洞寺に通じるただ一つの通路。  長い石造りの階段は、今宵も平穏を維持していた。    だが余人は知らず。  この場は既に五戦を耐え、その度に死闘が繰り広げられた事を。  柳洞寺に挑んだ数々のサーヴァント。    バーサーカー、ランサー、ライダー、セイバー、アーチャー。    その五者を悉く撃退した魔人があってこそ、山門は穏やかに闇を〈貪〉《むさぼ》れるのだ。    長刀が走る。  月のない夜で幸いした。  弧月の如き太刀筋は、月が見れば己が異形を恥じるほど流麗。   「聞いているのですかアサシン。貴方には門番を続けてもらう、と言ったのです」    紫の魔術師、キャスターの声もどこ吹く風か。  アサシンは長刀を下げ、関心なさげに山林を一瞥する。   「いや、邪魔者がいてな。おかしな〈梟〉《とり》をみかけたので斬ってみたが、血も出なければ悲鳴もあげぬ。これはおまえの同胞か、キャスター」   「っ……! ……そう、監視役の使い魔ね。バーサーカーのマスターか、あのお嬢さんか。どちらにせよ、ここもそう長くは保たない」    キャスターは山林に歩み寄り、地面に散った“モノ”を見下ろす。  そこにあるのは〈梟〉《ふくろう》の死骸だ。  鉱石で出来た石の鳥。単純ながらも監視役として優れた〈作品〉《ソレ》は、アーチャーのマスターによるものだろう。   「……ふん。あのお嬢さんも運がないわね。もう少し無能なら、教え子にしてあげてもよかったのに」    踏み潰す。  〈紫水晶〉《アメジスト》の鉱石は跡形もなく粉砕され、星のような輝きを地面に散らせた。   「こんな輩も多いですし。マスターの守護は任せましたよ、アサシン。マスターが死んでしまっては私も消えざるを得ない。そうなれば貴方とて存在してはいられない。  消えたくなければ死ぬ気で門を守りなさい」   「さて―――死ぬ気で、というのは難しいな。この小次郎、生まれてこの方“生きている”という実感がない。  そのような者に決死を命じても無意味ではないかな、キャスター」 「――――減らず口を。  勘違いはしないことねアサシン。貴方は私が呼び出したサーヴァントよ。奴隷は奴隷らしく振る舞いなさい。  いいこと、主人に忠誠を誓えないのなら、ここで消してしまうだけよ」    キャスターの言葉には敵意と侮蔑しか存在しない。  彼女にとってアサシンは道具にすぎない。  道具が口をきく事でさえ癇に障るというのに、まして皮肉を言われては苛立つのも当然である。   「そうか、それはしたり。カゲロウの如き我が命だが、いま消されるのは困る。一つ、約束をしてしまったのでな。出来るのならば果たしたいのだ」 「―――なら言葉を慎みなさい。貴方はただここを守っていればいい。  ええ、それが果たせた暁には貴方を本物にしてあげるわ。宝具も持たない下級の貴方が英霊になれるのだから、命を賭ける価値はあるでしょう?」   「心配は無用だ。もとより〈幽世〉《かくりよ》の身、与えられた役割は演じきってみせよう。  だがいいのかなキャスター。私も主人に忠実ではないが、おまえとて不義理ではないか? 此度の件、マスターには内密であろう」  瞬間、アサシンの体が爆ぜた。  ドン、という音。  彼の体内――――召喚時に植え付けられたキャスターの〈腫瘍〉《のろい》が飛び散ったのだ。    木々が揺れる。  吹き飛ばされたアサシンは山林に叩き込まれ、自らの〈肋〉《あばら》で胸を串刺しにした。  その姿は、展開した花弁に似ている。   「ぐ―――これは、また。日に日に度が過ぎていくな、キャスター」 「――――黙りなさい。次に同じことを言わせるのなら、あと五日を待たずに消し去るだけよ」 「……まったく。女と〈小人〉《しょうじん》は手におえんと言うが、おまえは〈些〉《いささ》かいきすぎだ」    ゆらり、と立ち上がる伊達姿。  胸から肋を見せようが、全身が血にまみれようが、このサーヴァントの優美さは損なわれない。   「おお、そのような目で睨むな。美しい顔が台無しだぞキャスター。わかっている、おまえのマスターには全て内密に行うのだろう。セイバーを捕らえた事も、私という門番がいる事も隠し通す。  よい美談ではないか。主人を思うその心意気、あの男に通じるといいのだが」 「―――――――アサシン、貴方」   「なに、ただの負け惜しみだ。どうあろうとおまえには手をあげられぬのだから、この程度の戯言は許せよ。  ―――門は守る。何があろうと守り通そう。  だが、そういうおまえは何処に行く? 私の守りは信用できぬか?」   「――――当然でしょう。貴方はただの保険よ。  けど、それも終わり。セイバーさえ手に入れれば、こんな〈鄙〉《ひな》びた場所を神殿にする事もないわ」 「……ふむ、陣地変えか。となると、確かに私は用済みだが。このお山に勝る霊地があるとでも?」 「ええ。多少は劣るようだけど、私に相応しい場所があるわ。それに―――遠からずそこには足を運ぶのですもの。いますぐに行っても問題はないでしょう?」   「――――」    終始涼しげだったアサシンの表情が曇る。  それに満足したのか、キャスターは艶やかな唇を歪ませた。   「そう。私たちの勝利は揺るがないのだから、先に〈賞品〉《・・》を受け取りに行くの。  新しい陣地と聖杯。それにセイバーという駒まで揃えた。これなら乗り気でない私のマスターも、私の方針に異論は挟めないでしょう?」    それは事実だ。  キャスターのマスター、葛木宗一郎がいかに沈黙を守ろうと、そこまで条件が揃ってしまえば戦わざるを得ない。  だが、それ以上に確かな事は。   「―――つまらない戦いはおしまい。聖杯さえ手に入れれば恐れる物は何もない。  ……そう、誰であろうと、私を阻む事はできなくなるのですからね―――!」    哄笑が夜を汚す。  紫の魔術師は高らかに勝利を謳う。  それを横目にして、長刀の剣士は空を仰いだ。        ――――刻限は近い。    どのような結末になろうと、許された時間は残り五日。    日数を使い切る事はないだろうが、そう簡単に決着がつく争いではない事を、修羅を生き抜いてきた剣士は感じ取っていた。 「は――――、はあ――――、は――――」    そうして倒れた。  呼吸もままならない。  肩の傷は赤く腫れ上がり、息をするだけで激しく痛んだ。 「――――――――」    意識を保てない。  気を抜けば今すぐにでも眠りに落ちる。  ……いや、そもそも覚醒しているかさえアヤフヤだ。  あの屋上からここまで、どう帰ってきたのか、何の為に帰ってきたのかさえ、定かではないんだから。  ……意識が曖昧になっていく。  確かなものは連呼する鼓動だけ。 「――――――――」    ……関わるな、と遠坂は言った。  俺は無力で、もう戦う理由はないのだからと。 「――――――――」    けど、それは違う。  自分が無力なのは、誰より自分自身が判っていた。  戦う理由は、もっと別の物だった。    ……それを、ただの傷痕にする訳にはいかない。  誰かに負けるのは仕方がない事だ。  打ちのめされるのは慣れっこだし、どうあっても届かない事ぐらい、悔しいが理解してる。    けど、それは相手が他人の場合だけの筈。  自分には負けられない。  戦力が同じなら負ける要素はありえない。  そんな相手に膝を屈する事は、自身が間違っていると宣言する事になる。 「っ――――――――!」    傷が歪む。  包帯に血が滲む。 「ぁ――――、っ――――!」    それを右手で押さえつけて、消えていく意識で闇を睨んだ。    十年前の記憶。  親父だった男の言葉。    ……自分が初めから間違いであったとしても、この道に間違いはない。  あの出来事をただの悲しい過去にしない為に、正義の味方になろうと思った。    誰もが幸福な時間。  誰も涙しないという理想を、十年前から抱いてきた。 「―――――――なら」    どんなに頭が働かなくても構わない。  やるべき事は最初から決まっていた。  マスターになったから戦ったんじゃない。  自分に出来る事だから、やらなくてはいけない事だと信じたから、戦うと決めたのだ。    そんな当たり前のこと、俺はようやく思い出せた。 「――――遠坂。おまえが、どんなに言っても」    正しいと信じたなら、最後までこの道を信じ抜く。  このまま〈止〉《や》める事なんてしないし、あいつを一人で戦わせるなんて真似もしない。    ……その為に今は眠る。  足手まといなんて言わせない。  こんな傷、一晩で治してみせる。    そうして、目が覚めて朝になったら――――    ……目が覚めて、朝になったら。  必ずあいつに追い付いて、今度こそ、あの夜の借りを返さないと――――    日が落ちた。  見えもしなかった日が没し、もとより陰鬱とした空はさらに闇を増していた。   「―――そうか。セイバーが奪われたか」    アーチャーの感想はそれだけだった。  彼の主、遠坂凛も簡潔に事実だけを述べたが、彼の簡潔さはそれを上回っている。   「……それだけ? これでキャスターの下にいるサーヴァントは二人よ。何か他に感想はないの?」 「ああ、これといった打開策は思いつかないな。だがヤツの宝具が判明しただけでも良しとするべきだ。  ―――サーヴァントとマスターの契約を断つ、か。事前にそれを知っておけば、上手く事を運べるだろう」 「それはそうだけど。  ……随分無関心なのねアーチャー。貴方、セイバーに肩入れしてたんじゃないの?」   「―――そんな素振りを見せたつもりはないが。何を以ってそう思う、凛」 「そうね。女の勘、で納得できる?」 「却下だ。女という歳か、君は。まず色香が足りない。  優雅さも不足だ。  おまけに―――ああ、これが致命的なのだが、とにかく可愛さが判りづらい」   「――――ふん。なんだ。ようやく調子出てきたわね、アンタ」    彼女は嬉しげに〈微笑〉《わら》った。  アーチャーはこうでなくては嘘だ。  無感情に振る舞うアーチャーなど、凛の信頼するパートナーではない。  彼女の相棒は常に余裕めいていて、誰であろうと皮肉を口にしていなければならない。    それがこの騎士の優しさだと凛は気づいている。  皮肉を言うのは、そう、ようするにそこを直せと遠回しに忠告しているようなものなのだ。   「そう。じゃあ確証そのいち。  貴方、初めてセイバーと会った時、手を抜いてたでしょ。  いくらセイバーが強いっていっても、守り上手な貴方が一撃で倒されるとは思えないのよね」   「あれは不意打ちだったからな。君と同じ、予想外の展開には弱いんだ」 「余計なお世話よ。で、確証そのに。  ライダーの一件の後、セイバーを挑発してたでしょ?  あれってどう考えてもアンタらしくないのよね。  それで少し見方を変えてみたらわかっちゃった。貴方、あの時セイバーを叱ってたんでしょ」   「………………………………」 「あ、正解? やっぱりねー。そうじゃないかと思ってたんだ。前世からの因縁にしろ何にせよ、アンタがあそこまで冷たい態度をとるなんて珍しいもの」 「そうかな。私は誰に対してもああいった対応をしていると思うのだが」 「そう思うは本人ばかりってね。思うんだけど、貴方って自分に関する事だけは不器用なのよ。周りに対してはすごく器用だから、つい騙されちゃうんだけど」    ふむ、とアーチャーは難しげに顔をしかめる。  どうやら自覚はあったらしい。  赤い騎士は困った顔で黙り込み、彼の主はそれを楽しげに眺める。  そうして、唐突に。   「で、そろそろ思い出した? 自分がどこの英雄か。セイバーと関係があるなら、セイバーに近い時代の英雄なんでしょ?」    何か、試すように彼女は言った。   「――――いや、〈靄〉《もや》がかかったままだ。  だが君の言う通り、あのセイバーには覚えがある。あちらは知らないようだから、あまり深い関係ではなかったようだが」 「ふーん。じゃあ友人とか恋人関係じゃなかったのね。  残念。そうだったらセイバーの正体も判ったのに」    それは惜しむ口調ではなかった。  とって付けただけの台詞、本心ではない言葉だ。   「まあ、いずれ思い出すさ。  それより凛。連れ込んできた者の様子はどうだ。命に別状はないのか?」   「……うん、なんとか命は取り留めたわ。あいつ、昨日まで怪我を負っても勝手に治ってたクセに、今回の傷は全然治らないのよ。契約が切れたら、セイバーから貰っていた治癒能力がなくなったんでしょうね。  けど、まあなんとかなったわ。幸い急所は外れてたし、三日ほど安静にしていれば食事ぐらいはできるようになる」   「いや、そっちじゃない。もう一人の方だ」 「え? あ、藤村先生? あの人なら寝室で寝かせてあるわ。キャスターの眠りの魔術を受けているけど、本人はすっごく元気よ。処置はしてきたから、一週間眠り続けても支障はないわ」   「――――そうか。だが、キャスターの魔術なら眠り姫になりかねないな。あの女のそれは魔術というより呪いだ。解呪するには本人を倒すのがてっとり早い」 「そうね。どのみち聖杯戦争も長くは続かない。一日でも早くキャスターは倒すし、藤村先生ならひょっこり自力で起きそうだし」    違いない、と同意するアーチャー。  そうして、お互いに会話がなくなった後。   「キャスター退治が最優先だな。マスターが一人減ったとは言え、セイバーは健在だ。……余裕はないぞ、凛」 「わかってる、すぐに街に出るわ。  いくらキャスターでも、セイバーを完全に支配するには時間がかかるはず。出来ればセイバーが操られる前にキャスターを倒さないと」   「了解だ。――――では、あの小僧との契約もここまでだな」 「え――――?」 「え、ではない。衛宮士郎はマスターではないのだろう。  ならば戦力にはならんし、わざわざ守ってやる必要もない。君が使った二つ目の令呪は、これで解約という事だ」 「――――――――」 「どうした。まさか、ともに戦ったよしみで面倒を見る、などと言うのではなかろうな」 「――――まさか。そこまでお人好しじゃないわ」   「なら」 「けど、まだ終わってない。あいつが自分から降りるって言うまで、約束は破らない。  ……わたしはつっぱねるけど、あいつがまいったって言うまでは終わらせちゃいけないんだから」    迷いながらも彼女はそう断言する。  それに、いったいどんな反旗を翻せるというのか。   「それがわたしの方針よ。文句ある、アーチャー」 「――――仕方あるまい。君がそういう人間だという事は、痛いほど解っている」  答える声は皮肉げだった。  それにふん、と鼻を鳴らして彼女は命じる。   「行くわよアーチャー。どうしてか知らないけど、キャスターは柳洞寺に戻っていない。  なら――――捜し出して、戻る前に倒しましょう」    もはや返答するまでもない。  赤い騎士は無言で頷き、主の後に続いていく。    空には陰鬱とした雲塊がいまだ滞在している。  月のない夜。弓兵を引き連れ、彼女は標的を狙いに発った。  どん、と殴りつけられるような感覚。   「――――――――、あ」    肩の痛みで目が覚めた。  ……体はきちんと在る。  手足の感覚も、自分の呼吸の音も聞き取れる。  肩には包帯が巻かれていて、眠っているベッドはふかふかだった。 「――――あ、れ、ここ」    ……見知らぬ部屋だ。  たしか、そう――――誰かが、何か言っていた。             ―――ここまでね。士郎はもう戦わなくて――― 「っ……!」  体を起こす。  一切合切を思い出して、ベッドから跳ね起き―――   「づ――――!」    痛みで、体がくの字に曲がっていた。 「あ――――つ…………!」    ……左肩に触れる。  そこだけがまだ、火のように熱い。  肉離れが何倍にもなった感じだ。  いや、貫通しかけたぐらい剣で刺されたんだから、腕が付いているだけでも幸運なんだろうが、正直、きつい。 「ぐ……あ、あ、は――――」    ゆっくりとベッドから出る。  歯を食いしばれば、なんとか耐えられる痛みだ。  これならすぐに―――― 「――――――――」  ……肩の熱が頭まで上ってくる。  それを振り払って、足を動かした。 「――――誰も、いない、のか」    ああ、誰もいない筈だ。  遠坂の言葉を覚えている。  あいつはあんな事を言って去っていった。  なら、今頃は一人で戦いにいったはずだ。 「は――――はぁ、あ――――」    ドアに向かう。  とにかく外へ。  外に出て遠坂を見つけないと。 「く――――」  倒れる。  倒れそうになって、化粧台に手をかけた。   「つ――――」    ……無駄だった。  よりかかった化粧台ごと床に倒れる。 「わりぃ……散らかしちまった、遠坂」  散らばった小物を拾い集めて元に戻す。 「…………あれ?」  その中に、見覚えのある物があった。  「……これ、どこかで――――」    どこかで見た。  ……そうだ、あの時もこんなんだった。  ランサーに胸を刺された夜。  死に至る傷を受けて、いつのまにか治っていた。  気だるい体で廊下を去る時、たしか、拾い集めたものがあった筈だ。          熱い。  肩の毒が、脳に回って粗雑になる。 「……そうだ。これ、あの時のと同じだ」    わかっているのに、思考だけがまとまらない。  今まで夢だと思いこんでいたコト。  あの時ランサーと戦っていたのは誰のサーヴァントだったのかとか。  死にかけた俺を助けられるヤツ、そこにいる必然性があったのは誰だったのか。  ……そんなこと、もう考えるまでもないっていうのに、頭のなかがグラグラしている。 「……くそ。一つ貸しだとか借りだとか言っておいて。こんなの、絶対に返せない借りじゃないか――――」    クラクラする。  痛みと熱と、自分の馬鹿さ加減でぐちゃぐちゃだ。 「は――――ぁ――――」    足を動かす。  とにかく、いまは捜さないと。  言いたいコトがあるし、言わなくちゃいけないコトもできちまったし。  こんなシチューみたいなあたまじゃ、今は、それぐらいしか考えられない―――― 「はあ――――はあ、はあ、あ――――」    気が付けば、駅前に足を運んでいた。  朦朧とした頭は、漠然としたイメージだけで動いている。  ……そこにいる、と。  あいつを捜すのならそこに行け、と命じてくる。 「――――――――」  ……どうしてここに引かれるのかは知らない。  〈茹〉《ゆ》だった頭はこのビルだけを思い浮かべていた。 「―――――――っ」  ……なら、それに従うしかない。  もとより遠坂を捜す手段はない。  それが何であれ、今は何かにすがるだけだ。  ――――屋上に出る。  高層に吹く風はなお冷たく、熱しきった頭を少しは冷ましてくれた。   「――――――アンタ、なんで」    息を呑む気配。  遠坂はいつかの夜と同じように、この屋上で街を見下ろしていた。 「帰りなさい。なんのつもりか知らないけど、目障りよ、貴方」  怒りを顕わにして俺を見る。  その背後には、  おまえの出番はない、と無言で告げるヤツの姿があった。 「帰らない。戻る時は遠坂とだ。一緒に戦うって約束しただろ、俺たちは」  霞みかける意識を力ずくで〈纏〉《まと》めて、なんとか口を動かした。 「そんな約束忘れなさい。だいたい今の貴方に何ができるっていうのよ。セイバーを失った貴方に、マスターの相手は務まらない」 「――――――それは」 「それに、貴方が戦う必要なんてもうないわ。  マスターじゃなくなったんだから、教会に逃げ込めば安全よ。あとは大人しくしていれば、聖杯戦争は終わってくれる」 「――――――――」  その言葉に、気を失いかけた。 「馬鹿言うな、セイバーをあのままにしておけるか……!  いいか、一度戦うと言ったんだ。なら、どんな事になったって最後までたた――――」 「づ――――!」    視界が赤色に反転する。  声が、出せない。  ただ叫んだだけで、全身の筋肉がひきつって、死にそうに、なる。 「それ見なさい。今まではセイバーの助けがあったけど、なくなればそうなるのよ。  ……いい、衛宮くん。人間は傷つけば死ぬの。貴方のその傷だって、本来なら致命傷なんだから」 「あ――――は、あ――――あ」  ……くそ。  そんなコト分かってる。  分かっているのに、苦しすぎて、言うべき言葉が出てこない―――― 「それにセイバーがどうのこうのって言うけど、それは貴方が気にかける問題じゃないわ。  衛宮くんはマスターじゃなくなったんだから、セイバーがどうなろうと関係ないでしょう」 「――――――――」  関係なんて、ある。  この痛みが、今までセイバーによって助けられていたっていうのなら尚更だ。 「……違う、マスターでなく、てもだ。  セイバーは、嫌がっていた。あんなヤツの言いなりになんて、させられ、るか…………!」 「――――そう。けど貴方は無力よ。  ……いいわ、貴方が認めようとしないのなら、代わりに私が言ってあげる。  今の貴方じゃ、セイバーを助けるコトなんて出来ない」 「――――――――」  熱が消える。  冷徹なその言葉に、煮え立った頭の中でさえ、凍り付いた。 「話はここまでよ。  セイバーはいなくなって、マスターでもなくなった。  聖杯戦争なんていう殺し合いに巻き込まれる理由はなくなったんだから、ここで士郎は降りなさい」  背中を向けて歩み去る遠坂。 「っ――――!」  吹き上がるビル風の中。  なんの躊躇いもなく、遠坂は地面を蹴っていた。   「ば――――! ばか、なに考え――――」    必死に腕を伸ばす。 「――――――――」  その必要はなかった。  遠坂の傍らには、あいつを守るように赤い騎士の姿が浮かび上がる。  この高さから飛び降りようと、サーヴァントさえいれば問題なく着地できるだろう。 「――――――――」  遠坂の唇が、かすかに動く。  ……何を言ったかは聞き取れなかった。  ただ、向けられた目が。             ―――これ以上関わると死ぬわよ、と。    最後通牒のように、冷淡に告げていた。 「――――――――」    冷めていた熱が戻ってくる。  痛みと熱で思考が錯乱していく。            ――――俺では、セイバーを助けられず。      衛宮士郎が戦う理由は、何処にもない。 「――――――――」    ……傷が痛む。  遠坂を飲み込んだ夜景を見下ろしながら、その言葉を、頭の中で繰り返していた。 ~お報せ~  今回のタイガー道場は、師範代が誘拐中の為お休みです。 次回新シリーズ『魔法の藤ねえ・まじかるたいがー』にご期待ください。   さて。  そんなこんなで食後のお茶会になったのだが。 「つまり投影には投影なりの限度ってものがあるワケ。  一見、イメージを形にするっていう何でもありに見えるけど、投影には色々と独自の〈制約〉《ルール》がある。  その制約の中で一番判りやすいのは投影物の損傷。存在における強度ってヤツよ」    紅茶を飲みながら、びし、と指をたてる遠坂。 「存在における強度……? なに、幻想なるモノの存在に耐えられない軽さってヤツ?」    対して、緑茶をずずー、とすすって首をかしげる俺。 「……何も知らないようでいてつまんない言葉知ってるのね、貴方。……けどまあ、当たらずとも遠からずかな。  投影は自己のイメージから、それにそった本物を完璧に複製する。これに例外はないわ。  自分の中で完璧でなければ投影はできない。真作の影である以上、一分の隙も許されないのが投影魔術よ」 「だから―――基本的に、投影によって生み出されたモノは自己のイメージ通りの強度を持つわ。幻想、という点においてはこの時点で完璧なのよ。  加えて投影する術者のイメージ、知識が『本物』に近ければ近いほど、現実においても完璧になるわけ」 「……む? ちょっと待った、それはおかしい。  俺、アーチャーの剣を投影しただろ。けど、それは葛木に壊された。  いくら葛木の拳にキャスターの強化がかかってるからって、宝具を壊せるほどじゃない。  って事は、俺が投影したアーチャーの干将と莫耶は〈本物〉《オリジナル》に数段劣るって事じゃないのか」 「はい、いいところに気が付きました衛宮くん。  それが投影の限界、存在における強度ってヤツよ。  いい? 投影はあくまで投影。創造じゃない。投影を作り上げるのは術者のイメージだけだから、イメージそのものに綻びが生じた時、本物と同じ性能であろうと霧散するの」 「……? イメージに綻びが生じる……? それもヘンじゃないか? イメージが間違っていたら、そもそも投影はできないんだろ」 「ええ。だから綻びが生じるのは投影した後になるわ。  ……そうね、たとえば士郎が『絶対に折れない名剣』を投影したとするでしょ?」    こくん、と頷く。  遠坂はよしよし、と満足げに頷いたりする。 「けど、絶対に折れない剣なんてものはない。  その剣の表現方法、伝承、売り文句等に『絶対に折れない』というパーソナリティがあるだけで、実際はそれを上回る幻想にぶつかれば刃こぼれぐらいするし、折れる事だってある」 「……? それ、折れた時点で俺のイメージが間違っていた、って事にならないか? 俺は『折れない剣』を作ったんだから」 「ならない。  投影が成功した時点で、形の上での間違いはないんだし、そもそも『折れない剣』なんて名前みたいなものでしょ。実際に折れない剣なんてないんだから。  けど士郎。貴方がイメージしたものは『絶対に折れない剣』よね。これが現実で折れちゃった場合、投影された物は嘘になるのよ」 「それは『剣が折れたから』じゃないわ。  貴方がイメージしたものは『折れない剣』。  それが折れてしまった時点で、士郎の中の『折れない剣』と、『いま折れてしまった剣』は別物になる。  ―――貴方と現実、その秤が崩れてしまうから」  ……?  ええっと、遠坂の話を解りやすく纏めてみるとだな。 「―――よし。  つまり、俺は折れない剣を想像して投影した。けど、実際に投影した剣は戦闘中に折れてしまった。  その時点で、俺自身がその剣を『なんだよ、実際は折れちまうじゃないかこの剣』と否定してしまって、結果として投影したモノは消えるって事か?  その、イメージの〈齟齬〉《そご》によって」 「冴えてるじゃない。ええ、つまりはそういう事。  貴方はアーチャーの剣を投影した。  貴方の中でアレがどんな位置づけだったかは知らないけど、士郎自身は葛木の攻撃で壊れるような剣をイメージしてはいなかった」 「けど実際に剣は破壊されてしまった。  その時点で、貴方はその剣を“こんなのはアーチャーの剣じゃない”と思ってしまったのよ。  で、作り上げられた投影は術者の否定によって存在強度を失い、もとの空想に戻ったってわけ」 「――――――――」  ……なるほど。  投影された武器だって破壊される事はある。  しかし、投影された武器を消滅させるのは敵ではなく自分自身という事か。  自身のイメージと現実、その落差が大きくなり、それを修正しきれなくなった時、投影された武器は消え失せてしまうのだ。  なにより、それを生み出した俺自身が、その幻想を信じ切れなくなる事によって。 「わかった? だから、投影魔術はまず設計図から入るの。あとは材質と性質、歴史なんかも考慮すべきね。そのあたりから固めていけば、多少現実でイメージと違ってもすぐに消える、なんて事はないでしょ」 「え? それなら、何故それを作る気になったのかってのが最初じゃないか?  材料と技法だけじゃダメだ。  今日の夕飯だって、まず遠坂が和風が食べたいって言ったから始まっただろ。なら、創作する上での発端から始めないと」 「――――――――」  あ。  なんか、遠坂がぼけっとしている。 「…………………………」  じーっ、とこっちを見据えてくる遠坂。  緑茶を飲みつつそれを受けて、はて、と首をかしげた。 「なあ。なんでこんな話になったんだっけ」 「……そういえばそうよね。わたしたち、たしか今後の作戦を話し合ってたような……」  ああ、そうだったそうだった。  これからどうするかを話し合っている内に遠坂のやつが、   「士郎、本格的に投影魔術をやってみない?」    と、無責任なコトを言いだしたんだっけ。 「……思い出した。不確定な要素に希望を持っちゃうぐらい行き詰ってたんだっけ」 「―――まあ、そうだな。  だいいち俺の投影なんて剣を作れる程度だ。それも今まで役に立ったコトなんてないんだから、大した戦力にならないだろ」 「……………………」  あ、またヘンな目で見ている。  ……どうしてかな、投影魔術の話になるとああいう顔するよな、あいつ。 「……まあいいわ。もう一度状況を確認しましょう。  目下のところ、敵はキャスター。あいつだけなら大した事はないけど、白兵戦に長けた〈葛木〉《マスター》と、あっち側についたアーチャーに守られている限り手は出せないわ。  加えてセイバーが操られるのも時間の問題。状況は刻一刻と悪くなっていく訳だけど――――」 「……ああ。けど、アーチャーはともかくセイバーはまだキャスターの自由にはなっていない。  それが勝機と言えば勝機だろう。  セイバーが完全にキャスターの軍門に下ったら、それこそ俺たちに勝ち目はない」  それに、そんな事は絶対にさせられない。  ……逃げろ、と。  涙をこぼしながら告げたセイバーの為にも、あんなやつの思い通りになんかさせられるか。 「――――そういう事ね。  それじゃ意見のある人は挙手。士郎、なんかいいアイデアある?」 「む――――」  現状を打開する策。  キャスターに対抗する術があるとしたら―――   「―――策なんてもうないだろ。  こうなったら小細工なしで、真っ向から勝負するだけだ」    キッと目じりに力を入れて、正面から遠坂を見据える。 「…………で?  一応訊いておくけど、それ本気?」 「――――――――う」  ……じ、尋常じゃない迫力だ。  遠坂のヤツ、呆れたのを通りこして怒ってるぞ、本気で。 「……すまん、勢いで口にした。考えなしで面目ない」 「ええ、本当にね。一瞬、今からでも手を切るべきか本気で悩んだじゃないバカ」 「はいはい、どうせバカですよ。  ……けど、そういう遠坂はどうなんだよ。なんか打開策とかあんのか?」 「え? ……まあ、そりゃあ一つぐらいはあるけど、言っていいの?」 「……? なんだよ、珍しく弱気じゃないか。考えがあるなら言えばいいだろ。  遠坂の意見ならちゃんと聞くぞ、俺。そりゃ納得いかなかったら反対するけど」 「それなら言うけど。  わたしだけじゃキャスターに勝てないのは明白でしょ。  だからこっちも戦力を増やすの。  あっちはサーヴァントを三体も保有しているんだから、こっちも一人はサーヴァントがいないと話にならない」 「戦力を増やすって……じゃあ、他のマスターに助けを求めるのか……?」 「助けじゃなくて共闘よ。キャスターがあそこまで強くなった以上、他のマスターも黙っていられないでしょ?  聖杯が欲しいのなら、一番強い相手を協力して倒して、その後で〈一人〉《ピン》に戻ればいい。  こういうの、〈混戦状態〉《バトルロイヤル》の定石でしょ?」 「――――――――」  強力になりすぎたキャスター陣営を倒す為に、残ったマスターで同盟を作るってコトか。 「……なるほど。交渉次第で協力関係は作れるかもな。  となると……」 「ええ、残るマスターは二人……ランサーのマスターとバーサーカーのマスターね。  ……ランサーのマスターは不明のままだから交渉のしようもないけど、バーサーカーのマスターであるイリヤスフィールなら可能性はあるかもしれない」  バーサーカーのマスター。  始まりの日に出会った白い少女と、岩のような巨人。  言動こそ物騒だったが、あの子は残忍という訳ではなかったと思う。 「……そうだな、あの子なら話し合いに応じてくれそうだ。見返りに無茶な条件も出してきそうにないし」 「―――ばか。士郎にとっちゃアイツが一番やばいのよ。  アイツ、はじめっから士郎しか見てなかったもの。わたしはともかく、アンタはどんな目にあわされるか判ったもんじゃないわよ」 「な……何だよそれ。俺はあの子と一度しか会ってないんだ、そんなコトになるわけないだろ。お、脅かしっこはなしだぞ遠坂」 「…………ふん。そんなコトになったら交渉なんて破棄に決まってるじゃない、馬鹿」  と。  顔を逸らして、遠坂は紅茶を一気飲みした。 「……けど、今はイリヤスフィールに賭けるしかないわね。キャスターの正体がアーチャーの言う通りなら、間違いなくバーサーカーは天敵だし。  なにしろ生前の知り合いだもの。キャスターの手口なんて知り尽くしてるでしょ。バーサーカーなら、キャスターとアーチャーが同時に攻めてきても追い返せる。わたしたちはその間に葛木一人を攻略すればいい」 「そりゃ理想論だけど……遠坂、キャスターはバーサーカーと関係があるのか?」 「ええ、アーチャーが言ってたのよ。バーサーカーの正体はヘラクレスだって。  キャスターが本当にあの希代の魔女なら、アルゴー船繋がりでバーサーカーとは面識があるかもしれない。  わたしが綺礼に苦手意識を持つのと同じ。世の中にはね、どうしたって苦手なヤツっているもんなのよ」  ……はあ。  けど遠坂、あの神父には誰だって苦手意識を持つぞ、きっと。 「―――じゃあ決まりだな。  けど、どうやってあの子を見つけようか。あれ以来出てこないけど、あれだけの魔力を持ってるなら隠れていようと見つけだせるだろ。  なのに見つからないって事は、この街にはいないって事じゃないのか」 「でしょうね。イリヤスフィールはずっと遠くから聖杯戦争を眺めて愉しんでるんでしょ」 「……ずっと遠く……? キャスターみたいに柳洞寺から街を監視してるのか?」 「さあ。けど、どこに居るかは見当がつく。  ……昔、父さんから聞いた事があるのよ。アインツベルンは郊外の森に別荘を持ってるって」  硬い声で言い捨てる。  ―――郊外の森に立つ別荘。  それがどれほど危険な場所なのかは、遠坂の様子だけで十分すぎるほど感じ取れた。  ……正面から戦っても今日の二の舞になるだけだ。  戦力的に劣る俺たちが勝つ為には、キャスターの死角をつく奇襲しかない。 「なあ。遠坂は言峰と師弟の関係なんだろ。なら、あの教会については詳しいんじゃないのか?」 「? そりゃ何度か泊まったコトはあるけど……って、ああ、そういうコト。  せっかくのアイデアだけど、あの教会に秘密の通路なんてないわ。あの地下聖堂だって初めてだったし、仮にあったとしても、そんなの綺礼しか知らないわよ」 「まいった、それじゃお手上げだ。……くそ、やっぱりそんな都合よくいかないか。あの神父のコトだから、それぐらいは用意してると思ったんだけどな」 「まあね。けど利用できない以上、他の手を考えるしかない。……その、例えばのアイデアなんだけど、聞いてもらえる?」 「ああ、そりゃ聞くけど……何かアイデアあるのか?」 「ええ。いい士郎、わたしだけじゃキャスターに勝てないのは明白でしょ? なら、単純な対抗策はこっちも戦力を増やすってことよ。  あっちはサーヴァントを三体も保有しているんだから、こっちも一人はサーヴァントがいないと話にならない」 「いや、それはそうなんだが……戦力を増やすって、  他のマスターに助けを求めるとか?」 「助けじゃなくて共闘よ。キャスターがあそこまで強くなった以上、他のマスターも黙っていられないでしょ?  聖杯が欲しいのなら、一番強い相手を協力して倒して、その後で〈一人〉《ピン》に戻ればいい。  こういうの、〈混戦状態〉《バトルロイヤル》の定石でしょ?」 「――――――――」  強力になりすぎたキャスター陣営を倒す為に、残ったマスターで同盟を作るってコトか。 「……なるほど。交渉次第で協力関係は作れるかもな。  となると……」 「ええ、残るマスターは二人……ランサーのマスターとバーサーカーのマスターね。  ……ランサーのマスターは不明のままだから交渉のしようもないけど、バーサーカーのマスターであるイリヤスフィールなら可能性はあるかもしれない」  バーサーカーのマスター。  始まりの日に出会った白い少女と、岩のような巨人。  言動こそ物騒だったが、あの子は残忍という訳ではなかったと思う。 「……そうだな、あの子なら話し合いに応じてくれそうだ。見返りに無茶な条件も出してきそうにないし」 「―――ばか。士郎にとっちゃアイツが一番やばいのよ。  アイツ、はじめっから士郎しか見てなかったもの。わたしはともかく、アンタはどんな目にあわされるか判ったもんじゃないわよ」 「な……何だよそれ。俺はあの子と一度しか会ってないんだ、そんなコトになるわけないだろ。お、脅かしっこはなしだぞ遠坂」 「…………ふん。そんなコトになったら交渉なんて破棄に決まってるじゃない、馬鹿」  と。  顔を逸らして、遠坂は紅茶を一気飲みした。 「……けど、今はイリヤスフィールに賭けるしかないわね。キャスターの正体がアーチャーの言う通りなら、間違いなくバーサーカーは天敵だし。  なにしろ生前の知り合いだもの。キャスターの手口なんて知り尽くしてるでしょ。バーサーカーなら、キャスターとアーチャーが同時に攻めてきても追い返せる。わたしたちはその間に葛木一人を攻略すればいい」 「そりゃ理想論だけど……遠坂、キャスターはバーサーカーと関係があるのか?」 「ええ、アーチャーが言ってたのよ。バーサーカーの正体はヘラクレスだって。  キャスターが本当にあの希代の魔女なら、アルゴー船繋がりでバーサーカーとは面識があるかもしれない。  わたしが綺礼に苦手意識を持つのと同じ。世の中にはね、どうしたって苦手なヤツっているもんなのよ」  ……はあ。  けど遠坂、あの神父には誰だって苦手意識を持つぞ、きっと。 「―――じゃあ決まりだな。  けど、どうやってあの子を見つけようか。あれ以来出てこないけど、あれだけの魔力を持ってるなら隠れていようと見つけだせるだろ。  なのに見つからないって事は、この街にはいないって事じゃないのか」 「でしょうね。イリヤスフィールはずっと遠くから聖杯戦争を眺めて愉しんでるんでしょ」 「……ずっと遠く……? キャスターみたいに柳洞寺から街を監視してるのか?」 「さあ。けど、どこに居るかは見当がつく。  ……昔、父さんから聞いた事があるのよ。アインツベルンは郊外の森に別荘を持ってるって」  硬い声で言い捨てる。  ―――郊外の森に立つ別荘。  それがどれほど危険な場所なのかは、遠坂の様子だけで十分すぎるほど感じ取れた。 「――――――――」  俺たちだけでどうこう出来る相手じゃない。  敵は三人。  ならせめて、あと一人は協力者が必要だ。  ……となると、相手は限られてくる。  同じ魔術師であり、キャスターと戦う理由のある人間。  それは他のマスター以外、何者でもない。 「―――遠坂、怒らないで聞いてくれ。その、他のマスターとは協力できないかな」 「…………。いいわ、その心は? 口にするからには何か算段があるんでしょ?」 「いや、そういう訳じゃないんだが……今のキャスターの状態は、他のマスターにとっても無視できないだろ。  なら今回だけって事で、手を組めるかもしれないと思って」 「……ええ。実はわたしも同じことを考えてた。てっきり士郎は反対すると思ってたから黙ってたんだけどね」  気乗りしない顔で言う。  内心では否定的なんだろうが、今はそれしかないと受け入れているのだろう。 「となると、残るマスターは二人……ランサーのマスターとバーサーカーのマスターね。  ……ランサーのマスターは不明のままだから交渉のしようもないけど、バーサーカーのマスターであるイリヤスフィールなら可能性はあるかもしれない」  バーサーカーのマスター。  始まりの日に出会った白い少女と、岩のような巨人。  言動こそ物騒だったが、あの子は残忍という訳ではなかったと思う。 「……そうだな、あの子なら話し合いに応じてくれそうだ。見返りに無茶な条件も出してきそうにないし」 「―――ばか。士郎にとっちゃアイツが一番やばいのよ。  アイツ、はじめっから士郎しか見てなかったもの。わたしはともかく、アンタはどんな目にあわされるか判ったもんじゃないわよ」 「な……何だよそれ。俺はあの子と一度しか会ってないんだ、そんなコトになるわけないだろ。お、脅かしっこはなしだぞ遠坂」 「…………ふん。そんなコトになったら交渉なんて破棄に決まってるじゃない、馬鹿」  と。  顔を逸らして、遠坂は紅茶を一気飲みした。 「……けど、今はイリヤスフィールに賭けるしかないわね。キャスターの正体がアーチャーの言う通りなら、間違いなくバーサーカーは天敵だし。  なにしろ生前の知り合いだもの。キャスターの手口なんて知り尽くしてるでしょ。バーサーカーなら、キャスターとアーチャーが同時に攻めてきても追い返せる。わたしたちはその間に葛木一人を攻略すればいい」 「そりゃ理想論だけど……遠坂、キャスターはバーサーカーと関係があるのか?」 「ええ、アーチャーが言ってたのよ。バーサーカーの正体はヘラクレスだって。  キャスターが本当にあの希代の魔女なら、アルゴー船繋がりでバーサーカーとは面識があるかもしれない。  わたしが綺礼に苦手意識を持つのと同じ。世の中にはね、どうしたって苦手なヤツっているもんなのよ」  ……はあ。  けど遠坂、あの神父には誰だって苦手意識を持つぞ、きっと。 「―――じゃあ決まりだな。  けど、どうやってあの子を見つけようか。あれ以来出てこないけど、あれだけの魔力を持ってるなら隠れていようと見つけだせるだろ。  なのに見つからないって事は、この街にはいないって事じゃないのか」 「でしょうね。イリヤスフィールはずっと遠くから聖杯戦争を眺めて愉しんでるんでしょ」 「……ずっと遠く……? キャスターみたいに柳洞寺から街を監視してるのか?」 「さあ。けど、どこに居るかは見当がつく。  ……昔、父さんから聞いた事があるのよ。アインツベルンは郊外の森に別荘を持ってるって」  硬い声で言い捨てる。  ―――郊外の森に立つ別荘。  それがどれほど危険な場所なのかは、遠坂の様子だけで十分すぎるほど感じ取れた。  階段を駆け降りる。  壮絶な剣戟は、すぐ間近で行われている。 「しめた。ここ、広間の吹き抜けに繋がってる」  通路の先を確認する遠坂。  廊下はT字に分かれており、それぞれが広間の両側のテラスへ通じているようだ。 「ここで別れましょう。わたしはこっちから様子を見るから、士郎はそっちからお願い」  固まっているよりバラけた方がいい。  ……今の俺たちでは、見つかった時点で逃げ延びる術はない。  それは二人でいようと一人でいようと同じだ。  だから分かれる。  二手に分かれていれば、たとえ一方が見つかったとしても、もう一方だけはなんとか逃げられる希望があるからだ。  遠坂は東側の廊下へ歩を進める。 「――――――――」  頷いて、もう一方の廊下―――正反対に位置する西側の廊下に進む。 「――――士郎」  不意に呼び止められた。 「……判ってるわね。何が起きようと絶対に手は出さないで。今のわたしたちに戦う手段はない。  いい、やばいと思ったらすぐに逃げるのよ。どちらかが捕まっても構わず走って。……誰かを助けるなんて、まず自分を助けてから考える事なんだから」  感情を押し殺した声。  それは忠告というより、どこか懇願に近い響きがあった。  大回りをしてロビーのテラスに出る。  正面、遠く離れたテラスには、俺と同じタイミングで到着した遠坂の姿があった。  遠坂はテラスに着くなり身を屈め、体を隠しながら眼下の様子を覗き見る。  それにならって広間を見下ろした途端、俺たちは同時に声を押し殺していた。 「し、慎二――――!? なんだってあいつ、こんなところに……!?」  瓦礫の上。ロビーの隅で、慎二は楽しげに様子を見ている。  いや、違う。  驚くのはそんな事じゃない。  今、真実認めなくてはいけないのは、慎二が見守っている“戦い”だった。 「」    黒い巨人が、雄叫びをあげていた。  薙ぎ払われる斧剣は砂塵を巻き上げ、うち砕かれた瓦礫を灰燼に帰していく。  以前と何も変わらない狂戦士の姿。  いや、鬼気迫る咆哮は以前の比ではないだろう。  巨人の背後には、白い少女の姿がある。  バーサーカーのマスター、イリヤスフィール。  たえず無邪気な笑みをうかべていた、殺し合いには到底似つかわしくない少女。  その少女が。  今は肩を震わせ、泣き叫ぶ一歩手前の顔で、自らのサーヴァントを見つめていた。    蒼白になった顔は、目前の絶望を必死になって否定している。    誰か助けて、と。    白い少女は、震える唇でそう訴えていた。           「――――そんな」    吹き荒れる旋風。  バーサーカーの斧剣はことごとく弾かれる。  広間の中央。  瓦礫の玉座に君臨する、一人のサーヴァントの“宝具”によって。    無数の剣が舞う。  男の背後から現れるそれらは、一つ一つが紛れもなく必殺の武器だった。 「――――!」    貫く。  それこそ湯水の如く。  底なしの宝具はバーサーカーの斧剣を弾くだけでは飽きたらず、その体を蹂躙していく。    吹き飛ぶ五体。  剣は黒い巨人の胴を断ち、頭部を撃ち抜き、心臓を串刺しにする。  ―――だが、それでも死なない。    巨人は即死する度に蘇り、確実に敵へと前進する。  既に八度。  それだけの数無惨に殺されていながら、バーサーカーは前進する。  それを、あの“敵”は楽しげに笑って迎えた。    繰り返される惨劇。  バーサーカーは敵に近づく事さえできず、幾度となく殺されていく。           「――――バカ、な」    あのバーサーカーが為す術もなく倒されている、という事がじゃない。  あの男―――あのサーヴァントが、あまりにも馬鹿げている。    次々と繰り出される無数の宝具は、その全てが本物。  アーチャーの剣を投影したからこそ読みとれる。  アレは、あらゆる宝具の原典、伝説になる前の最初の一だ。  それを限りなく保有する英霊とは何者なのか。  いや、そもそもサーヴァントは七人の筈。  ならばあいつは八人目――規定外の、居てはならない存在ではないのか――― 「――――――――」    息が出来ない。  バーサーカーは、尋常じゃない。  鋼の肉体とあの怪力。加えて死んでもその場で蘇生する、なんて能力があっては、それこそ太刀打ちできる相手じゃない。  その怪物相手に一歩も引かず、次々と魔剣、聖剣を繰り出して圧倒する八人目のサーヴァント。 「――――――――」  顔をあげれば、向こう側の遠坂の顔も蒼白だった。      ―――当然だろう。    眼下の空間は死地だ。  立ち入れば一瞬にして死ぬ。  いや、何より――――    ……あいつは、悪魔だ。  バーサーカーとは違う凶暴さ―――秩序を持たない、ただ殺す事が目的の戦いを、あの男は望んでいる。    ――――だが。  その、あまりにも規格外の敵を前にして、黒い巨人はなお最強だった。  全身を貫かれようが斬り裂かれようが、その歩みは止まらない。  降り注ぐ宝具の雨を受け、その度に蘇生を繰り返しながら、確実に敵へと間合いを狭めていく。    それは、あまりに愚直な前進だった。  敵の攻撃への対抗策など考えない。  ただ命のある限り前に進み、敵を屠り殺すだけの野蛮な戦いだ。 「」    ……届かない。  バーサーカーの蛮勇は敵に報いる事なく、ただの標的として終わるだろう。  あの敵はそれを理解している。  故にあえて歩を止め、愚かにも前進するだけの巨人を挑発しているのだ。 「」    今の方法では、黒い巨人に勝機などない。  傍目から見ている俺にも、対峙しているあの男にも判る事だ。    ―――そしておそらくは。  標的にされているバーサーカー自身も、とうにそれを知っていた。 「」    だというのに、巨人は愚鈍なまでに歩を進める。    後退も知らず、避ける事もしない。    その姿を、あの男は笑って出迎える。 「――――フ。所詮は〈暗愚の輩〉《バーサーカー》、戦うだけのモノであったか。同じ半神として期待していたが、よもやそこまで阿呆とはな!」    宝具が〈奔〉《はし》る。  哄笑をあげ、男は背後の宝具に指令を下した。 「では、そろそろ引導を渡してやろう。これ以上近づかれては暑苦しい」    ―――号令一下、無数の宝具が巨人を襲う。  巨人はその大部分を弾き返し、同時に、大部分にその命を奪われた。 「」    黒い巨体が揺れ動く。  ゆらり、と倒れていく岩の体。    ―――だが。    巨体は今一度踏みとどまり、全身にまとわりついた宝具を振り払った。 「な――――に?」    驚愕は男のものか。  黒い巨体は宝具の群れを駆逐し、なお己が敵へと踏み込んでいく。  ……体は、既に死に体だ。  もはや絶望的なまでの致死傷を背負いながら、黒い巨人は前進する。 「――――――――」    ……それは、強い意志に因るものだ。  決して狂戦士故の狂気ではない。  巨人は確かな意志の下、絶望的な戦いに挑んでいる。 「チ―――でかいだけの的が、いまだ形を留めるか……!」    容赦なく撃ち出される魔弾。 「」  斧剣で弾き、肉を削がれ、足を穿たれながら、巨人は男を追い詰めていく。 「――――――――」    きっと届きはしない。  それを承知でなお挑むのは、譲れないものがあるからだ。  ―――前に進むのは何の為か。    サーヴァントは主の為、その命を守る為に戦う。  だからこそあの巨人は引かなかった。  背後にいる主、怯える少女を宝具の雨から守る為に、盾となって前進するしかなかった。    巨人は愚直な前進を繰り返す。  イリヤスフィールを守りながらあの敵を討つには、攻撃を自身に集めるしかないと悟った故に。  そうして―――もし敵まで辿り着けたのなら、その時こそ彼の勝利だ。    これは、始めからそういう戦いだった。  男は巨人が間合いを詰めるまでに絶命させ、  巨人は命が尽きる前に男へと肉薄する。  そのどちらかを先に果たした者が生き残るという戦い。  巨人はその事実を悟っていたのだ。    ……たとえ、それが。  始めから、勝ち目のない戦いだったとしても。 「――――!」    咆哮があがる。  十度目の死を越え、黒い巨体が駆けた。  瓦礫を巻き上げながら男へ突進するそれは、闘牛士に挑む雄牛のようでもある。 「下郎――――!」    放たれる無数の矢。  度重なる死の中で慣れたのか、最後の猛りだったのか。  巨人は全ての矢を弾き返し、  宝具の主へと肉薄する――――!  斧剣が走る。  今まで一度たりとも男に対して振るわれなかった剛剣が、ついに唸りをあげて一閃され――――   「――――天の鎖よ――――!」    現れた無数の鎖によって、黒い雄牛は捕らえられた。  それはいかなる宝具か。  突如空中より現れた鎖は、空間そのものを束縛するようにバーサーカーを封じていた。 「」    鎖はバーサーカーの両腕を締め上げ、あらぬ方向へとねじ曲げていく。  全身に巻き付いた鎖は際限なく絞られていき、岩のような首でさえ、その張力で絞り切ろうとしていた。 「―――ち、これでも死なぬか。  かつて天の雄牛すら束縛した鎖だが、おまえを仕留めるには至らぬらしい」  男の声。  広間には鎖の軋む音が充満している。  バーサーカーの力だろう。  空間そのものを制圧する鎖を断ち切ろうとする巨人。  本来不可能な筈のそれも、あの巨人ならば成し得るに違いない。    そして当然、男もそれを承知していた。   「やだ――――戻って、バーサーカー……!」    少女の悲鳴があがる。  令呪を用いて、イリヤスフィールはバーサーカーに強制撤去を命じる。    だが、巨人は鎖に捕らえられたまま、一歩たりとも動く事は出来なかった。 「なんで……? わたしの中に帰れって言ったのに、どうして」 「無駄だ人形。この鎖に繋がれた物は、たとえ神であろうと逃れる事はできん。否、神性が高ければ高いほど餌食となる。元より神を律する為だけに作られたもの。令呪による空間転移など、この〈我〉《オレ》が許すものか」  そうして。  終わりを示すように、男は片腕で巨人を指した。   「ぁ――――」    愕然とする少女の声。    ……………………終わった。    今度こそ、本当に終わった。  鎖に繋がれ、無防備なままに宝具を受けること二十二回。  もはや奇怪なオブジェにしかとれない形になって、黒い巨人は沈黙した。    ……息があるかなど見るまでもない。  十の死を乗り越えた大英雄であろうと、それを越える二十の死を受けては立ち上がれまい。    ……そう。  たとえ生きているとしても、巨人には呼吸をする力すら、もはや残されてはいないだろう。    ―――そうして、両者の戦いは終わった。    どちらが勝利するのかは、始めから判っていたのだ。  ……バーサーカーは、あのサーヴァントには勝てなかった。    あらゆるサーヴァントは、英霊である以上あの男には敵わない。英霊にはそれぞれ、生前において苦手とされた事柄がある。  その因縁こそが彼らにとって最大の弱点だ。    なら―――もし全ての宝具、その英雄を殺した宝具を所有するモノがいるとしたらどうなるか。    その結果が、これである。    いかに英雄としての精度で上回ろうと、英霊である以上は、決してあの男には勝利できない―――― 「やだ――――やだよぅ、バーサーカー……!」    墓標となった黒い巨体に、白い少女が駆け寄っていく。  それを。    男は手にした剣で、容赦なく斬りつけた。 「――――――――――――」    悲鳴があがる。  男は、一文字に、少女の光を奪いさった。 「――――――――――――」    ついで一撃、心臓に突き刺す。  それは外れた。  否、あえて外したのか。  少女は肺を貫かれ、ごふ、と赤いモノを咳き込んだ。  ――――鎖が断ち切られる。   「――――!!!!」    鎖を断ちきり、黒い巨人が男へと襲いかかる。  その、あまりにも鈍重な標的を、男は刺した。    心臓を穿つ槍。  ランサーの宝具、ゲイボルクに類似した槍で巨人を仕留める。    ――――それで終わり。  今度こそ本当に、黒い巨人は絶命した。 「――――――――――――」    倒れた少女から剣が引き抜かれる。  赤い跡を残しながら、少女は動かなくなった巨人へと這っていく。 「――――――――――――」    その姿を愉快げに見下ろして、男は歩いていく。  剣は捨てた。  男は、素手で。  瀕死の少女の体に、とどめを。 「――――――――――――」    死ぬ。  きっと死ぬ。  今度ばかりは、絶対に死ぬ。  あのサーヴァントには理屈などない。  邪魔をすればただ殺すだろう。  見つかる前にここを離れなければ、確実に殺される。    それを、俺は。  日が落ちる。  灰色の空が茜色に染まった頃、俺たちは城の広間に戻ってきた。    ……瓦礫の山に少女の亡骸はない。  たった今、遠坂と二人で中庭に埋葬してきた。  サーヴァントの常か、黒い巨人の亡骸は風化してしまったが、その砂だけでも少女と同じ棺に納めた。 「さて。これからどうするかだけど、考えはある?」 「……考え中だ。事態がまた悪い方に転んだからな。少し整理しないとやってられない」 「そうね。……最大の敵だったイリヤスフィールとバーサーカーはいなくなったけど、代わりにワケわかんないヤツが出てきたし。  サーヴァントは七人しか呼ばれない筈なのに、あいつで八人目でしょう。……どう見ても既存のサーヴァントじゃなかったけど、慎二のヤツ、どこであんなのと契約したんだか」  ……八人目のサーヴァント、か。  慎二の連れていたあの男は、サーヴァントと扱っていい〈存在〉《もの》とは思えない。  英霊に対して絶対的に優位な英霊。  底なしの宝具を持ち、およそ人間らしい感情を持たない悪鬼だ。 「―――ギルガメッシュ。それって古代メソポタミア神話に出てくる英雄だよな」 「ええ。半神半人の英雄。ウルクの王、不老不死の探求者。この世の全てを治めたとされる暴君だけど、まさかあんなイカレたヤツだったとは思わなかったわ」 「……バーサーカーを事も無げに倒した事といい、あいつ、本気になったセイバーより強いかもしれないわね」  遠坂の声にはキレがない。  それは、新たに現れた敵が難物だから、という訳ではなさそうだ。 「……? どうしたんだよ遠坂。奥歯に物が挟まったような言い方だけど」 「ん……ちょっとね。あいつ、確かに強かった。あれだけの数の宝具を持ってるんだから、その力は一級品でしょ。  けど、実質はどうなのかなって。わたし、あいつとバーサーカーに、そう実力差はないと感じてたんだけど」  むー、と考え込んだりする。  ……あれ。  もしかして遠坂、あいつの強さがどんな物なのか気づいていないのかな。 「いや、あいつ自身はセイバーやバーサーカーと同じか、きっとそれ以下だ。  そもそも英霊の強さは召喚された土地での知名度によるんだろう。ならギルガメッシュなんて英雄、こっちじゃ知ってるヤツはそうはいないぞ」 「―――それはそうだけど、知名度による実力の変動だってそう大きいものじゃないわ。  わたしにはどうも、あの金ピカは反則めいて見えたんだけど……」 「……?」  遠坂はおかしな呼び方をする。  まあ、それはさておき。 「いや、だから反則だって。あいつの持ってた宝具はみんな本物だ。……いや、そうじゃなくて、きっと本物の元になった武器なんだ。  ギルガメッシュは一番古い神話の英雄で、あらゆる贅沢をつくした王様だったんだろう。なら、各地の神話の元になった原典を所有していてもおかしくない」 「あ―――じゃあなに、あいつが出してた宝具は宝具じゃなくて、ただの武器って事……?」 「だろうな。あいつの宝具自身は、きっと“蔵”なんだ。  生前にあいつが集めた財宝を収納した“蔵”こそが、あいつの宝具なんだと思う」 「……そっか。ならバーサーカーが敵わないのも当然よね。英霊たちにはそれぞれ弱点がある。全ての宝具の原型を持つんなら、相手の弱点となる物を持ち出せばいいだけの話だもの」  ……そういう事だ。  勝機があるとしたら、あいつはそれぞれの武器を全て使いこなしてはいない、という事。  セイバーやランサーのように、自己の武器を極限まで使いこなす“担い手”でないのならば、まだ勝てる方法がある気がする。  とまあ、それはともかく。 「なあ遠坂。ほんっとーに関係ないんだけど、なんで金ピカなんだよ、あいつ」 「え……!? あー、いや、それはその、髪が金色だったから、とか」 「なに言ってんだ。それならセイバーも金ピカなんて呼んでた筈だ。金ピカ。すごいぞ、実に意味ありげじゃんか。なんか、他に気付いた事があったからそう口にしたと見た」 「え――――」 「ここまできて隠すなよ。遠坂、なんか気付いたんだろ」 「ちょ、ちょっと違うってば、わたしのは士郎みたいに真面目な話じゃないから、あんまり追及しないでっ」 「ウソ吐け。根拠もなしで金ピカなんて呼ぶもんか。ほら、白状しろよ遠坂。今は一つでも情報が欲しいんだから」 「あ――――う」  じっと遠坂を見据える。  そうして数秒。  観念したのか、遠坂ははあ、と大きく息をついた。 「……だから、それは……あいつ、高価そうなのいっぱい持ってたでしょ? それで、ものすごくお金持ちなんだろーなー、って。  ……だから金ピカ。あの金ピカ、すっごい贅沢してそうじゃない」  あはは、なんて明後日の方角を見ながら頬を掻く。  ……恐ろしい。  遠坂の中では、お金持ちはみんな金ピカと評されるらしい。  そして更に恐ろしいのは、遠坂は“お金持ちっぽい”という嗅覚だけで、あのサーヴァントの本質を察していたコトだろう。 「―――ともあれ、厄介なヤツが出てきたものね。八人目のサーヴァントって時点で破綻してるのに、そいつ自身がジョーカーなんだもの。  ……問いつめようにも監督役の綺礼は行方知れずだし。  まあ、今はキャスターの方が大事だから後回しにするしかないんだけど」  ……そうだった。  こうしている間にもキャスターは力を蓄えている。  キャスターの支配に抗っているセイバーも、これ以上は逆らえないだろう。  いや。  最悪の場合、セイバーさえ敵に回っている可能性だってある。 「―――そうだな。  イリヤスフィールの協力は得られなかったけど、だからといって放っておく訳にはいかない。こうなったら二人だけでキャスターを倒せる手段を考えよう」 「……そうね。なんのアイデアもないけど、やるしかないか」  はあ、と溜息をついて瓦礫に腰を下ろす遠坂。 「……ふう。まさかお城で作戦会議するコトになるなんてな」  遠坂にならって腰を下ろす。  ……まあ、ここなら夜になっても暖はとれるし。  もしかすれば、イリヤスフィールが持っていた魔術品も発見できるかもしれない。  そうして、二人して気を緩めた瞬間。   「止めとけ止めとけ。オマエたち二人だけで裏をかく?  そんなの通用するワケねえだろ、間抜け」    呆れかえった声が、正面玄関から響いてきた。 「!?」    すぐさま立ち上がって正門に振り向く。 「いつぞやの夜以来だな、お二人さん。お互いしぶとく生き残っているようで何よりだ」 「ラ―――ランサー……!?」  神経を一気に束ね、魔術回路を繋いでいく。  現れた男は紛れもなくランサーだった。  ……十日前の夜、俺はあの男に胸を貫かれた。  アレを再現させられる訳にはいかない。  ヤツがその槍を振るう前に、遠坂だけでも逃がさなければ―――! 「士郎、離れて……! アイツはわたしが引きつけるから、その間にアンタは二階に……!」 「遠坂、走れ……! あいつは俺がくい止める。遠坂はいったん外に――――!」 「――――ちょっと待った。  アンタ、自分を大切にしろってさっきの話、ぜんっぜん聞いてなかったみたいね」    ぴたり、とランサーに向けた左手を下げ、あまつさえ俺の鼻先に向けてくる遠坂。  が、そんな脅しをされても、こっちだって文句はあるっ。 「馬鹿言うな、忠告は聞かないってちゃんと断っただろう。殴り合いはこっちの役目だ。あいつとは二度目だし、ここは遠坂より俺の方が向いている」 「そんなワケないじゃないっ! 相手は歩兵よ、飛び道具がない相手に飛び道具であるわたしが逃げてどうすんのよ!」 「だからこそだろ! 懐に入られたらおしまいって判らないか!? いいから、遠坂は遠くから援護してくれればいいんだよ!」 「ばかっ、援護なんてできるかっ! あいにくそんな器用な魔術なんて知らないわよ。やるならアンタごと吹っ飛ばすに決まってんじゃない!」 「っ――――! 自分の壊し屋っぷりを開き直るな!  だいたいどうしてそう、なんでもかんでも派手目でいこうってんだおまえは! たまにはもっと慎ましいコトやってみろ。キャスターが遠坂は要らないもーんって言ってたの、あんまり無視できないぞほんと」 「なんですってこのぉ――――!」  ……そうして、お互いがお互いを押しのけようと言い争うコト数分間。  どうしてこんな事になったのか、といい加減疲れたころ、はた、と。    城の入り口で、にやにやと俺たちを観察しているランサーに気が付いた。 「―――お、もう終わりか? 別に急がねえから最後まですましちまいな。相手への不満はとことん吐き出しといた方がいいぞ」 「――――――――」 「――――――――」  こほん、と反省してランサーを睨む。  俺は半歩前に、遠坂はやや後ろに。  ……まったく、始めからこうしていれば問題はなかったのだ。 「ああ、待て待て。せっかく同意を得たところ悪いが、こっちに戦う気はない。見るに見かねてな。少しばかり手助けしてやろう、とでしゃばりにきたワケだ」 「な――――に?」  ちょっと待て。  あいつ、今なんて言った――――!? 「……聞き違いかしら。今、手助けをするって聞こえたけど」 「なんだ、判りづらいか? なら言い直すか。オマエたち二人だけではキャスターたちには太刀打ちできん。できんだろうから、オレが手を貸してやると言ったんだ」 「――――――――」  目が点になる。  その横で、遠坂はいち早く事態を掴んでいた。 「そう。ホントにでしゃばりね、ランサー。訊くけど、それは貴方のアイデア?」 「いや、オレのマスターからの指示だ。キャスター達がああなっちまった以上、一人きりの身としては協力者がほしいんだと。ま、連中を潰すまでの共同戦線ってヤツだな」 「まっとうな理由ね。けど、それならわたしたちよりもっと頼りがいのあるヤツがいるでしょう」  ……それは慎二とギルガメッシュの事か。  遠坂のやつ、ランサーが慎二の事を知っているかカマをかけているようだが―――― 「いや、ありゃあ駄目だ。とてもじゃないが性に合わん。  戦力的には申し分ないが、いちいち背中の心配をするのも面倒だろう」 「……ふうん。正しい選択ね、ランサー。けど、それも貴方のマスターの指示ってワケ?」 「それも違うな。アンタらを選んだのは俺の趣味だ。一度面識がある分話が早いだろう」  あっさりと言う。  あの男の中では、アーチャーと戦った事も俺の胸を貫いた事も、面識で済まされてしまうらしい。 「……待てランサー。俺はおまえに二度も殺されかかった。だっていうのに、おまえの言葉を信用すると思っているのか」 「思っているさ。オマエの参謀はさっぱりとしたいい女だからな。そんな女が手を貸すってんだから、オマエだって物好きなお人好しなんだろ?」 「む―――――――」  思わず眉を寄せる。  ……味方の筈の遠坂がランサーの言葉に頷いているのが気になったが。 「そういう訳だ。だから協力できるって思ったのさ。  ―――ああ、言っておくがオマエ達がじゃない。オマエ達なら協力してやっていいと、このオレが思ったんだ」 「………?」  ランサーの言い回しは、正直違いが分からない。 「……大した自信ね。協力しようって持ちかけておいて、選ぶのはそっちってコト?」 「ああ。初見からアンタのコトは気に入ってたんだぜ?  美人で強情で肝が据わっているときている。女をマスターにするんならな、アンタみたいなのがいい」  どこか涼しげな視線で、ランサーは遠坂を流し見る。   「…………む」    ……なんか気にくわないぞ、あいつ。 「―――いいわ。わたしは賛成。けどまだ決定じゃない。  衛宮くんが信用できないって言うんなら、この話はなかった事にするけど」 「だそうだ。どうする小僧。おまえ、器を試されてるぞ」  くく、と笑いを押し殺してランサーは俺を見る。 「――――――――」  俺は――――   「――――――――――――――――」    弾けだしそうな手足を止める。  視界の隅には、唇をかみ締める遠坂の顔があった。    ……判ってる。  遠坂だって止めたいに決まっている。  けれど、そんな事をすれば殺されるのは自分だ。  止める事などできる筈がない。                男の腕が、白い少女の体に伸びる。 「――――、――――、――――」    息が出来ない。  足は飛び出そうと火を点し、  腕はテラスを乗り越えようと羽ばたきたがる。  体、体は故障したように震え、〈脳〉《おれ》の命令に逆らおうとする。                ―――まるで心が砕けるよう。 「――――、――――、――――」    それでも声を殺し、意思を殺した。  自分を殺すように、眼下の少女を見殺した。 「――――――――」    それで終わった。  男は笑みを貼り付けたまま、素手で、少女の体から何かを引きずり出していた。  果実じみた赤色が滴る。  男が手にしたものは、紛れもなく、白い少女の―――だ。 「――――――――」    思考が焼け落ちる。  真っ白になった脳が、ガクガクと、今更、耐え切れない怒りで全身を震わせている。 「ほう? 先ほどから悪臭がしていたが、そうか、盗み見をする不届き者がいたか」  男は、右手に紅いナニカを握ったまま、   「無礼者。雑種の分際で、〈我〉《オレ》の姿を直視するな……!」    無数の宝具の一つを、俺めがけて射ち放った。 「――――――――」    ……受けるしかないだろう。  たとえ敵だとしても、あいつの言い分は正しい。  俺と遠坂だけではキャスターたちを倒せない。  だがランサーの協力があるのなら、少しは光明が見いだせる筈だ。 「………分かった。俺も、共闘する事に文句はない」    全身に繋げた魔術回路をオフにして、肩の力を抜く。  ―――それが自分に出来る精一杯の誠意だ。  戦う気はない、と。  共闘する以上は、こちらも無防備に背中を見せるという意思表示。 「―――なるほど、重症だ。これじゃあ嬢ちゃんも苦労するな」 「あ、わかる? 良かった、ようやく分かってくれるヤツに会えたわ。もしかしたら最後までこのままかなー、とか危惧しちゃってたんだ」 「それは災難だったな。だが、男としちゃあ悪くない。  ガキのうちはな、馬鹿みたいに愚鈍で構わねえんだよ。  つまんねえ知恵つけて、捻くれるのはその後だ」  そう答えて、ランサーは俺たちに向かって歩き出した。  その手に朱色の槍はない。  俺が臨戦態勢を解いた事に応えるように、ランサーもその武装を解いていたのだ。 「――――――――」    ……受けるしかないだろう。  たとえ敵だとしても、あいつの言い分は正しい。  俺と遠坂だけではキャスターたちを倒せない。  だがランサーの協力があるのなら、少しは光明が見いだせる筈だ。    だが――― 「……わかった、おまえの言い分は信じる。  けど条件付きだ。キャスターを倒す為に手を貸してもらうし、俺たちもおまえを信用する。  その代わり――――」 「その代わり、なんだ? オレのマスターを教えろってか?」 「違う。仲間だからって、気安く遠坂には近寄るな」    ―――空気が停止する。  ランサーは心底虚を突かれたような顔で絶句し、 「は、なるほどなるほど! そりゃあそうだ、オレのマスターなんぞよりそっちの方が何倍も重要だよなあ坊主!」    ゲラゲラと、これまた心底おかしそうに笑い出しやがった。 「なんだよ、悪いか。言っとくけど、遠坂はやらないからな」 「まさか。悪くなんかねえ、むしろ見直したところだ。  いや、いいねえお嬢ちゃん。坊主、アンタにぞっこんじゃないか!」 「――――! な、ななナニ言ってんのよアンタ、わたしと士郎はそんなんじゃないわよぅ! その……そう、わたしたちはただの協力関係なんだからっ……!」 「えー、そうかあ?」 「っ……! なんかムカツクわねアンタ、なによその見透かしたような顔は……!  ほら、士郎もなんか言いなさいよ、わたしたちはただの協力関係だって!」 「――――――――」  …………………………………………。 「ちょっ、なんか言いなさいよばかぁ……!  こ、これじゃホントに、その、わたしたちが好きあってるって……」  「だからあ、ホントも何もとっくに出来あがってんだよオマエたち。端から見てるオレでさえ判るのに、当の本人たちが誤魔化してるとはな。ああ、こりゃこの先もタイヘンだぞ少年?」  同情するぜ、なんてジェスチャーをするランサー。 「………まあ。遠坂がタイヘンなのは、もう判ってるから」  問題ない、と仏頂面で返答する。 「なっ」 「ほう、そりゃ頼もしい。んじゃあオレも、それなりに気を遣って嬢ちゃんと付き合おう。  だがまあ、からかうと面白い嬢ちゃんなんでな、道中楽しませては貰うぜ。それぐらいの見返りはかまわねえだろ?」 「……分かった。その線で行こう。キャスターを倒すまでアンタの力を借りる」 「決まりだな。んじゃあまあ、とりあえず握手と」  ランサーは丸ごしのままやってきて、ぎこちなく差し出したオレの右手を握る。  ―――不安要素はあるが、この上なく頼りになる協力者を得た。    後は、 「くっ、このアッタマきたーーーーーーっ!!!  いいわよ、アンタたちなんてこっちから願い下げよ、こうなったらわたし一人でキャスターをとっちめるんだからーーーーーぁ!!!!」    いい感じに激昂してる遠坂を、どうやって落ち着かせたもんだろう……? 「断る。おまえは信用できない」    それはランサーだけじゃない。  未だ正体が掴めないランサーのマスター、このタイミングで手を差し伸べてくるヤツの思惑には乗りたくなかったのだ。 「そうか。相棒はそう言ってるが、そっちはどうだお嬢ちゃん? さっきは坊主の方針に従う、と言っていたが?」 「―――方針は変わらないわ。衛宮くんが信用できないのなら、貴方と共闘しても意味がないでしょう」 「なるほど、その通りだ。……つくづく惜しいな。アンタは、本当にオレの好みだったんだが」  背を向けるランサー。  青い背中は一度も振り返らず、現れた時と同じよう、風のように消え去っていった。  家に帰ってきた。  無事に帰ってこれると思っていなかっただけに、居間にあがった途端、一気に肩の力が抜けてしまった。 「――――と」  軽い立ち眩みがして、壁に体を預ける。 「ほら見なさい。やっぱりまともに立ってられないじゃない、ばか」 「…………む」  ……遠坂の言葉はもっともなんだが、最後のは余計だと思う。  ほんと、本日何回目のバカ呼ばわりだ。間違いなく今日は今までの記録を更新している。 「ほら、こっちに来なさい。とりあえず包帯ぐらい替えないとまずいでしょ」 「――――」  有無を言わせぬ視線に頷いて、遠坂の前まで移動する。 「この救急箱使っていいんでしょ? お、さすが家に道場があるだけのことはあるわねー。  ハサミばかりか、針と糸が入ってる救急箱ってのも珍しいわ……って、ほら早く。服を脱いで傷を見せなさいってば」 「え―――服脱ぐのか? あ、いや、その前に手当てぐらい自分で出来る。今朝だって自分でやったんだから、問題ない」 「……あのね。なに遠慮してるか知らないけど、そもそもその傷の手当てをしたのは誰だと思ってるの?」 「――――う。けどあの時は、その」    気を失っていたから、遠坂に迷惑をかけただけであってだな。 「あの時もこの時もないの。いいから早くしなさい。士郎の傷は特別なんだから、ちゃんと看ないと治るものも治らなくなるじゃない」 「…………」  ……ひきょうもの。  そんな顔で言われたら、文句なんて言えないじゃないか。 「……ああ。それじゃ頼んだ。正直に言うと、さっきからやけに熱くなってる」  観念して座り込む。  血に濡れた服を前にして、遠坂はあっさりと脱がす事を諦め、ハサミでジョキジョキと服を切断、血まみれの包帯を迅速に、かつ丁寧に解いていく。 「――――――――」  ……そんなに酷いのか、遠坂はかすかに息を呑んでいた。 「………………」  ……が、それはこっちも同じというか。  こんな近くでマジマジと体を見られているかと思うと、気恥ずかしくてしょうがない。 「ホントに無茶するんだから。せっかく治りかけてたのがまた開いてるわよ。  ……まったく。こんなの見せられたら怒るに怒れないじゃない」  そんな憎まれ口を叩きながらも、ものすごく優しい指遣いで傷に触れていく。 「――――――――」  ……やば。さっきとは違う意味で目眩がした。  さっきはあんなに近くにいても落ち着けたのに、今は心臓も不安定なら目のやり場にも困っている。 「…………ああ、もう」  内心で呟いて火照った頭を叩くも、効果はむしろマイナスだ。  こうしているかぎり頭の温度は上昇し続ける。 「……遠坂? その、もういいだろ。血止めをして化膿止め塗って、包帯を巻き直してくれればいいから」 「そういうのは手当てって言わない。……前言撤回、やっぱり頭にきた。そんな気休めで外に出たわけね、アンタは」  ぴしゃり、という音。 「ぎっ……!」  な、なんてコトしやがる……!  遠坂のヤツ、容赦なく傷口を叩きやがったっっっ。 「く、この……! なんの恨みがあるんだおまえ!」 「ふん。恨みなら骨髄まで染み渡ってるっていうの。それでも手加減してあげたんだから感謝しなさい」  言って、なにやら自家製の軟膏らしきものを持ち出す。 「今の痛かったでしょ? とりあえず、壊死してる神経を治したからしばらくは痛むわよ。〈軟膏〉《これ》には痛み止めも含まれてるけど、もともと破損した肉の代わりだから。  なじむまでは痛むけど、痛みがあるうちは無茶しちゃダメだからね」  ぬらり、とゼラチンめいたモノを傷口に塗りたくる。 「――――――――」  その様はとてつもなく怪しいのだが、遠坂は本気で傷を看てくれている。 「はい、これで終わり。後は包帯を巻いてぐっすり寝れば、明日には幾分楽になってる筈よ」  ぐるぐる、とこれまた手際よく包帯を巻いてくれる。  ……別に褒めるワケじゃないが、包帯の巻き方一つとってみても俺の数倍は上手だった。 「……うん。その、サンキュ、遠坂。なんか楽になった」  出来るだけ視線を合わせないようにして礼を言う。 「え―――ま、まあ、それならいいけど。楽になったっていうんなら、看た甲斐があったわ」 「ああ。治らないものと覚悟してたから、余計助かった。  ともかく、手当てをしてくれてありがとう」 「――――ふ、ふん。そんなの当り前でしょ。わたしが看る以上は、きっかり治してみせるんだから」  手当てを終えて遠坂は立ち上がる。  ……と。  何を思ったのか、遠坂はそのまま台所へ向かっていった。 「遠坂?」  目の錯覚だろうか。  なんかあいつ、冷蔵庫の中身やら炊飯ジャーの中身やらをチェックしている。 「おい、何をするつもりなんだ?」 「夕ご飯の支度。士郎、食べてないでしょ? わたしも食べてないのよ。だからとりあえず夕食」 「……ああ、それは見れば判る。けど、どうしてこの状況で夕飯なんだ?」 「なんでって当然じゃない。人間、空腹でまともな案が浮かぶワケないでしょ?」  と。  冷蔵庫の中身と睨めっこしつつ、あっさりと遠坂は言い切った。  かちゃかちゃと食器の音が響く。  時刻は夜の十時過ぎ。  何の因果か、居間で遠坂と顔を合わせて遅めの夕食をとっている。  ちなみに夕食は合作だ。  せっかくだから和風が食べたい、だのと言っておきながら、遠坂嬢はみそ汁の作り方も知らないときた。  うちの学校、調理実習で女子に何を教えているのか不安である。実に。  遠坂は食事に集中している。  空腹なのか、お茶碗はそろそろ空っぽになりそうだ。 「――――――――」  が、こっちはそう箸が進まない。  こんな事している場合じゃない、という事もあるが、それ以前に俺はまだ言っていない。   “――――士郎はここで降りなさい”    そう告げて去っていった遠坂に、自分の考えを伝えていない。 「――――遠坂、話がある」    箸をおいて遠坂を見る。 「なに?」 「あれから考えたんだ。俺がこの戦いを始めた理由を。  一体なにがしたかったのかって事を」 「うん、それで?」  みそ汁に口をつけたまま先を促す。  ……気合いが削がれるが、負けるものかと丹田に力を入れた。 「初めは巻き込まれたからだった。そうしてマスターになった以上は、この戦いをどうにかしたかった。  ―――けど、マスターになったとか巻き込まれたとか、そんなのは関係がない」 「――――――――」 「俺は正義の味方が好きなんだ。だから、みんなを守らないと。マスターなんてどうでもいい。マスターでなくなっても、セイバーがいなくなっても、戦う事には変わりはない」  遠坂の反論を覚悟して、とにかく言った。  ……だっていうのに遠坂のやつ、   「ふーん、そう」    なんて空返事をしながら、茶碗に残ったメシをたいらげやがった。 「あのな遠坂。人が真面目に話してるんだから、ちゃんと―――」 「聞いてるわよ。士郎は一人でも戦うのよね。死ぬような目に遭うより、死ぬような目に遭ってしまう人がいるっていう事実が耐えられない。  だから、どんなに自分が弱くても戦う事に決めたんでしょ」    まっすぐな視線。  それは、俺でさえ知らない〈衛宮士〉《なかみ》郎を見抜くような真摯さであり―――俺が戦う事を認めている言葉だった。 「え―――あ、うん。そうだけど」 「なによその顔。リスが砂糖菓子なめたような顔して」 「いや、だって。遠坂は反対するかと思ってた」 「してるわよ、もちろん。けどあれだけ見事に助けられたんだから、士郎に文句なんて言えないでしょ。  ……それにさ、どんなに止めたってアンタはそういうヤツなんだって解っちゃったし」  遠坂はわずかに目を逸らす。 「?」  それがどうしてかは分からないが、とにかく―――― 「じゃあ遠坂、これからも協力態勢って事でいいんだな……!?」 「―――まあね。仕方ないから付き合ったげる。だいたいアンタみたいなのを一人にしてたら、不安で不安で眠れないし、それに」    ふう、という深呼吸。  遠坂は何か、妙に気合いをいれたあと、 「士郎風に言えば、わたしも士郎のこと嫌いじゃないし。  ……わたしはそういうワケだし、そっちだって一緒にいても問題ないでしょ、実際」  はい、と茶碗を差し出す遠坂。  それが飯のおかわりを催促している、と気が付くのに何秒かかっただろう。 「あ―――ああ、もちろん……! 遠坂がどんなに横暴でも望むところだ!」  茶碗を受け取って、ばっくんと炊飯ジャーを開けて、とにかくしゃもじを振るって、山盛りにして茶碗を返す。   「……いいけど。お腹減ってるし、ごはん美味しいし」    山盛りの茶碗に箸をつける遠坂。 「―――――――っ」  つい笑みがこぼれる。  きっと、自分はとんでもなく嬉しそうな顔で飯を食べている。    けど、判っていても締まらないというか。  どうしようもないぐらい嬉しいんだから、今ぐらいは莫迦みたいにニヤけていてもいいじゃないか――――  部屋に戻って横になる。  布団に体を預けると、睡魔はすみやかに全身に広がった。 「――――――――」    暗い天井を仰ぐ。  イリヤスフィール―――あの白い少女の隠れ家に向かうのは明日になった。  どのような話し合いにせよ、体力勝負になるのは目に見えている。  疲れ切った体で行ってもいい結果にはならない、という遠坂の提案で、仮眠をとってから向かう事になったのだ。 「……夜明けまであと五時間。そうなったら、あの子と話し合いをしなくちゃならない」    マスターになった夜、俺たちの前に現れた幼いマスター。  セイバーがあらゆる面において優れたサーヴァントなら、  バーサーカーは戦闘面において特化されたサーヴァントだ。  単純に戦闘数値だけを見るのなら、バーサーカーに太刀打ちできるサーヴァントは存在しない。   「―――そんな相手と、どう話し合えばいい」    言葉にすると、そんな交渉はとうてい不可能に思える。  だが――――    不思議な事に不安は感じなかった。  あのイリヤという子は、話せばきちんと分かってくれる気がする。  ……遠坂と同じように、魔術師として敵味方ははっきりと区別するだろうけど、そういうところとは別の部分で、あの子はちゃんとした子のような気がするのだ。 「……まったく、まだ話した事もないクセに。希望的観測にも程がある」    あいつなら都合のいい夢物語と罵倒するだろう。  けど、それを信じて何が悪い。  まだ知らない者、これから出会う人間に希望を抱くのはおかしいのか。 「――――――――」    気が付けば歯を鳴らしていた。  理想を抱いて溺死しろと言った男は、俺の目の前で遠坂を裏切った。  あれだけ信頼されて、あれだけの力を持ったやつが、あんなに容易く自身の信条を変えたのだ―――― 「―――――――アーチャー」    感情が沈んでいく。  いや、これは凍っているのか。  あいつの行動を思い返すだけで、頭の中が冷え切っていく。  俺は怒っている。  他の誰でもない、遠坂を裏切ったあいつが許せない。  他の誰でもなく、あいつが仲間を切り捨てた事が許せない。    俺は――――絶対に、違う。    たとえあれが最善の行為で、自分が生き残る為のもの、最終的には正しい道であったとしても、真似なんてしてやらない。    今までずっと、あいつの行動が癪に障ってきた。  綺麗事を言うなと。  全てを助ける事など出来ないと、そう言い捨てるあいつと反発しあっていた。    それでも――――心の何処かで頷いてはいたのだ。    ……あいつの言葉は正しい。  〈切嗣〉《オヤジ》の言っていた正義の味方は絵空事で、  少しでも理想に近づきたいのなら、あいつのようになるしかないと受け入れていた。    受け入れた心で、それでも嫌だと否定してきた。    ……けど、今回のはそういうレベルじゃない。    あいつが、認められない。    どんな事情があろうと、あいつのとった行動だけは認められない。  それを認めたら、俺はきっと歩けなくなる。   「――――だから。おまえには、負けられない」    ……紡いだ言葉は闇に溶けず、いつまでも残留した。    夜明けまでの数時間。  泥のような眠りの中でさえ、その言葉を繰り返し続けていた――――    闇の中で、彼女は一人思案していた。  教会を襲い、神父を殺してからはや一日。  何処に隠そうと『有る』のならば見つけだせる、と断言してから一日だ。  他のサーヴァントならいざ知らず、魔術に長けた彼女が『聖杯』ほどの聖遺物を発見できぬ筈がない。    となれば、答えは一つ。  この教会には、初めから聖杯など存在しなかった。   「――――――――」  微かな嘆息を漏らして、彼女はこめかみに指を当てる。  ……目を瞑ると、重い闇が全身にのし掛かってきた。  それは、単純に悲鳴だった。  他人のものではない。  彼女自身の、肉体と精神があげる悲鳴、疲労という名の臨界である。    召喚されてから既に一月。  その間、勝利する為だけに全力を尽してきた。  マスターは魔術回路を持たない一般人であり、自身はサーヴァント中最弱である。  その欠点を補う為、禁忌としてきた魔術を乱用した。  市民からの搾取。街中に張り巡らせた魔力の糸と、〈人柱〉《いけにえ》を用いた地脈の操作。  ……それは生前、彼女が“魔女”と呼ばれる原因となったものだ。    だが、それを使った事は一度もない。  一度もない筈だったし、決して禁を破る気はなかった。    ―――それを。    どうしてこんな、どうでもいい殺し合いの為に使う気になったのか。    自分は復讐の為に英霊となった。  けれど、だからといって自らを“魔女”に貶めた術を使っては意味がないとも解っている。    彼女が使うのは些細な魔術だけ。    人が欲望によって自滅するだけの、自己に返る呪いだけで、災いを呼ぶ事を信条としてきた。  それが彼女の精一杯の復讐だったのに、どうして、ここまで道を外してしまったのか。   「……全ては聖杯の為。あらゆる望みを叶える聖杯なのだから、気が違うのは当然です」    それは嘘だ。  彼女は聖杯の正体に気が付いている。  アレがどんなモノなのか、そもそも自分たちがどのような目的で呼び出されたモノなのか、とっくの昔に理解している。    ……確かに、この街に現れる聖杯ならば大抵の願いは叶うだろう。  彼女を霊体としてではなく実体としてこの世に押し留め、人の世に干渉できる『人間』として第二の生さえ与えてくれる。    ――――だが。   「――――馬鹿ね。そんな事に、何の意味があるというの」    呟いて、彼女は目蓋を閉じた。  意識をカラにする。  今だけ―――一時だけあらゆる警戒を解いて、心を休めた。    ……雨の音が聞こえる。    あれは月のない夜だった。  周囲は一点の明かりもない暗闇で、からっぽの心のまま彷徨った。  そこで出会った。  血まみれの体と、冷え切った手足のまま。    どんな奇蹟よりも奇蹟のようだった、その偶然に。    それは、柳洞寺のあるお山だった。  降りしきる雨。  〈鬱蒼〉《うっそう》としげった雑木林の中を、彼女はあてもなく彷徨っていた。   「ハア――――ハア、ハ――――」    血の跡を残していく。  手には契約破りの短刀。  紫の衣は雨に濡れ、白い手足は冬の雨に凍えていた。   「ハ――――ハア、ア――――…………!」    木々に倒れ込みながら歩く。  泥に汚れ、呼吸を乱し、助けを求めるように手を伸ばして歩き続ける。  その様は、常に余裕を持つ彼女とは思えない。  否、その魔力さえ、面影は皆無だった。    ―――消耗している。  彼女にはもう、一握りの魔力しか残されていない。    サーヴァントにとって、魔力は自己を存在させる肉体のようなものだ。  それが根こそぎ失われている。マスターから送られるべき魔力もない。  だが、それは当然だ。  たった今、彼女は自らのマスターを殺害した。  彼女の消耗は、偏にそれが原因である。    彼女―――キャスターのサーヴァントは、自由を得た代償として、この山で独り消えようとしていたのだ。   「ハ――――アハ、アハハハ――――」    乾いた笑い。  自分の身が保たない事もおかしければ、下卑たマスターの寝首をかいた事もおかしかった。  ついでに言うのなら、マスターとの繋がりを甘く見ていた自分の甘さもおかしくて仕方がない。    ――――彼女は、実に上手くやった。    彼女のマスターは正規の魔術師だった。  年の頃は三十代で、中肉中背で、あまり特徴のない男だった。  戦う気もないクセに勝利だけを夢見ている、他のマスター達の自滅を影で待っているだけの男だった。    男は、キャスターを信用しなかった。  魔術師として優れたキャスターを疎み、他のサーヴァントに劣る彼女を罵倒した。    数日で見切りをつけた。  彼女は従順なサーヴァントとして振る舞い、男の自尊心を満たし続けた。    結果として簡単な、どうでもいい事に令呪を消費させたのだ。  令呪などなくてもいい、と。  令呪の縛りなどなくとも彼女はマスターに忠誠を誓っている、と信じ込ませた。    結論として、信じる方が悪い。    マスターはどうでもいい事に三つ目の令呪を使い、その瞬間、キャスターの手によって殺された。    容易かった。  あの男との契約が残っている事も不快だったので、殺す時は契約破りでトドメを刺した。   「っ――――く、あ――――」    だが、彼女は失敗した。  サーヴァントはマスターからの魔力供給で存在できる。  それは何も“魔力”だけの話ではない。  サーヴァントはこの時代の人間と繋がる事により、この時代での存在を許されるのだ。  つまり―――自らの依り代、現世へのパスポートであるマスターを失うという事は、“外側”へ強制送還されるという事なのである。    ……しかし、それでもここまで消耗はしない。  これは彼女のマスターが残した呪いだ。  彼女のマスターは、自身より優れた魔術師であるキャスターを認めなかった。  故に彼女の魔力を、常に〈自分〉《マスター》以下の量に制限していたのである。    人間程度の魔力量で英霊を留めておける筈もない。  本来の彼女ならば、マスターを失った状態でも二日は活動できるだろう。    だが今は違う。  魔力は存在するだけで刻一刻と激減していき、ついに底が見え始めた。  ……おそらくは、あと数分。  このまま次の〈依り代〉《マスター》を捜し、契約できなければ彼女は消える。  何も成さず、ただ蹂躙される為だけに呼び出された哀れなサーヴァントとして、戦う前に消えるのだ。   「ア――――ハア、ハ――――」    悔しかった。  悔しかったが、どうという事もなかった。  だって、いつもそうだったのだ。  彼女はいつだって不当に扱われてきた。  いつだって誰かの道具だったし、誰にも理解される事などなかった。    ――――そう。  彼女の人生は、他人に支配され続けるだけの物だった。    神という選定者によって選ばれた〈英雄〉《イアソン》を助ける為だけに、まだ幼かった〈王女〉《かのじょ》は心を壊された。    美の女神とやらは、自らが気に入った英雄の為だけに、知りもしない男を愛するよう呪いをかけ。  少女は虚ろな心のまま父を裏切り、自らの国さえ裏切らされた。    ……そこから先の記憶などない。  全てが終わった後、王女であった自分は見知らぬ異国にいた。  男の為に王である父を裏切った少女。  祖国から逃げる為に弟を八つ裂きにし、無惨にも海に捨てた魔女。    ―――そしてそれを望んだ男は、王の座を得る為に、魔女など妻にできぬと彼女を捨てた。    操られたまま見知らぬ異国に連れ去られ、魔女の烙印を押され、唯一頼りになる相手に捨てられた。    それが彼女の起源だ。    彼女に咎はなく、まわりの者たちもそれを承知していた。  にも拘わらず、人々は彼女に魔女の役割を求め続けた。    王の座を守る為の悪。  暗い迷信の受け皿になってくれる悪。  彼らは、あらゆる災害の原因を押しつけられる、都合のいい生け贄が欲しかったのだ。    そのシステムだけは、いつの時代も変わらない。    人間は自身が善良であるという安堵を得る為に、解りやすい悪を求める。    そういった意味で、彼女は格好の生け贄だった。  頼るべき父王は異国の彼方。  彼女を弁護する者など一人としておらず、人々は気持ちよく彼女に咎を押しつけた。    生活が貧しいのも、  他人が憎いのも、  人々が醜いのも、  人が死ぬ事すらも、  全てはあの魔女の仕業なのだと極め付けたのだ。   「は――――はは、あ、は――――」    ……だから、受け入れてやっただけ。  どうせ魔女としてしか生きられぬのなら、魔女として生きてやろうと。  おまえたちが望んだもの、おまえたちが祭りあげたものがどれほど醜いものなのか、真実その姿になって思い知らせてやろうと、誓っただけ。    おまえたちがおまえたちの咎を知らないというのなら、それでいい。  それを知らぬ無垢な心のまま、自らの罪によって冥府に落ちて、永遠に苦しむがいい。  彼らは冥府から出られやしない。  だって罪の所在が解らないのだから、一生罪人のままで苦しむしかない。    それが――――彼女が自分に科する存在意義。  魔女と呼ばれ、一度も自分の意志で生きられなかった少女へ、彼らが与えた役割だった。   「あ――――ぁ――――」    だが、そんなこと。  本当は誰が望んだ訳でもない。  彼女だってそれは同じ。  彼女は自分の望みもないまま、ただ復讐を続けるだけだった。    ―――そう。  この瞬間、見知らぬ誰かに出会うまでは。    がさり、という音がした。 「――――――――」  倒れそうな意識のまま、彼女は目前を睨んだ。  時刻は深夜。  こんな山林に、まさか寄りつく人間がいようとは。   「そこで何をしている」    重い声だった。  相手を視認する余裕さえなかった。  ただ終わった、と思っただけ。  彼女には魔術を行使する力もない。  紫のローブは防寒具に見えない事もないだろうが、腰から下は返り血で真っ赤だ。    この雨の中、血に濡れた女が隠れている。  それだけで、この人間が何をするかは明白だった。  まずは逃げる。  その後はどうするだろう。通報するか、見なかった事にするか。  ……どちらにせよ、もう満足に動けない彼女には関係のない話だったが。    それで、最後まで残っていた気迫が萎えた。  彼女は生前と同じように、独りきりのまま冷たい最期を迎えた。      ―――きっと、そうだと思っていた。    気が付くと、その場所にいた。  目前にはあの人間――――林で出会った男が座っていた。   「起きたか。事情は話せるか」    それが初めの言葉。  彼女が呆然と男を見つめると、   「迷惑だったのなら帰るがいい。忘れろと言うなら忘れよう」    変わらぬ口調で、男はそう告げてきた。    ……それが彼女のマスター、葛木宗一郎との出会いだった。    葛木は、不思議な男だった。  幽霊とでも言うのだろうか。  生きている理由もないが、死ぬ理由もない。  ただ凡庸とそこに在り、在るからには与えられた事を成す。    言うなれば自己がない。  第一印象はそれだけで、この男なら〈傀儡〉《かいらい》にするのは容易いと思った。    ―――それが間違いであった事は、少しずつ思い知る事になる。    葛木宗一郎には過去がない。  自己がないのは過去がないからであり、葛木自身が空っぽ、という訳ではなかった。    事実、葛木は誠実な男だった。  マスターになってほしいと言った時も、自分の正体を明かした時も、あっさりと受け入れてくれた。   「このような話を信じるのですか?」と問えば、   「今のは嘘なのか?」と返してくる。    もちろん真実だと答えれば、ならばそれでいい、と受け入れた。    彼女は新しいマスターを得る事で現世に留まり、魔女としての役割に復帰した。    ……今でも、それを奇蹟だと彼女は思っている。  彼女が連れ込まれたのが柳洞寺でなければ、彼女は目覚める前に消えていただろう。  柳洞寺はサーヴァントにとって鬼門だが、中に入ってしまえば最高の召喚場所とも言える。    結界に囲まれた柳洞寺は、人間ではないモノを存続させるに適した場所になっているからだ。    消えかけた彼女が残っていられたのは、柳洞寺に運ばれたが故である。これが違う場所だったのなら、運ばれた後で彼女は消えていただろう。    その結果、彼女は最高の霊脈を押さえ、鉄壁の守りを得る事になった。    柳洞寺を容易く占拠し、聖杯の〈絡繰〉《からく》りさえ読みとり、第五のサーヴァントとしてアサシンを召喚した。    だが、そんな事は些末な出来事だ。  あの夜、彼女は確かに幸運だった。  幾つもの奇蹟が彼女を救い、こうして勝利を目前に控えさせている。  けれどそれは感謝するに値しない。なければないで諦めがついた類だ。    ―――本当に大切な事は一つだけ。    他人から見れば小さく、重要性のない事柄。  葛木宗一郎という人間と出会えた偶然こそが、彼女にとっては、見たコトのない奇蹟だったのだ。   「――――――――」    それも上手くいかない。  いや、自分のやる事はみな上手くいかないのだ、と彼女は嘆息した。    彼女のマスターは、こんな事をしても喜ばない。  もとより聖杯になど興味のない人間だ。  あの男に明確な望みがあるのなら、彼女は全力でそれを成し遂げようというのに、葛木宗一郎には望みらしきものがないのだ。            一方通行の関係。  かみ合わないお互いの存在。  そんな関係である事自体、そもそも上手くいっていない。   「―――ミイラ取りがミイラになったか。希代の魔女というのも、案外脆いものだな」 「――――!」    闖入者に振り返る。  そこに立つのは彼女のマスターではない。  未だ正体不明のサーヴァント、赤い外套の騎士、アーチャーである。   「……アーチャー。貴方には外の見張りを任せた筈ですが」 「ああ、それがな。ざっと見たところ、周囲に敵という敵がいない。退屈を持て余してね、中の様子を見に来たのだ」   「……ふん。それはそうでしょうね。私たちの敵はバーサーカーだけよ。それもセイバーさえ陥落すればこちらから打って出るだけ。貴方が私たちに寝返った時点で、もう敵なんていないのよ。  ―――貴方もそれが判っていたからこそ、こちらに付いたのではなくて?」   「さて、どうかな。私はあのマスターと契約を切りたかっただけ、とは思わないか。あのマスター以外なら、契約者は誰でも良かったと」    アーチャーの軽口は、どこか真実味のある言葉だった。  ……しかし、それはどういう意味なのか。  アーチャーは裏切るつもりなどなく、ただ遠坂凛と契約を切りたいが為に寝返ったという事なのか。   「……そう。小娘のお守りはご免ということ。確かに私たちサーヴァントは総じてマスターに不満を持つわ。貴方が愛想を尽かすのも当然でしょうね」   「いや。召喚者として彼女は完璧だった。ただ少しばかり狂いが生じただけだ。  ―――それとキャスター、一つ忠告しよう。あらゆるサーヴァントが君と同じだとは思わない事だ。  少なくともセイバーとバーサーカーは主に不満を抱いてはいなかった。正しい英雄という者はね、正しい人間にしか使役できない者なんだ」   「……ふん、何を今更。ねじ曲がったマスターだからこそ、ねじ曲がった英霊を呼ぶ。そのような事、貴方に言われるまでもないわ」    ……そう、サーヴァントの質は召喚者によって変動する。  心に暗い陰を持つ召喚者は、光側である英霊を呼ぶ事はできない。    その例で言うのなら、彼女やライダーは英霊ではない。  ねじ曲がった召喚者は、ねじ曲がった英霊を呼ぶ。  ライダーがかつて“美しいもの”であったように、彼女もかつて“清純であるもの”にすぎない。  そんな彼女が呼び出した〈英霊〉《アサシン》が架空の英雄だという事は、皮肉と言えば痛烈な皮肉と言えた。   「しかし、考えてみればおかしな話だな。君やライダーは英霊に敵対する者だろう。にも拘わらずサーヴァントとして選ばれている。  ……まあ、聖杯には善悪の区別はない。力のある人間霊なら、誰であろうと汲み上げるという事か」   「―――いいえ。本来、そんな“英霊としての側面もあるモノ”なんて混ざりモノは選ばれない。  この戦いがおかしくなったのは三度目からよ。それまでは私や〈彼女〉《ライダー》のような英霊は呼ばれなかった」    ……それも、今になっては関係のない話だ。  聖杯の正体など、彼女は関心がない。  キャスターのサーヴァントである彼女の使命は、ただこの戦いに勝つことだけ。  その先の事など興味はない。  いや、正直に言えばそんな終わりこそ、彼女は望んではいなかった。   「――――無駄話はここまでよ、アーチャー。  持ち場に戻りなさい。貴方が何を考えているかはどうでもいいわ。貴方は既に私のサーヴァント。その命は私の手の中にある。それを肝に銘じて口をききなさい」   「了解した。では従順なサーヴァントらしく、主の期待に応えるとしよう」  変わらぬ口調のまま、赤い騎士は階段を上がっていく。 「――――――――」  それを無言で観察し、彼女は長く息を吐いた。    ―――セイバーの陥落まであと一日。  聖杯こそ見つからないものの、そうなればまた一歩終わりに近づく。  ……戦いが終わればどうなるのか。  キャスターはその力であらゆる望みを叶えるだろう。  生前からの誓い通り、魔女として存在し続けるのも悪くはない。    だが―――終わってしまえば、理由がなくなる。  彼女本人にその意思があろうと、彼女の主には、マスターとしての理由がなくなってしまうのだ。     「―――――あと少しで、聖杯はこの手に収まる」      優雅に、白い手を虚空に伸ばすキャスター。  長かった疲労もそれで報われるというのに、その表情は、死出に赴く〈罪人〉《つみびと》のようだった。        ―――多くの人間の死体を見た。    その時に自分は死んで、新しく生まれたのだ。      道に懺悔はなく。    目はそこで憎悪をなくし、  手はそこで憤怒をなくし、  足はそこで希望をなくし、  我はそこで自身をなくした。    何もなくなった。  助けてくれるモノなどいないと受け入れたのは、諦めからではない。  ただ、それが自然なのだと知っただけ。  死に行く者は死に、生きる者は生きるだけの話だ。  瓦礫の山に横たわって、広がる焼け跡を眺めていた。  そこで全てを理解した。  理解したつもりだった。          ――――だが、それでも思ってしまった。    もしこの場で何もかもを救う事が出来るなら。  それは、どんなに素晴らしい事なのかと。    憧れたのはそんな事だ。  ただ、誰も苦しまなければいいと思っただけ。  その為に正義の味方になろうとした。  なにしろ判りやすかったし、その在り方は理想のように思えたからだ。    だから目指した。  行き先は見えていて、道はそれこそ山ほどある。  何が正しいのか判らずとも、少しでも近づきたくて走り続けた。    そうして通り過ぎた道の多くは歪んでいて、行き先は離れていく一方だ。  ひどい遠回りばかりしている。  切嗣に助けられてから十年間、ずっとそんな事の繰り返しだ。    だが後悔はしない。  俺は遠坂のように器用じゃない。  選んだ道が過ちで、多くの物を失う時だってある。  それを無意味と切り捨てる事はできない。    踏みつけにしてきたもの、もう戻らないものの為にも、生き延びた意味を示さなければならない。    その為には、負けられない。  他人に負けるのは仕方がない。  けど自分には勝てる。諦めろと囁く自分にだけは、いつだって抗える。    誓ったのはその程度の事だ。  俺が信じたもの、信じたかったものは、一つだけ。          ……そう。  たとえ、〈俺自身〉《このみち》が間違っていたとしても。  それを信じた事に、後悔だけはしないように。 「――――――――っ」    外から差し込む陽射しで目を覚ました。  時刻は六時前。  窓越しの空は、灰をまぶしたかのような一面の曇天だった。  支度を済ませて部屋を後にする。  体の調子は良好で、傷の痛みはほとんどない。  これなら戦闘になっても、遠坂の足を引っ張る事はないだろう。 「――――来たわね。準備はいい、士郎?」 「――――」  ……いいけど。  その、遠坂が変身している。 「……? なによ、地雷踏んで動けなくなった新兵みたいな顔して。まだ準備できてないの?」 「――――いや、そうじゃなくて。遠坂、なんかヘンじゃないか?」 「は……?  ああ、これ? 細かい作業の時にかけるだけだから、気にしないで」 「…………」  いや。  そう言うんなら、いいけど。  ……なんか、ひどく似合ってないようで、すごく似合っているように見えるのは、どんな魔術なんだろう。 「いい? わたしたちが向かうのは郊外の森。  街から遥かに離れた市外、まだ人の手が入っていない広大な樹海よ。  長年人間の介入を拒んできただけあって、森は深くて広いわ。年に何人か、何の準備もなしに踏み込んで遭難したって話、知ってるでしょ?」 「――――――――」  無言で頷く。  目的地はその森のどこかにあるというアインツベルンの別荘だ。  あの子……イリヤスフィールとの交渉が決裂し戦闘になった瞬間、俺たちの運命は決まっている。  助けなど呼べないし、脱出する事も難しいだろう。  あの巨人―――バーサーカーを倒さないかぎり、生きて森からは出られまい。 「じゃあ、そろそろ行きましょ。  徹夜して場所にあたりはつけといたから、うまくすれば半日ぐらいで見つけられる筈よ。  とりあえず国道までは車を使うから、タクシー代用意しといて」  ざっ、となにやら色々とつまったボストンバックを持って歩き出す。 「――――む」  もう馴染みになった竹刀袋を片手に追いかける。    ……しかし、遠坂。  タクシー代はいいけど、それじゃあ帰りは歩いて帰ってくるのか、ここまで。    ―――街から〈自動車〉《タクシー》で移動すること一時間。    延々と続く国道を走り、幾つかの山を越えて森の入り口に辿り着いた。  無論、森には舗装された道などない。  高速道路とそう変わらない国道からそれ、雑木林を一キロほど歩いて、ようやく森の入り口に到着した。 「――――――――」    一筋縄ではいくまいと覚悟はしていたが、やはり実際目の前にすると気後れしてしまう。  森は昼なお暗い。  空を覆うほど茂った枝は陽射しを遮り、森はその終わりはおろか、十数メートル先さえ定かではなかった。 「ちょっと士郎。悪いけど、先に進んでみてくれない?」 「? いいけど。あの子の居場所を知ってるのは遠坂なんだろ。俺が先に行っても仕方がないと思うが」  文句を言いつつ森に踏み入る。  ―――と。 「っ――――なんだ、ビリッときたぞ……!?」  思わず足を引っ込める。  痺れたのは一瞬だけだ。  痺れ自体も些細なもので、タンスの角に指をひっかけた方が遙かに痛い。  ……まあ、ようするに静電気みたいなものだった。 「―――やっぱり。識別だけだろうけど、森全体に管理が行き届いているみたいね」 「え―――ちょっと待て。それ、まずいんじゃないのか。  ようするに防犯ベルにひっかかったってコトだろ?  なら――――」 「別に問題ないんじゃない? わたしたちは奇襲にきた訳じゃないもの。話し合いにきたんだから、むしろ今からアピールしておいた方が得でしょ」 「あ。一応気を付けろよ、ちょっとビリっとくるから」 「わかってるわかってる。士郎の見てたからどんなものか判ってるって――――」  ひらひらと手を振って、堂々と森に踏み入る遠坂。  とたん。       「うきゃーーーー!」    なんて、愉快な奇声をあげて遠坂は跳び退いた。 「うわあ……」  ばすばすという音。  遠坂の足下、積もった落ち葉が焼け焦げて見えるのは気のせいだと思いたい。 「……個人差がある警報みたいだな。俺には挨拶程度だったけど」  冷静に状況を解説する。 「く――――くく、くくく――――」  が、そんな言葉は遠坂には届かなかったようだ。 「やってくれるじゃないあのガキ……! いま笑ったの、たしかに聞こえたんだから……!」  があー、と誰もいない虚空に向かって怒鳴る遠坂。  さっきの台詞はどこにいったのか、話し合いというより殺し合いに行きかねない剣幕だ。  ……まあ、それはともあれ。  どんなに遠く離れていても、遠坂の悪口を言うのは命とりっぽいんで気をつけよう。    固まっていた体が弾けた。  立ち上がる足と、手すりにかけた腕は同時。  最中、遠坂の顔が見えた。  遠坂は悔しげに唇を噛んだまま、眼下の惨状を睨んでいる。  ……判ってる。  遠坂だって止めたいに決まっている。  だが、そんな事をすれば殺されるのは自分だ。止める事などできる筈がない。  それは俺だって同じだ。  死にかけの少女を助ける為に自分が死ぬのは、あまりにも馬鹿げていると理解している。            ―――そんな事は知らない。     俺には、あの子を放っておけない。  脳裏を占めたものはそれだけ。  手すりに体を預け、飛び降りる。    遠坂と慎二、二人は突然の乱入者に驚きの目を向け、 あの男は、飛び降りた俺など視界にさえ納めていない。  男は、白い少女の体に手を伸ばす。   「――――止めろ、テメェ―――!!」    絞った声で叫ぶ。  渾身の思いであげた制止の声。 「――――――ほう?」    男は突きだそうとした腕を止め、ゆらり、と。  新しい獲物を見つけた死神のように、壁際に降り立った俺へ振り向いた。            遡ること〈一月〉《ひとつき》よりさらに前。  誰よりも早く、彼はこの世に召喚された。    彼が呼び出された場所は、この国ではなかった。  遠い異国。  大地は常に白く覆われ、空は青みを忘れて久しい、人知れぬ山間の城だった。    その土地には冬が永住している。  冷気と停滞、不毛と切望。  現世との関わりを断ち、ひたすら奇蹟の再現を待つ彼らは、生きる屍と同じだった。  冬の寒気は彼等から人としての温かみを奪い、  停滞した世界は彼らに新たな生き方を許さない。    ……彼の一族は聖杯の探求者。  悲願が成就されるその日まで、アインツベルンに春は来ない。    聖杯の探求より、既に十世紀が経った。  あらゆる手段を用いて“聖杯”に近づこうとした彼らは、いつしか聖杯を錬鉄するに至った。    もっとも、作れるのは器のみ。  その中に宿る神秘はカラのまま、満たされる事のない杯ばかりを錬鉄する。    ―――だが、その日々にも終わりが見えた。  彼らは外部からの協力者を得て、その中身を満たす儀式を行ったのだ。    その結果は、成功であり、失策でもあった。    聖杯は成る。  その方法ならば聖杯は満たされよう。  だが、同時に多くの敵をも作った。  聖杯の所有者である筈の彼らは、〈他〉《た》の凡百の魔術師たちと同格の“提供者”に成り下がったのだ。    彼らの執念は常軌を逸していた。  いや。千年前、聖杯をつかみかけた時から、とうに正気を失っていた。  彼らはルールを破り、常に最強のカードをたぐり寄せる。    一度目はそう仕向ける余裕もなかった。  二度目にようやくルールの綻びを発見した。  三度目には呼んではならぬモノを呼んだ。  そして四度目。  最強のカードとその操り手を得て、今度こそ勝てると踏んだ。    結果はかつてないほどの惨敗だった。  彼らが選び出したサーヴァントとマスターは、事もあろうに彼らを裏切ったのだ。    娘を冬の城に残したまま、男は聖杯を破壊した。    彼らは男の裏切りに憤怒し、自分たちの過ちを嘆いた。  やはり外の人間は信用ならぬ。  事を成すのは我らの血族、魔術回路として完成された一族の作品だけだと。    もとより保険はかけてあった。  そうして五度目。  彼らは今度こそ、最強のマスターとサーヴァントを用意した。    それが彼である。  聖杯戦争が開始される〈二月〉《ふたつき》前。  あらゆるルールを破り、事前に彼―――バーサーカーは召喚された。    その後の日々は、マスターとなる人間を痛めつけるだけのものだった。  ……少女の全身に刻まれた令呪は、バーサーカーを制御するだけのもの。  魔術回路として何の役にも立たないソレは、間違いなく少女の命を削っていく。  バーサーカーがわずかに動くだけで、白い少女は悲鳴をあげた。    ―――無理もない。  聖杯出現は二月も先の事だ。  大英雄である彼を繋ぎ止めるのは、少女の魔力と令呪だけである。  バーサーカーは聖杯の魔力で編まれたモノではないのだ。  いかに少女が特別とは言え、自身の魔力だけでバーサーカーを留める事は命を奪われるに等しい。    それを理解してなお、彼らは休息を与えなかった。    冬の森、飢えた獣の群に置き去りにした。    悪霊憑きの亡骸どもにもくれてやった。    失敗作がうち捨てられる廃棄場にも投げ込まれた。    少女が助かる為には、唯一与えられた巨人に頼るしかなかった。    ―――もはや訓練とも呼べぬ過酷の連続を、少女は悉く生還した。    〈躙〉《にじ》りよってくる敵を巨人に打たせる。    その度に苦悶の〈絶叫〉《こえ》をあげながら、絶え間なく襲いかかってくるモノを全て排除させた。    ……その過程が、いつから。  自分にとって特別な物になったのか、彼自身よく判らない。    少女はその幼さとは裏腹に、弱音を吐く事を嫌っていた。  口に出るものは全て罵倒だ。  嘆くのならば、その原因である誰かを嫌った方が強くなれる、と本能的に悟っていたのか。  少女はバーサーカーを醜いと蔑み、その存在を呪った。  当然だろう。  バーサーカーさえいなければ、少女は苦しむ事もない。  マスターになど選ばれなければ、あのような地獄に投げ込まれる事もなかったのだから。    少女は事あるごとに巨人を憎み、怒りのはけ口にした。  制御に慣れ、聖杯出現の予兆が現れた頃には、少女を襲う苦痛も消えていた。  少女は今までの復讐とばかりに巨人から理性を奪い、物言わぬ『狂戦士』として扱った。    ―――それが少女の精一杯の抵抗だという事を、彼はとうに悟っていた。    少女はそうする事で、必死に自身の弱さに蓋をする。  自分は一人でも生きていける、と。  頼りになる協力者も親愛なる友人もいらない、と胸を張っていた。    ……それは。  どうしても与えられぬ自身を誤魔化す為の、精一杯の虚勢だったのだ。                   『―――バーサーカーは強いね』    冬の森。  返り血で真紅に染まった腕に、躊躇いがちに少女は触れた。  獣の群に囲まれ、少女は死を覚悟し、必死にそれを拒み続けた。    ―――あの時。  主の指示なくしては動けなかった彼は、まっさきに獣たちの餌食となった。    動脈に、腱に、眼球に、牙を突き立てる獣の群。  それを目前にして、少女は叫んだ。  ……その時の言葉がなんであったか、理性を奪われている彼には思い出せない。    ただ、少女は自らの為ではなく、彼の為に叫んだのだ。    この〈腕〉《かいな》が振るわれる度に自身の腕が破裂するというのに、彼を死なせない為に、少女は肉体の崩壊に耐え続けた。    だから、お互いが血まみれだった。  巨人は屠った獣たちの血で濡れ、少女は自らの血で濡れていた。    ……その、冬の森を覚えている。    苦痛の涙をこぼしながら、体を預けた少女の重みを。  そうして気が付いたのだ。  あの狭く冷たい城の中。  少女が話しかけるのは、〈黒い巨〉《おのれ》人だけだったという事に。   「やだ――――やだよぅ、バーサーカー……!」    その姿が、視界に映った。  あの時と同じ。マスターとして完成されて以来、見ることのなくなった泣き顔で少女が走り寄ってくる。    それを斬った。  横一閃に切り払い、〈金色〉《こんじき》の敵は、少女から光を奪っていた。    少女の顔が真紅に染まる。  かまわずに走って、視力を〈喪〉《な》くした少女は、足下の瓦礫に〈躓〉《つまづ》いた。  細い体が倒れ込む。  そこに。    敵の剣が、振り落とされた。    剣は、少女の心臓を外していた。  肺を破かれたのか、少女は倒れたまま、ごふ、と血の塊を吐き出している。    即死ではない。  だが、もはや助かるまい。    光を奪われ、肺も壊れ、サーヴァントさえ失ったのだから、少女にはもう何もない。    故に、せめて安らかに。  そのまま眠ってしまえば、或いは救いの手もあるだろう。  だと、いうのに。   「……あれ……いたい、いたいよ、バーサーカー……」    少女は、血の跡をつけて進んでいた。  苦悶の声をあげ、泣きながら、手探りで黒い巨人へと這ってくる。    どこにそれだけの力が残っていたのか。  渾身の力で鎖を粉砕し、男へと掴みかかる。   「――――フン」    奔る魔槍。  巨人の胸に心臓破りの槍が入る。   「――――――――」    それで終わった。  男は何事もなかったように槍を引き抜き、巨人に残された力は完全に消滅した。    体が消える。  この身を受肉させていた力は全て途絶えた。  ならば、あとは消え去るのみ。  全ての魔力を無くしたサーヴァントに、これ以上現界する力はない。    ぐらりと足下から倒れ込む。  だが、その最期。  彼は網膜に、自分を手探りで捜す少女を見た。   「――――――――」    倒れゆく足に力が戻る。  彼を作り上げた魔術法則、  矛盾を嫌う世界からの粛正、  砂と化して崩れていく岩の体。                  『―――バーサーカーは強いね』    その、自身をここで消そうとするあらゆる力を、ただ意思だけで押しのけた。    ―――まだ消える事はできない。    おそらくは唯一つだった心の寄る〈辺〉《べ》。  彼を罵倒しながらも、ただ一つの頼りとして信じ切っていた、孤独な少女に応えるために。   「……どこ? わかんない、まっくらでなんにもわかんないよぅ、バーサーカー―――」    光を奪われ、手探りで少女は這ってくる。  ……見えぬからこそ、その手に触れたいのか。  血に濡れた手は、彼の存在を確かめようと空を掴む。 「――――――――」    残された力などない。  出来る事など何もない。    〈彼〉《バーサーカー》はここで倒れ、ここで死ぬ。    全身はとうに死滅し、倒れ込む己を支える力もない。              ―――だからわたしは安心だよ。       どんなヤツにだって、       バーサーカーさえいれば負けないもの―――    だが、それは許されなかった。  もはや死んだ意識。  とうにある筈のない意思だけで、彼はその身を保ち続けて、この世を去った。    四肢は倒れず、無敵であった以前のまま。    己を頼りとする少女の為、最後まで、この身は不撓不屈でなければならぬと言うかのように。    ……そうして、少女は辿り着いた。  空を切るばかりだった指先が、たしかな感触に包まれる。   「あ―――」    こふ、と赤く咳き込みながら、少女は硬い体にすがりついた。  ……もう目は見えないが、彼女にはキチンと伝わってくる。  バーサーカーは負けていない。  自分にはもう確かめられないけれど、バーサーカーはいつもみたいに強いままだ。   「―――うん。良かった、ずっとそこにいてね、バーサーカー」    力が抜けた。  いまはとても痛くてこわいけど、彼がいるのならだいじょうぶだ。  いつだって守ってくれた。  怖かったけど、本当に優しかった。  おっきな体はお父さんみたいで、ほんとは一度ぐらい抱きあげてほしかった。   「暗くてもこわくないよ。バーサーカーは強いんだもん。  こうしていてくれれば、わたしはあんしんできるから―――」    体を預ける。  頭に、硬くておっきなてのひらが乗せられるような気がした。  きっとそれは本当だ。  目を開ければ、もう頭を撫でられているに違いない。   「……ん……ちょっと、寒いね」    体が冷たい。  少しだけいつかの森を思い出して、少女は笑った。  もうずっと前のこと。  傷つきながらも自分を守ってくれた巨人の姿を思い出して、彼女は幸せに意識を閉じた。    ――――男は、安らかに眠りについた、白い少女に手を伸ばす。 「――――止めろ、テメェ―――!!」    絞った声で叫んだ。  自身の危険、その先にあるものなど考えなかった。 「――――――ほう?」  男は突きだそうとした腕を止める。  その背後には、俺の乱入に驚く慎二の姿がある。  男の口元には不吉な笑み。 「待――――」  震える喉が、考えるよりも先に声を絞る。  だが、そんな事で。  あの男が、止まる筈がなかったのだ。 「――――――――」    待て、と言う事も、出来なかった。  男は笑みを貼り付けたまま、素手で、少女の体から何かを引きずり出していた。  果実じみた赤色が滴る。  男が手にしたものは、紛れもなく、白い少女の―――だ。 「――――――――」  思考が焼け落ちる。  殺される、という畏怖と、殺してやる、という憎悪が混濁して正気が消えた。 「観客がいたか。〈我〉《オレ》の勇姿を見たいという気持ちは分かるが―――」    男は、右手に紅いナニカを握ったまま、   「身の程を弁えろ。王に命じるとは何事か、雑種!!」    無数の宝具の一つを、俺めがけて射ち放った。  テラスが落ちた。  男の宝具は城の壁を貫き、広間の壁を倒壊させていく。 「――――――――」  その中で、一歩も動かなかった。  頭上から落ちてくる瓦礫も知らない。  逃げる余分などなかったし、逃げる気など毛頭なかった。  家ほどもある瓦礫の塊が背中を掠っていこうが関係ない。  今はただ、ヤツを―――あの男から、視線を逸らすなんて考えられない。 「―――ほう。何かと思えばセイバーのマスターとはな」 「――――――――」  赤い瞳が、俺の敵意に反応する。  ―――血液が沸騰する。    次の瞬間、自分は死ぬ。それが怖くない筈がない。  だが体は逃げる事を拒絶し、あの敵をここで倒せと叫び続ける。  無惨に殺された少女の亡骸が、やつを許すなと命じ続ける。    理性が止まるのは当然の事。  生と死を望む矛盾が、この〈脳〉《あたま》を不能なまでにかき回している。 「――――――――」 「戦う意思はあるようだが話にならん。肝心のセイバーがいないのでは、貴様などに価値はない」  男の左手に剣が現れる。  剣は容赦なく振りかぶられ、あとは振り下ろすだけで、衛宮士郎を仕留めるだろう。 「――――――――」  それでも、敵を凝視し続けた。  あの男に背中を見せる事は、どうあっても考えつかない。 「―――ちょっと待てよ。そいつさ、僕の知り合いなんだよね」  男の剣が止まる。  俺と正反対の壁際で様子を見ていた慎二は、軽い足取りで広間の中央へと歩いてくる。 「よう。久しぶりだな衛宮。こんなところで会うとは思わなかったんでね、少しばかり驚いたよ」 「――――――――」  男は動かない。  ヤツまでの距離は十メートルほど。  ……近づけるのか。この間合いを詰める事は、あのバーサーカーにさえ出来なかったというのに。 「なんだ、ブルって声も出ないのか! まあ気持ちは判らないでもないよ。僕もライダーの時はそうだった。  ああ、そうだったそうだった! いや、あの時は見逃してもらって助かったよ衛宮!」  武器になる物はない。  だが構うものか。  思考は、ある意味澄みきっている。  今の状態なら、あいつの剣を投影する事にも不安はない―――― 「おい。僕がこっちを見ろって言ってるんだ……!」 「――――――――」  ……僅かに気を逸らす。  男を視界に収めたまま慎二に顔を向ける。 「そうだよ、判ってるじゃんか。今、ここで一番誰が偉いのかってコトがさ」 「――――――――」  少し、息を呑んだ。  慎二の言葉にではない。あいつが、それを本気で言っているという事が、意外だった。 「そういう事だ。なら判ってるよな衛宮? おまえ、このままじゃ確実に死ぬよ」  ……なんて場違い。  とっくに理解している事を、今更何故口にする。 「紹介が遅れたが、そいつはボクの新しいサーヴァントでね。ライダーなんかより凄いだろ」  慎二は男の肩に手をかける。  そうして、嬉しげな顔のまま、 「命乞いしろよ衛宮。少しは考えてやってもいいぜ」  よくわからない事を、口にした。 「断る」  迷いはなかった。  躊躇も、わずかに思案する素振りも見せず即答する。 「っ……! そうかよ、それじゃあ死んじゃえよ、おまえ……!」  跳び退く慎二。  男は冷めた〈貌〉《かお》のまま、振り上げたままの剣をようやく一閃させ――――   「そこまでよ。そこのサーヴァント、指一本でも動かせばマスターの命は保証しないわ」    ――――再度、その剣を停止させた。  視線があがる。  広間にいる者全てが、テラスに立つ少女に意識を向ける。  遠坂の手は慎二に向けられていた。  慎二に魔術師としての適性がないとしても、その意味は判るだろう。    遠坂は本気だ。  あの男が剣を振り下ろせば、報復として確実に慎二を仕留める。 「と、遠坂……! おまえまでなんでここに……!?」 「――――――――」  遠坂は答えず、ただ慎二に照準を合わせている。 「な―――なんだよ、おまえ―――本気で僕を撃とうってのか、この人殺し……!」 「殺したのはそっちが先でしょう。  ―――もっとも、どうであれこっちの気は変わらないわ。慎二。殺す権利と殺される権利は同じよ。そんな事、人間なら魔術師じゃなくても本能で理解なさい」 「っ――――」  遠坂に射すくめられ、慎二は弱々しく後退する。  それを、   「――――ほう」    ヤツは、楽しげに眺めていた。  頭上の遠坂をなめ回すような視線。 「…………?」  ……と。  何か、妙な振動が、一瞬だけ広間を支配した気がする。 「なるほど。〈我〉《オレ》の打倒は出来ぬと悟りマスターを狙ったか。交渉を持ちかけたのは、マスターを殺したところで〈我〉《オレ》が止まらぬと判断したからだな、娘」 「……そうよ。慎二が死んだぐらいじゃアンタは止まりそうにない。けどこの状況なら考えてもいいでしょう?  今なら慎二を救えるもの。アンタだってサーヴァントなら、マスターを失うのは痛手の筈よ」 「ふ。なるほどなるほど、なかなかの機転だ。そこの雑種を助けたいのならば、その交渉しかありえまい」    剣が消える。  やつはそれきり、興味をなくしたと俺に背を向けた。 「……! おまえ、何のつもりだ! 誰が止めろって言ったんだよ……!」 「いや―――状況が変わったぞ、シンジ。彼女ならば器としては文句なしだ」 「え――――?」  慎二の息が止まる。  苛立ちに染まった顔は、唐突に、嫌らしい笑顔に変わっていた。 「そうか―――いや、嬉しいよ遠坂。君がまだ生きていてくれて」 「そう。一応わたしもホッとしたわ。アンタみたいなのでも付き合いは長いからね。どこかで死なれてたら気落ちするわ」  へええ、と嬉しそうに笑うと、慎二は両手をあげて喝采した。  ……異様と言えば異様だ。  遠坂に命を狙われていながら、慎二に恐怖はない。  それを上回る喜びが、あいつを麻痺させているようだった。 「まあいい。それよりどうだ遠坂。衛宮なんてほっといてさ、僕たちと手を組まないか?」 「―――僕たち?」 「そうだよ。君もキャスターが力を蓄えているのは知ってるだろう。柳洞寺は今回の祭壇なんだ。そこに陣取られて魔力を蓄えられてるとね、少しばかり不利になる」  両手をあげて慎二は言う。  が、それは言われるまでもない事実だ。  加えて言うのなら、慎二はキャスターがセイバーとアーチャーを手に入れた事を知らないようだ。 「な、わかるだろ、一人でやっても勝ち目は薄いんだ。  バーサーカーのマスターは倒したけど、これだけじゃ足りない。遠坂、君がいればキャスター達にも負けないモノが作れるよ」  自信に満ちた声で慎二は誘う。  それを、 「お断りよ慎二。アンタが誰と繋がっているかは知らない。けどね、わたしから見てもいいように使われてるだけのヤツに、付いていく道理はないわ」    眉一つ動かさず、遠坂は切り払った。 「な――――なん、だって……?」 「わからない? 腐れ縁から忠告するけど、もうちょっと周りを観察する知力を養いなさい。  間桐慎二をマスターだと思っているのはアンタ一人だけよ。アンタには魔術師としての才能がないっていい加減気が付いたら?」 「テッ――――――!」  慎二の顔がひきつる。  容赦のない遠坂の言葉で、命を握られている事も忘れたのか、   「やれギルガメッシュ、衛宮も遠坂も皆殺しだ……!」    慎二は、自らのサーヴァントにそう命令した。 「――――――――」 「な、なんだよ、やれって言ってるだろ……! おまえなら、僕がやられる前にやるなんて簡単じゃないか……!」 「―――いや、残念だが時間切れだ。これ以上放置すれば腐ってしまう」  詰め寄ってくる慎二に、男は右手のモノを見せつける。  ……赤いカタマリ。  白い少女から取り出した、いまだ脈打つそれを。 「くっ――――」  悔しげに歯を鳴らす慎二。 「―――くそ、後悔するなよ遠坂! もう仲間にしてやらないからな……!」  慎二は正門へと走り去っていく。  ……残った一人。  男は己が主の憤る様をゆっくりと眺めた後、   「だそうだ。よい友人を持ったな」    愉快げに残して、瓦礫の広間から去っていった。    ――――そうして、歩み寄った。    広間の中心。  天井から灰の陽射しが差し込む中。瓦礫にまみれて、少女は眠っていた。 「――――――――」  その目蓋が開かれる事はない。  間近で見れば、少女は白くなどなかった。  全身を赤色で塗りたくられた少女には、もう、以前の面影はない。 「……士郎のせいじゃないわ。  判ってるでしょう。わたしたちじゃ、この子を助ける事なんて出来なかった」  判っている。  助けられるモノと助けられないモノがいる事は、ずっと前から教わっていた。  自らの手にあまる事を成そうとすれば、自らの命を危険に曝す事になるとも知っていた。    ――――それでも。    それでも、助けたかった。  子供が死ぬのはイヤだ。  目の前で人が死ぬのはご免だ。  助けて、と。  救いを求める誰かを救えないのは、何よりも怖く、辛かった。 「――――――――」  ごめん、などと口にできる筈もないし、口にするだけの関わりがあった訳でもない。  この少女は、衛宮士郎とは無関係だ。  そんな事、誰に言われるまでもなく理解しているというのに、何故――――   「――――――、あ」    この目は、無関係な涙を流しているのだろう? 「――――どうして?」 「……遠坂?」 「……どうしてよ。  あいつの前に出れば殺されるって判っていたでしょう。  なのにどうしてイリヤスフィールを助けようとしたの。  結果はどうあれ、イリヤスフィールは敵だった。  なのにどうして、この子の死にそこまでしてやれるのよ」  それは追及、だったのか。  遠坂の目は真剣だった。   「―――どうしても何もない。助けたいと思ったから止めただけだ」    それ以外に説明のしようがない。  遠坂は、そう、と俺を睨み付けたあと。 「……そう。前から異常だと思ってたけど、今ので確信したわ。  士郎。貴方の生き方は、ひどく〈歪〉《いびつ》よ」    今までずっと閉じていたフタを、開けようとした。 「歪……だって……?」 「そうよ。自分より他人のが大切、なんて生き方は間違ってる。  いい、他人を助けるのは自分が愛されたいからだ、なんて一般論を口にしてるんじゃないわ。  そんな偽善とは別のところで、人間は自分を一番にしなくちゃいけないの」 「そりゃ他人が一番のヤツだっている。  けど、そもそも自分っていうのは秤にかけられない “別格”なのよ。言うなれば秤そのものでしょう。なのにアンタは、その秤を壊してどうでもいい他人を助けようとする」 「……ええ、それでも構わない。アンタが自分のない、ただ生きてるだけの人間ならそれもいい。  けど、士郎は自分があるじゃない。  そんな確固たる自意識があるクセに、自分をないがしろにするなんて出来ないのよ。  ―――そんな事を続けてたら、いつか必ず壊れるから」 「――――――――」    バカな。  壊れるなんて、そんな事はない。  俺は、むしろそうならない為に。  胸を張っていられる為に、助けられなかった誰かを助けようと―――― 「いいえ。もう十分に壊れてるわ、貴方は。  ……だから言ってよ。十年前に何があったかは知らない。けど、アンタがおかしくなってるのはそれが原因なんでしょうから……!」    遠坂の目は、泣いているようにも見えた。  どうしてそんな顔をするのか。  まるで、この先。  俺の行く末が報われないものだと知って、止めるかのような懸命さで。 「……学校の時もそうだった。貴方はあれだけの死体を見て、とんでもなく冷静だった。……わたしでさえ死体と勘違いしたっていうのに、一瞥しただけでみんなが生きてるって読みとっていた」 「それが、ずっとヘンだってひっかかってた。  魔術師としてろくな教育を受けていないクセに、殺し合いになってもすぐに自分を落ち着かせていた。  死体を前にして憤る事はあっても、死体そのものに嫌悪を抱いてはいなかった。  それはきっと―――貴方にとって、人の死は見慣れたものだったからよ。それだけのモノを、十年前に見たっていう事でしょう?」    見慣れている……?  ああ、確かに初めて見たという訳でもなかった。  学校で倒れていた生徒たちも、変わり果てた姿で死んでいたライダーの姿も、こうして、目の前で眠る少女の姿も、あの時に比べれば“人の死”を迎えていると思う。 「――――――――」    だが、違う。  十年前の火災は、衛宮士郎を救ったものだ。  それが、遠坂に責められる要因になる筈がない。 「違う、遠坂。そんな事はない。俺はただ、助けられただけだ」 「助けられた……? 貴方、十年前の火事の時に助けられたのね? それが衛宮切嗣だったの?」 「ああ、そうだ。ただそれだけだ。あれは原因なんかじゃない」    そう答えた時、胸が軋んだ。  それは嘘だと、自分自身が訴えている。 「じゃあ他には何かなかった? ずっと後悔しているような事とか、助けられる代償に、衛宮切嗣に取られたモノとかなかったの?」 「―――そんなのあるもんか。切嗣は俺を助けてくれただけだ。それに、取られるも何も、その時は」    その時は、何もなかった筈だ。            ―――多くの人間の死体を見た。     その時に自分は死んで、新しく生まれたのだ。    ――――道に懺悔はなく。    目はそこで憎悪をなくし、  手はそこで憤怒をなくし、  足はそこで希望をなくし、  我はそこで自身をなくした。    ……そんな自分が、なぜ。  遠坂の言うような、確固たる“〈自意識〉《じぶん》”を持ち得たというのだろう――――? 「――――――――、それは」    死を受け入れていた。  もう死ぬものだと判っていた。  そんな状態で、体を救われたところで心まで生き返る筈がない。    俺は、あの時。  空っぽのまま、何か尊いものに、憧れただけではなかったか。 「ああ――――そう、だった」    思い出した。  いや、そもそも記憶などしていなかった。  だからそれが、俺を本当に助けたモノだったなんて、今まで気が付きもしなかった。 「……士郎? やっぱり、何か契約でもさせられたの?」 「違う。取られたものなんて何もない。俺はただ、貰っただけだ」    地獄のような世界。  自分以外の全ての人間が死に絶えた場所で、ただ一人救われた。    誰も助けてくれず、誰も助けてやれなかった。  その最期に、奇蹟だと思っていた事を、叶えてくれた。 「―――覚えてる。俺を覗き込む目とか、助かってくれと懇願する声を。  その淵で思ったんだ。自分が助かった事じゃなくて、助けてくれるヤツがいる事は、なんて」    素晴らしい、奇蹟なんだって事を。  だから憧れた。  何もなかったから、何一つ残っていなかったから、目にしたその姿に憧れた。   「だから、俺は――――」    ―――それしか、なかった。    助けられて、その感情しか浮かばなかった。  嬉しかったんだ。  涙が出たんだ。  それしか考えられなかったんだ。    だから――俺は、そんな感情しか作れなかった――   「――――ああ。きっと、遠坂は正しい」    自分より他人を優先するのは歪だ。  それは何か、手順をひどく間違えている。 「けど、救われたのは俺だけだった。その時に思ったんだ。  ―――この次があるのなら。助けられなかった人の代わりに、すべての人を助けなくちゃいけないんだって」 「っ、それがおかしいって言ってるのよ……!  いい、助かったんならまず自分を大事にしろっていうの! 死んじゃった人たちには悪いけど、アンタだけが助かったっていうのはただの偶然よ!  ならその幸運を噛みしめなさい。それだけ酷い目にあったんだから、あとは楽しくやんなきゃ嘘でしょう!」  遠坂は本気で怒っている。 「――――――――」  ああ、それはすごく嬉しい。  遠坂がこういうヤツだから、今更になって気が付けた。  自分一人でずっと首を傾げていた疑問。  正義の味方になりたくて、ずっと誰かの為になろうとした。  その方法がどこかおかしいと気づいていながら、理解できなかった。          ―――それが、こんなにもあっさりと判明した。  目の前で、他人である俺の為に、本気で怒ってくれている誰かのおかげで。 「な、なによ。これだけ言ってもまだ判らないわけ?  あったまくるわね、そんなに判らず屋だっていうんなら、アンタとのコンビも――――」 「いや、判ってる。言っただろ、遠坂は正しいって」 「なら――――」 「けど、やっぱり忠告は聞けない。  確かに俺は何か間違えている。けどいいんだ。  だって、誰かの為になりたいっていう思いが、間違えの筈がないんだからな」          だから。  できるだけの感謝を込めて、そう答えた。 「っ――――――。  ……まったく。そんな顔されたら何も言えないじゃない」  気まずくなったのか、遠坂は背中を向けて俺から離れる。  で、ついでに。   「―――ま、仕方ないか。こうなったらもう、わたしがなんとかしてあげるわよ」    大きく肩で息をして、そんな愚痴をこぼしていた。    日が沈み始め、ロビーはゆっくりと闇に包まれていく。  ……協力者を求めてこの城までやってきたが、二転三転した結果、残ったのは廃墟の城だけだ。 「それで、どうする? こっちから仕掛けず、守りを固めるっていうならここに残ってもいいと思う。  食料も暖も取れるし、壁を直せば篭城の真似事ぐらいできるしね」 「――――――――」  自分たちの身を守るならそれが最善だ。  だが、それが出来ないからこそ、俺たちは協力者を得てまで“戦う”という道を選んだ筈だ。 「……いや、守りを固めたところで無駄だろう。  キャスターがセイバーを完全に支配してしまったら、どんなに篭城したところで破られる。  ……仮に、もしここで生き延びたところで聖杯がキャスターの物になったら、それこそ」 「わたしたちだけじゃなく、町の人間も只じゃすまない。  ……ならやる事は一つね。キャスターがセイバーを手に入れる前に取り戻す。キャスターとアーチャーとアサシンと葛木先生。この四人を、わたしたちで倒す」 「――――――――」  無言で頷く。  イリヤの協力を得られなかった今、俺たちだけでやるしかない。  ……じき日が沈む。  その前にこの城を出て、セイバーが陥落する前にキャスターを叩かなければ――――    ―――作戦は単純だった。    過程は臨機応変、とにかく結果的にキャスターと対峙する事のみを目的とする。  その状況はわずか一瞬でも構わない。  格闘戦において、キャスターはサーヴァント中最弱だ。  なんとか一対二の状況に持っていければ、サーヴァントと言えど俺たちにも勝ち目はある。  遠坂の宝石と俺の投影魔術。  各々の力を駆使すれば、勝てない戦いではない。  それが二人で出した結論であり、それを信じて森を抜けた。  以後、交わした言葉はない。    ……理由は一つ。  俺たちは互いを騙し通すため、必死になって虚勢を張っていたのだ。  朝焼けは灰色だった。  陽射しは雲に阻まれ、黎明はその輝きを封じられている。  頭上は一面の曇天。  黒というより灰に近い空は、十年前のあの時間を思い起こさせた。    ―――じき、雨が降るのだろうか。    濁った乳色の空。  曇っていながら雨上がりの匂いを含んだ〈空〉《そ》の下に、その男は立っていた。 「やはり来たか。君の性格は把握している。必ず、何らかの策を持って戻ってくると思っていた」  涼しげに遠坂を見つめる。 「悪いわねアーチャー、その期待には応えられないわ。  わたしたち、見ての通り徒手空拳だもの。一日考えたけど、なぁーんにも策は思いつかなかったわ」 「――――なに?」 「信じられないでしょうけど、今日は玉砕に来たの。  ……けど、少しぐらいの運は残ってたみたいね。貴方がここにいるってコトは、セイバーはまだキャスターに逆らってるってコトだもの」  なら、相手は四人。  門番であるアーチャーを突破すれば、キャスターとアサシンと直接戦える。  予定では二人でアーチャーを突破し、キャスターたちと対峙する。    ……それが表向きの、遠坂の立てた嘘だった。 「―――そうか。キャスターと衛宮士郎。天秤は、キャスターに傾いたのだな凛」  重苦しいアーチャーの問い。 「ええ。自分でも自分の性格がイヤになるけど、生まれつきだから変えられなかったみたい。結局ここ一番で、わたしは非人間だった」  感情のない声で答えて、遠坂は前に出る。 「―――士郎。アーチャーは貴方だけを襲ってくる。フォローはしないわ。わたしは、貴方が殺されている間にキャスターと戦ってみる」  それが罪だと。  初めから俺を捨て石にするつもりだった、と遠坂は背中で詫びる。 「――――――――」  バカだな、ほんと。  そんなこと、口にしなくても良かったのに。 「ばか、気にするな。俺だって、おまえの性格ぐらい分かってる」 「え――――?」 「遠坂、勝ち目のないコトはしない主義だろ。だから判っていた。……たしかにこれぐらいしか、勝つ方法はないもんな」 「――――士郎」  躊躇いのなかった背中がわずかに震えた。  ……ああ。  謝罪なんて、それだけで十分すぎる。 「行け。アーチャーは俺が抑える。おまえが教会に入るぐらいまでは、意地でも抑える」  呼吸を整え、キーをいれておいた〈魔術回路〉《エンジン》のギアをあげる。    ―――調子はかつてないほどいい。  これならヤツと同じ剣を、すぐにでも投影できる。 「――――ありがと。ごめん、士郎」    遠坂が駆けていく。  ……それを、始めから視界に映していないようにアーチャーは見逃し、   「上出来だ。無能は無能なりに身を〈弁〉《わきま》えたか」    今回こそは逃がさん、と剥き出しの殺気を放ってきた。 「――――〈投影〉《トレース》、〈開始〉《オン》」    ……双剣を投影する。  戦いは、おそらく一合の下に決する。  視界に映るのはアーチャーと、教会へ走っていく遠坂の背中だけ。    ……一撃か、それとも数回は持ち堪えたのか。  戦いは終わり、力を無くした体で空を見上げた。    頭上には、一面の灰色。    じき雨が降るのだろう。  濁った空は近く、雲は壁のように行く手を阻む。   「――――遠坂、無事、に――――」    体が熱い。  教会では遠く、火の焼ける音がする。   「――――は、あ」    力なく伸ばした手では、太陽は遠すぎる。  それはまるで、十年前に戻ったかのようなソラ。  夜の森を行く。  思惑はどうあれ、ランサーの協力を得た今、城に留まっている事はない。  ランサーは遠坂が気に入ったらしく、よくわからないちょっかいを出しては遠坂に叩かれている。 「ちょっと。アンタね、ちゃんと自分のマスターがいるんでしょ。なら大人しくしてなさいよ。  キャスターを倒したら敵同士になるんだし、話なんかしてもしょうがないでしょ。作戦会議以外はみんな無駄口よ、無駄口」 「なんだ、敵になるからって話はなしか? 見かけによらず余裕がないんだな。相手が仇であろうと、気が合うなら膝交えて語り明かすってのが情だろうに」 「いつの時代の人間よ、アンタ。  そうゆうね、明日には殺すけど今日は親友だー、なんてのは今時流行らないの。やるとなったら徹底してやらないと相手にも失礼じゃない」 「……はあ。そりゃまた、つまんねえ世の中になったもんだ」  ……ランサーはまったく懲りない。  心なしか、さっきから同じような会話を繰り返している気がしないでもない。 「それよりランサー。自分の役割、きちっとわかってるんでしょうね」 「ああ? ああ、露払いは任せておけ。オマエたち二人で、キャスターとそのマスターと戦うんだろう。  オレの役目はアーチャーの相手だ。  最悪セイバーもどうにかしなくちゃならんが、まあ、抑えるだけなら問題ない」  他人事のようにランサーは言う。  セイバーとアーチャー、その二人を同時に敵に回す事を恐れてもいない。 「――――――――」  そういえば、道場で稽古をつけてもらった時、セイバーは言っていた。  こと“生き残る”だけなら、ランサーはサーヴァントの中でも最高だと。  卓越した敏捷性と豊富な戦闘経験を持つランサーは、守りに徹すれば鉄壁だと褒めていたっけ。  ……おそらく、生前は戦力的に劣る戦いばかりをこなしてきたのだろう。  〈飄々〉《ひょうひょう》としたこの男は、幾たびの死地を豹のように駆け抜け、生き延び続けた英霊なのだ。 「……それはいいけどな。敵はアーチャーとセイバーだけじゃない。キャスターの下にはアサシンもいるんだろう。なら、最悪アンタの相手は三人ってコトになるぞ」 「ああ、そりゃやべえな。あのヤロウは苦手だ。出来れば一対一でもやりあいたくはねえ。あの手のヤツは遠くから仕留めるに限るが―――まあ、その心配は不要だな。  アサシンは教会には現れない」 「? どうしてそう断言できるのよ。キャスターが柳洞寺に戻らないなら、門番としてアサシンだって呼び戻すんじゃないの?」 「いや。アサシンはキャスターが呼び出したサーヴァントだが、それ故に制約がある。ヤツはあの場所そのものに呼び出された英霊だ。柳洞寺を離れる事はできんし、なによりキャスターが呼び戻さんだろう。  アレはキャスターが、マスターに黙って独断で召喚したサーヴァントだ。  マスターが教会にいる以上は隠し通すし、おいそれと柳洞寺を手放す事もできまい」 「柳洞寺を手放せない……? それって、つまり」 「聖杯の召喚場所があの山だからだろうな。知っているか? 聖杯戦争は今回で五回目だが、聖杯が呼び出される〈特異点〉《とち》は四カ所ある。そのうちの一つが柳洞寺であり、教会でもあるワケだ。  ちなみに三回目の召喚場所は教会だったらしい。四回目はどこぞの平地だったそうだ」 「―――へえ。戦ってれば幸せみたいな人だと思ったけど、意外に物知りなんだ、貴方」 「単にマスターが小難しいヤツなだけだ。オマエたちの事情に関心があるワケじゃない」 「ふうん。……けど、そっか。じゃあ今回の召喚場所って、一回目と同じ場所に戻ったって事なのね」  ぶつぶつと考え出す遠坂。  ランサーはそんな遠坂を楽しげに眺めつつ、暗い森を進んでいく。 「――――――――」  夜も更け、日付はとうに変わっている。  森を抜け街に戻る頃には、空には赤みが差している筈だ。    ……一人、心の中で覚悟を決めて足を動かす。  数時間の後、俺たちはもう一度キャスターに挑む。  ……その時、彼女が敵に回っていたとしても躊躇わない。    キャスターを倒す。  今は、それが最優先事項だと割り切るしかない。          ――――戦場に向かう。  黎明時の教会に何が待っていようと、もう、休む事はできなかった。  ……森を行く。  この無限とも言える木々の中、生きている人間は俺たちだけだった。  獣の息遣いもなく、冬の草木は屍のように生気がない。  進めば進むほど広がっていく木々の海は、果てがないのでは、という危惧を常に抱かせる。  森に入ってから、既に三時間。  正午はとうに過ぎ、切り開いていく風景の変化さえ判らなくなりだした頃。 「――――見つけた。  ……って、聞いてはいたけど呆れたわ。本気でこんな所にあんなモノを建てるなんて」  遠坂の視線を追う。  その先にあるのは暗い闇だ。  木々の隙間。  注意していなければ見失うほどの隙間の向こうに、何か、ひどく場違いな物がある。 「……なんだあれ。壁、か?」 「壁よ。まったく、どうかしてるわ。あれ、自分たちの国からまるごと持ってきたものよ」  悪態をつきながら、遠くに見える『異物』へ向かう遠坂。  まだアレの正体が掴めず、当惑したまま後に続いた。    森を抜ける。  あれほど果てがなかった森は、あっさりとなくなっていた。  いや、ここだけ巨大なスプーンで切り取られたように、森の痕跡が消失しているだけだ。    灰色の空はまるく、見上げきれぬほど高い。    ―――巨大な円形の空間。    それは広場というより、地中深くに陥没した王国のようだった。    それが、イリヤスフィールの住処だった。  森の中に建てられた古い城。  あの少女が住むには広すぎ、一人で暮らすには寂しすぎる、来訪者などいる筈のない森の孤城。 「――――――――」  ……ともあれ、ここで怯んでいても始まらない。  遠坂の話だと、イリヤスフィールも俺たちがやってきた事は知っている。  なら敵意がない事を示すため、正門から堂々と入るべきだろう。 「よし、行くぞ遠坂…………って、遠坂?」  遠坂はただならぬ顔で城を見上げている。  その横顔は、敵と対峙した時と同じ緊張感に満ちていた。 「遠坂。気になるもんでもあったのか」 「……うん。わたしたち以外に誰かいる」 「そりゃいるだろ。イリヤって子とバーサーカーの住処なんだから」 「そうじゃなくて、それ以外の誰かって事よ。……士郎、こっちから入るわよ」 「え――――ちょ、ちょっとおまえ……!?」  止める間もなく、遠坂は壁際の大木まで走り出した。  いや、そんなんじゃない。  遠坂はそのまま枝に手をかけ、器用に登っていってしまった。 「――――――――」  呆然と見上げる。  遠坂はきょろきょろと城を見渡し、そのまま―――    城の二階に、跳び蹴りをくれていた。  がしゃん、という音。  窓ガラスは見事に蹴り割られ、赤い姿が城の中へ消えていく。 「ほら、早く……! 本気でおかしいわよ、この城……!」 「っ―――ああもう、話し合いをするんじゃなかったのかよ……!」  が、やってしまったものは仕方がない。  こっちも木を登って、遠坂と同じように城の二階へ飛び移った。  侵入した部屋から廊下に出る。  そのあまりの豪奢さに目を見張る前に、遠坂の言う“異常”に気を奪われた。  響いてくる音は、紛れもなく戦いの音だ。  剣と剣が打ち合う音。  だが―――こんな、嵐みたいな剣戟があり得るだろうか。  今まで最も激しかった剣同士の戦い……セイバーとバーサーカーの打ち合いでさえ、こんな音は立てなかった。 「――――――――あ」  そこで、不意に思い立った。  これは剣戟の音なんかじゃない。  一対多数の戦い―――文字通り、この城のどこかで“戦争”が起こっている。  その一方はバーサーカーに間違いない。  この城はイリヤスフィールの城だ。  戦闘が起こるとしたら、バーサーカーが侵入者を迎え撃つ時のみである。    駆けだした。  音は下から響いてくる。  入るときに確認した位置関係からすると、戦いは城の中心―――来訪者を迎え入れる広間に違いない。  不慣れな城を走り抜ける。  意見を交わしている場合じゃない。  何が起きているかは判らないが、何か、取り返しの付かない事が起きている―――  はい、意味がない意味がないと思われ続けてはや二十三回、タイガー道場の時間である。 さて。唐突ではありますが、今回でタイガー道場は第二部最終回である! え? 師しょー、時間割りだと、二部はあと一回稽古があるみたいだけど? くわーーーー! 第二十四回のコトは言うな!  あのようなデッドエンドを迎える軟弱者に用はない也! お、押忍!  よく分かんないけど、今回が事実上の二部最終回なワケですね!? そーよー。 一部最終回では、二部からタイガー道場がパワーアップする、なんてデマが流れたけど、今回はもう騙されないわ。 道場はこのまま、わたしと弟子一号だけで慎ましく運営される小楽園を維持します。 …………………………フ。 う、なにやら反骨の相。  この悪魔っ子、また何かよからぬコトを企んでいるのではなかろうか。 あら、それは誤解よ。  ただ、第三部は今までみたいにタイガに付き合ってあげられないから、寂しい思いをさせるかなって。 ぬっ……!? 道場に来られないとは、まさかイリヤちゃん……!? ええ、本編で出番が多くなって忙しくなるの。  リンルートではこういう結果になったけど、三部こそはわたしの真骨頂だもの。 その分、タイガはますます出番が減るみたいね。  ご愁傷さま。これがヒロイン候補と、ヒロイン候補にさえなれなかった者との格の違いよ。 ま、ヒロインになってもトモダチのままでいてあげるから安心なさい。そうね、わたしが本編を支配したアカツキには召使いぐらいには、 ……………………てい。 なにするのよー! こっちは善意で言ってあげてるのにー! 要らぬ! こんなに苦しいのなら愛など要らぬ! つーか貴様弟子失格! ヒロインになんてなったら眩しくて直視できぬ!  ええい出て行け、出て行くがいいうわーん! ふーんだ、こっちこそ願い下げよ!  ばかタイガ、そっちから謝っても許さないからねっ……! ………………行っちゃった。  まあ、これも運命。可愛い弟子がヒロインに返り咲けるというのなら、あえて憎まれ役となるのも師の役目。 よし、戦えイリヤちゃん! 桜ちゃんを蹴落としてヒロインの座を奪うがいいさ! もうこんなトコロには戻ってくるんじゃないわよ、だってわたしの出番が減っちゃうからねっ! ……うう。けど、二部最後のまともな道場が一人っきりっていうのも寂しいなあ。  寂しいけど頑張る。一人でも戦え君、そしてわたし。 さて、今回のデッドエンドはちょっと特殊です。  遠坂さんと士郎だけで戦いを挑むのは無策無謀、勝てるワケがありません。 含むところはあるでしょうが、やってきた『協力者』と素直にシェイクハンドしちゃいなさい。 で、そもそも協力者がやってこなかった君!  主人公失格! 目の前で死にかけてる女の子を助けないでどーするっ! お城での出来事とその顛末は、ずっとなりを潜めていた『ある原因』を吐露させる大事なエピソードなんだから、必ず通過しないとダメ。 遠坂さんルートは、ある意味主人公ルートでもあるからね。きっかり問題を解決しちゃいなさい。 ―――さて、これで今回はおしまいね。  遠坂さんルートもいよいよクライマックス。 ここからはデッドエンドのない怒涛の展開が待ってるけど、ここでちょっと朗報をば。 遠坂さんルートでは、トゥルーエンドとグッドエンドが用意されています。 どんなものかは言えないけど、分岐条件はどのくらい一途だったか。オンリーワンか両手に花か、それは戦いが終わってからのお楽しみ。 それじゃあみんな、タイガー道場第三部で待ってるよ~♪「―――――――」  閉じていた目蓋が開く。  開かれたのは眼だけでなく、眠っていた意識まで鮮明に覚醒した。 「傷は――――問題ないな」  左肩の傷を確認する。  痛みこそあるものの、昨夜ほどの激痛はない。  体の熱も下がっている。  これなら動き回る事になんの支障もないだろう。  朝食を摂って空腹を満たす。  何をするにしてもまずは飯だ。栄養を摂らない事には体も満足に働いてくれない。 「――――と」    左肩の包帯を巻き直す。  むき出しの肌、傷痕は青黒く変色していた。  傷口は塞がっておらず、赤黒い肉が覗いている。 「―――当然だ。今、セイバーはいないんだから」    気休め程度に消毒し、ガーゼをかけ、包帯で縛る。  包帯で縛って傷口を絞らせる、という原始的な応急処置だが、こうでもしないと左腕を動かすだけで傷口が広がってしまう。 「よし、これで終わり。あとは武器が要るな」  空は曇っていた。  今日は一段と冷えるのか、庭にはまだ霜が残っている。 「――――――――」  だが、自分には無関係だった。  寒さを感じない。  体は熱く、氷水を頭から被りたいぐらいだ。  それでも昨夜に比べれば健康状態と言えるだろう。  武器になりそうな物は、やはり木刀だけだった。  何本かある中で一番魔力の通りがよさそうな物を選び、竹刀袋に包む。  そうして、ぴしゃりと頬を叩いた。  気合いを入れ直したつもりなのか、それとも戻ってはこれないと覚悟したつもりなのか。  自分でも、どうしてそんなコトをしたのかは分からない。  右肩に竹刀袋を背負って外に向かう。  長年過ごした場所。  自分の部屋とも言える土蔵には振り返らなかった。  ――――さて。  戦うといっても問題は山積みだ。  何を第一にするか、何をするべきかをはっきりと定めなければ、何も出来ずに終わるだろう。    とるべき道は二つ。  俺は――――    ――――遠坂と合流する。    あいつはここで降りろと言った。  それを拒んで戦うのなら、あいつに思い知らせないと。  俺は自分からは降りないし、まだ協力関係は続いている。  それに――――    ここで、あいつ一人に戦わせるなんてできるものか。    あいつには大きな借りがある。  それを返すまで降板なんて出来ない。 「……しかもあいつ、ここ一番で失敗するし……危なっかしくて、一人になんて、させておけない」    竹刀袋を背負い直す。  ……自分が大した戦力にならない事も、あいつが反対する事も分かっている。  それでも遠坂の顔を見ないと安心できない。    ……だって、例えばの話。  もし俺の知らないところで怪我なんかされたら、今のままじゃ、手を貸す事も出来ないんだから――― 「―――――ふう」    ベンチに腰を下ろして、火照った体を休ませる。  時刻は正午を過ぎた。  その間、新都中を探し回って得た物は何もない。 「……くそ。簡単にはいかないと思ったけど、ここまで無反応なんて」  遠坂を捜す手段がない、なんてのは始めから解っていた。  有るか無いかの偶然に期待して街を捜したところで、あいつの姿はおろか〈痕跡〉《こんせき》さえ発見できない。 「……他のマスターも出てこない。……令呪がない以上、ちょっかい出す必要もないって事か」  はあ、と大きく深呼吸をして、背もたれに体を預ける。 「――――――――」  このままでは埒があかない。  遠坂は俺に尻尾を見せるほど甘くないし、自分を囮にして他のマスターを呼び寄せる、という最後の手段も〈空〉《から》ぶっている。          ……僅かな不安が生じる。  遠坂は見つけられず、セイバーも助けられない。  そうして二人を見つけだせた時には、もう取り返しのつかない状況になっているのではないかと―――― 「――――まだ昼だ。そう簡単にいくもんか」    ベンチから立ち上がる。  熱を持ち出した左肩を無視して、公園を後にする。    もう一度、始めから捜し直そう。  新都にあいつがいる事に間違いはない。  昨夜と同じだ。  どんな理屈だかは知らないが、あいつ―――いや、ヤツがこの辺りに居る事だけは直感できる。    それは予感などといった不確かな物ではなく、確信に近いイメージだった。 「無駄よ。貴方程度の〈存在〉《ちから》じゃ、何をしても私からは逃げられないわ」    キャスターの声が響く。  ここは何処――――いや、俺の目はどうかしちまったのか……!? 「っ、キャスター……!」    上も下もない世界で木刀を振り回す。  手応えはなく、空を切る音もなく、無様に体力を消費する度に、肩の傷が深まっていく。 「安心なさい、殺しはしないわ。貴方には稀少価値があるもの。適当に刈り込んで、投影用の魔杖として使ってあげる」 「あ――――、が」    〈臓腑〉《ぞうふ》だけがのた打ち回る。  体はピクリとも動かないのに、中身だけが、乾燥機の中身みたいに回転していく。 「……驚いた。頭を押さえたのに、体はまだ諦めていないのね。……ふふ、ますます気に入ったわ坊や。セイバーもじき私の物になるし、貴方も同じよう、大事に大事に扱ってあげる」 「っ、っ――――………………」    その、口から内臓全てを吐き出しかねない回転も止められた。  紫の魔術師は、他人の血で染まった指を伸ばす。         「あの男は逃がしたけど、貴方は逃がさない。  さあ―――すぐに、愛しのお姫さまに会わせてあげる」    視界が閉ざされた。  手足の感覚もなく、確かなものは〈肩〉《きず》の痛みしかなく、     それも、あっけなく停止した。  ……教会に行こう。  あの神父に助けを請うのは癇に障るが、今はなりふりかまっていられる状況じゃない。  遠坂と合流して、あいつの力を借りる事がセイバーを取り戻す最善だとしても、姿を消した遠坂を見つけ出す手段が俺にはない。  だがあの神父なら、遠坂の行方はおろか、キャスターに対抗する手段さえ知っているかもしれないのだ―――  ……体が重い。  一歩ごとに肩の傷が〈疼〉《うず》き、体温をあげていく。 「……っ……は……はぁ……はぁ……は――――」    ……こんな、なんでもない坂道が、今は壁のように思える。  だが、それもじき終わる。  この坂を上りきって、教会まで辿り着けば、とりあえずこの重さからは解放される。    教会は空に近い場所に建っている。    ……胸のあたり、脇の下にぬるりと血が滴っている。 「っ……傷、開いちまったな、くそ……」    弱気が傷の悪化を招いた、とは思えない。  もとから安静にしていなければならない体だったのだ。  それをこうして、無理に動かせば傷だって当然開く。 「……けど、それだって、言峰に会えば」    傷の手当てまではいかなくとも、クスリぐらいは分けてもらえるだろう。  あいつの役割は戦えなくなったマスターの保護だ。  ……皮肉な話だが、令呪を失った俺は教会の保護を受ける資格がある。 「………………はあ」    ……教会まであと少し。  遠坂の行方、セイバーの救出も気がかりだが、今はとにかく、椅子に座って熱くなった体を冷ましてやりたかった。    礼拝堂の明かりが消えている。    教会は寒気がするほど静かだった。 「言峰――――――――?」    神父の姿もない。  ……留守にしている、とは思えなかった。  人の気配らしきものはある。  教会は無人ではなく、礼拝堂の向こう、教会の中ごろから物音が聞こえてきていた。 「…………あれ?」    何かおかしい。  印象と事実が食い違っている。 「っ……ぁ、は……」  ……考えがまとまらない。  傷が〈疼〉《うず》いて、何が食い違っているのか、何が起こっているのか、何処が危険なのかを判断できなくなっていた。 「――――地震?」    椅子に座ろうとした体が止まる。  今の地震で棚でも崩れたのか、陶器の割れる音と、言峰の声が聞こえてきた。 「……あいつ、奥にいるんだ」    礼拝堂の明かりは消えている。  となると、教会は休みで神父は奥にいたのかもしれない。  教会に休日があるかどうかは知らないが、明かりがついていない以上、来客を受け入れているとは思えない。 「っ――――こんな時に休みか、あいつ」    これ以上手当てなしで歩くのはきついが、椅子に倒れこむ事はできない。  まず神父に会って、傷の手当てと、遠坂を捜し出す方法を聞かないと。  礼拝堂を出ると、そこは中庭だった。  外からは判らなかったが、この建物は中心に広場を設けているらしい。  庭を囲んだ回廊は手の込んだ造りで、どことなく、本で見た修道院を連想させ――― 「――――え?」  足が止まる。  いま、通り過ぎた柱に、在ってはならないモノがべったりと付着していたような――――           「―――あら。また会えるとは思っていたけど、こんなに早く会えるなんてね」 「ッ……!」  倒れこむように振り返る。  足元はおぼつかず、教会の壁にもたれる事で転倒を堪える。 「――――なんで、おまえが」  ギリギリと。  肩口に食い込む痛みに耐えて、目の前にいる影を見据える。 「それはこちらの台詞よ。その傷ならしばらくは動けないと踏んでいたのだけれど、思っていた以上の坊やだったワケね、貴方は」  紫のローブが近づいてくる。  俺は――――   「――――――はあ」  溜息をついて標識に寄りかかる。  日が沈むまで捜し回って、判った事は自分がいかに役立たずかというコトだけだ。 「っ――――」  左肩の傷が疼いている。  包帯が緩んできたのか、傷そのものが開いたのか。  ……ともかく、これ以上無駄に時間は費やせない。  確かな手がかりを得られなければ昨夜の二の舞だ。 「……あいつ、何処に行ってるんだ、ほんと」    ……昨夜、あいつと別れた時を思い出す。  セイバーを失った俺じゃ戦いは務まらないとか、いざとなったら教会に逃げ込めとか、言いたい放題だったあれからもう一日―――― 「――――て。そうだ、教会」    手がかりならある。  朝、街に出る時に一度は思った筈だ。  聖杯戦争の監督役。  丘の上の教会にいる神父なら、遠坂の居場所を知っているのではないか―――― 「……あいつの手を借りるのは癪に障るけど、えり好みしてる場合じゃない――――」  ……いや、好き嫌いの前にあの神父とは会うべきではない。  神父だと言うが、言峰綺礼という男は根本的に近寄ってはならない不穏さがある。  出来れば相談などしたくはないが、もう頼れるのはあいつだけだ。 「……一度だけだ。それなら問題ないだろう」  自分に言い聞かせて、疼きだした体を動かす。    時刻は、夜の七時になろうとしていた。  駅前から歩くこと二十分。  街の喧噪から離れた郊外に教会は建っている。 「――――――――」  この坂道を上っていくのは九日ぶりだ。  もっとも、それまで一度も寄りつかなかった事を考えれば頻繁に足を運んでいる事になる。  ……正直に言えば、あの教会も苦手だった。  ともすれば、言峰神父よりあの建物自体が近寄ってはいけない禁域なのかもしれない。  十年前の火事。  孤児になった子供たちを預かっていた教会は、十年前を否応無しに思い出させるからだ。  坂道を上りきり、一面の広場に出る。 「――――――――!」  途端、頭痛がした。  左肩の傷によるものじゃない。  傷は熱こそ出していたが、こんな、刺すような頭痛を生み出しはしない。 「くっ…………」  こめかみが痛む。  自己が不確かになって、脱皮する昆虫のように、体が二重に分かれそうな悪寒がある。 「――――おかしいぞ、これ」    頭痛を堪えて走り出す。  原因は、昨日からしている直感だ。  〈新都〉《このまち》に遠坂がいる、という正体不明の感覚。  それが極限まで大きくなって、こんな頭痛を生んでいる。  なら―――あの中で何かが起きているのは、もう間違いない筈だ――――  床に血痕がある。  血の跡は点々と続き、教会の奥にある扉に消えていた。 「……いや、違う。奥に続いてるっていうより、奥から外に出たって感じだ」  ……気になるが、今はそんな場合じゃない。  血痕があるという事は誰かが怪我をしたという事。  しかもこの量――――間違いなく命に関わる。 「――――――――」  頭には鋭利な痛み。体には鈍い重さが沈殿していく。  それを無視して木刀を取り出し、足音を立てないよう歩き出した。 「遠坂――――いるのか」  答える声はない。  張り詰めた空気。  大声を出せば、それだけで教会中の窓ガラスが割れる気がした。 「――――――――」  血の跡を辿る。  血痕は建物の隙間。  知らなければ通り過ぎてしまうだろう、暗い階段から続いていた。 「……地下へ続く階段……ここ、地下室があったんだ」  教会と言うからには〈霊廟〉《れいびょう》だろうか。 「っ――――――――」  ……悠長に思案しているほど、こっちにも余裕はない。  細心の注意をはらって、暗い闇へと足を進ませる。  暗い闇を降りていく。  ……階段の先にはかすかな明かり。  息を潜め、眼下の明かりだけを頼りに進んでいく。  ほどなくして狭い通路は終わり、開けた空間に出た。  そこは、広い石室だった。  階段は壁づたいに聖堂まで伸びている。  この階段を下った先には聖堂と思われる広場があり、     そこに―――捜し求めた遠坂凛の姿があった。  遠坂はアーチャーに守られながら、目の前の“敵”と対峙している。  あいつの目の前―――祭壇の前には、二つの人影があった。  言うまでもない。  紫のローブの魔術師キャスターと、そのマスターである葛木だ。  二人の背後にある祭壇には、    俯き、苦しげに吐息を漏らすセイバーの姿がある―― 「――――――――」    鼓動が跳ね上がる。  脈拍は明らかにレートを飛び越えている。 「――――――――」  状況は明らかだ。  五メートルほど下の聖堂には、対峙する二組のマスターとサーヴァント。  連中は頭上に潜んでいる俺には気づいていない。それだけの余裕はない。  遠坂もキャスターも、隙あらば仕掛けようと〈先〉《せん》を計っている状態だ。  その状態で頭上を見上げるなど、許される事ではない。 「――――――――」  心臓の回転数があがる。  頭痛は絶え間なく、肩には焼き〈鏝〉《ごて》をあてられたような〈傷痛〉《しょうつう》。  この傷では、いつまでも気配を隠していられない。  キャスターか葛木か。どちらかが少しでも視線を上げれば、隠れている俺に気が付くだろう。    俺は――――    ―――今がチャンスだ。    予想外の乱入だけじゃない。  遠坂とアーチャー、キャスターと葛木の戦力が拮抗しているなら、俺の力でも助けになる。  キャスターはアーチャーに任せて、俺が少しでも葛木を止められれば、あとは遠坂が葛木を射程外から打ち倒せる……! 「ば、士郎……!?」 「――――――――」 「――――――――」    階段を駆け下りる。  手にした木刀には“強化”をかけてある。  傷の痛みなんて当然押し殺した。  遠坂はともかく、キャスター達に俺が負傷している事を悟られる訳にはいかない。 「本気……!? なんだってこんなところにいるのよ、アンタは……!」 「なに言ってんだ。教会に行けって言ったのは遠坂だろ。  俺だって、こんなヤバイ場面に出くわすなんて思わなかった」  あ、と思わず言葉を飲む遠坂。  よしよし。咄嗟に言い返しちまったが、予想以上に遠坂を納得させるコトが出来た。 「ともかく加勢する。この状況なら俺でも役に立つだろ。  ……小言はキャスターを倒してからにしてくれ」  遠坂を守れるよう、葛木を警戒しながら近づいていく。 「……たわけめ。大人しく覗いているだけなら、おまえも凛も助かったものを」 「え――――?」  諦めたような独白。  その真意を理解する前に、   「キャスター、これで三対三だ。文句はなかろう、セイバーを出せ」 「な――――」    ……セイバーの〈戒〉《いまし》めが解かれる。  〈磔〉《はりつけ》になっていた金髪の少女は、そのまま力なく地面に落ち、そして―――― 「そんな……!? セイバーはまだ支配できていないのに……!?」 「ええ。ですから令呪を使って、貴方たちを殺すように命じたのよ。マスターの〈令呪〉《めいれい》ですもの。使いたくはなかったけど、使うしかないでしょう?」    ……セイバーが立ち上がる。  その体は銀色の甲冑に包まれ、その手には、初めて見る黄金の剣が握られている―――― 「……まったく、やってくれたわね坊や。おかげで残る令呪は一つだけ。これは保身用の物だから、セイバーにはもう無理強いができなくなった。  ……聖杯を永久にしようという私の算段はこれでおしまいよ。後はただ、一度きりの望みとやらをかなえるだけになったけど――――」 「その前にせめて、ここで楽しませてもらうわ。  さあセイバー。私の望みを台無しにしてくれたこの子たちに、本当の力を見せてあげなさい」    黄金の剣を手にしたセイバーが、一歩、俺たちへと踏み込んでくる。 「―――――――」  事此処に至り、アーチャーは無言だった。  遠坂に逃げろとも言わず、セイバーの前に立つ。    ―――それは。  もう、何をしても〈遠坂〉《マスター》を守れないと悟った騎士の、最後の忠義だった。    セイバーの剣と、キャスターの魔術が鯉口を切る。    反撃する手段も、離脱する猶予もない。  余命一瞬、アーチャーをして防ぎきれないと断念させたモノを、どうして人の身で防げよう。          セイバーとキャスター。  二人のサーヴァントは令呪の縛りによって、容赦なく、その凶器を振り下ろした―――― 「――――――――っ」    呼吸を殺す。  壁に体を寄せ、体を隠しながら様子を窺う。  ……まだ、早い。  どんな状態なのか把握してもいないのに仕掛けるのは無謀すぎる。  なにより持ち札はあまりに少ない。  武器は強化した木刀だけ。それだけの武器で、策もなくキャスターと対峙するのは無謀すぎる。    ―――いや、違う。  武器なら、他にもう一つあった筈だ。 「…………馬鹿な。それこそ、何を考えている」  投影なんて使えない。  一度やっただけで体の半分が麻痺したんだ。  アーチャーも言っていただろう、次に使えば麻痺だけでは済まないと。  自らの力量を超えた魔術は、まず術者を駆逐する。  今の体で身に余る投影魔術なんて使えば、その場で死んでもおかしくない。   「――――機会は必ず来る。今は」    駆け出したくなる体を抑えて、その機会に備えるだけだ。 「―――そう。なら綺礼は殺したわけ?」    張り詰めた声には殺気しかない。  遠坂は今までにない冷たさで、目前の敵を睨んでいた。 「ええ、始末したわ。素直に聖杯を差し出す人間でもなさそうでしたからね。後々になって邪魔をされても困るもの」  対して、キャスターには余裕がある。  魔女は高らかに、神父をその手に掛けたと宣言した。 「――――――――」  ぎり、という音が聖堂に響く。  ……俺にとっては聖者というよりは悪魔めいた男だったが、遠坂にとって、あの神父は兄弟子だった。  それを殺されたのだ。  どんなに魔術師として覚悟していて、あの神父もこちら側の人間だったとしても、簡単に受け流せる事じゃない。 「……そう。それは結構。綺礼もそれぐらいは覚悟していたでしょう。けどキャスター。一つ訊くけど、あいつの死体は確認した?」  怒りを押しとどめたのか、それとも俺の勝手な思い違いで、初めから怒りなどなかったのか。  遠坂は他人事のように問いただし、キャスターは一転して言葉を濁す。 「……何を言いだすかと思えば。そのような事、貴女には関係ないでしょう」 「ええ、まったくないわ。けど他人事でもない。あいつが本当に死んだんなら安心できるから、確認しただけよ」 「――――それはどういう意味かしら、お嬢さん」 「言葉通りの意味よキャスター。  あいつがそう簡単に死ぬタマかっての。もしはっきりと死体を確認していないんじゃ、まず間違いなく生きてるって思っただけ」 「ち。使えないわね、貴女も。どうせ綺礼を襲うならしっかりきっかり息の根を止めておけっていうのよ。  まあいいわ。やる事も出来たし、早めに済ませましょうキャスター。今回は人質もいないし、気持ちよく戦えるわ」    ―――開始の合図。  遠坂かキャスター。  どちらかが一歩前に出れば、聖堂は即座に魔術の炎に包まれる――― 「大きくでたわね。貴女、この状況で私たちに勝てるつもりなのかしら」 「やりようによってはね。幸いセイバーの制御もまだのようだし、条件は同じでしょう。  それに葛木先生の事も判ってる。セイバーは面食らってたけど、事前に知っていれば私のアーチャーの敵じゃないわ」  キャスターを見据えながら、遠坂はアーチャーに手をかざす。 「聞いての通りよアーチャー。  キャスターの相手はわたしがする。下手に近づくとアンタまで契約破りをくらいかねないから」 「……ふむ。私の相手はあの男か。  それは構わないが―――魔術師ではキャスターには敵わないと解っているのか、凛」 「……安心して、勝ち目もない事は言いださないわ。  キャスターは必ずここで倒す。そうすればセイバーだって元に戻って、士郎と契約をし直せるでしょ」    ―――遠坂の腰がわずかに落ちる。  獲物に襲いかかる猫科の猛獣を思わせる緊迫感。  それを止めるように、   「理想論だな。彼女をここで倒す、というのは難しい。  逃げるだけならば彼女は当代一だ。なにしろ逃亡の為に、実の弟すら八つ裂きにする女だからな」    無造作に、アーチャーが遠坂とキャスターの間に立った。 「アーチャー……? ちょっと、なんのつもりよ」 「――――――――」  遠坂の声にも答えない。  赤い騎士はいつかのように、無言でキャスターと対峙する。          そんな光景を。  いつか、見た覚えが、あった。 「……実の弟すら八つ裂きにした、ですって……?  知ったような口をきくのねアーチャー。アナタには私の正体が判っていて?」 「竜の歯を依り代とした人型はコルキス王の魔術と聞く。  その娘、王女メディアは稀代の魔女と謳われたそうだが?」    ――――空気が凍る。  キャスターから余裕が消え、火のような敵意がアーチャーへ叩きつけられる。 「―――そう。  なら、この場はどちらが優勢か判るでしょう?」 「――――――――」  アーチャーは答えない。  善悪などないと。ただ物事を受け入れるだけの、岩のようなその表情。 「抵抗は無駄よアーチャー。  貴方が何者だろうと、セイバーを取り戻す事はできない。今はまだ私に逆らう意思が残ってるけど、それもあと一日保つかどうか。  それに―――令呪さえ使ってしまえば、今すぐにだって私の人形にしてしまえるわ」 「――――――――」    立ち上がろうとする足を押さえつける。  ……まだだ。  今のが本当だとしても、今は堪える。  セイバーを助けたいんなら、ここで飛び出す訳にはいかない―――― 「―――ふん。たとえ令呪を使われても、セイバーなら耐えられるわ。それが一分か二分かは知らない。  けど、それだけあれば十分に貴女を仕留められるんじゃない?」  キャスターと遠坂はアーチャーを支点にして睨み合っている。  その支点であるあいつは、 「不可能だな。ここでおまえを斬り伏せようが、せいぜいその半身を断つ程度。  その後に待つのは、セイバーとキャスターを同時に敵に回す、という劣勢だけだろう」    そう、己がマスターである遠坂の思惑を否定した。 「アーチャー、それは」 「判っている筈だ、凛。流石にそうなっては勝ち目がない。  セイバーは不完全なマスターの為に能力を制限されていた。その縛りがなくなった以上、彼女は最強のサーヴァントだ。太刀打ちできるのはバーサーカーのみだろうよ」  淡々と語る。  遠坂はアーチャーを呆然と見つめ、  キャスターですら、物分かりのいい敵に戸惑っていた。    だが俺は違う。  俺はこれと似た光景を、以前一度味わっている。 「まさか――――あいつ」    嫌な予感が思考を塞ぐ。  あの時の境内。  キャスターと対峙したあいつは、仲間になれといったキャスターの言葉を、なんと言って断ったのか。 「――――やめろ」    知らず呟いた。  それは、やめろ。  状況が一層悪くなるからじゃない。  おまえは遠坂の相棒だ。  だから、やめろ。  そんな事になったら―――あいつがどんな顔をするか、分からなく、なる。  アーチャーが前に出る。  その手はあくまで空手。  敵意も殺気もないまま踏み出したあいつは、そのまま。           「―――恨むなよ小僧。  こうなっては、こうする以外に道はなかろう?」    俺が覗いている事に気がついていたように、ニヤリと、こっちを見て笑いやがった―――― 「さてキャスター。一つ訊ねるが。おまえの許容量にまだ空きはあるのだろうな」 「アーチャー、アンタ……!」 「ふ――――ふふ、あはは、あはははははははは!」    心底おかしそうに笑うキャスターと、鋼のようなアーチャーの背中。  それを、遠坂は。  ―――目を逸らさず。    こんな時ぐらい崩れてもいいっていうのに、精一杯の強がりのまま、歯を食いしばって受け入れていた。 「ええ、当然よ。一人と言わず、全てのサーヴァントを扱えるだけの貯蔵はあるわ。私の魔力が何処から補充されているかは知っているでしょう?」  七人のサーヴァントを維持できる魔力。  それは、街中の人間から汲み上げる命そのものだ。 「ならば話は早い。以前の話、受けることにするよキャスター」  それを承知で、あいつはキャスターに手を差し出した。 「――――――――」  崩れるかと、思った。    ―――あいつが、許せない。    遠坂を裏切った事も。  キャスターを認め、その仲間になる事も。    ―――英雄と。  多くの人間を救ってきた、衛宮士郎の理想とも言える英雄が、あんな男だという事も―――― 「あの時は断ったのに? 随分と腰が軽いのね、アナタは」 「状況が変わった。  セイバーがそちらについたのなら、今回の聖杯戦争の勝機はおまえにある。勝てる方につくのは当然の行為だろう」  アーチャーは無防備なままキャスターへと歩いていく。  それは遠坂から離れるという事だ。  遠坂は止めず、油断なく目前の敵を見据えていた。 「――――――――」    その姿を、知っている。  赤い教室。  倒れた生徒を前にして、あいつは、足の震えを隠して遠坂凛であり続けた。    ……それがあいつの強さであり、弱さだった。  どんな時でも気丈であろうとするから、周りの人間は、あいつを強い人間だと勘違いしてしまう―――― 「さあ、契約破りを使ってくれ。凛にはまだ令呪が残っているからな。早くしなければおまえに襲いかかってしまうぞ」  軽口は変わっていない。  あいつは目の前で遠坂を裏切ったっていうのに、以前のままに振る舞っている。  そんな相手に警戒心を抱いたのか。  キャスターはあの異形の短剣を持ち出したものの、アーチャーに突き立てようとはしなかった。 「どうした? 労せずして忠実な部下が手に入るのだ。  何を躊躇う必要がある」 「……どうかしら。私は裏切り者を信用しない。貴方の言葉が正しいのなら、駒はセイバーだけでいいのではなくて?」 「裏切り者を信用しない、か。  確かに私はおまえをも裏切るかもしれん。私は私の為におまえに降るのだからな。おまえを主と認めた訳ではない。だが―――」 「令呪とは、裏切り者を罰する為にある、でしょう?  ……いいわ。貴方一人を御し得ないようでは私の器も知れるというもの。もとより貴方の“宝具”には興味があった事だし、思惑にはまってあげましょう」  キャスターの腕が上がる。  握られた契約破りの短刀は、一直線にアーチャーの胸を刺した。 「っ――――!」  遠坂の顔が歪む。  一方的に契約が断ち切られた事による反動だろう。  だが、そんな事に躊躇しているあいつじゃない。  状況は、ここにきて最悪な物となった。  遠坂はキャスターたちを見据えたまま、じり、と僅かに後退している。  ……遠坂は冷静だ。  もう、この場は戦ってどうにかなる状況ではないと理解している。  それでもまだ戦うというのなら、今は撤退するしかない。 「――――――――」  だが、遠坂の位置から階段まで六メートル。  その距離を一気に走り抜ける事など出来るのか。  ―――不可能だ。    こうして上から見れば瞭然としている。  今まで終始無言だった葛木が、遠坂に意識を向けている。  遠坂が背中を見せて全力疾走したところで、あの葛木を躱して階段に辿り着き、この出口まで上りきる事が出来るというのか。  キャスターたちを見据えたまま、遠坂は鼻を鳴らす。  その顔が、   “ふん―――そんなの無理に決まってるじゃない”    そう、皮肉げに呟いているように見えた。 「――――――――」    死ぬ。  このままならあいつは殺される。  それを助けるというのなら、俺も戻る事はできなくなる。  この下、僅かでも階段を下りた場所は死地だ。  葛木というマスターと敵であるサーヴァントが二人。  それを前にして、生きて帰れる筈がない。 「――――――――」  喉が渇く。  指は緊張で固まったまま。  ゼロかイチか。  それを、思案する時間もなく、  遠坂の体が流れた。  なんの前触れもなく、矢のような速さで階段へと走り出す。    その背中に。  遠坂が止まって見える速度で、痩身の影が追い付いていた。    葛木の拳は遠坂の後頭部を打つだろう。  セイバーを鎧の上から傷つけた相手だ。  人間の頭蓋など砕くにも値しまい。 「――――――――」    ―――救えない。  俺一人では助けられない。  こんな木刀だけじゃあいつを救えない。  ……出て行けば死ぬ。    出て行けば死ぬ。  出て行けば死ぬ。  出て行けば死ぬ――――!  出て行けば死ぬ――――!      助けない。  助けに入れば確実な死が待っている。  人間なら、生きているのなら、それ以外の選択など出来ない。            ――――だと、言うのに。   「ぁ――――ああ、あああああああああああああ!」    心より、体が止まらなかった。    ―――逃げる事など出来ない。    出て行けば死ぬというが、ここで逃げれば、それこそ死人になって生き延びる事になる……!    降りた。    階段なんて使っていられなかった。    気が付けば五メートルの高さから、遠坂の真後ろに飛び降りていた。  だがそこまで。    遠坂の後頭部に食らいつこうとした葛木の〈蛇〉《こぶし》によって、木刀は粉砕された。 「え?」  突然の乱入者に目を見張る。  その中で一人、当然のように動く敵がいた。 「――――――――」  躊躇などない。  この男には相手が誰であろうと関係ない。  突如現れた衛宮士郎に抱く感慨などない。  打ち出される死神の釘。  防ぐ手段などない。  茎のように首を折られる。  なんて無様。  わずか二秒も保たないのでは意味がない。    俺は、このまま。    何も出来ず、遠坂さえ助けられない――――    ――――却下。    手段ならば初めから持っている。  防ぐ〈手段〉《もの》などそれこそ無数に用意できる。  この体が魔術師ならば。    戦うのは〈体〉《おのれ》ではなく、魔術によって創り出したモノに他ならない――――! 「――――〈投影〉《トレース》、〈開始〉《オン》」    ならば作れ。  成功など当然だ。  復元するのは基本骨子からではない。                 (危険)  その概念、創作者の思想思惑道徳信仰から起源そのものを〈読み込む〉《リードする》。                 (危険)  故に復元ではなく投影、〈其〉《そ》は真物より落ちる同一の影。                   (危険)  それがいかなる領域の業であろうと関係ない。  一度成したモノならば、再現するに支障など――――!                 (暴走)  問題は別にある。  そう、問題は、問題は問題は、問題は問題は問題は機能に筐体がついてこれないというコトだけ。体が熱い。  細胞という細胞が発火する。神経は阿鼻を訴え網膜は罅割れ乾き心音は消失する。  肉体の停止命令を無視し、創造における理念、基本となる骨子、構成する材質、制作の為の技術、憑依された経験、蓄積した年月、その手順を一息に〈省略〉《キャンセル》して干将莫耶を作り出す。    全身が燃える。    いま投影を使う、という事は死ぬということ。  そんな規格外の魔術行使、衛宮士郎の肉体は耐えられない。    それを無視して頭は先走り、故に肉体は死滅する。      ――――だが。  その問題さえ、問題である筈がない。    そう、そんな筈がない。    ――――剣製を行えば死ぬ?    まさか。  この体は、その点においてのみ特化した魔術回路。    剣に助けられ、剣と〈融合〉《とも》に生きてきた。    故に―――他の人間ならいざ知らず、こと剣製で、衛〈宮士郎〉《おれ》が自滅する事などありえない――――!   「はっ――――…………!!」    弾く。  手にした得物が同じなら、対峙する敵も同じ。  手にあるのは干将莫耶。  複製されたアーチャーの宝具は、再度、葛木の拳を弾ききっていた。 「――――――――」    ―――それで止まった。    このままでは前回の繰り返しになると読んだのか、葛木はわずかに間合いを離す。 「は―――、づっ…………!」    肺が爆発する。  止まっていた呼吸が、堰を切って口からあふれ出る。  左肩の感覚はない。  傷は完全に開ききり、ぬらりと、包帯だけでなく服さえ血で染めていた。  ―――投影によるダメージではない。  二撃。  葛木の拳を二回弾いただけで、左腕は潰された。  もう一撃受けていれば肩の骨は外され、拳に殴られたというのに腕が弾ける、なんて奇怪な光景が展開されただろう。 「っ――――はあ、はあ、は――――」    そんな内情を明かす訳にはいかない。  双刀を構えたまま、遠坂の背中を守る。  その、肝心の遠坂は、 「ば、ばか士郎―――! アンタ、なんだってこんなところに来てんのよ……!」  足を止めて、憎まれ口を、たたいていた。 「――――――――」  ……ほっとする。  この選択に、間違いはなかった。  こいつの、この判りづらい人の良さを失わないで、本当に、良かった。 「――――――――っ」  いや、今はそんな場合じゃない。  間違いでないかどうかはこの後だ。  俺たちはこのまま、無傷でここから外に出なくちゃいけないんだから。 「―――わるい、文句は後だ遠坂。一息つけたらちゃんと聞くから、今はアイツらをなんとかしよう」  遠坂は無言で頷いて、俺の後ろで臨戦態勢に入る。 「―――手を出すと判ってはいたが。まさか、飛び降りるとは思わなかった」    拳を構えたまま、葛木は俺と遠坂を見据えている。  ……俺たちを逃がす気はない。  こうして睨み合っているのは、どちらかを逃がさない為だ。  俺と遠坂、どちらかが動けば即座に反応してくるのだろうが―――― 「っ――――――――」    こっちは、そう悠長にかまえてはいられない。  ……肩の傷は秒単位で悪化していく。  血が流れる分だけ集中力が途切れていく。  もとより長くは保たない体だ。  逃げるのなら、一刻も早く逃げなくてはならない。  ……だが、簡単に逃げ出せる相手でもない。  俺が動けば葛木は当然反応する。そうなった時、まっさきに殺されるのは遠坂だ。  遠坂を逃がす為には葛木を倒すしかない。だが俺に葛木を倒す力はなく、敵は葛木だけではない。  葛木の背後にはキャスターと、裏切ったアーチャーがいる。  ……いや、下手をすればセイバーまでも敵に回ってくるかもしれない。 「――――――――」    出口など、初めからなかったのか。  ここまで絶望的な状況で逃げだせる奇蹟などない。  最悪遠坂だけでも辿り着かせたいが、それさえ、あきれる程の偶然が必要になる―――― 「そこまでのようね。貴方の乱入には驚いたけど、結果は変わらないわ。  ……ええ、その顔では諦めもついたようだし。出てきた、という事は殺されてもいい、という事よね、坊や?」 「ここでおしまいにしてあげるわ。生かしておいても面倒でしょうし、ここでまとめて―――」 「――――!」  ……来る……!  こうなったら全力で抵抗するのみ、双刀に力を込めて遠坂の前に立つ。  放たれる殺気。  それが俺たちに到達する直前。     「――――いいや。待て、キャスター」      感情のない声で、赤い騎士が場を制した。 「……アーチャー。この場での発言権がないことぐらい、読みとってると思ったけど」 「いや、言い忘れていた事があった。おまえの軍門に下るには、一つだけ条件を付けたい」 「……条件、ですって?」 「ああ。無抵抗でおまえに自由を差し出したのだ。  その代償として、この場ではヤツラを見逃してやれ。  どのみちマスターとしては機能しない者達だ。殺す価値はないだろう」  他人事のような提案。  それを、遠坂はまっすぐに見つめていた。 「見逃せ、ですって? ……ふん。言動のわりには甘いのね、貴方」 「私とて人の子だ。さすがに裏切った瞬間に主を殺した、では後味が悪い」 「ふぅん。裏切り者のクセに、よく本人の前で人並みのコトを言えたものね」 「……いいわ。今回は見逃してあげましょう。けれど次に目障りな真似をしたら、誰が止めようと殺します。  それでいいかしら、アーチャー」 「当然だ。この状況でなお戦いを挑むような愚か者ならば、手早く死んだ方がいい」    ……それで交渉は成立したのか。    聖堂に満ちていた殺気は薄れ、俺たちを逃がすまいとする圧迫感はなくなっていた。 「そういう事よお二人さん。今回は見逃してあげるわ。  さあ、敗者は敗者らしく逃げるように立ち去りなさい」 「っ――――」  キャスターを睨み付ける。  ……が。  そんな俺の腕を、遠坂は無言で引っ張った。 「行きましょう。今はあいつの言う通りよ」  耳元で囁かれる声。 「――――――――」  それに呼吸を鎮めて、目前の敵に背を向けた。  走る事もせず、ゆっくりと階段まで歩いていく。  あれだけ遠かった距離は、わずか数歩で埋まった。  かつん、という足音。  遠坂は階段に足をかけ、一度だけキャスターへ振り返る。  ……いや、それは違う。  遠坂が見据えた相手はキャスターではなく、敵側で微笑するあの男だ。 「恨むのなら筋違いだぞ、凛。  マスターとしてこの女の方が優れていただけの話だ。  優劣が明確ならば、私は強い方をとる」 「―――そうね。けど後悔するわよ。わたしはぜったいに降りない。  いい、キャスターを倒してアンタを取り戻す。その時になって謝っても許さないんだから」 「それは無駄骨だな。まあ、自殺するというのなら止めはしないが」  ふん、と顔を背けて歩き出す。  横顔は悔しげに唇を噛んでいた。  それでも足は速めず、遠坂は堂々とした足取りのまま、振り返らずに地下聖堂を後にした。  教会を出る。  地下聖堂からここまで、一度も言葉は交わさなかった。 「無駄よ。貴方程度の〈存在〉《ちから》じゃ、何をしても私からは逃げられないわ」    キャスターの声が響く。  ここは何処――――いや、俺の目はどうかしちまったのか……!? 「っ、キャスター……!」    上も下もない世界で木刀を振り回す。  手応えはなく、空を切る音もなく、無様に体力を消費する度に、肩の傷が深まっていく。 「安心なさい、殺しはしないわ。貴方には稀少価値があるもの。適当に刈り込んで、投影用の魔杖として使ってあげる」 「あ――――、が」    〈臓腑〉《ぞうふ》だけがのた打ち回る。  体はピクリとも動かないのに、中身だけが、乾燥機の中身みたいに回転していく。 「……驚いた。頭を押さえたのに、体はまだ諦めていないのね。……ふふ、ますます気に入ったわ坊や。セイバーもじき私の物になるし、貴方も同じよう、大事に大事に扱ってあげる」 「っ、っ――――………………」    その、口から内臓全てを吐き出しかねない回転も止められた。  紫の魔術師は、他人の血で染まった指を伸ばす。         「あの男は逃がしたけど、貴方は逃がさない。  さあ―――すぐに、愛しのお姫さまに会わせてあげる」    視界が閉ざされた。  手足の感覚もなく、確かなものは〈肩〉《きず》の痛みしかなく、     それも、あっけなく停止した。 「無駄よ。貴方程度の〈存在〉《ちから》じゃ、何をしても私からは逃げられないわ」    キャスターの声が響く。  ここは何処――――いや、俺の目はどうかしちまったのか……!? 「っ、キャスター……!」    上も下もない世界で木刀を振り回す。  手応えはなく、空を切る音もなく、無様に体力を消費する度に、肩の傷が深まっていく。 「安心なさい、殺しはしないわ。貴方には稀少価値があるもの。適当に刈り込んで、投影用の魔杖として使ってあげる」 「あ――――、が」    〈臓腑〉《ぞうふ》だけがのた打ち回る。  体はピクリとも動かないのに、中身だけが、乾燥機の中身みたいに回転していく。 「……驚いた。頭を押さえたのに、体はまだ諦めていないのね。……ふふ、ますます気に入ったわ坊や。セイバーもじき私の物になるし、貴方も同じよう、大事に大事に扱ってあげる」 「っ、っ――――………………」    その、口から内臓全てを吐き出しかねない回転も止められた。  紫の魔術師は、他人の血で染まった指を伸ばす。         「あの男は逃がしたけど、貴方は逃がさない。  さあ―――すぐに、愛しのお姫さまに会わせてあげる」    視界が閉ざされた。  手足の感覚もなく、確かなものは〈肩〉《きず》の痛みしかなく、     それも、あっけなく停止した。              ――――その夢の正体に、いつ気が付いたのだろう。    見渡すかぎりの荒野。  大地に突き刺さった無数の剣には、しかし、誰一人として担い手がいなかった。    空は荒れ果て、遠く地平の彼方には森も町も海もない。  無限に続く剣の丘。  使う者、持ち主のいない鋼の墓標。    それが。  その英雄の心象風景なのだと、そんな事、いちばん初めに気が付いていた。              様々な経緯を経て、英霊となったモノはその座に陥っていく。    人々に親しまれたまま他界した者もいれば、高潔な王と讃えられて他界した者もいる。    戦いを望んだまま戦いに散った者もいれば、満ち足りた余生を終えて消えた者もいる。    ……けれど、本人の意思とは別に祭り上げられたモノも、少なくはないようだった。    正しい在り方で英霊になったモノを正英雄と言うのなら、それらは異なる英雄。  逆しまの運命によって座におちた、黒い念の〈反英雄〉《アヴェンジャー》と言うべきだろう。    英雄とは逆位置にありながら、結果として英雄として〈奉〉《まつ》られたモノたち。  人間を恨みながら、人間に恨まれながらも英雄として扱われたモノさえ、〈人間〉《わたしたち》は守護者として使役する。    ……けど、あいつはどっちつかずだ。  正英雄でもないし、数少ない反英雄でもない。  報われなかった人生で、裏切られて終わった命だったクセに、最後まで人間を恨まなかった。    ――――けど、それも〈摩耗〉《まもう》した。    そう、きっと摩耗したんだ。    わたしは勘違いしていた。  英霊、サーヴァントと呼ばれる使い魔。  ……その中でも『守護者』に位置づけられる霊長の抑止力。  彼らはあらゆる時代に召喚され、人の世の破滅を防ぐ。    けど、彼らが呼び出される条件は“人間の手による破滅”だけ。  自然、外的要因による破滅は、〈霊長〉《にんげん》の〈抑止力〉《がんぼう》ではなく、世界の抑止力が解決する。    ……だから、守護者となった英霊が見るのは自滅だけ。  〈人間〉《みずから》の欲望によって生み出された破滅を消去するだけの存在。    人間を救う為に世界と取り引きをして、英雄になった。  その死後、代償として守護者になったそいつは延々と“人間の自滅”を見せつけられる。  人々を救う“英霊”として呼び出されたのに、人間がしでかした不始末の処理を押し付けられ続ける。        ……それを虚しいと思い、人の世を侮蔑せずにいられなくなるには、そう回数はいらない。      そいつは、結局。  死んだ後さえ、守った筈の〈理想〉《モノ》に裏切られ続けたんだ―――   「凛。どうした、立ち眩みか」 「え――――?」    不意に声をかけられ、遠坂凛は目を覚ました。  ……ゆっくりと周囲を見渡す。  ここは外人墓地。  夜の七時を過ぎたばかりだというのに〈人気〉《ひとけ》はない。  もっとも、教会の立つ丘は何時だって人気はないのだが。   「……ごめん、寝てた。少し疲れてるみたい」 「無理もない、昨夜から不眠だったからな。体調が優れないのならば見合わすか? 何も今すぐ仕掛ける事はない」 「……いいえ、時間はかけられない。キャスターの居場所が判ったんなら、ここで決着をつけるべきよ」    そう断言して、凛は自分の体が温かい事に気が付いた。  彼女の使い魔、アーチャーがその外套で冷気から守っていてくれたのだろう。   「……ふん。なんだ、寝てるって気が付いてたんじゃない、貴方。なのに起こさないなんて人が悪いわね」 「なに、立ったまま眠る人間にはそうお目にかかれないのでね。物珍しさでつい観察してしまった」 「―――ますます質が悪い。女の子の寝顔を見るなんて何様よ、アンタ」   「安心したまえ、誓ってそのような無礼はしていない。  だが、別の物は聞いたな。目は閉じようと思えば閉じられるが、耳はそうはいかないのでな」 「…………そう。わたし何か言ってた、アーチャー?」 「ああ。気にくわないだの頭にくるだの、実に物騒な囁きを数件」   「――――――なんだ、良かった」    ほう、と凛は胸を撫で下ろす。  いま見ていた夢は、口にしてはいけない事だ。  それをアーチャーに知られる事だけは避けなくてはならない。  彼女はこの関係が気に入っている。  ……その為には、自分がアーチャーの過去を知っている、という事実は隠すべきだった。   「行きましょアーチャー。教会なら少しは詳しいわ。あそこならどこに隠れているか見当ぐらいつく」    アーチャーの外套を払って立ち上がる。  無言で背後を守るアーチャー。  そこへ、   「ねえアーチャー。自分のやってきた事を、後悔した事ってある?」    振り返らず、彼女は言葉を投げかけた。   「――――――――」 「わたしは、出来れば最後までしたくない。本当に打ちのめされた時にも、歯を食いしばって意地を張り続けたい。  けど、それって難しいんでしょうね。きっと、わたしが考えている以上に」   「個人差があるな、その手の精神論は。  出来る者もいれば出来ない者もいる。とりわけ君は前者だ。その手の人間はまず過ちなど起こさないし、自らの過ちなど考える事もない」   「……む、なによ。それじゃわたしが傍若無人な暴君みたいじゃない」 「いい自己認識だ、凛。  鮮やかな人間というモノは、人より眩しいモノを言う。  そういった手合いにはな、歯を食いしばる時などないのだ。  ……で。私見だが、君は間違いなくその手合いだ。遠坂凛は、最後まであっさりと自分の道を信じられる」    歌うように、赤い外套の騎士は言った。  その答えに凛は頬を赤くしながら、やはり振り返らず、核心を口にする。   「……じゃあ貴方は? 最後まで自分が正しいって信じられる?」 「む? いや、申し訳ないが、その質問は無意味だな」 「……どうしてよ。答えられないコトじゃないでしょ、こんなの」  僅かに緊張のこもった声。  それに、   「最後まで、という質問が無意味だ。  忘れたのかマスター。  ―――私の最期は、とうの昔に終わっている」      乾いた声で、赤い騎士は返答した。 「っ――――――――」    ……傷が痛む。  額に〈滲〉《にじ》んだ汗が目に入って、視界が〈濁〉《にご》る。 「は…………つ」    歩くだけ、という運動さえ傷に〈障〉《さわ》るのか。  坂道を下りる度に肩が痛んで、知らず、歩幅が縮んでいく。 「……衛宮くん?」    遅れた俺へと振り返る。  ……と。  いきなり、遠坂は真顔になって俺を見据えた。 「少し休みましょう。士郎、歩くのも辛いでしょう」 「え……? いや、大丈夫だ。このぐらいなら我慢できる。それより今は、早く戻った方がいい」  衛宮邸か、遠坂邸か。  どちらでもいいから、ともかく今は、少しでも早く遠坂を自分のホームグラウンドに戻すべきだ。 「こっちの傷は気にするな。別に毒が塗り込まれたわけでもないんだから」  遠坂の視線を払って歩き出す。 「っ――――」  ……って。情けない、言ってるそばから、膝が折れそうになる、なんて。 「ほら! もう、無茶するんだから。その傷で葛木とやりあうなんて自殺行為よ。いいから休みなさい。あいつら、わたしたちを追いかけたりはしてこないわ」 「……だろうな。けど、少しでも早く家に戻ろう。俺ならそう辛くはない」 「アンタね……! そんなに血が出てて、辛くないなんて言わないでよ! なんで家に戻りたがるか知らないけど、今は休む方が先でしょう!?」  怒鳴ってくる。  ……ああ、やっぱりまだ本調子じゃないんだな。  遠坂にはいつもの冷静さが欠けている。  もともと激情家なヤツだし、ブレーキが壊れたらとことん怒るんだろう。 「ちょっと聞いてるの!? 綺礼じゃあるまいし、そんなに血の跡をつけて歩かれても迷惑なのよ!  だいたいどうしてこんなコトになってるワケ!? そりゃ教会に行けって言ったのはわたしだけど、すぐにやばいって判らなかったの!?」 「……あのな、馬鹿にすんな。それぐらい判ったぞ。のっぴきならない事態になってるって、教会を見た時から気づいてた」 「――――! ならすぐ帰りなさい、バカ! それだけじゃない、傷も治ってないのに乱入してきて、おまけにまた投影!? そんなの傷が悪化するのは当然じゃない! だっていうのに辛くはないですって? ああもう、どうかしてる! なんだってそんな無茶するのよアンタは……!!!!」  があー、ともの凄い勢いでまくし立てる遠坂。  ……いや、しかし。  実際俺の傷は辛くはないし、それに―――― 「―――だって、遠坂の方が辛いだろう」 「―――――――」 「だから戻ろう。家に帰れば、弱音を吐いてもいいんだから」  ……ああ、だから少しでも早く戻りたかった。  いくらなんでも、そこまで強くあるコトはないんだ。  自分の家、自分だけの部屋に戻れば、遠坂だって気兼ねなく文句を言える。 「え――――?」 「っ――――!」  しまった、とばかりに顔を拭って、遠坂は背中を見せた。 「あ――――え――――っ、と」  こ、言葉が浮かばない。  今のは、その。 「……信じらんない。男の子に、泣かされた」    俯いたまま呟く。  ――――と。 「っ……! と、遠坂、手……! 俺の手握ってるぞ、おまえ……!」 「―――うるさい。責任とれ、バカ」 「え――――ちょっ、傷、傷が痛む……! よりにもよって左手を引っ張るな……!」  そこは、いつかの外人墓地だった。  遠坂はずんずんと草むらまで歩いていくと、ようやく握った手を放してくれた。 「―――あのな遠坂。  今はこんな寄り道をしてる場合じゃ――――」 「座って。いいから座って」 「………………」  有無を言わさぬ迫力に、とりあえず腰を下ろす。 「で、後ろを向いて、絶対に振り返らないこと。わたしの顔を見たらホントに怒るから」  とさん、と背後で音がした。 「…………?」  背中合わせで草むらに座り込む。  ……それに何の意味があるのか、どうも掴めない。  遠坂はそれきり黙ってしまったし、振り返るなって言うし。  やるコトもないんで、とりあえず夜空を見上げた。 「――――――――」  その広さに、息を呑んだ。  長く地下にいたからか、たまたま今夜の星空が澄んでいたのか。  ともかく、冬の夜空は傷の痛みを忘れさせるぐらい綺麗だった。  背中ごしに伝わってくる遠坂の体温も気にならない。  今はぼんやりと、あらゆる事を忘れて黒こげの空を見上げる。    ―――そうして、どのくらいの時間が経ったのか。    黙り込んでいたお隣さんが、落ち着いた声で話しかけてきた。 「――――独り言、なんだけど」    ……そうか。独り言なら返事はできない。黙って星を眺めていよう。 「少し、間違えたかもしれない。  アーチャーの言う通り、最初のうちに手段を選ばずキャスターを倒しておけば良かった。  ちょっとの犠牲を気にして機会を計ってたけど、結局、このままだと街中の人が犠牲になるでしょ」    とつとつと語る。  それは、きっと弱音だった。  俺があんな事を言ったから告白してるワケじゃない。  単に遠坂は、一人で反省するより誰かに反省させてほしかったんだ。 「……別にグチを言うわけじゃないけどね。わたし、いつも一番大事なことばっかりしくじるのよ。二番か三番か、そういうのはさらっと出来るくせに、一番大事なものだけは手こずるんだ」  冬の空は透き通っている。  が、その反面、気温はひどく冷え込んでいた。  俺はともかく、遠坂はコートもないし寒いんじゃないだろうか。  ……ちょっと、そのあたりが心配だ。 「アーチャーがあっち側にいったのも、あいつだけの責任じゃないわ。結局、キャスターを野放しにしたのはわたしだもの。  けど、うん……まいったなあ、ついさっきあんなコト言ったのに、いきなり追い詰められちゃった」  はあ、と大きな溜息をつく。  見えないけど、やはりその息も白いのだろう。 「……ちょっと。ここ、何にってつっこむところだと思うんだけど」 「ああ。で、何に追い詰められたんだ、遠坂」 「うん、後悔はしたくないってコト。  あいつは、わたしはそういう性格じゃないって言ってたけど、今が正念場みたい。士郎があんな事いうから、余計失敗したなー、って落ち込んじゃった」 「――――――――」  ……なんだ。  言っている事はよく分からないが、アーチャーの言は正しい。  遠坂は後悔をするようなタイプじゃない。 「そんなの今だけだろ。癪に障るけど、俺もアーチャーの意見には同感だ。遠坂は、何も反省することなんてない」 「どうしてよ。現にキャスターはやりたい放題で、アーチャーにまで愛想を尽かされた。これ、わたしが方針を間違えたからでしょう」 「それは単に失敗しただけだろ。遠坂は間違えてなんかない。間違えていないなら、失敗しても胸を張れると思う」    ―――その過程。  自らが正しいと信じた道を歩いたのなら、間違いなんてない。  ……そういう時、大抵の人間は選んだ道そのものが間違いだったって気が付くワケだけど、こいつは違う。  こいつの選ぶ道は、いつだって胸を張れるものだろうから。 「―――そうだな。正直、俺にはおまえが眩しい。  ……俺も後悔はしない。自分のやってきたコトが正しいって信じてる。けど、それはツギハギだらけだ」      ―――後悔はしないと。  今まで歩いてきた道が正しいと信じる事で、起きてしまったあらゆる悲劇を、無意味なものにしたくないだけ。 「でもおまえは違うだろ。  後悔はしたらしたで、きっとその倍は仕返しをするタイプだ。俺はツギハギでなんとか誤魔化してるけど、おまえは平気な顔で粉々にしちまうんだ。  採算は取れてる。たまにしか落ち込まないだろうけど、遠坂はその後が怖い。おまえを落ち込ませた相手は、何倍もおまえに落ち込まされると思う」 「――――う。なにそれ、追い打ち?」 「ああ、鬼が〈霍乱〉《かくらん》しているうちに言っておこうと思って。  でもまあ、事実なんじゃないか? 遠坂、このままで済ます気はないんだろ」    夜空を見上げながら、こっちも独り言のように言う。  遠坂は答えない。  ただ、なんとなく。  気を取り直したような、微笑がこぼれた気がした。 「――――――――」    そうして静寂。  言いたい事は言ったのか、遠坂はまたも黙り込んだ。    意味もなく夜空を見上げる。  ……すぐにでも家に帰らなくてはいけないのに、どちらも立ち上がれずに背中を合わせている。 「―――そういえば。どうしてわたしを助けたの、士郎」 「――――――――」  そんなの、どうしても何もない。  理由はそれこそ沢山ある。  それをいちいち説明するのはなんだか間抜けのような気がする。  気がするので、一番に言わなくてはならない事を口にした。 「このペンダント、見覚えあるだろう」  じゃら、と音をたててペンダントを見せる。 「――――――――」  ……やっぱり。隠しておくつもりだったんだろうが、また凡ミスをしでかしたな、こいつ。 「ちょっ……それ、どうして?」 「遠坂の部屋で見つけた。あ……帰ったらびっくりするだろうけど、すまん。化粧台倒しちまった」  とりあえず返す、と背中ごしにペンダントを遠坂に手渡す。 「……ふん。で、それがどうしたっていうのよ、貴方は」 「いや。これと同じペンダント、俺の家にもあるんだ。  学校でランサーに殺されかけた時、気が付いたら近くに落ちてたんで拾って、そのまま」  当たり障りなく、あの夜の事を暗示する。  と――――   「――――そっちにも、同じ物がある……?」    何か、見てはいけない物を見たように、遠坂は息を呑んだ。 「あれ? なんかおかしなこと言ったか、俺」 「あ……ううん、別に。……それより、どうしてそれがわたしを助けた理由になるのよ。別にいいじゃない、そんなペンダントなんて」 「そうだな。……ああ、ホントはただの後付けだ。  白状すると、ずっと前から遠坂凛ってやつに憧れてた。  で、困ったコトにいざ話してみたら余計好きになっちまった。だから死んでほしくなくて、気が付けば、何も考えずに飛び降りていただけだ」 「っ――――ア、アンタね、そういう歯に衣着せぬ発言は止めなさいっ。か、考え無しに思ったこと口にしてると、どこかしらで誤解を招くんだからっ」 「むっ。招くかそんなの。俺、ほんとに遠坂のこと好きだぞ」  意地になって即答する。  嘘でもなんでもないんだから、誤解なんてあるもんか。 「ば、ばかっ……! そんなんだから自殺同然で飛び込んでくるのよ、この大馬鹿っ!」  ばかばかと連発する遠坂。  散々な言われようだが、悪い気はまったくしなかった。  夜空は綺麗で、気持ちは落ち着いているし。  なにより遠坂がいつもの遠坂に戻ってくれた事が、本当に嬉しかった。 「よし。士郎の言うとおり、そろそろ家に帰りましょうか」 「ほら、手を出して。その傷だと立つのも辛いでしょ」  差し出された手を右手で握る。  よっ、なんて元気のいい声をだして、遠坂は俺をひっぱりあげた。 「これで貸し借りはなしね。今日の事はお互いノーカウントって事にしましょ」 「――――――――」  ああ、それは助かる。  あのペンダントが遠坂にとってどんな物だったのか、俺は知らない。  それを知ったら、もっと大きな負い目を遠坂に感じてしまうだろう。  それを嫌って遠坂は相殺すると言った。  だから遠坂も、さっき助けられた事に負い目を感じる事はない。  ―――そうして、外人墓地を後にする。  その道中、ぽつりと、   「……助けてくれてありがとう士郎。その、すっごく助かったわ」    照れくさそうに、遠坂は付け足していた。    坂道を下っていく。  安心できるホームグラウンドに帰ろう、という時。  遠坂は当然のように、自分の家ではなく、〈衛宮邸〉《おれのいえ》を目指していた。    夜明けと共に、石室は輪郭を顕わにした。    天井から差し込む光が地下の闇を薄めていく。  入り口という入り口、窓という窓には封が施されているが、そんなもので陽の侵入は防げまい。  本来闇に閉ざされるべきこの場所でも、夜明けとなれば陽の恩恵が下されるのだから。                   「っ――――は――――ぁ――――」    入り口であれ窓であれ、もとより何かを出入りさせる為のものだ。  蓋をしたところで隙間が埋まる筈もなし、何より、それでは通路としての用をなさない。  日の光から完全に逃れたいというのなら、初めから入り口などあってはならない。  闇を好むのならば地中に、後戻りできぬ地の底に潜るべきだ。                    「ん――――っ、ぁ――――」    その点で言えば、この地下聖堂も完璧とは言えない。  日の光は無遠慮に秘密を露わにする。  隠された聖堂は〈容易〉《たやす》く発見され、やはり同じ程度の容易さで、その主を失った。    床には血の跡がある。    この聖堂の本来の持ち主は、侵入者によって倒された。  聖杯戦争の監督役である言峰綺礼は、キャスターの手にかかって退場したのだ。                    「く……ぁ、は…………っ――――」    その戦いも、既に数時間前の話である。  地下は静寂を取り戻した。  教会の新たな主となった彼女は、その闇の中で佇んでいる。  だが、勝利者である彼女は自らを〈蔑〉《さげす》んでいた。  口元を苛立たせたまま、キャスターは闇を睨む。    まず、この聖堂が気に入らない。  隠された聖域も、この聖域が隠す更なる聖域も趣味に合わない。  〈侵入〉《さしこ》む明かりも不快であるし、先ほど始末した神父も気に入らなかった。  そして何より、最も重要な目的が未だ果たせていないとはどういう事か。  彼女は事の不出来さに呆れ、いっそこの場を〈灰燼〉《かいじん》に帰そうとさえ〈憤〉《いきどお》った。                   「ふ―――――っ、は…………ぁ」    幸い、その凶行は取り止められた。  冷静さを取り戻したからではないし、教会に対する敬意の念などからでもない。    彼女が感情を抑えたのは、偏にこの音があるからだ。  定期的に漏れる、囁くような雑音。  苦しげに漏れる女の声は、彼女にとって天上の楽曲に等しい。  それが今しばらく、この享楽を続けさせているだけだった。                    「っ――― はあ、っ、あっ………!」    苦痛に呻く声は、紛れもなく少女のものだ。  口元から漏れる声はあまりにも弱々しい。  苦悶は聞く者に保護欲か、相反する嗜虐心を抱かせる。  無論、彼女は後者だ。  ぽたり、と少女の額から零れる汗。  苦痛に耐える可憐な唇を眺めるだけで、この冷たい部屋の温度が上がる気がする。   「―――大したものねセイバー。令呪の縛りを一晩中拒み続けるなんて、私たちでは考えられないわ」   「っ――――、ふ――――」    聖堂の奥。  磔にされた少女は、ただ息を漏らすだけだ。  令呪に逆らい続ける限り、〈彼女〉《セイバー》に自由意思など存在しない。    加えて視覚化されるほどの〈魔術〉《いましめ》がセイバーの全身を〈苛〉《さいな》んでいる。  内からは令呪に圧迫され、外からはキャスターの魔術によって責められている。                  「っ――――く、っ…………!」    セイバーの理性は消えかけている。  それでも、最後に残った誇りが彼女を保たせていた。  令呪の縛めもキャスターの魔術も、その根底だけは奪えない。    故に責め苦は永遠に続く。  その過程――――必死に踏みとどまる少女を、キャスターは愉しげに眺めていた。  〈白い装〉《ドレス》束で着飾らせたのは彼女の趣向だ。  無骨な鎧ではそそらないし、なにより少女には似合わない。  汚れを知らない聖女ならば、堕ちる時こそ純白のドレスで飾るべきだろう。   「……ふふ、健気なこと。  いくら貴女の意思が拒み続けても、サーヴァントとして作られたその体は別よ。  令呪が少しずつ侵食しているのが判るでしょう? 貴女はあと一日も経たずに私のモノになる。なら、もう降参して素直になった方が楽じゃなくて?」   「っ――――く、んっ…………!」    苦しげに抗う声。  理性を溶かされたとはいえ、セイバーはキャスターに屈しない。  キャスターの言う通り、肉体が令呪に支配される最後の時まで、この責め苦に耐えるだろう。   「強情ねセイバー。……ええ、けど許してあげる。  私、貴女みたいな娘は好きよ。金の髪も小さな体も、少年のような凛々しさも可愛いわ。それに、裏切るぐらいなら死を選ぶ一途さも愛らしい。  ―――本当、踏み潰してあげたいぐらい」    憎しみと愉悦が混じった目で少女を見つめる。  キャスターがその気になれば、セイバーの陥落など一瞬だ。  セイバーは一つの令呪を抑えるだけで自由を奪われている。  ならば、続けて二つ目の令呪で追い詰めれば結果は明白だ。  このような責め苦を負わせるまでもなくセイバーはキャスターの物になるだろう。   「くっ……っ、ぁ――――」    だがそのような無粋な真似はしない。  愛しい玩具だからこそ、仕上げには時間をかけるべきだ。   「……そうね。令呪で体を支配するなんて退屈ですもの。  あなたには自分から私のサーヴァントになってもらいましょう。……ええ。体ではなく、先に心を壊してあげる」    最強の駒は手中に収めたに等しい。  もはや彼女の勝利を脅かすものはない。  聖杯の所在は気がかりではあるが、それも時間の問題。今は奸計の報酬として、騎士王の陥落を愉しもうと口元を歪めた時。   「そこで何をしている、キャスター」    不意に。背後から、感情のない声がかけられた。   「――――!?」    咄嗟に振り返る。  聖堂の上。  地上に通じる階段を、何者かがゆっくりと下りてくる。  薄闇に浮かび上がるのは、幽鬼のような〈痩躯〉《そうく》だ。  足音もなく気配もない。  床に続く血痕、〈磔〉《はりつけ》にされた少女を前にして、男は無表情のまま聖堂に降り立った。   「――――宗一郎、様」  キャスターの気配が一変する。  苛立ちと愉悦という相反する感情に酔っていた姿が、引き締められたサーヴァントの〈貌〉《それ》になる。   「何故ここに……? 貴方には柳洞寺にいるよう、お願いした筈ですが」 「質問は私が先だキャスター。ここで何をしている、と訊いたのだが」    男―――葛木宗一郎の声に変化はない。  抑揚のない声は、その実どのような恫喝よりも心を圧迫する。  感情のない声は鏡と同じだ。  罪の意識。  後ろめたいものがある者ほど、この声に〈畏〉《おそ》れを抱く。  葛木という人物にではなく、自分自身に問いつめられるのだ。   「っ――――」  胸を押えながら、キャスターは一部始終を報告する。  偽証など通じる相手ではない。  否、この相手にだけは、偽りを口にする訳にはいかなかった。   「〈昨日〉《さくじつ》、マスターの一人である衛宮士郎からサーヴァントを奪いました。……衛宮士郎は逃がしましたが、既にマスターではありません。賢明な人間ならば、私たちに刃向かう事はないでしょう」   「そうか。だが、そんな指示を下してはいない」 「私の独断です、マスター。  その後、聖杯の“器”を手に入れる為に教会を襲いました。聖杯の管理役である神父は仕留めましたが、聖杯の行方は不明です」 「そちらも独断か。帰還しなかったのは聖杯が見つからなかったからだな。……ふむ。たしかに折角手に入れた場所だ。肝心の物を手に入れないまま留守にしては意味がない」    葛木の言葉は、何を責めている訳でもない。  が、キャスターは己を恥じるしかなかった。  聖杯の行方を知る神父を殺したものの、未だ聖杯を手に入れていない。  加えて、隠し通さねばならない独断さえ明らかにしてしまった。これを失態と言わずなんと言おう。   「状況は判った。理由を説明できるか、キャスター」 「……申し訳ありません。ですが、これも全てマスターの為。私の目的は貴方を勝利させる事だけです。理由など、それ以外にはありません」 「――――――――」  長い沈黙。  強く断言したキャスターを前にして、そうか、とだけ葛木宗一郎は呟いた。   「では、ここから離れる訳にはいかんな。留守中、他のマスターに聖杯を見つけられては、おまえの苦労も無駄になる」 「では、マスター」 「納得のいくまで調べるがいい。それまでは私もここに残ろう。おまえ一人では戦いに向かん。セイバーが手駒になるまで護衛は必要だろう」   「え―――い、いえ、それには及びません。マスターに力を借りずとも手駒はありますし、聖杯の探索とてどれほどかかるか。  それに、ここは危険です。柳洞寺に戻られた方が、貴方の身は安全です」 「正論だ。だが、それでは私の目的が果たせなくなる」   「?」  その言葉は、キャスターにとって意外な一言だった。  目的などない、と。  願いを叶える聖杯にさえ興味がない、というこの男に、いったいどんな目的があるというのか。   「宗一郎様、それは」 「急げよ。無ければないでいい。成果は問わん。結果だけを出すがいい」  簡潔に告げて、葛木は階段へ戻っていく。   「――――――――」    その姿を、キャスターは呆然と見上げた。  薄闇は変わらず静寂。  地上を目指していく足音は、やはり聞こえなかった。 「―――――――」  閉じていた目蓋が開く。  開かれたのは眼だけでなく、眠っていた意識まで鮮明に覚醒した。 「傷は――――問題ないな」  左肩の傷を確認する。  痛みこそあるものの、昨夜ほどの激痛はない。  体の熱も下がっている。  これなら動き回る事になんの支障もないだろう。  朝食を摂って空腹を満たす。  何をするにしてもまずは飯だ。栄養を摂らない事には体も満足に働いてくれない。 「――――と」    左肩の包帯を巻き直す。  むき出しの肌、傷痕は青黒く変色していた。  傷口は塞がっておらず、赤黒い肉が覗いている。 「―――当然だ。今、セイバーはいないんだから」    気休め程度に消毒し、ガーゼをかけ、包帯で縛る。  包帯で縛って傷口を絞らせる、という原始的な応急処置だが、こうでもしないと左腕を動かすだけで傷口が広がってしまう。 「よし、これで終わり。あとは武器が要るな」  空は曇っていた。  今日は一段と冷えるのか、庭にはまだ霜が残っている。 「――――――――」  だが、自分には無関係だった。  寒さを感じない。  体は熱く、氷水を頭から被りたいぐらいだ。  それでも昨夜に比べれば健康状態と言えるだろう。  武器になりそうな物は、やはり木刀だけだった。  何本かある中で一番魔力の通りがよさそうな物を選び、竹刀袋に包む。  そうして、ぴしゃりと頬を叩いた。  気合いを入れ直したつもりなのか、それとも戻ってはこれないと覚悟したつもりなのか。  自分でも、どうしてそんなコトをしたのかは分からない。  右肩に竹刀袋を背負って外に向かう。  長年過ごした場所。  自分の部屋とも言える土蔵には振り返らなかった。  ――――さて。  戦うといっても問題は山積みだ。  何を第一にするか、何をするべきかをはっきりと定めなければ、何も出来ずに終わるだろう。    ……とるべき道は一つだ。  はーい、みんな元気にしてたかなー? ちょっと近道をしようと裏道に入った途端、正面からダンプにつっこまれるような不運な君を助けるタイガー道場よー♪ …………………………。 さて。今回の死因は、ズバリ間の悪さです。 教会に行くこと自体は正しい選択なんだけど、もうちょっとだけ、独力で遠坂さんを捜してみる事をお勧めするわ。 …………………………。 …………って。なに固まってるのよイリヤちゃん。  なに、間違って辛いものでも食べちゃったの? …………………………。 ……無視?  ちょっとー、失礼だぞー、少しは返事しろー、つーか構ってー、お姉ちゃん寂しいよー。 ああもう、うるさいったらうるさーい……!!!! あ、起きた。イリヤちゃん、お目覚め? お目覚め? じゃないっ!  わたしはね、あまりのショックにフリーズしてたの、失神してたの、エクトプラズってたの……! えー。どーして? どうしてって、何よ今回の導入は!  なにあれ? どういうコト? ここってタイガー道場じゃないの? わたしぜんぜんわかんないっ! なにって、魔法少女ものってああいうものよ?  イリヤちゃん、知らないの? むっかー!  その同情するような顔ムカツク! そもそもタイガ、魔法少女って年齢!? 本編広しと言えど、魔法少女が似合うのはわたしと、 え、えーっと、先輩ぐらいのもんなんだから!  とにかくさっきの導入は以後禁止! 魔法少女ネタは今回きりだからねっ! そっかー。イリヤちゃんも魔法少女になりたかったのね。 けどごめんなさい。ムリなものはムリなの。人間には適材適所って言葉があるのよ? ――――だ、 けどなんとかしてあげる。うん、イリヤちゃんは性根が黒一色だから、敵役のドイチェンブルマーとか、地獄ティーゲル元帥なんかいいんじゃ、  だ、誰がそんな色物キャラやるかっーーー!  とっととバルハラに行け酔いどれティーゲル―――! きゃーーー♪ ライバル登場の予感ーーー★ 奥様こんにちは。  誰にも言えない貴方のお悩みを解決する、藤もん太の人生相談の時間です。 今日のお客様はこちら。  冬木市柳洞寺在住、キャスター(仮名)さん28歳(推定)です。 ……こんにちは。よろしくお願いします……。 (プライバシー保護の為、音声は変えて収録しております) おやおや、これはまた美人さんだ。  どうしたの奥さん、貴女ほどの美人なら悩みなんてないでしょう?  あの、それが……どうも、私目立ってないというか……他の六人に比べて地味だとか、キャラが立ってないとか、年増とか言われて……。 あー、そりゃタイヘンだ。  なに、キャスターさん、職業占い師って書いてあるけど? ……はい。本当は家事に専念して、あったかい家庭を築きたいんです。夫を楽にしてあげたい一心で復職したんですけど、職場でもいじめられてしまって……。 あの、私どうしたらいいでしょう!? 変わりたい!  私、もっと愛らしいキャラに変わりたいんです! あっはっは、それは無理でしょう! 初期段階では『キャスターハイパー化でロリっ子に』なんて落書きもありましたが、ロリっ子は一人で十分!  愛らしいキャラになるのは諦めなさい! ……はあ。そうですよね、私もそんな気はしてたんです。……けど、このままだと辛くて。 私、一生懸命やってるんですよ? 主人に負担をかけないよう、こっそり貯蓄を作って、色々な用心棒を雇って、街中に監視カメラをしかけましたの。 なのに主人は私の苦労を労ってもくれませんし、この間なんて突然やってきた子たちに計画を台無しにされてしまって……。 私、こんなに頑張ってるのにまったく報われないんですっ! 藤もん太さん、こんな私ですが幸せになれるでしょうか……!? ダメ。  キャスターさん、そりゃアンタが悪いよ。 そ、そんな……こんな所でも虐待されるなんて……私って一体……。 よし、もう飽きた! これにて一件落着!  以上、藤もん太の人生相談でしたー!「ぁ――――く」    キャスターの意識が戻る。  葛木に守られたキャスターは、ゆっくりと聖堂を見渡した。  ……それで終わりだ。  キャスターにもう奇襲は通じない。  遠坂も疲労しきり、俺も、残る剣製は二本だけ。    ――――もし。  もしこの状態で“彼女”を使われたら、俺たちは二度と地上には戻れない―――― 「っ……ふう。感謝しますわマスター。貴方がいなければ、あのまま倒されていました」 「世辞はいい。今はセイバーを起こせ。甘く見ていい相手ではなさそうだ」 「ええ。的確な判断ですわ、マスター」  キャスターの指が、祭壇の“彼女”に向けられる。  目に見えるほどの呪いの縛め。  それを、キャスターが解こうとした時。           “―――ああ。それが、あと数秒ほど早ければな”    俺の頭上。  地上に至る階段から、そんな呟きが聞こえてきた。 「――――――――」  その異変に、最も早く気が付いたのはキャスターだった。  葛木は気づかない。  何故なら、葛木には魔力を感知する能力がない。    キャスターの体が動く。  彼女のマスター。  葛木宗一郎の頭上には、    無数の剣が、浮遊していた。 「宗一郎――――――――!」    傷ついた自身の魔力では防げないと悟ったのか。  キャスターは、その身をもって己が主の前に立ち、                 “――――〈投影〉《トレース》、〈開始〉《オン》”    頭上から響く声は、確かに、そんな呪文を口にした。 「――――――――」    ……音が止んだ。  中空に現れた剣は、その全てが一つの標的へと舞い落ち、一人の肉体を串刺しにした。  無数の剣は肉を裂き、断ち、貫いた後、幻のように消えていく。  残ったものは、濡れるような赤い跡だけだ。   「ぁ…………つ…………あ」    ソレは。  自ら進んで盾となった女は、ぐらりと、血まみれの体で、背後の男へ振り返る。 「―――――――」    葛木は、ただ無言だった。  彼の目前には、串刺しになったサーヴァントの姿がある。  ……もはや隠す必要もなくなったのか。  ローブははだけ、今まで晒さなかった素顔で、女は己が主へと歩み寄る。   「あ―――あ、あ――――」    ……崩れ落ちる体。  もはや死に絶えた体で、女は眉一つ動かさぬ主を見上げる。  その細い指が、無表情な男の頬をなぞっていく。   「あ――――無事ですか、マスター」    途絶える声は、ひどく透明な気がした。  葛木に変化はない。  短く、ああ、と答えるだけで、その視線はキャスターに向きもしない。   「良かった。貴方に死なれては、困ります」    それでもいいと。  ……否、そんな相手だからこそ良かったのだと、女は口元に笑みをこぼす。   「でも、残念です。やっと望みが、みつかったのに」    頬をなぞる指が落ちる。  キャスターの体が、足下から消えていく。 「悲嘆する事はない。おまえの望みは、私が代わりに果たすだけだ」    あまりに〈朴訥〉《ぼくとつ》なその言葉に、くすりと。  儚いユメを見るように笑って、   「それは駄目でしょうね。だって、私の望みは」              ―――さっきまで、叶っていたんですから。    希代の魔女は、眠るように崩れ落ちた。  ……紫のローブが落ちる。  主を失った衣は次第に薄れ、後を追うように風に散った。 「―――――――」  消え去ったキャスターを見る事もなく、葛木はそいつを見据えていた。  俺の頭上にいるであろう、赤い外套の騎士の姿を。    ――――頭痛がする。    投影を乱用した負荷だけじゃない。  呟かれた呪文。  ヤツが口にした言葉が、吐き気を伴って脳髄を打ちのめしている。    ―――――〈投影〉《トレース》、〈開始〉《オン》と。    確かにヤツは、投影開始と口にした。  同じモノなどない筈の〈自己暗示〉《じゅもん》を、ヤツは、寸分違わず口にした。 「――――――――」    階段を降り、聖堂に立つアーチャー。  その姿を、遠坂は呆然と見つめている。 「……アー、チャー……もしかしたらって思ってたけど、そういうコト?」 「――――――――」  アーチャーは答えない。  ヤツは敵である葛木だけを見据えている。 「……獅子身中の虫、か。初めからこれを狙っていたな、アーチャー」 「ああ。だが、どちらかと言えばトロイの木馬だろう。  倒すべきがギリシャの英傑であったのだからな。喩え話としては、そちらの方が相応しい」  目の前でキャスターを裏切っておきながら、アーチャーの態度に負い目はない。 「そうか。おまえのような男を引き込んだキャスターの落ち度だったな」  裏切り者を前にしても、葛木の口調は変わらなかった。  その体には未だ戦意が残っている。  魔術師でもなく、キャスターを失ったというのに、葛木には戦いを続ける意思がある――――  ……構えをとる。  キャスターがいない今、葛木の戦闘能力は激減している筈だ。  あの“蛇”は健在だとしても、拳を鋼に変えていたキャスターの強化は消えている。    にも関わらず、葛木は変わらぬ姿でアーチャーと対峙した。 「そうか。続けるというのなら止めはしない」    双剣を構えるアーチャー。  両者の間には、既に戦闘が成立している。 「な――――」  それは、いいのか。  葛木は聖杯に興味はないと言った。  ただキャスターに付き添っていただけの、形だけのマスターだ。  なら、キャスターが消えた今、葛木と戦う理由など何処にもない。 「―――待て。どうして続けるんだ葛木。アンタはキャスターの言いなりになってただけだろう。キャスターはもういないんだから、戦う理由はない筈だ」  気が遠くなりそうな頭痛を堪えながら、二人に負けじと睨み付ける。 「――――――――」  葛木は、わずかに目を細めた後。 「そうだ。戦う理由などない。おまえと同じく、私は聖杯などに興味はなかったからな」 「なら」 「――――だが、これは私が始めた事だ。それを、途中で〈止〉《や》める事などできない」    それだけ。  答えた理由は、それだけだった。  ――――戦いが始まる。  両者の戦いは、おそらく一合で終わるだろう。  いかに葛木が人間離れした格闘技術を持っていても、相手はサーヴァントだ。 “人間離れ”程度で太刀打ちできる相手じゃない。  これは戦いの名を借りた敗兵処理だ。  敗者の定め。  もとより殺し殺されるのがマスター同士の戦いであり、受け入れるべき結果。それが認められないのなら、始めから戦うべきじゃない。  それでも――――      ――――助けられるのなら。    殺さないで済むのなら、そう望むことはいけないのか。  甘いと言われてもいい。  偽善である事も判っている。  マスターにとって相手を倒す、という事は殺す、という意味合いだ。  それを承知でここまで踏み込んだ。  お互いが殺す覚悟を踏まえた上での戦い。  そこに、今更待ったをかける事がどれほど卑怯なのかも判っている。    それでも。  誰かを助ける為に戦うと決めたのなら、失わなくていい命を無くす事はできない。 「――――やめろ。勝負はついた、これ以上は」    頭痛を押し殺して、両者の争いを止めに入る。  瞬間。  葛木の体が流れた。 「な――――」  俺の制止を隙と見たのか、葛木は一息でアーチャーに肉薄し、その拳を眉間へと叩き込む。  常人ならば頭蓋を砕かれて即死したであろうそれを、アーチャーは躱さなかった。    ゴン、とズレる頭。  赤い騎士はあえて葛木の一撃を受け、  相打つ形で、葛木宗一郎の胸を貫いていた。 「――――――――」  俺に制止をかける権利はない。  仮にキャスターの傀儡だったとしても、葛木はキャスターを戒めなかった。  町中の人間から魔力を吸い上げるキャスターを止めず、それを促しさえした。  なら―――たとえ魔術師でなくとも、葛木はマスターに他ならない。  マスターにとって相手を倒す、という事は殺す、という意味合いだ。  それを承知でここまで踏み込み、お互い殺す覚悟を踏まえた上で戦った。  葛木は助けなど求めておらず、敗北も認めていない。  目前の男は死を以ってのみ足を止める。    ―――それを。  マスターである俺が、どうして止める事が出来る。  ……そうして、瞬間の対峙の末、葛木の体が流れた。  微塵たりとも衰えない葛木の拳。  蛇のように、確実にアーチャーの眉間を砕きにかかるそれを、  アーチャーは紙一重で躱し、音を断つように、葛木宗一郎の胸を貫いていた。  沈黙だけがあった。  声をあげる者はなく、俺自身、言うべき言葉などない。  葛木宗一郎は死んだ。  最期まで無言のまま、後悔も希望も感じさせない幽鬼のまま、自分の選んだ道に殉じた。  ……頭痛がする。  摩耗した魔術回路が神経を圧迫しているのか、  葛木を事も無げに殺した〈アーチャー〉《ヤツ》が許せないのか、 だとしても異を唱える資格などない自分に腹が立っているのか。  判別がつかないまま、頭痛は一層強く鋭くなっていく。 「――――――――」    その音に振り返る。  キャスターが消え、縛めの呪縛が解けたのだろう。  聖堂の奥、磔の祭壇の前で、セイバーはその身を床に預けていた。 「ぁ……ん……」  セイバーは床に伏したまま、苦しげに呼吸を漏らす。  その姿だけで頭痛など忘れ去った。 「セイバー…………!」  駆け寄る。  たった数メートルの距離が、こんなにも〈煩〉《わずら》わしい。 「―――シロウ」  セイバーの顔があがる。  走り寄る俺を見て、セイバーは安心したように吐息を漏らし―――― 「――――!」 「え?」  そのまま、肩口で体当たりをして、走り寄る俺を弾き飛ばした。  横殴りに、力任せに倒された。  体は数メートルも弾き飛ばされ、容赦なく地面に激突する。 「つあ…………!」  背中から床に落ちた。 「く――――」  混乱する頭を振り払って、とにかく頭を起こす。  瞬間――――    再度、鉄と鉄が衝突する音がした。 「な――――」  そこにいたのは、武装したセイバーだった。  ……そして。  彼女の目前、弾き飛ばされる前に俺がいた床には、無数の剣が突き刺さっている―――― 「―――チ、外したか」    ヤツは。  セイバーと対峙したまま、つまらなげに口にした。 「――――――――」  満足に立ち上がる事もできない体で、セイバーはアーチャーを睨み付ける。 「―――――アイ、ツ」  その理由は、考えるまでもない。  ヤツは背後から、俺を殺そうと剣を放った。  セイバーはそれに気が付いて、咄嗟に俺を庇ってくれたのだ。 「………………」  遠坂は呆然とヤツを見つめ、セイバーは苦しげな呼吸のまま剣を構える。  二人とも立場は違えど、その目には疑問があった。  キャスターが倒された今、アーチャーは何故、衛宮士郎を殺そうとするのかと。 「――――――――」  平然としているのはアーチャーと俺だけだ。  ……そう、別に驚く事じゃない。  俺たちは初めから互いを嫌悪していた。  決して相容れないと対立してきた。  その理由も分からず、ただ認められないと否定し続けた。        ……その理由。  お互いを否定するしかない意味が、もし本当にそうだとするのなら。  ヤツが俺を殺したがるのは、当然だと受け入れた。 「く――――」    弾き飛ばされた体を起こす。  セイバー、よっぽど必死だったんだろう。  手加減できずに突進したんだろうが、おかげでまともに息ができない。  ―――それが、余計に体を起こさせる。    あのセイバーが、全力で体当たりしてその程度なんだ。  今の彼女には、それこそ俺を相手にする力さえ残っていない。  そんな体でアーチャーと対峙するのは、自殺行為に他ならない。 「アーチャー、なんのつもり……!?」  遠坂はアーチャーに詰め寄る。  ……それはそうだろう。  アーチャーがキャスターに付いたのは、キャスターを騙し討ちする為だった。  それも成功した今、アーチャーが俺を襲う理由などない。 「芝居はもう終わりでしょう? キャスターは倒したんだから、もう勝手な真似は許さないわよ……!」 「許さない……? 解らないな、なぜ私が許されなければならないのだ。私のマスターでもないオマエに」 「え……アーチャー……?」 「オマエとの契約は切れている。自由になった私が、自ら進んで人間の手下になると思うのか?」 「――――――――」  愕然と赤い騎士を見上げた後、遠坂は何かを思い出したように息を呑んだ。 「まさか、アーチャー」 「私は私の目的の為だけに行動する。  だが、そこにオマエがいては〈些〉《いささ》か面倒だ」 「――――!」  遠坂が跳び退く。  アーチャーから離れ、そのまま膝をついている俺へと走り寄ろうとして、    遠坂は、その行動を封じられた。  二メートル近い大剣の群れ。  輪を描くように落下したソレは床に突き立ち、円形の鉄格子と化す。 「っ――――!」  人間一人がかろうじて立っていられる輪。  その中に、一瞬にして遠坂は閉じこめられた。 「ここまできて邪魔はさせん。契約が切れた今、オマエにかけられた令呪の縛りも存在しない。  キャスターに付いた理由はそれだけだ。あの令呪を無効にする為には、契約を破棄せねばならなかったからな」  剣の檻に閉じこめた遠坂に背を向け、アーチャーは歩き始める。  その先にいるのはセイバーではなく、未だ地に膝をつけている俺だった。 「やっぱり―――なんでよアーチャー! アンタ、まだ士郎を殺すつもりなの……!?」 「―――そう、自らの手で衛宮士郎を殺す。  それだけが守護者と成り果てた〈オレ〉《・・》の、〈唯〉《ただ》一つの願望だ」 「な――――に?」  セイバーの体に力が戻る。  彼女は弱り切った体に喝を入れて、アーチャーと俺の間に身を移す。 「アーチャー。貴方は、まさか」 「……そうだ。いつか言っていたな、セイバー。オレには英雄としての誇りがないのか、と。  無論だ。そんなものが有るはずがない。この身を埋めているのは後悔だけだよ。  ―――オレはね、セイバー。英雄になど、ならなければ良かったんだ」 「――――――――」  セイバーから戦意が消えていく。  ……何を悟ったのか。彼女にはもう、アーチャーに対する敵意が存在しなかった。 「そういう事だ。退いているがいい騎士王。マスターがいない身で無茶をすればすぐに消えるぞ。  もはや衛宮士郎にはマスターの資格がない。肩入れしたところで、君の望みには届かない」 「―――それは出来ない。マスターでなくなったとしても、契約は消えない。彼を守り、剣になると誓った。  ……聖杯戦争など知らなかった彼は、それでも私の一方的な誓いに応えてくれた。その信頼を、裏切る事などできない」  視えない剣を構える。  だが、その姿には以前の凛々しさも力強さも見られない。 「―――そうか。ならば、偽りの主共々ここで消えろ」  アーチャーの両手に剣が現れる。 「っ――――」  っ……! 今のセイバーじゃあ、アーチャーの剣を受ける事さえできないって言うのに……! 「――――バカ、逃げろセイバー……!!」  立ち上がり、セイバーの背中に手を伸ばす。  それを引き離す為だったのか、   「は――――っ!」    セイバーは気力をふり絞って地面を蹴り、アーチャーへと疾走した。  ――――戦いは、数合で終った。    かつてアーチャーを圧倒したセイバーは、わずか数秒の剣舞さえ行えず、膝を屈する。  ……セイバーの手には、もはや剣さえない。  キャスターの呪縛に抗い続けた彼女には、魔力が残されていない。  息をする事もできず、セイバーは床に両手をつき、懸命に消えいく自身を持ち堪えていた。 「――――――――」  アーチャーの剣が上がる。  無防備なセイバーに振り下ろされる双剣。  それを、   「つあああああああ――――――――!」    横から、渾身の力を放って食い止めた。 「っ――――!」  双剣を構える。  瞬時に投影した武器を手にして、赤い騎士を凝視する。 「……ほう。あとしばらくは大人しくしていると思ったがな。さすがに、目の前で女が殺されるのは耐えられないか」 「―――うるさい。おまえが殺したがってるのは俺だろう。なら、相手を間違えるな」  対峙する。  手にした武器は共に双剣。  体格の差こそあれど、俺たちの構えは、細部に至るまで同一だった。 「人真似もそこまで行けば本物だ。だが―――おまえの体は、その魔術行使に耐えられるかな」  嘲笑う声。  ……ヤツの言う通り、限界は近い。  頭痛は止まらず、投影によって回転を速められた魔術回路はリミッター一杯だ。  ……これで、双剣のイメージを保ちながらの打ち合いなどすれば、斬り殺される前に脳髄が破裂する。 「――――く」 「前に忠告したな。おまえに投影は扱えないと。分不相応の魔術は身を滅ぼす。おまえをここまで生かしてきた〈魔術〉《きせき》の代償―――ここで支払う事になったな、衛宮士郎」  アーチャーが踏み込んでくる。 「く――――黙りやがれ、てめえ――――!」    それに。  この頭痛に斬りかかるように、なりふり構わずに剣を合わせた。    ――――両手を振るう。    繰り出す剣筋は、全て敵の模倣にすぎない。  武器も借り物なら剣技も借り物。  故に、敵う筈などない。  たとえ体調が万全であろうとも、この相手には敵わない。  模倣は本物に近づく事が出来ても超える事はできないのだし。  もとから、この男には敵う筈がなかったのだ。    理想を抱いて溺死しろと男は言った。  偽りのような人生だと男は言った。    ……それに反論できなかったのは、理想だったからだ。  不可能を可能とする力。  多くの人間を救い、英霊となった存在。  そうなりたいと願ったのは、他でもない自分自身だ。    だから敵わない。  目前の男は、その果てに立ったモノ。  誰かを救う為に強くなろうとした、衛宮士郎の理想に他ならないとしたら―――― 「あ――――ぐ…………!」  剣が砕ける。  剣撃こそ防ぎきれたものの、双剣は跡形もなく消失した。  ……意識が、保てない。  体は無傷だというのに、中身が血を流して、ズタズタに崩れようと―――― 「納得がいったか。それが衛宮士郎の限界だ。無理を積み重ねてきたおまえには、相応しい幕切れだろう」  剣が振り上げられる。 「――――――――」  それが、左から落とされるのか右から落とされるのか、朦朧とする意識で見極めようとした時、         “―――告げる!  汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に! 聖杯のよるべに従い、この意、この理に従うのなら―――”    聖堂に、凛とした遠坂の声が響いていた。 「――――!」  それに気を取られたのか。  振り落とされた剣撃は鈍り、それなら――――   「く、あ――――!」    こんな体でも、避ける事ぐらいはできる……!  床を転がって間合いを離す。 「チィ――――!」  舌を打つアーチャーは俺を追わず、倒れ込んだセイバーを見た。 「―――我に従え! ならばこの命運、汝が剣に預けよう……!」    剣の檻からセイバーに手を伸ばす遠坂。  それに、彼女は最後の力を振り絞って走り寄り、 「セイバーの名に懸け誓いを受ける……!  貴方を我が主として認めよう、凛―――!」    本来あるべき契約。  自身に相応しいマスターを、ようやく、彼女は得るに至った。    巻き起こる烈風。  正規のマスターを得、本来の力を取り戻したのか。  アーチャーを見据えるセイバーの姿は、今までの比ではなかった。 「――――――、な」    息を呑んだのは自分だけじゃない。  アーチャーですら、その姿に見入っている。  立ち上る魔力の渦と、傷つく事などあり得ぬ甲冑。  他を圧倒する膨大な魔力は、それこそ底なしだ。    ―――あれがセイバー。  サーヴァント中最強と謳われた剣の英霊―――! 「―――チ。もとより凛と再契約させるつもりだったが、些か手順が違ってきたか」    もはや俺に構う余裕はないのか、アーチャーはセイバーを見据えたままぼやく。 「それで、どうするセイバー。  凛と契約した以上、君は本当に衛宮士郎とは無関係になった訳だが――――」 「言った筈ですアーチャー。シロウとの誓いはなくならないと」  断言するセイバー。  不快げに舌打ちし、アーチャーは双剣を握り直した。 「貴方こそどうするのですアーチャー。貴方がシロウを手にかけるというのなら、私は全力でそれを阻む。  考え直すのなら今のうちです。今の私を相手にして、勝機があるとは思わないでしょう」    セイバーの忠告は真実だ。  今のセイバーは、バーサーカーと一騎打ちをしたところで負けはしない。  アーチャーが何者であろうと、セイバーには太刀打ちできない。  それを誰よりも判っていながら、 「―――フン。たかだか魔力が戻った程度で、よくもそこまで強気になる……!」    有無を言わせず、アーチャーは突進した。  衝突する二つの剣戟。  アーチャーは赤い弾丸と化してセイバーに踏み込み、渾身の一撃を炸裂させる。 「―――――――は!」    それを、セイバーは事もなげに受けきった。  身長差も、突進による推力も関係ない。  セイバーは一歩も引かずアーチャーの双剣を弾く。    後退したのは攻めた筈のアーチャーだ。  おそらくは最大の力、二の剣など要らぬと繰り出した一刀は―――   「ッ、ぐっ…………!!!!」    ―――受けきられたばかりか、防がれただけで体を泳がされていた。 「ぬっ――――!」  たまらず引き下がるアーチャー。  そこへ、  〈烈火〉《れっか》〈怒濤〉《どとう》と、セイバーの剣が襲いかかる――――!  繰り出されるセイバーの剣を、アーチャーは防ぐ事しか出来ない。  反撃を試みれば、その隙にセイバーの剣が額を打つ。  いや、そもそも反撃にまわれるだけの余裕などない。  アーチャーに許された抵抗は、力尽きるまでセイバーの剣を受ける事のみ。  それも長くは続くまい。  セイバーの剣に籠められた魔力は、干将莫耶を一撃ごとに削っていく。  双剣はこれ以上セイバーの剣に耐えきれず、アーチャーとて振るう腕に力が入るまい。  決着は、予想より早くついた。  セイバーの剣舞に耐えられず、片膝をつくアーチャー。  そこへ、セイバーは止めとばかりに剣を降り落とす。  〈必殺〉《そ》の一撃を、アーチャーは双剣の交差で受け止めた。  戦いはそれで終わりだ。  セイバーの剣を止めたものの、アーチャーは動けない。  交差させた双剣をわずかでも緩ませれば、セイバーの剣がヤツを額から両断する。 「ぬ――――む…………!」  両の腕に力を込め、セイバーの一撃を食い止めるアーチャー。  その額には汗が滲み、呼吸は千々に乱れている。 「――――――――」  対して、セイバーは呼吸さえ乱れていない。  こと白兵戦において、アーチャーがセイバーに勝利する事はあり得ない。 「―――ここまでですアーチャー」 「先ほど私の身を案じていましたが、それは貴方にも言える事だ。キャスターを倒す為にあれだけの宝具を使った今、魔力は残り少ない筈です。  加えてこの世に留まるための〈依り代〉《マスター》もいない。魔力の供給もままならない、今の貴方に何ができる」 「ふ―――それこそ余計な世話だセイバー。  アーチャーのサーヴァントには、マスターがおらずとも単独で存在する能力がある。マスターを失ったとしても二日は存命できよう。それだけあれば、あの小僧を仕留めるには十分だ」 「馬鹿な、まだそんな事を言うのですか……! 貴方の望みは聖杯ではなく、シロウを殺す事だとでも……!」 「――――――――」  アーチャーは答えない。  冷め切った目が、ただ、苦悩に歪むセイバーの顔を見つめている。 「……なんという事を。アーチャー、貴方の望みは間違っている。  何故―――何故、そのような結末を望むのですか。そんな事をしても、貴方は」  救われない、と。  そう言いかけて、セイバーは唇を噛んだ。 「……ふん。間違えている、か」  アーチャーの両腕が膨れあがる。  ヤツは、一度だけセイバーを見て、   「それはこちらの台詞だセイバー。  君こそ、いつまで間違った望みを抱いている」    一瞬、昏い目をしてそう告げた。 「―――――アーチャー」  セイバーの剣が緩む。 「ふっ――――!」  その隙をついてアーチャーは立ち上がり、自由になった足でセイバーを蹴り飛ばす……! 「っ――――!」  吹き飛ばされつつ、セイバーは華麗に着地する。  状況は先ほどと変わらない。  俺を庇うセイバーと、剣の檻に囚われた遠坂を背にするアーチャー。  両者の距離は、またも五メートルほどの間合いとなった。 「……ふう。判りきっていた事だが、やはり剣技では及ばぬか」  手にした双剣は消え、ヤツは徒手空拳のままセイバーと向かい合う。 「……アーチャー。剣を捨てたという事は、戦いを収める気に――――」 「まさか。君こそ思い違いはよせ。オレはアーチャーだぞ? もとより、剣で戦う者ではない」  そう言って、ヤツは、               “I am t〈h〉《体》〈e〉《は》 b〈o〉《剣》〈n〉《で》e〈 〉《出》〈o〉《来》〈f〉《て》〈 〉《い》〈m〉《る 》y sword”    こちらに聞こえない声で、そんな呪文を口にした。 「止めろアーチャー! 私は、貴方とは――――」 「セイバー。いつか、おまえを解き放つ者が現れる。  それは今回ではないようだが―――おそらくは次も、おまえと関わるのは私なのだろうよ」            “Un〈k〉《た》〈n〉《だ》〈o〉《の》〈w〉《一》〈n〉《度》〈 〉《も》〈t〉《敗》〈o〉《走》〈 〉《は》〈D〉《な》〈e〉《く》〈a〉《、》th.No〈r〉《た》〈 〉《だ》〈k〉《の》〈n〉《一》〈o〉《度》〈w〉《も》〈n〉《理》〈 〉《解》〈t〉《さ》〈o〉《れ》〈 〉《な》〈L〉《い》〈i〉《。》fe”    聖堂に響く〈言葉〉《じゅもん》。  ……周囲に変化はない。  あれだけの長い呪文ならば、必ず周囲に影響が出る。  魔術というものは世界に働きかけるもの。  しかし、ヤツの呪文は世界に働きかけず、ただ――― 「だが、それはあくまで次の話。今のオレの目的は、衛宮士郎を殺す事だけだ。  それを阻むのならば――――この世界は、おまえが相手でも容赦はせん」    左腕が上げられる。  ヤツの呪文は、それで完成するのか。             “―――unli〈m〉《そ》〈i〉《の》〈t〉《体》〈e〉《は》d b〈l〉《き》〈a〉《っ》〈d〉《と》〈e〉《剣》〈 〉《で》〈w〉《出》〈o〉《来》〈r〉《て》〈k〉《い》〈s〉《た》〈.〉《。》”    明確に言霊を吐いて、ヤツは世界を変動させた。        ――――炎が走る。    地面を走るソレは、白線のようでもあった。  瞬時にして聖堂を囲った炎は境界線なのか。    炎の色が視界を覆い、聖堂を塗り潰したあと。  その異界は、忽然と聖堂にすり替わっていた。   「――――――――」    頭痛が、思考を埋め尽くす。      ―――解る。    この魔術、この異常がなんであるか、俺は理解できる。  理解など出来る筈がないのに、問答無用で、これがなんであるか読みとれる。  それが――――    何より、脳を沸騰させた。          それは、一言でいうなら製鉄場だった。  燃えさかる炎と、空間に回る歯車。  一面の荒野には、担い手のない剣が延々と続いている。  その剣、大地に連なる凶器は全て名剣。  ヤツが使う干将も莫耶も、もとはこの世界より編み出されたもの。            無限とも言える武具の投影。  〈夥〉《おびただ》しいまでの武器は、それだけで廃棄場じみている。    その、瓦礫の王国の中心に、赤い騎士は君臨していた。 「これ、は――――」  当惑の声はセイバーだ。  彼女は熱くもない幻の炎の中、呆然と赤い騎士を見つめている。 「―――固有結界。  心象世界を具現化して、現実を侵食する大禁呪。  つまり、アンタは剣士でもなければ弓兵でもなくて」   「そう。生前、英霊となる前は魔術師だったという事だ」    遠坂の声は淡々としていた。  ……もしかして、あいつは、とっくに。  アーチャーの正体に、気が付いていた、のだろうか。 「―――ではアーチャー。貴方の宝具は」 「そんなものはない。  私は聖剣も魔剣も持ってなどいなかったからな。オレが持ち得るのはこの世界だけだ。  宝具が英霊のシンボルだというのなら、この〈固有結界〉《まじゅつ》こそがオレの宝具。  武器であるのならば、オリジナルを見るだけで複製し、貯蔵する。それがオレの、英霊としての能力だ」 「――――――――」  息を呑むセイバー。  彼女は呆然と、荒野に連なる〈墓標〉《つるぎ》を見つめる。  その、荒れ地と鉄しかない、人の住まぬ灰の空を。 「これが……貴方の、世界だというのか、アーチャー」 「そうだ。試してみてもかまわんぞセイバー。  おまえの聖剣―――確実に複製してみせよう」 「私の聖剣……その正体を知って言うのか、アーチャー」 「勿論。アレほどのモノになると完全な複製はできぬが、真に迫る事はできる。  となれば、どうなる? 聖剣同士が衝突した時、周りの人間は生きていられるかな」 「な――――アーチャー、貴方は……!」 「そういう事だ。間違っても聖剣を使うなセイバー。使えばオレも抵抗せざるを得ない。  その場合、消えるのは我々ではなく周りの人間だ。  ……おまえの事だ、自身を犠牲にしてもそこの小僧を守るだろう。オレとて聖剣など投影しては自滅する。  となれば、生き残るのは〈衛宮士郎〉《ひとり》だけ。それではあまりにも意味がない」  アーチャーの左腕があがる。  ヤツの背後に立つ剣が次々と浮遊していく。 「―――抵抗はするな。  運が良ければ即死する事もない。事が済んだ後、おまえのマスターに癒してもらえ」    アーチャーの指がセイバーを示す。  無数の剣が、セイバーに切っ先を向けていく。  そのどれもが必殺の武器。   「―――躱すのもいいが。その場合、背後の男は諦めろ」    そうして、ヤツは号令を下した。 「……………………!」  放たれる無数の剣。  セイバーは一歩も動かない。  その全てを、手にした剣だけで払いのけようと、決死の覚悟で迎え撃つ―――― 「―――――〈投影〉《トレース》、〈開始〉《オン》」    頭痛で、何も考えられなかった。  残り一回分の魔術回路。  焼け焦げ、溶解しかかった無残な内部。    そんな事情など、ヤツの世界を見た時から消え去った。  気が付けば地を蹴って、セイバーの真横へ走り込んで、ただ目障りな剣どもを凝視した。 「シロウ!? だめだ、早く――――!」    知らない。    今は、飛び交う十八の剣、その全ての解析に肉眼では追い付かず感覚が暴走し、    最高速度を超えてなお速く、速く、速く、速く、    次が迫る。    バキン、と撃鉄らしきモノが後頭部に落ちる感じ。 「ふざけ――――」    左腕を突き出す。  疑問など一分もない。  今まで散々真似をしてきた。  その道理、法則に間違いがないのなら、   「―――てんじゃねえ、テメェ………――――!!!」    目前の剣の雨を、複製できない筈がない――――!  ……破片が舞っていく。  目を開けた時、ヤツの固有結界とやらは消失していた。  有るのは舞い散る剣の欠片と、   「は――――あ――――、あ、は――――!」    内臓そのものが喉元までせり上がってきたような、地獄めいた吐き気だけ。 「――――――――」  ヤツは忌々しげに俺を睨んだあと。 「ちょっ―――アーチャー、アンタ――――!?」  剣の檻に囚われた遠坂を連れ出すなり、その体を拘束、しやがった。 「っ……! っっ、っ~~~………………!」  アーチャーに掴まれながら暴れる遠坂。 「あ――――え……?」  どんな手を使ったのか、アーチャーは遠坂の首筋に手をあて、意識を刈り取る。  ……そうして、聖堂を後にする。  遠坂を抱きかかえたまま、アーチャーは地上へ通じる階段へ跳び上がった。 「……何処に行く気です、アーチャー」 「これ以上邪魔の入らないところだ。  オレは今ので魔力切れだしな。おまえに守られた小僧を仕留めるだけの力はない」 「――――凛を連れて行くのは、人質ですか」 「いや、交換条件だ。コレがオレの手元にある限り、そこの小僧はオレを追わざるをえまい。  加えて、凛はおまえのマスターになった。いかにおまえが小僧を守ろうと、マスターの命には代えられまい」 「――――――――」  ……吐き気を堪える。  気を緩めれば倒れそうな意識を絞って、ヤツの戯言に耳を貸す。   「――――郊外、だ」    そうして。  震える喉で、見上げる事もできないまま言い放った。 「なに?」 「―――だから、郊外の森だ。そこに使われていない城がある。あそこなら、誰にも迷惑はかからない」 「シロウ……!?」 「オレに文句があるんだろう。いいぜ、聞いてやる。  言いたい事があるのは、こっちだって同じなんだ」  視界が点滅する。  異次元にいるような気持ち悪さの中、それだけを口にした。 「郊外の森……そうか、アインツベルンの城があったな。  確かにあの城ならば邪魔は入るまい。  ―――ふん、いい覚悟じゃないか衛宮士郎」 「……うるさい。そんな、事より」  軽口は聞きたくない。  聞けば、耐えきれなくなって、〈体の内臓〉《なかみ》をぶちまけてしまう。 「―――それまで遠坂に手を出してみろ。  その時は、セイバーの手を借りてでも、おまえを殺してやる」    ぎり、と。  頭痛を堪える為、額を皮ごと引っ掻いて、宣告した。 「よかろう。場所を指定した見返りだ、一日は安全を保証してやる。  ―――だが急げよ。マスターがいない今、オレとて時間がない。この身は二日と保たぬだろう。  その前におまえを殺せないとあらば、腹いせに人質を手に掛けかねんからな」  ……癇に障る笑い声を残して、アーチャーの姿が消える。 「――――――――」  その姿を見届ける事もできず、床に膝をついた。 「シロウ……! 無茶をして、いくら貴方でもアーチャーと同じ投影をするのは早すぎます……!」    倒れ込む俺を支える腕。 「…………ごめんな、セイバー。遠坂、とられちまった」    軋む頭蓋を押さえて、なんとか立ち上がる。 「シロウ……それはいいのです。凛は無事だ。アーチャーも凛には手を出さないでしょう。  それより、今は貴方の方が危ない。凛の事は私に任せて、シロウは家で休息をとるべきです」 「…………いや。そんな、暇は」    ない、と言いかけて、気が遠くなった。  ……くそ。  まいった、満足にグチを言うコトさえ、出来ないのか。 「話は後で聞きます。今は貴方を家に連れて帰る。いいですね、シロウ」 「――――ちょっ――――ま」    ……反論する隙もない。  セイバーは俺に肩を貸して、階段に向かって歩き出した。 「シロウ。傷はもう痛まないのですか?」 「え――――? あ、うん、そっちの方は問題ない。いたって健康だし、〈回路〉《なかみ》だってまだ使える」 「……そうですか。それならいいのですが」  話す事がないのか、セイバーは気まずそうに会話を切る。 「……………………」  帰ってきてからもう一時間、こうして会話もなく互いを気にしている。  遠坂の無事を喜ぶ余裕もなければ、再会を祝して喜び合う事もなかった。  状況はいいものじゃない。  最後のサーヴァント、ギルガメッシュ。  ヤツが聖杯を所有しているかぎり、俺たちはヤツと戦うしかない。  ……打開策はなく、考えれば考えるほど勝ち目がないと思い知らされる。  言葉が少なくなるのは当然と言えた。 「――――――――」  けれど、口を閉ざしている理由はそれだけではないと思う。  ……おそらく、これで最後なのだ。  こうして戦いに臨むのはこれが最後。  うち倒すか倒されるか、結果がどちらになろうと、待っている物は変わらない。    聖杯戦争はこれで終わる。  その後は―――もう、こうして三人で話し合う事はない。    振り返れば十日ほどしかない時間だった。  昨日の事など思い返す余裕はなく、次から次に起こる出来事に翻弄された十日間。  ……けど、苦しい事ばかりじゃなかった。  こうして思い返せば、この十日間はかけがえのない思い出になっている。 「――――――――」  だから、こうして口を閉ざしている。  それを認めたくなくて、判りきった言葉を押し殺している。  俺も遠坂もセイバーも、もう答えは決まっている筈だ。  それを口に出来ないのは、こんなカタチで、今まで続いたものを終わらせたくないからだろう。 「―――じゃあ、わたしから言うけど。  わたしはアーチャーの仇を討つ。裏切られたし、酷いヤツだったけど、アイツは士郎だったから」  意を決して、遠坂はそう言った。  ギルガメッシュと戦う、と。  この戦いを終わらせると、彼女ははっきり口にした。 「士郎は? セイバーにはどうしたって付き合って貰うけど、マスターじゃない貴方には無理強いできない。  あの金ピカ、士郎を目の仇にしてるみたいだし、戦うのなら真っ先に狙われると思うけど」  気を遣っているのか、遠坂は逃げ道を用意する。  けど、こっちだって答えは決まっている。  ギルガメッシュは放っておけない。  ヤツが使うという聖杯も、在ってはならない物だと直感している。  だが、それ以上に引けない理由がある。    ――――おまえが倒せ。    あいつはそう残して、自分ではなく俺を生き残らせたんだ。  ……衛宮士郎を否定する為だけに在り続けた男。  その男に敗北を認めさせた以上、俺の取るべき道は決まっている。 「―――ヤツを倒す。自分で戦うと決めたんだ。最後までそれを守らなくちゃ、あいつになんて文句を言われるか分からないだろ」 「……そう。貴方がそう決めたのなら止めないわよ」 「ああ、頼む。それに聖杯は放っておけない。  聖杯がヤツの言う通りの物だとしたら、そんな物は壊した方がいい。今度こそ完全に、こんな事を二度と繰り返さないようにだ」 「――――――――」  セイバーは聖杯を手に入れる事だけを目的にして戦ってきた。  その迷い、未練は、そう簡単に断ち切れる物じゃない。  それでも、 「―――承知しています。  聖杯がギルガメッシュの言う通りの物ならば、それはこの世にあってはならない物です」    そう、自らの願いを殺して頷いてくれた。 「―――――よし!」  座布団から腰を上げて台所に向かう。  かけてあったエプロンを装備。  きっちりと紐を結んで、気合いをいれて腕まくりをする。 「シ、シロウ?」 「な、なに? 何かいいアイデアでも思いついたの?」 「え? いや、飯作ろうと思って。二人とも、腹減ってるだろ」  呆然とする二人を余所に、テキパキと夕食の支度をする。 「話は決まったんだ。なら、あとはいつも通りにしよう。  三人で夕食をとって、その後でヤツを倒しに行けばいい」  ボウルとフライパンを出す。  冷蔵庫の食材は全部使ってしまえ。  今日は無礼講だ、思いっきり豪勢に行こう。 「―――ええ。そうですね、いつも通り夕食を迎えましょう。私たちには、その方が合っている」 「そうね。じゃ、わたしも手伝おっかな。あ、セイバーはお風呂沸かしてきて」  さっきまでの深刻な空気は、そんな事で消えてくれた。  居間はとたんに明るくなる。  もう二度とこない三人の夜。  それをいつも通りに過ごす為に、精一杯騒々しく、夕食を迎えられるよう張り切るのだ。    ――――で。  和洋中と節操のない夕食を片づけた後、恒例の作戦タイムが始まった。 「では、凛は柳洞寺に聖杯がある、と?」 「ええ。前から今回の降霊場所は柳洞寺だと睨んでたのよ。キャスター対策で監視役の使い魔を放ってたんだけど、それもついさっき潰れたし。あの金ピカ、柳洞寺に陣取ってると見て間違いないわ」 「……柳洞寺ですか……厄介ですね。  あの山には山門からでしか侵入できない。当然ギルガメッシュも山門で待ちかまえているでしょう」 「そうね。けど逆に言えば位置が特定できて助かるわ。  アイツも厄介だけど、聖杯の召喚を止める方が先決だもの。  セイバーにはアイツの足止めをしてもらって、その隙にわたしたちで聖杯を壊す……っていうのが理想でしょうね」 「待った。聖杯を壊すって、それはセイバーじゃないと出来ないんじゃないのか? 俺たちじゃ聖杯には触れないんだろ」 「そうね、わたしたちに呼び出された聖杯を壊す事はできない。けど、その前に聖杯の器を壊す事はできる。  正確には聖杯が発動する前に停止させるって事だけど」 「む。聖杯を停止させるってどういう意味だ」 「……。あんまり考えたくないんだけど、今までの話を総合すると、聖杯はイリヤスフィールの心臓でしょ。  けど、聖杯っていうのはイリヤスフィールの体……魔術回路とセットだと思う。  アイツはイリヤスフィールが聖杯になる事を嫌がって、核となる器官だけを引き抜いた」 「……と、するとね。  聖杯として機能させる為には、もう一度魔術師の体に埋め込まないといけない。残ったマスターはわたしとあと一人だけ。  わたしがここにいる以上、アイツが聖杯基盤に選ぶのは――――」 「慎二って事か……!? けど慎二には、その」 「魔術回路がないって言うんでしょ。……きっとそんなの構わないのよ、アイツは。  不完全な聖杯を作りたがってるんだから、不完全なマスターに埋め込むでしょうね」 「……血が絶えたっていっても、間桐の血族には遺伝的に魔術回路の跡があるし。  イリヤスフィールの心臓なんて、そんな核融合炉をつけられたら、閉じてた回路だって力ずくで開かれるわ」 「――――――――」    ……となると、まず慎二を聖杯と切り離さないといけないんだな。  聖杯の基盤になる、という事がどんな事かは判らないが、間に合うものなら止めなければ。 「ですが、それをギルガメッシュが許すとは思えない。  聖杯を止める、という事はギルガメッシュを倒すという事ではないのですか」 「……そうだな。アイツが聖杯を守っているのは明白なんだから、まずアイツをどうにかしないと話にならない」 「そうね。けどアイツ、山門でわたしたちを待ち受けてると思うのよ。わたしたちの最大の戦力であるセイバーが山門からしか入れない以上、それ以外の突入経路はないんだもの。  だから――――」 「……なるほど。  私は単身で山門から突入する。  凛とシロウはその隙に裏から柳洞寺に侵入するのですね。  マスターである二人なら、柳洞寺の結界も意味はない」 「そういう事。……セイバーには頑張ってもらうしかないんだけど、とにかくアイツの足止めをして。わたしたちも聖杯を止め次第、すぐに駆けつけるから」 「―――待った。それは無茶だ。セイバーじゃアイツには敵わない。  足止めなんて出来ないぞ、きっと」 「え? なによ、やけにアイツの肩を持つわね、士郎」 「まったくです。確かに彼は強敵だが、それでも防戦に徹すれば私とて簡単には敗れません。  その根拠を言ってください、シロウ」 「あ、いや、そういう意味じゃないんだ。俺が見たかぎり、アイツよりセイバーの方が強い。  これは絶対だ。賭けてもいい」 「? では、何故そのような事を言うのです」 「だから、英霊である限りアイツには勝てないんだ。  ……そうだな、もしアイツがセイバーと同じ宝具しか持ってないのなら、セイバーはまず負けない。剣士としての能力は比べるまでもないんだから」 「けど、アイツの強さはそういう『個人』としての強さじゃないんだ。どんなに優れた兵士でも、戦争そのものには勝てないだろ。  アイツはそういう類の英霊だ。対抗するには、おなじ戦争じゃないと呑みこまれる」 「……?……つまり、シロウは私と彼とでは相性が悪い、と言っているのですね?」 「ああ、そういう事。だから遠坂、なんの策もなしでセイバーとアイツは戦わせられない。せめて突破口ぐらいないと勝ち目がないんだ」 「むっ……そんなコト、言われなくてもわかってるわよ。  だから、いまからそれを考えようって言ってるんじゃない」 「ふむ。では、凛には策があるのですね?」 「あのね、そう都合よく思いつく筈ないでしょ。  士郎の言った通り、アイツの宝具は戦争だもの。  戦争っていうのは戦力をどれだけ調えたかで勝敗が決まる物でしょ。いかに上手に兵器を扱えるかじゃなくて、どれだけ相手と同じ戦力、を――――」 「……? なんだよ遠坂。いきなり黙り込んで」 「……そっか。だから目の仇にしてたんだ。そうよね、自分の宝具を持たない英霊なら、原典になる武器さえ存在しない。あ……待てよ。それって、つまり」 「……凛? どうしたのです、いきなり私の背後に回って」 「な、なんでもないっ……! ちょっと考え事するから、二人でかってに会議してて……!」 「?」  セイバーと二人、顔を見合わせる。  ……まあ、アイデアがあるっていうんなら、放っておくけど。 「……では、そうなるとアーチャーとの一騎打ちは避けた方がいい、という事ですね。  ですが私とて凛のバックアップがある。  彼女からの供給があれば、封印していた私の宝具も問題なく使用できます。それならば、彼が宝具を使用する前に倒せる可能性もあるのですが」 「セイバーの宝具……? それって風王結界じゃなくて?」 「はい。風王結界は鞘にすぎません。  凛の許しがあれば、私は自らの聖剣を使用できます。  前回聖杯を破壊したのもその剣です」 「―――そうか。じゃあそのあたりは遠坂次第って事か?」 「そうですね。聖剣を使用すれば、私だけでなく凛にも大きな負担がかかります。凛の魔力の大半を奪う事になるでしょう」 「だってさ遠坂。おまえの魔力量、どのくらい余裕があるんだ?」 「ま、魔力量って、なんでわたしの考えてるコトわかるのよアンタ……!?」 「え?」 「……な、なんでもないっ。わたしのコトは放っておけって言ったでしょ。セイバーの宝具のコトならちゃんと判ってるわ。  言っとくけど、私とセイバーじゃ撃てて二回よ。  一回は聖杯に使うんだから、ギルガメッシュとの戦いに使うっていうんなら一回だけだからね」 「……はあ。えっと、セイバー。遠坂はそう言ってるけど、どうだ」 「……判りません。アーチャーがあらゆる宝具を持つというのなら、私の宝具と拮抗する物も所有しているでしょう。そうなれば、後はどちらの宝具が優れているかという戦いになる」 「……そうか。結局宝具の競い合いになるのは否めないのか……」  ……となると、勝算はギルガメッシュにある。  そんな無謀な戦い、セイバーにさせられないが―――  ああもう、考えが纏まらないっ。  なにしてんだあいつ、さっきから様子がおかしいぞ。  なんだってそう、じろじろとこっちを見たりするんだ。 「おい遠坂。言いたい事があるなら言えよ。アイデア、あるんだろ」 「――――な、ないわよっ! こんなところで言えるわけないでしょ、バカ!」  などと、よく分からない罵倒を返し、気まずそうに視線を逸らす。 「………シロウ?」 「いや、なんでもない。あいつはヘンなんで、ほっといて話を進めよう」  そんなこんなで、二人だけで作戦会議を進める。  ……が、遠坂というブレインを欠いた俺たちに有効な打開策はなく、 「――――無いんならさっきの案でいいでしょ。  決行は夜明け前だから。それまで各自、自分の部屋で十分に休みをとっておくように」    遠坂の独断で、方針は決定してしまった。  ――――時間が過ぎていく。  時計の針は、じき日付を越えようとしている。 「………………」  遠坂は仮眠でもとっておけ、なんて言っていたが、とても眠れる状況じゃない。  あと数時間であのサーヴァントと決着をつける。  夜明け前という事は、日が昇る頃には何もかも終わっているという事だ。 「………………」  じっとしていられる訳がない。  俺は――――     「―――そうだな。こんな状況で眠ってられるか」    ギルガメッシュへの対抗策。  あの冷酷な敵と戦うのなら、勝機を探し出しておかなければ絶対に後悔する。  今のまま柳洞寺に向かえば、きっと誰かが犠牲になる。  それに比べれば、ギリギリまであがく事なんてみっともなくもなんともない。 「遠坂、起きてるか」  ドアをノックする。   「っ……! ちょっ、ちょっと待った、絶対入るな!」    ……む。  遠坂の事だからきっちり仮眠をとってるかと思ったのだが、まだ起きていたらしい。  くわえて、ひどく慌てている。  バタバタという音が続くこと数分。  ようやく落ち着いたのか、はあ、と。  ドアごしでも聞こえる深呼吸をして、遠坂はドアを開けた。 「で、なによ」  顔を合わせるなり、遠坂は睨み付けてきた。 「いや。なにって話の続きだよ。ギルガメッシュへの対抗策をもう少し考えたいんだ」 「――――――――」  ……って。  なんでそこで俺を睨むんだ、おまえは。 「遠坂。もしかして、今すごく不機嫌か?」  判りきったコトを訊いてみる。    あったりまえじゃない!    なんて怒鳴ってくるのは目に見えているが、それでも気になったものは仕方がない。  が。 「……ううん。別に、そういう訳じゃないわ」    なんか、さらに正体不明な回答をしやがった。 「遠坂。おまえ、熱でもあるのか」 「ないわよっ! ……ああもう、いいから入ったら? ギルガメッシュをどうこうするかって事なら、こっちから行こうと思ってたんだから」  遠坂は俺を引き入れるなり、がちゃん、と鍵をかけて、ずかずかと奥に戻る。 「…………?」  とりあえず、部屋の中央へ移動。  椅子に座った遠坂に合わせて、クッションに腰を下ろす。 「――――――――」 「――――――――」    そうして、沈黙。  そっちから来るつもりだった、なんて言っておきながら遠坂は黙っている。 「遠坂。ギルガメッシュの事なんだが」 「……わかってるわよ。セイバーと戦わせたくないって言うんでしょ。セイバーには優しいのよね、衛宮くんは」 「あのな、そういう話じゃないだろ。  単にセイバーじゃアイツとは相性が悪いから、配置変えをするべきだって話だ。足止め役のセイバーが倒されたら、次に狙われるのは遠坂なんだから」 「…………ふん。じゃあ配置変えって言うけど、どうするつもりよ。わたしはパスよ。  あの金ピカ、金にあかせて対魔術の武装を纏ってるし。  わたしじゃセイバー以上に相性が悪いわ。それは貴方だって同じでしょ」 「――――――――」  それは、そうなのだが。    ……どうしてもあの眼が忘れられない。    アーチャーは確かに告げていた。  黄金のサーヴァント。  ギルガメッシュに太刀打ちできるのは衛宮士郎だけなのだと。    セイバーと話をしよう。  ……ギルガメッシュを倒せたとしても、この戦いが終わればセイバーはいなくなる。  セイバーは自らの手で聖杯を破壊し、サーヴァントとしての責務から解かれる。  そうなってしまえば、もう二度と彼女には会えない。    ……最後の会話。  戦いに赴く前に、何か確かなものを、セイバーとの間に残したかった。 「シロウ? どうしたのです、こんな所に」 「いや、どうしたってなんとなくセイバーの顔が見たくて。あ、もしかして迷惑だったか? 戦いに備えて精神集中してたとか」 「え―――い、いえ、そのような事はないのです。  私もちょうどシロウの顔が見たかったので嬉しいのですが……その、シロウは凛の部屋に行ったものと思いまして」 「? なんで俺が遠坂の部屋に行くんだ? 別に呼ばれてないぞ、俺」 「そ、そうですね。私が勝手に思い込んでいただけですから気にしないでください。  た、ただその方がいいと思ったのですが、こ、こういうのも老婆心と言うのでしょうか」 「???」  セイバーはますます挙動不審になっていく。  ……原因は不明だが、ほっといたら際限なく赤くなりそうなんで、一応理由を訊くコトにした。 「どうしたんだよセイバー。なんかおかしいぞおまえ。  何かあったのか?」 「お、おかしいところなどありませんっ。私はただ、戦いに備えて英気を養っているだけです。  そういうシロウこそどうしたのです。夜明けまで仮眠を取り、万全の状態で柳洞寺に向かうのではないのですか」 「む」  そう面と向かって訊かれると、セイバーと時間を過ごしたかった、なんて言えなくなる。  言えなくなるので、   「……んー、俺も眠れなくてさ。どうせ起きてるならセイバーとお茶でも飲もうかなって。  ほら、遠坂のヤツはなんか忙しそうだから」    思いつきで、嘘のない気持ちを口にした。 「お茶、ですか……? あと数時間もしないうちに、あの英雄王に挑むというのに……?」 「ああ。どうせお互い、緊張して休めないんだろ?  なら付き合えよセイバー、とびっきりのお茶をご馳走するから」 「はい。喜んでお付き合いします、シロウ」    ―――そうと決まれば善は急げ。  台所に戻って、この日の為に買っておいた中国茶を美味しく淹れて、セイバーにご馳走しよう―――  ―――で。    結局、二人してお茶を飲む以外なにもしなかった。  会話らしきものもなかったし、短い言葉さえ交わさなかった。  ただ二人でぼんやりと道場を眺めていただけ。  たった数日、けれど確かにセイバーと打ち合った、板張りの床を見つめていた。 「シロウ。そろそろ凛のところに。彼女の事ですから、新しい考えが纏まっているでしょう」 「ん、そうかな。セイバーがそう言うなら、そうする」  一人立ち上がって道場を後にする。 「ではシロウ、後ほど」 「ああ。ご機嫌ななめなセイバーのマスターの様子を見てくる」  見送られて道場を後にする。    ―――結局、それで最後の時間は終わった。    確かなものなんて残せない。  明確な約束も、記憶に残る手触りも、セイバーがここにいた証も、何一つ作れなかった。    ……けど、それでこそ正しい気がする。  残ったものはいつか薄れていく思い出だけだ。  だからこそ、このなんでもなかった時間を強く胸に刻んでおこう―――― 「おーい。遠坂、起きてるかー」  ドアをノックする。 「……起きてるわよ。そっちこそ寝なくていいの? さっきまで道場で、セイバーと仲良く話してたみたいだけど」 「え? なんだ、見てたのか遠坂。  ……そっか、客間から道場は丸見えだもんな。  それなら遠坂も来れば良かったのに。どうせ起きてるなら、三人でお茶にした方が良かっただろ」 「………………まあいいけど。  ………………すごくよくないけど。  とりあえず上がんなさいよ。ちょうどアンタんところに行こうと思ってたところだから」    むむ。なにか、妙に棘のある言い回し。 「……わかった、お邪魔する」  それに首をかしげながら、静かにドアを開けて中に入った。 「余裕あるじゃない。セイバーと何してたのよ、アンタ」  と。  顔を合わせるなり、遠坂は睨み付けてきた。 「いや。なにってお茶飲んでただけだ。  これから戦いがあるっていうのに稽古なんかするワケないだろ。余分な体力使えないんだから」 「余分な体力って――――そ、そうよね。余分な体力なんて使えないわよね」  ……って。  なんでそこで黙り込むのか、おまえは。 「……遠坂。もしかして、今すごく不機嫌か?」  判りきったコトを訊いてみる。    あったりまえじゃない!    なんて怒鳴ってくるのは目に見えているが、それでも気になったものは仕方がない。  が。 「……ううん。別に、そういう訳じゃないわ」  なんか、さらに正体不明な回答をしやがった。 「遠坂。おまえ、熱でもあるのか」 「ないわよっ! ……ああもう、いいから座って!  これからギルガメッシュ対策を、なんにも思いつかない貴方の為にやってあげるんだからっ!」  遠坂は俺を引き入れるなり、がちゃん、と鍵をかけて、ずかずかと奥に戻る。   「…………?」    とりあえず、部屋の中央へ移動。  椅子に座った遠坂に合わせて、クッションに腰を下ろす。 「――――――――」 「――――――――」    そうして、なんとなく落ち着かない沈黙。 「遠坂。ギルガメッシュの事なんだが」 「……わかってるわよ。セイバーと戦わせたくないって言うんでしょ。セイバーには優しいのよね、衛宮くんは」 「あのな、そういう話じゃないだろ。  単にセイバーじゃアイツとは相性が悪いから、配置変えをするべきだって話だ。足止め役のセイバーが倒されたら、次に狙われるのは遠坂なんだから」 「…………ふん。じゃあ配置変えって言うけど、どうするつもりよ。  わたしはパスよ。あの金ピカ、金にあかせて対魔術の武装を纏ってるし。わたしじゃセイバー以上に相性が悪いわ。それは貴方だって同じでしょ」 「――――――――」  それは、そうなのだが。    ……どうしてもあの眼が忘れられない。    アーチャーは確かに告げていた。  黄金のサーヴァント。  ギルガメッシュに太刀打ちできるのは衛宮士郎だけなのだと。    ……もう少し、一人になって考えてみよう。    時間はまだある。  始めから最後まで、聖杯戦争が起きてから今までの事をよく思い返してみれば、あのサーヴァントの弱点らしきものが浮かび上がってくるかもしれない―――― 「は…………っ!?」    ガバッ、と勢いよく体を起こす。 「……信じられねえ……寝てた、俺」    何も思いつかず、畳に寝転んだ瞬間、今までの疲れが吹き出たのか。  抵抗する間もなく眠って、気がつけばもう―――― 「……ほ。良かった、まだ一時前だ。三十分ぐらいしか寝てない」  うっかり寝過ごし、遠坂にたたき起こされでもしたら一生頭が上がらなくなってたところだ。 「危ない危ない……こんなトコ、間違っても遠坂には見せられな――――」   「…………士郎、起きてる?」   「っ――――と、ととと遠坂…………!?」  ばっくん、と飛び出しそうな心臓を押さえて立ち上がる。 「お、起きてる、起きてるぞちゃんと!」  あたふたと身なりを整えながら返答する。 「そう。ならちょっと来てくれない? 大事な話があるから」  ……と。  遠坂は俺の寝ぼけぶりにも気がつかず、さっさと客間へ戻っていった。 「……?」  ワケが判らないが、話があるなら顔を出すべきだろう。 「お邪魔します。で、話ってなんだよ遠坂」 「…………………………」  なんだってんだ。  自分から呼んだクセに、会うなり人を睨みつけて。 「遠坂。もしかして、今すごく不機嫌か?」  判りきったコトを訊いてみる。    あったりまえじゃない!    なんて怒鳴ってくるのは目に見えているが、それでも気になったものは仕方がない。  が。 「……ううん。別に、そういう訳じゃないわ」    なんか、さらに正体不明な回答をしやがった。 「遠坂。おまえ、熱でもあるのか」 「ないわよっ! ……ああもう、いいから座って!  これからギルガメッシュ対策を、なんにも思いつかない貴方の為にやってあげるんだからっ!」  遠坂は俺を引き入れるなり、がちゃん、と鍵をかけて、ずかずかと奥に戻る。 「…………?」  とりあえず、部屋の中央へ移動。  椅子に座った遠坂に合わせて、クッションに腰を下ろす。 「――――――――」 「――――――――」    そうして、なんとなく落ち着かない沈黙。 「遠坂。ギルガメッシュの事なんだが」 「……わかってるわよ。セイバーと戦わせたくないって言うんでしょ。セイバーには優しいのよね、衛宮くんは」 「あのな、そういう話じゃないだろ。  単にセイバーじゃアイツとは相性が悪いから、配置変えをするべきだって話だ。足止め役のセイバーが倒されたら、次に狙われるのは遠坂なんだから」 「…………ふん。じゃあ配置変えって言うけど、どうするつもりよ。わたしはパスよ。  あの金ピカ、金にあかせて対魔術の武装を纏ってるし。  わたしじゃセイバー以上に相性が悪いわ。それは貴方だって同じでしょ」 「――――――――」  それは、そうなのだが。    ……どうしてもあの眼が忘れられない。    アーチャーは確かに告げていた。  黄金のサーヴァント。  ギルガメッシュに太刀打ちできるのは衛宮士郎だけなのだと。 「……遠坂。怒らないで聞いてくれ。  アイツの相手は、俺が」 「貴方がするって言うんでしょ。  ……なんだ、やっぱり気づいてたんだ。ギルガメッシュの宝具の天敵は、アーチャーの魔術なんだって」 「え?」  ぽかん、と口を開く。 「え? って……士郎、アンタ気づいてなかったって言うのに、そんなふざけたコト口走ったワケ?」 「う―――いや、それは確証がなかっただけで、俺たちの中なら一番俺に可能性があるかな、と」 「……ふうん。誰に入れ知恵されたか知らないけど、それは間違いじゃないわ。  ギルガメッシュを最強たらしめているのは宝具の数でしょ。けど、逆を言えば同じ数の宝具さえ持っていれば力は拮抗する」 「――――同じ数の、宝具」  それはつまり、ヤツが繰り出した分だけ、片っ端から複製すればいいという事。 「……そうよ。アイツはあなた達のことを偽物だって言ってたけど、それは敵として脅威を感じたからでしょうね。アイツは、英霊エミヤに対してだけは互角の戦いをせざるを得ないんだから」 「――――――」  それは、そうだろうけど。 「そうかもしれない。けど無理がある。  アーチャーの剣を一本投影するだけでボロが出るんだぞ。あんな、次から次に宝具を出されたら投影も間に合わないし、魔力も持たない」 「貴方の魔術が今までと同じならね。  けど、アーチャーの宝具がなんだったか覚えてるでしょ。  あの魔術―――固有結界さえ使いこなせるようになれば、ギルガメッシュに対抗できる」  遠坂はじっと俺を見据えてくる。  が、その期待には応えられない。 「無茶だ、固有結界ってのは禁呪中の禁呪じゃないか。やり方が分からないし、アーチャーが世界を作るときに使った魔力は俺の数倍だぞ」 「ええ、無理なのは判ってる。  けど、やり方なら貴方はもう知ってる筈よ。だって、貴方の魔術は結局みんなソレなんだもの。“強化”も“投影”も、貴方の固有結界から漏れた物にすぎない。  必要な魔力さえあれば、驚くぐらい簡単に歯車がかみ合うと思う」 「仮にそうだとしても、無理なことに変わりはないだろう。俺には結界を張る魔力も、維持する魔力もないんだ。  アイツは長い年月を掛けて魔術回路を鍛えていったんだろうけど、俺にはアイツほどの魔力が――」 「分かってる。  でもギルガメッシュも言ってたでしょ? 自分で補えないなら余所から持ってくるのが魔術師だって」 「だから、俺にはそんな、余所から魔力を貰ってくるなんて器用な真似はできないんだって。遠坂みたいに宝石に魔力を溜めている訳でもないし。  ……って。もしかして、あの宝石を使おうっていうのか?」  元から魔術の素養がない俺がそれをなんとかできるとは、やっぱり思えない。 「それで済むならとっくに渡してるわ。けどわたしの宝石はわたしにしか変換できないから却下。  ……でも、アプローチとしてはそれしかない。  他人の魔力を自分のものとして扱うのには色々と手順があって、現状で出来るコトといったら、もうそれぐらいしかないワケだし―――」 「……なあ遠坂。どんな考えかぐらい教えてくれないか? これじゃ相談にも乗れない」 「え? そ、そんなこと士郎に言えるワケないじゃない!」  ……むう。  どうも、俺には言えない何かを考えていた、という事らしい。 「な、なんでもないの。  方法はいくつか考えられられるんだけど、その中で可能性の低いものを取捨選択していただけで……」 「そうなのか。それで、いい考えがあるのか?」 「うん……率直に言うと、わたしと貴方の問題。  魔力の蓄えのある魔術師同士を繋いで、やりくりする方法よ」 「……俺と遠坂の間にパスを通して、魔力の融通をする?」 「そ。士郎に固有結界を使う為の魔力量が足りなくても、私にはある。  貴方には私の魔力を使ってギルガメッシュと戦ってもらう。その間に私とセイバーが聖杯を破壊する。こっちにはセイバーが居るんだから、私の魔力が多少減っても戦力は拮抗するわ」  固有結界を使って俺がギルガメッシュを抑えられれば、他にサーヴァントもマスターも居ない以上、聖杯はまる裸になる。  そこに魔術師である遠坂に加えてセイバーまでいるのだから、勝算は充分にあるだろう。 「……しかしだな。その前の段階が難しいというか。俺はパスの通し方なんて判らない」 「そんなの承知の上でよ。その方法を考えるのが私の役目なんだし」  何やら考えこむ遠坂。  顔色はあまり明るくない。 「パスの通し方だけど、即効性があって魔力の融通が可能となると方法は数えるほどしかない。  一番有効なのは、魔術回路をお互いに移植すること」    ――お互いの魔術回路を移植する?  魔術回路とは魔術師そのものとも言える第二の疑似神経の事だ。  小源を以て大源に作用させる、魔術師の機構。  後の世の子孫が、仮に秘奥に“達した”時。その理論を成し得るだけの基礎能力を有するようにと、何代も重ねて積み上げる“生きた遺産”だ。  言うなれば、積み重ねてより強く濃くなった血と骨に等しい。 「……魔術回路って、俺たちの中にあるあれか?」 「そう、魔術師の本質をお互いに移植すれば、これほど確実なパスはないわ。  相手の回路の一部が自分のものになれば、そこへ魔力を伝える事は造作もない」  簡潔な説明は、同時に後ろめたさも含んでいた。  ……当然だ。魔術回路を他人に植え付けるなんて荒技をすれば、後々どうなるのか知れたものじゃない。  移植する魔術回路を提供する人間は、魔術師としての完成を放棄する事になる。  けれど、それで済むのなら話は早い。 「よし。俺の魔術回路を移植しよう」 「……………………」 「な、なんだよ、遠坂」 「気持ちは嬉しいけど却下。だって意味ないもの、それ」  と。  一応、自分なりに覚悟をしての提案は、あっさりと蹴られてしまった。 「な、なんで?」 「いい? そもそも魔力を融通するのは士郎の固有結界を使うためでしょう? なのに士郎の魔術回路を減らしてどうするのよ。  私の魔力と士郎の全魔術回路を使って初めて、あの固有結界は実現できるんだから」 「――――――」  ……そうか。  固有結界を使うのは俺自身なんだ。世界を浸食するあれだけの巨大な幻想を形成しうるには、俺の魔術回路を全開にしてようやく追いつけるかどうか。  俺の魔術回路を遠坂に移植してパスを作ったところで、魔術を成す為の回路が足りなくなっては本末転倒である。 「わかった?  手間暇かけて戦力ダウンしているようなものよ、士郎」 「すまない、そこまで考えが及ばなかった」 「いいわ、そんな謝らなくても。今の返答、それなりに予想してたし。……ま、即答だったのは予想外だったけど」 「……じゃあ、遠坂の魔術回路を俺に?」  しかし、それは。 「……たしかに士郎の回路を私に移植するより、逆の方が戦力は確保できる。  でも、移植の儀式をするのは私。魔術回路を使いながらその回路自体を減らしていくだなんていうのは、術そのものの安定が確保できない。  使い魔の契約ほど形式化していれば安全性は確保できるけど、魔術師同士のパスのため、なんてのはあんまり例がない事だし」 「……共倒れになるかも知れない、って事か?」 「そう、貴方の魔術回路を私が貰うのは論外、私の魔術回路を貴方に上げるのは惜しい不正解ってところね。  だから―――」 「だから?」 「貴方に、私の魔術刻印を移植する」    ―――魔術刻印。  それは一族の秘術、秘奥を記した歴史そのもの。  魔術回路が血と骨なら、魔術刻印は肉と言えるものだ。    魔術刻印は形をもった魔術。  本来無形である魔術を、その代の当主が一生かけて形にした、一人の魔術師の生きた証そのものである。  魔術刻印を継承している遠坂は、歴代の当主が“形”にした魔術を行使できる。 「……いや、それは―――」 「分け与える、という事なら魔術刻印の方が何倍も楽よ。魔術回路と違って、本当に受け渡す為のものだから。  ……まあ、魔術回路ほど〈術者〉《わたし》そのものでもないけど、遠坂の家系で出来ているものだし。パスとして使う分には十分よ」 「……それは、本当に?」 「本当だってば。刻印化している魔術は、まあ、使い物にならなくなるけど、受信装置としての役割ぐらいになら作り替えられるわよ?  あ、それとも成功率の話? 一族じゃない人間に魔術刻印を移植できるかってこと?」 「…………ああ。それも、一応気になるけど」 「大丈夫、任せなさい。きっかり士郎をバックアップして、セイバーと三人で勝ち残って、聖杯を手に入れるから。  ええ、もう決めた事だもの、ここ一番の失敗も、今回ばかりはねじ伏せてやるわ」  晴れやかな笑顔で、鮮やかに断言する。 「――――――」  それで、余計な気遣いは無粋と知った。  魔術刻印を削る。  自らの手で、一族の悲願を後退させる。  ―――それを。  あっさりと、おくびにも出さず笑い飛ばした遠坂の強さを、もう何度も見てきたのだから。 「な、なによ。急に物分かりいい顔して。  わ、わたしの顔、なんかヘン?」 「え? ……ああ。そうだな、初めて教会に行った時と同じだ。なんていうか、遠坂のいいところって、分かりづらいよな」 「……失礼な言い草ね。  それで思い出したけど。あの時、わたしってヘンな顔してたの?」  セイバーを召喚した運命の夜。  教会で気分が悪くなった俺を、敵でしかない俺のことを真剣に心配してくれた遠坂の〈表情〉《ホンネ》が、どれだけ助けになった事か。  人の事は言えないけど、遠坂だって、人並み外れていいヤツだったんだ。 「まあ、ヘンな顔だった。  俺、あの時はまだ遠坂の事を優等生だって思ってたし。あんな顔するなんて、思わなかった」 「……ふん。どうせ猫かぶりで冷酷な女ですよ。分かりづらくて悪かったわね」  でも、それに助けられてきた。  お人好しで、けど現実主義で、自分の弱さをきっぱりと切り捨てる強い心。  ……迷いも苦しみも自分の〈裡〉《むね》にフタをして、周りから見れば鮮やかなぐらい、華々しく前に進む。 「で。それはいいけど、なんでジロジロこっち見るのよ、アンタ」 「え? あ、そっか。ちょい見とれてたみたいだ。今さらだけどさ。そういう遠坂だから、俺は好きになったんだなって」 「っ―――」  なら、こっちも負けていられない。  惜しげもなく、さも当然のように魔術刻印を移植すると言ってくれた遠坂の為に、精一杯の信頼で応えよう。 「ちょ、すす、すきって、今はそういう話をしてる場合じゃない、けど―――聞いてあげるぐらいなら、構わないというか」  遠坂も拳に力を込めている。  よかった。気合い充分、こっちの覚悟を察してくれているようだ。 「ああ、分かってる。時間もないし、無駄話をしている暇はないよな。  さ、早く移植を始めよう。具体的にはどうすればいいんだ遠坂?」 「え?」  ぽかん、と口を開く。  ……ヘンだな。何かおかしなコト言ったか、今。 「………………」 「なんだよ。なんか、都合の悪いコトでも思い出しちまったか?」  例えば、この時間に儀式を行うと失敗する、といったジンクスとか。 「―――別に。ちょっと頭痛がするだけ。  慣れたつもりだったけど、衛宮くんの巡りの悪さを甘く見ていたわ。  ……ふんだ、今に始まった事じゃないからいいけどね。言葉自体は、まあ、悪くなかったから良しにしといてあげるわ」 「??」  これみよがしに顔を背けて、遠坂は自分の荷物から様々な小物を取り出した。 「はい。とりあえずこれ飲んで。痛み止めみたいなものだから」 「お、おう」  ドロップ状の飲み薬を口に入れる。  遠坂は部屋の電気を消すと、なにやら床に模様を刻み始めた。    そうして待つこと五分。  下準備は終わったとばかりに、遠坂はベッドに腰を下ろした。 「それで遠坂。俺はどうすればいいんだ?」 「――――――」  聞こえていない、というワケではない。  遠坂のヤツ、妙に気まずい顔で眉間に皺を寄せている。 「なんだよ、言いにくい事なのか? 覚悟は出来てるからな、たいていの無茶なら驚かないぞ」  信頼するとはそういう事だ。  遠坂はそう、と頷いて、 「……じゃあ、言いにくいんだけど。  とりあえず、服を脱ぎなさい」  緊張しきった声で、聞き慣れない指示を出した。 「――――――」  状況を確認しよう。  部屋の電気は消えている。  遠坂は俯き加減でベッドに座り、妙に緊張している。  ……今になって確認するのもなんだが、遠坂の体は柔らかそうで、フローリングにおろした両足はこの上なくしなやかで、扇情的だと思う。  で。  服を脱ぎなさい、と命令された。 「……………………」 「そこ、ヘンな誤解しない! 単に服を脱げって言っただけでしょ!?  わ、わたしだって脱ぐんだから公平だし!」  があーっと怒鳴りつけられ、そっか、とおかしな予想を引っ込める。 「……ん? 遠坂も、脱ぐ……?」  それは、誤解しようのない、間違いようのない事実だと思うのですが。 「……………………」 「だ、だから曲解しない! 服を脱ぐのは体温を伝えやすくする為で、それ以上の意味はないんだから!  いい? 魔術刻印の移植には高度な共感状態にならないといけないのよ。その為にも、余分なものは出来るだけ剥ぎ取っておかないとダメでしょ」 「あ、ああ、なるほど」  そりゃそうだ。  魔術刻印の移植がどんなものか分からないが、移植と言う以上、医学で言うところの移植に近いんだろうし、素肌になっておかないと。 「ちゃんと説明してくれればいいのに……えっと、上だけでいいんだよな?」 「あ、当たり前でしょ、下まで脱いだらそこのヒーター投げつけるからっ」  本気でやりかねないのが恐ろしい。  上着を脱ぐ。……何度も手当をして貰ってはいるが、やはりどこか気恥ずかしい。 「――――――」  遠坂のものだろう、薄闇の中、ほう、と大きな深呼吸が聞こえた。 「……じゃ、次ね。士郎、ちょっとあっち向いてて」 「そうか、遠坂も脱がなきゃいけないのか」 「………………」  答えはない。  沈黙は肯定というコトだろう。回れ右して黙り込む。 「……………………」 「――――――」  振り返った時、動揺しないよう深呼吸をする。  遠坂から魔術刻印を譲り受け、パスを通す。  遠坂の魔力を借りて、あのサーヴァントに打ち勝つ為の固有結界を発動させる。  これはその、長く険しい戦いの過程に過ぎない。  ……そう理解しているのなら、余分な雑念は抑え込める筈だ。 「――――――」 「…………いいわよ、士郎」  わずかに心臓が跳ねる。  ゆっくりと振り返る。 「………………む」  と。  失礼ながら、思わず眉をしかめてしまった。 「遠坂。なんだその、気合いの入らない脱ぎ方は」  遠坂は脱いでいた。  が、どうにも気合いが感じられない脱ぎっぷりだ。 「なっ、なによ! 不満だって言うの!」 「……不満と言うよりバランスが悪いというか……だいたい、こっちは上着を全部とってるのに遠坂はそれだけだと比率が合わないし。どうも、シンメトリーじゃないのは落ち着かない」 「う。……わかった、両足とも脱げばいいのね。……こやつ、思いもよらずマニアックな……」 「……………………」  ……まあ。  何の話をしているかは、あえて追究しない方向で。 「いいけど。儀式を行うのは遠坂だし。それで成功するっていうなら、文句はない」 「……そりゃ、脱がない分難度はあがるけど……だって、全部見せちゃうのもったいないというか……」  ぶつぶつと独りごちる遠坂。  幸いこっちは平静を保つので手一杯で、遠坂と口論する余裕がない。 「……じゃあ士郎、もう一度後ろ向いてて」    ぽそりと呟かれ、すぐに後ろを向いた。  今度は遠坂の衣擦れの音は長かった。  もう一度、これが真剣な儀式なのだと心に命じる。  喩え遠坂があられもない姿になっていても、俺が心乱れれば台無しになる。 「……こ、今度はこれでどう、士郎?」  遠坂の声が震えていた。  ゆっくりと遠坂の姿を見つめる。 「――――――」  ランプの明かりの中で、柔らかく照らし出される肢体。  細い肩と首筋。鎖骨が綺麗な線を描いている。 「…………どう? これで満足?」  あんなに綺麗なのにケンカ腰な遠坂にホッとする。  頬は緩んで、つい微笑んでいたかもしれない。 「文句なし。逆に、こっちがきつい」  顔を手で隠して、ほう、と大きく深呼吸をする。  赤くなっているだろう顔を、せめて隠さないとうわずってしまいそうだ。 「ふん。その顔を見れただけでアイコにしとく。  ……じゃあ士郎、こっち来て」  ベッドの上の遠坂が、俺を手招きで呼び寄せる。  ……お互い、向かい合って座る。ベッドが二人の体重で柔らかく弾んだ。 「………………」 「………………」  言葉は交わさず、もう一度深呼吸をする。  ……これから、遠坂から魔術刻印を移植される儀式が始まる。  寄り添って浮つきかけた心を引き締める。  意識を明瞭に、精神を集中させる。 「始めるわ。士郎の胸に、これを当てて」    魔術刻印のある左手が差し伸べられる。  ……腕は剥き出しで、二の腕の模様が魔力を得てうっすらと浮かび上がっていた。 「同調したあとに、士郎の魔術回路に魔術刻印を移植する。  魔術刻印は〈畢竟〉《ひっきょう》他人の身体―――植え付けられるのは異物を盛り込まれることだから、体は拒絶反応を示すかも知れないわ」 「わかった。そういう荒事には慣れてる」  俺にとっての魔術回路の修練はそういうものだった。  異物である第二の神経を通しながら制御する―――魔術刻印が同じ類のものなのかは定かではないが。 「そうね。体に無茶させるのは慣れてるんだっけ」  俺の無茶な鍛錬を思い出して余裕が出来たのか、遠坂はくすりと笑う。  が。 「それはそれとして、変なコトしたら殺すからね」  くわっと細目で睨まれた。 「………変なコトって、たとえば?」 「――――――」  無視された。  肩がぶつかりそうなほど、接近する。  ちょうど遠坂の左手を胸に抱いているような格好。  遠坂の息が首筋にかかる。  吐息だけでなく、それが、   『Gib dem wandernden 〈V〉《比》〈o〉《 》〈g〉《翼》〈e〉《 》〈l〉《、》 〈d〉《招》〈a〉《 》〈s〉《来》〈 〉《。》 Trinkwasser, der vom langen Weg kommt.  Benutz 〈d〉《刻》〈e〉《印》〈n〉《制》〈 〉《御》〈V〉《、》ogelrah〈m〉《第》〈e〉《一》〈n〉《、》, in 〈d〉《第》〈e〉《十》〈m〉《六》〈 〉《、》der Schlü〈s〉《停》〈s〉《止》〈e〉《。》l nicht angewendet wird.』  詠唱の声に、息が震える。  魔力が遠坂の体に満ちるのを左手ごしに感じる。  繊細な指が胸の上にあてがわれている。自分の鼓動と、遠坂の拍動。   『Ich spinne 〈d〉《盟》〈e〉《約》〈n〉《を》〈 〉《刻》〈R〉《む》〈e〉《。》genbogen in neuem selbst.  He〈i〉《一》〈t〉《つ》〈e〉《、》s W〈e〉《二》〈t〉《つ》〈t〉《、》er, R〈e〉《三》〈g〉《つ》〈e〉《、》n, W〈i〉《四》〈n〉《つ》〈d〉《、》, Sc〈h〉《五》〈n〉《つ》〈e〉《、》e, 〈K〉《六》〈r〉《つ》〈i〉《、》eg, Ende, unu〈n〉《数》〈t〉《え》〈e〉《な》〈r〉《く》〈b〉《。》rochen.』  目を閉じ、より一層集中しようとする。  ……鼓動と波動を重ねる。合わせるのは遠坂の方で、こちらは一定のリズムを保ち続ける。  ……精神を統一し、鍛錬の様に澄みきった状態を保つ。同調の経験も実感もない自分に出来るのはそれだけだ。   『Nimm an, 〈o〉《小》〈h〉《さ》〈n〉《く》〈e〉《、》〈 〉《大》〈a〉《き》〈n〉《く》〈d〉《。》erer Meinung zu sein, ohne zu fallen.  Es nimmt 〈a〉《大》〈n〉《き》〈,〉《く》〈 〉《、》〈o〉《小》〈h〉《さ》〈n〉《く》〈e〉《。》 zu fürchten, ohne zu zweifeln.  Sieg im F〈r〉《比》〈e〉《 》〈u〉《翼》〈n〉《、》d,〈d〉《発》〈e〉《 》〈r〉《祥》〈 〉《。》auf eine Reise entfernt geht.』  目蓋が縫われた様に閉じている。  遠坂を感じていた嗅覚が鈍くなり、舌が空虚な味を感じた。  体の感覚が、ずれてくる。座っているのか立っているのか、はっきりしない。  反面、遠坂の肌が触れているように熱く感じる。自分の脈拍と遠坂の波動が、どちらのものなのか判別できない。  心臓が誰かに握られている幻視痛。  誰かの心臓を握っている幻経験。  伝わってくる掌の感触を確かめようと指で探る――   「…………んっ!」  まだ耳が生きていて、そんな声が聞こえた。  いや、体が曖昧で、あれが自分の体なのか、今聞いたのが遠坂の声なのか判らない。 「は……つっ…………ふっ……」    ……漏れる息が切なげだった。  聞いているのが自分の吐息ではないと分かっていながら、つい耳を傾けてしまう。 『ちょっと、真面目にやりなさいよ、士郎』  自分の中から、怒られた。  どういう事なのか、どうなっているのか訊こうとする。 『今は同調の初期段階よ、だから感覚が入れ替わって混乱している。  これから本番が来るわよ、集中しないと共有感覚に弾かれるから―――』  そこまで聞こえた矢先、唐突に自分を見失った。  体が紙になって、パタパタと折りたたまれていくような感覚。  ゆっくりと、丁寧に仕舞われていく。だが外界の時間は止まっているため、外から見れば光速の出来事だろう。  収納と縮小には際限がない。  いかな面積をもつ平面であれ、折りたためる回数には限りがあるというのに、内へ内へと閉じていく。  視界は青色に変わっていく。折りたたまれる前の世界は赤い。  ―――浮いている。  落下しているのに浮遊しており、かつ、世界は高速で過ぎ去っていく。  その、高速と停止の混ざり合った世界に慣れようと手を伸ばそうとし、  ――――――あ。    そもそも、腕なんてとっくに折りたたまれているのでない事に気が付いた。  それは困る。余分なもの、此処では無くてもいいものを削られてきたが、手足がないのは考え物だ。なにしろ自分を認識できない。  ので、まずやるべき事は、世界の確認ではなく、自己フォルムの想定だった。    両手を握る。  己を、仮定ではあるが、確かに認識した。    上も下もない。空も大地もない。青い天球に浮かんでいる。    静かだ。音の話ではなく、カタチそのものが静かで、完結している。    時間は外で回っている。  外はすべて〈碧〉《あお》い海で満たされている。  天球の中には何もない。  つまり―――碧い海にとって、この天球こそが空だった。    世界の卵。  この天球がカラによって覆われているのか。  それとも内と外があべこべになっているのか。  無から生じた全か、全からはみ出した無か。  逆しまなまま、天球は回り続ける。    それは回り続けた時間。  永い年月をかけて形を得た無形。  何一つ同じ形はなく、何一つ違う命はない。  全てに共通する事象。  同じ形のものが群がって、まったく違う法則を形づくる。    一つ一つの希少な要因が、  一つ一つの偉大な結果を表している。    ―――美しい。まるで、海を渡る魚のようだ。    完成された世界には何の意志も存在しない。  存続も防衛も、共生も敵対も導き出さない。  ここは訪れた者を意図とするもの。  我が搾取する為に落ちた異物であるのなら。  それらは、当然のように応えるだろう。    ひときわ大きな時間が揺れる。  刻印の集合体が異物の意図を汲み上げる。  だが、注意しなくてはいけないのは、 『――――――』    倒錯する。  幻影を見る。  己の物ではない、隠された過去が通過する。                  古い記憶を見た。  ある人物との別れの朝。戦いが始まるからと、冬木を離れた別荘に置いて行かれた余人の記憶。    ―――注意しなくてはいけないのは。    どのような意図による反応であれ。  ソレらが行う過程は、人識にとって、神罰以外の何物でもないという事。 『――――――』    眼球も脳も不要な体で、目眩をした。  情報が過ぎ去っていく。                  古い記憶を巡る。  ある人物との別れの朝。  もう手を繋ぐ事はないと見送った余人の記憶。 『――――』    己の周りに、魔術刻印の線が泳いでいる。  ぐるりぐるり回りながら現れた餌を探っている。  ……出来る事はない。  もとより、餌に出来る事などない。  こうして全てを観測し、受け入れるしか結果を生み出せない。    変化は緩やかに。  時間は螺旋を描くように取り囲み、その腹中まで通り過ぎ、   『――――――――』    無を呑むように、侵食を。    人物:二名。  季節:冬。    名称:告別。    捧げられた花束。  墓標の前に佇む少女。  その背後に立つ、聳えるように背の高い神父。  言葉はない。  少女はこの日も強く、自らの嘆きにフタをした。    異物混入。  全身を絞り上げる螺旋の刃。  悪質なトラツグミに似ている。    刻印の移植が、始まった。    凄惨な〈事実〉《イメージ》を観測する。  幸い、痛みを感じる機能は折りたたまれている。  他人事のように施錠され、緊縛され、分断され、解体され、圧縮され、弄ばれる自分を眺める。  肉なんてとても刻みやすい。  骨なんてわりと削りやすい。  残ったものは、永遠に痛め続けられる魂ぐらいなものだった。                片手だけ、虫の腕になった           みたいに、                気持ち、悪い。    これは彼女の苦痛でもある。  いつか聞いた、魔術刻印を宿す痛み。  尊敬する。  あいつはこんな不快感を、おそらくはこれより数倍のおぞましさを体に棲まわせて、鮮やかに笑うのだ。  気持ちの悪さなどない。  それを思えば、何を恐れる事があるだろう。 『――――――』    一際、深いところに触れた。  別離ばかりの記憶に、ひとつ。  胸を焦がすような出会いがあった。    誰かが校庭を走っていた。  走り高跳び。  何度も何度もバーに向かって走っている。    それを、彼女は眺めていた。  意味もなく、日が沈むまで。  そんな事に意味があるのかと。  何か裏切られたような、尊いものを見たような顔で、ずっとずっと眺めていた。    これはそれだけの話。  どこにでもある放課後の出来事。  けれど彼女にとっては革命に近かった原風景。    ―――かすかに。  己にも見覚えのある、遠い日の風景だった。    時間が外側に戻っていく。  世界は完全に戻っていく。  折りたたまれ、狭くなった代わりに強固になっていた意識が、急速に蒸発していく。  それは海面に消える泡のように。  片腕に異物を迎えたまま、内側から切り離された。 「…………、っ」  ……体が重い。  半ば眠ったまま開けた目蓋が、ぼんやりと周囲を捉える。 「………………、………………」  意識が明瞭になっていく。  自分は上半身裸でベッドの上に仰向けに転がっている。  左肩は熱く、汗をかいている。  手で拭うと火傷をしたようにひりひりと痛んだ。  ……指が増えたような誤認。明らかに、先ほどまでの自分と違う。 「そうだ。遠坂、成功したのか――!」  あれからどれほど時間が経ったのか。  もしや、気絶し寝坊したまま何時間も経ってしまったのかと――― 「――――――、なんだ」  ちゃんといるじゃないか、遠坂。  良かった、てっきり寝坊したかと…………って。  ……なんか、睨まれてないか、俺。 「…………………遠坂? 成功したのか?」 「……もちろん成功したわよ。申し分ないぐらいばっちり。後遺症なんて出ないぐらいきっかり。そういうのが得意だった綺礼だって、我が弟子ながら良くやったって陰険に褒めるぐらい完璧に」 「あ、ああ―――」  そ、それはさぞかしすごい成功なんだろう。  しかしだ。なんか、遠坂はそれを誇ってもいないし、威張ってもいない。  むしろ怒っている。  すごく怒っている。  なんでか、今にもカンシャクを起こしそうなぐらい、拗ねている。 「――――――」  ……なぜか、不味いコトになっていたようだ。  一刻も早く遠坂の感情を察知し説得しなければいけないようなのだが、不肖の教え子の身故、〈遠坂〉《ししょう》が怒っている理由がこれっぽっちも思いつかない。 「、と……」  じくりと左腕の上が痛む。  深めの切り傷と火傷のひりつきが合わさったような、不思議な感覚。 「うわ―――」  疑いようがない。  左腕には一線、意匠を凝らした焼き印が押されていた。  遠坂の魔術刻印に近い、青い光をぼんやりと放っている。 「遠坂、これが」 「ええ。私から移植した魔術刻印よ。もうただの回路になって、元の“魔術”の痕跡もないけどね」 「そうか……いや、凄いな。もっと痛むと思ったのに、ぜんぜん痛みがない。かすかに重いぐらいか」 「それもじきに慣れるわ。魔力を繋げるだけのパスだから、人体にもそう影響はない筈だし。  刻印……いえ、回路の方が体に擬態していくから、半年もすれば何も感じなくなる」 「そうか。じゃあこれで……?」 「移植は完了。基本的にはわたしから士郎への一方通行で、そっちから魔力を送る事はできないわ。今の段階で出来るのはわたしの魔力を送る事だけ。  ここからは貴方の頑張り次第よ。固有結界を作る魔力 はこれでクリアしたんだから、あとは―――」  俺の問題。  全ての魔術回路を起動させて、固有結界を成功させるだけという事だ。 「……そうだな。ありがとう遠坂。魔術刻印、ありがたく貰っておく」 「当然よ。ごめん、なんて言わせないわ。お金にしたらもう兆クラス、一生ものの貸しなんだから」 「はは、そりゃたしかに一生ものだ。  で。どうしてそんなに遠坂は怒ってるんだ?」 「……………………見たでしょ」 「へ?」  見たって何を?  ……ま、まさか、儀式中こっちは真っ白だったけど、実際は遠坂を押し倒していたとかいないとか……!? 「ちょ、待った、何かしたのか俺!?」 「だから。見たでしょ、このケダモノ」 「け、ケダモノ!?」    バカな、そんな荒々しさの象徴みたいに言われるほどのコトをしたのか俺は!?  いや、そんな事実はない、だってベッドはあんまり乱れてないし、そーゆーコトに及べばそもそも俺の命がある筈ない! 「そ、そうだ。第一、儀式中は俺の目は機能してなかったていうか、ほとんど真っ白だったし、見たものと言えば魔術回路っぽいイメージと―――」  あ。  ……つまり、遠坂の言っているのは、それのコトか?  垣間見た幻。  同調による共感状態だと、相手の心理の奥底にある光景が見えてもおかしくない。  俺がセイバーの夢を見たり、英霊エミヤの夢を見たりするのと同じ事か。  ぽん、と納得した様に膝を打つ。  そうなると、一番気になるのはあれだ。見た夢の中で共通性のない、黄昏の校庭。 「…………………ふん」 「あれだ、遠坂、変な夢見てただろ?  どこかの学校の校庭で、バカみたいに棒高跳びしてるヤツをずーっと日が暮れるまで見ていたの。あれって一体何だった――、ぐわっ!?」  言い終わる前に、顔面に枕を投げつけられた。  それも居合いでありながらフルスイング。  セイバーや藤ねえがお見事、と言い出しそうな会心の一撃! 「ご、は―――」  問題は、だ。  その、フツーに使われているフワフワな枕が、中に水でも入ってんじゃないかと疑うほどのインパクトとダメージを誇っていたコトだ。 「って、遠坂、何を!」 「うるさいうるさいうるさーい!!」  ばっしんばっしんと枕が追い打ち。  あられもない格好の遠坂が、大上段の連撃で枕を叩きつけてくる。 「た、たた、なんか魔力こめてないかそれ!?  いいから止める! ヘンだぞ、何がどうしたんだ!」 「う、うるさいケダモノ! 人の秘密を覗き見ておいて、何ふんぞり返ってるのよ!」 「うっ、あっ、ちょ、ちょっと待て、秘密ってあんなのがかー!?」  驚いて叫ぶと、ガードの隙間から顔面直撃。 「あ」 「ぎ」  それは、しゃくり上げるような枕アッパーであった。  移植の疲れもあったのか、再度、だらしなくノックダウンする。  遠坂はまだ怒り足りないのか、俺の後ろ首をむんずと掴んで、ずるずると床の上を引きずっていった。 「―――ふん。いいわよ、いつかこっちから恥ずかしい記憶を覗き返してやるんだから。その時は土下座をしても許さないわよ、ええ」 「それは勘弁……あれ、もしかして……」  最後まで聞けなかった  きゅう、と俺の首を掴んだまま、部屋の外にぽっと放り出される。 「衛宮君? 女の子にはいろいろ支度があるから、自分の部屋に戻っててくれない?」    遠坂はにっこりと、あの人の悪い笑いを浮かべ――― ばたん、とドアが閉められた。  ……こんな格好で廊下に放り出され、呆然と扉を見上げる。 「……ばか言うな。男にだって色々あるぞ」  まだふらつく頭を抱えて起きあがる。  ドアの向こうの遠坂に何か言い返してやろうかと思ったが、止めておいた。  結局、俺が見たあれが遠坂の何なのかは、聞けずじまいだった。 「……まあ。あれだけイヤがるってコトは、なにか特別な意味のあるコトなんだろうし」  そんな他愛ないことを独りごちながら、部屋に戻っていく。  遠坂が追い出したのは口実だったかも知れないが、時間がないのは本当だ。  もう日付は変わっている。  柳洞寺に向かうまで、あと一時間もないだろう。 「ん――――確かに、これは」    目を閉じて、自分に流れてくる遠坂からの魔力を感じ取る。  遠坂からは意識的に供給していないというのに、俺の体を満たしていた。  衛宮士郎の最大魔力量を二十か三十だとしたら、あいつは常時五百もの魔力を持っている。  ……その、溜めるのに年単位の時間を必要とするだろうが、供給してくれるモノさえあれば、最大許容量は千に届くかも知れない。 「……驚いた。あいつ、ほんとにすごいヤツだったんだ」  再確認というか、今更ながら実感した。  ま、今は消耗しているし、たいてい魔術師ってのはいつも八分目程度の魔力しか溜めてないから、遠坂の魔力は四百ほどだ。  だが、それにしたって膨大な魔力量だ。  俺の強化一回に対しては二の魔力量を。  投影一回に対しては五の魔力量を平均して消費する。  その例で行くと、最高六回の投影が、遠坂のバックアップで三十回、六十回と出来るようになるんだから。 「……ま、いくら燃料があっても乗り物が安物ならオーバーヒートするんだろうけど―――」  それでも飛躍的な戦力の向上だ。  これなら本当に、あの英雄王相手にも勝機がある。    あとは――――   「……後一時間。それまで、ゆっくり体を休めないと」    体を休めて、柳洞寺の決戦に向けての気力体力を取り戻す。  ……準備は全て揃った。  魔術刻印を俺に譲り、俺に心を開いてくれた遠坂のためにも、万全の体勢で最後の夜を迎えよう―――   「なんだ、アレは――――」    境内を迂回し、池に辿り着いた〈彼女〉《セイバー》が見たものは、巨大な肉塊だった。    彼女とて並みの騎士ではない。  英雄と呼ばれていた時代、様々な〈幻想種〉《かいぶつ》と戦う事も少なくはなかった。  最強の幻想種と謳われる『竜種』とさえ、剣を合わせた事もある。    その彼女が、あの肉塊には怯むしかなかった。  醜さからではない。  あのカタチ―――あの肉塊から放たれる呪いと、あの肉塊そのものが、自分と同じだと直感した為に。   「サーヴァント―――召喚を間違えれば、サーヴァントとはあそこまで変わるものなのか」    それとも、それが聖杯の力なのか。  彼女は呆然と肉塊を見据え、咄嗟にかぶりをふった。   「凛……! 何処にいるのです、凛……!」    池に駆け寄り、対岸の肉塊に声を上げる。    池の中、黒い泥に足を入れる事は躊躇われた。  不快だからではない。  半霊体であるサーヴァントは、コレに触れてはならないと彼女の予知が告げているのだ。   「――――!?」    呼び声がする。  微弱だが確かに、マスターからの命令が届いている。  彼女は目を凝らして肉塊の様子を探り――――   「凛……!?」    その状況に、迷わず足を踏み出した。   『――待った……! ダメ、セイバーは入ってこないで……!』   「っ……!」  セイバーの体が止まる。  踏みだしかけた足を引き、彼女は剣を構えたままで肉塊を凝視する。   「凛、ですが……!」   『いいからダメ……! その泥に触れたら貴女だってこうなるわよ。いいから、セイバーはそこで宝具の準備をして。この塊はもうすぐ弾けるわ。その前に宝具でぶった斬っちゃって……!』    緊迫した主の声に、セイバーは頷く事が出来ない。  ……あの肉塊が羽化しようとしているのは判る。  蠢動は鼓動に変わり、がふり、と吐き出す泥の量は増え続けている。    池は黒く濁りきり、黒い泥は地面に溢れ出している。    ……つまり、成長しているのだ。    あんなものをこのままにしておけば、それこそ抑止力が発動する。  その前に聖剣を以って破壊するのは当然だ。  だが―――それには。   「凛、外に! 池にさえ出てしまえば、あとは私が――!」   『……よね。オッケー、任せた。けど、もし間に合わなかったら、間に合う方をとって。  ……セイバーとの契約は切れちゃうけど、士郎が無事ならなんとかなるでしょ』   「馬鹿な事を……! 構いません、何に変わろうがこのような呪い、蹴散らして――――」    肉塊を目ざし、黒い泥へ走り込むセイバー。  が、その体はどうしても動かない。  池に近づこうとするだけで、彼女の体は停止するのだ。   「凛、令呪を――――」   『……当然でしょ。聖杯を壊せる唯一の人材を、むざむざ死なせる訳にはいかないもの。  それに心配無用だってば。この程度、簡単に振り切って逃げ出すから。セイバーはそこで、大船に乗ったつもりで聖剣の準備をしてなさい』    命じてくる思念は、いつもと同じ余裕に満ちた物だった。   「――――凛」    だが、それが強がりである事は言うまでもない。  ―――対岸の肉塊。  そこにいる彼女のマスターには、とうに逃げ道などないのだから。   「―――なんてね。まあ、言うは易しってヤツだけど」    奇怪な肉の腕に囲まれながら、ぽつりと彼女は呟いた。  ―――状況は、一言で言えばお話にならない。  間桐慎二は救えた。  ……全身に融け込んだ血管やら神経やら、無理矢理引きちぎって肉塊から取り出した。  後遺症に目を瞑れば、十分に“生きている”というレベルだろう。  いや、気を失って昏倒する姿は、彼を担いでいる彼女より健康とも言えた。   「……問題はその後か。そりゃあ心臓とられちゃ暴れるわよね。慎二を返せば見逃してくれるかな、コレ」    行く手を塞ぐ触手を見据えながら、少しずつ外へと移動する。  だが出口などない。  池に出る為のルートには、既に触手によって網が張られている。  巻き付き、肉塊に取り込もうとする触手たちをやりすごしたところで、壁と化したアレは突破できないだろう。   「っ……まず、力、が」    肩に支えた間桐慎二ごと倒れそうになり、懸命に持ちこたえる。  呪いの海を越えて肉塊の浮島に渡り、間桐慎二を肉塊から引き離す為に神経手術まで行った。  その時点で、彼女の魔力は長年使っていなかった予備タンクにまで突入したのだが――――   「……く……もう、あのバカ。遠慮なしで人の魔力もってくんだから。……おかげで、こっちはもうすっからかん、じゃない……」    目眩を堪えて、そんな文句を言ってみる。  もちろん本気ではない。ただ言ってみただけだった。    それに、魔力が残っていたところで変わらないのだ。  彼女を取り囲む触手たちは、獲物が大人しいからこそ停止している。  体内に侵入したモノが毒と判れば、即座に行動に移るだろう。    遠坂凛と間桐慎二が無事なのは、彼女にエサとしての魔力が残っていなかったからである。   「……っ……けど、ここまで、かな……いい加減、立ってるのも辛く、な――――」    視界が霞む。  足場があるとは言え、ここも泥の上である事は変わらない。  彼女の神経は秒単位で熱に侵されている。  そうして肉の台地に倒れ込めば、ずぶずぶと音をたてて、今度は彼女自身が聖杯の核となるだろう。    ――――その前に。   「……ごめんねセイバー。言うこときかないだろうから、無理矢理聞かせる」    残った令呪は一つ。  それだけで充分、対岸で待機するセイバーに聖剣を使わせる事ができる。   「っ…………あと、アンタにも謝っとかないと。  慎二、助けられ、なかっ――――」              “いいから走れ。そのような泣き言、聞く耳もたん。”   「――――え?」  倒れかけた体が止まる。  その声。  耳ではなく心に伝えてくる思念は、間違いなく、彼女と契約したサーヴァントのものではなかったか。   「ちょっ――――」    戸惑っている暇はない。  彼女は、その相手の性格をよく知っている。  走れと言ったからには、そいつはもう走らないと間に合わないコトをしでかしたのだ―――!   「っ…………!!!!!!」    走り抜ける。  上空より降りそそぐ矢はまさに豪雨、  肉の触手だろうが網だろうが台地だろうが、彼女の行く手を阻む全てを粉砕する――――!   「あ、くっ――――!」    振り返る余裕などない。  彼女は間桐慎二を抱えたまま、全力で走り抜けた。   「っ――――!」    池に飛び込む。  彼女の逃げ道になるであろうそこは、矢によって一掃されていた。  ほんの僅かな時間ではあるが、黒い泥は弾かれ、汚れた水だけが岸へと続いている。   「はっ、は――――!」    間桐慎二を抱えたまま池を走る。  自分でも呆れるぐらいの底力で、もうぐちゃぐちゃに濡れながら岸まで走る。   「セイバー、お願い……!」    叫ぶ声を、彼女の魔力が受け止める。    もはや確かめるまでもない。  振り上げられた黄金の剣は、その圧倒的な火力を以って目前の全てを薙ぎ払う。    両断され、倒壊していく肉の山。    黒い泥は蒸発し、光の帯は池そのものを、真っ平らな荒野へと変えていく。   「――――――――」    何もかも消していく光の奔流。  その中で、彼女はその姿を探していた。  赤い外套。  彼女が一番初めに契約し、最後にその責務を果たしてくれた、もう一人の騎士の姿を。   「――――――――」    何もかも消していく光の奔流。  その中で、剣士は戦いの終わりを受け入れた。   「―――これで終わり。私の戦いは、ここまでです」    それは誰に宛てたものか。  聖剣の担い手は膝を屈し、万感の想いを込めて光を見つめる。    ―――崩壊していく聖杯。    彼女が求め、彼女を救う筈だったモノ。  それを自らの手で壊し、ようやく、騎士王は自らの過ちに気が付いた。    一人の少年と、一人の英雄。    長い年月、永い理想の果てに捻じ曲がったあの男は、それでも少年のままだった。    後悔は抱えきれぬほど重く、  罪は〈贖〉《あがな》えぬほど深い。  だが決して折れなかったモノがある。  あの赤い騎士は、最期に、誰にも冒されぬ答えに辿りついた。    なら―――自分も、前に進まないと。    傷を負い、剣から手を離した最期。  あの丘の先に、自分の意志で駆け抜けていく。   「―――契約は完了した。貴方たちの勝利だ、凛」    聖剣が薄れていく。  まだ魔力は残っている。  無理をすればまだこの世に留まれる。  許されるのなら―――彼らの行く末を、最期まで見守りたかった。   「―――ですが、それは私の役割ではない。シロウには凛がついていますから」    透化は止まらず、騎士の体は光に呑まれるように消えていく。    潔く、一陣の風のように。  聖杯を求めた一人の王は、一つの思い出も残さず、運命の丘へと旅立った。   「はっ――――!」    繰り出される長刀に長刀を合わせる。  互いの剣は相殺し、大気に破片をまき散らす。   「おのれ、調子に――――」    ヤツの背後に曲刀の柄が出現する。   「乗るなというのだ、小僧――――!」    より速く、  足元の曲刀を抜き、一文字に薙ぎ払う―――!   「っ――――!」    後退するギルガメッシュ。  その間合いに踏み込み、すぐさま剣を引き抜き一閃する。   「ぐっ、何故だ……!  何故打ち負ける、雑種の剣に……!」    矢継ぎ早に現れる宝具に剣を合わせる。   「はぁ――――はぁ、はぁ、はぁ、は――――!」    何も考えていない。  体も心も立ち止まれば止まる。  今は前に進むだけだ。  ヤツの宝具を見た瞬間、手元に同じモノをたぐり寄せ、渾身の力で打倒する――――!   「馬鹿な―――押されているのか、この〈我〉《オレ》が、このような贋作に……!?」   「ふっ、は――――!」    剣戟が響き渡る。  ヤツは俺の一撃を捌ききれず、その宝具を相殺させる。    ―――それが、ヤツの敗因になる。    千を超える宝具を持ち、その全てを扱うギルガメッシュの器の大きさは、紛れもなく英霊の中でも頂点に位置するものだ。    だが、ヤツはあくまで“持ち主”にすぎない。  たった一つの宝具しか持たぬが故、それを極限まで使いこなす“担い手”ではない。    相手が他のサーヴァントなら、こんな世界を造ったところで太刀打ちできない。  無限の剣を持ったところで、究極の一を持った敵には対抗できない。  ギルガメッシュにはあるのだろうが、それだけの身体能力が俺にはない。    故に―――俺が肉薄できる〈相手〉《サーヴァント》はこの男のみ。    同じ能力、同じ“持ち主”であるのなら、既に剣を用意している俺が一歩先を行く……!   「おのれ――――おのれ、おのれおのれおのれおのれおのれ……!!! 貴様風情に、よもや〈我〉《オレ》の剣を使うことになろうとは……!」    ギルガメッシュの腕が動く。  その背後に現れた剣の柄は、ただ一つこの世界に存在しないあの魔剣――――!   「させるか――――!」 「がっ――――!?」    走る双剣。  咄嗟にたぐり寄せた干将莫耶は、剣を掴もうとしたヤツの魔剣を打ち落とす――――! 「な――――」    剣戟が止まる。  ヤツは愛剣を失い、完全に無防備となっている。 「は、あ――――!」    思考より先に体が動く。  勝利を確信した手足は、なお鋭く英雄王へと踏み込み、その体を両断する――――!   「―――――――っ」  跳び退く体。  渾身の双剣を紙一重で躱し、ギルガメッシュは更に後退する。   「く―――今はおまえが強い……!」    この場での敗北を認め、ギルガメッシュは離脱する。 「逃がすかってんだ」    冷静に戻られては負ける。勝負はここで、この熱が冷めないうちに付けなくては――――!   「このヤロウ――――!」   「チィ―――――!」    避けられぬと悟ったのか、ヤツは残った腕で背後から宝具を引き出す。  だがこちらが速い。    その間に、今度こそ――――   「――――――――え?」 「なに―――――――?」    声が重なる。  その異変は、一瞬だった。    背後―――池の方から走り抜けた閃光が、剣の丘を消していく。  強大な魔力が、消えかけていた固有結界を消し飛ばしたのだ。    ――――それはいい。    勝負はついている。  この手の双剣を振るうだけで、このサーヴァントを打倒できる。  だがその後。    黒い〈孔〉《あな》。    人間一人を呑みこめるほどの丸い〈孔〉《あな》が、    俺の目前――――ギルガメッシュの体に、現れていた。   「な――――に?」    愕然と、ギルガメッシュは自らの体を見下ろす。  ……その体が、めくれていく。  黄金のサーヴァントは、自らに空いた穴に、〈内側から呑まれていた〉《・・・・・・・・・・》。   「待――――」    待て、と言いたかったのか。  孔は容赦なくサーヴァントを呑み込んだ。  ……逃れる術などなかっただろう。  なにしろ孔はヤツ本人に空いていたのだ。  自分に空いたモノから逃げる事など出来よう筈がない。 「――――今のは、一体」    呆然と立ちつくす。  目前の孔は刻一刻と小さくなっていく。  ……これがなんなのかは判らない。  ただ、遠坂たちは聖杯を壊せたようだ。  その影響でこの黒い孔が現れ、ヤツは消え去ったとしか考えられない。 「…………はあ。ともかく、これで」    全て、終わったんだ。  双剣が消える。  体を占めていた魔力は急速に薄れていき、同時に、   「あ――――やば」    疲れという疲れが一気にやってきた。 「……くそ。まずいな、これじゃ歩けない」    今すぐ遠坂の様子を見に行きたいのに、体が動かない。  ……まあ、セイバーが行ってくれたんだから今頃ぴんしゃんしてるとは思うんだけど。 「――――そうだな。こっちも、少しは」    休んでいいのかもしれない。  そうして、ほう、と大きく呼吸をした時。   「なっ――――!?」    一本の鎖が、俺の腕に巻き付いた。 「っ…………!」  呼吸が止まる。  腕に絡みついた鎖は容赦なく俺を、あの黒い孔へと引きずり寄せる……! 「あ、く……!」  手足に力を入れるも、まるで抵抗できない。  踏ん張った足は地面ごと、ズルズルとあの孔へと近づいていく……!   「く――――あの出来損ないめ、同じサーヴァントでは核にならんとさえ判らぬか…………!」   「おまえ……!」  〈孔〉《あな》から這い出たソレは、紛れもなくヤツだった。  だが―――その体は所々が溶解している。    あの孔は、取り込んだものを融かしていくのか……! 「く、この……!」    鎖を引きはがそうとするがビクともしない。  これはバーサーカーさえ拘束した鎖だ。俺がどうあがいたところで外せる物じゃない……! 「あ、ぐ――――」    引き込まれていく……!  このままあの孔に近づけば、俺もヤツと同じように呑みこまれる……! 「くそ、道連れにするつもりか……!」 「たわけ、死ぬつもりなど毛頭ないわ……!!  踏み留まれ下郎、〈我〉《オレ》がその場に戻るまでな!」 「こいつ……!」    この期におよんでまだそんな王様発言を……! 「ぁ――――く、まず――――」    だが、どうする。  鎖はどうやっても外れない。  このままだとヤツもろとも孔に落ちる。  もし持ち堪えられたとしても、その時はヤツがこの場に戻ってしまう。    どちらにせよ、俺の命はないという事――――      ―――どの道助からないのなら、こいつを外に出す事だけは出来ない……! 「ふざけるな、おまえは――――」    鎖を深く腕に絡ませる。  今までとは逆、決して離れないよう鎖を掴み、   「――――二度と、この世に顔を出すんじゃねえ……!」    逆らわず、黒い孔へと身を投じた。   「バ―――正気か貴様ぁぁああああ……!!!!」    転がり落ちる。  体を溶かされながら、際限なく闇に落ちていく。    容赦なくこの身を蝕む黒い泥。    そうしてカラを剥がされ、衛宮士郎という魂だけになって、深い底へ落ちていく。    その落下があまりにも長すぎたからか。  いつしか落ちているのではなく昇っているような錯覚の後。    黒い、杯のような太陽に呑みこまれた。   「っ……、は――――」    目眩がする。  体はもう踏ん張っていられない。  ……死ぬ。  最後の最後で、耐えられなかった。    なら、どうせ耐えられないのなら、力を抜くべきか。  そうすれば少なくとも、ヤツをもう一度あの孔にたたき込め――――   「―――って、舐めるな……! こんなコトで道連れになんてされてたまるか……!」    萎えかけた手足を奮い立たせる。  この腕が千切れるのが先か、ヤツの鎖が千切れるのが先か、それとも、ヤツが這い出てくるのが先か。  どっちだっていい。こうなったら最後の最後まで全力で抗って、派手に散ってやろうじゃないか……!           “……ふん。おまえの勝手だが、その前に右に避けろ”   「え?」    咄嗟に振り向く。  視線は遠く、荒野となった境内へと向けられる。    ――――すれ違うように、何かが通り過ぎた。   「貴様――――――――アー、チャー」    ……鎖が外れる。  ヤツは、最後に。  意外なものを見たような顔で、天の鎖を放していた。   「――――――――」  尻餅をつく。  呆然とする俺の前で、〈孔〉《あな》は手の平ほどの大きさまで縮み、やがて消え去っていった。   「今、のは――――」  立ち上がる事も出来ず、背後の荒野に視線を移す。    ――――夜明けが近い。  昇りかけた日を背にしているのは、赤い外套をまとった騎士だった。 「あい、つ――――格好、つけやがって」    つい文句が口に出る。  けれど、呟く口元は自分でも仕方がないぐらい、嬉しげに笑っていた。 「――――ふん。まあ、言いたいコトは」    俺にはないし、いい加減眠らせてほしいから黙っていよう。    一面の荒野となった黄金の大地。  そこに佇む騎士と、そいつめがけて駆けていく遠坂の姿を認めて、背中から地面に寝ころんだ。  告げるべき言葉は、遠坂が代わりに告げてくれる筈だ。    ―――だから、今は眠ろう。  顔を合わせればまたケンカになるだろうし、自分自身に別れを告げる事なんて慣れていない。          ……そうして、最後にもう一度。  忘れぬよう自分の理想を眼に焼き付けて、ゆっくりと目蓋を閉じた。    踏みしめる大地は、いつか見た荒野に似ていた。  あたりには何もない。  何もかも吹き飛んだ山頂には、もう、余分な物など何もなかった。    ――――戦いは、終わったのだ。    聖杯を巡る戦いは終幕が過ぎ、彼の戦いもまた、ここに幕を閉じようとしていた。  それがどのくらい長かったのかなど、彼には判らない。    ただ、永遠に自己を縛り付けるであろう積念が、今は無い。    終わりはただ速やかに浸透し、この時代に現れた彼の体を〈透〉《と》かしていく。   「アーチャー……!」    呼びかける声に視線を向ける。  走る余力などないだろうに、その少女は息を乱して駆けてくる。    それを、彼は黙って見守った。     「はあ、はあ、はあ、は…………!」    彼の下まで走り寄った少女は、乱れた呼吸のまま騎士を見上げる。    ―――風になびく赤い外套に、見る影はなかった。    外套は所々が裂け、その鎧もひび割れ、砕けている。  存在は希薄。  以前のまま、出会った時と変わらぬ尊大さで佇む騎士の体は、その足下から消え始めていた。   「アー、チャー」    遠くには夜明け。  地平線には、うっすらと黄金の日が昇っている。   「残念だったな。そういう訳だ、今回の聖杯は諦めろ凛」    特別言うべき事もないのか。  赤い騎士はそんな、どうでもいい言葉を口にした。   「――――――――」    それが、少女には何より堪えた。  今にも消えようとするその体で、騎士は以前のままの騎士だったのだ。  信頼し、共に夜を駆け、皮肉を言い合いながら背中を任せた協力者。  振り返れば「楽しかった」と断言できる日々の記憶。    ――――それが、変わらず目の前にあってくれた。    この時、最期の瞬間に自分を助ける為に、残っていてくれたのだ。  主を失い、英雄王の宝具を一身に受けた。  現界などとうに不可能な体で、少女に助けを求める事なく、彼女たちの戦いを見守り続けた。    その終わりが、こうして目の前にある。   「アーチャー」    何を言うべきか、少女には思いつかない。  肝心な時はいつだってそうなのだ。  ここ一番、何よりも大切な時に、この少女は機転を失う。   「く――――――――」    騎士の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。  そんな事は、初めから知っていた。  赤い騎士にとって、少女のその不器用さこそが、何よりも懐かしい思い出だったのだから。   「―――な、なによ。こんな時だってのに、笑うことないじゃないっ」  むっと、上目遣いで騎士を見上げる。   「いや、失礼。君の姿があんまりにもアレなものでね。  お互い、よくもここまでボロボロになったと呆れたのだ」  返してくる軽口には、まだ笑みが残っている。   「――――――――」  その、何の後悔もない、という顔に胸を詰まらされた。  いいのか、と。  このまま消えてしまって本当にいいのか、と思った瞬間、     「アーチャー。もう一度わたしと契約して」      そう、言うべきではない言葉を口にした。   「それは出来ない。凛がセイバーと契約を続けるのかは知らないが、私にその権利はないだろう。  それに、もう目的がない。私の戦いは、ここで終わりだ」    答えには迷いがなく、その意思は潔白だった。  晴れ晴れとした顔は朝焼けそのもので、それを前に、どうして無理強いする事ができるだろう。   「……けど! けど、それじゃ。  アンタは、いつまでたっても―――」    救われないじゃないの、と。  言葉を呑みこんで、少女は俯いた。    それは彼女が言うべき事でもなく、仮に騎士をこの世に留めたところで、与えられる物ではないのだから。   「―――まいったな。この世に未練はないが」    この少女に泣かれるのは、困る。  彼にとって少女はいつだって前向きで、現実主義者で、とことん甘くなくては張り合いがない。    その姿にいつだって励まされてきた。  だから、この少女には最後まで、いつも通りの少女でいてほしかった。   「――――――――凛」    呼びかける声に、少女は俯いていた顔をあげる。  涙を堪える顔は、可愛かった。  胸に湧いた僅かな未練をおくびにも出さず、遠くで倒れている少年に視線を投げ、   「私を頼む。知っての通り頼りないヤツだからな。  ―――君が、支えてやってくれ」    他人事のように、騎士は言った。    それは、この上ない別れの言葉だった。    ……未来は変わるかもしれない。  少女のような人間が衛宮士郎の側にいてくれるのなら、エミヤという英雄は生まれない。    そんな希望が込められた、遠い言葉。   「―――――――アー、チャー」    ……けれど、たとえそうなれたとしても、それでも―――既に存在してしまっている赤い騎士は、永遠に守護者で有り続ける。    彼と少年は、もう別の存在。    スタート地点を同じにしただけの、今ここにいる少年と、少年が夢見た幻想だった。   「――――――――っ」    ……もう、この騎士に与えられる救いはない。  既に死去し、変わらぬ〈現象〉《カタチ》となった青年に与えられる物はない。  それを承知した上で、少女は頷いた。  何も与えられないからこそ、最後に、満面の笑みを返すのだ。    私を頼む、と。  そう言ってくれた彼の信頼に、精一杯応えるように。   「うん、わかってる。わたし、頑張るから。アンタみたいに捻くれたヤツにならないよう頑張るから。きっと、アイツが自分を好きになれるように頑張るから……!  だから、アンタも――――」      ―――今からでも、自分を許してあげなさい。      言葉にはせず。  万感の思いを込めて、少女は消えていく騎士を見上げる。    ――――それが、どれほどの救いになったのか。  騎士は、誇らしげに少女の姿を記憶に留めたあと。   「答えは得た。大丈夫だよ遠坂。オレも、これから頑張っていくから」    ざあ、という音。  騎士は少女の答えを待たず、ようやく、傷ついたその体を休ませたのだ。   「――――ふんだ。結局、文句言い損ねちゃったじゃない」    ぐい、とこみ上げた涙を拭って、もういない彼に話しかける。  その声は清々しく、少女はいつもの気丈さを取り戻していた。  それも当然。  あんな顔をされては落ち込んでいる暇などない。  騎士が立っていた荒野に別れを告げて、少女は倒れた少年の下へ駆けていく。              ―――黄金に似た朝焼けの光の中。     消えていった彼の笑顔は、いつかの少年のようだった。                 ―――その前に、一つの話があった。    森を抜け、夜が明けた頃。  教会に向かう前に、彼女は秘めていた或る事実を彼に告げた。   「今のうちに言っておくけど。士郎が返してくれたペンダントね、アレ、一つしかないものなの」    それが何を意味するのか彼女は口にせず、彼も深くは追及しない。  彼らにとって最大の敵―――キャスターとの戦いを目前に控えた今、それは余分な事だからだ。               一つしかないペンダント。     彼女の部屋で見つけ、彼女に返した物。     あの夜拾い、部屋の机の中に仕舞った物。     その矛盾を、今は追及する時ではない。   「……言っておかなくちゃいけないのはそれだけよ。  士郎がわたしの部屋で見つけたペンダントって、アーチャーに返してもらった物なんだ。士郎がランサーに刺されたあの日にね。  わたしはてっきり、あいつが拾ってきてくれたものだと思ってたけど」              ―――決戦が近い。     見上げた空の端に、高い教会の屋根が見えた。    最後に確認しよう、と遠坂は言った。  役割は決まっている。  ランサーはアーチャーとセイバーをキャスターから引き離す。  その隙に、俺と遠坂はキャスターたちと対決する。    オマエたちにキャスターを倒せるのか、というランサーの皮肉に、 「……まあね。わたしとキャスターを一対一にして貰えれば、まず裏をかけると思う」  遠坂は自信ありげに返答した。    ……裏をかく、という言葉の真意は判らない。  俺が訊いてもランサーが茶化しても教えてくれなかったから、味方に話すと成功率が落ちる類の作戦なんだろう。    なら、俺のすべき事は遠坂の要望を叶えるだけだ。  キャスターを守るであろう葛木を、なんとしても自分一人で押さえつける。  その為に必要だと言うのなら、何度だってあいつの剣を投影しよう。  ……目を閉じて自らの内に潜る。  体内に巡っている魔術回路は、とりあえず安定していた。  ―――分不相応の魔術は、まず術者自身を滅ぼす。  一度目は半身が麻痺した。  二度目の投影は驚くほど容易く、体には何の障害も現れなかった。  三度目も同じという保証はないが、あいつの剣を真似るだけなら問題はないと思う。    体は安定している。  今まで作る事さえ困難だった魔術回路は、意識するだけでここまで手に取る事ができる。  まるで正常な神経の裏側に擬似神経があって、ボタン一つでくるん、と裏返すようだ。  それを、慣れたからだ、と思いたがっている自分がいる。    ―――剣は容易く用意できる。    投影は、自分にとってただ一つの戦力になっている。  十日前とは格段の進歩だ。  向上したのは魔術回路の扱いだけではなく、剣の握り方、振るい方まで上達した。 「……………………」    その理由。  その原因を考える事は止めにした。  今はキャスターを倒し、セイバーを取り戻す事が先決だ。    くだらない自問は戦いが終ってから。  教会に近づくほど強くなる頭痛。  それが遠坂を捜していた時と同じ痛みだということも、考えるのは止めにした。    朝焼けは灰色だった。  陽射しは雲に阻まれ、黎明はその輝きを封じられている。  頭上は一面の曇天。  黒というより灰に近い空は、十年前のあの時間を思い起こさせた。    ―――じき、雨が降るのだろうか。    濁った乳色の空。  曇っていながら雨上がりの匂いを含んだ空の下に、その男は立っていた。 「君の事だ。必ず来ると思っていた」  涼しげに遠坂を見つめる。 「――――――――」  遠坂は何も言わず、アーチャーの視線をまっすぐに受け止めていた。 「それで、用意した策はなんだ。何の手だてもなしで勝負を挑む君ではあるまい」 「ああ。とりあえず、テメエの相手はこのオレだ」 「驚いたな。私を失い、数日と経たずに新しいサーヴァントと契約したか。  やれやれ。私もそうだが、君の移り気もなかなかの物だ。これは〈袂〉《たもと》を分かって正解だったかな」 「――――!」 「……構わないわ士郎。あいつの挑発になんか乗らないで」  アーチャーを見据えたまま俺を止める。  ……だが、その顔を見れば瞭然だ。  挑発と判っていようと、遠坂にとって今の台詞が苦痛である事に変わりはない。 「………ふん。前から気に食わねえヤロウだと思っていたが―――テメエ、性根から腐っているようだな」 「ほう。裏切りは癇に障るかランサー。自分が裏切られた訳でもないのに律儀な事だ」 「―――別にお嬢ちゃんに肩入れする気はねえよ。  単に、テメエみたいなサーヴァントがいるってコトが気にくわねえだけだ」 「英雄の誇りか。……まったく、どいつもこいつも同じような事ばかりを口にする。  あのキャスターでさえ、そんな下らないモノを持っていてな。死した身で今更、何の栄誉を守るというのだ。  正直、私には君たちの考えが理解できんよ」 「ああ、しなくていいぜ。考える手間を省いてやる」    ―――両者の間から言葉が消えた。    残ったものは刃物のようなランサーの殺気と、  それを平然と受け止めるアーチャーの殺気だけだ。 「――――――――」  ……間合いは五間。  十メートル近く離れた距離で対峙する青赤の騎士の姿は、まさにあの夜の再現だった。 「ランサー」  遠坂は青い背中に語りかける。 「おまえたちは中に行け。コイツをぶっ倒したらオレも行ってやるからよ」 「……わかってる。けどランサー、アーチャーは」 「ああ、手ぇ抜いてやる。アイツには土下座して、おまえに謝ってもらわなくちゃいけねえからな」  振り返らず、アーチャーを見据えたままニヤリと笑う。 「―――ありがとう。  助力に来てくれたのが貴方で良かった」  二人を迂回して教会へ走る。  門番であるアーチャーは俺たちをあっさりと通した。  いや、通さざるを得なかった。  アーチャーは既にランサーと対峙している。  その状態で俺たちに意識をさけば、次の瞬間ランサーに胸を貫かれるだろう。  俺たちを行かすまいとしてランサーに破れるか、俺たちは見逃してランサーだけでも撃退するか。    ―――あいつが門番としての役目を受け持ったのなら、どちらを取るかは考えるまでもない。  広場を迂回して、躊躇わずに教会の扉を開ける。  その背後。 「―――まったく。面倒なコトになっちまったな」 「何がだ、ランサー」 「いや、なに。あんな顔で礼を言われた日には手抜きもできねえ。  そういうの、困るだろ? おいそれと主を裏切れない身としちゃあ、少しばかり眩しいってもんだ」 「……随分と甘いのだなランサー。君は隣の芝生は青い、という言葉を知っているか」 「は、なーに言ってやがる。  んなもん、オレが知ってるワケねえだろうが―――!」 「悠長にやってる時間はないわ。ランサーがアーチャーと決着をつける前にキャスターを倒すわよ」 「わかってる。ここから無駄口はなしだ。  ―――それと。本当にキャスターを任せていいんだな、遠坂」 「ええ。とことんまで追い詰められるだろうけど、それでも手は出さないで。士郎は葛木先生をできるだけ引き離してくれればいい」  礼拝堂をつっきって、中庭に通じる扉へ向かう。  遠坂がそう言うのならこっちも迷わない。  ……もっとも、遠坂がピンチになったところでフォローできるかどうかだって怪しい。  俺の相手はあの葛木だ。遠坂に気を配っていたら、それこそ初撃さえ躱せまい。    ―――キャスターの気配が近くなる。    その力を隠しもしないのか、教会はキャスターの魔力で包まれていた。  この分なら、俺たちの襲撃などとっくに知られている筈だ。 「―――――〈投影〉《トレース》、〈開始〉《オン》」  できるだけ丁寧に、八つの段階を踏んで幻影を編み上げる。  慣れたもので、あいつの双剣は分を待たずに両手に握られていた。 「っ――――――――」    軽い頭痛。  慣れたとはいえ、やはり何らかの負荷が生じている。  衛宮士郎本人が気づかないところで、投影は確実に体を侵している。 「………………」 「?」  気のせいか。  一瞬、隣を走る遠坂が、辛そうに俯いた気がした。    闇を降りる。  地下に通じる階段を走り抜けて、一際広い空間に出る。  あとは以前と同じよう、階段の手すりから聖堂へ飛び降りた。 「あら。飛び降りてくるなんて、まるで猿ね。  何を急いでいるのだか知らないけど、人間なんだから階段ぐらいは使いなさい」  聖堂に着地する。  奇襲に近い乱入だというのに、キャスターは余裕ぶって俺と遠坂を出迎えた。 「――――――――」  キャスターの傍らには葛木宗一郎がいる。  ……殺気も敵意も感じられない立ち姿。  それがあの男の戦闘態勢だ。透明な殺意は、葛木宗一郎という人物の恐ろしさまで隠している。  そういった意味で言えば、やつは今のアサシンよりよっぽど暗殺者じみていた。  祭壇にはセイバーの姿がある。  状況は二日前と同じだ。  セイバーは〈磔〉《はりつけ》にされたまま、ただ頭を下げている。 「――――――――」  間に合った、と思う反面、セイバーが妙に静かなのが気になった。  以前のセイバーは、もう少し苦しげだった気がする。  キャスターの魔力に逆らい、全身で息をするように小さく震えていた。  それが、今では凍り付いたように静かだった。 「……………………」  イヤな予感に軋む。  アサシンがいないのは助かったが、この不安が的中してしまうのなら、俺たちは生きて帰れない―――― 「来たわよキャスター。色々考えたんだけど、やっぱり貴女には消えて貰う事にしたわ。  目障りだし邪魔だし〈煩〉《わずら》わしいし、なによりその格好が気にくわないのよね。いまどき紫のローブなんて、どこの田舎者よって感じでさ」  余裕げなキャスターに負けじと憎まれ口を叩く遠坂。  口ではそんな事を言いつつ、じりじりと間合いをつめているあたり、心中は逆の筈だ。 「――――――――」  ……こっちもセイバーを案じている場合じゃない。  遠坂が左回りにキャスターを追い詰めるなら、俺は右回りに距離をつめる。  キャスターと葛木。その二人を引き離すのなら、挟み撃ちの形にして、お互いがお互いの敵を確立させなくてはいけない。 「―――ふん。見逃してもらった分際で、随分と勘違いをしたようね。いまどきの魔術師は皆こう猪頭なのかしら。これではアーチャーが見限るのも当然ね」  遠坂の罵詈雑言が利いたのか、キャスターは疎ましげに遠坂だけを睨んでいた。  その隙に体を動かす。  遠坂とは反対側、キャスターを挟み撃ちできる位置まで移動する。 「――――――――」  それを無言で見据える葛木。  ……やっぱりな。  この程度の事、あの男が気づかない筈がない。  〈葛木〉《あいつ》は全て承知だ。  俺たちが各個撃破を狙っている事も、遠坂には何か策がある事も。  それを踏まえてなお、葛木はキャスターの好きにさせている。  ……葛木はキャスターに操られている訳じゃない。  あいつは自分の意志でキャスターのマスターになっている。  だが、それでも―――この消極性からいって、葛木は傀儡に近い。  魔術による後方支援を得意とするサーヴァントと、  格闘による白兵戦を得意とするマスター。  本来の関係が逆転しているあの二人は、その在り方も逆のような気がする。  聖杯を執拗に求めるキャスターと、自分の意志などなくキャスターを守るマスター。 「――――――――」  それで、意味もなく思ってしまった。  もしキャスターがマスターで、葛木が彼女を守るだけのサーヴァントであったのなら、あの二人はここまで外れた道を取らなかったのではないか、と。 「――――――――」  遠坂がこちらを見る。  位置的にはもう申し分ないという事だ。  なら―――後はどちらかが仕掛けるだけで、決着はつく。  俺と遠坂が破れるにしろ、その前に遠坂がキャスターを倒すにしろ、キャスターとの戦いはここで終る。 「それじゃ始めましょうか。貴女との小競り合いもこれで三度目。いいかげん、ここでカタをつけてあげる」  一歩、キャスターへ間合いをつめる遠坂。 「大きくでたわね。まさかとは思うけど、本気で私に勝てると思っているのお嬢さん?  だとしたら腕比べどころの話じゃないわ。今回も見逃してあげるから、まずその性根を直してらっしゃいな」 「そんなの、勝てるに決まってるじゃない。  だってそうでしょう? 貴方みたいな三流魔術師に、一流である〈魔術師〉《わたし》が負ける筈ないんだもの」 「―――そう。なら仕方がないわ。  その増長、厳しく〈躾〉《しつけ》る必要があるようね、お嬢さん」  構えは同時。  数メートルの距離を隔て、両者は鏡像のようですらあった。  それが合図だ。  俺は無防備になるキャスターへと襲いかかり、   「っ…………!」  当然のように、葛木の一撃に阻まれる。  ……目前には幽鬼のような暗殺者。  遠坂とキャスターの魔術戦を見届ける余裕などない。  こちらの思惑などとうに悟られている。  時間稼ぎなどさせぬ、と。  セイバーさえ追い詰めた“蛇”を繰り出し、葛木宗一郎は俺の命を取りに来た。  ――――持って一分。    それは俺も遠坂も同じの筈だ。  本来なら、逆の組み合わせでなければ勝ち目のない戦い。  格闘と魔術、ともに格上の敵に勝利する術はない。    ―――だが、逆を言えば少しは戦いになる。    葛木を相手にすれば遠坂は一息で殺されるし、  俺がキャスターを相手にすれば指差しだけで終る。  反面、この組み合わせなら勝てないまでも瞬殺される事はない。        ……つまり。  この戦いはどう倒すか、ではなく。  互いに格上の相手に対してどこまで保つかという、そんな、綱渡りめいた戦いだった。    ――――交差する二つの凶器。    双剣と長槍、両者の〈得物〉《エモノ》は互いの首を討とうと繰り出される。    そこに間断はなく、容赦はない。  放つ一撃は全て必殺の意思によるもの。    ランサーとて例外ではない。  協力者である遠坂凛に“手を抜く”と言っても、いざ戦いが始まればそんなものは二の次だ。  手加減なぞ、放った槍が〈偶々〉《たまたま》心臓を外れ、即死でなかったのならトドメは刺さない、という次元の話にすぎない。  そうなれば絶命するが、要は死ぬまでに遠坂凛の前に引きずっていけばいいだけの話。  その後の事などランサーの知った事ではない。   「っ――――!」    朱色の魔槍が、敵の領域を侵犯する。  繰り出される槍は回を増すごとにアーチャーの守りを崩す。  いつぞやの戦いとは違う。  あの夜防ぎきったランサーの槍を、アーチャーは〈捌〉《さば》ききれない。    それも当然。  これは二度目の戦いだ。  ランサーにはある令呪が働いている。  敵マスターの戦力を知る為、彼のマスターはランサーにこう告げた。   「おまえは全員と戦え。だが倒すな。一度目の相手からは必ず生還しろ」    自身に科せられたただ一つの命令。  そんな馬鹿げた〈命令〉《コマンド》に従った彼に、ようやく訪れた“何の縛りもない戦い”がこれである。    故に、前回と同じである筈がない。  ランサーを縛るものは何もなく、アーチャーはここにきて、サーヴァント中最速の英霊と戦う事になった。   「ぬっ――――!」    二度、アーチャーから苦悶が漏れる。  ランサーの槍は、彼の鷹の目を持ってしても視認できる物ではなくなっていた。  もとより点にすぎない槍の軌跡。  それが、今では閃光と化している。  迫り来る槍の穂先が見えぬ。  得物を振るう腕の動き、その足捌きさえ、既に不可視の領域に加速しつつあった。   「――――――――っ」    それをここまで防ぎきったのは、前回の戦いでランサーの槍を知ったからだ。  彼は今の自分に出来る事―――白兵戦でランサーに劣っている、という事実のみを武器にして猛攻を捌いていた。    いうなれば攻撃箇所の調整である。  赤い外套の騎士は、自ら致命的な隙を作る事で攻撃を限定させる。    無論、それを躱せねば死あるのみだ。  だが、即死を避けるあまり全身に傷を負い死に至るのならば、五体が満足のままの即死を選んだ。    そうでなければここまでした意味がない。    幸い、ランサーは未だアーチャーを侮っている。  いや、単純に戦闘そのものに没頭している。  このまま能力差だけで殺し合うというのなら、考え得るだけで三十通りは“隙を見せる”事ができる。    前回に得た情報を元にした行動予測と、培ってきた戦闘経験による状況打破。  それが『心眼』と呼ばれる、修練によって得られる鉄の心だ。    それは非凡な物などでは断じてない。  彼の持つ唯一の〈技術〉《スキル》。  セイバーの持つ『直感』のような先天的な物ではなく、愚直なまでに修練を重ねれば誰にでも手が届く、凡人故の武器だった。   「――――――――」    槍を翻し、わずか、ランサーは足を止めた。  どうも納得がいかぬ、と赤い弓兵を観察する。    勝敗はもはや明らかだ。  白兵戦ではアーチャーに勝ち目はない。  そんな事は判りきっていた事だ。  アーチャーがその名の通り“弓兵”であるのなら、遠距離からの狙撃でなくては勝負にさえなりはしない。    だが、それを防いだ。  とうに劣勢、あと数合も保つまいが、それでも本気になった自分の槍を受けきった。    ―――ヤツが強いのか、それともオレが手を抜いているのか。    ふん、と鼻で笑う。  アーチャーは得体の知れないサーヴァントだ。  その点において、ヤツが強い、というのは認めるべきだ。    だが―――自分が手を抜いている、というのは心外だ。    一合目はヤツの顔ごと吹き飛ばすつもりで首を狙った。  二合目は肋ごと粉砕するつもりで心臓を払った。  手を抜いている筈はない。  筈はないが――――    ――――確かに、殺す気ではなかったか。    このような戦闘で本気になったところで何がある。  サーヴァントの戦いは、つまるところ宝具の戦いだ。  必殺であるソレを出さずに追い詰める事こそ手を抜いている証拠。  その理由。  その原因は、つい先ほど耳にした、なんでもない礼らしい。   “――――チッ。まったく、本気かオレは―――!”   「くっ――――!」 「づっ――――!」    一際高い剣戟。  舞い散る火花と共に、両者の体が後退する。  自身に叩きつけるようなランサー渾身の一撃は、同じくアーチャー渾身の一撃によって相殺された。    離れた距離は五メートル弱。  ランサーならば一息もかけずに攻め込めるその間合いで、   「―――解せんな」    ぽつりと、青い槍兵が呟いた。   「貴様、これだけの腕を持っていながらキャスターについたのか。貴様と凛ならば、キャスターになぞ後れはとるまい」    殺意こそ途絶えたものの、ランサーの構えには一分の隙もない。  それを前にして、アーチャーは口元をわずかに歪めた。   「―――驚いたな。何を言いだすかと思えば、まだそんな事を口にするのか。  ランサー、私は少しでも勝算の高い手段をとっただけだ。凛がどう思おうと、私はこれ以外の手段はないと判断した」    自信に満ちた声に罪悪感などない。  赤い騎士は真実、主を裏切った事を悔いてはいなかった。   「そうかよ。訊ねたオレが馬鹿だったぜ」    まったくだ、とアーチャーは同意する。  ランサーはハ、とつまらなげに鼻を鳴らし、静かに槍の穂先を上げた。   「たしかにオマエは戦上手だ。そのオマエがとった手段ならば、せいぜい上手く立ち回るだろう。  ―――だが、それは王道ではない。貴様の剣には、決定的に誇りが欠けている」    立ち上る闘気。  それを前にして、赤い弓兵はなお愉快げに笑っていた。   「ああ、あいにく誇りなどない身だからな。  だがそれがどうした。英雄としての名が汚れる? は、笑わせないでくれよランサー。汚れなど成果で洗い流せる。  そんな余分なプライドはな、〈そこいらの狗にでも食わせてしまえ〉《・・・・・・・・・・・・・・・・》」 「――――――――」    瞬間。  わずかに弛緩していた空気が一変した。    ――――大気が凍り付く。    世界の調律を乱す魔力、因果を狂わせる魔槍が鎌首を擡げてくる。    放たれる殺気は今までの比ではない。  その、呼吸さえ困難な緊迫の中、   「〈狗〉《いぬ》と言ったな、アーチャー」    戦場の鴉をも払う声で、青い槍兵は言い放った。   「事実だ、クー・フーリン。英雄の誇りなぞ持っているのなら、今の内に捨てておけ」   「――――よく言った。ならば、オマエが先に逝け」    大きく後退するランサー。  槍を突き出す、どころの間合いではない。  一瞬にして離された距離は百メートル以上。  ランサーはこの広場の入り口まで跳び退き、そこで、獣のように大地に四肢をつく。   「――――――――」    アーチャーの五感が凍る。  恐怖か、畏怖か。  そのどちらであれ、彼は即座に理解した。  ランサーの後退の意味。  敵が打ち出すであろう次の攻撃が、文字通り必殺であるという事を。   「――――〈オレの槍〉《ゲイボルク》の能力は聞いているな、アーチャー」    地面に四肢をついたランサーの腰があがる。  その姿は、号砲を待つスプリンターのようだった。   「――――――――」    アーチャーに答える余裕などない。  赤い騎士は両手に持った双剣を捨て、最速で自己の〈裡〉《うち》に埋没する。  だが間に合うか。  ランサーのあの姿勢。  彼の魔槍が伝説をなぞるのなら、防ぐ宝具は生半可な物では済まされまい――――   「――行くぞ。この一撃、手向けとして受け取るがいい……!」    青い豹が走る。  残像さえ遙か、ランサーは突風となってアーチャーへ疾駆する。    両者の距離は百メートル。  それほどの助走を以ってランサーは槍を突き出すのではない。  青い姿が沈む。  五十メートルもの距離を一息で走り抜けた槍兵は、あろうことか、そのまま大きく〈跳躍した〉《・・・・》。    宙に舞う体。  大きく振りかぶった腕には“放てば必ず心臓を貫く”魔槍。    ぎしり、と空間が軋みをあげる。    ―――伝説に曰く。  その槍は、敵に放てば無数の〈鏃〉《やじり》をまき散らしたという。  つまり、それは。   「――――〈突〉《ゲ》き〈穿〉《イ》つ」    紡がれる言葉に因果の槍が呼応する。  青い槍兵は弓を引き絞るように上体を反らし、   「〈死翔の〉《ボルク》槍――――!!!!!」    怒号と共に、その一撃を叩き下ろした――――    それは、もとより投擲する為の〈宝具〉《モノ》だった。    狙えば必ず心臓を穿つ槍。  躱す事など出来ず、躱し続ける度に再度標的を襲う呪いの宝具。  それがゲイボルク、生涯一度たりとも敗北しなかった英雄の持つ破滅の槍。  ランサーの全魔力で撃ち出されたソレは防ぐ事さえ許されまい。躱す事も出来ず、防ぐ事も出来ない。      ―――故に必殺。  この魔槍に狙われた者に、生きる術などあり得ない……!!    魔弾が迫る。  一秒にも満たぬその間、赤い騎士は死を受け入れるように目蓋を閉じ、             「――――I am t〈h〉《体》〈e〉《は》 b〈o〉《剣》〈n〉《で》e〈 〉《出》〈o〉《来》〈f〉《て》〈 〉《い》〈m〉《る 》y sword.」    衝突する光の棘。  天空より飛来した破滅の一刺が、赤い騎士へ直撃する刹那、     「“〈熾天覆う七つの〉《ロー・アイアス》円環”――――!」      大気を震わせ、真名が展開された。    激突する槍と盾。  あらゆる回避、あらゆる防壁を突破する死の槍。    それが、ここに停止していた。    暴風と高熱を残骸として巻き散らしながら、必殺の槍はアーチャーの“宝具”によって食い止められる。  何処かより出現した七枚の花弁はアーチャーを守護し、主を撃ち抜こうとする魔弾に対抗する――――!    誰が知ろう。  この守りこそアイアス。かのトロイア戦争において、大英雄の投擲を唯一防いだというアイアスの盾である。    花弁の如き守りは七つ、その一枚一枚は古の城壁に匹敵する。  投擲武具、使い手より放たれた凶器に対してならば無敵とされる結界宝具。    この盾の前には、投槍など一枚羽にも届かず敗退するは必定だった。  少なくとも使用者であるアーチャーが知る限り、この守りを突破する槍など有り得ない。    だが。  それを、必殺の槍は苦もなく貫通していく。   「―――っ…………!!!!!」    六枚目の花弁が四散する。  残るは一枚。  魔槍は決して貫けなかったと言われる七枚目に到達し、なおその勢いを緩めない。    殺しきれぬ魔槍の一棘。  それを直前にし、   「ぬ――――ぬああああああああ…………!!!!」    裂帛の気合いを以って、アーチャーは全魔力を己が宝具に注ぎ込む――――!   「――――――――」  地に降りたランサーは、ただ、目前のサーヴァントを凝視する。    ……アーチャーは満身創痍だ。  突きだしていた腕は、朽ち木のごとく。  苦痛に歪む〈貌〉《かお》は腕の傷だけでなく、想像を絶する頭痛に耐えてのものだった。   「――――驚いたな。アイアスを貫通しうる槍がこの世にあろうとは。  君のそれは、オリジナルの“〈大神宣言〉《グングニル》”を上回っている」    赤い騎士は心から青い槍兵に賛辞を送る。   「――――――――」    そのようなもの、ランサーに届く筈がない。  最強の一撃。  自らを英雄たらしめていた一撃を防がれたのだ。  その〈憤怒〉《ふんぬ》たるや、視線だけで人を呪い殺せよう。    だが、その怒りも強い疑問にうち消されつつあった。  ……解せないどころの話ではない。  確かにアーチャーは正体不明のサーヴァントだ。  何処の英雄とも知れず、弓兵でありながら双剣を持ち、そして今、ランサー最強の一撃を防ぐほどの盾さえ見せた。    それは、異常だ。  そのような英雄、この世のどこを探しても見あたるまい。   「貴様――――何者だ」 「ただの弓兵だが。君の見立ては間違いではない」 「戯れ言を。弓兵が宝具を防ぐほどの盾を持つものか」 「場合によっては持つだろう。  だが、それもこの様だ。魔力の大部分を消費したというのに腕をやられ、アイアスも完全に破壊された。  ……まったく、私が持ち得る最強の守りだったのだがな、今のは」   「――――――――」  軽口を叩くアーチャーを、ランサーはただ睨み続ける。  そこへ、   「それより気づいたかランサー。  キャスターめ、存外に苦戦していると見える。こちらに向けられていた監視が止まった」    両手をあげ、降参するかのようにアーチャーは付け足した。   「……そうかよ。そうじゃねえかとは思ったけどな。テメエ、もとからそういうハラか」 「無論だ。言っただろう。勝率の高い手段だけをとる、と」 「―――ふん。とことん気に食わねえヤロウだな、テメエ」    苦々しげに言って、ランサーはアーチャーに背を向ける。  ……彼の仕事は終った。  アーチャーを引きつけるという役割は、もはや意味をなさない。  これ以上、遠坂凛に肩入れする必要はなくなった。    青い槍兵は主の下に帰ろうと踵を返し、そのまま―――    もうしばらくだけ様子を見よう、と草むらに体を預けていた。 「っ――――!」    繰り出される拳を必死に捌く。  葛木の拳は生きた“蛇”だ。紙一重で避けたところで、躱した瞬間に軌道を変えて食らいついてくる。  セイバーはそれで深手を負った。  なまじ紙一重で躱せるだけの反射神経を持っていたが故に、セイバーは葛木の“蛇”に食らいつかれた。  が、こっちはそんな反射神経を持ち合わせていない。  紙一重で躱す事なんて出来ないし、そもそも葛木の拳なんて見えていない。  見えていないんだから、自分から防ぐ事など不可能だ。 「が――――!」    肩口。左の鎖骨に、葛木の拳が掠っていく。   「は、ぐ――――!」    まるで〈玄翁〉《げんのう》だ。そのまま肩ごと左腕を砕かれたような感覚に、短剣を落としかける。 「―――――――っ」  踏みとどまって耐え、右の短剣で眉間に繰り出される拳を弾く。 「あ、つ――――!」    必死になって後退する。  なりふり構わず後退する俺と、前進した事も気づかせないまま間合いを詰める葛木。 「は――――」    ――――その構えに、戦慄した。  次こそは耐えられない。  ここまで数撃〈捌〉《さば》ききれた事さえ異常だ。  実感がない。遠坂がキャスターを倒すまでの囮、防御に徹するのならなんとかなる、なんて思い違いは初撃で砕かれた。    葛木宗一郎は、前回の戦いをよく考慮していた。  以前、遠坂を襲った葛木を俺は撃退できた。  だから今回も、アーチャーの双剣さえ投影できれば防ぎきれると思っていた。  ―――だが。  それは逆に、アーチャーの剣がなければ話にならないという事でもある。  葛木はそれを踏まえている。  今回、葛木がまず仕掛けてきた事は、俺から双剣を奪うという事だったのだから。 「づ――――!」  右の短剣が砕かれる。  ―――キャスターの魔術によって強化されたヤツの拳は、わずか数合で俺の剣を破壊する。   「――――〈投影〉《トレース》、〈再開〉《オン》…………!」    即座に短剣を複製する。  無理な投影、即席の剣では高い完成度は望めない。  結果として、数撃を受けきれた双剣は段々とその精度を落としていく。 「ぐっ―――ハ、はあ、は―――……!!」    呼吸を殺しきれない。  無我夢中で葛木の蛇に短剣を合わせる。  体は双剣に従うだけ。アーチャーの動きを真似る手足は、そもそも衛宮士郎という肉体の限界を超えている。  加えて、この頭痛。  砕かれ、新たに投影をする度に体の中が削れていく。  魔力を消費しているのとは違う。  剣を一つ作る度に、数少ない魔術回路が一つ消えていくような感覚。  ゼロになるのはもはや目前だ。  作れてあと二本。  魔力の貯蔵が失われた時がこちらの終わりだ。    だが、そもそも。  あと二本使い切れる余裕など、この体のどこに――― 「え―――――――あ?」    飛んでいた。  葛木の右拳。常に不動だったソレが、槍のように放たれたのだ。  胸を〈肋〉《あばら》ごと貫こうとするその一撃を、双剣で受けた。  瞬間、双剣は破壊され、衝撃はそのまま俺を吹き飛ばしたらしい。  背中には硬い感触。  ……五メートル近い距離を、弾き飛ばされた、のか。 「は――――、つ」  呼吸を再開しようとして、息が出来ない事に気が付いた。  貫通した衝撃は心臓を麻痺させている。  呼吸はおろか、手足さえ動かない。  わずか数秒。  心臓が活動を再開するまでのその空白に、 「は――――――――」    幽鬼が迫る。  それで詰めだ。  あの男ならば、一秒の隙でさえ俺を仕留める。  それがこの体たらくならば、六度殺しても余りある。 「――――――――」  敵を睨む。  手足は動かなくても、やれる事はある。  俺は、そもそも剣を振るう人間じゃない。  衛宮士郎が戦う武器は、初めから魔術と決まっている。    なら―――まだ終ってはいない。  俺の役目は葛木の足止めだ。それを果たさないまま、おいそれと諦められるか――――! 「え?」 「――――――――」  その打撃音は、目の前で起きた物ではなかった。  思い描いていた剣の構造が消える。  俺の首をねじ切ろうと詰め寄った葛木の足が止まる。    その異変は葛木の背後。  祭壇を背にしたキャスターに起きたものだった。    劣勢であるのは彼女も同じだった。  いや、実力差を明確に把握している分、彼女の負担は彼より大きかっただろう。   「―――Αερο―――」    余裕に満ちた仕草で、キャスターは彼女に指を向ける。  紡がれる魔術は『〈病風〉《アエロー》』。  キャスターは詠唱など必要としない。  神代に生きた魔女にとって、自身と世界を繋げる〈手順〉《じゅもん》など不要なのだ。  キャスターは常として〈歯車〉《せかい》を回す神秘を帯びている。  彼女にとって、魔術とはただ命じるもの。  己が番犬に、ただ『襲え』と告げるに等しい。   「――――〈Acht〉《八番》……!」    それを、彼女は秘蔵の宝石で相殺する。  悠長に呪文を詠唱している時間はなく、左手の魔術刻印による簡易詠唱ではキャスターの魔術に太刀打ちできない。    魔術師としての技量は、それこそ天と地ほど離れている。  その差を埋めるには、長年蓄えてきたモノを吐き出すしかない。  魔術師の娘として生を受け、今まで貯めに貯めてきた十年分以上の魔力の結晶。    代えのない十の宝石のうち、残る九つをこの場で使い切る覚悟で、彼女は戦いに臨んでいた。   「ふふ、健気に頑張ること。そんな奥の手があるとは思わなかったわ、お嬢さん」    己が魔術を純粋な魔力で相殺されながらも、キャスターの微笑は崩れない。    ほぼ無限に魔術を行使できるキャスターと、  宝石という増幅器で対抗する彼女。  その差は歴然としている。  彼女がどれほど宝石を所有しているかは知らぬが、所詮十や二十。  その程度のモノで、キャスターが破れる道理など〈一分〉《いちぶ》もない。   「――――〈Sieben〉《七番》……!」      繰り出される電荷を、七つ目の宝石で相殺する。  残る宝石は六つ。  あと六回キャスターが呟くだけで、彼女の奥の手は底を突く。   「あら、綺麗に防ぎきるのね。本当に健気。自分だけ守っていれば石を使い切る事もないでしょうに」    クスクスという笑い声にも反応せず、彼女は次弾に備えて宝石を指に挟む。  ……キャスターの言う通り、自分の身だけを守るのならば宝石は砕けない。  キャスターの呪文に対して、おそらく三回は防ぎきってくれるだろう。    ……だが、それは出来なかった。  キャスターの魔術は、ひとたび発動すれば聖堂を覆う。  葛木はキャスターによって護られているだろうが、彼だけは例外なのだ。  もし彼女がキャスターの魔術を発動前に相殺しなければ、葛木宗一郎を引き留めている衛宮士郎が焼け死ぬ事になる。   「―――――――っ」    故に、自分だけ守っても意味がない。  彼にそんな死に方をさせるのは許せないし、そもそもこの作戦の前提は、彼が葛木を止めてくれる、という一点にあるのだから。   「ふうん、まだ守りきるつもり? 大した信念ですけど、それもいつまで保つかしらね。受けてばかりでは結果は見えていてよ、お嬢さん」    キャスターの指が動く。   「―――――――Se〈c〉《六》〈h〉《番》s Ein Fluß,e〈i〉《冬》〈n〉《の》〈 〉《河》Halt……!」    それに、彼女は先手を取った。  確かに受けてばかりでは、いずれ宝石を失い殺される。  キャスターの魔術と彼女の宝石。  そこに籠められた魔力が同等ならば、先手を取れば倒し得るという事だ――――!   「―――Κεραινο―――」    だが、キャスターの詠唱を上回る事などできない。  呪文を使わず、宝石を解放するだけで魔術を成立させる遠坂凛も最速ならば、  わずか一言で神秘を起こすキャスターも最速である。    両者の戦いに“先手”などない。  あるのはただ力による押し合いだけ。  この押し合いに敗れ、魔力が尽きた方が敗北する。  ならば――――   「Fün〈f〉《五》〈,〉《番》〈D〉《、》r〈e〉《三》〈i〉《番》〈,〉《、》V〈i〉《四》〈e〉《番》r……!  Der Rie〈s〉《終》〈e〉《局》〈 〉《、》und 〈b〉《炎》〈r〉《の》〈e〉《剣》〈n〉《、》nt da〈s〉《相》〈 〉《乗》ein Ende――――!」    もはや、純粋に押し通るだけ。   立て続けに宝石を使い、キャスターの魔力を突破する――――!    解放した宝石は三つ。  加えて虎の子の四番を用いて、禁呪である相乗さえ重ねた。  それは彼女の限界を超えた魔術でもある。   『術者の許容量を上回る魔術は、決して使ってはならない』    そう彼に告げた彼女自身が、その禁を侵してまで放った一撃。  キャスターが守りに入らなければ聖堂はおろか教会ごと崩壊するであろうそれを、    紫の魔女は、事も無げに防ぎきった。    ―――いや、相殺どころの話ではない。  キャスターは彼女の放った魔力、その全てを衣の中に〈呑み込んだ〉《・・・・・》のだ。   「――――――――」    愕然と立ちつくす。  ……その背後では、彼が敗北を喫した音がしていた。  砕かれる剣の音と、肉が壁に激突する音。    勝敗は、ここに決しようとしていた。  彼女は為す術もなく、ぐらり、と体を揺らした。  逃れられぬ絶望にうち負かされたように、よろよろと前のめりに流れていく。   「あら、これで終わり? まだ手持ちの宝石はあるのでしょう? 諦めずに、なくなるまで試してみたら?」 「――――――――」    彼女に答える気力はない。  ……あと幾つ宝石があろうと、今のが彼女の最大なのだ。  それが通じない以上、百の宝石を重ねても、彼女の魔術ではキャスターに傷一つつけられない――――   「そう。ようやく理解したようね。何をしようが私には敵わないと。けれど楽しくはあったわお嬢さん。魔術を競い合うのは久しぶりでしたからね。  ええ、それだけでも貴女に価値を与えましょう」 「っ――――」    前のめりに崩れる足を堪え、吐き気を手で押さえて、彼女はキャスターを睨み付ける。   「悔しい? けれどこれが現実よ。むしろ誇りなさい。  遊んであげたとはいえ、貴女はこの私に魔術戦をさせたのだから」    そうして、キャスターは彼女を指さす。  今度こそ最後だと、死刑を宣告するように。   「消えなさい。あの坊やが私のマスターに倒されるのは時間の問題。  その前に―――こちらも、そろそろ終わりにしましょう」    ゆっくりと死を呟くキャスター。    ―――その油断。  その断定こそを、彼女はずっと待っていた。   「st〈a〉《二》〈r〉《番》k―――Groß〈 〉《強》〈z〉《化》wei」    解放する呪文はただ一言。  彼女は俯いたまま、口元に微笑を浮かべて呟いた。 「え?」 「――――――――」  一瞬、我が目を疑った。  遠坂とキャスター。  二人の魔術戦は、遠坂の敗北で終っていた。  遠坂はキャスターに許しを請うようによろよろと前に進み、そんな遠坂に、キャスターは〈止〉《とど》めとも言える魔術を放った。    ――――その、瞬間。    遠坂は放たれた魔術を相殺した。  それはいい。  それは驚くに値しない。  問題はその後――――遠坂のヤツ、あろう事かとんでもなく気合いの入った姿勢で、キャスターに殴りかかっていやがった――――!    遠坂は自ら業火に飛び込む。  そのまま放たれた魔術を相殺し、目眩ましにしてキャスターへと跳びかかった。 「――――!?」    キャスターの驚きは、きっと魔術師としてのモノだ。  あいつの中には、魔術戦で敗れた魔術師が殴りかかってくるなんて常識はない。  俺にだってないんだから、卓越した魔術師であるキャスターにとっては〈冒涜〉《ぼうとく》に等しいだろう。  が、それもただの悪あがきじゃない。  間合いを詰め、キャスターの胸に打ち込んだのは中国拳法でいうところの〈寸頸〉《すんけい》だ。 「ご――――ふ…………!?」    パリン、という音。  葛木と同じく拳を“強化”しているのか、遠坂の一撃は容易くキャスターの守りを貫通した。 「―――、魔術師のクセに、殴り合いなんて……!」 「おあいにくさま……! 今時の魔術師ってのは、護身術も必修科目よ……!」 「―――――――」  その連携に、正直、惚れ惚れした。  寸頸の直後、遠坂の体が沈んだ。  両手を床に付け、キャスターの膝もとまで屈みこむ。  格闘の心得などないキャスターには、それこそ消えたように見えた筈だ。    そこへ、とんでもない足払いが入った。  ザン、と体ごと回す旋脚は、キャスターの足を蹴り折らんとばかりに炸裂する――――! 「きゃ――――!?」    足を払われ、背中から地面に倒れゆくキャスター。  だが終らない。  足払いの後、キャスターに背中を向けたまま立ち上がりかけ、回転する勢いのまま遠坂は肘をキャスターに叩き込み――――   「飛べ……!」    体の回転を止め、とんでもなく腰の入った正拳を炸裂させた――――! 「ごふ…………!」    キャスターの体が吹き飛ぶ。  遠坂の正拳突きをまともに受けたキャスターは、俺と同じように壁まで叩きつけられた。 「ぁ――――あ」    壁に背中を預け、朦朧と吐息を漏らすキャスター。 「取った――――!」  離れた距離。  吹き飛ばした数メートルの間合いを詰める為、遠坂は地を蹴った。  もはや勝負はついた。  キャスターは動けず、あの様子では致命傷だろう。    時間にして数秒もなかった攻防。  俺が壁まで叩きつけられ、葛木と対峙した合間の、五秒にも満たない一瞬で勝負はついた。  キャスターに抗う余力はない。  遠坂はセイバーじみた速度でキャスターに詰め寄り、とどめの一撃を見舞う。  魔術による数秒だけの“強化”。  遠坂は初めから、キャスターに格闘戦を仕掛けるつもりだったのだ。  キャスターは遠坂を魔術師としてしか見ていなかった。  その隙、ただ一度しか通じない奇襲を成功させる為に、あえて不利な魔術戦を演じたのか。  そうして策は成った。  キャスターは遠坂に欺かれ、完全に敗北した。  この戦いは遠坂の勝ちに終わった。  ―――そう。   「―――いや。そこまでだ、遠坂」    この男の、怪物じみた運動能力さえなかったのなら。  キャスターに走り込む遠坂が疾風だとしたら、それは、魔風のような速度だった。 「う――――そ」    遠坂の足が止まる。  壁によりかかるキャスターの前には、たった今、俺の目の前にいた葛木宗一郎の姿がある。 「あ――――」  遠坂の体が動く。  死を直感して、咄嗟に顔を守って後ろに跳んだ瞬間、   俺を吹き飛ばした〈右拳〉《くずき》の一撃が、遠坂の顔面を強打した。 「っ――――!」    顔を両手でガードし、なお後ろに跳んでいたというのに、遠坂の体は大きく弾き飛ばされる。  俺とは正反対の壁際まで弾かれた遠坂の両手は、骨折したようにだらりと下げられていた。 「勝機を逃したな。四度打ち込んで殺せなかったおまえの未熟だ」  平然と言う。  ……だが、そんなのは遠坂のせいじゃない。  勝機を逃した原因は俺だ。  俺が葛木を止めていれば、遠坂はキャスターを倒しきっていただろう。    ―――これは俺の責任だ。    千載一遇の奇襲は、俺の未熟さと、葛木宗一郎という男の卓越した格闘スキルの前に阻まれた――――  空は、依然として灰色のままだった。  もはや誰もいなくなった教会を後にする。 「お。事は済んだみたいだな、坊主」  ……と。  目前の広場には、見慣れた槍兵の姿があった。 「――――――!」  俺に肩を貸したまま、セイバーは広場を睨む。  あと一歩でもランサーが近寄れば、迷わず斬りかかりかねない気迫だ。 「……いや、違うんだセイバー。あいつは、俺たちの手助けを、してくれた」 「は……? ランサーが、シロウに協力したというのですか?」 「……ああ、そうだ。……できれば、今は戦わないで、くれ」  セイバーは呆然とランサーを見据える。  ……あいつはあいつで、そんなセイバーを心底愉しんでいるようだ。 「それは判りましたが……何故ですランサー。貴方がシロウたちに協力するなど、何か企みがあるのですか」 「あ? なんだ、バカだろおまえ。んなもの有るに決まってんじゃねえか。裏で企んでなきゃ余所の手助けなんてするか」 「……は」  ああいうヤツだって判っていたが、セイバーまで茶化すあたり、徹底している。 「む。何がおかしいのです、シロウ」 「え……いま笑ってたか、俺……?」 「ええ、笑っていました。どうやら私の思い違いだったようですね。笑みがこぼれるほど元気があるのなら、この肩を貸すまでもなかったようですが」  ……それで、不謹慎ながら、少しだけ安心できた。  セイバーは以前のままだ。  もう俺と繋がりはなくなってしまったが、彼女は変わらないままでここにいる。  なら―――一体、何を悔やむ必要があるだろう。 「……悪い、気が緩んだみたいだ。今は、そんな場合じゃなかったな」 「―――はい。凛を取り戻すにしても、今は休まなければ。……ランサー。何が目的かは知らぬが、もはや用は済んだのだろう。ならば去れ。私も、今は貴方とは戦わない」  堂々とランサーに告げ、セイバーは広場に降りていく。 「……? おい、万事首尾良くいった―――って訳じゃなさそうだな。何が起きたんだ、坊主」 「遠坂がアーチャーに連れて行かれた。これから取り戻しに行くだけだ」  目眩を堪えて、ランサーの目を見据えて答える。 「……なに? おい待て、そりゃあどういう事だ」 「――――――――」  ……悪いが、こっちには余分な体力がない。  長ったらしい説明なんて出来ないんだから、大人しく帰って―――― 「アーチャーの目的はシロウを殺す事です。その為に私のマスターとなった凛を〈攫〉《さら》い、交換条件としてシロウに一騎打ちを命じました。  一日中にアーチャーの下に行かなければ、凛の安全は保証しないそうです」  …………いや、まあ。  代わりに説明をしてくれるのは助かるが、ランサーにそんな事を言っても仕方がないだろ、セイバー。 「――――ヤロウ。やりやがったな」  ……と。  どこか親しみがあった皮を捨てて、ランサーは地の顔で歯を鳴らした。 「……ランサー?」 「つまりアレか。あのヤロウ、一度ならず二度までお嬢ちゃんを裏切ったってワケか」 「え……ええ、そういう事になりますが、それがどうしたと……?」 「―――どうしたじゃねえ。……クソ、気が変わった。  手助けするのはこれっきりだったがな、もう少し付き合わせろ。このままじゃ寝覚めが悪い」  そう吐き捨てて、ランサーは歩き出した。 「――――――――」  言葉もなくランサーを見つめるセイバー。  ……気持ちは判る。  ランサーの背中は、俺たちと同行すると告げているようなものだったからだ。 「……まいった。シロウと凛はどんな魔術を使って、彼を味方に引き入れたのです」  感心した、というより呆然としたセイバーの声。  が、残念ながら答える体力もないし、葛木にやられた傷と左肩の痛みがぶり返してそれどころじゃない。   ……いや、そもそもそんな事。  もとよりこっちが聞きたいぐらいだ、ほんと。                ――――そうして、そいつの夢を思い出した。            英雄の座に祭り上げられた彼の記憶。  わたしじゃ手の届かないところで終わった、或る騎士の物語。    この丘があいつの世界。  他人の為に戦い続けた男が手に入れた、他人のいない一面の荒野。  この風景を抱いたまま、あいつは満足だと笑って死んだらしい。   「――――バカじゃないの、本気で」    ……そう、ともかくそれが無性にあたまにきたのだ。  頑張って頑張って、凡人のくせに努力して、血を流しながら成し得た奇蹟があった。  なら幸せにならないと嘘だ。  多くの人間を幸福にしたのなら、そいつらが束になってかかってきても負けないぐらい、幸せにならないといけない筈だ。    けど、そんな報酬は与えられなかった。  代わりに与えられたのは、死んだ後も“守護者”として使役される運命だけだ。   「――――――――」    そう。どうして、そんな事に気が付かなかったんだろう。  守護者はあらゆる時代に呼び出される。  それは、逆に言えばあらゆる時代〈から〉《・・》呼び出されるという事ではなかったか。    つまり現在と過去。    そして、〈まだ見ぬ未来からですら〉《・・・・・・・・・・・》、〈英霊となるモノなら呼び出せるのだ〉《・・・・・・・・・・・・・・・・》。    時間軸から外れた“座”に押し込まれた守護者には、もはや時間の概念などない。  彼らは英霊となった時点で、人間だった頃とは別の物に昇華する。    なら――――同じ時代。    かつて自分が生きていた時代、生きていた街に呼び出される守護者がいないとは限らない。   「――――――――」    それを思うと、悔しくなる。  だってどっちも救われない。  かつての自分を見る側も、  いつかの自分を見る側も、  変わり果てたその在り方に、胸を痛めるだけなんだから。    誰かの為になろうとする大バカの結末を、わたしはもう知っている。  そいつは望んで守護者になった。  死んだ後も人々を救えるのなら、それは願ってもない事だと。  生前は力がなく救えなかったけど、英霊としてならあらゆる悲劇を打破できると信じていた。    そんな事を思って、世界との取引に応じて死後の自分を差し出して、百人程度の命を救ったんだ。  その後は、もっと多くの、何万人という命が救えると信じきって。    ――――けど、そんな希望も裏切られた。    英霊、守護者が現れる場所は地獄でしかない。  彼らは世界が人の手によって滅びる場合のみ出現する。  人間は自らの業によって滅びる生き物。  だから、滅びの過程はいつだって同じはずだ。    あいつは、その『地獄』にのみ呼び出された。  救いたかった筈の人間が死に絶えた破滅の地で、そいつはもっと多くの人間を手にかけた。    泣いている誰かを見たくないだけだ、と語った少年は。    永遠に、人間の泣き顔しか、見ることができなくなった。            言える事は一つだけ。  そいつはずっと、色々なものに裏切られてきて。  最後の最後に、唯一信じた理想にさえ裏切られた。        ―――体は剣で出来ている。       血潮は鉄で 心は硝子。       幾たびの戦場を越えて不敗。       ただの一度も敗走はなく、       ただの一度も理解されない。       彼の者は常に独り 剣の丘で勝利に酔う。         故に、生涯に意味はなく。       その体は、きっと剣で出来ていた。    ……それが、そいつに与えられた唯一つの呪文だった。    なによそれ。  なんなのよーって、本人の胸をむちゃくちゃに叩いて叱りつけたくなるぐらい、頭にくる。    ……〈遠坂凛〉《わたし》は苦労した事がない。  だから言う資格はないかもしれないけど、わたしは努力と痛みを信じている。戦った分だけ報酬がないのは間違っている。    だからこそ、報われなかったあいつの人生そのものが頭にきているし、なにより―――そうやって守り通した結果、かつての自分の生き方そのものを呪うようになったあいつが、放っておけない。         “アンタがわたしのサーヴァントである以上、わたしは〈自分〉《わたし》が信じるコト以外はやらない。  わたしは衛宮士郎ほど甘くはないけど、それでも譲れないものがある。  相手が何者であろうと、それを譲る気なんかない―――”    ……そう。  だから、そうしようと誓ったんだ。  わたしがあいつのマスターである限りは、かつての彼と同じように、自分の信じた道を貫き通す。    わたしには、それぐらいしか示せない。  それぐらいの事でしか、あいつに報いる事ができなかった。    それは意味のない事だったかもしれないけど、せめて。  過去を見失ってしまったアーチャーが、〈自身〉《そ》の人生は誇れるものだったんだって気づける時がくるように――――   「ぁ…………ん…………」    微睡みから覚めた途端、まず気になったのが手足の感覚だった。  動かないし、痛い。   「…………縛られてる」    おまけに椅子に座らされていて、不自然な格好で眠っていたらしい。   「――――――――」    ……認めたくはないが、自分の状態は最悪だ。  はっきりいって何も出来ない。  手は椅子の後ろに回され、手錠のような物で拘束されている。  足首も同様で、椅子から立ち上がる事もできない。  加えて、手錠や足枷は抗魔術がかけられていて、魔術回路の働きがメチャクチャで魔力も生成できない有様。   「――――――――」    自分の状態を確認したところで、次は周囲を確認する。  ……寒い。  暖房などない石の部屋は、使われなくなって久しい廃墟だった。  窓の外は暗い。……この感じからして、夜の十時過ぎというところだろう。   「で。どういうつもりよアーチャー」    闇を睨む。  ……柱の陰。  積み重なった瓦礫の上に、赤い外套の騎士が腰を下ろしている。   「どうもこうもない。オマエは衛宮士郎を釣る餌だ。それは自分でも判っているだろう」 「……ふん。わたしがいなくたって、士郎なら勝手に来るわよ。そんな事、貴方なら判るでしょうに」   「―――そうだな。だが、そこにオマエがいては都合が悪い。事が済むまで、目障りな邪魔者にはここで大人しくしていてもらう」    わたしの前には現れず、アーチャーはそう言葉を切った。  そこに以前の親密さはない。  今のあいつは本当に、冷徹な“掃除屋”だった。   「そう。どうあっても士郎を殺すっていうのね、貴方」 「ああ。あのような甘い男は、今のうちに消えた方がいい」    当然のように答える。  ここから見えるのは影になった横顔だけだ。  冷め切った、能面のような顔。    それが――――もう、致命的なまでに頭にきた。   「……ふん。士郎が甘いって事は言われなくても分かってるけど」    すう、と息を吸う。  これを口にしたら終わる。  それを言ったら、わたしのアーチャーは二度と帰ってはこない。  それを一息で呑み込んで、強く、影になった男を見据えた。   「それでもわたしは、あいつの甘いところが愛しいって思う。  あいつはああでなくちゃいけないって、ああいうヤツがいてもいいんだって救われてる」   「けどアンタはどうなの。  そこまでやっておいて、身勝手な理想論を振りかざすのは間違ってるって思ったわけ?  何度も何度も他人の為に戦って、何度も何度も裏切られて、何度も何度もつまらない後始末をさせられて―――!  それで、それで人間ってモノに愛想がつきたっていうの、アーチャー……!」    なんだかもう、続けているうちに頭にきて力の限り怒鳴っていた。   「――――――――」    ……アーチャーは答えない。  影に沈んだ横顔は、もう、わたしの知るどの横顔とも似てはいなかった。             “―――全ての人間を救う事はできない”    自分にとって、全ての人間を救えるだろう男にそう言われた時、あったのは反発だけだ。            “―――いいかい士郎。   正義の味方に救えるのは、味方をした人間だけだ”    その言葉も嫌いだった。  自分にとって正義の味方そのものの人物に、そんな現実を口にしてほしくなかった。    ……それからの衛宮士郎の時間は、ずっと、その言葉を覆す為だけのもの、だったのかもしれない。  犠牲なんて出さなくてもいい。  頑張れば、精一杯努力すれば傷つくヤツなんていなくなる。  〈切嗣〉《オヤジ》だって、それにずっと憧れていた筈だ。  だから                 “ああ――――安心した”    その最期に、背を向ける事はできない。    その在り方が〈歪〉《いびつ》だと、遠坂は言ってくれた。  ……分かっている。  そんな事、ずっと前から気づいていた。    誰も傷つかない世界なんてないし、  誰も傷つけない幸福なんてない。    そんな都合のいい理想郷は、この世の何処にもありはしない。  衛宮士郎が成ろうとする正義の味方なんてものは、それだけで偽善なんだ。                  ――――人助けの果てには何もない。    だから。  そんな事、言われなくても分かっている。               ―――他人も自分も救えない、偽りのような人生だ。    ……ああ。  たとえそうだとしても、おまえにだけは、その台詞は言わせない。    他の誰が否定してもいい。  けど、ヤツにだけは言わせない。  同じもの。  同じところから始まって、いずれ自分もああなるとしても―――いや、だからこそ否定する。  あいつがかつての衛宮士郎を認めないように。  俺はここにいる以上、あいつのカタチを認めない。          ……たとえ、このユメが〈歪〉《いびつ》な物であろうと。  それを信じてきて、これからも信じていくと決めたのなら、決して、自分にだけは―――― 「――――――――」    目を覚ます。  起きてすぐに時計を見て、今が十一時過ぎだと確認する。 「目が覚めましたか、シロウ」  セイバーは正座したまま、穏やかな声で言った。  ……教会から家に帰ってきてから、もう半日。  俺が意識を失った後、そこでずっと見守っていてくれたのか。 「ああ、起きた。体も問題ないよ。疲れも取れたし、頭痛も消えた」  布団から体を起こす。  手足の感覚は元通りだ。  あれだけ酷使した魔術回路はさすがに消耗したままだが、回路が焼き切れた、という事にはなっていない。 「――――行くのですか、シロウ」  唐突に、セイバーはそんな事を言ってきた。  判りきった事なんで、無言で頷きを返す。 「……わかりました。では私も同行します。  ですがシロウ、凛は私のマスターです。彼女を救い出すのは私の役目だ。アーチャーは私が止めますから、シロウは」 「逆だセイバー。アーチャーとは俺がやる」  セイバーの言葉を遮る。  彼女は、不安げに俺の視線を受け止め、   「……それは駄目だ、シロウ。  アーチャーは、貴方の―――」    そう、辛そうに言い淀んだ。 「判ってる。アイツが何者なのかは、多分、出会った時から解ってた」  顔を合わせた時から、理由もなく反発した。  こいつだけは認められないと、意固地になって嫌ってきた。  ……それも当然だ。  人間誰だって、自分の過ちを見せられたら目を背けるしかないんだから。 「……ああ。けど、だからこそアイツがした事は認めない。アイツとだけは、俺が決着をつけなくちゃいけないんだ」  立ち上がる。  体は万全だ。  約束の刻限まであと半日。……これ以上、休息に時間を割く事はできない。 「シロウ」 「……こんな事を言える立場じゃないけど、頼むセイバー。  アーチャーとは俺がやる。その時、どうなっても手を出さないでいてほしい」  きちんと頭を下げて、セイバーにお願いする。 「―――いいえ。そのような事をする必要はありません、シロウ。  貴方がそう望むのなら、私はそれに従いましょう。  この身は貴方の盾になると誓ったのです。その行く末を、最後まで見届けます」 「――――――――」  その答えは、完璧だった。  凛とした声は、心に染みついた不安を払拭する。 「ありがとう。セイバーが見守ってくれるんなら、心強い」 「はい。私も貴方がそうであってくれて嬉しい、シロウ」    返ってくる笑顔。  それで、出陣の支度は整ったようなものだった。    衛宮の家を後にする。  まさかもう一度、あの城に行く事になるなんて誰が思っただろう。 「―――おい。オマエら、人の話聞いてねえだろ」 「え?」 「は?」  二人して振り返る。  ……あ。  そう言えば、まだいたんだっけランサーのヤツ。 「……なんだ。案外暇なんだな、アンタ」  思わず本音が出た。 「………………」  自覚があるのか、ランサーもその件については反論する気はないようだ。 「ランサー。貴方が何を企んでいるかは知りませんが、私たちに同行しても得るものはありません。  アーチャーは既にマスターを持たないサーヴァント。  貴方のマスターが倒したがるとは思えませんが」 「ああ、判ってる判ってる。別にアーチャーのヤロウをどうこうしようって気はねえ。坊主とヤツの殺し合いにも手は出さねえから安心しろ」 「……では何の為に付いてこようというのです。私との決着を望むのなら、ここでつけても構いませんが」 「いや、それも願い下げだな。オレは貴様のマスターと敵対する気はない。むしろ売りたいのは恩でね。ここらで貸しを作っておこう、とそういうハラだ」 「………………」  セイバーはランサーを睨み、  ランサーは飄々とセイバーの視線を流している。 「―――判った、好きにしろ。遠坂を助ける手助けをしてくれるなら、こっちも助かる」 「シロウ……! ランサーは敵です。そのような軽い決断は――――」 「その点は大丈夫だろ。そいつ、根性ひんまがってるけど嘘を言うヤツじゃないし、なにより回りくどい事なんて出来ない。俺たちを騙したいんなら、その前に真っ正面から倒しに来てるさ」 「む……それは、そうですが、しかし」 「いや、セイバーが嫌だって言うなら追っ払う。けどこいつ、放っておいても付いてくるぞ。それなら傍にいさせて監視したほうが楽だろ」 「む―――たった数日で随分と口が上手くなったのですね、シロウ」 「いや、色々あったから。  ま、そういう事だランサー。俺たちもアンタに関与しないから、アンタも俺たちには口を出さない。それでいいなら一緒に行こう」  にやにやと俺たちのやりとりを眺めるランサーに声をかける。 「十分だ。いや、いいコンビじゃねえか。  セイバーは見てのとおり融通がきかないからな。オマエが大人になってくれて助かったぜ」 「そ、そのような事はありませんっ。融通がきかないのはむしろシロウの方だ。私がどれほど苦労したか、貴方に何が分かるのですっ」 「さあ?  なんだ、訊けば話してくれるのかセイバー? いいぜ、城までは随分とある。道中おまえの苦労話を肴としよう」 「っ――――! な、なぜ私がそのような事を説明しなくてはならないのです! それこそ貴方には無関係ではないですか!」  があー、とランサーを責め立てるセイバー。 「…………うわ」  セイバー、ランサーとは相性が悪いんだな。  まさかあのセイバーが、あんな遠坂っぽく怒鳴るなんて思っても見なかった。 「――――まあいいか。  それより行くぞ。遊んでる暇はないんだ、出来るだけ早く城に行かなくちゃいけないんだからな」  二人を放っておいて歩き出す。 「シ、シロウ……! 私は遊んでいる訳ではありませんっ」    まだ気が立っているのか、怒鳴りながら後を追ってくるセイバー。  ランサーはそんな俺たちと距離を保ったまま、飄々と付いてくる。    時刻は午前零時。  ここから城までの行程は把握している。  約束の刻限には間に合う筈だ。    ――――到着はおそらく夜明け。    主のいなくなった森の古城に向かって、夜の中を歩き出した。    夜が明けようとしていた。  赤い外套の騎士は柱に背を預けたまま、ただ己が腕を見つめている。  指先に力を込め、広げた手のひらを握る。  感覚は、残り半分といったところだ。  いかに英霊と言えど、この世界に留まれる〈依り代〉《マスター》がいなくては〈存在〉《にくたい》を保てない。  アーチャーのクラスが持つ特殊能力故に存命しているが、それも限界が見えている。    赤い騎士に残された力は、もはや元の一割にも満たない。  握りしめた拳は希薄であり、気を抜けば徐々に風化していくだろう。   「――――――――」  だが問題はない。  残された力が十分の一に満たずとも、衛宮士郎を処刑するには十分だ。  標的との戦力差を考えれば、この程度のマイナスはハンデにすらなりえまい。  故に、戦闘になれば終わる。  彼にとって唯一つの目的となっていたモノが、ここで終わりを告げるのだ。   「――――――――」  ……そう。  彼は、この時だけを待ち続けてきた。  永遠に続く一瞬の繰り返しの中、この確率だけを希望にして耐えてきた。  限りなくゼロに近い確率、本来起こりえる筈のない希望を持つ事しか、彼には出来なかった。    それが叶った。  いや、あと一押しで叶おうとしている。  ……その後に待つものがなんであるかなど、彼にはもはやどうでもいい。  自らを自らの手で殺す。  その、希望というにはあまりにも未来のない願いだけが、摩耗しきった彼をここまで支えてきた物なのだから。   「―――長かったのか。それとも、刹那にすぎなかったのか」    元より呼び出されれば消える身。  それを何百、何千回と繰り返そうと、彼の記憶には残らない。  ただそんな事があった、と知識として大本に記録されるだけだ。  英霊たちがそれぞれ他の英霊を知るのは、そういった“召喚の蓄積”による知識を蓄えているからである。    言うなれば本と同じだ。  一度呼び出される度に、その歴史の本が家に送られてくる。  出かけた筈の自分は家にいて、送られてきた本を見るだけの存在だ。  厄介なのは、その本がいつ送られてきたものなのか、彼本人には判らないという事である。    過去も未来も関係がない。  彼の部屋には初めから全ての『本』がある。  いずれ自身が成すであろう『掃除』の記録を読む事でしか、彼には時間を計る術がない。    彼にとっては永遠も一瞬も変わらない。  永遠は一瞬であり、一瞬は永遠なのだ。  故に、この時間がどれほどの確率で掴んだ奇跡なのかも判らない。  その〈目的〉《きぼう》を得てから、真っ先に呼ばれた時が今なのか、目的を得てから何千回と繰り返した後が今なのか。  ……彼に有るのは順序が狂った知識だけ。  未来も過去も現在も、英霊にとっては有って無い物なのである。   「……来客か。邪魔は入らんというから来てやったのだがな」    不意に、赤い騎士は身を起こした。  その耳が侵入者の音を聞いたのか。  無音の筈の城に、段々と足音が響き出す。   「―――へえ。驚きだね遠坂。半信半疑だったけど、ほんとにこんな所にいたんだ」    声が響く。  無遠慮に足を踏み入れたのは、間桐慎二という少年だった。   「おっと、物騒な真似はなしだぜアーチャー。  こっちはおまえに用はないんだ。おまえだって遠坂に用はないんだろ? ならここで殺し合うコトはないんじゃない?」    間桐慎二は軽い足取りで歩いてくる。  その視線の先には、椅子に縛られた遠坂凛の姿があった。  少女は何も言わず、椅子に縛られたままで闖入者を睨み付ける。  それが悦に入ったのか。  満足げに唇を舐めて、間桐慎二は少女へと近づいていく。   「――――――――」 「あ?」  無言で見下ろされ、間桐慎二は不愉快そうに騎士を一瞥した。   「なに、やるっていうの? 本気かよ、おまえなんて相手になるワケないじゃんか!」    口元を吊り上げ、間桐慎二は入り口に振り返る。    現れたものは金の髪をした青年―――第八のサーヴァント、ギルガメッシュ。  それは、一つの災厄だった。  黄金のサーヴァントは涼しげに赤い騎士を眺めている。    ――――だがその奥。  笑いに歪む赤い瞳には、目前の敵を惨殺する意思しかない。   「――――――――」    赤い騎士は無言のままだ。  間桐慎二が現れようと、目前に最強のサーヴァントが牙を研いでいようと変わらない。  騎士は〈泰然〉《たいぜん》としたまま、招かれざる敵を見据えている。   「はは、ブルってるんだろアーチャー? いいんだぜ、別に恥じゃない。あいつはバーサーカーだって難なく始末したサーヴァントなんだからさ。おまえが怖じ気付くのもとうぜ――――」 「―――凛が欲しいのか、間桐慎二」 「え……? あ、ああ、当然じゃないか。そうでもなけりゃこんな城には近寄らないよ」   「そうか。ならばコトが済むまで待て。衛宮士郎を始末した後ならばくれてやる。  それまで、アレは私の物だ。それが聞けぬとあれば仕方がない。―――不本意だが、ここで死ぬ事になるぞギルガメッシュ」    金色のサーヴァントを見据えたまま、赤い騎士はそう告げた。   「愉快だな、道化」    その発言ですら、男にとっては死に値するのか。  金色のサーヴァントは目前の赤い騎士を、決して見逃さぬ抹消対象として認識した。   「待てギルガメッシュ。はやまるなよ、事はスマートに行こう。いいじゃん、くれるってんだから貰っておこう。  どうせアーチャーはマスターがいないんだ。何度も裏切ったコイツと契約するマスターなんていないんだしさ、ほっとけば消えるんだろ。遠坂はその後で貰えばいい」    口元を吊り上げたまま、間桐慎二は赤い騎士を睨め付ける。  その目は、あと数刻で消えようとする者の末路を愉しんでいるようだった。   「賢明だな、間桐慎二。その判断は的確だ。君はある意味、誰よりもマスターに相応しい」 「なんだ、アンタ見所あるじゃん! もったいない、それなら僕のところに来てれば契約してやったのに!」    赤い騎士から離れ、心底愉快げに間桐慎二は両手を叩く。   「けど悪いね、もう他のサーヴァントなんて要らないんだ。残念だけどさ、おとなしく消えちゃってよ、アンタ」 「言われるまでもない。それで、結局どうするのだ。ここで私と戦うか、私が消え去るのを待つのか」   「ああ、待ってやるよ。衛宮を始末するまで、遠坂は僕たちが守ってやろうじゃないか。  けど、そうだな。となると、アレはもう僕のだろ? なら何をしても構わないと思わない?」    毒蛇じみた視線は、赤い騎士と遠坂凛に向けられたものだ。  赤い騎士の忠誠を試す言葉。  それに、   「―――傷をつけるな、というのが衛宮士郎との契約だが、それは夜明けとともに消える。刻限がきたのなら、後は好きにするがいい」    感情のない声で、赤い騎士は返答した。   「は――――はは、あははははははははははは!  聞いたかよ遠坂、おまえのサーヴァント、マスターを売っぱらうってさ!」    薄汚れた室内に嘲笑が響き渡る。  関心などない、と赤い騎士は部屋を後にした。   「――――――――」 「――――――――」  ギルガメッシュの横を過ぎる。  愉快げに眺めてくる赤い瞳を、無視したまま廊下に抜ける。  その、瞬間。           「――――――――〈偽物〉《フェイカー》」      蔑むように、そう、英雄王は告げていた。    夜が明けようとしていた。  森を進むごとに口数は減り、沈黙は重くなっていく。  この森を抜けた時、衛宮士郎はその男と対決しなくてはならない。  勝算はなく、戦えば敗北するのは必定だ。  ひとたび剣を合わせれば、無惨に殺されるだけだという事も判っている。 「――――――――」  恐れがないのは、開き直ったからでも覚悟したからでもない。  死ぬというのなら、あの男はとうに死んでいる。  それに気が付いてしまった時点で、衛宮士郎も死んだに等しい。  そんな身分で、自身の死をどうだのと憂いる余裕などないだけだ。  城門を抜ける。  この先にある戦いがどんなモノか理解しているのか、セイバーの〈貌〉《かお》は暗かった。    彼女を悩ませているモノは、オレでありヤツだった。  どちらが生きどちらが敗れようと、消える者は同じだ。  そんな馬鹿げた戦いを、彼女は今でも止めるべきだと苦悩している。    中空を見据える目は厳しく、或いは、不毛な戦いに怒っているのかもしれない。  廃墟となった大広間。  〈朝靄〉《あさもや》にけぶるこの場所が、お互いの死地となる。   「来たか。随分と遅い到着だな、衛宮士郎」    冷め切った声が響く。  聞き慣れた声は二階から。  崩れた階段の上、朝日差す踊り場に、その男の姿があった。    赤い外套は遠く、男の姿は白い情景に霞んでいる。    だが見える。  その細部にいたるまで敵の姿を確認できる。  それは、鷹の目を持つというヤツとて同じだろう。    アーチャーの役割を与えられたサーヴァント。  弓兵でありながら弓兵でなく、多くの宝具を持ち、惜しげもなくそれらを散らしていった矛盾した存在。    手にする宝具は全て複製であり、無限に剣を製造する事があの男の宝具だった。    ……その〈真名〉《しょうたい》に、自分だけが気づかなかった。    英霊はあらゆる時代から召喚される。  過去に該当する者がいないのなら、その英霊は未だ誕生していない未来のモノだ。 「……ようやく気づいた。あのペンダントが二つある筈がない。アレは、元々」 「そうだ。アレは命を救われたおまえが生涯持ち続けた物。この世に二つとない、遠坂凛の父の形見だ」    それが二つあるという事自体が、矛盾だった。  ヤツの言う通り、衛宮士郎があのペンダントを生涯持ち続けたというのなら、それは。 「―――英霊の召喚には必ず触媒が必要となる。  おまえがセイバーを召喚したように、召喚者と英霊には繋がりがなくてはならない」 「遠坂凛には、英霊を呼び出す為の触媒がなかった。  故に、彼女は呼び出したサーヴァントに何の縁もないと思い込んだ。  ―――だが、偶然で呼び出される英霊などいない。召喚者と英霊には、必ず物質的な〈縁〉《えん》が必要となる」 「――――――――」  それが正しいのなら、答えは一つだけ。  遠坂がアーチャーに縁の〈触媒〉《もの》を持っていなかったというのなら、それは―――― 「そう。召喚者ではなく、呼び出された英霊そのものが、召喚者に縁のある〈触媒〉《もの》を持っていた場合のみだ」 「――――――――っ」      それは一つしかない、小さな宝石。  命を救われ、その相手が誰かも知らず、ただ救い主の物であろうペンダントを持ち続けた。  ……だから、それが答えだ。  ヤツが遠坂のペンダントを持っていた以上、その正体は一つだけ。    ――――英霊エミヤ。    未来の自分。  未熟な衛宮士郎の能力を完成させ、その理想を叶えた男が、目の前にいる英霊の真名だった。  赤い外套の騎士―――アーチャーは階段からオレを見下ろしている。    周囲に人影はない。  ヤツは一人きりで、この大広間に立っている。 「アーチャー。遠坂はどうした」 「あの小娘なら城のどこかに置いてきたが、気に病むのなら急げ。おまえが来るのが遅いのでな、先に来た間桐慎二にくれてやったところだ」 「な――――んだと」 「おまえとの約束は守っている。オレは手出しはせん。  他の人間が彼女に何をしようが、オレには関わりのない事だ」 「まあ、結果は見えているがな。間桐慎二は遠坂凛に情欲と敵愾を抱いている。アレに凛を預ければどうなるかは考えるまでもない。凛に挑発された小僧は我慢できずに口火を切り、今頃は妙な事になっているかもしれんぞ」 「――――――――!」  冷めていた頭に血が上る。  あのヤロウ、よくもそんな事を平然と――――! 「あー、焦るな坊主。あのお嬢ちゃんならオレに任せろ。  なに、すぐに助け出してやる」 「え……ランサー?」 「マスターからの命令でな。もとから、オレはあのお嬢ちゃんを死なせない為に協力したワケだ。  ……いや、これが思いの他居心地良くてな。昨日のは悪くなかった。自分の仕事を気に入れるってのは、オレにとっては珍しい」  そう軽口を叩きながら、ランサーはアーチャーを無視し、西側のテラスへ向かっていく。 「ランサー」 「気にするな。これはあくまで俺の趣味だ。  ……ま、今までいけすかねえ命令ばっかりだったからな、この命令は最後まで守り抜く。そっちはそっちで、自分の面倒だけみてやがれ」 「――――ああ。遠坂を頼む」  あいよ、と気軽に声を返す。  と。  何を思い出したのか、ランサーは足を止めて振り返った。 「おい。なにしてんだセイバー、おまえも来るんだよ」 「――――――――」  セイバーは、苦しげに目を細めたあと。 「いいえ。私はここに残ります、ランサー」  俺の隣で、サーヴァントらしからぬ答えを返した。 「本気か? 今のマスターはお嬢ちゃんだろう。〈おまえ〉《サーヴァント》 が守るべきはマスターだけの筈だが」 「わかっています。ですが、それでも私はここに残りたい。……私は、この戦いを見守らなければ」 「―――――そうかよ。なら好きにしな」  ランサーの体が消える。  青い槍兵は事も無げに二階のテラスへ跳躍し、振り返りもせず通路へと消えていった。  アーチャーは手出しをしない。  ヤツにとって、遠坂はもう用のない人間だと言うかのように。 「――――――――」  瓦礫を踏み砕いて前に進む。  向かうのは階段の下、この広間の中心だ。  セイバーは一歩も動かず、俺とヤツの戦いを見守ろうと感情を殺している。 「手出しはしないか。それは有り難い。  ここまできてセイバーに邪魔をされるようでは、凛と契約を切った意味がないからな」 「――――――――」  セイバーの躊躇いが聞こえる。  彼女はわずかに息を呑み、遠く階段に佇む男へと声を返した。 「ええ、私は手出しをしません。何があろうと、貴方とシロウの戦いの邪魔はしない」 「それは結構。ならば安心して小僧を始末できるというものだ」 「……はい。ですが、その代わりに一つだけ答えてほしい。アーチャー。なぜ貴方は、シロウを殺そうというのです」 「―――何故も何もないだろう。そいつがオレを認められないように、オレもそいつを認められないだけだよ」 「そんな筈はない……! 貴方はシロウだ。エミヤシロウという人物の理想、英雄となった姿が貴方ではないのですか。なら、ならどうしてこんな、自分を殺すような真似をするのです……!」 「何故そう思う。未熟だった頃の衛宮士郎と、エミヤと呼ばれる英雄となったオレは別の存在だ。そうでなければ同時に存在などできないが」 「それは貴方がサーヴァントになったからでしょう? 時間軸に囚われない守護者になったのなら、自身が生きた時代に呼ばれる事もあると聞きます……!  貴方はシロウだ。シロウがずっと思い描いて、その努力が叶った姿が貴方の筈だ。なのに、どうして――――」    そんな、違うモノになったのですか、と。  彼女は、言葉にしない声で、吐き出した。 「――――――」  答えず、ヤツは階段を下り始める。 「………………」  答える事などできない。  それが答えられるのなら、俺もヤツも、ここで決着をつけようとは思わない。 「アーチャー……!」  身を乗り出してアーチャーに挑むセイバー。 「―――いいんだセイバー。いいから下がっていてくれ」  片手で制して、彼女を入り口へと下がらせる。 「ですが、シロウ……!」 「気持ちは嬉しい。けど話しても無駄だ。あいつは初めから、俺を殺す事だけが目的だったんだから」 「っ…………」  悔しげに唇を噛む。  セイバーは俺を見つめた後、広間に降りようとするアーチャーを見つめた。 「……何故なのです、アーチャー。私には解らない。守護者とは死後、英霊となって人間を守る者と聞いた。その英霊が何故、自分自身を殺そうなどと考えるのか」 「―――――守護者、だと?」  それに何か感じ入るモノがあったのか。  ヤツは歩を止めて、無表情でセイバーを見下ろした。 「違うよセイバー。守護者は人間を守る者ではない。アレは、ただの掃除屋だ。オレが望んでいた英雄などでは断じてない」    その声は、先ほどまでの物とは違っていた。  淡々とした声には憎悪と嘲笑が滲んでいる。 「アーチャー……?」 「オレは確かに英雄になった。衛宮士郎という男が望んでいたように、正義の味方になったんだ」    ――――正義の味方。  誰一人傷つける事のない誰か。  どのような災厄が起きようと退かず、あらゆる人を平等に救えるだろう、衛宮士郎が望んだ誰か。    それに。  あの男は、成れたというのか。 「アー……チャー……?」 「ああ、確かに幾らかの人間を救ってきたさ。  自分に出来る範囲で多くの理想を叶えてきたし、世界の危機とやらを救った事もあったよ。  ―――英雄と。遠い昔から憧れていた地位にさえ、ついには辿り着いた事もある」 「英雄に辿り着いた―――なら、シロウは報われたのですね……?  少なくともここにいる貴方は、エミヤシロウの理想を叶えられたのでしょう?  なら貴方には悔いなどない筈だ。シロウはちゃんと、その理想を叶えたのだから」  訴える声に力はない。  ……彼女は気づいている。  自らの言葉が、そうであってほしいという、願いでしかない事に。 「理想を叶えた、か。確かにオレは理想通りの正義の味方とやらになったさ。  だが、その果てに得たものは後悔だけだった。残ったものは死だけだったからな」 「殺して、殺して、殺し尽くした。  己の理想を貫く為に多くの人間を殺して、  無関係な人間の命なぞどうでもよくなるくらい殺して、 殺した人間の数千倍の人々を救ったよ」 「――――――――」    セイバーは言葉を失ったまま、愕然とアーチャーを見上げる。  それは、己の鏡像を見たような貌でもあった。 「―――そう、そんな事を何度繰り返したか判らないんだセイバー。  オレは求められれば何度でも戦ったし、争いがあると知れば死を賭して戦った。何度も何度も、思い出せないほど何度もだ」 「だって仕方がないだろう。  何を救おうと、救われない人間というモノは出てきてしまう。何度戦いを終わらせようと、新しい戦いは生み出される。  そんなモノがあるかぎり、正義の味方っていうのは有り続けるしかないんだから」  その言葉は誰に宛てたものか。  騎士はゆっくりと階段を下りながら、かつての己を告白する。 「だから殺したよ。  一人を救う為に何十という人間の願いを踏みにじってきた。踏みにじった相手を救う為に、より多くの人間をないがしろにした。  何十という人間の救いを殺して、目に見えるモノだけの救いを生かして、より多くの願いを殺してきた。  今度こそ終わりだと。今度こそ誰も悲しまないだろうと、つまらない意地を張り続けた」 「―――だが終わる事などなかった。  生きている限り、争いはどこにいっても目に付いた。  キリがなかった。何も争いのない世界なんてものを夢見ていた訳じゃない。  ただオレは、せめて自分が知りうるかぎりの世界では、誰にも涙して欲しくなかっただけなのにな」          ―――それは。     紛れもなく、〈衛宮士郎〉《じぶんじしん》の願いのカタチ――― 「一人を救えば、そこから視野は広がってしまうんだ。  一人の次は十人。十人の次は百人。百人の次は、さて何人だったか。そこでようやく悟ったよ。衛宮士郎という男が抱いていたものは、都合のいい理想論だったのだと」 「……それは、何故」 「判りきった事を訊くなセイバー、君ならば何度も経験した事だろう。全ての人間を救う事はできない。  国を救う為にほんの少しの人間を見殺しにする、なんていうのは日常茶飯事だっただろう?」 「……………」  押し黙る声は、反論する意思を奪われていた。  赤い騎士の言葉は、セイバー自身の闇でもあったのだ。 「そう、席は限られている。幸福という椅子は、常に全体の数より少な目でしか用意されない。  その場にいる全員を救う事などできないから、結局誰かが犠牲になる。  ―――それを。  被害を最小限に抑える為に、いずれこぼれる人間を速やかに、一秒でも早くこの手で切り落とした。  それが英雄と、その男が理想と信じる正義の味方の取るべき行動だ」    誰にも悲しんでほしくないという願い。  出来るだけ多くの人間を救うという理想。  その二つが両立し、矛盾した時―――取るべき道は一つだけだ。                正義の味方が助けられるのは、味方をした人間だけ。              全てを救おうとして全てを無くしてしまうのなら、せめて。              一つを犠牲にして、より多くのモノを助け出す事こそが正しい、と。 「多くの人間を救う、というのが正義の味方だろう? だから殺した。誰も死なさないようにと願ったまま、大勢の為に一人には死んで貰った。  誰も悲しまないようにと口にして、その陰で何人かの人間には絶望を抱かせた」 「そのうちそれにも慣れてきてね、理想を守る為に理想に反し続けた。  自分が助けようとした人間しか救わず、敵対した者は速やかに皆殺しにした。犠牲になる“誰か”を容認する事で、かつての理想を守り続けた」 「それがこのオレ、英雄エミヤの正体だ。  ―――そら。  そんな男は、今のうちに死んだ方が世の為と思わないか?」    そうだ。  正義の味方が助けられるのは、味方をした人間だけ。    ……だが。  その言葉に逆らったのは、果たして誰だったのか。 「……それは嘘です。たとえそうなったとしても、貴方ならばその“誰か”を自分にして理想を追い続けたのではないですか」 「――――――」  騎士の足取りが止まる。  ヤツは、わずか。  一度だけ、苦々しげに眉を曇らせた。 「貴方は理想に反したのではない。守った筈の理想に裏切られ、道を見失っただけではないのですか。  そうでなければ、こんな―――自分を殺す事で罪を償おうなどとは思わない」 「――――――」  皮肉げに歪んでいた笑みが消える。  騎士は、凍り付いた貌でセイバーを直視したあと、     「――――は。はは、ははははははは!!」      心底おかしい、と。  はじけるように、笑い出した。 「くく、ははははははは! いや、これは傑作だ。  オレが自分の罪を償う? 馬鹿な事を言うなよセイバー。  償うべき罪などないし、他の誰にも、そんな無責任なモノを押しつけた覚えはない」    騎士は、あくまで冷静に見える。  声は小さく、くぐもった笑いだけが広間に響く。 「ああ、そうだったよセイバー。確かにオレは何度も裏切られ欺かれた。救った筈の男に罪を被せられた事もある。死ぬ思いで争いを収めてみれば、争いの張本人だと押し付けられて最後には絞首台だ。  そら。オレに罪があるというのなら、その時点で償っているだろう?」 「な――――うそだ、アーチャー。貴方の、最期は」 「……ふん。まあそういう事だ。  だが、そんな事はどうでもよかった。初めから感謝をして欲しかった訳じゃない。英雄などともてはやされる気もなかった。オレはただ、誰もが幸福だという結果だけが欲しかっただけだ。  ―――だが、それが叶えられた事はない。  生前も、その死後も」  くぐもった笑いは既にない。  ヤツから漏れる言葉には、もう、憎悪しか含まれていなかった。 「守護者とは、“霊長の存命”のみを優先する無色の力だ。  力は高き処にありて、人の世が滅亡する可能性が生じれば世に下る。  ……ソレがただの奴隷である事は知っていた。  死後、己が存在を守護者に預けたモノは輪廻の枠から外れ、無と同意になるのだと」 「それでも、誰かを救えるのならそれでいい。  かつてのエミヤシロウは、その誓いを守れなかった。  なら―――守護者となって“人間の滅亡”とやらを食い止める一端になるのなら、それでいいと思ったのだ」 「――――だが実際は違う。守護者は人など救わない。  守護者がする事はただの掃除だ。既に起きてしまった事、作られてしまった人間の業を、その力で無にするだけの存在だった」 「ソレは人を救うのではなく、世界に害を与えるであろう人々を、善悪の区別なく無くすだけ。  絶望に嘆く人々を救うのではなく、絶望と無関係に生を謳歌する部外者を救う為に、絶望する人々を排除するだけの殺戮者。  ―――馬鹿げた話だ。それが、今までの〈自分〉《オレ》と何が違う」  ―――何も違わない。  むしろ絶望が増しただけだ。  自分一人の力では叶わないから、より大きな力に身を預けた。    だが、その先も結局は同じだったのだ。  その力ならば叶うと思った事なのに、その力は、ヤツがした事を、更に巨大にしただけのモノだとしたら。 「……アーチャー。貴方は、ずっと、そんな事を」 「それも慣れたよ。人間は繰り返す。どんな時代でも強者が弱者を奪い尽くすのだ。そして、それが最も効率のいい繁栄だと思い知らされた」 「―――ああ、何度も見てきた。  意味のない殺戮も、意味のない平等も、意味のない幸福も……!  オレ自身が拒んでも見せられた。守護者となったオレには、もはや自分の意志などない。ただ人間の意思によって呼び出され、人間が作ってしまった罪の後始末をさせられるだけだったからな」    それが、ヤツが辿り着いた結末だった。  人間が生み出した欲望を消す為だけの存在。  誰かを救うのではなく、救われなかった人々の存在を無かった事にするだけの守護者。    何度も何度も。  自らの手で滅びようとする人間の業を目の当たりにし、それを、ゴミのように焼き払ってきた。    一人でも多くの人間を救うのだと。    その思いだけで英雄になった男は、結局―――ただの一度も、それを叶える事がなかったのか。   「―――そうだ。それは違う。  オレが望んだモノはそんな事ではなかった。  オレはそんなモノの為に、守護者になどなったのではない…………!!!!」    こみ上げる怒声は、おそらく自身に対してのみ。  あそこにいるのは、とうに摩耗しきった残骸だった。  エミヤという英雄は、救いたかった筈の人間の醜さを永遠に見せ続けられる。    その果てに憎んだ。  奪い合いを繰り返す人間と、それを尊いと思っていた、かつての自分そのものを。 「オレは人間の後始末などまっぴらだ。だが守護者となった以上、この輪から抜け出す術はない。  ―――そう。ただ一つの例外を除いて」    冷めた瞳に、揺るぎのない殺気が灯る。  ヤツの目にセイバーはいない。  アーチャーの目的はただ一つ、自身の消去だ。  だが、ヤツは死んだところで輪の外にある“座”に在るエミヤ本体は消え去らない。  守護者となったモノに消滅などありえない。    それはもとより『無』、この世界の輪に無いモノを殺したところで意味はない。  ……だが。  もしヤツが消えられるとしたら、それは一つだけ。  英雄となる筈の人間を、英雄になる前に殺してしまえば、その英雄は誕生しない。    故に―――― 「シロウを、ここで殺すというのですか。他でもない、貴方自身の手によって」 「そうだ。その機会だけを待ち続けた。果てしなくゼロに近い確率だ。  だがそれに賭けた。そう思わなければ自身を許容できなかった。ただその時だけを希望にして、オレは守護者などというモノを続けてきた」 「……それは無駄ですアーチャー。  貴方は既に守護者として存在しているのでしょう。ならもう遅い。今になって英雄となる前のエミヤシロウを消滅させたところで、貴方自身は消えはしない」 「そうかもしれん。だが可能性のない話ではあるまい。  過去の改竄だけでは通じないだろうが、それが自身の手によるモノならば矛盾は大きくなる。  歪みが大きければ、或いは―――ここで、エミヤという英雄は消滅する」 「それにな、セイバー。オレはこの時だけを待って守護者を続けてきたのだ。いまさら結果など求めていない。  ―――これはただの八つ当たりだ。くだらぬ理想の果てに道化となり果てる、衛宮士郎という小僧へのな」  そうして、赤い騎士は広間に降り立った。  瓦礫で埋め尽くされた広間には、俺とヤツだけが立っている。  隔てる物はない。  理由はシンプルだ。  ヤツが俺を殺そうというのなら、俺は、目の前の敵が気にくわないから叩きのめすだけ。 「――――――――」  広間の中心へ踏み出す。  あと数歩詰め寄れば、後戻りは出来なくなる。  その前に、   「アーチャー。おまえ、後悔してるのか」    一つだけ、訊いておくべき事があった。 「無論だ。オレ……いや、おまえは、正義の味方になぞなるべきではなかった」    吐き捨てられる言葉。  それで、最後の覚悟が決まってくれた。 「―――そうか。それじゃあ、やっぱり俺たちは別人だ」 「なに」 「俺は後悔なんてしないぞ。どんな事になったって後悔だけはしない。  だから―――絶対に、おまえの事も認めない。  おまえが俺の理想だっていうんなら、そんな間違った理想は、俺自身の手でたたき出す」    そうやって生きてきた。  それを正しいと信じてここまできた。  ヤツの言う通り、それはやせ我慢の連続でひどく歪だったろう。  得てきた物より、落とした物の方が多い時間だった。    だからこそ。  その、落としてきた物の為にも、衛宮士郎は退けない。    歩を進める。    意識の底には、既に設計図を描き始めた回路がある。 「……その考えがそもそもの元凶なのだ。おまえもいずれ、オレに追いつく時が来る」 「来ない。そんなもん絶対に来るもんか」 「ほう。それはつまり、その前にここでオレに殺されるという事か」 「――――――――」    敵に踏み込む。  もはや剣を打ち合える間合い。  お互いに武器はない。  俺とヤツは徒手空拳のまま対峙する。  衛宮士郎は剣士じゃない。  俺たちは共に剣を造り出すモノ。  ならば―――― 「解っているようだな。  オレと戦うという事は、剣製を競い合うという事だと」    ヤツの両手に双剣が握られる。  ……あの夜。  柳洞寺の境内で見惚れた無骨な双剣。  伝説に残る名工が、その妻を代償にして作り上げた希代の名剣。 「――――〈投影〉《トレース》、〈開始〉《オン》」    出来上がっていた設計図を起こし、イメージだけで双剣を複製する。    ……ソレのなんて不出来な事か。  完璧と思っていた俺の双剣は、ヤツの物に比べればあまりにも曖昧だ。  劣った空想は、その時点で妄想に成り下がる。  恐らく。  あの双剣と打ち合えば、俺の双剣は無惨に砕け散るだろう。 「――――――――」    一歩を踏み込む。  きちり、と。  踏み込んだ足元で、瓦礫が軋む音がする。    ―――それが開始の合図になったのか。   「オレの剣製に付いてこれるか。  僅かでも精度を落とせば、それがおまえの死に際になろう……!」    ―――対峙した剣が奔る。  一対の武装、四つの刃は、磁力で引き合ったように重なり、弾け合った。    探索は容易く終わった。  戦闘専門と思われるランサーだが、その実、彼は魔術に長けたサーヴァントである。  ランサーが影の国と呼ばれる魔城で学んだ物は“〈貫く物〉《ゲイボルク》”だけではない。  十八の原初の〈呪刻〉《ルーン》、その全てを修得しているが故の英雄である。  もっとも、彼本人が魔術より槍による戦闘を好む為、それらの秘術が日の目を見る事は希だ。  その希な日が、今日この時だった。   「――――よし、当たりか」    地を走っていた“何か”が落ちる。  ベルカナのルーンを刻んだ小石は探索を終え、石くれに立ち返る。   「な、誰だオマエ……!?」    見覚えのない少年が慌てて立ち上がる。   「――――――――」    その甲高い声に聞き覚えがある、と思い直し、ランサーは相手が何者であるか思い出した。   「ライダーのマスターじゃねえか。なんだ、とっくの昔にくたばったもんと――――」    言いかけて、言葉を切る。  少年の背後には遠坂凛の姿があった。  椅子に縛られている。  それはいい。  囚われの身なのだから、それぐらいは当然だろう。  だが彼女の姿には、もう少しアクセントが加わっていた。    まず、椅子が地面に倒れている。  椅子に縛り付けられているのだから、当然のように遠坂凛も地面に倒れ込んでいる。  長い黒髪は砂にまみれ、口元には赤いモノが見えた。  唇を切ったのだろう。  わずかではあるが、口元には青あざも見て取れた。   「おまえ、ランサーか……!? なんだよ、誰に断ってここに来たんだ! 話が違うぞ、おまえは―――ぎゃっ!」    無造作に振るった拳は、間桐慎二の頬を薙いでいた。  軽く払った裏拳は、容赦なく少年を壁まで弾き飛ばす。   「お―――ああ、〈悪〉《わり》いなガキ。口より先に手が出ちまった」    無意識だったので殺さずに済んだらしい。  もっとも、遠坂凛の顔色がもう少し青く、あと僅かでも衣服に乱れがあったのなら無意識にはならなかっただろう。その時は意識して、しかるべき報復をくらわせていたに違いない。    断っておくと、捕らえた人間の扱いなどランサーは気にしない。  重要なのは、獲物を他人に横取りされたか否かだ。  彼にとって獲物とは、無論、殺すべき敵と気に入った女に分類される。   「ラン、サー……?」    倒れた椅子に縛られたまま、遠坂凛は声をあげた。  気を失っていたのか、その声は寝起きと大差がない。   「よう。朝だぜ、起きろぐうたら」    場違いな挨拶をして、ランサーは遠坂凛へと近寄っていく。   「え―――な、なんで? ここ、アインツベルンの城よ?」 「承知している。ああ、いいから動くな。今その手枷を切ってやる。その後は好きにしろ。広間に行ってバカどもの喧嘩を止めるなり、裏口から帰るのも自由だ」    ぶん、と風を切って朱色の槍が現れる。   「そ、それは助かるけど―――ランサー、後ろ……!」 「――――――――」  凛の警告に振り返るランサー。   「な――――に?」  ……そこに現れたのは、彼にとっても意外な人物だった。    部屋の隅。  殴り飛ばされた間桐慎二の横を通り過ぎ、硬い足音をたてて現れた人物は、   「そこまでだランサー。協力しろとは言ったが、深入りしろとは言わなかったぞ」    キャスターに殺されたとされる、言峰綺礼その人だった。   「――――綺礼!?」  驚きの声をあげる凛。  その横で、ランサーは〈訝〉《いぶか》しげに神父を睨む。   「……おい。いつから宗旨替えしやがったんだ、おまえ。  オレのマスターは、表には出てこないのが信条だったんじゃなかったか?」 「替えるような宗旨などない。そう言うおまえこそ命令違反だぞランサー。アーチャーの始末を命じた筈だが、仕損じたか?」   「―――ふん。アレは放っといても自滅する。その前にやり残した仕事を片づけにきたんだが―――おまえがここにいる、という事は、そこのガキはおまえの差し金か?」 「人聞きが悪いな。彼とは協力関係だ。聖杯を手に入れる為、共に認め合った仲だが」    瓦礫の中で呻く間桐慎二を見ようともせず、神父はそんな事を言う。   「―――そう。アンタがそう簡単にくたばるワケないと思ったけど。しぶとく生きてるばかりか、裏でこそこそ手を回してたのね。  ……悪趣味ここに極まるっていうか。人畜無害な慎二を懐柔してどうしようっていうのよ、綺礼」   「ふむ―――なるほど、アレを人畜無害ととるか。この状況においても、おまえは遠坂凛らしい。もう少し出来の悪い弟子ならば、惜しむ事もないのだが」    そう漏らして、神父は笑った。  祝福するかのようなそれは、死に逝く者を看取る顔でもある。   「――――――――」    ぞくん、と少女の背に悪寒が走る。  彼女は、それで自分の命運を理解した。  神父は聖者に相応しい微笑みを浮かべ、十年間、弟子だった生け贄を見下ろしている。   「……待てよ言峰。その女どうするつもりだ。教え子を助けたい、と言ったおまえの言葉は嘘だったのか」    少女の前に立ったまま、ランサーは〈言峰神父〉《おのがマスター》を睨む。   「嘘なものか。彼女はここまで育てた大切な駒だ。十年に渡り欺き続けたのだから、そう簡単にリタイヤされてはつまらん。  故に、おまえに彼女の警護を任せたのだ。わずか二日ばかりの延命だったが、親心としては十分すぎるのではないかな」   「――――――――」    神父はランサーを通り過ぎ、地面に倒れ込んだ少女を見下ろす。  少女は倒れたまま、かつての師を睨み付けた。   「エセ神父。アンタならやりかねないと思ったけど、ホントにマスターだったなんてね。監督役のくせにゲームに参加するなんて、反則もいいところじゃない」 「そのわりには落ち着いているな、凛。やはり気づいてはいたのか」   「当然でしょ。自分のサーヴァントを見せなかったのも、アンタを疑ってたからだもの。……けどね。まさか初めっから騙されてるとは思わなかったわ」   「――――初め、から?」    と。  神父は意外な言葉を聞いたように、その顔を曇らせた。   「……なによ。文句あるっていうの、綺礼」 「――――いや。初めからというが、それはどのあたりを指しているのか、と思ってな」    歪む口元。  神父は心底愉快そうに、倒れ伏した少女を見た。   「――――待った。綺礼、アンタ」 「それは今回の聖杯戦争が始まってからか?  それとも―――おまえが言う“初めから”とは、〈前回の聖杯戦争〉《・・・・・・・》を言っているのかね?」 「――――――――」    それで、彼女は全てを理解した。  顔は蒼白と化し、信じがたいものを見るように、十年間師事し続けた男を見上げる。   「……そう。殺したのは、アンタだったんだ」 「当然だろう。恩師であったからな。騙し討ちは容易かった」 「………………」    ぎり、という音。  少女は顔を伏せ、悔しげに歯を鳴らしたあと。   「こ―――のぉ、逝き場に迷えクソ神父……っっ!! 断言してやるけど、アンタに居場所なんてないんだからね! 地獄だってアンタみたいなのは願い下げで、煉獄だって他の連中が図太くなるってんでタライ回しよ!  アンタみたいな逝き損ないはね、性に合わない天国あたりで針の〈筵〉《むしろ》にくるまってろっての……!!!!」    等々、延々と聞くに堪えない罵詈雑言を怒鳴り散らした。    無論、そのような些末事など神父は意に介さない。  が、彼は少女の豹変ぶりに気圧されていた。  遠坂凛がここまで感情を曝けだす事があるなど、間桐慎二は夢にも思っていなかったのだ。   「言峰。遠坂は僕が貰ったんだって知ってるだろう。あいつに用があるのは僕だけだ。アンタはただ、教会でこっちの首尾を待ってればいいんだよ」 「いや。用ならばある。彼女には、ここで聖杯になって貰わねばならないからな」    神父が何を言っているのか、間桐慎二には判らない。  理解しているのは神父と、おそらく、生け贄とされる遠坂凛本人だけだろう。   「アーチャーとセイバーが消えればいい加減頃合いだ。  いらぬ抵抗をされ、〈魔力〉《せんど》を落とされても困る。事は、迅速に済ませてしまおう」    言って、神父は少女から離れた。  倒れた遠坂凛の前には、槍を手にしたランサーだけがいる。   「言峰、貴様」 「そのゴミを始末しろランサー。器に心臓は要らん」    その言葉に反応したのは、間桐慎二だけだった。    遠坂凛は神父を睨んだまま、唇を噛みしめるだけ。  自分がここで殺されるであろう事は、先ほどの神父の笑顔で悟っていた。  助からない事も、助けを請うたところで聞き届けられない事も理解している。  だからこそ、泣き言は絶対に言わなかった。  それが彼女に出来る唯一の抵抗であり、反抗の意思でもある。    最後の最後まで諦めはしない。  この瞬間にも助けがやってくるかもしれないし、何かの手違いで部屋ごと崩れて自分だけ助かる、なんて奇蹟だってあるだろう。   “…………ま、あり得ない話だけど”    諦めはしないが、それが不可能だという事も理解している。    故に、あまり恐怖はなかった。  あるとしたら一つだけ。  自分が死んだ後、勢いこんで助けに来たヤツがどんな顔をするか、想像すると気まずくなる。    泣かれるのはイヤだ。  自分が泣かしたと思うとハラがたってくるし、どう謝っていいか分からない。    いや、そもそも死んでしまったらどう謝るかもないのだが、それでも泣かれるのはイヤだった。     “―――ごめん衛宮くん。わたし、先にリタイヤする”        だから、今のうちに謝ることにした。  それで何がどうなるというワケでもないけど、気持ちはキレイに落ち着いてくれた。   「どうしたランサー。相手は少女だ、貫くのは容易かろう」    神父に情けなどない。  それに、   「お断りだ。今回のは従えねえ。オレにやらせたかったら、その令呪でも使うんだな」    敵を睨む目で、ランサーは返答した。   「なに――――?」    神父の目が細まる。  主と従者。  両者は刃のような視線を交わらせ、室内の空気を凍り付かせる。   「……そうか。仕方あるまい、自分で出来る事に令呪を消費する訳にはいかんのだが……」    左腕を掲げる。  神父は、その腕にある令呪を発動させ、                「では命じよう。――――〈自害しろ〉《・・・・》、ランサー」   「ご――――」    吐血する。  口元からこぼれる血液は、その胸元から流れる鮮血に比べれば、遙かに微量だった。   「言峰、貴様――――」    漏れる声すら、もはや聞き取れない。  槍兵―――ランサーの胸は自らの槍によって貫かれ、その心臓を完全に破壊していた。   「さらばだ。おまえの役目はとうに終わっている」 「っ――――、――――――――――――」    青い甲冑が地に倒れる。   「あ――――あ」  零れる赤色が床を浸食していく。  ……立ち上がる兆候はない。  青い槍兵は主の命により、自らの槍によって敗北した。   「――――――――」    神父の体が動く。  ゆらりとした足取りで少女に歩み寄り、膝をまげてかがみ込む。    ……その心臓。  椅子に縛られた遠坂凛の心臓を、たやすく引き抜けるように。   「なっ……! 言峰、約束が違うじゃないか! 遠坂は僕にくれるって言っただろう!」 「――――――」    神父は答えず、少年を一瞥する。   「だ、だめだ、遠坂はだめだ! そいつには借りがいっぱいあるんだから、生きていてくれなくちゃ困る……!」    ランサーの死体を背に、歯を鳴らしながら間桐慎二は食い下がる。   「――――――――」 「あ――――、う――――」  だが、それも終わった。  神父の視線に耐えられず、少年はじりじりと後退する。  神父は少年から視線を逸らし、ようやく、本命である少女を見た。   「最期に何か言い残す事はあるか。遺言ぐらいは聞こう」    簡潔な言葉。   「……ふん。こういう時のわたしが何を考えているか、アンタなら知ってる筈でしょ」    いつも通りの口調で、遠坂凛は返答する。   「そうだな。最後まで諦めないのがおまえだ、凛。  同時に、覆らない現実を瞬時に認めるのもおまえの素晴らしさだ。  ―――いいぞ。その矛盾は、なかなかに〈芳醇〉《ほうじゅん》だ」    躊躇いなどない。  神父の右手は無遠慮に少女の胸―――心臓の上を鷲づかみにする。   「っ、んっ…………」    その感覚に、少女は目蓋を閉じた。    ザクン、という音。    貫かれた心臓と、流れ落ちる血汐。    うち捨てられた石室は、廃棄されてなお、死体の投棄場所になり果てた。   「――――――っ」    息苦しく息を呑んだのは、遠坂凛だった。  床には血が零れていく。  ボタボタと音をたてるそれは、高いところから。    倒れ伏した少女を見下ろす、神父の胸から流れていた。   「――――――――ぐ」    湧き上がる血液が、食道を逆流する。  胸に穿たれた穴は紛れもなく致命傷。  背後から一刺しにしたソレは、“貫くモノ”と称される呪いの槍に他ならない。   「――――――――」    神父には何の感情もない。  唇を血に濡らしたまま、背後に立ちつくすランサーへ視線を投げた。   「ランサー。貴様」 「……生憎だったな言峰。この程度でくたばれるんならよ、オレは英雄になんぞなってねえ」    皮肉に満ちた声は、誰がどう見ても強がりではある。  ランサーには生気など微塵もない。  心臓はなく、肉体は今にも消滅しかけている。    魔槍が引き抜かれる。  神父は何を遺すでもなく倒れ、絶命した。    いかに魔術を極め、天の加護を持ち得ようと所詮は人間。    呪いの槍で心臓を穿たれて生きている道理がない。   「は――――たく、結局こうなったか、たわけ」    壁にもたれかかり、崩れ落ちる体を引き留める。  だがそれも一時凌ぎだ。  一度地に伏せればランサーとて消え去るのみ。  心臓を失い、マスターさえ失った。  そのランサーが肉体を保っていられるのは、〈偏〉《ひとえ》に彼の“生き汚さ”故である。   「は……はは、あははははは! いいじゃんいいじゃん、バカどもは勝手に殺し合っててよ!」 「え――――慎二……?」    神父の死に様を見つめていた凛は、その笑い声で正気を取り戻す。   「なにが聖杯は君のものだ、だよ。役立たずは最後まで役立たずだったな、神父さん」    言って、間桐慎二は神父の亡骸を蹴りつける。  死体はぴくりとも動かない。  それに満足したのか、少年は全力で神父の顔を蹴った。  ゴキン、と乾いた音が響く。  その感触と快音は、予想以上に間桐慎二の気分を高揚させてくれる。   「けど文句は言わないでおくよ。さっきの事は根に持ってないし、死んじゃったヤツにあれこれ言うのはみっともないしさ」    クスクスと笑う。  理性の箍が外れかかった少年は、おぼつかない足取りで遠坂凛へと近寄っていく。   「待たせたね遠坂。色々邪魔が入ったけど、これでようやく二人きりだ。残るサーヴァントもあと三人。ここで君が泣き疲れた頃には、全部カタがついてるさ」    前のめりに、それこそ〈蜥蜴〉《とかげ》のように手足をついて、間桐慎二は遠坂凛に覆い被さる。   「けど良かった。おまえには色々用があったんだ。ほんと、困るよ遠坂。簡単に死なれちゃあさ、ここまで我慢してきた僕に申し訳がないってもんだろ?」   「―――さあ、媚びてみろよ遠坂。おまえの態度次第で助けてやらない事もないぜ?  それに、聖杯はもう僕の物だ。ここで僕の物になるっていうなら、おまえにだって分けてやっても――――」 「呆れた。本当に馬鹿じゃないの、アンタ」    と。  手足を縛られたまま、遠坂凛は屹然と言い放った。   「な、なんだって……?」 「まだ懲りないのかって言ってるのよ、慎二。アンタは綺礼にいいように使われてただけでしょう。  ……いい、あのサーヴァントは扱いきれるものじゃない。  そんな事、近くにいるんだからアンタだって分かってるでしょう。ならいい加減目を覚まして、こんな殺し合いから手を引けっていうの。  今ならまだ間に合うのはそっちの方よ。死にたくなかったら、一秒でも早くここから逃げ出しなさい」   「ハ――――! 何を言いだすかと思えば、結局は命乞いじゃんか! バカはおまえだよ遠坂。目障りな言峰は死んだんだぜ? いまさら何が僕の邪魔をするっていうんだ」  間桐慎二は少女の体に指を這わせる。  その、瞬間。   「――――おい」    間桐慎二の体は、再度殴り飛ばされていた。   「ぎ――――!」  壁まで吹き飛ばされる。   「ガキが。そいつはテメエなんかが触れていい女じゃねえ」    その様を一瞥しながら、ランサーは気だるそうに少女の下へ歩き出した。   「なに? 死に損ないの分際でボクに意見しようっていうの?」 「――――――――」    槍兵の足が止まる。  少女に歩み寄ろうとしていた足は、そこで間桐慎二へと向けられた。   「っ―――ふ、ふん、大人しく寝ていれば苦しまずに死ねたってのにな。さっきといい今度といい、おまえ、楽には殺さないからな。  ……ほら、出番だぜギルガメッシュ。こいつ、格好つけて死にたいんだってさ!」    声をあげる。  間桐慎二のサーヴァント、最強を冠する英霊殺しのソレは、主の召喚に応じて――――   「……おい。なんだよ、なにやってんだよアイツ……!  聞こえないのか、早く来いって言ってるだろう……!」    声だけが虚しく響く。  黄金のサーヴァントは現れない。  青い槍兵は血にまみれたまま、一歩、耳障りな人間に向かって踏み出した。   「ひ―――く―――くそ、くそくそくそくそ……! なんだよオマエ、死に損ないのクセになに格好つけてんだよ……! 消えろよ、目障りだってわかんないのかよ、この化けも――――」    打突が奔る。   「あ――――」    閃光のような一撃は、正確に、間桐慎二の右肩に突き刺さっていた。   「ひ――――?  ひ、ひあ、ああああああああああ!!!??????」    絶叫が室内を満たしていく。  ランサーはつまらなげに槍を引き抜き、ピタリと、間桐慎二の眉間に合わせた。   「――――失せろ。死に損ないでもな、オマエ程度なら千人殺したところで支障はない」 「ひっ――――は、はあ、はあ、ヒ――――!」    壁に張り付き、向けられた槍に怯えながら、間桐慎二は走り去る。   「……ったく。無駄な体力使わせやがって」    大きく息をはいて、今度こそ少女へと歩み寄った。  風を切る槍は、少女の縛めを紙のように両断する。   「―――ありがとう。助かったわ、ランサー」    自由になるなり、少女はそう口にした。  まとわりつく汚れも気にせず、彼女はランサーに頭を下げる。   「……ふん。ま、成り行きだからな。礼を言われる筋じゃねえ」  途端――――槍兵は、力無く崩れ落ちた。   「ラ、ランサー……!?」    止める手も間に合わない。  背中から壁にもたれかかったランサーは、そのまま地面に腰を落とした。  両足は動かない。  槍兵の手足はとうの昔に死んでいるのだ。  それが立ち上がり、主を貫き、彼女を自由にした事こそが、あまりにも出鱈目だった。   「ごっ…………!」  目を見張る〈喀血〉《かっけつ》が、青い甲冑を真紅に染める。 「……っ。待ってて、すぐに傷を塞ぐから―――!」  血まみれの槍兵に駆け寄る凛。  それを、ランサーは片手で制した。   「無駄だ。オレの〈槍〉《ゲイボルク》で破壊された心臓は簡単には治らん。  だいたいな、そんな余分な魔力は残ってねえだろ、おまえ」 「……けど、それじゃ―――」 「まあ気にするな。こういうのには慣れてる。英雄ってのはな、いつだって理不尽な命令で死ぬものなんだからよ」    飄々とした口振りは以前通り。  青い槍兵は、死の際にあっても、その口調を変えなかった。   「………………」    彼女は言葉もなく立ちつくす。  それを見上げたまま、ほう、と。  肩の荷がおりたように、槍兵は息をついた。   「―――いや。お互い、つまんねえ相棒を引いちまったな」 「……そうね。けど、わたしのはつまんないっていうより、扱いづらいだけだったかな」 「違いない。おまえのような女が相棒だったら言う事はなかったんだが―――生憎、昔っからいい女とは縁がなくてな。  まったく、こればっかりは何度繰り返しても治らねえみてえだ」    自嘲するように笑う。  そうして、   「……さあ、早く行け。こいつはオレが連れて行く。  ―――おまえは、おまえの相棒のところに戻らないと」    青い槍兵は、立ちつくす少女に先を急かした。    その手には〈火〉《アンサス》のルーン。  残った魔力を全て籠めたルーンは、地に刻みつけるだけでこの部屋を燃やし尽くすだろう。   「――――――――」    決意を悟って、少女はランサーに背を向ける。   「―――さよならランサー。短い間だったけど、わたしも貴方みたいな人は好きよ」    大広間へと駆けていく。   「―――は。小娘が、もちっと歳とって出直してこい」    呟いた言葉は、心底愉しげだった。      炎に包まれる。  業火はランサーの体を焼き、主だった男の遺体をも焼き払っていく。    残骸すらなく。    朱色の槍も青い甲冑も、空虚な幻のように、炎の中に消えていった。 「っ――――!」    同じ剣、同じ剣戟が交差する。  衛宮士郎の一閃とヤツの一閃はまったく同等。  だと言うのに、衝突を重ねる度に刃は欠け、体は深手を負っていく。    止めた筈の一撃が、貫通する。  左の〈干将〉《つるぎ》はヤツの〈干将〉《つるぎ》によって砕かれ、凶器は横殴りに俺の体を一閃した。 「は――――づぅぅぅう………!!」    身をひねって躱すも、薄皮一枚とはいかない。  即死にはいたらない傷痕は、確実に肉を断ち、いずれ致命傷となるだろう。 「く―――、そ…………!」    痛みを罵倒でかみ殺し、踏み込んだ敵に右の〈莫耶〉《つるぎ》を叩き落とす……! 「な――――」    それも砕かれ、防がれた。  同じ剣、同じ剣筋だというのに、埋められない壁がある。 「―――おまえの干将とオレの干将が同等とでも思ったか? おまえはまだまだ基本骨子の想定が甘い。  いかにイメージ通りの外見、材質を保とうが、構造に理がなければ崩れるのは当然だ。イメージといえど、筋が通ってなければ瓦解する」    眉間と横腹。  急所を同時に薙ぎ払ってくるヤツの一撃を、   「っ――――あ――――!」    即座に“投影”した双剣で受け流す――――! 「っ――――――――」  眼球が痺れるほどの頭痛。  即座に行った投影魔術の負荷じゃない。  これは、あの頭痛だ。  遠坂を探していた時の直感。  ヤツと向き合う度にしていた微熱。  それが、ここに至って最大の負荷となって、この体を狂わせていく―――― 「は――――あ、あ――――!」    繰り出される剣を弾く。  踏み込んでヤツの体を袈裟に薙ぐ。    ――――その度に、赤い頭痛が〈眼〉《まなこ》を焦がす。    衛宮士郎とエミヤが同時に存在する矛盾なのか。  こうして、お互いがお互いと認識した時から、触れあう度に体がズレる。    ヤツから剣技を〈模倣〉《トレース》し、その複製技術さえ手に入れた。  それが自分に馴染むのは当たり前だ。  ヤツの技術は、長い年月の末に得た、『衛宮士郎にとって最適の戦闘方法』に他ならない。    馴染まない筈がない。  俺は駆け足でヤツに追い付こうとし、本来知ってはいけない未来の自分を知ってしまった。 「あ――――ぐ――――!」    眼球が痺れる。  剣を振るう度、火花を散らす度に、視力を損ないかねないほどの閃光が視界を浚う。    実力では及ばず、一撃毎に視界が真紅に染まる。  それだけなら構わない。  体はとっくにズタズタだ。  頭痛なんてものは、裂かれた腹の焼き〈鏝〉《ごて》めいた重さに比べれば軽い。  問題は、ヤツからいまだ引き出している物があるから、この頭痛が止まないという事―――― 「――――都合五本目だな。投影による複製ではそろそろ限界か。おまえの魔力量はよく解っている。その様では残り三本。……わざわざアレを見せてやったというのに、未だそんな勘違いをしているとはな」  嘲る声には失望が混じっている。  勘違い……?  そんなモノ、言われたところで知ったコトか。  それより今は、この頭痛を。    おまえから流れる、その―――― 「ともあれ、至ったところで不可能ではあるか。今の衛宮士郎が生成できる魔力では足りない。  そう、どちらにせよ――――」  頭痛が強まる。  ヤツは、勝負を決めようと大きく双剣を振り上げ、   「―――貴様に、勝算など一分たりともなかったという事だ!」    十字に交差するように、俺の脳天へと振り下ろした。 「っっ――――!」    防ぎに入った双剣が砕かれる。  体は金槌を打ちこまれたように痺れ、頭痛はついに、眼球だけでなく脳まで焦がした。            ――――流れてくる。    だから、       苦痛なんかより、             〈此〉《これ》のほうが、                    恐ろしい。    それはヤツの記憶だ。  ヤツがここまで変わった理由。  この先、衛宮士郎という人間が味わうであろう出来事が、断片的に視えてしまう。    それが正しいのか正しくないのか、俺には判らない。  きっと判断のつく人間はいない。  美しいものが醜く、醜いものは美しかった。  客観的に見ればおぞましいモノなどない。  なのに、どうしてそんな偏りが生じるのか。    詭弁、詐称、〈奸計〉《かんけい》、自己愛。    見てきたものの大部分は、そういったモノだった。                  ――――体は、剣で出来ている。    ……それでも。  それでも、構わなかったらしい。  誓った言葉と守るべき理想があった。  その為なら何を失っても構わなかった。    人に裏切られても、自分さえ裏切らなければ次があると信じ。  嘆く事もなく、傷つく素振りも見せないのなら。                  ――――血潮は鉄で、心は硝子。    〈他人〉《ひと》から見れば、血の通わない機械と同じ。    都合のいい存在だから、いいように使われた。  周りから見ればそれだけの道具。  けれど、機械にだって守るべき理想があったから、都合のいい道具でもいいと受け入れた。               ――――幾たびの戦場を越えて不敗。         ただの一度も敗走はなく、         ただの一度も理解されない。    誰に言うべき事でもない。  その手で救えず、その手で殺めた者が多くなればなるほど、理想を口にする事は出来なくなる。  残された道は、ただ〈頑〉《かたく》なに、最期まで守り通す事だけだった。    その結果が。  衛宮士郎が夢見ていた理想など一度も果たせず、  はた迷惑なだけの、愚者の戯言だと知ってしまった。               ――――彼の者は常に独り 剣の丘で勝利に酔う。                 見ろ これがヤツの末路。       見ろ これが貴様の結末だ。 「――――――――」    心が、折れる。  同情なんてしない。  同情なんてしない。  同情なんてしない。  同情なんてしない、けれど。  これからその道を、この足が歩くかと思うと、心が欠けそうになる。                 ――――故に、その生涯に意味はなく。          おまえが信じたもの。  おまえが信じるもの。  その正体が嘘で塗りたくられた夢物語だと見せつけられて、まだ―――― 「――――!」    剣戟が迫る。  双剣ではない、尖った角のような剣が心臓を貫きに来る……! 「ぐ、っ――――――――!」  間合いを離す。  手にあるのは、咄嗟に複製したヤツの剣。 「は――――はあ、はあ、はあ、は――――!」    吐き気を堪える。  今、何を――――見ていた、のか。  忘れろ。  見た〈モノ〉《コト》なんて忘れろ。  今はヤツを倒すだけ。それ以外の事にかまっている余裕なんてない筈だ…………! 「―――計算違いか。  前世の自分を降霊、憑依させる事で、かつての技術を修得する魔術があると聞くが……オレと打ち合う度に、おまえの技術は鍛えられていくようだな」 「は――――あ、はあ、はあ、は――――」    両肩で息をして、ヤツの一撃に備える。 「となると、引き出したモノは投影技術だけではあるまい。―――その顔。今にも吐きそうな最低の〈面〉《つら》がまえからすると、おまえも見たな」 「――――――――」    息が止まる。  言わせるな。  思い出させるな。  いま見たものを口にだされたら、俺は。 「ならば話は早い。それは全て事実だ、衛宮士郎」    赤い外套が翻る。  ヤツは一息で間合いをつめ、その一角剣を突きだしてくる――――! 「っ…………!」    一撃で破壊された。  急造、加えて初めて投影した剣など、ヤツに及ぶべくもない――――! 「ふっ――――!」    だが。  こちらは空手だというのに、ヤツはその一角剣を投げ捨てる。  そうして次に投影された物は、覇者の剣と称される〈絶世の名剣〉《デュランダル》―――― 「は、あ――――!」    行程を四節跳ばし、瞬時にヤツの得物を複製する。  当然、そんな紛い物は一撃で粉砕され―――― 「――――――――」    倒れた。  弾かれ、瓦礫の上に背中から落ちる。 「あ――――く」    それで、びっくりした。  俺が倒れただけで、瓦礫は真っ赤に染まっていたのだ。  ……なんだ。  気が付かなかっただけで、俺の体は、外も内も死に体らしい。 「―――そこまでだ。  敵わないと知ってなおここに現れる愚かさ。生涯下らぬ理想に囚われ、自らの意思を持たなかった紛い物。  それが自身の正体だと理解したか」 「――――――――」    声が響く。  体は切り傷だらけ。  そのどれもが、指を埋められそうに深いのには、正直、まいった。 「そんなモノに生きている価値はない。  何よりこのオレが確信しているのだ。衛宮士郎という男の人生に価値などない。  ……ただ救いたいから救うなど、そもそも感情として間違えている。人間として故障したおまえは、初めから、あってはならない偽物だった」 「――――――――」    残った魔力だってゼロに近い。  それだけじゃなく、魔力を走らせる回路自体が、とっくに焼き付いている。  ……いや、焼き付いていると言えば、昨日の投影で焼き付いていたのだ。  これは単に、壊れかけたものが完全に壊れただけ。 「は―――――――」    それでも、体はまだ戦えると訴えている。  折れかかった心が、まだ折れていないと強がっている。   「―――――――あ」    なら。  立って、アイツを、倒さないと。 「無駄な事を。オレはおまえの理想だ。敵う筈などないと、今ので理解できた筈だが」 「はあ――――はあ――――はあ――――」  ……残った意識を、全て回路につぎ込み回す。 「っ」  ささくれ立った神経が悲鳴をあげる。  その中で、動揺する事なく八節を組み上げる。 「――――〈投影〉《トレース》、〈完了〉《オフ》」    手にする物はヤツの双剣。  干将と莫耶、古の刀工の名を冠した名剣。   「ふ――――あああああああああああ!」    振るう。  残った体力、その全てが燃え尽きるまで、絶え間なく攻め続ける……!  双剣を迎え撃つ物はやはり双剣。  アーチャーは得物を干将莫耶に替え、一歩も退かずに俺の連撃を防ぎきる。 「―――そうか。認める訳にはいかないのは道理だな。  オレがおまえの理想であるかぎり、衛宮士郎は誰よりもオレを否定しなければならない」  冷静な台詞は、頭にくる。  こっちは呼吸さえできないっていうのに、ヤツは息一つ乱していない。 「くっ、この――――!」    渾身の一撃。   「チッ」  受け流せず、ヤツの双剣とこちらの双剣が鍔迫り合う。 「は――――、く…………!」  ……双剣ごと押し返される。  腕力の差は歴然だ。  押し相撲では、こちらに勝ち目はあり得ない―――   「ふん―――では訊くがな士郎。  おまえは本当に、正義の味方になりたいと思っているのか?」 「――――――――」    一瞬。  その不意打ちに、頭の中が真っ白になった。 「何を、今更―――俺はなりたいんじゃなくて、絶対になるんだよ……!」    力を込めて、正面から睨み返す。  それを。   「そう、絶対にならなければならない。  何故ならそれは、衛宮士郎にとって〈唯〉《ただ》一つの感情だからだ。逆らう事も否定する事もできない感情。  ―――例えそれが、自身の〈裡〉《うち》から、表れた物でないとしても」    ヤツは、心臓を掴むような言葉だけで止めてしまった。 「―――――な」    自らの〈裡〉《うち》から、表れた物ではない。  それがどんな意味なのか、考えるより先に否定した。  言わせてはいけない。  それに気が付いてはいけない。  知れば、わかってしまえば、衛宮士郎の基盤は跡形もなく崩壊すると。   「ほう。その様子では薄々感づいてはいたようだな。  いや、初めから気づいていて、それを必死に遠ざけていただけだったのか。―――今のオレでは、思い出す事さえできないが」 「――――――――や」  言いかけて、口を噤んだ。    知りたくない。  知ってはいけないと分かっている。  それでも―――知らなければならないと、いい加減わかっていた。    衛宮士郎の矛盾。  何を間違えて、何が〈歪〉《いびつ》だったのかという、その答えを。       「オレには、もはやおまえの記憶などない。  だが、それでもあの光景だけは覚えている。一面の炎と充満した死の匂い。絶望の中で助けを請い、叶えられた時の感情。衛宮切嗣という男の、オレを助け出した時に見せた安堵の顔を」    死ぬのが当然だと思い知らされて、心には何もなくなった。  その時に、助けられた。  俺を助けた男は、目に涙をためて微笑んでいた。    ―――それが。  なんて、幸せそうなのだろうと。       「そうだ。おまえは唯一人助けられた事で、助けられなかった人々に後ろめたさを感じていた訳じゃない。  ただ衛宮切嗣に憧れただけだ。  あの男の、おまえを助けた顔があまりにも幸せそうだったから、〈自分もそうなりたい〉《・・・・・・・・・》と思っただけ」    ……そう。  あの時、救われたのは俺の方じゃない。  ……今まで考える事さえ放棄していた仮定。  もし。もし仮に、あの火災の原因が切嗣にもあるとしたら、彼には耐えられなかった筈だ。    誰一人生存者のいない惨劇。  当事者である切嗣は、死にものぐるいで生存者を捜しただろう。  そうして、いる筈のない生存者を捜し当てた。  助かる筈のない子供と、いる筈のない生存者を見つけた男。    どちらが奇蹟だったかと言えば、それは。 「――――――――」    でも、そんな事はわかっていた。  そんな相手の事情なんて知らない。  俺には、あの地獄の中から救い出してくれただけで十分だった。  たとえそれが自己に向けられた物であったとしても、俺を救おうとする意思も、助かれと願ってくれた〈真摯〉《しんし》さも本当だった。    ……それで十分。  何もなくなっていた自分を、十分すぎるぐらい、衛宮切嗣は救ってくれたのだ。    だから――――       「そう、子が親に憧れるのは当然だ。だがおまえはそれが行きすぎた。  衛宮切嗣に、衛宮切嗣がなりたかった物に憧れるだけなら良かった。  だが、最期にヤツはおまえに呪いを残した。言うまでもないだろう。それがおまえの全てだと言ってもいい」               “―――じいさんの夢は、俺が”    ……それが、答えだった。  自分の何気ない言葉を聞いて、安心したと遺して、俺以上に空っぽだった人は逝った。  その瞬間に、衛宮士郎は正義の味方にならなくてはならなくなった。    自分の気持ちなどどうでもいい。  ただ、幼いころから憧れ続けた者の為に、憧れ続けた物になろうとしただけ。    誰もが幸せでありますようにという願いは。    俺ではなく、衛宮切嗣が思っていた、叶うはずもないユメだった―――― 「気づいているのだろう、士郎。  おまえの理想はただの借り物だ。衛宮切嗣という男がなりたかったモノ、衛宮切嗣が正しいと信じたモノを真似ているだけにすぎない」 「―――――それ、は」  歯を食いしばって、必死に、折れていく心を支える。  だが。 「正義の味方だと? 笑わせるな。  誰かの為になると。そう繰り返し続けたおまえの想いは、決して自ら生み出されたものではない。  そんな男が他人の助けになるなどと、思い上がりも甚だしい―――!」    剣が〈奔〉《はし》る。  〈罵倒〉《ばとう》をこめた双剣は、かつてない勢いで繰り出された。 「――――――――あ」    その、怒濤のような剣戟を目の当たりにして。  〈衛宮士郎〉《じぶん》はここで死ぬのだと、十年前のように受け入れた。  叩きつけられる衝撃。  流麗だった剣筋は見る影なく、ただ、力任せに打ち付けられた。   「は――――」    受けた左腕が震える。  剣を握った指は、その衝撃で折れた。  残った全精力で作り上げた干将も、わずか一撃で歪曲した。   「――――――――」    やられた。  初撃で既に瀕死。ならば迫る次弾を受けきれる道理はない。 「――――――――あ」    だというのに。  心が折れかけているというのに、体は全力で否定する。  それは違うと。  この男の言葉を認めるのも、ここで死を迎えるのも違うのだと、懸命に訴えるように。  ――――顔をあげる。    眼は機能していない。  眼球は敵を写さず、ただ、ヤツの記録だけを流してくる。    ……その中で。  亀のように縮こまって、必死に生き延びようとする自分がいた。    ……聞こえるのは剣の響きだけじゃない。  ヤツは。  その一撃の度に、自らを罵倒する。           「そうだ、誰かを助けたいという願いが綺麗だったから憧れた!」    繰り出される剣を受ける。  莫耶は砕かれた。残る命綱は左の干将のみ。           「故に、自身からこぼれおちた気持ちなどない。これを偽善と言わずなんという!」    その干将も歪に折れ曲がり、存在そのものが薄れかかっている。  ……胸が、痛い。  〈瀑布〉《ばくふ》の如きヤツの剣戟ではなく、その言葉が、衛宮士郎の心を裂く。         「この身は誰かの為にならなければならないと、強迫観念につき動かされてきた。  それが苦痛だと思う事も、破綻していると気づく間もなく、ただ走り続けた!」    ―――繰り返される否定。  それが届くたび、心は戦闘を放棄しかける。  体はとっくに、重撃に耐えられずリタイヤしたがっている。  だというのに。  そのリタイヤしたがっている体は、なお必死になって、ヤツを否定し続ける。           「だが所詮は偽物だ。そんな偽善では何も救えない。  否、もとより、何を救うべきかも定まらない―――!」 「が――――!」    弾き飛ばされる。  バーサーカーもかくやという一撃は、たやすく衛宮士郎の体を弾き飛ばす。 「――――――――」  なのに、踏みとどまった。  無様に背中から瓦礫に落ちる一撃を、懸命に耐えきった。  倒れれば。  倒れれば起きあがれないと、体が頑なに転倒を拒否していた。 「ぁ――――はあ、あ、げ――――ぅ…………!」    消えかかった干将を地面に突き立て、体を預ける。  体は前のめりになったままで、起こす事さえできない。 「は――――あ、はぁ、は――――…………!!」    干将を杖がわりにして、前に倒れ込む体を両手で押さえる。  その姿は、たとえようもなく無様だ。  端から見れば、ヤツに土下座しているようにもとれるだろう。       「―――その理想は破綻している。  自身より他人が大切だという考え、誰もが幸福であってほしい願いなど、空想のおとぎ話だ。  そんな夢を抱いてしか生きられないのであれば、抱いたまま溺死しろ」    生きる価値なし。  否、その人生に価値なし、とヤツは言い捨てた。 「……………………」  武器は消えかけ、体は立っている事自体が無駄。  対して、ヤツは傷どころか呼吸さえ乱していない。    ――――ここに勝敗は決した。    いや、そんなものは初めから決していた。  衛宮士郎では、英霊エミヤに敵う道理などない。  ……だが、それは間違いだ。  実力差がはっきりとしていたのなら、こんなバカげた小競り合いになる事はない。    負けていたのは、俺の心。  自分が間違っていると気付き、アイツは正しいと受け入れた心が、弱かった。  負けていたのはそれだけだ。    なぜなら、ずっと―――― 「…………けんな」   「なに……?」            なぜならずっと―――この体は、おまえには負けないと訴えていた。    偽物と。  おまえの理想は偽りだと蔑まされる度に、力が籠もったのは何の為に――――   「ふざけんな、こんちくしょう…………!!!!」 「――――――――」    届く。  必ず届く。  壊れているなら壊れていないところを使えばいい。  有るモノ全てが壊れたのなら無い部分を総動員しろ。  〈体〉《オレ》がまだ負けていないというのなら、その奥、まだ手つかずの領域に手を伸ばす――――!  ぶつん、という頭痛。  コンマの刹那。おそらく最後になるだろう、ヤツの風景を見た。    理解には至らなかった。  だが、痛みだけは教訓として知れたと思う。    ……自らを表す呪文に、自らを律する韻を持たせた英雄。    そこに込められた真意を、今は判らずとも。  おまえに代わって、その言葉を貰っていく。 「―――――――、体は」    自らに胸を張る為に、その呪文を口にする。  エミヤの言葉はエミヤを傷つける。  それを承知で、おまえは俺を殺す事を望んだ。  長い繰り返しの果てに、そんな事しか望めなくなった。    なら。  おまえが俺を否定するように。  俺も、死力を尽くして、おまえという自分をうち負かす――――!   「――――I am t〈h〉《体》〈e〉《は》 b〈o〉《剣》〈n〉《で》e〈 〉《出》〈o〉《来》〈f〉《て》〈 〉《い》〈m〉《る 》y sword.」    知らず、呟いた。  顔をあげる。  死にかけの体を奮い立たせる。  ごくん、と、喉につまった血の塊を飲み下す。  存在が稀薄だった陽剣干将が確かな実像を帯びていく。 「貴様、まだ」 「―――そうだ。こんなのが夢だなんて、そんな事」    とっくの昔から知っていた。  それでも、それが正しいと思うから信じ続けた。  叶わない夢、有り得ない理想だからこそ、切嗣は追い続けた。    たとえ叶わなくとも。  走り続ければ、いつか、その地点に近づけると。 「そうか、彼女の鞘……! 契約が切れたところで、その守護は続いている……!」  剣を構える。  そんなのは知らない。  俺は、ただ、   「―――おまえには負けない。誰かに負けるのはいい。  けど、自分には負けられない―――!」    最後まで、衛宮士郎を張り続ける――――!                ―――それは、ありえない剣戟だった。   「ぬっ――――!?」    斬りかかる体は満身創痍。  指は折れ、手足は裂かれ、本人は気づいてさえいないが、呼吸はとうに停止している。  踏み込む速度も取るに足りなければ、繰り出す一撃も凡庸だ。    彼の知識を吸収し、戦闘に耐えうる域まであがったというのに、その様は元の少年に戻っている。    出鱈目に振るわれた、あまりにも凡庸な一撃。  ……だというのに。  その初撃は、今までのどの一撃よりも重かった。   「な――――に?」    放心は、秒を持たずに驚愕へと変わった。  奮われる剣は叫びのように。  彼の想像を遙かに超えた速度で、長剣を軋ませた。    ―――何処にこれだけの力があるのか。  鬩ぎ合う剣戟の激しさは今までの比ではない。   「貴様――――!」    受けになど回れない。  この一撃ならば確実に首を跳ばす。  軽んじられる状況ではないと判断し、彼は己が剣を走らせる。    上下左右。  一息で放つ四撃は、この身を挽き潰すに有り余る――!   「……………………!」    それを、防いだ。  否、必殺の四撃を上回り、剣風は彼の首を刎ねに来る―――!   「――――――――!」    咄嗟に長剣を返し、振るわれる一刀を捌く。   「こいつ……!」    攻めなければ倒される、と直感した。  長剣は死に体である敵を襲い、  少年はがむしゃらに剣を振るう。  拮抗する両者の剣戟。  空間は火花に満ち、立ち入るモノは瞬時に切り刻まれるだろう。    ―――だが、それは終わりの見えた者が見せる、最後の炎にすぎない筈だ。  少年は一撃放つ度に息があがり、倒れそうになり、踏みとどまって次の一撃を振るう。   「――――――――」    それを見て、彼は確信した。  敵に力など残っていない。  目の前の小僧は、見たとおりの死に体だ。  だが。  だというのに何故、剣を振るうその手に、際限なく力が宿るのか。    ――――意識などない。  もう敵が何をしているのか、自分が振るう剣が通じているのかさえ読みとれない。  筋肉は酸素を求めて悲鳴をあげ、足りなすぎる血液は運動停止を命じ続ける。  その〈悉〉《ことごと》くを、力ずくで押し殺した。   「……じゃない」    頭をしめるのはそれだけ。  自分の思いは偽物。コイツの言うとおり、正義の味方になんてなれないだろう。  衛宮士郎はそれに憧れ続ける限り、目の前の男と同じ末路を辿る。   「……なんかじゃ、ない……!」    だが、美しいと感じたのだ。  自分の事より他人が大切なんてのは偽善だと判っている。  ―――それでも。  それでも、そう生きられたのなら、どんなにいいだろうと憧れた。    朽ち果てる寸前の体を動かすのは、ただ、それだけの思いだった。   「――――――――!」    敵が何を言っているのかも、彼には聞き取れなかった。  それほど敵の声は弱く、その剣戟は苛烈だった。    見れば剣を握る両手は、とうに柄と一体化している。  剣を固定する為だろうが、アレでは直接体に衝撃が響く。  血にまみれ、彼が一歩下がるだけで前のめりに倒れ込み、死体となる。    そんな少年にとって、振るう一撃は地獄の苦しみと同意の筈だ。   「――――――――」    それを苛だたしく受ける。  死に損ないの敵も癇に障るが、  一歩後ろに下がるだけで終わるというのに、それを成さぬ自分にも苛立った。 「――――――――」  だが、どうして引き下がる事ができよう。    もはや駆け引きも何もない、まっすぐな敵の剣戟。  そんな幼稚な剣に背を向ける事が恥ならば、その一撃を受け止めない事も屈辱だった。    一歩、後ろに引くだけで相手は自滅するというのに。  一歩でも引けば、決定的なモノに膝を屈する予感がある―――   「――――――――」    その〈煩悶〉《はんもん》もじき終わる。  敵はとうに限界だ。もって三撃。三度弾き返せば、あとは自分からバラバラになる。   「――――――――チ」    下らぬ思いつきに舌打ちした。  先ほどはあと二撃と見た。その結果、こうして十を超える剣戟を受けている。    少年は倒れない。   「……………………!」    聞き取れない声。  瀕死のソレは、一心に目前の障害へと立ち向かう。    ―――その姿を。  彼は初めて、己が瞳で直視した。    襤褸みたいな腕で、届くまで振るい続ける。  あるのはただ、全力で絞り上げる一声だけ。   「……、じゃない……!」    叩き込む剣戟は、その叫びの代償だ。  ……助けられなかった人たちと、助けられなかった自分がいる。  いわれもなく無意味に消えていく思い出を見て、二度と、こんな事は繰り返させないと誓った。   「……なんかじゃ、ない……!」    それからどれほどの年月が流れたのか。  無くしていった物があって、  落としていった物がある。  拾いきれず、忘れ去ってしまう物はいつだって出てくるだろう。  だから、これだけは忘れないように誓ったのだ。    ――――正義の味方になる。    それが自分の願いでないとしても、自己の罪を薄める為の詭弁であったとしても、守り抜こう。  叶わないと。  幼い頃、自分を救ってくれた人が寂しげに遺して逝った。    その言葉に籠められた願いを、信じている。  世界中の人間に〈疎〉《うと》まれても、こうして自分自身に呪われても、それだけは――――    そうして。  繰り返される剣戟に終わりはないと、彼は悟った。    この敵は止まらない。  決して自分からは止まらない。  渾身の力で打ち込んでくるものの、敵の意識は彼を捉えてなどいない。  少年が斬り伏せようとしているものは、あくまで己を阻む自分自身。  信じてきた物、これからも信じていく物を貫き通す為に、敵は剣を奮っていた。   「――――――――」    それに気が付いて、彼は忌々しげに歯を噛んだ。  勝てぬと知って、意味がないと知って、なお挑み続けるその姿。  それこそが、彼が憎んだ彼の過ちに他ならない。    ―――だというのに、何故。    それがどこまで続くのか、見届けようなどと思ったのか。   「っ………! そこまでだ、消えろ――――!」    長剣を振り上げる。  敵の剣戟は、もはや手を抜ける物ではない。  敵の剣撃を弾き返し、返す刃で、確実に頭蓋を砕く。    ギン、という音。  必殺の筈のそれは、容易く弾かれた。  今まで一度も防ぎきれなかった筈の相手が、彼の渾身の一撃を当然のように弾き返した。   「――――――――」    息が止まる。  剣を弾き、一際大きく剣を構え直す敵の姿。    その目は、やはり。  まっすぐに、自分だけを――――    その衝撃で、どちらかの腕と足が折れた。  痛覚は麻痺などしていない。  失神しかねない痛みに、猛りだけでフタをする。  水分が足りない。そんな余分な物は流せない。  敵の左胸はがら空きだ。半身が折れた今、これが最後の一刀になる。  だが、そんな事は頭にない。  あるのは、ただ。      無防備になった左胸を守ろうと長剣を斬り返す。    間に合う。    彼ならば、それは容易く間に合う行為だ。    それが、最後だった。   「……間違い、なんかじゃない……!」    頭にあるのはそれだけだ。  衛宮士郎が偽物でも、それだけは本当だろう。  誰もが幸せであってほしいと。  その感情は、きっと誰もが想う理想だ。    だから引き返す事なんてしない。  何故ならこの夢は、決して。          ―――まっすぐなその視線。       過ちも偽りも、     胸を穿つ全てを振り切って、     立ち止まる事なく走り続けた、その―――           「―――決して、間違いなんかじゃないんだから……!」    言葉が、胸に突き刺さる。  血を吐くような決意で奮った一撃と、間に合う筈の守り。    その歯車はかみ合わないまま、あっけなく、この戦いに終わりを告げた。   「――――――――」    ざくん、と。  胸に刃物が突き刺さる音を、彼は聞いた。   「――――――――」    驚きは、無論、赤い騎士の物だ。  敵は打倒する決意をこめて一刀した。  ならば仕留めるのは道理。  そこに驚きを挟む余地などないし、そんな余裕さえ、少年にはなかっただろう。   「――――――――」    故に、驚きは騎士だけのもの。  あれほど〈容易〉《ようい》に捌ける筈の一撃を捌けなかった事が、本当に不思議だった。    倒れそうになる体を、唯一満足な右足で支える。  手にした〈干将〉《つるぎ》は、確実にアーチャーの胸を貫いていた。   「アーチャー、何故」    ……ずっとそこで見守っていたのか。  大広間の入り口に立ったまま、セイバーは問いかける。 「――――――――」  アーチャーは答えない。  答える必要がないと取ったのか、それとも―――ヤツ本人にも、その答えはなかったのか。 「っ――――」    ずくん、と指先が痺れる。  折れた指は、もうこれ以上剣を握っていたくないと告げている。 「――――――――」    ……赤い騎士は動かない。  いかに胸を貫かれたとはいえ、サーヴァントなら十分に反撃ができるだろう。  だが、ヤツの両手は下げられたまま動く気配がない。  それが何を意味するのか、言われなくても判っている。   「俺の勝ちだ、アーチャー」    見据えたまま宣言する。  赤い騎士は、一度だけ目蓋を閉じ、   「―――ああ。そして、私の敗北だ」    遠くを見つめたまま。  そう、己に言い聞かせるように呟いた。    ―――剣を引き抜く。  投影した剣は外気に触れた途端、元からそうであると言うように、ザラザラと散っていった。 「あ―――――――、つ」    全ての緊張が切れて、ようやく自分の体に振り返る。 「…………は」  酷いもんだ。  斬られた傷は治りかけているようだが、ところどころが赤黒く変色している。  ……アーチャーはセイバーの鞘のおかげだ、とか言っていたが、それにしたってどんな基準なんだか。  斬られた肉はすぐ治すクセに、折れた骨は後回しらしい。 「……?」    と。  広間の西側、ランサーが消えていった廊下から、慌ただしい足音が聞こえてきた。  誰かがやってくる。  そいつは二階のテラスに現れると、躊躇する事なく広間へと飛び降りて、   「い、っぅぅぅ――――」    なんて、落下の衝撃に苦しんだ。 「士郎、無事―――  って、アーチャー、アンタその傷どうしちゃったのよ……!」    慌ただしくやってきた遠坂は、やっぱり慌ただしく声を上げた。  約束通り、ランサーは遠坂を助け出してくれたようだ。  に、したって―――遠坂の元気っぷりには、正直毒気を抜かれた。  あいつは俺の無事を確かめたいのか、アーチャーの傷に怒っているのか、いったいどっちなんだろうか。 「…………まったく、つくづく甘い。  彼女がもう少し非道な人間なら、私もかつての自分になど戻らなかったものを」  皮肉を言うものの、そこには温かな響きしかない。  赤い騎士は遠く遠坂を見た後、一歩、退場するように〈踵〉《きびす》を返す。 「ともあれ決着はついた。おまえを認めてしまった以上、エミヤなどという英雄はここにはいられん。  ――――敗者は、早々に立ち去るとしよう」 「――――――――」  遠坂に別れも告げずにか。  ……傷は深く、マスターもいない。  ヤツはここで消え、また、英霊として同じ場所に戻る事に―――― 「え――――?」    それは、一瞬の出来事だった。  遠坂を見て弛緩しきった俺の隙をつく、必殺の一撃。  繰り出された剣は複数。  剣の雨は、ぼんやりと立ちつくす衛宮士郎の体を串刺しにしようとし――――  倒れ込む。  弾かれ、瓦礫の上に尻餅をつく。 「―――――――」 「ぐっ…………!」  突き飛ばされたのは一メートル程度。  目の前には。  ……折れた手足はうまく体を支えられず、体には立ち上がる力さえ残っていない。  俺は、そうして。  目の前で串刺しになった自分を、見上げる事しかできなかった。 「何者―――!」    セイバーの恫喝が沈黙を裂く。  それは広間の二階―――崩れた階段の上に向けられていた。 「楽しませてもらったぞ。偽物同士、実にくだらない戦いだった」 「貴様、アーチャー……!?」 「十年ぶりだなセイバー。おまえとはもう少し早く顔合わせをする気であったが、予定が変わった。予想外の事故ばかり起きてな、〈我〉《オレ》の思惑とはズレてきてしまったのだ」    バーサーカーを倒し、イリヤスフィールをその手にかけた〈英霊〉《サーヴァント》、ギルガメッシュ。  ……ソレはセイバーの凝視を受け流し、串刺しになっているアーチャーと、その前で倒れている俺を見下ろした。 「さて、理解したか。それが本物の重みというものだ。  いかに形を似せ力を似せようが、所詮は作り物。本物の輝きには及ばない」    ―――片腕が上がる。  ソレは、まるで配下の兵に命じるように、 「偽物が作り上げた贋作など見るのも汚らわしい。  ―――クズめ。貴様らの〈裡〉《うち》には何一つ真作が存在せぬ。  他人の真似事だけで出来上がった偽物は、〈疾〉《と》くゴミになるがいい」    無数の宝具を、広間へと撃ち出した。  避けられない雨が降り注ぐ。  繰り出される宝具は、数にして三十弱。  たとえ五体が満足であったとしても、それだけの剣戟は防ぐ事も躱す事もできない。  砂塵が舞い上がる。  叩きつける爆撃によって広間はさらに倒壊していく。    ―――その中で、見た。    赤い外套が翻る。  ヤツは串刺しにされたままで俺へと走り寄り、もう一度突き飛ばした。 「――――――――」  遠ざかっていく赤い姿。  その眼が、強く語りかけていた。   “―――おまえが倒せ”と。    オレを負かした以上、正義の味方を目指す以上は、あの敵を倒しきれと。    視界が砂塵に埋め尽くされる。  赤い外套が瓦礫に沈む。  その姿が消え去る前に、たしかに見た。    確信を帯びた瞳。    ―――あのサーヴァントは、〈衛宮士郎〉《おれたち》の敵ではない。    ヤツを仕留めるのはセイバーでも遠坂でもない。  あの黄金のサーヴァントにとって、衛宮士郎こそが天敵なのだと、俺自身が告げていた――――    視界が晴れていく。  舞い上がった粉塵と、一層高く積み上げられた瓦礫。  その後には何もない。  赤い騎士は瓦礫に埋もれたまま、俺たちの前から消え去った。 「ほう、驚いたぞアーチャー。あの傷で他人を救う余裕があったとはな」    皮肉げな言葉は、同時に嘲笑をも含んでいた。  男はアーチャーの〈鮮血〉《ざんがい》がこびりついた広間を見下ろしながら、満足げに口元をつりあげる。 「――――――――」  沈黙が落ちる。  現れたギルガメッシュは、この場で最も力のある存在だった。  下手に動けばアーチャーの後を追う。  セイバーでさえ唇を堅く閉じ、敵に向かう機会を見定めている。    ――――が。 「―――この、誰に断ってわたしのアーチャーに手を出してんのよ―――!」    アーチャーを失った遠坂は、とっくに冷静さなんて無くしていた。  光が走る。  宝石に籠めた魔力を叩き込むだけの、なんの加工もしていない純粋な破壊の衝撃。  ヤツは躱す事さえしない。  甘んじて受けた体には傷一つなく、   「死に損ないを先にするつもりだったのだが。  順序が変わったな、女」    背後の剣に、遠坂の処刑を命じた。  高速で放たれた剣。  それを上回る速度でセイバーは疾走し、己がマスターを守っていた。 「セ、セイバー……!?」 「凛、下がって……! あの男は危険だ、手を出せば殺されます……!」 「ほう、今のマスターはその小娘か。  ―――よかろう。ならば今の無礼は不問に付す。〈セイ〉《お》〈バー〉《まえ》を失っては愉しみが減るからな」 「――――――――」  セイバーは手に不可視の剣を構えたまま、頭上の敵を睨み付ける。 「なぜここにいるアーチャー。御身は前回の聖杯戦争で呼ばれたサーヴァント。  その貴方が、なぜ今回も現界している」 「何故も何もあるまい。前回の戦いが終わった後、我は消えずにこの世に留まっただけだが」 「な―――そんな馬鹿な。サーヴァントは聖杯が消えた時点で、この世との接点を無くす筈だ……! ならば、貴方が十年もの間留まっていられる筈がない……!」 「そうでもないぞ。元より、この世との接点は聖杯ではなく依り代となった〈魔術師〉《マスター》だ。聖杯はあくまで道を通したにすぎん。聖杯が消えた後も、魔術師が魔力を提供し続ければこの世には留まれる」 「尤も、聖杯の助力なしでサーヴァントを維持できるマスターなどそうはいないがな。その点で言えば、〈我〉《オレ》の依り代は魔力不足ではあった」 「……? ならば、どちらにせよ貴方が留まれる筈がない。サーヴァントを持つ事にマスターが耐えられないなら、貴方は召喚者ともども枯渇している筈だ」 「それもやりようであろう。魔術回路が少なければ知識で補うのが魔術師という輩だ。  その点で言えば、〈我〉《オレ》のマスターはなかなかに筋金の入った男だった」  ……男〈だった〉《・・・》……?  じゃあアイツのマスターはもういない、という事なのか……?  いや、ヤツのマスターは慎二だ。  己以外は何者も認めぬ、という〈あの男〉《ギルガメッシュ》が慎二に従っていたのが何よりの証拠じゃないか。 「……では。貴方のマスターは、ライダーのマスターと同じように」 「ああ、自己で補えなければ他人から奪うのは当然だろう。  だが、実を言えばそのような手間も要らなかったのだがな。〈我〉《オレ》は聖杯を浴びた唯一のサーヴァントだ。この時代における受肉など、十年前に済ませている」 「――――――――」  愕然と男を見つめるセイバー。  十年前という言葉に、彼女は痛ましげに眼を伏せた。 「そう、おまえのおかげだぞセイバー。  アレが何であるか、我は誰よりも熟知している。なにしろその深奥をぶちまけられ、中に『在る』ものを見たのだからな」 「――――では。あの時、貴方は」 「ああ、聖杯の正体を理解したのだ。  ―――その時に決めた。アレは、〈我〉《オレ》だけが扱うとな」  セイバー。  いや、広間にいる俺たちを見下ろしながら、黄金のサーヴァントは、サーヴァントにあるまじき宣言をする。 「聖杯を――――貴方が、使うだと」 「そうだ。マスターなどという寄生動物に分け与えてやる義理もあるまい。〈我〉《オレ》は〈我〉《オレ》の目的の為に聖杯を使おう。  その最大の障害であった召喚者も先ほど消えた。  残ったモノは依り代にもならぬ魔術師もどきだけだ。  〈我〉《オレ》の望みには、その成り損ないこそが相応しい。  尤も―――おまえの肉ならば、或いは完全な聖杯が出来上がるやもしれんが、さて」  男は遠坂を睨め付ける。 「ぁ…………」  身の危険を感じたのか、遠坂は顔を青くして後じさった。  ……赤い瞳は、例えようもなく不吉だった。  あんな眼で見据えられては生きた心地なんてしない。  あの気丈な遠坂が怯えるほど、男の眼は常軌を逸していた。 「―――馬鹿な。聖杯はマスターが得るものだ。  我らサーヴァントでは得られないからこそ、マスターに協力するのだろう……!」 「それこそがおかしな話だ。  聖杯に触れられるのはサーヴァントだけでありながら、聖杯を得られるのはマスターだけだというのか?」 「ぁ――――しかし、それは」 「……ふん。全てはくだらぬ戯言だ。  七人のマスターによる聖杯の奪い合い? 最後の一人となったマスターのみが聖杯を得る儀式だと?  そんなものはただの隠れ蓑にすぎん。  もとより聖杯の降霊など済んでいる。連中は毎回、聖杯を用意してから七人のサーヴァントを呼ぶ。  解るか騎士王。連中が必要としたのは聖杯ではなく、その〈中に入る〉《・・・・》モノだ」 「マスターなど、もとは我らを呼ぶ為だけの回路にすぎん。魔術師どもはな、聖杯を造りはしたがその中身を用意できなかった」 「先ほども言っただろう? 自己で補えないのなら、余所から奪ってくるのがヤツラだと。  聖杯を満たす最高純度の魔力。  守護者とも言える、“霊長最強の魂”こそが、ヤツラが求めたものだ。七人のサーヴァントとはな、もともと聖杯にくべられる生け贄の事らしいぞ?」 「――――――――な」    セイバーは愕然と男を見上げる。  その目は、必死に男を否定しようとしていた。  ……そんな筈はない、と。  自分が求めた〈聖杯〉《モノ》が、そんな歪な物である筈がない、と言い聞かせるように。 「驚く事はあるまい。聖杯は魂という、本人でなければ制御できぬ力を純粋な魔力に帰す濾過器だ。  ああ、確かにそれならば願いは叶おう。魔術師どもにとっては、永遠に使い切れぬ魔力量だろうからな。  故に、生け贄は多ければ多いほどよい。六人ものサーヴァントをくべれば、それは万能と言えるだろう。  聖杯が汲み取ったサーヴァントは五人。やつらが目指した万能の釜までは、あと一人分で十分だ」 「―――それでは。それでは、やはり聖杯はマスターにしか扱えない。聖杯が純粋な魔力の貯蔵庫だというのなら、扱えるのは魔術師だけだ。  ……そう、そうだ。持ち主となるマスターさえ優れた術者なら、きっと――――」 「あらゆる願いを叶えられる、か?  たわけ、人間風情にそのような奇蹟は与えられん。どれほど強大な力を持とうと、自滅するのが人間というものだ。  だが―――安心しろ、セイバー。  この聖杯は本物だ。きちんと七人分の英霊を組み込めば、必ず〈原初に到達する〉《・・・・・・・》」 「……原初……? ちょっと待った。じゃあ聖杯って、まさか」 「何者かは知らんが、最初にこの〈仕組み〉《ルール》を敷いた者は間違いなく神域の天才だろうよ。  まあしかし、〈我〉《オレ》には関係のない話ではある。〈我〉《オレ》はそんなモノに興味はない。あるのは聖杯の“〈孔〉《もん》”としての能力だけだ」 「な――――聖杯が〈孔〉《もん》、だと――――?」 「……ふん。  十年前だセイバー。あと一歩で聖杯を手に入れるという時、〈我〉《オレ》はおまえに阻まれた。  聖杯は聖剣によって両断され、こぼれおちたモノは炎となって街を焼き払った。聖杯の真下にいた〈我〉《オレ》は、当然その〈奔流〉《ほんりゅう》を一身に浴びたのだ」 「その時に聖杯の正体を知った。  ―――実に下らぬ。下らぬが、使い道はある。  数ある兵器の中でもアレほど殺人に特化したモノはあるまい。アレはあのままでいい。万能の釜になどする必要はない」 「兵器―――聖杯が、サーヴァントをもって生み出すモノが兵器だというのか、アーチャー」 「もともと我らとて兵器だろう。アレはそれを突き詰めたモノにすぎん。聖杯とは地獄の門。一度開けば、中からは五十六億もの呪いが溢れ出す。  言峰は言っていなかったか?  聖杯の名は“〈この世全ての〉《アンリ・マユ》悪”。  その名の通り、全ての人間を食い潰す終わりの泥だと」    ……アンリマユ?  それはたしか、拝火教における魔王の名だ。  神に対抗し、何千年もの間戦いを続ける魔の統率者。  人間全ての悪意の具現とされるソレは、人間全ての善意の鏡像として描かれる。    ―――だが何故、古代ペルシャにおける悪魔の名が聖杯に付けられているのか。 「――――では。貴方の目的は、人間の」 「そう、一掃だ。〈我〉《オレ》は言峰のように、人間を愛でようと努める気はない。愛でるべきは美しいモノだけだ。  この世界は楽しいがな、同様に度し難い。  凡百の雑種が生を謳歌するなど、王に対する冒涜だ。  それでは治める気にもなれん」 「ば―――馬鹿じゃないのアンタ!? 何が王に対する冒涜よ……! 人間が一人もいなくなったら、それこそ王様の意味なんてないじゃない!」 「死に絶えるのならばそれでよい。自らの罪で消え去るのなら、生きる価値などあるまい。  〈我〉《オレ》が欲しいものは雑種ではない。地獄の中ですら生き延びられるモノにこそ、支配される価値がある。  その点で言えば前回のは落第だったな。あの程度の火で死に絶えるなど、今の人間は弱すぎる」  口元がつり上がる。  ヤツは、初めて。  ヤツの言う落第者であろう俺を見た。 「“この世全ての悪”とやらが何物であるかは知らん。  だが都合がよいだろう? 全ての人間に等しくおちる死の咎。  人より生まれた、人だけを殺す底なしの闇。  本来〈我〉《オレ》がすべき仕事を任せるには相応しい猟犬だ」  ギルガメッシュの片腕があがる。  その背後には、王の命令を待つ宝具が控えている。 「では十年前の続きといこう。あの時はくだらぬ〈雑種〉《ゴミ》が混ざったが、此度はあのような〈雑種〉《ゴミ》はおらん。  尤も―――それ以上に〈質〉《たち》が悪い〈偽物〉《クズ》が混ざっているようだが……!」  剣の切っ先が、一斉に俺へと向けられる。   「っ…………!」    立ち上がろうと足に力を入れるが、折れた足はぴくりとも動いてくれない。    ……クソ、あの中の一本だって、俺には防ぐ事はできない。  なのにどうして―――アーチャーのヤツは、あんな意思を遺しやがったんだ……! 「む」    剣が消える。  黄金のサーヴァントは、唐突にその腕を下げた。  ヤツは不快げに天井を見た後、ぱん、と肩に落ちた埃を払う。 「―――〈煤〉《すす》で汚れる。命拾いしたな、小僧」 「え……?」  ……城が燃えている。  誰が火を付けたのかは知らないが、よほど強い火の手なのだろう。  既に城の三階は炎で包まれ、火の手は二階にまで及んでいた。  ……いや、驚くのはそんな事ではなく。  あいつは本当に、煤で汚れるなんて理由で、戦闘を放棄したのだ。 「逃げるのですか、アーチャー」 「場所を変えるだけだセイバー。聖杯は〈我〉《オレ》の手にある。  事は迅速に済ますのが〈我〉《オレ》の方針だからな。早々に聖杯を作り、地獄の孔を開けてやろう」  金の髪が靡く。  ギルガメッシュは火の手のないテラスへと歩いていく。 「取り戻したければ早めにしろ。  何しろ今回の聖杯は急造の欠陥品だ、急がなければ中身が全てこぼれてしまうぞ……!」  押し殺した笑いが響く。  そうして、ヤツは炎上する城から立ち去った。  広間には火の粉が舞い始め、天井は刻一刻と赤く染まる。    ……絢爛だった城に、かつての面影はない。  主を失った城は白い少女の後を追うように、跡形もなく崩れていった。   「はあ、はあ、はあ、は――――!」    獣じみた息遣いのまま、間桐慎二は森を彷徨っていた。  いや、実際は確かな道順に基づいて走っているのだが、その心情は迷走に等しい。  目的もなくただ逃げ帰るだけの体では、〈彷徨〉《さまよ》うという表現の方が相応しかろう。   「くそ―――あと少し、あと少しっていうところでどいつもこいつも邪魔しやがって……!」    片腕で枝をかき分け、湿った土をまき散らして走る。  点々とした血の跡を残しながら、間桐慎二は森の出口を目指していた。  ランサーに刺された肩は、当然治療などしていない。  右腕の感覚はとうに失われている。  傷口は赤くただれ、腕は壊死したように動かなかった。   「はっ……はあ、は、あ…………!」    片腕ではうまく走れないのか、足を滑らせて木に倒れかかる。  だらり、と下げられた右腕はゴミのようだった。  自分の体の一部が、すでに用をなさないゴミだと知った途端、間桐慎二は笑い出した。   「はっ……はは、あはははは」    咳き込むように笑う。    痛い。  傷のせいだろう、体は〈瘧〉《おこり》のように熱い。  朦朧とした頭は、この傷が崩れ落ちる自分の姿を想像した後、まわりの人間全てが同じように崩れ落ちる姿を妄想した。    もちろん腕部だけには限らない。  自分の姿が姿なのだ。他のバカどもは身を弁えてより一層醜い姿になるべきだろう。   「く――――」    笑いが止まらない。  そう決めると痛みも少しは我慢できる。  なにしろ正当な理由が出来たのだ。  まっさきにする事は、腕という腕を集める事。  どいつもこいつも、誰であろうと例外はない。   「……は、そりゃあいい。じゃあ、一番初めは決まってる」    自分の思い通りにならなかった少女。  一番のお気に入りだからこそ、それが自分より優れた造形である事は許されない。   「ああ、待っててよ遠坂。すぐに僕以下にしてやるからさ」    くぐもった笑いをあげて、間桐慎二は顔をあげる。   「――――え?」    いつからそこにいたのか、目前には彼のサーヴァントが立っていた。   「オマエ――――」    呆然とサーヴァントを見る。  黄金のサーヴァントは、それこそ家畜を見る目で間桐慎二を見下ろし、   「傷を負ったのか。酷いな、それではさぞかし痛かろう」    そんな、心にもない事を口にした。   「――――――――!」    間桐慎二の顔が歪む。  己のサーヴァントがどんな意味を込めて告げたかも気づかず、彼は目の前の男を睨み付けた。   「痛かろう、だと!? 誰のせいだと思っているんだ、オマエが間抜けだからランサーなんかにやられたんだぞ!?  番犬役も出来ないクセに偉そうなコトを言うな……!」    熱に侵された頭で、間桐慎二はサーヴァントを罵倒する。   「――――ふむ」    黄金のサーヴァントは。  まあ、これでも構わぬか、と頷いた。   「その傷はランサーにつけられたのか。では、あのマスターを逃がしたのはヤツだったのだな」 「ああそうだよ、オマエがグズだから遠坂を逃がしちまったんだ……! あんな死に損ないにとられるなんて、思い出しただけで吐き気がする!」 「そうか。それは残念だ」   「っ……! なに落ち着きはらってんだよ、遠坂がいなけりゃ聖杯が手に入らないんだろ!? くそ、オマエのせいで全部台無しだ! わかってんのかよ、これからどうすれば―――」 「安心しろ、予定に狂いはない。聖杯は作り出せる」    感情のない声でサーヴァントは言う。  赤い眼が自分を見ていない事にさえ、間桐慎二は気が付かない。   「どうやって!? いくら聖杯があっても、その器がないと出来ないって言峰も言ってたじゃないか! あのガキの心臓だけじゃ意味がない。アレは優れた魔術回路に繋げないと聖杯にならないんだろ……!」    間桐慎二は己がサーヴァントに詰め寄り、その無能をなじる。  黄金のサーヴァントは、ああ、と頷いたあと。   「だから問題ない。  依り代になるマスターなら、ここにもう一人いるじゃないか」    無造作に、その腕を突き立てていた。    どす、という音。  それが何であるか、間桐慎二には最後まで判らなかった。   「――――え?」    ただ、腹に違和感がある。  見下ろしてみれば、そこには、サーヴァントの腕があった。  その拳が、自分の体にめり込んでいる。  痛みもなく出血もない。  サーヴァントの腕は、いつか見たデタラメな霊媒手術のように、自分の腹に溶け込んでいた。   「聖杯が欲しいのだろう? ならばくれてやろう。大事なものなら二度と手放すな」 「あ―――あ、あ?」    血管が、膨れあがる。  ジジジジジ、と。  体の中に蠢く異物、群れひしめき合うような感覚のあと。   「ぎ――――ぎ、べ?」    彼は、間桐慎二でなくなった。       「ぎゃ――――げ、びや、あ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ…………………!!!!」    ビクビクと痙攣する。  膨れあがったソレは、まさに肉塊だった。  カタチなど判らない。  ソレを構成するものは剥き出しの肉と血管、急速に誕生する肉と、短命に腐敗していく肉だけだ。   「イ――――イタ、イタ、イタイ、イタイる、増え、増える、タス、タス、ヤメ、テ――――」    際限のない増殖と死滅を繰り返す痛みより、自身の中にびっしりと蠢き回る“何か”の不快感に耐えられず、彼の理性は崩壊した。    それを観察した後、サーヴァントは何事もなかったように身を離す。   「―――醜いな。力ある魔術師ならば変貌する事もないだろうが、まあ、仕方があるまい」    鎖が伸びる。  中空より現れた天の鎖は、膨張と腐敗を繰り返す肉塊を拘束する。    今は膨張と腐敗のバランスは拮抗しているようだが、聖杯はすぐに依り代の使い方を覚える筈だ。  そうなれば膨張は腐敗を大きく上回る。    この様子ではそう時を待たずして、彼の聖杯は完成するだろう。   「ゲテモノの方が味はよい。  なにより―――オマエならば相応しい泥を吐き出すだろう、シンジ?」    サーヴァントは高らかに笑う。  その陰で。  タスケテクレ、と、もはや人間のモノでない声で、肉塊は繰り返した。  屋敷の明かりを消していく。  午前四時。  夜明けまであと数時間をきり、俺たちは衛宮邸を後にする。  段取りは決まっていた。  これ以上話す事はない。後は戦場に赴き、それぞれの責務を果たすだけだ。  ……無事に帰ってこられる保証はない。  いや、今までだってそんな事の連続だったが、今回こそは帰れる保証はない。  だからこそ最後はきっちりと、丁寧に屋敷の明かりを消していく。 「……あれ?」  庭に誰か立っている。  何をするでもなく、金髪の少女は冬の夜空を見上げていた。 「おーい。なにしてるんだ、セイバー」 「空を見ていました。それと、この家を」  応える声は、あまりにも穏やかだ。  彼女は出会った時とは違う顔で屋敷を眺めている。 「色々ありましたから。ずっと覚えていられるように、心に焼き付けておきたかった」 「――――――――」  それは。  俺以上に、ここには戻ってこられないと覚悟している声だった。 「そっか。……うん、出来ればずっと覚えていてくれ」  縁側から、そんな拙い願いを口にする。 「はい。では私からもお願いします。  貴方たちは私が守る。ですから必ず、二人でこの家に戻ってください」 「―――ああ。必ず戻るよ、ここに」  今はそう答える事しかできない。  俺たちは聖杯を壊しに行く。それは同時に、サーヴァントであるセイバーの帰還の時でもある。  俺がセイバーにいてほしいと思い、  セイバーがこの屋敷に愛着を持ってくれていても。  彼女がサーヴァントである限り、その法則に逆らう事は出来ない。   「ちょっと、そこなにしてんのよー! 時間がないんだから急ぎなさいよねっ……!」    玄関から急かす声がする。  遠坂は準備を済ませて、もう門の前にいるようだ。 「――――では、シロウ」 「ああ。決着をつけにいこう、セイバー」  最後の明かりを消して、セイバーと共に屋敷を後にする。    ――――静かな夜。    星空の下にある中庭には、まだ、星を見上げている少女の幻が残っていた。  方針は決まっている。  セイバーは正面から柳洞寺に突入し、俺と遠坂は山の裏側から柳洞寺に侵入する。  セイバーには俺たちより少しだけ早く境内に踏み込んでもらい、ギルガメッシュの注意を引く。  俺たちはその隙に裏山から柳洞寺に侵入、出来るだけ早く聖杯を停止させてセイバーの加勢に入る。  ……そうして俺がギルガメッシュの宝具を投影してヤツを封じ、その隙にセイバーはヤツを倒しきる―――    それが現状における、俺たちの唯一の作戦である。 「――――――――」    裏山にはかろうじて道があった。  事前に調べていたのか、遠坂は迷いもなく斜面を登っていく。  夜の山は暗く、不気味だ。  霊地であり不可侵であるお山が人を拒むのは当然だ。  山の闇は人間にとって脅威であると同時に、清浄さを持つ神域の具現でもある。    だが―――― 「……尋常じゃないわね、これ。生臭すぎて吐き気がする」  山の頂上……柳洞寺を睨んで、遠坂は吐き捨てた。  生臭い、というのは遠坂の表現にすぎない。  山頂から放たれるモノに、生臭さなどない。  ただ奇怪なだけだ。  空気はじっとりと湿り、粘膜のように肌にまとわりつく。  満ち溢れる生命力はあまりにも生々しく、自分が息をしているのか、山が息をしているのか判らない。  山ではなく、巨大な臓器を登っているような錯覚さえする。 「……今更だけど。士郎、体の調子はどう?」  ―――と。  唐突に、遠坂はそんな事を訊いてきた。 「え……? いや、調子はいいんだが、悪いというか。  正直、持て余してる」  素直に白状する。  この魔力なら、投影の十や二十は軽い。  が、もともとオンボロな機体にジェットエンジンを積んでいるようなものなんで、体は落ち着かないというか、気を抜くと燃料が漏れて爆発しかねない。 「うわ、贅沢な悩みね、それ。けどちゃんと成功してよかった。初めてだったから心配だったのよ」 「心配? ……もしかして、ホントは綱渡りだったのか、あの儀式って」 「過程じゃなくて、その後の話よ。  士郎に分ける魔力とセイバーに取られてる魔力のバランス。二人分の掛け持ちなんだから、セイバーの出力が落ちてるのは判るでしょ」 「あ―――そうか、そうだよな。じゃあセイバー、思うように戦えないのか?」 「あのね、甘く見ないで。  そんな不手際はしないし、セイバーに比べたら士郎に分ける魔力は小さいからなんとかやっていけるわ。  ただ、無理は利かないの。今のセイバーは、一回しか聖剣を使えない」 「――――聖剣が一度しか使えない?」    ……となると、ギルガメッシュに聖剣は使えない。  セイバーの宝具は聖杯を壊す為にとっておかなければならないんだから。 「じゃあ、セイバーは切り札を封じたままでギルガメッシュの足止めをするのか!?」 「ええ。だから少しでも早く合流しないとまずいわ。  セイバーがギルガメッシュを止められない、と判断した場合、聖剣を使うようには言ってある。  ……けど、そうしたらセイバーに後はないの。セイバーの聖剣でなければ聖杯は壊せない。  だから、その時は――――」 「――――――――」    息が止まる。  つまり、その時は。  消滅する事を覚悟の上で、彼女に聖剣を使ってもらう事になる―――― 「―――遠坂、それは」 「……仕方ないでしょう。これはセイバーが言いだした事なんだから。わたしが止めたって、彼女は聖杯を壊すわよ」  視線を逸らして、遠坂はそう呟いた。 「――――――――」    ……くそ、なんて馬鹿だ。  辛いのは遠坂だって同じだ。  遠坂だってセイバーに消えてほしくないと思っている。  なら―――― 「急ごう。ギルガメッシュにセイバーは渡せない」 「当然よ。わたしのセイバーだもの、あんなヤツに殺させないわ」  獣道を駆け上がる。  やるべき事は判っている。  一秒でも早く聖杯を止め、ギルガメッシュと決着をつけるだけだ――――    山が鳴動している。  見上げる空には暗雲が立ちこめ、木々は山の胎動に震えるようにざわついていた。   「――――――――」    彼女はその様を、山門の入り口で見上げている。  柳洞寺が形容しがたい毒素を〈孕〉《はら》んでいる事は、訪れた瞬間に判った。  この階段を上った先にいるのは黄金のサーヴァントだけではない。  何か異質なモノが、自分と彼らを待ち受けている。   「―――――――」    この先、一手たりとも誤る訳にはいかない。  山頂が彼らにとって死地であるのなら、死の危険を自分が受け持つ。  せめてあの二人だけでも、この異界から生きて帰ってもらいたい。    その為には出し惜しみなどしていられない。    聖剣は撃てて二回。  二度目の一撃を放った瞬間自分が消滅する事を、彼女は良く理解している。   「―――構わない。元より、捨て身でなくては敵わぬ相手だ」    英雄王ギルガメッシュ。  千の宝具を持つあの男には、聖剣の一撃を以って打倒する以外ない。   “―――じゃあセイバー。三十分経ったら始めて”   凛の言葉が思い出される。  指定された時間まであと一分。  彼女は深く吸い込んだ息を吐いて、〈体調〉《コンディション》を整える。    ――――山頂より風が漏れる。    その魔風に木々が一際震え上がった時、彼女は石段に足をかけた。    一息で駆け上がる。  石段に踏み込んだ時点で、彼女の襲来は悟られただろう。  境内には倒すべき最後のサーヴァントが現れる筈だ。  そこまで最速で登り切り、凛とシロウが柳洞寺に辿り着く前に、あの男を倒す。    ……マスターの命令には逆らっていない。  彼女は凛の指示通り、三十分後に突入した。  その後―――凛の予想より早く境内に辿り着き、ギルガメッシュと戦闘になってしまったとしても、それは命令違反ではない筈だ。    彼女は主の命を守りきり、結果として、主の思惑から外れてしまうだけの話。   「――――――――」    山頂より漏れてくるモノが汚濁なら、石段を行く彼女は汚れを斬り払う突風だった。  階段を上りきり、境内に至るまで一分とかかるまい。  凛の予想を上回る事、およそ五分。  それだけの時間があれば、ギルガメッシュとの戦いは終わる。   「ハッ―――――!」    山門より滲み出る悪寒を堪えて走る。  銀の甲冑は弾丸となって山頂を目指していく。    そうして、ついに山門を目前にした時。   「な――――に?」    決して止まらぬ筈の足が止まった。  額には汗。  彼女は驚愕に満ちた顔で山門を見上げる。   「―――待っていたぞ。よくぞ間に合ってくれた、セイバー」    流麗な声が響く。  五尺を超える長刀が月光を弾く。  山門に至る階段。  そこに、いる筈のない敵がいた。   「アサ、シン――――」    セイバーの声に色はない。  いる筈のない敵、いてはならない障害。  その二つのまさかが、彼女から冷静さを奪っていた。   「どうしたセイバー。私がいるのがそれほど不思議か。  私はここの門番だと、おまえは承知している筈なのだが」    楽しげに語る声は、あくまで〈涼〉《すず》やか。  サーヴァントにとって悪寒でしかない魔風を背にして、長刀の剣士は何一つ変わらなかった。   「……馬鹿な。何故ここにいるアサシン……! 貴方はキャスターが呼び出したサーヴァントだ。キャスターが消えた今、貴方が留まっている筈がない……!」 「通常のサーヴァントならばそうであろう。だが私はちと特殊でな。この身を縛っているのは人ではなくこの土地なのだ。  おまえたちがマスターと呼ぶ依り代。私にとっては、それがこの山門という事になる」   「な――――土地が、依り代だと……?」 「うむ。いかに魔術師と言えど、実体を持たぬサーヴァントにサーヴァントは維持できぬ。サーヴァントの依り代はこの時代のモノでなければならぬらしい。  女狐は私を呼びだし、依り代にこの土地を選んだ。  故に私はこの山門にのみ出現するサーヴァント。召喚者であるキャスターが滅びたところで、この山門がある限り消える事はない」   「―――もっとも、それも日雇いにすぎんがな。  女狐が私に与えた魔力はおよそ二十日分。その限度がいつか、おまえならば見て取れよう」    歌うように言って、剣士は右腕を掲げる。  雅な着物のなか。  白い腕は、ガラス細工のように透けていた。   「アサシン――――――貴方は」 「見ての通り、夜明けまで持たぬ身だ。  二十日の刻限などとうに過ぎている。ここまで持ち堪えた事こそ僥倖と言えよう」   「――――――――」    呆然と剣士を見上げる。  長刀から放たれるモノは、殺気でもなければ敵意でもない。    ただ、戦え、と。  勝利も敗北も介さぬ、意味のない殺し合いを求めていた。   「―――では。私と戦う為に残ったというのですか、アサシン」   「言わせるなセイバー。口にすれば、詰まらぬ言葉に成り下がる」    くつくつという笑い。  彼女とて剣士の思惑は理解できる。  だが、今はそれに付き合う時間はない。  急がなければ、ふたりはギルガメッシュとの戦いに間に合ってしまう。  いや、最悪―――自分が境内に到達する前に、二人はギルガメッシュと対決するだろう。   「そこを退けアサシン。貴方に門番を命じたキャスターは消えた。もはや門を守る意味などあるまい」  じり、と一歩踏み込んでセイバーは問う。  だが――――   「―――否。もとより、私に戦う意味などない」    それ以上進めば始める、と。  長刀の切っ先をセイバーに向け、アサシンは言い捨てた。   「そう、戦う意味などない。私には初めから何もないからな。英霊としての誇りも、望むべき願いもない。  いや―――そもそも、私が呼び出された事自体が間違いなのだ。なにしろこの身は、〈佐々木小次郎などではない〉《・・・・・・・・・・・・》」   「――――!?」    セイバーの混乱はここに極まったと言っていい。    佐々木小次郎。  それはこのサーヴァントの真名の筈。  しかしアサシンは自らの口で、自らを偽物と告げたのだ。   「そう驚く事でもあるまい。  佐々木小次郎というモノはな、もともと正体のない架空の剣士なのだ。  実在したとされるが、記された記録はあまりに不鮮明。  ある剣豪の仇役として都合がよい“過去”を捏造された、人々の記録だけで剣豪とされた人物だ」   「確かに佐々木小次郎という男はいただろう。物干し竿と呼ばれる長刀を持つ武芸者もいた筈だ。  ――――だが、それらは一個人の物ではない。  佐々木小次郎という剣士は、引き立て役としてのみ作られた架空の武芸者であった筈だ」   「架空の、英霊――――ですが、貴方は」 「そう、佐々木小次郎だ。佐々木小次郎という〈殻〉《カラ》、それを被るに最も適した剣士が私というだけの話だ。  私に名などない。読み書きなど知らぬし、名前を持つほど余裕のある人間ではなかった」   「私はただ、記録にある佐々木小次郎の秘剣を披露出来る、という一点で呼び出された亡霊だ。  偽りのサーヴァントであるこの身は長くは保たぬ。故に、キャスターも使い捨てとして扱った」   「そら、意味など初めから無いだろう?  たとえここで偉業を成したところで、報酬は全て“佐々木小次郎”に与えられる。私には何も返ってこない。無である私にとって、あらゆる事は無意味だ。  この身は自分すら定かではない。佐々木小次郎という役柄を演じるだけの、名の無い使い捨ての剣士にすぎぬ」    長刀が揺れる。  架空の物語によって作り上げられた架空の剣士は、その役柄を貫き通さんと立ちはだかる。   「―――だが。  その私にも唯一意味があるとすれば、それは今だ。  無名のままで死んでいった“私”に、もし、望みがあったとしたら」    きっと。  無名の剣士では立ち会う事も許されなかった、上等すぎる剣士との対決を、死の際でさえ夢見たのではなかったか。   「――――アサシン」    ……そうして、彼女は剣を構えた。  この敵を説き伏せる事など出来ない。  初めから死を賭している剣士に応えられるのは、ただ剣を合わせる事のみ。   「では始めよう。  なに、もとより花と散るこの身。その最期をそなたで迎えられるのであらば、これ以上の幕はあるまい――――!」   長刀が〈奔〉《はし》る。  セイバーの剣が、月光の如き一撃を受け流す。   「くっ――――!」    翻る長刀。  この男に力を使っては、山頂で待つギルガメッシュには太刀打ちできない。  だが力を温存する余裕などない。  否―――全力で戦ったとしても、果たして勝利し得るかどうか。    長刀は一撃毎に鋭利さを増していく。    架空の剣士。  宝具を持たぬまま、英霊と互角以上に戦う剣豪。    その決着を、彼女はここで付けねばならない――――    ―――山頂が近い。    裏山から登れば、境内の裏側につく。  そこには確か、人の手が入っていない大きな池があった筈だ。 「見えた、あともう少し……!」    遠坂は枝をかきわけて斜面を上がっていく。  周囲に気を配り、遠坂の背中を守りながら後に続く。    そうして。  長い斜面からようやく平らな地面に出た瞬間、ソレが、俺たちを出迎えた。   「―――――――――――なんだ、これは」    肉塊が、蠢いている。  池の中央に鎮座したソレは、黒い噴水みたいに腐液を吐き出し、救いを求めるように〈蠢動〉《しゅんどう》していた。    どれほどの大きさなのか。  浮島ほどに広がった肉塊は少しずつ広がっている。  澄んでいた池の水は、今ではコールタールのように濁り、粘ついていた。 「嘘だろ――――アレが、聖杯だっていうのか」    正視に耐えられず視線を逸らす。  山林に満ちていた空気はアレの呼吸だ。  際限なく満ちる魔力は弾け、漏れ出して黒く池を汚染していく。  その血液は無色の魔力なんて物じゃない。  黒いソレは、視覚化された呪いだった。 「く――――、っ」  黒い泥を視ているだけで悪寒がする。  網膜から侵入した呪いは、脳にただ一言、    とだけ、命じてくる。 「――――聞いてないぞ。あんなの、どうやって」    止めろって言うのか。  肉塊までは三十メートルほど。  池は底が浅く、歩いて行く事には問題ない。  だが―――あの黒い泥をかき分けて進むなんて自殺行為だ。  見ただけで意識を裂く呪い。  そんな物の中を歩けば、一メートルも歩けずに衰弱し、泥に沈み込んでしまうだろう。 「―――アレ、破裂寸前よ。  もとからああいうカタチなのかどうかは知らないけど、器があんまりにも小さすぎたんでしょうね。中のモノを抑え切れず、器を壊して溢れ出ようとしてる」 「器を壊すって―――それは」 「慎二が聖杯になってるなら、慎二を壊すって事でしょうね。ほら、見える? あの山の奥、なんか人型らしきものがあるでしょう。士郎なら確認できると思うんだけど」 「え……?」  遠坂の視線を追う。  崩れ、なお増殖している肉塊の中。  確かに人型らしきモノが見える。  ……〈磔〉《はりつけ》になっているのか。  服は破れて体は剥き出し。その肌に走る醜い筋が、身体と肉塊を繋げている。  ……なんというか、カタチこそ違うが、イメージ的には〈葡萄〉《ぶどう》が人型になったような奇怪さがある。 「―――慎二。顔は見えないけど、あの背格好は間違いない―――」 「そう。で、生きてる?」 「――――――――」  ……判らない。  死んではいない。だが、あの状態を生きている、と言えるほど楽観できない。   「……息はある。体だって、まだ」    見ようによっては人間らしい手足がある、とは言えなかった。 「やっぱりね。もともと今回の聖杯は人型だった。なら、人間っていう部品を利用して動かすって事でしょ。  慎二は合わないからああなったみたいだけど、基本的に聖杯は、宿主に生きていてもらわないと作動しない」 「―――けど、アレは破裂寸前なんだろう。核になっている慎二を壊すって」 「それは仕方なく、よ。……そうなったら聖杯も何もない。ただ聖杯によって開けられた〈孔〉《あな》から、あの得体の知れないものが溢れてくるだけ」 「だから、逆に言えばまだ間に合うわ。  聖杯は起動しているけど、願望機っていう本来の姿になってなければ壊れてもいない。  あの金ピカは孔だけを開けるって言ってたでしょ。  あいつの目的は聖杯を起動させて、器だけ壊す事なのよ。そうすれば――――」 「今みたいに、あの得体の知れない泥が際限なく溢れ出てくる――――」    ――――考えている時間はない。  とにかくあの肉塊から慎二を引きずり出して、聖杯だけでも止めないと……! 「遠坂。あの泥、なんとかできるか。凍らせちまえば上を歩けそうだけど」 「無理。ただの水ならいけるけど、アレはもう呪いに加工された魔力なのよ。カタチになった魔術を凍らせるなんて、そんなの氷結専門の術者でも難しいわ」 「――――そうか。なら、あとは」    運を天に任せてつっこむしかない。  あの呪いに汚染される前に池を渡りきって、慎二を連れ戻すだけだ。 「ちょっ、そのままで行く気!? 無理よ、貴方じゃいいとこ真ん中で飲み込まれるってば!」 「やってみなくちゃ判らないだろ。もう時間がない。セイバーも今頃アイツと戦ってる筈だ。ここで躊躇している暇は――――っ……!?」    咄嗟に遠坂を庇い、背後に振り向く。         「これは驚いた。  まさか、三度もその不出来な顔を見るとはな、雑種」    嘲笑う声。  ソレは俺たちの行動を見透かすように、境内ではなくこの池に現れていた。 「ギルガメッシュ――――!? うそ、なら誰と戦ってるのよセイバーは……!」    遠坂の口振りではセイバーは何者かと戦闘中らしい。  その相手が何者で、どんな状況になっているかまでは判らない。    いや―――それを考えている余裕などない。  目前にいるのは最悪のモノだ。  俺たちが三人がかりで打倒する筈だった、最強のサーヴァント。  それがよりにもよって、セイバーがいない状態で、俺と遠坂を見据えている―――― 「なに、セイバーは不在か。……つまらん。それではただ殺すだけか」    泥の海から漏れる悪寒と、目前の男から放たれる殺気。  ヤツの背後には、既に宝具が装填されている。  不用意に一歩踏み出せば、その瞬間串刺しにされるだろう。 「む―――いや、それでは芸がないな。  本来なら有無を言わせぬが、今回は特別に許す。折角の客だ。その生に僅かばかりの猶予をやろう」 「………猶予、だと?」  指先に力を入れて、敵を睨む。  ―――魔術回路は開いている。    可能なかぎり並べた設計図は十四個。  ヤツがその指を鳴らせば、こっちは全開で片っ端から剣を複製する。    そうすれば最悪、遠坂を逃がすぐらい――― 「なんだ、言われなくては判らんのか。  〈繭〉《まゆ》が〈孵〉《かえ》るまでの数分、そこでカカシになるがいい。アレも見届ける者が〈我〉《オレ》だけでは寂しかろう。  この行く末を最期まで見届けるというのなら、その生にも意味がある」 「っ――――――――!」  そんな言い分がきけるか。  俺たちの目的は聖杯を止める事。  まだ間に合うというのなら、なんとしても慎二をあの肉塊から連れ戻す――――! 「そうかよ。悪いがこっちは――――」 「アンタの言いなりになんてならない。今すぐあの肉塊に行って、アンタの聖杯を止めてやるわ」  と。  俺の後ろから身を乗り出して、遠坂はギルガメッシュを睨み付けた。 「――――ほう?」    ヤツの口元が歪む。  あの笑いは――――目の前の人間を、殺すと決めた時のモノだ。 「ま、待て遠坂、それは――――!」 「士郎はここでアイツを止めて。  ……無茶だって判ってるけど、セイバーが来るまでなんとか持ちこたえて。慎二は、わたしが責任をもって引っ張り出してくるから」 「な――――引っ張り出してくるって、おまえ」 「わかってるわよ。あんなんでも桜の兄貴だし、見殺しにはできないもの。……それに、助けられるのなら助けるのが士郎の信条でしょ」    黒い池へ走り出す遠坂。  あいつ、生身のまま、あの泥を突き進んでいくつもりなのか―――!? 「く――――はは、ははははははは!!!!!  なんだその滑稽さは、〈我〉《オレ》を笑い死にさせるつもりか貴様ら!」    それを。  遠坂の決意を見下すように、ヤツは口汚く笑いやがった。 「テメエ、何がおかしい……!」 「なんだ、おまえはおかしくないのか雑種?  とんだ三流どもだ、あの呪いの中を進むだと? サーヴァントですら耐えられぬ呪いの渦を、人間風情が踏破できるとでも思ったか!」 「―――フン。わたしの底を甘く見ないで。この程度の呪いで染まるほど弱くないわ。  それにね、わたしたちはアンタみたいに半霊体ってワケじゃない。ちゃんと生身のある人間なんだから、むざむざ飲み込まれてたまるもんか……!」  あからさまな強がりだったが、たしかに、そう断言できる遠坂なら辿り着ける。  あいつの言う通り、遠坂凛はあんな得体の知れないモノに負けるほど柔じゃない。 「そうか、ならば好きにしろ。  ―――もっとも。〈我〉《オレ》は、そんな真似は許さんがな」   「――――〈投影〉《トレース》」    剣が〈翔〉《と》ぶ。  放たれた一本の剣は、無防備な遠坂の背中を串刺しにしようと撃ち出され――――   「――――〈完了〉《オフ》…………っ!」    瞬時に割って入った、俺の干将によって弾き落とされた。 「は、ふっ――――!」    肩で息をする。  間に合った―――用意していたとは言え、これだけ速く投影が出来たのは初めてだ。  遠坂の魔力のおかげだろう。  これなら、或いは―――― 「――――貴様」    赤い瞳に殺気が籠もる。  ……投影は、ヤツを本気にさせた。  英雄王の背後に浮かぶ宝具は、際限なく数を増していく。 「――――士郎」  背後では、俺を気遣う遠坂の声。  振り返る事なく、干将を構えたまま敵を見据える。 「遠坂。慎二を頼む」    それだけを口にした。   「―――任せて。すぐに連れ帰ってくる!」  水の跳ねる音。  あの泥の海に、躊躇なく遠坂は飛び込んだ。 「――――――――ふう」    なら、守る。  これより後ろ、遠坂に向けて一本たりとも宝具を通しはしない。 「おまえの相手は俺だ。遠坂に手を出したかったら、まず俺を倒しやがれ」    一歩踏み出す。  それが癇に障ったのか。  黄金のサーヴァントは遠坂から目を離し、完全に俺だけを視界に収めた。   「―――ふん。あの小娘はのたれ死ぬ。  〈我〉《オレ》が手を下すのはあくまで慈悲だったのだが―――」    切っ先を向ける宝具の群。  ヤツは、刃のような殺気を灯し、   「その前に、貴様には思い知らせる必要があるようだ。  ―――薄汚い贋作者。  その身をもって、真偽の違いを知るがいい――――!」    自らの財宝を、惜しげもなく展開した。    長刀が闇を裂く。  二メートル近い長物を自在に繰るアサシンに、セイバーは未だ踏み込めずにいた。   「くっ……!」    躱しきれず後退する。  両者の距離は一向に縮まらない。  セイバーとアサシンの間合いの差は一メートル。  その、たった数歩分の石段を駆け上がる事さえ、セイバーには出来なかった。   「――――――――っ」    唇を噛む。  このような小競り合いを続けている暇はない。  もとより力で勝る相手だ。  魔力と剣の威力を盾にすれば押し切れない相手ではない。  一撃だけ。  一撃だけ受ける事を前提にすれば、容易く組み伏せられる。    腕でも足でもいい。  多少の傷に怯まなければ二撃目はない。  甘んじて一撃を受けた瞬間、彼女はアサシンに踏み込み、敵を両断する自信がある。    だが。  その一撃が確実に首を刎ねる物だとしたら、力押しなど出来よう筈がない。    目前のサーヴァントの一撃とはそういう一撃だ。  牽制などなく、常に命を奪いにくる。  それを防ぐ手段は後退しかありえない。  横に回り込めぬ地形の不利と、敵の技量が彼女の前進を許さぬ為に。    故に踏み込めない。  彼女は生きて境内に辿り着かねばならないのだ。  こうしている合間にも、二人はギルガメッシュと対峙している。    彼女の到着が遅れれば、どちらかが死んでいるかもしれない。  いや、最悪――――既に、二人は。   「くっ――――ああああ…………!」    駆けた。  胸に沸いた不吉な想像を払拭するように、声を振り絞って駆け上がる。    衝突する二つの軌跡。   「む」    鬼気迫る突進に何を思ったのか、アサシンは己を討ちに来るセイバーの体ではなく、振り下ろされる剣に刀を振り当てた。   「……ほう。流石はセイバーの剣。数回程度ならば耐えられると思ったが、一撃で曲がるとは……!」    火花がこぼれる。  打ち合った剣と刀は、鍔迫り合いながら、互いを押しのけようとする。   「受けた……? アサシンが、私の剣を……?」    アサシンの刀は脆い。  鉄さえ両断するという業物ではあるが、所詮は人の手による物。人ならざる業によって鍛えられた彼女の剣とは比べるべくもない。    正面から力のみで打ち合えば、確実に長刀は粉砕される。  それを知っているからこそアサシンは剣を受け流し、剣ではなく体を狙う事でセイバーを退かせていたのだ。    だが、アサシンは自ら受けた。  いかに鍛え上げられ、アサシン自身の“粘り”があったところで、刀ではセイバーの一撃を防げない。  セイバーの一撃を受け止めた長刀は芯が曲がっている。  その様では、もはや今までの鋭利さは保てまい。   “……勝てる? 無傷で、この男に勝てるのか……?”     アサシンの長刀を押し返しながら自問する。  その迷いが、油断となった。  アサシンがセイバーの剣を受け止めた事には意味がある。  それが何の為なのか気付く前に、彼女はその位置に立たされていた。   「……!」    体の位置が、変わっている。  階段の上と下とに別れた二人の立ち位置が、今は平行。  セイバーは気が付かないうちに体を横にずらされ、真っ平らな足場に立たされている。    ……それは、前回の焼き直しだ。  お互いが水平になる立ち位置。  秘剣を振るうに適した足場。  そこでならば、アサシンは己が魔剣を披露できる。    ――――燕返し。    円を描く三つの刃は同時に標的を囲み、防ぐ事も躱す事も許さず、確実に敵を絶命させる。   「――――――――」    ぞくり、と。  彼女は、自らの首筋に走る悪寒に身震いした。   「アサシン、貴様……!」    セイバーの力が弱まる。  このまま押し倒す事はできる。  力で勝る彼女ならばアサシンを弾き飛ばし、トドメを刺しに走り寄るか、山門まで駆け上がる事もできる。    だが―――そのどちらも、結果は同じだ。    離れれば〈アレ〉《・・》が来る。  突き飛ばした後、トドメを刺しに踏み込もうと、背中を見せて駆け上がろうと、あの魔剣を放たれればそれで終わる。    ならば押せない。  力を弱め、アサシンに合わせて睨み合うしか手段がない。   「―――よいのか、力を弱めて。これならば私の方からおまえを弾き飛ばせるが」    アサシンは満足げに、追い詰められたセイバーを見つめる。  そこに酷薄なものはない。  長刀の剣士はただ、窮地に立たされた相手の、起死回生を狙う瞳に見惚れていた。   「………っ。この為に自らの武器を傷つけたのか、アサシン……!」 「無論。〈埒〉《らち》があかぬのでな、勝負を付けに来た。  これならば以前のおまえに戻ろうと思ってな。果たし合いの最中に、後の事など考えるな」 「――――――――」    息を呑む。  彼女の心を見透かしたアサシンの言葉は、罵倒ではなく――――   「……!?」    境内が燃えている。  響き合う剣の音と、砕け散る剣の音。  それは間違いなく、ギルガメッシュと衛宮士郎の戦いの音だった。   「ふむ。どうやら宴もたけなわというところだな。こんなところで門前払いを受けている場合ではないぞ、セイバー」 「アサシン――――!」    剣に力が入る。  目の前の障害を弾き飛ばそうと剣に魔力を籠める。  ……だが、出来ない。  その瞬間こそが彼女の終わりだ。  このまま間合いを離してしまえば、それこそアサシンの術中である。   「くっ――――」    不甲斐なさに歯を鳴らす。  彼女は剣に魔力を籠めたまま、為す術もなく剣を合わせる。  そこに、   「何を迷う。お互い、やるべき事は一つだろう」    透明な声で、剣士は告げていた。   「……アサシン?」 「もとより、我らは役割を果たす為だけに呼び出された。  私がこの門を守るように、おまえにも守る物がある。  ならば迷う隙などあるまい。  ―――それにな、セイバー。時間がないのは、おまえに限った話ではない」   「――――――――」    その言葉には、偽りなどなかった。  架空の役割のみを果たしてきた剣士の、最初で最後の本当の言葉。    願わくば、死力を尽した結果が見たい、と。    この時代に召喚され、この門を守り続けた報酬、唯一の望みを、目前の剣士は告げていた。   「――――失礼をした。確かに、お互い時間はない」    剣に籠めた魔力を放出する。   「ぬっ……!?」    容赦なく放たれた力は、アサシンの体を弾き飛ばす。  距離にして二メートル。  アサシンにとっては最高の間合いを前にして、セイバーは動かない。  山門に走る事も、弾かれたアサシンに駆け寄る事もない。    結界を解く。  自らの剣を露わにして、セイバーはアサシンと対峙した。  眼に迷いはない。  必要とあらば全ての力を使う。  全力を以って目前の敵をうち倒すと、その姿が語っていた。   「――――――――」    事ここに至って語るべき言葉などない。  架空の剣士はゆっくりと長刀を構え、     「――――――――いざ」      己が最強の剣技で、生涯最高の敵を迎え入れた。    ―――腐肉の海を進む。    池の水深は一メートルもない。  底にはべったりと肉塊が広がっており、実際沈むのは膝もと程度ではあった。   「っ―――この、気持ち悪いにもほどがあるってのよ、もう……!」    乱れた呼吸のまま悪態をつく。  一歩進む度に、大量の虫を踏み潰すような悪寒が走る。  肌にまとわりつく腐肉は腐肉以外の何物でもなく、立ち止まれば彼女を取り込もうと固まりだす。   「っ……! ああもう、こんちくしょう……!」    それを力ずくで振り払って前に進む。  ぞぶ、ぞぶ、ぐちゃり。  その内容物をかき分けて進む作業は、とても正気ではやっていられない。  この分なら、牛一頭を捌く作業だって大したことはない。  と遠坂凛は開き直る。    そんなワケで、この作業にも慣れた。  作業と思わなければ動けなくなるほど切迫していたが、とにもかくにも精神的なダメージは負わなくなった。   「っ……ぁ、はあ、あ、っ――――」    だが、これだけは気持ちの持ちようなどでは耐えられない。  一歩進む度、体の熱が上がっていく。  足にまとわりつく腐肉は、その瞬間に神経を侵しにくる。引き剥がしたところでとうに毒は回っているのだ。    呪い。  手に取れるほどになった“他者への悪意”は〈瘧〉《おこり》のようだ。  触れれば発病する。  神経を侵し体力を奪い脳を茹でるソレは、一歩歩いた時点で致命的となる。    常人なら二歩で動きが止まり、腐肉に倒れ込む。  その後どうなるかなど知らない。    窒息死するのか、自分も腐肉の一部になるのかなど考えたくもない。  そんなもの、既に四十度を超える頭で想像できる筈がなかった。   「ぐ――――あ、こ、の――――」    止まりそうになる足、よろけそうになる体を必死に踏ん張って、前に進む。  ……凛とて、何の策もなしで腐肉に飛び込んだ訳ではない。  あと二つしかない虎の子の宝石を飲み込んで、ため込んだ魔力の全てを防御膜に充てている。    この呪いが純粋な魔力が結晶化したモノならば、単純に強い魔力を纏っていれば弾ける筈―――   「く――――、ま、ず――――」    ……視界が歪む。  その予想は正しかったのだが、規模が違った。  飲み込んだ宝石など紙にもならない。  これは人間が抵抗できるモノではない。  この中で『奪われずにすむ』人間などありえない。    ……ここでは、ただ。  自分の、自分に対する強さだけが、生き残る支えだった。   「あ――――つ――――ああ、もう……これなら、火の海に飛び込んだほうが、涼しい、のに」    実際、宝石に守られた彼女なら、火の海に飛び込んでも支障はない。  そんな文句を、意味もなく口にした途端、   「――――――――っ」    自分の軽口が頭にきて、気合いが戻った。    そんな事などない。  間違ってもこの程度で、そんな軽口は叩けない。  熱に浮かされた頭で、背後の剣戟に耳を向ける。    ……二人の姿はもう見えない。    衛宮士郎が誘導したのか、それとも為す術もなく追い込まれているだけなのか。  どちらにせよ、両者の戦いは境内へと移ったようだ。   「――――あと少し。一気に行くから、それまで」    走る。  それでもようやく歩く程度の速度だったが、ともかく足を動かした。    腐肉をかき分ける。  みっともなく乱れた呼吸で肉塊に手を伸ばす。   「つ、と――――!」    這うように登った。  肉塊の山には確かな手応え。   「……あ。なんか、こっちのが楽みたい」    ドクドクと脈動する地面に体を預ける。  気色の悪さはこちらの方が上だが、神経を侵す熱は急速に冷めていってくれた。   「……? ちょっと、これ……もしかして……」    赤い地面に指をあてる。  ……それは、黒い泥と同じでありながら、確かに実体を持ったモノ。  聖杯というモノから溢れ出し、魔力によってカタチを得た―――受肉した、この世にあってはならぬモノ。   「……サーヴァント……これ、サーヴァントと同じなんだ」    呆然と呟く。  ……それに何の意味があるのか、考えようとして凛は思考を止めた。  今はその時ではない。  彼女がやるべき事は一つだけだ。   「―――よし、回復した。さっさと慎二を見つけてこんなところとはおさらばよ」    立ち上がり、肉塊の上を駆ける。  肉の山は直径五十メートルほどの浮島だった。  対岸からでは判らなかったが、盛り上がった土台は山脈のように入り組んでいる。   「――――いた」    その奥。  肉の谷間に隠れるように、間桐慎二の姿はあった。 「つぁ……!」    繰り出される剣を弾く。  展開された宝具は十を超え、その全てが矢となって衛宮士郎を砕きにかかる。 「く、っ……!!!!」    砂と散った剣を投げ捨て、次弾に備える。   「は、はあ、は――――」    乱れた呼吸を一息で正常に戻す。  息吹が乱れれば投影は出来ず、武器がなければ、この体はたやすく串刺しにされるだけ。 「はっ、づ――――!」    この戦いは、ヤツとの戦いじゃない。  自分の体との戦い、  投影の速度と精度が落ちた時こそ、衛宮士郎が消える時だ。 「は――――そら、休んでいる暇はないぞ!」 「っ……!」    ヤツの声に応じ、見たこともない直刀が切っ先を返す。  ぎちん、と音をたてて装填された〈宝具〉《ちょくとう》は、そのまま必殺の速度をもって――――   「――――〈投影〉《トレース》……!」 「――――ぐ、づ――――!」    衝撃を殺しきれず、背中から地面に倒れ込む。  咄嗟に横に転がり、態勢を立て直しながら立ち上がる。 「どうした、質が落ちているぞ。わずか一撃で壊れるようでは複製とは言えんな」    ……嘲笑う声。  ヤツは明らかに楽しんでいる。  背後にゆらめく宝具を一斉に放てば、俺に防ぐ術などない。  だというのに一本ずつ、こちらの限界を試すように手を抜いている。 「は――――はぁ、は――――」    ……だが、今はそれが幸いしている。  いくら遠坂にバックアップして貰っているからといって、相手の武器を見てからの投影は困難すぎた。    似せられるのはカタチだけ。  その内面にある能力までは設計できず、こうして一撃防ぐ度に砕かれる。 「く――あの、ヤロウ、こんなんで、どうやって―――」    アイツに勝てるのは俺だけだとヤツは言った。  だが実際はこの始末だ。  ヤツの宝具を防ぎ、踏み込んで一撃食らわせる事もできない。    二つ。最低でも二つの武器が必要だ。  が、一本でさえこの始末だっていうのに、同時に投影する事なんて出来るものか……! 「どうした。歯ごたえがあるのは口先だけかフェイカー」    転がりまわる俺の姿が気に入ったのか、ヤツはあくまで愉しげだ。 「は――――あ」    ……呼吸を整える。  満悦している分にはいい。  それならまだ、未熟な自分にも勝ち目はある―――― 「――――〈投影〉《トレース》、〈開始〉《オン》」    内界に意識を向ける。  限られた僅かな回路。  そこに、限界まで設計図を並べていく。    ……視認できるヤツの宝具は十七個。    その外見から内部構造を読みとり、創作理念を引き出し構成材質を選び出す―――― 「ごぶっ―――…………!」    吐血する。  通常一つか二つしか入らない回路に、複数の〈魔術〉《せっけいず》を走らせている代償だ。  投影を始めてから神経は傷つき、体は内側から崩壊している。  胃には血が溜まり、食道はポンプのように、血液を外に吐き出させようとする。 「――――憑依経験、共感終了」    それを飲み込んで、工程を押し進める。  干将莫耶ではヤツの宝具は防げない。  アーチャーほどの剣技があれば双剣でも防げるだろうが、俺にそれだけの技量はない。    剣技に劣る俺が宝具を防ぐ方法はただ一つ。  放たれた宝具とまったく同じ宝具をぶつける事で、単純に相殺するしかない――――! 「ふ――――ふう、ふ――――」    魔力ならまだ保つ。  遠坂からの供給は半端じゃない。    ……ただ、それを動かす回路自体が、根本から倒壊しかけている。  終わりは近い。    ヤツが本気になった時、同じ数の剣を投影しなければ生き残れない。    だがそれだけの数を投影すれば、間違いなく、この体は破裂する。 「――――工程完了。全投影、待機」    溢れ出すイメージを保存する。  ……外に出ようとする剣は、そのイメージ通り中から体を串刺しにするモノだ。  回路が焼き切れ制御できなくなれば、衛宮士郎は内から突き出される刃によって、それこそ針千本と化す。 「ほう。今度は多いな。十、十五、十七……そうか、目に見える我の宝具を全て複製した訳か」 「な――――に?」 「舐めるな。魔術師の手の内など看破できなくて何が英霊か。おまえに働く魔術の数など、それこそ手に取るように判る」 「――――――――」  その台詞に、不意をつかれた。  千の財宝を所有する英雄王は、視ただけでこちらの魔術を把握するというのか、と。 「では採点だ。  もっとも―――いかに精巧であろうと、一本たりとも世には残さんが」 「く――――!」    反応が遅れた。  ヤツの言葉に気を取られたその隙が、絶望的なまでに後手――――!  放たれる十七の宝具。 “王の財宝”。その一部が、遊びは終わりだとばかりに雪崩こむ……!     “っ―――停止解凍、全投影連続層写………!!!” 「は――――ぐ――――!」    体がブレる。  内面から撃ち出す剣と、外界から撃ち出される剣とが衝突し、衝撃が内と外を震わせる。 「あ――――が――――…………!!!!」    防ぎきれない。  十七個の宝具を投影したところで、自分に出来るのは一本ずつカタチにするだけ。  いかに連続といえ一本ずつしか出せない自分と、  その全てを一斉に放ってくるヤツとでは、初めから火力が違いすぎる――――!   「はは、硝子細工にしてはよく持つが、それもあと数撃か。そら、急いで真似ねば八つ裂きだぞ」  剣戟の向こうで、ヤツの嘲笑う声がする。    敵宝具、残り十二――――!   「しかし、ほとほと愚考よな。  〈我〉《オレ》には勝ち得ないと考え、聖杯だけでも取り外す判断は正しい。おまえでは我には敵うべくもない」 「つ――――!」    前面に突きだした指先が焼ける。  自ら放出する魔力と、その寸前で衝突し、弾け合う宝具の熱が、指を容赦なく灼いていく。    残る宝具、あと七つ――――!   「だが、それならばあの男を殺してしまえばよかろう。  聖杯を止めたいのであればシンジを始末する事こそが確実だ。魔術師であるおまえたちならば、あの泥を越えずとも殺しようはあったろう。  ――――ふん。だというのにまだ救おうというその偽善、まさに雑種の具現よな――――!」 「あ――――は、あ――――」    ……切れる。  回路が、完全に焼き切れる。  足りない。こんな僅かな回路だけじゃ、この男には敵わない――――! 「く――――そ、なん、で…………!」    なぜ防げないのか。  ヤツは勝てると言った。なのに勝負にさえなりはしない。          ――――つまり、それは。    衛〈宮士〉《オレ》郎は、何かを間違えているという事なのか。 「っ――――あ、あ――――!」    残る宝具、あと三つ。  それを防ぎきるまで体は保つのか。  いや、そうじゃなくて、考えるべき事は俺の剣製と〈アイツ〉《アーチャー》の剣製、その違いがなんなのかと―――― 「――――――え?」    瞬間、あらゆる感覚が停止した。  迫り来る残り三つの宝具さえ目に入らない。  黄金のサーヴァントは、一つの剣を取りだしていた。    奇怪な剣。  石柱ともとれるソレを見た時点で、思考が白熱したと言っていい。   「女を救うと言ったな、小僧」    剣の咆哮に乗って、嘲笑う声が響く。  回路に残る三つの〈魔術〉《せっけいず》を全て破棄し、全速でヤツの剣を〈解読〉《リード》する。  だが。   “――――読め、ない……?”    今まで、それが剣であるのならどんな物だって読みとれたというのに。  あの剣だけは、その構造さえ読みとれ、ない。 「ならば見せてみろ。その贋作で、一体何が救えるのかを!」    ――――風が、断層を作り上げる。  ギルガメッシュの剣から放たれた斬風は、自らの宝具さえ蹴散らして衛宮士郎に襲いかかる。   「――――――――」    思考は白いまま。  対抗策など何も考えられず、ただ、残った魔力を叩きつけた――――             「――――――――いざ」    そうして、剣士はその業物を構えた。  構えらしき物を持たぬアサシンの唯一の構え。  異なる円を描く刃を同時に放ち、敵を四散させる必殺剣。    それを彼女は体験している。  ……以前放たれた刃は、敵を囲む円と縦軸しかなかった。  だからこそ彼女は避け、こうして命を繋いでいる。    だが、真のソレは三つの軌跡を持つという。  円を描く線と頭上から股下までを断つ縦の線。……そして恐らくは、左右に逃げる敵を捉える横の線。    この三つが同時に放たれるのならば逃げ場などない。  間合いに入ったが最後、一つの軌跡を受けた瞬間に二つの軌跡が体を四散させる。    左右にも逃れられず、後退したところで長刀は苦もなく逃げる胴を薙ぐだろう。          ―――魔剣、燕返し。    サーヴァントすら凌駕する神域の技。  無名の剣士が、その存在全てを懸けて練り上げた究極の一が、ここにある。    長刀が揺れる。  その体が、一足で間合いを詰める。    セイバーを断ち切る距離、    あらゆる守りを許さぬ間合いから、牢獄の如き軌跡が繰り出される――――!   「――――――――」    セイバーは聖剣を使わない。  もとより、この間合いになった時点で宝具など使えない。  いかにセイバーの聖剣が速かろうと、アサシンの燕返しは、それを遙かに上回る。    聖剣に魔力を籠めた時点で彼女の首は跳んでいる。  故に、頼りとなるのは純粋な剣技のみ。    ――――円が走る。    二度目だというのにその鋭利さ、迅速さに感嘆し、絶望する。  このような一撃――――果たして、如何なる修練の果てに辿り着くのかと。   「――――――――」    その時、彼女にあったものは戦慄だけだった。  防げるものではない。    この魔剣は、人の身で神仏に挑む修羅の業。    神ならぬ身では防ぐ事も返す事も許されまい。   「は――――――――」    息を呑む。  脳裏には砂粒ほどの微かな閃き。  それが何なのか、それが合っているのかなど考えない。  彼女は、ただ己が直感に全てを賭け、   「あ――――――――!」    全能力を以って、その“勝利”へと疾走した。    その姿を、架空の剣豪はどう取ったのか。   「――――――――ク」    銀の鎧が、腕の隙間をすり抜けていく。  剣士の左腕下、腰と二の腕の間。  その、僅かばかりの隙間こそが、魔剣の死角だと彼女は見抜いたのか。    セイバーは身を丸め、三つの刃で鎧を削がれながらも、その一点のみを突破した。    彼女の予知――――卓越した直感があってこその妙技。    まだ見ぬ魔剣の完成形、不完全ながらも一度燕返しを体験したが故に、その完成図を予知し得た。    ―――だが、驚嘆すべきはそんな事ではない。    彼女を生かしたのはその決意。  瞬間に浮かんだ閃きを信じ、刹那の隙間に全ての能力を傾けた。  通れる筈のない隙間、僅かでも遅ければ輪切りにされるという恐れを振り払って地を駆けた。    故に。  真実その決意こそが、かの魔剣を破り去った『強さ』だった。   「ア、はっ…………――――!」    しかし、勝負はついていない。  燕返しを躱されたところで敵は真横、しかも剣士の抜刀を上回る速度での跳躍だ。    その体勢、容易に直せるものではない――――!   「じゃっ――――――――!」    長刀が翻る。  返す刃は魔剣に至らぬまでも最速。  だが。  振り払われた一撃は、僅かに剣士を上回っていた。     「ぐ――――ぬ」    口元を締める。  堅く唇を閉ざし、倒れぬよう四肢に力を込める。  腑より逆流した血液が口内を満たしたが、決して吐き出すまいと飲み込んだ。    ―――剣士の足下には、金の髪をした騎士がいる。  その輝きを〈五臓六腑〉《ごぞうろっぷ》の流しものなどで汚すなど、剣士の流儀には存在しない。   「――――――――」    セイバーに言葉はない。  はらり、と金の髪が石段に舞っていく。    ……首が付いている事が不思議だった。  ……手足が削がれていない事は奇跡だった。  ……あの僅かな隙間に身を投じた瞬間、体を四つに断ち切られたと実感した。    差があるとしたら、それだけの差だったのだ。    剣士の長刀。  それがたわんでいなかったのなら、彼の魔剣は生涯無敵であったろうに。    ―――大気が鳴動している。    山門の奥。境内では、異なる戦いが今も続いている。   「……………………」    セイバーは何を告げるべきか定まらず、死に体となった剣士を見上げた。  それに、   「――――――――行け」    視線を合わせる事なく剣士は告げた。    その言葉にどれだけの意味が込められていたのか。  セイバーは剣を引き抜き、全速で階段を駆け上がっていく。  立ちつくす剣士に振り返る事もない。  彼女はただ、己が役割を果たす為に駆けていった。   「ふ―――美しい小鳥だと思ったのだがな。その実、獅子の類であった」    呟いて、それも当然、と剣士は笑った。  燕でさえ躱せぬものを躱したのだ。それが愛でるモノである筈がない。   「―――ふむ。女を見る目には自信があったのだが。どちらも修行不足という事か」    一人ごちて、剣士は肩を竦めた。  そのカタチ―――〈雅〉《みやび》な陣羽織は、既に色を失っている。  腹を突き破られ、鮮血に濡れた足下さえ希薄。  それを事も無げに見下ろし、さて、と石畳に腰を下ろす。      木々が揺れる。    山頂からの吹き下ろしが雑木林を揺らしていく。    花が散り鳥が消え風が止み、虚空の月さえ翳った頃。    そこにいた筈の剣士は、その存在自体が幻だったかのように、跡形もなく消え去っていた。    瞬間。  ここまで複製してきた内、最硬の物を前面に展開した。  だが、そんなものは盾にもならない。  〈乖離剣〉《かいりけん》。  ヤツの手にした正体不明の剣は風を断ち、都合六つの宝具を粉砕して、俺の体を切断した。  消えていく。  回路は断線していき、遠坂から貰った魔力は行き場をなくして戻っていく。   「く―――――――そ」    不甲斐なさを呪う。  自分が未熟なのは判っていた。それでも今まで一度も思わなかった事を、心の底から罵倒した。    なぜ、俺の〈回路〉《まりょく》はこれだけなのか。  もう少し多く。  もう少し多く、あの闇の先に手が伸ばせたのなら、アイツのように、戦って――――    ――――地面に落ちる。    衝撃を殺しきれず、何十メートルと吹き飛んで、背中から地面に落ちた。    落下による痛みはない。  そんな感覚はもう残っていない。  この意識さえ、白く洗浄されていく。    ……死に行く直前。  最後に思った事は、よく手足がついているな、という驚きだけだった。   「そこまでか。やはり偽物は偽物だったな。おまえでは何も救えない」          ……鼓動が小さくなっていく。  肺は動かず、呼吸をする為の気管は、そのどれもが固まっていた。   「これならばアーチャーが残った方が楽しめた。  ヤツも贋作者だったが、その理念は俗物ではなかったからな」        何も見えないのは、目が壊れたからではないらしい。  今はただ、中がグチャグチャで、人間としての機能を忘れている。  それは幸いと言えた。  なにしろ痛みさえ忘れているんだから、このまま放っておけば、簡単に死ぬことが―――   「―――ああ。そう言えばヤツも言っていたな。おまえの理念は借り物だと。自身から生み出したモノが一つとしてない男が何かを成そうなどと、よくも思い上がれたものだ」        ―――それは、できない。  このまま正気に戻れば痛みで脳死するとしても、意識を取り戻して立て、と。  深い所に根付いた自分が、あの場所を指して言っている。     「正義の味方? 誰も傷つかない世界だと?  おかしな事を。誰も傷つかず幸福を保つ世界などない。  人間とは犠牲がなくては生を謳歌できぬ獣の名だ。平等という綺麗事は、闇を直視できぬ弱者の戯言にすぎぬ。  ―――雑種。おまえの理想とやらは、醜さを覆い隠すだけの言い訳にすぎん」     「――――――――」    ……動かない筈の腕を、上げた。  倒れた体と、死に至る直前の意識。  何かを掴むようにあげられた片腕は、あの日の、灰色の空と同じだった。    ……何がおかしいのか、誰かが笑っている。  耳を覆う高笑いは、世界中の人間の、笑い声のようでもあった。          偽物の願い。  借り物の理想。  そのユメは叶わないと蔑む誰か。      ……そう、その通りだ。  この思いは借り物。  誰かを助けたいという願いが、キレイだったから憧れただけ。  故に、自身からこぼれおちた気持ちなどない。  この身は誰かの為にならなければならないと、呪いのような強迫観念に、ずっとつき動かされてきた。          だから偽物。  そんな偽善は結局何も救えない。  もとより、何を救うべきかも定まらない。    だが。    だが、それでも美しいと感じたんだ。      これは自分から生じたものじゃない。  誰かを救う誰かの姿を見て真似ただけの飾り物だ。    あの時、自分の〈裡〉《なか》は空っぽだった。    誰もが平等に死んで、自分では誰一人救えなかった。  人間なんてそんなものだと諦めるしか、目の前の恐怖を抑えられなかった。    ――――だから。        だからこそ、その理想に憧れた。  自分では持ち得ないから、その尊さに涙した。  いけないのか。  自分の気持ちではないから、それは偽物なのか。  偽物だから、届いてはいけないのか。            ――――違う。それはきっと、違うと思う。   「あ――――――――ぁ」          偽物でもいい。  叶えられない理想でも叶えるだけ。  もとより届かないユメ、はや辿り着けぬ理想郷。          ―――なら、衛宮士郎が偽物だとしても。     そこにある物だけは、紛れもない本物だろう。   「―――そうだ。そんなこと、とっくに」        全てを救う事はできないと。  誰かが犠牲にならなければ救いはないと、解っている。  大人になったから、それが現実なのだと理解してる。  その上で、そんなものが理想にすぎないと知った上で、なお理想を求め続けた。      傷ついて終わり、ではなく。  多くを救う為に傷つけて、それが最善であっても、それでも―――誰も傷つかない幸福を求め続ける。    正義などこの世にはない、と。  現実とは無価値に人が死に続けるものだと。  そんな悟ったような〈諦め〉《言葉》が、正しいとは思えない……!               その果てに、ヤツはここに辿り着いた。          おまえが信じるもの。  おまえが信じたもの。  その正体が偽善だと〈男〉《ヤツ》は言った。      それでも、そう言った男こそが、最期までその偽善を貫き通したのだ。  ……ならやっていける。  借り物のまま、偽物のままでも構わない。  だいたい、そんな事を気にするほど複雑な感情はもっちゃいない。      そう、剣の丘で独り思った。  自分に見える世界だけでも救えるのなら、その為に戦おうと。  こんなこと、考えるまでもなかったんだ。  狭窄な自分の世界。  もとより〈自分〉《オレ》が生み出せるのは、この小さな“世界”だけなんだから――――                ――――そう。        この体は、硬い剣で出来ている。    ……ああ、だから多少の事には耐えていける。  衛宮士郎は、最後までこのユメを張り続けられる。    ……磨耗しきる長い年月。    たとえその先に。  求めたものが、何一つないとしても。   「―――なんだ、それだけの事じゃないか!」 「っ――――!?」    体を起こす。  意識が戻った途端、手足は言うコトを聞いてくれた。  勢いよく起きあがった体はまだ動く。  あの剣の一撃を受け、生きているばかりか立ち上がれる事が不可思議だが、そんな事はどうでもいい。    助かったというのなら、何か助かる理由があったのだ。  単にそれが、俺の与り知らぬ物であっただけ。 「直前に盾を敷いたのか……? 出し惜しんだとは言え、致命傷だった筈だが。  ―――存外にしぶといな、小僧」 「出し惜しみ……? は、そんだけ山ほど持っておいて、今更なにを惜しむってんだ」    呼吸を整えながら距離を保つ。  やり方は判った。  遠坂のバックアップがあるんなら、きっと出来る。    問題は詠唱時間だ。  一応暗記したとは言え、どれだけ速く自身に働きかけられるかは、やってみないと判らない―――― 「――――ふん。今のは覇者にのみ許された剣だ。  興が乗った故見せてやったが、本来雑種などに使うモノではない。  エアと打ち合う権利を持つ者はセイバーだけだ。  おまえのような偽物に使っては、セイバーに合わせる顔がない」    無数の宝具が出現する。  が、それは全て三流だ。  先ほどの剣を見た後だと、格の違いは明白すぎる。    かといって楽観できるものではない。  本来、衛宮士郎を殺すにはそれで十分すぎる。    ―――実力差は変わらない。    あの一撃から奇蹟の生還を遂げたところで、投影魔術を武器にする衛宮士郎では、あのサーヴァントに敵うべくもない。 「ほう、真似ごとはおしまいか。ようやく無駄と判ったらしい。  ―――ならば潔く消えるがいい。偽物を造るその頭蓋、一片たりとも残しはせん――――!」    中空に浮かぶ宝具が繰り出される。  それを、 「シロウ……!」  俺たちの間に割って入った、青い突風が蹴散らした。 「セイバーか……!」  咄嗟に後方に跳ぶギルガメッシュ。  いかにヤツとて、セイバーだけは警戒している。  こと剣技で劣るヤツにすれば、セイバーとの白兵戦は避けたいのだろう。 「―――良かった。無事ですか、シロウ。  遅くなりました。後は私が受け持ちます。シロウは離れて―――」 「いや。ギルガメッシュは俺一人でなんとかできる。離れるのはそっちだ、セイバー」 「な―――――」 「――――に?」 「な、なにを言うのですシロウ……!  その体で彼の相手をすると? いえ、そもそも魔術師ではサーヴァントには太刀打ちできない。それは貴方もよく知っているでしょう……!」 「ああ。けど俺とアイツだけは例外だ。信じろ。  俺は、きっとあいつに勝てる」    ……息を呑むセイバー。  セイバーは俺の言葉を信じるからこそ、その事実に目を点にしている。 「セイバーは境内の裏に急いでくれ。遠坂が一人で聖杯を止めてる。けど、アレを壊せるのはセイバーだけだ」 「――――――――」  数秒……いや、実際は一秒もなかっただろう。  彼女は一度だけ深く目蓋を閉じたあと、   「ご武運を。―――凛は、私が必ず」    一番言って欲しい事を口にして、ギルガメッシュから身を退いた。  銀の甲冑が背を向ける。 「セイバー」  その背中を、一度だけ呼び止めた。   「―――おまえを救う事が、オレにはできなかった」    そうして言った。  俺が彼女と過ごした時間、ヤツが彼女を思っていた時間を、せめて代弁できるように。 「あの聖杯はおまえが望んでいる物じゃないと思う。  ……だからよく見極めておくんだ。次は、決して間違えないように」 「――――シロウ?」 「……ごめん。うまく言えない。俺はおまえのマスターには相応しくなかったんだろう。  だから――――」    おまえの本当の望みを、見つけてやる事さえ出来なかった。 「そんな事はない。シロウは、私のマスターだ」 「―――セイバー」 「サーヴァントとして責務を果たしてきます。伝えたい事は、その後に」    振り返らずに走っていく。  颯爽としたその姿は、一陣の風のようだった。  セイバーは去っていった。  疑いなど微塵もなく、ヤツに勝つと言った俺の言葉を信じて、遠坂を救いにいった。            ――――さあ、行こう。    ここから先に迷いなどない。  あとはただ、目前の敵を打ち倒すだけ。 「ふ――――はは、はははははは!!!!!」 「正気か貴様? ただ一つの勝機を逃し、あの小娘を助けさせるだと?  ―――たわけめ、自らを犠牲にする行為など全て偽りにすぎぬ。それを未だ悟れぬとは、筋金の入った偽善者だ。  ああ、それだけは讃えてやろう、小僧」    宝具が展開される。  ―――数にして三十弱。  防ぎきるには、もはや作り上げるしかない。 「……贋作、偽善者か。ああ、別にそういうのも悪くない。たしかに俺は〈偽物〉《フェイカー》だからな」    片手を中空に差し出す。  片目を瞑り、内面に心を飛ばす。 「ぬ―――?」 「……勘違いしてた。俺の剣製っていうのは、剣を作る事じゃないんだ。そもそも俺には、そんな器用な真似なんてできっこない」    そう。  遠坂は言っていた。もともと俺の魔術はその一つだけ。  強化も投影も、その途中で出来ている副産物にすぎないと。   「……そうだ。俺に出来る事は唯一つ。自分の心を、形にする事だけだった」    ゆらり、と。  前に伸ばした右腕を左手で握りしめ、ギルガメッシュを凝視する。   「――――I am t〈h〉《体》〈e〉《は》 b〈o〉《剣》〈n〉《で》e〈 〉《出》〈o〉《来》〈f〉《て》〈 〉《い》〈m〉《る 》y sword.」    その呪文を口にする。  詠唱とは自己を変革させる暗示にすぎない。  この言葉は、当然のように〈在〉《あ》った、衛宮士郎を繋げるモノ。 「そうか。世迷い言はそこまでだ」    放たれる無数の宝具。    ――――造る。  片目を開けているのはこの為だ。  向かってくる宝具を防ぐ為だけに、丘から盾を引きずり上げる――――! 「ぐ――――!」    乱打する剣の群。  盾は衛宮士郎自身だ。  七枚羽の盾がひび割れ、砕かれるたびに体が欠けていく。   「―――Steel 〈i〉《血》〈s〉《潮》〈 〉《は》m〈y〉《鉄》〈 〉《で》body, and fir〈e〉《心》〈 〉《は》i〈s〉《硝》〈 〉《子》 my blood」    導く先は一点のみ。  堰を切って溢れ出す力は、瞬時に衛宮士郎の限度を満たす。 「な――――に?」    驚愕は何に対してか。  たった一枚の盾をも突破できぬ自らの財宝に対してか、それとも――――目前に奔る魔力の流れにか。         「―――I ha〈v〉《幾》〈e〉《た》〈 〉《び》〈c〉《の》〈r〉《戦》〈e〉《場》〈a〉《を》〈t〉《越》〈e〉《え》〈d〉《て》〈 〉《不》〈o〉《敗》ver a thousand blades.    U〈n〉《た》〈a〉《だ》〈w〉《の》〈a〉《一》〈r〉《度》〈e〉《の》〈 〉《敗》〈o〉《走》〈f〉《も》〈 〉《な》〈l〉《く》〈o〉《、》ss.    N〈o〉《た》〈r〉《だ》〈 〉《の》〈a〉《一》〈w〉《度》〈a〉《の》〈r〉《勝》〈e〉《利》〈 〉《も》〈o〉《な》〈f〉《し》 gain」    壊れる。  溢れ出す魔力は、もはや抑えが利かない。    一の回路に満ちた十の魔力は、その逃げ場を求めて基盤を壊し―――― 「―――突破出来ぬ、だと―――?」    血が逆流する。  盾は、もう所々虫食いだらけだ。  今までヤツの宝具が届かなかったにせよ、その時点で衛宮士郎の体は欠けている。    それでも――――           「―――With stood 〈p〉《担》〈a〉《い》〈i〉《手》〈n〉《は》〈 〉《こ》〈t〉《こ》〈o〉《に》〈 〉《孤》〈c〉《り》〈r〉《。》eate weapons.     waiting fo〈r〉《剣》〈 〉《の》〈o〉《丘》〈n〉《で》〈e〉《鉄》〈'〉《を》〈s〉《鍛》〈 〉《つ》arrival」    魔力は猛り狂う。  だが構わない。  もとよりこの身は『ある魔術』を成し得る為だけの回路。  ならば先がある筈だ。  この回路で造れないのなら、その先は必ずある。    ……いや、今だってそれはある。  ただ〈見えない〉《・・・・》だけ。  回路の限度など、初めからなかったのだ。  せき止めるものが壁ではなく闇ならば。    その闇の先に、この〈身体〉《かいろ》の限度がある――――           「――I hav〈e〉《な》〈 〉《ら》〈n〉《ば》〈o〉《、》 regr〈e〉《我》〈t〉《が》〈s〉《生》〈.〉《涯》〈T〉《に》〈h〉《意》〈i〉《味》〈s〉《は》〈 〉《要》〈i〉《ら》〈s〉《ず》 the only path」    一の回路に満ちた十の魔力は、その逃げ場を求めて基盤を壊し―――百の回路をもって、千の魔力を引き入れる。           「My whol〈e〉《こ》〈 〉《の》〈l〉《体》〈i〉《は》〈f〉《、》e was unlimi〈t〉《無》〈e〉《限》〈d〉《の》〈 〉《剣》〈b〉《で》〈l〉《出》〈a〉《来》〈d〉《て》〈e〉《い》〈 〉《た》works」    真名を口にする。  瞬間。    何もかもが砕け、あらゆる物が再生した。    ――――炎が走る。    燃えさかる火は壁となって境界を造り、世界を一変させる。  後には荒野。  無数の剣が乱立した、剣の丘だけが広がっていた。 「――――――――」    その光景は、ヤツにはどう見えたのか。  黄金のサーヴァントは鬼気迫る形相で、目前の敵と対峙する。   「……そうだ。剣を作るんじゃない。  俺は、無限に剣を内包した世界を作る。  それだけが、衛宮士郎に許された魔術だった」        荒涼とした世界。  生き物のいない、剣だけが眠る墓場。  直視しただけで剣を複製するこの世界において、存在しない剣などない。    それが、衛宮士郎の世界だった。    固有結界。  術者の心象世界を具現化する最大の禁呪。  英霊エミヤの宝具であり、この身が持つただ一つの武器。    ここには全てがあり、おそらくは何もない。    故に、その名を“〈無限の剣製〉《アンリミテッドブレイドワークス》”  生涯を剣として生きたモノが手に入れた、唯一つの確かな答え―――   「―――固有結界。それが貴様の能力か……!」    一歩踏み出す。  左右には、ヤツの背後に浮かぶ剣が眠っている。   「驚く事はない。これは全て偽物だ。  おまえの言う、取るに足らない存在だ」    両手を伸ばす。  地に刺さった剣は、担い手と認めるように容易く抜けた。   「だがな、偽物が本物に敵わない、なんて道理はない。  おまえが本物だというなら、〈悉〉《ことごと》くを凌駕して、その存在を叩き堕とそう」    前に出る。  目前には、千の財を持つサーヴァント。             「いくぞ英雄王――――武器の貯蔵は十分か」   「は――――思い上がったな、雑種――――!」    敵は“門”を開け、無数の宝具を展開する。    荒野を駆ける。  異なる二つの剣群は、ここに、最後の激突を開始した。  ――――この、 なにやってるかばかちーーーーーーん!!!! ショック! まさかこのタイガー道場を見る兵がおろうとは!  おおシロウ、死んでしまうとはなさけない! アドバイスなどありません!  急いで選択肢に戻って、最後の決着をつけちゃいなさーい! はーい、みんな元気ー!? タイガがいなくなった隙に、『Fate』ちょっといい話ー! みんな、凛ルートのグッドエンドの行き方、すっごく判り辛くて困ってるよね?  ここはそんな貴方の為のヒントコーナーです。 今回は特別に先輩をお呼びしました!  先輩、ズバリどうやったらグッドエンドに行けるんでしょうか!? 三日目夜に連れ戻す。  五日目朝に様子を見る。  八日目放課後に喜ばせる。 十日目夜に道場で話。  十五日目夜に道場。 ズバリすぎっす先輩!  これを全部押さえればいいんすね! ダメ。押さえるのは四つ。  うち二つばかり選ばなくていいのが混ざっている。  セイバーにかまけてると十二日目を越えられない。 押忍、ありがとうございましたー!  そういう事らしいんで、余裕があったら三日目からやり直してみてねー! ダンダンと豪快にたらを切る。  白菜も切り分けたし、大根も大量に下ろした。 「……よし。次はだしとった鍋に具をいれて、火を付けるだけっと……」  鍋は煮立たせてある。  もともと簡単に出来る料理だし、オリジナルと言えばいかにだしを美味く作るかだ。  それも巧くいったし、あとは人数分の食器を用意するだけ―――― 「ただいまー! うー、寒い寒い、雪降ってきたよー」  ちゃーす、とばかりに藤ねえが帰ってきた。 「お帰りー。雪降ってきたんだ、外」 「うん。小降りだけどけっこう積もりそうよ。わ、今夜は鍋物だ。さっすが士郎、冴えてるじゃない。んー、気分もいいしお酒とか飲んじゃおっかなー」  なにやら物騒なコトを言いつつ、藤ねえは居間に入ってくる。 「お邪魔しています、藤村先生」 「あ、遠坂さんだー。どうしたの、士郎んちで会うなんて珍しいね」  ……?  藤ねえは遠坂の挨拶をごく自然に受け止める。  ふんふんと鼻歌を歌いながら居間を素通りして台所へ。 「へえ、いいたらじゃない。雪身のたらは極上だっていうし、ますますお酒が似合いそう」  がちゃり、と冷蔵庫を開ける藤ねえ。  で。  中からお気に入りのバームクーヘンを取り出して、モムモムとつまんだあと。         「って、なんで遠坂さんが士郎んとこにいるのかーーーーーー!!!!」 「ちょっと遠坂さん! お邪魔してますじゃないでしょ、こんな時間に何やってるのあなた!」  バームクーヘンをごくんと飲み込んで、藤ねえはドスドスと居間へ進軍していく。 「なにって、衛宮くんの家で夕飯をご馳走されているのですが。そういう藤村先生こそ、チャイムも押さずに上がり込んでくるなんて非常識ではないんですか?」    対して、涼しげな顔で藤ねえを迎撃する〈帝国〉《とおさか》軍。 「うっ……わ、わたしはこの家の監督役なんですっ!  しろ―――衛宮くんのお父さんから任されているんですから、ここでは家族も同然なのっ!」 「そうなんですか。じゃあ改めて挨拶をしますね。  お邪魔しています、藤村先生。今日は一日ここで過ごしていました。夕食後も衛宮くんとは試験勉強をしますけど、どうぞお構いなく」 「なっ―――しろ……う、じゃなくて衛宮くんっ! コレはどういうことですかっ! 遠坂さんと勉強会を開くなんて、いつのまにそんなコトになってたのよぅ!」 「先生? 呼びにくいのでしたら無理をなさらずに。  別に先生が衛宮くんをどう呼ぼうとわたしには関係ありませんから。呼び捨てにしようがちゃんをつけようが、個人のプライバシーは尊重しますし」 「うっ―――遠坂さん、もしかして桜ちゃんから聞いてる……?」 「さあ。残念ですが、間桐さんが何を話していたのかも個人のプライバシーですから、その質問には答えられません。けど、先生の想像通りだといいですね」  遠坂の笑顔を前にして、う、と怯む藤ねえ。  ……藤ねえの気持ちはすっごく分かる。  あいつにあの笑顔をされると気圧されるっていうか、すっごく追い詰められた気持ちになるんだよなあ……。 「―――勝負あったな。ありゃ放っておいても大丈夫だ」    というか、始めから勝負になっていないか。  藤ねえが遠坂に言い負かされるのは時間の問題だ。  そっちは遠坂に任せて、こっちは夕食の支度に専念しよう――――  鍋がカラになる頃、外の雪も止んでいた。  結局二時間ほどしか降らなかったから、庭にはかすかな雪しか残っていないだろう。 「士郎、食器流しに集めといたよ」 「あ、サンキュ。んじゃさっさと済ませるか」  テーブルを立って台所に向かう。 「洗い物? ならわたしがやろっか? ご馳走されっぱなしじゃバランスがとれないし」  どれどれ、と藤ねえと入れ替わりで立ち上がる遠坂。  その申し出は嬉しいが、仮にもお客さんに洗い物をさせるなんて真似はできない。 「いい、貸しにしとく。食ったばかりなんだから大人しくしてろよ。ところで藤ねえは後で風呂を沸かすこと」 「はいはーい、わかってまーす」  お腹がいっぱいになったからか、藤ねえは素直だ。  いつもこうなら楽でいいんだが、それはそれで味気ない気もする。 「あ」  また皿を落としてしまった。  洗い物を始めて二十分。床に落とした皿はこれで二枚目だ。 「……………む」  左手が麻痺しているから仕方がない、なんてコトはない。この程度の感覚のズレで皿を落とすなんて気が緩んでいる証拠だ。 「――――――――」  一瞬、左腕が治るまでやめるべきだ、と冷静に考えて、即座に振り払った。  腕まくりをして洗い物を続ける。  外的要因で失敗するんなら受け入れるしかないが、内的要因で失敗するなんて認められない。  自分自身が相手なら勝てない筈がないんだから、負けを認める訳にはいかないというか。 「む――――」  結果、こうして無闇に被害を広げてしまう。  落ちた皿は三枚目。  一枚目が落ちた時、床にバスタオルを敷いたんで幸いにして割れてはいない。  だから別に問題はないのだが―――― 「――――――――」  その、皿が落ちる度に遠坂の視線を感じるのは、なんとも居心地が悪い。 「……藤村先生。衛宮くんっていつもああなんですか?」  居間から遠坂の声が聞こえる。 「ばか言わないでっ。士郎はお皿を割った事なんて今まで一度もなかったんだから。きっと遠坂さんを意識して緊張してるのよ」    もちろん外敵として。    などと、矢のようなつっこみをする藤ねえ。 「――――――――」  それを無視して、じっと視線を向けてくる。 「………………」  ……やりづらい。  ただでさえ体半分の感覚がないっていうのに、そう真面目に見られると気が散って―――と、危ない 「ち、しまった」  舌打ちして割れた皿を見下ろす。  これで四枚目か。今のは落とすって判っていたのに、左手が咄嗟に動いてくれなかった。 「……………」  おそるおそる背後の様子を窺う。 「――――――――」  ……見てる。  遠坂は注意深く観察している。  と。  唐突に立ち上がったかと思うと、ずかずかとこっちにやってきた。 「衛宮くん。わたしがやるから休んでいて」 「いや、それは」 「割れた皿は踏まないでね。どこに仕舞えばいいのかは見当がつくから、貴方はお茶でも飲んでなさい」  きゅっ、と袖をまくし上げて流しに立つ遠坂。 「――――――――」  ……仕方ない。  こうなった遠坂を止めるのは難儀だし、それに、正直に言えば。  ……悔しいが、流しに立って洗い物をする遠坂は見惚れるぐらい絵になっていたのだ。  風呂から上がると、居間には藤ねえしかいなかった。  玄関にはまだ遠坂の靴があったし、セイバーは道場だろう。  時刻はそろそろ九時になろうとしている。  さて――――      ―――やはり問題は遠坂だ。    もう夜も遅いし、早いとこ帰さないと危なっかしくてしょうがない。 「藤ねえ、遠坂知らないか?」 「遠坂さんなら庭に出ていったみたいよ? そういえば、庭のはじっこに何かあるんですかって訊いてきたけど」 「庭のはじっこ……?」  土蔵の事だろうか。  しかし、なんだってあんな所に用があるんだ、あいつは。 「――――さむ」    湯上がりの肌を、冬の夜気が冷ましていく。  雲が残っていて星は見えないが、芝には一面に雪が積もっていた。 「……ったく。この寒い中、外でなにやってんだ遠坂は」  肩を震わせながら庭を横断する。  あまりの寒さに今度はんてんを買ってこよう、などと考えながら土蔵に向かう。 「え、衛宮くん!?」 「衛宮くん、じゃない。こんな所でなにやってんだよ遠坂。もう時間も時間だし、のんびりしてる暇ないんじゃないのか」 「あ、そうね、たしかに寒いわよね、ここ」 「………………」  怪しい。  ここまで挙動不審だと、こっちまで何をしていたのか興味が湧いてくる。 「遠坂。土蔵の扉、開いてるな」 「わ、わたしじゃないわよ! はじめっから開いてたんだから、それ!」 「おかしいな。外から鍵かけてたはずなんだけど」 「ば、それこそ冤罪よ。そもそもそのオンボロ、内側にしか鍵ないじゃない」 「うん、そうそう。土蔵はいつも開けっ放しで、中からじゃないと鍵はかけられない。で、なんでそんなコト知ってるんだ遠坂」 「っ――――」  しまった、と舌打ちする。  そろそろ理解してきたのだが。遠坂は、計算外の不意打ちにめっぽう弱い。 「まあいいけどな。土蔵の中、何もなかっただろ。  一応そこが俺の修練場だけど、やる事といったら強化の練習だけだし。遠坂から見れば子供騙しみたいなもんじゃないか?」  それより屋敷に帰ろう、と遠坂を促す。  ……と。 「―――そう。やっぱり自覚はないのね、貴方」  挑むような態度で、遠坂は睨んできた。 「遠坂……?」  ただ事ではない雰囲気に、つい身構えてしまった。  そんな俺を見て、遠坂はますます目を細めていく。 「そんな事だろうと思った。創り出している本人がそんなんじゃ、失敗するのも当然よね」 「―――ちょっと待て。それ、投影魔術の話なのか」 「そうよ。土蔵に転がってた『中身のない複製品』の話。  ……アレがどれくらい馬鹿げた事か、衛宮くんには判らないでしょうね。手順や略式もなし。強化の延長で投影をしようなんていう貴方は、全てにおいてデタラメよ」 「―――悪かったな。  いいだろ、どうせ〈投影〉《アレ》は強化の練習なんだから、成功しようだなんて思ってないんだ。あくまで基礎の確認にすぎない」 「それがデタラメだって言ってるの。基礎の確認で投影をするですって? ……いい、わたし以外の魔術師にそんなコト言ってみなさい。貴方、ガラス蓋付きの標本箱にピンで飾られるわよ」 「――――――――」  冗談にしか聞こえない遠坂の言葉は、その実、本気以外の何物でもなかった。 「……すまん、遠坂。おまえの言いたい事はよく分からないんだが、要するにもっと修行しろって言いたいのか?」 「そんなの当たり前じゃない。衛宮くんには修行あるのみよ。  けど、そうね―――今すぐに戦力アップを図るなら、少し手順を変えてあげるだけで、あっさり使いモノになるかもしれない」  さっきまでの敵意はどこにいったのか、遠坂は真剣に考えこむ。 「む……? 手順を変えるって、強化のか?」 「もう、なに聞いてたのよ鈍感っ! 強化じゃなくて投影の方に決まってるでしょ!?  半人前のする強化なんて当てにならないけど、投影だけは別よ。一時的にせよアーチャーの剣を投影したんだから、再現できれば即戦力じゃないっ!」 「……遠坂。そりゃいちいち〈尤〉《もっと》もなんだが、昨日のは偶然だ。もう一度やれって言われても、たぶん出来ない」 「それが半人前だって言うの! 出来た以上は偶然だろうが必然だろうがモノにしなさい!  ……だいたい、アンタのは偶然なんかじゃない。わたしみたいに外界に働きかける魔術師は“再現できない魔術”なんて山ほどある。けどアンタは材料を全部内界から出してきてるんだから、アンタが生きてる限り再現できない魔術なんてないのよ」 「む? 内界から出している……?」  ……そんなの当たり前じゃないか。  魔力は魔術回路によって体内で生成されるんだから、素は自らに生じるものだ。 「…………はあ。独学でやってきたからしょうがないんだろうけど、かなり重症よね。投影はともかく、他の事は一から教えてあげないとダメか」  はあ、と大げさに溜息をつく遠坂。 「――――――――」  自分が半人前なのは承知しているが、やっぱり、遠坂にそう言われるとカチンとくる。 「ふん、余計なお世話だ。今まで一人でやってきたんだから、これからもなんとかなる。それより話し合いはどうするんだよ。もうこんな時間なんだ、いつまでも道草してらんないぞ」 「え? 時間って、いま何時なの?」 「九時になったところ。女の子が夜出歩く時間じゃない」 「なんだ、まだ全然早いじゃない。―――まあ、衛宮くんがそう言うならてっとり早く片づけましょうか」  あっさりと頷いて、遠坂は屋敷へと歩き出した。 「……まだ早いって、どうしてさ」  女の子にとって、九時過ぎの外は立派な深夜だ。  だっていうのに全然早いだなんて、遠坂のヤツ、自分が女の子だって自覚がないんだろうか。 「―――いや。怖いことを考えるのは止めよう」  ぶるぶると頭をふって、不吉な想像をかき消した。   「ちょっと、早く来なさいよー」    遠坂が声を上げている。  それに応えるよう、縁側へ走り出した。    んー、じゃあセイバーと話を付けよう。 「はあ。私の好きな食べ物、ですか?」  うん、と頷く。  道場に来てみたものの、体の麻痺はまだ取れていない。  セイバーと試合をする事もできないし、かといって今は物騒な話をする気分でもないんで、今後の参考にとセイバーの趣味趣向を訊いてみた。  いや、ホントはセイバーのコトが知りたいだけなのではあるが。 「……おかしな事を訊くのですね。私には解りかねますが、何か大きな意味があるのでしょうか……?」 「え? いや、別に大した意味はないよ。セイバーはあんまり好き嫌いを口にしないから、喜んでもらえているか不安になっただけ。  どんな料理が好みなのか知っておけば、セイバーが苦手なものをさけられるだろ」 「……む。それは誤解ですシロウ。シロウの用意する食事に問題などない。  私は満足していますし、仮に何か、あまり考えられないのですが、調理の仕方がまずい時があったとしても不満などありません」  雰囲気一転、心なしかとても真剣にこっちを見据えるセイバー。  ……まあ、セイバーが喜んでくれてるっていうのは俺だって感じ取れていたから、そう言ってもらえるのは嬉しいのだが。 「ん、しかしだな、やっぱり嫌いなモノを出されたらイヤだろ? せっかく作るんだから美味しく食べてもらいたいし、セイバーの弱点も知っておきたい」 「……むむ。弱点など、そんなものを知ってどうすると言うのですシロウは」 「そりゃ参考資料として覚えておく。セイバーがアレルギーもってるとは思えないけど、一応聞いておくに越したことはないからな」 「……むむむ。どうにも合点がいかぬのですが、私が答える事で、今後の食事が更に向上したりするのでしょうか……?」 「するよ。好き嫌いがハッキリ判れば、献立も立てやすくなるし。今よりいくらか旨くなると思うけど」 「―――協力しますマスター。どうぞ、遠慮なく質問して下さい」  ザッ、と礼儀正しく正座するセイバー。 「…………う」  ……なんか、これから一試合始めるぐらい気合が入ってるような。 「さあ、お願いしますシロウ。心の準備はできました」  早く早く、と無言で急かしてくる。  ……予想外の展開になったが、こっちもキチンと正座して、セイバーと向き合った。 「じゃあ始めは大雑把に。セイバー、甘いものは苦手か?」 「問題ありません。どちらかと言うと好きな部類です」 「そっか。なら、反対に辛いものは苦手?」 「そちらも問題ありません。運動した後の刺激はありがたい」 「ふむふむ、甘辛どっちもオッケー、と。じゃあもうちょっと細かくいって、青物はいけるクチか?」 「いけます。菜食主義、という訳ではありませんが、瑞々しい野菜は食事に欠かせない」 「ふーん。じゃあ反対に肉類はどうだ? 鶏、豚、牛、と苦手なのがあったら言ってくれ。あと調理方法も好きなのがあったらどうぞ」 「そのような贅沢は言いません。肉料理は食事の華だ。  シロウが調理してくれたものは全て驚くほど美味しかったので、今後も自由に作ってほしい」 「そ、そうなんだ。……ちょっと本題からはそれるけど、セイバーのいたところの料理ってどんなんだったんだ?」 「………………」  って。  どうしてそこで考え込むんだ、セイバー。 「……ああ、いや。じゃあその、旨い不味いの感想とかなら、どうかな」 「………………………………雑でした」  ぽつりと。  なんか、実に怨念のこもった感想がこぼれました。  こう、いたらぬ部下に対する不満であり、それを〈窘〉《たしな》められなかった自分に対する自己嫌悪の具現みたいな、セイバーにあるまじき負の感想。 「そ、そっか。えーと…………その、ごめん。  とにかく話を戻そう。最後のカテゴライズとして、魚介類はどうだ? 魚料理はけっこう出してたけど、貝類はまだ食べてないよなセイバー」 「そうですね。私もあまり口にした事はありませんが、海産物は体にいい。食すまでの手間を考慮しないのなら、好きな食べ物に入るでしょう」  ……そっか。  甘いものも辛いものも好きで、野菜も肉も魚も大好きですか。 「――――訊き方が悪かった。セイバー、どうしてもダメな食べ物ってある?」 「いえ、その心配は無用ですシロウ。私に嫌いなものなどありません」  ……さて。  ここまで訊いておいてなんだが、この質問自体無意味だった気がしてきた。 「なるほどなるほど。あー、なんだ。つまり、セイバーはなんでも食べるってコト?」 「はい。美味しいものなら分け隔てなくいただきます。  こと食事に関して、私に弱点はないのです」  えっへん、と小さく胸を張るセイバー。 「――――――――」  ……そっか。  無意味と思えたこの質問だが、一つだけ重大なコトが判明した。  ……その、面倒くさいからって手を抜いてメシを作ったりしたら、セイバーの機嫌がどう転ぶかわからないというコトだ。  ―――さて。  気を取り直して、そろそろ遠坂と真面目な話をしなくっちゃな。  ……作戦会議の続きをする前に、ちょっと一息いれよう。  ネコとコタツとミカンの関係。  外じゃ雪が降ったっていうし、ゴロゴロと居間でくつろいでもバチはあたるまい。  いやまあ、うちに〈炬燵〉《こたつ》はないんだけど。 「あれ? 士郎、ミカン食べるの?」 「食べるよ。まだダンボールいっぱい残ってるんだから、ひまを見つけて片付けないと腐らせちまうだろ。  ダンボール三箱は予想外だったけど、せっかく藤ねえが買ってきたんだ。全部食べないともったいない」  よっこいしょ、と座布団に座ってお茶を淹れる。 「えへへ。うん、じゃあ士郎には三個あげる」 「ばか、メシの後だぞ。そんなに食えるか」  どん、と差し出されたミカンを二つ手にとって、ぺりぺりと皮を剥く。  遠坂が何処に行ったか知らないが、じき居間に戻ってくるだろう。  とりあえず、ミカンを二つ食べ終わるぐらいはのんびりしたいもんなのだが。 「ねー士郎。セイバーちゃん、道場に行ったみたいだけど。お茶もっていってあげなくていいの?」 「んー、そうだな。ちょっと待ってくれ、一個食べ終わったら道場に差し入れにいくから」 「待った、セイバーちゃんへの差し入れはわたしがするから、士郎は休んでていいよ。  それより遠坂さんの相手しなくていいの? せっかく一念発起して誘ったのに、ほっとくと嫌われちゃうわよ?」 「う、ぐっ……!」  口に放り込んだミカンを素で飲み込む。  ふ、藤ねえのヤツ、なんでそういう結論になるんだよ……! 「な、なに勘違いしてんだバカっ……! きょ、今日のは俺が誘ったワケじゃないし、遠坂に嫌われようが好かれようが俺の知ったコトじゃないんだからなっ……!」 「あれ、そうなの? 士郎、晩ごはんの時もずっと遠坂さんを意識してたように見えたけど?」 「目の錯覚だっっっ。だ、だいたいな、トイレだかなんだか知らないけど、あいつが戻ってきたらさっさと用を済ませて、余計なコトする前に家にたたき帰すんだからなっ」 「ふーん、そうだったんだ。わたしの勘違いだったのね。  じゃ、セイバーちゃんにミカンとお茶持ってってあげよーっと」  セイバーへの差し入れをお盆に載せて、ひょこひょこと居間を後にする藤ねえ。  ふん、行け行け行ってしまえ、これでのんびり一息つけるってもんだ。  藤ねえ去りしあと、黙々とミカンを食べる。  遠坂は戻ってこないし、他にやる事がないんで淡々と食が進む。  で、ついに三個目のミカンを食べ終え、ごろん、と床に寝そべって心身ともに油断した時。 「でも士郎、セイバーちゃんより遠坂さんの方が好きよね?」 「うん」    ―――そんな、間の抜けた条件反射を、してしまった。 「ふ、ふふふ藤ねえ……!」 「ほーらやっぱり。士郎ったら隙だらけだー♪」  だだだだだ、と脱兎の如く縁側に走り去る藤ねえ。  それを追いかける事もせず、 「っ……そりゃ遠坂の方が前から知ってるし、あいつ強引だし、赤いし」  真っ赤になった顔で、自分でもよくわからない言い訳を繰り返した。  ……で。  なんとか気持ちが落ち着いて、藤ねえが戻ってきた頃に遠坂がやってきた。  ―――よし。  気を取り直して本題に入るとしよう。  居間にいる藤ねえから離れて、縁側で夕方の続きをする。  昼間から散々こじれた作戦会議だから、そう簡単に決着はつくまい、と気合いをいれて会合に臨んだのだが、 「柳洞寺に挑むのは現段階では無理よ。  こっちで罠をしかけて、キャスターをおびき出すしかないでしょ」    と、遠坂は実にすっぱり結論を出した。 「――――いや。それは、その通りなんだが」 「問題は罠をどうするかだけど。  ……ま、二三心当たりがあるから衛宮くんは待機していて。最悪、貴方とセイバーにはエサになってもらうから」  物騒な事を言って、遠坂は雨戸を開けた。  冷えた空気が内部に侵入してくる。  それでもこの縁側は特別なのか、肌寒い程度で留まっている。  ……五年前の夜と同じ。  この縁側だけは、冬でも月見ができるぐらい温かい。 「―――いい結界ね。わたしの家とは違って、人間の情を感じる」  縁側に腰をかけ、ぼんやりと庭を見つめながら、遠坂はそんなコトを呟いた。 「ちょっと付き合わない? なんでもない話があるんだけど」 「――――――――」  無言で隣に座る。  話がある、だなんて言っておいて、遠坂は一向に喋らない。  仕方がないので、ぼんやりと庭を眺めた。 「――――――――」  月は見えない。  吐く息が白いのは、やはり雪が降ったからだろう。  ふと横を見ると、遠坂も白い息をこぼしながら庭を見つめていた。 「――――――――」  少し体をずらせば、きっと肩が触れる距離。  それに動揺する事はなかった。  単に慣れたのか、冬の夜のおかげなのか。  こんなに近くに遠坂がいるのに、不思議と気持ちは落ち着いている。 「――――で。話ってなんだよ、遠坂」  なんとなく聞かれたがってるな、と感じて話しかけた。 「……ん。ちょっとね、このうちって特殊だから。人のふり見て我がふり直せじゃないけど。その、衛宮くんはそのままでもいいのかなって、ふと思った」 「うわ。そのままでいいって、半人前でいいって事かよ」 「そうじゃないんだけど、そうなのかもね。  衛宮切嗣って人がどんな魔術師だったか知らないけど、この屋敷はすごく自然なのよ。魔術師の工房のくせに〈開〉《ひら》けてる。  四方の門は開け放たれていて、入るのも帰るのもご自由にって感じ。きっと守るべき〈知識〉《もの》がないから、何物にも縛られないのよ」 「貴方のお父さんが魔術師じゃなくて魔術使いになれって言ったのはそういう事なんだと思う。なんにもないかわりに、何処へだって行けるんだから」 「なんだ。遠坂はそうじゃないのか」 「ええ、わたしの家は違う。近所じゃ幽霊屋敷って言われてるけど、事実その通りなのよね。来るものは拒む、そのくせ入ってきたものは逃がさない」 「……時々ね、なんか違うなって思うんだけど、これが変えられないのよ。  呪われてるとかそういうんじゃなくて、わたし自身そういう在り方が気に入っちゃってるわけ。こういう性格をしてるから後継者に選ばれたんでしょうけど、気が付いた時にはわりとショックだった」 「―――ふむ。それはつまり、自分がいじめっこだと気が付いた時か?」 「…………思うんだけど。衛宮くんって、歯に衣きせない質よね」 「そうか? 遠坂を見習って回りくどく言ったつもりなんだが」 「……まったく。そういうところが直球だって言ってるの」  はあ、と大きく息を吐いてうなだれる。  吐息の〈残滓〉《ざんし》は白く、冷たい夜にゆっくりと溶けていった。  ……その横顔を盗み見て、思い出した。  赤い校舎。  ライダーによって倒れ伏した生徒たちを見て、遠坂は何も言わなかった。  いつも通り気丈に振る舞いながら、唇を噛んで、膝を小さく震わせていた。    ……その時に気づいたのだ。  魔術師として完璧になればなるほど、こいつは、遠坂凛っていう自分を殺しているのではないかと。 「遠坂は、きつかったのか」  不安になって訊いた。 「魔術の修行が? おあいにくさま、苦しいなんて思ったコトはなかったわ。大抵の事はすんなりこなせたし、出来なくて挫折した事なんてなかったしね。  それに新しい事を覚えるのは楽しかった。さっきも言ったでしょ? わたし、生まれつきそういう性格なんだって。だから衛宮くんの心配は杞憂ってヤツよ」  あっさりと言う。  そこには強がりも偽りもなく、遠坂は本当に気持ちのいい笑みを浮かべていた。 「そっか。なら学校はどうなんだ? 魔術師としてやっていくんなら、学校に行っても無意味なんじゃないか?」 「無意味とまではいかないけど寄り道でしょうね。  けど無駄じゃないわよ? 学生って楽しいもの。わたしね、基本的に快楽主義者なの。父さんの跡を継ぐのは義務だけど、それだって自分が楽しくなければやらないわ。  マスターになったのだって自分の力を試したいからだし、衛宮くんと協力してるのだって、貴方が面白いからだし」 「――――――――」  俺が面白い、という意見はさておくとして、それで胸のつかえはなくなってくれた。  魔術師の家系。  重い歴史と血脈に縛られた遠坂は、暗い影を背負っていると思っていた。  けれどそんなのはこっちの思いこみだ。  こいつにとっては“遠坂家”は重い影でもなんでもなくて、遠坂凛は自由に、自分のやりたいようにやってきたんだから。 「――――そうか。遠坂が楽しそうで、良かった」 「ありがと。で、もちろんそういう衛宮くんも楽しかったんでしょ? そうでもなければ魔術の修行なんて続かないものね」  当然のように遠坂は言う。  が、それは、 「む――――」  その、簡単に頷けるものじゃなかった。 「……ちょっと、どうして黙るのよ。衛宮くんのお父さんは強制しなかったんでしょ? それでも続けたって事は、魔術が楽しかったからじゃないの?」 「え、いや―――――」  楽しい、と感じた事は一度もないんじゃないだろうか。  衛宮士郎にとって、魔術は常に自身を脅かす試練だった。  自分に適性がないのは判っている。  それでも切嗣のようになりたくて、必死にしがみついただけだ。  始めの一年は食事と睡眠以外は全て鍛錬に費やした。  毎晩、死を背中に押し当てながら神経を研ぎ澄ました。    それを八年間繰り返しただけ。  辛いとも思わなかったし、楽しいとも思わなかった。 「……待った。ちゃんと答えて、衛宮くん。  わたし、とんでもない勘違いをしてたかもしれないから」  遠坂は真剣に俺を睨む。 「…………」  ……まいった。  そんな顔されちゃ、答えない訳にはいかない。 「―――そうだな。魔術の修行を楽しいと思った事はなかった。魔術の修行も、魔術そのものも楽しいと思った事はない。けど、俺はまわりが幸せならそれで嬉しかったんだ。だからその、魔術を習っておけば、いつか誰かの為になれるかなって」 「――――――――」 「俺は切嗣のような正義の味方になりたかった。その為に魔術を習ってきた。……とまあ、俺の理由なんてそんなもんだけど」 「―――じゃあなに。アンタ、自分の為に魔術を習ったんじゃないの?」 「え……いや、自分の為じゃないのか、これって? 誰かの為になれれば俺だって嬉しいんだから」 「あのね。それは嬉しいんであって楽しくはないのっ!  いい、わたしが言ってるのは衛宮くん自身が楽しめる事よ。まわりはどうこうじゃなくて、自分から楽しいって思える事はないのかって訊いてるのっ!」  があー、と吠える遠坂。 「――――――――」  が、そんなコトを言われても答えられないものは答えられない。  自分から楽しめる事、なんて言われても考えつかないし、なにより―――    ―――俺には、そんな余分な願いを持つ資格がない。 「あったまきたっ! ようするにアンタ、人の事ばっかりで自分に焦点があってないのよ!」  唐突に立ち上がるなり、ギッ、と鼻先に指を向ける遠坂。 「え、ちょっ、遠坂、指……!」  指、じゃなくて爪がこう、鼻の頭に触れてるんですけど! 「うるさい、口答えするなっ。ああもう、似てる似てるって思ってたけど、まさかここまで一緒とは思わなかった!」  こっちの抗議を却下し、遠坂はますます俺に詰め寄ってくる。 「待て。落ち着け遠坂。おまえ、なんでそんなに怒ってるんだ?」 「それが分からないヤツだから頭にきてるの! ああもう、どうして誰も一言いってやらないのよ!」  わなわなと拳を震わせる。 「――――――――」  こうなっては黙秘を決め込むだけだ。  遠坂の怒りが収まるまで黙っていよう、と言うなりになるしかない。  ……で。  ひとしきり怒りを発散させた後、   「―――ふん。いいわ、決めた。  明日、アンタに参ったって言わせてやるから」    手袋を叩きつけるような口調で、そんなコトを言われてしまった。 「……物騒だな。まさか、いつかの続きをする気か?」  いつか、とは言うまでもなく校舎での追いかけっこの事である。  降参しろと追い詰められたのだが、ライダーの邪魔が入って決着はうやむやのままだった。 「そうよ。いいから首を洗って待ってなさい。とっておきにスペシャルなのを味わわせてやるんだから」  むん、と気合いを入れると、ずかずかと遠坂は居間へ歩み去ってしまった。 「――――む」  何が起こるのか判らないのだが。  ともかく、首だけは洗っておいた方がいいんだろうか……?  ともあれ、遠坂を送らないといけない。  時刻はじき十時になる。  こんな遅くまで女の子を拘束していたら藤ねえになんて言われるか。 「え? いまなんて言ったの士郎?」 「だから遠坂を送っていくっていったんだよ。……だってのに、あいつどこうろちょろしてるんだ。いい加減帰らないとまずいだろ」  藤ねえは呆然とこっちを見ている。  ……おかしいな。  まっさきに賛同する筈の藤ねえは、とりわけ慌てた風もない。 「んー。遠坂さんなら今頃別棟じゃないかな。  お客さんだし、泊まるならちゃんとした客間にしないとダメでしょ?」 「よし、別棟か―――って、ふざけるな藤ねえ。いま、なにかおかしなコト言わなかったか?」 「もう、おかしなコト言ってるのは士郎でしょ。  今日はもう遅いから遠坂さんを泊めるんでしょ? 遠坂さん、さっきそう言いに来たけど」 「な――――泊まるって、遠坂が……!?」 「そうよ? あ、けどおかしな事したらダメだからね。  わたしも和室で寝てるし、客間から悲鳴なんてあがったら一発であの世逝きなんだから」  ぱりぱりと煎餅を食べる藤ねえ。  その様子はいたって普通で、遠坂が泊まる、という非常事態をどうとも思っていないようだ。 「あいつ―――――!」  すでに藤ねえは、遠坂に陥落されたと見るべきだろう。   「あ、ちょうど良かった。わたし右の客間を借りるから」    ――――と。  別棟に向かう途中、廊下でばったり会った正体不明の存在は、気軽にそんなコトを言ってきた。 「え――――あ」  その姿に、頭がぐるぐるする。  制服じゃない、私服の遠坂。  それが家の廊下にいて、なにか、とんでもないコトを言っているのだ。 「あ、これ? 泊まるコトにしたから、アーチャーに言って宿泊道具一式を持ってこさせたの。そんなワケだから寝間着はいらないわよ」 「い――――う?」 「ちょっと、大丈夫? 疲れてるなら早目に寝なさいよね。明日の朝、寝坊なんてしたら承知しないんだから」  じゃあねー、と手を振って別棟に続く廊下へ消えていく。  それを呆然と見送って、廊下にある鏡に目をやった。 「―――――――」  顔はリンゴみたいに真っ赤になってる。  ……くそっ。  いくら離れてるっていっても、同じ家で眠るなんてなに考えてやがんだあいつ。 「……風呂、入り直そうかな」  で、頭から水を被って顔の熱を冷ます。  ……その、そうでもしないと遠坂の私服姿が頭に焼き付いたままで、夜の鍛錬が出来そうにない――― 「――――朝、だ」  ゆっくりと目蓋を開ける。  永遠に続くかと思われた夜も、気が付けば終わっていた。 「…………良かった。体の痛み、なくなってる」  痛みに耐えきれなくなったのか、それとも知らないうちに痛まなくなったのか。  ともかく体に痛みはないし、眠くてだるい、という事もない。  三時間ほど眠れたのか、頭はわりあいハッキリとしている。 「よし。んじゃ朝飯作るとするか」  汗で湿った布団から立ち上がる。  ……と。  立ち上がろうとした矢先、左足がずるりと滑った。 「あれ?」  おかしいな、と左足に触れてみる。  異状はない。  痛みもなければ出血もないし、なにより―――今左足に触っている、という実感もない。 「…………む」  感覚がないのは左足だけじゃなく左腕もだった。  もしかして、と左胸をつねってみると、これまた痛みも感触もない。 「……………」  痛みは引いたものの、まだ体は回復しきっていない、という事だろうか。  体の左半身がまるごと感触がなく、自分の体という実感もない。ええと、これと似たような経験は頻繁にあるんだけど―――― 「土蔵で寝違える時だ。腕を下敷きにしちまって、起きたら血が通ってなかったんだっけ」  そうそう、それそれ。  一時的に血が通わなくなって感覚が麻痺してしまうアレに似ている。  ま、とりあえずちゃんと動くし、時間が経てば元に戻るだろう。  反応が鈍いというか、手足をレバーで動かすようなもどかしさがあるが、気を付ければ実生活に支障はない筈だ。  とりあえず、今朝は包丁を持つのは自重し、簡単なパン食にした。  利き手である右手は無事だったんで、フライパンはなんとかオッケー。  ベーコンと卵を焼いて、できあいのクラムチャウダーを三人分用意して、なんとか食卓を彩ってみる。 「いただきます」 「いただきます」  二人しておじぎをして、きつね色のトーストをかじる。  いつも通り、セイバーはこくこくと頷きながらトーストやらサラダやらを食べていた。  ……うん。  茶碗と箸を持つセイバーも味があるが、やはり彼女には洋食が似合っている。 「――――――――」  基本的に、セイバーは静かだ。  無口という訳ではなく、沈黙を美徳としている節がある。  とりわけ食事時はこんな調子。  俺も食事時は静かな方が楽なんで、こういう朝食は理想的ではある。 「……あれ?」  そこで、どうして今朝が静かなのかようやく気が付いた。  ようするに、今朝は、 「や、おはようー! ……って、あれ? なに、今朝はフランス?」  藤ねえがうちに泊まっていなかったのだ。 「そうだよ。今朝はフランスはカフェ・マルリー風にしてみました。してみましたんで、黙って食え」  ほら、と藤ねえのマグカップを手渡す。 「む? そのわりにはそこはかとなく〈粉末〉《インスタント》の匂いがするよ士郎?」 「気のせいだ。起きたばっかりだから鼻がきかないんだろ」 「そっか。言われてみればそうかも。あ、セイバーちゃんもおはよう。昨日は帰れなくてゴメンね」  ごっくん、と熱々のクラムチャウダーをスポーツ飲料のごとく一気飲みする藤ねえ。  この人の食道には、きっと特殊なコーティングがされているに違いない。 「おはよう大河。昨夜は姿が見えませんでしたが、何かあったのですか?」 「ん? うん、ちょっとお仕事……じゃないか。単にお見舞いに回ってるだけなんだけどね。それも昨日で終わったから、今日からはまたのんびりできるなり」  言いつつ、トーストを手にとってマーガリンを塗りたくる。  どうでもいい事だが、なぜか藤ねえはバターを使わない。  その理由を訊いてみてもいいんだが、どうしようもない答えが返ってきそうで遠慮しているのだ。 「……。なあ藤ねえ、入院したヤツで重症なのは何人ぐらいいるんだ?」 「重症な子はいないよ。今は病院で様子を見てるだけで、週があければみんな元気に登校できるって。  だから大丈夫よ士郎。今回の事故は気にしないで、気楽にいっていいんだから」  さっくり、と音をたててトーストをかじる藤ねえ。  その仕草はあまりにも不安がなくて、見ているだけで大船に乗った気分になった。 「――――そっか。それは良かった」 「そうそう、世は全て事もなし。わたしも今日の夕ご飯を楽しみにしてるのだ」  平穏なその笑顔。  ……うん。こういう時、なんだかんだって藤ねえは藤ねえなんだって思い知らされてしまう。 「それじゃ行ってくる。今まで通り留守番よろしくな、セイバー」 「はい、それはいいのですが……シロウ、台所に食事の作り置きがないようでしたが、今日は昼食抜きなのですか……?」 「? あ、いや、今日は土曜だから早く帰ってこれるんだ。少し遅くなるけど昼飯時には戻ってくるから、昼ご飯は俺が作るよ」 「――――そうですか。シロウ、そういう事はきちんと言ってもらわねば困ります。どうも今朝のシロウは気が緩んでいるようです。反応も鈍いですし、何か気がかりな事でもあるのですか?」 「え? いや、別にないぞ。昨日の今日で体がまだ重いけど、こんなのすぐに戻る」  左半身にはまだ感覚が戻っていないが、痛みはないしちゃんと動くんだから問題はない。  こんな事、いちいちセイバーに報告して心配がらせる事でもない。 「ま、たしかに悪かった。食事はセイバーの唯一の趣味だもんな。謝罪の意味もこめて昼飯は豪勢にするから、それで帳消しにしてくれ」  じゃあな、と手をあげて玄関に手をかける。 「ぬっ。なにか今の言いようは納得いきません。私はただ、食事を抜いては有事の際に力が出せないと――――」 「いいからいいから。それじゃ留守番よろしくな、セイバー!」  〈抗議〉《セイバー》の声を背にして玄関を後にした。 「と―――なんだ、思ったより疲れるな」  感覚のない左足に触れる。  家にいる時はそうでもなかったが、こう歩き出すと気分が悪くなった。  いくら行動に支障がないとはいっても、感覚のない体を引きずって歩く、というのは精神的にこたえるらしい。 「……いや、これぐらい我慢しないと。この程度、二人に比べたらどうって事ないんだから」  回復したとはいえ、セイバーは喉を裂かれ壁に叩きつけられた。  遠坂はあのハンマーみたいな葛木の一撃を胸に受けて咳き込んでいた。  その二人に比べれば、実際に傷を負っていない俺なんて可愛いものだ。 「―――――さて」  痺れた左足で踏み出して、坂道を下っていく。  ……軽い嘔吐感。  幽霊になったような不確かな足取りのまま、いつもの通学路についた。  ……と。  気が付けば放課後になっていた。  体がまだおかしい為か、時間の感覚がなくなっている。  午前中の授業の内容なんてまるっきり頭に入ってないし、自分が何をしていたかも曖昧だ。 「―――まずいかな、やっぱり」  左半身の調子は変わらない。  いくら感覚がないとはいえ、こう長いこと麻痺したままだと気が滅入る。 「なんか、感じないクセに重くなってきた気がするし」  ……吐き気も治まらないし、葛木も当然のように学校には来ていなかったし。 「―――帰ろう。セイバーもお腹減らしてるだろうし」  よし、と鞄を手にして席を立つ。  何か忘れている気がするが、家に帰って休めば思い出すだろう。 「――――あ」    感覚のない左足で坂道を上りきったところで、忘れ物を思い出した。 「そういえば、遠坂と話をするの忘れてた」  体の事で手一杯だったというか、頭がぼーっとして失念していた。  ま、あっちから来なかったんだから大きな動きはなかったんだろう。  体の事もあるし、こっちの調子が戻ってから連絡をいれればいいか。 「ただいまー」  和室に聞こえるぐらいの大声で挨拶をして、台所に直行する。  買ってきた食材を冷蔵庫にしまって、手を洗って、エプロンを装着する。  夕飯はたら鍋にするんで、昼は肉にしよう。  鶏肉の照り焼きをメインにした献立を思案しつつ、ガチャガチャと支度をする。 「シロウ、帰ったのですか」  音を聞きつけたのか、セイバーは縁側の方からやってきた。 「ああ、遅くなってすまない。すぐに飯にするから休んでいてくれ。セイバーもお腹減って――――」  ……しまった。  セイバーに気をとられて、手にした皿を落としてしまった。 「シロウ。食器が割れていますが」 「うん。皿を割るなんて初めてだ」  自分自身もびっくりしていたんで、そんな間の抜けた相づちを打ってしまった。 「すまん。すぐに片づけるから、セイバーは気にせず座っていていいぞ」  よっ、と割れた皿を拾い上げる。 「――――あれ」  拾い上げた破片を再び落とす。 「はあ。疲れているようですね、シロウは。  いいです、片づけは私がしますから。シロウは調理に専念してください」  左手で拾おうとしたのが失敗だったか。  ……ま、いい教訓になった。  左手はまだ感覚がズレているから、包丁を使う際には細心の注意を払おう。 「シロウ。無理せずとも結構ですから、単純な料理をお願いします。気を入れてくれるのは嬉しいのですが、料理に貴方の血が混ざっている、というのは困る」  いや、そりゃ俺も困る。  そんなの台所を任された身として失格だ。 「了解。気合いをいれるのは夕飯にして、昼は簡単な物ですますよ。とりあえずメインはそのまま、予定していた〈南瓜〉《かぼちゃ》と大根は自重するけど、いいかな」  鶏肉二百グラムをまな板の上にのせ、用心深くフォークを構える。  朝にああ言った手前、せめて主菜だけは手を抜かずに作らねば。 「はい。期待しています、シロウ」  こっちの意気込みが伝わっているのか、セイバーはそんな言葉を返してくる。 「――――――――」  俄然やる気が出てきた。  まずはフォークで穴を開けて下ごしらえを―――― 「……ピンポン?」 「シロウ、来客のようですが」 「そうみたいだな。ちょっと出てくる」 「はい、いま出ます――――!」    小走りで玄関に向かう。  この時間、誰かが訊ねてくるなんて珍しい。  藤ねえはチャイムなんて鳴らさないし、なにより合い鍵を持っている。  うちは元々来客は少ないし、まわりに家がないから近所付き合いも少ない。 「……誰だろ、いったい」  まあ、〈切嗣〉《オヤジ》の結界が警告音を出さない、という時点で敵意を持つ人間ではないし、大方藤ねえんところの若い衆だろう。 「はい、どなたですか」  玄関を開ける。  途端、  ぱったり思考が停止した。 「――――――――――――」 「――――――――――――」  お互い無言で見つめ合う。  ……いや、こっちはただ呆然としているだけで、遠坂の方がピリピリしているだけなんだが。 「と、遠坂――――なんで?」 「定時連絡、衛宮くんがすっぽかしたから」 「て、定時連絡をすっぽかしたって―――そりゃたしかに遠坂と会うのを忘れてたけど。……その、そもそもそんな決まり事、あったっけ?」 「――――――――――――」  遠坂は無言で睨んでくる。  ……まずい。  怒られる覚えはないんだが、すごく悪いコトをした気になってきた。 「……すまん。忘れてたのは謝る。協力者として、定時連絡は当然の義務だった」 「―――そうよ。状況は何も変わってないんだから、お互いの確認は当然じゃない」  ほっ、と一息つく。  遠坂がうちの玄関にいるだけでびっくりなのに、玄関先で怒られてはもう異次元状態だ。  こういう心臓に悪い状況は、早々に打破するに限る。 「―――話はわかった。連絡はすぐにするから、遠坂も帰ってくれていい。ここまで来てもらってわざわざすまなかった」  ……おい。  なんでそこでそういう顔するんだ遠坂。 「……遠坂? 用件はわかったから、ひとまず帰って橋の下の公園で落ち合うんじゃないのか?」  嫌な予感がしたコトもあり、おそるおそる訊ねてみる。  ……それがトドメだったのか。  こっちの弱み、恐れている事を読みとるのが得意っぽい遠坂は、 「いいえ。いい機会だから今日はここで会議するわ。  まさか、わざわざここまで来た友人を追い返すなんてしないわよね、衛宮くんは」    悪魔みたいに微笑んで、悪魔みたいなコトを言った。 「な―――ここで会議するって、うちにあがるっていうのかおまえ……!?」 「なによ、貴方だってわたしの家にあがったでしょ。それに今回が初めてってワケじゃないし、今更隠すことなんてないんじゃない?」 「あ」  そうだった。  初めてセイバーと出会ったあの夜、倒れた俺の手当てをしてくれたのは遠坂だった。  けどあの時はマスターになったばかりで混乱していて、遠坂がうちにいる、なんて状況を把握できていなかっただけだ。  いくら協力関係だって言っても、遠坂は遠坂だ。学園のアイドルで同学年の女の子だ。それがうちにあがってくるっていうのはなんかとんでもない状況じゃないのかってなんで廊下にあがってんだそこーーーっ! 「じゃ、お邪魔しまーす。話し合いなんだから居間でいいわよね衛宮くん?」 「ま、ままままま待てってば、ばかっ! いいのかおまえ、遠坂なのに俺んちにあがったりしたらタイヘンだぞ!」 「いいからいいから。あ、それとお昼食べてないからよろしくねー」  ドカドカと上がりこんでくる侵略者こと遠坂凛。 「うわ、待てってば……! この、考え無しもほどほどにしろー!」  大声で抗議するも敵影まったく変化なし。  困惑する俺を残し、侵略者は事も無げに居間へ移動していった。  ……で。  うやむやのうちに遠坂とセイバーと俺とで昼食をとった後、今後の方針を語り合った。  議題はもちろんキャスターについて。  柳洞寺に陣を構えたあいつをどう倒すか、四時間近く討論してみたのだが、結果は芳しくなかった。 「……はあ。結局正面からの実力行使しかないってワケね。セイバーの話が本当なら、サーヴァントは正門からしか入れないっていうし」 「そうですね。あの山には霊体に対する強力な結界が張られていますから、私では正門から突入するしか手はありません。……〈役割〉《クラス》的に単独行動が可能であるアーチャーならば、多少の無理は利くでしょうが」 「で、無理して疲弊しきった体で境内にあがったらキャスターが待ち伏せている訳だろ。そんなのいい的じゃないか」 「……まあね。的を射るアイツが的にされてちゃしょうがないわ。ま、アサシンだけならセイバーとアーチャーのコンビで倒せるだろうけど、境内にあがった後、キャスターをどう追い詰めるかも問題か。  衛宮くんの話じゃとんでもない魔力の貯蔵量だって言うし、下手に追い詰めたら柳洞寺ごと道連れにされかねない」 「たしかに。キャスターは〈潔〉《いさぎよ》い死を迎える性質ではないようでしたし。自らが滅びるなら、私たちごと爆散しかねない。無論、そうなれば柳洞寺も消え去りますが」 「セイバー、しれっと怖いコト言うよな。  キャスターのやつ、追い詰められたら自爆するっていうのか?」 「するでしょ、そりゃ」 「しますね、おそらく」 「……………………」  二人の息はバッチリだ。  振り返ってみれば、セイバーと遠坂は初めっから意見があっているというか、戦闘において認め合っている節がある。  その二人がそろってダメだというんだから、柳洞寺攻略は相当に困難なんだろう。 「あ。なんだ、もうこんな時間なんだ」  居間に響く時計の音。  気が付けば夕方の六時前、外はすっかり茜色に染まっていた。 「―――はあ。とりあえず、話し合いはここまでだな。  そろそろ夕飯の支度をしないと」  よっこらしょ、と立ち上がる。  今夜はたらのおろし鍋なんで、調理にそう時間はかからない。  今からやる事といったらご飯を炊いて、鍋ものに合う一品ものを作るだけなんだが―――― 「なによ衛宮くん。人の顔じろじろ見ちゃって」 「――――――――」    ……いや、だから。  どうしてそう、これからうちは夕飯だっていうのにくつろいでいるんだろう、こいつは。 「それにさっきからずっと離れているし。そこが衛宮くんの定位置かどうかは知らないけど、話し合いをするんだからもっと近くにいないと不便でしょ? なんだってそんなトコにいるのよ、貴方は」  遠坂はテーブルに堂々と陣取ったまま、はしっこに座布団を置いた俺を眺めやがる。  ……遠坂と距離をとってる理由なんて、そんなの一つしかないっていうのに。 「ばか言え、俺の定位置はおまえが陣取ってるところだよ! それを遠坂が横取りするからこうなったんだろっ」  せやー、と精一杯の抗議をする。 「ははあん。そっか、外じゃあマスター同士って事で気にならなかったけど、自分の家の中になったら素に戻るってコトね」 「わ、悪いかばかっ! 男なんだから、こんなの普通の反応だっ……!」  同学年の女生徒、くわえて相手が遠坂なんだから緊張しない方がおかしい。  それでもマスター同士なんだから、と必死に言い聞かせて今まで通りに作戦会議していたのだ。  情けないコトだが終始緊張していたし、お茶を何杯飲んだかもわからない。 「でもおかしくない? セイバーだって女の子だし、聞いた話じゃ藤村先生も桜もここに来るんでしょ? ならわたしだって似たようなものじゃない」 「………………」  似たようなもんじゃないっ。  セイバーと遠坂は違うし、藤ねえと遠坂は違うし、桜と遠坂は違う。  そもそも、セイバーとなんとかやっていけているのは一緒に戦う仲間だからだ。 「……ふん、いいからもう帰れ。うちはこれから夕飯なんだ、遠坂も家でアーチャーが待ってるんだろ」 「あら。結論が出てもないのに帰れるわけないでしょ?  夕飯をご馳走になった後、今後の方針を決めるんじゃないの?」 「――――――――」  いや、本気で目眩がした。 「ぐっ……それは、もう決定してる事項なのか、遠坂」 「違うの? イヤなら別にいいけど。じゃあ衛宮くんはぁ、キャスターに関してはしばらく放置ってコトでいいんだ」 「が――――」  喉まででかかった文句を呑み込む。 「シロウ。凛の言い分は正しいのではないですか? 別に彼女が滞在しても問題はない訳ですし」  くわえて、セイバーまでも遠坂の味方だった。 「――――わかった。けど、飯が口に合わなくても知らないからな。それと藤ねえ―――藤村先生も来るだろうから、そん時はおまえが説き伏せてくれよ」 「わかってるわかってる。衛宮くんの料理の腕はお昼で確認済みだし、藤村先生の事も知ってるわ。両方とも承知の上だから気にしないで」 「――――ふん。後悔しても知らないからな」  ぷい、と顔を背けて台所に向かう。  ――――と。  手を洗って、いつものエプロンを装着しようとして、いつもの場所にエプロンがない事に気が付いた。  ……いや。  そもそも、遠坂の目を気にしながら昼食の準備をした後から、エプロンを取った覚えすらないのはどういうコトか。 「あれ?」  きょろきょろと周りを見渡す。  そんな俺を見て楽しげに笑うと、   「それと、言い忘れてたけど。男の子として、エプロンをつけたまま動き回るのはどうかと思うわよ、衛宮くん」    なんて、勝ち誇った顔で言いやがった。  明かりが落ちる。  日付が替わろうとする午前零時、凍えた月を見上げながら鍛錬に埋没する。 「――――――〈同調〉《トレース》、〈開始〉《オン》」    背骨に新しい神経を埋め込んでいく。  体内に魔術回路を作り、呼吸のように魔力を生成し、手にした木刀の構造を把握する。 「――――――基本骨子、解明」    魔力を通し、木刀を“強化”する。  構造を解明し、内容を変更し、全体を補強する。 「――――――構成材質、補強」    いつもの工程は、あっけないほどスムーズに進んでいく。  ……マスターになったからなのか、成功率一桁だった強化は難なく行えるし、魔術回路を作る工程も一息で行えるようになっている。 「………………」  ……いや、それはマスターになったからじゃない。  単に、自分は真似ているだけだ。  あいつの刀。  柳洞寺の境内で見た、あの赤い騎士の姿を模倣しているだけ。  あいつの双剣を真似て、その剣技を真似て、今、息遣いさえも真似ている。 「……偽物だ。こんなの、俺の物じゃない」    自己嫌悪を抱かずにはいられない。  あいつの真似をすれば、それだけで衛宮士郎の実力はあがっていく。  それが自分の力ではないと判っていても、今はそれに頼らざるを得ない。  校舎で骨人形相手に戦い抜けたのはあいつの剣技のおかげだし、  葛木の猛攻を防ぎきれたのだってあいつの双剣を投影できたからだ。    ……今だって。  本気で、真剣に工程を重ねて見れば、もう一度あの刀を複製できる、という確信がある。 「……強化と似て非なるもの。始まりと終わりをいれて、ちょうど八節に分ければいいんだよな……」    〈同調開始〉《トレース・オン》ではなく〈投影開始〉《トレース・オン》。  ……言葉にする響き自体は変わらない。  自分自身に働きかける意味さえ同じなら呪文を変更する必要はない。  そもそも俺は、自分を作り替える呪文なんて一種類しか知らないし、使えないと思う。 「――――――――」   “強化”し終わった木刀を置く。  ……左半身は麻痺したままだ。  今日一日休んでいれば回復すると楽観したが、そう都合良くはいかなかった。  これが分不相応な魔術の代償――――アーチャーの双刀を模倣した代償なら、もう一度“投影”をした時こそ、無様に自滅する時なのかもしれない。 「――――――――ふう」  背骨に抉り込んだ感覚を外す。  体は魔術回路という毒素から解放され、堅い緊張から解けていく。  そこへ、   「シロウ?  眠れないのですか?」    静かに、セイバーがやってきた。 「いや、そういうワケじゃない。これは日課だから気にしないでくれ」  その日課も無事終わってホッとしていたんだろう。  答えた声は、自分でも驚くほど優しい声をしていた。 「今日は賑やかでしたね」 「そうだな。タイプは違えど、藤ねえが二人いたようなもんだし」  微笑みに微笑みで応える。  セイバーはまったくです、なんて珍しく軽口を言って、座っている俺の横に腰を下ろした。 「しかし、今夜も魔術の鍛錬ですか。何が有ろうと予定は変えないのですね、シロウは」 「え……? ああ、欠かさずにやれっていうのが〈切嗣〉《オヤジ》の教えだったからな。けどまあ、教えてくれたのはそれだけだったけど」 「それだけ……? では、魔術師としての知識も在り方も教授されてはいないのですか?」 「ああ。そもそもさ、教えるべき本人が魔術師らしくなかったんだよ。  困った大人だったな。普段はぼーっとしていて、どうも冴えなかった。楽しむ時は思いっきり楽しむんだ、なんていって子供みたいにはしゃいでたし。  あれで僕は魔法使いなんだ、なんて言われても信じられないって、普通」  そう語る自分の頬が緩んでいるのがわかる。  昔のこと。  十年前のあの火災から、切嗣が亡くなるまでの五年間。  思えばあの時が、自分にとって純粋に楽しい時間だったのかもしれない。 「なるほど。そういう師が好きだったのですね、シロウは」 「……ん。遠坂に聞かれたら怒られそうだけど、憧れてた。自由でぜんぜん魔術師っぽくなくても、俺にとっては切嗣こそが本当の魔法使いだったんだ。  ま、それにさ。自分以上に子供っぽいんで、どうしても放っておけなかったってのもあるし」 「ええ、シロウの気持ちはわかる。私にも〈魔術師〉《メイガス》はいたが、そいつも子供のような人物だった」 「そいつ……? 珍しいな、セイバーが人をそんなふうに言うなんて」 「いいえ、彼は例外です。アレはとんでもない老人だった。尊敬していたし親愛も感じていましたが、同時にあらゆる厄介事の素でした。彼の悪戯好きさえなければ、もう少しまともな時代になったでしょう」 「……うわ。なんか凄いな、その言い方。まるで希代の悪人みたいじゃないか」 「悪人でした。くわえてその、色事に弱いというか、愛の多い人物というか。結局最後にそれが〈仇〉《あだ》となって幽閉されてしまいましたが、あの老人の事です。きっと、今でも呑気に愛を語っているのでしょう」  呆れているのか、笑っているのか。  セイバーはそんな昔話をして、ほんの少しだけ言葉を呑んだ。  そうして、わずかな沈黙のあと。   「シロウ。貴方の半身はどうなっているのです」    まっすぐな目で、知られたくない事を追及してきた。 「……なんだ。セイバー、気づいてたのか」 「あれだけ皿を割っていれば誰でも気が付きます。  それで、どうなのです。見たところ異状があるのは半身だけのようですが」 「いや、異状ってほどの事じゃない。ただ麻痺してるだけなんだから」  そうして、朝から体がおかしかった事、運動能力としてはまったく異状がない事、原因は昨夜の投影魔術による〈反動〉《フィードバック》だろうという事を説明する。 「……………………」  セイバーは不安げな目で俺を見る。  それに大丈夫だと笑いかけようとした時。   「―――体の大部分が麻痺したままか。当然と言えば当然だな」    開かれた扉の前に、赤い外套の騎士が立っていた。 「アーチャー……!」  俺を守るように身を翻すセイバー。  ……彼女にしてみれば、あいつは俺を斬りつけた敵なのだ。 「――――――――」  ……そして、俺にとってもこいつは敵だ。   “―――理想を抱いて溺死しろ”    俺を斬りつける直前に告げたその言葉が、今でも頭にこびりついて離れない―――― 「何用だアーチャー。我らは互いに不可侵の協定を結んでいる筈。〈己〉《おの》が主の命を守るのなら、早々に立ち去るが良い」 「――――――――」  アーチャーは答えず、さらに踏み入ってくる。 「――――止まるがいい! それ以上進むのならば、相応の覚悟をしてもらおう」  セイバーの敵意は殺気に変わりつつある。 「……いや、待つんだセイバー。あいつにその気はない。  それに、ここで戦う訳にはいかないだろ」 「む……それはそうですが、シロウ」 「いいから。―――で、用件はなんだよアーチャー。  おまえの事だ、挨拶しにきた訳でもないんだろ」  セイバーを押しのけてアーチャーと対峙する。  ……っ。  やっぱりこいつは気にくわない。  考え方が違うってのもあるが、こう顔を見た瞬間背筋に悪寒が走るんだから、生理的に相容れないに違いない。  きっと天敵とか仇敵とか、そういう〈類〉《カテゴリー》に属する野郎だ。 「おい。用件がないんなら出ていけ」 「……ふん。投影をしたと凛から聞いていたが、やはりそうか。半身の感覚がなく、動作が中よりに七センチほどずれているのだろう?」 「――――――――」  息を呑む。  アーチャーの指摘は、恐ろしいぐらい正確だった。 「体を見せてみろ。力になれるかもしれん」  アーチャーが腕を伸ばす。 「っ………!」 「いい、よすんだセイバー。……体を見せればいいんだな、アーチャー」  上着を脱いで、アーチャーに背中を向ける。 「――――――――」  アーチャーは無言のまま背中に手をあててきた。 「っ――――」  僅かな痛み。  感覚―――痛覚さえなかった左半身に、〈鍼〉《はり》を刺されたような熱を感じる。 「……運のいい男だ。〈壊死〉《えし》していると思ったが、閉じていたモノを開いただけか。これならば数日もすれば回復しよう」 「……閉じていたモノが、開いた?」 「そうだ。おまえは勘違いをしているようだがな、魔術回路とは作るものではなく表すものだ。一度作ってしまえば、後は表面に出すか出さないかの物でしかない。  ……そのような勘違いをしているから、本来使われる筈の回路が放棄され、眠っていたのだ。  おまえの師や凛には考えられない盲点だろうよ。真っ当な魔術師ならば、通常の神経そのものが回路になっている異端など知りもしまい」 「おまえの麻痺は一時的なものだ。今まで在ったというのに使われていなかった回路に全開で魔力を通した結果、回路そのものが“驚いている”状態だろう。  だが、なんにせよ放棄されていた区画に風が通ったのだ。いずれ神経は通常の機能を思い出すし、放棄されていた回路はこれで現役に戻ったという事だ」 「っ――――」  もう一度、背中に〈鍼〉《はり》が刺さる。  この一日、感覚がなかった半身から、どくどくと脈打つ確かな鼓動を聞き届ける。 「……こんなところか。体が動く頃には、以前よりはましな魔術師になっているだろう。何にせよ、俺の刀を作るなど初めにしては欲張りすぎだ」  アーチャーの手が離れる。 「……では、シロウの体に異状はないと?」 「今までが異状だったのだ。……いや、異状を眠らせたまま終わるのが正常な人間の生だ。その点で言えば、衛宮士郎は既に異常だが――――まあいい。  ともあれ、明日一日は魔術を使おうと思うなよ。治りかけた神経が焼き付いたら麻痺ではすまん」 「詳しいのですね、アーチャー」 「似たような経験があってな。私も初めは片腕をもっていかれた。新しい魔術を身につけるとはそういう事だ」  背中を向け、アーチャーは立ち去ろうとする。 「待てよ」  それを呼び止めた。  俺を殺そうとし、今ここで手助けをするこいつの真意を、どうしても知りたくて。 「なんだ。セイバーに頼みこんで、いつぞやの続きでもするつもりか」 「そんな事するか。ただ訊きたいだけだ。おまえが言い捨てやがった台詞がどんな意味なのかってな」    ―――理想を抱いて溺死しろ。    その意味を。  他ならぬこいつの口から聞かなければ、脳裏に棲みついた不安は消えない。 「言葉通りの意味だ。付け加えるモノはない」  断言に迷いはない。  アーチャーは本気で、一片の迷いもなく返答した。 「――――!」  それが。  目の前が真っ白になるぐらい、我慢ならなかった。 「じゃあおまえはなんだアーチャー……!  理想を抱くなと言うおまえは何の為に戦ってるんだ。  サーヴァントはみんな自分の目的があるんだろう。なら、おまえの戦う意義ってなんだ。理想がないおまえは、何の為に戦うんだ」 「―――知れた事。私の戦う意義は、ただ己の為のみだ。  つまらぬ世情、大義、理想。  そんな不確かな意義など偽物だ。剣を執るのは、ただ己が欲望の成就の為。それ以外に理由などない」 「自分の――――自分の為だけ、だと」 「そうだ。おまえの欲望が“誰も傷つけない”という理想であるのなら好きにするがいい。そんなに他人を救いたければ救えばよかろう。  ただし―――それが、本当におまえ自身の欲望ならばな」 「―――――な」    思考が止まる。  こいつは今、何を、言ったのか。 「自分の意志で戦うのならば、その罪も罰も全て自分が生み出したもの。背負う事すら理想の内だ。  だがそれが借り物の意思であるなら、おまえの唱える理想は空想に墜ちるだろう」                 つまり。それは偽物だと。 「戦いには理由がいる。だがそれは理想であってはならない。理想の為に戦うのなら、救えるのは理想だけだ。  そこに、人を助ける道はない」    声が出ない。  反論がうかばない。  アーチャーの言葉は、それこそ矢のように胸を刺す。    それは俺だけでなく、傍らにいるセイバーでさえ同じだった。 「戦う意義とは、何かを助けたいという願望だ。  少なくともおまえにとってはそうだろう、衛宮士郎」 「――――――――」 「だが他者による救いは救いではない。人を〈叶〉《かな》えるのは本人の意思と結果だけだ。  他人による救いなど、そんなものは金貨と同じだよ。  使えば、他人の手に回ってしまう」 「――――――――」    ……声が、出ない。  なにか。  それは違うと言わなければならないのに、どうして。 「だから無意味なんだ、おまえの理想は。  確かに“誰かを救う”などというおまえの望みは達成できるだろう。だがそこには〈おまえ自身を救う〉《・・・・・・・・》、という望みがない。  おまえは、おまえの物ではない理想を抱いて、おそらくは死ぬまで繰り返す」                   違う、それは。 「―――私が言いたかった事はそれだけだ。  人助けの果てには何もない。結局、他人も自分も救えない、偽りのような人生だ」  赤い背中が遠ざかっていく。 「――――――――」 「――――――――」  ……口に出来る言葉が探せない。    影が落ちる。  土蔵に残された俺たちは、互いを見る事もできず、居もしないやつの背中を見つめていた―――    ――――見た事もない景色だった。    頭上には炎の空。  足元には無数の〈鋼〉《つるぎ》。  戦火の跡なのか、  世界は限りなく無機質で、生きているモノは誰もいない。    灰を含んだ風が、鋼の森を駆け抜ける。  剣は樹木のように乱立し、その数は異様だった。    十や二十ではきかない。  百や二百には届かない。  だが実数がどうであれ、人に数えきれぬのであらば、それは無限と呼ばれるだろう。      大地に突き刺さった幾つもの武具は、使い手が不在のままに錆びていく。    〈夥〉《おびただ》しいまでの剣の跡。            ―――それを。     まるで墓場のようだと、彼は思った。  ……視界が戻る。  日が昇って随分と時間が経ったのだろう、確かな陽射しが伝わってきた。   「――――――今の、夢」    ぼんやりと目を開けて、見ていた夢を思い起こす。  ……剣の丘。  あんな夢を見たのは、そう、剣を持った〈少女〉《セイバー》と、炎に包まれた墓地を見たからで―――― 「あ、お目覚め? それは結構。大事がなくて何よりだわ」 「は………………?」  と。  同時に、偉そうに見下ろしながら、とんでもなくフツーな一言を述べる遠坂凛。 「~~~~~~~っ!」  布団から跳ね起きる。  そのままコンマで壁際まで跳び退いて、ともかく遠坂から距離を取った。 「と、とと、とととととと遠坂!? な、ななな!? 何故にいま俺の部屋………!!??」  ぐるぐる思考がまわる。  俺は剣の丘―――じゃなくて、燃えさかる墓地にいた筈で、近くにいたのはセイバーで、どうして自分の部屋で眠っていてもう朝になっているのか……!? 「と、遠坂、どうしておまえがここにいて、俺は何してたんだ――――!?」    口にした途端、ますます頭がまわりだした。  事態が急展開を迎えているから、って訳じゃない。  一番びっくりしているのは、そう―――目を覚ましたらすぐ目の前に遠坂がいたってコトが、こんなにも心臓をバクバクさせている。 「驚くんならどっちかに驚きなさいよ。どっちも取れるほど器用じゃないでしょ、衛宮くんは」  こっちの心境も知らず、遠坂はあくまでクールだ。 「――――む」  それで停止していた頭に喝が入った。  そうだ。  そりゃあ目が覚めた途端、遠坂の顔があったらびっくりするのは当然だ。  が、裏を返せば、それはつまり―――― 「……そうか。状況を見ると、気を失った俺をここまで運んでくれたんだな、遠坂」 「へえ。なんだ、見た目より頭の回転は速いんだ。混乱しているようでちゃんと物事は考えてるのね。うん、面白い面白い」  ………む。  褒めているのか貶しているのか、判断しづらい発言は止めて欲しい。 「……じゃああれから半日ぐらいしか経ってないのか。  俺ん家まで運んでくれたって事は、人目につかないで逃げられたんだ」 「ええ、そういう事。話が早くて助かるわ」  それで満足したのか。  それじゃ、と短く言って、遠坂は歩き出す。 「え――――おい。どこ行くんだよ、遠坂」 「貴方、まだ寝ぼけてる? どこに行くも何も、ここは貴方の家じゃない。わたしがいつまでも居ていい場所じゃないわ」  きっぱりと言う。  その目が、   “敵同士でしょ、わたしたち”    と告げていた。 「――――――――」  それは、そうだ。  昨夜。  あの教会で戦うと口にした。  ならもう、衛宮士郎と遠坂凛は競い合うしかない関係なんだ。 「そうだったな。すまない遠坂。それと、今更だけどありがとう」 「――――――」  と。  遠坂は去っていく足を止めると、難しい顔でこっちを睨んできた。 「待った。どうしてそこで礼なんか出るの」 「いや、だって助けてもらっただろう。敵同士だって言うんなら尚更ありがたいと思って」 「―――――ちょっと。そこに座りなさい、衛宮くん」 「……?」  思惑は判らないが、逆らうととんでもない事態になりそうな気がする。 「ほら、早く」  ぽんぽん、と畳を叩く。 「――――――」  ……どうやら真面目な話があるようだ。  そういう事なら、と大人しく正座した。 「いい。まだ解ってないようだから言ってあげるけど、そんな考えじゃ死ぬわよ、貴方」 「? そんな考えって、どんなだよ」 「……だから、間違っても敵にありがとう、なんて言うなってコトよ。いちいちそんな気になってたら命が幾つあっても足りないわ。  いい、相手はただの障害よ。人間のカタチをしていて人間のコトバを喋るからって、“自分と同じ”だなんて思わないで」 「――――――――」  強い口調、厳しい眼差しで遠坂は告げてくる。  ……それは、確かにその通りだ。  敵を自分と同じだ、と情を移す事が間違いなら、いちいちそんな余分な思考をする事も間違い。  戦うと決めたからには、相手は倒すだけのもの。    ―――ああ、遠坂の言い分は理解できる。  しかし、それは。 「ちょっと、聞いてる!? いい、聖杯戦争は聖杯を手に入れる為だけの殺し合いなんだから。その為には他のマスターを人間として見ない事。たとえ肉親でも叩き潰す対象と割りきりなさい。まったく、こんな事マスターとしての第一条件じゃない」  いや、だから、それなら。   「それは判った。けど、ならなんで遠坂は俺を殺さなかったんだ?」    そういう問題にならないか? 「え――――そ、それは、つまり」  さっきまでの剣幕は何処にいったのか。  うー、とますます不愉快そうに喉を鳴らす。 「ふ、ふん。単に気分が乗らなかっただけよ。貴方には借りがあったし、寝込みを襲うなんてフェアじゃないもの。だから、なんか気にくわないなって」 「遠坂。おまえいま、勝つためならいかなる手段も使え、みたいなコト言わなかったか?」 「そうよ。だからこれは私の失点。貴方よりわたしの方が強いから生じた油断かな。ま、言うなれば心の〈贅肉〉《ぜいにく》ね」    あ、その表現、前も聞いた覚えがある。 「心の贅肉? つまり遠坂が太ってるってコトか?」 「ふふふふふ。面白いこと言うのね、衛宮くんは」 「でもこれからは余計な言動は控えた方がいいわよ。軽率な行動は死を招くだけだから」 「――――――――」  ……こわかった。  思わず身を引いちまったぞ、今の。 「……ふん。とにかくわたしの話はそれだけよ。後のことは貴方のサーヴァントにでも訊きなさい」  遠坂はスッと立ち上がると、今度こそ止める間もなく出口へと歩いていく。 「それじゃあね。今度会ったら敵同士だから、その時は覚悟しなさい」  それで遠坂の気配は消え失せた。  俺をここまで運んでくれて、手当てまでしてくれたのは本当に気紛れだったのだろう。  あいつは何の未練も感情も残さず、敵同士だと告げて、この屋敷から去っていった。 「――――さて」  軽く息を吸って、状況を把握する。  昨夜の事件―――夜の学校でランサーとアーチャーの戦いを目撃してからこっち、まともに考える時間がなかった為だ。 「……あ。そうか、ならあの時にいた人影って遠坂だったワケだ」  ぽん、と今更ながら気がつく。  その後、俺はランサーに胸を貫かれ、なんでか助かって家に戻り、再びランサーに襲われ―――― 「セイバーに助けられて、マスターになった」  教会で聞いた事。  聖杯戦争という殺し合い。  勝者に与えられる、あらゆる望みを叶える“聖杯”。  ……そんな事はまったく実感が持てないが、衛宮士郎はすでに三回も敵に襲われている。    なら―――いつまでも戸惑ってはいられない。    何より、俺はこの戦いが放っておけないからこそ戦うと口にした。  ……聖杯戦争という椅子取りゲーム。  どのような思惑だろうと、参加したからには相手を押し退けないと生き残れない。  問題はその押し退ける方法が、椅子取りゲームに参加していない人にまで危害を加える可能性がある、という事。  だから、    ――――喜べ衛宮士郎。    俺の戦う理由は聖杯戦争に勝ち残る為じゃなくて、    ――――君の望みは、ようやく叶う。    どんな手を使っても勝ち残ろうとするヤツを、力ずくでも止める事。 「――――――――」  ……それに間違いはない筈だ。  衛宮士郎は正義の味方に、不当に命を奪われる“誰か”の為に魔術を鍛えてきたんだから。 「よし。まずはセイバーに話を聞かないと」    脳裏にこびりついている神父の言葉を振り払って、廊下へと足を向けた。  屋敷をまわる。  人がいそうなところ―――客間をすべて見てまわったがセイバーの姿はない。 「あれ……? あの格好なんだ、いればすぐに判るもんだけど」  そうは言いつつも、屋敷のどこにもセイバーの鎧姿は見あたらなかった。  サーヴァントは霊体になれるらしいが、生憎俺にはそんな芸当はさせられない。    いや、そもそも―――― 「マスターだなんて言うけど、俺、あいつの事なんにも知らないんだよな」  セイバーが何者なのか、サーヴァントがどんな理屈で居るモノなのか、俺にはてんで解らない。  ただ判る事と言えば、それは。  あの金髪の少女となら、こんな訳の分からない戦いも切り抜けられるという確信だけだ。 「ここにもいない――――」    屋敷はすべてまわった。  旅館みたいに広い屋敷だが、子供の頃藤ねえと隠れんぼをして効率のいい屋敷内の探索法は心得ている。  ここまで捜していないとなると、後は道場か土蔵ぐらいなものだろう。 「――――え?」  静まりかえった道場にセイバーはいた。  ……ただ、その姿は昨日までの彼女とは違う。  板張りの床に正座したセイバーは、鎧を纏ってはいなかった。  セイバーは彼女らしい上品な洋服に着替えていて、無言で床に座していた。 「――――――――」  ……その姿に、言葉を忘れた。  凛と背筋を伸ばし、目を閉じて正座をするセイバーは、綺麗だった。  静寂に溶け込む彼女の有り様は、清らかな水を思わせる。 「――――――――」  それで、最後に残っていた棘が取れた。  サーヴァントだろうとなんだろうと、彼女は聖なるものだと思う。  なら―――この先、自分が間違った道を進むことはないだろう。 「セイバー」  声をかける。  セイバーは慌てた風もなく目蓋を開けて、ゆっくりと視線を返す。 「目が覚めたのですね、シロウ」  落ち着いた声。  染みいるように響く彼女の声は、ひどくこの道場にあっていた。 「―――ああ。ついさっき目が覚めた。セイバーはここで何を?」 「体を休めていました。私にはシロウの手当ては出来ませんから、今はせめて自身を万全にしておこうと思いまして」 「っ――――」  まっすぐにこっちを見ながら、淡々とセイバーは言う。  ……それは、その。  遠坂とはまた違った緊張があるというか。 「シロウ? どうしました、やはり体がまだ……?」 「っっっっっ! い、いやこっちも問題ないっ! かってに戸惑ってるだけだから、気にしないでくれ……!」  ばっと一歩引いて、ぶるぶると首を振る。 「?」  不思議そうに首をかしげる彼女から目を逸らして、ともかくバクバクいってる心臓を落ち着かせた。 「……落ち着け、なに緊張してんだ俺は――――!」  ふう、と深呼吸を一度する。  ……けど、すぐには収まりそうにないというか、収まりなんかつかない気がする。 「……ああもう、なんだって着替えてるんだ、セイバーは――――」  思わずごちる。  セイバーの服装はあまりにも現実感がありすぎて、否応なしに異性を意識してしまうのだ。  ……とにかく、彼女はとんでもない美人だ。  それは昨日で知っていたつもりだったが、今さらに思い知らされた。 「シロウ」  目があった途端、緊張する自分が判る。  かといって、黙り込むために彼女を捜していた訳じゃない。  彼女は苦手だけど、だからといって黙っていたら一生このままだ。 「―――」  意を決して話し掛ける。    本当なら昨日、帰ってから訊くべきだった事。    彼女は本当に俺なんかのサーヴァントで、  本当に―――この戦いに参加するのかという事を。  屋敷をまわる。  人がいそうなところ―――客間をすべて見てまわったがセイバーの姿はない。 「あれ……? あの格好なんだ、いればすぐに判るもんだけど」  そうは言いつつも、屋敷のどこにもセイバーの鎧姿は見あたらなかった。  サーヴァントは霊体になれるらしいが、生憎俺にはそんな芸当はさせられない。  いや、そもそも―――― 「マスターだなんて言うけど、俺、あいつの事なんにも知らないんだよな」  セイバーが何者なのか、サーヴァントがどんな理屈で居るモノなのか、俺にはてんで解らない。  ただ判る事と言えば、それは。  あの金髪の少女となら、こんな訳の分からない戦いも切り抜けられるという確信だけだ。 「ここにもいない――――」    屋敷はすべてまわった。  旅館みたいに広い屋敷だが、子供の頃藤ねえと隠れんぼをして効率のいい屋敷内の探索法は心得ている。  ここまで捜していないとなると、後は道場か土蔵ぐらいなものだろう。 「――――え?」  静まりかえった道場にセイバーはいた。  ……ただ、その姿は昨日までの彼女とは違う。  板張りの床に正座したセイバーは、鎧を纏ってはいなかった。  セイバーは彼女らしい上品な洋服に着替えていて、無言で床に座していた。 「――――――――」  ……その姿に、言葉を忘れた。  凛と背筋を伸ばし、目を閉じて正座をするセイバーは、綺麗だった。  静寂に溶け込む彼女の有り様は、清らかな水を思わせる。 「――――――――」  それで、最後に残っていた棘が取れた。  サーヴァントだろうとなんだろうと、彼女は聖なるものだと思う。  なら―――この先、自分が間違った道を進むことはないだろう。 「セイバー」  声をかける。  セイバーは慌てた風もなく目蓋を開けて、ゆっくりと視線を返す。 「目が覚めたのですね、シロウ」  落ち着いた声。  染みいるように響く彼女の声は、ひどくこの道場にあっていた。 「―――ああ。ついさっき目が覚めた。セイバーはここで何を?」 「体を休めていました。私にはシロウの手当ては出来ませんから、今はせめて自身を万全にしておこうと思いまして」 「っ――――」  まっすぐにこっちを見ながら、淡々とセイバーは言う。  ……それは、その。  遠坂とはまた違った緊張があるというか。 「シロウ? どうしました、やはり体がまだ……?」 「っっっっっ! い、いやこっちも問題ないっ! かってに戸惑ってるだけだから、気にしないでくれ……!」  ばっと一歩引いて、ぶるぶると首を振る。 「?」  不思議そうに首をかしげる彼女から目を逸らして、ともかくバクバクいってる心臓を落ち着かせた。 「……落ち着け、なに緊張してんだ俺は――――!」  ふう、と深呼吸を一度する。  ……けど、すぐには収まりそうにないというか、収まりなんかつかない気がする。 「……ああもう、なんだって着替えてるんだ、セイバーは――――」  思わずごちる。  セイバーの服装はあまりにも現実感がありすぎて、否応なしに異性を意識してしまうのだ。  ……とにかく、彼女はとんでもない美人だ。  それは昨日で知っていたつもりだったが、今さらに思い知らされた。 「シロウ」  目があった途端、緊張する自分が判る。  かといって、黙り込むために彼女を捜していた訳じゃない。  彼女は苦手だけど、だからといって黙っていたら一生このままだ。 「―――よし。  いいかなセイバー。こうやって落ち着いて話すのは初めてだけど―――」  意を決して話しかける。  ――――と。 「シロウ。話の前に、昨夜の件について言っておきたい事があります」 「―――? いいけど、なんだよ話って」 「ですから昨夜の件です。  シロウは私のマスターでしょう。その貴方があのような行動をしては困ります。戦闘は私の領分なのですから、マスターは後方支援に徹してください」 「昨夜の話――――?」  昨日の記憶を振り返ってみる。  ……セイバーが言っているのは、アーチャーの一撃からセイバーを連れ戻そうとした事か……? 「……む。アレは仕方ないだろう。セイバーが体を張ってたんなら、せめてあれぐらいはしないと協力関係だなんて言えないじゃないか。相棒が危なかったんだから、手を出すのは当然だろ」 「―――まさか。貴方はまだサーヴァントのなんたるかも知らないというのに、そこまで心を許していたのですか?」  あ。すごい、セイバーがびっくりしてる。 「え、だって握手しただろ。それにセイバー、何度も俺を助けてくれたじゃないか。これで信頼できないヤツこそどうかしてる」 「――――――――」  呆然と俺を見上げるセイバー。 「う……もしかして、契約ってそういう事じゃないのか?」  不安になって問いただす。  セイバーはいいえ、と静かに首を振ったあと、 「サーヴァントとして、シロウの言葉は喜ばしい。  それに、あの時止めてもらわなければ私も致命傷を負っていたでしょう。……方法こそ巧くはありませんでしたが、シロウの指示は的確でした」 「……そっか。良かった、つい夢中でやっちまったけど、あれはあれで良かったんだな」 「はい。ですが、今後はあのような行動は控えてください。私は傷を負ってもマスターさえ健在ならすぐに回復できます。ですが貴方が傷を負っては、私には治す術がない」 「う―――分かった、気をつける。確かにアレは軽率だった。次はもっと巧くやる」  どう巧くやればいいか判らないが、ともかく考え無しで飛び出すのは止めよう、と自分を戒める。  と。 「はい。いい返事です、マスター」  そんな俺の素振りがおかしかったのか。  セイバーは一瞬だけ、笑ってくれたように見えた。 「――――――――」  ぼっ、と火照る頭を振り払う。  今はそんな事より、はっきりさせなくちゃいけない事がある。    本当なら昨日、帰ってから訊くべきだった事。  彼女は本当に俺なんかのサーヴァントで、  本当に―――この戦いに参加するのかという事を。  朝飯を抜いていたのと正午にさしかかった事もあって、ひとまず昼食を摂る事にした。  セイバーはアーチャーのように霊体になる事が出来ず、本来マスターから得られる筈の魔力提供もないという話だった。  無論、そのどちらもマスターである俺が未熟な為である。  魔力の消耗は睡眠を取る事で防げるらしいが、魔力の補充は万全とはいかないらしい。  そうなると唯一のエネルギー補給は食事になる訳で、食事係として手を抜く事はできない。 「サーヴァントは魔力で実体化しているんだろ。  それじゃあ、その―――セイバーの魔力は回復しないんだから、戦っていけばいくほど弱っていくのか……?」    食器を片づけた後、エプロンをたたみながら質問する。 「まったく回復しない、という訳ではありません。  魔力というものは活動している内は絶え間なく生成されるものです。自然からの供給がないサーヴァントでも、自身の魔術回路だけで少なからず魔力を補充する事は出来ます」 「なんだ。なら問題はないんじゃないのか?」 「……さて、どう説明したものか。そうですね、そこの水道を例えにしましょう。  いま蛇口から水滴が〈零〉《こぼ》れていますね? それが私自身の魔力生成量だと思ってください。そして、その水滴を受け止めているグラスが私自身です。  今の状態なら、少しずつではありますが、〈魔力〉《みず》は私に溜まっていきます」 「さて。この零れている〈魔力〉《みず》ですが、これはグラスが重ければ重いほど蛇口の栓が開かれていくのです。  私はグラスに〈重さ〉《みず》が入っているかぎり、蛇口から水を出し続けます。けれどグラスの水が無くなった時、つまり〈私〉《グラス》にたまった魔力を使い切った時、蛇口は完全に閉まってしまう」 「そうなれば〈魔力〉《みず》の供給はなくなり、グラスはずっと乾いたままでしょう。  ―――それがサーヴァントにとっての消滅です。  肉体を維持できぬほどの傷を負うか、自身を保つほどの魔力を維持できなくなるか。……後者の例はそうあり得る事ではありませんが」 「……。けど、グラスに一滴でも水が残ってればいいんだろう? 少しでもグラスに魔力……重さがあれば蛇口の栓は開いてるんだから、時間が経てばまたグラスに水は溜まる」 「そうですね。ですがこのグラスに溜まった水は、常に失われていくのです。  水はこうしている間にも使われていますし、戦闘となればその消費量はさらに勢いを増す。  ……逆に言えば、強力な行動ほど水を多く消費するのです。私の宝具を使用するのならば、グラスに水が満ちていようと一瞬で空になる危険もある」  ……難しい話になってきた。  要約すれば、俺という蛇口を封じられているセイバーは、魔力回復がとんでもなく遅いという事だ。なにしろ零れ落ちる水滴程度の回復量なんだから。  その為、もし戦闘となればすぐに決着をつけ、その後は長時間の睡眠をとって無駄な活動を無くし、グラスに水滴を溜めなくてはいけない、という事だろう。 「―――はあ。それじゃあ宝具を使う、なんてのはとんでもない贅沢って事か」 「そうですね。ですが使えない、という事はありません。  威力を抑えれば一度ぐらいは可能でしょう」 「なに言ってんだ、そんなコトさせられるか。セイバー、宝具を使うのは禁止だぞ。そんなんで死なれたりしたら、どう謝っていいか分からない」  とん、とセイバーの前に食後のお茶を置く。 「――――――――む」  難しく眉をひそめ、湯飲みに手を伸ばすセイバー。  ――――と。    タイミングよく電話のベルが鳴り響いた。 「……日曜日、この時間にうちにかかってくる電話……」  心当たりはありすぎるが、居留守を決め込むとどんな逆襲が待っているか恐ろしい。 「―――はい、もしもし衛宮ですけど」 「はーい、もしもし藤村でーす!」 「…………………………………」  目眩がした。  これは、ある意味最強だ。  昨夜からジェットコースターのように繰り広げられた出来事が、この人の一声でぐるんと日常にひっくり返るんだから。 「……なんだよ。断っておくけど、俺は暇じゃないぞ藤ねえ」 「なによ、わたしだって暇じゃないわよ。今日も今日とて、お休み返上して教え子の面倒みてるんだから」  不思議だ。  えっへん、と受話器の向こうで胸を張る姿が、まるで目の前で起きているかのようなこの錯覚。 「そうか。なら世間話をしてる場合じゃないな。こっちには火事も泥棒もサーカスも来てないから、安心して部活動に励んでくれ」  じゃ、と手短に会話を切る。 「ちょっ、ちょっと待ったー! 恥をしのいでお姉ちゃんが電話してるっていうのに、用件も聞かずにきったらタイヘンなんだからー!」  ……こっちは昨夜からタイヘンなんだが、それをこの人に言っても仕方がない。  そもそも恥を忍ばず凌いでいるあたり、藤ねえ的にライブで小ピンチなのか。 「……あいよ。んで、用件はなに」 「士郎、わたしお弁当が食べたいなー。士郎が作った甘々の卵焼きとかどうなのよう」 「………………………………………………」 「以上、注文おわり。至急弓道部まで届けられたし。カチリ」  ………ほんと。なんなんだろう、あの先生は。 「……ったく。しょうがねえよな、猛獣ってハラ減ると暴れるって言うし……」  外していたエプロンを着け直す。  ……まあ、どうせ昼飯の余りがあるし。卵焼きぐらいならササッと追加できるし。 「よし出来た――――セイバー、ちょっと留守番頼む。  すぐに戻ってくるから、待っててくれ」  藤ねえ用の弁当箱を携えて廊下に出る。  隣には、なぜか付いてくるセイバーさん。  靴を履く。  さて、と気を取り直して隣を見ると、  セイバーも無言で靴を履いていた。 「……セイバー?」  恐る恐る声をかける。  ……いや、返事はもう読めているのだが、それでも聞かざるを得ないというか。 「その、なんだろう」 「外出するのなら同伴します。サーヴァントはマスターを守る者ですから。シロウ一人で外を歩かせるなど危険です」  ……やっぱりそうきたか。  けどまあ、これはいずれ通らなければならない道だ。  いい機会だから、ここで言い含めておこう。 「セイバー。マスターってのは人目につく事を避けるんだろ。なら昼間は安全だよ。人気のない場所にいかないかぎり、あっちから仕掛けてくるコトはない」 「それは承知しています。ですが万が一という事もある。  シロウはまだ未熟ですから、四六時中共にいなければならないでしょう」 「な――――――――」  し、四六時中共にいるって、ずっと一緒にいるってコトか――――!? 「ば、ばばばばばばか、そんな事できる訳ないだろう!  だいたいな、ずっと一緒にいるってそれじゃあ寝る時はどうするんだよ!」 「シロウは私を試しているのですか。睡眠中など最も警護すべき対象です。当然、シロウの側で私も待機しますが」 「ば――――――!」  ぼっ、と赤くなる頬を咄嗟に隠して、とにかく落ち着こうと空気を吸う。 「――――――」  ……くそ、なんて間抜けだ。  こんな大事なこと、今になってようやく気づいた。  セイバーと一緒に戦う、ってコトはつまりそういうコトじゃないか……! 「シロウ、どうしたのです。そこまで驚く事はないでしょう。昨夜、凛が〈行〉《おこな》った事を私がするだけの話ではないですか」  っ……!  ふざけんな、そんな事されたら戦う前にどうかするぞ、俺っ……! 「だ、だめだそんなの! セイバーにはちゃんと部屋を用意するから、そこを使ってくれ!」 「…………………………」  ……う。  そんな目で見られても、負けないぞ。 「シロウ、いいかげんにしてほしい。大抵の矛盾は我慢してきましたが、これは譲歩できない。貴方の方針はマスターとして間違いだらけだ。理由を聞かなければ従えません」  むっ、と見上げてくるセイバー。  じりじりと気圧されながら、それでも必死にセイバーを見つめ返す。 「り、理由なんてない……! いいから大人しくしてろって言ってるんだ。昼間は大丈夫なんだから、セイバーは休んでいればいいだろう!」 「―――断ります。明確な理由を聞かなければ、私も引き下がれない」 「こ―――この、わかんないヤツだな……! セイバーは女の子なんだから、同じ部屋でなんか寝れるワケないだろ……!」  ぴたり、とセイバーの動きが止まる。 「っ……と、ともかく、帰ってきたら部屋を用意するから、それまで休んでいてくれ……!」  だっ、と玄関から駆けだす。 「……ああもう、ガキか俺は……!」  真っ赤になっているだろう顔をバシバシ叩きながら、だあーっと外まで駆け抜けた。  ……まあ、ともかく。  あれだけ強く言えばセイバーだって納得してくれるだろう。  学校から帰ってきたら、怒鳴った事は謝るなりして許して貰おう―――  坂道を下っていく。  学校までは歩いて三十分。別段急がなくてもいい距離ではあるのだが、なんとなく早足になっていた。  その理由が、   「――――――――」    無言で後に付いてくる彼女である。 「………………」  放っておけば間違いなく学校までついてくる。  ここは、きっぱりと言わなければなるまいっ。 「セイバー。家で待っていてくれって言っただろ。マスターの言うことを聞けないのか」  足を止めて振り返る。  セイバーはいかにも何か言いたげにこっちを睨んだあと。 「―――さあ。サーヴァントがマスターの指示に従わない、という事は、おそらく聞こえなかったのでしょう」  ぷい、と不機嫌そうに顔を背けてしまった。  セイバーを無視して坂道を下りきる。  背後にはもちろん、  無言でプレッシャーを投げ続けるセイバーがいる。 「いいかげん戻れ。これ以上付いてこられると迷惑だって、はっきり言わなくちゃわからないのか」  俺の後ろ、きっかり五メートルの距離を保っている相手を睨み付ける。 「――――――――」  何が気にくわないのか、セイバーは無言で抗議してくるだけだ。  ……まったく。  なんであそこまで怒っているか知らないが、あいつ、絶対意地になってるぞ。 「―――そうかよ。じゃあ好きにしろ」  今度こそ本当に、セイバーを無視して歩き出した。  校舎に続く坂道を上る。  深山町は坂の多い町だが、この坂道はその中でも特に長い。  高台にある校舎からは、町の全てが見通せるぐらいだ。  時刻は午後一時を過ぎたあたり。  幸い、通学路に生徒の姿は見あたらない。  日曜日、部活動にいそしむ連中もまだ昼食後の休憩、というコトだろう。 「……ついてるって言えばついてるけどな。さすがに、ここから先は無理だ」  はあ、と溜息をついて、根負けした。 「――――――――」  振り返る。  足を止めると、セイバーはこっちを睨みながらとつとつと上がってきた。  ……あれからずっと無視していた為か、セイバーの不機嫌さには磨きがかかっている。 「セイバー」 「なんでしょう。好きにしていい、という事でしたが」 「……む。都合のいいコトだけ聞くんだな、おまえは」 「当然です。私はサーヴァントですから、みすみすマスターを危険にさらす訳にはいきません」 「―――もう。わかった、俺の負けだ。諦めたから一緒に学校まで行こう。そうすればおまえだって学校が安全だって判るだろうしさ。  それと、さっきは怒鳴って悪かった」 「え――――」 「ほら、そうと決まったら口裏を合わせよう。セイバーは親父の親戚で、観光がてらに遊びにきたってコトでいいか?」  セイバーと肩を並べて、一緒に坂道を上っていく。 「あ――――はい。それでシロウの都合がいいのなら、かまいません」 「よし、それじゃ決まりだ。……そうだな、どうせ遅かれ早かれ顔合わせはするんだから、いま紹介しても同じだよな」  そうそう。  セイバーが家で暮らす以上、藤ねえや桜と顔を合わせるってコトなんだから。 「そうだセイバー。聞き忘れてたけど、その服どうしたんだ?」 「これは凛がくれたものです。霊体になれない以上、普段着は必要だろうと」 「――――」  それは、かなり意外だった。  遠坂の手際の良さ、というより、このお嬢様っぽい洋服が遠坂の持ち物だってコトがびっくりだ。 「それじゃあの鎧は? 今はうちに置いてあるのか?」 「違います。あの鎧は私の魔力で編まれたものです。解除する、という事は消すという事。戦闘時になれば、すぐにでも私の体を守るものです」 「ふうん。なんだ、あの武装はいつでも出したり消したり出来るって事か」 「はい。ですから心配は無用です。ここで敵に襲われようと、シロウは私が守護します」 「そっか。うん、そりゃ頼もしい」  今まで黙っていた反動か、つい本音でそんな感想を漏らしてしまった。  セイバーは俺の失言には何も答えず、とつとつと坂道を上っていった。  校門に着く。  ここまできたら開き直るしかない。転入生を案内する、と思えばなんとかなる。 「セイバー。もし誰かに呼び止められたら、何も言わずに首を振るんだぞ。日本語は解りませんって顔が出来ればベストだ」 「――――――――」 「セイバー? なんだよ、怖い顔して。脅かしっこはなしだぞ」 「え……? いえ、別にシロウを見ていた訳ではありません。ただ魔力の〈残滓〉《ざんし》が強いもので、驚いていただけです」 「魔力の〈残滓〉《ざんし》? ほんとか?」  セイバーはそう言うが、こっちは何も感じない。  ……いや、そもそもよっぽど強い魔力じゃないと感知できないんだが。 「はい。と言ってもシロウには驚くべき事でもない。凛はシロウとは同学年なのでしょう? 彼女ほどの魔術師が一年以上居る場所なのです。工房の一つも用意しているでしょうから、どう隠しても魔力は漏れる」  セイバーが感じとった魔力とやらは、どうも遠坂の残り香らしい。 「ふーん。あいつも結構ドジなんだな。入る前からセイバーに魔力感知されるなんて。……って、あいつ中にいるのか、今!?」 「いいえ、凛本人はいないようです。彼女がいるのならもっと強く感じ取れるでしょう。この敷地には魔術師らしき人間はいない。  ……気になる違和感はありますが、とりあえず危険はありません」 「だから危険なんてないって言っただろ。ほら、中に入るからちゃんと付いてこいよ」 「あれ、衛宮だ。なに、もしかして食事番?」 「――――――――」  気心の知れた知人、というのはこういう時に便利ではある。  弓道部主将・美綴綾子は俺の顔を見ただけで、その用件まで看破したらしい。 「お疲れ。お察しの通り飯を届けに来た。藤ねえは中に居るか?」 「いるいる。いやあ、助かった。藤村先生ったら空腹でテンション高くて困ってたのよ。学食も休みだしさ、仕方ないんで買い出しに行こうかって考えあぐねてたところ」 「そこまで深刻だったか。で、買い出しって、まさか下のトヨエツに一人でか?」 「そこ以外に何処があるって言うのよ。ただでさえ備品で金食ってるんだから、非常食に金はさけないでしょ」  さすが美綴、無駄遣いを嫌う女。  ちなみにトヨエツとは商店街にあるスーパーの名前である。  弓道部では、腕の筋肉を休めている暇人が走り込みと称して買い出しに行かされる。  ……腕を休める為の走りこみだっていうのに、帰りには大量の荷物を持たされるという矛盾した習慣だ。 「……そりゃ災難だったな。ほら弁当。遅くなったけど、藤ねえに渡してやってくれ」  ほら、と紙袋を差し出す。 「お、豪華三段セット。いいね、久しぶりに見た。衛宮はこういう〈細〉《こま》いの上手なのよね」  何が嬉しいのか、にんまりと笑う美綴。  ……そういうコイツは、とにかく大量生産に優れている。  合宿の夕食はたいてい美綴が担当し、その都度みんなを驚かせたものだ。  皮しか剥いていないじゃがいもカレーが美味かったあたり、料理の世界は奥が深い。  ……いやまあ、それはいいとして。  美綴は中を覗いただけで、紙袋を受け取りはしなかった。 「おい。嫌味はいいから受け取れ。中、藤ねえが暴れててタイヘンなんじゃないのか」 「そうね。そう思うんならさっさと中に入って、藤村先生に手渡してあげるべし。  だいたいね、入り口でアンタを帰したなんて言ったらもっとへそ曲げるに決まってるじゃない。あたしは藤村先生にしごかれたくはないからね。ほら、ここまで来たら観念して中に入りな」  くい、とあごで道場を指す。 「……………………」  たしかに、成り行き上顔ぐらい出しておかないと後が怖い。  別に弓を持ちに来た訳じゃなし、弁当を渡したらとっとと帰ればいいだけか。  仕方ないな、と観念して弓道場に足を運ぶ。 「けどな美綴。おまえも長いんだから、朝のうちに藤ねえの弁当ぐらい確認しとけよ。顧問が生徒の昼飯を物欲しそうに見て回る、なんてイメージ悪すぎるぞ」 「いや、それがあたしも今朝は疲れててさ。最近ちょっと忙しくて、あんまり余裕がないんだな。ま、アンタに愚痴ってもしょうがないんだけど――――」  と、唐突に体を寄せると、内緒話でもするかのように耳元に近づいて、 「……で、衛宮。あれ何者よ。凄い美人だけど、知り合い?」  なんて、緊張しきった声で言ってきた。 「――――――――」  だよなあ……普通、セイバーを見たら驚くだろう。  それが無言で、俺の後について弓道場に入ろうとしているんだから尚更だ。 「どうなのよ衛宮。アレ、知り合い?」 「説明すると複雑なんだが、そういう事にしておいて貰えると助かる。……ついでにあいつが部室に入ってもみんなが騒がないように言い含めてくれると、とんでもなく恩に着る」 「……………オッケー。事情は気になるけど、その交換条件は気に入った。衛宮、あとでチャラってのはなしだからね」  扉を開ける。  セイバーは無言で、俺と美綴の後に付いてきた。  道場に入る。  ……昼休みあとの弓道場は、まるで戦場のように騒がしかった。 「藤村先生―! 岬さんがお腹痛くて死にそうだ、と言ってますー! さっきのカンパンいつの時代のだったんですかー!?」 「そんなのただの腹痛よ! 一緒に食べた先生は元気なんだから、岬さんには昆布茶でも飲ませておきなさい!」 「タイガせんせーい! 〈巻藁〉《まきわら》練習するんでストーブ移動させてくださーい! 道場の隅は寒いっすー」 「はい、いい度胸してる君は半ズボンで道場三周。腐った性根ともどもたたき直してきなさいね」 「先生―っ! 出血です、北子くんが弦で頬を切りました!」 「ふんふん、その程度なら保健室に行かなくてもいいわ。  裏山に植えてあるアロエでも塗っときなさい」 「いたっ。ああもう、なんだってこんなに裏反ってんのよこの弓ってば。こんなんじゃうまく張れないじゃない」 「あ、そこ! 上から押さえて張らないのっ。まだ若いんだから、難しいんなら二人でやんなさい。ひっくり返して切詰めが離れたら、あとで首を折っちゃうんだから。  こう、ぽきっと。大事な弓を壊した生徒を、わたしが」 「先生っー! ぎり粉がありませーん! 手が、手が滑りますー!」 「あれ、ほんと? だれか、物置に行って在庫を取ってきてー」 「先生、在庫切れです! 原因は先日、先生が発注を忘れた事だと思いますー!」 「あー、じゃあ一年は野球部からロージンバッグちょっぱって来ることー!」 「うわあ、むちゃくちゃだこの先生―!」 「……………………」  いや。  ホント、変わらないなここの光景。 「――――さて」  いつまでもこの阿鼻叫喚を眺めている訳にもいかない。 「お、ちょうどいい。おーい、桜―」  弓かけの前にいる女生徒に声をかける。 「え、先輩……!?」  桜は手にした弓を置いて、目を白黒させて駆け寄ってきた。 「先輩! ど、どうしたんですか今日はっ。あの、もしかして、その」 「ああ、藤ねえに弁当を届けにきたんだ。  悪いんだけど、あそこで無茶苦茶言ってる教師を連れてきてくれ」 「ぁ――――はい、そうですよね。……そういえば先生、電話してました」 「?」  さっきの笑顔はどこにいったのか、桜は元気なく肩をすくめる。 「そういうコト。藤ねえ、ハラ減って無理難題言ってるんだろ。手遅れかもしれないけど、とにかく弁当作ってきたから食わせてやってくれ。  それと、昨日は遅くなって悪かった。晩飯作っといてくれて、さんきゅ」 「……はい。そう言ってもらえると嬉しいです、けど……」  ちらり、と俺の後ろに視線を向ける。  そこには弓道場には不似合いな、金髪の少女が立っている。 「……あの、先輩?」 「ん? なんだ、もしかしてホントに手遅れか? いちおう桜の分も作っといたのも、無駄?」 「いえ、そんなコトないですっ。わた、わたしもお腹減ってますっ……! ……その、先生に半分あげちゃったから」 「うん、そんな事だろうと思った。桜のはすぐに食べられるようにしといたから、そう時間は取らない筈だ。  ……ま、みんなもそういう事情なら昼食を再開しても文句ないだろうけどな」 「そ、そうですねっ。あの、それじゃごちそうになりますけど……先輩、今日はずっと道場にいるんですか?」 「そうだな、せっかく来たんだし、部活が終わるまで学校にいるよ。昨日はすっぽかしたし、今日の夕飯は俺が作るから、桜も食べに来てくれ」 「―――はい、喜んで。それじゃすぐに先生を呼んできますね。先輩、お弁当だけ置いてどこかに行くのはなしですよ?」  たたっ、と急いで藤ねえを呼びに行く桜。  振り返れば、セイバーを見てざわつき始めた部員たちに説明して回る美綴がいた。    ―――さて。  とりあえず、これで当初の目的は果たせたな。 「あー、お腹いっぱい。糖分も頭に回ったし、これでようやく本調子ね」  休憩室。  ずずー、とお茶を飲みながらデザートの羊羹をついばむ藤ねえ。  藤ねえが大人しくなった為か、道場には静かに、弦と矢の風切り音が響いている。 「先生。そろそろわたしも射場に出ますから、失礼しますね」 「はいはーい。あ、控えにいる美綴さんに、話があるからこっちに来るよう伝えてもらえる?」 「はい。先輩もゆっくりしていってください。出来れば、久しぶりに指導してもらえると助かります」  桜は一礼して去っていく。  ただ、その合間。  壁際で静かに見学しているセイバーを、不安げに見つめていた。 「で? 士郎はこの後どうするの? 部活は五時に終わらせるけど、それまで見学していく?」 「……うーん……」  どうしたものか。  見たところ、セイバーはセイバーで弓道場の様子を興味深そうに眺めているし、それじゃあ――――    ……そうだな。  セイバーを連れて校舎を歩く、というのも何かとトラブルを起こしそうだし。  ここは見知った部室で、夕方までまったりしよう。 「決めた。お邪魔じゃなかったら見学してるよ、藤ねえ」 「よしよし。それじゃわたしは稽古をつけてくるから、士郎はここでぼけっとしてなさい。あ、弓を持ちたくなったら遠慮しないでいいからね。士郎はわたしの教え子だし、人一倍成ってるんだから」 「――――――――」  確かに、矢を射るという事において自分はどの部員よりも巧いだろう。  たとえ弓から離れていても、今すぐに現役の頃の結果を出せると思う。  が、それは弓の腕じゃない。  毎夜日課になっている魔術の鍛錬があるからこそ、イメージ通りに矢を的中させられるだけなのだ。 「それはないよ藤ねえ。俺には〈久〉《きゅう》が欠けてるじゃないか」 「なに、日に二百以上の矢数をかけよ、その他は弓放しにすぎぬってヤツ? 士郎、つまんないコト知ってるのね」 「いや。弓道やってるなら知ってるだろ、これぐらい。  ともかく、半端な気持ちじゃ弓は持てないよ。心構えもなってないし、これじゃ会心に入れるかも怪しいもんだしさ」 「……ふうん。けど士郎、なにも毎日弓を構えて矢数をかけるコトだけが稽古じゃないよ?  弓を持たなくともちゃんと自身を鍛えているなら、それも立派な久の境地なんだから。そうやってケジメをつけるのもいいけどね、弓に礼を尽くそうとする心も“拘り”よ。なんであれ絡まれば流れは淀むんだから、たまには素直になっときなさい」  射場に去っていく藤ねえ。  それと入れ替わるように、美綴のヤツがやってきた。 「邪魔するわよっ……て、難しい顔してんじゃん衛宮。  さては藤村先生に灸を据えられたな?」 「そうなるのかな。あんまり拘るなって叱られた。いやまあ、実にその通りなんだけどな」 「あ、そうなんだ。てっきり興味をなくして辞めたと思ってたけど、まだやる気はあったんだ。それ、ちょっと意外ね」 「意外? なんだ、美綴には俺が弓に飽きたように見えてたのか?」 「ええ。だってアンタ、一回しか的を外さなかったじゃない。わたしが弓道部に入った時から、衛宮はともかく化け物みたいに巧かった。射は全部綺麗でさ、皆中以外知らないって顔してたものね。  それでね、ああコイツ、こんなに巧いともう嬉しくもなんともないんだろうなって。というか弓を持たなくても会心に入れるんだから、むしろ弓なんて邪魔じゃないってムカついたもんよ」 「――――――――」 「図星? でしょうね。射っていうのはさ、自分を射抜く精神でしょ。弓道の矢は的を射るんじゃなくて、的を狙う自身の心を射るのよ。  だから自身と向き合えない者、自身を射抜けない者にその精神は伝わらない」  つまり、弓道は自分を殺す道だ。  自己を透明にして、自然と一体になれる境地を目指す。  射法八節―――足踏み、胴造り、弓構え、打越し、引分け、会、離れ、残心はその為にある。    会と呼ばれる、的と自己の統一感。  自身そのものとなった矢を解き放つ、離れと呼ばれる止まった時間。  離れ行く自身、すでに“〈中〉《あた》る”事を知り、行為と結果、その順序が一体化し、過去と未来を点にする残心。    それは儀礼、儀式にのっとった自己の鍛錬法に他ならない。    そう。  言ってしまえば、弓道は魔術の瞑想に酷似している。 「ま、釈迦に説法だけどさ。弓道は矢を的中させる事はおまけで、本当はそこに至る心構えを得るための道じゃない。術じゃなくて道なんだからさ。  けど逆に言えば、弓道ってのは弓がなければその境地には辿り着けない」 「……そのあたり、衛宮には退屈だったんじゃないかって思ったのよね。あたしたちは矢を放って、それが中った時に、あ、きたって錯覚できる。射は手段に過ぎないって分かっていても、矢が中った事でしか自分が綺麗になれたのかが判らない」 「けど衛宮、アンタは矢の行方なんてどうでもいいタイプよ。  ……弓道において、的中させるだけなら誰だってできるのよ。射法八節、胴造りなんて面倒なコトは簡略して“中る”技術だけを突き詰めれば、とりあえず誰だって的には当てられる。  けどそれは“〈中〉《あて》ている”だけ。本当の射は“〈中〉《あた》る”のよ。弓を持つ人間が、どんなに下手なヤツでもね」 「―――そんな事はないけどな。俺だって的を射抜く為に射場に立つんだから」 「だからそれよ。本当なら弓を持って射場に立つより、もっとてっとり早い方法があるんじゃない? そもそも弓を持つ、なんて事がアンタには余分なのよ。  アンタさ、前に一度だけはずれを出したじゃない。その時、絶対に動揺してるだろうって見に行ったら、衛宮は今まで通りだった」 「どうしてって訊いたら、“いや、今のは外れるイメージだったから外したんだ”なんてしれっと言うんだもの。  結果として外れたんじゃなくて、アンタは自分の意思で外したんでしょ。  それで思ったのよ。こいつはいつも、的に矢が刺さっている映像を見て、その後に指を離していたんだなって」 「む―――? なに言ってんだ、そんなの基本だろ。美綴だって矢が中るところを想像して、その通りに指を離すんじゃないのか?」 「当然よ。誰だってね、こうなったらいいな、こうなりたいな、って色々やるでしょ。けどそれは想像よ。衛宮みたいに、“見れてる”訳じゃない。  それって自然と一体化してるってコトだ。武道でいうところの無の境地だろう」  ……ふむ。  見れてる、云々は実感が湧かないが、無の境地に関しては頷ける。  魔術師にとって、自己を消して一つの『回路』になる事こそ力の証だ。  自己を透明にし、目的に至ろうとする執着や願いを削ぎ落とし、ただ結果だけを求める。  その為に自己を『無』にする点において、弓道と魔術の鍛錬は似通っている。 「難しい話だな。―――で、結局なにが言いたかったんだ、美綴は」 「衛宮は無欲だから透けやすいってコト。もっと強欲で自己中で我が儘になれ。若いうちから達人になってもつまんないでしょ。慎二を見習え、とまでは言わないけど、少しは楽しいコトでもやったら?」 「――――――――」  言葉につまる。  そんなコトはない、と思った反面、楽しいコトというのが、どうしても思い当たらなかった。 「ほらね。そんなんだから桜を苦労させてんのよ。若いうちにハメを外しておかないと、年取ってから外しかたが判らなくなる。  そういうの、世間では甲斐性なしって言うのよ」  わかって? なんて、ガラにもなく上品に付け足してくる。 「―――はあ。まいったな、同級生に老後の心配をされるほど深刻だったか。なんだってそこまで俺に構うんだよ、おまえは」 「だって衛宮、笑わないでしょ」 「え――――?」 「だから、随分前の合宿の話。みんなで騒いでた時さ、衛宮だけ、あたしのとっておきのネタでも笑わなかった」 「……む。それは、つまり」 「そ。それをまだ根に持ってるってワケなのよ、これが」  きっぱりと。  ライバルに笑いかけるように、美綴綾子はそう言った。  ……セイバーの目を盗んで、ちょっと席を外そう。  生徒会室に行けば一成がいるかもしれないし、一月後の期末試験対策を立てあうのも悪くない。 「決めた。生徒会室に顔出してくる。藤ねえ、一成が来てたかわかるか?」 「柳洞君? んー、どうだったかなー。とりあえずわたしは見てないよ?」 「そっか。じゃ、いなかったら戻ってくる。桜にはよろしく言っといてくれ」 「はいはい。女の子より男友達のがいいなんて、士郎もまだまだ男の子よねー」 「――――む」  ……反論したいところだが、言い返していたらセイバーに気付かれる。  ここは藤ねえに花を持たせて、抜き足差し足で道場を後にしよう。   「妙な足使いですが、何処に行こうというのですシロウ」   「げ」  抜き足も差し足もない。  気付かれないように出てきたのに、どんなトリックなのかセイバーは先回りして待っていた。 「セ、セイバー。いや、これはその、なんだ。ちょっと用事を思い出してだな」 「用事、ですか。シロウの用件は昼食を届けるだけだったと記憶していますが」 「あ、う……それが、まあ野暮用で。セイバーに言うほどのコトでもなかったから黙ってたっていうか」 「そうですか。些細な用事であるのなら、確かに私に伝える必要はありませんね。シロウにはシロウとしての生活があるようですから」  いや、物分かりが良くて実に助かる。  ……実に助かるんだけど、なんとなく怒っているように見えるのは俺の後ろめたさ故なのか。 「……えっと。そういうワケなんで、セイバーはここで待っててくれるか?  一時間もしたら戻ってくるか――――」 「ですが、それは昨日までのシロウの生活です。  今日からのシロウはマスターとして振舞わなければならない。ですからどのような用事であれ、安全と分かるまで同行する義務があります。  ―――さて。私の意見に反論はありますか、シロウ」  文句はあるが、セイバーを納得させられるような意見なんて考えつかない。 「……はあ。分かった、一緒に行こうセイバー。こうなりゃヤケだ、学校を案内する」  がっくりと肩を落とし、開き直ってセイバーを招く。 「はい。そうして頂けると私も助かる」  で、当然のようについて来る金髪の異邦人。 「――――――――」  さて。  一成にどう説明するべきかな……。 「げげ」  ……まいった。  生徒会室、今日に限って鍵開いてら……。 「げ、の次はげげ、ですか。シロウはよほど、私に隠し事をしたいらしい」  ……んでもって、こっちの動揺は完全に読まれてるし。  剣士としての洞察力か、セイバーには下手な芝居は通用しなさそうだ。 「隠し事っていうより、騒ぎを大きくしたくなかっただけだ。……けどまあ、一成がいるのも何かの縁だろうし、セイバーに紹介しよう」  それに生徒会室なら誰の目にもつかないし、弓道部が終わるまで時間を潰せる。 「イッセイ……? シロウの友人ですか?」 「ああ。この学校の、そうだな―――自衛団のリーダーみたいなヤツで、円滑な組織運動を目指している鉄の男だ」 「―――自衛団のリーダーですか。なるほど、興味深い話が聞けそうですね」 「そうかもな。お堅いヤツだからセイバーとは話が合うかもしれないし」 「おーい、お邪魔するぞ一成―」  ガラッ、と勢いよく扉を開ける。  ……と。  生徒会室の先客は、予想外の人物だった。  思わず唾を飲む。  生徒会室にいたのは一成ではなく、生徒会顧問の葛木先生だった。 「失礼します。葛木先生、一成は来てますか?」 「いや、今日は見ていないな。生徒会に何か用か衛宮」 「いえ、生徒会というより一成に用があって。期末の対策とか、そろそろ立てておきたいんです」 「そうか。ではしばらく待ってみるのだな。柳洞の事だ、家に飽きて逃げ込んでくる可能性もある」 「? 俺、生徒会室にいていいんですか?」 「構わんだろう。おまえが生徒会室にいる事が問題なら、とうの昔に事件が起きている」 「戸締りは任せる。鍵は私の机に置いておいてくれ」  それだけ言って、葛木先生は生徒会室を後にした。  ……気を利かせてくれたんだろうか。  一成曰く、葛木先生は素っ気なく見えるが繊細な性格なんだとか。  生徒会室で一成を待つにしろ、教師といるよりは一人でいた方が気が楽だ……なんて考えてくれたのかもしれない。 「…………ん?」 「――――――――」  と。  廊下に出た葛木先生と、俺の後ろで待っていたセイバーが鉢合わせた。 「っ……! せ、先生! その子は俺の知り合いで、その、今年受験するかもしれないんで見学に来たというか……!」  慌てて、とってつけたような言い訳をする。  が、そんなのはこれっぽっちも効果はない。  たとえ受験予定であろうと、許可なく部外者を校内に入れてはならないのだ。  藤ねえならなんとなくオッケーしてくれるが、生徒会顧問がこんな言い訳で納得してくれる筈が―――― 「……そうか。外国からの入学者は初めてだな。意外だが、変化がある事は喜ぶべきだろう」 「――――え?」    ……筈なのだが。  葛木先生は思いのほか理解があるというか甘いというか、ともかく、セイバーを感心したように見つめていた。 「入学すれば周りから注目される事は避けられまい。  衛宮、知り合いなら気を遣ってやれ。おまえも来年は三年生だ。最上級生として、後輩の世話はしっかりな」 「あ―――はい。どうもです、先生」 「うむ。休日の下校時間は五時だ。校門が閉まる前に下校しろ」  職員室に去っていく背広姿。  それを、セイバーは見えなくなるまで見つめていた。 「セイバー? 葛木先生がどうかしたのか?」 「……いえ、特に何も。初めは只者ではないと感じたのですが、見れば見るほど一般人でした。断言できますが、彼はマスターではありません」 「………………」  少し呆れた。  セイバーのヤツ、人に会う度にマスターかどうか見定めていたらしい。 「そりゃ結構。葛木先生が〈魔術師〉《マスター》だったら俺もびっくりだ。……けど、只者じゃないってどういう事だよ。何か特別なものを感じたのか?」 「いいえ、特別なものなど何も。ただ、彼の呼吸はあまりにも自然で、整いすぎていた。  ……正直に言うと感心していたのです。先ほどの歩みもまったく無駄がなく、あれほどの使い手は私も見た事がない」  セイバーは本気で感心しているようだ。  けどセイバーが感心するほどの使い手って、その時点でもうメチャクチャ怪しくないか……!? 「待てよセイバー。じゃあ葛木先生、戦えばすごく強いっていうのか?」 「は? 先ほどの人物ですか? 彼なら、そうですね。  肉体的な性能なら、シロウと同じぐらいではないでしょうか。実質的な戦闘は、やはり一般人と変わらないと思いますが?」  不思議そうに俺を見るセイバー。  が、不思議なのはこっちの方だ。  葛木先生はセイバーが感心するほどの使い手なのに、それでも普通の人だっていうのはどういうコトなんだ……? 「ですから、私が感心したのは呼吸です。  先ほどの人物の呼吸は、ヒトとして理想的だった。私が感心したのはその一点のみですが」  と。  生徒会の備品で淹れたお茶を飲みながら、セイバーはよく解らない説明をする。 「呼吸って、息を吸う呼吸だよな? それが理想的だからどうだっていうんだ?」 「どうも何も、身体能力はおろか自然干渉にも大きく影響します。西洋の術者は重要視しませんが、東洋の教えでは呼吸や歩法は“学んでも習えぬ”高等技術だと聞きます」 「イブキ、外気を体内に取り入れる事は外界と内界を繋げる明確なイメージです。吸う、吐く、という動作は神を取り入れ、解放する動作の一環だとか。  この“正しい呼吸法”は各流派で秘門であり、習得できる者は一世代に一人いればいい方でしょう」 「―――言ってみれば、呪文を用いて魔術を行う者は魔術師にすぎません。  ですが呼吸、歩法、骨格、その存在自体が神意を成す場合、その人物は魔術師を凌駕した純粋な魔術回路という事です」 「あー……そういえば神道にそういうのがあったっけ。  足運びだけで魔を退けたり、〈拍手〉《かしわで》で魔を払ったりするアレかな」 「はい。それらの体現法は一生かけて習得する物です。  ですが稀に、生まれついて正しい呼吸や歩法を得る者もいる。先ほども言いましたが、その肉体自体が一つの魔術回路になっている者たちです」 「異能者であるが故、幼い頃から神童、神子と騒がれ、結局は魔道の者たちに引き取られるのが常ですが、中には誰の目にも留まらず成長する者もいる。  そういった人間は、魔術の存在など知らないまま、魔術師以上の神秘に身をおくのですが――――」 「ですが? 葛木先生はそういう生まれついての天才なのか?」 「いいえ。あの人物にそれほどの才気は感じられません。  ……その、今までの話と矛盾するのですが、彼が正しい呼吸と歩法を身につけているのは、後天的な鍛練から来たものではないか、と」 「……私も信じられないのですが、彼は魔術師でもないし血の匂いもしない。  ですがその、たまたま、日ごろの運動が彼に正しく作用しているだけのようなのです」 「…………????」  なんだそれ。  ようするに葛木先生は、心身ともに清く正しく生きているだけってコトか? 「セイバー。じゃあ、葛木先生は」 「教師として理想的な人物、という事です。彼のような人物は珍しくない。  ただ、私のように鍛えても正しい呼吸が身につかない者からすれば、羨望の的になるというだけです」  ……意外といえばこっちの方が意外だ。  なんでも出来るセイバーでも、人を羨ましがるなんてコトがあるんだな……  ……結局、一成はやってこなかった。  下校時間も近くなったし、戸締りをして弓道場に戻る事にした。  ……まあ、せっかく学校まで来たんだし。  こうなったら開き直って、セイバーに校舎を見せてやろう。 「ちょっと散歩してくる。ぶらっと校舎を回ったら戻ってくるから」 「散歩? いいけど、物好きなコトするのね。切嗣さんも地味な趣味してたけど、士郎もそーゆー属性?」 「そうゆう属性も何も、散歩は地味じゃないと思うけど。  あんまり例えたくないけど、デートだって散歩みたいなものじゃないか」 「えー、デートは違うよー。あれはどっちかって言うと、おいしいもの食べ歩きツアーじゃない」 「だーかーらー、そういう無軌道なのを散歩っていうんだろ。いいから行ってくる。  ……言っとくけど、学校の中なんだからおみやげなんて買ってこないぞ。露店なんてないんだから」 「そっか。学食もお休みだし、家庭科室も閉まってるか。  ……仕方ない、手ぶらでいいから早く帰ってくるのよ衛宮くん」  最後に教師らしく苗字で言いつける。  それに手を振るだけで応えて、セイバーに声をかけた。 「学校の案内、ですか?」 「ああ。ここまで来たんだ。せっかくだから中を案内しようと思ってさ。セイバーだって弓道場にいるだけってのは退屈だろ?」 「……そうですね。退屈していた訳ではありませんが、校舎を見て回るのは有意義です。マスターの通う学校が安全かどうか、直に確かめるとしましょう」  ありゃ。  思いつきだったが、この提案は思いのほかセイバーに好評の模様。  ……まあ、こっちの思惑とセイバーの思惑はズレているようだが、気にせず校内を案内しよう。 「はい。こちらが校舎裏、弓道場の後ろに広がる雑木林になります。広さは適当に三百から六百〈平米〉《へいべい》、実に正面グラウンドに匹敵するようなしないような、裏手が山だから許される大胆な土地運営の見本でございます」  とりあえず近場、弓道場から歩いて数分の裏山に案内する。 「ほう。三百から六百ですか。倍近く違うとは、曖昧にも程がある」 「棘のある感想ありがとう。―――で、見たところ不満そうだが何故かなセイバー」 「気のせいでしょう。私は学校を案内する、というシロウの言葉に期待していた訳ではありませんから。  ええ、いきなりこのような場所に連れてこられても一向に気になりません。初めから期待していないのですから、落胆するコトなどないのです」  つーん、とそっぽを向くセイバー。  ……完全に不機嫌なのだが、見ようによっては拗ねている、と取れなくもない。 「それで、ここに何があるというのですかマスター。確かに人気のない林ですが、これといって気になるところはありませんが」 「ああ、ないな。ただ学校の裏手は林だって教えただけだ。んじゃ、次行ってみようか」 「で、こっちが校庭。今は陸上部の連中が走ってるから、あんまり顔出さないようにしてくれ。体育の時間はここで団体競技をする」 「団体競技……? 具体的に、どのような?」 「ん、うちの学校は運動系に強いんだ。その中でも野球部が一番なんで、たいていは野球かな。たまにドッジボールとか。ま、二組に分かれて一方の組を負かすスポーツだよ」 「……ほう。団体競技というと、主導者の動きに合わせて民衆が動くものを想像してしまったのですが、違うのですね」 「………………」  セイバーが想像したものは、とても物騒なモノのような気がする。  気がするので、詳しくつっこむのは止めよう。 「ま、まあ、とにかく他の相手と得点を競い合うスポーツってコトで。いま走ってるやつらだって、五十メートルを何秒で走れるかって〈得点〉《タイム》を競ってる」  なるほど、なんて言いながらせわしなく校庭を眺めるセイバー。 「なんだよセイバー。何か探しものか?」 「え、いえ。……その、以前少しだけ見た競技があるのですが、その運動場があるかないか気になって。  他のスポーツはどうも勝手が掴めないのですが、あの競技だけは楽しそうに見えたもので、つい」 「へえ、セイバーがやってみたくなったスポーツか。  もしかしてテニスとか? それなら裏手に行けばコートがあるけど」 「い、いえ、テニスではないのです。冷静に考えて見れば、このような敷地に収まるスポーツではありませんでした。  ……ただその、昔私も、剣で似たような球遊びをして〈咎〉《とが》められた事があって、それで懐かしくなってしまったというか……」 「? 剣でする球遊び……?」  なんだろう、それ?  ……というか、この真面目なセイバーが剣で遊ぶなんて考えるとおかしくて頬がにやけてしまう。 「い、今の発言は忘れてくださいマスター! さ、ここはもう調べましたから、次の場所に行きましょう……!」  セイバーに押されて校内に移動する。  まずは廊下を案内して、  三階にある自分の教室までやってきた。 「―――ここがマスターの教室ですね。……廊下を歩いている時はどうかと思いましたが、これなら許容範囲です」 「許容範囲? ……それって危険か安全かって事か?」 「はい。学校の敷地に入った時と同じ魔力を廊下にも感じました。ですがこの教室には魔力の残り香がまったくない。廊下や校舎に残ったものは凛の魔力だけです。  今のところ、マスターを危険に晒す要因は見当たりません」  とりあえず納得がいったのか、セイバーから緊張感が薄れていく。  やりすぎだとは思うが、セイバーは俺の身を案じて学校を調べていたのだ。    ……その、白状すれば嬉しくない筈がない。    契約してまだ一日、お互いの事は何も知らない。  けれどこのわずかな間で、セイバーが俺の安全を第一に考えてくれている事が、言葉以上に理解できていた。  日が暮れ始めた頃、部活動もお開きとなった。  冬場は日が落ちるのが早く、最近の物騒な事件を考慮しての事だろう。 「あ。そういえば美綴、慎二のヤツはどうしたんだ? 今日は姿が見えなかったけど」 「あいつはサボリ。新しい女でも出来たのか、最近はこんなもんよ」  なんでもない事のように言って、美綴は校舎の方へ足を運ぶ。 「じゃあね。あたし、職員室に用があるから」  部室のカギを指で弄びながら、弓道部主将は一足先に去っていった。    ―――そうして正門。  日が落ちかけた町を眼下に、藤ねえと桜、それとセイバーと一緒になってみんなと別れる。   「じゃあね、せんせー!」 「衛宮いじめるなよタイガー!」    などと、騒がしく見送られながら坂道を下り始める。  坂道を下っていく。  隣には桜と藤ねえがいて、後ろには少し距離を置いてセイバーが付いてきている。 「―――はてな? あの子、どうしてわたしたちに付いてくるの?」  ……と。  今まで不思議に思わなかったのか、事ここにいたってようやくその問題に気づいたらしい。 「ね、士郎。知り合い?」  本日二回目の質問だ。美綴というリハーサルのおかげか、戸惑うことなく、 「知り合いだよ。俺が連れてきたんだから当然だろ」  なんて、しれっと返答できた。 「や、やっぱりそうですよね。……それで先輩、あの人とはどういったご関係なんですか……?」 「うん。士郎に外国人さんの友達がいるなんて聞いてなかった」 「いや、友達じゃなくて親父の知り合いなんだ。〈切嗣〉《オヤジ》が飛び回ってた頃知り合った人の娘さんだって」 「切嗣さんの? じゃああの子、切嗣さんを訪ねに来たの?」 「そういう事。今日からしばらくうちで暮らすから、よろしくしてやってくれ」   「「――――え?」」  まったく同時に、まったく同じ反応をする桜と藤ねえ。  まあ、いきなり“あの子が今日からうちで暮らすよ”と言われれば、驚かない方がおかしいってもんだ。 「ちょ―――し、士郎、暮らすってあの子と同居するっていうの――――!?」 「同居じゃない。セイバーが滞在するのはほんのちょっとの間だけだ。宿として家を貸すだけなんだから、そう驚く事でもないだろ」 「……あの。先輩、あの人セイバーさんって言うんですか……?」 「ああ、珍しい名前だけどな。あんまり日本になれてないんで、変わったところもあると思う。……あ、それと無愛想なヤツだけど、根はいいヤツなんだぞ。桜も仲良くしてくれると助かる」 「……………………はい。それはいいです、けど」    桜は俺と目を合わさず、助けを求めるように藤ねえに視線を移す。 「藤村先生。藤村先生は、セイバーさんの滞在を許可するんですか?」 「んー……教師としては当然アウトなんだけど、切嗣さんを頼ってきた子を無碍には出来ないし……しっかりしてるようだし、間違いは起きないかな。ね、士郎もそうなんでしょ?」  横目でこっちを眺めながら、藤ねえは失礼なコトを言う。 「と、当然だろ。〈切嗣〉《オヤジ》の客なら俺の客だ。失礼なコトなんて出来ないし、なにより妹みたいなもんじゃないか」 「ふーん。そう言えば、あの子何歳? 桜ちゃんより年下みたいだけど」 「え―――と、まあ、そんな感じ、かな」 「――――――――――――」  じっと人の顔を観察する藤ねえ。  で、もうじき坂を下りきるという時、唐突に。               「士郎、あの子のコト好きなの?」  なんて、とんでもない奇襲をしかけてきた。 「っっっっ…………!! そ、そんなの知るかっ! 俺だって会ったばっかりなんだから、どうこう言えるワケないだろう!」  ……う、顔が熱い……藤ねえから見たら、さぞこっちの顔は真っ赤だろう。 「ふむ。嘘はないけど脈はありか」  ……それで何が判ったのか。  藤ねえは腕を組んで、さも難しいコト考えてますよー、という顔で黙り込んでしまった。    結論として、セイバーの下宿は許可された。 「いいんじゃない? ホームステイと思えばいい経験だし、ここって無駄に部屋が多いもの」  という、藤ねえの鶴の一声によるものだ。  桜は終始無言だったが、最後に 「はい。わたしが意見できる事じゃありませんから」  と、一応納得してくれた。 「……………………」  そんなワケで、夕食である。  セイバーの歓迎と、昨夜のお礼をかねて夕食は力をいれた。  かつおのたたきサラダ風から始まって、ピリリと辛いねぎソースをかけた鶏肉揚げ、定番といわんばかりの肉じゃがと、トドメとばかりにえび天を筆頭に天ぷら各種を用意する。  奮発したというか、もはや節操のない献立となった夕食は、しかし。 「……………………」  誰一人口を利かないまま、あっさりと終わってしまった。 「……………………」    ざぶざぶざぶ。  台所で食器を洗う。  一日目から和気藹々とした食卓を期待していたワケではないが、少しぐらい会話があっても良かったのではないだろーか。  特に今回の天ぷらは美味しくできたと思う。  身は丸まらずピンとして、衣だってサクサクだった。  文句なく会心の出来だったのだから、なにか一言あっても良かったと思うのだ。 「……そのくせ全部平らげるんだもんな。出た台詞がおかわり×3、ってのはなんなんだ」    ざぶざぶざぶ。  さすがに四人分の後片づけは手間がかかる。  ……というか、今日に限って桜が手伝いにこないのは何らかの意思表示ではあるまいか。  時刻は九時過ぎ。  いつもならそろそろ二人は帰る時間だ。 「藤ねえー。帰るなら桜の見送り頼むー」    台所から、食器洗いをしながら声をかける。 「――――――――」  返事はない。  藤ねえは我関せず、といった体でテレビを見ている。 「……もしもーし。聞こえなかったんですか、藤村先生」    居間に戻って、ぺちぺちと藤ねえの頭を叩く。  と。 「悪いけど、それは却下。しばらくは桜ちゃんを送ってあげられないから」 「? なんでさ。藤ねえ、何か用でもあるのか?」 「えっとね。用じゃなくて、今日からわたしもここに泊まるから」  あっさりと。  もう決定事項のように、藤ねえは言い切った。 「――――――――はい?」 「あ、桜ちゃんもどう? おうちの方にはわたしから連絡入れておくから安心だよ。女の子三人、一緒にいたほうが楽しいでしょ?」 「あ…………は、はい、是非! 藤村先生、たのもしいですっ!」  いや。  どうしてそこで、そう力んで構えるのか桜。 「よーし、それじゃ奥の座敷を使おう! 布団ならいっぱいあるし、浴衣も人数分あるわよー! セイバーちゃんもいいわよね?」  いいわよね、のネのアクセントが微妙に強いのは気のせいか。 「………………」  セイバーはどうしたものか、とこっちに視線を投げかけてくるし。 「……困りますシロウ。私は貴方の守護をするのですから、彼女たちと同じ部屋では役目が果たせない。それに同室したところで、どう対応していいものか分かりません」 「……悪い。藤ねえが言いだしたら俺じゃ止められない。  それに、どうもこれを交換条件にしている節がある。  断ったらセイバーをうちに住ませるって約束を破棄されそうだ。そうなったら俺たち、外で野宿するしかないぞ」 「……それも困る。この屋敷の結界は優れていますから、拠点としては申し分ないのです。ここにいる限り、シロウは敵の奇襲に備えられます」 「……そうか。なら尚更我慢してくれ。屋敷にいる限り、何かあってもすぐに合流できるだろ。  ……その、藤ねえの相手はタイヘンだけど、困ったら日本語わかりませんって言えばいい」 「ほらそこ、内緒話は禁止なんだから。  そうゆうワケでセイバーちゃんはこっち。士郎は男の子なんだから、一人でも平気よねー」  セイバーの手を引っ張って離れる藤ねえ。 「――――――――」  話は決まってしまった。  セイバーの下宿は許可され、藤ねえが泊まる事になり、桜も付き合う事になった。  わずか半日でこの人口密度の上がりよう。    ……うーん……本当に旅館じみてきたな、なんか。    そうして就寝。  セイバーに何が起こっていたのか、さっきまでとんでもなく賑やかだった座敷の明かりが消えて、静寂が戻ってきた。  女三人よれば〈姦〉《かしま》しい、というが、無口なセイバーと大人しい桜でも、その格言は当てはまったらしい。 「……いや、違うか。メインで聞こえてきたのは藤ねえの笑い声だもんな」    それでも座敷が賑やかだったのは事実である。  すぐ近く、同じ屋根の下で同年輩の女の子たちが騒いでいた、というのは精神衛生上よろしくない。 「――――くそ。気になって眠気なんてなくなった」    セイバーが困っている顔とか、  桜とセイバーが仲良く出来ているのかとか、  そもそも藤ねえは何を考えているのか、とか。  考えれば考えるほど頭が痛くなって、これなら隣の部屋でセイバーに眠って貰ったほうがまだましだったかもしれない。 「――――――――」    時刻は午後十一時。  屋敷の電灯は消え、外は物音一つない。  座敷で眠っている藤ねえたちに気づかれないよう、足音を殺して部屋の襖に手をかけた。    庭に出る。  月は明るく、切りつける風は冷たい。  冬の夜、世界は凍りついたように静かだった。    土蔵は静まりかえっている。  昨日俺がランサーに追いつめられた場所であり、  セイバーが現れた場所。  入り口は開かれたままで、内部の闇は来る者を拒むように黒々としていた。    中に入る。  扉を閉めて外気を遮断し、おんぼろなストーブに火を入れた。 「……日に二百以上の矢をかけろ、か」    弓道における〈中貫久〉《ちゅうかんきゅう》の教え。  中は文字通り的に中る力、  貫は的を射抜く力。  そうして最後の久が、中貫の力を長く維持する厳しさだという。    ……たしか中要秘刊集あたりにあった言葉だ。  一度射手たらんと志す者は、真の意味を具備した後にこれを永久に続ける事なり。  故に、日に二百以上の矢数をかけよ……とかなんとか。 「……ああ。マスターとして何をするべきか判らないなら、せめて魔術だけは鍛えないと」    土蔵の真ん中に腰をおろして、すう、と深く息を吸った。 「ふぅ――――、ふ」    ……呼吸を整えて、いつもの修練を開始する。  脳裏にはいつもの映像。  空っぽの頭に浮かび上がる剣の姿。 「――――――――」    それを無視して、思考をさらにクリアにしていく。  全身に魔力を通したら、あとはお決まりの“強化”の練習。  昨夜、ランサーに襲われて何年かぶりに成功した強化の魔術。  その感覚を忘れないうちに繰り返して、確実にモノにしなければ勿体ない。 「――――〈同調〉《トレース》、〈開始〉《オン》」    目を半眼にして肺の中身を絞り出す。    ――――今はそれだけ。      聖杯戦争の事も、セイバーの事も、遠坂の事も、この工程に没すれば全てなくなる。  未熟な自分の迷いを一切忘れるほど思考を無にしなくてはならない。          ただ、その過程。  自分がこうしている今、魔術師である遠坂も同じように鍛錬をしているのかと―――そんな雑念が、頭から離れなかった。 「話を戻すぞセイバー。  ……あ、いや、改めて訊くけど、おまえの事はセイバーって呼んでいいのか?」 「はい。サーヴァントとして契約を交わした以上、私はシロウの剣です。その命に従い、敵を討ち、貴方を守る」  セイバーはわずかな躊躇いもなく口にする。  彼女の意思には疑問を挟む余地などない。 「俺の剣になる、か。それは聖杯戦争とやらに勝つためにか」 「? シロウはその為に私を呼び出したのではないのですか」 「違う。俺がおまえを呼び出したのはただの偶然だ。  セイバーも知ってる通り、俺は半人前の魔術師だからな。セイバーには悪いが、俺にはマスターとしての知識も力もない。  けど、戦うと決めたからには戦う。未熟なマスターだけど、セイバーはそれでいいのか」 「もちろん。私のマスターは貴方です、シロウ。  これはどうあっても変わらない。サーヴァントにマスターを選ぶ自由はないのですから」 「――――――――」  ……そうなのか。  なら俺は、自分に出来る範囲でセイバーに応えるしかない。 「……分かった。それじゃ俺はおまえのマスターでいいんだな、セイバー」 「ええ。ですがシロウ、私のマスターに敗北は許さない。  貴方に勝算がなければ私が作る。可能である全ての手段を用いて、貴方には聖杯を手に入れて貰います。  私たちサーヴァントは無償で貴方たちマスターに仕えるのではない。私たちも聖杯を欲するが故に、貴方たちに仕えるのです」 「――――え。ちょっと待った、聖杯が欲しいって、セイバーもそうなのか……!?」 「当然でしょう。もとより、霊体である聖杯に触れられるのは同じ霊格を持つサーヴァントだけです。  聖杯戦争に勝利したマスターは、サーヴァントを介して聖杯を手に入れる。その後、サーヴァントは見返りとして望みを叶える。  ―――それがサーヴァントとマスターの関係です、シロウ」 「――――――――」  ……そうか。  言われてみれば、“英霊”なんてとんでもない連中が人間の言うことを聞くはずがないんだ。  彼らにも目的があるから、交換条件としてマスターに仕えている。  ……そうなるとセイバーにも“叶えるべき願い”があるって事だ。  だからこそセイバーには迷いがない。    けど、それは。 「……待った、セイバー。可能である全ての手段っと言ったな。それは勝つ為には手段を選ばないって事か。  たとえば――――」    あの神父が言ったように。  マスターでもない無関係の人間を巻き込んで、十年前のあの日のような惨状を起こすような―――― 「シロウ、それは可能である手段ではありません。  私は私が許す行為しか出来ない。自分を裏切る事は、私には不可能です。剣を持たぬ人間に傷を負わせる事など、騎士の誓いに反します」 「ですが、マスターが命じるのであれば従うしかありません。その場合、私に踏みいる代償として、その刻印を一つ頂く事になりますが」  怒りさえこもった声に圧倒される。 「――――――――」  それでも、嬉しくて胸をなで下ろした。  あまりの強さと迷いのなさに機械のようなイメージがあったけど、セイバーは冷酷な殺人者ではないと判って。 「―――ああ、そんな事は絶対にさせない。  セイバーの言う通り、俺たちは出来る範囲でなんとかするしかないからな。……本当にすまなかった。知らずに、おまえを侮辱しちまった」 「ぁ……いえ、私もマスターの意図が掴めずに早合点してしまいました。シロウは悪くないのですから、顔をあげてくれませんか……?」 「え? ああ、思わず謝ってた」  顔をあげる。 「――――――――」  セイバーは何がおかしかったのか、わずかに口元を緩めていた。 「?」  まあ、笑ってくれるのは嬉しいんで追及するのはやめておこう。 「それじゃあもう一つ訊いていいか。  マスターっていうのはサーヴァントを召喚する魔術師の事だよな。  それはいいんだけど、セイバーたちの事が俺にはまだよく判らない。セイバーとかランサーとか、どうも本名じゃないのは分かるんだが」 「ええ、私たちの呼び名は役割毎につけられた呼称にすぎません。……そうですね、この際ですから大まかに説明してしまいましょう」 「私たちサーヴァントは英霊です。  それぞれが“自分の生きた時代”で名を馳せたか、或いは人の身に余る偉業を成し遂げた者たち。どのような手段であれ、一個人の力だけで神域まで上り詰めた存在です」    言われるまでもない。  英霊とは、生前に卓越した能力を持った英雄が死後に祭り上げられ、幽霊ではなく精霊の域に昇格したモノを言う。 「ですが、それは同時に短所でもあります。私たちは英霊であるが故に、その弱点を記録に残している。  名を明かす―――正体を明かすという事は、その弱点をさらけ出す事になります。  敵が下位の精霊ならば問題になりませんが、私たちはお互いが必殺の力を持つ英霊です。弱点を知られれば、まず間違いなくそこを突かれ、敗北する」 「……そうか。英雄ってのはたいてい、なんらかの苦手な相手があるもんな。だからセイバー、なんて呼び名で本当の名前を隠しているのか」 「はい。もっとも、私がセイバーと呼ばれるのはその為だけではありません。  聖杯に招かれたサーヴァントは七人いますが、その全てがそれぞれ“〈役割〉《クラス》”に応じて選ばれているのです」 「クラス……? その、〈剣士〉《セイバー》とか〈弓兵〉《アーチャー》とか?」 「そうです。もとより英霊をまるごと召喚する、という事自体が奇蹟に近い。それを七人分、というのは聖杯でも手に余る。  その解決の為、聖杯は予め七つの器を用意し、その器に適合する英霊だけを呼び寄せた。この世界に我々が存在できる依り代を用意したのです。  それが七つの役割、  セイバー、  ランサー、  アーチャー、  ライダー、  キャスター、  アサシン、  バーサーカー。 「聖杯は役割に該当する能力を持った英霊を、あらゆる時代から招き寄せる。  そうして〈役割〉《クラス》という殻を被ったモノが、サーヴァントと呼ばれるのです」 「……なるほど。じゃあセイバーは剣に優れた英霊だから、セイバーとして呼ばれたって事か」 「はい。属性を複数持つ英霊もいますが、こと剣に関しては私の右に出る者はいない、と自負しています」 「もっとも、それがセイバーの欠点でもある。  私は魔術師ではありませんから、マスターの剣となって敵を討つ事しかできない」 「権謀術数には向かないって事だな。いや、それは欠点じゃないと思うけど。セイバーはあんなに強いんだから、もうそれだけで十分だろ」 「シロウ、戦闘で強いだけではこの戦いは勝ち抜けません。  例えばの話ですが、敵が自身より白兵戦で優れている場合、貴方ならどうしますか?」 「え? いや、そうだな……正面から戦っても勝てないって判ってるなら、戦わずになんとかするしかな――――」    そこまで口にして、そうか、と納得した。  相手が強いのなら、まっとうな戦いなんて仕掛けない。  なにも剣でうち倒すだけが戦いじゃないんだ。  剣で敵わない相手なら、剣以外で敵の息の根を絶つだけの話じゃないか。 「そういう事です。白兵戦で優れている、と相手に知られた場合、相手はまず白兵戦など仕掛けてこないでしょう。……そういった意味で言うと、能力の劣ったサーヴァントはあらゆる手を尽くしてくる」 「アサシンのサーヴァントは能力こそ低いですが気配を隠すという能力がありますし、キャスターのサーヴァントはこの時代にない魔術に精通している。  単純な戦力差だけで楽観はできません。加えて、私たちには“宝具”がある。どのようなサーヴァントであれ、英霊である以上は必殺の機会を持っているのです」 「宝具――――?」    それも聞き慣れない単語だ。  いやまあ、ニュアンス的になんとなく意味は判るんだけど。 「宝具とは、サーヴァントが持つ特別な武具の事です。  ランサーの槍や、アーチャーの弓、それに私の剣などが該当します。  英雄とは、それ単体で英雄とは呼ばれません。彼らはシンボルとなる武具を持つが故に、〈英雄〉《ヒーロー》として特化している」 「英雄とその武装は一つなのです。故に、英霊となった者たちはそれぞれが強力な武具を携えています。  それが“宝具”――――サーヴァントたちの切り札であり、私たちが最も警戒すべき物です」 「――――――――」  ……宝具とは、その英霊が生前に持っていた武具だとセイバーは言う。    あの青い騎士の槍を思い出す。  大気中の魔力を吸い上げ、あり得ない軌跡でセイバーの胸を貫いたあの槍。  あれは、確かに人の手におえる物ではない。  あの槍自体も強い呪いを帯びていたが、あの時ランサーが発した言葉にも桁違いの魔力を感じた。    なら、もしかしてそれは。 「セイバー。宝具ってのは魔術なのか?  たしかにランサーの槍は曰くありげな槍だったけど、それ自体は槍っていう領域から出てなかっただろ。  けどあいつの言葉で、あの槍は武器の領域から逸脱した。それって魔術の類じゃないのか?」 「ええ、確かに宝具は魔術に近い。  たとえばランサーの槍です。彼の槍はそれ自体が宝具ではありますが、その真価を発揮するのは魔力を注ぎ込み、その真名を口にした時だけです」 「宝具とは、ある意味カタチになった神秘ですから。  魔術の発現に詠唱が必要なように、宝具の発動にも詠唱―――〈真名〉《しんめい》による覚醒が必要になる。  ですが、これにも危険はあります。宝具の真名を口にすれば、そのサーヴァントの正体が判ってしまう」 「……そっか。英雄と武器はセットだもんな。持ってる武器の名前が判れば、おのずと持ち主の正体も知れる」  こくん、と無言で頷くセイバー。    だからこそ宝具は切り札なんだ。  正体を明かすかわりに、避けきれぬ必殺の一撃を炸裂させる。    だがそれが不発に終わった時――――そのサーヴァントは、自らの欠点をもさらけ出す事になる。 「それじゃあセイバー。おまえの宝具は、あの視えない剣なのか?」 「……そうですね。ですが、あれはまだ正体を明かしていません。今の状態で私の真名を知るサーヴァントはいないでしょう」  言って、一瞬だけセイバーは気まずそうに目を伏せた。 「シロウ。その件についてお願いがあります」 「え? お願いって、どんな」 「私の真名の事です。本来、サーヴァントはマスターにのみ真名を明かし、今後の対策を練ります。  ですがシロウは魔術師として未熟です。  優れた魔術師ならば、シロウの思考を読む事も可能でしょう。ですから――――」 「ああ、名前は明かせないって事か。……そうだな、たしかにその通りだ。催眠とか暗示とか、いないとは思うけど他のマスターに魔眼持ちがいたらベラベラ秘密を喋りかねないし。  ―――よし、そうしよう。セイバーの“宝具”の使いどころは、セイバー自身の判断に任せる」 「ぁ――――その、本当に、そんなにあっさりと?」 「あっさりじゃないぞ。ちゃんと考えて納得したんだ。  考えた末の合意だから、気にすんな」 「――――――――」    ……さて。  だいたいの話は判ったものの、状況は未だに掴めない。  考えてみればおかしな話だ。  戦うと決めたものの、判っている相手は遠坂だけで、俺はあいつとドンパチやる気はまったくない。    ……ああいや、向こうはやる気満々だから、そうも言ってはいられないだろうが。 「なあセイバー。マスターやサーヴァントって何か目印はないのか? このままじゃどうも勝手が分からないんだが」 「いいえ。残念ながら、明確な判別方法はありません。  ただ、近くにいるのならサーヴァントはサーヴァントの気配を察知できます。それが実体化しているのなら尚更です。サーヴァントはそれ自体が強力な魔力ですから。  シロウもバーサーカーの気配は感じ取れたでしょう?」 「う―――それはそうだけどな。襲われて初めて判る、なんていうのはまずいだろう。せめて近づかれる前に気づかないと対応できない」 「では、マスターの気配を辿るのはどうですか。マスターとて魔術師です。魔術を生業とする以上、魔力は必ず漏れています。それを探れば、この町にいるマスターは特定できるのでは」 「……悪い。生憎、そんな器用な真似はできない」  そもそも同じ学校にいた遠坂の正体にも気づかなかったんだぞ、俺は。  二年間も同じ建物にいて、あまつさえ何度も見かけているっていうのにだ。 「――――参ったな。これじゃ確かに半人前ってバカにされるワケだ。マスターとしての証も令呪だけだし、前途は多難か」  はあ、と肩で息をつく。    ―――と。 「シロウ。少し目を閉じて貰えますか」  真剣な面もちで、セイバーはそんな事を言ってきた。 「……? 目を閉じるって、なんで」 「貴方がマスターだと証明する為です。いいですから、目を閉じて呼吸を整えてください」 「…………………………」  ……目を閉じる。  ついで、額に触れる微かな感触。    ――――って、妙にチクチクするけど、これってまさか刃物の先か――――!? 「――――セイバー? ちょっと待て、なんかヘンな事してないか、おまえ?」 「……。マスター、黙って私の指先に意識を集中してください。貴方も魔術師なら、それでこちらの魔力を感じ取れるでしょう」 「――――む」  そうか、触れてるのはセイバーの指か。  それでは、と気を取り直して意識を静める。    ――――と。  なんだ、これ。 「セイバー、今の、なんだ?」 「なんだ、ではありません。貴方と私は契約によって繋がっているのですから、私の状態は把握できて当然です」 「――――把握って、今のが?」 「どのようなカタチで把握したのかは知りません。サーヴァントの能力を測るのは、あくまでシロウが見る基準です。単純に色で識別するマスターもいれば、獣に喩えて見分けるマスターもいます」 「つまり、個人差はあれど本人にとって最も判別しやすい捉え方をする、という事です。  これはマスターとしての基本ですから、今後は頻繁に確かめてください。私と同様、一度見た相手ならばその詳細が理解出来ている筈ですから」  ……そうか。  いきなりで驚かされたが、これなら少しはマスターとして振る舞えるかもしれない。 「―――マスター。簡略しましたが、私にできる説明は以上です」 「ああ。駆け足だけど合点がいった。すまなかったな、セイバー」 「……すまなかった、ではありません。  状況が判ったのなら、これからどうするかを決めるべきではないですか」  ずい、と身を乗り出して問いただしてくる。  ……そうか。  セイバーも遠坂と同じで、やられる前にやるタイプなのか。 「いや、どうするもなにも、別段変わった事はしないぞ。  遠坂みたいに自分から他のマスターを倒しにいく、なんて気はないからな」 「―――シロウ、それでは話が違う。貴方はマスターとして聖杯を手に入れる気がないのですか」  ……セイバーの目が細まる。  それは否定を許さない、冷徹な剣士の目だ。 「――――――――」  それに気圧されまいと視線を返して、きっぱりと今後の方針とやらを口にする。 「ああ、ある。けどそれは悪いヤツに渡らないようにしたいからだ。俺には、自分から聖杯が欲しいっていう理由はない」 「っ――――」 「けど、それは戦わないって意味じゃないぞ。  見習いだけど俺は魔術師だ。自分が後戻りできない場所にいる事ぐらい理解してる。無傷で、何もしないままじゃ生き残れないって事は判ってる」 「では魔術師として避けられない戦い―――つまり聖杯を手に入れる為ではなく、聖杯による争いを防ぐ為に戦うというのですか、貴方は」 「? ……ああ、そういう事になるのか。そうだな、きっとそういう事だ。うまく言葉にできないけど、そういう戦いになら価値があるだろ」  そうだ。  正直、聖杯なんて言われても実感が湧かない。  けどそういった事の為なら、俺は本気で、胸を張って戦う事が出来ると思う。 「……わからない。シロウは魔術師だと言う。ならば万能である聖杯を欲する筈です。自分では叶えられない望みがあるからこそ、魔術師は魔術を極めるのではないのですか」 「なに言ってるんだ。叶えられない望みなんて持ってないぞ、俺。やらなくちゃいけない事は山ほどあるけどな」  うん。  だから今は、その為に無関係な人を巻き込まないように手を尽くすだけだ。 「―――それではシロウは聖杯が要らないというのですか。聖杯の為には戦わないと」 「そうは言ってないだろ。戦うからには聖杯は手に入れるつもりだぞ」 「それこそ矛盾している。貴方には必要がない物を、何故戦ってまで欲するというのです」 「?」  いや、だって。  勝ち残るって事は聖杯を手に入れるって事だし、なにより。 「セイバーには必要なんだろ。なら必ず手に入れなくちゃ」 「――――――――」 「ああ、他のマスターがどんなヤツかは知らない。  もしかすると、中にはすごくいいヤツだっているかもしれない。  けど、俺はセイバーの味方をするって決めたんだ。そのセイバーが聖杯を手に入れたいって言うなら、最大限手を貸すのは当たり前だろう」 「――――――――」 「……その、〈切嗣〉《オヤジ》の受け売りなんだけどな、正義の味方になるんだったらエゴイストになれって。  誰にも彼にも味方なんてしてたら意味がないんだから、自分が信用できる、自分が好きな相手だけの味方をしなくちゃダメだって」 「今までそうは思えなかったけど、今はそう考えるべきだと思う。  俺は自分の為に戦う、なんてのは出来ない。  けどセイバーの為に戦うんなら、それがいい」  それに、正直に言えば。  この少女がこんなにも真剣に欲しがるのなら、是が非でも手に入れてやりたくなるってのが人情だろう。    ……その、俺だって男なんだから。 「では、私が聖杯を諦めれば戦わないと言うのですか、貴方は」 「――――む」  それは困る。  セイバーにそんな事を言われたら、今までの前提が全て崩れてしまうのだが―――― 「……いや、それでも同じだ。一度戦うと言ったんだ。  だから逃げない。これは絶対だ、セイバー」  きっぱりと、セイバーの目を見て断言した。  セイバーはすぐには答えず、深く息を吐いてから俺を見上げる。 「解りました。マスターである貴方がそう言うのなら、私は従うだけです。私の目的は聖杯であり、貴方の目的が争いの調停であっても、行き着く場所は同じですから。  ――――ですが、シロウ」  言葉が止まる。  セイバーは遠くを見るような瞳で、   「私にはうまく言えないのですが、それではシロウは後悔する。……きっと、後悔する事になる」    そんな言葉を、口にした。    ――――不自然な闇を抜ける。    人気の絶えた深夜。  月明かりに照らされていながら一寸先も見えぬ通路を抜けて、彼女はその室内に踏み入った。   「――――――――」    そこは、ある建物の一室だった。  収容された従業員は五十人ほど。  そのほとんどが男性で、その全てが、糸の切れた人形のように散乱していた。   「――――――――」    彼女は歯を食いしばる。  闇で視界を閉ざされていた事が、幾分は救いになった。  腐乱した空気は、草の薫りが煙となって室内に満ちている為だ。   「―――なんの香だろう、これ。アーチャー、貴方判る?」    ドアを開け、窓を開けながら彼女は自らの背後に問うた。  そこに人影はない。  ただ、立ちこめる煙より濃密な気配だけが揺らめいている。   「魔女の軟膏だろう。セリ科の、愛を破壊するとかいうヤツかな」 「それってドクニンジンでしょう。愛を破壊って……ああ、そういうコト。男に何か怨恨でもあるのかしらね。この惨状の仕掛け人は」   「だとすると相手は女かな。いや、なんの恨みがあるか知らんが、サーヴァントになってまで八つ当たりするとは根が深い」 「能書きはいいから窓を開けて。……倒れてる連中は―――まだ息があるか。この分だと、今から連絡するのも朝になって発見されるのも変わらない。  用が済んだら手早く離れるわよ、アーチャー」    一面の窓を開け放ち、特別状態の悪い人間の手当てをし、彼女は室内を後にする。   「……チ。服、クリーニングに出さないと」    くん、とコートの匂いをかぐ。  特別触れたワケではないが、彼女のコートには錆びた鉄の匂いが移っていた。  密室となっていた空間。  その床という床には、五十人もの人間が吐き出した血が溜まっていたのだから。    彼女の背後にいた気配がカタチを得る。    彼女――――遠坂凛の背後に現れたのは、赤い外套を纏った騎士だった。    霊体として遠坂凛を守護していたサーヴァント、アーチャーである。   「それで? やはり流れは柳洞寺か?」 「……そうね。奪われた精気はみんな山に流れていってる。新都で起きてる昏睡事件はほぼ柳洞寺にいるマスターの仕業よ。マスターがどれだけのヤツか知らないけど、こんなのは人間の手にあまる。可能だとしたら、キャスターのサーヴァントだけでしょう」 「柳洞寺に巣くう魔女か。――――となると、昨夜は失態を演じたな」   「失態……? バーサーカーと引き分けた事? アレは最善だったと思うけど」 「どうかな。キャスターがそれほど広範囲な網を張っているのなら、昨夜の戦いも盗み見ていただろう。  にも拘わらずバーサーカーを倒せず、セイバーさえ見逃し、こちらは手の内を晒してしまった。これのどこが最善だ」    皮肉げに語る。  だが、その言葉に凛は答えなかった。    バーサーカーを撃退した事も、セイバーを助けた事も間違いではない。  そして何より―――アーチャーは、その手の内を晒してなどいないのだ。    昨夜。  アーチャーが放った“矢”がバーサーカーを止めたのは事実だ。  だがその正体―――あれほどに強力な“宝具”の正体を、マスターである凛でさえ知り得てはいなかった。   「――――凛」    ……いや、原理だけならば彼女も見抜いてはいる。  アレはただの爆弾だ。  “宝具”という火薬のつまった爆弾を、敵の前で破裂させただけ。  それがどれほど破格であるかは言うまでもない。  アレは最強の幻想である宝具を使用した、ただ一度きりの魔力の炸裂だった。    ――――〈壊れた幻想〉《ブロークン・ファンタズム》。  それが赤い騎士が持つ、必殺の宝具の名称。   「――――凛」    ……だが、それがあまりにも不可解だった。  サーヴァントが持つ宝具はただ一つであり、生前共に在り続けた半身だ。それを惜しげもなく破壊する事が、はたしてどの英霊にできるというのか。   「――――凛」    破壊された宝具の修復は容易い事ではない。  自らの宝具を破壊するなど、サーヴァントにとっては自殺行為に近い。   「――――凛」    つまりアーチャーは、あの時、未だ倒すべき敵が六人いるという状況で、自ら最強の武器を放棄した。  いや、なにより英雄の証である宝具を自分から破壊するなど、他のサーヴァントが知れば卒倒ものだろう―――   「凛―――!」 「っ! え、なに? ごめん、聞いてなかった」 「……。今夜はこれからどうすると訊いたのだ。先ほどの戦闘で疲れているだろうし、大事をとって戻らないかとな」 「――――――――」  アーチャーの言葉に、凛はわずかに拳を握る。      先ほどの戦闘。  通路に夥しく蠢いていた骨作りの〈雑魚〉《ゴーレム》たち。  その全てを、彼女は一人で破壊した。    アーチャーの助けなど要らなかったし、そんな事でアーチャーの能力を晒け出す気もなかった。  何より―――魔術師としてのルールを破り、こうして第三者を巻き込んでいる『敵』に怒りがあったのだ。    だから破壊した。  容赦なく、完膚無きまでに叩きのめした。  ……その骨の材料がつい先日まで生きていた誰かだとしても、一切の情はかけなかった。   「――――――――」    その戦いで、彼女が負った傷はない。  ただ一つ。  必死に、吐き気を堪えながら戦った代償に、唇を噛み切ってしまっただけ。   「―――キャスターを追うわ。気配はまだ残っているんでしょう。柳洞寺に逃げられる前に片をつける」 「なに? 驚いたな、出来ないと思った事はやらないのが君の主義ではなかったか?」 「……そうよ。わたし、結果が判りきってる事はできない。  けどこれは別でしょ。今から追いかければ尻尾ぐらいは掴めるだろうし、なにより――――」   「――――喧嘩を売らなければ気が済まない、か。  やれやれ。倒しやすい相手を放っておいて、もっとも倒し〈難〉《がた》い相手を追うとは」 「……む。いいのよ、セイバーの事は放っておいて。あんなのはいつだって始末できるんだから、別に目の仇にする必要ないじゃない。  ちゃんと大人しくしているんなら、無理に手を出すコトもないわ。あいつが家に隠れている分には見逃してあげるだけよ」   「……ほう。では、あのマスターが目の前にいれば話は違うのかな。たとえば、未だマスターとしての自覚もないまま、衛宮士郎の方から君の前に現れたとしたら」    試すような言葉。  感情のないその声に、夜の街を見下ろしながら、   「―――殺すわ。  そんな事も判らないヤツに、かける義理なんてない」    自らに言い聞かせるよう、遠坂凛は断言した。    そうして就寝。  セイバーに何が起こっていたのか、さっきまでとんでもなく賑やかだった座敷の明かりが消えて、静寂が戻ってきた。  女三人よればかしましい、というが無口なセイバーと大人しい桜でも、その格言は当てはまったらしい。 「……いや、違うか。メインで聞こえてきたのは藤ねえの笑い声だもんな」    それでも座敷が賑やかだったのは事実である。  すぐ近く、同じ屋根の下で同年輩の女の子たちが騒いでいた、というのは精神衛生上よろしくない。 「――――くそ。気になって眠気なんてなくなった」    セイバーが困っている顔とか、  桜とセイバーが仲良く出来ているのかとか、  そもそも藤ねえは何を考えているのか、とか。  考えれば考えるほど頭が痛くなって、これなら隣の部屋でセイバーに眠って貰ったほうがまだましだったかもしれない。 「――――――――」    時刻は午後十一時。  屋敷の電灯は消え、外は物音一つない。  座敷で眠っている藤ねえたちに気づかれないよう、足音を殺して部屋の襖に手をかけた。    庭に出る。  月は明るく、切りつける風は冷たい。  冬の夜、世界は凍りついたように静かだった。    土蔵は静まりかえっている。  昨日俺がランサーに追いつめられた場所であり、  セイバーが現れた場所。  入り口は開かれたままで、内部の闇は来る者を拒むように黒々としていた。    中に入る。  扉を閉めて外気を遮断し、おんぼろなストーブに火を入れた。 「……日に二百以上の矢をかけろ、か」    弓道における〈中貫久〉《ちゅうかんきゅう》の教え。  中は文字通り的に中る力、  貫は的を射抜く力。  そうして最後の久が、中貫の力を長く維持する厳しさだという。    ……たしか中要秘刊集あたりにあった言葉だ。  一度射手たらんと志す者は、真の意味を具備した後にこれを永久に続ける事なり。  故に、日に二百以上の矢数をかけよ……とかなんとか。 「……ああ。マスターとして何をするべきか判らないなら、せめて魔術だけは鍛えないと」    土蔵の真ん中に腰をおろして、すう、と深く息を吸った。 「ふぅ――――、ふ」    ……呼吸を整えて、いつもの修練を開始する。  脳裏にはいつもの映像。  空っぽの頭に浮かび上がる剣の姿。 「――――――――」    それを無視して、思考をさらにクリアにしていく。  全身に魔力を通したら、あとはお決まりの“強化”の練習。  昨夜、ランサーに襲われて何年かぶりに成功した強化の魔術。  その感覚を忘れないうちに繰り返して、確実にモノにしなければ勿体ない。 「――――〈同調〉《トレース》、〈開始〉《オン》」    目を半眼にして肺の中身を絞り出す。    ――――今はそれだけ。      聖杯戦争の事も、セイバーの事も、遠坂の事も、この工程に没すれば全てなくなる。  未熟な迷いを一切忘れるほど思考を無にして、慣れ親しんだ鍛練に没頭した。   「――――ふう、つっかれたあ」    どすん。  お土産でぎゅうぎゅうに膨らんだ旅行カバンを地面に置いて、のびのびと背筋を伸ばすこと数秒間。  見上げた空はカラッカラの快晴で、春の陽射しは問答無用で気持ちがいい。  ま、機体慣れした目には些かまぶしいのだが、それも長旅から解放されてこその不自由さと思えば、頬がゆるむってものである。 「あ、ベェルデなくなってる。代わりに映画館なんて出来たんだ。……しばらく見ないうちに変わったなあ」    肩をほぐしながら街の様子などを眺めてみる。  ロンドンから日本の地方都市まで、実に二十五時間。  シートに閉じ込められていた体はなまりになまっている。狭苦しいシートに座り続けていたもんだからお尻は痛いし、なにより着陸の時におもいっきり天井に頭をぶつけたのはどうかと思う。 「……エコノミーどころの話じゃないわよね。せめてまっとうな旅行会社を使えば良かった」    教訓。長旅で旅費をけちってはいけない。  いくら金欠で万年資金ぐりに困っていて、首席争いしているルヴィアゼリッタに、         “あらミストオサカ、お金に困っているのならワタクシ付きのメイドにしてあげてもよろしくてよ四番街のしみったれた悪趣味カフェのウェイトレス一年分の月給は保証しますわオホホああそう言っておきますけどわりと本気ですから明日朝一で編入届を出してきなさいね?”    なんて言われていようと、帰国する際の旅費はしぶってはいけない。    うん、次は是非そうしよう。  往復でチケットをとってあるので、とりあえず戻りはあのオンボロジェットで我慢する。 「えっとバスは……二十分待ちか。  ―――ま、面倒だし歩いていこう」    よっ、と両手でカバンを持って歩き出す。  家までは歩いて一時間。  少々かかるが、約束の時間まで間があるのでちょうどいい。   「――――ん。懐かしいな、海ぞいの風だ」    車輪をガラガラと鳴らしながら、吹いてくる風に目を細める。    ――――ああ、帰ってきた。    一年ぶりの故郷は変わっているようでちっとも変わっていない。    わたしは見慣れている筈の、なんでもない町の風景に一喜一憂しながら家路を辿る。  年に一度の帰郷、ロンドンに留学してから初めての帰国だ。  一年ぶりに町を歩くのはそれだけで幸福になれるし、訳もなく楽しい。  ま、どんなにハッピーでも旅行カバンが容赦なく重いのは変わらないワケなのだが。 「――――よし。ま、こんなんでオッケーかな」    シャワーを浴びて、姿見で一通りおかしなところがないかチェックをする。  ……別に誰に気を遣っているワケじゃないけど、まあ、一年ぶりなんだからこれぐらい気合を入れといてもバチは当たるまい。  あー、いや、若干一名、バチっていうよりジト目を向けてきそうなのがいるけど、今日ぐらいは無視しよう。  屋敷は思っていたより綺麗で、埃もそう溜まっていなかった。  桜がたまに掃除してくれているのかも知れない。  それは有り難い。とても有り難いんだけど……。 「……あの〈娘〉《こ》、ヘンなコトにここを使ってないわよね……なんか、記憶にないシャンプーがあったんだけど」    シャンプーがあるのはバスだ。書斎とか台所とか、玄関、中庭等にシャンプーは置かない。  ……いや。  別に気にするコトじゃないんだけど、バスというのは中々に暗示的ではあるまいか。 「―――って、もう三時じゃない……! ああもう、二時間も何してたんだわたし……!」  だだーっ、と玄関までショートダッシュ、気取ってパンプスを履こうとしたけどそれもアレなのでブーツに履き替えてまたダッシュ。  約束の時間は四時だ。  できれば早めに行って敵情視察をしたいのだが、そんなんで髪が乱れてはこっちの戦力がダウンする。  遺憾ではあるが、こうなったら真っ向勝負としゃれこもう。   「――――――――さて」    色々と感慨深くはあるが、ここまで来るとつまらない考えなんか消えて、少しでも早く中に入りたくなってしまった。    門を抜けて玄関へ。  それではいざ、呼び鈴ぽちっ。  ぴんぽーん、なんて間の抜けた音がして、ガラガラっと扉が開く。 「――――――――」 「――――――――」    驚いた。  何が驚いたかって、ライダーが玄関に出てきて、かつ、普通の服を着てるコトに驚いた。 「ただいま。ちょっと早いけど帰ってきたわ。  桜はいる、ライダー?」 「―――ええ。サクラは部屋で、タイガは居間で待っています」 「あ、藤村先生もいるんだ。……って、春休みだから当然か。んじゃお邪魔します。とりあえず居間に行けばいい?」 「はい。私はサクラを呼んできます」  廊下にあがる。  横並びで居間に向かう中、ちょっとだけライダーを盗み見た。  ……これは意外な伏兵と言うべきだろうか?  もとから神がかった美人だったけど、こうして普通の格好をされると余計に際立って見える。  言ってしまえば、ドがつくクラスの美女である。  女が女を美女という時は、それはホントに美女なのだ。  向こうに行っていろんなタイプの美形に出くわしたけど、ライダーほどの美女にはまだお目にかかっていない。  まあ、そもそもライダーは人間以上なんだから規格外なのも当然か。  なにしろ天下ご免のサーヴァントである。  〈降霊科〉《ユリフィス》の魔術師が見たら三日は仕事が手につかなくなり、あまつさえ現役の使い魔だなんて聞いたら一ヶ月は工房に篭ってしまうだろう。 「リン? 私に話があるのですか?」 「ん、そうね。あれから調子はどう? 少しは今の状態に慣れた?」 「……そうですね。二年前に比べれば安定しています。  リンがいなくなってからは不安定でしたが、ひと月ほど前から安定しだしました。サクラもコツを掴んだようです」 「そう。ま、ライダーと桜は相性がいいから心配はしてなかったけど。……その、桜に黙って血なんて採ってないでしょうね……?」    別に咎めているワケではなくて、吸ってるなら吸ってるでちゃんとフォローできてるかが心配なのだ。 「それこそ心配無用です。サクラに知られるような真似は、決して」 「………………」  微妙な答えだが、誰にも迷惑をかけてないようだからスルーしよう。  魔術師としての悪いクセだ。  ライダーほどの使い魔は価値がありすぎて、多少のお茶目は目を瞑ってしまうのだ。 「それではまた。リンには相談事もありますので、夜に時間を作っていただけますか」 「ふうん。内緒話ならここじゃなくて〈遠坂邸〉《うち》でしましょう。今夜はこっちに泊まるから、明日の夜でいい?」  ライダーは静かに頷き、桜の部屋へ向かっていく。  ――――、と。 「お帰りなさい、リン」 「ありがと。留守中苦労かけたわね、ライダー」  微笑みで返して、ライダーは和室に向かっていく。    ……いや、驚いた。  ほんと美女だわ、アレ。 「あら。いらっしゃい遠坂さん。元気そうでなによりね」 「はい、お邪魔します。藤村先生もお変わりないようで安心しました。今日は部活動、休みですか?」 「あー、今日は遠坂さんが来るって聞いてたから、ズル休み。ま、今年の主将はしっかりしてるし、今日は新入生対策の会議だから問題ないわ」 「新入生対策? 部員減ったんですか、弓道部?」 「んー、増えたよ? ほら、去年は桜ちゃんが主将になってたでしょ。それで男の子は増えたんだけど女の子が定員に届いてないのよ。  ……って、遠坂さんは卒業したから知らないか。  ま、今年はカッコイイ男の子が主将だから、うまく立ち回ればどっさり入ってくるだろうけどねー」 「はあ。カッコイイ男の子って、誰です?」 「美綴さんの弟さん。これがまあ、姉さんとは正反対の小心者なのよぅ。部活紹介でステージになんて立ったら金縛りにあうわね、ぜったい」 「………………」  それは、人選を間違えているのではないだろうか。  ……まあ、弓道は厳しいイメージがあるから、女の子にはとっつき易さをアピールした方がいいのかもしれないけど……にしても、綾子の弟か。弟がいるなんて初めて聞いたぞ、わたし。 「それで、あっちの暮らしはどうなの? 日本人だからっていじめられてない? ほら、美大の〈学生〉《こ》ってライバル心だけで友人関係成立してるじゃない」 「藤村先生、それは偏見です。芸術を信奉する人間に、そのような狭窮さはありません」 「あ。てへ、怒られちゃった」  ……あるのは自分に対する関心だけです、なんてコトは口が裂けても言えまい。  加えて、わたしが通っている学部に限っては、藤村先生の不安は100%的中しているワケだが、それも黙っておこう。    ……と。  藤村先生は意味ありげにわたしの顔を見てはニヤついている。 「―――なんでしょう、藤村先生」 「ん? 遠坂さん、綺麗になったなって。一皮剥けたっていうか、大人になったっていうか。向こうでいい人でもできた?」 「――――――――」  ……いい人って、どうして女同士だとすぐこういう話になるんだろう。それになんか鋭いし。 「あ、なんか手応えあり。どうなのよ、花のロンドンでしょ? こう、パァーっと出会った瞬間に謎の組織に追われて手を繋いで大脱走、残り十分あたりでロンドン橋が炎上してキスしてお別れとかしちゃってたら承知しないぞ?」 「いえ。別に、そういうコトはないです」 「む。じゃあいい話は一切なし?」 「………………そういうワケではないんですが。  まあ、出来そうというか、出来ないというか」  ……煮え切らない回答だが仕方がない。  わたしだってそれらしい誘いは受けたし、いい加減研究面だけでもパートナーがほしいのだ。  ……けど、どうしても本気になれないというか。  いざ男の子と付き合ってみると、脳裏に別のバカものが浮かんでしまって集中できない。  信じがたい事だが、これはもしかしてあいつに惚れているのかしらん、などと首をひねる毎日だ。    ――――いや。  そんなコトは断じてないったらないったらな――― 「あ、桜ちゃん」 「っ……!?」  びくっ、と反射的に背筋が伸びる。  そんなわたしに面食らっている桜。    ……うわ。この子も変わらないな、ほんと。 「は、はあい。元気だった、桜?」  はい、と桜は頷く。  そうして、顔いっぱいに喜びを浮かべて、   「お帰りなさい姉さん。元気そうで嬉しいです」    これ以上ないっていう笑顔で、わたしの帰りを祝ってくれた。    そうして一時間。  わたしが留学してからの一年間、あっちとこっちの思い出話を交換しあう、賑やかで益体もない会話が続く。 「そっか。桜、もう卒業したんだね。それで進路はどうするの? うちに来るならわたしから紹介状でっちあげるけど」 「そうですね。嬉しいけど遠慮しておきます。  今はこっちでやる事があるし、勉強なら見てくれる人がいますから」 「む。手紙にあった綺礼の後釜か。……まあ人のいい爺さんみたいだし、うちに来るよりはマシだろうけど。  たまには外に出て冒険してみないとダメになるわよ。  ただでさえアンタは怠け性なんだから、教師は活きのいいのじゃないと」 「あ、それなら大丈夫です。ライダー、凄く厳しいから。  ちょっと怠けるとですね、すっごく怖い顔するんです」 「あー……いや、そりゃ怖いでしょ、彼女の本気は」    なにしろ石化の魔眼持ちだ。  本気で怒った時の迫力たるや、下手すると服まで石にされかねない。  ……と。  なんだろ。藤村先生、元気ないけど。 「藤村先生?」 「え? あ、なに? ごめんなさい、聞いてなかった」 「いえ、そういうのではないのですが……急に黙り込んでしまったから、気になって」 「あ、うん……ちょっとね。  桜ちゃんと遠坂さんを見てると、士郎のコト思い出しちゃって。今いればすっごくラッキーなのに、あの子ったら肝心なところで損してるんだから」 「あーあ。帰り、遅いよね士郎。いつになったら帰ってくるのかな」    藤村先生は湯飲みを持ったまま、窓の外を見つめている。  その視線は遠く。  気持ちよく晴れた、雲一つない青空を見上げている。 「あ―――あれ、なんかヘンな雰囲気になっちゃったわね。  ……ええっと、わたしのせいかなー、とか」 「そんなコトないですよ。藤村先生が先輩の話をしてくれるのは、嬉しいです」 「あはは、だめよ桜ちゃん。桜ちゃんにとって、士郎はもう先輩でもなんでもないんだから。  ……ま、それはともかく。急に体を動かしたくなったから、道場で素振りでもしてくるわ」    気を遣ってくれたのか、藤村先生は席を外してくれた。  ―――さて。  気を遣ってくれたのは嬉しいが、こうなると些か話の切り出しに困ってしまう。 「……ま、いっか。こっちまで気を遣うコトないものね。  聞いておくべきコトは聞いておかないと。  で、桜。アンタの方はどうなのよ。あれから二年、なんとかやっていけそう?」 「―――はい。少しずつですけど、色々なことを素直に受け止められるようになりました。罪の意識で潰されるのは逃げなんだって。  わたしはわたしの出来るコトをして、少しずつ頑張っていこうと思います」 「そっか。ちょっと見てきたけど、町も完全に元通りだものね。二年前の傷痕は消えていて、おかしな事件ももう起こらない。  ……わたしの役目を桜に押し付けて協会に行っちゃったけど、それはそれで良かったってコトか」 「はい。姉さんの代わりはタイヘンでした。おかげでこの一年間、ずっと強くなれた気がします」    それは魔術の腕じゃなくて心の話だろう。  ま、人間悩んでいるより動き回ったほうがいいってコトである。 「けど、そういう姉さんはどうなんですか? なんか、色々ゴタゴタしてたって聞いてますけど?」 「わたし? ……あー、うん、ゴタゴタしてたって言えばしてたけど」    ……さて、どこから話したものか。  遡ってしまえば、それは二年前が発端になる。    ――――聖杯戦争。  あいつと桜、わたしが関わったあの戦いから二年が経った。  大聖杯は崩壊し、聖杯戦争の基盤は消失。  この地における聖杯探求は永遠に閉ざされ、冬木の町はようやく平穏を取り戻した。  取り戻したのだが、わたしの方はそれで終わってはくれなかったのだ。    管理地における一連の騒動。  冬木の土地は遠坂の物ではあるが、それは魔術協会が認めたもので、完全に遠坂のものってワケでもない。  あらゆる神秘は秘匿しなければならない、というのが魔術協会の大原則で、その原則をわたしたちは破りに破ってしまった。    まず、聖杯戦争における一般社会への被害の甚大さ。  次に魔術協会から派遣されたマスターの暗殺。  とどめに、協会で計測された『根源の渦』の発生。  ……まあ、上二つは綺礼の責任でもあり、綺礼は魔術協会が派遣した監督役なのでとりあえず言い訳は立った。  けど三つ目はどうしようもない。  聖杯による門の出現。根源に至る儀式は、魔術協会の監視下で行われるべきものだ。  で、協会からしてみれば戦犯もいいところだったらしい。  ある日突然、極東の地で『根源の渦』らしきものの発生を観測し、驚きながらも喜んだのだが唐突に消失。  お偉いさんたちは門を開けた事にもご立腹だったらしいが、本当は成功していながら門を消してしまったわたしたちをもうギッタンギッタンにしたかったらしい。    で、わたしは後始末でタイヘンだったっていうのに魔術協会の総本山、イギリスはロンドンの時計塔に連行された。    そうして三百人は入れそうな会議室の中心に立たされ一大裁判の開始である。  各部門長はやってくるわ遠坂家が裁かれたあとの利権拾いに来たはぐれ魔術師は集まるわで、アレはちょっとしたパレードだったと思う。   “あー、わたしもここまでかあ。こうなったら協会と反目してる中東圏に逃げ込むか、日本で徹底抗戦だ”  なんて覚悟をして、脱走の準備までしたのだが、そこはそれ、捨てる神あれば拾う神あり。  遠坂凛を弾劾する会議場に、           「―――いや。弟子の不始末は私の責任でもある」    なんて、数百年ぶりに、お偉いさんたちよりちょっとだけ偉い爺さんが現れて、わたしにかけられた罪状をみーんな無しにしてくれたのだ。    もちろん、その爺さんがわたしの代わりに罰を受けてくれたのではない。  魔術師の世界は〈等価交換〉《ギブアンドテイク》。  爺さんは、事もあろうに、         「よかろう。では弟子をとる事にする。教授するのは三人までだ。各部門、協議の末見込みのある者を選出せよ」    なんて爆弾発言をなさりやがった。    なにしろ行方の知れない魔法使いが現れて、あまつさえ弟子をとってやる、というのだ。  会場は大混乱。  わたしみたいな小物なんてどうでもよくなって、それぞれが自分の部門に駆け込んで連日連夜、選抜の為に大騒ぎだった。    で、ぽかーんとするわたしに爺さんはにやりと笑い、    「トンビがタカを生んだ、というのはおまえの国の言葉だったな。トオサカは最も芽のない教え子だったが、わずか六代で辿り着くとは」    なんてのたまう始末。   “な、なんの事でしょう、大師父”    恐る恐るとぼけるわたし。  だって、気付かれたら殺されると思ってた。  魔法使いたちは自分の魔法を他者に漏らさない。  自身の奇跡に近づいた者は容赦なく排斥すると、わたしは本能で悟っていたからだ。    だが、敵もさるもの。  宝石の翁はわたしの頭をぽん、と撫でて誉めてくれた。   「〈協会〉《れんちゅう》を利用してやれ。ここは窮屈な場所だが、道具だけは揃っておる」    さすが大師父。  あちこちの並行世界を旅する爺さんは、懐が広かった。    ……そう。  実を言えば、わたしは宝石剣を再現できる。  設計図も理論もあの戦いで把握したので、材料と時間さえあれば魔法の真似事はできるのだ。  まあ、それには莫大な資金が必要なワケで、一年二年、いや十年二十年でどうにかなるレベルではないのだが。    ……とまあ、そうしてわたしは無罪放免。  あまつさえ時計塔へのフリーパスも貰ってしまって、学校を卒業した後、妹である桜に冬木の管理を一任し、すぐさまロンドンに発った訳である。          それから一年。  わたしは時計塔の生活に翻弄されながら、桜と同じように、すこーしずつ自分の〈生活圏〉《テリトリー》を広げている。 「……そうですか。それで姉さん。衛宮の家―――先輩の、事は」 「……問題になってないわ。  報告にはあげてないし、綺礼も“巻き込まれて死亡した一般人”としか記録してなかった。……幸か不幸か、あいつの事を知ってるのはわたしと貴方だけってコト」 「――――――――――――」  ……空気が、少し重い。  あの後。  ライダーに地上まで運ばれたわたしと桜は、なんとか生き延びる事が出来た。  ライダーはわたしを遠坂邸まで連れて行ってくれて、魔力を補充してくれた。  魔力さえあれば、遠坂の魔術刻印がわたしを無理やりにでも生かそうとする。  しばらく食事が摂れなかったぐらいで、わたしはすぐさま回復した。  桜はアンリマユと繋がっていた後遺症と、その、あいつがいない事で、しばらくどうしようもなかった。  パニックになるでもなく、塞ぎこむでもなく。  ……あいつがいつ帰って来てもいいようにと、無理やり平気なフリをし続けた。    正直、あんな姿を見せられるなら、半狂乱になってくれた方がまだ癒す術があっただろう。  ……けど、それももう過去の話だ。  月日は経って、日常は少しずつ変わっていく。  桜は卒業して、まだしばらくはこの町に残ると言う。  わたしは休みを故郷で使いきって、一週間後にはロンドンに戻らなければならない。 「――――――――」    ……わたしは、何を期待してこの屋敷に戻ってきたのか。    一年前。  いや、二年前から、ここで多くの出来事があった。  わたしの記憶は一年前で止まっているが、卒業するまでの一年はこの屋敷に入り浸った。    だから、だろうか。  こうして台所に振り向けば、あいつがつまらなそうな顔で包丁を握っている気がするのは。    ……聖杯戦争に巻き込まれた未熟な魔術師。  そいつは結局、最後まで勝ち残って、それで――――           「ただいまー! いや、悪い悪い、一成から檀家のお供え物を分けてもらってたら遅くなっちまった」    それで、こんな風に今も無事だったりするワケである。  山ほどの買い物袋を手にして、士郎は居間に入ってくる。  ――――と。  当然、わたしと目が合うわけである。   「―――よう。あ、相変わらず元気そうだな、そっちは」    やば、笑いそう。  廊下で深呼吸して、普段通りにしようって努力してたのが丸わかりである。   「―――ひ、久しぶりね。相変わらず抜けてるみたいじゃない、そっちは」    って、なんでわたしまで声が裏返ってるのよぅ!?  しかも桜のヤツ、士郎とわたし込みでクスッなんて笑ってるし! 「先輩。無理して強がってると、よけい姉さんに笑われますよ。まあ、姉さんも同じように意地を張ってるからおあいこですけど」  サラっと桜は怖いコト言ってるし。 「―――別に無理なんてしてない。遠坂は家族なんだから、家にいるのは当たり前だろ。何も特別なコトなんてない」  そういう割に、あの男は大量の買い物袋を持っている。  ……まったく。  どうするのよあんな量、わたしたちだけじゃ絶対に食べきれないってのに、ばか。 「―――そうね。緊張して損しちゃった。こいつ、なーんにも変わってないし」 「はい。先輩はなーんにも変わってません」 「……………………」  お。なにやら反論したいクセに、まあどうでもいいか、と思っているいつもの顔。 「ふん、言ってろ。―――それより遠坂。今晩はメシ食っていくんだろ」 「ええ。泊まる気満々だけど」 「そっか。んじゃ休んでろ。長旅で疲れただろ。晩メシはこっちで片付けるから、桜とお茶飲んで待ってろよ。  つもる話もあるだろうしな」  台所に移動して、エプロンを装着する。  それは一年間、いや、正確には半年間いつもこの場所にあって、記憶に焼きついた光景だ。 「ありがと。お言葉に甘えるわ」 「そうしろそうしろ。  ―――ああ、それとおかえり遠坂。ちっとも心配してなかったけど、いつも通りで安心した」 「ええ、ただいま衛宮くん。そっちもいつも通りで嬉しいわ」  そうして、この屋敷の主はかいがいしくも居候の為に夕食の準備をする。    ……はてさて。  この一年でどれだけ元に戻ったのか、楽しみに待たせてもらうとしますか。 「ふうん。調子良さそうじゃない。一時はどうなるコトかと思ったけど、あれなら相手が誰であろうとバレないかな。学校の方は問題なし?」 「はい。おかげさまで一緒に卒業できました」  そっか。  ならもうわたしの出番はないんだろうな。  ……まあ元からわたしや桜の助けなんていらなかっただろうけど、一年間の休学届とか藤村先生を誤魔化す言い訳とか、そのあたりは役に立てたからいいけど。  で。  どうしてあいつが生きているかって言うと、それはもう魔法以外有り得ない。    衛宮士郎の肉体は完全に壊れていた。  アーチャーの腕による侵食、限界を超えた投影によって破壊しつくされた魔術回路。  それは聖杯と言えど復元できないレベルの“死”だったのだ。  なのにああしてピンシャンしてるのは、あそこにいる士郎は『分身』だからである。    ああいや、それも正しくはない。  とにかく士郎の体は死んだ。  死滅した肉体を蘇生する事は、あの聖杯には出来ない。  聖杯―――イリヤに出来る事は、第三魔法と呼ばれる神秘だけ。  それを以って、イリヤは士郎の魂をなんとか蘇生させた。  蘇生させて、何の傷も負っていない〈肉体〉《うつわ》を与えたのだ。    なんだそりゃー、って話だけど、そこはそれ流石は第三魔法。  霊体、意識だけを他人の脳に流し込んで支配する、なんてものじゃない。  第三魔法で具現化された魂は、ちゃんと人間としての機能を持つ〈肉体〉《うつわ》を与えれば完全に“魂のカタチ”に作り直されるのだ。  肉体の遺伝子ではなく、魂の遺伝子というか。  イリヤは士郎の魂を生かして、まだ何物でもない素体に宿す事で『衛宮士郎』を復活させた。    ……ただ、それも不完全だったというか、イリヤの第三魔法はやっぱりオリジナルには届かなかったのか。  大空洞崩壊から数日後、ライダーが見つけてきた士郎は、ちょーーーーっと元のモノとは違っていた。    ……ああいや、あれは見つけてきたというより拾ってきた、もしくは摘んできた、ってなものだったけど。    そりゃ初めは面食らったし、どんな理屈だそれって驚きましたよ。  けど考えてみれば、ああして料理をしている士郎だって魂っていう“生命”が遠隔操作をして、こっちの世界に干渉しているようなものだ。    記憶とか脳とか魔術回路とか、そういったものは実は肉体ではなく魂の方にある。  そんなワケで、器は運動機能としての端末でしかなく、命令系統はあっちの世界で無敵状態だ。    ……ま、それでも初めの半年はどうしたものかと試行錯誤を繰り返した。  水をかければ育つってもんでもないし、ホムンクルスを作れるほどの設備もないし。  で、結局、間桐にあった書物を協会に売っぱらって、名高い人形師が残していったっていう素体を手に入れて、ようやく今の状態になったワケだ。    ……なんかこう言うと語弊があるけど、士郎はわたしたちと同じ、立派な人間である。  病院にいって手術も受けられるし、風邪薬も効果があるし、殺されたら死んでしまう。  魂というのは肉体に宿すと、魂を肉体で再現するかわりに、肉体に固定されるのだ。    ようするに、今のあいつはマスターがいなくても活動できるサーヴァントみたいなもの。  唯一異なるのはこの時代に生きていること。  成長もするし、寿命を迎えれば天に召されるし、ああやっておいしい料理を作ってくれる、今まで通りの衛宮士郎というワケである。 「でも元が中古だしなあ。何人か腕のいい人形師をあたってみたんだけど、今の素体よりいい出物はなかったわ。  あの素体を作ったっていう人にお願いしようともしたけど、その人、封印指定を受けて協会から逃げ出したんだって。見つけるのは骨でしょうね」 「そうですか。けど、先輩は今のままで問題ないって言ってますよ。魔力の通りが悪いだけで、あとは前よりいいぐらいだって。  ……その、わたしもそう思います」  ふーん。  どんなにいい素体を使っても結局は魂に塗り替えられるんだから、上手くいかない個所はあれ、性能が向上するコトはないと思うんだけど――――   「―――って、ちょっと待った」    なんで、そこで照れるのよ桜。 「桜?」 「え……えっと、あの、そのですね、わたしもやりすぎかなって思うんですけど、わたしの体が、まだ、その」 「――――あ」  ……そうだった。  桜の体、まだアンリマユの後遺症があるんだったっけ。  アンリマユと契約が切れたところで、桜が聖杯である事に変わりはない。  むしろアンリマユと繋がっていた事で、あっち側との接続はまだ生きている。  その膨大な魔力は桜の体に溜まっていて、定期的に吐き出さないと桜の体が保たない。  大聖杯無き今、ライダーを留めておけるのは桜の膨大な魔力量あっての事だ。  で、それでも使い切れない魔力を、勿体無いから士郎に供給しているんだろう。  士郎の今の体は魔術回路が少ないっていうし、確かに、桜の助けがないと以前の状態に逆戻りしてしまうし。 「……はあ。色々と込み入ってるのね、貴女たち」 「はい。前途多難です」    ―――まあ、確かに普通に生きる分には問題山積みだけど、魔術師として生きるのなら物凄いアドバンテージなんだけどな、桜の体質は。 「……って。考えてみれば凄いパーティーじゃない、わたしたち」    士郎は第三魔法の成功例、ちゃんと今から修行すれば固有結界を使いこなせるようになるし。  桜は一部とは言え、聖杯としての機能を生かしている。  おまけにライダーなんていう反則付き。    で、わたしは第二魔法の真似事ぐらいならなんとか。 「―――――――――――」    はっきり言って無敵だ。  いっそのこと協会で魔術大会でも開いてほしい。  サクッと優勝するから、そうしたら賞金でもくれないかしら。ドサっと気前良く五千万ぐらい。もちろんポンドで。日本人だからって消費税とかつけないで。 「む」    やばい、ちょっとその気になった。  そうなったらやりたい放題したい放題、幸せいっぱい夢いっぱいだ。  資金にあかして宝石剣を再現して、あんな所とはさっさとおさらばして、この町に戻ってくる。    そうしたら、またこうやって―――― 「――――ま、無理か。人間地道が一番だし」    すっぱりと諦めた。  正直、それは暖かすぎると思うのだ。  わたしは今の生活を気に入ってるし、これからの変化を楽しみにしている。  それに、いつまでも遠く離れているワケでもない。  これだけトラブルの要素をもった連中が、こんな片田舎で安穏と生活できるワケがないし。 「姉さん? なんか、いま邪悪な笑みをこぼしてましたけど……」 「え、そう? 勘がいいわね桜」    さて、と座布団から立ち上がる。  のんびりやっている暇はない。  なにしろ七日しかいられないのだ。大事な夕食、一度だって無駄には出来ない。 「士郎、手伝うからコンロ貸して。英国仕込みの腕前、見せてあげる」    なにー、なんて抗議は却下。  わたしは自分でもどうかなー、と思うぐらいニヤニヤと頬を緩ませて、ちゃんと用意されているわたし用のエプロンを装着する。 「さて――――」    腕まくりをして台所へ向かう。  ……と、その前に。  この町に帰ってくる時、一番確かめたかったコトを思い出した。  あれから二年。  穏やかに成長した妹に振り返る。   「桜、幸せ?」 「――――はい」    満面の笑顔は、文句のつけようがなかった。  それだけで、帰ってきた価値がある。    そんなワケで、わたしも幸福を分けてもらって青空を見る。    いつか冬が過ぎて、春になった。  気がつけば外は一面の桜色で、寒かった日の面影はない。  わたしたちは無くなったものと得たものを秤にかけて、帳尻を合わせながらやっていく。    ――――さて。    この町で続けられた物語は終わったけれど、わたしたちの物語はこれからだ。  エンドロールは遠い遠い未来の話。  とりあえずは明日も晴れそうだし、休みは始まったばかりだし。  新しい一日、新しい未来を抱えて出かけよう。    頭の中には、のんびり歩くように坂道を下りていくイメージ一つ。            さあ。  それじゃあ今年も、約束の花を見に行こう――――    そうして、わたしは目覚めた。  気だるさはなく、意識も体も、別人のように清々しい。 「――――あれ、先輩?」    いっしょに眠っていた筈なのに、布団にあの人の姿がない。  時計を見ると、もう朝の十時だった。   「あ、朝ごはん作りにいったんだ」    そっか、と納得したフリをして起き上がる。  その軽さに、びっくりしてしまった。  ほんとうにどうしたんだろう。  手足に染み付いた鎖が外れたみたいだ。 「ぁ――――えっと、そっか」    思い出して体がぼう、と熱くなった。  昨日の夜、わたしは先輩に血を分けてもらって、一緒に眠った。  ……あの森から帰ってきて、先輩は片腕になってしまったけど、これからはきっとうまくいく。  わたしの調子はいいし、これならライダーに頑張ってもらう事も出来る。    悪いコトはもう起きない。  ここには先輩も姉さんもいる。わたしたちはきっとうまくやって、 「あ――――、っ」    ……悪い夢。  どうしてこんな、一番悪い出来事を、ユメに見てしまったんだろう。 「先輩?」    入り込んでくる風が気持ちいい。  縁側は光に包まれていて、歩いているだけで心が弾む。  体は本当に軽い。  もしかしたら眠ってる間に体重が減ってくれたのかもしれない。  ……ちょっとだけホントのコトを言うと、わたしはわりと重い方で、毎夜体重計と戦っています。  そのわりには成果はなく、先輩に、   『桜、わりと着やせするタイプだったんだ』    なんて言われたら卒倒しかねないので、軽くなってくれる分には大繁盛、じゃなくて大賛成なのでした。 「先輩――――?」    本当に、体はものすごく楽になっていて、歩くだけで世界が変わって見えています。          ――――体がこんなにも軽い。      空気がこんなにも美味しい。      鼓動が、こんなにも温かい。  それはまるで、体に染み込んでいた毒が抜けたような解放感。    お爺さまに植え付けられた蟲も、  心臓に粘りついていた黒い泥も、  脳裏に張り付いていたイヤな夢も、嘘だったみたいになくなって―――― 「ねえ、先輩?」    誰もいない。  廊下はとても静か。 「先輩……先輩……?」    誰もいない。  温かな陽射し。 「先輩―――先、輩……? あ、もしかしてかくれんぼですか……?」    誰もいない。  清涼な空気。 「は――――あれ、おかしい、な……先輩は、隠れてる、だけなのに」    そんなはずない。  誰もいないなんてない。  だって、あれは悪いユメで、             けど、最後に見たあの人の姿は。     体中壊れきって、もう、二度と会えないと、   「違う―――うそ、うそですよね、先輩?」    そう、嘘に決まっている。  もう人間でさえなくなっていたカラダ。  あんなカラダで動けるハズなんてないんだから、あの人はちゃんとここに残って、わたしが帰ってくるのを何処かで待って――――   「先輩――――先、輩――――」    でも。  居間で見かけた日付は、もう―――あれから十日以上経った、二月の終わりだった。 「あ――――、ゃ…………」    膝から落ちた。  全部、判ってしまった。  違う、目が覚めた時から判っていたのに、判らないフリをしていたんだ。   「やだ―――出てきて、出てきてください先輩……!  わた、わたしだけ、わたしだけなんてできない、先輩、先輩といっしょじゃないとダメなんです、せんぱい、せんぱい、せんぱぁいっ………!!! 」    人格が、真っ白になる。  今にも崩れそうなのに壊れるコトができず、ただ、泣く事しかできなかった。    本当にそれだけ。  わたしは弱虫で、泣き虫で、他に償う方法を知らなくて、自分が生きている事に感謝さえ出来なかった。          それが、この長かった冬の終わり。  わたしは、十一年間わたしを縛り付けていたモノから解放されて、唯一の道標をなくしたのだ。   「……はあ、すごく強情なんだな桜は。正直、甘く見てた」    無愛想に少年は言った。  呆れきった顔と重い溜息。  ……それは覚悟していたものだ。  嫌われること、迷惑がられることを前提にして、彼女は少年に接触した。    けれど、本当に小さく。  この少年に嫌われるのは辛いと思うココロがあって、同時に、     「と、その前にやり直さないと。桜に世話をかけるんだから、俺の方からお願いしなくちゃダメだ。  ―――よろしくな桜。怪我が治るまで、手伝いをしてもらうぞ」    照れ隠しに咳払いをする少年を見て、その余分なココロを、大切にしたいと願った。    春になった。   「……ふう。ようやく一段落ついたわね桜。  協会の調査も終わったし、綺礼の後釜はいい人だし、わたし達はお咎めなしだし。  これ、一応ハッピーエンドじゃない?」  やっぱり姉さんは強い。  わたし以上に元気がなかったのに、春の訪れと共に元気になって、精力的に動いている。   「ところでさ。桜、わたしの家に来ない? 間桐邸を引き払うなら、うちに来た方が何かと楽でしょ?」  姉さんの心遣いは本当に嬉しい。  遠坂の家で姉さんと暮らすのは、長年夢見てきたコトの一つだった。  わたしは一人の夜に耐えられず、今日だって、姉さんが帰ってしまったらどうなるか自信がない。    ―――けど。  だからこそ、わたしはちゃんと、一人前にならないと。   「……そっか。桜は一人でやっていくのね。じゃ、無理には誘わないわ。卒業するまではうちにいるから、休日くらいは遊びに来なさい」  待っているから、と姉さんは帰っていった。  ……ここに来る時、髪に絡まっていたのだろう。  桃色の花びらが、ふわりと空に舞っていた。   「ん? もしかして桜、料理するの初めてか?」    そんな事はなかったけど、慣れていると言える腕前でもなかった。  ここに来る前に一生懸命本を読んで勉強して、調理実習も人並みにこなしてきた。  けど、その、ホントを言えば、自分なんかが作ったものを、誰かに食べてもらうのはすごくすごく怖かった。   「そういうコトは、ないです。簡単なお料理ぐらいは出来ます」 「いや、そうじゃなくてだな……んー、まあ習うより慣れろか。  よし、基本から入ろう。はい、熱いから覚悟してな」    基本はおにぎりだった。  アツアツのごはんを囲んで、二人でぎゅっぎゅっとごはんを握った。  バカにしてると思う。  わたしだって、これにはちょっと拗ねた。  けど視線をあげると、親の仇に挑むみたいに真面目な顔があって、怒るに怒れなかった。  そうして――――   「じゃ、交換。俺のあげるから、桜のおにぎりを戴きます」    握ったばかりのわたしのおにぎりを、目の前でほおばった。  わたしなんかの手で作ってしまったものを、ぺろりと平らげて、ごちそうさまって手を合わせた。    先輩が何を言いたかったのかは分からない。  ただ次の日から、少しだけ苦手意識がなくなって、もう一度、ごちそうさまと言われたくなっていた。    春になった。   「……本当にいいの桜ちゃん? 桜ちゃんが管理人になってくれるのは助かるけど、その」  間桐の家を処分したら、ビックリするぐらいのお金が入ってきた。  このお屋敷を維持していくには充分すぎる。  藤村先生のお父さんにお願いして、土地の権利やらなにやらを譲渡してもらって、この先何があろうと、ずっとこのままにしておけるようにした。   「……そこまで思ってくれるのは嬉しいけど。  ねえ桜ちゃん。士郎はもう帰って――――」  ただ首を振った。  藤村先生は仕方なげに肩をすくめて、   「わかった。この家は、貴女に任せるわ」    お母さんのような笑顔で、衛宮邸を後にした。    少し、辛い記憶を思い出す。             「……桜。このゴタゴタが終わったら、どこか遠くに行こう。  今までどこかに遊びに行くとかなかっただろ。たまには遠出して騒ぐのもいい」    本気になれば行けないところなんてない、と本気で言っていた。  それがあんまりにも純真だったから、嬉しくて笑っていた。             「―――よし。じゃあ約束だ。桜の体が治って、このゴタゴタが終わったら、」    ああ―――その、約束は。    春になった。  随分と、人に会っていない気がする。    一人でいるのは辛い。  思い出だけが繰り返されて、パチン、と電源を切りたくなる。  人恋しくはないのが救いだけど、それならわたしは何の為に、              ―――当然だろう。奪ったからには責任を果たせ、桜―――    ……ああ、何かをしなくちゃ。  一人でいるのも誰かといるのも辛いけど、わたしは、わたしの出来るコトを。    けど償いが分からない。  今更、誰かの為に出来ることなんて思いつかない。    だから、これは自分の為に。    約束の日の為に、年に一つずつ、花を育てる事にする。    春になった。    一人にも慣れてきて、誰かといることも、少しだけ楽しくなってきた。  でも怖いのは相変わらず。  誰かと話しているだけで、世界中から『償え』と責められている気がする。            ―――けど守る。これから桜に問われる全てのコトから桜を守るよ。たとえそれが偽善でも、好きな相手を守り通す事を、ずっと理想に生きてきたんだから―――    ホント勝手だ。  言うだけ言って、守ってくれないのは一番タチが悪いと思う。  だから、簡単に許してなんてあげない。  いっぱいワガママを言って、わたしの何倍も困らせてやるんだから。    ん―――けど、やっぱり許してあげよう。  偽善だって言うけど、その言葉だけで、ココロがこんなにも穏やかになる。    無責任だけど、そう言ってくれた人を、わたしは愛して、愛されているんだから。    春になった。      春になった。          春になった。            春になった。              訪れる人はいない。    悲しくはないけれど。  ときおり、自分が正気なのか疑うほど穏やかで、こうして春を待っている。    悲しくないのは、絶対があるから。  苦しい分、きっと果たされると信じているから。  けど、一つだけ心配で、           「……遅いなあ先輩。これじゃわたし、おばあちゃんになっちゃいますよ?」    わたしはその日まで、健やかでいられますように。    春になった。    最近は、思うように体が動かない。  わたしはいつも通り、庭に出て水を撒く。   「せんせーい―――! 手伝いに来ましたよー!」    教え子がやってきた。  わたしは独学で大した腕前もないのに、教えを請いに来る生徒が出来た。  新しい遠坂の後継ぎは、姉さんによく似たいい子だった。    光を撒く。  定位置になった揺り椅子に座って、庭の風景を眺めている。   「あ。先生、寝ないで下さいね。終わったら昔の話、聞かせてもらうんですから」    それは、わたしにとっても楽しいコトだ。  思い出せるコトなんて言葉だけになったけど、言葉は口にするだけで物語になって、懐かしい日々を繰り返す。   「あ、笑った。わたし、先生の笑顔好きだな。うちの強欲ばーさんと違って、すごい美人なんだもの」    陽射しは暖かく、時間は緩やかに、時に責め苦のように過ぎていく。    約束の日を迎える為に、永く種を蒔き続ける。    〈贖〉《あがな》いの花。  私の罪が赦されるまで、ここで春を待ちましょう。                  そうして、また春になった。      年月は瞬きほど。  目蓋を閉じて、開く。  丘には一面の櫻の花。    懐かしい坂道からは、あの頃の姿のまま、少年が手を振って――― 「だからね。人間ってのは、本当のコトを言われると怒ると思うのよ」    なにやら思案げな風で、人の弁当をつつく遠坂。  遠坂は今日も手ぶらで屋上に来ていた。  つまり昼飯の用意などしていなかったのだ。  となると、唯一の食料である俺の弁当が狙われるのも、これまた必然と言えた。 「いいから食べろ。……ったく、弁当持ってないクセにさ、どうして箸だけは完備してんだよ。おまえ、箸いつも持ち歩いてんのか?」 「? これは教室出る時にもってきただけよ? 衛宮くん、この前もお昼ご飯持ってたから、今日も分けてもらえばいいかなって。で、もしお弁当だった時を考えて、事前に箸を用意したんだけど?」 「……あのさ。その用意周到さは、どこか論点がズレてると思うんだが」  というか、そこまで判っているなら箸の前に〈食料〉《モノ》を持ってこい、モノを。 「こまかいコトは気にしない気にしない。衛宮くんだって二人分のお弁当を持ってきてたんだから、結果オーライじゃない」 「………………」  いや、別に二人分の弁当ってワケじゃないんだぞ、これ。  単に桜が用意したおかずの量が多すぎただけだ。 「……まあいいか。俺一人じゃ食いきれなかったのも確かだしな。あ、遠坂。さっきから野菜ばっかり食うなよな。肉も食え、肉も。俺ばっかり肉食ってたら胃にもたれるだろ」 「えー? そのから揚げ、味付け甘いから苦手なのよ。  だいたい女の子にお肉なんか勧めないでよね。ちゃんと自分で分量計ってるんだから、食べないってコトはストップサインなの」 「うそつけ。おまえ、焼肉で遠慮しないタイプだろ。もうそう。ぜぇ~~~ったいそう。俺がちまちま塩辛つまんでる時に、わんこ蕎麦を食すが如きに霜降りカルビを食べるんだ。  その量、その勢いたるや俺の財布の中身などお構いなしで、むしろ破産させる気に違いない。そうして、ひとしきり満足した後にはこう言うんだ。ふ、今回は手加減してあげたわ」  ふん、とさっきの仕返し、負け惜しみのつもりで軽口を叩く。 「……言うじゃない衛宮くん。あながち否定できないところが恐ろしいわ」 「―――――――――」  ……いや。  恐ろしいのはおまえだ、遠坂。 「けどおかしなお弁当よね。量はすっごく多いのに、盛り付けとかラッピングとか女の子っぽいじゃない? 衛宮くん、もしかして料理好き?」  なんたる偶然。  そんなようなコトを、朝方も言われた気がする。 「……まあ嫌いじゃないけど、今日の弁当は俺じゃなくて桜が作ってくれたもんだ。  あ、桜っていうのは――――」 「……遠坂? どうした、砂糖の固まりでも噛んだか?」 「……あっちゃー……やっちゃったか」  遠坂は溜息をついて、自分の箸を片付けてしまった。 「ごちそうさま。あとは衛宮くん一人で食べて」  気まずそうに弁当から離れる遠坂。 「?」  まあ、お腹いっぱいならいいけど。  こっちも遠坂と肩をつきあわせて食事をとる、という事に緊張していたから、これでゆっくり食べられるってもんだ。  屋上から教室に戻る。  五時限目まであと数分、廊下は自分の教室に戻る生徒たちで混雑していた。  反面、階段は静かなものだ。  昼休み、違う学年に赴く生徒は少ないので、階段にはちらほらとしか人影はない。  そこで、    ばったり、桜と顔を合わせた。  桜は俺たちを見るなり、気まずそうに視線を逸らす。 「……?」  ……どうしたんだろう。  朝はあんなに元気だったのに、今の桜はまるっきり元気がない。 「桜――――」  声をかける。  と、そんな俺より早く、 「ごめん桜。間が悪かったわ」  一歩前に出て、遠坂はそんなコトを口にした。 「え……い、いえ、間が悪いなんてコト、ないです。先輩と遠坂先輩が一緒にいても、わたしは別に――――」 「だから違うんだって。ちょっとね、用があってわたしから衛宮くんを呼びつけたの。ついでに言うと、衛宮くんも貴方との約束をすっぽかしたワケじゃないわ。こいつ、単にわかってなかっただけだから」 「……むむむ? なんだよそれ。桜との約束って、別に何かあったわけじゃ――――」 「馬鹿。お弁当を作ったってコトは、アンタと一緒に食べたいってコトじゃない。桜が怒るのも当たり前よ」 「――――え?」  ちょ、ちょっと待った。  一緒にお昼を食べようだなんて、そんな約束は―――         「……あ、あの、先輩? それなら弓道場で昼食をとるのはどうでしょう?  お昼なら道場も空いてますし、お茶も淹れられますし、その、誰もいないから静かだし――――」  そうして。  見れば、桜はまだ封を開けていない弁当箱を持っていた。 「――――――――」  ……そう、だ。  なにを聞いてたんだ俺はっ! これじゃ遠坂に馬鹿だのコイツ呼ばわりされるのも当たり前じゃないか……! 「ご、ごめん桜っ! 俺、間抜けにも程がある……!」 「い、いえ、いいんです先輩っ。だってほら、ちゃんと約束したわけじゃないし、わたしもそうなったらいいなって思っただけで――――」 「よくないっ! 行くぞ桜、今からでも間に合うっ!  道場でてっとり早く済ませれば――――」  桜の手を取って走り出す。  が。 「間に合うわけないでしょ。あと三分で何が出来るって言うのよ」 「っ――――」  遠坂の冷静なつっこみに止められてしまった。  ……桜との約束を破った申し訳なさで動転していたが、そりゃあ、遠坂の指摘は100パーセント正しい。 「いいんです先輩。遠坂先輩の言うとおり、教室に戻らないとダメですよ」 「う……けど、桜」 「いいえ、気にしないでください。わたし、いまので十分嬉しかったです。ありがとうございました」 「――――――――」  そんな顔でそんなコトを言われたら、返す言葉が見当たらない。 「それじゃ失礼しますね。先輩たちも早く戻らないと遅刻しちゃいますよ」  弁当箱を手にして、桜は階段を上がっていった。 「じゃ、わたしも行くけど。  学校が終わったら、すぐに商店街にある中華飯店に行っておいて。そこで待ってるから」  と。  そんな謎の言い付けを残して、遠坂も教室に戻っていった。  五時限目の授業が終わり、教室は見る間に人影が減っていく。  時刻はまだ二時前。 「……ふう。気は進まないけど、遠坂に言われたしな」    校舎に残ってもやる事はないし、当たって砕けろの精神で商店街に向かうとしよう。  坂道を登る。  朝練がない為か、通学する生徒の数がいつもより多い。 「時間はまだまだ大丈夫ですね。こんなゆっくりした朝は久しぶりです」  隣りには桜が嬉しそうに歩いている。  なんでか不明なのだが、桜はずっと機嫌がいい。 「俺はいつも通りなんだけど……まあ、桜と一緒に登校するのは珍しいか」 「はい。弓道部の朝練は休みなしですから」 「そうだけど、朝練は自由参加だろ。たいていのヤツは二日に一遍ぐらいの割合なんだから、桜だって休めばいいのに」 「え? あ、あの、それじゃ先輩、わたしが休んだら一緒に学校に行ってくれますか?」 「? そんなの当たり前だろ。同じ所に行くんだから、桜が嫌がっても一緒になる」 「あ、そ、それじゃ―――  って、やっぱり無理でした。わたし下手だから、一日でも休むと腕が下がっちゃいます」  駄目ですね、なんて自分自身に舌を出す桜。 「? そんなもんかな。あんまり比べるのも〈悪〉《あし》だけど、桜の腕は一年じゃダントツだぞ。形も成ってるから、一日二日間を置いても問題ない筈なんだが」 「いいえ、わたしはまだ未熟です。今だって気を緩めると邪念が入るし、的が見えないなんてしょっちゅうだし。  根が怠け者だから、毎日ピッシリやってないとズルズルダメになっちゃう性質なんです」  ……ふむ。  まあ、本人がそう言うんなら口を出す問題でもないか。  桜と別れる。  〈二年〉《こっち》は三階、一年である桜の教室は四階である。 「それじゃ先輩、また後で」 「ああ。授業中、居眠りしたりするなよ。人間腹いっぱいだと眠くなるからな」 「あはは、それなら心配無用です。もうとっくにお腹八分目になってますから」  階段を上っていく桜。  それに軽く手を振って、自分の教室に向かっていった。  昼休みになった。  ―――慎二は欠席、一成も同じく欠席だった。  ……一成は柳洞寺の事件の後、病院で療養しているらしい。  見れば欠席者は二人だけではなく、他にも何人かの病欠者がいた。 「――――――――」  ……が、欠席者はこれ以上増える事はない。  街の人間から生気を奪っていたサーヴァント、キャスターは消えた。  町を騒がしていた原因不明の昏睡事件はもう起きないのだ。 「―――そうだな。キャスターの被害にあった人たちも、すぐに元気になって戻ってくる」  さて、と気を取り直す。  残るマスターはあと四人。  遠坂とイリヤはいいとして、未だ姿を現さない残る二人がどんなマスターなのか判らない以上、安心するのは早すぎる。   「「あ」」    声がハモる。  廊下に出た途端、不意打ちぎみに遠坂と顔を合わせてしまった。 「ちょっと。あって何よ、あって。人の顔を見るなり失礼なんじゃない? それとも何か、わたしに後ろめたいコトでもあるのかしらね、衛宮くんは」 「あのな、驚いたのはそっちもだろ。今の台詞はそっくりそのまま返してやる。  ……それに昨日の電話、いったい何なんだよ。来るなって言ったり来いって言ったり、随分勝手じゃないか遠坂」 「む……き、昨日のは特例よ。柳洞寺のマスターが消えた後、貴方が学校休んでれば何かあったって思うでしょ。  ……その、柳洞寺の件を教えたのはわたしなんだから、衛宮くんに何かあったら困るじゃない」 「――――――――」  ……驚いた。  遠坂のヤツ、もしかしてあんなコトぐらいで責任を感じてたってのか? 「そっか。サンキュ遠坂。心配してくれてたんだな」 「そ、そんなコトないわよっ! わたしはただ、情報提供者として事の顛末が知りたいだけなんだから!」 「うん? それなら昨日電話で言っただろ。キャスターとそのマスターは倒した。柳洞寺にはもう何もないぞ」  あれ?  なんだ、遠坂のヤツいきなりまじめな顔になりやがったぞ? 「なんだよ遠坂。俺、なんかおかしなコト言ったか?」 「―――ええ。衛宮くんを信じてない訳じゃないけど、もう一度だけ確認するわ。貴方、本当にキャスターを倒したの?」 「……む。いくら俺でも勝敗ぐらい判る。  セイバーは完全にキャスターを消滅させた。……キャスターのマスターだって、もう――――」    俺たちが駆けつけた頃には、死んでいたんだ。 「……わかったわ。なら、その事で話があるの。ちょっと屋上まで付き合って」  この商店街に中華飯店は一つしかない。  〈紅洲宴歳館〉《こうしゅうえんさいかん》、〈泰山〉《たいざん》。  昼なお締め切った窓ガラスは客の出入りを不明にし、一見さんはことごとく逃げ帰るという商店街の魔窟だ。  町内会からはちびっこ店長と親しまれる謎の中国人・〈魃〉《ばつ》さんの振るう十字鍋は、ありとあらゆる食材を唐辛子まみれにする。  つまり辛い。  すごく辛い。  舌を〈楊枝〉《ようじ》で千本刺しにされて塩ぶっかけられたぐらい辛い。  俺が中華料理に苦手意識を持つのも、偏にこの店の味付けが地獄的だったからである。  あと、店長がこれ見よがしにアルアルを語尾につけるのもいただけない。 「………………」  で、今からその魔窟に突入するワケだ。  店長に目をつけられたら高速でメニューが差し出される。  そうなったら終わりだ。  せめて注文を甘酢あんかけ系にして難を逃れなくてはならない。  チンジャオとかホイコーローとか頼んだ日には目も当てられないし、麻婆豆腐なんてもってのほかだ。アレはやばい。舌が溶ける。地獄じゃ閻魔が舌抜くっていうが、きっとその類の地獄料理だ。店の名前も泰山だし、修行して帰ってきたっていう店長は獄卒に違いない。 「――――ふう」  時計を見ると、じき二時半になろうとしている。  学校が終わったらすぐに来い、との事だったので、これ以上躊躇している余裕はない。 「――――よし、行くぞっ!」  なんでたかだか飯屋に入るだけでこんな気合をいれなくちゃいけないのかって思うのだが、ともかくここはそういう店だ。  なんのつもりか知らないが、遠坂だってここを待ち合わせ場所に選んだ事を、今ライブで後悔している事だろう――――  ――――て。   「む? 来たか衛宮。時間があったのでな、先に食事を進めていた」    なんか、神父がマーボー食ってる。 「――――――――」  言葉がない。  なんでこの場所に言峰がいるのか。  なんであんな煮立った釜みたいな麻婆豆腐を食っているのか。  それもすごい勢いで。  額に汗を滲ませて、水などいらぬ、一度手を止めれば二度とさじが動かぬわ、という修羅の如き気迫。  というか意地になってないかあいつ、食べるスピードが尋常じゃないぞ。  もしかして美味いのか。あのラー油と唐辛子を百年間ぐらい煮込んだ地獄の釜にも匹敵しそうな料理が美味いというのか。  だとしたらまずい、言峰もまずいがこの店もまずい。  アレ、絶対やばげな量の〈芥子〉《スパイス》が入ってる。そうでなくちゃ説明できない。 「どうした、立っていては話にならんだろう。座ったらどうだ」  食べながら神父は言う。 「………………」  用心しながら……いや、もう何に用心しているのか自分でもわからないが……ともかく用心しながら対面に座る。 「――――――――」  じっと神父の動きを観察する。  ……凄い。マーボー、残るは二口分のみだ。  こいつ、ホントにアレを完食する気か……と、喉を鳴らした時、不意に言峰の手が止まった。 「――――――――」 「――――――――」  視線が合う。  言峰はいつもの重苦しい目で俺を眺めて、   「食うか――――?」 「食うか――――!」    全力で返答する。  神父はわずかに眉を寄せて、さっくりと麻婆豆腐を片付けてしまった。  ……って。  もしかして言峰のヤツ、俺の返答にがっかりしたんだろうか?  ……俺を待っていた人物は、間違いなく言峰神父だった。  遠坂は言峰に頼まれて、俺をここに呼ぶように言われていたらしい。 「……で、一体何の用だよ。アンタが自分から出向くなんて珍しいんじゃないのか」 「なに、おまえがすでに二体のサーヴァントを倒したと聞いてな。大したものだと〈労〉《ねぎら》いにきたのだ」  ……よく言う。  仮にホントだとしたら、次は違う店に呼んでくれってんだ。 「そうかよ。悪いが、そういうのは気持ちだけで結構だ。  別にアンタのために戦ってるわけじゃない。誉められる謂れはない」 「ふむ、つまらぬ世辞は余計だったか。  ―――では、望み通り本題に入るとしよう。凛からキャスターが生きている、という話は聞いたな?」 「……ああ。キャスターはまだ現界していて、町の人間から魔力を集めてるっていうんだろう」 「そうだ。その件と関係があるかは判らんが、おまえがキャスターを倒した夜、柳洞寺にはもう一体サーヴァントがいてな。  風貌、戦闘スタイルからいってアサシンだと思われるが、断言はできない」 「アサシン……キャスターの他にもアサシンが柳洞寺にいたっていうのか? でもセイバーは、」 「感知できなかったのだろう? アサシンはそう強力な英霊ではないが、特性として気配の遮断がある。隠密はアサシンの得意分野だからな。いかなセイバーとて、アサシンが完全に引きこもってしまえば見つけようがないだろう」 「…………」  じゃあキャスターを倒したあの夜、柳洞寺にはアサシンがいたって事か。  キャスターを倒して安堵していた俺たちのすぐ近くで、息を潜めて俺たちを倒す機会を窺っていたと――――? 「……それは分かった。けど、なんだって俺にそんな事を教えるんだ。一人のマスターに肩入れはしないんじゃないのか、〈監督役〉《アンタ》は」 「なに、これは情報交換にすぎん。私の知る事はそれだけだ。その代価として、ここ数日おまえが体験した出来事を教えろ。……今回の聖杯戦争はどうも気配が違う。  前回とは違うモノが動いている気がしてならんのだ」 「――――――――」 「教えたくないのならそれでも構わん。今のは忠告として聞いた、と思えばいい」 「……そんな事するか。教えてもらったからには代償ぐらい払う。一方的に話された事だけど、必要な事だったからな」 「―――ふ。相変わらず義理堅い事だな、衛宮士郎」    神父は愉快げに口元を吊り上げる。  ……ふん。こっちの出方なんてお見通しって顔だ。  けど、こっちだって簡単には思い通りになるもんか。 「話はする。けどその前に訊いておくぞ。  言峰、アンタなんでそんな事を知ってるんだ。  柳洞寺にアサシンがいるなんて、サーヴァントでもいない限り判らない事だろう」  いや、サーヴァントがいても判らない筈だ。  現にセイバーも、アーチャーを有する遠坂も、柳洞寺の事は知らなかったんだから。 「なに、単純な話だ。私のランサーが柳洞寺でアサシンに敗れた。ヤツが消滅する寸前の映像を、マスターである私が回収したにすぎん」  と。  実にあっけなく、おかしなコトを神父は言った。 「――――え?」 「私もマスターだ、と言った。おまえも口にしたではないか。サーヴァントでもいない限り判らない、と。  いや、実にその通りだったな」 「え――――え――――!?」 「だがそれも昨日までの話だ。ランサーは消滅し、私は今回の聖杯戦争におけるマスターではなくなった。おまえたちの敵ではなくなったという事だ。  さて、話はそれだけか? ではおまえの番だ。ここ数日、何と出会い何を見た」  たった一息で、場の空気が重くなる。  ……こっちの質問など許さない。  ただ明確な回答だけを、言峰神父は求めている。 「………………」  ……言いたい事は山ほどあるが、今は答えるのが先だ。  俺は四日前―――セイバーと契約し、この神父と出会った後に起きた出来事を、できるだけ詳細に説明した。    ……話は三十分ほどで終わった。  マスターとして行った事なんてそう多くはない。  言峰にとってはあまり意味のない情報。  その中で、間桐臓硯という老人にのみ、神父は強い関心を持った。 「間桐臓硯―――とうに老衰したかと思っていたが、いまだに現役とはな。人の血を〈啜〉《すす》る妖怪というのは本当だったか」 「え……あの爺さんが、人の血を啜る妖怪……?」 「そうだ。間桐の魔術は吸収でな。六代前の魔術師であった間桐臓硯は、際立った虫使いだったと聞く」  ……?  虫を使うって、使い魔が虫……ってコトじゃないよな、やっぱり。  となると、他に虫を使う魔術って言ったら―――― 「待ってくれ。虫使いって……その、虫を媒体にして毒を使うヤツの事か? 何百匹もの毒虫を壺にいれて、最後まで生き残った虫で〈式〉《のろい》を撃つっていう……?」 「いや、〈蠱毒〉《こどく》の類ではない。もとより呪詛はマキリの専門外だ。  彼らが行う魔術は、必ず自らの肉体に成果が返るもの。  呪いなど行っては相手と共倒れになるだろう」 「……じゃあ、読んで字の如く、虫を使い魔にしてるってコトか?」 「ああ。間桐臓硯は他人の血を吸うだけの妖怪だ。  人の血を吸う事で若さを保ち、肉体を変貌させ、数百年を生き抜いたというが―――さて。  凛の父親の話では既に死に体、白日の下には出られないという事だったが」 「……日の下に出られない? ……そういえば、会った時はどっちも夜だったけど――――」  人の血を吸って、寿命を延ばす。  そしてその肉体は日の下に出られない、なんて、それじゃあまるで―――― 「……言峰。間桐臓硯は吸血鬼なのか?」 「ふん。アレは吸血鬼というよりは吸血虫だよ。性質も性格も、陰湿な〈蛞蝓〉《なめくじ》だ」  一言で切って捨てる。  言峰はあの老人を本気で嫌っているらしい。 「……数百年も生きてるって言ったな。じゃああの爺さんもマスターだった事があるのか?」 「いや、間桐臓硯がマスターだった事はない。ヤツは間桐家の相談役のようなものだが―――なにぶん数百年と生きた妖怪だ。なにか、私たちが知らない方法でマスターになる、という策を凝らしたのかもしれん」 「……じゃあ、マスターのいなくなったキャスターと契約してるのは、もしかして」 「さあな。だが気を許していい相手ではない。  ヤツが表舞台に出てきた以上、確かな勝算があっての事だろう。今回の間桐のマスターは、マキリにおける最悪の魔術翁の受護を受けているという事だ」 「――――――――」  慎二はまだ諦めていない、と言った。  その慎二には間桐臓硯の後ろ盾がある。  慎二は令呪を失ったが、あの老人なら新しいサーヴァントを慎二に与える事ができるのかもしれない―――― 「参考になった。マキリのご老人が動いているのならば、この異常事態も頷ける。監督役として被害の拡大に備えるとしよう」  ふむ、と自分一人で納得して、言峰は肩の力を抜く。 「監督役、ね。昨日まで俺たちに隠れてマスターだった男が何を」 「そう言うな。もとより私に望みなどない。ランサーを得たのも、より良い“願望者”に聖杯を与えたかっただけだ。  それもここまでだがな。後はマスター同士で決める事だ。  まあ、私的な意見を言わせて貰えば、おまえか凛、そのどちらかに聖杯が与えられればいい、と思っている」 「――――――――」  ……思わず顔をしかめた。  今の言葉、神父は本気で言っていた。  自分は聖杯などいらない。  おまえか凛、どちらかが必ず手に入れろ―――そう、はっきり言ったのだ。 「……なんでだよ。アンタだってマスターになったからには聖杯が欲しかったんだろ。叶えるべき願いってのがあったんじゃないのか」 「そうだな。望みはないが目的はあった。だがそれは聖杯で叶えるべき事ではない。私の目的はそれほど真剣なものではないし、私本人が叶えても意味のないものだ」 「……?」  自分で叶えても、意味のない目的……? 「なんだよそれ。謎かけなら他所でやってくれ」 「老婆心のつもりなのだがな。私とおまえは同じだ。明確な望みがない者同士、救いなど求めてはいない。  故に―――少しでも早く気がつけば、楽になれると思ったのだが」 「え――――?」  どくん、と心臓を鷲づかみにされる感覚。  神父の言葉は、何故か、呪いのように胸中に〈蟠〉《わだか》まった。 「言峰、おまえ――――」  揺らぎそうな両目を懸命に絞って、神父を睨む。  そうして――――              「アイ、マーボードーフおまたせアルー!」  ―――ごとんごととん、と第二第三の麻婆豆腐がテーブルに置かれていた。 「――――――――ふむ」  かしゃん、と新たにレンゲを手にとる言峰。  間違いない。  あいつ、初めから御代わりを頼んでいたのだ。 「――――――――」 「――――――――」  ……視線が合う。  言峰はやはり重苦しい目で俺を眺めて、   「――――食うのか?」 「――――食べない」    真顔で、力の限り返答した。  宴歳館・泰山を後にする。    ……言峰はもう話をする気はなく、もくもくとマーボーを食い始めたからだ。  神父は胸焼けを押さえつつ外に出る俺に、   「―――衛宮。私は戦いから降りた身だが、おまえと凛は未だマスターだ。臓硯は陰湿だぞ。せいぜい気をつける事だ」    なんて、ホントに他人事のように忠告しやがった。 「………………」  中華飯店から出た時、時計は午後四時をさそうとしていた。  商店街に用事もなく、あとは家に帰るだけなのだが……。 「間桐臓硯……慎二と桜の祖父、か……」  何かイヤな予感がする。  このまままっすぐ家に帰る気になれず、日が暮れるまで、しなくてもいい回り道をした。  愛が足りないぜ! はーいみんな、久しぶりねー、元気してたー?  タイガー道場、第三部が始まるよー! さて。今回のデッドエンドは、ずばり愛情の欠如!  あるヒロインの好感度が一定値に達していないと、ここで強制的にデッドエンドになる仕組みよ。 このエンドを迎えた君は、ちょっと優しさが足りないぞっ。 仮に、例えばの話だけど、風邪で寝込んじゃった女の子をほっぽっといて夜中に出歩くのはどうかと思うわ。 そのあたりを踏まえて、六日目あたりからやり直してみるといいかも。  それじゃ、次のタイガー道場で待ってるよ~♪「………………」  中華飯店から出た時、時計は午後四時になろうとしていた。  商店街に用事もなく、あとは家に帰るだけだ。                                    「――――、――――」  ……それにしても、言峰の話は無視できるものじゃなかった。  まだ生きているキャスター。  依然として続いている、町の人々の昏睡事件。  それに――――                               「っ! ――――、――――!」  自分がマスターだと告げた言峰に対して、そうショックを受けなかった事が意外だった。  ……思えば、初めからあの男とは馬が合わなかった。  心の何処か―――いや、もっと元始的なところで、あの男とは相容れないと直感していたからかもしれない。                                「、ら――――!」  ……ともあれ、油断ならなかった言峰はサーヴァントを失った。  残るマスターは三人。  柳洞寺に潜むというアサシンのマスターと、アーチャーのマスターである遠坂。  それと、           「こらーーーーー!  なにボウっとしてるのよシロウーーーーっ!!!!!」 「うわあっっっっっっ!?」  ば、バーサーカーのマスターである、目の前の少女だけなんだけど――――!? 「イ、イリヤ……!? なな、なんだよいきなり飛びかかってきて、びっくりするだろっ……!?」 「なによ、いきなりじゃないもん! さっきからずーっと呼んでるのに、シロウが気付かなかっただけじゃないっ」 「え……?」  ……あ。  そういえば、さっきから耳鳴りらしきものがしてたけど、まさか。 「……うわ。その、もしかして商店街からずっとか?」 「そうだよ。シロウ、難しい顔して歩いてるんだもん。  邪魔しないように後ろから呼びかけたのに、無視してドンドン進んでいっちゃうんだから」 「あ、いや、それは考え事をしてたからであって、イリヤを無視したわけじゃ……」 「それに公園にだって来なかったわ。わたし、ずっと待ってたのに」  あ……そ、そうだった。  午後になったらあの公園で待ち合わせるのは、もう暗黙の了解になっていた筈だ。  いくら言峰と話があったからって、そんな事を忘れるなんて――――! 「……すまん、忘れてた。ごめんイリヤ」 「ふーんだ。そう簡単に許してあげないんだから。わたしホントに怒ってるんだからね」  むー、と睨んでくるイリヤ。  ……うう、どうしたものか。  約束をすっぽかして待ちぼうけさせてたんだ、イリヤが怒るのも当然だろう。  ここは精一杯の誠意を見せて許してもらうしかないのだが、となると――――    ……そうだな。  随分と待たせて寒い思いをさせてしまったなら、今からでも温かくなってもらう、というのはどうか。 「イリヤ、提案がある」 「なによ。カンタンな言葉じゃきかないわよ」 「ああ。だから言葉じゃなくて態度で謝罪する。  イリヤ、今からうちに来ないか? それなら温かいお茶とお菓子をご馳走できるんだけど」 「えっ―――う、うちってシロウの家!?」 「他にないだろ。今なら誰もいな―――いや、セイバーはいるけど絶対にイリヤを襲わせない。  公園じゃなくてさ、たまにはゆっくりお茶飲むのもいいんじゃないか?」 「ん……たしかにちょっといいかもしれない、けど……シロウの家にお邪魔していいのかな、わたし」 「いいも悪いもない。それにほら、この前はイリヤの城を見せてもらったし。今度はこっちの番だって言っただろ」 「…………うん。そうだね、そう言った」  ぽつり、と自分に言い聞かせるように呟く。  そうしてイリヤは、   「わたし、シロウの家にいっていいのかな。わたしはシロウとキリツグを殺しに来たのよ。そのわたしが、シロウの家にあがっていいの?」    感情のない声で、そんな言葉を口にした。 「――――――――」  その言葉にどれだけの意味が込められていたのか、俺には判らない。  〈切嗣〉《オヤジ》を殺しに来たというアインツベルンの少女。  彼女が切嗣を狙う理由、彼女が俺を殺そうとする理由。  ……そんなもの、本当はとっくに気がついている。    アインツベルンを裏切った男。    全てを捨ててこの町で暮らし始めた切嗣。    ―――それが、どんな犠牲の上になりたっていたか、俺はマスターになるまで知らなかった。  イリヤは切嗣を許さないだろうし、俺を殺すという言葉も本当だろう。  けどそんな事とは無関係に―――いや、その理由があるからこそ、俺はこの子を、衛宮の家に招くべきだと思うのだ―――― 「―――ああ。今はマスターも何も関係ない。俺はイリヤに遊びに来てほしいだけだ」  まっすぐにイリヤを見て返答する。 「――――――――」  イリヤは呼吸を止めて、呆然と俺を見つめたあと。   「――――うん! ありがとう、お兄ちゃん!」    弾けるような笑顔で、俺の腕に抱きついてきた。 「―――よし。ちょっとだけ待っててくれイリヤ。セイバーに話をつけてくる」  むん、と袖まくりをして玄関を睨む。 「いってらっしゃいシロウ! がんばってねー!」  ぶんぶんと手を振って応援してくれるイリヤ。  よしっ。  あの声援に応える為にも、なんとしてもセイバーを説き伏せなければ。   「お断りします」    って、開始一秒で全力否定されてしまいました。 「っ―――いや、気持ちはわかる。セイバーの言いたい事はちゃんとわかってる。  マスターを、しかもバーサーカーのマスターを自分の陣地にあげるなんて自殺行為だって言うんだろ。わかってる。そのあたりはちゃんとわかってるんだ。けど、それとは別で――――」 「いいえ、シロウはわかっていませんっ! 相手はあのイリヤスフィールですよ!? 彼女ほどのマスターならこの屋敷の欠点など幾らでも看破できますし、結界を壊す事さえ容易でしょう! にも関わらずシロウ自ら招き入れる!? 獅子身中の虫どころの話ではない、貴方は自ら毒薬を飲もうとしているのですっ!」 「っ……い、いや、イリヤは何もしないって約束したんだ。それにバーサーカーだって連れてないし、日が落ちるまでは戦わないって。今のイリヤはただの女の子なんだから、そこまで目くじらたてる事はないと、思う」 「性別など関係ありませんっ。だいたい、シロウは私に隠れてイリヤスフィールと何をしていたのですか! 貴方は彼女に殺されかかったのですよ? だというのに気にかけるなど、人がいいというよりバカですか貴方は!」 「ぅ……けど、話してみるとイリヤだっていいヤツだぞ?  あの子は善悪をまだ知らないだけで、ちゃんと良い事と悪い事を教えてあげれば、だな」 「甘い! アインツベルンのマスターの言葉を信じるというのですかシロウは! 彼の一族は聖杯を手に入れる為だけに存在する者、約束など何事もなかったかのように破り捨てるに決まっています!」 「っ……! そ、そんな事ないっ! 今のは言い過ぎだぞセイバー、イリヤはイリヤだ、アインツベルンがどんなヤツラかは知らないが、一緒にして考えるな!」 「…………。確かにその通りでした。シロウの発言は正しい」 「―――! セイバー、それじゃあ」 「まあ、あんな小声で主張されても説得力はありませんでしたが」 「あ、う」  ……それはだな、それぐらいセイバーが怒っていたと思ってほしいのだが駄目だろうか。 「……いいです、わかりました。今のままでは令呪を使われかねませんから。シロウが信じたイリヤスフィールを、私も信じるとしましょう」 「セイバー」 「ですが私は会いませんからね。イリヤスフィールと対峙して私が冷静でいられるとは限りませんし、イリヤスフィールとて私を前にしては身構えるでしょう」 「あ……ああ、そうだな。けど、それじゃあセイバーはどうするんだ?」 「以前使っていた客間で待機しています。万が一の時は駆けつけますから、心配なさらずに」 「……うん。すまないセイバー。でもこれは、その」 「わかっています。貴方に切嗣と聖杯戦争の関係を話したのは私だ。ならば、こうなる事も覚悟しておくべきだったのです」  小さく溜息をこぼしてセイバーは客間に移動していく。 「――――――――」  ……そうか。  セイバーは前回、〈切嗣〉《オヤジ》のサーヴァントだった。  なら―――彼女だって、切嗣とイリヤの関係に気付いていてもおかしくはなかったんだ。 「おじゃましまーす。って、ここがシロウのお家なんだ」  元気のいい挨拶のわりに、イリヤは恐る恐る玄関にあがる。 「じゃ、まずお茶にしよう。居間に案内するからついてきてくれ」 「はーい。あ、板張りの廊下だね。聞いてたとおりニッポンの建物だ」  きょろきょろと周りを見渡しながら歩くイリヤ。 「…………」  まあ、あんなお城に住んでいるイリヤから見れば、和風建築は珍しいんだろう。 「はいお茶。紅茶にしようと思ったんだが、それじゃ芸がないしイリヤのお城のものには敵わないから日本茶にしといた。あ、苦かったら薄めるんで言ってくれ」  コト、と湯のみを差し出す。  とっておきの緑茶を使ったので、味的には文句はあるまい。あるとすれば苦い甘いのお茶としての問題だけだ。 「ん、ありがとシロウ。いただきます」  きちんと正座して、カチコチに緊張しながらお茶を飲む。 「ぅ……」  ピタリ、とイリヤの動きが止まる。  ……だよなあ。気を利かせたんだけど、やっぱりミルクティーとかのが良かったか。 「ごめん、苦かっただろ。淹れ直すから無理しなくていいぞ」 「えっ―――う、ううん、そんなコトないよ。えっと、けっこうなお手前でした」  どこでそんな言葉を覚えたのか、ペコリとおじぎをするイリヤ。  で、あとはちびちびと緑茶を飲み始めた。 「…………」  ……まあ、本人がそうしたいんなら止めるのもなんだし。  一緒に出した和菓子は、  微妙に好評のようだし、こっちもいつも通り付き合おう。  お茶の時間が終わると、イリヤは屋敷の探索をしたがった。 「いいけど、別に面白いコトなんてないぞ?」 「いいの、ただ見たいだけなんだから。魔術的な価値がないのは入った時に判ったし、シロウは案内してくれるだけでいいよ」  とのこと。  そんなワケで、イリヤを連れて屋敷内を歩き回る事になったのだが。 「ふーん、思ったより狭いんだね。回廊のくせにかたっぽはガラスだし、これじゃ襲われた時に困るよ?」  とか。 「えっ、これがシロウの部屋!? うそよ、こんなトコに人なんて住めないんだからっ」  とか。 「ここが庭? ニッポンの魔術師はタイヘンね。こんなネコの額ぐらいの〈庭園〉《ガーデン》じゃ何も育てられないじゃない」  とか。 「知ってる、ここドージョーって言うんでしょ?  お爺さまが言ってたもの、連中は裸足で斬りあう野蛮人だって」  とか。 「いやっ! 物置の中なんて見たくないっ。そーゆーところは使用人に任せておけばいいんだから!」  とか。  ……とにかくまあ、色々と文句をつけてくれるワケだ。  そのくせ本人は楽しいらしく、 「ね、次は!? まだあっちの方行ってないよ、早く行こシロウ!」  なんて急かしてくるし。 「……はいはい。じゃあ次は裏側な。ここ数年使ってないから汚れてるけど、気にしないでくれ」  やったー、とばかりに廊下を駆けていくイリヤ。 「――――ふう」  けどまあ。  何が嬉しいのか分からないが、喜んでくれる分にはこっちも案内する甲斐があるってもんだ。    ―――が。  イリヤははしゃぎ疲れたのか、途中から元気をなくし、部屋を見て回るだけになった。  無言で屋敷を見て回るイリヤ。  そんなイリヤに一通り屋敷を案内し、居間に戻ってきた。 「これで終わり。離れもあるんだけど、そっちは勘弁な。  今はセイバーが寝てるから」  元気のない背中に声をかける。 「そっか。これで全部なんだ」 「……イリヤ? どうした、疲れたのか?」 「うん、ちょっと疲れちゃった。だって誰もいないんだもん」  振り返る姿は、年相応の少女のものだ。  ……イリヤはイリヤのまま、マスターなんていう強い存在としてではなく、   「わたし、フクシュウに来たのに。その相手がもういないのって、悲しいね」    そう独白して、静かに、涙を流していた。 「あれ? おかしいな、わたし泣いてるみたい。恐いことも悲しいこともなかったのに、ヘンだよね」  本当に不思議そうにイリヤは首をかしげる。 「――――――――」  それには、きっと理由がある。  誰もいない屋敷。  少女が長年恨み続けた相手。  その相手には復讐という殺意でしかぶつかれなかったというのに、その機会さえも失われていた。  ……イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。  彼女が切嗣と俺を殺すと決めた理由。  それは―――― 「行こ、シロウ。そろそろ帰らないと日が暮れちゃう。  夜になる前に別れないと戦いになっちゃうよ、わたしたち」  ……イリヤは笑顔で告げる。  それに、どんな言葉を返せただろう。 「―――ああ、そうだな。じゃあ公園まで送っていこうか」 「うん。シロウ、ちゃんとレディの扱い方わかってるじゃない」  無邪気な笑顔。  銀色の髪を揺らして、イリヤは何事もなかったように玄関へと走り出した。    ……そうして、イリヤと三度目の別れをした。    帰路につく足は重い。  見慣れた町、見慣れた道を、初めて歩くようにゆっくりと進んでいく。 「――――――――」  考えなくてはいけない事が、山ほどある。  その中でイリヤの事がどれほど重要なのか、思い知らされてしまった。 「……〈切嗣〉《オヤジ》。俺は、イリヤを――――」    同じマスターとして戦うべきなのか。  それともイリヤを説得して、この戦いから降ろすべきなのか。             “とりわけマキリとアインツベルンの執念は深い。    奴等の祈願は五百年と一千年だ”  言峰はそう言った。  それだけの年月聖杯を求め続けた者たちから、イリヤを引き剥がす方法があるのかどうか。  ……いや、それ以前に。  イリヤ自身の復讐心を解放する〈術〉《すべ》が、今の自分には見当たらなかった。  衛宮邸に戻ってきた。  日は落ちかけていて、町はすっかり夕焼けに染まっている。 「――――よし。気を取り直していかないと」  ぱん、と頬を叩いて気合を入れなおす。  イリヤの事や慎二の事もあるが、今は町の人たちを襲っているキャスター退治が最優先だ。  十年前のような出来事は繰り返させない。  俺はその為にマスターになって、セイバーと共に戦うと決めたんだから。  約束を破ってしまった以上、どんな弁明も言い訳にすぎない。  俺は俺に出来る事でイリヤに許してもらうしかないんだが、何をすればイリヤが喜んでくれるか分からない。  なら―――マスターらしく、令呪でイリヤの望みに応えるのはどうだろう。 「なによ、急に黙り込んで。そんな顔したって誤魔化されないわ。シロウが謝らないんなら、わたしだって謝らないんだから。シロウがわたしを嫌いだって言うなら、わたしだって今すぐ――――」 「―――決めた。イリヤ、サーヴァントだ。約束を破った代償として、一回だけイリヤのサーヴァントになるっていうのはダメかな」 「シロウを人形に……って、サーヴァント!?」 「そうだ。もうどうやったって今日の約束は守れないだろ。だから、その代わりに一回だけイリヤの言うコトを聞く。それならイリヤだって、少しは気が晴れるんじゃないのか」 「――――――――――――――――――――――  ―――ううん、そんなのウソ! シロウは公園に来なかったもの。口でした約束なんてすぐ終わっちゃうんだから、シロウの言葉なんて信用しないわ」 「分かってる。だから一回分の令呪として、イリヤの言う事を聞くんだ。一度きりだけど、その代わり絶対に破らない約束だ。それなら信用してくれるか」 「し、信用って……けど、わたしシロウに対する令呪なんて持ってない、し……」 「ああ。けど必ず守る。契約もないし実際令呪を使うワケじゃないけど、ちゃんと令呪として受け止める。  イリヤはマスターで、俺もマスターだ。自分の刻印に誓って、令呪と認めた言葉は裏切らない」  背をかがめて、まっすぐにイリヤを見て誓う。  銀の髪の少女は静かに息を呑んで、 「……ほんとに、何でも聞いてくれるの?」  そう、不安そうに視線を返した。 「もちろん。だって令呪だぞ? それが俺に出来る範囲の事なら、なんだって言うコト聞くぞ」  不安げな視線を、心からの笑顔で受け止める。 「……………………」  長い沈黙。  イリヤは目を逸らして、ぎゅっと両手を握り締める。 「…………わかった。それじゃあ、……に、連れていって」 「え……?」  聞き違い、だろうか。  令呪扱いであるはずの言葉は、なにか、とても小さな願いだった。 「イリヤ……? ちょっと待った、令呪だぞ? 絶対言うこと聞くんだぞ? なのに、ホントにそんなコトでいいのか?」 「……………………」 「他になんかないのか? 幾らなんでもそんなの簡単すぎる。ほら、遠慮なんかしなくていいんだから、もっとマシな――――」 「え、遠慮なんてしてないもん! シロウのウソつき、なんだって聞いてくれるって言ったじゃない!」 「あ、いや、聞くけど! けど、今のでホントにいいのかイリヤ……!? だってそんなの、ほら」  令呪じゃなくても、言ってくれれば幾らでも付き合ってやれる事、なのに。 「……そんなコト、じゃないよ。わたし、ずっとそういうのに憧れてたわ。だからそれが、一番シロウにしてほしいコトなんだもの」  顔を真っ赤にして、断られる事を恐れて、身を震わせながらイリヤは言う。 「――――――イリヤ」  そのありったけの勇気に、つまらない疑問なんて挟める筈がない。  どんなに些細な事でも、それはイリヤの一番の願いだった。  なら―――俺はイリヤの騎士として、精一杯彼女を守らないといけない。 「分かった。バカなこと言ってごめんな。  ―――それじゃ行こうイリヤ。小さな商店街だけど、二人でまわれば楽しくなる」  自分の言い回しが照れくさくて、つい顔が熱くなる。  赤面する自分の顔。  それを隠さないで、まっすぐイリヤに手を差し出した。  イリヤの願いは、本当に些細なコトだった。   “買い物に連れて行って”    特別な願いなんかじゃない。  望めば幾らでも叶う、ただの日常をこそイリヤは望んだ。  ……それにどれほどの意味が込められていたのか、俺には分からない。  ただイリヤがそう望んだ通り、敵も味方もなく、マスターとしてでもなく、兄妹のように商店街を歩いた。  俺には見慣れた店、見飽きた景色を、イリヤは目を輝かせて駆けていく。  イリヤのはしゃぎようは、見ているこっちまで楽しくなるほどだ。  屈託のない笑顔のまま商店街を歩くイリヤ。  あんまりにも楽しそうなその姿は、いつまでもこの時間が続けばいいのにと思わせる。    ―――なのに、気付いてしまった。  一瞬たりとも笑顔を崩さず、踊るように駆けていく後ろ姿。  そこに幸福などない。  少女は悲しいから―――ユメから覚めたくないから、ただ必死に笑顔でいるだけなのだと。 「シロウ、こっちこっちー! ほら、コーヒー冷めちゃうよー!」  あったかい缶ジュースが珍しいのか、イリヤは二人分のジュースを持って公園へ駆けていく。  いつまでも続いてほしいと思おうが、もう無理をしなくていいと唇を噛もうが、終わりは当然のようにやってくる。    深山町の商店街は狭い。  どんなにゆっくり回っても、一時間ですべて回ってしまえるのだ。 「はい、とうちゃーく! わたしとシロウは最果ての駅につきました。  はい、そんなワケでシロウは休憩です。今までお疲れさまでした」  クルッとベンチの前で振り返るイリヤ。  座って休みたいんだろう、と促されたベンチに腰を下ろす。  ……と。  自分で誘ったクセに、イリヤはベンチに座らない。 「イリヤ? なんだ、座らないのか?」 「うん。はい、シロウのジュース。シロウはコーヒーで、わたしはお汁粉なんだよね」  イリヤは俺の分だけポケットから出して、しっかりと俺に手渡した。  ……彼女が買ってとせがんだ只一つの買い物は、コートのポケットに仕舞われたままだ。 「けどイリヤ、よくお汁粉なんて知ってたな。向こうじゃそんな飲み物ないだろ」 「そうね。わたしも見るのは初めて。すっごく甘いからわたしには無理だよって、昔教えてもらったの」  にっこりと笑って、タン、とイリヤはステップを踏んだ。  くるくると踊るように、公園の真ん中へ足を運んでいく。 「イリヤ……?」 「令呪はここでおしまいにするね。ちょっとの間だったけど、ありがとうシロウ」  一点の曇りもない声。  何の未練もない笑顔で、唐突に、イリヤはユメの終わりを告げた。 「な――――ありがとうって、どうして。まだ一時間も経ってないじゃないか。商店街が飽きたなら新都に行けばいい。あそこならここよりもっと、」 「いいの。だってここが終点だもの。楽しかったけど買い物はここで終わり。もうじき日が沈むから、そうしたらもとの関係に戻りましょう。  わたしはシロウを殺しにきたマスターで、シロウは自分のためにわたしと戦うマスターなの。そんなの、出会う前からちゃんと分かっていたんだから」  迷いのない笑顔に、どんな言葉を返せるだろう。  イリヤは俺以上に日常を望みながら、俺以上に、その幻想を切り捨てる。 「―――そうか。じゃあ、この公園を出たら」 「ええ、わたしとシロウは敵同士よ。いつか夜に出会ったら、あの時の続きをするしかないもの。  だからぁ、わたしに殺されたくないなら、先にわたしを殺さなきゃダメだよシロウ」  僅かに息を殺して空を仰ぐ。    ―――頭上は一面の灰色だ。    幸福な時間はすぐに終わって、町は重い〈天蓋〉《てんがい》に包まれる。  ずっと続いてほしいと思いながら、それがイリヤにとって辛い事でしかないと気付いてしまった時に、こうなる事は分かっていた。    ここが終点だと少女は言った。  最果ての駅。  行き先もなく、後戻りも出来ない場所で、イリヤは無邪気に笑い続ける。   「―――うわあ! シロウ、雪だよ雪!」    弾む声に意識を取られる。  公園に視線を戻せば、そこには遠い景色があった。    一瞬、幻かと目を疑う。    降り始めた雪にではなく、目の前でステップを踏むイリヤの姿が、有りえないものに見えて。 「――――――――」  雪は一時的なものだろう。  粉雪は弱々しく、すぐに止んでしまうように見える。  ……その中で、不確かな冬の中で、イリヤの周りだけがあんなにも白い。  銀の髪の少女は、冬に愛されているかのように、〈一時〉《いっとき》の雪景色と〈戯〉《たわむ》れている。 「あは、この町の雪はあったかいね。わたし、普通の雪って初めて見たわ」  それが何より嬉しいのか、イリヤはクルクルと回り続ける。 「元気だな。イリヤは雪が好きなのか?」 「ええ。冷たいのは嫌いだけど雪は好きよ。優しくてお母さまに似ているもの。この髪もね、白くて女の子らしいって誉めてくれたの」  弾むような笑顔。  それが誰に言われた言葉なのか、理由もなく、判ってしまった。 「キレイな雪。キリツグが住んでた土地にも、ちゃんと雪は降ってたのね」  屈託のない笑顔は、俺に向けられたものじゃない。  ……イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。  〈切嗣〉《オヤジ》を殺しに来たという白い少女。  彼女が切嗣を狙う理由、彼女が俺を殺そうとする理由。  ……そんなもの、本当はとっくに気がついている。  アインツベルンを裏切った男。  全てを捨ててこの町で暮らし始めた切嗣。  切嗣の息子として、その背中を追い続けた無縁の子供。  ―――それが、どんな犠牲の上になりたっていたか、俺はマスターになるまで知らなかった。  雪はイリヤを隠すように降り続ける。  遠い異国から来た少女は、笑顔のまま別れを告げた。           「じゃあねシロウ。また一人で出歩いてるのを見つけたら、その時も遊んであげる!」  無邪気な笑顔のまま、白い少女は公園から消えていった。  冬の象徴が去り、雪は命を断たれたように弱まっていく。    一時の幻。  積もる事のなかった結晶を払って、最果ての駅を後にした。    忘れてしまったものは仕方がない。ここは大目に見てもらおう。 「いや、悪かった。今日は意外なヤツと会ってたんで、忘れてたんだ。次は気をつけるから大目に見てくれ」  すまん、と頭を下げる。 「……ふうん、そう。随分と簡単な言葉で終わらせるんだ。キリツグとは違うと思ってたのに、シロウも結局おんなじなんだ」 「え――――イリヤ?」 「いいわ、その方がわたしも愉しいし。貴方は、予定通りわたしの〈玩具〉《オモチャ》にしてあげる」 「っ……!?」  悪寒が走る。  イリヤの目は、初めて会った夜と同じ殺気を放っていた。 「それじゃまたね、お兄ちゃん。今日は見逃してあげるけど、次に会う時は気をつけないとダメだよ」  止める間もなく走り去っていく。 「ちょ、イリヤ……!」  追いかけてみたものの、追いつくどころかイリヤの背中さえ見失った。 「………怒らせたのかな、今の」  ……失敗した。  もっと考えてイリヤに謝るべきだった。 「はあ。なんにせよ、次に会う時までになんか考えておかないとな」  こんな事でイリヤと険悪になりたくはない。  約束を破ってしまった謝罪も含めて、イリヤが喜ぶようなお返しを考えておこう―――― 「ん?」  玄関には桜の靴があった。  時間も時間だし、部活が終わって帰って来てるんだろう。 「ただいまー……って、なんだ。桜、寝ちゃってるじゃないか」  部活で疲れたのか、桜は居間で眠っていた。  テーブルに突っ伏して、ではなく畳であお向けになっているあたり、疲労困憊というところなんだろう。 「……だよな。風邪ぎみだっていうのに学校と部活、おまけにうちの手伝いだもんな。桜、頑張りすぎだ」  桜を起こさないように居間を横切る。  で、  部屋から毛布を持ってきた。 「ほら。毛布もかけないで寝たらまた風邪ひくぞ」  静かに、寝た子を起こさないように毛布をかける。  ――――と。 「ん……先、輩……」  寝ぼけているのか、心ここにあらずという目で、桜が俺を見上げてきた。 「っ――――」  その仕草は、なんか、違った。  俺の知ってる、エプロンをして台所で笑っている桜じゃないっていうか、その―――今まで見たこともないぐらい、色っぽい仕草だった。 「さ、桜、毛布もってきた、けど――――――」  ひどく落ち着かなくなって言い訳をする。  途端――――    ふわりと、桜の腕が、俺の首に巻きついてきた。 「――――――――」  桜の吐息が近い。  首に伸ばされた指と、もう目の前にある女の体が、否応なしに視界に飛び込んでくる。 「ば――――桜、ちょっと――――」  うまく息ができなくて、声が出ない。  桜は寝ぼけている。  とろんとした目で俺を見ているのが何よりの証拠だ。  だから、こんなのはすぐに振りほどいて、桜から離れなくちゃいけないってのに―――― 「ぁ――――う」  目が、桜の体から離れない。  ……はらり、と首筋から流れる髪。  悩ましげに吐息を漏らす唇と、大きく張り詰めた胸元。  知らないうちに成長した体は十分に大人で、間近にいるだけで、正直目眩がした。 「――――先、輩」  首にかけられた手に、僅かな力が篭る。  ……顔が近づく。  艶やかな唇に誘われて、逆らえなくなる。 「――――――――」  理性が停止している。  今まで禁じていたこと、これからも気付いてはいけないこと、そんなつまらない良識が、壊れていく。 「――――さく、ら」  胸の動悸が激しい。  痛いとさえ思える心音が鼓膜に響くなか、もう何も考えられなくなって、そのまま――――   「シロウ、帰ってきたのですか?」   「うわわわわわーーーーーーーー!」  跳び退く。  スパン、とかつてない速度と機転をみせ、油断なくテーブルの上に着地する……! 「素晴らしい動きです。しかしシロウ、テーブルの上に乗るのはどうかと思うのですが」 「――――――そうだな。ちょっと、気が動転してた」  のそのそとテーブルから降りる。  桜は―――― 「ん……うう、ん……」  伸ばしていた両手をぱたんと床に落として、居眠り続行中だった。 「シロウ? 顔が真っ赤ですが何かあったのですか? 視線も落ち着かないようですし、気にかかる事でも?」 「べ、別になんでもないっ。それより道場に場所を変えよう。桜を寝かせといてやりたいし、夕飯まで手合わせしたい」 「ふむ、いい心がけですシロウ。昨日の休息で私の体調も万全ですし、今夜の戦いに備えるとしましょうか」  こっちの挙動不審を疑問に思う事もなく、セイバーは道場に向かっていった。 「――――はあ」  と、とにかく助かったぁ。  セイバーに見られなかった事もだが、あのまま勢いに任せてどうにかならないで、本当に良かった。  ……その、寝ぼけてる桜に何かしてしまったら、申し訳なくて腹を切ってたところだぞ、ほんと……    月が〈陰〉《かげ》る。  強い風に煽られた雲が、白い月を隠している。  桜に気付かれないよう外に出る。  時刻は午後十時―――早い時間に巡回を始めたのは、昨夜の遅れを取り戻す為だった。  キャスターを倒し、安心した油断をついて新たな被害が拡がったのだ。  キャスターが生きていて、今夜もその手を伸ばすというのなら、今度こそ決着をつけなくてはならない。  坂道を下りて交差点に着く。  問題はこれから何処に向かうかなのだが―――― 「――――シロウ。サーヴァントの気配です」 「……! それ、近いのかセイバー」 「距離的には問題ありません。シロウの足を考慮しても、全力で追跡すれば五分ほどで追いつけます。  ――――マスター、指示を」  追うか様子を見るか、その選択をセイバーは求めている。  が、そんなの考えるまでもない。 「行くぞ。先導してくれセイバー」  走り出すセイバー。  その方角は東―――深山町と新都を繋ぐ大橋に向かっているようだった。 「っ…………!」  公園に踏み入った瞬間、異様な気配に吐き気がした。  空気が濁っている。  鼻をつく異臭は、何かが腐り落ちる時のものだ。 「う……、つ」  此処にいるだけで胃液が逆流する。  軽い目眩と、喉元の不快感に意識が割れかける。 「シロウ、アレを――――!」 「っ……!」  嘔吐感をかみ殺して公園を見据える。  そこには―――― 「え、衛宮くん……!?」  俺たちに背を向けた状態でいる遠坂たちと、 「ぬ? どうやら新手がきたようじゃな」  あの老人―――間桐臓硯の姿があった。 「――――――――」  状況は一目で理解できた。  遠坂と間桐臓硯は戦っている。  遠坂の足元には何か、小さくて判別できないモノが何十匹と散らばっている。  遠坂のサーヴァント―――アーチャーの周囲にはその数倍だ。  アレは間桐臓硯が、何らかの魔術を用いて二人に仕掛けたと見るべきだろう。 「ほう。誰かと思えばセイバーのマスターか。  いやはや、これはしたり。助っ人を用意しておくとは、遠坂の娘にしては頭が回る」 「そんなワケないでしょう。アンタを押さえつけて白状させるのなんて、わたしとアーチャーだけで十分よ。  あそこにいるのはただの観客、わたしとは関係ないんだから」  遠坂は俺たちに振り返らず、ただ間桐臓硯のみを凝視する。  ……が、その背中で、 「アンタなにやってんのよ、こんな時にやってくるなんて死にたいの!?」  なんて文句をバリバリ言っていた。 「シロウ」 「……わかってる。今は遠坂たちと争ってる場合じゃない」  遠坂が間桐臓硯から目を離さないように、俺もあの老人から危険を感じていた。  ……人の血を吸う事で生き延びてきたという怪物。  慎二をマスターにして、聖杯を得ようとしたマキリの末裔。  そんなヤツが、大人しくこの戦いを傍観する訳がないんだから。 「ふむ。隠しておきたかったが仕方あるまい。ワシとて、サーヴァントを二体敵にまわしては生き残れんからのう」  手にした杖を鳴らす。  奇怪な杖がカツン、とレンガ作りの地面を打ち付けた瞬間、  倒したはずのモノが、老人を守るように出現した。 「キャスター……! くそ、本当にまだ残っていやがったのか……!」 「シロウ、下がって。あれはキャスターですが、キャスターではありません。……外装、能力はそのままですが、意思である魂を感じない。  アレは―――キャスターの死骸を別のもので補っただけの模造品です」  前に出るセイバー。  その手には不可視の剣が握られている。 「ほう? さすがはセイバー、一目でワシのカラクリを見抜きおったか。いやはや、これでは慎二程度のライダーが敵わぬのも道理。  キャスターも成す〈術〉《すべ》無くおぬしに敗れたように、そこなアーチャーとておぬしの敵ではあるまい」 「―――口上はそれだけか。  我らを謀った罪だけではない。  敵同士とはいえ、キャスターとてサーヴァントに選ばれた英霊だ。その亡骸を〈弄〉《もてあそ》ぶからには、相応の覚悟があるのだろうな」 「さて。ワシは使われなくなったモノを拾っただけよ。  それを外道と言うのなら構わぬがなセイバー、それではおぬしの行く末は、その外道にも劣ってしまうぞ?  なにしろその身は最高のサーヴァント。  ならば―――このような骸より、おぬしを屈服させるが最上じゃ。その体を我が蟲どもに食わせ、そこな骸と同じ命運を辿らせよう」 「貴様」 「カカカ、何を〈憤〉《いきどお》る! 所詮サーヴァントなど主の道具、どのように使役するかなど問題ではあるまい! 令呪で縛られるも死してなお使われるも同じ、ならば心ない人形と化すがうぬらの為であろう!」  ―――二人のサーヴァントが地を蹴る。  セイバーとアーチャーは申し合わせたように、呵々と〈哄笑〉《わら》う妖怪へ突進した。  二つの剣風がキャスターを断つ。  勝負など初めからついていた。  キャスターではセイバーに勝てない。  間桐臓硯に操られている、というキャスターであっても、その相性だけは変わらない。  キャスターの魔術はセイバーには届かず、セイバーは今一度、かつて倒した相手にとどめを刺す。  キャスターの〈外装〉《からだ》が崩れていく。  セイバーはキャスターの傍らに立ち、その様を最後まで見届けていた。  今度こそ完全に〈帰還〉《きえ》るように。  地上の魔術師に、その亡骸を冒涜される事などないようにと。 「アーチャー……!」  遠坂の声。  見れば間桐臓硯の姿は消えていた。  ヤツはキャスターを捨石にしてこの場から逃れたのだ。  だが―――― 「ぬ――――!?」  その為に、セイバーはキャスターを受け持った。  アーチャーは初めからキャスターには目もくれず、  ただ操り手のみを追い、 「そこまでだ」  躊躇うことなく、間桐臓硯の体を横一文字に薙ぎ払った。 「ぬ――――」  ずるり、と臓硯の上半身が地に落ちる。 「ぬ、う、なん、と――――!」  ずるずるという音。  腰から下が見えない老人が、何かをみだらに零しながら、這っていた。 「終わりだ魔術師。過去からの経験でな、おまえのような妖物は早めに処理する事にしている」  這いずる臓硯に短剣を振り上げるアーチャー。  それで終わりだ。  間桐臓硯がどれほどの不死身性を持っていようと、頭を潰されれば息絶えるだろうし―――既に、ヤツは死にかけていた。  サーヴァントのように自然治癒能力があるでもなし、巨大すぎる傷口は刻一刻と間桐臓硯の死期を早めている。  それでも万全を期して、アーチャーは短剣をもって魔術師の命運を断つ。 「――――え――――?」    否、断とうとして、その動きを停止した。 「――――――――」    それを感じたのはアーチャーだけじゃない。  この場にいた全員。  遠坂とセイバー。  俺とアーチャー。  それだけでなく、死にゆく間桐臓硯さえ、ソレの登場に、愕然と体を震わせた。            ――――公園が闇に染まる。    湿っていた空気が一瞬にして凍りつく。  心臓は高く響きながらも、心拍数を下げていた。  何か、よくないモノが近くにいる。  だから逃げなくてはいけない。  それとは関わってはいけない。  そう、頭よりも体が理解しているというのに、逃げようという命令を体が拒否している。          逃げても無駄だ、と。  出会ってしまったからには決して逃れられないと、逃走を拒否している。 「――――」  震える体、麻痺した首を動かす。  公園の入り口に視線を向ける。    ――――そこに。    その“影”は立っていた。   「――――――――」  空間が歪んでいる。  それが自分だけの錯覚、極度の緊張からくる平衡感覚の乱れなのだと信じたい。    それは、見たこともない何かだった。  影がそのまま直立したような立体感のなさ。  吹けば飛びそうなほど軽い存在感。    だがこの場で何よりも空間を支配するもの。    知性もなく理性もなく、おそらく生物でさえあり得まい。  “黒い影”はその場に留まり、蜃気楼のように立ち続ける。  その光景を、             なぜ、懐かしいとさえ、思ってしまったのか。 「あり得ぬ―――」    しわがれた老人の声がする。  この場において、声を出せるのは死にゆくその老人だけだった。 「あり得ぬ、あり得ぬ、あり得ぬわ――――!」    悲鳴をあげて這いずっていく。  アーチャーの剣から逃れ、間桐臓硯はいち早く公園から離脱した。  ……臓硯にそれだけの余力があった訳じゃない。  ヤツは、ただ。  不吉な影を恐れる一心で、死にゆく体に鞭を打っただけだった。 「――――――――」  誰も動けない。  俺と遠坂は戦慄から。  セイバーとアーチャーは魅入られたように動かない。    ――――深海に棲む魔物。    何もかも停止し、静まり返った世界に、あの影だけが揺らいでいる。    それが、    初めて、意思らしきモノを見せた。 「あ――――」    アレには目がなく、手足がなく、体がない。    だというのに、その足元には影が落ちていた。  月の光を受け、長く長く伸びる影。  影はゆらりと、獲物を見つけた蛇のようにその切っ先を遠坂に向け―――― 「――――――――」    遠坂は動かない。影の異変に気付いていない。  セイバーは遠く。アーチャーは走り始めているが、遠すぎて間に合わない。 「と――――」    影が伸びる。  予兆もなく唐突に、影は一瞬で数十メートルもの地面を覆い、 「――――おさか、危ないっ…………!!!!!」    夢中で、遠坂を弾き飛ばしていた。 「  くん……!?」    声が聞こえない。  遠坂を突き飛ばした瞬間、得体の知れないモノに呑みこまれた。  ざぱん、という音と、体を押し潰そうとする感覚。   「――――、――――あ」  なら、予感は間違っていなかった。  ダンプカーみたいにつっこんできたのは水流で、それに頭から呑みこまれた自分は、いま深海にいるんだから。    だが熱い。  海にしては、この海水は熱すぎる。  煮えたぎったコールタール。  肌に纏わりつき、生命活動を根こそぎ遮断させていくそれは、海の中にいるというより 「あ――――ヴ」    〈吐き気が〉《キミガワルイ。》する。  吐〈き気が〉《キミガワルイ》す〈る吐き〉《キミガワルイ》気が〈するハ〉《キミガワルイ》ハハ〈ハハ吐〉《キミガワルイ》き気〈がす〉《キミガワ》           ――――体が溶ける。         心が融ける。           魂が解けていく。 「あ――――、」  巻きついてくる黒い指。  夥しく貪欲に、一部の隙もなく網羅しようと捕獲する。   「ぁ――――、」  体は黒い泥に落ちる。  海面は遠く、際限なく沈んでいく。  悉く丁寧に、一部の開きもなく抱擁しようと補強する。   「――――――――」    手足が消えた。  俺は真っ黒になって、そいつの一部になったまま、深い終着に落ちていった。 「……くん、衛宮くん……!」 「あ……、つ」  その声で、目が覚めた。  ……体が熱い。  吐き気は治まらず、頭はグラグラで、一人で立つ事さえできなかったが。 「目が覚めた!? 大丈夫、わたしがわかる……!?」  ぱんぱん、と両頬を叩かれる感覚。 「……わかる。こんな時に人を平手打ちすんのは、間違いなく遠坂だ」 「――――よかった。減らず口を言えるなら大丈夫ね」  ……いや、今のは減らず口じゃなくて、素直な感想なんだけど、な。 「馬鹿、なに笑ってるのよ。……言っとくけど、礼は言わないわよ。あんな真似は二度としないで。助けてもらった相手に死なれたら、借りを返す事もできなくなる」  ……キッと見据えてくる。  が、そう言う遠坂は片手でずっと俺の背中をさすりつつ、もう片手で体温を確かめるように手のひらを握っていた。 「……遠坂。あの、ヘンなのはどうした」 「消えたわ。衛宮くんが影の上に立って、倒れたと思ったらもういなかった。……アレ自身はあっちの方からやってきたみたいだけど」  遠坂は南の空―――南西の方角に視線を向けて、ぎり、と歯を噛む。 「……そうか。けど俺、随分と長く、ヘンなのに絡まってた気がするん、だけど」 「……ほんと? 貴方がわたしを突き飛ばしてから今まで、十秒も経ってないわよ。その証拠に、ほら」 「シロウ……!」  セイバーが駆けつけてくる。 「また貴方は無茶な真似をして……!」    セイバーは倒れた俺に肩を貸して、遠坂から引き離した。 「離れなさい、アーチャーのマスター。それ以上我がマスターに近寄るのなら、敵対行為とみなします」 「え、なに? もしかしてわたしも敵?」 「当然でしょう。貴方はマスターであり、アーチャーを連れている。  何のつもりでシロウが貴方を庇ったかは知りませんが、みすみす我が主に近づかせる事はできない」  遠坂を睨むセイバー。  ……しまった。そう言えば、セイバーには事情を説明して、いなかった。 「……いや、違うんだセイバー。遠坂とは、いま休戦中で、キャスターを、倒すまで――――」 「シロウ!? しっかり、気を落ち着けて……!」 「……だから、遠坂は敵じゃない。そういう、約束なんだ」 「…………っ。わかりました、貴方がそう言うのなら彼女とは争いません。ですから」 「……ああ、悪い。正直、もう喋れ、ない」  吐き気と悪寒で途絶えそうになる意識を、必死に持ち堪える。  ……倒れるのは帰ってからだ。  それまではなんとか、意識だけでも保っていないと。 「助かったか。まあ本体に触れた訳でもなし、実体のあるモノなら〈瘧〉《おこり》を移された程度だろう」  アーチャーがやってくる。  臓硯を逃がしたというのにアーチャーは無表情で、この中で唯一平静を保っていた。 「……アーチャー。貴方は、今の影が何者か知っているのですか」 「―――さてな。だがこれで一つはっきりした。キャスター亡き後、町の人間から魔力を吸い上げているのは今の影だろうよ」  ……関心なさげに答える。  そうしてアーチャーは、他の誰でもない、地に伏した俺に視線を向けた。 「どうやら、私怨を優先できる状況ではなくなったようだ。そうだろう、衛宮士郎」 「……え?」 「アレがなんであるかは、おまえの直感が正しい。  ……ふん。サーヴァントとして召喚されたというのに、結局はアレの相手をさせられるというワケだ」 「アーチャー……? 貴方は、一体」 「そうか。君はまだ守護者ではなかったな。ではあの手の類と対峙した事はなかろう。……まったく。〈何処〉《いづこ》にいようとやる事に変わりがないとはな」  ……遠坂を促し、赤い騎士は俺たちの前から去っていく。  ただ、その寸前。 「……いや、そう悲観したものではないか。  ―――まだ事は起きていない。後始末に留まるか、その前にカタをつけるのか。今回は摘み取れる可能性が、まだ残されているのだから」    頭上の星を見上げて、アイツはそんな言葉を呟いていた。  ……点滅を繰り返す。  熱は体中に浸透して、自分が歩いているという感覚がない。  瘧のようだ、と誰かが言ったせいか。  熱病を持った蚊が体内に発生して、それが、今ではビッシリと指先まで埋まっている、気がする。   「せ、先輩……!?」  ……ぼうっとして、夢と現実の区別がつかない。  本当はもう眠っていて、夢の中で、必死に部屋に帰ろうとしている、ような。 「桜……? 睡眠中ではなかったのですか?」 「――――退いてください。そんな支え方じゃ、先輩が辛くなる」 「いえ、これは私が任された事です。  それに何らかの〈病〉《やまい》だとしたら、貴方にまで移ってしまう」 「……そんな事を言ってるんじゃありません。  セイバーさん。貴方と先輩が何をしているのかは知りません。訊いても答えてもらえない事だってわかっていますから、問いただす事もしませんでした」 「けど、貴方が来てから先輩は毎日辛そうでした。  ……それだけならよかったのに、今夜は怪我をして帰ってきたんです」 「桜、それは」 「―――セイバーさんの事情は知りません。けど、もう少しうまいやり方があるんじゃないですか。  それが出来ないっていうなら―――せめて、先輩を巻き込むのはやめてください」  ……部屋に戻ってくる。  誰かが隣にいて、寝かしつけて、くれているような気がする。   「――――、――――」  耳元で囁かれた言葉がなんであったのか、聞き取れなかった。  自分の不注意だ、と謝ったのか。  ごめんなさい、と謝ったのか。    ともかく、それが最後に聞いたコトだ。  意識は横になった事で途切れ――――      最後までその光景が、蟲のように〈蠢動〉《しゅんどう》していた。  白い陽射しに目を覚ました時、体はすっかり調子を取り戻していた。  熱は平熱で、手足に重みも感じない。 「――――六時前か。桜、起きてるかな」    起きていたら朝食の支度をしている筈だ。  急いで着替えて台所に向かわないと、桜一人に任せっきりになってしまう。 「セイバー、先に行ってるぞ。しばらくしたら居間に来てくれ」    襖を開けるほどの勇気はないんで、声だけかけて退散する。  下手に襖を開けて、セイバーが寝てるところを見たら朝から色々タイヘンなのだ。 「それでねー、お爺ちゃん倒れちゃってさー。  儂が寝込んどるんだから少しは落ち着こうと思わんのかドラ娘、なんて言うのよ?  失礼しちゃうわよねー、それじゃわたしがはぐれ雲みたいに聞こえるじゃない」  ぷんすか、と不平不満をこぼしつつご飯を食べる藤ねえ。  どうも、昨夜これなかったのは藤ねえのお父さんが倒れてしまったかららしい。 「? 先輩、はぐれ雲ってなんですか?」 「うん、藤ねえの事。ふわふわ浮いてて正体が掴めないヤツを指す」  即答。 「ちがうー。はぐれ雲は遊び人っ!  日がな一日、何をするでもなく町の人たちをひやかして面白おかしく暮らす人の事を言うのよ」  納得する桜とセイバー。  二人がどのあたりに納得したのかは言うまでもない。 「けど先生、それじゃあお父さんの体、芳しくないんですか?」 「まさか。うちの家系は風邪とか引かないって有名なんだから。お爺ちゃんはね、年甲斐もなく若い子と相撲して腰やっちゃったの」 「スモウ……? スモウとはなんですか、大河」 「ええ? んー、ちょっと言葉で説明するのは難しいなあ。とにかく押す、引かば押す、押せば押すっていう格闘技よ。武器なしなんだけど〈拳骨〉《げんこつ》はダメ。蹴るのもダメ。  基本的に相手の体とガッシリ組み合って、どりゃーって地面に叩き伏せれば勝ちなんだ」 「……む。それは純粋な力比べ、という事でしょうか?」 「そうね。あと服もなし。自分も相手もほとんど裸でぶつかり合うんだよ」 「は、裸でですか……!?」 「うん。まわしをつけてるから急所は隠してるけど。あ、まわしってのは〈褌〉《ふんどし》の事ね。わからなかったら士郎に訊いてみて。わたしより詳しいから」  ずずー、とあさりのみそ汁をすすりながらトンデモナイ事を言う藤ねえ。 「なるほど。で、シロウ。フンドシとはなんですか?」 「――――――――」  説明するのは容易いのだが、口にするのは〈憚〉《はばか》られる。  相手はセイバーだし、今は朝飯時だ。  何が悲しくてフンドシの話なんかしなきゃならないのか。 「……知らない。相撲は専門外だから、他をあたってくれ」 「うっそだー。士郎、まわし持ってるくせにー」 「も、持ってるかそんなもん! 相撲は藤ねえの爺さんにやらされただけで、まわしだって借り物だっただろ!  だいたいな、何年前の話してんだよ藤ねえはっ!」 「あははは、そっかそうだ。士郎、子供の頃はちっちゃかったから相撲は負け続きだったんだもんねー。お爺さまが違う競技にしなさいって言って、勝つまでやめたがらない士郎に弓持たせたんだっけ」 「……………………」  藤ねえは楽しそうに笑っている。  ……なんだかなあ。  今朝の藤ねえは妙にハイで、いつもより二割増で騒がしい。 「なあ藤ねえ。時間、そろそろやばいぞ。七時前にはここを出ないと遅刻じゃないのか?」 「ん? あ、今日は大丈夫。昨日から朝の部活は禁止されたから。……ま、それでも今日は職員会議があるから早目に出ないとまずいんだけど」 「え? 先生、弓道部も朝練中止なんですか?」 「そだよ。って、そっか。桜ちゃんには連絡いってなかったか。昨日、ちょっとした事故があってね。陸上部の子なんだけど、部活中にケガしちゃって。保健の笠間先生に言わせれば寝不足だとかで、朝練はしばらく中止になったのよ」 「……ふうん。けど怪我人が一人でただけで中止にするもんなのか?  それも寝不足だって、そんなの本人の―――」  自己管理能力の不足だけど、もしかして。 「藤ねえ。その怪我人って、何人出たんだ?」 「……んー、十人以上二十人未満、かな」 「そ、そんなになんですか?  先生、弓道部のみんなは――――」 「それがねー、うちには出てないけど、昨日の部活でも疲れた顔の子が何人かいたのよ。  ……ほら、最近色々と物騒じゃない? そのあたりの精神的な疲れも無視できないから、できるだけ生徒には負担をかけない方針でいくみたい。部活が負担になるってワケじゃないけど、肉体的に疲労するのは否定できないしねー」  やれやれ、と肩をすくめてお茶わんを差し出す藤ねえ。 「桜ちゃん、おかわり。ごはん半分でお願いねー」 「はいどうぞ。今朝は小食ですね、先生」 「そうなのよぅ。学校いっても仕事がたまってるのかと思うと胃が痛くて痛くて、食欲がないんだよう」  よよよ、と泣き崩れる。  うむ。  どうやらうちに住み着いた虎は、ご飯二杯半程度では全力ではないと言いたいらしい。 「そういう桜ちゃんは元気だよね。ごはん、大盛りで二杯目だもん」 「育ち盛りですから。最近はすぐお腹へっちゃうし、多少無理でも食べておかないとタイヘンです」  えっへん、と胸を張る桜。  ……いや。  すでにその量は育ち盛りとかいう問題ではないと思うのだが、身近に大食漢がいると釣られて食べてしまうのかもしれない。 「なるほど。桜には弓使いとしては腕力が足りません。栄養を摂るのはいいことです」  もくもくとご飯を食べながらセイバーは頷いてるし。  ……なんか、噛み合っているようで微妙にズレているのは気のせいなんだろうか。  七時過ぎ。  藤ねえが先に学校に行って、俺たちは後片付けにとりかかった。  今日は桜も余裕があるので、のんびりと洗い物をする。  二人でとりかかった事もあり、朝の片付けはサクっと終わった。  ……さりげなく桜の様子を見たが、体は本当に大丈夫のようだ。  熱はないようだし、体からは元気が溢れている。 「あの先輩っ……!  す、少しお話があるんです、けど、お時間よろしいでしょうかっ!?」  と。  まるで今から討ち入りに行くような緊張ぶりで、唐突に桜は言い出した。 「よろしいよ。時間、まだ余裕あるし」 「は、はいっ。……あ、あの、そのですね。お弁当をですね、作ってみたんです、けど」  俯いたまま、どうぞ、と桜はお弁当を渡してくれた。  ときたま俺が使う弁当箱とは違う、桜が用意した弁当箱のようだ。  無骨な俺の弁当箱と違って容器の形はかわいらしく、包みも爽やかな色をしている。  桜の弁当なら味は保証付きだし、なにより作ってくれた事は文句なしに有り難い。 「ん、サンキュ。……って、もしかして桜、朝早くから弁当作ってくれてたのか?」  起きてすぐに居間に行くと、桜は朝食の支度を済ませてくれていた。  その時点で随分早起きだなあ、と感心したのだが、実際はもっと早起きだったみたいだ。 「あ、はい、早くに目が覚めちゃって、やる事もないからお弁当作ろうかなって、……えっと、それでご相談が、あるんですけど――――」 「? なんだよ改まって。相談ってよっぽどのことか?」 「い、いえ、そんなコトないですっ……!  ないん、ですけど…………えっと、そうだ! せ、先輩って、あんまりお弁当作りませんよね。お料理好きなのにどうしてなのかなって!」 「……桜。俺、別に料理好きってワケじゃないんだが」  というか、男のクセに料理が趣味っていうのはいただけないんで、あくまで料理が出来る、というレベルに留めておいてほしいな、と。  ああいや、それはともかく弁当作らないのはどうしてかって話だっけ。 「それがな。俺だって弁当のが安上がりだって判ってるけど、持っていくとクラスの男どもがたかってくるんだよ。結果、気がつくとおかずが半分になってるんだ」  はあ、と頷く桜。  ……もっと詳しく言うと、おかずを奪っていく割合はむしろ女子のが多いのだが、情けないので黙っておく。 「うん。そういうワケなんで、生徒会室が使える日しか弁当は作らないんだ。あそこなら一成と二人で食べられるだろ」 「……あ、あの、先輩? それなら弓道場で昼食をとるのはどうでしょう?  お昼なら道場も空いてますし、お茶も淹れられますし、その、誰もいないから静かだし――――」  ?  ああなるほど、その手があったか。  昼なら弓道場の鍵も開いてるし、部員だってめったに寄り付かない。  いるとしたら美綴だろうけど、アイツは人の弁当に手を出すほど非道じゃないし。 「……うん、そうだな、それもありかな」 「そ、そうです!  そーゆーのももちろんありです先輩っ!」 「けど部外者が入るってのもなんだな。一応美綴に許可もらっておかないとダメだろ」 「そ、そんなの大丈夫ですっ! 弓道場は学校の建物なんですから、部活動以外は生徒の自由でおっけーなのではないでしょうかっ!」  珍しく力説する桜。 「……んー、そうだな。迷惑でなければいいかもな」  うん、と納得する。  と。  桜はなぜか、とんでもなく嬉しそうな顔でガッツポーズをとっていた。 「……?」  ……うーむ。今朝の藤ねえのハイテンションぶりが伝染したのかな、あれ。 「な――――キャスターが、消えてない?」 「ええ。衛宮くんがキャスターを倒したのが二日前でしょ。  なのに昨日も例の昏睡事件は起きた。  ……それも、魔力を奪われた人たちは今までより重い衰弱状態にあったわ」 「そんな馬鹿な。俺たちは、確かに」 「判ってる。貴方が嘘を言うわけないし、勘違いしてるとも思えない。……けど、実際にわたしとアーチャーはキャスターらしき影を見たのよ。昨日の夜、被害のあった現場に駆けつけた時にね」 「…………そうか。じゃあ、本当にキャスターは生きていて、まだ町じゅうから魔力を集めてるっていうのか」 「……断言できないけど、そういう事ね。けど柳洞寺の雰囲気が変わったって事だけは判る。  貴方たちはキャスターを倒した。けどキャスターはいまだ存在する。いま確かなのはそれだけよ」  ……昨日までの遠坂とは微妙に雰囲気が違うのはそれが原因らしい。  恐らく、遠坂はこの戦いに疑問をもち始めたのだ。  マスターが倒されればサーヴァントは消滅する。  サーヴァントとて、完全に撃破されればこの世界での死は免れない。  その両方のペナルティを負って未だ存在しているらしいキャスター。  それは聖杯戦争のルールを根底から覆す“違反”だからだ。 「―――そうか。で、遠坂はどう思ってるんだ」 「え? わたし?」 「ああ。おかしいって思ってるんだろ。  おまえが聖杯戦争を降りるとは思えない。けど今は聖杯の奪い合いより、キャスターの事をはっきりさせたいんじゃないのか? 他のマスターとの戦いは後回しにしてでもさ」 「衛宮くんの思ってる通りよ。  今回の聖杯戦争はどうもきな臭いわ。父さんに聞いていたものとは違う気がするのよね。なんていうか、わたしたちの知らないところで違う事が行われてる気がするの」  ……違う事、か。  俺にとっちゃ聖杯戦争そのものが外だからそこまで考える余裕はない。  けど、れっきとしたマスターである遠坂がそう感じているのなら、間違いはないんだろう。 「じゃあ遠坂は、その」 「ええ、自分で納得がいくまで聖杯戦争のルールには従わない。誰かに利用されるのは仕方ないけど、利用された自分が、誰にどんな危害をくわえるのか判らないのは気に食わない。  そういうのイヤでしょ? だからハッキリさせるまで、他のマスターといがみ合うのは止めるつもり」  キッパリと言う。  遠坂の目には迷いがなく、同時に、俺の選択を問うているように見えた。 「そうか。それは休戦宣言ってコトでいいのかな、遠坂」 「衛宮くんが受けてくれるならね。この件が片付くまで貴方がわたしと敵対しないのなら、わたしも危害は加えないわ」  どう? と視線で訊ねる遠坂。  そんなもの、はじめから答えは決まっている。 「それはこっちの台詞だよ。遠坂が手を出してこない限り、俺も遠坂とは戦わない。  ……それに、もし戦う時がきたとしても、それは正々堂々とだ。その時がくるまでは――――」  俺は遠坂と、こんなふうな協力関係でありたかった。 「決まりね。判ってたけど、いい返事がもらえて嬉しいわ」 「え……?」  遠坂は右手を差し出してくる。  それが握手を求めてのことだと気付いて、 「あ、ああ。よ、よろしく遠坂」  急速に赤くなりつつある頬を堪えて、右手を差し出した。 「よし、契約成立ね。少しの間だろうけどよろしく頼むわ、衛宮くん」  ……遠坂はしっかりと握り返してくる。  その感触は柔らかくて、俺の手なんかよりずっと華奢で、かすかに冷たかった。 「っ――――――――!」  バ、バカ、こんな時になに考えてんだ俺の節操なしーーーーーーっ!!!! 「? どうしたの衛宮くん。急に汗かいたりして。……なんか、心拍数もあがってるけど」 「っ!? い、いや、なんでもない、ただの風邪だ、メシ食えば治る! メシ食えば治るんで、そろそろ昼メシにしよう!」  バッ、と強引に手を離す。  と。  遠坂の顔が、なんかとても邪悪に変貌していった。 「ははあん。この前相談された時にもしかしてって思ったけど、やっぱりそうなんだ。慣れてるような印象だけど、ホントはそうでもなかったワケね。  意外っていうか、〈外見〉《イメージ》通りって言うか。  ……ふーん。ふーん。ふーーーん」  じろじろ、にやにやと人を上から下まで値踏みする遠坂凛。 「な、なんだよ、言いたいコトあんならハッキリ言えよな。だ、黙ってるのはよくないんだぞっ」 「べっつにー。衛宮くんのコトが少し判っただけだから気にしないで。あ、口にするつもりないから怯えなくていいわよ?」 「っ! お、怯えてなんかないっ! 言いたきゃ勝手に言えばいいだろっ」 「あら、言っていいの?」  にんまりと笑う。  ああ―――こんな邪な笑顔がこの世に存在しようとは。 「……言うな」 「なに、小さくて聞こえないんだけど?」 「……すまん、口にしないでくれ。言われたらひどくショックを受けそうだ。特に、おまえの口から聞かされると二倍や三倍じゃすまない気がする」 「そ? なら黙ってあげてもいいけど――――」  ふふん、なんて勝利者の笑みをこぼして引き下がる遠坂。  それにほう、ととりあえず心の平安を取り戻した瞬間。 「衛宮くん、好きな子のリコーダーが気になるタイプでしょ?」 「って、言ってんじゃねえかこの悪魔っっっっっ!」    湿った密室に風が入る。  開かれた扉からは足音が二つ。  音は慌ただしく床を蹴るものと、引き寄せられるように連れてこられたものだ。   「――――ほら、もう準備はできている」    とん、と。  暗い密室に音が響く。  慌ただしく登場した男――――間桐慎二が連れてきた、もう一つの人影を部屋に押し込んだ音だ。    密室の床には、何物かがずるずると〈蠢〉《うごめ》いていた跡。  間桐慎二はその跡がなんであるか知っている。  彼の祖父である間桐臓硯が飼っている、得体の知れない魔物どもによるものだ。              ―――間桐慎二は連れてきた何者かを部屋の中に押し込んだ。   「ほら。イヤなコトは早くすまそう」    階段の上から語りかける。  魔物たちの気配が充満した密室。常人ではこの部屋に踏み入れた瞬間、恐怖に支配されることだろう。    だが、この相手だけは例外だった。  部屋に入ってきた人影からナニカが離れていく。  恐れているのか、それともこの人間には飽きているのか。  姿の見えぬ魔物たちは決して、自分から人影には寄り付かない。  ただその周囲で、ざわざわと気配を震わせるだけである。   「新しい“本”を作ってくれよ。まだ二個、残ってるはずだろ」    間桐慎二の声に、気配が反応する。  キイキイと。  その命令が気に入ったように、四隅の闇が波打っている。   「言う通りにすればすぐ帰っていいからさ。おまえだってそうしたいんだろう?」    返答はない。  密室に響くのは蟲たちの耳障りな鳴き声だけだ。   「いいかい、アイツとはいずれ戦うしかないんだ。これ以上我が侭を言っていると――――」    お前がアイツと戦うしかなくなるぞ、と間桐慎二は宣告した。  押し込まれた人影の体が震える。  そんな事は出来ない。  間桐慎二が師と仰ぐ老人は、それを許してはいない筈だ。    だが―――間桐慎二が師の言いつけを守る人間ではない事を、人影は知っていた。  今の彼は衛宮士郎への憎悪に満たされている。  その精神に拒否を受け入れるだけの寛容さは既に失われているだろう。  老人は彼の身を案じて戦いから遠ざけたというのに、その気遣いこそが、間桐慎二にとっては許しがたい侮辱になるのだ。   「―――――――――」    長い沈黙の後、密室に変化が生じた。  光と共に人影が現れる。  魔物の気配は波が引くように部屋の隅に消えていった。  知性の低い魔物どもでさえ、現れた〈女性〉《モノ》を強大な魔と感じ恐れた故。   「――――そうそう、あとは全部僕に任せればいいんだ」    床に届くほどの長髪と、細くしなやかな長身。  黒衣に身を包んだソレは、ライダーと呼ばれたサーヴァントだった。   「――――いま一度訊きましょう、シンジ。  私を使役するのは、自らの身を守る為だけですね」    密室の底。  魔物たちの生け簀から頭上を見上げ、黒いサーヴァントが問う。   「―――ああ。なにかと物騒だからさ、頼りになる護衛が欲しかったんだ」    再びマスターとなった間桐慎二は悦びを隠しもせず、そう、誠実なまでに、嘘だけで固めた言葉を吐き出した。 「ん?」  玄関には桜の靴があった。  時間も時間だし、部活が終わって帰って来てるんだろう。 「ただいまー……って、なんだ。桜、寝ちゃってるじゃないか」  部活で疲れたのか、桜は居間で眠っていた。  テーブルに突っ伏して、ではなく畳であお向けになっているあたり、疲労困憊というところだろう。 「……だよな。風邪ぎみだっていうのに学校と部活、おまけにうちの手伝いだもんな。桜、頑張りすぎだ」  桜を起こさないように居間を横切る。  で、  部屋から毛布を持ってきた。 「ほら。毛布もかけないで寝たらまた風邪ひくぞ」  静かに、寝た子を起こさないように毛布をかける。  ――――と。 「ん……先、輩……」  寝ぼけているのか、心ここにあらずという目で、桜が俺を見上げてきた。 「っ――――」  その仕草は、なんか、違った。  俺の知ってる、エプロンをして台所で笑っている桜じゃないっていうか、その―――今まで見たこともないぐらい、色っぽい仕草だった。 「さ、桜、毛布もってきた、けど――――――」  ひどく落ち着かなくなって言い訳をする。  途端――――  ふわりと、白いものが首に巻きついてきた。 「――――――――」  桜の吐息が近い。  首に伸ばされた指と、もう目の前にある女の体が、否応なしに視界に飛び込んでくる。 「ば――――桜、ちょっと――――」  うまく息ができなくて、声が出ない。  桜は寝ぼけている。  とろんとした目で俺を見ているのが何よりの証拠だ。  だから、こんなのはすぐに振りほどいて、桜から離れなくちゃいけないってのに―――― 「ぁ――――う」  目が、桜の体から離れない。  ……はらり、と首筋から流れる髪。  悩ましげに吐息を漏らす唇と、大きく張り詰めた胸元。  知らないうちに成長した体は十分に大人で、間近にいるだけで、正直目眩がした。 「――――先、輩」  首にかけられた手に、僅かな力が篭る。  ……顔が近づく。  艶やかな唇に誘われて、逆らえなくなる。 「――――――――」  理性が停止している。  今まで禁じていたこと、これからも気付いてはいけないこと、そんなつまらない良識が、壊れていく。 「――――さく、ら」  胸の動悸が激しい。  痛いとさえ思える心音が鼓膜に響くなか、もう何も考えられなくなって、そのまま――――   「シロウ、帰ってきたのですか?」   「うわわわわわーーーーーーーー!」  跳び退く。  スパン、とかつてない速度と機転をみせ、油断なくテーブルの上に着地する……! 「素晴らしい動きです。しかしシロウ、テーブルの上に乗るのはどうかと思うのですが」 「――――――そうだな。ちょっと、気が動転してた」  のそのそとテーブルから降りる。  桜は―――― 「ん……うう、ん……」  伸ばしていた両手をぱたんと床に落として、居眠り続行中だった。 「シロウ? 顔が真っ赤ですが何かあったのですか? 視線も落ち着かないようですし、気にかかる事でも?」 「べ、別になんでもないっ。それより道場に場所を変えよう。桜を寝かせといてやりたいし、夕飯まで手合わせしたい」 「ふむ、いい心がけですシロウ。昨日の休息で私の体調も万全ですし、今夜の戦いに備えるとしましょうか」  こっちの挙動不審を疑問に思う事もなく、セイバーは道場に向かっていった。 「――――はあ」  と、とにかく助かったぁ。  セイバーに見られなかった事もだが、あのまま勢いに任せてどうにかならないで、本当に良かった。  ……その、寝ぼけてる桜に何かしてしまったら、申し訳なくて腹を切ってたところだぞ、ほんと…… 「けど先輩。稽古もいいですけど、ほどほどにしないとダメですっ。突き指でもタイヘンなのに、指の骨が折れかかるなんて普通じゃないと思います」 「いつ……! さ、桜、もうちょっとゆっくり包帯巻いてくれ、たのむ」 「痛いのは当たり前です。こんな怪我してるのに放っておいたら腫れるに決まってるじゃないですかっ。これも天罰と思って諦めてください」 「っ……!」  ぐるぐるぐる、と中指をテーピングしてくれる桜。  突き指の手当ては弓道部でなれているのか、実に手際いい。  手際いいんだけど、桜にしてはかなり荒っぽいのではなかろうか。 「それにセイバーさんもセイバーさんです。  先輩より上手ならもう少しやりようがあるんじゃないですか? 先輩、体のところどころが腫れあがってて、これじゃお風呂にも入れません」 「桜。言葉を返しますが、それはシロウが望んだ事です。  私はシロウの要求に応えたにすぎない。  それに今夜の怪我はシロウにも責任がある。自分から手合わせを願ったというのに、集中力がまったくなかったのですから」  じろり、と不満げにこっちを見るセイバー。 「う――――」  それを言われると、申し訳なくて押し黙るしかない。 「え……先輩、気分でも悪かったんですか?  ……その、不確かな気持ちのまま道場に入るなんて、先輩らしくないですよね……?」 「まったくです。一体何に気を取られていたのですかシロウは。竹刀を握っても見ているのは空ばかりで、気迫がまったく感じられなかった」 「……いや。それは、その」  原因は目の前にいる桜なのだが、そんなこと言えるワケがない。そればかりか、思い出すとまた心臓がおかしくなりそ―――― 「先輩?  ……あの、まだ痛いところがあるんですか……?」  桜は心配そうに覗き込んでくる。 「っ……! い、いや、もう大丈夫だっ! 食いすぎで胃がもたれただけだから、お茶でも淹れてくれれば助かる!」  咄嗟に桜から顔を離す。 「そうですね。それじゃ食後のお茶、淹れてきます」  桜はお茶の支度をしに台所に立つ。 「……はあ」  ……ほんと、心臓に悪い。  さっきの寝姿が脳裏に焼きついてしまっていて、傍に来られると否応なしに意識してしまう。 「セイバーさん、お茶でいいですかー?」 「はい。〈温〉《ぬる》めでお願いします」  桜はテキパキとお茶を淹れる。  ……その後ろ姿は、随分と見慣れていたものの筈なのに、初めて見るような新鮮さがあった。 「っ……」  ああもう、なんだってこう思い出しちまうのか。  セイバーに指摘されたように、さっきから俺はどうかしてる。  桜を見るだけで、その、以前の寝みだれた姿とか、さっきの柔らかそうだった唇を連想してしまう。  ……みっともない。  俺にとって桜は家族で、大事な後輩なんだ。  それを―――なんで今になって、こんな風に意識してしまっているのか。 「――――――――」  ………………くそ。  分かってる、ホントはちゃんと分かってる。  桜はキレイだ。そんな事、ずっと前から気付いてた。  けど、それに気付いていても、桜にだけは先輩として接してきた。  桜の事は好きだ。  ……自分でも知らないうちに桜がいてくれる事を当たり前だと思っていて、それに安堵している自分がいる。  けれど、好意の意味合いが違う。  俺は桜を抱きしめたいと思った事はない。  女の子だってちゃんと分かっていながら、異性だと意識した事はなかったのだ。  ただ、それは。  思った事がないのではなく。  ……今まで、思わないようにしていただけではなかったのか。 「先輩?」 「どうぞ、お茶はいりました」 「あ――――ああ、さんきゅ、桜」 「どういたしまして。先輩も夕食ごくろうさまでした」  嬉しそうに桜は笑う。  ……ん。そんな顔をされると、こっちも嬉しくなってしまう。  夕食の豚つくね焼き野菜添えは随分気に入ってもらえたようだ。  桜はセイバーにもお茶を淹れて、自分の定位置に戻っていった。  食後のお茶が嬉しいのか、満足そうに緑茶を受け取るセイバー。 「いただきます。……しかし大河はどうしたのでしょうね。ここのところ彼女の姿をあまり見ませんが」 「え? ああ、藤ねえならさっき連絡があって、今夜は来れないって。詳しくは聞けなかったけど、病院を回るとかなんとか言ってた」 「そうですか。大河はシロウの癖に詳しいですから、もう少し話が聞きたかったのですが。  ……仕方ありません、シロウの強化は次の機会にするとしましょう」 「―――む。もしかして、昨日と今日の稽古はまだ序の口だったのかなセイバー」 「当然です。今までの鍛錬は、単に“今のシロウができる事”を体で知ってもらっただけですから。  シロウの特性を生かした生存方法を考慮するのはこれからです」 「――――そうか。ハードっぽいな、それ」 「厳しい、というのであれば厳しいですが。そもそも、今までの鍛錬は準備運動にすぎません」 「うわ」  そ、そうなのですか。  こりゃ今晩やってこない藤ねえには感謝するべきなのか、しないべきなのかフクザツなところだ。 「なんですか今の溜息は。シロウ、これは貴方の為になる事であって――――桜?」  セイバーの視線が桜に向けられる。 「え?」  釣られて桜を見る。  と―――― 「――――――――」  正座したまま、桜は苦しげに呼吸を乱していた。 「桜……!」  駆け寄って肩を揺さぶる。 「え……え、せ、先輩、なんでしょーか……!?」 「バカ、なんでしょうか、じゃないだろ! おまえ、また俺たちに黙って無理を――――」  ……して、なかった。  桜の肩は熱くないし、桜本人もいたって元気で、不思議そうに俺を見上げていたりする。 「あれ―――いま、その。桜が、苦しそうにしてたから」 「あ。いえ、違いますよー。わたし、ちょっと寝ちゃってただけです」  あはは、なんて照れ笑いをする桜。 「……脅かすな。昨日の今日なんだ、風邪がぶり返したと思っただろ」 「すみません。今日は一日中眠くて、気を抜くと目蓋が落ちちゃうんです」 「そっか。ま、夕方も寝てたしな。疲れてるならもう休んでいいんだぞ。後片付けは俺がやっとくから」 「ぁ……は、はい、そうですね。それじゃお言葉に甘えて、先に失礼させてもらいます」  ぺこり、と一礼して桜は居間を後にする。  足取りはしっかりしているし、本人の言う通り寝不足なだけなんだろう。   「んじゃ、まったねー。明日こそ遅刻しないでよー」    怪しい呂律のまま、彼女は友人を見送った。  あたりに人影はなく、ロータリーは完全に休止している。  友人たちを乗せたタクシーが最後の一台だったのか、それとも単に出払っているだけなのか。  人に満ち光に溢れて息づいていた駅前パークは、血の通わぬ作り物に還っていた。   「んー――――ま、こんな日もあるか」    ほろ酔いのまま帰路につく。  タクシーがなかろうが電車が最終をすぎていようがかまわない。    彼女のマンションはすぐ近くだ。  三駅離れた町に住む友人たちを送り出し、一人さみしく帰るのもいつものこと。  まだ零時前だというのに静まり返ったロータリーの真ん中を歩いて、彼女は揚々と家路についた。   「―――――――」    だが。  それが“いつものこと”でなくなったのは、どのあたりからだったのか。    無人の街並み。  光の届かない路地裏。  暗い物陰から感じる寒気。  そういったカタチのない不安が、彼女の神経を削っていく。   「――――ちょっと。誰かいるの?」    振り返る。ついてきているモノは、無口で愛想のない影法師。   「――――」    歩を速めた。  とにかく、ここにいては危ないなんて思ってしまった。  考えすぎとは思えなかった。  誰かがついてきている感じなどない。そもそも彼女には、誰かにつけられても“危ない”なんて気付ける勘の良さなどない。  彼女はいたって普通の、善良な一般市民なのだから。   「――――ちょっと、なによ、これ」    だというのに、漠然と体が震えていた。  イヤな気配だけが強まっていく。  ……これはそう、子供のころ、夜中に目を覚まして動けなくなった時と同じだ。  部屋の隅に誰かが〈蹲〉《うずくま》っている気がしてトイレにも行けず、朝が来るまで眠ったフリをしていた、あの、世界そのものから拒絶されているような不安に似ている。   「…………ん…………は…………、は…………っ」    気がつけば小走りになっていた。  いつもの家路とは違う。  目の前の道は危ない。  いつもの道はそのどれもが真っ暗だ。  彼女は“危ない”と感じるのと同じ、“安全”と思える直感だけを頼りに、気がつけばつんのめるように走っていた。   「は――――は、は――――!」    ……それで、いつから小走りは全力走になったのだろうか。  見えもしない何かを恐がる自分を滑稽だと理解しながらも、もう止まる事はできなかった。    ただ犬のように走り回る。  喉はカラカラに渇いているのに、汗をまったくかいていないのも不思議だった。    ―――夜の街。  連続する原因不明の事故。  その中に通り魔なんて項目はなかった筈だ、と彼女は自分に言い聞かせる。  周囲に人影はない。  今夜にかぎって誰もいない。    それで――――こんなにも、他人事のようなのか。  見慣れたはずの街は、誰も彼女を見つけてくれない、鏡の中の模造品じみていた。   「あ――――れ」    そうして終着についてしまった。   「――――おかしいな、どうして」    こんな場所に、自分から来てしまったのか。   「……あは。なにしてんだろ、わたし」    なんだか無性におかしい。   「はは。……あははは。あはははは」    おかしいので、喉が他人の物のように笑っている。    彼女はただ走っていただけだ。  いつもの道は、そっちに行くと取り返しがつかなくなると思った。  だから安全な方、安全な方へと道を変えて、ついに、     「は。あははは、あはははははははははははははは!」    ―――ようやく。  初めから、逃げ場なんてなかったと気付いてしまった。    草の陰から飛び出してくるモノがあれば、  木の枝から降ってくるモノもある。  それは最初に、ボタリ、と彼女の頭上に落ちて、     「――――――――――――…………!!!!」    悲鳴が聞こえない。  体が背中から地面に倒れる。  足首に激痛が走った。冗談みたいに痛い。まるでカカトから先が無くなったみたいに痛い。   「████████████」    そんなハズはないので指先を動かそうとしたら、感覚そのものがなかった。  そのかわり、無くなったトコロから、ずふずぶと新しいモノが入ってくる。  それが何なのか、血に塗れたまだ見える目で確認する。    なんであるか、彼女にはもう見えなかった。  ただ、ワケのわからないものが自分の体に〈集〉《たか》っているだけ。   「――――――あは」    それが何をしているかは、なぜか目に入ってこなかった。    蟲はじぶじぶと潜っていく。  子供のころ、お風呂場のスポンジに〈虫〉《うじ》が集ったのを見たことがある。  そっくりだ。  もっと近いイメージで言うと、リンゴに穴をあけて踊る尺取虫。   「ひ―――――あは、けど、ヘンじゃない」    その、わりかし現実的な連想と今の風景がよく結びつかない。  なにしろこんなハズがないのだ。  こんな事、自分に起きるハズがない。  もう零時になる。  わたしはすぐに部屋に戻ってお風呂を沸かして、いた、今日一日の疲れを笑い飛ばして、いたい、それで、髪が乾くまでの間、いたいの、たまったビデオを消化して、部屋に戻って戻って戻って――――  覚まし時計で戻りたい起こされてひぎ、もどら、ひぎ、会社に行く、ひぎ、ために部屋に戻らないと戻らないと。   「――――だから会社に、部屋に戻りたい、戻りたい戻りたいのに  どっかいけ、違うって言ってるでしょ、やめて、やめてよ、おねが、お願いします、わたし、わたしを部屋に帰してください、おねが、おねがいいいぃぃイイイやあああ、アンタたち、もうやだ、なに、なにかってにわたしの…………!!!!」    ――――惨劇は五分とかからずに終わった。    凄惨な光景だったか、仮に栄養を摂る事を食事と呼ぶのなら、それにとってはまさしく食事だったのだ。   「む――――ぬ」    倒れ伏していたモノが起き上がる。  先ほどまで女性だったソレは、今では干からびた老人の体になっていた。   「ぐ――――う、む。首〈の〉《コ》挿げ〈替〉《レ》えばかりは、いつになっても慣れぬものだ、な」    しわがれた声が響く。  集っていた蟲の姿はない。  それらは食事を終えて自らの巣、老人の体に戻っていった。  つまり―――かつて女性だったモノの内部、自らが食い散らかしたモノの代わりとなったのだ。    その光景を、一部始終観察していたモノがいる。    木々の狭間。  交差する枝の影に不釣合いな白い面が浮かんでいる。  人の頭骨で作られた面は、道化のような笑みを浮かべている。    仮面の主は言うまでもない。  第七のサーヴァント―――偽りのサーヴァントより生じ、ランサーを破った主不在の英霊、アサシンである。   「―――器用なものだ。先ほどの体も、もとより借り物だったという事か」 「……ほぅ? 見ておったのかアサシン。そうよ、ワシの肉体はとうの昔に滅び去っておる。こうして既に出来上がっている体に寄生するだけのおいぼれでな、他の者どものように、日の下に出られる体ではない」    呵々と笑う姿は、紛れもなく間桐臓硯のものだ。  女を襲い、その体を己が物にするのに数分。  いかに卓越した魔術師といえど、その速さは異常と言える。   「……そうか。〈女〉《もと》の体などどうでもよい。単に一人分の肉が必要なだけなのだな。そうして得た肉を好みのカタチに作り上げるワケか。  どのみち中身は蟲どもなのだ。人間としての機能は蟲どもが果たす。……まさに擬態よな」   「ほほう。わずか一日で饒舌になったではないかアサシン。その様では、己が望みを思い出したか?」   「―――無論。我は同じ望みを持つ召喚者にのみ呼び出される。魔術師殿の“不死”への渇望がこの身を招いたのだ。故に、私が望むは永遠のみ。  だが――――」    黒い影が揺らぐ。  表情などない〈髑髏〉《どくろ》の面が、老魔術師を凝視する。   「いささか疑問が生じた。魔術師殿は既に不死。その年月も五百を越えよう。ならば、望みはとうに叶っているのではないか」 「――――ほ」  老魔術師は肩を震わせて声をあげた。  それが笑い―――悦びによるものではなく、憤怒によるものだとは誰が知ろう。    ―――そう、確かに間桐臓硯は不死に近い。  今のように苗床となる肉体があり、本体である彼の〈魂器〉《ようき》が潰されないかぎり生き続ける。    だが―――そこにあるのは苦痛だけだ。  間桐臓硯とて好き好んで老人の体を作っているのではない。    自らを人でないモノに変貌させ、人の擬態をする。  その魔術には限界があった。  機械と同じだ。理論上は永久に動くとしても、理論を実践する部品は年月と共に錆びていく。  部品は錆びる。歯車はズレていく。〈思考〉《プログラム》は、進化し続ける時代に追いつけなくなっていく。   「―――いやいや、ワシは不死ではないぞアサシン。  ワシの体は腐る。何度新しい肉体を得ようと腐る。何をしようと腐っていくのだ。  この新しい肉体とて既に腐敗が始まっている。  生きたまま自身が腐っていくこの不快と屈辱―――自らが人ではなく蟲なのだと受け入れる絶望、と言えば解ってもらえるかな」   「何故腐る。蟲どもではまっとうな肉体を作れないのか」   「呵々、そのような事はないぞ。蟲どもは活きが良いからな。肉体面では何の問題もない。もとより老いる体を憂いて寄生体となった身だ。肉体面の防備にぬかりはなかった。  ワシは永遠に生き続ける方法、人間として留まれる方式として、この延命法を選んだつもりじゃ」   「……ますます判らぬな。完全な肉体維持を選んでおいてその始末なのか。そもそも何故、外見を老人に模す。  肉を粘土のようにこねるのなら、如何様にも姿は変えられよう」   「よい質問じゃ。では問うが、もとの肉体を完全に失ったモノが、自らの力だけでかつての〈肉体〉《じぶん》を復元するとしよう。  その場合―――肉体を元の形に戻すものはなんだと思う?」 「―――肉体は己の肉体を記録している。肌が削げ、肉が落ちようとかつての姿に戻るのは、肉体そのものに〈遺伝子〉《せっけいず》があるからだ」   「うむ。遺伝子に記録された構成図じゃな。だがワシの場合は違う。そも、自身の構成を記録していた〈遺伝子〉《にくたい》そのものを失ったのだ。〈肉体〉《せっけいず》を以って肉体を復元する事はできぬ。  その場合―――自己を覚え、元通りの“カタチ”にするモノはなんだと思うね?」   「――――――――」    答えるまでもない。  それは魂だ。  肉体が所属する物質界の法則ではなく、その上にあるもの、星幽界という概念に所属する物体の記録、世界そのものの記憶体。  ……そう、魂が健在ならば、肉体や遺伝子、細胞を失ったところで、かつての自分を復元できるだろう。    では、この老魔術師は、つまり。   「―――なるほど。自身の魂だけを生かし、肉体は生きているモノたちから摂取する―――それが魔術師殿の不死の正体か。  故に他の姿にはなれない。魔術師殿が存命させているモノは肉体ではなく魂。  故に、〈マトウゾウケン〉《たましい》以外の姿は形作れない、と?」   「当然であろう。ワシとて好き好んで老人の体を得ているワケではないわ。  ……よいか、ワシはこの姿しか作れんのだ。それも定期的に替えねば腐り落ちる不出来なモノよ。かつては一度の取り替えで五十余年活動したワシが、今では数ヶ月に一度取り替えねば存命できぬ。  ……その矮小さ、腐敗する苦しみが誰に理解できようか。間違えるな今代のアサシンよ。そのようなモノを、二度と不死と称するでない――――」    老魔術師の声には苛立ちが含まれている。  召喚より三日目。  ようやく暗殺者は、己が召喚者の正体を目の当たりにした。   「……納得がいった。つまり、腐っているのは肉体ではなく」 「……そう、〈魂が腐っておる〉《・・・・・・・》。  時間の蓄積は幽体にさえ影響を及ぼすのだ。故にワシの体は腐る。構成図である魂が腐っていては、肉体が腐り落ちるのも当然であろう」   「ふむ―――故に聖杯を求めるか。  ……憤る訳よな。その永遠、なまじ永久を知らぬ者より辛かろう」 「そうだとも。  ……ワシの体は腐る、腐るのだ。その苦しみ、骨の髄まで侵す〈時間〉《どく》から解放されねばならん……!  その為の聖杯、その為の死なない体よ」   「……そうだ。ワシは死にたくない、まだ〈存在〉《い》きていたい、この世から消えてなくなるなど考えるだに恐ろしい……!  ソレから逃れる為に何百年と生き、腐敗から逃れる為に何千という肉を食らい続けた……! 解るか山の主よ、ワシはこの蟲と化した自身が恨めしい、ワシだけが腐ることが恨めしい、人として当然のように、正しい肉体を授かる〈人間〉《むしども》が恨めしいのだ―――!」   「――――――――」  白い面は、じくじくと腐る老人を静かに見下ろす。    ……安穏と生きる人間が恨めしい、とはよく言ったものだ。  その安穏から逃れる為に用いた術が、自身を苦しめているだけの話。  この魔術師の苦しみ、生きている限り肌を〈溶〉《と》かし肉を〈爛〉《ただ》れさせ骨を〈侵〉《おか》す“腐敗”は自業自得だ。    だが、その苦しみはもはや“誰が悪い”などという次元で済ませられる問題ではない。  善悪の所在、原因などどうでもよいのだろう。    何しろ―――これは憶測ではあるのだが、間桐臓硯はとうに常軌を逸している。    自身の体が腐る、などという苦痛と恐怖は、常人ならば一時間と耐えられまい。  どれほど屈強な精神を持っていようと耐えられまい。  なにしろ死ぬ。  一時間も腐れば肉体が死ぬ。  それを二百年。  絶えず自身を腐らせてきた“人間”の精神がどれほど腐っているかなど、この老魔術師以外に理解できよう筈がない。    間桐臓硯はもはやヒトを棄てている。  地上のどの人間からもその心境が計れぬ時点で、いかに正気であろうと、ソレは常道を逸脱したと評すべきだ。   「数百年の妄念か。私には理解できぬが――――」    その代わり、老魔術師の独白はたった一言に要約できる。            ――――死にたくない。  ――――死にたくない。  ――――要は、この男は死にたくないのだ。    ただそれだけの、誰もが持ちえる妄念が明確になっているだけ。  その単純で愚かな希望に縋り、多くの人間を犠牲にしてきた。  聖杯を得る為にいくつもの種を蒔き、犠牲者を増やしてきた。    否。  そもそもこの老魔術師の存在自体が、第三者の犠牲の上に成り立っている。  それは――――仮面の暗殺者にとって、何よりも〈忠〉《しん》じるに足る“理由”であった。   「理解できぬが―――魔術師殿は、この私のマスターに相応しい。  よかろう。人として扱われなかったモノ同士、共に永遠を目指すとしよう――――」    髑髏がかしずく。  黒衣のサーヴァントは礼を以って、いまも惨たらしく腐敗をさらす老魔術師に、白い髑髏の頭をたれた。    そうして昼休み。  暗黙の了解になりつつある屋上で合流して、とりあえず昨夜の出来事を話してみた。    ――――で、その結果が。   「じゃあなに!?  間桐臓硯はアサシンのマスターで、セイバーじゃなく衛宮くんを殺そうとしたの!?」    こう、いつになく怒り出した遠坂だった。 「そ、そうだけど、なんだいきなり」 「いきなりじゃないっ!  聞いた限りじゃ臓硯のヤツ、セイバーが倒されてから衛宮くんを殺そうとしたんでしょ? そんなのヘンよ、どう考えても手順が違う!」  くわ、と身を乗り出して睨んでくる遠坂。  その、気合っていうより敵意に近い迫力に思わず数センチだけ後退するが、場所はもう定番になった給水塔の裏側である。 「ちょっと。人の話聞いてる衛宮くん? 今の話、貴方はなんとも思わなかったの?」  じろり、と不平不満を込めた一瞥をくれる遠坂凛。 「う」  ……その迫力だけでも手に余るっていうのに、こう目の前にまで近づかれると気が気でない。  ただでさえ狭いここに、後退するスペースなどないのだ。  時はまさに袋のねずみ、うう人類に逃げ場なし。 「えーと…………その、どのあたりが違うんだ?」 「優先度の問題よ。貴方と二人きりになったのに、臓硯は貴方を殺そうとしなかった。  アサシンが勝てたから良かったものの、負ける可能性だってあったんだから、臓硯はセイバーのマスターである貴方を早く倒そうとするはずでしょう」 「……いや、それはそうだけど。  臓硯は、アサシンがセイバーを必ず倒せるって自信があったんじゃないか?」 「まさか。アサシンがセイバーより弱いっていうのは衛宮くんでも判ったんでしょ? なら、あいつはそんな賭けはしないわよ。  ……そうしなかったのは理由があったからでしょうね。  ま、考えられるのは二つぐらいだけど」 「二つ……? んーと、それは」   「それは、俺の反撃を警戒していたからか?」 「どうかしらね。聞いた限りじゃ衛宮くんの反撃なんて通用しなかったんじゃない? それに、わたしが臓硯なら策に嵌めた敵に反撃する余地さえ残さないわ。  罠を張るって事は、確実に倒すって意思表示だもの。  策に嵌った相手の反撃を警戒するなんて、そもそも罠として失敗よ」 「なるほど。完璧主義者らしい意見だな、遠坂」 「わたしのは一般論よ。敵を生け捕りにしたいんなら、わざわざ獲物と同じカゴの中になんて入らないでしょ」 「……それは、あの場で俺を殺したくなかったからか?」 「……ま、それが一番納得のいく理由よね。  となると、臓硯はセイバーを消したくなかったと見るしかない。衛宮くんが死ぬ事によるマイナスなんて、セイバーが消える事だけだものね」 「そりゃあな。うん、俺の扱いなんてそんなもんだ」 「ちょっ、なに拗ねてるのよ。あ、あくまで臓硯にとっての話ってコトなんだから、軽く聞き流しなさいよね」 「? いや、別に拗ねてないけど。事実だし。けど、なんだってそんなコトで怒るんだよ遠坂は」 「! ――――べ、別にわたしだって怒ってないわ。  衛宮くんの勘違いでしょ」 「……臓硯の余裕かな。いつでも俺を殺せるって慢心してたのか」 「……そうね、他に理由があったんでしょうけど、衛宮くんを生かしていたのは臓硯の余裕だったのかも。  そう考えると付け込む隙にはなりそうだけど……」 「とにかく、臓硯はセイバー自身に用があった。  マスターとして衛宮くんには生きていてほしかったんでしょうね。けど、それとは別のところで臓硯には衛宮くんを殺す理由があった。  ……もう一度訊くけど。あいつ、確かにもう用済みって言ったのね?」 「――――――――」  ……昨夜の出来事を思い出す。         「遠坂の娘にはまだ利用価値があるがな。  小僧、おまえは用済みよ――――」 「……ああ。遠坂にはまだ利用価値があるとも言ってた」 「そう。……そっちの方はてんで予想がつかないけど、わたしから逃げ回ってるのはそういうワケか。  会ってしまえばどちらかが死ぬしかない。けど、臓硯は自分もわたしもまだ生かしたがってるから、今は会わないように隠れてる――――」  ふむ、と遠坂は考え込む。 「……………………」  ―――さて。  伝えるべき事は伝えた。  他に言うべき事があるとすれば、それは――――    ……いや、言うべき事などない。  これは自分だけの問題だ。  俺は戦い続ける事を選んだ。    間桐臓硯とアサシン。  町を徘徊する黒い影。  聖杯を巡るマスター同士の戦い。  それを止める為に戦うと決め、セイバーを犠牲にした。  ……なら、これ以上誰かを犠牲にする事はできない。    ここからは、俺一人で戦わなければ。 「衛宮くん……? どうしたの、いきなり黙り込んで。  他に話してない事があるとか?」 「いや、話は今ので終わりだ。俺はセイバーを失って、マスターでなくなった。遠坂と戦う理由はこれでなくなったよな」 「そうね。貴方が聖杯戦争から降りるなら、協力関係もいずれ敵になるって話もなくなる。……じゃあ、衛宮くん」 「ああ。俺はここで降りる。セイバーがいないんじゃ、半人前の俺に勝ち目はない」  席を外す。  遠坂を残して出口に向かう。 「じゃあな遠坂。―――臓硯には気をつけるんだぞ」 「ちょ、衛宮くん――――」  振り向かずにドアを開ける。  未練を断つように屋上を後にした。  ―――一日が終わる。  あの黒い影と臓硯を追うにしても、行動は夜になってからだ。  戦力的に劣る自分に必要なものは、武器と確かな情報だろう。  ……夜を待って柳洞寺か間桐邸に忍び込んで、何か手がかりを得なくては。 「―――桜の看病もあるしな。今は夜を待とう」  戦いを続けるのは夜になってからだ。  それまでは桜の看病に専念したい。  ……時間もあるし、商店街によって数日分の買い物を済ませて帰ろう。 「ただいまー」  声をあげて玄関に入る。 「――――――?」  ……と。  中に入った途端、嫌な違和感に襲われた。 「―――足跡……?」  廊下には、何か、足跡らしきものがあった。  何者かが土足で踏み入った形跡と、人の気配がしない屋敷。  靴は桜のものだけで、頼んでおいた家政婦さんは帰ったようだ。 「桜」  客間に入る。  部屋には誰もいない。  嫌な違和感は、不吉な確信に変わっていく。  居間に戻る。  ここにも桜はいない。  廊下から続く足跡は居間で終わっている。  土足のままあがった何者かは、ここで何かをして、また外に出て行ったらしい。  ―――直感した。  さっきまで、ここに桜がいた。  桜は居間にいて、一人で俺の帰りを待っていた。  土足で乗り込んだ侵入者の形跡。  熱で休んでいる筈の桜の不在。  話はそれだけだ。  結論が出ない方がおかしい。  少し考えれば答えははっきりと出る。  冷静に。  冷静に。  冷静に。  冷静になって考えれば、何が起きたのか読み取れる。  だっていうのに、どうして――――   「―――――――」    この頭は、少しも動いてはくれないのか。  もっと早く帰るべきだった。  もっと真剣に考えるべきだった。  俺はこうなる事を恐れて、桜をうちに預かったのではなかったか。  桜は無関係だと間桐臓硯は言った。  そんな言葉をどうして信じたのか。  桜が間桐の人間である限り、無関係なんて事はない。  なのに、どうして。  どうしてそんな、俺にだけ都合のいい話を、簡単に鵜呑みにした――――! 「―――――」  電話の呼び鈴が鳴り響く。  真っ白になった頭で、機械のように受話器を取る。   『もしもし? やっと帰ってきたの、衛宮?』    愉しげな声は、間桐慎二のものだった。 「――――桜をどうした」 『え? なんだ、桜がいなくて衛宮が悲しむと思って電話してやったのに、物分かりいいじゃない。すごいね、何も言ってないのに状況が判ってるんだ』 「うるさい。桜をどうした」 『は? どうしたって、迎えに行ったんだよ。あいつは僕の妹なんだから、いつまでも他人の家には置いとけないよ』 「慎二」 『はは! いいね、カッカきてるじゃんか衛宮! 桜を連れ戻されて悔しいってワケだ!』  悔しい……?  まさか。そんな余分な感情はない。 「回りくどいのはいい。手っ取り早く用件を言え」 『へ―――わかってるだろ。いいかげんカタをつけようぜ衛宮。おまえだって、この間の一件で済んだなんて思ってないよな?』 「いや、思ってる。おまえは逃げただろう。カタなんて、それでついているんじゃないのか」 『ついていないっ……! アレはサーヴァントの差だ、おまえの力じゃない! セイバーさえいなければ僕が逃げるなんて事はなかった! 今だって、セイバーさえ出てこなければ僕が負ける筈がない……!』  セイバーさえ出てこなければ……?  ……そうか。慎二は俺がセイバーを失った事を、ライダーから聞かされていないらしい。  ライダーの意図は解らないが、ともかく、慎二は俺が未だマスターだと思っている。    ああ――――だから桜を強引に連れ戻したのか。    つまり、この電話は。 「慎二。桜をどうする気だ」 『物騒なこと言うね。大事な妹にどうもしないさ  おまえが一人で僕のところに迎えに来るなら、な』 「……セイバー抜きで戦えって事か」 『ひゅう。なんだよ、今日はえらく冴えてるじゃないか衛宮。いいかい、場所は学校だ。一人で迎えに来るなら桜はそのまま連れて行っていい。  ……ああ、けど下手な考えは起こすなよ衛宮。学校にはライダーが結界を張ってるからね。セイバーを連れてくればすぐに判る。  もっとも――――おまえが桜の前でそんな卑怯な真似をするとは思ってないけどね』  受話器越しに、くぐもった笑い声がした。 「すぐに行くから待ってろ。――――桜には手を出すな」 『オーケー、できるだけ早く来いよ。  けどまあ、少し帰りが遅すぎたんじゃないかな。  大事な僕の妹を待たせるなんて、なんて非道い奴だろう。なぁ衛宮?』 「―――桜に何をした、慎二」 『何も? それどころかライダーを抑えるのに必死だよ。あの夜と同じさ。ライダーのヤツ、困ったことにさっきからご馳走を前にしたような顔で―――――』  受話器を叩きつける。 「なんで、直接俺にこない」  笑い声がまだ耳に残っている。  怒りで千切れそうな神経のまま、地面を蹴った。  外に出る。  見上げた空は暗く、じき日が沈もうとしていた。  今夜はきっと雨になる。  その前に、桜と一緒にここに戻ってこないといけない。  校舎には〈人気〉《ひとけ》がない。  昏睡事件の多発が下校時刻を早めた為だ。  五時を過ぎた今、生徒はおろか教師さえ残ってはいないだろう。  ――――背中には熱い鉄が入っている。    魔術回路はとっくに成っている。  俺に許されたただ一つの“〈強化〉《ぶき》”を、すぐにでも揮えるように集中する。    ――――ライダーの結界とやらか。    校舎は真紅に染まり、呼吸する度に肺が傷ついていく。  咳き込む喉から血が零れる。  構わず、階段を駆け上る。  確証はなかったが、予測はできていた。  慎二の性格上、馴染みのない場所には陣取らない。  あいつがいるとすれば三階の教室だ。  三階に上がる。  赤いフィルターは濃度を増し、一歩ごとに魔力を削ぎ落としていく。  俺を待っていたのか。  慎二は2年C組の前で俺を見据えていた。 「――――慎二……!」 「は―――ようやく来たね衛宮……!」  頭が白熱する。    ―――桜は教室の中か。    一刻も早く、桜の無事を確かめる。  その邪魔をするのなら、俺は容赦なく慎二を、 「出番だぞライダー、おまえを斬り倒したセイバーのマスターだ……! あの夜の借りを返してやれ……!」  立ち塞がる黒いサーヴァント。  ―――構わない。  相手が何であろうと、もう止まる事など出来ない。  ―――振るわれる短剣。    それを、自分でも驚くほどの先読みで躱した。  斬り上げられた短剣を躱し、ライダーの左横を通り過ぎる。  長い髪と長身のせいか、ライダーはすれ違う俺を掴まえられない。  ―――〈奪〉《と》った。    距離にしてあと五メートル、二秒とかけず慎二に詰め寄って、ライダーを操る令呪を、 「っ…………!!!!?」  舌が伸びる。  首を、背後から締め付けられた。 「――――ふう。ったく、なにやってんだライダー! 衛宮なんかにいいようにあしらわれて、それでもサーヴァントか!」 「………申し訳ありません。少々、彼の集中力を侮っていました」  ―――すぐ後ろからライダーの声がする。   「ぐ……、く、あ……!」  足が、床についていない。  ライダーのヤツ、鎖で首を締め付けたまま、俺を持ち上げて、いる―――― 「は――――が、ぐっ…………!」    抵抗しようにも踏ん張れない。  ライダーは背後、敵の姿は見えず、締め付けられた首は、もう――― 「冷静さを欠いた貴方の負けです、セイバーのマスター。  貴方にサクラは任せられない。……意に反しますが、ここで命を終えなさい」 「ぐ――――、っ…………」  ……意識が遠退く。  あと少し。  本当にあと少しだというのに、体は宙吊りにされたまま、    無残に砕かれる、骨の音を聞いていた。    ――――これからの事を決めなければならない。    俺は戦い続ける事を選んだ。  間桐臓硯とアサシン。  町を徘徊する黒い影。  聖杯を巡るマスター同士の戦い。  セイバーを失ってもそれを止めると決めた。    なら、なりふり構っている場合じゃない。  これ以上犠牲者を出さない為には、遠坂の助けが必要だ。 「―――遠坂。  俺はセイバーを失って、令呪もなくなった。なら、もうマスターじゃなくなったんだよな」 「……そうね。肝心な事を忘れてた。衛宮くんはもうマスターじゃない。聖杯戦争に関わる必要はなくなって、他のマスターに狙われる危険も薄れたわ」 「そうだな。俺が聖杯を欲しがったのは、セイバーが必要だと言ったからだ。……セイバーがいなくなった今、聖杯に興味はない」 「そう。それじゃ、貴方はもう戦わない?」  遠坂の目に感情はない。  あくまで平等に、自分の意志を混ぜず、マスターとして問いかけた言葉。 「――――――――」  それは問いではなく忠告だった。  これが最後のチャンスだ。  戻るのならまだ間に合うと、身を引いて帰り道を用意してくれている。 「――――――いや」  だが答えは決まっている。  今はその心遣いだけを、忘れないように覚えていよう。 「そんな訳ないだろう。マスターでなくなっても戦いからは降りない。俺は、戦いを止める為に戦うって決めたんだから」 「―――そう。ならわたしたちの関係も続行って事ね。  お互い敵同士だけど、とりあえずあの“影”を倒すまで休戦状態ってことで」 「?」  なんの前触れもなく遠坂は笑った。  何かいいことでもあったのか、さっきの無表情さが嘘のように親しげに感じられる。  ……まあ、それは俺の知るところじゃないからいいんだけど―――― 「―――ちょっと待った。敵同士ってどうしてだよ。  俺はもうマスターじゃないんだぞ。遠坂といがみ合う理由はないだろ」 「なに言ってるのよ。サーヴァントと令呪がなくなったからって、貴方がセイバーのマスターだった事に変わりはないでしょ。  まがりなりにも聖杯に選ばれた衛宮くんには、最後まで聖杯を手に入れる資格がある。無力化したところで競争相手である事に変わりはないわ」 「そうなのか? 俺に聖杯を手に入れる気がないとしても?」 「そんなの状況次第でしょ。もし聖杯が手に入る状況になって、衛宮くんもどうしても聖杯が必要になってしまって、仕方なく聖杯を使うって事もあり得ない話じゃないわ。  無欲な人間ってのはね、無欲だからこそ自分以外のものに引きずられるんだし」 「む。遠坂、それは考えすぎだ。仮に聖杯が必要になったとしても、俺が聖杯を手に入れられるワケないじゃないか」 「だからもしもの話。けど可能性はゼロじゃないわ。  だから、そういうコトを踏まえて敵同士だって言ってるの。マスターでなくなった魔術師が教会に逃げ込むのだってその為よ。  サーヴァントを失ったからって、他のマスターにとってみれば目障りな邪魔者なんだから。そのあたり、衛宮くんも気をつけて行動なさい。貴方を殺したがってるのは臓硯だけじゃないんだから」 「む………その忠告は、有り難く受けとっとくけど」  その、まだ遠坂と敵同士、というのは嬉しくない。 「? なによ難しそうな顔しちゃって。わたしと敵同士なんて今まで通りでしょ? なのに困るコトなんてあるの?」 「ある。それじゃ遠坂の力を借りられないじゃないか」 「は?」  ぴたり、と。  遠坂はお化けをみるような目で、まじまじと俺を見た。 「わたしの力を借りるって、なんで……?」 「なんでも何も、俺一人じゃ無理なんだ。聖杯戦争を止めるって事は、他のマスターを倒すって事だろう。けど俺にはそれだけの力がない」 「……情けないのはわかってる。けどなりふり構っていられない。俺に出来る事は少なくて、その中で一番いい方法がこれなんだと思う。  だから遠坂と敵同士にはなれない。  ―――遠坂とは休戦するんじゃなくて、協力者として助力してほしいんだ」 「……ちょっと。正気、衛宮くん?」 「正気だよ。俺は協力者としては力不足で、おまえの足手まといになるかもしれない。  おまえには俺と手を組むメリットがないし、俺にだって、おまえに返すものがない。  ……そうだな。普通、こんな協力関係は成り立たない」 「ふ、ふん。なんだ、分かってるじゃない。  貴方の言う通り、魔術の基本は等価交換よ。元手が無いヤツに物を貸すことは出来ないし、釣りあわない技術者に手を貸す事も出来ない。そんなの、本人の為にもならないって貴方でも知ってるでしょ」 「今までは休戦状態だったから相談に乗ってたけど、協力関係となると話は別よ。協力しあうって事は仲間って事で、そうなったら報酬だって山分けにしなくちゃならないんだから」 「ああ。けど、それを承知で頼む。  ―――俺に手を貸してくれ、遠坂。この借りは、生きている限り必ず返す」 「生きてる限りって、貴方ね――――」  ……迷惑だって事は百も承知だ。  それでも、俺が知る限り一番頼りになるのは遠坂で、聖杯を得るのが遠坂なら、何の間違いも起きないと信じられる。  だから協力する相手、勝利するマスターは遠坂しか考えられない。 「遠坂。答えを聞かせてくれ」  真正面から遠坂を見据える。 「……そ、そんなの決まってるじゃない。マスターじゃないヤツと組んでも、わたしは」 「遠坂」 「だから、そんなふうに言われても手助けなんて出来ないし、そもそも」 「遠坂」 「……それじゃまるで、ちゃんとした契約、みたいじゃない」  と。  遠坂は一度、大きく俯いて   「―――ああもう、わかったわよ! それじゃ交換条件!」    キッ、と真っ直ぐにこっちを見返してきた。 「? 交換条件って、どんな?」 「交換条件は交換条件よっ!  ……その、これは立派な契約だもの。  だから、今から言うコトを守れるなら、考えてあげないコトもないわ」 「??? 遠坂。さっきも言ったけど、俺、いま遠坂に返せるものは何もないぞ?」 「いいから聞く!」 「っ……! わ、わかった、とりあえず聞く」 「よし。じゃあ一つ目。協力関係になるのはいいけど、その場合、わたしの言う事はちゃんと守る?  戦いになった時、どんな指示でも文句言わない?」   「断る。絶対っていうのはたぶん無理だ」 「……あのね。一問目でいきなりそうくるなんて、何様よアンタ」 「だってそうだろう。あくまで例えばの話だけど、どう見ても無茶な作戦とか提示されたら困る」 「そんなヘマはしないわよ。そう見えたとしたら、それは衛宮くんの理解が足りないのっ。  ……まあいいわ。じゃあ、納得できる作戦なら従うってコトね」 「ああ。それなら守れる」 「それじゃ二つ目。わたしが信頼した分、わたしを信用できる? どんな事になっても、どんな酷いことになっても裏切らない?」   「む……裏切らないのは当然だが、最後のは頷けない。  どんな酷いコトになってもって、どんな酷いコトだよ?」 「そんなの決まってるじゃない。死ぬか、死ぬ一歩手前のコトよ。衛宮くんは元手がないんだから、それぐらいの覚悟は必要でしょ。  それともなに? 〈空手〉《からて》でわたしと取り引きしよう、なんて都合のいいコト言うの?」 「う、ぐ。痛いところをつくな、遠坂」 「当然でしょ。こっちだって遊びじゃないんだから、それぐらいの覚悟を見せてもらわないと割が合わないわ」 「……オッケー、わかった。なんとか善処する」 「そう。それじゃ衛宮くんは、これからわたしに絶対服従ってコトでいいわけね?」 「――――む」  物騒なコトを言う遠坂。  最後の質問っぽいけど、さすがにそれは――――   「――――て、いいワケあるかっ……! 魔術師として遠坂の指示が優れてるのは認める。けど、たまには失敗することだってあるだろ。  もし遠坂がおかしなコトを言い出したら、簡単に頷くことなんて出来ない。おまえが間違ってるって思ったら、その時はちゃんと反対する。きちんと協力するってそういうコトだろ」 「もちろん。そうでなくっちゃ協力なんて出来ないわ。  わたしは独走しがちなところがあるし、ブレーキ役がいなくちゃ危ないって思ってたの。  ええ、貴方がその役になってくれるなら助かるわ」 「え――――――――」  ……ちょっと、拍子抜けした。  文句を言われる覚悟で反論したのだが、遠坂は満足そうに頷いている。 「じゃあ最後の質問ね。  たとえば衛宮くんに出来ない事があって、それがわたしに出来る事なら幾らでも手を貸すわ。  けど……その逆になった時、貴方も同じコトができる?」 「? 俺に出来て遠坂に出来ない事……?」  そんなのあるんだろーか。  遠坂のヤツ、実はこう見えて料理ベタだとか? 「ちょっと。一番大事な質問なんだから答えてよ。イエスかノーか、早く」 「……いや。その、具体例でいってくれると助かるんだが」 「ああもうっ……! つまり、わたしを勝たせてくれるかってコト!」 「――――――――」  頬を赤くして、拗ねるように遠坂は言った。  それは子供の我がままに似ていて、今までの遠坂のイメージとはかけ離れている。  だっていうのに、その――――     「………ああ。  協力するからには、きっと遠坂を勝たせる。約束だ」      それを本気で、可愛いと思えてしまった。 「それじゃ学校が終わったら正門で待ち合わせね。  今日からしばらく、衛宮くんにはわたしの家で部活動をしてもらうから」 「む――――部活動って、遠坂の家で?」 「そ。手を組んだ以上、貴方を一人でも戦えるように教え込まなくちゃいけないでしょ?  ……ま、衛宮くんが素人だって事はあの夜で判ってるから、連日居残ってもらう事になるけどね」 「いや、それは構わないし、むしろ助かるんだが――― その、今日から?」 「あったり前よ。まず衛宮くんの力量を把握して、今夜からの方針を決めないといけないもの。  帰りはかなり遅くなるだろうけど、衛宮くんは一人暮らしだから問題ないわよね?」 「え? いや、その通りだけど。……なんでそんなコト知ってるんだ、遠坂」 「! だ、だって前に衛宮くんの手当てをした時、家に誰もいなかったから、そうだろうなって。  と、ともかくそういうコトだから、衛宮くんは正門で待ってればいいのっ」 「――――――――」  じゃあね、と軽く手を振って遠坂は走り去っていった。  今日は金曜……授業は六時限目まであるから、帰りは三時過ぎになる。 「……まいったな。桜には早く帰るって言ったけど、さすがに初日からキャンセルするワケにはいかないか」  家で養生している桜には悪いが、今日は遠坂に付き合おう。  ……まあ、遠坂だって鬼じゃないし。  桜のことを話せば、今日だけは早く帰らせてくれる可能性だってある……よな、きっと。 「っ……イヤな予感がするけど、それが交換条件なら仕方がない。遠坂の言う通りにする」  断腸の思いで承諾する。  ……と。  遠坂のヤツ、目に見えて不機嫌じゃないか……? 「なんだよ遠坂。今の、間違ってたのか」 「別に。わたしとしては理想的な答えだったわ。少し物足りないけど、貴方がそう言うのならそうするだけ。  じゃあそのままで、これからかける魔術を受け入れて衛宮くん。今の言葉を本物にするから」 「え……言葉を本物にする……?」 「〈強制〉《ギアス》をかけるってコト。呪いとしては最上級のものだから、おいそれと人にかけられるモノじゃないけどね。  貴方が承諾しているならわたしでも〈固定〉《ロック》できるわ」 「強制の呪いって……サーヴァントでいう令呪みたいなものか?」 「ええ。けどあそこまで多様性はないわ。  せいぜい金縛りにあうぐらいだし、貴方の命に関わる強制はできない。効果時間は聖杯戦争が終わるまで。それなら文句はないでしょ」 「あ……まあ、それなら確かに」 「じゃあ目を閉じて。しばらく動かないで、魔術回路も動かさないこと」 「――――――――」  ……言う通り目を閉じる。 「―――S〈a〉《告げ》t〈z〉《る。》.  Be〈k〉《汝》〈l〉《が》〈a〉《誓》g〈t〉《約、》er Meine 〈W〉《我》〈A〉《が》〈o〉《盟》〈r〉《約》ter wer〈d〉《天》〈e〉《秤》〈n〉《を》 gegl〈a〉《傾》〈u〉《け》〈b〉《る》〈t〉《。》.  We〈i〉《非》〈ß〉《は》 ist sc〈h〉《是》〈w〉《に》〈a〉《。》rz.  ri〈c〉《火》〈h〉《は》〈t〉《水》〈i〉《に》ge üb〈l〉《克》〈i〉《が》〈c〉《如》〈h〉《く》〈e〉《、》 Peitsche.  Die 〈V〉《衛》〈e〉《宮》〈r〉《士》〈g〉《郎》eltu〈n〉《を》g von 〈H〉《導》〈i〉《律》〈m〉《せ》〈m〉《ん》〈e〉《。》l」    ―――体の芯に火がともる。    遠坂の韻は体だけでなく心にまで浸透し、俺の神経に絡み付いてくる。    とくん、と小瓶が揺れるような音。  心臓の横に、  もう一つ小さな心臓が出来ていく――――    ―――昼休み終了の鐘が鳴る。  どれほど遠坂の魔術にかかっていたのか、休み時間は終わろうとしていた。 「はい終わり。これで契約は成立したわ」 「それじゃ学校が終わったら正門で待ち合わせね。  今日からしばらく、衛宮くんにはわたしの家で部活動をしてもらうから」 「む――――部活動って、遠坂の家で?」 「そ。手を組んだ以上、貴方を一人でも戦えるように教え込まなくちゃいけないでしょ?  ……ま、衛宮くんが素人だって事はあの夜で判ってるから、連日居残ってもらう事になるけどね」 「いや、それは構わないし、むしろ助かるんだが――― その、今日から?」 「あったり前よ。まず衛宮くんの力量を把握して、今夜からの方針を決めないといけないもの。  帰りはかなり遅くなるだろうけど、衛宮くんは一人暮らしだから問題ないわよね?」 「え? いや、その通りだけど。」  じゃあね、と軽く手を振って遠坂は走り去っていった。  チャイムは昼休みの終わりを告げている。  今日は金曜……授業は六時限目まであるから、帰りは三時過ぎになる。 「……まいったな。桜には早く帰るって言ったけど、さすがに初日からキャンセルするワケにはいかないか」  家で養生している桜には悪いが、今日は遠坂に付き合おう。  ……まあ、遠坂だって鬼じゃないし。  桜のことを話せば、今日だけは早く帰らせてくれる可能性だってある……よな、きっと。  遠坂による魔術診断は、わりあいあっさりと終わった。  お香を焚いてタロットカードじみた占いをして、いくつかの性格判断じみた質問に答えただけ。  遠坂は、   「―――該当なし。これ以上は無駄ね」    なんて言って、早々に衛宮士郎という魔術回路判断を放棄したのだ。 「うわ。それって判らないってことか?」 「失礼ね。衛宮くんが五大元素に関わってないってコトは判ったわよ。そこから先の聖別はわたしの専門外だから、これ以上調べるのは無駄でしょ。  あとは衛宮くんが使える魔術を見せてもらって、そこから推測するだけよ」  ……とのコトだった。  そうして、遠坂が用意した水粘土を相手に“強化”の魔術を復習した。  粘土はエーテル塊といって、いくら手を加えても元の固まりに戻る妙なもので、えらく魔力の通りがいい。  簡単に強化が働くので元に戻るか不安になったのだが、 「〈視肉〉《しにく》みたいなものだから気にしないで。よっぽど強い魔力でくくっても、一日で復元しちゃう材質だから」  とかなんとか。  ちなみに視肉っていうのは、中国に伝わる幾ら食べても減らない肉、だったっけか。  ……とまあ、ともかくひたすら粘土相手に“強化”を試した。  遠坂の手前失敗する訳にはいかなかったのだが、成功したのは十回中二回のみ。  セイバーがいる時はあれだけすんなりいった魔術回路の発現も、今回はえらく手間取ってしまった。   “強化”の魔術中、何度か遠坂に質問された。  その呪文は自己流なのかとか、強化以外に使える魔術はないのかとか、〈師匠〉《きりつぐ》はどんな教え方をしていたのかとか、それと―――一番イメージしやすいものは何かとか。    で。  質問の度に遠坂は顔を曇らせていって、最後には黙り込んでしまった。  何が気に食わないのか、こんな近くでそーゆー顔をされるとすごく居づらい。 「遠坂? ……その、当然だとは思うんだが、あまりの未熟っぷりに呆れて協力関係になったのを後悔してるとか?」 「え……? うん、後悔はしてるけど……未熟って言っても、貴方の場合は教え方が間違えられていたっていうか、よくもそんなやり方で今まで命があったっていうか」 「? おーい、遠坂ー。話が見えないぞー」 「……………………」  なんでそこで睨むのか、おまえは。 「……いいわ。とにかく根本から直さないとダメみたいね。それとさっきの話だけど、衛宮くんの工房には“投影”した物がまだ残ってるって本当?」 「残ってるよ。だって壊さないかぎり残るだろ、普通」   “強化”の息抜き、魔術が上手くいかない時の試しで行う“投影”については、さっきの質問で答えた。  遠坂はそれに〈拘〉《こだわ》っているようで、一度だけ、水粘土を使って投影しろと言ってきた。  お題は〈土瓶〉《どびん》。途中まで上手くいったものの、それも結局は失敗した。 「―――ふん。とりあえず衛宮くんにはスイッチの〈入れ方〉《オン・オフ》を仕込んであげる。  実際に体内にスイッチを作った方が手っ取り早いから、今夜はうちに泊まっていきなさい。荒療治になるから一晩寝込むことになるし」 「え――――一晩寝込むって、ここでか?」 「なによその顔。安心なさい、別にメスいれるってワケじゃなくて、ちょっと薬を飲んでもらうだけだから。ま、効果が強すぎるんでしばらくは動けなくなるけどね」 「あ……いや、荒療治が嫌だって話じゃなくてだな」  ……時計を見る。  時刻はもう五時前だ。  今日は曇っているから気がつかなかったが、もう夕暮れ時になっていた。  遠坂は戦友として、魔術師としての俺を面倒みてくれている。  それは嬉しいし、俺も助かるのだが、家に残してきた桜も心配だ。  ここは――――      ……やっぱり桜が心配だ。  遠坂には悪いが、はっきりと言うべきだろう。 「遠坂。それ、うちでやってもかまわないか」 「え? うちって、衛宮くんの家?」 「ああ。桜が風邪で寝込んでるんで、様子を見ておきたいんだ。一晩寝込む事になるなら、うちに帰って桜の様子を見ておかないと安心できない」 「しま―――そういえば、そうだった」  ……呆れてる。  そうだよな、俺から協力してくれって言い出して、今日は都合が悪いからもう帰るなんて言ったら誰だって腹をたて―――― 「馬鹿っ! もっと早く言ってくれたら、ここまで引き止めなかったのに……!」 「…………え?」  怒鳴るなり立ち上がって部屋を横断、ハンガーにかけてあったコートを羽織る。 「行くわよ。うちでやる事は済ませたし、あとは衛宮くんの家でも出来るわ。桜の看病が終わったら続きをするから、急いで戻りましょう」 「え――――あ、ああ。そうしてもらえると助かる」 「……ふん。それと、思い出すのも癪だからいまのうちに教えといてあげる。  ―――貴方の本分は“強化”じゃなくて“投影”よ。  何処でどう間違えて、何をどう勘違いしているかは知らないけど、貴方は本来“作る側”に属する魔術師なんだから」  遠坂はずんずんと廊下を歩いていく。 「?」  それに首をかしげながら、ともかく遠坂の後を追って、歴史のある遠坂邸を後にした。  ……協力すると言ってくれた遠坂を優先しよう。  桜の看病はしたいし、一人で過ごさせるのは心配だが、今日だけは特別だ。 「……ちょっと、なにそんな辛そうな顔してるのよ。  荒療治はイヤじゃないんでしょ? なら観念してわたしの手術をうけなさい」 「……ん、そうする。けど遠坂。確認するけど、本当に今日一日で終わるんだろうな? 明日も動けない、なんて事になったら困るぞ」 「……そうね。ぶっちゃけ、その可能性は否定できないわ。開いてみるまでは判らないって言うし、衛宮くんの体がもういじれないぐらい成長してたら長くかかるし、手術そのものが失敗する可能性だってあるし。  ま、そのあたりは運ね。衛宮くん、最近の運勢はどう?」  ……悪い。  何が悪いって、笑顔でそういうコトを訊いてくるヤツに〈命運〉《めいうん》握られてる時点で最悪だ。 「……ちょっと待ってくれ。そうなると、すごく困る。  俺、明日には家に帰らないと」 「え? うちって、衛宮くんの家?」 「ああ。桜が風邪で寝込んでるんで、様子を見ておきたいんだ。何日も帰れなくなるなら、その前にうちに帰って桜の様子を見ておかないと安心できない」 「しま―――忘れてた」  ……呆れてる。  遠坂は目を白黒させて俺を観察し、 「ばかっ! もっと早く言ってくれてたら、ここまで引き止めなかったのに!」  逆襲とばかりに、俺の目を白黒させた。 「スイッチの話は後! そんなのアンタの家でもできるんだから!」 「え、え……!?」  遠坂は怒鳴りながら部屋を横断し、ハンガーにかけてあったコートを羽織る。 「行くわよ。うちでやる事は済ませたし、あとは衛宮くんの家でも出来るわ。桜の看病が終わったら続きをするから、急いで戻りましょう」 「え――――あ、ああ。そうしてもらえると助かる」 「……ふん。それと、思い出すのも癪だからいまのうちに教えといてあげる。  ―――貴方の本分は“強化”じゃなくて“投影”よ。  何処でどう間違えて、何をどう勘違いしているかは知らないけど、貴方は本来“作る側”に属する魔術師なんだから」  遠坂はずんずんと廊下を歩いていく。 「?」  それに首をかしげながら、ともかく遠坂の後を追って、歴史のある遠坂邸を後にした。    秒針の音がやけに大きく感じて、壁にかけられた時計を見上げた。  時刻は四時過ぎ。  学校はとうに終わっていて、帰りに商店街によったとしても、とっくに帰って来れる時間である。   「……どうしたんだろう。先輩、遅いなぁ」    壁によりかかって、彼女はぼんやりと呟いた。   「――――あ、れ」    鈍く、熱を〈伴〉《ともな》った目眩がする。  口にした声の小ささに驚いた。  秒針は耳障りなまでに大きく聴こえるのに、自分の声はよく聴こえない。  〈耳朶〉《じだ》に響くのは簡単な音だけだ。  チックタック、と狂いなくリズムを刻む時計と、  とくんとくん、と苦しそうに血を送る心臓。  その二つの音が、耳をふさいでも頭に入ってきて、彼女の目眩はよけい強くなっていく。   「おかしいなあ……風邪、ほんとに治ってるのに」    だから家政婦さんには帰ってもらった。  熱を計ったら平熱だったし、お昼ご飯だって自分で作れた。  昼過ぎにはもういつもの自分に戻っていて、この屋敷の本当の住人が帰ってくるのを心待ちにしていたのだ。   「――――熱い――――」    なのに、今は体中が熱かった。  熱源は自分にはなく、自分以外の何かだと思う。  血管と血管の間、入り込む隙間なんてない筈の筋肉の重なり。  その中に自分以外のモノが入り込んでいて、自動車のエンジンみたいに回っている。    ―――そんな想像をしてしまうほど彼女の熱は高く、際限がなく、前例がないほど異常だった。    その感覚は奇怪といえば奇怪だったし、不快といえば不快だった。  苦しそうなのは自分だけではない。  体のなか、血管とか神経とかの間を這っていくモノたちもタイヘンそうだ。  たとえるなら、みっちりと肉の詰まった缶詰の中で、出口を探している子犬みたい。  熱の元凶……体の中で蠢く〈子犬〉《それら》は一生懸命で、与えられた役割を全力でこなしている。  それを思うとなんとなく愛らしい気がして、彼女はその感覚を憎む事ができなかった。   「……時計の音、大きい……」    ぼんやりと時計を見上げる。  時刻は四時半。  あと少し。あと三十分も経てば、きっと帰ってくる。  その時までにちゃんと体を落ち着かせて、体の中で走り回っているものを静めなくてはいけない。   「……だいじょうぶ……こんなの、何度もあったんだから……」    そう、この症状には慣れている。  子供の頃から何度も体験し、静め方も教わっている。  だから今回も簡単に静まると思って―――熱は下がらず、体の中のものは速度を増す一方だった。   「……やだ……なんかおかしいです、先、輩」    体が落ち着かない。  今まで出来たコトが出来ない。  何が足りないのか、何が必要なのか、何が変わってしまったのか。  それを必死に考えようとしても、時計の針が邪魔をして思考はちっとも定まらない。   「――――あれ……? この、音」    それが時計の音ではなく、この屋敷自体が発する警告音だとようやく気付いた時。   「なんだ、衛宮はいないのか。そりゃ都合がいい」    土足のまま、彼女の良く知る人物が現れた。   「兄、さん」 「おいおいどうした桜、衛宮がいないと思ったらこんな所にひとりで……こりゃ爺さんの言ってた通り、ライダーを使いすぎた反動かな」    男は居間にあがり、壁にもたれかかった少女に歩み寄る。   「ぁ――――」    体に力が入らない。  もとより体を動かす気力も湧かない。   「迎えに来たよ桜。おままごとの時間は終わりだ」    彼女を見下ろす顔には、貼り付けた笑い。   「――――兄、さん」 「ほら行こうか、衛宮とカタをつけるんだ。おまえもあいつの顔が見たいだろうからさ、特等席で見せてやろうと思ってさ」    男は少女の腕を引いて立ち上がらせる。   「ゃ―――――いや、です、わたし……!」    つかまれた腕を解こうとするが、彼女にそれだけの力はなかった。  男は彼女を引き寄せ、あくまで穏やかな素振りを装う。   「そう怒るなよ桜。妹は兄貴のいうコトを素直に聞いておくもんだぞ」 「やだ――――違う、約束が違う兄さん……! 先輩には、もう手出ししないって言ったのに……!」    涙目になって訴えかける。  それを、男は何事もなく受け流した。  あくまで優しい兄を演じて見せるが、上っ面だけの笑みは口の端が引きつっていた。   「ぅ―――――………………」    少女から嗚咽が漏れる。   「優しいだろう僕は。爺さんから預かったモノもあるけど、できればそんなものは使いたくないんだ」    男は外へ向かって少女の腕を引く。   「ぁ……――――」   「安心しろって。これも男同士のつきあいってヤツさ。約束は守るし、用さえ済めばココに戻っても構わない。ただちょっとさ、こんな状態の妹を放っておく悪いヤツにはお灸を据えないと、ね」    少女の耳元に触れるほど口を近づけ、男は愉しげに囁いた。   「――――、ぅ――――」    少女は口を閉ざす。  昔から一度決めたことに対して、人の話を聞き入れるような兄ではないことくらい、誰よりもよく知っていたから。   「そうそう、桜はいい子だな。それじゃあ一足先に行っていようか。ここで待つのも悪いし、どうせ遊ぶなら僕の作った陣地に招待しないと。ライダー、桜を連れて来るんだ」    少女をサーヴァントに渡し、男は居間を後にする。   「――――ライ、ダー」    少女が顔をあげる。  そこには長い、床につくほどの髪を流した、サーヴァントの姿があった。 「ただいまー!」  声をあげて玄関に入る。   「――――――――」    瞬間。  何か、嫌な違和感に襲われた。 「衛宮くん、廊下」 「――――――――」  言われるまでもない。  廊下には足跡らしきものがあった。  靴は桜のものだけ。  頼んでおいた家政婦さんの靴はなく、屋敷は静まり返っている。 「桜」  客間に入る。  部屋には誰もいない。  嫌な違和感は、不吉な確信に変わっていく。  居間に戻る。  ここにも桜はいない。  廊下から続く足跡は居間で終わっている。  土足のままあがった何者かは、ここで何かをして、また外に出て行ったらしい。 「……衛宮くん。そこの床見て。  踏み込んだ跡がここまで――――」 「わかってる。ここに桜がいた」  そう、わかってる。  桜は居間にいて、一人で俺の帰りを待っていて、今はいない。  廊下には見知らぬ足跡がある。  話はそれだけだ。  結論が出ない方がおかしい。  少し考えれば答えははっきりと出る。  冷静に。  冷静に。  冷静に。  冷静になって考えれば、何が起きたのか読み取れる。  だっていうのに、どうして――――   「――――――――、っ」    この頭は、少しも働いてはくれないのか。 「ちょっ、ちょっと衛宮くん……!?」 「――――――――」  もっと早く帰るべきだった。  もっと真剣に考えるべきだった。  俺はこうなる事を恐れて、桜をうちに預かったのではなかったか。  桜は無関係だと間桐臓硯は言った。  そんな言葉をどうして信じたのか。  桜が間桐の人間である限り、無関係なんて事はない。  なのに、どうして。  どうしてそんな、俺にだけ都合のいい話を、簡単に鵜呑みにした――――! 「―――――」  電話の呼び鈴が鳴り響く。  黙り込む遠坂に頷いて、ゆっくりと受話器を取った。   『もしもし? やっと帰ってきたの、衛宮?』    電話の主は慎二だ。  間違えようがないし、こんな事だろうと判っていた。 「桜をどうした」 『は? どうしたって、迎えに行ったんだよ。あいつは僕の妹なんだから、いつまでも他人の家には置いておけないよ』 「慎二」 『はは! いいね、カッカきてるじゃんか衛宮! 桜を連れ戻されて悔しいってワケだ!』  慎二の声が聞こえているのか、遠坂は身を乗り出してくる。  それを片手で制して、話の続きを促した。 「回りくどいのはいい。手っ取り早く用件を言え」 『へ―――わかってるだろ。いいかげんカタをつけようぜ衛宮。おまえだって、この間の一件で済んだなんて思ってないよな?』 「いや、思ってる。おまえは逃げただろう。カタなんて、それでついているんじゃないのか」 『ついていないっ……! アレはサーヴァントの差だ、おまえの力じゃない! セイバーさえいなければ僕が逃げるなんて事はなかった! 今だって、セイバーさえ出てこなければ僕が負ける筈がない……!』  セイバーさえ出てこなければ……?  ……そうか。  慎二は俺がセイバーを失った事を知らないらしい。  ああ――――だから桜を強引に連れ戻したのか。  つまり、この電話は。 「慎二。桜をどうする気だ」 『物騒なことを言うね。大事な妹にどうもしないさ。  おまえが一人で僕のところに迎えに来るなら、な』 「っ――――!」  遠坂を止める。  ここに遠坂が割って入ったら、確実に話がこじれる。 「つまり、セイバー抜きで戦えって事か」 『いいね、肝心のところで物分りがいいから助かるよ。  ―――場所は学校だ。いいか、くれぐれも一人で来いよ。ここにはライダーが結界を張っているからね。セイバーを連れてくればすぐに判る。  もっとも――――おまえが桜の前でそんな卑怯な真似をするとは思ってないけどね』  受話器越しに、くぐもった笑い声がした。 「すぐに行くから待ってろ。それと一応訊いておく。おまえはマスターか、それとも桜の兄貴か」 『そいつは何の冗談だい? 僕はマスターだし、いつでも頼れる桜の兄貴さ。お前こそどうなんだい衛宮?お前はマスターか、それともただの臆病者か?』 「――――わかった。  マスターとして戦いにいくぞ、慎二」 『ああ。戦いになればの話だけどね』  受話器を置く。  そのまま、踵を返して廊下に向かった。 「待ちなさい……!  本当に一人で行く気なの、アンタ!?」 「そういう指定だ。遠坂、話は後にしてくれ」 「後にしろって、それはこっちの台詞よ。  慎二が桜を連れて行ったのは、目の前で自分の力を見せつけたいんでしょう。  そのまま行けば殺されるわよ。今の慎二に自覚があるかはわからないけど、そんなの見せられたら桜だってたまんないわ。ここは様子を見て、作戦を立てるべきよ」  わかってる。  でものんびりとはしていられない。  受話器越しの笑い声が、まだ耳に残っている。 「――――そうか。桜の前で殺すかな、慎二」 「ん……それはわからないけど、可能性は高いわね。……って、衛宮くん大丈夫? 貴方、冷静そうに見えるけどもしかして逆上してる?」  逆上してる?  それはつまり、今すぐ学校に駆けつけて慎二をブン殴るってコトしか頭に浮かんでない事か。    ああ、それなら―――― 「逆上してる。ほかの事が考えられない。今まで兄妹の事だからって口出ししなかった自分にも逆上してる。  今のあいつは桜の兄貴なんかじゃない。―――そんなヤツに、桜を連れて行かれた」 「あいつから〈奪〉《と》り返してくる。遠坂は手出ししないでくれ」  外に出る。  見上げた空は暗く、じき日が沈もうとしていた。  今夜はきっと雨になる。  その前に、桜と一緒にここに戻ってこないといけない。 「っ――――あ」  ナイフを捨てる。  傷口を見ないようにして、とにかく桜に駆け寄った。 「桜……!」 「……先、輩――――」  桜は顔をあげず、力なく床に座り込んでいる。  ……桜は俺との会話を避けている。  それは慎二との事が原因なのか、今までの隠し事が原因なのかは判らない。  判るのはただ、桜の体が朝よりずっと熱を持っているという事だけだ。 「……いい。話は後にしよう。  今は家に帰って、それで――――」 「!」 「そこまでよ。勝負あったわね、慎二」  ……と。  俺たちの背後には、いつのまにか遠坂がやってきていた。  ライダーはアーチャーに斬り伏せられ、床に〈蹲〉《うずくま》っている。  ライダーの服は血で滲んでいて、即死ではないものの戦闘は不可能だろう。 「と、遠坂……!?  卑怯者、約束を破りやがったな衛宮……! 一人で来いって言ったのに!」 「そうね。けど、アレは約束じゃなくて命令だったんでしょ? なら衛宮くんを卑怯者呼ばわりするのは筋違いだわ」 「そ―――そんなのは詭弁だ! 衛宮は一人で来るって言ったんだ、なら一人で来るのは当然じゃないか!」 「……いいけどね。  たしかにわたしと衛宮くんは一緒だったけど、何も衛宮くんが助けを求めたワケじゃないわ。ここに来たのは、あくまでわたしが来たかったからよ」 「嘘つけ……! 呼びもしないおまえがどうして来る!  衛宮のヤツ、馬鹿正直なフリして僕を騙したんだろうが!」 「ああそれ? そんなの単純よ。あの電話の時ね、隣にわたしもいたの。間桐くん、声大きいんだもの。衛宮くんが隠してても聴こえちゃった」 「満足いった? 桜が連れて行かれた以上、わたしが大人しくしているワケないでしょう。アンタは衛宮くんを〈誘〉《おび》き寄せる代わりに、完全にわたしを敵に回したって事よ」 「く―――なんだよ、おまえも桜かよ。  ……桜。桜、桜、桜、桜桜桜桜桜……!  信じられない、おまえも衛宮と同類かよ! よく見ろ、僕はマスターになったんだ!  おまえもマスターなら、気にかけるのは桜じゃなく、僕だけだって決まってるんだよ……!!」 「そう。じゃあ自慢のサーヴァントに戦わせたら?  アーチャーは腹を裂いただけよ。具現化の核たる心臓と首は壊していない。貴方が一人前のマスターなら、いますぐにでもライダーを治してあげなさい」 「くっ――――この、言わせておけば……!」  慎二は俺たちから離れつつ、一冊の本を取り出した。 「あれは――――」  公園で燃え尽きた筈の、慎二の〈令呪〉《コマンドスペル》。  それがまだ残っていたのか……!? 「立てライダー! マスターの命令だ、立ってアーチャーを倒せ……!」 「――――――――」  返事はない。  ライダーは蹲ったまま動かない。  ライダーの足元は真紅に染まっていて、血はまだ流れ続けている。  いま助けが必要なのは慎二ではなくライダーだ。  そのライダーに戦えというのは、死期を早めるだけの命令でしかない。 「この……! おまえは僕のサーヴァントだろう、なら死ぬまで戦えよ間抜け……!」  慎二は強く本を握り締める。  それがあいつにとっての令呪の使用法なのか、ライダーはガクガクと体を震わせ、なんとか立ち上がろうとする。 「やめろ―――もう無理だ、諦めろ慎二……! それ以上はライダーが保たない……!」 「ハ! こいつらが簡単にくたばるタマか! さあ、桜を返して貰うぞ……!」  慎二は命令を緩めない。 「っ……!」  桜から手を離して、もう一度慎二へと走り出す。    ―――その、瞬間。   「……だめ……! もう、それ以上、は……!」 「――――桜?」  足を止めて桜に振り返る。  桜は〈魘〉《うな》されるように声をあげ 「なっ――――!?」  あの夜と同じように、慎二の本はひとりでに燃え尽きていた。 「――――な」  締め切られた廊下に風が吹く。  それは倒れていた筈のライダーと―――蹲ったままの、桜の体から吹いていた。 「――――嘘。これがライダー……?」    身構える遠坂と、立ち上がった敵を無言で見据えるアーチャー。  ライダーは完全に治癒していた。  その体から発する威圧は、柳洞寺で見せたものとまったく同じ。 「――――?」  と。  唐突に、その姿が掻き消えた。  ライダーの姿は忽然と俺の視界から消え、 「衛宮くん、伏せて――――!」 「!」    咄嗟にしゃがみこんだ俺の真上を、長い髪が通過していった。 「桜……!」  一瞬の間に、ライダーは桜を抱いて跳んでいた。  桜を抱えたライダーは俺と遠坂とは反対方向―――慎二のいる場所より少し前、俺たちと慎二の中間に着地する。 「え……なんだよ、おまえ。僕の命令は戦えって」 「いえ、そのような命令はありません。私はサーヴァントとして、主の身を守っただけです」  抱えていた桜を下ろし、ライダーは慎二を一瞥する。  ……皮のベルトで覆われているというのに、その視線はぞっとするほど冷たかった。 「ば、馬鹿言うな。おまえの主は僕だ。僕を守らないで何を勝手に――――」 「シンジ。〈令呪〉《コマンドスペル》はマスターの身体に現れるもの。私はその身に聖痕を持たないモノを、マスターと認めた事は一度もありません」 「な―――んだと、おまえ」 「貴方は偽者です。〈偽臣〉《ぎしん》の書が失われた以上、貴方には付き合えない」  そうして、ライダーは慎二に背を向けた。  その背中は、二度と振り向く事はないと告げている。 「―――そう。そういう事だったのね、ライダー」 「推測通りです、アーチャーのマスター。  ですが貴女なら、とうに気付いていたのではないですか」 「……ええ。おかしいとは思ってたわ。  間桐の人間からマスターが出る筈はない。間桐の血はもう廃れてしまって、魔術を扱える人間は輩出されないから」 「だから間桐の人間である慎二は、絶対にマスターにはなれない筈だった。なのにライダーは召喚され、間桐の人間がマスターに選ばれた」 「……そうね。わたしは間桐臓硯が貴女を召喚して、慎二に預けているのかと思ってた。  けど話はもっと簡単なのよ。臓硯は手を下すまでもない。だって、今の間桐家において、もっともマスターに相応しい人間は―――」  遠坂はライダーを見ていない。  あいつの視線は、ただ、   「―――間桐の正統な後継者。  今代の魔術師である貴女だものね、桜」   「………………」  まっすぐに、桜だけを見つめていた。 「――――――――は?」  喉がうまく動かない。  遠坂と桜。  二人を交互に見て、今の言葉の意味を把握する事しかできない。  ……左手が痛む。  弛緩した意識が、今になってようやく、ナイフを掴んだ手の痛みを告げてくる。 「――――――――」  そうか。  俺は弛緩、しているらしい。  遠坂の言葉に聴覚を奪われ、桜の左手の令呪に視覚を奪われて、それでも―――心は、さして驚いていなかった。  ただ、何故、と。  どうしてそんな事になっているのか、それだけしか考えられない―――― 「……………………」  桜は俯いたまま、ただ体を小さくしている。  その仕草は、俺にだけは知られたくなかったと、謝罪しているようだった。  ……令呪の譲渡。“間桐慎二の指示に従う”という令呪。  それによってライダーは慎二のサーヴァントになり、その間、桜はマスターとしての権限を失い、ただの魔術師になる。……遠坂が桜の腕を見せてもらった時、もう慎二に令呪を譲っていたのだ。 「…………………………」  桜は唇をかみ締めている。  そこへ、   「くそ、もう一度だ桜! もう一度僕に支配権を譲るんだ!」    慎二が、すがるように駆けつけた。 「…………………」 「おい、なに黙ってんだよ……! おまえは戦う気はないんだろう? マスターになるのは嫌だってさんざん言ったから、僕が代わりに引き受けてやったんじゃないか!  それを今更、なにいい子ぶってんだよおまえは……!」  兄の仮面が剥がれ落ちようとしている。  堰の崩れてしまった激情……それを止める必要もない。 「ラ、ライダー、おまえ―――僕に逆らうのか」 「貴方は私のマスターではありません、シンジ。たとえ兄でもサクラに手を上げようとするのなら、排除されるだけの存在です」  手を離すライダー。  慎二はライダーに掴まれた腕を押さえながら、よろよろと後退する。 「は、はは――――そうかよ、後悔するぞライダー。おまえがなんと言おうと、桜が本を作れば元通りだ。  おまえが僕のサーヴァントに戻った時、どうなるかわかって――――」 「無駄よ慎二。他人に、しかも魔術師でもない人間にサーヴァントを預ける事は不可能に近いわ。それを可能にしていたのが〈令呪〉《コマンドスペル》による譲渡だった」 「わ、わかってるじゃないか。令呪はあと一つあるんだ。  桜は僕のいうことなら聞く、それで」 「だからもう終わりなのよ。桜の刻印はあと一つしかない。それを使ってしまったら、ライダーを止める手段がなくなってしまう。  そうなったライダーは自由よ。令呪で作った偽物の命令権なんかじゃサーヴァントは縛れない。ライダーに命令したところで、さっきみたいに本が燃えておしまいよ」 「な――――それじゃ、僕は」 「ええ。貴方がマスターになるチャンスはなくなったわ。  いえ。借り物の令呪でライダーを操っていた貴方は、初めからマスターなんかじゃなかったのよ」  ……亀裂が走る。  ピシリと音をたてて、間桐慎二という存在が〈罅〉《ひび》割れる。 「は――――は。そうか、初めから無理だったのか。そうだよな、僕には魔術の才能はない。〈爺〉《じじい》からは失敗作扱いされて、妹には同情される始末だった。  ……そうだよ、当然だ。わかってた。わかってたわかってたわかってたわかってた……! こんなの、初めから務まりっこないってわかってたさ!」 「――――兄さん」 「いいさ、気にするなよ桜。こんなのは遊びだ。僕に才能がないって事はわかってた。間桐の後継ぎはおまえだもんな、僕がしゃしゃり出る事はなかったんだ」 「兄さん、もう」 「ああ、わかってる、わかってるさ。  だから桜――――この続きは、おまえがやるんだ」 「え……?」 「僕のかわりにこいつらと戦えってことさ! いいか桜、衛宮も遠坂も敵だ。おまえが間桐の後継者なら、今何をするべきかわかっているだろう……!」 「慎二、アンタ―――ここまで言ってもわからないの。  桜は戦わないし、アンタにもう目はない。ライダーがいない以上、わたしたちもアンタには手は出さない。後は大人しく、聖杯戦争が終わるまで隠れてなさい」 「おまえには聞いてない。―――さあ桜。言うことを聞いてくれよ、可愛い僕の妹だろ?」 「………………」  返事はない。  桜はぎゅっと片腕を握り締め、慎二に背中を向けて、    「……嫌です。もう止めましょう、兄さん」    はっきりと、慎二の言い分を拒絶した。 「――――桜。おまえ、今なんて言った?」 「……嫌です。兄さんは約束を破りました。先輩は殺さないって言ったのに、その約束を破ったんです。  だから、もう――――」 「――――――――」  桜は慎二に振り向かない。  それを他人のように眺めて、慎二は笑った。 「――――――――」  それに、この上ない悪寒を感じた瞬間。   「―――なら、おまえの好きなようにしてやるよ」    パキン、と、桜の近くで何かの割れる音がした。 「ぁ、っ――――!」  桜が倒れる。  足元から力をなくして床に蹲る。 「じゃあな桜。恨むなら僕じゃなく、爺を恨んでくれ。なに、どうせいつかはそうなるんなら、いま楽になった方が幸せかもよ――――!」  慎二は逃げるように走り去っていく。 「ぁ――――は、あ――――!」  苦しげに胸を押さえる。  ―――耳に付けられていた飾りが砕け、そこから何か、薬品めいた液体がこぼれている。 「あ――――、い――――や………………!」    膝をついたまま震える桜。  その震えは激しく、地震で倒壊する建物のように、そのまま崩れ落ちてしまいそうだった。 「桜……!」  何がどうなっているのか判らない。  ただ桜の身を案じて走り出す。 「たわけ――――! この状況が判らんのか貴様!」 「っ」  体が止まる。  いつのまに後ろにいたのか、アーチャーは俺の肩を掴み、そのまま 「ここから離れろ。下手に〈魔力〉《かて》を与えては戻せなくなる」    俺を後ろに突き飛ばして、アーチャーはおかしな事を言う。 「糧……? なんだよそれ、おまえ一体――――」  何を言っているのか、なんて問いはすぐに消えた。 「――――――――」  廊下が赤く染まっていく。  たちこめる空気は霧状になって肌を濡らし、壁という壁は、蜜のような汗を浮かべだした。 「痛っ、ぐ――――!?」  ……肌が焼ける。  この空気。  この赤い世界は魔術によって括られた異界だ。  枠組みの中、この敷地内にいるモノを溶かす、得体の知れない“結界”に違いない。 「遠坂、こ、れ――――」  息が出来ない。  いや、呼吸をすると霧が喉につまって、内側から焼かれてしまう。 「……慎二が学校に仕掛けてた結界ね。  もっとも、慎二から桜にマスターが変わって威力が段違いになってるけど」 「な――――――」  視線を戻す。  ……赤黒く変色した通路の奥には、〈蹲〉《うずくま》って胸を掻き毟っている桜と、    桜を守るようにアーチャーと対峙する、ライダーの姿があった。 「――――そこを退けライダー。おまえの主は暴走している。他人の〈魔力〉《あじ》を知る前に止めねばクセになるぞ」 「お断りします。私の役目はマスターの守護です。貴方がサクラを殺そうとする以上、ここを通す訳にはいかない」 「……ほう。みすみす主を死なせるのか。おまえのマスターは著しく魔力を消費していっている。放っておけば確実に死ぬと判っているのか?」 「いいえ。失う魔力より多くの魔力を摂取すれば自滅は避けられる。  幸い、ここには魔術師が二人いる。シンジは逃がしましたが、彼らはもう逃げられない。サクラが虫に食われる前に、貴方のマスターを私が貰い受けましょう」 「ふん―――主が代わったところで性根は変わらんか。  他人の命より自分が可愛いと見える」 「それは貴方もでしょう。私のマスターより自身のマスターを守ろうとしている」 「なるほど―――ではお互い、気兼ねをする必要はないワケだ―――!」  アーチャーが疾走する。  ……この胃袋みたいな結界を意にも介さず、赤い騎士は〈蹲〉《うずくま》る桜へと走り出し、    立ちはだかるライダーと衝突した。 「ちょっ―――遠坂、いいのか!? あいつ、ライダーと戦いだしたぞ……!?」 「……そりゃ戦うしかないでしょう。このままだとわたしも貴方も保たないもの。……それに同じ魔術師として、桜が外道に落ちるのは、なんとしても止めないと」 「え――――?」  外道に落ちる……?  それって協会の規則を破って魔術を悪用するヤツとか、魔術回路が止められなくなって自滅するヤツの事か……? 「――――待て。なんだよそれ。なんで桜が」 「だから暴走してるのよ、あの子。この結界はライダーが作ったものだけど、動かしてるのは桜ってコト。慎二が何をしたかは知らないけど、今の桜は見境なしよ」 「……きっと桜もわたしたちと一緒なんでしょうね。ただ苦しいから酸素が欲しくて、他人の〈魔力〉《さんそ》を吸いたがってる。―――そんなの。冬木の管理者として放っておけない」 「な――――放っておけないって、おまえ桜をどうする気だ!?」 「……それはアーチャーに聞いて。わたしには、ああなった魔術師を止める方法は一つしかない。けどアーチャーなら、何か他の方法があるのかもしれない」 「……ま、どちらにせよその前にライダーをなんとかしないとね。見たところアーチャーの方が強いんだけど、アーチャーのヤツ、なんか出力が落ちてるみたい」 「……出力が落ちてる?」  廊下に視線を戻す。  両者の戦いは、俺が見てもアーチャーが圧倒していた。  もとより力では勝るアーチャーだ。ライダーが押し止められるはずもない。 「――――――――」  だが。  たしかに、それにしては妙だった。  ライダーの武器はその敏捷性にある。  故に今のように桜を守る、という戦いは不得手の筈だ。  ライダーの本領は疾風の如き襲撃で、防衛戦には向いていない。  ならアーチャーはとっくにライダーを撃破し、桜の下に辿り着いていなければおかしい。  それが未だ成っていない、という事は―――まさかアーチャーのヤツ、ライダーに圧されている……? 「フ――――!」  アーチャーの剣が空を切る。  ライダーは長い髪を〈靡〉《なび》かせながら仰け反って剣を躱し、同時に踏み込んでアーチャーに斬りかかる。  だが、回避と攻撃が両立しているのはライダーだけではない。  アーチャーは残る右剣でライダーの短剣を弾き、踏み込んできたライダーを押し返す。  ――――一進一退。    両者の攻防はほぼ互角であり、アーチャーは押し進めず、ライダーは押し返せずに剣戟を響かせあう。 「く――――」  焦りがあるのはアーチャーだ。  実力に劣る相手を撃退できず、張り巡らされた結界は徐々に体力を奪っていく。  加えて、俺と遠坂はもう限界だ。  息を止めているだけでも苦しいのに、この廊下にいるだけでザクザクと意識が削られていく。  このままでは、アーチャーがライダーを倒す前に俺たちが倒れてしまう。 「チ――――」  憎々しげに舌を打つアーチャー。  そこへ   「―――貴方の力は判った。  残念ですが、今の貴方では私を倒せない」    後悔するような声音で告げて、ライダーは立ち止まった。 「なに……?」 「貴方では勝てない、と言ったのです。貴方は宝具を使わない。貴方のマスターが使用を禁じているのか、貴方自身がサクラを気遣っているのかは知りません。  ただ、使わない以上はここで終わりです。貴方は私には勝てないでしょう」  唯一の武器である足を止め、ライダーはアーチャーと対峙する。  ……その姿は無防備で、アーチャーが斬り込むだけで勝敗がつきそうだった。 「……ふん。おまえの主を気遣ったつもりはない。単に使う必要がないだけだ。  おまえとて宝具は使えまい。先ほどまで間桐慎二がマスターだったおまえでは、宝具を使うだけの魔力が溜まっていないからな」 「そうですね。シンジという主では私に魔力を与えられなかった。その為、現在私の宝具は使えません」 「……そういう事だ。使わぬ相手に対して魔力を消費する事もない。次でおまえを斬り伏せ、あの娘を斬り伏せればそれで終わる」 「ええ。ではそういう事にしておきましょうアーチャー。  私としても、その方が気兼ねなく手を下せる」  答えるライダーの口調はあくまで穏やかだった。  ―――何をするつもりなのか。  ライダーはただ、短剣を構える事なくアーチャーと向き合い、   「……だめ、ライダー……!」    背後からの声で、わずかに動きを止めていた。 「サクラ。貴女はそこで耐えていてください。後の事は、全て私が解決します」 「やめて―――もうやめて、ライダー。わたし、こんなコトがしたくて、貴女を呼んだんじゃ、ない」 「……その命令は聞けません。私は何より貴女の命を優先する」  ライダーの腕が上がる。  アーチャーとの間合いは四メートル。  それだけの距離を保ったまま、黒いサーヴァントは自らの顔に手をかけ、   「―――それに。  これは貴方が望んだことでしょう、サクラ」    その、黒い封印を排除した。                ――――瞬間、全てが凝固した。    ライダーの裸眼。  それは数ある魔眼の中でも最高位に属する、ヒトならざる“〈眼〉《まなこ》”だった。   「――――――――」  灰色の眼。  水晶細工とさえ取れるソレは、眼球というには異質すぎた。        光を宿さない角膜。  四角く外界を繋ぐ瞳孔。  虹彩は凝固し、眼を閉ざす事を許さず。  視覚情報を伝える網膜の細胞は、億にいたるその悉くが〈第六架空要素〉《エーテル》で出来ている。    ―――神が愛でた芸術か、神が〈妬〉《のろ》った天性か。    ライダーの灰色の眼はこの上なく異質で、同時に、人が持つにはあまりにも美しすぎた。 「っ――――!」    アーチャーは固まっている。  ……あの距離で、正面からライダーの眼を見た為か。  目を閉じようにも既に目蓋は凝固し、顔を隠す腕も動かない。  前進してライダーを討とうとするも、その両足は、すでに膝まで〈石化〉《・・》していた。 「うそ、石化の魔眼……!?」    悲鳴に似た遠坂の声。  ……隣にいる遠坂がどんな顔をしているかも判らない。  俺の目もライダーの魔眼に囚われていて、視線を逸らす事ができない。  血液が固まっていく。  流動が固体化され、感覚が途絶えていく。            ――――魔眼。  魔術師が持つ、〈一工程〉《シングルアクション》の魔術行使。    本来、外界からの情報を得る受動機能である眼球を、自身から外界に働きかける能動機能に変えたもの。  言ってしまえば視界にいるものに問答無用で魔術をかける代物で、標的にされた対象が魔眼を見てしまえば、効力は飛躍的に増大する。  要するに見てはいけないモノ、見るだけで相手の術中に嵌るという恐ろしい魔術特性だ。    その隠匿性と能力から、魔術師の間で魔眼は一流の証とされる。  自身の目を魔術回路に作り変える技法は、魔術刻印と呼ばれるものに近い。    もっとも、人工的な魔眼では〈魅惑〉《チャーム》や〈暗示〉《ウィスパー》程度の力しか持ち得ない。  強力な魔眼保持者は、決まって“生まれつき持っていたもの”に限られる。    束縛。強制。契約。炎焼。幻覚。凶運。    そういった他者の運命そのものに介入する魔眼は〈特例〉《ノウブルカラー》とされ、その中でも最高位とされるものが“石化”の魔眼だ。    現代の魔術師にこの魔眼を持つモノはいない。  石化の魔術だけでも可能とする魔術師は少ないのだ。  それを問答無用、“見る”だけで可能とする事がどれほどの神秘なのか。    ……〈自己封印〉《ブレーカー》・〈暗黒神殿〉《ゴルゴーン》。    それは神域の力によって封じられた神の呪い。  神代の魔獣、聖霊しか持ち得なかったとされる魔の瞳。    視線だけで人を石にする、英霊メドゥーサの〈証〉《シンボル》たる魔術宝具――――! 「っ―――凛、離れろ! 本命が来る……!」    既に腰まで石と化したまま、アーチャーは声をあげる。  ……その向こう。  魔眼を解放したライダーの奥から、なにか、赤黒い波が広がりつつあった。 「ば………そんなコト、言われて、も………!」    遠坂の動きが鈍い。  よくないモノが廊下の向こうから流れてくる。  波は槍のように尖って、一直線に遠坂をめがけていた。 「――――――――」  死ぬ。  俺より強く魔眼に魅入られたのか、遠坂は一歩も動けない。  このまま躱す事もできず、遠坂は槍に胸を貫かれる。  その、あと数秒後の光景を目の当たりにして、      考えている時間はない。  足は動き、腕はまだ生きてる。  なら、あとは前に出て遠坂を引っ張るだけ―――― 「遠坂――――っ!」 「え?」  遠坂の腕を引いても、遠坂はビクともしなかった。  どうやら見た目以上に重いらしい。 「く、重いなおまえ――――!」  両手で引いても動かない。  なら、後はもう、   「この、いいから退けって――――!」    肩から体当たりして、遠坂を弾き飛ばす……! 「――――て」    どす、と鈍い音を聞いた。 「ば―――な、なにしてんのよアンタはーーーー!?」   「――――と」    遠坂の声が、よく聞こえない。    ……体が熱い。  ひどい熱病に感染したように、視界がぐにゃぐにゃに曲がっていく。           「――――先輩?」  ……遠くで、聞き慣れた声がしたような。  現実感が失われていく。  白くぼやけた頭と、左腕からの出血が絵の具のように混ざり合っていく。           「――――いや」  胸を掻き毟ったまま、床に転がった俺を呆然と見つめて、           「いやぁーーーーああああ………!!!」  糸の切れた人形のように、倒れ伏す桜を見た。   「どう? 気分、少しは落ち着いた?」 「―――――――――」  教会の長椅子に背を預けたまま、無言で頷く。 「そう。なら治療の必要はないわね。あとは体力と一緒に回復するだろうから、大人しくしていなさい」  言って、少し離れた椅子に遠坂は座った。  ……お互いの心の距離は、その何倍も遠い。  俺たちはなんの無駄話もせず、こうして礼拝堂で言峰を待っている。 「―――――――っ」  左手を握り締めると、ズキンと痺れた。  痛みの質は、手の平に釘が刺さった感じに近いか。  ライダーに強打された体より、桜に刺された左腕より、ナイフを握った左手の方が痛かった。    暗雲に阻まれ、夜空は見えない。  雨雲らしいそれは、じき雨を降らすと告げている。 「………………」  ……遠坂を襲った槍のようなものは、桜の魔術だったらしい。    間桐家が伝える魔術特性は“吸収”。  あれは魔力不足で苦しんでいた桜が、無意識に放った魔術だった。  遠坂を狙ったのは、あの場ではあいつが一番魔力を持っていたからだろう。  遠坂を突き飛ばした俺に伸びたソレは、遠坂の代わりに俺の左腕に巻きつき、根こそぎ魔力を奪っていったのだ。    魔力とは生命力だ。  それを奪われたのだから、倒れるのも道理である。  ライダーとの戦いで体力を消耗していた俺はあっさりと気を失い、その後、遠坂の手によって教会に運ばれた。  ……桜は俺が倒れたのと同時に気を失ったという。   「―――あの子、自分に攻撃したのよ」    遠坂はそう呟いて、今は教会の奥で治療をうけている、と説明した。    ―――満足に動けるのは俺だけだ。  アーチャーと遠坂はライダーの魔眼で封じられている。  なら、その元凶さえ叩いてしまえば――――!  ライダーへ走る。  俺ではライダーを倒せずとも、一瞬ぐらいアーチャーから視線を外させる事は出来る……! 「……!? バカな、正気か貴様……! ライダーを直視するな……!」  アーチャーの声を振り切ってライダーへ走る。    ―――アレが石化の魔眼なら、目を閉じてしまえばいい。  廊下は狭い。  ライダーまでの距離は把握している。  ライダーが俺を迎撃しようと、俺がデタラメにライダーを攻撃しようと、ア〈ーチャ〉《あいつ》ーならその隙になんとかできる筈だ……!            ―――だが、足が凍った。     否、なんの比喩でもなく、本当に石化した。 「――――な、」    足だけではない。  石化は止まる事なく腰に届き、胸を硬化させ、両腕を凍結し、閉じた目蓋を、永遠に施錠する。   「――――ぜ、?」       「―――愚かな。  目蓋を閉じる程度で私の魔眼を防ごうなど。肉眼であろうが心眼であろうが、今の私を見る事自体が呪いだというのに」 「――――――――、――――――――」    喉も口も動かない。  ……もう、外界で何が起きているのかも感じ取れない。  遠坂の悲鳴が上がったとしても、  アーチャーが砕け落ちたとしても、  石になった俺に知る術はない。          身体は硬化し、いずれ心も硬化するだろう。  ……神話にある不老不死の三姉妹。  彼女たちと同じく、この身が変わる事は、永遠にない。  ―――固まった足は動かない。  俺は踏み出せないまま、目の前にいる遠坂を貫く黒槍を見つめる事しか出来ず、   「――――、え?」    呆然と、直前で軌道を変えるソレを見た。  ―――翻る凶器。    遠坂の胸を貫こうと飛来したソレは、直前で向きを変えた。  黒い穂先が旋回する。  ソレは、まるで遠坂以上に美味しいエサを見つけた、と言うかのように、立ち尽くす俺に食らいついた。 「――――て」    どす、という鈍い音。  ……体が熱い。  ひどい熱病に感染したように、視界がぐにゃぐにゃに曲がっていく。           「――――先輩?」  ……遠くで、聞き慣れた声がしたような。  現実感が失われていく。  白くぼやけた頭と、左腕からの出血が絵の具のように混ざり合っていく。           「――――いや」  胸を掻き毟ったまま、床に転がった俺を呆然と見つめて、           「いやぁーーーーああああ………!!!」  糸の切れた人形のように、倒れ伏す桜を見た。   「どう? 気分、少しは落ち着いた?」 「―――――――――」  教会の長椅子に背を預けたまま、無言で頷く。 「そう。なら治療の必要はないわね。あとは体力と一緒に回復するだろうから、大人しくしていなさい」  言って、少し離れた椅子に遠坂は座った。  ……お互いの心の距離は、その何倍も遠い。  俺たちはなんの無駄話もせず、こうして礼拝堂で言峰を待っている。 「―――――――っ」  左手を握り締めると、ズキンと痺れた。  痛みの質は、手の平に釘が刺さった感じに近いか。  ライダーに強打された体より、桜に刺された左腕より、ナイフを握った左手の方が痛かった。    暗雲に阻まれ、夜空は見えない。  雨雲らしいそれは、じき雨を降らすと告げている。 「………………」  ……俺を襲った槍のようなものは、桜の魔術だったらしい。    間桐家が伝える魔術特性は“吸収”。  あれは魔力不足で苦しんでいた桜が、無意識に放った魔術だった。  救いを求める桜の魔術は俺の左腕に巻きつき、根こそぎ魔力を奪っていったのだ。    魔力とは生命力だ。  それを奪われたのだから、倒れるのも道理である。  ライダーとの戦いで体力を消耗していた俺はあっさりと気を失い、その後、遠坂の手によって教会に運ばれた。  ……桜は俺が倒れたのと同時に気を失ったという。   「―――あの子、自分に攻撃したのよ」    遠坂はそう言って、今は教会の奥で治療をうけている、と説明した。  ―――雨の匂いがする。    広場に人影はなく、教会に訪れる者はいない。  そこに  〈遠坂〉《あるじ》の下を離れて、俺を待っている男がいた。  何故ここにいるのか。  どうして俺を待っていたのか、不思議と疑問に思わなかった。  赤い騎士は無言で俺を見据え、何かと決別するように、一度だけ目蓋を閉じ。   「判っているな、衛宮士郎。  おまえが戦うもの。おまえが殺すべきものが、誰であるかという事を」    俺以上に、俺が出すべき答えをカタチにした。 「――――――――」  その言葉だけで、心臓が凍りつく。  ……分かっている。  俺は戦いを止める為に、無関係な人間を巻き込むマスターを止める為に戦うと言った。  そう決断し、その為にセイバーの力を借りた。  それを覆す事はできない。  なら―――今の桜は、真っ先に止めなければならないマスターの筈だ。 「――――――――」  ……承知していながら声が出ない。 「――――――――」  赤い騎士は何も言わない。  灰色の空の下、俺たちは互いを見据えたまま立ち尽くす。 「…………では好きにしろ。私の目的は変わった。アレが出てきた以上、もはや私怨で動く時ではない」 「え……?」 「……これは忠告だ。  おまえが今までの信念を守るのならそれでいい。  だが―――もし違う道を選ぶというのなら、衛宮士郎に未来などない」 「―――それは、俺が死ぬってことかよ」 「自らを閉ざす事を死というのならばな。  そうだろう? 〈衛宮士郎〉《おまえ》は今まで人々を生かす為に在り続けてきた。その誓いを曲げ、一人を生かす為に人々を切り捨てるなど、どうして出来る」  断言する声に〈嘲〉《あざけ》りはない。  アーチャーの言葉には何かの決意と、虚しさだけが込められていた。 「衛宮士郎がどの道を選ぶかなど知らん。  だがおまえが今までの自分を否定し、たった一人を生かそうというのなら―――その〈罪〉《つけ》は必ず、おまえ自身を裁くだろう」  ……去っていく足音。  それを引き止める事も出来ず、迷いに縛られたまま、坂道を下り始めた。  気がつくと、公園のベンチに座っていた。  家に帰る気にもなれず、教会で待つ事もできない。  この公園は屋敷から遠く、教会にも遠い。  ……桜がマスターと知ってから数時間。  未だ何一つ決められない自分には似合いの、中途半端な場所だった。 「――――――――」    答えを。  答えをださなくてはいけないというのに、頭の中はグチャグチャで何を考えるべきかも定まらない。          ――――アレは間桐の後継者として、実験台にされ続けてきた。  間桐臓硯がどのような教育を施したかは想像に難くない。間桐桜はお前が望むような清らかな〈乙女〉《おとめ》ではなく、蟲に汚された〈魔女〉《あま》という事だ―――― 「…………うる、さい」    そんなに繰り返さなくても分かっている。  俺だって魔術師のはしくれだ。  それがどんな事なのか、桜が今までどんな目にあってきたのかなんて、そんな事――――          ―――あの娘はおまえに知られまいとしながら、常に救いを求めていた筈だ。それに気付かなかった男に、彼女を想う資格はない――― 「うるさい、うるさい、うるさい……! わかってる、おまえに言われるまでもなく、そんな事――――!」    ………そんな、事を。  どうして、気付けなかったのか。 「っ…………」    奥歯が砕けた。  今日一日でかみ締めすぎたんだろう。そりゃあ砕けない方がおかしい。 「くそ――――くそ、くそ、くそ――――!」    剥き出しになった神経を押し潰す。  直接突き刺さる痛感。  そんなもの、頭の〈憎悪〉《なか》を切り裂く事もできやしない。 「――――――――」  脳に火が点る。  その事を―――――それを知って今までの時間を思い返すと、どうにかなってしまいそうだ。  桜は笑っていた。  いつも穏やかに微笑んでいた。  それがどんな痛みの上にあるものか知らず、俺は当然のように甘受していた。  ……あの笑顔が本物だったのか偽物だったのかなんてどうでもいい。  ただ、あんなふうに笑っていながら痛みを隠し続けていた桜を思うと、殺したくなる。 「間桐、臓硯――――!」    あいつが許せない。  償いなんて要らない。今すぐに消し去って、桜の前から排除したい。  だって、全部あいつのせいだ。  臓硯さえいなければ桜は普通の女の子として暮らせて、体に刻印虫なんて得体のしれないモノを植え付けられる事もなかった。  臓硯さえいなければマスターになる事なんてなくて、慎二もあそこまで取り乱さず、今まで通りにやっていけた。  だから、  あいつさえいなければ、こんな事には――――!  拳をベンチに叩きつける。  左手の傷が開いて、白いベンチに赤い血がこぼれていく。  その、鮮やかな色彩に意識が移って、   「未熟者―――あいつさえいなければ、何が、どうなったって言うんだ」    自分の馬鹿さかげんに、本当に愛想が尽きた。 「……それこそ、関係ない話だ。他人に責任を押し付けて、なにを」    楽になった気でいるのか。  間桐臓硯が桜に何をしたのか、何をやってきたのかは、もう否定しない。  それは考えるだけでおぞましいし、ちろりと動く蛇の舌のように、大事にしていたモノを奪われた嫉妬が走るだけだ。  それで俺の咎が薄れる訳じゃない。  気付かなかったのは俺だ。  臓硯が何をしていようと、気付かなかったのは俺だけの落ち度だ。 「――――違う。気付かなかったんじゃない。俺は」    ただ、気付こうとしなかっただけ。  間桐臓硯と対峙した夜。  ヤツは桜を無関係と言い、俺はそれを信じきった。  ……なんて間抜け。  あの時、どうしてそんな言葉を信じたのか。  桜が間桐の人間である限り、無関係なんて事はない。  セイバーを失った夜、間桐臓硯が人の命をどうとも思わない妖怪なのだと思い知った。    あの妖怪が―――慎二にライダーを与えたのなら、桜に手を出さない筈がないのだ。  なのに、俺は。  そうであれば自分にとって都合がいいからと、簡単に鵜呑みにした。  本当は気付けていた。  少し考えればすぐに届いた推測だ。    ……驚かなかった理由はそれだ。  桜がマスターと知らされた時も、桜が今まで決して口に出せない境遇に耐えていたと知った時も、それが自明の理だと気付けていた。  それを考えまいとしていたのは、気付いては立ち行かなかったからだ。          気付けば戦わなくてはいけない。  間桐臓硯が人々にとって悪であるのなら。  正義の味方は、その者達と戦わなくてはならなくなる。 「――――――――」    ……いや。  もう取るべき道は決まっている。  桜がこのまま臓硯の操り人形になって、さっきのように見境なしにライダーを使役するのなら、やるべき事は決まっている。    俺はその為に魔術を習って、    理不尽な災厄から人々を救うからと、こうして生きていられたんだから。 「っ――――」    だから決まっている。  あの赤い騎士の言う通りだ。            ―――先輩。もしわたしが悪い人になったら―――  桜を傷つけたくないし、同情もしている。  だが例外はない。  どんなに大切でも、ソレがあの時のような惨事を巻き起こすのなら               ―――はい。先輩になら、いいです。 「う――――、ぶっ…………!」    排除するだけ。  そんなの迷う事ではないのに、どうして。   「は――――、う、っ、ぐ――――!」    こんな、喉にまでせりあがった〈吐瀉物〉《としゃぶつ》を、必死になって抑えているんだろう……? 「あ――――はあ……はぁ、はぁ、はぁ――――」    吐き気を堪える。  ……もうどれくらい経ったのか。  くだらない事に〈煩悶〉《はんもん》している時間はない。  手術が終わった頃に、遠坂は戻ると言った。  町には雨の匂いがする。  降り出す前にもう一度教会に行って、桜の容体を聞いて、それで――――   「シロウ、あそぼ!」    ドン、と。  唐突に、後ろから抱きつかれた。 「……イリヤ」  振り返らなくても判る。  この公園で出会うのは、決まってこの白い少女なんだから。 「えへへ、びっくりした? 町を歩いてたらシロウがいたから、つい声かけちゃった」  イリヤは楽しそうに笑う。 「――――――――」  その無邪気さが、今は辛い。  身勝手と判っていても、今は誰にも、目の前でなんて笑ってほしくなかった。 「あ。なによシロウ、無視しちゃって。話しかけてるのに俯いたままなんて、女の子に失礼だよ」 「…………」  ……静かにしてほしい。  正直、誰かにかまっている余裕はないんだ。 「むっ。もう、シロウってば! 人の話はちゃんと聞かなくちゃダメなんだからね!」 「………イリヤ。悪いけど、いまそんな余裕ないんだ。  遊ぶのなら一人で遊んでくれ」 「ええー? せっかく会えたのに、それじゃつまんない。  あれからシロウここにきてくれなかったし。今日を逃したらまた来ないに決まってるもん」 「……別に毎日って約束したワケじゃない。それにもう夜だぞ。マスターは、夜に会ったら殺しあうんじゃないのか」  そう邪険に言った途端、吐き気が戻ってきた。  ……自己嫌悪で自分を殴りつけたくなる。  俺はただ、自分が楽になりたくてイリヤを追い払っている。 「なんで? シロウはもうマスターじゃないでしょ? だから今夜は見逃してあげるけど?」 「っ――――マスターじゃないって、イリヤ」 「ふふーんだ。わたしに知らないコトなんてないんだから。シロウはセイバーを失って、リンはライダーにやられかけたのよね。けどライダーのマスターが倒れたから、残りはあと二人だけでしょ?」  楽しげにイリヤは言う。 「――――――――」  それが、桜の容体を笑っているように見えて 「もう勝敗は見えたも同然だもの。ライダーのマスターは自滅するだろうし、アーチャーだって大した事ないわ。  セイバーがいなくなった以上、わたしのバーサーカーに勝てるヤツなんていなくなったの。  ね、だから遊ぼっ! シロウはもうマスターじゃないから、特別にわたしの城に招待してあげる!」  無遠慮に抱きついてくるイリヤ。  その無邪気な笑顔に苛立って、   「うるさいっ……! そんな暇はないって言っただろう、遊びたきゃ一人で遊べ!」   「きゃっ……!?」  激情のまま、イリヤを突き飛ばしていた。 「ぁ―――――――」    ―――後悔しても遅い。  イリヤは呆然と立ち尽くしている。  それがどれほどショックだったのかなんて、見なくても分かる。  ……裏表のない純粋な好意を、俺は撥ね除けてしまった。  ―――今までイリヤが抱いてくれていた思いを、全て、台無しにしてしまった。 「――――――――」 「………………」  視線に耐えられず、頭を下げる。   「ごめんね、シロウ」    小さな手が、俺の頭を撫でていた。 「……え?」 「……イリヤ。おまえ、怒らないのか……?」 「怒らないよ。だってシロウ泣きそうだよ? 何があったかは知らないけど、わたしまできらっちゃったらかわいそうだもん。だからわたし、シロウが何したってシロウの味方をしてあげるの」 「――――――――」  目の前が真っ白になる。  ……たった一言。  それだけの言葉で、ガツンと、頭の中をキレイさっぱり洗われた。 「俺の、味方――――?」 「そうよ。好きな子のことを守るのは当たり前でしょ。  そんなの、わたしだって知ってるんだから」  誰かの味方。  何かの味方をするという事の動機を、あっさりとイリヤは言った。 「――――――――」  ……それが正しいのかどうか、本当は判っている。  今まで守ってきたモノと、今守りたいもの。  そのどちらが正しくて、どちらが間違っているのか判断ぐらいはつく。  それを承知した上で、俺は――――    ―――扉を開く。    とっくに来ていたらしく、遠坂は礼拝堂の隅に立っていた。  椅子に座らず、じっと壁際に立つ遠坂の姿は、ある決意を感じさせる。  それは、桜から刻印虫が取れていなければ敵とみなす、冷徹な魔術師の顔だ。 「……………………」  遠坂は俺を見ず、俺も言うべき言葉はない。  ―――長く、雨の音だけが響く礼拝堂。  それがどのくらい続いたのか。 「手術は終わった。これ以上、私に出来る事はない」    息が詰まるような静寂を破って、言峰綺礼が現れた。 「え――――ちょっと綺礼。アンタ、魔術刻印、どうしたの」 「ふむ、やはり判るか。見ての通り、間桐桜の治療にすべて使った」 「―――つ、使ったって、アンタ」  絶句する遠坂。 「…………?」  こっちはいまいち意味が判らない。  どうも言峰が持っていた魔術刻印がどうにかなって、それを見抜いた遠坂が目を丸くしている……とだけは判るんだが。 「わ、わかってるの? 魔術刻印よ魔術刻印!?  代々重ねてきたものが、なんでたった数時間でなくなるっていうのよ……!」 「仕方あるまい。私が父から受け継いだ刻印は、おまえのように恒久的な物ではない。使えば使うだけ失われる消費型だ。うちはもともと魔術師の家系ではないからな。  ま、格の落ちる令呪と思えばいいだろう」 「――――じゃあ、本当に?」 「ああ。刻印は全て治療に使った。なにしろ十一年に渡る膿の摘出だからな。残った刻印を根こそぎ持っていかれたのも、そう意外ではないだろう」 「――――――――」  ……遠坂と二人、息を呑む。  神父は桜の治療に、自身の魔術刻印を全て使ったと言った。  それがどれほど高価な代償なのかは、遠坂の顔を見れば判る。  言峰はただ運び込まれた桜の為に、自分の財産を全て売っぱらったのだ。 「……言峰。おまえ」 「なんだ? まさか迷惑だった、などと言うまいな。助けろといったのはおまえたちだ。私はそれに応えただけだが」 「あ……いや。迷惑なんて事は、ない。……その、ありが、とう」 「礼は言うな。どの道、後になって撤回するのだ」 「――――後になって、撤回する……?」  それは、つまり―――― 「で、桜は? アンタがそこまでしたって事は――――」 「一命は取り留めたが、その場凌ぎにすぎん。  大部分の刻印虫は取り除けたが、深く蝕んでいるモノの摘出は不可能だ。あそこまで神経に食い込んでしまっては取り除きようがない。心臓を引き抜けば全ての刻印虫を摘出できるが、それでは間桐桜本人も死んでしまう」 「私に出来た事は神経と同化していない刻印虫を取り除き痛みを和らげ、臓硯からの圧力を弱めてやる事だけだった。今夜死ぬべき定めの者を、気紛れで延命させたにすぎん。それも、神経に根付いた虫が動き出せば無駄骨になるがな」 「――――それじゃ、桜は」 「何も変わっていない、という事だ。  実生活には何の支障もないが、間桐臓硯の出方次第で容易く暴走する。  あの老人の思惑一つで、本人の意思に反して戦いを強制させられるだろう。要は、導火線に火がついたままの爆弾という事だな」 「――――――――」  動揺しなかったと言えば嘘になる。  だが驚きはないし、迷う事もない。  覚悟はしたのだ。  桜がどんな状態だろうと、どんな事になろうと、桜の味方をすると決めたんだから。 「そう。それじゃあとは一つだけね。刻印を使い切ってくれた綺礼には悪いけど」  壁際から歩き出す遠坂。  それが何のつもりなのか瞬時に悟って、 「この、待て遠坂……!」  遠坂の手を掴んで、前進を止めていた。 「なに? 話なら後にして」 「なに言ってやがる。おまえ、桜を殺すつもりか」 「つもりも何も、それしかないでしょう。貴方だってそれを覚悟してここに来たんじゃないの、衛宮くん」 「――――――――」    何が正しいかは判っている。  俺を生かすもの。  俺を生かしてくれたものに、背を向ける事は出来ない。 「―――ごめんなイリヤ。俺は、そんな当たり前のコトを守れない」    心を静かに、鉄に変えて口にした。  それで終わり。  喉元までせり上がった胃液も、〈腸〉《はらわた》をねじ切る苦しみも、眼球を濡らす涙も止まった。    信じたものは曲げられない。  救えなかったものの為にも、これ以上、救われぬものを出してはならない。 「……そう。結局、シロウはキリツグと同じ方法をとるんだ。顔も知らない誰かの為に、一番大事な人を切り捨てるのね」 「――――――――」    正しいと信じた事の為に、〈大切な人〉《アインツベルン》を切り捨てた男。  それと同じ道を選んだ。  イリヤはこれで二度裏切られた。  桜を選ばないという事は、同時に、イリヤを選ばないという事だからだ。 「そうだ。俺と切嗣は同じだ。恨むのなら、イリヤは俺を恨んでいい」  心は固い鉄になっている。  軽蔑される事も、憎まれる事も、今の自分には重くない。  銀髪の少女は何も言わない。  少女の願いを否定した今こそが、果たせなかった切嗣への復讐を果たす時だ。  だというのに。 「かわいそうなシロウ。  そんな泣きそうな顔のまま、これからずっと、自分を騙して生きていくのね」    消え入りそうな笑顔で、イリヤは俺に別れを告げた。  雨が降り始めた。  公園には誰もいない。  教会では、もう結果が出ている頃だ。  ―――扉を開く。    とっくに来ていたらしく、遠坂は礼拝堂の隅に立っていた。  椅子に座らず、じっと壁際に立っている遠坂の姿は、ある決意を感じさせる。  それは、桜から刻印虫が取れていなければ敵とみなす、冷徹な魔術師の顔だ。 「……………………」  遠坂は俺を見ず、俺も言うべき言葉はない。    ―――長く、雨の音だけが響く礼拝堂。    それがどのくらい続いたのか。 「手術は終わった。これ以上、私に出来る事はない」    息が詰まるような静寂を破って、言峰綺礼が現れた。 「…………それで綺礼、桜は?」 「手は尽くした。私に言えるのはそれだけだ」  結果は予想通りだった。  桜を救う手段は、初めから何処にもなかった。 「間桐桜は眠っている。目覚めるのは明日の朝だろう。  遠坂の後継者として、おまえは何をする凛」 「――――言うまでもないでしょう。外道に落ちた魔術師を〈排斥〉《はいせき》するのが管理者の役目よ。それが身内だっていうのなら尚更だわ」  礼拝堂の奥。  おそらく桜が眠っているであろう部屋へ、遠坂は歩いていく。 「―――止めないの、衛宮くん」    扉に手をかけて、遠坂は振り返った。  無言で返答する。 「ならいいのね。わたしが、桜を殺しても」 「意見はない。ただ―――代わっていいのなら、代わる」 「いいえ。これはわたしの役目よ。貴方には譲ってあげられない」  遠坂はドアを開けて、礼拝堂の奥へ消えていった。 「驚いたな。おまえは止めるものだと思ったが」 「――――――――」 「……ふむ。覚悟を決めたというところか。  これで今回の聖杯戦争は元に戻る。いささか拍子抜けだが、これはこれで楽しみな結末だよ」 「……楽しみって、何が面白いんだアンタは。誰が勝ち残るか、予想でも立ててるのか」 「予想? そんなものは立てるまでもない。  ―――勝つのはおまえだ。  間桐桜を切り捨てた以上、おまえはあらゆる手段を尽くして間桐臓硯を殺し、イリヤスフィールを殺し、凛を殺す。その結末が楽しみだと言ったのだ」 「……なんで。俺は遠坂とは戦わない。あいつが聖杯を得るんなら、止める理由はない」 「いや、戦う。いずれ聖杯の正体を知ったおまえは、凛とも戦わざるを得なくなる。凛とて間桐桜を手にかけた以上、聖杯を手に入れなければ崩壊する。  アレは自らの信念の為に勝者たらんとし、おまえは自らの理想の為に聖杯を破壊する。  もはやおまえたちは相容れぬ存在だ。今回の聖杯戦争の〈終幕〉《オーラス》は、おまえたちが担うだろう」  神父も礼拝堂を後にする。    ……桜と遠坂のいる部屋。  そこで行われる行為が、既に終わったと悟ったからだ。 「俺が最後まで残るっていうのか、アンタは」 「無論だ。今のおまえは衛宮切嗣だ。それが勝てない筈がない」    ……神父は去った。  礼拝堂には、心が鉄になった衛宮士郎だけが残されている。 「――――――――」  神父の予言は真実だ。  俺はこのまま戦いを続け、臓硯とイリヤを倒し、遠坂を退けて、聖杯を壊す。    それがこの戦いの結末だ。  正義の味方になると誓った責任。  理想通りの自分になる為の、初めの代償。          判りきった結末を語る事はない。  衛宮士郎は心を〈剣〉《てつ》にしたまま、  正義の味方になるだろう。  朝。  障子ごしの陽射しで目を覚ますと、首のあたりが妙に重かった。 「ん――――、と…………」  首が重いのは肩が凝っているからだ。  うつぶせになって眠った為、首の筋が張ってしまったんだろう。  その分、背中の傷は随分と良くなっていた。  痛みはないし、これなら生活に支障はない。 「―――まず。もう七時過ぎてる」 「っ、あいた」  途端、ずくんと腹が痛んだ。  大人しくしている分にはどうってことないが、急激に動くと殴られた個所が疼く。 「―――痣になってるんだし。しばらくは悩まされるか」  それだって我慢すればどうって事のないものだ。  痛みで動けない程じゃなし、こっちも実生活に支障はないだろう。  着替えを済ませて部屋を出る。  居間から〈朝餉〉《あさげ》の匂いがしてくるから、桜が準備をしてくれているんだろう。 「おはよう。悪い、寝過ごしちまった。まだ手伝える事あるか?」 「おはようございます先輩。先輩が寝過ごすのも珍しいですね」 「う、面目ない。なんか、気がついたら朝だった」 「ケガをしてるんだから仕方ないですよ。ちょっと前に起こしにいったんですけど、先輩ぜんぜん起きてくれなかったですから。疲れも溜まってるんだと思います」  うわ。  桜が起こしに来てくれた、なんて記憶にない。  肩が凝っているばかりか、頭の方もまだ寝ぼけているみたいだ。 「すまん。ちょっと顔洗ってくる。すぐ戻るから待っててくれ」 「いえ、先輩こそごゆっくり。今朝はわたし一人で準備しますから、のんびり顔を洗ってきてください」  桜は実に元気がいい。 「………………?」  まあ、桜がそう言うんなら止めるのも野暮だし、別にいいけど。 「じゃあお言葉に甘えて、洗面所行ってくる」 「はい。今朝のお味噌汁は自信作ですから、期待しててください」  うん、と頷いて、とりあえず居間を通り過ぎて廊下に向かった。 「―――――って、ちょっと待った」  なんかヘンだ。  元気が良かったんでつい通り過ぎちまったけど、いくらなんでも、今のは何処か――― 「…………!」  何かが倒れる音。  ここ数日で聞き慣れた為か、それが人の倒れる音だと判断できた。 「桜――――!」  居間に駆け戻る。  ……床に倒れていたのか、桜はけだるい仕草でゆっくりと体を起こしていた。 「桜」  ふらつく体を手で支える。 「…………っ」  支えた桜の体は、いつかと同じように熱かった。  乱れた息遣いと汗に濡れたワイシャツが、桜の病状を物語っている。 「ぁ――――先、輩」  支えられてようやく気がついたのか。  桜はぼんやりと、焦点の定まらない目で俺を見た。 「もう。ゆっくりって言ったのに、すぐきちゃったんですね。……えっと、待っててください。すぐ朝ご飯の支度をしますから」  にこやかに言って手をほどく。 「――――桜、おまえ」  それは無理をしているというより、桜自身、自分の熱に気がついていないような素振りだった。 「待てって。朝飯の支度はいい。それより部屋に戻って横になるんだ。桜、すごい熱だぞ」 「え……? 熱って、わたしがですか?」 「ああ。……くそ、自分で気付いていないんじゃホントに重症じゃないかっ! なんだって、こんな――――」  こんな事にも気がつかなかったのか、俺は。  いくらセイバーの事で参っていたからって、身近にいる桜の容体に気を配れないなんて、どうかしてた。 「あの、先輩……? わたし、本当に大丈夫です。今のはちょっと転んだだけで、別に目眩とかそういうんじゃ……」 「馬鹿言うな、こんなに熱があるんだぞ!? こんなの体温計使わなくっても判る!」 「あ――――」  手を引いて客間に向かう。  とにかく今は桜を休ませないと。  学校には欠席届けを出して、朝食も消化しやすい病人食を用意して、昼は―――そうだ、藤村の爺さんにお願いして、藤村邸の家政婦さんに来て貰おう。 「あ、あの……先輩、何処に行くんですか? 学校に行く前に、ちゃんと朝ご飯を食べないとダメですよ?」  桜はまだ状況がわかっていない。  朝のテンションの高さは、熱でぼーっとしていた物だったのか。 「学校は休みだ。桜は今日一日、部屋でじっとしていること。学校へは俺が連絡をいれておく。どうせ教室で藤ねえに会うんだから、そん時に言えばいい」 「え――――学校を休むって、わたしがですか?」 「そうだよ。桜以外に誰がいるんだ。俺は……そりゃケガしてるけど元気だからな。休む理由がないだろ」 「――――――――」  ……いや、こっちだって無理をして学校に行く理由はない。セイバーを失った今、俺には学校に行く余裕なんかないからだ。  それでも、今日だけは外せない用がある。  昨夜の事―――間桐臓硯とアサシンの事を遠坂に報せるまでは、うちに引き篭もる事は出来ない。 「とにかく、桜は今日は休み。いつも頑張ってるんだから、たまには派手に休んでもいいだろ。俺も用が済んだらすぐに帰ってくるから」 「ぁ―――い、いいえ、わたし本当に大丈夫です……!  だから朝ご飯を食べて、学校に行きましょう。そうすればこんな熱、すぐに良くなってくれますから……!」 「ばか、そんなコトあるか。なんかメチャクチャだぞ、桜」 「め、めちゃくちゃなんかじゃないですっ!  無茶なのは先輩の方で、わたしは元気だし、熱なんてないし、先輩はケガしてるじゃないですか! なのにわたしだけ休んじゃうなんて、そんな、の――――」 「え……うわ、桜っ!」 「あ――――れ? おかしいです先輩。なんかわたし、息、くるし、くて――――」  床に倒れかけたまま、桜はハアハアと喘いでいた。  ……支えた体は、異様なまでに重い。  桜には立つ力がないのか、こんなにも体が重くなったから立てなくなったのか。  どちらにせよ、桜は一人では歩けないほど熱があって、元気だと思い込んでいるのは本人だけだった。 「……ばか。いいか、何があっても今日は休ませるからな。嫌がるのは勝手だけど、そんな無駄に体力使ったら明日も休むことになるぞ」 「…………でも、先輩。わたしは、学校に、行かないと」    乱れた呼吸で、うわごとのように桜は言う。 「――――――――」  それを無視して、桜を抱きかかえて客間に向かった。  客間に連れてきた時、桜は既に眠っていた。  が、眠っているといっても半分意識がある状態なんだろう。  呼吸は苦しげで、一度だけ、抱えた俺の腕をしっかりと握ってきた。 「――――――――」  とりあえずベッドに寝かせる。 「ぁ……先、輩……?」  ぼんやりとした声。  桜の目は天井を見たままで、俺を見てはいなかった。 「――――――――桜」  乱れた吐息と朱に染まった頬と、じっとりと汗を含んで貼り付いた服と―――呼吸の度に苦しげに上がる胸。 「っ――――――」  その姿があまりにも魅惑的で、慌てて目を逸らす。  桜は熱に魘されているっていうのに、どうしてこう不謹慎なんだ俺は――――! 「……まいった。やっぱり家政婦さんにお願いしないとダメだ」  ……俺じゃ桜に着替えなんてさせられないし、体を拭いてやる事もできない。  幸い横にしたら呼吸は落ち着きだしたし、この分なら熱冷ましだけで持ち直すだろう。  そうして一人で歩けるようになったら、一緒に病院にいって風邪薬でも処方してもらえばいい。 「桜。すぐに人を呼ぶから、それまで寝ててくれ。藤ねえんところの家政婦さんなら馴染みだよな」 「――――――――」  返答はない。  まだ呼吸は苦しげだが、とりあえず眠ってくれたようだ。 「―――ふう。まったくヘンに強情なんだから桜は。なんだってさ、そんなに学校に行きたがるんだよ」    質問は独り言だ。  桜は寝入ったし、返事はないと分かっている。 「じゃあな。学校行ってくる」  ベッドから離れてドアに向かう。  ―――と。   「……先輩と一緒に、学校に行きたいんです」    そんな返事が、耳に入った。 「桜……?」  振り返る。  桜は眠ったままで、悩ましげに目蓋を閉じていた。 「……なんだ。ただのうわ言か」  今度こそ客間を後にする。  その途中。           「………だって。わたしが、先輩を守らないと」  熱にうかされた声で、そんなコトを口にした。  学校に行く途中、藤ねえの家に寄って家政婦さんの手配をしてもらった。  藤ねえがあんまり着飾らない性格なんで時折忘れてしまうが、藤村の家はこっちの住宅地では一、二を争う富豪だったりする。  なにしろ会社でもないのに、社員と称する強面のお兄さんが何十人といる。  その大部分は藤村邸の離れに住んでいるもんだから、とにかく大所帯なのだ。  必然お手伝いさんも増員される訳で、お願いすれば手の空いた家政婦さんを回してくれたりもする。  ―――で。    桜がうちに来るまでに何度か世話になった事のある、緊急時のヘルパーさんを回してもらえる事になった。  桜とは顔見知りの家政婦さんだし、十分安心して任せられると思う。 「――――――――」  校門の前で遠坂を待つ。  空は一面灰色で、今にも降り出しそうだった。  風も冷たいし、もし雨が降るならさぞ寒い夜になるだろう。 「なに? 考え事?」  ―――と。  気がつけば遠坂がやってきていた。  ここまで走ってきたのか、肩がわずかに上下している。 「いや。なんか雨になるかなって」 「ああ、天気のことね。見た感じ小雨ぐらいかな。夜の巡回もあるし、あんまり降られるのも困りものだけど」  ……む。  遠坂の予定には、既に今夜の巡回が組み込まれている模様。  それはこっちも望むところなんだが、その前に〈家〉《うち》に立ち寄って桜の様子を見ておきたい。 「遠坂、その話なんだけどな」 「わかってるって。仲間同士、きっかり鍛えてあげるから覚悟なさい。ちゃんと衛宮くんを一人前にしてみせるから」  自信満々に言って、遠坂は坂道を下り始めた。  ……まいった。  あんな笑顔を見せられたら、今日は早めに帰りたい、なんてとてもじゃないけど言い出せないぞ……。  交差点から南、長い坂道を登る。  ここからは洋風の家々が並ぶ住宅地だ。  遠坂の家はこの坂道の頂点、桜の家よりもっと高い位置にある。 「うわ――――」  これが遠坂邸か。  大きさなら桜の家の方が大きいけど、なんというか、いかにも洋館って感じで見惚れてしまう。  ……それに、心なしか冷たいというか。  訪れるものを拒むような空気が、坂道を登りきったあたりから漂っていた気がする。 「どうしたの、足止めちゃって。わたしの家、ここだけど?」 「ぁ―――ああ、わかってる。ただ、なんとなく威圧されただけだ」 「……そうね。わたしのところは衛宮くんの家とは違うから。魔力の気配に疎い貴方でも、ここの冷たさは感じ取れるってこと」  つまらなげに言って、遠坂はずんずんと進んでいく。 「ほら、早く来なさいよ。罠なんてしかけてないんだから、尻込みすることないでしょう」  玄関から手招きをする遠坂。 「………いや。尻込みしてるのは雰囲気だけじゃないんだけどな」  ぼやきつつ、覚悟を決めて遠坂邸に足を進める。  ……たしかに冷たい雰囲気はするが、そんなものは二の次なのだ。  あいつはその、遠坂凛の家にお邪魔する、という事が、男にとってどれだけ一大イベントなのか分かっていない。  ……まあ、そんなコトを遠坂に説明しても分かってもらえないし、笑われるのが関の山なんだろうが。    ――――て。 「な、なんで居間じゃなくておまえの部屋なんだよ!」  居間に案内された後、何事もなかったかのように遠坂の部屋に通されてしまった。 「なんでって、ここのが器具が揃ってるからだけど。  居間はお茶を飲むところだし、別にお茶しにきたワケじゃないでしょ?」 「あ――――う。それは、そうだけど」  その、少しは同い年の異性同士なのだと、考慮してくれないものか。 「? とにかく適当に座って。聖別はセージとカードで行うけど、どっちも苦手だったら今のうちに言っとくこと」  ばくん、とベッド脇に置かれた箱をあける遠坂。  箱は冒険物の映画で出てくる宝箱そっくりだ。 「えーと……〈大師父〉《キシュア》の〈瑪瑙〉《めのう》なんか使ってもしょうがないか……あれ、セージきれてる。アーチャー、ちょっと〈地下〉《した》から二、三輪持ってきて」 「真紅のサルビアだな。……まあ、そこの男を判別するのに、そこまでする必要はないだろうがね」 「わたしの勝手でしょ。で、持ってきたらしばらく〈地下〉《した》で休んでて。彼とは協定を結んだんだから、いちいち護衛しなくてもいいでしょ」 「―――そうだな。その男に君を出し抜く度胸などあるまい。私は夜に備えるとしよう」  今のはアーチャーか。  霊体になっている時は気配が薄まるのか、あれだけ強力な魔力も全然感じられなかった。 「……驚いたな。同じ部屋にいるなんて気がつかなかった」 「霊体になっていればそんなものよ。 仮に実体化していても、この屋敷にいるかぎり魔力は外に漏れないわ。外部への魔力遮断なんて、工房としては初歩の初歩だから」 「ふうん。じゃあその、マキリ……じゃなくて間桐の屋敷も同じようなものなのか?」 「ええ。もっとも、あそこはもう魔力を隠す必要はないから、隠してるとしたら家から漏れる魔力じゃなく魔術師本人からもれる魔力でしょうけど」 「ま、どちらにせよ魔力を隠すだけならどうとでもなるって事。本当なら学校にもアーチャーを連れて行くところだけど、今あいつ、本調子じゃないから昼間は休ませてるの」  遠坂はがさごそと、難しい顔で宝箱をあさる。  ……なかなか探し物が見つからないようなのだが、もしかしてあいつ、整理整頓とは無縁な人なのだろうか?   「……ほんと、普通の傷は簡単に治療できるのに、どうしてセイバーの傷だけは治療できないのかしら、〈アー〉《あ》 〈チャー〉《いつ》。なんか因縁があったとしか思えないんだけど……って、どうしてこう大師父の宝石ばっかりでてくるのよ……普段は出てこないクセに、このっ」  身を乗り出して宝箱を手探る。  ……あの箱、小さいようで遠坂がまるまる入るぐらい深いようだ。 「――――はあ」  ともあれ、これじゃあ覚悟するも何もない。  俺に出来る事と言ったら、遠坂が目当ての道具を探しあてるよう祈るとか、あてもなく遠坂の部屋を眺める事ぐらい―――― 「……?」    と。  なんか、凄いものが目に入った。    ―――それは、一枚の写真だった。    部屋の隅にある、腰ぐらいまでの高さしかない本棚。  その上に、写真は忘れられたかのように置かれていた。  手に取ると埃が落ちて、長い間放っておかれていたのが判る。 「……掃除をしてない……って訳じゃないよな。この写真だけほっぽっとかれてるんだ」    遠坂、子供の頃の自分を見るの、イヤなんだろーか。  ……いや、それなら写真を出しておかなければいいんだし、大事だけど触れたくない品物……とか。 「…………それに、しても」  人間、変われば変わるものっていうか。  見た感じ五、六歳ぐらいの遠坂は、なんていうか、物凄く愛らしい。 「……昔っから髪は長かったんだ。……って、あれ?」  写真の中の遠坂は、今の遠坂をそのまま幼くした姿をしている。  だからこそ、一つだけ違う部分が気になった。 「おまたせ、準備は整ったわ。これからすこーし痛い目にあってもらうけど気にしないで……って、どうしたの衛宮くん?」 「ああ。遠坂、これ」  見つけた写真を差し出す。 「なんだ、昔の写真じゃない。隅っこに置いといたんだけど、それがどうかした?」 「え……いや、別にどうもしないんだが、ほら」  なんていうか、どうでもいい違いなので口にするのが〈憚〉《はばか》られた。  ほんと、別にこんなのはわざわざ訊く必要もないんだけど、何か心にひっかかったのだ。 「あ。そっか、リボンが違うっていうんでしょ、衛宮くんは」 「――――――――」  頷きだけで答える。 「そんなの当たり前じゃない。女の子だもん、髪留めなんていくらでも持ってるわ。いくらお気に入りだからって、十何年も同じのつけてると思う?」  あ。  なるほど、言われてみればその通りだ。  別にただのリボンだし、いったい何がひっかかったんだろう、俺は。 「なーんてね。そう言いたいところだけど、髪留めは特別よ。女の魔術師にとって髪は最後の切り札でしょ。縛り付ける物だって相応の魔術品なんだから、代えの代物なんて滅多にないわ」 「……へえ。じゃあそのリボン、何らかの魔術品なのか?」 「ええ。髪を止める、って事は魔力を留めるって事だから。遠坂は魔眼持ちじゃないから、せめて髪だけでも予備魔力を蓄えておかないといけないの。  で、自分の体をコントロールするんだから、髪留めは自分で作った方がいいでしょ」 「それ、わたしが最初に作ったリボンなの。お気に入りだったんだけど、ま、色々あって手放したわけ。  ……さて、無駄話はここまでよ。スパっと聖別を始めるから、まずはそこの椅子に座ってちょうだい―――」 「そんな覚悟はしていない。俺は桜のために戻ってきた。  おまえが桜を手にかけるっていうんなら、ここで止める」 「っ――――」 「じゃあアンタはどうするつもり……!?  いい、桜はマスターとして戦わないと生きていけない。  マスターであるかぎり、〈他人〉《よそ》から魔力を取らないとやっていけない体じゃない……!  そんなの、どんなに手を尽くしても結果は見えてるって思わない!? ならここで殺してあげた方が桜のためよ……!」 「な……思うか馬鹿! まだしてもいない事に、なに勝手に結論出してんだよおまえは!」 「出すわよ! 桜の問題が桜だけなら、まだ希望だってあるわ。けどそうじゃないでしょ? 桜の命を握ってるのはあくまであのくそ爺で、臓硯がいるかぎり桜は操り人形よ。  あの爺が桜を手放すなんてあると思うの?」 「――――それ、は」 「ほら、判ってるじゃない。臓硯は決して桜を楽にはしない。……なら。このまま苦しんで苦しんで、それでも結局逃げられないっていうんなら、ここで終わらせた方が犠牲がでない。桜も、桜の手にかかる人たちも救われるわ」 「わたしは貴方みたいに、一縷の希望にすがって被害を拡げる事はできない。そんな、決断を先延ばしにする弱さが、逆にあの子を苦しめるのよ」 「――――――――」  遠坂の言い分は正しい。  死が救いになる、という事ではなく、人を救うという点で言うのなら、遠坂の決断こそが正しい。  他の考えは全て打算と妥協にまみれた失策だ。  放っておけば十の人が死ぬ。  それを、予め一人の命を絶つ事で九人を助けられるのなら、それは――――    ―――それは。  衛〈宮士〉《おれ》郎がずっと否定してきて、心の奥で、受け入れていた〈過去〉《げんじつ》だ。 「――――違う。おまえは、間違ってる」 「衛宮、くん?」 「俺は犠牲なんて出させない。  おまえの方こそ―――やりもしないうちに結論を出す遠坂こそ、弱いんじゃないのか」 「ふ、ふざけないで……! それがどんなコトかわかってるかって言ってるの!? 桜を助ける? それってどういうコトよ! あの子を助けて、あの子に殺される連中も助けるってコト!? 笑わせないでよね、そんなの、貴方一人にできるワケないじゃない……!」 「――――ああ、出来ない。けど桜を守る。その結果がどうなるかは、これから考える」 「っ―――! そう。なら貴方はわたしの敵よ。  ……手を離して。さもないと、根元から吹っ飛ばされて外まで転がり出る事になるわよ」 「――――やってみろ。けどな遠坂。そう、なんでもかんでも思い通りになると思うなよ」  ……握り締めた手に力が込もる。  俺は緊張から。  遠坂は―――いや、遠坂も緊張からなのだと信じたい。  売り言葉に買い言葉でもあったのだが、俺たちは譲れない物の為に、もう後に引けない状況になって―――― 「なんだ……!?」 「え、なに……!?」  礼拝堂の外。  ちょうど隣りの部屋から聞こえた物音に目を見合わせた。 「衛宮くん、今の聞いた……?」 「――――窓の割れる音だ。それに、その後のは」 「走っていく足音だったな。たしかに出口はこの礼拝堂と裏口だけだが、窓を割って外に出るとは何事か。  ……いや、そうか。この教会の窓は嵌め殺しが多い。  仕方なく窓ガラスを割ったのだろうが、病み上がりにしては少々乱暴だな」 「病み上がりって――――まさか、桜!?」 「それ以外誰がいる。彼女を寝かせていた部屋は、なぜか〈礼拝堂〉《ここ》での会話が筒抜けでな。おまえが彼女を殺すだの物騒な事を言うから逃げ出したのだろう」 「な」 「許せ。構造的欠陥というヤツだ」 「嘘つけこのインチキ神父……! それ絶対ワザとでしょう!」  遠坂は俺の手を振り払って走り出す。  行き先は教会の内部ではなく、外に通じる扉だった。 「遠坂――――!」 「話は後、今は桜を捕まえる方が先……! もう、あの子ってばあんな体で何処に行こうってんだか……!」  慌ただしく扉を開け外へ飛び出していく。  遠坂は傘もささず、雨の夜へ駆けていった。 「っ――――」  俺もぐずぐずしてはいられない。  桜が何処に行ったのかは判らないが、今は一人にしておけない――――! 「待て。間桐桜を捜しに行くのはいいが、その前に伝え忘れた事がある」 「っ――――なんだよ、長話は御免だぞ。今はそんな場合じゃない……!」 「まあそう言うな。大事な話だ、伝えておかなければ私も困る。凛は聞かずに行ってしまったからな、おまえに話しておかなければならないだろう?」 「っ……それは、桜の事か?」 「そうだ。結論から言えば、間桐桜は長くない。  刻印虫はこうしている今もあの娘の身体を侵している。  引き抜く事は簡単だが、その衝撃にあの〈娘〉《むすめ》の体が耐えられない。神経の四割を生きたまま引き抜くのだ。痛みでショック死する以前に、人間として死亡する」 「だが、放っておいても同じ事だ。  アレの理性は欠乏する魔力に削られていき、じき間桐桜という自我を亡くす。そうなってしまえば、アレはただの暴走したマスターだ。  〈己が機能〉《サーヴァント》の維持の為、何人もの人間を犠牲とし、それでも最後には耐え切れずに自滅する。  ―――つまり。おまえがどのような手を尽くしたところで、あの女は助けられん」 「――――――――」  一瞬、ストロボをあてられたような、目眩がした。 「壊れたものは直らず、失ったものは決して戻ってこない。あの娘を助けたかったのなら、それは十一年前に行うべき事だった。  それでも手を差し伸べるというのか衛宮士郎。  何をしようと数日後には死ぬ女だ。そのような者を助ける事になんの意味がある」 「――――――――」  息が出来ない。  神父の言葉は痛すぎて、よろめかないように踏み止まるのが精一杯だ。 「……そんなもの、俺には分からない。けどおまえは桜を助けてくれた。意味なんて、それで十分じゃないのか」 「さて。私が治療をしたのは責務からだ。助けを求めて訪れた者を、無碍にする事はできないからな」 「――――嘘つけ。責務だけで魔術刻印を使い切るもんか。理由は分からないが、おまえは桜を助けたかった。  死なせたくなかったんだ。そんなの俺だって同じだ」  神父を睨む。  ……納得がいったのか、ヤツはわずかに首を傾けた。 「そうだな。ならば急げ。凛が先に見つければ、間違いなく間桐桜を手にかける。その前に、あの迷い子に屋根を与えてやるがいい」  言われるまでもない。  神父に背を向け、遠坂同様、雨の中へと走り出した。    ――――吐く息が白い。    冬の雨は冷たく、肺から漏れた熱気は凍りついて、ザラザラと頬にあたるような気さえする。 「――――桜」    道に人影はない。  街灯が虚しく夜を照らす中、当てもなく走り続ける。  ……桜を引き止める。  早く見つけなくては取り返しのつかない事になる、という予感だけじゃない。  今はただ、桜の手をとって、その体温を確かめたかった。 「は――――はぁ、は――――」    闇雲に走り回る。  何処に向かったのかなんて判るものか。  ……今の桜に帰れる場所なんてない。  〈衛宮〉《うち》邸にも間桐の家にも居場所がない桜は、結局、この夜の中を彷徨っているしかない。 「……そう遠くには行ってない筈だ。雨の凌げる場所で、人気のない所といったら――――」    乱暴な推測だ。  だが、今は思いつきを片っ端から当たっていくしかない―――― 「は、はぁ、は――――ぁ」    橋を渡る。  新都の駅前に桜の姿はなく、桜らしき女の子を見たという話もなかった。  いくら夜といっても、新都の人通りが途絶える時間じゃない。  道に人影は少なくても、何人かは出歩いていた。  それでも桜らしき女の子を見た者がいないという事は、桜は新都を避けて深山町に戻ったのかもしれない。  制服のままであろう桜は、この雨では目立つ。  桜が人目を避けるのなら深山町に向かう筈―――そう考えて、雨の中を走り抜ける途中。 「――――――――桜」    足が止まった。  橋の下。  暗い、人気の絶えたレンガの道に、桜は一人佇んでいた。  公園に下りる。  ……俺に気がついているのか。  桜は俯いたまま、凍えた雨に体を〈晒〉《さら》していた。 「――――――――」  ……かける言葉なんて思いつかない。  今の自分に出来る事は、桜を連れて帰る事だけだ。 「桜」  声をかけて歩み寄る。   「だめ、来ないでください……!」    それを。  今まで聞いた事のない必死さで、桜は拒絶した。 「――――――――」  足を止める。  桜は顔を上げず、ぎゅっとスカートを握り締めている。  その姿は、己を恥じる罪人のようで辛かった。  ……これ以上は近づけない。  桜が自分から顔をあげるまでは、決して、近づいてはいけないと感じ取った。 「――――桜」 「……帰って、ください。  いま近づかれると、わたし――――何をするか、わからない」  声は震えている。  雨の冷たさと、罪悪感から桜は震えている。  ……それを払拭する事は、俺には出来ない。  俺に出来る事は、ただ。   「―――帰ろう、桜。おまえ、風邪治りきってないだろ」    ここから、桜に手を差し伸べる事だけだった。 「……先輩」  雨を吸った桜の髪が揺れる。  桜は、わずかに唇をかみ締めた後、   「帰れません。いまさら、どこに帰れっていうんですか」    憎しみの混じった声で、はっきりと言い捨てた。 「――――――桜」 「いいんです先輩。わたしなんかに、無理に構う必要はありません」 「……だって、もう知っているんでしょう? わたしがなんなのか、わたしの体がどうなっているのか、全部聞いたんでしょう? なら――――もう、これで」  全て終わりだ、と。  声にはならない言葉を、白い吐息が告げていた。 「――――馬鹿言うな。俺が聞いた事なんてどうでもいい事だ。俺が知ってる桜は、今まで一緒にいた桜だけだ。  それがどうして、こんなコトで終わったりするんだよ」 「……だって、終わっちゃいます。  先輩。わたし、先輩が思ってるような女の子じゃないんですよ? 貰われた先で小さい頃からよくわからないものに触られてきました」  桜は自らの肘に爪を立てる。  ……それは、体に染み付いた汚いモノを罰するような、自虐的な行為だった。 「――――――――」 「それだけじゃないです。わたしは間桐の魔術師で、先輩にそのコトをずっと隠してました。  ……マスターになった時も黙っていて、先輩がセイバーさんを連れてきた時も、知らん顔して騙してたんです。  ほら。だってその方が都合がよくて、先輩に怒られないじゃないですか」 「――――桜」 「でも本当、馬鹿ですよね。そんなので誤魔化せる筈ないのに、それでも騙しとおせるって思ってたんですよ?  自分の体にお爺さまの虫が棲んでいても大丈夫だ。自分を確かに持っていれば負けないって思い込んで、あっさり負けちゃいました。  ……あの時かけられたの、毒でもなんでもない、暗示のようなものだったんですよ? わたしは、そんなのをかけられただけで自分が分からなくなって、先輩を傷つけたんです」 「……遠坂先輩は正しい。わたしは臆病で、泣き虫で、卑怯者です。こうなるって判ってたのに、お爺さまに逆らう事も、自分で終わらせる事もできなかった。  痛いのがイヤで、怖いのもイヤで、みんなより自分が大切すぎて、死ぬ勇気も持てなかった……!」  ……泣いている。  桜は、ただ泣いているだけだ。  泣いて、どうしたらいいのか判らなくて、よけい悲しくなっているだけ。 「――――――――」  それを感じ取って、後悔した。    ―――俺は今まで、桜の泣き顔を見たことがなかった。    その意味を。  こんな、自分を責めるコトでしか泣けない意味を、どうしてもっと早く気がつけなかったのか。 「泣くな――――桜」 「だから――――全部、わたしが悪いんです。  わたしはお爺さまの操り人形で、いつさっきみたいに取り乱すかわからなくて、いつか、きっと取り返しのつかない事をします。そんなわたしが、何処に帰れるって言うんです、先輩……!!」  桜は自らを追い詰める。  ……誰も桜を責めていない。  だからこそ桜は自分で自分を責めるしかない。  自分が悪人だと。悪い人間なのだと責めて、罰を与えるしかない。 「―――――だから、泣くな」  ……いつか桜が言っていた。  自分は臆病だから、強引に手を引っ張ってくれる人がいい、と。  それがどういう事なのか、やっと判った。    俺が守りたいもの。  俺にとって大切なもの。  失うことさえ、思いつかなかったもの。  それをこれ以上泣かせたくないのなら。    俺は手を引いて、ちゃんと日の当たる場所に連れて行って、今からでも桜を―――― 「……ごめんなさい、先輩。わたし、ずっと先輩を騙してたんです。  けど、いつも思ってました。わたしは先輩の傍にいていい人間じゃない。だからこんなのは今日限りにして、明日からは知らない人のフリをしようって。  廊下で出会ってもすれ違うだけで、放課後も他人みたいに知らんふりして、夜も、ちゃんと一人で家に帰って、今までの事は忘れようって……!」    ――――ああ。  そんなコトをされてたら、こっちの方がどうかしてた。  それに気がつかなくて、ごめん。 「でも出来なかった……! そう思っただけで体が震えて、すごく怖かった。怖くて、死のうって決めた時より怖くて、先輩の家に行くのを止められなかった。先輩を騙すのも、それを止めてしまうのも怖くて、まわりはみんな怖いコトだらけで、もう、一歩も動けなくなって、どうしていいかわからなかった……!」  けど、俺はこれで良かったと信じている。  桜は知られなかった方がいいと言うけど。  それだと、俺はずっと桜を泣かし続けたままだった。 「……馬鹿ですよね。こんなこと、いつか絶対判っちゃうのに。判っちゃった時はもう遅くて、わたしは二度とあの〈屋敷〉《うち》には入れない。だからそうなる前に、わたしから離れた方がいいって、毎晩毎晩思ってた。  その方が先輩の為で、わたしもきっと、これ以上は悲しくなくなるって、これ以上泣かなくていいってわかっていた、のに――――」  だから、これ以上は泣かせられない。  誰も桜を責めず、桜が自分で自分を責めるしかないのなら。 「でも―――それでも、隠していたかった……!  先輩との時間を、これからも守っていたかった……!  わたし、わたしにとってはそれだけが、意味のあることだったのに、どうして……!」  他の誰が許さなくても、俺が、桜の代わりに桜を許し続けるだけだ。 「あ――――――――」  冷え切った体を抱きとめる。  ……回した腕は、ひどく頼りなかった。  強く抱きしめる事もできず、桜を抱き寄せる事もできない。  ……俺には桜を救う事はできない。  ただこうして、傍にいてほしくて、傍にいてやる事しかできない。 「先輩、わたし――――」 「もう泣くな。桜が悪いヤツだってコトは、よくわかったから」 「――――――――」  息を呑む音。  罪悪と後悔が混ざった桜の戸惑い。  それを否定するように、精一杯の気持ちを告げる。 「――――だから、俺が守る。どんな事になっても、桜自身が桜を殺そうとしても――――俺が、桜を守るよ」 「せん、ぱい」 「約束する。俺は、桜だけの正義の味方になる」  ……抱きしめる腕に、少しだけ力を込めた。  今はただ触れ合うだけでも。  この誓いは、何よりも堅いものであると告げるように。 「…………」  それにどれだけの効果があったのか。  あれだけ冷たく、頑なだった桜の肩から力が抜けていた。  ……桜は、桜が何を言ったって、やっぱり今までと何も変わらない桜だった。  抱きとめた感触も、肌の熱さも変わらない。  お互いの吐息は白く、降りしきる雨は、いつしかその勢いを止めていた。    その、凍えた夜の中で、     「だめです、先輩――――それじゃきっと、先輩を傷つける」      懺悔するように、桜は言った。 「――――――――」  雨が止んでいく。  夜は真冬のように冷たく、桜は抱きとめた腕を振り解かない。  ……そうして。 「先輩を、傷つけるのに――――」    ――――こうしていたい、と。    一筋頬を濡らして、桜は言った。    ――――それで、一つの選択が終わった。    おそらく、決定的なものが終わったのだ。    これが恋というものなのか、愛というものなのかは知らない。  ただ―――この恋の終わりは、報われるものではないと。    そんな確信めいた予感が、胸の〈裡〉《うち》から離れなかった。  〈衛宮邸〉《うち》に戻ってくる頃、雨は完全に止んでいた。  ……桜とは公園からこっち、ずっと手を繋いだままだ。  歩いているうちに落ち着いてきて、坂道を登る頃にはお互い気恥ずかしくなってきたが、結局ほどけずにここまで来てしまった。 「あれ……? 玄関の明かりが点いてる。桜、一度うちに戻ってきたのか?」 「……えっと、わたしじゃないと思います。藤村先生じゃないでしょうか……?」 「ああ」  そっか、と桜の手を引いて門に向かう。  冷えきっていた桜の手が、いまはずっと温かい。  血の通った〈生命〉《いのち》の感触に安心させられながら、学校帰りのように門をくぐった。 「お帰りなさい。失礼だとは思ったけど、勝手にお邪魔させてもらったわ」 「と、遠坂――――」 「ね……遠坂、先輩」 「ええ。最後にはここに戻ってくると踏んではいたけど、まさか二人で戻ってくるとはね。……まあ、衛宮くんならあり得るかなとも思ってはいたけど」 「っ――――!」  咄嗟に桜を後ろに押しのけて、遠坂と正面から向かい合った。 「遠坂、おまえまだ……!」 「当たり前でしょう。遠坂の魔術師として、間桐桜は放っておけない。冬木の管理者として処罰しなければわたしが協会に目をつけられる。そうなってからじゃ遅いわ」 「そんな事情なんて知るか。桜はまだ何もしてない。それでも桜に手を上げるっていうんなら、まず俺を黙らせろよ」 「そうね。貴方は協会に属さない〈単体〉《フリー》の魔術師だし、ここで取り締まっておくのもいい。  わたしは桜を殺すわ。それを邪魔するのなら、アンタも殺す」 「……………………」  神経が鋭敏になっていく。  ……遠坂の指先。  それが少しでも動いた時が始まりの合図だ。  遠坂の魔術詠唱より早く桜を連れて外に出る。  その後―――その後の事は、その場で考えるしかない。  今はここから逃れる事だけに神経を集中する。  遠坂との魔術の開き。  いるであろうアーチャーにどう対処するかなんて、とてもじゃないが思いつかない。 「――――――――」  遠坂の唇が、かすかに開く。  それが魔術の詠唱ではなく、何か言おうとしたものだと気付いた時。   「止めて、止めてください、姉さん……!」    桜が、俺たちの間に割って入った。 「――――桜」 「せ、先輩の言う通りです。わ、わたしはまだ、先輩しか傷つけていません。その先輩が許してくれるなら、わたしはまだ、罰を受ける謂れはない筈です」 「――――貴女ね。ちゃんと自分の体を把握しているの?  そんな体で、よくもそんな」 「……言え、ます。わたしはまだ大丈夫です。  それより、遠坂先輩こそ本気ですか。先輩はもうマスターじゃない。セイバーさんもいなくなって元の先輩に戻ったのに、マスターである遠坂先輩が手を上げるって言うんですか」 「――――あげるわよ。そいつが丸腰だろうと何だろうと関係ない。わたしの邪魔をするのなら、容赦なく排除するしかないでしょう」 「――――なら。それでも先輩と戦うのなら、わたしが遠坂先輩と戦います。ライダーのマスターとして、遠坂先輩には負けません」  桜は怯えながら、精一杯の勇気で遠坂と対峙する。 「――――――――」  ……桜の決意に驚いたのか、ここで俺たちと戦う事を不利と取ったのか。 「そう。そこまで言うなら、マスターとして勝ち残りなさい。貴女が助かる方法はまだ一つだけあったものね。  聖杯が手に入れば、臓硯の呪縛なんて簡単に解呪できる」 「ぁ……遠坂、先輩?」 「別に見逃してあげるワケじゃない。  ……聖杯を奪い合う者としての勝負なら、幾らでも戦う機会はやってくる。ただ、ここは相応の場じゃないってだけ」  すれ違う。  遠坂は敵意も殺意も見せず、こっちが驚くぐらい潔く、俺たちの横を通っていった。 「遠坂」 「……ふん。せっかくの共同戦線も一日限りになったわね。貴方が桜を庇う以上、もう協力体制なんて言ってられないでしょう」 「――――――――」 「けど忘れないで。桜はいつ暴走するか判らない。  その時に貴方が死ぬのは勝手だけど―――預かったからには、犠牲者は貴方一人に留めなさいよね」  振り返りもせずに去っていく。 「……先輩、あの。わたし」 「ばか、そんな不安そうな顔するな。いまのは遠坂流の皮肉だろ。あいつ、人をからかうのが趣味だからな」 「…………」  落ち込む桜の背中を押して、ともかく廊下に上がる。  俺も桜も冷えきってるし、早く着替えて体を暖めないと毒だ。           “……預かったからには、犠牲者は貴方一人に留めなさいよね”  それはつまり、桜に殺される時は、桜と相打ちになれ、ということ。  それを最低条件にして遠坂は立ち去った。 「―――――――」  ……そんな事にはならない。  そんな事にはならない、と自分に言い聞かせながら、桜の手を引いて居間に向かう。  ……繋いだ手は、本当に温かい。  桜はちゃんと生きていて、ここにいる。  今はそれだけだ。  それ以外の迷いを抱いて、桜を不安にさせる事は出来ない……のだが。 「……む?」  ちょっと。  いくらなんでも、桜の手は温かすぎると思う。 「桜。もしかして、熱がぶり返したか?」 「え……? あ、あの、どうでしょう。わたし、熱いですか?」  自分では判らないのか、桜はおかしな事を言う。 「いや、そんなに熱いわけじゃないけど、俺よりあったかいかな。なんか、触ってるとぽかぽかしてくる」 「あ――――そ、その、きっと風邪です……! ずっと雨に打たれてたから、それで風邪を引いたんだと思います」  ?  どうしてか、桜は恥ずかしそうに顔を伏せた。 「そっか。そうだよな。じゃあ早く着替えて体を温めないと。夕飯は俺が作るから、桜は熱を計って、風邪だったらあったかい格好で居間に来ること。夕飯は食べやすいものにしとくから」 「ぁ……い、いえ、晩ごはんは、要らないですっ。その、もう寝ますから先輩もお休みください……!」  たっ、と小走りに駆けていく桜。 「??」  ……まあ、いいけど。  俺もこのままじゃ風邪を引くし、風呂にでも入って温まらないと。  風呂を済ませて部屋に戻る。  濡れた服を脱いで着替えを済ませると、ようやく帰ってきた、という実感が湧いてくれた。 「―――――――はあ」  畳に腰を下ろして、凝りに凝った肩をほぐしながら息を吐く。  ……今日は、本当に長い一日だった。  色々な事があって、色々な波乱があった。  その中で決別し、残ったものを整理する。 「……そうだ。桜、ライダーのマスターだったんだっけ」  今までは慎二に譲っていたらしいが、今は桜がライダーのマスターだ。  となると、この近くにライダーは潜んでいて、今も桜を守っているんだろうか。 「……そうだな。ライダーとはもう数回会っているし。  あいつが桜を守ってくれるなら、ちゃんと話しておかないと」  ……外見はアレなんでとっつきにくいが、ライダーはそれなりに話が分かるヤツだと思う。  桜はいつ臓硯に切り捨てられるか判らない状態だし、頼りになるのはライダーぐらいだ。  言峰の話ではサーヴァントを使えば使うほど桜の体は悪くなるというから、ライダーに頼るのは最後の手段と言う事になるが。 「よし。明日になったら桜に紹介してもらおう。  あー……けど、セイバーにやられた事を根に持ってそうだよな、あいつ」  がっくりと肩が落ちる。  ……ともあれ桜がここに帰ってきた以上、ライダーだって一緒に住むんだから挨拶ぐらいはちゃんと―――― 「――――誰だ!?」 「っ……!」  すぐ身をかわせるように腰を浮かし、障子を睨む。  ……部屋の外。  縁側に、無言で佇む影があった。 「――――――――」  ……返事はない。  人影は廊下で、こちらの出方を窺っている。 「――――――――」  ……くそ。  部屋には武器になるようなものがない。こうなったら素手で、仕掛けられる前に仕掛けて―――― 「――――せ、先輩。あの、起きてますか……?」 「え……? なんだ、桜か」  跳び退こうとした腰を落とす。 「風呂なら好きに使っていいぞ。着替えなら藤ねえのがあるだろ」 「……はい。お風呂はもうお借りしました。藤村先生の洋服も借りてます」 「??」  ……? なら、他に訊くようなコトはないと思うのだが。 「あの……先輩。入って、いいですか」 「いいけど。どうしたんだよ、改まって」  障子が開く。  そうして、部屋に入ってきた桜は、 「――――――――」  私服に着替えて、どこか、おかしな桜だった。  ごくん、と息を呑む音がする。  それが自分のモノだと気が付いて、体温がぐっと上がった。 「っ――――――――」  唖然とする口を手で隠して顔を背ける。 「っ――――――――」  無意味だ。  顔を逸らしたっていうのに、目は桜を見たがっている。  理由は判らないが、今の桜には妙に気持ちをつき動かされる。 「………………」  桜は入り口に立ったままだ。  その様子が、艶やかなだけでなく、どこかおかしいとようやく気付いた。 「……桜、どうかしたのか? 熱はどうだったんだ。やっぱり風邪か……?」 「……いえ。熱はありますけど、風邪じゃないんです。  私が熱いのは、病気じゃ、なくて」  言いにくそうに目を伏せる。  ここ数日、桜はこういう時があった。  ……今まで知らなかった桜の一面、同年代の女の子なんだって言う意識には、それなりに慣れてきたつもりだった。  けど、これは、その……今までとは、比べ物にならない気が、する。 「……桜?」 「……駄目なんです、先輩。もう私一人じゃ抑えられない」 「お―――抑えられないって、なにが?」   「……私の中……の……だって、先輩と一緒に帰ってるときでも、先輩の手が暖かいなって思っただけで……」 「――――――」  頼りなく揺れている桜。  ……その様子は、熱にうなされているより、もっと深刻な病状を思わせた。 「わたし……どうして先輩……ぁ……」  ……思考が鈍っている。  桜の容体がおかしいのは明らかだ。  なら、すぐに手を取って部屋まで連れていくべきなのに、足が動かない。  もどかしい沈黙。  風に吹かれるように近寄ってくる桜。  その足が、畳の縁に―― 「――――あっ」  俺が叫んだのか、桜が呟いたのか。  桜は弱々しく、頭から崩れ落ちる。  鈍っていた足が動く。  倒れる桜を咄嗟に助け起こそうと―――  ……間に合わず、不自然なかたちで桜を受け止める。  桜の身体は、明らかにおかしかった。  体は熱いのに手足だけが冷たい。体は高熱に襲われ、手足は逆に血の気を失っている。  ……断じて、ただの熱じゃない。  原因は病ではなく、人の手による毒ではないのか。  目線が逸れた。  桜は胸の上に顔を埋める。  ……長い沈黙。  声はあげないものの、桜は泣いている。 「……桜」 「……先輩。先輩はどうして、こんなわたしを庇ってくれるんですか。わたしはとっくに蝕まれています。先輩が好きでも、先輩のためになれない。  なのにどうして遠坂先輩―――姉さんを敵にしてまで、わたしを守ってくれるんですか?」  ……桜を守る理由。  そんなもの、考えるまでもない。 「……違う。俺の方が、桜にいて欲しかったんだ。  俺には桜が必要で、離れるなんて考えられなかった。  だから―――いくら遠坂が桜の姉貴だって、おいそれと譲れるもんか」 「それは家族としてですか。  ……それとも、ちゃんと一人の女の子として見てくれるん、ですか」 「――――――――」  家族としてなんて、もう見られる筈がない。  この数日の間、いや気が付いていなかっただけで、もうずっと前から、俺は桜にいてほしいと思っていた。  ……それを誤魔化して取り繕うのは、とっくに限界を迎えていたんだ。 「――――ああ。俺、桜が好きだ」    はっきりと口にした。  ……馬鹿な話だ。桜を失うと言われて、ようやく、つまらない虚飾をはぎ取れた。 「………………先輩」    桜が震えている。  いや、震えているのは俺の身体なのかもしれない。  桜を抱いて横になって、こんな告白をすれば緊張もする。  桜の上に回した手に、ほんの少しだけ力を入れる。  ……静かだ。  もっと動揺すると思ったけど、口にした途端、すっぱりと落ち着けた。 「桜」  桜の肩が動く。  胸にうつぶせている桜の頭が揺れる。  俺は桜が好きだって言った。だから桜が俺を好きなのか、聞きたかった。  ……いや、聞けなくても構わないのか。  明日からいつも通り、のんびりと朝を過ごせればそれでいい。 「………………せん、ぱい」    その弱々しさに息を飲む。  さっきよりも、声が弱っている。  高熱にうなされて、朦朧としているみたいな正体のない声。 「あ……おい、桜……あ……」  上に乗っている桜の様子がおかしい。  熱っぽいだけじゃなく、何かを堪えるような痛ましさがある。 「桜、おい……しっかりしろ、具合悪いのか!?」  桜の体の熱は上がっていて、逆に、手足の冷たさは増していた。  ―――落ち着かないと。  俺では桜を楽にさせてやれないが、遠坂―――は駄目だ、ならもう一度教会まで―――いや、桜を連れていくより、言峰を呼び出す方がいい。 「じっとしてろ。すぐに楽にしてやるから」 「先輩……わたし……あ……はぁ、はぁ、はぁっ……」  なら、まず寝かしつけないと。  血が滲むほど俺を握りしめる桜。  ……苦悶の〈表情〉《かお》に唇を噛む。  好きだと告白した桜に、俺は、してやれる事がなにもない。 「欲しい……先輩、わたし……足りなく、て……」    うわごとは、苦痛と羞恥を混濁させている。 「我慢……できないんです、わたし、耐えられない……」    呼吸が速まっていく。  苦しげな桜の吐息と、それを聞く自分のもの。  ……間近にいると、冷静じゃなくなってくる。  とにかく、温かいベッドに寝かしてやらないと。 「いいか、桜、ちょっと――」 「――――――――っ!!」  桜の身体が嫌がって逃げ……たのではなく、桜の身体は仰け反って、代わりに手が俺の掌を掴んでいた。 「あ……。悪い、桜」 「違うんです、違うんです先輩……だってわたし……い、や、だめ…………」    桜は触られるのが嫌なのかと思ったが、違う。  桜の身体はちぐはぐだった。  腕は俺の手を捕まえて、震えながら近寄せようとしているのに、上体は逃げようとしている。 「桜? おい、桜!」 「駄目、そんなことしちゃ……先輩に、嫌われちゃう……あ、っ……けど、苦しく、て……先輩の手が、あったかく、て―――」  桜に取られた手が、じりじりと進んでいく。  ……引き離せない。  こんな、弱々しく抗う手を離すことはできない。 「あ……先輩……だめ、ぜんぜん、足りなく、て……」  桜の声が、艶やかな色に染まった。  ぐっと手が桜に寄せ付けられて、そのまま―――  温かい唇が、救いを求めるように指を噛む。 「え――――――」  驚きに力が抜ける。  なんで桜がこんな事をするのか。 「…………………痛っ」  かしん、と噛む。  指先にかすかな痛み。  桜の歯が肌を破って、内側からじわじわと痛みと血が湧き出してくる。  血が流れる。  桜の震えが段々と治まっていく。  あれだけ冷たかった手足は、少しずつ熱を取り戻していく。 「ん…………」    こくん、と。  にじみ出た血を飲む、小さな喉の動き。 「………………っ」  傷口に触れる舌先。  控え目な音をたてて、赤い血が吸われていく。 「っ…………、う……」    指先が溶けそうに、心地良い。  桜の唇の感触もあるし、時々いたわるように触れる舌の滑らかさもある。  そんな事より、この傷口が一滴血を漏らせば、漏らした分だけ甘い快感が染みこむ。    ……たしか、同じ痛みを、どこかで味わった。  でも、どんな体験だったのか思い出せない。  思い出すことも億劫なほどに気持ちが良い。  吸われているのは指先だけだというのに、手首から肘まで、じわりと忍び寄ってくる心地良さ。 「ん……んん……」    心臓から指先までの血管が、浮彫になったようだ。  魔力を帯びた血が、桜の口に漏れ出し、 「あ………ああ……」    ……事実だけを、客観的に観測する。  桜は恥ずかしさに耐えながら、俺の血を口にしている。 それで彼女の体は落ち着いていく。  なら―――この行為のどこに、問題があるだろう? 「…………はぁ、あ……」    どれだけ血を流したのか。  貧血による虚脱感は、  ……きっと、献血程度の損血だろう。  桜は最後に指を舐め、音をたてて、唇から指が抜けた。  お互いに顔を見合わせ、言葉がない。  桜の体は落ち着いてきたようだが、頼りなさが残っている。 「…………桜?」  ようやく名前を呼んだ。  あの指から感じた得体の知れない快感を押さえつけ、今のが何であったのかという不安も押しやって。 「先輩……あ、あ…………っ」  ぱっ、と俺の手を離して飛び退く桜。 「桜……いや、答えられないなら構わないんだ」 「……ごめんなさい」    消え入りそうな声。  顔を向けると、膝の上に手を乗せた桜が、小さく〈蹲〉《うずくま》るように〈俯〉《うつむ》いている。 「……知ってますよね、先輩」 「わたしは間桐の家で魔術師として教育されました。  ……血筋の違う私を間桐の魔術師にするため、お爺さまはわたしの身体をいじったんです。……その結果が、こんな、魔力が足りないとおかしくなる身体なんです」    ……間桐臓硯に対して黒い怒りが湧く。  けれどそれ以上に、切々と口にする桜の痛々しさに胸が塞いだ。 「……魔術師の力が欲しくて、身体の虫たちが疼き出すんです。そうなっちゃうと、わたしはどうしても我慢が出来なくなる。  虫たちが魔力を食べ尽くして、足りない、もっと欲しいっていってるんです。……だから、先輩の、を」 「……血を飲んだのも、もしかして」 「…………………」  わずかな頷き。  ……沈黙は時に、どうしようもないほどの肯定になる。 「魔術師の血にはよく魔力が溶けます。だから、先輩の血を飲みたくなったんです。飲めば魔力が補充できて、体の異状も治まるから」  ……そうか。  ライダーのマスターに戻った事で、魔力の消費は激しくなる。  ……今までは何の支障もなかった“日常”が、今はそれだけで魔力を消費するものになっているのか。 「……どうかしてますよね、せ、先輩が顔を背けたくなるのも、当たり前ですよね。  先輩と一緒に帰ったときから疼き出して、先輩のことしか考えられなくなって、先輩がわたしを助けてくれるのにわたしは先輩から無理矢理奪って――――」 「――――――」 「……先輩。私、おかしいですよね」    かすれて、引き絞るように口にした言葉が刺さる。 「先輩が抱きしめて心配してくれる時だって、わたしは先輩の血を飲みたがってた。  先輩はわたしのことを一人の女の子として、好きだって言ってくれたのに、わたしは先輩の血を吸うことしか考えられなかった。  虫たちがあげる呻き声しか聞けなかった。楽になりたい、早く楽になりたい、だから先輩が、血が欲しいって、だから――――本当は先輩を好きじゃなくて、先輩の血が飲めるから好きになれば良いんじゃないかって、だから!」 「――――――――」 「……ごめんなさい。こんな、血を吸って楽になることしか考えないわたしは、先輩に好きになってもらう資格なんかない―――」    ―――決まってる。  むしろ何故そんな事を言われるのか、判らない。 「――――汚れてなんかない。桜は綺麗だ」 「あ……………………」    もう一度抱きしめて、囁いた。  震える桜は泣いているのか―――そんな桜のために泣けない俺が悲しいのか。 「……ばか。血の少しくらいで、嫌いになんかなるもんか。  俺だって桜のことが好きだった。今まで気が付かない振りをして誤魔化していたくらいに、桜は綺麗だ。  ……だからそんな風に自分を責めるな。桜の身体がそうなのは、桜のせいじゃないんだから」  肩を撫でる。  桜は俺の肩に身体を預けて、低く嗚咽している。 「それにさ。さっき血を吸われてる時、嬉しかった」 「……………え? そんな、先輩……」 「おかしくないぞ。桜の体を治せない俺でも、桜を楽にしてやれるんだって、嬉しかったんだ。  だから気にしないでくれ。俺にしてやれる唯一のことを嫌がられたら、立つ瀬がないしな」  ぽん、と元気づけるよう、軽く桜の肩を叩く。 「俺の血でよければいつでも言ってくれていい。  それで桜が楽になるのなら、俺はそっちの方が嬉しいよ」  ……俺は桜を好きになってよかったのだ、と。  まだ小さくではあるが、胸を張れるのだから。 「………ごめんなさい、ごめんなさい先輩、私……」    桜は謝っていた。  謝ることはないと、その度に肩を撫でる。  幼い子供になってしまったみたいに、桜は堪えられずに震えていた。 「わたし、先輩のことが好きです。好きだから、こんな自分じゃ駄目なんだって。  でも、先輩がわたしのことを好きでいてくれるなら……お願いです」 「……………うん」 「わたしがまた苦しくなったときに、先輩に助けてもらって……いいですか?  先輩の血を飲んでも、わたしのことを嫌いになったりしませんか?」  頭を撫でて、いいよ、と答えた。  震えは止まって、桜は涙を残したまま微笑み、 「……わたし、先輩を好きになって、よかった」  ……頬に軽い、けれど親愛の籠もった口吻。  優しく触れた唇の跡を撫でると、思い出した様に顔が紅くなる。  いままで幾度も触れ合ってきたことが、急に恥ずかしくなってきた。 「…………………まあ、なんだ」 「……………先輩………」    お互いに身体を離して、正座で向かい合う。  今までの色々なことが一気に頭に押し寄せてきて、身動きが取れなくなる。  桜も同じみたいで、二人とも落ち着き無く目線を彷徨わせて――― 「……今日は本当にお世話になりました。  わたし、部屋に戻ります……おやすみなさい」    そそくさと桜が立ち上がる。  引き留めるのも理由がなかったし、気恥ずかしい。 「おやすみ、桜」 「……はい。おやすみなさい、先輩」  障子が閉まって、桜が消えた。  ……一人になると、頬を撫でてみたり指先を触ってみた。  桜は退っ引きならないほど深刻なのに、さっきの事を思い返すと温かい気持ちになれる。 「――――寝よう」    ……もう少し思い返していたいが、明日から色々あるだろうし、遠坂をどうするかを考えないといけないし、ライダー相手の事もある。  ……それに、まだ聖杯戦争は終わってないし、禍の元凶、間桐臓硯を倒す事が桜を―――    ……ほら、やっぱり眠くなった。  体も心も疲れてるんだから、今夜はこのままぐっすり眠って、明日からまた気を入れていかないと―――    夢を見る。  一人で眠っている筈なのに、誰かと寄り添っている。  心も体も疲れきって、起きている筈はないし、桜も部屋に帰った。  故に、桜と一緒に寝ているのは、夢でしかあり得ない。   「――――――――」    夢の中でも桜に吸われている。  それくらいに、桜に吸血されたのが刺激的だった。    ……好きだ、と。  先輩、と何度も口にして俺を求めてくれた桜の気持ちに応えたいと。 「――――――――」  桜に吸われている。  夢の中でも桜に吸われている。    ……文字通り、夢中になる。    あれだけでは足りない。いっそ、どちらも壊れてしまうぐらいの方が気味が良い。  創造が緩やかな喜びなら、崩壊は激しい悦び。  そら、どちらもカタルシスには違いない。   「――――――――」    何を考えている。  それは、いくらなんでも、人間として 「あ――――」    視界が歪む。  桜がいない。  桜に吸われていたのに、いつのまにか、よく分からない何かに食いつかれ、 「は――――、ぐっ………………」    熱い。  足場が溶けていく。  火傷するほどに熱い〈泥濘〉《どろぬま》に沈んでいく。  それが桜の体温だと、知りながら溺れていく――          ……凶暴な夢を見る。  熱いコールタールの海で、何か、よくない夢を見た。  遠坂による魔術診断は、わりあいあっさりと終わった。  お香を焚いてタロットカードじみた占いをして、いくつかの性格判断じみた質問に答えただけ。  遠坂は、   「―――該当なし。これ以上は無駄ね」    なんて言って、早々に衛宮士郎という魔術回路判断を放棄したのだ。 「うわ。それって判らないってことか?」  と、つい反射的に言い返せば、 「失礼ね。衛宮くんが五大元素に関わってないってコトは判ったわよ。そこから先の聖別はわたしの専門外だから、これ以上調べるのは無駄でしょ。  あとは衛宮くんが使える魔術を見せてもらって、そこから推測するだけよ」  ……とのコトだった。  そうして、遠坂が用意した水粘土を相手に“強化”の魔術を復習した。  粘土はエーテル塊といって、いくら手を加えても元の固まりに戻る妙なもので、えらく魔力の通りがいい。  簡単に強化が働くので元に戻るか不安になったのだが、 「〈視肉〉《しにく》みたいなものだから気にしないで。よっぽど強い魔力でくくっても、一日で復元しちゃう材質だから」  とかなんとか。  ちなみに視肉っていうのは、中国に伝わる幾ら食べても減らない肉、だったっけか。  ……とまあ、ともかくひたすら粘土相手に“強化”を試した。  遠坂の手前失敗する訳にはいかなかったのだが、成功したのは十回中二回のみ。  セイバーがいる時はあれだけすんなりいった魔術回路の発現も、今回はえらく手間取ってしまった。   “強化”の魔術中、何度か遠坂に質問された。  その呪文は自己流なのかとか、強化以外に使える魔術はないのかとか、〈師匠〉《きりつぐ》はどんな教え方をしていたのかとか、それと―――一番イメージしやすいものは何かとか。    で。  質問の度に遠坂は顔を曇らせていって、最後には黙り込んでしまった。  何が気に食わないのか、こんな近くでそーゆー顔をされるとすごく居づらい。 「遠坂? ……その、当然だとは思うんだが、あまりの未熟っぷりに呆れて協力関係になったのを後悔してるとか?」  一番ありえそうな不安を訊いてみる。 「え……? うん、後悔はしてるけど……未熟って言っても、貴方の場合は教え方が間違えられていたっていうか、よくもそんなやり方で今まで命があったっていうか」  遠坂は一人で考え込んでいる。 「? おーい、遠坂ー。話が見えないぞー」 「……………………」  なんでそこで睨むのか、おまえは。 「……いいわ。とにかく根本から直さないとダメみたいね。それとさっきの話だけど、衛宮くんの工房には“投影”した物がまだ残ってるって本当?」 「残ってるよ。だって壊さないかぎり残るだろ、普通」   “強化”の息抜き、魔術が上手くいかない時の試しで行う“投影”については、さっきの質問で答えた。  遠坂はそれに〈拘〉《こだわ》っているようで、一度だけ、水粘土を使って投影しろと言ってきた。  お題は〈土瓶〉《どびん》。途中まで上手くいったものの、それも結局は失敗した。 「―――ふん。とりあえず衛宮くんにはスイッチの〈入れ方〉《オン・オフ》を仕込んであげる。  実際に体内にスイッチを作った方が手っ取り早いから、今夜はうちに泊まっていきなさい。荒療治になるから一晩寝込むことになるし」 「え――――一晩寝込むって、ここでか?」 「なによその顔。安心なさい、別にメスいれるってワケじゃなくて、ちょっと薬を飲んでもらうだけだから。ま、効果が強すぎるんでしばらくは動けなくなるけどね」 「あ……いや、荒療治が嫌だって話じゃなくてだな」  ……時計を見る。  時刻はもう五時前だ。  今日は曇っているから気がつかなかったが、もう夕暮れ時になっていた。  遠坂は戦友として、魔術師としての俺を面倒みてくれている。  ……桜が心配だが、家政婦さんもいる事だし一日ぐらいは問題ない筈だ。  ここは協力すると言ってくれた遠坂を優先するべきだと思う。 「……ちょっと、なにそんな辛そうな顔してるのよ。  荒療治はイヤじゃないんでしょ? なら観念してわたしの手術をうけなさい」 「……ん、そうする。けど遠坂。確認するけど、本当に今日一日で終わるんだろうな? 明日も動けない、なんて事になったら困るぞ」 「……そうね。ぶっちゃけ、その可能性は否定できないわ。開いてみるまでは判らないって言うし、衛宮くんの体がもういじれないぐらい成長してたら長くかかるし、手術そのものが失敗する可能性だってあるし。  ま、そのあたりは運ね。衛宮くん、最近の運勢はどう?」  ……悪い。  何が悪いって、笑顔でそういうコトを訊いてくるヤツに〈命運〉《めいうん》握られてる時点で最悪だ。 「……ちょっと待ってくれ。そうなると、すごく困る。  俺、明日には家に帰らないと」 「え? うちって、衛宮くんの家?」 「ああ。桜が風邪で寝込んでるんで、様子を見ておきたいんだ。何日も帰れなくなるなら、その前にうちに帰って桜の様子を見ておかないと安心できない」 「しま―――忘れてた」  ……呆れてる。  遠坂は目を白黒させて俺を観察し、 「馬鹿っ! もっと早く言ってくれてたら、ここまで引き止めなかったのに……!」  逆襲とばかりに、俺の目を白黒させた。 「スイッチの話は後! そんなのアンタの家でもできるんだから!」 「え、え……!?」  遠坂は怒鳴りながら部屋を横断し、ハンガーにかけてあったコートを羽織る。 「行くわよ。うちでやる事は済ませたし、あとは衛宮くんの家でも出来るわ。桜の看病が終わったら続きをするから、急いで戻りましょう」 「え――――あ、ああ。そうしてもらえると助かる」 「……ふん。それと、思い出すのも癪だからいまのうちに教えといてあげる。  ―――貴方の本分は“強化”じゃなくて“投影”よ。  何処でどう間違えて、何をどう勘違いしているかは知らないけど、貴方は本来“作る側”に属する魔術師なんだから」  遠坂はずんずんと廊下を歩いていく。 「?」  それに首をかしげながら、ともかく遠坂の後を追って、歴史のある遠坂邸を後にした。 「待ちなさいってば……! 貴方一人じゃ助けられるヤツも助けられないから、わたしと手を組むって言ったんじゃないの……!?」 「――――――――」  足を止める。  その言葉は、沸騰していた頭に冷水をぶっかけてくれた。 「――――すまん。けど桜が危ない。一人じゃ自殺行為だって判ってるけど、こうするしかない」 「……でしょうね。慎二が桜を連れている以上、わたしもおいそれと手は貸せない。  けど衛宮くん。貴方がなんとかして慎二から桜を取り返してくれたのなら、後はわたしがなんとかする」 「――――なんとかするって、慎二をか?」 「慎二じゃなくてライダーよ。サーヴァントの相手はサーヴァントがするものでしょう。  わたしは出来るだけ近くで身を隠しているから、とにかく桜を助けてあげて。そうしたら、たとえ一秒後に殺されるって状況でも、絶対に貴方を助けるから」  自分に言い聞かせるように遠坂は言う。  ……それは、確実に遠坂に負担をかける事だろう。  俺はそれを承知で遠坂の力を借りて、遠坂もそれを守ろうとしてくれている。  それで、怒りに走っていた心に覚悟が入った。  俺は遠坂を頼る。  その代わりに、必ず―――桜を無傷で取り返すのだ。 「わかった。後のフォローは任せる、遠坂」 「ええ。けどそれには、貴方がちゃんと無事で、きちんと桜を守ってあげてるって条件付きよ。  いくらアーチャーでもライダーの相手をしながら桜を守る、なんて出来ない。自分の身と引き換えに桜を助けても、そんなの全然意味がないんだから」  校舎には〈人気〉《ひとけ》がない。  昏睡事件の多発が下校時刻を早めた為だ。  六時前、生徒はおろか教師さえ残ってはいないだろう。 「――――慎二の居場所は判るか、遠坂」 「……あいつの性格から言って校舎の中でしょ。高いところで、かつ馴染んだ場所に陣取ってるに決まってるわ」    なら該当する場所は一つだけだ。  三階の教室に慎二はいる。 「先に行く。遠坂は後から来てくれ」 「……ええ。十分経ったらわたしも正門を〈潜〉《くぐ》るわ。  まだ話してなかったけど、ここには結界が張られている。気配を隠したところで見つかっちゃうから、そうならないようにライダーと慎二の注意を引きつけて」  こくん、と頷いて走り出す。    ――――背中には熱い鉄が入っている。    魔術回路はとっくに成っている。  俺に許されたただ一つの“〈強化〉《ぶき》”は、敵を倒す為ではなく桜を守る為に使うのだと、焦る心に言い聞かせた。 「!」  足を止める。  三階の廊下には黒いサーヴァントと、桜を脇に従えている慎二がいた。その手に握られたナイフの切先は、桜に向けられている。 「おまえ――――!」  思考が弾ける。  止まっていた足が再び地を蹴る。  そこに―――黒いサーヴァント、ライダーが立ち塞がった。 「止まりなさい。それ以上前に出れば、彼女の無事は保証できない」 「っ……!」  前に出ようとする体を押しとどめる。  口が痛い。  強く噛み締めた歯が、ギリギリと悲鳴をあげている。 「慎二――――!」 「よう。思った通り飛んできたな衛宮。おまえのことだからさ、ああ言えばホントに一人で来ると思ったよ」 「っ――――」  冷静になりかけていた頭が白熱する。  目の前のサーヴァント、ライダーが目に入らないぐらい、頭がクラクラしている。 「……なんだよ、それ」  なんでそんなコトをしているのか。  慎二が憎いのは俺のはずだろう?  こんな手段をとらなくても、呼び出されれば俺はここまで来たはずだ。なのに――――  桜は慎二の妹だ。  兄貴なら妹は守るべきものだろう。  肉親なら助け合って、一緒に笑いあうものだろう。  なのにどうしてこんなことに。             俺が助けられなかったものを、    そんな兄貴に、〈妹〉《さくら》の気持ちが、どうして――――! 「おまえ、本気でそんなコトやってんのか慎二――――」 「当然だろ。本気だからここで待っていたんじゃないか。この期におよんでなに寝ぼけてんだよ、おまえ」 「っ……!」  体が前に出る。  今すぐにあそこまで走って、桜を慎二から引き離さないと気がすまない。 「――――――――」  それにはこいつが邪魔だ。  ライダーは慎二を守るように、俺の行く手を塞いでいる。 「……わからない人ですね。貴方は何をしに来たのです。  この場に訪れたという事は、マスターの意に従うという事。戦う気があるのなら、一人で来るべきではなかったでしょう?」 「っ――――」  ……ライダーの言い分はもっともだ。  ……冷静にならないと。  慎二の言う通りにした以上、俺は慎二を倒すのではなく、桜を助ける事だけを考えなければ。 「―――――――ふう」  深呼吸をして、乗り出した体を下げる。  慎二は桜を抱き寄せたまま、俺の狼狽を愉しんでいた。  ……桜はうつむいたまま顔を上げる様子がない。  気を失っている―――なんて事はないだろう。  桜は自分の足で立っている。  うつむいているのは、ただ、顔をあげる事ができないからだ。 「―――慎二。おまえ、桜に〈聖杯戦争〉《オレたち》の事を話したのか」  怒りを隠しきれず慎二を睨む。 「は?」 「――――そうか。ああ、そういうコトか!  ああ、安心しろよ衛宮。おまえが黙っているもんだからさ、ちゃんと一から十まで話してやったよ! 僕たちがマスターで、今まで殺し合いをしてきたってさ!」 「っ――――」 「隠しておきたかったのかい? バーカ、そんなのバレるに決まってるじゃんか! こいつさ、おまえが何か隠してるって気付いてたらしいぜ。けど自分はただの後輩だから訊けなかった、だとさ!」 「ぅ…………!」  桜は顔を背け、それでも顔を上げることはできないと、懸命に歯を食いしばっていた。 「さ、遠慮せずに訊けよ桜。いまの衛宮は隠し事なんてできないぜ? ほら、念願かなったりだろうが!」 「――――――――」  桜は口を閉ざしている。    ……その、うつむいた姿が、 「うん? なに黙ってるんだよおまえ。  いいから訊いてみろよ? 衛宮がおまえのコトをどう思ってるか、おまえが薄汚い間桐の女って知って嫌われたかどうか、ちゃんと自分の口で訊いてみたらどうだ?」 「慎二――――!」    俺に謝っているように見えて、これ以上は耐えられなかった。 「もういいだろう。約束通り来たんだ、桜を放せ」 「はあ? 約束なんてしてないよ? したのは命令さ。  一人で来れば桜には何もしないって、そう言っただけじゃないか」 「――――――――」 「そう睨むなよ衛宮。僕だって鬼じゃない。妹を取り返したいっていうおまえの気持ちは嬉しいからね。おまえが誠意を見せるなら僕も応えるよ。事が終われば、桜はこのまま連れて帰してやってもいい」 「そうか―――それは約束だな、慎二」 「ああ。おまえが言う通りにするんなら桜は放す。  これは約束だ。必ず守る」 「わかった。で、おまえの用件ってのはなんだ。ここで土下座でもしろっていうのか」 「そんなの要らないよ。男に頭を下げられて何が嬉しいっていうんだ。僕は戦う為におまえを呼び出したんだ。言っただろ、いいかげんカタをつけようってさ」  ……ライダーが一歩前に出る。  そこには殺気も敵意もない。  マスターの命に従って、ライダーは俺へと歩を進めてくる。 「けど、ただやりあうのもつまらないだろ? 僕は魔術師じゃないから不公平だし、ただのケンカじゃ僕が勝つのは判りきってるしさ。  だからここは公平を期して、そいつの相手をしてもらう事にしたんだ」 「――――――――っ」    ……言ってくれる。  生身でライダーと戦え、か。  そんなの死ねと言っているようなもんじゃないか。 「なに、命までは取らないさ。ライダーには手加減するように言ってある。  ま、これからうろちょろされるのも目障りだから、二、三本は折らせてもらうけど」  ……ライダーの手には短剣がない。  たしかに、手加減らしきものはする気のようだ。 「簡単だろ? ただ馬鹿みたいに殴られてればいいんだ。  ああ、けど簡単には倒れるなよ衛宮? 僕が満足する前に気絶なんかしたら、桜は僕が連れて帰ることになるからね」 「――――――――」  ……ライダーが近づいてくる。  あと三歩。  たったそれだけで、ライダーの手がこちらに届く。 「……ふん。抵抗はするな、けど簡単に倒れるな、か。  矛盾してるぞ慎二。おまえ、何がしたいんだ」 「は、そんなの決まってるじゃないか……!  僕はさ、単におまえをぶちのめしたいだけなんだよ……っ!!」  ライダーの体が跳ねる。 「――――」  両手を上げて打撃に備える。  瞬間――――    〈根元〉《かた》から骨ごと吹き飛ばしそうな衝撃が、右腕を貫いた。 「っ、ぐ――――!」  顔を防ぎに入った腕そのものを狙われた。  右腕は付いている。吹き飛ばされてなどいない。  ただ、完全に麻痺して感覚がなくなっただけ。 「は…………!」  全速で意識を編み上げる。  素手じゃ話にならない。  守りになるようなものを片っ端から“強化”しなければ手足を吹っ飛ばされる。  薄い学生服を鉄に、無防備な体を少しでも硬くしなければ、次の一撃で終わってしまう――――! 「っっ――――!」    顔を守る左腕がブレる。  〈玄翁〉《げんのう》じみた一撃は強化した服を貫通し、容赦なく左腕を壊しにかかる。 「は――――こ、の――――!」    両腕はたった一息のうちに使い物にならなくされた。  ―――いや、動くには動くが感覚がまったくない。  こんな鈍い反応じゃ、もう腕でライダーの拳を防ぐ事などできない。  顔―――顔を狙われたら、それこそ一撃で意識を刈り取られる……!  ライダーに容赦はない。  ヤツは慎二の命令通り、一切の無駄なく拳を繰り出してくる。  その無機質さは、どこか、腕を振るうだけの機械を連想させた。 「あ、ぐっ…………!」    満足に動かない両腕で、とにかく顔だけはガッチリとガードする。  もとよりライダーの拳を“見て防ぐ”事など出来ないのだ。  意識だけは奪われないように、頭を守る事に専念しなければ。 「つ、くっ――――!」    それを、ライダーはどう取ったのか。  隙間だらけの両腕の守りを、ライダーは狙ってこない。  ライダーはがら空きの腹と胸だけを強打してくる。  ……それはそれで悶絶しかねない一撃だったが、両腕を麻痺させた程の強さはなかった。 「―――――――、――――」    ……おかしい。  柳洞寺で見せたライダーの怪力なら、一撃で俺の胃袋ぐらい破裂させる。  ……慎二の言う通り手加減をしているのか。  いや、俺を倒れさせないように顔を狙ってこないのは手加減になるのだろうが、それを差し引いてもこのライダーはおかしかった。 「――――――、っ」    言ってしまえば、迫力が段違いだった。  サーヴァントの威圧感は、肌で感じ取れる魔力量に比例する。  柳洞寺で見たライダーは強力なサーヴァントだった。  が、目の前にいるライダーは以前の、公園でセイバーに敗れた時のライダーだ。    どういう経緯かは知らないが、これなら―――まだ、慎二を出し抜く〈好機〉《チャンス》はある―――! 「ご、ぶ…………!」    前に倒れこむ。  サンドバッグ相手のスパーリングに飽きたのか、ライダーは深く踏み込んで腹を一撃する。 「――――」    杭打ちめいた一撃に、腹の中身を抉られた。  ……今のは、効いた。  治りきっていない昨夜の腹の傷が悲鳴をあげる。  胃液が口まで逆流して、足は膝から崩れ落ちようとする。 「どうした、それで終わりかい衛宮? 桜の前なんだからしっかりしろよ。そんなんじゃぜんぜん格好つかないじゃないか!」  ……前のめりに倒れこむ。 「――――――――」  ライダーはわずかに身を引いて、俺の倒壊を見届けようとする。  そこへ、   「っ――――あ…………!」    ライダーの腕を掴んで、強引に体を持ち堪えさせた。 「――――! いいぞ衛宮、ゴキブリなみのしぶとさだ!  あはは、おまえ本当におもしろいぜ!」    あ……つ。  くそ、今のは効いたぞ、頭を殴られたわけでもないのに頭がクラクラしてやがる――― 「あー、けどまあ、見世物としちゃ三流だったな。このまま続けても同じ事の繰り返しだ。そろそろ飽きてきたし、あとは豪快なKOシーンで締めくくろうか」    ――――同じ?    馬鹿、どこが同じだって言うんだ。  さっきとは立ち位置が違う。  ライダーによりかかった時、彼女の腕を引いて、あからさまに立ち位置を逆にした事をどうとも思わないのかアイツは。   「――――距離は五メートルほどです。我慢強い貴方の勝ちですね」   「え……?」  顔をあげる。  今、ライダーのヤツ、なんて。 「休憩は終わりだ。第二ラウンドだぜ、衛宮」    ライダーが俺の手を振り払う。  黒いサーヴァントは、やはり機械を連想させる無機質さで攻撃を再開する。    ―――後ろに押されていく。  ライダーの一撃一撃は俺にとどめを刺さないよう、急所以外を狙っていた。 「――――――――」    体は麻痺している。  殴られた個所は痣になって血流を濁らせ、もう痛みさえ感じない。  殴られる痛みより、体中に残っている痛みの方が強い為だ。  肉体を壊す、という点において、ライダーは容赦なく俺を攻めている。   「――――――お覚悟を」    感情のない声と共に、黒いサーヴァントが間合いを詰める。  それで、完全に思い知った。  これは慎二の意思じゃない。  俺の顔を狙わなかったのも、  俺がギリギリでまだ体を動かせるのも、  慎二に手加減を命じられたからではなく――――           「いいぞ、もう手加減はなしだ! 殺せライダー!」 「っ……!? 兄さん、やめ…………!」    ライダーは長い髪をなびかせて一歩踏み込み、    今までとは比較にならない一撃で、この胸を突き上げた。 「ご――――――――」    息が出来ない。  地面の感覚がない。  あまりの一撃で、判っていても意識が掠れかける。 「先輩…………!」  ライダーに吹き飛ばされ、宙に浮いている一瞬、くぐもった悲鳴と歓喜の声を聴いた。  ……桜の声が、今までよりずっと近い。  ―――落下する。    普通ならこのまま、背中から落ちて死ぬ。  落下の衝撃など要らない。  そもそも、人間を軽々と吹き飛ばすほどの一撃だ。  受けた時点で胸に風穴が開いてもおかしくない。 「…………、は」    だが生きている。  あれだけタイミングを合わせられれば、誰だって後ろに跳べる。  今のは殺す為の一撃じゃない。  顔を狙わず、なんとか体が動く程度に攻撃を留めたのは慎二の命令ではなく――――あくまで、ライダーの意思だったんだから。   「――――せーの、」    間合いは万全。  床に落ちる直前に体を反転させ、ノータイムで姿勢を正し 「え?」    目の前にあるナイフの刃を、左手で掴み取った。  ナイフの刃を手の平で包む。  ざっくりと肉に食い込む感覚は、麻痺していたおかげで気にならない。 「え、え――――!?」    残った右腕を振り上げる。  手の平が切れる事など考えもせず、    強く握り締めた右拳で、慎二の顔面を殴りぬいた。 「そんな覚悟はしていない。俺は桜のために戻ってきた」 「っ――――」 「―――そう。衛宮くんの言い分は分かったわ。  貴方は他の人間より、桜一人を守るっていうのね」 「ああ。それが間違いだなんて言わせない。おまえが桜を手にかけるっていうんなら、ここで止める」 「わたしを止める? まさか。止めるも何も、貴方は一歩だって動けないわ。どんなに桜を守りたくても、わたしの方針には逆らえないのよ」  感情のない遠坂の声。  それに、 「な――――に…………?」  反応しようとして、腕はおろか、指一本さえ動かない事に気が付いた。 「ぐ……!? 遠坂、おまえ……!」 「……間違いなんて言わせない、と言ったわね。けど貴方は間違えた。自分の道を進みたいのなら、〈他人〉《わたし》に決定権を委ねるべきじゃなかったのよ」 「――――――――」  心臓が、一際大きく拡縮する。  いや、それは心臓ではなく、心臓の横に作られた、誓約という名の戒めだ。        ―――別に。  わたしとしては理想的な答えだったわ。  少し物足りないけど、貴方がそう言うのならそうするだけ。   「――――――強制の、呪い」 「ええ。……悪ふざけのつもりだったけど、まさかこんなカタチで役に立つとは思わなかった。絶対服従をした時点で、貴方はわたしの意見には逆らえない。  ……貴方はあの時、わたしと約束ではなく契約をしてしまった。その時点で、貴方は協力者ではなく従者になる事を選んだのよ」 「な――――」 「―――桜を殺してくるわ、衛宮くん。けど思い違いはしないで。たとえ貴方が〈強制〉《ギアス》を受けていなくても、わたしは止められなかった。  これはわたしの責務よ。貴方には、何の非もないわ」 「っ――――! っ、遠坂、ま――――」  待て、という声さえ出せない。  ……遠坂の姿が消える。 「そんな――――どう、して」  体はまだ動かない。 「くそ、ふざけんな、なんで――――!」  必死に力を入れる。  早く自由に。  一刻も早く動けるようにともがいて、唐突に、    痺れていた体に、本来の自由が戻ってくれた。 「―――――――」  追いかける足が、前に出ない。  自由になったというのに、心が凍り付いて動けない。    ―――唐突に、理解してしまった。    遠坂の意向に反対する限り体は動かなくなる。  なら。  この体が自由になったという事は、反対していた理由が、既に失われたからではないのかと。 「――――――桜」    膝が落ちる。  行き場を無くした心が折れる。  光を失った視覚が、教会を闇に染める。    ―――衛宮士郎は無重力にいる。    今までの理想を捨てて桜を守ると誓った。  それは新しい、誰にも譲れない道標だ。  にも関わらず、こんなにも早く、その寄る辺を失った。          ―――戦いは続く。  聖杯戦争は続き、俺は桜を手にかけた遠坂と共に、この戦いを終わらせるだろう。          ……だが、それはもう関係のない場所の話だ。  衛宮士郎の位置は永遠に失われた。  俺はこれから―――道標を失ったまま、何をするべきか定まらず進んでいく事になる――――  桜は危険な状態らしい。  倒れたのは耳飾りからこぼれた液体が原因で、今はその洗浄を言峰がやってくれているのだそうだ。  遠坂は何も語らない。  アーチャーはおらず、ライダーも姿を消している。  教会には俺と遠坂二人だけが、言峰の登場を待っていた。 「――――遠坂」  座ったまま声をかける。 「なに」 「訊きたい事がある」 「…………でしょうね。いいわ、話してあげる。隠していても仕方がないし、もうその意味もなくなったし。  訊きたいのは桜のコト?」  ああ、と頷いて答える。  遠坂は小さく深呼吸をしてから、いつもの調子で話し始めた。 「―――発端は随分前よ。間桐の血が薄れだして、生まれてくる子供に魔力……魔術回路が少なくなっていたの。  元々間桐は他所の魔術師だから、日本の土が合わなかったんでしょう。  この町に根を下ろしてから間桐の衰退が始まって、今代の後継者である慎二になって、ついに魔術回路そのものが消えうせた」 「……間桐の歴史はそれで終わったのよ。  間桐が追い求めたものを継承するだけなら、弟子でもなんでもとればよかった。けど間桐は名門だし、外部からの受け入れを拒否し続けた」 「結果、生まれてくる後継ぎの魔力は落ちていって、最後には完全に魔力が尽きてしまった。  ……そうなってから弟子をとろうとしたけど、落ちぶれた名門に来る魔術師はいなかったわ。何百年も続いたっていう間桐……マキリの歴史はそこで終わる筈だった」 「けど、それで諦められるような人たちじゃなかったのね。慎二のお父さんは外から養子をとって、その子に間桐の魔術を伝えたのよ」 「―――で。  衛宮くんのところは特殊だから知らないだろうけど、魔術師の家系は一子相伝なの。後継ぎにするって決めた子供以外には、決して魔術は教えない。これは臓硯も言ってたでしょ?  もし兄妹だったらどちらかを後継者にして、どちらかは普通に育てるか養子に出すって」 「――――――――」  後継者は二人要らない。  もし兄妹……いや、〈姉妹〉《・・》だった場合、要らない方はどうするのか。  魔術を伝える家系である事を隠して育てる者もいるだろう。  だが、それは困難だし効率的じゃない。  何代も血を重ねて魔術回路を育ててきたのなら、たとえ後継者ではないとしても、その優秀な遺伝子を眠らせておくのは意に反する。    なら―――― 「遠坂」 「そ。わたし、一つ下の妹がいたの。  ……衰退した間桐には養子を取るアテなんかないでしょ。  そうなった間桐が、古くから盟約を結んでいた遠坂を頼りにするのは道理よね」 「父さんがどっちを後継者にするつもりだったかは判らない。ただわたしは遠坂に残って、あの子は間桐にもらわれていった。  それが十一年前の話。  それ以来、あの子とはまともに会えなかった。間桐との取り決めでね、もうあの子は間桐の後継者だから、無闇に会うなって言われてたの」 「そうか。それじゃあ遠坂と桜は」 「実の姉妹よ。……ま、一度もそんなふうに呼び合った事はないけどね」  ……簡素な言葉に、どれだけの感情が込められていたかは分からない。  ただ、それで納得がいった。  いつも桜の事を訊いてきた訳。  アーチャーに宝具を使わせなかった、その理由を。 「……良かった。遠坂、桜の味方なんだ」  淀んでいた胸にかすかな光が射す。  ……これから桜がどうなって、どうするのかなんて考えもつかない。  だが、その暗い予感だけの道行きに、遠坂が桜を思ってくれているだけで、希望があると思えた。 「いいえ。わたし、あの子の味方でもなんでもないわ」    ―――だというのに。  こっちの心を見透かしたように、遠坂はそう断言した。 「味方じゃ、ない……?」 「ええ。このまま桜が治らないのなら敵として処理するだけよ。無差別に人を襲う魔術師なんて放っておける訳がないでしょう。綺礼が桜を治療できなかったら、その時はわたしが処理する」 「な―――なに言ってやがるおまえ……! 桜はおまえの妹だろう!? 殺すなんて、そんなコト間違っても口にするな……!」 「桜は間桐の娘よ。十一年前からとっくにわたしの妹じゃない」 「遠坂、おまえ――――」 「……ふん。仮に、貴方の言う通り肉親として関係があるとしても結果は変わらない。それこそ、〈他人〉《あなた》が口出しできる話じゃないわ」 「―――――それじゃ、慎二と」    変わらないじゃないか、と。  そう、最低の事を、口端に乗せかかった時。 「何をしている。手術は済んだが、患者は未だ危険な状態だ。騒ぐのなら外でするがいい」    教会の奥から、言峰綺礼が現れた。 「……まったく。いがみ合っているのか息が合っているのか。おまえたちは判らんな」 「あ――――」 「――――ふ、ふん。そんなのアンタの勘違いよ」 「そうか。では座れ。間桐桜の容体を説明する」 「――――――――」 「――――――――」  俺たちは離れた席で、同じぐらい真剣に、神父の言葉に耳を傾けた。 「簡単に説明すれば、間桐桜の体内には〈異物〉《むし》が混入している。この〈異物〉《むし》は刻印虫と呼ばれるものだ。人為的に作られた〈三尸〉《さんし》のようなものだが、聞き覚えはあるか?」  ……首を振る。  三尸―――人間の体に棲み、寄生した人間の悪行を地獄の閻魔に伝えるという虫。  それなら聞いた覚えがあるが、刻印虫というのは初耳だ。 「知らないか。まあ、本来は害の無いただの寄生虫だ。  宿主から魔力を食い、活動を続けるだけの使い魔でな。宿主の存命を発信するだけの、使い魔としては最低位のものだ」 「……ふうん。魔術で作った監視装置みたいなものね。  臓硯はそれで桜を監視してるってこと?」 「おや。刻印虫の主が間桐臓硯だといつ決まったのかな」 「―――悪いけど、今はアンタの長話に付き合ってる気分じゃないの。あの〈爺〉《じじい》以外、誰が桜にそんなもの植え付けるっていうのよ」 「なるほど、それは確かに。間桐慎二では刻印虫は扱えん。となれば、使い手はあの吸血虫以外いないな」 「でしょう。いいから結論を言って。桜は助かるのか、助からないのか」 「―――気が早いな凛。おまえは彼女の容体を把握しているようだが、そこの少年は別だ。彼の為にも説明はしておくべきだろう?」 「っ……」  遠坂は気まずそうに視線を逸らす。  ……その顔が、俺には桜の容体を知られたくないと告げていた。 「さて、どうする衛宮士郎。凛は結論だけを聞きたいと言っているが?」 「……いや。順序だてて説明してくれ、言峰」  ……遠坂には悪いと思う。  けど俺だって譲れない。これが桜の命に関わる事なら、全て聞かなければならないんだから。 「では続きだ。  先ほど説明した刻印虫だがな、これが間桐桜の神経を蝕んでいるのだ。  十一年間、間桐桜の体内で育てられた結果だろう。刻印虫は魔術回路に似た神経となり、本来の神経と絡み合いながら全身に行き渡っている。  この刻印虫から魔術刻印と化したモノは通常停止しており、間桐桜には何の影響も及ぼさない」 「だが〈一度〉《ひとたび》作動すれば間桐桜の神経を侵し、その魔力を糧に動き続ける。  先ほどの状態はそれだ。体内に刻印虫が徘徊し、生命力たる魔力を奪っていった」 「あの状態が半日も続けば間桐桜は死んでいただろう。  動力である魔力を吸い尽くした刻印虫は、更なる栄養として間桐桜自身を狙う。魔力を空にされた間桐桜は、次にその身体を〈刻印〉《むし》に奪われるという事だ」 「その痛みがどれほどであるかは、魔術刻印を持つおまえならば判るだろう。  人体は爪の先ほどの異物が混入しただけで不快感を訴え、時に生命活動そのものに支障をきたす。神経のいたるところに“違う”神経が混ざり、それが動き出す不快感など、吐き気だけで死に至る程だろうな」 「……その点で言えば、先ほどまで間桐桜の意識があったのは驚きだ。  間桐桜は意思が強いのか、それとも刻印虫の発動に慣れているのか。そのあたりは本人に訊かねばわかるまい」 「――――――――」  音がする。  ギリ、という歯軋りは、自分が起こしたものだった。  その痛みがどれほどであるかは、魔術刻印を持つのなら判るだろう――――だって?  そんなの判るものか。  俺は一本の魔術回路を挿れるだけで、全身を汗だくにしていた。  桜のはその何倍もだ。  そんな痛みを――――俺なんかが、おいそれと推測していいものじゃない。 「……待って。作動すればって言ったわね。じゃあ、刻印虫は普段活動していないの?」 「うむ。かけられた薬物は刻印虫を目覚めさせるだけのものだ。  刻印虫は監視役にすぎない。  アレは宿主である間桐桜が『ある条件』を破った時のみ、制裁として〈食事〉《かつどう》を開始する」 「――――――――」  神父の言葉を、聞き続けるだけでどうかしそうだ。  神父のした事ではないと判ってはいても、それを語る言峰に手を上げそうになる。  そんな身勝手な激情を抑えて、 「それは、どんな?」  話の続き――――事の核心を促した。 「間桐桜が倒れ、凛はそれを救おうとした。だがライダーはそれを阻んだのだろう?  ならば条件は明白だ。マスターとしての戦いを放棄すること。それが刻印虫の制約だろう」 「今までは間桐慎二にライダーを預ける事で戦いに賛同していたが、それを拒否した今、刻印虫は間桐桜を責め続ける。今は落ち着いているが、時間が経てば経つだけ刻印虫はあの娘を責めるだろう。 “何をしている。  マスターならば早く殺し合え。  出来ぬのならばおまえを食い殺す――――”とな」 「……それが桜に課せられた条件なのか、言峰」 「そのようだな。他にそれらしい条件はない」 「なら――――! なら、マスターでなくなればいいんじゃないのか。令呪を使い切ってサーヴァントと契約を解除すれば、もうマスターじゃないんだから―――」 「それは勧められん。  言っただろう、刻印虫が発動する条件は『マスターの責務を放棄する事』だと。  自らの手でライダーとの契約を断てば、刻印虫は今度こそ間桐桜を食い尽くすぞ」 「そう。戦って生き残るか、戦わずに刻印虫に殺されるか。今の桜にある選択肢はそれだけって事ね」 「そうなるな。聖杯戦争が続く限り刻印虫は宿主を責め続ける。  この状態が続けば肉体はもちろんのこと、間桐桜の精神が保つまい。なにしろ全身に魔術刻印があるのだ。  それが正気の沙汰ではないと、おまえならば判るだろう、凛」 「……そうね。もう馴染んだ筈なのに、定期的に腕ごとどうにかしたくなるし。  左腕だけのわたしがこれなんだから、全身に刻印なんかあったら人間としての機能が侵食される。  そんなの、魔術師じゃなくて魔術回路の塊よ。人間の〈脳髄〉《せいしん》なんて、魔力の波で書き換えられる」 「な―――じゃあ、桜は」 「今の状態が続けば危ういな。  あと何日保つかは判らんが、日が経つにつれ刻印虫の侵食は進む。それが全身にいき渡る前に排除できなければ死ぬだけだが、その前に体の方が保つまい」 「私が行った事は洗浄だけだ。  失われた魔力と精神を呼び戻す手術はこれからだが、それも成功する見込みは低い。  ―――話はそれだけだ。  結論を言えば、このままでは間桐桜は助からない。それで納得はいったか、衛宮士郎」 「――――――――」  納得なんていくものか。  桜が助からない?  そんな馬鹿な話があるか。  昨日まであんなに元気だったのに、どうして今になって、そんなコトになっている…………! 「―――排除は。そうだ、刻印虫の摘出はできないのか?  異物が混ざってるって判ってるなら、取り除ける筈だろう!?」 「摘出は難しいな。既に刻印虫は魔術回路となり、間桐桜の一部となっている。刻印を植え付けた術者本人でさえ、ああなっては解呪などできまい。  ……そうだな。それでも摘出したいというのなら、それはもう〈聖杯〉《きせき》とやらに頼るしかない」 「っ――――」    聖杯。  結局はそこに行き着くのか。  桜はマスターとして戦い続けるしかなく、  桜を助けるには聖杯の力しかないって――――? 「だいたい事情は判ったわ綺礼。とりあえず礼を言っとく」  どうもね、と感謝の素振りもなく頭を下げて、遠坂は神父に向き直る。 「けどいきなりすぎない? 刻印虫を植え付けられたのは昨日今日じゃない筈よ。なのに突然、今日に限って限界がきたっていうの?」 「何を今更。  間桐桜の体に刻印虫が与えられたのは何年も前だ。目も髪も遠坂の〈色〉《もの》でなくなるほど、初期に手を加えられたのだぞ? 変調は昨日今日始まったものではない」 「まあ、それも今回のように破滅を呼ぶものではなかったようだが。  間桐臓硯は今回の戦いで間桐桜を使う気はなかったらしい。なにしろ戦闘用に調整されていない。間桐桜をあのように扱ったのは、何か予期せぬ条件が揃ったから、と見るべきだろうな」 「予期せぬ条件、ね……それがなんだか判らないけど、昨日今日で突然、桜は臓硯のお眼鏡にかなったってコト?」 「だろうな。間桐臓硯ではなく間桐桜自身に、臓硯が予期しなかった変化が起こったと見るべきだ。  だがそれは一要因にすぎん。急激な変化の理由は他にもある。  あの娘はサーヴァントを行使する事で、魔力を常に消費するようになった。そのため刻印虫にまで〈魔力〉《エサ》が回らなくなったとしたら、飢えた虫どもはどうするのかな」 「……そうか。マスターとして戦えなんて条件がなくても、足りない魔力の分、桜の体を削っていくんだ―――。  けど、ならライダーさえ使わなければ、魔力は失われないんだから、少しは――――」 「ああ、しばらくは今まで通りの生活ができるだろう。  もっとも、あの老人がこのまま間桐桜を放置するとは思えんが」 「……でしょうね。そうでもなければ桜に刻印虫なんて植え付けないし。  戦わなければ体を乗っ取られて、  戦えば魔力を消費して、やっぱりあの子の体は削られていく。  ……いいえ、それだけじゃない。刻印虫を与えた当の臓硯は、その気になればいつでも桜を自由に使える」 「―――桜を、自由に使える……?」 「ええ。結局、桜の命は臓硯に握られている。だから、桜を助けたいのなら臓硯を倒すしかない。  ―――けど衛宮くん。  臓硯を倒すのなら、先に桜を倒すしかないわ。あの子は臓硯の操り人形同然。臓硯を追い詰めれば、あいつは必ず桜を盾にする」 「そういう事だ。臓硯にとって、間桐桜は都合のいい駒だからな。間桐慎二をけしかけたように、間桐桜を操るだろう。  実際、マスターとしての能力は彼女の方が上だ。アレは虫どもに急かされ、間桐慎二以上に、臓硯好みのマスターとして暴走しよう」 「―――――っ」 「……だが、私も老人の思惑通りにいくのは歯がゆい。  間桐桜の手術は引き続き行う。今はかけられた薬物を洗浄して、麻酔をかけた状態だ。本格的な身体の回復と刻印虫の摘出はこれから行う」 「え……? ちょっ、綺礼、アンタ」 「絶望的だが、努力はする。このまま間桐桜を死なせる事は出来ない。神父が〈聖杯〉《きせき》にのみ頼るというのもイメージが悪かろう」 「――――――――」  遠坂の驚きはもっともだ。  知り合って間もない俺でさえ、今の言峰は意外だった。  ……これは推測じゃなく確信だ。  言峰は本気で、真剣に桜を助けようとしてくれている。  神父だから当然かもしれないが、それがその、本当にとんでもないコトなのだと実感できる。 「……どういう風の吹き回し? アンタが他人にそこまで肩入れするなんて、初めて見たわ」 「気紛れではない。死なすには惜しいだけだ。  もっとも、おまえたちにとってはここで一人減った方がいいのだろうがな」  神父は淡々と答える。  遠坂はそんな神父を無言で睨んだあと。   「―――――任せたわ。手術が済んだ頃にくるから」    そう残して、教会を後にした。  遠坂が去って、教会は元の静寂を取り戻した。  神父は黙って遠坂を見送り、俺はなす術もなく、いまだ腰をあげられずにいる。 「何をしている。おまえがここに残ったところで役には立たん。邪魔をされても困る、手術が終わるまで時間を潰してこい」 「――――邪魔なんてするか。こと手術に関してはアンタを信頼してる。以前も女の人を治療してくれただろ、アンタは」 「ふん。あの時とは手術の規模が段違いなのだがな。  間桐桜は自らを撃つ事で暴走を止めた。おそらくおまえを傷つけた事で自家中毒を起こしたのだろう。簡単に言ってしまえば、アレは自らの心を殺す事で、臓硯に操られる自身を止めたのだ」 「これから行う手術は、停止した心臓をもう一度動かす事に等しい。……もっとも、刻印虫のおかげで肉体はいまだ生きている。精神の呼び戻しだけならば、とりあえずは成功するだろう」 「だが、そこにおまえがいては迷惑だ。間桐桜の苦悶を聞きつけて押し入られては仕損じるし、第一、そのような苦悩を背負う義務もあるまい。おまえと間桐桜は他人なのだから」 「――――他人、だって?」 「間桐桜に同情するな、と言っているのだ。  おまえに出来ることなどない。凛がそうしたように、おまえも早々に立ち去るがいい」 「―――なんでだよ。何もできないなら、せめて、ここで桜の無事を祈っちゃいけないのか」 「それは罪だ。おまえに間桐桜の〈傷〉《いた》みを共有する資格はない。  解らないのか。私は、おまえがここにいては手術が失敗すると言っているのだ。今の間桐桜にとって、衛宮士郎は害敵でしかない」 「な――――」  なんで、という声が出ない。  神父の言葉は重く、俺でさえ知らない罪を指摘している。 「間桐桜はおまえに対して罪の意識を持っている。おまえが傍にいては目覚めを拒否しかねない」 「……俺に対して、罪の意識を……?」 「そうだ。罪の意識というよりは懺悔だがな。  ――――アレは間桐の後継者として、実験台にされ続けてきた。  間桐臓硯がどのような教育を施したかは想像に難くない。間桐桜はお前が望むような清らかな〈乙女〉《おとめ》ではなく、蟲に汚された〈魔女〉《あま》という事だ―――― 「――――――」  ……驚きはない。  この感覚は知っている。  桜がマスターと判った時。  桜の手に令呪が点った時も、こうして、静かに事実を受け入れていた。 「あの娘はおまえにそれを知られまいとしながら、常に救いを求めていた筈だ。  魔術継承の名を借りた責め苦がどれほど続いたのかは知らん」 「だが―――身近にいながら、それに気が付かなかった者に何が出来る。  ここで祈る資格がないとはそういう事だ。それでも間桐桜を想うのなら席を外せ。今のおまえに出来る事はそれだけだ」 「――――――――」  ……席を立つ。  〈神父〉《こいつ》に言い負かされたからじゃない。  これはただ、本当に―――神父の言葉が、正しかっただけの事。  本当に桜を想うなら、今はここにいてはいけない。  こんな、何も考えられない頭で、桜を想ってはいけない筈だ。  神父に背を向けて教会を後にする。   「ああ。それと、言うまでもないと思うのだが」    振り向く余裕などない。  出口を見据えたまま足を止めた。 「先ほどの話だ。間桐慎二がライダーを行使していた時、犠牲になった女がいたな。おまえの機転で助かったが、本来ならばあのまま死んでいた女だ」 「――――――――」  頭にくる。  それをこの場で口にする理由が、なんで、理解できてしまったのか。 「そうだ。あの〈咎〉《とが》がどこにあるのか、もはや言うまでもない。サーヴァントが人を襲った場合、その責任はマスターにある」 「桜が――――桜が悪いっていうのか、おまえは」 「まさか。私が言っているのは責任の所在だ。善悪を語っているのではない。事実、女はおまえのおかげで助かっている」  ――――だが、もし。    あの時、俺が選択を誤っていれば、ライダーはあの女の人を殺していた。  それは――――   「そう、今後の話だ衛宮士郎。  このまま間桐桜が回復したところで結果は同じだぞ。  正気を取り戻したとしても、いずれ同じ事が起きる。  その時、おまえは〈どちらを守るのだ〉《・・・・・・・・》?」    ―――いつ、桜が同じ事をするか、判らないという事だ。 「――――――――」  返す言葉なんてない。  俺は神父の言葉から逃げるように、出口へ足を速める。           「衛宮士郎。おまえがマスターになった理由を覚えているか」  歯を噛んで歩く。  神父の言葉は、最後通牒そのものだ。         「おまえは正義の味方になると言った。  ならば決断を下しておけ。  自身の理想、その信念を守る為―――衛宮切嗣のように、自分を殺すかどうかをな」    扉を閉ざす。  神の家の扉は、科せられた十字のように重かった。 「――――――――」  これ以上自分に嘘をついて、前に進んでも絶対に後悔する。  責任の所在、善悪の有無。  それに追われる事よりも、桜を失う事の方が重い。  ……決意なんてするまでもなかった。  俺はただ、桜を守りたいだけなんだから。 「―――ああ。好きな女の子を守るのは当たり前だ。そんなの、俺だって知っていた」 「でしょ? シロウがそういう子だから、わたしもシロウの味方なの」  嬉しそうにイリヤは笑う。 「――――――――」  その無邪気さに勇気づけられる。  ……この選択が間違えているかどうかは分からない。  ただ、絶対に後悔はしないだろうと。 「ごめんイリヤ。俺、そろそろ行かないと」 「そうだね。そういう顔してるから許してあげる。また今度会おうね、シロウ」 「ああ。またなイリヤ。それと、ありがとう」    公園を後にする。  迷いを振り払うように、教会へ走り出した。 「――――――――」  ……答えは決まった。  〈切嗣〉《オヤジ》が死んでから今まで、桜がどれだけ支えてくれていたか判らない。  ずっと後輩だと思いこんで、異性なんだと意識しないようにしていた。  傍にいてほしかったから、そんな風に自分を騙し続けてきた。  だが、もうそんな誤魔化しが通じる状況じゃない。    ―――衛宮士郎は、間桐桜を失いたくない。    今はそれだけ。  何も考えられないのなら、唯一確かなその気持ちを信じるだけだ。    ……ただ、そう覚悟した意識の底で。     “おまえが、たった一人を生かそうというのなら――”       予言めいたアーチャーの言葉だけは、どうしても振り払えなかった。    雨が降り始めた。  冬の雨は容赦なく、走る体を撃ち抜いていく。    ……ずるずると音がする。  その音はよく知っている。  無数の蟲が体を引きずる音、数多の蟲が壁を這っていく音だ。   「――――――――」  この場所もよく知っている。  暗く湿った密室。  地下に作られた霊廟。  間桐に貰われてまっさきに与えられた部屋が、この緑色の闇だった。   「――――――――」    その闇の中心に、一体の人型がある。  ……人と呼んでいいものか迷うところだが、外見は人間だ。  その人型は彼女を呼びつけ、間桐慎二ではなくおまえが戦え、と命じてきた。   「――――――――」    それは、覚悟していた事だった。  少なくとも二日前まではそうなるだろうと受け入れていた。  だが、今は決心などなくなっている。    彼―――衛宮士郎がマスターだと判った時から、彼女には戦う意思が欠如していたからだ。    衛宮家に通ったのは監視の為だった。  だが衛宮士郎にはマスターとしての適性はなく、聖杯戦争の知識もない。  それはすぐに判明した。故に、監視などという役割は初めからなかったに等しい。  彼女は監視という名目を言い訳にして、衛宮士郎の後輩であり続けた。    彼とは戦う必要がない、と。  いつか自分の正体が暴かれる時はあっても、互いに戦う日は絶対に来ないと楽観していた。    それが―――どうして、こんな結果になったのか。             “……お爺さま。マスターは、全員殺さなければいけないのですか”    老人の返答など分かっている。  分かっていながら、彼女はそう問うしかなかった。  だが。   「そうさな。おぬしがどうしても、というのなら一人や二人は慰みものにしてもよいぞ。サーヴァントさえ奪えればよいのだ。残ったマスターは玩具にするなり人形にするなり好きにするがよい」    老人の答えは、彼女の予想とは少しだけ違っていた。             “――――――――え……?”   「分からぬか? マスターを全て殺す必要はない、と言ったのだ。生かしておいて危険な輩は処分する。が、残したところで支障のない輩ならば見逃してやってもよい。  可愛い孫の頼みじゃからな。我らが悲願と言えど、多少の融通はきかせよう」    その言葉が、彼女の警戒を僅かだけ解いてしまった。  ……この老人は時折、妙に優しい時がある。  間桐の魔術を“教育”する時は人間性などなく、それこそ獣か虫の残忍さしか持ち合わせない。  だがこうして話をする分には、〈好々爺〉《こうこうや》めいた親しさを感じさせる事があるのだ。             “………………”    だが騙されてはいけない。  これがただの気紛れなのか、計算された優しさなのかは判らないし、なにより―――ここで頷いては彼と戦う事になる。  生死は問わず、という条件になったところで、戦いが避けられない事に変わりはないのだ。   「なんじゃ、それでも不満か? ……まったく、困った娘よな。そのように臆病だから手に入るモノも手に入らぬのだ。よいか、今回の件はよい機会だぞ? 欲しいモノは力ずくで手に入れればよいのだ。  なあ桜よ。おぬし、いつまで監視役などに留まっておるのだ。欲しいモノがあるのなら奪えばよい。おまえにはその力も権利もあろうに」           “………………”    彼女は答えない。  そもそも欲しいモノなどない。  アレはただの憧れで、自分が受け入れてもらえるなど思った事さえない。    自分は汚泥に〈塗〉《まみ》れている。あの人には相応しくない。  だから彼の隣に座るのは、もっと相応しい人でなくてはいけない。  自分はその時が来るまで、今のように傍にいられるだけで良かった。  それ以上の幸福など、求めては破滅する。    ……それは自分だけでなく。  きっと彼自身にも、良くない終わりが訪れてしまうだろう。             “……お爺さま。わたしは戦えません。ライダーはこのまま兄さんに譲ります”    祖父の反感を買ってしまうことを覚悟して、震える声で彼女は言う。  ここで逆らうことが何を意味しているか、彼女はよく知っていた。             “………………”    手足が震える。  恐怖で泣きだしそうになる。  ……だが、恐ろしいのは決して祖父の怒りではない。  彼女が恐れるのは、ただ。  耐え切れなくなって、結局最後には老人の意に従ってしまうコトだけだ。   「…………ふむ。では仕方あるまい。無理強いをし、大事な後継者を失う訳にはいかんからな。今回も傍観に徹するとしようかの」             “――――――――”    息を呑む。  老人がどこまで本気かは分からないが、彼女の言い分を受け入れてくれたのだ。  全身の震えは止まり、温かい安堵が胸に広がっていく。    ―――その、無防備になった心に、   「しかし、そうなると少しばかり癪だのう。今回の依り代の中では、〈遠坂〉《きゃつ》の娘はなかなかに上級じゃ。機が味方すれば、もしやという事もありえるか」    心底残念そうな、老人の声が入りこんだ。             “――――姉さん、が?”    その時、魔が入った。  彼女は直感する。  姉さんなら確実に勝つだろう。……あの人はそういう人だ。いつだって欲しいものを全部手に入れて、それが当然だというかのように、颯爽と通り過ぎていく。  ……立ち止まったままの自分に振り向きもせず、自分の欲しいものを全て持っていくのだ。    なら――――きっと、あの人は勝ってしまう。             “――――――――”    体の中が、氷になったように冷え切っていく。  ……そんなのはどうでもいい。  もう慣れた。  もう慣れた。  もう慣れた。    ―――そんなもの、もうとっくに慣れたんだ。    姉さんは全てを手に入れる。  わたしが耐えてきた苦しみも、憎み続けてきた輝かしい未来も、そして、ただ一つ寄りどころにしていたあの人さえ、わたしの前から消していくんだ――――             “――――――――”    ……足元が歪む。  ただそれだけの言葉で目眩を覚えて、彼女は吐いた。    ……胸が痛い。  彼女は、ちくり、と。  自分の胸に針が刺さったような、厭な感覚に襲われた。    ……雨が降り始めていた。  冷たい冬の雨は、無遠慮に〈雨樋〉《あまどい》を打ち濡らしている。   「―――――――」    ゆっくりと目を開ける。  ……数日前の出来事を、夢で見ていたらしい。  ここは石造りの部屋で、自分は治療台に寝かされていた。  目の前には黒い―――自分と同じような、見たことのない神父が立っている。   「気がついたか。状況の説明は要るかね、間桐桜」 「………………いいえ。自分の体です、ちゃんと判っています」    簡潔に答える。  彼女は神父を見ず、壁を打つ〈雨音〉《あまおと》だけを見つめている。   「結構。では早く着替えたまえ。隣では遠坂凛と衛宮士郎が待っている。彼らには君の状態を説明しなければならない。その後、その格好では逃げる事もできないだろう」 「……………わたしを、逃がしてくれるんですか?」 「逃げる逃げないは君の自由だ。私は助けただけだからな。君がどうするかは私が決められる事ではない。  まあ、助けた手前死なれては骨折り損ではある。君には最後まで残っていてほしいとは思うが」   「……それは、どうしてですか」 「その方が楽しい。君が生きる事になれば、遠坂凛も衛宮士郎も苦しむだろう。苦悩する者が増えるのは、私にとっては喜ばしい」    そう答えて、神父は彼女に背を向ける。  神父は礼拝堂に。  治療台で自身を抱く少女に見向きもしない。   「さて。彼らが間桐桜を生かすか殺すか。その選択に興味があるのならここで待っているがいい。うちはこう見えて〈安普請〉《やすぶしん》でな。何故かここだけは、礼拝堂での会話が筒抜けになる造りになっている」    陰鬱な笑いをかみ殺しながら、神父は中庭に去っていく。   「…………先輩。わたし、どうしたら」    ひとり膝を抱える。  小さく漏れた嗚咽は、雨の音にかき消されていた。  はーい、みんな元気ー?  奮戦空しくデッドしちゃったみんなを救うタイガー道場でーす! ……って、なんか揺れてねー……? タイガー道場は我々が占拠したー!  タイガはおとなしく武装解除しろー! この声はもと弟子一号……!?  ちょ、いったい何事よ――――って、なぁにぃぃぃぃぃぃい!? ティーガー!  見たかタイガ、これが我が軍の秘密兵器よ! 準備よーし、目標タイガー道場ー!  砲手、撃てー♪ チェストーーーーーーーー!!!!! ……あれ? きゃーーーーー!???? ティーガーが、第三ゲルゲル帝国払い下げのティーガーが一撃でーーーー!? うむ! わたしもビックリしている!  ところでイリヤ上等兵! 戦車で乗り込んでくるとは、ちょっと本気で驚いたぞ! あ。……てへへ。師しょーをビックリさせようと思って、ちょっと無理したの。わたしってお茶目? 殺すぞ! ~押忍、ありがとうございました~(涙)。 うむ、分かればよろしい。 本来ならもうちょっとこのネタで引っ張るところであるが、メンドくさいので再入門を許す! え、本当ですか師しょー? ええ、ほんともほんとよ。タイガー道場も残り十二回。  わたし一人じゃ持たないわ。 というか、野放しにしたら次は何で攻め込んでくるか分かったもんじゃないし。 やったー! レギュラーゲットーーー!  けど、あと十二回って何気に多くね? シロウ、そんなに███に殺されるの? あー、殺されるのよこれが。 なにしろ士郎死亡率はこのルートが一番高いんだから。  それもわりと悪趣味に。イリヤちゃんがスプラッタなのに対し、今回はホラー風味なのよねー。 へー。なんか性格でてるなー。 そうなの。だから士郎も選択肢には気をつけなさい。  今回のデッドエンドは、えーと……セイバーちゃんがいなくなったっていうのに、一人で戦おうとしたせいね。 ダメよシロウ。相手は怪物ばっかりなんだから、せめて盾になる怪物と手を組まないと。 気は乗らないだろうけど、選択肢に戻ってリンにお願いしなくっちゃ。 けどその後の選択肢には要注意よ。相手の言いなりになるだけ……っていうのも男としてどうかと思うわ。 その通りっす師しょー! イヤな事はイヤと言える、 決断力あふれるシロウ! そういうコト。 それじゃまた、次のタイガー道場で!  九日目はタイガー道場が四つもあるから、気をつけて選択してねー! じゃ、まったねー! ……えーと、タイガー道場なんだけど……なんか、今回ヘンじゃない? 押忍、そんなコトないっすよ?  いつも通りの、平和で楽しいタイガー道場っす! う、また殺気……違うよう、これ気のせいじゃないよう、なんか厄介なのに睨まれてる気がするよぅ。 さて今回のデッドエンドだけど、おなじみの突然死でーす! 一度目が合っちゃった以上、ライダーの魔眼から逃れるコトはできないわ。ここは相手を倒す事より、守りに徹した方が賢明ね。 待った! ちょっと待った! やっぱりヘン、なんか後ろに誰かいる! けど振り返るのが怖くて確かめられない! んー、けどシロウもいろんな死に方するよねー。  石化なんてわたしたちの業界でも珍しいわよ? 近くに! その珍しい死に方がすぐ近くに!  なんでわたしがこのような仕打ちをー!? なんでって、サクラが根に持つ性格だからでしょ? タイガ前に言ったじゃない。ライダーのマスターは性根が腐った蛇女だって。 うわ、言ったような言わないような…… って、きゃー!  たーすーけーてーだーれーかー!  はい、以上タイガー道場でしたー! 人を呪わば穴二つ、  みんな、陰口には気をつけようねー! ……んー、ちょっと、今回は何も言えないかな。  これも一つの結末だから。 ………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………ばか。 はいそこ、文句言わない!  今回のタイガー道場はお休み! また今度、違うタイガー道場で君を待つ! 取立無情! 魔の借金取り見・参! 押忍! 軽い気持ちで証文に判を押したら地下帝国まっしぐらっす! そうそう。ほんと怖いよねー、こういう契約って。  本人にその気がなくても、ここぞって時に足を引っ張るんだもん。 みんなはこーゆーセールスに騙されちゃダメよ?  一番怖いモノっていうのは、意外な形で意外に身近にいるものなんだから。 ね、イリヤちゃん! ? やめてよ、てれるじゃない。  なんでか知らないけど、そんな熱い視線で見つめられたら照れちゃうわ。 ほら、怖いでしょ?  そんなワケで、今回の原因は遠坂さんとの契約です。 かなり無茶な要求をしてくる彼女ですが、その中に一つ、決して『はい』と言ってはいけないものがあるわ。  九日目の始めからもう一度やり直してみてね。 押っ忍! その他にも、あの問答は逆らった方が好感度があがる物があるとの噂があるっす! お、さすが本編から出戻ってきたヒロイン(候補)!  いい情報もってるわねー。 うう……それは言わない約束っす……。 さて。九日目のタイガー道場もこれが最後。 ここから先に待つものは、これ全てデッドエンドという修羅地獄!  おのおの、心して戦いに臨まれたい! まったねー! 階段を上る。  セイバーに留守を任せて学校に来たものの、あたまの中はどんよりと曇ったままだ。 「……え、衛宮くん!?」   「――――あ」    ――――いた。  なんでも相談できる嘘みたいに都合のいいヤツがひょこひょこと歩いていた。 「――――そう。  わたしのコト、甘く見てるってこと」  あっちもこっちに話があるのか、足を止めて声をかけてきた。  なんて幸運、まさに渡りに船!  ここは――――   「いいわ。そっちがその気ならここで決着をつけてあげる。サーヴァントを連れずに学校に来るなんて――――」 「すまん!…… 後生だ遠坂、相談に乗ってくれ!」  遠坂に詰め寄って、そのまま壁際まで押し付ける。  話が話だ、まわりにいる生徒には聞かせられない。 「ちょっ、ちょっと何考えてるのよアンタ……! ここで決着つけるってのはあくまで喩えで、まだ周りにみんながいるじゃない……!」 「頼む、頼れるのはおまえしかいないんだ。桜が聖杯戦争に巻き込まれそうでどうしていいか分からない。おまえなら色々知ってるし、なんとか知られないまま守れる方法ってないか―――!?」 「――――」  遠坂はぽかん、と口をあけたまま見つめてくる。 「あ……す、すまん。あんまりにもいいタイミングだったからつい取り乱しちまった。  ……その、桜ってのは俺の後輩なんだけど、そいつが聖杯戦争に関わっちまいそうなんだ。なんとかしたいんだけど、うまい方法が思いつかなくて、それで」 「――――言い訳は結構。それより早く退いてくれない?  ホームルーム、始まっちゃうでしょ」 「っ……! わ、わるい、気がつかなかった……!」  慌てて遠坂から離れる。  ……遅れて、いまさら頬がカアっと熱くなった。  あの遠坂を壁に押し付けるなんて、なに考えてんだ俺は……! 「……すまん。謝ってばっかりだけど、とにかく話を聞いてくれ。俺は――――」 「……相談事があるんでしょ。いいわ、聞いてあげる」 「え―――ほ、ほんとか遠坂!?」 「……あのね。聞いてあげないと死にそうな顔して、本当かはないでしょ。昼休みに屋上。話ならそこで聞くわ」  ふい、と顔を逸らして遠坂は階段を上っていく。  それを呆然と見上げていると、   「――――ばか。急がないと遅刻するわよ」    どこか拗ねたような口調で、そんな言葉を残していった。  慎二の事を相談できるヤツなんて遠坂しかいない。  いや、問題は今朝の桜の怪我の事なんだが、それは転じて慎二の問題でもあって―――― 「いいわ。そっちがその気ならここで決着をつけてあげる。サーヴァントを連れずに学校に来るなんて――――」 「すまん!…… 後生だ遠坂、相談に乗ってくれ!」  遠坂に詰め寄って、そのまま壁際まで押し付ける。  話が話だ、まわりにいる生徒には聞かせられない。 「ちょっ、ちょっと何考えてるのよアンタ……! ここで決着つけるってのはあくまで喩えで、まだ周りにみんながいるじゃない……!」 「頼む、頼れるのはおまえしかいないんだ。桜が聖杯戦争に巻き込まれそうでどうしていいか分からない。おまえなら色々知ってるし、なんとか知られないまま守れる方法ってないか―――!?」 「――――」  遠坂はぽかん、と口をあけたまま見つめてくる。 「あ……す、すまん。あんまりにもいいタイミングだったからつい取り乱しちまった。  ……その、桜ってのは俺の後輩なんだけど、そいつが聖杯戦争に関わっちまいそうなんだ。なんとかしたいんだけど、うまい方法が思いつかなくて、それで」 「――――言い訳は結構。それより早く退いてくれない?  ホームルーム、始まっちゃうでしょ」 「っ……! わ、わるい、気がつかなかった……!」  慌てて遠坂から離れる。  ……遅れて、いまさら頬がカアっと熱くなった。  あの遠坂を壁に押し付けるなんて、なに考えてんだ俺は……! 「……すまん。謝ってばっかりだけど、とにかく話を聞いてくれ。俺は――――」 「……相談事があるんでしょ。いいわ、聞いてあげる」 「え―――ほ、ほんとか遠坂!?」 「……あのね。聞いてあげないと死にそうな顔して、本当かはないでしょ。昼休みに屋上。話ならそこで聞くわ」  ふい、と顔を逸らして遠坂は階段を上っていく。  それを呆然と見上げていると、   「――――ばか。急がないと遅刻するわよ」    どこか拗ねたような口調で、そんな言葉を残していった。    ――――逃げよう。    もとい、教室に急ごう。  遠坂に相談するのはグッドアイデアに思えたが、  学園一の優等生は、近づいた途端〈鼠〉《エモノ》を八つ裂きにする猫の如きオーラを放っている。  つまり、君子危うきに近寄らず。 「おはよう遠坂。それじゃ遠坂」  一目散で階段を駆け上がる。 「ちょっ、ちょっと待ちなさい、わたしの話はまだ終わってないっ……!」    背中にかかるあくまの声を振り切って廊下へ走る。  ……なんだかより悪い方へ転がっていく気がするが、まあ、今の遠坂と話す以上の危険なんてないので良しとしよう。  間に合った。  ホームルーム開始三分前、藤ねえはまだやってきていない。  慎二の机はカラだ。  昨日の今日で顔を合わせるのは辛かったが、話はつけておきたかった。  それも欠席ではどうしようもない。  間桐の家に行ったところで慎二を刺激するだけだろうし、なんとか桜を巻き込まない方法を考えるしかない。 「……って、あれ?」  〈空〉《から》の机がもう一つある。  あれは一成の机だ。 「珍しいな。あいつでも学校を休むんだ」  自分の机に鞄を置いて、来るべきホームルームに備える。 「お待たせー! どう、今日は朝から新記録でしょ?」    珍しくホームルーム開始のベルより早く到着する藤ねえ。  ……少し安心した。  朝に顔を出さなかったんで寝坊したもんだと思ってたけど、いつもより元気あるじゃないか、まったく。 「おー、メシだメシだー! さあ、みんなで学食に肉食いに行こう、ぜっ!」    昼休みになった瞬間、教室の中心で雄叫びが上がる。  ああいう物騒な言い回しをするのは男子以外になく、女子は避けるように机を四隅に寄せていく。   『あー、俺も今日は学食ー。付き合うぜ埼玉ー』 『オレは遠慮する。昨日も肉食ったし』 『わたしたちもパス。……じゃなくて、いい加減諦めてよ男子。わたしたち、うちの学食はもうこりごりなんだから』   『ええー!? なんだよー、うちの学食のB定は最高だろう!? コロッケ定食なのになに食べても肉の味しかしねえんだぜ!?』 『あー、まあそれが得なのかどうかは個人の趣味嗜好だけどねー。野菜食っても肉の味ってのは正直どうなのよ』   『衛宮はどうするー? おまえが弁当かどうかで学食組が激変するんだけどなー。つーかオレの為に弁当作ってくれぞなもし』 『あ、ずるーい! それなら衛宮くんこっちに来ない? わたしたちのサンドイッチとお弁当交換しよっ』   『交換しよっ、じゃねーよコンビニエンス組がっ! 女のクセに手ぇ抜きやがって、おまえたちにオレたちの弁当は渡さん! 上等なメシが欲しかったら玉子焼きを作れるようになってから言え』 『しっつれーい! 玉子焼きぐらい作れますよーだ。あんなのお湯で温めるだけだもん。ねー、そうだよね衛宮くーん?』 「…………いや、それ違う。  今の一連の流れ、何から何まで違う。それに俺、今日も弁当抜きだぞ。ここんところ弁当作ってる余裕ないし、期末までは学食で済ませると思う」   『『『『えーーーーーーーー!!』』』』    学食組と購買組がそろって口をとがらせる。  こんな時だけ抜群のコンビネーションなんだな、うちの連中。  男連中と肉の味がするミックス定食を完食し、エビフライまでミートテイストなのはどうかと口論しながら戻ってきた。  じき五時限目、席に座って次の科目の準備をし―――   「……なんだ、これ」    ―――机の中から、覚えのない紙切れが発掘された。 「――――――――」  ……言葉がない。  万が一に備えて筆跡を変えているのか、文字は定規で書かれている。 「――――遠坂」  ……だよな、これ。  朝の事って、該当するのはあいつ以外いないし。 「………………」  正直、こんな脅迫状は見なかった事にしたいが、最後の一行が気になりすぎる。 「……塗り潰した部分が透けて見えるのまで計算してる……ってワケじゃないよな、これ」    ……気は乗らないが、遠坂と話が出来るのは助かる。  桜をどうすればいいか解決策は思いつかなかったし、失敗覚悟で遠坂に相談してみよう――――  六時限目が終わって、放課後になった。  約束の時間だ。  遠坂が何を企んでいるかは分からないが、校舎にはまだ生徒が残っている。  弓道部だって五時までは部活動をしているだろうし、万が一の時は人気のある場所まで逃げればいい。  遠坂はまっとうな魔術師だから、人目がある所では仕掛けてこない筈だ。  深山町はその名の通り、山間に出来た町だ。  町にはところどころ坂があり、中には小さな山に通じる道もある。  で、その山の一つがこの学校。  山の中腹に建てられた学校から奥は、当然開拓されていない。  よって、裏側に回ればすぐに山の雑木林に出る事になる。  ―――で。  日夜新しいマラソンコース開発に余念がない運動部でさえ滅多に入らない雑木林に、  一人、ご機嫌ななめで待ち受ける大魔神の姿があった。 「…………」  正直、いますぐ帰りたくなった。  が、ここで戻ったりしたら間違いなくやられる。  ガラ空きの背中めがけて、情け容赦ない魔術の雨が降らされるに違いない。 「あー。遠坂、来たぞー。何の用だー」  雑木林の入り口で呼びかける。  とてもではないが、あいつがいる中ごろまでは入っていけない。  入っていったらますます生還率が低くなるし。 「おーい遠坂―! 聞こえないのかー!」  声をあげて呼びかける。  かー、かー、かー、と雑木林に響く声。 「聞こえてるわよ! そっちこそ大声で人の名前連呼するなーーーーーっ!」    なー、なー、なー、なー、なー。  ここまで突進してきて怒鳴る。  反響は俺の時より二回も多い。 「……うわ。凄いな遠坂、これならきっと弓道場まで届いたぞ」 「あ。……しまった、また調子狂わされた」  チ、と舌打ちして後ろに下がる遠坂。 「―――ふん。まあいいわ、こんなのは予測範囲よ。貴方の事だから、呆れるぐらい〈無防備〉《しろうと》な方法でやってくると思ったし」  で。  ほんっとーに何が気に食わないのか、更にご機嫌斜め度をアップする遠坂凛。 「……? なに怒ってんだよ遠坂。大声出したの、そんなに恥ずかしかったのか?」 「っ―――そ、そんな小さなコトに怒ったりしないわ。  わたしをイライラさせているのは、貴方のそういう無害さを装った有害さよ」  むっと睨んでくる。  本来なら遠坂と二人だけ、という状況に緊張するのだろうが、場所が場所なだけに取り乱す事もない。 「? 無害さを装った有害さって、何さ。羊の皮を被ったなんとかってヤツか?」 「それはただの擬態。アンタの場合は、ほんとに羊なのに、実は狼を返り討ちにする突然変異ってコト」 「???」  ますます分からない。  と言うか、突然変異の段階でそれは羊ではないのではなかろうか。 「―――まあいいわ。余分なコトを話してるほど暇じゃないし、本題に入りましょう。ええ、逃げずによく来たわね衛宮くん」 「そりゃあな。あんな物騒な脅迫状を送られたら無視できない。心なしか文字に呪いが込められてた気もするし」 「は?」  と。  またも固まる遠坂凛。 「ちょっと。脅迫状って、なによ」 「なにって、コレ」  机に入っていた紙切れを差し出す。 「もう、脅かさないでよ。わたし以外の誰かが、衛宮くんを誘き出したのかと思ったでしょ」 「ほんと、貴方も慌て者ね。そりゃあ確かにイライラしてたけど、ただの伝言に呪いなんかかけないわよ。それは普通の、何の変哲もない連絡事項で――――  ……って。なんで途端に、これ以上ないってぐらい顔しかめてるのよ」 「………………」  そりゃあしかめたくもなる。  遠坂は、本気でアレがただの伝言だと思っている。  それはそれで、ほら、個人の趣味嗜好の範疇なので文句はないのだが、今まで培ってきた“遠坂凛”のイメージが更に崩れていく訳で。 「……う……もしかしてわたし、無意識に〈呪い〉《ガンド》かけてたとか……?」 「え? いや、手紙自体は問題なかった。けど、誰が見ても脅迫状だぞコレ。俺以外のヤツが見つけてたら間違いなく先生に相談してた」 「しょ、しょうがないでしょ、あんまり時間なかったし、ちゃんとした手紙を送れるほど親しくなってないんだから、用件だけ書くしかなかったのよ」 「はあ。……けど、何も定規で書かなくてもよかったんじゃないのか。それと、最後の一行に異様な迫力がにじみ出てる」 「それだって、元をただせば衛宮くんのせいじゃない。  朝逃げられたから、それぐらいしないと捕まえられないと思ったの。だから気を利かせて、ちょっとだけ気持ちを込めたって言うか」 「……ふん。いいわよ、別に脅迫状でも犯行声明でもザンカン状でも好きにいいなさい。こうして目的が果たせたなら何よりだわ」  つーん、と明後日の方角に顔を背ける遠坂。  ……いやまあ、遠坂もあの書き置きがいささか物騒だったと解っていたのは嬉しいんだが。 「―――いいけど。それより、一体何の用だよ遠坂。こんなところに呼び出して、一戦やらかそうっていうのか」 「衛宮くんが望むならね。けど勘違いしないで。今はアーチャーが治療中だから仕掛けないだけで、もしアーチャーが健在だったら朝のうちに貴方から令呪を奪ってた。  ……あれだけ迂闊な行動はとるなって言ったのに、ひょこひょこ歩いてるのを見た時は本気でその気になったんだからね」 「――――――――」  目が点になる。  つまり、遠坂が怒っていたのは 「? 遠坂、俺のこと心配してくれたのか?」  理由は不明だが、そういうコトだったんだろうか? 「そ、そんなワケないでしょう! わたしが呼びつけたのは朝のコトが気になったからよ。  衛宮くん、あの時なにか言いかけたでしょ? それが気になったから、わざわざ聞いてあげる気になったのっ」 「――――――――」  更に目が点になる。  どんな風の吹き回しか、こっちから相談しようとした事を、まさか遠坂の方から促してくるとは思わなかった。 「なによ黙り込んじゃって。……別にいいわよ、わたしには話せない事なら無理に聞かないから。貴方の顔見たら怒りも失せたし、話がないなら帰る」 「あ―――いや、待ってくれ遠坂。  話はある。むしろこっちから遠坂に相談したかったぐらいなんだ」 「なら話しなさいよ。秘密は守るし、力になれる事なら手を貸してあげるわ」 「ああ、助かる。  ……その、遠坂には関係のない話になるんだが、間桐桜って子がいるんだ。  桜は後輩で、昔からの知り合いで、その兄貴は間桐慎二っていって、これまた長い付き合いだ。  ―――で、簡単に言うと、昨日の夜ほかのマスターと戦った。そのマスターが慎二だったんだ」 「……間桐慎二が、マスターだった……?」 「ああ。あいつの爺さん……間桐臓硯ってヤツも言ってたから間違いない。で、間桐の家はもともと魔術師の家系らしいんだが―――遠坂は、知ってたのか」 「……当然でしょう。わたしが知らなかったこの街の魔術師は貴方だけよ。けど、それは絶対にないって思ってた。だって、慎二は」 「魔術師じゃない。魔術使いとしての最低条件である魔術回路がないんだってな。間桐臓硯もそう言ってた。  ……けど、それはあくまで魔術師としての話だろう。  マスターになる条件は別だと思う。俺だって慎二と似たようなもんなんだ。この際、魔術師じゃないとマスターになれない、なんて考えは止めた方がいい」 「…………そう。で、慎二は? 倒したの、貴方」 「ああ。あいつのサーヴァント―――ライダーはセイバーにやられたよ。〈慎二の本〉《れいじゅ》も燃えちまって、あいつはマスターでなくなった。  ……けど、あいつは諦めてないと思う。それだけでも危なっかしいってのに、その、あいつの家には桜がいるんだ」 「臓硯に聞いたけど、魔術ってのは後継者にしか教えないんだろう。桜は何も知らされずに育てられた。だから慎二が何をしているかは知らない。  このまま知らずにいてくれれば、桜はマスター同士の戦いになんか巻き込まれないで済む」 「…………そうね。なのにどうして桜が危ないって思うのよ、貴方は」 「言っただろう、いまの慎二は不安定なんだ。あのままだと、一緒に住んでいる桜だって、ずっと無関係でいられるかわからない。  だから、その」 「桜を巻き込んでしまう可能性が出る前に決着をつけたい、って言うのね。―――それは正しいけど、貴方じゃ無理よ。柳洞寺の件もあるし、他の連中はどうもきな臭い。今回の聖杯戦争は、思ったより長引くわ」 「――――――――」  ……そうか。  一番いいのは慎二がマスターを諦めて戦いから降りる事だが、それは現実的じゃない。  となると、あとは桜本人を慎二から離しておくしかないのだが―――― 「なら後は一つだけでしょ。その桜って子を巻き込みたくないんなら、貴方が保護すればいいのよ」 「――それは当然考えた。けど俺だってマスターだぞ。  家にいたら危険だし、慎二だって良く思わない。それに桜だって、今日から泊まれなんて言われたら嫌がるに決まってる」 「……ふう。ほんとう、鈍感なのね衛宮くんは」 「え?」 「なんでもないわ。―――とにかくダメもとで訊いてみなさい。慎二から桜を守るのも、貴方が他のマスターから桜を守るのも変わらないでしょ。  なら、自分で努力してどうにかなる方法を選ぶべきじゃないの? ……その、桜って子が貴方にとって大切な人間だって言うんならさ」 「――――――――」  遠坂の言葉は、なんというか直に効いた。  がつん、と頭を殴られたような感じ。 「―――そう、だな。確かに、それはそうだ。俺が勝手に桜の気持ちを気にする前に、桜本人に訊かなくちゃダメだった」 「……………………」 「ありがとう遠坂。帰ったらすぐ桜を説得する……って、なんだよ、いきなり黙っちまって」 「別に。感謝されるほどの事じゃないから黙ってるだけよ。  それより、これで借り作っちゃったわね。慎二がマスターだった、なんて情報が貰えるなんて思わなかった。  これじゃ代わりにわたしのカードも提示しないと」 「え? カードの提示……?」 「代わりの情報よ。慎二がマスターだったって話は参考になったから、代わりにわたしからも新しい情報を教えてあげる。  最近、町で原因不明の昏睡事件って起きてるでしょ?  アレはサーヴァントの仕業だけど、そいつのマスターは柳洞寺にいるわ」 「!? あ、そういえばさっき、柳洞寺がどうだの言ってたな。……柳洞寺って、あの柳洞寺か?」 「ええ。厄介な相手だから手を出すのなら気をつけなさい。あいつら、命まではとってないけど無差別に人を襲ってるわ。  日に日に強くなっていくから早目に潰したいんだけど、わたしのアーチャーは誰かさんにやられた傷が治ってないしね。  ま、どんなに魔力を蓄えたところで、一度に使える魔力の最大量なんてタカが知れてるし、しばらくは傍観するけど」 「――――――――」  ……柳洞寺にいるマスター。  遠坂、アーチャーがまだ不完全なのにマスターとして手を尽くしているんだな。 「話はそれだけ。  ―――それじゃ、さよなら衛宮くん。早く帰って、可愛い後輩を安心させてあげなさい」 「え、遠坂、おい……!」  呼び止めるが、遠坂は無視してさっさと弓道場の方へ去っていってしまった。 「……?」  ……なんだろう。  遠坂は終始不機嫌だったが、最初の不機嫌さと最後の不機嫌さは質が違っていた気がする。 「っと、下校時刻か。……確かに早く帰らないとな」  五時を告げる鐘が聞こえる。  じき日が沈む。  桜の事もあるし、急いで家に帰らないと。  教室に急ぐ。  ホームルーム開始三分前、藤ねえはまだやってきていない。  慎二の机はカラだ。  昨日の今日で顔を合わせるのは辛かったが、話はつけておきたかった。  ……それも欠席ではどうしようもない。  間桐の家に行ったところで慎二を刺激するだけだろうし、しばらくは顔を合わせない方がいいのだろうか。 「……って、あれ?」  〈空〉《から》の机がもう一つある。  あれは一成の机だ。 「珍しいな。あいつでも学校を休むんだ」  自分の机に鞄を置いて、来るべきホームルームに備える。 「お待たせー! どう、今日は朝から新記録でしょ?」    珍しくホームルーム開始のベルより早く到着する藤ねえ。  ……ふん。  朝に顔を出さなかったんで寝坊したもんだと思ってたけど、いつもより元気あるじゃないか、まったく。    ――――昼休みを告げる鐘が鳴る。  教室を飛び出し、一階の購買でうぐいすパンと日本茶を手に取り、そのまま最短で階段へ駆け込んだ。 「ハッ、ハッ、ハ――――!」    一階に下りていく生徒たちに逆走して屋上へ。  心臓はドクドクと脈打っている。  一時限目が終わって二時限目が終わって、三時限目が終わって四時限目が始まって、胸の動悸はおさまるどころかテンポをあげる一方だった。 「……ッ、ハッ、あ――――」    そう、白状すれば緊張している。  相談に乗ってくれた事がありがたい、って事もあるが、そんなのはオマケみたいなもんだ。  冷静に考えてみれば、あの遠坂凛と待ち合わせをするなんてどうかしてるとしか思えない。  あいつは学校のアイドルで、非の打ち所のない優等生で、その、一年の頃から憧れていた女の子なんだこんちくしょー! 「ああもう、落ち着けバカ――――!」    階段を駆け上がりながら、乱れている呼吸を整える。    ……とにかく、これは一大イベントだ。  マスター同士になったからって遠坂は遠坂だし、待ち合わせに遅れるなんて失態は見せられない。  こっちが頼んだ手前もある。  ならあいつより早く屋上について余裕を見せないと、カッコつかないってもんなのだ。  が。 「と、遠坂?」   「―――――遅かったわね、衛宮くん」    その、凡人にはどんなに頑張っても越えられない壁があったみたいだ。 「話があるんでしょ。立ち話もなんだから座りましょ」  こっちの返事を待たず、遠坂は給水塔の影に移動する。  なるほど。  あそこなら屋上に誰かが来ても見つからないし、風避けにもなる。 「じゃ、詳しい話を聞かせて。桜っていう後輩がどうしたのか、昨日なにがあったのかを」 「え―――あ、ああ。少し長くなるけど、いいか」 「なるべく手短にね。昼休み、そう長くないんだから」  ……っ。  場所が狭いとはいえ、こんな近くに座られるとますます緊張してしまう。  が、今はそんな場合じゃない。  せっかく遠坂が相談に乗ってくれるんだ、桜のことを話さないと。 「じゃ、じゃあ簡単に言うぞ。  間桐桜って子は後輩で、昔からの知り合いなんだ。  桜の兄貴は間桐慎二っていって、これまた長い付き合いだ。  ―――で、簡単に言うと、昨日の夜ほかのマスターと戦った。そのマスターが慎二だったんだ」 「!? 慎二がマスターだったって、本当!?」 「ああ。あいつの爺さん……間桐臓硯ってヤツも言ってたから間違いない。で、間桐の家はもともと魔術師の家系らしいんだが―――遠坂は、知ってたのか」 「……当然でしょう。わたしが知らなかったこの街の魔術師は貴方だけよ。けど、それは絶対にないって思ってた。だって、慎二は」 「魔術師じゃない。魔術使いとしての最低条件である魔術回路がないんだってな。間桐臓硯もそう言ってた。  ……けど、それはあくまで魔術師としての話だろう。  マスターになる条件は別だと思う。俺だって慎二と似たようなもんなんだ。この際、魔術師じゃないとマスターになれない、なんて考えは止めた方がいい」 「…………そう。で、慎二は? 倒したの、貴方」 「ああ。あいつのサーヴァント―――ライダーはセイバーにやられたよ。〈慎二の本〉《れいじゅ》も燃えちまって、あいつはマスターでなくなった。  ……けど、あいつは諦めてないと思う。それだけでも危なっかしいってのに、その、あいつの家には桜がいるんだ」 「臓硯に聞いたけど、魔術ってのは後継者にしか教えないんだろう。桜は何も知らされずに育てられた。だから慎二が何をしているかは知らない。  このまま知らずにいてくれれば、桜はマスター同士の戦いになんか巻き込まれないで済む」 「…………そうね。なのにどうして桜が危ないって思うのよ、貴方は」 「言っただろう、いまの慎二は不安定なんだ。あのままだと、一緒に住んでいる桜だって、ずっと無関係でいられるかわからない。  だから、その」 「桜を巻き込んでしまう可能性が出る前に決着をつけたい、って言うのね。―――それは正しいけど、貴方じゃ無理よ。柳洞寺の件もあるし、他の連中はどうもきな臭い。今回の聖杯戦争は、思ったより長引くわ」 「――――――――」  ……そうか。  一番いいのは慎二がマスターを諦めて戦いから降りる事だが、それは現実的じゃない。  となると、あとは桜本人を慎二から離しておくしかないのだが―――― 「なら後は一つだけでしょ。その桜って子を巻き込みたくないんなら、貴方が保護すればいいのよ」 「―――それは当然考えた。けど俺だってマスターだぞ。  家にいたら危険だし、慎二だって良く思わない。それに桜だって、今日から泊まれなんて言われたら嫌がるに決まってる」 「……ふう。ほんとう、鈍感なのね衛宮くんは」 「え?」 「なんでもないわ。―――とにかくダメもとで訊いてみなさい。慎二から桜を守るのも、貴方が他のマスターから桜を守るのも変わらないでしょ。  なら、自分で努力してどうにかなる方法を選ぶべきじゃないの? ……その、桜って子が貴方にとって大切な人間だって言うんならさ」 「――――――――」  遠坂の言葉は、なんというか直に効いた。  がつん、と頭を殴られたような感じ。 「―――そう、だな。確かに、それはそうだ。俺が勝手に桜の気持ちを気にする前に、桜本人に訊かなくちゃダメだった」 「そうよ。だいたいね、嫌いなヤツのとこに毎日ごはんを作りに行くかっていうの。貴方は桜に頼りにされてるんだから、もっと強気で桜を振り回しなさい」 「……? 俺、そんなコト言ったっけ? 桜がメシ作りに来てくれてるって」 「っ……! い、言ったわよ、一番始めに言った! ちゃんと言った、きっと言った、必ず言った! 言ったんだから細かいコトは気にしないのっ!」  一気にまくしたて、こっちの反論を打ち消す遠坂。 「………………」  まあ、いいけど。  こいつが学校では猫被ってたなんて、あの夜に嫌っていうほど思い知らされてたし。 「―――わかった。とにかくサンキュ、助かったよ遠坂。  俺一人じゃヘンに気を遣って、決めるのがもっと遅れていた」 「あら。妙に素直かと思ったら強気じゃない。結局一人でも結論は同じだったなんて、もしかしてのろけ?」  遠坂はにんまりと笑う。 「――――――――」  それは、その―――不意打ちの、笑顔だった。 「あ、いや、そういうワケじゃない、けど。明日も桜が落ち込んでたら、うちに泊めようって思うだろ、ふつう」 「へえー、顔を真っ赤にしちゃって、ほんと嘘がつけないんだ。衛宮くん、いつもすましてるけど中身は純情だったってオチ?」 「っ……! そ、そういうおまえこそ何者だっ! 優等生のクセに人をからかって楽しいのか!」 「失礼ね、相手ぐらい選んでるんだけど? わたし、からかって楽しい相手しか手を出さないもの」 「ほらほら。寒いんだからもっと場所詰めてよ。あんまり離れると風が冷たいじゃない」 「!!!!!! ばばばばばばばかかおまえこれ以上くっついたらすごいぞタイヘンだぞ、ケンカうってんなら買うからはなれろこの、このあくまっっっ!」  ぐっ、と背をエビ反りにして遠坂から顔を離す。  っ――――。  と、とにかくまずい。  ただでさえ近くて緊張してたのに、今のは、ある種致命的だった。  遠坂のコトを知って、こうして話をするようになって、憧れの相手は油断ならない知人になった。  ……それならそれで良かったっていうのに、今のはあんまりだ。  綺麗な髪も、整った顔立ちも、女らしいふくよかな体も、こんなに身近に迫られたら無視できない。  ―――ドクドクと脈打っていた心臓が、今ではバクバクと爆発している。  ……悔しいけど、遠坂はキレイだ。  〈本性〉《ほんにん》を知って、思っていたものとは違っていても、憧れであるコトには変わりがない。 「と、とにかく世話になった。俺からの話はこれだけだ。  あとは遠坂の話を聞く」 「え? わたしの話って、別にそんなのないわよ?」 「あれ? だって朝、なんか言ってなかったか?  ……いや、俺はどうかしてたんで聞かなかったけど、遠坂不機嫌そうだったじゃないか」 「ああ、あれね。あれはもういいわ。用件があったのは本当だけど、今はそんな気分じゃなくなったし。……正直、毒気が抜かれたわよ」 「??? 毒気が抜かれたって、なんのさ」 「だから、貴方のそうゆうところによ。  ……まあいいわ。物のついでだし、一ついい事を教えてあげる。  最近、町で原因不明の昏睡事件って起きてるでしょ?  アレはサーヴァントの仕業だけど、そいつのマスターは柳洞寺にいるわ」 「む。そういえばさっき、柳洞寺がどうだの言ってたな。  ……柳洞寺って、あの柳洞寺か?」 「ええ。厄介な相手だから手を出すのなら気をつけなさい。あいつら、命まではとってないけど無差別に人を襲ってるわ。日に日に強くなっていくから早目に潰したいんだけど、わたしのアーチャーは誰かさんにやられた傷が治ってないしね。  ま、どんなに魔力を蓄えたところで、一度に使える魔力の最大量なんてタカが知れてるし、しばらくは傍観するけど」 「――――――――」  ……柳洞寺にいるマスター、か。  遠坂、アーチャーがまだ不完全なのにマスターとして手を尽くしているんだな。 「さて。それじゃあ、衛宮くんはわたしから借り〈一〉《イチ》ね?  知らない情報を教えてもらったんだから」  にやり、と不敵に笑う優等生。  その不吉さは、カエルを前にしたヘビじみてイヤだ。 「な―――なんだよそれ、俺だって慎二のコト教えただろ。情報交換なら貸し借りなしだ」 「あら、慎二のコトは桜のコトで相殺でしょ? それともぉ、さっきのお礼はカタチだけだったのかしら」 「う――――」  こ、こいつ悪魔! ほんとに悪魔! みんな騙されるな、学校の平和は遠坂に狙われてるぞー! 「さーて、それじゃあ何を貰おうかな。魔術師同士の取引は等価交換ってのが基本よね」  くっ……そういえば、〈切嗣〉《オヤジ》もそんなコト言ってたような。 「むむむむむ」  じっと手を見る。  今の俺にある物といったら、それこそこんな物しかない。 「納得いった? 貴方には返すべき情報がないんだから、こうなったらセイバーの正――――」 「……仕方ない。遠坂、昼飯まだだろ。半分やる」  うぐいすパンを取り出して半分に割る。  ……まことに残念だが、誠意を見せるという事でお茶は缶ごと差し出した。 「え――――ちょっ、ちょっと衛宮くん」 「ほら、食べろよ。今からじゃ食堂も購買も終わってるだろうし、少ないけど腹の足しにはなるぞ」  遠坂の手にパンを置く。 「――――――――」  うぐいすパンが好みではないのか、遠坂は呆然と俺を見て、それから   「――――ありがと。じゃ、遠慮なくいただくわ」    と、ほんとに遠慮なくうぐいすパンを口にした。  放課後になって、校舎はとたんに静かになった。  生徒たちは部活組と帰宅組に別れ、教室に残ることなくそれぞれの帰路につく。そのさまは蜘蛛の子を散らすが如しだ。 「……よし。こっちも一足先に帰って準備しなくちゃな」    桜を泊まらせるにしても、心の準備が必要だ。  先に夕飯の買い出しを済ませ、桜が部活から帰ってきた後、折を見て切り出すべきだろう。 「―――さて。今日の夜は何にしたもんか」    スーパートヨエツを前に、腕を組んで考え込む。  桜を泊める、という事は桜と藤ねえを説得する、という事だ。  となると、献立は自然ふたりが喜ぶようなものにしなくてはならないのだが―――― 「……昨日も派手にやったからな……バイトもしばらく休むし、食い扶持も一人増えたし、あんまり余裕ないんだけど」  ま、今月は特例だ。  貯金だってあるし、生活費まで気にしだしたら聖杯戦争なんて出来たもんじゃない。  それに普段世話になっている分、こうゆうところで桜にお返ししなければ。 「よっ……と」  ビニールいっぱいの食材を手に、スーパートヨエツを後にする。  いささか買いすぎたきらいはあるが結果は上々。  上等な鱈も手に入ったし、いっそ今夜は鍋物にしてもいいのではなかろうか。 「よしよし、これで藤ねえ対策は万全――――?」  意気揚揚と帰還しかけた足が止まる。 「?」  なんか、くいくいと後ろから服を引っ張られてる。 「なにごと……?」  はて、と後ろに振り返る。  そこには。  銀色の髪をした、幼い少女の姿があった。 「な、ええ―――!?」  ザッ、と咄嗟に跳び退いた。  咄嗟に身構える俺と、にこやかにこちらを見つめる少女。 「……?」  少女からは殺気というか、敵意がまったく感じられない。  あまつさえ少女は、   「よかった。生きてたんだね、お兄ちゃん」    そんな、本当に嬉しそうな笑顔で俺を見た。 「な――――」  ……間違いない。この少女はバーサーカーのマスターだ。  あの夜、俺を一刀のもとに斬り伏せた怪物の主。  〈切嗣〉《オヤジ》が裏切った、聖杯戦争の発端を担った古い魔道の家系の少女。  その少女がどうしてこんな、日中の商店街でひょっこり現れたのか――――  ……言峰神父の話が生々しかったからだろう。俺にとって、この少女は見知らぬ他人ではなくなっていた。  だから知らず、   「――――イリ、ヤ?」 「――――え?」    それがどんな意味を持つのかも知らないまま、少女の名を口にしてしまっていた。 「あ―――いや、違った……!  イリヤス―――そう、イリヤスフィールだった……!  ま、間違えてごめんっ……!」  反射的に頭を下げる。  この子がバーサーカーのマスターだろうがアインツベルンの娘だろうが、そんな事は関係ない。  ただ、その。  今にも泣きそうな顔が、放っておけなかっただけ。 「……………………」 「あ―――いや、悪気はなかったんだ。ただその、つい、口にしちまったっていうか」 「………………名前、教えて」 「え?」 「お兄ちゃんの名前、教えて。わたしだけ知らないの、不公平」 「――――――――」  ああ、そう言えばそうだ。  イリヤスフィールはちゃんと名乗ったけど、俺はまだ自分の名前も口にしていない。 「俺は士郎。衛宮士郎っていう」 「エミヤシロ? 不思議な発音するんだね、お兄ちゃんは」 「違うぞ。今の発音だと『笑み〈社〉《やしろ》』じゃないか。衛宮が苗字で士郎が名前なんだ。言いにくかったら士郎ってだけ覚えてくれ」  少女の発音があまりにもキテレツだった為、ついつっこみを入れてしまった。 「――――――――」  ぴた、と鼻先に指を突きつけられ、少女はまたも目を白黒させる。 「――――」  しまった、と思ったところで遅い。  少女はまた、さっきのように泣きそうな顔になって、「……シロウ、シロウ、かあ―――うん、気に入ったわ。  単純だけど響きがキレイだし、シロウにあってるもの。  これならさっきのも許してあげる!」  問答無用で、俺の腕に抱きついてきた―――― 「ちょっ――――!? ままま待てイリヤスフィール、なにすんだよおまえ……!」 「ううん、さっきみたいにイリヤでいいよシロウ! わたしもシロウって言うんだから、これでおあいこだよね!」 「な―――いや、それは言いやすくて助かるんだけど、とにかく待て―――――!」  ぶんぶん、と腕を振り回すもイリヤはきゃーきゃーと喜ぶばかりだ。 「っ……!」  いかん、このままじゃご近所のおばさまたちから良からぬ噂を立てられかねない。 「くそ、何が目的だ……! こんなまっ昼間からやりあおうってハラか……!?」  だあー、と力ずくで引き剥がす。 「――――――――」  ……あ。  どうも、イリヤは見るからに不満そうだ。 「な、なんだよ。そんな顔してもダメだぞ。なんのつもりか知らないが、俺だってマスターだ。そう簡単にやられる訳には――――」  スーパーのビニール袋を手に、キッとイリヤを睨みつける。  ……だっていうのに、イリヤは不思議そうにこっちを見つめてくるだけだった。 「…………えっと、イリヤ?」 「うん、なにシロウ!」 「――――――――う」  なんか、この前とイメージ違うぞ。  ……いや、あの時だって笑っていたけど、笑顔の質が違うというか、その、もしかして本当に―――― 「……イリヤ。おまえ、戦いに来たんじゃないのか…?」 「なに? シロウはわたしに殺されたいの?」 「っ――――」  その視線だけで、正直背筋が総毛だった。  どんなに幼かろうと、この少女は最強のマスターだ。  無邪気に笑ったかと思えば、一転して冷酷なマスターの〈貌〉《かお》になる。 「……ふぅん。よくわかんないけど、シロウがそういうんならわたしはいいよ。予定がちょっと早まるだけだもん。セイバーといっしょにここで死ぬ?」 「っ……ふざけるな、そんなわけあるかっ。俺だって殺されるのは嫌だし、こんなところで戦うのもご免だ」 「でしょ? マスターはね、明るいうちは戦っちゃダメなんだよ。シロウもセイバーを連れていないし、わたしだってバーサーカーを連れてないでしょ?」 「……それは、そうだけど。じゃあ何しに来たんだよおまえ。俺に会ったのはただの偶然か?」 「偶然じゃないよ。セラの目を盗んで、わざわざシロウに会いに来てあげたんだから。コウエイに思ってよね」 「――――」  なんか、目眩がする。  冷酷なマスターになったかと思えば、すぐに無邪気な少女に戻ってしまう。  そのどちらがイリヤという少女のホントなのか、とてもじゃないが把握できない。 「……わかった。とにかく、イリヤは俺に会いに来た。  けど戦うつもりはない……これでいいのか?」 「うん。わたしはシロウとお話をしにきたの。今までずっと待ってたんだから、それぐらいいいでしょう?」 「――――――――」  何が“それぐらい”なのかわからないが、とにかく、イリヤは俺と話をしに来ただけらしい。 「それともシロウはわたしと話すのはイヤ? ……うん、シロウがイヤなら帰るよ。ほんとはイヤだけど、したくないコトさせたら嫌われちゃうから」  イリヤはまっすぐに俺の顔を見上げてくる。 「――――――――っ」  ……マスターとして、イリヤとこれ以上いるのは危険だ。セイバーがこの場にいたら全力でイリヤの申し出を拒否するだろう。 「――――――――」  ……けど、あんな顔をされたら放っておけない。  無謀で無策で無考だろうけど、ここは―――― 「いや、イリヤと話すのはイヤじゃない。ほんと言うと、俺もイリヤとは会って話がしたかった」 「やった、じゃああっちに行こっ! さっきね、ちっちゃな公園見つけたんだ――――!」  言うや否や、イリヤは舞うように走り出す。 「ほら、早く早く! 急がないとおいていっちゃうからね、シロウ――――!」 「――――ま、なるようになるよな」    観念してイリヤの後を追いかける。  イリヤは俺をシロウと呼んだんだ。  ならこっちもあの子を、マスターとしてではなく、一人の少女として向き合わないと。  公園には誰もいなかった。  砂場で遊ぶ子供もいなければ、ブランコに揺られている子供もいない。  それに寂しさを覚えながら、イリヤと一緒にベンチに座ってみたりする。  ……なんというか、傍目から見たらおかしな組み合わせだと思う。  イリヤは外国人だから兄妹に見えるわけでもないし、友達にしては年が離れすぎている。 「……と。話をしようって、なにを話せばいいんだよイリヤ。おまえから来たってコトは、何か訊きたいコトとかあったのか?」 「なんで? べつにわたし、シロウに訊きたいコトなんてないよ?」 「――――――――」  さて。  この理解不能のお嬢さんに、はたしてどうつっこむべきか。 「……イリヤ。話がしたいっていったのはおまえだよな。  なのになんで用件がないんだよ。用がないんなら来ないだろ、普通」 「え、そ、そうなの? ヨウがないとお話ってできないの……?」 「ああー……いや、そういう訳じゃない。今のは言い方が悪かった。用がなくても話はできる。むしろ用のない話って方がいいコトかもしれない。  ……けど、まいったな。俺はイリヤをよく知らないから、なにを話していいのか分からない。イリヤの好き嫌いが判らないからな。イリヤだってそうだろ? いきなり訊かれたくないコト訊かれたらイヤじゃないか?」 「う……うん、それはそうだけど……じゃあ何を訊けばいいのかな。シロウ、なに訊いても怒らない?」 「ああ、なんとか。俺のがお兄ちゃんなんだから、大人な対応を努力する」 「そっか。じゃあシロウ、わたしのこと好き?」 「ぶっ――――!」  な、ななななな何を言い出すんだこのコはーーー!? 「あ、嘘つきだっ。シロウ、怒らないって言ったのに怒った!」 「ばか、誰だって呆れるぞ今のは! おま、おまえな、人をぶった斬っておいて好きか嫌いかもないだろう!」 「なによ、あれは違うもん! シロウがよわっちいクセに飛び出してくるからじゃないっ! わ、わたしは悪くなんてないんだから!」 「悪くないワケあるかー! だいたい初めから殺る気まんまんだっただろうイリヤはっ! それがどうしてこう、突拍子もなく好き嫌いの話になるんだっての!」  びくり、と肩を震わせてイリヤは黙り込む。 「……あ」  ……しまった。  マスター同士ってコトは忘れるって決めたのに、いきなりポカやっちまった。 「……あー、イリヤ?」 「っ…………なるもん。なによ、シロウのバカ。わたしが止めてあげなくちゃ死んでたクセに、口だけは達者なんだから」  物騒なコトを言いつつも、イリヤは下を向いたまま肩を震わせている。 「…………はあ」  ……まあ、仕方ないよな。  マスターとしての話を持ち出したのはこっちだし、俺は年上な訳だし、イリヤは女の子な訳だし。 「――――こほん。あー、そのな、イリヤ」  よし、と覚悟を決めて口にする。  俺は――――   「―――済んだ事だし、もう気にしてないぞ。傷も治ったし、イリヤは見逃してくれたしな。  ……えっと、それでもイリヤが気にしてるなら、今後いっさい口にしない。それでいいかな」 「ぁ……うん。じゃあ、シロウは怒ってない……?」 「ああ。自分でもどうかと思うけど、怒ってない。  それより今は、もっとイリヤと話したい」  泣く一歩手前だった顔が、一転して笑顔になる。 「――――――――」  その顔を見て、こっちまで嬉しくなった。  今のイリヤには敵意がない。  なら無理にマスターである必要はない。  こうして捕まってしまった以上、イリヤが望むようにのんびり話でもするとしよう―――― 「―――知り合ったばかりでイリヤのコトはよく知らないけど、イリヤは嫌いじゃないぞ。少なくとも、今みたいなイリヤだったら仲良くなりたい」 「――――――ほんと?」 「あー、その、妹みたいで、楽しい。それと、あの夜の事は今後いっさい口にしない。……こんな約束しかできないけど、それで信じてもらえるか」 「―――うん!  シロウがそう言うんなら信じてあげる……!」  ばふ、とタックルの如く腕に抱きつくイリヤ。 「…………ったく。なんなんだ、おまえ」  文句を言いつつ、まあ、こういうのも悪くない、などと観念した。  今のイリヤには敵意がない。  なら抱きつかれたところで倒される訳でもなし、慌てるのは兄貴分として失格だ。  こうして捕まってしまった以上、イリヤが望むようにのんびり話でもするとしよう――――  イリヤとの話は、それこそ一時間ほど続いたと思う。  なんの意味もない話、ありきたりの出来事を、イリヤは喜んで聞いていた。  ……それが痛ましく思えてしまったのはいつからだろうか。  イリヤは、本当に無邪気な女の子だ。  そのイリヤがマスターである事、マスターである自分を躊躇わない事。  戦いに赴く自分に恐れを感じていない事が、ひどく、哀しい事だと思ってしまった。 「――――――――」  アインツベルンという魔道の家系。  千年の執念の果てに、最高のマスターとして送り出された幼い少女。  それがイリヤの目的なら、俺は、   「――――イリヤ。一つ訊くけど」 「ん、なに?」 「衛宮切嗣って名前に、聞き覚えはないか」    この問いだけは、口にしなければならなかった。 「――――――――」  時間が止まる。  それは今までの時間が消え去ってしまうほどの、無感情な沈黙だった。 「知らない。そんなヤツ、わたし知らない」  ……銀色の髪が揺れる。  イリヤはベンチから立ち上がり、くるり、とそれこそ妖精のように振り返る。 「そろそろ夕暮れだね。夜になったらバーサーカーが起きちゃうから、もう帰らないと」 「――――――――」  イリヤは無邪気な少女のまま、ばいばい、と別れを告げる。 「そっか。そうだな、俺もそろそろ帰らないと」  ベンチから立ち上がる。  休憩はここまでだ。  日が落ちたのなら、俺たちは敵として戦わなければならない。  だっていうのに、   「また会えるかな、イリヤ」    本当に自然に、そんな言葉を口にしていた。 「―――え、えっと、どうしよっかな。わたしはそうでもないんだけど、シロウは会いたい?」 「ああ。会いたくなきゃ言わないぞ、こんなの」 「…………! うん、じゃあ、明日も気が向いたら来てあげる。期待しないで待っててね」  公園の外へ駆けていく。  ……が。  白い少女は不意に足を止めて、   「さっきのはウソだよ。本当はね、知ってる人だった」 「イリヤ――――?」 「……そう、わたしが生まれた理由は聖杯戦争に勝つことだけど。〈イリヤ〉《わたし》の目的は、キリツグとシロウを殺す事なんだから」  去っていく足音。  それきりイリヤは振り返る事なく去っていき、  俺は―――その後姿を、最後まで見送っていた。 「ただいまー……って、あれ? 藤ねえのやつ、もう帰って来てやがんの」  靴を脱いで廊下にあがる。  まだ六時前だってのに、なんで弓道部顧問がこんなに早く帰宅してるんだろ。 「お帰りなさい、シロウ」 「……む、帰ってきたかひょうろく玉」  セイバーは行儀よく正座を、藤ねえは行儀悪くテーブルに顔を乗せ、それぞれ出迎えてくれた。 「――――――――」  藤ねえの目は、打ちひしがれた負け犬の目だった。  ……その原因は気になるが、まあ、例によってそう大したコトではあるまい。 「ただいま。遅くなったけど、何か変わった事はなかったかセイバー?」 「はい。これといって異状はありませんでした。そう言うシロウの方はどうでした。学校に見るべきものはありましたか?」 「いや、異状らしきものはなかったよ。慎二も来てなかったし、学校はいつも通りだ。とりあえず、見て回るべき対象から外していいとは思うんだが――――」  藤ねえの手前、微妙な言い回しでセイバーに“学校にマスターはいない”と報告する。 「……む、なんか匂う。この甘酸っぱくて雨上がり、給料日に隠したまま思い出せなくなった一万円のような気配は、間違いなく秘密の匂い」  くんくん、と鼻を鳴らすルーズドッグ。 「士郎から足枷の錆びた匂いがする。怪しい。怪しいぞ。  お姉ちゃんになんか隠してるのかにゃあ~?」 「うわあ」  信じられねえ。  なんか昼間っから出来上がってるよこの人。 「……セイバー。藤ねえとなんかあったのか。このトラをここまでダメにすんのは並大抵のコトじゃないぞ」 「え……いえ、私は何も。大河に元気がないのは空腹だからではないでしょうか」  的確に、かつさりげなく酷いコトを言うセイバー。 「うそだー! 大河の腕前が知りたい、なんていって人をボロボロにしたのはセイバーちゃんじゃないのよぅ!」  だんだん、とテーブルを叩く藤ねえ。  ……よっぽど悔しかったのか怖かったのか、藤ねえは抗議しつつ俺の背後にまわり、セイバーにブーイングを繰り出した。  あとセイバーさんからセイバーちゃんに変わっているのも謎。 「……セイバー。もしかして、藤ねえと手合わせしたのか?」 「あ……いえ、大河の時間が〈空〉《あ》いているのなら体を動かそう、と提案したのです。竹刀による模擬戦ならば大事は起きませんから、大河も承諾したのですがーーーー」 「騙されちゃダメよ士郎。セイバーちゃん、確実に殺る気だったわ。わたし判るもん。てっぽう知ってるもん。  あれは殺る気。もうぜぇ~たい殺る気。うう、隙を見せたらバターにされるぅ~」  ガタガタと震える藤ねえ。 「……セイバー。まさか、その、」  本気で、藤ねえと打ち合ってしまったのだろうか……? 「え……まあ、つい気を緩めてしまったというか。  シロウの帰りが遅い事への反感と、大河の技量が思いのほか高かったことで、咄嗟に反応してしまったというか――――」  ……うわあ、そりゃ怖い。  藤ねえだってこの若さで剣道五段っていう腕前だけど、セイバーとは質が違う。 「と、とにかく命が惜しかったら夜討ち朝駆けとか禁止禁止!  セイバーちゃんを襲ったりしたら地獄開幕、死して屍拾うものなしなんだからっ!」 「………………う」  ……そうだった。  俺にはまだそーゆー問題も残っていた。  同じ部屋で寝る、と言ってきかないセイバーをどうするか。  俺だって年頃の男なんだ、セイバーみたいな子と同じ部屋で寝るなんて――――正直困る。 「その心配は無用です大河。シロウの命令であれば、私は従うのみです。私からシロウに手を上げる事は、決して」 「むむむ? セイバーちゃん、なんかいまスゴイ微妙なこと言わなかった?」 「とりわけ何も。それより大河、今晩よりシロウと同室で眠りますが、どうか誤解なきようお願いします」 「――――――――」  ぴたり、と藤ねえの動きが停止する。 「………………」  あー、くるな。  この位置関係、三人の強さのバランスを考慮すると、間違いなくくる。 「藤ねえ。実は、昨日から秘密にしていたんだが」  背後の藤ねえに声をかける。 「よいしょっと」  うわ。人の言い分を完全に無視して、電話帳を重ねて台にするような物音が。 「よく聞いてくれ。  ――――セイバーは、日本語がわからない」 「せーの」  あ、やっぱり。  こう、背後から首をスリーパーされてる感じ。  いっておくと藤ねえは手加減を知らない人なので、首を絞められると本気で危な―――― 「って、そんな場合じゃねー! おい、ふ、藤ねえ、はいってる! きまってる、から、あう、本気で落ちる……!」  ぎしぎし。  藤ねえの返答はグラップル、骨と肉の軋みだけという豪気っぷり。 「うわ、ぎぶぎぶ……! やめろって、そこから投げにもってくのなしー!」  かすれていく意識のなか、かろうじて藤ねえの手にタップする。  が。 「ええい、うるさい落ちちゃえこのドラ息子っ! お姉ちゃんは士郎をそんなふうに育てた覚えなんかないんだからうわーん!!!!!」    ――――あ、落ちた。    ……ああもう……なんだってこう、次から次へと問題がやってくるんだよう……。 「――――ったく、酷い目にあった」  ゴキゴキと首を鳴らす。  ほぼ直角に落とされながら打ち身で済んだのは、日頃の鍛錬のおかげである。 「う、面目ない……。こう、ひねってからは手を離して受身可能にしようと思ったんだけど、士郎ったら思ったより重くて投げるだけで精一杯でさ」 「あったりまえだ、いつまでも子供じゃないぞ。藤ねえの細腕でジャーマンなんかやんなよな。下手したら藤ねえも自爆してたんだから」 「……はい、反省してます」 「セイバーもセイバーだ。同室っていっても隣の部屋だろ。厳密に言うと一緒の部屋じゃないぞ」 「う……ですが、私はシロウの身を守る為にですね」 「十分守ってもらえてる。……だいたいな、同じ部屋になんて寝られたらこっちが先にまいっちまう。セイバーには悪いけどアレが最大の譲歩だ。それ以上は徹底抗戦だからな」 「むう…………難しいものですね」 「二人とも判ったんならよし。……さて、んじゃ夕飯の支度でも始めるか」  首をぐるんぐるんならしながら立ち上がる。 「あ、そうだ藤ねえ。  今日から桜を泊めようと思うんだけど、どうかな。昨日セイバーに使ってもらった離れに」 「桜ちゃんを泊める? 別にいいけど、いきなりどんな心境の変化よ。士郎、ここんとこ妙にヘンよ?」 「……いや、その。桜、最近調子悪そうだし。慎二は家を空けてばっかりだから、しばらく周りに人がいた方がいいかなって」 「ふーん……まあいいけど、その旨は桜ちゃんに伝えてあるの? 部活の時、桜ちゃんいつも通りだったけど」 「いや、それはこれから―――って、藤ねえこそ部活どうしたんだよ。こんなに早く帰ってきて」 「ん? うん、ちょっと怪我人がでちゃってね。後は美綴さんに任せて、体調悪い子たちを家まで送って直帰したのよ」  ……そんなことがあったのか。  弓道部で怪我人、と聞くと物騒だが、本当に物騒なら藤ねえはここにはいまい。  突き指とか貧血とか、まあそのあたりのコトだろう。 「――――」  ともあれ、これはチャンスだ。  俺にとって桜が家族みたいなように、藤ねえも桜を家族だと思ってる。  なら――――      藤ねえに頼んでみるか。  年長者だし、藤ねえなら桜をうまく説得できるかもしれない。 「藤ねえ。さっきの話だけど、桜に泊まってもらうって話、藤ねえから言ってもらえないか?」 「なんで? やーよ、わたし馬に蹴られたくないもん。  そういうのは、言い出しっぺの士郎が言ってあげなさい」 「ば、そうしたいのは山々だけど、俺だと断られるだろ。  その、いくら見知った仲でも、男の俺に泊まっていけ、なんて言われたら桜だって困るだろうし。  ……いつもならそれでもいいけど、今回は失敗できない。桜にはしばらく、家で寝泊りしてほしいんだ」 「…………はあ。そうよね、今さら士郎の朴念仁は治らないか。  いいわ、桜ちゃんに伝えればいいんでしょ? 期間は一週間ぐらいでいいの?」 「ああ。それだけあれば周りも落ち着いていると思う」  ―――と。  タイミングよく玄関の呼び鈴が鳴った。 「お邪魔しまーす」  玄関から桜の声がする。 「じゃあ言ってくる。士郎は晩御飯の準備してなさい」  やる気なさそうに桜を出迎えに行く藤ねえ。  ……むむむ。  なんか、人選間違えただろうか……? 「桜ちゃん、オッケーだって。いま客間に案内したから、もうちょっとしたら来るわ」  事も無げに言って、テーブルに陣取る藤ねえ。 「え―――桜、簡単に承諾してくれたのか?」 「するに決まってるじゃない、士郎のにぶちん」  ミカンの皮を剥きながら、事も無げに返答された。 「――――――――」  うむ。  どんなやりとりがあったかは不明だが、藤ねえに頼んで正解だった。 「――――――――」  いや、これは大事なコトだ。  自分で決めたからには人任せには出来ないし、桜に伝えるのは俺でないと不誠実だと思う。  ……と。  タイミングよく玄関の呼び鈴が鳴った。 「お邪魔しまーす」  桜の声がする。  こういうのは早い方がいいし、さっそく桜に切り出そう。 「あ、先輩。お邪魔しますね、夕食の支度はこれからですか?」 「ああ、これからだ。今日は俺が一人でやるから桜はのんびりしてていいぞ。そのかわり藤ねえの相手でもしてやってくれ。セイバーに負かされて自信喪失してるんで、トランプか何かで追い討ちを頼む」 「あ、先輩ひどいんだ。藤村先生、今日タイヘンだったんですよ?」 「……あー、そんなコト言ってたな……じゃあ路線変更して、将棋あたりでなんとか」 「将棋ですね。はい、それなら藤村先生の独壇場です。  わたしじゃ飛車抜きのハンデもらってもこてんぱんだから、丁度いいと思います」  桜は上機嫌だ。  顔の腫れもひいているようだし、朝の暗い〈翳〉《かげ》りはまったくない。  うん、話を切り出すにはちょうどいい。 「で、桜。唐突だけど、今日からうちに泊まってけ」 「え――――泊まれって、先輩……?」 「しばらく間桐の家には帰るなってコトだ。期間は、そうだな……出来れば一週間ぐらいいてほしい。あ、藤ねえには許可とってあるからな」 「………………」  ……桜の顔がこわばる。  桜は俺の顔ではなく、心を探るように、静かな眼差しを向けてきた。 「――――――無理を言っているのはわかってる。けど、桜にはどうしても泊まって貰う。どう思われてもいいから、しばらく〈家〉《うち》で暮らしてくれ」 「――――――――」  桜は答えない。  じっと俺を見つめたまま、微かに唇をかみ締めた後、  「――――どうしてですか?」    静かに、そんな疑問を口にした。 「………………」  理由は言えない。  慎二がマスターだから、なんて死んでも言えないし、他の言葉は全て嘘になる。  生きてる以上、隠し事は必ずある。  俺だって男だし、桜と藤ねえに言えないコトなんて、それこそ山ほどある。  ……どんなに大切な相手でも、口に出来ない事はあるのだ。  だからこそ、嘘だけはつけなかった。  桜が大切な家族なら、言葉で偽るような真似はしちゃいけない。 「………………」  空気が冷めていく。  このまま永遠に続くかのような沈黙と、気まずそうに目を伏せる桜。  そんな桜にどう答えるべきか、出来の悪い頭で必死に考える。 「桜。理由は言わなくちゃダメか」  桜は答えない。  ただ、自分ではなく、まるで俺を案ずるような目をして、 「……わたしが心配だからですか?」  そう、はっきりと口にした。 「―――うん、桜が心配だ。だから、桜がここにいてくれると助かる」    ……長い黒髪が揺れる。  桜は俺の足りない答えに頷いて、  言葉ではなく、その笑顔で応えてくれた。    一際、甲高い響きがあった。  白刃は〈玲瓏〉《れいろう》たる月光を受け、光を散りばめながら転がり落ちていく。   「――――――――、ふ」    唇には血糊。  石段に膝をついた男は、闇に落ちていく自らの長刀に別れを告げた。    その長刀は、二度と拾い上げられる事はない。  陣羽織は血に塗れ、布地の〈雅〉《みやび》さと相まって壮絶な〈朱〉《あけ》の華となる。   「――――なんと。よもや、〈蛇蠍魔蠍〉《だかつまかつ》の類とは」    鮮血に染まった腹とは裏腹に、男の唇は〈白蝋〉《はくろう》である。  喉元よりせりあがる悪寒も既にない。  男―――佐々木小次郎の〈内臓〉《なかみ》は、もはや別のモノとして機能している。    山門は、静かだった。  門番たるサーヴァントも、  現れた影も、  ともに動くことはない。    ―――戦いは、既に終わっている。    石段をヒタヒタと登ってきた“何者か”に、山門を守るアサシンは敗れた。  刃を交える機会、敵を敵と認識する時間さえなかった。  もとより、現れた“何者か”は、次元の違うモノだったのだ。    〈門番〉《アサシン》の体が割れる。  胴を裂かれ、もはや長刀を持つ事もならないアサシンには自決さえ許されない。  ヒタヒタと歩く。  影は愛しそうに、或いは蔑むように、アサシンと呼ばれたサーヴァントの頬を撫でる。    裂かれた腹中より〈出〉《いず》る、蜘蛛の如き異形の〈腕〉《かいな》。  骨が絡む。  肉が裂ける。  五臓六腑、自分のモノであったモノが、まったく別の何者かの〈内臓〉《なかみ》に変わっていく感覚。   「ず―――!」  逆流する〈血堰〉《けっせき》を押し留める。  剣士は押し出されるモノを飲み下し、涼やかな唇のまま笑みを浮かべた。   「……よかろう、好きにするがいい。所詮は我が腹より這い出るもの、ろくな性根ではなかろうよ――――」    自決を許されず、その血肉を蝕まれてなお微笑む。  壮絶と言えば。  その笑みこそが、この異形の生誕を上回る凄絶さ。    そうして、ソレは召喚された。  偽りのサーヴァントを血肉とし、その〈臓腑〉《にくたい》よりこの世に現れたモノは、紛れもない“暗殺者”のサーヴァント。   「キ――――キキ、キキキキキ――――――――」    産声は蟲に似ている。  剣士の裡より漏れ出た蟲は、その苗床を貪り尽くす。    ケラケラと引き裂き、    ゲラゲラと噛み砕く。    その〈都度〉《つど》に黒虫は人のカタチを成し、空白の脳に人のチエが与えられる。    そうして半刻。  何もかも綺麗に啜り上げ、石段には跡形もなく、“暗殺者”は自らの誕生を祝福した。    見届けるは草陰で合唱する蟲の群と、〈浩々〉《こうこう》と輝く月輪のみ。  甲高い産声は溶けるように高みへ消えていく。              ――――〈吉〉《よ》くない月。      黒焦げの空に、白い〈髑髏〉《どくろ》が〈嗤〉《わら》っていた。  言うまでもない常識だが。  夕食が終わると、あとは風呂に入って寝るだけである。  何も問題はない。  こんなの、ほんっとーに当たり前すぎて何も問題なんかないのである。                       が。 「……あの、藤村先生。少し相談があるんですが」 「ん? なになに、いってみそ?」 「……あのですね。……その、…………」 「あ、そっか。着替えの問題があったわね。……んー、制服ならうちにあるかな。普段着はわたしのでいいならあげるよ。あ、それとも家に着替えとって来る?」 「……いえ、うちに帰ったら戻ってこれなくなりますから、出来れば帰りたくないんです。兄さんには、その」 「ん、それは大丈夫。さっきおうちに電話して、桜ちゃんのお爺さんに許可とったから。先生の家なら安心だ、ご指導よろしくお願いしますだって」 「そ、そうですか! ならホントにわたし、ここに泊まっていいんですね!」 「そだよ。で、着替えの話だけど、寝巻きはわたしのでいいよね。下着もわたしのでいいかな」 「あ……いえ、その……先生のだと、胸がきついと思うんですけど……」 「むっ。そっか、桜ちゃん胸おっきいもんねー。  ………………………………その肉をワケロ」 「きゃっーーーー! せ、先生なにするんですかー!」 「あははははは、じょうだんじょうだん。……けど困ったわね、さすがに桜ちゃんサイズの下着なんて持ってないし、桜ちゃんつけて寝る派?」 「え……あ、はい、いちおうは、その」 「だよねー、おっきい人はそういう人多いよねー。けど苦しくないの、と素朴な疑問を投げてみる」 「…………く、くるしいですけど、そういうときはですね……ごにょごにょごにょ」 「なるほどなるほど、若いっていいなー! んじゃ、明日の朝までにはうちの若いのに揃えさせておくから。そーゆーワケでぇ、桜ちゃんも遠慮なくお風呂はいってらっしゃい」 「…………」 「――――――――っ」  だ、だからそういう話を目の前ですんなってんだバカ藤ねえっ!  俺だって男だぞ、そんな話をされたら意識してないのに意識しちまって、桜をまともに見られなくなるじゃんかー! 「あれー? 士郎、顔赤いけどどうしたのかなー? なに、やっぱり桜ちゃんの話、気になる?」 「っ――――! ふ、ふん、なに言ってんだか。そっちの内緒話だろ。俺は聞こえてなんかないし、気になんかなってないっ」 「あれー、そうなんだ。じゃ、あたしからいいコト教えてあげる。桜ちゃん、Eの85なんだってさー。すごいよねー、去年から実に十三センチもおっきくなってるんだよ?  士郎もそのあたり気付いてたでしょ。最近、桜の体は柔らかそうだなー、とか、抱きしめたいなー、とか」 「ば――――!」 「ふ、藤村先生――――!  どうしてそうゆうコトするんですかーーーーー!」 「え? え? きゃーーーーーーー!?」  藤ねえは桜の逆襲にあって倒れた。  桜は顔を真っ赤にして、必死に藤ねえの口を押さえている。  ……桜。  藤ねえの言動を封じたい気持ちはわかるが、それでは生命活動をも封じかねないと気付いてくれ。 「は、はっ、はっ―――あー、びっくりした。桜ちゃん、見かけによらず武闘派なのね。いきなり息を止めにくるなんて先生びっくりよ」 「知りませんっ。藤村先生は少し反省してくださいっ」  ぷい、と藤ねえから離れる桜。  ――――と。  そうなると、必然こっちと顔を合わせることになる。 「あ」 「――――あ、いや。バスタオルは、風呂場にある」 「は、はいっ……! あの、それじゃ失礼しますね、先輩……!」  ばたたたー、とあわただしく廊下に向かう桜。 「あ――――」  いや、その突進だと、その、 「あ、う…………はな、ぶつけちゃいましたぁ……」  転ぶから気をつけろ、と注意したかったのだが。  結果は、こっちの予想を上回る柱への衝突だった。 「桜、大丈夫か!?」  というか、廊下に出ようとして柱にぶつかるほど慌ててたのか。 「はい、大丈夫です~。大丈夫なんで、お風呂入ってきます~」  ふらふらと廊下に消えていく桜。 「――――ふう」  桜が風呂に行ってくれて、ホッと一息つく。  ……なんというか、さっきのテンションで居間にいられたら、こっちが恥ずかしくて逃げ出しかねなかった。 「――――ふふん」 「……なんだよ。言いたい事あんならハッキリ言え、不良教師」 「べっつにー。ただ桜ちゃんもタイヘンだなって。顔を真っ赤にした士郎、いつもより意地っぱりで可愛いし。  そーゆー士郎の前だと、桜ちゃんもよけい恥ずかしかったんじゃないかなー」 「あ、赤くなんかなってないっ! あのな、桜は家族みたいなもんだぞ!? ずっと飯を作ってもらってきて、一緒に食べてきた後輩じゃんか! そ、そういう後輩に照れてたら先輩失格だ!」 「ふーん。じゃあ士郎は失格したくないんだ」 「あったりまえだ。桜は慎二の妹だぞ。友人の妹を預かってんだから、ちゃんと監督しないとダメだろう」 「え……? あ、そういう事かー。士郎、気がついてないだけかと思ったら、そんなコトまで気にしてたんだ」  これみよがしに溜息をつく藤ねえ。  なんか、すっごくよろしくない。 「前途多難ね。桜ちゃんもタイヘンだ」 「む? どこ行くんだよ藤ねえ」 「どこって、脱衣場。桜ちゃんに着替え用意してあげないと。士郎は離れの部屋の準備でもしてなさい。シーツとか、ちゃんと新しいの出してあげるのよ」  言いたい放題言って、藤ねえは居間から出ていく。 「……ふん。ちょっと客間の準備してくるから、セイバーはここにいてくれ」  こくん、と無言で頷くセイバーを残してこっちも居間を後にした。  ベッドメイクをして、客間の備品のチェックをする。  桜にはセイバーに使ってもらった部屋とは別の、長年使っていなかった客間を使ってもらう事にした。  こっちの方が桜向きだし、なにより鍵がかけられる。  ……その、桜だって女の子だし、鍵をかけられる部屋の方が安心できると思ったのだ。 「……別に藤ねえの言葉に踊らされたワケじゃないけど」  ぱんぱん、とシーツを広げる。  今まで使われなかったベッド。  今夜、ここに桜が横になるんだ、と思った瞬間、   “――――士郎もそのあたり気付いてたでしょ?”   「っ――――」  とんでもない邪念が頭によぎった。 「ば、ばか言うなっ。そんなコト、いまさら―――」    ……今更、言われるまでもなかった。  成長期になって、桜がどんどんキレイになっていくのを間近で見ていた。  それを我が事のように喜んで、同時に、決して意識しないように言い聞かせてきた。  桜は慎二の妹で、その、慎二がしたコトの後ろめたさから、俺の世話をしてくれるようになっただけなのだと。 「……あれからもう一年半か。別に、桜が気にする事でもないのに」    俺が弓道部を辞めるきっかけになった事故。  バイト先で肩を痛めて、火傷の跡がどうこうという話になって、まあ、いい機会だからと弓道部を退部した。  ……その後、たしか桜の方から怪我が治るまでお手伝いします、なんて言いだしたんだっけ。  あの頃はまだ幼さが残っていて、とにかく一生懸命な子だった。  うちの前で俺の帰りをずっと待っていて、顔を合わしたら合わしたでこれまたずっと黙り込んでしまって、手伝いをしたい、って一言が出るまで二時間もかかったぐらいだ。 「―――あの引っ込み思案な桜が、いまじゃ弓道部の期待の星だもんな。人間、変われば変わるもんだ」  実際、桜は明るくなった。  初めて会ったのは四年前だ。慎二と知り合って、あいつの家に遊びにいった時だったっけ。  桜は無口で、顔を髪で隠すクセがあった。  ……それは今でも残っているけど、当時の桜は本当に元気がなかった。いつも暗い目をして、ぼんやりと佇んでいるだけだったのだ。  それを思うと、今の桜を見るのは純粋に嬉しい。  元気のない顔で地面を見つめていた女の子が、楽しそうに笑っているだけでホッとする。           “そう思う事はないの? 桜の体は柔らかそうだなー、とか、抱きしめたいなー、とか” 「――――――――」  ……自分でもよく分からない。  少なくともつい最近まで、桜は純粋に後輩だった。  それが微妙に崩れ始めたのはつい最近だ。  ……変化はここ最近からなのか、気付かないだけでずっと前からそうだったのか。    ―――それとも。  気付く必要なんてないぐらい、身近な存在だったのか。 「……くそ。今まで平穏にやってきたってのに、どうして、こう」    桜が泊まるって事だけで胸がおかしくなるのか。  こんなんじゃ桜にも失礼だ。  さっさと部屋の掃除を済ませて、桜を部屋に案内しよう―――― 「あれ? セイバー、桜は?」 「さあ。こちらには来ていませんから、まだ入浴しているのではないですか?」 「……? 入浴中って、もう一時間は経ってるよな」  ……まあ、桜は風呂が長いのかもしれない。  俺とは違って洗うところも多そうだし、カラスの行水ってワケにもいかな―――― 「っ――ああもう止め止め……! ヘンな想像しない!」  頭をふってテーブルに陣取る。  で、じゃーとお茶を淹れて、ざーっと喉に流し込んだ。 「――――ふう」  妄想を振り払って一息つく。  ……と。 「シロウ。桜は目が悪いのですか?」  なんて、おかしなコトを言ってきた。 「? いや、別にそんなコトないけど。桜は視力いいぞ。  両目あわせて1.5はあるんじゃないかな」 「そうですか。頻繁に壁や柱に体をぶつけていますから、視力に問題があるのでは、と危惧してしまいました」 「あ、なるほど。……うん、その心配はありがたい。けど桜はいたって健康だよ。その、最近は疲れてるから危なっかしいだけで、普段は俺よりしっかりしてる」 「それならばいいのですが……仮にそうだとしても、入り口と壁を見まちがえるほど疲労が溜まっているのは問題です。〈私見〉《しけん》ですが、先ほどの衝突は疲れからではなく、純粋に目測を誤ったものと感じましたが」 「――――――――」  セイバーの意見はもっともだ。  いくら疲れてるからって、壁にぶつかるのはいきすぎだ。 「………………」  そう言えば、桜は何処だろう。  本当に風呂に入っているとしたら、やっぱり一時間は長すぎる。  ここは――――      ――――様子を見に行くべきだろう。    もしセイバーの言う通りなら、恥ずかしいとか言ってる場合じゃない。 「桜」  扉越しに声をかける。  脱衣場から返事はない。  いや、返事どころか人の気配さえしなかった。 「桜……? おーい、桜、はいってるかー?」  トントン、と扉をノックする。  ……ノックは段々と軽い音から重い音に、ドンドンと乱暴なものに変わっていった。 「桜……! おい、ちょっとでいいから返事しろ……!」  不安が確信に変わっていく。  ……なにか、まずい。  俺じゃ中に入れないし、こうなったら藤ねえかセイバーを連れてきて中の様子を見てもらうしか―――― 「え? あ、あれ、先輩? どうしたんですか、そんなに慌てて」 「さ、桜……!? ……あ、いや、なんでもない。少し時間がかかってるみたいだから、何かあったのかなって」 「時間……? おかしいな、わたしそんなに長く入ってましたか?」 「……?」  桜の声はなんとなくぼやけている。  力がないというか、ふわふわしているというか、寝て起きたばっかりというか。 「……桜。もしかしてとは思うんだけど」 「…………はい。その、気持ち良かったんで、ちょっと寝ちゃいました…………」 「は――――ばか、脅かすなよ、ほんと」  ずるずると廊下に膝をつく。 「……すみません。あの、すぐにあがりますね」 「そうしてくれ。……まったく、風呂で寝たりしたら風邪引くぞ」  ふう、と壁に背をあずける。  ……心配したのが馬鹿らしいが、とにかく、何もなくてよかった。  風呂に入って、一晩ぐっすり寝れば桜の体調も良くなるだろう。   「――――ごと?」    重いものが倒れる音。  それは間違いなく、扉の向こうから聞こえてきた。 「――――桜!?」  返事はない。  扉の向こうは、さっきと同じように気配というものがない。 「っ……! 入るぞ、桜!」  脱衣場に飛び込む。    そこには、力なく倒れた桜の姿があった。 「桜、桜……!」  倒れた体を抱き上げる。  指にふれる感触は柔らかで、驚くほど熱い。 「ぁ――――ん、っ――――」    意識がないのか、桜は苦しげに吐息をあげる。  手は肌に張り付いたモノを剥がしたがるように、胸の中心を掴んでいた。 「はっ………ぁ、ぁ――――」    苦しげに漏れる呼吸。  ……目の毒なんてもんじゃない。  抱き上げた体の柔らかさと、乱れた黒髪。  シャツ一枚という事もあいまって、桜は俺の知っている桜じゃなかった。  ぴったりと張り付いたシャツは胸の豊満さを強調していて、どうしても目が離せない。  はあ、と熱い吐息がもれる度に胸が上下し、白い首筋が露になる。 「――――――――」  どくん、と心臓が口元まで迫りあがる。 「ぁ…………っ、ん…………」    苦しげに酸素を求める唇に、クラクラする。  抱きあげた体は熱くて柔らかくて、とんでもなく魅力的に感じさえした。  ――――頭の中が真っ白になる。  腕に抱いているのは少女の体じゃなくて、十分すぎるほど成熟した女性のものだった。  それは、俺の知ってる桜じゃない。    なら―――このまま、目眩に任せて抱きしめてしまっても――― 「っ……! ええい、なにしてんだ俺は……!」  頭を振る。  今はそんな場合じゃない。  桜の熱は異常だ。風呂上りだっていってもここまで熱いのはおかしい。  なにより、その―――苦しげに胸を掻きむしる指が、ただの貧血じゃないと告げている。 「桜! おい、しっかりしろ桜……!」  耳元で怒鳴りあげる。 「ぁ――――ふ、ぁ…………」  ……額に張り付いていた髪が落ちる。  桜はゆっくりと目蓋を開けて、ぼんやりと、俺の顔を覗き込んだ。 「あれ、先輩……? どうして、いるんですか……?」 「馬鹿、どうしてじゃないだろっ……! 熱があるんならあるって言え!」 「え……? 熱って、わたし―――ですか?」 「おまえ以外に誰がいる……! いいから自分でおでこ触ってみろ、すごく熱いぞ!」 「え……けど、そんなに熱くないですよ、わたし?」  まだ寝ぼけているのか、桜はどこか夢うつつだ。 「いい、いいから大人しくしてろっ。すぐにベッドに連れてくから……!」 「きゃっ……!? 先輩、どうしたんですか……!?」 「部屋まで連れてく。いっとくけど暴れるなよ。俺だって、これ以上は自信がない」  桜を抱きかかえたまま廊下に出る。 「わっ……! せ、せせ先輩、わたし抱っこされてますか!?」  びっくりしたのか、桜は首っ玉に抱きついてくる。 「っ――――」  胸、胸にこう、とんでもなく弾力があるのが当たってるんだが今はとにかく無視するのみ……!  こうなったらスピードの勝負だ。  こっちの理性がどうにかなる前に、全速力で桜を客間まで運ばないと……! 「―――と。熱は三十七度ちょいか。……なんだ、思ったより低かったな」  体温計を振って、ベッドで横になる桜の顔を見る。 「……すみません……なんか、緊張してお風呂に入ったら、のぼせたみたいです」  桜は申し訳なさそうに顔を布団で隠す。 「―――まあ、ひいちまったもんは仕方がない。この程度の風邪なら薬飲んで一晩寝てれば治るから、今夜は大人しくしていること。  椅子の上に水を置いておくから、出来るだけ離れからは出ないようにな。外に出ると体を冷やすから」  念のため、もう一枚毛布をかけて電気を消す。 「じゃあな。明日の朝起こしに来るから、それまでゆっくりしてろ」  ぽんぽん、と桜の頭をたたいて扉に向かう。  ――――と。  くい、と後ろに引っ張られた。 「?」  振り返ると、服の袖が握られている。 「桜……? すまん、握られてると出られないんだが」 「え?」  言われて気がついたのか、桜はびっくりして手を離した。 「す、すみません先輩……! わた、わたし、熱でぼうっとしちゃってて、それで……!」  布団から飛び起きて、バタバタと弁解する桜。  その顔は、電気を消していてもわかるぐらい真っ赤だった。 「桜、もしかして怖いのか?」 「…………はい。知らないところで一人で眠るのは、怖くて」  長い髪が顔を隠して、桜の表情はわからない。  ……ただその横顔は、初めて見かけた時の、引っ込み思案な少女のものだった。 「―――そっか。初めて使う部屋で風邪っぴきってのも不安だよな」  床に腰を下ろす。  んで、背中はベッドに預けてしまう。  さすがに今の桜とは向き合えないんで、これで丁度いい。 「あ、あの、先輩……?」 「もうちょいここにいる。しばらくすれば桜も部屋に慣れるだろうし、桜が寝付いたら出ていくよ。  正直言うと桜が無理しないか心配だしな。あと三十分は監視してるから、おとなしく横になってろ」  振り向かず、片手をヒラヒラとあげて話しかける。 「―――はい。それじゃ、もうちょっとだけお付き合いくださいね、先輩」  ふわり、とそよ風が頬を撫でる。  桜が布団をかぶりなおした〈風圧〉《もの》だろう。  ……ま、これで桜が落ち着けるなら安いもんだ。  こんなの、いつも桜がしてくれてた事に比べたら利息にもならないし。 「――――――――」 「――――――――」  暗闇に秒針だけが響く。  背中を向けているからか、それともさっきの桜の横顔が効いたのか。  抱き上げた時にこみ上げた感情はなりを潜めて、今はただ静かに時計を眺める。    ……そうして、お互いが眠ってしまったかと思うぐらい沈黙が続いたあと。 「――――先輩、起きてます?」    穏やかな声が、静かな闇に点った。 「ん」  頷きだけで返答する。  それで満足だったのか、桜は静かに息を漏らして   「……はい。今日はありがとうございました」    ゆっくりと、穏やかな眠りに落ちていった。  ……だよな。  これでバッタリ桜の着替えシーンなんかに遭遇したら、向こう一年間、藤ねえに言いたい放題言われてしまう。 「―――じゃなくて、万が一にもそんな事になったら桜に悪すぎるっ」  うむ、ここは我慢強く座して待つべし。  実はもう上がっていて、脱衣場で髪を乾かしているのかもしれないしな。 「落ち着きませんね、シロウ」 「え? い、いや、そんな事はないんじゃないか? ミカン食べてるし、お茶だって飲んでるし」 「はあ。果物にもお茶にも手をつけず、しきりに時計を盗み見る事が、シロウの休憩だと言うのですね」 「う。いやその、腹一杯であんまり食欲ないから」 「そうですか。シロウがそう言うのなら私は構いませんが。あまり自分を縛るのもどうかと思います」  スッ、と上品にお茶を飲むセイバー。  ……ああもう、我ながら情けないっ。  あれから五分も経っていないのに、結局、桜が気になって気になって仕方がないっ。 「―――ああもう、藤ねえになに言われてもいい!  セイバー、ちょっとトイレ行って来る!」  意を決して立ち上がる。  と、瞬間。  廊下から、あわただしく藤ねえが飛び込んできた。 「藤ねえ……? なんだよ慌てて。桜の泊まる準備しててくれたんじゃないのか?」 「それはさっき終わったわ。それより士郎、桜ちゃんの看病お願い。わたし、家に戻って熱冷まし持ってくるから」 「!? 桜の看病って、なんかあったのか藤ねえ」 「そんなのこっちが訊きたいぐらいよ。脱衣場に入ったら桜ちゃんが倒れてて、熱を計ったら三十八度近くあったんだから」 「な―――倒れたって、藤ねえ、桜は……!?」 「いま客間に寝かせてきたわ。見たところただの風邪みたいだから、とりあえず安心しなさい。  けど無理は禁物よ。わたしは家に戻って色々持ってくるから、士郎は桜ちゃんについててあげること。それだけで桜ちゃんも元気がでるからね」  テキパキと指示をして、藤ねえは藤村邸に戻っていった。  血気盛んな若い衆を抱えている藤ねえの家は、病気や怪我に対して万全の備えがある。 「っ…………!」  動転している場合じゃない。  状況は判らないが、とにかく桜の容態を確認しないと……! 「―――と。熱は三十七度ちょいか。……なんだ、思ったより低かったな」  体温計を振って、ベッドで横になる桜の顔を見る。  あれから三十分。  藤ねえの言う通り事態は深刻なものではなく、桜が脱衣場で倒れていたのは軽い風邪と、長湯からきた立ち眩みだったようだ。 「……すみません……なんか、緊張してお風呂に入ったら、のぼせたみたいです」  桜は申し訳なさそうに顔を布団で隠す。 「まあ、ひいちまったもんは仕方がない。この程度の風邪なら薬飲んで一晩寝てれば治るから、今夜は大人しくしていること。  椅子の上に水を置いておくから、出来るだけ離れからは出ないようにな。外に出ると体を冷やすから」  念のため、もう一枚毛布をかけて電気を消す。 「じゃあな。明日の朝起こしに来るから、それまでゆっくりしてろ」  ぽんぽん、と桜の頭をたたいて扉に向かう。 「……はい。おやすみなさい、先輩」  申し訳なさそうな桜の声。  それにおやすみと言葉を返して、桜の客間を後にした。  屋敷の明かりが消える。  午後十一時を過ぎ、町は完全に眠りについた。 「―――では柳洞寺にマスターがいると?」 「遠坂の話じゃな。厄介な相手だから手は出すなと言ってたけど、町の昏睡事件はそいつの仕業らしい。……その真偽は定かじゃないけど、どっちみち確かめなくちゃいけないだろ」 「……そうですね。確かに柳洞寺に至る霊脈に作為的なものを感じます。あの山にマスターがいる事に間違いはないでしょう」 「? どうしたセイバー、乗り気じゃないのか? 昨日に比べてどこか覇気がないけど」 「―――はい。あの山はサーヴァントにとって鬼門です。  軽はずみな侵攻は避けたい」 「……む。じゃあ今夜は巡回に留めて、柳洞寺はもう少し情報を得てから探りを入れるか? 確かに、相手がどのサーヴァントのマスターかも知らないうちに攻め込むのは無謀だし」 「いえ、その必要はありません。柳洞寺に居を構えるようなマスターならば、おいそれと正体を明かさないでしょう。早々に決着をつけるのならば、正面から力で打ち破るのみです」  ……セイバーがそう言う以上は勝算があるんだろうし、柳洞寺のマスターが昏睡事件を起こしているのなら一日でも早く止めなくてはいけない。 「―――よし、柳洞寺に行こう。  けどセイバー、今回の目的はあくまで調査だからな。  相手のマスターの正体と、どのサーヴァントを連れているかが判ったら一旦退こう。……情けないが、俺にはセイバーの援護ができない。その分慎重にいきたいんだ」  バーサーカーの時のように、セイバーだけを傷つける事はできない。  俺がセイバーの力になれないのなら、違う方法でセイバーを守らないと。 「…………判りました。最終的な判断はシロウに委ねます。戦闘か退却かは貴方が決めてください」 「……む。それはそれで嬉しいんだが、怖いな。万一倒せる相手が出てきても、臆病風に吹かれて逃げだしかねないぞ、俺」 「なるほど。そういった場合も考えられますね。シロウは戦闘経験が少ないですから」 「ああ、そればっかりは事実だからな。自分から地雷原につっこむような真似は避けたいし、そういう時は注意してくれると助かる」 「はい。では、シロウが判断を誤った時は私から忠告を。  勿論、それではシロウの為になりませんから、シロウの判断が間違えていた場合、なんらかのペナルティを負ってもらう事にしましょうか」 「……む。何らかのペナルティって、具体的に言うとどんなさ」 「さあ、それを口にしてはつまらない。数少ない楽しみですから、私だけの秘密としましょう」  ……う。  藤ねえの影響なのか、セイバーにあるまじき冗談を聞いた気がする。  というか冗談でないと困る。 「しかしシロウ。私たちはともかく、桜は大丈夫なのですか? あの苦しみようは尋常ではありませんでしたが」 「ああ、俺もそう思ったんだけど、熱を計ってみたら大した事なかった。とりあえず一晩ゆっくり休んでもらって様子を見る」 「そうですか。では迷いなく戦いに赴けますね」  ああ、と頷いて離れに視線を投げる。  桜の部屋は離れの二階だ。  桜に気付かれないよう家を出て、何事もなかったように帰ってこないといけない。 「――――行くぞセイバー。ここからはマスターとしての時間だ。他の事は考えない」  セイバーと共に屋敷を出る。  月は高く、夜の闇はなお密度を増していく。    ――――風があるのか、上空の雲が速い。    白々とした月が見え隠れする中、俺たちはマスターの潜む敵地へと走り出した。  時計は午前二時を回っていた。  日頃から体を鍛えているとはいえ、さすがに柳洞寺までの往復はこたえる。 「……あ、そうだ。セイバー、先に部屋に戻っていてくれ」 「? 何処に行くのですシロウ。今夜はもう休むのではないのですか?」 「ん、ちょっとな。すぐに戻るから心配すんな。俺だって疲れてるし、早く休みたい」 「―――なるほど。桜の容態が気になるのですね」 「うっ。その、水を替えないとまずいだろ。……セイバーこそちゃんと隣の部屋で寝てくれよ。襖も閉めて、ちゃんとしてないとダメなんだからなっ」 「ああ、そうでしたね。同室でないのは不都合ですが、シロウが強情を張るのではやむを得ません。言われたとおり、隣の部屋で待機しましょう」  つーん、と如何にも不満そうな目をするセイバー。  ……ふん。  強情張ってるのはお互いさまじゃないか。 「…………」  自己嫌悪に苛まれながら自室に戻る。 「……午前三時……一時間も何やってたんだ、俺」  溜息をつく。  遅れた理由は一つだけだ。  その、桜は思いのほか寝苦しそうで、布団のかけ直しやら水の取り替えやらで時間を取ってしまった。  それだけの作業がとにかく苦しくて、手間取って、とんでも無く困難だったのだ。 「―――目隠しでもあればよかった」    それなら問題なかった筈だ。  ……いや、実際さっきまで目を瞑って作業をしていたから大差はないけど、目隠しなら誘惑に負けて目蓋を開けることもない。 「―――寝る。  こんな時はアレだ、寝ちまうにかぎる―――」  布団を頭から被って雑念を払う。 「――――――――」    とにかく目を瞑って頭の中を真っ白にする。  ……ほら。  体だって疲れてるんだし、こうすれば簡単に眠りにつくことが出来るはずだ――――    赤い。  夕暮れの街なみは、〈何か〉《・・》で塗りたくられたように赤かった。  張り紙のあるベンチのよう。  足につくもの、手につくもの全てが、ぬちゃりと音をたてている。        アスファルトの歩道を進む。  顔を上げると、ビルは一面の朱色に染まっている。  垂直の壁が、空から地面にささった巨大な釘のように見えた。  ……逃がさない、と。空から覗き込むように、赤い〈陽〉《め》が告げている。    自分だけが歩いている。  新都は静まりかえっている。  みな息を潜めて隠れているのか、それとも元から誰もいないのか。    ……それにしても痛い。  眼球を酷使させるほどの赤色に、目眩がする。  街は無人にすぎる。  何か、自分だけ気が付かないまま、大がかりな避難勧告でもあったのだろうか。  そう思うと、この赤色も合点がいくのだが。              家に帰ろう。      ―――が、待っている。    あれは、  遠坂か。  遠目でも、  判別できる。                    おぉい、遠坂。    無視された。  地面につくほどの長い髪をなびかせて歩いていく。  制服姿というコトは、学校に行くのだろう。    走って追いかける。  遠坂は気が付かない。  差は一向に縮まらない。  向こうは歩いていて、こっちは走っているのに、段々と遠のいていく。  ところで。    遠坂がものすごい大股で歩いている……訳はない。  少し息が弾むくらいに走っているのに、遠坂の方が速い。  長い髪は学校に入っていく。  ヒラヒラと舞う蝶のようだ。  ところで。    校庭にも人気はない。  無人、無人。  赤く染まる風景は、よくできた飴細工だ。  赤い陽射しが強くなれば、正体なく融解する。  ところで。    女の笑い声が聞こえた。  幼い少女がふたり、戯れているような微笑ましさ。  双子のようにうり二つの、美しい姉妹の幻影を見る。  扉を開けて教室へ。    ―――ところで。  俺はどうして、理由もなく、彼女を追ってきたのだろうか。    驚きも、嫌悪感もなかった。  二人は恋人同士のように抱き合っていて、性別の問題はうろんに思えた。  この赤い風景には、むしろ、彼女たちの方が正しいとさえ思う。  ただ、気になると言えば。  美綴の腕だけが、だらりと、死人のようにだらしがないという事だけ。    間違えた。  あれは抱擁ではない。  あれは捕食であろう。    〈蟷螂〉《かまきり》が、〈紋白蝶〉《もんしろちょう》を食べている。    ふらふらと吸い寄せられる。  美綴は蝋人形のようだ。生気が、一秒ごとに奪われている。  遠坂は温い瞳で笑っている。  遠坂が顔を、美綴の首筋に寄せる。  無抵抗の美綴が、白い喉を遠坂の前に晒していた。  そこに遠坂の唇、いや、歯が――――    びくん、と蝋人形の胸が跳ねる。  助けようと走るも、水中を進むようにもどかしい。  とても間に合わない。  遠坂が喉を鳴らして飲むのを、美綴の膝が砕けるのを見届ける。 「ふ……、ん―――」    指を舐める。  濡れた舌が指にまとわりつくのが艶めかしい。  あまりにも蠱惑的。  遠坂の周りの鈍い空気が、この体を包んで沈めていく。 「ふふふ……ん……」    遠坂は指を舐めたまま。  濡れた音が耳に滴る。 「よかった。来てくれたのね、衛宮君」    声は粘ついて、期待に満ちている。  ……あまりの目眩に、万華鏡の中にいるようだ。  手足ばかりか思考も麻痺していく。  ……ああ、ところで。  体の自由は、とっくに効かなくなっていた。 「どうしたの………? 私のことが怖い? 衛宮くん」    頷きも、否定も出来ない。  妖笑を浮かべる女は抗いがたく魅力的であり、捕り殺されそうで怖い。  女郎蜘蛛に弄ばれる羽虫。  逃げることも刃向かう事も〈巡〉《めぐ》るまい。 「美味しかったわ、綾子は」    それで、先ほどの秘め事はやはり捕食だったのだと頷いた。  それにしても。どうして、美綴だったのか。 「だって―――貴方を待つ間、我慢できなかったんだもの」    喜びに滲む笑い。  遠坂の両手が伸びる。  細くしなやかなそれは、どうしてか、体にぐるりぐるりとまとわりつくイメージがある。  遠坂の甘い香りが立ちこめ、肺の中まで支配される。   「ふふ……次は貴方の番よ――――」    抱きついてくる遠坂の肢体。  女の柔らかな体が、点滅する警告をかき消していく。    抱きつかれたまま、崩れ落ちてしまいそう。  唇が重なるほどに顔が近づく。その潤んだ瞳がゆらめき求めている。  窒息しそうなほどに濃い吐息。 「ん―――今度は衛宮くんを、食べてあげる」    遠坂の唇が触れている。  首筋に横から。  ……温かく、湿っている。  こんなに柔らかい感触に這われては、飴のように意識が溶ける。 「ん――――――」    ざく、と肌を破る鋭い牙。  遠坂が噛みついている。  美綴と同じように、この首にも彼女の牙が、    痛みはない。  蜘蛛は獲物を仕留める時、まず麻酔毒を打つという。  この麻酔もまた、恍惚をもたらした。吸い付いている唇の感触が、歯が、溶ける様に気持ちいい。    ……首筋が柔らかく溶けていく。  遠坂の口が一吸いするごとに、身体が飴細工に変わっていく。  体から中身を吸い出し、その代わりに体を溶かす蜜を注入される。  骨を、筋肉を、皮膚を柔らかくふやかしていく。    喉はもう溶けて、呻きしか漏れない。  首から下もどんどんと溶かされて、あり得ない感覚に騙されていく。  遠坂は首に吸い付いたまま、肩を震わせて飲んでいる。  本当に、赤い血を吸っているのが嬉しそうで――    交錯し重複する目眩の絨毯。  気がつけば呼吸は止まり、血液は吸い取られて自分まで回ってこない。  その代わりに、遠坂の甘く強い液体が、全身を浸している。   「あ……ん。おいしい……」    食いついたままで、聞こえるはずのない声が聞こえる。  声に溶かされた脳が痺れる。 「はぁ……ん……熱い……わね、衛宮くん、」    囁きながら、遠坂は俺を飲み干している。  中からポンプの様に汲み出されている。  代わりに染みこむ快感が体を溶かして、骨が抜かれていた。 「新鮮な血―――活きが良くって、ぴちぴちして―――」    限界だ。  無いものは無い。  血管は乾いており、これ以上一滴も搾り取る事が出来ないはず。 「もっと……まだ、足りない―――」    止まることなく飲み続ける。  吸い出すものもないはずなのに、遠坂はこくこくと喉を鳴らして飲む。  まるで生命そのものを、血液に両替するようだ。  なるほど。それでは、そう簡単には終わるまい。    終わりのない吸飲    紅く染まる教室の中で、彼女に何処までも吸い取られ続ける。  〈五体〉《りんかく》は溶けきり、彼女に吸い取られて無くなっていく。 「ん……素敵よ衛宮くん―――貴方なら、このまま全部貰ってあげる―――」    脳に響く女の声。  その声が囁くままに、赤く乾いて枯れていく。    ――――光が差し込む。  閉じた目蓋ごしに感じる光は、朝の到来を告げるものだ。  布団にもぐった体に寝返りをうたせて、陽光から顔を背ける。 「ん――――」  まだ眠気が残っている。  外の冷たさからいって、時刻は五時半頃だろう。 「――――――――」  昨夜は寝付くのが遅かった。  教会からセイバーと帰ってきて、セイバーを離れの部屋に押し込めてから床についたのが午前三時過ぎ。  ……実質二時間ほどしか睡眠時間がないのはどうかと思う。  それでなくとも昨日はドタバタして疲れたんだ。  今日ぐらいはあと三十分眠ってもバチは当たら――― 「――――あれ?」  いま、ぼんやりと何か見えた気がする。  布団の横。  つまり俺のすぐとなりに、控えめに言って信楽焼の狸ぐらいのものがドーンと鎮座していたような。 「…………………」  ……そういえば、心なしか人の気配がする。  じーっと誰かに見られていて落ち着かないというか、ええっと、つまり―――― 「セイバー…………っ!」 「はい。なんでしょうか、シロウ」 「な、なんで俺の部屋にいるんだおまえ、ちゃんと離れの部屋に案内しただろ昨日―――!?」  がばっと跳ね起きて布団から出よう―――として、起こすのは上半身だけにとどめた。  男にだって、その、寝起きは色々あるのだ。 「それなのですが、やはり問題があります。部屋には案内されましたが、あそこはシロウの部屋から離れすぎています。貴方の身を守るには、常に傍に控えているのが適切です」 「ちょっ、ちょっと待った、とりあえず離れろっ……!  いいから離れろ、頼むから離れろ、ええいもうセイバーが離れないんなら俺が離れるっ……!」  ごろんごろん、と布団を巻きつけたまま間合いを離す。 「?」  不思議そうに眺めるセイバー。  ―――ああもう、年頃の健康男子をなんだと思ってんだあいつっ。  ただでさえ近づかれると緊張するってのに、こんな朝っぱらから真横に正座なんてされたらショックで脳細胞が死ぬ。しかも不意打ち、フツーなら〈理性〉《だいいち》小隊が全滅するところだぞ、ほんと。 「シロウ。話の続きですが」 「う……続きって、部屋のことか?」 「はい。万全を期すため、私たちは同室で休むべきです。  この屋敷の結界は優秀ですが、あくまで警告を発するだけのもの。攻め込まれた場合、貴方を守る盾にはなりません」 「……………………」  セイバーの言い分はもっともなんだが、こっちの精神安定も考えて欲しい。  セイバーと同じ部屋で寝たりしたら、敵の襲来の前にこっちの精神が崩壊してしまう。  いや、そもそもセイバーといつも一緒にいられる訳はないんだから、そのあたりの距離感ってものを―――― 「――――あ」  って、忘れてた。  一緒も何も、今日から学校じゃないか……! 「シロウ? どうしました、突然顔を青くして。貴方がそのような顔をする時は、決まってよくない提案をすると把握していますが」 「――――――――」  鋭い。  さっきまでの忠義はどっかいって、セイバーは不信そうな瞳で牽制してくる。 「いや、その。言い忘れていた事があるんだが」  こっちも正座をして向き合う。  ……さて。  どうやって話せば、学校のことを納得してもらえるだろうかな、と。 「………………」 「………………」  背中越しの視線が痛い。  タトン、タトン、と豆腐を切るなか、行儀よく正座したセイバーは、    ずーっとあんな顔でこっちを見据えていたりする。 『今まで通り学校には行く』。  そう切り出した後、セイバーとの口論はずっと平行線だった。  セイバーは勿論反対。  マスターをひとりにするのは危険だ、という。  しかし、こっちにだって生活がある。  学校を休んだら藤ねえが不審がるし、ずっと家に篭っていたら外で何が起きているか判らない。  それに、セイバーと外に出るという事は、他のマスターを警戒させる事でもあるのだ。  一人で外の様子を見る、というのもそれなりに成果はありそうだし、なにより。 「マスター同士の戦いは人目を避けるんだろ。なら日中は安全だ。よほど人気のないところに出向かない限り、仕掛けられる事はない」  セイバーはそれでも安心できないと反論した。  ……正直、そこまで過保護にされるとカチンときちまって、こっちも意地になって“学校行く案”を主張し続けて、その結果がこれである。 「……………………」  セイバーの視線が痛いのは、言うまでもなくセイバーが怒っているからだ。  今日の教訓。  あいつは怒らせるとかなり根に持つ。しかも感情的になるんで手におえない。  つまり、今後は意地の張り合いにならないよう気をつけよう。 「……ったく。融通きかない頑固もの」 「なにか言いましたかシロウ」 「いや、独り言。この豆腐、硬くて」 「――――――――」  ……しかも地獄耳だし。冷戦したくないタイプだな、あれ。 「ん? あれ、もうそんな時間か」  呼び鈴のあと、玄関の開く音がする。  ついで、聞きなれた「お邪魔します」という桜の声。 「そっか。セイバーと長話してたもんだから、いつもより三十分ロスしたわけだ」  いやまあ、それでも朝食はほとんど出来ている。  セイバーが喜ぶようにパン食にしようかと思ったが、ご機嫌をうかがっているようで嫌なんで止めた。  日本人は米だ。  さっきから向けられてる視線の暴力に対抗して、郷に入れば郷に従えと無言の圧力をかけてやる。 「おはようございます先輩。今朝はもうやっつけちゃったんですか?」 「ああ、だいたい片付けた。おはよう桜。藤ねえもそろそろだろうから、盛り付け手伝ってくれ」 「はいっ。それじゃお手伝いしちゃいますね」  桜は居間に鞄を置いて、セイバーに挨拶をする。 「おはようございます、セイバーさん。昨日はよく眠れましたか?」 「はい。慣れない部屋でしたが、この屋敷には慣れていましたので問題はありません」  ……お、二人が話してる。  昨日はろくに話さなかったけど、一晩明けて桜も納得してくれたみたいだ。 「お待たせしました。先輩、どこから仕上げるんですか?」 「ん、大皿一枚と人数分の皿四枚。サラダは出来上がってるんで、適当に盛り付けてくれ」 「はい。うわ、今朝のサラダはジャーマンポテトですか?  朝から洋食風なんて凝ってますね先輩」  驚きながら、桜は大量に作ったジャーマンポテトを大皿に盛り付ける。  断っておくと、洋食風なのはサラダだけだ。  ……重ねて断っておくと、セイバーの迫力に負けたワケではない。単に少し〈日和〉《ひよ》っただけである。 「あ、なんかいい匂い。先輩、ちょっと味見いいですか?」 「いいけど熱いぞ。あと甘いかもしれない」 「?」  菜箸で炒めたジャガイモを摘む桜。 「んー……あ、ほんとに甘い。これ、たまねぎの甘さじゃないですよね?」  桜はぺろり、と唇をなめてレシピを思案する。 「――――――――」  その仕草に、なんでか、驚いた。  桜の味見なんて見慣れている筈なのに、その、こんだけ近いと妙に艶かしいというか。 「うん、美味しいです先輩! この味つけ気に入っちゃいましたー!」  よほど気に入ったのか、桜はご機嫌な体で大皿にポテトを移していく。  その仕草はいつもの桜だ。  さっき感じた驚きが薄れてくれて、ほっと胸を撫で下ろす。 「―――――桜」 「はい? なんですか先輩?」  桜はいつも通りだ。  昨日と何も変わらない。 「慎二は――――」  昨夜帰ってからどうだった、と聞きかけてやめた。  もし昨夜の件で慎二が俺を恨んでいるとすれば、桜が今ここに来ること自体許せないだろう。  慎二がマスターで、間桐の家が魔術師の家系だとしても、それは桜には関係のない話。  桜が争いごとに巻き込まれる事はない。  だがそれでも不安は残る。  何かの弾みで慎二が間桐家のこと、聖杯戦争のこと、マスター同士の戦いのことを桜にぶちまけてしまえば、その瞬間から桜も無関係ではいられなくなってしまう。  それだけは避けなければ。 「――――いや、なんでもない」 「はい。  ……それより先輩、今は兄さんに関わらないでください。  兄さん、昨日の夜からおかしいんです。気が立っているようだから、先輩にもおかしな事を言ってしまうかもしれない」 「――――――――」  桜には悟られないようにしなければならない。  ……それに、慎二がおかしい理由を俺は知っている。  昨夜の慎二は常軌を逸していた。  マスターでなくなり、祖父である間桐臓硯に罵倒されたんだ。  慎二の性格を考えれば、俺に対しての怒りは尋常なものではないだろう。 「――――――――く」  桜は何も知らない。  兄貴である慎二の事、間桐家の秘密を知らない。  なら―――あんな状態にある慎二と暮らす事は安全なのか。  慎二は諦めていない。  その凶行が、妹である桜に及ぶことだってあり得えないとは言い切れない。 「……あの、先輩? ごめんなさい、朝から迷惑かけてしまっているみたいで」 「――――ばか。迷惑なんて、そんなこと言うな」  ……迷惑をかけているとしたらこっちだ。  昨夜、慎二とやりあった時点でこれぐらい予想しておくべきだった。  桜が今まで通りに過ごせる方法。  今まで通りに笑顔でいられる方法を、きちんと考え出さないと――――  朝食は暗い雰囲気のまま終わった。  何かあったのか藤ねえは顔を出さず、桜は終始無言。  セイバーはもともと寡黙だし、俺だってお喋りな方じゃない。  朝食はすぐに済んでしまい、桜は朝練に出るため四十分ほど早く登校する。 「……あの。それじゃ失礼しますね、先輩」  無理に笑って、桜は靴を履く。 「ああ。部活、あんまり張り切るなよ。この前だって体調が悪いっていうのに無理しようとしただろ。朝練は適度に流して奥でお茶でも飲んでろ。美綴がなんか言ったらな、俺に貸し一でいいって言い返せ」 「――――はい。それなら主将も喜びます」  ガラガラ、と音をたてて玄関が開かれる。  桜はペコリとおじぎをして、玄関を後にし――――    豪快に、扉にぶつかった。 「さ、桜――――!?」 「あ、っ~~~~~」  うーん、と正面衝突した鼻を押さえる。 「だだ、大丈夫か桜!? 鼻血、出てないか!?」 「――――はい、だいじょうぶ、です。せんひゃいにはなぢなんてみられたら、しんじゃいます――――」  ふらふらと立ち上がる桜。  ……どうも、今の激突は桜の不注意……というわけじゃなさそうだ。 「……ほんとに体はいいのか桜。いまの、ぶつかったっていうより倒れたように見えたぞ。立ち眩みだったら、今日は」 「え……? おかしいな、そんなコトないんですよ? 今のはわたしの不注意で、その、恥ずかしいです」 「…………」 「それじゃ改めて、お先に失礼しますね先輩。藤村先生には、今朝も先輩のご飯は美味しかったってお伝えします」  こっちの心配を振り払うように、今度こそ桜は玄関を後にした。 「――――――――」  確かに元気はいいみたいだ。  もし疲れてるとしたら、それは体ではなく心の方だろう。 「……慎二の事もある。このまま放っておけないよな……」  そうは言うものの、明確な手段がない。  セイバーに相談する訳にはいかないし、桜に真相を打ち明ける事もできない。もちろん藤ねえは論外である。 「――――――――」  ……くそ。俺たちと同じように学校に通っていて、聖杯戦争にも通じているようなヤツがいれば相談する事が出来るんだが――― 「……はあ。そんな都合のいいヤツ、ひょこひょこ歩いてる筈ないよなぁ……」  石段を登る。  セイバーは既に武装していた。 「――――――――」 「――――――――」  お互い、敵の攻撃に備えて神経を張り詰めている。  山門に至る階段は長く、吹く風は山頂付近だというのに生温かい。  セイバー曰く、この山にはサーヴァントを拒む結界があるのだそうだ。  サーヴァントは山門以外から柳洞寺に入ろうとすれば魔力を削がれ、大きな痛手を負うという。  その為、柳洞寺への侵入経路はこの階段しかないのだが―――― 「……てっきり待ち伏せてると思ったんだが。サーヴァントの気配、しないよなセイバー」 「ありません。  この石段には私以外のサーヴァントは――――」  と、セイバーは足を止めて視線を下げる。 「セイバー……? 何かあったのか?」 「……いえ、私の気のせいでしょう。カタナらしき物が見えた気がしましたが、そのような物は何処にもない。  ―――この山門に守り手はいません。境内に向かいましょう」  セイバーは早足で石畳を上がっていく。 「?」  それに首をかしげながら、こっちも遅れずに走り始めた。    ……境内は静まり返っていた。  風が強い。  影が深い。  月は出ているというのに、周囲は恐ろしく暗い。 「――――――――」  頭上を仰ぐ。  月は確かに出ている。  月光はさえざえと白く、灯火のない境内を照らしている。  それでも、境内は影に沈んでいた。 「セイバー」 「ええ、様子がおかしい。ここまで踏み込んで反応がないなどあり得ません。それに―――これは、静かすぎる」 「……中を調べよう。柳洞寺は五十人近い大所帯なんだ。  こんなに静かなんて事があるもんか」  セイバーと共に寺の中へ進む。  ―――周囲に人影はない。  俺とセイバーは境内が無人なのを確認してから、寺の中へ侵入した。    ―――寺の人間は、その全てが眠っていた。  寝返り一つうたない。  触るどころか抱き上げようとしても反応はない。  五十人もの僧侶は、例外なく衰弱しきっていた。  起こしたところで目を覚ます者はおらず、穏やかな夢でも見ているのか、規則正しい呼吸だけを繰り返す。    その一団の中には、当然クラスメイトの姿もあった。  柳洞一成は生徒会室で時おり見せるような、のんびりとした寝顔のまま昏睡していた。 「――――――――」  板張りの廊下を早足で移動する。  ……セイバーが気配を感じたからだ。  セイバーが指差した方角は奥の本堂。  寺の中心部と言えるそこに、この惨状の〈原因〉《マスター》が潜んでいる。    お堂に踏み入る。  途端、目に付いたのは床に広がっていく赤い血だった。 「っ……!?」  お堂の中心が、赤く濡れている。  倒れ伏した男がいる。  胸を貫かれたのか、男は床に倒れたまま、板張りの床を赤く染めていた。  傷は致命傷であり、出血はとうに生命限界を超えている。  男は既に死んでいた。  それは見覚えのある人物であり、傍らに立ち尽くすモノの〈主〉《マスター》であったモノらしい。  そのサーヴァントは、奇怪な短刀を手にしたまま〈死体〉《マスター》を見下ろしている。 「っ……」  頭痛と、警告めいた胸騒ぎがした。  目の前の凄惨な光景に恐れた訳ではない。  アレは――――    あの短刀は、よくないモノだ。  セイバーは何も感じていないようだが、あの短刀にはよくない力が備わっているような―――― 「キャスター……!」  身構えるセイバー。  紫のローブのサーヴァント―――キャスターはぴくりとも反応しない。  それを好機と取ったのか、侮辱と取ったのか。  セイバーは微かに身を落とし、一息でキャスターへと踏み込もうと―――― 「だめだ、待てセイバー……!」 「シロウ……!? 何故止めるのです、今をおいてキャスターを討つ機会は――――」 「そうじゃない、あの短刀には触れるな……! アレは魔術破りだ。もしかすると、マスターとサーヴァントの契約だって断つかもしれない」 「では―――キャスターは、自らのマスターを」 「………………」  手にかけたかどうかは判らない。  ただ、キャスターが持つ短刀が、桁違いの解呪能力を持っている事だけは確かだ。 「キャスター―――貴様、主に手をかけたな……!!」  怒号と共にセイバーが突進する。  ……振り返るキャスター。  生気のない姿は英霊というより幽鬼そのものだ。  一閃する刃。  セイバーの剣はローブを裂き、キャスターは衣を裂かれながらも後方に跳んで躱す。 「―――セイ、バー……?  そう、止めを刺しに来たという訳ね。誰の筋書きだか知らないけど周到なこと」 「黙れ。主を裏切った者の言葉など聞きたくもない。自らの行いを恥じ、ここで裁かれるがいい」 「は―――私がマスターを殺した? 宗一郎様を私が?  ふ―――はは、あはははははははは! それは愉快ね、ええ、こんな事になるのなら本当にそうしてしまえばよかった……!」  血を吐くように笑う。  黒い魔術師は歪な短刀をローブに戻し、その片腕をセイバーへ突き出す。 「―――目障りよセイバー。主もろとも消え去りなさい」 「――――――――」  言葉を返すまでもない。  セイバーはキャスターを見据えたまま、躊躇うことなくその剣を振りかぶった。    ……キャスターが消滅していく。  セイバーとキャスターの戦いは戦闘と呼べるものではなかった。  キャスターの魔術は卓絶したものだったが、高い対魔力を持つセイバーには何一つ通用しなかった。  セイバーは繰り出される数多の魔術を無効化し、一撃でキャスターを下したのだ。 「キャスターは倒しました。マスター、指示を」 「え―――あ、ああ。……そうだな、これ以上ここにいても何もできない。病院……の前に言峰に連絡して後を任そう。昏睡してる人たちはそれで助けられる筈だ」  ……だが目の前の死体だけは助けられまい。  キャスターは消え、そのマスターはこうして屍をさらしている。  ……この人物の死は闇に葬られるだろう。  彼は今夜を限りに消息を絶ち、生死不明のまま、いつか人々の記憶から消えていくのだ。 「シロウ」 「……判ってる。マスターはあと四人もいるんだ。立ち止まっている余裕はない」 「賢明です。気持ちは解りますが、感傷は押し止めてください」  セイバーはお堂に背を向ける。 「――――――――」  せめて、倒れ伏した亡骸を記憶に留めて、セイバーの後に続く。   「――――え?」  と。  何か、いま。 「シロウ? どうしたのです、足を止めて」 「え……あ、いや。いま、なんか視線を感じたっていうか、誰かに見られてる気がしたっていうか……セイバーは感じなかったか?」 「いえ、何も感じませんでした。この周囲に人がいない事は確認した筈です。シロウの気のせいではないですか?」 「う……そう、かな。セイバーがそう言うんなら間違いない、か。うん、きっと俺の勘違いだ」 「では急ぎましょう。キャスターが倒れた今、昏睡していた人々も目を覚まします。私たちの姿を見られては面倒だ」  ……そうだな。  後味は悪いが、とにかくこれで町で起きていた昏睡事件はなくなったんだ。  今はそれだけで良しとするべきだろう。 「分かった。すぐに山を降りて言峰に連絡。あとは家に戻って、今夜は休もう」  満足げに頷いてセイバーはお堂を後にした。 「――――――――」  後ろ髪を引かれる感覚を振り払ってセイバーに続く。  ……静まり返ったお堂には、マスターだった男の亡骸だけが残っていた。    主演は立ち去った。  舞台に残されたものは物言わぬ屍のみ。  それを、  何かが、呑み込んでいた。  死体は残らない。  板張りの床は底なしの沼となって、ずぶずぶと、男の動かぬ身体と粘つく紅い染みを平らげていく。    それは男だけでなく、男に従ったモノさえ呑み込んだ。  サーヴァント―――キャスターを象っていた魂とも言えるものが、黒い影に落下していく。    それは正当な流れではない。  敗北し、消滅したサーヴァントの行き着く先は聖杯のみ。  その法則を妨げるというのなら、いかなモノと言えど自滅自虐は避けられまい。   「――――――――」  音もなく泣く。  ソレは苦しげに悶え、〈咽〉《むせ》び、〈暴〉《あば》かれながら、ようやく一人目を呑み込んだ。              ――――タリナイ    ヒタヒタと歩く。  声をあげる事もできないソレは、全身でそのイタミを表現する。              ――――タリナイ    それは言葉でもなければ感情でもない。  もとよりそんな機能は付属していない。              ――――タリナイ    だというのにソレは〈嘆〉《な》いた。  自らの存在。  自らが存在するという事に、いま、初めて気がついた“何か”のように。  学校が終わって、早々に家路につく。  今日から放課後の部活動もすべて禁止され、校門には多くの生徒たちの姿があった。  軽く見回してみたが、遠坂らしき影はない。  あいつのコトだから、とっくに間桐邸に向かったのだろう。 「先輩? 誰か探しているんですか?」 「ん? いや、単に学校を見てただけだよ。こんなふうに、生徒全員が下校するって珍しいだろ」 「そうですね。けど、そのおかげで今日は一緒に帰れます。帰りは商店街に寄っていきますか?」 「ん、晩飯のおかずを買って帰ろう。しばらく藤ねえは来れないらしいから、俺と桜とセイバーの三人分」  買い物のあと、回り道をして公園に寄る。  公園には誰もいない。  はしゃぎまわる子供たちの姿も、寒そうにコートを羽織った銀髪の少女もない。 「……公園、誰もいませんね。ここ、あんまり使われていないんですか?」 「最近はそうみたいだ。俺が子供の頃は日が落ちるまで誰かいたもんだけど、今は休みの日でもないかぎりこんなもんらしい」 「そうですか。なんだか淋しいですね」  そうだな、と頷いて空を見上げる。  夕暮れの空。  鳥の姿がない茜色は、小さな公園と同じように淋しげだった。 「戻るか。せっかくの休みだし、たまにはゆっくりしないとな」  公園を後にする。  桜は元気よく返事をして、弾む足取りで俺の後についてきた。  学校が終わって、早々に家路につく。  今日から放課後の部活動もすべて禁止され、校門には多くの生徒たちの姿があった。  軽く見回してみたが、遠坂らしき影はなかった。  あいつのコトだから、とっくに間桐邸に向かったのだろう。 「桜は―――見当たらないか」    部活がない以上、桜は〈衛宮〉《うち》邸に帰るしかない。  一緒に帰ろうと待ち合わせてもいなかったし、一足先に帰ったんだろう。  人気のない坂道を上っていく。  聖杯戦争が始まって既に六日。  町は少しずつ、見えない所から活気を失っているように思える。 「っ…………、と」  坂道を上りきった途端、頭がクラッとした。  貧血の類か、頭がサアーと冷えたような感覚。  耳元では、何かの共鳴音が響いている。 「――――なんだ、この音」  耳を塞いでも鼓膜に響き渡る。  錯覚じゃない。  正体不明の目眩と耳鳴りなんて、そんなものが二つも重なる筈がない。  重なるとしたら、それは偶然ではなく故意によるものだろう。 「まさか、家で何か……!?」  目眩を振り払って走り出す。  家にはセイバーがいる。  たとえ敵に襲撃されようと、セイバーがいる限り、易々と敵の思い通りにはならない筈だ……!  玄関にはセイバーの靴しかない。 「助かった、桜はまだ帰ってきてない――――!」  それなら気兼ねは要らない。  この異状が敵の襲撃によるものだとしても、俺とセイバーだけならなんとか対応できる……! 「セイバー、無事か……!?」  居間に駆け込む。  瞬間、    立っていられなくなって、床に跪いていた。 「な――――――――」  足が言うコトをきかない。  耳鳴りは鼓膜を揺らし、平衡感覚を奪っていく。  圧し掛かる吐き気と寒気。  それに潰されないよう、必死に腕で体を支えて    左手の刻印が、色を失っている事に気が付いた。 「――――――――」  認識が凍結する。  色褪せた令呪。  それが何を意味するのか認める前に、           「セイバーは始末したわ。これ以上、サーヴァントをあっちに取られるワケにはいかないから」    すぐ近くで、聞き覚えのある声がした。 「―――――――――」  目眩を堪えながら視線を上げる。 「ごめんねお兄ちゃん。もう少し遊んでいたかったけど、状況が変わっちゃった。恨むならわたしじゃなくて、不出来な聖杯を恨むのね」  耳鳴りが脳を侵す。  知覚できない筈の音波は、眼球の裏を埋め尽くす事で俺の視界を閉ざしていく。 「でも安心して、すぐには殺してあげないから。  お兄ちゃんはあいつ用の切り札だもの。体はここで壊しちゃうけど、心はわたしの〈人形〉《パペット》に入れ替えてあげるわ。  ……くす。そうなったらもう自分で動けなくなるけど、死ぬよりはいいよねお兄ちゃん?」    ――――音が全身を浸していく。    認識は固まったまま。  五感を封じられた闇の中でさえ、俺は、自分が終わった事に気が付けずにいた。  ―――町が眠りにつく。  時刻は午後十時を過ぎたばかりだというのに、夜の深さは丑三つ時のそれだった。  連続する昏睡事件の影響だろう。  夜の〈帳〉《とばり》が落ちた町には明かりがなく、外には人影さえ見られない。 「あの影を探し出し、調査する―――アーチャーのマスターも無茶を言ってくれますね」 「ああ。けどやるしかないだろ。セイバーは反対か?」 「……私の考えは朝に告げた通りです。  それでシロウ、何か手がかりはあるのですか。闇雲に町を巡回するのでは、逆に的にされかねない」  ……手がかり、か。  確証はないけど、それなら――――   「もう一度、柳洞寺に行ってみよう。  ……今にして思うと、あの時のキャスターはどこかヘンだった。あそこにはまだ何かある気がする」 「……そうですね。あの山には不吉な気配が満ちています。この町で最も霊的な手が加えられているのはあの土地ですから。あの影とは別に、一度調べてみる価値はある」 「なら決まりだ。さっそく行こう」  中庭から門へ向かう。  柳洞寺まで急いで一時間。行くのなら早い方がいいん、だけど―――― 「セイバー?」  セイバーは離れを見上げていた。  彼女の視線の先には、もう眠りについた桜の部屋がある。 「……シロウ。戦いに赴く前に話があります。その、朝の続きなのですが」 「? 朝って、桜のことか?」 「はい。桜は自責の念が強すぎる。起きてしまった事、犯してしまった間違いを、彼女は未来ではなく現在で償おうとするきらいがあります」  ……それは昨日の口ゲンカの事だろう。  セイバーは、桜は正しい事を言ったのだから気にする必要はないと言い、  桜は、それでも自分が悪かったとセイバーに謝りに行き、逆にセイバーに謝られた。  桜とセイバー。  二人の物の捉え方の違いを、セイバーは心配しているのか。 「……それは、どういう?」 「……桜は自分を責めすぎるのです。過ちを正す事より、悔いる事を強要している。だから汚名を返上しようとするのではなく、汚名を刻み付けようとしてしまう。良くも悪くも、彼女は自分を重くしている」  ……苦々しく語る。  それは桜ではなく、セイバー自身に対しての言葉のようにも思えた。 「……昨夜、私はそれを強く感じました。シロウと共にいる時の彼女が特別で、普段はもっと別のものではないのかと。桜は、貴方といる時だけ自責の念から解放されている」  だからそれが心配だ、と彼女は言った。  桜はもっと、自分ひとりでも胸を張れるようにならなければいけないと。 「……そうか。たしかに桜は内気すぎるからな。俺も気をつけてみる」  言われてみれば、年頃の女の子が家事手伝いばかりに奔走しているのはよくない。  桜は『ここにいたほうが楽しい』と言うけど、それでも外に遊びに行くぐらいはしないとダメだ。 「……ありがとうセイバー、桜を心配してくれて。  聖杯戦争に関係ない桜を気にかけてくれたのは、すごく嬉しい」 「……いえ。自責にかられる彼女の気持ちは私にもあったものです。ですから、他人事には思えなかったのでしょう」 「あ―――待てよセイバー、一緒に行こう」  肩を並べて門へ向かう。  静寂に支配された夜の中、桜を起こさないように外へ向かった。 「……昨日の公園、ぐらいかな。犯罪者は現場に戻るって言うし、もしかしたら――――」 「もう一度、あの影が現れると?  マスター。仮に、幸運にもあの影と遭遇したとしてどうするのです。その場で倒せれば良いのでしょうが、万が一とり逃した場合、あの影を見つけるのは更に困難になります。その方法では根本的な解決になっていないと思うのですが」 「う」  セイバーの言う通りだ。  俺たちはあの影の正体さえ掴めていない。  なら今は、あの影と偶然遭える事を期待するのではなく、あの影は何者で何処から来るのかを調べるべきだ。 「……なら柳洞寺、かな。今にして思うと、キャスターの様子はどこかヘンだった。あそこにはまだ何かある気がする」 「はい。あの山には不吉な気配が満ちています。この町で最も霊的な手が加えられているのはあの土地ですから。  あの影とは別に、一度調べてみる価値はある」 「なら決まりだ。さっそく行こう」  中庭から門へ向かう。  柳洞寺まで急いで一時間。行くのなら早い方がいいん、だけど―――― 「セイバー?」  セイバーは離れを見上げていた。  彼女の視線の先には、もう眠りについた桜の部屋がある。 「……シロウ。戦いに赴く前に話があります。その、朝の続きなのですが」 「? 朝って、桜のことか?」 「はい。桜は自責の念が強すぎる。起きてしまった事、犯してしまった間違いを、彼女は未来ではなく現在で償おうとするきらいがあります」  ……それは昨日の口ゲンカの事だろう。  セイバーは、桜は正しい事を言ったのだから気にする必要はないと言い、  桜は、それでも自分が悪かったとセイバーに謝りに行き、逆にセイバーに謝られた。  桜とセイバー。  二人の物の捉え方の違いを、セイバーは心配しているのか。 「……それは、どういう?」 「……桜は自分を責めすぎるのです。過ちを正す事より、悔いる事を強要している。だから汚名を返上しようとするのではなく、汚名を刻み付けようとしてしまう。良くも悪くも、彼女は自分を重くしている」  ……苦々しく語る。  それは桜ではなく、セイバー自身に対しての言葉のようにも思えた。 「……昨夜、私はそれを強く感じました。シロウと共にいる時の彼女が特別で、普段はもっと別のものではないのかと。桜は、貴方といる時だけ自責の念から解放されている」  だからそれが心配だ、と彼女は言った。  桜はもっと、自分ひとりでも胸を張れるようにならなければいけないと。 「……そうか。たしかに桜は内気すぎるからな。俺も気をつけてみる」  言われてみれば、年頃の女の子が家事手伝いばかりに奔走しているのはよくない。  桜は『ここにいたほうが楽しい』と言うけど、それでも外に遊びに行くぐらいはしないとダメだ。 「……ありがとうセイバー、桜を心配してくれて。  聖杯戦争に関係ない桜を気にかけてくれたのは、すごく嬉しい」 「……いえ。自責にかられる彼女の気持ちは私にもあったものです。ですから、他人事には思えなかったのでしょう」 「あ―――待てよセイバー、一緒に行こう」  肩を並べて門へ向かう。  静寂に支配された夜の中、桜を起こさないように外へ向かった。  ……間桐臓硯は、以前と変わらぬ姿で立っていた。  アーチャーに断たれた半身も健在だ。  死を待つだけだった老魔術師は、あの夜の出来事が幻だったかのように笑っている。  その〈理由〉《まじゅつ》は不明だが、本当にあの状態から持ち直したというのなら、それは治癒ではなく復元の域だ。  傷を治す、というレベルの話じゃない。  無くなった肉体、失われた肉体を元に戻す大魔術だ。  なら―――それは、不死身と呼ばれるものではないのか。 「さて。そのような棒切れ一本で何をしようというのかな、小僧」 「――――――――」 “強化”した警策を臓硯に向けたまま立ち尽くす。  臓硯に踏み込む為の前進も、セイバーを追いかける為の後退もできない。  ……臓硯が不死身だとしたら、確かに、こんな棒切れ一本でどうにかできる相手じゃない―――― 「ワシを仕留めるか、サーヴァントの後を追うか。どちらにせよ、足を動かさねば始まるまいて」  そう語る老魔術師の周囲には、キイキイと蠢くものがある。  いや、蠢いているのは臓硯の周りだけではない。  暗い影、月光を遮断する闇そのものが移動している。 「――――虫」  見えなくとも判る。  闇の正体は細かく、おぞましいほど密集した虫の群だ。  このお堂の四隅、壁という壁に、闇より黒いモノが敷き詰められている。  この空間は、ガサガサと壁を這う虫の音と、肉の腐った臭いで支配されていた。 「どうした、なにを躊躇う? 先日、ワシの腹を断ってくれたのはおぬしたちであろう。遠坂の小娘と組んで、ワシを始末する腹ではなかったのか?」  ……〈蟲遣い〉《ぞうけん》は明らかに愉しんでいる。  警策一本で、部屋中に集まった何万という虫を払う事などできない。  臓硯が号令を下せば、何をやっても虫の波に飲まれるだろう。  ―――いや、それとも。  全力で外に逃げ出せば窮地は脱せるかもしれない。  多いといっても所詮は虫だ。  そんな、秒単位で人間一人をどうにかできるとは思えない。 「よいぞ、ワシは幾らでも待とう。  セイバーの帰還を信じて待ち続けるか、その武器でワシを仕留めるか、それとも我が蟲どもを振り払い外に出るか。好きな死に方を選ぶがよい」  ……ふん。  どうしたってここから逃がす気はないらしい。  ここで睨み合っていても、周りの虫が増えていくだけだ。  なら――――   「――――――――」  ……いや。  それでも下手に動く事はできない。  セイバーは心配だ。今すぐにでも駆けつけて無事を確かめたい。  だが、その為には臓硯に背を向ける事になる。  増えていく虫より、その行為こそが致命的だ。    ―――そこで身を守っていてください、シロウ。    セイバーはそう言った。  ならギリギリまで、俺はここで持ち堪えるだけだ。 「―――ほう。なるほどなるほど、よい信頼関係を持ったものじゃ」  ……臓硯の言葉には惑わされない。  警策をしっかりと握り直し、いつ仕掛けられても対応できるように神経を集中する。 「よかろう。では根競べじゃ。おぬしの判断が正しかったかどうか、答えを待つがよい」  臓硯から殺気が消える。  老魔術師は一歩後退し、虫たちの闇に溶けるように薄れていった。 「――――――――」  消えかけた気配。  目前にいるであろう〈蟲遣い〉《ぞうけん》を睨む。  …………。  …………………。  ……………………………。  ………………………………………。  ……………………………………そうして、一分の後。 「え―――――――?」  遠くで風鳴りが聞こえた後、じくり、と左手が痛んだ。  左手の甲が痺れる。  血を流すように、令呪が痛んでいた。 「セイバー……?」    嫌な予感がする。  嫌な予感がする。  嫌な予感がする。  左手の痛み。  止まった風鳴り。  気配―――目に見えるほどの殺気を伴って笑う、蟲遣いの老魔術師。 「どうやら片付いたようじゃな。おぬしもマスターならば判ろう? 己がサーヴァントが、この世から消滅した事実がな!」 「――――――――」  思考が止まる。  視界が凍る。    コイツは――――一体、何を言ってやがるのか。 「何を呆けておる。セイバーは死んだ。格下と侮ったアサシンに敗れた。そんな事も判らぬのか小僧?」 「な――――――――に、を」  馬鹿な事を言っているのか。  左手は痛い。  確かに左手は痛い。  だが令呪は消えていない。  今にも消えそうに、段々と薄れていっているがまだ消えていない。    なら――――セイバーならきっと、今すぐにでもここにやってくる筈だ――――! 「セイバー、来い……!」  左手の痛みをかき消すように叫ぶ。  ありったけの魔力を左手に注ぎ込む。  令呪の使い方など知らない。  ただ、これがマスターの願いに応えるというのであらば、今すぐここにセイバーを―――― 「くっ――――!」  反応がない。  令呪は一度、確かに起動しようとしたのに止まってしまった。  令呪に問題はない。  問題があるとしたら、それは令呪に応えるべきセイバーが、既に―――― 「無駄な事を。令呪と言えど、失われたサーヴァントを蘇らせる事は出来ぬ。  さて、巡りの悪いおぬしでも理解できたろう? セイバーはとうに、我がサーヴァントによって死に絶えたわ」 「寝、言――――」   「では終いにするか。遠坂の小娘はまだ使い道があるがな、おまえはこれで用済みよ、小僧。セイバーともども、我が聖地で死に絶えるが良い」   「――――言ってんじゃねえぞ、テメェ――――!」  走った。  左手の痛み、嫌な予感を振り切ろうと、ただ目の前の敵へと走った。  時間が経てば経つほど不利になるのは明白だ。  なら、自分の体が自由に動くうちにこの窮地から脱出する。  壁という壁に敷き詰められた虫が、そのまま床を埋め尽くして俺の体に這い上がってくる前に、目前の老魔術師を斬り伏せる――――!  手応えはなかった。  袈裟斬りにされた塊は、トマトのように容易く両断され、お堂の床に落ちる。 「ほ――――! なるほどなるほど、思い切りのよい小僧ではないか!」  床に落ちた老魔術師の欠片が笑う。 「――――、っ…………!」  警策が音を立てて崩れていく。  ―――やられた。  あの妖怪爺、体と引き換えに強化した警策を腐らせやがった……! 「詰めじゃな。血気にはやって唯一の武器を失うとは、いやはや、若い者は我慢が足らんのう」 「…………!」  走る。  ブチブチと虫を踏み潰しながら走る。  背中に圧し掛かる死の気配、  ぞわぞわと波立って襲い掛かってくる虫の群から逃れようと、  お堂の外、黒い壁へ肩口から体当たりする……! 「っ、出れた……!」  勢いを殺せず、転がりながら外に落ちる。 「は、あ……!」  虫どもは追ってこない。  無我夢中で走った為か、境内とは反対の場所に出てしまった。 「痛っ……」  建物から落ちた時に打ったのか、体中が痛む。 「それがどうした、そんな事より今は――――」  一刻も早く、セイバーの下に行かないと。  厭な予感がする。  すぐにでもセイバーの顔を見ないと、不安で不安で仕方がな―――― 「――――!」  水面がざわめく。  危険を察して後ろに跳び退く。  水気に満ちた土から足を離す。 「っ……!?」  だが、後ろに跳べたのは一瞬だけだ。  ―――鈍い痛み。  何か、踵に異状を感じて視線を落とす。 「な――――」  真っ赤だった。  地面を踏んで飛んだ時に、靴が脱げたように両足 が――――。 「……さっきの、アレか」  お堂から脱出する時、数え切れぬ虫を踏み潰した。  ……臓硯の体を断っただけで、強化した警策が腐り落ちたのだ。  ならあの虫どもを踏み潰した足だって、同じ運命を辿るに決まっている。 「つ、ぐ……!」  這いつくばったまま、両腕だけでぬかるみから出ようと試みる。 「呵々。いやいや、惜しいのう小僧。判断自体は間違えていなかったのだが、実力が〈伴〉《ともな》わなんだ」  蟲使いの声が響く。  ―――ぬかるんだ地面。  古来、〈水気〉《すいき》には蜘蛛が宿る。 「―――さて、セイバーは手に入れた。  残念よの、おぬしを生かす最後の理由も、これで消えてしもうたわ」  バラバラと、見たこともない蟲が落ちてくる。  皮膚に食らいつき、肉に潜り込み、骨を溶かしていく何百もの毒。    ―――その、地獄以上の苦痛と悪寒に、意識が途絶えるまで耐えなければならなかった。    ……令呪を、使ってみるか……?    セイバーがアサシンに負けるとは思えない。  だがこの状況は不吉すぎる。  相手はこの妖怪爺だ、セイバーを一人にさせるのは危険すぎる。 「ほう? 不出来な殺気を上手にたたみおったな。ふむ、なにやら考えがあるようだが」  嘲笑は、完全に俺を侮ったものだ。  俺がどんな策を巡らせようと構わない、所詮は子供騙しと見下す笑い。 「――――――――」  ……いい、勝手に嘲笑っていろ。  令呪がマ〈スタ〉《おれ》ーの望みに応えてくれるのなら、一つだけじゃなく全部使っても、セイバーをここに呼び戻してやる……! 「セイバー――――」  目前の〈臓硯〉《やみ》を見据えたまま、左手に意識を集中する。  命令はただ一つ。  セイバーを今すぐ、俺の前に呼び寄せる事―――! 「ぬ…………!?」  気付いても遅い。  左手には熱がともり、凝縮された魔力はマスターの願い通り解放され、    僅かな痛みと共に、その色を無くしていった。 「え――――?」  ―――失敗した、と思いたかった。  俺は令呪の使い方を知らないから、使い方を間違えたのだと思いたかった。 「……ふう。どうやら事は済んだようじゃの。脅かしおって、寿命が十年ほど縮んだぞ?」  耳障りな笑い声。  ……遠くでは、断末魔のような風鳴りがしている。  じくり、と左手が痛んだ。  左手の甲が痺れる。  令呪は血を流すように、急速に〈熱〉《いろ》を失っていく。 「そんな―――――馬鹿な」    嫌な予感がする。  嫌な予感がする。  嫌な予感がする。  左手の痛み。  止まった風鳴り。  気配―――目に見えるほどの殺気を伴って笑う、蟲遣いの老魔術師。 「いや、紛れもない現実よ。おぬしもマスターならば判ろう? 己がサーヴァントが、この世から消滅した事実がな!」 「――――――――」  思考が止まる。  視界が凍る。    コイツは――――一体、何を言ってやがるのか。 「何を呆けておる。セイバーは死んだ。格下と侮ったアサシンに敗れた。そんな事も判らぬのか小僧?」 「な――――――――に、を」  馬鹿な事を言っているのか。  左手は痛い。  確かに左手は痛い。  だが令呪は消えていない。  今にも消えそうに、段々と薄れていっているがまだ消えていない。    なら――――セイバーならきっと、今すぐにでもここにやってくる筈だ――――! 「寝、言――――」   「では終いにするか。遠坂の小娘はまだ使い道があるがな、おまえはこれで用済みよ、小僧。セイバーともども、我が聖地で死に絶えるがよい」   「――――言ってんじゃねえぞ、テメェ――――!」  走った。  左手の痛み、嫌な予感を振り切ろうと、ただ目の前の敵へと走った。 「っ――――、は!」  臓硯へ踏み込み、全力で警策を振り下ろす。  脳天から股下、縦一文字に叩き下ろした一撃は、    何かに阻まれ、間髪いれず、俺は体ごと弾き飛ばされていた。 「ぁ――――、っ――――!」  壁に叩きつけられ、背中を強打する。  腹を殴られたのか呼吸ができない。  叩きつけられた背中は、火で〈炙〉《あぶ》られたように痺れている。  耳元には虫の音。  壁に張り付いていた虫たちは、弾かれた俺に潰されないようにと離れていった。  ……その、ガサガサという音さえ、俺を間抜けと嘲笑っている。 「間に合ったかアサシン。では小僧の始末もおぬしに任せよう。セイバーに比べれば楽な作業、ゆるりと愉しむがいい」  臓硯の姿が消える。  その後、老魔術師が佇んでいた闇に、    白い、髑髏の面が笑っていた。  ……アレが、アサシンのサーヴァント。  白い面を被った、間桐臓硯に相応しい黒衣の暗殺者。 「――――――――」  殺される。  左手の痛み。  麻痺した思考。  直後の死を認めた心臓が、一際高く動悸し。  眉間と喉、心臓と腹部へと放たれる凶器を、なす術もなく受け入れた。  放たれた凶器を弾く銀の光。  俺の命を奪おうとした四つの短剣は、悉く同じ剣によって防がれていた。 「――――」  そんな事をするのは一人しかいない。  左手はまだ痛む。  令呪はまだ消えていない。  なら―――― 「セイバー……!」 「馬鹿め、しくじりおったのか……!?」  顔をあげる。  目の前―――俺を白い髑髏のサーヴァントから守るように現れたその姿は、   「え……?」 「ぬ……?」    アサシンと同じ、黒衣に身を包んだサーヴァントだった。 「ライ、ダー……?」 「――――――――」  間違いない。  こいつは慎二のサーヴァント、ライダーだ。  それがどうしてこんな所にいて、俺を助けてくれたのか―――― 「おのれ、ワシに逆らうか……! ええい、かまわぬわアサシン! 邪魔をするのならそやつも始末せい!」  臓硯の叫びに髑髏が応える。  たなびく長髪。  ライダーは無言でアサシンへと向き直り、  その、雨のように撃ち出される短剣に向かっていった。            ―――短剣は、肉眼で追えるものではなかった。  髑髏の面はお堂狭しと跳ね回る。  壁にいたかと思えば天井に張り付き、天井から床に張り付いて短剣を連射する。  前後左右、絶え間なく放たれる短剣は防ぐ事も躱す事も許されないだろう。  矢継ぎ早に繰り出される短剣は、瞬く間に床を串刺しにしていく。  ライダーに対処できるものではない。  セイバーとの戦いでライダーの実力は判っている。  セイバーでさえ防ぎきれるか、というアサシンの猛攻だ。  セイバーに一撃で倒されたライダーに太刀打ちできる道理はない。    白い髑髏は容赦なく己が凶器を掃射する。    ―――それは。  どこか、苛立ちを含んだ猛攻に見えた。 「――――な」    異常に気付いたのは、既に優劣が確定した後だった。  ……当たっていない。  闇に撃たれた幾条もの短剣は、一本たりともライダーには当たっていない。 「キ、サマ――――」  天井から声が漏れる。  短剣が尽きたのか、アサシンは憎々しげに眼下の敵を見据える。  そこに、              ――――一匹の、巨大な蛇がいた。 「――――――――」  ……信じられない。  あれだけの数。  あれだけの短剣を、ライダーは全て速度だけで躱しきった。  俺を助けた時とは違う。  自分ひとりなら弾く必要などないと、ライダーは地に這ったままアサシンの猛攻を躱したのか。 「何を遊んでおるアサシン……! 我が孫のサーヴァントと言えど容赦は要らぬ、早々に片付けんか……!」 「ソレハデキナイ―――コヤツ、以前トハ違ウ」  天井に張り付いたまま、アサシンはライダーを凝視する。  今のライダーは以前のライダーとは違う。  その体に秘められた魔力も、敵を威圧する迫力も段違いだ。  セイバーには届かないにしても、これなら―――ライダーは、確実にアサシンを上回っている。 「ク――――キサマ、何故」 「――――――――」  ライダーは答えない。  ただ、その体が一際深く沈んだ。  それが獲物を狙う猛獣の仕草なのだと読み取った時、 天井へ飛ぶライダーの短剣と、地面に跳ぶアサシンの短剣が交差した。 「ッキ――――!」 「――――――――」  衝突し、互いに背を向けて着地する。  ライダーは無傷。  対して、アサシンの肩にはライダーの短剣が突き刺さっていた。 「ク――――抜ケ、ヌ――――!?」  肩口に刺さった短剣を引き抜こうとするアサシン。 「――――――――」  そこへ。  じゃらん、と鎖の音をたて、ライダーはあろうことか、  「え――――ええーーーーーー!?」    鎖を使って、アサシンを振り回し始めやがった……! 「ガ、ギィィィィィイ――――!」  髑髏の面が苦悶をあげる。  ライダーは無言で、まさに容赦なくアサシンをぶん回す。  まるで鉄球だ。  鎖につながれたアサシンはなす術もなくライダーに振り回され、壁という壁に激突し、その〈度〉《たび》に腕や足をあらぬ方向に曲げていく。 「うわ、危なっ……!」  ごう、と旋風をともなって振り飛ばされてくるアサシンを伏せて避ける。 「ガ、カガ、ガ――――!」  怪力とか乱暴とか、もうそういう次元の話じゃない。  ライダーは思う存分〈鉄球〉《アサシン》を振り回した後、その遠心力を生かして手を放した。  まさにハンマー投げである。  体中の骨を砕かれたアサシンは、無惨にも最後には頭から壁に投げ飛ばされ、 「……あ」    ……飛んでいく。  髑髏面のサーヴァントはゴミのように境内に落下し、血を撒き散らしながらバウンドし、あまつさえ山門から転がり落ちていった。 「あ……うわあ……」  ……むごい。  今ので消滅するほどサーヴァントはヤワではないだろうが、それにしたってあれでは戦闘不能だろう。 「愚か者が――――」  臓硯の気配が消える。  老魔術師は不利と悟ったのか、ライダーを罵倒して姿を消し、  ライダーの暴挙で隅に逃げていた虫たちも、主に倣うように消えていった。  ……朝だ。  時刻は七時を過ぎている。  陽射しは白く、外は気持ちのいい快晴らしい。 「ん――――よっと」  体を起こして背筋を伸ばす。  体調はいたって良好。  手足は自由に動くし、頭痛だって微塵もない。  昨夜の悪寒が嘘のように、今朝は寝起きから全快である。 「……って事は、ただの胸焼けだったんだなアレ」    はあ、と溜息をついて反省する。  ……いくら十年前の光景を思い出したからって、前後不覚になるなんて修行不足だ。  公園で倒れてからの記憶はあやふやではあるが、セイバーに肩を貸してもらって、寝かしつけてもらった事だけは覚えている。 「――――そうか。セイバーに、お礼を言わないと」  布団から出て、手早く制服に着替える。  セイバーはまだ眠っているだろうから、朝メシの時にしよう。  もう七時だし、とりあえず居間にいるだろう桜に挨拶をしておこう。 「せ、先輩」  居間には、鞄を手にした桜の姿があった。  朝食の支度が出来ている。  テーブルも綺麗に拭かれているし、今すぐにでも朝食に出来る状態だった。 「あれ? 朝飯、もう支度できてるんだ」 「あ、はい。時間があったので、先輩とセイバーさんの分を作っておきました」 「? 俺とセイバーの分って、桜のは?」 「え……その、わたしはいいです。先に学校に行ってますから、お二人で朝食をとってください」 「……?  どうしたんだよ桜。俺たちの朝メシ作っておいて、自分だけ食べないなんてヘンだぞ。……もしかして、昨日何かあったのか?」  ……図星らしい。  けど、昨日っていっても何もなかったよな。  夕食後に桜が部屋に戻って、俺とはそれっきりだ。  その後は、確か―――何かあった気はするのだが、吐き気が酷くてよく覚えていない。 「……あ。そういえば、ここで桜とセイバーがなんか話してた気がする。……よく聞こえなかったんだけど、そん時なにかあったのか?」 「……わたし、酷いことを言っちゃったんです。先輩が倒れかけてるのを見て、ついカッとなっちゃって」 「ひどいことって、セイバーに……?」 「……はい。けど、わたしにだって、そんなこと言える資格なんてなかった。それなのにセイバーさんだけ悪者にしてしまったんです。  ……だから、今はセイバーさんに会わせる顔がなくて、それで」  二人分の朝食を作って、セイバーが起きる前に家を出ようとしたのか。 「……すみません先輩。あの後、すぐ自分の馬鹿さかげんに気付いて、セイバーさんに謝ったんです。そうしたらセイバーさん、わたしに謝ってくるんです。わたしが悪いのに、自分の不注意だったって」  しゅん、と肩を狭めて俯く。  ……そうか。  謝りにいって、その相手に謝られちゃあ余計自己嫌悪するってもんだ。 「……まったく、馬鹿だな二人とも。一番悪いのは怪我をした俺だろ。桜もセイバーも、そんなことでケンカするコトなかったんだ」 「でも先輩。わたし、セイバーさんに」 「いいんだって。言っとくけどな、あいつは相手に非があったら絶対に折れないぞ。桜の言い分が無茶苦茶だったら怒鳴り返してくる。そのあいつが謝るってコトは、桜の言い分を認めてるってコトだ。  セイバーは口にしないだろうけど、桜のコトきっと好きだぞ。基本的に、一生懸命やってるヤツを大切にするんだよ、あいつは」 「―――はい。けど、なら尚のこと今朝は遠慮します。  セイバーさんが怒ってくれなかった分、ちゃんと自分で叱らないと調子に乗っちゃいますから」  照れ隠しのように笑って、桜はぺこりとお辞儀をした。  一足先に学校に行く、という考えは変わらないようだ。 「……ふう。桜がそう言うんなら無理には止めないけど、こんな早く学校にいってどうするんだ。朝練、禁止されてるだろ」 「大丈夫、道場のお掃除をするだけですから。セイバーさんにあんなこと言っちゃったんですから、罰として弓道場の床を雑巾がけするんです」  それじゃ行ってきます、と告げて、桜は居間を後にした。 「道場の掃除って―――冬場の雑巾がけはきついぞ、桜」  ……いやまあ、それを知っているからこそするんだろうけど。  誰もが嫌がる道場の雑巾がけを自分に課すなんて、桜、いったいどんな口上でセイバーにケンカを売ったんだろう? 「わたしと桜がケンカ、ですか?」 「え? いや、したんじゃないのか? 桜、セイバーに悪かったって言ってたけど」 「……言われてみれば、たしかにそのように見えたかもしれませんが、しかしあれは桜が正しいのであって、口論というよりは私の不徳を注意してもらったという方が……」 「――――」  うわ。  なんか、セイバーがぶつぶつと考え込んでいる。  それだけならまだしも、考え込みながらご飯を食べるもんだから箸が進むこと進むこと。 「あ、いや、ヘンなこと言って悪かった。桜がすごく気にしてたから、こっちも気になっただけなんだ。なんでもないんなら忘れてくれ」 「……はあ。桜といいシロウといい、昨夜から同じ事を言うのですね。実は二人そろって、私をからかっているのではありませんか?」 「ば、そんな手の込んだ冗談するかっ! んなコトして俺と桜に何の得があるってんだよ」  というか、セイバーをからかったりしたらバレた時が恐ろしい。 「それはそうですね。では、単に二人とも互いを気遣っての行為だった訳ですか」  ふむ、と納得して卵焼きを口に運ぶセイバー。  朝から〈健啖〉《けんたん》なのはいいコトだ、うむ。 「けど、なんて言ったんだよ桜は。生半可な事じゃあそこまで落ち込まないし、そのあたり聞いてもいいかなセイバー」 「そ、それは、単に私のサーヴァントとしての力不足についてです。要約すれば、シロウを守りきれなかったのは私の未熟さだった、と」 「……セイバーは十分すぎるぐらいやってくれてる。  昨夜だって俺が勝手に倒れただけだろう。セイバーが気に病むコトじゃない」 「それはそうなのですが……とにかく、桜の忠告は正しかった。問題は、それに頷く事のできない私自身です。  桜になんと言われようと私は―――貴方というマスターを、これからも戦いに赴かせるのですから」  気まずそうに視線を逸らす。 「?」  おかしいといえばおかしい。  そんな、とっくに二人して納得した事を、なんだって今更気にしたりするんだろうか、セイバーは。           『……がなく、不審に感じた住民が周囲の住宅の調査を要請したところ――――』  ニュースが流れる。  食事中、気まぐれにつけたテレビでは、昨夜起きたらしい事故が報道されていた。         『……発見された体調不良者は三十名におよび、ただちに病院に運ばれました。  今月に入ってから七件目の昏睡事件ですが、診察の結果はやはり何らかの食中毒に近いと――――』  朝食を終えて、登校の支度をする。  学校に行くのは遠坂に会う為だ。  昨夜の出来事―――間桐臓硯とあの黒い影について、あいつと話し合わなくてはならない。           『……警察では深山南四丁目一帯に被害が拡大した事から、何らかの薬物が散布された可能性が高いと――――』  深山南四丁目。  それは昨夜、遠坂が睨みつけていた方角だ。  ……昏睡事件を起こしているのはあの影だとアーチャーは言った。  ……三十名に及ぶ意識不明者。  その昏睡がどのようなモノなのか、俺は自分の体で味わった。  あの影はキャスターと同じように、夜の闇に紛れて、町の人間から魔力を吸い上げているのだ。 「――――――――」  いや、吸い上げる、とかいうレベルの話じゃない。  アレに比べればキャスターは丁寧だった。  キャスターは人々に〈傷〉《いた》みがないよう、何度でも繰り返し魔力を得られるよう巧妙に手を尽くしていた。  喩えるなら、注射器で採血していたようなものだ。    ……だがあれは違う。  キャスターの採血に比べれば、昨夜のアレは“食事”そのものだ。  あの黒い影は何の容赦も考えもなく、意識ごと、人々から魔力を食らっていたとしか思えない――― 「―――セイバー。学校に行く前に話がある」 「はい。なんでしょうかシロウ」  セイバーも今のニュースを聞いていた。  なら俺の言い分なんて判っているだろうに、セイバーはいつも通り、静かに続きを促してくれた。 「ああ、今後の方針の事だ。セイバーも昨夜のアレを見ただろう」 「――――はい。どのような幻想種にも該当しない、見た事のないモノでした」 「……うん。アレがなんであるかは判らない。  ただ、あいつはあいつで俺たちの敵だ。マスターにもサーヴァントにも見えなかったけど、意図的に俺や遠坂を狙ってきたし、町の住人からも魔力を集めている。  なら――――」 「……当面はあの影の探索を優先する、という事ですか?  マスターともサーヴァントとも取れぬ、私たちには関わりのないモノの相手をすると?」  セイバーの視線が痛い。  ……彼女の目的は聖杯の入手だ。  にも関わらず、俺は目的から外れた事にセイバーの助けを求めている。  彼女が反対するのは当然だ。    それでも―――― 「ああ、あの影を放っておけない。これは聖杯戦争より優先すべき事だと思う」 「――――――――」  セイバーは無言で見つめてくる。  その、あまりの静けさにこっちの息が続かなくなった時。 「……はあ。まったく、そうくると思っていました。私としては、あの影には関わりたくないのですが」 「え、セイバー……? その、ほんとにいいのか……?」 「いいも悪いも、私が断ったところでシロウは一人で行動するではないですか。  そうなった時、貴方を守りきれねば本末転倒です。貴方に死なれては、私はこの〈時代〉《よ》に留まれません。  ですからたとえ反対であったとしても、シロウの方針に従うしかないのです」 「う、それは、そうだけど」 「それに、貴方を一人にしては昨夜のような無茶をいつしでかすか。あれで二度目ですからね、三度目だって必ずあります。そんな事になったら、私はまた桜に謝らねばならなくなる」 「じゃあ」 「まことに不本意ですが、サーヴァントは主の命に従うもの。マスターであるシロウがそう判断したのなら剣は預けます」 「――――セイバー」 「ですがシロウ、あの影は尋常な相手ではない。アレに比べれば、バーサーカーとて御しやすい相手でしょう」 「う……ああ、それは肌で感じた。  あいつは、その……強いとか弱いとかいう次元の話じゃなくて、ただ不吉だった。殴れば倒せるって相手でもないと思う」 「それが判っているのなら、私からは何もありません。  ……ただ、シロウ。アレの相手をするという事は、最も困難な道を行くということ。それを、今から胸に刻んでおいてください」 「……? いや、そりゃ用心はするけど……なんだよ、ヘンなコト言って。セイバーもアーチャーみたいに、あの影を知ってるのか?」 「……いえ、私もシロウと同じです。あの影が何者なのかは判らない」  視線を逸らす。  セイバーは、まるで自身に湧いた暗い予知を吐露するように、   「ただ、漠然と感じたのです。アレは良くない星そのものだと。それこそ関わったもの全てに破滅をもたらす、逃れようのない〈呪い〉《いばら》のような」    そんな事を、言っていた。 「それじゃホームルーム始めるわよー。  日直よろしく……って、相川くんは休みで、四十物さんも休み? んー、じゃはりきって先生がやっちゃおっかな。みんな、きりーつ」  ……ホームルームが始まる。  欠席者は昨日より増えていて、教室には活気がない。  いや、活気がないのは教室ではなく校舎全体だろう。  藤ねえは飄々とホームルームを進めていくが、その藤ねえだっていつもの元気が見られない。 「んじゃ、そういう訳で放課後の部活動は禁止ね。  んー、連絡事項は以上。ちなみに一時限目の葛木先生はお休みだから自習。プリントは持ってきてあげたから、みんなはこのまま教室でカンヅメってなさい」  やったー、という満場一致の意見のもと、みなガタゴトと机を移動させていく。  プリント自習は各自好き勝手やっていいのが藤ねえの方針なんで、教室から出なければ何をやっても良しなのである、が―――― 「士郎、ちょいちょい」  ……なんであの人はこう、あからさまに怪しく廊下で手招きしてるんだろうか。 「なんだよ藤ねえ。授業中だぞ、今」 「そうなんだけどね。ほら、朝、そっちに顔出せなかったでしょ? それで不安になっちゃって、士郎は元気かなーって」 「? なんだよいきなり。不安って何が不安なんだ?」 「んー、それがよく分からない。虫の報せっていうの?  昔っからさ、こうチクチクくる時があったんだけど、その後って決まって士郎が車に轢かれたり橋から落ちたりしたの。だから、士郎元気かなって」 「――――はあ。そんなの全然普通じゃんか。それで危ないってんなら、今までずっと危なかったよ俺は」 「ん、そうなんだけどね。なんか気になるんだ。  こう、一緒に乗らなくちゃいけない電車があるのに、士郎だけホームに残っちゃって、ばいばーいって手を振ってるみたいな、そんな感じ」 「ふーん。具体的な喩えだけど、そこで目が覚めたってコト?」 「あ、わかっちゃった? お姉ちゃん、おかげで寝坊しちゃったんだよぅ」 「………………」  なんだ、呆れた。  今朝来なかったのはただの寝坊で、他には何もなかったんだな。  ……うん。それならまあ、藤ねえらしいから、許す。 「心配無用、こっちはいつも通りだよ。藤ねえこそ目にクマできてるぞ。寝不足なの、夢の中だけじゃないんじゃないか?」 「え? ……ん、まあね。昨日も忙しくて、今日も忙しくなりそうよ。しばらく残業続きになりそうだから、士郎のところには行けなくなると思う。悔しいけど、わたしのご飯は作らなくていいや」 「え……?」 「話はそれだけ。プリントちゃんとやっときなさい。士郎、現代社会の成績悪いんだから。気合いれないと赤点とっちゃうわよ」  じゃあね、なんて気軽に手を振って藤ねえは去っていった。 「……飯はいいって。まあ、助かるけど」  張り合いがないというか、拍子抜けしたというか。  なんか、当たり前の日常がなくなってしまったような、そんな空虚さを感じてしまった。 「そうね。衛宮くんの意見には賛成する。  わたしもあの影は見過ごせない。どこの魔術師だか知らないけど、わたしの土地で好き放題やってくれてるんだから」 「じゃあ休戦条約はまだ続けていいって事か?」 「当然でしょ。あの影を排除するまで余裕ないんじゃない、お互い」    ―――と、話は思いっきり簡潔に済んでしまった。    昼休み、今日はこっちから遠坂のいるA組に行って、屋上に連れ出した。  そうして、まず“黒い影”をなんとかしたいと切り出したのだが、遠坂の答えは俺以上にキッパリしていたのだ。 「それじゃどうする? 今夜から一緒に巡回するとか、手分けして捜すとかしてみるか?」 「そうね……役割分担には賛成するわ。  貴方は夜の巡回を続けて。魔術師として怪しいと思ったところ、セイバーが怪しいって感じたところを徹底的に調べること。  で、衛宮くんがそうして表立って動いてくれてる間、わたしは臓硯を追うから」 「……間桐臓硯? あいつ、あの影に関係あるのか?」 「さあ。臓硯もあの影を恐がってたから望み薄だと思うけど、どこかひっかかるのよ。  ……ま、あの影を抜きにしたって臓硯は放っておけないでしょ。キャスターの死体を操ったり、魔術師でもない慎二をけしかけてマスターにしたり、きな臭いったらありゃしない」 「―――そうか。そうだな、言われてみればそもそもキャスターの事で手を組んだんだもんな、俺たち。あの爺さんだって無視できないってコトか」 「ええ。あの影の相手はまわりを綺麗に片付けてからにしましょ。もし見つけても、偵察にとどめておいて。アレと戦うのはもっと足場を固めてからにしないとダメよ」 「オーケー。けど遠坂はどうするんだ? 臓硯を追うって、あいつの居場所判るのか?」 「え……? あ、うん、居場所は判らないけど、直接間桐邸に乗り込むわ。〈遠坂〉《うち》は間桐家と縁があるから、貴方よりわたしの方が適任でしょ」  あっさりと言う遠坂。  が、その内容はあっさり言っていいもんじゃない。 「ば、乗り込むって間桐邸にか!? おまえ、それ敵の本拠地につっこむってコトだぞ!?」 「そうだけど、なに驚いてるのよ。別に戦いに行くわけでもないし、ただ相手の陣地を調べるだけじゃない」 「な―――バカ、臓硯が待ち伏せしてたらどうするんだ!  そんなの遠坂一人で行かせられない。俺も一緒に行くから、早まった真似するなっ」 「馬鹿、早まってるのはそっちの方よ。  言ったでしょ、わたしは間桐と縁があるの。間桐の魔術は知っているし、臓硯の力量だって昨日ので計れたわ。 はっきり言って臓硯は敵じゃない。  あの老魔術師は魔力のほとんどを体の維持にあてているから、直接的な攻撃手段がないのよ」 「そんなワケだから、臓硯が直接対決してくれるならむしろ願ったりだし、慎二だってもうマスターじゃないんなら無害でしょ。  古臭い魔術師同士の争いはわたしに任せて、衛宮くんは体で情報を稼いでちょうだい」 「―――――――む」  そこまで言い切られると反論しようがない。  ……そりゃ遠坂にはアーチャーがついているし、そこまで過保護になる事はないんだろうけど。 「……わかった。間桐臓硯の事は遠坂に任せた。俺とセイバーはあの影を捜してみる」 「ええ、よろしくね。……それと、衛宮くん。訊くけど、桜はちゃんと貴方の家にいるのよね?」 「? ああ、家に泊めてるけど、それがどうした?」 「ううん、なんでもない。それを聞いて安心しただけよ。  間桐邸に乗り込んだ時、何も知らない桜がいたらやりづらいでしょ」 「あ、そうか。…………驚いたな。遠坂、おまえってすごく気が利く」 「な、なによその意外なものを見たって目は。貴方ね、人のコトどんな風に思ってたのよ」 「いや、どんなふうって、そりゃ」  こう、ガガーンときてババーンと去っていくような、ある意味台風みたいなヤツだなー、とか。 「……ふん。衛宮くんが何を考えようと勝手だけど。  とにかく、間桐の問題はわたしが解決するから。貴方は夜まで大人しくしてなさいよね」 「了解。ここは遠坂に甘えて、セイバーと鍛錬でもしてる。夜まで時間もあることだしな」  さて、と腰をあげて出口に向かう。  昼休みもじき終わるし、そろそろ教室に戻らないと。 「じゃあな遠坂。また明日、ここで落ち合おう」 「ええ、お互いの成果を交換しあうって事で。  あ、けど衛宮くん?」  ふっ、と口元を歪める遠坂。 「――――」  ……あいつがああいう風に笑うのは、よくない。  とても嫌な予感がする、と急いで出口を目指すのだが、   「鍛錬、ていうのはどうかと思うわよ?  時間がいっぱいあるなら他にすることあるんじゃない?  たとえばぁ、同じ屋根の下にいる女の子をかまってあげるとか」    すでに、あいつの射程距離内だったりした。 「な、なに言ってんだバカっっっ……!!  さ、桜はそんなんじゃなくて、俺は慎二がテンパってる間だけうちに泊めて様子を見ようって――――」 「あら、わたしはセイバーを少しは休ませてあげなさいって言ったんだけど? 意外ねー。衛宮くん、女の子って言ったら桜が一番にあがるんだ」  にやりと笑う。 「あ――――、つ、う――――」  顔が熱い。 「なんてね、冗談よ。さっきのお返し、気に入った?」 「…………おまえな。こんなの気に入るヤツがいたら、神経どうかしてる」  肩の力が抜ける。  なんか、自分がマリオネットになって、操り糸をブツンブツンと切られたぐらい、力が抜けた。 「そっか、衛宮くんの弱点だもんね。冗談にしてはタチが悪かったか」 「ふん、タチが悪いのは遠坂本人だっ。先に戻るからな」 「はいはい、どうぞ先に行ってて。わたしはもうちょっと笑ってるから」 「っ……! この、また明日な遠坂っ!」  扉を思いっきり閉めて、屋上を後にする。  ……くそ。  遠坂のヤツ、俺をからかって遊ぶようになってきやがった。  なにが気に入ったかー、だ。  だいたいなんだ。  あんなお返しをされるようなコト、したおぼえはないぞこっちは。    そうして彼女―――遠坂凛は目的の場所に到着した。  間桐邸。  二百年前この町に移り住んできた、古い魔術師の家系の工房。  協力者としてこの土地を譲ったものの、決して交友を持たなかった異分子たる同朋。  遠坂と間桐は互いに不可侵であり、無闇に関わってはならぬと盟約によって縛られている。   「―――――――」  それがどうした、と彼女は歩を進めた。  互いに関わってはならないのが盟約ならば、そんなモノは十一年前に破られている。  だいたい盟約を取りかわした者は遥か昔の当主たちだ。  その内容も、理由すらも定かではない決まり事に従うこと二百年。    その間、遠坂も間桐も目的である聖杯を手に入れていない。  もとより両家の盟約は、“聖杯”を手に入れる事のみで固められたもの。  それが今まで叶わなかった以上、こんな古臭い決まりに従う道理はない。    呼び鈴も押さず、玄関から押し入る。  彼女は客として来訪したのではない。  あくまで一人のマスターとして、聖杯戦争を汚す外敵を排除しに来たにすぎない。   「……そう、なんだけどさ」  苦虫を噛み潰す表情で、凛は間桐邸を探索していく。  ……来訪の原因は聖杯戦争によるものだ。  故に遠坂と間桐の盟約に縛られる必要はない。  ―――そう自分に言い聞かせたものの、長年培った体質は変わらない。   「……そっか。父さんの言いつけを破ったのって、これが初めてなんだ」  ぼんやりと呟く。  別段、それはどうという事ではなかった。  父の教えを破った事で、大切な何かが壊れた訳でもないのだから。    ただ、悔いる事があるとすれば、それは 「……馬鹿ね。どうせ破るのなら、もっと早くに押しかければ良かったのに」  十年以上も我慢し続けた、誰かに対する後悔だった。   「―――凛。屋敷の間取りだが、空白部分が二つある」 「え? どこよそれ、一階?」 「二階からだ。階段にしては狭いが、おそらく地下に通じている」 「……オーケー。ところでアーチャー、気付いてる?」 「当然だ。だが害はあるまい。凛が無視するかぎりは私も気にかけん。我々の目的はあの〈臓硯〉《ようかい》だからな」  傍らの声に頷いて、彼女は二階の隠し通路へ移動する。    ―――姿こそ見えないが、凛には赤い騎士が付き従っている。  戦闘に備えて連れてきたのだが、彼女のサーヴァントは細かい事に気が回る性質のようだ。  屋敷を一回りしただけで設計図を思い描き、本来なければおかしい〈部屋〉《くうかん》がない事を指摘する。  凛も薄々気がついてはいたが、アーチャーは物の設計、構造を把握する能力に、騎士とは思えないほど特化しているらしい。   「……前から思ってたけど。貴方のそれって、〈弓の騎士〉《アーチャー》としてどうかと思う長所よね」 「減らず口はあとだ。そら、開いたぞ。暗いから気をつけ―――」  会話が止まる。  開けた壁。  ぱっくりと口をあけた地下への通路から、湿った空気が漏れてくる。  それは実体化していないアーチャーにも感じ取れるほど、耐えがたい腐臭だった。    湿った石畳に下りる。  周囲は緑色の闇だった。  無数に開いた穴は死者を埋葬する為の物だろう。  石の棺に納められた遺体は腐り、風化し、穴はがらんどうのまま、次なる亡骸を求めている。  その有り方は地上の埋葬と酷似している。  ただ、その腐り落ちる過程が決定的に異なるだけだ。  ここでは遺体を分解する役割は土ではなく、無数に蠢く蟲たちに与えられていた。   「ここが間桐――――マキリの修練場――――」    呟いて、目眩がした。  嫌悪や悪寒からではない。  彼女を戦慄させ、後悔させ、嘔吐させたのは怒りだった。  これが修練場。  こんなものが修練場。  この、腐った水気と立ち込める死臭と有象無象の蠢く蟲たちしかいない空間が、間桐の後継者に与えられた“部屋”だった。   「――――――――っ」    こんなもの―――こんな所で何を学ぶというのか。  ここにあるのは、ただ飼育するものだけだ。  蟲を飼う。蟲を増やす。蟲を鍛える。  それと同じように、間桐の人間はこの蟲たちによって後継ぎを仕込み、後継ぎを鞭打ち、後継ぎを飼育して――――              ―――それは、自分とどれほど異なる世界だったのか。    冷徹な教え、課題の困難さ、刻まれた魔術刻印の痛み。  そういった“後継者”としての厳しさを比べているのではない。  そも、背負った苦悩、越えねばならなかった壁で言うのなら、彼女が乗り越えてきた障害とて他に類を見ない。  乗り越えてきた厳しさと困難さでは、間違いなく遠坂凛に分があるだろう。  それ故の〈五大元素使い〉《アベレージ・ワン》、魔術協会が特待生として迎え入れようとするほどの若き〈魔術師〉《てんさい》だ。    この部屋に巣食う蟲どもを統率しろ、と言われれば、彼女なら半年でより優れた術式を組み上げられる。  間桐の後継者が十年かけてまだ習得できない魔術を、凛ならば半年で書き換える事ができるのだ。    だが―――その愚鈍な学習方法。  術者を蟲どもへの慰みものにするという方式に耐えられたかと問われれば、彼女は言葉を飲むしかない。    ここで行われる魔術の継承は、学習ではなく拷問だ。  頭脳ではなく肉体そのものに直接教え込む魔術。  それがマキリの継承法であり、間桐臓硯という老魔術師の嗜好なのだ。    故に。  間桐の後継者に選ばれるという事は、終わりのない責め苦を負わされるという事である―――― 「――――凛」 「……判ってる。ここに臓硯はいないわ。わたしが来たから逃げたのか、他に本拠地があるのか。……どっちにしろこれといった手がかりもないし、長居は無用ね」  叫びだしたい衝動を抑えて、彼女は石室を後にする。    遠ざかる少女の足音。  ……その後。  不快さ故に彼女が戻したものに、びちゃびちゃと蟲たちが集っていた。    地上に戻る。  用を済ませた彼女は外に出ようとし――――   「慎二。そこにいるんでしょ、隠れても無駄よ」    部屋の奥、もう一つの隠し通路に潜んだ人物に声をかけた。   「っ――――遠坂、おまえ」 「……ふん。さっきまで無視して帰るつもりだったけど気が変わったわ。少し話をしましょ、間桐くん」 「――――――――っ」  憎々しげに凛を睨みながら、間桐慎二は彼女の声に従った。    ……姿を現した間桐慎二は、明らかに彼女を恐れていた。  それはサーヴァントを連れたマスターに対する脅威ではなく、純粋に、遠坂凛という少女が放つ殺意に対してだ。   「ふ、ふざけんなよおまえ。僕は話なんてない。だいたいな、遠坂は間桐に口出ししない決まりだろ。なに勝手にやってきてんだよ、おまえは」 「あら。わたしたち、同じ学校の生徒でしょう。遊びに来てもおかしくないと思うけど」   「ハ、笑わせるな。鍵を壊して入ってきて、さんざんうちを荒らしたクセに遊びにきたって? ……ふん。父親が死んでから礼儀も何もなくなったって聞いてたけど本当だな。頭悪いよね、いつから強盗の真似事を始めたんだい遠坂の人間は」   「そう見えた? ……ふーん、ならそれも悪くないわね。  盗む物なんてここにはないけど、強盗ってアレでしょ?  盗みに入ったとき、見つかったら暴れまわるから強盗って言うのよね。  ―――ええ。それなら本当に真似をしてもいい気分よ、わたし」    それは紛れもなく冗談だった。  にも関わらず、彼女の口元は笑っていない。  遠坂凛は冷めきった視線のまま、壁に背をつけた間桐慎二を見据えている。   「……! バ、バカ、違うぞ、僕は関係ない、臓硯とは関係ないっ……! あの〈爺〉《じじい》が何をしてるかなんて、僕は今まで知らなかったんだ……!」 「――――どうだか。ならなんでマスターになんてなったのよ、アンタは」 「っ……それは、だから――――」    ギリ、という音。  間桐慎二は遠坂凛の視線に追い立てられながらも、必死に言葉を飲み込んでいる。  これが臓硯に関する事ならば、彼は即座に漏らしていただろう。  今の遠坂凛は危険である。下手に言い淀めば何をしてくるか判らない。  ―――最悪。  本当に、遠坂凛は怒りから自分を殺しかねない程だ。   「それは?」 「っ――――それ、は」  だが言えない。  彼にとって、マスターになった理由を明かす事は死に等しい。    たとえそれが           「なら言ってあげる。単に魔術師の真似事をしたかっただけなのよ、アンタは。自分は落ちこぼれだから、魔術師にはなれないから、聖杯の力で魔術師になりたかった。  それ以外に目的なんてない。アンタは無力な自分を隠す為に、欲しくもない証を欲しがっただけの臆病者よ」    他人にとって、取るに足らない事実だとしても。   「っ…………! 遠坂、おまえ……!」 「違う? 間桐の家に生まれながら、貴方には魔術回路がなかった。けどそれは貴方のせいじゃないわ。もともと間桐の血は薄れていた。この土地に根を張った時から、探求者としての間桐の責務は薄れていたのよ。  だっていうのに、貴方はソレに固執した。  特別である事が特別だ、なんて勘違いをして、しなくてもいい無いものねだりをした。そんな事で魔術回路を得たところで魔術師にはなれないっていうのに、見苦しく“自分に与えられるべきだった特権”に縋ったのよ」   「し、知ったようなクチを叩くな……! ふざけんなよ、僕が魔術師になれないだと……!? そんな事、おまえにどうして判るって言うんだ――――!」 「判るわよ。断言してもいいけど、聖杯を得たところで貴方は魔術師にはなれない。  だって才能がないもの。そのあたりが衛宮くんとは違うところ」   「え……?」  ぽかんと口をあける。  間桐慎二にとって、その名前は予想外だった。  遠坂凛がマスターとして自分に敵対するのはいい。それぐらいは予想していた。    だが、彼女の口から衛宮士郎の名が出る事はあり得ない。  ヤツはただの素人だ。  魔術師の家系でもないし、マスターとして相応しくない雑種ではないか。  その男がセイバーを連れているだけでも度し難いというのに、どうして、よりにもよって、他でもない遠坂凛の口から、ヤツの名前などこぼれるのか――――!   「は――――は。なんだよ。やめろよな遠坂。なんで、なんだっておまえが、衛宮のコトなんて口にするんだよ!」 「彼が貴方より強いから。それに魔術師としての素質もある。間桐慎二にはないものを、衛宮士郎は持っている。  ……ええ。貴方と同じように、衛宮くんにも魔術師としての才能はないわ。けど、彼には魔術師としてやっていける絶対的な素質がある。それだけは他の誰にも負けない、彼が一番たり得るところよ」   「一番だって!? あいつが!? ハ、笑わせるな遠坂……!  あいつにあって僕にない物なんてない、何もないのはあいつの方だ! あいつなんて、ただ運良くセイバーと契約できただけの野良犬じゃないか……!」    衛宮士郎への憎悪が恐怖を打ち消したのか、間桐慎二は真正面から遠坂凛を凝視する。  その、偏執しきった視線を前にして、遠坂凛ははあ、と両肩で嘆息した。   「……そう。これだけ言っても判らないようじゃ本当に処置なしね。少しは責任を取らせようと思ったけど、貴方にはその価値さえない。ここで見逃してあげるから、衛宮くんにやられる前に教会にでも逃げ込みなさい」    瞳を苛立たせたまま、遠坂凛は間桐慎二に背を向けた。  もうここに用はない、と。  間桐慎二というマスターを敵とすら見ず、彼女は間桐邸を後にする。   「僕が――――衛宮に劣る、だって……?」    繰り返す言葉には憎悪しかなかった。  だが、間桐慎二は壁に張り付いたまま、去っていく遠坂凛を見つめる事しかできない。  ここで襲いかかれば、確実に殺される。  その事実、その力関係だけは、間桐慎二でさえ感じ取れていたからだ。   「遠坂――――おまえ、おまえ…………!」  際限のない怨嗟の声。 「――――――もう、しょうがないな」  それに彼女は足を止め、振り向かずに間桐の後継ぎだった少年に別れを告げる。   「いいわ、最後に教えてあげる。  自分以外の為に先を目指すもの。自己よりも他者を顧みるもの。……そして、誰よりも自分を嫌いなもの。  これが魔術師としての素質ってヤツよ。どんなに〈魔術回路〉《さいのう》があったところで、ソレがない者には到達できない所がある。  ……ふん。わたしだって、そんな条件を満たしているヤツがいるなんて思ってもみなかった。こればっかりは、生まれつき壊れてないと持てない矛盾だから」   「慎二。アンタは他人を蔑む事で、同時に抱かなくてもいい劣等感を抱いた典型よ。自分が好きなあまり周りを下に見たものの、見下す相手が上にいるものだから、つまらない劣等感に囚われただけ。  ……貴方の中身は空っぽよ。詰まっているように思えるのは本人だけで、正体は風船と一緒。まわりの風向き次第で、行き着く先なんてくるくる変わる」 「ぅ――――――、ぐ」   「理解した? そんな男に魔術師なんて務まらないし、サーヴァントだって従わないわ。  ここから先は貴方には関係のない世界よ。間桐慎二がどんなに自分をマスターだと言い張っても、貴方は絶対にマスターにはなれないんだから」    ―――去っていく足音。  遠坂凛は一度も振り返らず、間桐慎二を暗い部屋に残していった。   「――――は。はは、ははは」    ずるり、と壁から落ちる。  間桐慎二は糸の切れた人形のように床に崩れ落ち、ひきつった顔で笑い続ける。   「なんだ。そうか、そういうことか」    唾液にまみれた舌が、乾いた唇を舐め上げる。  ガツン、という音。  少年は乱暴に、骨を砕くかの勢いで壁に後頭部を打ち付け、   「――――ようするにさ。  あいつがいなくなればいいって言うんだろ、遠坂?」    くつくつと、空っぽの哄笑を上げ続けた。 「じゃ行くぞ桜。せーの、じゃんけん、」 「えいっ!」  ぽん、と堅く握りしめた手を突き出す。  対する桜の手は平手打ち。  こっちはぐー、桜はぱーだった。 「う」 「やった、わたしの勝ちですね!」  突き出した手をじっと見る。  ……またやってしまった。どうしてこう、じゃんけんになると一手目がグーになってしまうのか。 「それじゃ夕食の支度はわたしというコトで。先輩はのんびりテレビでも見ててください」  夕食の支度を一人でできるのが嬉しいのか、桜はタンタンと軽い足取りで台所に移動する。 「……はあ。仕方ないか、勝ったほうが飯を作る約束だもんな」  つけていたエプロンを外して座り込む。  他がどうなのかは知らないが、うちでは夕食の支度は娯楽の一つであるらしい。  ……俺はそうではないのだが、桜がとにかく一人で作りたがるのだ。  それはそれで有り難いのだが、先輩として桜ひとりに甘える訳にもいかない。  よって、今日のようにお互いが暇な時は、何らかの勝負事で夕食の調理権を争う事になる。 「……やる事ないし。お茶飲も」  お茶を淹れてぼんやりとテーブルに陣取る。  セイバーは俺の部屋で睡眠中、藤ねえは残業とやらで帰ってこない。  居間にいるのは俺と桜だけで、桜は上機嫌で台所に立っている。 「――――――――」  ……他にやる事がなかったからか、それとも、無意識に目が追ってしまうのか。  桜はテキパキと動いて、傍から見ても楽しそうだった。  見慣れた長い髪と濃い紅色のリボン。  食器を手にとる仕草。重そうながらもしっかりと包丁を持って、キャベツをまな板に置く。 「んっ――――!」  えい、と気合をこめて入刀する。  包丁をいれる時、桜はどんな物でもそんなふうに緊張して、あとは慣れた手つきで調理していくのだ。 「――――――――」  それをぼんやりと眺めていた。  夕暮れの居間。  桜がいて、こんなふうにゆっくりと時間が過ぎていく日常。  唐突に、それが得がたいものなのだと気がついた。  ……夜になれば戦いに行くからだろう。  この時間が自分にとってどれほど大きなものなのか、今更になって気付いた気がする。 「……うん。桜を、守らないと」  間桐臓硯が何を企んでいるかは判らないが、桜には手出しをさせない。  ここ数日桜に触れる機会が多すぎて、桜の体の〈成長〉《へんか》に戸惑ってばかりいた。  ……俺は正直、女の子としての桜に動揺して、参り始めているのだと思っていた。  けどそれは違う。  俺が参っているとしたら、それはもっと前からだ。    台所からは、緩やかな鼻歌が聞こえてくる。  ……大事なのは、そんな些細な事だと思う。  ぼんやりとした頭で三杯目のお茶を淹れて、夕暮れの風景を眺めている。  お茶にアルコールでも入っていたのか、時間は緩やかで、ひどく柔らかい感じがした。  立ち入り禁止の柵を越えて境内に入る。  キャスターとの一件以来、柳洞寺は昏睡事件の重要参考物件として扱われ、人の出入りが禁止されていた。 「………………」  肌に纏わりつく夜気は変わらない。  空気は生温かく、熟れた果物の匂いがした。 「……中に入るぞ、セイバー」 「はい。……シロウも気をつけて」 「わかってる。危険を察知したらすぐに教えてくれ」  ……境内を抜け、内部に通じる渡り廊下によじ登る。  板張りの廊下は暗く、歩くたびにキシキシと音をたてた。 「……とりわけ変わったものはないか。セイバー、どうだ?」 「……私も同じです。ですがこの一帯が異常なのは確かです。この山に踏み入った時から、私たちは異なる常識に取り込まれている。  ……これだけ魔力が満ちていながら異常を感じない事こそが異状と言えるでしょう」 「……そうだな。よし、もう少し調べてみよう。この寺、裏側に池があるんだ。あっちの方にもいくつか建物がある」  ……裏の池には竜が棲むという。  古くから神聖な場所とされていたあそこなら、何か手がかりがあるかもしれない。  廊下に出て寺の裏側に向かう。  その、瞬間。 「シロウ!」 「っ、セイバー……!?」  瞬間、廊下からお堂に弾き飛ばされていた。  それがセイバーによるものだと気付き、すぐさま廊下に駆け戻ろうとした目の前で  セイバー自身の手によって、堅く出口が閉ざされた。 「セイバー!? おい、なんのつもりだバカ……!」  扉を叩く。  どんな魔術なのか、セイバーに閉められた扉は鉄のように堅くなっている。 「この、なにやってんだ、開けろセイバー……!」  叩いても殴っても扉は開かない。体当たりしたところでビクともしない。  その、鉄と化した扉の向こうで、 「そこで身を守っていてくださいシロウ……! この相手は、確実に貴方だけを狙ってくる……!」 「な――――敵ってなんだ!? あの影か!?」 「違います! ですがマスターにとって天敵といえるサーヴァントです! 申し訳ありませんが、貴方が戦場にいては守りきれない。  あのサーヴァント―――アサシンには一騎打ちで望まなければ、先にマスターを叩かれてしまう……!」 「アサシンだって……!?」  そんな気配はなかった。  いくら柳洞寺の空気がおかしいとは言え、サーヴァントの気配は別物だ。  近くにサーヴァントが実体化したのなら、その濃密な魔力は必ず伝わってくる。  気配を隠したにせよ、俺はともかくセイバーに感づかれない筈はないのに――――! 「一撃で決着をつけます。それまでそこを離れないでください――――!」  セイバーの気配が遠ざかる。  足音は高く、セイバーはアサシンの攻撃を弾きながら敵の間合いへと踏み込んでいったのか。 「くそ、こうなったら――――」  周囲を見渡す。  木刀ほどの〈警策〉《ぼう》を手にとって、即座に“強化”を開始する。 「、――――早、く」  この警策を剣にして、扉を叩き割らないと。  嫌な予感、得体の知れない焦燥が思考を占めていく。  ―――この場所。  この山で、セイバーを一人にしては取り返しのつかない事になる気がして、早く―――― 「――――!?」  明かりが落ちた。  否、明かりなんて初めからない。  暗いお堂を照らしていた月光が遮られたのだ。 「――――っ」  ……異臭がする。  腐った肉の匂いと、耳障りな虫の羽音。 「――――間桐臓硯」  目前の闇を睨む。   「―――ク。飛んで火にいる、とはまさにおぬしよな衛宮の小倅」    呵々、という笑い声。  何処かに潜むソレは、紛れもなく老魔術師の妖気だ。 「…………セイバー」  手にした〈警策〉《ぶき》を構える。  数百年を生きた妖怪を前にして恐れはない。  頭を占めるものは、ここにはいないセイバーの安否だけだった。    廊下を駆け、髑髏の面を追い詰める。  十間は離れていた間合いが、今ではわずか〈三間〉《五メートル》。  彼女―――セイバーならば一足で踏み込み、髑髏の面ごと敵を両断しうる距離である。    だが、それは敵とて承知。  接近されては勝負にならぬと踏んだからこその投擲、接近されまいとするからこその後退だ。    髑髏はセイバーの全力疾走には及ばないものの、地を駆ける獣の如き速度で後退する。  狭い廊下を滑るように、直角の曲がり角さえ減速せず移動していく。  背面に目があるのか、それともセイバーと対峙しているこの面こそが背面なのか。  髑髏面のサーヴァント―――アサシンはセイバーから追われつつも、離れすぎず近づきすぎず、逃げ水の如く間合いを維持していた。    ――――火花が咲く。  ノーモーション、取り出す仕草さえ見せずに放った三条の短剣は、しかしセイバーには通じない。    ランサー同様、セイバーにも射的武器に対する耐性がついている。  ランサーが風切り音と敵の殺気から軌道を読むのに対し、  セイバーは風切り音と自らの直感で軌道を読む。  英霊にとって“視認できない攻撃”はそう脅威ではない。  彼らはその先を行くもの、“理解していても防げない攻撃”こそが、互いを仕留める極め手となるからだ。    その点で言えば、ランサーの槍は英霊の宝具と呼ぶに相応しい。  “必ず心臓を貫く”などという武器は、その正体が判ったところで防ぎようがあるまい。  あの魔槍に対抗する手段があるとしたら、  槍の魔力を上回る純粋な防壁を用意するか、  槍によって決定された運命を曲げるほどの強運か、  そも槍を使わせないか、のいずれかしかあるまい。    それに比べればアサシンの〈短剣〉《ダーク》は御しやすい。  急所に刺されば死ぬが、弾けば防げるモノならば〈礫〉《つぶて》と何ら変わらないからだ。   「チ――――」  放った〈短剣〉《ダーク》はすでに四十を超えた。  黒衣に忍ばせた短剣を全て使いきり、アサシンはようやく足を止める。   「ぬ――――」  追撃するセイバーも、たたらを踏んで停止した。  ……接近させまいとしていた敵が、自ら足を止めたのだ。  何かあるのは間違いなく、アサシンの周囲に不吉な気配を感じる。  ここは、そう易々と踏み込める状況ではない。   「―――観念したのか、アサシン」  このまま斬り捨てる事が最善と判っていながら、セイバーはわずかに後退する。    これ以上進んではいけない、と。    長く彼女が培い、永く彼女を生かしてきた直感。  それが最大限に警告を発している。  この先に進むな。  これ以上、〈あの昏い闇〉《・・・・・》に近づくな、と。   「……ああ、観念したともセイバー。こちらは弾切れだ。  こうなっては一撃で下されると覚悟したのだが、なぜ近寄らぬのかな」   「――――――――」  セイバーは応えず、切っ先をわずかに上げる。  剣は敵に。  間合いは〈四間〉《七メートル》、一刀するには二の踏み込みを必要とする。  剣士であるセイバーでは踏み込むしかない間合い。    されど彼女には一撃のみ、  間合いの有無に囚われぬ秘剣がある――――    アサシンの黒衣がはためく。  にわかに吹き始めた風がどこから生じるものなのか、アサシンには知る由もない。   「ふん、私などに語る口は持たぬか。まあいい、語るは自由だ。思う通りに語らせてもらおうか」  アサシンの声は、外見とは裏腹に透き通っていた。  それが誰かの声音……以前戦った槍兵に似ていると、セイバーは瞳を細める。   「しかし、よくもまあ弾いたものだ。私の短剣、見せないつもりで撃っていたのだが、おまえには見えていたのか?」 「実像は見えてはいないが、軌跡ならば読み取れる。見えないものを恐れるようなら、このような剣は持たん」    なるほど、と髑髏は笑った。  不可視の剣を持つ者に黒塗りの短剣を投げつけたところで何ができよう。  英霊としての格の違い、手にした宝具の性能差を見せつけられ、アサシンは笑い続ける。   「そうか、私など初めから敵ではなかったのだな。  所詮アサシン、まっとうな英霊に太刀打ちできる筈もない。もとより〈暗殺者〉《われら》は影に潜むもの。そのような役割に選ばれる英霊など、初めから存在しない」 「――――――――なに?」   「故に、我らが役割は暗殺のみ。〈英霊〉《サーヴァント》ではなく〈人間〉《マスター》を殺すしか能のない〈英霊もどき〉《なりそこない》がアサシンなのだ。  ―――さて。となると、私の標的はただ一人だけだ。  理解できるかねセイバー? 私の行動は、全て君の主を仕留める為だけのものだと」   「――――シロウ」 「左様。おまえの主は、我が雇い主がもてなしている。  私を引き離したところで、急がねば蟲どもの餌食だぞ」 「っ……!」  セイバーの剣に光が点る。  否、本来黄金である彼女の剣が、その姿を垣間見せる。   「――――ほう! 風の〈呪〉《まじな》いで刀身を隠していたか。なるほど、その風圧ならばその場からでも私を断てる。わざわざ死地に踏み込む事もないという訳か」  黒衣が沈む。  誘いこむ筈の獲物は、まさかの飛び道具を持っていた。  こうなっては思惑も策略もない。  セイバーが近づかずアサシンを断つというのなら、アサシンは近づいてセイバーを捉えるのみ。   「立場が逆になったなアサシン。この風王結界、見事踏み込んでみせるか」 「ひどい女だ。〈蝗〉《イナゴ》の群に飛び込めと言う。さりとて、このままでは竜の咆哮が放たれる。……これは、進退窮まったか」    髑髏の面が地面に這う。  廊下に伏せたアサシンは、壁に這う蜘蛛に似ていた。  圧縮された大気は真空の渦となって、今まさにアサシンへと放たれようとしている。    正気ではない。  必殺の旋風を前にして、まさか伏せてやり過ごせるなどと思おうとは。   「さて。どう見てもこれで最後になろう。その前に語らせてもらおうかセイバー。  ―――おまえは、一対一ならば私に勝つと言ったな」    セイバーの剣が上がる。  会話に乗じて離脱しようとする事も許さない。  セイバーの眼は確実にアサシンを捉えている。  たとえ空間転移を以ってしても、転移する前にアサシンを断ち決着をつけるだろう。 「だからこそ私をマスターから引き離した。主を守るというその判断は正しい」    剣は頂点。  もはや振り下ろすだけの一撃を前にして、アサシンは更に深く身を屈める。   「だが、そこには〈おまえ自身を守る〉《・・・・・・・・》、という事が含まれていたのかな」    問い掛ける声。  それに、   「―――先を急ぐ。さらばだアサシン」    セイバーは一刀を以って返答した。    決着はついた。  暴風は擬神化された龍の如く、廊下と髑髏の面を飲み込もうと、その蛇体を〈螺旋〉《おど》らせる。    防ぐ事も躱す事もできない。  これはランサーの槍と同じ、純粋にセイバーの風王結界を上回る魔力がなくては防げない一撃だ。    アサシンの魔力はセイバーに及ぶべくもない。    彼がこの一撃から生き延びるには“撃たせない事”しか手段はなかった。    だがそれも遅く、旋風は放たれた。  剣が振り下ろされてから一秒の後、黒衣はズタズタに引き裂かれるだろう。  渦を巻いて迫り来る死の断層。  その真空の波へ、   「神は偉大なり!」    歓喜の声と笑みを以って、アサシンは突進した。   「――――ぐ………!」    首筋に〈迸〉《はし》る一撃。  それを咄嗟にセイバーは弾き、黒衣は彼女の真上をすり抜けて背後に着地する。   「おのれ――――!」  神速で振り返り、背後を一刀するセイバー。  だがそこにアサシンの姿はなく、黒衣はとうに間合外へ跳んでいた。    同時に、 「――――――――な」  先ほどから感じていた“不吉な気配”が、彼女の足元を覆っていた。   「―――さて。二つほど運がなかったな、セイバー」    影が広がる。  泥のような汚濁が彼女の銀を侵していく。   「一つは相性。〈暴風〉《ジン》避けの〈呪〉《まじな》いは砂漠を行く者には必須でな。私が知る唯一の魔術が、風避けの御名であり――――」    廊下は闇に。  白い月光を以ってしても明かされぬ影。  それを――――    彼女は、薄れていく意識の中で視認した。   「アサ、シン――――貴様、は――――」 「そうだセイバー。もう一つは、この場所を戦いの場に選んだ事だ。ここには良くないモノが棲むと、おまえは気付いていた筈なのだがな」   「っ――――、――――あ」  アサシンの声すら聞こえない。  このままではあと数秒で消える。  この影は〈自分〉《サーヴァント》を呑むものだ。  薄れていく思考より、体がそれを嫌悪した。   「――――!」    なりふりなど構わない。  残った魔力、その全てを使い切っても脱出しなければならない。    ―――影はまだ足元だけ。  このまま、最大出力で振り払えばまだ間に合う。  魔力の大部分と、たとえ呑まれた箇所を失ったとしても、今はこの影から逃れるだけ。    だが。   「―――そうはいかん。おまえはここで消えるぞ、セイバー」    彼女の敵は、この影だけではない。  対岸の火事の如く、影に飲まれていくセイバーを眺める髑髏こそが、彼女に〈死〉《とどめ》を刺す死神だった。   「く――――初め、から」 「一対一ならば勝てると言ったなセイバー。そう、それが間違いだ。おまえは一人、こちらは二つ。私はただ、おまえの注意を削ぐだけでよかった」  影が〈侵〉《すす》む。 「っん…………! あ―――つぅ、あ――――」    足元から、存在が腐っていく。  つま先の感覚、両腿の感覚がまるでない。  彼女の両足は、既にこの世にあってこの世にないモノになっていた。   「サーヴァントはその〈真夜〉《アルヤル》に抗えん。おまえがまっとうな英霊ならば尚更だ。比較的近い私でさえ、触れれば魔力を奪われる。純正であるおまえでは、触れられただけで正気を失おう。  ……だが、それは惜しい。むざむざおまえを消滅させては、私の目的は果たせない。おまえの心臓は、私が貰う」   「な――――おまえが、私を?」 「おかしいか? 短剣は底をつき、私とて影には近づけぬ。その私がおまえを仕留めるのは不可能だと?」    髑髏に殺気が点る。  今まで微弱にしか感じられなかった魔力が、アサシンの右腕に集中する。    ……アサシンの右腕は、棒だった。  手の平のない異形の腕は、腕として用をなさない。  それでは短剣は握れず、相手を殴りつける事さえできまい。  それが曲がった。  骨を砕き、曲げて、髑髏の腕が異形の翼を〈羽撃〉《はばた》かせる。    奇形だった。  なんという長腕か。  暗殺者の右腕は、拳と思われた先端こそが“肘”だった。  ソレは―――肘から折り畳まれ、その掌を肩に置いた状態で縫い付けられていた腕なのだ。   「――――――――」  セイバーの思考が凍る。  届く。  あの腕ならば届く。  届いて確実に自身の心臓を抉り出す。  その戦慄が身に走るより早く、〈彼〉《か》の腕は羽撃き――――    呪腕は槍のように彼女に突き出された。    斬撃に断たれる音と、噴出される鮮血。  赤い血は地面を濡らし、黒い影を〈斑〉《まだら》に染める。   「――――――――キ」    髑髏の面から嘲笑が漏れる。  一直線に突き出された腕は真紅。  それは事を成し、速やかにアサシンへと折り畳まれ、     「キ、キキキキキキキキキキ――――!!!!」    その、異形の呪腕は、失われていた。   「オ、オノレ、キサマ、死ニ損ナイノ分際デ――――!」 「はぁ――――は、あ――――」    ……振り上げた剣が落ちる。  アサシンの呪腕はセイバーには届かなかった。  その腕が鏡像の心臓を抉り出すより速く、セイバーの剣が呪撃をはばんだのだ。    いかな窮地と言えど、アサシンの宝具ではセイバーは倒れない。  否。  因果を逆転させるランサーの槍を防いだ以上、このような呪腕に倒される事など、セイバーには許されない。   「ぁ――――、つ」  だが、それが最後の抵抗だった。  影から脱出する為に溜めていた力を、今の迎撃に使ってしまった。    もはや振り〈解〉《ほど》く力はなく、仮に振り〈解〉《ほど》けたところで間に合わない。  彼女が感じていた不吉な気配は、既に彼女自身から発しているのだ。    足元を侵食し、腰まで伸びた影。    月光すら呑むこの闇は、既に彼女自身でもある。  ならば――――もう、何もかも手遅れだった。    ……影が這い上がってくる。  銀の剣士は霞んでいく視界の中、 「すまない――――シロ、ウ」    酸素を求めるようにそう漏らして、昏い泥中に沈んでいった。 「ぐ――――っ」  アサシンに殴られた腹の痛みで正気に戻る。  ……お堂にはもう、俺とライダーしかいない。  深呼吸をして気を落ち着ける。    ―――そこで。  体の痛みが、背中と腹にしかない事に気がついた。 「セイ――――」    それがどういう事なのか、本当は、もう考えなくても判っていた。 「バー――――」    目眩を堪えて廊下に向かう。 「―――待ちなさい。一人で行動するのは危険です」 「…………おまえ」  ライダーに殺気はない。  ライダーは本気で、俺を助けただけのようだった。 「……おまえ、どうして」  俺を助けてくれたのか、なんて疑問は、どうでもよかった。    今はそんな事より早く―――― 「……おまえは慎二のサーヴァントだろう。なのにどうして俺を助けてくれたんだ」    ―――そこに、行きたいのに。  どうしてこんな、寄り道をしているのか。 「貴方を死なせてはいけない、と命じられています。私は主の命に従っただけです」  ……そうか。  それならいい。納得できないし信じられないが、答えが返ってきたのならいい。    今はそれより――――早く、行かないと。 「………………」 「――――――――」  その場所がそうなのだと、一目で判った。  廊下は静まり返っている。  暴風でも通ったのか。廊下は所々がヤスリをかけたように削がれ、半壊している。  その中。唯一無事な床に本当に少しだけ、赤い染みが残っていた。  手の平よりも小さな血痕は、誰の物かも判らない。    それでも―――それを見た瞬間、膝から力が抜けて、廊下に〈跪〉《ひざまず》いていた。 「――――――――」    赤い染みに触れる。  血は乾いていて、指に残ることもない。  この血痕が告げるものは、ただ、彼女がここで消えたという事実だけだ。           “――――私の役割は貴方を守る事です、シロウ” 「――――――――」    その言葉を、何度聞いただろう。  それは頼もしくもあり、不安でもあったんだ。    ……あいつは、本当に俺のことばっかりで。  肝心の自分を守るって事を、一度も口にしなかった。 「――――――――」    血の跡を掻く。  セイバーはここで戦い、ここで倒れた。  戦うとはそういう事だ。  これが死を前提にした争いなのだと、彼女と契約する前から思い知らされていた。  それを承知で俺は彼女の手を取り、彼女もそれに応えてくれていた、だけ―――― 「セイ、バー――――」    俺より小さな体で、俺を守ってくれた少女。  聖杯より黒い影を優先すると言った時、彼女は終わりの予感を堪えて、俺の意見に頷いてくれた。  ……その結果が、これだ。  俺は彼女を失い、マスターでなくなって、元の半人前に戻った。  戦う手段を無くして、一人になって、それで―――      ――――やるべき事を、やり通さなければ。 「――――――なら、行かないと」    最後に長く、血の跡に指を這わせた。  それでお終い。  頭を下げる事も礼を言う事もせず、指を離した。    一際強く左手が痛み、消えた。  セイバーの死を認め、別れを告げた時。  左手の令呪は、跡形も無く消え去っていった。    ……サーヴァントを失ったからといって、令呪が失われる事はない。  令呪が消滅する時は、その魔術師がマスターとしての資格を失った時だけだ。 「―――――そうか。つまり、俺は」    この夜、ここで何が起きたのか、俺には知るよしもない。  確かな事は一つだけだ。  俺はセイバーを失い、マスターとしての資格を、この瞬間になくしたのだ。  ……柳洞寺を後にする。  殴られた腹と背中は大きな傷のようだが、今は、体の痛みは気にならなかった。 「送ります。敵がいなくなったとはいえ、夜道の一人歩きは危険ですから」 「……え?」  思わず足を止めてしまった。  ライダーの言動はさっきから予想外すぎる。 「わからないな。それもおまえのマスターの命令か?」 「―――いえ、そのような命令は受けてはいません。これは私個人の感情です。ただそう思っただけですので、他意はありません」 「……そっか。それなら信じるけど、見送りはいい。俺たちは敵同士だろ。なら、そこまで世話にはなれない」 「敵同士―――では、貴方はまだ私たちと戦うつもりですか。セイバーを失った、魔術師でもない貴方が」 「――――――――」  返答はしない。  まだ戦うつもりも何も、降りるなんて言った覚えはないからだ。 「そう―――わかりました。せいぜい、道中気をつけなさい」  長い髪がはためく。  ライダーは先に山門へと向かっていく。  その背中が、俺でも呆れるほど無防備だったからか。 「……さんきゅ」  つい、言い忘れていた事を口にしていた。 「え?」  振り返った顔は、明らかに驚いていた。 「う……」  そういう顔をされるとこっちも気恥ずかしいが、ちゃんとお礼は言わなくてはいけない。 「貴方は今、なんと言いました?」  ……まじめに聞いてくるし。  まっすぐ向き合うのも気まずいので、わずかに視線を逸らす。 「だ、だから、ありがとうって言ったんだ。おまえに助けてもらわなかったら死んでただろう。  ……見ての通り、今は何も返せない。だから、せめて礼ぐらい言っとかないとおまえに悪い」 「―――お気になさらず。私は主の命に従ったまでです。  主の命が変われば、すぐにでも貴方を殺します」  感情のない声で告げて、ライダーは山門に消えていった。 「―――だろうな。だから世話にはならないって言ったんだ」  独り、ライダーの姿が見えなくなってから歩き出す。  ライダーがどうして俺を助けたのかを考えるのは後回しだ。  ……うちに帰るまで一時間。  そのたった一時間で、俺は、いなくなった彼女の面影を振り払わなくてはいけないのだから。  屋敷に帰り着いた。  時刻は午前一時をとうに過ぎている。 「っ――――ごほ」  咳き込む口に手を当てると、わずかに血が付いていた。  アサシンに殴られた腹はまだ痛むし、壁に叩きつけられた背中もヒリヒリする。  〈腹部〉《なか》の損傷は判らないが、背中の傷は擦り傷だろう。  以前ならすぐさま治っていた掠り傷が、今は一向に治らない。 「――――そうか。以前に戻ったんだよな、そりゃ」    セイバーと契約してから今まで、傷という傷は全てひとりでに治療されていた。  それもなくなった。  これからは些細な傷でも致命傷になる。 「先輩」  と。  屋敷に入るなり、桜が廊下に立っていた。 「……あれ、桜? どうしたんだ、こんな夜更けに。もしかして起こしちゃったか」 「いえ、寝付けなくて夜更かししていたんです。そうしたら先輩の靴がなかったから、何処かに出かけたのかなって」 「ああ、ちょっと出歩いてた」  ……あ、そういえば帰ってきた時、玄関の明かりが点いてたっけ。  となると、桜はずっと玄関でこうしていたんだろうか? 「桜。ずっと玄関で待ってたのか?」 「え―――? い、いえ、そんなコトないですっ。  ちょ、ちょっとおトイレに寄っただけで、たまたま玄関にいただけですよ?」 「…………」  待ってたんだな、これは。  俺とセイバーが屋敷を発ってから三時間弱。  もしかしたら桜はすぐに俺の不在に気付いて、ずっと玄関で待っていたのかもしれない。 「そ、それより先輩、お茶にしませんか!?  こんな時間ですけど、あったかいお茶を飲んでゆっくりすれば元気がでますからっ!」 「――――――――」  目が点になる。  桜はいつになく強引で、唐突だ。  ……つまり、桜がそんな風に気を遣うぐらい、今の俺はまいっているんだろう。 「――――ああ、頼む。それとただいま。桜に声をかけずに出歩いてすまなかった」  靴を脱いで廊下に上がる。  ズキン、と鈍く痛む腹を押さえて居間に向かう。  そんな俺を前にして、 「……はい。おかえりなさい、先輩」  どこかホッとしたように、桜は言葉を返していた。 「いつっ」    座布団に陣取った腰が跳ねる。  背中に塗りつけられた消毒薬の一撃だ。  こう、じゅうじゅうと音をたてているあたり、火で炙られているのと変わらない気がする。 「桜、痛い。消毒薬はもういいから、傷口を拭いてガーゼでも貼っといてくれ」 「だめですっ。背中一面真っ赤なんですから、ちゃんと消毒しないといけませんっ! それに痛いのは当たり前です。こんな大怪我して帰ってきたんですから、少しは我慢してください」 「あいたっ」  ……う。怪我人に容赦がないのは弓道部仕込みなのか、藤ねえ仕込みなのか。 「先輩、他に痛むところはありますか?」 「ん……? いや、怪我したのは腹と背中だけだ。他はなんともない」 「そうですか。なら、あとはガーゼをあててテーピングするだけですね」  慣れた手つきで救急箱を扱う桜。  その横顔は真剣で、口をはさむ余地がない。 「――――――――ふう」  さて。  どうしてこんな事になったかというと、桜に淹れてもらったお茶が腹に染みて、不覚にも吐き出してしまったためである。  隠し通すつもりだったのだが、桜にはそれでバレてしまった。  で、むー、と拗ね顔で問い詰められた結果、実は怪我をしていると自白させられ、こうして桜に手当てされている。  もっとも、初めはこんなふうに鬼ではなかった。 「え―――け、怪我ってお腹ですか……!?」  なんて驚く桜に腹を見せると、  顔を真っ赤にして手当てどころの話ではなかったし。 「桜、ほんとにいいのか? 手当てなら自分で出来るし、無理しなくていいぞ。それに、背中はもっと酷い」 「だ、だいじょうぶですっ! やります、やらせてください!」  なんて慌てぶりだったんで、背中の傷なんて見たら卒倒するんじゃないかと心配したもんだ。 「せ、せせ先輩。その、お洋服、脱いでください」  が、頑張ってる桜を止めるのも悪いし、背中は自分では手当てできない。  そんなこんなでシャツを脱いで、桜に背中を任せた訳である。  背中は擦り傷だらけで、しばらく桜は何も出来なかった。  にらみ合いは何分か続いて、桜は「い、いきます」と喉を鳴らして手当てを始めてくれた。 「――――――――」  それが二十分ほど前の事だ。  時刻は午前二時過ぎ。  丁寧な桜の手当ては、じき終わろうとしている。 「―――はい、終わりました。新しいシャツを用意しましたからこっちを着てください」 「え……? あ、もう終わったのか。さんきゅ、桜」 「いえ。先輩もお疲れさまでした」  真新しいシャツを着て、軽く深呼吸をする。  ……腹の打ち身だけはどうしようもないが、背中の痛みは幾らか和らいでくれた。  今日はうつぶせに寝て、明日になればもっと良くなっているだろう。 「さて。それじゃあ寝るか。こんな夜更けに起こしてすまなかったな」 「え―――い、いえ、そんなコトはないんです、けど」  俯く桜。  何か言いたい事があるのに言えない、そんな素振りだ。 「桜? 俺がいない間に何かあったのか?」 「…………あの、先輩。セイバーさんは帰られたんですか?」 「――――――――」  一瞬、目眩がした。   “セイバーさんは帰られたんですか?”    そう自分以外の人間に言われて、最後の『もしかしたら』が、完全に打ち消された。 「――――ああ。急な話だけど、あいつは帰った。もう戻ってこない」  目眩を堪えて、呼吸を整えて、平然と返答する。  ……桜の疑問は当然だ。  たった四時間前までいたセイバーがいないのなら、何かあったと思うだろう。  だから、ここは誰よりも俺が落ち着いて、なんでもない事のように振舞わないといけない。 「セイバー、最後に桜のコトを言ってたよ。桜は思いつめるタイプだから、もっと気楽にいけってさ」 「……そうですか。セイバーさんとは仲直りしたばかりだったのに、お別れを言えなかったのは残念です」  ―――そうだな、と頷く事はできなかった。  別れを言う事も出来ず、セイバーはいなくなった。  ……それが、吐きそうなほど胸に重い。    たった六日だけの協力者。  たった六日しか一緒にいられなかった相棒。    たった六日――――俺の剣であってくれたあいつに、俺は何をもって応えるべきなのか。 「でも良かった。あの人が来てから、先輩怪我してばかりだったから。これで今までどおりですね、先輩」 「え?」 「そうですよね? 何をしていたかは訊きませんけど、先輩はセイバーさんの為に出歩いていたんでしょう?  けど、そのセイバーさんも帰ってしまったんですから、先輩が危ない目にあう事もないじゃないですか」 「いや。セイバーがいなくなっても、夜に出歩くのは続けるけどな。……その、セイバーに付き合ってたんじゃなくて、俺がセイバーをつき合わせてたんだから」  腰を上げる。  手当てが済んで、緊張も解れたんだろう。  なんか、急激に眠くなってきた。 「え――――先、輩」 「おやすみ桜。  それと今の話な。明日からもっと家を留守にするだろうけど、桜は今まで通りここを使ってくれ。  今夜みたいに帰りが遅くなる時もあるけど、気にせずちゃんと眠ること。さっきみたいにずっと玄関で待ってる、ってのはなしだぞ」 「………………はい。おやすみなさい、先輩」  体を休める。  ……実感はなかったが、体は本当に疲れきっていた。  うつぶせに横になっただけで、体も心も今すぐ眠りに落ちたがっている。 「――――――――」  その前に、覚悟を決めようと闇を睨んだ。  セイバーが何に敗れたのか、自分が戦うべきモノがなんなのか。  それをキチンと、ここで受け入れなければならない。 「――――――――」  ……アレを思い出すと胸が軋む。  体は小刻みに震えて、怒りとも恐れともつかない焦燥に、心が折れそうになる。 「――――俺が、戦うべき相手」    それがあの影だ。  無差別に街の人間を襲う“何か”。  セイバーとアーチャーでさえ恐れていた黒い影。  ……見てはいないが、確信めいたものがある。  セイバーはヤツに敗れた。  アサシンではセイバーを倒せない。  なら、あの場で彼女を打ち破れるモノがいたとすれば、それはあの影だけだろう。 「―――――――」    セイバーを倒したソレを倒す。  敵はそれだけじゃなく、間桐臓硯やアサシンとも争わなければならない。  マスターでなくなった俺を用済みだと臓硯は言った。  だが俺が聖杯戦争と“黒い影”を追い続ける限り、臓硯は必ず現れる。 「――――――――」    ……体が震える。  もうセイバーはいない。  傷を癒してくれる奇跡もなければ、武器になるのは半人前の魔術だけだ。  自分でもこれが無謀な、自殺行為だと理解している。 「――――でも、戦うと決めた。正義の味方になるって言ったんだ」    その為にセイバーを失った。  その為にあの火事から今まで、切嗣の後を追ってきた。  俺に許された事は、二度とあんな惨状を繰り返させないよう、戦いを止める事だけ。    ……だから、震えるのはこの夜だけにしないと。    朝になって傷が癒えた時。  いなくなってしまった彼女に胸を張れるよう、強い自分になっていなくちゃいけないんだから――――    部屋に戻ってくる。  少女は重い足取りでベッドまで歩き、とすん、と力なく腰を下ろした。   「……先輩。あんな怪我をしたのに、まだ」    何があったのかは知らない。  ただ、少年はたった数時間で絶食したかのようにやつれ、体中に傷を負っていた。  数日前、突然この家に現れた金髪の少女も帰ってこない。  その状況だけで何か取り返しのつかないことが起きたのは明白だ。  少年は何かを隠し、金髪の少女はその結果帰ってこなくなった。   「………………」    が、そんな事はどうでもいい。  彼女にとって、そんな事はどうでもいいのだ。  何が起きたかは知らないが、少年さえ無事でいるのならそれでいい。  彼女にとっては、衛宮士郎が帰ってきてくれる事に勝る喜びはない。   「……あれ……今日、冷えるのかな……」    寒気を覚えて額に手を当てる。  ……熱い。  体は熱を帯びて、気をしっかり持っていないと倒れてしまいそうだ。  軽い風邪だろうか。  流行り病にはかからない少女にしては珍しいが、何しろ三時間近く廊下で待ち続けていたのだ。体調を崩すのは当然である。   「…………、ん……」    だるい体に鞭を打って電気を消す。  着替えるだけの余力はなく少女はぼすん、とベッドに倒れ込んだ。   「……大丈夫。こんなの、先輩に比べたらぜんぜんだし―――」    うつ伏せになったまま、少女は数分前の光景を思い返す。    ……おろし金をかけられたような背中。  ……重い鈍器で叩かれ、真っ黒に腫れたお腹の痣。  ……心身共に傷ついていたのに、やっぱり少しも曇っていなかった強い眼差し。  思い返した瞬間、どくん、と体温が上がってしまった。  それが昂揚ではなく憎しみによるものだと、少女は気付かないフリをする。   「……いったい、誰があんな」    ……そう。  誰かは知らないが、彼をあそこまで傷つけた誰かが許せない。  憎いとか嫌いとか、そういう一時的な感情ではない。  あの人はずっと傷ついてきたのに、今まで〈綺麗〉《むきず》なままここにいてくれた。  その、自分なんかとは違う大切な存在を傷つけるモノは、誰であろうと許さない。   「ん……けど……先輩の背中、すごかったな……」    横になったまま、ぼんやりと手を伸ばす。  ……あんな身近で、少年の素肌を見たのは久しぶりだ。    初めて会った時は男の子にしては小柄で、自分とあまり背が変わらなかった。  それがここ二年で急速に『男の人』になりつつある。   「………………、ん――――」     少年が風邪で倒れた時とは違う。  あの時はただの風邪だ。  今夜の、傷ついた男の身体とは別である。   「――――先輩」    思い返すとあたまがぼうっとする。  一日も手を抜いていないのだろう、鍛えられた筋肉は無駄がなく、素肌を晒すとびっくりするぐらい〈逞〉《たくま》しかった。  しなやかな体つきは、動物に喩えるならカモシカだろう。外見からでは計れない、小振りなクセに絶壁を駆け上るような美しさがあった。   「うん……胸だって広かったし―――すごく、男の人、だった」    伸ばした指が、ここにはない胸板をなぞる。  指は無意識に、水滴のように彼の身体を滑っていく。  胸板から首筋へと。  シーツを滑る指は、首もとから唇まで―――     「――――――――あ」    カア、と顔中が真っ赤になった。   「ば、ばか……!」    慌てて腕をひっこめる。  顔だけではなく耳まで真っ赤にして、少女はベッドの上にまるまった。  ここまで赤くなるコトではなかったが、今は指先の記憶が鮮明すぎる。  さっきまで少年に触れていた指は、いつも以上に確かな想像の感触を甦らせたからだ。 「……せんぱい」  その指を、固く握りしめた。  顔を、指を、身体を熱くする熱に沈む。  思考は一つのコトしか考えられない。  拳を胸によせ、指先に残った感触を抱くようにして。 「……せんぱい……………」    体の中から湧き上がる熱に耐える。    この熱に流されてしまえば、少女は踏みとどまれなくなる。    そうなれば、すがるように考えてる一つのコトも、考えられなくなる。 「………ごめん、なさい」    少年に対する戸惑い、罪悪感が少女をより追い詰めていく。    傷ついた少年の身体。背中についた血の跡を思うだけで、目眩がする。    もう帰ってこない少女。奪い返したという事実。様々な嘘。    普段の自分からは想像も出来ない暗い感情が、少女をより屈折したところへと、底にある悦びを目覚めさせようとして――― 「せんぱい……わた、し――」  その名前を口にして、暗い感情を抑え込もうとした。  いつまで、それを抑え込めるのか。  腕を、胸が歪むほどに抱いて。  少女の胸の中に、思考が湧き上がる。   「は………」  本当に嬉しいのは、こんなにも安らぐのは、少年が自分のもとに帰ってきてくれたコトだけ。 「…………それだけで、いいのに、せんぱいは」  ……でも足りない。  今度のことで判ってしまった。  あの人は私を気遣ってくれるけど、同時に、私を遠ざけることで守ろうとしているのだと。 「……だめです。だめですせんぱい。わたし、もっとせんぱいに、傍にいてほしくて……」  その思いを口にする。  それが強引な願いだと分かっている。  言葉にしてはいけない願い、叶えられない願いだからこそ――― 「……ごめんなさい。ごめんなさい、せんぱい」  少女は懺悔の言葉を口にする、  あんなに少年が傷ついていたのに、そのことを悦んでしまう自らを卑しいと。  少年が自分を守ってくれるのに、それを無駄にしてもよろこびを得たいと。  そんな自分が、少年と供にいたいというのは、裏切りになりはしないか。  だから、ごめんなさい――と。  懺悔と謝罪が、彼女の熱を冷ましていく―― 「……あ……は……あ……」    ベッドの中で、じっとりと汗ばんだ身体をまるめる。  自責の念が、どこか昂奮に似た熱を覚ましていった。     熱が冷めても、少女には重い〈煩悶〉《はんもん》がある。    ……傷ついた体。  あんな目にあったというのに、彼はまだ戦うという。   「……どうすればいいんだろう。先輩、このままだともっと大きなケガをしちゃう……」    汗ばんだ体で思い悩む。  元より答えなど出ない悩み、少女には解決しようのない問題だ。  このまま夜が明けるまで考え抜いたところで、少女には少年を止める術など思いつけない。    しかし―――   「あ―――なんだ。外に、出さなければいいんだ」    ほっとした声で、ごく単純な答えにいきあたった。    少女は突然の天啓に顔を〈綻〉《ほころ》ばせ、心の底から安堵するように、     「うん。歩けなくなるぐらいの怪我をしちゃえば、もう危ない目に遭うことないですよね、先輩―――」    そう、語りかけるように呟いた。    石の匂いがする部屋だった。  明かりは人工のものではなく天然のもの。  揺らぐランプの火は男の背中を照らし、その手元に敷かれた羊皮紙を浮き彫りにする。   「―――協会とやらへの報告書か? おまえも忙しい男だな、言峰」    声は気配もなく、背後からかけられた。  それに驚いた風もなく、椅子に腰をかけた男……言峰綺礼は二つ目の仕事に取り掛かる。   「ほう、例の簒奪者についてだな。  どれ、被害者は既に五十七人、うち死亡者は五名ときたか。監督役としてこれは多い方なのか、言峰」 「―――この段階ではなんとも言えん。これほど大規模な意識不明事件は初めてだが、それで留まるのなら問題はない。どちらの〈組織〉《きょうかい》もこの程度の後処理は承知の上だ。  だが――――」 「それも今のままのペースなら、か。……ふん、何処の誰だか知らんが派手にやってくれる。  気付いているのか言峰。このまま放っておけば、この街は無人になるぞ」    言峰は答えない。  背後に現れた青年の言い分など、彼とて承知している。    街に現れた謎の影。  今はまだ生命力だけを吸い上げているが、その量も日に日に増えてきている。  二日前から始まったこの異常搾取は、あと数日ほどで規定量を超える。  今はまだ呼吸困難程度の病状に留まるが、いずれは健康な成人男性でさえ、夜を越える事は出来ぬようになるだろう。   「だがその心配は無用だ。素人ではあるまいし、際限を知らぬという訳でもあるまい」 「そうかな。あの蟲使いはそうでもなさそうだが。あの手の輩は早目に潰さねば祟るぞ? 〈我〉《オレ》とて、おめおめと街の人間を殺されるのは性にあわぬ」    言峰にとっては、その発言こそが驚きに値する。  この、自分以外は何者も要らぬという男が、街の人間の安否を気遣うとは。   「驚いたな。どういう風の吹き回しだ、ギルガメッシュ」 「驚くことはあるまい。〈我〉《オレ》は、〈我〉《オレ》以外の者が人を殺める事を善しとはせん。 人が人を〈屠〉《ほふ》らばつまらぬ罪罰で迷おう。その手の苦しみは楽しくもないからな」   「……なるほど。おまえはおまえでやはり英霊だな。  生の苦より救うために死を遣う。ならば、おまえの望みはやはり死か」 「当然だ。〈現代〉《ここ》は無意味で無価値な者ばかりだからな。一掃するのが正義というものだろう」    蔑む声は、絶対的な余裕と威厳に満ちていた。  神父はそれを聞きながら、手を休める事なく業務をこなしている。   「―――なるほど。  そう望むのなら、聖杯はおまえが使うがいい。おまえを打倒する者が現れない限り、聖杯はおまえのものだ」 「フン? 言峰、おまえには望みがないのか」 「明確な願いなどない。私にあるものは、明確な快楽を欲する己のみだ」 「ハ―――ハハハ、そうか、おまえには快楽のみか――――!」    簡潔な答えに青年は笑い出す。  心底楽しいと、自らのパートナーを誇るように。   「よいぞ。〈我〉《オレ》はおぞましいから殺し、おまえは楽しいから殺す。理由は違えど聖杯に求めるものは同じ、なればこそ〈我〉《オレ》をここまで繋ぎとめたという訳だな!」 「――――――――」    神父は答えない。  彼はただ、淡々と己が役割をこなしていく。   「ふん―――おまえが動かぬのならばそれでもよい。せいぜい好きにさせてもらうぞ」    青年の気配が消える。  静寂を取り戻した石室で、神父は出口を一瞥した。   「酔っているように見えて芯は正気のままか。あの泥も、アレの魂までは汚染できなかったと見える」    英雄王ギルガメッシュ。  黄金のサーヴァントは、この時点で最強の存在である。  それは自他ともに認めるもので、ゲームマスターである言峰自身それを疑っていない。    しかし――――   「無価値な物はあるが、無意味な物などない。  ……注意するのだな英雄王。おまえに敗北を与えるモノがあるとすれば、それはその一点のみだろう」    独白は誰にも届かない。  赤い明かりに照らされた神父は、未来を見据える予言者のようでもあった。  続・愛が足りないぜ! うう、改心して道場を卒業した筈のアヤツが、悪魔っ子として蘇ってしまうとは……あの子、ほんとに今度こそヒロインになれるのかしら? ……ま、無理か。  無理ね、どー考えても無理! 今ごろ道場の外でガタガタ震えて、再入門したいんだけど大口たたいたてまえ、なかなか帰ってこれないと見た! ま、外は寒いし、次あたりお土産もって帰ってくるでしょ。 さて、今回のバッドエンドはまたも愛情の欠如。 今回足りなかった相手は一目瞭然でしょ? イリヤちゃんが本気にならないように、もうちょっとあの子と仲良くしてあげるコト。 ポイントとしては七日目にイリヤちゃんに会えるかどうか、その時どんな謝罪をするか。 もし七日目に会えなかったら五日目からやり直すコト。  学校で遠坂さんに会ったら、ちゃーんと相談しないとダメよ。 そんなところで今回のタイガー道場はおしまい。  謎の新キャラが多数出現してガラリと雰囲気を変える桜ちゃんルート、引き続き楽しんじゃってね~。 いらっしゃーい!  些細な選択ミスでデッドしたシロウを救う、いつもお馴染みタイガー道場でーす! 今回は選択ミスによるデッドエンド!  小難しい説明はしないから、直前の選択肢に戻って違う行動を―――― そこ、不法侵入者! でもどりっ! うそ乗っ取りおこがましい!  わたしがいない間に何をしているかもと弟子一号! あう……違和感なく溶け込んだのにあっけなく見破られたぁ……。 どのツラ下げてそういうコト言うかなこのブルマは。 で、どういうつもりよ。  あなた、本編が忙しいから道場には来ないんじゃなかったっけ? え……あはは、これはその、ちょっと予想外のパワーバランスになってきたっていうか……ほら、タイガ独りじゃ寂しいだろうから帰ってきたっていうか。 ………………………………それで? あ、う……えーと…… わーん、もうプライド大安売りー!  お願いするっす、もう一度弟子入りさせてほしいっす師しょー! うむ、全身全霊で断る! 路頭に迷えブルマっ娘! やったー! だからタイガってば大っきらいー!  こうなったら力ずくだー! 見てなさい、次に来る時は問答無用で征服してやるんだからー! わっはっは、望むところよ悪魔っ子め!  魔術なしでどこまで出来るか、楽しみに待つとしよう、ガハハハハー!             ――――――――熱い。      どうしてそんなコトになったのか。  フトンをかぶって、目をとじて、ちゃんとおやすみなさいって言ったのに、つぎにやってきたのはマッカなけしきだけだった。              ――――――――熱い。      うるさくて目をさます前に、お母さんがおこしてくれた。  よるなのにとても明るい。  お父さんがだき上げてくれて、ごうごうともえるロウカを走っていく。              ――――――――苦しい。      うしろからお母さんのこえがした。  お父さんはひとりでいけるな、といった。  外でまっていなさい、とあたまをなでた。  うなずいて、いうとおりにした。              ――――――――痛い。      外もうちのなかと変わらなかった。  みんなまっ赤で目がいたかった。  だから目をつむってはしった。あつくないところに行きたかった。  ふりかえるとうちはなくなっていた。  いいつけを守らなかったから、バチがあたってしまったんだ。              ――――――――目が、痛い。      なきながら歩いた。  うちに帰ってまっていなくちゃいけなかった。  けど、うちがどこにあったのか、もうわからなくなっていた。  手でかくしていた顔をあげる。              そこで―――初めて、その光景と正面から対峙した。      遠くで町が燃えている。  もう消すことのできない炎は、変えられない出来事だ。  それは十年も前の話。    遠くで燃えている炎は、距離ではなく時間として遠すぎる。   「あ―――――、つ―――――――」    肌が痛い。  息をすると喉が焼ける。  生きていると肌が軋む。  逃げようと動かした足首には、重いモノが足枷となってまとわりつく。  それが生きている俺を仲間にしたがる死の気配だと、子供心に分かっている。   「あ――――、れ――――」    ……それにしても、熱い。  喉を掻き〈毟〉《むし》る爪が変色している。  吸う息が焼けた食道を突き刺していく。  眼球は正常な役割を放棄して、脳みそは頭の中で蒸し焼きだ。   「な――――、ん、で――――」    ―――熱い。  熱い、熱い。熱い、熱い、熱い。熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い…………!!!!   「は――――――――あ」    思い出した。    ここは熱い―――酷く熱い。  なのに寒い―――恐く寒い。    沸点を超えたらぐるりと回って凍結温度。  燃える血はすぐに固まって止まってしまい、目に映るものはあべこべだ。  それで熱い。  だから寒い。    以って、おかしくなるほど熱かった。                  ……だが。      それは、果たして何が原因だったのか。   「――――――――」    空には、黒い太陽があった。  夜なのに太陽があることも、太陽が黒いことも、特別不思議に感じなかった。  だって何もかもあべこべだったのだ。  だからそれぐらい、逆になっていて当然だ。   「あ――――あ…………!」    なのに逃げ出した。  コわくなって逃げダした。  まわりの火なんてぜんぜんこわくなかった。  あのくろい影にくらべれば、やけしぬのはニンゲンらしくてただしいとおもった。  だからニげた。  アレにつかまったら、もっとこわいところにツれていかれるにきまっていたからだ。            ――――ぼんやりと空を見る。    いずれ雨が降ると知って、伸ばした手はゆっくりと地面に落ちて―――― 「――――っ、あ」    ゆっくりと目蓋を開ける。  目覚めたばかりの頭で、ぼんやりと自分の部屋を見渡した。 「――――夢、か」    横になったまま、ほう、と胸を撫で下ろす。  夢から覚めてホッとするなんて何年ぶりだろう。 「……けど……はっきりとした夢、だったな」  額に熱さを感じながら、ぼんやりと呟く。  昔はこの夢を見て何度もうなされたものだ。  ……それは十年も前の話。  あの頃は記憶が鮮明で、眠る度に炎の中を彷徨った。  忘れる日が来るなんて、それこそ夢にも思えなかった。    あの日の空も、焼けた空気の匂いも、出口のない炎の壁も、眠りに落ちれば現実となって在り続けた。 「――――――――」  それは今だって変わらないと思う。  けど、それにだって鮮度はある。  傷は癒えるものだし、記憶は色褪せるものだ。  ここ数年、あの火災を夢に見ても繰り返すのは一面の赤色だけだった。  あんな、爆ぜる空気の匂いまで実感するような夢なんて、なんで今更―――― 「――――――――」  それに、あれはなんだったのか。  あんなもの、俺は知らないし覚えていない。  いや、そもそも見てもいない。 「っ―――――――」    ……吐き気がする。  考えようとすると目眩がする。  そんなコトは考えるな、と体についたブレイカーが落ちかける。 「――――起きよう。顔を洗ってすっきりしないと」  あんな夢を見たせいか、体は汗だくだ。  寝巻きは汗を吸って気持ち悪いし、頭もなんだかフワフワする。 「あ……れ?」  ……腕がだるい。  というか、力が入らなくて、立ち上がれない。 「ちょっ――――どうなってんだ、これ」  くそ、喋るのが辛い。  ゆるゆると手を額にあてると、それなりに熱かった。 「……うわ。もしかして風邪ひいたのか、俺……?」  ちょっとびっくり。  風邪なんて引いたの初めてだ。  こっちにきてから生傷は絶えなかったものの、風邪だけは引かなかったのだが。 「……だからあんな夢を見たのかな。体が熱いから、夢の中も熱かったんだ」  ああ、それなら納得がいく。  頭もぼんやりしてるし、これならおかしな夢の一つや二つ―――― 「――――、あ」  ちょっ、ちょっちょっちょっと待った何くつろいでんだよ俺はーーーーーー!!!??? 「っ、なんで、どうして、どのように!?」  ガバリと起きる。  んで、布団の中を確認する。  体がだるいとか腕に力が入らないとか言ってる場合じゃない。  んでなんかあったら朝からお風呂に入って秘密裏に証拠を隠滅、すみやかに漂白・脱水しなくては今後の発言権に支障をきたす。  率直に言えば、衛宮邸における士郎株がだいぼうらくだ。 「―――って。別に、そーゆーコトは、ないようです」  ……良かった。  その、体中寝汗でびっしょりだっただけで、他にこれといった異状はない。 「……夢、だよな。そうだ。だって、あんなの夢だし」    ……眠っている間に学校になんて行ってないし、遠坂とおかしなコトになったワケでもない。  アレは俺が身勝手に見た夢だ。  寝巻きは寝たときのままだし、そもそも隣の部屋にはセイバーがいたワケだし! 「……そうだよな。俺が出歩いてたら、セイバーが気付かない筈がない」    ――――ふう、と思いっきり息をつく。  とたんに力が抜けて、ばふり、と派手に背中から倒れこんだ。 「シロウ……? どうしました、いま音がしたようですが」  〈襖〉《ふすま》ごしにセイバーの声がする。  ……ほら見ろ。  これだけでセイバーが気付くんだ、ならアレは夢。もう夢、ぜぇっっっったい夢。そうでもなけりゃどの〈面〉《ツラ》さげて遠坂に会えというのだ。 「シロウ?」 「―――よ、よう。おはようセイバー」 「どうしたのですシロウ。横になったまま挨拶をするなど、貴方らしくもない」 「いや、ちょっと不測の事態が起きて」  不思議そうに首をかしげるセイバー。  さて。  アレが夢だったのはほんっとーに助かったけど、一難去ってまた一難というか。  体はだるいし立つコトもできないし、どうやって朝飯を作ったもんか―――― 「三十七度六分。ふーん、士郎が風邪引くなんて珍しいわね」    体温計を片手に、実にあっさりと診断を下す。  ……ま、こっちもそうだろうなって思ってたから意外じゃないんだが、風邪っていうのはここまで体が重くなるもんだったんだ。 「それで痛いとこ、他にある? 喉が痛いとか、あたま痛いとか」 「? いや、別にそうゆうのはないよ。体が重くて熱っぽいだけなんだけど、おかしいかな」 「んー、痛いところがないんならそのほうがいいかな。  あ、けど士郎は我慢しちゃう子だから気付いてないだけかもしれないか。……うん、念のため他の薬も用意しとく」  救急箱から風邪薬だの喉飴だのを取り出す藤ねえ。  切り傷の手当てならお手の物だが、こういう病気の手当てには慣れていないようだ。 「さんきゅ藤ねえ。それとごめん。朝メシ、作れそうにない」 「バカなこと言ってないの。士郎と朝ご飯、どっちが大切だと思ってんのよ。セイバーちゃんが呼んでくれたから良かったものの、いつも通りご飯作ってたらほんとにカミナリ落としたんだから」  むっ、と本気で怒ったりする。  ……そうだな。そんなの、口にするまでもなかった。 「それとご飯なら心配いらないからね。桜ちゃんがおかゆ作ってくれたから、お腹が減ったら食べなさい」 「え……? 桜がおかゆ……?」  ……ってことは、桜の体調はもういいんだ。 「桜、体の方はいいのか? 俺より辛そうだったじゃないか」 「はい、ちゃんと熱は引きましたから心配はいりません。  夜も恐くなかったし、ぐっすり眠れちゃいました。これも先輩が看てくれたおかげです」  ……そっか、良かった。  しばらくかかると思っていたけど、一晩で治ってくれたんなら安心だ。 「そっかー、忘れてた忘れてた。昨日は桜ちゃんが風邪ひいてたんだっけ」 「え……? そうだけど、なんだよ。……その顔、すごく邪な感じがするんでやめてくれ」 「ふっふーん。もしかして士郎、桜ちゃんの風邪が移るような真似しちゃったの?」 「は? 桜の風邪が移るって、どうしてさ」 「あれ、わからない? 桜ちゃんの熱は下がってるんでしょ? なら士郎がなんかしたんじゃないの? むかしっから、風邪は人に移すと治るっていうし」 「……?」  わけがわからず桜に視線を向ける。 「――――あ」  それで、藤ねえのヤツがなに口走ってんのかがようやくわかった。 「ば、ばばばばばバカかアンタっ! き、昨日は熱計って薬出しただけだっ……! じょ、冗談でもそうゆうの禁止だ藤ねえ、泊まってくれた桜に失礼じゃんかっ……!」  カア、と顔が真っ赤になるのがわかる。  三十七度の熱は、間違いなく三十八度の大台にのってしまった。 「なーんてね、わかってるわよそんなの。士郎にはそんな甲斐性ないもんねー」 「っ……なんか、それはそれでムカツクけど、誤解がとけたんなら、それでいい」 「よしよし。それじゃ欠席届は出しとくから、今日はゆっくり休んでること。セイバーちゃん、士郎をよろしくね。  この子、ほっとくとなんでもしちゃうから布団に縛りつけておいて」 「もとよりそのつもりです。シロウが起きださぬよう監視をし、食事を与えればいいのですね?」 「うわ、なんか物騒な言い回しだけど、間違ってないからいっか。セイバーちゃん、そのとおりにお願い」  無言で頷くセイバー。  ……なんか、得も言えぬ危機感が走ったのは気のせいか。 「じゃ、セイバーちゃんのいう事ちゃんときいて、わたしたちが帰ってくるまで大人しくしてるのよ。夕ごはんは精のつくもの買ってきてあげるから、それまでに体を治しておくこと」  うんうん、と笑顔で無理難題を言いつける藤ねえ。 「……?」  その後ろで、何か言いたそうに俯いている桜が気にかかった。   「いってきまーす。おみやげ期待しててねー!」    ヒラヒラと手を振って、藤ねえは出勤していった。 「…………ふう」  藤ねえを見送って布団に戻る。  部屋から縁側に出ただけだっていうのに、手足は休息を欲しがってすぐに倒れてしまう。  ……熱はそう高くないのだが、体が疲れきっているらしい。  藤ねえの言う通り、しばらく横になって体力を戻さないと何もできない。  と。  もう七時半を過ぎたっていうのに、桜が部屋にやってきた。 「桜? どうした、もう七時半だぞ。そろそろ登校しないと間に合わないんじゃないか?」 「……………………」  桜は気まずそうに目を伏せる。  それがさっきの、何か言いたげな表情と同じだと気付いたころ、 「あの、先輩。わたし、ここに残っちゃいけませんか?」  顔をあげて、そんなコトを言ってきた。 「?」  残るって事は、学校を休むって事だよな。 「……あ。もしかして、桜もまだ熱があるのか?」 「…………いえ、熱はもう引いてます。ただ、その」  言いにくそうに言葉を濁す。  ……ふむ。  たしかにまだ顔色は悪いし、あれだけ具合が悪そうだったものが一晩ですっかり良くなるってのも無茶な話だ。 「そっか、桜も風邪気味だったもんな。けど大丈夫か?  欠席届とか出さないで」 「……はい。あの、ずる、しちゃおうかなって」 「?」  ずるって、ずる休みのずる? 「なんでさ。桜は風邪引いてるんだから、別にずる休みってわけじゃないだろ。熱があるなら部屋で寝てないといけないんだから」 「……う。えっと、ですから、わたしの体はいいんです」 「???」  ますます分からない。  桜、なにが言いたいんだろう? 「そ、そのですね。先輩が風邪を引いたのって、わたしのせいだと思うんです」 「なんだ、藤ねえのたわごと真に受けてんのか? 大丈夫、そんな事はないって。俺、最近は夜になると散歩しててさ。それで勝手に風邪引いたんだよ」 「そ、それでもいいんですっ。……その、わたしは元気で、昨日のお礼というか、先輩の看病がしたいので、ずるしちゃいたいんです……!」 「――――む」  どうも、桜は俺の風邪引きに責任を感じているようだ。  正直、桜が傍にいてくれるなら安心できる。  セイバーだって眠っていなけりゃいけないし、桜が薬の用意とかしてくれるなら有り難い。 「あの、先輩……?」 「うん。それじゃ頼む、桜」 「そ、そうですよね。先輩にはセイバーさんがいるし、わたしが残っても、何も――――  って、先輩?」 「うん。だから看病を頼むよ、桜」 「えっと――――――わたし、ですよね?」 「そうだよ。セイバーも時差ぼけでさ、昼間は眠ってるんだ。情けないんだが、桜が昼飯とか作ってくれると助かる」 「は、はいっ!  わ、わたし、せいいっぱい頑張りますね、先輩っ!」  さっきまでの緊張はなくなったのか、一変して笑顔で応える桜。  ……うん。  やっぱり、桜にはこういう笑顔が似合っている。  んで、いくぶん時間が経った午前十時。  桜お手製のお粥を食べて、体はすっかり元気になった。  朝方にあった手足のだるさはもうなくなっている。  動くだけなら何の支障もなく、その気になれば今からでも学校に行けるだろう。  が。  これは風邪っていうより極度に栄養が足りなくなってただけなんじゃなかろーか、と訝しみながら布団から出ようとした矢先、   「あ、ダメですっ! 先輩、熱が下がるまでぜったい安静ですからね」    と、駆けつけた桜に念を押されてしまったのだ。 「――――ふう」  で。  桜はなんだかやる気満々だし、朝飯を作ってもらったコトもあるし、確かに体はまだだるいしで、結局今も横になっている。  桜は俺にお粥を食べさせた後、やるコトがあると席を外した。  セイバーは居間で休んでもらっている。  さっきまで部屋の片隅で正座していたのだが、こっちが落ち着かないので居間に移動してもらったのだ。  もちろん反論されたが、今日だけ警護場所を変更する、という事で納得してもらった。 「失礼します。お体の調子はどうですか、先輩」 「おかげさまで良くなってるよ。体のだるさはまだあるけど、熱はもう下がってる」 「よかった、それじゃもうお薬はいりませんね。あとは美味しいものを食べて、ゆっくり休んでいれば安心です」  桜は隣の部屋に足を運ぶと、新しい布団を持ち出した。 「? 桜、なにしてんだ?」 「なにって、新しいお布団ですよ? 先輩はずっと汗をかいてたんですから、そろそろ替えないといけないかなって」  ぽんぽん、と慣れた手つきで俺の隣に布団を敷く。  驚くべき事に、ホコリはまったくたたなかった。 「はい、用意できました。どうぞ先輩、こちらに移ってください。……あ、その前に着替えですね。わたしはお布団を干してきますから、新しい寝巻きに着替えておいてください」  布団に続き、ササッと寝巻き一式を用意する桜。 「――――――――」  な、なんて完璧な看護ぶりなのかっ。  これは手馴れてるとか気が利くとか、そういうレベルの話じゃない。 「遺伝子だ。きっと遺伝子にそういうスキルが備わってるんだ」 「? 先輩、なにか言いました?」 「言った。不謹慎だけど桜が休んでくれてよかったって。  正直、桜のことを見直しちまった」 「とうぜんですよー。もうじき一年半ですからね、先輩のおうちのコトはちゃーんと解っているんです」  ふふーん、と得意げに胸を張る桜。  自信満々な顔には、なんか見ているこっちまでにやけてしまった。 「そっか。んじゃ布団は任せた。ここは厚意に甘えて、病人らしく言うこと聞いてる」 「はい、まかせてください。布団を干し終わったらリンゴ剥いてきますから、期待して待っていてくださいね」  今まで俺が寝ていた布団を抱えて、桜は廊下へと出て行った。 「――――うわ。一気に全部持っていったな、桜」  そのハリキリぶりに驚きつつ、用意してもらった寝巻きを手にとる。  ―――さて。  それじゃタオルで体を拭いて、新しい寝巻きに着替えて、おとなしく布団に入って桜を待つとしよう。  そうして、どれくらいの時間が流れたのか。  桜は宣言通りリンゴを剥いて持ってきて、俺はそれをおいしくいただいて、 「もう。無理は禁物ですよ、先輩」  桜に叱られて、もう元気だっていうのに横になっている。 「で、セイバーが手伝ってくれたのか?」 「はい。何もしていないのも疲れるからって。おかげで客間のお掃除もできて助かりました」 「そっか。雑巾をしぼるセイバーってのも見たかったな。  こう、だだーっと客間の廊下を雑巾がけしたのか?」 「はい、二人でいっしょに頑張りました。セイバーさん、これはこれで参考になる、なんてコト言ってましたけど」  ちょっとだけ困ったふうに微笑む桜。  慣れたとはいえ、セイバーへの苦手意識はまだ取れていないようだ。 「……うん、ともあれご苦労様。けどあんまり無理するなよ。桜だって病み上がりなんだ。俺の世話だけでも大変なんだから、掃除までするコトないぞ」 「そんなコトありません。ここで朝を過ごして、夕方もご飯を食べさせてもらってるんです。ならお掃除をするのは当然ですよ。わたしだって、その」    ―――この家の一員なんですから、と。    遠慮がちに、そうなったらいいなと願うように、桜はごにょごにょと呟いた。 「―――そうだった。俺も桜も藤ねえも、家族みたいなもんだった」 「え……先輩?」 「遠慮して悪かった。家族なら看病ぐらい当然だもんな。  俺だって桜が倒れたら、どんなに嫌がられても看病する。  だから、遠慮なんてする方がバカだったんだ」  すまん、と反省する。 「――――――――」  会話が止まる。  桜は、僅かに驚きで呼吸を止めたあと。 「――――はい。わかってもらえたのならいいです。先輩はちょっと、人のコトを大切にしすぎだと思います」    幸せそうに微笑って、乱れた布団をかけなおしてくれた。 「――――――――」  そんな事で、今更ながら思い知った。  この家がいつもキレイだったこと。  使わない部屋も気がつけば手入れされていて、まるで〈切嗣〉《オヤジ》がいた頃みたいに活気があって、生活の匂いがしていた理由。  学校の後輩。友人の妹。  そんなきっかけで知り合った桜こそが、俺以上に、この家を守ってくれていた。  この一年半、日々は本当に穏やかだった。  ……その、あんまりにも当たり前すぎて気がつかなかったけれど。  藤ねえと俺だけじゃ得られなかったものを、桜は持ってきてくれていたんだ。 「――――――――」  ぼんやりと桜を見上げる。  ……僅かに残った熱のせいか、幸せそうに看病をしてくれる桜のせいか。  桜の笑顔を見てると、ぼーっと胸があったかくなって眠くなる。 「――――、ん…………」  というか、眠い。  ……なんか気持ちいいし、桜には悪いけど昼まで眠ってしまおう、と目蓋を閉じて、   「―――けど先輩? わたしは、先輩のそういうところが大好きです」 「え――――?」  なんか、心拍数があがるようなコトを、言われた気がする。 「さ、桜?」 「っせ、先輩……!?  お、起きてたんですかっ……!?」  だだ、と慌てて体を引く桜。  そう派手に驚かれると、こっちも顔が赤くなるというか、熱がぶり返してしまって、困る。 「あ、う、その、桜」 「な、なにも言ってません! わたし、なにも言ってませんから! 顔を覗き込んだのはですね、えっと、熱! そう、熱を計ろうって思ったんですっ!」  あたふたと体温計を取り出し、がばっと覆い被さってくる桜。 「先輩、体温計です! ね、熱を計りますからくわえてくださーい!」  慌てているのか、桜は片手に体温計を持って、片手でこっちの体を押さえにかかる。 「え――――?」  ふにゃ、という感覚。  ……その、かすかに触れているのは、桜の胸、みたいだった。 「――――――――」  脳が沸騰する。  思い出してはいけない事、あんまりにもリアルな女の実感に、理性がトビかける。 「うわ――――!  ま、待て桜、ちょっとたんまーーー!」 「きゃっ――――!?」  もう全力、まったなしで布団から転がり出る。  ゴロゴロと布団からスライドし、とにかく最優先で桜の胸――――じゃなくて、桜から離れなくてはっ! 「せ、先輩……? あの、お熱を、計りたいんですけど」 「い、いい! それぐらい自分でやるから、桜はそこでストップ!」 「……? 先輩がそう言うのでしたら、いいですけど。  はい、それじゃあ体温計」 「だめーーーーー!  今はダメ、頼むから落ち着かせてくれ! いま近づかれると昨日の夢がぶり返して死んじまう!」  顔を真っ赤にしてストップサインを出す。  ――――と。 「昨日の夢、ですか?」  よっぽど俺の態度がおかしかったのか、桜は怪訝そうにこっちを見た。 「あ……う。……その、性質の悪い夢を見たんだ。  出来れば思い出したくないんで、今はそっとしといてくれ。い、言っとくけど桜が悪いワケじゃないぞ。俺が修行不足なだけだ」 「――――はあ。修行不足、ですか……?」  桜はぽかんとしたまま俺を見る。  ……あったりまえだ、こんなコト言い出されたらそりゃ呆れる。 「あの、先輩。その夢、いったいどんな夢だったんですか?」 「う――――」  と、とてもじゃないけど言えるかあんなのっ……! 「べ、別にそう大した夢じゃない。ただ、性質が悪かっただけだ」 「先輩」  ……う。俺の身を案じているからか、桜の目は真剣だ。  ……嘘は言えない。けど本当の事も言えない。  ここは――――   「ただいまー」 「何処に行っていたのですかシロウ!」 「何処に行っていたんですか先輩っ!」 「う、うえ――――!?」  思わず跳び退いて、がちゃん、と背中を玄関で強打する。 「うえ、ではありませんっ! 一人で外に出るなとあれほど言ったではないですか! それもそのように体調が悪い時に、私たちの目を盗んで出かけるとは……!」 「セイバーさんの言う通りです!  二時に戻ってくるって書き置きだったのに、いま何時だか判っていますか!? 先輩、二時間も何処であぶらを売ってたんですっ!」 「あ――――いや、待った。わかる。二人が怒っているのはわかる。わかるので、少し」  冷静になってくれると、少しは言い訳らしきモノも出来るのですが。 「わかってなどいません……! 昨日は学校に向かうという貴方の意見に従いましたが、今回は見逃す訳にはいきません。それほど元気だというのなら結構です。これから夕食まで、たっぷりと鍛えてさしあげましょう!」  ずい、と桜を押しのけて一歩踏み込んでくるセイバー。 「はい、道場の掃除なら済んでいますから気兼ねなく使ってくださいっ。セイバーさんの腕前は聞いていますから、先輩もきっとご満足いただけると思います!」  さらにずい、とセイバーを押しのけて怒る桜。 「あ――――う」  ……ダメだ、下手に事情を説明したら火に油ネコにコバン、セイバーなんて本気で契約解除をしかねない。 「シロウ、返事は!?」 「先輩、返事は!?」 「――――――う。反省、してる」  ガチャガチャガチャ。  後退させてくれない、背後の玄関が恨めしい。 「それでは早速行きましょうか。桜、救急箱の用意を」 「はい。どーぞ、ぞんぶんにお灸をすえてあげてください」  ずんずんと廊下を引き上げていく、妙に息の合った二人。 「…………うわ。今日の夕飯食えるのかな、俺」  さりとて、ここで行かなければどんな反撃が待っているかわからない。  ……反省の意を込めて、二人の言う通り道場でしごかれるしかないみたいだ……。    ……仕方ない。  できるだけ端的に、事実だけを述べてしまおう。 「先輩、誰が出てきたんですか?」 「……いや、その。出てきたのは遠坂だけなんだが」  釣られてポロッと白状する。 「―――そうですか。そう言えば、この前ここに来たんでしたっけ、遠坂先輩」 「あ……うん。すぐに帰ったけど、手当てしてもらった」 「……わかりました。それじゃ体温計、ここに置いていきますね」  桜は畳に体温計を置くと、重い足取りで出口まで歩いていく。 「お昼の支度がありますから、失礼します。支度が済んだら呼びにきますから、それまで休んでいてください」  ぱたり、と障子が閉まる。  去っていく足音は、いつもより冷たげに聞こえていた。    正直なのも時と場合による。  あんな夢、思い返すだけで赤面するのに口にしたらそれこそ熱でぶっ倒れるっ。 「先輩、誰が出てきたんですか?」 「誰って、別に誰も出てきてないっ。ほら、夢なんてのは目が覚めた途端に忘れるものなんだから、いつまでも覚えてないっていうか」 「そうなんですか? なら、覚えてる範囲でいいですから、知りたいです」 「ばっ……!」  い、いつのまに踏み込んできたのか、布団から退避した俺に詰め寄ってくる桜。 「だ、だからいま近寄るのはダメーーーー! 頼むから勘弁してくれ、この話は禁止禁止禁止―――――!」  ぶんぶんと手を振りながら、さらに畳を転がっていく。  くそ、ホントに修行不足だ。  いつもは意識しないでいられるのに、あの夢のせいで、桜の一挙一動が気になって仕方ないっ……! 「い、いいからしばらく一人にさせてくれ。びょ、病人の願いは聞くべきなんじゃないかっ!?」    部屋の隅に陣取って桜に抗議する。 「…………ふう。わかりました、無理には聞きません。  ほんとは聞きたいですけど、これ以上無理させたら熱が上がっちゃいますから」  桜は残念そうに後退する。 「面目ない。心中察してくれて、助かる」  で、いそいそと布団に戻る俺。 「それじゃ先輩、お昼の支度がありますから失礼します。  支度が済んだら呼びにきますから、それまで安静にしててくださいね」 「あ、うん。お昼、よろしく頼む」 「はい。おかしなコト訊いて、すみませんでした。お昼はあったかいおうどんにしますね」  ぱたり、と障子が閉まる。  いつもの柔らかい笑顔を残して、桜は居間へ去っていった。 「ごちそうさまでした」 「ごちそうさまでした」  二人そろって一礼する。 「おそまつさまでした。先輩もセイバーさんも、きれいに食べてくれましたねー」  後片付けを始める桜。  食卓には土鍋と三人分のどんぶり、うどん用の薬味各種が並んでいる。 「あ、片付けは俺がやる。熱も下がったし、それぐらいしないと」 「そうですか? それじゃ体力検査という事でお願いしちゃいますね。洗い物はわたしがやりますから、先輩は食器運びとテーブル周りの後片付けをやっちゃってください」  桜はエプロンをつけながら台所に移動する。  さて、こっちも土鍋とどんぶりを運ぶとするか。 「シロウ、体は大丈夫なのですか? 熱は下がったと聞きましたが、顔色はまだ悪いではないですか」 「え? なに、顔青いのか俺?」 「……む。いえ、青いと言うのではなく、悪いのです。  マスター―――魔術師にとって生命線とも言える魔力が不足している。昨夜の戦闘ではシロウに負担をかけた覚えはありませんが、あの境内そのものに魔力を吸い上げる仕掛けがあったのかもしれません」 「――――むむ」  ……言われてみれば、柳洞寺の雰囲気はどこかおかしかった。  中にいた人たちも衰弱していたし、キャスターは入った人間から生命力を奪う結界でも張っていたのか。 「ま、体は元気になったから問題ないさ。魔力だって栄養をとれば戻る。俺の魔力量なんてタカが知れてるんだから、ちゃんと夕飯を食べれば戻るだろ」 「ふう。当事者である貴方がそう言うのならこれ以上追究しませんが。……まったく、桜の言う通りです。シロウはどうも、自分のコトを蔑ろにしている節がある」  なんて言いながら、セイバーは三つのどんぶりを重ね出した。 「桜に渡せばいいのですね? そちらの鍋も私が運びますから、シロウはテーブルを拭いてください」  こっちの返事も待たず、セイバーは台所へ行ってしまった。 「桜、食器はここに?」 「あれ、セイバーさん? あ、はい、洗い物はそこに置いといてください」 「なるほど。それと桜、先ほどの昼食は美味でした。朝に続いて感謝します」 「あはは、わたしなんてまだまだです。お粥とおうどんは、先輩の独壇場ですからねー」 「………………」  台所から和気藹々とした話し声。 「なんだ。桜のヤツ、セイバーと仲いいじゃんか」  朝のうちに一緒に掃除をした、というのが決め手になったのか。  ともあれ、二人の仲が良いのはいいコトだ。 「んじゃ、食後のお茶の準備でもしてるかな」  急須とお茶っ葉を食卓に置く。  時刻はじき午後一時。  昼休みとしてはちょうどいい時間だが――――さて。   「あ。そうだ、確か」  以前の買い出しの時、気まぐれで買っておいたどら焼きがあった筈だ。  藤ねえに見つからないよう念入りに隠した為、俺自身すっかり忘れてしまってたけど。 「先輩? 冷蔵庫開けて、何するんですか?」 「ん、ちょっとな。桜に少しだけお返ししようと思って」  冷蔵庫の一番下、野菜入れの奥をあさる。  長年の藤ねえ対策のおかげか、この手の隠し物は賞味期限が切れる前に発見できるよう隠してあるのだ。 「え……あれ? 先輩、どうして野菜入れから江戸前屋さんの紙袋が出てくるんですか?」    で、発掘された紙袋を驚き半分、期待半分で見詰める桜。  ちなみに、江戸前屋とは商店街に出没する屋台さんで、たい焼き、どら焼き、たこ焼きの三種の神器を扱うお店だ。  子供に優しい値段設定と、サービス精神にあふれた餡子の量でうちの生徒たちから絶大な支持を得ている。  加えて言うと、桜はここのたい焼きにすごく弱い。 「い、いっぱい入ってますね。てっきりジャガイモを補充したのかなって思ってましたけど」 「ああ、そういう風にカモフラージュしたんだよ。隠した俺も忘れそうだったんで、人参使い切ったら出てくるようにセットしといた」  よっ、と藤ねえ限定の時限爆弾を取り出す。 「そんなワケで、食後のお茶請けは江戸前屋のどら焼きにしよう。あ、それとも三時の間食にした方がいいかな。  昼食べたばっかりだし、桜もセイバーもしばらく食欲ないだろ?」  とりあえず忘れないよう、どら焼きの入った紙袋を盆に載せる。 「え……せ、先輩はおなかいっぱいなんですか?」 「いっぱいだよ。昼メシ美味かったから二食分は食べたし。ちょっと、しばらくは腹減らないかな」 「そ、そうですよね、わたしもそうだと思ってました!  じゃ、じゃあ、お楽しみは後にとっておくというコトで――――」 「後にするのですか? 私は十分余力を残していますが」 「お。なんだ、セイバーはまだ食欲あるんだ。桜と同じぐらい食べたのに凄いな」 「食欲というよりは興味です。糖分は判りやすい活力源ですし、ドラヤキという和菓子は初めて聞く物ですから」  ……なるほど。  洋風なセイバーにとって、どら焼きとか〈羊羹〉《ようかん》は珍しいデザートなんだろう。 「そっか。じゃあお茶請けとして出すよ。セイバー一人で食べきれる量じゃなし、余った分を三時のおやつに回せばいい」 「ぁ―――先輩、つかぬコトをお聞きするんですけど、買ってきたどら焼きは何個くらいなんでしょうか……?」 「ん? たしか五つだったかな。一人一個が基本で、残ったのは半分にして分けるか、余裕のあるヤツに食べてもらう気でいたけど」 「なるほど。その計算では、最大で三つ食してもよいと」 「ああ。けどこんな甘いモン、三つも食ったら胸ヤケするぞ? ……ま、セイバーなら三つぐらい食べられるだろうけど」  お盆を持って居間に戻る。  台所で洗い物をしてくれる二人をねぎらう為、紙袋からどら焼きを出してお茶の準備をする。 「終わりました。それがドラヤキですねシロウ」 「え?」  と。  既に食べる気まんまんなのか、セイバーは座布団に正座してお盆を見据える。  桜も洗い物を終わらせて、しずしずと座布団に正座する。 「桜? どうした、何かあったのか?」 「何もないです。わたし、先輩といっしょでおなかいっぱいですから」 「……?」  よく分からないが、とりあえず三人分のお茶を淹れた。 「それではいただきます」  軽くお辞儀をしてどら焼きに手を伸ばすセイバー。    ―――勝負は一瞬だった。    はむ、と躊躇いがちに一口した後、セイバーは無言で二口三口とどら焼きを食べあげた。  甘い餡子も意に介さず、飽きるコトなく止まるコトなく、あっさりと一つめを完食する。 「―――なるほど。単純な料理ですが、お茶に合う味ですね」  で、これまた上品にお茶を一口したのち、躊躇うことなく二つめに手を伸ばす。  それをハラハラと見守る桜。 「…………」  ……待った。  桜が妙にそわそわしているのは、もしかして、その。 「ふむ。確かに、これは食後の口休めとはいきませんね」  ぺろりと二つめを平らげ、三つめに手をかけるセイバー。 「待ったセイバー。やっぱり食べるのは二つで止めといてくれ」 「? はい、もとより余る分を受け持っただけですから、それは構わないのですが……残りはシロウが食べるのですか?」 「ん、俺と桜で食べるよ。俺が一個、桜が一個で、最後の一つは」  三つめのどら焼きを半分に割って、それぞれ一個半分にし、 「こうして分けようかなと。桜、これぐらい食べられるだろ?」 「は、はい、もちろんです、今すぐにでも食べられます!」  やっぱり。  桜のヤツ、ヘンな遠慮してたんだな。  どら焼きの一つや二つ、いくら食べても構わないってのに。 「んじゃ俺たちも食べようか。セイバーの食べっぷりを見てたら食欲出てきた」 「は、はい賛成です! これくらい簡単に片付けちゃいますね!」  むん、と気合をいれてどら焼きに手を伸ばす桜。  たい焼き程ではないが、桜はどら焼きも大好きだ。 「…………けど」  それはまあ、買ってきた立場としては嬉しいのだが。  桜のヤツ、後で体重計の前で落ち込んだりしないだろうな……。  食後の一服を終えた頃、体はほとんど回復していた。  熱は疲労からきたものらしく、半日休んで元通りになったのだ。 「ではシロウ。午後は鍛練に使うのですね」  セイバーの問いに無言で頷く。  病み上がりとはいえ、時間を無駄には出来ない。  魔術の腕は一朝一夕で上がるものではないが、戦闘訓練は別だろう。  残る半日、夕食までセイバーに稽古をつけてもらうのは無駄ではないだろう。    食後はゆっくり、無理をせずゴロゴロすべし。  消化にエネルギーを使うため脳の機能は低下するし、なにより食後のお茶は美味しいのだ。  二人に洗い物をやってもらうのは情けないが、台所のセイバーと桜はいい雰囲気である。  共通の話題がない二人は、洗い物を一緒にする事で信頼を深めている。 「―――なんだ。息合ってるじゃないか、二人とも」    のんびりと台所を見守る。  なんとなく点けたテレビは、昼過ぎの奥様向け番組まっさかり。  心身ともにまったり空気に包まれながら、何をするでもなく食後の一服を堪能した。  食後の一服が終わって、体はほとんど回復していた。  熱は疲労からきたものらしく、半日休んで元通りになったのだ。 「ではシロウ。午後は鍛練に使うのですね」  セイバーの問いに無言で頷く。  病み上がりとはいえ、時間を無駄には出来ない。  魔術の腕は一朝一夕で上がるものではないが、戦闘訓練は別だろう。  残る半日、夕食までセイバーに稽古をつけてもらうのは無駄ではないだろう。 「――――あ、そう言えば――――」    朝からのゴタゴタですっかり失念していたが、イリヤとの約束があったんだ。  ……いや、約束ってほどのものでもないけど、こっちから会えるかなって言った手前、公園で待っていないと不義理すぎる。 「……セイバーと桜は……」    二人は仲良く洗い物をしている。  ちょっと外に出てくる、なんて言ったら止められるか付いて来てしまうだろう。  イリヤとは、出来れば一人で会うべきだ。  セイバーと桜には悪いが、ここは書き置きを残して抜け出すとしよう―――― 「――――ほ」  なんとか気付かれずに外に出れた。 『夕飯のおかずを買ってくる、一時間で戻る』と書き置きしといたので、二人もそう驚かないだろう。 「とっ……やっぱりいないか」  公園には誰もいない。  まわりを団地でかこまれた小さな公園は寂しく、ここだけ雪でも降ってきそうなほど冷え込んでいた。 「………ま。イリヤがいたところでなに話していいかわからないんだけどさ」  ベンチに座る。  手にしたビニール袋を地面に置いて、曇った空を仰いだ。  ……商店街で買ってきたちょっとしたお土産は、どうも無駄になってしまったようだ。 「――――――――」  ぼんやりと空を見上げる。  建物に囲まれているせいだろう。  ここから見上げる空は四角く切り取られ、いつもより遠くに感じられた。 「―――――――さむ」  吐く息が白い。  冷たく乾燥した空気は張り詰めていて、この分だと雪が降り出してもおかしくなかった。 「――――さて、帰るか」  ビニール袋を手にしてベンチから立ち上がる。  時刻は二時過ぎ。  そろそろ戻らないと嘘つきさんになってしまう。 「え――――?」  前に出した足が、凍りつく。  動かない。  どんなに力をこめても足は動かず、そのまま―――― 「――――」  視界が歪む。  いや、歪んだなんてもんじゃない。  視覚が壊れた。  眼球が頭蓋骨の中に落ち込んで、自分と周りの距離感が把握できない。 「っ――――、ぁ――――――――」  それが、最悪の事態である事は理解できた。  体は中身そのものが石になったかのよう。  神経は断線し、視覚さえ“世界”と切り離されていく。  カメラ越しに世界を見るような感覚は、自分自身が、コントローラーで操るゲームの主人公になったようで、吐き気がする。 「セイ、バー――――」  殺される。  一人で外に出た事が間違いだったのか。  俺は、何の抵抗も出来ず、相手の顔さえ見れずにここで――――   「なーんて、びっくりした?  シロウったらスキだらけなんだもん。面白いから、ちょっとからかっちゃった」    ―――その、いたずらっ子のオモチャにされていたワケか? 「あ、戻っちゃった。さすがに視線だけの接触じゃ弾かれちゃうか」 「イ――――」  ぴょこり、と後ろから現れる。  いかにも数分前から公園にいて、面白そうだから俺の後ろをとって様子を見ていた、というにんまりぶり。 「けど〈内界〉《じぶん》だけで解呪できないんじゃまだまだなんだから。外部からの影響がないと自分に戻れないようじゃ、この先思いやられるわ」  ふふーん、と偉そうに講義する。  が、そんな〈戯言〉《たわごと》はもちろん耳に入ってこない。 「イリヤ――――! おまえ、いきなり何するんだ! いくらマスター同士だからって、後ろから不意打ちは卑怯だろう!」 「む。不意打ちじゃないよ。さっきからちゃんと隣にいたもん。なのに最後まで気がつかないし、おまけにそのまま帰ろうとするし。今のはシロウの自業自得よ」 「!? と、隣にいたって、イリヤが?」 「うん、隠れてた。けど、それにしたってシロウは油断しすぎよ。わたしの気配にも気付かないし、魔力をぶつけただけの呪縛に囚われちゃうし。マスターなんだから、もっと周囲に気を配りなさい」  まったく、と呆れた風にイリヤは注意してくる。 「あ――――うん。それは、そうか」  それがなんとなく先生っぽくて、つい素直に頷いてしまった。 「うん、わかればよろしい。  ―――で、今日はどうしたの? シロウ、体の中からっぽだし、その割にはセイバーも連れてないし。休むんなら家で休んだ方が安全でしょ?」 「え? いや、別に休むために公園に来たんじゃない。  ……まあ、セイバーを連れてないのは、確かに軽率だけど」 「でしょ? あんまり様子がヘンだから放っておけなかったんだ。わたしから話しかけていいのは昨日でおしまいだったからダメだったんだけど、今日は特別」 「?」  おかしなコトをイリヤは言う。  だいたい俺が公園に来たのは、その。 「それで、どうしてこんなところで座ってたの?  わたしがマスターとして来てたら、シロウは今ごろ死んじゃってるよ?」 「どうしてって、イリヤに会いに来ただけなんだけど。  昨日、また会ってもいいって言ったじゃないか」 「――――――――え?」  あ、驚いている。  ……まあ、そりゃあ確かな約束じゃなかったから仕方がないが。 「なんで……? わたし、シロウを殺すんだって言ったのに、シロウはわたしに会いに来たの……?」 「それはイリヤの事情だろ。こっちは違う。俺はマスターじゃないイリヤと話したいだけだし、何より――――」  俺を殺すと言ったイリヤは、そのチャンスを放棄した。  さっきの呪縛がそのまま続けば、俺は本当に殺されていただろう。  イリヤがそれをしなかった以上、俺はやっぱり、この子とは戦いたくない。 「――――ま、昼間戦わないのがマスターなんだろ。  なら今はそういうのは抜きにしよう。俺はイリヤに会いに来ただけだ。イリヤは俺と話すより殺し合いの方が好きなのか?」 「えっ―――そ、そんなの言われても困るっ。わたし、どっちもいっぱいだもの。シロウと話せるのは楽しいけど、やっぱり許してなんてあげないんだから、どっちかを取るなんてできない」  イリヤは俯いたまま言葉を濁す。  その顔は真剣で、悩んでいるというより苦しんでいるように見えた。 「……そっか。ならどっちでもいいよ。どっちかを選べなんて言わない」 「あ……け、けど、わたし」 「ああ。けど、今はせっかく会ったんだから話をしよう。  お土産もあるし、戦うのはまた今度な」  ビニール袋からたい焼きの入った紙袋を取り出す。  イリヤを待っている間に冷えてしまったが、それでもほのかに温かい。 「ほら、献上品。今回はそれで見逃してくれ」  たい焼きを押し付ける。 「あ――――」  イリヤは躊躇ったまま、それでも黙ってたい焼きを手にとって、うん、と小さく頷いてくれた。  それから、どんな話をしたのかは曖昧だった。  好きな食べ物、嫌いな食べ物。  鳥が好きで猫が嫌いで、雪が好きで寒いのは嫌いで、遊びたいのに遊べなくて、口うるさいお目付け役のメイドは嫌いだけど好きになってあげてもいい、なんて他愛もない話をした。  イリヤは、ただ話しているだけで嬉しそうだ。  ちょっとだけ温かいたい焼きをほおばりながら、足をブラブラと揺らしてベンチに座る。  ……それは、父親の帰りを待っている子供のような、そんな姿を想像させた。 「―――ふうん。イリヤは一人でこの町に来たんじゃなかったのか」 「ええ、セラとリーゼリットと一緒。わたしにはお目付け役なんていらないけど、身の回りの世話をする人は必要でしょ?」  ……イリヤはメイドを二人連れて日本まで来た訳だ。  それはわかったけど、じゃあ、メイドさんを連れたままホテルかどこかに泊まっているんだろうか? 「ん? 気になる? わたしが何処に住んでるか」 「え……ああ、そりゃ気になる。イリヤは神出鬼没だからな。居場所ぐらい知っておかないと、もしもの時困る」  もしイリヤが怪我をして助けに呼ばれても、場所が判らないのでは駆けつけられない。  せめて住所ぐらい教えて貰えたら、こっちも少しは安心できるんだけど―――― 「――――うん。いいわ、シロウは特別。そんなに知りたいんなら教えてあげる」  と。  ふわりとベンチから立ち上がって、イリヤは俺の額に手を置いた。 「と――――ちょっ、イリヤ」 「いいから黙って。あんまり抵抗すると違うものに入っちゃうんだから。そうなったら元に戻すのタイヘンでしょ」 「ぁ――――は、はい」  その迫力の前に、つい頷いてしまった。 「いい子ね。じゃあ目を閉じて。あと、あんまりきょろきょろ周りを見ちゃダメよ。いくら移すって言っても他人の視点なんだから、シロウがここにいるかぎり乗り物酔いをしかねないわ」 「っ――――!」  こつん、とイリヤの額がこっちの額に当てられる。  驚きで目蓋を閉じる。  ――――途端。    物凄い勢いで視界が加速し、拡大した。  いや、それは意識の拡大だったのか。  ともかく俺は、見たこともない景色を、さも当然のように、高いところから〈俯瞰〉《ふかん》している――――           “どう、見える? いま、シロウの視覚だけをわたしの森に繋げたんだけど”    イリヤの声が響く。  返事はできないし、頷くコトもできない。  今の俺にあるのは、この“視覚”だけだった。  俺は木になって、広い森を眺めている。  体が動く筈がない。  俺は一瞬にして、物言わぬ木になってしまったんだから。           “道順は覚えた? それじゃ、次は城の壁に移すわね”    映像が切り替わる。  自分という〈容器〉《からだ》の感覚が途絶えたまま、視覚だけが生きている。  ―――自分は自分として今まで通りにあるのに、自分が感じられない。    木の次は壁だった。  俺には手足の感覚が依然としてあるのに、動かすべき手足がなく、自由になる体はあるのに、自由に動けるという実感がない。 「リーゼリット。イリヤスフィール様の姿が見あたりませんが、心当たりはありますか?」 「…………さあ。イリヤなら、何処かに、いるでしょう」 「リーゼリット。お嬢様の名をそのように語るのはおやめなさい。イリヤスフィール様は私たちとは違うお方です。お館様より賜った使命を忘れたのですか」 「…………セラはイリヤの教育係。わたしは、〈三番目の〉《ヘブンズ》〈ドレス〉《フィール》を、イリヤに着せる、役」 「そうです。物覚えの悪い貴女でも、それだけは覚えているようですね」 「…………忘れてない、けど。……イリヤ、あれを着せると、嫌がる、から。あまり、着せたくない」 「……それは私も承知しています。ですが、時が来れば嫌でも着ていただかなくてはなりません。私たちはその為に作られた。  お嬢様とて、既に覚悟はできている筈です」 「…………セラ」 「なんですか、リーゼリット」 「…………貴女、疲れない?」 「まったく疲れませんっ!」    ……同じ顔、同じ姿をしたメイドの会話だけが聞こえる。  それがイリヤの言っていた世話係の二人なのだと気がついた時、    ようやく、体が元に戻ってくれた。 「ごくろうさま。どう、ちょっとした変身魔術だったでしょ、今の」 「あ――――う」  ……口元を抑えて、なんとか吐き気に耐える。  唐突に“自分”に戻った映像が、今は妙にリアルに感じられて、気持ち悪い。 「イリ、ヤ……今の、なんだ?」 「意識の転移よ。シロウの視覚だけを他のモノに移したの」 「眼球から脳に繋がる神経があるでしょ? それをね、眼球からじゃなくて『違うもの』から脳に繋げたの。  さっきの間だけ、シロウの視界は眼球から得られる情報じゃなくて、わたしの森の木々から見た情報を観てたってコト」 「…………む。つまり、俺が木になったんじゃなくて、木の視界を俺が受信しちまって、自分自身が木なんだって、勘違いしたってコトか?」 「あら、物分り悪そうで鋭いのね。  ええ、今のはそういうこと。人間っていう機材はそのままにして、入力先だけを移し変える魔術。  人間を木に変える、なんて事は〈大事〉《おおごと》だけど、人間の意識だけを木に繋げる、ならまだ魔術の域でしょ? 遠見とか憑依はこの魔術の応用ね」 「…………なるほど。けど、それはそれでとんでもないぞ。さっきみたいに木に視覚を移されただけで、俺は何もできなくなった。転移は相手を無力化する攻撃としても使えるんじゃないか?」 「ええ、わたしたちの特性は力の流動、転移だもの。  例えば、遠坂の魔術師は魔力を宝石に移し変えて、かつ、いつまでも純度を保っていられる。その応用で、他人の意識を力技で転移する事もできるわ。  封じ込めたいって思った敵がいた場合、そいつの意識の入力先を宝石の中とか、身動きできない人形の中に替えてしまえばそいつは無力化する」 「でも“他人の意識にかける転移”は成功率が低すぎて、転移を得意とするわたしや遠坂の魔術師でさえ、攻撃になんて使わないかな」 「さっきシロウにかけたのは特別。シロウは抵抗しなかったし、あの森はわたしのだもん。ホントはもっと繋げにくいものなんだよ」 「それに、意識が転移先に移っている最中に“意識の本体”に刺激が与えられれば、意識は強制的に戻ってしまう。  たとえ移された『意識』が『本体』の危機を察していなくても、肉体が危険を感じて“離れている”意識を呼び戻すの」 「さっきのシロウだってそうだよ。  シロウの意識は木を被ってる間は自分からは何もできなかったけど、シロウの体を揺すっただけで、体の方が〈魂〉《シロウ》を呼び戻した」 「……む。それって、要するに夢みたいなもんか?」    夢を見ている時、自分じゃどうあっても目を覚ます事はできない。  夢から覚めるのは、大抵は朝の到来―――つまり、  肉体による習慣的な機能によるんだから。 「んー、ちょっと違うかな。夢からはちゃんと理性で目覚められるし。  そんな訳だから、転移は攻撃には向いてない。自分にかける自己保身のための魔術なの」 「『自分の意識』の転移先を『使い魔』や『身動きできる人形』にしてしまえば、その体を動かして、安全に魔道の探求を行えるでしょ」 「……。つまり、敵にリモコンロボットである使い魔を倒されたところで、自分の意識は本体に戻るだけって事か?」 「ええ。意識を転移させる、なんて事をする魔術師は、〈自分〉《ほんたい》を絶対安全な場所に隠すものよ。  この場合、注意すべきは『使い魔』の中でも『魂のある使い魔』への転移の場合ね」 「ちゃんとした命令系統―――理性を持っているモノに意識を転移すると、主導権は完全にあっち側、“魂のある使い魔の意識”にいってしまうの」 「だから人間とか動物に意識の転移をしても、わたしたちはその脳のはじっこで、彼が見ている映像を一緒に見ているだけになる。リモコンロボットじゃなく、カメラでしかないわ」 「既に生物として生きている『魂のある使い魔』に『自分の意識』を移して支配するのは、転移ではなく転生の域の魔術だもの。  それはそれで一つの大魔術だから、並大抵の魔術師には真似できないわ」  ……転生。  自身が死した後、自らの魂を受け継いだ子を生み出すという魔術。  一部の術者が成功させたらしいが、これはこれで魂の再現が難しいらしい。  いかに赤子からやり直したところで、生前の能力が百パーセント引き継がれないのであらば、それは『転生』ではなく複製にすぎない。  〈複製〉《コピー》は劣化するからこそ複製だ。  その時点で、赤子として生まれ変わった魔術師は過去の自分より劣ってしまう。 「転移先を生物に拘るのなら、心―――魂のない使い魔を作って、その殻を操るっていう手もあるわ。  ただ、現代の魔術師の作れる『魂のない使い魔』ってあんまり強くないの。中身がワタの人形を、遠くから魔力で操ってるだけだもの。  そんなの、術者の“〈代弁者〉《メッセンジャー》”としてしか使い道がないわ」 「それに、いくら『使い魔』や『身動きできる人形』に意識を移しても、本体が老いて死ねば転移させた自分の意識も消えてしまう。  術者が不老不死になれるわけではないわ」 「物質界において永劫不滅なのは魂だけよ。  けど魂を単体でこの世に留めておく事は誰にも出来ない。魂は肉体がないとこの世に留まれなくて、肉体を得た時点で“〈有限〉《にくたい》の死”を宿命付けられてしまう。  ま、アインツベルンや遠坂には、今みたいな魔術が限界だったってこと」  ―――と。  不意に、時報らしき物が鳴り響いた。  公園の時計は三時を指している。  いつのまにか一時間も経ってしまったらしい。 「あ。……わたし、そろそろいかないと。シロウも家に帰るの?」 「ん? ああ、そろそろ帰らないとまずいかな」  そう、と頷いて、イリヤは公園の真ん中まで歩いていく。 「……うん。ホントは、こんなコト言っちゃダメなんだけど」  そうして、断られるコトが判っているような素振りで、  「シロウは、明日も会いに来てくれる?」    小さく、白い少女は問い掛けてきた。 「――――――――」  ……ばか。  そんなの、答えるまでもないじゃないか。 「―――明日も来るよ。今日はイリヤの家を教えてもらったから、次は俺の番だしな」 「うん! それじゃ約束、明日はぜったいわたしから話しかけるからね!」  走り去っていくイリヤ。  灰色の空の下。  白い髪の少女は、それこそ妖精のようだった。  ……体の調子もいいし、少し外に出てこようか。  ちょうど夕食の買い出しがまだの筈だし、サッと商店街まで行って、サッと帰ってくればいい。 「セイバーと桜は―――」  二人は仲良く洗い物をしている。  せっかくいい雰囲気なんだから邪魔するのもなんだし、書き置きだけして抜け出そう―――― 「っと」  なんとか気付かれずに外に出れた。 『夕飯のおかずを買ってくる、一時間で戻る』  と書き置きしといたので、とりあえず問題なし。  帰りに三時のおやつを買ってくれば、二人のカミナリも落ちないだろう、うん。 「よっ……と」  ビニールいっぱいの食材を手に、スーパートヨエツを後にする。  あまり目立った掘り出し物はなかったが、量だけは買い込んでおいた。  桜が泊まるようになったんだから、いつもより多めに食材は必要だ。 「昼はうどんだったから、夜は肉料理をメインにしてみるか」  意気揚揚と帰還しかけた足が止まる。 「?」  なんか、くいくいと後ろから服を引っ張られてる。 「なにごと……?」  はて、と後ろに振り返る。  そこには。  銀色の髪をした、幼い少女の姿があった。 「な、ええ―――!?」  ザッ、と咄嗟に跳び退いた。  咄嗟に身構える俺と、にこやかにこちらを見つめる少女。 「……?」  少女からは殺気というか、敵意がまったく感じられない。  あまつさえ少女は、   「よかった。生きてたんだね、お兄ちゃん」    そんな、本当に嬉しそうな笑顔で俺を見た。 「な――――」  ……間違いない。この少女はバーサーカーのマスターだ。  あの夜、俺を一刀のもとに斬り伏せた怪物の主。  〈切嗣〉《オヤジ》が裏切った、聖杯戦争の発端を担った古い魔道の家系の少女。  その少女がどうしてこんな、日中の商店街でひょっこり現れているのか――――  ……言峰神父の話が生々しかったからだろう。俺にとって、この少女は見知らぬ他人ではなくなっていた。  だから知らず、   「――――イリ、ヤ?」 「――――え?」    それがどんな意味を持つのかも知らないまま、少女の名を口にしてしまった。 「あ―――いや、違った……!  イリヤス―――そう、イリヤスフィールだった……!  ま、間違えてごめんっ……!」  反射的に頭を下げる。  この子がバーサーカーのマスターだろうがアインツベルンの娘だろうが、そんな事は関係ない。  ただ、その。  今にも泣きそうな顔が、放っておけなかっただけ。 「……………………」 「あ―――いや、悪気はなかったんだ。ただその、つい、口にしちまったっていうか」 「………………名前、教えて」 「え?」 「お兄ちゃんの名前、教えて。わたしだけ知らないの、不公平」 「――――――――」  ああ、そう言えばそうだ。  イリヤスフィールはちゃんと名乗ったけど、俺はまだ自分の名前も口にしていない。 「俺は士郎。衛宮士郎っていう」 「エミヤシロ? 不思議な発音するんだね、お兄ちゃんは」 「違うぞ。今の発音だと『笑み〈社〉《やしろ》』じゃないか。衛宮が苗字で士郎が名前なんだ。言いにくかったら士郎ってだけ覚えてくれ」  少女の発音があまりにもキテレツだった為、ついつっこみを入れてしまった。 「――――――――」  ぴた、と鼻先に指を突きつけられ、少女はまたも目を白黒させる。 「――――」  しまった、と思ったところで遅い。  少女はまた、さっきのように泣きそうな顔になって、「……シロウ、シロウ、かあ―――うん、気に入ったわ。  単純だけど響きがキレイだし、シロウにあってるもの。  これならさっきのも許してあげる!」  問答無用で、俺の腕に抱きついてきた―――― 「ちょっ――――!? ままま待てイリヤスフィール、なにすんだよおまえ……!」 「ううん、さっきみたいにイリヤでいいよシロウ! わたしもシロウって言うんだから、これでおあいこだよね!」 「な―――いや、それは言いやすくて助かるんだけど、とにかく待てーーーーー!」  ぶんぶん、と腕を振り回すもイリヤはきゃーきゃーと喜ぶばかりだ。 「っ……!」  いかん、このままじゃご近所のおばさまたちから良からぬ噂を立てられかねない。 「くそ、何が目的だ……! こんなまっ昼間からやりあおうってハラか……!?」  だあー、と力ずくで引き剥がす。 「――――――――」  ……あ。  どうも、イリヤは見るからに不満そうだ。 「な、なんだよ。そんな顔してもダメだぞ。なんのつもりか知らないが、俺だってマスターだ。そう簡単にやられる訳には――――」  スーパーのビニール袋を手に、キッとイリヤを睨みつける。  ……だっていうのに、イリヤは不思議そうにこっちを見つめてくるだけだった。 「…………えっと、イリヤ?」 「うん、なにシロウ!」 「――――――――う」  なんか、この前とイメージ違うぞ。  ……いや、あの時だって笑っていたけど、笑顔の質が違うというか、その、もしかして本当に―――― 「……イリヤ。おまえ、戦いに来たんじゃないのか……?」  恐る恐る口にする。 「なに? シロウはわたしに殺されたいの?」 「っ――――」  その視線だけで、正直背筋が総毛だった。  どんなに幼かろうと、この少女は最強のマスターだ。  無邪気に笑ったかと思えば、一転して冷酷なマスターの〈貌〉《かお》になる。 「……ふぅん。よくわかんないけど、シロウがそういうんならわたしはいいよ。予定がちょっと早まるだけだもん。セイバーといっしょにここで死ぬ?」 「っ……ふざけるな、そんなわけあるかっ。俺だって殺されるのは嫌だし、こんなところで戦うのもご免だ」 「でしょ? マスターはね、明るいうちは戦っちゃダメなんだよ。シロウもセイバーを連れていないし、わたしだってバーサーカーを連れてないでしょ?」 「……それは、そうだけど。じゃあ何しに来たんだよおまえ。俺に会ったのはただの偶然か?」 「偶然じゃないよ。セラの目を盗んで、わざわざシロウに会いに来てあげたんだから。コウエイに思ってよね」  ふふん、と得意げにイリヤは笑う。 「――――」  なんか、目眩がする。  冷酷なマスターになったかと思えば、すぐに無邪気な少女に戻ってしまう。  そのどちらがイリヤという少女のホントなのか、とてもじゃないが把握できない。 「……わかった。とにかく、イリヤは俺に会いに来た。  けど戦うつもりはない……これでいいのか?」 「うん。わたしはシロウとお話をしにきたの。今までずっと待ってたんだから、それぐらいいいでしょう?」 「――――――――」  何が“それぐらい”なのかわからないが、とにかく、イリヤは俺と話をしに来ただけらしい。 「それともシロウはわたしと話すのはイヤ? ……うん、シロウがイヤなら帰るよ。ほんとはイヤだけど、したくないコトさせたら嫌われちゃうから」  イリヤはまっすぐに俺の顔を見上げてくる。 「――――――――っ」  ……マスターとして、イリヤとこれ以上いるのは危険だ。セイバーがこの場にいたら全力でイリヤの申し出を拒否するだろう。 「――――――――」  ……けど、あんな顔をされたら放っておけない。  無謀で無策で無考だろうけど、ここは―――― 「いや、イリヤと話すのはイヤじゃない。ほんと言うと、俺もイリヤとは会って話がしたかった」 「やった、じゃああっちに行こっ! さっきね、ちっちゃな公園見つけたんだ――――!」  言うや否や、イリヤは舞うように走り出す。 「ほら、早く早く! 急がないとおいていっちゃうからね、シロウ――――!」  くるくるとはしゃぎながら走っていく。 「――――ま、なるようになるよな」    観念してイリヤの後を追いかける。  イリヤは俺をシロウと呼んだんだ。  ならこっちもあの子を、マスターとしてではなく、一人の少女として向き合わないと。  公園には誰もいなかった。  砂場で遊ぶ子供もいなければ、ブランコに揺られている子供もいない。  それに寂しさを覚えながら、イリヤと一緒にベンチに座ってみたりする。  ……なんというか、傍目から見たらおかしな組み合わせだと思う。  イリヤは外国人だから兄妹に見えるわけでもないし、友達にしては年が離れすぎている。 「……と。話をしようって、なにを話せばいいんだよイリヤ。おまえから来たってコトは、何か訊きたいコトとかあったのか?」 「なんで? べつにわたし、シロウに訊きたいコトなんてないよ?」 「――――――――」  さて。  この理解不能のお嬢さんに、はたしてどうつっこむべきか。 「……イリヤ。話がしたいっていったのはおまえだよな。  なのになんで用件がないんだよ。用がないんなら来ないだろ、普通」 「え、そ、そうなの? ヨウがないとお話ってできないの……?」 「ああー……いや、そういう訳じゃない。今のは言い方が悪かった。用がなくても話はできる。むしろ用のない話って方がいいコトかもしれない。  ……けど、まいったな。俺はイリヤをよく知らないから、なにを話していいのか分からない。イリヤの好き嫌いが判らないからな。イリヤだってそうだろ? いきなり訊かれたくないコト訊かれたらイヤじゃないか?」 「う……うん、それはそうだけど……じゃあ何を訊けばいいのかな。シロウ、なに訊いても怒らない?」 「ああ、なんとか。俺のがお兄ちゃんなんだから、大人な対応を努力する」 「そっか。じゃあシロウ、わたしのこと好き?」 「ぶっ――――!」  な、ななななな何を言い出すんだこのコはーーー!? 「あ、嘘つきだっ。シロウ、怒らないって言ったのに怒った!」 「ばか、誰だって呆れるぞ今のは! おま、おまえな、人をぶった斬っておいて好きか嫌いかもないだろう!」 「なによ、あれは違うもん! シロウがよわっちいクセに飛び出してくるからじゃないっ! わ、わたしは悪くなんてないんだから!」 「悪くないワケあるかー! だいたい初めから殺る気まんまんだっただろうイリヤはっ! それがどうしてこう、突拍子もなく好き嫌いの話になるんだっての!」  びくり、と肩を震わせてイリヤは黙り込む。 「……あ」  ……しまった。  マスター同士ってコトは忘れるって決めたのに、いきなりポカやっちまった。 「……あー、イリヤ?」 「っ…………なるもん。なによ、シロウのバカ。わたしが止めてあげなくちゃ死んでたクセに、口だけは達者なんだから」  物騒なコトを言いつつも、イリヤは下を向いたまま肩を震わせている。 「…………はあ」  ……まあ、仕方ないよな。  マスターとしての話を持ち出したのはこっちだし、俺は年上な訳だし、イリヤは女の子な訳だし。 「――――こほん。あー、そのな、イリヤ」  よし、と覚悟を決めて口にする。 「―――済んだ事だし、もう気にしてないぞ。傷も治ったし、イリヤは見逃してくれたしな。  ……えっと、それでもイリヤが気にしてるなら、今後いっさい口にしない。それでいいかな」 「ぁ……うん。じゃあ、シロウは怒ってない……?」 「ああ。自分でもどうかと思うけど、怒ってない。  それより今は、もっとイリヤと話したい」  泣く一歩手前だった顔が、一転して笑顔になる。 「――――――――」  その顔を見て、こっちまで嬉しくなった。  今のイリヤには敵意がない。  なら無理にマスターである必要はない。  こうして捕まってしまった以上、イリヤが望むようにのんびり話でもするとしよう――――  イリヤとの話は、それこそ一時間ほど続いたと思う。  なんの意味もない話、ありきたりの出来事を、イリヤは喜んで聞いていた。  ……それが痛ましく思えてしまったのはいつからだろうか。  イリヤは、本当に無邪気な女の子だ。  そのイリヤがマスターである事、マスターである自分を躊躇わない事。  戦いに赴く自分に恐れを感じていない事が、ひどく、哀しい事だと思ってしまった。 「――――――――」  アインツベルンという魔道の家系。  千年の執念の果てに、最高のマスターとして送り出された幼い少女。  それがイリヤの目的なら、俺は、   「――――イリヤ。一つ訊くけど」 「ん、なに?」 「衛宮切嗣って名前に、聞き覚えはないか」    この問いだけは、口にしなければならなかった。 「――――――――」  時間が止まる。  それは今までの時間が消え去ってしまうほどの、無感情な沈黙だった。 「知らない。そんなヤツ、わたし知らない」  ……銀色の髪が揺れる。  イリヤはベンチから立ち上がり、くるり、とそれこそ妖精のように振り返る。 「そろそろ夕暮れだね。夜になったらバーサーカーが起きちゃうから、もう帰らないと」 「――――――――」  イリヤは無邪気な少女のまま、ばいばい、と別れを告げる。 「そっか。そうだな、俺もそろそろ帰らないと」  ベンチから立ち上がる。  休憩はここまでだ。  日が落ちたのなら、俺たちは敵として戦わなければならない。  だっていうのに、   「また会えるかな、イリヤ」    本当に自然に、そんな言葉を口にしていた。 「―――え、えっと、どうしよっかな。わたしはそうでもないんだけど、シロウは会いたい?」 「ああ。会いたくなきゃ言わないぞ、こんなの」 「…………! うん、じゃあ、明日も気が向いたら来てあげる。期待しないで待っててね」  公園の外へ駆けていく。  ……が。  白い少女は不意に足を止めて、   「さっきのはウソだよ。本当はね、知ってる人だった」 「イリヤ――――?」 「……そう、わたしが生まれた理由は聖杯戦争に勝つことだけど。〈イリヤ〉《わたし》の目的は、キリツグとシロウを殺す事なんだから」  去っていく足音。  それきりイリヤは振り返る事なく去っていき、  俺は―――その後姿を、最後まで見送っていた。    柳洞寺。  キャスター亡き後、この土地に〈人気〉《ひとけ》はない。  原因不明の病で倒れた僧たちは山を降り、本殿はもぬけの空となっている。  門は堅く閉ざされ、参拝者はおろか関係者ですら入る事は許されない。   「―――チ、ひどい匂いだ。鼻が曲がるどころの話じゃねえな」    その、無人の筈の境内に声が響く。  月下に映えるのは青い〈痩身〉《そうしん》。  無駄のない屈強な肉体、長い真紅の槍を携えたソレは、ランサーと呼ばれるサーヴァントだ。   「おうおう。〈主人〉《キャスター》がくたばったってのに結界は健在か。  ……いや、醜悪さは以前より五割増、これに比べればキャスターは上品だったな」    無造作に境内を見回るランサー。  手には朱色の槍が握られたままである。  彼は諜報、監視を主目的としたサーヴァントだ。  本人はいたって不本意だが、マスターがそう命じたのならば仕方がない。  命じられた指示には従うし、注文通りの結果を出すのが彼の方針だ。  故に、今まで幾人ものサーヴァントたちと戦い、引き分けてきた。    ランサーは今のマスターと契約している以上、自ら戦闘を行わない。  今回の指令もその例に漏れず、柳洞寺の偵察だった。  ならば槍を持つ必要はない。  宝具である彼の槍は必要に応じて〈召〉《よ》び出せる。  目前に敵などいないこの状況で、彼が槍を装備する必要性はまったくない。   「キイキイキイキイうるせえこと。キャスターは風使いと読んでたんだが、〈水気〉《すいき》の女だったのかね。蜘蛛だの蛭だの陰湿な輩が多いが――――」    境内を歩く。  その歩みはあまりにも無防備で、サーヴァントにあるまじきものだった。  仮に―――もし仮に、この場にもう一人サーヴァントがいるとすれば、有無を言わさず襲撃され絶命するほどの隙の多さ。   「――――ああ、頭をすげ替えられたって線もあるな。  ここは腐った小蟲しかいない。持ち主不在の廃屋に巣食うのは、おまえたちの常套手段だ」    ランサーの悪態は止まらない。  青い槍兵は、この場にいない誰かに言い聞かせるように演説する。   「にしても、一匹でかいのがいるな。  何処の生まれか知らないが、山奥で獣と暮らしていた〈面〉《ツラ》ァしてやがる。おまけになんだこりゃ、砂の匂いか?  ハ、大蜘蛛かと思えばこ汚い砂虫とはな。  ああやだやだ、なんだってこんなしけたヤロウの偵察なんかしなきゃならねえのか、なっ――――と!」    ――――銀光が弾かれる。    闇の中―――無明より放たれた三条の凶器が、ランサーの一薙ぎによって払われたのだ。    槍に弾かれ、地に刺さった凶器は短剣だった。  切りつけるものではなく、狙い撃つ事を主として作られた〈投擲短剣〉《ダーク》。  それらはランサーの両目と喉笛を標的に、寸分の狂いもなく高速で投げられたものだ。   「――――いい腕だ。が、二度とはするなよ砂虫。  挨拶もなしで命を獲られるのは趣味じゃねえし、何よりおまえにとっちゃ命取りだ」    青い痩身が闇に対峙する。  ランサーの正面――――暗い堂の中には、うっすらと、    白い、月のような〈髑髏〉《どくろ》が笑っていた。    ――――戦いは、何の口上もなく始まった。    白い髑髏は人語を知らぬのか、奇声のみをあげてランサーへと襲いかかり、    ランサーは眉一つ動かさず、敵の奇襲を迎え撃った。    髑髏の放つ短剣は、それこそアーチャーの弓に匹敵する。  それを至近距離より、闇に飛び交いながら放った数は実に三十。  その全てを、ランサーは事も無げに弾き返した。   「キ――――?」    髑髏が止まる。  それは異常だ。  いかにランサーが優れた槍兵であろうと、針の穴さえ通す髑髏の短剣を防ぎきれる訳がない。  しかも相手は長柄の武器。  斬り返す槍の隙間、確実に相手の〈急所〉《しかく》に放つ短剣が、何故〈悉〉《ことごと》く弾かれるのか?   「おい。まさかとは思うが、おまえの芸はそれだけか?」    ランサーの気配が変わる。  足を止め、髑髏の様子を伺っていただけの敵意が、確実に殺すものへと切り替わっていく。   「ならこれで終いだ。  おまえが何者か知らんが―――まあ、その仮面ぐらいは剥がすとするか」    ―――短剣が闇に〈迸〉《はし》る。  髑髏へと踏み込もうとしたランサーに合わせた、〈迎撃〉《カウンター》となる高速掃射―――!    それも防ぐ。  軽く、ほんの僅か槍の穂先を揺らしただけで、ランサーは視認さえ出来ぬ投剣を無効化する。   「――――――――」  震えたのは髑髏の面だ。  人語を発さぬソレは、くぐもった悲鳴を呑み込み、自らの首を突きにくる〈槍兵〉《てき》を凝視し――――   「――――、キ――――!」  わずかに揺れた槍の隙をつき、ランサーの喉元へ短剣を撃ち放つ……!   「キ……!」  髑髏の面が〈振動〉《ふる》える。  投剣を防いだ槍はそのままランサーの手元で反転し、くるん、と見事な円を描いて、襲いかかる髑髏の顎を打ち上げたのだ。    防御と反撃。  動作は一呼吸、まったくの同時に行われた。  それを、自分から飛びかかった髑髏に防げる筈がない。    ――――白面が落ちる。  ランサーは追い討ちをかけない。  彼に与えられた指令は、ただ敵を観察する事のみ。  いかにこれが必殺の機会であろうと、彼には手を出す権限がない。   「―――馬鹿が。言っただろう、俺に飛び道具は上手くないと。忠告を聞かなかったのはそっちの方だぜ」    槍の穂先を向け直し、ランサーは素顔を隠す“敵”を観察する。  黒い体。  包帯で封じられた右腕。  白い髑髏の面で隠した顔は―――闇に隠れて、未だ明確には見えなかった。            否。  その顔は無貌と言えるほど、〈凹凸〉《おうとつ》のない造りではなかったか。   「ギ――――ワタシのメンを、ミた、な、ラン、さー」 「そりゃこれからだ。サーヴァントには違いないようだしな。どこの英雄かハッキリさせるとするか」 「―――ク。ナルほド、ヨブンなシバりがあったのカ。ドウリで、殺サナイ、ワケダ」    影に覆われたサーヴァントが後退する。  その手には〈短剣〉《ダーク》が握られ、殺意は欠ける事なくランサーに向けられていた。   「止めとけ。生まれつきでな、目に見えている相手からの飛び道具なんざ通じねえんだよ。よっぽどの〈宝具〉《もの》じゃないかぎり、その距離からの投擲はきかねえぞ」   「!―――ソウカ、流レ矢の加護、カ。……クク、サスガは名付きの英霊、私ナドとはモノガ違ウ」    影が揺らぐ。  黒いサーヴァントは蜘蛛のように地に伏した瞬間、    短剣を放ちながら、大きく虚空に跳びあがった。    地上から大きく離れる跳躍力が鹿ならば、その歩法は蜘蛛か蛇、それとも〈蠍〉《さそり》の類だったか。  面を隠したまま逃走するサーヴァントは、逃げ足のみランサーと互角だった。    ランサーとて瞬発力では他の追随を許さない。  その彼が敵を追い詰めるのに分の刻を要するなど、あってはならない事だった。   「チ―――たしかに喉を狙ったんだが、しぶといな。治ってるってワケじゃねえし、ありゃあブットンでやがるな――――」    水蜘蛛のように水面を滑る敵と、それを追尾するランサー。  激しい〈水飛沫〉《みずしぶき》は敵とは対照的だが、その速度は〈水蜘蛛〉《アサシン》などの及ぶところではない。   「……チ、痛みで止まらねえんなら付け根でも斬りつければよかったか。他の連中には通じねえ手だからな、つい後回しにしちまったが――――」    手足の付け根、大動脈を斬りつければ、人体にとってそれだけで致命傷になる。  大動脈からの出血は激しく、実戦で斬られる事は死に等しい。  もっとも、それは通常戦闘の話である。  サーヴァント―――英霊相手に出血多量による死など望めない。    血液ではなく魔力を主動力とする彼らには、大動脈の切断は効果の薄い二次的な手段である。  これが四肢の無力化になると話は別だが、易々と動きを封じられるサーヴァントはおるまい。  腕を仕留めた瞬間、こちらの首が刎ねられている――――という結末がオチだろう。   「……成程。だが痛覚を殺す手に頼るような英霊に治癒能力などあるまい。次の打ち込みでケリをつけるか――」  疾風じみた〈水飛沫〉《みずしぶき》が走る。  その、次の打ち込みまであと二秒。  足を止め、逃げる水蜘蛛の左足大腿部を一閃しかけ―――   「――――!」    咄嗟に、ランサーは水面から跳び退いた。    ――――〈水面〉《みなも》が跳ねる。    いや、水面に潜んでいたモノが牙をむく。  黒い、うすっぺらな何かは、虚空に跳び退くランサーを追っていく。  水面、という事もあるからか。  その様は、深海に棲むという古代の海獣を連想させた。   「―――――――これ、は」    ランサーに逃げ場はない。  咄嗟に槍で水面を抉り、所有する全てのルーンを湖底に刻む事で結界を張ったが、それさえも容易く侵食されていく。    周囲を黒い足に囲まれ、彼に残された陣地は刻一刻と縮んでいく。  上級宝具の一撃さえ凌ぐ全ルーンの守りが、足止めにさえならない。  それを――――   「ドウした、ラんサー。動かねば、呑まれルぞ」    水面に浮かぶ〈蜘蛛〉《アサシン》が〈嘲笑〉《あざわら》った。    しかし、その〈嘲笑〉《わら》う水蜘蛛とて例外ではない。  この黒い足は誰であろうと侵食するのか、水蜘蛛は決して黒水に近寄ろうとはしない。  近寄れば―――この黒い足は、即座に新しい獲物に関心を持つと知っているのだ。   「ダガそうはイかん。オマエを仕留メるのは私ダ。イマだ経験ガ足りナいノデな。オマエヲ打倒シ、タリナい知能ヲ、補ワネバ」    水蜘蛛の短剣が煌く。  動けぬランサーに向けて放つ凶器は、しかし投擲にすぎない。  それでは無意味だ。  いかに周囲が奇っ怪な妖手に囲まれようと、ランサーに投擲武器は通用しない。   「―――懲りないヤツだ。まあ、強気になるのは分かるんだが」    ランサーは周囲の妖手を観察する。  誘われて随分奥まで来てしまったが、対岸までは三十メートル。  この程度なら―――容易く、一息で跳躍できる……!   「そこで動かなかったオマエの負けだ。様子見も済んだ、ここらで引き上げさせてもらおうか」  ランサーの体が沈み、その槍が大きくたわむ。  槍を支えにして一気に跳躍するランサー。  そこへ。   「な――――に?」    シンプルと言えば、実にシンプルな“一撃”が放たれた。    ランサーの胸から、偽りの心臓がつかみ出される。  あり得ない間合い、遠く離れた水面から、アサシンは直接、  槍兵の胸をあばいてみせた。    最も純粋な魔術、最も単純化された呪い。  人を呪う、という事においてのみ特化した、中東魔術の“呪いの手”。      ――――アサシンの宝具、“〈妄想心音〉《ザバーニーヤ》”。      それは確実にランサーの心臓を破壊し、そのまま―――力を失った槍兵の体は、黒い水面に落ちていく。    水面が踊る。  それはせわしなく、獰猛であり、はしたなかった。  飢えきった猛獣の檻に肉を投げ入れたとしても、これほど凄惨な光景はあり得まい。    ―――無数の、黒い手足だけのモノが、ヒトのカタチをした英霊を消していく。    黒い湖面に浮かぶ無貌のサーヴァントは、赤いソレを満足げに飲み込んだ。    ―――新都を巡回しよう。    キャスターを倒したとは言え、気を抜いてはいられない。  一日でも早く、未だ見ぬマスター……ランサーのマスターを探し出し、その善悪を見極めなくては。 「新都に行く。セイバーはそのままで付いて来てくれ」 「分かりました。方針は一昨日と同じですね?」 「ああ。敵の気配を察するまでは無関心を装おう」  居間の電気を消す。  眠っている桜を起こさないよう、物音を立てず屋敷を後にした。    一時間かけて町を回ったものの、これといった手応えはなかった。  セイバー曰く、新都を覆っていたキャスターの〈魔力〉《いと》が薄れつつあるらしいのだが、俺には細かな変化は感じ取れない。  目立った魔力の残滓もなく、新都に潜むマスターはいないようなのだが……。 「どうしましたシロウ。何か浮かない顔つきですが」 「え……? いや、別に何も。ただ、駅前ってこんなに〈人気〉《ひとけ》がなかったかなって。これじゃまるで」  ゴーストタウンだ、と言いかけて口をつぐむ。  ……今夜は偶々だろう。  別におかしなところはないし、ただ、人通りが途絶えているだけだ。 「家に戻ろうセイバー。無闇に歩き回っても成果はなさそうだ」 「……そうですね。シロウの体調も思わしくないですし、今夜は大人しく引き上げましょう」    新都を後にする。  人気のないターミナルに、乾いた足音だけが響いていった。    ―――深山町を巡回しよう。    自分たちの足元を固める、という事もあるが、深山町は新都ほど〈人気〉《ひとけ》が多くない。  夜の闇に紛れてサーヴァントが徘徊した時、町の人たちは何の抵抗も出来ず、人知れず犠牲になる恐れがある。 「今夜は住宅地を見て回る。……こっちは遠坂の陣地だから他のマスターも動きにくいだろうが、念には念だ」 「解りました。敵の気配がない事は確認していますが、今夜は反対側の丘を調べてみましょう」  反対側、とは洋風の住宅地の事だろう。  セイバーのやつ、昨日学校に行っている間に〈家〉《うち》の周囲を調べておいてくれたらしい。 「シロウ? 巡回に行くのではないのですか」 「あ、ああ、行く。それじゃセイバー、付いて来てくれ」  居間の電気を消す。  眠っている桜を起こさないよう、物音を立てず屋敷を後にした。    ……深山町に大きな異状は見られなかった。  念の為間桐邸にも立ち寄ったが、屋敷は静まり返っており、サーヴァントの気配も魔力の残滓も感じられなかった。 「……目立つ異状はありませんね。キャスターが消えてから一日。他のマスターも様子を見ている、という所でしょうか」 「……そうだな。そうだといいんだけど」  ……セイバー曰く、町に張り巡らされていたキャスターの〈魔力〉《いと》はほとんど消えているらしい。  町の人間から魔力を奪うマスターはもういない。    が―――この、漠然とした不安は何なのか。    町は静かだ。  人っ子一人いない夜の町。  昨日の夜も静かだったが、今夜は輪をかけて〈人気〉《ひとけ》がなく、静止画に刷り込まれたようなそら寒さがある。 「戻りましょうシロウ。こちら側に異状はない。  シロウの体調も思わしくありませんし、今夜は休息するべきかと」 「あ―――ああ、そうだな。もう零時近いし、戻ろうか」  セイバーに促されて坂道を上っていく。    ……静かな町。  月は凍ったように、黒い空に張り付いていた。    ……部屋に戻る。  午前二時。夜も更けたが、日課の鍛練をこなすだけの時間はある。 「―――っ……くそ、治ったと思ったんだけどな」    部屋に戻って気が緩んだのか、眠気にも似た虚脱感が襲ってきた。  ……セイバーも休めと言っていたし、今夜は鍛練を休んで、体力の回復に努めるべきか。 「……だよな。無理して疲れを引きずるより、ちゃんと休息をとらないと」    ……けだるい体で布団を敷いて、ばふ、と倒れこむ。  布団は日向の匂いがした。  日中、桜が干してくれたおかげだ。 「……桜……熱、下がってるかな……」    ぼんやりと口にする。  ……気持ちがいい。  予想以上に疲れていたのか、布団に包まれた途端、体の力みがほぐれていく。 「……ん……明日、すぐにお礼を言わない、と……」    目蓋が落ちる。  陽射しの中で眠るような穏やかさのなか、深い眠りに落ちていった。    ―――稽古を始めて数時間。    セイバーとの打ち合いは、剣道と呼べるものではなかった。  そもそもセイバーは剣道家じゃないし、剣を手にして戦う技法を教えてくれる気もなかったようだ。  セイバーが俺に叩き込もうとしているのは、“戦う”という事の実感だけだ。  マスターとの戦い―――命の奪い合いになった時、きちんと平常心と運動能力を発揮できるよう、戦いに慣れさせる。  それがセイバーの考えであり、俺にとっても有り難い教えだった。  一日二日で有効な剣術が得られる筈がない。  衛宮士郎が頼りにするのは、今まで鍛えてきた肉体だけ。  なら、あとは窮地に反応できる経験を得る事が、何より確かな剣になる―――― 「――――そこ!」 「いつ……!」    ――――と。  余分な雑念を抱いた瞬間、容赦なくセイバーの竹刀が胸を突いた。 「シロウ。射程外に退避した事で気が緩むようでは話になりません。今の貴方の実力では間合いの外も内もない。  今のように気を緩めるのは、この家にいる時だけにしなければ」 「っ――――すまん、確かに油断した」    ごほ、と咳き込む胸を押さえて立ち上がる。 「……ふう。シロウは驚くほど鋭い時もあれば、呆れるほど隙だらけの時もある。その揺らぎを上手く制御できれば――――」  きょろり、とセイバーの視線が外に向けられる。 「どうしたセイバー? 何かあったのか?」 「いえ。縁側で桜が手を振っています。……どうやらシロウを呼んでいるようですが」 「お、俺を……?」  ……なんだろう。  桜はなんだかんだ言ってセイバーに打ちのめされる俺を見ていられなくなって、訓練を止めるように言ってきた。  それを俺が断ると、所在なげに居間に戻っていったのだが……。 「……ちょっと居間に行ってくるけど、いいかなセイバー」 「はい。鍛錬を始めて二時間ですから、少し休憩をいれましょう」 「助かる。じゃ、ついでに茶でも淹れてくるよ」 「あ、先輩」  早足で居間に行くと、桜が電話の前で立ち尽くしていた。 「……その、お電話です。さっきから待っていますから、どうぞ」  電話の前から離れる桜。 「電話……? こんな時間にか?」  藤ねえだろうか……? 忘れ物したんで持ってこいとか、唐突に思いついた小噺を聞かせようとか。 「どれ。はい、お電話替わりました。  衛宮ですが――――」       「衛宮ですが、じゃない!  アンタ、なに無断で学校休んでんのよっっっ!!!」  受話器が吼える。  つーか、こんな小さなスピーカーで、部屋中に響き渡るほどの音量を出すのはいかなる魔術か。 「っ~~~~、きいたぁ――――」  キーン、と耳鳴りがあたまをシェイクする。   「ちょっと、聞いてる!? 衛宮くん、本当に無事なんでしょうね!?」 「……聞いてる。聞いてるから、もちっと声を小さくしてくれ。あと一回続いたら鼓膜が破れる」 「……。ふん、相変わらずっていうか、ズレてるっていうか。とにかくその様子じゃ何もなかったみたいね。  あーあ、心配して損したわ」 「………………」 「そりゃご苦労さまだったな。……で、用件はなんだよ。  いきなり電話してきて、なんかあったのか」 「なんかあったのはそっちでしょ? アンタ、昨日あれだけ忠告したのに柳洞寺に行ったでしょ」 「―――う。なんでそんなコト知ってんだよ、おまえ」 「見張り役を置いといたからよ。……ま、その様子じゃ何もなかったみたいね。学校にいなかったから、その、ちょっとよくない想像したっていうか」 「はあ。つまり俺がやられちまったと?」 「そうよ。ズタズタにされて裏山に埋められたのかと思った」 「………………」  いや。  それは、“ちょっとよくない”想像ではないと思う。 「―――おあいにくさま、こっちはピンシャン……じゃなくて、今にも死にそうだが、なんとかやってる。  で、用件はなんだよ遠坂」 「え……? だから、それは」 「腹の探りあいはいいって。  あ、用件って柳洞寺のマスターのコトだろ。それなら倒した―――いや、もういなかった。  柳洞寺のマスターは自分のサーヴァント……キャスターに裏切られてたんだ。  で、その後は――――」  ……と、これ以上つっこんだ発言はできない。  聞こえないよう小声で話しているとはいえ、後ろには桜がいるんだ。  死んだだの死なないだの、そんな物騒なコトは言えない。 「とにかく、柳洞寺にはもうマスターもサーヴァントもいない。聞きたいコトってそれだろ?」 「………そ、そうよ。わかってるじゃない」 「じゃ、切るぞ。いま特訓中でな、とにかく体中が痛い」  じゃあな、と話を切る。 「ちょっ、ちょっと待ったー!」 「? なんだよ、もう用はないだろ」 「あ、あるわよっ……! いいから明日は学校に来なさいよね。大事な話があるんだから」  ガチャン、ツーツー。  電話は乱暴に切られた。いや、実に遠坂らしい。 「……まったく。昨日は行ったら怒ったクセに、今日は来いだなんて、勝手なヤツだ」  受話器を戻す。  んじゃ、手早くお茶の用意をしようと居間に振り返る。  ……と。  なぜか、桜は俯いていた。 「桜? どうした、気分悪いのか?」 「いえ、熱なんてありません。ただ……先輩、すごく嬉しそうだったから、どうしたのかなって」 「え?」  嬉しそうって、俺が?  遠坂の電話で嬉しそうだって言うのか? 「まさか。俺、怒ってるんだけど」 「……だから、です。先輩、自分で気付いてない」  桜は気まずそうに視線を逸らす。 「……む?」  それに首をかしげながら、とりあえず三人分のお茶の支度にとりかかった。  鍛錬が終わった頃、外はすっかり茜色に染まっていた。 「先輩、〈鰤〉《ぶり》の下ごしらえ終わりました。あとはかぼちゃとトマトですね?」 「あ、そっちは片付けた。これからソースの味付けで、終わったら焼きに入る。……っと、今日は茶わん蒸しも作るから大鉢出してくれ。なんか、昨日藤ねえが奮発してカニ買ってきてくれたんだ、これが」 「あ、カニ風味かまぼこ五目ですね。あれ、美味しくてキレイだから大好きです」  よっ、と両手で大鉢を取り出し、調理台に置く桜。  朝と昼のお礼をかねて、夕食は俺が作ることになっている。  桜にはセイバーともども居間でゆっくりしていてほしいのだが、例によって例の如く手伝うと言ってきかないのだ。 「?」  と。  この忙しい時に呼び鈴が鳴った。  桜は隣にいるし、呼び鈴が鳴ったという事は来客か。 「あ、わたしが行ってきます。新聞の勧誘ならお断りしますね」 「桜――――?」  止める間もなく、桜は玄関へ向かってしまった。 「――――――――」  ……なにか胸騒ぎがする。  摩り下ろしていた大根を置いて、玄関の様子を見に行った。  呼び鈴は止まらない。  どこかヒステリックなものを思わせるチャイムの連打。  桜はやってきた客人に声をかけ、カチャリ、と玄関の鍵をあけた。  ――――瞬間。   「さぁ、そろそろウチに帰る時間だぞ、桜」    荒々しく踏み込んでくる音とは噛み合わない、取り繕った大仰な声が耳に届いた。  それは、一瞬の出来事だった。  鳴り止まない呼び鈴。 「はい、どちらさまですか?」  声をかけながら鍵を開ける桜。 「――――っ」  玄関を開けて身を乗り出してくる慎二。 「兄さん……!?」 「さぁ、そろそろウチに帰る時間だぞ、桜」  そうして、間髪入れず慎二は桜の腕をつかみ、   そのまま狼狽する桜に構わず、玄関口から外に向かおうとする。 「――――な」  走る。  駆けつけた時には、もう慎二が玄関から一歩踏み出しかけていた。 「なんのつもりだ、慎二……!」 「―――やあ衛宮。妹を連れて帰るために兄貴が迎えに来たんだが、どこかおかしいかい?」 「―――連れて帰る、だって?」 「おいおい。この家じゃ妹の迎えに兄貴が来たらおかしいっていうのか?  だいたいさあ、人の妹を唆してるのはおまえじゃないか衛宮。まさかそれで僕の弱みを握ろうなんて考えているんじゃないだろうね?」 「――――――――」  言葉がない。  慎二は、平然と、 「あ、それとも何かい? いざとなったら大事な妹を盾にして、陰にコソコソ隠れようってのかい? そりゃまた随分と卑怯な真似をするなぁ、衛宮は――――」 「――――――――」  そんなコトを、口にした。 「―――あ? なにその顔。おまえバカじゃねえの?」 「慎二」 「ハ、いいじゃん今の声! いいぜ、この前の続きをやってやるよ衛宮」  拳を握り締める。  冷静になるコトなんて、出来ない。  俺は――――      ―――我慢できないし、するべきでもない。    拳を握り締める。  カッとなった俺を嘲笑うように、慎二は口元を歪めて身構え―――    ―――怒りで白熱した思考を、全力で押し留めた。    ここで手を上げてどうする。  慎二との戦いはとうに終わっている。  ここで慎二に殴りかかっても意味はないし、なにより、桜の前で、〈慎二〉《あにき》とケンカするなんてところを見せるワケには――――   「やめて兄さん……!  お願いだから、ここでだけはやめてください―――!」    泣き叫ぶような桜の声で、我に返った。 「――――桜」 「驚いたな。おまえが僕にそんな口きくの、もしかして初めてじゃないか?」  慎二の声は、聞いたこともないほど愉しげだった。  桜は俯いたままで、小さく体を震わせている。 「で、桜はどうしたい? ここに残るか、間桐家に帰るか。僕は優しいからね、可愛い妹の意見は尊重するよ」 「…………はい。言う事をきくから、先輩の前でだけは、やめてください。帰れっていうのなら、帰ります、から」 「僕の言う事を聞くんだな、桜?」 「………………」  無言で頷く桜。 「そうか。そこまで言われちゃ桜を連れ戻すのはやめておくよ。ボクは寛大な兄貴だからね、妹のやりたい事はさせてやらなきゃ。な、そうだろ衛宮?」 「――――慎二」 「はは、そんな恐い顔で見るなよ。さっきのはただの冗談、場の雰囲気に合わせたジョークじゃんか。いつまでも根に持ってると陰湿なヤツだと思われるぜ?」  慎二は玄関へ戻っていく。 「じゃあな。桜をよろしく頼むよ衛宮。  ―――けど桜。気が向いたらいつでも帰ってきていいんだぞ」  手を振って去っていく。  慎二は桜を連れ戻さず、一人で衛宮邸を後にした。  夕食の支度が再開される。 「……………………」  言うべき言葉が見当たらず、ただかぼちゃとトマトを切っていく。  トントン、というまな板を叩く音だけが響く台所は、ひどく気まずい。 「先輩、ご飯炊けましたよ。藤村先生はまだですけど、そろそろご飯にしちゃいます?」 「ぁ―――ああ、そうだな、ちょっと早いけどそうしようか」 「はい。それじゃさっそく準備しますね」  桜はキビキビと動いて、何事もなかったように手伝いをしてくれる。  ……それは、明らかに無理をしている顔だった。  桜は平気なふりをして、俺に気を遣わせないようにしている。 「………………」  桜がそうする以上、俺もそう振舞うしかない。  それに、まいっているのは桜の方だ。  たとえ強がりでも笑顔でいるのなら、俺だって笑顔で返さない、と……? 「桜?」  茶碗の落ちる音に振り返る。 「――――――――」  桜の足元には、割れた茶碗の欠片が散らばっている。 「――――――――」 「っ……!」  桜の体が、唐突に倒れた。  とすん、と膝から力をなくして座り込み、そのまま体が後ろに倒れる―――― 「桜―――!」  急いで抱き起こす。 「熱っ……!?」  と。  抱きかかえた桜の体は、制服の上からでも判るほど熱をもっていた。 「桜……おい、しっかりしろ桜……!」 「え――――先、輩……? あれ、わたし、どうしたん、ですか……?」  声に力はない。  桜はぼんやりとした意識のまま、せいいっぱい気を張って、まともな言葉を口にしようとする。 「どうした、じゃないっ……! 桜、まだ風邪治ってないじゃないか……!」 「あ……いえ、けど、これぐらい、だいじょうぶ、ですよ?」 「馬鹿っ……! 大丈夫なヤツがいきなり倒れるか!」  ―――くそ、本当に馬鹿だ。  桜が風邪ぎみだって判っていたのに、深く考えもせず一日中無理をさせた。  あげくにさっきのアレだ。心身ともに疲れた桜が倒れるのは当然じゃないか――――! 「それより先輩。お茶わん割っちゃって、ごめんなさい。  すぐに片付けますか―――きゃっ!?」  桜を抱き上げる。 「せ、先輩っ!?」 「夕食は後だ。いますぐベッドに放り込んで寝かしつける。文句があるなら治ってからにしろ」  桜を抱いたまま離れに向かう。  途中、桜が何か言っていたが全て無視した。  正直、頭にキちまっていて話なんて出来そうにない。 「――――――――」  桜もそれで観念したのか、客間に着く頃にはすっかり大人しくなってくれた。  俯いたまま、大人しく指示に従ってくれる。  顔は熱で上気したままだったが、熱自体はそう上がってはいなさそうだ。  客間を後にする。  晩飯のメニューは変更だ。  今から急いで、朝のお粥のお返しを作らないといけない。  十時前。  夕食を終え、巡回の支度を始める時間になった。 「………………」  桜は客間で眠っている。  夕食はセイバーと二人だけで済ませた。  藤ねえは何か用事があったのか顔を出さなかった。 「シロウ。そろそろ時間ですが」 「………………」  セイバーが出発を促してくる。  今夜は――――      ――――今夜は、桜を放っておけない。    俺がいたところで何をしてやれる訳じゃないが、それでも家に残って、いつでも駆けつけられるようにしたいんだ。 「すまん、セイバー。今夜の巡回はなしにする。今は、桜が心配だ」 「――――わかりました。マスターの指示に従います」 「え?」  お、驚いた。  セイバーは反対すると思ったのだが、あっさりとこっちの提案を受け入れてくれるなんて。 「勘違いはしないように。体調が優れないのは桜だけではありません。シロウも同様に疲労しているから、今夜は休息するのです。  貴方の魔力はいまだ満たされていない。桜同様、今夜は無理をせず休む事です」 「―――。ありがとう、セイバー」 「れ、礼は不要です。私はシロウのサーヴァント、主の体を第一に考えるのは当然です」  言って、セイバーは居間に座って湯飲みに手を伸ばした。 「で、シロウ? 理解ある家臣に与える褒美とか、そういったものはないのですか?」  む、と拗ねたような、期待しているような、とにかく可愛らしい要求をするセイバー。 「あ――――そっか、待ってろセイバー」  それが『お茶うけをください』という意思表示なのだと判って、苦笑しながら藤ねえがセイバー用に買ってきてくれたクッキーに手を伸ばした。 「――――――――」  魔術回路を閉じる。  背骨に差し込まれた炎の鞭が抜けきったあと、ほう、と大きく息を吐いた。  ここのところ〈疎〉《おろそ》かにしていた日課は、驚くほどスムーズに終わってしまった。  セイバーと契約した事がきっかけなのか、あれほど上手くいかなかった魔術回路の形成が、今は容易になっている。 「―――けど、作るのに一分かかっているようじゃ使い物にならない」    今の自分には、“強化”によって武器を用意しておく事しかできない。  不意に襲われた時、咄嗟に反撃する術がないのは命取りだ。  せめてあと半分、三十秒程度に短縮できれば活路も見えてくるのだろうが―――― 「今度、遠坂に相談してみるかな。あいつなら効率のいい魔術回路の作り方を知ってそうだ」  ま、見返りに何を要求されるか分かったもんじゃないんで、おいそれとは試せないが。 「ん……?」  土を踏む音がする。  ゆったりとした足音だ。  ……深夜零時。  月明かりを頼りにやってきた人影は、   「先輩……? まだ起きてますか?」    ほのかに顔色の良くなった桜だった。 「――――――――」    しばし、頭の中が真っ白になった。    ……桜は、俺の知らない格好をしていた。    正体不明のダメージ。  藤ねえが用意した着替えなんだろうが、その―――制服じゃない桜の姿に、頭がぐらぐらと揺れている――― 「……あの、先輩?」 「あ―――ああ、起きてる。桜の方はいいのか。外、寒かっただろ」 「はい、熱はほとんど下がりました。気分転換に外に出たらこっちで物音がしたから、先輩かなって」 「そっか。じゃあ、あとはあったかくして、ちゃんと寝るだけだな。うん、良かった良かった」  直したばかりのストーブに火を入れる。  よし、ついてる。  これなら少しはあったかくなる。 「ほら。ここも冷えるけど、外よりマシだ。  ……その、寝てばっかりで目が冴えてるんなら話し相手になるぞ」 「――――はい。それじゃお邪魔しますね、先輩」  桜はたしかな足取りでやってくる。  ……うん、本当によくなってくれたみたいで、安心した。 「あったかい。ちゃんと直ったんですね、これ」 「なんとかな。直し始めの頃はあんまりにもオンボロなんで、さすがに無理だあー、ってサジ投げてたけど」 「そうですね。『あんなの直すぐらいなら藤ねえが真っ二つにしたビデオデッキを直すぞ』って怒ってましたもん、先輩。  けど結局、捨てられずに持ち帰ったんですよね?」 「……いや、それはその、往生際が悪いのはコイツだけじゃなかったというか」  壊れたストーブだったけど、まだ直る見込みが見えてしまって、見えた以上はこっちも無視できなかったというか。 「先輩、一度言ったらきかないから。物分りがいいようですっごく頑固なんですよ。気付いてました?」 「……む。頑固かな、俺」 「頑固ですよー。それにすっごく強引なんです。  さっきだって、わたしの話をぜんぜん聞いてくれませんでしたから」  ?  非難めいたコトを言っているのに、なぜか桜は上機嫌だ。  ……いや、桜が元気なのは嬉しいから、別にいいんだけど。 「……悪い。さっきはカッとして、考えが回らなかった」 「そうですね。先輩、わたしと自分に怒ってて恐い顔してました。……うん。先輩には迷惑をかけてばかりですけど、さっきのは、ほんとに悪いコトをしたんだなあって反省したんですよ?」 「………………」  桜は、すごく穏やかだ。  病み上がりという事もあるんだろうけど、なんていうか、いつもの『頑張ろう』って気を張っている桜じゃない、ほんとうの桜のような気がする。 「それで、少し子供の頃を思い出しちゃいました。  わたし、子供の頃は家にこもってばかりで、言いたい事も言えなかった。わたしがホントの気持ちを言わなければみんな上手くいくって思いこんで、ずっと黙ってたんです」 「……けど、それじゃダメですよね。わたしは心配かけたくなくて黙っていたけど、それがもっとお父さんや兄さんを心配させてたんです」 「……そっか。けど、桜が親父さんや慎二を大切に思ってたのはホントなんだから、桜の気持ちだってちゃんと伝わってたんじゃないか。口にしなくても伝わるコトってあるだろ」 「そうですね。そうだといいです。  ……それで、先輩はどうだったんですか? わたし、先輩が子供の頃の話、あんまり聞いたことないんです」 「え、俺……? うーん、別に今と変わらないんじゃないかな。昼間は町じゅう走り回って、〈切嗣〉《オヤジ》のメシを作って、夜はここでガラクタいじってた」  照れ隠しに頬を掻く。  ……その、子供の頃とまったく変わっていないというのは、男としてどうかと思ったのだ。 「うわ。町じゅうを走り回ってたんですか?」 「んー……その、パトロールの真似事。弱きを助け強きをくじくってのに、憧れてたんだ」  おもに戦場は公園だった。  あそこで同い年の連中と一緒に、わずかに年上の連中とケンカしたりするのは日常茶飯事だった気がする。  ……いやまあ、中には同い年のクセに智謀に長けた、あくまのような強敵がいたよーないなかったよーな。 「なるほど、いじめっこから町を守ってたんですね。先輩、昔からそういう人だったんだ」 「桜。笑顔で言われると、さすがに我が身を振り返っちまうから止めてくれ。わりと恥ずかしい」 「恥ずかしくなんかないです。わたし、子供のころに先輩と会ってたら、きっと子分にしてもらってました。  わたしみたいな引っ込み思案には、手を取って外に連れ出してくれる人がいないとダメなんです」 「……子分って、桜な」  ……あ。いやまあ、たしかに子供の頃に桜がいたら、それこそ毎日特訓してたかも。  元気だせー、って、いっしょに川原を走ったり道場で正座したりしていた可能性が高い。  つまり、それは傍から見ると子分そのものだ。  そして俺によって鍛えられた桜はたくましく成長し、 これとか、  これみたいに女の子の皮を被ったあくまになるのだ。 「――――う」  ぶるっと寒気がする。  良かった。とにかく、桜がおしとやかでいてくれて本当に良かった。 「あの、先輩?」 「ん? ああ、ちょっとあたまがトンでた。独り言なんで、気にしないでくれ」 「……はい。それはいいんですけど、その……訊きにくいコトを、訊いてしまっていいですか?」 「? いいけど、なんだよ」 「……藤村先生から聞いたんですけど。先輩、衛宮の家に引き取られた養子だって、ほんとですか?」 「―――ん? あれ、言ってなかったっけ? 藤ねえの言う通り、〈切嗣〉《オヤジ》の養子だぞ、俺」 「あ、あの、先輩? それって、その」 「いや、別に隠し事じゃないし、その通りだし。桜こそどうしたんだよ、そんなコト訊いて」 「……先輩は気にしてないんですか? 知らない家に貰われて、いっぱいイヤなコトとかあったんじゃないんですか?」 「あー、そりゃ藤ねえの入れ知恵だな。  ……ま、初めの一年はそう見えたかもしんないけど、アレはアレで辛くはなかったし、イヤなコトなんてなかったと思う」 「じゃ、じゃあ楽しかったんですか、先輩は?」  ――――む。  楽しかったか、なんて訊かれたのは初めてだ。  あの火事の後。  切嗣との初めの一年間は、ただ傷が癒えるのに耐え続けた一年だったと思う。    ……その後。  その後から今まで、ひたすら体を動かすだけの年月だった。  魔術を習うために切嗣を追い掛け続けて、  一人だけ助かった意味を探して、町じゅうを走り回った。    その日々が。  楽しかったかどうかなど、考える余裕がなかっただけだ。 「うーん、どうだろう。楽しかったかどうかは分からない。ただ、俺は〈切嗣〉《オヤジ》みたいになりたかった」 「それは、藤村先生が言っていたような正義の味方にですか?」  恐る恐る桜は言う。  それに、 「――――うん。おかしいかな」  頬を掻きながら、気持ちのまま断言した。 「いいえ、先輩は間違ってません。まっすぐで、かっこいいです」 「―――――」  落ち着いた言葉。  いつもなら恥ずかしくて目を逸らすだろうそれは、素直にありがとうと言い返したくなるぐらい、胸に届いた。 「じゃあもう一つ訊きますね先輩。もしわたしが悪い人になったら許せませんか?」 「え……?」  唐突な質問に真っ白になる。  ……ただ、それを本当に真剣に考えるのなら、   「ああ。桜が悪いコトをしたら怒る。きっと、他のヤツより何倍も怒ると思う」    俺は、何よりも優先して桜を叱り付けるだろう。 「――――良かった。先輩になら、いいです」  安心したように桜は頷く。 「……?」  その笑顔を見て、以前にもこんなコトがあったような気がして首をかしげる。 「部屋に戻りますね。おやすみなさい、先輩」  桜は部屋に戻っていく。  その後ろ姿を見送りながら、それがなんなのか思い出せないことに小首を傾げた。    部屋に戻る。  セイバーを起こさないように布団にもぐりこみ、目蓋を閉じようとした時。 「――――思い出した」  ひっかかっていたものが取れた。  アレは、そう――――    ――――あの時も、土蔵だった。  二年前……いや、正確には一年半前か。    一昨年の夏の話だ。  うちに手伝いにきたいと言った桜に、俺は何度も断った。  それでも桜は諦めず、それまで知っていた桜からは想像もつかないほど、強情にうちに通い続けた。    それに折れて―――正直、桜の一生懸命さに負けたのだが、とにかく土蔵に呼びつけて、降参宣言をした。   『桜には負けた。負けたから、これやる』    古い鍵。  土蔵に仕舞っておいた、切嗣が使っていた家の鍵を、そこで桜に手渡したのだ。    桜は驚いて、恐縮して断った。  自分は他人だから合鍵なんてものは貰えない、なんてすっとんきょうなコトを言ったんだっけ。   『あのな。毎日手伝いに来るくせに他人も何もあるか。  これからは好きにうちを使ってくれ。……その、その方が、俺も助かる』    そんなコトを言って強引に鍵を押し付けた。  その時に見たんだ。   「……はい。ありがとうございます、先輩。大切な人から物を貰ったのは、これで二度目です」    幸せそうに頷いた、桜の顔を。   「ああ――――そうか」    ひっかかっていたのはソレだ。  桜は一生懸命で、いつも柔らかく微笑むけど。  あんなふうに満ち足りた笑顔を浮かべたのは、あれっきりだったんだ――――  昼食が終わって、一息入れに部屋に戻る。  遠坂はやる事があるらしく、イリヤを連れて客間に立て篭もった。 「イリヤの手を借りて臓硯対策をするの。刻印が馴染むのにも時間がかかるだろうし、午後は休んでいていいわ。  士郎がいても邪魔なだけだから」  なのだそうだ。  今の俺たちには臓硯に対抗できる手段がない。  ここは遠坂が準備している、という『何か』の完成を待つしかない。  一方、桜は客間に戻っている。  昼食の後片付けの最中、桜は何度か目眩を起こしていた。  朝から元気だったので安心していたのだが、桜は熱に侵されているのと変わらない。  少しでも疲れを感じたのなら部屋で休むコト、という俺と遠坂の言葉を聞いて、桜はようやく客間に戻ってくれた。 「――――――」  一人になって、左腕の調子を見る。  まったく動かなかった左腕は、今では肘を動かせるぐらいにはなっていた。  感覚は依然麻痺したままだが、そのおかげで痛みはほとんどない。  痛みなら遠坂に植え付けられた刻印の方が大きい。  肩と喉、それに〈丹田〉《たんでん》。  それぞれにフランケンシュタインがしているようなボルトが植え付けられている気がする。 「左腕は借り物で体はボルト止めか」    SF映画に出てくるサイボーグを連想する。  発想としては楽しかったが、笑う事はできなかった。  ……左腕の調子を見ようとしたクセに、鏡の前に立つ事もしなかった。  時刻は二時前。  さて、これから――――    遠坂とイリヤの様子を見に行こう。  二人が何をしているのか興味あるし、俺に手伝える事があるかもしれない。 「そんなのないわよ。邪魔だから出て行って」  と。  客間をノックしてから一秒、反撃の余地すらなく一刀両断された。 「む、なんだよその態度。人の善意を足蹴にすると後が怖いぞ」 「なにが善意よ。今からするのは遠坂とアインツベルンの秘門なんだから、他の人間に見せられるワケないでしょ。  手伝いたいって気持ちは嬉しいけど、わたしとイリヤにとっちゃ士郎の行動は害悪そのものなの。貴方だって、自分の家の秘密を他所に知られたくないでしょ」 「――――――――」  ……なるほど。  言われてみれば確かにその通り。  いくら協力体制とは言え、どうあっても教えられない事もある。    それはともかく。 「遠坂。おまえ、なんで眼鏡してるんだ?」 「……なんでって……なによ、おかしい?」 「いや、おかしいと言うか―――」    その、優等生ぶりがバージョンアップして、もう会長ぐらいに見えるのだが、 「―――すごく、似合ってる」 「っ……そ、そう。眼鏡なんて一人でいる時しかかけないから、よく分からないけど……おかしくない?」 「ああ。遠坂の本性を知ってるのに、優等生だって騙されかねない。擬態か?」 「――――」  む? なんか、部屋の温度下がってないか? 「遠坂? なんか、妙に背中がゾクゾクしてるんだが」  気のせいだろうか、と視線で訊いてみる。 「あら奇遇ね。わたしも肩が震えてるのよ衛宮くん。  そろそろ本気で、一度白黒つけなくちゃいけないって思ったトコ。うろちょろ歩き回れるぐらい暇なら、動けなくなるまで鍛えてあげましょうか?」 「あ――――む」  ……怖い。コイツ、本気だ。  どうも、体力を温存しろと言われたクセに動き回っている俺に本気でお灸を据えたいらしい。 「……すまん、軽率だった。遠坂に言われた通り、大人しく部屋で休んでる」 「……ふん。別にいいけど、それだけ動き回れるんなら他にやる事あるんじゃない? 士郎の助けがいるのは、何もわたしたちだけじゃないんだし」 「? 俺の助けがいるって、何処に?」 「すぐ隣り。あの子にとっちゃ士郎が傍にいるかいないかは大問題でしょ。自覚しなさい、貴方は桜の元気の素なんだから」 「――――」  かあ、と顔が熱くなる。  こう、はっきりと人の口からこういうコトを言われるのは、とんでもなく恥ずかしい。 「あ、うん、了解した。桜の見舞いをしていいなら、してくる」  ロボットのようにギクシャク頷く。 「していいに決まってるでしょ。  ……まったく、大抵の事は大雑把なクセに、つまんないコトだけ気を利かせるんだから、ばか」  客間のドアが閉められる。  桜の部屋はすぐ隣りで、距離にして一メートルあるかないか。 「落ち着け、落ち着け―――ただ様子を見に行くだけじゃないか」  大きく深呼吸をして、隣の客間のドアを睨む。  べ、別にやましい気持ちとかまったくないのだ。  俺はただ、桜がちゃんと休んでいるかどうか確かめに行くだけなんだから。  そう言えば朝からライダーの姿を見ていない。  あいつの事だから陰ながら桜を見守ってくれてるんだろうけど、いるならいるで挨拶ぐらいはしておかないと。  屋敷の中にライダーの姿はなかった。  ライダー用の部屋はあるのだが、使われていた形跡もない。  となると、あいつが好みそうな所で、かつ桜の客間が見渡せるロケーションといったら、  考えられるとしたらここか。  桜のいる離れを見渡せて、〈人気〉《ひとけ》がなくて、身を隠せるのはこの土蔵ぐらいなものだ。 「ライダー、いるか」  誰もいない土蔵に呼びかける。 「待機していますが。何か用ですか、士郎」  霊体になっていたのか、確かな気配を伴ってライダーは現れた。 「………………」  さて。  挨拶に来たはいいが、こう顔を合わせるとやはり緊張してしまう。  常に距離を保とうとするライダーの性格……は別に気にならないんだが、その、男として彼女の格好は目のやり場に困るのだ。 「……何か用件があるのか、と訊ねたのですが」 「あ、いや、別にこれといって用事はないんだ。ただ挨拶がまだだったから、おはようぐらいは言っておきたくて」 「―――そうですか。暇なのですね、貴方は」  はっきりと返された。  が、これぐらいは予想の範囲だ。むしろライダーらしくてこっちもやりやすい。 「ん、暇なんだ。ちょうど手が空いてぶらぶらしてるところ。ライダーはここで桜の警護か?」 「ええ、私はサクラのサーヴァントですから。  彼女が命じないかぎり、貴方やトオサカリンを守る事はありません」 「ほんとか? 良かった、ライダーがそうしてくれる分には安心できる」  ほっと胸を撫で下ろす。  もしかしたらと心配していたが、桜は無茶をしていないようだ。 「ありがとうライダー。これからも桜をよろしくな」  手をあげて土蔵を後にする。 「―――待ちなさい。質問があります」 「?」  庭に戻ろうとした足を止める。 「なんだよ。俺に答えられる事ってあんまりないぞ?」 「いえ、貴方自身の事ですから、答えられない筈がない。  ―――エミヤ士郎。今の貴方の言動が分かりません。  私は貴方の護衛を拒否したというのに、なぜ良かったなどと言えるのです」 「は? なんだ、なにかと思えばそんなコトか。  そりゃライダーが護衛についてくれるなら安心出来るけど、男なんだから自分の身は自分で守らなきゃダメだろ。  遠坂は……まあ、あいつは何が起きても自分で解決しそうだし」 「……。その体で自分の身を守る、ですか。私には強がっているようにしか見えませんが」 「強がりだよ。戦力的に劣ってるんだから強がってなきゃ負けちまうだろ。  ……まあ、本音言うと不安で仕方がないんだけど、それでもライダーには今のスタンスを守ってほしい。おまえが動くと桜が疲れる。桜にはこれ以上魔力を使ってほしくない」 「―――なるほど。確かに私が動けばサクラが苦しむ。  こうして実体化するだけでもサクラに負担をかける以上、余分な仕事は増やさせたくないと?」 「そうだ。ライダーは桜だけを守っていてほしい。  で、もし俺がやられちまったら、その時はイリヤも頼めるかな」 「……都合のいい話ですね。私を邪魔者と判っていながら、最悪の時は頼ろうと?」 「ん、そうだけど……やっぱりダメか?」 「――――――――」  ライダーは答えない。  拘束具で隠された視線は、まっすぐに俺を見つめている。 「あー、じゃあ交換条件だ。ライダーがピンチになったら必ず手を貸す。ギブアンドテイクって事で、イリヤも気にかけてやってくれないか」 「返答はできません。私が窮地に陥った時、既に貴方が死亡している確率の方が高いのですから。今の提案は魅力的ではありませんね」 「げ。そっか、ライダーがピンチになる前にやられたら意味ないもんな。……あー、すまん。たしかに都合のいい話だった」  ……しかし参ったな。  そうなると、イリヤをもっと安全な場所に連れて行った方がいい事になる。  教会はイリヤが嫌がるし、かといってあの城に一人残しておくのはもっと―――― 「―――まったく。本当に貴方は危なっかしい」 「え? なんか言ったかライダー?」 「ええ。今の提案を考える、と言ったのです。貴方が私の窮地を救ったのなら、それ以後は必ず貴方の望みに応えましょう。それでいいですか、士郎」 「あ―――ほ、ほんとか……!? 都合のいい話だぞ、今の!?」 「都合は合っています。貴方が先に私を助けた場合のみの話ですから」 「――――――――」  目が点になる。  ……その、ライダーが俺の提案を受けてくれたのも嬉しいんだが、それ以上に、その。 「ライダー。いま、笑ったか?」 「いいえ。喜ばしい事はありませんでしたから、笑みを浮かべる道理はない」 「いや、道理がなくっても笑ってたって。こう、すごく微妙な変化なんで見逃しかけたけど」 「有り得ません。私が否定している以上、それは貴方の見間違いです」  断言するライダー。  んー、そう言われるとそんな気もしてきたような。 「……………………」 「……………………」  む……妙な沈黙に包まれてしまった。  このまま屋敷に戻るつもりだったんだが、どうも後ろ髪を引かれるというか、ライダーの視線が気になる。  無口で冷たい態度は変わらないんだが、なにか、言いたいコトがあるようなそんな気配だ。 「……………………」 「……………………」  対峙にも似た緊迫感が漂いはじめる。  ……しかし。  ほんっとーに今さらだけど、ライダーは背が高い。  長い髪にスラリとした手足。  一度しか見ていないが、〈拘束具〉《マスク》の下の顔だってとんでもない美人だった。  遠坂と桜だって美人だが、ライダーは基準からして違う気がする。 「何か疑問ですか士郎」 「え? ああ、疑問ってほどのものじゃないんだが、訊いていいかな」 「構いません。なんでしょうか」 「ああ。ライダーって背、高いよな。どのくらいあるんだ?」  率直に訊いてみる。  ……って。  なんで、そこで後ろに下がるんだライダー? 「ライダー?」 「い、いえ、特に意味はありません。気にしないようお願いします」 「……いいけど。で、身長どれくらいあるんだ? 俺より高いから、170は超えてると思うんだけど」 「そ、その質問には答えない。疑問があるのなら、他の質問にしてください」 「答えない……? ライダー、自分の身長判らないのか?」 「そ、そういう訳ではありません。……とにかく他の質問にしなさい士郎。それ以上同じコトを口にされたら、気分を害します」 「む」  ライダーは明らかに動揺している。  冷静なあいつがここまで慌てるってコトは、もしかして―――― 「ライダー。背が高いこと、気にしてるのか?」 「――――――――」  ライダーの体が固まる。  どうやら図星だったらしい。 「……………………」 「……………………」  なんとなく黙りあう。  で、沈黙に耐えられなくなったのか、 「……お、おかしいですか……? 私が、このような事に拘るのは」 「え? いや、おかしいっていうより、理由が分からなくて固まってた。なんで気にしてるんだよ、そんなコト」 「……理由は言わずとも明白でしょう。貴方とて判っている筈です。このような背の高い女など、見苦しいだけで可愛く――――」 「なんで? カッコイイじゃんか、ライダー」  っていうか、贅沢な悩みじゃんか。  俺だってそれぐらい上背ほしいぞ、ほんと。 「……………………」 「……………………」  で、また沈黙。  そろそろ気が付いてきたんだが、俺は、ライダーの警護を邪魔しているのではないだろうか。 「えーと。俺邪魔かな、ライダー」 「……そうですね。私はマトウゾウケンの襲撃に備えて姿を隠している。貴方がこう声をかけてきては、姿を隠している意味がない」 「だよな。それじゃそろそろ戻る。邪魔して悪かった」 「あ―――ま、待ってください士郎」  二度目の呼び止めに振り返る。  ライダーは何か、困ったように唇をかみ締めたあと、 「―――手が空いているのなら、サクラの看病をしてください。貴方がいるといないでは、サクラの気の持ちようが違いますから」 「あ……そうだな、すぐに行く。桜、目を離すとすぐ無理をするからな。ちゃんと休んでるか見てくるよ」  ライダーの言う通りだ。  ここから離れはすぐそこだし、午後は桜の看病をしよう。 「―――と。そうだ。初めの用件を言い忘れてた」  三度、ライダーに振り返る。 「な、なんでしょう、士郎」 「ああ、おはようライダー。朝の挨拶、まだだったろ」  良かった良かった。  これを言いに来たのに忘れたでは間抜けすぎる。  ……と。 「―――おはようございます士郎。では、私からも言い控えていた事を一つ」  ライダーはいつもの態度に戻って、冷淡に俺を見据えてくる。 「ん、なんだよ」 「貴方の行動は無駄が多い。朝の挨拶には遅すぎる。時刻はもう昼過ぎでしょう」 「う、面目ない。正直、さっきまでライダーの事忘れてた」 「でしょうね、今後は気をつけてほしい。  それと、先ほどの言葉は忘れてください」 「? 先ほどの言葉って、なにさ」 「貴方が私を邪魔者と思っている、という事です。間違いでしたので訂正します」 「俺、ライダーを邪魔者だなんて思ってないぞ」 「ええ、それは分かりました。何をするでもなく、ただ挨拶をしにきた貴方ですから」  見間違いではなく。  正面から俺を見るライダーの口元は、確かに、嬉しげに笑っていた。  桜の様子を見に行こう。  大人しく部屋に戻ってはくれたが、ちゃんと休んでいるかどうか心配だ。 「桜、いるか?」  控えめにノックをする。 「あれ、先輩……?」  扉越しに気だるそうな声が聞こえた。 「あ、ちょっと待ってください、すぐに着替えますから……!」  眠っていたのか、なにやら慌しい気配がする。  そうして二分ほど経過したあと。 「お待たせしました。どうぞ、入ってください」 「あ……うん、お邪魔する」  ここにいたって、女の子の部屋に入る、というコトに緊張してきた。  前にもこの部屋には入っているが、あの時と今では状況が違う。  あの時は桜の意識はなくて、今は桜がドアを開けて俺を迎え入れてくれたんだから。 「それで、何かあったんですか先輩? わたし、少し眠っていたから物音とか聞いてなくて」 「あ、いや、そんなんじゃない。別に何かあったから来たんじゃなくて、桜がちゃんと休んでるか気になって来たんだ、けど――――」  その、結果的に桜の安眠を邪魔してしまった。 「あは、それなら合格ですね。わたし、ちゃんと休んでましたよ?」 「ああ。起こしちまってごめん。桜だって自分の体を判ってるもんな。熱があるのに無理して動き回るコトなんてないんだ。……なんか、俺が過保護すぎたみたいだ」  がっくりと反省する。  と、桜はクスクスと笑い出した。 「……う。やっぱり気を回しすぎか、俺?」 「いえ、そんなコトありません。先輩は鋭いです。  ホントはですね、お掃除の続きをしたかったんです。  このまま先輩が来なかったら、ちょっと抜け出しちゃおうって思ってました」 「む……抜け出しちゃおうって、桜」 「はい。だってこんなに元気なのに、寝込んでいたら病人みたいでイヤだったんです。だから先輩に言われても、いつも通りのわたしでいようって。  けど、そうしたら姉さんがふざけるなって怒るんです。  無理をして倒れたらわたしたちに迷惑がかかるって」 「――――ん」  ……そうだ。  昼食の後、洗濯をしようとする桜を止めた。  けど俺一人では聞いてくれなくて、どうしたもんかと思案している時、遠坂の助け船が入ったのだ。  もっともそれは生易しいものじゃなく、 『アンタが倒れたら、殺さなくちゃいけないのはわたしたちなのよ』  と、とんでもなくきつい一言だったのだが。 「……そうだな。遠坂、怒ってたな」 「はい。わたし、姉さんに怒られちゃいました」  どこか嬉しげに桜は言う。  ……そっか。  言葉はどうあれ、遠坂が心配しているってコトはちゃんと伝わっていたんだ。 「じゃあちゃんと休んでないとな。  桜がどう思っていようと、桜の体は疲れているんだから。桜がこうして休んでいてくれれば、俺も遠坂も安心して外に出られる」 「……そうですね。けど、わたしはホントに元気なんですよ? 今は調子が悪いだけで、明日になれば元気になってるんです。ほら、この前の風邪と同じで、こんなの一日経てば治っちゃうんですから」 「……ばか。邪魔しちまった俺が言うことじゃないけど、桜は横になっていてくれ。眠れるのなら眠った方がいい。  夕食時に起こしに来るから、それまでゆっくりしてるといい」  それじゃ、と客間の出口に向かう。  ――――と。 「あ――――」  くい、とシャツの裾を、桜が掴んでいた。 「桜……?」 「あ、あの――――先輩の言う通り、ちゃんと眠るんです、けど。  その、先輩が傍にいてくれるのは、嬉しいです」 「――――――――」  桜は滅多に甘えない。  負担になりたくない、と思っているのか、たいていのコトは一人だけでこなしてしまおうとする。  その桜が、こんなコトで、ワガママを言っている。  いや、こんなのワガママでもなんでもないんだが、桜にしてみれば最大限のワガママなんだろう。  だから不安そうに俺の顔を窺っている。  桜の頼みならなんでも聞くっていうのに、桜が俺に甘える事は、こんな些細なことだけだった。 「――――ああ。じゃあ、もう少しここにいる」  桜を抱きしめたい衝動を堪えて、なんとかそれだけ口に出来た。 「やったぁ! それじゃお茶を淹れてきますね先輩! とっておきの中国茶をご馳走しちゃいます!」  言って、それーっとばかりにドアに向かう桜。 「待った。お茶は俺が淹れるから桜はベッド。これじゃ本末転倒じゃないか」 「ぁ……そ、そうですね、なんかおかしいです、わたし」  いそいそとベッドに戻る桜。  すれ違いざま、桜の頭をぽん、と叩いてお茶を淹れに行った。    ――――が。  思った以上に、この状況は精神力を消費していった。  とにかく桜と二人きりなのだ。 「けど、ほんとはですよ? ほんとは、先輩が姉さんのこと好きなんだって気付いてたんです。だって先輩、姉さんの前だとすごく楽しそうにしてますから」    ……だから、桜が何を言っているのかも頭に入ってこない。  下手に桜を見てしまうと、抑えが効かなくなってしまう。  ……その、俺だって男だし。  あの晩のことを思い返すと、それだけで今すぐ桜を引き寄せて、抱きしめたくなってしまう。 「……そうですよね。姉さんに比べたらわたしなんて魅力ないし。先輩、イリヤさんも好きみたいだし。  ……その、先輩は物怖じする子は嫌いなんでしょうか」    深呼吸をして自分を抑える。  桜がこんな体なのに無理なことするのは――――いや、それは桜の助けになるんだけど。  ならそれは悪い事じゃない。  悪い事じゃない、けど―――― 「………………」    ―――そうだ、だいたい隣りには遠坂たちがいるじゃないかっ!  ここでそんなコトをしたら気付かれるし、そうなったら昼間っから何してるんだって軽蔑されるに―――― 「……って、桜……? ……えっと、何か怒らせるようなコトしたかな、俺」    と、桜が妙に元気がないのに気付いて、はたっと妄想から帰還する。 「……いいえ。先輩は何もしてません。何もしてないのが問題なんです」 「?」 「……その、ですね。わたし、きわどいコトを言ったんです。先輩、聞いてませんでしたけど」 「う……すまん、確かに上の空だった。えっと、たしか遠坂の話をしてたと思うんだけど……」 「ええ、そうです。姉さんがここで寝泊りするようになって嬉しいかって」 「あ――――」  ……そうだった。  桜にとって今の状況がどんなものなのか、それを聞いていたんだっけ。 「で、どうなんだ。桜、遠坂のこと好きなんだろ。なら今の状況は嬉しいんじゃないか?」 「……ええ、嬉しいです。けど、それと同じぐらい不安なんです。姉さんはわたしの理想で、わたしじゃ手に入らなかったものをいっぱいもってます。だから近くにいると目を背けたくなって、素直には喜べない。  なんだか姉さんにも自分にも、何をしてるんだって責められてる気がしてしまって」 「――――――――」  桜の言い分はなんとなく判る。  “自分の理想”なんてものが目の前にいたら、未熟なままの自分にとっては眩しすぎて目に痛い。  ……ま、そうゆう気持ちは分かるにしても、だ。 「……桜。おまえ、遠坂みたいなのが理想なのか?」    おそるおそる訊いてみる。  ここに遠坂がいたらワンパンチされかねない質問だ。 「はい。ずっと姉さんみたいになりたいって思ってました。あ、もちろん魔術師としてじゃなく女の子としてですよ?  姉さんは何でもできて、いつも颯爽としてるじゃないですか。わたしも、一度でいいからあんな風にかっこよくなりたいなって」  嬉しそうに桜は語る。  ……むむ。  そうなるとこっちとしては複雑な心境なのだが、まあ、たしかに遠坂はかっこいい。  自分の言動に責任を持つ、という点において、あいつはすごく男前だ。 「……なるほど。けど、桜は今まで遠坂と会えなかったんだろう? 間桐と遠坂の取り決めとかなんとかで。それでよく遠坂のこと知ってるな」 「はい。だってどうしたって気になるじゃないですか。  わたしも姉さんも、子供の頃のことは覚えてないんです。  なにしろずっと前だったから。  ただ事実として、わたしたちは元々姉妹だったんだって知っていただけです」 「それで余計に気になって、わたしたちはお互いを遠くからよく見てたんです。  話すことはできなかったけど、一学年上の遠坂先輩の噂はよく聞こえてきましたし」 「――――ははあ。非の打ち所のない優等生って噂か。  言われてみれば、あいつは有名人だから話には事欠かないよな」 「はい。それに会えない、という事もありませんでした。  学校ではよく声をかけて貰えたし、弓道部にも見学に来てくれましたから」 「……それで、ですね。そういう時にいつも思ってたんです。わたしは見てもらえるだけでいいって。気にかけてもらえるだけで幸せだし、それ以上を望んだらきっと嫌われるってわかってましたから」 「……? 嫌われるって、どうして?」 「……〈間桐〉《わたし》の魔術は、姉さんとは違いますから。魔術というのは基本的に用途を定められていないでしょう?  先輩の魔術だって何かをなし得るために、何らかの現象を起こすものです。そこには初めから限定された“目的”はないと思います」 「ん……そうだな。できる事は決まってるけど、〈強化〉《できたもの》をどう扱うかはその都度違う」 「……けど間桐の魔術は違います。間桐の業は、初めから“他人から奪うこと”に限定した魔術なんです。  それ以外の用途なんて持たない。他人の痛みしか糧にせず、他人の喜びを還元する教えがない」 「…………」  そうか、なんて頷く事もできない。  桜が間桐でどんな魔術を教え込まれたのか、俺は知らない。  桜が教え込まれた魔術は外道の類で、それを桜自身が恥じている。  ……桜と遠坂の問題は、転じて両家の魔術の違いな訳だ。  桜が間桐の魔術を忌み嫌えば嫌うほど、桜は自分に対して嫌悪感を抱いてしまう―――― 「桜は、間桐の魔術が嫌いなのか」 「先輩。それは人間に、呼吸をするのが嫌いなのかと訊いてるようなものです」 「好きでも嫌いでもありません。ただ、そうしなければ生きていられなかっただけです。  わたしは元から、その為だけに間桐の家に譲られた子供ですから。間桐の後継者になれなければ、そこで消えていたものなんです」 「――――――――」 「あ。先輩、そんな顔しないでください。たしかに教えは厳しかったけど、先輩が思っているほど辛いものではなかったんですから」 「それにですね、厳しさで言ったら先輩には敵いません。  わたし、人に傷つけられるのは楽なんですけど、自分で自分を傷つけるのは怖いんです。  生きたがりなわたしは自分で幕を下ろす事ができない。  死んでしまうことはなんともないけど、自分で死のうと考えるのは怖いんです」 「けど先輩はどっちもできちゃうんです。……その、先輩が夜にどんな修練をしているか見ちゃった事があるんです。  い、一度だけですよ? 忘れ物をして取りに来た時、土蔵の方で物音がして様子を見に行っちゃったんです」  申し訳なさそうに頭を下げる桜。  が、そんなことで謝られてもこっちが困る。 「いや、謝らなくていい。それは俺の不注意だろ。桜がいるって事に気付かなかったんだからな。周りの気配に気付けないようじゃ魔術師として失格だ」 「……………………あの、それが」 「それより、それっていつの事だ? 桜がやってくるようになってからすぐか?」  というか、すぐであってほしい。  牛歩の速度とはいえ、俺だってそれなりに進歩しているのだ。  ここ最近で桜の気配に気付かなかった、なんてコトになったら、昔からちっとも進歩していない事になる。 「……去年の、夏ごろの話です。藤村先生が西瓜を持ってきてくれた日、なんですけど」 「――――そうか、良かった」  ほう、と胸を撫で下ろす。  半年前の話なら、まあ、少しは言い訳ができるってもんだ。 「……と、それで、桜。……その、見た感想とか、どうかな」  人に魔術の鍛錬を見られたのは、切嗣以外ではこれが初めてだ。  ここ数日は遠坂の前で実践をしたが、あれは土蔵での鍛錬とは大きく異なる。  そんな訳で、桜の感想はテストの採点に近い。  桜も間桐の魔術師だし、もしかしたらいい点数が期待できるかも―――― 「えーと。内容に関しては、黙秘権を使わせてもらいます。姉さんじゃないけど、点数をつけたらタイヘンなことになっちゃいますから」 「う――――それは、赤という事ですか」 「あはは、それなら真っ赤と言えるでしょうねー」 「――――――――」  ……まいった。  姉貴に似てないようで似てるじゃないか、桜。 「けど先輩? わたし、本当にその時しか見てないんです。……いえ、見てないんじゃなくて、怖くてもう見られなかった」 「? 怖くて見られなかった……?」 「はい。それだけじゃなくて、何度も何度も止めなくっちゃって思ってました。  ……先輩の鍛錬は普通じゃありません。わたしには、先輩が自分で自分の喉を突き刺しているように見えました。そう錯覚したんじゃなくて、本当にそう見えてしまったんです。……そんな風に見えてしまったぐらい、先輩の鍛錬は危険なものでした」  桜の言いたい事は判る。  俺にとって、魔術回路を発現させる事は死に近い行為だった。  〈内部〉《なか》に張り巡らした集中をミリ単位でもズラせば、それだけで中身が吹き飛ぶ。  けど、それは魔術師として当たり前の代償ではないのか。  常に死と隣り合わせだ、というのが〈切嗣〉《オヤジ》の言葉だったし。 「―――そうかな。魔術師ならあんなものだって聞いてるけど。それに俺が危なっかしいのは、単にまだ未熟だからじゃないか」 「それは違います。未熟とか半人前とか、そういう話ではないんです。だいたい、そんな事を言ったら資質がないのに魔術を使える先輩は別格です。  魔術というのは使うものではなく、体に覚えさせるものなんです。先輩のように、毎回その為だけに魔術回路を発現させるなんて、普通の魔術師はしません」 「……?」 「わたしが言っているのは最終的な結果なんです。  ……先輩は自分を殺す事を毎晩やっていました。誰に強制されるのでもなく、かといって自分の為でもないのに、ずっと一人きりで、〈頑〉《かたく》なにそれを守ってきた」 「……それは姉さんにも出来ない事だと思います。  先輩はそれが善悪どちらであろうと、一度決めた事を最後まで守り通す。だからきっと、わたしたちの中で先輩が一番強い」 「ちょ――――――――」  ま、まじめな顔でそういうコトを言われると、すごく照れるんだけど、桜。 「ば―――ばか、おだてても何もでないぞ!  だ、だいたい強さでいうなら遠坂だし、さ、桜だってどんな魔術師だか知らないけど間桐の後継者だし、ライダーだっているじゃないかっ……!」 「いいえ、先輩は強いです。それは魔術回路でも魔術特性でもなくて、心の在り方が純粋だから。  ……そんなこと、出会った時からわかってたんですよ?  この人はきっと、何も裏切らない人なんだなって」 「ぁ――――――と、その」  そんな顔でしんみりと言われたら、反論なんて出来やしない。 「……さんきゅ。お世辞でも、桜にそう言ってもらえたのは、すごく嬉しい」  照れながらも、素直な気持ちを口にする。  桜は、  幸せそうに笑って、まっすぐに俺を見つめていた。 「…………っ」  まずい。  そんな顔をされると、さっき振り払った妄念が再発してしまう。 「……えっと、そろそろ戻るかな。桜も眠いんだろ。夜もあるんだし、午後は大人しく休んでたほうがいいんじゃないか」  こほん、とわざとらしく咳なんぞをしてみる。  視線は隣り……壁一枚隔てた向こう側、遠坂とイリヤに向けてみた。 「そ、そうですね。夜もありますし、隣りには姉さんがいるんだし」  こっちの気持ちを分かってくれたのか、桜は頬を赤らめてごにょごにょと口にする。  ……自分で言っておいてなんだが、きっとこっちもあんな顔をしてるんだろう。 「それじゃ部屋に戻る。夕食になったら呼びに来るから」 「あ――――あの、待ってください先輩っ……!」 「? 待つけど、なに?」 「あ、あの……そのですね、寝付くまで部屋にいてくれたら、嬉しいんです、けど……」    途切れ途切れの言葉に、思わず苦笑してしまった。  そんな事、むしろこっちがお願いしたいぐらいだ。 「ああ。邪魔じゃなかったらここにいる。桜が眠ったら出て行くから、それでいいかな」 「は、はい、もちろんです! わたし、頑張って起きてますから!」  だから桜。  そう言ってくれるのは嬉しいんだが、それじゃ意味がないんだってば。  ベッドに横になると、桜は途端に静かになった。  よほど疲れていたのか、体を横にした途端に睡魔が襲ってきた、という感じだ。  が、だって言うのに、   「けど先輩。わたしは今日一日休めば治りますけど、先輩の腕はどうなんですか?」    大人しく眠る気はないのか、ベッドに横になっても桜は話しかけてきた。 「俺の腕なら問題ないよ。この布を巻いているかぎり痛みはないし、少しずつ動くようにもなってきてる。この分なら明日には普通に動くんじゃないかな」 「良かった。ほら、姉さんが手当てをしてから随分経っているでしょう? あの時は応急処置みたいだったし、もう効き目はないんじゃないかって」 「――――。随分経ってるって、桜」 「姉さんも姉さんですよね。魔術刻印を利用するのはいいけど、あんなのはその場凌ぎで、七日も持たないって分かってるクセに」  なんでもない事のように桜は言う。  それが――――   「七日、持たない……?」    ひどく、場違いなものに聞こえてくる。 「そうですよぅ? そろそろ切れちゃうころだから、ちゃんとした手当てをしないと。〈間桐〉《わたし》の魔術じゃ根本的な解決はできないから、今度、ライダーにいいアイデアがないか聞いてみますね――――」  ウトウトと舟をこぎながら桜は言う。 「――――――――」  返事をする事はできなかった。  ……桜の言動がおかしいのは、もう眠ろうとしているからだと自分に言い聞かせる事しか、できない。 「……先輩、そこにいますよね?」 「ああ。ちゃんといる」 「……良かった。傍にいてください、先輩。  一人になると怖い夢ばっかり見るから、ちゃんと、わたしを――――」  ……ゆっくりと目を閉じる。  桜は穏やかな寝息をたてて、深い眠りに入っていった。  電気を消して静かに客間を後にする。 「……………………」  穏やかな桜の寝顔を見たというのに、胸には暗い濁りがあった。            ちゃんとわたしを―――見張っていて、ください。  ……眠りに落ちる寸前。  無意識に、桜はそう口にした気がしてならなかったからだ。          ――――目を潰す光。    強い向かい風が、体と意識を“入り口”から突き放していく。        光はあまりにも強く、正体を知覚する事が出来ない。  風に晒される体は、刻一刻と錆焦げていく。  どのくらい長く“此処”にいるのか。  一秒に満たぬ無限と、永遠に近い瞬間。  時間のない時間は、年を秒へと変えていた。  故に、永く風に晒される体は、鏡のように磨かれ曇りぼろぼろに削れていく。       「――――――――、あ」                       前へ。           ここは、苦しい。        手掛かりのない無重、  大気のない真空だ。  風蝕の世界は、人の身で〈存在〉《い》ていい場所ではない。        その為に前へ進んだ。  一歩前に出る度に体積は倍化し、呼吸も前進も困難になっていく。  一歩。  二歩。  三歩目はとうに不可能。  これ以上は進めない。進めば進むだけ風は強く吹きつけ、全身を削っていく。      だが、逃れたいのなら前に進むしかない。  風はあの光の向こうから吹いてくる。  光は“入り口”であり“出口”だった。    ――――ここは、苦しい。    だから、早くあの向こう側に行かなければ。  入り口を抜ければ、ここ以上に強い風が吹いている。  出口を抜ければ、この苦しみが〈容易〉《たやす》くなる。     「は――――ぁ、あ――――!」    手を伸ばす。  渾身の力を込めて手を伸ばす。  光はすぐ目の前。  だがあまりにも届かない。  極光が目を潰す。    どうしても、届かない。        苦しい。  血を吐きながら手を伸ばしても届かない。    なぜ。  わずか一メートル先の地点を目指しているのに、  どうして、  遥か彼方の、極天を目指しているような―――― 「――――シロウ」   「え?」  呼ばれて、ハタと目が覚めた。 「ダメよ。苦しいからって、それ取ったら死んじゃうんだから」 「――――――――」  呆然と、目の前にいるイリヤを観察する。 「あれ、イリヤ……? なんで俺の部屋にいるんだ?」 「なんでって、わたしの部屋近くだもん。先に目が覚めちゃったから、シロウを観察していたのでしたー」  ……はあ。  どうも、観察してたのはイリヤのが先だったらしい。  それはいいとして、イリヤがそんなコトをしたのは、もしかして―――― 「……む。もしかして俺、〈魘〉《うな》されてたのか?」 「そうよ。シロウ、苦しそうに声をあげて左腕の布を剥ぎ取ろうとしていたわ。  まあ、きっとそうなるって思ってたから来てあげたんだけどね。シロウが眠ってる間に痛み止めしといてあげたから、今はいくぶん楽でしょ?」 「あ――――」  言われて、右手が左腕の布を掴んでいる事に気がついた。  ……なんてこった。  イリヤが来てくれなかったら、寝ている間に聖骸布を剥がしてたぞ、これじゃ。 「――――そっか。朝からありがとな、イリヤ」 「お礼はいいよ、わたしとシロウの仲だもん。  それに約束したでしょ? シロウが苦しい時は、わたしが助けてあげるんだって」 「――――――――」  その笑顔に、しばし目を奪われた。  イリヤは本当に、ただ好意だけで言ってくれているのだと分かって、不覚にも胸が、   「ふふ、それにシロウの寝顔が見たかったし。苦しいのにいっしょうけんめい我慢しちゃって、シロウったら可愛いかったわ」    フルブレーキングして、動悸を抑えてくれた。 「――――イリヤ。人の部屋に黙って入るのはよくない。  とくに朝と夜なんかもっての外だ。俺も人並みの男だから、いろいろ困る」 「そうなんだ。具体的に言うとどんなふうに困るのかしら? 詳しく知りたいな、わたし」 「う―――いや、だからそういう質問こみで困る。  だいたいイリヤは女の子なんだから、朝っぱらから男の部屋になんて入っちゃダメだ。いいか、危ないぞ。ホントに危ないんだぞ。イリヤ本人もだけど、部屋の主たる思春期の少年のナイーヴな心臓とかな」 「そうなの? けどそれじゃますます分からないよシロウ。ちゃんと何が都合悪くて、どうして危ないのか言ってくれなくちゃ、止めてあげない」  銀髪の少女はそのまま、床に手をついて四つんばいの状態で、   「ほら、もっと近くに寄っちゃったよ? さ、どうして朝に来られると困ってしまうの、シロウ?」   「ば、ばばばば……っっっっ!!!!」  ごろん、と毛布を握ったまま後方にでんぐり返る。  危ない。  男には男の生理があって、それは毎朝やってくるものなのだ。  そこにあんな格好で近づかれたら、そりゃもう男として不名誉な烙印を押されかね――――   「あ」   「が――――」  で、後頭部をもろに柱に叩きつけた。 「あ、ぐ――――だから、危ないって、言ったんだ」  ヨロヨロと落ち込みながら言い訳する。 「う、うん、ごめんねシロウ。  ……その、痛くなかった……?」  痛い。  星が飛ぶぐらい痛いが、今のイリヤの声を聞いたらそんな弱音は口にできない。 「いや、大丈夫だ。いい目覚ましになったから気にしないでくれ」  ぶんぶん、と頭を振って立ち上がる。  朝の生理現象は、今のショックで完全に大人しくなってくれたし。 「……よし。時間も時間だし、朝飯を作りに行くか。イリヤ、朝は何がいい? 嫌いなものがあったら今のうちに言ってくれ」 「え? うそ、シロウごはん作れるの!?」 「まあ人並みには出来る。洋菓子は……そうだな、ホットケーキぐらいなら、なんとか」  ぱあ、とイリヤの顔が明るくなる。  どうも、イリヤにとって俺が料理をする、というのは喜ばしい事らしい。 「ふーん……なんなら一緒に作るか? 朝飯ができたら呼びにいこうと思ってたけど、イリヤが起きてるなら居間にいてもらったほうがいいし」 「ほんと!? うん、行く行く! シロウのエプロン姿見たい!」 「そっか。じゃあ三人で協力して遠坂をやっつけよう。  今朝は桜と一緒に作る約束だったから、イリヤが入れば三人力だ」 「――――止めた。サクラがいるなら行かない。シロウ、一人で行って」 「え……なんだよ急に。桜がいるならって、イリヤは桜が嫌いなのか」 「いいえ。どっちかっていうと好きな部類よ。ただ、あの娘はシロウには合わないから認めてあげないだけ」 「?――――合わないって、イリヤ」 「ほんとのことよ。シロウだって気付いてるクセに、必死に気付かないようにしてるでしょう。わたしがいまさら言っても始まらないわ」  言って、イリヤは廊下へ歩き出す。 「それと。どんな〈瞑想〉《トランス》状態にあったか知らないけど、無闇に先に進まないで。貴方が見ているものはアーチャーの魔術で、シロウの魔術じゃないわ。  ……いずれシロウのモノになるとは言っても、今はまだ可能性があるだけ。そんな状態で投影なんてすれば、シロウの体は内側から崩壊する」 「投影なんてすれば――――?」  呆然と、イリヤの言葉を繰り返す。  瞬間。  カチン、と撃鉄が落ちた。    診療台で見た〈光景〉《ゆめ》。  それがなんであったのか、何を意味していたのかが、漠然と頭の中に入ってくる。          ――――アレは、おそらく。  視認した“武装”を複製し自らの剣とする、〈極限〉《地の果て》の投影魔術―――― 「……そうよ。アーチャーの宝具は彼だけが扱える“魔術”なの。  アーチャーは目にした武器なら確実に複製する錬鉄の英霊。その力は、彼の腕を受け継いだシロウにも使えるものよ。今は意識してないだろうけど、その気になればキチンとした起動呪文も思い起こせる」 「けど、使えるからって使おうなんて思わないで。あの神父の言葉は正しいわ。一度でもその布を解いて投影をすれば、シロウは絶対に助からない。  ……だから、何があってもその布は外さないで。キリツグみたいに勝手に死んだら許さない。わたしが殺す前にわたしを一人にしたら、絶対に許さないんだから」  イリヤは縁側へ去っていく。  忠告には俺の体を案じる厳しさと、俺を憎む殺意が混在していた。 「先輩、かぶの汚れ取り終わりました。手羽元の準備はどうですか?」 「―――ああ、アク取りは済んだ。そっちを四つ切にしたら煮よう」 「はあ。先輩、カレー粉なんて持って何するんですか?」 「ん、タレ作ってるんだ。いわしの蒲焼にかける。イリヤが魚嫌いでも食べられるだろ、カレー風味なら」 「なるほど、冴えてますね先輩! えっと、それじゃあ捌くのはわたしがやりますから、先輩は煮込みものの チェックをお願いします」 「え? いや、いわしなら包丁使わなくても捌けるからいいよ。腹骨をこそぐ時だけ頼むから、桜はだしとしょう油でかぼちゃ煮作ってくれ。一品ぐらい甘いものがあった方がいい」 「はい、了解しました。あ、片手でキレイにお魚捌いているとお寿司屋さんみたいですよ、先輩」  弾むように言って、桜はいそいそと冷蔵庫に手をかける。  一晩ぐっすり眠って体調もいいのか、桜は朝から上機嫌だ。 「――――――――ん」  そういう自分も、こうやって桜と台所に立つのは楽しい。  桜は気が利いて、こっちのやりたいことを読み取って準備をしてくれる。  そういう相方と料理をするのは、実はすごく気持ちいい事だ。 「先輩? お寿司屋さん、止まってますけど」 「ん? ああ、ちょっとぼうっとしてた。急がないとな、そろそろ七時だ」  ふう、と桜に気付かれないように息をついて、いわしの捌きを再開する。  いわしは身が柔らかいんで、包丁より指で捌いた方がいい。左手がまだ動かない自分にとっては、かろうじて調理できる食材だ。 「けど、先輩いつのまにそんな技覚えたんですか? 右手だけでお魚を捌くなんて、かなり普通じゃないです」 「技じゃない。これはタイミングと気合の問題。その気になれば桜だって出来る」 「はあ。そんなものですか」 「そんなもんだよ。技っていうのは包丁一本で牛バラしたり、氷細工をすぱーんと作っちまうヤツ。  はい、あとよろしく。腹骨とったら焼くから、ボウルに入れといてくれ」  まな板から離れてコンロの前へ。  フライパンに火をかけて、サラダ油をこさじ半分ほど投入。  このあたりは体が覚えていたんで、上の空でやってのける。 「あの、先輩……?」 「ん」  ぼんやりと相づちを打つ。 「……余計な事かもしれませんけど。その、イリヤさんと何かあったんですか?」 「――――――――」  フライパンを持つ手が止まった。  だがそれも一瞬だ。  こっちの動揺は、桜には伝わらなかっただろう。 「ああ。ちょっと、台所に来る前に話した。イリヤはイリヤで、やっぱり大変なんだ。それにどうやって応えればいいのか、すごく難しい」 「……それはマスターとしての問題、なんでしょうか。  イリヤさんは、まだ戦うと言っている、とか」 「いや。とりあえず、イリヤには戦闘意欲らしきものはない。……いや、初めからそんなものはなかったのかもしれない。アインツベルンのマスターとして聖杯を手に入れようとしたんだろうけど、イリヤには聖杯より他の目的があったんだ。  けど、それは」  ……この戦いが始まるずっと前に、とうになくなってしまっていた。    イリヤの目的。  彼女が会いたがっていた衛宮切嗣は、五年前に死んでいる。  なら―――その代わりに、俺は何が出来て、何をするべきなのか。 「なあ桜。もしイリヤが自分の国に帰りたくないって言ったら、うちに住んでもらっちゃダメかな」 「あ―――あの。ここは先輩のお家です。わたしの意見は、あんまり意味がないです」 「なに言ってんだ、ここ桜の家じゃんか。それにイリヤを引き取るなんて大事なこと、相方に相談なしで出来る事じゃない」 「あ――――相方ってわたし、ですか……!?」 「ああ。桜以外いないだろ、そんなの」  イリヤも遠坂も、ここまで完璧に料理の手伝いなんてしてくれないし。 「桜、フライパンの用意できたから」  ほら、と桜が仕上げをしたいわしを受け取る。  桜はふわふわした動作でいわしを手渡してくる。  ……?  どうしたんだろ、いきなり。  まさかまた熱がぶり返したとか……? 「は、はい、わかりましたっ……! わたし、イリヤさんと仲良くできるようがんばります……!」 「―――うん、そうしてくれると嬉しい。イリヤも桜のこと嫌いじゃないって言ってたから、ちゃんと話せば仲良くなれる」  ……ああ、そうなったらすごく嬉しい。  聖杯戦争もマスターも関係なくなった後、この家には桜とイリヤがいて、何の憂いもなく朝食を作ったりする。  そんな幸せな〈未来〉《ねがい》が叶うのなら、どんな代償を払ってでも―――― 「おはよう。日曜だっていうのに早いのね、二人とも」    ……と。  なにか、凄いのが通っていった。 「せ、先輩、いまおかしな人が通りませんでした?」 「……う。桜にも見えたって事は、幻覚じゃないんだな」  で、二人して恐る恐る居間を盗み見る。  どすん、と乱暴に陣取ったソレは、不機嫌そうにポットからお茶を淹れ、やはり不機嫌そうにテレビのスイッチを入れる。 「……びっくり。遠坂先輩、朝に弱い人だったんだ……」 「………………」  いや、桜。  弱いっていうのはああいうんじゃなくて、もっとこう、可愛らしいものを指すのではないだろうか?  朝食が始まった。  食卓には俺と桜、遠坂とイリヤが隣り合う形で陣取っている。 「あら。わりと上品な味付けをするのね、サクラ。これなら食べてあげてもいいわ」  なんて、桜を誉めているんだか攻撃してるんだか分からないイリヤ。 「まいったわね。わたし、朝は食べない主義なんだけど」  遠坂は遠坂で、文句を言いながら卵焼きを口に運ぶ。 「――――む」  ……で、なぜかそれきり無言で朝食に集中しだした。 「………………」  朝食は静かに進んでいく。  遠坂がつけたテレビだけが騒がしく、かわるがわる新しい話題を提供していた。 「ん……?」    ―――テレビに見知った風景が映っていた。  見間違える筈もない。  新都の公園を映したテレビは、朝から不可解なニュースを流している。 「……中央公園で行方不明者……付近には夥しい血痕……?」    それは、妙に生々しい事件だった。  今朝、日課のランニングをこなしていた初老の男性が公園で血の跡を発見し、通報。  報せを受けた警察官が見つけたものは人間一人分と思われる血痕と、被害者のものと思われる遺体の一部だったらしい。  ……その遺体も、一人分以上四人分以下という有様だという話だった。 「……警察では四人の身元を……って、なんで四人なんだ? 一人分の血痕しかないのに」 「そりゃ身体の一部ってのが四人分あったんでしょう。  本当に一部しか残ってなかっただろうけど、そこから判断したんじゃない」 「……遠坂。  ってことは、これもサーヴァント―――臓硯の仕業だっていうのか?」 「さあね。臓硯の仕業かどうかは判らない。けど、これはあの影がやったと見て間違いない。ほら、画面のはじっこ。雑草が黒く変色してるでしょ。それ、森であの影が出てきた時と同じなのよ」 「――――――――」  あっさりと遠坂は言う。  だが、二つばかり納得がいかなかった。 「なんでだよ。あの影がなんであれ、今まではこんな事してなかっただろう。アレは町の人たちから魔力を吸い上げた事はあっても、こんな風に、その」  直接、人間を殺すなんて事はなかった筈だ。 「……そうね。考えられる理由があるとしたら、敵がいなくなったからでしょう。もう正面からあいつらを倒せるマスターはいない。なら、これからは誰の目も気にする事なく、好き放題できるでしょ?」 「―――それは、見境がなくなってるって事か」 「……さあ。自分で言っておいてなんだけど、わたしにはそうは見えない。仮に臓硯があの影と関係があるのなら、これは予期せぬ事故だったんじゃないかしら。  臓硯本人、今ごろこれを知って驚いてるってのに卵焼きを賭けてもいい」  ……そう言う遠坂の卵焼きはとっくになくなっている。  あいつの鷹のような目は、唯一手がつけられていない俺の卵焼きに向けられていた。 「……む。予期せぬ事故って、なんでさ」 「後片付けが出来てないでしょ。血痕はともかく、遺体の一部を残すような〈臓硯〉《ヤツ》じゃない。つまりこの現場に臓硯はいなくて、あのわけわかんない影だけで食事をしたってコト」 「―――なるほど。……じゃあもう一つ。さっきの質問なんだが、どうして被害者は四人って判ってるんだ? 血痕は一人分で、遺体の一部だって一人分しかないんだぞ」 「重さじゃなくて形の話。一つしかない筈のものが四つあったんじゃない? それなら鑑識するまでもなく被害者の数ぐらい判るもの。  ほら。一面の血の海にさ、違う靴が四足あったら、誰だって何人いたか判るでしょう?」  平然と遠坂は言う。 「――――――――」  その光景を想像して、急速に食欲が薄れていった。  朝食の後。 「士郎。やらなくちゃいけない事があるから、ちょっと付き合って」  と、道場まで連れてこられた。  断る理由もなかったし、遠坂とは今後の方針を話し合いたかったので渡りに船でもあった。  あったのだが、   「ちょっと。わたしが呼んだのは士郎だけよ。なんだってぞろぞろついて来るのよ、貴女たちは」    予定外の同行者に遠坂はご機嫌ななめになっていた。 「……その、遠坂先輩が妙に殺気だってるから、先輩一人だと危険だと思って」 「あのね。士郎とは協定を結んだんだから、騙し討ちなんてしないわよ。そんな事言わなくても判ってるクセに、なんだってついて来たの桜」 「だ、だって―――先輩を守るのは、わたしの役割です」 「……言い切ったわね。  じゃあそっちは? わたしがやる事なんてとっくに判ってるクセに、わざわざ野次とばしに来たわけ?」 「いいえ。わたしもサクラと同じよリン。  あなたがやりたい事は判るけど、どんな方法をとるかまでは判らないもの。シロウにヘンなコトしないか監視に来たのよ」 「……まあいいけど。こっちは士郎の為を思って体をいじるんだから、早とちりして邪魔なんてしないでよね。  悠長にやってる余裕なんてないんだから」  朝食の前から用意しておいたのか、道場には遠坂のボストンバッグが置かれていた。  中には遠坂邸にあったような器具が詰まっていて、これから何をされるのかは想像に容易いのだが……。 「悪い。その前に少しいいか、遠坂」 「なによ。まさか、この期におよんで痛いのは嫌だ、なんて言うんじゃないでしょうね」 「そりゃ当たり前だ。誰だって痛いのはヤだぞ。  だいたいな、何をするか説明もしていないのにそんなの見せられたら逃げるぞ、普通」  うんうん、と頷く二人。  頼もしいコトに今回は加勢が二人もいる。 「説明不足で悪かったわね。どうせ、貴方と比べてこっちは普通じゃないわよ。文句があるなら出て行けばいいじゃない」  あ。  三対一という状況にカチンときたのか、遠坂が拗ねた。 「いや、文句はない。遠坂がやろうとしている事だって薄々わかってる。わかってるから、そっちの事は全面的に信頼してる。どんな指示だろうと、遠坂の言葉なら信じる。昨日の夜、そう約束しただろう」 「ふ、ふん。じゃあ何で待ったなんてかけるのよ。  疑問がないなら大人しく言うコト聞きなさいよね」 「いや、その話じゃない。俺が確認しておきたいのは今後の方針だ。これから俺たちはどうするのか、ここでちゃんと決めておくべきだろう」  ……三人の顔色が変わる。  俺が口にした事は、昨夜先延ばしにされた全員の問題でもある。    何と戦い、何をするか。  それを決めれば後戻りは出来ない。  いや、後戻りなんてとっくに出来なくなっているのだと、再確認する為の宣言でもある。 「………………」 「わたしは戦いには参加しない。誰かがわたしを襲うのなら戦うけど、自分から戦う気はないわ。今回の聖杯戦争は、勝ち残ったところでどうなるか判らないもの」 「……わたしもイリヤさんと同じです。その、わたしたちではお爺さまには勝てないと思います。  もう勝敗は決まったようなものですから、ここで大人しくしていれば、お爺さまも手出しはしてこない筈ですし……」 「………………」  ……遠坂は何も言わない。  その思惑は計れないが、イリヤと桜に同意しない以上、俺と同じ意見なのだと信じたい。 「―――そうだな。守りに徹するって意見には賛成だ。  桜はこの家から出ず、臓硯に対して守りを固める。  桜にはライダーがいるし、防戦に徹するなら桜とイリヤぐらいは守りきってくれる」 「その間、俺と遠坂は臓硯を倒す手段を考える。  ここに立て篭もっていてもいつかは襲われるし、これ以上あいつらを野放しには出来ない。今朝のニュースと同じ事がこれからも起きないとは言えないんだから」  遠坂は口を挟まなかった。  本心がどうであれ、あいつも二人だけで臓硯と戦う気でいたって事だ。 「臓硯も放っておけないが、それ以上にあの影は放っておけない。俺と遠坂は今夜から町に出る事になるだろうから、桜とイリヤはここで気を配っていてくれ」  異論はないな、と全員に確認する。  ――――と。 「な、なにを言ってるんですか先輩……!」 「桜……? なにって、別におかしな事じゃないだろ。  戦えるのは俺と遠坂だけなんだから、俺たちで臓硯を倒さないと」 「それがおかしいんですっ……!  先輩、満足に両手も使えないんですよ!? それがどういう事なのか、本当に〈理解〉《わか》っているんですか……!」 「え―――――さく、ら?」 「……わかりません。先輩、おかしいです。そんな目にあったのに、どうしてまだ戦うんですか。  これ以上は先輩の手に余るって、そんな事、実際戦った先輩ならわかってる筈なのに―――どうして、そんな馬鹿な事を言うんですか。  これなら……戦えない体になってしまえば、もう危ない目にはあわないでくれるって安心したのに、どうして ――――」 「……………………桜」  桜は震えている。  俯いたまま、自分の言葉に身を震わせている。  その震えが何処から来るものなのか、俺には判らない。  今返せるものは、桜の問いへの答えだけだ。 「桜。俺は桜を勝たせる。その為に戦う。  臓硯やあの影が放っておけないって事もある。けどそれ以上に俺は聖杯が欲しい。これは誰かの為じゃなくて、俺自身の勝手な願いだ」    ―――そう。  誰かの味方ではなく、桜の味方をすると決めた時から抱いた、自分だけの勝手な願い。 「…………それは、わたしのため、なんですか」 「―――そうだ。桜の体から刻印虫が取り除けるなら、それは桜のためにもなる」 「……大丈夫だよ桜。勝ち目がないのならまず勝ち目を作るし、勝ち目がないうちは戦わない。  そりゃ勝ち目があったところで危険は当然だし、代償はついて回るから怪我をしないって約束はできない。  ―――けど、必ず帰ってくる。桜を守るって言っただろ。なら、傍にいないと約束を守れない」 「先、輩……」  桜は辛そうに視線を下げる。  それが、まるで謝っているように見えた時。 「――――はいはい、そこまでにしてもらえる?  方針は決まったんだから、今更どうこう言っても仕方がないでしょ。  桜とイリヤはここで留守番。わたしと士郎はとりあえず夜の町を巡回する。臓硯たちを見つけても安易に仕掛けないで、勝算がある場合のみ戦ってあいつらの戦力を削っていく。  これが今後の方針って事でOKなんでしょ、士郎」 「あ……ああ。遠坂がその気なら、こっちも頼もしい」 「――――ふん。そんなの言うまでもないじゃない」 「それと桜。綺礼はアンタから刻印虫を完全には摘出できなかったけど、その活動は大幅に抑えた筈よ。だから慎二の時みたいに、直接何かをされないかぎり刻印虫の暴走はないの。  逆に言えば、貴方がこの屋敷に留まっている限り、臓硯は最後の一人にはなれない。遅かれ早かれあいつは桜を奪いに来るんだから、戦わない、なんて選択肢はないのよ。それが判ってるクセに、大人しくしていようなんてよく言えたものね」 「っ……それは、そうです、けど―――お爺さまだって、わたしたちが何もしなければ手荒な事は―――」 「桜! いい加減、その卑屈な考え止めなさい。臓硯はアンタの祖父でもなければ師でもない。あれだけ非道を重ねる奴を、まだ人間だって思ってるの!?」 「…………いいえ。お爺さまが人だなんて、思ったことは、一度も」 「なら貴方も覚悟を決めなさい。わたしと士郎が外で戦うように、貴方もここで戦わなくっちゃいけないんだから。  もし臓硯がここを襲った時、貴方はなんとしても逃げ延びること。ライダーさえ倒されなければ聖杯は完成しない。ライダーが生きている限りは、貴女にだって助かる希望があるんだから」  ……さすが姉の貫禄というか。  桜は小さく頷いて、わかりました、と返答していた。            で、その後。  人を道場に呼びつけて何をするんだ、と訊いてみると、 「そうね。まずは裸になってもらおうかしら。  何をするにしても、士郎がどんな体をしているか見ておかないと上手くいかないでしょ」    なんて、とんでもないコトを口にした。 「え、」 「え、ええーーーーー!?」 「……え、ええーーー」 「なに。いまの驚くようなこと、桜?」 「お、驚くようなコトですっ……! 先輩に裸になれって、と、とと遠坂先輩はなにを考えてるんですかっ……!」 「なにって、士郎のコトに決まってるでしょう。  貴方も危ないけど、士郎だって負けず劣らずでやばいんだから。今のうちに色々やっておかないとダメだって、桜だって判ってるんじゃない?」 「……それは、そうです、けど」 「わかってるなら口出ししないでよね。  ほら、そこ! ぽかんとしてないでさっさと上着を脱ぐ! 魔よけの〈刻印〉《サイン》をいれるんだから、服着てたらできないでしょう!」  びし、とこっちを睨む遠坂。 「う…………」  だが、桜の視線が妙に痛い。  不安そうな目が、姉さんのところに行っちゃうんですか、と問いかけてきている。 「早くしなさい。早目に体に馴染ませないと夜の巡回に間に合わなくなるんだから」 「う…………む」  コトがコトなだけに、恥ずかしがってる場合じゃない。  裸になるのは気が引けるが、上着だけなら着替えみたいなもんだし、そう大事でもないだろうし。 「……はあ。脱いだぞ遠坂。で、これからどうするんだ」 「こっちに来て。わたしの魔術刻印を少しだけ使ってあげるから」 「っ……! そっちって、こんなカッコウで遠坂の近くにか!?」 「当たり前でしょう。左手で直接触れて、士郎の肉感を把握して、その上で魔よけの刻印を上書きするんだから。くすぐったかったり痛かったりするけど我慢しなさいよね」  ほら、と左手をワキワキさせる遠坂。 「う――――」  ……ここまで来た以上、道場から逃げ出すワケにもいかない。  観念して遠坂に近寄っていく。    ……その、桜の視線がさっきより痛い、気がする。 「じゃあ始めるけど、その前に確認事項ね。この前は士郎の体にスイッチをいれようって言ってたけど、アレは止めるわ。  ここで簡単に魔術回路の〈開閉〉《オンオフ》ができるようになったら、士郎自身が危ないから」 「あ――――ああ、わかった」    そりゃ声だってうわずるし呼吸だって出来なくなる。  こっちは上半身裸で、遠坂がこんなに近いんだ。  これで緊張しない方がどうかしてるっ。 「ちょっと。落ち着きないけどちゃんと聞いてるの?」 「――――聞いてる。ちゃんと聞いてる」 「……? ならいいけど。  それで、今回するのは逆に魔力を抑える手術よ。  今の士郎の体は不安定で、いつアーチャーの腕から魔力が逆流してくるか判らない。だから、とりあえず左肩とお〈臍〉《へそ》と喉に〈鍼〉《はり》を入れて、貴方本人が全力で意識しないかぎりは左腕とは繋がらないようにするの」 「同時にこれはあの“影”対策でもあるわ。  あいつはそこにいるだけで魔力を吸い上げていく。今から士郎に刻む〈印〉《サイン》は対魔力の効果もあるから、あいつと向き合っても少しは楽になる筈よ」    言って。遠坂は俺の胸に、手の平を置いた。 「うひゃあ――――!」    びくっと後退しそうな足を必死に押し止める。 「あれ、熱かった? けど我慢してもらえる? わたしの左手から刻印を移すから、これ以上は温度を下げられないの」 「いや――――熱い冷たいは、いいんだけど」  ぴったりとくっついた遠坂の手は柔らかくて、心臓が壊れかねない。  女の子らしい細い指が胸板を滑っていく度に、あたまの熱が一度ずつ上がっていく。 「……よし、胸の方はだいたい掴めたわ。あとはお臍だけど、ちょっと痛いわよ。指いれるから、できるだけ動かないで。大丈夫、傷はつかないしあんまりかき回さないから」 「ちょっ――――かき回すって、遠さ、か――――!」  びくん、と体が痙攣する。  ―――腹。  腹に当てられた遠坂の手の平だけでも耐えられないっていうのに、なにか、小さな棒みたいなものが、皮膚を通り抜けて体の中に入ってきている――――! 「は――――ま、待った、そこ、ま、ず――――」 「だ、だから痛いって言ったでしょ。気が散るからそんな声ださないでってば。なんかいけないコトしてる気になるじゃないっ」 「ばっ、ばかかおまえは――――!」  いけないコトって、そんなコト言われたら余計顔が真っ赤になるじゃんかばかー! 「……ふん。これでお臍の方はおしまい。あとは肩と喉だから、逃げずに大人しくしててよね」 「………………」  いや、できれば脱兎の如く逃げ出したい。  逃げ出したいが、そんなコトをしたらますます遠坂を意識しているようで、言い訳のしようがなくなる。 「ほら、ちゃんと胸張ってよ。今のを肩にするから、今度は頑張ってよね。歯を食いしばって、ヘンな声ださないことっ」 「あ――――ああ。できるだけ、努力する」  とにかく気恥ずかしくなって、遠坂から顔を逸らす。  きっと、俺は顔ばかりか体じゅう真っ赤にしてる。  これが魔術の為だって判ってるのに赤面してるんだから、遠坂だってやり辛いだろう。  ……はあ。  こんな失態をさらして、この後どんな顔で遠坂と向き合えばいいんだろうか……。 「はい、これで終わりよ。わたしは道具を片付けてくるから、士郎は体を冷やしてなさい」  救急箱めいたものを手に、ボストンバッグがある隅っこに移動する遠坂。 「――――――――」  赤面したまま、やっと落ち着いて呼吸ができた。  ……と。 「?」  桜は何か言いたげに視線を逸らし、両手をもじもじと合わせている。 「……桜? そ、その、どうした?」 「………………あの、そのですね」  ちらり、とこっちの顔色を窺う。  桜ははあ、と意を決するように息を吸うと、 「あのっ、先輩……! わ、わたしたち、恋人同士なんですよねっ」 「――――――――」  ようやく落ち着いた頬が、一気に沸点を迎えて真っ赤になる。 「あ――――う」 「あの……先輩?」 「――――――――」  いや。  絶句しているばあいではない。 「――――ああ。桜は俺の――――――」 「で、ですよねっ! な、なら、姉さんにドキマギするのおかしいですっ!」  ……それで、桜の視線がさっきから痛かったのは、桜が拗ねていたからなんだと、ようやく気付けた。 「す、すまん。けど桜、別に遠坂がどうこうっていうんじゃなくて、今のはその、不可抗力っていうか」 「わ、わかりますけど我慢してくださいっ。先輩は、わた、わたしの恋人、なんですからっ」 「―――――う。それは、判ってるん、だけど」  今のは逆らいようがなかったというか。  俺は男だし、相手は一年の時から憧れてた遠坂なんだから、もうどうしようもなかったんだよう。 「……ごめん。その、次はなんとか我慢する。遠坂にドキマギしないよう、頑張る」 「……ほんとですね? 次もこんなコトがあったら、わたしだって怒っちゃいますからね」  それに心の底から反省して、努力します、と返答した。  ……はあ。  今になって気がついたのだが。  この、一つ屋根の下に三人も女の子がいるっていうのは、すごく緊張するコトなんじゃないだろうか?  時刻は午前十一時半。  昼食時を目前にして、台所は騒がしく、かつ、近寄りがたい緊張感に包まれていた。 「あの、遠坂先輩。お昼はみんなでつつけるようなものにしようと思うんですが、苦手な料理とかありますか?」  台所の奥。  冷蔵庫を背にして、おそるおそる話しかける桜。  それを遠坂は、 「そう。じゃ、わたしは麻婆豆腐を作るから」  真っ向から一刀両断して、自分勝手に豆腐を切り出した。 「―――険悪ね。シロウ、あの二人に調理を任せるなんて正気?」    座布団にキチンと正座して、イリヤは〈忌憚〉《きたん》ない意見を述べる。  ふむ。イリヤから見ても、桜と遠坂がピリピリしているのは判るらしい。 「あの二人、放っておいたらますます仲が悪くなるわよ。  そんなコトわかってるクセに、どうしてこんなコトになったのシロウ」 「どうしてって、ごく自然な流れだったぞ。  昼飯はどうしようって話になってな、遠坂は自分が作る、桜はそれは自分の仕事だって言い張ったんだ。随分話し合ったけど二人とも引かないから、じゃあ間をとって一緒にメシを作ればいいだろって」 「シロウがそう言っちゃったの? ……ふーん。そう、それじゃ引き下がれないわよね、二人とも」  納得したのか、イリヤは行儀良くお茶を飲んだ。  さすがお姫様。作法を知らないというのに、お茶を飲むだけでも気品が溢れている。 「けどシロウ。間をとるんだったらシロウが作ればよかったでしょう? なんだってリンとサクラを一緒にしたの?  遠坂と間桐は敵同士で、リンはサクラを殺したがっているのよ?」 「それは昨日までの話だろ。遠坂は桜と戦いたくないから俺たちに協力してくれてるんだ。それに二人は敵同士じゃない。仲いいし、うまくいくと思ったから昼飯を任せたんだ」 「えっ―――仲がいいって、あの二人が!?」 「? 驚くようなコトか、今の。俺とイリヤだって敵同士だったけど仲いいだろ。なら、遠坂と桜だって同じだよ」 「え……そりゃ、わたしとシロウは特別、だけど……」 「特別も何もない。見てればわかる。ほら、遠坂のヤツいつも以上にぶっきらぼうだろ。そのくせ桜が何か失敗するとすぐ注意をする。あれって、つまり」 「…………始終気にかけてるってコトね。けどそれを知られたくないから冷たい顔して、桜を無視してるんだわ」 「ああ。で、桜も桜でそれが分かってるから、いつもはしない筈の失敗をしてる。桜も遠坂が気になって仕方がないんだ」 「……言われてみればそうね。じゃあなに、二人とも仲良くなりたくてウズウズしてるクセに、恥ずかしいから話しかけられないってコト?」  ああ、と頷く。  遠坂の気持ちは知らないが、すくなくとも桜の気持ちだけは分かる。  桜は遠坂が好きだし、好きになって欲しいと思っている筈だ。  そうでもなければ姉さんと口にする筈がない。 「……ふうん。ああ見えて不器用なのね、リンは」  どこか感心したように呟いて、イリヤは台所に視線を移した。 「――――――――」  釣られて台所の様子を窺う。  調理は中ごろに差し掛かっているのか。  遠坂と桜は狭い厨房で、肩を並べて思い思いの料理を作っている。 「――――――――」 「――――――――」  二人は口を閉ざしたまま、かたやフライパン、かたやおたまを握っている。  ……そうして、見ているこっちの方が息苦しくなる沈黙の後。  やはり姉妹なのか、まったく同じタイミングで話を切り出した。 「なに? 話があるなら聞いてあげるから、言ってちょうだい」 「あ……いえ、別にこれといって何も。遠坂先輩こそ、なにかお話があるんですか?」 「……別に。しいて言えば、他人の味付けって珍しいでしょ。だから、ちょっと教えてもらえたら役に立つなって思っただけ」 「そ、そうですね。わたしも、遠坂先輩のレシピを教えてもらえたら、嬉しいです」 「――――――む」 「……終わっちゃった。呆れたわね、これじゃ一生あのままだと思うわ、わたし」 「………………」  否定できないところが恐ろしい。  遠坂のヤツ、普段は人の事情なんてお構いなしのクセに、なんだって桜にかぎってあんな奥手なのか。  それに桜も桜だ。  俺といる時は姉さんって呼んでるクセに、本人に対してだけ他人行儀なのはどうかと思う。 「――――桜」 「え? あ、はい、なんでしょう先輩?」 「ちょっと話がある。こっちに来てくれ」 「先輩、外に何かあるんですか?」 「いや、外は関係ない。ちょっとした内緒話がしたかっただけだ」 「はあ……内緒話、ですか……? あの、姉さんには言えないコト、とか」 「それ。俺が言いたいのは今のだ」 「?」 「だから遠坂の呼び方。桜、遠坂の前だと姉さんって言わないだろ。ホントはそう呼びたいクセに無理してるってバレバレだぞ?」 「え―――あ、あの、バレバレって姉さんにですか!?」  ……と。  かまをかけてみたのだが、こっちが思っている以上に桜は内気で、恥ずかしがり屋で、姉思いの妹だったようだ。 「い、いや、遠坂は気付いてない。どういうワケか、あいつは桜に対してはすごく鈍感だ。……下手すると、桜に嫌われてると思っている節もある」 「そ、そんなコトありませんっ……! ね、姉さんがわたしを嫌うのは当然だけど、わたしは姉さんと一緒にいられて嬉しいです。こうして二人でお昼ごはんを作るなんて、夢にも思っていませんでしたし……」 「うん。なら素直にそう言えばいいんじゃないか? 鈍感な遠坂でも、桜が面と向かって言えば気が付く。そうすれば桜だって、」  遠坂が桜と仲良くしたいと思ってるって、俺に言われなくても、自分一人で気付ける筈だ。 「……あの、先輩?」 「―――いや。ともかく遠坂に姉さんって言ってみろ。  それだけであいつ、きっと面白いぐらい豹変するから」 「……そう、でしょうか。遠坂先輩、わたしに姉さんなんて呼ばれても迷惑なだけだと思います。  わたしは間桐の魔術師で、姉さんみたいになんでもできるワケじゃない。わたしみたいな出来そこないが妹なんて、きっと遠坂先輩はガッカリしています」 「ばか。姉と妹の関係に余分なコト持ち込むな。おまえは遠坂が好きで、遠坂はおまえの姉貴なんだろ。  なら、それ以上に確かな関係なんてない。俺が保証する。桜と遠坂は、間違いなく相思相愛だ。正直、ちょっと妬けるぐらい」 「え……そ、そうなん、ですか?」 「そうだよ。だからちゃんと姉さんって呼ぶこと。  桜がそう信じてるように、遠坂もずっと信じていたんだと思う。だから怖がるコトなんてない。あいつの為にも、桜の口から遠坂を呼んでやってほしいんだ」 「――――――――姉さんの、為にも」  ……桜の中でどんな葛藤があったのかは判らない。  ただ、祈るように手を合わせて思案した後。 「はい。頑張ってみます、わたし」  ――――居間に戻る。  桜は俺に目配せをして、むん、と力をいれて台所に向かっていった。 「お帰りなさい。サクラ、肩がガチガチだけど何かあったの?」 「ん? いや、あとは桜の勇気次第。ま、上手くいくに決まってるんだが」 「?」  よいしょ、と座布団に腰を下ろす。 「―――姉さん。このから揚げ、あとはわたしがやってもいいですか?」 「ええ、あとは揚げるだけだし桜に任せる……って、桜、いま……?」 「はい。それじゃから揚げはわたしがやりますから、姉さん、はレタスをちぎってください。盛り付けは任せますから」 「え――――ええ、それは、いい、けど」  ……場が硬直する。  二人はそれきり押し黙ってしまい、張り詰めた緊張は先ほどの比ではない。 「――――――――」 「――――――――」  二人は呼吸を止めて互いを見つめている。 「……あの。やっぱりおかしいですか、姉さん」 「ば――――お、おかしいコトはないけど。そんなふうに呼ばれた事がないから驚いただけよ」 「……それじゃ、その」 「も、文句はないわ。呼び方なんて桜の自由だし、わたしだって桜って呼び捨てにしてるし。ま、先輩って呼び方が二人もいると混乱するし、そっちの方が判りやすいんじゃない?」  ふん、と仕方なげに言って、遠坂は顔を背ける。  ……その顔が赤く染まっていて、にやつきを隠しきれていないのは、桜にだって判った筈だ。  ……その後の二人の共同作業は、輪をかけてギクシャクした。  お互い失敗ばかりで盛り付けは間違える、から揚げは胡椒まみれにする、麻婆豆腐は鬼のように辛い、おまけに炊飯ジャーにはスイッチが入ってなくてゴハン抜き、という目も当てられない大惨事になってしまった。  それでも遠坂と桜は隙あらば一人でにやけていて、幸せそうったらない。 「……まったく。ほんと不器用ね」  舌がヒリヒリする麻婆豆腐を食べながら、呆れた風にイリヤは言う。  その意見に頷いて、二人が作ったチグハグな料理をありがたく戴いた。   「桜、入るぞ」    返事を待たずにドアを開ける。  そもそもこのドアを開ける時、妹の返事を待った事など一度もない。   「なんだ、まだ帰ってきてないのか。本当に困ったもんだな、あいつ」    舌打ちをしながら室内に踏み入る。  間桐慎二は壁に爪を立てながら、視力を失った犬のように、ぐるぐると妹の部屋を徘徊する。   「桜。今日も地下か。ああ、僕をさしおいてまた下で何かやっているんだろ」    返答のない質問を繰り返す。  部屋には誰もいない。  ここ数日、彼の妹は屋敷に帰ってきていない。  主不在の部屋が無人である事は判りきっているというのに、間桐慎二は室内を徘徊する。   「いつも通り。ハハ、まったく、ホントにいつも通りじゃないか!」    ふと手に触れた時計を投げつけた。  ガラスの砕ける音は、思った以上に耳障りだった。   「何処いってんだよ。兄貴に内緒でさ……」    怒りを吐き出すように物を放る。  ……それもいつもの事だ。  これはここ数年、日課になっていた代償行為にすぎない。  彼が真実を知った三年前に始まった、自分と、妹を赦す為の、精一杯の抵抗だった。              ――――彼が生まれた時、間桐の血は既に役目を終えていた。    貴い血族である彼らは力を失い、間桐はただの“人間”になり下がった。  特別なものは蓄えられた知識だけ。  かつての魔道の名門は、この極東の地で人知れず滅びる定めとなったのだ。    その事実を、幼いながらも彼は聞かされていた。  間桐は秘跡を伝える一族であり、特別な存在だったと。  既に過去形。  間桐には魔術を扱える者はおらず、今後はまっとうな人として社会に関わっていくのだと。    だが、彼はそう思わなかった。  確かに魔術回路とやらは途絶え、魔術という秘跡を実践する事もない。  魔術師としての間桐は父の代で終わり、自分には間桐の名を継ぐ資格はないとも判っている。    しかし、それでも間桐には秘跡の記録がある。  途絶えたのは血筋だけ、蓄えた知識は失われてはいないのだ。    ――――それは、少年にとって十分“特別”な事だった。    自分は他の人間とは違う。  間桐家は選ばれた一族だ。  たとえ魔力を失い魔術師でなくなったとしても、その価値に変わりはない。  自分はその特別な家の子供として、特別に生きていくのだと誇りを持った。  魔術師として落第点だろうが、選ばれた家の子供である事は確かなのだから、と。    ……その選ばれた家に、いつしか新しい子供が紛れ込んでいた。  父は身寄りのない少女を引き取り、養女にしたという。  もう十年以上前の話だ。  桜という名の少女は、その日から彼の妹になった。    初め、彼は妹を毛嫌いしていた。  特別である間桐の家に異分子を入れたくなかったからだ。  だが日が経つにつれ、彼は妹を容認しはじめる。  桜という少女は無口で、凡庸で、番犬程度のことしかできない。  そんな存在を敵視する事など時間の無駄だし、ある程度愚鈍な方が愛らしい。    彼は書物をあさり、身につかない魔道を覚え、間桐の後継者を自認していった。  間桐の書斎に入れるのは彼だけだ。  養子であり、後継者に選ばれる筈のない妹に書物を読む資格はない。  妹は間桐に唯一残された知識を学ぶ事もなく、一般人として生を終えるだろう。  そんな事柄も、彼の自尊心を大いに満足させていた。    魔術師の家系において、後継者はただ一人。  それを知っていた彼は、自分の妹が自分と切り離されて育てられている事に疑問をもたなかった。  魔術を習うのは一人だけ。  なら、妹が自分から離されているのは当然の事だったから。    そう。  言ってしまえば、彼は彼女に同情していた。  同じ家で暮らし、同じ親を持ちながら、自分だけが“特別”という事を喜び、選ばれなかった妹を哀れんでいた。  それは見下すような優越者の〈憐憫〉《れんびん》であり―――彼にとって、もっとも頼りとなる兄の“自尊”だった。    やがて兄は妹を憐れみ、可愛がるようになった。    妹はそんな兄からいつも視線を逸らすように俯いていた。    それが羞恥からくるものだと思い、彼は無力な妹を愛したのだ。    彼が知らない、真実とやらを知るその時まで。   “え――――――――?”    偶然その部屋を見つけた時、彼はそんな声しかあげられなかった。    自分には知らされなかった部屋。  自分には教えられなかった知識。  そして、自分には与えられなかった才能。  其処にはその全てがあった。  部屋の中央には少女がいる。  周りには黒く蠢く何かと恐ろしい祖父がいる。  父は―――今まで見たことのない、厄介者を見るような眼で、入ってきた彼を一瞥した。    それで終わった。  彼が信じていたもの、彼を形成していたものが、全て丸ごと裏返った。            特別だったのは自分ではない。  隔離されていたのは妹ではない。  哀れなのは彼女ではない。  そして、見下すように同情していたのは自分ではなく――――    彼の生活は一変した。  父はもう隠す必要がないと開き直り、前以上に妹だけを扱うようになった。  妹は何も言わず、今までと同じように俯くだけだ。  以前と変わらない、彼の視線から逃れようとする態度のまま、彼女は言った。   “……ごめんなさい、兄さん”、と。    同情するように。かつて、自分が妹に向けていた感情のまま、彼女は言ったのだ。             『は――――はは、あはははははははははははははははははははははははははははははは!!!!!!』    笑った。  心底おかしかった。  全てを壊したくなるぐらいおかしかった。  愛玩動物だと思っていたものが本当の主で、自分はただの道化だったのだ。  おかしいのは自分か彼女か。  きっと両方なのだろう。  彼は全てが裏返った足場のまま屋敷に戻り、そこで思い知らされた。    別に、世界が反転した訳ではなかったのだ。  彼の周囲は初めからこうだった。  反転―――勘違いしていたのは自分一人。  初めから反転した自分が、ここにきてようやく己の惨めさに気付いただけなのだと。    その後の三年間は、彼にとって苦痛でしかなかった。  父は亡くなり、祖父は桜だけに目をかける。  間桐慎二はこの屋敷において空気になった。  ここに存ても存なくてもいい物として扱われ、実際、彼はそれ以外の何者でもなかったのだ。    その空気に、彼女は同情した。  ごめんなさい、と。  口にこそ出さないが、彼と顔を合わせる度に謝罪する。  自分が、間桐慎二の居場所を獲ってごめんなさいと。                   “なにを謝っているんだよ――――”    いっそ無視してくれれば楽だったのだ。  それなら兄の尊厳も捨てられたし、希望を持つ事もなかった。  桜は謝罪する。  これでは、この激情をどこに吐き出せば良いのか わからなくなってしまう。                “――――僕はおまえの優しい兄なんだ”    “他の誰よりも頼れる、ただ一人の兄なんだぞ”    この侮辱の大きさを思えば、それぐらい押しつけても、何のバチも当たらないと思い込んだ。   「ハ――――なんだあいつ、まだ衛宮んところにいやがるのか。  おまえは間桐の後継者だぞ。間桐の後継者だぞ。尊き間桐の後継者なんだぞ――――!」    部屋には生活の匂いがしない。  それも当然だ。  間桐桜にとって“部屋”とは地下の巣穴であって、ここは対外的なものにすぎない。  いくら物を壊し、散らかそうと部屋の主はまったく気にかけない。  ここは玄関にかけられた、間桐桜という表札と変わらないのだ。   「ああ、それなのに謝るんだよなおまえは……! ごめんなさい、ごめんなさいってさ……! じゃあさ、すまないと思うんなら僕の言うことだけを素直に聞けよ……! 罪の意識? そんなもの知ったことか。間桐家の人間って自覚があるなら、兄の言うことを聞くのは妹として当然のことだろう……!」    シーツを掻き毟る。  今まで自分が占有していたもの。  逆らいもせず、考えることもせず、ただ毎日を生きていたはずの桜が、どうして自分のもとから離れたのか。   「――――おまえが、おまえが取ったんだぞ、衛宮」    それが誤算だった。  アレが衛宮士郎に惹かれている事は知っていた。  何にも興味を持たなかったアレが、衛宮士郎と知り合ってから人並みに物を考え言うようになった。  アレは段々と自分を取り戻していって、終いには彼の手を離れてしまったのだ。    あれだけ優しい兄を演じてきたというのに、今の桜は自分ではなく他人である衛宮士郎なんぞに肩入れしている――――   「だから言ったんだ。あいつの家にやるのは良くないって。なのにあの〈爺〉《じじい》、衛宮は監視しなくてはならんとかふざけた事いいやがって――――!」    そう指示した祖父は、桜を間桐家に戻そうともしない。  アレはあのままでよい、などと言い、あまつさえ彼に謹慎を申し付けている。   「――――見ていろ、必ず償わせてやるぞ衛宮。おまえは、桜の見ている前で引き裂いてやる――――」    ……そう。  桜が自分の手から離れるというのなら、また昔の関係に戻してやるだけだ。  奴のおかげでアレが間桐家から離れてしまうというのなら。   「……ああ。昔みたいにさ、また、昔みたいになればいいだけじゃないか」    キチキチと笑う。  曇った窓に映った顔は、髑髏のように不気味だった。  夕方になった。  遠坂は忙しそうだし、桜は眠っているし、夕食は俺が作るべきだろう。  反応が遅いものの左腕は動くし、簡単な料理をする分には支障はない。 「えーっと……かじきのから揚げと、あとは肉じゃがかな、これは」  冷蔵庫の中を確認しながら今夜のメニューを決める。  昨日から食い扶持が二人増えた為、食材の減りが速い。  明日は暇を見て〈商店街〉《した》まで買い出しにいこう。 「「いただきまーす!」」  居間にやってきたら夕食が出来ていた、という状況が嬉しかったのか、食卓についた面々はみな上機嫌だった。  ライダーがやってこないのは気にかかるが、彼女にも思うところがあるんだろう。  ライダーは桜の守護を最優先にしている。そんな彼女からすれば、敵になるかもしれない遠坂と顔を合わす気はないのかもしれない。 「……後で食べに来るかな、ライダー」  食べに来なかったら弁当にして届けよう。  人気のないところが好きらしいライダーは、土蔵か道場のどちらかにいるだろうし。 「へえ。士郎ってこういうのが得意なんだ。桜は洋食で、士郎は和食派ってこと?」  かじきのから揚げを摘みつつ、遠坂は意外そうにこっちを見る。  きつね色に揚がったかじきの切り身は、しょうがの香りをさせた上品なしょうゆ味だ。そのあたりが遠坂のお気に召したらしい。 「わたしはこっちのが好きよ。シロウがお料理上手で嬉しいわ」  一方、満足そうに甘く煮たじゃがいもを頬ばるイリヤ。  ……肉じゃがなのにじゃがいもだけをつつかれるのは残念だが、イリヤが喜んでくれる分にはこっちも嬉しい。  ……と。  桜は箸を持ったまま、不思議そうに首をかしげている。 「桜? どうした、食欲ないのか?」 「あ……食欲はあるんですけど。……その、先輩?  この肉じゃが、お砂糖入ってませんよ? 味付けがヘンです」 「え!?」  バ、バカな肉じゃがなんて作りなれたメニューでそんなたわけたミスを……!? 「くそ、ちょっと待った……!」  真ん中に盛り付けられた大皿から肉じゃがを取り分け、口に含む。 「……む?」  ………………おかしいな。  ちゃんといつも通りの味付けだぞ、これ。 「桜。なんかヘンかな、これ」 「ヘンって……これ、お砂糖と塩が逆になってませんか?  甘味がまったくないんですけど……」 「そう? 肉じゃがってこういう味でしょ? そりゃ隠し味らしきものが入ってるから他のとは違うけど。 ちょっと真似できない味よ、これ」 「わたしは初めてだから判らないけど美味しいよ? ちょうどいい甘さで食べやすいし」  桜は納得のいかない顔で肉じゃがに箸を伸ばす。  ……一口。二口。三口。 「桜……?」 「え? あ、なんか味付けの薄いところを選んじゃったみたいです。ヘンなこと言ってごめんなさい。先輩のごはんは今日もおいしいです」  そう笑って、桜は食事を再開した。 「……………………」  桜は何でもなかったように箸を進める。  様子がおかしい事に不安を覚えたが、その後の桜はとんでもなく元気だった。  なにしろおかわりを三杯だ。  遠坂がびっくりしている横で桜は美味しそうに箸を進め、綺麗さっぱりおかずと米を片付けてくれた。  十時を過ぎた。 「時間ね。そろそろ行くわよ士郎」  準備を済ませ、遠坂が現れる。 「――――わかってる。それじゃあ留守番頼むぞ、桜」  予定通り、遠坂と町の巡回に向かう。  ……臓硯に対抗する手段が町の巡回、というのも間抜けな話だが、今はそれしか出来る事がない。  俺たちが倒さなくちゃいけない相手は臓硯とアサシン、それにセイバーと正体不明の黒い影だ。  ……正直言って、正面から挑んで勝ち目のある相手じゃない。  今は遠坂が準備しているという『対抗手段』が出来上がるまで耐えるだけだ。  だが、それでも屋敷に立て篭もっている訳にはいかない。  今朝のニュースであったように、間桐臓硯は町の人間を襲い始めている。  今は敵わないまでも、犠牲になる人々を出さない為に、夜の巡回は無駄ではないと思うのだ。 「………………」 「………………」  無言のまま靴を履く。  遠坂も俺も、夜の町に出る事がどれだけ危険か判っていた。  臓硯の標的は桜だけだとしても、俺たちが町を出歩けば目障りだろう。  ……最悪、あの森と同じ事が街中で起こる。  それを考えれば、おいそれと軽口なんてたたけない。 「……ちょっと。どういうつもりよ、貴方」  と。  お互い真剣に話し合う余裕なんてないっていうのに、遠坂はじろりと俺を睨んで―――― 「見送りなら結構よ。大人しく部屋に戻っていなさい、桜」 「………………」  ――――いなかった。  遠坂は廊下に立つ、桜を睨みつけていたのだ。 「姉さん。やっぱり、わたしも一緒に行きます。姉さんと先輩だけじゃ、夜出歩くのは危険だから」 「――――桜」  ……それでここまでやってきたのか。  その気持ちは嬉しいが、もう方針は決まっている。 「ダメだ。臓硯の狙いは桜だってわかってるだろ。桜はイリヤと一緒に、ここで身を守っていてくれ」 「それはわかっています。けど、先輩は片手が動かないし、姉さんだってもうサーヴァントがいないし、その」 「ふざけないで桜。貴女がわたしたちの敵である事は変わらないのよ。そんな、いつ臓硯の手駒になるかわからないヤツに、背中なんて預けられない」 「ぁ……けど、姉さん」 「貴女は貴女だけ守っていればいいのよ。わたしたちに少しでもすまないって思うんなら、こんなことで手を煩わせないでちょうだい。貴女はライダーに、自分とイリヤを守らせておくだけでいいんだから」 「遠坂、おまえ――――って、ちょっ……!」 「ほら、ぼうっとしてないで行くわよ。こんな事をしてる間にも犠牲者が出てるかもしれないんだから」  俺の手を握って、強引に玄関を出て行く遠坂。 「あ――――と、ともかく気をつけて留守番してるんだぞ桜……! イリヤのことは任せたからな……!」 「……………………」 「おい、待てってば遠坂! ちゃんとついてくから、いいかげん手を離せっ!」 「ふん。ぐずぐずしてるそっちが悪いんでしょ」  遠坂は手を離して、急ぎ足だった歩を止める。 「……なによ、その顔。言いたいコトがあるならハッキリ言ったら?」  で、いきなりこれだ。  遠坂は急ぎ足というか、妙にケンカ腰である。  ……まったく。  そんなに気になるなら、あんなコト言わなければ良かったのに、ばか。 「……はあ。じゃあ言うぞ遠坂。さっきの事だけど、桜にあんまりきついこと言うな。桜だって好きであんな体なわけじゃないんだ」 「わかってるわよ。けど、だからこそハッキリ言わないといけないでしょう。半端な態度をとったら、それこそ臓硯につけ込まれるだけでしょう」 「……わたしは桜に同情していない。  だって臓硯の操り人形とか、間桐に引き取られた事とか、そんなのわたしには関わりのない事だもの。あの子自身の問題に、わたしが口を出してもしょうがないしね」 「――――遠坂」 「いい? わたしがあの家にいるのは、桜じゃなくて貴方がいるからよ。  わたしの目的は聖杯であって、桜を助ける事じゃない。  その為には桜を監視するし、嫌われたって構わない。だからさっきみたいなことも言うし、これからも桜を敵として扱うんだから」 「……じゃあ遠坂は桜に嫌われてもかまわないっていうのか? 今は赤の他人だから関係ないって?」 「そうよ。それに文句があるの、貴方は」 「馬鹿。そんなのあるに決まってるだろ」  ……ったく、遠坂らしくない。  いつもならさらりと流す台詞なのに、ぎゅっと拳を握って、必死に騙そうとしてるんだから。 「わかった、遠坂がそう振舞うって言うなら好きにしろ。  遠坂がどんな態度をとったところで、気持ちはちゃんと桜に伝わってるんだしな」 「え―――ちょ、伝わるってどういうコトよっ!?」 「だから、おまえがどのくらい桜を大切に思ってるかってこと。部外者である俺でも気がつくんだから、桜にはもろバレだ」 「っ――――誤解よ、わたしはただ、その」 「誤解も何もない。人間、どうでもいいヤツに真剣には怒れない。遠坂が桜に厳しいのはそういうコトだろ? 口にはしないけど、おまえの中じゃあ桜は今でも大事な妹なんだ」 「な――――なに言ってんのよばかっ、やめてよねそういう歯の浮くコト言うのっっっっ!!!!」  顔を真っ赤にして怒る遠坂。  が、そこにいつもの迫力がないのは、結局そーゆうコトなのだ。 「なんだ。迷惑かこういうの?」 「迷惑よ。当たり前でしょ、そんなの」 「そうか。じゃあ迷惑ついでに言っとく。俺は遠坂と桜には仲良くしてもらいたい。桜は遠坂が好きで、遠坂だって桜が好きなんだから、今みたいにぎこちないのは気に食わない」 「……あのね。わたしは桜を敵として見てるのよ。仲良くなっても仕方ないし、それに、第一……今更どうやって仲良くなれっていうのよ、アンタは」 「どうやってって、今のままでいいんじゃないか? 自信持てよ遠坂。おまえ、俺から見てもいいお姉さんだぞ?」 「っ――――む、無駄話はここまでよ! とりあえず今朝のニュースでやってた現場に行くんだからっ!」  顔を背けたままズカズカと歩き出す遠坂。  はいはい、と空返事をして後に続く。  ――――と。 「士郎」  顔を逸らしたまま人の名前を呼んだかと思うと、 「その、ありがと。いまの、なんか嬉しかった」  そう、照れくさそうに遠坂は愚痴っていた。  ……中央公園は無人だった。  昼間でも人気のない公園は、昨夜の殺人事件によって静けさを増している。  公園はオフィス街の直ん中にある憩いの場ではなく、未開の地に広がる荒れ野と何も変わらない。 「……殺人事件か。世間じゃ事件じゃなく事故って扱いみたいだけどね。ま、たしかに誰が死んで体の何処がなくなったのかいまいち判らないんじゃ、殺人って呼び方も怪しいか」  見れば、草むらにはまだ血の跡が残っている。  ……かなりの量の血を、それぞれ思い思いの地面にぶちまけたような跡が四つ。  黒ずんだ地面が離れているのは、襲われた人間が必死に逃げようとしたからだろう。 「遠坂。おまえはこれが臓硯の仕業じゃないって言ったけど、どうだ? 現場にきて印象は変わったか?」 「……そうね。あの“黒い影”の仕業かと思ったけど、ちょっと違うみたい。  あいつが出ると、あたりの〈魔力〉《マナ》を軒並み飲み込んでいくでしょ。けどここ一帯の魔力は枯渇していない。……まあ、ここで起きた事が予定外の食事だろうって見方は変わらないわ」  ここで得られる情報はそれだけだった。  遠坂と二人、惨劇が起きたであろう荒れ地を後にする。  ……結局、新都にこれといった動きはなかった。  昨夜の事件があまりにも生々しかった為、臓硯たちも今夜は動かずにいてくれるのかもしれない。  時刻は、じき日付を変えようとしている。  川べりからの冷たい風を受けながら、遠坂と帰路につく。  そこで、ふと 「遠坂。桜、間桐の後継者なんだよな」  以前から気になっていた疑問を、訊いてみる気になった。 「なによ今更。もう隠し事なんてないわよ?」 「いや、そうじゃなくて。後継者って事は、桜も魔術師なんだよな。なら、桜はどんな魔術を使うんだろうって」 「あ、そういうコト」 「……そうね、間桐の魔術は“戒め”とか“強制”とか、そういうものだって聞くけど。令呪だって間桐がいなかったら出来なかったっていうし」 「ふうん。じゃあ桜の魔術は“制約”なのかな。けど、それだと」  あの日。  刻印虫に責められた桜が放った魔術は、ライダーの力だったんだろう。 「……制約……ではないと思う。それはマキリの禁呪であって、得意とする魔術じゃないもの。  ま、考えたところで意味ないわよ。桜には魔術を使うだけの魔力がないもの。そんな余分な力まっさきに刻印虫に食べられるんだから、魔術は組み立てられない筈よ」 「……そうか、それならいい。で、遠坂から見て桜ってどれくらいの腕前なんだ? 間桐の後継者って事は同じぐらいなのか?」 「魔術回路の数でいうならわたしと同じぐらいよ。  士郎、わたしたちが姉妹ってコト忘れたの?」 「あ」  そういえばそうだった。  だからこそ間桐は桜を養子に欲しがったんだろうし。 「じゃあ、やっぱり遠坂と同じぐらい?」 「どうかしらね。わたしが五大元素で、桜は架空元素だったらしいわ。けど間桐は水属性だから、無理やりそっちに変えられたのよ。鳥としてなら大空を飛べたモノを、無理やり海中に入れたらどうなると思う?」 「……死ぬか、それとも」 「そ。海中に適応する体を得るだけで精一杯よ。  遠坂でなら大成しただろうけど、無理やり間桐にさせられた桜は士郎と変わらないわ。  ううん、体を鍛えてある分貴方の方が何倍も強いでしょうね」 「じゃあ、仮に遠坂と桜が魔術戦をすれば」 「十回中十回わたしの勝ち。桜の魔力量じゃわたしの防壁を突破できない」  ……なるほど。  桜がどんな魔術師なのかは判らなかったが、遠坂とのパワーバランスは確認できた。  遠坂は見栄を張るヤツじゃないし、今のは嘘偽りのない事実なんだろう。 「……けど恥ずかしいな。桜が魔術師だった事にも気付かなければ、桜の腕前も判らない。これで桜の保護者を気取ってたなんて、とんだ大馬鹿ものだ」 「あのね。桜は体内の魔力を刻印虫に食べられちゃうんだから、傍にいても魔術師だって判らないわよ」 「……それに、あの子は貴方にだけはバレないようにって頑張ってきたのよ。だからそんなコト、間違っても本人の前で口にしないでよね」 「………………」  ああ、それは言われるまでもない。  桜が魔術師であろうと、俺にとっては桜は桜なんだ。  そもそも俺はそんな器用じゃない。  桜の正体がなんであれ、今まで通りに接するコトしかできないし。 「そうだな。遠坂がそれでいいっていうんなら、俺は今までと同じように桜とやっていく。  魔術師として手を貸してもらおう、なんて思わないけど、それでいいんだな」 「もちろんよ。貴方が桜に頼ろうなんて言い出したら、その時は桜をわたしの家に連れ戻してたところ」  そう微笑む遠坂は、ドキリとするほど優しかった。  ……ほら。  ほんとにいい姉貴じゃないか、遠坂。 「けどそれも無理かな。桜、あなたの家だと笑うんだもの。昨日から何が驚いたかって、それが一番驚いたわ」  ―――と。  心底嬉しそうに、遠坂は妙なコトを口にした。 「え……笑うって、桜は、その」    いつもあんな感じ、なんだけど。 「ええ、わたしの取りこし苦労だったけどね。  そのさ、わたしは桜とはあんまり話せないから、そのかわりに暇さえあれば見てたのよ。あの子がわたしと同じ学園に入ってからは毎日のように弓道部に入り浸ってたし」 「―――――ああ。それは知ってる、けど」 「……うん。それでね、しばらく経ってから気がついたのよ。あの子、一度も笑ってないって」 「――――――――」  それは。  初めて聞く事なのに、聞いた瞬間、納得できる事実だった。  思い返せば学校で会う桜は、いつも暗い面持ちで佇んでいるだけではなかったか。 「ま、それも貴方がいる時だけは別だったけど。  たまに士郎が弓道部に来た時は、桜だって笑ってた。  ようするに桜が元気な時は、衛宮士郎が目の前にいる時だけなのよ」 「………………」  遠坂の言葉は、喜ぶべきものの筈だ。  なのに、その事実は、どこか。   「……桜、人前では笑わないのか」    ひどく危うい事実を、含んでいるように思えた。    部屋に戻ると、時刻は午前一時を回っていた。 「――――――――はあ」  どさん、と布団に腰を落とす。  夜の巡回で得たものは何もない。  あるとしたら、朝のニュースが現実だったという再認識だけだ。 「………………」  倒すべき敵。  いずれ戦わなくてはならないソレを思い返すと、正直、寒気と吐き気しかなかった。  臓硯とアサシンはまだ『人間』で打倒できる相手だ。  だがあの二人は違う。  黒い影はそもそも“死ぬ”という概念があるかどうかさえ怪しいし、セイバーは、俺たちがどうあがこうと倒しようのない相手だ。  だが―――街に犠牲者が出た以上、もう、“勝てない”で済まされる状況じゃない。 「……アーチャーの腕、か」    赤い布に手をかける。  ……武器はある。  何処まで通じるかは判らないが、武器ならあるのだ。  問題は、それが俺に使いこなせる物なのかどうか、俺に耐えられる物なのかどうか、というコト。 「…………少しだけなら、大丈夫だよな」    赤い布の結びを解く。  ギチギチに縛られていた布が緩み、止まっていた血が流れ始める。               途端。       獣の遠吠えを、聞いた気がした。    刺された。  体中がザクザクに突き刺された。  これは痛みか。痛みだとしたら、今まで経験してきた痛みなんて痛みではなくなってしまう。    痛い。痛い。痛い。痛い。    畳の凹凸。布団の柔らかさが痛い。剣山に座っている気がする。空気は猛毒で息を吸うと三度死んだ。遠くで鳥が鳴いている。風が強い。水気がない。肌は乾燥して砂になっていた。サラサラと流れザラザラと削げガラガラと崩れていく。    削げた穴から火箸が突き刺さる。  三十二本、肩から内側へ。  それぞれ内頚静脈気管脊髄交感神経節、左右両胃肺上葉中葉下葉、大動心臓横隔膜脾臓胃袋肝臓胆嚢 大腸八器に丁寧丹念無比正確に串刺していく。   「あ――――、つ」    崩れていく。  時間が猛スピードで減速していく。  秒速三四零で六十兆の細胞が崩れていく景色を見る。 「―――――、―――――――」    痛みはない。  痛みはない。  痛みはない。  あるのは恐怖だけだ。  驚異的なスピードで侵略するエンドロール、  狂想的なイメージで停滞するフラッシュバック、  目前の死、背後に過ぎた死、現在にある死、痛みは肉体的な痛みではなく死を叩きつけられる毎に起きる否定の炸裂にすぎず―――― 「は、あ――――……………!」    ……音を聞いた。  跪いた自分の頭が、どん、と畳に倒れる音。 「あ――――あ」    ……瞳が熱い。  気がつけば涙を流していた。 「あ――――ああ、あ」    喉までせりあがった叫びを、必死に飲み込んだ。  背中を丸め、頭を畳に押し付けたまま、右手で左腕を握り締め、ただ、泣いた。 「――――あ――――ああ、あ――――」    怖い。  十年前の火事から欠落していたもの。  怖い。  生物として当たり前の畏怖。  怖い。  自分が終わるという事から、生まれて初めて、逃げたいと思った。 「は――――――――あ」    死が痛いから拒むのではない。  生きたいから死にたくないのではない。  それは、ただ、恐ろしいだけのものだ。 「――――ぁ………………く」    赤い布を結び直す。  結んで、二度と緩まないように何度も何度も引き絞った。 「――――だめだ。コレは、だめだ」    嗚咽を漏らしながら泣いた。  左腕を使えば死ぬと神父は言った。  そんなのはデタラメだ。  こんなの、布を解くだけで死ぬ。  体は耐えられるのかもしれないが、この布を解けば精神が先に死ぬ。  わずかに緩め、肩が外気に触れただけで意識がボロボロと欠けた。  それにすら耐えられなかった俺が、この布なしで生きていける筈がない。  ――――厭。  この腕が、人が触れていい〈矛盾〉《そんざい》でないとしたら、既に 終わりを告知された〈廃線〉《カラダ》は、終着駅に向かって走り  船底に亀裂をもった船は手の施し様も無く深海に没すのみで  乗客だけが気付かないまま、気付いた時には、何もかも手遅れに―――― 「…………っ、ぁ――――」              ――――息が荒い。 「――――あ、つ」              ――――悪い、夢を見た。    ……額に溜まった汗を拭い取る。  立ち上がることができない。  蹲ったまま、よくわからない痛みを、よくわからないあたまで堪える。 「ぅ――――っ」  ……思い出せない。  左腕が痛い。  無くなった方がマシだってくらい痛い。  どうしてそれほど痛むのか思い出そうとしたが、そも、一秒前に思いを馳せる、という方法が思い出せなかった。 「ん―――――――」  痛みが引いていく。  断絶した意識をなんとかヒトまとめにする。  眠っていたからだろう。  バラバラの記憶は、タンタンと包丁を入れた玉葱のようで、纏めてみればキレイに調理できる気がした。  じゅー、じゅっじゅっ。  ほら、醤油で色づけして胡椒で味付けして片栗粉をちょっとだけ混ぜれば歪だがマトマリのある傷めモノ。 「うわ――――不味そう、それ」  ぼんやりと呟く。  お節介なまでに人の手が入りまくった頭はろくでなしで、そんなモンでも結論だけはキチンと出せた。      つまり、不味そうなモノは食わなければいい。    とうに無くしてしまったもの。  無いものを頼りとする事自体が、既に正順ではない。  故に、衛宮士郎に武器などない。    この異物は一生涯をかけて封殺する物であり、  この異物に一生涯をかけて汚染される者である。 「っ…………!」    布で抑えつけようと無駄なこと。  真実この毒から逃れたいのなら、〈方法〉《それ》はもう一つしかない。 「―――、―――――」  そこまで判っていながら、未練がましく左腕を抱いた。  銃口がこめかみに当てられている。  イメージするのは銃の引き金。  左腕は〈撃鉄〉《トリガー》そのものだ。  引けば、定められた機能にそって銃弾を撃ち出し、頭を吹き飛ばすだろう。 「………………」  身震いがした。  薄闇に息を潜め、空白の壁を見据える。 「………………」  もう一度左腕を強く抱いて、体を倒した。  ……目蓋を閉じる。  つまらない弱音を飲み込んで、明日にそなえて眠る事にした。  ……小さな音。  板張りの廊下を進む足音で、目を覚ました。 「――――――」  まどろんでいた意識を起こす。  時刻は午前二時前。  ……眠りについてから、三十分も経ってない。  無意識に左腕を押さえながら、モゾモゾと布団から体を起こす。 「――――桜」  部屋の外。  足音がした廊下に向かって声をかける。  何も気配を感じ取った訳じゃない。  ただ漠然と、桜がやってきた気がしただけだ。 「………………」  ……襖が開く。  戸惑いがちに襖を開けて、桜は俺の部屋に入ってきた。 「――――――」  桜は羞恥に唇を噛みながら、どう切り出して良いのか判らずに俯いている。 「……ごめんなさい先輩、わたし、また」  自分を責めるように桜は謝ってくる。 「――――――」  が、謝るのは俺の方だ。  桜がここに来る理由。  渇きに喘ぐ身体の苦しみを、俺は充分すぎるほどに知っている。 「……帰ったらすぐに桜のところに行くべきだった。苦しい思いをさせて、ごめんな」  立ち上がる。  左腕に気を取られて、桜の体質を失念していただなんて、謝っても許されない。 「え、先輩……?」 「分かってる。桜の準備が出来ているんなら、すぐに始めよう」  桜は顔を赤らめて頷いた。  ……恥ずかしがることは何もないのだが、桜からすると“血を飲む”という行為はどこか背徳的な趣きがあるのだろうか。 「あ……でも、えっと……」  困ったように視線を下げる。  あ、そうか。  このままじゃあ始めようにも始められない。  前は指に噛みつかれたけど、今回はもっとスマートに血を分けてやれる。 「ちょっと待ってくれ、机にたしか」  立ち上がって机に向かう。  が。突然の事で、つい、無意識に左手を動かしてしまった。 「せ、先輩……!? だだ、大丈夫ですか……!?」 「……。いや、なんでもない。ちょっと立ち眩みがしただけだ」  くそ、情けない。  左手をつかって、さっきの痛みを思い出しちまった。  布を巻いている限りは痛まないっていうのに、何を怖気づいてるんだ俺は。 「と……よし、あった」  右手で机の中を探って、カッターナイフを取り出す。  チキチキを刃を出すと、先が欠けたり鈍ってたりしないかを確かめる。 「…………??」  桜に噛み破らせないなら、俺が血を出すしかない。  注射針やチューブがあれば言うことはないのだが、生憎と持ち合わせがない。  そうなると、手っ取り早く腕を切って血を垂らすしかなかった。 「よし――――って」  右手にカッターナイフ。左手には布でぐるぐる巻きにされた腕。  ……馬鹿なことをしている。  こっちにカッターを持ったら、切る手は当然この腕になる。布を緩めただけであんなに痛むのに、切るなんて論外だ。 「…………???」    でも、左手は握れるほどに細かく動かない。  どうしたものか、と考えていると。    ――――遠吠えの残響が聞こえた。 「………………」  まだ間に合う、と。  その腕は俺には過剰な代物だ、と。  よく考えろ、布を緩めただけでお前はあれほどに苦しんだのだ。  だから、まだ間に合う。お前の手には刃がある。 「………………」  己の一生はそれに侵され、封じることに費やされる。  いつ暴発するか判らない爆発物と共に怯えながら生きる。  だからその時限回路だけでもいいから、このカッターナイフでえぐり出せ、と。 「………………」  カッターナイフを持ったまま、動けなくなる。  今更そんな未練は抱かないと決めたはずなのに、刃物を持つとにわかに甦る。  心臓が冷たく機械的な早鐘を打って、目の焦点が遠くなる。 「あの…………先輩?」  その一声で、呪縛が破られた。  カッターナイフを下ろして、深く息を吐く。 「わるい。すこし考え事をしてた。どうでもいい事だから、気にしないでくれ」 「そ、そうなんですか……? でも、先輩顔色が」 「ちょっと胸焼けがしてるだけだ。今の桜に比べたら大した事じゃないさ。  待ってろ。この程度の傷ならすぐに―――」  カッターを微かに動かす。  痛みはチクリとした程度で、本当にたいしたコトはない。 「お……………よし、これなら」  思ったより景気よく血が出てくる。  さて、これを桜に、と思って―― 「あ――――――――ぁ――――――」 「………………………」  ……カッターナイフを落とす。  桜が、俺の傷口を、腕を伝っていく赤い液体を見つめている。  さっきまで怯えていた桜から嘘みたいに力が抜けている。  目が酔っている。  半開きの濡れた唇と、白い喉が物欲しげに動く。  布団の上を、身を捩らせながら四つん這いで進んでくる桜。  それは桜の姿をした、しなやかな獣のようだった。 「……………桜」  突然の変わり様に、どんな言葉を掛けていいのか判らない。  ……今は、手首まで血が垂れている腕を、桜に向かって差し出すたけだ。 「あ……………ん……」  指先まで零れた血がぽたん、と落ちた。  濡れて柔らかそうな唇に滴る血。  伸ばされた桜の舌に、ぽたぽたと垂らし続ける。 「……………」  うっとりと舐める桜は、指を舐めだす。  傷の痛みは感じずに、桜の舌が俺の指に触れる滑らかさを感じる。  また、だ。  あの堪えられない感覚がやってくる。 「あ………ん……おいし、い……先輩―――」  腕を舐める桜の姿は綺麗で、艶めかしい。  先ほどまでの怯えていた桜が嘘のように、こちらの頭を内側から刺激する色香。 「は………、ぁ、あ―――」  ……蜜を舐め取っているようだ。  桜の唇がだんだん、傷口に近づいていく。  今でも血をにじみ出している傷口を、唇が塞いだ。 「――――――――っ」  あの、カタチが保てなくなる快感がやってくる。  肩に力が入らなくなって、外れそうになる。指を舐めていたときに感じていたのと違う、とろける甘さ。 「っ、ぅ―――」  歯を軋ませて、声を殺す。  血が奪われ、その代わりに流し込まれる快感。  傷口の痛みは曖昧になり、今や右腕がどうなっているのかもあやふやになる。  腕に吸い付き、飲み干す桜。  桜の足りない魔力を補うための行為だと判っていても、こうも甘美だと――   「んっ、ん………………」  桜の声も、囁く様で神経に響いていくる。  肩まで吸血の愉悦に染まり、左手は苦痛と恐怖に、右手は快感と喪失に。 「っ―――さく、ら……」  知らずに、桜を抱き寄せていた。  吸われている腕で桜を抱き込んで、胸に押しつける。 それでも桜は美味しそうに喉を潤す。 「はぁ……あ……せん、ぱい……わたしの、先、輩―――」  桜の柔らかい身体よりも、腕に触る唇と、吸われていく蜜の快感に酔っている。  胸中に、形容しがたい衝動が湧き上がる。  このまま桜を壊れるほどに抱きしめていたい、と。  ―――吸い上げられていく。  血だけではなく、活力までも吸い上げられていく感触。  快感に染まり、あやふやな頭の中で。  それが、何かに似てると。    関係ない。  そんな危惧なんか知らない。 「あ……ん、もう、傷、が―――」    ……どれほどそうしていたのか。  名残惜しそうに桜は腕から唇を離した。  ……頭が重い。まだ桜に吸われている気がする。  頭は宙に浮いているようだ。  それでも桜が無事なのかを、目は確かめようとする。   「あ――はぁ……ごちそうさまでした、先輩――」    済まなそうに視線を下げる桜。  それで、魔力も体力も使い果たしたのか最後の緊張が切れた。 「あ――――、っ」  ……バチン、と意識の電源が落ちる。  後のことなど考えられない。  桜の腕に感じた優しさが、吸血される快感が思い出せない。 「っ――――これじゃ、まるで」  桜に血を与えたこと自体が夢みたいだ。  ……深い眠りに落ちていく。  心底疲れ切った身体は、桜が手当をしてくれて部屋に戻ったことも、脳裏に生まれた不安も、この夜の出来事も忘れて。    一時間前の、浅い眠りに戻っていた―――                  ――――それは、赤い海にいた。    見知った風景は海水に没して、街は生け簀のようだった。  空気はなく、息をする度に濃いものが喉にからみつく。  酸素が足りなくて苦しい、と息を吸えば吸うほど、水のように重い空気が肺に流れ込んでくる。    だから、ここが海中である事に間違いはないようだった。    苦しい、とそれは喘いだ。  それは本来地上に棲むべきもの。このように海中で生きていける筈がない。  海面に出ようと上を目指し、街で一番の高みに辿りつく。  息苦しさは変わらない。  それは広がる風景を見下ろし、足りない酸素に喉を焼き、その苦しみ故に、安穏と眠る街並を憎悪した。    クルシイ。クルシイ。クルシイ。クルシイ。    ここには空気がない。  ここには痛みがない。    クルシイ。クルシイ。クルシイ。クルシイ。    ずるずると何かを引きずっている。  体は見惚れるほどに〈滑〉《なめ》らかに彩られていた。    クルシイ。クルシイ。タリナイ。クルシイ。    黒い手には何人分もの亡骸が収まっている。  歪な手は何人分もの亡骸を握り締めている。                 タリナイ。タリナイ。タリナイ。タリナイ。    ぐちゃりと鳴るごとに、全身を濡らしていく。  酸素が足りない。  酸素が苦しい。  水圧が軽々しい。  水圧に耐えられない。    流れ出る液体を全身に塗りたくる。  おそらく、それだけがこの深海で生きる為の、耐水服だと信じるように。            歪に広がった手を伸ばす。  黒い手は月光に照らされ、巨大な影となって、街の一部分を押し潰そうと下がっていき――――   「ぁ、あ………………!」    眠りから覚める。  寝苦しさに喉が喘いでいる。  厭にリアルな夢に愕然として、熱く火照った体を抱きしめる。  途端、ぬるりと。  両手が、濃い紅に塗れていた。   「あ、あ――――!」    目を閉じて、両手を自分から遠ざける。  ……恐る恐る目を開ければ、両手はキレイなままだった。  それが錯覚なのだと気付いても、体の震えは止まらなかった。    ガクガクと震える。  壊れた機械のように震える。  カラカラと耳からボルトがこぼれそうなほど震え続ける。  そうして、このまま無様に〈中身〉《パーツ》をこぼしていって、いつか空っぽになって動かなくなる―――そんな想像をするとよけい怖くて、震えは一向に治まらない。   「――――顔。そうだ、顔を、洗わないと――――」    洗面所に向かう。  数歩も歩けない。  震える手足は言うことを聞いてくれない。  倒れようとする体を、なんとか机によりかかって持ち堪えた。   「……ぁ……あ、っ――――」    視界が霞む。  ドアまで歩けないし、ドアさえよく見えない。  自分がさっきまでどんな夢を見ていたのか、どうしてベッドから出たのかさえ思い出せない。   「……う……あ」    壊れている。  何も思い出せない。  何も考えられない。  あるのは欲望と飢えだけだ。  欲しいのは熱い身体と優しい優しい言葉だけだ。   「ぁ――――――――ぅ」    机に伏したまま、ふるふると首を振る。  恐怖と際限のない自己嫌悪。  どうかしている。  自分はどうかしている。  どうして足りないんだろう。  ほんの数時間前、きちんと分け与えて貰ったのにまったくぜんぜん、これっぽっちも満ち足りていない。  嬉しくて嬉しくて、もうこれ以上の幸福はないと思えたのに全然全然満ち足りていなかった。    きっと自分はとてもとても空っぽだから、彼一人では満たせないのだ。  でも彼以外の人間になんて満たしてほしくもなかったのだ。  だからもっと長くずっと長く、いつまでもあのまま彼のものになっていたかった。  その為なら時間も感情も他の人間も何もかもなくなってしまえばいいとさえ思ったのにどうしてそうしてしまわなかったのか不思議で不思議で仕方がなく、そこでごく自然に、自分にはソレが出来るコトに気がついた。   「あ――――」    目眩がする。  おかしな妄想にではない。  一瞬、本当に素直に、    それは楽しそうだな、と思ったコトが、恐ろしかった。   「ぁ――――ぅ……う……!」    机に体を預ける。  崩れそうな体を堪える。  怖いユメは日増しに明瞭になっていく。  怖いユメを日増しに怖いモノとは思えなくなっている。    だから、自分は壊れはじめている。  今までは体だけだった。  それが、今では心までおかしくなり始めている。   「……う……う、う」    かみ締めた唇から、くぐもった嗚咽が漏れる。  記憶が曖昧なのはいい。  数時間前のことを思い出せなくてもかまわない。  手足がきかなくなって、一生寝たきりでも怖くはない。    けれど、自分が自分でなくなるのはイヤだ。  悪いにんげんになっていくのはイヤだ。  こんなふうに少しずつおかしくなっていけば、最後には壊れてしまう。  そうなったら、きっと―――自分は、彼を一番苦しめる存在になってしまう。   「――――――――」    それが怖い。  自分がヘンになっていくのは怖い。今まで以上に怖い。  自分がおかしくなれば彼は触ってくれないし、自分を愛してもくれない。  一緒にいることもできなくなって、一緒にいることさえ分からなくなる。  それだけじゃない。自分がおかしくなってしまえば、違う女が彼と一緒にいるコトになる。    それがイヤだ。すごくイヤだ。  今までずっと、自分以外のもっと相応しいヒトといるべきだと思っていたクセに、もうそんなコトは許容できない。              ――――だって。      彼はもう、自分のモノになったのだから。    ……だから怖い。  そうなってしまった時、自分が何をするのか判らないから怖い。   「……う――――う、く――――」    けれど、そこまで判っていながら救いはなかった。  この故障を打ち明ける事はできない。  打ち明ければ今までと同じ、寒いところに戻るだけだ。  けれど温かさを知ってしまった以上、もう寒いところには戻れない。    彼女は、もっと。  この場所で、あの人に笑いかけていたかった。    だが、今の状況を続ければ何が失われるのかもよく判っている。    その願いはただの欲望。    彼女が幸せになるには、彼女が幸せになってほしいと願うただ一人の人間を、台無しにしなければならない。    それが出来ないのなら、このまま誰にも知られないうちに壊れていなくなってしまえばいい。  どうせおかしくなるなら今のうちに消えて、誰もいないところで怪物になってしまえばいい。    それがきっと、一番正しい選択だ。    けど縋ってしまう。  温かいから、幸福だから、もっと欲しいと願ってしまう。  どうして自分だけが。  そんな当たり前の欲求から、断絶されていなければならないのかと――――   「違う――――違う、違う、違う、違う……!」    自らの弱さを振り払う。  妬んでなどいない。  恨んでなどいない。  ただ、もう少し赦されていたいだけなのだと弁解する。   「違う――――こんなの、わたしじゃ、ない」    頭を振って否定する。  空っぽのあたまで〈昏〉《くら》い心にフタをする。    ―――この道に、幸福な出口などないと。    その、判りきった答えから目を背ける。   「う――――うぅ、う――――」    ……混濁した思考は、とうに悪夢に落ちている。    彼女は、助けてほしいという願いを押し殺して、ただ一人泣き続けた。 「――――――――はあ」    体はまだ重い。  桜の為に昼食を作らなくてはならないのだが、今は少しだけ横になって、とにかく頭を休ませたかった。 「――――――――」  布団に倒れこみ、枕に顔を押し付ける。  ……分かっている。  猶予なんて、あの日からなかったのだ。  これ以上、問題を先送りにはできない。  桜の事。  これからの事を、俺はここで決めなければ――――           「――――エミヤシロウ、だな」 「誰だ――――!」  布団から飛び起きる。  声。確かに声がした。  それもすぐ近く、この部屋から声がした。 「――――――――っ」    背筋に悪寒が走る。  ……恐ろしいのは、そこまで判っていながら、声の主が〈何処にいるのかが判らない〉《・・・・・・・・・・・・》という事だ。 「警戒は無用だ。オマエを殺しに来たワケではない」    耳元で囁かれる。  その声。  流暢でありながら無機質な口調は、髑髏の面をしたサーヴァントのものだ。 「アサシン――――」    ……なんて事だ。  いくら隠密が生業だからって、屋敷の結界を掻い潜り、誰にも気付かれずここまで入り込むなんて――――! 「…………。殺しに来たんじゃない、だと? 世間話でもあるっていうのか」  背後の気配を探りながら、廊下までの距離を測る。  全力で畳を蹴って二歩、廊下から中庭まで転がり出るのに三秒。  それだけの時間があれば、アサシンは俺を四度は殺せる。  ……となると、後はヤツの話に乗るしか生き延びる術はない。 「私ではない。オマエと会合を望んでいるのは魔術師殿だ」 「……? 魔術師殿って、臓硯のことか?」 「そうだ。間桐の屋敷でオマエを待っている。魔術師殿にも戦闘の意思はない。オマエが一人で赴くのならば、魔術師殿もオマエを歓迎するだろう」 「――――――――」  ……アサシンの言葉は、それなりに信用できる。  殺すことが目的なら、部屋に入った瞬間に俺は殺されている。  そうしなかったのは臓硯が話し合いを望んでいるからだ。  その内容がどんな物で、それ自体が罠かどうかは別の話だが――――    罠だ。  それははっきりしている。  だが臓硯と一対一で向かい合えるチャンスなんて、もう二度とないのも確かだ。  ……それに、こっちには余裕なんてない。  罠だろうが何だろうが臓硯と対峙して、桜の刻印虫を取り除かせるだけだ。 「……わかった。俺に話があるんだな、臓硯は」 「―――よい選択だ。では急ぐがいい。私とていつまでもライダーの目は誤魔化せん。他の者がこの会合に気付けば、魔術師殿の気が変わろう」 「……ふん。俺だけにする内緒話ってワケか」  ……返答はない。  合意を得た以上、もう用はないのだろう。  アサシンは現れた時と同じく、一切の気配を立てず消え去っていた。  ―――衛宮の家から抜け出して間桐邸へ。    一面の曇天。  薄暗い空のせいか、屋敷は日中だというのに不吉な気配に満ちていた。  呼び鈴を押さず中に入る。  ……間桐邸に入るのは一年ぶりだ。  うろおぼえの記憶で廊下を抜け、一階の居間に向かう。 「ほう。思ったより早い到着だな、衛宮の〈小倅〉《こせがれ》」 「――――――――」  居間には臓硯の姿しかない。  アサシンの姿も、あの黒いセイバーの姿もない。  ……どうやら、話があるというのは本当らしい。 「む? なんじゃ、ワシとは挨拶を交わす気にもならんか。これは、随分と嫌われたようだのう」  臓硯に殺意はない。  ……ようするに馬鹿にされてるのだ。  俺一人、いまさら殺す気などないって余裕が見え見えで頭にくる。 「さて。招待を受けたからにはおぬしも話があるのだろう? ならば座るがよい。お互い、立ち話ですませる事ではなかろう」 「――――まさか。おまえとの話なんて、立ち話で済ませるもんだろう」  ……飛びかかって打ち倒したい衝動を堪えて、睨み殺すつもりで臓硯を見据える。  こっちは臓硯のように敵意を隠す事は出来ない。  桜の体をあんなふうに変えた元凶に、少しでも気を許すものか。 「臓硯。これが話し合いだっていうなら、俺から言う事は一つだけだ。今すぐ桜を解放しろ」    臓硯が断るのなら後は戦うだけだ。  この場でアサシンとセイバーを呼ばれようと、殺される前にこの妖怪を打ち倒す―――― 「桜の解放か。……ふむ。いや、そうしたいのはワシも山々なのじゃがな。残念だが、もはや儂ではどうしようもできんのだよ、小僧」  ―――と。  目の前に立つ老魔術師は、真実、無念そうに答えていた。 「――――なんだと?」 「ワシが何をしたところで、あそこまで育ったアレは救えんのだ。桜は既に聖杯として機能しておる。この場でワシが刻印虫を取り除いたところで、アレが自滅する事に変わりはない」  待て。  聖杯? 桜が聖杯として機能している?  なんだってここで、そんな単語が出てきやがる……? 「待て。桜が聖杯ってどういうことだ。おまえ、桜は一体……!」 「決まっておろう。聖杯を手に入れ、己が望みを叶える為の手段じゃよ。  全ては我らマキリの悲願、真の不老不死たる魂の物質化の為に、十年前の戦いの折、ワシは〈桜〉《アレ》に聖杯としての機能を与えたのだ」 「な――――聖杯としての、機能を与えた……?」 「そうだ。十年前の聖杯戦争の終わりは聞いていよう。  おまえの父、衛宮切嗣は〈聖杯戦争〉《ぎしき》によって完成した聖杯を破壊した。  戦いはそこで終わり、聖杯を降ろす儀式はまたも失敗したのだ。  だが―――何もかも失敗だったワケではない。一時であれ聖杯は完成したのだ。  ならばその破片。砕け散った聖杯を、そのまま捨て置くのは惜しかろう」 「――――――――」  頭が急速に冷めていく。  つまり、この男は、孫である桜に、 「そう。回収した聖杯を移植したのだ。だがワシとてそこまで外道ではない。〈桜〉《アレ》が人間として生活できるよう工夫はしたがな」 「――――じゃあ、桜の体内の刻印虫は」 「聖杯を触媒にして生み出したモノよ。  それによって肉体は魂を受け入れる為の〈聖杯〉《ようき》となり、儀式が果たされた時、門となって道を繋げる触媒となった。  アインツベルンが作り上げる聖杯の真似事よ。  まあ、ワシでは〈彼奴〉《きゃつ》らほどの技術がない故、八割がた自己流となってしまったがな」  呵々、と愉快げに笑う。  ……なにがアインツベルンの真似事、だ。  こいつは単に、出来上がった完成品の欠片を拾って、それを無関係な桜に与えただけじゃないか……! 「……てめえ。自分じゃ聖杯が作れないからって、そんな方法で、聖杯の真似事をしようとしたのか……!」 「実験。あくまで実験じゃよ、衛宮の〈小倅〉《こせがれ》。  この程度では、次に繋げる実験にすぎぬ。本来なら〈桜〉《アレ》はゆっくりと、何十年と歳月をかけて聖杯に近い存在へ変わっていく予定だった。  魂を収める器としての機能を持ちながら、あくまで人間として生き、天寿を全うするように施した、マキリ流の聖杯の第一歩になる筈だった」 「桜が―――――第一歩、だと……?」 「当然じゃろう。桜はその為に間桐に寄越された娘じゃ。  間桐に娘をやる、という事は〈我ら〉《マキリ》の悲願達成の〈礎〉《いしずえ》とする事。遠坂とてそれは承知の筈。彼奴もワシも目的は同じだからな。不老不死を手に入れる為ならば、共に鬼にもなるわ」 「不老不死、だって……?  そんな、そんな馬鹿みたいな理由で桜を利用したっていうのか、おまえも、遠坂の親父も……!」 「無論。もとよりこの地に起こした聖杯戦争は、その〈座〉《いち》に至る為の儀式。その為だけに我らは手を組み、ワシだけが今も無様に生き続けておる。  間桐の後継者たちによって、遥か先になるであろう悲願達成の為にな」 「だが運命とは皮肉なものよ。  本来なら“適応しない聖杯”だったはずの桜は、ここにきて驚くほどの成長を遂げおった。  いやはや、ワシも老いた。よもや桜がアレほどの素質を持っていたとはのう。多くのサーヴァントを取り込みながらも自滅せず、間桐桜の自我を残したまま、未だ生き長らえておる。  ―――その姿はまさに聖杯。ワシでは作り上げられぬと諦めていた、アインツベルンの聖杯そのものよ」 「っ………………!」  我慢できない。  この妖怪の戯言を、これ以上聞けるほど我慢強くはない。  俺は、臓硯が従えているアサシンの事も忘れ、 「ふざけんな、何が聖杯だ……! 人間を犠牲にしただけのモノを、偉そうに聖杯なんて言うんじゃ―――!」  激情に任せて、振り上げた拳ごと臓硯に踏み込んだ。  だが。   「いや、聖杯だとも。  そもそも、聖杯を作り上げるアインツベルンからして、聖杯のベースは人間ではないか」   「――――、え?」  臓硯はにたりとした笑みで、俺の動きを止めていた。 「人間が、ベース?」    ……踏み出した体が、後ろによろめく。  判りたくもないのに、それが誰を指しているのか理解できた自分が恨めしい。 「そうだ。おぬしが匿っておるイリヤスフィールとて聖杯よ。  だが同類にされては困るぞ? なにしろアインツベルンはワシより数倍性質が悪い。彼奴らが用意した聖杯がどのようなモノなのか、それは本人に訊くがよい」 「――――――――」  ……振り上げた拳が落ちる。  ……桜だけじゃない。  イリヤまでそうなのだと知らされ、臓硯に対する敵意より先に、どうしようもない後悔が体を支配していく。 「さて、おぬしの話はそれで終わりだな。  ではそろそろこちらの番だ。おぬしを呼んだ理由。  あの影について、相談したい事がある」 「な――――」  影について相談する……?  臓硯の言う影は、街の人間を襲っている“黒い影”の事だろう。  だがそれは―――― 「……なに言ってやがる。アレはアンタの仲間だろう。  なのに相談があるだなんて、俺たちにアレを倒させたいっていうのかよ」  皮肉をこめて臓硯を睨む。 「カカカ、いや話が早い!  そう、ワシはあの影をどうにかしてもらいたい。その為にはおぬしの力が必要なのだ、衛宮士郎」 「なっ―――ほ、本気か……!? アンタとあいつは仲間だろう……!?」 「仲間……? さて、手を貸した事はあるが、アレから手を貸してもらった事などない。  第一、アレと意思疎通など出来るものか。  ワシはただ、アレが暴れださぬよう道を整えていただけだ。被害を最小限に抑える為、毎夜なだめていたようなものなのだが……それも昨夜から出来なくなった。  言ったであろう。もはやワシではどうしようもなくなったのだ、と」 「―――――――」  どくん、と心臓が痙攣する。  ワシではどうしようもなくなった。  その台詞は、誰に対してのものだったか。 「――――臓硯」 「おお、そうであったな。その前にあの影がなんであるかを教えてやらねばならなかった。  うむ、言ってしまえばアレは聖杯の中身だ。  聖杯とは願いを叶える万能の釜と言われるが、我らが目指した聖杯は釜ではない。聖杯もまた手段にすぎぬ。  アインツベルン、マキリ、遠坂。  この三家が目指したものは、完成された聖杯を以って、外に通じる“〈孔〉《もん》”を開くこと。  完成した聖杯とは、“あらゆる望みが叶う場所”とこちらの世界を繋げる門と思えばよい」 「……待て。じゃあ聖杯っていうのは」 「知れたこと。〈魔術師〉《われら》の目的は全て根源に通じること。  だが、ワシはそのような事に興味はない。アインツベルンとて、聖杯の完成だけを求めた者どもだ。根源を目指しているのは、今では遠坂ぐらいのものだろうよ」 「……まあよい。  ともかく、聖杯とは“願望機”に繋がる孔だ。あの影はそこからこちら側に漏れているものでな。  本来の聖杯―――イリヤスフィールならば、あのような事にはならん。あの影は聖杯の模造品がしでかした不始末だ」 「いや、身内の恥を口にするのは憚られるのだが、育て方を誤ったのだろうな。  あやつめ、聖杯として成長したはいいが、きちんと門を締められんようだ。その不始末で自分が壊れるのは勝手じゃが、人様を巻き込むのはいただけまい。  困ったものじゃよ、このままではワシが手塩にかけた聖杯が、町中の人間を呑み込んでしまいかねん」  いやはや、と。  それこそ他人事のように、間桐臓硯は首を振る。 「――――――――」  本来なら殴りつけなくてはならない言葉。  だがそれ以上に、臓硯の言葉は、こっちの感情を凍らせていく。 「――――じゃあ、あの黒い影は」    紛れもなく、   「とっくに気付いていたのだろう? なにしろアレは桜の影だ。身近にいたおぬしならば、アレと桜が似ていると判っていた筈」    間桐桜、そのものなのか。 「――――――――」  ……目眩を堪える。  ……その事実を。  とうに気付き、否定していた関係を受け入れる。  あの“黒い影”が何物であろうと。  その罪は、桜に及ぶのだと認めなく、て、は――― 「――――桜は、それを」 「いや、桜本人は知るまい。  アレは桜を通して現れる聖杯の影。本来はあのようにカタチを得る事はないのだが、桜という門を通して出現する際、桜を原型にし、こちら側での存在を象ったモノにすぎぬ。  聖杯は桜が封じている〈無意〉《イド》識を借り受ける事により、あのように現界したのだ」 「正直、ワシもアレは予想外じゃった。有り得ぬとさえ否定したが、日に日に力を増していく以上、もはや認めざるを得まい。  アレは意思を持った聖杯だ。故に、自らを完成させる為、糧となる人間の魂を求め続ける。  止める方法は一つだけよ。聖杯が桜の無意識によって生まれているのならば、桜本人を止めればよい」 「そう思い桜を説得しようと試みたのだがな、あの影はワシが桜に近寄る事を阻む。  意思こそないものの、あの影は桜自身じゃ。桜が嫌う相手ならば影も嫌悪する。  もはや、ワシでは桜に近寄る事さえままならん」 「じゃあアンタは桜に近づけないのか?」 「うむ。おぬしらは桜をワシの手駒と考えておるようじゃが、それも過去の話。〈桜〉《アレ》はもはやおぬしの手にある。桜と離れたこの〈体〉《ワシ》では、アレを律する事はできん」 「………………」  それは喜んでいい事だ。  少なくとも臓硯は桜に手を出せない。  なら、あとは体内の刻印虫をなんとかすれば―――― 「―――待て。アンタ、桜に何もしてないのか?」 「うむ、しておらぬが」 「なら、今も桜が苦しんでいるのは」 「それは桜自身の問題じゃな。ワシは刻印虫を使った覚えなどない。〈桜〉《アレ》は聖杯である事、聖杯からの力の流入で自身を保てなくなっておるだけよ。  考えてもみよ。“あらゆる願いを叶える”ほどの膨大な魔力の渦がある。その渦から流れてくるモノを、人の身で受けているのだぞ? 桜の脆弱な精神が、その奔流に耐えられる筈もなかろう」 「――――じゃあ、このままいけば、桜は」 「聖杯である事に耐え切れず破裂するであろうな。  いや、桜の意識がカラになれば、〈無意〉《イド》識を借り受けていた聖杯が浮上する。〈桜〉《アレ》は、自分自身の影に呑み込まれるか」 「理解したかね。ここでワシを倒すのも無駄なこと。  ワシを倒せば聖杯戦争が終結する。となれば、あとは聖杯が起動するのみ。聖杯として起動すれば、桜の精神など容易く霧散しよう。  〈桜〉《アレ》を救いたいのであらば、聖杯戦争の期限切れまで耐える事だ。大聖杯の完成……門を開く〈時期〉《タイミング》、というものはそう長くは続かぬ。  開始より既に十日。過去の例からいけば、あと四日ほどで此度の戦いは終結しよう」 「―――四日。このまま四日経てば、桜は助かるっていうのか」 「さて。それはおぬしが判断する事。今朝の〈桜〉《アレ》の容体はどうであった? あと四日保つと思うか?」 「っ――――保つ。そんなの、保つに決まってるだろ」 「なるほどなるほど。  だが、他の人間はそうはいくまい。昨夜消え去った人間は何人だ? 今夜消え去る人間は何人だと思う?  否―――あと何日、この町の人間は残っていると思うのかね?」  老魔術師の問いは、よく聞こえなかった。  この男は愉しんでいるのか嘆いているのか。  その区別さえつかないほど、頭が、ぐらんぐらんに揺れている。  臓硯を倒しても解決しない。  聖杯戦争が終わるまでは桜が保たない。  あの黒い影は俺たちでは倒せない。  聖杯戦争が続くかぎり町の人間が犠牲になる。   「……じゃあ、どうすれば」    桜を救えるのか、と奥歯を噛む。  そこへ、   「――――簡単な話だ。おぬしが、桜に手をくだせばよい」    判りきった事を、はっきりと臓硯は口にした。 「――――――――」 「そうであろう? これ以上生かしておいても先はなし、黒い影は今夜も人を襲うだろう。それを防ぐ為、あの娘を今すぐ消せ」  目眩がする。 「――――――――」 「ワシの用件とはそれよ。おぬしに現状を理解させてやろうと思うての。衛宮士郎は、最大の厄災を保護しておるのだと」  吐き気がする。 「――――――――」 「ワシや遠坂の娘では感付かれる。だがおぬしならば〈桜〉《アレ》は喜んでその判断に身を委ねよう」  呼吸が出来ない。 「――――――――」 「―――万人の為に悪を討つ。  判っていよう? おぬしが〈衛宮切嗣〉《そのいし》を継ぐのなら、間桐桜こそおぬしの敵だ」    思考が、何一つ働かない。  何一つ返せず、飴のようにぐにゃぐにゃに曲がりくねった廊下を歩く。  床を踏む足も、壁によりかかる手も、確かな感触など何もなかった。    酷い。  出口のない、歪んだ悪夢にいるようだった。  呼吸を忘れたまま外に出る。   「おぬしならば間違えまい。桜には気の毒だが、これも運命と諦めて貰おう」  ……歩く。   「―――だが小僧、孫に代わって礼を言うぞ。  アレは今まで、何一つ自分の為の行いなどしてこなかった。父親に見捨てられた己が身を呪うでもなく、さりとて姉のように万能を望むでもなく、ただそこに在るだけの人形が如き虚ろな存在であった」  ……歩く。  ……歩く。   「その人形が、初めて望んだ男に愛されたのだ。いやいや、さぞ本望であろう。  そう自身を責める事はない。おぬしは最後に一つ、哀れな孫に贈り物をしてくれたのだからな」    ……歩く。  ……歩く。  ……歩く。  桜の待つ家に向かって、崩れそうな足を進ませた。    ――――坂を降りる。    このまま、いつもの坂を登れば、もう衛宮の家に着いてしまう。    いつまでも部屋を留守にはできない。  理由はどうあれ、俺がした事は臓硯との密会だ。  それを知られるのは遠坂にも―――眠っている桜にも良くはない。  だから、二人が俺の留守に気がつく前に帰らないと。  帰って、それで  決断を、下さなければ。 「―――――――、つ」    胃の中のモノが、喉元までせりあがる。  俺は桜の味方をすると決めた。  桜がどんなふうになっても、桜を守ると言った。  正義の味方ではなく、桜の味方になると決めた。  けど、それは    多くの命を奪った、あの惨劇を繰り返させるという事だ。 「――――――――」    それは出来ない。  それだけは出来ない。  衛宮士郎は、その誓いを破る事はできない。  それは、自分自身を否定する事に他ならない。    あの惨劇の中、唯一生き残ったおまえが、あの惨劇を許すというのなら。    今までおまえを支えてきたモノが、おまえ自身を否定する。    どのような結末であろうと、死の際において。  その罪が、許される事はなくなるだろう。 「――――――――」    何もしない、という事は、その行為を黙認したということ。  今夜も無関係に命を奪われる者がいる。  それを知って、なお、その原因を殺さないのなら。    あの日おまえは、自ら火を放ったのと変わらない。             “―――おまえが今までの自分を否定し、たった一人を生かそうというのなら”             “――――貴方は、どんなことがあっても桜の味方ですか?”    これは、一人を守るか、一人以外の全てを守るかという、そういう話。    結局、最後に誰の味方をするのか。  その決断を、俺は今夜までに決めなくてはいけない。    罠である事は明白だ。  臓硯の話には興味があるが、今は桜から離れる訳にはいかない。 「―――断る。おまえの話は信用できない。話があるならそっちから来いと伝えろ」 「そうか。では、そのように伝えよう」  ……アサシンの声はそれきりしなくなった。  今ごろは屋敷から出て、臓硯の下に向かっているのだろう。 「……これでいい。これでいい筈だ」    たとえ臓硯と二人だけで対面できたとしても、俺にはヤツを倒す術がない。  もとより話し合いなど通じない妖怪だ。  臓硯と対峙する時は、こっちの武器が全てそろった後でなければならない。 「―――宝石剣、か」    遠坂とイリヤが作ろうとしている切り札。  千に届く名剣・魔剣を記録するアーチャーの腕でさえ、そんな武器の情報はない。 「……けど、それを複製できれば勝てる。……そう信じていいんだよな、遠坂」    重い体を畳に預ける。  ……眠ろう、少し疲れた。  目が覚めたら桜を見舞って、メシの支度をして、遠坂たちの作業に協力すればいい―――― 「っ――――…………、ん」    夕飯の気配で目を覚ました。  夕飯に気配があるかと言われれば当然あるワケで、例えばまな板を叩く包丁の音とか、垂れ流しのテレビの音とか、旨そうな調理中の料理の匂いである。 「――――、あれ?」  部屋には桜の寝巻きと、カラになった粥の皿と、濡れたタオルがあった。 「――――――――」  記憶を手繰る。  状況から見るに、昼過ぎに桜の見舞いをしたらしい。  詳しく思い返そうとして、止めた。  そんな事は〈瑣末〉《さまつ》なことだ。  何かのはずみで忘れたにすぎないんだから、考えるまでもない。  夕食の支度をしているのは遠坂だった。  桜もイリヤもいない。  桜は客間、イリヤは和室だろう。 「あれ、戻ってきたの? 疲れたから少し休むって出て行ったのに」 「――――――――」  一瞬だけ顔が強張る。 「いや、やっぱり手伝う。遠坂も疲れてるんだから、任せっきりは悪いしな」  不審に思われないよう、自然に切り返した。 「ばかね。気持ちは嬉しいけど、その腕じゃ包丁持てないでしょ。いいから、今夜はわたしに任せなさい」  トントントン、と小気味いい包丁の音。  今夜は野菜の炒め物なのか、遠坂は大量のピーマンを千切りにする。 「……そっか。それじゃ風呂の準備してくる。あ、ついでに洗濯も済ませるから、洗濯物回収していいかな」 「ば、ばかなに言ってんのよアンタ! そんなの自分でやるに決まってるでしょ……!」  ダンダンダン、と豪快な包丁の音。  今夜は肉料理なのか、遠坂は牛肉を豪快にブツ切りにする。 「どっちなんだ一体」  ぼやきながら風呂場に向かう。  どんな料理になるか不明だが、完成が楽しみ――― 「……?」  ひとりでに電灯が消えた。 「これ、停電……?」 「……そうみたいだな。明かり、スイッチ入れてもつかないし」 「……そうよね。結界に反応はないんだから、侵入者ってワケじゃないし」 「ああ。臓硯が襲ってきたとしても、こんな事をすれば結界が――――」  作動するとは限らない。  今朝の事を思い出せ。  臓硯はともかく、アサシンなら衛宮邸の結界を苦もなく通り過ぎたじゃないか――――! 「ここにいろ遠坂。念のため、様子を見てくる」 「え……ちょっと待って、行くならわたしも行くわ。士郎一人じゃ危ないでしょ」 「あ、そうか。……いや、それなら桜のところに行ってくれ。俺もイリヤを連れてすぐに行くから」 「―――わかった。桜は任せてちょうだい」  イリヤのいる和室へ急ぐ。  静まり返っているものの、屋敷の空気はいつも通りだ。   「考えすぎだったかもな。これ、ただの停電だ」    まあ物はついでだし、イリヤを起こそう。  停電で中断されたとはいえ、もうじき夕食なんだから。 「イリヤ、起きてるかー」  障子を開ける。 「――――――――」  視界には、無残に飛び散った血痕だけ。 「―――――イリヤ」    イリヤの姿はない。  部屋にあるものは血の跡だけだ。  朱に染まった部屋の隅に、銀色の糸の束が見えた気がした。それはイリヤではない。    もう〈人間〉《イリヤ》ではない。  和室から跳び退く。  ██しそうなあたまを急速冷凍して、客間に足を向ける。  ―――桜が危ない。  01秒で事態を把握し、実際は把握などしておらず、最短距離である庭へ出る。    そこに、    いてはならないモノがいた。 「――――――――、あ」    柳の下にいる幽霊みたいだ。  どうして結界が反応しないのか。  どうしてこんなモノがここにいるのか。  その疑問を把握する前に、  逃げる余裕などなく、逃げる場所もなかった。  屋敷はもう影に覆われている。  アレが影そのものなら、明かりのない夜に逃れる術など存在しない。            昨夜から理解していた筈だ。  アレに出会えば、その時点で命はないと。  巻きついた触手は、バールのように胸に突き刺さった。  遠慮なく、めくり開けられる。  無理やり蕾を開かれた赤い華のように。  イリヤも、こうやってイリヤでなくなったのだろう。    びゅうびゅうと花弁が舞う。      衛宮士郎の肉体は逆らう術もなく、一瞬で荒々しく刻まれた。    ―――そうして、決断の夜になった。  夜の巡回はもう行わない。  遠坂は今日一日、宝石剣とやらの型どりに終始し、疲労困憊して客間で休んでいる。  それはイリヤも同じだ。  俺と遠坂とイリヤは無言で夕食を済ませた後、各々の部屋に戻った。  時刻は夜の十時。  ……今までの例から言って、あの“黒い影”が動き出すのはそろそろだろう。 「――――――――」  音を立てずに立ち上がる。  台所から持ち出したナイフを手にして、部屋を後にした。  鍵はかかっていなかった。  無音のままドアを開け、ベッドまで歩いていく。 「――――――――」  桜は眠っている。  それだけしか判らない。  体調が良くなっているのか、悪くなっているのかも見て取れない。  ―――視覚がおかしい。  目の前で眠っている桜が、どんな顔をしているのかさえ把握できない。 「―――――、―――」  目眩と震えを抑えつける。  覚悟を決めろ。  こうしている間にも、あの影は町に現れて人を襲っているかもしれない。  それを―――直接、あの影を倒す手段がないのなら、ここで桜を██しかない。  たとえ、それが桜のせいじゃないとしても、そうしなければ誰もが傷つく。  犠牲になる人間も。  それを防げなかった人間も。  ……望まないまま、罪を犯してしまった桜自身も。 「――――――――、」  ナイフを振り上げる。  口が乾く。  舌がボール紙になったようだ。  刃物の無機質さに寒気がする。  この、鋭さだけを存在理由にした細い板キレを、桜の、生きている人間の喉、柔らかい肉に突き立てる光景をイメージすると、目が痺れた。  つまずいて転んで、うっかり地面から飛び出していたマイナスドライバーに眼球からつっこむような感じ。  失明しかねない麻痺痛は、脳膜を蜜柑の皮みたいにベリベリと剥がしていく。 「――――――――」  感覚がどうかしている。  ナイフを握った指は、不思議な力で反対方向に折り曲げられていくように見える。  映画に出てくる超能力みたいだ。  かまわず指に力を込める。  俺は。      ナイフを落とす。  ……桜は動かない。  目蓋は怯えるように震えているのに、ナイフから逃れようとしない。 「――――――――」    鋭い銀色の曲線を、白い首筋に、落とす。  パックリと食い込んだ。  火事でも起きたのか。  吹き出す赤は、放水より爆発を思わせる。 「は――――、あ」    膝から落ちた。  ……ひゅうひゅうと音がする。  桜からではなく、俺の喉元から、びしゃびしゃと音がする。  ……そうか。  桜が死を受け入れても、彼女がそれを許さない。    俺は、無防備な桜に刃を落とそうとし、    彼女は、桜以上に無防備な俺に、短剣を振るったのだ。 「…………………………」    苦しくはない。  むしろ楽になれた気さえする。    ……だが、最期に悔いは残り続けた。    俺が退場したあと。  誰が、桜の罪を、〈贖〉《あがな》ってやれるのだろうか、と。 「――――――――」    心臓が痛い。  ナイフを握った指に血が滲む。 「――――――――、っ」    歯がこすれあう。  胸の奥からせりあがってきた嗚咽を死ぬ気で飲み下す。 「―――――、っ―――」    目蓋が熱い。  下を向いていては堪えられないので、顔をあげて怒りを堪えた。    ……ナイフを下ろす。  そんな簡単な事が、どうしても出来ない。  頭にくる。  本当にどうかしている。  ここまで来て。こんな事までやって、ようやく、自分の心を思い知った。 「――――馬鹿か、俺は」    ……そうだ。  答えなんてとっくに出ていた。  あの雨の下、桜を抱きとめた時から、致命的なまでに、この答えは決まっていた。                    “裏切るのか”    思い出せ、と誰かが言う。  おまえは正義の味方になるのではなかったか。  相反する思考が体をズタズタに切り崩していく。    ―――桜の為に、今夜も多くの人間を見殺しにした正義の味方。    もとから身勝手にすぎない正義の味方。    ―――信じるものの為に私情を切り捨てた切嗣。    私情だけで誰かを助ける無力な人間。    十年前の火災。  ただ一人生き残った代償に、二度と、あんな悲劇を起こさせまいと生きてきた。    今までの時間。  十年間信じ続けてきた〈自分〉《おもい》が、立ち止まる自分の胸を打つ。    裏切るのか、と。    目の前で成す術もなく死んでいった人々の声を、涙しながら、ただ一人生き延びようとした自分を裏切るのか。    ―――あの〈贖〉《あがな》いを。  死んでいった彼らに報いなければ、とても生きていられないと縋った気持ちを、かつての自分を裏切るのか。           「ああ――――――」    謝って許される事ではない。  取り繕って無視できる罪でもない。  俺が捨て去るものは俺自身だ。    今まで信じ、支えてきたモノをなくして、生きていく事が偽りだとしても。           「――――――裏切るとも」    俺は、守りたいものをとる。  この先。  自分を騙し続けて生きようと、そこに、桜の笑顔があるのならそれでいい。    ……この思いに間違いはない。    桜を必要とした自分。  桜が必要とした自分。    ――――初めて。  多くの命よりも、一つの命を、守りたいと願った。 「………………」    深く息を吸って、麻痺した指から力を抜く。  迷うのはこれで終わりだ。  桜が目を覚まさないうちに部屋から去ろう、と振り上げたナイフを戻す。    ―――そうして、ナイフを戻そうとした瞬間、   「先輩。どうして、殺さないんですか」    暗闇の中で、桜はそう口にした。 「――――桜」    起きていたのか。  桜は横になったまま、体を震わせて、掲げられたナイフを見つめている。  ……その瞳は、ただ、辛そうに曇っていた。  俺が桜を殺しにきた事ではなく。  そうさせてしまった事を謝罪するような、涙する寸前の顔。 「いいんですよ、思う通りにして。わたし、自分じゃ怖くてできないから。先輩なら、いいです」  本気で言っているのか。  桜の声には懇願と、隠しようのない怯えがある。  体は小刻みに震えて、逃れられない死を見つめるように、頭上に掲げられたナイフを懸命に見つめている。  ……それは。  今にも逃げだしたくなる自分を、必死に抑えつけている精一杯の決意だった。 「――――――――桜」  ……なんて、ことだ。  こんな事に気付かないほど、俺は追い詰められていたのか。  桜の震えを。  眠ったふりをして俺を生かそうとした桜の覚悟を、どうして初めに気付かなかった――――! 「桜、俺は」 「わかってます。先輩の選んだ事は、きっと正しいです。  だって悪いのはわたしですから。  ……最後だから言っちゃいますけど、わたし、もういつまで自分でいられるか判らないんです。  一日がどれぐらい長いのか、お昼に先輩と何を話したのか、それっていつのお昼なのか、昨日は何があって明日は何があるのか、ぜんぜん判らなくなっちゃいました」 「それだけじゃないんですよ? わたし、おかしな夢を見るんです。怖い夢で、いつも血塗れで、でもそれが楽しいって思える自分がいて、そういうの一まとめにして怖い夢だった」 「その夢の中だとわたしは悪者なんです。みんなからたくさんのものを奪って笑っているんです。  ……それが怖くて、ずっと助けてって言っていたのに、誰も助けてくれなかった」 「だからみんなが殺されるのは仕方ないって。  他人を助けてあげないんだから、他人に助けてもらえないのは当たり前で、この夢はただの夢だって見て見ぬフリをしてきました」 「……でも、違ったんです。わたしはそういう夢を望んでいた。  ホントは臆病で汚くてズルい自分。  みんな嫌いで、恨む事しかできなくて、あんな夢を一瞬でも愉しいだなんて思ったわたしが悪かった。  夢が悪いんじゃなくて、あんな夢を見るわたし自身が、はじめから居ちゃいけなかった」 「先輩。わたし、少しずつおかしくなっているんです。  このままいけばあんな夢しか見なくなって、先輩のコトもわからなくなる。夢の中だけじゃなくて、本当に、みんなを殺して回る悪者になるんです」 「だから―――ここで、お願いできますか。  ……わ、わたしが悪い自分になる前に、先輩の手で終わらせてもらえるなら、それで――――」    救われる、と桜は言おうとする。  それを、   「あ、――――」    震える体を抱きしめて押し止めた。 「――――――――」    回した腕に力を込める。  ……以前果たせなかった抱擁。  あの時、触れ合うだけだった腕で桜の体を引き寄せる。  背中を掻き毟るように、ありったけの力で、桜の体を受け止める。 「…………先輩」    ……桜は抵抗しない。  死ぬのが怖いクセに、死にたくないクセに、殺してくれと願った桜は、強張った体をようやく緩めて、   「……駄目、です。きっと、後悔、します」    あの夜と同じ言葉を、感謝するように呟いた。 「……そんなのもうしてる。  これからの事じゃない。桜を守れなかった今までのことを、ずっと後悔する」    ……静かな嗚咽。  桜の腕が肩にかかる。  冷たい指が俺の頬をなぞっていく。 「――――俺が守る。桜を、ちゃんと俺が守る」    抱きあったまま、涙する桜に声をかける。  ……それだけしかできない。  今はそう繰り返すしか、互いを許す術がなかった。    あの夜、桜の味方をすると誓った。  後悔はない。  謝るべき相手がいるとしたら、それは一人だけだ。    ――――桜、許してくれるか。    声には出せず、抱き締める腕で。    ――――俺が、俺を裏切ることを。    そう、自らの罪を懺悔した。    十年も前の話。  燃え〈爛〉《ただ》れる町の中で、ただ一人生き残れた責任を追い続けた。                     “――――  るのか?”    忘れた事など一度もなかった。  俺は生き残った代償に、もう二度と、こんな光景を起こさせないと                     “――――裏切るのか?”    誓った。  そう自分に誓って、〈切嗣〉《オヤジ》のような正義の味方になると決めた。  衛宮士郎の年月はその為だけにあった。  救われなかった人たちに胸を張れるように使われ続け、それを代償として、ここまでやってこれた筈だ。    判りきっている。  判りきっている事だ。    なのに、おまえは。                 “――――かつての自分を裏切るのか?”    元凶を知っている。  おまえは、おまえが倒すべき相手を既に知っている。  黒い太陽。  空に穿たれたあの影こそが原因なら、これが繰り返される前に殺さなくては。 「――――――――、ぁ」    思い出せ、今まで何の為に生きてきた。  救いを求める人々を救う為に、無関係に巻き込まれていく誰かを助ける為に自らを肯定してきた。    それを、たった一人の女の為に否定するのなら、              “――――それを裏切るというのなら、おまえは”                衛宮士郎は、自分自身に裁かれる事になる―――― 「――――――朝」  眠りから覚める。  外は明るく、時計は七時を過ぎていた。 「――――――――」  体が重い。  手足の感覚が鈍い。  まだ血が巡っていないのか、鈍化した頭は自分が何者なのかも思い出せない。 「―――――そうだ。桜、朝は何がいい?」  ぽん、と傍らで眠る桜に手を置く。  不思議なことに、隣で桜が眠っている経緯だけは憶えている。  きっと自分は何者なのか、なんて事より、隣に好きな女の子が眠っている事の方が大事なんだろう。 「桜、朝だって。そろそろ起きないと朝メシとか遠坂とか色々タイヘン――――」  ぽんぽん、と桜の肩に触れる。  ……桜は冷たい。  態度が、ではなく、感触が冷たいし、硬かった。 「…………桜?」  ぼんやりした頭のまま、体を起こして部屋を見渡す。 「――――――――」  いない。  一緒に眠って、何処にも行かないように固く握った手の感触もなく、桜は部屋からいなくなっていた。 「――――桜!」  桜の姿はない。  客間は静まり返っている。  居間には人の気配がない。   「は――――、っ――――」    体がうまく動かない。避けようとしてテーブルに足をぶつける。  転んでから、壁に手をかけてなんとか立ち上がって、廊下に向かう。 「――――。――――、――――」  慌てているのか。  体はなんの支障もないのに、心の方が落ち着かない。  どうして慌てているのか、何が不安なのか。  それを言葉にしようとしているのに、深く考えようとすると十秒後の世界にいる。  ものを考えられないのか。  それとも考えた事が頭に浮かばないのか。  起きたばかりの頭は血の巡りが悪く、それすら判別がつかない。 「――――、――――、――――」    何をしたいのか思い出せない。  ただ、玄関に桜の靴があることを確認するとホッとできた。  遠坂の靴はない。イリヤの靴はある。  ……どういう事かと言うと、それは…… 「……ええーと……靴がないって事は、その」                                                                                                                                                     。 「そうだ。外に出ているのは遠坂だけなんだから、桜は家にいるって事だ」  ―――ああ、だからホッとしたのか。  桜は何処にも行っていない。  よしよし、段々冴えてきたぞ。  要するにアレだ、桜は先に目が覚めて、顔を洗っていたり朝食の準備をしていたり道場で稽古をしていたり庭で洗濯をしていたりするのだ。 「なんだ、心配して損した」  一息ついて居間へと踵を返す。   「え、士郎――――!?」    外から、遠坂が玄関に飛び込んできた。 「なんだ遠坂。朝の散歩か?」 「そんな悠長な真似するかっ――――て、話は後!  桜が外で倒れているから運んできて! わたしは手当ての準備をするから!」  時計の針が回る。  時刻は午前九時過ぎ。  遠坂の言いつけ通り、門の近くで倒れていた桜を居間に運んでから二時間。  寝起きで麻痺していたこっちの頭も、ようやくまともに回り始めていた。 「ね。シロウ、落ちついた?」 「――――ん、なんとかまともには戻った。心配かけてごめんなイリヤ。正直、ここ二時間の記憶がないんでどんなバカやったか覚えてない」 「んー、別にシロウは何もしてなかったよ? サクラを抱きかかえてきて、リンが手当てしてる時はずっと手を握ってあげてたでしょ? それで、高い熱があるだけだって判った途端、ペタンって床に座っただけだし」 「そっか。それで遠坂は? 桜を客間に連れて行ったみたいだけど」 「リンはさっき和室のクローゼットを調べてたけど。  あ、きっとサクラの着替えを探してたのね。サクラは汚れてたから、着替えさせないと寝かせられないでしょ?」 「――――――――」  なるほど。  言われてみればそうだ。  ……となると、俺が居間に残っているのも、   「あのね。今から着替えさせるっていうのに、男のアンタがついてきてどうするのよ」    なんて遠坂に釘をさされたからだろう。 「――――それで二時間待ちぼうけか。いくら混乱してたからって」    自分が酷く間抜けに思える。  まったく、どうしたっていうのか。  考えなくてはならない事は山ほどある。  熱を出して倒れた桜の安否。  昨夜に起きた大規模な敵の食事。    ……いや、そんな事は後でいい。  今は、一緒に眠ったはずの桜がどうして、屋敷の外なんかで倒れていたかを考えるべ―――― 「――――」  吐き気がする。  思考が思考を拒絶している。  空白だらけだった二時間。  それだけの時間、その問題はイヤというほど追究したと、記憶していた体が訴えている―――― 「シロウ。思い出せない事は思い出さないで。  それは忘れたんじゃなくて、無くなったの。無いものをいくら掘り出しても、出てくるものは苦痛だけよ」 「え――――イリヤ?」 「……なんでもない。ただの独り言だから、忘れて」  イリヤは目を背けて黙り込む。  そうして数分。  時計の針が十時に差しかかろうとした頃、 「お待たせ。桜、目を覚ましたわよ」  なんでもない事のように言いながら、遠坂がやってきた。 「……遠坂。桜、大丈夫なのか」 「さあ。話があるならわたしじゃなくて本人に訊けばいいでしょ。わたしから言うべき事はないわ」 「……わかった。ちょっと行ってくる」  席を立つ。  居間にイリヤと遠坂を残して、桜の客間へ足を向けた。 「よかった。来てくれたんですね、先輩」  ベッドの上。  俺の顔を見るなり、少し苦しげな息遣いで桜は言った。 「ばか、来るに決まってるだろ。桜が倒れたんだから、何処にいたってやってくる。今回は遠坂にとられたけど、桜の看病は俺の役目なんだから」  椅子を引いて腰を下ろす。  横になった桜と視線をできるだけ合わせる。 「それで、体の方はどうなんだ。遠坂は何も言ってくれなかったんだが」 「あ、そうなんですか。姉さん、黙ってるんですね」 「ああ。訊きたい事は全部桜に訊けとさ。いちおう気を遣ってるんだな、アレは」 「くす。先輩、ちょっと嬉しそうです。前から思ってましたけど、先輩って姉さんの厳しいところ好きでしょ?」 「っ――――ば、そんなコトあるかっ!  そりゃ遠坂はしっかりしたヤツだけど、終始あんなんじゃたまらないぞっ。だいたいな、こういう時ぐらい、こう、分かりやすい気遣いをしてくれなきゃ身が持たないだろ、俺も桜も」  はい、と笑顔で桜は頷く。  それは心底満足そうな笑顔で、少しだけ胸の不安が消えてくれた。 「……よしよし。その調子じゃ体の方は安心だな。桜、遠坂はなんて言ってたんだ?」 「えっと、体力の低下と栄養不足と、軽い熱だそうです。  寝ている分にはなんの心配もいらないから、とりあえず今日一日は絶対安静だって言われちゃいました」 「――――――――」  そう言う桜の息遣いは、やはり荒い。  ……横になっているだけでも苦しいのか。  桜は俺に気遣わせまいと、乱れる呼吸を抑えているようだった。 「そっか。それじゃしばらくは横になってろ。その、魔力の方は足りてるんだろ?」 「え……あ、は、はいっ! そ、そのですね、先輩のおかげで、そっちの方は大丈夫ですよ?」 「――――――――」  自分で言っておいて顔が真っ赤になる。  ……が、これは確かめなくちゃいけない事だし、そうであってもらわないと困るのだ。 「なら美味しいものを食べて栄養を取ればすぐ良くなるな。待ってろ、昼メシは腕によりをかけて作ってくる」  右手を腕まくりして桜を元気づける。  が。 「……ごめんなさい。本当はわたしが、先輩に作ってあげなくちゃいけないのに。  ……せめて立ち上がれればお手伝いできるのに、そんなコトもできないなんて、悔しいです」  それは、桜にとって辛い言葉だったようだ。 「――――――――」  ……そうだった。  桜は“自分の役割”に拘っている。  自分には何も出来ないから、せめて今まで通りの間桐桜であろうとする。  それが今では、そんな些細なコトさえ、桜には許されない。 「ま、今は我慢するんだな。病人は病人らしく休まないと損だぞ? なにしろ、治ったら朝も昼も夜も桜に押し付けるつもりなんだ。後になって、あの時もっと休んどけば良かったって後悔するぞ」  冗談っぽく、本気で今後の方針を口にする。  ……ああ。  桜がそれで嬉しいのなら、むこう半年ぐらい厨房を預けよう。 「――――ホントですか? 先輩、あとでやっぱりなしっていうのはダメですよ?」 「本当だって。とりあえず半年は大人しくしてる。  あー、いや、桜がタイヘンな時は助手として、コンロ番ぐらいはさせてもらいたいけど」  こっちも八年近く台所に立っていたのだ。  やはり少しは鍋を持たないと落ち着かない。 「はい。じゃあ約束ですよ先輩? わたしが治ったら、真っ先にごはんを食べてくださいね」 「ああ。そんな約束でよければ幾らでも」  席を立つ。  これ以上話をして、桜を疲れさせる訳にはいかない。  話もできたし、桜の無事も確認できた。  今は一人で休ませてやるべきだろう。 「じゃあまた後で。昼メシ時になったら来るから、それまで眠ってるんだぞ」  ベッドから離れる。  桜は声を出さず、横になったままこくんと頷いた。 「――――と。そうだ桜」  ドアノブに手をかけ、振り向かずに声をあげる。 「はい? なんですか、先輩?」 「いや。なんで門の前でなんか倒れてたのかなって。  桜、俺の部屋で寝てただろ?」    できるだけ自然に問いかける。  桜はわずかに息を飲んだあと 「朝の散歩です。先に目が覚めたから、少し外に出ようかなって。けどそこで倒れちゃいました。  ほんと、姉さんの言う通りですよね。今のわたしは、外に出たらダメみたいです」    そう、俺と同じぐらい、自然な明るさで返答した。  居間に戻ると、遠坂もイリヤもいなかった。 「……二人とも部屋に戻ったのか」  それもそうか。  あの二人は、“宝石剣”とやらの複製作業に追われている。  俺が手を出すのは、二人が〈本物〉《オリジナル》に似せて作った複製品が出来上がってからだ。  その時まで、出来るだけアーチャーの左腕から魔術経験を引き出すのが俺の責務となっている。 「I am t〈h〉《体》〈e〉《は》〈 〉《剣》〈b〉《で》on〈e〉《出》〈 〉《来》〈o〉《て》〈f〉《   い》〈 〉《   る》my sword――――、か」    ……痛みと共に逆流してきた〈他人〉《アーチャー》の〈特殊呪文〉《オリジナルスペル》。  妙に口ずさみ易い〈呪文〉《ソレ》で自己に埋没すれば、“投影”の成功率は飛躍的にあがる。  おそらくは半々で投影は成る。  アーチャーの真似事をして、本物の真似事をさらに作り上げるワケだ。 「――――けど、それで出来るのは偽物だ」    ……投影とは複製でありながら〈本物〉《オリジナル》と同一のもの。  衛宮士郎が作り上げるモノは劣った妄想でしかない。  それを“一つの幻想”に仕上げたいというのなら、この腕の力を借りる他はない。 「――――っ」  自滅。  一度でも使えば毒に侵される、のではない。  使えば爆弾のスイッチが入る。  使えば確実に終わりがやってくる。  撃鉄のイメージ。  俺の脳髄には拳銃が入っている。  銃口は脳から外へ向けられているが、引き金は納まったままだ。  言峰の言う『時限爆弾』とは、この拳銃のイメージだろう。 「……なら。頭の中の銃さえ取り出せれば、使ってもスイッチは入らない」  いや、入ってしまうスイッチそのものが外に出る。 「――――――――」  それが最高の解答だ。  もちろん言うまでもなく、そんな方法を俺に考え出せる筈もない。 「――――そうだ、ニュース」  テレビのスイッチを入れる。  昨夜の事件がどうなっているのか知らなくてはならず、重い体でニュースを眺める。  チャンネルを合わせるのは簡単だった。  どの番組でもあの事件しか報道していない。      ―――原因不明の失踪事件。    ―――住人の行方が確認されない建物は四十棟におよんでいる。    ―――難を逃れた周囲の住人は誰一人として居なくなった隣人に気がつかず、    ―――六十人近い人間は、その誰もが二度と帰ってはこないだろう。 「――――――――」  行方不明とされる六十近い名前を一つずつ覚えていく。 「――――――――」  一つ一つ。  見知らぬ名前を胸に刻んで、 「――――――――」  その一つ一つを、身近な人たちの名前に置き換えた。 「――――――――、ぶ」    許せるのか。  その時になっても、おまえは許せるのか。    それを行ったモノを、  それを見過ごした自分を、  おまえは本当に許せるのか。 「――――――、…………」    その罪から。  その罪から守り通すコトが出来ぬのなら、    ここで、罪科を重ねる前に止める事こそが、確かで痛みのない救いだと――――  テレビの電源が落ちる。  先ほどまで明確に被害状況を伝えていたニュースは、    「バカな真似してるんじゃないわよ。  わたしたち、起きた事を悔やめるほどまっとうな人間じゃないでしょう」    いつのまにか現れていた遠坂によって、容赦なく消されていた。 「――――遠坂」 「ほら、お茶いれたから飲んで。イリヤが一人になりたいって言うから暇になったの」  はい、とテーブルに湯のみ茶碗を置く遠坂。  その言い分は理由になっているようで理由になっていない。  こっちが言う通りにする謂れもないのだが、 「――――せっかくの茶だ。飲む」 「飲んで。けど、舌が火傷するぐらい熱いからね」 「そっか。尚更助かる。ありがとな、遠坂」 「……ふん。別に、わたしが仕切り直したかっただけだし。士郎はおまけよ、おまけ」    こう不器用に気を遣われたとあっては、有りがたく受け取るしかないってものだ。  時間が過ぎる。  俺と遠坂は何をするでもなく、無言で顔を合わせてお茶を飲んでいた。 「――――――――」  不思議と緊張感はない。  むしろ肩の力が取れるというか、ほう、と心から一息つけた。  ……もしや、とは思うのだが。  遠坂、わりと癒し系だったりするんだろうか? 「く」 「な、なによいきなりニヤけて。言いたいコトがあるなら言いなさいよね」 「ん、ふと思っただけだ。遠坂とこんな風に何もしないでいる、なんて事は一度もなかっただろ。  俺たち、顔を合わせれば聖杯戦争のコトしか話していなかったからさ。なんていうか、殺伐とした関係だったなって」 「しょ、しょうがないでしょ、元々そういう始まりだったんだからっ。それともなに、この状況で試験の範囲とかお気に入りの店とか話せっていうの?」 「え? いや、別に今のでいいんじゃないのか? なんていうか、油断ならない関係っていうのが俺たちらしい」  だっていうのに、こんな風にくつろぎあえるって事がアンバランスで、それがおかしかったのだ。 「ま、遠坂の言うとおりそういう始まりだもんな。  俺が遠坂と話すようになったのはマスターになってからだし、遠坂だって俺がマスターにならなければ、こうして知り合う事もなかった」  そう考えると、マスターになって良かった事が一つ増えた。  それまで一方的に憧れているだけだった女の子と、こうして肩を並べて戦えるんだから。 「それ、少し違う。貴方はどうだか知らないけど、わたしは士郎のコト、随分前から知ってたんだから」 「――――え?」  どこか照れくさそうに、遠坂は聞き捨てならないコトを呟いた。 「し――――知ってたって、俺を?」  なんで? と驚くと、遠坂はこれまた照れくさそうに頷いていたりする。 「そ、そんなバカなっ……! も、もしかして一年の頃話したコトがあったっけ、俺!?」 「そ、そんなコトなかったわよ。  知ってた、っていうのは、一方的に知ってたってコト。  ちょっとね、わたしにとって衛宮士郎ってのはトラウマの一つになってるの」 「ト、トラウマってなんでさ!?」    なんかイヤだぞ、それ。  自分の知らないところで人の心に傷をつけていた、なんて事は、まあ、生きている以上は仕方ないとしてもだ。  その相手が三倍返し四倍返し上等な遠坂だっていうのは精神衛生上よろしくない! 「なんでって、そんなのわたしが言いたいぐらいよ。  ……いいわ。いい機会だから直接グチってあげる。  今から四年前の、ちょうど今ごろの話よ。貴方、どうしてだか知らないけど学校に残って、日が落ちるまでずっと走り高跳びやってた事があるでしょ」 「――――は?」  予想外の質問に目を点にする。  質問の内容が予想外だったんじゃない。  驚かされたのは、それと同じ事を桜が口にしていたという事だ。 「――――ある。あるけど、それがなんだよ」 「わたし、それ見てたの。ちょうど昇降口から出てすぐのところ。校庭の端っこで、バカみたいに跳べっこない高跳びを繰り返すヤツを、やっぱりバカみたいに眺めてたワケ」 「――――――――」  ちょっと待て。  そんな筈はない。  それを見ていたのは桜だし、そもそも遠坂は、 「い、いっとくけどただの偶然よ。わたしは生徒会の用事で士郎の学校に行っただけで、クラスはおろか学校そのものが違ってたんだから」 「だよな。たしか一成と同じ学校だったって聞いてる」 「そ、あいつとはその頃からの腐れ縁。前はわたしが副会長で、あいつが会長だったの。四年間も顔あわせて言い合ってたら、どっちも気に食わない天敵同士だって理解できたけど」 「……なるほど。そんなに長い因縁だったのか」  納得いった。  一成の遠坂への態度は普通じゃないとは思っていたのだ。  うむ、謎が一つ氷解したようなさらに凍結したような、そんな感じ。 「とにかく、貴方がバカみたいに跳べない高跳びを繰り返している現場に、偶然出くわしたってコト。  話はそれだけよ。わたしが貴方を知ったのはその時で、桜がこの家に通ってるって知ったのはもっと後。それまで士郎の名前も知らなかったし、顔だって忘れてたわ」  ……まあ、経緯は判ったのだが、しかし。 「あのさ。それ、トラウマになる話かな、遠坂」 「ふん。四年越しの復讐ってヤツよ。  一年前、桜が弓道部に入ったでしょ。それで暇さえあれば弓道部を見てたんだけど、たまたまね、部員でもないのにやってきたヤツがいてさ。  そいつの顔を見て思い出したの。あ、あいつあの時の大馬鹿だって」 「――――――――」  その確認の仕方には一言あるが、ここは黙る。 「……で、その瞬間にショックを受けたわけ。わたしは名前も知らない、学校も違う、おまけに馬鹿だ馬鹿だって思ってた見知らぬ他人を、三年経った後でも一目で判ったってコトにね。  それで、ああ、あいつはわたしにダメージを与えていたんだって、三年経ってようやく気づいた。  わたしは、あの馬鹿みたいにずっと走ってた誰かを、羨ましいと思ってたんだって」 「―――なんでさ。そいつ、馬鹿だったんだろ。遠坂が羨ましがるようなヤツじゃない」 「そうね。わたしは羨ましかったんじゃなくて、負けたって思った。……そいつが少しでも跳べるんだって希望を持って走っていたんなら良かった。そんなコトなら素通りして、さっさと家に帰ってた」 「……けど、そいつは自分でも無理だって判ってるのよ。  何をしたって無理だって判ってるのに、ずっとそれを繰り返してた。……たとえ無駄でも。挑むコトに、何か意味があるんだって信じてるみたいにね」 「……正直、そんな無駄はわたしには出来ない。  昔からそうなの。わたしは事の成否を測って、今の自分には出来ないって判断したらすっぱり手を引く〈性質〉《たち》でさ。出来ない事はやらないし、それを力不足だとか残念だって思う事もない。  そのあたり冷めてるっていうか、ひどい人間なのよ、わたし。綺礼は非道ではなく機械的だって言ってたけど」  そう言う遠坂だが、自分を卑下してはいない。  遠坂はそうである自分に誇りと自信を持っている。 「けど、時々思うことだってある。事の成否なんて考えず、ただ物事に打ち込める事が出来たら、それはどんなに純粋な事なんだろうって」 「……ま、そんな風に迷うほど子供だった頃、いきなり自分と正反対のヤツを見せられたらショックでしょ。  だからトラウマ。あの日、真っ赤な夕暮れの中で馬鹿みたいに走ってたそいつは、わたしにとって」    敵とかじゃなく、そういうのがいてくれて嬉しかった、と。    夢見るような顔で、そんなコトを呟いた。 「―――って、つまんないコト話したなぁ。うまくいかないからナーバスになってるのかしらね」  休憩は終わりだ、と言うかのように遠坂は席を立った。 「部屋に戻るわ。午後はイリヤと骨格の製鉄をしてるから、士郎は桜の看病でもしてあげて」  自分の湯飲みを流しに置いて、そのまま廊下へ向かう。  ……と。   「――――ねえ。桜の様子、どうだった」    足を止めて、思い出したように訊いてくる。 「元気そうだった。熱はまだあるようだったけど、前に倒れた時に比べれば安心できる。  それに桜本人も大人しいしな。前は無理して家事をしようとしたけど、今日は大人しく横になってくれてる。  あれなら治るのも早いんじゃないか」 「大人しくしているのは当然でしょう。  ―――あの子、自分じゃもう立ち上がれないんだから」 「――――――――――――え?」    自分じゃ、もう立ち上がれない……?   「なんで。魔力は足りてる筈だ。なら、体力だって充分にあるんじゃないのか」 「ええ、魔力も体力も人並み以上にあるわ。けど中身は酷いものよ。  ……昨日の夜何があったのかは知らない。けどあの子、一度は確実に死んでるわ。そう思わなければ納得がいかないほど、手足の筋肉がズタズタなのよ」 「……まさか。桜、外傷なんてなかったじゃないか」 「……外見だけキレイに繋げてあるだけよ。  体内の刻印虫に食いちぎられたのか、他の何かに切り刻まれたのかは知らないけど。……もし体中を切り刻まれたとしたら、その痛みは体だけじゃなく〈脳〉《こころ》まで壊してるかもしれない。  ……訊くけど。桜、貴方のこと判った?」 「――――――――」  当然だ、という声を呑み込む。  ……遠坂の顔は、苦渋に満ちている。  つまり、それは。 「……桜は、遠坂が判らなかったのか?」 「いいえ。ちゃんとわたしだって判ってたし、姉さんって呼んでくれたわ。  けど、あの子が見てたのは目の前にいるわたしじゃなくて、桜が思っている『遠坂凛』だったんでしょうね。  ……ほんと、初めましてだの、もっと早く会いたかっただの、本音を立て続けに言われた時は流石に殺気だったわ」  冷たく言って、遠坂はわずかに顔を逸らす。  ……しかし、殺気だった?  殺気だったって、遠坂が桜にか……? 「要するに、わたしには出来ないってコト。  貴方みたいに桜を最後まで擁護する事もできないし、その気もないの」 「――――遠坂」 「言ったでしょう。わたし、出来ない事はやらないの。  わたしが遠坂凛である以上、もう無理だと判断したら桜を殺すわ。……ま、初めからそういう約束だったから念を押すコトもないんだろうけど、一応宣言しておこうと思って」 「感想はいいわよ。貴方の考えはわかってるし、言われても何がどうなるワケでもない。  わたしたちは臓硯を倒す事においては仲間だけど、桜に関してはずっと平行線のまま。それがイヤなら、一刻も早く臓硯を倒せばいい。  ……けど士郎。もし臓硯とあの“黒い影”がまったく別物だとしたら、貴方はどうするの?」 「――――――――」  口を閉ざす。  遠坂の問いは、鋭すぎて目眩がする。 「士郎。わたしはいよいよとなったらあの子を殺す。それがどちらにとっても最良の方法よ。  ―――それを、貴方もよく考えておきなさい」    去っていく。  遠坂は部屋に戻り、居間には自分だけが残された。    ……声が聞こえる。  体はガラクタで、頭はフワフワなのに、聞きたくも無い声が聞こえてくる。             『貴方はどうだか知らないけど、わたしは士郎のコト、随分前から知ってたんだから』    どうしてそんな会話が聞こえてしまうのかは考えなかった。  ただ聞きたくなかった。  この手が動くなら耳を塞ぎたかったし、この足が動くなら今すぐ居間に行って止めたかった。           『わたし、それ見てたの。ちょうど昇降口から出てすぐのところ。校庭の端っこで、バカみたいに跳べっこない高跳びを繰り返すヤツを、やっぱりバカみたいに眺めてたワケ』   「――――――――っ」  唇を噛む。  満足に動かない指で、引き裂くほどシーツを〈毟〉《むし》る。  淡々と語られる昔話。  もう四年も前の、夕暮れの校庭であった出来事。  それを、姉はさも自分だけの思い出のように語る。  自分だけが知っていた、と。  そこに〈彼女〉《わたし》がいた事さえ気付かなかったクセに、美しい思い出に浸っている。   「――――止めて。もう、止めて。お願いだから、それ以上」    わたしの思い出を取らないで、と。  届くはずのない懇願を、聞こえない声で彼女は絞り出した。    姉の独白は続いていく。  彼女の恐れる通り、彼女を置き去りにして進んでいく。  唯一。  唯一、姉に勝っていた〈希少品〉《おもいで》さえ、ただの記憶に貶められていく。   「やだ――――やだ、やだ、やだ…………!」    ズタズタの神経を〈魔力〉《せいしん》で補い、両耳を手で覆う。  聞きたくない。  こんなのは拷問だ。  どうして、どうして居間の様子なんかが判ってしまうのか。  自分の影はそこまで伸びてしまったのか。  いや、そんな事より今は何も聞きたくない。    これ以上はダメだ。  これ以上聞いてしまえば、自分はきっとおかしくなる。    そう直感して両耳を塞ぐも、声は少しも小さくならなかった。  姉の言葉は直接脳に響いてくる。  耳を塞ごうが目を潰そうが、この光景から逃れる事は出来ない。    そうして。             『士郎。わたしはいよいよとなったらあの子を殺す。それがどちらにとっても最良の方法よ。  ―――それを、貴方もよく考えておきなさい』            一番聞きたくない言葉を、  一番言ってほしくない人に、  姉は冷たく突きつけたのだ。    それで声は聞こえなくなった。  居間の様子も手に取れない。  ……当然だ。  彼女の世界はこの暗い部屋だけ。  遠く、明るい〈居間〉《せかい》になど踏み込める筈がない。   「――――――――」    ……目蓋が熱い。  気がつけば、彼女は一人泣いていた。  悲しくて、悔しい。    姉さんは卑怯だ。  どうして、どうしてそんな判りきった事を、ここにきて先輩に押し付けるのか。  遠坂の魔術師としての責任。そんなのは自分だけでいいのに、先輩まで引き込もうとする。  ただ一人わたしの味方である先輩まで、姉さんと同じ立場にさせようとする。   「――――――姉、さん」    ……憎い。  自分でも身勝手だとわかるぐらい憎い。  先輩に間桐桜を見捨てさせる。  そう仕向ける遠坂凛が、本当に酷いと思った。   「――――――姉さん」    ……けどヘンだ。  それはわたしの願いでもあるのに、どうしてこんなに憎いんだろう。    わたしが消えればいいと姉さんは言う。  わたしも自分が消えればそれでいいと判っている。    ……もう、色んな経緯を考えるコトも出来ないけど、自分が消えれば、衛宮士郎は救われるコトだけは知っているからだ。   「…………やだ。そんなの、いやだ」    できない。  もう失うのはイヤだ。  もう一人になるのはイヤだ。  温かさを知ったから、寒いのはもう怖いんだ。  温かさを知ったから、今まで温かかった人たちが憎いんだ。  ……わたしは消えてなんてやらない。  ……わたしは殺されてなんかやらない。  だって、だって、               「―――だって。わたしは、何も悪くないんだから」    そう、悪いのはみんなだ。  わたしだってこんな結果は望んでいなかった。  みんなが助けてくれなかったからこうなってしまったんだ。  なら―――誰も何もしてくれなかったのなら、それは肯定と同じだと思う。  彼らは“わたし”に反対しなかった。それは賛同と同じだ。    ……だから。  誰も、わたしを罰することなんて出来やしない。   「――――死なない。姉さんの思い通り、には」    ……いや。  実際問題として、わたしは死なない。  誰もわたしを殺す事なんて出来ない。  それでもわたしを殺すって言うんならそれでもいい。    殺されるぐらいなら――――わたしが、逆に――――やる。    姉さんだけじゃない。  たとえ先輩であろうと、わたしを消そうとするならもう我慢なんてしない。    ……そう。  このまま嫌われて遠くにいってしまうなら、いっそ。  いつも見ている悪い夢みたいに、先輩もこの手で――――しまえば、他の誰のモノにもならな―――   「ぁ――――は、う――――!」    咳きこむ。  苦しくて苦しくて、自分の妄想を血に変えて、口から何度も吐き出した。   「……だめだ。わたし、だめみたいです、先輩」    繋がらない。  いいコトとわるいコトがわからない。  自分でももう、何が正しいのかわからない。  わたしは誰なのか、自分がいつまで正気でいられるのか、何もかもあやふやすぎて気が違いそうだ。   「こんにちは。まだ自分は残っている、サクラ?」    ―――と。  気がつけば、目の前には銀の髪の少女がいた。  自分と同じ。  人間として扱われなかった、器となるべき白い少女。   「セイバー、ランサー、キャスター、バーサーカー。  この四つだけならまだ良かったのに。何処でそんな〈魂〉《モノ》を取り込んだのサクラ。まだアサシンとライダーが残ってるのに、もう満ち足りてるなんて驚きだわ」    ……分からない。  自分が少女と同じ、敗れたサーヴァントの魂を回収する容れ物だという事は祖父から聞いている。  だが―――いまあげられた以外のサーヴァントが敗れたなどという話は、   「それはいいわ。おかげでアーチャーを奪われる心配がなくなったんだから、深くは訊ねない。  けどサクラ。これから自分がどうなるか分かっている?」 「――――――――」    ……頭の芯が冷えていく。  熱でクラクラになった頭は、その一言で『間桐桜』を取り戻した。   「――――知りません。どうなるんですか、わたし」    白い少女は口を閉ざす。  アインツベルンのマスター。  〈間桐桜〉《まがいもの》ではなく、初めから器として作られた少女は、  「――――死ぬわ。絶対に、助からない」    自らと同じ運命を、壊れゆく彼女に告げた。  居間に入る。 「あれ? シロウ、いま玄関がわの廊下からこなかった?」  居間にはイリヤが一人で座っていた。 「ああ。ちょっと外に出てた。俺の留守中、何かあったか?」 「何もなかったけど。ダメよシロウ、部屋で休んでなきゃ。  シロウの体だって、サクラと同じぐらい危ないんだから」 「ん、さんきゅ。けどまあ、俺のはちゃんと布を巻いてれば大事はないから」 「もう、そんなコト言ってると簡単に倒れちゃう―――  ―――シロウ。外で、何かあったの」 「―――――いや。別に、何も」 「何もなくないわっ! 何をしてきたか知らないけど、そんなうつろな目で、わたしと話なんかしないで!」 「ぁ――――」  怒られた。  ……そうか、そんな馬鹿みたいな顔をしてたのか。  そりゃあ、イリヤに怒られるのもしょうがない。 「―――すまん。悩んでも仕方ないっていうのに、つい考え込んじまった」  ぶるぶると頭を振る。  イリヤの言う通り、空っぽのままじゃいられない。  情けない顔をして桜には会えないんだから、バシッと気合を入れないと――――! 「ん、合格。よしよし、少しは元気でたみたいね。  さて、それじゃ聞きたいコトはなに? わたしでいいなら力になってあげるよ、シロウ」 「――――――――」  ……まいった。  イリヤは時々、物凄く優しくなる。  こっちがダメになっている時に手を引いてもらったのはこれで二度目だ。  これじゃどっちが年上なんだかわかったもんじゃない。 「ああ。じゃあ訊いていいかな、イリヤ」 「いいよ、なんでも教えてあげる。シロウが教えてほしいのはどんなこと?」 「……聖杯。アインツベルンの聖杯について、教えてくれ」 「……そっか、知られちゃったか。シロウには知られたくないコトが二つあったけど、そのうちの一つよ、それ」 「――――イリヤ。それじゃあ、その」 「うん、わたしは聖杯だよ。初めから人間じゃない、そういう風に作られたホムンクルス」    〈人造人間〉《ホムンクルス》――――。  錬金術において、幾つもの魔術的要素を合わせて育てられる、母体を用いない生命の誕生法。  まっとうな手段によって生まれ得なかったソレらは、総じて肉体的に脆弱な存在だ。  人のカタチ、人と同じ生命を持っていながら人間とは違うソレらは、人間とは違う故に、稀に強大な魔術回路を持って誕生する。          生命体としては脆弱。  だが魔術師―――否、魔術回路として〈作ら〉《うま》れる時、ホムンクルスは人間を大きく凌ぐ力を得る――― 「――――ま、そういうコト。  アインツベルンは聖杯とマスター、両方の機能を持った存在としてわたしを育てたの。  聖杯の役目は倒されたサーヴァントの魂を回収すること。それだけに特化していれば、別に人間でなくても極端な話シチュー鍋でも構わない。要は、魂の容れ物として大きければいいんだから」  つまらなげにイリヤは語る。  だが―――聖杯の役目がサーヴァントの回収なんていうのは初耳だ。 「もっとも、回収っていうよりは帰還なんだけど。  サーヴァントは聖杯によって召喚された。なら、倒された後は聖杯を通って帰るのが筋でしょう? この街にあるアインツベルンの聖杯はわたしだけだから、本当ならみんなわたしが回収している」 「……けど、わたし以外にも聖杯として機能しているヤツがいたのね。  気付いた時にはキャスターとランサーを取られてて、引き寄せる力はそっちの方が強くなってたの。  だからほとんどのサーヴァントはそいつに取られたわ。  ……アーチャーだけは、わたしの目の前で消えたからきちんと回収できたんだけど」  ……言うまでもない。  その、もう一つの聖杯が桜だ。  イリヤの話からすると、桜は既にキャスターとランサー……それにセイバーと、バーサーカーまで取り込んでいる。 「サーヴァント四人分の魂……けどイリヤ、そんなもの、抑えつけておけるのか? 人間の体には一人分の魂しか入らないんだろう、原則として」 「ええ。それが英霊なら尚の事よ。  クラスという殻を失い、純粋な“魂”となったサーヴァントの魔力は膨大だわ。一つ取り込むだけで、体の中に台風が生まれるようなものよ。  それを最終的に七つ集めるのが聖杯の機能。  そこに“〈聖杯〉《容れ物》”自体の魂の入る余地なんてない」 「今までの聖杯が魂のない『無機物』だったのはその為なの。聖杯の機能は英霊七人分の魂を回収して、それを統括し管理すること。  ―――そこに余分なプログラムは走らない。聖杯の人格なんてものは、聖杯の機能にかき消されてしまうだけ」 「つまりねシロウ。聖杯が完成すればするほど、人間としての機能が消えていくの。  それはわたしだって同じ。サーヴァントを回収して、それが多くなれば多くなるほど、制御の為に人間の機能をカットしていく」 「手足を動かす魔力をカットすれば、その分精密に魂を制御できる。  呼吸をしなければ取り込んだ魂を外部に洩らす事もなくなる。  人格を形成している部分を全て演算に回せば魂の統合も安定する」 「それはサクラも同じよ。聖杯になってしまえば、もう人間の人格なんて走らない。人間でいるなんて、そんな余裕はなくなってしまう」 「……ただ、そうね。  わたしとサクラの違いがあるとしたら、私は自分の意志で切り替えるけど、桜はただ書き換えられていくだけってコト。不完全な黒い聖杯であるサクラには、拒否権が存在しない」  淡々と語るイリヤには、感情が一切なかった。  ……イリヤはそれを知っていた。  たぶん生まれた時から、いや、生まれる前から知っていたのだ。  自分の命が、そんな馬鹿げたコトの為に作られたものなのだと。 「――――――――」  それでも、良かったと思える事があった。  硬く強張った胸に手を置いて、はあ、と感謝するように天を仰ぐ。 「? どうしたのシロウ? わたし、サクラはもう助からないって言ったのよ?」    わかっている。  それは、わかっている、けど。 「イリヤと桜は二人で分け合ってるんだろ。なら、イリヤはまだ」 「んー、そうね。ほとんど桜にとられちゃったから、イリヤでいる事に支障はないわ。ライダーとアサシン。あの二人を取り込んでも、人間としての機能を削る必要はないかな」  ……そう、それが救いと言えば救いだ。  これでイリヤまで無くなってしまったら、俺は、誰一人守れない事になる―――― 「え、え、シロウ……!?」  気がつけば、イリヤの体を抱きしめていた。  何も約束なんて出来ないし、何がほしかったワケでもない。 「シロウ……」 「――――――――」  イリヤの体は小さくて、強く抱きしめる事もできない。  ただ触れるだけの、一方的な抱擁。  その中で―――自分が守り通さなくちゃいけないものの重みを、確かに指に覚えさせた。  午後二時前。  遅くなったが昼食を作って、桜の部屋に届ける事にした。 「――――――――さて」  エプロンを脱いで、お粥を盆に載せる。  深呼吸を一度。  それで、完全に心を凍結させた。  今の状態で桜に会えば、自分が何を口にするか判らない。  それは駄目だ。  俺の動揺を桜に気付かせてしまえば、俺以上に桜は苦しむ。  だからボロを出さないよう、感情を凍らせておかないといけない。    ……きっと、これが最後になる。    今まで通り普通に、ただお互いの顔を見る為に会うのはこれが最後。  その貴重な時間を、せめて笑いあったまま終わらせたかった。 「桜、起きてるか? 遅くなったけど、昼にしよう」  ノックをして部屋に入る。  桜は眠っていたようだが、俺が部屋に入るなり顔を輝かせて、 「―――はい。来てもらえて嬉しいです、先輩」  本当に幸せそうに、穏やかに微笑んだ。  ……時間が流れる。    桜の体は回復に向かっている。  今も、なんとか一人で体を起こせるぐらいにはなっていて、お粥も一人でキチンと食べられたぐらいだ。  ゆっくりと昼食が終わって、なんでもない話をする。  食事をとって眠くなったのか、桜はベッドに体を預けて話を続ける。    それだけ。  今はもう、それだけしか出来る事はなかった。  桜は本当に元気そうだ。  苦しげだった呼吸は規則正しいものになっているし、頬だって赤みがあって活き活きとしている。    これで―――あと数日保たない、なんて言われても実感が湧く筈がない。 「でもわたし、風邪ってあんまり引いたコトないんです。  昔っから体だけは頑丈で、寝込んだことなんてなかったんですよ?」  風邪薬は嫌い、という話から始まって、今まで桜がどれくらい健康だったかを説明される。  どうも、昔っから病気らしきものにかかった事はなく、風邪の予兆があったら気合で治したとかなんとか。 「気合って、温かくして安静にしていたとか?  ……いや、それじゃ気合を入れるってニュアンスじゃないよな。なんだろ、風邪で気合をいれるって」 「あ、いえ……それはその、わりと恥ずかしい話なので秘密です」  えへへ、と桜にしては珍しい照れ笑い。  ……ふむ。どうも俺とは違った意味で、桜もわんぱく指数が高かった模様。 「だから風邪薬は嫌いっていうより、信用できないっていうか。飲み薬は効き目がわからないから、逆に不安になりませんか?」 「あー、子供の頃はそうだったかな。苦いのを我慢して飲んだのに治らなくて、体が痛いのも熱があるのも得体の知れない薬のせいにしてたっけ」  ですよね! と嬉しげに同意する。  ……その笑顔を見ると、桜は順調に回復に向かっていて、明日にでも元に戻っていそうな錯覚に襲われた。 「――――――――」  ……その、都合のいい希望を必死に押し止める。  桜は治らない。  良くなると、何もかも元通りになると信じて、決断を先送りにする事はできない。 「――――なあ、桜」    そう、冷たい現実を納得させたからか。   「体が治ったらさ、桜は何がしたい?」    もしもの話。  都合のいい未来の話を、口にした。 「え……? わたしのやりたいコトですか……?」 「ああ。桜がとにかく楽しいって思えるコトだ。なんでもいいぞ。ただ聞いてるだけだから、実現できる可能性はなしの方針で」 「え――――んー、ちょっと待ってください」  桜は困ったように視線を泳がせる。  そうして、しばらく考え込んだあと。   「なんか、これといってないみたいです。  別に今のままでいいっていうか、先輩といられればそれでいいかなって」    頬を赤くして、照れながら桜は言った。 「――――――――」  視界が細まる。  桜を捕まえたくなる衝動を、凍らせた心で押し止める。             “アレは今まで、何一つ自分の為の行いなどしてこなかった”  くそ〈爺〉《じじい》が、してこなかったじゃねえ……!  桜は知らないだけじゃないか。  楽しいこと。  まっとうな日常を知らないから、欲しいものが判らない。  まっとうな幸福を知らないから、こんな、些細なコトをさも大切そうに思っている―――― 「……先輩? あの、どうかしましたか……?」 「え? ああ、ちょっと考え事」  まだ何もしていない。  得るべきもの、手に入れなくてはならないものを、桜は知らないままだ。    外で笑わない桜。  友達を作らない桜。  この家と間桐の家しか知らない、閉じきった狭い世界。    それを―――変える事ができるなら、どんな代償を払ってでも。 「せ、先輩……? あの、やっぱりおかしいです。  ……左手、痛むんですか?」 「いや、そうじゃない。  桜。このゴタゴタが終わったら、どこか遠くに行こう。  今までどこかに遊びに行くとかなかっただろ。たまには遠出して騒ぐのもいい」 「――――――――」  桜はきょとん、と俺を見る。  突然の提案に驚いて、これが夢だと思っているような、そんな沈黙。 「決まりだ。桜はどこに行きたい?」 「ぇ――――あ、どこって、えっと――――」  アタフタと困惑する。  答えはなかなか返ってこない。  それでも、最後には心からの望みが見つかったのか。 「……えっと。何処でもいいんですよね、先輩?」  恐る恐る、桜は俺を見上げてくる。 「いいよ。人間、その気になれば行けないところなんてない」  本気で言ったのだが、桜は冗談と思ったようだ。  桜はくすり、と安心したように笑い、   「じゃあお花見とかしたいです、わたし」    そんな、ささやかな願いを口にした。 「花見? 花見って、あの花見か?」 「はい。このお屋敷でも出来ますけど、あるのは梅の木だけですから。天気のいい日に、広い野原で先輩とお花見がしたいです」 「――――そっか。それは、確かに」    すごく楽しそうだ。  橋の下の公園で、雲一つない青空を見上げながら、春の樹を見るのもいい。  楽しいコトなんて山ほどある筈だ。  その門出が花見だっていうのは、桜に凄く似合っている。 「―――よし。じゃあ約束だ。桜の体が治って、このゴタゴタが終わったら二人で行こう」  桜は満足そうに微笑む。  そんな約束をして、ゆっくりと立ち上がった。    ……そう。  本当に、そうできたらどんなに幸福だろう、と。  十年前の火事から一度も思わなかった、自らの幸福を夢に見た。  客間を去る。  残ったものは些細な約束だけ。  それは桜だけの望みじゃない。  その、四月にさえなれば幾らでも叶えられる願いは、俺自身の願いでもある。   「――――――――」  凍らせた心で、温かな幻想をする。            いつか冬が過ぎて。  新しい春になったら、二人で櫻を見に行こう――――      ――――扉が閉まる。    自らに言い聞かせるように“守る”と繰り返した少年は、少女が眠りについたのを見届けて部屋を後にした。   「………………、ぁ」    残された薄闇のなか、少女―――間桐桜は苦しげに吐息を漏らす。  少女は眠ってなどいなかった。  ただ自分以上に疲れきった彼を休ませる為、眠ったフリをしただけだ。    それに―――もうこれ以上、眠りにつく訳にはいかない。  眠ればあの夢を見る。  自分に似た何かが人を殺す夢を見る。  それが怖かった。  昨日、どんな夢を見たのか覚えていない。  どうして外で倒れていたのか記憶にない。    だから―――今夜眠ってしまえば、その時こそ目が覚めない気がする。    本当におかしくなって、自分を抱きとめてくれた少年を裏切ることになる。  少年は自分を捨てて、弱くてズルい『間桐桜』を信じてくれた。  今でさえその決断に胸を傷めるというのに、自分があの夢と同じになっては、もうまっすぐにあの人と向き合えなくなる。    ―――そうだ。  もう元に戻せないほど、彼の心を壊してしまった。    だから耐えないと。  眠らず、できるだけ意識を保って、二度とあんな夢は見ない。    こんな自分でも、守ると言ってくれたモノがある。    汚くても卑怯でも、そのカタチがまだ少しでも残っているのなら―――間桐桜は、全力で自分を押し留めなくてはならないのだ。   「――――わたしはそれでいい。けど、もう」    ……もう、戻らないものがある。  この先、どんなに生きても償えない罪を犯した。                     “――――俺が守る”    希望も未来もないと知って、彼はそう繰り返した。  思い返すと涙が出る。  ……半刻前。  彼が部屋に入ってきた時に、彼女は覚悟した。  自分を殺す為にやってきた事は空気でわかる。  今の自分は敵意に敏感だ。殺す為にやってきた誰かなんて、眠っていても気がつける。    ……けれど、その殺意は空っぽだった。  何も感じてない、のではない。  胸に大きな穴が開いていて、びゅうびゅうと冷たい風が通り過ぎているような、痛々しい空洞だった。    それで、このまま殺されよう、と素直に受け入れた。  自分を止めてくれる相手がこの少年なら、それは一番いい事だと思う事にした。   「―――――――、い」    けどやっぱり自分は臆病で、弱虫だった。  殺されてもいい、なんて思ったクセに、どんなに頑張っても体の震えは止まらなかった。    ――――そうして。  また、自分だけの都合を口にして、あの人を追い詰めたのだ。   「―――――――、なさい」    抱きしめてくれた。  それでも、少年は抱きしめてくれた。  お互いもう先はないと判っている。  その選択がどんな結末になるのか、判っていて抱きしめてくれたんだ。    少年には決意した感があった。  少女の罪も、この先少女が犯す罪も、全部一緒になって受けると、抱き寄せる腕が告げていた。   「っ……――――――、なさい、先輩――――」    だから、それが悲しかった。  あの人はそれが出来る人だ。  そんなこと、ずっと前から判っていた。    ……夕焼けの校庭。  いつまでも走っていた見知らぬ誰か。  諦めてしまえ、と囁く声を、頑張れ、に変えてくれた遠い少年。    その時から願ってしまった。    ―――あの人といっしょにいたい。  ―――あの人に守ってほしい。    理由も判らず憧れて、祖父の言いつけ通りに衛宮の家に通って、ずっと、その望みを叶えてきた。              “―――俺が守る。桜の味方をするって誓ったんだから”   「っ―――ぅ………!」    その結果がこれ。  あの人はこれから、ただ壊れていくだけの人生を送っていく。   「なさい………ごめんなさい、先輩――――」    自分が憧れていたもの。  その理由がやっとわかった。    少女にとって、少年は綺麗なものだったのだ。  弱虫な自分なんかとは違う。  まっすぐなまま、ずっとそのままでいてほしいと願ったもの。   「――――なのに、わたしが」    ……ああ、思い出した。  守りたかった。  わたしはあの人を守りたかったんだ。  夕暮れの校庭で見つけた、不器用でまっすぐなあの人を、大切な人を守りたかった。   「――――壊して、しまった」    望んだことはそれだけだったのに。  なのにどうして、  自分たちはこんな事になってしまったのだろう――――    ……そうして。  気を引き締めていなければ途切れていく時間の中、彼女は最後の決断をした。   「いるんでしょう、ライダー」    薄闇に声をかける。   「―――――――」    彼女以外に人間などいない空間に、幽鬼の如く一体の女性が現れる。  間桐桜のサーヴァント、ライダーである。   「……やっぱり。わたしの護衛をしていたんですか?」 「ええ。彼がサクラに手をあげていれば、私が殺していたでしょう」 「――――」    ……危なかった、と彼女は息をつく。  ライダーは主の守護を最優先する。  彼女の判断基準は、マスターである間桐桜を殺す相手か殺さない相手かだけ。  その例でいけば、先ほどの衛宮士郎は間違いなくライダーの敵だった。   「……先輩には手を上げないで、ライダー。あの人を傷つけたら、貴女でも許さない」 「私の役割はサクラの守護です。彼が貴女の敵に回るのなら、その時は使命を全うするしかない。貴女がどうなろうと、私はマトウサクラを守るだけですから」 「……それは、わたしがわたしでなくなっても、ということ?」    答えはない。  それは口にしてはならない事、間桐桜が怖れる最悪の事態だ。    ……そう。  たとえ衛宮士郎が間桐桜の味方をしようと。  間桐桜が衛宮士郎を敵と認識してしまえば、彼は倒すべき“外敵”にすぎなくなる。   「……………………」    体を起こし、少女は強く拳を握る。  ……ライダーの発言に怒っているのではない。  少女はただ、その仮定が現実になる事を怖れている。   「……サクラ?  何をする気ですか、その体で魔術行使をしては――――!」    ライダーの制止を無視して、少女は左手を闇に掲げる。    魔力が走ったのは一瞬だった。  発光の後、変化したものは少女の左手のみ。   「サクラ」 「……最後の令呪です。お願いライダー。この先何があっても、先輩を、最後まで守ってあげて」    呼吸を乱しながら、少女は最後の命を下す。  間桐桜の左手に、もはや令呪の輝きはない。   「……お爺さまはわたしが止めます。  これはわたしと間桐の問題です。……もう手遅れだけど、これ以上迷惑はかけられない」    咳きこむ胸を押さえながら少女は言う。    ……闇に灯る瞳。  それは弱々しくも、決意を固めた魔術師の瞳だった。  だーかーらー、怪談話は止めろと言った筈である! あれ? 師しょー、怖い話ダメだったっけ? うん、怖い。おヘソとられる。だからワシ帰るで。 ちょっと、ダメよタイガ。師範代なんだから、ちゃんと指導しないと。  そんな弱腰じゃ道場破りが来た時どうするのよ。 来ないよ。十年間道場にいるけど、そんな素敵な人がきたコトないもの。  だからワシ、帰るで。なんかイヤな予感するんや。 なぜ関西弁……?  って、あれ? 師しょー、道場破り来たよー? よし、帰ってもらいなさい♪ なんでよー! いつもの師しょーなら、“やったー! ホントに生きてるうちに生道場破りに会えるなんてー!”って砂漠で自販機発見したみたいに驚喜する筈なのにー! だーかーらー、イヤな予感がするんだってば。  そもそもさー、今回のデッドエンドのブロック名からしてヤな予感が、 ……イケ……ニエ……。 やっぱり出たーーーーーーーー!  ダメ、わたしこういう正体がないのダメーーーー! あ、知ってる、こういうの異種格闘技戦って言うんだよね!?  やったー、がんばれタイガー! がんばれねー! ほら、貴方の相手はそこのブルマっ子ですよ? 萌え指数でいけば優にわたしの十倍はあろうか強キャラ、グルメな貴方も根こそぎにございます! ……ハカマ……クウ……。 うひゃあ、悪霊たいさーん!  モンク、誰かモンク呼んでー! はい、そんなワケで始まりましたタイガVS黒い影!  今のところ黒い影が優勢のようですが、タイガもさるもの、段々と開き直ってきた模様です。 あ、噛んだ! タイガ、取り込まれながらも逆に取り込んでいるようです! 戦えてる……!  師しょー、あいつと戦えています……! ぐわー! バビロニアの神よ、我に力を与えたまへー! ま、別にそんなのどうでもいいけどね。  あんなのとマトモに戦っても負けるだけなんだから、シロウは真似しちゃダメよ。 シロウがやらなくちゃいけないのは、あの影の正体を探ること。 虎穴に入らずんば虎子を得ず。  直前の選択肢に戻って、アサシンの誘いに乗ってみなさい。 きゃー、やっぱりダメー! たっぷ! へいレフリー、ワタシたっぷしてるネー! じゃあねー!  次回タイガー道場、うまくいけばわたしが師範代になってるよー♪「し、死んでる……!」  ありえない事だった。  藤村さんが部屋に入った時、確かに扉は内側から鍵がかけられていたのだ。  部屋にはボクと藤村さん、イリヤお嬢さましかいない。 「けど、いったいどうやって……!? わたしたち以外に、この部屋にいる人はいないのよ!?」 「方法は二つ。  一つは好感度不足による事故ね。  ことここに至って桜ちゃんの好感度が低かった被害者は、桜ちゃんが趣味で飾っていたギロチンをベッドと間違え、そこで眠ってしまったんでしょうね」 「なるほど……確率的には薄いけど、十分有り得る話ね。  サクラ、そういう趣味してるもの」  そうか。  桜ちゃんの趣味にも困ったものだ。  まさか横になった瞬間、ベッドがギロチンに早変わりする仕掛けなんて! 「ええ。だから解決策としては、九日目からやり直して桜ちゃんの好感度をあげる事よ。  もう一つは外的要因による直接犯行。  被害者は加害者でもあったの。  彼はここで桜ちゃんを殺そうとした。けど、壁に仕掛けてあった防犯機能・投げナイフが発動して返り討ちにあってしまった―――」 「ミシシッピーシステムね……そんなものを仕掛けておくなんて……サクラ、怖い子……!」  二人の推理は過熱していく。  けど、そのどちらにも該当しないもう一つの犯行方法にボクは気付いてしまった。  それはこうだ。  事件は一日前の午前中にさかのぼる。  そこで遠坂さんの質問に『いいえ』と答えてしまった時点で、ボクの死が決定されていたとしたら……? 「ともかく事件は解決したわ。  行きましょうイリヤスフィール卿。あとは警察に任せて、この呪われた館から立ち去るのです」 「……ええ。けど、後味の悪い事件だったわね」  役者は去った。  舞台には死体であるボクだけが残されている。  ―――結論はこうだ。  いかに論理的解決なんてないデタラメなタイガー道場でも、こういう一発芸は今回限りにしてほしい。 「で。単刀直入に訊くけど、腕の調子はどうなの士郎」  道場につくなり、遠坂は本題を切り出してきた。 「そうだな。普通に動かせるぐらいにはなった。けど、そういう話をしているんじゃないよな遠坂は」 「ええ。わたしが訊いてるのは、アーチャーの腕として理解できたかって事だけよ」  イリヤは何も言わず、俺と遠坂の様子を眺めている。 「――――――――」  ……誓って言うが、遠坂はこの腕がどんなモノなのか知らない。  昨夜、俺が思い知らされた怖れを知らない。  この布を解けば終わると。  アーチャーの腕を使うどころか、その肌を晒すだけで衛宮士郎の体が崩れると知らないのだ。  ――――あの感覚を思い出す。    逃れられない死。  生きながら土葬されるような閉塞感。  自分という〈世界〉《カラ》が得体の知れないモノに塗りつぶされ、世界そのものが縮んでいく静かで絶対的な終わり。    その一端を味わって、震える頭で繰り返した。  この腕だけは使えない。  使えば死ぬ。  それこそ〈魔法〉《きせき》の助けでもない限り、絶対に死んでしまう。 「どうなの。わたしの魔術刻印を移してから一日経ったんだから、少しは手ごたえがある筈よ。  さあ答えて。貴方、アーチャーの腕で何が出来るかもう判っているの?」 「――――?」  ……ちょっと待った。  遠坂の質問は、どうも俺が思っている事とは違う。  てっきりアーチャーの腕を使えるかって話だと思ったのだが……? 「えっと……それはアーチャーの腕を制御できるかって話じゃなくて、アーチャーの宝具がなんであるかって話か、遠坂?」 「そ、そんなの当たり前でしょう! 士郎はアーチャーの腕を使ったらまずいんだから、使わせるワケないじゃない! なに、それとも使う気でいたっていうのアンタは!」  あ。  遠坂のヤツ、本気で怒ってるぞ、なんか。 「う―――いや、そういう訳じゃないんだが、なんとなくそういう流れかな、と……」 「そういう流れってどういう流れよ!」 「……まったく。言っとくけど、どんな状況になろうとアーチャーの腕だけは使わせないからね。  士郎もわたしの許可なしで使おうなんて思わないで。  ……その、アーチャーの代わりなんだから、勝手に死なれたら困るじゃない」 「――――――――」  ……前言は撤回だ。  遠坂は気付いている。  なにしろ俺なんかよりずっと優秀な魔術師だ。  この腕を自由にすればどうなるかなんて事、俺以上に知っている。 「それで、どうなの。アーチャーの宝具がなんであるか理解できた?」  遠坂がどんな答えを期待しているかは判らないが、それは、その、   「もう。いいかげん言ってあげればシロウ。そんなの、アーチャーの腕を移植された時から知ってるって」 「ちょっと、今の本当なの士郎?」 「う―――まあ、本当だと思う。アーチャーの宝具はあいつの投影魔術で、武器を複製する事だろ?」    漠然と知っていた事だけに確証はなく、半信半疑で口にする。 「……緊張して損した。ようするにもう繋がってるんだ、それと。  それはそれで助かるけど、どうして黙ってたのよイリヤ。士郎がアーチャーの投影魔術を知ってたのなら、いちいち確認とる必要なかったじゃない」 「どうしても何も、訊かれなかったから言わなかっただけよ。リンはシロウに投影をさせたがっているんだから、伝えるのはリンの役目でしょう。わたしが口出しする事じゃないわ」 「なによその口ぶり。貴女、あそこまで用意しておいて止めるって言うんじゃないでしょうね」 「それはリンとシロウが決める事でしょう。  確かに宝石剣を複製できればリンの勝ちよ。だからこそわたしも手を貸してあげた。けど、それはわたしの義務だから手を貸しただけ。決して貴女の方針に賛同したからじゃないわ」 「……?」  ええっと。  二人の会話から察すると、遠坂は俺に何かを投影させたがっているようだが―――― 「いいかな。要するに、何か複製したいものがあるのか遠坂?」 「そうよ。士郎にはある物を複製してもらうわ。  わたしたちだけじゃセイバーにもあの影にも敵わない。だからサーヴァントにとって代わる、サーヴァント以上の魔術行使―――霊体であるサーヴァントを打倒する〈概念武装〉《がいねんぶそう》を作り上げなくちゃいけないのよ」 「〈概念武装〉《がいねんぶそう》――――? それって、決められた事柄を実行するっていう、固定化された魔術品の事、だっけ?」 「ええ。物理的な衝撃で相手を打倒するのではなく、概念―――〈魂魄〉《こんぱく》としての重みで相手を打倒する〈魂砕き〉《アウトブレイカー》。貴方にはその中でも特殊な、〈遠坂〉《うち》に伝わる短剣を投影してもらうわ」 「目標はセイバーの宝具に対抗できるだけの物を作ること。  バーサーカーを倒したセイバーの宝具は見たでしょう?  単純な火力で言えば、セイバーは他の追随を許さない。  あの“黒い影”だってセイバーの宝具を受ければ跡形もないだろうし、わたしたちだってあんなものを振るわれたら防ぐ事も躱す事もできない。  けど逆に言えば、急造ですぐ壊れる模造品でも、セイバーの宝具を上回る剣さえ作れれば、あとは戦い方次第ってわけ」 「―――――」  ……まあ、正論というか当然の帰結だ。  あっちの最大出力がセイバーの宝具であるなら、こっちはそれを少しでも上回るモノを用意すればいい。    敵の兵器より優れた兵器を作り上げる。  戦闘において、それは最も単純で確実な勝利への方程式だ。  が。 「……どうかな。それだけの宝具を投影するなんて出来ないぞ、俺。いや、そもそも投影魔術が成功した事なんて一度も――――」 「ええ。〈魔術師〉《わたしたち》が知っている投影が成功した事なんて一度もないでしょうね。  けど貴方の投影はそういうレベルの話じゃない。今まではやり方が判らなくて、間違った方法で間違った投影を行っていただけ。  けどアーチャーの知識があるなら、あとはそれをなぞるだけでいい。アーチャーという見本を知っている今の貴方なら、投影は必ず成功する」 「――――」  断言する遠坂。  そう自信ありげに言われても、こっちは実感がなければ自信もまったくないのだが。 「いい? 前にも言ったけど、貴方は“強化”じゃなくて“投影”の魔術使いなの。  その貴方がより上位の複製者であるアーチャーの魔術理論を踏めば、本物と同じ能力を持つ複製品……とまではいかないだろうけど、〈本物〉《オリジナル》に似た能力を持つ複製品を〈象〉《かたち》どれる」 「それ以外のフォローはわたしたちの役割よ。  わたしとイリヤは今、貴方に投影してもらう『武器』の材料を、出来るだけ〈本物〉《オリジナル》にそうように用意してるわ。  投影時の資料になる設計図はイリヤがリーディングで解析中だし、本物に使われていた材料はわたしの方で用意してる」 「……まだ準備に時間がかかるけど、これが揃ったらあとは士郎次第よ。士郎がカタチだけでも大師父の〈護符〉《パス》を複製してくれれば、臓硯と正面からぶつかっても勝機が見える」 「………………」  ええーと。  つまり、材料と設計図は遠坂たちが用意するから、あとはこっちで組み上げろって事だ。  それで臓硯を倒せるのなら俺だって文句はない。  喜んで遠坂の話に乗るが、しかし――― 「仮に、俺がその武器を投影できるとするぞ。  その場合、材料はいらないだろ。オリジナルがあるならそれを見せて貰えれば、後はこっちで真似事をする。  材料なんて用意してないで、今すぐ試してみればいい」 「ばか。それが出来るなら二日前に試させてるわよ。  いい、今の士郎じゃ投影は出来て一回。それも必ず、どこかに綻びができるイメージになる。  それじゃ意味ないでしょ。土蔵に転がっている出来そこないと同じ、カタチはそっくりでも中身がないっていう偽物を作られたらたまんないわ」 「……む。けど、俺はその偽物しか作れないぞ」 「だから、そのフォローをわたしたちがしてるんじゃない。  投影に必要な魔力と知識を補う為に、出来る限り本物に近い素材を作っておいて、あとはそれに貴方のイメージを重ねて固定化するってわけ。  簡単な足し算よ。士郎の〈投影〉《イメージ》とわたしたちが用意した材料を足して、より高い数値を求める」 「……まあ、アーチャーの腕で投影すれば材料や元になる設計図も要らないんだろうけど、そういう訳にもいかないでしょ?  アーチャーの腕に頼らないで“戦う武器”を用意するっていったら、もうこの方法しかないのよ」 「元からあるものを“投影”で“強化”するって事か。  ……そうだな、それなら少しは」  現実味があるって言うか、練習すれば出来そうなレベルではある。 「けど成功するかどうか判らないぞ。  強化だってマスターになる前までまともに成功しなかったんだ。そんな離れ技、ぶっつけ本番で出来るとは思えない」 「あ、それは大丈夫。  士郎にはこれから投影の練習と、アーチャーの知識の引き出しを猛特訓してもらうから」 「……そうか。俺もその方がいいんだけど、なんか嬉しそうだな遠坂」 「まっさかあ。ここんところずっとイリヤと積み木遊びしてたから、出来の悪い教え子とコミュニケーションするのもいいかなって思ってるだけよ」 「…………」  ……うう。昨日の得体の知れない感触を思い出して、ぶるっと来た。  遠坂のヤツ、人を裸にして近づいてくるわ、ハラん中に指いれてくるわでタイヘンだった。  あの時は何事もなく終わってくれたが、今日もあんな事になるとしたら 「―――う」  その、客間で休んでいる桜に大目玉かもしれない。 「と、冗談は置いておいて、話はわかってくれた?  それなら最後の確認をしておきたいんだけど」 「ん、最後の確認?」 「この作戦でいいかってコトよ。  結局わたしたちは士郎の投影に頼るしかない。  アーチャーの腕は使わせないけど、それでもアーチャーから魔術を倣う以上、士郎の体にはアーチャーっていうサーヴァントの毒が混ざる。それでも、士郎はこの方針に従ってくれる?」 「いや、従うも何も臓硯が倒せるなら文句はないぞ。魔術の鍛錬だって遠坂が指導してくれるなら頼もしいし」 「……はっきり言うわ。アーチャーの魔術を倣うって事は、アーチャーの腕の束縛を解くって事よ。  つまりね。ここで投影の鍛錬をする間は、その聖骸布を外せって言ってるのよ、わたしは」 「――――――――」  浮かれていた思考が凍る。  聖骸布を外す?  昨夜、僅かに緩めただけで怯え、涙をもらし、震え続けたこの〈腕〉《どく》を解放する?  ――――そんなもの、考えるまでもない。  俺は、   「――――ああ。それで、どうにかなるんなら」    ありったけの力、〈吼〉《ほ》えだしかねない程の力を込めて、 「遠坂の方針に従う。この布、外せばいいんだな」    なんとか、首を縦に動かせた。 「…………そう。やっぱりそうきたわけ」 「なんだよ遠坂。今の答えじゃ不満か?」 「別に。アンタに脅しなんて意味なかったって再確認したところ。  聖骸布を外してもいい、だなんてあっさり言うとは思わなかっただけで、答え自体には満足よ」  ふん、と顔を背ける遠坂は明らかに不機嫌だ。 「む。ヘンだぞ遠坂。こっちが覚悟を決めて頷いたっていうのに、俺が悪いみたいじゃないか」 「ええ、ヘンなのはわたしの方よ。  その答えを欲しがったのに、いざ言われたら頭にくるなんてどうかしてる」 「けど士郎。さっきも言ったけど、わたしは貴方にアーチャーの腕なんて使わせない。それは決して聖骸布を外させないって事よ。  貴方の覚悟を試したわたしが言える事じゃないけど、二度と聖骸布を外すなんて言わないで。  ……それを外すって事は、もう戻れなくなるって事だから」    ―――それだけは、出来ない。    昨夜の痛みが蘇る。  表現できない苦痛、抵抗しようのない終わりが恐ろしい。  そして、それ以上に。  この腕を自由にした時、自分が何をするのかが恐ろしい。 「……ダメだ、遠坂。この布だけは外せない。外したら、取り返しのつかない事になる」  昨夜の恐怖をかみ殺しながら決断する。  と。 「よくできました。ええ、そう簡単にその布を外されたらこっちが困るわ」    断ったというのに、遠坂はこの上なく機嫌が良かった。 「……? 遠坂、俺はダメだって言ったんだが」 「わかってる。ごめんね、今のはただのテストだったの。  貴方は危ないところがあるから、事前に釘を刺しておこうと思って。これで“はい”なんて答えたら、体中がんじがらめにしてたところよ」 「……テストって……俺を試したのか、遠坂」 「あ……ええ、士郎の気持ちを知りたかったから。  いい、さっきも言ったけど、わたしは貴方にアーチャーの腕なんて使わせない。それは決して聖骸布を外させないって事よ」 「貴方の覚悟を試したわたしが言える事じゃないけど、〈聖骸布〉《それ》を外そうなんて決して思わないで。それを外すって事は、もう戻れなくなるって事だから」    それは忠告ではなく、懇願するような真摯さだった。 「――――――――」  赤い布を巻かれた左腕を握り締める。  確かに俺だってこいつを外したくはない。    けど、それじゃあ―――― 「……アーチャーの魔術を倣う、ってのはどうするんだ。  布を解かないとあいつの魔術構成は引き出せないんじゃないのか」 「もちろん。だからここは無理を承知で、少しだけ聖骸布の拘束を緩めてもらうわ。それなら封印を解いた事にならないし、アーチャーの腕からの反動も少なくできるでしょう?」 「…………そうだな。じゃあさっき遠坂が言った、布を外せっていうのは」 「ええ、少しだけ布を緩めろって事よ。  けどそれだって〈大事〉《おおごと》だから、まず士郎の覚悟を試してみたってわけ」 「ともあれ、これはいつかやらなくちゃいけない事でもある。  士郎だって、いつまでも布を巻いたままなんてイヤでしょう? せめて自分で巻き直せるぐらい出来ないと、この先やっていけないんだから。お風呂の問題とか、何かの拍子で外れたりとか」 「あ―――そうだな。それは確かに」 「でしょ? だから今のうちに、せめて布が緩まった程度の反動には耐えられるようになっておかないと。  昨日の刻印はうまく馴染んでいるようだし、対魔力だってあがっているし。意識の保護はイリヤがやってくれるから、今なら五分ぐらいはオッケーなんじゃないかしら」 「イリヤが保護するって……その、イリヤと二人でアーチャーの腕を押さえつけろって事か?」 「ちょっと違うよ。わたしが守るのはあくまでシロウの精神だけで、アーチャーからの逆流を我慢するのはシロウの役目。  シロウはアーチャーの経験を引き出さなくちゃいけないんだから、防ぐんじゃなくて耐えなくちゃいけないでしょ」  ……そっか。  イリヤがアーチャーからの魔力の逆流を防いでしまったら、俺はアーチャーの魔術構成を〈倣〉《なら》う事も出来ないってワケだ。  俺にとって毒だとしても、どんな毒なのか味わわないと内容が判らないんだから。 「……判った。じゃあ俺は布を緩めて、できるだけ左腕からの逆流に耐えればいいんだな」 「ええ。その時は目を閉じて内側に意識を向けること。  魔術回路を開く時と同じだから簡単でしょ?  とにかく士郎はアーチャーの投影技法を体験するだけでいい。身に染みさせるだけでいいんだから、間違っても理解しようだなんて思わないでね」 「――――ごめん、ちょっと席を外すわ。  後はよろしくねイリヤ。すぐに戻るから、その間に士郎を鍛えてあげてちょうだい」  と。  それだけ言って、遠坂は唐突に、急ぐのでもなく道場から出て行った。 「……? どうしたんだ、あいつ?」 「さあ。何か忘れ物でもしたのよ、きっと。  そんな事より、シロウにはやる事があるでしょう。  拘束を緩めるなんて馬鹿な真似は反対だけど、シロウが約束したのなら手伝ってあげる。さ、リンが戻ってくるまでに済ませましょう」  イリヤは俺の背後に回ると、ぴたり、と冷たい手を背中に押し付けてきた。 「イリヤ……?」 「いいから目を瞑って、シロウが一番得意な瞑想をして。  魔術回路が開いたらこっちでシロウの意識をプロテクトして、聖骸布の拘束を緩めるわ。  タイミングはこっちで計るから、シロウは流れてくる魔力に耐えてるだけでいい。けど、くれぐれも死ぬ気で耐えて。左腕からの反動で、シロウは間違いなく呑み込まれるから」  頷きだけで応えて、ゆっくりと目蓋を閉じる。    ……静かに、速やかに意識を束ね、身体に異なる神経を作り上げる。  たった数日の間に容易くなった擬似神経の作成。  その、背中に走る光の線を完成させた時。   「余計な忠告をするねシロウ。  リンが知ってるのは、英霊の腕を移植された人間の痛みだけよ。だからリンはこれがどういう事になるか判ってない。シロウがどうなっちゃうかも解ってないの。  けどそれも仕方ないわ。  だってシロウとアーチャーの関係を知っているのは、この世でわたしだけなんだから」    よく聞こえない声で、イリヤはおかしなコトを言っていた。  朝。  緩やかに意識が                                                   。 「ん――――………………」  朝。  緩やかに意識が覚めて、緩やかに体を起こす。  時刻は八時を回っていた。  遅刻だ。  学校には行かないから遅刻というのは正しくないが、寝坊した事に間違いはない。 「うわ。朝メシ、作らないと」  起きて着替える。  寝巻きから普段着に着替える時、否が応でも布に巻かれた左腕が目に入る。 「………………よっ」  朝の準備体操、とばかりに左腕を振り上げてみる。  問題ない。  左腕はこっちの命令通り、きちんと肩の高さまで振り上がってくれた。  左腕は日に日に良くなっている。  まだ感覚はないが、この分なら明日には 「なにしてるのシロウ? もう朝ゴハン終わっちゃったよ?」 「え? あれ? あれれ?」  目の前にはイリヤがいる。  居間に行くはずなのに、何を間違えたのか土蔵にやって来てしまっている。 「シロウ、人の話聞いてる? わたし、こんなところで何をしてるのかって聞いてるんだけど?」 「あ―――ああ、聞いてる。おはようイリヤ。今朝は妙なところで会うな」  ……む。  自分でもトンチンカンな受け答えだ、と判断できた。  どうも、自分はまだ目が覚めきっていないらしい。 「シロウ。体の調子、良くないの?」 「え? いや、そういうんじゃない。ただ寝ぼけてるだけなんで、ちょっと待ってくれ」  ふるふると頭を振る。  体はひどく疲れていたが、眠気は完全に払拭できた。 「――――これでよし。ええっとさっきの話だけど、ここに用があったワケじゃないんだ。ちょっと寝ぼけて間違えただけ」 「そっか。うん、それじゃ居間に行こっ。シロウの朝ゴハン、わたしが用意してあげるから」  楽しげに言って、イリヤは庭を駆けていく。  見上げた空は一面の快晴だった。  昨日までの暗い空気を洗い流すかのような青。  大きく深呼吸をすると、冷たくも気持ちのいい空気が肺を満たしてくれる。 「――――ん? イリヤ、いま朝メシ作るっていったのか?」  と。  ようやく本調子になった頭に浮かんだ第一声はそれだった。  イリヤの朝食……楽しみではあるが、同時に強い不安も抱いてしまう。  断言するが、イリヤは台所に立った事もなければ包丁を持った事もない筈だ。 「あー……横にいて監督してやった方がいいんだよな、こういう場合」  チクチクする芝生の感触を堪えて居間へ走る。  そこでまた呆れてしまった。  寝ぼけていたにも程がある。  ほんと、裸足でここまで来るなんて、何を考えてたんだろう……?  イリヤに遅れること四分弱。  土のついた足を拭いて縁側にあがると、 「あ、先輩だ」  ばったり、居間から出てきた桜と鉢合わせた。 「おはよう桜。……その、今朝は悪い。寝過ごしちまって、気付いたら八時過ぎてた」 「――――――――」  ……?  声が聞こえなかったのか、桜はぼーっと俺の顔を見つめてくる。 「桜?」  熱がぶり返したのか、と心配になって手を伸ばす。  と。 「お、おはようございます先輩っ!」  こっちの要らぬ世話だったのか、桜は元気いっぱいに挨拶を返してきた。 「なんだ、朝から元気いいな桜。その分じゃ体の方も調子良いんだ?」 「は、はい、おかげさまでですね、調子はすごく良いです。せ、先輩に元気を分けてもらいましたからっ」 「?」  桜の声は妙にたどたどしい。  ……むう。元気があるのはいい事だけど、落ち着きがないのはそれはそれで不安だったり。 「どうしたんだよ桜。なんかヘンだぞ? だいたい、俺が元気を分けたってなんの話だ?」 「あ、ぅ―――ですから、あの、昨日、」  先輩の部屋で、その、と。  ごにょごにょと、恥ずかしそうに桜は言った。 「――――――――あ」  思い出した。  いや、思い出すも何も、忘れられる筈がない。  俺は昨日、  桜を抱きしめたんだ。  いや。桜に抱きしめられていた、と言うべきか。 「あ――――う」  一気に頭に血が上る。  もう沸点瞬間突破、首から下には血が残ってないんじゃないかってぐらい顔面が真っ赤になる。 「さ、桜、昨日の、アレは」  その、夢じゃなかったんだよ、な?  桜は頬を赤くしたまま、どこか俺を責めるような目で、こくん、と頷いた。 「~~~~~~~~~~」  すごい。  これ以上熱くはならないと思ったのに、まだ顔が熱くなっている。  ……その、昨夜の出来事は……。  衛宮士郎の理性がアレは夢だとラベルを貼って、  記憶の隅に押し込めてしまった――――じゃなくて! 「桜、その。き、昨日は、ごめん」  熱でクラクラする頭を押さえつけて、さっきの桜以上にたどたどしい言葉で謝る。   「―――はい。でも、わたしは嬉しかったですよ、先輩」    こっちがくすぐったくなるような笑顔で、桜は殺人的な返答をする。 「あ――――――――う」  ……やられた。  いま、このまま抱きしめたいぐらい、桜が愛しい。  もしさっきイリヤの顔を見ていなくて、居間からテレビの音なんて流れてきておらず、こんな、   「シロウー? 朝ゴハンできたよー?」    ピンポイントでイリヤの声がしなかったら、朝だろうが激甘モードに突入していたかもしれない。 「そ、そういうワケだから朝メシ食べてくる! こ、この話はまた後でなっ!」  くるり、とロボットのように体を反転させて居間に向かう。  ギクシャクと動く手足を必死に動かして、ともかく頭の中を占領していた欲情を隅っこに追いやった。   「はいシロウ、朝ゴハン!」    居間に入るなり、イリヤがお皿を差し出してくる。  白い食器の上には黒色のトーストと、わりと半熟目の目玉焼きと、キレイにカットされたトマトが盛り付けられていた。 「ん、サンキュ」  まだクラクラしている頭で受け取って、自分の定位置に座って、ガリガリとトーストをかじる。  トーストはともかく、目玉焼きはいい出来だ。見様見真似で作ったのか、桜か遠坂に調理法を教わったのか。  ともかく、これが初めてだとしたら百点をあげないといけない。 「美味い」  ガリガリとトーストをかじる。  イリヤは誇るでもなく喜ぶでもなく、満足そうにこっちの食事ぶりを見つめている。  その幸せそうな雰囲気に折れたワケではないが、トーストの食感が石炭じみているコトを追及するのは止めておいた。  だって実際美味いし。  黒いだの硬いだのは、まあ個人の趣味嗜好の問題だ。 「問題あるわよ。そんな焦げっちいの食べてると体壊すわよ、アンタ」 「ばかめ。米にしろパンにしろ、この焦げ目が美味しいんだ」 「……ちょっと。衛宮くん、頭平気?」 「だから美味いって。あと、乱暴でもいいらしいんだ」 「本格的に寝ぼけてるのね。……あのね、そんな呑気なコト言ってる場合じゃないんだけど」  くい、とテレビに視線を移す遠坂。  テレビには電源が入っていて、朝のニュースを流していた。    ―――デジャヴュだろうか。    せわしなく流れているニュースの内容が、とっくの昔に見たような気がして―――急速に、緩みきった思考が締められた。    画面に浮かぶテロップ。  昨夜未明、新都方面で起きた昏睡事件。  一夜にして意識を失った住人たち。  今まで多発していた原因不明の集団中毒と同一視されるそれは、しかし今までのモノとは何かが違っていた。  被害範囲、実に直径五十メートル。  今まで一つの建物でしか起きなかったソレは、ここにきてその被害範囲を飛躍的に広げていた。    ……だが、問題はそれだけじゃない。  報道の最後。  いまも病院に運ばれている、三桁を超える被害者たちの横に、行方不明者という表記が加えられていた。 「遠坂、これ」 「そう。行方不明者十四名。調べればもっと増えるだろうけど、とりあえずは全体の十分の一って事で落ち着きそうね、完全に呑まれてしまった人間は」 「――――――――」    意識が凍る。  俺は、無意識に     「わかった? これが臓硯の仕業かあの影の仕業かは判らないけど、どっちにしたって今までとは段違いの犠牲者が出た事に変わりはない。  この分でいけば、数日後には一区画まるごと呑み込まれかねないわ」      布で巻かれた左腕を、強く握り締めていた。 「――――遠坂。行方不明になった人たちは」  殺されたのか、と確認する。  遠坂は言葉にせず、視線を逸らす事で是と頷いた。 「……話はここまでよ。士郎の気持ちは分かるけど、罪悪感は後にして。  いい、あいつらはわたしたちに手がないと思ってやりたい放題やり始めた。わたしたちを甘く見てるからこんな馬鹿げた事をしてるのよ。  なら、舐められてるわたしたちが何をするべきか、確認するまでもないでしょう」  遠坂は静かに席を立つ。  ……行き先は一つだけだ。  遠坂は俺を促すこともせず、一足先に道場へ向かっていった。   「――――さて」  二人を道場に残して中庭に出る。   「どういうつもり桜。体が悪いんだから、大人しく部屋で休んでいるんじゃなかったの」    気遣いの言葉もなく、遠坂凛は冷たい視線で目前の少女を見下ろした。   「……………………」  凛に見据えられ、間桐桜は不安げに視線を落とす。 「――――――――」 「――――――――」  二人の間に言葉はない。  凛は容赦なく部外者である桜を咎め、  桜は姉に対する負い目と劣等感から、自ら発言する気力を削がれている。   「桜。衛宮くんが心配になって見に来たのなら戻りなさい。それだけの理由なら、わたしも見なかったコトにしてあげるから」 「っ…………」  桜の体がわずかに震える。  姉は辛辣だった。  間桐桜が背負った不安と負い目を知った上で、容赦なく少女を追い詰める。   「違います姉さん。わたしは、ただ」  凛に気圧されながらも、桜は全身に喝をいれて、自身の理想である姉と視線を合わせた。  が。   「説明は不要よ。わたしは部屋に戻れって言っているの。  ここで何を言われようが、貴女を道場に入れる事だけはしないから」    凛は一言で斬り伏せる。   「そんな―――中に入れないって、どうしてですか」 「どうしても何もないわ。マスターとして行動する時、わたしたちにとって貴女は敵でしかないだけ。  いい桜。戦闘に参加せずライダーでこの家を守ろうが、貴女が臓硯の手駒である事に変わりはないの。そんな相手の前で鍛錬なんて出来るワケないでしょう」   「――――――――」  冷徹な声に桜は立ち尽くすしかない。  遠坂凛は本気でそう思っているのだ。  衛宮士郎と違い、姉はいつ自分が間桐臓硯の手に落ちて敵に回るかを危惧している。    ……いや。  彼女はきっと、自分が敵に回ると極め付けてさえいるのではないか。   「………………」  悔しさで唇を噛む。  凛の言う通り、間桐桜はいつ間桐臓硯の手に落ちるか判らない身だ。  日に日に体は言うことを聞かなくなり、記憶もバラバラになりつつある。  唯一休めた睡眠さえ、このところは怖い夢ばかりで安らげない。  ……そんな自分は、確かにいつ理性を失ってもおかしくない。   「そういうこと。なによりそんな魔力不足の体でうろつかれちゃ迷惑よ。  今の貴女はいつ倒れるかわからない。ま、今は落ち着いているようだから倒れたりしないだろうけど、無理をすればするほど衛宮くんが心配するわ。  ……そうなれば彼、今以上に追い詰められるわよ。それは貴女も望むところじゃないでしょ、桜」   「………………」  凛の言い分はまったく正しい。  桜は自分の無力さに唇をかみ締めたまま、なお深く頭を下げた。   「判ってくれた? なら早く戻りなさい。お昼になったら呼びに行くから、それまでちゃんと休んでること」  こくん、と小さく頷く。  凛は妹である少女に背を向ける。    貴女は邪魔だ、と。    立ち尽くす間桐桜に告げるように。   「ま……待って、待ってください姉さん……!」 「なに? まだ何かあるの、桜」 「はい。姉さんの話は判りました。わたしも部屋には戻ります。  ……けど、ちゃんと聞かせてください。姉さんは先輩に何をさせる気なんですか。  姉さん、先輩はもう戦えないって判ってるんでしょう?  なのに今日も先輩を呼び出して、これ以上なにをさせようって言うんです……!」   「――――――――」  立ち去ろうとした背中が止まる。   「何って、魔術講座よ。このままじゃ臓硯にもセイバーにも、あの黒い影にも勝てないでしょ。  だから士郎にはアーチャーの腕から魔術を引き出してもらう。アーチャーの腕は経験値の塊だからね。聖骸布の拘束を緩めれば、士郎が眠っていても一方的に経験値が流れ込んでいって、強引にレベルアップさせられるでしょ」   「な――――」  それがどれほど無謀な試みであるかなど、間桐の魔術師である桜には語るまでもない。  姉のしようとしている事は、ただの拷問だ。  衛宮士郎という十の容量しか入らない器に、絶え間なく百の燃料を流し込ませるようなものである。  入りきらないガソリンは当然こぼれ、たとえ一万もの経験を注いだところで、容器に残るのは十の経験だけ。    そんなものは、ただ苦しいだけだ。  衛宮士郎が得るものは、味わった苦痛の一割にも満たないだろう。  いや、なにより―――それは、通常の精神で耐えられるものではない。  大津波に泥人形を向かわせれば、人形は跡形もなく崩れ去る。  あの聖骸布を緩めるとは、つまりそういう事なのだ――――   「無茶です、そんな事を続けたら先輩の体が保たない……!  ううん、それだけじゃない! 先輩は姉さんを信じています。信じてるからそんな無茶なコトだって受け入れる。  けど、そんなコトをしていたら結局―――最後には姉さんの一言で、あの布だって外してしまうに決まってます……!」   「――――桜」  視線は下げず。  桜は真正面から、己が理想である姉を凝視する。   「……そうね。けど桜。わたしが言わなくても、あいつは自分から聖骸布を外してたわ。さっき話しててそれがわかっちゃった。  ……ほんと、どうかしてるわ。わたしがどんな風に忠告してもね、きっと最後にはなんでもないコトみたいに外しちゃうのよ、あいつ」   「え……姉、さん?」 「そう。それが判るから、そんな事をしなくてもいい方法を提示するしかなかった。  外さなくてもなんとかなるって知っていれば、あいつだってギリギリまで我慢するでしょ。だからわたしの役目は、そのギリギリのうちに戦う道具を作らせること。  それが終われば士郎を休ませる。閉じ込めてでも大人しくさせて、聖杯戦争が終わるまで戦わせないわ」   「――――――――」  姉の言葉は真実だ。  遠坂凛は遠坂凛として、出来る限りの心遣いをしてくれている。  ……けど、それは遠坂凛としての心。  同じ、古い家系の後継者である桜には、それ以外の心も判っている。   「姉さん。姉さんが先輩を案じてくれているのは分かります。  けれど、姉さんはそれだけです。もし今の方法でお爺さまを倒せないと判れば、姉さんはきっと使う。  貴女は遠坂の魔術師ですから。勝つ為……魔術師としての規律を守る為なら、姉さんは先輩を道具として使う人間です」    それは問いではなく、ただ事実を告げる言葉だった。  遠坂の後継者は一度だけ目蓋を閉じ、   「――――ええ。今の方法が失敗して、臓硯とあの影が昨夜のような凶行を繰り返すなら―――士郎にはアーチャーの腕を使ってもらう。彼一人の命で済むのなら当然でしょう」    堂々と、胸を張って宣言した。   「……そんなの勝手です。先輩は初めから聖杯なんて欲しがっていなかった。マスターになったのだって偶然じゃないですか。なら、もうこれ以上無理やり戦わせるなんて、間違ってます」 「――――はあ。何か勘違いしてるみたいね、桜」   「いい。わたしは士郎に無理強いなんてしていないし、そもそも本当なら士郎に発言権はないの。士郎はわたしのアーチャーから腕を貰って一命を取り留めた。その後もあの腕に耐えながら受け入れている。  なら、その時点であいつの命はわたしのモノでしょう。  士郎にあの腕があるかぎり、あいつはわたしのアーチャーなの」   「わかる? この戦いが終わるまで、士郎はわたしの使い魔ってコト。  桜に口出しされる謂れはないわ。わたしはあいつが戦いを望む以上、全力で力を貸すし、貸してもらうだけなんだから」 「っ………………」    返せない。  威圧と自信を持って断言する姉に、少女も何一つ返せず、ただ呆然と佇むだけだ。   「―――話はそれだけ? じゃあ部屋に戻りなさい。ここにいられたら迷惑だって言ったでしょう」    背を向け、遠坂凛は道場に戻っていく。  その後ろ姿を、少女は遠い風景のように見つめている。    ……慣れているはずの中庭が、広い。  周囲には何もなく、手に届くものすらないような錯覚。  その、偽りの孤独の中で、     「―――そう。先輩まで獲っていってしまうの、姉さん」      感情の欠けた声で、少女はぼんやりと呟いた。  と。  いつの間に戻ってきたのか、すぐ目の前に遠坂の顔があった。 「――――あれ? なにやってんだ、遠坂」 「                      」 「                      」 「        なんでしょうね、様子      じゃないの?」 「     それより       お昼は     リンとサクラの    サクラの方が     」 「…………」  ……おかしいな。  二人とも、なんだって目の前で内緒話なんてしてるんだ。 「遠坂、イリヤ」  ……?  喉の調子がおかしいのか、大きな声が出ない。 「む……せーのっ…… おーい、なに話してるんだ二人ともー!」  ピタリと二人の内緒話が止まる。 「あー。あー、あー」  お、元に戻った。  どうも、大声を出して喉の通りが良くなったらしい。 「なによ、さっきまではわたしの味付けも新鮮だとか言ってたクセに。士郎、辛いの苦手ってコト?」 「リンのは辛いんじゃなくて痺れるのよ。  もうお昼はサクラに任せるって決まったんだから、いいかげん諦めなさいよね。シロウだってサクラのシチューがいいって言ったんだから」  二人は昼食について話し合っているようだ。   「あのな。今はそんな場合じゃな――――」    いだろう、と言いかけて止まった。  ふと視界に入った時計は、もう十二時になろうとしている。 「――――――――」  ……何かひっかかる。  そうおかしなコトなどない、いつもの道場だというのに酷く寒気がする。  それが、    遠坂が出て行ったのは九時過ぎ               頭の中に知らない知識  いまから食材を            二人の会話に受け答えをして        そういえば何か  頭には 既に 全ての武器の詳細    が     イリヤが、気がかりなコトを        あの、真っ白な腕の痛みで  たしか四十とんで二十六回          記憶が消えて、元に戻った。 「――――――――」  コツコツと額を指で叩く。  大丈夫。  とりあえず、目眩は治まってくれている。 「士郎? どうしたの、イリヤと商店街まで買い物にいくんでしょ?」    記憶を探る。  少し眉間に皺をよせると、確かに自分から、イリヤと買い物に行くと言ったのを思い出した。 「ああ。じゃ、行こうかイリヤ」  頭を振って歩き出す。 「……ちょっと。なんかヘンよ貴方。聖骸布を戻した時は元気だったけど、今になって疲れが出たとか?」 「ん? あー…………そうだな、たしかに少し混乱してる。けどまあ、大したコトないぞこんなの」  昨夜の痛みに比べたら取るに足らないし、体の調子もいい。  ほんの少し目眩でぼんやりしていただけなんだから、問題なんてある訳がない。  イリヤと連れ立って外に出る。  そう頻繁に買い出しにいける余裕はないし、無理して三日分ぐらい食材を買い込んでおかねばなるまい。 「それじゃあ派手に買い込むか。イリヤは何がいい? さしあたっては昼メシのメニューだけど」 「あれ、お昼はシチューじゃないの? シロウ、さっきそう言ってたけど」 「あ―――ああ、そうだった。ま、決まってるならハッキリしてていい。桜のシチューっていったらホワイトだから、鶏肉を見にいこう」  馴染みの精肉店に足を向ける。  なにしろ三日分の食材なのだ。  お金は無駄遣いできないし、出来るだけ安くいいモノが手に入れられるなら足を使わなくては。    ―――で、駆け足で商店街をはしごすること三十分。 「あは、いっぱい買ったねシロウ!」  買い物中はつまらなそうにしていたのに、いざ荷物を持つと楽しそうに笑うイリヤがいた。 「―――悪い、買いすぎた。イリヤ、そっち重くないか?  こっちの袋のが軽いから取り替えよう」  手にした七つのビニール袋のうち、一番軽いものを差し出す。 「ううん、重くないから大丈夫。  それよりもういっこ持とっか? シロウ、いっぱい袋下げててブドウみたいだよ」 「いや、俺も平気なんだけど。葡萄ってのはまた、すごい例えだな」 「うん。ほんとは風船もったピエロみたいだけど、ブドウの方がカワイイでしょ?」  楽しげに言って、イリヤはたたーっと商店街を駆けていく。 「ちょっ、待てってばイリヤ。重くはないけど、走るのは流石にきついんだって」  重量的にではなく、こんだけ詰め込むと卵や豆腐が崩れそうで恐ろしい。  恐ろしいので、溜息をつきつつ早足でイリヤを追う。  これが買い出し部隊を任された自分にとっての最大の譲歩である。  ……そんなワケで、荷物に気を遣いながらドタドタとイリヤを追っていく。  そんな俺がお気に召したのか、  イリヤは妙に楽しそうだった。    商店街を抜けて交差点に出ると、イリヤは走るのを止めてピッタリとついて来た。         「♪~Die Luft ist kühl und es dunkelt,    Und ruhig fließt der Rhein.    Der Gipfel des Berges funkelt    Im Abendsonnenschein~♪」  スーパーの買い物袋を手に、イリヤは歌を口ずさんでいる。  どこか聞き覚えのあるメロディ。  子供の頃、こんな歌を学校で聴いた気がする。         「♪~Die schänste Jungfrau sitzet    Dort oben wunderbar.    Ihr goldnes Geschmeide blitzet,    Sie kämmt ihr goldenes Haar~♪」  並んで歩いているから、イリヤの表情はわからない。  どんな顔で歌っているのか、  どんな気持ちで帰り道を歩いているのか、  俺には確かめる術がない。       「♪~Den Schiffer im kleinen Schiffe    Ergreift es mit wildem Weh.    Er schaut nicht die Felsenriffe    Er schaut nur hinauf in die Häh~♪」  懐かしいメロディ。  素朴な曲は優しく簡単で、だからこそ淋しげだった。  ――――イリヤはきっと喜んでいる。  だからこんなふうに、歌を口ずさみながら帰路についている。  そう思う反面、こうも思ってしまった。  歌を口ずさむのはイリヤにとって当たり前の事だ。  帰り道に話すべき相手もなく、家で待っている父親もいなかったイリヤに出来る事は、こんなふうに、誰に聞かせるでもなく、歌を口ずさむ事しかなかったのではないかと。         「♪~lch glaube, die Wellen verschlingen    Am Ende Schiffer und Kahn    Und das hat mit ihrem Singen    Die Lorelei getan~♪」  道路の端。  背の高いカーブミラーを見上げる。  そこに映っているのは、たくさんの荷物を持った自分と、夢でも見ているように、目を閉じて歌っている少女の姿だった。 「――――――――」  なんていうことはない。  それはなんていうことのない、買い物帰りの兄妹の姿だった。  それがあまりにも自然すぎて、不覚にも夢想した。    ……荷物を持った若造と、弾むように帰路につく少女の間に。  もし切嗣がいたら、それはどんなに、幸せなコトだろうと。 「イリヤ」  呼び止める。 「ん? なにシロウ?」  無邪気に振り返る姿。  ……それは、彼女が彼女の本心を殺しているからだ。  イリヤは自分の心を殺している。  アーチャーが消えてから、イリヤはある事をずっと押し殺している。  だからこそ、こんなふうに触れあえる。  だって、ホントウの気持ちを隠さなければ、イリヤはこんなふうに笑えない。 「――――――――」  それは俺も同じだ。  もうとっくに判っていた事を、ずっと後回しにしていた。  言わなくちゃいけない事から目を逸らしていた。  イリヤがそうしてくれたから、俺もその嘘に乗っていられた。 「……シロウ?」  ……イリヤは、きっと諦めたのだ。  その問題を突きつける事を止めて、俺たちの終わりに付き合ってくれている。  ならそれでいい。  イリヤが今の関係を良しとして無視してくれるなら、それで誰も失わずに済む。    だが、それでも、   「イリヤ。この戦いが終わった後、もし帰るところがないんなら―――」    俺は、おかしい。  言わなくてもいい事を言おうとしている。  でもちゃんと、こうしていられる内に言っておかないといけない。    ……俺は、おかしくなる。  おかしくなるから、ちゃんと。   「イリヤ。このまま、〈家〉《うち》で暮らさないか」    この頭がどうにかなる前に、イリヤに言っておかないと。  ……足が止まる。  イリヤは、感情のない声で   「それはキリツグの息子として?」    静かに俺の顔を見つめてきた。 「――――――――」  切嗣の息子。  切嗣が出来なかったこと、切嗣が捨て去ったもの。  俺は衛宮切嗣の息子だから、血が繋がっていなくても息子だから、その責務を引き継がなくてはならない。  衛宮士郎の意思ではなく、衛宮切嗣の息子として、目の前の少女と対決しなくてはならない。  イリヤが問うているのはそういう事だ。  ああ、そんなのは勿論―――― 「ああ。俺は〈切嗣〉《オヤジ》の息子で、イリヤが好きだ。一緒に暮らしたい理由はそれだけだ」 「―――本気? シロウがキリツグの代わりをするの?」 「いや。俺じゃあ切嗣にはなれないし、切嗣の代わりもできない。俺と切嗣は別の人間だ。切嗣としてイリヤに返せるコトなんて、俺にはない」 「けど俺は〈切嗣〉《オヤジ》が好きだ。〈切嗣〉《オヤジ》に出来なかった事を果たしてやりたい。  だから、イリヤが切嗣を憎む心の中に、少しでも許してやってもいいって気持ちがあるんなら――――」 「――――――――」 「俺はイリヤと一緒に暮らしたい。  今まで出来なかった分、これから取り返していくのはダメか。今のままでいいから、イリヤと一緒に暮らしちゃいけないのか」  ……答えはない。  イリヤは俯き、わずかに首を横に振ったあと。   「それは無理だよ。わたしは長生きできないし、シロウも長生きなんてできない。だから一緒に暮らすなんて出来ないわ」    華のような笑顔で、拒絶の言葉を口にした。 「―――長生き、できない?」 「そんな事もう判ってるでしょシロウ?  ……ええ、どっちかがどっちかを犠牲にすれば、少しは生きられるかもしれない。けど二人いっしょは無理だと思う。この戦いが終わった時、わたしが生きてるってコトは、シロウはもういないってコトだもの」 「ほら、だからできないの。シロウがいないエミヤの家には、わたしの居場所はないんだから」 「――――――――」  イリヤの言葉は確信に満ちている。  銀髪の少女は予言者のように、そんな、不吉な運命を口にした。 「……えへ。でもちょっと残念かな。いまの言葉、もうちょっと早く言ってくれたらよかったのに。  そうしたら……うん、そうしたらほんの少しだけ、運命は変わっていたかもしれないから」 「――――――――」  イリヤの言う事は判らない。  俺かイリヤのどちらかが死ぬという事も、そんな事を笑顔で口に出来る諦めも。 「―――馬鹿言うな。そんな事にはならない。  臓硯がイリヤを狙っていようと、その前に俺たちで臓硯を倒す。イリヤだってその為に、遠坂に協力してくれてるんだろう」 「……そうね。けどそれが問題なの。  これはリンには黙っていてねシロウ。  宝石剣の投影。遠坂の遺産を複製する事は、リンの方法じゃ出来ないの」 「だってシロウの投影は投影魔術じゃないんだもの。  普通の投影魔術なら、ある程度オリジナルに似せた物に“投影”を重ねて“補強”する事はできる。  けどシロウの投影は違うわ。シロウは一から十まで全部を自分のイメージで作らないとカタチにできない。  だって―――貴方の魔術は投影じゃなくて、自分の心を具現化するものなんだから」 「な――――イリヤ、どうして」    その事―――アーチャーの魔術が、“心のカタチを具現化するモノ”だと知っているのか。 「……だから無理なの。リンが必要としているモノを作るには、シロウはアーチャーの腕を使うしかない。けどそれがどういう意味なのか、シロウはもう判っている。  ……さっきみたいな一時的な記憶の欠損なんかじゃすまされない。一度でも使えば、シロウはもうシロウでいられなくなる」 「シロウは自分のこと、桜のこと、わたしのことでいっぱいいっぱいで、ちょっと混乱してるんだよ。  だから今の誘いは忘れてあげる。  シロウだって判ってるでしょ? ぜんぶを選ぶことはできない、助けられるのは一人だけなんだって」  イリヤは背を向けて坂道を上っていく。  懐かしい歌はもう聞こえず、耳にはイリヤの言葉だけが残っていた。   「あ」    台所から甲高い音が響く。  聴きごこちの良くない〈音〉《それ》は、夕方になってもう四度目だ。 「ご、ごめんなさい、大丈夫ですから……!」    台所から桜の声。  ……もう注意するのも飽きたのか、遠坂は眉間に皺を寄せたまま黙っている。  時刻は六時前。  一日の締めとなる夕食は、本人たっての希望で桜が作る事になった。  俺と遠坂は厨房から追い出され、こうしてやる事もなく夕食を待っている。 「あ……!」    ……食器の落ちる音。  それはたった半日の間に馴染んでしまった、桜の失敗の音だった。    ……話は昼まで遡る。  イリヤとの買い出しの後、桜はシチューを作れなかった。  俺とイリヤの帰りを居間で待っていた桜は、明らかに体調が悪かったからだ。 「大丈夫です。たしかに熱っぽいけど、お昼ごはんぐらい作れます」  そう言う桜は、たしかに昼食ぐらいは作れただろう。  が、明らかに熱がある桜に無理はさせられない。  どうしても作りたい、という桜を俺と遠坂で説得して寝かせつけたのが午後二時過ぎ。  その時の約束が、 「じゃあ、熱が下がっていればお台所に立っていいんですよね?」  というものだった。  そうして夕方。  朝と同じ、いつ終わったのかよく判らない練習を終えて居間に戻ると、そこには夕食を作り始めている桜がいた。 「あ、お疲れさまです先輩。待っててください、すぐお夕飯にしますから」  桜は元気よく調理を再開する。  それは一目でやせ我慢だと判る強がりだ。 “疲れているんだから休んでいろ”  夕飯は俺か遠坂が作るから、と言ったところで、桜は引き下がらない。 「もう。先輩も姉さんも、あんまり過保護にしないでください。わたしだってマスターです。これぐらい、戦うことに比べたらなんてコトないんだから」  意地になっているのか、何を言っても桜は引き下がらなかった。  あまつさえ、俺と遠坂―――とくに遠坂の手だけは絶対に借りない、と強く拒絶したのだ。  遠坂の驚きようは、俺と桜が驚くぐらい意外だった。 「だ……だって、姉さんは先輩を鍛えてくれているでしょう? なら、わたしだって役立たずじゃいられません。  わたしも姉さんみたいに何かの役に立ちたい。  ……それに。これはわたしが今まで受け持ってきた役割だから。これだけはずっと、わたしが受け持っていたいんです」  ……それは、桜にとってどうしても譲れない事柄だったんだろう。  どんなに体が重かろうと、今まで当たり前のようにこなしていた事が出来なくなるのは、不安以外の何物でもないんだから。 “わかった。夕飯よろしくな、桜”  遠坂はムキになって非難してきた。  だが、そんなものは、   「――――はい! 頑張ります先輩!」    桜の喜びの前では、これっぽっちも気にならなかった。 「はい、長らくお待たせしましたー!」    明るい声が食卓に響く。  桜は自信満々な体で、テキパキとテーブルに料理を並べていく。 「お、炊き込みごはん。手が込んでるな桜」 「はい。先輩がいいアサリとエビを手に入れてきてくれたので、今夜は海鮮でまとめてみました。  ごはんはアサリの炊き込み、エビは包み蒸しにして、イカはエスニック風に仕上げて、とどめにイリヤちゃん対策でハンバーグまで完備したのです」  えっへん、と胸を張る。  会心の作らしく、並べられた料理は確かに今までの料理とは輝きが違っていた。  決め味はおもに気合と思われる。 「「おー」」  パチパチパチパチ。  思わず拍手をする待たされ三人組。 「一時はどうなるものかと思ったけど、我慢した分の見返りはありそうね。じゃ、ありがたくいただきます」 「わたしも遠慮なくいただくわ。シロウ、そっちのフォークちょうだい」 「はいよ。と、それじゃ俺も失礼していただきます」 「はい。おかわりありますから、いっぱい食べてくださいねー」  深々とお辞儀をして、エビの包み蒸しに箸を運ぶ。  一口サイズの包み蒸しは、パッと見小エビをまるまる使ったシューマイに近い。  カタチは美しく、一緒に盛り付けられた葱と生姜とかいわれ菜のバランスも絶妙。  桜一人に四人分の食事を任せるのは不安だったが、これなら文句なしってもの―――― 「――――――――」  ……箸が止まる。  顔をこわばらせたのは、俺も遠坂もイリヤも一瞬だっただろう。  俺たちは気付かないフリをして、黙々と箸を進めた。  ……進めるしかなかった。  口に運ぶ色とりどりの料理は、そのどれもがチグハグだった。  不味いという訳じゃない。  ただ、どの料理も微妙に一味欠けた、バランスの悪い味付けだっただけだ。 「――――――――」  気まずい沈黙。  俺たちは何を言いあうでもなく、視線を逸らして夕食を進めていく。  ……それでも、ごまかし通すのは不可能だろう。  調理したのは桜だ。  口にすれば自分の料理がおかしい事に気がつく。  俺たちの沈黙は、桜が料理を口にするまで問題を先送りにしたにすぎない。 「――――――――」  桜に視線をあげる。  ……もう桜も気付いている頃だ。  ショックを受けて愕然としているだろう桜は、    まだ、一口も食べていなかった。 「?」  気付かれないように様子を見る。  ……どうしたんだろう。  桜は困った顔で自分のお茶わんと箸を見下ろしている。  ……躊躇ってから、意を決して箸に触れる。  こと、と音をたてて箸が落ちた。  あわてて箸を握って、取り繕うようにお茶わんに手を伸ばす。 「――――――――」  それは、正視できるものじゃ、なかった。  ……桜は何度も同じ事を繰り返す。  不器用な指使いで、恐る恐る料理に箸をあわせていく。  その度に箸は落ちて、また慌てて拾い上げる。  ……指の自由がきかない、なんて事じゃない。  そのぎこちなさは、ほんの数秒前まで覚えていた箸の使い方を、毎回毎回忘れてしまっているとしか、見えなかった。 「あ……あ……、と……」    ……見えていない。  そんなコト、すぐにバレるって分かるはずなのに、桜には俺たちが見えていない。  自分はいつも通りだ、と訴えるように、何度も何度も同じコトを繰り返す。  ……ぎこちない箸で恐る恐る料理をつまんで、なんとか口に運んで、ようやくごはんを一口食べて、また、忘れてしまった箸の握りを、一から思い出している。    その必死な姿に、大丈夫か、なんて声をかけられる筈がない。  遠坂は気付かない。  気付かないフリをして、黙々と食事を続けている。 「――――――――」  それは俺も同じだ。  俺たちは桜の異状に気付かないフリをして、無言のまま夕食を終わらせた。    夕食の後片付けは俺がやる事にした。  桜は懸命にやりたがったが、非情に徹して跳ねのけた。  どう見ても今の桜に食事の後片付けはできないと思えたし、それに―――さっきのように、今まで出来たコトが出来なくなっている、と桜に知ってほしくなかった。 「いいから部屋に戻って、ちゃんとあったかくして寝てろ。ほら、昼だってあんなに熱があったけど、寝てたら引いたんだろ。なら今度だって」  横になって体を動かさないようにすれば、指先の自由が元に戻る、と。 「――――――――」  そう言いかけて、不自然に言葉を切った。 「……………………」 「……………………」  桜は辛そうに唇をかんで、視線を逸らす。 「桜。別にこれからずっとってワケじゃない。調子が悪い時に無理をしたら治るのが遅れるだけだ。  桜が悪いわけじゃないんだから、しばらくは甘えていていいんだぞ」 「そ――――そんなコトありません……! わたし、どこも悪くなんかないんです!  熱だって下がってるし、ちゃんと昨日のコトも覚えてるし、先輩の顔だって判ります……! わたしは今まで通りで心配されるようなコトなんかない。ないから、そんな風に心配されなくても、ちゃんと――――」 「……心配されなくても大丈夫、か? 馬鹿言うな。桜がそうやって無理をするなら、俺もハッキリ言うぞ」 「夕食の準備に二時間もかけた。不注意で七回も食器を落とした。おまけに味付けだって失敗してた。  塩加減はまるっきり出来てないわ胡椒は効きすぎだわ、桜の料理とは思えない。張り切るのはいいけど、結果が出ないようじゃ逆効果だろう」 「――――――――」 「分かったか。桜は元気なつもりでも、小さなところで熱が残ってるんだよ。そうでもなきゃ桜があんな失敗するもんか。  ……言っとくけど俺は怒ってるからな。明日から厨房には立たせない。完全に治るまでは無理なんてさせないから、大人しく眠ってろ」  桜の答えを待たず、手を引いて客間に向かう。  桜の足取りは重かったが、無視して部屋まで連れて行った。  玄関では遠坂が待っていた。  時刻は夜の十時。  無駄と判ってはいるが、夜の巡回をする時間だ。 「……早かったわね。で、桜は?」 「一応寝かしつけてきた。なんだかんだ言っても疲れてたんだろうな。ベッドに横になった途端、すぐ眠ってくれた」 「そう。じゃあ後の事はイリヤとライダーに任せましょう。姿は見えないけど、ライダーは屋敷のどこかで桜を警護してるだろうし」 「……………………」  遠坂の言う通り、ライダーは桜をずっと守っている。  実体化しないのは桜に負担をかけない為だろう。                『おそらく、あと数日も保つまい』  ……神父の言葉を思い出す。  桜は聖杯戦争が継続している限り、体内の刻印虫に魔力を食われ続ける。  そんな体でサーヴァントを実体化させるのは危険だし、いざという時にライダーが戦えなくなる。  それを踏まえてライダーは霊体のまま、屋敷のどこかに潜んでいるんだろう。 「暗い顔ね。何か言いたい事でもあるの?」 「え――――?」  言いたい事……?  馬鹿なことを。そんなの、有るに決まっているじゃないか。 「遠坂。今晩のうちに、臓硯を倒せないか」    時間に猶予なんてなかった。  桜は日に日に弱ってきている。  神父の言葉を信じるなら明日にでも、桜は終わりを迎えるかもしれない―――― 「無理よ。今のわたしたちじゃ相手にならない。  ……焦るのも判るけど、桜を助けたいのなら今は我慢なさい。わたしたちが倒れたら、それこそ桜は助からないわ」 「―――今はまだ戦わない。……ああ、それは判る。けど、それなら」 「巡回の意味がないって言いたいの? 士郎。わたしたちは臓硯さえ倒せればいいの? 違うでしょ? 聖杯戦争に巻き込まれて、無関係な人間が死ぬことが許せないんじゃなかったの?」 「――――――――」  ……そうだ。  判っている、判っている。  夜の巡回は意味がある。出会ったところで逃げるだけだが、それでも、昨夜のような犠牲者を出さない為にも、俺たちは出来る事をしなくちゃいけない。    ……けど、俺は。  その誓いより、何を守ると誓ったんだっけ―――― 「……士郎……? ちょっと、大丈夫衛宮くん……?」 「―――いや、少し目眩がしただけだ。それよりすまん遠坂。今のは考えなしだった」 「いいわ、別に謝らなくても。桜も危ないけど、貴方だって疲れてるんだもの。  本当はね、今日の投影は三日に分けて習得してもらう筈だったのよ。それを今日だけで成功させるぐらい頑張ったんだから、今すぐ戦いたいって気持ちは分かるし」 「――――――――え?」    今日だけで、投影が使えるようになった……? 「どうしたの? なにかおかしなコト言った、わたし?」 「―――いや、その。今日の鍛錬はきつくて、耐えるのに精一杯だったから。実感が湧かないみたいだ」 「そうね、無我夢中って感じだったもの。けどその甲斐あって、最後には一回だけ短剣を投影できたじゃない。  ま、いまのところ成功率は一割以下だから、これから要修行ってコトだけど」 「――――」  ……まあ、無我夢中だったのならそんなものか。  気がつけば夕方になっていた事も、集中し過ぎて時間の感覚が麻痺していたんだろう。    ―――その異常に気づいたのは、〈町中〉《まちなか》に下りてからだった。  遠坂も気付いたのか、口を閉ざしてあたりの気配を探っている。  いつもと同じ風景。  午後十時を過ぎた町並みは暗く、静かだ。  道には人影がなく、音という音が絶えている。  ……聖杯戦争が始まってから見慣れた、静まり返った夜の空気。    だが、それは。 「――――――――静かね」    傍らで小さく、遠坂が呟く。  ……そう。  彼女の言う通り、ここは静かだ。  ここ数日、夜になれば町は廃墟のように静まり返っていた。  それ以上はない静寂、それ以上はない眠りだった。  だというのに。  今夜の静けさは、その、上回る筈のない静寂を、容易く通り超していた。 「……ねえ。あっち側って昨日もああだっけ。家の明かりはおろか、街灯まで真っ暗だけど」  遠坂は柳洞寺に続く道を睨んでいる。  新都とは正反対になる、郊外一歩手前の町並み。  そこは一切の明かりがなく、ここから見ると黒い壁そのものだった。 「――――――行こう」  それだけ言って、暗い町並みへ歩き出した。  遠坂は無言だ。  ……たぶん、これは考えるまでもない事だった。  俺も遠坂も、何が起きたのかは判っている。  矛盾した話。  行ってしまえば認めざるを得なくなると判っているクセに、否定したい一心で歩を進めた。 「――――――――っ」  それを目の当たりにした時、感じたものはなんだったのか。  この先には何もない、と言うかのような黒い壁。  それを抜けて見知った町並みに踏み入った瞬間、この一帯で何が起きたのか、理解した。  町は静かすぎた。  眠りについた、なんていう〈比喩〉《レベル》じゃない。  ここは人の気配が途絶えた完全な無。  眠りではなく、もう“何も生きていない”という、死がもたらす完全な静止だった。  目眩がする。  町並みに変化はない。  ここ周辺――――おそらく五十軒ばかりの家々は、なんの変化もなく夜に沈んでいる。  玄関を破られた形跡はない。  窓を割って中に侵入したモノなどいない。  壁をはがし屋根をはがし、〈建物〉《なか》にあるモノをごっそりと拾い上げていったクレーンも、当然ない。    それらと同じく。  百人以上は居た住人の気配も、ただの一つとして在り得なかった。 「――――衛宮くん。そこの家、入ってみましょう」    手袋を嵌め、遠坂は身近な家屋に侵入する。  表札を通り過ぎる。  玄関を開ける。  廊下を歩く。  一階を回って階段を上がり二階を調べ、〈何も無い〉《・・・・》事を確認して外に出た。 「――――停電している家にいた人は」    もういない、と遠坂は口にした。  夜に沈む町並みはいつも通りだ。  建物は傷一つなく、死体など何処にも無い。  夜が明ければ誰も異状に気がつかない、完璧なまでの清潔さ。  だというのに、  この周囲が、あの時以上の荒れ野に見えた。  あれから数軒回ってみたが、惨状は全て同じだった。  建物には何の損傷もなく、中にいた人間だけがいない。  残っていたものは胸焼けがしそうな魔力の残滓だけだ。    建物という建物、道という道、地面という地面。  そこにベッタリと張り付き、いまだ〈色〉《カタチ》さえ残っていた黒い残像。  それが―――あの清潔な惨状を引き起こしたものだと、口にするまでもなく判っていた。 「――――――――」  目眩がする。  胸がムカついて吐きそうだ。  死体のない死体。  流血のない流血。  影に食われた無人の町並み。  その中をそぞろ歩いて、どうして、  まったく関係のない映像が、脳裏に浮かんでしまうのか。  ……だが、それは無関係じゃない。  ここでそれが思い浮かぶ以上、無関係である筈がない。   “――――止めろ”    思い出せ。思い出せ。  おまえは知っている。この気配、この匂いを知っている。  あの時もそうだ。  初めてあの怪異を目の当たりにした時、おまえは何を想像した。   “――――気付くな”    それと同じだ。  いや、アレよりもっと重いものが、この一帯を襲っただけ。 “――――違う”    あの時もそうだ。  どうしておまえはあの時、    そんなものを、幻視したのか。           “――――それは”    確証がない。  理由がない。  動機がない。  証拠がない。           “――――似ているのは、誰と”    そんな筈はない。  あってはいけない。  認めるわけにはいかない。  だが、そう思えば思うほど、           “――――もし、わたしが悪い人になったら”    あまりにも確証がないから、その直感が真実なのだと思ってしまう。    そう、何故なら決まってあの感覚は。           “――――止めろ。馬鹿な事は考えるな”            ――を想う夜の、重い悪夢に似すぎている――― 「士郎? どうしたの、急に立ち止まって。まだ他に気になる事でも?」 「――――――」  頭を振って目眩を振り払う。  ……少し、あの影の残り香にあてられたようだ。 「いや、吐き気がするだけだ。俺のことはいいから、話を続けてくれ遠坂」 「ホント? ……まいったわね、向上した士郎の対魔力でも、あいつの残滓にあてられちゃうんだ。  ……まあ、あれだけの魔力の塊なんだから当然といえば当然か。そうでもなければ“町を食う”なんて出来ないものね」 「あ―――いや、体力がなくなったとかそういうんじゃない。単に気持ちが悪くなっただけで、奪われたものはないと思う」  そう、と納得する遠坂。  今はそれより、あの一帯で何が起きたのかを確認しなければ。 「……で。一体なにが起きたんだ、あそこで」 「……まあ、今までと同じ食事でしょうね。ただ規模が段違いになっただけ。  町中に残った〈泥〉《あと》からして一軒一軒訪ねていった……なんて事じゃなかった筈よ。アレは津波みたいにあの一帯に覆い被さって、そのまま地面に溶けていった。よっぽど空腹だったのか、一口で食事を済ませたかったんでしょう」 「けど無機物はお口にあわないみたいね。生きていないモノは通り抜けて、有機物だけを残らず消化していった。  ……救いがあるとしたら一瞬で消えたことか。痛みも恐怖も、感じる時間なんてなかったでしょう」  溶解の結界。  学校でライダーが張っていたあの結界を、瞬間的かつ強力にした魔術みたいなものだ、と遠坂は説明する。 「問題はそれだけの魔術の発動にも関わらず、魔力を感知できなかったってことよ。  ……あれがあの影の仕業だっていうんなら、あいつにとってアレは『魔術』じゃなく、ただの『挙動』にすぎない事になる。……要するに。あれだけ広範囲の溶解も、“黒い影”にとっては寝返りみたいなものだってコト」  ……そうか。  だがそれも終わった。  一度の食事で満足したらしい“影”は何処かに消え去り、後を追う術もなければ理由もない。 「――――――――」  俺たちの巡回は、もう意味をなさない。  こうして夜の町に出たところで犠牲者は出てしまったし、肝心の“影”を感知できないのではどうしようもない。  “影”にしろ臓硯にしろ、なにかしら行動に移れば気配を読み取って駆けつけ、誰かを助けられると思っていた。  それが、もう意味をなさなくなった。  何故なら、俺たちにはあの“影”を見つけ出す手段はなく、それ以上に、   「―――判ってはいた事だけど。あいつ、日に日に成長してるわ。このペースでいけば、次に出た時は手をつけられない怪物になっているでしょうね」    今の俺たちには、万に一つも勝算がないのだから。    完全な静寂。  人が消え、営みが途絶えた廃墟を遊覧するのは彼らだけではなかった。  否、その表現には間違いがある。  少年と少女。  健気にも未だ戦う意思を掲げる彼らは、決して遊覧などしてはいない。  この惨状を愉しむのは人でなくなったモノだけだ。   「―――いやいや、加減を知らぬのも困りものだ。  良かれと思い放任してきたが、これはそろそろ刈り取らねばならぬかのう」    老人が〈嗤〉《わら》う。  白い髑髏を引き連れたソレは、闇に溶け込みながら無人の町を徘徊する。  その視線の先には少年と少女がいた。  老人は愉快げに自らの敵を眺めている。  否、敵意などない。  もはや敵でさえないモノをどうして憎むコトができよう。  老人にとって、彼らは道端の小石となんら変わりはないのだから。   「――――――――」  だが白い髑髏は違う。  彼にとって、どんなに小さかろうと障害は障害である。  逆らうモノならばこの場で消去すべきであり、手に負えないモノならなんであろうと排除する。  それがアサシンとして呼び出された彼の行動理念であり、徹守するべき不文律だ。   「―――この場で殺してもよいのでは」    主に告げる。  無人の町並みを歩く少年と少女は隙だらけだ。  この死地において、あれほどの無防備さ。  その在り方は、髑髏には死を望む病人にしか見えなかった。  故に、むしろ慈悲を以って息の根を止めるべきだとさえ思ったのだ。    だが。   「いや、それは〈些〉《いささ》か勿体ない。ここまで生かしておいたのだ、ここで終わらせては芸がなかろう」    老人に慈悲はない。  齢五百を超える、もはや人のカタチでしかないソレは、骨の髄まで腐敗していた。   「―――ふむ。例えばこういう筋書きはどうかなアサシン。  ここに生贄がおる。人の世に疎まれ、憎まれ、呪われ続けた哀れな肉だ。この肉はな、健気にも世界を嫌おうとせぬ。ただ一人でも自分の味方をするモノがいる限り、その味方が住む世界を嫌わぬよう努めておる」   「いやはや、愛欲とはかくも尊く強力なものらしい。肉は何をされようと人の世を憎みきれぬ。憎めばその味方を否定する事になると、懸命に自らの泥を押さえ込んでおる。  故に、肉には何をしても効果はないのだ。」   「だが―――その唯一の味方に否定されたとしたらどうなるのか。  もとより世の全てに否定されたモノだ。唯一信じた希望に裏切られたとあれば、もはや歯止めとなる道徳など存在しまい」   「……では。魔術師殿は、あの少年に最後の一押しをさせたいと?」 「左様。幕引きはあやつにこそ相応しかろう。予想外の成長ではあったが、あそこまで保たせてくれたのだ。ならば、息の根を止める喜びは譲ってやらねばなるまいて」    呵々、と愉快げに老人は笑う。  含まれたモノは嗜虐と愉悦。  自らの妙案に酔いしれた〈歯音〉《ソレ》は、風に揺れる〈骨頭〉《しゃれこうべ》のようだった。  結局、日付が変わる前に帰ってきた。  出来る事はなく、俺たちも無意味な巡回で体力を使える状況ではなかったからだ。  ――――足が重い。    日中の鍛錬の負債が、ここにきて一気に圧し掛かってきたようだ。  体は鉛のように重く、気を抜けば目蓋が落ちる。  ……眠い。  体より精神がまいっているのか。  このまま廊下で眠ってしまいたいほど、何もかもが睡眠を欲している。 「お帰りなさい。町の様子はどうだった、リン」  居間ではイリヤが待っていた。  ……桜の姿はない。  当然だ。  桜は、 「っ――――」  違う。  桜は、今も客間で眠っている筈だ。 「やられた後だった。それより桜は?」 「何もなかったわ。ちゃんとベッドで眠ってるし、起きた様子もないみたいね。ライダーを使役してない分、魔力に余裕があるから調子いいんだと思うわ」 「そう。ま、それでもいちおう警戒して。あの子、次に暴走したら後がないから」  あの空虚な廃墟を目の当たりにしても、遠坂は今まで通りだ。 「わたしは疲れたから寝るけど。イリヤはどうする?」 「わたしも休むわ。明日は製鉄でしょ、よく睡眠をとっておかないと失敗しかねないから」  おやすみなさい、と残してイリヤは和室へ去っていった。 「じゃあ今日はこれでお開きね。士郎も休みなさい。気付いてないようだけど、顔、真っ青よ」    ……体が重い。  毎日の習性か、満足に働かない頭でも布団だけはきちんと敷ける。 「――――――――」  バタン、と布団に倒れこむ。  横になって天井を見上げると、少しだけ考える〈隙間〉《よゆう》が出来た。 「――――――――」  疲れきった頭で何かを考える。  左腕の事を考える。  緩めた聖骸布。  昨夜は耐え切れないほどの苦痛と恐怖だったのに、今日一日は簡単に乗り越えられた。  痛かったとか怖かったとか、そういう記憶がないぐらい、簡単に終わっていた。    それがどういう事なのか、真剣に考えれば答えは出る。  イリヤの事を考える。  少女は一緒には暮らせないと答えた。  そうできたらいいけど、できっこないと言っていた。  長生きなんてできないよ、と。  誰でも知っている事のように、イリヤは俺に言ったのだ。  あの“黒い影”の事  桜の事を考える。  日に日に自由がきかなくなっている桜。  それは刻印虫に体を蝕まれ、魔力が足りないからだ。  桜のせいじゃない。  そんな体になったのは桜のせいじゃない。  俺にできる事は桜に魔力を分け与えること。  何度でも血を分けて、十分すぎるぐらい魔力を補充すれば〈保〉《も》つ筈だ。  目蓋を閉じる。  みんなは救えないよ、とイリヤは言った。  選べるのは一つだけ。  その選択は、とうの昔に決めている。 「……先輩? 帰ってきたんですか……?」  廊下から声がする。 「起きてる。入ってきてくれ、桜」  体を起こして―――まともに動かない頭でも―――今は、桜の顔が見たかった。 「はい、失礼しますね。ごめんなさい、物音がしたものだから起きてきちゃいました。……その、先輩におやすみなさいって言っていなかったから」  桜はいつもの桜だ。  引っ込み思案で、気が利いて、言いたい事をいつも我慢して損をして、それでも一生懸命に笑おうとする俺の大事な女の子だ。  ここ一年間でびっくりするぐらい綺麗になって、今じゃ二人きりで向き合うと抱きしめたくなるぐらい、ずっと守りきると約束した相手。 「えっと、用件はそれだけなんです。先輩のおかげで体の調子もいいし、今夜はよく眠れそうだから、心配いりませんよって伝えたくて」  桜の様子はいつも通りだ。  当たり前だ。  いつも通りじゃない桜なんてあってたまるものか。  あの時のように、頬を染めて桜が寄り添ってきたワケじゃない。 「……先輩? あ、やっぱりお邪魔でした……?  なんかすごく眠そうというか、疲れてるように見えるんですけど……」 「桜。ちゃんと眠ってたか?」 「?」  ただ不安を口にする。  疲れきった頭には、まともに思考する余裕なんてなかった。 「はい、ぐっすり眠ってました。  また怖い夢をみましたけど、寝付くまで先輩がいてくれたから我慢できました」  怖い夢。  それがどんな内容なのか、聞かなくてはいけないのに。   「――――――――」    何も言えず、ただ、桜の長い髪に手を伸ばした。 「え……あの、先輩……?」 「―――――桜、こっち」  髪に触れた手を肩に下ろして、そのまま抱き寄せる。 「あ、あの、先輩、わわ、わたし……!」 「桜はイヤか?」  抱きしめたまま囁く。  桜はなんの抵抗もせず、俺の胸に顔をうずめたまま   「――――いえ。すごく、嬉しいです」    全身の力を抜いて、俺にしなだれかかってきた。    そうして強く、強く桜を抱きしめた。  自制は、きかなかった。 「っ……!」    ただ、桜とこうしていたかった。  意識が途切れるまで、何度も桜を抱きしめたかった。  実際そうした。  桜の声は脳まで届かない。  俺は、俺の息遣いしか脳に届かない。    求めている、欲しているのは桜の方なのに、  いつしか俺の方が、桜以上に満ち足りずにいる。    時間の感覚がない。  朝までこの悪夢を見続けようとしたクセに、その実、すぐに体の電源が落ちた。    桜の手を握ったまま眠りに落ちる。   「ん、ん…………せんぱい、わたしも、もう―――」    掌に桜の体温を感じながら、深い眠りに落ちた。      ……そうして、冷静な自分が語る。  昂ぶっていた頭は、眠りの淵で冷静さを取り戻す。        ―――こんな事をして何になるのか。    おまえは桜に溺れる事で、決定的に、ある不安を認めてしまっただけではないかと。              ――――また、怖い夢を見ている。    ヒタヒタと道を歩いていく“何か”。  歩くたびに人を殺していってしまう“怖いもの”。  ……その姿を、少し遅れたところからわたしは眺めている。  見たくもないのに、目を背ける事もできず眺めている。    それが怖い夢だ。  ここのところずっと、繰り返し見続けている悪い夢。    でも正直に言うと、少しだけ親近感が湧いていた。  初めは怖かったけれど、ここまで何度も見ていると慣れてくる。    なにより、あの子は悪い心を持っていない。    アレはわたしたちとは食事の仕方が違うだけの、わたしによく似た何かだった。         「           」 「           」 「                !」    ……また今夜も同じ。  どうしてこんなに寄ってくるんだろう。  あの子は何か、男の人を引き寄せるモノでも持っているのかもしれない。    何人殺しても、  何日続けても、  こんなふうに夜中出歩くだけで、食べ物の方からやってきてくれるのだ。    食べた。  初めは急かされるように食べていたけど、ここのところコツがつかめてきたみたいだ。    あわてる必要なんてない。  足元から引き寄せて取り込んでしまえばそれで終わり。  心も体も、それで残らず食べてしまえる。    くすくすと歌ってゴーゴー。  今夜、その子は上機嫌だった。  今までなんの感情も見せなかったクセに、今夜はとても嬉しそうだ。    そんなところにも親近感を抱いてしまう。  わたしも今夜はすごく嬉しい。  だって初めてだ。  初めて、先輩からわたしを求めてきてくれた。  ……うん。  これで怖い物は何もなくなった。  怖い夢をこうして見続けるけど、そんなのはぜんぜん平気。  先輩がわたしを見てくれただけで、こんなにも世界は綺麗で優しく見える。    だから、この悪い夢も、もう少しぐらいは見続けてあげてもいいと思って、次の食べ物を探しに行く。  なのに、     「―――精が出るな。今夜に限っていつもの倍か」      怖い夢より、もっと怖い人に、出会ってしまった。    逃げた。  今まで怯えることなんてなかった“何か”が、怯えながらその人から逃げ出した。  金色の髪と赤い瞳。  わたしと同じ匂いのする人。  以前、一度。   「いまのうちに死んでおけよ娘。馴染んでしまえば死ぬ事もできなくなるぞ?」    わたしに自殺しろと忠告した、黄金のサーヴァント。   「        」    逃げた。                      何から?  逃げた。                      誰が?  逃げた。                     どうして?    わたしの夢は終わらない。 “何か”は見ていて可哀相なほど取り乱して、路地裏へ逃げ込んでいく。  でも、それで終わり。   「聖杯の出来そこないを期待していたが、まさかアレに届くほど完成するとはな。惜しいと言えば惜しいのだが、」   「選別は〈我〉《オレ》の手で行う。死にゆく前に、適合しすぎた己が身を呪うがいい」   “何か”は、一瞬のうちに、たくさんの刃物で滅多刺しにされてしまった。    ……あれ?  おかしいな、痛い。    刺されているのはあの子なのに、どうして後ろから見ているわたしが痛いんだろう。    死んでいるのはあの子なのに、どうしてわたしが倒れているんだろう。    夢見ているのはわたしなのに、どうして――――                 わたしの体は、ズタズタにされてるんだろう?   「あ――――れ?」    いたい。  夢なのに痛いです、先輩。  おなかから一杯はみ出して、これじゃみっともないですよね。   「いた――――い」    おなかのグチャグチャを仕舞おうとしたけど、手がどこかで遊んでる。    足――――足はあるけど、足と繋がっている身体がブラブラブラで。   「――――やだ」    声を出すと、背中にカミナリが落ちたみたいに痛かった。  でも動けないから逃げられない。  わたしは、どうして                  「まだ息があるのか。生き汚いな、娘」    ――――容赦なんてない。    金色の人はパチンと指を鳴らして、わたしの体よりおっきな刃物で、わたしの首を断ちにきた。   「――――あ」    悪い夢。  こんなのは悪い夢だ。  こんなのは今までの夢と同じ。  本当はこんなコト起きていなくて、目が覚めれば先輩の家にいるんだ。    ……ほら、だからそろそろ目を覚まさないと。  だって痛い。  死にそうなぐらい痛いんだから、目が覚めないと、本当にこのまま――――   「あ――――あ、あ…………!!!!」    でも覚めない。  夢から覚めない。  たすけて。  たすけて、いたい、たすけて、たすけて。  はやく、はやく目を覚まさないとホントに、わたしまで、一緒にこのまま――――        でも覚めない。  夢が覚めない。    夢から。  夢から出られないんです、先輩――――    ――――そうして、女は倒れた。    宝具で全身を貫かれた女は、磔にされた虫のように路面に這いつくばる。             「あ――――れ」    女にはまだ意識があった。  もはやどうあっても助からない命だというのに、未練がましく、動く筈のない手足を動かそうと努力している。   「ふん―――まだ息があるのか。生き汚いな、娘」    侮蔑をこめた死刑宣告。  金色の男―――ギルガメッシュと呼ばれる英霊は、無慈悲に最後の一撃を振り上げる。             「……死にたく、ない……やっと先輩が、わたしを、見て、くれた、のに…もっと、もっと、触れて、ほしかったのに――」    もう何も見えていないのか。  最後まで夢うつつのまま、女はつまらない望みを口にする。    ようやく。  ようやく手に入れた些細な倖せに縋るよう、布キレみたいな手を伸ばして、           「やだ……死にたくない、死にたくない……!  だって―――だっていま死んでしまったら、先輩は、姉さん、に……!」   「それが目障りだ。〈我〉《オレ》の手を煩わせるな」    断頭の剣が落ちる。    夢は終わった。    女の意識は血にまみれたまま、覚める事なく、薄汚れた路地裏で消え去った。   「――――ぬ?」    振り向いた時には遅かった。   「――――貴様、よもやそこま、――――!!!???」    足元から飲み込まれていく。  逃げ場などない。  何故なら、すでに                   いつもより、少しだけ時間がかかった。                  「……いたい。少ないから、治らないんだ」    歩き出す。  おなかがクウクウと悲鳴をあげている。  思考を占める行動理由は『空腹』のみ。  魂の比重、実に数十万人に該当する〈英雄王〉《ソレ》を飲み込んでなお満ち足りないのか。                 「……足りない。こんなんじゃ、足りない」    それは、熱に魘されるように。    夢などではなく、  初めて自らの意志で、飼育箱へと歩き出した。               ―――では、最後の選択をしよう。    勝敗は既に決した。  いや、正確に言うのなら、そんな物はとうの昔に付いていた。  この結末は、〈セイバー〉《かのじょ》を失った時から決定していたのだから。           “ただ、シロウ。アレの相手をするという事は、最も困難な道を行くということ。  それを、今から胸に刻んでおいてください”    共に戦い、最後まで君の剣であってくれた少女はそう言った。  彼女と決別した夜。  君は一人でも戦いを続けて、あの“影”を、この戦いを止めるのだと約束した。    地獄があった。  生き延びた事には意味がある。  生き延びたからには意味がある。  みんな死んだ中で、奇跡的に生き残れたのではない。  みんなを犠牲にして、一人分だけ、救える席が出来ただけだ。    それを嫌悪し。  現実を打開する為に、君は、誰をも救える“正義の味方”になるしかなかった。    その涙がなんだったのかは知らない。  聖杯を壊し、自らの戦いが間違っていたと否定し、しにものぐるいで生存者を探し出した。  思惑はどうあれ、その涙は君を救い、新しい道を共に歩かせた。    その道も、いつか一人きりになった。  先を歩いていた男は、君に夢を見て亡くなった。   “ああ――――安心した”    そう、贖いきれなかった罪を飲み込んで、衛宮切嗣はこの世を去った。            ―――彼は誰をも救えなかったから。  君には、誰かを救える人間になってほしかった。                “おまえが今までの自分を否定するのなら。     その〈罪〉《ツケ》は必ず、おまえ自身を裁くだろう―――”    ……わかっている。  それがどういう事なのか、一生をかけて贖い続けなくてはいけない。  十年間信じ続けた自分を殺した。  殺された自身は、虫食いのように、生きた自身を〈食〉《は》んでいくだけ。    〈罪〉《そ》の具現がこれだ。  聖者の〈埋葬〉《たて》など無駄なこと。  アーチャーの腕は繋がっているかぎり確実に侵食し、贖いを強制する。  死などより凄惨な終わりを〈齎〉《もたら》す。    そうだ。  たかが片腕、命を取り留めた今では無くしたとしても死ぬ事はない。    だと言うのに、何故。             “シロウだって判ってるでしょ? ぜんぶを選ぶことはできない、助けられるのは一人だけなんだって”    ずっと、ずっと父親を求めていて、復讐だけを心の糧にして時間を過ごしてきた少女。  一緒に暮らそう、という言葉を、泣きそうな笑顔で飲み込んだ。    そんな事はできないよ、と。  わたしたちは、二人いっしょには長生きできない。  だから。               “―――それじゃあね。楽しかったよ、お兄ちゃん”                  ――――――――――――――――。    最後の選択。  君は     「――――ったりまえだ……!  勝敗が決したがどうした、そんなんで後に引けるか……っっっっ!!!!!」 「いい気合だ。その様子では入院の必要はないな」   「え――――――って、なんで言峰……?」 「……それは私の台詞だ。  凛とおまえ、二人して玄関に捨てられていてな。  捨て子にしては可愛げがないので見捨てたかったが、揃いも揃って衰弱しきっていた。放っておけば死体が二つ並ぶ事になる。教会としては体裁が悪いのでな、仕方なく治療してやったのだ」 「――――――――」  ……状況を確認する。  ここは教会の礼拝堂だ。  体に異状はない。桜の影に飲まれ、ごっそり削ぎ落とされた体力も回復している。  俺は中庭で気を失った。遠坂も同じだろう。  おそらく、残ったライダーが俺たちをここまで運んだのだ。  ライダーには傷ついた人間を救う術はない。  彼女が知る限り、俺たちの手当てが出来る人間は言峰以外なかったのだろう。  それからどのくらい経ったのか。    今の時刻は―――― 「深夜の三時過ぎだ。ここに運ばれてから十二時間ほど眠っていた事になる」 「――――十二時間って、まるまる半日じゃないか……!」  横になっていた長椅子から立ち上がる。  冗談じゃない、そんな悠長に休んでられるか……! 「言峰、遠坂は!? 俺と一緒に倒れてたんだろう、あいつは!?」 「凛は遠坂の家で休ませている。  おまえは体力だけだったが、アレは魔力を根こそぎ奪われていたからな。通常、持ち直すには七日はかかるが、遠坂の土はアレによく馴染む。  順当に行けば、明日の昼には意識を取り戻すだろう」 「―――そうか。命に別状はないんだな?」 「ない。あの土地の土は特別だ。なにしろ吸血種が寝床にしていた曰くつきの霊脈だ。遠坂の後継者である凛なら、一晩埋めておけば減らず口を取り戻すだろう」 「………………」  今、なにか聞きなれない表現を聞いた気がするが、追及するのは止めておいた。  埋める、というのは言葉通りの意味ではないと信じよう。 「―――ならいい。世話になった」  教会を後にする。  やるべき事は決まっている。  桜を追う。  イリヤを連れ戻す。桜を連れ戻す。  好きな相手を守りきる。  勝敗が決したからなんだ。  俺にはまだ戦う力が残っている。  なら、ここで踏み止まっている場合じゃない。 「――――――――」  時間がない。  家に戻って武器を見繕う時間も惜しい。  ……いや、家で見つけ出せる武器で、どうにかなる相手じゃない。  桜とセイバー。  それに臓硯とアサシン。  臓硯の目的がイリヤだったのなら、向かう先には全ての駒が揃っていると見るべきだ。 「それで、何処に向かうつもりだ衛宮士郎。私には事情が掴めないのだが」 「? 何処に向かうもない。イリヤは俺たちを庇って、自分から桜に同行したんだ。……正装がほしかったら城に来いって言っていた。正装とやらが何かは知らないが、行き先はあの城だろう」 「正装だと……? いや、それ以前に間桐桜は敵に回ったのか。では此度の聖杯戦争、既に勝敗は決したという事か」 「……………………」  癪に障るが、言峰の言う通りだ。  臓硯と桜。  マスターとして優れているのは文句なしに桜だが、桜は臓硯には逆らえない。  ……桜がイリヤを連れて何をしようとしているかは判らないが、臓硯と出会ってしまえばそれで終わりだ。  どんなに桜が臓硯を拒んでも、桜の〈体内〉《なか》の刻印虫が桜を支配してしまう。 「――――って、そんな事より!  なんでついて来るんだよ、おまえ……!」 「おまえ一人では荷が重かろう。イリヤスフィールを攫われたというのなら、私も静観はしておられん」 「な――――」  あまりの答えに足が止まる。  今、この男はなんと言ったのか―――― 「一人じゃ荷が重いって―――俺に手を貸すっていうのか、おまえが……!?」 「不服か? 相手は最大勢力だ。  凛の助力がない今、私程度でも有り難いはずなのだが」 「――――――――」  不服なんてない。  協力者が増えてくれる分には不服なんてないが、しかし―――― 「なんでだよ。アンタが俺に手を貸す理由はない筈だ」 「勿論。これは今回限りの事だ。イリヤスフィールを救い出した後も協力者などと思われては困る。おまえと私は、最後まで相容れぬ関係だ」 「なら」 「なに、単純な利害の一致だよ。  加えて、私のサーヴァントは全てヤツに敗れた。理由としてはそれで十分ではないか?」  ……言峰の言葉に嘘はない。  こいつとは色々あったが、今まで嘘だけは言ってこなかった。  俺は――――      ……立ち上がる意味も、意義も見失った。  眠りにつくように目蓋を閉じる。    この先はない。    俺の聖杯戦争はここで終わったし、なにより。    初めからそんなものは、始まってさえいなかった。 「―――断る。アンタは桜の敵だ、背中を預ける事は出来ない」 「そうか。力になれるかと思ったが、残念だ」  神父の足が止まる。  ……立ち止まっている余裕はない。  今は一刻も早く、桜の後を追わなければ。    タクシーで森に着く頃、夜は明け始めていた。  深夜の午前三時に学生一人でタクシーに乗るだけでも不審なのに、郊外の森で降ろしてほしい、なんて注文は物騒すぎたのだろう。  タクシーを止めること十二台目、ようやく受け入れてくれる運転手と出会い、なんとか森の入り口に到着した頃、とっくに夜は明けていた。  ……二度目の森。  記憶を頼りにアインツベルンの城を目指す。  ……以前ここに来た時は、城には辿り着けなかった。  城に向かう途中、“黒い影”から逃げるイリヤと遭遇したからだ。 「――――――――」  ……左腕を確かめる。  この腕は、あの時から変わり果ててしまった。  あの“黒い影”に為す術もなく殺されかけた。  それは今も変わらない。  桜―――いや、あの影と対峙しても打開策はなく、おまけにあっちにはセイバーまでいる。  ……出会えば後はない。  イリヤを奪い返すのなら奇襲だけだ。  桜に気付かれず、イリヤを連れ戻す。  それから―――  それから後は、どうすればいいのか。    ああなってしまった桜相手にどうすればいい。  どうすれば元の―――俺の知っている桜を取り戻せるのか。 「……………………」    答えは出ない。  俺にできる事は、少しでも早く二人に追いつく事だけだった。  見覚えのある場所に出る。  森に入ってから二時間強。  とうに日が昇っているだろうに、森は依然として朝靄に包まれている。  ……前回はここで止まった。  イリヤに見せてもらった風景が確かなら、もうじきアインツベルンの城だ。    あと少し。  あと少しで、敵の本陣に辿り着ける―――  森を抜けた。  広大な樹海の中、切り開かれた円形の空間。  イリヤの眼を通して見ただけの城は、あの時の姿のまま〈聳〉《そび》えていた。  辺りに人影はない。  城壁はおろか、城門にさえ見張りがいないのは明らかにおかしかったが、今さら罠だと引き返すわけにもいかない。  城の玄関……から入るのは論外だ。  忍び込むなら窓、それも二階から上がいい。   「―――裏手に回ろう。いざとなれば裏門から入ってやる」    裏手にも見張りはいなかった。  足場になりそうな木に登り、強引に城の二階に侵入する。 「っと――――!」  窓ガラスを割りながら内部に飛び込む。  これだけ強引に侵入したというのに、城は水を打ったかのように静かだ。 「……無警戒かよ。一人だからって甘く見られてるのか、それとも」  臓硯も桜も、既に立ち去った後なのか。  ……それなら見張りがいないのも当然だ。  桜がイリヤを連れ去ってからもうじき一日が経過する。  何の目的でここまで来たかは知らないが、それだけ時間があればもう用は済んでいるのでは―――― 「―――いや、人の気配はある。それに―――」    城には、あの異様な空気が充満している。  濃霧のように肌に纏わりつく、圧倒的な魔力の奔流。  ……間違いない。  これはうちの中庭で見た、刻印に侵された桜の魔力だ。 「下に行くほど濃くなってるな……」    桜は一階にいる。  ……このまま階段を探して一階に下りてもいいが、その前にイリヤを見つけるべきだろう。  桜と一緒にいるのならお手上げだが、もしこの城のどこかに閉じ込められているのなら、桜と対決する前に助け出しておかなければ。  城の扉は、その全てに鍵がかけられていなかった。  二階から三階、三階から四階へ。  しらみ潰しに部屋を回って、イリヤの姿を捜し求める。  そうして四階の奥。  今までとは系統の違う、倉庫のような部屋に足を踏み入れた。 「イリヤ、いるか……?」  ……小声で呼びかける。  物置なのか、石造りの部屋はところどころにガラクタが置かれて視界が悪い。 「…………………………」  ここにイリヤがいないとすると、やはり一階、桜の傍にいると考えるしかないのだが―――― 「誰だ……!?」    足音に振り返る。  入ってきた扉には、    見覚えのある、白いドレスの女性が立っていた。 「――――あんた、たしか」  もう一人の子にセラと呼ばれていたイリヤの世話係だ。 「お帰りくださいエミヤ様。お嬢様は貴方にはお会いしない、と仰っております」 「え……待ってくれ、お嬢様ってイリヤの事か……!?」 「……イリヤスフィール様、とお呼びください。貴方には、そのような愛称を口にする資格はありません」 「――――――――」  氷のような声に気圧される。 「お嬢様からの伝言はそれだけです。命が惜しければ急ぎなさい。ここにいては死にますよ、エミヤ様」  では、と慇懃に礼をして立ち去るセラ。 「っ……待て、待ってくれセラ……!」 「……………………」  名前を呼ばれた事が意外だったのか、セラは足を止めて俺を見る。 「まだ何か? 断っておきますが、お嬢様の居場所も、貴方の友人の居場所も答えられません。私の役割は貴方への伝言だけですから」  淡々と語るセラ。  ……その姿を見て、訊くべき言葉が固まってしまった。 「――――――――」  息を呑むのは、セラの態度からじゃない。  ……似ている。  どうしてそう思うのかは判らないが、セラとイリヤは似ている。  顔も雰囲気も、体格も年齢も違うのに、セラとイリヤは姉妹か何かのように思えて仕方がない――― 「……用件がないのでしたらこれで。お嬢様の気遣いを無駄にしないようお願いします」 「あ―――いや、違うんだセラ。俺はイリヤを助けに来たんであって、アンタに迷惑をかけるつもりはない。  アンタはイリヤの世話係なんだろ。なら、今はこの城からイリヤを助け出すべきだって分かる筈だ」 「気安い方ですね、貴方は。  ですがもっともです。貴方の言う通り、お嬢様は一刻も早く逃がさねばなりません」 「! そうだろ、ならイリヤの居場所を、」 「……それは出来ません。それに、教えたところでもう無駄になりました」    静かに身を引くセラ。 「待てってば、俺は――――!」    瞬間。  セラがいた場所から、黒塗りの短剣が、飛来した。 「っ、あ」  ……足がよろける。  激痛に目を眩ませながら、窓際まで後退する。  目前には、  闇に浮かぶ、白い髑髏面があった。 「は――――、っ――……!」  手探りで窓を探す。  ……だが、見つけたところでどうなるのか。  ここは四階で、胸には深々と刺さった短剣。  血液は急速に失われていき、おそらく、あと一分を待たずして、致死量に至るだろう。 「一人で乗り込んでくるとはな。見下げ果てた馬鹿者だ」 「―――――、は」 「私は魔術師殿とは違う。速やかに、その苦悶から解放してやる」 「―――――、ぐ…………!」  体をひねる。  四階からでも構わない。  今はとにかく、目前の死から逃れようと走って、    窓に手をかけたまま、首筋に刃が走った。  髑髏が霞む。   「眠れ。その身に救いは与えられぬであろうが、あのような怪物に食われるよりは上等だろうよ」    視界が霞む。        ……死の際で後悔する。  一刻の猶予もなかったとしても、一人で乗り込むなど無謀でしかなかったのだと―――  森を抜ける。  広大な樹海の中、切り開かれた円形の空間。  イリヤの眼を通して見ただけの城は、あの時の姿のまま聳えていた。  辺りに人影はない。  城壁はおろか城門にさえ見張りがいないのは明らかにおかしかったが、今さら罠だと引き返すわけにもいかない。 「言峰。あの木から二階にあがれないか?」    気付かれているとしても、正門から侵入するのは自殺行為だ。  無駄かも知れないが、できるかぎり手は尽くしてみるべきだろう。 「……そうだな。  侵入するのなら水路を使うところだが、そんな悠長な真似が通じる相手ではなかろう。  城に入った時点で侵入は悟られる。直接イリヤスフィールの監禁場所に乗り込み、有無を言わせぬまま脱出したいのだが、さて――――」  神父は城を見上げてなにやら思案する。  ……壁を見透かすように瞳を細め、注意深く、一つ一つ窓を凝視する。 「―――驚いたな。本気で侮られているようだぞ、衛宮」  にやりとした声。 「え?」  この男の楽しげな声なんて初めて聞いたもんだから、思わず耳を疑ってしまった。 「な、なんだよ言峰。なんか見つけたのか」 「見つけたとも。  ―――時に、一つ訊ねるが。登山の経験はあるかね、衛宮士郎?」 「………………まさか、アンタ」 「無論、〈壁登り〉《フリークライミング》だ。垂直だが〈出っ張り〉《オーバーハング》はなく、〈凹凸〉《おうとつ》は充分にある。この壁なら足場は確保できる。道具はなくとも登るのは容易い。なに、氷壁に比べれば道を歩くが如しだ」 「ちょっ――――」  止める間もなく、言峰は城の壁に手をかける。 「な――――」  そのまま壁に張り付いて登っていく。  スピードこそゆったりとしたものだが、その姿はだからこそズッシリとした安定感があった。 「何をしている。〈足場〉《ポイント》の確保が出来ないのなら見て真似ろ。四階程度の壁登りが出来ぬほどヤワではないだろう。  ―――ああ、それと〈武器〉《こっけん》は置いていけ。帰りに拾っていけばいい」  そう言いながらも神父は壁を登っていく。 「っ―――本気で言ってんだな、あの野郎」  言峰に借りた剣を放って壁に張り付く。  ……なんだかんだと登りやすい壁を選んだのだろう、この付近の〈壁〉《いし》の凹凸は荒く、なんとか手がかけられそうだ。  壁登りは腕力だけで行うものではない。  次に手を伸ばす先が安全であるかどうか、わずか数センチの凹凸で体重を支えられるか否か、そのポイントを頼りにした後、次の体重移動に耐えられる凹凸があるか否か。  垂直に近い壁登りは、その実アドリブに満ちたパズルに近い。  目的の高さまであと一メートルに迫ったとしても、その時点で次のポイントがなければ地上まで降り、別の攻略ルートを試さなくてはならないのだ。  目的地に至るまでの道筋。  絶えず二手三手先を予測した行動を要求される壁登りの技術は、経験者しか持ち得ない。    持ち得ないので、こっちはもう言峰を寸分たがわず真似するしかなかった。  わずかなセンチのずれ、力加減を間違えれば即座に落ちる。 「――――信じられねえ。普通素人にやらせるか、こんなの――――」  悪態をつきながら壁に張り付く。  ……まあ、やる事はメチャクチャだが、まるっきり無謀という訳でもない。  本来、こういった壁登りは山の中腹から山頂付近で行われる。  その時に登山者が戦う相手は壁だけではない。  深海が人間にとって不可侵であるように、高層もまた人間には立ち入れない聖域である。  標高六千メートルを超えた時点で酸素は絶対的に足りなくなり、訓練されていない人間なら数時間といられない。  吐き気、目眩、果てには酸素欠乏からくる脳水腫を起こし、最後には死亡する。  これは高度が増せば増すほど苦しくなる無酸素の地獄だ。  加えて極寒。肌をさらせば凍りつき、わずかな擦り傷でも壊死を招く。  その極限状態、一歩進む度に肉体の機能が低下していく中で壁登りは行われる。  その困難さ、過酷さに比べれば、“ただ壁を登る”のはそう不可能な話ではない。 「っ――――と、いっても――――」    ……辛いものは辛い。  使えるものは指の第一関節まで。  それだけの手掛かりに体重を預けて、これまた爪先ほどもない足場で体を固定する。  こんなの……よっぽど隅々まで鍛えてないと、付いて、いけるかって、言うんだ……! 「ん……? まて、移動した。上かと思えば下か。衛宮、三階の窓まで下がって中に入れ」 「この―――無茶言うなよな、おまえ」    こっちは蜥蜴じゃないんだ、そんな器用な真似できるかって―――― 「言峰、窓あるぞ窓……! こんなのどうやって入れってんだよ!」 「かまわん、ぶち破れ」 「っ! このエセ神父、こんなんなら最初からな、」  あっちの木を使って侵入した方が楽だったってんだバカっ――――! 「っ……!」  城内に押し入る。  窓を割るのと中に飛び込むのは同じ動作だった。  両手で壁にぶらさがり、体を振り子のように前後させて窓ガラスに両足からつっこんだのだ。 「は――――あ…………!」  ゴロゴロと床……物凄く高級そうな絨毯に転がる。  両足を振り下げた時、体はほとんど落下していた。  足を叩きつけるタイミングが少しでも遅かったら、頑強な壁に蹴りをいれるばかりか、背中から地上に落ちていただろう。 「くそ、三階の高さで頭から落ちれば死ぬぞ、普通……」  窓ガラスに両足からつっこみ、ガラス片を撒き散らしながら転がるのも危ないが、まあなんとか許容範囲だと顔をあげる。 「…………シロウ?」  ―――瞬間。  あらゆる〈瑣末〉《さまつ》事が、頭の中から消えてくれた。 「――――イリヤ」  それだけで、ここが敵地である事を忘れた。  中庭での光景が脳裏に浮かぶ。  イリヤはあんな、作り物の笑顔で、さよならと別れを告げた。 「――――呆れた。なんで来たのシロウ。もう貴方の出番なんてないのに、まだ無駄な努力をするつもり?」  冷たい声。  イリヤは初めて出会った時と同じ、冷静な貌を作る。 「――――――――」  慣れている。  イリヤのそういう顔には慣れているのに、 「まだ判らないの? サクラのことはわたしに任せればいいの。これはわたしの役割なんだから、シロウは大人しく家に帰って」 「馬鹿。後始末が役割なんて、言うな」    許せなくなって、ぺちんと、イリヤの頬を叩いていた。 「な――――シ、シロウの無礼者……! レディの頬を叩くなんて紳士じゃないわ! い、いくらシロウでも、わたしにこんなコトするなんて許さないんだからっ!」 「許さないのはこっちだバカイリヤ……! 男だったら拳骨で殴ってるぞ、この不良娘……!」  イリヤの顔を見られただけで嬉しいクセに、真っ白になった頭は本気で腹を立てていた。 「な、なによ、わたし怒られるようなコトしてないじゃない! わたしは自分の役割を果たすためにサクラについていっただけよ。それが一番いい方法なんだから、シロウに文句を言う資格なんか――――」 「うるさい、そんなもの知ったことか……!  いいか、イリヤの役割なんて俺は知らない。俺はただ、かってに出て行った不良娘を連れ戻しにきただけだ。  イリヤがどんなに強がって、どんなに平気なフリをしていても騙されないからな。イリヤが少しでも嫌がっている限り、絶対に連れて帰ってやる……!」 「な――――つ、強がってるって何よ! わたしは嫌だなんて思ってないわ。この体は聖杯として作られた。あいつらの為に鍵になるのは癪だけど、それで聖杯の力を使えるようになれば、サクラだって」 「それが強がってるっていうんだバカ!  ……いいか、聖杯なんてどうでもいい。イリヤはイリヤだ。イリヤがイリヤのままでいたいなら、そんなコトはほっぽっといていいんだ。自分以外の何かの為に、自分を犠牲になんてするな……!」 「――――――――」  視線が逸れる。  イリヤはわずかに唇を噛んで、   「―――――――それは、シロウだって」    よく聞き取れない声で、何事か呟いた。 「……いいわ。仮にわたしが嫌がってるとしても、それがどうだっていうの。わたしたちじゃあサクラには勝てないし、逃げられない。  わたしをこの城から連れ出すコトは不可能よ。だから臓硯も好きにさせている。  シロウだけならまだ見逃してもらえるけど、わたしと一緒じゃ絶対に森からは出られないわ」  だから今すぐ帰れ、と赤い瞳が拒絶する。    俺は――――   「それでも連れて帰る。俺は一人で帰る気はないからな」    考えるまでもない。  今の自分には、それ以外の選択肢なんて存在しない。 「――――」  イリヤは何も言わず、ぼんやりとこっちを見つめてくる。  その無防備な手を握って、 「行くぞイリヤ。見つかる前に家に帰ろう」  小さな、軽すぎるイリヤの体を引き寄せて歩き出した。 「呆れた。シロウには何を言っても無駄ね」  イリヤは抵抗せずにトテトテと歩き出し、   「ほんとに。こんなの、上手くいくはずないのに」    そっと、幸福そうに、俺の手を握り返した。 「それでも連れて帰る。俺は一人で帰る気はないからな」    考えるまでもない。  今の自分には、それ以外の選択肢なんて存在しない。 「――――」  イリヤは何も言わず、ぼんやりとこっちを見つめてくる。  その無防備な手を握って、 「行くぞイリヤ。見つかる前に家に帰ろう」  小さな、軽すぎるイリヤの体を引き寄せて歩き出した。 「呆れた。シロウには何を言っても無駄ね」  イリヤは抵抗せずにトテトテと歩き出し、   「ほんとに。こんなの、上手くいくはずないのに」    そっと、幸福そうに、俺の手を握り返した。 「それでも連れて帰る。俺は一人で帰る気はないからな」    考えるまでもない。  今の自分には、それ以外の選択肢なんて存在しない。 「――――」  イリヤは何も言わず、ぼんやりとこっちを見つめてくる。  その無防備な手を握って、 「行くぞイリヤ。見つかる前に家に帰ろう」  小さな、軽すぎるイリヤの体を引き寄せて歩き出した。 「呆れた。シロウには何を言っても無駄ね」  イリヤは抵抗せずにトテトテと歩き出し、   「ほんとに。こんなの、上手くいくはずないのに」    そっと、幸福そうに、俺の手を握り返した。 「何を悠長にやっている」    ―――と。  俺が蹴破った窓から、外套をはためかせて言峰が飛び込んできた。 「コトミネ……!?」  俺から手を離して、バッと身構えるイリヤ。 「あ、待ったイリヤ……! そいつは味方だ。今回だけ協力する事になった、即興の味方なんだ」 「え!? うそ、シロウったらこんなヤツと手を組んだの!? ダメよシロウ、こいつは」 「無駄話は後だ。追いつかれる前に外に出るぞ」 「え、きゃっ――――!?」  ―――一瞬の早業。  言峰はイリヤの腕を掴むと、そのまま、躊躇する事なく窓から外へ飛び出していた。 「な――――イリヤ…………!!!!」  慌てて窓に飛びつく。  ……言峰は庭に着地している。  言峰に抱かれたまま地上に降りたイリヤは、  そのあとすぐさま手を振り払って、バチン、と神父の頬を叩いていた。    ……ここまで聞こえてくるんだから、実にいい音をさせている。 「っ――――感心してる場合じゃない、要するに飛び降りろって事かよあいつ……!」  迷っている暇はない。  三階程度の高さならうまく着地すればなんとかなる。 「ふ――――」  出来るだけの魔力を両足に帯電させる。  自分の体に“強化”はかけられないが、これなら少しは落下の衝撃を軽減でき――――               ――――るワケないだろバカーーーーー! 「っ――――ぅううううう……!!!!」    二十メートル強の高さを飛び降り、着地の瞬間にごろんごろんと回転する。  三階とはいえ、城の三階はとんでもなく高かったのだ。  日本の〈建物〉《マンション》なら、間違いなく八階相当の落下である。 「効いたぁ……脳天飛び出すかと思ったぞ、今の」    ……くそ、足が痺れて立ち上がれない。  それでも下が芝生だったのが幸いした。  これがアスファルトだったら足の骨に罅でも入って、ここから逃げ出す事ができなくなっている。 「びっくり。シロウ、丈夫だね」 「そうだな。あの高さから何の魔術行使もなしに落下とは恐れ入る。――――自棄か?」  まじまじと倒れた俺を眺める二人。  イリヤはともかく、言峰の言い分は足の痺れを忘れさせるほどアレだった。 「っざけんな、おまえが飛び降りたからああするしかなかったんだよ! 俺だってこんなのは二度とゴメンだ、ふつう足折れてるし飛び降りた瞬間なんて目眩で失神しかけたんだからなっ!」 「だが五体満足ではないか。文句を言われる筋合いはないが……しかし、確かに驚きだ。よくあの高さから飛び降りよう、などと思えたな。  いかに魔術師とはいえ、魔術行使なしで飛び降りようとは思うまいに」 「え――――」  いや、だって置いていかれたし、言峰はイリヤを抱いて降りた以上、俺だって続かないと格好がつかないというか―――― 「シロウのせいじゃないわ。シロウは体だけじゃなくて、〈精神〉《こころ》までアーチャーの影響を受けているのよ。  だから体だって丈夫になってるし、あの高さなら降りられるって、アーチャーと同じように思っちゃったのよ」 「……え? イリヤ、今の、どういう」 「なるほど、それは頼もしい。戦闘面でその強気を発揮してくれ。そら、おまえの剣だ」  登り際に置いていった剣を投げよこす。 「っと……」 「走れるな。ここからは命がけだぞ」  話をしている余裕はない、と言峰は城門へ足を向ける。  それを咎めるかのように、   「」    何か異質な音が、冬の城を震わせた。 「……やっぱり。まだこの世に留めてたのね、サクラ」    ―――今の咆哮は、間違いなく狩りの狼煙だった。  最凶の猟犬を放ったぞ、と。  親切で無慈悲な城の主が、逃げ惑う囚人に告げる死の宣告そのものだ。 「―――バーサーカーか」 「――――――――」  思考が戦闘態勢に切り替わる。  バーサーカー、と。  かつて、いや今でも脅威の象徴である名を出され、細胞という細胞から余裕が搾り出されていく。 「言峰」 「引くぞ。戦ってどうにかなる相手ではない。追いつかれれば殺されるだけだ」  言峰は先行して城門へ向かう。 「振り返るなイリヤ……! 諦めろ、バーサーカーは以前とは違う……!」  イリヤの手を取って走り出す。    ―――体力を温存している余裕なんてない。  追手が―――俺たちを殺しに来るのがあの狂戦士なら、ここから森の出口まで最短の三時間を、全力で走り抜けるしか生き延びる術はない……!    ―――息がつまる。  どんなに目を逸らしても無視できない闇が、すぐそこまで追ってくる。 「っ……!」  森を駆ける。  背後にはまだ何の姿も見えない。  聞こえるのは暴風の音だけだ。  追手は猟犬ではなく巨獣だった。  俺たちのように木々をすり抜けられない〈巨獣〉《ソレ》は、行く手を阻む〈木々〉《しょうがい》を吹き飛ばしながら近づいてくる。    ……トンネルを削る、巨大な削岩機に追われているような錯覚。  真っ黒い壁が少しずつ速度をあげ、俺たちを飲み込もうと突き進んでくるかのよう。 「あ……はあ、は……だめ、そんなに速く走れない……!」 「っ」  歩を緩めてイリヤの速度にあわせる。  ……まずい。  〈壁〉《てき》の速度と俺の速度はほぼ同じ。  イリヤを抱えて走れば、一分もしないうちに間違いなく追いつかれる――――! 「やっぱりダメ……! わたしは残るから、シロウ一人で逃げて……!」 「まだ追いつかれたワケじゃない……! 背中に乗れ、イリヤ一人ならどうってことない……!」 「馬鹿、どうって事ある……! そんなコトしたらすぐに追いつかれるって判るもん……!」 「く――――」  どうする。  このままイリヤを連れて逃げるか、それとも―――    ―――それとも、あの怪物と戦うのか?    アサシンにも太刀打ちできない俺が、  こんな借り受けただけの細剣一本で、サーヴァント中最強のあの怪物と一対一で――――? 「――――っ、ぁ――――」    だめだ、  やめろ、  勘弁してくれ、  俺じゃあ何をどうやったって、あんな怪物に勝てるワケがない……!    立ち止まれば死ぬ。  間違いなく殺される。  あの怪物と向かい合うだけでこんななまっちろい胴体は両断されて、まだ意識がのこったままの上半身を工事現場の機械みたいにズバーングシャーンと木っ端微塵、跡形も無く踏み潰され――――   「―――その必要はない。イリヤスフィールは私が運ぶ」   「「え?」」  イリヤと二人して振り返る。  ―――驚いている暇もない。  言峰はここまで戻って来たかと思うと、有無を言わさず、イリヤを抱えて走り出した。 「――――――――!」    速い……!  そりゃ言峰はガタイがある。  あいつほど長身なら、イリヤを軽々と抱いて走れるだろう。  だがここは森の中だ。  不確かな足場、乱立する木々の中を、両手を塞がれてイリヤを抱いたままで、まったくスピードが落ちないなんて――――! 「言峰……!」  全力で追いすがる。  それで互角だった。  イリヤを抱いた言峰と、足枷なしで走れる俺。  いつ地面に足を取られてもおかしくない森の中、百メートルを七秒台で走り抜ける。 「っ――――」  心臓が早鐘を打つ。  異常だ。  走る速度が速すぎる。  時速五十キロ近いスピードで森を駆け抜けるなんて人間業じゃない。  腕が震動する。  布に巻かれた左腕が、どくん、と大きく膨張するかのような違和感。  ……さっきイリヤが言っていた事は、きっとそういう事だ。アーチャーの戦闘経験だけでなく、肉体的な機能まで衛宮士郎を侵している。  過剰なまでの筋肉増強剤。  その毒が身体に流入し、普段以上の力を発揮させている。  ――――それはいい。    それが放射能漏れでガイガーカウンターとかいうそこはかとなく格好よさげなメーターを振り切らせるような事でも、今は素直に有り難い。  だが言峰は違う。  魔力の発露、魔術行使の痕跡がまったく見られない。  信じがたい事だが、こいつは―――なんの魔術の恩恵もなしで、イリヤを抱えてかっ飛んでいやがるのだ……! 「おい、アンタほんとに人間か……!?」 「おまえ程ではない。それより気がついたか。この速度を保てば逃げ切れるぞ。なにしろ、アレは目が見えぬようだからな」 「!? 目が見えないって、追手の?」 「そうとしか思えん。  速度ではあちらの方が上だ。森の木々などバーサーカーには小石程度の足止めにしかならん。にも関わらず追いつかれないのは、あちらに何か欠陥があるのだろう」  淡々と語る言峰。  その、今の立場なら幸運と喜ぶべき事をつまらなげに語るのはひっかかるが、それなら、 「……逃げ切れる。後は俺たちの体力次第って事か!?」 「いや。逃げ足だけで勝ち抜けるほど甘くはないようだ」  殺気に満ちた声。  それが何を意味しているのか悟る前に、   「――――アサシン――――!」    ギチン、と左腕が惷動した。 「っ……!」    白い髑髏が見えた。  スライド写真のように流れていく木々の隙間、アサシンは逃げる俺たちを嘲笑うように併走している……! 「ま――――」  ずい、と思った時には手遅れだった。  高速ですり抜けていく木々の向こう、アサシンは僅かに左腕を振りかぶり――――   「「!?」」    俺の眉間に突き刺さる前に、何者かに弾かれていた。 「――――――――」  息を呑む。  何者かなんて、そんなのは一人しかいない。  腕を振り上げる動作さえ見せないアサシンの投擲を、イリヤを抱えたままで言峰が弾いたのだ……! 「―――目障りなヤツだ。手が空いている時は現れぬクセに、忙しい時は呼ばずともやってくる」  言峰の速度が緩む。  ……神父は不快そうに眉を曇らせたまま、併走する黒い暗殺者を一瞥する。 「言峰?」 「イリヤは任せた。かわりにアレを任されよう。  なに、これでも神職だ。悪霊払いは慣れている」  言峰は足を止め、イリヤを地面に降ろす。 「な――――アンタ本気か!?」  戸惑うイリヤの手を掴んで引き寄せる。  同時に――――弾丸のように放たれる、三条の電光暗器……! 「言峰――――!」 「―――鋭いが実直すぎる。〈山の主〉《アサシン》を名乗るにしては、読み易い太刀筋だ」 「――――――――」  正直、自分の目を疑った。  アサシンから放たれた紫電は三閃。  それを事も無げに、神父は斬って捨てたのだ――――!           「――――」 「!」  バーサーカー……!  くそ、今のは近いぞ、ここで足止めを食らってたら間違いなく追いつかれる……! 「っ――――」  止まっている場合じゃない。  今はイリヤを連れて先に行かないと……! 「いいんだな……! 行くぞ言峰……!」 「そう言っている。こちらの心配は無用だ」  ―――イリヤを抱える。  言峰のようには走れないが、それでもイリヤの手を引くよりは速い……!  神父に背を向ける。  黒塗りの咆哮は森の向こう。  俺たちの居場所を探るように、無秩序な破壊を繰り返しながら、確実に追ってきている。  言峰にかける言葉なんてない。  背中を預けて、力の限り走り出す事が何よりの応えになる。  ―――そうして、背を向けて地を蹴る寸前。   「―――衛宮。助けた者が女ならば殺すな。  目の前で死なれるのは、中々に〈堪〉《こた》えるぞ」    自嘲するような人間臭さで、神父はおかしなコトを言った。 「……え?」 「余分な忠告だ。急げ。バーサーカーだけならば逃げ切れよう。後の戦いはおまえ次第だ、衛宮士郎」 「――――――――」  頷いて、地面を蹴る。  ―――遠ざかっていく二つの影。  最後に見届けた背中が遠い。    ……不吉な予感がする。  お互い生きたまま会う事は、もう二度とないだろうと思えたほどに。              ―――唐突であるが。     悪霊払いは神父の生業、というのは間違いである。    神父とは神の教えを説くものであって、悪霊を払うものではない。    〈彼ら〉《・・》の神は唯一絶対。至高にして全なるもの。完璧な世界を作り上げた聖霊だ。    それが自らの子である人を穢し、自らが創造した世界を汚す魔などを容認する道理がない。    だが確固として魔は存在し、人を堕とし地上を汚す。  在ってはならぬ物が神の世界を冒涜する。    その矛盾を、彼らはこう定義した。    即ち。人を脅かす魔ですら、主が構築した世界に必要な欠片、愛すべき被造物なのだと。    その教義で言えば、魔とは天の使いである。  人の善性を鍛えるものが聖ならば、人の悪性を鍛えるものが魔であるだけ。    ソレらは同じ天の御使い。    主の教えを説く神父に、これを撃滅する権利はない。    だが。  繰り返すが確固として魔は存在し、人を堕とし地上を汚し、人智及ばぬ凄惨な悲劇喜劇を演出する。    時に天の計りは、人の子に天の無力さを錯覚させた。    人智及ばぬ魔の所業に、偉大なる主の奇跡を求めさせたのだ。    以って、ここに特例が生じた。  主の教えを説くのではなく、人の身でありながら主の代行を成す使徒が赦された。    本来傍観すべき試練、  本来否定すべき異端。    本来存在しない筈の第八秘跡を身につける者、  百二十の枢機卿によって立案された魔の撃滅者、『〈代行者〉《エクスキューター》』が誕生したのである。    彼らは魔を払い、主の教えに存在しないモノを排除する。  教義にないモノを狩りとる彼らは、教義に縛られる事もない。    結論から言えば、彼らには“不徳”が許される。    守るべきはただ一つ、偉大なる主の御名のみ。  その為ならば、主の被造物である魔すら滅ぼし尽くす。  彼らが〈悪魔払い〉《エクソシスター》と一線を画すのは、ただその一点のみである。   「―――代行者か。〈教会〉《れんちゅう》はこぞって鳩の如き軽薄さ、蛇の如き移り身を習わせるというが……なるほど、貴様もその例に漏れぬらしい」    白い髑髏が嘲笑う。  神父―――言峰綺礼は答えず、自身の武装を確認する。    告解の〈黒鍵〉《つるぎ》が左右に五つずつ、右腕には〈前回〉《・・》から未使用のまま保存し、今も力を残している令呪が数個。  下級霊を相手にするには充分すぎる武装。  だがサーヴァントが相手では、全弾命中させても倒しきれまい。    いかに無名といえ、アサシンとて英霊の一つ。  選ばれた代行者が持つという“聖典”クラスの武装でなければ、倒しきる事は出来ないだろう。   「どうした? 見れば貴様のソレも投擲するもの。ここで私と一勝負興じてみるか?」 「――――――――」    神父は動かない。  彼は木々の〈間〉《あいだ》に潜む髑髏を見据えながら、注意深く森の音を聴いている。  葉ずれの音。  仮面の下の息遣い。  じるじると溶ける肉の音。  そして、遠退いていく狂戦士の足音を。   「……やはりあちらに行ったか。間桐桜とは上手くいっていないようだな、マキリ臓硯」    髑髏を見据えたまま告げる。   「――――呵。呵々、呵々々々々々々!  そうか、ワシの気配に気付いておったか綺礼よ!  そこまで判っていながら足を止めるとは何事じゃ? 以前のおぬしならば小僧を撒き餌にしても逃げ切ろう。  だというのに自ら囮になるなどらしからぬ善行。よもや情に〈絆〉《ほだ》された、などという事はあるまいな!」    笑い声だけが森に響く。  白い髑髏がわずかに揺らぐ。  神父は眉一つ動かさず、   「――――なに、衛宮士郎を助けたつもりはない。  単に、こちらに用があっただけだ」    殺気すら灯さず、見えざる老魔術師に言い放った。   「ほ? ワシに用があった、と?」 「無論だ。どの道、私も衛宮も森からは出られまい。じき殺されるのは判っている。  ならば―――死ぬ前に、己が目的の為に手を打つのは当然だろう」 「む……? では、イリヤスフィールがどうなろうと構わぬと言うのか? アレを救う為に来たのであろうが」   「構わんさ。ここでアサシンを倒し、衛宮士郎を助けに行ったところで間に合わん。衛宮士郎があの娘を救おうと救うまいと、もう私には関係のない事だ」    左手に握った黒鍵は三本。  扇状に剣を展開したまま、神父は目前の髑髏を見据える。   「……ほう。では、わざわざこの場に残ったのは」 「ああ。私のすべき事は、イリヤスフィールをおまえに渡さぬ事か、」    ……殺気が消える。  白い髑髏は木々に擬態し、その姿を完全に消失させ。             「―――ここで、おまえを殺しておく事のどちらかだ」    ―――刃が奔る。  神父の穿つ剣と、アサシンが放つ短剣が激突する……!   「ク、ハハ、ハハハハハハハハ!  そうか、その為に死にに来たか! よかろう綺礼、腐れ縁じゃ、教会の外れ者が何処まで戦うか見届けて進ぜようぞ――――!」    哄笑が響き渡る。  魔を退けるだけの聖職者は、絶対に勝てないと知りながら、老魔術師の操る〈死の天使〉《マラク・アル・マウト》を迎え撃つ―――― 「は――――はあ、はあ、はあ、は………!」    イリヤを抱えたまま森を走る。  背後には振り向けない。  振り向いた瞬間、黒い壁が一面に広がっている気がして、生還しようという気が萎える。  そんな余裕はない。  少しでも気力が鈍れば、その時点で追いつかれる。  追いつかれて、俺もイリヤも殺される。 「っ――――あ、はア、が、あ、あ…………!」 「           」    足がもげそうだ。  いくらイリヤが軽いといっても、人を一人抱えて走るのはそれだけで速度が落ちる。  くわえて森の足場は悪く、踏み出すごとに前に倒れそうになる。 「あ――――! は、あ、ア、ハ…………!」 「             !」    速く。速く。速く。速く。  今よりもっと速く走らなければ追いつかれる。  背後の気配は刻一刻と近づいてくる。  こんな悠長に走っている場合じゃない。  俺はもっと速く――――言峰のように速く走って、イリヤを連れて逃げないといけないのに……! 「――――――――あ、――――――――ぐ……!」 「             !」    心臓が破裂しそうだ。  苦しい。息が出来ない。  足の筋肉が断裂しかけて、股から骨がブチ折れるぞと悲鳴をあげている。 「――――――――、――――――――!」 「             !」    苦しい。  もうどのくらい走ったのか。  言峰と別れて、イリヤを抱えて、森の中をがむしゃらに駆け抜ける。  五キロはとっくに走った。  酸欠で回らない頭だから倍は走ったかもしれない。  全力で、ペースを落さず、これでもかと走り続けた。           「――――」 「あ――――――――」 「             !」    だというのに離れない。  これだけ全力で走り続けて、心筋が硬直し停止しようとしているのに、背後の気配は容赦なく強大になっていく。 「――――――――く」 「             !」    イリヤが重い。  酸素が重い。  両足が重い。  死が重い。  追いつかれたら死ぬ。  一撃で殺されると、背中に得体の知れない怖れが圧し掛かる。 「そ――――――――!」 「             !」    萎えようとする意識に蹴りをくれる。  走れ。  今は何も考えず走れ。  足がもげそうだからなんだ。余計な心配だ。そんなもの、もげた時に考えればいい。  今は全力で出口を目指すだけ。  胸に〈燃料〉《ガソリン》を入れろ。弱気で停止しそうなエンジンのキーを回せ。ギアは常にトップ、ブレーキなんぞとっぱらえ。 「は――――あ、あ――――!」 「             !」    走れ。走れ。走れ。  背中に圧し掛かる不安を振り払うように走れ、  背後に迫った恐怖から目を背けるように走れ、  つまらない弱音が真っ白になるまで走れ――――!           「――――!」    うるさい。  耳元で怒鳴るな、こっちは自分の呼吸だけで鼓膜が破裂しそうなんだ、おまえの大声なんざ聞いてやるほど余裕は――――           「だめ、止まってシロウ…………!!!!!!!」 「っ――――――――!?」    胸元でイリヤが叫ぶ。  その、全身全霊をこめた忠告に、心より速く体が反応した。 「バ――――――――」    両足を止める。  土を抉りながら体を止め、抱えていたイリヤを地面に降ろす。 「――――〈同調〉《トレース》、」    腰に下げていた〈黒鍵〉《つるぎ》を構え、時速二百マイルの〈速度〉《スピード》で魔術回路を発現させる。 「〈開始〉《オン》――――!」    頭に浮かんだものは皆無。  その全てを頭に浮かべず、同時に、一瞬で工程を通過した。 「ああああああああああああ!」    両手で、満身の力でその一撃に抵抗した。  旋風は真横から。  木々を蹴散らしながら、“追手”は俺たちの真横から殴りつけてきたのだ――――!  ――――体が弾け飛ぶ。    わずか一撃で粉砕された。  ありったけの魔力をこめてダイヤ並に強化した〈黒鍵〉《つるぎ》は、焼けた飴のようにひしゃげた。  剣を通して伝わってきた〈衝撃〉《ダメージ》は両腕から全身に駆け上がり、脳天から足の指まで浸透した。 「――――――――、あ」    飛んでいる。  全身全霊、全てを篭めて対抗した一撃が一方的に粉砕された。    ――――相手に、ならない。    まるで相手にならない。  衛宮士郎では、あの怪物を止める事さえ許されない。    体は宙に浮いている。  いや、飛んでいる。  まるで投げ槍だ。ヤツの一撃で弾かれ、何十メートルも飛ばされようとしている。    この分なら城まで〈戻〉《とば》されかねない。  それ程の力の差があり、逃走は絶望的だった。    時間が止まっている。  このまま飛ばされ続け、落下すれば死ぬだろう。  あまりの力の差に、それが避けられない運命だと受け入れそうになった時、   「うそ……やだ、うそでしょバーサーカー……?」    黒い敵を前にして、愕然と涙するイリヤの姿が目に入った。 「が――――…………!!!!!」  咄嗟に腕を伸ばす。  果てしなく飛ばされる筈の距離を、自分から幹にぶつかる事で停止させた。 「あ――――は…………!!!!!!!!」    背中をハンマーで叩かれたような衝撃。  破裂寸前だった心臓はさらに膨張し、亀裂が入ったが如き絶痛を訴える。 「ハ――――ぁ――――、あ…………!」    可能な呼吸は一息分だけ。  酸素が足りないクセに、その一息だけで体がパン、と風船みたいに破裂しそう。 「は、つ、は――――――――!」    だがそれで体は動く。  一息分の呼吸があれば地面を蹴れる。  魔術回路を総動員し動かない筋肉を運転させ――― 「ねえ、どうしたのバーサーカー? わたしだよ、わからないの?」    イリヤは黒い敵を前にして、魅入られたように動かなかった。  イリヤは愕然と――――変わり果てたソレの姿を否定するように、弱々しく声をあげるだけだ。    ……それが、黒い敵の正体だった。  言峰は目が見えていない、と言った。  それは正しかったが、正確じゃない。    ……あのサーヴァントには、もう目も鼻も口もない。    赤く光る両目は殺気を放つだけのものだ。  全身は黒い泥に侵食され、セイバーにつけられた傷さえそのままに放置されている。    ……アレは違うもの。  黒い影に呑まれ、壊すだけの用途しかない怪物だ。  アレには追っている相手の姿など映っていない。  黒い狂戦士の眼球には、俺は勿論、イリヤの姿さえ映っておらず、 「」    咆哮と共に、目の前にいる“〈生き物〉《イリヤ》”に対して、その斧剣を振り上げた。    そうして、神父は最期の時を迎えた。   「ふ――――、ふぅ――――、ふ――――」    神父―――言峰綺礼は壁に背を預け、前方にかすむ髑髏を凝視する。  存分に切り刻まれた神父服。  乱れに乱れた呼吸は整わず、残る武装は三本の〈黒鍵〉《つるぎ》のみ。   「クハハ、これで詰めかのう。サーヴァントを向こうによく〈保〉《も》ったと誉めるべきか」    老人の哄笑が空を覆う。   「――――――――」  饒舌な主に反して、アサシンは無言だった。  彼にとって戦闘は作業である。  急所を狙う〈短刀〉《ダーク》は、同時に獲物の能力を測る物差しでもある。  一の短刀が防がれる事で獲物の運動性を測り、  二の短刀で獲物の行動法則を測る。    保つ距離は常に四間。  その、投擲武器でしか届かない間合いを保ちつつ、暗殺者は獲物の“能力”を推量するのだ。    一撃で倒せぬとあらば、一撃で倒せる位置まで敵を追い込む。  手足を切り刻み、肉体を疲労させ、心臓を破裂寸前まで追い込んでいく。    アサシンにとって、短刀は真の“必殺”へ繋ぐ布石にすぎない。    短刀によって獲物の力を測り、絶対の好機へと戦いを運び、魔の腕を叩きつける。  それは作業であり、アサシンにとっては何の愉しみもない日常だった。    だが―――退屈な作業ではあったが、神父は思いの外よい獲物だった。    使用した短刀は二十を超える。  技量を測ると言っても、放つ短刀は全て必殺だ。  それを凌ぎながら森を抜け、この廃墟に辿り着いた。  人間と侮ったが、神父の力量は驚嘆に値する。   「ふ――――、ふぅ――――、ふ――――」    だがそれもここまで。  もはや走る体力も尽きた神父は、壁に背を預けてアサシンを見据えるのみ。    隠し持つ黒鍵は残り三本。    弾丸の如く放った七本の黒鍵は、〈悉〉《ことごと》くがアサシンに〈躱〉《かわ》され、何処かに消えていった。   「では幕じゃな。慈悲をくれてやるがよい、アサシン」    髑髏が揺れる。  アサシンは〈無動作〉《ノーモーション》で短刀を撃つ。  狙うは眉間〈膵臓〉《三点》横隔膜。  まったく同時、一息で放たれた紫電に、神父は手にした黒鍵で対抗する。    〈必至〉《ひっし》、という言葉がある。    その手を行えば必ず殺す、という勝利を確定する一手。  それがこの一投だ。  急所を狙う三撃こそ誘い。  短刀を弾いた瞬間こそが、言峰綺礼の終わりである。   「――――死ね」    翼がはためく。  呪いの〈長腕〉《ながうで》、片翼の槍が展開される。    ―――それは、回避不可能の攻撃だった。    アサシンは神父の運動能力を把握している。  疲労し出血した獲物の能力を悟っている。    ―――故に必至。    あの獲物は〈短刀〉《ダーク》による死は防ぐだろう。  だがその後はない。  いかに逆転の為に体力を温存しようと、身体能力は神父の思惑に付いてこない。    三撃の短刀を弾いた神父に許された行為は、かろうじて真横に跳躍する事だけ。    それもわずか二間、この腕から逃れるだけの力はない―――!    ――――魔腕が伸びる。    神父に恐怖はない。  この展開は覚悟していた。  短刀が誘いである事も、弾いた瞬間に魔腕を叩き込まれる事も、自身に回避する手段がない事も、全て読んでいたのだ。    そう、これはどう〈足掻〉《あが》こうと躱せぬ必至。  故に、   「〈告げる〉《セット》――――」    残された手段は、この身を捨てての相打ち狙い―――!   「――――――ふ」    髑髏が笑う。  心臓を掴み取らんと繰り出される魔腕と、  神父の黒鍵が交差する。    だが問題ない。  直撃するのはアサシンの魔腕のみ。    なるほど、この体勢で放てば黒鍵は命中する。  だが悲しいかな、いかな魔術効果を足したところで、神父の黒鍵ではアサシンを倒しきれない。  三本の剣はアサシンを貫通し、背後の幹に縫い付けるだろう。    だがそれだけ。  神父はアサシンに傷を負わせたという功績をもって、同時に心臓を掴み取られ死滅する――――!    先に事を成したのはアサシンの腕だった。  彼の宝具――――“〈妄想心音〉《ザバーニーヤ》”は確かに神父の胸に張り付き、偽りの心臓を作り上げた。    しかし、その手応えがない。  男の心臓は、まるで空っぽのように反応しない。   「な―――」    瞬間、衝撃が炸裂した。  三針の黒鍵はアサシンを弾き飛ばし、その黒衣を大木に〈磔〉《はりつけ》る。   「ニィィィィイイ!?」    驚愕は二つ。  一つは黒鍵によって動きを封じられたアサシン、  そしてもう一つは、   「ば、馬鹿な、なぜ死なぬ綺礼――――!?」 「――――――――」    翻る神父の黒衣。  跳躍する。  冗談じみた上昇は、砲台の弾丸そのものだった。  力を溜めに溜め、限界まで引き絞った筋肉を解放し、十メートルの距離をゼロにする超人芸。  それは生い茂った木々の高み、  神父の処刑を愉しんでいた間桐臓硯の頭を、一瞬にして『掌握』した。   「ぬ――――ア、アサシン、何をしておるか……!」    何をしているかなど語るまでもない。  頼みの護衛は三本の黒鍵によって、幹に〈磔〉《はりつけ》られている。  アサシンにとっては掠り傷。  だが老人の救助を不可能とする聖なる釘。             「私が殺す。私が生かす。私が傷つけ私が癒す。我が手を逃れうる者は一人もいない。我が目の届かぬ者は一人もいない」    絶対に勝てないと知った敵になぜ挑もう。  もとより、彼の狙いは初めからソレだけだと言っていたではないか。   「お――――おのれ、貴様、貴様……!」 「黙っていろ。舌を噛むぞ」    神父は老人の頭を鷲掴みにし、そのまま地上へと落下する。   「ギ――――!」           「打ち砕かれよ。  敗れた者、老いた者を私が招く。私に委ね、私に学び、私に従え。  休息を。唄を忘れず、祈りを忘れず、私を忘れず、私は軽く、あらゆる重みを忘れさせる」    容赦などない。  老魔術師の肉体を地面に叩きつけ、全身の骨を砕き、頭部を鷲掴みにしたまま壁に叩きつけ、   「は――――そうか、ワシを殺すか! よかろう、好きにするがいい。だがそれで何が変わる。おまえの望みが叶うとでも思うておるのか!」           「装うなかれ。  許しには報復を、信頼には裏切りを、希望には絶望を、光あるものには闇を、生あるものには暗い死を」    歩いた。  壁に血の跡を残しながら、淡々と歩き出した。   「ははは、ははははは! なんと救いようのない男よ、いまだ人並みの幸福とやらを求めているのか! そのようなもの、おぬしには絶対に〈ない〉《・・》、と理解したのではなかったか!」    壁に描かれていく血の〈跡〉《あと》肉の〈跡〉《あと》。  老魔術師の体はもはや頭しか残っていない。  ずるずると、壁という〈鑢〉《やすり》に摩り下ろされた。    その頭部も、もはや半分以下。  ぐちゃり、と脳みそを壁にペーストされながら、老魔術師は最後の哄笑をあげる。               「休息は私の手に。貴方の罪に油を注ぎ印を記そう。    永遠の命は、死の中でこそ与えられる。    ――――許しはここに。受肉した私が誓う」   「そう、おまえには永遠にない。綺礼よ、ぬしは生まれながらの欠陥者にすぎん。この世の道理に溶け込めぬまま、静観者であり続けるがよい……!」                  「――――“〈この魂に憐れみを〉《キリエ・エレイソン》”」    ――――消えていく哄笑。  目には見えぬ重み、人の眼には映されないカタチが薄れていく。    洗礼詠唱。  彼等の聖典、“神の教え”は世界に〈固定〉《システム》化された魔術基盤の中でも、最大の対霊魔術とされる。    肉の身より離れ、腐り狂いながらも世に迷う魂を“無に還す”〈摂理〉《せつり》の鍵。  それは大いなる慈悲を以って、五百年を生きた老魔術師の妄念を昇華した。  時間が止まっている。   「――――やだ。  わたしこんなのやだよぅ、バーサーカー……!!!」    懇願するようにイリヤは巨人に叫び、  巨人はそれが誰であるかも判らず、大剣を振り下ろそうと―――― 「イリヤァァァアーーーーーーーーー!」    走る。  飛ばされた距離は十メートルほど。  こんな距離は一瞬だ。走れば絶対に間に合う。  一息分の呼吸、ジェット気流の如く全身を駆け巡る血液麻薬推進剤、発火する思考は紫電の如く――――!    ―――踏み込む。  体は軽い。時間は止まって感じられる。      ―――これなら間に合う。  絶対に間に合う。だが、間に合ったところで。        ―――黒鍵では歯が立たなかった。俺では歯が立たなかった。  だから。          ―――摸索し検索し創造する。     ヤツに勝てるモノ。     この場でヤツに太刀打ちできるモノは。            ―――明瞭だ。     即ち、ヤツが持つ大剣以外有り得ない―――!  ――――防いだ。   “投影”は当然のように成功し、巨人の斧剣を受け止めた。 「            あ」    亀裂が入る。  投影で作り上げた斧剣に亀裂が入る。  それは、同時に、 「!」 「あああああああああああああああ!」    使ってはならないモノを使った俺への、死に近い反動だった。  弾かれる。  巨人の第二撃を防いだ斧剣は粉々に砕かれ、俺の体も、ゴミのように地面を転げ滑っていく。    ――――なくなる。  意識が無くなる。  考えられない。  散らばった自分を必死にかき集めても考えられない。    左腕が反乱する。  血液が氾濫する。  左腕の拘束は外れていないのに投影をしただけで知能指数は半分になって二度ともう戻らないような悪寒、〈悪い予感は現実になる〉《・・・・・・・・・・》、〈大切なものから無くしていくぞ〉《・・・・・・・・・・・・・・》。 「――――、あ」    強い風の中にいる。  強い光の中にいる。  見失った見失った。  あまりの痛みで見失った。  探しているのに見つからない。  〈我〉《ガ》は砂漠に落ちた粒となって二度と誰にも見つからずただ乾いて乾いて乾いて乾いて――――   「シロウ! しっかりして、ちゃんと自分を見つけなさい……!」    イリヤがいる。  俺は倒れている。  黒い巨人から十メートルほど離れている。  巨人は弾き飛ばした俺を探すように、赤い両眼をギラつかせている。 「――――――!」    意識が戻った。  悠長に倒れている場合じゃない。  体、体はまだ動く。  外傷は木の枝による擦り傷だけ、出血なんて滲む程度。  ただ苦しい。ぜいぜいと喘ぐ舌、走り通しで体の中には一息の酸素もなく満足な呼吸が欲しい。  それだけだ。  肝心なのは中身―――その中身も冷静に診断したくもないが、まだ充分に戦える――――! 「イリヤ、一旦離れるぞ……!」    イリヤの手を握って立ち上がる。  体は無事でも今は酸素が欲しい。  たとえ一分でもヤツの間合いから離れて、呼吸を整えなくては話にならない――――!  が。   「……なんで? シロウ、自分がどうなってるか判ってるの?」    イリヤは、俺の手を拒むように引き下がった。 「――――――――」  どうかしていた。  イリヤの背後には、こちらに狙いを定めようとするバーサーカー。  俺は俺で酸欠で頭が〈正常〉《まとも》じゃなく、イリヤがどうしてそんなコトを言うのかが考えられない。 「イリヤ?」 「……ごめんなさい。けどもういいの。もういいから、シロウ一人で逃げて」 「――――――――」  俯いてイリヤは言う。  頭が回らない。  回らないから、完全に頭にきた。 「ああもう、こんな時にまで駄々こねるなっ! 行くぞイリヤ、今はそんな場合じゃないだろう!」 「あっ……!?」  イリヤの腕を引っ張る。  その小さな体が、その小さな体で俺を助けようとする心が、ひどく、尊いものに感じられた。 「ちょっ、なにするのよシロウ! もういいって言ってるじゃない……! 今ならまだ間に合うから、シロウ一人で逃げて!」  ぽかぽかと頭を叩いてくる。  それを無視して、 「黙ってろ……! んなコトできたらな、そもそもこんなところに来てないんだよ……!」  ぎゅっと、イリヤの体を抱きしめた。 「な――――」  どうして、とイリヤは目で問いかけてくる。  ふざけてる。  そんなの、どうしても何もない――――! 「理由なんてあるかっ! 俺はかってにイリヤを守るだけだ! いいか、兄貴はな、妹を守るもんなんだよ!」 「はあ!? ばっかじゃないの、わたしはシロウの妹なんかじゃないもん!」 「いいんだよ! 一度でもお兄ちゃんなんて呼ばれたら兄貴は兄貴だ! たとえ血が繋がってなくても、イリヤは俺の妹だろう……!」 「――――――シロウ」  黒い巨人がこちらに向き直る。   「走れ、来るぞ……!」    考えるのは後だ。  今は全力で、あいつから距離を取らなければ……!  ――――少し、異常だった。    イリヤの手を引いて走る速度は、自分の知っている衛宮士郎の脚力を遥かに凌駕している。  見覚えのある広場に出る。   「あ、はっ、っ、は――――!」    苦しげに吐き出される呼吸はイリヤのものだ。  体が麻痺しているのか、俺の呼吸は乱れていない。  酸素が足りなくて苦しいのに、呼吸そのものはまるでしていない。  まるで死人。  心臓はさっきから完全にストライキに入っている。 「あ、だいじょう、ぶ、走れる、から……!」    握り返してくるイリヤの指は、恐ろしいまでに熱かった。  イリヤには初めから、走り続けられるほどの体力は付属されていない。  イリヤの設計には、人間のような運動など想定されていないからだ。 「――――――――」    頭痛がする。  知りもしない知識が頭に入ってくる。  雑念は邪魔だ。  今は離れなければならない。  五感全てを封じられ、理性まで奪われたあの巨人が、すぐそこまで迫っている。  一時、何かの間違いで引き離したが、さっきのスピードは望むべくもない。  俺の足はブルブルと震えていて、動けるのはあと十メートル足らずと冷静に判断できる。  イリヤもこれ以上は走れない。  隠れるにしても、この地形では身を隠せる〈遮蔽物〉《しゃへいぶつ》がない。  尤も―――何も見えてない〈巨人〉《バーサーカー》にとっては、何に隠れようと無意味ではあるが。 「――――しめた」    だが一つだけ幸運があった。  広場には地割れのような窪みがある。  それは以前、セイバーの宝具によって抉られた大地の傷痕だ。 「イリヤ、こっちだ――――!」  イリヤの手をとって窪みに飛び込む。  塹壕じみた穴は人間二人を易々と収納した。   「は――――あ」    剥き出しの土に背中を預ける。  酸素を求めて顔を上げると空が見えた。  地底から見上げたような、切り取られた狭い空。 「は――――あ、あ――――」    深々と呼吸をする。  ほんの一時体を休め、極限にあった精神を緩める安息。 「っ……!」  それも一瞬だ。  巨人は決して見失わない。  何処に逃げようと確実に追い、捕らえ、惨殺する。 「………ぁ………、っ……」    押し殺した声は、傍らで縮こまった少女のものだった。  イリヤは声を殺して、こちらに負担をかけないよう、懸命に自分の体を抱いている。 「――――――――」  限界だ。  これ以上は逃げられないし、これ以上は我慢できない。  〈赤布〉《ひだりうで》に視線を落とす。  そこには唯一の打開策が、今か今かと解放を待っていた。    死ぬ。  言峰はこれが時限爆弾のスイッチだといった。  さっきの痛みが思い出される。  投影を使っただけで壊れかけた。  なら、この布を解いた時の痛みがどれほどのものなのか、想像する事もできやしない。    撃鉄は常に頭に。  赤い布に手をかける事は、銃口を口に入れて引き金を引くのと同じだ。  布をはがせば撃鉄が落ちる。  脳は確実に頭蓋から後ろにぶっ飛び、あらゆる出来事はそこで終わる。 「――――――――」    覚悟を決めろ。  答えなぞ初めから出ていた。  イリヤを連れ戻して桜を助ける。  それがどういう事かは判っている。  イリヤをこのまま守りきって、あの得体の知れない影を倒して、桜から引っぺがす。    そんな、自分では手の届かない奇蹟を願った。  今でも全霊をかけて、その結末を望んでいる。  それが自分では叶えられない〈理想〉《ユメ》だと理解しても、諦める事さえ考えなかった。 「――――――――」    なら、いかないと。  桜を救って、イリヤも助ける。  そんなコトは出来ない。  死に行く者、破滅を迎えるしかない桜。  それを救うという事は奇蹟だと、誰かが言った。    ――――そうだ。  人の身では成し得ない救い。  自分の手にあまる奇蹟を成し得るのなら、相応の代償が必要になる。  自分を守って誰かを守る事などできない。  破滅に進む桜を救う為には。  誰かが、その席を替わらなくてはならないとしたら。    大地が震えている。  暴風の具現が急速に近づいてくる。 「―――外に出る。あいつを倒していいな、イリヤ」 「え……?」  呆然と顔をあげる。  イリヤは、俺の右手が左腕にそえられている事に気がついた。 「だめ……! それだけはだめ、アーチャーの腕を使ったら戻れなくなる……! 死ぬのよ、いいえ、死ぬ前に殺されるわ。シロウが、何も悪いコトをしてないシロウがそこまでする必要ない……!」 「それはなんとか我慢する。死にそうになってもなんとか我慢するから、イリヤは心配しなくていい。  ああ、あと一つ訂正。俺だって、悪いコトぐらいしてきたぞ」 「え――――シロウ……?」 「じゃ、行ってくる。イリヤはここで待っててくれ」    ぽん、とイリヤの頭に右手を置いて、亀裂の中で足を進めた。    イリヤから離れる。  バーサーカーをひきつけ、正面から迎撃する。  その時、万が一にもイリヤを巻き込まないように離れておかないといけない。 「――――来たな」    左肩、聖骸布の結び目に手をかける。  〈手首〉《リスト》は際立って強く結ばれているので、引き剥がすなら肩口からだ。  あとは力任せに引っぺがすだけ。  それだけで、今まで経験した何十倍もの、あの痛みがやってくる。 「――――――――」    言峰は時限爆弾のスイッチだといった。  外せば導火線に火がつく。  爆発するのは一分後か一日後かは判らない。  ただ確実に判るのは、一度ついた火は決して消せないという事だけ。  ―――舌が渇く。    覚悟したところで恐怖心は消え去らない。  不安で不安で叫びだしたくなる。    ―――正気でいられるか、と。    俺は、俺自身が怖くて怖くてたまらない。    自分が死ぬのは当たり前だ。  だって、このままでいても殺される。  どちらにしても殺されるのなら、少しでも長く続く方を取るだけだ。          だから、恐ろしいのはただ一つ。  この体が壊れるより速く、俺の心が砕けてしまわないかという事だけ。 「は―――――――あ」    あの痛みに耐えられるのか。  戦う前に自分も判らなくなってイリヤも桜も判らなくなるのか。  判らなくなって、守ると誓った言葉さえ思い出せなくなるのか。    それが怖かった。  その一点が何より怖かった。  だから封じた。  この腕は決して使わない、死ぬような目にあっても使えないと判っていた。    ……バーサーカーの姿は他人事じゃない。  左腕の痛みに耐えかね、正気を失えばああいったモノになる。  いや、その怖れは左腕がある限り有り続けるだろう。  この腕は俺を殺す悪夢の具現だ。    だが。  そこまで判っていて、ここまで残したのは何の為だったのか。    ―――――莫くしてしまえばいい。    そう思いながらここまで残した理由は一つだけ。  この腕は使われる為に有り続け、ヤツは必要だから俺に託した。    俺は俺自身に裁かれる、とヤツは言った。    悪いコトなんてしていない、とイリヤは言ってくれた。   「ああ――――それで充分だ」    〈贖〉《あがな》いはここに。  己を裏切り、多くの命を犠牲にした。  譲れないモノは変わらず、その為に在り続ける。    赤い罰に力を篭める。  生きるか死ぬか。  立ち向かうための深呼吸をして、引き裂くように右腕を――――                      瞬間。          世界が崩壊した。 「――――――――――――――――――――――――あ」    絶望が吹いている。  秒速百メートルを優に超える超風。  人が立つ事はおろか、生命の存在そのものを許さぬ強風が叩きつけられる。    既に風などではない。  吹き付けるソレは鋼そのもので、風圧に肉体が圧し潰される。 「――――――――――――――――――――――――が」    眼球が潰れる。  背中が壁にめり込む。  手を上げるどころか指さえ動かない。  逆流する血液。  漂白されていく精神。  痛みなどない。  痛みを感じ、堪えようとした事など、ここではあまりにも人間らしい。 「――――――――――――――――――――――――あ、あ」    とける。  抵抗する苦悶さえあげられない。  何もない。  抗う術などない。  先に、前に進まなくてはいけないのに、指一本動かせない。 「――――――――――――――――――――――――ああ、あ」    白くとける。  体も意識も無感動に崩れていく。                        前へ。  なんのためにここにいるのか。                    それでも前へ。  なんのためにこうなったのか。                   あの向こう側に。  なんのためにたたかうのか。                この風を越えて、前へ。 「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――」    ――――消える。    体は初めから敗れていても心だけは負けるものかと食いしばっていた心が消える。    保た、ない。  どんなに力をいれても動けない、  どんなに心を決めても残れない。  自分の全存在を懸けて右手を握り締めようと試みる。  それが出来れば踏み止まれる。  体の一部が動けば、その感覚を足場にして前に出れる。    拳を握るどころか指先さえ動かない。  左眼が潰れた。  風鳴りが鼓膜を破る。  薄れていく意識と視界。  その、中で、    ありえない、幻を見た。 「――――――――――――――――――――――――あ」    立っている。  この風の中であいつは立っている。  立って、向こう側へ行こうとしている。    ―――当然のように。  赤い外套をはためかせ、鋼の風に圧される事なく、前へ。 「――――――――――――――――――――――――ああ、あ」    顎に力が入った。  ギリギリと歯を鳴らした。  右手は、とっくに握り拳になっていた。    赤い騎士は俺など眼中にない。  わずかに振り向いた〈貌〉《かお》は厳しく、この風に飲まれようとする俺に何の関心もない。    ヤツにとって、この結果は判りきった事だった。  衛宮士郎ではこの風には逆らえない。  自分を裏切り、手に余る望みを抱いた男に未来などないと判っていた。    ヤツの言葉は正しい。  溜めに溜めた〈罰〉《ツケ》は俺自身を裁くだろう。  だというのに、ヤツの背中は。                “――――ついて来れるか”    蔑むように、信じるように。    俺の到達を、待っていた。           「       ――――ついて来れるか、じゃねえ」    視界が燃える。  何も感じなかった体にありったけの熱を注ぎ込む。  手足は、大剣を振るうかの如く風を切り、           「てめえの方こそ、ついてきやがれ――――!」    渾身の力を篭めて、赤い背中を突破した。   「」    地上に踏み上がる。  風は途絶えた。  黒い巨人まで、距離にして三十メートル。  ヤツなら三秒とかからず詰める。  ―――故に。  勝敗は、この三秒で決せられる。    思考は冴えている。  自身の戦力は把握している。  創造理念、基本骨子、構成材質、制作技術、憑依経験、蓄積年月の再現による物質投影、  魔術理論・世界卵による心象世界の具現、魂に刻まれた『世界図』をめくり返す固有結界。  アーチャーが蓄えてきた戦闘技術、経験、肉体強度の継承。訂正、肉体強度の読み込みは失敗。斬られれば殺されるのは以前のまま。    固有結界“無限の剣製”使用不可。  アーチャーの世界と俺の世界は異なっている。再現はできない。  複製できるものは衛宮士郎が直接学んだものか、ヤツが記録した宝具のみ。  左腕から宝具を引き出す場合、使用目的に最も適した宝具を“無限の剣製”から検索し複製する。    だが注意せよ。  投影は諸刃の剣。  一度でも行使すれば、それは自らの――――   「――――――――」    呼吸を止め、全魔力を左腕に叩き込む。  把握するのは使える武装だけでいい。  注意事項など先刻承知。  もっと前へ。  あの風を越えて、俺は、俺自身を打倒する――――   「――――〈投影〉《トレース》、〈開始〉《オン》」    凝視する。  ヤツの大剣を寸分違わず透視する。  左手を広げ、まだ現れぬ架空の柄を握り締める。  桁外れの巨重。  衛宮士郎ではその大剣は扱えない。  だが―――この左腕ならば、敵の怪力ごと確実に複製しよう。   「――――――――、ぁ」    壊れた。  パシ、と音をたてて脳の一部が破裂する。  骨格は流出する魔力に耐え切れず瓦解。リンゴの皮みたいにみっともない。   「――――――――行くぞ」    心配など無用。  壊れた個所は腕が補強する。  我が専心はヤツの絶殺にのみ向けられる。   「!」    気付かれた。  収束する殺意。  こちらの魔術行使を敵と見なし、黒い巨人の眼が動く。    黒い、〈凶〉《まが》つ星のようだ。    巨人は断末魔をあげながら、自らの敵を討ちに走る。  ―――狂戦士。    憤怒のまま、巨人は変わってはいなかった。  アレは、未だセイバーとの戦いの中にいるのだ。  目は見えず、正気を失い、二度の死を迎え全身を腐敗させながら、尚、イリヤを守ろうと戦っている。            ――――――――――、一秒。   「――――――――」  走りくる巨人は一撃では止まらず、通常の投影など通じまい。  〈投影魔術〉《トレース》では届かない。  限界を超えた投影でなければ、あの巨人は倒せない。  故に―――                 「――――〈投影、装填〉《トリガー・オフ》」    脳裏に九つ。  体内に眠る二十七の魔術回路その全てを動員して、一撃の下に叩き伏せる――――            ――――――――――、二秒。    目前に迫る。振り上げられる大剣。    激流と渦巻く気勢。    踏み込まれる一足を一足で迎え撃ち。    八点の急所に狙いを定め、   「〈全工程投影完了〉《セット》――――〈是、射殺す百頭〉《ナインライブズブレイドワークス》」            振り下ろされる音速を、神速を以って凌駕する―――!   「―――、…………!」    倒れない。  自らの大剣に全身を撃ち抜かれ尚、バーサーカーは健在だった。 「は――――あ――――………!!!!!」    踏み込む。  左手には巨人の大剣。  こちらが速い。  体の八割を失い、殺されたバーサーカーより俺のトドメの方が速い。  大剣を胸元まで持ち上げ、槍の様に叩き込む。 「――――!!!!」    だが、負けた。  後先も何もなく。  与えられた反則級の特権を臆面もなしに全開投入して、なお負けた。  バーサーカーの一撃が迫る。  旋風を伴って振り下ろされる。 「――――――――」    体をひねる。  全能力を回避に費やす。  気付いたのは早かった。  躱せる。  バーサーカーの一撃はギリギリのところでこめかみを〈掠〉《かす》めていくだけだ。    ――――それでも即死。    大剣の先端、わずか数ミリが掠っただけで死ぬ。  直撃ならば大地をも殺しかねない一撃だ。  俺の頭など、切っ先が掠っただけで豆腐のように吹き飛んでしまう。    大剣が迫る。  自分の頭が吹き飛ばされる瞬間に視界が凍る。    ―――だが。    脅威的なスピードで繰り出された大剣は、  脅威的なスピードで止められた。 「――――――――え?」    死の一撃は〈標的〉《このおれ》まで落とされない。   「――――――――」    黒い巨人は、前を見ていた。  懐にいる俺ではない。  窪みから地上に出てきていた白い少女を、理性のない眼で見つめていた。    貫いた。  躊躇わず、微塵も情を零さず、バーサーカーの心臓に大剣を叩き込む。    反撃はない。  巨人は残る命を使いきり、今度こそ塵に帰っていく。    ……その刹那。  消えていく赤い眼が、少女を見つめたまま、おまえが守れと告げていた。                ――――戦いは一瞬。        本当に一息の間に、決着はつけられた。    少年は震える唇で、行ってくる、と少女に伝えた。  疲労と不安を押し殺して、赤い拘束具に手をかけて少女から離れていった。    少女が地上に出たのは、少年を止める為だ。  離れていく背中を、どう止めるべきか一息だけ迷って、言葉など思いつかず、耐え切れなくなって外に出た。    それは時間にして、十秒もなかったと思う。    だが、そのわずかな躊躇いが明暗を分けてしまった。   「シロ――――――――」    少年の後を追うように地上に出る。  戦いは終わっていた。  彼女の守り手であった巨人は、最期に少女を見つめたまま消えた。  戦いの終わりを告げるように、広場には風が吹き込む。  少女の視界には、その背中だけが残された。   「――――――――」    戦いは終わった。  英霊の腕の力などではない。  少年は、自らの力で、自らの死と戦い、打ち勝った。  少女は少年の背中を見守り続ける。    振り返る事なく、二度と振り返らないだろう、その背中を。    聖骸布を解放し、巨人を倒した少年の姿は雄雄しかった。  もう迷いは見られない。  布を解き、投影を行使した時点で、彼はあらゆる煩悶を落としたのだ。   「―――――――――シロウ」    その背中を、少女は悲しげに見守り続ける。  別人のような姿、別のものになってしまった少年の体。    ―――引き返す道をなくしてしまった、愚かで尊い、ある一つの結末を。 「――――――――、は」    止めていた呼吸を再開する。  左腕が熱く、体中が痛い。  体内に電気製の蛇がいて、縦横無尽にはねまくっている。 「ぁ――――、ずっ――――」    とてもじゃないが立っていられない。  早く。  少しでも早く左腕を布で覆って、この痛みから逃れないと〈時間切れ〉《タイムリミット》が来てしまう。 「っ――――、は――――あ」    だが、今はまだ拘束できない。  左腕を押さえつけるのも、腰を落とすのも、  彼女を、撃退してからの話だ。 「――――セイバー」  痛みを飲み込み、気合負けしないようにセイバーを見据える。 「……………………」  初めからバーサーカーに追随していたのか、セイバーは敗れた巨人の仕事を引き継ぐように、ゆっくりとこちらに近づいてくる。  ……そうして四間。  彼女なら一息で踏み込める間合いで、セイバーは足を止めた。 「――――――――」 「……………………」  真正面から対峙する。    ―――倒される。  バーサーカーとの戦いでこっちはまともに動けない。  セイバーに斬り込まれれば躱す事さえできず真っ二つにされる。  それだけじゃない。  たとえ五体満足であろうと、俺ではセイバーには勝てない。  セイバーが手にする宝具―――アレを上回るモノを、俺はどうあっても投影できない。  だから勝負は決まっている。  セイバーを倒せるとしたら、それは彼女の宝具に拮抗する宝具を、その持ち主に使ってもらうしかない。 「――――――――は」    その時点で矛盾している。  攻撃力において、セイバーの宝具は最強だ。  いや、あの聖剣を上回る武器を持つ英霊もいるかもしれないが、この聖杯戦争においてそんなヤツは存在しない。  現状でセイバーを倒せるとしたら、それはセイバーの剣だけだ。  故に矛盾。  こと戦闘面において、いまやセイバーは最強のサーヴァントだ。  ……〈家〉《うち》の中庭で見た桜は、確かに桁外れの魔力量を誇っていた。  だが、その桜でさえセイバーを倒しきれまい。  俺というマスターから解放され、魔力を充分に供給されるようになったセイバーは文字通り無敵なのだ。 「―――無駄な事を。貴方では桜は救えないと忠告した結果がそれか」  セイバーの声に感情はない。 「―――――!」  それが合図だ。  容赦もなく間隙もなく、彼女は俺を斬り伏せにくる。 「こ――――」    それがどうした。  ここで殺されるワケにはいかない。  相手がセイバーだろうと負けられない。  倒す事はできなくても、今の自分ならイリヤを連れて逃げ果たせるぐらいは―――― 「だが幸運だな。自滅する者に関わっている場合ではなくなった。―――桜が、私を呼んでいる」 「え――――?」  セイバーは背中を向けて、森の奥へと歩いていく。 「……いや。運ではなく、自らの手で勝ち取った生還か。貴方はバーサーカーを倒した。その決意が、この結果を引き寄せたのだから」    セイバーは振り返る事なく去っていく。    ……呼び止める事など出来ない。  彼女は敵だ。  理由はどうあれ、見逃してくれるのなら有り難く情けに預かる。  こっちは満身創痍で、敵を呼び止める余裕なんて一欠けらもない。 「――――――――」  痛みをかみ殺して、遠ざかっていくセイバーに背を向ける。  今はイリヤを連れてこの森から出る。  ……敵はセイバーだけじゃない。  桜とあの影を引き離すにしても、臓硯がいるかぎり邪魔をしてくるだろう。 「っ――――ぐ」  自分の体がどうなっているのか、どうなろうとしているのかは理解している。  投影は、出来てあと三回。  ……いや、五体満足でいたいのならあと一回も危ない。  そんな状態で臓硯とアサシンの相手は出来ない。  倒したところで体が破裂してしまっては意味がない。  なら、満足な体で許される最後の一回は、遠坂との約束にあてるべきだ。    それなら―――俺が戦闘不能になっても、まだ望みは残ってくれる。 「シロウ……?」  どこからかイリヤの声が聞こえる。 「……ああ。今は少しでも早く森を出よう。  セイバーの―――いや、桜の気が変わったら今度こそ逃げ切れない」    イリヤを視認できない。  心臓の鼓動はやけに巨大で、ギシギシと頭蓋の中を跳ね回っていた。    ―――〈聖言〉《ホーリーワード》による浄化。  神父の悪霊祓いによって、間桐臓硯の霊体は霧散した。  広場に残された者はただ二人。    黒衣を朱色に染め、満身創痍で壁に寄りかかる言峰綺礼と、    黒鍵によって大木に縫い付けられた、髑髏の暗殺者のみである。   「―――完全に魔術師殿を消したな、代行者。アレが蟲の集まりだと知っていたのか」 「――――」  声へと振り返る。  アサシンの姿はとうにない。  幹には突き刺さった黒鍵と、わずかな血の跡だけがあった。   「……アレとは長い付き合いでな。蟲を触媒にしてこちらに干渉する霊体だと知っていた。故に肉体を千切ったところで効果はない。殺すのなら、跡形もなく肉体を擦り潰すか」   「貴様のように霊体そのものに攻撃するか、か。  なるほど、人間にしては強い括りで留まっていた魔術師殿だが、経典による聖言には弱かろう。  悪霊払いとはよく言ったものだ。マトウゾウケンにとって、貴様は天敵だったという事か」   「――――――――」    神父は答えず、傷だらけの体を確認する。  出血は止まっている。  武器こそなくなったが致命傷はなく、この分なら数分休めば体力も回復するだろう。   「それで、どうするのだアサシン。おまえのマスターは消えた。魔力提供がなくなったおまえならば、私の聖言でも充分に通用するが」 「……だろうな。この体はじき消える。新しいマスターを得なければ、この森に漂う浮遊霊と大差はない。この身は一日を待たず下級霊に落ち、この世から消えるだろう」   「そうだ。マスターのいないサーヴァントであらば、〈代行者〉《わたし》でも傷は与えられる。  それで、どうなのだ。主の仇討ちをするかアサシン」 「それほど酔狂ではない。魔術師殿は慢心によって敗北した。私の落ち度とは思えぬ。  思えぬが、合点のいかぬ事がある。それを聞かねば納まりがつかん」   「“〈妄想心音〉《ザバーニーヤ》”の不成功か。  〈悪魔〉《シャイターン》より譲り受けた腕と見たが、〈地獄の天使〉《ザバーニーヤ》の名を冠する以上、私に効き目はない。  それは人を罰するモノ故、同種の存在を呪えるものではない。……既に人のモノではない私の心臓は、“呪い”には滅法強いのだ」   「――――やはり。貴様の心臓はあの娘と同じだった。  貴様、既に汚染されていたな……?」    神父は答えない。  ただ皮肉げに口元を歪めただけだ。   「……だが、だとしても何故知っていた。貴様の行動は私の腕が効かない、と知っていなければ出来ぬ事だ。  貴様は初めから、私に宝具を使わせるつもりでいたな?」 「そうだな。おまえの腕は知っていたぞアサシン。  対象の心臓とまったく同じ偶像を作り、反鏡存在とする事で実像の心臓とすり替える呪いの腕。  私のサーヴァントは、その腕によって破れたのだ」   「――――! では、貴様は」 「ああ、見ていたとも、ヤツが息絶える瞬間までな。  知っていたのは当然だろう。ランサーを倒した時点で、おまえの失態は決まっていた」 「――――チ。確かに、これは失態だ」    憎々しげに舌打ちをするアサシン。  同時に、放たれていた殺気が途絶える。  神父の答えに満足したのか、アサシンは呆気なくこの場から離脱していった。   「……次の契約者を探しにいったか。  大方、次の雇用主は間桐桜といったところだが―――」    神父にとってそれは問題ではない。  要は間桐臓硯が、間桐桜を『殺して』しまわねばそれでよいのだ。    臓硯の望みは不老不死。  それは聖杯と化した間桐桜の肉体だけで事足りる。  あの老人が生きていては、聖杯の中で受胎した“呪い”が〈孵〉《かえ》る事はない。  ここまで育った間桐桜を、〈臓硯〉《むし》の乗り物になどさせては意味がない。  間桐桜には、このまま“〈寄り代〉《マスター》”で在り続けてもらわねばならない。  何故なら、それは、                “――――そう、おまえには永遠にない。     ぬしは生まれながら欠落しておる―――”   「――――――――」  わずかに立ち眩みがした。  血を流し、疲れきっているせいだろう。  神父は壁に背を預け、一時だけ、眠るように目蓋を閉じた。                     それは、十年以上も前の話。   “生まれながら欠落している――――”    その事実を受け入れた後、男はあらゆる努力をした。  道徳を識りえぬ身でありながら常識を持つ男の青年期は、それを克服する為だけのものだった。    だが叶えられた事はない。  男の苦行、苦悩は癒されぬまま、悉く無駄に終わった。    その最後の試みが、一人の女だった。    単純な話だ。  どのような人間であろうと、異性を愛し、家庭を持ち、静かに息絶える姿を幻想しない者はいない。  その平穏を嫌悪しようと、それを夢見ない人間はいないのだ。    男も例外ではない。  そこに一握りの魅力も感じずとも、そうできたらいいと願い、  人並みの幸福を得ようと、一人の女を愛した。    男が選んだのは未来のない女だった。  病に蝕まれた女は数年程しか生きられまい。  そんな女だから選んだのか、その女しか選べなかったのか。  その基準だけは、こうして思い返しても判らない。    生活は二年ほど続いた。  男は女を愛そうとした。  女も男を愛そうと努力し、愛し、子もなした。  だが結果は変わらない。  男にとっての幸福とは女の苦しみであり、我が子の絶望に他ならなかったからだ。  愛そうとすれば愛そうとするほど、愛する者の苦しみだけが、男にとっての救いになった。    その矛盾に男は苦しまない。苦しんでいたかも判らない。  ただ女が自分を癒そうとすればするほど、この女の嘆きが見たいと思う自分がいるだけだ。    女は聖女だった。病弱な女だったが、男に言わせれば聖女だった。  女がどれほど信心深く、また、男の憤怒を理解していたかは言うまでもない。  それ故、男の絶望は近かった。  あれほど自分を理解し、癒そうとする人間はこの先現れまい。その女ですら、自分の欠落を埋める事はできなかった。    ならば――――もはや、生きて是非を問うこともない。    自分は欠落した存在として生まれた。  〈己〉《こ》の誕生は何かの間違いだった。  間違いなら消えるだけだ、と結論を下し、己が死を迎える前に、女に別れを告げにいった。  己が試みの為に妻としたのだから、終わりを告げるのは当然の義務だった。            女は言峰を愛していた。  言峰も女を愛そうと考えた。  この話は、それだけの事である。    終わりは、あまりにも速やかだった。   「私にはおまえを愛せなかった」    石造りの部屋に訪れ、男はそれだけを告げた。  死病に冒された女は笑って、立ち上がる事もできぬ細い、骨と皮だけの体で、   「―――いいえ。貴方はわたしを愛しています」    そう微笑んで、命を断った。    止めようがなかったし、止めても意味のない事だった。  女は死病に冒されている。いずれ死ぬ身だ。もとよりそういう女を選んだのだ。    血に染まった女は、掠れていく意識で男を見上げて、笑った。   「ほら。貴方、泣いているもの」    無論、泣いてなどいない。  女には、そう見えただけの話だ。  貴方は人を愛せる。生きる価値のある人だと、女は死を以って証明した。  男は無言で部屋を去り、主の教えに決別した。    ―――そう。  確かに悲しいと思った。  だがそれは女の死にではない。  その時、男は思ってしまったのだ。   “なんという事だ。どうせ死ぬのなら、私が手を下したかった”    彼が悲しんだものは女の死ではなく、女の死を愉しめなかった、という損得だけだった。    ――――遠い昔の話だ。  今ではあの女の声はおろか、顔さえも思い出せない。    ただ、時に思う事がある。   “私が手を下したかった”    それが自らの歓喜によるものなのか、それとも―――  愛したものだからこそ、自身の手で終わらせたかった悲哀なのか。    その答えが脳裏を掠める時、彼は常に思考をカットした。  それは永遠に沈めておくべきものだ。  女の死は無意味だった。  その献身とて、男を変える事はできなかったからだ。    だが、それを無価値にする事を、男は嫌った。  ―――答えを出す事を、永遠に止めたのだ。    ……もうずっと昔の話だ。  他人の不幸だけを糧とし、世界が穢れるほど満たされる男の記憶。    その後、男は生涯の仇敵と出会う。    衛宮切嗣。  男が欲していたかもしれないモノを、自らの手で無価値とした一人の魔術師――――   「――――――――」  目蓋を開ける。  少し眠っていたようだ。  神父は体力の回復を確かめ、先行している衛宮士郎を追いかけようと歩を進め、             「――――いいえ、どこにも行けない。       だって、貴方はここで死ぬんだもの」    一人の少女に、その道を阻まれた。    少女は完全に変わっている。  身を包む装束は、彼女の影そのものだ。  アレは己の体に、自らの暗い魔力を纏っている。    ―――その魔力量、存在感、ともに〈人間〉《ヒト》のモノではない。    今の少女は純粋なる英霊、〈抑止の守護者〉《カウンターガーディアン》と同格の位に達している。   「……完全に汚染されたな間桐桜。  体だけではない。精神まであの“呪い”に同調しなければ、そこまでの変貌はない。  ―――認めたな。自分が『怪物』なのだと、開き直ったという訳だ」    それを望んでいたというのに、神父は少女を糾弾する。  怪物である自分を認め、その力に酔う少女を咎めるように。   「……くす。そう、自分の力に酔うのはいけませんか?  けど、きっと仕方のないコトなんですよ、これ。  もっとみんなが優しかったら、わたしだってもう少しぐらい我慢したと思うんです」 「――――ほう。我慢とは、何をかな」   「自分をですよ、神父さん。  こうなってやっと認められました。わたし、この世界がきらいなんです。  わたしを捨てた遠坂の家。わたしとは何もかも違う、なに不自由なく生きてきた姉さん。怖いお爺さまと可哀相な兄さん。わたしの痛みも知らず、平穏に過ごす町並み」   「そういうのが、今はすごく許せないんです。  ……これが八つ当たりだって理解しています。けど、悪い事だって判っていても思ってしまうんです。  ―――そう。  今までわたしを助けてくれなかった全てに、わたしを思い知らせてあげたらどんな顔をするのかって」    昏い悦びに浸るように少女は微笑む。  神父の眼差しは変わらない。  彼は汚いものを見るように少女を見据える。   「変わったな、間桐桜。……なるほど、その闇も適合する為の素質だったという訳か」 「ええ、変わりました。わたしは今までの間桐桜じゃない。あんな弱い子はもういないの。  ……そう。今まで、みんなわたしを苦しめてきたんだもの。その仕返しに、わたしがみんなを苦しめてあげるだけ。ただ耐えているだけのワタシはとっくに消えたわ」    クスクスと笑う。  二重人格。  今までの間桐桜は消え、無意識に眠っていた別人格が現れた。  少女の妖艶さは、そうとしか思えない豹変ぶりだった。  だが、それを。   「―――何を言う。隠す必要などないぞ、間桐桜」    神父は、一言の下に否定した。   「え――――なにを、ですか」 「隠す必要などない、と言った。  おまえは別人格などではない。泥に呑まれ、暴力に酔うおまえもまた間桐桜だ。異なる人格を用意し、間桐桜は悪くない、などと言い訳をする必要はない」    少女の貌が強張る。  それは真実だったのか。  黒く染まった少女はぎり、と歯を噛み、目前の神父を睨み返した。   「なにを―――貴方が、貴方がわたしをこうしたクセに……!」    憎しみに満ちた声に、少女の影が反応する。  ―――侵食は烈火の如く。  瞬く間に地面を覆った影の速度は、今までの比ではない。   「否定はせん。私がおまえを生かしたのはアレのマスターを続けさせる為だ。その期待に応え、おまえは見事アヴェンジャーを誕生させようとしている。  私では出来なかった事を、おまえは難なくやってのけたのだ」   「難なくなんかじゃない……! わたしがどれだけ苦しかったのか、今もどれだけ苦しいのか知りもしないで……!」 「知らんし、知る必要もない。小娘の恨み言を聞くほど酔狂ではないのでな」   「っ――――…………そう。  そうですね、わたしも知ってほしいなんて思わない。  そんな簡単に同情なんてされてやらない。わたしはこれから、一方的に思い知らせる立場なんですから」    酷薄な笑みが少女の口はしに浮かぶ。   「――――――――」  神父は躊躇うことなく後退した。  上空に潜む間桐臓硯を捕らえた時と同じく、一息で急速に間合いを離す。    ―――そうして、神父はわずか一足で離脱した。    いかに強大な魔力を得ようと少女は素人だ。  戦闘経験もなく、魔術師としても未熟な彼女が相手ならば、神父はいかようにも離脱できる。             「―――馬鹿なひと。逃げられると思うの、わたしから?」    くすり、という笑い声。  瞬間、神父は力なく大地に転げ落ちた。   「ぐ――――ご…………!」    転がり落ちる。  口から紅い塊を吐き出しながら、言峰綺礼は崩れ落ちた。   「は――――ぬ、ぐ…………!」    止まらない。  吐血は一向に止まらず、呼吸をしようと肺を動かすたび、際限なく喉から吐き出されていく。   「どうですか、心臓を鷲掴みにされた感想は。どこに居ようと、貴方の命はわたしの手の上なんですよ?」 「ぬ――――、ぐ――――!」 「神父さん。貴方はもう、十年前に死んでいた。衛宮切嗣に心臓を撃ち抜かれて死んだんです。それでも生きてこれた理由はただ一つ」   「貴方はあの……ええっと、誰だったかな。この前食べたサーヴァントさんなんですけど、まあ、名前なんていいですよね。  あの金色の人が聖杯の中身を浴びて、まずアレと繋がった。けどあの人は汚染できなくて、アレはマスターである貴方に流れていったんですよね?  そうして貴方は蘇生した。  アヴェンジャー……“〈この世全ての悪〉《アンリ・マユ》”から魔力を供給される事で、一命を取り留めたんです」   「ふ――――そうか。では、今のは」 「はい。貴方はアンリマユと繋がっている。けどアンリマユはもうわたしでしょう?  ――――だから、潰してあげたんです。今まで貴方を生かしていた〈黒い〉《かりそめの》心臓を壊しました。  お望みなら中身を全部潰してあげましょうか?  わたしの手は、貴方が何処にいようと、その中身を引きずり出せるんですから」    少女の手が上がる。  お望みなら、などとよく言ったものだ。  少女には神父を生かして帰す気はない。  神父がどれほどの助けを請おうと笑って殺す。  その中身、今まで生き長らえてきた仮初めの命を返してもらう。    なにしろそれは自分のものだ。  たとえ部屋の片隅につもった塵ほどの魔力であろうと、神父に譲ってやる道理はない。   「さよなら。わたしを生かしてくれた事だけは感謝しますね、神父さん」    少女の可憐な指が、見えない人形をねじ切るように握られる。    ―――ごきん、という音。    倒れ伏した神父の体が雑巾のように絞られていく。  あと一掴み。  時間にして一秒もかからずに神父は完全に死に絶える。  だが、その寸前。   「っ――――! あ、う、あ――――!?」    少女の体がくの字に折れ曲がった。  ……猛烈な吐き気と不快感。  少女は助けを求めるように、黒く染まった大地に爪を立てる。   「く―――いた、だめ、入って、こな、い、で――――!」    影が膨張する。  ……何が起きたのか、少女の体を覆った黒衣は一回り大きく膨れ上がり、時間をかけて元の大きさに戻っていった。   「……うそ……バーサーカーが、負ける、なんて……」    それ以外に理由はない。  バーサーカーは破れた。  破れ、純粋な〈魔力〉《たましい》に戻り、聖杯である少女に取り込まれたのだ。   「――――ぁ――――あ――――」    思考が歪む。  間桐桜という人格が、また一つ端に押しやられていく。  ……もうこれ以上端にはいけないというのに、大きな魂に壁に押し付けられてしまう。   「――――――――――――あ」    ……消える。  消えてしまう。  このままでは間桐桜が消えてしまう。   「――――――――その、前に」    あの神父を殺そうと思い、視線を上げ、自らの詰めの甘さに舌打ちした。   「っ――――いい、です。どう、せ、放っておいて、も、すぐ死ぬん、だから」    廃墟に人影はない。  言峰綺礼が倒れていた地面には、血塗れの神父服だけが残されていた。  想像していたより早く森の出口に辿り着いた。  森の主であるイリヤの案内があったからだろう。  公道に出ると、行きに使った車は消えていた。  俺たちは街に向かって公道を歩き始め、通りかかった車を止めて乗せてもらった。  森を走って泥だらけ傷だらけの俺とイリヤの組み合わせは、見るからに怪しい。  怪しいので、通りかかった車の前に出て無理やり止まってもらって、びっくりしている運転手さんにイリヤが暗示をかけ、これまた強引に乗せてもらったのだ。  いや。  生きているうちに、強盗みたいなヒッチハイクをするとは思わなかった。 「シロウ、帰ってきたよ。早くあがろ」 「――――え?」  あっという間に屋敷に帰ってきていた。  日は沈みかけている。  森から戻ってくるまでの数時間、うたた寝をしていたようだ。  居間に戻ると、日はとうに沈んでいた。  時計は七時を過ぎている。 「―――――――――」  何かおかしい。  時間の経過が速すぎる。  玄関に入るまでは夕方だったのに、居間にあがった途端夜になっているなんて、有り得ない。 「イリヤ。なんか、時間が過ぎるの速すぎないか?」  隣にいたイリヤに話し掛ける。 「――――――――」  だが隣にイリヤの姿はない。  イリヤは、   「ん? 晩ごはんならおいしかったよシロウ」    とっくに居間にあがって、おかしなコトを口にした。 「――――――――晩ごはん?」 「ええ。まずは栄養をとるんだって言った時は驚いたけど、おかげでいい思いしちゃった。シロウ、はりきって台所に立ってたし」 「――――――――」  食卓には夕食の跡がある。  流しには二人分の洗い物。  冷静になってみると、俺もほどよい満腹感がある。  どうやら夕食を作ったのは本当らしい。 「……おかしいな。こんな食材、買い置きしてたっけ」 「してないよ。してないから商店街で降ろしてもらって、いっぱい買い物してきたんじゃない」 「――――――――」  む、と記憶を探ってみる。  ……。  …………。  ………………。  ……………………まあ。  そういう事も、あったのかもしれない。 「そうか。ヘンなコト言っちまったな。とりあえず、夕食は済んだんだ」 「ええ。あとはゆっくり休むだけだね、シロウ」 「ん―――そうだな、休まないとな。ちょっと部屋で着替えてくる。話があるから、イリヤはもうちょっと起きててくれ。すぐ戻る」  うん、と頷くイリヤ。  悪いな、と手を上げて居間を後にした。  気がつくと部屋にいた。  居間を出た瞬間、自分の部屋で倒れていた。 「ずっ……、ぐ――――!」  串刺しにされたような激痛で目が覚めた。  左の胸元に剣が刺さっている。  そうとしか思えないほど胸は熱く、痺れ、ドクドクと血液のかわりに、生気が流出していっているように思えた。 「ぐ――――、つ」  当然、剣なんて刺さっていない。  そんなものは幻覚だ。  左腕から伝わってくる違和感に、もっとも近い左胸が拒否反応を示しているだけ。  ただ、それでようやく気付けた。  速すぎる時間の感覚。  途切れ途切れの映像は、つまり。 「……そうか。おかしいのは時間の感覚じゃなくて」  ただ、自分の意識がおかしいだけだ。  過去の記憶がないのではなく、出来事の記録ができていない。  一部一部―――気を抜いて時間を過ごしていると、その間何が起きて何をしていたのかが、残らなくなっている。  森を出てからこっち、記憶がないのも当然だ。  今みたいに痛みがなければ、意識を保っていられなくなっている―――― 「――――――それは、まずいな」  気を抜いて途切れそうになる意識を掴み止める。  自分で自覚して、歯を食いしばって精神を集中していないと『衛宮士郎』が消えていってしまう。  胸を貫かれるほどの痛みか、それと同等の集中をしていないと、〈自分〉《きおく》が保てない。  つまり、魔術回路を背骨に入れようとしていた頃と同じレベルの集中を、常時行っていなくてはならないのか。 「――――――――」  ……まいった。  そんなものは続けられないし、続けたところで、その方法でいつまで保ってくれるか判らない。 「……待てよ。となると、眠るのはまずいよな」    眠れば起きれない。  眠ってしまったら、もう『衛宮士郎』という自分は戻ってこれない。  体は傷一つなくとも、精神が四散しているだろう。 「――――――――――」    倒れていた体を起こす。  起きて机をあさる。何か小さな刃物が必要だ。右手の中に隠しておけて、強く握れば肉を〈抉〉《えぐ》るような。  鍛錬レベルの精神集中は継続できない。  気が緩んで映像が跳びそうになった時、掌を抉って、その痛みで意識を留めなくては。 「……お。刃物とはいかないけど、これなら」    机の中にはいつかの水晶があった。  ……マスターになった夜、ランサーに殺された俺の傍に落ちていたペンダント。  元はどれだけの魔力が篭められていたかは知らないが、残っている魔力は俺の〈魔術〉《きょうか》一回分にも満たない。  ……そうだ。このペンダントの持ち主、あの夜俺を助けてくれたのが誰だったのかは、今ならちゃんと考えられる。  なにしろあの時間に校舎にいたのは俺とあいつぐらいなもので、助けた理由は判らないが、あいつなら、理由なんてなくても、死にかけた人間を助けるだろう。 「ぁ――――」  意識が切れかかる。  その答えは後に回そう。  嬉しいコトとか楽しいコトを考えると、気が抜けて倒れそうになる。    ―――戦力を確認する。  左腕の拘束は解いた。  聖骸布を巻きつけてはあるが、もう気休め程度でしかない。  一度でもアーチャーの腕を使えばスイッチが入る、と言峰は言った。    その後は、何をしても手遅れだと。 「――――――――」  だが体はまだ活動できる。  問題は〈精神〉《あたま》の方だが、こっちも眠らないかぎりは継続させられる。  投影……アーチャーの腕を使っての“剣製”のリミットは、おそらく三回。    あと一回ぐらいはなんとかなる。  次の二回目は正直、怖い。  最後の三回目は決定的になる。精神が残っていようが、体の方が自滅する気がする。 「……………………」  目を閉じて耳を澄ます。  ……心音にまじって、ギチギチと硬い音がする。  ……アーチャーの左腕から侵食してくるモノ。  剣製を使う度にヤツの固有結界が抑えきれなくなり、外ではなく内、体内で無限の剣製が作られる。    ……その結果は想像したくもない。  俺は内側から、千の剣で串刺しにされて死ぬのだ。 「―――――冗談。自滅なんかしてたまるか」    状況は絶望的だ。  自分でもそれなりに受け入れてはいる。  が、そんな事実は蹴飛ばすだけだ。  俺は死なないし、自滅なんかしない。  眠ったら目覚められない、なんてのは俺の臆病な妄想だ。  ―――助かる。    やるべき事をやって、全てを終わらせれば俺は助かる。  そうでなくては意味がない。  何があろうと桜を守ると言った。  なら、この体は一人で勝手にくたばっていい身分じゃない。 「―――そうだ。まず、遠坂に連絡をとらないと」    時間がない。  急いで遠坂の屋敷に行こう。  言峰の無事も気になるが、イリヤを助け出した今、あいつは元のスタンスに戻るだろう。  どのみち協力は望めないが、あいつとの約束は、  時刻は九時過ぎ。  すぐに戻ってきたつもりだったが、あれから二時間も経っていた。 「―――。わるい、待たせたイリヤ。いまから遠坂の家に行くから一緒に行こう」 「リンの家? んー、別にわたしは構わないけど、なんで?」 「え……なんでって、遠坂と合流しないと。それにあいつの容体だって気になるだろ。  言峰は夜になれば回復するとか言ってたけど、あいつの言い分はいまいち信用できない。遠坂がまいってたら手当てをしてやらないと」 「ふーん。それはいいけど、シロウ」  ちょいちょい、と壁ぎわを指差すイリヤ。    ――――と。 「心配してもらって嬉しいわ。とりあえず、わたしの調子は見ての通りよ。  けど。そこまで気にかけてくれるんだったら、森に行く前にわたしの家に寄っていってほしかったわね」 「と、遠坂……!? い、いつの間にこっちに来てたんだ……?」 「ほんの一時間前よ。森で何が起きたのかはイリヤから聞いたわ」  遠坂はご機嫌斜め……ではなく、明らかに怒っている。  遠坂を置いて森に行った事が気に食わないらしい。 「仕方ないだろ。あの時は一刻を争うと思ったし、事実、イリヤだって危ないところだったんだ。  ……だったんだよな、イリヤ?」 「……そうね。わたしは閉じ込められてはいなかったけど、数分後には大聖杯に連れて行かれて心臓を抜き取られていてもおかしくなかった。  ゾウケンはサクラを乗っ取り次第、わたしで門を開けようとしていたから。シロウとコトミネが来るのがあとちょっとでも遅かったら、今ごろは死んでいたわ」 「―――ほら。遠坂を待ってたら間に合わなかっただろ」 「どうだか。今の言い訳じゃ桜次第ってコトでしょ。イリヤ、本当のところはどうなのよ」 「あ、やっぱりバレちゃったか。  ええ、ホントはもうちょっと猶予があったかな。サクラは芯が強いから簡単に壊れたりしない。サクラが自我をなくしてゾウケンの操り人形になるまで、あと一日は間があったでしょうね」 「やっぱり。あのねイリヤ、あんまり士郎を甘やかしちゃダメよ。こいつには人一倍厳しいぐらいが丁度いいんだから」 「―――そうね。リンがシロウにそうしてくれるなら、わたしはもう安心かな」  などと二人して人を非難する始末。  が、タイムリミットがあと一日だったのなら、今から遠坂と森に向かっても間に合ったかどうか。  森では重い選択を迫られたが、それを引き換えにして、こうして三人一緒にいる時間を取り戻せたのだ。 「――――っ」  ……緩みかけた意識をきつく絞る。  遠坂とイリヤの掛け合いで、緊張感が薄れてしまったようだ。 「……ん……? ちょっと待ってくれイリヤ。  桜が一日保つかどうかって事は、残った猶予はあと」 「半日あるかどうかよ。……いいえ。サクラがどう頑張っても、もう〈復讐者〉《アヴェンジャー》は産まれようとしている。アレが受胎してしまえばサクラは完全に変わる。誰もサクラを助けられなくなるし、誰も助からなくなるのよ」 「「――――〈復讐者〉《アヴェンジャー》……?」」    遠坂と二人、聞きなれない言葉に顔をしかめる。 「そう、復讐者。  聖杯戦争における第八のクラス、アインツベルンがルールを破ってまで召喚した“反則”よ。  それが大聖杯の中を呪いで汚染した〈原因〉《モノ》。  自分じゃ外に出れないからってサクラと同化して“黒い影”を映していた本体。  そして、今もカタチを得ようと人間の命を食べ続けている“在り得ない存在”」 「それがアヴェンジャー―――三度目の儀式でアインツベルンのマスターが召喚してしまった、喚んではいけなかった反英雄」 「イリヤ、貴方知ってるの……!? あの影がなんなのか、桜が何に取り憑かれてるかって……!?」 「ええ。サクラから必要な情報を取り出して、何が起きているのかは理解できた。  わたしがやるべき事。シロウたちが敵とみなしているモノがなんであるかを」  そう言って、イリヤは一度だけ目を閉じた。  ……あれは諦め、だろうか。  イリヤは小さく息を吐いて、挑むように俺と遠坂を正視する。 「これから話す事はわたしたちの核心であり、もう関係のない話。貴方たちが背負うべきものでもない。  シロウとリンには聖杯戦争に関わった最後のマスターとして、ただ事実だけを口にします」 「イリヤ――――?」  遠坂は呆然とイリヤを見る。  それは俺も同じだ。  今のイリヤは、どこか別人のような静けさと空虚さを持っていた。 「事の起こりは二百年前。  いえ、聖杯を求める彼らの放浪はもっと前から続いていたけど、この土地での儀式が始まったのは二百年前からだった」 「話はそこから始めるわ。  聖杯―――あらゆる願いを叶える願望機。その完成のため、アインツベルンとマキリ、遠坂は協力して“聖杯を召喚する”儀式を行った。  それが聖杯戦争の発端。七人の英霊を召喚して、聖杯の所有権を定める殺し合い。  聖杯によってマスターに選ばれた魔術師は英霊の依り代となり、最後の一人になるまで殺しあう。  それがシロウとリンが知っている聖杯戦争の、〈表向きの決まり事〉《・・・・・・・・》」 「驚かないのねリン。やっぱり、貴方も薄々は感付いていたの?」 「……それなりにはね。誰かに利用されてるってコトはすぐに気付いたけど、あんまり気にはしなかったわ。  人様が作った〈儀式〉《システム》を使って、その成果を戴こうっていうんだもの。利用し、利用されるのはお互い様でしょう。  いちいち目くじらたてるほど馬鹿じゃないわ」 「そう。じゃあ順番が逆、という事はもう説明しなくていい? シロウはどう? 本当はサーヴァント同士に戦わせる、なんて過程そのものが余分なんだって気付いてた?」 「――――――――」  ……まあ。気付いていたか、と言われれば気付いてはいた。  サーヴァントは聖杯に呼び出される。  聖杯を得る人間が相応しいかどうか、その選定の為の道具として英霊は呼び出される。  呼び出された英霊は聖杯を手に入れる為、現世に留めてくれる〈寄り代〉《マスター》と契約し、自分たち以外の〈聖杯探求者〉《マスターとサーヴァント》を倒しにかかる。  ……そう、それだけならまだ目を瞑れる。  だが倒された英霊は消え去らず聖杯に取り込まれるのだ、と知った時、違和感は生まれてきた。  英霊―――サーヴァントは聖杯に相応しいマスターを選定する一要素にすぎない。  だというのに何故、その用をなくした英霊が聖杯に取り込まれるのか。 「……つまり、聖杯戦争にとって必要なのは英霊だけで、マスターはただ、英霊を呼び寄せる為だけの道具だって事か……?」 「そう。聖杯戦争という儀式において、マスターはサーヴァントをこの世に呼び出す〈受容体〉《レセプター》にすぎない。サーヴァントさえ召喚してくれれば、後はマスターなんていつ死んでもらっても構わないのよ。  聖杯完成に必要なモノは英霊だけ。  時間軸の外にいる純粋な『魂』、この世の道理から外れ、なおこの世に干渉できる外界の力―――それが英霊の本質でしょう」 「彼らはその力を必要とした。  その力を以って、外界に出ようとした。  それがこの地に作られた聖杯の本当の目的。  人の手では届かぬ奇跡、未だ人間の物ではない現象を手に入れる為、この地における聖杯戦争は行われてきた」 「それは〈アインツベルン〉《わたしたち》から失われたとされる神秘、真の不老不死を実現させる大儀礼。  英霊でも聖霊でもない。いと小さき人の位において、肉体の死後に消え去り還り、この世から失われる“魂”を物質化する神の業」 「―――その奇跡の名を“〈天の杯〉《ヘブンズフィール》”。  現存する五つの魔法のうちの一つ、三番目に位置する黄金の杯よ」 「ま――――魔法って、あの魔法……!?」 「――――――――」  場が緊迫する。  イリヤは聖杯とは魔法を行う為の儀式だと言った。    魔法。  魔術では到達できない神秘、あらゆる手段を以ってしても、現在の人間では届かない実現不可能の現象。  それは魔術師にとっての最終目的であり、実現し修得した者は、ありったけの羨望と畏怖をこめ“魔法使い”と呼ばれる。    現在、魔術協会において認定されている魔法は五つ。  その内容は俺のような末端のそのまた末端、いや協会に属してもいない部外者には知るよしもないが、魔法と呼ばれる大儀礼は五つあり、その使い手は四人足らずしかいないと聞く。 「ちょっ、ちょっと待って……! 第三魔法って魂の物質化なの!? けど、それならサーヴァントだって魂の物質化じゃない……!」 「違うわ。たしかに〈英霊召喚〉《システム》の基盤は第三魔法の一部を使っているけど、英霊はあくまで降霊でしょう。  サーヴァントはこの地上に、この時代のモノとして生きている訳じゃない。第三魔法としては不完全だし、英霊なら魔法の力なんてなくても、依り代さえあれば実体化できる」 「“〈天の杯〉《ヘブンズフィール》”は過去にいた〈魂〉《もの》を読み上げて複製体を作る業じゃない。  それは精神体でありながら単体で物質界に干渉できる、高次元の存在を作る業。  魂そのものを生き物にして、生命体として次のステップに向かうものを言うのよ」 「つ、次のステップって――――た、たしかにそれは、とんでもない大事、だけど。  でもイリヤ、どんなに内容が違うっていっても、魔法は全部根源に至る道でしょう!? それが聖杯とどんな関係があるのよ」 「いえ、だいたい魔法を起動できるような管理地は日本に一つしかない。  冬木の霊脈も一級品だって自負してるけど、それでも根源に繋がるほどの歪みはないわ」 「ええ、届くほど歪んではいない。だから穴を開けるのよ。道が繋がっていないなら、自分たちで壁を壊すしかないでしょう?」 「その、壁を壊す、という行為が聖杯戦争なの。  その過程で『どんな願いでも叶えられるぐらいの魔力』が溜まるのだけど、それはアインツベルンには二次的なもの、もしくは〈生贄〉《マスター》を呼び寄せる為の宣伝でしかなかった」 「アインツベルンが必要としたのは、魔術協会の目につかず、大量の魔力を貯蔵できる巨大な魔法陣だけ。  時の遠坂の当主は彼らに協力した。  もともと協会の目が届きにくいこの国で、アオザキの管理地に次ぐ一等地は数少ないわ。  アインツベルンにとって、冬木の町は必要条件を満たした完璧に近い実験場だった」 「あとはもう判るでしょう。  聖杯戦争を司る聖杯は二種類ある。  この土地に眠る聖杯と、アインツベルンが用意する聖杯。  前者が遠坂の管理地を使った魔法陣。  これを大聖杯と呼び、  アインツベルンが毎回鍵として用意するものを聖杯と呼ぶ」 「大聖杯は聖杯戦争のシステムを管理するもので、聖杯は敗れていった英霊の魂を回収し、大聖杯を動かす為の炉心にあたるわ」 「そうして、大聖杯起動に必要な分の魂が聖杯に溜まった時、“外部”からのマレビトである英霊の魂を利用して穴を開ける。  役目を終えた〈英霊〉《かれら》が元の“座”に戻ろうとする瞬間、わずかに開いた穴を大聖杯の力で固定し、人の身では届かない根源への道を開く」 「もちろん、こんなのは初めの一歩。穴を開けられたところで望みのものは手に入らない。根源への道は遠すぎる」 「それでも―――聖杯を手にしたものは無尽蔵の魔力を手に入れられる。  〈外側〉《あっち》にはまだ誰も使っていない、この地上とは比べ物にならない大量の〈魔力〉《マナ》が撒布されてるからね。普通の魔術師なら、それだけでも充分“奇跡”と呼べる成果な筈よ」 「……そう。要するに大聖杯っていう大本の魔法陣があって、聖杯はそれを起動させる鍵な訳ね。  聖杯戦争が五十年周期なのは、英霊を召喚するだけの〈魔力〉《マナ》を溜める為か」 「それだけの召喚術、個人の魔力で起動できる筈がない。  大聖杯は五十年かけて、この土地に満ちる〈魔力〉《マナ》を枯らさないよう少しずつ吸い上げ、それが溜まった時―――」 「そう、英霊を召喚してサーヴァントにする。  けど英霊を召喚するには代償が必要なの。彼らは望むものを与えてあげないとこちらの召喚に応じてくれない。  だから聖杯を用意して、彼らの望みに応えてあげた」 「……もっとも、そんなのは初めから欺瞞だけど。  アインツベルンは元から英霊の魂だけが欲しかった。  彼らの霊格なんてどうでもよくて、ただ強大な魂がほしかっただけよ。  それを隠す為に聖杯戦争なんて表向きのルールを作って、サーヴァントとマスターを騙して、今まで殺し合いを続けさせた」 「……ま、そうなったのは二回目の儀式かららしいわ。  一度目は馬鹿正直に英霊を召喚して、遠坂とマキリとアインツベルンで独占権の取り合いになって、あっというまに失敗したんだって」 「だから今のルールが出来たのは二回目からよ。  外来の魔術師を呼び寄せて、それぞれ聖杯を目的にして殺し合わせる。  自分たち以外のマスターなんて、サーヴァントさえ呼んでしまえば邪魔なだけだし、戦いの中で死んでもらった方が効率が良い。  三家にとってみれば、自分たち以外の協力者を合法的に始末できるんだから、都合が良かったのよ」 「呆れた。じゃあなに、マスター同士殺しあうってルールは、所有権が誰にあるか話し合いで解決できなかったから、力ずくで決めようとしたコトの末路なワケ?」 「そうよ。でも、その殺し合うって選定方法は思いのほか合っていたわ。  今のリンと同じよ。騙されてると気付くサーヴァントやマスターもいたけど、そんな背景はどうでもよかったみたいね。だって、勝ち残れば結果として聖杯は手に入るんだから」  なるほど、と納得する遠坂。 「………………」  ……要するに、聖杯戦争とは聖杯を手に入れる為の戦いではなく、聖杯を用いて外に出る為の儀式だった。  外に至る試み。  神秘学によると、この世界の外側には次元論の頂点に在るという“力”がある。  それが“根源の渦”と呼ばれ、あらゆる出来事の発端とされる座標だ。  それは万物の始まりにして終焉、この世の全てを記録し、この世の全てを作れるという神さまの座だという。 「………………」  が、正直そんな話はどうでもいい。  〈切嗣〉《オヤジ》だったらそれがどれだけ大事か判るんだろうが、俺にはまったく関わりのない事だ。  そんな事の発端より、桜に取り憑いているヤツの正体の方が重要だ。 「イリヤ。聖杯戦争の本当の目的とかはいい。イリヤの言ったとおり、それは俺たちには関係のない話だ。  それより、さっき言ってたヤツの事を聞かせてくれ」 「か、関係ないって、魔法よ魔法!? しかも三番目の魔法なんて、協会でもずっと秘密にされてきた禁忌中の禁忌じゃないっ!  貴方も魔術師なら、第三魔法って聞いて無視できるわけ――――」 「できる。……まったく、なに考えてるんだ遠坂。  今はそんな、成功しないモノの話をしている場合じゃないだろう」 「せ、成功しないって、いったいどんな根拠さまよ、それ」 「あのな。理由は判らないが、聖杯戦争は一度も勝利者を出していないだろ。なら、この儀式はどこかで仕組みを間違えていたってコトだ。  ……だいたいな、そうでなかったら桜の事をどう説明するんだ。聖杯が魔法に至る道だっていうなら、桜があんな風になるのも魔法なのかよ」  痛いところをつかれたのか、遠坂はうっと黙り込む。 「それでイリヤ。どうしてこの聖杯戦争はこんな事になったんだ。  聖杯の中には何かがいる、と言峰は言った。  その何かっていうのが〈復讐者〉《アヴェンジャー》ってヤツなのか。そいつは聖杯……イリヤや桜の中じゃなく、大聖杯とかいう魔法陣の中にいると……?」 「そっか、コトミネなら知っているわよね。  あいつもサクラと同じ、復讐者に汚染された魔術師だもの。聖杯の中にいるモノがなんであるか、とっくの昔に知っていたんだ」 「え……? 綺礼が桜と同じ……?」 「そうよ。ここからはシロウとリンに関係のある話。  ゾウケンが手に入れようとしているモノ、サクラを変貌させているモノ。聖杯の中に潜み、無色の力である英霊たちの〈魔力〉《たましい》を汚染しているモノの話。  そいつのクラス名が〈復讐者〉《アヴェンジャー》。  聖杯の力で『生命』としてカタチを得ようとしている、第三魔法の成功例になりつつある英霊よ」 「……はあ? ちょっと、何が魔法は関係ない、よ。ちゃんと関係してるじゃない、ちゃんと」 「いいえ、〈復讐者〉《アヴェンジャー》の物質化は、聖杯による魔法じゃない。アレはもとからそういう属性をもった英霊だった。  〈復讐者〉《アヴェンジャー》だからこそ聖杯の中で物質化が可能なの。  大聖杯は第三魔法を成し得る復讐者を呼び出したに過ぎず、大聖杯自体が第三魔法を成し得た訳ではないわ」 「……? ええっとつまり、そいつは初めから物質化できる怪物だったってコト?  大聖杯による魔法が成功しなくても、勝手に第三魔法を体現するヤツってコト?」 「そうよ。……事の発端は三度目の戦いだった。  一度目は失敗、二度目に序盤で敗れ去ったアインツベルンは追い詰められて、ただ殺す事だけに特化した英霊を召喚したの」 「アインツベルンが手にした古い経典、異国の伝承を触媒にして、手の内にある中で最悪の魔を呼び出した。  他のマスターたちを皆殺しにして、問答無用で大聖杯を起動させ、成果を独り占めする為に呼んではならないモノを呼び寄せてしまった。  ――――その英霊の名がアンリマユ。  世界最多とも言える、あらゆる呪いを体現した殺戮の反英雄」 「――――アンリ、マユ?」  ……ちょっと待った。  アンリマユっていうのは、たしか古代ペルシャの悪魔の名だ。  拝火教における最大の悪魔であり、人間の善性を守護する光明神と九千年間戦い続けるという、悪性の容認者。  拝火教はこの善悪二神による確執が主軸になる物語で、天使と悪魔の二元論を形にした最初の宗教だ。  しかし、そこにはアンリマユという名の英雄など存在しない。  そもそも悪魔の王の名を冠するモノが、どうして“英霊”に成りえるのか――――? 「そんな訳ないでしょうイリヤ。聖杯は英霊しか呼べないし、そんな神霊レベルの現象を再現できるんなら聖杯なんて必要ない。  いえ、そもそもアンリマユの名を冠する英雄なんている筈がない。いたとしてもそれは無名の、歴史に何の痕跡も残してない悪霊にすぎないわ。呼び寄せたところで聖杯に相応しい魂なんて持ち得ない」 「……イリヤ。アインツベルンのマスターは、一体何を召喚したの?」 「だから〈絶対悪〉《アンリマユ》よ、リン。  ……彼は確かに無名であったし、真実悪魔などではなかった。けれど、アンリマユの名を冠した英雄は確かに存在したの」 「……ええ。もうずっと昔、気の遠くなるくらい昔の、ちっぽけな世界の話よ。  ソレは、名前もないある村落に現れた英雄だった」 「彼らの教義がどう歪んでいたかは知らない。  どうしてそんな考えに至ったかなんて判らない。  ただ、彼らは教義に基づいて清く正しく生きていた。  人間は善を尊び、光を守り、正しく生きる。  貧しく、外界から隔離された彼らにとってその祈りは絶対だった。そうである事が、人間以下である彼らを人間たらしめる唯一の誇りだったんでしょうね」 「――――そう。  その村落の人たちはね、本気で世界中みんなが平和である事を望んでいた。  人間全てが下らない悪性から解き放たれ、清く正しく生きられるように。  飢餓とか殺戮とか愛憎とか、予め人に付属された機能すべてを否定して、自分たちは神に祝福されるに相応しい生き物だって誇り続けた」 「けどそれは不可能な話よ。  人間、清く正しく生きているだけじゃ悪性からは解放されないもの。  悪とは元からあるもの。それを切り離したいのなら、何らかの手段を講じるしかない。  そうして――――その手段は実行された」 「彼らは自分たちの狭い世界だけでなく、人間全てを救える手段を考えついたの。  この世の人間全てに善行を取らせる事は難しい。  けど、人間全ての善性を証明する事はできる。  ……たった一人。  たった一人の人間にこの世の悪を独り占めさせてしまえば、〈残った人たちはどうあっても悪い事ができない〉《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》。  そんな子供みたいに単純なコトを、彼らは本気で信じてしまった」 「そうして一人の青年が生贄に選ばれた。  彼らは青年を捕らえ、その全身に人を呪うあらゆる言葉を刻み、彼らが知り得る全ての罪業を与え、全ての悪事を彼の責任とした。  それでおしまい。  狭い世界。けれど完成された一つの世界において、究極の悪性が誕生した」 「彼らは彼を心底呪い、侮蔑し、恐れ、同時に〈奉〉《たてまつ》った。  我々は清く正しい。あそこにこの世の全ての罪悪があるのなら、我々は何をしても善なる者だ、と。  彼らは本気で、世界中の人間の為になると信じて一人の“悪魔”を作り上げた。  世界中の人々の善性を証明する為に、一人の青年を崩壊するまで殺し続けた。いえ、その寿命がつきるまで殺してなどあげなかった」 「……人間を堕落させる悪魔の名前。  アンリマユの名前を与えられた青年は、世界中の人間の敵として、ただ理不尽に殺され憎まれ続けたの」 「その過程で、青年が本当に悪魔になったかどうかは知らない。  ただ村落中の人間が彼を悪魔だと信じ、そのように扱った。憎みながら恐れながら、世界中の人間の善性を証明してくれる、自分たちにとっての“救いの証”として奉った」 「忌み嫌われる対象でありながら、人々を救うもの。  その存在が在るだけで、どんなに人々が悪事を重ねようとも『清く正しい』と赦される免罪符。  そう。方法は違えど、彼は人々を救った。  村人たちにとって、彼はこの上ない英雄となった」 「そうして一人の英雄が誕生した。  人々に恨まれ恨まれ、自分などとうになくなって、いつか本当にそうなってしまったモノ。世界中の人間の代わりに悪を公言する哀れな生贄」 「―――それが反英雄アンリマユ。  “この世全ての悪”と決め付けられた、何の取り得もなかった、ただ普通に生まれただけの一般人。  拝火教において、六十億の悪全てを容認するという悪魔の王。その体現者として葬られた、原初の人の想念が作り上げた、“願い”という名の呪いのカタチ」  皮肉も侮蔑も込めず、イリヤは淡々と大昔の出来事を語り終えた。  ……反英雄。  その定義は、この戦いが始まってすぐ、言峰が俺に告げたものだ。 「……………………」  ……しかし。  イリヤの話が本当なら、アンリマユという英霊になったそいつは、今も人間の悪を背負い続けている事になる。  それが“英霊”として扱われてしまった、そいつの存在意義だからだ。  六十億もの人の罪業を一方的に押し付けられた英霊。  ……そんなヤツが召喚されたら、後に待つものは殺戮しかない。  そいつは人間を憎んで然るべきだし、そもそも、周りの人間がそいつに魔であれと定めたのだ。    ……アンリマユ。    悪魔の名を冠したそいつは、自らを魔にしたてあげた人間への復讐……いや、人々が願った通りの役割をこなす為に、桜を利用しているというのか……? 「〈復讐者〉《アヴェンジャー》……アンリマユの話は判ったわ。  けど、どうしてそいつが聖杯の中にいるワケ? いいえ、そもそもそいつはただの人間でしょう? いくら悪魔の名をつけられて、悪魔そのものとして扱われたとしても、能力は人間と変わらない。  あんな、町を一呑みするほどの怪物にはならない筈よ」 「……そうね。アンリマユは人間よ。ただの人間を無理やり英霊にしたものが彼だった。だから何の問題も起きなかった筈なのよ、本当は」 「……三度目の戦いでアインツベルンはアンリマユを呼び出した。  けど呼び出された英霊は、すごく弱かった。  反英雄であるソレはまたも序盤で敗れて、いち早く聖杯に取り込まれた。アインツベルンのマスターは嘆いたわ。あの、普通の人間とまったく変わらないヤツのどこが、人の世を滅ぼす悪魔なのか、と」 「……そう。事実、その英霊はただの人間だった。  ただこの世を恨んでいただけの人間。  ただこの世の悪であれと望まれた人間。  ……もとから何の力も無く、周りの人間の想いだけで構成された、有り得ない筈のモノ。  それが聖杯に取り込まれた時、全てが逆転してしまった」 「聖杯は人の望みを叶える願望機でもある。  サーヴァントは敗れた後、方向性のない魔力として聖杯に戻って、そのまま解放の時を待つ。英霊としての人格もなくなった彼らは、万能の力として聖杯に溜まるだけなの。  けどアンリマユは違った。彼は自分ではなく周りが願って創り上げた英雄。人格などなくとも、アンリマユである以上、悪であれと望まれる存在だった」 「――――まさか。もしかして、そいつ」 「そう。聖杯はあらゆる願いを叶える杯。  ただの人間であり、性別も人格も、人でさえないソレは、もともと人間の願いそのものなのよ。  だから―――アンリマユが聖杯に取り込まれた瞬間、聖杯は一つの願いを受諾してしまったの」 「本来在り得ない存在。  身勝手な願望だけで捏造された英霊は、人々の願いを叶える聖杯の中において、ようやく人々が望んだ姿で生まれる事になった。  ……マキリの五百年、アインツベルンの一千年なんて子供だましよ。  なにしろあっちは二千年以上も前から続いた、神代から願われてきた“人間の理想”なんだから」 「それがあの影の本体、英霊としてようやくカタチを得ようとするモノの正体よ。  アンリマユはサーヴァントたちの無色の〈魔力〉《たましい》を糧に、自分の霊殻である“この世全ての悪”を体現してしまった。  ただ悪であれ、と。  六十億の人間全てを呪う、六十億の人間全てを呪える〈宝具〉《のうりょく》を備えたサーヴァントとして、少しずつ育っていったの」 「―――じゃあなに? 聖杯の中身はとっくにそいつに占拠されてて――――いえ、聖杯が叶える“望み”はとうに決まってしまっていて、四度目の戦いはそいつの願い……アンリマユを形にする為の、〈魔力〉《ようぶん》補充にすぎなかったってコト……?」 「ええ。キリツグがアンリマユというサーヴァントをどこまで理解していたかは判らない。  けどキリツグは聖杯の外に出ようとしていた“黒い影”を危険視して、聖杯を破壊した」 「それは正しいわ。  以前のアンリマユはどうあれ、聖杯によって受肉するアンリマユは本物だもの。“この世全ての悪”として、命ある限り人間を殺し尽くす魔王になる」 「けど、そのアンリマユはキリツグの英断で出産には至らず、大聖杯の中に残された。  その一部を受けた者がコトミネであり、サクラだった。  ゾウケンは聖杯の中にいるモノが受肉しかけたサーヴァントだと気付いていたんでしょうね。  だからその肉片をサクラに植え付け、聖杯の中にいるサーヴァントとリンクさせた。  聖杯の中にいるサーヴァントが外に出てきた時、それを従えられるようサクラをマスターにしたのよ」 「“〈この世全ての悪〉《アンリマユ》”が何であれ、サーヴァントである事に変わりはない。どんなに強力な存在でも、サーヴァントはマスターには逆らえない。  ゾウケンの目的はそれよ。あいつはサクラを餌にして、“〈この世全ての悪〉《アンリマユ》”を釣り上げたいんでしょうね」          ――――待った。  つまり桜は、アヴェンジャーというサーヴァントと契約している、という事になるのか……? 「正気? それでアンリマユのコントロールを握ったところで、桜は黒い影……アンリマユからの魔力汚染に耐えられない。  アンリマユが聖杯の中にいる状態であそこまで変わったんだから、出てきてしまったら桜の人格なんて消え去る。そうなったらマスターも何も無いじゃない」 「それでいいのよ。ゾウケンはサクラの人格なんて考えていないもの。ゾウケンにとって大切なのは、アンリマユと繋がっているサクラの体よ」 「あいつはサクラの人格が消え去った後、空っぽになった体を乗っ取る気なの。  ……リンは知らないだろうけど、ゾウケンは自分の魂の容れ物である〈本体〉《むし》があれば、どんな人間の体だろうと自分のものにできる。いいえ、あいつはそうやって今まで生き長らえてきた。  ゾウケンにとって、サクラは初めから“いつか乗り換える肉体”だったっていうコト」          ――――となればどうなる?  桜に取り憑いているもの。  桜を変えている原因がサーヴァントとの契約だというのなら―――― 「ゾウケンがわたしを攫ったのは、サクラには門を開かせる気が無かったからでしょうね。  聖杯としての役割はわたしにやらせて、自分はアンリマユのマスターになったサクラの体を乗っ取る」 「そうして――――行く行くは、第三魔法の成功例、魂が物質化した〈架空の魔物〉《アンリマユ》に乗り換えるつもりなんでしょう。完全な神を、人間が自らの欲望で不完全な神に貶めるように」 「……神造の定義……それは人の望みによって作られながら、人の意思に影響されず生まれるもの、か。  まあ、たしかに臓硯なんかの人格を反映されちゃ、どんな神様も悪魔になるだろうけど。……綺礼が臓硯を敵視してたのもそのあたりか」 「話は判ったわ。それだけ聞けば十分よね、士郎」 「――――え?」  遠坂の声で我に返る。 「え、じゃないわよ。相手の正体が判って、臓硯の目的も判ったじゃない。なら、あとは話し合うまでもないでしょう」 「――――――――」  ……話し合うまでもない、か。  確かにその通りだ。  聖杯の中にいるモノ。  そいつをこのまま外に出せば、十年前と同じ惨劇が起きてしまう。  ……いや、十年前どころの話じゃない。  放っておけば、ソレは数え切れないほどの人間を殺す。    ―――そう。  桜が生み出したモノが、桜の代行者として、多くの命を奪うのだ。 「――――――――」  そんなコトが許せる筈がない。  なら止めるだけだ。  何を犠牲にしても、これ以上桜に命を背負わせるコトは出来ない。    ――――アンリマユを止める。  ソレが聖杯から出てくる前に、戦いを終わらせる。 「納得いったようね。わたしたちは戦って勝つしかない。  で、その方法は二つだけ。 “〈この世全ての悪〉《アンリマユ》”とやらが出てくる前に〈寄り代〉《マスター》である桜を殺すか、“〈この世全ての悪〉《アンリマユ》”が出てくる前に大聖杯とやらを破壊するか」 「……まあ、確実なのは前者だけど。  大聖杯を壊そうとすれば、必ず桜と臓硯が立ちはだかる。二人を避けて大聖杯は破壊できないでしょ。  となると結局、マスターである桜を倒す事が一番楽って事になる」 「そうだな。桜と戦って、アンリマユを引き離す。それが一番の近道だし、方針として判り易い」 「へえ。桜を狙うって事に反対はしないんだ、士郎」 「……今はそれしかないだろう。アンリマユとやらがイリヤが言う通りのモノなら、人間に太刀打ちできるものじゃない。そいつを外に出した時点で俺たちの負けだ。  なら、一番早くて確実な方法をとるしかない。  それより遠坂。戦いに行くのはいいが、桜の居場所は判るのか」 「それなら問題ないわ。イリヤの言う事が正しいなら、大聖杯とやらの場所は一つしかない。そうでしょイリヤ?」 「……ええ、その通りよリン。  アンリマユの誕生を間近に控えた今、ゾウケンは大聖杯に戻っている。  堕ちた霊脈。二百年前、三家によって選ばれた始まりの土地―――柳洞寺の地下に広がる大空洞に、アンリマユは受胎している」 「――――柳洞寺の地下」  ……それが桜のいる世界。  俺たちが向かう、聖杯戦争決着の地。 「………………」  わずかに息を吐いて、集中し続けた意識を少しだけ休ませる。  右手に持ったペンダントの冷たい感触が、さっきの考えをより明確に纏めてくれる。 「――――――――」  桜と戦う。  遠坂に言った言葉に嘘はない。  ただ、俺と遠坂の戦う方法が違うだけ。  遠坂は桜を殺す事で戦いを終わらせるつもりだろう。    だが俺は、桜を生かす方法で戦いを終わらせて――― 「……!?」  どくん、と体が震えた。  空気が水になったような重圧が屋敷を覆う。  それが、   「桜――――!」    あの影の威圧感だと察した瞬間、俺たちは中庭へ走り出していた。 「…………いいか。助かったといえば、助かった」    自分がどうなってしまったのか、丁寧に丹念に調べないと下手に動けない。  意識はちゃんとある。  気を抜かなければ今まで通り状況を認識できる。 「……で。どうして、こんなところにいるんだっけ」    土蔵にいる理由を考える。  桜の忠告。  逃げろという桜と、戦うといった遠坂。  それで、それから―――そうだ、今から柳洞寺の地下に行かなくては。 「それで。柳洞寺に行くのに、どうして土蔵で倒れてるんだよ」    倒れている。  気がつくと、だらしなく土蔵に寝っころがっていた。  ジクジクと右手が痛む。  そのおかげで意識はちゃんと覚醒している。 「―――――くそ。しっかりしろ馬鹿野郎」    立ち上がって、手足の感覚を確認する。  ……弱気になるな。  たしかに絶望的なスピードで何かが欠けていっている。  だが致命的じゃない。  少なくとも夜が明けるまでは、今まで通りに戦える筈だ。   「酷い顔色ですね。私が認識できますか、士郎」 「――――!」  咄嗟に振り返る。  ……土蔵の奥。  月光の届かない闇の中、黒い装束のサーヴァントが立っていた。 「ライダー。おまえ、今まで」 「はい。ずっと貴方を監視していました。  私の使命はエミヤ士郎の守護ですが、私の主はサクラです。貴方がサクラに危害を加えようとする以上、貴方を守る事はできない。  ですから、先の森では貴方に手を貸さなかった。バーサーカーに追われたのは貴方たちの自業自得ですから」  ライダーは淡々と説明する。  ……そこには事務的なものしかない。  ライダーは俺が一人になるのを待っていたかのようだ。 「……そうか。じゃあ、ここに現れたのは」 「貴方を殺す為ですね。貴方たちはサクラの敵です。なら、このままサクラの下になど行かせるワケにはいかない」  ライダーの手には釘のような短剣がある。  ……ぞわり、と忍び寄ってくる殺気。 「――――――――っ」  ライダーは本気だ。  俺は――――      ―――ここで倒される訳にはいかない。    出口まで二メートル。  全力で跳び退けば一足で脱出できる。  問題は、俺の跳び退くスピードより、ライダーの詰め寄ってくるスピードの方が速いという事。 「………………」  怒りとも落胆とも取れない殺気を滲ませるライダー。  ……土蔵の暗さの為か、闇に佇み、獲物を狙う姿は巨大な〈蛇〉《くちなわ》のようでもある。 「―――――、―――――――」  俺は、その鎌首をもたげる予兆だけに意識を集中し、  「―――、は――――!」    後ろに跳び退く前に、振るわれた短剣を回避した。 「出来た……!」    かすかに興奮しながら庭に跳び退く。  実力で勝るライダーの短剣を躱せた事と、隙をついて土蔵から脱出できた喜びで心拍数が上昇する。  だが喜ぶのはそこまでだ。  戦いは始まったばかりだ、ここからなんとかライダーを打ち負かさない、と―――― 「…………あれ?」  追って来る気配がない……?  ライダーはゆっくりと土蔵から現れ、   「……興が冷めました。貴方の技量ではサクラを殺す事は出来ない。ここで、私が手を下すまでもありません」    現れた時のように、夜の闇へ消えて行った。 「………………」  ライダーの気配が遠ざかっていく。  屋敷から外に出たのだろう。  殺気はもう届かず、戻ってくる予感もなかった。 「…………ライダー」  見逃して、くれたんだろうか。  それが俺の思い違いでなければ、きっかけさえあれば彼女も力を貸してくれるかもしれない―――。    ―――アーチャーの腕を使うしかない。    俺ではライダーをやり過ごせない。  これ以上の投影は限度を超えるが、このまま殺されるのならイチかバチかだ……! 「――――〈投影〉《トレース》、〈開始〉《オン》」  ライダーを見据えたまま、魔術回路を立ち上げる。  ……〈投影〉《ぶき》はギリギリまで出さない。  ライダーが俺に踏み込んできた瞬間、ゼロ秒で剣を作り上げ全力で迎撃する――――! 「…………投影魔術。私では貴方を使いこなせませんが、優れた剣士なら、貴方という宝具を最大限に発揮できるのでしょうね」 「――――?」  ライダーの殺気が薄れていく。  こっちの考えを読んだのか、ライダーはあっさりと引き下がった。 「……ライダー?」 「見逃してあげます。私では貴方を使えない。  ……本当に皮肉な運命ですね、士郎。セイバーが健在であったのなら、彼女こそが貴方のパートナーだった」  ライダーの気配が遠ざかっていく。  土蔵から出たあと、振り返らずに屋敷から出たのだろう。  殺気はもう届かず、戻ってくる予感もなかった。 「………………」  見逃して、くれたんだろうか。  それが俺の思い違いでなければ、きっかけさえあれば彼女も力を貸してくれるかもしれない――― 「―――――――」  いつか、彼女に問われた事がある。  アレはなんだったか。  思い出せ。  あれは、そう。      ……あれは、確か。    何があっても、最後まで戦えるか、と問われたのではなかったか。 「……ライダー。俺は最後まで戦う。おまえが桜を守ろうとするように、俺だって桜を助けたい。それがどんな結果になるかは判らないけど、逃げる事は出来ない。  ……俺は桜を取り戻す為に桜と戦う。おまえがその邪魔をするなら、全力で排除するだけだ」 「……………………」  返答はない。  ライダーは重苦しい沈黙の後。 「貴方の覚悟は分かりました。ですが、それではサクラは救えない」  短く告げて、俺の前から姿を消した。 「ライダー……?」 「貴方は貴方の戦いをすればいい。私は私に出来る手段でサクラを救います」  声は遠く、返ってくる気配はない。  ……〈桜〉《マスター》の下に帰らず、かといって俺たちに頼る事もなく、ライダーは単身戦いに赴いていった。    ……あれは、確か。    何があっても、最後まで諦めないか、と問われたのではなかったか。 「……ライダー。俺は最後まで戦う。おまえが桜を守ろうとするように、俺だって桜を助けたい。それがどんな結果になるかは判らないけど、逃げる事は出来ない。  ……俺は桜を取り戻す為に桜と戦う。おまえがその邪魔をするなら、全力で排除するだけだ」 「……………………」  返答はない。  ライダーは重苦しい沈黙の後。 「貴方の覚悟は分かりました。ですが、それではサクラは救えない」  短く告げて、俺の前から姿を消した。 「ライダー……?」 「貴方は貴方の戦いをすればいい。私は私に出来る手段でサクラを救います」  声は遠く、返ってくる気配はない。  ……〈桜〉《マスター》の下に帰らず、かといって俺たちに頼る事もなく、ライダーは単身戦いに赴いていった。    ……そうだ。  以前、星空の下でライダーは俺に問うた。  どんな事になろうと、最後まで桜の味方が出来るのか、と。    あの時答えられなかった言葉。  それを、今なら胸を張って口にできる。 「ライダー。アンタが桜を大切にしているのは判る。  今だって、俺を行かせたら桜が苦しむから止めようとしてるんだろ」 「………ええ。それが判っていて、サクラを殺しにいくのですか、士郎」 「殺す為じゃない。救う為に行くんだ。  ライダー。俺は最後まで桜を守る。どんな事になろうと桜を選ぶ」 「その為に―――アンタの力を貸してくれ。俺と遠坂だけじゃ桜を助けられない。桜を本当に大切に思ってくれるなら、今だけでも手を貸してくれ」 「――――――それは。  いつぞやの質問の回答、という事ですか」  無言で頷く。 「………………いいでしょう。  ですが私は勝算のない戦いには赴きません。貴方は私に何を期待するのですか、士郎」  ライダーに期待する事?  そんなものは一つだけだ。  桜を守る最強のカード、セイバーの宝具に対抗できるのは、全サーヴァント中ライダーだけなんだから。 「―――その前に質問がある。アンタの宝具は、今でも使えるのか」 「使えます。桜は未だ、私に魔力を供給していますから」 「じゃあ次。サーヴァントは実体化していても、カテゴリー的には霊体なんだろ。となると、通常の武器ではサーヴァントを傷つけられないのか」 「……そうですね。通常のサーヴァントなら無効化できますが、サクラに囚われたサーヴァントは別です。  セイバーは肉を与えられ、霊体に戻れない生命です。  強力な魔術品ならば、彼らが纏った黒い影を突破できるでしょう」 「――――そうか。なら決まりだ。勝算はあるし、役割もはっきりしている。  ライダー。アンタには一対一でセイバーを倒してもらう。具体的に言うとだな――――」  ごにょごにょ、とライダーに耳打ちする。  ……誰が聞いている訳でもないが、一応用心というヤツだ。 「――――なるほど。確かにその方法なら突破できる。  なにしろ純粋な力勝負です。〈紛〉《まぎ》れが起こる心配もない」 「だろ。……まあ、問題があるとしたら、それは」 「貴方の技量と、貴方の技量を私がどこまで信頼できるか、ですね」  ああ、と頷く。  ライダーは僅かに戸惑い、口元に指を当て、   「承知しました。貴方を信頼し、一時の主人と認めましょう」    その、びっくりするぐらい可憐な笑みを浮かべて、俺の提案に頷いてくれた。  全ての針が頂点を指す。  午前零時、約束の時間になった。  アゾット剣を布で覆い、脇に抱える。  武器はそれだけだ。他に持っていくものは、遠坂に言われたペンダント一つだけ。 「シロウ、リンが呼んでるわ。外で待ってるから、準備が出来次第来なさいって」  イリヤはここに残る。  臓硯がイリヤを狙っている、という事もあるが、イリヤに残ってもらうのは俺の希望でもあるからだ。 「そうか。遠坂、先に外で待っているのか」 「ええ。早く来いって顔してたから、急がないとまた小言よ」 「――――――――」  イリヤの言葉に頷いて、立ち上がった。  左腕の痛みは既にない。  生物としての機能が少しずつこそぎ落ちているだけだ。  立ち止まっていると、自分が何をしているか判らなくなる。   「それじゃ行ってくる。イリヤも気をつけてな」 「いってらっしゃいシロウ。夜が明ける頃に、サクラとリンと三人で帰ってきてね」    イリヤに手を振って部屋を後にした。    ―――鳴動する大気。  訪れる者の心を押し潰すほどの重圧。  上空には風が出ているのか。  耳を澄ますと、ごうごうと強く大気を蹴る音がする。 「………………」  ……この空気は知っている。  十年前の再現。  夥しいまでの“呪い”を帯びた大気は、魔術師でなくとも、この場の不吉性を感じ取れる。 「この感じ……お山の中腹、柳洞寺に桜がいるのか……?」 「いいえ、〈柳洞寺〉《そっち》に用はないわ。上で作られてる場は表向きの、ただ聖杯を欲しがるマスター用の門よ。  ……聖杯戦争の〈大聖杯〉《おおもと》に行こうっていうんなら、上じゃなくて下に行かないとね」  ……森は暗い。  雲の切れ間から覗く月だけを頼りにして、山の中へ入っていく。  木々をかきわけ、夜の山を歩く。  山には獣道さえなく、ほとんど絶壁じみた岩肌を降りる事さえあった。 「む―――イリヤの話じゃこのあたりなんだけど……士郎、入り口らしきもの、見当たらない?」 「らしきものって、なんだよ」 「岩肌に人が入れそうな亀裂があるとか、あからさまに怪しい社とかよ。一応入り口なんだから、まさか落とし穴ってワケでもないでしょ」 「……無茶言うなあ。星が出てるからって、夜の森で周りが見通せるかって――――」  ……あ。わりと見通せる。  柳洞寺の裏手に出たのか、あたりは冬の枯れ木ばかりだ。  人工物なんて当然なく、あるといったら枯れ木と、チロチロと流れる小川ぐらい。 「……小川?」  待て。  小川って事は、どこからか水が涌いているって事だ。 「ストップ。……ちょっと待ってくれ、よく見てみる」  水の音を頼りに目を凝らす。  ……小川は山の上からではなく、岩が重なりあった地面から涌いていた。  暗くてよく見えないが、岩はかなり大きい。  折り重なった岩々は天然の門のようで、その奥から水が流れてきているのだが……。 「……洞窟みたいだな……行き止まりに見えるけど、アレって」 「なに? それらしいの見つかったの?」 「ああ、確かめてみよう。遠坂、こっち。傾斜がきついから気をつけてくれ」  小川へ降りていく。  ……それは川というより、岩からこぼれる清水の流れにすぎなかった。  流れの源では幾つもの岩が折り重なり、人間一人がようやく入れる程度の隙間がある。  岩で出来たカマクラのようなものだ。  中に入ったところですぐに岩にぶつかると一目で判り、まっとうな人間なら入ろうとすら思わない。 「横穴になってるな……けど行き止まりだ、水も岩から染み出てるみたいだし」 「―――いいえ、ここで当たりよ士郎。奥の岩に触ってみなさい。簡単にすり抜けるから」 「え……?」  言われた通り、暗い〈岩〉《やみ》に手を置く。 「あ」  岩の感触はなく、手のひらはあっさりと〈岩〉《やみ》の向こう側に通り抜けた。 「驚いた。これ、目眩しの一種か……?」 「結界の一種でしょうね。―――先、行くわよ」  遠坂は振り返らず、暗い闇へと突入していく。 「―――――」  ここから先は後戻りの出来ない敵地だ。  小さく深呼吸をして、遠坂に続いた。  かつん、という音。  水に濡れた地面を手探りで進んでいく。  地面は急激な角度で下へ下へと傾いている。  ……狭く、息苦しい闇の圧迫。  背中をつけて下っていかなければ、すぐさま無限の闇へ転がり落ちていきそうだ。 「………………」  暗闇の中、坂の傾斜に寝そべって、ゆっくりと降下していく。  ……先はどれほど暗く、地下に続いているかは判らない。  自分の息遣いだけが耳に響く。 「士郎。今のうちに訊いておく」  ……と。  先行する遠坂が、唐突に話し掛けてきた。 「いいけど、なんだ」 「宝石剣。なんで作ってくれたの」  それはなんというか、下に降りるだけの作業に飽きて、暇つぶしに口にしたような、そんな素っ気なさだ。 「なんでって、なんでさ」 「―――だから。わたしは桜を殺すって言ってるのよ。  そんなわたしに武器を預けていいのかってコト」 「―――――――」  なるほど、と闇に頷いたりする。  それは、まあ確かに、遠坂の言う通りである。 「よくない。よくないけど、遠坂がいないと桜は助けられない。桜を助けたいんなら、一人より二人の方が確実だろ。  ……それに、剣を投影するのは約束だった。  俺は遠坂との約束を果たせなかった。だから、もう一つの約束だけはキチンと守りたかったんだ」  もう随分前。  セイバーを失った後、俺は遠坂に助力を求めた。  遠坂はそれに応じてくれて、確かに約束したんだ。    遠坂を勝たせる。  聖杯戦争の勝者を遠坂にすると約束した。  ……それはもう守れない。  だから、もう一つの約束だけは守らないと。  あの時。  何も無かった俺を信じてくれた、遠坂凛っていう、好きだった女の子の為に。 「そう。律儀ね、貴方」 「ああ。遠坂ほどじゃないけどな」  闇は静寂に戻る。  会話はそれで終わった。  俺たちは互いの顔も見れず、淡々と奈落へと降りていく。  黄泉に通じるような長い路。  それが螺旋状に穿たれた通路であり、体の感覚で百メートル以上は進んだと判断した時。  暗い洞穴は、一転して俺たちを迎えいれた。  一人一人しか進めなかった路は、通路になってさらに奥へと続いている。  明かりは必要ない。  〈光苔〉《ひかりごけ》の一種か、洞窟はぼんやりとした緑色に照らされている。  通路には生命力が満ち溢れている。  それがあまりにも生々しい。  活気に満ち、生を謳歌しようとする誕生の空気。  それは〈夥〉《おびただ》しいまでの“〈生気〉《オド》”であり、視覚化できるほど垂れ流される〈魔力〉《マナ》である。 「――――――――」  その、あまりの生々しさに吐き気がする。  輝かしいものである生命の温かさが、ここでは目を背けたくなる汚物だった。 「……………………」 「――――――――」  かける言葉はない。  ここは死地だ。  声をかけあうなど、そんな余分な事で緊張を和らげては死に繋がる。 「―――行くわよ。ここからは、自分の命を優先して」    ……通路の奥、黒い空気の源流へと遠坂は進んでいく。 「……?」  ふと、地面に赤いモノが見えた。  間違いなく血の跡だ。  血は点々と奥まで続いている。 「――――――――」  俺たちより先に来た者がいるのか。  それもこんな、血の跡を残していくほど傷だらけの人間が……? 「士郎」 「……すまない。すぐ行く」  頭に浮かんだ予想を振り払って先に進む。  俺だって他人の心配をしている余裕はない。 「っ―――――――」  気を抜けば意識が切れる。  余分な事を気に病めば自分が消える。 「………………」  右手に持ったペンダントを強く握る。  痛みで自分を呼び起こして、緑の闇へ踏み出した。  ―――生暖かい風が頬を撫でる。  通路を抜けた先は、大きく開けた空洞だった。  横幅は学校のグラウンドほど。  天井は闇に霞んで見えないが、十メートルほどの高さの筈だ。  生命の気配はない。  昔、何かの図鑑で見た月の荒野に酷似した、忘れられた地下の広間。  そこに、  絶対の殺気を纏って、セイバーが待っていた。  空洞には彼女しかいない。  桜も、臓硯もアサシンも姿がない。  ここで立ち塞がっているのは、黒く変貌した彼女だけだ。 「――――――セイバー」 「――――――――――」  呼びかけても答えはない。  ……当然だ。  セイバーの役割は侵入者の排除に他ならない。  彼女はここの門番であり、処刑人だった。  桜を守る最強のサーヴァントであるセイバーなら、一人きりで俺たちの相手が出来る。 「……ふん。話し合いで通してくれる、って雰囲気じゃなさそうね」  姿勢を低くしながら、遠坂は腰の後ろに隠した宝石剣に手を伸ばす。  ―――遠坂は正面から戦る気だ。  あの剣がどんな能力を持っているかは知らないが、セイバーとまともに斬り合うハラらしい。  だが、それは上手くない。  手の内が判っているセイバーなら、こっちにも対抗策がある。まだ臓硯とアサシンが控えている状況で、唯一“秘密”である宝石剣を使うのは―――― 「遠坂待て……! セイバーは――――」 「凛。私には貴方と争う理由はない。くれぐれも間違いで私に剣を向けないように。―――貴方をここで殺してしまっては、桜の命令に背いてしまう」 「……!」  セイバーは静かな、以前と同じ声で、戦おうとする遠坂を〈諌〉《いさ》める。  それが何を意味するのか、俺も遠坂も、訊くまでもなく分かってしまった。 「……どういうつもり? 貴方はここの門番よね、セイバー」 「はい。相手が何者であれ、ここを通る者は消去する。  それが桜の命令です。ですが―――」 「わたしは例外。桜の方から会いたがってるってワケ?」  セイバーは無言で頷く。 「……そう。本気なんだ、桜」    短い呟き。  ……大きく息を吸った後、遠坂はセイバーへと歩きだした。 「遠坂」 「悪いわね。そういう訳だから、先に行かせてもらうわ」  遠坂は堂々と歩を進め、セイバーの横を通りすぎていく。  その姿が洞窟の闇に溶け込む寸前。 「士郎。アンタがどうなるかは知らないけど、わたしは信頼してるんだから。ちゃんと期待に応えてよね」 「は?」  ……いや。  この局面で目的語抜きで文句を言われても、うまく頭が働かないのだが。 「だ、だから、ケリがついた後に来られて文句言われるのも迷惑だってコト! ……その、桜を助けたいっていうんなら、あんまり遅くならないようにね」  長い髪をなびかせて、振り返らずに遠坂は奥へと消えていった。 「――――――――」    ……サンキュ、遠坂。  今のは気合が入った。  要するにあいつは、自分が桜を止めておけるうちに来いと、遠まわしに応援してくれたのだ。 「それは不可能です。貴方はここで死ぬのですから、シロウ」 「……!」  セイバーの殺気が膨れ上がる。  遠坂が奥に進み、残されたのは俺だけだ。  この状況なら―――もう殺気を抑える必要はないという事か。 「……なんだ。手を出すのはここから先に進むヤツだけじゃないのかセイバー。俺はまだ、一歩も前に出てはいないんだが」 「―――それは時間の問題だ。この局面で貴方が立ち去れる筈がない」  セイバーの言う通りだ。  退路などない。俺はもう、相手がセイバーだろうと先に進むだけだ。 「―――ふん。そうだな、俺のコトはよく知ってるよな。  セイバーの忠告も聞かず、いつも迷惑かけてたんだ。俺がバカなんだってコト、まだ覚えてたワケだ」  カラカラに乾いた舌を動かす。  生きた心地など〈一分〉《いちぶ》もない。  道場で試合をした時、セイバーは一分以下の力で俺と打ち合い、俺は彼女に一撃も与えられなかった。    つまり、絶対に勝てない。  彼女と剣を合わせれば、その瞬間、俺は首を跳ばされる。  故に、何が何でも隙を見つける。  なければ作る。  無駄話でも同情でも、とにかく少しでもセイバーの気を引くしかない。  ……この戦いは、剣技を競うところからなど始まらない。  俺はまず、全身全霊を以って、勝機が何処にあるのかを探さなければならないのだ―――― 「お喋りがすぎますねシロウ。一秒でも早く私に殺されたいのですか」 「物騒だなセイバー。……けど、その割には律儀に剣を収めてくれてるじゃないか。ここで俺を殺すっていうのに、そっちからは仕掛けてこないのか」 「……それが決まりですから。貴方が前に踏み出すまでは猶予を与えます。  ですが、それもじき終わる。貴方は桜の下に行くしかない。私が動くまでもなく、貴方の方が耐えられずに仕掛けてくる」 「――――っ」  ……のっけから失敗か。  セイバーに付け入る隙なんてない。  あいつはあの場所から一歩も動かず、俺が踏み込むのを待っている。 「……くそ。真っ向勝負しかないって事か」    肺に溜まった空気を吐き出す。  残された手段は一つだけ。  アーチャーの腕。  バーサーカーを打倒した時と同じく、投影魔術を以ってセイバーを打ち負かすだけだ。    ……もっとも。  その方法では彼女には敵わないと、とうに結論は出ているのだが。 「―――――、はあ」  意識が――される。     切断―――てあしを――、―感覚、思考だけは、この逆風から守り抜く――――! 「―――〈投影〉《トレース》、〈開始〉《オン》」    その武器を作り上げる。  投影の中でも、最も負担の少ない名剣。  アーチャーが生涯の〈象徴〉《シンボル》とした、錬鉄の〈夫婦〉《めおと》剣。  陰剣莫耶、陽剣干将。  際立った能力こそないものの、剣としての頑丈さは折紙つきだ。  これならセイバーの剣と打ち合っても、一撃二撃で砕かれる事はない。 「―――アーチャーの剣。私の剣を真似ないのですか、シロウ」 「――――――――」  ……断線する思考を、なんとか一本に纏め上げる。  ……いまセイバーはなんと言ったのか。  セイバーの剣を真似ないのか、と言ったのか。  ……そんな無駄なコトは出来ない。  アレだけの宝具を投影するには時間がかかりすぎるし、第一、俺にあの聖剣は使いこなせない。  相手が動かない標的なら真似事ぐらいはできるだろうが、セイバー相手に聖剣の“真名”を使っている余裕などないだろう。 「……いや、私には関係のない話だった。関わりがあるのは、貴方が武装したという点のみ。  それが取るに足らぬ武装だろうと、剣を手にした以上、敵対行為と見なします」  セイバーの体が揺れる。  彼女は、音もなく黒い聖剣の柄を握り、   「来なさい。その体では、あと数分も保たないでしょう」    静かに、崩壊寸前の俺を迎え入れた。    ―――踏み込んだ。    一手目の選択、セイバーの迎撃の予測、その対応と回避方法、一切を切り捨てて地面を蹴った。  打ち下ろす陰剣莫耶。  十メートル近い距離を一息で詰め、意識の全てを左腕に注ぎ込んで、渾身の一撃を炸裂させる。    ―――弾かれる打ち下ろし。    かまわず陽剣干将を薙ぎ払う。  それも不発。  完全に二刀を受け流したセイバーの剣が、視認さえさせず俺の喉を突きに来る――――! 「っ……!?」  驚きはどちらのものか。  ―――どうでもいい。  衛宮士郎では放てぬ一撃、衛宮士郎では防げぬ一撃は如何なる奇跡か。  ―――どうでもいい。  炸裂する閃光、一秒毎に生まれ変わる衝撃は何事か。  ―――そんなコトは、本当にどうでもいい。  ―――それは、死に至る暴走でありながら、穏やかな眠りだった。    超人的に翻る体。  稲妻となって迅る刃。  思考は十手先まで澄み渡り、一手防ぐ毎に、五秒後の〈生存〉《じぶん》が予測できる。 「は――――」    防戦一方。  攻め手が許されたのは初撃のみ、後はひたすらセイバーの剣を防ぐだけ。  俺を確実に殺せる精度の一撃を、既に三十余防ぎきる。 「は――――、ぁ、ぐっ――――」  時間が停止する。  思考に体が間に合わない。  引き出される経験に肉体が追いつかない。  ―――それが干将莫耶を選んだ理由。  投影したものは武器だけではない。  俺はアーチャーの腕から、ヤツの戦闘技術ごと双剣を複製した。  完全じゃないが、今の〈衛〉《オ》宮〈士〉《レ》郎の技量はアーチャーのソレに近い。 「は、はぁ――――はぁ――――」  だからこそ持ち堪えられる。  〈引き出す〉《いちげき》ごとに視界が削られるが、これなら十分に耐えられる。  思考も肉体も削られて、段々と自分の存在が小さくなっていく。  セイバーの一撃毎に体は悲鳴をあげて、三十手先の自分の死がちらついてくる。    だが恐怖はない。  あるのは、ただ。 「は、は―――はぁ、はぁ、はは、ははは…………!」    付いていける、という喜びだけ。  戦える。  俺は戦えている。  借り物の知識、借り物の技量だろうと構わない。  俺はあのセイバーと、こうしてマトモに打ち合えている――――!  ―――勝機はあるかもしれない。  セイバーは聖剣を使わない。  こんな洞窟で聖剣を使えば天井を崩すからか、それとも別の理由か、とにかくセイバーは剣技だけで俺と戦っている。  それならまだ耐えられる。  セイバーが聖剣を使わない以上、いつか必ず隙が見えてくる……! 「は――――は、あ――――!!!!!!」  スピードを上げる。  ギアをハイに叩き込んでアクセルを踏み砕く。  手首に巻きついた聖骸布がもどかしい。  あと一度しか投影が出来ない自分が恨めしい。  ―――引き出せ。    より深遠により広大により限界へ。  引き出せばもっと長く、もっと強く、このままセイバーと戦っていられるんだから――――! 「く――――!」 「っ…………!」    後退する体。  セイバーの一撃に大きく弾かれた俺は、仕切り直す為に背後に跳んだ。 「は―――…………はあ、はあ、はあ――――」    肩を上下させ呼吸を整える。  筋肉という筋肉が熱い。  体内の熱気が毛穴から吹き出ているようだ。 「は――――、ふぅ、ふ――――」    干将莫耶を握ったままセイバーを見据える。  離した間合いは十メートル。  いかにセイバーといえど、接近するには二歩必要とする距離だ。  この間合いなら、こうして気を落ち着ける余裕がある。 「――――――」    呼吸はすぐに落ち着いた。  一度、視線を落として自分の体を見た。  ―――どうでもいい。  即死でなければどんなに剣を受けようと構わない。  運動精度が低下するのは困りものだが、幸い傷みはない。  これならあと五回はセイバーの剣を受けられる。  その先は予測がつかない。  だから次の五回のうちに、セイバーの隙を見つけ、そこに残った力を叩き込むしかない。 「―――不可能だ。その方法では私を倒すどころか、傷一つつけられない」    だが。  そんな俺の思惑を、セイバーは一言で切り捨てた。 「――――どうして。俺は、おまえと戦えてる」 「その体でよく吠える。……いえ、その体だからこそ無謀な策を強行する。いかに血が出ず、いかに中身が剣になろうと、貴方の肉体は限界だ。このまま打ち合えば、次はその〈剣〉《からだ》ごと粉砕する」 「――――――――」    ……判っている。  そんな事は、俺にだって判っている。  けど他に方法がない。  投影はあと一回しか出来ない。  唯一許されたこの〈投影〉《つるぎ》で、俺は、セイバーを倒さなければいけないんだから。 「……やってみなくちゃ判らない。次はもっと強く打ち込む。あと五回の内、一度でもおまえを上回れば、それで」   「シロウ。余力を残してどうするのです」   「――――――――」  それは、深い意味が込められた言霊だった。  歪みに歪み、崩れに崩れた〈思考〉《オレ》を〈鮮明〉《クリア》にするほど思いの込もった。    ―――余力を残してどうする。  ……そうだ。  セイバーを倒せない以上、俺は死ぬしかない。  だというのに、未だ切り札を一回残している。  桜を助けるための、最後の投影を残している。    だが。  それも、桜に到達できないのでは何の意味もない。 「―――けど、それは」    セイバーを倒す代わりに、桜を助ける手段を失うという事。  そんな事は出来ない。  ここで死んでは何にもならないし、桜を掴まえたところで、投影が出来ないのでは意味がない。 「―――シロウ。貴方を降した後、私は桜の下に戻る。  分かりますか。凛は、私と桜を相手にしなければならなくなる」 「――――――――」  それは、無理だ。  いくら遠坂でも、桜とセイバーを相手にする事は出来ない。  けど、逆に―――桜一人なら、遠坂は必ず―――― 「そういう事です。私さえいなければ、彼女は必ず桜を救う」    意味はある。  俺が逃げ出さなかった事で、セイバーはここに足止めされた。  桜は最強の守り手を欠いたまま遠坂と対峙している。  ―――だが、それも一時だ。  桜はいつでもセイバーを呼び戻せる。  遠坂が桜を追い詰めた時、桜はセイバーを呼び戻すだろう。  そうなれば遠坂は敗北する。  だから、ここで俺がするべき事は、絶対にセイバーを桜の下に行かさない事。 「――――セイバー、おまえ」 「シロウ。貴方にとって、私はその程度の存在ですか」  ―――心臓が止まる。    いや、そんなもの数秒前から止まっていた。  この体はとっくに崩壊している。  アインツベルンの森で聖骸布を解いた時から、運命は決まっていた。  感覚のない体、自分のものでなくなった心は、死を恐れていない。  何が恐ろしいのかさえ、もう判らない。  それでも終わらぬよう生き延びたのは桜を救う為だった。  それが―――それが叶うのなら、経過は問わない。 「……なんだ。ここで死んだら何にもならない、なんて事はなかったんだな」  覚悟が入った。  セイバーを倒さなければ、遠坂は臓硯と桜、セイバーを敵に回す事になる。  それを減らす事が出来るのなら、意義はある。  俺が叶えられなくとも、遠坂に繋げる事が出来れば、きっと桜を助けてくれる。 「――――〈投影〉《トレース》、〈開始〉《オン》」    目を閉じて三度目の投影をする。  が、〈読み込〉《リード》むするのはあくまでこの双剣のみ。  俺はまだこの武器の性能を把握していない。  アーチャーの腕から引き出すのは干将莫耶の性質とヤツの戦術。 「っ――――」  アーチャーの腕に意識を接続した瞬間、残っていた四割の〈意識〉《じぶん》が二割に減った。 「――――――、ぁ」  名前を忘れた。  色々なものの名称が失われた。  その中に、自分の名前さえ含まれた。  もっと奥に。  探せ。探せ。探せ。  必ずある。  オレでは思いつかない手段、ヤツが必至とした構えは必ず存在する。  ヤツはこの武器を愛剣とした。  なら、多くの戦いを制してきた“必殺の一撃”を、アイツが編み出していない筈がない――――!   「――――――――」    残り一割。  己を置き去りにして、経験のイドから水を汲む。    二つの曲線。  引かれあう陰と陽。  連続投影。  剣術自体は基本を守る。  即ち、             鶴翼不欠落             心技至泰山             心技渡黄河             唯名納別天             両雄倶別命 「――――――――」    ―――届いた。  アーチャーという騎士の必殺、干将莫耶の真意に届いた。    今から行うのはオレの限界。  その先は無い最後の三手。  こちらの覚悟を感じ取ったのか、敵はわずかに腰を落とす。  ……アレは、誰だったか。  もう誰の名前も砕けて消えたのに、あの敵の名前は、まだ、 「―――――――」  思い返している暇はない。  オレは、まだ体が動く内に、   「―――〈鶴翼〉《しんぎ》、〈欠落ヲ不ラズ〉《むけつにしてばんじゃく》」    あの敵を、この攻防で超えなければならない。  投げる。  左右から同時に、それぞれ最大の魔力を篭めて一投する。  狙いは敵の首。  弧を描く二つの刃は、敵上で交差するように飛翔する。  〈鶴翼〉《かくよく》は美しい十字を〈象〉《かたど》る。  鉄塊をも撃ち砕く宝具の一刀を左右同時に見舞われては、いかな豪傑であろうと無傷では済まされない。  それを、  当然のように敵は防いだ。  まったく同時に、左右から襲いかかる干将と莫耶を迎撃し、その軌道を容易くずらした。  ―――破られた。  防がれようと弧を描いて戻ってくるハズの双剣は、軌道を狂わされて敵の背後へと飛んでいく。  これで無刀。  唯一の武器を手放したオレに、敵が間合いを詰めてくる。  自分から突進する。   「―――〈凍結〉《フリーズ》、〈解除〉《アウト》」 「同じ武器……!?」    敵の剣を受け止める双剣。  投影は済んでいる。  予め準備しておいた干将莫耶をもう一度作り上げる。 「無駄な事を……!  その宝具では、私には届かない……!」  振るわれる必殺の一撃。  その直前、   「――――〈心技〉《ちから》 〈泰山ニ至リ〉《やまをぬき》」    有り得ない方角から奇襲があった。 「なっ……!?」  未来予知じみた勘の良さで、敵は背後から飛翔した干将を躱した。  その絶対の隙をつき、莫耶を叩きつけ―――   「っ、は――――!」    敵の剣の前に砕かれた。  ―――化け物だ。  背後からの奇襲と、全力で放った一撃を同時に敵は防いだ。  加えて、正面から斬り伏せにいった莫耶を打ち砕くという極悪さ。  これを化け物と言わずなんと呼ぶ。  だが。   「―――〈心技〉《つるぎ》 〈黄河ヲ渡ル〉《みずをわかつ》」    化け物でなければ、布石を打った意味がない……! 「もう一つ……!?」    二度背後から飛来する〈莫耶〉《いっとう》。  言うまでもない、それは投擲し、敵に弾かれた一度目の双剣だ。  干将莫耶は夫婦剣。  その性質は磁石のように互いを引き寄せる。  つまり―――この手に干将がある限り、莫耶は自動的にオレの手元へと戻ってくる――――! 「くっ……!」  神業めいた反応速度を以って、敵は背後からの奇襲を避ける。  その、これ以上はない無防備な胸元へ、残った干将を叩きつけ―――    最後の一撃さえ、この敵は打ち砕いた。 「――――――――」  時間が凍りつく。  一秒に満たない刹那、互いの状態を確認する。  オレの攻撃はここで限界。  二つの干将莫耶、四つの刃による前後からの同時攻撃を防がれ、全ての武器を砕かれては策は無い。  敵は限界だ。  これ以上はない無防備な状態で、こちらの一撃を打ち砕いた。  つまり、その先はない。  この攻防は互いに手詰まり。  完全なまでの無防備さを曝け出したまま、一秒の後に元に戻る。    ―――されど。     この手には、その先が用意されている。 「――――――――」  敵の表情が凍りつく。  最後の一割が崩れていく。    ―――〈唯名〉《せいめい》 〈別天ニ納メ〉《りきゅうにとどき》。   「――――、あ」  〈三度目〉《げんかい》を超えて、その先へ。  カラの両手に、再び双剣を作り上げる。   「セイ、バー――――…………!!!!!!」      ―――〈両雄〉《われら》、〈共ニ命ヲ別ツ〉《ともにてんをいだかず》……!      その、無防備な体へ、左右から双剣を振り抜いた。  覚えていた。  最後の最後で、彼女の名前を口にした。   「――――――――」    なのに残念だ。  それが誇っていい事なのか、悔いるべき事なのか、今の自分には判らない。 「――――――――」  ともあれ敵は倒した。  手応えは完璧だった。  なら今は休もう。  心臓は動いている。  目を閉じて、目を覚ませば、また立ち上がる事ができるだろう。          それじゃあ、ほんの少し。  沈むように、眠りにつこう。   「セイ、バー――――…………!!!!!!」    左右から繰り出される双剣。  それを予知していながら、彼女には防ぐ事が出来なかった。  肉体が思考に追いつかない。  敵が放った二度もの奇襲を防いだ彼女には、この一秒のみ、自由になる個所が一つたりとも存在しなかったのだ。   「っ、ぁ――――…………!」    背中から倒れこむ。  ……今の一撃は、致命傷だった。  鎧を貫通した干将と莫耶は容赦なく彼女の胴を薙ぎ、衝撃は背骨にまで届いていた。   「は、あ、ぐっ…………!!!!」  激痛に苦悶を漏らす。  爆撃めいた一撃。  通常なら即死している筈の傷を受け、なお命があるのはサーヴァント故である。   「っ……あ、あ、は…………――――」    くわえて、彼女には自然治癒の力が備わっている。  強力な再生機能と、無限とも言える魔力供給。  今の彼女を倒すには、確実に心臓か頭を潰すしかない。    このまま放置すれば、十分とかからずに彼女は回復する。  だが―――逆を言えばあと十分、彼女はこのまま、とどめの一撃を甘受するしかない。   「は……あ――――強くなりましたね、シロウ」    彼女は目前の、自分と隣り合って倒れ伏す少年に声をかける。  少年の傷とて命に関わる深さだが、彼女に比べれば活動には十分すぎる。  立ち上がって、無防備な心臓に剣を打ち立てる事は容易いだろう。   「……いえ、それは違いましたね。貴方は、初めから強かった」    苦しげな呼吸のまま彼女は独白する。  勝敗は決した。  あと数秒の後に消滅する自分を受け入れ、彼女は懐かしむように声をかける。   「さあ、決着をつけてください。急がなければ、私の体は再生する」 「――――――――」  返事はない。 「…………シロウ?」  ふと、彼女は首を傾けた。  すぐ隣で倒れ伏す少年を視界に収める。 「――――――――」  そこには誰もいなかった。  少年の心臓は動いているし、呼吸もしている。  瞳は開いたまま、ぼんやりと天井を見上げている。  有るものは、ただそれだけ。  三度目の投影をした瞬間、跡形もなく、少年の意思は砕け散っていた。     ……限界に留まったものと、その先に行ったもの。    その結末が、彼女の隣で横たわる姿だった。   「――――では、私の勝ちですね、シロウ」    呟く声に感情はない。  慣れている。  こんな、命を捨てて尚届かなかった敵の末路など、彼女は何度も経験している。  強者とはそういうものだ。  あらゆる努力、あらゆる犠牲をしいて挑む敵を、息を吸うが如く斬り伏せるのが英雄である。   「―――あと七分。それまでに桜を解放できますか、凛」    横たわったまま、昏い地底の天を見上げる。  涙など流れない。  剣の英霊は静かに、この戦いの結末を待ち続ける。    ―――遠くで、一際高い振動が起きた。    天秤がどちらに傾いたかなど、彼女には関心がない。  胸に〈擁〉《いだ》くものがあるとすれば、それは小さな哀れみだけ。  ……遠坂凛と間桐桜。  そのどちらが生き残ろうと、彼女たちを祝福する存在は、もうこの世にはいないのだから。 「………勝手にしろ。アンタが何を考えてるかは知らないが、臓硯を良く思っていない事だけは同じだからな」 「なるほど、その共通点は大きいな。確かに、あの老人には少なからず縁がある」  坂道を下りていく。  俺たちは互いの〈表情〉《かお》も見ないまま、申し合わせたように教会を後にした。    ハイヤーを飛ばして森に着く頃、夜は明け始めていた。   「ここで待て。日付が変わるまでに私たちが戻ってこなければ帰っていい」    森の入り口近くの公道に黒塗りの外車を停止させる。  足である自動車は言峰が手配した。   『で。協力するって、何を協力するんだよ』 『ふむ。さしあたっては足だな』    ……なんてやりとりの後、言峰はすぐさま運転手付きの車を用意したのだ。  正直、その点だけでも助かったと言える。  深夜の三時過ぎ、得体の知れない学生一人を郊外まで乗せてくれるタクシーは少ない。   「戻ってくる者がそこの少年だけ、という事もある。  その時はよくない状況だ。私の帰りは待たず、全速で町に戻れ」    淡々と運転手に指示を出す言峰。  運転手は無言で頷きを返し、車のトランクを開けた。 「――――衛宮。〈得物〉《えもの》だ、持っていけ」 「え?」    ぽい、と棒のような物を投げつけてくる。 「っと。……って、なんだこれ、剣か?」    受け取った棒は細い剣だった。  知っている中では西洋の〈細剣〉《レイピア》に近い。  斬撃ではなく刺突だけを用途にしたもの。  だが、それにしては刀身はやや太く、なんとも扱いづらい。  アサシンの使っていた〈短剣〉《ダーク》を長剣にしたような剣だった。 「得物って、これ」 「〈切嗣〉《ヤツ》は銃を好んだがな。あいにく今は〈短機関銃〉《サブマシンガン》しかない。幽霊どもに鉛弾は効かんし、おまえには扱い辛いものだ。魔術使いのおまえには、そちらの方がらしいだろう」 「――――――――」  ぶん、と軽く剣を振るう。  ……妙な重心の剣だ。  重さは一キロ弱程だろうが、明らかに切っ先の重さが違う。  剣というよりは矢のような武器だ。 「……教会の専用武器か? なにか、魔力を感じるけど」 「〈黒鍵〉《こっけん》という。更に言うのなら魔術ではなく秘跡だ。  霊体を相手にするのは我々の専売特許だからな。その刀身におまえの魔術を載せれば、サーヴァントと言えど多少は有効だろう」  もっとも当てられればの話だが、と余計な一言を足す言峰。 「それを使うような事態にならないよう心がけろ。  ―――行くぞ。  イリヤスフィールが連れ出されてからじき一日経つ。  今ごろはもぬけのカラかも知れんが、その時はその時だ。  間桐桜が何処に向かったのか、その手掛かり程度は見つけだせる」  俺とは違い、神父は〈空手〉《からて》で森へと歩き出した。 「――――――――」  短く深呼吸をする。  教会製の剣を鞘に納めて、言峰の後に続いた。  先導役は俺になった。  記憶を頼りにアインツベルンの城を目指す。  ……以前ここに来た時は、城には辿り着けなかった。  城に向かう途中、“黒い影”から逃げるイリヤと遭遇したからだ。 「――――――――」  ……左腕を確かめる。  俺はあの時、この腕を失った。  あの“黒い影”に為す術もなく殺されかけた。  それは今も変わらない。  桜―――いや、あの影と対峙しても打開策はなく、おまけにあっちにはセイバーまでいる。  ……出会えば後はない。  イリヤを奪い返すのなら奇襲だけだ。  桜に気付かれず、イリヤを連れ戻す。  それから――――  それから後は、どうすればいいのか。  ああなってしまった桜相手にどうすればいい。  俺はどうやって桜を、衛宮の家まで連れ帰るのか。 「待て。間桐桜を連れ戻そう、などと思ってはいないだろうな」 「なっ……お、思ってるに決まってるだろう。俺は桜を助ける為に」 「止めておけ。  今の我々では間桐桜……いや、あの黒い影には太刀打ちできん。出会った瞬間、話し合いの余地もなく呑み込まれるだけだ。それはおまえの方が判っているのではないか?」 「っ――――――――」  ……それは。  確かに、いま桜の前に出ても中庭の時と変わらない。  けど、だからと言って―――― 「今回は諦めろ。イリヤスフィールをこちらで保護すれば、まだ猶予は出来る。間桐桜と話がしたいのなら、彼女に対抗できる力を用意してからだ」 「………………」  あの、とんでもない魔力を誇っていた桜に対抗する力。  ……そんなもの、用意できるとしたら遠坂だけだ。  臓硯と黒い影対策として進めていた、“宝石の剣”とやらを投影するしかない―――― 「っ、この…………! わかった、今はイリヤを救うのを第一にすればいいんだろう……!」 「そうだ。では行くぞ、時間がない」 「――――――――」  パン、と頬を叩いて気合を入れ直す。  弱気になっている場合じゃない。  とにかく今はイリヤを助ける。  桜はイリヤを殺すといった。  ……イリヤは殺させないし、桜にそんな事はさせない。  今のオレに出来る事は、イリヤを桜から引き離す事だけ。    なら、今はそれだけに集中しよう――――  見覚えのある場所に出た。  森に入ってから二時間強。  とうに日が昇っているだろうに、森は依然として〈朝靄〉《あさもや》に包まれている。 「――――……いるな。この森に満ちた呪いは、間違いなくヤツのものだ」 「?」  走りながら言峰はおかしな事を呟く。  ……森に満ちた呪い。  そんなもの、こいつは見るコトができるというのか。 「言峰。呪いって、アンタには桜の気配が判るのか」 「判るというよりは共鳴だ。……それはいいが。万が一、間桐桜と戦う事になれば私は撤退する。  おまえはともかく、私では〈黒化〉《こくか》した間桐桜を傷つけられん。戦ったところで勝ち目はない」 「……?」  いや、勝ち目がないのは俺もだが、それはともかく。 「待て。黒化ってなんだ。桜は桜だ。おかしな影に取り付かれてるだけで、すぐに」 「すぐに正常になる、か。  それは以前に説明しただろうに。間桐桜を元に戻すには、彼女と影を切り離すしかない」 「方法があるとすれば二つ。  あの影の本体を消滅させるか、間桐桜が影を実体化させるのを待つか。  今のおまえに〈影〉《アレ》を倒す術はない。おまえに出来る事は、影がこの世に生まれ落ちるまで、間桐桜の精神を繋ぎとめる事だけだ」 「――――――――」  その繋ぎ止める方法がわからない。  ……桜の体を覆っていた令呪。  アレが言峰の言う黒化なら、桜は刻一刻と影そのものになろうとしているのではないか……? 「……言峰。影の実体化ってのは、桜が影そのものになるって事か」 「いや。多少の共感はあるだろうが、影の本体は聖杯の中にいる。  間桐桜を変貌させているものは聖杯の中にいるモノだが、ソレとてあくまで彼女の影なのだ。  彼女なくして影は存在できない。カタチのない本体は、間桐桜の影になる事で物質界に存在する」 「間桐桜という不完全な聖杯でなければ、中にいるモノはこの世に生まれる事はない。  だが生んでしまえば、それは間桐桜とは別のモノになる。離れたのなら、彼女を汚染する“呪い”も止まるだろう」 「……言峰。生まれるって言うけど、桜の〈胎〉《なか》にそいつは居るのか」 「まさか。そうであれば話は簡単だろう。胎内にいるモノを摘出してしまえば事足りるのだから。  影の本体は聖杯の中にいる。間桐桜は、あくまでソレに栄養と実像を与えるだけの依り代だ」 「だから、桜は聖杯なんだろう。どういう事だよそれ。  聖杯っていうのは何個もあるのか」 「あるとも。初めに説明しただろう。この地には聖杯があり、その聖杯を、人間が用意した聖杯に降霊させるのだ、と。  大本の聖杯―――聖杯戦争という儀式の法則を司る大頭脳たる魔法陣。それがアインツベルンと遠坂、マキリが用意した『この土地にある聖杯』だよ」 「――――この土地にある聖杯――――」  全ての法則……サーヴァントを召喚し、マスター同士を争わせ、聖杯を呼び寄せるモノ。  この土地に起きる聖杯戦争が人為的に起こされたものなら、確かに、人の手による原因がなければおかしい。    なら―――その大掛かりな〈起動式〉《まほうじん》を探し出して破壊すれば、桜を犯している影を消す事が出来るのでは――― 「言峰、その場所を知っているのか」 「予測はつく。正確な入り口を知りたければ凛に訊け。  この土地の管理者は遠坂だ。  二百年前、アインツベルンが遠坂と手を結んだのは儀式の場所を確保する為。後継者である凛ならば教えられている筈だ」 「尤も―――それはイリヤスフィールを取り戻してからの話だ。このまま臓硯の手にイリヤスフィールが渡れば、間桐桜もイリヤスフィールも聖杯として使い捨てられる。  間桐臓硯は“大本の聖杯”など使う気はない。ヤツにしてみればイリヤスフィールと間桐桜さえいれば事足りるのだ。  大本の聖杯を壊す、というおまえのアイデアも、それでは何の意味ももたん」 「ば、ばかいうな、そんなの考えてなんかないぞっ!」 「そうなのか? おまえにとっては、それが最も現実的な打開策だと思うのだがな。実行しないとはおかしな男だ」 「っ―――うるさいな。そういうおまえこそ、なんだって黙ってたんだ。  始めからそんな物があるって言ってくれれば、今ごろ」 「とっくに起動式を壊していたか? そう上手くいかんさ。なにしろ私の目的は起動式の成就だ。おまえに起動式を壊させる訳にはいかん」 「言っただろう。イリヤスフィールを助け出した後は敵同士だと。私の目的はおまえたちとは違う。  興味があるのは間桐桜から変化するモノ―――いや、間桐桜になろうとしているモノだ。臓硯のような望みはない」 「……ふざけんな。アンタも臓硯と同じだ。桜を利用して得体の知れないモノを作って、それを自分のものにしようとしているじゃないか」 「自分のもの……? まさか。生まれた後のことなど興味はないし、そもそも人の手で御しえるものではなかろう。  現れるのは地獄という現象だ。間桐桜がソレになれば、私とて例外なく死に絶える」 「な――――――――」  なんだそれ。  じゃあ、こいつの目的っていうのは、ただ。 「―――正気かおまえ。  そこまで判っていて、自分だって殺されるって判っていて、桜をそんなものにしたいのか……!」 「そうだ。私の役割は誕生する者を祝福する事。  それはどのような状況、どのような対象であろうと変わらない。  ここに生まれようとする命と意思がある。それを阻む事は出来ない。  衛宮。この世に純粋な願いがあるとすれば、それは〈生まれたい〉《・・・・・》という一念だけではないのか」 「――――だけど、桜にとりついたヤツは」 「悪ではない。  人間はただ在るだけで幸福を得られる生き物だ。  生きれば生きるほど違う幸福を知り、より高度で複雑な快楽を学習する」 「だが、人間とて初めから幸福である事はない。  胎児には幸福がなんであるか理解する知識がない。  人間はゼロから“何が楽しいのか”を学び、“何が正しいのか”を受け入れる機能がある。  初まりはゼロだ。  そこには善悪もなく、この世に在る事を許されたという事実しかない」 「――――――――」 「善か悪か。どちらに別れるかは人間の学習次第だ。  責任があるとしたら、それはその人間を育んだ環境と、自らを育てた『自己』だけだろう。  その者が生まれ出る事には何の罪もない。  故に、それが悪魔であろうと誕生を祝福する」 「―――私は今までそのように生きてきた。  この生き方は私の物だ。  間桐桜から生まれ出るものが地獄であろうと、〈己〉《ソレ》を変える事こそ難しい」 「――――――――」  ……理解できない。  こいつが本気で言っているのは判る。  自分も死に絶えると判っていながら、桜から生まれようとしている“魔”を祝福する気なのだ。  ……俺にはこの男を認める事は絶対にできない。  が―――イリヤを助けようとし、臓硯から桜を解放させようとしているのは本当だった。 「っ―――――――」    相容れない思想。  共存できない生き物。    だが今この時だけは、同じ目的を抱いている。 「―――信頼して、いいんだな」 「共闘すると言った。私の背中はおまえに任せる」  迷いのない返答。  ……今はそれだけだ。  この場において何よりも勝る味方を得た。  あとはイリヤを助け出し、無事にこの森から脱出する事だけを考えよう――――                   ア――――ア、ア――――ア――――    黒い炎が立ち込める。  贅を尽くして造られた空間は無慈悲に、意味も無く、目的も定まらない〈喘〉《あえ》ぎによって崩壊していく。                 ――――ア――――ぁ、あ――――ぁ――――    立ち上がる火は陽炎のようだ。  本来実像を持たぬ影は、影を落とす主人の苦悶にそって床という床、壁という壁を切り崩していく。                 は――――ぅ、ア―――あああ、ぁ――――!    旋律に乗って乱舞する〈闇陽炎〉《やみかげろう》。  広間のただ中に立ち、背を丸め、苦しげに喉を掻き毟るたび、古城の美は崩壊していく。    ―――だが、憂えるまでもない。    もともと無人の城、永く忘れられた冬の城だ。  今まで見る者もなく、住まう者もなかったのだから、どのように破壊されようと大差ない。                “ぁ……ぅぁ……ぁ……ぁぁぁ、ぁ…………”    広間は影の国と化している。  その中心で苦悶する女は王でありながら奴隷である。  イリヤスフィールを伴い、この城を訪れてから既に一日。    彼女―――間桐桜の変貌は最終段階を迎えていた。    影と一体化する彼女にとって、この世界に肉を持って存在する事自体が拷問である。  体の痛み、破壊衝動のみに塗り替えられていく思考回路。  ……そういった黒化だけならば彼女はまだ耐えられよう。  肉体の痛み、自己を〈苛〉《さいな》む苦しみは、彼女にとっては馴染んだものだ。    だが―――存在そのものを否定される、という悲痛だけは、彼女にとって未知のものだった。    影はこの世にあってはならない。  この世におけるあらゆる恩恵を与えられない。                “ぅ……ぁ…………ぁ…………あ…………!”    喉をかきむしる。  単純な話、黒化している彼女は息ができなかった。  大気はすでに猛毒。  〈異界〉《しんかい》に棲む〈生物〉《かげ》に成ろうとする間桐桜にとって、陸上は〈宙〉《そら》の真空そのものなのだから。                “ア――――アア、ああああ…………!!!!”    故に乱舞する。  自己を忘れ、正気を失い、目に付く全てに怒りをぶつける。    苦しい、と。  自らの不遇を、無関心な外界に、無理解な世界に訴え続ける。   「――――さて。そろそろ頃合かの、アレは。思いの〈外〉《ほか》間桐桜で在り続けたが、あと一押しで肉の器に為り変わるじゃろうて」    その様を眺める影が二つ。  老魔術師、間桐臓硯とそのサーヴァント、アサシンである。   「……あと一押しか。その言葉、とうに聞き飽きたぞ魔術師殿。既に勝敗は決したのだ。私以外のサーヴァントなど不要。早々に残る二体を取り込ませてしまえばよかろう」 「わかっておる。だがのう、アレは自ら取り込んだサーヴァントを殺そうとせん。小娘の浅知恵か、単に度胸がないだけなのか。セイバーもバーサーカーも、桜に囚われたままよ。殺してしまえばよいものを存命させておる」   「……なんと。駒はセイバーだけではないと言うのか」 「うむ。恐らくワシに対する牽制なのだろうが、浅慮浅慮。サーヴァントを抱え込めば込むほど、アレは多くの魔力を聖杯から引き出す。〈大聖杯〉《きどうしき》から魔力を受信する小聖杯ならではの魔力補給だが、流れてくるモノは魔力だけではない。  アレはサーヴァントを生かすかぎり変貌を速めておるのだ。ワシが手を下さずとも、じき理性を食われ、理想通りの〈聖杯〉《どうぐ》になろう」    老魔術師は笑い、眼下で苦悶する娘を見守る。  視線には愛情があった。  彼は愛している。  実験作と扱ってきたものが思惑を超えて成長し、彼が渇望する“不老不死”を授けてくれるのだ。    これを愛さない方がおかしい。  今の老魔術師にとって、間桐桜は麗しい花嫁にさえ見える。  アレはどうあがいても老魔術師のモノになる。  いかに力をつけ、多くのサーヴァントを支配し、未だ理性を残そうと問題ではない。  間桐桜と間桐臓硯の優劣は、十一年前についている。  老魔術師は目を閉じ、目を覚ますだけで、間桐桜を完全に“殺す”事ができるのだから。   「――――――――」    ……だが白い髑髏は違う。  不吉の象徴たる彼は、死を運ぶ風であるが故に“同種”には敏感だった。   「―――魔術師殿は軽視しているが、さて―――」    そう上手くいくものなのか。  あの小娘が理性を失ったところで状況は変わらない。  敵意を持つ者、殺意を持つ者にアレは反応する。    その点でいえば、眼下で荒れ狂っている娘は、正気を失った後と変わらない。  間桐臓硯は〈傲〉《おご》っている。  あの娘が理性を失ったところで、〈唯々〉《いい》〈諾々〉《だくだく》と魔術師の言いつけを聞くようになるとは思えない。   「……魔術師殿。真実、あの娘を御し得る方法があるのだろうな? アレの外敵に対する防御本能は過剰にすぎる。理性を無くし、敵味方の判別がつかなくなれば、魔術師殿の声も届くまい。  そうなっては殺気を消す程度では近寄れぬ。  アレは『自分を殺す』という結果を先読みし、外敵を排除する類のモノだ」   「ほう。なるほど、それは頼もしい。器として、ますます安心できるというものよ」    呵々と老魔術師は笑う。   「――――――――」    白い髑髏は沈黙し、崩れ去る広間を眺める。  ……正直、老魔術師の思惑には賛同できない。  目的は不老不死だというが、その方針、実現方法がどこか歪んでいるように思える。  いや、もとより腐敗する人間。  狂っているのは当然なのだが、それにしても、老人の手順には一貫性がないように思えるのだが――――   「ホホ、聞いたかアサシン! 助けてくださいお爺さま、と! よいぞよいぞ、その哀願、十一年前に還るようじゃ!  世界そのものに否定される圧迫、さぞ苦しかろう桜!  だが耐えよ。おまえの体は耐えられるとも。思い出すがよい、十一年に渡る〈壺毒〉《こどく》の日々を!  何千という責め苦に耐えたのは何の為だ、何万という蟲どもに体を預けたのは何の為だ! そうだ、その程度の痛み、おまえにはなんら問題はない! そのように育て上げた! そのように鍛え上げたのだ!」   「………………」    老魔術師には娘の声が聞き取れるらしい。  アサシンには苦悶にしか聞こえぬそれは、必死に、それこそ命をかけて、祖父に助けを訴えるものなのだろう。   「おお、助けるとも助けるとも! おぬしはワシの作品じゃ、最後まで見届けてしんぜよう! いやいや、だが助けられるのは肉体だけじゃ。十一年の鍛錬において、おぬしの精神だけはついてこなかったからのう。  そう、受け入れる事で苦痛から逃れたおまえでは、その怨嗟には耐えられまい。だが安心するがよい、肉の頑強さだけはワシの保証つきじゃ! 耐えられる耐えられる、おぬしの肉ならば見事に“〈復讐者〉《アヴェンジャー》”を〈纏〉《まと》うであろう!」    老魔術師は笑い続ける。  それを無情に眺めながら、アサシンは身を引いた。   「む? 何処に行くアサシン。  万が一という事もある。おぬしにはアレからワシを守ってもらわねばならん」 「……それは構わんが。黒い聖杯ばかりに〈感〉《かま》け、白い聖杯を自由にさせるのはどうか。ようやく手に入れた正統な聖杯を、なぜあのように遊ばせておく?」 「おお、その事か。なに、イリヤスフィールは我らに協力的じゃ。もとより聖杯として門を開ける為だけに存在する娘。その目的が果たされるのなら、と大人しく頷きおったわ」   「………………」 「そう訝しがるでない。おぬしの求める聖杯はあちらの娘だ。歴史に名を残し、自らが〈本物〉《オリジナル》になる。記録としての永遠を望むうぬの願いはアインツベルンが叶えてくれよう。  だが、それにはあの娘に本来の姿になって貰わねばならん。ワシはホムンクルスは管轄外でな。あやつらが正装を整えるまでは好きにさせておけばよい」   「…………無理強いはしない、という事か。  だが―――そのような余裕が我らにあるのかな」 「あるとも。もはや我らに敵はいない。  衛宮の小倅と遠坂の小娘が生きておるのは意外じゃったが、どうという事もなかろう。あれほどの力の差を見せられ、歯向かうような馬鹿者はおらぬ」   「そのような杞憂で事を急ぎ、イリヤスフィールに死なれでもしたら取り返しがつかん。  天の門を開けるはあやつの責務だ。我らは慈悲をもって、その仕事を全うさせてやればよい――――アサシン?」 「―――そこまで。どうやら、その馬鹿者がいたらしい」 「――――ぬ?」    次の瞬間、白い髑髏はかき消えた。  侵入者を感知した暗殺者は、躊躇うことなく城の外へと飛び出したのだ。    既に敵は外へ。  油断しきった老魔術師の手をすり抜け、城門を抜けつつあった。   「――――ほう。どうあっても死にたいというのか、小僧」    だがそれは油断ではない。  何が起ころうとイリヤスフィールは逃げだせない。  アレの真髄にはアインツベルンの宿願がかけられている。  あの白い娘は、もはや臓硯が手を放したところで自分から協力する。  そんな娘を連れて逃げるなど滑稽だ。  森から連れ出したところで、イリヤスフィールは自ら聖杯の地、全ての源たる心臓の地に現れるだろう。   「ふん。故に放任していたのだが、仕方あるまい。  ―――出番だぞ桜。イリヤスフィールなくしておまえが救われる事はない。その苦しみから逃れたいのであれば、遠慮せず蹂躙してくるがよい」    高らかな笑い声を残し、老魔術師の気配も途絶えた。    ……広間には影が蹲る。  広間全体を覆った影は黒い沼となり、その水底より二体の闇が具現する。                  “…………………………………………”    少女に苦悶はない。  〈大気〉《もうどく》に慣れた訳ではない。  それは、ただ、     “…………そう。来てくれたんですね、先輩…………”       昏い悦びが、暗い痛みを凌駕しただけの話。   「……あの神父さんも一緒なのね。ばかなひと。自分から食べられに来るなんて」    つい、と指先が上げられる。  方角は城門。侵入者たちが通り、今も必死に逃げ出している方角だ。             「いって。先輩以外は殺していいわ。〈他の相手が誰であろうと〉《・・・・・・・・・・・》、問題なく斬り殺しなさい」    解放される黒い巨人。  放たれた猟犬は咆哮をあげ、突風となって消え去った。             「もっとも―――今の貴方には、その相手が誰かなんて判断はつかないでしょうけどね、バーサーカー」    くすり、という笑い声。  影を纏ったまま、彼女は黒い剣士と共に、ゆっくりと瓦礫の王国を後にした。  ――――中庭に出る。  世界は一面、昏い影に覆われていた。  背筋はおろか、指先までギリギリと痺れさせる威圧と恐れ。  ……俺たちの目の前にいる黒い影。  ソレがその気になるだけで、俺たちは屋敷ごと潰される。  力の差は歴然だ。  それは変貌しきり、以前とはまるで違う存在になっている。 「……………………」  ……黒い影は何もしない。  それは桜ではなく、桜の形をしただけの影だ。  本物の桜は柳洞寺の地下にいる。  今目の前でゆらめくモノは、桜を象っただけの虚像だった。 「――――ふん。本人じゃなく影を飛ばしてくるなんて、ちょっと見ない間に偉くなったものね桜」 「……………………」  遠坂の挑発が聞こえていないのか、それともこちらの言葉は聞こえないのか。  桜の影は月の光に揺らめくだけで、その姿はひどく淋しげに見えた。 「……………………」  その瞳が、確かに俺に向けられた。  先輩、と。  手を差し伸べれば今まで通りに応えてくるような、そんな弱さをもって。 「――――――――」  手を差し伸べる事はしなかった。  俺のやるべき事は決まっている。  ここで桜に声をかけ、わずかでも決意を弱める事はできない。  視線が逸れる。  桜の影は一度、かすかに俯いたあと。   「イリヤスフィールから話は聞きましたか、姉さん」    冷たい侮蔑のこもった声で、遠坂と対峙した。 「聞いたわ。アンタに取り憑いているモノの正体も、聖杯から生まれようとしているモノの能力もね。  それで桜。一応訊いておくけど、アンリマユとやらから手を切るつもりはある?」  遠坂の声も同じ。  桜に対して一片の関心もない、見下しきった冷徹な声。 「ありません。弱いわたしはもう消えたと言ったでしょう? 折角手に入れた力だもの。わたしはアレから離れる気はないし、できない。  ……間桐桜は、もうこうして生きるしかないんだから」 「そう。それじゃもう一つ。  その、アンタが自慢してるサーヴァントはどのくらい出来上がってるの? イリヤはもうすぐだって言ってるけど、母親としてどうなのよ、そのへん。もしかしてもう外に出てきちゃったとか?」 「……そんな訳ないでしょう。アレが出てきてしまったら、こんな街なんて瞬く間に飲まれてしまう。  そんな事、許すわけにはいかない。ここにはまだ先輩がいるんです。  だから、わたしが残っているかぎり、あの子は外には出しません」 「へえ。なんだ、なら急ぐコトはないわけね。士郎がわたしといる限り、アンタはアンリマユを押さえ付けてくれるってワケ。  良かったわね士郎。桜、この分ならまだまだ元気そうよ」 「……ふざけないでください。わたしがあとどのくらい保つか、姉さんは分かっているんでしょう?  なら、今すぐ先輩を連れて逃げてください。わたしはそう長くはありません。このままだといつ自分が消えてしまうか判らない。わたしが耐えられるのは今夜だけかもしれない」 「だからその前に、こうして忠告をしているんです。  ……姉さん。先輩を連れて、遠いところに逃げてください。そうしてくれたら、わたしは安心してあの子と刺し違えるコトが出来ますから」  ……刺し違える、と桜は言った。  遠坂の肩がわずかに震える。  それは桜の言葉を信じてのものか、それとも。 「……ふん。いつ自分が消えてしまうか判らない、か。  それ、いつ我慢できなくなるか判らないの間違いでしょ、桜」 「――――姉さん」 「まあいいわ。どうやってアンリマユと刺し違える気か知らないけど、わたしが士郎を連れて逃げれば心置きなく自滅できるって事ね?  聖杯の中にいるサーヴァントも、その力を受け継いだアンタも、一緒になって死んでくれるんだ」 「……そ、そうです。だから逃げてください。  わた、わたしは、変わりきる姿を見られたくない。先輩、先輩さえ離れてくれれば、それでいいんです。  だから――――もう、わたしを追ってこないでください、先輩」  それは決死の懇願だった。  桜の影はすぐにでも俺たちを殺せるというのに、全力で俺たちに“追ってこないでほしい”、と救いを求める。 「――――――――」  その願いには応えられない。  桜を放って逃げる事も、アンリマユと刺し違える、という桜を認める訳にもいかない。  そうして、   「行くわ。行って、確実にアンタを殺す」    遠坂ははっきりと、実の妹と決別した。 「な―――――――」 「当然でしょう。遠坂の魔術師として今のアンタは放っておけない。それに自滅する、なんて発言も信用できないわ。  気付いてるの桜? 貴方、さっきから言動がメチャクチャよ。わたしを殺したいクセに逃げろだなんてね。  ほんと、士郎の前だからっていい子ぶってまあ」 「……なん、ですって」 「あら、いい顔するじゃない。初めからそうしていれば良かったのよ、アンタは。  で、話はそれだけ? ならさっさと消えなさい。慌てなくてもすぐに会いに行ってあげるから。  いい桜。貴方は他の誰でもない、このわたしの手で殺してあげる」  優しささえ篭った声で、遠坂は断言した。  ……影が揺れる。  桜の投影であるソレは彫像のように固まったあと、   「ええ――――お待ちしています、姉さん」    くすり、と凄絶なまでの笑みをこぼして、俺たちの前から消え去った。  屋敷を覆っていた影は消えた。  中庭には俺と遠坂だけが立っている。  ――――目眩がした。  自分では意識を集中していたつもりだったが、桜の姿を見て動揺していたらしい。    ……どうやら、時間がないのは桜だけじゃなさそうだ。 「――――士郎。  桜はああ言っていたけど、貴方はどうするの。  このまま町から離れるって言うのなら止めないわ。ま、その時は宝石剣を複製してから行って貰うけど」 「そんなコト確認しなくてもいい。戦いは止めないし、宝石の剣もなんとか投影する。  俺たちは協力関係だろ。なら最後まで、遠坂に出来ない事をフォローする」 「……そう。ならいいけど、判ってるの士郎。  わたしと行くって事は桜を殺すっていう事よ。宝石剣だってそう。貴方は桜を殺す武器を、わたしの為に用意しなくちゃいけないのよ」 「……そうだな。宝石の剣に関しては、確かに矛盾してる。けど今の桜は俺たちの手に負えないし、剣を作るのは以前からの約束だ。宝石の剣を投影する事で桜の影に対抗できるなら、それは絶対に必要なものだ」 「ふうん。それじゃやっぱり」 「ああ、遠坂の逆だよ。俺は桜を助ける事で戦いを終わらせる。俺は、桜にとっての正義の味方になるって決めたからな」 「桜を生かすって事は、桜以外の人間をみんな殺すっていう事なのに?」 「まだそうと決まった訳じゃないだろう。桜を助けて、これ以上犠牲が出ない方法がある筈だ」 「……どうだかね。桜はもう何人も殺してる。それでも、そんな人間を助ける事がアンタの正義なわけ、士郎?」    ――――その言及は、決定的だった。  言い逃れのできない罪。  それを言葉として突きつけられて、俺はようやく 「―――そうだ。たとえ桜が人でなくなったとしても守る。そうなって、自分を殺したがっている桜もひっくるめて、ぜんぶから桜を守るんだ。  俺がやりたい事はそれだけだ。誰かの味方をするって、そういう事だろ」    自分の気持ちを、胸を張ってカタチにできた。 「………はあ。臆面もなく言い切ったわね、貴方」  ああ、と臆面もなく頷いてみる。 「……そ。ま、なに言っても無駄だとは思ってたけど、まさかこれほどとはね。正直、負けたわ」 「あれ? 何処行くんだよ、遠坂」 「何処って、戦いの準備をしなくちゃいけないでしょ。  桜があんな忠告するって事は、本当に余裕がないって事だもの。急いで準備しないとね」 「そ、それはそうだけど、話はまだ――――」 「話なんて終わったわよ。要するに、士郎は自分が生きてるかぎり桜を助けるって言うんでしょ。  ……ふん。いいわよ、好きにしなさいよ、もう口出ししないわよ、こうなったら納得いくまで足掻いてみなさいってーのよ」 「む……?」  さっきまでの緊張は何処にいったのか、遠坂は微妙に頬をプリプリさせている。 「けど勘違いしないで。これは宝石剣を作ってもらう交換条件よ。  士郎が頑張っているかぎり、桜をどうするかは貴方に任せる。わたしの出番は貴方が動けなくなってからにしてあげるわ。  ……それなら文句ないでしょ。士郎の頑張り次第で桜は助かるかもしれないんだから」  そんな捨て台詞を残しながら、遠坂は離れへ消えていった。 「………………」  その後ろ姿を見て、何か、胸につかえていた大きな不安が溶けてくれた。  俺たちの考えは正反対だ。  それでも、なんだかんだと遠坂は、桜を助けたがっている。  なら――――安心して任せられる。    俺と遠坂、どっちも桜が好きだっていうんなら。  遠坂なら、桜をちゃんと立ち直らせてやれるだろうから。  時刻は夜の十時。  遠坂は日付が変わるまでに戦闘準備を済ませ、柳洞寺に乗り込むと断言した。 「さて。今から宝石剣を投影してもらうけど、体の調子はどう? アーチャーの腕を抑えながら投影できる?」 「あ――――」  ……そうか。  イリヤ、遠坂には聖骸布を解いた事を言っていないんだ。 「えっと――――まあ、それは、なんとか」 「お、頼もしいわね。じゃあ後は士郎とイリヤ次第。  出来るだけ宝石剣に似せたアゾット剣と、士郎の投影とイリヤのサポート。うまくいけばオリジナルの複製とはいかないけど、半分ぐらいは能力の再現ができる筈よ」  はい、と短剣を手渡してくる遠坂。 「………………」  渡された短剣は儀礼用の物だ。  遠坂愛用の品なのか、かなり年季が入っている。  そればかりではなく、半人前の俺でさえ判るほど強大な魔力が〈蓄積〉《チャージ》されていた。  ……まあ、桜の纏った影に比べたら掌一つ分の魔力ではあるのだが、それでも俺の許容量からすれば何百倍という破格さだ。 「……すごいなコレ。遠坂、こんな秘密兵器隠し持ってたのか?」 「凄いのは当たり前。なにしろ残った宝石を全部つぎ込んだ、わたしの十年分の魔力なんだから」  勿体無さげに拗ねる遠坂。  ……遠坂は気風がいいようで、お金に関してはすごく厳しい人間なのかもしれない。  ま、それはさておき。 「ふーん。けどいいのか遠坂。宝石を全部つかったら遠坂自身の予備はなくなるんだろ? おまえだってまだ本調子じゃないのに、そんなんで戦えるのか?」 「そうね、飛んだり跳ねたりぐらいはなんとか。けど魔術を使えるほど魔力は回復してないわ」 「ちょっ――――おまえ、それじゃ」 「心配無用よ。貴方がちゃんと宝石剣を投影してくれれば問題ないわ。その剣は“月落とし”さえ止めたっていう、領域外の力なんだから」 「??」  言葉の意味はよく判らないが、遠坂の自信は相当なものだ。  ……まあ、そこまで言うならこっちも心配はしないけど。 「シロウ、そろそろ始めましょう。いくらシロウでもその剣の投影には時間がかかるわ。すぐに始めないと日付が変わる」 「そうね。それじゃ部屋に戻りましょう。落ち着いた場所じゃないと成功率が落ちるでしょ」  ほら、と居間に足を向ける遠坂。 「ああ、ちょっと待った。投影は土蔵でやる。  それと、投影中はイリヤと二人きりになりたいんで、遠坂は部屋で待っててくれ」 「なんで? 何かあった時タイヘンだし、わたしもフォローに回った方がいいでしょ?」 「その必要はないわ。逆にリンがいると邪魔なのよ。  シロウは注意力が散漫だから、ここ一番でリンが転んだりしたら気が散って失敗するでしょ」 「……む。失礼なコト言うわね、イリヤ」  不満そうに唸る遠坂。  反論しないあたり、本人もここ一番でドジをかます可能性を否定できないらしい。 「……わかったわ、わたしは蔵の外で待機してる。それでいいんでしょ、イリヤ」 「…………仕方ないか。それが精一杯の譲歩ね」 「リン。宝石剣を複製したいのなら、わたしがいいって言うまで入ってこないで。事故が起きそうになったら声をかけるから、それまで、何があっても外にいるのよ」 「しつこいわね。分かったって言ったでしょ、たとえ士郎の悲鳴があがっても中には入らないわよ」 「………………」  どうでもいい事だが、そういう例えは人としてよくないと思う。 「じゃ、行きましょうシロウ」  イリヤは土蔵に入っていく。  それに続こうとして、はた、とある事を閃いた。 「遠坂。この剣、もらっていいかな」 「? 貰うも何も、それを使って今から投影するんじゃない。宝石剣が出来たらアゾット剣はなくなるわよ」 「そうだな。宝石の剣は遠坂のものだから、そのかわりにこっちを譲ってくれないか。  ほら、失敗したらこの剣も壊れるかもしれないし。その時、遠坂に怒られるかと思うと集中できない」 「……はあ。まあいいけど。それで士郎がリラックスできるなら、アゾット剣はあげるわ」 「さんきゅ。んじゃ、ちょっくら気合いれてくる」  ……扉を閉める。  ここから先は遠坂には見せられない。  事此処にいたって止めはしないだろうが、あいつは絶対に責任を感じる。  それを和らげる為には、聖杯戦争が終わった後、実はもう使ってしまってました、と事後承諾させるしかないのだ。 「……準備はいいシロウ? アーチャーの腕を解放した貴方なら、もう手順を説明するコトはないわよね?」  こくん、と頷く。  イリヤは床に座すように言い、素直に指示に従った。 「けどイリヤ。俺は自分で見たものか、アーチャーが作った事のある武器しか投影できない。宝石剣とやらの情報は皆無だ。いくら宝石剣に真似た短剣と元になる設計図があっても、宝石剣は複製できないぞ」 「分かってるわ。シロウにはまず、わたしの〈記録〉《なか》に入ってもらう。わたしだって見た事はないけど、わたしの中には宝石剣の記録があるわ。  大聖杯を創り上げた時、遠坂の大師父も立ち会った。  〈彼〉《か》の〈魔道翁〉《まどうおう》が手にする剣もちゃんと見ていた筈だもの」 「っと、イリヤ――――」 「いいから目を閉じて。シロウの体はそのままで、意識だけを別の場所に移すわ。前もやったでしょ? シロウの眼をわたしの〈記録〉《なか》に移すから、そこで宝石剣を解析して。  ……シロウが中に入ったら、わたしが左腕の拘束を外す。二百年前の記録へ遡る圧力と、左腕の侵食が同時に来るわ。気をしっかり持って、出来るだけ早く投影を終わらせなさい」 「――――――――」  イリヤの声は震えている。  ……俺を正面から抱いたイリヤの腕も、小刻みに震えている。 「……宝石剣まではわたしが連れて行くから、シロウは息を止めているだけでいい。雑念は捨てて。余計なものは見ないで。シロウはわたしの中から、〈彼〉《か》のゼルレッチを抜き取ってくるだけでいい――――」  ――――空間が割れる。    感覚、五感の全てがイリヤの〈記録〉《なか》とやらに含まれた為か、    それとも、左腕の拘束を外されたからか。          痛みのない、痛みという認識はもはや該当しない自己の損傷に蝕まれながら、何重にも回転する痛みの中に落ちていく。    場所が判らない。                    自分が判らない。                                  意味が判らない。        それは巨大な回路だった。  半径五十メートル以上、すり鉢状の岩肌に刻まれた何十もの多重層刻印。  アリゾナの荒野に独りきりで回る、大きな大きな観測装置に酷似している。          幾重にも張り巡らされた回路。  グルグルと回転する幾何学模様。  その、美しい蜘蛛の巣の中心に、白い少女がいた。        名をユスティーツァ。  ユスティーツァ・リズライヒ・フォン・アインツベルン。  この地における聖杯戦争を立案した魔術師、  マキリ臓硯と遠坂永人を従えた、冬の聖女と謳われた大魔道師。      大聖杯が起動している。  ユスティーツァが鍵となって古の魔法を再現しようと試みる。  そうだ。彼女がいなければ聖杯はただの聖杯にすぎない。 “天の杯”には彼女の意思が必要だ。  マキリや遠坂だけでは、聖杯はただの願望機にすぎない事を、〈その老人〉《・・・・》はよく知っていた。        ――――視界が狭まる。    世界が拡大する。  余分な事に意識を割いた。意識を割いたから、体が半分になった。      縮んだ体、低くなった視界では世界が広すぎる。  それではいずれ何も見えなくなる。  二百年前の儀式、その製作過程など関係ない。    いま見るべきものは唯一つ。  大聖杯を眼下に見据え、事の顛末を見守る一人の老人が手に持つ、その剣だけに意識を割く――――        ――――それがオリジナル。    宝石を刀身とした儀礼用の短剣。  その、万華鏡のような煌きが、眼球はおろか脳髄まで焼滅させる。              “――――――――、――――――――”        一見した瞬間に理解した。  自分では理解できないと理解した。  真似られるのはカタチだけ。  その構造を解析し投影する事しかできない。      いかなる魔術理論で編まれたものか。  アーチャーの腕を用い、英霊エミヤとしての知識を総動員しても、老人の短剣は未知の世界の理だった。    異星というより異星系。    まだ幼年期にいる人類には届かない、遥か未来の常識を老人は体現している――――              “――――、――――、…………!!”          弾かれる。  弾かれるわけにはいかない。  届かない。  届かないなどゆるされない。        手を伸ばす。  手を伸ばす。  手を伸ばす。  焼き切れた眼球、焼き切れた脳神経のまま、  何十メートルと左手を伸ばして、伸ばして、伸ばして、伸ばして――――――――              「そこまでよ! 戻りなさいシロウ……!」      イリヤの声が響く。  だがまだだ。  まだ指先さえ触れていない。  このまま―――このまま戻ることなど、どうして出来る。  あの奇跡、究極の一を目の当たりにしてどうして引ける……!           「諦めなさい……! このまま消え去りたいのシロウ!」    届け――――。    届け―――――――――。    届け――――――――――――――――。    届け―――――――――――――――――――――― ――――――――――――――――――――――――― ―――――――――――――――――――――――― 「は、あ…………!!!!!!!」 「シロウ――――!」    自分で跳ねたのか、何かに跳ね飛ばされたのか。  体は宙に飛んでいて、背中から地面に落ちた。 「は――――が、あ――――!」    左腕――痛――が――――――――。  舌が―――なって指は硬く――――、どうあっても震えが――――――。   「あ――――うあ、あ、あ――――!」    ――――――――――――――――。  ―――――――、――――――――――――――。 「大人しく――――! すぐ聖骸――――巻き――――!」 「は、ぐあ、あ…………!」    横合いからでっかい包丁で刺された。  それがあまりにも不快で、包丁をもった誰かを弾き飛ばし―――― 「ぁ……い、た――――」  自分が殴りつけたモノが、イリヤだと認識できた。   「……! す、すまないイリヤ、俺、俺は――――」    パンパン、と埃をはたいて立ち上がる。  ……良かった。幸い、イリヤに怪我はない。 「バカ、余計なものは見るなって言ったじゃないっ……!  ……まったく、上手くいったから許してあげるけど、今度わたしの言うコト聞かなかったら承知しないんだからねっ」  ビシ、と俺の鼻先に指を突きつけて叱るイリヤ。  ……と。  イリヤの言葉に釣られて、左手にある硬い感触に視線を落とす。 「――――――――」    ……投影、出来てる。  出来ているんだけど、どうも記録の中で見たのとは違うような。  いや、そもそもこの剣にはまったく魔力を感じない。  これなら遠坂のアゾット剣の方が何十倍も優れているし、こんな刀身じゃ物を斬りつけるコトもできないだろう。 「そ。小言はいっぱいあるけど、とりあえずお疲れさまシロウ。投影だけなら完璧、非の打ち所のない剣製を見せてもらったわ」 「う――――実感が湧かないんだけど、どうなんだよコレ。なんかへぼっちいんだけど」 「それはそれでいいのよ。その剣はシュバインオーグの系譜の者にしか扱えない、とびっきりの魔剣なんだから。  ま、考えてみると因果よね。サクラは第三の加護を受けて、リンは若輩の身でありながら第二を駆使しようっていうんだから。協会の連中がいたら調査どころの話じゃない、各部門あげての裁判沙汰になりかねないわ」  クスクスとイリヤは笑う。 「……へえ。この短剣、そんなに凄いものなのか」 「ええ。正しく言うのなら多重次元屈折現象、宝石剣キシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグ。  宝石剣ゼルレッチと呼ばれる、魔道翁の愛剣にして遠坂に遺された家宝ってところ」 「と言っても、遠坂に継承されたのは設計図だけで宝石剣そのものじゃないわ。  ソレはね、遠坂の魔術師がもっと長い時間をかけてたどり着かなくちゃいけない、魔法使いからの宿題なのよ」 「魔法使いからの宿題……って、遠坂の言ってた大師父って魔法使いなのか……!?」 「そうよ。けどゼルレッチは魔法使いの中でも頻繁に俗世に関わる変人だから、弟子は他にもいるでしょうね。  ゼルレッチ本人はこの世界にはいないようだけど、リンが自分の手で宝石剣を作れるようになったらひょっこりやってくるかもしれない」 「むむむ……?」  この世界にはいないだの、ひょっこりやってくるだの、それはただの放浪趣味の旅行好きってヤツではなかろうか。 「――――――――」    ――――と。  油断、した。  気を抜くと目の前が霞む。  右手を強く握って、ペンダントを裂けた肌の〈肉〉《おく》に突き刺して、意識を保つ。 「――――、――――」    イリヤに気付かれないように呼吸を整える。  手足――――手足の感覚は、まだ残っている。 「――――――――」  ……助かった。  一度でも投影を行えば何か失われると危惧していたが、まだ体は何処も欠けていない。  頭もまだキチンと働いている。  こうして自分を確認できるのが何よりの証拠だ。  これなら、あと一回ぐらいはなんとか投影が使える。  ―――いや、使わなくてはいけない。  遠坂とは違う方法で桜を救う。  それはアーチャーの腕があって初めて可能に 「―――――な――――――ってワケ。要するにね、大師父の魔法――――――並行世界――――なのよ。それで、ついたあだ名が―――とか宝石翁とか〈万華鏡〉《カレイドスコープ》とか  ――――――――」 「――遠坂?」 「―? ――、―――――――――?」 「――――――――」    聞き取れない。  聞こえないのではなく、遠坂は知らない言葉で喋っている。  知らない言葉で喋って、なにか、物騒なものを左手に持っていた。  ……遠坂は見たことのない剣を持っている。  見たことのない?  そんな筈はない。  アレはついさっき俺が投影した<らしい>もので、左手はとうに空っぽで、つまりもう遠坂に手渡したのか。 「士郎? ――――――、さっきから――――――――。  さすがに――の投影は―――――?」 「――――――――」          悪寒がする。  記憶がとんでいる。  記憶が思い出せない。  理解と内容が一致しない。 「ぐ――――、っ…………!」    強く右手を握る。  ポタポタと血液がこぼれるかわりに、ようやく、目の焦点があってくれた。 「――――えっと、遠坂」  立ち上がる。  断線だらけの頭に比べて、手足は異様に軽い。  軽すぎて、中身が空っぽになったのではと訝しむほど。 「遠坂、じゃないわよ。わたしとイリヤは試し打ちをしてくるから、士郎は少しでも体を休めて―――って、どうしたのよその手……!」  遠坂が飛びついてくる。  そのスピードはびっくりするぐらい遅いクセに、   「え……? なんで、士郎がこれ持ってるの……?」    意識が断線して、いつのまにか血塗れの右手を掴まれていた。  遠坂は愕然と、俺の掌にあるペンダントを見つめている。  遠坂が驚いている理由は判らない。  ただ、俺がこれを持っている理由は、確か。 「士郎。どうして貴方がこれを持っているの。それにこんなになるまで握り締めてるなんて正気?」 「どうしてって、お守りがわりに持ってるだけだ。これは、確か」        拾ったものだ。  何処でだろう。  簡単な、忘れられない事なのに、どうしても記憶の引き出しから出てこない。  だと言うのに、俺以外の何者か、左腕に残るモノが、それを、今の俺以上に知っていた。 「……その、大切なもの、なんだ。それは、肌身離さず、最期まで、持っていない、と」  自分のものではない言葉がこぼれる。 「………………。  士郎。そのペンダントなら、わたしも持ってる」 「え?」  遠坂はポケットからペンダントを取り出した。  確かに同じだ。  宝石使いである遠坂にはこじんまりとした物だが、遠坂は美人なんだから、こういう小物の方が本人を引き立たせていいと思う。 「へえ、そっくりだな」  思ったままに頷く。 「違うわ。わたしのは空っぽだけど、士郎のは少しだけ残ってる。取るに足りない量だけど、それでも、〈使われたからには〉《・・・・・・・・》意味があるんだわ」 「?」 「それ、持っていて。何かの役に立つかもしれないから」  遠坂はペンダントを仕舞うと、イリヤの手を掴んで歩き出した。 「おい遠坂。どこ行くんだよ」 「わたしはイリヤに話があるのよ。一時間だけ休憩をあげるから、部屋で大人しくしてなさい。  それと。その右手、いますぐ手当てしないと本気で怒るわよ」 「――――――――」  遠坂の不機嫌さはほとんど殺気だった。  遠坂はイリヤを連れて行き、イリヤも黙ったままついて行く。  全ての秒針が頂点を指す。  午前零時、約束の時間になった。  アゾット剣を布で覆い、脇に抱える。  武器はそれだけだ。他に持っていくものは、遠坂に言われたペンダント一つだけ。 「シロウ、リンが呼んでるわ。外で待ってるから、準備が出来次第来なさいって」  イリヤはここに残る。  臓硯がイリヤを狙っている、という事もあるが、イリヤに残ってもらうのは俺の希望でもあるからだ。 「そうか。遠坂、先に外で待っているのか」 「ええ。早く来いって顔してたから、急がないとまた小言よ」 「――――――――」  イリヤの言葉に頷いて、立ち上がった。  左腕からの痛みはもうない。  ただ、生物としての機能が、少しずつこそぎ落ちているだけだ。    立ち止まっていると、自分が何をしているか判らなくなる。 「それじゃ行ってくる。イリヤも気をつけてな」 「いってらっしゃいシロウ。夜が明ける頃に、サクラとリンと三人で帰ってきてね」    イリヤに手を振って部屋を後にした。  居間は静まり返っている。  十年間。  ここでは色んなコトがあって、沢山の思い出があった。  それはつい最近あった出来事。  いつも、この一年半、身近で在り続けてくれた朝の風景。  土蔵は静まり返っている。  自分の部屋のように入り浸った、衛宮士郎の小さな工房。  ここで切嗣の背中を追いかけて、毎夜、無我夢中になって鍛錬をした。  寝坊した時、たまに起こされるコトもあった。  もうずっと昔のように感じられるのに、空気の匂いさえ覚えている。  部屋は静まり返っている。  たった数日間だけ使われた客間。  ここにはさして思い出などなく、    ただ、桜の姿が浮かぶだけだ。 「――――――はあ」    息をついて、壁に背を預ける。  思い出せない。  この家で起きたコト、今まで過ごしてきたコトがこれっぽっちも思い出せない。    だというのに。  こうして、足を運ぶだけで、桜の面影だけは明確に蘇る。 「――――呆れた。こんなに、俺は」    桜が、大切だったんだ。  意識はもう細切れになりそうで、記憶もメチャクチャになっている。  屋敷で過ごした十年間が何もかもあやふやになっている。    それでも―――ちゃんと思い出せる。  何がなくなろうとも、桜のことだけは、こんなにも明確に思い出せる。 「――――――――――――」  ほう、と大きく深呼吸をする。  やるべき事なんて初めから決まっていた。   「さあ――――行こう、桜」    断線する意識を繋ぎとめて、桜の部屋を後にする。    残ったものは何もない。    此処には、いつか、約束があった。  叶わないと知りながら、お互いを励ましあった。    それを今でも繰り返す。        あれは――――何処に向かう為の、小さな希望だったのだろう。  この、 根性なしがーーーーーーーーー! 却下である! 迅速に選択肢に戻ってやり直すべし!  お姉ちゃん、士郎をそんな軟弱者に育てた覚えはないわよー! そうだそうだー!  さっさとわたしを助けにこーい! そういう事! 本編もいよいよ終盤、この先にはまさにノンストップの展開が待ってるわ。 残るタイガー道場もあと四つ。  ここまできたら、一度も死なずにエンディングまで突っ走っちゃいなさい。 押忍、その通りっす師しょー!  ちょっと寂しいけど、この先はそれぐらいの漢気がないとやっていけないっす! うむ、よく言った弟子一号!  それでは諸君、健闘を祈る! あー、死んじゃったかー。 押忍。出血多量+転落死っす。助かる見込みないっす。 言うまでもないと思うけど、今回の原因は一人で立ち向かった事よ。 誰かと手を組める機会があったら、積極的に応じた方がいい結果を生むわ。 えー? じゃあキャスターとかぁ、シンジと組むのも良しなんですか師しょー? む。いや、そのあたりは人を見ろというか。  そもそも選択肢出てこないでしょ、そういう人たちとは。 怠慢ね。わたし、シンジとシロウが組むルートとか、キャスターと組むルートが見たかったわ。 キー! 没ルートの話は言うな! 資源と時間は無限ではないっ! 一番美味しいところを、一番力を入れて作るのが料理人の心意気! はいはい。そういうコトにしといてあげるわ。  で、結局はコトミネとコンビを組めってコト? ……んー、そういう事になるかなー。  あの神父さんと組みたくないって気持ちは分かるけど、ここは私情を捨てて共闘するべし。 押忍、了解であります!  昨日の敵は今日の友、少年漫画の王道でありますね師しょー! うむ! 人類みな兄弟! いい言葉である! 使え! そうそう、狡兎しして走狗にらるだよシロウ! はいそこ、ホントのコト言わないでねー。 これも一つの終り。よく戦ったな若者、ほろり。 あれ? 師しょー、いつもみたいに軟弱者って怒らないんすか? この結末もある意味大往生だからねー。  言うなれば、『Heavens feel』における、セイバーちゃんエンドっていうか。 ふーん。……ま、確かに一対一でセイバーから一本とってるし、シロウにとっては本望なのかな。 うむ。  が、それでも稽古はいつも通り行うのだ。  まず、このエンドを迎えた原因は何かな弟子一号! 簡単っす! セイバーと一対一になってしまった事だと思います、押忍! その通り! 最終決戦に向かう時は『切り札』を用意してから行けと、毎回毎回言っているのに何故ベストをつくさないのか! じゃあ師しょー、今回の切り札ってなんなんっすか? 〈強敵〉《とも》よ! トモヨ? なんか美味しそうな響きです師しょー! 半端なボケはいい! 必要なものはズバリパートナー!  この状況において、一人だけ仲間になってくれそうなサーヴァントがいる筈である! なんとか彼女を説得して最終決戦に臨むべし! はぁい、分かりましたぁ……けど師しょー、あいつすぐ逃げちゃうんですけどぉ。 以前の彼女との問答を思い出しなさい。答えは一つ、彼女が望む答えを口にすれば、その場で仲間になってくれるわ。 さ、今回の道場はこれでおしまい。 長かった戦いも大団円まであと少し! 『Fate/stay night』、そのグランドフィナーレを君の目で確かめてねー! ばいばーい! またいつか、どこかのタイガー道場で会いましょー!                ――――それは、星を祭る祭壇だった。    天と地を繋げるが如く燃える炎。  揺らめく炎身は無明である空洞を照らし、  堅く覆い被さる天蓋を焦がしている。    しかし、この祭りは正しいモノではあり得まい。  〈宙〉《ソラ》を繋ぐというが天は地の底であり、  無明を照らす松明は赤ではなく黒色。  空気は濁り、風は封殺され、壁に滲む水滴は〈悉〉《ことごと》くが毒の色。    龍が棲むとされる地の国は、その実、巨大な龍の胃袋を模していた。    ここを訪れるモノはみな人ではない。    このような異界に救いを求め、このような異景を祭ろうとするモノは、陽の光から逃れる〈蛇蠍魔蠍〉《だかつまかつ》の類に違いない。   「グ――――」    その異界の中で、白い髑髏の面が〈咽〉《むせ》ぶ。  黒色の緋に照らされたソレは、言峰綺礼によって主を失ったサーヴァント・アサシンである。   「―――ここまでか。魔力提供がなくては、もはや体が保たぬ」    白い髑髏は壁を這う。  その行く先には一人の少女が立っている。  黒い呪いに身を包んだ少女は、迫り来る髑髏をぼんやりと見つめている。   「ツ――――ようやくたどり着いたか。  魔術師殿。姿は見えぬが、御身は健在か?」    少女から離れること三間。  蜘蛛のように壁に張り付いたまま、アサシンは虚空に呼びかける。   「――――うむ。よく戻ったなアサシン」    果たして、呼びかけは応えられた。  虚空に響くのは老魔術師の声だ。  言峰綺礼に退治された筈の老人は、この地底において健在だった。    それも当然。  森で潰された間桐臓硯など、所詮は虫の集まりにすぎない。  老魔術師の本体、魂を世に留めている依り代は最も安全な場所で眠っているのだ。  いかに神父の聖言とて、本体である虫を潰さねばこの老魔術師は滅びない。   「しかし、手足どもを潰されたのは堪えたわ。今のワシではおぬしに送る魔力も作り出せぬ。かといって地上で新しい肉を調達するのも手間じゃ。  ……ふむ。負担をかけるが頃合か。桜、アサシンと契約を結べ。バーサーカーを失った今、新しい護衛が必要じゃろう」    老魔術師の声が響く。  黒い呪いの少女――――間桐桜は反応しない。  絶対者である老人の言葉を無視し、光の無い目で虚空を見つめるのみである。   「……なにをしておる桜。ワシの言葉が聞けぬというのか」    苛立ちを含んだ声は、同時に危険をも感じさせる。  老人は少しばかり気が立っていた。  むざむざイリヤスフィールを逃し、バーサーカーを失った少女の不手際に怒りを覚えていたからだ。   「―――桜。もう一度言うぞ。ワシの言葉が聞けぬというのか」    冷え切った侮蔑。  この声を前にして、少女が老人に逆らった事は一度もない。  それは恐怖からではなく、絶対的な支配力によるものだ。  少女は確かに老人を恐れている。  そしてそれ以上に、少女は老人には逆らえない。  何故なら、少女の心臓には、   「―――待たれよ魔術師殿。この女、もはや精神が壊れてしまっているのではないか。あれほどの念を受け入れているのだ。脆弱な小娘に耐えきれる筈もない」 「―――ぬ?」    老人の苛立ちが消える。  ……ゆるやかな静寂。  黒い炎に照らされた奈落に、ヒタヒタと虫の這う音がする。   「ふむ。どうやらそのようじゃな。しばらくは保つかと思うたが、幕引きはあっけなかったのう」    老魔術師は心底残念そうに、心底嬉しそうに言葉を投げる。  少女は答えない。  彼女の意識は、とうに闇に呑まれている。   「では――――予定通り、その娘を?」 「人聞きの悪い。予定通りなどではないぞ、あくまで仕方なくじゃ。間桐桜の理性は消えてしまった。このままではあの化け物を制御するモノがいなくなってしまう。  故に、非道と知りながらも空洞になった孫娘を食らおうというのではないか」    くつくつと笑う。  それは少女の喉から。  空っぽになった間桐桜の声帯を使って上げられる、老魔術師の笑いだった。   「では急ぎ行っていただけぬかな。私の体は消えかけている。早急に魔力を貰わねば消えてしまう」 「うむ。では始めるとするか。  ……いやはや、実に残念だぞ桜。ここまでアレを育てたおぬしじゃ、せめて聖杯を手に入れる栄光は譲りたかったのだが、仕方あるまい。  恨むのなら己を恨め。儀式が間に合わなかったは、イリヤスフィールを逃したおまえの落ち度よ」    ギチリ、と音がする。  少女の首を挿げ替えようと一匹の虫が蠢く。  その姿は見えなかった。  少女の肌に這う虫など存在しない。    ―――それは外からではなく。    少女にとって逃れようのない、自身の心臓からにじり寄る、〈歪〉《いび》つな思念に他ならない。    蟲使い、間桐臓硯。  その本体、腐敗する魂を繋ぎ止める依り代は、間桐桜の心臓に潜む擬似神経体だったのだ。 「く、体はまだ変わりきっていないが、なに、贅沢は言わぬ。その肉体、消えた〈理性〉《あるじ》に代わってワシが引き継いでやろう。  さらばだ桜。実験作の身でよくぞ耐え抜き、よくぞワシを愉しませた……!」    ずるずると血管を這う音がする。  腐敗する間桐臓硯の霊体が、本体である虫に、少女の脳を食えと命令する。    ――――が。             「その必要はありません、お爺さま。わたしは大丈夫です」    自らの胸に手をあて、少女は目を覚ましていた。   「ほう。呑まれてしまったかと思うたが、まだ踏み止まっておったか。…………ふむ。では桜。ちと事情が変わってな、ワシではアサシンを維持できなくなった。  少しばかり負担をかけるが、ワシの代わりにアサシンと契約するがよい」    当然のように老魔術師は命令する。  それを、少女は首を振って拒絶した。   「――――なに? なんのつもりかな、桜」 「ですから言ったでしょう、お爺さま。その必要はありません、と」    虚空に響く氷の声。  瞬間。    壁に這っていた白い髑髏が、巨大な闇に呑み込まれた。   「ギ――――!?」 「なに――――!?」    驚愕など遅い。  暗殺者は一撃のもとに体を圧縮され、原形を留めるは仮面のみ。   「ガ――――ア、ああああああああああああ!?」    その仮面も落ちる。  白い髑髏の下。  在るべき筈の素顔は、面と同じ髑髏だった。   「……ふふ。なぁんだ、どんな顔をしてるかと思えば、もともと顔がない人だったんですね。  貴方は顔を隠していたんじゃなくて、素顔を隠す事で、顔があると思わせているだけの、つまらない人だった」 「ギ―――小娘、キサ―――」 「顔を無くして、名前も捨てて、それでも永遠を求めたなんて。……けど残念。永遠を求めるなら、お爺さまのようにこれからも生き続ける事を望まないと。  いくら聖杯でも、過去に戻って貴方の名前を取り戻すなんてコトはできないんだから」   「消えなさい山の主。貴方は何者でもない一人の暗殺者、ただ一人の〈本物〉《ハサン》になど成れないわ」   「ギ、ぎゃあああああああああああああああ―――!」    断末魔さえ影に呑まれる。  白い髑髏の暗殺者は、跡形もなく少女の影に呑み込まれた。   「ぐ―――貴様正気か!? 何をするのだ、このバカ者め……!」    老人の混乱は狂乱に近い。  突然の凶行に驚いたのか、それとも―――何か、言いようの無い恐怖を感じたが故の狂乱か。    少女は支配者であった老人の叫びに微笑みを返す。   「だってあの人、二度も先輩に手を上げたでしょう?  だから殺しました。だって、先輩を傷つけていいのは、わたしだけなんだから」 「な――――」 「それにお爺さま? お爺さまはもう、彼に守られなくてもいいんです。なら、彼には暇をあげないと可哀想」    そうして、ずるりと。  少女は自らの身体に指を埋め、心霊手術のごとく奥深くへと食い込んでいた、一匹の虫を引きずり出した。   「っ――――!!!」    その恐怖、混乱をなんと呼ぼう。  自らの身体を抉り、全身の神経がズタズタになりそうな行為を、少女は涼しげに笑いながらやってのけた。   「な――――なにを、なにをする、桜――――」    ピチピチと動く。  少女は光のない目で、祖父であるモノ、祖父と名乗るモノ、祖父であったらしいモノを観察する。   「なんだ。やってみたら簡単なんですね。わたし、お爺さまはもっと大きいかと思っていました」    いや。実際、間桐臓硯が本体とする虫は、このような矮躯ではなかった。  老魔術師は少女の心臓に寄生する為、それに相応しい虫に依り代を切り替えた。  心臓に棲むからには心臓以下でなくてはならぬ。  振り返ってみれば、その奇怪な嗜好こそが老魔術師の過ちだった。   「桜―――桜、よもや」 「あの神父さんには感謝しないといけませんね。あの方がお爺さまを消してくださらなかったら、本当にわたしが食べられていたところだった」    見透かされている。  いや、そんなものは始めから決まっていたのだ。  老魔術師は己の目的を隠そうともせず、少女は老魔術師の意向に逆らわなかった。  だから問題などなかったのだ。  少女はいつか、必ず老魔術師にとって代わられるだけの存在だった。  こうして―――少女が老魔術師に反旗を翻すこの時までは。   「ま―――待て、待て待て待て……!!  違う、違うぞ桜……! おまえに取り憑くというのは最後の手段だ。おまえの意識があるのなら、門は全ておまえに与える。ワシは間桐の血統が栄えればそれでよい。  おまえが勝者となり、全てを手に入れるのならばそれでよいのだ、桜……!」    ピチピチと虫が蠢く。  指先でつまんだ〈汚物〉《ソレ》に、少女は優しく笑いかける。   「それでは尚更ですね。だって、もうお爺さまの手は要りません。あとはわたしだけでも、門を開ける事はできますから」    有り得ない事が起きる。  老魔術師の間違いは唯一つ。   「――――! 待て、待つのだ、待ってくれ桜……!  ワシはおまえの事を思ってやってきたのだぞ……!?  それを、それを、恩を仇で返すような真似を――――」   「さようならお爺さま。  二百年も地の底で蠢いていたのは疲れたでしょう?    ―――さあ、もうお消えになっても結構です」    老人は、少女を育てすぎた。  少女が孕む闇に気付かず、純粋なモノと見誤って育てたのだ。    ……祭壇には少女だけが残される。  ゆらめく黒い炎は、自らを体現する、少女の自立に歓喜する。   「―――――――ふ」    黒い少女は掌にこびりついた血を見つめ、   「ふふ――――ふふ、あはははははは――――」    糸の切れた人形のような空虚さで、いつまでも笑い続けた。    二つの黒影がぶつかり合う。  一つは超高速で地面を駆け、地表上空、前後左右から目まぐるしく標的へ襲いかかるライダー。  長い髪を引いて走り抜ける姿は、美しい流れ星のようですらある。    だが。  流れ星は所詮、小さな星にすぎない。  ライダーが標的とする〈剣士〉《もの》。  泰然と地上に構え、ライダーの猛攻を迎撃し圧倒するセイバーを打ち崩す事など出来ない。    いかにライダーが目まぐるしく跳び回り死角を突こうと、セイバーはただ一振りでライダーの短剣を全て弾き返し、返す刃で確実にライダーを“壊して”いく。    その堅固さ、苛烈さは黒い太陽を思わせる。  近づけば燃え尽きる巨大な恒星。  いかに宙を駆けようと、刹那に消え行く流星に太刀打ちできる道理はない。   「は――――、ぁ――――」    またも奇襲を弾かれ、体を削られるライダー。  ……超人的なスピードを誇る彼女だからこそ、セイバーの反撃を受けつつ離脱できる。  わずか一息の間、接近と離脱を行うライダーは黒い火花だ。  そのライダーでさえ、かろうじて致命傷を避けているにすぎない。    実力差は明確だった。  ライダーの速度は攻めれば攻めるほど減速していく。  目にも止まらぬ高速移動と連続攻撃。  セイバーによって傷つけられた体を癒す自然治癒。  後の事など考えない。  全ての〈燃料〉《エネルギー》を燃やして畳み掛けなければセイバーを抑えきれない。    ライダーは攻め続ける事で、セイバーの攻撃を防いでいる。  セイバーが攻撃に転ずれば、自分はおろか主である少年まで瞬殺されるだろう。    故に、燃え尽きると知りながらライダーは走り続ける。    ―――刻一刻と失われていく体力。    ライダーは二分間〈保〉《も》たせられると言った。  その限界から、既に十分。  ライダーの両脚は過度の酷使で、内部から崩壊しだしている。    対して、セイバーはまったくの無傷だった。  ライダーの攻撃は一度たりともセイバーに届かず、不動で迎撃するセイバーには体力の衰えが見られない。    技量、体力、魔力。    その三点において、セイバーはライダーを圧倒している。  故に―――ライダーが誇る、唯一勝っている速度が失われた瞬間、セイバーは地を蹴るだろう。    ライダーの速度は下り坂に入っている。  ……セイバーがライダーを捉えるのは時間の問題。  あと数秒、おそらく次の攻撃が防がれればライダーの息は上がる。  そうして体力と魔力を失い、全力を出せなくなった瞬間、ライダーはセイバーによって両断される。   「――――――――」  だが、それは予測されていた事実。  この洞穴に向かう前。  ライダーが少年に告げた戦いの結末は、この通りのものだった。  彼女は、この戦い方では敗北すると判っている。              死の結末を変える方法はただ一つ。  その瞬間を、彼らは息を殺して待ち続ける――――    ライダーがセイバーへと仕掛けた。    同時に、  左腕の拘束を緩め、  投影を、  開始、  する。            ――――消えていく。      聖骸布を緩め、アーチャーの左腕を                   検索。    吹き飛ばされる。                 風が強い。    目に見えているモノの意味が、泣きたくなるぐらい、理解できなくなっていく。    右手を離せ。  聖骸布を戻せ。  こんなの一秒だって耐えられない。  失う。  大事なものを失う。                  検索→選出。    いや、この瞬間、体のいたるところが死んでいる。    ライダーは決死で戦ってくれている。  泣き言はいえない。    俺は  俺も  自分にできる事で、たたか、    一瞬でも気は抜けない。  タイミングはライダーがとる。  俺は彼女に合わせる為、予め左手を自由にしておかないと                          選出→解析。    でも、痛い。    痛くて怖い。    早く――――早く、ま―なの―、ライ―ー。 「――――――――」    消えた。  何か、大切なものが無くなった。  何がなくなったのかも思い出せない。  ただ、ずっと胸に仕舞っておいたモノが、二度と思い出せなくなった。                       保留。保留。保留。保留。    ざくん、と。  右の肺が、内側から切り裂かれた。 「ご――――ふ」    まだか。  意識が保てなくなる。  必死なのはライダーだって同じだ。  負けない。  全霊を以ってライダーを直視しろ。  彼女は命を預けると言った。  ライダーにはライダーの戦いを。  俺には、俺の戦い方が―――― 「…………!」    ライダーの動きが止まる。  もう離脱する体力がないのか、ライダーはセイバーの前で膝をついている。  セイバーの剣が翻る。  このままではライダーが先に死ぬ。  俺は、      ―――ライダーを見捨てておけない。  左腕の痛み、削られていく記憶をかみ殺し、  アゾット剣を引き抜きながら、黒い剣士へ疾走した。  決断が迅速なら、行動も迅速だった。  地を蹴る足は爆弾みたいに強力で、  宙を跳ぶ体は弾丸のように速い。    逆流する血液。逆流する感覚。逆流する毒素。  左腕と肉体が一体化する。  戦士として未熟な衛宮士郎が、卓絶した超人へ変貌する。 「――――――――」    一秒が、十秒に感じられる。    ―――取れる。  壊れていくエミヤシロウを代償にして、今のオレなら、セイバーと打ち合える――――! 「逃げろ、ライダー――――!」  対峙する二つの黒色へ、横合いから斬りつける。 「っ……、士郎……!?」  地面に跪いたライダー。 「――――――――――」  視線だけでしかオレに反応できないセイバー。  ―――取った。  無防備な半身、セイバーの左腕にアゾット剣を振り下ろす。 「――――な」  砕けた。  セイバーの体に突き刺さる筈の剣は、セイバーに触れた途端砕け散った。  斬り返される光速の一撃。  斬り払われる。  オレの狙い通り、跳ね飛んだカタマリが無残に転がっていく。 「…………」  跳び退くライダーと、泰然と佇むセイバー。   「ぁ――――ああ、が――――…………!」    オレは跪いて、何も持っていない手で、必死に左肩からこぼれる血を押さえている。 「は、うぐ、ぐ、あああああ…………!」  のたうちまわる。 「反応できなかったのではありません。反応する必要がなかったのです、シロウ」  感情のない声で、黒い剣士が告げる。  近づいてくる足音。  彼女は、抵抗の術もないオレの背中、背中、に。 「これで貴方は牙をもがれた。……口にはしませんが、桜は貴方の存命を望んでいます。貴方を殺す前に無力化できたのなら、自分の前に連れて来いというのが彼女の望みです。  ですが――――」  剣の切っ先が背中を抉る。  わずか数センチ、一押しするだけで心臓を穿つ、冷酷な死の重み。 「……選びなさい。ここで私の剣にかかるか、死以上の死を桜に与えられるか。どちらを取るかは貴方次第です、シロウ」  ……意識が遠くなっていく。  流れていく血液と、背中に当てられた刃の重さ。 「――――――――」    ……どちらの選択をとったかは、もうオレには判らない。  確かなことは一つだけだ。  オレはもう、何をしようと、桜を救えなくなってしまった―――    ―――限度を超える。  いま、ライダーの為に作った投影を維持したまま、セイバーを止める“武器”を投影する。 「――――――――」  冷静さを欠く。  光を凌駕する思考速度を以って白熱する。  客観と主観を剥ぎ取られ、未知の知覚に支配される。 「――――〈投影〉《トレース》、〈重装〉《フラクタル》」    際限なく縮小し際限なく拡大し際限なく増殖する。  空想は混濁と化しながら法則を持ち、無より生じるソレは無より生じたのではなく拡大する事で浮かび上がる多くの類似。             「――――〈I〉《我》〈 〉《が》〈a〉《骨》〈m〉《子》 the 〈b〉《   は》o〈n〉《   捻》〈e〉《   じ》〈 〉《   れ》of m〈y〉《   穿》〈 〉《   つ》〈s〉《   。》word.」    刹那を抜いて投影した剣を構える。                   「〈偽・螺旋剣〉《カラドボルグ》」    狙う必要はない。  既に〈的〉《あた》るイメージがある以上、この一矢は必ずセイバーに食らいつく。 「ぎ、ず………っっっっっっ!!!!」    こわ――。  かくじ――、とりかえしのつか――ものが、コわれた。    その成果を、破裂した左眼で見る。  ライダーはセイバーから離脱している。  放たれた螺旋の剣を弾いたセイバーは、ライダーを追えずにたたらを踏んでいる。    その隙、時間にして僅か二秒間。  だが、それはライダーにとって充分すぎる僅か二秒。 「宝具――――!」  距離にして五十メートル。  それだけの間合いを離され、セイバーは瞬時にライダーの狙いを悟る。    ならば迎撃手段は一つだけ。  最大の攻撃には、最大の攻撃を以って応えるのみ。    ――――黒い光が流出する。    風を巻いて、セイバーの剣が灼熱する。  一秒の〈後〉《のち》襲い来るであろう彗星。  ライダーの駆る純白の光を断ち切らんと、最強の宝具が展開する。 「セイバーァァァアア…………!!!!!」    ライダーの姿勢が落ちる。  召喚の魔法陣は組まれている。  彼女の前面に、赤い血で結ばれた巨大な〈眼〉《まなこ》が現れる。 「――――来るか、ライダー――――!」    刃は横に。  収束し、回転し、臨界に達する星の光。  黒色の太陽は、そのフレアを両手に携え。 「――――“〈騎英の〉《ベルレ》”」    真名が〈唱〉《めい》じられる。  ライダーの姿は一瞬で白色に包まれ、 「“〈約束された〉《エクス》――――”」    真名が明かされる。  セイバーの剣は燃え盛る黒炎となり、              「“〈手綱〉《フォーン》――――!!!!!!!”」    「“――――〈勝利の剣〉《カリバー》!!!!!”」   空洞を染め上げる二つの光が、己以外の光は要らぬと鬩ぎ合う――――!    瞬間、時間を止めた。  衛宮士郎の内部を総加速させ、刹那を永遠に偽装する。 「――――〈投影〉《トレース》、〈開始〉《オン》」    検索。選出。解析。投影。  それが俺の役割だ。    二度目の投影。  自身を削る魔術。  だがそれ無くしてセイバーは打倒できない。  〈ライダーの宝具〉《ベルレフォーン》を以ってしても、セイバーの宝具には敵わない。    それは判りきっていた事だ。    ―――――だから、俺が勝たせる。    ライダーの宝具が破壊力で劣るならば、足りない分をこの俺が補充する……!!!!           「―――I am 〈t〉《体》〈h〉《は》〈e〉《剣》〈 〉《で》〈b〉《出》〈o〉《来》〈n〉《て》〈e〉《い》〈 〉《る》of my sword」    使うべきもの、選び出すものは決定している。  投影は一瞬で成る。  〈弓兵〉《ヤツ》が知る中で最大の守り、ライダーを勝利させる宝具を、           「“〈熾天覆〉《ロー・》う〈七つ〉《アイ》の〈円環〉《アス》――――!”」    その真名を以って、この瞬間真実と成す――――! 「ガ――――!」    突き出した左腕がブレる。  腕中の神経筋肉血管が踊り狂う。  弾け散りかねない左腕の痙攣を右手で必死に押さえつける。 「づ……! あ、あ、あ――――!」    耐えろ。  まだ投影は止められない。  両者の光は未だ拮抗している。  ここで〈守り〉《アイアス》を失えば、  ライダーは一瞬で蒸発する――――! 「ぎ――――ア、    、 ――――!」    跳ね回る左腕と、左肩から体内に撃ち出される弾丸。  抑えきれない魔力はザクザクと体内で跳弾し、  消しゴムをかけるように、  エミヤシロウの中身を白く変えていく。 「 、―――― 、                                                             !!!!」    吼える。  体内の痛み、自分が失われていく恐怖を追い返さんと絶叫する。    叩きつけられる剥き出しの魔力。  それは、完全に両者の拮抗を破壊し、           「あ、あア、アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――――!!!!」          黒い極光に打ち砕かれた四枚羽を撒き散らしながら、  空洞を、眩いばかりの白色に染め上げた。  二体のサーヴァントが弾け飛ぶ。  突進したスピードのまま、生身で壁に激突するライダー。  ベルレフォーンの一閃によって弾き飛ばされ、背中から地面に落ちるセイバー。  二人ともまだ生きている。  ライダーは魔力を使い切ったのか、立ち上がる事もできず倒れ伏している。  だがセイバーは―――死に体ではあるが、まだ充分に余力があった。 「――――――――、つ」    宝具による対決は、わずかに俺たちに分があったにすぎない。  ベルレフォーンの光はその九割を、セイバーの聖剣によって相殺された。 「――――――――、あ」    走った。  自分が何をするべきなのか、理解できずに走った。  走りながら、アゾット剣を解放した。 「――――セイ、バー」    駆け寄る。  駆け寄って――――セイバーに駆け寄って、その、無抵抗な体に圧しかかった。 「ぁ――――シロ、ウ――――?」    頭を打ったのか。  セイバーはぼんやりと、俺を見上げている。 「――――――――、あ」    セイバーにはどう映っただろう。  俺は馬乗りになって、短剣を振り上げて、セイバーを見下ろしている。 「――――――――」  セイバーの自己回復は半端じゃない。  ここでトドメを刺さなければすぐに復帰する。  ここでトドメを。  傷つき、抵抗できず、立ち上がる事もできないセイバーを、ここで殺さなければ、俺たちが殺される。 「っ――――、ライダー…………!」    信じる。  信じて待つしかない。  ここでセイバーに斬りかかったところで何になる。  既に準備に入ってしまった投影で何ができる。  俺たちの作戦は決まっている。  ライダーはそれを受け入れて、俺を一時でもマスターだと認めてくれた。    それを―――― 「っ――――!」    セイバーの剣が空を切る。  ライダーは既にセイバーの間合いから離脱していた。  それも最大まで。  この空洞の端にまで、彼女は間合いを引き離す。  セイバーは追撃できない。  その両足には、ライダーの鎖が絡まっている。  ライダーが膝をついたのはその為だ。  彼女はセイバーの上半身を執拗に攻撃し、最後の一手でセイバーの両足に鎖を絡め、岩盤に短剣を突き刺し、その動きを封じたのだ。 「この程度の足止めで……!」    セイバーの全身に魔力が走る。  稲妻を帯びたセイバーは容易く鎖を粉砕する。 「――――!」  だが遅い。  わずか二秒の間隙だったが、それでも、ライダーにとっては充分すぎる“助走距離”を引き離せた。 「宝具――――!」  距離にして五十メートル。  それだけの間合いを離され、セイバーは瞬時にライダーの狙いを悟る。    ならば迎撃手段は一つだけ。  最大の攻撃には、最大の攻撃を以って応えるのみ。    ――――黒い光が流出する。    風を巻いて、セイバーの剣が灼熱する。  一秒の〈後〉《のち》襲い来るであろう彗星。  ライダーの駆る純白の光を断ち切らんと、最強の宝具が展開する。 「セイバーァァァアア…………!!!!!」    ライダーの姿勢が落ちる。  召喚の魔法陣は組まれている。  彼女の前面に、赤い血で結ばれた巨大な〈眼〉《まなこ》が現れる。 「――――来るか、ライダー――――!」    刃は横に。  収束し、回転し、臨界に達する星の光。  黒色の太陽は、そのフレアを両手に携え。 「――――“〈騎英の〉《ベルレ》”」    真名が〈唱〉《めい》じられる。  ライダーの姿は一瞬で白色に包まれ、 「“〈約束された〉《エクス》――――”」    真名が明かされる。  セイバーの剣は燃え盛る黒炎となり、              「“〈手綱〉《フォーン》――――!!!!!!!”」    「“――――〈勝利の剣〉《カリバー》!!!!!”」   空洞を染め上げる二つの光が、己以外の光は要らぬと鬩ぎ合う――――!    瞬間、時間を止めた。  衛宮士郎の内部を総加速させ、刹那を永遠に偽装する。 「――――〈投影〉《トレース》、〈開始〉《オン》」    検索。選出。解析。投影。  それが俺の役割だ。    二度目の投影。  自身を削る魔術。  だがそれ無くしてセイバーは打倒できない。  〈ライダーの宝具〉《ベルレフォーン》を以ってしても、セイバーの宝具には敵わない。    それは判りきっていた事だ。    ―――――だから、俺が勝たせる。    ライダーの宝具が破壊力で劣るならば、足りない分をこの俺が補充する……!!!!           「―――I am 〈t〉《体》〈h〉《は》〈e〉《剣》〈 〉《で》〈b〉《出》〈o〉《来》〈n〉《て》〈e〉《い》〈 〉《る》of my sword」    使うべきもの、選び出すものは決定している。  投影は一瞬で成る。  〈弓兵〉《ヤツ》が知る中で最大の守り、ライダーを勝利させる宝具を、           「“〈熾天覆〉《ロー・》う〈七つ〉《アイ》の〈円環〉《アス》――――!”」    その真名を以って、この瞬間真実と成す――――! 「ガ――――!」    突き出した左腕がブレる。  腕中の神経筋肉血管が踊り狂う。  弾け散りかねない左腕の痙攣を右手で必死に押さえつける。 「づ……! あ、あ、あ――――!」    耐えろ。  まだ投影は止められない。  両者の光は未だ拮抗している。  ここで〈守り〉《アイアス》を失えば、  ライダーは一瞬で蒸発する――――! 「ぎ――――ア、    、 ――――!」    跳ね回る左腕と、左肩から体内に撃ち出される弾丸。  抑えきれない魔力はザクザクと体内で跳弾し、  消しゴムをかけるように、  エミヤシロウの中身を白く変えていく。 「 、―――― 、                                                             !!!!」    吼える。  体内の痛み、自分が失われていく恐怖を追い返さんと絶叫する。    叩きつけられる剥き出しの魔力。  それは、完全に両者の拮抗を破壊し、           「あ、あア、アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――――!!!!」          黒い極光に打ち砕かれた四枚羽を撒き散らしながら、  空洞を、眩いばかりの白色に染め上げた。  二体のサーヴァントが弾け飛ぶ。  突進したスピードのまま、生身で壁に激突するライダー。  ベルレフォーンの一閃によって弾き飛ばされ、背中から地面に落ちるセイバー。  二人ともまだ生きている。  ライダーは魔力を使い切ったのか、立ち上がる事もできず倒れ伏している。  だがセイバーは―――死に体ではあるが、まだ充分に余力があった。 「――――――――、つ」    宝具による対決は、わずかに俺たちに分があったにすぎない。  ベルレフォーンの光はその九割を、セイバーの聖剣によって相殺された。 「――――――――、あ」    走った。  自分が何をするべきなのか、理解できずに走った。  走りながら、アゾット剣を解放した。 「――――セイ、バー」    駆け寄る。  駆け寄って――――セイバーに駆け寄って、その、無抵抗な体に圧しかかった。 「ぁ――――シロ、ウ――――?」    頭を打ったのか。  セイバーはぼんやりと、俺を見上げている。 「――――――――、あ」    セイバーにはどう映っただろう。  俺は馬乗りになって、短剣を振り上げて、セイバーを見下ろしている。 「――――――――」  セイバーの自己回復は半端じゃない。  ここでトドメを刺さなければすぐに復帰する。  ここでトドメを。  傷つき、抵抗できず、立ち上がる事もできないセイバーを、ここで殺さなければ、俺たちが殺される。 「あ――――、あ」    あれだけ消えそうだった意識が、今はひどくクリアだ。 「――――――――」  ……意識が戻ったのか。  セイバーは冷たい瞳のまま、目前の〈俺〉《し》を見つめている。  俺は    躊躇いはない。  セイバーの目を見つめたまま、彼女の視線に応えて、重い腕を振り下ろした。  抵抗はなかった。  きっかりと一撃で、セイバーの命を止めた。 「――――――――――、―――」    思い出があった。  ちゃんと、今でも生きている温かさがあった。  忘れようのない、彼女の体温がすぐ近くにあってくれた。    その記憶ごと彼女を殺めた。  自分の記憶を抉り、手の届かないところに投げ捨てた。  もう、二度と蘇る事はない。  二度と、彼女を思い出す事はない。    ―――そんな事は、絶対に許されない。    俺はこの道を選んだ。  桜を助ける為に他人を殺した。  親しい人を、最期まで俺を守ってくれた少女を、この手で殺めた。  後悔も懺悔も許されない。  ……誰かの味方をするという事。  ただ一つ愛する〈者〉《エゴ》の為、大切なものを奪い続ける。    その先に。  喪ったものに見合う輝きなど在りはしない。 「――――でも、セイバー」    喪ったものに見合う幸せを、一生涯求め続ける。  ツケは溜まっていく一方で、いつか動けなくなるのは目に見えている。    それでも―――みっともなく、滑稽で無価値なまま、奪い続けた責任を果たしてみせる。    幸福が何処にあるのかは判らない。  ただ、終わりが見えなくても、諦める事だけはしないと誓う。           「――――ありがとう。おまえに、何度も助けられた」    ……短剣にかかる重みが消える。  黒い剣士は最期まで口を閉ざし、俺をぼんやりと見上げたまま、黒い影に沈んでいった。  ……振り下ろせない。  短剣を持つ手は震えるばかりで、一向にセイバーの胸を貫かない。 「――――――――」  彼女は、ただ俺を見上げている。  何の感慨もなく、対岸の火を見るように、馬乗りになった俺を見つめている。  たった数日。  彼女を失ったあの夜から、まだ八日しか経っていない。  ……いや、もう八日と言うべきか。  鮮やかな金の髪、穏やかだった緑の瞳を失ってから、もうそれだけの時間が経った。  翻る銀の甲冑、振るわれる一撃の美しさは、いまも鮮明に思い出せる。  彼女は何も知らない俺をマスターと認め、最期まで俺の剣であってくれた。    ―――何度傷を負おうと、死を迎えようと。     その決意が鈍った事は一度もない。  忘れない。  あの夜を、あの奇跡を忘れる事など出来ない。    ―――月の光に濡れた金の髪。    それは、  彼女がどう変貌しようと失われない、切り取られた、永遠の風景だった。 「――――――――」  そうして悟った。  俺に、セイバーは殺せない。  見る影もなく黒く変色し、纏った魔力さえ〈禍々〉《まがまが》しくなろうと、俺を守ってくれたセイバーなんだ。    それを―――どうして、殺める事が出来るだろう。 「――――セイ、バー」  ……短剣が落ちる。  セイバーの胸ではなく、乾いた地面に突き刺さる。 「………………」  ……黒い剣士は何も語らない。  刻一刻と回復していた体は、もう完全に復元していた。  ……〈桜〉《マスター》の魔力が膨大な為だろう。  回復したのは肉体だけでなく、消費した魔力すら元通りだ。 「―――シロウ。初めて、貴方を憎んだ」    セイバーの憎悪は理解できる。   「貴方は、私に貴方を殺せというのですね」    彼女が失望するのは当然の事だ。 「いいでしょう。  望み通り、私の手で貴方の首を――――」    洞穴が鳴動する。  闇の向こうで何が起きているのか。  遠坂が先行した奥から、断末魔のような振動が届いてくる。  振動は慟哭に似ていた。  この振動を起こしている“誰か”が、必死に助けを求めている――――? 「セイバー……!?」  さっきの振動によるものか、セイバーが地面に沈んでいく。  いや、彼女の影が、本体である彼女を呑み込もうとしている。 「セイバー、手を……!」 「―――貴方の処刑は先送りです。桜が、救いを求めている」 「っ……!」    ……影が薄れていく。  セイバーを呑み込んだ影は、地面に染み込むように消えてしまった。 「――――」 「――――」 「――――、――――――――」 「――――、つ」    唐突に起こされた。  気が付くと見た事もない場所で、膝を立てて眠っていた。 「………………」  ……いや、何かおかしい。  何かおかしいのだが、何がおかしいのか、どうやっても思いつかない。 「は、ぐっ――――」  立ち上がる。  頭を振って頭の中をさっぱりさせる。   「……そうだ。奥に、行かないと」    たしか、何か大事なものを代償にして、何か大事なものを排除したのだ。 「……短剣……短剣を持っていかないと」    地面に刺さったアゾット剣を抜く。  不思議な話だ。  さっきまで握っていた筈の短剣が、どうして地面に刺さっていたのだろう。 「――――――、ぐ」  左腕の拘束を強く締める。  魔力は大部分を使い切った。  アーチャーの腕に残ったモノと、自分の中に残ったモノ。  合わせればまだいけそうだが、投影はあと一度が限界だ。その後は何をしても、アーチャーの腕を抑えきれなくなる。 「―――――――」  ……何か忘れている。  忘れているが、今は先を急ぐべきだ。  体が硬い。  ブリキで出来た人形になった気がする。  ……とおくでだれかが呼んでいる。  その声が、  聞き覚えのない、  大切なもののような気がして、ブリキの体を前進させる。  ―――時間をかけて洞穴を抜ける。    振動はとうに止んでいた。  奥からは生温かい、吐き気を催す風だけが流れてくる。 「――――――――」    左腕が痛む。  一歩進む度に脳は切り刻まれ、倒壊するビルのように、思考能力が削られていく。    黒い闇を抜けて白い闇に出た。  ……体が熱い。  火鉢になった〈自分〉《からだ》が、溶鉱炉に投げ入れられたようで、目眩がする。    頭痛が倍化する。  吐く息は熱く、大気は更に熱い。  肌を焦がすほどの猛熱と、喉に絡みつく腐った空気。  間違えた。  ここは溶鉱炉というより、生き物の〈消化器官〉《ハラノナカ》。 「――――――――」  ここが最後の舞台。  桜が閉じ篭り、臓硯が潜み、遠坂が向かった最終地点。  だが、それにしては静かすぎる。  戦いの気配など何処にもない。  臓硯の笑い声も、遠坂の後ろ姿も、うつむいた桜の顔も、白く煙って見つからない。 「――――――――」    何が起こったのか、考える前に前へ進んだ。  そんな暇はないし余力もない。  既に、思考は回数制になっている。  ―――残る投影はあと一回。  その最後の武器を、余分な“考察”で劣化させる訳にはいかない。    ―――崖を登る。  思考を無駄遣いしないよう、何も考えずに岩に手をかけて崖を登る。  黒い太陽のような光の柱。  そこに、    黒く変貌した、桜の姿だけがあった。 「――――桜」 「?」  桜は不思議そうに、本当に不思議そうに、目の前にいる俺を見た。  感情のない赤い瞳。 「―――――――、さ」    その冷たさに胸を突かれて、声をあげる事が出来なかった。  愚かすぎる。  ここにきて俺は、あの時と同じ間違いを、犯してしまった。 「ああ、来てくれたんですね先輩。随分と遅いから、逃げちゃったのかなって勘違いしちゃいました。  ごめんなさい、いますぐわたしを呼び戻しますね?  先輩を驚かせようと思って、出口にいっぱい配置したのは失敗でした」  くすり、と笑う。  瞬間、背筋が凍った。  言うべき言葉、投影すべき物を忘却させるほど、桜の笑みは“別人”すぎた。 「―――桜。遠坂は、何処に」    馬鹿な質問をする。  桜を取り戻す言葉を忘れて、しなくてもいい質問、分かりきった疑問を口にする。 「え……姉さん、ですか?」  困惑する声は、俺の質問に対してではない。  桜は、まるで―――そんな事も判らないのか、と哀れんでいるようだ。 「そうだ。俺より先に遠坂が来た筈だ。あいつは何処にいった」 「………………」  空気が熱い。  肌に纏わりつく風が、じりじりと体を溶かしていく錯覚。  ……崖の上から空洞を一望する。  下に遠坂の姿はない。  人がいた形跡は、この崖の上にしかなかった。  ……桜の足元。  黒く染まった地面には、黒い、リボンのような布きれが転がっている。        ――――遠坂の気配がない。    ――――遠坂の身体がない。    ――――遠坂の血痕すらない。 「桜、おまえ」 「ええ、先輩の思っている通りです。姉さんは、もうこの世の何処にもいないんです。  だって―――さっき、わたしが呑み込んでしまったんですもの」            ―――誰だ。 「あ、もちろん散らかしてなんていませんよ?  体も心も、残さずキレイに。こんな体になっても、お行儀はいいんですわたし」            ―――誰だ。 「けど姉さんは死んでなんかいません。いまもこうやって、わたしのなかで苦しんでいます。  ……くす。姉さん、あんなに弱かったんですね。わたしがされたコトを一から体験させてあげてるんですけど、一日目で泣き崩れてる」 「ほら、聞こえますか? 助けてって、ごめんなさいって、昔の私みたいに叫んでる。  あ……可愛いなあ、そんなコトまで口にして。おねがいだからココからだして桜、ですって。  バカな姉さん。そんなコト言われたら、もっと愉しみたくなるのに」            ―――誰だ。 「ふふ、美味しすぎて我を忘れそう。  ―――ごちそうさま先輩。先輩が連れてきてくれた〈食材〉《あのひと》は、最高のご馳走でした」            ―――アレは、一体誰のカラだ。  残った思考回路が破裂していく。  理性は爆散し、自分がするべき事も、目の前の相手が誰であるかも、判らなくなっていく。 「桜、おまえ、は――――」    もう、俺では取り戻せないところに、 「やめてください。そんな目でわたしを見ないで。  ……だいたい先輩がいけないんですよ? セイバーを助けたりするから、最後の最後で姉さんわたしを殺しそこなったんです。  セイバーの助けがなかったら、殺されていたのはわたしの方だったのに」 「――――――――」 「けど嬉しいです。先輩はセイバーを助けて、わたしを助けて、姉さんを殺してくれた。  だから―――」           「違う、俺は」 「―――先輩も一緒に取り込んであげます。  さあ先輩、姉さんが待っていますよ?」 「姉さんったら、さっきから先輩に助けを求めてばっかりなんだもの。すぐ傍にいって、手でも握ってあげてくださいね」  影が落ちる。  何か巨大な壁が出来たように、柱からの光が閉ざされる。  ……湧き上がる黒い影。  何処から現れたのか、巨人たちは牢獄のように迫ってくる。 「――――――――」  逃げ場はない。  巨人たちは溶け合い、津波となって俺を呑み込んだ。  一瞬にして全身の感覚が消失する。        ―――果てもない、終わりもない深い闇。      桜の影に落ちゆく中、何処かで、泣き叫ぶ誰かの声が、聞こえた気がした。    解放される。  桜の体を覆っていた、黒い令呪が砕け散っていく。    契約破りの短剣。  あらゆる魔術効果を初期化し、サーヴァントとの契約を破る宝具。  それは桜の命を奪わず、彼女を縛り付けていた契約だけを〈破戒〉《はかい》した。    ―――映像が継続しない。    桜は、生きている。  影から解放された反動か、今は眠るように横たわっている。    遠坂―――遠坂も、まだ間に合う。    出血は止まっている。あいつにはまっとうな魔術刻印がある。  刻印は遠坂家が遺してきた魔術の結晶だ。遠坂が意識を失っても、易々と後継者を死なせはしない。   「――――――――」    大空洞が揺れている。  アンリマユ。  この世全ての悪、なんて、ふざけた呪いがのたうっている。    ……くそ。  桜という依り代を無くしても、黒い影は消え去らない。  育ちすぎた。  あの影は、もう桜がいなくても外に出れる。  この大聖杯がある限り、いずれ、自分から外に這い出て来るだろう。    ――――壊す。    あの影ごと、この巨大な魔法陣を切り崩す。  アンリマユの胎動は、大空洞を少しずつ崩壊させている。  ……だが、この洞穴が崩れたところでアレが消え去るとは思えない。  アレはこの場で、跡形もなく消し去らなければならないものだ。    それは可能か。    ……ああ、出来ない事はない。  あいつの足元に、ギリギリまで近づいて、大火力をぶっ放す。    あの黒い炎の中にいるかぎり、アンリマユは動けない。  いまのうちに、外に出る前に一刀両断して、元の『無いもの』に叩き返す。  それを可能とするとしたら、それは――――    俺が知り得る限り最強の宝具で、あの怪物を一掃する。   「――――――――、ごほ」    息が止まっている。  アンリマユの足元まで、ざっと百メートル。  ……大丈夫、やれない距離じゃない。  あと一回だ。  たった一回投影をするだけで、全部にケリがつく。  大丈夫。きっとやれる。  さっさと片付けて、二人を地上に連れ戻、   「士郎、聞こえていますか」    誰か、見知らぬ人が肩を叩いた。   「――――――――」    ……誰だったか。  見知らぬ人、なんて事はない。  よく知っている。なにやら物騒な格好をしているが、この女性は信頼できると、覚えている。 「助かった。遠坂と桜を連れて、外に出られるか」 「―――――士郎?」    長い髪の女性はほんの数秒、俺を値踏みするように見据える。 「それで、貴方は?」 「アレを閉じてから行く。すぐ終わるだろうけど、遠坂の傷は一刻を争う。桜だって、ここにいたらアイツの影響を受けるだろう。アンリマユとやらは、懲りずに桜をマスターにするかもしれない」 「――――承知しました。サクラとリンは私が運びます。  安心してください。それだけの体力は回復してきたつもりです」 「頼む。なんとか二人を連れて外に出てくれ。洞窟、崩れ出してるだろ。ええっと、ラ―――ラ、ラ、くそ、アンタの足なら、あんな落盤なんて問題じゃない」 「…………………………。  ――――では。二人を安全な場所に運び次第、迎えに来ます」 「あー……それは頼もしいんだけど、二人の手当てを優先してくれ。任せられるのはアンタしかいない。こっちはこっちでとっとと逃げるから、遠坂を治してやってくれ。そいつがいないと、桜は幸せになれない」  ……たしか、この女性に治療技術はなかった筈だ。  それでも、無理を承知で遠坂の命を委ねるしかない。 「必ず。ですが士郎、それは貴方も同じです。  サクラには貴方とリンが必要です。それを肝に銘じておきなさい。……私も、サクラを支えるのは貴方でなければ納得できませんから」 「……?」 「急ぎます。――――ご武運を」    黒い衣装の女性は軽々と二人を抱きかかえ、崖の傾斜を駆け下りていった。    ―――崩れていく空洞、落ちてくる天井を躱しながら出口へと疾走していく。 「――――――――ふう」    ……あれなら安心だ。  彼女に任せておけば、二人はきっと助かる。  後は――――    最後の、後始末をするだけだ。 「――――、――――、――――」    意識が断線する。  たった百メートルが、永遠に到達できない長さになっている。 「――――、――――、――――」    大空洞の崩壊は、時間の問題だった。  天蓋はところどころが崩れ、荒野のようだった地上は、瓦礫の山になりつつある。 「――――、――――、――――」    関節が硬い。  手足を曲げると痛い。  神経が熱い。  体の中から、数百の刃が生えてくる。  逃げ様のない串刺し刑。  体は剣で出来ている。  それは判っていたコトだ。  投影をすれば最後、時限爆弾のスイッチが入る。  この終わりは、とうに決められていた事だ。 「――――は、あ――――!」    割れる。  これ以上は割れる。  バラバラに砕けて、そこらへんに転がっている石くれと同じになる。  ……けど、まだ間に合う。  この体は手遅れだけど、ここで止めておけば一日ぐらいは意味を失わずに済む。  一日だけの延命。  そんな、たいして意味のないようなコトが、今は恐ろしいほど恋しい。  たった一日。一時間でも一分でもいい。  生きていられるのなら、どんなにみっともなくても、限界までここにいたい。 「は、ずっ――――…………!」    亀裂が入った。  外ではなく内、大脳の側座核が割れた。  行動原理、即ち快楽の連動を司るところ。 “生きる”コトに一番重要な部分。生とは快楽の追求であり、それがない人間は獣と同じ。 「はっ、あ」    都合がいい、なんて事はなかった。  それでも恋しい。  自分が自分のままでいる事に、身を食むほどに執着している。  それでも割れていく。  失み欠う苦痛も、記憶の消失を止められない。  一歩進む度に俺は消える。  このままじゃ無理だ。  たどり着けたところで、自分が誰か、何をするかを、きっと無くしてしまっている。    だから、今は立ち止まって、助けを待―――― 「――――ああ、覚えている」    でも、何か。  大きな理由が、体の外にあって。   「桜――――花を見に行こう」    おまえは、おまえの役目を、果たさないと。    ――――時間が止まっている。    痛みはない。  たった一歩に、一日をかけている。    ――――呼吸の仕方を忘れた。    痛みはない。  たった一息の空気が、一日かけても吸えずにいる。    ――――意味を失った。    痛みとは、なんだったか。  有機が無機に切り替わった。  踏み止まった。  落下していく中、手を伸ばして壁を掴んだ。  とても小さい。爪の先ほどの足場に、全存在を留まらせる。    保つ筈がない。    足場は、崩れて    行動原理が〈喪〉《な》い。  行動理由が〈喪〉《な》い。  存在意義が〈喪〉《な》い。  恐ろしいと感じない。    何の為に誰の為に存在しているのか消失した。            もう、とっくに生きていない。  如何なる理由の元にも、その腕が動く事はない。   「――――〈投影〉《トレース》、」    言葉が出た。  言語野はおろか新皮質全般、他三部を含む大脳まで消失しておいて、まだ、残ったものがあった。   「――――〈開始〉《オン》」    肉体は死んだ。    だが、ここに、魂が残されている。  八節を紡ぐ。  負荷は肉体から魂におよび、更に、意味が   「――――――――、あ」    そうして衛宮士郎は死んだ。  立ち尽くすカタチは一つの機械と変わらない。  作り上げた剣を振り上げる機能はあっても、動かす意思がなければ残骸と変わらない。          だが、人工の知能がなくとも。  この世には沢山の、夢を〈織〉《お》る機械がある。            約束があった。  いつか冬が過ぎて、春になったら――――            もう意味さえ解らない文字の羅列。  最後まで覚えていた、果たされるべき、小さな希望。           「――――――――」            呼吸をして、体に、動けるだけの酸素を入れる。            喉は一度しか動かない。            幸い、苦しいなんて事はなかった。  五感は、そのほとんどが鉄になっている。            ――――どんなに頑張っても。      意識が、保てなくなってきた。            ――――行こう。      最後の、一仕事だ。    左腕を解放する。  意識が消えかけてきた。      ……最後の投影。  俺が知り得る中で最強の剣を以って、大聖杯ごと、この呪いを破壊する。 「――――――――」  それは絶対の終わりだ。  俺は   「――――、――――、――――」    意識が断線する。  たった百メートルが、永遠に到達できない長さになっている。 「――――、――――、――――」    大空洞の崩壊は、時間の問題だった。  天蓋はところどころが崩れ、荒野のようだった地上は、瓦礫の山になりつつある。 「――――、――――、――――」    関節が硬い。  手足を曲げると痛い。  気を抜くと呼吸をしていないので、喉にナイフを突き立てるぐらいの覚悟で、ようやく数回だけ呼吸ができた。  そんな思いまでして息を吸うのは、酸素をとりこまないと人間は動けないからだ。  だが、もしかすると、酸素なんてなくても今の自分は動けるし、酸素をいっぱいとったところで、もうじき動けなくな 「――――、――――、――――」    ……熱い。  体の中から、数百の刃が生えてくる。  逃げ様のない串刺し刑。  体は剣で出来ている。  けどそれは、とうに判っていたコトだ。          ――は言った。  投影をすれば最後、時限爆弾のスイッチが入ると。  だから、この終わりはもう決められていた事だ。 「――――、――――、――――」    ……足が重い。  ……自分が何をしているのか判らない。  痛みと疲労と空虚で心臓が破裂しそうだ。  でもあともう少し。  アイツを消せば全てが終わる。  邪魔をするヤツはいない。  もう誰も邪魔をするヤツはいない。            ――――だと言うのに。 「は――――――、あ――――」    影が揺らめく。  大聖杯と呼ばれるクレーターの前。  赤黒い炎に照らされて、――が立っている。   「――――言峰、綺礼」 「ああ。お互い、かろうじて生き延びているようだな、衛宮士郎」    強い意志に満ちた声。  生きているモノのいない世界で、その男は、宿命のように俺の前に立ちはだかった。 「―――何のつもりだ。  今更、おまえの出る幕なんかない」    生きていたのか、などとは訊かない。  あの男は、死に体だ。  魔力の波を感じさせない体。  心臓の位置にある黒い染み。  ……俺と同じ、返された砂時計のように、短い炎。    言峰の心音は聞こえない。  あの男は余命幾ばくもない。  憶測ではなく、これは断定だ。  言峰綺礼は、何をしなくとも、あと数分後に死亡する。 「何をする、などと判りきった事を訊くな。  私の目的はただ一つ、この呪いを誕生させる事のみだ」 「――――何を。おまえにそんな事はできない。そいつはおまえの物になんてならない」 「当然だ。私はこれに干渉する事はできんし、これに干渉する気もない。  だが言った筈だぞ。私は誕生するモノを祝福すると。  コレは今まさに産まれようとしている。ならば、その誕生を阻む外敵から守ってやるのは当然ではないかな」 「……正気か言峰、そんな今にも死にそうな体でなにを言ってやがる。仮に、おまえの望み通りソレを外に出したところで、おまえは――――」 「それはおまえも同じだろう。正気などとうにない。目的を果たしたところで、我々の末路は同じだ。  おまえはコレを滅ぼし、私はコレを守る。  だが、どちらが目的を果たそうと、結果を得る者はいない。それを承知でおまえはここまで来た。  ―――無意味な争いだ。そんなものをする時点で、私もおまえも正気ではないだろう」 「――――――――」    ……言峰は退かない。  あいつはあの場から退かず、ヤツがいる限り、俺は最後の投影を試みる事さえできない。    投影には時間を要する。  そんな隙を見せれば、セイバーの剣を作る前に頭蓋を砕かれている。 「……なんでだよ。なんでそこまでソイツを守る。  ソイツが出て来たところで、アンタに返るものなんてないんだろう。なのに、どうして」    死の淵においてまで。  人間の敵である“この世全ての悪”なんていうモノを容認するのか。 「何故も何もない。私にとっては、これが唯一の娯楽だからだ。  ――――衛宮士郎。  おまえが他人の幸福に至福を感じるように。  私は、他人の不幸に至福を感じるだけだ」 「――――」 「そもそも何故殺す。生まれる前から悪と決めつけるのは傲慢ではないか。孵りたがっている命ならば、孵化させてやるのが愛ではないのか」 「何が愛だ、屁理屈言うな。アレはもう多くの人間を殺してきた。このまま外に出す事はできない」 「ほう。では訊こう。おまえの言う善悪とはなんだ。人を殺す事が絶対の悪だと、おまえはそう言うのか?」 「……それ、は」    ……そんなもの、答えられる筈がない。  今の俺には善悪がない。  桜を救うと決めた時点で、俺には、衛宮士郎が信じていた正義はなくなってしまった。 「―――それでいい。もとより答えなどない。人間とはそういうものだ。明確な答えなどなく、変動する真実を良しとする。我々には、初めから真実となる事柄なぞない。  人間は善悪を同時に兼ね備え、その属性を分けるのはあくまで自身の選択による。始まりはゼロであり、生まれ出る事に罪はないと、おまえには教えた筈だが」 「―――ああ。たとえそれが悪であろうと、赤ん坊に、罪はない、と」 「そうだ。人間は生まれ、学習によって善か悪か、そのどちらかに偏るモノだ。  とある聖典にはこうある。人間は天使より優れた存在だと。何故か。それは悪を知りながらも、悪に走らぬ者がいるからだと。  生まれながら善しか知らぬ天使とは違う。  人間とは、悪を持ちながら善と生きられる存在故に、善しか知らぬ天使より優れたモノだと」 「――――然り。  吐き気を催すような悪人が、戯れに見せる善意がある。  多くの人間を救った聖人が、気紛れに犯す悪意がある。  この矛盾。両立する善意と悪意こそが、人を人たらしめる聖杯だ。  生きるという事が罪であり、生きているからこその罰がある。生あってこその善であり、生あってこその悪だ。  故に――――」 「――――生まれ出でぬモノに罪科は問えぬ。  何者にも望まれぬモノ、生まれながらに悪であるモノなどない。  アレは誕生するその瞬間まで、罰を受ける謂れはない」    それが、言峰という名の神父の答えだった。  あの男は本当に―――そんな理由で、人間が望みあげてしまった“全ての悪”を赦そうとしている―――。 「―――だからって許すのか。コイツは初めから殺す為だけのモノだ。外に出る事で多くの人間が死ぬと判っているのなら、それは、俺たちにとって紛れもない悪だろう……!」 「そうだ。これは存在自体が悪だ。なにしろそのように創られた。初めから悪であるようにと生まれたのだ。  人間とは違う。これは悪しか持たぬ、人々が創り上げた純粋な単一神だ。  だが―――その行為が悪だとしても、アレ本人がそれをどう思うかはまだ判るまい」 「え……?」    本人……“〈この世全ての悪〉《アンリマユ》”が、自分をどう思うか、だって……? 「そうだ。 “この世全ての悪”本人が自らの行動を“悪し”と嘆くか、“善し”と笑うか。それは我々の量るところではない。  もしアレに人に近い意思があり、自らの存在を嘆くのであれば、それは悪だろう。  だが自らの存在に何の疑問も持たなければ、アレは善だ。なにしろそのように望まれたモノ。自らの機能に疑いを持たぬのであれば、それが悪である筈がない」 「な――――」 「そう。  生まれながらにして持ち得ぬもの。  初めからこの世に望まれなかったもの。  それが誕生する意味、価値のないモノが存在する価値を、アレは見せてくれるだろう」 「何もかも無くし何もかも壊したあと、ただ一人残ったモノが、果たして自身を許せるのか。  私はそれが知りたい。  外界との隔たりをもったモノが、〈孤独〉《ありのまま》に生き続ける事に罪科があるのかどうか、その是非を問う。  その為におまえの父を殺し、その為に間桐桜を生かした。私では答えは出せない。故に、答えを出せるモノの誕生を願った」         「―――それが私の目的だ衛宮士郎。  自身に還る望みを持たぬおまえと対極に位置する、同質の願望だ」 「―――――――」    ……俺には理解できない。  この男の望み、求めたものは俺には遠すぎる。  ……だから、判るのは一つだけだ。  こいつは――――そんな事の為に、桜を。 「桜を。そんな事のために、桜を利用したのか」    おぼろがかった視界を振り絞って、満身の敵意を込めて神父を睨む。  ヤツは。   「そうだな。そんな事の為に、私は多くのモノを殺してきた。故に今更降りる事などできん。  言っただろう。私はそのように生きてきた。  その疑問を解く為だけにここにあった。  それは、死を前にして変わるものでもない」    僅かにも目を逸らさず、死に行く体で断言した。 「――――――――」    堂々としたその言葉。  自分には後悔も間違いもないと、当然のように語る姿。 「………………ああ、そうか」    それで、分かった。  あの男とは相容れない。初めて会った時から認めるものかと反発していた。  ……その正体が、分かってしまった。    認めたくないが。  どうも俺は、言峰綺礼という男が好きだったらしい。  それを否定する為に、最後まで気付かないままでいる為に、必死にヤツを敵視した。    ヤツは俺に、自分たちは似ていると言った。  今なら解る。  共に自身を罪人と思い。  その〈枷〉《かせ》を振り払う為に、一つの生き方を貫き続けた。    ―――その方法では振り払えないと判っていながら、それこそが正しい〈贖〉《あがな》いだと信じて、与えられない救いを求め続けた。 「―――――退かないよな、そりゃ」    同じなら、退くはずがない。  ヤツは死に行く体だから、最後に望みを叶えようとしているんじゃない。    ……そう。最後だからこそ誓いを守る、ではない。    あいつはそういう風に生きてきた。  今までそれ以外の道を歩かなかった。  だから、一分後に自分が死ぬとしても―――それ以外の、本当に正しい生き方を知らないだけ。 「……ふん。それにな、告白すれば感傷でもある。  以前からよもや、とは思っていたが、事ここに至ってようやく気が付いた」    踏み出してくる。  俺もあいつも動ける時間は残り少ない。    だから、決着は迅速に。  自分の炎が尽きる前に、相手の炎を根絶やしにする。 「――――私は、おまえたちを羨んでいる。  求めても得られなかったもの。手に入れたというのに手に入らなかったもの。どのような戒律をもってしても、指の隙間から零れ落ちた無数の〈澱〉《おり》」            “おまえたちが幸福と感じるものが――――”   「その鬱積を、ここで帳消しにするのみだ」            “――――私には、幸福と感じられなかった”  ……ああ。何をしても得られなかったこの男こそが、空っぽだ。    求めて求めて、何一つ幸福を得られなかった。  そうして得たものは死を運ぶという生き方のみ。  なら―――その、たった一つだけ在った〈生き方〉《モノ》を、どうしてここで〈放棄〉《すて》る事が出来るだろう。   「―――そうか。無駄な時間を使わせたな、言峰」    忘れていた呼吸を再開する。  肺に空気を送り込み、体を戦闘用に切り替える。   「構わん。時間がないのはお互いさまだ」    言峰の〈筋肉〉《からだ》に力が篭る。  魔術戦になどなる訳がない。  俺たちは互いに死に体。  出来る事などこの拳を相手に叩きつける事だけ。  残されたものは技術も駆け引きもない、残った命を潰しあう殴り合いだ。        ヤツは俺を殺し、その望みを叶え。  俺はヤツを倒し、その望みを破壊する。    賭けるものは互いの命。  その刻限がくる前にヤツを倒し、あの影を消去する。  地を蹴り、一直線に“敵”は敵を討ちに迫る。 「、は――――」  こっちにはそれだけの足がない。  腰を落とし、正面から襲いくる敵の胸元を見据え、   「、あああああああ――――!」    躱しようのないタイミングで、渾身の一撃を見舞わせる……!    だが、突き出した右拳は宙を切り、衝撃を受けたのはこちらの胸元。 「ぐ、っ――――!?」    言峰の姿がない。  あの速度。あの勢いで襲撃した敵は、一瞬で視界から消え去り、  長身を折り畳むよう俺の左横に屈み、拳で腹を殴りつけ、  迸る稲妻めいた左右の脚で、俺の体を容赦なく蹴り上げた。 「は――――ず…………!」  火を吐くような左右の蹴り上げ。  傷つけられた痛みで意識がトブなど、ここ数時間忘れていた。 「ぎ、っ――――」    何メートル突き上げられたのか。  胴から首を引っこ抜かれてもおかしくない衝撃。  いや、それを言うなら腹を叩いた二撃目ですら、内臓を破壊する威力があった。 「お、まえ――――」  知ってる。  初動作のない最短の軌跡。円でありながら線、外部はもとより内部へのダメージを考慮したそれは、   「神父のクセに、中国拳法、なんて」    それも〈秘門〉《ごくじょう》。  今のは、見様見真似で出来る動きじゃない……! 「そうでもない。私のコレは真似事だ。師の〈套路〉《とうろ》を真似ただけの、内に何も宿らぬ物だが―――死に損ないの相手には十分のようだ」 「っ…………!」  追撃が来る。  固まった関節を力ずくで曲げ、体を起こす。 「…………?」  が、言峰は動きを止めたまま、自らの拳を見ていた。  その手は真紅に染まっている。   「厄介な体だな。打つ方が命がけとは」    それは、  刃の塊を素手で砕こうとした代償だった。 「は――――あ」    ……飛びそうな意識をかき集めて敵に向き合う。  そんなものは関係ない。  あいつは、たとえ相手が死の棘だろうと手を止める事はしない。   「だがいい〈条件〉《ハンデ》だ。  つまるところ、私とおまえの戦いは」 「っ――――」  言峰の〈腰〉《からだ》が沈む。  鍛えぬかれた肉体が、一秒後の爆発に備えている。   「外敵との戦いではなく、自身を賭ける戦いという事だ ――――!」    ――――敵が迫る。    格闘技術において、言峰は俺を遥かに上回っている。  ヤツの拳は砕けまい。  このままでいけば、砂時計が空っぽになる前に〈砂時計〉《うつわ》ごと破壊される。 「は――――」    目を背けず、火花じみた速度で迫る敵を迎え入れる。  やるべき事は唯一つ。  前回より迅く、躱されてもより迅く、この拳を打ち込むだけだ。    ――――〈耳朶〉《じだ》に響くものは己の心音のみ。    止まない落盤の音も、雨のように降り注ぐ土塊も目に入らない。    倒すべきモノは目の前にいる。  何百年と続いた妄執、一つの世界の崩壊に関心はない。    衛宮士郎にとって。  この“敵”に打ち克つ事だけが、残された最後の意味だった。 「――――、――――、――――」    意識が断線する。 「――――、――――、――――」    大空洞の崩壊は、時間の問題だった。  天蓋はところどころが崩れ、荒野のようだった地上は、瓦礫の山になりつつある。 「――――、――――、――――」    関節が硬い。  手足を曲げると痛い。  神経が熱い。  体の中から、数百の刃が生えてくる。  逃げ様のない串刺し刑。  体は剣で出来ている。  それは判っていたコトだ。  投影をすれば最後、時限爆弾のスイッチが入る。  この終わりは、とうに決められていた事だ。 「――――は、あ――――!」    割れる。  これ以上は割れる。  バラバラに砕けて、そこらへんに転がっている石くれと同じになる。  ……けど、まだ間に合う。  この体は手遅れだけど、ここで止めておけば一日ぐらいは意味を失わずに済む。  一日だけの延命。  そんな、たいして意味のないようなコトが、今は恐ろしいほど恋しい。  たった一日。一時間でも一分でもいい。  生きていられるのなら、どんなにみっともなくても、限界までここにいたい。 「は、ずっ――――…………!」    亀裂が入った。  外ではなく内、大脳の側座核が割れた。  行動原理、即ち快楽の連動を司るところ。 “生きる”コトに一番重要な部分。生とは快楽の追求であり、それがない人間は獣と同じ。 「はっ、あ」    都合がいい、なんて事はなかった。  それでも恋しい。  自分が自分のままでいる事に、指を食うほど執着している。  それでも割れていく。  右手の指を食べる痛みも、記憶の消失を止められない。  一歩進む度に俺は消える。  このままじゃ無理だ。  自分が誰か、何をするかを、きっと無くしてしまっている。    だから、今は立ち止まって、助けを待―――― 「――――ああ、覚えている」    でも、何か。  大きな理由が、体の外にあって。   「桜――――花を見に行こう」    おまえは、おまえの役目を、果たさないと。    ――――時間が止まっている。    痛みはない。  たった一歩に、一日をかけている。    ――――呼吸の仕方を忘れた。    痛みはない。  たった一息の空気が、一日かけても吸えずにいる。    ――――意味を失った。    痛みとは、なんだったか。  有機が無機に切り替わった。  踏み止まった。  落下していく中、手を伸ばして壁を掴んだ。  とても小さい。爪の先ほどの足場に、全存在を留まらせる。    保つ筈がない。    足場は、崩れて    行動原理が〈喪〉《な》い。  行動理由が〈喪〉《な》い。  存在意義が〈喪〉《な》い。  恐ろしいと感じない。    何の為に誰の為に存在しているのか消失した。            もう、とっくに生きていない。  如何なる理由の元にも、その腕が動く事はない。   「――――〈投影〉《トレース》、」    言葉が出た。  言語野はおろか新皮質全般、他三部を含む大脳まで消失しておいて、まだ、残ったものがあった。   「――――〈開始〉《オン》」    肉体は死んだ。    だが、ここに、魂が残されている。  八節を紡ぐ。  負荷は肉体から魂におよび、更に、意味が   「――――――――、あ」    そうして衛宮士郎は死んだ。  立ち尽くすカタチは一つの機械と変わらない。  作り上げた剣を振り上げる機能はあっても、動かす意思がなければ残骸と変わらない。          だが、人工の知能がなくとも。  この世には沢山の、夢を〈織〉《お》る機械がある。            約束があった。  いつか冬が過ぎて、春になったら――――            もう意味さえ解らない文字の羅列。  最後まで覚えていた、果たされるべき、小さな希望。    ――――良くはない。    使えば、絶対に戻れない。  このままでも自分が消えるのは判っている。  それでも―――命がある限り、まだ他に方法を探さなくては。    約束をした。全ての事から桜を守ると。  俺は勝手に消えていい命じゃない。    桜を―――桜と一緒に、生きていきたい。    だから、まだ――――           「――――とう、え――――」    ……だが、他に方法はない。  桜の罪。桜に幸福が許される絶対条件が、この呪いの破壊にある。    ……意識も、もう砂粒ほどしかない。    桜、俺は――――   「――――投影、開始」    おまえとの、約束を――――   「―――――――――――」    手に剣を。  ―は―――もしない―――体で、最後の、            ――――ううん、シロウは死なないよ。      だって、この門を閉じるのはわたしだから。   「――――――――――――」    それは。  もう名前も思い出せない、誰かの声。 「――――――――、―――?」    思い出せないのに、名前を呼んだ。  呼ばなければいけないと思った。    ―――そうしなければ、―――は、二度と帰ってこないと。            ――――ね。  シロウは、生きたい? どんな命になっても、どんなカタチになっても、シロウはまだ生きていたい? 「――――――――、―――」    生きたい。名前を。名前を呼んで、止めさせないと。  でも生きたい。そう頷いたら―――が消えてしまうと判っているのに、名前を、生きたいと、心の底から、生きたいと願っていた。            ――――うん。  良かった、わたしもそうしたかった。わたしよりシロウに、これからを生きてほしかったから。 「――――――――、――――――」    何を言ってるんだ、ばか。  いいから戻れ。それ以上進んだら帰って来れない。  そいつは、俺が連れて行くから、くそっ、名前、名前を思い出さないといけないのに、頭がバカになっちまって、たいせつな、名前が。            ――――じゃあ奇跡を見せてあげる。  前に見せた〈魔術〉《とおみ》の応用だけど、今度のはすごいんだよ。  なんていったって、みんなが見たがってた魔法なんだから。 「――――、――――ヤ」    いい。そんなの見なくていい。いいから戻ってきてくれ。  俺は、            ――――けど〈体〉《うつわ》だけは安物かな。  使えるのはわたしの体しかないから、完全に再現はできないの。けどだいじょうぶ。リンといっしょに試行錯誤すれば、すぐに元通りにしてもらえるわ。 「――――――――、――ヤ……!」    真ん中に進んでいく。  白い装束の誰かは、初めの儀式のように、起動のための〈生贄〉《かぎ》になって、大聖杯を閉ざしていく。            ―――じゃあね。     わたしとシロウは血が繋がっていないけど。     シロウと兄妹で、本当に良かった。 「――――――――」    ―リヤ。  行くな、そう思ってくれるなら行かないでくれ。  犠牲にできない。一緒に暮らすって言った。今まで一人にした分、一緒に暮らすって言っただろう。    それでも――――それでも、どちらかが犠牲になるというのなら、それは――――            ―――ううん。  言ったよね、兄貴は妹を守るもんなんだって。  ……ええ。わたしはお姉ちゃんだもん。なら、弟を守らなくっちゃ。 「イ――――――リヤ」    思い出した。  彼女の名前。  切嗣の本当の血縁。俺が横取りして、ずっと一人にさせてしまった幼い少女。    俺より少しだけ年上の、銀の髪と赤い目をした――― 「イリヤ―――イリヤ、イリヤ、イリヤ、イリヤ、イリヤ―――――!!!」    届かない。  もう声は聞こえない。  光に包まれて何も見えない。    彼女は、最後に。            じゃあねと微笑って、パタン、と大聖杯の門を閉めた。                    空が、見える。            ほんの少し、ただ腕を伸ばすだけで、空へ抜ける。            けど、何も残っていない。  この体には、一欠片の〈魔力〉《ちから》も残っていない。            沈んでいく。  彼女が救ってくれた命が、沈んでいく。          悔しくて手を握り締める。  手のひらには冷たい痛み。  それは沈みかけた意識を覚ます――――                 “だいじょうぶ。リンが助けてくれるから”        ――――ああ。  手のひらにはちっぽけな奇跡がある。  ほんの一呼吸分の魔力。  何の役にも立たない、けれど、手を伸ばすぐらいは助けてくれる、小さな小さなペンダント。          手を伸ばす。  柔らかい大気は肌に、温かい陽を受ける。               この手には、果てのない青い空が――――  出迎えはない。  闇に沈む柳洞寺は、蹲る巨人のように大きく、何か異質な力を感じさせる。  上空には風が出ているのか。  耳を澄ますと、ごうごうと強く大気を蹴る音がする。 「……階段の上に力を感じます。境内の裏手にある池に、なんらかの場が作られているようですが」 「いえ、〈柳洞寺〉《そっち》に用はないわ。上で作られてる場は表向きの、ただ聖杯を欲しがるマスター用の門よ。……聖杯戦争の〈大聖杯〉《おおもと》に行こうっていうんなら、上じゃなくて下に行かないとね」  階段から離れ、遠坂は森の中に入っていく。 「……ライダー、大丈夫か? 柳洞寺は結界が張ってあるんだろ。サーヴァントは正門からしか山に入れないって聞いたけど」 「……多少の重圧はありますが、耐えられるレベルです。  それに中に入りさえすれば、この土地はサーヴァントにとって最適な霊脈です。大気に満ちた〈魔力〉《マナ》を吸い上げれば回復は容易い」 「そうか。辛いだろうが、少しの間我慢してくれ」  木々をかきわけて、夜の山を歩いていく。  山には獣道さえなく、ほとんど絶壁じみた岩肌を降りる事さえあった。 「む―――イリヤの話じゃこのあたりなんだけど……士郎、入り口らしきもの、見当たらない?」 「らしきものって、なんだよ」 「岩肌に人が入れそうな亀裂があるとか、あからさまに怪しい社とかよ。一応入り口なんだから、まさか落とし穴ってワケでもないでしょ」 「……無茶言うなあ。星が出てるからって、夜の森で周りが見通せるかって――――」  ……あ。わりと見通せる。  柳洞寺の裏手に出たのか、あたりは冬の枯れ木ばかりだ。  人工物なんて当然なく、あるといったら枯れ木と、チロチロと流れる小川ぐらい。 「……小川?」  待て。  小川って事は、どこからか水が涌いているって事だ。 「……ライダー。あの小川の先、岩が固まってるよな。  真っ暗でよく見えないけど、あれ、もしかして横穴になってないか?」 「―――――。士郎、振り向かないように」  かちゃり、と小さな金属音がする。  ライダーが目の拘束具を外したのだ。 「……ありますね。天然の洞穴ですが、人間が入れない事もない。ここからでは一メートルほどで行き止まっているように見えますが、魔術による偽装が感じられます」 「そっか、助かる。―――遠坂。それらしいもの、あったみたいだ」  声をかけて小川へと降りていく。  ……それは川というより、岩からこぼれる清水の流れにすぎなかった。  流れの源では幾つもの岩が折り重なり、人間一人がようやく入れる程度の隙間がある。  岩で出来たカマクラのようなものだ。  中に入ったところですぐに岩にぶつかると一目で判り、まっとうな人間なら入ろうとすら思わない。 「――――当たり。この岩、簡単にすり抜けるわ」  遠坂は振り返らずに暗い闇へと突入していく。 「先にどうぞ。後は私が守ります」  ライダーに頷いて闇に潜る。  かつん、という音。  水に濡れた地面を手探りで進んでいく。  地面は急激な角度で下へ下へと傾いている。  ……狭く、息苦しい闇の圧迫。  背中をつけて下っていかなければ、すぐさま無限の闇へ転がり落ちていきそうだ。 「………………」  暗闇の中、坂の傾斜に寝そべって、ゆっくりと降下していく。  ……先はどれほど暗く、地下に続いているかは判らない。  自分の息遣いだけが耳に響く。 「士郎。今のうちに訊いておく」  ……と。  先行する遠坂が、唐突に話し掛けてきた。 「いいけど、なんだ」 「宝石剣。なんで作ってくれたの」    それはなんというか、下に降りるだけの作業に飽きて、暇つぶしに口にしたような、そんな素っ気なさだ。 「なんでって、なんでさ」 「―――だから。わたしは桜を殺すって言ってるのよ。  そんなわたしに武器を預けていいのかってコト」 「―――――――」  なるほど、と闇に頷いたりする。  それは、まあ確かに、遠坂の言う通りである。 「よくない。よくないけど、遠坂がいないと桜は助けられない。桜を助けたいんなら、一人より二人の方が確実だろ。  ……それに、剣を投影するのは約束だった。  俺は遠坂との約束を果たせなかった。だから、もう一つの約束だけはキチンと守りたかったんだ」  もう随分前。  セイバーを失った後、俺は遠坂に助力を求めた。  遠坂はそれに応じてくれて、確かに約束したんだ。    遠坂を勝たせる。  聖杯戦争の勝者を遠坂にすると約束した。  ……それはもう守れない。  だから、もう一つの約束だけは守らないと。  あの時。  何も無かった俺を信じてくれた、遠坂凛っていう、好きだった女の子の為に。 「そう。律儀ね、貴方」 「ああ。遠坂ほどじゃないけどな」  闇は静寂に戻る。  会話はそれで終わった。  俺たちは互いの顔も見れず、淡々と奈落へと降りていく。  黄泉に通じるような長い路。  それが螺旋状に穿たれた通路であり、体の感覚で百メートル以上は進んだと判断した時。  暗い洞穴は、一転して俺たちを迎えいれた。  一人一人しか進めなかった路は、通路になってさらに奥へと続いている。  明かりは必要ない。  〈光苔〉《ひかりごけ》の一種か、洞窟はぼんやりとした緑色に照らされている。  通路には生命力が満ち溢れている。  それがあまりにも生々しい。  活気に満ち、生を謳歌しようとする誕生の空気。  それは〈夥〉《おびただ》しいまでの“〈生気〉《オド》”であり、視覚化できるほど垂れ流される〈魔力〉《マナ》である。 「――――――――」  その、あまりの生々しさに吐き気がする。  輝かしいものである生命の温かさが、ここでは目を背けたくなる汚物だった。 「……………………」 「――――――――」  かける言葉はない。  ここは死地だ。  声をかけあうなど、そんな余分な事で緊張を和らげては死に繋がる。 「―――行くわよ。ここからは、自分の命を優先して」    ……通路の奥、黒い空気の源流へと遠坂は進んでいく。  俺とライダーも周囲に気を配りながら足を進める。 「……?」  ふと、地面に赤いモノが見えた。  間違いなく血の跡だ。  血は点々と奥まで続いている。 「――――――――」  俺たちより先に来た者がいるのか。  それもこんな、血の跡を残していくほど傷だらけの人間が……? 「士郎」 「……すまない。すぐ行く」  頭に浮かんだ予想を振り払って先に進む。  俺だって他人の心配をしている余裕はない。 「っ―――――――」  気を抜けば意識が切れる。  余分な事を気に病めば自分が消える。 「………………」  右手に持ったペンダントを強く握る。  痛みで自分を呼び起こして、緑の闇へ踏み出した。  ―――生暖かい風が頬を撫でる。  通路を抜けた先は、大きく開けた空洞だった。  横幅は学校のグラウンドほど。  天井は闇に霞んで見えないが、十メートルほどの高さの筈だ。  生命の気配はない。  昔、何かの図鑑で見た月の荒野に酷似した、忘れられた地下の広間。  そこに、  絶対の殺気を纏って、セイバーが待っていた。  空洞には彼女しかいない。  桜も、臓硯もアサシンも姿がない。  立ち塞がっているのは、黒く変貌した彼女だけだ。 「――――――セイバー」 「――――――――――」  呼びかけても答えはない。  ……当然だ。  セイバーの役割は侵入者の排除に他ならない。  彼女はここの門番であり、処刑人だった。  桜を守る最強のサーヴァントであるセイバーなら、一人きりで俺たち三人の相手が出来る。 「……ふん。話し合いで通してくれる、って雰囲気じゃなさそうね」  姿勢を低くしながら、遠坂は腰の後ろに隠した宝石剣に手を伸ばす。  ―――遠坂は正面から戦る気だ。  あの剣がどんな能力を持っているかは知らないが、セイバーとまともに斬り合うハラらしい。  だが、それは上手くない。  手の内が判っているセイバーなら、こっちにも対抗策がある。まだ臓硯とアサシンが控えている状況で、唯一“秘密”である宝石剣を使うのは―――― 「遠坂待て……! セイバーは――――」 「凛。私には貴方と争う理由はない。くれぐれも間違いで私に剣を向けないように。―――貴方をここで殺してしまっては、桜の命令に背いてしまう」 「……!」  セイバーは静かな、以前と同じ声で、戦おうとする遠坂を諌める。  それが何を意味するのか、俺も遠坂も、訊くまでもなく分かってしまった。 「……どういうつもり? 貴方はここの門番よね、セイバー」 「はい。相手が何者であれ、ここを通る者は消去する。  それが桜の命令です。ですが―――」 「わたしは例外。桜の方から会いたがってるってワケ?」  セイバーは無言で頷く。 「……そう。本気なんだ、桜」    短い呟き。  ……大きく息を吸った後、遠坂はセイバーへと歩きだした。 「遠坂」 「悪いわね。そういう訳だから、先に行かせてもらうわ」  遠坂は堂々と歩を進め、セイバーの横を通りすぎていく。  その姿が洞窟の闇に溶け込む寸前。 「士郎。アンタがどうなるかは知らないけど、わたしは信頼してるんだから。ちゃんと期待に応えてよね」 「は?」  ……いや。  この局面で目的語抜きで文句を言われても、うまく頭が働かないのだが。 「だ、だから、ケリがついた後に来られて文句言われるのも迷惑だってコト! ……その、桜を助けたいっていうんなら、あんまり遅くならないようにね」  長い髪をなびかせて、振り返らずに遠坂は奥へと消えていった。 「――――――――」    ……サンキュ、遠坂。  今のは気合が入った。  要するにあいつは、自分が桜を止めておけるうちに来いと、遠まわしに応援してくれたのだ。 「それは不可能です。貴方はここで死ぬのですから、シロウ」 「……!」  セイバーの殺気が膨れ上がる。  遠坂が奥に進み、残されたのは俺とライダーだけだ。  この状況なら―――もう殺気を抑える必要はないという事か。 「殺す、とは聞き捨てなりませんね。貴方が手にかけるのはこの道を通る者のみ。彼がこの場に留まるのなら、貴方に襲われる事はない筈ですが」 「留まるのならばそうしよう。  だが、その男はどうあっても先に進む。私には勝てないと理解していながら、先に進むしかない。  違いますか、ライダー」 「そう。先に仕えていたのは貴女だったわねセイバー。  彼の性格、知っていて当然ということ」  ……セイバーの視線が細まる。  その手には黒く染まった聖剣が握られている。  ―――来る。  俺かライダー。  どちらかが一歩でも踏み込めば、セイバーは全力を以って、一撃で俺たちを仕留めにかかるだろう。 「………セイバー。どうあっても退かないんだな」 「くどい。それが私の役割と言った」  左腕の聖骸布を握り締める。  ……セイバーには、何の戸惑いもない。  俺たちはとうに敵同士だ。  それはあの森で認識しあった、〈覆〉《くつがえ》りようの無い事実。  それを、   「―――そうか。なら、ここでおまえを消滅させる」    はっきりと、呑み込まなくてはいけない。 「――――」 「俺は桜を助ける。その為に、おまえは邪魔だ」  敵はセイバーだけじゃない。  まだ元凶である臓硯とアサシンが残っている。  これ以上、ここで時間を食うわけにはいかない。 「士郎、貴方は後ろに。指示通り、セイバーの相手は私がします」  魔眼の拘束を解き、ライダーは片手で俺を後ろに下げた。  セイバーの剣が上がる。    ―――切っ先から立ち上る剣気は、既にライダーを捉えている――― 「馬鹿言うな。二人がかりでやるって言っただろう。ライダーじゃセイバーには」 「倒せないまでも押し留める事はできる。幸い、セイバーは魔眼除けの特性を持っていません。  魔力で上回る彼女を石化する事はできませんが、重圧をかける事はできる。全力でかかれば、二分は拮抗できるでしょう」  ライダーの眼がセイバーを捕らえる。  見た者を石にする魔眼は、一時的にセイバーの能力を減少させる。 「状況は私が作ります。貴方は動かず、機を逃さぬよう気を配りなさい」 「ライダー」 「――――では。私の命は貴方に預けます、士郎」  ライダーの姿が掻き消える。  高速の脚を以って、黒い騎兵が剣士へと疾走する。    人間の動体視力では捉えられぬ〈神速〉《ライダー》の一撃。  それを事も無げにセイバーは弾き返す。   「―――いいだろう。まずは貴方が消えろ、ライダー」    強大な重圧が空洞に充満する。  口はしに冷酷な笑みを浮かべ、悠然と、黒い剣士は動き出した。    視界が広がる。  暗い闇を抜けた時、少女―――遠坂凛は、ここが地の底である事を忘れてしまった。    果てのない天蓋と、黒い太陽。  広大な空間は洞窟などではなく、荒涼とした大地そのものだ。  直径にして優に二キロ。いや三キロはあるだろう。  遥か遠方には壁のごとき一枚岩。  ……それがこの戦いの始まりにして終着点。  あの崖を登れば、視界に広がるのは巨大なクレーターの筈だ。  そこに、二百年間稼動し続けたシステムが存在する。    大聖杯と呼ばれる巨大な魔法陣を腹に収めた巨岩は、すり鉢状の内部より黒い柱を燃え上がらせている。    どくん、どくん、と胎動する黒い影。  荒野を照らす明かりは、その“何か”から漏れている魔力の波だ。  ……遠坂の文献に曰く、始まりの祭壇はこう呼ばれている。    〈最中〉《さなか》にいたる中心。  円冠回廊、心臓世界テンノサカズキ。    いまや計測不能なまでの魔力を孕んだソレは、その異名に恥じない“異界”を創り上げている。   「アレがアンリマユ……この世全ての悪っていうのは伊達じゃないってコトね――――」    軽口を叩いて凛は祭壇へと歩いていく。  ……残してきた士郎たちは気にかかるが、自分の状況も楽観できたものではない。  大聖杯に満ちた魔力は、もう人間がどうこうできる次元の話ではなかった。    アレは、もう『無尽』とさえ呼べる魔力の渦だ。  世界中の魔術師がここに集まって、好き勝手魔力をくみ上げようと尽きない貯蔵量。  人間が一生を以ってしても使い切れない魔力は、たとえ限度があろうとも、無尽と称しても間違いではない。   「……不可能はない、か。確かにアレは、あらゆる願いを可能にする聖杯だ」    手足を痺れさせる死の予感、圧倒的なまでの戦力差を見せつけられて心が折れそうになる。  それを軽口で冷却しながら、遠坂凛は歩いていく。    ―――彼女が警戒しているのは、目下のところ間桐臓硯とアサシンである。  彼女の中では、間桐桜は“注意すべき”相手にはなっていない。  自分を見失っているだけの間桐桜に、凛は脅威を感じていない。  所詮、桜は臓硯の操り人形である。  彼女にとって最大の敵とは間桐臓硯に他ならない。  間桐桜との対決など、その後に来る事後処理としか考えていない。   「…………おかしい。これじゃ祭壇に着いちゃうんだけど、わたし」    あの臓硯が、異物の侵入をここまで許す筈がない。  仕掛けるのなら祭壇に向かう途中だ。  それが未だ見られず、凛は祭壇に到着しつつある。   「――――――――」    考える。  臓硯による妨害がない理由、臓硯とアサシンの気配がまるで感じられない状況。  それらを踏まえて、凛はある推測を立ててしまった。  そんな事はない、と否定しながらも、それを容易く認めてしまった。  否、認めざるを得なかった。    何故なら、既に。             「―――嬉しいわ姉さん。逃げずに来てくれたんですね」    その推測は、疑いようのない事実となっていたからだ。            頭上を見上げる。  高い崖の上。  黒い太陽を背にして、間桐桜は〈己〉《おの》が姉を歓迎した。   「――――――――っ」    その重圧、変貌に圧倒され、凛は僅かに後退する。  ……少女の変貌は、凛の予想を上回っていた。  アンリマユとは実体を持たないサーヴァント。  人間の空想がカタチどり、人の願いをもって受肉する“影”にすぎない。  故に、その力は影を生み出す〈寄り代〉《マスター》に委ねられる。    間桐桜は、いまやアンリマユそのものだった。 “この世全ての悪”という呪い、それを外界に流出させ、指向性を持たせる「機能」が、間桐桜という少女なのである。   「……まいった。綺礼がいたら、神の代行者とか言うんだろうな……」    無尽蔵の魔力と化した桜を見上げ、凛は宝石剣を解放する。    ―――だが、頭上の少女は、それで太刀打ちできる〈存在〉《モノ》なのか。    魔術をサポートする武装、儀式を補助する礼装は、大きく二系統ある。    一つは増幅機能。  魔術師の魔力を増幅、補充し、魔術師本人が行う魔術そのものを強化する〈予備燃料〉《バックアップ》。  これはオーソドックスな補助礼装とされ、魔術師ならば一つは保有する魔術品だ。凛の宝石もこの系統に属する。    もう一つは限定機能。  武装そのものが一つの“魔術”となる、特殊な魔術品である。  これらは魔術師の魔力を動力源として起動し、定められた“神秘”を実行する。  最大の利点は、魔力さえ流せば使用者が再現できない魔術であろうと実行できる、という事。    応用は利かず、単一の用途しか持たないが、それ故に込められた魔術は絶大だ。  使えば必ず心臓を貫く槍、  聖獣を使役する手綱、  あらゆる魔術効果を〈初期化〉《キャンセル》する短刀。  サーヴァントの持つ宝具も、大部分はこの系統に属する。   「――――――――」    では、凛の持つ宝石剣はどちらなのか。  所有者に魔力を与える補助武装か、  特異な能力によって敵を倒す限定武装か。    ……しかし。  そのどちらであろうと、今の間桐桜に通用する武装があるとは思えない。    〈魔力〉《ちから》の差は圧倒的だ。  どのような魔術であれ、それは、間桐桜の一息で吹き飛ばされてしまうだろう――――   「どうしました姉さん、そんなに怯えて。……ふふ、いまさら臆病風に吹かれた、なんて言わないでくださいね」 「……言うじゃない。そういうアンタこそ、いつも傍にいる保護者はどうしたのよ。弱虫なんだから、すぐ近くにいてもらわないと困るんじゃない?」 「――――――――」    ……空気が凍る。  生暖かい生気に満たされた〈大空洞〉《ようすい》に、昏い殺気が混ざっていく。   「――――――――」  黒い少女は僅かに唇を噛み、小さく息を吐いて、   「お爺さまならもういません。邪魔でしたから、アサシンと一緒に潰したんです」    クスリと、優雅な微笑みを浮かべた。   「………………」    問うまでもない。  間桐臓硯は、間桐桜に殺された。  ……姿を見せないのも当然だ。  あの老魔術師は、最後の最後で飼い犬に食い殺されてしまったのだから。   「なるほど、完全に自由になった訳ね。良くも悪くも、臓硯は今までアンタを縛っていた支配者だった。  その〈臓硯〉《よくあつ》を自分の手で始末して、もう怖いものはないってワケ」 「いいえ。それがまだなんですよ、姉さん。  お爺さまを消したぐらいじゃダメなんです。こんなに強くなって、何だってできるようになったのに、わたしはまだ囚われている」   「……もう。もう姉さんなんて取るに足りない存在なのに、姉さんはわたしの中から消えてくれない。姉さんはわたしの中で、今も懲りずにわたしを苛め続けている。  だから――――貴女がいるかぎり、わたしは自由になんてなれません」    少女の声は歌うように軽やかであり、粘りつくように重い。  その矛盾は、少女が正気ではない証だった。  大空洞に満ちた殺気は、その実、優越と畏怖が混ざった狂想である。   「……ふうん。そのわりにはご機嫌じゃない。臓硯を殺してアサシンも殺して、その分じゃ綺礼もアンタに殺されたと見るべきね。  あれだけ嫌がってたのに大した手際だわ。人殺しにはもう慣れたの?」   「ええ。だって、人を潰すのも呑み込むのも変わらないもの。  人間は〈潰して〉《あそんで》いないと毎日がつまらなくて意味がないし、飲まないと渇いて苦しいでしょう?  ほら、だから同じ。姉さんと変わらない。わたしは当たり前のように、みんながしているコトをするだけです」   「―――ちょっと。今の屁理屈、本気で言ってる?」 「屁理屈なんかじゃありません。わたしは間違ってない。  違ったのは強くなったからです。強くなったから、今までとは在り方が変わってしまっただけ」   「わたしは――――わたしは強くなりました。強くなれば、何をしても許されるんじゃないんですか。  ……そう。強くなれば、誰にも負けなければ、今までの事だって許される。わたしがわたしじゃなくなれば、今までしてきたコトも全部当たり前の、仕方のないコトだって言える筈です……!」    怒りに満ちた絶叫。  それは、そう信じるコトでしか逃げ場のない、泣きじゃくる子供の訴えだった。   「わかりましたか姉さん。わたしはそういうモノになるんです。だから誰だって殺せます。そんなの、わたしにとっては当たり前の事なんだから」 「……そ。で、目に付くものなら片っ端から八つ当たりするワケか。けど士郎はどうなの。あいつは今でもアンタを助けられると信じてる。それでも関係なく、アンタはあいつをやっちゃう気?」   「っ――――」    少女の貌が引きつる。  凛の問いかけは、少女にとって最後の関だった。  ……姉を前にして昂ぶっていた気持ちが治まっていく。  少女は、もう間近にまでやってきてくれた少年を想って、手放しかけた心を取り戻す。    そうして、穏やかな笑みを浮かべ、   「はい。それは先輩だって例外じゃないわ。  ううん―――わたしが殺してしまいたいのはあの人だけなんです、姉さん。  ……ええ。わたし、早く――――」               ――――先輩も、呑み込んでしまいたい。   「――――――――」  間桐桜の答えは、もう何もかも手遅れだった。  凛は宝石剣を握り、頭上の“敵”までの距離を測る。   「……ふん。何がアンリマユと刺し違える、よ。  バカな娘だと思ってたけど、ここまでバカとは思わなかったわ。完全に取り込まれて、とっくに〈人間辞めてた〉《・・・・・・》のね」    明確な殺気に満ちた声。  遠坂凛はこの地を預かる管理者として、実の妹を“魔”と認定した。   「――――フ。強がりですね、素直になってください姉さん。  こんな強い力を見せられて、本当は羨ましがってるんでしょう? 嫉妬してるんでしょう? だからわざわざ、敵わないって知りながらわたしを殺しに来たんです。  ……そう。この子をわたしから取り上げて、また自分だけで幸せになる気なんだ」    影が浮き立つ。  以前とは比べ物にならない魔力の塊、サーヴァントの宝具に匹敵する“吸収の魔力”。  それは一つだけに留まらず、次々と鎌首をもたげていく。   「渡さない。これはわたしの力です。姉さんにあげるものは、後悔と絶望だけ。  それを――――ゆっくりと教えてあげます」    湧き上がる影は四身。  それは少女を守護する巨人のように、眼下のちっぽけな人間へと手を伸ばす。   「――――力の差を見せてあげますね、姉さん。  今度は誰も助けに来ない。湖に落ちた虫みたいに、〈天の杯〉《このわたし》に溺れなさい」    影の巨人が迫る。  防ぐ事も躱す事もできぬ絶大な力が、遠坂凛を呑み込んだ。  黒い波が迫る。  遠坂凛というちっぽけな獲物を逃がすまいと両手を広げ、高波となって襲いかかる。   「Es läßt〈 〉《解》〈f〉《放》〈r〉《、》ei.Wer〈k〉《斬》〈z〉《撃》eug―――!」    だが、黄金の一閃が巨人の存在を許さない。  既に六体。  際限なく涌き上がってくる黒身の呪いを、凛は一刀の下に両断していた。 「な――――」  驚きは影の主たる、間桐桜のものだ。  少女が目を見張るのも当然である。  黒身の巨人は、その一体一体がサーヴァントの持つ宝具に匹敵する。  巨人は遠坂凛にとって、一体だけであろうと逃れられない死の化身なのだ。  それを、既に六体。  しかも悉く一撃で消滅させ、遠坂凛は苦もなく崖を駆け上がりながら、    七体目の影を、短剣の一振りでかき消していた。 「そんな筈――――  E〈s〉《声》〈 〉《は》〈e〉《遠》〈r〉《く》〈z〉《に》ählt―――M〈e〉《私》〈i〉《の》〈n〉《足》〈 〉《は》Schat〈t〉《緑》〈e〉《を》〈n〉《覆》〈 〉《う》nimmt Sie!」   「しつこい……! Gebühr,zwe〈i〉《次》〈h〉《、》ä〈n〉《接》〈d〉《続》er…………!」  宝石の剣が光を放つ。  無色だった刀身は七色に輝き、その中心から桁外れの魔力を提供し、   「Es läßt〈 〉《解》〈f〉《放》〈r〉《、》ei.Eil〈e〉《一》〈s〉《斉》〈a〉《射》〈l〉《撃》ve――――!」    大空洞を、眩いばかりの黄金で照らし上げる……! 「ふっ――――!」  侵入を拒んでいた影たちを一掃し、遠坂凛は崖を登りきった。  目前には間桐桜。  黒い少女は愕然と、ここまで駆け上がってきた姉を凝視する。 「うそ――――そんな、はず」  ……少女の呟きと共に、無数の影が立ち上がる。  その数は先ほどの比ではない。  間桐桜の焦りか、それとも、彼女の背後に浮かぶモノが、主の危機を感じ取ったのか。  遠坂凛という、取るに足らない人間一人に対して繰り出された魔力は、数値にして一億を超えていた。 「―――また大盤振舞ね。協会の人間がいたら卒倒するわよ。それだけの貯蔵量があれば、むこう百年は一部門を永続できるってね」 「―――それを斬り伏せる姉さんはなんですか。わたしが引き出せる魔力は、姉さんの何千倍です。姉さんには一人だって、〈影〉《わたし》を消す魔力なんてないのに、どうして」 「どうしても何も、純粋な力勝負をしてるだけよ。  わたしは呪いの解呪なんてできない。単に、影を創り上げている貴女の魔力を、わたしの魔力で打ち消しているだけ。そんなの見て判らない?」 「それが嘘だって言ってるんです……!  姉さんにはそれだけの魔力はない。いいえ、さっきから何度も放ってる光は、まるで」    最強のサーヴァント。  セイバーの宝具、エクスカリバーの光そのものではないか、と少女は歯を軋ませる。 「……その剣ですか。考えられないけど、それはセイバーの宝具の力を真似ている。姉さんに残った微弱な魔力でも起動する、影を殺すだけの限定武装――――」 「は? ちょっと、そんなコトも判らないの? 貴女今まで何を習ってきたのよ、桜」 「な――――バ、バカにしないで……! だって、そうでなくっちゃ説明が」 「説明も何もない。これはセイバーの宝剣のコピーでもないし、影殺しの魔剣でもない。これはね、桜。遠坂に伝わる宝石剣で、ゼルレッチって言うの」 「え……? ぜるれっち……?」 「呆れた。ゼルレッチの名前も知らないのね。  ……なんか説明するのも馬鹿らしくなってきたけど、まあ、要するに貴女の天敵よ。  今の貴女は魂を永久機関にして魔力を生み出す、第三魔法の出来そこない。  そしてわたしは―――無限に列なる並行世界を旅する爺さんの模造品、第二魔法の〈泥棒猫〉《コピーキャット》ってコト……!」    ――――宝石剣が一閃される。    短剣はその軌跡通りに光を放ち、間桐桜を守る影を消滅させる。  そればかりか、小エクスカリバーとも言うべき光と熱は内壁を削り、大空洞を震動させる。  それは、確かに単純な魔力のぶつけ合いだった。  どのような魔術――――いや、魔法を使ったのか。    今の遠坂凛には、確かに、間桐桜に匹敵する魔力の〈貯蔵〉《ストック》があるのである―――― 「あ――――あ」 「近づくまでもないわね。こっちはこう見えても飛び道具だし、アンタは影に守られて出てこないし。  どっちかの力が尽きるまで、打ち合いをするのも悪くないわ。……ま、あんまり続けたらわたしたちより先に、この洞窟が崩れそうだけど」 「そんな……打ち合いなんて、それも嘘です。  姉さんには、もうこれっぽっちも魔力なんて残っていない。その剣がなんであれ、もう次の攻撃なんて出来ないはず――――」 「そ? ならやってみましょう。いいからかかってきなさい桜。貴女が何をしてきてもわたしには届かない。  荒療治だけど、ま、授業料って思って諦めるのね。ちょっと強くなったからって我が侭放題したコト、後悔させてあげるから」 「――――!」 「っ……!  まだです、Es 〈b〉《声》〈e〉《は》f〈i〉《遥》〈e〉《か》〈h〉《に》lt―――Mein 〈A〉《私》〈t〉《の》〈e〉《檻》〈m〉《は》 sch〈l〉《世》〈i〉《界》〈e〉《を》ß〈t〉《縮》〈 〉《る》alles……!」 「E〈r〉《接》〈s〉《続》〈t〉《、》s,Z〈w〉《解》〈e〉《放》〈i〉《、》te,Rand〈V〉《   大》〈e〉《   斬》〈r〉《   撃》schwinden――――!」 「――――――――」  目の前の光景を、間桐桜は理解できなかった。  ただもう、怖れだけで影たちを使役する。  それを容赦なく打ち払っていく光の剣。  間桐桜は怯え、混乱していた。  それ故に気付かない。  遠坂凛の額の汗。  一撃振るう度に腕の筋肉を切断していく、宝石剣からの〈代償〉《ペナルティー》に。 「っ――――〈貯蔵〉《ストック》に関しちゃあ負けないんだけど、わたしの体が何処までもつか、か――――」    襲いくる影を光が打ち消していく。  だが両者の力は互角などではない。  遠坂凛と間桐桜。二人の戦力差は変わっていない。  間桐桜の魔力貯蔵量は数億どころか兆に届く。  時代の一生を以ってしても使い切れぬ〈量〉《ソレ》は、無尽蔵の貯蔵と言えるだろう。 「どうして――――!? わたしは誰よりも強くなった。  もう誰にも叱られなくなった。  なのに、どうしていきなり、そんな都合よくわたしに追いつくんですか……! 姉さんの魔力じゃわたしに呑まれるしかないのに……!」 「それが間違いだっていうのよ。いくらデタラメな貯蔵があったって、それを使うのは術者でしょう。  わかる? どんなに水があったって、外に出す量は蛇口の大きさに左右される。  間桐桜っていう魔術回路の瞬間放出量は一千弱。  ならどんなに貯蔵があっても、一度に放出できる魔力はわたしとさして変わらない……!」 「きゃっ……!?」 「だから! わたしが用意するのはアンタと同じ貯蔵量じゃなく、毎回一千程度の魔力でいい……!  そんなバカみたいに肥大した魔力なんて、持っていても宝の持ち腐れよ――――!」    振るわれる光の線。  千の〈魔力〉《かげ》に対する千の光ならば、確かに力は拮抗する。  だが、遠坂凛の魔力は百にも届かない。  その矛盾。  本来ならば成立しない拮抗を生み出すものは、言うまでもなく彼女の持つ“剣”の力だ。    一撃ごとに千の魔力を放出し、更なる魔力を補充する光の剣。  それは遠坂凛の魔力を増幅しての事ではない。  彼女はただ、この大空洞に満ちる〈魔力〉《マナ》を集め、宝石剣に載せて放っているだけである。    魔術師個人が持つ〈魔力〉《オド》と、大気に満ちる自然の〈魔力〉《マナ》。  どちらが強大であるかは言うまでもない。  個人として間桐桜に劣る遠坂凛が頼るものは、もう大気の〈魔力〉《マナ》しか有り得ない。    なるほど、確かにこの大空洞に満ちる魔力は千に届く。  一度きりならば〈魔力〉《マナ》の助けを借りて影の巨人を退けられるだろう。    ―――だがその後には続かない。    大気の〈魔力〉《マナ》とて有限である。  〈魔力〉《マナ》を使い切ってしまえば人間と同じ、その回復には莫大な時間を要する。    この〈大空洞〉《せかい》で、遠坂凛が間桐桜に対抗できるのは一度だけだ。    ―――だが。それならば、もし、仮に。    ここに、もう一つの『大空洞』があるとしたら、対抗できる回数はもう一度だけ増える事になる。    その“もしも”を現実化させるものがあるとしたらどうなるのか。    並行世界。    合わせ鏡のように列なる『ここと同じ場所』に穴を開け、そこから、未だ使い切っていない『大空洞の〈魔力〉《マナ》』を引き出せるとしたらどうなるのか。 「っ……! その歪み、聖杯と同じ――――まさか、姉さん!?」 「そう、他所から魔力を引っ張ってるのはアンタだけじゃない。けど勘違いしないでよね。わたしのはそんな無駄に増えたモノじゃない。わたしはあくまで並行して存在する〈大空洞〉《ここ》から魔力を拝借してるだけ。  合わせ鏡に映った無限の並行世界から、毎回一千ずつ魔力を集めて、力まかせに斬り払ってるのよ……!」 「……!」  大聖杯という、巨大な貯蔵庫を持つ少女が息を呑む。   「そんな。そんな、デタラメ……!」 「わかった桜? そっちが無尽蔵なら、こっちは無制限ってコト――――!」  ――――宝石剣ゼルレッチ。    それは無限に列なるとされる、並行世界に路を繋げる“奇跡”。  この剣の能力はそれだけ。  わずかな隙間、人間など通れぬ僅かな穴を開け、隣り合う『違う可能性を持つ』世界を覗く礼装。  そこには魔力を増幅する機能もなく、一撃振るう度に千の魔力を生み出す力もない。    だがそれで充分すぎる。  この世界における大空洞の魔力を使い切ったあと、隣り合った世界の大空洞から、まだ使われていない魔力を引き出せばそれでいいのだ。    使いきれば次に移ればいい。  そのまた次へ。次へ。次へ。次へ。  並行世界に果てはない。合わせ鏡の可能性は無限なのだ。    故に無制限。  遠坂凛に溜められる魔力量の〈最大〉《マックス》が千であろうと関係ない。    無尽蔵の貯蔵と、無限に続けられる供給。    魔術回路として性能が互角である以上、二つの事柄はまったくの同位である――――!  ……何度目かの地響きが木霊する。  凛の宝石剣は影を斬り払うだけではない。  その余りある火力で、少しずつ大空洞を崩壊へと傾かせている。  そうなっては大聖杯たるこの祭壇も無事ではすまない。  このまま〈徒〉《いたずら》に戦いを続けては間桐桜の敗北となる。  仮に、遠坂凛の体力が尽きるまで攻め続けたとしても、その後に待つものは洞窟の崩壊なのだ。 「は――――あ、あ――――」    ……影が止まる。  事此処にいたって、ようやく敵の正体が判ったのか。  大きく肩を揺らし、苦しげに吐息をもらして、間桐桜は悠然と佇む姉を睨む。 「なんどやっても同じよ桜。貴方が手に入れた力なんてその程度。舞い上がってた頭も、これで少しは冷えたでしょ」 「ふざけないで――――! そんなの不公平です、姉さん、姉さんばっかり、どうして―――!」    繰り返される攻防。  無意味と知りながら、自らの首を絞めると理解していながら、間桐桜は叫び続ける。    長く。  長く〈鬱積〉《うっせき》し続けた、唯一の肉親に対する恨みと共に。 「そうです……! わたしは姉さんが羨ましかった……!  遠坂の家に残って、いつも輝いていて、苦労なんて一つも知らずに育った遠坂凛が憎らしかった。  だから勝ちたかった。一度ぐらい、一度でいいから、姉さんにすごいって誉めてほしかったのに……! なのにどうして、そんな事も許してくれないんですか……!」   「――――――――」  ……姉は襲い来る影を斬り払う。  歯をかみ締め、妹の心を垣間見る。 「どうしてですか!? わたしは違ったのに。同じ姉妹で、同じ家に生まれたのに、わたしには何もなかった!  あんな暗い蟲倉に押し込まれて、毎日毎日オモチャみたいに扱われてた! 人間らしい暮らしも、優しい言葉もかけられたコトはなかった……!」   「――――――――」  その憎悪は。  姉である自分に対してのものではなく。 「死にかけたコトなんて毎日だった。死にたくなって鏡を見るのなんて毎日だった。でも死ぬのは怖くて、一人で消えるなんてイヤだった……!  だって、わたしにはお姉さんがいるって聞かされてた。  わたしは遠坂の子だから、お姉さんが助けに来てくれるんだって、ずっとずっと信じていたのに……!」 「なのに姉さんは来てくれなかった。  わたしのコトなんて知らずに、いつも綺麗なまま笑ってた。惨めなわたしのコトなんて気にせず、遠坂の家で幸せに暮らしていた。  どうしてですか……! 同じ姉妹なのに、同じ人間なのに、どうして姉さんだけ、そんなに笑っていられるんです……!」   「――――――――」  ……その憎悪は、姉である彼女に対するものではなく。    世界と自分自身に向けられた、出口のない懇願だった。 「人間を辞めた、ですって……!?  当然です、わたしはもうずっと前から人間扱いされてこなかった。目も髪も姉さんとは変わっていって、細胞の隅々までマキリの魔術師になるよう変えられた……!」 「十一年、十一年です姉さん!  マキリの教えは鍛錬なんてものじゃなかった。あの人たちはわたしの頭の良さなんて期待してなかった。  体に直接刻んで、ただ魔術を使うだけの道具にしたてあげた。苦痛を与えれば与えるほどいい道具になるって笑うんです」 「そのうち食事にも毒を盛られて、ごはんを食べるコトは怖くて痛いコトでしかなくなった。  蟲倉に放り込まれれば、ただ息を吸う事さえお爺さまの許しが必要だった……!」   「――――――――」  泣いている。  泣いて縋ってくる〈少女〉《かげ》を、彼女は無言で斬り伏せる。 「……あは、どうかしてますよね。でも痛くて痛くて、止めてくださいって懇願すればするほど、あの人たちはわたしに手を加えていった。  だから姉さんみたいに頭もよくない。なんでもできるワケじゃない。わたしにできることは、こうやって自分の痛みをぶつけるコトだけです」   「――――――――」    傷ついた魂。  救われない体。  それを―――― 「……けど、それってわたしのせいですか? わたしをこういう風にしたのはお爺さまで、間桐に売り渡したお父さんで、助けに来てくれなかった姉さんじゃない……!  わたしだって好きでこんな化け物になったんじゃない……! みんなが、みんながわたしを追い詰めるから、こうなるしかなかったのに……!」      それを。           「――――ふうん。だからどうしたって言うの、それ」    ――――可哀想ね、なんて。  彼女は、一切同情しなかった。 「な――――――――」 「そういう事もあるでしょ。泣き言を言ったところで何が変わるわけでもないし、化け物になったのならそれはそれでいいんじゃない?  だって、今は痛くないんでしょ、アンタ」    冷酷な全肯定。  ……少女の叫びは、行き過ぎてはいたが、温かさを求めただけの行為だった。    それを否定された。  怪物である自分を肯定された。    そうなったのはおまえが弱かったからだ、と。    いつも、いつも潔癖で完全だった姉が、誤魔化しようのない真実を口にした。   「姉さん―――姉さんが、そんなだから――――!」    影が湧き立つ。  姉に圧され、戦いを拒否しかけていた少女は、絶望と共に呪いを具現化させていく。 「そ。じゃあ、わたしからも一つだけ言っておくわ。  わたし、苦しいと思った事は一度もなかった。  大抵の事はさらっと受け流せてたし、どんな事だって上手くこなせた。  だからアンタみたいに追い込まれる事もなかったし、追い込まれる人間の悩みなんて興味なかった」 「そういう性格なのよ、わたし。あんまり他人の痛みが分からないの。  だから正直に言えば、桜がどんなに辛い思いをして、どんなに酷い日々を送ってきたかは解らない。悪いけど、理解しようとも思わないわ」    簡潔な言葉。  彼女は嘘をつかない。  苦しみを訴える妹に事実だけを口にして、 「けど桜。そんな無神経な人間でもね。  わたしは自分が恵まれているなんて、一度も思えた事はなかったけど」    まっすぐに。  精一杯の気持ちを込めて、間桐桜という少女を見返した。 「――――は?」    理解できない。  いま、あの――はなんと口にしたのか。                 わたしだって……?       恵まれていなかった……? 「っ――――なに、を」    ―――憎悪で、脳内が真っ赤になる。  今さら、今になってそんな都合のいい言葉なんて、ふざけているとしか思えない。                        ――――うるさい。 「今さら―――恵まれていなかった、ですって……?」    捩れそうだ。  壊れそうだ。  わたしのコトを一度も振り返りもしないで。  その、輝かしいまでの才能と幸福を振りかざして、                        ――――うるさい。 「よくも―――よくも、そんな――――」    わたしのコトなんて好きでも嫌いでもないクセに、  持っていて欲しかったものを一欠片も持たないクセに、 自分だけはキレイなままだと言い張って―――!                     ――――〈あの女〉《ねえさん》は、〈許さな〉《うるさ》い。 「足りない―――!  そんな言葉聞きたくない、そんな言い訳なんてきかない、わたしは、姉さんなんてもう―――!」    いらない、と。  自身の闇を拒むように少女は叫ぶ。 「――――――――」  ……それが、遠坂凛にできる最後の抵抗だった。  先延ばしにしていた決意を固める。  限界まで衛宮士郎を待とうとしたが、これ以上は延ばせない。    ――――いや。    そもそも自分たちの問題を、士郎に預けようとした事が間違いだった。  遠坂凛の、間桐桜に対する弱さだったのだ。   「桜」 「――――え?」  なにげない、朝の挨拶のように名前を呼ぶ。      ―――瞬間。  遠坂凛は、あっさりと勝負を決めていた。   「桜」    声をかけて、投げた。  彼女にとって最大の武器。  何物にも替えがたい魔法使いの遺産を、ぽーん、とキャッチボールのように投げて、   「――――W〈e〉《事》〈l〉《象》t、E〈n〉《崩》〈d〉《壊》e」    大空洞は、一面の光に包まれた。    爆散する。  人の手では届かぬ奇跡を体現した宝石の剣は、崩壊の際において全ての影を打ち消していく。    そこを走った。  一直線に、間桐桜目指して走り抜けた。  桜は光に怯んで動けない。  いかに強大な力を得ようと、彼女は戦闘経験がまったくない素人だ。  だから、その気になれば倒す事は簡単だった。    遠坂凛はあっさりと間合いをつめる。  走り抜ける中、背中に隠したもう一本の短剣を握り締める。 「――――」  桜は反応できない。  殺される、と気がついたようだが、あまりにも遅すぎる。    ……確実に〈殺〉《と》った。  これでおしまい、と彼女は短剣を突き出し、    ――――あ、ダメだこれ。    自分の敗けを、悟ってしまった。    ……殺された。    躱す余裕などなく、あの短剣で心臓を突き刺されると理解できた。  体は反撃を試みるが、絶対に間に合わない。   “――――殺され、るんだ”    恐怖はなかった。  他人に傷つけられるのは慣れている。  それが遠坂凛の手によるものなら、ひどく当然のような気もする。    でも痛いのはイヤだし、自分が死ぬのは怖いから目を瞑った。  そのまま消えてしまえば、それなりに楽だろうと少しだけホッとした。   「――――?」    けれど痛みはなく、終わりは来ない。  かわりに、とても温かい気持ちになる。  その正体がなんであるかに気付いた瞬間。    間桐桜は、潰れた視力を取り戻した。  ……血が流れている。  温かい人の血。お腹から、ポタポタと血を流している。  しっかりと―――崩れ落ちそうな体で、自分を抱きしめる姉の体から、取り返しがつかないほどの血が流れている。 「ねえ、さん?」    どうして? と少女は言った。    確実に速かった。  確実に自分を殺せた筈なのに、最後の最後で、彼女は短剣を突き出さなかった。 「……あーあ。士郎の事は言えないな、わたしも」    ぼんやりとした声。  それは少女がずっと憧れていた、  皮肉屋で容赦がなくて、けど温かくて優しい、遠坂凛という少女の声だ。  凛は思う。    ……なんという事はないのだ。  ようするにさっきの瞬間、ここ一番っていう時に気付いてしまった。    間桐桜を間近で見た途端、自分には桜を殺せないなー、などと、当たり前のように感じてしまった。 「……はあ。バカだ、わたし」    ……本当に呆れてしまう。  最後の最後でそんな事に気が付かされるなんて、自分のドジさ加減も筋金入りだ。  そんなのもっと早くに気づけって言うのだ。    ……けどまあ、それも仕方ないかな、と凛は納得してみる。 「……うん、でもしょうがないわよね。  わたし、だらしのないヤツを見てるとほっとけないしさ。きちんとした仕組みが大好きだから、頑張ってるヤツには、頑張った分だけ報酬がないと我慢ならないし」            ―――それに、第一。 「桜の事が好きだし。いつも見ていたし、いつも笑っていてほしかったし。……うん。わたしが辛ければ辛いほど、アンタは楽できてるんだって信じたかった。  それだけで―――苦しいなんて、思う暇すらなかったんだから」    愛おしむように桜を抱く。  一生で一度だけの、姉妹の抱擁。  彼女は自らの腹部を貫いた妹を、ようやく手に入れた宝物のように、柔らかく抱きとめる。 「―――姉、さん―――」    ……体温が消えていく。  恨み言など一つもない。  遠坂凛は、自分の死ではなく、抱きしめた少女を救ってやれない事だけを後悔して、 「ごめんね、こういう勝手な姉貴で。  ……それと、ありがと。そのリボン、ずっと着けていてくれて、嬉しかった」    舞い散った赤い花のように、祭壇に崩れ落ちた。 「――――、ぁ」    重みが消えた。  ほんの一瞬。蜃気楼のようだった温かみと一緒に、姉だった人が消えた。              ―――けどね桜。そんな無神経な人間でもね。     わたしは自分が恵まれているなんて、一度も――― 「――――、ゃ」    ……その言葉に、どんな孤独が込められていたのだろう。  少女の苦悩は少女だけのものだ。  それを理解し、解放する事など他人にはできない。  そんな偽善は絶対にない。    それと同じように。  彼女が憧れ、信じ続けた少女にも、誰にも理解できない孤独があったとしたら。 「――――――――だ」    ……だとしたら、どうなるんだろう。  いつも自信に溢れていて、自分の欲しい物を全て持っていて、理想そのものだった存在。  そんな姉が自分と同じ、いつも何かに縛られていた人間だったとしたら。 「――――わたし、が」    ……なら。  結局、弱くて悪いのは彼女の世界ではなく。  臆病で顔を上げられなかった自分だけで―――    ―――そんな自分を、不器用ながら、愛してくれた人たちがいた。             「なのに――――わたしが、壊し、ちゃった」    ……何処で、間違えてしまったのか。  全部あった。  あんなに欲しかったものが、本当はすぐ目の前にあった。  あんなに優しく抱きしめてくれて、あんなに想っていてくれたのに。  わたしが―――自分の手で、粉々にしてしまった。         「――――――――、あ。  ああ、あ、あああああああああああああああああああああああああ………………!!!!!!」    抱き返す事もできなかった手は固まったまま。  少女は愛してくれていた姉の血に濡れ、強く、自身を呪い始めた。  ……音が聞こえる。  洞窟をかすかに震わせる衝撃。  光と音は遠くから僅かしか聞こえないのに、洞窟は軋みをあげて震えている。  遠雷だろうか。  ぼんやりと頭に浮かんだが、いつ、遠雷なんてものを聞いたのか、思い出す事ができなかった。  ……セイバーが影になって消えていくのと同時に、手にした短剣が崩れていく。  サーヴァントという、強力な使い魔を打ち消した代償だろう。  遠坂がありったけの貯蓄を注ぎ込んで作り上げたアゾット剣は、跡形もなく砕け散ってしまった。 「――――――――」  左腕の拘束を強く締める。  魔力は大部分を使い切った。  アーチャーの腕に残ったモノと、自分の中に残ったモノ。  合わせればまだいけそうだが、投影はあと一度が限界だ。その後は何をしても、アーチャーの腕を抑えきれなくなる。 「――――――――ライ、ダー」    そうだ。彼女は、どうなっただろう。  立ち上がる。  体が硬い。  関節が鋼になった気がする。  これなら、鉄砲をうけても跳ね返しそうだ。 「ライダー、無事か」  うまく歩けない。  歩いた。  血が出た。  見ないフリをした。  足に鉄の棒を突き刺されたぐらいに痛いが、幸い、歯を食いしばれば歩けるようだ。  ……とおくでなにかが鳴っている。    昔、子供のころよく聞いたなにかに似ている。  子供のころによくキいたというのは、子供ゴコロに残っているからだと思う。  ガキの頃は、とかく、いろんなコトに興味をもつのだ。 「ライダー」  彼女が衝突した壁まで歩く。  ライダーは健在だった。  ただ、体じゅうボロボロで、魔力もほとんど尽きている。  すぐには動けないだろう。  ……彼女には、休んでいてもらった方がいい。 「先に行ってる。走れるようになったら来てくれ」  倒れ伏したライダーに呟いて、奥へ向かう。 「っ――――う。……思ったより、人使いが荒いのですね、貴方は」  意識があったらしい。  ライダーはろくに立ち上がれない体で、どこか眩しそうに見上げている。 「悪いな。今は頼りきりになる。少しでも回復したら駆けつけてくれ」 「――――ええ。すぐに行きますから、後の事は心配なく」  ライダーは無理をしない。  ここで無理をして立ち上がるより、確実に回復してから動くべきだと判っているのだ。  そのあたり、考えなしの俺とは違って本当に頼もしい。  ……地鳴りの間隔が狭まっている。  ぐずぐずしてはいられない。  うまく動かない体で、遠坂の後を追う。 「っ――――は、はあ、は、は――――」  息が上がっている。  壁に手をかけて前へ進んでいる。  速度は悪くない。  体が硬いだけで、慣れてしまえば不都合はない。 「ぶ――――っ、は、ごほっ、ご」  口から何か出た。  気付かなかったフリをして唇を拭う。 「ずっ、あ――――」  太腿の筋肉がビシっと痺れて転びそうになった。  ビシっとしたはずだ。  服が〈内側〉《・・》から破れて、大きな傷口が見えていた。  必死に見ないフリをして先に進む。    ――――近い。  生暖かい風が体を撫でる。   「――――行くぞ」    ぱん、と頬を叩いて走り出した。    闇を抜ける。  視界には、いつか見た事のある荒野が広がっていた。  いや、違う。  ここは見たことのある風景ではない。  以前、イリヤの記録にあった荒野に、あんなモノは存在しなかった。 「――――アレが」    この、ふざけた戦いの元凶。  俺から桜をとっていった奴か。 「――――受肉、しかけてる」    全身に叩きつけられる威圧と不快感。  生命力にすぎるその息遣いが、誕生を目前に控えたモノだと宣言している。    閃光と地鳴り。  光は崖の上から放たれ、ズガン、とバカみたいに考えなしに洞窟を削っていく。  ……何が起きているのかは判らないが、まあ、ああいう派手なのは遠坂に決まっている。    となると――――そうか。   「焦ってるんだな、おまえ」    ぎょろり、と。  目玉もないクセに、歪な胎児が俺を見る。    ……間違いない。  遠坂の暴れっぷりがお気に召さないのか、ヤツは今すぐに外に出たがっている。  だがまだ体が出来ていない。  あの黒い柱の中がヤツの胎盤だ。  あそこで完全に“肉体”を形成しなければ、ヤツは外に出て来れない。    だからこそ―――胎盤そのものを壊しかねない遠坂に焦って、みっともなく、急造でいいからと体を完成させたがっている。  肉を持ったサーヴァントとして、この世に召喚されたがっている。 「―――――ふざけろ」  走る。  やけくそじみた光と影の衝突。 「――――桜――――?」  それが桜と遠坂の衝突なのだと、下からでも崖上の様子が視認できるまで走り寄った時。    大空洞の時間が止まった。  そうとしか思えないほどの、強大な光が放たれ、そして――――          姉さん、と。  子供のような泣き声と共に、大きく、世界が揺れ始めた。    光による内壁の破壊などではない。  これはもっと根本的な部分の崩壊であり、あの巨大な影が、外に出ようとする〈惷動〉《しゅんどう》だった。 「今の、は――――」    背筋が凍る。  嫌な予感がする。  泣きじゃくる桜の声が、最悪の光景を予感させる。 「遠坂――――遠坂、遠坂――――!」    走った。  息を乱して、――病にかかったみたいに手足をついて、高い崖を駆け上る。  ――――震動は収まらない。    ドオン、と。  荒野のどこかに、大きな岩が落ちた音を聞く。 「はっ――――はぁ、はぁ、はぁ、は――――!」    後ろのコトなどどうでもいい。  一心不乱に、土にまみれながら崖を駆け上って、    自分が遅かった事を、網膜に焼き付けた。   「――――――――遠坂」    ……地面が揺れている。  うつぶせに倒れた遠坂の顔は見えない。  地面に崩れ落ちた遠坂は、茎から落ちた大輪の花のようだった。 「……………、…………せん、ぱい」    顔をあげる。  遠坂の向こう。  血に濡れた遠坂から逃げるように離れて、桜は、自らを罵倒していた。 「――――桜」 「……ちゃった。わたし、殺しちゃった。あんなに大切にしてくれてたのに、わたし、姉さんを、殺し、ちゃった―――」  桜の声は、俺に向けられたものじゃない。  桜は拒んでいる。  こうしている自分。  遠坂の血に濡れた自分、黒く染まった自分、自分に繋がったあの黒い影を、半狂乱になりながら、全力で憎んでいる。   「……わたし、馬鹿、でした。ごめんなさい。ごめんなさい。こんなのつらいだけだった。ダメだって、負けるなって姉さんはずっと言ってくれてたのに、わたし、バカだから分からなくて、先輩が信じてくれたのに、裏切って、ばっかりで―――」  影が桜を縛っている。  あの、全身を覆った黒い令呪が桜を縛っている。   「……やだ……もう、やめなくちゃ……でも、戻れなく、て―――だめ、やだ、もう、こんなのは、いやだ―――!」    ―――拒絶している。    桜はあの影を拒んでいる。  自分を嫌って、あの影の誘惑を拒んで、自分自身を殺そうとしている。    だが出来ない。  あの影にとって、桜は必要な本体だ。  桜が自分を殺そうとすれば、影がそれを許さない。  桜は自分を殺そうとする自責と、それをさせまいとする影によって切り刻まれている。 「――――――――」    ……遠坂は、勝ったんだ。  桜の憑き物は落ちている。  あいつはやっぱり、最後の最後で、桜の命を選んでくれた。  桜は桜だ。  どんなに影に呑まれようと、その芯は変わらない。  ……桜をああしてしまったのは俺だ。    あの時―――影に呑まれた桜を恐れず、ぱかん、と叩いていたら、こんな事にはならなかった。 「――――――、っ」    遠坂に走り寄る。    かろうじて呼吸をしている。    ――――まだ、諦めるには早すぎる。   「桜。遠坂は死んでいない」 「――――――――――?」 「そうだ、死んでいない。まだ助かる。いや、どうあっても助けるんだ。俺とおまえで助けなくっちゃいけないんだ。そうだろう、桜」 「あ――――え?」    桜の目に光が戻っていく。    ―――影の拘束が和らいでいく。  桜はようやく、目前にいる俺と遠坂を視界に収めて、ほう、と安堵の息を漏らして、   「っ――――! だめ、逃げて先輩――――!」    必死に、自分を抑え込んだ。 「――――、つ――――」  遠坂に覆い被さって、影の一撃を背中で受ける。 「ぁ――――ちが、違う先輩、わたし、わたし……!」  桜の背後から、影が次々と湧き上がっていく。  ……ふざけやがって。  まだ生まれてもないクセに危険感知だけは一級品かよ。 「わかってる。往生際が悪いガキの仕業だ。桜をとられたくないって、駄々をこね始めやがった。  ―――待ってろ。すぐにぶん殴って桜から引き剥がしてやる」  桜に向かって歩き出す。 「だ――――やめ、やめて先輩――――!」  影が頬を掠めていく。  本来なら俺の首をかっ飛ばしたソレは、桜の叫びで、軌道を変えてくれたようだ。 「は――――あ、あ、う…………!」  桜は自分を抑えつけるように抱く。  だが影は一向に消えず、ますます数を増やしていく。 「う……うう、ううう……!」  ……泣いている。  桜は泣いている。  自身を蝕む影の痛みからじゃない。  自分を抑えきれない、あの影に操られるしかない自分が悔しくて泣いている。 「……先輩、ダメ、です。わたし、抑えきれない。姉さんが教えてくれたのに、負けちゃうんです。……強くなんてなかった。わたしは弱虫で、臆病で、ひどい人間だった」    さらに一歩。  影の槍が頬をかすめる。 「――――! やめて、なんで来るんですか先輩……!  それ以上来たら、先輩を殺しちゃう……!」    さらに一歩。  右手を、左腕の肩にかける。 「どうして。逃げて。逃げてください先輩、姉さんを連れて逃げて……!  わたしの事なんて忘れていいです……! ちゃんと、ちゃんとここで死にますから、ひとりでもちゃんと死にますから……! わたし、わたしは、こんな自分、これ以上先輩に見られたくない……!」    ――――一歩進む度に、影の拘束は厳しくなる。    俺の前進は、桜の心と体を傷つけている。 「どうして言うこと聞いてくれないんですか……!?  先輩、先輩がそれ以上近寄るなら、わたしだって我慢しません。先輩に殺される前に、わたしが先輩を殺しちゃうんだから……!」 「どうしても何もない。桜をここから連れ出して、遠坂を助ける。さっきそう言っただろう、桜」 「っ―――まだ、そんなことを言ってるんですか、先輩は。  ……やめてください。わたしは助かりません。いいえ、助かっちゃいけないんです。わたしは、生きてちゃいけない人間だった」  一歩。   「っ――――」  ずん、と腹に影が直撃する。  ……刺し傷じゃない、ただの打撃だ。  今のは桜が、自分の意志で俺を押しのけようとしたものだ。 「ほら、見たでしょう先輩。わた、わたしはこういう人間なんです。いまさら外には戻れないし、この子もわたしを放してくれない。  それに――――もし、戻れた、ところで」 「……わたし、いっぱい人を殺しました。何人も何人も殺して、兄さんも殺して、お爺さまも殺して、姉さんも殺してしまった……!  そんな―――そんな人間にどうしろっていうんです……! 奪ってしまったものは返せない。わたしは多くの人を殺しました。それでも、それでも生きていけっていうんですか、先輩は……!」 「――――――――」    ……そうか。  後戻りの出来ない道。  償う事さえできない罪が、桜を追い詰めていた。    救いはない。  どうあっても、桜の意思でなかったとしても、多くの人の命を奪った咎は、桜の心に在り続けるだろう。  影から解放され、元に戻ったところで、桜の中には昏い影が残ったままだ。    だが。           「―――当然だろう。奪ったからには責任を果たせ、桜」    左肩の拘束を解除する。  最後の一回。かろうじて死を押し留めていた、赤い布を引き剥がす。  ……気が遠くなる。    自分が無くなる前に、前へ。    言わなくちゃいけない言葉を、まだ口にできるうちに、桜を。 「先、輩」 「そうだ。罪の所在も罰の重さも、俺には判らない」 「っ……!」  肩と胸、右足と腹に影が突き刺さる。  ぎしゃり。  影は突き刺さらず、火花をこぼしてズレていく。 「けど守る。これから桜に問われる全てのコトから桜を守るよ。  たとえそれが偽善でも、好きな相手を守り通す事を、ずっと理想に生きてきたんだから―――」  前へ。  桜はもう目の前にいる。 「うそ――――先輩、からだ、が」    ……投影、開始。  思い浮かべるモノは一つだけ。    衛宮士郎に残った魔力を、全てその複製に注ぎ込む。      最後の投影。  契約破りの短剣を振り上げる。    桜の顔が、よく見えない。 「先、輩」 「おしおきだ。きついのいくから、歯を食いしばれ」 「―――――――――」  必死に息を呑む音がする。    そうして。  はい、と短く答えて、桜は自ら胸を差し出し―――               これが、桜に下される罰になるように。             「帰ろう桜。―――そんなヤツとは縁を切れ」                一息で、彼女の心臓を突き刺した。    ――――崩れていく。    崩壊はもはや決定的だった。  千年をかけたアインツベルンの探求。  五百年をかけたマキリの悲願。    果てず、翻らず、成らぬまま、連綿と続けられた一つの世界が、ここに終わろうとしている。   「お――――お、おおおおおおお」    その崩壊の中、ソレにはまだ意思があった。                    ――――死にたくない――――    体はもはや赤黒い肉の集まりにすぎず、人のカタチの面影すらない。  この地下に棲み付いていた蟲の群。  その全てを集め、一つの肉にしたところで、もはや人のカタチさえ保てない。    のたうつ姿は、ただ“動いている”だけの肉塊だった。  それでも生きている。  その塊は腐敗する体、溶けていく自分を呪いながら、                    ――――死にたくない――――    ただ、その執念だけで、未だこの世に留まっていた。   「おお――――おお、お――――オ――――」    地面を這う。  マキリ臓硯。魂をこの世に留める〈本体〉《よりしろ》を潰された老魔術師は、その執念だけでこの世界に残留していた。    だが滅びるのは時間の問題。  腐敗する魂を急造の蟲に詰め込んだところで、二度潰された傷は癒えるものではない。                    ――――死にたくない――――    肉塊となった老魔術師はこのまま、苦しみぬいた末に息絶える。  最後まで腐り、無念のまま果てていく。    目の前に。  長く求め続け、あともう一歩で手に入る筈だった、永遠の具現を仰ぎながら。    断末魔は苦痛か、無念か。                    ――――死にたくない――――    死ぬのはイヤだ。  このまま消え去るなどどうして出来よう。  五百年。  五百年に渡り苦しみ続けた成果、与えられてしかるべき報酬が目前にあって、何故消えねばならぬのか。   「お――――お、おおおおおおおおおおおお」    思い返すのは苦しみだけだ。  マキリの宿業。  故郷を追われ、この極東の地に流れ着き、異国の法則に溶け合えず衰退していった魔道の名門。    ―――だが、それは違う。  そうであったのならまだ救いはあった。  そのような理由で血が絶えるのなら、或いは、大人しく滅びを甘受していただろう。                    ――――死にたくない――――    だが真実は違う。  日本の土が合わなかったのではない。  そのような外的要因でマキリが終わったのではない。  単に、彼らは脱落したのだ。    マキリの祖たる探求者より三百年。  その三百年が魔術師の家系として限界だった。  マキリという魔術師は、臓硯の代で既に衰退していた。  苦しみはそこから始まり、老人は否定するしかなかった。    マキリの血族は所詮そこ止まりと突きつけられ―――それを必死に覆そうと抗ったのが、間桐臓硯という男の人生だった。    ――――死にたくない。    死にたくない、死にたくない…………!!!!   「お、おお、オオオオオオオオオオオ……!!!!」    そう、死ぬ訳にはいかない。崩れる体が恨めしい。苦しいのは苦しい。とにかく苦しい。苦しいだけの五百年だった。苦しいだけの人生だった。それ故に永遠を求めて何がわるい。苦しんだ苦しんだ、満たされないまま苦しんだ、何も残せぬまま消えるなど出来るものか、苦しいまま死ぬなど出来るものか、目の前には聖杯が開いている、ならば我が望みを聞くがいい、問われれば答えてやろう、我が望みはシニタクナイ、あそこまで、あの崖を登れば願いが叶う、願いが叶うというのにこの体ではたどり着けぬ、たったあれだけの距離、この五百年を顧みれば塵にも等しい、たったあれだけの距離が、なぜ、なぜこんなにも遠いのか――――――――――――――――!!!!    ビチャビチャと自身を撒き散らしながら、地面を這う。  なんという執念。  動けぬはず、否、動くなどという機能のないソレが、ただ怨念のみで前に進んでいく。    もはや執念だけの怪物と化した思念。  崩壊の音も耳に入らず、聖杯だけを視界に収めてソレは進む。  その、この世ならざる醜怪に、   「――――そこまで変貌したか、マキリ」    鈴のような、美しい声をかける者が、いた。   「な、に?」    視線をあげる。    揺れる視界の中。  そこには、一人の少女の姿があった。   「――――――――」    前進が止まる。  ソレは陶然と少女を見上げる。  ……老魔術師が見たものは少女ではない。  それは、遠い記憶にある女。  いつの時も色褪せずに心にいた、アインツベルンの黄金の聖女。  ―――二百年前。  大聖杯を築き上げる為、自ら生贄となった、天の杯であった我が同胞。   「――――――――」    あの日より些かも衰えない。  聖杯の女は、彼が焦がれていた頃と同じ瞳のまま、     「問おう、我が仇敵よ。汝は、なぜ死にたくないと思ったのか」      ただ一度、懐かしい声をあげた。   「――――――――」    純粋な問いに、苦しい、という思考が止まる。  何故。  何故。  何故。  言われてみればおかしい。  何故死にたくないなどと思ったのか。  何故死ぬ訳にはいかなかったのか。  終わってしまえばこの苦痛から解放されるというのに、あらゆる苦しみを抱いたまま、なお生にしがみついたのは何の為か。   「お――――おお、おおおおお」    思い出す。    そう。最初に、ただ崇高な目的があった。  万物をこの手に。  あらゆる真理を知り、  誰も届かない地点に行く。    肉体という有限を超え、魂という無限に至る。        人間という種。  あらかじめ限界を定められ、脳髄という螺旋の中で回り続けるモノを、外へ。    あらゆる憎悪、あらゆる苦しみを、全て癒し消し去る為に。        ――――思い出す。    楽園などないと知った悲嘆のあと。  この世に無いのならば、肉の身では作る事さえ許されぬのなら、許される場所へ旅立とうと奮い立った。    新しい世界を作るのではなく、自身を、人という命を新しいものに変えるのだと。   「お――――、お」    ……そうだ。    見上げるばかりの〈宙〉《ソラ》へ、その果てへ、  新しく生まれ変わり、〈何人〉《なんびと》も想像できない地平、  我々では思い描けない理想郷に到達する。    ――――その為に。    その為に聖杯を求めた。  人の手に余る奇蹟を求めた。  至るまで消える訳にはいかなかった。  幾たび打ちのめされ、何度この身では届かないと悟りながらも、生きている限りは諦められなかった。                 ―――そう、ユメみたモノはただ一つ。        この世、全ての悪の廃絶の為。        我らは、叶わぬ理想に〈生命〉《いのち》を賭した。   「――――――――お」    だから残った。  あらゆる仇敵たちが去った後も、無意味と知りながらもただ求め続けた。  そう在る事に意味があると信じ、そう在る事が、いつか、自身を継ぐ者を育むのだと知っていた。    だから生き続けたのだ。  苦しいと知りながらも死ぬ訳にはいかなかった。  自身を作り変えても、若い頃に見た未熟な悲嘆を〈覆〉《くつがえ》したかった。    それが自身の生き方であり、己が出した答えではなかったのか。              ……そう。  たとえその〈生〉《さき》に。何の報いが、なかったとしても。   「お――――おお、お…………!」    それが、最初の願いだった。  その苦痛。  叶わぬ望みに挑み続ける事に比べれば、死にたくない、などという望みのなんとちっぽけな事か……!   「――――そうか。そうであったな、ユスティーツァよ」    ……世界を見上げる。  大空洞は半ば崩壊していた。  間桐桜は解放され、既にこの世界より連れ出されている。  生み出された、間違いでしかない“〈第三魔法〉《アンリマユ》”は、陽炎のように揺らめいている。    ―――その全てが。  もう、老魔術師には届かない出来事だと受け入れた。   「終わりか。  我が宿願も、我が苦痛も、マキリの使命も――――こんなところで、終わるのだな」    それは初めから決まっていたこと。  マキリの旅は、何処で果てようと、所詮はこんなところ止まりである。   「は――――はは、ははは」    だが。  それは長い苦痛の果ての、惨めな終焉などでは断じてない。    きっと、まだ始まったばかりなのだ。  彼らの試み、その旅は始まったばかり。    五百年など取るに足らぬ。  たったそれだけの年月でどうして届こうか。    我らが望んだものは遥かに眩く尊く、遠く必ず果たされるもの。  これより幾星霜の〈時間〉《とき》を超え、千の年月、万の年月の末に手に入れる、人間という種の成長だ。    ならば、このような瑣末事など始まる為のちっぽけな、けれど必ず意味がある要素にすぎない。    彼らの宿願は、これで終わるのではない。    旅はここから始まる。  ここから、ずっとずっと――――また長い長い、遥か彼方を目指す歴史が、ユメの終わりと共に回っていく。   「――――だが無念よ。いや、あと一歩だったのだがなあ」    諦める言葉は、やはり老魔術師そのものだ。  どのような光を目指そうと、彼は悪行を良しとした外道である。  それを最期まで覆さず、彼は生への執着を断った。            ――――最後の一人が消える。  奇蹟を求めた魔術師たちの一角、生きながらえ当事者であり続けた傍観者が崩れていく。   「五百余年――――ク。思えば、瞬きほどの宿願であった」    肉塊は跡形もなく、崩れ落ちた天蓋に呑み込まれた。    変貌しながら生き続けたモノ。  魔術師は目指し続けた悲願の崩壊と共に、この世から完全に消滅した。 “――――――――”    掌底が叩きつけられる。  体が何に変貌していようと同じこと。  外側ではなく内側の破壊を旨とした一撃は、容赦なく衝撃を通してくる。  戦いは、圧倒的だった。  こちらの拳は躱され、弾かれ、引き込まれて、敵の攻撃をまともに食らう。  ガイン、と言峰の拳が体を打つ度に、視界が真白に切り刻まれる。    それは敵によるダメージではなく、傷ついた体を直し、書き換えようとする、左腕からの痛みだった。 “――――――――”    頭を守る。  顔だけはまだ〈剣〉《てつ》になっていない。  頭に直撃されては一撃で終わる。  こっちの拳が当たらない以上、両腕でなんとか頭部への攻撃だけは防ぎきる。    痛覚はとうに麻痺し、視覚も、じき死に絶える。  脳に伝わる痛みは、ただ、左腕からの侵食だけだ。  血塗れの拳は、俺の〈全身〉《こっかく》をくまなく粉砕している。    それを修復しようと左腕が躍起になり、結果――――    何もかもが、白くなる。  映像も意識も、戻れないところまで白く。 “――――――――”    もう、考える事でさえ、痛みを伴う。  破壊される体を死なせまいと刃が生える。  それと引き換えに脳髄が削られていく。    終わるのは、どちらが早いのか、もう、 「っ――――ぐ、ふっ…………!」    ヤツの拳の骨も砕けている。  それに耐え、顔を苦悶に歪めながら敵は俺を打ってくる。 “――――――――”    突き出される拳を躱して、右拳を叩きつける。  弾かれる。  同時に左わき腹に衝撃。脳を切りきざむ刃に堪えて、もう一撃。 “――――――――”    まだ。  まだ動ける、もう動けない、これで、これで最、 “――――あ”   「あ――――」    効いた。今のは、効いた。  体の痛みなんてなくなった筈なのに、体中が、痛みで泣きそうになっている。  吹っ飛ばされた体は、落盤した岩にぶつかって、崖下への落下を、かろうじて免れた。 “――――ぁ”   「、あ」  ――――。  立てない。  衝撃だけでこの痛みなら、体を作り変えようとする脳への痛みは、想像を絶する。  終わる。  あと一秒で痛みに耐え切れず焼き切れ、何も考えられなくなる。    ――――その前に眠ってしまえ、ば。    このまま目を閉じれば、それは。 「終わったか。では頭を潰すぞ」    敵が歩み寄ってくる。  ……もう走る事もできないのは敵も同じ。  俺たちは既に、一分後に消えてもおかしくない。    なら――――、もう――――   “あ”    何を誓った。  おまえは、誰を守ると誓ったんだ。   “あ、”    生きて。  二人でなければ――は救われないと彼女は言った。   “あ、あ”    何を失った。  その為におまえは何を失った。   “あ、ああ――――”    敵が近づいている。  無防備な俺の頭を潰そうと、足を引きずってやってくる。  ――――冗談じゃない……!    俺は負けない、あの男には目的なんてない、ヤツにとって当然のように守ってきた在り方だけだ……!  けど俺にはある、  目的がある、  こいつをぶちのめす理由、勝たなくちゃいけない理由がちゃんとある――――!   “ああ、あ――――あ”    どのくらい泣かせてきたのか判らない。  俺の知らないところで、――はずっと泣いていた。  笑っていたのは俺の前だけで、ずっと一人で泣いていたんだ。   「あ――――、お」    ……そうだ。  だからこそ、守らないと。  ――が犯した罪、――を責める罪、――が思い返す罪、全部から、守るんだ。    俺の前でだけ笑えた少女。  未来のない体で、俺を守ると言った彼女が―――            ―――俺以外の前でも、いつか、強く笑えるように。    その為にはおまえが邪魔だ。   「お―――おお、オ――――」    ――――失せろ。  おまえが〈存〉《い》たままだと、桜は二度と笑えない――――!   「オオオオオぉおおおお――――!!!!!!」 「ぐ――――、ぬ――――!?」 「あ、あああああ――――!!」    一撃。  俺の顔を打ちに来た敵の顔面に、ありったけの拳を打ち込む。 「ぬ、貴様、まだ――――!」 「言峰、綺礼――――――!」  二撃。   三撃。   四撃。   五撃。   六撃。   七撃――――!    殴る、殴る、殴る、殴る……!  これが最後、ここを逃したら本当に後がない、この奇跡、この好機に、残った命を全てつぎ込む――――! 「っ――――、あ……!!!!!!」  飛んだ。  相打ち覚悟の拳をあっさりと流され、強烈なのをぶち込まれた。 「あ、が、ぐ――――!」  ちくしょう、そうだよ、そう簡単に殴らせてなんてくれねえよ、あいつの方が何倍も強いんだから、  俺の反撃なんて苦もなく流してとどめを刺しに来るに決まってる――――! 「は――――。あ――――!」  ああ、それがどうした……!  実力差は覆らない。  そんな都合のいい話はない。  飛ばされ、蹲る俺の頭を潰そうと敵がやってくる。  負ける。負ける。負ける。負ける。  それは判りきった自明の理。    それでも、まだ、この体は動くんだから――――! 「コトミ、」    立ちはだかり、覆い被さる敵の影。  それに、言う事をきかない足―――ああ、右足はホントにピクリとも動かない―――に火をつけて体を起こす。          このままでは終わらない。  こんな足では躱しきれない敵の一撃。  一秒後に来る死を、全力で回避しようとし―――― 「―――、ネ?」    目の前にいる男が。  拳を俺の目前まで突き上げたまま、間に合わなかった姿を見た。   「……ここまでか。単純に、時間の差が出るとはな」    男は自らの胸に視線を落とす。  黒く塗りつぶされたそこは、本来、心臓があるべき個所だ。  ……時間の差。  あの森で死に体になったのは、わずかに、この男の方が早かったのか。   「おまえの勝ちだ衛宮士郎。その体で何秒保つかは知らんが、目的があるのなら急ぐがいい」    男は以前のまま。  教会で出会った時と同じ、何事にも関心がないという声で告げる。   「――――言峰」 「おまえが最後のマスターだ。  聖杯を前にし、その〈責務〉《のぞみ》を果たすがいい」    最後のマスター。  その言葉は深い重みを持ちながらも、神父はやはり、変わらぬ声で言い捨てた。  当然だ。  この男は最期だろうと変わらない。  崩れていくこの瞬間さえ、いけすかない俺の敵であり続ける。 「―――ああ。散々いためつけてくれたお礼だ。容赦なく、あんたの願いを壊してくる」 「―――――――、」    最期に男は笑ったのか。  スクラップ寸前の俺の眼は用を成さず、    埋葬する者もなく、神父は今度こそ、この苦界から消えていった。  タイガー道場は前回で最終回を迎えたよ。  ○ボタンを押して、タイトル画面に戻った方が身のためたぜ? エキストラステ~~~ジ、 サ~~イド、Aーーーーー! みんな元気~? 情け容赦なくデッドってる?  軽い気持ちの選択ミスから貴方を救う、タイガー道場リミックスだよー! 押っ忍! わたしたちの戦いはまだ始まったばかりだぜー! あ、それダメ。その台詞を言うと打ち切りになるから止めて。 さて、桜ちゃんルートもクライマックス直前、  遠坂さんが大ピンチって時にやられてる場合じゃないでしょうっ! そうだよー。シロウじゃどうあってもセイバーには勝てないんだから、ここはライダーを信じて自分の仕事に徹するコト! うむ。士郎の役割は後方支援、遠くから戦いを見守って、おいしいところをかっさらうべし! ……けどこう、なんてゆーか派手な話になってきたわねー。舞台は地下になるわ、桜ちゃんは超絶パワーアップをするわ。 ああ『Fate』よ何処に行く。 うう、そうなんすよ師しょー。このルートこそわたしの出番かと思ったら、ライバルがサクラでしょ? もうぜんっぜん勝負にならなくて、こうやって道場に出戻りしたのでした、よよよ。 うう、悲惨な話じゃのう……。 いじめられっ子が実は一番うたれ強いっていうのは本当だったんだ……恐るべし遠坂姉妹。実はどっちも悪魔っ子だったとは……。 ほーんと、みんな猫被ってて困っちゃう。  セイバーもブラックになって容赦ないし、リンもいざとなったら冷酷になるし。 シロウもかわいそう。ヒロインの中で裏表ないの、わたしだけだもの。 ……いやまあ、たしかにイリヤちゃんは裏表ないけどね。 さて、それじゃあ恒例のちょっといい話。  桜ちゃんルート『Heavens feel』は、二種類のエンディングがあります。 このどちらかがグランドフィナーレ、 『Fate/stay night』の真のエンディングです。 トゥルーとノーマルね。 ま、ノーマルには簡単にいけると思うわ。  けどトゥルーへの条件は、今までの成果が問われるっていうかー。 ぶっちゃけ、わたしの好感度が4以下だったり、投影を一回でも多く使ってるとトゥルーには行けないのでしたー! チェストーーーー! ネタバレすんなー! いたたた……なによ、最後なんだからこれぐらいいいじゃない! ダメなり! これは『Fate』最後の砦なり!  でもぶっちゃけ、イリヤちゃん好感度は十四日目からやりなおせばなんとかなるのである! なによ、タイガだってハッキリ言ってるー! え? だってここQ&Aよ? ヒントを出す事がわたしたちの存在理由よ? そーなんだー。ネタバレとよく違いが分からないけど、とにかく師しょー横暴だー。 うむ、三十九回目にしてようやく気づいたかっ! さて、次はいよいよオーラス、最後のタイガー道場よ。  長かった本編もついにおしまい。 最後のバッドエンドはトリを飾るに相応しいラブラブ激甘番外編という噂!  各々、期待して優柔不断を貫くがよい! エキストラステ~~~ジ、 サ~~イド、Bーーーーー! お待たせー! あの子もその子もどの子も大好き!  みんな大好き、『Fate』唯一のラブラブ激甘エンドだよー! やったー! 優柔不断なオトコノコをみんなで慰めてダメにする素敵な―――― って、これのどこがラブラブエンドだーーーー! ……うう……やっぱり無理あるっすか、師しょー。 もー、こういうサスペンスなの禁止! 苦労して倒した筈の怪生物がエンディングロールの後に蘇ってFinとかもう大好き! 不滅故に怪物だからな。 あ、先輩。久しぶりっす。 まったく。これというのもヘンな未練に拘ったからよ。  助けられるのは一人だけ。その覚悟で最終決戦に臨んだんだから、どんな状況だろうと貫き通さないと。 押忍、立派です師しょー。  ……けどホントにセイバーを救うエンディングはないんですか? セイバールートをやれ。 身もふたも無いけどそういう事ね。 桜ちゃんルートでセイバーちゃんをハッピーにするエンディングはないので、セイバーちゃん支持派は諦めて下さい。 さて。タイガー道場もこれで本当におしまいです。  全四十回、飽きずに付き合ってくれてありがとうございました。 うっわー、そんなにあったんだ。  けどタイガ、このスタンプ全部集めるとどうなるの? それは集めてのお楽しみ。  本編ももうすぐ終わるし、まだ見てない道場があったらスキップ機能を駆使してやり直すのも楽しいかもね。 なんにせよ、今までプレイしてくれてありがとー!  本編もあとちょっと、最後まで頑張ってねー! うん、今まで本当にありがとー! 楽しかったよー!  それじゃあばいばーい! 縁があったら、フルコンプリート後にまた会おうねーーー! いつも通りの時間に目を覚ます。  六時前。  夜明けを迎えたばかりの空は薄暗く、今日も灰色の雲で覆われていた。    左腕に痛みはない。    居間には誰もいない。  遠坂が起きてくる前に朝食を作っておかなくては。    ニュースが流れている。  朝方、こうしてテレビをチェックするのが日課になりつつある。 「とくに目立った事件はないわね。 昨夜は出てこなかったんでしょう」  出てこなかった、とはあの“黒い影”のことだ。 「―――ああ。連日無休ってワケじゃなさそうだな」  安堵しているのを隠して、そっけなく返答する。 「そうね。百人単位の被害なんて、二日続けておきたらたまらないもの」  朝の七時過ぎ。  居間には俺と遠坂しかいない。  桜は客間で眠っており、イリヤもまだ眠っている。  桜はともかくイリヤには起きてほしかったのだが、遠坂曰く疲れてるから休ませてやれ、なのだそうだ。 「――――から、士郎も今夜に備えて休んでおいて」  唐突に遠坂が言う。 「……それは、どうして?」 「だから、例の切り札の作成。なんとか今日中に骨組みが出来るから、今夜“投影”を実行するわ。  で、成功次第臓硯と決着をつける。これ以上犠牲者は増やせない。あの影がなんであれ、臓硯を倒せば聖杯戦争は終わる。得体の知れないあの影も、そうなったら消えるでしょ」 「――――遠坂。聖杯戦争が終われば、あの影は消えると思うのか」 「消えるわ。あいつの正体がなんであれ、アレが聖杯目的で現れているのは間違いない。  聖杯を欲しがっているのか、それとも聖杯に呼ばれているのかは判らない。けど、どっちにしたって原因は聖杯なんだから、聖杯さえなくなれば影は消えるのよ。  聖杯戦争が期限切れになるか、マスターが最後の一人になるか、それとも―――聖杯の器になるモノが死んでしまえば、あの影は消え去るわ」 「―――――遠坂、おまえ」  ……もう。  とっくの昔に、あの影の正体を知っていたのか。 「今のはただの推測よ。  臓硯を倒してもあの影は消えないかもしれない。  聖杯戦争が終わってもあの影は消えないかもしれない。  だから今は一番確実な方法をとる。手に入るかどうかも分からない聖杯なんかには頼れない。わたしたちはわたしたちだけの力で、臓硯とあの影を倒さないといけない」  言って、遠坂は席を立った。  何のつもりか、桜の為に用意した水差しと寝巻きを俺から取り上げて、だ。 「おい。なんのつもりだよ、それ」 「桜の様子はわたしが見るわ。部屋も隣だし、あの子の看病はわたしの方が適任でしょう」 「む――――いや、桜の看病は、俺が」 「馬鹿言わないで。士郎、一睡もしてないでしょ。そんな体でいられちゃわたしたちが困るってわからない?」  ……?  一睡もしていないって、俺が? 「それこそバカ言うなよ。昨日はちゃんと眠ったぞ、俺」 「呆れた。自覚がないほど参ってたワケ。  ……まったく、嘘だと思うなら鏡を見てきなさい。顔面蒼白で目にクマ作ってたら、看病される桜だって気を遣うわ」 「な――――それ、本当か?」 「うそ言ってどうするってのよ。もう、いいから士郎は部屋で休みなさい。夕方になったら呼びにいくから。  あ、眠れないなら手をかしてあげてもいいわよ? ライダーの真似事でいいなら、まる一日前後不覚にしてあげられるけど?」  ライダーの真似事というと魔眼の真似事というコトだが、知っているかぎり遠坂は魔眼持ちじゃない。  つまり、遠坂は。 「それは、俺に実験台になれってコトか?」 「正解。今まで興味はなかったけど、魔眼も悪くないかなって。流石にあんな離れ業は無理だけど、眠りの暗示ぐらいなら即興で出来そうだなって」 「――――嘘つけ、何が魔眼も悪くないかな、だ。  おまえ、単にやられっぱなしじゃ気が済まないから練習したいだけだろ」 「い、いいじゃない別にっ! それでどうするのよ士郎。  やるの、やらないの」 「やるかバカ! そんな物騒な実験には付き合えないし、だいたい丸一日寝込んだら明日の朝まで起きられない」 「あ、そうか。うまくかかりすぎたら睡眠じゃなくて麻痺になるものね。士郎、単純だからかかりやすそうだし」  なるほど、と納得する遠坂。  なにげに反論したいが、それじゃ試してみる? なんて言われそうなので黙っておく。 「まあ、それほど神経質ってワケでもないし、その気になれば簡単に眠れる。心配されるほどじゃない」 「そう? なら桜の看病はわたしに任せて、士郎は部屋で大人しくできる?」  ……と。  さっきまでの軽口から一転して、遠坂は真剣な目で訊ねてきた。 「――――――――」  ……桜の傍にいたい。  傍にいたいが、今は他にやるべき事があるし、遠坂の言う通りひどい顔をしているなら桜には会えない。  遠坂が桜を看ていてくれるなら安心できるし、ここは遠坂の好意に甘えよう。 「……そうだな。じゃあ、少し部屋に引っ込んでる。  昼食と夕食は俺が持っていくから、それ以外は遠坂に甘えていいか」 「ええ、桜の看病は任せておいて。かってに動き出そうものなら叱りつけて眠らせるから。  で、そういう士郎はホントに一人で眠れる? やっぱり一つ試してみる?」 「しつこいな、そうゆう危なっかしいのは却下だ。  けどまあ、ありがとうな遠坂。気を遣わせて申し訳ない」 「べ、別に気なんか遣ってないけど。そ、それじゃわたしは行くから、士郎もちゃんと眠りなさいよねっ!」  ……まったく、なんというか。  勘が良いんだか悪いんだか、冷たいヤツなのか優しいヤツなのか。  天才肌の人間は相手を置いてけぼりにするっていうけど、あいつもその類だろう。  桜もタイヘンだ。遠坂が姉貴だなんて、俺だったら心休まる時がない。 「―――まあ、それ以上に毎日楽しいんだろうけど」  ……ああ。  だからあの二人には少しでも早く姉妹に戻ってもらいたい。  この戦いが終わって、遠坂と間桐の約束事がなくなってしまえば、桜と遠坂は姉妹に戻れる。  十一年もの年月はそう簡単には埋まらないだろうが、それでも、少しずつ距離を縮めていって、何気ないことでも笑い合える仲になってほしい。  その為の手助けなら幾らでもする。  前にも思ったが、きっとそれが、桜にとって一番大きな贈り物だと思うのだ。 「あー、ついでに遠坂もな。あいつに困った顔させられるの、いまのところ桜ぐらいしかいないんだし」  と、しまった。  不覚にも、嬉しげに微笑む遠坂の顔を連想してしまった。  すまん桜……って、こういうのも浮気の一つに入るんだろうか? 「――――いや、それはともかく」  いつまでものんびりとはしていられない。  遠坂は今夜にでも臓硯に挑むという。  ……それはまずい。  臓硯を倒せば戦いが終わってしまう。  戦いが終われば聖杯が現れる。  いや、厳密に言えば聖杯が“開かれる”。  聖杯は門だと臓硯は言った。  あらゆる望みを叶えるモノ、願望機は聖杯ではなく聖杯の中にあるものだと。  ……それが確かなら、聖杯である桜はどうなるのか。  イリヤは言った。  聖杯として完成に近づけば近づくほど、桜は人間としての機能を失うのだと。 「―――――――――っ」  ……結局、桜を救う方法は一つしかない。  聖杯戦争が終わるまで桜を守りきる。  聖杯がどのように『現れる』ものなのかは知らない。  マスターが最後の一人になった時点で現れるものなのか、最後の一人になったマスターが召喚するものなのか。  ……これが後者なら問題はない。  臓硯を倒し、桜を脅かす存在を排除して、戦いの期限切れを待てばいいのだ。  遠坂は今夜のうちに臓硯に挑むと言った。  なら臓硯は倒せる。  あいつが戦うと言うからには、高い勝算があるという事だ。 「……となると、問題は一つだけ」  ……あの“黒い影”。  臓硯を倒したところであいつは消えない。  あいつは桜という聖杯があるかぎり現れ続ける。  そうして現れる度、多くの命を奪っていく。  戦いの期限切れを待つ、という事はあの影を放置する、という事。 「……倒す、しかない。あの影を、俺の手で倒す」  ……それ以外に方法はない。  だが倒せるのか。  アレが聖杯の中からこぼれてくるモノだとしたら、影自体には死の概念はないだろう。  もしアレを消せるとしたら、それは投影機である桜本人を消すか、投影機に〈魔力〉《でんりょく》を送っている本体を消すしかないのではないか。 「……本体、か……」    ……そんなものがいるとは思えない。  だがそう考える以外、確かな打開策がない。 「――――聖杯の中身。  臓硯は十年前の戦いで砕け散った聖杯の欠片を桜に埋め込んだ。その時も中身なんてあったのかな――――」    ――――と。  ちょっと待て。  臓硯のヤツ、刻印虫は聖杯の欠片から作ったって言っていたが―――― 「――――言峰。あいつは、その事に気がつかなかったのか……!?」  そんな筈あるか……!  あいつは桜から刻印虫を摘出した。  少量だが刻印虫を取り出し、桜の体を治療したのだ。  そこまでしておいて気がつかない筈がない。  仮にも聖杯戦争の監督役であり、前回の戦いで最後まで残ったマスターだ。  なら、桜の体の異状に気がついて然るべきだろう……! 「っ、は――――!」  玄関を飛び出る。  突然の閃きに全身を支配されて、あの神父の顔しか思い浮かばなくなっている。 「くそ、どうしてもっと早く気付かなかった……!」    考えればすぐに思い至った筈だ。  桜の無意識の姿で現れる影、  “聖杯”の中にあるモノがなんであるかを、あの男なら知っている筈なんだから――――!   「――――――――え?」    屋敷に戻って、一番初めに感じたのは悪寒だった。  何がおかしい訳でもなく、何か危険なモノが混ざっているのでもない。  ただ漠然と、嫌な予感が背中を掠めた。  居間には誰もいない。  イリヤは和室で眠っている。  遠坂は客間で投影の準備をしている。    桜は―――― 「桜。入るぞ」  声をかけてドアノブに手を置く。    ―――ひやり、と背に冷たい違和感。    嫌な予感、何か欠けている、という虫の報せを振り払って、ドアを開けた。 「桜」 「っ……!」  一瞬、ライダーの姿が見え、幻のように掻き消えた。  その後ろ。  桜が眠っている筈のベッドには、誰の姿も見当たらなかった。 「――――っ」  電灯が点けられた。 「な――――」  不意打ちに視線を泳がす。 「お帰りなさい。何処に行ってたかは訊かないけど、随分と遅かったわね」 「遠坂……? これは一体――――」 「見れば判るでしょう。桜は一人で外に出て行って、わたしはさっきまでライダーに睨まれていたのよ。  ……彼女、貴方には手を出さないよう命じられているんでしょうね。士郎が入ってきた途端、霊体化して外に逃げていったわ」 「な――――」  遠坂の声は落ち着いていた。  ……いや、違う。  これは落ち着いた声じゃない。  淡々とした口調は、もう、何かを諦めて容認したような、そんな冷たさがあった。 「――――遠坂。桜が、出て行ったって」 「本当よ。貴方が出て行く前から居なかったようだから、もう二時間は経つわ。  あんな体で何をする気かは知らないけど、わたしたちの言い付けは聞けないって事でしょうね。捜しに行こうとしたわたしをライダーで止めるぐらいなんだから、後ろめたい事でもあるんでしょ」 「ば―――馬鹿なこと言うな……! 桜が俺たちに隠し事をしてる、なん、て――――」    あるものか、とは言えなかった。  ……桜の悪夢。  日に日に壊れていく体を桜がどう思っていたかなんて、俺に解る筈もない。 「と、とにかく連れ戻さないと……! あんな状態の桜を一人にしたら、それこそ」 「犠牲者が出るかもね。学校でわたしを襲った時みたいに、目に付いた人から魔力を奪いかねないわ。  だって、ほら。昨夜、あの影に襲われた人がいなかったでしょう。きっと空腹なのよ、あの子」 「――――――――――――遠坂」  わずかに視線を逸らして、遠坂は言葉を呑む。  その眼が。 “もういいでしょう、士郎”と、一つの終わりを訴えていた。 「遠坂、おまえ」 「桜を捜すのはいい。わたしも賛成よ。  けど―――見つけ出して、あの子の姿を見た時。桜がもう桜じゃなかったら、やるべき事は判ってるわね」 「―――そんな事はない。桜は、桜のままだ」 「正気? もう限界だって判らないの? いいかげん諦めなさい士郎。これ以上桜を庇ったら、まずまっさきに貴方が死――――」 「つまらない憶測は後だ。今は桜を見つけて連れ戻すだけだろう。……その後で納得いくまで言い合ってやるから、今は黙ってろってんだ……!」 「ちょっ、待ちなさい士郎――――!」  廊下を走る。  桜が何処にいったのか、考えている余裕はない。   “――――もういいでしょう、士郎”    そう告げた遠坂を否定するように、ただ全力で外に向かう。 「シロウ。サクラを捜しに行くの?」 「――――」  と。  玄関に手をかけた俺の背中に、予想外の声がかけられた。  ……いつの間にやってきていたのか。  イリヤは遠く、まるで壁があるように、離れた場所から俺を見ていた。 「……イリヤ」 「答えてシロウ。サクラを捜しに行くの?」 「――――――――」  無言で頷く。  イリヤの声は張り詰めていた。  遠坂とは違う諦め。……同じ聖杯だからこそ、イリヤには桜がどんな状態なのか感じ取れるのか。 「そう。けどシロウ。サクラが一人で外に出たのは、シロウに見られたくなかったからだよ。サクラはシロウを守る為に、怖いけど、死にたくないけど、聖杯である自分自身に決着をつけにいったの。  シロウが好きだったサクラはもういないわ。サクラは自分を消すために、一人でここから出て行ったんだから」 「――――――――」  まっすぐなイリヤの目。  それを見つめ返して、迷いなく首を振った。  そんな事はさせない。  桜が桜でなくなっていようと、俺がする事は一つだけなんだから。 「……そう。けどシロウ。わたしもサクラも、自分の中にもう一つの自分を持っている。それはきっとシロウが知ってるわたしじゃないし、シロウが想ってるサクラとは違うんだよ。  サクラは戻らない。変わってしまったサクラはもう別人にすぎない。  それでも―――サクラを殺すのはイヤなの、シロウ?」  静かな問いかけ。  イリヤは言う。  聖杯など、所詮作られたもの。  壊れる事を前提に作られたのだから、壊す事に躊躇する必要はない、と。  俺にはそれが、イリヤという名を、サクラという響きに置き換えたものに聞こえた。 「シロウ、もう一度だけ訊くわ。  それでも―――貴方は、サクラを捜しに行くの?」 「………………」  その問いにどれだけの想いが込められているのか、俺には知る由もない。  だから素直に、自分の選んだ道を告げた。 「ああ、捜しに行く。俺にとって、桜はどうあっても桜なんだ。それはイリヤも同じだろ。もしイリヤが聖杯なんて訳の分からないモノになっても、イリヤはイリヤだ」 「……たとえ、どんなに変わり果ててしまっても。  その中にイリヤがいるのなら、それは、俺の知っているイリヤだと思う」 「――――」 「難しい事は、正直よくわからない。俺にはそれだけだ」  玄関に手をかける。 「……ゾウケンのところよ。サクラが行くとしたら、そこ以外ありえないわ」  背中越しに声がする。 「わかった。イリヤはうちで待機しててくれ。桜を連れて、すぐ帰ってくる」  玄関を後にする。    廊下にはいつまでも、遠くを見るように佇むイリヤの姿があった。  間桐邸に着く。  呼吸は乱れていない。  朝から走り詰めで疲れているだろうに、体は一向に不備を訴えない。 「……開い、てる」  呼び鈴を押そうとした指が止まった。  ……誰かが入っていったのか、それとも出ていったのか。  玄関の扉は半開きになっており、中は恐ろしいほど静かだった。  人の気配がない。  間桐邸は昨日以上に陰鬱としている。  一階には誰もいない。  自分の足音だけが廊下に響く。  ギシギシと音をたてて、二階への階段に足をかける。  二階には誰もいない。  踊り場の天窓から空が見える。  階段を上がった時点で、二階には生きた人間がいないと感じ取れた。  一階に戻ろうとした足を止める。  生きた人間。  その違和感が、ドアが開きかけた部屋に向かわせた。    ――――桜の部屋だ。    以前、一度だけ見たコトがある。  中に入ったコトはない。  慎二に案内されて来た時、桜が顔を真っ赤にして俺たちを外に押し出したからだ。  たしかあれは二年前か。  何も変わっていない。  女の子らしい部屋。桜らしい飾り気のない部屋。  そこに、   「――――慎二」    ベッドに横たわる、間桐慎二の亡骸があった。   「……あれ? いま出て行ったの士郎のヤツ……?」    玄関からの物音に遠坂凛は首をかしげる。  窓から顔を出して外を見ると、やはり思った通りの人物が坂道を駆け下りていっていた。   「あのバカ……! 休んでろって言ったのにちっとも人の話を聞かないんだから……!」    薬の調合を止め、荒々しく席を立つ。  間桐桜に飲ませる薬も大切だが、今は士郎を止める方が先決だ。   「馬耳東風どころの話じゃないわよアイツ……! 自分がどれだけ弱ってるかまるで判ってないんだから……!」  階段を下りる。  とにかく急いで士郎に追いつこう、と玄関へ急ぐ。   「――――と、その前に」    念のため、桜に言いつけておかないといけない。  薬と一緒に持っていこう、と思っていたので水差しと寝巻きもまだ渡していないし、今朝は熱も計っていない。  士郎の無鉄砲さは頭に来るが、それで桜を放っておいたら士郎をとっちめるコトができなくなる。   「――――ま、気配からして眠ってるんだろうけど」    時間にしてほんの一分だ。  どうせ士郎はすぐに息が上がって、下り坂の途中でぜいぜいと立ち止まるに決まっている。あの体では一キロも走り続けられまい。   「……なにが厄介かって、本人が気付いてないあたりが厄介なのよ、ばか」    ともあれ、走ればすぐに追いつける。  いま衛宮邸で一番元気があるのは自分なのだ。  余力がある分、ダウンしている〈仲間〉《メンバー》の面倒を見るのは当然の義務である。   「桜、入るわよ」  返事を待たず中に入る。 「ちょっと外に出てくる。すぐ戻るから大人しくしてなさい。着替えはここに置いておくか――――」    ら、と。  そう言いかけて、   「――――やられた。やってくれたわね、桜」    壁を砕きかねない勢いで、凛は拳を叩きつけた。    ―――部屋に間桐桜の姿はない。    ベッドに横たわっている人影は、間桐桜以外の何者かだった。   「……見下げ果てたわライダー。サーヴァントともあろうものが、ベッドで主人のフリをしてるなんてね」 「わたしも不本意ですが、これも命令ですので。  ですがこれは貴女の不注意でしょう。私に責任を押し付けられては迷惑です」 「…………言ってくれる。迷惑かけてるのはあの子の方じゃない、一方的に」    歯の鳴る音。  凛は敵意をこめてライダーを睨み、ライダーは涼しげに向けられた敵意を受け流す。   「トオサカリン。次があるのなら、もっと出来のいい監視役を仕掛けなさい。翡翠の鳥程度の使い魔ではサクラは欺けない。技量でこそ貴女には及びませんが、直感という才能は貴女と同格なのですから」 「そう。ご忠告感謝するわ。……けど、その様子じゃ忠告だけってワケじゃなさそうね」   「勿論。自分が帰ってくるまで貴女を外に出すな、とサクラから」 「――――」    チィ、と薄闇に舌打ちが響く。  こうなっては何も出来ない。  凛一人ではライダーを倒す事も逃げる事もできない。  彼女は間桐桜の思惑通り、ここで足止めを受けるしかない。   「――――ほんとに頭きた。一人じゃ出来ないからあいつが助けようとしたのに、結局、一人で解決しにいくなんてね」 「抵抗しないのですか? 潔いのは結構ですが、意外ですね」 「外に出なけりゃいいんでしょ。どうせ貴女には敵わないし、桜が帰ってくるまで大人しくしてるわ」    はあ、とこれ見よがしに溜息をついて壁に背を預ける。    そこに戦意はない。  凛は肩の力を抜き、わずかに顔を俯かせて、   「けどライダー。言っておくけど、あの子はもう帰ってこない。……いいえ。帰って来たところで、わたしたちの知ってる間桐桜じゃなくなってるわ」    冷え切った魔術師の声で、最悪の未来を口にした。 「慎二」  ベッドには慎二の亡骸がある。  それ以外には何もない。  ここで何があったのか。  そんな事、読み取れる筈もないのに、 「――――桜」  慎二を手にかけたのが、彼女だと判ってしまった。 「……………………」  考えがまとまらない。  慎二の遺体。  桜の行方。  昨日の夜から。桜を抱きしめた夜から半日も経っていないというのに、どうして、こんな、事に。           『おや。誰かと思えば衛宮の小倅か。  よく来たと言いたいところだが、少しばかり遅かったようじゃな』 「――――!」  突然の声に振り返る。 「っ……!」  背後には誰もいない。  この屋敷に人がいない事は判っている。  いま響いたものは、ここではない何処かにいる臓硯の声にすぎない。 「臓硯……! おまえ、桜に何をした……!」 『何もしておらぬ。見ての通り、不肖の孫が妹から返り討ちにあっただけよ。別段騒ぎ立てるほどの事でもない。  だが―――うむ、不肖の孫と呼ぶのもこれ限りじゃな。  使えぬ男ではあったが、最後にはきっちりと役目を果たしてくれた』  呵々と笑う。  老魔術師の姿は見えなくとも、その面が醜悪に歪んでいる事だけは明白だ。 「慎二の役目、だと……?」 『応よ。桜をその気にさせるのはワシでは出来ぬ。ワシはちと、アレに嫌われすぎてしまったからな。おぬしか慎二、どちらかにアレの堰を壊してもらわねばならなかった。  桜が自らの影を受け入れるには、この世に絶望して貰わねばならなかったからのう』 「――――な」 『いやはや、これはワシの過ちじゃ。アレの精神力を甘くみておった。簡単に決壊すると思ったが、アレは決して自分から崩れはしない。  よもや、アレがあそこまで我慢強く育つとは思わなんだ』 「――――――――、て」  神経が凝縮する。  俺は―――こいつの戯言の中身を理解するより早く、強く右拳を握り締め、瞬時に魔術回路を開き、 『いや、欲を言えばおぬしの手で桜を裏切ってほしかったのだぞ? それならばあのように半端な覚醒では留まらず、心身ともに影そのものに変わり果てたであろうに!  だがまあ、それも時間の問題よな。  慎二の死をもって、アレはようやく自分の立場を受け入れた。あとは見ているだけでよい。アレは本能の赴くままに人を襲い、その暴食故に自滅する。  ワシの仕事はその後というコ――――』  殴った。  声のする闇、ただの壁にすぎない物を、全力で殴りつけた。  無意識ながらも、ありったけの魔力を込めた一撃は壁に魔力を通し、部屋に染み付いた闇を払拭する。 『おお、これは怖い。監視役にと残した蟲どもが軒並み潰れおったわ。はは、これではすぐに声すら届かなくなるな』 「――――うるせえ、出て来い臓硯……! ここで八つ裂きにしてやる……!」 『いやいや、残念だがそういう訳にもいかぬ。マキリ五百年の宿願に、ようやく手が届いたのだ。  ここでおぬしに殺される訳にもいかぬし、おぬしを仕留めるほど恩知らずでもないのでな』 「恩知らずだと……? ふざけるな、誰がおまえに尻尾を振った……!」 『振ったとも。おぬしはあそこまで桜を育ててくれたではないか。あの娘に、他者を欲するという感情を教え込んだのは他ならぬおぬしよ。  そう、ワシは感謝しておるよ衛宮士郎。此度の儀はおぬしがいてこその成功だった。  故に殺しはせん。おぬしには、見事成長したアレの姿を見てもらわねばならぬからのぅ……!』 「っ―――臓、硯」 『呵々、もはや誰にも止められぬ。兄を殺したアレは立ち止まる事などできん。  アインツベルンの聖杯。あの小娘が取り込んだアーチャーの魂を取り込み、門に至る鍵を奪う。  さすれば詰みだ。我がマキリの悲願、第三法の再現がついに果たされるのみよ……!』  耳障りな哄笑が響く。  俺は――――   「――――――――」  待て。  アインツベルンの聖杯を、奪うだって……? 「――――!」  走りだす。  部屋に響きわたる臓硯の笑いなどどうでもいい。  どうせこの場にはおらず、安全な場所から俺たちを見下しているヤツだ。  今はそんな、ふざけた年寄りの戯言より―――― 『そうだ、急ぐがよい衛宮士郎!  既に桜は黒化しておる、イリヤスフィールを捕らえれば容赦なく飲み下すぞ……!』 「っ――――!」  足よ千切れよ、とばかりに地面を蹴る。   「イリヤ、無事で――――!」    屋敷まで全力で走って二十分。  灰色の空を睨みながら、一心にイリヤの下へと駆け抜けた。 「臓硯………………!!!!」  カタをつけてやる。  臓硯はこの屋敷の何処かにいる筈だ、見つけだして今度こそ殺してやる……! 「くそ、何処にいやがる爺ぃ……!」  家の何処にも臓硯の姿がない。  気配は刻一刻と薄れていく。   “ほうほう。まともな判断も出来ぬほど血が巡ったか。  おぬしはもう少し知恵が回ると思っておったが”    笑い声さえ小さくなる。 「は――――はぁ、はぁ、は――――!」  ……臓硯はいない。  始めからこの建物にはいなかった。  ヤツは蟲使いだ、この屋敷にいたのは手足となる蟲だけだった……! 『満足したかね? では帰るがいい衛宮士郎。  桜はじきイリヤスフィールを呑み込む。急がねば、おまえが育てた怪物の誕生に立ち会えなくなるぞ?』 「っ、クソ爺ぃ……!」  足よ千切れよ、とばかりに地面を蹴る。  怒りにまかせて時間を浪費してしまった。  屋敷まで全力で走って二十分。    ―――間に合うか。  桜とイリヤが顔を合わせる前に、なんとしても家に戻らないと―――!    少女は空を見上げている。  灰色の陽射しは少女の銀髪を曇らせ、赤い瞳に影を落としていた。   「……そうね。シロウが帰ってきたら、言わなくっちゃ」    誰に語るでもなく、〈銀髪の少女〉《イリヤスフィール》は独白する。    衛宮邸は静かだった。  士郎も凛も桜を捜しに行った。  ライダーは当然のように姿を現さず、屋敷にはイリヤしかいない。   「―――〈大空洞〉《テンノサカズキ》。二百年前に作られた、一番初めの約束の土地。この感じじゃ、もう起動が始まってる」    冬木の町で行われる聖杯戦争はこれで五度目。  聖杯を降ろす場所は毎回違ったけれど、今回は初まりの場所に還ってきた。    それも当然だ。  この土地にある四方の門を利用し、失敗する度に次の門を利用していく。  一度目は柳洞寺。  二度目は遠坂邸。  三度目は丘の教会。  四度目はあの焼け野原。  となれば、今回の降霊は一度目の土地に戻る。  初まりの土地。  聖杯戦争という〈儀式〉《ルール》を作り上げている、あの偽りの理想郷に。   「――――英霊の魂で満ち足りた聖杯。  それを以って門を開くのが彼らが目指した奇跡だけど……まさか、開けてもいないのに中に棲んでしまうモノがでるなんて」    滑稽ね、とイリヤは呟く。  こうなってはアインツベルンの悲願も何もない。  彼らは失敗した。  これから起きること、これから生まれるものは彼らが望んだものとはかけ離れた“災厄”である。   「……放っておけばいい。わたしの役目は開ける事だもの。閉じろなんてコト、誰もわたしに言わなかった」    それに、今から調停に赴いたところで閉じられる筈がない。  聖杯としての能力は、いまや間桐桜が勝っている。  マキリの聖杯が開いた門は、アインツベルンの聖杯では手が出せない。  間桐臓硯は同じモノを開いたつもりで違うモノを開いたのだ。  それを理解しているのは聖杯である少女と、同じく聖杯に変えられた間桐桜だけ。   「―――間に合うかな、シロウ。シロウが間に合うなら、一緒に、どこか遠くに逃げてもいいけど」    ぼんやりと空を見上げる。  少女は迷っていた。  自身に課せられた責務と、自身に生まれた欲求のどちらを選ぶべきか迷っている。   「でもねシロウ。どっちにしたって、死んじゃうコトに変わりはないんだよ」    結果は同じ。  聖杯として門に向かっても、このまま逃げても死ぬだけだ。  なら―――自分の本当はどちらなのだろう、と少女は灰色の空に問いかけ続ける。   “――――――――”    だから気がつかない。  玄関をくぐり、「ただいま」と声をかけて帰ってきた人影に。  衛宮邸に張られた結界をすり抜けたのか、それとも結界は彼女を“侵入者”とみなさなかったのか。   “――――――――”    ゆっくりと。  足音も立てず、居間から中庭に移動した彼女は、中庭で佇む少女の肩に、ゆっくりと手を、   「―――随分遅いお帰りね、桜。今まで何処に行ってたの」   「――――姉、さん」    侵入者――――間桐桜の腕が止まる。  彼女は目の前のイリヤから視線を外し、中庭で待っていた遠坂凛だけを見た。   「イリヤから離れなさい。それ以上近づいたら容赦なく撃ち抜くわ」  それが脅しではない事は、この場にいる全員が判っている。   「――――無駄なコトなのに。まあ、それでリンの気が済むならいいけど」    驚いた様子もなくイリヤスフィールは歩き出す。  少女は間桐桜と遠坂凛―――二人の対峙を傍観するように、中庭の端まで歩いていった。   「……そう。初めからここで待っていたんですね、姉さん。わたしがイリヤちゃんを誘いに来ると読んでたんだ」 「まあね。わたしには士郎と違って、アンタを助ける理由がないもの。いよいよとなったらイリヤを〈攫〉《さら》いに来るのは明白でしょ。そうでなくても一度前科があるんだから、イリヤを見張るのは当然よ」    士郎、という響きに桜の眉が揺れる。  不愉快だ、と。  以前の彼女を知る者なら目を疑うほどの、それは露骨な嫌悪だった。   「……ひどいな。姉さんはいつもそう。そうやって極め付けて、わたしを馬鹿にするんです。自分は綺麗だからって、汚れたわたしを見下している。  ……ほんとうにいやな人。ねえ、姉さん。わたし、そんなに悪い子ですか?」    感情のない声。  それ故に寒気のする質問に、   「あったりまえじゃない。この家を出た時点で救いきれない大馬鹿よ。アンタは間桐桜を守りたがってたヤツを、最後まで信じてやらなかったんだから」    きっぱりと、遠坂凛は断言する。   「ぁ――――――――」    間桐桜の視線が下がる。  その事実だけは、本当に間違いだったと認めるように。   「でも、わたしは」 「それが最良だと思った、なんて言わないで。わたしたちは外に出るなって言ったのよ。それに異論があったならまず相談しろっていうのよ。  なのにアンタは黙って出て行った。一人きりで、今までとまったく同じ失敗を繰り返した。  本当に呆れたわ。そんな事も守れないから、他人にいいようにつけこまれるのよ、アンタは」   「……そうですね。確かに、今まではそうでした。  けど姉さん。わたし、もう弱くなんてありません。これからは、姉さんが家に籠もっていてください。先輩は、わたしが守りますから」    冷め切った視線と、零れ落ちる不吉な影。   「――――――――っ」  それが予想通りのモノと看破し、遠坂凛は僅かに後退してしまった。              ――――その焦りが。  間桐桜を後押しする、最後の一手だったと気付かずに。   「……どうしたんですか姉さん。そんなふうに背中をまるめてると、まるで、わたしに怯えているように見えますよ?」 「――――――――」    しまった、と舌打ちした時には手遅れだった。  ……いや。  手遅れも何もない。  そもそも間桐桜がイリヤスフィールに手を伸ばした時点で、もう、何もかもが手遅れだった。   「……そう。もう部屋で大人しくしている気はないってコト?」 「ええ。姉さんの言うことなんて、もう聞きません」                 「――――だって。わたしのほうが強いもの」    影が躍る。  間桐桜の足元から、夥しいまでの黒色が中庭を蹂躙していく。  その、重油じみた影の中から、   「――――桜、アンタ」    黒く汚染された剣の騎士が這い上がる。   「セイバー、聖杯を捕まえて。抵抗するようなら多少の乱暴は構わないから」 「――――――――」    黒いセイバーは無言で従う。  ……もう疑う余地はない。  あの影が何であるか。  あの影に呑まれたサーヴァントがどのような末路を辿るのかを目の当たりにし、遠坂凛は唇を噛む。    その、瞬間。   「!」   「っ、は――――!」  一欠けらの容赦もない一撃、  遠坂凛の魔力を遥かに凌駕した〈影〉《モノ》が放たれた……!   「っ…………!」  転がるように着地する。  放たれた影は、あの“黒い影”と同位のものだ。  触れればそれで終わる。  一度でも〈掠〉《かす》れば肌に張り付き、瞬く間に遠坂凛を覆い尽くす。    ――――その果て。  サーヴァントでさえ脱出できない影に呑まれれば、遠坂凛という魔術回路は抵抗さえ出来ずに吸収される。   「く、この……!」    矢継ぎ早に繰り出される影の触手。  それが“黒い影”による物ではなく、間桐桜が保有する“魔術”なのだと凛は悟る。  間桐の魔術は他者を律する束縛だ。  だが、もともと桜は遠坂の人間―――架空元素、虚数を起源とする影使い。  その二つの属性を持つ間桐桜だからこそ、あの“黒い影”をあそこまで具現化できる――――!   「っ……!!!!」    容易く追い詰められる。  もとより魔力の絶対量が違いすぎる。  今の桜の魔力は無尽蔵だ。  その貯蔵量は億に届く。    貯蔵量が三百ほどの凛から見れば、今の桜は底なしの“怪物”だった。            サーヴァント中最大の魔力量を誇るセイバーを操り、“黒い影”を自在に操る。  ……そんな規格外の魔術師、サーヴァントを以ってしても打倒しうるかどうか。   「…………まず。魔術自体は単純だけど、とにかく量が違いすぎる――――」    肩で息をしながら変貌した桜を見据える。  ……勝ち目などないし、逃げ道すらない。  仮に、今の桜―――つまり聖杯と同位の魔力の供給源があれば話は違うのだが、そんなものは出来ていない。   「……と言っても。魔力の供給源としちゃあ、この世界で聖杯と同レベルの物なんてないんだけど」    ふう、と焦燥を愚痴で抑える。   「あ、ダメですよ姉さん。そんなところで立ち止まったら、危ないじゃないですか」    躊躇いもなく、桜はその掌を凛に向ける。    そこに容赦はない。  間桐桜は絶対的な優勢に唇を歪め、   「さあ――――もっと遊びましょう姉さん。  最後には捕まってしまうでしょうけど、それまで可愛く逃げてくださいね?」    そう、最愛の姉に微笑みかけた。    間桐桜の言葉通り、結果は判りきっていた。  彼女の“影”からは逃げられない。  その気になれば一息のうちに中庭はおろか屋敷の全てを覆い尽くせるのだ。  少しずつ“影”の範囲を広げていく桜に、凛は成す術もなく敗北した。   「っ――――ぁ、あ――――………………」    黒い影が遠坂凛を包み込む。  ゲル状の泥は凛の体を束縛し、圧迫し、血管に忍び込む寄生虫のように体内の魔術回路に侵入する。   「なぁんだ、そこまでですか? 思っていたほど強くないんですね、姉さんは」    楽しげに囚われの姉を見下ろす。  ―――荒い呼吸と上気した頬。  重油に塗りたくられた姉の姿は、同じ女性である桜から見てもそそるものがある。   「っ――――さく、ら――――」    その苦しみを愉しむ為か、顔は黒い泥に覆われてはいなかった。   「っ――――こ、の―――――……………………」    侮辱をかみ殺しながら、凛は桜を睨み返す。  だがそれも数秒。  体中をかき回す泥は、凛の内臓をドロドロに侵していく。   「くっ……! っ、んあ、は――――、…………」 「ふふ。それじゃ頂きますね。これ、楽しみだったんです。魔術師から魔力を食べるのは初めてだから」    ゲル状の影が遠坂凛を締め付ける。  『食事』は、それこそ秒もかからなかった。   「あ………、っ、ん――――――」 「……美味しい……満腹にはほど遠いけど、少しは足しになりました、姉さん」    遠坂凛に残っていた魔力が消える。  それで事は終わりだ。  ぐったりと〈頭〉《こうべ》をたれ、苦しげに吐息を漏らす凛に抵抗する力はない。    抵抗する術はないのだが――――   「――――それだけじゃ駄目だ。ここで殺しておかないと、次は、わたしが」    姉さんに負けてしまう。  ……根拠はない。  この実力差はどうあっても覆らない。    それでも―――次に戦えば、きっと自分が殺されると桜は確信する。    だからここで殺しておかないと。  魔力を奪って無力化したぐらいじゃ甘い。  遠坂凛がそうするように、自分も、ここで手を下さねばならない。  そう、震える自分に言い聞かせ、掌を広げる。   「っ――――姉さん、ここで」    影は伸びない。  彼女はふるふると肩を揺らし、衰弱しきった姉を見つめ、   「桜――――!!!!!!」    一番会いたくない人物に追いつかれた。      ぁ――――はあ、はあ、は――――    肺が苦しい。  胸の上から押さえつけた心臓は、ずいぶん前から慌ただしく危険信号を送っている。    どくん、どくん、ぴちぴち、どくん。    心臓は全身に血液を吐き出しながら、これ以上動けば何より先にワシが死ぬわ、と抗議するように暴れている。          ぁ――――はあ、はあ、は――――    喉が痛い。  一息吸うたびにトゲを飲み下すようだ。  だから怖くて呼吸ができない。  ただでさえ酸素が足りないのに、自分から呼吸を制限するなんて自殺行為。            ぁ――――はあ、はあ、は――――    酸素が足りないから手足もよく動かない。  おぼつかない足取りでここまでやってきたが、この先はいつ倒れてもおかしくはない。                っ――――ふ、くっ…………!    そう思ったとたん、力が湧いてきた。  ここで倒れる訳にはいかない。  それでは抜け出してきた意味がない。  彼女―――わたしはここで、自分に決着をつけなくてはいけない。  自分をマスターにしたあの老人を、刺し違えてでも止めなくてはいけない。                    ――――ふぅ――――ふぅ、ふ――――    ……呼吸を整える。  大丈夫、そう難しいことじゃない。  他の人には難しいだろうけど、自分一人ならなんという事はないのだ。  食事時のように顔を合わせて、あの老人の前で“いいえ”と首を振るだけでいい。  それで―――とりあえずは、あの老人の企みは全て終わる。    ……その後、あの妖怪を拒絶した自分がどうなるかは考えない。  考えれば出来なくなる。  出来なくなるから、深く考える事を止めた。  幸い、頭の中の記憶も、いまこうしている記憶も曖昧になっている。  次の瞬間には覚えていないから、恐怖は比較的小さかった。    壁にもたれ掛かりながら、数日ぶりの我が家を歩く。  暗い屋敷。  散乱した記憶を拾ってみても、この屋敷が明るかった事などない。  屋敷はいつも通りだ。  いつも通り陰湿で、退廃で、粘質である。    だが――――   “そんな――――どうして?”    予想とは違った。  屋敷に祖父の気配がない。  あの蟲の気配が、屋敷には残っていない。   「……は――――ぁ、あ…………」    崩れそうな体を支えて、無人の居間を見渡す。  おかしい。  おかしい。  おかしい。  間桐邸にあの老人の姿がない。  地下室にもあの笑い声がない。   「……うそ……どう、して」    道理が合わない。  祖父―――間桐臓硯はわたしを回収したがっていた筈だ。  でも衛宮の家にいたから手を出せなくて、今まで手をこまねいていたんだと思う。  だから今は最大のチャンスの筈だ。  あの老人は、わたしが一人なら必ず姿を現して、わたしを聖杯にしようとするだろう。  なのに、どうして出てこないのか。   「あ……はあ……はあ……ぁ――――」    ……意識が薄れかかる。  ……それは、ダメだ。  眠りにつく前、衛宮士郎が行動する前に間桐臓硯に会わなくてはいけない。  会って、こんな事は終わらせないといけない。  会えば―――会うだけで終わるというのに、どうして―――今日に限って、あの老人は現れないのか―――!   「っ……知ってる、筈なの、に……!」    そう、気付いていない筈がない。  あの人は常にわたしを監視している。わたしがどんなに遠くにいても、何処に隠れていようと見つけ出せる。  今のわたしなら簡単に捕まえられて、祖父の思う通りに出来ると判っている。  ……たとえわたしに逆らう意思があるとしても、そんなものを考慮する人じゃない。  あの人は今まで通り、わたしを道具として扱うだけだ。   「……なのに……どうして」    気付いていない筈はない。  あの神父の治療で体内の刻印虫が減っていようと関係ない。  ……だって、あんなものはただの保険だ。  それとは違う手段、もっと確実な方法で、あの人はわたしの行動を把握している。  いまのわたしの体調。心拍音すら聴いている。  わたしが一人で、ライダーさえ置いて祖父の屋敷に来た事もさっきから知っている。  何故なら、あの老人はずっと彼女の――――   「――――桜」    すぐ後ろで声がした。  それが、   「……兄さん?」    兄の声だと振り向いた瞬間、  一度も足を止めず、教会に辿り着いた。  坂道を駆け下りている時は息が乱れて走りづらかったが、それも交差点まで降りた頃にはなくなっていた。 「は―――――はあ、は」    自分でもびっくりするぐらい、体の調子がいい。  最短距離とは言え、〈家〉《うち》から教会まで、実に五キロ近い道のりを全力疾走したんだから。 「――――と。感心してる場合じゃないだろ、今は」  教会に向かう。  言峰が全てを知っているのなら、力ずくでも聞き出してやると気合をいれた。 「――――――――っ」  礼拝堂には神父の姿があった。  言峰はまるで待ち構えていたかのように、   「おや、どうした衛宮士郎。進退窮まって神に祈る、などと殊勝な男ではなかった筈だが、宗旨変えかな」    なんて、ふざけた出迎えをしてきやがった。 「―――ふざけろ。アンタの嫌味に付き合ってる暇はないんだ。お喋りがしたきゃ一人でやってろ」 「ほう。……なるほど、確かに余裕はなさそうだな。その体でよくここまで来れたものだよ。どうかな、長話なら奥に移らないか。おまえとて立ち話は辛かろう」 「結構だ。それより答えろ言峰。  アンタ―――桜が聖杯だって知っていたな?」 「当然だ。あの娘の体を開いて見たのだからな。アレが間桐臓硯によって調整された、黒い聖杯だという事は判っていた」  あっけなく。  それがどうした、と言うように、神父は返答した。 「おまえ、それがどういう事だか判っていて……!」  一瞬で頭が沸騰した。  冷静であろう、とした理性が、言峰の返答で真っ白になる。 「そうだな。それがどういう事なのか、私は今のおまえ以上に判っていた。  間桐桜をあのまま生かせば、多くの人間を殺す事になる。だからこそ私は忠告したのだ。アレを生かす価値があるのか、とな」 「――――――――」  言葉に詰まる。  ……そうだ。  確かにあの時、言峰は俺に忠告していた。  助けておきながら、桜を生かす事は間違いだと繰り返した。 「―――じゃあ。じゃあどうしておまえは桜を助けた。  俺は桜を守りたかっただけだ。けど、おまえにそんな理由はないだろう」 「理由はある。私もおまえと同様、間桐桜を死なせたくなかった。彼女が内包した新しい命を死なせる事はできなかった。  人間は死ぬものだ。間桐桜が死ぬというのならそれも道理だろう。死にゆくものが彼女だけならば、私もあそこまで手は尽くさなかった」 「死にゆくものが桜だけなら、だと」  つまり、こいつは。  あの“黒い影”を生かす為に、桜を救ったとでも言うのか……! 「その通りだ衛宮士郎。傷を負い息絶えるのならばそれは摂理だ。だが誕生しうるもの、生まれようとするモノを殺す事は出来ない。  おまえは間桐桜を救う為に彼女を保護した。  私は間桐桜が〈孕〉《はら》んだ闇を救う為、彼女を救った。  それが私の理由だ。お互い目的は違えど、間桐桜には生きていて貰わねばならなかった。その結論に、何か不満があるとでも?」 「――――――――」  ……不満なんて、ない。  言峰の思惑はどうあれ、あの時はこいつに助けて貰うしかなかった。  それに―――こいつは自分の魔術刻印を全て使って桜を助けてくれた。  その結果だけは、感謝するべき事だろう。 「……そうだな。アンタが何を考えてたかなんて興味ない。  それより聞かせてもらうぞ言峰。そこまで言うからには、アンタはアレの正体を知っている筈だ」 「街を脅かす影の事か。  ……まあ、私なりの考えはあるが、おまえはどうだ。  アレは一体なんだと思う」 「……臓硯は聖杯の中身だと言った。聖杯の中にあるものが、桜を通じて外に出てきていると」 「―――臓硯に直接聞いたのか。……なるほど、あの老人の考えそうな事だ。  それで、おまえはヤツの言葉を全て信用しているのかね? あの影が間桐桜から漏れた聖杯の中身であり、彼女が生きているかぎり殺戮を繰り返すものだと?」 「臓硯なんて信用するか。……けど、あいつの言い分は符合しすぎている。桜があの影と関係があるって、認めないワケにはいかない」 「そうだな。臓硯の説明に嘘はなかろう。だが真実も語ってはいない。  よいか、聖杯に満ちる力とは無色のもの。  無色である以上、自分から人を襲う、などという事はない。目的のない力は、目的のないまま霧散するものだろう」 「あ」  ……そうか、言われてみればその通りだ。  そもそもどうして、桜という〈聖杯〉《もん》から漏れているモノが、無差別に人を襲っている……? 「どういう事だ。どうしてアレは人を襲う?」 「言うまでもない。聖杯の中には『人間を殺すもの』がいる。そうでなければ説明はつかんだろう」 「な――――――」    人間を殺すもの?  それが聖杯の中にいて、桜を蝕んでいるというのか? 「――――――――」  ……視界が軋む。  そんな馬鹿げたモノ、いる筈がないと否定して、 「――――――――」  それを、俺は十年前に、  この眼で、見上げていたのではなかったか。 「っ――――そ、それこそおかしいだろう……!  聖杯の力が無色の力だって言うなら、初めから『人間を殺す』なんて、目的を持ったモノがある筈ない!」 「ああ。それは本来あってはならぬもの、作られる筈のない矛盾だ。  ―――だが、確かにアレは聖杯の中に潜んでいる。  十年前。私と切嗣が残り、聖杯をかけて戦った事は教えていたな。  その時点で、聖杯の中身は“何か”に汚染されていた。無色の筈の力は、あらゆる解釈をもって人間を殺す方向性を持った『渦』になっていたのだ」 「まあ、それでも“願いを可能とする”程の魔力の渦だ。  願望機としての機能は損なわれていない。  問題があるとすれば、それは悪を以って善を浮き彫りにする、という幸福の有り方だろう。  十年前の火災はそれ故の惨劇だ。  私はそれでも変わらぬと聖杯を認め、切嗣はそのような悪は認めぬと聖杯を破壊した」 「その結果は言うまでもない。私のサーヴァントは汚染された聖杯の中身を浴び、聖杯から漏れた泥は街を燃やし、人を殺めた。  その光景を――――おまえならば知っている筈だ」  ……ああ、見ていた。  確かに、この眼で全ての元凶を見ていたとも……! 「―――じゃあ、あの黒い穴が」 「そう、聖杯という〈門〉《あな》だ。  皮肉な話だ。〈穢〉《けが》れなき最高純度の魂をくべる杯。  そこに一粒の毒が混ざった程度で、穢れなきモノは全て変色した。なにしろ無色だからな。どれほど深遠で広大だろうと、たった一人の、色のついた異分子には敵わなかったという訳だ」 「異分子って……じゃあ、それが聖杯の中身を変色させた原因なのか……?」 「おそらくな。三度目の儀式のおり、アインツベルンは〈喚〉《よ》んではならぬモノを召喚した。その結果、彼らが用意した聖杯戦争という儀式に不純物が混入した。  三度目から四度目の間。五十年の歳月をかけて聖杯の中で出産を待った〈不純〉《ソレ》物は、しかし外界に出る事は叶わなかった」 「四度目の聖杯は狭すぎたのだ。  前回はセイバーとアーチャーが残ったまま期限を迎え、聖杯は完成しなかった。門こそ開いたものの、それは即座に切嗣によって破壊された」 「不純物―――、そいつが黒い影の本体……?」 「そいつ、というのは間違っているな。  黒く染まろうと聖杯の中身は純粋な“力”の渦にすぎない。中にあるものは方向性を持った魔力だ。  『人を殺す』という方向性をもった、それだけに特化した呪いの渦。人間の悪性のみを具現した混ざり気のない魔」 「それが聖杯の中にいる〈現象〉《モノ》―――夜に徘徊する影の本体だ。まだ生まれておらず、間桐桜がいなければ影さえ落とせない“出産予定児”にすぎないが」 「出産予定児だと……? ふざけんな、桜はそんな得体の知れないヤツを産ませられるっていうのか……!」 「いいや。間桐桜が正しく作られた聖杯ならば、たしかに彼女の肉体からソレは現れるだろう。  だが彼女は特別だ。  アレは門である間桐桜を侵食し、門そのものになろうとしている」 「己が誕生。無から有に至るため、彼女に自身の力を受け渡す事で、この世に〈存〉《う》在まれようとしているのだ。  もとより肉体を持たない“力”だ。人間として肉を持つ必要はない。誰かがその力を継承するだけで、それはこの〈世〉《よ》界に存在する事になる」 「聖杯の中身が漏れているのではない。  アレは、間桐桜に浸透する事で誕生しようとしている魔だ。  故に―――あの“黒い影”は聖杯の中身などではない。  アレは既に間桐桜そのものだ。  〈寄り代〉《マスター》への侵食……間桐桜に力の継承が済んでしまえば、彼女自身があの影に変貌する」 「――――――――」  ……待て。  ……ちょっと待ってくれ、言峰。  そんなコト言われても、うまく、考えを纏められない。 「もとより不完全な聖杯。  ……いや、前回の戦いで汚染された聖杯を使用した時点で、彼女はとうに契約していたのだ。  アインツベルンが作った聖杯ならばこのような事にはならなかっただろう。聖杯の中身は呪いに満ちていただろうが、それと適合するだけの依り代ではないのだからな」 「――――――――」  黙れ。  だいたい話が長いんだおまえは。  もっと単純に言えばいい。  例えば、あの影は桜の無意識なんかじゃない。  臓硯はそう言ってやがったが、あの影が人を襲っていたのは、もとからそういう〈力〉《ヤツ》だからだ。    桜は。  桜本人が、望んだコトなんかじゃない。 「聖杯の中で渦巻く呪い。これに適合する聖杯でなければ、あのように呪いがカタチを得る事などなかっただろう。  聖杯の中にいるモノは、自身を確かなカタチに“〈象〉《かたち》どれる”依り代と繋がってしまった。  通常の聖杯……アインツベルン製の黄金や、魔術師の肉体を使った青銅の聖杯ならば象にはならず、不確かなカタチになっていただろう。なにしろ質量を持つほどの呪いだ。場合によっては、ただ増殖するだけの肉の塊になるやもしれん」 「――――――――」  だからそんな、俺たちに関係のない話はいい。  結論を言え。  結論を知れ。  俺はあの影を倒せば助けられると思った。  桜が聖杯に変わりきる前に、黒い影を倒してしまえば助けられると。  だが――――あの影が桜そのものだというのなら、それは。 「呪いは間桐桜という依り代を得た。  なにしろ前回の戦いでこの世に漏れた“触覚”を体に埋め込まれ、魔術回路として育てられた人間だ。間桐桜が聖杯として門を開けば開くほど、中にいるモノと一体化していくだろう。  だが安心しろ。  間桐桜に理性があるかぎり、影は影にすぎない。  いかに呪いが間桐桜を汚染しようと、命令権は彼女にある。彼女が聖杯として門を閉じようとするかぎり、中のモノは間桐桜に宿るだけで、完全には外に出られない」 「マスターとサーヴァントの関係と同じだ。  マスターである間桐桜が許さない限り、サーヴァントである“呪い”はその力を行使できない。どれほど圧倒的な力を持とうと、この主従関係だけは覆せない。  “呪い”がその〈殺人嗜好〉《ほうこうせい》を遺憾なく発揮するには、間桐桜の理性が邪魔だ」 「間桐桜が“呪い”を自らの一部として受け入れるか、それとも“呪い”の魔力量に耐え切れず理性が崩壊するか。そのいずれかを以って、間桐桜が孕んだ闇は誕生する。  彼女は既にあの影そのものだ。もはや聖杯戦争が終わったところで、彼女を元に戻す事はできん」 「――――――――」  それは。    あの影を倒して、その死体を確認した時。    黒い影の下から、桜の体が現れるという事だ―――― 「は――――   、あ」  心臓が、止まるかと思った。  強く、肉を抉るほど胸を押さえて、消えかけていた呼吸を再開させる。 「――――じゃあ。桜を、このまま生かすって事は」 「あの黒い影を羽化させる、という事だ。いずれ彼女の精神は死に、その時こそ地獄が具現する。  いや、あのままでは肉体が耐えられぬと思ったが、よくやったな衛宮士郎。おまえのおかげで、間桐桜はいまだ聖杯として機能している」 「――――!」 「おまえ―――おまえは、桜を化け物にしたいのか……!」 「無論だ。アレがなんであれ誕生する意思があるかぎり、生まれ出ようとするモノを止める事はできない。  そして間違えるな衛宮士郎。  おまえはアレを化け物と言うのか。まだこの世に現れてもいないものを化け物と?」 「当然だろう……! あの影は悪魔だ。今だって際限なく人を殺しまくる悪魔じゃないか……!」 「早計だな。善悪など、所詮発生した後に我々が決める事にすぎん。まだ有りもしないモノを否定する事は誰にもできない。  それともなにか? おまえは犯罪者の息子は間違いなく犯罪者になるとでも言うのか? それ故に、生まれる前に殺してしまえと?」 「な――――」  なにを、馬鹿な。  もとからアレは“人を殺す”ものだろう。  実際、あの影は人を殺しているじゃないか――――! 「それが間違いだ。あの影は間桐桜という依り代から象った影にすぎん。聖杯より生まれ出ようとするものはアレとは違う何かだ。  あの影は間桐桜を使い、誕生の為に人々の命を吸っているにすぎん。ただ生きる事を欲する〈乳飲〉《ちの》み子と同じだ。  無意識である以上、アレの行いに善悪は問えん」 「馬鹿を言うな、実際人が死んでるんだぞ!?」 「そうだな。故に罪も罰も与えられるべきだろう。だがそれはソレが誕生してからの話だ。まだ誰にもアレを否定する事はできん。  孵らざるもの、いまだ世に罪科を問われぬものを、排斥する事はできない」 「よいか。明確な悪の定義など人の世には存在しない。  だが―――それでも、この世に悪があるとするのなら。  生まれようとするモノを止める事こそが、絶対の悪ではないか?」 「――――――――」  ……言葉を呑み込む。  桜を“聖杯の中身”に変貌させる……いや、そうなる事を否定しない、という言峰の言い分を許したワケじゃない。  ただ、今はこいつを糾弾したところで何が変わるワケでもなく、桜が助かるワケでもない。 「―――言峰。アンタの目的は、桜が聖杯に変わる事か」    敵意を込めて問う。  それは宣戦布告にしては遅すぎる、お互いの立場を明確にする為の問い。 「その為に間桐桜を助けた、と言った。ソレが生まれるというのであれば、私はソレを祝福するだけだ。  おまえが間桐桜を擁護するように、私はその胎児を擁護しよう」 「―――そうか。それは、俺たちの敵って事か」 「無論だ。だが、私は間桐桜の命が欲しい訳ではないし、間桐臓硯のように聖杯の力が欲しい訳でもない。  聖杯の中にあるモノ。それが生命として誕生した時のみ、ソレを擁護する。出産の前に〈間桐桜〉《ぼたい》が子を拒むのであらば、そちらの意思を尊重しよう」  ……言峰の言葉に嘘はない。  この神父は聖杯戦争の勝敗などどうでもいいのだ。  欲しているのはその結果。  俺たちと臓硯―――そのどちらかが残って、その後に現れるモノがただ見たいだけ。  桜に無理強いさせて“変貌”させる気などない。  こいつは、俺たちの力が及ばず桜が変貌してしまった時のみ、変わってしまった桜を助けると言っている。 「……わかった。アンタが傍観に徹するんなら俺も手は出さない。理由はどうあれ、アンタは桜を助けてくれた。  ……今は、それだけで充分だ」 「そうか。私が助けたのは母体だが、そう取るのなら口出しはせん。  さて、おまえの用件はこれだけかな。ならば間桐桜の下に帰るがいい。あまり一人にしていい状況ではないだろう」 「………………」  桜の体―――いや、心を気遣って神父は言う。  はっきりと敵対関係になったっていうのに、こいつは相変わらず敵か味方か判らない。 「――――いや。もう一つだけ訊きたい。  ……たぶん、これがアンタに訊く最後の質問になる」 「ほう。最後ならば無碍にはできんな。いいだろ、訊こう」 「――――言峰。桜は、助けられるのか」  ……空気が変わる。  神父は、身に纏った重圧を更に増して、敵である俺に助言をした。 「手はある。だが半々というところだ。  聖杯として完成すれば、間桐桜という人格は消え去るだろう。だが、聖杯が放つ“力”に彼女の精神が少しでも耐えられるのなら―――その僅かな時間が希望になる」 「おそらく、〈保〉《も》って数秒。  その合間に聖杯を制御し、その力を以って彼女の内部に巣食うものを排除する。  要は力ずくだ。間桐桜を聖杯に仕立て上げる刻印虫も、彼女の肉体を依り代にするモノも、聖杯の力で『殺して』しまえばよい。  汚染されたとは言え、聖杯は願望機としての機能を保っている。その用途が『殺害』に関する事ならば、それこそ殺せぬ命はない」 「――――結局〈聖杯〉《それ》か。初めから、この戦いは」 「そう、聖杯を手に入れる事に集約される。  だが注意しろ。聖杯の力を聖杯そのものに向けるのだ。  並大抵の魔術師では魔力を制御できず、しくじれば十年前の惨劇を繰り返す事になる。  それだけではない。わずか数秒で聖杯を制御するなど狂気の沙汰だ。おまえ一人では、どうあっても成しえない奇跡だぞ」 「……ふん。けどそれしかないんだろう。ならやってやるさ。それにそういう事なら、こっちだって少しはアテがある」 「なるほど、おまえには凛がいたな。  凛は間桐桜の姉だ。妹の精神に同調し、聖杯からの反動を和らげる事も容易だろう。  もっとも、そんな馬鹿げた賭けに〈凛〉《あれ》が賛同するとは思えないが」 「――――――――」  ……そりゃもっともだ。  帰ったらまずいの一番に、遠坂を説得して方針を変えさせなきゃいけない。 「いいさ、そんなのはこっちの苦労だ。  じゃ、あばよ。癪だけど世話になった。アンタの言い分は認めないけど、礼は言っとく」 「待て。質問に答えたのだ、私からも一つ訊きたい事がある」 「――――――――」  去ろうとした足を止める。  ……気に食わないが、それでこの借りが帳消しになるなら安いものだ。 「なんだよ。最後にするって言ったのはアンタだろ。手短に済ませてくれ」 「なに。万が一、今の方法で間桐桜を救えたとしよう。  だが、おまえはそれでいいのかな衛宮士郎。間桐桜が聖杯でなくなったとしても、彼女が既に“人食い”である事に変わりはない。その罪人を、おまえは擁護するというのか?」 「――――――――」  止まった。  今度こそ、心臓が凍りついた。 「耐えられぬのはおまえだけではない。  彼女は多くの人間を殺した。間桐桜自身、そのような自分を容認できるとは思えんが」 「――――――それは」 「罪を犯し、償えぬまま生き続けるのは辛かろう。ならば一思いに殺してやった方が幸せなのではないか?  その方が楽であり、奪われた者たちへの謝罪にもなる」 「――――――――」  ……そうだ。  連鎖はそれで終わる。  本人の意思でなかろうと関係ない。  どんな理由があろうと、加害者は罰せられなくてはならない。  命を奪ったのなら―――それと等価のモノを返さなければ、奪われた者は静まらない。  だから殺せと。  失われた者にすまないという気持ちがあるのなら、当事者である桜を殺せと、あらゆる常識が訴え続ける。  それだけじゃない。  結局桜を救えず、桜が聖杯になってしまえば、もう歯止めは効かなくなる。  今よりもっと、何十倍もの命が失われる。    あの日と同じ。  無関係な人間が、死の意味も判らぬまま、一方的に死んでいくのだ。  せり上がった胃液を飲み下す。  充血する眼。  眼球から血液さえこぼれだしそう。  ―――その圧迫を、それこそ、何千という剣で斬り殺して、   「――――ああ。けど、それは償いじゃない」    それでも、桜を守ると告白した。 「―――そうか。衛宮切嗣の跡は継がないという訳か」    淡々とした声。  神父は失望したように、つまらなげに俺を見る。 「〈切嗣〉《オヤジ》の、跡だと……?」 「そうだ。おまえの父親は、人間を愛していた。  より高く、より遠く、より広く。際限なく限界を切り開く人間を愛し、その為に、自身を絶対の悪とした。  あの男ならば――――やはり、間桐桜を殺していただろう。ヤツは正義とやらの為に、人間らしい感情を切り捨てた男だからな」 「……それは、アンタとは違うのか。  正義の為に―――多くの幸福の為に、一人の人間の幸福を切り捨てると」 「―――いや。おまえたちが幸福と呼ぶものでは、私に喜びを与えなかった」 「え……?」  返答になっていない。  いや、そもそも。  淡々と語る神父は、俺を見てさえいなかった。 「そう、違ったな。  ヤツは初めからあったモノを切り捨て、私には初めから、切り捨てられるモノがなかった。  結果は同じながら、その過程があまりにも違ったのだ。  ヤツの存在はあまりにも不愉快だった。ヤツの苦悩は明らかに不快だった。  そこまでして切り捨てるというのなら、初めから持たねばよい。だというのにヤツは苦悩を持ち、切り捨てた後でさえ拾い上げた。それが人間の正しい営みだというように」 「その違いこそが決定的だった。そう。初めから持ち得ないのなら。何故、私はこの世に生を受けたのか」  神父の独白は、誰に宛てられたものでもない。  ……ただ、今の言葉には怒りがあった。  この男にはないと思っていた、本当の感情が込められていた。 「……ふん。それを思えば、おまえに切嗣の跡など継げる筈もなかった。ヤツは切り捨てる事で実行したが、おまえは両立する事しか実行できない。  おまえは私と似ている。  おまえは一度死に、蘇生する時に故障した。後天的ではあるが、私と同じ“生まれついての欠陥品”だ」 「……故障って、どこが壊れてるっていうんだ」 「気付いていないだけだ。  おまえには自分という概念がない。だがそのおまえが、まさか一つの命に〈拘〉《こだわ》るとはな。いや、それとも―――」    多くの命に拘る、のではなく。  一つの命に拘るが如く、全ての命に拘ったのか。    ――――そう。  どこか羨むように、言峰綺礼は独白した。 「―――まあいい。その上で間桐桜だけを救うのなら止めはしない。背負いたいだけ罪業を背負うがいい。  最後に忠告をしよう。  どのようなカタチであれ間桐桜を救いたいのであらば、間桐臓硯を殺す事だ。ヤツは間桐桜の精神が消え去った後、空になった肉体に乗り移る。そうなっては、間桐桜を取り戻す事もできなくなる」 「の―――乗り移るって、桜に、臓硯が!?」 「そうだ。アレの本体は人体に寄生する蟲だからな。魂の容器にあたる脳虫が何処に潜んでいるかは知れんが、ソレが生きている限り人体の乗っ取りは易い。  間桐臓硯はある意味不老不死だ。魂を世に留めている手のひらほどの〈本体〉《むし》を探し出すか、魂そのものを浄化させなければ完全には滅ぼせん」 「―――そうか。逆にスッキリしたよ。どのみち、臓硯は倒さなくちゃいけないって事なんだからな」 「フッ。なるほど、確かに判り易いな。  間桐臓硯を倒し、間桐桜を勝者にする。その後に現れる聖杯を制御し、間桐桜の身体を洗浄する。方針としてはそんなところか」  癪だが、ああ、と頷いた。  言峰の言う通り、方針はシンプルな方がいい。 「これは私見だがな。間桐桜の精神は存外に強く、聖杯の“呪い”に適合しすぎている。  凛が陽性だとしたらアレは陰性なのだろう。間桐臓硯に落ち度があったとしたらそこだ。あの黒い影は、臓硯の予想を超えて間桐桜を成長させてしまった。〈臓硯〉《アレ》がおまえに手を出してきたのはその為だろう」 「―――間桐桜を守るがいい。  羽化に耐えられるのであらば、母胎とて死にはすまい」    言葉は返さず、頷くだけで応える。  言峰の目的は桜の変貌だ。  だが、それでも臓硯に比べれば幾分マシだ。 「言っとくが、アンタの出番はない。そんな得体の知れないモノを羽化なんてさせるものか」 「その意気だ。決して、臓硯にだけは手渡すな」  ふん、と鼻を鳴らして背を向ける。  ―――この場所に用はない。    早く、桜の下に帰らないと。   「ずいぶん遅いお帰りじゃないか、ええ!?」 「っ……!」    仮面がはげ落ちた、兄だった男の形相。  これまで兄を装ってきた、貼り付けたような笑みは、既に跡形もなくなっていた。   「この裏切り者……間桐の面汚しが……!」    喚きながら迫る。  男は少女を陰湿にねめつけ、緩慢だが重圧感を伴った足取りで迫る。   「っ――――!」    びくん、と少女の顎が上がる。  明らかな憎悪――――殺意じみた感情が、自分に向けられている事を少女は悟る。     「は―――そうだよな、おまえはそうでなくっちゃ!  そうだ、どんなに普通の人間の装っても変わらない。  おまえは間桐の女だ。卑しい魔術師くずれ、恐れ、怯え、やがて感情をなくし人形と変わらなくなる!」    男は荒々しく、更に少女へと歩を進める。   「んっ……! だ、や――――」    後ずさる。  久しく忘れていた優越感に、男は笑みを浮かべた。    だから、その瞬間まで気付かなかった。  彼の眼前で怯える少女には、今までのような従順さはない。  顔を背け、体をねじる少女の反応には、もはや嫌悪と抵抗しかない事に、男だけが気付かない。   「なんだ、今日はずいぶん元気じゃないか。……そうか、そうかそうか、そりゃあいい!  衛宮もいまごろ落ち込んでるだろうな!」 「だめ――――止めて、近寄らないで、兄さん……!」    少女は全力で、殺気に満ちた男を拒絶した。   「――――は?」    男の動きが止まる。  伸ばしかけた手が僅かに下がり、男は何か、奇怪なモノと対峙したように、少女を見下ろした。   「なんて言った? いま、おまえなんて言った?」    呆然とした声。  少女はごくりと喉を鳴らして、ありったけの勇気を込めて男を見つめ返す。   「―――ち、近寄らないで、と言ったんです。わたしは、これ以上兄さんの言いなりにはならない。  ……先輩。先輩は、こんなわたしでも受け入れてくれた。わたしを守るって言ってくれた……! わたしは兄さんの玩具じゃない。わたしはもう……!」    少女は必死に、男の重圧を跳ね退けようとする。   「――――――――、んな」    空洞のような声。  男は、後ずさりする少女を見下ろし、   「―――ふざけんな。ふざけるな、ふざけるな、ふざけるなこの――――!」    その場でありったけの激情をぶちまけた。   「衛宮だと……!? 僕の言いなりにはならない……!?  勘違いするな、何様のつもりだおまえ! 決めるのはいつでも兄である僕だ、おまえは今まで通り、ただ黙って従えばいいんだよ……!」    堰の壊れた激流を止める手段はない。  これまで絶対に裏切らなかったものに逆らわれた男には、まともな理性など残ってはいない。   「訂正しろよ桜! おまえは僕のものだ、他の誰のものでもない……! 身のほどを弁えろ、おまえは間桐の女だ……! なら、おまえには僕に逆らう権利なんてこれっぽっちもないんだよ……!」    男の憤怒は止まることを知らない。   「           」    少女はその瞳は強い意志を以って、男を咎めている。    少女の目があまりにも腹だたしかった。  自分をまっすぐに見つめてくる目がイヤだった。  だが同時に、その無力な抵抗を、彼は笑った。    笑う。  笑う。  楽しげに兄は笑う。   「――――――――」    それで、心底理解してしまった。  この人が何を考えているか。  ……もう、どうあっても。  この人は、自分が面白がるためだけに、わたしを台無しにする気なんだ、と。   「―――――――なん、で」    声が漏れた。  なんで、いつもこうなるんだろう。  ずっと色々なことに耐えてきた。  嘘をついて、人に嘘をついて、自分にも嘘をついて、こんな自分でも幸せになれるんだって言い聞かせてきた。  先輩の家にいられるだけで、幸福なんだって思ってきた。    だっていうのに。  どうして、この人はそんなコトも守ってくれないんだろう。   「――――――――」    ……いや、守ってくれないのはこの人だけじゃない。  ずっと前から思っていた。  ずっと前から恨んでいたんだ。  なんで。  なんで―――なんでわたしの周りにある世界は、こんなにも、わたしを嫌っているんだろう、と――――   「――――」    力が入らない。  抵抗する気力がなくなって、そんな自分を、兄である男は満足げに見下ろした。   「は――――はは、はははははははははははははは!」  勝ち誇り、ドス黒い感情をむき出しにした男を、少女は虚ろなままぼんやりと見上げ。   「――――こんな人、いなければいいのに」    十一年間。  一度も思わなかった事を、思ってしまった。   「――――――――」    ぱしん、と空気が鳴った。  圧し掛かっていた男が倒れる。  降りかかる鮮血。  少女は体を起こして、物言わぬ兄を見つめた。   「――――――――あ」    即死だった。  ものすごく鋭利なヒモで、ぱしん、と頭を叩かれたのだろう。  後頭部にはペンシルで引いたような線だけがある。  線は脳にまで達し、けれど細すぎる傷口は中身を零すことはせず、赤々とした筋だけを流している。   「――――――――、あ」    それを無感動に見下ろした。  兄を殺した影が揺らめいている。  灰色の陽射しを受けて揺らめいている。  自分の。  陽に当たる自分の影が、のっぺりと立ち上がって揺らめいている。   「――――――――、ああ」    だから殺したのは自分だ。  兄を殺したのは自分だ。  それが理解できるのに、少女は何も感じていない。  何も感じない。  何も。  何も。  何も。  嫌悪も恐怖も、罪悪も後悔もない。  からっぽの心に浮かんだものは、ただ、簡単だった、という事だけ。   「――――――――ああ、あ」    手馴れている。  こんなこと、これが初めてじゃない。  だっていくらでも夢で見た。  夢で見たから――――夢で見たから、見様見真似でやってしまった、んだろうか。   「――――――――あ、は」    よくわからない。  でも、こんな事ならもっと早くやればよかった。  何も感じないのなら、もっと早くやればよかったのだ。  そう、少女は思い。   「――――――――ふ――――――――ふふ」    何もない筈の感情が、楽しかった、と呟いた。    楽しかった。  楽しかった。  楽しかった……?  楽しいんじゃなくて、楽しかった……?            それは何時。     何処で。     何を。    夢。  夢。  そうだ、わたしは夢なんか見ていない。    あの夢は、そう――――    夢なんかじゃない。  夜な夜な街を徘徊して、いい寄る男の人たちを殺していたのは、紛れもなく自分自身。  そう、いっぱいころした。  いっぱいいっぱいころした。  わたしが、わたしが笑いながらコロシタんだ……!!   「――――あは。あはは。あははは」    おかしくて笑う。  だって、笑わないと壊れそうだ。  笑っていないと耐えられない。  けど笑えば笑うほどボロボロと崩れていって、涙が止まらなくて、何もかもがどうでもよくなっていく。   「はは! あはは、はははははははははははは!」    おかしくておなかが痛い。  笑えば笑うほど馬鹿になっていくみたい。    でもそれがとても楽で、とてもとても自然に映る。    ああ、なんてバカらしいバカらしい愚かな自分……!   「――――ふ――――ふふ、あ」    ひきつった笑み。  もう動かない兄に代わって、少女は可憐に、クスクスと硝子のような声を零す。    ……そうして。  兄の体をままごとのように沢山、色々といじったあと、少女はベッドから立ち上がった。  血に濡れた姿のまま姿見の前に立つ。    ―――その後ろには、多くの人間を殺してきた影が立っている。    自分の影。  もう、何十人という人間を食べてきた〈自分自身〉《くろいかげ》。  いつかそうなってしまわないように必死に自分を抑えて、  そうならないようにと傍にいてくれた誰か。    笑ってしまう。  そんなもの、初めから全部無駄だった。   「――――なんだ。少しずつおかしくなってたんじゃないんだ」    くるり、と姿見の前で回る。  少女は誇らしげな微笑みを浮かべ、   「―――見てください先輩。わたし、最初から壊れてたんです」    そう、ダンスを求めるように語りかけた。    少女の意識はそこで終わった。  いや、正確に言えば代わった。  いままでフタをし続けた無意識が、ただ表層に浮かび上がっただけの話。    その少女に語りかけるものがある。  少女の背後。  闇は闇のまま、気配だけを現して少女を見つめる。   「――――多くの人間を殺したな、桜」    少女は答えない。  そんな事は、もう頷くまでもない。   「―――おまえは、もはや人として生きられぬ」    少女は答えない。  そんな事は、もう言われるまでもない。   「―――さあ、その影を受け入れるがいい。おまえを止められる者はおらぬ。アインツベルンの娘を奪い、聖杯を手に入れよ。もはや、おまえにそれ以外の生きる術はない」 「――――はい。仰せのままに、お爺さま」    静かに頷く。  それが楽しそうだから頷いたのか、  それともただ逃げたかっただけなのか。    少女には、もう自分の心も判らない。    ただ、受け入れた途端、あれだけ苦しかった体が嘘のように楽になった。  ……這い上がってくる。  体の芯から、黒い泥が肌を塗りたくっていく。  痛みは炎になって、少女の肌を焦がしていく。  それは呪いのように。  少女の白い肌を、違うモノへと変えていく。   「――――ああ、これなら」    きっと、誰にも負けない。    もう誰にも邪魔されない。  断言できる。この戦いにおいて、一番強いのは自分だと。  少女は自らを脅かし続けたモノたちを想像の中で倒していく。   「ん――――」    ぶるり、と体が震える。  そのイメージ、想像上の行為だけで歓喜に満たされる。    ……その中で。  何度も何度も現れたのは、遠坂凛という名の、彼女が最も敬愛する肉親だった。 「――――くそ、何が起きてる……!」    〈庭〉《そこ》で何か起きている事は明白だった。  吐き気がする陰湿な魔力が、触れられるほどに渦を巻いて外に溢れ出しているのだ。  そんなもの、魔術師でなくとも異常を感じ取れる。 「な――――」  覚悟していたとは言え、一瞬、その光景に目眩がした。  コールタールのような影に覆われた遠坂。  庭の端に佇むイリヤと、イリヤの前に立つ黒いセイバー。  そして、中庭の真ん中で、遠坂に掌を突き出している桜の姿―――― 「桜――――!!!!」  中庭に飛び込む。  ―――どれもが放っておけないが、今は遠坂が一番危ない。  コールタールに包まれた遠坂は顔面蒼白で、一秒でも早く手当てをしなければ危うく見えた。 「遠坂……! おい、しっかりしろばか……!」 「――――――――」  抱き上げても返事はない。 「く、待ってろ、すぐ剥がしてやるこんなの……!」  遠坂を覆う泥を剥がす。  が、泥は液体のクセに、弾力のあるゴムそのものだった。  掴んでも掴めないし、剥がしてもすぐさま元に戻ってしまう……! 「っ……! なんだこれ、遠坂には触れるのに、どうして……!」  なにをやっても泥は剥がれない。  混乱して、錯乱しそうな頭で遠坂から泥を引き剥がす。  そこへ、   「―――無駄ですよ先輩。わたしの影はわたししか解呪できない。先輩程度の技量じゃ逆に取り込まれてしまいます」   「――――桜?」  俺の知らない、冷め切った声で桜は言った。 「桜――――その、顔」  千々に乱れていた思考が止まる。  ……桜の首筋。  そこから何か、刺青のようなものが侵食している。  あれは―――とてもそうは見えないが、令呪だ。    桜の体に、得体の知れない令呪が蠢いている――― 「……驚いたなぁ。よっぽど急いで来たんだ、先輩。  けど、やっぱり慌ててるんですね。兄さんがどうなったのか見てきたのに、わたしを叱らないんだもの」 「っ――――それは、いい。慎二の事は、今は話さなくていい。桜が落ち着いてから、ちゃんと話を聞く」  ……そうだ。  今は桜と話をしないと。  臓硯はふざけた事を言ってやがったが、あんなのは嘘だ。  桜は桜のままだ。  こうして、ちゃんと俺と話をして、いつも通り――― 「いいえ。わたしはそんな話はしたくないし、先輩とも話したくない。喋るのはわたしだけでいいんです。  先輩も姉さんも、兄さんも町の人たちも、もう、わたしに口を出すコトなんてできないんだから」 「っ――――」  ぞくん、と背中が総毛だった。  いや、今のは寒気なんてもんじゃない。  延髄から尾底骨まで、ぎちり、とナイフで裂かれたような極寒の棘―――― 「それより先輩。なんで、姉さんを庇うんですか」   「――――――――」  一瞬、目の前が真っ白になった。  桜の背後に立ち上がる影。 「あ――――」  悪寒は背中ばかりか、全身を恐怖で凍らせていく。  アレは、桜だ。  あの“黒い影”は桜なのだと聞かされてもまだ耐えられた。  だが、こうして目の当たりにして、判ってしまった。  ……為す術もなく、触れられただけで溶けていった左腕。  感情などなく、機械が行う作業のように街の人間を殺してまわったものが――――桜、だった。 「さく、ら」  喉が干からびる。  眼球は痙攣し、  空間が捩じれたように視界が歪む。  全身の細胞が警告を発し、必死に、怖れで凍りついた体を解凍しようと努力する。  だが溶けない。  桜の気配。もはや人ではないモノ、桜ではない何か別のモノ。  その膨大すぎる魔力に呑まれた訳じゃない。  体を凍らせるのはただ一つ。    桜は本気で――――俺に、殺意を向けていた。 「そう、いつもそうでした。わたしを守ってくれるって言ったのに。先輩は、わたしだけを見てくれなかった。  ―――でもいいんです。そういう人だから、わたし、先輩が欲しかった」  ――――視界が歪む。    俺の知らない桜の言葉に、思考がところどころ崩れていく。    違う、と。  ――――アレは桜ではないと。  思ってはいけない事が、脳裏を埋め尽くした。 「先輩、わたしといると苦しいでしょう?  先輩にとって、わたしがどれだけ重荷なのかよく分かっています。先輩はわたしといるかぎり、ずっと苦しみ続けてしまう。  だからわたし、先輩の前から消えないといけなかった」    影が踊る。  中庭の地面は、それこそ影絵の舞台のようだ。 「けど、できないんです。わたしにとって、嬉しいことは、先輩だけだから。  それに先輩だって、わたしからは離れられない。先輩はこれ以上、自分を裏切ることができないから」 「……ええ。だから、殺してあげます。そうすればずっと傍にいてくれるし、なにより――――  先輩は、もう苦しまなくていいでしょう?」    ――――影が伸びる。  遠坂もろとも、俺を呑み込もうと波と化して降りかかってくる。  ボロボロの思考のまま、遠坂を弾き飛ばした。  頭上から黒い波が落ちる。  自分が避ける事は考えつけなかった。   「――――――――」    俺は怯えた。  一瞬でも、桜を桜ではないモノだと思ってしまった。  その事実が、体に避ける事を命じなかった。    ―――知っている。    これは以前浴びた闇だ。  きっと砕ける。あの時は一秒も耐えられなかった。  それがこんな、真っ白のまま浴びたのならからだの前に心が消える。           「ご――――あ」  体が〈萎〉《しぼ》む。  体温がまたたくまにゼロになっていく。  それが思いのほか苦しく、恐ろしかったから、外に出たいと体が動いた。    だが跳べない。  そもそも蹴るべき地面がない。  俺は、このまま   「ぁ――――え?」  気がつくと中庭にいた。  俺の前には、視界を覆うほどの紫の髪がある。 「……ライダー、貴女」 「これは貴女の命令です、サクラ。何があっても、エミヤ士郎を守れと」 「――――ライ、ダー」  黒い波から俺を助け出したのはライダーだった。 「動かないように。その体で立ち上がれば意識が途絶えます」 「――――」  ……いや、立ち上がるどころの話じゃない。  こうして膝をついていても、息を吸うたびに意識が落ちかける。 「………そう。わたしに逆らうのねライダー。  なら、貴女も取り込みます。予定外のモノを摂ったから、これ以上サーヴァントは要らないのだけど―――  貴女は、特別にセイバーと同じにしてあげる」    ……影が立ち上がる。  ……ライダーの裏切りで本気になったのか、桜から広がる影は中庭を覆い尽くす。  ……周囲はとうに黒く染まっていた。  ライダーは逃げる素振りも見せず、処刑を待つ罪人のように、這い寄る影を正視する。           「そこまでよ。余計な事はしない方がいいわサクラ。  ―――貴女、これ以上取り込むと戻れなくなるから」 「――――イリヤ」    影の侵食が停止する。   「……それはどういう意味ですか、イリヤスフィール」 「言葉通りの意味よ。ライダーを取り込んでもシロウを殺してもリンを再起不能にしても、今のサクラには意味がないってコト。時間の無駄だし、八つ当たりはそのあたりにしておいたら?」  ……何のつもりなのか。  イリヤは自分から桜へ歩み寄っていく。 「――――――――」 「サクラはわたしが目的なんでしょ。なら早く済ませましょう。大人しく一緒にいってあげるから、あんなの放っておきなさい」 「正気ですか? わたしが欲しいのは貴女の心臓だけ。  わたしと来る、という事は殺されても構わない、という事です」 「そんなの判ってるわ。けどどっちにしたって殺されるんだし、抵抗しても無駄でしょ。とりあえず、〈今は〉《・・》サクラが一番強いんだし」  淡々とイリヤは語る。 「――――――――」  ……頭にくる。  こんな体じゃ、意識を総動員しても、イリヤが何を言いたいのか、読み取れない。 「じゃあ、自ら生贄になると言うの、イリヤスフィール」 「ええ。それがわたしの役割だもの。  けど正装はここにはないの。サクラが後継者として門を開きたいんなら、わたしの城まで取りに行かないと」 「――――――――」 「それに、サクラは決着をつけるコトにしたんでしょう?  ならシロウを殺す必要はないじゃない。  誰も殺したくないから受け入れたのに、今はもうみんなを殺したくて仕方がないなんて、矛盾してるわよサクラ」 「――――――――っ」    ……影が引いていく。  中庭に満ちた影だけでなく、遠坂を覆っていた泥も、初めから存在しなかったかのように薄れていく。 「……いいでしょう。自分で探す手間が省けますから。  どんな思惑かは知らないけど、貴女の口車に乗ってあげます」    長い髪が揺れる。  桜は俺とライダーから興味を失ったように、無防備な背中を見せて去っていく。 「――――桜…………!」  膝をついたまま、遠ざかっていく桜を呼び止める。 「……………………」 「……もう、わたしの前に来ないでください。  先輩を前にしたら、わたし――――先輩を、殺すしかない」  桜が遠くなっていく。  俺は追いかける事も、呼び止める事も出来ず。 「サクラの言う通りよ。シロウの出番はこれで終わり。  後の始末はわたしの役目だもん。サクラはわたしが連れて行くから、シロウはもう休んでいいよ」      イリヤまで、助ける事が出来ないまま、           「―――じゃあね。今まで楽しかったよ、お兄ちゃん」        そんな、悲しい別れを聞いた。 「――――――――」  それで全てが解凍した。  “黒い影”を前にして震えていた体も、  桜を別人だと思ってしまった負い目も消え去った。  頭にくる。  情けなくブルって、桜の手も引っ張れなかった。  それだけじゃない。    あげくに―――兄と呼んでくれたイリヤに、俺はあんな顔をさせやがった――――! 「馬っ鹿野郎――――!」    走る。  全身鉛、吐き気と悪寒で脳みそがぐるんぐるんの状態で、遠ざかっていく二人を追いかける。 「――――追うな。それ以上進めば殺す」 「っ………!!!!」  立ちはだかる黒いサーヴァント。  終始無言だった彼女は剣を突きつけ、静かに俺たちを圧倒する。 「……退いてくれセイバー。あのまま二人を行かせる訳にはいかない」 「それはこちらの台詞だ。このまま貴方に追わせる事は出来ない。……それに。仮に私が退いたところで、今の貴方に何が出来る」 「――――――――」 「……これは最後の忠告だ。どのような形であろうと、桜は聖杯を手に入れる。それだけが桜を解放する手段だ。  その結果が彼女の死であったとしても、それで間桐桜は救われる」 「桜を助けたいのなら手を引け。  だが、それでも追ってくるというのなら―――その時こそ、その首を叩き落とす」  ……黒いセイバーの姿が消える。  桜とイリヤの姿もない。  二人は桜の影に沈むように、俺の視界から消え去っていた。 「――――――――く」    体を動かしていた気力が途絶える。  手足は、糸の切れた人形のように地面に落ちる。   「――――――――そ」    ……意識が続かない。  暗くなっていく視界のなか。    影に呑まれていく桜の姿が、俺を弾劾するように、目蓋に焼き付いて離れなかった。 「――――ふう」  カタン、と空になったお茶わんを置く。  が、食卓にはおかずが丸々残っている。  ご飯とみそ汁を味わうだけで精一杯で、他の料理にまで意識をさけなかったからだ。  だが仕方あるまい、許せ桜。  今はとにかく席を立って、部屋で落ち着く時間が欲しいのだ。 「…………先輩。あの、今朝のは口に合いませんか?」 「―――――――う」  戦略的撤退、失敗。  俺一人気付いていないだけで、とっくに退路はなかったらしい。 「………………」  無言でお茶わんを差し出す。 「はい、御代わりですね! いっぱい作りましたから、たくさん食べてください」  ……山盛りで返ってくるお茶わんを受け取って、朝食を再開する。 「――――――」  ……仕方ない。こうなったら覚悟を決めよう。  一人で顔を赤くしてるのも我慢するし、桜の一挙一動に目がいってしまうのも言い訳しない。  けど、いくらなんでもだな、   「―――桜。ちょっと、彼女は問題があるんじゃないのか」 「? 先輩、問題ってなんですか?」  不思議そうにこっちを見る。  つまり桜は、  こう、隣に無言で座っているライダーを、不思議に思っていないらしい。 「だから、問題っていうのは」  ちらり、とライダーに視線を送る。  それでこの場での不釣合いさに気付いたのか、   「私に気を払う必要はありません。食事を続けて結構です」    桜に負けない優雅さで、そんなコトを言いやがった。 「え? 先輩、彼女のコトが気になってたんですか?」 「そのようですね。確かに、彼とは何度か争った仲です。  食事の場に仇敵がいては落ち着かないのでしょう」 「そんなことないです。先輩、ライダーを恨んでなんかいないもの」 「――――――――」  ……困った。  恨んではいないが、A+がつくほど苦手な部類なんだ、桜。 「……どうでしょうか。  彼の食事が進まないのは私がいるからのようです。目に付くというのなら席を外しますが」 「だから、そんなコトないですっ。ね、先輩はライダーがいてもかまいませんよね?」 「………………」  困った。  困ったので、ここは――――   「……分かった、本当の事を言う。  けどその前に断っておきたい。俺はお世辞もご機嫌とりもうまくできないから、そのあたり配慮してくれると助かる」  じっと、真剣にライダーを見据える。  相変わらず何を考えているか分からないヤツだが、俺が真剣だってコトは分かってくれてるようだ。 「はっきり言うぞ。俺はライダーを恨んでなんていないし、一緒にメシを食うのだって構わない。ただ苦手なだけで、ライダーの事は、かなり好きだ」  ぐっと緊張を押し殺しながら明言する。 「―――まさか。貴方は私が恐ろしくないのですか?」 「そりゃおっかない。おっかないけど今は味方だろ。  アンタには一度助けられてるし、学校の時だって桜を守る為に戦ったんだ。そんなアンタを嫌いになれるワケがない。……その、ホントに苦手なんだけどな」 「……私には理解できない。ですが嘘をついているようにも見えない。……もう一度訊ねますが、私が恐ろしくないのですか?」 「だから怖いってば。アンタがどれだけ物騒なサーヴァントなのかは身にしみてるからな。  ……けどまあ、根はちゃんとしてるっていうか、どことなく桜に似てるんだよライダーは。だから信用できるし、これからも桜を守ってやってほしい。苦手だけどな」  うう……なんか、これじゃ告白してるみたいだ。  目が合ったらまた同じ質問を返されそうだし、ここはそっぽを向いて誤魔化そ――――    …………って。  しまった、桜の前でなに言ってんだ俺……! 「桜。違うぞ、今のは好きか嫌いかの話で、別にそういった話じゃ」 「知りません。先輩が浮気性で、キレイな女の人に弱いってコトは分かりましたけどっ」 「む」  すごい。  こんな、あからさまに不機嫌な桜を見るなんて初めてじゃなかろーか? 「待て桜、落ち着け。ライダーが好きだっていうのは人間として好きだってコトで、別に女の人だからってワケじゃないぞ。桜だってライダーのことを信頼してるんだろ。それと同じだ。  だいたいな、キレイだって言うけど俺にとっては桜の方がキレイであって、桜に比べたらライダーなんて、」  ちょっ……な、なんかいま、ライダーから凄い殺気を、感じたんですが……! 「―――その、負けないぐらい美人なワケで、どっちがキレイだとか、そういう見方はしちゃいけないと思う」  ……まずい。  なにか口にすればするほど、のっぴきならない事態を招いている気がする。 「―――やめよう。こういう話はうちの食卓に相応しくない。話題の切り替えを提案する」  両手をあげて意見をアピールする。  見ようによっては万歳降参している風味。 「いいえ、話は終わっていません。いい機会ですから先輩の本心を追及したいと思います」 「サクラに賛成します。私としては小事ですが、物事は明確にするべきです」  ずい、と二人して身を乗り出してくる。 「先輩。わたしとライダー、どっちが好みなんですか?  先輩の気持ちなんですから、分からないなんてコトはない筈ですっ」  あ。 「サクラの言う通りです。私としては小事ですが、貴方の答えには興味がある」  う。   「「さあ、答えを口にしてください」」    どたん、と背中が壁に張り付いた感触。  退路はなく、口を開けた瞬間、どっちかの怒りを買うのは目に見えてる。 「う……ぐ」  が、問題はそんな刹那的なコトではない。  今回判明した事実は、この先ずっと続いていく。    ……桜とライダー。    女同士の連帯感というか、この二人、ほんっとーに似たもの同士だったんだ……。    ……言い辛いが、ホントのコトだ。  今後の事もあるし、ここははっきり断っておいた方が誤解を生まないだろう。 「……わるい、正直言うと苦手だ。嫌いってワケじゃないんだが、どうも緊張する」  空気が重くなる。  ……桜が気を遣ってくれたっていうのに、これじゃますますライダーと〈軋轢〉《あつれき》が出来て―――― 「サクラ、貴女が気に病む事はありません。彼の反応は当然ですから」 「え……ううん、違うのライダー、先輩はまだ慣れてないだけで、すぐに」 「ですからいいのです。私としては今の反応こそ安心できます。彼は真実を口にしている。  ……ええ。貴女の言う通り、嘘のつけない人物ですね」 「――――――――」  驚いた。  ライダーのヤツ、あんな優しく笑えるのか。 「エミヤシロウ。もう一度訊ねますが、私に敵意はないのですね?」 「ああ。苦手なだけでアンタを嫌ってるワケじゃない」 「結構です。今後もそのスタンスを保ってください。  私はサクラのサーヴァントです。常にサクラを優先し、場合によっては再び貴方を襲う。警戒しあうのは互いの為になるでしょう」 「ラ、ライダー……! やめて、先輩はわたしの大切な人なんだから、そんな風に言わないで……!」 「……そうですね。貴方を襲う、というのは撤回します。  貴方がサクラを守るかぎり、私たちは協力者です。今後ともよろしくお願いします」  ぺこり、と慇懃に頭を下げるライダー。 「――――――――」  彼女の言い分は分かった。  相変わらずいつ敵になるか分からないヤツだが、桜を守ろうとする意思は信じられる。 「わかった。お互い、なんとかうまくやっていこう」 「ええ、その方がサクラも喜びます。私は影に徹しますので、貴方は日の当たる場所でサクラを守ってください」  淡々と語るライダー。  それきり会話は途絶えて、なんともいえない雰囲気のまま食事が再開された。  ……ふむ。  正直に言えば苦手だ。  苦手なんだが、ライダーが味方だってコトはもう判っている。    俺が落ち着かないのはライダーがいるからじゃなく、つまり―――― 「ライダー、朝飯食わないのか。俺と桜が食べてるのに、一人で正座してるだけってのは居づらいだろ」    その、ライダーを断食させているようでバツが悪かったのだ。 「食べません」  あ。あいつ、なんか怒ってるぞ。 「なんでさ。サーヴァントだって腹は減るんだろ。セイバーは黙っててもよく食べたぞ」 「彼女は私たちとは別です。私は人間としての栄養摂取に興味はありませんし、それに―――貴方たちの作法は、私には合いません」 「なんだ。箸が使えないなら使えないって言えばいいのに」 「え、先輩?」 「ちょっと待ってろ。ライダー用の食器とスプーンを取ってくる」 「! ―――そうですね、それじゃわたしはオムレツを作ります。それぐらいだったらすぐですよね?」 「サクラ」 「いいからいいから。ライダー、ご飯食べるの初めてでしょ? これからライダーにはお世話になるんだから、せめてこれぐらいさせてください」  嬉しげに言って、桜も台所に入ってきた。 「なんだ。どうせだからスープ作るか? コンソメ余ってただろ」 「あ、いいですねー。トマトも余ってますし、パパッとやっつけちゃいましょー!」  ……と、なんだかんだとライダーの分の食事を作りだす桜。  ライダーは居間から、嬉しそうにはしゃぐ桜の姿を見守っていた。  朝食が終わって、時刻は午前九時になった。  学校は欠席した。  事がここまで深刻になった以上、聖杯戦争が終わるまで学校に行く気はない。  学校に行く目的の一つは遠坂との共闘だった。  それがなくなった今、昼間から外に出る意味はないし、なにより――――    桜を外に出す事は危険すぎる。 「………………」  桜は元気に振舞っているが、いつ昨日のように倒れるか判らない。  言峰の治療で持ち直しはしたが、桜は危ういバランスの上に立っている。  ……臓硯がどんなつもりでいるかは知らないが、不安定な桜と臓硯を会わせる訳にはいかない。  桜の中の刻印虫を活性化させられたら、こっちに打つ手はないんだ。  慎二は薬を使った。  が、刻印虫を仕掛けた術者である臓硯なら、それこそ桜を見るだけで虫どもを動かせるだろう。 「――――――――」  ……言峰は言った。  桜は長くは保たない、と。  それを知っているのは俺だけだ。  ……そんなこと、桜にも遠坂にも言えない。  俺がするべき事は、桜にその事実を知られないうちに、この戦いを終わらせる事。  俺には桜を助ける力はない。  だが聖杯なら―――あらゆる願いを叶えるという聖杯なら、桜を救う事なんて容易い筈だ。 「先輩? さっきから怖い顔して、ヘンですよ? 学校は休んじゃいましたし、ゆっくりしていいと思いますけど……」 「いや、休むのは戦いが終わってからにしよう。今は戦いに勝つ事だけを考えないと」 「……先輩。戦いって、まだ続ける気なんですか?」  不安げな声は、少し意外だった。 「………………」  ……薄々感じてはいたが、桜には自分から戦う気がない。  聖杯を得る事が体を治す一番の方法だと判っているだろうに、それを考えようとしていない。  ……戦いへの嫌悪。  他人を傷つける事を、桜は極端に恐れている。  それは正しいし、否定する気はない。  桜はそのままでいい。  戦うのは、今まで泣かせ続けた俺の役目だ。 「―――ああ、戦いは続ける。話し合いで済めばそうするけど、そうは言ってられないだろ。臓硯が桜を解放するとは思えないし、桜には悪いけど、あいつに聖杯は渡しちゃいけないと思う。  ……残ったマスターは四人。俺はこの中から桜を勝たせて、桜に聖杯を使ってもらう」 「……そう言ってもらえるのは嬉しいです、けど……先輩、遠坂先輩と戦えるん、ですか」 「あいつが邪魔をするなら戦う。……まあ、ホントは聖杯なんて物騒なもんはあいつに任せたいんだけどな。あいつならキチンと鞘に収められるし、桜を助けてくれるだろうし」 「……そう、でしょうか。あの人は、魔術師です。わたしみたいに弱い人間のコトなんて、考えてくれないと思います」 「――――――――」  そんな事はない、とは言えない。  ……遠坂はいいヤツだ。それはもう判ってる。  けど、それとは別に、あいつは一人前の魔術師だった。  昨夜、あいつは桜を殺すと言った。  あの時はそれしかなかったとは言え、あいつは本気でそれを選択し、桜を手にかける覚悟を決めた。  ……だから。  もし聖杯でも桜が助からないとなったら、あいつは聖杯っていうアーチャー以上の味方を得て、桜の命を止めるだろう。 「……そうだな。けど、それでも遠坂には出来ないよ。  あいつに桜は殺せない」 「え……? どうしてそう思うんですか、先輩は」 「いや。確証はないけど、あいつは根っこで凄いヤツだからな。あいつが選ぶ未来は、きっと誰も失わない、とんでもなくハッピーな世界なんだと思う。だから大丈夫。  遠坂は、最後には絶対桜を助けるよ」 「……あの。先輩は、遠坂先輩が、その」 「ん?」 「……いいえ、なんでもありません。先輩がそう言うんなら、わたしも信じてみます」 「ああ。けど、正直あいつ任せってのは情けないし、譲りたくない。桜を守るのは俺でいたいんだ」  桜の手を引いて行くと決めたんだから、その役を他のヤツには渡せない。  俺は俺のできるかぎりをして、桜を幸福にするんだから。 「……あの、先輩。気持ちは嬉しいです。だけど先輩はもう戦える状態ではないと思います。セイバーさんもいなくなって、遠坂先輩とも対立してしまった。  先輩はもう聖杯戦争に関わる必要はありません。だから今まで通り、どうか先輩の日常に戻ってください。  ……わたしは、わたしのせいで先輩が傷つくのは、イヤです」 「ばか。そんなの桜のせいじゃない。俺はやりたいからやるんだし、いまさら降りられる戦いでもない。そんなの、桜だって判ってるだろ」  俺はセイバーのマスターとして戦いに参加した。  巻き込まれたからマスターになったのではなく、自分の意志でマスターになった。  なら―――ここで降りる事なんて出来ない。  一人になっても戦う。  最後まで、この戦いの決着を見届ける。  ……それが俺の我が侭につき合い、命を落としたセイバーへの償いでもある。 「………………じゃあ、先輩はどうしても」 「戦いは止めない。その為に、これから今後の方針を決めようと思う。ライダーもいいか?」 「構いません。貴方の意見は正しい。サクラはどうですか?」 「………………」  桜は沈黙で肯定する。  ……良かった。とりあえず納得はしてくれたみたいだ。 「よし。じゃあこれからの話なんだけど、その前に」  つい、とライダーに視線を向ける。  ……朝食からこっち、少しずつ〈居間〉《ここ》にライダーが居る、という事に慣れつつあるが、やっぱりコレだけはなんとかしたい。 「なんでしょうか」 「その目。〈家〉《うち》にいる時ぐらい目隠しをとったらどうだ。  おまえの魔眼はもう知ってるんだし、無理に隠す必要ないだろ」  というか、そんな目隠ししてたら窮屈だろ、ライダー。 「……つまり、私が美観を損ねる、と?」 「ああ。端的に言えばそうなる。その格好はともかく、目隠しはタイヘンだろ。せっかくキレイなんだし、暑苦しいのは取ったらどうだ」 「だそうです、マスター。貴女の意見次第では私も考えますが」     「ダメですっ!  そんなの絶対だめーーーーっ!!」 「へ?」  ……と。  なんでそこで、桜が力いっぱい反対するんだ? 「なんで? 桜だって、ライダーが目隠ししてたら困るんじゃないのか?」 「こ、困りませんっ! だいたいですね、ライダーの目は魔眼なんですよ? ちょっとした弾みで魔術にかかっちゃったらどうするんですか!」 「はあ。かかるのか、ライダー?」 「かかります。私の目は魔眼というよりは邪眼ですから。  私本人が魔力をセーブしたところで、貴方を対象外にするのは難しい」 「うわ、なんだそれ。ライダー、自分の目をコントロールできないのか?」 「できませんね。それ故の称号です。  ……ですが昨日ほどの効果は望めないでしょう。貴方は私の魔眼が石化だと知っている。不意打ちによる認識洗浄は弱まっていますから、体が硬直するスピードは落ちる筈です」 「そっか。じゃあ、昨日みたいにいきなり体が麻痺する……ってのはないのか?」 「状況によります。貴方が気を抜いていれば、魔眼の効果は上がるでしょう」 「ふむ。ようするに気を抜かなければいいんだな。なら問題ないじゃないか。万が一魔眼に囚われても、ライダーは味方なんだからすぐに解呪してくれるだろうし」 「そうですね。私は貴方の命は取りません。そういった意味で言えば、なんの危険もありませんが」 「だめ、だめったらだめですっ……! ライダーの眼は石化だけじゃないんだからっ!」 「そうでしたね。では、封印はこのままにしておきましょう」  ほう、と胸を撫でおろす桜。 「……?」  ……はて。  事情は良く分からないが、ライダーの目隠しはあのままって事らしい。 「……そうか。気になるけど、ライダー本人がいいって言うんならいいか」 「ええ。素顔を晒すのは嫌いです。以後、この件には触れないように」  さっきまでの気軽さは何処にいったのか、冷たくライダーは言い放った。  ……なんというか、掴めない性格だ。  やっぱりライダーとは相性が悪いんだろうな、俺。      ――――そうして、彼女は残された。    もう戦う意味のない少年。  マスターでなくなった者が危険を冒し、元凶である自分が安息に浸っている。  その事実が、彼女の心を一層深く沈ませる。   「彼は森に向かいました。―――後悔しているのですか、サクラ」    従者は自らの主に問う。  彼女は頷くことなく、憂いげに瞳を細め、一度だけ首を横に振った。   「……後悔なんて出来ないでしょう、ライダー。そんなもの、今さらなんの意味もない」 「そうですね。確かに、意味のない質問でした」 「ええ。けど、辛いことだけじゃない。わたしね、不謹慎だって分かってるのに嬉しいの。先輩がわたしのために何かしてくれるのは、純粋に嬉しいから」    そう言いながらも、彼女の顔は苦悩に満ちていた。  嬉しいと呟く口は、罪の意識で縫い付けられたように重い。   「けど、それは間違ってる。お爺さまは容赦なんてしない。先輩が戦うかぎり、常に死の危険性がある。  それに、なにより――――」    これ以上戦いに参加されては困る。  それは自分にも彼にも、良くない未来を持ってくるだろう。    だからこそ戦いを止めさせ、彼には日常に戻ってほしかった。  どうせ自分は長くない。  それならせめて、彼にだけは生きていてほしい。  ……だが。  そう願う反面で、希望に縋る自分がいるのだ。  彼が戦う事で、もっと一緒に居られるのなら。  いや、愛する者が自分のために傷ついてまで戦ってくれる事が、どれほど悦ばしい事か。            戦ってほしくはない。  けれど、戦ってくれる事が嬉しすぎる。  二つの願望は対立し、互いを受け入れないまま拮抗する。   「……嘘。拮抗なんて、してないくせに」    苦しげに漏らして、彼女は自らの暗部を思い知る。  そう。  本当は戦ってほしい。自分を助けてほしい。今まで振り向いてもらえなかった分、何倍も応えてほしい。    その為なら――――彼が傷ついてもいい、と。    彼女は、思ってはならない事さえ、思ってしまった。   「は、くっ…………!」    胸を押さえる。  体内の虫が、彼女の暗い情念に応えるように神経を這う。  ……たった一瞬。  たった一度、傷ついた彼の姿を想像しただけで、虫たちは彼女の体を侵していく。    じくじく。  じくじく。  じくじくじく。  体内で蠢く耳鳴りがする。  血液に溶けて巡る悪寒がする。  わたしの体は醜く、こんな事で興奮するほど〈 ……血液に溶けた虫は甘い毒となって、彼女の体を熱していく。  体内で生じ、意識ごと呑み込むうねり。  その、昂ぶり続ける意識の中で彼女はいつも思うのだ。    この手足はもう〈穢〉《けが》れきっていて、人のものとも思えない。  体は昏い恋しさに躓いてすぐに倒れ、卑しく地面にすがりつく。  止まらない呼吸、粘体のように切なく融ける脊椎。  それは神経に絡みついたモノと何も変わらない。  否定しようと思えば思うほど虫たちは神経を侵し、意識はどろどろに溶かされ、そして、    ――――自分が、虫になった気がする。    最後には不吉な錯覚に、全身を支配されるのだ。   「サクラ」 「……大丈夫。わたしはまだ平気です。それよりお願いライダー。どうか、先輩に付いていってあげて」 「……命令ならば従います。ですがサクラ。貴女の体とて長くはない。私を行使するという事は、貴女の余命を削る事です。それでもいいのですね?」   「……うん。どうせ長くないもの、わたし。  今はちゃんとしてるけど、気を抜くとね、自分が何をしていたか分からなくなるの。……日に日に記憶が曖昧になって、手足の感覚もない。時間の感覚だってもうバラバラで、一日が長く続いてくれないんだ。  ……今朝だって。なんか、先輩を見送ってから、一週間ぐらい経ってる気がするの」    それがなんでもない事のように彼女は言った。  ……彼女は死を受け入れている。  その中で希望に縋る醜さと戦いながら、彼を守ってほしいと願ったのだ。   「―――承知しました。主の命に従い、エミヤ士郎を護衛します」 「ありがとう。……ごめんねライダー。わたしがダメになったら、すぐに新しい人と契約して。先輩……はちょっとヤだけど、ライダーならいいかな」    無理やりに笑う。  それに頷きだけを返して、黒衣のサーヴァントは主に背を向けた。   「……よくない〈風〉《かぜ》です。宝具を使用する事になりますが、構いませんね」 「うん。危なくなったら先輩を連れ帰ってきて」 「わかっています。けれどサクラ。  私はあの老人ではなく、あの神父こそを注意すべきだと思うのですが」    背を向けたままライダーは言う。   「――――――――」    それが、彼女には驚きだった。  このサーヴァントは意見を口にしない。ただ聞かれた事、命じられた事だけを実行する寡黙な性格だった。  それが今のように、自ら彼女を案じるなど今までなかった事だ。   「―――そうね。わたしも、本当はそう思うわ」    歌うような呟き。  先ほどまでの憂いは影をひそめ、その仕草に優雅ささえ漂わせ、   「―――けど安心してライダー。     だってあの人、わたしには勝てないもの」    クスリと。  花を摘む少女のように、彼女は〈微笑〉《わら》った。 「――――――――」  ……目蓋を開ける。  意味もなく片手を伸ばして、ぼんやりと天井を眺めて、ぱたん、と伸ばした腕が布団に落ちた。 「――――なんか、重いな」  体を起こさず、放心状態で天井を見上げる。  ……なんというか、全体的に体がだるい。  頭は寝ぼけたままで、体の方も休息を欲しがっている。  もう朝だっていうのに、ぜんぜん起きる気がしないのはその為だ。 「ん……なんで、こんなに疲れてるのかな」  疲労が溜まっているんだろうか。  たしかに昨日は色々あったが、別に、その、昨夜のことで疲れたワケじゃないと思う。  この気だるさは眠りが浅かったせいだろう。 「……よく眠れなかったからかな。ま、動いてれば血も巡るだろうし」  そもそも、体の具合なら桜の方が何倍も悪い。  その桜が一人で頑張ってるんだから、この程度のだるさで休んでられるかって言うのだ。  よし、と気合を入れ直して布団から出る。 「――――う」  そこで、またも目眩を覚えた。  体のだるさからではない。  なんというか、入り口に目を向けた途端、昨夜のコトをよけいに思い出してしまったからだ。 「…………えっと。服、着ないと」  ……まいった。  こんなコトぐらいで赤面してたら、桜にどんな顔で挨拶すればいいんだろう……。 「――――――よし、行くぞ」 「――――――――」  大丈夫、もう何回もシミュレートした。  難しいコトなんて何もない。いつもやってきた〈挨拶〉《コト》なんだから、こんな風に緊張するなんておかしいのだ。   「「――――あ」」    と。  台所にいると思われた桜は、もう居間で朝食を並べていた。 「ぁ――――お、おは、おはようございます、先輩」 「う――――うん。おはよ、う、桜」 「あの………………えっと」 「あー………………なんだ」  気の利いた言葉を探すも、頭は空っぽだ。 「――――――――」 「――――――――」 「お、おはよう桜……! 朝ごはん、美味しそうだな!」  我ながら芸のない言葉を返す。  ……って、さっきの挨拶となにも変わってないじゃんかばかー! 「あ、はいっ! お、おはようございます先輩!」 「――――――――」  ……と。  なんか、桜の返事も、さっきとまったく同じ気がする。  それに気がついたのか、目を点にしてこっちを見る。  きっと桜から見た俺も、あんな顔をしているんだろう。 「――――――――は」  なんか、そう思うと肩の力が抜けてくれた。  俺たちはお互い、ずっと緊張しながら、それでも顔を合わせるのを待ち焦がれていたのだ。 「……ふう。三度目になるけど、おはよう桜」  話しかける頬が自然に緩む。  安堵を込めて口にした言葉。   「―――はい。おはようございます、先輩」  そんなこんなで、ぎこちないながらも朝食が始まったのだが。 「んじゃいただきます」 「はい、いただきます」  こう、いつも通りの作法が出来たところで、やっぱり緊張は抜けきらないのだ。 「――――――――」  落ち着かないまま箸を動かす。  ……桜はさっきので慣れてしまったのか、上機嫌な〈体〉《てい》でごはんを食べている。  ……なんというか、そういうところは女の子の方が強いんだろうか? 「? どうかしました? あ、お味噌汁の御代わりですか?」 「―――いや、まだ一杯目。けど美味いぞ。うん、すごく美味い」 「はい。今朝のは自信作ですから。喜んでもらえて嬉しいです」 「っ――――」  く、その笑顔は胸に詰まる。  桜はもう落ち着いてるのにこっちが赤面してるかと思うと気恥ずかしくて、とにかく照れ隠しにメシをかっ込んだ。 「話を戻そう。今後の方針だけど、とりあえず桜はうちから出ないこと。臓硯と直接会うのは危険だからな。あの爺さんとはこっちでカタをつける」 「その考えは正しい。ですが、貴方はどうやってあの魔術師を倒すのです。何か考えがあるのですか?」 「――――――――」  ……そう言われると返答に困る。  手段は幾つかあるだろうが、そのどれを取るべきかはまだ考えていなかった。 「それは――――」  ……きっと、この選択がこれからの命運を決める。  選択肢は複数ある。  その中で現実味があって一番確かな方法と言えば、 「――――他のマスターと協力すべきだと思う。  事情を話せば味方……とまではいかないにしても、臓硯を倒すのに手を貸してくれるかもしれない」 「他のマスターって……遠坂先輩、ですか?」 「え? いや、遠坂じゃない。俺、バーサーカーのマスターとは知り合いなんだ。イリヤって言うんだけど、あの娘なら話せばちゃんと聞いてくれる」  ……それに、正直イリヤを放っておけない。  遠坂はともかく、臓硯が何をしてくるか判らない。  桜に虫を植え付けて無理やり戦わせるようなヤツだ。  直接的な実力ならバーサーカーを連れたイリヤの方が何倍も上だろうが、相手はあの妖怪である。直接敵わないからこそ、様々な手を使ってくるだろう。  となると、バーサーカーを連れたイリヤでも油断はできない。 「バーサーカー……貴方は、あの狂戦士が我々の味方になると?」 「味方とまではいかないにしろ、しばらくは見逃してもらえる。それに、協力は無理でも忠告ぐらいはしておきたい」  単身この町にやってきた少女。  マスターとして育てられ、アインツベルンの名を冠したイリヤと、俺は他人じゃないんだから。 「……そう、ですか。けど先輩、そのイリヤって人の居場所はわかるんですか?」 「ああ、前に見せられた。道順は記憶している。広い森なんで想像通りにはいかないだろうが、半日もあれば辿り着ける筈だ」 「半日……それって、今から行くって事ですよね?」 「そうだな。善は急げって言うし、今から行けば夜までには帰ってこれる」  急に選択を迫られたが、これはこれで丁度いい。  イリヤには昨日助けられたし、お礼を言いたくもあった。  ……それに。  間桐臓硯の暗躍と、あの、正体不明の影についても話しておかないと、取り返しのつかない事になるだろう。 「行ってくる。できるだけ早く帰ってくるから、桜は部屋で休んでいてくれ」 「―――わかりました先輩。それなら、せめてライダーを連れて行ってください。何かあっても必ずライダーが守ってくれますから」 「あ、そうか。その方が安全だよな」  ……が、それは聞けない。  危険なのは屋敷に残る桜も同じだ。  いや、臓硯に出会えば逆らえなくなる桜の方が、俺より何倍も危険だろう。 「いや、ライダーは桜を守ってやってくれ。  もし臓硯が来たら魔力を消費する戦闘は避けて、桜を抱きかかえて逃げること。ライダーの足なら追いつかれる事はないだろ」 「――――――――」  ライダーも同じ考えだったのか、素直に頷いてくれた。 「ほら。ライダーだってそう言ってる。今回、桜はお留守番だ」 「…………けど、先輩だって危険です。あの森は、いま」 「心配すんな。危ないって思ったらすぐに逃げる。それにイリヤはマスター以外に興味はないんだ。マスターじゃなくなった俺がいっても危険はない」  ぽん、と桜の肩を叩いて居間を後にする。    ―――さて。  まずは土蔵に行って、武器になりそうな物を調達しなければ。  桜に見送られながら衛宮邸を後にする。  荷物は木刀を二本押し込んだ竹刀袋と、軽い食料を詰め込んだザックだけ。  地図、コンパスといった物は持ってこなかった。  もともとイリヤの魔術によって得た〈直感〉《みちゆき》である。なら、頼りになるのは見せられた記憶と、自身の直感だけだろう。 「………十時前。タクシーで一時間、森の中を歩いて四時間……」  で済むといいのだが。  とりあえず、タクシーには徐行してもらって、あの時見た森の入り口を探し出す。  入り口が見つかったらタクシーから降りて、そこから徒歩だ。  ―――最短で行けば日暮れ前にイリヤの城に着ける。  その後の事は、イリヤに会ってから考えよう。 「――――シロウ」 「え?」  ……と。  背にした衛宮の家から、懐かしい、響きがした。  事務的な、ともすれば冷たく聞こえる呼び方。  それでも丁寧に、不器用ながらもできる限りの親しみを込めて呼んでくれた、その響き。 「――――セイ」  あり得ない名前を口にしかける。 「待ちなさい。出立の前に話があります」 「――――ライ、ダー」  振り向いて、現実を受け止める。  目の前にいるのはライダーだ。  俺をその響きで呼んだ少女は、もうこの世界には存在しない。 「いいけど、なんだ。こっちも急いでるからな、手短に頼む」 「私の質問は一つだけです。貴方はサクラを守ると言った。その理由を私はまだ聞いてはいません、エミヤシロウ」 「それ、俺は信用できないってコトか」 「ええ。私はサクラほど貴方を知っている訳ではありませんから」 「………………」  そりゃもっともだ。  ライダーが守るのはサクラであって俺じゃない。  なら、一応味方である俺の思惑を知っていたいと思うんだろう。 「……ふう。一度しか言わないから、この手の質問はこれっきりにしてくれ。もったいぶってるんじゃなくて、人前で言うような事じゃないからな」 「………………」 「―――いいか。俺は桜が好きだ。それだけじゃない。  昨日の夜、桜に魔力を――――」 「……そのようですね。朝、サクラの魔力は安定していました。外部からの供給がなければ、サクラはまた熱に魘されていたでしょう。  ―――それがなにか?」 「それだけだ。俺は桜が好きだ。桜を守る理由はそれだけだ。自分が好きになった女を守るのは、男として当然だろ」 「――――――――」 「……では、貴方はサクラの為に戦うのですね? 目的はあくまでサクラの体を救う為。サクラに聖杯を獲らせ、自分の益とする気はないと?」 「いや、するよ。聖杯がなんであるかは知らないけど、それが桜を幸せにしてくれるんだったらいくらでも使ってやる」 「――――サクラを、幸せにする?」 「そうだよ。今まで桜一人を苦しめてきた。だからその分、どんな手を使っても幸せにしてやりたい」  ライダーは何も言わず、静かに立ち尽くしている。  ……どうやら今の、人様に面と向かって言うのには気恥ずかしい理由に納得してくれたようだ。 「―――よし。ライダーの質問に答えたんだから、今度はこっちの番だ。要望があるんだけど、聞いてくれるか」 「え、ええ。私にできる範囲でなら聞き届けますが」 「ああ、簡単な事だ。さっきの呼び方だけど、シロウって発音じゃなくて、違うアクセントにしてくれないか」 「? ……わ、わかりました。しロウ、でいいのですか?」 「あ。いや、それじゃ死蝋だ。もうちょっと、なんて言うか」 「ええっと、し、しろう。士ろう。しろウ。しロう。し郎、城う、ではなく、士郎、士郎」  むむ、と悪戦苦闘しながらも発音を練習するライダー。  ……やっぱりだめか、無理を言って困らせてしまった。  目隠しと黒い装束で鋭利なイメージがあるが、ライダーはわりと付き合いがいい。  なんとなくではあるのだが、私生活ではドジっ子のような気もする。 「ごめんな、元のままでいいよ」 「―――士郎。……ふむ。発音はこれでいいのですね、士郎」 「ああ、文句なしだ。悪いな、俺の我が侭につき合わせて」 「我が侭……? 貴方はシロウ、と呼ばれる事が不快なのでしょう? なら、私に発音を訂正させるのは正しいと思いますが」 「――――まさか。さっきの呼び方は、好きだった」  ……そう。  好きだったからこそ、他のやつには使ってほしくない。  下らないこだわりと分かってはいても、あの呼び方だけは、彼女のものにしておきたかったのだ。 「ほんとにただの我が侭なんだ。ライダーが悪いわけじゃない」 「……わかりました。貴方がそう言うのなら、私も理由は問いません」 「ああ。それじゃ行ってくる。桜のこと、よろしくなライダー!」  ライダーに手を振って走り出す。  まずは交差点まで降りて、タクシーを拾う。  あとは郊外に出て、一度見ただけの森の入り口を捜さなければ。  整備された国道から離れること数分。  初見にして見覚えのある森の入り口は、日中だというのに〈朝靄〉《あさもや》のように白ばんでいた。  立ち込める霧と木々に遮られた陽光が、森から時間の感覚を奪っている。 「……うわ。大丈夫か、これ」  今更ながら自分の無鉄砲ぶりに呆れる。  あの時はイリヤの“眼”から見ていたから迷うも何もなかったが、これはさすがに、記憶だけでどうにかできるレベルじゃない。 「―――いや、泣き言は後だ。なりふり構ってられないんだから、当たって砕けろだ」  ふん、と気合を入れ直してザックを背負う。  時刻は正午を過ぎたあたり。  イリヤの“眼”から見た時、城まではここからざっと四時間ほどだった。  この先は自分の体力と、魔術師としての〈記憶力〉《さいのう》と〈再現力〉《てきせい》を問われる道行きになる――――  森を歩く。  充満した樹液の匂いが少し息苦しい。  山道ほどではないにしろ、舗装されていない地面は少しずつ体力を奪っていく。  あれから二時間、イリヤに見せられた道順通りに進めているとは思う。  ただ、一向に先が見えず、正しいかどうか確証がないのは少しこたえた。  日頃鍛えている分、この程度の獣道なら一日歩いたところで問題はないが、精神面の疲れは気付かないうちに体力を奪うものだ。  記憶では、あの城まであと二時間ほど。  その時になってまったく違う風景に出くわした場合、今と同じように森を踏破できるかは定かではない。  体力的な限界はまだ先だろうが、乱れた〈精神〉《こころ》では些細なミスも起こすだろう。  登山では水分の補給、身体のチェックは当然万全でなくてはならず、はては踏み出す足が右か左か、次に手をかける岩肌が一ミリ浅いか深いかの判断を求められる。  森の移動はそこまで困難なものではないが、ここはここで山とは違う危険がある。  方角の見失い、現在地の不詳。  そういった遭難する危険性はもとより、森に生息する動物との遭遇は、それこそ直接命に関わる。  これだけ広い森なら野生の獣は当然〈領地〉《テリトリー》を張っている。  この手の道行きで獣に襲われるのは、大抵が彼らの領地を侵犯した時だ。  無遠慮に歩き回るのは襲ってくれと言っているようなもので、一見まっすぐな獣道でも迂回しなければならない場合もある。  幸い、この森に蛇の類は生息していない。  あるのは野犬のものと思われる痕跡だけで、それもたまにしか見られない。  生き物の気配が希薄なのは、アインツベルンの〈魔術〉《て》によるものなのだろう。  それでも野犬の類は居り、下手をするとそれは野犬と呼べるものですらないかもしれない。 「―――っと、あっちはまずいか。帰りは気をつけないと」  見るからに何か潜んでいそうな茂みを迂回して、記憶通りに足を進ませる。  ……君子危うきに近寄らず。  危険に遭ったら逃げるのではなく、そもそも危険な場所には近寄らないのが、こういう道行きの鉄則である。 「……にしても。この森、イリヤに見せてもらった時と様子が違う気がする」  ……肌で感じる空気が違う、というか。  一歩奥に進む度に、背筋にイヤな痺れが走る。    ―――この先に進むな。  ―――いますぐこの森から逃げ帰れ。  ―――今日だけは、〈何人〉《なんびと》たりとも生きては帰れん。    風で揺れる木々が、そう囁いている気さえする。 「―――――そういえば、この匂い」  樹液の匂いかと思ったが、微妙に違う。  ……鼻につく甘ったるさは同じでも、森の瑞々しさが感じられない。  これは――――    ――――たしか。 「――――――待て」    竹刀袋から木刀を取り出す。  ……足を止めて意識を集中させ、数分かけて木刀に“強化”をかける。 「―――――何か、来る」  ……茂みの向こうから足音がする。  耳を澄ませば枝ずれの音にまじって、キイキイという音がする。 「――――――――」  ……来る。  ソレは緑の奥から、迷う事なく一直線に俺の前に現れた――――!  木刀を振り上げる。  両腕には渾身の力を、柄を握る両手にはわずかな力を込めて、木刀を上段で踏み留め、   「そこまでだ、動くな――――!」 「そこまでよ、動かないで――――!」    二人して、バッタリと固まってしまった。 「………………」 「………………」  ………………さて。  この状況を、どう打開したらいいんだろう? 「……ちょっと。いいかげん、それ下げてくれない? お化け屋敷じゃないんだから」  ……先に構えを解いたのは遠坂だった。 「あ、すまん」  釣られて木刀を下げる。 「………………ふん。珍しいところで遭ったじゃない。  一応聞いておくけど、ピクニックの下見ってワケじゃないわよね?」 「わけあるか。そういう遠坂こそなんだよ。森林浴ってガラじゃないだろ、おまえ。今度はなに企んでんだ」 「失礼ね、森林浴ぐらいするわよ。そりゃ今日は違う用件だけど」  む、と抗議する。  ここで驚くべきは、なにか企んでるってコトを否定しないところだろう、うむ。 「――――遠坂。おまえ、イリヤとやりあおうってのか」  単刀直入に切り出す。 「……だとしたらどうなの。貴方はもうマスターじゃない。なら、わたしたちの戦いに首をつっこむ資格も義理もない筈よ」 「――――ない、けど。遠坂がイリヤと戦うっていうのなら、止める」 「なんでよ。もしかしてイリヤと桜を組ませるってハラ?」 「それもあるけど。遠坂、イリヤと戦ったらただじゃ済まないぞ。始めたらどっちかが必ず傷を負う。そういうのは嫌だ。俺は、もともと」 「初めから戦いを止める為に、でしょ? なんだ、それまだ変わってなかったんだ」  刺々しい態度から一転、肩をすくめて遠坂は言う。 「…………あ」  それは俺をさんざ引っ張りまわした、桜がああなるまで身近にあった、遠坂の素顔だった。 「な、なんだよ。一度決めたコトなんだから、そう簡単に変えられるわけないだろ」 「でしょうね。ほんと。前々から思ってたんだけど」  なんのつもりか。  遠坂ははあ、と大げさに溜息をついて見せて、   「衛宮くんって、すっごいバカでしょ」    こっちがびっくりするぐらいの笑顔で、そんなコトを言いやがった。 「な――――」 「けどいいわ。こりないヤツだけど、貴方はそうでなくっちゃ張り合いがない。不器用は不器用なりに、せいぜい努力する事ね」 「な、なんだその勝ち誇った顔はっ! なんか無性にハラたつなおまえ!」 「いいからいいから。で、その格好からするに衛宮くんもイリヤスフィールに用が有るってワケね。さっきはあてずっぽうで言ったけど、ホントにイリヤスフィールと話し合いをするつもりなんだ」  こっちが怒ってるっていうのに、にやにやとまあ実に楽しげに眺めてきやがる。 「む――――」  ……くそ。  こうなるとどうしてか遠坂には弱い。なに言っても言い負かされるというか、反論すればするほど追い込まれていくというか。 「? どうしたの、急に黙っちゃって。黙秘なんて衛宮くんらしくないわよ?」 「…………ふん。そうだよ、おまえの言う通りだ。俺は今からイリヤに会いに行くんだから邪魔するな。ついてきたら追っ払うからな」 「あれ? なに、もしかしてイリヤスフィールの居場所知ってるの?」 「あ」  しまった。  また口にしなくともいいコトを。 「良かった、それなら案内してもらえる?  わたしもだいたいの場所は判るんだけど、大昔の地図だから信憑性低くって。衛宮くんが知ってるなら話は早いわ」 「――――おまえな。俺はついて来るなって言ったんだぞ」 「あら。衛宮くんはイリヤスフィールと話し合いに行くのに、わたしから目を離していいの? 万が一わたしが先に到着しちゃったら、もう話し合いどころじゃないと思うけど?」 「っ! お、おまえ俺を脅迫する気か!?  だいたいな、一緒に行ったところでイリヤにケンカ売るんだろおまえは!」 「売らないわよ? イリヤスフィールと共闘できるなら、それに越した事はないもの。とりあえずやるべき事は臓硯の排除でしょ。わたしがここに来たのは、イリヤスフィールに忠告に来ただけだもの」 「っ――――忠告って、なんの?」 「間桐臓硯がなにやら企んでるから、甘く見てると痛い目にあうって。キャスターの事もあるし、バーサーカーまでああなっちゃこっちが不利でしょ。  けど、そう忠告したところで戦いになるって覚悟してたけどね。わたしとあの子じゃ話し合いなんて出来ない。  一応忠告して、それで戦いになるのなら仕方ないって思ってた。いずれ倒さないといけない相手だし、遅いか早いかの違いでしょ?」 「でも、見たところ衛宮くんには当てがありそうじゃない? なら冒険をする必要もないし、衛宮くんの努力次第で事は丸く収まるってこと」 「――――――――」 「ほら、難しい顔しないっ。貴方がイリヤスフィールを説得できるなら、わたしは大人しく帰ってあげる。  で、もし失敗したら協力してあの子を倒すか、二人して逃げられるように手を貸すわ。どう? 悪い話じゃないんじゃない?」 「………………悪い話も何も。おまえ、どうあったって俺の後をついてくる気だろ」 「まさかあ、そんなの言いがかりよう? たまたま行き先が同じってコトもあるんだし」 「………………」  ……あくまめ。  けどまあ、案内をする分には、遠坂は俺を優先してくれる。  放っておけばイリヤに戦いを挑む遠坂だが、ここで連れて行くと言えば、遠坂は大人しくしてくれるのだ。 「――――言っとくけど。俺だって道に確証はないぞ。  迷っても文句言うなよ」 「それは心配無用よ。貴方が向かってる方角、地図とピッタリ一致するもの。わたしの地図と衛宮くんの案内があれば迷う事なんかないわ」 「――――――――」 「わかった、観念したよ。城まで一緒に行こう。そうすれば、とりあえずイリヤとは戦わないんだな?」 「ええ、貴方がイリヤスフィールと交渉している間も邪魔はしないわ。あの子、敵に回したら厄介だけど味方にできるなら頼もし――――」 「な、地震……!?」  木々が揺れる。  遠くからは爆発めいた音が響いてくる。  ……違う。  これは地震なんかじゃなく、何か、台風めいたものがすぐ近くで暴れている―――― 「遠坂、これ……!」 「――――バーサーカー。どうやら一歩遅かったようね、わたしたち」 「な……じゃあ、向こうで暴れてるのはバーサーカーなのか!?」 「ええ。わたしたちがここにいる以上、バーサーカーが戦う相手は一人しかいない。……どうする? わたしは行くけど、衛宮くんは残る?」  考えている暇はない。  ここは、   「――――俺も行く。その為に来たんだからな」 「それじゃわたしの後ろにいて。アーチャーを先行させるから、それで出会い頭に即死……ってのだけは避けられるわ」  それだけ言って、遠坂は森の奥へ走り出した。  霊体から実体化したアーチャーは一度だけこちらに視線を向け、道を切り開くように疾走していく。 「イリヤ、無事でいろよ…………!」  木刀を強く握り締め、遅れまいと全力で二人の背中を追いかけた。  何が起きているかが判明するまで、ここを離れるのは危険だろう。 「俺は残る。遠坂はどうしても行くのか……?」 「ええ。けど衛宮くんが残るのは正しい選択よ。わたしにはアーチャーがいるけど、衛宮くんは一人きりだから。  慎重な行動は間違いじゃないわ」 「……分かった。アーチャーがいるからって油断するなよ」 「もちろん。危ないって思ったらすぐ戻るわ」  遠坂は振り返らず、森の向こう側へ走っていく。  ……大気の鳴動はなお続いている。  バーサーカーが戦っている、と遠坂は言った。  相手は臓硯とアサシン以外にない。  純粋な戦闘力ならバーサーカーに敗北はない。  アサシンと臓硯では、どう策を巡らそうとバーサーカーには敵わない。  だが―――敗ける筈がなかったのは、セイバーも同じではなかったか。 「――――――――」  ……嫌な予感がする。俺はまた、あの時と同じ間違いをしたのではないかと――― 「――――!?」    闇が落ちた。  光が途絶えた事による闇ではない。  強烈な閃光、太陽を直視したように、網膜が黒い光に麻痺している。 「――――え?」    嫌な予感に翳っていた心中が、別の不安に満たされていく。    ―――右も左も、上も下も分からない完全な闇。    唐突に、何も“無い”世界に呑み込まれたような、厭な錯覚。 「っ……そんな、バカな……!」    潰れた視界、一点の光もない森を手探りで歩く。    がん、ごん。    デタラメに進むたびに、木の幹が体に当たる。 「は……はあ、はあ、は、ぁ――…………!」    無様に、ぶつかるように突進する。  肩からはぬるりとした出血。  固い幹に直撃した額は、激しい痛みを呼び起こす。    ―――それでも、何かの手応えが欲しい。    何かにぶつかって怪我をする方が、何も“無い”よりは安心できる。 「は――――はあ、は、は」    大丈夫。  大丈夫、突然の光で一時的に視力が飛んだだけだ。  森は依然として存在するし、地面だって確かな感触がある。  単に目の前が真っ黒になっただけ。  それだって、時間が経てばすぐに回復するだろう。  ……目が利くようになるまでもう少し。  あの光はなんだったのか、遠坂はどうなったのか心配だが、こんな状態じゃ駆けつけても足をひっぱるだけだ。    今は視力の回復に努めて、この闇から抜け出さないと。  ……。  …………。  ……………………。  ………………………………。  …………………………………………もう少しだ。    きっと、もう少しで視力が戻る。  その事に不安はない。  視力は戻る。それだけは絶対と言い切れる。 「――――――――」    ただ、不安なのは周りの音だ。  暴風はいつのまにか止んでいる。  がん、ごん、という音もさっきからしなくなった。  あれだけ密集していた木にぶつからなくなった事に、なにか意味があるのだろうか……? 「―――――あと少し。あと少しだ」    あと少しで視界が開ける。  それまで、この何もない闇で待ち続けなくてはいけない。  今はそれだけを優先しよう。  森の手触りがなくなった事は、まあ、後で考えればいい。  眼球の痺れはとっくにとれていて、視力が元通りになっている事も、後で考えるとしよう。 「………そうだ。今は少しでも早く、この闇から抜けないと――――」    感触のない無を歩いていく。  ……いくらここが森の中だと知っていても、ここまで暗いとよくない想像をしてしまう。          例えば、そう。  いつのまにか自分が、  出口のない影の世界に囚われたような、質の悪い冗談とかを。           「は――――はは、は――――」    あまりのつまらなさに苦笑しながら前に進む。  感触はまるでない。  だがあと少しだ。  あと少し。  あと少し。  あと少し。  あと少しすれば視力が戻って、    ちゃんと、俺の前には元の風景が――――  風の音がする。  木々を震わせ森を駆け抜けるソレは、どこかで聞き覚えのある風鳴りだ。 「――――――――」    段々と地響きが大きくなる。  ……発信源に近づいているのだ。  おそらくはこの森の向こう。  もう目前に迫った、深く重なりあう木々の向こうで、最強を競う戦いが行われている―――― 「!」  足が止まる。  木々のない、開けた広場に出ようとした瞬間、全力で足を止めて身を隠した。 「バーサーカー……!?」  遠坂も木の陰に体を隠し、広場の惨状を直視している。  ―――広場は、文字通り戦場だった。  刃を交わらせるサーヴァントは三体。    一人は黒い巨人、バーサーカー。    もう一人は白い髑髏面の暗殺者、アサシン。    そしてもう一人――――もう、一人は。 「……ちょっと。アレ、まさか」  遠坂の声が震えている。 「――――――――」  ……よく聞こえない。  すぐ隣で囁かれているはずの声が、まったく耳に入ってこない。  三人目のサーヴァント。  黒い甲冑に身を包んだソレは、初めて見る相手だ。  だが、それは、   「――――そんな、事が」    同時に、俺のよく知っているヤツを連想させた。 「――――!」    黒い巨人が雄たけびを上げる。  岩山をも砕かんとする一撃は虚しく宙を切り、地面を吹き飛ばす。 「――――――――」  ソレは乱れ飛ぶ土塊に〈怯〉《ひる》みもしない。  吹き荒ぶ風の元凶はあの〈黒い剣士〉《サーヴァント》なのか、黒い甲冑はバーサーカーの大剣と土塊をすり抜け、無防備な体を一閃する。 「」  苦悶は巨人のものだ。  あらゆる攻撃を無効化しかねない鋼の肉体。  それを、黒い剣士は苦もなく切断する。  無明の闇が光を呑むように、剣はバーサーカーの横腹を黒で塗りつぶしていった。 「だめ、逃げるのバーサーカー……! そいつにやられたら戻ってこれなくなる……! もう戦わなくていいから、早く……!」    泣くようなイリヤの声。 「無駄よ無駄。〈彼奴〉《きゃつ》に囚われてはもはや逃れられん。  二対一ならばまだしも、三対一ではさしもの大英雄もここまでだろうて」    嘲笑う声は間桐臓硯のものか。            イリヤと臓硯―――二人のマスターは互いのサーヴァントを盾にして向かい合っている。  臓硯の前にはバーサーカーに敗れたであろうアサシン。  イリヤの前には、全身を黒いものに侵食されたバーサーカー。  ……その足元は黒い沼になっていた。  地面は土ではなく、底なしの泥になってバーサーカーの動きを封じている。  そればかりではなく、沼からは黒い〈蔦〉《つた》が伸び、巨人の手足さえ拘束していた。  ……知っている。  アレは間違いなくあの“黒い影”だ。  だっていうのに、一瞬、   「………………」  何か、よく知っているモノに見えた、気がする。 「――――!」  一際高い剣戟で目が覚める。  ……状況は、絶望的だった。  バーサーカーは強い。  あの“黒い影”に呑まれようとしているのに、黒い剣士と互角に戦っているのだ。  だがそれも限界。  黒い剣士は苦もなく地面を駆け、バーサーカーを一刀する。  サーヴァントとしての実力は互角かそれ以上だとしても、バーサーカーは刻一刻と自由を奪われていく。  ……なら。  その伯仲した〈実力〉《てんびん》は、秒単位で黒い剣士へと傾いていくだけだ。 「――――ふむ、勝負あったな。  後は任せたぞアサシン。これ以上ここにおっては巻き添えをくらいかねん。バーサーカーが呑まれ次第、アインツベルンの娘を捕らえ戻ってくるがよい」  臓硯の姿が霞む。  ヤツはアサシンを残してこの森から離れていく。 「……よいか。彼奴は目につくモノならば見境なく呑む。  それが魔力の塊ならば尚の事だ。アインツベルンの娘、むざむざ呑まれる事のないようにな」  ……姿だけでなく、気配まで薄れていく。  臓硯は消えた。  残ったものはアサシンとバーサーカー。  そして、剣を高々と掲げた、黒い剣士の姿だった。 「――――だめ。そんなの、バーサーカーでも死んじゃう。だから、もう逃げてよ、バーサーカー」    呆然と、感情のない声でイリヤは漏らす。   「」  それをどう取ったのか。  黒い巨人は、咆哮と共に前進した。 「な――――」  その前進は、暴風としか見えなかった。   「」    バーサーカーは地面を、膝まで沈みこんだ黒い影を蹴散らしながら突進する。  それは、あり得ない行動だ。  バーサーカーを封じているのは足元の沼だけでなく、黒い影は全身に絡みついて巨人を縛している。  進めない。  黒い影に体を侵食されたバーサーカーは一歩たりとて動けない。  故に、巨人はその身を裂いた。    片手で胸を掴み、バリ、という音をたてて、黒い影を引き剥がした。    ―――絡みついた部分ごと、中身が覗こうという勢いで、自らの身体を剥いだのだ。  巨体が迅る。  旋風を伴う一撃は、今度こそ黒い剣士を打ち砕く。  おそらくは最後の一撃。  自らの身体を剥ぎ、瀕死になりながらも放つ一刀が必殺でない筈がない。               それを。     剣士は、最強の一撃を以って迎撃する。 「やだ――――止めて、バーサーカー……!」    イリヤが走る。  巨人の足元に広がる影が見えないかのように、一心にバーサーカーへと走り出す。 「イリヤ………!」  ここで出て行っても何にもならない。  あの“黒い影”にも黒い剣士にも勝てる見込みなんてない。  それでも――――    黒い巨人に連れられ、少女は城から抜け出した。  それは不可解な逃走だった。  本来、身を守るのなら最高の場所である城から逃げ出し、守りの薄い森へと逃れたのだ。    ――――危険が迫っている。  その、避けられない事実を感知したのは少女の方が早かった。  ……“敵”がゆっくりと城に近づいてくる。  それが強大なものと感じ取れるが故に、少女は城の防壁を最大にし、現れるであろう“敵”に備えて巨人を起こした。  黒い鋼体の巨人、バーサーカー。  理性を奪われ、ただ少女の命令に従うだけの破壊の化身。    その護衛と城の守りがあれば、どのような敵だろうと恐れる事はない。  そう自分に言い聞かせて、少女は堪えきれない不安に蓋をした。    だが。  敵が間近に迫った時、傍らで巨人は告げた。    逃げろ、と。    理性を奪われ、口を閉ざした筈の狂戦士でさえ、目前に迫った“何か”には勝てないと悟ったのだ。    その瞬間、少女は走っていた。  そんな事は判っている。  そんな事は判っていたのだ。  城の外壁に手をかけたソレは、自分たちに太刀打ちできるモノではない。  不吉な影は陽光を背にして広がり続け、それこそ巨大な影になって、易々と外壁を乗り越えた。    ――――負ける。  自分はともかく、バーサーカーはアレには勝てない。  戦えばきっと負けて、バーサーカーは自分のサーヴァントではなくなる。  それが不安の正体だ。  少女は敗北ではなく、自らのサーヴァントを失う事を恐れて城から逃げだした。    黒い巨人に抱えられて森を〈疾走〉《はし》る。  不安は消えず、より重さを増して背中にのしかかってくる。  ―――逃げられない。  この不安、恐怖からは逃げられない、と少女は漠然と悟り―――黒い巨人は足を止めた。             「ほう。賢明じゃな、勝てぬと悟って出てきおったか」    目前には枯れ木の如く老いた魔術師。  その傍らには、白い髑髏の面をつけた〈暗殺者〉《アサシン》が控えている。  間桐臓硯。  それが故郷の城を出る時に教えられた、〈同朋〉《マキリ》の魔術師である事は一目で判った。   「―――マトウゾウケン。聖杯に選ばれてもいないモノが、マスターの真似事をしているのね」    黒い巨人から降り、少女は老人と対峙する。  その瞳に恐れはない。  少女と巨人が脅威を感じたモノは、間違っても目前の敵ではないのだから。   「ほ。聖杯はマスターなど選ばぬ。聖杯とは受け皿にすぎぬもの。そこに意思があり聖別をするなどと、おぬしまで教会の触れ込みに毒されたか?」   「…………………………」    愉快げに笑う老人を、少女は冷淡な瞳で見つめる。  ……たしかに老人の言う通り、聖杯は選ばない。  マスターは聖杯に選ばれ、サーヴァントは聖杯の力でカタチを与えられ、マスターによって現世に留まる。  その〈前提〉《ルール》は、意図的に歪められて伝わったものだ。  〈聖杯戦争〉《そ》の目的が逆である事を少女は知っている。    聖杯はただ注がれるだけのもの。  マスターは選ばれるのではなく、ただ儀式の一端として用意されるだけのもの。  そしてサーヴァントとは、ただ門を開ける為だけのもの―――   「……ふん。貴方こそ妄念に毒されているんじゃないの、ゾウケン。  器になる聖杯に意思はないけど、マスターを選び出す大聖杯には意思があるわ。もともとこの土地に原型があるからこそ、貴方たちは英霊を呼び出して聖杯を満たそうとした。  ―――ま、当事者である貴方がソレを忘れるぐらいだから、マキリの血は衰退したんでしょうけど」    少女の声は冷たい。  〈嘲〉《あざけ》りでしかないそれを、老人は呵々と笑って受け止める。   「いやいや、心配には及ばぬ。マキリの衰退もここまでよ。事は成りつつあってな。予定では次の儀式で行う筈じゃったが、今回は駒に恵まれての。ワシの悲願はあと一手で叶おうとしておる」 「そう。なら勝手にすれば? わたし、貴方に興味はないわ。わたし以外の器なんて気に入らないけど、どうせ失敗するんだし。邪魔はしないから、大人しく地の底に戻ったら?」   「言われるまでもない。この老体に日の光は辛いのでな、事が済めば早々に古巣に戻る。  だが―――やはりのう、こうも上手くいきすぎると逆に不安が大きくなる。万が一のため、おぬしの体を貰い受ける。ここで〈聖杯〉《おまえ》を押さえておけば、我が悲願は磐石じゃ」    ―――老人に鬼気が灯る。  白い髑髏がゆらりと立ち上がるも、老人の意思に反して動きを止めた。   「――――――――」    見れば判る。  白い面の暗殺者は、少女を守る巨人に気圧されている。  どうあっても自分では倒せない。  攻め込めば、一太刀のもとに両断される――――  そう確信したがため、暗殺者は動かずにいた。   「……ふん。主に似て臆病なサーヴァントね。そんなに死ぬのが怖いなら戦わなければいいのに。貴方といいゾウケンといい、そんなに自分の命が大事?」 「――――――――」    答えはない。  髑髏の面は言葉を発せず、代わりに、彼の主が高らかに笑い出す。   「ああ、大事だとも! 我が望みは不老不死、こやつの望みも永劫に刻まれる自身の名でな。我らは同じ目的の為、こうして邁進しておるという訳だ」 「……正気なの、貴方。聖杯にかける望みが不老不死ですって?」    少女の瞳に嫌悪が宿る。  老人の口元はさらに歪む。  その罵倒。その罵りこそを待っていた、とでも言うかのように。   「当然じゃ。見よこの〈肉体〉《からだ》を。刻一刻と機能を失い、悪臭を放ち、身体は内から溶け、こうしている今も脳細胞は蓄えた知識を失っていくのだ。  ―――その痛み。生きながら崩れ行く苦しみがおぬしにわかるか?」 「……自業自得でしょう。人の体は百年の時間に耐えられない。それを超えようというのだから、代償は必要だわ。それに耐えられないなら消えればいい。苦しいのなら、死ねば楽になるんじゃなくて?」   「――――――――カ」  老体が震える。  魔術師は咳をするように背中を震わしたあと。   「カカ、カカカカカ……! やはりそうきたかアインツベルン! 貴様らとて千年続けて同じ思想よ! 所詮人形、やはり人間には近づけなんだ! カカカカカ……!」    そう、心底おかしそうに哄笑をあげた。   「……なんですって?」 「――――たわけめ。よく聞くがよい冬の娘よ。  人の身において、死に勝る無念などない。虫どもの苗床となるこの痛みなど、己が死に比べれば蚊ほどのものでもないわ。  自己の存続こそが苦しみから逃れる唯一の真理。死ねば楽になるなどと、それこそ生きていない証ではないか。  だからこそおぬしは人形にすぎぬのだ。その急造の体ではあと一年と〈稼動〉《も》つまい。短命に定められた作り物に、人間の欲望は理解できぬという事だ……!」   「―――ええ、理解できないわ。貴方は人間の中でも特例だもの。そんな長く生きたクセに、自分の寿命を受け入れられないなんて、乱心したとしか思えない。  ねえ。貴方、そんなに死にたくないの?」   「無論。ワシは死ぬ〈道理〉《ワケ》にはいかん。このまま死にたくはない。まだ世に留まり、生を続けなくてはならぬ。だがそれも既に限界。故に崩れぬ体、永劫不滅の器が欲しい。  ――――その為に」   「その為に聖杯を手に入れようというの? 死が恐ろしいから、聖杯を求めるの?」   「カ、死が恐ろしくない人間がいるのかね?  よいか、いかな真理、いかな境地に辿り着こうと無駄なこと。自己の消滅、世界の終焉を克服する事は出来ぬ。  最期に知っておけ。目の前に生き延びる手段があり、手を伸ばせば届くというのなら―――何者をも、たとえ世界そのものを犠牲にしても手に入れるのが人間だとな……!」   「―――じゃあ、貴方は自分が生き続けるために、他の人間をみんな犠牲にするっていうの?」 「応よ。それで我が望みが叶うというのなら、世界中の人間を一人一人殺してまわっておるわ。  ―――人の強欲は尽きぬもの。  おぬしとて木々の一本一本が寿命を延ばす妙薬とすれば、この森など瞬く間に食らいつくそう。たとえそれが、僅か一日足らずの延命だとしてもな。  己が一日の為に世界の一部を殺していく。  その願望は、この森だけでは飽き足らず世界中の木々を殺す事になろう」   「その〈伐採〉《おこない》によって〈世界〉《たにん》が滅びようと知った事ではない。  当然であろう? もとより、人間とはそのようにしてここまで広がり、育ち、増え、肥満しきった有象無象。  そこに、もはや連鎖すべき法則など成り立たぬ。いずれ破綻するのであれば、ワシ一人が足並みを崩したところで誰にも異論は挟ませぬわ……!」    嬉々として老人は語る。  それを驚きの目で見つめたあと。   「―――あきれたわ。そこまで見失ってしまったの、マキリ」    少女は、少女の声ではない声でそう言った。   「……な、に?」 「思い出しなさい。わたしたちの悲願、奇跡に至ろうとする切望は何処からきたものなのか。  わたしたちは何の為に、人の身である事に〈拘〉《こだわ》り、人の身であるままに、人あらざる地点に到達しようとしていたのかを」   「――――――――」  哄笑が止まる。  老魔術師は、何か、遠い空を見上げるように眼を凝らし。   「―――ふん、人形風情がよくも言った。〈先祖〉《ユスティーツァ》の真似事も、すり込み済みという訳か」    醜悪に形相を歪め、白い少女を凝視した。   「――――もうよい。戯れはここまでじゃ。おぬしの体は要るが、心になど用はない。アインツベルンの聖杯、この〈間桐〉《マキリ》臓硯が貰い受ける」 「――――――――」    老人の影が地面を這う。  ……それに応じて、少女に圧し掛かっていた〈重圧〉《ふあん》が増大していく。   「」  黒い巨人は、〈少女〉《あるじ》の命を待たずして出陣した。   「だめ……! 戻ってバーサーカー……!」    少女の声は届かず。  黒い巨人は旋風を伴って、圧し掛かる影を薙ぎ払ったが――――  森を走る。  前には先行する遠坂の背中。  背後には、木々をすり抜けて追ってくるアサシンの気配。   「衛宮くん、後ろ……!」    俺たちが気になるのか、とっくに逃げ出せた筈の遠坂は速度を緩めて振り向く。 「っ……!」  すぐ真後ろに敵が迫っている事は、俺にだって判っている。  だが振り払えない。  追っ手はアサシンのサーヴァントだ。  イリヤを連れた状態ではどうやって振り払――――           「――――そこまでだ。オマエは要らない」 「え……?」  すぐ耳元で、不吉な声がした。  視線を横に移すと、そこには    短剣を舐め笑う、白い髑髏の面があった。 「ズ――――!?」    白い髑髏が吹き飛ぶ。  俺たちの真横に並走していたアサシンは、そのわき腹に蹴りを食らって弾かれたのだ。 「……フン。奇襲でなければ小僧の首も落とせないのか、三流」  言いつつ、アーチャーは足を止めない。 「〈殿〉《しんがり》は任された。おまえはイリヤを連れて逃げろ。  ―――急げ、アレに追いつかれたら終わりだぞ」  アーチャーの視線はアサシンと、その奥からやってくる何かに向けられている。 「――――――――」  ……追ってきている。  あの影は、地面を黒く侵食しながら俺たちを追ってきている――――! 「アーチャー……!?」 「詮議は後だ。走れ小僧。イリヤの手を取ったからには、最後まで守り通せ」  アーチャーはわずかに速度を緩め、俺たちの後ろにつく。  ……その一瞬。  去り行く寸前、アーチャーはひどく済まなそうな目で、イリヤを見つめていた。  鬩ぎあう剣戟を背にして森を抜ける。  背後では俺たちを追ってくるアサシンと、それを食い止めるアーチャーの打ち合いが続いていた。 「ヌ、グ――――」  攻めきれず、何度目かの後退を余儀なくされるアサシン。  アーチャーとの打ち合いは互角。  隙を見て俺に投げつける短剣も打ち落とされ、アサシンはどう見ても攻めあぐねている。  が、それはアサシンが弱いのではない。 「は、セイ――――!」    〈十重二十重〉《とえはたえ》の投剣を弾くアーチャー。  その気迫は今までの比ではない。    ――――勝勢はアーチャーにある。    なんでか知らないが、今のアーチャーは鬼神めいた強さだった。 「ヌ――――貴様、何故動ける……!?」    渾身の一撃を斬り落とされ、後退しながらアサシンは声を上げる。  それを。 「知れた事。私は他の連中のようにまっとうな英雄ではない。正純ではない英霊ならばあの泥と同位。  つまり――――」    勝機と見たのか、アーチャーは逆走する形で踏み込み、  「おまえほどではないが、この身も〈歪〉《いびつ》な英霊という事だ…………!」    一刀のもと、白い髑髏を両断した。 「ギ――――!」  黒衣が四散する。  アサシンは断ち割られた〈面〉《おもて》を手で押さえながら逃走する。  それは仕切り直す為の後退ではなく、命を保つ為の逃走だ。  黒いサーヴァントはアーチャーから逃がれ、木々の闇へと姿を消す。 「上出来……! これで追いつかれる心配もなくなった……!」 「ごくろうさまアーチャー。疲れたでしょ、しばらく休んでいいから霊体に戻っていて」  安心しきった顔で遠坂は言う。 「――――凛!」    その、背後で。   「――――、とお」  木々の影から生まれるように、アレが、浮かび上がっていた。 「え、なに?」  後ろを振り向く。  同時に、黒い影はその触手を伸ばし―――― 「とお、さか――――」    走っても間に合わない。  俺は、遠坂の体が黒い触手に貫かれるのを目の当たりにしようとし、 「グ――――」    遠坂を突き飛ばして貫かれた、アーチャーの姿を見た。 「え……?」  突き飛ばされた遠坂は、呆然とアーチャーを見上げている。 「――――――――」  アーチャーは、終わっていた。  まだ息はあるし、出血も少ない。  体を貫かれようが、それが急所でないのならいくらでも再生は可能の筈だ。    ……それでも、アーチャーはもう戦えないと判ってしまった。  ……アレはサーヴァントを殺すもの。  いかに強力な英霊であろうと、その身がサーヴァントとして召喚された以上、あの“黒い影”には敵わない。  それを、理由もなく漠然と理解した。 「うそ……アーチャー、なに、してんのよ」  ……遠坂も感じ取ったのか。  震えた声でアーチャーに呼びかけ、おぼつかない足取りで立ち上がって、そのまま――――   「来るな……! さっさと逃げろ、たわけ……!」    アーチャーの叱咤で、びくりと体を止めていた。  ―――黒い影が躍動する。    森が死ぬ。  周囲にある全ての魔力があの影に吸われていく。 「――――」  間抜けなことに、それが水風船のようだと思ってしまった。  もういっぱいではちきれそうな風船に、まだ水を注いでいる。  風船は限界以上に膨れ上がり、破裂して、その中身を外にぶちまけるような厭な〈予感〉《イメージ》が―――― 「ま――――ずい」  巻き込まれる。  ここにいては完全に呑み込まれる。  ……アーチャーは体に突き刺さった触手を引き抜き、遠坂へと走り出す。  なら、俺は――――    イリヤを守る。  この場で二人に手を伸ばす事はできない。  遠坂にはアーチャーがいて、イリヤには誰もいない。  なら俺が、  バーサーカーの代わりを果たさなければ――――! 「イリヤ、伏せろ……!」  力ずくでイリヤを倒す。  そのまま、イリヤを隠すように覆い被さった瞬間。    視界と知覚が、黒一色に染め上げられた。   「ぁ――――」                      熱い。    体が吹き飛ばされそうだ。  凝縮し、解放された魔力の波は暴風となって森を侵す。                      ない。    視界はまっくろ。  こんなにハッキリ見えているのに暗いってコトは、黒い太陽でも落ちてきたのか。                     〈体〉《じぶん》が、ない。    だから、きっと太陽の熱で溶かされたのだ。  体がない。  痛みより、触覚がない喪失感が気色悪い。 「は――――あ――――ぁ――――」    でもそれは困る。  体がないとイリヤを守れない。  黒い影はイリヤを連れて行こうとする。  それに、右腕で懸命に抗った。  イリヤの体を右手で抱いて、とにかく地面に張り付いたのだ。 「は――――あ」    それで、ようやく判った。  体はある。だって体がないとイリヤは守れない。  ……まったく、大げさに取り乱したもんだ。  なくなったのは、左肩の向こうだけ。  じゅっ、と音をたててキレイさっぱり消え去った。  体はちゃんと残っている。残っている。        ……ただ、それでも喪失感は変わらない。  "俺のすべてが崩れ去ったわけじゃないのに。でも―――" まるで体がなくなってしまったと思うほど、大きく何かが欠けてしまった。 「――――――――」  ……消えていく。  今ので力を使い果たしたのか、“黒い影”は跡形もなく溶けていった。  ……イリヤは、無事だった。  耳が麻痺したのか、何を言っているのか、よくわからない。  遠坂は……どうなったん、だろう。  アーチャーは……いた。  赤い外套を真っ赤にして、今にも消えそうなほど、弱っている。  ……おかしいな。  なんで、ここに彼女が、いるんだろう。 「――――正気ですか。そんな事をすれば、貴方は」 「考えるまでもない。何もしなければ消えるのは二人だが、移植すれば確実に一人は助かる。  ……どのみちこの体は限界だ。このまま消えるというのなら、これを呉れてやったところで変わるまい」  アーチャーと、ライダーが、話して、いる。  ……何がどうなっているのか。  あいつは、最後に、   「通常ならば死ぬ。〈肉〉《ひと》の身に霊体をつなげては助からない。だがオレとその男は特例だ。凛が目を覚ましたら、うまく処置をしてくれるだろう」    遠坂の髪を、一度だけ、愛しげに〈梳〉《す》いていた。  ――――視界が暗くなっていく。  森に黒い太陽はもうない。  なら、これは。  俺の意識に、暗い闇が落ちてきたのか。   「――――ここまでか。達者でな、遠坂」    そんな俺みたいな声で、アーチャーは〈別離〉《わかれ》を告げていた。  俺たちより遠坂の方が影に近い。  アーチャーは死に体、遠坂はアーチャーの負傷に動転して動けない。  なら、俺しかあいつを連れ戻せない……! 「遠坂――――!」  イリヤから手を離して、遠坂へ走る。  まだ間に合う。  遠坂まで五メートルほど、黒い影は更に十メートル先だ、全力で走って、遠坂の手を引いて真横に跳べば、それで――――            ―――どうにかなると、判断した事が間違いだった。  膨張した影の破裂は、一瞬だった。  遠坂の手を取る事も出来ない。  影は一息で森を蹂躙し、    蜘蛛の巣にかかった獲物を、容赦なく呑み込んだ。  ―――体温が上昇する。    熱帯の森に潜む致死の熱病が、人の体を壊していく。    対抗する〈手段〉《ワクチン》はなく、    肉体は必死に熱から逃れようともがき、    ―――精神が、体より先に死んだ。            〈魂〉《こころ》を失った肉はあっけなく呑まれていく。  黒い影に融けていくなか。               どこかで、産声が聞こえた気がした。  結局、イリヤはうちに来てくれる事になった。  遠坂とイリヤは口喧嘩をしながら礼拝堂を後にする。  あの二人の場合、あれはあれで仲がいい、と見るべきだろう。 「――――――――」  ……話は済んだ。  ここからは俺たちの問題であって、言峰神父と語ることはない。  遠坂たちに遅れて礼拝堂を後にする。  その背中に、   「忘れるな衛宮士郎。おまえは戦える体ではない」    もう定番になった、神父の忠告がかけられた。 「そんな事あるもんか。左腕が使えないだけの話だ。俺はまだ戦える」 「そうか。ところで間桐桜の体調はどうだ」 「桜の体調……?」  ……少し意外だ。  もっと嫌味を言ってくるかと思ったのに、なんだってここで桜の体調を知りたがるのか。 「どんな風の吹き回しだよ。今更、アンタが桜の心配をしてなんになる」 「分かっていないな。私はおまえの体の話をしているのだ。  いいかね衛宮士郎。おまえも危うい体だが、間桐桜は更に危うい爆弾を抱えている。おまえは戦わなければ無事だが、間桐桜は刻一刻と崩壊している。だからこそおまえは戦いを止められない。〈戦闘〉《それ》が、自らの死期を早めると承知した上で」 「………………」 「間桐桜を救うというのなら、衛宮士郎は戦わざるをえない。だが今のおまえには、戦いそのものが自殺行為に等しい愚行だ。  故に―――間桐桜を救うという事は、自分を殺すという事だと理解しているな?」 「…………それがどうした。そんなのもおまえの知った事じゃないだろう」  桜を助けると決めた。  自分の体がどんな状態になろうと、その誓いは変わらない。 「―――そうか。命を捧げるほどの献身は美しいがな。  あの娘は〈衛宮士郎〉《おまえ》にとって、果たしてそれだけの価値があるのかどうか」 「なん、だと……?」 「最後の忠告だ、衛宮士郎。  生かすという事は欲望を満たすという事。  間桐桜を生かしたいというのなら―――それを、最後まで忘れぬ事だ」 「………………」  外に出る。  広場では遠坂とイリヤが待っていた。  イリヤは寒そうに空を見上げていて、遠坂は文句ありそーにこっちを睨んでいたりする。 「遅いっ。綺礼となに話してたのよ、士郎」 「いや、なにっていつもの皮肉だけど――――」  それより、さっきから微妙に気になる事があるんだが、一応訊いておくべきなんだろーか?  ……遠坂。  おまえ、俺のコト名前で呼ぶようになってないか……? 「……ふん。まあいいわ、時間もないし回りくどい事は止めにしてあげる。事は深刻だし、別々にやっても勝ち目は薄いし。癪だけど、昨日の事は水に流してあげるから感謝なさい」  偉そうに胸を張りつつ、もっと偉そうに言い放つ遠坂。  ……えっと。すごく分かり辛いが、つまり、遠坂が何を言いたいかというと。 「遠坂。それって、つまり」 「そうよ、協力してあげてもいいって言ってるのっ!  だいたいね、貴方だけじゃ心許ないでしょ。臓硯を倒すって目的は一緒なんだし、それまで手を組んであげてもいいってコト!」  むー、と文句ありげな視線でまくし立てる。 「――――――――」  ガン、とあたまをハンマーで叩かれた感じ。  突然の申し出は、これ以上ない程の幸運だった。 「あ―――ああ、ありがとう、恩にきる遠坂!  おまえがいてくれるならこれ以上の助けはない……!」  遠坂の手を握って、ぶんぶんと振り回す。  ほんとうに困ったもんだ。  自分でもはしゃいでるって分かっているのに、それでも嬉しい気持ちを抑えきれない。 「ちょっ、わかった、お礼はいいからちょっとタンマ……!」  だだ、と慌てて後退する遠坂。  ……と。  なんでか、遠坂は俺の左腕をじろじろと見る。 「……その前に一つ聞くけど。貴方、その腕が誰のものか知ってるわよね」 「?」  そりゃ当然、と頷く。  遠坂はそれで、すう、と深く深呼吸したあと。   「じゃあ士郎、今から貴方はわたしのサーヴァントよ。  わたしのサーヴァントで助かったんだから、それぐらい当然でしょ」    なんて、とんでもないコトを言い切った。 「な―――――」 「――――え?」  ちょっと、かなり、意味が判らない。  遠坂が何を言いたがっているのか考えよう、とトンチを働かせる。 「な、なに言ってるのよあなた……っ! そんなコトで所有権を言い出すなんて馬鹿馬鹿しいにも程があるわ!」  うむ。イリヤは時にまっとうなコトを言ってくれる。 「だいたいリンの言い分は的を外れてるわ。そもそもシロウはわたしのなんだから、リンにあげられるワケないじゃない!」  ……なるほど。  つっこむポイントがすでにズレていたんだな。 「む。アンタこそ大言吐くじゃない。まさか一度見逃してあげたから士郎は自分のモノだなんて思ってたの?  それだったらわたしも同じよ。学校でバッタリ会った時なんてホントに頭にきて、どうしてやろうかって暴れる寸前だったんだから」 「そんなのリンが大人げないだけよ。わたしは毎日見逃してあげてたんだから、シロウの命はわたしのに決まってるわ。生かすのも殺すのもわたしなんだから、関係ないリンは引っ込んでて」 「関係ないですって……!? 甘く見ないでよね、関係なくてここまで関われるかって言うのっ……!  アーチャーのヤツが頼むって言ったんだから、責任もって生き残らせるわよ!」  ぎしぎし、と軋み音が聞こえそうなほど睨み合う二人。 「…………」  眉間に皺を寄せながら、黙って決着がつくのを待つ。  ……まあ。  どっちに軍配が上がるにしろ、頭の痛い結果になるコトに変わりはないのだが。         「「で、結局どっちなの!?」」  言い合いでは決着がつかないと見たのか、二人は最後の選択をこっちに振ってきた。 「どっちかって、何が」 「だから、どっちのサーヴァントかって言うことよ。士郎の答えをまだ聞いてなかったし、ここではっきりさせた方がいいでしょ」 「そうね。シロウがイヤがってるのに気がついてないし、リンにはハッキリ言わないとダメみたい。  ほら、言ってあげてシロウ。シロウはぁ、わたしのものでいいんだよね?」 「………………」  そんなの考えるまでもない。  命令権が誰にあるかって言えば、それは――――   「遠坂だよ。そんなの、考えるまでもないだろ」 「な、なんで? リンは横暴で強欲で、おまけに九官鳥みたいにうるさいんだよ? なのに、シロウはそっちのがいいの? もしかしてソッチ系なの?」 「いや。そういうんじゃなくてだな、イリヤ。  ようするに、これは遠坂の指示に従うか従わないかって話だろ。それなら俺は従う。俺一人じゃ臓硯を止められないし、俺はアーチャーのおかげで助かったんだから」 「それは……アーチャーは、だって、シロウの」 「命令権は遠坂に預ける。ほら、それってサーヴァントと何も変わらないだろ。遠坂がそう言うんなら、俺はサーヴァント扱いでも構わないよ」    な、と遠坂に確認をとる。 「………………」 「遠坂? おい、人に話ふっといて無視するな」 「ぁ―――そ、そうよ、分かってるじゃない。  わたしのアーチャーが貴方に託した以上、わたしたちは運命共同体なんだから。アーチャーが預けた分、しっかり働いて返してよね」 「もちろん。借りたものはきっちり返さないと寝覚めが悪い」  ……そう。  経緯はどうあれ、俺の左腕はアーチャーによって補われた。  そのアーチャーが遠坂と契約したまま消えたのなら。  あいつが果たせなかった約束を、俺が代わりに引き継ぐ事は間違いじゃないんだから。 「―――えっと、イリヤかな」  あたまに浮かんだ名前を口にする。 「うんうん! シロウったらかほうものめー!」    ばふっ、と勢いよく抱きついてくるイリヤ。  その喜ばれようは兄貴分として無条件に嬉しいのだが、  こう、シャレにならないぐらい怒ってる遠坂で嬉しさもプラスマイナスゼロ、いやむしろマイナスに傾いているような。 「……ふん。お子様のご機嫌とりをするなんて、随分とマメなのね衛宮くんは。なに、もしかして小さい子が好きとか、そういう趣味?」  あう……ことさら嫌味に『衛宮くん』を強調する遠坂。  その目がこう、いかにも社会的弱者を責めるようで胃が痛い。 「ふふーんだ、見苦しいわよリン。フラレたからって八つ当たりなんて、レディにあるまじき行いだわ。そんなんだからぁ、リンはシロウに嫌われたのでしたぁ」 「っ……! ば、ばか言わないでよねこのマセガキ……!  わたしは世間一般の常識を口にしただけだし、第一、誰が、誰にフラレたっていうのよ……!」  があー、と吼える遠坂。  イリヤはきゃっきゃっと笑いながら、なお俺に抱きついてくる。 「ほうら、リンって怖いでしょシロウ?  けど安心して、リンが何かしてきたら、これからはわたしが守ってあげるから!」  にぱっ、とこれ以上ない笑顔で抱きついてくるイリヤ。  それは嬉しい。  さっきの二倍増しで嬉しいんだが、    ……あやつの視線が、もう弁明の余地を許さないほど冷たいのをどうにかしてくれ。 「なんだよ。何か文句があるなら言えよ」 「別に。衛宮くんがどんな趣味してようとわたしには関係ないもの。文句はあるけど口にしないわ。  ――――それより、なんでよ」    単刀直入に訊いてくる。  だが、しかし。 「いや。なんでって……なんでだろ?」  直感で答えたというか、自分でもイリヤを選んだ理由が判っていなかった。 「……呆れた。なに、ホントにそっちの趣味なの貴方?」 「わ、わけあるかばかものーっ! ささ、さっきのはなんとなくそう思ったから口にしただけというか、俺はイリヤの保護者になったんだからイリヤを取るのは当然だ文句あるかっ……!」  あう、我ながらメチャクチャな論理展開。 「うん! シロウはわたしのサーヴァントだもんねー!」  遠坂は呆れるわ、イリヤは跳ね回るわで大混乱だ。 「…………開き直ったわね。まあ、そこまで言うなら認めてあげてもいいけど、桜も大変ね」 「――――――――」  気になる。  何を認めようとしているのか、そのあたり凄く気になるぞ遠坂。 「けど忘れないで。たとえ使わなくても、士郎の腕はわたしの腕よ。  ―――貴方にはアーチャーの代わりをする義務がある。  その体は、もう貴方一人のものじゃない」 「――――――――」  それは、その通りだ。  遠坂はアーチャーを失い、アーチャーの腕で俺は生き延びた。  ……なら俺は、いなくなってしまったあいつの代わりに遠坂を助けないといけない。 「…………ああ、そうだな。サーヴァント云々は置いておくとして、今後の方針は遠坂に一任する。  俺の考えじゃ限界があるし、遠坂が知恵を出してくれるならその方が確実だ」 「そういう事よ。わたしが考える役で、士郎は実行する役。わたしたちは運命共同体なんだから、今後はしっかり働いてもらうわ」  そう。  経緯はどうあれ、俺の左腕はアーチャーによって補われた。  そのアーチャーが遠坂と契約したまま消えたのなら、あいつが果たせなかった約束を、俺が代わりに引き継がなくてはいけない。    それでも――――今は、イリヤを止めないと……! 「戻れ、だめだイリヤ――――!」  木の陰から飛び出す。  バーサーカーへと駆け寄るイリヤを、真横から抱きとめる。  ……緊張で麻痺した耳には、狂戦士の咆哮と、強い風鳴りと、    視覚すら覆うほどの、爆音が流れ込んだ。  イリヤを抱きかかえ、暴風に耐え切れず地面に倒れる。  視界は白のまま、立ち上がる事さえ出来ない。  ……いや。  立ち上がる事さえ、忘れてしまった。 「――――――――」  ……体が熱い。  衛宮士郎の中心、芯に眠るモノが、今の一閃に共鳴している。  正体は掴めず理由も定かではないが、この熱は今の宝具と共鳴したものだと感じ取れた。           「―――――――なんて」  視界が死んでいるように、呼吸も死んでいる。  今は何も出来ない。  この眼球にあの剣が焼き付いているかぎり、人間らしい機能など戻らない。           「――――――デタラメ」  魅入られている。  たった一瞬、わずかにしか見えなかったモノに、心底心を奪われた。        ……数ある宝具の中でも、アレは段違いの幻想だ。  造型の細やかさ、鍛え上げられた鉄の巧みさで言えば、上回る宝具は数あろう。  だが、アレの美しさは外観ではない。  否、美しいなどという形容では、あの剣を汚すだけだ。        剣は、美しいのではなく、ひたすらに〈尊〉《とうと》かった。  人々の想念、希望のみで編まれた伝説。  神話に寄らず、人ならざる業にも属さず、ただ想いだけで鍛え上げられた結晶だからこそ―――あの剣は空想の身で、最強の座に在り続ける。    ―――視力が戻る。    空は赤黒い火に照らされ、真夜中のように暗い。  森を両断した光は、その実闇そのものだったのか。  炎は音もなく燃え続けているというのに、空気は依然として冷たいまま。  アレは酸素を燃やすモノではなく、むしろ凍らせるものなのか。  暗く照らされながらも、森は更に気温を下げていく。 「――――――――」    その、黒い炎を背にして、剣士が立っていた。  片手にイリヤを抱きかかえたまま、向けられた剣を睨む。  剣士からは殺気も敵意も感じられない。  それに殺されると恐怖し、同時に、悔しくて歯を噛んだ。    ―――これは違う。    これじゃあ別人だ。  殺気と敵意だけじゃない。  ……彼女には。  以前あれほど感じられた気高ささえ、皆無だった。  ヘルムが砕ける。  バーサーカーの最後の一撃だろう。  素顔を現した敵は、変わり果てていようと、紛れもなく彼女だった。 「セイ、バー」 「――――――――」    応えはない。  金に変色した瞳は何事も示さず、ただ、倒れ伏した〈敵〉《おれ》を見下ろしている。 「――――シロウ」    イリヤの声は震えている。  目の前に剣を突きつけられ、セイバーの背後では、バーサーカーの亡骸らしきものが、黒い影に沈んでいた。    自らのサーヴァントの敗北と、目前に迫った死。    それで、幼い少女が怯えない筈がない。 「―――――――セイバー」    余分な感情を振り払う。  イリヤを一層強く抱きしめ、残った右腕に力を込める。  ――――今は呆けている場合じゃない。    イリヤを助ける。  イリヤを助けて、衛宮の家に帰る。  なら、ここで怯えて死を待つ訳には――――! 「――――!」    セイバーの剣が斬り返される。  彼女は立ち上がろうとした俺を斬り伏せようとし、瞬間―――横合いから掃射された三連の矢を弾いていた。 「アーチャー……!?」 「止まるな! イリヤを連れてさっさと逃げろ!」  ぶつかり合う剣と剣。  アーチャーはセイバーを狙い撃ち、間髪入れずに斬りかかった。 「っ……………!」 「―――――――」  だが、それも気休めにすぎない。  神速の踏み込みで放ったアーチャーの両刀は、容易くセイバーに弾かれた。 「ぐっ……!」  アーチャーの様子がおかしい。  見ればあいつの足元にも、黒い影が絡まり始めていた。 「―――無様だなアーチャー。  正純の英霊では、アレの呪界層には逆らえん。今の貴様は、この森に満ちる怨霊と大差がない」  ……冷淡な声は、紛れもなくセイバーのものだ。  彼女は事も無げに黒い影を踏み砕き、そのまま、   「ぐっ……!」    容易く、アーチャーを背後の森まで弾き飛ばした。 「な――――」  あの影に足首を掴まれていたとは言え、双剣で防ぎに入ったアーチャーを、防御の上から苦もなく斬り飛ばす、なんて。 「――――――――」  ……そうして、また繰り返しだ。  セイバーは口を閉ざしたまま俺たちと対峙する。  ―――その目が。  イリヤを渡さなければ殺す、と絶対の意思を告げていた。 「……シロウ」  腕に巻きついたイリヤの手が離れる。    それが―――自分を差し出していい、と言っているようで、最後のスイッチが入った。 「――――下がってろ。森まで行けば遠坂がいる。そこまで行けばなんとかなる」    イリヤを後ろに押しのけて、自由になった左手を木刀に添える。  ……構えは正眼。  セイバーが踏み込んでくるのと同時に、ありったけの力と魔力を叩き込んでやる。 「――――――――」  今はそれだけだ。  俺にはセイバーに言うべき言葉なんてない。  謝る事などできないし、戻って来いとも言えない。  彼女が口を閉ざしている以上、それは、口にしてはいけない事だ。    ―――セイバーは敵として目の前にいる。    なら、全力で戦う事ぐらいしか、彼女に応える術はない。 「っ………………」  ……狙いを定める。  相打ちなんて狙わない。そんな戦法は通用しないとセイバー自身に教わった。  自らの死を前提とする一撃は、実力が伯仲したものにのみ通じるもの。  俺とセイバーでは相打ちなんて上等なものは狙えない。  故に、狙うは一撃のみ。    兜を砕かれた、という事は頭部になんらかのダメージを負っている筈だ。  そこに渾身を試みる。  自分は生き延びて敵を倒す。  その、絶対のイメージの下で斬り合わなければ、セイバーとは勝負にもなり得ない――――! 「――――――――」    来る……!  避けろ、避けろ、避けろ、避けろ……!  無様でもいい、地面を這ってもかまわない、まずこの一撃を躱せなければ、イリヤを守る事だって――――           「あ」    ―――死んだ。    なまじセイバーと試合をした分、それが一本だと体で判った。  〈隼〉《はやぶさ》めいた一刀は左上段から。  稲穂を刈る鋭さで、衛宮士郎の無防備な首を薙ぎ払う。    ……が。    首は、いつまでも付いたままだった。  セイバーの剣は、俺の薄皮一枚で止まっている。 「――――――――」  ……何があったのか。  彼女は、やはり無言のまま剣を納め、身を翻した。 「――――!」  ……まさか、セイバーが剣を止めた理由とはアレか。  地面に広がる黒い沼。  そこから、あの“影”が這い出ようとしている。  ……間違いない。  アレは以前、公園で見た、    呪いの塊としか言えない、正体不明の存在だ――― 「私の役目は済んだ。後は貴公に任せる」 「有り難い。容易い仕事だ、〈物憑き〉《マジュヌーン》に敗れた失点を取り返せる」  セイバーは黒い沼へ進んでいく。  ……そうして。  バーサーカーと同じように、ズブズブと音を立てて、黒い影に沈んでいった。 「――――――――」  それを、最後まで見届けた。    ―――何故彼女がこの世に残っているのか、どうして敵に回ったのかは、俺の知るところじゃない。    敵同士になったからには戦うだけ。  もとよりこの戦いはそういうものだった。 「――――――――」  ……ただ、それでも。  あの夜、俺がもっと強かったなら―――彼女をあんな、黒く濁った姿にはしなくて済んだのだと、思ってしまった。 「衛宮くん……!」 「――――っ」  遠坂の声で我に返った。  ―――目前にはヒタヒタと近寄ってくる“黒い影”と、髑髏の面を笑いに歪めたアサシンがいる。 「逃げるぞ、イリヤ……!」  イリヤの手を取って走り出す。 「――――――――」  イリヤはバーサーカーが呑まれた沼を悲しげに一瞥した後、涙を堪えて走り出した。  坂道を上がっていく。  町には活気がない。  まだ八時か九時あたりだろうに、人気もなければ、人が住んでいる熱気さえも消えていた。 「――――、っ――――」    知らず、足を止めて塀に寄りかかっていた。  左腕が熱い。  一人になって緊張が解けたのか、坂道を登り始めてから左腕が痛み出したのだ。 「っ――――そりゃ、そうか。他所の腕を無理やりつけてるんだから、痛まない筈がない」    ……呼吸がなかなか整わない。  歩く度に左腕は熱を帯びて、少しずつ温度をあげていく。  それが平熱を大きく逸脱した瞬間、ズシャ、と肩口から胸に痛みが突き刺さる。 「あー……痛いのは腕じゃなくてこっち側なワケか」    塀に背を預けて、はあ、と大きく深呼吸をする。  ……痛みの仕組みがどんなモノなのかはだいたい呑み込めた。  ようするに冷却しているのだ。  どういうワケか、左腕は動く度に熱を帯びていく。  それが左腕の中で溜まりきって一杯になった時、処理しきれない熱を〈体側〉《こっち》に逃がす。 「っ――――」    この痛みは、熱が体を焼いているからだ。  〈熱〉《いぶつ》の挿入感は鋭利で、加熱というより斬撃に近い。  この赤い目眩が起きるたび、肩から長い刃物を突き刺され、体ん中をギチギチとかき回される錯覚がする。 「ぐ――――はぁ、は――――、っ……!」    ……正直、そう何度も耐えられるものじゃない。  バーサーカーに腹を根こそぎ持っていかれた事も、ライダーに〈肋〉《あばら》を砕かれかけた事もある。  そんなダメージを経験してさえ、自分の腕に自分の体が“貫かれる”のは寒気がした。 「大丈夫、落ち着け――――体温を上げずにおけば、〈腕〉《こいつ》だって大人しくする――――」    夜空を見上げながら呼吸を整える。  遠坂たちと別れてからもう二十分。  本来ならとっくに衛宮の屋敷に着いているのだが、こんな汗にまみれた顔を桜に見せるワケにはいかない。  ……左腕の異常は俺一人の内に留めておくべきものだ。 「―――くそ。言峰のヤツ、なにが実生活に支障はない、だ。こいつに慣れるのは、一筋縄じゃいかないぞ―――」    左肩に手をおいて、赤い布でグルグル巻きにされた腕を押さえる。  左腕はぴくりとも動かず、鉄のように硬い。  ……さて。  汗も引いたし呼吸も整った。  時間も遅いし、少しでも早く元気な姿で、桜にただいまを言わないと―――― 「ただいまー」  深呼吸をした後、大きく声を出して玄関に入る。 「……ぁ……お帰りなさい、先、輩」  ずっと待っていたのか、玄関には桜の姿があった。 「? なんだよ元気ないな。出迎えてくれたのは嬉しいけど、そんな顔じゃ素直に喜べないぞ」  靴を脱いで廊下に上がる。  とりあえず、今は体を休めたい。  桜に今日の出来事を報告するのは居間に戻って、お茶を一杯飲んでからにしよう。 「……と、そういうワケにもいかないか。お茶の前に事情を話しておかないとな」    じき遠坂が来る。  その前に事の顛末を説明しておかないと、桜が遠坂を警戒してしまう。 「桜、今日のことなんだけど」 「……先輩。何も、おっしゃらないんですか」  ……と。  たどたどしい言葉遣いで、桜はそんなコトを口にした。 「何もって、なにが」 「……………………」  桜は押し黙っている。  その視線は俺の左腕に向けられていた。 「ああ、これの事か。そうだよな、見かけがこんなんじゃふつう驚く」  なにしろ包帯とも言えない分厚い布でグルグル巻きだ。  事情を知らない桜でも、一目で何かあったと気付くってもんだ。 「うん、ちょっと怪我した。けど問題なく動くし、もうなんともない。ホントはこんな布も邪魔なだけなんだけど、言峰のヤツが外すなってうるさくてさ。  まあ治療してもらった手前もあるし、大人しくいう事はきいとくんだけど」  ぽん、と左腕を叩いて無事を報せる。  ……っていうのに、桜はますます押し黙ってしまった。 「桜……? いや、ほんとに大丈夫なんだぞ? 大げさなだけで、ただの掠り傷だって。こんなのはすぐに治るし、桜が気にするような事じゃ――――」 「か、掠り傷のワケないじゃないですか……! もう先輩の腕ですらないんですよ!? 指先だって満足に動かないのに、どうしてそんなコト言うんですかっ……!  いくらわたしだって、そんな見え透いた嘘になんか騙されません! それとも先輩は、わたしに話しても無駄だから黙ってるんですかっ……!?」 「――――――――」  それは、火のような反発だった。  ……自分の馬鹿さかげんに言葉を失う。  今日一日、一人でこの屋敷で待ち続けた桜の気持ちを、何一つ考えてはいなかった。 「―――――桜」 「あ……ご、ごめんなさい先輩。せ、責めるつもりじゃなかったんです。……わ、わたしはただ、先輩があんまりにも無茶をして、先輩自身のことを大事にしてあげないのが、あの」 「―――違う。いや、桜の言う通りだけど違う。  俺、怒鳴られて怒ったわけじゃない。……その、真剣に怒った桜を見たのは初めてだから、驚いて、反省した」 「え……反省したって、先輩、が……?」 「ああ。たしかに強がるのはよくない。それが桜なら尚更だ。……きっと、俺は桜に格好わるいところを見せたくなかったんだ。だから強がって平気なフリをした。  けど、考えてみればそっちの方が格好わるい。桜が怒るのも当たり前だ」 「ぁ……いえ、先輩が格好わるいなんて、そんなコト、絶対ないです、けど」  いや、格好わるい。  ……まったく、なにが桜を不安にさせたくないから黙っていよう、だ。  俺は単に、桜に見栄を張って強がっていただけなんだから。 「―――ああ。ごめんな桜。俺、やられちまった。  腕はなんとかなったけど、桜の役には立てなかった」 「ぁ―――そ、そんなコトないですっ……! 先輩は立派でしたっ! わ、わたしは見てませんけど、すごくカッコ良かったです!」 「う……いや、これがほんっとーに情けなかったんで、そう言われると辛い。満足にイリヤも助けられなかったし、ただ逃げ帰ってくるだけだったし」 「……いいえ。それでも、ちゃんと帰ってきてくれました。先輩が約束を守ってくれたので、わたしはすごく嬉しいです」 「あ――――うん。それは、良かった」    ぽりぽりと頭を掻く。  ……まあ、それでも。  桜にそう言ってもらえるのは照れ嬉しいというかなんというか。 「……そうだな。とりあえず、生きてるだけで合格点だよな」 「――――はい。先輩はかっこいいです。わたし惚れ直しちゃいました」 「――――――――っ」  な、なんか物凄く機嫌が直ったのか、桜はとんでもないコトを満面の笑顔で言う。 「あ…………う」  そうゆうコトを言われると、こっちはなんと返していいか判らなくて、つい、   「えっと、こういう時はどう返せばいいんだろう、遠坂」 「さあ? わたしの意見としては、あんまり玄関先でイチャつかないでほしいってコトぐらいね」    真後ろにいる遠坂に振ってしまった。 「「――――え?」」  思わず声がハモる。  俺と桜はババッと同時に半歩後退して、   「と、遠坂いつからそこに――――!?」 「遠坂先輩、なんでうちにいるんですか……!?」    またも同じリアクションをしてしまった。 「いつからそこに、じゃないわよ。もう話がついてるかと思えば二人して仲良くケンカしてるし。まったく、今がどんな状況なのかわかってるの士郎?」  どん、と玄関口に大きなボストンバッグを置く遠坂。  その後ろには  妙な緊迫感で押し黙ったイリヤの姿もあった。 「と、遠坂先輩。昨夜の続きなら、わたしは構いません。  先輩が守ってくれる以上、わたしだって間桐の魔術師として、全力で貴女と戦います」  桜はきゅっと手を握り締め、遠坂とにらみ合う。  ……いや、にらみ合うというよりは、蛇に睨まれた蛙が必死に抵抗している、という風なのだが。 「……ふう。それもまだ聞いてなかったのね。  いい桜? とりあえず貴女の処置は保留するわ。わたしの最優先事項は臓硯を倒す事。貴女との決着はその後よ。……ま、臓硯さえ倒してしまえば貴女と戦うこともなくなるから、うまくいけば臓硯を倒すだけでコトは済むわけだけど」 「え――――それじゃあ、遠坂先輩は」 「貴女―――いえ、士郎と協力して臓硯退治をするってこと。で、そうなると離れて過ごすのは勿体ないでしょう? だから今夜からここで生活して、士郎を鍛えることにしたの。短期間で戦力になってもらうにはスパルタしかないしね」 「そういう訳だからしばらく士郎を借りるわ。荒療治になるけど問題ないわよね、二人とも」 「「な――――」」  しれっと、俺ですら聞いた事のないスケジュールを口にする遠坂凛。 「ま、待った遠坂。そんなコトいきなり――――」 「そ、そんなのダメですっ……!  ね……いえ、遠坂先輩はどんな権利があってそんなコト言うんですかっ!」 「…………言われても、さ。ほら、心の準備とか、あるじゃんか」  とつとつと抗議する。  無論、俺の意見なんてのは桜の声と遠坂の一瞥であっさり却下された。 「あら、権利さえあればいいの? ならますます問題ないわね。彼が生きているのはわたしのおかげだもの。  その借りを返すまで、士郎はわたしの言うコトを聞くしかないの。居場所を明け渡せって言えば明け渡してくれるし、ちゃんと三食付きにしてって言ったらしてくれるのよねぇ?」 「――――――――」  遠坂。その説明は、著しく誤解を招くと思うのだが。 「そんな……ほ、本当なんですか先輩……?」 「―――ああ。遠坂の発言にはところどころ反論したいんだが、言ってるコトは本当だ」 「――――」 「それに仲間は多い方がいいだろ。臓硯が桜を狙っているのは確かなんだ。遠坂がいてくれるなら、確実に桜を守れる」  ……それに、遠坂は桜の姉貴なんだし。  出来れば一緒にいて、争うなんて事にはなってほしくない。 「…………わかりました。先輩がそう言うなら、納得します」  視線を逸らして桜は言う。 「決まりね。それじゃあがらせてもらうわよ。  ほら士郎、客間に案内して。前に上がった時、離れの客間に目をつけてたんだから。あ、イリヤはどこがいい?」 「別にどこでもいいけど、そこの女の近くはイヤよ」 「そうなの? ならイリヤは和室ね」  もう愛称で呼ぶほど親密になったのか、遠坂とイリヤは気楽に言葉を交わしている。 「決まりね。それじゃあがらせてもらうわよ。ほら士郎、客間に案内して。前に上がった時、離れの客間に目をつけてたんだから。あ、イリヤはどこがいい?」 「――――――――」 「イリヤ? どうしたのよ、ぼけっとして。さっきまで士郎の家に泊まるって、ものすごく喜んでたのに」 「……知らない。わたしは別に、喜んでなんかなかったわ」  力のない声。  イリヤは俯いて、じっと廊下を見つめている。  ……たった数センチの段差が、高い壁だと言うかのように。 「――――シロウ。  一つ訊くけど、その女は何処で寝てるの」  と。  さっきまでの元気のなさは何処にいったのか、イリヤは一変して桜を睨んだ。 「? いや、桜の部屋は離れの客間だけど」 「そう。なら離れにはリンだけでいって。離れ以外だったら、わたしはどこでもいいわ」 「そうなの? ならイリヤは和室ね」  もう愛称で呼ぶほど親密になったのか、遠坂とイリヤは気楽に言葉を交わしている。 「――――――――、熱」    寝苦しさで目が覚めた。  寝巻きは汗を吸って重く、掛け布団は蹴り飛ばされている。  額を拭うと、びちゃり、と雑巾をしぼったような汗があった。 「――――――――」    ……うまく頭が働かない。  真夏の熱帯夜めいた暑さに脳がやられたのか。  どう理性を絞っても、今が〈何時〉《いつ》で〈此処〉《ここ》が〈何処〉《どこ》なのかさえ確認できない。 「――――――――」    庭に出た。  とにかく、この火照った体を冷ましたかった。  ……あの部屋が暑いのか、自分の体が熱いのか。  考えるのも面倒だし、今夜は土蔵で眠ろう。  あそこならとりあえず寒い。  暑かろうと熱かろうと関係はな 「ぐっ――――、あ――――!」    不意の痛覚に串刺しにされ、地面に膝をついた。   「――――、い、てぇ――――」    はぁはぁと乱れた呼吸のまま、しばし蹲る。  ……目が覚めた。  熱と痛みの元凶である左腕をぎゅっと掴む。  聖骸布は巻かれたままだ。  がっちりと腕を拘束した赤い布。  動きはするものの、ここまできつく縛られると血の巡りが悪くなる。  それでふと、この布こそが左腕を痛ませているのではないか、と考えた。 「案外、〈布〉《これ》を取れば元通りだったりしてな」    口にした妄想は、ひどく魅力的だった。  そもそも、自分はこの赤い布の中身を見ていない。  あの神父の言葉を信用していない訳じゃないが、あいつにだって間違いはあるだろうし。  ホントは俺の腕はなんともなっていなくて、この布を解けば、馴れ親しんだ自分の腕がある。  俺の腕は決して鉄なんかじゃない。  腕を動かなくしているのはこの布で、コレさえ解いてしまえば、きっと――――      ―――きっと、元通りの左腕がある筈だ。  な    息ができ   神経が、神経が               痛い  生きているのに     感覚は何処に               寒い  死――――   急げ  早く、早く戻さないと               怖い  腕   急いで巻き戻す布の下には               黒い  もう、俺のものとは別の腕が―――― 「俺は――――何、を」    何を、していたのか。  一瞬、思いつきのまま布を解いた。  その後に何が起こったのか、まったく理解できない。  自分がどうなってしまったのか。  自分がどうなってしまうのか。  ほんの数秒前の事なのに、それがまったく思い出せない―――― 「――――ダメだ。これは、本当に」    解けば死ぬ。  神父の言葉は真実だ。  何がどうなるかは判らないが、この布の下にあるものは、俺の物ではなくなっている。 「……忘れろ。ただ腕が動かないだけだ。……これ以上考えれば、きっと」    恐怖で、切れ味が鈍くなる。    そんな醜態は許されない。  アーチャーの腕を移植してまで生き延びたのは、無様に怯える為じゃない。 「……そうだ。今は俺の腕なんかより、桜の事を考えないと」  桜は朝と変わらなかったが、いつ倒れるか判らない。  ……その前に臓硯を倒して聖杯を手に入れる。  考えるべきはその方法だ。  片腕で臓硯とアサシンを倒す手段。  ……いや、敵はそれだけじゃない。  俺たちの前には得体の知れない敵がいる。 「――――――――」  事情は知らない。  あの“黒い影”がなんなのか、セイバーが臓硯のサーヴァントになったのかも判らない。  判っている事は、彼女が敵になったという事だけだ。 「………………」  ……本当は判っている。  勝ち目なんて何処にもないと。  腕の鈍痛がこの先どうなるか自分にも判らない。  戦力差は圧倒的で、俺は自分の事さえ不確かだ。  こんな状態で、どこまで桜を守れるのか―――― 「――――――――ふう」    肺にたまった憂鬱を吐き出す。  そんな馬鹿な話はない。  自分に都合のいい妄想を信じてどうする。  こんなとこ、遠坂に見られたら笑い飛ばされる前に本気で怒られそうだ。 「……大丈夫だ。ただ腕が動かないだけで、どうって事はない。悩むならもっと別のことを考えろ」    問題は俺の腕なんかより桜の方だ。  いまは元気そうだが、いつ倒れるか判らない。  その前に臓硯を倒して聖杯を手に入れる。  悩むのならその方法だ。  片腕で臓硯とアサシンを倒す。  ……いや、敵はそれだけじゃない。  俺たちの前には得体の知れない敵がいる。 「――――――――」  事情は知らない。  あの“黒い影”がなんなのか、セイバーが臓硯のサーヴァントになったのかも判らない。  判っている事は、彼女が敵になったという事だけだ。 「………………」  ……本当は判っている。  勝ち目なんて何処にもないと。  腕の鈍痛がこの先どうなるか自分にも判らない。  戦力差は圧倒的で、俺は自分の事さえ不確かだ。  こんな状態で、どこまで桜を守れるのか―――― 「――――――!」  足音を聞いて体を立たせる。  後ろにいる相手……やってきた相手が誰なのかは振り返らなくても判っていた。  黒い装束のサーヴァントは、相変わらず無口だった。  本来なら今みたいな足音は立てないだろうに、これみよがしに立てたのは俺に気を遣ったからだろう。 「何か用か、ライダー」 「………………………」  ライダーは無言で見下ろしてくる。  ……む。  まったく関係ないんだが、ライダーは背が高い。そんなコトに今更気がつくなんて、俺もどうかしてる。 「―――なにがおかしいのですか、士郎。こちらはまだ何も告げてはいませんが」 「え……? ああ、今のは違うよ。ライダー、俺より背が高いだろ? もう随分と顔を合わせてきたのに、今になって気がついてさ。我ながら間の抜けたヤツだって笑ったんだ」 「そうですか。先ほどは苦しんでいるように見えましたが、要らぬ気遣いだったようですね」  ?  気のせいかもしれないが、ライダーの声はわずかに怒っているようだった。 「っと、それよりライダー。今日助けてくれたのはおまえか? 記憶にないんだけど、あの森から教会まで運んでくれたのはライダーの気がするんだけど」 「……そうですね。貴方たちを運んだのは私です。サクラは貴方を守れと言った。私はサーヴァントとして、彼女の命に従ったまでです」 「―――そうか。それは助かったけど、ライダーを使ったって事は、桜も魔力を使ったって事だよな。  じゃあ――――」 「ええ。残り少ないサクラの魔力は、さらに失われたという事です。今日のように桜が私を使えば、私は桜を食い潰してしまうでしょう」  ライダーは淡々と語る。  桜に対する憎しみも哀れみもない。  ライダーはサーヴァントとして、当然の事実を口にしているだけだ。 「ライダー。一つ訊いていいか」 「かまいません。訊ね事があるのなら先にどうぞ」 「……じゃあ訊く。ライダーは、桜が令呪をなくしたら、そのまま桜を殺すのか」  令呪を使い切ったマスターは、まず自らのサーヴァントに狙われる。  桜とライダーに信頼関係がない場合、ライダーは容赦なく桜を殺し、その肉体を再契約までの糧として存命する。  ……ライダーはあくまでサーヴァントとして桜を守っている。そこに親愛の情は見られない。  だからこそ、ここでライダー本人の意思をきちんと聞いておきたかった。 「――――――――」 「どうなんだ。おまえは、桜を殺すのか」 「ええ。サクラがそれを望むのなら、私の手で楽にしようとは考えています。ですが士郎。私は、彼女の生存を望んでいる」 「!――――じゃあライダーは、令呪がなくなっても桜を襲わないんだな?」 「令呪の縛りは関係ありません。私はサクラがマスターである限り、自らの意思で彼女を守る。私は彼女が好きですから」 「え――――本当に?」 「ええ。意外ですか士郎。私が感情を持つ事が」 「ぁ……いや、すまん、勘違いしてた。そんな風には見えなかったから、つい」 「謝る必要はありません。私はサクラとまともに話した事はありませんし、サクラも私には話しかけない。  けれど士郎。サーヴァントは自分に近いモノに喚ばれるのです。貴方がセイバーを召喚したのは偶然ではなく、その魂の在り方が近いからでしょう」 「そういった意味で言えば、私とサクラは同じものです。  もともと饒舌ではないのですから、会話がないのも当然でしょう。そのような物がなくとも、私たちはお互いをよく解っています」  ……そう言うライダーの声には、確かに温かい感情が流れていた。  外見からつい酷薄な性格を想像してしまったけど、ライダー、本当はすごく淑やかな性格をしてるんじゃないだろうか。 「……そっか。うん、それは良かった。ライダーが桜の味方でいてくれて、すごく嬉しい」 「そうですか。では私の番ですね。  士郎。貴方はサクラがマキリの家に貰われてから今まで、何に耐えてきたか、解っていますか?」 「――――それ、は」    ……解るはずがない。  いや、言峰の口からどんなものだったかはとっくに聞いている。   「……解らない。だから、それを口にする事も、しちゃいけないと思う」  ……ああ。  俺だって魔術師の端くれで、臓硯がどんなヤツなのかは知っている。  想像をするのは容易く、それは真実に近い明確さを持つだろう。  だが―――それは俺が、容易く“解る”なんて口にしてはいけない事だ。 「でしょうね。サクラは貴方に知られないように努めてきた。その貴方がここで解るなどと口にすれば、私は貴方を殺している」 「……それは、桜の為に?」 「ええ。けれどその必要はなかったようです。  貴方は未熟で不器用ですが、その芯にあるものは信用に足ります。だからこそ、サクラにとって貴方は救いだったのでしょう」 「……長い間、彼女の中には諦めしかなかった。絶望しただ受け入れるだけの日々が延々と続いていた。  そこに変化が生じたのは貴方と知り合ってからです、士郎。貴方はサクラに諦め以外の、無くしていた諸々の感情を取り戻させた。  その中で最も大きかったのは痛みと苦しみですが、それでも諦めるだけだった彼女にとって、貴方は唯一確かな救いだったのです」 「………………」  ライダーが何を言っているのか、俺には読み取れない。  桜が何を思い、何に苦しんできたかを共有できない俺には、俺を好きになってくれた理由さえ判らない。  ただ、マスターである桜と感覚を共有するライダーの言葉は紛れもない真実だ。  ライダーは静かに。  まるで、桜の気持ちを代弁するかのように、   「士郎。貴方は、サクラを幸せにすると言いましたが。  サクラにとっては、この二年間こそが幸福だった」    静かな悲しみと感謝を込めてそう言った。 「私が訊ねたかったのはそれだけです。  サクラの幸福は、貴方が生きて傍にいてくれる、という事。それ以外に彼女が望むものなどない」  ライダーは目隠し越しに、俺を問い詰める。  ……その意味がわかっているのか、と。  間桐桜にとって、衛宮士郎が戦うという事自体が、彼女の幸福を脅かしている。  なら、そんな体でこれ以上何をするつもりだ、と責めたててくる。 「――――けど、俺は」    ……動かない左腕を握り締める。  どんな身体だろうとまだ戦えるのなら、戦わないといけない。  俺は桜を助けると誓った。  戦いを止める為ではなく、桜の為だけに戦うと決めてしまった。    だから―――ここでそれを止めてしまったら、俺は何者でもなくなってしまう。 「―――――――――」  ……沈黙が降りる。  ライダーは口を閉ざし、俺は俯いたまま答えがない。  そうして、どれだけの時間が経ったのか。           「…………貴方はサクラの味方ですか、士郎。      この先に、たとえ何があったとしても」 「――――――――」  ライダーの問いは、考えるまでもない。  衛宮士郎は間桐桜の味方になると決めた。  なら、迷いもなく頷いてライダーに応えなくてはいけない。 「――――――――」  そう解っていても、はっきりと気持ちを口に出来なかった。   “―――たとえ、何があったとしても”    その言葉の意味が何を指しているのか、心の何処かで気付いてしまったから。 「……解りました。ここで無理をせずとも、答えはいずれ出ます。その時までに覚悟を決めておくのですね」    闇に溶ける様にライダーは立ち去った。  それを見送って、意味もなく空を仰いだ。 「――――――くそ」  ……ああ。  答えを言えなかったのは、気付いてしまったからだ。    未だ正体の掴めない黒い影。  不安定な左腕。  もう切り捨てた筈の、今まで自分が目指していた理想。    その全てが告げているのだ。    聖杯を手に入れれば、他のどんな望みも叶う。    だが―――桜を幸福にするという願いだけは、どうあっても叶えられない幻想だと―――   “影が”揺れる。    血に塗れた赤い騎士と、地面に腰を落としたまま呆然とする遠坂凛。  そこから五メートルほど離れた場所に、銀髪の少女と、手を繋いで立ち尽くす衛宮士郎の姿があった。    ……影が揺れる。    影は枯れ木のように縮んだあと、〈河豚〉《ふぐ》のように膨れ上がった。  いや、その毒々しさはもっと醜悪な深海魚のソレだろう。  影の膨張は止まらず、恥知らずにも際限なく膨れ上がり、森を〈真黒〉《まくろ》に染めた。    ――――瞬間。    赤い騎士は遠坂凛を庇って絶命し、衛宮士郎は、幸運にも助かった。  森の地面が〈凹凸〉《おうとつ》だった事が幸いしたのだ。  広がった黒い影は〈窪〉《くぼ》みにいた衛宮士郎を避けて通った。  ただ、窪みから出ていた左腕だけは、その幸運に〈与〉《あずか》れずに―――   「――――!」    夢から覚めた。  ライダーを士郎の護衛に送ってから半日。  衛宮邸からでも様子が判るようにと、サーヴァントと視界を共有していた間桐桜は、その光景で現実に引き戻された。             「は――――あ、う…………!」    吐き気がする。  サーヴァントと共有していた視覚を強引に断った為、視界は失明したかのように白濁としている。  眠っていた体は汗をかいて、少しでも息を吸うと、途端―――   「うっ……は、あ……!」    喉元まで、胃の中のモノが戻ってきた。    脱衣場に駆け込む。  口元を手で覆って、呼吸をせずに洗面台にすがりついて、   「う、っ、う…………!」    たまらず、胸の中に渦巻いたものを吐き出した。   「――――あ」    俯いたまま肩を上下させる。  長い髪はカーテンのように揺れて、鏡から顔を隠す。   「……うそ。先輩、手が」    呆然と、さっきの悪夢を思い返す。  ……あの映像に間違いはない。  衛宮士郎は銀髪の少女を庇って、左腕を影に呑まれた。  それも根元から、喰われるように。   「――――わたし、なんて、コトを」    思ってしまったのか、と桜は自虐する。  背中には悪寒と妙な高揚感があって、何が起きたのか、何をするべきなのかも考えつかない。  分かるのは、自分が嫌いだという事だけだ。    ……以前、彼女は思ってしまったコトがある。  衛宮士郎が外に出られないぐらいの怪我をすれば、もう危ない目にあわなくてすむ、と。   「違う……そんなの、違ったんだ」    そう、違った。  そんなコトはなんの解決にもならない。  外に出られないぐらいの怪我がいい、なんて、どれほど軽率な願いだったのか。  彼女の願いとは関係なく、衛宮士郎は傷を負った。  外に出られないどころか、命に関わる傷を負った。    その二つに違いなどない。  怪我をする、とはそういう事だ。  その不幸を、どうして、いい事のように願ってしまったのか。   「うっ――――あ、う、ぁ…………!」    吐き気は治まらない。  胃の中のものを全て吐き出しても嘔吐は止まらない。  胃液と血。  切り刻まれるような腹部の痛みと喉の傷は、自らを責める罰のようだ、と彼女は思った。    ……そうして数十分後。  胃液すら枯れ、ようやく吐き気が治まって、彼女は平静を取り戻した。  はぁはぁという声。  荒々しい呼吸と、苦しげに上下する肩。  何十キロと続くマラソンをやり終えた後のように、両手を洗面台につけて息を整え、   「―――でもこれで、もう先輩は戦えない」    恍惚とした声で、ありのままの気持ちを口にした。    短い呟き。  荒い息づかいのまま顔をあげる。  鏡に映った自分は、罪悪感に押し潰されている。  申し訳なさそうに俯いた顔は、衛宮士郎の安否を気遣ってのものだ。  彼女は本気で、一点の偽りもなく、衛宮士郎の無事を願う。        鏡には、口元を歪めて笑う横顔が映っていた。            ――――熱い。    蒸した石室に閉じ込められている。  肩の付け根から侵入する熱は、細胞を食う極小の蟲のようだ。  肩。見えない傷口に無数の蟲が集まってきているように。            ――――――熱い。    体が内側から焼ける。  蒸した石室というより、フタをしたフライパンだ。  じゅうじゅうと音をたてて、気を抜けばいつのまにか真っ黒焦げになっている。            ――――――――――熱い。    熱は、体ではなく心を溶かす。  ジリジリとゴウゴウと。  〈遺伝子〉《さいぼう》を焼き、書き直すように、熱は強く慎重に広がっていく。    ……その、悪い夢がついに終わるのか。            ――――――――――――熱い。    蟲を逃がすまいと、開いていた穴にフタをされた。    ――――熱い。  ――――熱い。  ――――熱い。  ――――熱い。  ――――熱い熱い熱い熱い…………!!!!!    穴とは肩だ。  その穴を入り口として、蟲は無遠慮に体の中に入ってきた。    その入り口――――連中を外に出すべき穴が、自分以外の肉片で塞がれた――――!    変わっていく。  得体の知れないモノに変わっていく。  入ってくる。  知るはずのない知識が入ってくる。  それはヤツの戦闘経験であり、戦闘情報でもある。           「は――――あ、が――――!」    それがあいつの宝具だった。  一対の短剣が、ではない。  〈干将莫耶〉《かんしょうばくや》。  古の名工が作り上げた宝剣を愛用するあいつは、同じく鍛冶を生業とする英霊だったのだ。    だから作る。  目に見たもの、理解したものならばいくらでも複製する。  否。  それは複製ではなく投影。  術者の〈創造理念〉《イメージ》が真作を再現する特殊な魔術。    それを―――使いこなせと、心を燃やす熱が言った。           「は――――あ、あ――――!」  冗談じゃない。無理だ。そんなものは入りきらない。  投影なんて知らない。俺はまだその域に達していない。  そんな近道は必ずこの身を破滅させる。  だいたい、俺は俺だけで手一杯なんだ、そんな他所のモノを見せ付けられても覚えられないし使いこなせない。  なによりそれだけの力がなくおまえと俺は赤の他人で何の接点もないんだから体が馴染む筈がない、いや、仮に馴染んだところでどうなる耐えられる筈がない、  時間を狂わせてはいけない秩序を乱してはいけないおまえが俺に手を貸すなんて、そんな事をされても俺には扱える技量がない―――― 「――――――――」    ……ゆっくりと意識が戻る。  俺は知らない部屋で、慣れない寝台に横たわっていた。 「……あ……れ」  体を起こす。  俺は確か――――森でセイバーと出会って、遠坂と逃げて、それで、イリヤを――――   「………………」    はた、と目が合う。  イリヤは寝台のすぐ横にいて、俺を呆然と見つめていた。 「――――そうか。無事だったんだ、イリヤ」    ほう、と胸を撫で下ろす。  状況は掴めないが、イリヤが無事なのは本当に嬉しい。 「やったぁ! 目が覚めたんだね、シロウ!」 「え――――ちょっ、イリヤ……!」  イリヤはまっすぐに突っ込んでくる。 「っと」 「よかった……よかったよぅ、シロウ……!」  ばふ、と頭からこっちの胸に飛び込んできて、イリヤは“よかった”を繰り返す。 「――――――――」  ……まいった。  状況は本当によく判らないけど、こんなふうに泣きつかれたら大人しくしているしかない。 「怪我は痛まない? 少しでもおかしいなって思ったら、すぐ代わりの物をつけさせるから!」 「……? ああ、別に痛いところなんてないよ。それよりイリヤ、あれからどうなったのか説明――――」  してくれ、と言いかけて、   「ぎっ――――!?」            体を、長い刃物で串刺しにされた、かと思った。 「は――――ぎ、ずっ――――!」    痛みに耐えかねて、右腕で胸を掻き毟る。 「シロウ……!? 落ち着いて、我慢するんじゃなくて左腕を抑えつけるの……!」 「ぁ――――左、腕…………?」  ……よく判らない。  よく判らなかったが、とにかく今は痛みから逃げだしたかった。 「――――は――――はあ、は――――あ」    ……心を落ち着かせる。  目を閉じて瞑想すれば、異常な個所はすぐに把握できた。  痛みの元、異物がなんであるか判れば多少はコントロールできる。  要は関を作って、異物が本体に混ざらないよう努めればいいだけだ。 「――――ふう。大丈夫、落ち着いたよイリヤ」 「うん、わたしにも判るよ。どうなる事かと思ったけど、とりあえず反発しあう事はないみたい」 「……?」  イリヤは今の痛みが何から来るものか知っているらしい。 「……む?」  ふと自分の姿を見ると、だぼだぼの病人服を着せられていた。  ……いや、これは病人服というよりベルトの塊だ。  その証拠に、動かせるのは右腕だけ。それ以外の個所はがっちり固定されていて、一人では脱げないようになっている。 「なんだこれ。イリヤ、なんでこんなの着てるんだ俺?」 「え……えっと、それは」  言いにくそうに視線を逸らす。   「そこからの説明は私がしよう、衛宮士郎」    ……と。  あまり会いたくない人物が現れた。 「あちらも持ち直した。こちらは事後説明だけだからな、用がなければ退室したまえ」 「……ふん、どうだか。わたしはシロウと一緒に外に出るの。アナタが本当に何もしないのなら、わたしがここにいても問題はないでしょう?」 「なるほど、たしかに問題はないな。だが説明は簡潔に済ませたい。邪魔をしないというのなら、隅で大人しく座っていろ」 「そうね。じゃ、そうさせてもらうわ」  イリヤは言峰の脇をすり抜けて壁際に歩いていく。 「――――さて。状況説明の前に、先ほどの疑問に答えておこう。あまり驚くなよ、衛宮士郎」  言峰の腕が伸びる。  神父は拘束着のベルトを解いて、あっさりと俺を裸にした。 「な――――」    そこにある〈腕〉《もの》は、衛宮士郎の〈腕〉《もの》ではなかった。  何重にも巻かれた布の上からでも判る。  ……いま左腕になっているものは、自分以外の何か。  それは本来在ってはならないモノ、自然の摂理を押し曲げてまで取り付けた“異物”だった。 「言峰、これ、は」 「アーチャーの左腕だ。アーチャー本人の意思を尊重し、彼の遺体からおまえに移植した」 「アーチャーの意思を尊重……? いや、それより遺体って、あいつは」 「移植が済んだ後、消滅した。ここに運ばれた時点で死に体だったのだが、よくも終わるまで保ったものだ。アーチャーの持つ〈単独行動〉《とくしゅぎのう》故だろうがな」 「………………」  アーチャーが、消滅した。  じゃあ、これで残るサーヴァントは臓硯のアサシンと、桜のライダーと……  ……いや。  ああなってしまった彼女を、サーヴァントと呼ぶのは違う気がする。 「……待て。アーチャーは消えたんだろう。なら、あいつの腕が残っているのはおかしくないか」 「移植が終わる前に消滅したのなら、その左腕も消えていただろう。だがおまえのソレはアーチャーが現世に留まっているうちに切り離し、おまえの体に植え付けたものだ。衛宮士郎の魔術回路と繋げ、おまえ自身の魔力で現世に受肉させている英霊の肉。  ……その手術が成った時点で、ソレはおまえの肉体となった。その後ならばアーチャーが消えようと左腕は残る。その左腕は既におまえの腕なのだからな」 「じゃあ本当に……これは、あいつの腕なのか」 「そうだ。あのままではおまえもアーチャーも長くはなかった。アーチャーはこの世に留まる霊核を壊されており、おまえも半死半生の手負いで、傷口より生命活動に必要な中身を損ねていた。  幸い、アーチャーの体に傷は少なかったからな。彼はおまえに唯一無事な肉体を提供する事で、死にゆくおまえを生かしたのだ」 「――――――――」  ……呑まれて消えた半身。  精神を侵していった熱と、こうして他人のモノとしか思えない左腕。  その全てが、あの出来事が本当だったのだと告げている。  ――――俺はあの森で倒れ。  その後、アーチャーに救われたのか。 「……けど。サーヴァントの体を人間に移植するなんて、できるのか」 「繋げるだけなら出来なくもないわ。霊媒の医師は肉体ではなく魂を癒すものだっていうし、そこの神父は見かけによらず本物だったっていう事ね」 「世辞は受け取るが、そう手放しで喜べる事ではない。  異なる霊体同士の接合は禁呪と呼ばれる。何故なら、行ったところで絶対に失敗するからだ。  霊体……魂の蘇生、復元は魔術では扱えない神秘である。故に今回も、形だけ成功した後でショック死すると思ったのだが――――」 「……シロウとアーチャーは特別よ。わたしもさっき判った。この二人なら、繋がりさえすれば持ち直すって」 「?」  イリヤは視線を逸らして、なんとなく悲しそうに視線を泳がせる。 「ほう。まあ、その理由は知らん。私に判るのはおまえたちの相性がよかった、という事だけだ。手術を始めた時は驚いたぞ。双子でもここまで瓜二つではなかろう、とな」 「――――――――」  言峰の言葉を確かめるように、左腕に力を入れてみた。  ……感覚なんてまるでない。  単に痛みがないだけで、そこにあるのはただの塊だった。  何をどうやっても動かない。  血の巡りを止めて麻痺した腕と同じだ。  繋がっているのに動かない、という感覚は、肉体的な痛みではなく精神的な恐れを抱かせた。    ……左腕は、ただの鉄くれになっていた。    ブリキになった人間がいるとすれば、それはこんな不自由さなのかもしれない。 「……まったく動かない。これで手術は成功したのか」 「無茶を言うな。繋げたばかりではそれが限界だ。数日経てば馴染む。先ほども言ったが、おまえたちの相性は実にいい。この分であれば、通常の生活をこなせるほどには回復しよう」 「だが注意しろ。私が言っているのは、あくまで回路が合う、というだけの話だ。  いかに相性がよかろうが、それは人間では扱えぬ英霊の腕。いや、腕というよりは兵器だな。強力ではあるが、使えばおまえとて巻き込まれよう」 「―――それは、自滅するって事か?」 「無論だ。人間である衛宮士郎が〈英霊〉《アーチャー》の腕を使えば、肉体はアーチャーの腕に侵食される。否、吹き飛ばされる、という表現の方が正しいか」 「霊格として、衛宮士郎の肉体はアーチャーの腕には到底及ばん。一度でもその腕を使えば、アーチャーの魔術回路が起動する。  そうなった時―――おまえの体はアーチャーの魔術行使に耐えられず、内部から崩壊する。  いいか、使う度に寿命が減っていく、のではない。  その腕を使えば、おまえの体に植え付けられた時限爆弾にスイッチが入るのだ」 「――――――――」    ……なんだ、それ。  要するに一度でもアーチャーの真似事をすれば、俺は絶対に死ぬって事じゃないか。   「……。じゃあ、この布はその為の……?」 「ああ、その為の封印だ。それを巻いているかぎり、左腕は魔術回路を発現しない。おまえが魔術を使おうと、その左腕だけは別の物として扱われる。  だが安心はするなよ。魔術行使をせずとも、生きている限り魔力は肉体に通るものだ。その度に左腕には痛みと、起動しようとする反動が起きるだろう。  それを防ぐ為、〈魔力殺し〉《マルティーン》の〈聖骸布〉《せいがいふ》で左腕を覆っている。  その布を巻いている限り、左腕からの侵食はある程度抑えられる筈だ」 「ちょっと待て。ある程度抑えられるって、それじゃあ完全には」 「抑えられん。……そうだな、アーチャーの腕を使おうと使うまいと、結局はその腕に侵食される。  長生きがしたいのなら、腕と拮抗するほどの魔術師に成長しろ。そうなれば聖骸布を巻かずとも左腕の封印は出来る」 「なに、私の見立てでは左腕に食い潰されるまでにあと十年。それだけの猶予があるのだ。一人前になって左腕を御するか、成れずに自滅するか。そう急な話ではあるまい」 「………………」  急どころか、こんなの知らないうちに改造されたようなものだ。  ……が、文句を言っても始まらない。  本来なら、俺はあの森で死んでいた。  それを生かす為の方法がアーチャーの腕の移植だったんだから、文句を言うって事は助かった命を放棄するって事になる。 「――――判った。とりあえず礼は言っとく。  ……また世話になった、言峰神父。出来れば四度目がないよう祈っててくれ」 「減らず口が言えるのなら心配は要らぬな。では外に出ろ。礼拝堂で凛が待っている」  言峰は出口に向かっていく。  寝台から降り、用意されていた上着を羽織る。  左腕は動かないので、とりあえず羽織っただけだ。 「よし、気を配ってれば痛まないな。イリヤ、行こう」 「あ……うん、行く」  ……外に出ると、そこは教会の中庭だった。  空は暗く、いつのまにか夜になっていた。 「言い忘れていたが、その聖骸布は解こうと思えば簡単に解ける。  選択肢は常におまえにある。アーチャーの力を使うのは自由だが、使えば命の保証はせん。  それを踏まえた上で、せいぜいうまく立ち回れ」  礼拝堂に入るなり、遠坂はじろりとこっちを睨んできた。  ……あんなふうに睨まれる覚えはないが、とりあえず遠坂も無事だったと判ってホッとする。 「さて。これで全員治療は済んだ。衛宮士郎はアー チャーの左腕を移植され、凛は毒素を洗浄された。なにか、これ以上の要求はあるか?」 「……あるワケないでしょ。これ以上アンタに借りを作ったら、それこそ命を担保にされかねないじゃない」 「そうか。ではこれで解散という事になるが、一応監督役として訊いておこう。  これからどうするつもりだ凛。  事がこうなってしまっては聖杯戦争も破綻している。  残されたマスターがこうもそろってサーヴァントがいない状態では、もはや勝敗はついただろう」  む、と遠坂は黙り込む。  ……言峰の言う通り、勝敗はほぼ決まっている。  サーヴァントを持つマスターは臓硯と桜だけになった。  ……本来なら残った二人が戦うべきなのだが、桜は臓硯に逆らえない。そういった意味で、勝敗はもう決まっているようなものだった。 「間桐臓硯としては間桐桜を取り戻すか、始末するかのどちらかだろう。これを防ぐのは難しく、おまえたちには防ぐ義務もない。なにしろ間桐臓硯を倒したところで、おまえたちに益はないからな」 「へえ。サーヴァントがいないマスターは、聖杯を手に入れられないってヤツ?」 「そうだ。故に戦う意味はなく、これ以上の戦闘は無意味だ。このまま大人しく屋敷に立て篭もり、聖杯戦争の終わりを待つのが正しい選択だろう」 「―――ご忠告どうも。けど降りないわよ、わたし」 「―――驚いたな。聖杯を諦めきれない、という事か?」 「当然よ。サーヴァントがいなくなっても、わたしはまだマスターだもの。一人になったから戦いを降りるだろうなんて、勝手に極め付けないでよね」 「ほほう。そうか、確かにそうだな。サーヴァントを失ってものこのこ死地に赴いた者もいる。そう簡単に白旗はあげられないか」 「――――ふん、士郎は関係ないわよ。  いい、これはあくまでわたしの判断。わたしはまだ諦めてないし、臓硯を勝利者にさせる気もない。それじゃどっちにしたってあの子が助からないんだから」 「――――遠坂」  目を見張って遠坂を見る。 「な、なによ嬉しそうな顔して。い、言っとくけど、アンタの真似をしたワケじゃないからね。わたしは勝算があるからまだ降りないの。貴方みたいに、勝ち目もないのに残るワケじゃないんだから」 「―――ああ、そうだろうな。遠坂のコトだから、そうじゃないかって思ってる」 「…………なんかそれはそれでひっかかるけど、分かってるのならいいわ」  ふん、と顔を背けてそっぽを向く。  遠坂は正義感から臓硯に聖杯を渡さない、と言っているんじゃない。  臓硯が勝ったところで桜は救われない。    桜を救いたいのなら、それは桜が聖杯を手に入れるか、それとも―――桜を助ける気がある人間が聖杯を手に入れるしかない。  だから、どうせ勝つ人間が出るのなら、それは自分か桜のどちらかだと遠坂は言ったのだ。    間桐臓硯と戦うのはそれだけのこと。    もう聖杯を手に入れられない遠坂は、なんだかんだ言って妹である桜を助けたがっている。 「ふむ。ではおまえはどうだ衛宮士郎。凛と同様、まだ聖杯を諦めないというのか?」 「ああ、戦いは止めない。俺だって目的はある。このまま臓硯の好きにはさせない」 「……そうか。戦うというのなら止めはせん。絶望的な戦力差だが、間桐臓硯は小物だからな。何らかの策はあるだろう」 「………………」 「………………」  つい、お互い無言で見詰め合った。  ……何らかの策、か。  俺一人じゃそんなもの見つからないが、遠坂と二人なら、臓硯を倒す方法ぐらい見つかるかもしれない―――    話は終わった。  治療は済み、保護を受けない元マスターを匿う理由はない、と言峰は退出を促してきた。 「―――言われなくても出て行くけど。なあ、イリヤは行く所あるのか?」 「? 城はまだあるし、セラもリズも呼べば出てくるから帰る場所はあるけど……どうしてそんなコト訊くの、シロウ?」 「いや、一人じゃ危ないだろ。イリヤさえよければ俺の家に居てもらいたいんだ。その方がなにかと便利だと思うし」 「いいけど、行かない。シロウのとこにはあの女がいるもの」  と。  イリヤは、なんかおかしな返事をした。 「?」  いいけど、行かないってどういうコトかな、と視線だけで遠坂に問いただす。  あ。いかにもこっちに振るなって顔してるな、あいつ。 「ほう。間桐桜を選んだのか、衛宮士郎」 「……言峰?」 「イリヤスフィールは私が預かっても構わないが。このまま城に戻しては臓硯に攫われるだけだからな」 「お断りだ。イリヤは俺が引き取る」 「お断りよ。イリヤはわたしが借りるんだから」 「お断りするわ。わたし、自分の居場所は自分で決められるもの」 「………………………。  それは残念だ。では、イリヤスフィールは遠坂の屋敷に滞在するのだな」 「バ、バカ言わないでっ……! アインツベルンのマスターは、遠坂の家になんていかないんだからっ!」 「あっそう。じゃあアンタ何処に行くのよ。士郎の所も嫌だ、教会もお断り、わたしの家も駄目だって言うんなら、もう城に帰るしかないわよ?」 「わかってるわ。もとからあそこがわたしの工房なんだから、他のマスターの世話になんてならない。バーサーカーがいなくたって、わたしは一人でやってくんだから」 「あーら、やっぱりそうなんだ。一度殺しかけた士郎に助けられたクセに、恩も感じずにお城に戻るワケね。  聞いた衛宮くん? あれだけ助けてあげたのに嫌われたものね。この子、貴方の家なんて狭苦しくて御免だって言ってるわよ?」 「な、なに言うのよリン!  わたしそんなコト一言も――――」 「言ってるじゃない。衛宮くんの家に行かないのは、衛宮くんが頼りにならないからでしょ? だから安心できる自分の城に戻るって言ってるんじゃない」 「……それは、そうだけど……けど、わたしが城に戻るのは、シロウから離れないといけないからで――――」 「え? あ、そうなんだ。頼りになるならないの前に、そもそも衛宮くんが嫌いだったワケね。なんだ、そういう事は早めに言ってよ」  実に冷淡にイリヤを責め立てる遠坂。 「――――あ」    まずい。  このままじゃ血で血を洗うケンカになっちまう、と危惧した時。 「そ、そんなコトないっ! わたし、シロウがイヤだなんて言ってないもん! わたしがイヤなのは、もっと別のコトなんだから……!」 「――――だってさ。大人気ね、衛宮くん」  ふふん、と穏やかに笑う遠坂と、  それを悔しげに睨むイリヤ。 「………………」  ……えーと。  つまり、イリヤは誰の家に行くことになったんだ……? 「じゃ、一旦ここでお別れね。家に戻って荷物を持ってくるから、士郎は先に行ってて」 「……? 荷物を持ってくるって、もしかして遠坂、うちに来る気か?」 「当たり前でしょう。これから共同戦線を張るんだから、一緒にいなくてどうするのよ。うちはイリヤが嫌がるし、そっちには桜もいるし、どう考えても本拠地は貴方の家でしょ」 「あ。そっか、言われてみればそうだよな」 「……まったく。堂に入ってると思ったらなんか抜けてるし。ちょっと選択あやまったかなー」  大げさに溜息をつきつつ、遠坂は反対側の坂道へ向かう。 「……? イリヤ、うちはこっちだぞ? なんだって遠坂に付いていくんだ?」 「ん、ちょっとね。リンが手を貸してほしいって言うから助けてあげるの。終わったらすぐ行くから、シロウは先に帰っていて」 「?」  助けるって、イリヤが遠坂を……? 「遠坂、ほんとか?」 「本当よ。事が事だから、こっちも秘密兵器の一つや二つは必要でしょう。わたしだけじゃ開かない蓋も、アインツベルンの魔術師となら開くかもしれない。  ……けど、出来れば見つけたくない。遠坂の遺産、〈大師父〉《キシュア》の置き土産が想像通りのものなら、わたしだけじゃどうにもならないから」 「じゃ、わたしも行くね。〈遠坂の師〉《キシュア》の遺産になんて興味はないけど〈、魔法使いの〉《ゼル・シュバインオーグ》使ってた宝箱はキレイそうだし」  くるり、とスカートをなびかせてイリヤは走っていく。 「………きしゅあ? ぜる? しゅばいんおーぐ?」  はて、と首をかしげる。  聞いた事のない名称だけど、いっぱしの魔術師には有名な単語なんだろうか、今の。    客人は去った。  礼拝堂は元の静寂に戻り、神父はただ一人偶像を見上げる。   「――――いいのか、聖杯を逃がして」    その声は背後から。  今まで何処に潜んでいたのか、金髪の青年は愉しむように神父へ問い掛ける。   「かまわん。初めから執着があった訳ではない。聖杯が彼らにつくのなら止めはしない」 「そうだったな。もとより私に望みはない――――その〈言〉《げん》が偽りでないのなら、聖杯を押し止めるのは道理に合わん」    くつくつと青年は笑う。  神父の言葉。  望みはない、と告げた言葉をからかうように。   「――――――――」    無論、それは偽りではない。  金髪の青年には理解できぬだけで、もとよりこの男に望みなどないのだ。  聖杯の力など、真実、言峰綺礼は必要としない。  彼にあるのは、ただ徹底した“追究”のみ。    聖杯は己が望みに応えるだけのもの。  自らに生じる疑問に、自らが良しとする答えしか生み出さない願望機だ。  そのような“自分が望んだ答え”になど、果たして何の意味があるのか。   「言峰。重ねて問うが、本当に聖杯に興味はないと?」 「願望機に用はない。それはおまえとて同じだろうギルガメッシュ。おまえの目的も私の目的も、その実自らの願いではない。単にそうした方が楽しいから、という快楽追求でしかない。  そのようなものは食事と同じだ。願いとは自身を叶えるもの。だが自ら願いを叶えては、人間は救われん」    神父は偶像を見上げ続ける。    ――――その向こう。  もう十年以上も過去となった、まだ望みとやらを持っていた時代の事を。    男は1967年、父親が巡礼中に授かった子供だった。  綺礼という名は祈りの言葉だという。  清く美しくあれ、と父親は子に名づけた。  子はその祈り通りに成長し、幼くして道徳と良識を持ち、早熟と思われるほど見識深かった。  父は良い後継者に恵まれたと喜び、息子は父の喜びを理解していた。  息子が優れているのは、親として喜ぶ事だ。だからこの男は自分を重宝するのだろう。    ―――そう理解し、少年は父の理想通りに成長していく。    そこに疑問はなかった。  父を愛せない事と、父の期待に応える事は別の問題だ。  綺礼と名づけられた少年は健やかに成長していく。    ……ただ一点。  父の言う“美しいもの”がなんであるか、それだけが理解できないと首を傾げながら。    ―――その〈齟齬〉《そご》に気がついたのは、ある日の朝だった。    目が覚めて体を起こし、顔をあげた時に気がついた。  どうしてその時に判ってしまったのか、理由は定かではない。    いや、〈寧〉《むし》ろどうして今まで気がつかなかったのかと悩むべきだろう。    ともかく、彼は忘れ物に気がついたのだ。  父は美しくあれと祈って、綺礼という名をつけた。  それがずっと疑問だったのだ。  父が美しいとするもの。    それを――――少年は、一度たりとも美しいと感じ得なかったのだから。    話はそれだけのことだ。    彼が美しいと思うものは蝶ではなく蛾であり、    薔薇ではなく毒草であり、    善ではなく悪だった。    人並みの良識を持ち、道徳を信じ、善である事が正しいと理解していながら。  少年は、その正反対のものにしか、生まれつき興味を持てない人間だった。              その苦悩は、誰に理解できるものでもない。  綺礼本人でさえ、それが苦悩であるかどうかさえ判断がつかなかった。    ただ、努力はした。  清く美しくあれと、初めからなかった心を求め続けた。  肌をこそぎ、肉をちぎり、骨をはずし。  心の中にないのなら、体のどこかに容れるべき個所がある筈だと探した事もある。    父は十数年をかけて、茨の踵で聖地を巡礼した。  刻んだ歩みで言うのなら、その距離は月にすら届くだろう。  肉体的な苦痛を求めてではない。そも、〈信徒〉《かれら》にとって重要なものは肉体的苦痛ではなく精神的苦行である。  その功徳の中、少年は食事を断った。  自分が生まれつきの罪人ならば、その程度の罰がなければ世界と釣りあわないと、彼が信じた道徳が教えたのだ。    そうしてさらに十年。  求め続けた心は得られず、代わりに得たものは結論だった。  なんのことはない。  つまるところ、彼には生まれつき“人並みの幸福実感”がなかっただけだ。  人が幸福を実感する、善しとされる正の事柄。  博愛、信頼、栄光、安全。  そういった事柄に悦びを見いだせない、生まれついての欠陥者であっただけ。    少年が“楽しい”と思える事は他人の苦しみでしかない。    他者による殺害、他者による愛憎、他者がもつ転落。    そんな負の事柄でしか、少年は“幸福”を実感できなかった。  ……彼にとっての不幸は、そんな思考回路でありながら十分すぎるほどの“道徳”を持っていた事だ。    幼い頃、どうあっても自分が〈常識〉《せかい》と噛み合っていないと悟った少年は、全霊を懸けて克服しようと努めた。  欠陥者である己を諦め、自分なりの異常快楽に走るのではなく。  人並みの事柄で幸福を得られない自分を、人並みに戻し、どうにか救おうとしたのである。    その道が信仰であり、父と同じく、神父として人生を説く事だった。    ――――神は全てを〈赦〉《ゆる》すという。    ならば自分のような“生まれつき持ち得ぬ者”も救うのではないか、と考えた。    だが、結果は無惨だった。  神の教えを守り、規律に従い、質素に生きたものの、彼には“他者の苦しみ”に勝る悦びが見いだせなかった。  背徳を禁じる教会の教えを信じきってさえ、彼には背徳しかなかったのだ。    もっとも、そこに苦しみはなかった。  初めから無いものを求めたのだ。  手にしていたものが失われた訳ではなく、嘆く事などありえない。  成人し、神父となった男についてまわったものは、“なぜ”という疑問だけだ。    そう―――あらゆる人生の岐路において。    犯罪による悦。  罪を犯し、その背徳に酔うことで異常者である自身を〈肯定する〉《たのしむ》というなら解る。    悪徳による富。  己が欲の為に他者を陥れ、その益によって更なる富を得ようというのなら道理が通る。    だが。  生まれつき、その“善から悪に変わる”という選択さえ持ち得ない、とはどういう事なのか。    初めから規格外の者として生を受け、世界から断絶されたまま死に至るモノとは何か。  それは壊れたもの、世界に害を成す事を前提として生まれるモノではないのか。    良識の〈語〉《かた》り。  道徳の〈解〉《ほど》き。  正義の〈裁〉《さば》き。  それらが全て、〈悪〉《ソレ》は在ってはならぬモノと断定する。    ――――だがそれはなんだ。    有ってはならぬモノならば、なぜ、そんなモノが生み出されねばならないのか。    ―――そう。    初めから欠陥があるのなら、そも生まれてこなければよい。    世界は悪を憎み、間違いを排除する。  にも関わらず初めから“望まれないもの”が生み出され、  ただ死ぬ為に、ただ疎まれる為だけに在るものがある。              ――――男は、その罪の所在を問い続けた。    長い苦悩、盲目な信仰の果てに得たものは救いではない。    ただ、なぜ、と。    それは苦しみではなく純粋な疑問であり、何かに対する、振り下ろしようのない怒りだった。   「では、何故マスターになどなった? 望みがないのであらば、聖杯など要らぬだろうに」 「――――――――」    青年の問いに意識を戻す。  神父―――言峰綺礼は、確かに、と自嘲するように頷いた。   「聖杯は要らなかった。ただ、その中身に関心があっただけだ。  十年前聖杯を求めたのも、〈聖杯〉《ソレ》が在ろうとしたからだ。  聖杯がなんであれ、生まれ出でようとするモノを祝福する。それが私の仕事だからな」   「ふん。それは、生まれてくるモノに微塵の関心も持たなくともか?」 「……無論だ。前回の聖杯戦争でさえ、私は聖杯にもその中身にも関心はなかった。あの時にあったものは、私と正反対の男に対する不快感だけだった」    だが、と神父は思う。  他者の苦しみにしか悦びを見出せなかった〈言峰綺礼〉《じぶん》は、此度の結末に関心を持っている。  間桐臓硯の暗躍。  生まれつつあるもう一つの聖杯。  “この世全ての悪”という、人々に生み出されながら、人々に望まれなかった何者か。    もし、本当にそんなものを受胎するというのであらば、或いはそれこそが――――   「――――善悪の所在。殻に詰め込まれながら、〈孵〉《かえ》ることのなかったモノ」    聖杯に答えは出せない。  願望機は持ち主の望みを現実化するもの。  故に、望みのない者が手にしたところで手に入る天啓などない。    だが――――   「答えを出すのではなく。答えを出せるモノを、聖杯から産み落とすとしたらどうなる」 「なに……?」    青年の目が細まる。  神父は、偶像を前にして笑っていた。   「――――――言峰」    その笑みは死に逝く女が浮かべるものだ。  何事にも無関心なこの男が、よもやそのような貌を作るとは。   「……答えは近い。仮に、この疑問が神を冒涜するというのなら」    偶像を見上げる眼は笑ってはいない。  神父は、地に落ちた織天のように、   「―――神前において。  この全霊を懸け、我が主さえ問い殺そう――――」    呪いをこめた眼で、高く遠い〈天〉《そら》を見た。 「あ、そうだ。桜、こっちの子がイリヤ。  バーサーカーはやられちまったけど、なんとかイリヤだけは助けられた。遠坂同様、これからうちで預かるけど仲良くしてやってくれ」  桜にイリヤを紹介しつつ、イリヤにも桜を紹介する。 「よろしくサクラ。マキリの娘だそうだけど、軽蔑はしないであげるわ。いちおうシロウの知り合いみたいだし、特別に人間扱いしてあげる」 「……そうですね。じゃあ、わたしも貴女と同じように振る舞います」 「?」  二人の挨拶はそれだけだった。  イリヤは遠坂の後に付いて居間へ歩いていく。  その背中を 「――――――――」  桜は、どこか冷めた目で見つめていた。  夕食は嵐のように過ぎ去っていった。    ……ああいや、嵐と言うには語弊がある。  あれはどちらかというと凪というか、無風故に時間を感じさせず亜の呼吸でいつのまにか終わっていたというか。  ともかく、恐ろしい緊張感に支配された夕食だったのだ。 「夕飯ならわたしが作りましょうか。引っ越し蕎麦のようなものだし」  遠坂はそう言って夕飯を一人で作り、その味は悔しいが惨敗であり、かろうじて桜が得意とする洋食なら互角かも、というものだった。 「――――と、遠坂先輩。お料理、上手なんですね」  ショックで打ちひしがれた桜は、それきりモクモクと料理を口に運ぶだけになった。  こっちはこっちで遠坂の手料理とか遠坂と飯を食ってるとか桜の落胆ぶりとかイリヤと桜の妙な緊張感とか、もろもろのことが気になって、余分な動きは出来なかった。  結果、あれだけ上等だった遠坂の手料理を美味いとは感じられず、ただただ遠坂凛が攻守ともに隙なしの優等生と思い知らされた一時間だったのだ。  ――――で。   「じゃ、わたしは部屋の準備があるから引き上げるわ。  詳しい話は明日の朝にするから、今夜はもう休みなさい」    洗い物まで完璧に済ませ、遠坂は席を立つ。 「わたしも部屋に行ってるわ。今日森に行った人はみんな疲れてるんだから、早目に寝ないと体が持たないわよ」  ……屋敷にいた桜へのあてつけなのか、イリヤは桜を見ずにそんなことを言って席を立つ。 「……はあ。なんだっていうんだ、まったく」    ある意味遠坂は予想通りだが、イリヤの態度はおかしいと思う。  イリヤの桜に対する態度は、初めて遭った時の冷酷なイリヤに近い。 「イリヤ、桜とは初対面のくせになんであんなにつっかかるんだろう。やっぱりアインツベルンとマキリって仲が悪いのかな」  言峰の話では、アインツベルンとマキリ、それに遠坂は聖杯戦争を始めた魔道の名門だ。  その中で最も大きな権利を持っていたのがアインツベルンらしいから、イリヤとしちゃあ遠坂も桜も格下扱いなんだろうけど。 「……はあ。誤解しないでくれよ桜。イリヤは気難しいからあんなコトを言ってるけど、ちょっと話せばすぐに仲良くなれる。  あいつ、単に人見知りが激しいだけ……って、桜?」  桜は返事をしない。  うつらうつらと揺れる頭は、そのまま無造作に後ろに倒れかけ―――― 「桜……!」  肩を抱いて桜を止める。 「……あれ、先輩? どうしたんですか、そんな怖い顔して」  ……桜は気付いていない。  いま自分が倒れそうになった事も知らず、何事もなかったように見返してくる。 「――――いや。別に、大したコトじゃない」  桜の肩から手を離す。 「あ……」  それで気が付かれてしまったのか。 「……すみません。ちょっと疲れてたから、眠っちゃってました」  そんな、自分でわかってもいなかった事を、俯いて謝った。 「……そっか。昨日の今日だし、桜は安静にしてないとな。遠坂もああ言ってたし、今日はもう寝よう。無理に起きてる必要はない」 「そ、そうですね、じゃあお言葉に甘えちゃいます。今晩ぐっすり眠れば、きっと明日には元気になってますし。  今夜は遠坂先輩にご馳走してもらいましたから、明日の朝はわたしが受け持ちますね。先輩仕込みの朝食で仕返ししてあげちゃいます」  いたずらっぽく笑って、桜は席を立った。  ……その足取りはしっかりしている。  ここで客間まで付いて行くのは逆効果だ。  桜が元気に振舞っているんだから、こっちはそれを信じてやらないと。 「そうだな。おごれる遠坂の鼻をへし折ってやってくれ。  桜が最後の砦だ。正直、ここで遠坂に一撃くれておかないと後がない」 「ええ、任せてください。きっとわんぱんちして見せますから」 「頼もしいな。……ん、じゃあ及ばずながら、俺もなんか手伝わせてくれ。  今夜はさっさと寝て、明日の朝六時に台所に集合ってコトでいいかな?」 「はい。お待ちしています、先輩」  ぺこり、とお辞儀をして縁側に去っていく桜。  ……と。   「―――あの、先輩。さっきの事、姉さんには黙っていてください」    背中を向けたまま振り返らず、どこか張り詰めた声で桜は言った。 「ああ。ただの居眠りなんだから、遠坂に言うほどの事じゃないだろ」 「――――はい。おやすみなさい、先輩」  ……障子が閉まる。  桜は振り返らず離れへ去っていった。 「――――――――」  黙っていてくれ、とはさっきの事だろう。  桜の体は、桜が思っているほど持ち直してはいない。  言峰は数日持たないと言った。  臓硯が桜をどう扱うかは別にしても、桜はそれだけで不安定だ。  だからこそ、桜は元気に振舞おうとしている。  自分は大丈夫だ。  大丈夫だから、もう俺たちに心配をかける事はないんだと主張するように。 「……姉さん、か」    桜がそう口にするのは、決まって俺と二人きりの時だけだ。  それも桜が弱気になっている時。  ……助けてほしいという心の声を殺しきれない時、桜は遠坂を“姉さん”と呼ぶ。  それは複雑な二人の生い立ちが作ってしまった、姉と妹の狭間に立ちはだかる壁だ。  その壁さえ壊してしまえば、二人はただの姉妹に戻れる。  それは―――俺がしてやれる中で、一番桜のためになる事なんじゃないだろうか。 「……うん。二人ともぎくしゃくしてるけど脈はあるし」    予期せずこんな状況になってしまったが、これは案外、二人の壁を壊すいい機会なのかもしれない。      飼育箱で夢を見る。  廃墟の巣穴。  黒色の蛹。  誕生の記憶はない。  繁栄にあつく。  ルーツは原初からして不明。  滅日の記憶はない。                 ひたひたと散歩する。       ゆらゆらの頭は空っぽで、       きちきちした目的なんてうわのそら。                 ぶるぶると震えてゴーゴー。       からからの手足は紙風船みたいに、       ころころ地面を転がっていく。       ふわふわ飛ぶのはきちんと大人になってから。                       ごうごう。             ごうごう。             ごうごう。   「おい。ちょ――――ア――見ろ――、アレ。なん――あん格――――の、あいつ?」          きいきい誰かが寄ってくる。   「お、いい女じゃん。――――――裸足? やっべえ――――、顔色――――――――――――――――」          ぞろぞろ人が寄ってくる。   「――――――――だな。――――、暇つ――――――お相手――――やらねぇ?」                からからと笑い声。          私から誘った覚えはありません。        怖くなったので帰りましょう。       「おい――なに逃げ――だ――おまえ」 「待てって――――――? あた――るのいかよ、こ―!」 「――ゃねえの? ―かったらそん――まち――歩―ねえって」 「はは――は! そう――な、ってコト――にか、俺たちで保護してあげ――とダメって――?」 「さんせー! ボク――はぁ、困っている人た――守りた――思いま――!」               「――――は――――は―――――は――!」     「あ――――は―――ははは――――――!」     「あははは――ははは―ははははははは――」     「あははははははははははははははははは!」                 てくてく彼らは追ってきます。       きんきんうるさく響くので、       くうくうお腹がなりました。       「―――――――――――――――!!!!????」 「ちょっ――――まっ―――、なん、―――ぎ―!?」 「ひ、ひや、――――逃げんなこら、助けてく――えええ!」 「は、は、は、なんだよ、おまえら何処にいっ―――― ぎぃいいいいいいいいいい!」 「い、いやだ、ごご、ごめんなさ、い、ひあああああああああああ!!!!???」              飼育箱の夢を見る。      今夜。    虫を潰した。  唐突ではありますが。  今夜は冬木市一帯が停電の為、闇稽古とあいなりました。 別にいいけど、真っ暗だねー。 真っ暗ねー。 ……寂しいねー。 ……寂しいわねー。 …………………………………………。 …………………………………………。 ……………………………………ね、イリヤちゃん。  わたし、ホントのコト言っていいかな? …………あんまし聞きたくないけど、なに? うん。………………………………………………なんかさ、わたしたち以外に誰かいる気がしない? っっっっっ! やめてよねタイガ、冗談でもそうゆう、げこっ……!? あはは! イリヤちゃん、今の悲鳴おもしろ可愛いわ! ……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………。 ……………………………………イリヤちゃん?  やーねー、脅かしっこはなしよ? ねー、そこにうずくまってヒューヒュー言ってるのはイリヤちゃんよね? ―――――ウン、ソウダヨオネエチャン。 ぎゃわーーーーーーーーーーーーーーー!  嘘吐け、オマエ一体なにもの、げここっ!? 押忍! 戦略的撤退を余儀なくされながら、結局逃げ切れなかったデッドマンを助けるタイガー道場、始まるよー。 はいはい、始まるよー。あー、たりぃ。 ぶっ樽ん$! 何をいじけておる弟子一号! 本編の感情を道場に持ち込むのはご法度だと申したであろう! はーい、分かりましたー。  けどぉ、今回はちょっとフォローできないかなってー。 む。かつてないほどの拗ねブリ。そんなに遠坂さんを優先したコトがイヤだったの? ……違うけど。わたしはただ、アーチャーが報われないって思っただけよ。 むむ。わたしでは分からない複雑な裏事情。 けどまあいいじゃない、遠坂さんもアーチャーさんも士郎もイリヤちゃんも、みんな仲良く死んじゃったんだから!  って、笑い事かバカ虎がー! ああもう、今日はここまで! シロウはすぐに選択肢に戻って、ちゃあんとアーチャーの言葉を守るコト!  今日は森から出るまで電源切っちゃダメだからねっ!「…………………………………………」    本来なら悩むまでもない問題だ。  俺は素人で、遠坂は魔術師としてもマスターとしても一人前。  昨夜の事もあるし、ここは遠坂と手を組む方が賢明だろう。 「――――――」  ……斬られた腹に手をやる。  腹部は包帯で補強されたものの、触れるだけで激痛と吐き気を呼び起こす。  ……当然だ。  俺は腹を斬られたのではなく、体を分断されかけた。  それでも生きているのは遠坂とセイバーのおかげであり、バーサーカーに狙われているかぎり、次こそは跡形もなく殺される。 「………………」  だというのに、何かが頭にひっかかっていた。  バーサーカーという黒い巨人。  最強のサーヴァントを従える白い少女。  イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。    ―――その名前は、確か、慎二の爺さんが口にしたものだ。 「衛宮くん。返事、聞きたいんだけど」 「え――――あ、すまん。イリヤって子の事を考えてた。  遠坂と手を組むって事は、あの子と戦うって事だよな」 「ええ。あっちがその気なんだから応えるまでよ。  どの道マスターは全員倒すべき相手だもの。イリヤスフィールがその気なら、こっちだって殺す気でやる」 「………………」  遠坂の意思は固い。  こいつの中では、あの少女は倒す対象でしかない。  だが――――    自分でもどうかしてると判っているんだが、俺は、あの子とは戦いたくはない。 「衛宮くん? まさかとは思うけど、イリヤスフィールの外見に騙されてるんじゃないでしょうね」  じろり、と遠坂は睨んでくる。 「――――――――」  実に鋭い。  自分ではそんな気はしないが、躊躇っている時点であの子の外見に影響されているんだから。  ……あの子はバーサーカーのマスターだ。  あれだけのサーヴァントを従えるマスターなら、さぞ卓越した魔術師だろう。となると、見かけの肉体年齢はあまり当てに出来るものじゃない。  当てに出来るものじゃないんだが―――― 「――――すまん、遠坂。  心配してくれるのはありがたいけど、いい返事はできない。事が事だからな。簡単に方針を決めちゃいけない気がする」  まっすぐに見返して返答する。  遠坂は少しだけ目を細めて、そう、と感情のない声で頷いた。 「それじゃ交渉は決裂ね。……ま、確かに衛宮くんの言い分も正しいわ。本当に勝つ気があるなら誰も信用できないもの」 「そんな事ないぞ。俺、遠坂は信用してる。ただ一人で決められる事じゃないだけだ。俺がセイバーのマスターなら、あいつに無断で約束はできない」 「なるほど、確かにそうね。貴方はもう〈歴〉《れっき》としたマスターなんだから」  納得したように頷いて、遠坂はあっさりと背を向けた。  長い髪をなびかせて去っていく。  そうして、味方になるかも知れなかった少女は一度だけ振り返って、   「それじゃあね。次に出会ったら敵同士だから」    あのイリヤという少女と同じように、冷たい警告を残していった。 「―――マスター。簡略しましたが、私にできる説明は以上です」 「ああ。駆け足だけど合点がいった。すまなかったな、セイバー」 「……すまなかった、ではありません。  状況が判ったのなら、これからどうするのかを決めるべきではないですか」  ずい、と身を乗り出して問いただしてくる。  ……そうか。  セイバーも遠坂と同じで、やられる前にやるタイプなのか。  それはいいんだが、行動を起こすも何も、まず何をするべきかが判らない以上、そう簡単に決められない。 「うーん……しばらく様子を見る……って場合でもないよな。他のマスターがどんな奴らかはまだ判らないし、イリヤって子の事も気になる。……犠牲者を出さない為にも、他のマスターを捜すぐらいはするべきなんだろうが――――」  あてもなく街中を歩き回るのも危険な気がする。  ……まいったな。  こうなると、やっぱり遠坂と手を組んだ方が良かったんだろうか。 「イリヤ……? バーサーカーのマスターがどうかしたのですか、シロウは」 「え……? ああ、いや。どうして俺たちの事を狙うのかなって気になったんだ。  それに、あの子とは昨日が初対面じゃなかった。前にすれ違った事もあるし、その、アインツベルンって名前にも覚えがあるんだよ」 「………………」  と。  アインツベルンと聞いて、セイバーは難しそうな顔でこっちを見据えてきた。 「セイバー? なんだ、おまえもアインツベルンって名前を知ってるのか?」 「……知っています。逆に問いますが、シロウはその名に覚えがないのですか」 「いや、覚えっていうか、ただ聞かれただけなんだ。あの子に会う前に、アインツベルンの娘は健在か、なんて、全然関係ないヤツに」 「…………そうですか。では、シロウは何も聞かされていないのですね」  目蓋を閉じて、セイバーは何事かを思案する。 「……これも何かの因縁でしょう。アインツベルンを知りたいのなら、もう一度教会に赴くべきです。  あの神父ならシロウの疑問にも、これから取るべき道にも示唆を与えてくれる筈ですから」 「教会……? 教会って昨日の教会か? けど、もう教会には行っちゃいけないって言われたぞ。あの神父、マスターを放棄する時以外は来るなって」 「それは方便にすぎません。あの神父が敷いているルールは魔術師同士の戦いを律する為に作られた、〈協会〉《あちら》側の建前です。シロウが魔術協会に属しているのなら従う価値もありますが、所属していないのならば何の価値もありません」 「む……」  ……まあ、確かにそうだ。  遠坂は魔術協会の人間だろうけど、衛宮の家は協会に属さないアウトローだ。  協会が決めた規則に従ったところで何か貰える訳でもなし、〈切嗣〉《オヤジ》同様無視してもかまわない。 「判りましたか。シロウにとって、あの教会は最終的な避難場所にすぎない。彼らの規則に従う義務はないのです」 「……そうだな。けど、それでも出来れば避けたい。……あの神父には、あんまり会わないほうがいい気がする」  言峰綺礼。  あの神父はどこか違う気がする。  危険だとか信用できないとか、そういう敵対意識からじゃない。  ……あの男には、会ってはならない。  会えば会うほど今まで築き上げてきた自分が崩れてしまいそうで、怖いのだ。 「シロウの気持ちは分かる。私とて同感です。出来る事なら、あの神父には関わりたくない」  凛とした瞳のまま断言するセイバー。 「?」  なんというか、それは意外だった。  英霊であるセイバーが人間相手に苦手意識を持つとは思えなかったし、なにより―――― 「俺はともかく、どうしてセイバーまで苦手なんだ?  そもそもあの神父とは顔を合わせてないだろ、セイバー」 「――――――――」  言葉に詰まるセイバー。  彼女は悩ましげに眉間を寄せたあと、迷いを断つようにキッパリと視線をあげた。 「彼は前回の聖杯戦争に参加した人物です。  どのサーヴァントのマスターだったかは判りませんが、切嗣はあの神父を最後まで重視していた」 「――――え?」  それは知っている。  それは知っているけど、セイバー、いまなんて、言ったんだ。 「セイ、バー。なんでおまえが、〈切嗣〉《オヤジ》の名前を」 「私が切嗣のサーヴァントだった、と言ったのです。  前回の聖杯戦争のおり、衛宮切嗣はマスターの一人でした。私は彼と協力して聖杯戦争に挑み、最後まで勝ち残りました。  その中で――――衛宮切嗣は、あの神父を最大の敵として捉えていました。私たちを破る者がいるとすれば、それはあの男以外ないと」 「――――――――」  待て。  それじゃあ何か。  〈切嗣〉《オヤジ》は前回の聖杯戦争のマスターで、その時にセイバーと共に戦って、そして――――    あの地獄を巻き起こした一人でも、あったというのか。 「――――嘘だ。そんな事あるもんか。それならどうして言峰は黙ってたんだ。どうして〈切嗣〉《オヤジ》は、俺に何も言わなかったんだ」 「それは私の知るところではありません。切嗣が何を考えていたかなど、私には最後まで判らなかった。  ですがあの神父が黙っていたというのなら、それはシロウが訊かなかったからでしょう。あの男は問われれば答える人間です。シロウ自身が問うのならば、必ず真実を語ります」 「――――――――」  セイバーは口を閉ざしたまま、じっと俺を見据えている。  マスターとしての意義。  衛宮切嗣の真実を知りたければ、自分の意志で教会に向かえと、碧の瞳が告げていた。 「………………」  教会に足を運ぶ。  俺を護衛してくれているのか、セイバーはあの服装のまま付いてきていた。 「………………」  振り返る事なく教会を見上げる。  ……セイバーに促されここまで来たものの、まだ心の準備が出来ていないのか。  あの扉を押し開け、神父に十年前の出来事を尋ねる気概が生まれない。 「マスター」  声をかけられ、背後の少女に振り返る。 「私はここで待機します。神父には貴方一人で向き合ってください」 「……わかってる。ここまで来たんだ、いまさら帰るなんて事はしない」 「神父には私が召喚された事は秘してください。  同じ英霊が二度召喚された、というのは話すべき事ではありませんから」 「ああ。あいつには切嗣の事だけ問いただす。すぐ戻るから、ちょっと我慢しててくれ」 「……はい。シロウも注意を。危険が迫った時はすぐに私を呼んでください。あの神父はどこか不吉だ。少しでも気を抜けば、貴方の身に何が起こるか判らない」 「同感だ。大丈夫、何か起きたらすぐに逃げ出すし、セイバーを呼ぶよ」    階段に足をかける。  冬の寒空の下、セイバーを一人残して教会へ踏み入った。  礼拝堂に神父の姿はなかった。  その代わりといってはなんだが、椅子には一つだけ人影があった。  後ろから覗ける髪は金色。  おそらく礼拝をしにきた外国人さんだろう。 「すみません。言峰神父はいらっしゃいますか」  とりあえずダメもとで声をかけた。 「――――――――」  ゆらり、と立ち上がる。  瞬間。  その動作だけで、筋肉という筋肉が硬直した。  歩み寄ってくる。  何の変哲もないその動作は、あまりにも不可解だった。  男はごく普通に、何をするでもなく近づいてくる。  それだけだというのに、何故―――俺はこの男に、ここで殺されると覚悟したのか。 「あ――――」  男の腕があがる。  それは、ぼんやりと立ち尽くす俺の首に伸び―――    ぴたりと、空中で止まっていた。 「――――ほう。よくないモノに魅入られているな、おまえ」  男は離れていく。  そう、それが当然だ。  異常だったというのなら、ただ近寄られただけで殺される、と思ったこっちがどうかしていた。 「そこで待っていろ。言峰に用があるのだろう」  男は祭壇の奥に消えていった。 「………………」  そうして数分ほど待たされたあと。 「驚いたな。まさか半日たらずでリタイヤかね、衛宮士郎」  相変わらず癇に障る口調で、言峰神父は現れた。 「―――そんな訳ないだろ。単に聞きたい事があるから来ただけだ。そうでもなけりゃ、頼まれたっておまえの所になんて来るもんか」 「それは結構。私も暇ではないのでね、簡単に懐かれても困る」  硬い足音をたてて、言峰は歩み寄ってくる。  ……目に見えない重圧、というのか。  この男は、ただ立っているだけで己の弱さを意識させるような、厳格な雰囲気を持っている。  神父として十分な資質なのだろうが、同時にそれは、神父として致命的な欠陥ではないのか。 「どうした? 質問があるのなら口にしろ。挨拶などする仲でもあるまい」 「――――――――」  ……その通りだ。  この男と交友を深める必要なんてない。  俺はただ、セイバーの言葉を確かめる為に来た。  ならそれだけ聞いて、こんな所からはさっさとおさらばしなければ。 「訊く事は一つだけだ。どうして黙ってたんだ、アンタは」 「さて。黙っていた、とは何の事だ」 「――――〈切嗣〉《オヤジ》の事だ。衛宮切嗣がマスターで、前回の聖杯戦争で戦ってたって事を、どうして黙っていた」  ヤツに悪びれた様子はない。……この男は純粋に、俺の口から切嗣の名が出た事を楽しんでいる。 「答えろよ。アンタが聖杯戦争の監督役なら知ってて当然だよな。なら、なんでそれを黙っていた」 「何故も何もなかろう。おまえの父が前回のマスターであった事が、おまえにとってなんの益になる。衛宮切嗣の功績は衛宮士郎には無関係だ」  言峰の返答は間違っていない。  仮に、〈切嗣〉《オヤジ》が優れたマスターだったとしても、それが俺に何を与えてくれる訳でもないからだ。  だが―――― 「……いや、関係はある。俺がマスターになったのは、切嗣の息子だからか」  切嗣の息子として育って、弟子として魔術を鍛えてきた。  そうして〈切嗣〉《オヤジ》のようにマスターになり、まったく同じ英霊であるセイバーと契約したのには何か意味があるとしか思えない。 「アンタは俺に、偶然マスターになったって言っただろ。  そんな説明より切嗣の事を言えば、俺はアンタの思い通り戦うと決めた筈だ。それを、どうして口にしなかった」 「それこそ私の知り得る事ではない。  遺伝によるマスターの継承など知らぬし、そもそもおまえは切嗣の息子ではあるまい。  何の用意もなく、何の覚悟もなかった人間がマスターに選ばれる事は稀なのだ」 「本来、いかに魔術師であろうと聖杯を知らぬ者に令呪は宿らん。その例外であるおまえが選ばれた理由など、私の知るところではない」 「……それじゃあ、本当に〈切嗣〉《オヤジ》は関係ないんだな?  俺がマスターになったのはただの偶然で、あの時〈切嗣〉《オヤジ》が俺を助けたのも、ただの――――」    ただ、純粋な善意で、死のうとしていた子供を助けただけだった、と。 「私が知る限りではな。だが聖杯の思惑となると、私には計り知れん。衛宮士郎がマスターに選ばれた事は偶然と切り捨てたいところだが、少なからず因果を感じる。  聖杯は、聖杯を否定した衛宮切嗣の息子に贖罪を求めているのやもしれん」 「な……〈切嗣〉《オヤジ》が、聖杯を否定した――――?」 「そうだ。おまえの父は、聖杯を手に入れる為だけにこの町を訪れた男だ。  あの男の目的は聖杯だけだった。その純粋な願いに聖杯は応え、あの男にならば自らを渡してもよい、と想ったのかもしれん」 「だが、衛宮切嗣は聖杯を裏切った。  ヤツは最後の最後で聖杯を破壊した。聖杯戦争そのものを終わらせる為に、ヤツに期待を寄せた聖杯と、その宿願を裏切ったのだ」 「聖杯を――――破壊、した……?」  それが本当なら、たしかに聖杯は〈切嗣〉《オヤジ》を認めはしないだろう。  けど、それは正しいことだ。  あらゆる願いを叶える聖杯。  それを求めて殺しあう魔術師たち。  ……言ってしまえば、聖杯は争いの原因だ。  それを破壊した〈切嗣〉《オヤジ》は、裏切ってなんかいない。  〈切嗣〉《オヤジ》は〈切嗣〉《オヤジ》のまま、俺が憧れ続けた正義の味方として聖杯戦争を終わらせたんだ。 「……裏切ってなんかない。切嗣は聖杯を不要だと考えたから破壊したんだろう。切嗣は何も裏切ってなんかない」 「ふむ。そうだな、おまえはそれ以前の切嗣を知らないのだったな。  ―――いいだろう。無駄な話だが、衛宮切嗣の正体を教えてやる」    神父の口元がつりあがる。  密かな愉しみに酔うような、それは、不吉な笑みだった。 「衛宮切嗣。  あの男は聖杯戦争とは無関係な位置に立つ魔術師だった。ヤツは己が欲望、己が目的の為に生き、その結論として聖杯を求めた。  自身の力では叶わない奇跡。  人間の力では実現できない理想。  本来諦めざるを得ないそんな子供じみたユメを捨て切れなかったが故に、あの男は“願望機”である聖杯に望みを賭けたのだろう」 「―――ヤツが何処でこの土地の聖杯戦争を聞きつけたかは知らない。  或いは、ヤツではない外部の者がヤツの適合性に目をつけたのかも知れん。そのあたりはどうでもいい話だ」 「結論として、衛宮切嗣はマスターとして雇われた。  アインツベルン―――聖杯戦争の原因とも言える魔術師の血族に、最高のマスターとして迎えられたのだ」 「過去三度に渡る戦いの末、アインツベルンは戦闘能力に特化したマスターを求めた。  実際、アインツベルンの魔術は戦闘向きではない。彼らは戦いには不向きな一族だ。それ故に、殺し合いに長け、魔術協会に属さなかった切嗣に望みを託した」 「異端である切嗣に聖杯の知識を与え、マスターとしての力を与え、アインツベルンの血と交わる事で、より戦闘向きの後継者を産み出しもした。  聖杯を手に入れた暁には、衛宮切嗣は正式にアインツベルンの人間として迎えられた筈だ。何処の出とも判らない馬の骨を貴族に迎え入れるようなものでな。  アインツベルンにおける切嗣の扱いは破格であり、それ故に、どれほど切嗣を信頼していたかは容易に想像できる」 「そうして、衛宮切嗣は期待に応えた。  前回の聖杯戦争において、切嗣は多くのマスターを倒した。ヤツと戦い、一命を取り留めた者は私一人だ。残りは確実に殺された。  ヤツは的確であり、周到であり、蛮勇であり、無情だった。敵にかける情けなどない。殺すと決めればただ殺した。サーヴァントを〈屠〉《ほふ》り、助けを請うマスターを這わせ、逃げようとする頭蓋に銃口を当てて引き金を引いた。殺した後の感慨もない。強さを誇る優越も、消えた弱者への罪悪もない」 「一言で言ってしまえば、アレは機械だった。  もとから感情がないのだ。ならば、喜怒哀楽が入り込む余地などなかろう」 「な――――〈切嗣〉《オヤジ》が、機械……?」 「そうだ、ヤツは殺したぞ?  おまえのように無関係な人間を巻き込まない、などという考えもなかった。相手の弱みを徹底的に叩き、反撃の余地など与えなかった。敵の肉親を盾にし、敵の友人を足枷にして速やかに勝ち残っていった」 「そうだな。もし今回の戦いに切嗣がいるのなら、おまえが最も嫌悪するマスターになっただろう。非情だという事が悪になるのなら、前回の戦いで最も判りやすい悪は、あの男をおいて他にはなかったのだから」 「――――――――」 「どうした、納得がいかないか?  判っている。無論、衛宮切嗣は機械などではない。  ヤツは目的の為に私情を切り捨てただけだ。それが魔術による自己暗示ではなく、あくまで自分の意志だけだったというところが、ヤツの強さでもあり弱さでもあった。 “冷徹である”という異なる人格さえ用意すれば〈容易〉《たやす》いものを、そんな人間では聖杯に届かない、届く価値がないと信じたのだろう」 「だが、そこまでして結局――――その弱さが、ヤツに全てを裏切らせた。  切嗣に一族の宿願をかけたアインツベルン。  五人ものマスターが倒され、所有者の前に現れた聖杯。  衛宮切嗣自身が望んでいた、人の手では絶対に叶わない願い」 「その全てを、ヤツは土壇場で切り捨てた。  それが前回の戦いの結末――――おまえが父と記憶している、一人の魔術師の正体だ」 「そうして聖杯は消え、聖杯戦争は幕を閉じた。  切嗣に裏切られたアインツベルンは撤退し、次の聖杯の用意に十年を費やした」 「……ふむ。今にして思えば、アインツベルンは今回の聖杯戦争を予期していたのだろうな。  前回の戦いは“結果が出ないうちに終わった”戦いだ。  使われきれなかった魔力は次の戦いに持ち越される。仕切り直しは驚くほど早い、と判っていたのだろう」 「………………」  言峰の話は、正直、実感が持てなかった。  冷徹なマスターであったという切嗣。  アインツベルンという、〈切嗣〉《オヤジ》とつながりのあった魔道の名門。  そんな事を言われても受け止められる筈がない。  ……判るのは今の話に何一つ嘘がなかった事と―――   「―――言峰。あんた、切嗣を嫌っていたのか」    この、あらゆる出来事に無関心な男が、〈切嗣〉《オヤジ》にだけは、怒りらしき感情を抱いているという事だった。 「当然だ。ヤツと私は両極に位置していた。私とあの男は生まれついての仇敵だ。マキリやアインツベルンには同類として映ったらしいが、私たちは共に、互いを天敵だと認識していた」 「……天敵? 〈切嗣〉《オヤジ》がアンタを警戒していたように、アンタも〈切嗣〉《オヤジ》を警戒していたのか」 「警戒ではない。互いに無視しても無視しきれぬ存在だっただけの話だ」 「アレはな、度し難いほどの聖人だった。  人死にを許さぬくせに、人を助ける為に自らの手で人を殺す。十の命を生かす為に一の犠牲が必要とされるなら、速やかに自らの手で事を成した」 「皆が笑えるのならいい、という心中の理想郷を体現する為に、最低限の生贄を常に用意した。  ――――その矛盾。  破綻した理想は私と同じくするものであり、だが、致命的に〈同朋〉《どうほう》ではなかったのだ」 「ヤツは自らの理想に生きた。その理想は私の知りうる限り、聖杯を破壊するまで守られた筈だ。  だからこそ自身に誇りを持ち、疑う余地なく冷徹な機械であり続けられたのだろう」 「それが私とヤツの類似であり相違だ。  いかなる葛藤にも動じなかった鉄の意志。  それ故にヤツは一つも傷を負わず、そして―――アレには、初めから傷しかなかった。  ヤツは作為的な人でなしであり、私は作為的な聖職者だった」 「………………」  初めから傷しかなかった。  それはつまり、信じた前提そのものが、既に間違えていたという事か。 「……じゃあ、アンタは違うのか。傷を負わないのでもなく、傷しかないのでもない。斬られれば傷を負う、まっとうな人間だって。アンタは神父だから、そこが切嗣とは違うと……?」 「さて。そうであれば衛宮切嗣と同類などと思われまい。  連中が私と衛宮切嗣を同視したのは別のところだ。  ……そうだな、人間的に似ているというのなら、おまえこそ切嗣に似た部分がある」 「幼いままの願望を持つもの。  綺麗事を信じ、その為に汚れ役を引き受けるもの。  自らを強大な悪として、有象無象の小さな悪を打ち消すもの。  おまえや切嗣は、反英雄と呼ばれる“救い手”の在り方だ」 「……? 反英雄って、なんだよそれ」 「字の如しだが? 英雄の反対、度し難い殺人者という意味だ」 「あのな、それってただの悪党だろう。おまえ、俺のコト馬鹿にしてないか?」 「なんと。誤解があるようだが、私はおまえを歓迎しているぞ? なにしろ切嗣の息子だ。仇敵の息子に頼りにされてみろ。喜ぶべきか悲しむべきか、複雑すぎて心が定まらん」  神父は声もなく笑う。  ……真意は判らないが、少なくとも退屈はしていなさそうだ。 「さて、反英雄の話だったな。  言ってしまえば、存在そのものが悪とされるもの。そうでありながら、その悪行が〈人間〉《ぜんたい》にとって善行となるもの。本人の意思とは裏腹に、周囲の人間が救い手と祭り上げたもの」 「そういったものが反英雄と呼ばれる英霊だ。端的に言えば人柱や生贄がこれにあたる」 「たとえ極悪人であろうと、その人間を生贄にする事で村人全員が助かるのなら、それは間違いなく英雄だろう?  英雄と称される生贄が食い殺されようと地中に埋められようと知った事ではない。  貧乏クジを引かされた者、一方的に押し付けられた汚れ役が人々を救う偉業を成し遂げたのなら、それは罪人ではなく、英雄に昇華されるのだ」 「……。それ、戦死したら恩赦で階級があがるとか、そういう話か?」 「――――大きく違う。  大事なのは祭り上げる側の意識だ。  敬意や感謝、罪悪感から生まれるのはまっとうな英雄だろう。そんな感謝の心、罪悪感などで祭り上げられては反英雄になどなれん。  ……まあ、自らの醜ささえ忘れ喜劇を悲劇にすり替えるのが人間だ。悪として葬られた英雄も、時が経てば被害者として扱われ純粋悪ではなくなってしまう」 「……純粋悪ではなくなってしまう……?」 「そうだ。反英雄は被害者でありながら究極的な加害者でなくてはならない。  ……人が生み出したモノでありながら、決して人の手が混ざらず成長するモノ。その矛盾こそがあらゆる抑止の圧力を免除される“世界の敵”である」 「……もっとも、純粋な反英雄などそうはいない。  アレは存在しないモノだ。そういうものがいてくれたらいい、という人間の願望にすぎない」 「それは原罪を否定する為の生贄、人間の生み出した一つの〈終末〉《理想》。  平穏と同義とされる、叶う事のない願いの一つが、反英雄と呼ばれるモノと覚えておけばいい」 「……?」 「……ふん。ようするに叶う事のない綺麗事だ。  おまえも切嗣も正義の味方を目指しているのだろう?  ならば立派な反英雄という事だ。どうだ? 聖杯を手に入れた時の望みは、いっそ英雄になるというのは」 「……あのな。なにがどうだ、だ。  英雄と正義の味方は違うだろ。アンタが何を言いたいのかこれっぽっちも判らないが、そんな〈奸計〉《かんけい》にひっかかるか」 「ほう。違うとはどのあたりが違うのだ」 「そ、そんなの知るかっ! とにかく違うものは違うんだ。それにな、英雄なんてのはなるものじゃなくて、終わった後になってるもんだろ。聖杯が用意できるものなんて、結局分不相応の力だけじゃないのか」 「―――なるほどな。血は繋がっておらずとも親子は親子か。切嗣といいおまえといい、筋金が入っている」  嫌味のつもりか、神父は慇懃に笑った。 「む…………」  ……こいつは〈切嗣〉《オヤジ》を嫌っている。  だっていうのに、さっきから頭にこないのはそれだ。  こいつは、その。  色々言ってるけど、〈切嗣〉《オヤジ》を一度もけなしていない。 「アンタさ。もしかして、ホントは〈切嗣〉《オヤジ》と気があったんじゃないのか」  気がつけば浮かんだ疑問を口にしていた。 「ほう。なぜそう思う」 「……別に。なんとなく、そう思っただけだ」 「では間違いだな。私は衛宮切嗣を嫌っているし、そもそも話した事もない。ヤツとは一度殺しあっただけだ。  言っただろう、私たちは両極だと。  ヤツの〈疑問〉《ねがい》と私の〈疑問〉《ねがい》は、それこそ種別が違う。持たざる者の疑問など、もとより持ち得る者の中にはあるまい」  故に絶対に相容れない、と神父の目が告げる。 「……? 持たざる者って、切嗣にあってアンタにないモノがあったっていうのか」 「そうだ。私は衛宮切嗣のように、信じる物の為に意思を変える、などという事はできなかった。まあ目的が違うのだから比べるべくもないのだが」 「?」  信じる物の為に意思を変える。  それはさっき言っていた、十人を救う為に一人を見捨てる、という類のものか。 「判らずともいい。ただ衛宮切嗣の願いは“平和”だった。実にシンプルだろう。シンプルすぎるが故に、複雑な世の中ではパーツが余ってしまう。その完璧な形に入りきれない〈余分〉《ぎせい》は〈処分〉《むし》するしかない」 「―――ヤツは、それが許容できなかった。  完璧な形を求めながら、零れ落ちる余分を救いたがったのだ。  ……だが、それは人の手に余る奇跡だ。 “争いのない世界”は〈地上〉《ここ》には存在しない。ヤツはそれを否定する為に聖杯を求めた」 「理想を探し求め、手に入らないと結論を突きつけられたヤツには、もう聖杯以外に道はなかった。  自らの理想に追い詰められた者の末路だ。  衛宮切嗣という男の夢は、聖杯という“あり得ないもの”でしか叶わない、叶う筈のない魔法だった」 「――――――――」  争いのない世界。  そんなものを本気で信じていたのか、〈切嗣〉《オヤジ》は。  その為に強くなろうと努力して、成長すればするほど現実との〈齟齬〉《そご》に追い詰められて、それでも信じ続けて、そして―――奇跡を叶えるという聖杯に行き着いた。  その時にはもう、衛宮切嗣という人間は多くの挫折を知った筈だ。  そもそも聖杯を求めるという事は、自分の手ではその願いは叶わないと知る事でもある。  磨耗しきり、自らが自らの理想とかけ離れた人間になった。  それでも―――〈切嗣〉《オヤジ》は聖杯を求めたのか。  自分では叶えられなかった理想、その、多くのモノを犠牲にして、夢見続けた物の為に。 「……でも結局、〈切嗣〉《オヤジ》は聖杯を壊した。願いは叶えられなかったんだろう」 「そうだ。ヤツ自身が、最後に自分自身を裏切ったのだ。  ……ヤツに憤怒を覚えたといえば、まさしくあの瞬間だったろう。  正直に言えばな、私はそれでもよいと思ったのだ。一人の人間が望んだ“平穏”とはどのような形になるのか、興味深くはあったからな」 「アンタはそうじゃないのか。神父なんだろ、一応」  勿論、と神父は頷く。  争いのない世界、苦しみのない世界こそが万人の求めるものだと。 「だが、その願いは私の物ではない。そもそも、私には人並みの願いなどない」 「? 人並みの願いがない……?」 「そうだ。願いとは即ち、その人間がもっとも心地よいと感じる在り方だろう。衛宮切嗣にとって、それが争いのない世界だっただけの話でな。私とは、初めから基準が違う」 「?」 「簡単な話だ。人が幸福と感じる事実が、私にはなかった。人を信じる事も、人に信じられる事も、どうという事はない。おまえたちが幸福と呼ぶものでは、私に喜びを与えなかった」  感情のない呟き。  それは俺に宛てたものではなく、ここにはいない誰かに宛てたような、そんな独白だった。 「―――さて、話はここまでだな。  衛宮切嗣がマスターだったかどうか。その質問には十分答えただろう」 「う―――いや、ちょっと待った。聞きたいのは〈切嗣〉《オヤジ》の事だけじゃない。その、えっと」  マスターとしての心構えとか、これからどうやって戦っていけばいいのか。  ……そんな間の抜けた事をコイツに聞いたら、間違いなく嫌味と皮肉と嘲笑で返される。  それは避けたい。  というか、絶対に避ける。 「他に質問があるのなら手短に済まそう。今の話は、思いの〈外〉《ほか》時間をとったからな」 「――――っ」  ……いや、他に確かめておくべき事があった筈だ。  マスターとしての立ち振る舞いではなく、ある疑問を晴らす為に、来たくもない〈教会〉《ここ》を訪れたのではなかったか。 「アインツベルンの事はいいのか。  彼らにとって、切嗣の息子であるおまえは抹殺対象だと思うのだが」 「っ……! そうだっ、その話……! そもそもアインツベルンってなんなんだ。さっき、アンタは聖杯戦争の原因とか言ってたけど」 「ああ、原因だとも。聖杯戦争が魔術儀式だという事は話しただろう。儀式である以上、それを仕組んだ者がいるのは道理だ」 「二百年前、この地の霊脈に歪みがあると知った魔術師たちがいてな。彼らは互いに秘術を提供しあい、聖杯を起動させる陣をこの地の深くに作り上げた。  それが聖杯戦争の発端だ。この起動式の作成に関わった三つの家系こそが、聖杯の正統な所有者でもある」 「聖杯を作り上げたもの。英霊を酷使する令呪を考案したもの。土地を提供し、世界に〈孔〉《みち》をうがつ秘術を提供したもの」 「アインツベルン、マキリ、遠坂。  始まりの御三家、私やおまえでは太刀打ちできぬ歴史と血筋を誇る者たちがそれだ。この中で土着の者は遠坂だけだが、遠坂とて大師父はかの〈時の翁〉《シュバインオーグ》だ。尤も、遠坂の大師父が伝え聞く通りの人物ならば、人種分けなど滑稽だが」 「……む。つまりアインツベルンってのは、聖杯戦争の一番偉いヤツって事か?」 「過去ではな。だが聖杯召喚が失敗し、今のように聖杯の所有者が曖昧になってからは参加者にすぎなくなった。  今では聖杯の器を作り上げるだけの役割だ。  マキリと遠坂もそれは同じだ。彼らはただ、マスターに選ばれやすい、という権利を持つだけの家系だな」 「……といっても、もともとこの聖杯はアインツベルンが考案したものだ。彼の一族の歴史は一千年。分家も持たず、他と交わらずに一千の年月を重ねた家系は少ない」 「解るか衛宮士郎。アインツベルンはな、一千年もの間、ただ聖杯の成就だけを追い求めてきた。  一千年だぞ? 聖地奪還という使命を盾に殺して殺して殺し尽くすなどという異次元の蛮行がまかり通った昔、中世より連綿と続いた、人の領域など逸脱した狂気の沙汰だ。  彼らは熱狂的ではなく偏執的ではなく狂信的でもなく、絶望的な十字架のみを胸に“〈無意味〉《未到達》”さを貫き通してきた」 「故にアインツベルンの魔術師は魔の領域さえ突破している。十年単位ですら忘却され消耗する集団の意思を、その何倍も繰り返したあげくただの一度も道を誤らなかった怪物ども。  それが自分たち以外の魔術師を招き入れる屈辱と挫折など、我々に想像できるものではない」 「しかし、それでも彼らは聖杯の成就を優先した。  過ちを繰り返し五百年。自分たちだけでは手に入らぬと受け入れるのに三百年。  そして―――やはり自分たちの力でなければ手に入らぬと改めるまでさらに二百年」 「アインツベルンは文字通り、自らを殺す気概で〈下賎の者〉《マキリと遠坂》たちと協力した。  その結果が聖杯の所有権を奪われ、一参加者として競争しあうという体たらくだ。その屈辱に耐え、守り通した血の結束を破ってまで外来の魔術師を招き入れたというのに、〈その男〉《衛宮切嗣》は聖杯を前にして、あろうことか〈聖杯〉《アインツベルン》を裏切った」 「それが彼の一族と衛宮切嗣の関係だ。  おまえとアインツベルンは、そういう因縁の下にある」 「―――――――」  ……そうか。  あの子が真っ先に俺を狙いに来たのは当然だ。  裏切り者の息子がマスターになったのなら、そんなヤツは許しておけるものじゃない。 「理解したかな。マスターになる者は皆何らかの業を背負っているが、中でもマキリとアインツベルンの執念は言葉に表せるものではない。マキリが五百年ならば、アインツベルンは一千年だ。  ――――正当な権利を主張するのならば、聖杯はどちらかの手に渡らねば救われぬだろうな」 「………………」  言葉がない。  何百年もの間続く執念なんて、それは人が対峙できるものではないからだ。 「そう落ち込むな。衛宮切嗣はアインツベルンを裏切ったが、それを非道となじる事はない。  逆に言えば、ヤツは一千年の怨霊を向こうに回してまで、己が願いの成就に懸けたのだ。  それこそ自身の〈裡〉《うち》に沈むあらゆる物を捨て去ってな。  それは十分に誇れる事ではないかね?」 「――――――――」  ……自分を迎え入れた者たち。  一千年の歴史を向こうに回して張り通したもの。  ……神父の言葉を鵜呑みにする訳じゃないが、もし本当にそうだというのなら――――    ―――俺が〈切嗣〉《オヤジ》の息子を名乗るなら、〈切嗣〉《オヤジ》と同じように、自分の信じる道を行かなくては―――― 「どうした。一千年と聞いて戦意が削がれたのかね、衛宮士郎」 「―――削がれてなんかない。理由はどうあれ、俺は戦うと決めたんだ。他のマスターが何を考えようが、十年前のような事は起こさせない」    それだけだ、と顔をあげる。  神父は満足したかのように、大仰に頷いた。 「十分だ。それがおまえの戦う意義ならば、死を賭して戦うがいい。長引けばそれだけ犠牲者は出る。切嗣と同じよう、〈夜毎〉《よごと》己が命を秤にかけて標的を誘き寄せろ」 「……他人事だと思って言いたい放題だな。ようするに撒き餌になれってことだろ、それ」 「他に賭けるものがないのだから仕方あるまい。  なに、それほど絶望的な策でもないぞ。おまえにはマスターを感知する能力はないが、サーヴァントはサーヴァントの気配を感じ取れる。おまえのサーヴァントが優れているのならば、あとは座して待つのみだろう」 「――――」  神父に背を向ける。  聞くべき事はもうない。  もうずいぶんとセイバーを待たせているし、いいかげん戻らないと。 「待て。一応訊いておくが、おまえは治癒の魔術を習得しているか?」 「―――してない。それがどうした」 「いや。ならば、負傷者が出たのなら連れてくるがいい。  犠牲者を出すのは教会としても見過ごせないのでな。間に合うのなら、こちらで治療は引き受けよう」 「――――」  ぴたり、と出口に向かっていた足が止まる。 「……驚いたな。アンタ治療魔術なんてできるのか。教会じゃご法度だろ、それ」 「本来は管轄外だが、覚えた。  昔、目の前で死病つきに死なれてな。それを機に手を染めてみたのだが、思いの外相性が良かったようだ」 「ああ、ただしおまえ本人の治療には見返りを要求するぞ。監督役として平等でなくてはならないからな」 「―――お断りだ。死んでもおまえの世話になんかなるもんか」    ふん、と顔を背けて、今度こそ外に向かって突き進んだ。  明かりが消える。  午後十一時。町が眠りについたのを見計らって、セイバーと共に外に出る。 「ではシロウ。とりあえずこの町の中心に向かうのですか?」 「………………」  ……結局、夕食の片付けから桜の様子は変わらなかった。  いや、むしろ悪化したと見るべきだろう。  元気がなくなって、熱病にかかったようにぼんやりとしていた。  そのくせ俺に家まで送られるのは嫌がって、藤ねえに連れられて帰っていったのだ。 「それともあちらの街に行ってみますか? 他のマスターが潜んでいる可能性はあちらの方が高そうですが」 「………………」  思えば二日前の桜も様子が変だった。  妙に元気がないというか、どこか怯えているような、そんな感じ。 「シロウ? もし、聞いているのですかシロウ」 「………………」 「シロウ! 今夜の方針を訊いているのです!」 「え!?」  驚いて顔をあげる。  と、目の前にむっとしたセイバーの顔があった。 「――――すまん、気が緩んでた。これからどうするかだな、セイバー」 「判っているのなら繰り返す必要はありませんね。  ―――どちらの町にも言える事ですが、地脈の流れに僅かな支障が起きています。他のマスターが行動を起こしているのは間違いないでしょう。選択次第では、今夜中に一人減らせる」 「いきなりマスターと戦うかもしれない……って事か。  ……けど、もし相手があの子だったらどうするんだ。  バーサーカーには勝てないんじゃないのか」 「――――マスター。今の私は万全です。魔力提供がないとは言え、五体満足ならばおいそれと敗れることはありません。  ……まあ、相手がイリヤスフィールの場合のみ撤退する事になるでしょう。バーサーカーの宝具が何であるか、それを見極めるまでこちらも宝具は使えませんから」 「――――――――」  セイバーが警戒しているのはバーサーカーだけだ。  他の可能性―――もし遠坂と出会った時の話を彼女はしない。  セイバーにとって、遠坂は倒すべき敵の一人にすぎない。  だが俺にとって、マスターは止めるものであって倒すものじゃない。 「セイバー。確認するが、マスターとサーヴァントが降伏した時は戦いを止める。俺の方針は令呪を使い切らせてマスターでなくす事だ。 ……本当に、それでいいな?」 「……判っています。ですがシロウ。敵がこちらの申し出を受け入れないのであれば、その時は」 「……ああ。その時は聖杯戦争のルールに従う。マスターとして戦う以上、その終わりは受け入れている筈だ」    坂道を降り始める。  ―――〈深山町〉《こっち》を巡回するか、新都を巡回するか。  今夜は――――   「今夜は〈深山町〉《こっち》を見て回る。ここのところ様子がおかしいし、足元を掬われる前に調べてみよう」 「同感です。目に見えて判るような異状はないでしょうが、丁寧に見回れば手がかりは得られるはずです」  ……そうだな、まずはこっち側の住宅地を見て回ろう。  その後は交差点に降りて、〈洋館〉《あちら》側の住宅地を巡回する。  それで異状が見られなければ新都に移動して、手がかりを見つけだせばいい――――  住宅地を一通り回って交差点に降りる。  うちの〈側〉《ほう》に異状はなかった。  あとは洋館側の丘と、手を広げるのなら柳洞寺にまで足を運んで―――― 「――――え?」  背中から湧き上がってくる悪寒。 「セイバー、これ……!?」  俺より正確に感じ取ったのか、セイバーは新都の方角に視線を向ける。  ……感じ取れた気配が薄れていく。  だが、今のは間違いなく誰かの悲鳴であり、強い魔力の余波だった。 「――――――――」  判っていた。  始めからこうなる事を望んで外に出たのだ。  だっていうのに、どうして頭が麻痺しているのか。 「――――っ」  戦う覚悟はあった。  躊躇いは死にかけた時に消えている。  なのに体は動かず、頭は次の行動を命じてくれない。  ――――きっと早すぎる。  だって、幾らなんでも一日目で当たりを引くなんて思わなかった。  だから動けない。襲われる事には慣れても、自分から襲う事に慣れていない。    なんて間抜け。  自分が殺される事はいいってのに、自分が殺す事を考えてもいな―――― 「悲鳴が止みました。感じ取れる気配も消えかけています。何が起きたかは判りませんが、このままでは襲われた者は助からないでしょう」 「――――――――」  それで消えた。  固まっていた頭、手足の痺れが解ける。  殺し合いをするのだ、という恐れは、  誰かを見殺しにするのだ、という恐れにかき消された。 「すまん、セイバー……!」    自分の不甲斐なさを詫びて、全力で走り出す。  悲鳴の元、不吉な魔力が残る殺し合いの場へ。  覚悟は出来ていない。  走り出す足は震えている。  ――――それは正しい。  戦う意思、聖杯を欲する欲望がないのなら、この恐れは必ずついて回る。 「―――なんて間抜けだ、大馬鹿野郎が……!」    そう。  故に、戦うと決めた理由があるのなら、まずそれを抱かなければならなかった。  相手が“聖杯が欲しい”という願望で心を武装するのなら。  衛宮士郎は、“戦いを止める”という願望で、この恐れを打ち消していくしかないのだと――――!    ―――人の多い新都を巡回するべきだ。    犠牲者を出したくないのなら戦え、と神父は言った。  魔術師として未熟な俺には、セイバーを連れて他のマスターを呼び寄せる事しか出来ない。  ……〈言峰〉《あいつ》に〈誑〉《たぶら》かされるワケじゃないが、自分を餌にして敵の食いつきを待つぐらいしか思いつかない。 「新都に行こう。物騒な事を企んでいるマスターがいるとしたら、〈深山〉《こっち》より〈新都〉《あっち》の方がやりやすいだろうからな」 「解りました。それでは隣町に向かいましょう」  ……新都に向かう、という事は自分を危険に晒す、という事だ。  ……殺される覚悟を決めなければいけない。  自分から戦うと決めたのなら、ランサーの時のような過ちは犯せない。 「―――――――」  ……半人前とは言え、魔術師としての心構えは毎夜鍛えてきたつもりだ。  背中に〈魔術回路〉《ぎじしんけい》を入れるように、心に鍵をかけて新都へ歩き出した。  一時間ほど新都を巡回した。  目に見えて判る異状はなく、セイバーもサーヴァントの気配を感じなかった。 「―――新都に異状はなし、か。これだけ無防備に歩き回ってれば何か反応があると思ったんだが」  考えが甘かった、と反省する。  これが遠坂なら、もっと上手い方法で新都を探索しているのかもしれない。 「いえ、マスターの行動自体は正しい。失点があるとしたら、シロウの技量が考えに付いてこなかっただけでしょう。  夜の巡回は決して無駄ではありません。今夜は手応えがありませんでしたが、積み重ねていけば何らかの成果が上がる筈です」 「う……まあ、そうだといいんだが」  やっぱり、自分の力不足で事が成らない、というのはこたえる。 「―――深山町に戻ろう。新都がダメなら、次は地元を見て回ろう」 「そうですね。シロウの意気込みは買いますが、やはり初めは足場の確認をしなければ」  深山町へ戻る。  橋に人影はなく、道路を走る乗用車の影もない。  静まり返った夜の中、セイバーと橋を渡る。 「――――!?」  瞬間。  背中を襲う悪寒と共に、誰かの悲鳴が響き渡った。 「近い……! セイバー、これ……!?」 「サーヴァントの気配です。場所はすぐ下の公園のようですが」 「―――――、っ」  心拍数が上昇する。  判っていた。  始めからこうなる事を望んで外に出た。  だというのに、麻痺した頭は思考を止めている。  戦う覚悟はあった。  躊躇いは死にかけた時に消えている。  なのに体は動かず、頭は次の行動を命じてくれない。  ……自分の甘さに吐き気がする。  覚悟など、これっぽっちも出来ていなかった。  戦う為に新都に向かったところで、分かったフリをしている頭と、戦いに馴染んでさえいない体では覚悟なんて決まりようがなかったのだ。    ―――そう。  戦いに赴くという事は。  襲われた時、殺される前に敵を殺すという事なのだ。 「――――」  ……動けない。  襲われる事には慣れても、自分から襲う事に慣れていない。  なんて間抜けだ。  自分が殺される事はいいってのに、自分が殺す事を考えてもいなかったなんて―――― 「マスター、指示を。何が起きたかは判りませんが、敵はすぐ近くにいる。貴方の指示次第では、悲鳴をあげた人間を助ける事も出来る筈です」 「――――――――」  落ち着いたセイバーの声のおかげか。  固まっていた頭、手足の痺れは、ぎこちなくはあるが解けていった。  殺し合いをする、という畏れは、  誰かを見殺しにするのだ、という恐れにかき消された。 「すまん、セイバー……!」    自分の不甲斐なさを詫びて、全力で走り出す。  悲鳴の元、不吉な魔力が残る殺し合いの場へ。  覚悟は出来ていない。  走り出す足は震えている。  ――――それは正しい。  戦う意思、聖杯を欲する欲望がないのなら、この畏れは必ずついて回る。 「―――なんて間抜けだ、大馬鹿野郎が……!」    そう。  故に、戦うと決めた理由があるのなら、まずそれを抱かなければならなかった。  相手が“聖杯が欲しい”という願望で心を武装するのなら。  衛宮士郎は、“戦いを止める”という願望で、この畏れを打ち消していくしかないのだと――――! 「は、ぁ――――!」    脇目もふらず公園に駆け込む。  漏れている魔力は強大で、この上なく不吉だった。  清流の中に重油が流れているようなもの。  これだけの濃い魔力ならば、俺にだって感じ取れる。  セイバーの足が止まる。  彼女の目は俺より早く、何が起きているのかを把握したのだ。 「な――――」  体が震える。  逆上する頭には不快感と嫌悪しかない。    ……伝説に言う吸血鬼を見るようだった。  黒い装束の女が、気を失った女性の首筋に口をあてている。  つう、と。  〈滴〉《したた》り落ちる紅い筋が、余りにも生々しい。    ……それは、人を食っていた。  外見、肉としての話じゃない。  あの黒い装束の女は、人間の中身――――精神とか記憶とか、そういったモノを吸い上げている。  襲われた女性はピクリとも動かない。  肌から生気の失われつつある女性は、それこそ、生きながらにして人形に変えられたかのようだ。 「――――――――」  喉がうまく動かない。  吸血鬼じみたアレがサーヴァントだという事に驚いているんじゃない。  俺の目はその後ろ―――黒い女を見守る、間違いようのない人影を凝視していた。 「――――へえ。誰かと思えば衛宮じゃないか。凄いな、おまえの間の悪さもここまで来ると長所だね」 「慎二、おまえ――――」    頭が麻痺している。  現状が把握できない。  正確な判断が下せない。  なんであいつがここにいるのか。  その手に持った本はなんなのか。  どうして死にかけた女がいるのに笑えるのか。  どうして、どうしてこんな馬鹿げたコトが目の前で起こっているのか――――! 「どうした、なに固まってるんだ衛宮。サーヴァントの気配を嗅ぎ付けてやって来たんだろ? ならもっとシャンとしろよ。一応さ、馬鹿なおまえにも判りやすいように演出してやったんだぜ?」 「――――――――」  聞き慣れた慎二の声が、いつも通り聞こえない。  それは妙に甲高く。  耳にするのが、ひどく不快に感じられた。 「――――殺したのか、おまえ」  手を握り締める。  慎二の前にいるサーヴァントは目に入らない。  精神が凍結する。  俺よりずっと強い〈存在〉《モノ》、全力で逃げなくてはいけないサーヴァントが目の前にいるっていうのに、まったく脅威を感じない。  感じる理性が、とびかけている。 「はあ? 殺したのかってバカだねおまえ! サーヴァントの餌は人間だろ。なら結果は一つじゃないか」 「――――――――」 「ま、僕もどうかと思うけど仕方ないだろ? こいつらは生しか口に合わないってんだ。サーヴァントを維持するには魔力を与え続けるしかない。おまえだって手ごろな獲物を探してたんじゃないの?」  黒いサーヴァントは動かない。  訓練された軍用犬のようだ。  アレは自らの意思では動かない。  主人―――マスターからの命令がなければ何もしない人形。  だが、命令さえ下れば躊躇わず人を殺す悪鬼の類。 「――――〈退〉《ど》け」    その猟犬を前にして言った。  時間がない。  急げばあの女性は助かるかもしれない。 「はあ? 退けってなにさ。それ、もしかして僕に言ってるのかい衛宮!?  は、お断りだね。食い残しがほしいんなら手を出せよ。  それはおまえの使い魔だろ?」 「――――慎二」 「ほら、戦わせてみようぜ衛宮。僕はサーヴァント同士の戦いが見たくて人を呼んだんだ。おまえだってマスターだろ? なのにぶるぶる震えてさ、そんなんじゃそこの女と変わらないじゃないか!」 「――――退く気はないんだな、慎二」 「しつこいな。退かしたかったら力ずくでやれよ。  ま、もっとも――――  震えてる分には構わないぜ? どのみち、おまえにはここで痛い目にあってもらうんだからね」  慎二の目に敵意がともる。  それを命令と取ったのか、黒いサーヴァントの体が沈み――――   「――――出ます! シロウは後ろに!」    黒い跳躍に応じるように、セイバーは戦いに踏み込んでいた。  二つの影がぶつかり合う。  セイバーは瞬時に武装し、不可視の剣で黒いサーヴァントを迎え撃つ。  響く剣戟。  地にしっかりと構えたセイバーと、めまぐるしく地面を駆ける黒いサーヴァントは対照的だった。  セイバーは敵のスピードについていけず、ただ足を止めて守りを固めている。  敵は長い髪をなびかせ、鈍重な獲物を追い詰めるように畳み掛けてくる。 「は、なんだ、ただの木偶の坊じゃないか! マスターが三流ならサーヴァントも三流だったな!」    俺と同じく戦いの場から離れて、慎二は笑う。  ……どうしてあいつがマスターになったのかは知らないが、魔術師としての力はないようだ。  慎二はサーヴァントの援護をしない。  となると、あいつも俺と同じで偶然マスターに選ばれただけなのか―――― 「――――――――」  何度目かの短剣を受け、セイバーの足が止まる。  その顔は苦しげだ。  セイバーは高速で襲いかかってくる敵に、苛立ちに似た視線を向ける。 「いいよ、かまわないから決めちゃえライダー!  爺さんの言いつけは守ったんだ、衛宮のサーヴァントを始末するぐらい不可抗力さ!」  ――――黒い影の速度が速まる。    黒いサーヴァント――――ライダーは主の命に従いセイバーの首を刈らんと加速し、    一撃のもとに、その影は両断された。    ―――勝負は一瞬で付いた。  セイバーの剣はライダーの体を捉え、黒いサーヴァントは成す術もなく吹き飛ばされた。  バットでサンドバッグをかっ飛ばすかのような豪快さ。  無論バッターはセイバーで、吹っ飛ばされたサンドバッグがライダーである。 「……………え?」  空気が変わる。  慎二は呆然と傷ついたライダーを見つめ、 「――――嘘だろ」  俺は愕然と、つまらなそうに剣を納めたセイバーを見つめてしまった。 「な―――なんだよ、なにやってんだよおまえ……!」  罵倒する声。  腹を裂かれ、深手を負ったライダーに駆け寄ることなく慎二が叫ぶ。 「誰がやられていいなんて言ったんだ! 信じられない、こんなの命令違反だ! この僕がマスターになってやったのに、衛宮のサーヴァントなんかにやられやがって……!」 「っ――――。っ、ぁ――――」    自らの血だまりの中、ライダーは懸命に体を起こす。  ……だが立ち上がれない。  ライダーの傷は致命的だ。すぐに治療しなければ、いかにサーヴァントといえどこれ以上保たない。 「この、さっさと立って戦え死人……! どうせ生きてないんだ、傷なんてどうでもいいんだろう!? ああもう、なにグズグズしてるんだよこのクズ……! 恥かかせやがって、これじゃ僕の方が弱いみたいじゃないか!」    ライダーを罵倒する慎二。  それを見かねたのか、 「ライダーを責める前に自身を責めるがいい。いかに優れた英霊であろうと、主に恵まれなければ真価を発揮できないのだからな」 「っ……! ば、ばばばバカ、早く立てって言ってるだろう! マスターを守るのがおまえたちの役割なんだ、勝てないんなら体を張って食い止めろよな!」 「…………言っておくが、それも無駄だ。令呪を使ったところで貴様にライダーは治せない。死にかけのライダーを令呪で酷使したところで、私を防ぐ盾にもなるまい。  ここまでだライダーのマスター。  我が主の言葉に従い、訊きたくはないが降伏の意思を訊ねる。令呪を破棄し、敗北を認めるか」 「う、うるさい、化け物が偉そうに命令するな……! 立てライダー、おまえの主人は僕だろう! 犬のクセに主人の言いつけが聞けないってのか……!」 「っ――――。――――、――――」  火花が散っている。  慎二の命令を守れない罰なのか、ライダーは青白い電荷に〈苛〉《さいな》まれる。  ……なんて悪循環。  ライダーはもう戦える体じゃない。  なのに、慎二の命令が立ち上がれないライダーを責めている。傷は更に深まり、ライダーは急速にその命を失いつつあった。 「――――――――」  セイバーの手が慎二に伸びる。 「ひ――――! 立て、動けライダー……! どうせ死ぬんならこいつを道連れにして消えやがれ……!」    慎二の命令にライダーが反応する。  ――――死を前提とした命令に、ライダーの体が動く。  そこへ、   「そこまでだ。どうやらおまえでは宝の持ち腐れだったようじゃな、慎二」    しわがれた、老人の声が割って入った。 「え?」  ぼう、という音。 「え、え……!? 本、本が燃える……!」  慎二の持つ本が燃えていく。 「なんで……!? くそ、消えろ、消えろってば、なんで燃えてんだよコイツ!?」  必死に炎をはたくが間に合わない。  本は跡形もなく焼失し、同時に、  ライダーの姿も、跡形もなく消え去った。 「……やれやれ。見込みはないと思っていたが、よもやこれほどとはな。孫可愛さで目をかけてやったが、これでは見切らざるを得ぬわ」    今まで何処に潜んでいたのか。  老人―――間桐〈臓硯〉《ぞうけん》は、夜の闇から滲み出るように現れていた。 「お、お〈爺〉《じい》、さま? いまのは、まさか」 「ワシ以外に誰がおるのだ馬鹿者。折角のサーヴァントを殺しかけおって。それでも我が血脈の後継者か」 「……! な、ならなんで邪魔したんだよ! 勝てばいいんだろ勝てば! 僕は間桐の後継ぎなんだ、こんな奴等に負けるなんて許されないって判ってたのに……!」  慎二は縋るように老人に駆け寄る。  ライダーを失い、セイバーに迫られた慎二には、あの老人しか頼るものがないのだろう。    だが。 「……痴れ者め。おまえのような出来そこないに勝利など求めておらぬわ。その身に求めたモノはな、無力でありながらも挑む我らの誇りじゃ。  にも拘わらずこの体たらく。〈間桐〉《マキリ》の名に泥を塗りおって。まったく、親子共々一門の面汚しよな」 「な――――僕が、親父と同じ、だと――――」 「たわけ、それ以下じゃ。無能であったおぬしの父は、更に救いのない不良品を産みおった。  ……それでも構わぬと一縷の望みを抱いておったが、それもここまで。血筋ばかりか精神まで腐らせおって。  間桐の血は、おまえで終わりだ」  老人は慎二を無視して歩き出す。  ……老人に不吉なものを感じたのか、セイバーはかすかに後じさる。 「……ふむ。なるほど、これではライダーが敗れるのも道理。さぞ名のある英霊とお見受けした。これほどのサーヴァント、過去の戦いにおいても一人現れたかどうか」 「………………」 「さて、となるとワシは死ななくてはなるまい。あのようなものでも血縁でな、この身に代えても命だけは救わねばならぬ。カカ、まっこと肉親の情とは命取りよ」  ……驚いた。  老人が前に出たのは慎二を逃がす為らしい。  間桐〈臓硯〉《ぞうけん》はその為にセイバーと対峙し、怯えている慎二を守っているのか―――― 「そら、早々に立ち去れい。契約の書も燃え、マスターでなくなったのだ。ここを生き延びればこやつ等もおぬしを襲うまい。父親同様、無意味な余生を送るがよい」 「っ――――――――」  老人を睨みながら、慎二はセイバーの目から逃れていく。 「――――――――」  セイバーは追わない。  マスターでなくなった慎二を追う必要はない、と考えてくれたのだろう。  慎二は這ったまま離れていく。  そうして公園の出口まで辿り着き、  一度だけ振り返り、無我夢中で走り去った。    胸焼けがする。  どこからか、肉の腐った匂いがしていた。 「ほ、みすみす見逃したか。……なるほどなるほど。あのような小者、手にかけたところで剣が〈汚〉《けが》れるだけの話であったな」 「………………」  セイバーは老人と対峙したまま動かない。  ……それはあの老人の視線から、俺を守っているかのようだった。 「―――セイバー、下がってくれ。その爺さんとは顔見知りだ。少し話がしたい」 「いけません。この男は人間ではない。話す事などなく、聞く事もない筈です」 「……判ってる。それでも聞いておかなくちゃいけない事があるんだ。頼む、すぐに済ませる。戦うかどうかはその後でセイバーが決めていい」 「………………」  わずかに体を引くセイバー。  道は譲らないが、老人と向き合うだけの機会をくれた、という事だろう。 「――――すまん。  ……それで。どう説明してくれるんだ、アンタは」 「さて。ただ説明しろ、とは〈不躾〉《ぶしつけ》な男よ。  質問は構わぬが、何を問うておるのか分からぬのでは答えようがないぞ?」 「……慎二の事だ。なんだってあいつがマスターになってたんだ。さっきの様子じゃアンタが担ぎ上げたように見えたが、どういう事だ」 「ほ、何を訊ねるかと思えば。そのような事、答えるまでもない。今おぬしが口にした通り、慎二をマスターに選んだのはワシだ。見ての通り現役から退いて久しいのでな。  戦えぬワシは、孫に〈桧〉《ひのき》舞台を譲ったというわけだ」 「マスターを譲った――――それは、つまり」 「うむ。おぬしと同じだ、衛宮の後継ぎよ。  聖杯が現れると知り、ワシではなく孫にサーヴァントと契約させたのだ。おぬしとて魔道を究める血の末席。  己では叶わぬ夢を、弟子に託す心情は理解できよう」 「――――――――」  ……じゃあ何か。  原則として、マスターとは魔術師がなるものだ。  なら慎二は魔術を学んでいて、その家が魔道であるって言いたいのか、この爺さんは。 「魔術師――――間桐の家も、魔術師の家系だっていうのか」 「知らなんだか? この土地には遠坂と間桐、両家が根を張っておる。  とは言え、とうに我が血族は廃れておる。  この土地の権利は名実ともに遠坂のもの。間桐はかつての権利に縋って細々と生きているにすぎんがのう」 「遠坂……? じゃ、じゃあ遠坂もアンタの事は知ってるのか。間桐の家が魔術師の家系だって……!?」 「当然であろう。我らと遠坂はかつての同朋じゃ。儀式が争いに変貌してからは〈袂〉《たもと》を分かったが、ともに大願を抱いた同士。聖杯戦争に絡まぬところでは交友は続いておった。  おお、たしか〈彼奴〉《きゃつ》から小娘に代替わりしたのであっ たな。  ここ十年ばかり留守にしておった故、彼奴の弟子がどれほどの器かは見知らぬが」  呵々、という笑い声。  遠坂の家にどんな感情を抱いているのか、間桐臓硯は愉快そうに哄笑する。 「……遠坂とかつての同朋だと言ったな。じゃあ間桐の家は、一番初めの聖杯戦争からここにいるのか」 「うむ。元々はマキリという。  間桐と名を偽りこの国に根を下ろしたのだが、どうもそれが間違いだったようじゃ。この国の土は我らには合わん。この二百年で血は薄れ、今ではあのような出来損ないが後継者という始末じゃよ」 「――――間桐」    マキリという名前を変換しただけのもの。  じゃあ、慎二が魔術師の家系だとしたら、桜、は。 「む? いやなに、ただの言葉遊びじゃよ。正体を隠す為だが、名というものは軽視できんのでな。偽りの名と言えど、真名に通じていなくてはならん」 「――――――」  そんな事はどうでもいい。  大事なのは、訊かなければいけない事は一つだけだ。 「――――じゃあ。桜は―――桜も、慎二と同じようにマスターなのか」 「これは異な事を。桜がマスターだと? そのような事はあり得まいに。どうやらおぬしの父親は、まともな教育をしなかったようじゃな」 「あり得ない……? 桜に魔術師としての素養がないって事か?」 「それ以前の問題じゃ。  そも、魔術師の家系は一子相伝が基本。よほどの大家でなければ後継者以外に魔術を伝える事などあり得ぬよ。  兄妹など最たるものだ。後継ぎは二人もいらぬ。間桐の名が廃れていなければ養子にでも出したのだが、魔術回路がないのでは貰い手などおるまい」 「――――じゃあ桜は」 「慎二はマスターである以上、答えは明白であろう。後継者に選ばれなかった片割れは、〈間桐〉《おのれ》の家が魔道である事も知らぬわ。  ……まあ、兄が使い物にならなければ妹を、とも思っておったが、既に勝敗は決した。今更、何も知らぬ孫を聖杯戦争に駆り出す事もなかろうよ」 「――――――――」  ほう、と胸を撫で下ろす。  ……良かった。  間桐が魔術師の家系だった事には驚いたし、慎二がマスターだった事は問題だ。  それでも、桜がこんな殺し合いに関わらなくていいのだ、と今は素直に安堵できる。 「―――勝敗は決したと言ったな。それじゃもう慎二は戦わないんだな。アンタも現役じゃなくて、桜だって聖杯戦争に関係はないんだな」 「うむ。だが慎二がどうでるかはワシにも保証はできんぞ?  アレは魔術師というものに執念を抱いておる。  身内の恥じゃが、間桐の血はこの国に根付いてから薄れていった。その最後の後継者がアレじゃ。もはや間桐の子供には魔術回路などない」 「……まったく、だというのに何処で秘伝を紐解いたのか。アレは選ばれた人間などという〈驕〉《おご》りを持ちながら、同時に生まれつき劣っているという強迫観念を持って育ちおった。  放任が祟ったのだろうが、性根というものは中々に矯正できぬ。このような明確な敗北を受けても諦められんのでは、手の施しようがない」  老人の体が縮む。  いや、足音もたてずに後ろに引いたため、そう錯覚させられただけだ。 「ともあれ、慎二は敗れた。此度の戦いは早々に我らの敗退となったが―――それでもこの老体を斬るかね、セイバーのサーヴァントよ」 「その言葉が真実ならば、無益な戦いはしない。  だが、もし偽りなら次はない。それは貴殿の跡取も同じ事。懲りずに我が主を狙うのならば、その時こそ容赦なく斬り捨てよう」 「うむ、しかと」  老人の姿が消えていく。  ……どのような〈穏形〉《おんぎょう》なのか。  間桐臓硯は現れた時と同じように、俺たちの目の前で夜の闇に溶けていく。 「――――――――」  後に残ったものは腐臭だけだ。  胸にわだかまる不快感を堪えながら、倒れている女性を担ぎ上げる。 「教会に行くぞセイバー。まだ間に合う。あいつならなんとか出来るはずだ」 「――――承知しています。女性は私が」 「?――――って、そうか。すまん、頼むセイバー」  女性をセイバーに預けて走り出す。  事は急を要する。俺より小さいとはいえ、力ではセイバーの方が上なんだ。ヘンな見栄を張ってないで、ここは彼女に任せた方がいい。 「先行します。離れずに付いて来てください」  セイバーの体が流れる。  その速さに引き離されぬよう、こっちも全力で走り出した。  教会を後にする。  物陰で待機していたのか、俺が出てくるなりセイバーは姿を現した。 「話は済みましたか、シロウ」 「ああ。〈切嗣〉《オヤジ》がどんなマスターだったかも、アインツベルンとどんな関係だったかも聞いた。ついでに身の振り方も忠告されたよ。あいつ、見かけのわりにはお喋りだ。  なんだかんだって世話やかれちまった」 「は……? あ、あの神父が貴方に協力的だったのですか?」  何がおかしいのか、セイバーは目を白黒させている。 「――――――――」 「シ、シロウ? どうしました、やはり何か代償を求められたのですか? く、どうして私を呼ばなかったのです、危険が迫った時は呼んでほしいとあれほど言ったではないですか……!」  俺の顔がよほどおかしかったのか、セイバーは詰め寄ってこっちの顔を覗いてくる。 「――――――――」 「それで、何をされたのですかシロウ……! 貴方の傷はまだ完治してはいない。少しの油断で昨夜の繰り返しになるのだと、貴方自身も判っている筈です……!」  ずい、とセイバーはさらに詰め寄ってくる。 「――――――――」 「傷を見せてくださいシロウっ。昨夜の傷は私にも責任がある。その責を返さないまま貴方を死なせる訳にはいかない。私はまだサーヴァントとして一度も貴方の助けになっていないのです、こんな事で契約を破棄する事など許容できない……!」  ぐい、と剥ぎ取らんばかりに人の服に手をかけるセイバー。  その姿は、鬼気迫るというより、その。 「――――――――く」  あ。やば、我慢してたのに笑っちまった。 「………………シロウ?」  ぴたり、とセイバーの手が止まる。  こっちが何を堪えていたかを悟ったのか、セイバーは一転して睨みつけてくる。 「――――シロウ。他者の動揺を愉しむのは、よくない趣味だ」 「――――――――っ」  そう抗議する顔すら新鮮で、つい頬が緩んでしまう。 「シロウっ」 「く――――いや、悪い。セイバーがあんまりにも慌てるもんだからびっくりしちまった。その、嬉しい誤算というか、俺も間抜けだったっていうか」 「……嬉しい誤算、ですか。何か含むものを感じますが、当然納得のいく説明をしてくれるのでしょうね」  よっぽど癇に障ったのか、セイバーはますます感情的になっていく。  ようするに委員長気質なんだ、セイバーは。  こっちが間の抜けた事をすると本気で叱ってくるんだけど、本気だから地の感情が出てくるというか。 「なにをニヤニヤと笑っているのです……! 私が貴方の容態を見誤った事がそんなに楽しいのですか!」 「すまん、正直に言うと嬉しい。今のセイバー、妙に元気だからな」 「? はい。私の体調に異状はありませんが、それが何か?」 「いや、そういう事じゃないんだ。なんというか、初めてセイバーの素顔を見たっていうか、セイバーがちゃんと女の子なんだって実感できて、良かった」 「な――――」  ざざ、と後ろに跳び退くセイバー。 「な、なにを言うのです。サーヴァントに性別など関係ありません。私たちは敵を討つだけの存在なのですから、そのような事で喜ばれては困る」  怒っているのか呆れているのか、セイバーは辛辣な眼差しを向けてくる。 「――――――――」  が、不思議と不快じゃないというか、やっぱり気分はにやけたままだった。  サーヴァントなんて言っても、セイバーは外見通りの人間だ。  他のサーヴァントがどんなヤツかは知らないが、俺と契約してくれた彼女は、戦うだけの使い魔なんかじゃない。  まだ一度も貴方の助けになっていない、と彼女は言った。  ランサーから俺を助けてくれた事、バーサーカーを前にして俺を逃がそうとしてくれた事。  二度も命を救っておいて、彼女はそれを助けと考えない。 「――――お人好しなんだか、完璧主義なんだかな」 「な、なんですかその目は。マスターといえど度を過ぎる言動は無視できません。シロウがそれ以上おかしな事を言うのなら、私にも考えがありますが」 「わかったわかった。わかったからそんなに怒らないでくれ。単に、俺と契約してくれたサーヴァントがセイバーで良かったってだけの話」 「な、何を言うのです。私は貴方に呼ばれただけだ。  私の意思で貴方と契約した訳ではありません。私を選んだのは他ならぬ貴方ではないですか」 「ただの偶然だけどな。……うん。だからまあ、今はそれが悔しい。初めから、ちゃんと自分の意志でセイバーの手を取りたかった」  右手を差し出す。  最初に出来なかったこと。  交わすべきだった約束を、ここできちんと果たさないと。 「シロウ……?」 「随分遅れちまったけど、いいかな。俺はこういうやり方しか知らない」  セイバーは無言で歩み寄って、躊躇わずに手のひらを重ねてくれた。  細い指。  自分の物ではない、彼女の確かな感触が伝わってくる。 「これから一緒に戦ってくれるか。俺にはセイバーの助けが必要だ」 「私の誓いは変わりません。貴方の剣となる為にこの身は召喚されたのです」 「―――それに助けが必要なのはお互い様です。  聖杯を手に入れる為に、私は貴方の力を借りる。貴方が信頼してくれるのなら、私はその心に見合う力を振いましょう」  握り返される感触が温かい。 「――――――――」  胸に残っていた戸惑いは跡形もなく消え去った。  始まりの夜から半日過ぎた今。  俺はようやく、彼女が共に戦ってくれる“協力者”なのだと実感できていた。    ――――夜を待って街に出る。    セイバーとの話し合いの末、とりあえず出た結論がそれだった。    言峰の言う通り、俺はマスターを感知できない。  敵の気配を察知できるのはセイバーだけで、そのセイバーも他のサーヴァントを感知できるのは近づいた時だけだという。    となると、方針は自然、足を使って街を巡回する事になる。  偶然に期待するようなものだが、セイバー曰く『危険ではあるが確実』な手なのだそうだ。    マスターは隠れ家に閉じこもっている訳ではない。  聖杯戦争が他のマスターとの競争であるのなら、優位に立つ為に何らかの手段を用いなければならない。  その為にサーヴァントは敵マスターの隠れ家を探し、マスターは魔術を用いて罠を張る。  その行動そのものが付け入る隙だ。    サーヴァントかマスター、どちらかが動けば大きな魔力が働く。魔術師を感知する事は出来ずとも、使われた魔力の残り香ぐらいは嗅ぎ取れる。  それを頼りに街を巡回していれば、他のマスターの手がかりぐらいは得られるだろう。    ……もちろん、それは自分を撒き餌にして得る情報だ。  言峰神父の言う通り、俺には自分を囮にする以外に手段がない。    巡回は今夜から行う。  セイバーは一人で街に出るから俺は家に残っていろ、と言い張ったが、それはこっちも一緒に戦うと言い張った。    長く、どこか不毛だった意地の張り合いの末、   『……判りました。では、必ず私と共に行動すると約束してください。夜中、一人では決して外に出る事はしないと誓えますか?』    セイバーは最後に、こっちの言い分を呑んでくれた。    さて。  方針は決まったのだが、解決しなくてはならない問題があと二つほどあったりする。 「シロウ。先ほども説明しましたが、私は余分な魔力は使えません。今夜出陣を控えているのなら尚更です」 「ああ、出来る限り眠って魔力の消費を抑えるんだろ。  俺からの魔力提供がないセイバーは自分だけで肉体を維持しなくちゃいけない。  セイバーの一日の魔力回復量が8だとすると、肉体維持に必要な魔力は6。んで、余剰の2が貯められる貯金になる。  通常の戦闘で消費する魔力は、えーと、うまく温存すれば10ぐらいだっけ?」 「こちらが一度も傷を負わず、鎧を破損しない限りはそうです。ですが同格の英霊相手ではそのような事はあり得ません。  シロウ風に言うのなら、ランサーとの戦いに五十、バーサーカーとの戦いにいたっては二百ほど魔力を消費しました」  ランサーには胸を穿たれ、バーサーカーには腹を裂かれた。  あれだけの傷を治療したのだから魔力を大量に失うのは当然だと思う。  思うのだが、 「肉体の治癒にはそう魔力を使いません。むしろ破壊された鎧の修復の方が大きい。私の魔力は、その大半を守りに固定していますから」  なのだそうだ。 「鎧も体の一部なんだっけ。肉体の維持と鎧の維持は同位なワケだ。鎧を脱いでいるのは魔力の維持の為なんだよな」 「はい。ですが、他のサーヴァントにその必要はないでしょう。私は霊体になれないので武装を解除するしかありませんが、ランサーやアーチャーは非戦闘時に霊体になる事でマスターへの負担を減らしている筈です」 「なるほどなるほど。……っと、下ごしらえはこんなんでいいかな」 「シロウ。食事を用意してもらえるのは助かりますが、少々緊張感に欠けるとは思いませんか?」 「え? いや、そんな事はないけど」  そんな事はないのだが、実際、危機感というものが薄れたのも事実だ。  家に帰って、作戦会議の後にセイバーの状態を聞かされた時は驚いた。  俺からの魔力提供がないセイバーは、それこそ日々『ここにいる』だけで精一杯なのだ。  そんな状態で戦える筈がない、と方針を変えようとしたのだが。         「なあセイバー。もう一度訊くけど、おまえの今の魔力量って、いくらだっけ」 「シロウ風に言うのなら、一千ほどですが」    ―――なんてデタラメぶりである。    バーサーカーとの戦いで二百だのなんだの言っておいて、セイバーにはまだそれだけの魔力が温存されている。  しかも不十分。まっとうな魔術師をマスターにしたセイバーがどれほどの魔力量を誇るのか、考えるだに恐ろしい。  その許容量は人間のレベルじゃないし、俺の何倍あるかなんて比べるのも馬鹿らしいんで止めた。  遠坂がセイバーを“最も優れたサーヴァント”と評していた意味が、俺にもやっと判ったというか、なんというか。 「……そりゃ緊張感もなくなる。敵は六人しかいないってのに、そんだけの魔力があれば怖いものなしじゃないか」 「――――それはただ戦うだけの場合です。  先ほども言いましたが、宝具の使用には莫大な魔力を必要とします。今の私では宝具の使用は厳しい。その為に、少しでも魔力を温存しなくてはならないのです」  セイバーは怒っている。  それがマスターとしてセイバーに負担をかけていることになのか、  それとも睡眠をとるというセイバーを押し止めていることに対してなのか、判別がつかない。 「魔力の温存は判ったよ。けど人間食事も大切だろ。昼は余りもので済ませちまったから、夕飯はちゃんと食べてくれ。寝るのはその後でいいじゃないか」 「…………。いいでしょう、もとより私も容易く宝具を使う気はありません。この話は貴方がもう少し、サーヴァントというものを実感してからにします」  不満げにこぼして、セイバーは行儀よくテーブルの前に正座する。  うん、よしよし。  セイバーのヤツ、なんだかんだとこっちの言い分を聞いてくれるから助かる。  とりあえず、『魔力維持の問題について』はこれで決着だ。  もとより俺たちではどうしようもない問題だし、解決策は現状を把握するぐらいしかない。  で。 「しかしシロウ。  先ほど問題が二つあると言いましたが、あと一つはなんなのですか?」 「ん? ああ、もうすぐ来る。口裏はさっき合わせた通りにやってくれ」  大根をドッカドカにぶった斬って、ドバーっと鍋に投入する。 「?」  首をかしげるセイバー。  そこへ、   「ただいまー! 士郎、晩ご飯作ってるかなー!」 「お邪魔します、先輩」    なんて、いつも通りの声が玄関から響いてきた。 「………………」 「………………」 「………………」  沈黙が痛い。  当然と言えば当然、予想通り藤ねえと桜は面食らってこっちをじーーーーーっと見つめてくる。   『今日から家に下宿する事になったセイバーだ。よろしくしてやってくれ』      と説明してからはや十分。  何も反論がない、というのは結構きく。  お茶を飲もうにも湯飲みの音さえ響きそうで飲めず、熱い緑茶はとっくに冷めきっていた。    が、いつまでもこのままでは進展しない。  ここは勇気を持って前進あるのみである。 「とにかく〈切嗣〉《オヤジ》を訊ねてきたんだから、帰ってもらうわけにはいかないだろ。観光に来ただけだからそう長くは滞在しないっていうし、離れを使ってもらうから問題ないと思うし」 「………………」 「………………」 「………………」  ……沈黙は続く。  ところで。  藤ねえと桜が黙り込むのは判るのだが、なんでおまえまでそんな意外そうな顔してるんだ、セイバー。 「――――ふう。まあ、切嗣さんの知り合いなら仕方ないか。外国に親戚がいるとか言ってたし、えっと、セイバーさん? もしっかりしてるようだし、私は反対できないかな」 「……あの。藤村先生、それは」 「ごめんね。桜ちゃんの気持ちはわかるけど、ここは切嗣さんの家だから。それにさ、外国からここを頼りにしてきた子を放っぽりだしたら日本の恥でしょ? そうでなくとも最近は物騒なんだから、こんな可愛い子を追い出せないわよ」 「…………それは、そうですけど。先輩は、それでいいんですか?」 「ああ、元からそのつもりだ。セイバーにはしばらく家にいてもらう。桜はセイバーが下宿するのは反対か?」 「……いえ、お知り合いの方が住むのはいいと思います、けど――――その、セイバー、って」 「ん? ああ、変わった名前だろ。名前通り無愛想だけど、いいヤツなのは保証する。あんまり日本になれてないんでおかしなところもあるけど、桜が教えてくれると助かる」 「…………はい。先輩がそう言うなら、いいです」  外国人であるセイバーに苦手意識を持ったのか。  セイバーから目を逸らしたまま、桜は小さく頷いてくれた。  そんなワケで、夕食である。  セイバーの歓迎と昼飯のリベンジをかねて夕食は力をいれた。  かつおのたたきサラダ風から始まって、ピリリと辛いねぎソースをかけた鶏肉揚げ、定番といわんばかりの肉じゃがと、トドメとばかりにえび天を筆頭に天ぷら各種を用意する。  奮発したというか、もはや節操のない献立となった夕食は、しかし。  主賓と弟子には不評のようだ。 「うわ、なにこの天ぷら!? 中がほくほくで美味しいとかいう話じゃないよぅ! どうしてくれるのよ士郎わたしフツーのエビさん見直しちゃったー!」 「……………………」  いや、まあ。  その分、藤ねえが四人分喜んでくれたんでいいけど。  藤ねえのおかげか、夕食はつつがなく終わった。  どういう訳か、あの藤ねえがセイバーにおかずをあげる、という珍事まで発生したおまけ付きだ。  藤ねえは藤ねえなりに、寡黙なセイバーを気に入ったと見るべきだろう。 「………………」  藤ねえとセイバーは、セイバーの部屋を準備するため離れに出向いている。  残った俺たちは夕飯の後片付け。  実にいつも通りの役割分担なので、何がどうという事もない。 「食器は俺が洗うから桜はテーブル周りを頼む。  と、天ぷら油はまだ捨てなくていい。フタして奥に仕舞ってくれ。重いけど、大丈夫か?」 「え……? あ、はい、大丈夫ですよ。わたし、こう見えても力持ちなんですから」  よいしょ、と油の張った鍋を持ち上げる。  よしよし、弓を引いてるんだから気にするまでもなかったか。 「ま、弓だって力だけで引くわけじゃないけどな」  ざぶざぶ、と音をたてて食器を洗う。  と。 「あれ? 先輩、タオルが減ってますよ? ペーパータオルも空っぽだし、いつもと食器の置き場所も違ってます」 「え? どれどれ……って、ほんとだ。なんだろ、泥棒でも入ったのか」 「うーん。タオル専門の窃盗犯、というのは難しいですね」 「だな。そんな泥棒は泥棒じゃない」  普段とは違う食器の位置。  空っぽになったペーパータオル。  何枚か持ち出されているタオル。  このあたりの事実から導き出される結論はと言うと、    「――――あ。そうか、遠坂がいたんだ」    ぽん、と手を叩く。  バーサーカーとの一件のあと、倒れた俺を看病してくれたのは遠坂だ。  ペーパータオルやら何やらは、俺の手当てに使ったと見るのが妥当だろう。 「先輩。遠坂って、遠坂先輩のコトですか?」 「ああ。ちょっとした縁で家にあがってもらったんだ。  その、つまんないドジでケガしちまってさ。偶然通りがかった遠坂が親切にも手当てしてくれたんだよ。さすが我が校の誇る優等生。慈愛に満ちてるってもんだ」  勿論、後半は断じて本気ではない。  我が校の誇る優等生は昨夜死んだ。  まことに遺憾だが、優等生遠坂凛は俺の中から消え去ってしまったのだこんちくしょう。 「……どうして」 「ん?」 「どうして、遠坂先輩がここに来るんですか。そんなのおかしいです。だってぜんぜん関係ない。ここにいるのはわたしで、先輩とあの人はぜんぜん関係ないのに、どうして」  俯いたまま、桜はじっと体を押さえる。 「………………」  突然の事に、かける言葉が見当たらない。  桜は何かよくない不安に耐えるように、強く自身を抱いていた。  真夜中だというのに、教会には明かりがついていた。  教会前でセイバーから女性を預かり、一人で礼拝堂に入る。  大声で言峰を呼ぶと、あいつは衰弱した女性の姿を見るなり、女性を抱きかかえて奥に引っ込んでしまった。  なんでも、治療室に使えそうな部屋は言峰の私室ぐらいしかないのだそうだ。 「――――はあ」  並べられた椅子に座る。  ……とりあえず、これでやれるだけの事はした。  あの女の人が助かるかどうかは言峰次第だ。  今は言峰を信じて、こうして結果を待ち続けるしかない。 「――――――――」  ……時間が過ぎていく。  外で待っているセイバーも気がかりだが、今はここを離れる訳にはいかない。  それに――――少し、一人で考えたかった。  魔術師の家系だった間桐の家。  マスターとなってサーヴァントを従えていた慎二。  魔術師としての力を失いながらも、後継者を聖杯戦争に参加させた間桐臓硯。 「……………………」  聖杯に執着があるのはアインツベルンだけじゃない。  マキリと遠坂。  いや、もとより“聖杯”なんてものに〈縋〉《すが》るしかない人間がマスターになる。  ……それはセイバーだって例外じゃない。  アインツベルンは一千年もの間、聖杯を求め続けた。  その執念は俺がどうこうできるものじゃない。  聖杯でなければ救われないモノ、聖杯でなければ癒されないモノがいる。  〈切嗣〉《オヤジ》はそれを敵に回して、聖杯を破壊した。  けど俺は―――そこまで、強く自分の願望を貫く事が出来るのか。  アインツベルンやマキリのように、  何百年も前から求め続けた連中と、肩を並べて争う権利があるのかどうか――― 「まさかな。負傷者をつれて来いとは言ったが、その日のうちに連れてくるとは思わなかったぞ」 「言峰――――」  顔を上げる。  神父の表情に暗いものはない。  なら、治療は上手くいったという事だろうか。 「言峰。あの女の人は、どうなった」 「持ち直しはした。後は本人次第だ。ここに連れてくるのが半時ほど遅ければ、今ごろは本職に戻らねばならなかったが」 「―――そうか。すまない、世話をかけちまった。  ……その、アンタが起きていてくれて、助かった」 「どうした、私に礼を言うとは熱でもあるのか? 悩み事なら相談に乗るぞ」 「……どうだか。悩み事なんて山ほどある。それを増やしたのは他ならぬアンタだろ。これ以上、アンタの長話なんか聞くもんか」 「なんだ、昼の話は迷惑だったか。……ふむ。後押ししてやったつもりなのだが、迷いを増やしただけとは。私も反省せねばならんな」  どこまで本気なのか、神父は悔いるように口を閉ざす。 「……………………」  別に、その雰囲気に負けた訳じゃないけど。 「…………その、さ。  知ってるヤツが、マスターだったんだ」  自分ひとりでは耐え切れず、そう、泣き言を呟いていた。  神父は何も言わない。  ただ一言、そうか、と頷いただけだ。 「当然倒したのだろうな、衛宮士郎」  短い質問に、こっちも頷きだけで答える。 「ならば悔いるな。人間には過去を変える事はできん。  我々に出来る事は、常に自身の行いを是とする事だけだ。  それでも罪を背負いたいのならば、これからの自身の行いに問うがいい。既に起きた惨事をどう捉えるかはおまえ次第だ」 「………………」  神父の言葉はもっともだ。  ……慎二がマスターなこと、間桐の家が遠坂と同じく魔術師の家系なこと、アインツベルンが聖杯に執念を持つことが問題なんじゃない。  大事なのは、これから自分がどうするのか、という決断だけ。 「――――帰る。あの人の事、よろしく頼む」  椅子から立ち上がって、礼拝堂を後にする。  外ではセイバーが待っているんだ。  女性の無事が確かめられた以上、ここに留まっている理由はない。 「待て衛宮士郎。一つ助言をしてやろう」 「……なんだよ。長話は聞かないって言っただろ」 「なに、すぐに済む。こんな夜更けに治療をしてやったのだ。治療代として話に付き合え」 「………………」  そう言われては反論できない。  渋々と振り返ると、神父は俺のすぐ目の前に立っていた。 「昼に言い忘れた事だ。  アインツベルンの望み―――一千年の願いを叶える為に彼らは生き続けてきた。なるほど、口にしてみれば〈大事〉《おおごと》だ。気圧されるのも当然だろう」 「………………」  ……これだからこいつは苦手だ。  何も言ってないってのに、こっちの迷いを的確に言い当てやがる。 「……うるさいな。またむし返そうってのか、おまえ」 「そうではない。私はな、そう意識するほどの事でもないと言っているのだ。  そう、特別視する必要などない。この戦いはよくある出来事にすぎないのだよ。  日々の営み、人々の幸福が結晶化したものが聖杯戦争だ。参加する事、殺しあう事に罪悪などない」 「あらゆる人間は自分だけの望みを持ち、それを果たす為に奪い合う。人間の一生とはそれだけのものだ。大小はあれ、その指向性だけは共通する事項だろう。  望みを叶えようとしない人間はいない。  無論、成否は別だ。人間は己が望みを叶える為に生き、その全てが、目的に届かず終わるのだから」 「物事には順序がある。願いを叶える為には相応の努力と蓄積が必要だ。そうして積み重ねる徒労を、我々は人生と呼ぶ。  ―――聖杯とは、単にその徒労を無くすだけのもの。  人間の生き方をより〈純化〉《シンプル》にしたものが聖杯戦争という殺し合いだ」 「つまり、何も特別な事などない。  七人のマスターは、己が人生を以って果たすべき長い過程を、聖杯という近道で短縮しようとしているだけの事。  それ以外は何も変わらん。他者の願いを自己の願いで塗り潰していくのが人の営みだ。  聖杯戦争もおまえの人生も変わらない。  おまえはおまえの望むまま、気負うことなく勝ち抜くがいい」 「………………」  神父は楽しげに語る。    崇高な願いも下劣な願いも変わらない。  願望の質など問わん。  ただ己が心のまま、他者の願いを蹂躙しろ――――    それが皮肉なのかどうかは分からない。  ただ、この神父は本気で、マスターとして中途半端な俺でも、戦う価値があるのだと告げていた。 「……らしくないな。アンタが人の心配をするなんて、どんな風の吹き回しだ」 「なに、しなくともよい話をしたからな。悩みを解きに来た者に、さらなる迷いを与えては神父失格だ」  ……まったく。  遠坂が聞いたら、アンタなんか初めっから神父失格よ、なんて言うに決まってる。 「余計なお世話だ。じゃあな、エセ神父」 「ああ。これに懲りなければまた来るがいい」  ふん、と鼻を鳴らして出口に向かう。  カンカンと乱暴に足音をたてて、今度こそ礼拝堂を後にした。  教会から出ると、外にはセイバーが待っていた。  ……なんというか、昼間もこんな感じだったな。  冬の寒空の下、セイバーは文句一つなく待っていてくれる。  マスターとサーヴァントの関係はそういうものかもしれないけど、セイバーは俺の身を案じて傍にいてくれる。  その気持ちには、やっぱり素直な心で返さなくてはならないと思うのだ。 「―――あの人、助かったよ。セイバーのおかげだ」 「礼には及びません。あの女性を助けようとしたのはシロウです。私は貴方の方針に従っただけですから」 「っ――――」  そういうセイバーの顔は、びっくりするほど優しかった。 「あ……いや、そんなコトないぞ。あの人を助けたのはセイバーだ。俺だけじゃきっと間に合わなかったし、それに――――」  セイバーはあの人を助ける為に、間桐臓硯を見逃したのだと思う。  あそこであの老人を止めていたら、間違いなく戦いになった。そうなればあの女性は確実に衰弱死していた。  セイバーはそれを考慮して、間桐臓硯を見逃したんだ。 「な、なんですかシロウ。その、理由もなく頬がゆるんでいるように見えますが」 「え? いや、理由はあるよ。セイバーが思っていた通りのやつで良かった。ありがとうなセイバー。俺の無茶な方針に従ってくれて、嬉しかった」 「な、何を言うのです。私は別に、シロウの指示が無茶だとは思ってなど――――」 「そうかぁ? さんざん甘いだの手緩いだの戦いをなんだと思っているのですかー、なんて言ってたじゃないか。  セイバー、努力はするけど状況次第で方針は変えるって顔、してたぞ」 「そ、そんな顔はしていませんっ! マスターの身に危険が迫った時は私の判断を優先する、と言っただけではないですかっ。それをそうかぁ? などとよく言えたものですね、シロウは」  むー、と不満そうにうなるセイバー。 「――――」  そんな姿も、さっきまでの姿と似ても似つかなくて頬が緩んでしまう。 「シロウ。どうやら貴方には一度、礼節とはどういうものか教えこまなければならないようですね」 「ああ、機会があったら頼む。けどセイバー。今はそれより、この戦いを終わらせよう」 「え、シロウ……?」 「俺はセイバーみたいに聖杯が必要って訳じゃなかった。  戦いを終わらせて、最後まで残れたら聖杯はセイバーに貰ってほしい、なんて思ってた。そんな半端な自分で、セイバーは本当にいいのかって迷いがあった」 「―――そうですか。では、今はどうなのです? 貴方は今夜、自分の意思での戦いを経験した。貴方の考えは変わりましたか?」 「いや、これが全然。まだ聖杯戦争には納得できてない。  ―――けど、必ず最後まで戦う。  俺には他の連中みたいに、聖杯で叶える願いはない。  ……けどさ、誰かを守る事、正義の味方になるコトが俺の目標だったんだ。  それが他の連中に劣っているとは思えない。なら相手が五百年だろうが一千年だろうが、向こうに回して戦わなくちゃいけないと思うんだ」 「―――なるほど。確かに、それは筋が通っている」 「では私も今一度誓いましょう。  貴方が私の主として相応しい限り、この身は貴方の剣となる。シロウがシロウである限り―――その期待を、決して裏切る事はありません」 「あ―――うん。精一杯努力する、セイバー」  まっすぐな微笑がくすぐったくて、つい視線を空に泳がす。  冬の星空は冷たく張り詰めて、だからこそ綺麗だった。               ―――決して、裏切ることはない。    地上とはかけ離れた場所、今夜の出来事とは切り離された夜空を見上げる。  この寒空の下、当然のように待っていてくれた彼女はそう言ってくれた。  ならこっちも精一杯胸を張ろう。  彼女が信じてくれた自分を最後まで張り通せるよう。    せめて自分が通った道を、悔いる事なく振り返れるように。 「――――さて」    軽く息を吸って、状況を把握する。  昨夜の事件―――夜の学校でランサーとアーチャーの戦いを目撃してからこっち、まともに考える時間がなかった為だ。 「……あ。そうか、ならあの時にいた人影って遠坂だったワケだ」  ぽん、と今更ながら気がつく。  その後、俺はランサーに胸を貫かれ、なんでか助かって家に戻り、再びランサーに襲われ――――   「セイバーに助けられて、マスターになった」    教会で聞いた事。  聖杯戦争という殺し合い。  勝者に与えられる、あらゆる望みを叶えるという聖杯。  そんな〈大事〉《おおごと》まったく実感が持てないが、俺はもう三度も敵に襲われている。  なら、いつまでも戸惑ってはいられない。  俺はこの戦いが放っておけないから戦うと口にした。  何も知らず、無関係に傷つく人間は出させない。  十年前のあの日から、正義の味方になろうと魔術を鍛えてきた。  その成果がこんな形で試されるとは思ってもいなかったが、決めたからには後には引かない。  迷いは捨てる。  考えてみれば、これはチャンスでもある。  ずっと目指していたもの、衛宮切嗣のように『誰かの為』になれる機会。 「………………」  ただ、僅かに引っかかるものがあるとすれば、                     ―――喜べ衛宮士郎。    その、願ってはならないサカシマな願望が、                   ―――君の望みは、ようやく叶う。    正義の味方として、ひどく歪なのではないかと。 「――――そんな事はない。聖杯戦争なんて、俺が望んだものじゃない」    ……迷うことはない。  あの日からの修練、十年間守り続けた誓いに間違いはない。  衛宮士郎は正義の味方に。  不当に命を奪われる“誰か”の為に魔術を鍛えてきたんだから。 「――――よし。まずはセイバーに話を聞かないと」  脳裏にこびりついている神父の言葉を振り払って、廊下へと足を向けた。    屋敷をまわる。  人がいそうなところ―――客間をすべて見てまわったが、セイバーの姿はなかった。 「おかしいな……あの格好なんだ、いればすぐに判りそうなもんだけど」    そうは言いつつも、屋敷のどこにもセイバーの鎧姿は見あたらなかった。  サーヴァントは霊体になれるらしいが、生憎俺にはそんな芸当はさせられない。  いや、そもそも―――― 「マスターだなんて言うけど、俺、あいつの事なんにも知らないんだよな」  セイバーが何者なのか、サーヴァントがどんな理屈で居るモノなのか、俺にはてんで判らない。  ただ判る事と言えば、それは。    どんなに優れた存在であろうと、戦えば傷を負い、斬られれば血を流すという事だった。 「――――あ」  静まりかえった道場にセイバーはいた。  その姿は昨日までの彼女とは違う。  板張りの床に正座したセイバーは、鎧を纏ってはいなかった。  セイバーは彼女らしい上品な洋服に着替えていて、無言で床に座していた。 「――――――――」  ……その姿に、言葉を忘れた。  凛と背筋を伸ばし、目を閉じて正座をするセイバーは、綺麗だった。  静寂に溶け込む彼女の有り様は、清らかな水を思わせる。 「――――――――」  それで、最後に残っていた棘が取れた。  サーヴァントだろうとなんだろうと、彼女は聖なるものだと思う。  なら―――この先、自分が間違った道を進む事はないだろう。 「セイバー」  声をかける。  セイバーは慌てた風もなく目蓋を開けて、ゆっくりと視線を返す。 「目が覚めたのですね、シロウ」  落ち着いた声。  染みいるように響く彼女の声は、ひどくこの道場にあっていた。 「―――ああ。ついさっき目が覚めた。セイバーはここで何を?」 「体を休めていました。私にはシロウの手当ては出来ませんから、今はせめて自身を万全にしておこうと思いまして」 「っ――――」  まっすぐにこっちを見ながら、淡々とセイバーは言う。  ……それは、その。  遠坂とはまた違った緊張があるというか。 「シロウ? どうしました、やはり体がまだ……?」 「っ――――い、いやこっちも問題ない……! かってに戸惑ってるだけだから気にしないでくれ……!」  ばっと一歩引いて、ぶるぶると首を振る。 「?」  不思議そうに首をかしげる彼女から目を逸らして、ともかくバクバクいってる心臓を落ち着かせた。 「……落ち着け、なに緊張してんだ俺は――――!」    ふう、と深呼吸を一度する。  ……けど、すぐには収まりそうにないというか、収まりなんかつかない気がする。   「……ああもう、なんだって着替えてるんだよあいつ……」  思わずごちる。  セイバーの服装はあまりにも現実感がありすぎて、否応なしに異性を意識してしまうのだ。  ……とにかく、彼女はとんでもない美人だ。  それは昨日で知っていたつもりだったが、今さらに思い知らされた。 「シロウ」  目があった途端、緊張する。  かといって、黙り込むために彼女を捜していた訳じゃない。彼女は苦手だが、だからといって黙っていたら一生このままだ。 「―――よし。  いいかなセイバー。こうやって落ち着いて話すのは初めてだけど―――」  意を決して話しかける。  ――――と。 「シロウ。話の前に、昨夜の件について言っておきたい事があります」    さっきまでの穏やかさが嘘みたいな不機嫌さで、俺の言葉を遮った。 「―――? いいけど、なんだよ話って」 「ですから昨夜の件です。  シロウは私のマスターでしょう。その貴方があのような行動をしては困る。戦闘は私の領分なのですから、シロウは自分の役割に徹してください。自分から無駄死にをされては、私でも守りようがない」  きっぱりと言うセイバー。  ―――それで、さっきまでの緊張はキレイさっぱりなくなった。 「な、なんだよそれ! あの時はああでもしなけりゃおまえが斬られてたじゃないか!」 「その時は私が死ぬだけでしょう。シロウが傷つく事ではなかった。  繰り返しますが、今後あのような行動はしないように。  マスターである貴方が私を庇う必要はありませんし、そんな理由もないでしょう」    淡々と語る少女。  その姿があんまりにも事務的で、 「な―――バカ言ってんな、女の子を助けるのに理由なんているもんか……!」  知らず、そんな条件反射をしてしまった。  怒鳴られて驚いたのか、セイバーは意表を突かれたように固まったあと。  まじまじと、なんともいえない威厳でこっちを見つめてくる。 「うっ……」  真面目に見つめられて、わずかに後退する。  なんか、自分がすごく場違いな台詞を言ったな、と思い知らされて恥ずかしくなってしまった。 「と、ともかくうちまで運んでくれたのは助かった。それに関しては礼を言う」  ありがとうな、とそっぽを向きながら礼を言った。  ……ただでさえ礼を言うのなんて気恥ずかしいのに、この状況じゃなおさら気まずい。  それでもやっぱり、助けられた礼はまっさきに口にしないと。 「それはどうも。サーヴァントがマスターを守護するのは当たり前ですが、感謝をされるのは嬉しい。シロウは礼儀正しいのですね」 「いや。別に礼儀正しくなんかないぞ、俺」  だから、今はそんな事よりはっきりさせなくちゃいけない事がある。  本当なら昨日、帰ってから訊くべきだった事。  彼女は本当に俺なんかのサーヴァントで、  本当に―――この戦いに参加するのかという事を。 「話を戻すぞセイバー。  ……あ、いや、改めて訊くけど、おまえの事はセイバーって呼んでいいのか?」 「はい。サーヴァントとして契約を交わした以上、私はシロウの剣です。その命に従い、敵を討ち、貴方を守る」  セイバーはわずかな躊躇いもなく口にする。  彼女の意思には疑問を挟む余地などない。 「俺の剣になる、か。それは聖杯戦争とやらに勝つためにか」 「? シロウはその為に私を呼び出したのではないのですか」 「違う。俺がおまえを呼び出したのはただの偶然だ。  セイバーも知ってる通り、俺は半人前の魔術師だからな。セイバーには悪いが、俺にはマスターとしての知識も力もない。  けど、戦うと決めたからには戦う。未熟なマスターだけど、セイバーはそれでいいのか」 「もちろん。私のマスターは貴方です、シロウ。  これはどうあっても変わらない。サーヴァントにマスターを選ぶ自由はないのですから」 「――――――――」  ……そうなのか。  なら俺は、自分に出来る範囲でセイバーに応えるしかない。 「……分かった。それじゃ俺はおまえのマスターでいいんだな、セイバー」 「ええ。ですがシロウ、私のマスターに敗北は許さない。  貴方に勝算がなければ私が作る。可能である全ての手段を用いて、貴方には聖杯を手に入れて貰います。  私たちサーヴァントは無償で貴方たちマスターに仕えるのではない。私たちも聖杯を欲するが故に、貴方たちに仕えるのです」 「――――え。ちょっと待った、聖杯が欲しいって、セイバーもそうなのか……!?」 「当然でしょう。もとより、霊体である聖杯に触れられるのは同じ霊格を持つサーヴァントだけです。  聖杯戦争に勝利したマスターは、サーヴァントを介して聖杯を手に入れる。その後、サーヴァントは見返りとして望みを叶える。  ―――それがサーヴァントとマスターの関係です、シロウ」 「――――――――」  ……そうか。  言われてみれば、“英霊”なんてとんでもない連中が人間の言うことなんか聞く筈がないんだ。  彼らにも目的があるから、交換条件としてマスターに仕えている。  ……そうなるとセイバーにも“叶えるべき願い”があるって事だ。  だからこそセイバーには迷いがない。    けど、それは。 「……待ったセイバー。  可能である全ての手段っと言ったな。それは勝つ為には手段を選ばないって事か。たとえば――――」    あの神父が言ったように。  マスターでもない無関係の人間を巻き込んで、十年前のあの日のような惨状を起こすような―――― 「シロウ、それは可能である手段ではありません。  私は私が許す行為しか出来ない。自分を裏切る事は、私には不可能です。剣を持たぬ人間に傷を負わせる事など、騎士の誓いに反します」 「ですが、マスターが命じるのであれば従うしかありません。その場合、私に踏みいる代償として、その刻印を一つ頂く事になりますが」  怒りさえ込もった声に圧倒される。 「――――――――」  それでも、嬉しくて胸をなで下ろした。  あまりの強さと迷いのなさに機械のようなイメージがあったけど、セイバーは冷酷な殺人者ではないと判って。 「―――ああ、そんな事は絶対にさせない。  セイバーの言う通り、俺たちは出来る範囲でなんとかするしかないからな。……本当にすまなかった。知らずに、おまえを侮辱しちまった」 「ぁ……いえ、私もマスターの意図が掴めずに早合点してしまいました。シロウは悪くないのですから、顔をあげてくれませんか……?」 「え? ああ、思わず謝ってた」  顔をあげる。 「――――――――」  セイバーは何がおかしかったのか、わずかに口元を緩めていた。 「?」  まあ、笑ってくれるのは嬉しいんで追及するのはやめておこう。 「それじゃあもう一つ訊いていいか。  マスターっていうのはサーヴァントを召喚する魔術師の事だよな。  それはいいんだけど、セイバーたちの事が俺にはまだよく判らない。セイバーとかランサーとか、どうも本名じゃないのは分かるんだが」 「ええ、私たちの呼び名は役割毎につけられた呼称にすぎません。……そうですね、この際ですから大まかに説明してしまいましょう」 「私たちサーヴァントは英霊です。  それぞれが“自分の生きた時代”で名を馳せたか、或いは人の身に余る偉業を成し遂げた者たち。  どのような手段であれ、一個人の力だけで神域まで上り詰めた存在です」    言われるまでもない。  英霊とは、生前に卓越した能力を持った英雄が死後に祭り上げられ、幽霊ではなく精霊の域に昇格したモノを言う。 「ですが、それは同時に短所でもあります。私たちは英霊であるが故に、その弱点を記録に残している。  名を明かす―――正体を明かすという事は、その弱点をさらけ出す事になります。  敵が下位の精霊ならば問題になりませんが、私たちはお互いが必殺の力を持つ英霊です。弱点を知られれば、まず間違いなくそこを突かれ、敗北する」 「……そうか。英雄ってのはたいてい、なんらかの苦手な相手があるもんな。だからセイバー、なんて呼び名で本当の名前を隠しているのか」 「はい。もっとも、私がセイバーと呼ばれるのはその為だけではありません。  聖杯に招かれたサーヴァントは七人いますが、その全てがそれぞれ“〈役割〉《クラス》”に応じて選ばれているのです」 「クラス……? その、〈剣士〉《セイバー》とか〈弓兵〉《アーチャー》とか?」 「そうです。もとより英霊をまるごと召喚する、という事自体が奇蹟に近い。それを七人分、というのは聖杯でも手に余る。  その解決の為、聖杯は予め七つの器を用意し、その器に適合する英霊だけを呼び寄せた。この世界に我々が存在できる依り代を用意したのです。  それが七つの役割、  セイバー、  ランサー、  アーチャー、  ライダー、  キャスター、  アサシン、  バーサーカー。 「聖杯は役割に該当する能力を持った英霊を、あらゆる時代から招き寄せる。  そうして〈役割〉《クラス》という殻を被ったモノが、サーヴァントと呼ばれるのです」 「……なるほど。じゃあセイバーは剣に優れた英霊だから、セイバーとして呼ばれたって事か」 「はい。属性を複数持つ英霊もいますが、こと剣に関しては私の右に出る者はいない、と自負しています」 「もっとも、それがセイバーの欠点でもある。  私は魔術師ではありませんから、マスターの剣となって敵を討つ事しかできない」 「権謀術数には向かないって事だな。いや、それは欠点じゃないと思うけど。セイバーはあんなに強いんだから、もうそれだけで十分だろ」 「シロウ、戦闘で強いだけではこの戦いは勝ち抜けません。  例えばの話ですが、敵が自身より白兵戦で優れている場合、貴方ならどうしますか?」 「え? いや、そうだな……正面から戦っても勝てないって判ってるなら、戦わずになんとかするしかな――――」    そこまで口にして、そうか、と納得した。  相手が強いのなら、まっとうな戦いなんて仕掛けない。  なにも剣でうち倒すだけが戦いじゃないんだ。  剣で敵わない相手なら、剣以外で敵の息の根を断つだけの話じゃないか。 「そういう事です。白兵戦で優れている、と相手に知られた場合、相手はまず白兵戦など仕掛けてこないでしょう。……そういった意味で言うと、能力に劣ったサーヴァントはあらゆる手を尽くしてくる」 「アサシンのサーヴァントは能力こそ低いですが気配を隠すという能力がありますし、キャスターのサーヴァントはこの時代にない魔術に精通している。  単純な戦力差だけで楽観はできません。加えて、私たちには“宝具”がある。どのようなサーヴァントであれ、英霊である以上は必殺の機会を持っているのです」 「宝具――――?」    それも聞き慣れない単語だ。  いやまあ、ニュアンス的になんとなく意味は判るんだけど。 「宝具とは、サーヴァントが持つ特別な武具の事です。  ランサーの槍や、アーチャーの弓、それに私の剣などが該当します。  英雄とは、それ単体で英雄とは呼ばれません。彼らはシンボルとなる武具を持つが故に、〈英雄〉《ヒーロー》として特化している」 「英雄とその武装は一つなのです。故に、英霊となった者たちはそれぞれが強力な武具を携えています。  それが“宝具”――――サーヴァントたちの切り札であり、私たちが最も警戒すべき物です」 「――――――――」  ……宝具とは、その英霊が生前に持っていた武具だとセイバーは言う。    あの青い騎士の槍を思い出す。  大気中の魔力を吸い上げ、あり得ない軌跡でセイバーの胸を貫いたあの槍。  あれは、確かに人の手におえる物ではない。  あの槍自体も強い呪いを帯びていたが、あの時ランサーが発した言葉にも桁違いの魔力を感じた。    なら、もしかしてそれは。 「セイバー。宝具ってのは魔術なのか?  たしかにランサーの槍は曰くありげな槍だったけど、それ自体は槍っていう領域から出てなかっただろ。  けどあいつの言葉で、あの槍は武器の領域から逸脱した。それって魔術の類じゃないのか?」 「ええ、確かに宝具は魔術に近い。  たとえばランサーの槍です。彼の槍はそれ自体が宝具ではありますが、その真価を発揮するのは魔力を注ぎ込み、その真名を口にした時だけです」 「宝具とは、ある意味カタチになった神秘ですから。  魔術の発現に詠唱が必要なように、宝具の発動にも詠唱―――〈真名〉《しんめい》による覚醒が必要になる。  ですが、これにも危険はあります。宝具の真名を口にすれば、そのサーヴァントの正体が判ってしまう」 「……そっか。英雄と武器はセットだもんな。持ってる武器の名前が判れば、おのずと持ち主の正体も知れる」  こくん、と無言で頷くセイバー。    だからこそ宝具は切り札なんだ。  正体を明かすかわりに、避けきれぬ必殺の一撃を炸裂させる。    だがそれが不発に終わった時――――そのサーヴァントは、自らの欠点をもさらけ出す事になる。 「それじゃあセイバー。おまえの宝具は、あの視えない剣なのか?」 「……そうですね。ですが、あれはまだ正体を明かしていません。今の状態で私の真名を知るサーヴァントはいないでしょう」  言って、一瞬だけセイバーは気まずそうに目を伏せた。 「シロウ。その件についてお願いがあります」 「え? お願いって、どんな」 「私の真名の事です。本来、サーヴァントはマスターにのみ真名を明かし、今後の対策を練ります。  ですがシロウは魔術師として未熟です。  優れた魔術師ならば、シロウの思考を読む事も可能でしょう。ですから――――」 「ああ、名前は明かせないって事か。……そうだな、たしかにその通りだ。催眠とか暗示とか、いないとは思うけど他のマスターに魔眼持ちがいたらベラベラ秘密を喋りかねないし。  ―――よし、そうしよう。セイバーの“宝具”の使いどころは、セイバー自身の判断に任せる」 「ぁ――――その、本当に、そんなにあっさりと?」 「あっさりじゃないぞ。ちゃんと考えて納得したんだ。  考えた末の合意だから、気にすんな」 「――――――――」    ……さて。  だいたいの話は判ったものの、状況は未だに掴めない。  考えてみればおかしな話だ。  戦うと決めたものの、判っている相手は遠坂だけで、俺はあいつとドンパチやる気はまったくない。    ……ああいや、向こうはやる気満々だから、そうも言ってはいられないだろうが。 「なあセイバー。マスターやサーヴァントって何か目印はないのか? このままじゃどうも勝手が分からないんだが」 「いいえ。残念ながら、明確な判別方法はありません。  ただ、近くにいるのならサーヴァントはサーヴァントの気配を察知できます。それが実体化しているのなら尚更です。サーヴァントはそれ自体が強力な魔力ですから。  シロウもバーサーカーの気配は感じ取れたでしょう?」 「う―――それはそうだけどな。襲われて初めて判る、なんていうのはまずいだろう。せめて近づかれる前に気づかないと対応できない」 「では、マスターの気配を辿るのはどうですか。マスターとて魔術師です。魔術を生業とする以上、魔力は必ず漏れています。それを探れば、この町にいるマスターは特定できるのでは」 「……悪い。生憎、そんな器用な真似はできない」  そもそも同じ学校にいた遠坂の正体にも気づかなかったんだぞ、俺は。  二年間も同じ建物にいて、あまつさえ何度も見かけているっていうのにだ。 「――――参ったな。これじゃ確かに半人前ってバカにされるワケだ。マスターとしての証も令呪だけだし、前途は多難か」  はあ、と肩で息をつく。    ―――と。 「シロウ。少し目を閉じて貰えますか」  真剣な面もちで、セイバーはそんな事を言ってきた。 「……? 目を閉じるって、なんで」 「貴方がマスターだと証明する為です。いいですから、目を閉じて呼吸を整えてください」 「…………………………」  ……目を閉じる。  ついで、額に触れる微かな感触。    ――――って、妙にチクチクするけど、これってまさか刃物の先か――――!? 「――――セイバー? ちょっと待て、なんかヘンな事してないか、おまえ?」 「……。マスター、黙って私の指先に意識を集中してください。貴方も魔術師なら、それでこちらの魔力を感じ取れるでしょう」 「――――む」  そうか、触れてるのはセイバーの指か。  それでは、と気を取り直して意識を静める。    ――――と。  なんだ、これ。 「セイバー、今の、なんだ?」 「なんだ、ではありません。貴方と私は契約によって繋がっているのですから、私の状態は把握できて当然です」 「――――把握って、今のが?」 「どのようなカタチで把握したのかは知りません。サーヴァントの能力を測るのは、あくまでシロウが見る基準です。単純に色で識別するマスターもいれば、獣に喩えて見分けるマスターもいます」 「つまり、個人差はあれど本人にとって最も判別しやすい捉え方をする、という事です。  これはマスターとしての基本ですから、今後は頻繁に確かめてください。私と同様、一度見た相手ならばその詳細が理解出来ている筈ですから」  ……そうか。  いきなりで驚かされたが、これなら少しはマスターとして振る舞えるかもしれない。                  それは、五年前の冬の話。    月の綺麗な夜だった。  自分は何をするでもなく、父である衛宮切嗣と月見をしている。  冬だというのに、気温はそう低くはなかった。  縁側はわずかに肌寒いだけで、月を肴にするにはいい夜だった。    この頃、切嗣は外出が少なくなっていた。  あまり外に出ず、家にこもってのんびりとしている事が多くなった。    ……今でも、思い出せば後悔する。  それが死期を悟った動物に似ていたのだと、どうして気が付かなかったのか。   「子供の頃、僕は正義の味方に憧れてた」  ふと。  自分から見たら正義の味方そのものの父は、懐かしむように、そんな事を呟いた。   「なんだよそれ。憧れてたって、諦めたのかよ」  むっとして言い返す。  切嗣はすまなそうに笑って、遠い月を仰いだ。   「うん、残念ながらね。ヒーローは期間限定で、オトナになると名乗るのが難しくなるんだ。そんなコト、もっと早くに気が付けば良かった」  言われて納得した。  なんでそうなのかは分からなかったが、切嗣の言うことだから間違いないと思ったのだ。   「そっか。それじゃしょうがないな」 「そうだね。本当に、しょうがない」  相づちをうつ切嗣。  だから当然、俺の台詞なんて決まっていた。 「うん、しょうがないから俺が代わりになってやるよ。  爺さんはオトナだからもう無理だけど、俺なら大丈夫だろ。まかせろって、爺さんの夢は」            “――――俺が、ちゃんと形にしてやるから”    そう言い切る前に、父は〈微笑〉《わら》った。  続きなんて聞くまでもないっていう顔だった。  衛宮切嗣はそうか、と長く息を吸って、   「ああ――――安心した」    静かに目蓋を閉じて、その人生を終えていた。    それが、朝になれば目覚めるような穏やかさだったから、幼い自分は騒ぎ立てなかった。  死というものを見慣れていた事もあったのだろう。  何をするでもなく、冬の月と、長い眠りに入った、父親だった人を見上げていた。    庭には虫の声もなく、あたりは静かだった。  明るい〈夜〉《やみ》の中、両目だけが熱かったのを覚えている。  泣き声もあげず、悲しいと思う事もない。  月が落ちるまで、ただ、涙だけが止まらなかった。    それが五年前の冬の話。  むこう十年分ぐらい泣いたおかげか、その後はサッパリしたものだった。    藤ねえの親父さんに葬儀の段取りをしてもらって、衛宮の屋敷に一人で住むようになった。  切嗣がいなくなっても変わらない。  衛宮士郎は〈切嗣〉《オヤジ》のような正義の味方になるのだから、のんびりしている暇などありはしない。    ――――そう。  口にはしなかったけど、ちゃんと覚えていたんだ。  十年前、火事場に残されていた自分を救い出してくれた男の姿を。  意識もなく、全身に火傷を負って死にかけていた子供を抱き上げて、目に涙をためるぐらい喜んで、外に連れ出してくれた。    その時から、彼は俺の憧れになった。  誰も助けてくれなかった。  誰も助けてやれなかった。  その中でただ一人助けられた自分と、ただ一人助けてくれた人がいた。    ―――だから、そういう人間になろうと思ったのだ。    彼のように誰かを助けて、誰も死なせないようにする正義の味方に。  その彼こそが“そういうモノ”に成りたかったと遺して、自分の前で穏やかに幕を閉じた。    子が父の跡を継ぐのは当然のこと。  衛宮士郎は正義の味方になって、かつての自分のような誰かを助けなくてはいけない。    幼い頃にそう誓った。  誰よりも憧れたあの男の代わりに、彼の夢を果たすのだと。    ……だが、正直よく分からない。  切嗣の言っていた正義の味方ってどんなモノなのかとか、早く一人前になる方法とか、切嗣の口癖だったみんなが幸せでいられればいい、なんて魔法みたいな夢の実現方法とか、それと、マスターなんてモノになっちまって、一緒に付いてきた金髪の女の子とか頭んなかがゴチャゴチャだ、ホント―――― 「……………………っ」  目を覚ますと見慣れた部屋にいた。 「……う……口ん中、まずい……」  濁った血の味がする。  口内に血が溜まっていたのか、呼吸をするだけでどろっとした空気が流れ込んできた。 「――――」  なんでこんな事になっているのか、いまいち不明。  ただ猛烈な吐き気がするんで、ともかく洗面所に行って顔を洗いたかった。 「――――よっと」  体を起こす。  目眩がした。  思わず倒れそうになって、なんとか壁に手を突く。 「……う」  動くと吐き気が増す。  ……いや、吐き気というよりは苦痛だ。  体は重いし、動く度に腹ん中がぐるんぐるんと回るよう。きっと胃に焼けた鉛を流し込んだら、こんな気分になるのではあるまいか。   「……あつ……ヘンな想像したら熱でてきた」    額に滲んだ汗を拭って、よたよたと壁づたいに部屋を出る。   「……よし、少しは落ち着いた」  顔を洗って、ついでに汗ばんでいた体を拭く。 「……?」  なぜか腹には包帯が巻かれていた。  思い当たる節がないので、とりあえず保留にしておく。 「……ハラ減ったな。なんか作り置きでもあったっけ……」  胃の中は相変わらずぐるんぐるんに気持ち悪いのに、体は栄養を欲している。 「くっ……」  ええい、と気合いをいれて壁づたいに歩き出す。  目眩は相変わらず起きるし、なにより体が鈍い。 「いた―――いたたた――――」  情けない声を出しながら前進する。  ……ほんと、寝る前に何をしたんだろう、俺。  こんな、体中が筋肉痛になるような鍛錬なんてした覚えはないんだけどな。  居間に到着。  桜も藤ねえも今日は学校なのだろう。  居間には朝食の支度もなければ、騒がしい藤ねえの暴れっぷりもない。  静かな居間は、いつもの日曜日といった風景―――   「おはよう。勝手にあがらせてもらってるわ、衛宮くん」    ―――なんかじゃねえ。 「な、え――――!?」  座布団に座っているのは遠坂凛だ。  その落ち着きようといったら、まるでこっちがお客さまなのでは、と勘違いさせられるほど。 「……………」  なんと返答していいか分からず、とりあえず座布団に座る。  で、深呼吸をして一言。 「遠坂、おまえどうして」   「待った。その前に謝ってくれない? 昨夜の一件についての謝罪を聞かないと落ち着けないわ」   “うちに居るんでしょうか?”なんて言う暇もない。  遠坂はいかにも怒ってます、という視線でこっちを睨んでいる。  どうも昨夜の一件とやらに腹を立てているらしいが、昨夜の一件って一体―――― 「――――待て」  思い出した。  そうだ、何をのんびり朝の空気に浸っているのか。  俺はセイバーを助けようとして、それで―――バーサーカーに、腹を斬り捨てられたのだ。 「……う」  ……吐き気が戻ってくる。  あの、体がぽっかりとなくなった感覚を思い出して寒気がした。  って、おかしいぞこれ。  俺、ほぼ即死だった筈じゃないか? 「―――ヘンだ。なんだって生きてるんだ、俺」 「思い出した? 昨夜、自分がどんなバカをしでかしたかって。なら少しは反省しなさい」  ふん、と鼻を鳴らして非難してくる遠坂。  ……むっ、なんかカチンときた。  遠坂がうちにいる不思議さで固まっていた頭に、ようやくエンジンがかかる。 「なに言ってんだ、あの時はあれ以外する事なんてなかっただろっ! あ……いや、そりゃあ結果だけ見ればバカだったけど、本当はもっと上手くやるつもりだったんだ。  だから、アレは間違いなんかじゃない」  バカじゃないぞ、と視線で抗議する。 「……む」  な、なんだよ。  はあ、なんて、これ見よがしに疲れた溜息なんてこぼしやがって。 「マスターが死んだらサーヴァントは消えるって言ったでしょう? だっていうのにサーヴァントを庇うなんてどうかしてるわ」 「いい、貴方が死んでしまえばセイバーだって消えてしまう。セイバーを救いたかったのなら、もっと安全な場所からできる手段を考えなさい。  ……まったく、身を挺してサーヴァントを守る、なんて行為は無駄以外の何物でもないって解ってるの?」 「庇った訳じゃない。助けようとしたらああなっちまっただけだ。俺だってあんな目にあうなんて思わなかった」  あんな怪物に近寄れば死ぬだろうな、ぐらいは考えてはいたが、それはそれだ。 「……そう。勘違いしてるみたいね、貴方」  そんなこっちの考えを見抜いたのか、遠坂はますます不機嫌になっていく。 「あのね衛宮くん。きっちりと言っておくけど、教会まで連れて行ったのは貴方に勝たせる為じゃないわ。  あれはね、何も知らない貴方が一人でも生き残れるようにって考えた結果なの。どうも、そのあたりを解ってなかったみたいね」 「俺が生き残れるように……?」 「そうよ。負ける事がそのまま死に繋がるって知れば、そう簡単に博打は打たなくなる。衛宮くん、こういう状況でも一人で夜出歩きそうだから。  脅しをかけておけば火中の栗を拾うこともなし、上手くいけば最後までやり過ごせるかもって思ったの」 「そうか。それは気づかなかった」  だからそれに気が付かず、自分からバーサーカーに向かっていった俺に文句を言っていたのか。 「……? けどどうして遠坂が怒るんだよ。俺がヘマをやらかしたのは遠坂には関係ないだろ」 「関係あるわよ、このわたしを一晩も心配させたんだから!」  ああもう、と癇癪を起こす遠坂。  ……けど、そうか。  心配してくれたのは素直に嬉しい。  この分からすると、手当てをしてくれたのも遠坂のようだ。 「そうか。遠坂には世話になったんだな。ありがとう」  感謝と謝罪をこめて頭をさげる。 「――――」 「ふん、分かればいいのよ。これに懲りたら、次はもっと頭のいい行動をしてよね」  ぷい、と視線を逸らす遠坂。  仕草そのものは刺々しいままだが、なんとなく機嫌は良くなったような気がする。 「じゃあこれで昨日の事はおしまいね。  本題に入るけど、真面目な話と昨日の話、どっちにする?」 「?」  遠坂は当たり前のように話をふってくる。  そのスッパリさ加減に面食らったが、考えてみれば話があるから遠坂はここにいるのだ。  衛宮士郎に用がなければ、遠坂凛はとっくに自分の棲家に帰っているだろう。  敵である遠坂が、敵の陣地に居座ってまで話したがる本題とは何なのか。  その思惑にも興味はあるし、昨日あれからどうなったかも知りたい。  聞かない訳にもいかないだろうし、ここは―――― 「まずは昨日の話からのがいい」 「そうね。まずは状況を知るのが先。なんだ、まともに頭が働くじゃない、貴方」  満足げに微笑んで、遠坂は手短に昨夜の事を説明した。  なんでも俺が気を失った後、バーサーカーは立ち去ってしまったらしい。  その後、よく見れば俺の体は勝手に治りはじめ、十分もしたら外見は元通りになった。  傷は治ったものの意識が戻らない俺をここまで運んで、あとは今に至るという訳だとか。 「ここで重要なのは、貴方は貴方一人で生ききったっていう事実よ。確かにわたしは手助けしたけど、あの傷を完治させたのは貴方自身の力だった。そこ、勘違いしないでよね」 「話を聞くとそうみたいだけど。なんだ、遠坂が治してくれたんじゃないのか?」 「まさか。死にかけてる人間を蘇生させる、なんて芸当は、もうわたしには出来ない。衛宮士郎は自分でぶっ飛んだ中身をどうにかしたのよ」 「――――む」  そんな事を言われてもどうしろと。  確かに俺の腹は元通りになっているけど、正直遠坂の話には半信半疑だ。  俺には蘇生はおろか治療の魔術さえ使えないんだから。 「そうなると原因はサーヴァントね。  貴方のサーヴァントはよっぽど強力なのか、それとも召喚の時に何か手違いが生じたのか。……ま、両方だと思うけど、何らかのラインが繋がったんでしょうね」 「ライン? ラインって、使い魔と魔術師を結ぶ因果線の事?」 「あら、ちゃんと使い魔の知識はあるじゃない。  なら話は早いわ。ようするに衛宮くんとセイバーの関係は、普通の主人と使い魔の関係じゃないってコト」 「見たところセイバーには自然治癒の力もあるみたいだから、それが貴方に流れてるんじゃないかな。  普通は魔術師の能力が使い魔に付与されるんだけど、貴方の場合は使い魔の特殊能力が主人を助けてるってワケ」 「……む。簡単に言って、川の水が下から上に流れているようなもんか?」 「上手い喩えね。本来ならあり得ないだろうけど、セイバーの魔力ってのは川の流れを変えるほど膨大なんでしょう。そうでなければあの体格でバーサーカーとまともに打ち合うなんて考えられない」 「本来ならあり得ない……じゃあ遠坂とアーチャーは普通の魔術師と使い魔の関係なのか」 「そうよ。人の言うことぜんっぜん聞かないヤツだけど、一応そういう関係」 「マスターとサーヴァントの繋がりなんて、ガソリンとエンジンみたいなものだもの。こっちが魔力を提供して、あっちがそれを食べるだけ。  ……まあ中には肉体面でもサーヴァントと共融して擬似的な“不死”を得たマスターもいたそうよ。サーヴァントが死なない限り自分も死なない、なんていうヤツなんだけど……衛宮くん、人の話聞いてる?」 「え……? ああ、聞いてる。  じゃあ遠坂、俺の体って多少の傷はほっといても治るって事か?」 「貴方のサーヴァントの魔力を消費してね。理屈は解らないけど、原因がセイバーの実体化にある事は間違いないわ。貴方が自然治癒の呪いなんて修得している筈はないから」 「当たり前だ。そんな難しいこと、親父から教えて貰った事ないからな」 「そうじゃなくて、そうだったらわたしが悩む必要はなかったっていう事よ。いいわ、貴方には関係のない話だから」 「……?」  なんだろう。  遠坂の言葉は婉曲で分かりづらいと思う。 「まあいいわ。とにかくあまり無茶はしない事。  今回は助かったからいいけど、次にあんな傷を負ったらまず助からない筈だから。多少の傷なら治る、なんていう甘い考えは捨てた方がいいでしょうね」 「分かってる。俺がかってにケガして、それでセイバーから何かを貰ってる、なんていうのは申し訳ない」 「バカね、そんな理由じゃないわよ。断言してもいいけど、貴方の傷を治すと減るのはセイバーの魔力だけじゃない。  ―――貴方、それ絶対なんか使ってるわ。  寿命とか勝負運とか預金残高とか、ともかく何かが減りまくってるに違いないんだから」  ふん、とまたも鼻を鳴らす遠坂。  それには確かに同感なのだが。 「遠坂。預金残高は関係ないのでは」 「関係あるわよ! 魔術ってのは金食い虫なんだから、使ってればどんどんどんどんお金は減っていくものなの!  そうでなければ許さないんだから、とくにわたしが!」  ガアー! と私怨の炎を噴き上げる遠坂凛。  不思議だ。  話せば話すほど、こっちの遠坂が地で、学校での遠坂がよそ行きだと判ってしまう。  ……ああ、いやまあ、そんなのは昨日の段階で判りきっていた事だったか。 「……まあ、お金の話は置いとくとして。  次は真面目な話だけど、いいかしら衛宮くん」 「遠坂がここに残った本題ってヤツだろ。いいよ、聞こう」 「じゃあ率直に訊くけど。衛宮くん、貴方これからどうするつもり?」  本当に率直に、遠坂は一番訊いてほしくないコトを訊いてくる。  ……いや、それは違うか。  訊いてほしくないんじゃなくて、ただ考えがおよばないだけ。  これからどうするかなんて、それこそこっちが訊きたい問題だ。 「……正直、判らない。聖杯を競い合うって言うけど、魔術師同士の戦いなんてした事がない。  第一、俺は――――」    殺し合いは出来れば避けたいし、何より――― 「聖杯なんていう得体の知らないモノに興味はないんだ。  欲しくないモノの為に命を張るのは、どうかと思う」 「言うと思った。貴方ね、そんなこと言ったらサーヴァントに殺されるわよ」 「な……殺されるって、どうして!?」 「サーヴァントの目的も聖杯だから。  彼等は聖杯を手に入れる、という条件だからこそ〈人間〉《マスター》の召喚に応じているのよ」 「サーヴァントにとって最も重要なのは聖杯なの。  彼らは聖杯を手に入れる可能性があるからマスターに従い、時にマスターの為に命を落とす。  だっていうのに聖杯なんていらないよ、なんて言ってみなさい。裏切り者、と斬り殺されても文句は言えないでしょ」 「……なんだそれ。おかしいじゃないか、サーヴァントっていうのはマスターが呼び出した者なんだろ。  なら――――」 「サーヴァントが無償で人間に従うなんて思ってたの?  聖杯は手に入れた者の望みを叶える。それはマスターの守護者であるサーヴァントも例外じゃない。  サーヴァントたちにもね、それぞれ何らかの欲望があるのよ。だからこそ彼等は本来有り得ない召喚に応じている」 「聖杯を手に入れる為にマスターがサーヴァントを呼びだす、じゃない。  聖杯が手に入るからサーヴァントはマスターの呼びだしに応じるのよ」 「――――――――」    サーヴァントにも欲望がある……?  ならあのセイバーも、聖杯を手に入れて叶えようとする願いがある、という事なのか。 「だからサーヴァントはマスターが命令しなくとも他のマスターを消しにかかる。聖杯を手に入れるのは一人だけ。自分のマスター以外に聖杯が渡るのは彼らだって承知できないのよ。  マスターと違って、サーヴァントには令呪を奪う、なんてコトはできない。彼らが他のマスターを無力化するには殺す以外に方法がない」 「だからね、たとえマスター本人に戦う意思がないとしても戦いは避けられないのよ。  サーヴァントに襲われたマスターは、自分のサーヴァントでこれを撃退する。それが聖杯戦争なんだって、綺礼から嫌っていうほど聞かされたでしょう?」 「――――ああ。それは昨日の夜教えられた。  けど――――」  それはつまり、サーヴァントとサーヴァントを殺し合わせる、という事だ。  マスター同士で和解して、お互いに聖杯を諦めれば話は済むと思っていたけれど、サーヴァントが聖杯を求めて召喚に応じて現れたモノで、けして聖杯を諦めないのならば、それじゃあ結局、サーヴァント同士の戦いは避けられない。  ……なら。  自分を守るために戦い抜いてくれたあの少女も、聖杯を巡って争い、殺し、殺される立場だというのか。 「……なんてことだ。英霊だかなんだか知らないけど、セイバーは人間だ。昨日だってあんなに血を流してた」 「あ、その点は安心して。サーヴァントに生死はないから。サーヴァントは絶命しても本来の場所に帰るだけだもの。英霊っていうのはもう死んでも死なない現象だからね。戦いに敗れて殺されるのは、当事者であるマスターだけよ」 「いや、だから。それは」  たとえ仮初めの死だとしても。  この世界で、人の姿をしたモノが息絶えるという事に変わりはない。 「なに、人殺しだっていうの? 魔術師のクセにまだそんな正義感振り回してるわけ、貴方?」 「――――――――」  遠坂の言うことはもっともだ。  魔術師である以上、死は身近に存在する。  そんな事はとっくに覚悟しているし、理解している。  それでも俺は―――人の生き死にに善悪を計れるほど強くはない。 「―――当然だろう。相手を殺すための戦いなんて、俺は付き合わない」 「へえ。それじゃあみすみす殺されるのを待つだけなんだ。で、勝ちを他のマスターに譲るのね」 「そうじゃない。要は最後まで残っていればいいんだろう。自分から殺し合いをする気はないけど、身を守るための戦いなら容赦はしないさ。  ……人を殺しに来る相手なら、逆に殺されても文句は言えないだろ」 「ふーん、受けに回るんだ。それじゃあ他のマスターが何をしようが傍観するのね。例えば昨日のアイツが暴れ回って、町の人間を皆殺しにしても無視するってワケ」  昨日のアイツ……?  それは、あの人とも思えぬ異形の鬼の事か。 「――――――――」  一撃で家の一軒や二軒、容易く崩す怪力。  ……たしかにアレがその気になれば、こんな小さな町なんて一晩で壊滅する。  くわえて、なにより厄介なのはサーヴァントというのは基本的に霊体だという事だ。  霊感のない人間には姿さえ観測できない。  にも関わらず実体を持つかのように現世に干渉できるという時点で、サーヴァントは最強の兵器と言えるだろう。  なにしろ今の科学では、霊体に効果のある兵器など存在しない。  こちらの攻撃は通じず、あちらの攻撃は通じる。  これではワンサイドゲームどころの話じゃない。  サーヴァントによる殺害は、一般人から見れば自然災害のようなものなのだ。  姿のない殺戮者に襲われた人間の死は、事故死か自殺としか扱われまい。 「なんだよそれ。サーヴァント―――いや、マスターとサーヴァントは、他のマスターしか襲わないんじゃないのか。町の人たちは無関係だろう」 「ええ、そうだったらどんなに平和な事か。けど、それなら見届け役の綺礼なんていらないでしょ?」 「一つ言い忘れていたけど、サーヴァントっていうのは霊なの。彼等はもう完成したものだから、今以上の成長はない。  けど燃料である魔力は別よ。  蓄えた魔力が多ければ多いほど、サーヴァントは生前の特殊能力を自由に行使できるわ。  そのあたりはわたしたち魔術師と一緒なんだけど……貴方、この意味解る?」 「解る。魔術を連発できるって事だろ」  魔力というのは弾丸に籠める火薬で、魔術師というのは銃と見ればいい。  銃の種類は短銃、ライフル銃、マシンガン、ショットガンと、魔術師ごとに性能が異なる。  その例で言えば、サーヴァントって連中は銃ではなく大砲だ。  火薬を大量に消費することで、巨大な弾を撃ち放つ。 「そうよ。けどサーヴァント達は私たちみたいに自然から〈魔力〉《マナ》を提供されてる訳じゃない。基本的に、彼らは自分の中だけの魔力で活動する。  それを補充するのがわたしたちマスターで、サーヴァントは自分の魔力プラス、主であるマスターの魔力分しか生前の力を発揮できないの」 「けど、それだと貴方みたいに半人前のマスターじゃ優れたマスターには敵わないって事になるでしょ?  その抜け道っていうか、当たり前って言えば当たり前の方法なんだけれど、サーヴァントは他から魔力を補充できる。  サーヴァントは霊体だから。同じモノを食べてしまえば栄養はとれるってこと」 「――――む?」    同じモノを食べれば栄養になる……?   「同じモノって、霊体のコトか? けどなんの霊を食べるっていうんだよ」 「簡単でしょ。自然霊は自然そのものから力を汲み取る。  なら人間霊であるサーヴァントは、一体何から力を汲み取ると思う?」 「――――あ」  簡単な話だ。  俺たちが肉を食べるように、人の霊である彼らはつまり―――― 「ご名答。まあ魔力の補充なんて、聖杯に補助されたマスターからの提供だけで、大抵は事足りる。  けど一人より大勢の方が大量摂取できるのは当然でしょ?  はっきり言ってしまえばね、実力のないマスターは、サーヴァントに人を食わせるのよ」 「――――」 「サーヴァントは人間の原感情や魂を魔力に変換する。  自分のサーヴァントを強くしたいのならそれが一番効率がいい。人間を殺してサーヴァントへの生贄にするマスターは、けっして少なくないわ」 「生贄にするって……それじゃ手段を選ばないヤツがマスターなら、サーヴァントを強くする為に人を殺しまくるってコトなのか」 「そうね。けど頭のいいヤツならそんな無駄な事はしないんじゃないかな」 「いい、サーヴァントがいくら強力でも、魔力の器そのものには限界がある。能力値以上の貯蔵はできないんだから、殺して回るにしても限度があるわ。  それにあからさまに殺人を犯せば協会が黙ってないし、なによりその死因からサーヴァントの能力と正体が、他のマスターたちにバレかねない。もちろんマスター自身の正体もね。  聖杯戦争は自分の正体を隠していた方が圧倒的に有利だから、普通のマスターならサーヴァントを出し惜しみする筈よ」  ……そうか。  確かに自分がマスターである事を知られなければ、他のマスターに襲われる事はない。  逆に誰がマスターかを知っていれば、確実に奇襲ができる。  その理論でいけば、サーヴァントに人を襲わせて自分たちの正体を暴露させてしまう、なんてヤツはそう出てこない事になる――― 「……良かった。なら問題はないじゃないか。マスターが命令しなければ、サーヴァントは無差別に人を襲わないんだから」 「でしょうね。仮にも英雄だもの、自分から人を殺してまわる奴は、そもそも英雄だなんて呼ばれないだろうけど―――ま、断言はできないか。  暴虐者だからこそ英雄になった例なんて幾らでもあるんだし」 「――――――」  さらりと不吉なコトを言う遠坂。  それが嫌味でも皮肉でもなく本心っぽいあたり、かすかな性格の歪みを表しているのではなかろーか。 「話を戻しましょうか。で、どうするの。  人殺しはしないっていう衛宮くんは、他のマスターが何をしようが傍観するんでしたっけ?」  ……前言撤回。  こいつ、かすかじゃなくてはっきりと性格が歪曲してる。ここまで人を追いつめておいて、笑顔でそんなコトを言うあたり、とんでもなくいじめっこだ。 「そうなったら止めるだけだ。サーヴァントさえ倒せば、マスターだって大人しくなるんだろう」 「呆れた。自分からマスターは倒さない、けど他のマスターが悪事を働いたら倒すっていうんだ。  衛宮くん、自分が矛盾してるって解ってる?」 「ああ、都合がいいのは分かってる。けど、それ以外の方針は考えつかない。こればっかりはどんなに言われても変えないからな」 「ふーん。問題点が一つあるけど、言っていいかしら」    企んでる。あの顔は絶対なにか企んでる。  が、男が断言した以上、聞かない訳にもいかないのだ。 「い、いいけど、なんだよ」 「昨日のマスターを覚えてる? 衛宮くんとわたしを簡単に殺せ、とか言ってた子だけど」 「――――」  忘れるもんか。帰り道、問答無用で襲いかかってきた相手なんだから。 「あの子、必ずわたしたちを殺しに来る。それは衛宮くんにも判ってると思うけど」 「――――」  そう、か。  あの娘だってマスターなんだ。  俺と遠坂がマスターだって知ってるんだから、いつかは襲いかかってくるだろう。  今日か明日かは判らないが、それが死刑宣告である事は間違いない。  少なくとも、俺ではあんな怪物を止められない。 「あの子のサーヴァント、バーサーカーは桁違いよ。  マスターとして未熟な貴方にアレは撃退できない。自分からは何もしないで身を守るって言うけど、貴方は身を守る事さえ出来ないわ」 「―――悪かったな。けど、そういう遠坂だってアイツには勝てないんじゃないのか」 「正面からじゃ勝てないでしょうね。白兵戦ならアレは最強のサーヴァントよ。きっと歴代のサーヴァントの中でも、アレと並ぶヤツはいないと思う。わたしもバーサーカーに襲われたら逃げ延びる手段はないわ」 「……それは俺だって同じだ。今度襲われたら、きっと次はないと思う」  無意識に腹に手を当てた。  今は塞がっている腹の傷。  いや、傷なんて言えるレベルじゃなかった、即死に近い大剣の跡。  アレをまた味わうかと思うと、逃れようのない吐き気が戻ってくる。 「そういうこと。解った? 何もしないままで聖杯戦争の終わりを待つ、なんて選択肢はないってコトが」 「……ああ、それは解った。けど遠坂。おまえ、さっきから何を言いたいんだよ。ちょっと理解不能だぞ。  死刑宣告された俺を見るのが楽しいってワケでもないだろ……って、もしかして楽しいのか?」 「そこまで悪趣味じゃないっ。  もう、ここまで言ってるのに分からない? ようするに、わたしと手を組まないかって言ってるの」 「?」  む? むむむむ、む?  それ、額面通りに受け取ると、その。 「―――て、手を組むって、俺と遠坂が!?」 「そう。わたしのアーチャーは致命傷を受けて目下治療中。完全に回復するまで時間がかかるけど、それでも半人前ぐらいの活躍はできる筈よ。  で、そっちはサーヴァントは申し分ないけど、マスターが足ひっぱってやっぱり半人前。ほら、合わせれば丁度いいわ」 「むっ。俺、そこまで半人前なんかじゃないぞ」 「わたしが知る限りでもう三回も死にそうになったのに? 一日で三回も殺されかける人間なんて初めて見たけど?」 「ぐ――――けど、それは」 「同盟の代価ぐらいは払うわ。アーチャーを倒されたコトはチャラにしてあげて、マスターとしての知識も教えてあげる。ああ、あと暇があれば衛宮くんの魔術の腕を見てあげてもいいけど、どう?」  ……う。  それは、確かに魅力的な提案だと思う。  右も左も分からない俺にとって、遠坂は頼りになる先輩だ。  それに出来る事なら、遠坂とは争いたくない。 「衛宮くん? 答え、聞かせてほしいんだけど?」  返答を急かされる。    俺は――――